資料はここ

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日本体育学会第58回大会
嘉納
1860 誕生
1882 弘文館・講道館
・嘉納塾
1889 ヨーロッパ視察
1893 東京高師校長
1909 IOC委員
本部企画シンポジウム:嘉納治五郎と日本の体育・スポーツ
(2007年9月6日、神戸大学)
クーベルタンから見た
嘉納治五郎
和田 浩一
神戸松蔭女子学院大学
1920 高師校長退任
1922 貴族院議員
講道館文化会
1928 灘中学校開校
1938 死去
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嘉納のクーベルタン宛書簡 1
クーベルタン
1863 誕生
1883 パブリック・スクール視察
1886 言論界にデビュー
1888 身体運動普及委員会
1894 近代オリンピックの創設
1905 『体育』
1912 『知育』
1915 『徳育』
1917 オリンピック学院
1925 IOC会長辞任
世界教育同盟
1927 スポーツ教育学国際事務局
1937 死去
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灘中学校と嘉納治五郎
校 是
1909.9.14
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嘉納・クーベルタン年表
1912.12.1
教育の方針
・自他共栄の精神……
・自主性を養い……
・質実剛健をモットー……
・豊かな趣味、高尚優雅な品性……
・運動を奨励し強靱な体力と明朗闊達なスポーツマンシップを育
成する。
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嘉納のクーベルタン書簡 2
1924.2.3
zクーベルタンの嘉納宛
書簡 「なし」
対象: 仏のエリート → 国際社会
照準: 学校教育
・体育界
z書簡による思想的交流
「なし」
→ 人類・民衆社会
→ スポーツ界 → 社会教育界
―――――――――――――――――――――――
1925 「教育改革憲章」「労働者大学論」
1926 「大衆大学憲章」
1930 「スポーツ改革憲章」
1932 国際連盟議長宛書簡
「教育改革なくしては、いかなる政治、経済、
社会の改革も望み得ない」
↓
歴史的事実の再構成
↓
クーベルタンの嘉納評価
1.嘉納とクーベルタンの生涯
教育の世界で活動した人物
2.嘉納のIOC委員就任の経緯
・ IOC:
オリンピズムを国際的に普及するためのネット
ワーク
・ オリンピズム:
身体的、道徳的、知的、審美的教育学
3.クーベルタンにとって嘉納とは
オリンピズムを理解し、IOCの仕事を推進できる
人物
4.クーベルタンは柔道を理解できたのか?
柔道 = 日本版オリンピズム?
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手段: 学生スポー → オリンピック → スポーツの
ツの組織化
の復興
大衆化
■嘉納に言及したクーベ
ルタンのテキスト「なし」
発表の要点
クーベルタン教育学の歩み(清水、1988から)
4
嘉納のIOC委員就任の経緯
1906.10.14 クーベルタン、駐ベルギー公使ジェラール
に駐日大使就任を祝福
1908.10.24 クーベルタン、駐日大使ジェラールにIOC
日本代表委員の推薦依頼
1909. 1.16 嘉納・ジェラール会談
1.19
ジェラール、クーベルタンに嘉納を推薦
5.27
嘉納、ベルリン総会でIOC委員に選出
6.15
クーベルタン、嘉納にIOC委員選出を報告
9.14
嘉納、クーベルタンにIOC委員就任の喜び
を伝達
8
9
クーベルタンのジェラール宛書簡 1906.10.14
ジェラールの駐日本大使就任発表直後に書かれた
オリンピック・コングレス(1905年、ブリュッセル)
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・21ヶ国、205名→成功→『報告書』の作成
・生活と教育の場(*)における体育とスポーツにつ
いて議論
*小学校、中学校・高校、大学、農村、都市、
教護院、刑務所、女性
○オリンピック功労賞の創設
ルーズベルトを選出 ← 身体的、知的、道徳的
↓
完成の模範
↓
◎IOCの使命にオリンピック大会以上のもの
=「教育改革運動」があることを強調
ジェラールのクーベルタン宛書簡
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1909.1.19
クーベルタンから見た嘉納治五郎
クーベルタンが求めていた人材
1.オリンピズム(身体・知・道徳・審美的教育学)の理解者
2.IOCの仕事(教育改革運動)の推進者
・誰が日本代表IOC委員にふ
さ わ し い <<right-man>> な
のか、示して欲しいとのこと
でした。
1894-1896
1897-1906
11
1909.1.19
ス、イギリス、ドイツを訪
れたことがあり、たいへ
ん正確に英語を話すわ
けですが……
オリンピック・コングレス
→ 依頼 →
← 協力 ←
オリンピズムの理解
Q.オリンピック・コングレスとは?
