活動の記録

 工学院大学
海外工業技術移住研究部
活動の記録
2005年 6 月発行
も く じ
1. 移住研の誕生
1) 海外工業技術移住研究会設立趣意書
2) 創設者中馬 修氏の熱き思い
∼回顧・檜舞台への歩み∼
P1
2. 部 歌
P4
3. 年表・活動の記録
P5
4. 歴代委員長が語る時代の動向
∼部誌・派遣報告書に見る委員長の思い∼
P 16
5. 歴代顧問教授のメッセージ
P 24
6. 移住研と学移連
1) 日本学生海外移住連盟
2) 移住研との係わり
3) 移住研から学移連委員長
4) 『自らの創造』を打ち出し学移連脱退
P 26
7. OB会活動の記録
1) OB会会則
2) OB会会員名簿(別紙)
3) OBの集いより
P 35
8. あ と が き
P 37
1. 移住研の誕生
1) 海外工業技術移住研究会設立趣意書
わがクラブ工学院大学海外工業技術移住研究部(略称移住研または海工研)は、昭和37年(1962年)
4月、工業化学科に在籍の中馬 修さんを中心に同好会として誕生した。その設立趣意は、次の通りであ
る。(部誌「あした」創刊号)
<海外工業技術移住研究会設立趣意書>
現在そしてこれからの世界に於いて国際的交流は、必要欠くべからざるものである。特に我
国に於いては、その重要性が他の国と比較出来ぬ程大きいのである。
ここに日本の海外発展は国民として考えねばならぬ非常に大きな問題であるし国民にもたら
された使命とも言える。従って新しい日本の建設とその発展は単に国内問題としてではなく、
国際的視野に基づき、特に次の世代を爼う工学精神に燃えた学生間の一致協力した力によって
進まなければならないと信ずる。
故に我々は日本の優秀かつ高度な技術を世界に紹介し、人類すべてが相携えてその生活の向
上と文化の建設に努力し世界平和と幸福をもたらす為に貢献しなければならないし、一方に於
いて、日本の発展の為にも日本の技術者は大いに奮起せねばならない。よって我々は日本の海
外工業技術移住の発展に関する諸々の事柄を研究しその推進を計る意味に於いて、ここに工学
院大学海外工業技術移住研究会を設立した次第です。
(昭和37年4月)
2) 創設者中馬 修氏の熱き思い
クラブの創設者中馬 修さんは、設立趣意書にある熱い思いを胸に、組織を作り、仲間を集め、活動を展
開して行った。そしてブラジルへ旅立つ前に、部誌「あした」創刊号に、それまでの活動を回顧し、続く仲間
たちへ熱い思いを残して行かれた。
ここにその文章を転載し、思いを新たにしたい。
【回 顧】
<檜 舞 台 へ の あ ゆ み>
中 馬 修 若き、熱い情熱に燃える青年は広く、大きな心で夢多き明日を見つめなければいかんのだが1962年4月
、春風快く吹き、万物が目をさまし動き始めた頃、胎動する世界の、その片隅で新しい生命が誕生した。日
本の海外発展と次代を背負う若人、学生の国際的視野の取得を目的とし、世界経済の発展と民族の融
和による世界人類の幸福と平和に貢献しようという趣旨のもとに海外工業技術移住研究会を創設した。こ
の事は我が大学としても喜ぶべき大事件であった。それは大学として初めて海外へ広く、大きく目を向け
る快男子が出現したからである。一人の男の掲げる旗の下に、時と共に志を同じくする男子が!我遅れまじ!
と馳せ参じた。 1ヶ月の間に思いもよらぬ程の人間が集まって来た。この時程うれしく心の感激をおさえられなかった時は
なかった。
−1−
「あゝ、やはり仲間はいたんだ」と、より強い決意の中に「一丁
やってやるぞ」と、勇み、思わず武者震いがした。幸いな事に、
夏を迎えて全国60大学、数千名の同志、学生の集合体で
ある、日本学生海外移住連盟に加盟する事が出来た。
(今思うとこの事が我々の会発展の為に真に幸いであった。)
当初から単なる大学内における研究活動(実際には研究な
どというものではなかったが、手当たり次第、移住というものを
主に、特に後進国開発に関する知識の吸収であった。)だけ
でなく、広く対外的に多くの同志と、共に語り、共に杯をかわし、
時を忘れて明日を夢見る。そして天下国家を論じる。初めか
らこの様な事が出来たのは、この若い組織にとって利とする
所、大であった。
又、同じ考えをもつ仲間が全国各地に散在しているという
事は本当に心強いものであった。連盟に加盟して、種々の
行事に参加することにより我々の心は更に燃え、その前進へ
の闘志は更に力強いものになった。そして我々は初めて、これ
からの時代の新しい移住の考え方を知り、理解したのである。(この頃は丁度、関係各方面において新しい
移住観がうるさく論じられていた時であった。)改めて自分の創設したサークルの意義と存在価値の重大さ
を知ったのであった。我々の会は、名こそ移住研究会であるが、その目的はただ単なる移住ではない、もっ
と深い考え方にあるのだと言う事を−即ち、広く、大きな視野を養い、日本を始め、激動する世界の動静を
的確につかみ、正しく対処出来る人間を養い、加えて深く広大な人生観、世界観を持った人間をより多く
世に送り、そして同時に心からの、真の友となる事である。この心の友を得る事が常に変わらぬ学生サーク
ルの望む所であり、最もとするところであり、存在価値であろう。その中にあって、己を知り、他人を知って信
ずる、今この時に立って、明日において何が必要か、その前に我々は何をなすのか、如何に生きるべきか、
如何なる目的の為に我々学生は学問をなすのか懸命に考え、現代の速い、あわただしい流れの中にあっ
て、それに流されず一段と高く上って、時の流れと大勢を見渡し、考え、行動する。この様な人間を作り出
すことこそ我が移住研究会の使命であり、我々の会であるからこそ出来得る特権なのであると強く信ずる。
会を創設した時、自分の頭の中には一個の楽しい夢があった。それは我々の会による海外派遣である。(
日本にある者であれば誰でも思う夢であろうが)それは次のようなものである。先ず第1として会を創設する
事、これは単に個々の仲間が集まっての活動では、行動しやすいがそれだけで終わり、学院内に新風を吹
き込むことは出来ず、小規模なものになってしまう。小さくとも大学内で認められた組織団体、研究サーク
ルでなくては何の意義もなく、訴える力も弱く永続性がないと言う事である。第2として、最初の二年間で組
織であるからこそにはその中に動く、より多くの、一人でも多くの学生同志を集める事、第3として次の二年
間で組織を充実させる。そして正しく認められたサークルにし、派遣出来るだけの人材を養成できる内容
のあるものにする。第4として1年間で派遣先の決定と、同時に改めてその資料調査、資金の調達、調査項
目の決定、派遣員の決定、そして訓練育成、そして第5として派遣、この様な内容の会発展、前進への6年
計画を強く心に秘めていた。
しかし、この高ぶる気持ちを抑えて、あえて当初にこの計画を打ち出さなかったのは次のような考えがあっ
たからである。それは今日諸々の事で学生が社会で問題化されるし、無計画な、安易な考えの行動を批
判される世の常として、成功した時よりも失敗した時の方が、このマスコミニュケーションの発達したわが国
に於いては特に大きく取り扱われ、二度と立てぬ様に打ちのめされる。個人的事件でもその関係各方面に
−2−
強い波が押し寄せる中で、伝統のない若い誕生したばかりのサークルでは如何ともし難いし、責任体制の
確立していない我々では、その処置も出来ず大学に与える影響は計り知れないものがある。この様なこと
は無と考えても、血気盛んな冒険心の強い我々、ましてや何の研究活動も始めぬ前では、あまりにも危険
性が大きいし、それだけを目標として背伸びし、先走りしやすく、足元のふらついたものになり、調査を行っ
ても低次元なものになり、無意味なものに終ってしまうという考えであった。けれども、現在はもうその様な会
の姿ではない、この6年計画と今日までの会の事実上の動きを見る(詳細は会の案内書に記されている通
り)と、着実にその計画にのって前進していると信ずる。
最初に会を創設して2年間、自分は第1に同志を集結する為に全力をもって向かった。会の本質とか、
主体観とか種々の理論の論争などをせず何でもかまわない関係のある全ての知識の吸収に会を進めた。
その為に日本学生海外移住連盟に加盟し、会の外に多くの仲間がいる事に目を向け、あらゆる事業活動
に参加して、各会員の自己練磨を連盟の中でやり、会あっての連盟でなく、連盟あっての会である様な当
時の動きであった。次に第2代会長として遠藤義信君が登場し、彼自ら組織の明確化、内部充実を高らか
にうたいあげ、己を没してそれに全力を注ぎ、昨年1年間にて大きな成果をあげた。(彼と共に懸命に協力
を惜しまなかった同胞諸君の働きは忘れる事は出来ぬ)そしてその成果の上に、我々が出発点より常に忘
れず心の内に抱いていた「部昇格」を、誰にも負けぬ闘志をもって、見事に現実のものとして全会員に喜び
を与えてくれた。如何なる言葉をもって彼に感謝の意を表したらよいか万感胸にせまるものがある。これは
我が会の歴史の上で輝かしい1頁であり永く忘れえぬ、誇り高き業績である。そして我々全会員に生涯残
る喜びであり、感激である。大きな拍手を心より送る。
1965年の新春を迎え我が会も第4期、第3代会長伊藤孝信君を迎えた。会は部に、会長も2代から3代
へ、常に新しく、常に胎動して前進して行く我がサークルの前途は素晴らしい、又任は重い。本年は昨年に
続き内部充実、会の新しい前進そしてその為に力強い理論の確立の時と考える。新しい指導者伊藤君を
始めとして、全会員に一言我々の高き理想を心に、大局よりのぞみ、来るべき実践の時に備える様に、そし
て次に続く者の為に、今日の努力を惜しまんで欲しい。そして最初に描いたこの計画の実現に汗を流してく
れ。会はすでに今までの同好の志の集まりではない。広く多くの学生の場であり組織体である。これを忘れ
んでほしい。実践のない空しい理論の回転ではない「有言実行」、多くの同志の発散する大きなエネルギ
ーを新しい建設の方向へ…………檜舞台世界へ第1歩を踏み出す1会員として、今日までの会の歩みを
記憶を元に回顧し、思いにまかせて記した次第である。今後は海外同胞の1人として、ブラジルに於いて人
生を強く高く前進していく、そして諸君の来る時を待つ。常に会の1員である事を忘れず、会の発展を祈り、
会の高き理想を胸に秘めて…………
−3−
2. 部 歌
わがクラブ海外工業技術移住研部には「我らが理想」という部歌がある。作詞杉本 克(工業
化学科・昭和38年入学)、作曲伊藤勇三(生産機械工学科・昭和38年入学)によるものである。
昭和41年、杉本が作った詩に、ブラジル移住を決め、農業技術の習得をめざして、大学を三年修
了時に中退し、北海道の月寒学院へ入学するという伊藤が、即興で曲をつけ、今に歌い継がれて
いる。伊藤は、当時ブラジルの農場で、ギターを片手に夕陽を眺めることを、夢見ていた。そして、ク
ラブの仲間に「ジャズの良さを理解するものがいない」と、いつも不満げだった。
この部歌は、正式な機関決定をしたわけでもないが、いつの間にか部歌として認知された。部誌「
あした」第3号(1971年2月発行)に、初めて登場するが(クラブ発行の資料には、それ以前に記録
された物がある)、どう言うわけか2番と3番の一行目が入れ替わっており、その後発行される部誌「
あした」でもこれが継承されて行く。しかし、この活動史の発行を機に、もとの歌詞に訂正したい。
我らが理想
部 歌
作詞 杉本 克
作曲 伊藤 勇三
一、 日本の国に生まれし我ら
心豊かに意気高し
いざ進まん我らが行く手
おお大世界
二、 日本の土に蟄居 ︵ちっきょす
︶ 我ら
心はでかく愛深し
いざ求めん我らが夢
おお大世界
三、 日本の男児と生きるは我ら
赤い血潮に燃えたぎる
いざ築かん我らが理想
おお大世界
後年、OB会の席上で、中村匡克顧問教授から「右翼の歌かと思った」と、感想を頂いたが、作詞
をした時は、そんな事は微塵も感じなかった。そんな時代だったのだろうと思う。
この部歌の譜面は現存しておらず、歌い継がれてきただけである。移住研のホームページ開設の
際、木村康則(工業化学科・昭和38年入学)の努力により、メロディを復活することが出来た。作
曲者の伊藤勇三に言わせれば、少し違うところがあるかもしれないが、これが、我々の愛唱する部
歌なのである。
−4−
3. 活動の記録(年表)
昭和37年4月、中馬 修さんを中心に創設された海外工業技術移住研究会は、
時代の変化とともに組織も変革させながら、活動を続けてきた。時代は高度経済
成長期を謳歌し、オイルショック、ドルショック等を経て、バブル崩壊後の平成
不況へと推移して行った。この時代の変化は、学生たちの意識をも変化させ、大
学サークルも時代を反映して、色々なものが生まれ、そして消えていった。
我が海外工業技術移住研究部も、「移住研究」から「海外事情研究」へ主軸を
移しながら活動を展開して行ったが、昭和の終焉、平成の初期に、工学院大学一
部文化会に休部届けを提出、実質的に活動を停止し、今日に至り、現在はOB会
のみが存在している。
しかし、活動を続けていた25有余年の成果は、我が海外工業技術移住研究部
なればこそ実現できた素晴らしいものであった。残されている資料は決して多く
