第3章 情勢の変化と動員体制の崩壊

第3章情勢の変化と動員体制の崩壊
第1節兵員の確保
志願兵の激増
1944年に動員された5年生と4年生は、翌45年3月に、卒業ないしは修了を迎え、職場を離れ、あるいは上
級学校へ進学しあるいは就職する筈であったが、戦局の拡大と暗転とによって兵員の多大な犠牲者を出しその
欠員をどのようにして補充するか、つまり兵員をどのようにして確保するかが緊急な問題となって来た。こう
した'情勢の打開策として、すでに1941年10月16日に、大学・専門学校・実業学校などの修業年限を臨時に短縮
(勅令、41年度は3カ月短縮、同年11月1日に、42年度予科・高等学校を加えて6カ月短縮)し繰り上げ卒業
させることとした。さらに1943年1月21日、中等学校令(勅令)を制定して(中学校令・高等女学校令・実業
学校令を統合し)中学校・高等女学校・実業学校の修業年限を1年短縮して4年制とし、大学予科・高等学校
高等科の修業年限を短縮して2年制とした(勅令)。同年9月21日に、兵役法施行規則を改正(陸軍省令)し、
1930年以前の検査の第2国民兵も召集することとした。次いで10月12日には、教育二関スル戦時非常措置方策
を閣議決定し、理工科系統および教員養成諸学校学生の他は徴兵猶予を停止する一方、高等学校文科の定員を
1/3減とし理科の定員を増員した。さらに12月24日には徴兵適齢臨時特例(勅令)を公布し、適齢を1年引
下げ19歳とした。
これによって専門学校・中学校・実業学校では、在学生の学徒出陣、志願兵が続出し、学年の進行に伴い欠
員が生じていった。その実態を福島経済専門学校と福島中学校4年中1組について表示する。
福島経済専門学校(昭和18年度入学生)学徒勤労動員中召集・志願の実態
資料提供:福島大学経済学部庶務第二係
典拠:福島経済専門学校昭和18年度入学生学籍簿備考欄記載記事
入 営 ・ 入 校 の 年 月
18
2
1
29
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7
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1
2
10
1
165
162
2
.
1943年4月入学時の学生数は、217名
18.12の欄に第一次学徒出陣7名を含む。
3
.
戦病死1名。
(
5
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1
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動員
実数
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136
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12
3
(
入営・入校、学徒勤労動員、動員中戦災死、動員残留者、卒業者の内訳
異動並びに事故年月日
摘 要
1943.4.7
1943.12.]
入学者数
∼
1944.9.2(
1944.9.21
944.10.1
員数
∼
1945.8.IE
備 考
217
入学後の入営・入校者数
37
学徒勤労動員数
18f
動員後の入営・入校者数
U4
1945.6.15
動員中戦災死者数
!
1945.7.17
動員中戦災死者数
4
1945.7.19
動員中戦災死者数
この欄の年月日は「昭和18年
度学籍簿」備高欄の記載に基
づく。※
学籍簿に記載のない者の数
3C
1945.9.2C
卒業者数
60
1945.12.31
卒業者数
29
1946.3.31
卒業者数
28
卒業者の合計
敗戦まで継続したと推定され
る数字
217
※第一復員局編・国立国会図書館蔵『日本都市戦災地図』の日立市の凡例備考並びに図中の記事では、
6月10日、7月17日及び7月19日となっている。後に引用する校史やそこに収録された同窓生の体験
や回想が、まちまちであることを付記しておく。6月の日付の違いは10日に爆撃を受けて重傷を負い
12日に死亡したことによる。
福島経済専門学校(昭和19年度入学生)学徒勤労動員中召集・志願の実態
提供:福島大学経済学部庶務第二係
典拠:福島経済専門学校昭和19年度入学生学籍簿備考楠記載記事
入 営 ・ 入
の年
校
20.1
20.2
20.3
20.4
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海 軍
(
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合 計
1
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3
動員実数
17
17
172
20.8
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:
1
167
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56
2
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合計
20.7
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型、4口
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20.5
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0
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10
25
154
144
19
58
※1944年4月入学時の学生数は、177名
福島中学校昭和19年度4年中1組の動員の実態
典拠:旧制福島中学校第44回中一組『徳不孤』
18.12
19.4
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−
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2
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40
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横須賀
123
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合 計
動員実数
1
20.5
19.9
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2
19.8
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陸 軍
19.e
1
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.
21
3年初めの在籍数50名
4年初めの在籍数48名
動員時の在籍数40名(横須賀海軍工廠29名、沖電気11名)
137
このように兵員の確保という緊急かつ至上の要請に反応した動員学徒たちは、工場を去って行った。その結
果、必然的に工場の就労者数が不足することになる。
第2節継続動員一工員の確保一
工員不足に対処するため政府は、実務科並びに専攻科を設置し卒業後も動員を継続させることにした。その
ため上級学校進学者については、入学延期という手段を講じた。
実務科または専攻科の設置
1943年1月2旧、中等学校令を制定し、中学校令・高等女学校令・実業学校令を廃止するとともにこれまで
の附設課程を改廃して、中学校に実務科、高等女学校に高等科と専攻科、実業学校に専攻科と専修科を設置す
ることにした(福間敏矩『集成学徒勤労動員』Pl77)。政府は、工員の不足について、動員実施間もない1944
年下半期に入った段階で認識していた。その年12月1日の閣議において「新規中等学校卒業者ノ勤労動員継続
二関スル措置要綱」(福間敏矩『前掲書」D613-615、資料no.294を決定した。その要点を次に示す。
新規中等学校卒業者ノ勤労動員二関スル措置要綱
第 一 方 針
苛烈ナル戦局下軍需生産ノ最大能率ヲ発揮スベキ国家要請二即応シ明年三月中等学校ヲ卒業スベキ者ノ内
特別ノ事情アル者(筆者注:第二要領の一)ヲ除キ卒業後モ学徒ダル身分ヲ保有シ天引続キ勤労ヲ継続セシ
ムルコトトシ以テ其ノ修得セル熟練技能ヲ活用スルト共二学徒勤労ノ長所ヲ発揮シテ生産現場二於ケル能率
ノー時的低下ヲ防止セントス(下線筆者)
第 二 要 領
一、明年三月中等学校ヲ卒業スベキ者ニシテ左二該当スル者以外ノ者ヲシテ中等学校ノ附設課程二進学セシ
メ引続キ学徒ノ侭工場事業場二於テ勤労ヲ継続セシムル如ク措置ス
(1)上級学校進学者
(2)陸海軍(学校)二入隊(入学)スル者
(3)工業学校、農業学校又ハ水産学校卒業者ニシテエ業又ハ農林水産業二従事スル者
(4)助教卜為ル者
(5)船員ト為ル者
(6)看護学校又ハ講習所二入学又ハ講習所二入学又は入所スル者
(7)外地又ハ外国二就職決定セル者
(8)女子ニシテ家庭生活ノ根軸ダル者
(9)戦時農業要員タラシムルヲ必要ト認ムル者
10其ノ他特別ノ事由ニ依り地方長官二於テ除外スルヲ適当卜認ムル者
二、右二依り学徒勤労ヲ継続スベキ者ヲ進学セシムル為中等学校二修業年限一年ノ附設課程ヲ設置セシムル
如ク措置ス
(1)中学校実務科
(2)高等女学校専攻科
(3)実業学校専攻科
三、本措置二依ル学徒ハ現在出勤中ノエ場事業場二於テ勤労ヲ継続セシムルヲ建前トスルモ動員学徒ノ適正
配置ヲ図ル為必要アル場合ハ配置転換ヲ考慮スルモノトス
四∼八(省略)
備考
一
中等学校卒業者ニシテ雌埜△進堂之乏」k萱三位工△生産ノ事情ヲ勘案シ明年六月迄ハ上級学校進学
ノ侭現在ノ作業地二於テ学徒勤労ヲ為サシメ得ルモノトス
138
二(省略)
方針で示した継続動員の趣旨は、意図について明言を避けているが、卒業後に就労させるには、雇用契約
を結び賃金を支払わなくてはならない。学徒のまま就労させれば雇用契約を結ばず報償金の支給で済む、そ
の上、熟練技能の活用と能率の低下の防止が可能である、ということにあっただろう。かくて次表のように
各校ともに継続動員を実施するに至った。
福島県内における継続動員の実施状況
実 務 未
学校程
福島中学校
保原中学校
安達中学校
専 攻 科
実施学年
5年不詳
4
5,4
5年不詳
4
学校宅
実施学年
学校名
実施学年
福島高等女学校
4
福島商工学校
福島第二高等女学校
4
私立福島電気工業学校
不詳
市立女子商業学校
4
川俣工業学校
4
5,4
安積中学校
5,4
飯坂実科高等女学校
4
郡山商業学校
5,4
私立石川中学校
5,4
瀬上実科高等女学校
不詳
須賀川商業学校
5,4
田村中学校
5,4
私立福島成践女子商業
学校
不詳
白河農商学校
5,4
川俣実科高等女学校
4
会津工業学校
5,4
白河中学校
5年不詳
4
会津中学校
5,4
梁川実科高等女学校
4
若松商工学校
5,4年は
不詳
喜多方中学校
5,4
保原実科高等女学校
4
喜多方商工学校
4
相馬中学校
5,4
二本松実科高等女学校
4
組合立大沼農学校
不詳
双葉中学校
5,4
桑折実科高等女学校
4
坂下実科高等女学校
4
本宮実科高等女学校
4
猪苗代実科高等女学校
2(4)
安積高等女学校
4
喜多方高等女学校
4
郡山高等女学校
4
相馬工業学校
5,4
須賀川実科高等女学校
不詳
平工業学校
4
石川実科高等女学校
4
平商業学校
5,4
三春実科高等女学校
4
中村高等女子職業学校
不詳
白河高等女学校
4
相馬高等女学校
4
私立白河高等家政女学校
4
浪江実科高等女学校
4
棚倉実科高等女学校
4
磐城高等女学校
4
会津高等女学校
4
市立平高等女学校
不詳
若松高等女学校
4
耶麻高等女学校
4
棚倉実科高等女学校
4
磐城中学校
5年不詳
4
。■■■■。
磐城高等女学校
4
※1.学校名は、昭和18年2月1日現在の『福島県職員録』によった。ただし農学校・商業学校などに
ついては、昭和19年に、工業化によって改編改称されたので、新名称を掲載するようにした。
2.農学校などについては、実施されなかったところが多いので、割愛した。
3.中学校の5年生については、記録・証言が得られなかったため不詳としたところがある。実業学
校の5年生については、繰上卒業などがあり実施されなかったところもある。
139
進学延期
上級学校進学者については、第二要領の一の(1)で継続動員の対象にならないことになっていたが、備考
の一において進学が6月まで延期となってその間継続就労しなければならなくなった。しかし理・工・農学系
の学校の場合は、4月に進学し、進学した上級学校で動員された。2,3の例を紹介する。
田村中学校5年生の場合
日立製作所多賀工場に動員されたある学徒は、4月に、東京農業大学の専門部に進んで三河島に下宿した。
そこで空襲に遭い、転居した下宿でも空襲に遭った。そんなこんなで学校を中退し帰郷した。
(2009年4月29日「河野信三よりの聞取り」)
私立石川中学校5年生の場合
上級学校進学者は6月20日退廠する予定で、家に帰るたのしみを手紙で母に知らせたりしていたところが、
その間ぎわになって、次官会議の決定ということで、学徒は現在の職場より直ちに上級学校の職場に行くこ
とになり、新しい職場がきまるまで現在のところにとどまることになった。一日も早く造兵廠をぬけ出して
家に帰る日を待ちのぞんでいたわれわれは、家に帰る暇もなく造兵廠で待機しなければならないことにがっ
かりしたが、(中略)気を取りなおして、山形高校から通知の来るのを待った。20日すぎると、次の動員失
のきまった人たちが次々と退廠して行った。山形からは何の通知も来ないので、問い合せの手紙を出したり
して首を長くして待っていたが、その中に、造兵廠の方から進学者は手続きして退廠してもよいという話力
あった。結局われわれの中学の進学者は6月中に帰ることになり、進学しないごく少数の人達が「石中報匡
隊」という名で引き続き造兵廠に残ることになった。(中略)6月28日(木)、先生始め皆にお別れをして5
時出発。(上野から常磐線・水郡線経由)石川の駅に立って感無量。
通知が来るのが意外に遅く、それを受け取ったのは8月3日で、山形県西村山郡柴橋村で作業をするから、
8月12日登校し、荷物は柴橋村国民学校宛に至急送るようにとのことであった。
作業は陸軍軍医学校の地下病院建設工事であった。陸軍軍医学校は、当時勤労動員で生徒のいなくなった
山形高等学校に疎開して来ていたのである。
私は8月9日に山形に向った。警戒警報が発令され、出発間もなく空襲警報がなり渡った。谷田川で暫く
停車した。本宮付近でも停車。福島に遅れて到着し、駅の外に出て昼食をとる。山形に行く汽車は2時にやっ
と発車。5時半、山形駅着。重い荷物をしよって、やっとのことで馬見力崎川原の斎藤さんの家についた。
白河中学の人達は明日来るらしい。8月10日(金)、8時半頃学校に行く、門には右側に山形高等学校の梧
札が、左側に陸軍軍医学校の標札がかかっていた。4月に山高生になったはずなのに、ようやく校門を入そ
ことができた。8月l旧(土)、8時から入学式。理科1年甲類1組22番、これが今後の私の身分だ。
(1975年3,4月号掲載、鈴木光男「語られざる歴史、、勤労動員"」上、下より抄録)
三春実科高等女学校4年生の場合
貯金局郡山支局に動員が決まりました。仕事は計理班で毎日毎日伝票の計算でした。
昭和20年6月29日、日本女子経済専門学校進学のため上京、そして3ケ月遅れの7月1日の入学式に出席
直ちに学徒動員で扇町の製油所(皇国第1974工場=現三菱石油川崎工場)に勤務が決まりました。配置さ才
た部屋は、会計課原価計算係でした。入学したばかりで原価計算、簿記の勉強もしていないのに、実際の畦
