ブラジル移民 ~アリアンサと鳥取

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<班員>
<班員>
砂川絵美 竹信知美 萬代理恵 米原有紀 近藤朱里
砂川絵美 竹信知美 萬代理恵 米原有紀 近藤朱里
小谷悠花里 チャン・ティ・ホン・アン 小林望 伊丹素花
小谷悠花里 チャン・ティ・ホン・アン 小林望 伊丹素花
小村美奈 長曽我部晴日 佐藤かの子 佐藤千菜美 田中亜由子
小村美奈 長曽我部晴日 佐藤かの子 佐藤千菜美 田中亜由子
安東千穂
安東千穂
<指導教員>
ケイツ・キップ
北川扶生子
<指導教員> ケイツ・キップ 北川扶生子
− 17 −
2010 年度 地域文化調査成果報告書
・研究テーマ決定後の活動
私たちは、研究テーマを決定した後に、主に 4 つの
【はじめに】
担当 砂川絵美
私たち国際交流班は、今年の研究のテーマを決定す
活動を行った。まず一つ目は、移民について有力な情
報が得られそうな方々を招いて講演会を何回か行った。
る前に事前学習として、4 つの活動を行った。一つ目
二つ目は、インタビューに伺い、情報を収集した。三
に、県や市の外国人登録者数などのデータを収集し、
つ目に、県立図書館で、過去の新聞記事の中から移民
二つ目に、国際交流に関する本をそれぞれが読み、プ
に関する記事を探し、調査し、四つ目に地域貢献と情
レゼンで紹介し合った。三つ目に、鳥取空港内にある
報収集を目的として、タイムフェスティバルという国
国際交流財団を訪問し、四つ目に外国人留学生をゲス
際交流のイベントに参加した。
トスピーカーとして招いて講演会を開いた。
タイムフェスティバルでの様子
ゲストスピーカーとの集合写真
・研究内容
・テーマ決定
今回ご協力をして下さった方々のお話も参考に、全
そして皆で話し合った結果、今年の研究のテーマを
『移民~鳥取とブラジル』に決定した。その理由は、
体の流れとして、過去・現在・未来という時代の流れ
を辿りながら研究内容を紹介していきたいと思う。
事前学習の過程で、他国に移住する人々の現状・苦労・
まず過去は、移民の歴史、過去にあった問題、鳥取
カルチャーショックなどに関心を抱いたからである。
県との関わりについてである。次に、ブラジルの現状、
なぜ、ブラジルか?というところだが、鳥取と他国と
現在の問題、日系ブラジル人の方々の気持ち、最後に
の移民関係を調べてみたところ、遠いブラジルにも鳥
未来として、研究のまとめ、未来の鳥取・ブラジル間
取から移住した人たちが大勢いたということが分かっ
の交流について研究の報告をしていきたいと思う。
たからである。
――――――――――――――――――――――――
・移民とは?
【移民の歴史について】
そもそも移民とはどういったことなのか?考えたこ
とはあるだろうか。
岡部牧夫さんの『海を渡った日本人』によれば、移
担当 竹信
知美
萬代
理恵
米原
有紀
民とは、ある民族や国家の成員が就業の機会を求め、
もとの居住地の外に移住した人々である、ということ
【ゲストスピーカー:小山先生の講義】
であった。要するに、労働に従事する目的で、他郷に
移住することが移民の意味と言える。
小山富見男先生
鳥取敬愛高等学校教頭/『鳥取県中南米移住史』編纂
委員
− 18 −
ブラジル移民 〜アリアンサと鳥取〜
小山富見男先生は、
『鳥取県中南米移住史』という、
鳥取から中南米へ移住した人々のさまざまな情報をま
ここからは、先生から得た情報の他に、
書籍や新聞、
とめた、鳥取県が発行した本の製作に携わった方であ
インターネットなどさまざまなところから得た情報を
る。もともと地理が専門の教師でいらっしゃったが、
もとに、移民の歴史について紹介していきたいと思う。
フィールドワークをするうちにブラジル移民について
詳しくなられたそうだ。現在は、鳥取敬愛高等学校の
――――――――――――――――――――――――
教頭をされている。この本は、鳥取県からブラジルへ
移住した方々を知る、数少ない貴重な資料となってい
【日本の移民の始まり】
る。私達の調査のためにも重要な情報がいくつもあり、
最も古い移民は室町時代、労働力としてペルーやフ
大きな助力となった。また、ゲストスピーカーとして、
ィリピン、パラオなどにも移住していた。しかしその
私達のために大学までお越しくださり、講義時間の中
数は微々たるもので、統計に記載されるほど活発では
で、スライドとともに、移民の過去から現在まで多く
なかった。統計的にも日本で移民が本格的に始まった
の情報を提供してくださった。
のは明治時代からである。
ブラジル移民の初期については、移民とは政府の政
1873 年、日本では天候に左右されない安定した財政
策として簡単に帰れないところへ送り出すことで、政
を得るため、地租改正を行うものの地租以外の財政基
府側は移住を成功とみなしていたことや、移民する
盤はなかった。その上、1877 年に九州で起こった士族
人々は、ブラジルへ行く船の中で、運動会、赤道祭、
の内戦、西南戦争で出費が重なったため、日本は不況
ポルトガル語の勉強などをし、天国のようだったが、
に陥った。この不況を脱するため不換紙幣や国債を大
移民先では過酷な労働を強要されたことなどが分かっ
量発行すると今度はインフレが激化した。これを受け
た。
て当時の大蔵卿松方正義はデフレ政策を行ったため日
先生がブラジルに研究で行かれた際に撮影された写