「新しいオリンピズム、すなわち『身体的、知
的、道徳的そして審美的なすべての教育学』
を作り出す」活動 (Revue Olympique, 1913.2)
第2回 1897 ル・アーブル 第4回 1906 パリ
第3回 1905 ブリュッセル 第5回 1913 ローザンヌ
・国際的視野
・体育(スポーツ含)の奨励
・柔道の社会や生活への応用
クーベルタン教育学の世界標準
クーベルタンは柔道を理解できたのか
1889
1899
1915
1922
1936
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体育・勝負・修心(徳育・知育)
柔の理
心身の力を最も有効に使用する道
精力善用・自他共栄
単なるスポーツではなく人生哲学
クーベルタン「柔術はスポーツか?」(1906、1933)
■ 柔術はスポーツではない、高度な防御手段
・嘉納氏は1889年にフラン
クーベルタンとジェラールの接点
・三育主義
柔
道
の
概
念
・(嘉納氏は)多様なス
ポーツ、とりわけ柔術、
水泳、体操で知られてい
ます。
名誉委員 → 実際の仕事には不参加
IOCは機能せず
↓
ジェラール宛書簡 << right-man >>
↓
嘉納治五郎のIOC委員就任
・あなたの関心についてなす
べき調査は、困難を伴うも
のでした。ようやく最後に、
東京高等師範学校校長で柔
術学院の創始者、嘉納(治
五郎)氏に問い合わせました。
ジェラールのクーベルタン宛書簡
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・相手の努力を阻止から
◎ スポーツの最も大きな喜び、最も大きな恵みは、
人間の努力をとことんまで追求させること
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柔道 = 日本版オリンピズム?
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小泉軍治宛書簡(1936年)
「柔道は、単なるスポーツやゲームではなく、プロフェッショナリ
ズムや政治的ナショナリズムの高揚などの影響を受けない人
生哲学であり芸術であり科学である」
「オリンピック憲章」 根本原則
「オリンピズムは、肉体と意志と知性の資質を高揚させ、均衡の
とれた全人のなかにこれを結合させることを目ざす人生哲学で
ある」
日本的
文化の
(柔)「道」
西欧中心主義的なオリンピズム
異なる性、異なる文明、異なる地域を
包み込む新しい21世紀オリンピズム
日本体育学会 シンポジウム原稿
クーベルタンから見た嘉納治五郎
神戸松蔭女子学院大学の和田と言います。よろしくお願いいたします。
嘉納のクーベルタン宛書簡1
こ れ は 1909年 9 月 に 嘉 納 治 五 郎 が ク ー ベ ル タ ン に 宛 て た 手 紙 で す 。 こ れ は ク ー ベ ル タ ン
が嘉納にIOC委員就任を報告した手紙への返答で、嘉納はIOC委員就任の喜び、なら
びにIOCの機関誌である『ルビュー・オランピック』と、それまでのオリンピック運動
の 歩 み に つ い て 記 し た 『 21年 間 の キ ャ ン ペ ー ン 』 と い う 著 書 を 受 け 取 っ た こ と を 伝 え て い
ます。
右 の 手 紙 は ス ト ッ ク ホ ル ム 大 会 後 の 12月 1 日 、 ヨ ー ロ ッ パ 外 遊 中 に パ リ へ 立 ち 寄 っ た 際 、
クーベルタンに宛ててフランス語で書いた手紙です。面会の約束を取りつける内容ですが、
3日後にはクーベルタンの案内でパリ市内のボクシング・クラブを見学することができま
した。
嘉納のクーベルタン宛書簡2
これも嘉納がクーベルタンに書いた手紙で、関東大震災後の東京状況、パリ大会派遣選
手団の縮小、岸清一のIOC委員選出の依頼が主な内容となっています。見にくいのです
が、赤の下線部からは、関東大震災直後、クーベルタンが嘉納の安否を尋ねる手紙を書い
ていたことが分かります。
このような嘉納がクーベルタンに宛てた手紙は、オリンピック博物館のアーカイブスに
8通保存されています。これら8通の手紙を検討しましたが、クーベルタンの嘉納評価に
つながるような内容や、両者の思想的な交流過程の痕跡は認めることができませんでした。