はないが、それらを紐解き、同じ組織で活動して来た仲間として、情熱に溢れ、
若かった当時を振り返えると共に、我が部で時代を超えて培った友情と信頼を確
認し合いたい。そして、この縁を大切に、これからも生かして行きたいと思う。
期
年
クラブの出来事
社会の動き
1
昭和37年
(1962)
4月 海外工業技術移住研究会設立
夏 日本学生海外移住連盟に加盟
【執行部】
会 長 中馬 修(工化)
2月 東京都が世界初の1千万都市となる
8月 マリリンモンロー死亡
8月 堀江謙一が太平洋横断に成功
8月 国産旅客機YS11初飛行
2
昭和38年
(1963)
工学院大学学生対象に「移住意識」調査
4月 第1回合宿(4/1∼5)白樺湖
参加者 9人
【執行部】
会 長 中馬 修(学移連資料部長)
副会長 武田長久(機械)
会 計 亀山啓太郎(工化)
学移連常任委員 遠藤義信(工化)
3月 吉展ちゃん誘拐事件
6月 坂本九の「スキヤキ 」が米ビル
ボードの第1位に
7月 中ソ対立激化
11月伊藤博文の新千円札発行
11月ケネディ大統領暗殺される
12月力道山刺殺される
3
昭和39年
(1964)
5月 春合宿(白樺湖・山の家)
8月 夏合宿(神奈川県山北町・中川温泉)
12月 一部文化会にて部昇格承認され
海外工業技術移住研究部となる
★研究テーマ;
「東南アジアの工業とその発展性」
【執行部】
会 長 遠藤義信(工化)
運営部長 鈴木賢英(工化)
研究部長 増山雅晴(建築)
通 信 係 杉本 克(工化)
会 計 係 田辺克美(機械)
学移連常任委員 相田昌男(化工)
4月 観光目的の海外旅行自由化
5月 新宿ステーションビル開業
6月 新潟地震
8月 東京、異常渇水で水不足深刻化。
15時間断水実施
10月 東海道新幹線開業
10月 東京オリンピック開幕
10月 ソ連のフルシチョフ氏解任、ブレ
ジネフ第1書記就任
11月 池田内閣総辞職、佐藤栄作内
閣発足
11月 公明党結成大会
−5−
期
年
クラブの出来事
社会の動き
4
昭和40年
(1965)
2月 部誌「あした」創刊号発行
(「東南アジアの工業とその発展性」
の研究成果を報告)
4月 館山合宿
5月 遠藤義信氏、日本学生海外移住
連盟第6次南米学生実習調査団
団員として渡伯(昭和41年4月帰国)
6月 中馬 修氏渡伯壮行会
8月 佐渡合宿
★研究テーマ;「ブラジルの工業」
【執行部】
委 員 長 伊藤孝信(機械)
副委員長・学移連常任委員
杉本 克(工化)
研究部長 伊藤勇三(生機)
事業部長 長谷川八三郎(生機)
会計部長 渡辺儀一(機械)
部誌編集委員長 田辺克美(機械)
無任所 木村康則(工化)
学移連事業部長 森本孝義(建築)
2月 ベトナム戦争始まる
3月 山陽特殊製鋼倒産
3月 ソ連の宇宙飛行士レオーノフ、
初の宇宙遊泳に成功
6月 日韓基本条約調印
7月 名神高速道路が開通
10月 朝永振一郎にノーベル物理学賞
が授与される
11月 中国で文化大革命始まる 5
昭和41年
(1966)
3月 第一次沖縄移住調査隊派遣
(昭和41年3月9日∼3月20日)
隊長;与儀清春(建築)
隊員;松井清志・梨本文男・
伊藤憲弘・滝沢正延・村上 正
調査内容;沖縄の高校生に対
する移住意識アンケート実施
8月 夏合宿(志賀高原)
【執行部】
委員長 松井清志(化工)
副委員長 秋葉裕嗣(生機)
(松井委員長大学中退後、委員長就任)
研究部長 与儀清春(建築)
事業部長 奥田 豊(機械)
会計部長 宇之津正秋(建築)
2月 ソ連の無人月探査機ルナ9号が
初の月面軟着陸
4月 尺貫法が廃止される
4月 千葉大付属病院医局員がチフス
菌や赤痢菌の人体実験をした
容疑で逮捕される
6月 ザ・ビートルズ来日
11月 新宿西口広場完成
12月 衆議院解散(黒い霧解散)
6
昭和42年
(1967)
4月 部誌「あした」第2号発行
(編集委員;梨本文男・中島一精)
①「ブラジルの工業」の研究成果
②第1次沖縄移住調査隊報告
③第6次南米学生実習調査団報告
(遠藤義信)
春合宿;館山
夏合宿;新島
★第2次沖縄移住調査隊派遣
(詳細は資料がなく不明)
1月 新宿駅西口完成
2月 「建国記念の日」新設
4月 美濃部亮吉、東京都知事に当選
6月 第三次中東戦争勃発
7月 ヨーロッパ共同体発足
8月 東南アジア諸国連合結成
10月 吉田茂死去。戦後初の国葬を
決定
12月 佐藤首相、非核3原則を言明
12月 英・仏共同制作の超音速旅客
機コンコルド完成
−6−
期
年
クラブの出来事
社会の動き
6
昭和42年
(1967)
★工学院専修学校の「海外技術協力研
究会」設立に援助
★部誌を発行できなかった事が残念
(太田委員長談)
【執行部】
委員長 太田信夫(電気)
副委員長 橋本武志(機械)
研究部長 益子武巳(機械)
事業部長 滝沢正延(電子)
会計部長 小布施健夫(設備)
派遣部長 安 健司(電気)
7
昭和43年
(1968)
3月 第3次沖縄移住調査隊派遣
(昭和43年3月16日∼3月26日)
隊長;大久保秀雄(電子)
隊員;吉真和夫・中居文男・
池田政克・本間 康
調査目的;
①沖縄の一般住民を対象にした移住
意識調査
②ケネディ大統領以来活発化した本土
復帰問題
③5人という少人数による活動の達成に
おける個人の行動力の養成
【執行部】
委員長 渡辺昌美(建築)
副委員長 坂本良二(機械)
研究部長 大久保秀雄(電子)
事業部長 松崎行男(工化)
会計部長 吉真和夫(建築)
派遣部長 中田昌行(建築)
八王子支部長 中居文男(機械)
1月 マラソンの円谷幸吉自殺
4月 米でキング牧師暗殺
4月 超高層霞ヶ関ビル完成
5月 十勝沖地震
6月 小笠原諸島が返還される
7月 郵便番号制実施
7月 参議院選挙で石原慎太郎、青島
幸男、横山ノックらタレント5人が
上位当選
8月 札幌医大の和田寿郎教授が、
日本初の心臓移植手術
10月 メキシコオリンピック開幕
10月 川端康成ノーベル文学賞受賞
12月 3億円事件起こる
12月 東京大学と東京教育大が翌春の
入試中止を決定
8
昭和44年
(1969)
2月 部誌「あした」第3号発行
(編集委員;坂本良二・吉真和夫
・大久保秀雄)
①研究発表(ブラジル編・アメリカ編)
②第3次沖縄移住調査隊報告
6月 ブラジル派遣 木村久夫(電気)
(昭和44年5月3日∼45年4月5日)
【執行部】
委 員 長 中居文男(機械)
副委員長 渡辺正春(建築)
研究部長 本間 康(工化)
事業部長 丸岡敏昭(工化)
八王子支部長 植村孝美(工化)
1月 機動隊が東大安田講堂の封鎖を
解除
2月 PLO議長にアラファト就任
4月 連続ピストル射殺犯永山則夫逮捕
4月 毛沢東が林彪を後継者に指名
5月 国鉄1・2等制を廃止し、グリーン
車を新設
5月 東名高速道路全線開通
6月 日本初の原子力船むつ、東京で
進水
7月 宇宙船アポロ11号が月面着陸成功
9月 リビアでクーデター勃発。ガタフィ
が王制を打破
11月 警視庁、大菩薩峠で武闘訓練中
の赤軍派を逮捕。多数の武器を
押収する。
−7−
期
年
9
昭和45年
(1970)
クラブの出来事
社会の動き
3月 第1次台湾派遣隊
(昭和45年3月16日∼3月25日)
隊長;丸岡敏昭(工化)
隊員;植村孝美・紙屋信忠・渡辺正春
・加藤正美・梅谷 登
派遣目的;
1月 東京都府中市に「すかいらーく」
1号店が開店
2月 東大宇宙航空研究所が人工衛星
おおすみを打ち上げる
3月 大阪万国博覧会開幕
3月 日航機よど号が赤軍派学生9人に
①我国が開発途上国に対して働きかけている経 乗っ取られ、韓国金浦空港に着陸
済協力、技術協力、民間ベースの資本参加、技
7月 山手線に冷房車
術参加の現実を見聞し、問題点を見出し、今後の
8月 東京で歩行者天国始まる
生きた資料にするため。
11月 作家の三島由紀夫が市谷自衛隊
②台湾を選択した理由は、海外の民間投資で
第2位、投資件数及び技術提携数で第1位等と、 で割腹自殺
日本との結びつきが深い国である。
4月 部誌「あした」第4号発行
(編集委員長;本間 康)
①ブラジル及びアメリカの工業を中心に
自由テーマで研究した成果を報告。
★
顧問教授 笹谷侑正先生逝去
★
新顧問教授 布施敏夫先生就任
【執行部】
委員長 植村孝美(工化)
副委員長 加藤正美(機械)
研究部長兼会計部長 杵淵 昇(化工)
事業部長兼派遣部長 紙屋信忠(化工)
八王子支部長 橋本英男(生機)
10 昭和46年
(1971)
3月 第2次台湾派遣調査隊
(昭和46年3月6日∼3月21日)
隊員;杵淵 昇・新谷祥三・塚田静男
3月 部誌「あした」第5号発行
(編集委員;加藤正美・梅谷 登・
松本栄治・駒井 明)
①研究発表
イ) 個人研究
ロ) グループ研究
a)ブラジル班 b)カナダ班
c)メコン班 d)中東班
②第1次台湾派遣調査隊報告
③ブラジル実習報告 報告者;木村久夫
④アンケート調査結果報告
東京、千葉の高校生を対象に、「移住」に
ついての認識を調査した結果を報告。
【執行部】
委員長 橋本英男(生機)
副委員長 梅谷 登(電子)
研究部長 塚田静男(工化)
事業部長 新谷祥三(工化)
派遣部長 堀江 進(工化)
会計部長 鈴木良明(工化)
−8−
5月 西独が変動相場制へ移行
5月 大久保清が連続女性誘拐殺人
事件で逮捕
6月 新宿で超高層ビル第1号の京王
プラザホテルが開業
6月 沖縄返還協定調印
7月 環境庁が発足
8月 ニクソン米大統領が金とドルの交
換を一時停止(ドルショック)
8月 主要国が変動相場制移行
10月 国連総会が中国招請、台湾追放
を可決
12月 10カ国蔵相会議で1ドル=308円
に(スミソニアン・レート)
期
年
クラブの出来事
社会の動き
11 昭和47年
(1972)
月 部誌「あした」第6号(10周年記念)
発行(編集委員会;第10期執行部
代表・塚田静男)
①移住研の十年史
②研究発表
③第2次台湾派遣調査隊報告
★第3次台湾派遣調査隊
(資料がなく詳細不明)
★第1次大韓民国派遣
(資料がなく詳細不明)
【執行部】
委員長 松本栄治(生機)
副委員長兼会計部長 柳沢 純(電子)
研究部長 鈴木輝雄(電気)
事業部長 寺内定夫(生機)
学移連第19期事業部長
平石啓二(情報) (S47.8∼S48.8)
1月 横井庄一元軍曹をグアム島の
ジャングルで救出
2月 札幌五輪が開催される
2月 ニクソン米大統領が訪中
3月 山陽新幹線新大阪・岡山間が開通
6月 田中角栄が「日本列島社会の動き
改造論」を発表
6月 ウォーター・ゲート事件発覚
7月 田中内閣発足
8月 ミュンヘン五輪開幕
9月 ミュンヘン五輪選手村のイスラエル
宿舎をアラブゲリラが襲撃
9月 日中国交を回復
12月 衆議院総選挙。共産党が躍進、
社会党が復調、自・公・民が敗北
12月 金日成が北朝鮮国家主席に選出
さる
12 昭和48年
(1973)
個人研究を重点とした研究。カナダ・アフ
リカ・中近東・韓国・ブラジル
★第2次大韓民国派遣
(資料がなく詳細不明)
【執行部】
委員長 大関倫朗(機械)
副委員長 川島孝夫(生機)
研究部長 角幡克裕(工化)
事業部長 柿元信秀(電気)
派遣部長兼会計部長 芝崎龍美(生機)
学移連第20期カナダ派遣部長
山下勝康(建築設備)(S48.8∼S49.10)
6月 駒井 明氏、日本学生海外移住連盟
第3次海外学生総合実習調査団
(南米第13次)団員としてブラジルへ
(S48.6∼S49.3)
1月 70歳以上の医療費が無料に
2月 円が変動相場制へ移行
5月 ハイセーコーがNHK杯で10連勝
7月 中川一郎、石原慎太郎らが青嵐会
を結成
8月 金大中事件発生
10月 第4次中東戦争が勃発
10月 石油供給5社が1割の供給削減を
通告し、石油ショックが起こる
11月 トイレットペーパー等の買いだめ客
が殺到
11月 関門橋が開通
11月 大手電機各社が節電のために
ネオンを消す
13 昭和49年
(1974)
統一テーマ「国際協力のあり方」にそって
全部員で研究。(韓国ほか)
★第3次大韓民国派遣
(資料がなく詳細不明)
【執行部】
委員長 片岡 敬(工化)
副委員長 長田 誠(工化)
(片岡委員長中退後委員長就任)
21期学移連委員長
駒井 明(生機)(S49.10∼50.8)
★平石啓二氏、日本学生海外移住連盟
第4次海外学生総合実習調査団
(カナダ第7次)団員としてカナダへ。
(昭和50年3月帰国)
1月 田中首相訪問のバンコクで反日デモ
3月 小野田元少尉がルバング島で
発見される
4月 新宿住友ビル完成
5月 堀江謙一がヨットで単身無寄港
世界一周
8月 ウォーター・ゲート事件でニクソン
米大統領辞任
8月 三菱重工ビル前で時限爆弾爆発
10月 立花隆「田中角栄研究―その金
脈と人脈」(「文芸春秋」11月号)
10月 長嶋茂雄が現役を引退
12月 田中内閣が総辞職し、三木内閣
が発足
−9−
期
年
クラブの出来事
社会の動き
14 昭和50年
(1975)
個人研究に重点を置く。
カナダ、ブラジル、ソビエト、ウガンダ等
【執行部】
委員長 佐藤正之(情報)
学移連第22期カナダ派遣部長