本は再び不況になった。
真も多く紹介してくださり、現在の移民社会の様子が
地租を払えない農民は強制的に土地を奪われ、職を
よく分かった。移民社会の現状としては、自分の子供
求めて都会へ出るも当時はそれを受け入れるほど産業
のブラジル社会への同化や日本に対するアイデンティ
は発達していなかった。そこで政府は人口削減のため
ティの欠落、ブラジル経済の落ちこみから来る「なぜ
に農民を「出稼ぎ」として国外へ送り出すことにした。
ブラジルにいるのか」という戸惑い、子供の教育に日
本の文化をどう伝えるか、などの問題が見られること、
日本漫画が多数あり、日本の食材もたくさんあること、
畳などはなく、混血で同化がすすむのを国際化とみる
視点もあることが分かった。先生のお話で、特に移民
の歴史について、私達の研究に役立つ情報をたくさん
得ることが出来た。
ブラジル行き移民募集の広告
− 19 −
2010 年度 地域文化調査成果報告書
【鳥取の移民の始まり】
成立した後、1908 年、781 名の日本人を乗せた最初の
鳥取県でも明治・大正時代に天候に恵まれず、水害
が多発。
「海外でお金を稼いで不況を脱したい」と県民
移民船「笠戸丸」が、神戸港からブラジル・サントス
港に到着した。
も考えたため、移民政策が推奨されることになった。
【北米大陸での日本人移民の廃止】
日本全体でみると主な移住先は北米大陸だったが、
1890 年代前半になると外国人の土地所有や借用が禁
止され、また低賃金でも雇える日本人に職を奪われた
地元民の排日感情が激化したため、日本人移民の受け
入れは拒否されるようになり、事実上、日本人移民は
禁止となってしまった。
第一回移民船
笠戸丸
笠戸丸の乗組員 781 名
乗組員の一人・鳥取県旧東伯町八橋(やばせ)出身
現在のブラジルと日本の国旗
の「明穂梅吉(あけほ
うめきち)」氏は、笠戸丸以前
にも一人でブラジルを訪問しており、1912 年から移民
【ブラジルでの日本人移民受け入れ】
関係の仕事に携わっていた。
海外興業株式会社では「移
北米で日本人移民が禁止された一方、ブラジルでは
民部長」を務めており、戦前ブラジルへ渡った日本人
受け入れられるようになった。コーヒーの生産が盛ん
の 8 割が彼の手を借りたと言われている。その功績の
なブラジルでの主要な労働力はアフリカ人奴隷だった
大きさから、
『明穂の移住か、移住の明穂か』という言
が、奴隷制度に対する批判を受けて廃止され、その結
葉も生まれたほどだった。
果農業労働者が不足。今度はヨーロッパ諸国からの移
民を受け入れ始めた。
ところが、ある移民が、奴隷とほとんど変わらない
過酷な労働や賃金の悪さに反乱を起こして、送り出し
ていた政府が移民を中止したために、再び農業労働者
が不足した。そこで、またどこか外国から移民を受け
入れなければならなくなった。こうして利害関係が一
致したことで、ブラジル政府は 1892 年に日本人移民
を受け入れる法律を発布し、日本・鳥取とブラジル間
の移住の歴史が始まった。
1895 年に、修好通商航海条約によって正式に国交が
− 20 −
明穂梅吉
ブラジル移民 〜アリアンサと鳥取〜
移民が始まった頃ブラジルでは、多くの労働力を必
そのような中で、1935 年に鳥取県から澤田節蔵が
要としており、渡伯できるのは「一家に 3 人以上労働
ブラジル大使に就任するが、当時新しく就任したヴ
力となる人がいる家族」に限定されていた。単身で行
ァルガス大統領により移民同化政策が開始された。
くことができなかったのは、家族を枷にすることによ
1937 年には新移民法の制定によって、14 歳以下の児
って、逃亡を防ぐためだった。
童に外国語を教えることが禁止され、ブラジルの教
育局が認めなければ外国語の教科書も使えなくなっ
た。これにより、日本・ドイツ・イタリア人学校が
廃止に追い込まれた。
移民を勧めるポスター
1910 年代になると、人々は労働契約ではなく独立農
業を目指し始め、1920 年代には、
“定住”を意図した
日本人学校閉鎖後に出された施策資料
移住地「アリアンサ」が計画された。
1926 年にはブラジルと鳥取県人を結ぶ団体・『鳥取
【第二次世界大戦とその後】
県海外協会』が設立され、同じ年、当時の鳥取県知事・
そして第二次世界大戦が始まると、日本・ドイツ・
白上佑吉( しらかみゆうきち )氏の動きにより、ブラ
イタリアは同盟を組み、ブラジルとは国交を絶つこと
ジルのサンパウロ州ミランドポリスに土地を購入し、
となる。終戦後も入ってくる情報の少なさから「勝っ
鳥取県海外協会と信濃海外協会が中心となって日本人
た」
「負けた」の事実が交錯し、一時日本人同士でいわ
入植地「第二アリアンサ」が誕生した。
ゆる「勝ち組・負け組の抗争」が起こったものの、徐々
日本軍は 1931 年(昭和 6 年)に中国軍と武力衝突し
に敗戦が受け入れられた。
(満州事変)、1937 年から 1945 年まで同国と戦争を行
った。
1952 年には明穂實の呼びかけがきっかけとなり、ブ
ラジルに在伯鳥取県人会が誕生し、さらに戦後初めて
移住が再開され、以降 1973 年までの間に約 6 万 2800
人がブラジルへ渡ったと言われている。
【出稼ぎと近年の支援策】
その後 1988 年に、
ブラジル経済の落ち込みと日本経
済の上昇が重なり、日本へ出稼ぎに来るブラジル人が
増え始めた。さらに 1990 年に「出入国管理及び難民
認定法」