一方、クーベルタンが嘉納に宛てた手紙について、嘉納履正さんは「確かにあったが、
今は散逸してしまった」と述べています。さらには、クーベルタンが嘉納について記した
文章もありません。つまり、クーベルタンが「嘉納はこのような人物だった」と言及して
いるようなテキストは何もないということになります。
このような史料的な限界がある中、ここでは両者の間に横たわる歴史的事実、とりわけ
嘉納のIOC委員就任に至るまでの経緯やその背景を再構成することで、クーベルタンか
ら見て嘉納はどのような人物だったのかという疑問に答えてみたいと思います。
発表の要点
発表はおおまかに、次の流れで進めます。
まず始めに、嘉納とクーベルタンの生涯を簡単に眺めながら、二人が教育の世界で活動
した人物だったことを確認します。
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次に嘉納のIOC委員就任の経緯を掘り起こし、その背景を整理します。ここでは、I
OCはクーベルタンにとって、オリンピズムを国際的に普及するための重要なネットワー
クだったこと、そしてオリンピズムとは身体的、道徳的、知的、そして審美的教育学だっ
たことが理解されると思います。
その後で、クーベルタンから見て嘉納はどのような人物と言えるのかをまとめ、最後に、
ディスカッションのための話題提供になればということで、クーベルタンは嘉納の柔道を
理解できていたのかどうかについて触れることにします。
嘉納・クーベルタン年表
まず、嘉納について見てみます。もうみなさんご存じの通り、嘉納は単なる柔道の創始
者 で は な く 、 日 本 の 教 育 行 政 に 大 き な 影 響 力 を 与 え た 人 物 で し た 。 1882年 に 英 語 す な わ ち
知識を教える弘文館、柔道すなわち体育を教える講道館、そして道徳を教える嘉納塾を始
め ま す 。 こ の と き 嘉 納 は 公 に は 、 学 習 院 で も 働 い て い ま し た 。 1889年 に は ヨ ー ロ ッ パ の 教
育 事 情 を 視 察 し ま し た 。 そ の 後 、 第 五 高 等 中 学 校 長 、 第 一 高 等 中 学 校 長 を 経 た あ と 、 1893
年 に 34歳 の 若 さ で 高 等 師 範 学 校 校 長 に 就 任 し 、 こ れ は 足 か け 27年 続 き ま し た 。 「 嘉 納 の 高
師か、高師の嘉納か」といわれる所以であります。嘉納の教育学的業績については他の演
者から詳しく報告されますので、私の発表に結びつけていただければと思います。
次にクーベルタンを見てみましょう。クーベルタンは嘉納とほぼ同じ時代を生きた人で
し た 。 彼 は 23歳 の と き 「 社 会 を 変 革 す る た め に は 教 育 の 中 へ ス ポ ー ツ を 持 ち 込 ま ね ば な ら
な い 」 と い う 大 胆 か つ 新 鮮 な 主 張 で 言 論 界 に デ ビ ュ ー し ま し た 。 そ の 後 、 1888年 に 文 部 大
臣を担ぎ出して「身体運動普及委員会」を立ち上げ、フランス国内でスポーツの普及に取
り 組 み ま し た 。 1894年 に は 近 代 オ リ ン ピ ッ ク を 創 設 す る と と も に 、 I O C を 組 織 し て 国 際
的 な オ リ ン ピ ッ ク 運 動 を 展 開 し ま し た 。 大 戦 中 の 1917年 に は ス イ ス で 、 自 分 の 教 育 的 な 理
想 を 実 現 化 し た オ リ ン ピ ッ ク 学 院 と い う 学 校 を 作 っ て い ま す 。 1925年 に I O C か ら 離 れ た
後も、社会教育界に目をむけながら教育活動を続けました。
ここで注目しておきたいのは、IOC委員就任前に、嘉納はスペンサーの三育主義を体
現する弘文館、講道館、嘉納塾を開いていたこと、ヨーロッパ視察で国際的な視野を養っ
ていたこと、そして東京高等師範学校の校長として欧米スポーツを含む体育を奨励してい
たことです。なぜなら、これらはある意味、クーベルタンの活動と重なり合う要素だと言
えるからです。
年表からは、クーベルタンには三育主義に立脚した自身の教育思想を整理した著書、す
なわち『体育』『知育』『徳育』という三部作の出版があったこと、そしてオリンピック