簿整理は大変でした。なんとか上級生に教わりながらも貯金局で練習したソロバンが役に立ちとても助かり
ました。上司に書類の写しをたのまれると、紙面は数字と英語の羅列で満足に英語のスペルも書けない私娼
不安と緊張の毎日でした。
下丸子にあった会社の寮から毎日電車で4,50分かけて蒲田、川崎と乗り換えて臨港線で扇町まで通うのて
す。途中空襲警報にあい、電車から飛び降りて土手の草むらの中に敵機の機銃掃射を避けて跨ることもあり
ました。
夜中も空襲警報で起こされて、寮の裏の防空壕に避難………。避難途中南の空が明るくなり、探照灯に緊
らされた敵機から爆弾が投下される様子を、荷物に腰をおろして戦争映画でも見ている様に眺めていました。
1
4
〔
翌朝会社に着くと、前夜の空襲でコンクリート製の直径1メートルもある土管型の防空壕が爆風に吹き飛ば
されて、工場の二階の屋根の上に乗っていました。工場が本宮と二本松の間(杉田あたりか)に疎開するこ
とになり、疎開工場に転勤するため8月14日に帰郷し、勤務することなく終戦を迎えました。
(『三つの春に』所収、中安稽子「遅しき青春」に2005年2月16日、電話聞取りにより補足)
第3節動員免除
動 員 免 除
1944年12月1日、閣議決定の要綱には、上級学校進学者や陸海軍関係の入隊・入校以外に八項目の継続動員
免除が明示されていた。中でも(3)実業学校卒業者で工業や農林水産業に従事するもの。(9)戦時の農業
要員となるもの。(4)助教となるものなどとして申請し、動員を解除される学徒が多く、中には(8)家庭
生活の根軸となるもの、例えば兄弟が召集され高齢あるいは病身の親を介助・介護しなければならないなどの
理由で解除されるものもあった。
継続動員と動員解除の実態
妾亭稜 避隆型且
121
継続数
121
農業要員 師範又は助教
09
進学封
10
棚倉実科高女4年
106
0
39
F
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−
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■﹃ゴ
7
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1
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■﹄1コ
110
家庭要員
−
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三春実科高女4年
自営業
1
終戦時
[jグ■
坂下実科高女4年
動員数
(
7
)
(
7
6
)
10
34
※1.坂下は、高松慶子提供資料。横須賀海軍工廠深沢分工場。農業要員は3月31日、従って動員継続
は精確には12名。学校は、河沼郡の中心地にあり、国道49号(旧越後街道・新平線)に沿った会津
盆地の穀倉地帯で、当時は純農村であった。
2.三春は、『三つの春に』。郡山の東北航空と貯金局郡山支局。進学者は、紹介した事例から複数あっ
た。
3.棚倉は、「棚倉高等学校六十年誌』。横須賀海軍工廠。動員数と継続数との差6名は、卒業前の
1945年1∼2月に就職した数(郵便局、役場、学校事務、「地木社」など)。自営業には理由不明5
名を含めた。
保原実科高等女学校の場合
川崎市の東京兵機に動員された保原実科高等女学校の3,4年生は、4月15日の横浜・川崎空襲に遭った。
4年生は、一旦帰省し3月30日に学校で卒業式を終えて継続動員のため再度工場に戻った。そして4月15日
に被災した。南北二寮の南寮が焼けてしまい北寮に移り、l室4人が8人になり2人は押入れに寝る有様で
あった。それで4年生の農家出身の娘たちには役場の方から農業要員の用紙が配られ帰された。また空襲が
激しくなると親たちが心配して退学になっても仕方ないから娘たちを'1乎び寄せるって切符を送ってよこした。
その時、7人は退学して帰った。その内、2人は復学した。中には、津田文子さんのように父さんが戦死し、
兄さん2人が兵隊にとられる。田畑が広くて母さんが働き手だったが、その頃農業やるのは、母さんと姉さ
んと自分しかいないというので、親が自分の娘だけでも命を落とさせたくないという親心で農業要員にした
のです。ところがこの人たちは同級会で学徒動員の話が出る度に身を縮めるような肩身が狭い思いだったと
いう。同級の誰もそんなふうには思っていないのだが……。
(1999年10月15日、保原実科高等女学校座談会「学徒勤労動員を語る会」)
喜多方中学校の場合
横須賀海軍工廠に動員された喜多方中学校5年生と川崎の芝浦電気京町工場に動員された同校4年生の状
況をみると、
141
学年在籍甥
5年生
4年生
動員数前解除数
−
104
23
動員数
動員後解除数
11.30
9.30.
臨時卒業数
実務科終了数
(12
−
8
1
76
1
4
)
1
5
※1.『喜多方高等学校八十年史』による。
※2.5年生についての数字の記載がない。臨時卒業数は、軍関係志願者数で動員前、動員後の解除数
に含まれる。横浜・川崎空襲時の動員継続数は不明。
第4節工場内の空気、空襲と防空体制
工場内の空気
4月1日には米軍が沖縄に上陸して、本土決戦が唱えられ、4月5日には小磯内閣が総辞職して、7日に鈴
木貫太郎内閣が成立した。大変な老人が現れたことに、子供ながら驚いたものである。
さすがの造兵廠も、この頃から目にみえて作業量が少なくなってきた。試運転に廻ってくるエンジンは次第
に減って、1日に2台か3台、時には1台もないという日も出てきた。そんな日に検査掛の控室や工場の庭の
片隅で本を読んですごした。寮に帰って、押入れの中で寝ながら本を読んだこともあった。瀬石の小説などは
ほとんどこの頃読んだものである。『ファウスト』なども判らないながらも何日かかけて読んだ。英語の小説
を辞書を引き引き読んだり、英詩を訳して楽しんだりというようなこともあった。
5月25日仕事が廻ってこないので、やることがなく、1日検査の控室で本を読んでいた。何もやることが
ないのも困る。天気は'恢復し、空はよく澄んで、さわやかな5月の日だった。夜は大舘中の吉田君の部屋に行っ
て、みんなと十時すぎまで話をしてきた。ゲーテ詩集を借りて来た。
6月6日の天皇臨席のもとでの最高戦争指導会議では、本土決戦の方針が採択された。その頃のある夜、廠
長付のスタッフの一人で学徒の係などもしていた守屋大尉が中学生を工場の隅に集めて時局について話をした。
その中で、いま一部に和平工作が進められていて、中には九州をやってもよいから戦争を止めようという人さ
えいるが、諸君は最後まで頑張って働いてほしいというようなことを、悲痛なとだえがちの声でいった。裸電
球に赤くてらされたその顔はもう勝つことを信ずることができない苦悩に満ちていた。(中略)
われわれは勝つことのない戦の中にいることを知ったが、といって先に何がみえるというわけでもなく、本
土決戦の日がほんとうにやってくるのかもしれないと思った。
6月に入ると工場での仕事はますます少なくなり、その代り、「使役」と称して、壕掘りに狩出されるよう
になった。(中略)その中に、造兵廠の方から進学者は手続きをして退廠してもよいという話があった。
おそらく各地から多数の学徒や挺身隊員を動員した造兵廠では、生産が落ちてしまったこの頃は、人員過剰
になっていたために、割と気前よく退廠させたのではないかと思う。
(1975年3,4月号『自由』掲載、鈴木光男「語られざる、、勤労動員"」)
このような工場事業所内の空気は、あるいは工員の口から、あるいは若い将校や下士官の口から、又時には、
専門学校・高等学校・大学の動員学徒の口から曝かれた。また資材の不足や作業量の減少から、さらにまた恐
る恐る見上げる空中戦の様子から戦局の形勢が極めて悪いことを学徒たちは感知していた。
空襲と防空体制
1944年11月24日、マリアナ基地から飛び立ったアメリカ空軍のB29約70機が東京を初めて爆撃してから主要
工場や軍事施設の爆撃が頻繁になって来た。
横須賀海軍工廠
白河中学校の12月1日の「状況報告」をみると、「御承知の通り嬬敵米機は帝都の空、高々度に現はれ我
が生産陣の破壊や無垢の良民を盲爆をいたしております。この地域も帝都の外郭故、さぞ御心配のことと存
142
じますが、この地は[7字ほど判読不可]安全です。軍機に触れることを恐れ詳細には申上げ兼ねますが、
工場に於ては学徒は防空要員にはなりません。待避です。警報が出るとすぐ安全な場所に待避いたします。
空襲警報に屡々逢いましたがその都度整然と待避いたしております。寮におきましても横穴式防空壕の設備
があり今更に拡張中です。
横須賀海軍工廠における福島中学校の学徒たちは、1945年の2月頃から防空壕掘りを専らやった。掘削区
域が区分され1週間分のノルマが課された。それを4日位で達成して、逗子の次の田浦駅に並んで切符を買
い、それで帰省した。3月10日の東京大空襲の時は、防空壕から出て東京の空を眺めていた。4月15日の川
崎・横浜空襲の時は空が真っ赤になるのを眺めていた。(1999年10月19日、塚本利勝からの聞取り)
横須賀海軍工廠は、さすがに重要な基地だけあって空襲に備えて、立派な防空壕が整備されていましたが、
福島高等女学校の学徒たちが横須賀海軍工廠の逗子・沼間の寄宿舎入りをした昭和19年11月、閑静な寮には、
しばらくの間防空壕もなく、避難場所は裏山の林の中でした。じめじめと湿っぽく、ゆううつな所でした。
暫くして徴用のおじさん達が姿を見せ、宿舎の山の横っ腹から掘り始められました。掘り出された瓦喋を離
れた処まで運び出す作業は、防空壕当番の仕事で、寮当番が兼ねました。砕かれた泥や石をタンカに詰めて
外に運び出し大八車で運びます。初めて大八車の梶棒を握った私は、坂道の途中で足が宙に浮き上り両端を
支える友に笑われる一幕もあった。たち花の薫る校歌を口ずさむ誇りの中で「なびく黒髪きりりとしめて」
と学徒動員の歌に交えて、おじさん達に教わった演歌調を口ずさみ、掘り続け短期間で完成しました。縦横
と広く薄暗い壕に戦争末期の頃は毎晩のように潜った。寝入り端の警報に起き出すのは辛かった。長靴を履
いたまま暗闇の部屋で居眠りしていると先生が声をからして必死に誘導して下さった。横浜空襲の夜は壕の
上で高射砲が鳴止まず空が赤く輝いた。(『敷島の海いまなお藍く』所収、阿部英子「タイム・トンネル」と
石川トミ子「防空壕も立派に出来ました」から合成。)
保原実科高女が動員された川崎市中丸子の東京兵機では、空襲が始まった11月始めごろには、掘削した防
空壕はなく、かめ(?)のところに建てた木造であった。空襲警報が鳴ると斉藤さんが回ってくる。直ぐ入
ります、といって、寒いから出て行くのが嫌で、押入れの中に隠れていて解除のサイレンがなると、出てき
ました。空襲は大体夜中、昼間働いて、(週2回男子寮の)風呂に入って、夜になると空襲で寝る暇がなく
なった(保原高等女学校、座談会「学徒勤労動員の思い出」)。
東京大空襲
女子挺身隊員の事例だが、1944年3月29日に東京芝浦工業鶴見工場に出動した保原実科高等女学校の女子
挺身隊員は、新子安の社員寮に入居した。ある部屋で部屋の6人で布団を敷く位置を決めようとくじ引きを
した。菅野モトさんが一番入口に近い所になった。(いじめたつもりはなかったが、彼女は、あるいはそう
感じていたのだろうか。)彼女はやがて縁故を頼って寮を出て、東京の深川の方に引っ越して行った。全く
不幸にも1945年3月9,10日の東京大空襲で亡くなった。爆死だと思うが確認出来なかった。保原町では、
町葬を営んだ。彼女の死亡は、私たちにとって一番残念なことであった(2002年1月29日、松坂匡子からの
聞取り)。
原ノ町の空襲
1944年7月15日に、原町紡績原町工場に動員された前年相馬工業学校と改称された旧相馬商業学校3,4
年生は、1945年2月16日の朝、午後勤務の学徒たちは、担任・引率の先生たちと食堂で食事中であった。航
空母艦から飛び立ったアベンジャー爆撃機とグラマン戦闘機が陸軍原町飛行場目掛けて低空飛行で飛来し、
原町紡績所の食堂と隣接する女子挺身隊の北寮に機銃掃射を浴びせた。原町工業の斎藤和夫、原町国民学校
教諭の鈴木小松、女子挺身隊員の星スズイ、大原ョシ子が機銃掃射の直撃を受けて死亡した。警戒警報も空
襲警報も発令されなかった。斎藤の次兄は、その10日後の2月26日にマニラで戦死し、3度目の召集の長兄
は、7月29日にフイリピンで戦死した。父は失意のうちに翌1946年5月に亡くなった(二上英朗『原町空雲
の記録』)。
143
地元郡山の空雲
主として「保土ケ谷化学郡山工場学徒動員50年の集い」実行委員会編纂の『保土ケ谷化学郡山工場学徒動
員の記録ターゲットナンバー2025』に沿って郡山空襲を記述する。
1945年4月12日、横須賀鎮守府の指令で、厚木基地から飛び立った海軍偵察機「彩雲」は、午前10時15分、
房総半島南岸沖、高度2,500mで、針路を北に向っている敵編隊B29,3個梯団・40機を右下方並びに左正
横に発見した。この編隊は、「戦術任務遂行報告」に記載の任務63−第73航空団(主要目的:東京都武蔵野
市中島飛行機陸軍発動機工場)、任務64−第313航空団(主要目的:郡山市保土ケ谷化学)、任務65−第314航
空団(主要目的:郡山市保土ケ谷化学)の中の任務64,65の編隊であった。この日の空襲の状況については
当時の警防団長鴫原弥作を会長とした「郡山戦災を記録する会」による『郡山戦災史』にその詳細を譲って
概略だけを記す。
「ConfidentialDocumentsTNumericalIndexOfFarEasternTargets」には、郡山市内の次の
工場・施設が載っている。
1088日本精練会社
1655郡山駅構内
1658未確認工場(東北振興アルミエ場)
2025HodogayaTetraethylLeadKoriyamaPlant(保土ケ谷化学郡山工場)
6129未確認工場(日東工鉱業富久山工場あるいは郡是工業本宮航空機製作所)
また、周辺には、日本化学郡山工場、東北航空機などが隣接し、阿武隈川を挟んで南東には、海軍第1飛
行場、同第2飛行場があり、市街地の西方には、日東工鉱業郡山第一工場、同第二工場、同第三工場(中島
飛行機小泉工場の疎開工場)が並んでいた。中心部の南南西には片倉製糸(三菱電機)があり、日東工鉱業
富久山工場は、中心部より北北東数キロの郊外にあった。学徒が動員されていた工場・事業場は次のようで
あった。
動員工場等
日本化学
動 員 学 校
安積中、安積高女、三春実科、
東北大(理I
動員工場等
動 員 学 校
郡山高女、芳山国民(高)、
片倉製寿
棚倉実科(挺)、桃見台国民(高)、
福島市立女子商業、本宮実科
安積中、安積高女、郡山商業
保土ケ谷化学
日和田国民(高)、石川実科
郡山商業
東北振興
桃見台国民(高)
浜津鉄工所
郡山商業
白河高女、桃見台国民(高)
米沢工専、東北大(工;
日東第一
仙鉄郡山工機割
安積高女、猪苗代実科‘
磐城高女
日東第二
石川実科、猪苗代実科
東北航空機
須賀川商業、三春実科
日東第三
安積高女、桃見台国民(高)
郡山貯金局
三春実科
仙鉄郡山跡
郡山高女、桃見台国民(高)
日東富久山
耶麻実科、原町実科、磐城高女
川俣工業、二本松高女
《TetraethylLead))=4エチル鉛という爆発力のある航空機燃料を製造していた保土ケ谷化学がアメリカ
空軍の爆撃目標にされた。先ず、野戦命令No.55、本部第21爆撃指令(1945.4.11.付)、「爆撃結果及び損
害評価」付録文書E「先頭作戦総合的統計総括」などにより爆撃の概要を表示する。
144
任 務 達 成 度
任務
(
6
爆撃
航空丘
第73
64
第313
65
第314
主要任務
ターゲット
ナンバー
爆撃精度
(命中爆弾
目標爆撃
出撃機数
破 壊 敵 機 の割合
機数
武蔵野沫
11
中島飛行機
保土ケ谷化学
同 上
損失航空樵
41
230
202E
元の敷地面
積の破壊率
コスト
6.4
288
郡山市
(
%
)
任務の
B29(7:
3
5
.