(入管法)の改正に伴い日系人の就労が合法化
した為、鳥取県ではブラジル在住の鳥取県出身者子弟
に、鳥取県での研修や修学の機会を提供してブラジル
日中戦争
での社会的、文化的、経済的地位の向上を図る「海外
技術研修員受入制度」が制定されることになった。
加えて日露戦争で日本が勝利したこともあり、このよ
また、
ブラジルでは日系人の就職活動を支援する「雇
うな日本の海外進出の影響を受けて、アメリカをはじ
用サービスセンター」が完成し、ブラジルと日本、鳥
めとして海外では日本人移民を排斥する動きが高まっ
取は就職支援策を充実させはじめる。
た。
2008 年には「日本ブラジル移民 100 周年」を迎えた。
− 21 −
2010 年度 地域文化調査成果報告書
海外移住組合法
制定
1928 年
鳥取県海外協会
解散
1929 年
現地法人「有限会社ブラジル拓殖組合」設立
1934 年
サンパウロ市に在伯日本文化協会設立
鳥取県からアリアンサ日本人学校へ語学教員の派遣も
行われており、現在も交流は継続している。
ブラジル政府二分制限法
1938 年
制定・公布
日本・ドイツ・イタリア等の学校が全面閉鎖
ヴァルガス大統領が「移民同化政策」を開始
1941 年
太平洋戦争開戦
日本人移民受け入れ停止
1942 年
日本とブラジルの国交断絶
1945 年
ブラジルが日本に宣戦布告、太平洋戦争終戦
1951 年
国交回復 移民交渉の再開
戦後初の日本船「神戸丸」サントス港入港
1952 年
しゃんしゃん傘踊りを踊る県人会の子どもたち
ブラジル政府が対日講和を批准
日本移民9千家族の入植を承認。
「在伯鳥取県人会」発足
▼ブラジル移住歴史年表
1953 年
日本人移民受け入れ再開
1873 年
明治政府により地租改正が行われる
1877 年
国内で士族反乱である西南戦争が勃発する
日本企業の進出開始
戦費調達をしたためインフレが進行
立
鳥取県海外協会再設
1880 年
松方財政のデフレ政策で不況化
1958 年
ブラジル移住 50 周年記念式典挙行
1885 年
ハワイ官約移民が始まる
1963 年
海外移住事業団・鳥取県海外移住家族会の設
1892 年
ブラジル政府が日本移民の自由入国を許可
1964 年
鳥取県
1894 年
移民取り扱い業務を民間業者に委託
1965 年
鳥取県で、県費留学生受け入れ制度の発足
海外移民奨励に関する建議案
1973 年
移民船による移民の廃止
1980 年
サンパウロ市議会が「日本人移民の日」を制
立
→アメリカ大陸本土への移民も盛んに
1895 年
日伯修好通商航海条約
提出
締結
石破知事の南米訪問
定(6 月 18 日)
→日本・ブラジル交流 開始
1985 年
制定
鳥取国体へ 33 名の鳥取県出身移住者を招待
1896 年
移民保護法
1906 年
鳥取県人
1907 年
移民保護法施行細則
1908 年
781 名を乗せた第一回移民船「笠戸丸」が
足、第2アリアンサ鳥取村へ図書 1200 冊を
サントス港に到着
寄贈
しゃんしゃん傘 20 本を鳥取県人会へ寄贈
明穂梅吉 渡伯
1988 年
1989 年
1913 年
山根寛一(米子市出身)渡伯
1916 年
ブラジル移民組合
創立
1917 年
海外興業株式会社
設立
1918 年
東伯郡出身者を中心に 30 組の家族が渡伯
1919 年
日伯産業組合(初めての農業組合)が設立
1920 年
新外国人土地法が可決
1922 年
ブラジルへの移植民奨励策
1924 年
アメリカで新移民法の成立により、事実上日
日本の出入国管理法改正
日系ブラジル人就労者の受け入れ開始
1992 年
ブラジルに「日伯雇用サービスセンター」開
設
1994 年
鳥取県が、第 2 アリアンサ鳥取村へ
日本語教員の派遣を開始
発表
1995 年
ブラジル―鳥取交流センター
1997 年
鳥取県・鳥取市共同で第2アリアンサ鳥取村
竣工
へしゃんしゃん傘 500 本寄贈
本からアメリカへの移民が禁止
1998 年
1925 年
鳥取県人 38 家族が渡伯
1926 年
鳥取県海外協会設立。県知事白上佑吉の働き
1927 年
鳥取県で「海外技術研修員受入制度」の発
鳥取市
しゃんしゃん傘踊りの指導者を派
遣
と、信濃海外協会も中心となって土地を購入。
2008 年
日本・ブラジル
移民 100 周年を迎える
→第2アリアンサ鳥取村の誕生
2009 年
鳥取市制 120 周年記念 ブラジルから
アリアンサ移住 5 家族 26 名が神戸港から出
しゃんしゃん傘踊りのグループ 11 名を招き
発
「第 45 回鳥取しゃんしゃん祭」に参加
− 22 −
ブラジル移民 〜アリアンサと鳥取〜
【過去の問題】
続いて、ブラジル全体での生活の問題であるが、日
担当:近藤朱里
小谷悠花里
チャン・ティ・ホン・アン
本食がなく、食べ慣れた食事がなかなかできなかった。
また、ポルトガル語を勉強しなければならなかったた
め、なかなか現地の人たちとのコミュニケーションが
私たちは、問題を4つの項目の『病気・生活・教育・
うまくできなかったようである。そして、各家庭に広
いコーヒー農園を任されたため、農園の世話を一家族
政府』に分けた。
まず、健康と病気についてである。病気が広まった
でするのに大変苦労があったそうだ。
最大の理由は、病院が大都市にしかないということで
ある。また、移民船には病気をもった人や、船に乗っ
てから病気になった人がいて、船中で流行していた。