でスポーツを国際的に奨励したことがお分かりになると思います。
灘中学校と嘉納治五郎
神戸には今は進学校として名高い灘中学校・灘高等学校があります。嘉納治五郎は顧問
として愛弟子から校長を任命し、灘中学校設置に大きくかかわったのでした。校是は「精
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力善用」「自他共栄」で、教育の方針の中には「運動を奨励し強靱な体力と英郎闊達なス
ポーツマンシップを育成する」という一文があります。
クーベルタンの教育学の歩み
次に、クーベルタン研究の第一人者である清水先生の力をお借りして、クーベルタンの
教育学を簡単に確認したいと思います。時間の流れは左から右に進んでいると理解して下
さい。言論活動を開始したときは、フランスの校長たちを相手に、学校教育・体育界に狙
いを定めながら学生スポーツを組織化しました。日本流に言えば、学校に体育会系のクラ
ブを作ったということです。次には国際社会を相手に、スポーツ界に目を向けながらオリ
ンピックを復興させます。IOCから身を引いた後は民衆社会を相手に、社会教育界に狙
いを定めてスポーツを大衆化しようと努力しました。
あまり知られていないと思うのですが、クーベルタンはIOC会長辞任後も、自身の教
育 学 構 築 に 向 か っ て 活 動 し て い き ま し た 。 1932年 に は 国 際 連 盟 の 議 長 に 手 紙 を 書 き 、 「 教
育改革なくしては、いかなる政治、経済、社会の改革も望み得ない」と訴えました。
嘉納のIOC委員就任の経緯
話を嘉納のIOC委員就任の経緯に進めます。
嘉納のIOC委員就任への道のりは、クーベルタンが当時の駐ベルギー公使ジェラール
に 駐 日 大 使 就 任 を 祝 福 す る 手 紙 を 送 っ た 1906年 か ら 始 ま り ま す 。
2 年 後 の 1908年 10月 、 ロ ン ド ン 大 会 が 終 わ ろ う と し て い た と き で す が 、 ク ー ベ ル タ ン は
ロンドンから駐日大使となっていたジェラールに手紙を書き、IOC日本代表委員の推薦
を依頼しました。
年 が 明 け た 1 月 16日 に 、 ジ ェ ラ ー ル は 嘉 納 と こ の 件 に つ い て 会 談 し 、 3 日 後 の 19日 に は
クーベルタンに手紙を書いて、IOC委員として嘉納を推薦しました。
この後、ジェラールは小村寿太郎外相に、嘉納のIOC委員就任の許可を取り、これら
をクーベルタンに報告しました。
その後、5月のベルリン総会でIOC日本代表委員として嘉納が選ばれ、約2週間後の
6 月 15日 に 、 ク ー ベ ル タ ン は 嘉 納 に そ の 結 果 を 報 告 し ま し た 。
3ヶ月後、嘉納はクーベルタンにIOC委員就任の歓びを伝えました。みなさまが一番
最初に目にした手紙がこれにあたります。
クーベルタンのジェラール宛書簡 1906.10.14
史料を確認しながら、補足説明したいと思います。これはジェラールの駐日大使就任発
表直後にクーベルタンが書いた祝福の手紙です。見えにくいのですが、左側の赤線部分に
は「東京」の文字が書かれています。右側の赤線部分からは、クーベルタンがIOC会長
の名前で駐日大使就任を祝福していることが分かります。「将来、IOC日本委員の推薦
に一肌脱いでもらうぞ」という、クーベルタンの魂胆が見えてきます。
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ジェラールのクーベルタン宛書簡 1909.1.19
これはジェラールがクーベルタンに嘉納を推薦している手紙です。いろいろと書かれて
いる訳ですが、要点の一部を抜き出してみます。
「 誰 が … … 」 こ こ で は わ ざ と 英 語 で right-man と 書 か れ て い た こ と を 記 憶 に と ど め
ておいてください。
「多様な……」
「嘉納氏は……」
簡単に言えば、ジェラールが嘉納を推薦したポイントは、嘉納が多様なスポーツを推進
していたこと、師範学校の校長であったこと、そして国際的な視野をもっていたことでし
た。
クーベルタンとジェラールの接点
さて、ジェラールとはどのような人物で、クーベルタンとどのような接点があったので