;
62
5
9
.
(
護衛戦闘機
※
125
7
5
.
(
※任務遂行報告書にはNo.6129とあるも損害評価にはNo.1658とある。春日井の戦争を記録する会が
発掘した「DescriptionofTargets」には、郡山地区の地図に、No.1088JAPANREFINING
CO.[NipponSeirenKKl)、No.1655(KORIYAMARRSHOPS[TRANSPORTATION])
とNo.1658(NORTHEASTALUMINUMPLANT[TohokuShinkoAluminiumul)が記載さ
れている(福島民友、05.8.7.)。従ってNo.6129は、日東工鉱業冨久山工場の他に、同日空襲を
受けた本宮町の郡是製糸(郡是工業本宮航空機製作所=東北神第108工場)ではないかと推定され
る
。
この日午前11時25分の空襲警報と同時に郡山上空に侵入し、およそ5分置きに13回にわたり保土ケ谷、日
東冨久山、東北アルミ、郡山駅に加えて北町、方八丁、横塚などの市街や集落へ波状爆撃による機銃掃射が
繰替えされ、火災は、午後4時頃まで続いた。これにより工場内外、市内外の死者460人、負傷者30余人に
及んだ。
また、本宮でも死者37人、負傷19人を出した。この中の、動員学徒・女子挺身隊員は次のようであった。
郡山・本宮空襲による学徒・女子挺身隊員の死者数
安積中
保土ケ谷
日東冨久山
5
安積高沙
同(挺身
1
郡山
商業
桃見台
国民(高)
:
白河
高女
川信
工業
耶麻
高女
原町
高女
女子挺身隊
(学校不明)
u
1
郡是本宮
米沢
工専
合計
i
28
と
1
※白河高女の今井美枝子は、ガス壊痕という創傷感染にて2か月後に病院で死亡。郡山商業の葛西文
雄・滝田秀治・桜井敏也の3人は、3月に、4年で卒業し、4月より保土ケ谷に転換してこの'惨事
に遭遇した。原町実科は、重傷3人中1人は、卒業後死亡。空襲当日は工場付近で野宿し、翌13日
学校からの迎えのトラックで帰郷した。
郡山・本宮空襲による動員学徒の被害は、福島県内外の県内学徒被害中、最多となった。防空壕の内外で
直撃弾を受けた遺体は跡形もなく認印や認識票だけが残っていたという学徒もあった。
空雲下の学徒
郡山・本宮空襲の下を掻い潜った学徒の体験談や回想記を白河高等女学校第28回生『卯月』、原町高等女学
校第17回生『学徒動員から40年一郡山空襲の思い出一』などから紹介する。
背中の傷
あの日昼食にはまだ早いと揃って電解615(苛性ソーダ製造)の現場に戻り、長靴に履きかえようと思っ
た時、空襲警報発令のサイレンと同時に、爆弾投下、雨譲の如く、すさまじい爆風地響き黒煙が吹きまくり、
職場周辺はパニック状態となりただおろおろするばかり、離れないようにとお互いに手に手を取りあいなが
ら寮へ向う途中、大事務所の前で低空飛行機の機銃掃射に合った。中腰の体も硬直し足はすくみ動けなくなっ
てしまいもう駄目かなと思ったが、飛行機が上昇した隙に「防空壕に入れ」の声を耳にした時には8人の友
とは離ればなれとなってしまった。近間の壕はどこも満杯。研究所の裏の壕にやっとの思いで頭部だけ入れ
る事ができ、入口の丸太にしがみつき強い爆風に耐えていた。後に女』性のいる気配と同時に急に背中に重み
145
を感じ、見ると首がなく生ぐさい血みどろが振りかかってきたので仰天し、壕を飛び出した。外は倒壊した
鉄骨の残骸、凄い悪臭爆風、視界もきかず足元もおぼつかない有様。すると、うっすらと人影、よく見ると
小島淑子さん、全くの奇遇に、一瞬、互いに抱き合って喜び、心細かった心もいくらかほく令れた。それから
激しい焼夷弾投下、昨裂の中、どう歩き回ったか全くわからない。社宅らしい家にたどり着き床に八の字に
伏せた。
私が気がついた時は家屋の壁の下敷となり全く動けない状態だった。救助隊が頭上を通り過ぎる度に壁土
が顔に振りかかり気持ちがあせった。ここで死んでなるものかと「助けてくれ」と声の限りに叫び続けた。
かなり時間が経過した。手を借り担架に乗せられた時は安心したのか意識は全く腺I龍としていたらしい。私
の1怪我は、右肩甲骨のすぐ下を爆弾の破片が貫通したのだ。
研究所周辺が爆撃が最も酷かった所と後で聞かされた。爆死した班長さん始め渡辺、粂井、土屋、仙浪、
滝本、黒田、矢吹さんの8名は、電解615の職場の友であり「波浮の港」や「すずかけの道」などをよく合
唱したことが思い出として心に残っている。あの時の傷跡が常にうずき、命ある限りその傷と共に、あの悲
惨な情景は脳裏から離れることはない。そしてこれから先も、学徒勤労動員の証として傷はうずきつづける
だろう。
爆撃で重体の私を引き取りにきてくれた父母のこと
日東工鉱業冨久山工場で重傷を負った持立愛子さんの回想記を抄録する。苦しく辛い思い出も年月が経つに
つれ懐かしく思い出される思い出ならばそれは、やはり良い思い出として残ると思いますが、私には余りに
も悲しく辛かった事が多く、今もって楽しい思い出に変る事なく、ちょっと思い出しても直ぐに胸が一杯に
なります。
そのうち戦争もだんだん激しくなり、(昭和)十九年十月十四日学徒動員された頃から我が家には色々な
事が起きました。とりわけ何と言っても思い出として一番大きく忘れる事が出来ない、又忘れてはならない
事に郡山の冨久山工場への動員中に起きた、あの恐ろしい大空襲があります。
寒く長かった冬も過ぎ、待ち遠しかった春がやって来てようやく氷の張った糊で手が'│卒む事もなくなった
四月十二日のことでした。その日は大変天気がよく気持ちの良い日でした。何時もと同じように午前の仕事
を終え昼食の時間になったので四人の学徒と食堂へ行きかけた時、警戒警報のサイレン、続いて空襲警報の
サイレンが鳴り出したと思う間もなく飛行機の爆音が聞こえた。後を振り向くと銀色に光った飛行機が工場
をめざして飛んで来ます。私達は夢中で近くの防空壕へ入りました。防空壕は工場のすぐ北の方にあり、そ
のむこうは広い田圃になっていました。何かを祈るような気持ちで屈んで間もなく、ドカーンと聞いた事も
ないような大きな音と共に地響がしました。アシ爆弾だ、恐くて体が震えました。大変だっ、早く逃げなけ
ればと思い皆んなで防空壕から出ようとしたら、「危ないっ」、誰かが大声で叫んだ。見ると又、北の方から
敵機が工場へ向って来ます。急いで引っ込み体を小さくし耳を押さえた一瞬、家族の顔が頭に浮んだ。その
時すぐ近くに爆弾が落ちたのです。何かでいきなり打たれたような感じがしたまではわかりますが、それっ
きり気を失ってしまいました。(後で聞いたところでは、防空壕は爆風で潰れ、相田さんと私は怪我をして
しまい、他の人達は潰れた防空壕からやっと抜け出て夢中で逃げた。その後何度も何度も爆撃を繰り返し、
あの大きな工場が目茶目茶になり、亡くなった人や怪我人が沢山出たという。)
どの位時間が過ぎたのでしょうか、「助けて−,けむくて苦しい、その穴の中へ入れて−」という人の声
でハット気が付きました。途切れるような声で助けを求めています。ふと自分を見ると爆弾が落ちて出来た
穴の中に仰向けに寝ていました。どうして潰れた防空壕から出て穴の中へ入ったのか、今になるも分かりま
せん。その穴の上を凄い煙が流れています。大怪我をしているらしいその人を穴に引きいれようとして自分
の体が全く動かないのに気付きました。またどの位の時間が過ぎたのか、私が気付いた時には担架に乗せら
れるところでした。次に気が付いたのは、お寺の境内の藁の上に寝かされている時でした。さらにその次に、
工場のクラブ室のようなところに寝かされていました。そこではお医者さんや看護婦さんが応急処置をして
いたようです。「どこが痛いんですか」「どこも痛くないけど体が動きません」「お腹が空いていませんか」
i4e
といって小さなおむすびを下さいました。そして「誰か会いたい人はいませんか」と聞かれ「寮の桜20号の
人を呼んで下さい」とお願いしました。間もなく佐藤さんと掃部関さんが来てくれました。しかし大きい声
が出ないので二人が立っている入口のところまで届かず、二人はすぐ帰ってしまいました。それからも意識
が遠くなり、あたりが真暗くなってからトラックで病院へ運ばれました。
家では、愛子の工場が空襲されたかもしれない、明日は郡山へ行ってみようと準備をして夜の11時頃、床
につくと間もなく、「今晩は今晩は」と呼び起こされ、戸を開けると、目迫先生が「娘さんが怪我をされま
した。重体だからすぐに引き取りに来るようにと学校へ警察電話が入りました」と知らせてくれました。両
親はまさかという思いにかられながらまんじりともしないで夜明けを待ちました。学校で用意したトラック
に相田さんのお母さんと私の両親と姉などが乗って郡山へ向いました。
私は病院に運ばれた頃は痛みがなかったがその内だんだん痛みと苦しさが激しくなってきました。脇の下
に爆弾の破片が当り、血が固まっていました。腸が内出血をし急性腹膜炎を起こしお腹が臨月のように脹れ
ました。腰を強く打ったため痛みが全身に走り母や姉や相田さんのお母さんに休みなく撰んでもらいました。
その頃私は重体で、本当に部屋の隅に風呂敷に包んである足が見え、「足を持って来て、早くそこにある肢
を持って来て」と何か訳の分からぬ事を頻りにいって両親や姉を大変悲しませました。鈴木先生がお見舞い
に来てくれました。前工場長秀瀬日吉さんの奥様も娘さんの秀瀬つかさ(司)さん(女子挺身隊で仕事が一
緒)から様子を聞いて来て下さいました。
病院が町の中にあるのが心配で体が少し動かせるようになるのを待って退院しました。駅までは人力車で、
駅では父が、私をおぶって階段をフウフウいいながら登ってくれました。原町駅に着いたのは夕方でした。
生きて帰れて本当に良かったと嬉しさで一杯でした。稲村先生が迎えに出てくれました。
しばらくして座れるようになりそのうち足をひきずりながらも歩けるようになり、女学校最後の授業も少
し受けることが出来、21年3月に卒業することが出来ました。
空襲で意識不明に
持立愛子さんの回想記に見える相田文子さんの回想記からの抄録です。
昭和20年4月12日の空襲の時、私は防空壕に入る前のことから記'億がありません。空襲あった晩は、同級
生の皆さん全員が食事もしないで夜まで恐ろしい時間を過ごしていたようです。私は突然母に呼ばれて気が
付いたのです。多分翌朝です。どうしてここにいるのかと一瞬驚きましたが、体が自由にならずはじめて空
襲でやられたと判ったのです。病院に何日間いたかも覚えていません。病院から帰るとき桜がきれいに咲い
ていましたが、当時はそれほど桜を賞出る気持になれませんでした。隣組に星千枝子先生がいらっしゃって、
先生の家から我が家へ連絡が入ったそうです。
郡山から岩沼経由で母と二人帰る途中、私は物が二重に見えるので目を開いているのが大変だったので、
同席していた軍人が、私の様子をみて不思議に思ったのかもしれません。母に尋ねました。母は空襲や怪我
のことなどを話しました。その軍人は早速目を診てくれました。「視神経がやられて二重に見えるのです。
自然に治りますから心配することはありません」といわれました。大変親切な軍医さんと乗り合せ、思い出
すたびに感謝しています。
家へ帰ってから毎日渡辺医院へ電気かけと小林眼科へ通いました。親が仙台まで行って色眼鏡を買って来
てくれました。同級生は原紡へ通いましたが、私は、8月から原紡へ通いました。
回想記には、他校の2人の犠牲者のことが記されています。
焼け残った寮では、会津の耶麻女学生の犠牲者の通夜をしておられたのです。なくなられた方々の御冥福
お祈り申し上げます(阿部信子「ギラギラのB29がもう頭上に」)。
郡山に行って間もなく、鹿島の菅野トクヨさんは工業用のエレベーターで事故にあい太田病院に入院した
のを友達に聞きました。4月に入って12日午前11時頃でしたか、又空襲警報のサイレンが鳴り夜勤でしたの
で部屋で休んだり、洗濯をしたりしていました。びっくりして忙しく救急袋、防空帽をつけて工場に避難し
ました。解除にならず空襲となり爆弾が投下され、屋根はとぱされ口に目に砂が入りました。腰がたたなく
147
なったI先生を引っ張って隣の3階に移動し原液部のタンクの下にみんなで隠れました。このタンクが何時
爆撃されるかと思うと生きた心地がしなかった。工場の汲取りに来ていた農家のおばさん?が髪がバサッと
なったまま倒れていました。工場の聖堂の庭一面に犠牲者が鮭を掛けられている'情景を目にして涙がこぼれ
ました。この夜北の下の部屋では川俣工生のお通夜がありました。可哀相と思いました(伊賀ミチ子「工場
内の原液のタンクの下で命びるいを」)
左足切断の重傷
耶麻高女の犠牲者は、金子スズイさん、川俣工業の犠牲者は、半沢義行さん。他に耶麻高女では、五条方
愛子さんと庄司イチ子さんが負傷しました。五条方さんの手記を載せます。
本科2年卒業のため喜多方へ帰る時に、冨久山工場の耐火物科の皆さんと記念写真を撮りました。一番後
の男の方が馬場さんといって耐火物科の釜の辺で被爆し2カ月後位に遺体で見付かったそうです。私は4月
に専攻科に入学しまして工場に戻りまして4月12日の郡山空襲で被爆しました。左足の足首から下が砕けて
おり、郡山の陸軍病院に運ばれその日の夜の8時頃やっと手術台にのせられました。10日位してから左下腿
1/2以上を切断しました。それから長い療養生活が続いてやっと8月10日頃に退院、帰郷しました。
(庄司愛子「手記」)