続いて、病気の種類であるが、私たちが調べて特に
出てきたものは、腸チフス・血小便・鳥目(夜盲症と言
って夜になると視力が落ちる病気)・アメーバ赤痢・マ
ラリア・そして原始林大熱病と言って、現地の人たち
が研究していた病気があり、この病気にかかった人は
肝臓の一片を採取されていた。
これに関して、病気の主な原因だが、過酷な環境に
よる重労働や、ビタミン A などの栄養失調、不衛生な
食事や蚊による感染、上下水道の不整備などが挙げら
れる。たとえば、病原体をもったひとの糞尿にハエが
たかり、そのハエがほかの人たちの食事にくっついた
りすると、感染してしまうそうだ。
コーヒー農園で働く日本人移民の様子
次に、生活における問題についてエリア別に、アマ
ゾンとサンパウロを比較していく。
多くの人は生活に希望を託して移住し、
「3年も働い
て儲けたら帰ってこよう」と思っていた。そう考えて
当然なくらい、お腹一杯食べることができ、すぐにお
金がたまるという夢のような宣伝が当時なされていた。
しかし、現実は奴隷と変わらない労働を強いられ、
コーヒーの実りも予想の半分であった。そして瞬く間
に借金地獄に陥り、帰国することなどもってのほかで
あり、食べることでさえ大変な生活が待っていた。そ
れゆえ、農場を逃げ出した人も数知れなかった。
ほかにも、日本というだけで差別されたり、日本人
が非日系人を避けていたことを利用して、日系人同士
で詐欺が行われたりもした。また、良い土地に移るた
奥地にあるアマゾンでは、その日働いた分しか買い
めの賄賂の横行や、太平洋戦争中に絹糸がアメリカ軍
物ができなかった。また病院もなく、出産の環境も悪
の落下傘に使われるという噂が流れ、養蚕農家は母国
かったそうだ。ある親子は、二人しかいない医者と看
日本の裏切り者といわれた。そして、一部の日本人た
護師が、生まれた子供を泣かせるのに必死で、お母さ
ちから焼き打ちにあうこともあった。
んが、その間に亡くなってしまったそうである。続い
て比較的都会であるサンパウロでは、市場までの距離
さらに、労働に目を向けると、野菜が作れず、作物
が遠く、作った商品を売りにもいけず、買い物もなか
がほとんど取れなかったり、赤蟻の繁殖によって作物
なかできなかった。また、トイレと水道設備も整って
がダメになったり、土地の良し悪しによって作物がか
おらず、衛生面も悪いようであった。
なり左右されたようである。
− 23 −
2010 年度 地域文化調査成果報告書
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− 24 −
ブラジル移民 〜アリアンサと鳥取〜
しかし、鳥取村へ着くと、そこでは様々な苦難が待ち
受けていた。
まず彼らは、コーヒーが金のなる木だと聞かされて
いたため、コーヒーの生産に取り組んだ。しかし景気
は既に絶頂を迎えていたため、コーヒーは大量のスト
ックを抱え、大暴落することとなる。加えて霜による
被害もあり、大きな混乱が起こった。結果として、収
入は予想の 4 分の 1 ほどしかなく、労働は過激で、野
菜類や肉類は不足し、不平不満があふれることとなっ
↑傘踊りを披露するアリアンサの子供たちの様子
た。
このように、多くの交流活動があるのは第 2 アリア
ンサの存在が大きいからである。
【第 2 アリアンサ鳥取村】
そもそもアリアンサとは、ポルトガル語で「同盟・
結束」という意味を持っている。
アリアンサの農家の様子
そして移住者たちは、儲けて帰るつもりが儲けるこ
とができず、仕方がなくブラジルの地に永住すること
となる。一財産を築いて故郷へ帰る夢は叶わなかった。
しかし、彼らは諦めなかった。
コーヒーが駄目だと分かってからは、コーヒーの生
産を取りやめた。そして牧畜を行い、生産する作物は
ブラジルでの生産が少ない野菜や穀類、サトウキビ、
綿、果樹などに切り替えた。その土地にその土地に合
第 2 アリアンサ移住地の位置
った作物の栽培に懸命の努力をし、地域性を生かした
第 2 アリアンサ移住地は、ブラジルのサンパウロ州
ミランドポリス郡に位置している。1926 年に信濃海外
協会と鳥取海外協会によって作られた。しかしこの共
優秀な農産物の生産に励む。そして様々な悪戦苦闘を
経て、
高度の技術を導入し、多角的な農業に転向した。
この後日系の農家はどんどん発展し、ブラジルの農業
生産の大部分を日系農家が占めることとなる。
営はうまくいかず、途中で共営が解消され、その後鳥
取村という通称がつけられた。もともとはまったく手
このように発展していった第 2 アリアンサ鳥取村が、
現在の鳥取県とブラジルの交流の要となっている。
付かずの原生林であったため、それを開拓することか
ら始まった。
鳥取村への移住は、日本全体の歴史と同じく、基本
的に家族単位で行われた。やはり労働が過酷でも逃げ
にくいようにするためだ。行くまでは景気絶頂のコー
ヒーで稼いで帰るという夢と希望にあふれており、ブ
ラジルへと向かう船では運動会を行ったりポルトガル
語の勉強をしたりするなど、
天国のようだったと言う。
− 25 −
2010 年度 地域文化調査成果報告書
【現状~ブラジル社会と
【現状~ブラジル社会と
2.現在のアリアンサについて
2.現在のアリアンサについて
アリアンサについて】
アリアンサについて】
次に現在のアリアンサについてである。現在アリア
次に現在のアリアンサについてである。現在アリア
担当:長曽我部晴日