しょうか。ジェラールはフランス人外交官でアジアの専門家でした。そして二人の接点は
オリンピック・コングレスにありました。
オリンピック・コングレスはオリンピック運動の中に位置づけられる会議で、クーベル
タンの私的なイニシアチブで不定期に開かれました。その目的は「新しいオリンピズム、
すなわち『身体的、知的、道徳的そして審美的なすべての教育学』を作り出す」ことにあ
り ま し た 。 1894年 の オ リ ン ピ ッ ク 復 興 会 議 を 第 1 回 と す る と 、 こ の 主 旨 に 沿 っ た 会 議 は 第
2回から第5回の計4回開かれたと言えます。下線部は第3回のオリンピック・コングレ
ス が 1905年 に ブ リ ュ ッ セ ル で 開 か れ た こ と を 強 調 し て い ま す 。
この第3回コングレスのとき、駐ベルギー公使としてブリュッセルにいたのがジェラー
ルでした。クーベルタンは彼にコングレス実現のために協力を依頼し、ジェラールはこれ
に応えました。コングレスの晩餐会の席上、クーベルタンの隣に座り彼と直接話を交わす
中で、ジェラールはおそらくオリンピズムの意味、そしてIOCの真の使命を理解したの
だと考えます。と言うのは、ブリュッセルでのコングレスには、オリンピズムに関するク
ーベルタンのメッセージが込められていたからです。
オリンピック・コングレス(1905年、ブリュッセル)
ブ リ ュ ッ セ ル で の コ ン グ レ ス に は 21ヶ 国 か ら 205名 が 参 加 し 、 ク ー ベ ル タ ン 自 身 「 成 功
したコングレスである」と評価しています。余談ですが、このコングレスの『報告書』が、
講道館の資料室に保管されています。おそらくジェラール、あるいはクーベルタンが嘉納
に渡したものだと思われます。
さて、このコングレスでは、生活と教育の場における体育とスポーツが議論されました。
注目すべきは、クーベルタンがオリンピック功労賞を創設し、この授与式をブリュッセル
・コングレスの中で行ったことです。第1回受賞者にはアメリカのルーズベルト大統領が
5
選ばれたのですが、ルーズベルトが「身体的、知的、道徳的完成の模範」を示したという
ことが受賞理由として説明されました。クーベルタンはオリンピック功労賞によって、オ
リンピズムの向かうゴールを具体的にイメージ化したと言えるでしょう。
IOCにはオリンピック大会の運営以上に大切なものがある、それは身体的、知的、道
徳的完成を目指す「教育改革運動」である。これはクーベルタンがブリュッセル・コング
レスの中で、IOC委員に発したメッセージでした。というのも、残念ながら当時のIO
C委員たちは、教育学的概念としてのオリンピズムをまったく理解できていなかったから
です。一番の協力者だったスェーデンのバルク委員でさえ理解していなかったと、クーベ
ルタンが後に回想するぐらいの状況でした。
このようなメッセージが発せられたコングレスにどっぷりつかりながら、ジェラールは
クーベルタンのオリンピズムの意味、IOC委員の使命を理解していったというのが、わ
たしの見解です。
クーベルタンから見た嘉納治五郎
嘉納のIOC委員就任の経緯から、クーベルタンは嘉納をどのように見たのかをまとめ
たいと思います。
1908年 の ロ ン ド ン 大 会 終 了 後 、 ク ー ベ ル タ ン は 新 し い I O C 委 員 を 求 め て い ま し た 。 彼
が求めた人材は、「オリンピズムすなわち身体的、知的、道徳的、審美的教育学の理解者」
でありかつ、「IOCの仕事すなわち教育改革運動の推進者」でした。その背景には、当
時のIOC委員がオリンピズムをまったく理解しておらず、それゆえ、クーベルタンの意
図したIOCの活動が一向に進んでいなかったという時代状況がありました。
そんな中、クーベルタンは、ブリュッセル・コングレスの協力者であり、オリンピズム
とIOC委員の真の意味を理解していた駐日大使ジェラールに、IOC日本代表委員にふ
さ わ し い right-man す な わ ち 「 打 っ て つ け の 人 物 」 の 推 薦 を 依 頼 し ま し た 。
ジェラールはクーベルタンの意をくみ、三育主義に沿った教育家であり、欧米スポーツ
を含む体育を奨励し、国際的視野をもっていた嘉納を推薦したのでした。さらに、嘉納に