内田 稔(電気) (S50.9∼S51.8)
2月 完全失業者100万人を突破
(不況の深刻化)
3月 新幹線岡山・博多間が開通
3月 サウジアラビア国王が暗殺
4月 南ベトナム、サイゴン政府降伏。
ベトナム戦争終結
6月 スエズ運河が8年ぶりに再開
7月 沖縄で国際海洋博覧会開催
8月 海外移住事業団が、海外技術協
力事業団等と合併し、国際協力
事業団となる。(国際協力事業団
法:昭和49年5月31日公布)
11月 第1回先進国首脳会議、仏のラン
ブイエで開催
11月 スト権スト(国鉄8日間)
15 昭和51年
(1976)
我部との目的の相違により日本学生海外
移住連盟を脱退し、「自らの創造」を打ち
出し、活動を行うことになった。
★第4次台湾派遣
(昭和51年8月13日∼8月25日)
隊 長 本間正弘(工化2)
副隊長 神庭正典(生機2)
記 録 青田修一(情報2)
会 計 石川 豊(化工2)
【執行部】
委員長 森 登(化工)
副委員長兼研究部長 茂庭敏明(情報)
1月 中国周恩来首相が死去
2月 米上院多国籍企業小委員会、ロッ
キード社の日本高官贈賄を公表
(ロッキード事件)
2月 インスブルックで冬季五輪が開催
3月 韓国で金大中が逮捕される
4月 中国で天安門事件
6月 新自由クラブ結成
7月 モントリオール五輪開催
7月 田中前首相逮捕
9月 中国毛沢東主席死去
11月 法務省、衆院特別委員会で、田中
角栄、二階堂進らの灰色高官名を
公表
11月 天皇在位五十周年式典
12月 三木内閣総辞職、福田内閣が
発足
16 昭和52年
(1977)
クラブの研究の基本路線としての南北問
題が固まる。
★海外意識調査開始
★初の長距離派遣計画(ブラジル)発足
★第5次中華民国派遣
★第4次台湾派遣報告書発行
(昭和52年8月)
【執行部】
委員長 根本省三(生機)
副委員長 青田修一(情報)
研究部長 本間正弘(工化)
事業部長 石川 豊(化工)
1月 米カーター大統領就任
2月 北朝鮮、金正日を後継者に決定
5月 国立大学共通一次試験のための
大学入試センター発足
7月 ニューヨークで25時間停電
7月 初の静止気象衛星ひまわり1号が
打ち上げられる
7月 中国の鄧小平の党副主席復帰と
4人組の党除名が決定
8月 中国共産党11全大会(文化大革命
終結宣言)。党主席に華国鋒就任
9月 王貞治が本塁打世界記録
9月 日本赤軍がボンベイで日航機をハ
イジャック。ダッカ空港に着陸。犯人
の要求で同志ら9人を釈放。
−10−
期
年
クラブの出来事
社会の動き
17 昭和53年
(1978)
一年生に対し、南北問題の基礎知識を、
また二年生に対しては南北問題の再確認
のため、八王子研究を設ける。
★ブラジル派遣
(昭和53年2月21日∼4月14日)
坂井 仁(工化4)
鮎川 誠(化工3)
【執行部】
委員長 坂井 仁(工化)
副委員長 竹田敏彦(建築)
1月 日本共産党が袴田前副委員長の
除名を公表
3月 社会民主連合が結成
4月 キャンディーズが後楽園でさよなら
コンサート
4月 ヴァンジャケット倒産
4月 池袋サンシャイン60開館
5月 成田空港の開港式
7月 イギリスで世界初の体外受精児
「試験管ベビー」
7月 沖縄でも車両が左側通行に
8月 日中平和友好条約に調印
9月 八重洲ブックセンター開店
11月 江川卓の巨人契約発覚により球
界大混乱
11月 自民党総裁候補予備選挙で予想
逆転の1位大平、2位福田。福田首
相は、「天の声にもたまには変な声
もある」とし、本選挙辞退
18 昭和54年
(1979)
南北問題に関連させた個人研究を行う。
中華民国、スリランカ派遣研究、八王子
研究、新聞発行開始
★第6次中華民国派遣
(昭和54年7月25日∼8月14日)
隊 長 菊池悦樹(化工3)
副隊長 原田浩明(情報3)
記 録 木次慎二(建築2)
会 計 村松達之(建築2)
★ブラジル派遣・第6次台湾派遣報告書
発行(昭和54年11月)
【執行部】
委員長 原田浩明(情報)
副委員長 菊池悦樹(化工)
研究部長 上田勝身(機械)
事業部長 海老原則雄(化工)
派遣部長 藤井 誠(工化)
会計部長 小栗久佳(機械)
1月 初の国公立大学共通一次試験実施
1月 国際石油資本、対日原油供給の
削減通告(第2次石油ショック)
1月 江川卓が阪神に入団、即日巨人
の小林繁とトレード
2月 イラン革命成立
3月 スリーマイル島原発放射能漏れ
事故発生
5月 英総選挙で保守党圧勝。
サッチャーが首相に就任
6月 東京で先進国首脳会議
7月 イラク大統領にフセイン革命評議
会副議長が就任
10月 消費税、公費天国のため、総選挙
で自民党が過半数割れ。大平退陣
求め40日抗争へ
10月 朴韓国大統領が暗殺される
12月 ソ連がアフガニスタンに侵攻
19 昭和55年
(1980)
活動内容の変化により部則の改正を行う。
(内容は後掲)
スリランカ派遣に向け、スリランカ研究を行
う。個人研究、八王子研究。
★部誌「あした」第7号(19周年記念)発行
(昭和56年1月発行)
①海工研のあゆみ
②研究発表
イ)スリランカ
ロ)先進各国の経済状態と経済政策他
1月 中国からパンダのホアンホアンが
上野動物園に到着
2月 米レークプラッシッドで冬期五輪開催
4月 運転手大貫久男さんが銀座で
1億円入り風呂敷を拾得
6月 大平首相が狭心症で入院中急死。
首相代理に伊東正義。
6月 初のダブル選挙で自民党圧勝。
6月 ヴェネチアサミット開催
7月 鈴木善幸内閣が成立
−11−
期
年
クラブの出来事
社会の動き
19 昭和55年
(1980)
★夏合宿:徳島県立落葉果樹試験場
★部則改正の経緯(第2条・目的)
《昭和39年4月》・遠藤会長
本研究会は海外の工業技術を研究し、
海外工業技術移住の促進を図ることを
目的とする。
《昭和45年4月》・植村委員長
本研究部は海外の工業技術事情の研
究を通じて、移住を考え国際人となる事
を目的とする。
《昭和55年4月》・村松委員長
本研究部は海外の諸事情の研究を
通じて国際人となる事を目的とする。
【執行部】
委員長 村松達之(建築)
副委員長 木次慎治(建築)
研究部長 山下 徹(電子)
7月 モスクワ五輪開幕。日・米・西独・
中国などが不参加 8月 全国的な冷夏(東京では78年ぶり
平均気温19.5度)
8月 新宿駅西口で停車中の京王帝都
バスに浮浪者風の男が放火
8月 韓国大統領に全斗煥就任
9月 ポーランドに自主労組「連帯」結成
9月 イラン・イラク戦争勃発
10月 巨人の長島茂雄監督が辞任
11月 米大統領選でレーガンが現職の
カーターを大差で破り当選
20 昭和56年
(1981)
★スリランカ派遣
(昭和56年2月10日∼3月10日)
隊 長 新村英司(情報3)
副隊長 類家 卓(工化3)
記 録 古家俊秀(工化3)
会 計 黒田訓弘(工化3)
★スリランカ派遣報告書発行
(昭和56年10月)
①紀行文
②活動報告
③研究及び調査報告
【執行部】
委員長 類家 卓(工化)
副委員長 古家俊秀(工化)
研究部長 黒田訓弘(工化)
派遣部長 新村英司(情報)
1月 円高で1ドル200円台を突破
1月 中国の四人組裁判で紅青らに
有罪判決
2月 ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が来日
3月 中国残留孤児、初の正式来日
4月 米スペースシャトル「コロンビア」が
約54時間の処女飛行後帰還
5月 仏大統領選でミッテラン当選
(23年ぶりの左翼政権)
6月 中国華国鋒主席が副主席に降格、
胡耀邦が主席に
7月 英皇太子チャールズとダイアナ
が結婚
10月 エジプトのサダト大統領が暗殺される
10月 京大教授福井謙一がノーベル化
学賞受賞
12月 ポーランドで戒厳令施行
(「連帯」弾圧、ワレサ軟禁)
21 昭和57年
(1982)
★マレーシア派遣
(昭和57年8月17日∼9月3日)
隊 長 重本昌洋(電気2)
副隊長 丸子敏人(工化3)
記 録 鷹箸秀昭(電気2)
会 計 篠原昭広(工化3)
【執行部】
委員長 丸子敏人(工化)
副委員長 篠原昭広(工化)
2月 ホテル・ニュージャパンで火災(33人死亡)
2月 日航福岡発羽田行きが羽田空港
着陸寸前に墜落
4月 500円硬貨が発行される
6月 東北新幹線が開業(大宮・盛岡間)
7月 商業捕鯨の全面禁止決定
10月 三越事件で前社長岡田茂と竹久
みちが逮捕される
11月 ソ連ブレジネフ書記長が死去し、
アンドロポフが後任
11月 上越新幹線が開業(大宮・新潟間)
11月 中曽根内閣が発足
−12−
期
年
22 昭和58年
(1983)
クラブの出来事
★インド共和国派遣
(昭和58年2月7日∼3月13日)
隊 長 奥村幹雄(電気2)
副隊長 青木一夫(化工3)
記 録 高橋正樹(電気2)
会 計 加藤忠仁(生機3)
【執行部】
委員長 青木一夫(化工)
副委員長 加藤忠仁(生機)
研究部長 重本昌洋(電気)
会計部長 和田裕久(工化)
八王子支部長 高橋正樹(電気)
★顧問教授に中村匡克教授就任
社会の動き
1月 自民党の中川一郎が札幌のホテ
ルで急死
4月 千葉県浦安市に東京ディズニー
ランド開園
5月 サリーマン新党結成(代表は青木茂)
5月 ローマ法王がガリレイの有罪宣告
の誤りを認める
5月 米ウイリアムズバーグで先進国
首脳会議
6月 中学生3人が死亡したしごき教育で戸
塚ヨットスクール校長が逮捕される
9月 大韓航空機がサハリン沖で領空
侵犯し、ソ連軍機に撃墜される
10月 田中角栄被告に懲役4年、追徴金
5億円の実刑判決
12月 総選挙。自民党が過半数割れ、
新自由クラブと連立した第2次
中曽根内閣が発足
23 昭和59年
(1984)
★マレーシア派遣報告書発行
(昭和59年1月発行)
①活動報告
②研究及び調査報告
★インド派遣報告書発行(昭和59年9月発行)
①インドの概要
②活動報告
③研究及び調査報告
【執行部】
委員長 山下 実(生機)
副委員長 奥村幹雄(電気)
研究部長 高橋正樹(電気)
会計部長 瀬尾隆司(電気)
派遣部長 高橋雄一(電気)
八王子支部長 小沢直人(電気)
1月 レーガン米大統領が一般教書で
強いアメリカ強調
2月 サラエボで冬季五輪開催
2月 ソ連アンドロポフ書記長死去、後任
はチェルネンコ
5月 ソ連がロスアンゼルス五輪不参加
を発表
7月 ロスアンゼルス五輪開催
10月 インドのガンジー首相が暗殺される
11月 1万円、5千円、千円の新札発行
11月 米大統領選でレーガンが民主党
モンデールに圧勝し当選
24 昭和60年
(1985)
★タイ王国派遣
(昭和60年2月5日∼3月9日)
隊 長 高橋雄一(電気2)
副隊長 山下 実(生機3)
記 録 浅羽弘道(機械系1)
会 計 瀬尾隆司(電気3)
渉 外 小沢直人(電気2)
★タイ王国派遣報告書発行
(昭和60年12月発行)
①タイの概要
②活動報告
③研究及び調査報告
【執行部】
委員長 藁谷公夫(生機3)
1月 竹下登を中心に創政会が発足
2月 田中角栄元首相が入院
3月 ソ連共産党書記長チェルネンコ書
記長が死去し、後任にゴルバチョフ
3月 東北、上越新幹線が上野始発と
なる
3月 日本初のエイズ患者確認
4月 民営化によりNTT、日本たばこ
産業㈱が発足
8月 日航機が群馬県山中で墜落炎上
9月 メキシコで大地震
11月 米ソ首脳会談をジュネーブで開催
−13−
期
年
クラブの出来事
社会の動き
25 昭和61年
(1986)
★部誌「あした」第1986年度号発行
①25周年を記念して
②研究発表
【執行部】
委員長 浅羽弘道(生機)
副委員長 山口 淳(建築)
1月 米スペースシャトルが打ち上げ
直後に爆発
2月 フィリッピンのマルコス大統領ハワ
イへ亡命。アキノ大統領が組閣
4月 男女機会均等法施行
4月 チェルノブイリ原発で大事故。
放射能汚染拡大
7月 衆参両院同時選挙で自民党圧勝
8月 新自由クラブが解党
9月 土井たか子が社会党党首に当選。
日本で初の女性党首
11月 三原山が大噴火 26 昭和62年
(1987)
★ブラジル派遣
(昭和62年2月5日∼4月3日)
隊 長 山口 淳(建築3)
記 録 矢ケ崎浩一郎(工化1)
★ブラジル派遣報告書発行
(昭和62年10月発行)
①日程
②活動報告
【執行部】
委員長 浅羽弘道(生機)
1月 天安門広場で学生デモ
4月 JR6社が発足
5月 西宮市の朝日新聞阪神支局が
襲撃され、記者1人死亡
5月 首都圏のJR電車名を「E電」に決定
9月 第二電電、日本テレコム、日本高
速通信の新電電3社がスタート
10月 利根川進がノーベル医学、生理
学賞受賞
10月 ニューヨーク株式市場が大暴落
(ブラック・マンデー)
11月 竹下内閣発足
11月 大韓航空機がビルマ付近で行方不明。
金賢姫(蜂谷真由美)を韓国に移送
27 昭和63年
(1988)
★オーストラリア派遣
( )
高梨 剛(工化3)
新倉直樹(機械2)
【執行部】
委員長 矢ケ崎浩一郎(工化3)
副委員長 野田 芳弘(建築3)
事業部長 高梨 剛(工化3)
会 計 渡辺 栄司(工化3)
支部長 尾崎 正啓(工化2)