空襲後の動員状況
学校
動 員 状 況
学校
動員状祇
学校
動員状汐
一時帰休、熱海工場
(学校工場)
郡山高女
動員継続.(学校工場』
三春実科
動員継綜
磐城高女
帰郷、自宅待檎
耶麻実科
継続動匡
安積高女
勤労奉仕.(学校工場)
白河高女
学校工竣
原町実科
原町紡績原町工場
郡山商業
高玉工場.(学校工場)
川俣工業
継続動匡
桃見台国辰
東北航空・学校工法
安積叩
※各校の記念誌や学校史が-'一分に把握していないところが多い。
その後も6月17日、7月29日と空襲が繰り返され、中島飛行機小泉工場の疎開による学校工場となった。
郡山高女・安積高女・桃見台国民などが被害を受けた。
横浜・川崎空襲
福島県の女子挺身隊や中等学校の学徒の動員先が、東京東部の工業地帯でなかったから東京大空襲では、
犠牲者を最小限に留めることが出来たが、福島県の女子挺身隊や中等学校学徒の動員先が集中している横浜・
川崎の空襲では死者こそ出さなかったが、その混乱と被害は甚大であった。2,3校の回想記などを紹介す
る。
安達中学校
(川崎市、三菱化工機川崎工場)4月2日、午前2時半、空襲警報ふとんをかぶって廊下に待機。工場に
行く。また空襲警報。4月3日、午前2時半より空襲、物凄い音、照明弾のため昼のような明るさ、防空壕
に退避する。近くに爆弾落下する。寮の南側は炎々として燃え上がる。芝浦電気らしい。黒い土煙が上がる。
周囲は火の海となる。午前6時鎮火、寮の戸のガラスは全部ふきとばされる。死体があちこちに見られる。
朝鮮の人らしい。4月6日、寮に居残り、京町の郵便局より貯金3,200円おろす。途中山王荘・川崎中学校
付近で爆弾落下の‘惨状を見る。4月7日、午前7時半頃より警戒警報、9時頃より空襲、敵機40機ほど西方
より侵入。工場の防空壕に30分ほど入る。高射砲の音が間近かに聞こえる。まだ生きているという感じ。午
後も警報がなりつづく。4月8日、寮に居残る。4月9日、杉並にて絵具購入、米2升と交かんする。62円
80銭追加。4月12(11日か)日、一日中市川先生と二人でこわれたガラス戸の修理。4月12日、工場よりガ
スタンクの見える風景油絵4号を描く。(現在唯一枚残っている)4月13日、夜空襲警報、午前1時より3
時頃まで東京の方、真赤に燃える。焼夷弾が落下する。ふるえながら北の空をいつまでも眺めていた。4月
15日、寮に居残る。銭湯に行く。ほうれん草をゆでて飯をくう。午後9時頃警戒警報、10時空襲。防空壕付
近に焼夷弾落下、寮危い、寮の屋根が燃え上る、物凄い音がする。はしごをもってくる、数人の生徒が上っ
148
て消す、そのうち塀が燃え上る。手のほどこしようがない。敵機B29が低空でやってくる。生徒を奉安殿の
前に集め、逃げる。かけてもかけても頭上にB29がついてくる。浅田警察出張所の前に生徒を集める。それ
から誉田和郎らと三菱の方に逃げる。焼夷弾の音、高射砲の音、焦熱地獄の中を塀によりそったり伏せたり
しながら走る。もうこの世も終りかと感ずる。富士電機が燃え上がる。河に入る、ここも危ない、はい上が
る、のどが乾く、身体が動かなくなる。再び浅田警察のところにひき返す。抜刀した警官に会い、非難の指
示をうける。風上へ、産業道路をひた走りに走る。逃げまわる人々の数が増えてくる。家財道具をもって逃
げる者、母を呼ぶ子どもの声、工場は次々と爆発する。市川先生の笛をたよりに雑とうの中を一団となって
かけていく。途中鶴見の橋にかかる。高台のあき家に入り、ここで一夜をあかす。5時夜明け、東国民学校
に集合する。点呼する、71名、行方不明者26名、不明の者が気になるので、京浜国道を真すぐに八丁畷に向
う。途中ぶすぶす燃えている。昨日までのきれいな街は一夜にして廃虚と化した。黒い立ち木と焼け残った
土蔵と金庫があちこちにあるのが印象的であった。日新寮はどこにいったかわからない。寮と思われる所に
は焼け残った木と奉安殿がくづれ残っていた。ここで一寸休んで工場に行く。不明の26名が工場に集ってい
た。健在であった。「よかった」涙がとめどなく出てきた。安田君らは前沼の池の中でふとんをかぶってい
たという。また五十石君らは富士電機付近で焼夷弾の雨の中を突破して三菱の運動場、海岸の方に逃げてく
れた。4月16日、工場で朝飯かゆをすする。生徒を鉄板の上に休ませる。小春日のよい天気だ、生徒は充分
ねむる。夕食をすまして午后5時20分、にぎり飯をもらい品川まで強行軍、道の両側は荒涼たる焼野ケ原で
ある。夕ぐれの中に80才位の老婆が独り坐っていた。品川に7時20分着く。それから上野へ、待つこと7時
間。4月17日午前2時半青森行に乗る。(安達高等学校『五十年記念誌』所収、二瓶大三「学徒動員と川崎
空雲一昭和20年の日誌より−」)
安積中学校
1944年10月18日に5年生が横浜市鶴見の京三製作所へ、4年生が横浜市の日本電解製鉄所と東洋電機戸塚
製作所へ向けて出動した。4月15日夜の横浜・川崎空襲で京三の工場と寮が全焼し、学徒1名が負傷した。
学徒は一時4年生の寄宿舎八紘寮に入居した。学校では、擢災学徒を帰校させるよう工場側と話合をし、4
月25日に、教諭2名を残して全学徒を帰郷させた。5月7日には2名の教諭も帰郷させた。(記載がないの
だが、次のことから日本電解鉄所も京三製作所と同時に引き上げたものと推定される。)5月8日に、日本
電解に再出動させるべく、臨時帰郷中の35名を召喚し5月9日に出発し、翌10日に引率教諭とともに八紘寮
に復帰した(『安中・安高百年史』)。
喜多方高等女学校の学徒の手記
1944年11月10日に、川崎市戸手町の池貝鉄工所に出動した喜多方高等女学校の学徒も4月15日の横浜・川
崎空襲に遭遇する。工場・寮ともに被災し、多摩川沿いの麦畑や堤防や河川敷を一晩中逃げ廻り、翌朝空襲
が収まってから男子工員の青雲寮で休養し、4月17日に、喜多方に帰った。その時学徒の一人が避難する途
中、麦畑で爆弾の破片を踏んで両脚に深い裂傷を負い、入院治療のため病院に残ることになった。以下はそ
の回想記である。
昭和20年4月15日夜の空襲にて川崎市は焼野原。近くの小学校(御幸国民学校か河原町国民学校か)の校
庭が救護所だったように思います。四方八方からのやけどの人々、私のように脚の怪我の人々、顔が血だら
け、腰や手足の怪我人の山。軽傷、重傷と分別されたようです。応急手当をし私達重傷の者は身体に荷札を
つけられ、トラックで横浜の十全病院に運ばれました。道路は空雲後のため穴だらけ、家が焼けおち、樹木
がくすぶり燃える煙。トラックの中ではうめき苦しむ何ともたとえる言葉もございませんでした。横浜に着
いた時、2名の方が亡くなっておりました。私のズボンも腰からワカメのようにたれて両脚裂傷で金火箸を
おしつけられるような痛み。トラックにしがみつき同乗して下さった関根先生(現在鈴木先生)の叫びが遠
くで聞こえておりました。でも痛みを感じる事が出来たので助かると思いました。
金棒のようになった脚。「幸い骨には異常がない、歩けるよ」、医師の言葉でしたが、信じられませんでし
た。病院では、毎日の治療を懸命になさって下さいました。朝夕の空襲もひどくなりタンカでの防空壕入り
149
の日々でした。記'億も薄くなりましたが、同室のやけどのおじさんに何程励まされた事か、「姉ちやん、脚
なくとも義足だってあるよ、若いんだから頑張れ………」と。私も笑顔をつくりうなづいていました。私は
幸せでした。しかしそのやさしいおじさんは1週間後に亡くなられました。大宮市に父方の叔父がおり病院
に来ては、「横浜はあぶないなあ、大宮の日赤病院に移したい。」と、父に代わり医師に相談して下さいまし
た。
2週間後と思います。池貝の工場の方々のお骨折りにより配車いただき、横浜市の十全病院から大宮市の
日赤病院に参りました。その後十全病院は空襲にあい大変だったとの事でした。横浜を出る時の医師の言葉
は「傷がきれいだと皮層移植の方法もあるが、傷が汚れているので……」。それからというもの「皮層移植」
をして一日も早く治りたい、そのことが脳裏から忘れられないで、何日目だったかに、医師に話してみまし
た。医師は、「傷がふかいし士と麦の芽とでとっても成功はしない。」というのです。それでも私は懸命に願
い出ました。医師は「痛みが加わるだけで」といって許して下さいませんでした。「医師をうらむなよ」と
もいわれました。
その内に医師から「沖縄の女学生も戦っているのだから頑張ってみるか」と言われ、移植しました。左大
腿部10cm×10cm位を剥ぐのです。麻酔もなく、1cm四方に切り、両脚に移植。医師は二言目には、「沖縄の
女学生は………涙も流せん。」が口癖でした。でも4枚ついたのです。医師は「残念だった、やっぱりなあ。」
とつぶやきました。しかし私は嬉しくて有難うという感謝の気持ちで一杯でした。新しい皮層が張って治る。
肉ももり上がり、全治を夢みて、荒い治療に耐え続けました。脚を延ばすと血が流れ皮層が傷つく。でも若
さでしょうか、肉のもり上がりもよく、目にみえて治って参りました。
笈川村(現在は湯川村笈川)の弟が大宮の叔父の家に養子に入り、浦和中学2年生、自分のおやつを持参
し毎日病院にきてくれました。肩を借りて歩行訓練。手を差し伸べ、励まし続けてくれました。日赤病院で
皆さんに親切にしていただきどうにか一人歩きが出来るようになった7月中旬、国鉄勤務の母方の叔父のは
からいで列車一マスだけとっていただき無事、故郷会津塩川駅に帰ってまいりました。歩いて笈川の家に帰
れた。泣けて泣けて………。夢でした。嬉しい、夢ではありませんでした。両脚切断と思っていた両親も、
喜んでくれました。(このあとお世話になった多くの方々への丁寧な謝辞がのべられていますが、割愛させ
ていただきます。)
私は、この事により心も身体も強くなったように思います。(特別寄稿、別府俊子「50年前の出来事」)
喜多方中学校
芝浦電気京町工場に動員されて3月29日に工場で卒業式を迎え、継続動員中の4年生は、4月15日の深夜
の空襲で、工場を破壊され、寮を焼け出され、卒業証書も焼失し、17日から19日にかけて帰郷し、4月20日
全員登校し報告会を行い、また斎藤徳雄と五十嵐大典が学徒を代表して所感を述べ「海ゆかば」を斉唱し、
諏方神社に報告参拝を行なった。(『喜多方高等学校八十年史』)
田村中学校
横浜護護に動員された田村中学校4年生の宿舎は、鶴見の総持寺裏の松風寮であった。3月に、緒方政次
校長が来社して卒業式が行なわれた。進路が決まっていなかったので、工場に残ることになった。4月15日
の空襲で寮も被災したため市役所から被災証明書をもらい、帰省した。鶴見一大森は徒歩で大森から国鉄切
符を買い電車に乗った。東北本線が不通だったので、常磐線に乗り、磐越東線経由で、小野新町で下車した
(「先崎昭聞書」)。横浜鶴見からの電車が不通のため、多摩川に架かる六郷鉄橋を渡り、枕木が煙を上げてい
る鉄路を品川駅まで歩き、各人が切符を買って帰郷した。私は、水道橋駅長を勤めていた親の知人にお願し
て三春までの切符を入手し東北本線で帰郷した(「中村広寿書簡」)。
保原高等女学校
川崎の東京兵機へ動員された保原高等女学校の場合を、座談会記録から紹介しよう。まず日にちがはっき
りしないが、Aさんは、昼間、給料計算の職場の仕事で通常門のところに並べてあるカードを調べに行った
とき、空襲警報が鳴り防空壕に入ろうとしたとき、機銃掃射にあった。大きな高い塀があって銃弾を防いで
150
くれたので無事だった。またBさんが、寮の防護班だったとき、白い洗濯物は飛行機の標的になるからと、
先生に命令されて2階の窓の洗濯物を取りに行ったときに機銃掃射され、銃弾が前の小川にババババッと落
ちて行った。あのときはもう駄目だなと思った。4月15日の空襲では、南寮に焼夷弾が落下し火災になった。
腰を抜かした人があってみんなで押して避難させた。避難した草むらが燃えていて、着ていた掻巻に火が着
いた。青い麦をふみながら普段は危なくて渡れないような一本橋を火事場の馬鹿力で一人も踏み外さずに渡っ
て畑の低い所にうつ伏せになっていた。普段は側も通れないようなおっかないお兄さんたち5人程が「保原
の女学校の生徒、こっちにこい」とバケツの防火用水をかぶって避難の先頭をしてくれた。本当に素晴らし
いお兄さんだった。空襲で南寮が焼けた後で、布団が田圃に運び出され山積みになっていた。4月に継続動
員で戻って来た専攻科生は少なかったが、南寮が焼けてしまったので、3年生の北寮に同居することになっ
た。4月23日に全員帰郷した。名目は、取りに行かなくてはならない荷物があるから一旦帰郷する必要があ
るのだということにした。切符は引率の鈴木先生が手配してくださった。
保原中学校
保原中学校は、4年生が川崎市の東芝電気通信機柳町工場と小向工場に、3年生が川崎市の日東化学と横
浜市の横浜ドック(三菱横浜造船所)に動員された。東芝については、ほとんど記録が遣されていないが、
横浜ドック「日誌」、日東化学の「監督日誌」、日東化学の指導教諭御代武久の「学徒動員の記録と思い出」、
同じく松本清一教諭の「学徒動員と私」、同じく氏家亮教諭の「花咲寮時代の思い出」、横浜ドック動員の菅
野益治の「終戦前後の日記より」、同じく石川金吾の「思い出の記録」など日記、日誌、それらを基にした
回想記がある。その内からまず石川金吾の空襲の記録を紹介する。
横浜ドック動員学徒の書報記録(1944.11.1-1945.4.22.)