担当:長曽我部晴日
小村美奈
小村美奈
ンサはコーヒーやライチ、マンゴー、さとうきびなど
ンサはコーヒーやライチ、マンゴー、さとうきびなど
を育てる農業の村で、畜産も行っている。
を育てる農業の村で、畜産も行っている。
また村の行事ごとは人々の結束力が強い為村総出で
また村の行事ごとは人々の結束力が強い為村総出で
過去の歴史的背景から鳥取とブラジルとの関係が深
過去の歴史的背景から鳥取とブラジルとの関係が深
行い、例えば「うどん会」
行い、例えば「うどん会」
、「父の日を祝う会」
、「父の日を祝う会」
、
「子ど
、
「子ど
まってきた現在、ブラジル社会またアリアンサは、一
まってきた現在、ブラジル社会またアリアンサは、一
もの日」
もの日」
、「入植祭」など多くの行事がある。アリアン
、「入植祭」など多くの行事がある。アリアン
体どのような状況なのだろうか。
体どのような状況なのだろうか。
サの人たちはあらゆるものを一から手作りするようで、
サの人たちはあらゆるものを一から手作りするようで、
2010
2010
年 11
年月
1114
月日に行われたタイムフェスティバル
14 日に行われたタイムフェスティバル
において国際交流財団、国際交流推進員の古波蔵淑紀
において国際交流財団、国際交流推進員の古波蔵淑紀
それぞれ行事ごとでは自家製の巻き寿司や豆腐、竹輪
それぞれ行事ごとでは自家製の巻き寿司や豆腐、竹輪
などが並ぶ。
などが並ぶ。
さんとお会いし、私たちは多くの情報を得ることがで
さんとお会いし、私たちは多くの情報を得ることがで
きた。そしてその情報の中から実際にアリアンサに関
きた。そしてその情報の中から実際にアリアンサに関
わっていた方々がいることを知り、実際に会ってその
わっていた方々がいることを知り、実際に会ってその
方たちからお話しを聞こうと考えた。
方たちからお話しを聞こうと考えた。
そこでわたしたちは、現在のブラジルに住む日系人
そこでわたしたちは、現在のブラジルに住む日系人
の状況について、アリアンサにある第二アリアンサ鳥
の状況について、アリアンサにある第二アリアンサ鳥
取村日本語学校に日本語教師として以前派遣された、
取村日本語学校に日本語教師として以前派遣された、
谷口太郎先生と木下孝子先生にインタビューを行うこ
谷口太郎先生と木下孝子先生にインタビューを行うこ
とにした。
とにした。
谷口太郎先生は、現在末恒小学校教諭で、派遣期間
谷口太郎先生は、現在末恒小学校教諭で、派遣期間
子どもの日
子どもの日
は 2004
は 2004
年~2007
年~2007
年。木下孝子先生は谷口太郎先生に
年。木下孝子先生は谷口太郎先生に
続く
続く
2007
2007
年~2010
年~2010
年に派遣された。ではこれからお
年に派遣された。ではこれからお
二方のインタビュー内容をもとに、現在の日系ブラジ
二方のインタビュー内容をもとに、現在の日系ブラジ
そして、ブラジルの鳥取県人会を通して今も尚、鳥
そして、ブラジルの鳥取県人会を通して今も尚、鳥
取の伝統文化である「傘踊り」は続いており、日本で
取の伝統文化である「傘踊り」は続いており、日本で
ル人の状況について紹介していきたい。
ル人の状況について紹介していきたい。
はマイナーである鳥取県、知名度がやや低い傘踊りで
はマイナーである鳥取県、知名度がやや低い傘踊りで
も日系ブラジル社会では知らない人がいないくらい有
も日系ブラジル社会では知らない人がいないくらい有
1.現在の日系ブラジル社会について
1.現在の日系ブラジル社会について
現在日本食はとても人気で、すし・やきそば・うど
現在日本食はとても人気で、すし・やきそば・うど
名である。
名である。
アリアンサでは、
アリアンサでは、
毎週決まった日に練習し、
毎週決まった日に練習し、
ん・みそ汁がよく食べられ、そのどれもがブラジル風
ん・みそ汁がよく食べられ、そのどれもがブラジル風
なにか行事があるごとに披露するようだ。また移民百
なにか行事があるごとに披露するようだ。また移民百
にアレンジされている。例えば、やきそばはソースで
にアレンジされている。例えば、やきそばはソースで
周年では平井県知事や竹内市長がブラジルへ訪問し、
周年では平井県知事や竹内市長がブラジルへ訪問し、
はなく、あんかけ風がブラジルでは主流だという。ま
はなく、あんかけ風がブラジルでは主流だという。ま
パレードで傘踊り披露に参加された。
パレードで傘踊り披露に参加された。
た、日本アニメの流行、漢字ブームが目立っており、
た、日本アニメの流行、漢字ブームが目立っており、
日本語を学ぶきっかけにもなっている。そして、なん
日本語を学ぶきっかけにもなっている。そして、なん
とここブラジルで日本の鳥居、神社を見ることもでき
とここブラジルで日本の鳥居、神社を見ることもでき
る。
る。
移民百周年における平井県知事、竹内市長
移民百周年における平井県知事、竹内市長
アジア街
アジア街
− 26 −
ブラジル移民 〜アリアンサと鳥取〜
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− 27 −
2010 年度 地域文化調査成果報告書
会が変わっていくのはこれからでしょう」とおっしゃ
意味で、日本人は正直でまじめ、粘り強いといった良
っていた。
いイメージが根付いていた。そういうわけで、日系人
はブラジル人よりも就職の際有利になるようだ。しか
5.