派遣部長 新倉 直樹(機械2)
研究部長 山口 秀樹(電気2)
1月 六本木のディスコで照明器具が
落下し、3人死亡
1月 韓国政府が大韓航空機爆破は
ソウル五輪妨害テロと断定
2月 冬季五輪がカルガリーで開催される
3月 青函トンネル開通
3月 初の屋根付き東京ドーム球場で
開場記念オープン戦
4月 瀬戸大橋開通
6月 リクルート疑惑が発覚
6月 トロントサミット開催
9月 ソウル五輪開催
9月 天皇が吐血
9月 ソ連でグロムイコ最高会議幹部会
議長解任。ゴルバチョフが議長兼任
11月 ドル急落。1ドル121円52銭の戦後
最安値
12月 北海道十勝岳が噴火
−14−
期
年
28 平成元年
(1989)
29
クラブの出来事
★矢ケ崎の北中米一人旅
( )
【執行部】
委員長 新倉直樹(機械)
平成2年
(1990)
−15−
社会の動き
1月 天皇陛下崩御。平成と改元
2月 昭和天皇の大葬の礼
4月 消費税の導入
4月 竹下首相辞意表明
6月 宇野内閣発足
7月 参議院選挙で与野党逆転
8月 宇野内閣総辞職。海部内閣が発足
9月 横浜ベイブリッジ開通
10月 幕張メッセ、オープン
10月 サンフランシスコで大地震
11月 東独、ベルリンの壁を実質的に撤去
12月 ルーマニアのチャウシェスク独裁
権が崩壊。チャウシェスク夫妻が
処刑される
4. 歴代委員長が語る時代の動向
∼部誌・派遣報告書に見る委員長の思い∼
発行された部誌「あした」および各派遣団報告書等には、時の委員長が挨拶文を寄せている。その中に
は、歴代委員長の問題意識や、組織が抱えている課題が挙げられている。
そこで、それらの要約をまとめ、クラブの足跡を辿ってみたいと思う。要約は杉本が作成した。
◇昭和39年夏・中川合宿における遠藤会長アピール
< 部昇格を勝ち取ろう! >
去る7月6日(月)、我々研究会は、文化会会議に於いて、部昇格の審議を受けた。5時半から10時半ま
での5時間余りの時間を費やして、質疑応答を行った末、審査に入ったが、努力も空しく保留という形にあ
えて甘んじなければならなくなった。楽勝ムードの中にあった我々役員9名は、ショックのあまりしばし声を立
てるものもいず、身動きすらなかった。
この大きな誤算はいったいどこにあったのであろうか?我々研究会の活動方針、趣旨、組織等については
、何なる問題がなかったにもかかわらず、こうした結果をかもし出した原因は、時期的な問題と文化会での
内部的問題に他ならない。また本質的原因ではないが、全面的賛成を打ち出していたダンス部と自然科
学部の欠席が大きく作用していた。(文化会の方針としては、たとえ欠席があったにせよ11の部の3分の1即
ち8つの部の賛成が必要とされている)
会議の席での賛成が5つ、この欠席の2つを合わせて7つ、成立まであと1つとなり、その場の雰囲気で4つ
の保留組の内1つぐらいは動く可能性は十分あり、誠に残念でならない。しかしながら過ぎ去った事をあれや
これや今さら語った所で仕方がないだろう。
我々は今回の経験を十分生かして、ただちに次の行動を展開せねばならない。今までの様な甘い情勢
判断ではなく、確固たる確信の上に立って行わなければならない。その意味からいって、今回の夏期合宿は
、この基盤を作る非常に大切な役割を持っている。全員を理由のいかんを問わず参加させねばならない。
また、今回の部昇格審議会に重要な役員のポストにありながら欠席した者に対しては、その責任を徹底
的に追及し、断固処分していかなければならない。
研究会会員諸君、合宿で語り合おう。本質的、建設的討論を踏まえて、今後の展望を切り開こうではな
いか。
研究会員のの積極的行動を強く要請する。
昭和39年7月7日
海外工業技術移住研究会
会長 遠藤 義信
−16−
◇部誌「あした」創刊号(1965年2月発行)
☆第3期会長・遠藤義信 (会長の任を終えて)より
1. この1年間東南アジアの工業および一般事情ないしは南米事情を研究し、語ることにおいて、世界人た
る人的養成をなして来た。その成果はともかく、会員個々がそれらについて真剣に考え、努力して来たこ
の姿を私は大切にしたい。
2. こうして大きく目を海外に向け、それらを精神的要素として取り入れて行く事が、今日の物質文明に流 され、創造意欲を失った人間が多くなっている中で、いかに大切であるかを、研究会のみならず機会ある
ごとに、学内にも強く訴えてきた。
3. その結果と言えるかどうか分からないが、とにかく文化会段階ながら、ついに念願の部昇格を勝ち取るこ
とができた。あの部昇格決定の瞬間は、生涯忘れることは出来ない。
4. 私たちの活動が、全学生に認められたのである。我々は誤っていなかったのだ。これからは、会員一人一
人が、この様な確固たる自信と責任を持って進まねばなるまい。
5. こうして1年間、表面的なもののみを捉えるならば、良くやって来たと思う。しかし、その反面、内的充実は
どうであったろうか。この点において、私はいささか心残りがする。当面の課題でもあった研究会内におけ
る会員個々の真の位置づけが、十分なされなかったのではないか。
6. その現われとして、何等考えることもなく、また語ろうともせず研究会を去って行った若干の部員があっ た。今後会の長となる者は、この辺を十分考慮して進めて行く必要があるだろうし、また会員も積極的に
行動すると同時に、己の義務と権利とを考え直す必要があろう。こうした種々の経験と反省の中から、新
たな展望が切り開かれて行くのである。
◇部誌「あした」創刊号(1965年2月発行)
☆第4期委員長・伊藤孝信 『巻頭言』より
1. 海外工業技術移住研究会も去る12月4日に、文化会会議で部昇格が承認されましたが、これにより大
学サークルにおける役割が重大になりました。
2. 我々が持つ精神は高く、大学サークルが持つべき、また支柱ともなるべき精神として尊って宜しいので す。またそれだけに、この高い精神を事あるごとに全学院生に訴え、理解してもらえるように努力しなけれ
ばなりません。
3. それには、己を鍛えることが急務です。しかしそれは今まで積み重ねてきたこと、新しい自覚の上に立ち
一層鍛えることです。
4. 研究会は全会員のものであり、一部の人のものではないのです。会員諸君よ!我々の精神は正しく、その
任務は大きいのである。大いに会を利用し、会員の規制は鉄のワクでは なく、ゴムの囲いである。
5. 我々に力があれば、その囲いは無限に伸びて行くであろう。その反動を恐れることなく、広く世界に目を 転じ、真は真であることを恐れなく、胸を張って主張でき得るような人間 になろうではないか。
−17−
◇部誌「あした」第2号(1967年4月発行)
☆第5期委員長・秋葉裕嗣 『序』より
1. 我々は文明社会の中に安住することなく、創造意欲を喚起し、工業技術及び人為的な移動による生活
環境の向上を行い得る開発能力を養成し、国際交流の盛んな今日、狭い日本に閉じこもることなく、広く
海外に目を向け、国際感覚の涵養を行い、自分の生きる道を真剣に考え、何をなすべきかを判断でき 得る人間に成長することを願っております。
◇部誌「あした」第3号(1969年2月発行)
☆第7期委員長・渡辺昌美 『序』より
1. 我々海外工業技術移住研究部も早や7年、幼年期から青年期へと新しく生まれ変わろうとしている。す
なわち我々は盲目のうちに自分たちの行く道を歩むものでもなければ、周りから教え与えられたもののみ
により歩むものではない、そう言う時代に終わりを告げようと言っているのである。
2. そこに於いて我々は自分たちの手によりある一つの方向を見つけようとする。しかしうまく行かない。再度
繰り返す、またうまく行かない。考える、名案が浮かばない、苦悩する。苦悩すればするほど、その解決へ
の道が閉ざされるような気がする。自分たちの不信感が起こる、内に閉じこもろうとする。その苦しみの中
に埋没する。益々深みに陥る。その様な状態が、現在の我々の姿であろう。
3. その様な状態に於いて、我々はここに一つの研究の成果として、部誌を刊行しようとしている。現在、我 々のこのような状態に於いて出される部誌が、いかなる意味を持ちうるか、いかなる効果を果たしうるか 理解しがたい点も多々あるだろうし、見て笑いの対象となりうることは十分理解できる。
4. けれども我々は苦しみの中に陥り、己を見失い、他から遠のく事を嫌い、一つの完全なる組織を夢み、一
つの方向性を仮定し、進もうとした。我々はその進む過程に於いて、再度己を見つめ、己に立脚し、深み
から這い上がろうとした。形式的ながら一つの成果を見ることになり、新しい一歩を踏み出そうとしたわけです。
◇部誌「あした」第4号(1970年4月発行)
☆第8期委員長・中居文男 『序』より
1. 数千年前、ゲルマン民族の大移動という現象が起こり、また、それ以前にも、人類とい
うものは、より良い生活場所を探るために移動を行っていた。
2. 現在に於いては、それは少し形を変えて行われている。個人的な移住、企業の海外進
出、留学、国家的なものまで色々ある。
3. 新しい土地への移動は、争いを伴うことも含んでいた。これは過去の歴史的背景からも
分かる。例えば、コロンブスがアメリカ大陸を発見し、人が大陸に進出し、西部へと発展して行った時、そ
こには絶えずインデアンとの争いが待ち受けていた。現在に於いても、企業の海外市場確保は経済的に
も、政治的にも色々な問題を起こし、企業間の問題ばかりでなく、国家間の問題へと大きく発展する可 能性が多い。
4. このようにしてみると、小さくは個人的移住、大きくは企業の海外進出に於いて、考え得る多種多様の問
題が含まれている。
5. さて、「移住研」とは何か、どういう存在価値があるのか。「人間は考える葦である」と同時に「行動する動
物である」と、考えなければならない。現在、とかく、理論的に良くとも実行を伴わないものがある。しかし、
我々若者は、自分から疑問を出し、それを自分あるいは仲間と考え、そして進歩していく。現在はその様
な場所が欠けている。そこに部の存在価値が生まれる。
6. 「移住研」、そこには共通した何かが存在し、何かを行っている。以下の研究発表が、現在の「移住研」の
存在であり、行動でもある。しかし、この中から我々の精神を汲み取ることは出来ないと思われる。
−18−
◇部誌「あした」第5号(1971年3月発行)
☆第9期委員長・植村孝美 『序』より
1. 我々の代における大きな特色は、"移住"という事に対する部員それぞれの考え方にあると思われます。
2. 今まで、現在の技術協力といったものも大きく思考した移住といった理念の中にとられていたように思わ
れた。
3. 極端に言うと、古き"移住"という言葉と、"移住研"といった名称から、常に移住といったものを表面化しな
ければ単に事情研究部のみの存在に陥るという不安から、無意味な表現にすぎないと思われる節がある。
4. そこで我々の代の特長は、移住は、移住といった単なる言語とし、それよりも世界的人類の移動といった
ことを重要視した。
5. よって結果的に移住といった考えは、現在の交通機関の発達またはマスコミニュケーションの進歩より、
意味をなくしていると考えた。
6. しかし、なにも前期の移住理念を全く無視しているのではなく、心髄となるもの、すなわち世界的人類の 移動、協力により世界的レベルアップを、第一目的にしていることに変わりはありません。
7. しかし、多少打算的になりますが、時代的交錯から単に表現方法を変えることにより、クラブとしての発 展を促進する事を図った。
8. また、派遣においても、前期までの様な理念確立の際、それの裏付けの様子、第二次的存在とせず、あ
くまでその派遣により、海外の諸知識を知るまでは、感覚的に身につける事により、このスピード化した海
外交流に応え得る人材を養成することを意とした。
9. ここで重要視されてくるのが海外交流の際の人間性の問題である。特に我々の意とする低開発国に対
する技術協力の場合など、単に協力といったものを考えていて良いものだろうか?このようなイデオロギー
の問題点について見た。しかしこの問題は、私が思ったほど成果を得られなかったとも思われる。が、次期
の諸部員の中にこう言った問題の重要性だけでも認識されれば、この成果は少しずつ芽を出していくも
のと思う。
◇部誌「あした」第6号(1972年発行)
☆第10期委員長・橋本英男 『序』より
1. 今年10周年を迎え、クラブとして軌道に乗りつつある海外工業技術移住研究部の部誌「あした」も第6
号となりました。この1冊に、我々の一年間の成果を全て載せることは出来ませんが、出来る限り努力し たつもりです。
2. ところで今年の部誌は、従来のものと違った面を出そうとしてみました。それは多くの人に読んでもらえる
様なものにしていこうと思ったからです。今までの内容は、あまりにも客観的に物事をとらえ、書いてきたよ
うに思いました。
3. それを今年の部誌では、出来る限り主観的にとらえていくように務めました。なぜなら、研究は他人の為 にするのではないということを強く意識し、自分自身の為にならなければ、無意味なものであると思ったか
らである。