月.日.警薪
月.日.警報
月.日.警報
月.日.警報
11.1警戒、空襲、警戒 12.14警戒
(2.8
14帰省)
3.20警戒、警戒
11.5警戒、空襲
12.15空塗
2.16警戒、空襲、空襲
3.24警戒、警戒
11.6警戒
12.18警戒
2.17空、警、書、善
3.29警戒
11.7警戒、空襲
12.19警戒、警惑
2.19警戒、空襲
3.30警戒、警戒
11.24警戒、空雲
12.20警戒、警戒
2.21警戒
4.1警戒、警戒、警戒
11.25警戒
12.21警戒、警戒、警戒
2.22警戒
4.2警戒、警戒
11.26警戒
12.22警戒、警慈
2.24警戒、警戒
4.4警戒、空襲、警戒
11.27警戒、空雲
12.23警戒、警戒、警戒
2.25警戒、空襲
4.5警戒
11.30警戒、空襲
12.27警戒
2.26警戒、警戒
4.7警戒、空襲
12.3警戒、空襲
12.28警戒、空襲、警蔽
3.4警戒、空襲
4.8警戒、警戒
12.5空襲
1.5警戒、警戒
3.5警戒
4.10警戒
12.6警戒、空襲
1.9警戒、空襲
3.6警戒
4.12警戒、空襲
12.7警戒、空襲
1.11警戒
3.7警戒
4.131 警、警、空
12.8警戒、空襲
1.17警戒
3.10空襲
4.15警戒、空襲
12.9警戒、警戒
1.19警戒
3.11警戒、空雲
4.17警戒、警戒
12.10警戒、空襲
1.22警戒
3.12警戒
4.19警戒、警戒、空襲
12.11警戒、警戒
1.27警戒、警戒、警戒
3.15警戒
4.22警戒、警戒、警戒
12.12警、空、善、空
1.28警戒
3.17警戒
(4.28動員強行離脱)
12.13空雲、警戒
2.2警戒
3.18警戒、警戒
計(警戒104、空襲32)
∼
保原中学校と平商業学校の強行離脱
まず保原中学校の経過を当時の日東化学「監督日誌」横浜ドック「日誌」、御代武久、松本清一、氏家亮、
角田四郎の回想記、菅野益治の「日記(抄録)」、柄沢孝行の回想記などを採り上げる。なお角田の出典は昭
151
和51年2月27日発行「保高同窓会報」、また柄沢の出典は、昭和57年3月1日発行「保高同窓会報」である。
記
日付
事
4月12E
夜銭湯にはいって時計とワイシャツをぬすまる(氏家)《
4月14日
(土)晴、氏家、昨深更より今暁3時にかけて、B29の大挙来雲有り、生徒直ちに国民学
校側の横穴式壕に待避せしむ。全員無事、至近弾もなし。氏家以下7名生麦病院にて健
康診断を受け、軽度の脚気なりと。会社末永課長より2直制16日より実施の旨の通達あ
るも、現場3校監督未交渉なるを以て遅延せん様あり。会社よりパンの配給あり、6枚
宛生徒に分配せり(監督日誌)。昨深更より今暁2時にかけて、敵B29大挙来雲せり、波
状攻撃にて眠ること能わず、全く苦労した。待避は横穴だ。そこで2丁目町会の奴らの
変な言動に腹がたったから別の方にはいった。今夜は荻窪、中野、新宿方面。生徒たち
の脚気の状態心配だ。このところ病人続出、早く引揚げたし、今のように何もかもが和
の脳細胞になだれ込んできては、どうにもならない。ところで会社人の狭さ、オポチニ
ストなのにはあきれ果てて、しみじみ帰りたくなる。栄養がなく、病気になってゆく⑦
をみるといやだ(氏家)。
4月16日
(月)快晴、氏家、末永課長来寮、その話によれば、会社所属の鶴見の寮3つは、昨夜‘
空襲により焼失したる由、そのため稚災者へとして、各生徒の布団を掛・敷布団各1芯
ずつ提出せしめ、トラックにて持帰る大なる被害なり。昨夜10時より今暁1時までB2!
来襲、いよいよ横浜地区にも投弾、各地に火災生じ、被害多し、在寮、在工場の生徒全
員無事異常なし(監督日誌)。昨夜から今朝にかけてB29200機の来襲、9時から朝の1
時半まで壕に入っていた(菅野)。
4月18日
(水)、御代、氏家、15日の空襲により、東芝の動員中の5年生の寮焼失せし由(監督日
誌)。川崎空襲となり、4年生の東芝組は焼け出された。その頃単調な寮生活、会社の生
産機能の低下、社会'情勢の不安等によって、動員に対する疑惑もあり、空襲の危険も堤
大し不安な日の連続となってきた(松本)。本日寮に着く。その日は品川まで行ったが
その先は電車が不通のため、品川から電車道に沿って歩いた沿線の両側は見渡すかぎり
の花々たる焼け野が原。所々に焼け残りのコンクリートの建物の残骸が見えるだけだっ
た。沿線にはむしろをかぶせられて、足だけ出している死者も見られた。悲惨な限りて
一一
あ
た。東芝の寮は焼かれ、次第に横浜地区に移って来た空襲のため、いつ爆弾・焼夷
弾に見舞われ、明日の命も判らないという状況だったが、我々の花咲寮では、全員被=
を受けなかったことは、ほんとうに運がよかったと云うべきである(御代)。野辺先生力
帰り、小川先生が来る(菅野)
4月9日
(木)晴後雨、御代、氏家、非常米及び缶詰を生徒に渡す(監督日誌)〈
4月20日
(金)曇、御代、氏家、午前9時、学校長、徳永教官同伴来寮、空襲視察被害状況視察の
ためなり。当寮において、横浜ドッグの派遣教官2人(小川、松本両先生)をも呼び
種々最悪事態に対して協議せり。協議の結果より、当工場の生徒勤務を昼勤のみにすそ
事を校長指令し、その旨の書を工場長に提出せんとす(監督日誌)〈
4月21E
(土)晴、御代、氏家、工場長、末永課長と昼勤務のみの要件に就いて懇談するもまとま
らず、種々の事由あるも不可能。前の理由により勤務は、当分の間は3交替制なるを生
徒に告ぐ(監督日誌)。
152
日付
4月22日
記
事
晴、総員88名、帰省者4名、病欠1名、出勤者83名。松本教諭、花咲寮に御代、氏家両
教諭を訪ね、同道にて来社、川崎の4年生の寮に甲賀、角田両教諭を訪問す。8時頃出
発。昼松本先生と交替す。4時松本先生より'1乎心(出?)し、学務課に於て福島県派遣
教職員と学徒係と相談、午後6時迄課長、其の他と話合、懸案決定、課長の言質を取る。
御代、氏家先生来舎、日東に就いても同一歩調を取ること決定、工場長との話合い24日
とす(日誌)。奥山、佐藤滋君の3人で、B29の墜落地へ行き、ペンチでジュラルミンの
一片をとってきた(菅野)。
4月23日
(月)晴、氏家、御代、交替休日につき、早春女学校側に撃墜されしB29の残骸を見学
併せて正に酌なる春の田園を訪い。便所に各個人の悪口を落書するものあり(監督日誌)。
4月24日
(火)薄曇、御代、氏家、午前11時頃、学校長より電報3通あり、それについて横浜ドッ
グにおもむき、小川、松本先生と種々協議相談す(監督日誌)〈
4月26日
(木)晴後雨、御代、氏家、午前横浜ドッグの小川教諭と共に神奈川県庁に出頭す。日夕
点呼の際、次の事注意す。空襲非常の際の緊急持出品の整理。帰郷についての個々人の
妄想を助長するなかれ(監督日誌)。4月26日午前中、小川先生、氏家先生と3人で、
(神奈川)県庁学務にひやかしに行った。それはすでにその頃は空襲が烈しく、いつ焼か
れるかも知れないから、死傷者の出ない中に、急ぎ帰校せよと、福島県視学官某氏が動
員先の学校を回って話して歩いた。それをきいて、近い中に引き上げる覚悟はしていた
ものの、1度、神奈川県の意向をさぐってみるための試みだった。学務課を訪ねて、早
速小川先生が独特の口調で切り出した。「近頃は地方から通年動員で来ている学校が、ぼ
つぼつ引き上げるそうですが、ほんとうですか。全く不届きですね。」木っ葉役人がその
言葉につられて、滑々とまくし立てた。「通年動員令による国家の命令で勤労奉仕してい
る学生が、そのことを忘れて、空襲に恐れをなして引き上げるとは、まことにけしから
ん。そんな学校は、この非常時下、風上にもおけないものだ。あくまでも国策に沿って、
本土決戦まで勝ち抜くため頑張るべきである。卑法(怯?)なことだ。」という意味であ
る。県庁から出たとたん、我々3人は、その役人の口まねをして大いに笑った。街はう
ららかな春景色だった(御代)。4月の半ば頃より、引き上げの計画がひそかに進められ
ていた。そして4月27日に決行することにして手配した(松本)。会社との話(帰校の件)
決裂、横浜ドッグの先生方と相談の結果、このままでは坪あかず、致し方なし、脱出決
行ときまる。帰寮して御代先生と相談、脱出はよいが、寮管理人と賄方関係から会社に
洩れたら大へんだ。そこで管理人のおじさんには、全員で一時帰省することになったと
欺こう(氏家)。その頃になると、横浜ドッグの監督の先生と連日緊密な連絡をとりなが
=
レ
ー
引き上げについての計画を練っていた。生徒には、(重複部分省略)切符は買えなし
が駅長に依頼してみる。万事てぬかりのないようにしておいた。全員を廊下に集めうす
暗い電灯の下で引き上げることを、声をおとして静かに話した。工場には内密にしてお
くこと。寮の管理人にも絶対気づかれないようにする。もし、これがばれたら、今後と
豚
んでもないことが起こることになる。万事、|隠密行動をとることなど、生徒は皆
一
驚いたが、嬉しそうな顔をした。半年分の苦しみが一ぺんにとれるという解放感で、何
とも云えない晴れ晴れとした顔をした。あの瞬間の感激は誰もが思い起すだろう(御代)。
153
日仁
4月27E
記
事
(金)晴、総員88名、欠勤7名、出勤81名。行進、軍歌良好。松田、野辺両教諭より電信
を受く。寮内学徒係より受領、松本教諭に手渡す。午後1時半、御代教諭事務打合のた
め来社す。桜木町駅に出張(乗車券購入について)、午後5時、再度出張を要す。午後7
時半頃、諸星、丹羽両氏来る(神奈川警察部長通牒を示す)。午後10時まで帰郷準備す
(朝食配付す)(日誌)。賄方には
ということで、賄主任は男伊達
思い切っ