し、日系人を含めアジア人はまじめに仕事をしていて
インタビューを通して分かった事
日系社会、またアリアンサには私たちが忘れてしま
事実裕福な方が多く、強盗などに狙われやすいという
った、日本の文化が今も根付いている。今回のインタ
状況もあるようだった。また、日系人は日系人同士で
ビューを通じて、日本から遠いブラジルへ日本語教師
集まろうとする傾向があり、閉鎖的で男尊女卑の気風
が派遣され、日本との交流がなされていること、また
も残っているところもあった。さらに、日系人のほう
日本語教師の役割の大きさ、そしてアリアンサでは皆
がブラジル人を差別している様子も見られ、いまでは
が協力し、支えあっており、努力によって日本文化が
禁止されている「毛唐」のような差別用語を使うこと
守られていることが分かった。
もあり、終戦前の日本の気風が残っていることもあっ
た。
三つ目は、ブラジル社会全体に見られる問題につい
――――――――――――――――――――――――
て。大きな問題となっているのが、日本へ出稼ぎに行
【現在の問題点について】
担当
佐藤かの子
く日系人が多いということだ。現在日本で働いている
日系ブラジル人は約40万人おり、そのまま日本へ定
ここでは、インタビューや研究を通して出てきたブ
住してしまうことや、未整備な支援体制が問題となっ
ラジルでの現状における問題点のなかで、特に重要だ
ている。さらに、アルコール生産による飼料価格の高
と思ったものについてまとめた。
騰などからブラジル経済に落ち込み傾向がみられ、な
まず大きな問題点となるもの三つが、自分は日本人
なのか、ブラジル人なのか、というアイデンティティ
ぜこのような状況の中でブラジルに留まっているのか
という戸惑いがあるようだった。
のありかについて。そして、子供の教育に日本の文化
四つめは、アリアンサの現状で見られる問題につい
をどのように伝えるべきかという問題、さらに、自分
て。まず、アリアンサには病院が無く、自分で注射を
の子孫の同化に対する戸惑いである。そして、そのほ
したり、巡回診断に頼るといった方法をとっている。
かの細かい問題も含め、5つのテーマに分けて問題点
また、診療所に行けば予防接種をうけることはできる
を考察した。
が、衛生面はまだまだ充実しているとは言えない。ま
一つ目は、混血について。日系人の血を守りたいと
た、貧富の差が激しくなっており、中小農家は今も苦
いう意識から、子供がブラジル人と結婚することはま
しい生活を送っているようだ。これは、その時によっ
るで悪いことのように強く反対する親は多数いるよう
てはやる作物が変わるという不安定さに一因があると
だった。しかし、日系人の血を守り抜くことは現在難
考えられる。
しい状況になっており、混血の子どもが生まれること
五つめは、
日本の文化の継承について。
家庭で祖父、
が国際化につながるという見方もある。また、自分は
祖母世代が日本語を使っており、また木下先生がされ
なに人なのかというアイデンティティも人によって異
たアンケートにおいても日本語は必要だと思っている
なり、中には状況によって「自分はまじめな日本人だ
人は 100 パーセントだったが、生活の中で日本語を使
から」
「自分はルーズなブラジル人だから」と言って使
う機会はだんだん減ってきている。ただ、入植祭や忘
い分ける人もいた。
年会などの行事の挨拶は日本語と決まっているらしく、
二つ目は、差別問題について。日系人がブラジル人
その挨拶の際に日本語をきちんと思い出すといった状
から受ける差別は、
やはり目の大きさや顔の輪郭など、
況もあるようだ。ただ、日常生活はほとんどポルトガ
外見の違いからくるものが多いようである。ブラジル
ル語になっているということだった。また、当時移民
では国籍をブラジルに移した日系人でも「ジャポネー
された方々は、日本で起こっていた戦後から現代まで
ズ」と呼ばれ、日本人として扱われる。しかし、厳し
の流れを経験していない。そのため、女性が人前でア
い差別を受けているわけではなく、一緒に働いたり、
ルコールを飲まなかったり、専業主婦が多かったり、
お酒を飲んだりもするそうで、不利益をこうむること
外国人に対する差別意識が根強く残っていたりと、現
はないそうだ。
代の日本における女性の社会進出や国際化の教育、志
そして、
「ジャパネーズ・ガランチード」という言葉
向と異なる状況もあった。しかし、現在はインターネ
がある。これは、日本人に対する信頼が大きいという
ットなどのメディアから情報を取り入れ、iPod や最近
− 28 −
ブラジル移民 〜アリアンサと鳥取〜
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− 29 −
PJXƌÝ]\uZ͑Ğ^¼Ã™yȧuRl]0ɠ
2010 年度 地域文化調査成果報告書
日するようになった。初めて来日した時は鳥取県にあ
別、ほか多数の問題があった。しかし彼らは苦労を「乗
る先祖のお墓を訪問したという。
り越え、鳥取県海外協会を設立し、第二アリアンサ鳥
そのあと何度来日しても、結局 KOJI さんは自分の
取村が誕生した。また、その後、在伯鳥取県人会を設
アイデンティティは日本にあるとは思えず、同様にブ
立。彼らの苦労があったからこそ、第二アリアンサ鳥
ラジルにあるとも思えなかったとおっしゃいていた。
取村、鳥取県人会は現在の交流の架け橋ともいえる存
日本で生まれ、日本で育った私たちには、自分が何
在になったのである。そして、現在でも多くの交流が
人であるのか、というようにアイデンティティについ
続いており、鳥取ブラジル間の交流事業、日本語教師
て考えたり、なかなか答えが出なかったりという感覚
の派遣、留学生・研修員の受け入れ、しゃんしゃん傘
はない。なので、このような意見はとても新鮮で、私
踊りによる交流などがある。
たちの考えを大きく変えた。自分は日本人で当たり前
この一年間の調査を通して、私たちは多くのことを
に日本に暮らし、日本の文化で育つというのは、普通
学んだ。調査前は「日系人=外国人、あまり関係ない」
なことでも、当たり前のことでもないのだ。
というイメージがあったが、日系人の方々が想像以上
に日本人的で、日本の文化の中で育っているというこ
とを知り、日本や鳥取のことを愛しているのだという
ことがわかった。そして私たちはそのことを知ってか
ら彼らにとても親近感がわくようになった。しかしこ
のようなことは一部の日系ブラジル人の方の意見を元
に考えたことであり、一概にすべての日系ブラジル人
の方々に当てはまるわけではない。
Nishisaka・Andre・Koji さん
このように KOJI さんのインタビューでは、日系ブ
ラジル人の方に対する知識だけでなく、価値観などを
学ぶことができ、自分たちのことについても見直した
り、考えたりすることができた。これは本当に貴重な
体験だったと思う。
3人の考え方や価値観を聞いて、ある人は自分をブ
ラジル人だと思い、ある人は自分を日系ブラジル人で
Koji さんのお話を聞く
あると考えていたこと、自分自身のルーツに興味を抱
いて生きてきたひとと、そうでないひとがいたことが
分かった。
ひとくくりに『日系人』といえども、彼らは育った
私たちは、同じ日系ブラジル人3世であっても、そ
環境、価値観によってアイデンティティの形成の仕方