4. 今年の研究テーマは、「技術協力」でありました。後進国と先進国と技術協力との関係を色々調査し、 後進国が自立していく為には、どのような技術協力が良いかを考えてきました。
5. 技術協力をする国と受ける国とでは、全く立場が違い、一方の国だけの利益を考えた技術協力が良い
とは必ずしも言えない。常に両国の立場を考え、相互の利益があり、また、最も重要なことは、人間の心 が入っていなければならないということだと思いました。今までは、産業的には著しいものがあったけれど、
それが本当に後進国のためになったかどうかは、疑問が残ると思う。このように真の技術協力とはどんな
ものかを、我々は考えてきました。
6. また、今年の基本方針の中に、「自己意識の高揚」をかかげて、1年間活動してきました。去年は、行動 力養成で活発化しましたが、考えて行動し、自分で納得した活動が不足していたように思い、今年はサ
ークルというものを、各々良く考え、各々が積極的に、また協調性をもって活動して来たつもりです。
−19−
◇昭和49年度活動方針(1974年)・・・総会資料より
☆第13期委員長 片岡 敬 1. 現在の日本は、戦後4分の1世紀の間に、驚くべき成長と変貌をとげた。しかし、その反面、公害、交通 問題、著しい物価高、品不足という膿が生じ、さらに我国の海外活動が世界各国から批判されている。
2. 今日の日本の情勢、そして中東戦争を契機にアラブの石油輸出制限(石油危機)、食糧危機、飢餓問
題等様々な問題点が内在している国際情勢の中で、海外を思考している我々各人、何を感じ、何を考
えていかなければならないのだろうか。それは「世の中真っ暗闇だ」という言葉で終わらず、めまぐるしい 国際情勢を的確に把握し、自己の行き方を思惟し、社会に出て、自己の可能性をいかんなく発揮するこ
とである。
3. 「適応物と新たな創造物の探求」
この組織が昭和37年に、三大理念を掲げ移住を目的に発足し、はや12年という歳月が流れ、日本ある
いは世界の情勢が変化するとともにサークル自体が変化していることは、部員の認めるところである。当
初の目的、手段と現在の我々の欲するもの或いは活動というものに食い違いが生じてきた。それとともに
、様々な問題点、矛盾点が浮き彫りになり、積み重ねられ、どっぷりと泥沼の中に浸かってしまっている状
態で、研究活動も組織的観点から見て、何ら発展性のないものになってしまっている。先輩の残してくれ
た物を、再度我々の手で見つめ直し、適応する物は何であるのか、必要でない物は何であるのかを選別
し、適応する物は益々発展させ、そしてまた、我々の創造物をも作り上げなくてはならないと思われる。
4. 今現在の時点で、役員イコール部員という状態である為、役員と役員、役員と部員との関係が無になる
と思われる。
5. 「ワーク」に関して
これは先輩が残して来たものであるが、前期行われなかったため、私を除いて、他の部員に経験がなく、
ワークの意義を、先輩の家に訪問するなり、手紙なりで考え方を聞きたいと思っている。
◇第四次台湾派遣報告書(1977年8月発行)
☆第15期委員長 森 登 『派遣にあたって』より
1. 現在の我部は、15年前、中馬先輩(在ブラジル)が創設した当時と比べて、時代と共に、内部的にも外
部的にも変わってきた。
2. そして今年度、日本学生海外移住連盟脱退というところまで来た。正直言って、行きつくところまで来た
というという感じだった。
3. しかしながら、そういう状態の中にあって、今回の台湾派遣が成功したということは、非常に未来への展 望を与えてくれるものである。
4. 実際には完全に成功したと手放しで喜べるものかどうかは疑問だが、要は、こういうどちらかと言うと逆 境において、部員一人一人が冷静に考え、判断し、この派遣を遂行できたことが、一番喜ぶべきことであ
る。
5. 何もない無の状態から一歩一歩であるが、確実に進み、この派遣をやり遂げたことは、各部員に満足感
を与え、やがて自信が生まれてくるものである。さらに、これを土台に、我部独自の長期派遣の実践まで もって行ってもらいたいものである。
6. これから益々国際社会というものが重要視される時代に、この長期派遣が実践・成功されることは、我 が部の発展のみならず、部員各員の人間性を深め、さらに国際平和の一端を担うことを確信するもので
ある。
−20−
◇ブラジル派遣・第六次台湾派遣・報告書(1979年11月発行)
☆第18期委員長 原田浩明『序』より
1. 年に2回の派遣隊を送り出したことは、我部18年の歴史を振り返ってみてもその例は少なく
、また経済的な難関などがあったが、それらを色々な人々の援助によって克服し、ここに成
功をご報告できるのは、我部にとってこの上ない喜びである。
2. 特にブラジル派遣は、我々にとっては全く未知の土地であり、一つの試みであったが、今回
の成功により、今後への大きな足掛かりになるものと期待している。
3. 派遣とは、あくまで研究の延長であり、文献によってだけでは明らかにならなかった点を学
ぶことであり、さらに海外において各個人が自己を確立し、国際人としての意識を養い、行
動力、可能性を試す絶好の場であると考えている。
4. 移住に燃える先輩たちによって創られた我部であるが、時間と共にその目的は変化し、現在
ではその思想を受け継いで、諸活動を通して思考力、行動力、創造力を身につけ、人間形成
に役立てて行こうとしているのだと、私は認識している。
5. その様な中で、派遣活動の持つ意味は非常に大きく、実践の場を与えてくれるものであり、
広くこれに携わった部員一人一人の血となり肉となっていると思う。
6. 益々激化する国際社会において、この派遣活動が実践、成功されることは我部の発展のみな
らず、部員の人間性を深め、さらには国際平和の一端を担うものであることを確信するもの
である。
◇部誌「あした」第7号−19周年記念−(1981年1月発行)
☆第19期委員長 村松達之『序』より
1. 第7号「あした」は55年度我部の思想であり、部員一人一人の成果であります。前の号と間
が長く内容もかなり変わったと思います。
2. 今年度は、長い間行われなかった部則の改正も行いました。しかし時代が変わろうとも我部
の心(三大理念)、「国際感覚の涵養」「創造意欲の喚起」「開発能力の養成」は変わらぬ
よう、これからも我部の炎を絶やさぬものと確信しております。
3. ここ数年は、移住にこだわらず広範囲で世界を見つめ、いついかなる時でもその国を客観的
かつ主観的に見ることの出来る国際人になることを目標として、研究・事業・派遣を行って
来ました。56年2月には、スリランカ派遣を計画しております。
4. 派遣は研究の充実化は無論のこと、海外においては人に頼ることなく自分の行動に責任を持
つ自覚と、柔軟な心・旺盛な好奇心そして独立心を養う絶好の場と思っております。
5. 55年度は派遣はありませんでしたが、我部の活動の中で重要な位置を占めるものに夏合宿
がありました。夏合宿の大きな特長にワークがあり、これによって自主的行動力、クラブ員
の連帯感を養うと共に、心身を鍛えひいては地域住民との親睦にも繋がり、国際人となる基
礎ともなるのです。
6. 我々の色々な活動はすべて国際人となる目的の基で行われるものであり、刻々と変化する世
界情勢の中で、自分たちを見失うことなく、時の流れに自分を見出し、確固たる信念と海外
の情熱をもって、我部を運営して行くのである。
−21−
◇スリランカ派遣報告書(1981年10月発行)
☆第20期委員長 類家 卓『序』より
1. 「海外移住」が派遣の目的であったのは5年前までであった。しかし、今日では広く世界情
勢を見るうえで南北問題を中心に考え、その研究の延長として、対象国を決め、派遣を行っ
ている。
2. 派遣に行く為には、その国についての研究と国際的な背景の勉強をしなければならないし、
一方では資金を稼ぎつつ、心身ともに鍛えておかなければならない。
3. 外国においては言葉・食事・気候・習慣の違いを乗り越えなくてはならない。頼れるのは正
に自分だけなのである。そこでは「日本人としての甘え」を断ち切り、国際人であることを
要求されるだろう。
4. 世界は広い。人生は長い。その一瞬の間だけでも困難に挑戦し続けていくクラブでありたい
と、我々は考えている。
◇マレーシア派遣報告書(1984年1月発行)
☆第21期委員長 丸子敏人『序』より
1. OB諸氏の意に反し我が部の体質も軟化の傾向にあります。それに比例し、派遣に対する目
的意識・意欲も変化しています。「海外移住」という目的は今は無く、研究の延長という形
で現部員は受け止めています。
2. 国際感覚に富む人間形成をも目的としているが、そのためには様々な勉強が必要となる。そ
の国の国際状況・歴史的背景・習慣などあるが、派遣で最も大事なのは現地での勉強である
。現地の人々との意思の疎通により、得るものが全てと言っても過言ではない。そのため最
低限必要な語学力は身につけようと英会話を行っているが、まだまだ不十分である。研究・
英会話などの自分自身に対する厳しさこそ、国際人への道なのではないでしょうか。
3. 我が「海外工業技術移住研究部」の部員一同における派遣の目的意識は変化し続けると思う
が、移住を心にあるものにしたい。
◇インド共和国派遣報告書(1984年9月発行)
☆第22期委員長 青木一夫『序』より
1. 「海外移住」という言葉の中には、私は大きなロマンと夢があるように思います。日本とい
う殻の中から飛び出し、海外という大地にしっかり足を立てるということに、ロマンがあ
り、夢があると思います。
2. しかし、現在の我部は「海外移住」ということは目的としてはもう無く、派遣の目的も研究
の延長という形でとらえています。
3. 派遣に行くためには、その国についての研究と国際的な背景の勉強をしなければならないし
、一方では心身とも鍛えておかなければなりません。外国では、言葉、食事、気候、習慣の
違いも乗り越えなければなりません。しかしその頼れるのは自分だけという世界から得るも
のは大きいと思います。
4. 世界は広く、私たちはまだ若く、人生は長いのです。常に世界に目を向け、自分たちだけで
切り開いていく開拓者の精神を持ち続けなければいけないと、自分たちは考えている次第で
す。
−22−
◇タイ王国派遣報告書(1985年12月発行)
☆第23期委員長 山下 実『序』より
1. 日本の工業技術が世界において決してひけ目を感じなくなった今日、「海外移住」こそ少な
くなったが、日本企業の海外進出は益々盛んになってきている。特に後進国市場は今後の日
本企業の鍵となることは明らかである。
2. 今後も我部、工学院大学出身の人間が仕事で、観光で世界に出る機会が増えていくと思う。
外国に行くと、言葉、食事、気候、習慣など何もかもが不安になる。そんな時一番頼りにな
るのは自分自身ではないだろうか。
3. ここ数年我が部の派遣活動は、スリランカ、マレーシア、インド、そして今回のタイと多方
面にわたっている。このことは部員が広く世界を見ようとしているのと、OBの先輩方が行
っていない国に注目したいということを表していると思う。今後も広く世界を見つめて行く
ことは良いと思うが、一方ではある国に注目して行くことも必要と思う。
4. 世界は常に変化し、動いている。我が部も変化して行くと思う。しかし、どんなに変わって
も、三大理念、「国際感覚の涵養」「創造意欲の喚起」「開発能力の養成」は、我が部の源
流であることに変わりはない。
◇部誌「あした」第1986年度号(25周年記念)
☆第25期委員長 浅羽弘道『委員長あいさつ』より
1. 我部も今年度で25周年を迎えた。その間、部の創立者中馬先輩を始め諸先生方、先輩方に
は、部の発展の為に多大な尽力を払われ、現在のような立派な部にしていただき、我々も感
謝している。また現在我々がこの海外工業技術移住研部の部員であることを嬉しく思い、そ
れが我々の誇りでもある。今後先輩方の築き上げたこの部を更に繁栄するよう、我々も努力
しなければならないと痛切に感じている。
2. その一環として活動した新宿祭も各部員の努力によって成功したように思われる。また、昭
和62年度の春休みを利用しての部員2名(山口、矢ケ崎)のブラジル派遣も決定しており、
現在Workの精神で資金を貯めています。他の部員も二人のバックアップをすると共に自
分たちも必ず海外派遣に行こうという信念のもとに、その具体的な案を討論している最中で
す。今挙がっている候補地はオーストラリア、ヨーロッパ諸国、アメリカ、インドといった
ところです。現在の1年生の部員の諸君には、各自それぞれの目的を持って、一度は海外派
遣に出かけてもらいたい。その時には今だ自分の知らなかった新しい世界が必ず見えてくる
であろう。
3. 世界全体の協力が望まれている今現在、世界のトップクラスにいる日本の工業技術を通して
、少しでも多くの外国諸国との友好を図らなければならないと、自分は考えています。その
ため我々の海外工業技術移住研究部は、この先いつまでも必要であるし、決して無くしては
ならないものである。我部の一員たる者は、今よりももっと深いきずなで結ばれ、発展を続
けている工学院大学と共に、部も発展するよう努力しようではありませんか!!