てうちあけようということにした。これは、大事なめしのことがあるのでやむを得ない
処置だった。御代先生と共に賄主任を監督室に呼び、実情吐露、さすが元競馬騎手深I
生まれ。「ようがす、あっしも男、夜を徹してにぎりめし作りやしよう」とはじめてく和
たが、途中空襲警報発令、消灯という事態がおきて真暗闇、ところが元騎手はろうそく
たててにぎりめし作戦。寮管理人は玄関左手の管理室でおねんね。さあ、明日は早い
ねるねろとねかせてしばし、御代先生と私はガバと跳ねおき、「昼勤が来ない。」「さとE
れた°監禁された」そのときの御代先生と私の顔はまつ差
とはいえ、四辺は真の
闇。2人の胸ははげしく起伏した。脱出漏洩、もうだめだと思ってどれぐらいたったろ
うか。玄関の戸が開いて昼勤が帰ってきたときの安堵は、全く何ともいえない。2人1コ
玄関に走っていった。「気づかれなかったか。」「交替がくるまでといわれたが、むりに帰っ
てきた。」(氏家)。大雨の降る夜10時頃まで引き上げ準備をした。うれしくて寝られなかっ
た生徒が大部分であった。(午後7時頃会社の学徒係2名来寮し、その筋の厳しい警告α
通牒を示された。ここに至って決行あるのみと決意を固くしたのであった。)寮の管理老
(舎監)には、明日は電休日であるので、鎌倉まで遠足に行くから、朝昼2食の弁当をつ
くるよう交渉した。始めは言を左右にして応じなかった。(会社より吾々の行動が通報さ
れていたらしく感じとった)。食糧封鎖は、会社の足止め策のようだった。ここに至って
挫折しては、いままでの苦労が水泡となると思い、実力行使しても承服させねばならだ
いと、すごい権幕であったのか、舎監は顔の色なく振(震?)えて、朝飯は夜の10時、
昼飯は朝の3時に飯(炊き?)上げることにした。これであとは時間待ちだと心に言ヤ
きかせた。このことは、いまでも忘れることのできない一生一代の賭であったと思って
いる。しかし、これは保原中学校の校名がバックにあったからで、自分1人ではできな
いことであった(松本)。[月日不詳、4月27日以前]東芝通信から生徒を引き上げさゼ
る為に、会社側の諒解をとりつけることは、甚だ困難でありました。幸いその(=出発)
前に会社側から福島県へ職場転換のため帰郷することの諒解をとりつけていましたので、
我々の川崎離脱に文句をつく事が出来なかったことも事実として書き添えておきます。
(切符購入の)万策尽きて、当時川Il1奇市考査役のポストに、元保原校校長風巻義雄先生力
おられるときいて、私は先生を訪問し、窮状を訴えました。その時先生はむしろ喜ば才
た様子で、最善を尽すと約束して下さいました。私は乗車券を胸ポケットにしっかり拒
きしめながら会社幹部から「若し乗車券の購入が出来たらお帰りください」と言われそ
のを身じろぎもしないで、この耳にしっかりと聞きとりました(角田四郎「終戦秘話」)。
154
日付
4月28日
記
事
午前3時起床、帰郷準備、昼食配付。午前5時各室清掃後、出発す。午前6時桜木町着、
少数者、電車にて参る。午前7時30分上野発に遅る、8時15分に乗車。午後5時半福島
着、解散6時。荷物一時預となす(日誌)。4月28日の朝の桜木町は霧が深かった。行李
を担うもの、リックをせおう者、桜木町駅頭で横浜ドッグ組と逢ったときのうれしさ
憲兵がきたときのオドロキ。上野駅で汽車に乗り、発車するまで、追っ手がきはせぬか
とハラハラ。ゴトンと車がきしんだとき、諸君がいっせいにうたいだした歌おぼえてい
るかい。、、さらばラバウルよまたくる日まで…・…..…〃(氏家)。横浜から帰る。昨夜、丸
で夢のような命令があり信じられない嬉しさでわきたった。「朝3時起床、荷物を持って
桜木町まで歩く。すぐ荷物を整理し帰郷の準備をするように。」松本先生、小川先生が神
様のように見えた。花咲寮と合流し、上野着7時、8時18分の仙台行に乗車、夕方5時
15分福島着。正当な許可を得ない夜逃げだといわれたが、夜11時、何とも言えぬ気持で
わが家に入る(菅野)。(風巻先生の)お陰で私達は、4月28日午前4時を期して川崎の
寮を出発し、無事保原高(中?)へ帰ることが出来ました。本当に風巻先生は有難かっ
た(角田四郎「終戦秘話」)。私達4年生の東芝組は、鉄道が不通のため、結局上野駅ま
で歩き上野駅で3年生の日東化学組や横浜ドッグ組と合流し帰郷しました(引地延男証
言)。私達日東化学の三菱寮の隣りの棟に平商生が来ていました。早朝3時に、非常呼集
で起こされ、寮の廊下で「これから直ちに福島に帰る、静かに荷物を纏め、寮の前に整
列せよ」との先生の訓辞に、一瞬驚き、不安と喜びが交錯したこと、平商生はぐっすり
眠り込んでいて、保中生が寮から去ったのも気付かなかったとのことでした。脱出1ケ
月後、(横浜ドッグの)三菱寮は空襲により焼失したとのことでした(柄沢孝行「保中生
と平商生学徒動員を語る」)‘
次に横浜ドッグ動員組の鈴木悦郎の「胸に大きな名札をつけて」の一節(第4連)を紹介しよう。
春浅いある真夜中
ぼく達は叩き起され
先生達は
「県」に呼びつけられたに違いない
文字通り「夜逃げ」の靴をはいた
憲兵にもしらべられたのではないだろうか
リュックの上にトランクを載せ
ほどなく寄宿舎が直撃弾を受けたと
うなりうなり歩いた
徴用工の人からの便りで知って
桜木町駅までの暗くて長い道
ぼく達は先生の「勇気」に感謝した
その時、三菱造船所へ出動していた平商業はどうしたか、清水幸蔵教諭は次のように語っている(『平商
六十年誌』所収、座談会「学徒動員の頃」)。
丁度わたしが帰る4月29日の1週間ぐらい前、県の視学官が引き上げていいという置き手紙をして帰った。
わかったのは翌日だ。保原の東野辺薫という先生と相談した。視学官に直接会ったわけではないから、あの
大将(視学官のこと)何いっているのかわからないというわけで、学校へ連絡しようということになった。
服部先生(平商校長)の返事は僕が行くまで待ってくれという。保原の話は県に電話して状況をきいてその
指示に従えと27日頃返事が来た。そして夜中(28日の朝)に(保原中は)サーと逃げて来た。明日(28日)
起きてみたら保原がいないんだ。服部校長は28日に来た。外から会社へ電話よこした。会社では保原が帰っ
たでしょう。平女(平市立平高等女学校)は前に帰った(帰郷日不詳、被災直後か)ので、(会社の)高岡
さんはどうか帰らないでくれ、という。(わたしは)校長が来て帰れというなら別だが、わたしの一存では
帰りません、といった。
鴫原先生は明日鎌倉へ遠足に行く、と弁当を作らせ、荷物をまとめさせて夜中の1時頃、桜木町駅から切
5E
符を買い、横浜から乗って逃げて来た。帰ったら召集令状が来ていた。
大量の乗車券をどのようにして確保したかについては、具体的な証言がえられていない。
相馬中学校の強行離脱
他方、相馬中学校の芝浦製作所川崎工場.大宮町工場動員学徒の状況はどうであったか。『自昭和20年3
月至6月(第二冊)修練日誌』に沿って跡付けてみる。
//////
東芝軽電気製造所大宮町工場
10月18日現在在籍67名‘
(東京芝浦製作所川崎工場
4月16日
44
4月15日
52
5︺
3
く
出勤/在籍
村上、卜口押シ中右太肢ケガ4針縫う。警戒警報(午前2:00,9:30,午
後3:00,9:30)、午後9:50∼午前2:00
一
一
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0
大空襲ハ川崎ヲ狙上
大空襲。ケガノ村上痛ミヲオシテ避難。25名
焼躍防
灰嬬ト帰ス。寮4棟全
出勤。昼食薩摩芋、寮ニテオ握り1個。南部、
寮全体へノ引火ヲ
グ
寮ニハ主トシテ
焼、生徒ノ消防隊大活
時限爆弾二触レ右手顔面二負傷ス。他ノ寮全
焼セルモノ多ク、擢災者入寮、相中生使用ノ
3棟ヲ空ク。学校二打電セントスルモ不能
焼夷弾ナリ‘
工場ハ被害ナシ。
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一 一
一 一 一 一 ー ロ
0
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口
村上、南部、栗田医院へ付添う。新明教諭、
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4月17E
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0
|渡辺、山本教諭警察署
連絡二芝浦へ。明日ヨリ午前9時午後3時ノ
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長へ。
2食ノ由伝達アリ
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4
4月18E
熊中舎監二食ヲ取消シ三食トスル由伝達アリ。夜中(19日午前1時)警戒警
報アリ。
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二
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1
I 倉、%
保原中甲賀教諭外1名来訪。 /
巡査駐在所ハ
報。小型機20機、
行キ確災証明書作成。渡辺教諭工場へ連絡、学校
更二数十機、急降
へ打電。渡辺、総工場長吉岡氏卜懇談。2班ニワ
下機銃掃射ヲ行う。
ケテー時帰省セシムルコトニ決定。帰寮後前班帰
省ノ希望者ヲ募リシモ少数ナリ。故二先発トシテ
4
4月20E
一 − 一 ー = 一 一 1
口
午前10:00空襲警
午前8時校長突然
5人ヲ返(帰?