れぞれの育った環境によって価値観やアイデンティテ
が異なり、様々な考えや意見を持っている。今回の調
ィについてかなり差異があると感じた。
査は、ブラジルのサンパウロ郊外の第二アリアンサ鳥
対照的な意見にとても驚いたが、みなさんが自分の
取村で育った日系人の方々を、主に調査してきた。世
意見に誇りを持っていらっしゃるところが印象的だっ
界中には、
同じく夢を求めて、
海外へ移住した日本人、
た。
またはその子孫の日系人の方々が数多く存在している。
――――――――――――――――――――――――
もちろん彼らも、ブラジルの鳥取村で育った日系人の
【調査のまとめ】
方々とは、異なったアイデンティティや価値観を持っ
担当 安東千穂
ているだろう。今回の調査は「ブラジルと鳥取の移民」
であったが、この調査のおかげで、私たちは世界中に
夢を求め、新たな地で豊かな生活を送るために移住
住む日系人の方々に興味を持ち、私たちの中に、新た
したものの、誤った情報によって再びブラジルでも生
な国際交流の分野を開けたように思う。過去の苦労が
活苦に悩まされ、さらに、病気、言葉の壁、凶作、差
生みだした国際交流。100 年前の移住者たちの努力苦
− 30 −
ブラジル移民 〜アリアンサと鳥取〜
労があったからこそ、私たちは、ブラジルでの日本文
・第二アリアンサ日本語学校
化や、鳥取村の存在を知り、日系人の方々と出会うこ
http://brasil-ya.com/yuba/Japonesa/2a.htm
とができた。
・駐日ブラジル大使館 Web サイト
過去、現在と、鳥取ブラジル間交流を調査してきた
http://www.brasemb.or.jp
私たちは、
「未来~これからの鳥取とブラジル~」につ
・アリアンサ通信 Web サイト 「アリアンサ
いて考えた。2008 年に移民 100 周年を迎えた「日伯
表」
移民」だが、今後もこのような交流を続けていくため
http://homepage3.nifty.com/gendaiza/aliansa/lib/S7.
に、何が必要であろうか。そして、これからも交流を
html
続けるため、これからの 100 年につなげるために私た
・日本中心の世界地図
ちにできることは何か。私たちはこのブラジルの鳥取
http://uncledesign.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/po
村の存在や、移民の歴史を知ってもらうことがこれか
st_c1d1.html
関連年
らの 100 年につなげるために必要なことではないかと
考えた。
◆書籍◆
なお、日系ブラジル人について、また第二アリアン
サ鳥取村について知ってもらうために、谷口太郎先生
・女たちのブラジル移住史/ 日下野
良武 編
・アマゾンからの手紙―10 歳のブラジル移民―/山脇
が勤めておられる末恒小学校を、2 月 14 日に訪問し、
あさ子著
小学生に授業をおこなった。また、国際交流について
・外務省が消した日本人/若槻 康雄著
興味を持った生徒が多く在籍していると考えられる、
・海を渡った日本人/岡部 牧夫著
八頭高等学校の国際英語科への訪問授業も、3月に行
・ブラジルへ―母と子でみる
う予定である。
日本人移民物語/藤崎
康夫著
・日伯修好100周年・ブラジルー鳥取交流センター
竣工記念訪伯の記録
【参考文献】
・鳥取移住百年史/曽根
樫次 著
◆Web サイト◆
・われら新世界に参加す/海外移住資料館
・鳥取県 Web サイト
・ブラジル日本移民百年の軌跡 /丸山
・在伯鳥取県人発展史/在伯鳥取県人会
広報課「ブラジルと鳥取県人との絆新たに」
http://www.pref.tottori.lg.jp/dd.aspx?menuid=90768
協会
・鳥取県中南米移住史/鳥取県
「明穂梅吉」について
・ブラジル移住70周年記念
鳥取県海外
発行
ブラジル訪問写真集/
鳥取県 発行
・ブラジル日本移民 90 周年記念訪伯の記録/鳥取県
ay/171
発行
「有吉明」について
http://www.cenb.org.br/cenb/index.php/articles/displ
・第二アリアンサ鳥取村日本語学校活動報告書/末恒
ay/167
小学校谷口太郎先生
概要 「ブラジル日系移民」
http://www.cenb.org.br/cenb/index.php/articles/displ
ay/86
・
【BRASIL
浩明著
発行
・サンパウロ人文科学研究所 Web サイト
http://www.cenb.org.br/cenb/index.php/articles/displ
発行
NEWS】ニッケイ新聞メルマガ版
26 号
http://www.melma.com/backnumber_70890_162022
/
・ニッケイ新聞 Web サイト
2008年12月10日付け「日系社会ニュ
ース」
− 31 −
2010 年度 地域文化調査成果報告書
7=Ê΅]\URȾ28
ÂəǻƼƢɫ ΗŔƎϐďˊ
ÂϑƮͱƼƢɫ ɗÈơƞďˊ
ÂДŒȶȄВ̕ƢɫȴϿЗ
ДŒ˭ÍŅ̝̄ïŗ̷̻ƚū ƼDžƱͳːďˊ
ÂɆ̊ȸǦƈ́ľϪϠ Ɇ̊ȱͯHz
ÂДŒ˭èΕū ǀLJ>=uHz
ÂŷϭÜʞΜŵ ŷϭÜʞȩφū ŕʘ͡ʣ̢Hz
ÂJICA ɸʟ ʡƈ̄ïΥȺЋ ˾DžȹƞHz
ÂJessica Yuri Nebuya Hz
ÂKoji Andre Nishisaka Hz
ÂMiriano Emi Iwamizu Maeda Hz
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Gńī09t?Z;GI:iJR1
ŻżȹļΏɩ˜ͬèY^ϱŝĚˮ
− 32 −
ブラジル移民 〜アリアンサと鳥取〜
International Exchange and Tottori History
Nikkei Brazilians and Emigration from Tottori to Brazil
Students:
Chiho Ando, Rie Bandai, Haruhi Chosokabe,
Motoka Itan, Nozomi Kobayashi, Yukari
Kodani, Akari Kondo, Mina Omura, Chinami
Sato, Kanoko Sato, Emi Sunagawa, Tomomi
Takenobu, Ayuko Tanaka, Tran Thi Hong An,
Yuki Yonehara
Instructors:
Kip A. Cates,
Fukiko Kitagawa
Regional Culture Research
The Department of Regional Culture of the
Faculty of Regional Sciences offers a special
course called “Regional Culture Survey” (Chiiki
Bunka Chosa). This offers 2nd year Tottori
University students the chance to do fieldwork
and research in the local community on a topic