−23−
5. 歴代顧問教授のメッセージ
移住研には、3代にわたり顧問教授がおられ、活動推進に当たり、大学側への支援は言うに
及ばず、日常活動に、有形無形のご援助を頂いた。各顧問教授からお寄せいただいたメッセー
ジ(ごく一部であるが)を掲載しておきたい。
◇笹谷侑正教授(昭和37年∼45年・昭和45年逝去)
・・・部誌『あした』創刊号より
国土の狭小による資源不足、人口過多による生活の困難は、実に我が国に与えられた惨めな
宿命であった。これを克服して、より良き生活への憧れを抱くことによって我が国は、嘗て世
界三大強国の栄誉をかこち得たのであったが、無謀な世界大戦への突入によって、その地位を
失い、今だ嘗てない辛苦をなめる結果を招来した。然しながら勤勉な国民は、漸くにして立ち
直って工業立国の大旗を振りかざして勇往邁進、孜々営々の努力によって今日の復興を成就し
たのである。我が国の工業技術は、造船、軽工業面に於いては世界水準を抜き、或いはこれに
迫る勢いを示して来てはいるが、未だ十分に国民を養うには不十分であることは世の知るとこ
ろである。かかる状勢に目覚めた本学学生の中に、習得したこの優秀技術を以って海外に雄飛
し、後進国の工業技術を指導し、併せて我が国の食料問題と人口問題の解決に寄与せんとする
人士のあらわれたのは、時宜を得たもの、誠に欣快至極と言わざるを得ないことであって、我
等の双手を挙げて賛成する所以である。敢えて自ら測らず顧問の役を引き受けたのもこれある
が故である。又大学当局からも多数の学生諸君からも熱心な支持を得て、学生自治会の一部と
して独立できた所以も、我が国の将来進むべき道の発見に協力せんとする熱意の表れと見るべ
きものであって、誠に心強く感ずる次第である。茲に、同志をつなぐ機関誌「あした」の誕生
を見ようとしている。「限りなき約束と成就とに満たされた明日」への希望に胸ふくらませて
、一途に海外への雄飛を目指す若人の意気、これを「あした」を通じて暖かく育ててやってく
ださることを切望する。そして同憂の士から何かと援助し精神的にも物質的にもーをして下さ
るならば、それは必ずや我が国により良き「あした」をもたらすことを信ずるものである。
◇布施敏夫教授(昭和45年∼昭和58年)
・・・部誌「あした」1986年度号 「二十五周年を記念して」
故笹谷先生が工業技術を通じて世界の文化と繁栄に貢献し、若者たちに夢を与えようとの遠
大な理想のもとに、当部の設立にご尽力されてから早や二十五年、月日の経つのは早いもので
す。私が顧問を引き受けたのは、ちょうど学園紛争の嵐が静まりかけてきた頃のことであった
と記憶しています。植村君が委員長をしていた頃、白馬の合宿に参加し道路工事で部員諸君と
共に汗を流した時のことはいまだに鮮明に頭の中に残っています。Work,Debate,Studyをそ
の活動の基本理念としたこの部は、工学院大学のなかでも特異な存在でした。時の流れと共に
この体質も多少は変わってきたようですが、この先輩たちが築き上げた伝統は、今なお綿々と
後輩の中に引き継がれており、喜ばしい限りです。
ところで、今工学院大学は、全く新しい大学に変わりつつあることを先輩諸氏にお伝え
したいと思います。学園将来計画に基づいた八王子校舎整備拡充計画は、地下二階・地上九階
建の五号館をシンボルタワーとして、ほかに六棟の実験棟が建設中で、五号館と十号館はすで
に後期授業から使用を開始しています。他の棟も十一月末には完成します。また、新宿校舎も
高層ビル(二十九階建)に生まれ変わることになりました。大学棟は来年に着工し、六十四年
(1989年)九月末に完成する予定です。
−24−
五年後我クラブが三十周年を迎える頃には、工学院大学も二十一世紀に向けて飛躍するがっ
ちりした礎が築き上げられていることでしょう。しかし大学の価値は、外観にあるのではあり
ません。問題は中身です。その中身を充実させるのは我々大学の全構成員の責任です。学問の
研究は当然のこと、世界に目を向け、その平和に貢献できる青年の育成こそ、大学の責務でし
ょう。海外工業技術移住研究部の存在意義も、正にここにあるものと思われます。益々の発展
を願って止みません。
◇中村匡克教授(昭和58年∼休部に至るまで)
・・・部誌「あした」1986年度号「創立二十五周年を迎えて」
海工研が創立されてから二十五年が経とうとしている。歴代の顧問の先生の指導のもとに、
数多くの学生が育ち、先輩たちは国内のみならず、遠くブラジルまで世界に雄飛して活躍して
いる。誠に喜ばしいことである。
海外工業技術移住研究部の名前が示すごとく、技術のある所には、移り住むべき人間がおり
、人間がいる所に思考があり、文化がある。アルバイトと遊びに熱をあげている学生が多い中
で、日本人であること、アジア人であること、そして世界人であることの意味を探求している
姿勢は尊い。二十一世紀を迎えるにあたり、益々海工研の存在意義は高く、それだけに真価を
問われることになるだろう。
最近のスポーツ、特に野球、ゴルフ、テニスなどのプロ・スポーツの契約金、優勝賞金の異
常な高値には驚嘆するが、どこに何億も支払う価値があるのだろうか。金銭欲、名誉欲、企業
欲さまざまであるだろう。ベトナム難民、アフリカ飢餓民の救済にはお金を出さないが、利益
追求のためにはなりふり構わず金を出す。日本人であることと同時に、アジア人であり世界人
であることの認識の欠如なのだろうか。北半球は富と闘い、南半球は飢餓と闘う。いつまでも
続く世界の孤児日本であってはならない。欲の深い人(民族)は、急いで富を得ようとするが
、かえって欠乏が自分の所に来ることを知らないーなどと非難されるようなことがあってはな
らない。なりふりよりもまず我々は日本人である。と同時に、世界人なのである。この観点に
立つ海工研の今後の発展が楽しみである。
−25−
6. 移住研と学移連
1)日本学生海外移住連盟
この活動史の各所に登場してくる「学移連」(日本学生海外移住連盟)について、駒井 明
(昭和45年入学・生産機械、第21期学移連委員長…後述)から貴重な資料を提供頂いた。
この資料を基に、その概要を記載しておきたい。
日本学生海外移住連盟(以下学移連という)は、昭和30年(1955年)に結成され、当
時の外務省の外郭団体であった移住事業団の下にあった。東京農業大学海外移住研究部、拓殖
大学海外移住研究会、早稲田大学海外移住研究会、日本大学海外研究会、三重大学海外移住問
題研究会、北海道大学海外移住研究会等々、全国60大学の海外関係サークル1万人の学生に
よって組織されていた(「アマゾンの日本人」・吉永正義著、発行者中馬 修、1965年3
月31日刊の記述および「連盟案内」による)。
(1) 学移連設立趣意書
日本の海外への発展とその維持とは単に国内問題とし取扱われるべきではなく、国際的視野
のもとに世界人類、特に次の世代を担う学生の連繋協力によって解決しなければならない。
それは民族の国際的交流、移動が世界各国に対し直接、間接多くの影響を及ぼし、又世界各
国の人口支持力並びに生活程度の消長がその国の政治経済を動かして国際関係に多大の影響を
及ぼすからである。
従って、今後に於ける海外発展の正しい解決は各国民、特に学生間に於ける相互の諒睦、そ
して之に伴う知的交流文化の配分等につき、協力一致するとき初めて見いだされる。
新しい日本建設に当たり我々は斯くの如き視野に立ちつつ海外問題の研究とその解決とに努
力し、且つ国際友愛精神による国際的寄与への第一歩を強く踏み出さんと欲するものでありま
す。
自然には国境がなく、人類の間に本来何等の確執もあるべき筈はない。否全人類総てが相携
えその生活の向上と文化の建設とに努力すべき責務を有するものであります。
然るに海外移住に関する研究とその推進とに関し、次の世代を背負う若き学生間に於いて、
従来その全国的提携、協力が極めて欠ける点の多かったことに鑑み、茲に各大学有志の賛成を
得て世界平和を祈念しつつ、日本学生海外移住連盟を設立せんとするものであります。(日本
学生海外移住連盟発行・「連盟案内」より)
連盟案内には、この設立趣意書に対して、次のような追加説明が記載されています。
《追加説明》
上記の文章は設立時の構想を文章化したものであるが、現在組織が拡大しその活動内容も多
岐にわたるに及んで若干の説明を要するようになった。現在我々は根本にはこの趣旨を置いて
いるが、ここに記されているその抽象的な表現では足らず具体化が必要とされている。すなわ
ち海外移住を国内問題にとどめず国際的観点から考察する問題意識の在り方には変わりがない
が、単に移住そのものの内的考察から外的考察にも同等の比重を置き、海外移住そのものを一
義的に考察するグループと、その対象国を一義的に考察するグループとから構成されており、
その総合点に連盟の本質は存在している。したがって我々の移住観は単に国際友愛精神に立脚
しているだけではなく、その背景として、後進国開発理論と海外発展思想の統合という学問的
根拠にもその基盤を置くものである点留意されたい。したがって我々がその活動手段のひとつ
として用いるWORKも無報酬労働とはいいながら、いわゆる奉仕活動とは厳密に区分されな
ければならないものである。
−26−
(2) 移住連盟の成立
「連盟案内」によると、移住連盟は、先の設立趣意書を基に、次のような経緯で成立した。
『昭和30年全国の海外関係のサークルのもとに、一通の書状が届けられた。それには「農
村の二・三男対策は急務であるから我々学生層で、これに対して何等かの働きかけをする必要
がある」また「希望を失った若人の目を海外に向かせるべく一大キャンペーンを起こそうでは
ないか」と書かれていた。
その年の6月11日、この呼びかけに答えて衆院第二議員会館に集まったものが30名、こ
こに日本学生海外移住連盟が結成された。これとともに東大を中心に国立大学によるラテンア
メリカ市場開発を目的とする日本海外研究会結成の動きが見られたが、連盟員の了解工作のも
とに一本化に成功し、装いも新たに発足することになった。』
(3) 我々は移住をこう考える
時代の推移と共に、「移住」という言葉を、わがクラブの名称に冠することの是非が、何度
も議論や検討が行われて来たことは、記憶に新しいことである。その都度回帰して行ったのが
、次に掲げる学移連の「我々は移住をこう考える」という文章ではなかっただろうか。
この移住研活動史の第一次案には、このことは記載してなかったが、第5期委員長の秋葉裕
嗣(昭和39年入学・生産機械)から、「あの文章を載せてもらわないと、私たちがやってき
た事が全く埋もれてしまう。ぜひ記録しておいて欲しい」と、申し出があった。
「連盟案内」に記載されていたので、それを転載しておく。
『我々は移住をこう考える
「移住とは個人の意思により、自然、国民、社会に全幅の信頼を寄せる国へ生活の本拠を移
し、創造的生産活動を求めて、自己の潜在能力をフロンティアに於いて最高度に発揮し、相手
国の開発に寄与すると同時に民族間の融和を計り互恵的に個人の生活の安寧と幸福を得ひいて
は世界の平和と人類の福祉に貢献するものである。」』
この文章は、昭和39年、学移連の秋田夏季合宿において、政府の移住審議会が明らかにし
た答申案を参考に、議論し、採択されたものである。
「移住」が、従来から言われてきた「移民」と言う狭義の意味ではなく、もっと広い意味が
あり、移住研の活動推進に何等障害になるものではない、と言った議論のバックボーンであっ
たと、記憶している。
(4) 学移連規約第三条(目的)改正問題
学移連「30周年記念誌」によると、『昭和30年後半から、諸々の問題が顕在化してき。
海外移住研究部、海外事情研究部、中南米研究部、そして語学研究部と、加盟しているサーク
ルの名称・性向が多様化してしまい、学移連としての統一活動がとりにくくなり、いわゆる連
盟離れ、幽霊サークルの増大などの問題が起こってきた。
昭和41年から45年にかけて、「ABブロック化」「地域圏研究法」「規約第三条改正案
提出」等がそれである。「ABブロック化」というのは、学移連の基盤であるサークルを研究
内容で分類統合し、サークルの連盟離れを阻止しようと、提案された。(昭和41年3月)Aは
移住研究ブロックで、移住を一義的にとらえて、その対象国について将来移住しようという姿
勢を持つサークルによって構成される。統一テーマは、杉野先生(初代学移連顧問会会長・東
京農業大学教授)の拓殖理論に基盤をおき、移住理念の研究。
Bは海外研究ブロックで、移住はあくまで第二義的要素であり、海外諸国自体が研究対象と
なり、海外に対する興味・関心を満足させようという姿勢を持つサークルによって構成される
。統一テーマは後進国開発。活動を推進していく過程で、サークルの連盟離れを解消する根本
的な解決にはならず、ただサークルの名称によって二つのグループに分けただけという結果に
なってしまった。
−27−
「地域圏研究法」は、先の「ABブロック化」の反省を踏まえて出されたもので、世界を地
域ごとに分け、各サークルの特殊性を発揮し、移住に焦点をあて後進国を総合的に研究しよう
とするものであった。(昭和42年提唱)つまり、全国に散らばる各サークルの研究を本部の研
究部がまとめるというものである。しかし、これはあまりにも難しく、数年が費やされたが、
実質的な学移連の動きとはならなかった。
この結果、連盟活動および連盟員の意識を研究によって統一しようとした二つの試みは挫
折した。この一連の流れを眺めると、「ABブロック化」「地域圏研究法」は、常に「移住」
を連盟でどのようにとらえるかの模索であったといえる。いかにして、海外研究会、ラテン・