来舎
ン、
残生徒ヲ2班二分ケテー時
帰省セシムルコトニ決ス。夜二入リテ山本氏帰'ノ
一
フー、
県ノ方針トシテ、如何ナル方法ヲ講ズルモ県
ハ其ノ責ヲ負フニツキー時一先ヅ帰省セシムベシ
トノ事ニテ意見ノ対立ヲ見ル
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4月19E
0
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山本之ヲ統率シテ市役所ニユク。校長卜共二師岡氏二面接シ銀
里ノ父兄ノ心配ヲ語り、一時全員帰省ノ事語リシトコロ、即亥’
一時帰省ノ事二決シ安心スル。夕刻、山本帰リテ、市役所二旗
テ小牧労務官二審問サレ、帰省ノ返答ハ明日午前11時、勤労語
ノ責任者二対シテ話ス旨申渡サレ、証明書ヲ預ラレテ空シク
|帰リシヲ伝エラレ暗然ダル思ヒトナル。コノ夜、山本氏帰ラズ。
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1
5
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一
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本朝5人帰省ノ途ニツク。前班ノ乗車証明書ノ交付ヲ受クル為
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4/
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東芝軽電気製造所大宮町工場
10月18日現在在籍67名
出勤/在籍
(東京芝浦製作所川崎工場)
3
4月21E
校長ハ昨日ノ不安ヲ残シテ金沢八景二行ク。午後1時、師岡氏ヨリ本日ノ午
前11時二市役所二於テ伝達ヲ受ケシトイフ労務官ヨリノ達ヲ受ク。《相馬ヰ
学校学徒ノ職場転換神奈川県知事ノ緊急命令ニテ、然シテ即刻トラックヲ
差向ケルニヨリ移動セヨ》トノ事。直チニ新明氏ハ金沢八景ノ校長二連絡二
急行。寮二帰リテ生徒へ事情ヲ語り決意ヲウナガス。山本氏帰リテ非常二窯
一ノ、告一
一庁辺ヲ一
一県渡第一
一島。次一
一福スノ一
一、行事一
一氏急二一
一両ク長一
一本べ署一
一山ク察一
一、受警一
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一長ヲ地。一
一校命菊グー
ヲ山岡参二
張、師沢場
出長リ野工
時校至、ビ
臨。ニキ再
ノブ場間。
氏貰エヲス
明テ町情辞
新シ宮事ヲ
、校大二場
モ帰テラエ
ルヒシサテ
至思人、シ
ニニ3上会
弦毒卜逢面
態ノ氏二二
事気本氏事
1
4月22日
ク。夜ノ9時新明氏帰寮、校長モー足後レテ帰寮ス‘
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一 一 一 ‐
■
戻レバ、石川島工場ヨリトラックヲ倶フテ、勤労部長野中氏、課長黒田氏、
学徒係綿谷氏来社サレ至急ノ移転ノ相談アリ。県ノ命ヲ待ツコトナレトモ、
職場転換ハ県ノ命ヲ侍ツコトトシテ其ノ間安全地帯ニー時的ニテモ避難スル
ノ要ヲ認メ、即刻、トラックニ荷物ヲ積ミ、生徒8名ヲ引率シテ同乗、上大
岡ノ新寮二赴ク。午後9時生徒8名ヲ倶シテ南加瀬ノ寮二着キ、最後ノー夜
ヲ送ル
1
4月23日
32
朝ヨリ荷造リヲナシ、待機ス。午後1時勤労課ヨリ黒須氏、石川島工場ヨ'ノ
綿谷氏ダットサンニテ来舎。荷ヲ積ミ、学徒ノ離寮式ヲ挙行シ6ケ月ノ懐シ
キ寮ヲ後ニス《
i福島県知事ノ電報二接ス。県内配置転換決定、即時全員引き上げ。
あまり明瞭でないが、これによって4月23日に、神奈川県と対立していた川崎工場組の学徒の[県内配置
転換]という名目による全員引上げを強行し、他方大宮町工場組の学徒の石川島工場への配置転換を行なっ
た。4月24日到着の4月23日、知事並びに校長発信の電報が、大宮町工場の師岡氏のところで差し抑えられ、
4月27日に至って入手するという背信行為などがあって相互の関係はギクシヤクするところがあった。その
間、4月25日に校長から電報で、個々に帰すべき旨の指示があった。石川島工場組は、両県交渉確立までの
間、勤労奉仕などの作業に従事することを承諾する。他方、相馬中学校同窓生の厚生省動員企画課長斎藤邦
吉氏と4月27日以降度々接触、依頼するところがあったが、退社式を挙行し引上げたのは、6月16日のこと
であった。
この間の学徒在舎数と出勤数によって勤労動員の実態を示す。
空襲以降の出勤状況
4.23
4.30
5.6
5.14
5.21
5.28
在舎数
41
40
7
1
:
1
1
1
出勤数
32
29
13
I
K
8
6.5
6.12
6.1E
i
:
11
公休
1
(
富岡(横浜)の空雲
1945年6月10日のことである。横浜市金沢の海軍航空技術支廠に動員中の相馬中学校4年生の伏見猛等は
日曜日だったが出勤した。出勤して間もなく空襲警報になり、菊地了(あきら)、桃井可生、南原文夫に出
157
会った。「少しの間だから待った方がいいよ」と、伏見が止めたが、「いや、いつものことだから大丈夫・・・」
と振り切るように3人は帰っていった。この頃は休みも少なく、「月月火水木金金」を合言葉に、日曜日も
返上して勤務する日が続いた。この頃は、月にわずか2回の休みが与えられるだけだった。それだけに徹夜
作業明けの休みが待ちどおしかったのだろう。その気持ちは痛いほどよく分かる。一目散に帰って行ったばっ
かりに、ボーイングB29の爆撃に遭遇してしまったのだ。
吉田勉は、その時現場近くにいた。その朝、空襲警報解除のサイレンがなった。空を見上げ、南方洋上に
悠々と引き上げる米軍爆撃機B29の姿を見た。その時、ピーピーピー………ガサガサ……・・・と聞き慣れない
音がした。何の音かわからずぼんやり立っていた。そばにいた兵隊達は地面に伏せていたので彼も伏せた。
伏せるやいなや、ドカンドカン………という音がして吹き飛ばされた。ボーイングB29から落とされた爆弾
の音だったのである。起き上がるや否やガーンと耳なりがした。しかも、頭上からは板切れや砂塵が雨あら
れのように降り注いできた。急いで寮に帰ったが、南原、菊地、桃井はまだ帰っていなかった。暫くして桃
井が1人で帰ってきた。髪を逆立て−吉田は初めて逆立つ髪形を見た−青白い顔で、足を引き摺り引き摺り、
言葉も満足でない有様である。あり合わせの薬で怪我の手当てをし、少し落ち着きを取り戻して桃井が語る
には、湘南富岡駅までは3人一緒に来たが、下車してから桃井は腹の調子が悪くて3人で駆けることができ
ず、彼だけ遅れてしまった。その時ピーピーピーの爆弾投下に遭ってしまい、桃井は近くのトンネル入口の
下水に叩き付けられた。2人はどこにいるかわからない、ということだ。
そこで早速、桃井の案内で菊地、南原をさがすことにした。富岡駅までの途中の家という家はことごとく
吹き飛ばされ、生き残った家族は震えながら、抱き合ってただおろおろ泣いているだけ。(中略)トンネル
の中もガードと同じように死体の山。電車が止まっていたが、窓ガラスのない窓枠と台車だけだった。運転
手は息絶え、女の車掌は、胴部から真っ二つに切断され、腕章をしたままの姿で爆死していた。
トンネルの入口と出口に、すなわち京浜急行線富岡駅近くのトンネル両側に爆弾が落とされたのだ。トン
ネルの横浜よりの入口も死体の山であった。まさかと思いながら1人l人確めているうちに菊地に似た遺体
が見つかった。歯並び、着衣から菊地ではないかということになった。遺体の一部は土に埋まり、直撃に近
い状態だった。
一旦寮に戻り、高熱をだしてやすんでいた太田先生に無理やり起きていただき、寮にいた友人西山種大
(たねお)等と共に現場に行った。皆で菊地であることを確認し、毛布に包み戸板にのせて、無言の帰寮と
なった。
南原も近くにいると思い、友人とスコップで土砂をすくいのけた。手が見えた。スコップで掘るのをやめ
て、手で土砂をすくいのけ、両手ですくいとるようにして南原の遺体を毛布の上にのせた。太田先生は、菊
地、南原の変わり果てた姿をみて、彼等の頭と顔をなでながら、「こんなになってしまって、こんなになっ
てしまって.…・…・」と何度も何度も撫でていた。
寮の食堂に遺体の仮の安置所が作られ、同じ寮でともに暮らした大学生等の遺体も一緒に安置された。こ
の寮で亡くなった者は10名を越えていたようだ。無理をした太田先生は高熱のため意識不明になってしまい、
雨の降る真夜中にリヤカーに乗せて、7キロの道を生徒3名で横須賀の海軍病院まで運んだ。6月11日、川
崎から岩崎、渡辺両先生が弔問にかけつけ、士を少し掘って木材や藁を敷き、遺体をよこたえ、その上にま
た藁や木を積んで火葬にした。まことに野辺の送りそのものである。
「了」だけが何故とくずれる母なかに部屋の我等も涙で座る菅野治郎
友二人爆死の報に粛として声もなきまま眼閉じたり大野博伸
(『相中相高百年史』)
この海軍航空技術支廠に動員され射撃部二科に配属された学徒の中の生駒浩ら12名(その後、内1名転科、
1名海兵予科入隊し、10名となる)は、1945年1月17日に、逗子駅から鎌倉を経由で平塚へ向かい、平塚分
所へ転属となった。その作業場は、松林と桃畑に囲まれた平塚工業学校の校舎の一部が当てられていた。個
別に机が預けられ、タイガー計算機と7桁対数表を相手に「弾道角修正計算」をする毎日であった。宿直の
158
夜は、室内運動場の卓球台で寝るのも忘れて卓球を楽しんだ。
空襲が次第に激しくなり、平塚も7月16日夜半、B29130機による焼夷弾爆撃を受けた。その夜、我々
5名は、宿直で、庁舎巡回を終わり、当直将校に「異常なし」の報告を済ませ卓球をやって床について間も
なくサイレンが鳴った。小田原方面から火の手があがり、たちまち平塚、茅ヶ崎、辻堂まで野火の広まるご
とく火の海となった。学校の別棟には、缶詰類などの膨大な非常食糧が保管されていた。我々は窓ガラスを
叩き割って持ち出すよう指示された。しかし、あまりの熱のため、缶詰はボーンボーンと大きな不気味な音
を発てて天空高く舞上る。我々は少しでも多くの缶詰を運び出そうと必死だった。その時、急に頭上で「ザ
アー」という音が聞こえ、危険を感じ桃畑に近づくと、誰かが「危ない!伏せろ!」と叫んだ。私はI出嵯に
箱を投げ出し地面に伏せた。その途端、目の前で「ドスン」という地響きがして頭から体が埋まるほど砂を
被った。するとどうだろう。落下した焼夷弾の黒い束は、砂地にめり込んだまま、全然爆発しない。私は、
反射的に跳ね起きて、砂を被ったまま全速力で其の場から逃げた。朝になって分かったのだが、空中で分解
するはずの装置が作動せず、束のまま落下した不発弾だったのだ。寮も学校も防空壕も、全て焼夷弾で焼き
尽くされていた。焼け出された我々に女子職員が赤飯のお握りを持って見舞いにきてくれた。我々は、餓鬼
のようにむしやぶりついた。後で聞いたらそれは高梁であった。でも、彼女たちの心優しさは本当に嬉しかっ
た。その(7月17日)夜、常磐線の列車に乗って相馬へ向うことになった。列車は超満員で我々はトイレ脇
の車掌室の窓から押し込まれるように乗り込んだ。ところが夜半、日立駅の手前にきたら列車はストップし
て全然動かない。それもそのはず、日立市は敵の猛烈な艦砲射撃で火の海であったのだ。数時間たって、よ
うやく列車は炎に包まれた日立市内を通過し、かろうじて相馬に辿り着くことができた(『相中相高百年史』)。
相馬に滞在することl週間。原隊復帰の命令がでたので、再び横浜の仲間と合流、射撃部に配属された。
それから半月後、8月15日の終戦を迎えたのである。
日立の空襲
日立製作所日立工場に動員された双葉中学校5年生、平工業学校機械科3年生、同勝田工場の平工業学校
2年生、経済専門学校2年生(22回卒)、同多賀工場に動員された双葉中学校4年生、磐城中学校4年生、
田村中学校5年生、高萩工場に動員された経済専門学校2年生(22回卒)は、1945年6月10日の日立空襲に
遭遇した。日立工場の爆撃の様子は次のようであった。
その日は月曜日であった。三笠宮殿下の御視察があった前日の日曜日と、交換休日になっていた。朝から
空襲警報がでていたらしいが、そんなことはお構いなしに、ゆっくり寝て起きて休日を楽しんでいた。便所
に下りて行った4,5人が外で「来た来た!」と騒いでいる。出てみると西方上空にB29の編隊が小さく見
えた。「落としたぞ!」という声に教えられてよく見ると、飛行機の彼方にゴマ粒のような点々が見える。
あれが………と思っているうちに、ヒューと言う初めて聞く空気を裂く音。続いてズズーンという腹に響く
音と共にはるかに見える工場本館の一部が吹っ飛んだ。それから皆で裏山を、それこそこのまま死ぬのでは
ないかという恐'怖心にとらわれながら逃げ回った。爆心地は工場なのに、1里も離れた山中を必死になって
右往左往していた訳である。爆撃は海へ出ては引き返し何回か行なわれた。
後で聞いたところでは延べ120機1トン爆弾120発の御見舞いだったそうである。午後になってから、監督
の半沢先生に引率されて工場に行ってみて驚いた。正門がない。側にあった診療所も見えない。舗装された
道路も沿道の工場もない。深い穴は1発落ちた跡、広く浅い穴は2発落ちた跡、穴と土盛りの眺めだけであ
る。埋められた防空壕で救出作業をやっている。怒鳴られるように負傷者の運搬を命じられて日立病院まで
運んで行った。負傷者は庭の芝生に溢れて何時治療してもらえるかわからぬ順番を待って苦しんでいた。
(双葉高等学校「双葉高校五十年の歩み』所収、松崎義次「代替休日で九死に一生」)
※1.三笠宮崇仁親王。1935年、宮家創立。陸軍少佐。戦後東京大学に学び、オリエント史を専攻。
※2.双葉中学の5年生は成沢寮、4年生はいづみや。
※3.この日の爆撃は、、、定期便"と呼んでいた新潟港封鎖作戦爆撃のB29による爆撃といわれている。
この6月10日の空襲で経済専門学校3年生の斎藤正夫が重傷を負い、2日後の12日に死亡した。
159
(河北新報社福島総局編『福島大学経済学部物語信陵の花霞』P.18
次いで7月17日には、日立沖に集結した米艦隊による広い範囲にわたる激しい艦砲射撃があった。それは
「ピカ、ヒューヒュー、ダ、ダーン、ヒュルヒュルの連続。泊っていた日立青年学校の寮からわれ先に逃げ
出す者、防空壕に入っても砂丘とあって生き埋めになる者と、まさに、阿鼻叫喚の地獄絵図」であった。こ
の砲撃で高萩工場動員中の緑川虎之助、中村元義、岡田弘、浜田一豊が被弾し、あるいは生埋めになって死
亡し、仙波久雄(2日後の7月19日に死亡)、馬目英一が重傷、星英三、後藤篤一、一条一男、白田正之、
山崎生徒主事補が軽傷を負った。さらに7月19日にも広い範囲で艦砲射撃を受けた。こうして日立製作所は
壊滅的な打撃を受けた。(『福島大学経済学部70年記念誌』年表、『福島大学経済学部物語信陵の花霞』)
氏家駅の空雲
1944年11月に、横須賀海軍工廠に動員された福島高等女学校の学徒の中には、健康診断の結果、福島に帰
され、学校工場(仙台陸軍被服廠)の軍手かがりの作業に従事していた学徒もいた。こうした残留組が、校
医の大原病院の岩永医師に「このくらいの体でこの非常時に学校で軽作業をしているのはもったい無い。も
う一度行ってお国のため働いてこい」と背中を叩かれ、「ただお国のためとしかいいようのない」気持ちで
横須賀の学徒隊に合流しようとした。
空襲が激しさを増し危険この上ない7月10日、午前7時53分発上野行きに吉田覚貞教諭に引率されて乗車
した。空いている座席に一般の乗客に混じって座った。10両ほどの列車はほぼ満席であった。車両ごとの車
内隣組長は男性である。県境を過ぎる頃には空襲警報が発令され、列車は徐行し、12時頃(当時の時刻表で
は12時13分発車予定)氏家駅で停車した。
福島駅を発車した直後に、引率の教師が、「出掛けに靴の紐がプツンと切れてしまった。悪い予感がした
が、若し万一の事があったなら、小関、菅野、後の事はくれぐれも頼むぞ。横須賀には行かず福島に連れて
戻れ」と話された、という。
突然爆音がした。組長の指揮で、「車内防空心得」に則って車窓のガラス戸を上げ鎧戸を下ろして、ガラ
スの破片が飛び散らないようにし、座席のシートをその内側に立てかけた。これが精一杯の車内待避であっ
た。
キューンという敵機が急降下する音、ダダダッという機銃掃射の音、視界を閉ざされた車内での不安感が
それらの音を増幅して耳を突く。9機位のグラマン戦闘機が波状に銃爆撃を繰り返した。停車中の下り列車
に相当の被害がで、上り列車も他の車両に被害があった模様だが、空襲が終ると間もなく発車した。九死に
一生を得ての横須賀行きであった。工廠の軍医の再度の無情な宣告にもひたすら懇願して、終戦のひまで一
日も休まず出勤した。
(『敷島の海いまなお藍く』並びに『氏家ステーション物語』所収、中村祷「氏家駅での命拾い」)
7月29日の郡山空雲
郡山の空襲は、4月12日の空襲後も繰り返された。7月29日には、郡山駅と日東工鉱業第三工場(中島飛
行機)などが爆撃された。この日爆撃を受けた郡山駅付近・第三工場・海軍航空隊の人的被害は29人に達し
た。当時仙台鉄道管理部郡山駅に動員されていた郡山高等女学校の学徒は、4月12日にも爆撃を受け、この
日も爆撃に見舞われた。
私は、出札掛、忘れもしません昭和20年4月12日、私は切符の売場を持たされていた時、空襲警報と共に
不気味な爆弾の音に心臓が張り裂けるばかりの動‘│季を押さえて、売上金を金庫に入れ切符の箱に鍵をかけ、
主任に早く防空壕に行けといわれて外に出た時、北の空には3機ずつの編隊で12機、こちらに向って来まし
た。ドカンドカン………防空壕は満員、トッサに私は駅前の自分の家に走りました。………私の家は焼けま
した。7月29日も売場を持っていました。お天気も良くヂリヂリと暑い日でした。B29が1万mの上空で銀
翼を光らせながら旋回していました。私は切符の始末ををきちんとして防空壕へ駆けて行った時、落ちた!