linked to regional culture. The course is broken
into four separate research groups. One of these is
the “International Exchange” research group.
Each year, this group chooses an exciting
topic on the theme of “International Exchange and
Tottori”. Previous topics have included:
2005: The status of foreign residents in Tottori
2006: International marriage in Tottori
2007: Education and international exchange
2008: Work and international exchange
2009: The 1927 Tottori-US doll exchange
This year, students selected the theme:
2010: Tottori, history and emigration
As a case study, they chose emigration from
Tottori to Brazil and spent a year researching this
theme, the situation of Tottori Nikkei Brazilians,
and current links between Tottori and Brazil.
History of Tottori Emigration to Brazil
The history of Japanese emigration to Brazil
began in the Meiji Period. Since the year 1906,
about 2,000 people from Tottori have emigrated to
Brazil. There, they established their own Tottori
settlement, named “Alliansa”, and began a new
life as strangers in a far-away land. These Tottori
pioneers faced the challenge of starting new lives
in a foreign country with a different climate,
different customs and different values.
Among the difficulties they had to overcome
were isolation, tropical diseases, prejudice and
surviving in a different language – Portuguese.
During World War II, their language was banned
since Japan was an enemy of Brazil. Since the war,
the Tottori community has thrived and still
cherishes Japanese traditions, including Tottori’s
umbrella dance (kasa odori). Tottori Prefecture
has supported the Alliansa community from afar
through visits to Brazil and scholarships which
bring young Nikkei Brazilians to Japan each year
to learn about their roots in Tottori. As Brazilians
with links to Tottori, they play a special role as
cultural bridges between Japan and Brazil.
Research and Fieldwork
To study this topic, the students in this course
carried out the following types of research:
Books, Data, Documents
books and articles on emigration to Brazil
historical documents and old newspapers
data searches on the Internet
Lectures by Guest Speaker Experts
lectures by local experts and by Tottori teachers
who lived in Brazil and taught Japanese to
descendants of Tottori immigrants in Alliansa
Mr. Taro Taniguchi (Suetsune Elem. School)
Ms. Takako Kinoshita (Koge Nishi School)
Mr. Tomio Koyama (Keiai High School)
Interviews with Nikkei Brazilians in Tottori
Ms. Jessica Yuri Nebuya
Mr. Andre Koji Nishisaka
Ms. Miriano Emi Iwamizu
Regional Contribution
To share what they learned about the history of
emigration from Tottori to Brazil, students:
organized a display about this topic for the
2010 international TIME Festival in Tottori
taught a lesson about emigration from Tottori
to Brazil to children at a local primary school
sent written messages and a video greeting
from children in Tottori to Nikkei Brazilian
children with Tottori roots in Alliansa
gave a formal presentation on their research at
Tori-gin Bunka Kaikan on January 22, 2011
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