アメリカ研究会、語学研究会といったサークルを学移連の枠でとらえ、「移住」で統一しよう
かといったことである。
しかし、そういった試みは功を得ず、先に掲げたようなサークルを「移住」に引きつけるこ
とはできず、学移連の目的を「移住」から外そうとする規約改正の動きが現れた。
『昭和35年制定の連盟規約第3条』
第3条 本連盟は海外移住に関する理念の研究および実践を通じ、海外移住思想の啓蒙並びに
海外移住の促進を図ることを目的とする。
これに対し、昭和43年の第43回全国総会において、関西支部から改正案が提出された。関
西支部の見解は、「移住の社会的意義の低下により、移住に関しての社会運動の必要性が減退
した社会情勢において、学移連が『移住』を固守するのは、学移連の発展を阻害する要因とな
る。」というものであった。
『昭和43年関西支部提案の改正案』
第3条 本連盟は低開発地域の開発に寄与し、そのための低開発地域研究の促進および実践を
目的とする。
この提案を受け、その後の合宿や支部の会合、総会などで議論を続け、昭和45年第57回
全国総会において、次の通り提案、可決された。
『改正連盟規約第3条』
第3条 本連盟は国際間における人間の移動について原因分析をなすとともに、広く海外問題
を追求し、その中で正しい人間の移動のあり方を考察し実践することを目的とする。
この新規約の意味するものは、「移住」の拡大解釈である。移住というものを、永住だけに
限定せず、技術指導、海外駐在をも含ませたのである。10年も前に既に戦後の海外移住のピ
ークを迎え、学移連を構成するサークルも技術指導による開発途上国への援助、国際関係の研
究が主流をなしていた状況から見て、この新規約は必然的なものであったといえよう。』
さらに「連盟案内」には、この間の経緯を「規約第三条改正」として、次のように明記して
いる。『海外移住という言葉からは暗いイメージを内包した"永住"という人間の行為しか浮か
んでこない。我々がいくらその単語を拡大して解釈しようとしても、社会一般に認められたこ
の単語の意味する範囲を超えることは非常なる困難を伴うといわねばならない。本連盟が過去
、現在、未来にわたって追求し続けていかなければならぬものは、国際間における正しい人間
の移動のあり方である。学生は常に真理を求めねばならぬ。先ず第一に、国際間に人間の移動
がおきた場合、それの原因分析が必要である。その結論は、ある時代には過剰人口対策として
出てくるであろうし、又、ある時代には人間疎外から来るものであろうし、又ある時代には人
間の最適配分率による生産要素としての人間の移動と出るであろう。よって、その分析を通じ
て人間の移動を起こさしめる諸要因を除去しようとする行動を起こすものも出るであろう。
−28−
具体的に言うなら、いわゆる棄民という現象を起こさしめ、又人間疎外という現象を起こさ
しめる動きである。しかし、本連盟としては、あくまでもこの運動に、総体として取り組むこ
とは不可能と言わねばならぬ。それは、この様な否定的な要素を持って団結することは、新体
制の確立といった肯定的な要求については何ら団結し得ないという見解からである。
我々は国際間における人間の移動をその共通の追求対象とする。そこには当然、その時代に
存在する海外諸事情の分析が必要である。これの正しい把握がなかったなら、我々の目的とす
るものも当然正しくは結論づけられることはないからである。この海外問題は、その置かれた
時代にマッチしたものでなければならぬ。現在の我々を取り巻く海外問題は、富める国と貧し
い国の格差がますます増大していくという現実を直視した上での問題でなければならぬ。
よってこれらの諸問題追求の中から、正しい人間の移動のあり方が、導き出されるものと確
信する。』
学移連の文書からの引用が長くなったが、学生らしい、情熱に溢れた、議論が闘わされてき
たことが、鮮やかに甦ってくる。
学移連は、その目的を達成する事業の中心として、昭和35年(1960年)より南米各国
に、10次(昭和44年時点)に渡り「南米学生実習調査団」を派遣し、「移住問題や低開発
国問題を研究する」際の、「百聞は一見にしかず」という諺を実体験すべく、裸で現地に飛び
込み、単なる視察などではなく、実際に原地人と労苦を共にし、彼らの歓喜、苦悩を直にその
身体で受け止めて帰り、毎年多大な成果をあげてきました。
時代の変化と共に、派遣先も南米に限らず、カナダ等も加わり、「海外学生総合実習調査団
」として、14次(昭和58年時点)にわたり、この派遣事業は続いて行きました。
その間、学移連が所属する外務省の外郭団体であった「移住事業団」も、行政改革の一環と
して、「海外技術協力事業団(海外青年協力隊)」と統合され、昭和49年(1974年)に
「国際協力事業団」に衣替えする等、変化を遂げてきました。そして平成5年(1993年)
、この国際協力事業団内にあった移住部門も廃止されました。
学移連は、これらの活動のほかに、全国合宿、全国総会等も開催し、加盟各大学との交流も
盛んに行われてきました。
2)移住研との係わり
活動史にも記載があるように、移住研は、設立と同時に、既に活動を展開していた学移連に
加盟し、そのメンバーの一員として、活動に参加して行った。そして何人かの仲間が、学移連
の本部役員として活躍された。
手元資料で分かる範囲内ではあるが、資料部長・中馬 修(昭和38年度)、事業部長・森
本孝義(昭和40年度)、19期事業部長・平石啓二(昭和47年度)、20期カナダ派遣部長
・山下勝康(昭和48年度)、22期委員長・駒井 明(昭和49年度)、22期カナダ派遣部
長・内田 稔(昭和50年度)などである。
また、前述の学生派遣団として次の仲間たちが派遣されている。
●第6次南米学生実習調査団…遠藤 義信(昭和40年5月∼41年4月)
●第3次海外学生総合実習調査団(南米第13次)…駒井 明(昭和48年6月∼49年3月) ●第4次海外学生総合実習調査団(カナダ第7次)…平石 啓二(昭和49年4月∼50年3月)
−29−
3)移住研から学移連委員長
学移連は、私が活動に参加していた頃(昭和40年)は、ドミニカ移住の失敗など農業移住
への問題点も大きく取り上げられるようになり、技術移住への関心は高まって行ったが、まだ
まだ農業系の大学が主流を占め、「技術移住」を目標にしていたわが移住研は、少数派であっ
たが、工業単科大学として学移連の中にあっては、異色の存在であったと言えます。
しかし、その少数派であったわが移住研から、学移連の本部委員長が選出されたことは、適
任者であった駒井さんの存在が大きいのは間違いないが、時代の流れを痛感しました。駒井さ
ん本人から、その経緯について、資料を提供して頂きましたので、ここに転載し、当時の活動
状況等を理解して頂ければと、考えました。
『駒井さんからの資料』
−帰国後委員長就任までの前置き−
「ブラジルより帰国半年後連盟役員にとの圧力がかり、連盟を海外に行く為に利用しただけ
かとの批判が有り私個人としては、工学院の部活動に又卒業を前提に注力いたしたい気持ちで
あったが、連盟では、移住と云う概念が古いものになり、脱退校が増え旧態依然の活動では先
が見えてきました。とは言うものの委員長を授かるからには、合理的学生団体の運営として、
最低限各校からの協力で特に東京近郊の大学は、役員を1名以上選出又学生の団体なので常に
誰かが本部に常駐せず15:00からとする等々10項目改革案を出した覚えがあります。そ
れを承認頂くならばやろうと受けました。
また上部団体の海外移住事業団も変革期に来ており、当時自民党の朝食会に招かれ、各団体
から今後の移住行政を見る見地から意見を求められた事が有りました。
海外移住事業団も昭和50年に海外技術協力事業団(青年海外協力隊)と一緒になり、国際協
力事業団に衣更えをしました」
*海外移住事業団機関紙「海外移住」319号より
委員長に駒井君 学移連 新役員決まる
学移連(日本学生海外移住連盟)は、11月23・24の両日、横浜の海外移住センターで
第62回全国総会をひらいた。総会には、加盟29大学のうち、17校85名が出席し、予算
案を中心とした討議が行われたが、この席上、第21期新役員が選出された。
新役員の任期は、49年8月末までであるが、顔ぶれは次のとおり(敬称略)。
委員長 駒井 明(工学院大学生産機械科3年)、副委員長 今野貞彦(東京農業大学農学
科3年)、同 橋本隆文 (関西大学社会学部2年)、書記局長 松雄三郎(日本大学拓殖学
科2年)、事務局長 鈴木郁子(相模女子大学英米文学科3年)、事業部長 石井 要 (東
京農業大学農業経済学科1年)、外国派遣部長 星 尚隆(日本大学拓殖学科 2年)、会計
部長 高畑香代子(神奈川大学商学科1年)。
なお、新書記局長に就任した松尾三郎君を、例年行っている連盟員の実習派遣について派遣
形態など諸問題の再検討のため、5月から2ヶ月間の予定でカナダ、南米に派遣することが決
定された。
−30−
*海外移住事業団機関紙「海外移住」より
実習調査団決まる
日本学生海外移住連盟
日本学生海外移住連盟(駒井明 委員長)では、このたび同連盟が派遣する第5次海外学生
総合実習調査団の選考試験を行ない、南米部門<ブラジル>2人カナダ部門2人、計4名の合
格者を決定した。
合格者の顔ぶれ、研究テーマは次のとおりであるが、5月から約1年間にわたり現地で実習
する。
※南米部門<ブラジル>佐藤貞茂君(東京農業大学拓殖学科4年)研究テーマ「アマゾン農
業の現状と発展」、上野肯二君(三重大学農学部農業工学科)「ブラジル国における工業とそ
の技術移住」
※カナダ部門 井上和治君 (北海道大学農学部農業工学科3年)、「日本農業近代化の中
での農業施設」、小野恵子さん (相模女子大学英米文学科3年)「国民性の教育について」
*学移連機関紙「学生移住連盟」第32号より
1974年に向けて 委員長 駒井 明
激動の1974年、そのまっただ中に我々は置き去りにされている。我々が1度も経験のな
かった事に、今年は直面しているのである。又、世界を見ても多極化に加え、アラブ問題と難
しい面が現れだした。国内はというと、買い占め、品不足、それに加え、石油危機と我々の生
活が直接、世界へと一足飛びに頭の中に入ってくる。
学移連活動そのものが変わらざるを得ない時期に来た。周知の様に田中内閣の打ち出した経
済協力省に関し、連盟の指導的立場の移住事業団、又技術協力事業団その他の統合という具合
に、連盟活動に影響してくる。ここに来て、もう一度我々の活動を見・考え今後の連盟を造り
だすのである。
私も連盟活動5年目に入った。いくつもの合宿に参加したが、今まで以上のすばらしい合宿
を作ってゆきたいと思っている。春合宿には、四次団が帰国して合宿を盛り上げ、夏会宿には
、公害のない富士の裾野で、思う存分、話し合い、身体を動かし、連盟のすばらしさを、解っ
てもらうつもりである。しかしながら、我々役員8名だけではどうにもならない。連盟員の協
力と、団結を望むものである。
*学移連機関紙「学生海外移住連盟」第34号より
22期に望む!(委員長退任に当たって)
"新たなる前進の為に" 工学院大学4年 駒井 明
今年で連盟創立20年を迎える訳です。不思議と連盟にあわせた訳ではないと思いますが、
上部団体である移住事業団が技術協力事業団その他と合併し、8月より国際協力事業団になり
、その関係で住み慣れた住友生命ビルから経済協力センタービルへ連盟の本部も移り、真さに
新たなる連盟が始まる訳です。
一言で20年と云っても、この間の国内外の情勢を見ても解るとおり、流動の繰り返しあり
、連盟にも当てはまると思うのです。本部を移すのも3・4回目で移すたびに、新たなるもの
を求めてきたことでしょう。ここに偶然にも、20年目と本部を移すことが重なり、真さに竹
で云うなら節にあたる訳で、この節を大きくするのも現時点にかかっている訳です。それは多
分に内部の充実があってこそです。
−31−
しかし率直に連盟という学生全国組織にとっては非常にむずかしいことで距離がどうしても
避けられず、コミュニケーションの取り方が問題になります。その為に連盟の中心への連帯意
識の欠如に焦点が向けられるのです。余りにも流動的ですし、いつも固定している訳でもなく
、現に危ないサークルが多数見受けられるのです。
いったい連盟にとって重要なことは何かをみつめて欲しいということです。云うまでもなく
個人であり、サークルであり、連盟の問題だと云うことなのです。連盟を中心に云うなら、理
想と現実・移住と連盟・地方と中央・本部と支部、又、顧問会と連盟・事業団と連盟etc.
であり、一つ一つ構成員が考えなくてはならないのです。しかし一つ恐ろしいのは、考えてい
って壁にブチアタッタ時です。確かに面倒くさいことで、責任から逃避が始まることです。こ
の連盟の再度の認識した所から話し合って欲しいと思うのです。
もう一つ興味深く見て欲しいのは、20年間の歳月が過ぎ去ったことと、連盟OBもそろそ
ろ40代前半、30代、20代後半と我々と幾層にもなってきたことです。いったいOBにと
って連盟とは何であったか聞いて欲しいのです。多分に、学生時代だけのもではなく、一生に
波紋をなげかけているはずです。
22期本部役員は、若干大変かと思いますが、兎に角一枚岩となり、最大限の努力をして下
さい。又、内外を問わず、20年間の土台の上に大きく飛び立って下さい、今こそ、学移連の
クサビとならんことを望む。
当時、学移連の本部役員になると、学業との両立が難しく留年が当然視され、総会のたび
に役員のなり手がなく、もめていたことが記憶に残っています。駒井委員長の提言が実現され
、合理的な組織運営が実現したのだろうか?