は柔道の原理を社会や生活へ応用するという考えがありました。これらの要素はまさに、
クーベルタン教育学の世界標準というべきものでした。言い換えれば、これらの資質を持
ち合わせていたからこそ、嘉納はオリンピズムを積極的に受け入れることができたのだと
言えるでしょう。
クーベルタンは柔道を理解できたのか
ここまでは言ってみれば、クーベルタンがIOC委員として期待する嘉納のイメージで
した。ディスカッションにつながればということで、IOC委員就任後、クーベルタンは
嘉納思想の総体である柔道を理解したのかどうかについて考えてみたいと思います。
1912年 の ス ト ッ ク ホ ル ム 大 会 の 際 、 嘉 納 は ク ー ベ ル タ ン と 、 お そ ら く は 二 人 で だ と 思 う
のですが、2時間ほど話す機会を得ました。二人のそれまでのキャリアからして、この話
6
の中で、世界の教育状況やお互いの教育思想について意見交換をしたと考えるのが自然で
す。わたしはこのとき、嘉納はクーベルタンに柔道の概念について話をしたと考えていま
す。なぜなら、その7年後に出版された『スポーツ教育学』という本の中で、クーベルタ
ンは嘉納が柔術を再編し柔道を生み出したことを記しているからです。第二次大戦後まで、
フランスでは一般的に柔道のことを柔術と呼んでいましたが、クーベルタンのこの著書に
限っては柔道と記しています。これが、嘉納が日本的な「道」の概念についてクーベルタ
ンに説明したのではないかと考える根拠です。
柔道の概念は講道館柔道の誕生時からきちんと定義されていたわけではありません。ち
なみに、先行研究から柔道の定義の変遷をまとめると次に用になります。確認しておきた
い の は 、 1889年 の 「 柔 道 一 般 な ら び に 其 教 育 上 の 価 値 」 で 示 さ れ た 「 体 育 ・ 勝 負 ・ 修 身
(これには徳育と知育が入ります)」という定義にはすでに、柔道は三育主義の総体とし
ての概念であることが示されているということです。
クーベルタンは残念ながら、のちには精力善用・自他共栄へとつながる三育主義、柔の
理 と し て の 柔 道 を 理 解 で き ま せ ん で し た 。 1906年 に 『 ル ビ ュ ー ・ オ ラ ン ピ ッ ク 』 で 発 表 し
た「柔術はスポーツか?」と題する論説の中で、クーベルタンは「柔術はスポーツではな
い」、なぜなら、柔術はスポーツの最も大きな喜び、最も大きな恵みである人間の努力の
追 求 を 途 中 で 阻 止 す る 技 術 で あ る か ら だ と 説 明 し て い ま す 。 1906年 の 時 点 で ク ー ベ ル タ ン
は 「 柔 術 」 と 書 い て い ま す が 、 「 柔 道 」 と い う 言 葉 を す で に 知 っ て い た 1933年 に も 、 再 び
この論説を取り上げていますから、クーベルタンは「柔術」を「柔道」と同じ意味で使っ
ていたと言えます。それゆえ、クーベルタンは生涯を通し、柔道の体育的な側面のごく一
部にしか目を向けなかったと考えるわけです。
最近わたしは、柔道は日本版クーベルタン・オリンピズムではないかと考えるようにな
りました。というのも、柔道の概念の展開の先に、「柔道は単なるスポーツではなく人生
哲 学 で あ る 」 と い う 嘉 納 の 言 葉 が 1936年 に あ っ た こ と を 、 演 者 の 一 人 で も あ る 永 木 先 生 の
論文を通して知ったからです。
西欧の知識を取り入れながらも日本的文化である「道」を中心に据えた嘉納の柔道は、
クーベルタンには理解されませんでした。しかし、クーベルタンが理解できなかった嘉納
の教育思想の中にある「道」にこそ、これまでの西欧中心主義的なオリンピズムを乗り越
え る 新 し い 21世 紀 オ リ ン ピ ズ ム を 構 築 す る た め の ヒ ン ト が 隠 さ れ て い る と 考 え て い ま す 。
この意味で、シンポジウム全体を通して嘉納の理解をさらに深めていくことは、日本の体
育・教育・オリンピック関係者にとって非常に重要なことだと考えています。
以上で発表を終わります。ご静聴、ありがとうございました。
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