4)『自らの創造』を打ち出し学移連脱退
部の創設者である中馬 修氏をして「各会員の自己練磨を連盟の中でやり、会あっての連盟
でなく、連盟あっての会である様な当時の動きであった」(「檜舞台へのあゆみ」)と、言わ
しめるほど移住研創設時から深い繋がりを持って来た学移連。前述のように学生実習調査団へ
の団員派遣や、駒井委員長を始めとする多くの本部役員を送り出して来た移住研ではあったが
、社会情勢の変化や学生の意識の変化等により、移住研そのものの存立をも危惧する状況を招
来し、昭和51年、ついに学移連からの脱退を決議し、『自らの創造』という独自路線を歩み始
めた。
この活動史の初稿の段階では、「学移連の脱退」については、ほんの少し触れただけであっ
たが、「移住研にとっては、極めて重要な事であるので、もう少し肉付けして欲しい」との要
望が寄せられた。
そこで、第15期(昭和51年・1976年)委員長であった足立(旧姓森) 登さんに、当時の
ことを思い出して頂こうとお願いした。足立さんも、「30年も前のことで、資料も無く、記憶
も定かではないが…」という中で、第16期の根本省三委員長とも相談して頂き、次のように報
告してくれた。小生(杉本)と足立、根本両氏のメールのやり取りの抜粋を記載して、その間
の事情をつまびらかにしておきたい。
−32−
① 送信者:杉本 克
あて先:足立 登様
送信日:2005.5.9.
件 名:移住研活動史の件
足立さん、ご無沙汰しております。移住研OBの杉本です。現在、移住研活動史を纏め、や
っと終了しましたところ、『学移連脱退について、「脱退の声明文」を掲載すべき!!もし無
いならば当時の委員長に確認願います。』という意見が寄せられました。
学移連脱退は、貴兄の時代の出来事と思います。お手元に当時の資料が残っていないでしょ
うか?正式なものでなくとも、メモ程度のものでも結構です。同期の仲間にもお尋ね頂き、資
料を頂ければ幸いです。
②From: 足立 登
To: 根本 省三様
Sent: Sunday, May 22, 2005 8:55 PM
Subject: Fw: 【御願い】 移住研活動史の件
ご無沙汰しています。
元気、元気の毎日ですか。
突然メールしましたのは、杉本先輩が纏め中の「移住研活動史」の中で、学移連脱退の経緯
についての要請がありました。正直30年前のことで小生あまり良く覚えておりません。
ただ言えることは、私も含めて当時の部員は、「移住」という考え方は持ち合わせていなかっ
たように思います。当時の考え方は、海外に目を向け国際人たるために「国際感覚の涵養」を
目的に、知識を深めるということを念頭に活動していたと思います。
学移連の委員長を経験した駒井先輩からすれば、当然の意見と思いますが何分記憶が曖昧で返
信出来ない状況です。
そこで当時の部員の中で、一番頼りになる根本様に相談させていただきました。覚えている
範囲で結構ですのでご意見お願いします。
③From: 根本 省三
To: 足立 登
Sent: Thursday, June 02, 2005 8:53 PM
Subject: Re: 【御願い】 移住研活動史の件
(足立)様
返答遅れ申し訳有りません。
確かに移住連脱退時(足立)サンの言われる通り『国際感覚の涵養』に移動していたと記憶
しております。
記憶をたどれば自分達の時代昭和51年当時は既に、自部のみならず社会的現状にみて
移住と言う時代は既に終わっており、国際社会の中に自分達をどう位置付けるか?振舞うか?
と言う時代に移行しており『移住連』=移住と言う事より自らの活動の中で農業でなく工業技
術の中で『国際感覚の涵養』を実施して行こうとの考えから、連盟脱退に至ったと記憶(薄い
記憶ですが)しております。
尚S51年度『激躍』(記憶ありますか工学院文化会雑誌です)の中の当部紹介内に『連盟
脱退』の記載あり概要を記載します。
当部は①国際感覚の涵養 ②創造意欲の喚起 ③開発能力の養成
を目的として発足し、日本学生海外移住連盟に加盟した。連盟は、国家的バックアップを持ち
、移住、長期派遣を出し農業実習を行っている。当部においても移住、長期派遣の団員となっ
ているが、現在は『移住』とは合致せず自分達の力で『自らの創造』を打ち出し活動する。よ
って連盟の脱退を決議した。
とありますので、上記記憶に近いと考えます。まとまりませんが以上です。 根本
−33−
④ From: 足立 登
To: 根本 省三
Sent: Thursday, June 02, 2005 10:25 PM
Subject: Re: 【御願い】移住研活動史の件
根本様
忙しい中、調べていただきありがとうございました。何となく思い出してきました。
この決定は部の存続をかけて、決議した記憶があります。新人はなかなか入らず、また入っ
てもすぐやめてしまう状況で廃部にはしたくないという強い思いで決めたと思います。
お蔭でその年の学園祭では、一部のOBの方には相当しぼられた記憶が蘇ってきました。あ
まりいい思い出ではないので、これぐらいで・・
⑤送信者:足立 登
あて先:杉本 克様
送信日:2005.6.5.
件 名:移住研活動史の件
杉本先輩
ご無沙汰しております。また移住研活動誌の纏めという大変なお役目へのご尽力、深く感謝
申し上げます。なにもお手伝い出来ず申し訳ありませんでした。
「学移連脱退の経緯」についての報告、大変遅くなり申し訳ありませんでした。何分、30年
前のこと故記憶が薄く、活動誌の中に間違った報告は出来ないというプレッシャーもあり返事
が出来なかったというのが正直なところです。
当時の資料を家探ししましたが、管理が悪く出てきませんでした。
そこで、一期後輩の根本クン(16期委員長)に相談し、やり取りした内容を添付しました。本
来、流れからして一期、二期先輩の意見もお聞きしなければいけない内容ですが、時間の関係
で出来ておりません。明確な回答が出来ず申し訳ありませんが、以上ご報告させて頂きます。
/足立
このような経過を経て、昭和51年(1976年)、わが移住研も、学移連との目的の相違を
理由に脱退し、独自の道を歩み始め、さらに昭和55年(1980年)4月には、部則の第2条・
目的の文言から「移住」が削除された。
そして、昭和の終焉と共に、移住研も活動を停止し、今日に至っている。前述の通り、国際
協力事業団の移住部門が廃止されたのは、それから5年後の平成5年(1993年)でした。
−34−
7. OB会活動の記録
海外工業技術移住研部は、今まで回顧してきたように、時代の変遷と共に組織も変化しつつ
、それでも何とか伝統を守ろうと努力してきた様子が伺えます。拠り所として、三大理念「国
際感覚の涵養」「創造意欲の喚起」「開発能力の養成」を掲げ、合宿における「Work」そ
してクラブの事業としての「派遣」を車の両輪として活動を続けてきました。この活動史を書
くに当たり、現在連絡が取れる最年少のOBに連絡を差し上げました。
それは、クラブの末期の委員長矢ケ崎浩一郎さん(第27期)で、次のようなメールを頂きま
した。
「移住研は私にかなりの影響を私の人生にもたらし、私は卒業後もいろいろな国へバックパ
ック一つで旅し遺跡めぐりをしております。これは現在私の特技のようなものです。この夏休
みはアフガニスタンへ行こうと思っています。
ブラジルの「中馬」さんとの出会いや、その時話した事を今でも覚えております。
こんな私でさえ移住研を運営するにあたり、かなり大変な思いをしました。それは、移住研
の目的をはっきりさせることが出来ないからです。サッカー部はサッカーをするという明朗な
ものがありますが、移住研でそれを見出してクラブを運営することが大変難しいのです。私は
最終的に後進国(中南米)を一人旅するという事をしましたが、これは、私が好きでしたこと
で、クラブの目的でも方針でもありません。一年間の北中南米放浪生活は私の中で何ものにも
代え難い財産であり、そのきっかけを与えてくれた移住研には大変感謝をしています。ただ、
あの時点で、私以外の誰もがあのクラブを運営することは無理だったと思っております。
「中馬」さんが私にこんなことを言いました。
「俺は、やりたい事をやっただけだ。それをずっと続けていく必要は無い。なにやら俺を神
様のようにして、伝統を創り上げているがバカらしい。君もやりたいことをしなさい。学生は
自由なんだから」(2004年5月6日)
このようにして、クラブは休部に至り、現在はOB会のみが存在しております。このOB会
も、一旦は活動を休止していたのですが、在京の面倒見の良いOB方のお陰で、復活し今日に
至っております。
制定当時(昭和41年頃)のOB会会則が見つかった。参考までに掲載する。現在は、この会
則通りの運営ではないが、時代にあった形で、運営され、交流が図られればそれで良いのでは
ないかと考えます。
−35−
工学院大学−部文化会
海外工業技術移住研究部OB会(仮称)会則
第一章 名称及び所在地
第 一 条 本会は、工学院大学一部文化会海外工業技術移住研究部OB会 (仮称) と称する。
第 二 条 本会は、本部を工学院大学一部文化会海外工業技術移住研究部本部内に置く。
第二章 目的
第 三 条 本会は、海外工業技術移住研究部OB相互並び現役部員との親睦を計り、併せて海外工業技術移住研究部の
諸活 動を援助することを以て目的とする。
第三章 会員の資格
第 四 条 本会は、工学院大学在学中に、海外工業技術移住研究部の部員であつた卒業生により構成される。
第 五 条 本会々員は、本会の行事に参加し、会費を全納しなければならない。
第四章 総会
第 六 条
総会は定例的に開催し、会員の過半数の出席を以て成立する。
第 七 条
本会則改正には、出席者の三分の二の賛成を以て行う。
第 八 条
総会は役員会の承認を得て、会長の名を以て開催する。
第五章 役員及び役員会
第 九 条
本会は、次の役員を置く。
一、 会 長
一、 副 会 長 (支部長)
一、 会 計
一、 通 信
第 十 条
役員は総会で承認、決定する。
第十一条
役員の任期は二年とする。
第十ニ条
役員会は会長がこれを招集する。
第十三条
役員会は総会の決議に基く本会の活動の執行機関であり、その遂行による細則は、本役員会にて協議決定す
る ものとする。
第十四条
会長に不測の事放があった場合、副会長がこれを代行する。
第六章 会 計
第十五条
本会計年度は四月一日より翌年三月末日までとする。
第十六条
会費は年間弐千円とする。
第十七条
会計は会計監査を、総会以前に受けなければならない。
第七章一入会及び退会
第十八条
卒業時に、海外工業技術移住研究部に在籍せる者の本会入会は、卒業と同時に自動的に行う。
第十九条
新入会者(海外工業技術移住研究部に籍を有したことのある者に限る)は次の事を明記の上、本部に提出す
る こと。
一、 氏 名
一、 在学時の科及び部員ナンバー
一、 就職先の名称及び所在地
一、 連 絡 先
尚、卒業時撮影の上半身写真 (名刺版) を併せて提出のこと。
第二十条 本会退会者は、その理由を明記の上、役員会に提出、承認を受けなければならない。 −36−
8. あとがき
2002年のOB会の席上で、「特色のあった大学サークルのOB会として、仲間が集まり、
酒を酌み交わして旧交を温めるだけでは勿体無いではないか。特色のあるサークルだっただけ
に、活動の記録を残しておく必要があるのではないか」との中村顧問教授の発意により、活動
史の編纂が決まり、かつ私がその担当を仰せつかりました。
古いことでもあり、サークルも現存しない中、多くの仲間たちから資料の提供を頂きました
。しかし、それでも十分ではなく、活動の全容を纏められたとは思いませんが、幾分かは、歴
史を残すことができたと思っております。あとは、これを読まれた仲間たちが、それぞれの記
憶を掘り起こし、行間を埋めて行って頂くしかありません。
活動史のまとめ作業を進めていくうちに、若かりし頃のことが、彷彿とわいてきました。特
に、学移連のことをまとめる段になって、
「移住」という言葉が、社会的にも、連盟加盟サーク
ルにおいても、固定的な観念でとらえられ、時代の変遷と共にいろいろな物議をかもし出して
いた事がよく分かりました。それだけ「移住」という言葉は、特異なものだったのでしょう。
思い返してみますと、移住研において、この「移住」という言葉が、抵抗なく受け容れられ
ていたのは、同好会の時代(第1期∼3期)までではなかっただろうか。部に昇格した時から
、『クラブの名称に「移住」という文字が入っていることにより、一般学生の参加の門を狭め
ていないか?それは、大学のサークルとして不適切ではないか?』
『「移住研」か「海工研」か。』の議論が始まったと記憶しています。そしてその事は後年
、『クラブ名から「移住」を取ろう、いや取るべきではない。』と言う部名称変更問題にまで
発展して行きました。
この特異な「移住」という言葉を巡って、先輩や後輩たちが、喧々諤々の議論をしてきたこ
とが、懐かしく思い出されます。
巷間「組織を作るのは簡単だが(私はそうは思いませんが)、維持・発展させて行くのは大
変だ」と、言われています。時代の違い、立場の違いで、人それぞれ、思いは違うかもしれま
せんが、その時代、時代の現役生が、苦悩し、議論し、決断して組織を運営して行く時、「そ
の時代において、その決断は正しかった」と、認め合う事が、組織の維持・発展の大前提です
。そして、移住研はその事を実践してきたので、25有余年存続し、またOB会も今なお活動
しているのだろうと思います。
資料が少ない上に、文章能力もない私が纏めたものですから、決して十分なもので
はありませんが、読んでいただければ、幸いです。貴重な資料を提供頂きましたOB
諸氏に、心よりお礼申し上げます。そしてこの作業を通じて、幾世代もの仲間たちと心
の交流が出来た事が、私にとって一番の成果だったと、感謝しております。
また、最後になりましたが、長田 誠さんの力により、移住研のホームページが開設され、
お忙しいのにもかかわらず、そこへこの活動史を掲載して頂き、みんなで見ることが出来るよ
うにして頂けたことは、編纂を担当した者として、大変嬉しいことでした。厚くお礼申し上げ
ます。
さらには、最近になって、移住研の創設者中馬 修先輩と連絡が取れ、先輩も、地球の裏側
のブラジルの地で、移住研のホームページを開き、この活動史に目を通して頂けているとのこ
とに、無上の喜びを感じています。
2005年6月 杉 本 克
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