ひゆう−という音と爆弾の音と防空壕の中に押し潰されたのと同時でした。真暗闇の中で私は死んだんだ……
と思いました。元気出せ!頑張れ!生きてるんだぞ、と励まされて出て来た時は顔中真黒で、助かったんだ
160
と仲間達と手を取り合って喜びました。小荷物掛の若い男の人が爆風で腕を取られ血だらけになっていたの
は今でも忘れられない状況です。切符を買うために並んでいた大勢の人達も爆風でガラスの破片が体にささっ
て将棋倒しになって死んでいました。B29は、旋回して西方の第三工場へ向かい1トン爆弾を落しました。
(郡山女子高等学校創立60周年記念誌『紫にほふ』所収、若竹スミ子「学徒動員と郡山空襲」並びに2007年
1月14日の若竹スミ子書簡)
※日東工鉱業第三工場に投下されたのは1トン爆弾だとする説は、ターゲットナンバー1655(郡山駅構内)
が攻撃目標だとすると、パンプキン型模擬爆弾で1万ポンド(=4.5トン)爆弾と推定される。
石城地方の空襲
『いわき市史』は、いわき市成立後の編墓で、旧平地区以外の地区の空襲について必ずしも詳細には記述
されていない。そのため小名浜・常磐・湯本地区には、主要な工場が林立し、爆撃や艦砲射撃を受け、学徒
の動員状況にも大きな影響を与えたと思われるが、詳細は明らかではない。
旧平市内では、1945年3月10日、東京空襲と同じ日に空襲があり焼夷弾により585戸が焼失し16人が爆死
した。平商業学校の存続策として前年4月1日に創立されたばかりの平工業学校と市立平女子商業学校の校
舎が焼失してしまい、平工業は平商業に、女子商業は揚土に移転した。その後7月13日、26日、28日と爆撃
が繰り返された。7月26日の空襲では、1517戸が被災し3人が被爆死した。市第一国民学校、3月の空襲後
に移転した揚土の女子商業学校が被爆・焼失した。そのため女子商業は三崎に移転した。この空襲で第一国
民学校の校長・教頭ほか訓導1人が被爆死した。夏休み中で学童には被害がなかった。またこの時、林訓導
は高等科生が出動していた新川沿いの童子町の大阪造船所に出向いていて災難を逃れた。さらに7月28日に
も空襲を受け、188戸が被災し3人が被爆死した。この空襲で平商業が焼失し、才槌小路の平陽女学校跡地
に移転した。平商業には、5月から日立製作所鮎川工場が疎開し学校工場化していた。また平陽女学校は軍
用衣料品の縫製工場になっていた。また、女子商業も焼失し隣接する保育所へ移転した。度重なる空襲によっ
て平市内では、学校も市街地も壊滅的な状況となった。
この間の7月17日には、勿来方面が小名浜港沖合に停泊中のアメリカ海軍の戦艦から艦砲射撃を受けた。
その状況は、田村中学校4年生の回想記によれば、次のようであった。
寮の二階で寝ていたボクは、夜中の十一時半頃トイレで用足しを終えて部屋に戻り蚊帳の中に入りました。
疲れてはいなかったので、しばらくそのままの状態でしたが、突然ガラス窓に雷光が走り、轟音が窓ガラス
を叩きました。ボクはびっくりして飛び起き、窓を開けて外を見ました。すると頭の上を巨大な火の玉が幾
つも勢いよく飛んで行くではありませんか。数秒後には大きな地響きとともに建物が大きく揺れました。雷
のあとの地震、しかし、あの火の玉は一体何なのか?……頭の中はマッシロになりましたが、気をとりなお
して部屋を飛び出し、寮の庭にある防空壕にもく等りこみました。壕といっても砂地を掘って屋根に枕木を並
べ、その上に砂を被せただけのものでしたから、地響きのたびに枕木の隙間から砂が落ちてきて頭から砂ま
みれになってしまいました。三○分ほどで地響きは止みました。この夜はとうとうみんな眠れませんでした。
翌日の十八日は小雨だった前日とは違って、朝から清々しい晴天となり、朝食はいつものように済ませたも
のの、工場へは行きませんでした。というのも昨夜の火の玉は、小名浜港近くに停泊した米海軍の戦艦から
発射された大砲の弾丸だったというのです。(中略)その日の午前九時半頃、米空軍のグラマン偵察機が飛
来、低空飛行で小名浜港の上を旋回、コクピットの風防を開けてパイロットがニヤッと笑いながら地上を眺
めているのが寮の窓からはっきりと見えました。ほかの級友たちはみんな防空壕に避難しましたが、ボクは
昨夜のように砂かぶりにはなりたくなかったので、部屋に残ってグラマンを晩みつけていたのでした。結局
その日は工場での仕事はお休みとなり、夕食の後、身辺の荷物をまとめて全員が山のお寺に避難しました。
翌日の十九日は再びとんでもない惨劇が起こったのでした。朝からいつものように工場に行きましたが、そ
の頃は原料となる「石英粗面岩」の搬入がストップしていて、仕事も休止という状況でしたので、工場内の
整理とか草むしりなどで時間をつぶしていました。夕方、寮に帰って夕食を済ませ部屋に入ってハーモニカ
を吹いたり故郷の母に手紙を書いたりしていました。午後九時には消灯となるので、布団を敷いて横になり
161
ましたが、ボクは変な予感がして眠れませんでした。三○分ほど経った時、警戒警報のサイレンが鳴り響い
たので、みんなが一斉に飛び起きて庭の防空壕に避難しました。しかしボクは避難せずに、廊下を挟んだ南
側の部屋に入り、窓を開けて日立市の方角を見つめました。するとパラシュートをつけた照明弾がピカッと
光り、勿来海岸のあたりまで明るくなりました。一瞬の間を置いて今度は焼夷弾の投下が始まり、日立の市
街地から大きな炎が上がりました。米空軍爆撃機B29による「無差別大量殺裁」だったのです。この時、ボ
クは戦争というものの恐ろしさを初めて実感したのです。(柳沼晴二「少年YHの戦争体験火の玉物語」[抄])
8月9日、10日、13日と小名浜地区が銃爆撃を受け日本水素小名浜工場で3人が死亡した。ここには、小
名浜実業学校2年生、小名浜実科高等女学校3年生が出動していた。8月13日(『呉羽化学五十年史』では
8月l旧)には、錦地区でも空襲があって、呉羽化学が銃撃を受け、機銃掃射で従業員1名が被爆死した。
呉羽化学は、呉羽紡績が軍需生産に転換したもので、大建産業(資本金1億5000万円、商社としては業界トッ
プ、綿紡績のシェアは日本の生産力の10.8%を占め業界3位、社長伊藤忠兵衛)を持株会社とするコンツエ
ルン傘下の工場であった。呉羽化学は1944年7月2旧、軍事工場として軍需省および海軍の監督下におかれ
た。そこには相模海軍工廠錦作業所が併設され海軍のいわゆるカーリット爆薬の生産と潜水艦からの8号2
型兵器と呼ばれた風船爆弾の放球作戦を計画した。この気球は相模海軍工廠錦作業所で生産した。また1945
年4月からは、爆撃を受けた昭和電工川崎工場に代わって陸軍勿来基地へ水素ガスを供給した。
8月9,10日の須賀川周辺の空襲学徒Aの体験
阿武隈川の束岸から学校工場(共同電気)に通年動員していた須賀川工業学校3年生の体験を交えて、8
月9,10日の須賀川周辺の空襲の様子を『須高八十年史』から紹介しよう。
この朝私は級友と3人で登校途中、ニツ池(現在東公民館)あたりまで来た時空襲警報発令を聞き、腫を
かえして自宅に向って急いで逃げ帰ろうとした。頭に陸軍歩兵用の戦闘帽に似た帽子を被り、胸に学校名、
学年・組、血液型、氏名を書いた名札を縫いつけたこれまた陸軍服に似たカーキ色(国防色と云った)の上
着を着て、背嚢を背負い両肩から樫がけに一方には防空頭巾(四角の綿入れ帽子)を、他方には医薬品・包
帯・妙り豆などの非常食を入れた雑嚢を下げ、脚にゲートル(巻脚紳)を巻き、ズック靴をはいたいつもの
登下校の服装であった。
和田(阿武隈川西岸)の根岸を過ぎたあたりを走って逃げ帰る途中、後を振り向くと本校上空で敵の艦載
機(グラマン戦闘機)が急降下しているのが見えた。機銃掃射と爆弾の昨裂する音が聞こえた。これが本校
の銃爆撃だった。
途中浜田村役場(須賀川市旧浜田支所)の前で小休止したあと来襲の合い間をぬって逃げ帰ろうとして小
作田橋にさしかかったところ再び敵機が飛来した。九時半頃だったろうか。急いで橋を渡り民家の間を右折
した所で敵機が頭上にさしかかった。とっさに3人で傍らの畑(西舘内地内)の縁に植えてある柿の木の根
元に隠れた。何波も来襲したがそのつど腹部だけを地面につけない姿勢で身体を伏せた。両手親指で耳をふ
さぎ残る指で目の玉を押さえつけてである。来襲の合間には爆風をさけるためいくらかでも身体を低くしよ
うとして素手で土を掘った。爆音の中押さえつけた手指を一瞬離して上空を見上げると機関銃を発射する焔
と爆弾が斜めに落ちてゆくのが見えた。搭乗員の頭もはっきりと見えた。この時の小型爆弾は小作田橋を狙っ
たもので橋の東側下流3,40メートルの土手が川へすべり落ちた。また他の一発は近くのトマト畑に落ち地面
に穴が開き、爆風でトマトが吹き飛んだ。
さらに水郡線川東駅に停車中の上り列車が狙われ、機関車が機銃弾を受け走れなくなった。乗客が駅南に
疎開していた軍需工場(※未確認、私立福島電気工業学校動員の横浜の日本アスベスト[皇国第846工場]
の疎開工場か)の横から山の方に向って坂道を避難中そのうちの婦人一人が大腿部に貫通銃創を受けて間も
なく死亡した。いずれも私共から100∼200メートルの距離だった。来雲の合い間にすぐ近くの舘の土塁(現
在削平氏手西舘児童遊園地になっている)を利用してつくった防空壕に入れてもらった。満員で蒸し暑かっ
た。壕内に避難している間に小作田の民家一軒と前田川の延命寺が被爆焼失した。延命寺には松根油を取る
ため海軍兵が駐屯していたのである。
162
8月9日の須賀川工業学校
8月9日に、学徒Aが、校外から目撃した学校被爆の様子は、次のようであった。小型爆弾が四発投下さ
れた。その一発は正面玄関の左側、階段室と応接室との境目の校舎の基礎部に当たり、爆発して基礎コンク
リートを吹き飛ばした。その爆風で天井が落ちガラスが多数割れた。他の一発は中庭の池に落ち、泥水を跳
ね上げガラスを割った。また他の一発は、校舎中央の防火壁近くに、もう一発は二教室ほど離れた農園に落
ち、畑に三畳ほどの穴をあけた。校舎は至る所、ガラスが突き刺さり機銃掃射の弾痕があった。幸い早朝で
学徒の登校前だったので、人的被害はなかった。
市内の状況
この日の空襲は艦載機の小編隊で午後まで続き傷痩軍人福島療養所、浄水場、諏訪町紅屋工場付近、旧専
売所、公立岩瀬病院下の民家などに銃弾が打ち込まれ、小型爆弾、焼夷弾が投下され、新栄町では銃爆撃で
六名が死亡した。また笹原工業(東亜航空電機)に動員中の須賀川工業学校4年生は避難中に工場敷地内で
銃撃を受けたが、辛うじて難を逃れた。
翌10日にも午前5時29分空襲警報が発令され、艦載機が4回も飛来、旋回した。この日は、高瀬村の金屋
飛行場を襲撃した艦載機一機が地上砲火で西川に墜落した。パラシュートで脱出した搭乗員2名は、警防団
員・岩瀬農校生・市民に追い詰められて西川鉄橋上で捕虜となり警察署に連行され、郡山駐在の憲兵のトラッ
クで連れ去られた。連行途中で、伊藤七司(疎開中の元朝日新聞社ニューヨーク支局長)と須賀川工業学校
教諭星好の通訳による訊問が行われた。それから連日空襲警報が発令され、13日から16日まで艦載機が連日
飛来した。この間矢吹(陸軍)及び金屋(海軍)の両飛行場からは一機も迎撃に発進しなかった。
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8月10日の原町・浪江町の空襲
1945年8月9日、艦載機が飛来し、浪江国民学校を爆撃した。学校には、軍隊(隊名は不明)が駐屯して
いた。原町国民学校には、1945年8月2日から軍隊(燕第21814部隊)が駐屯した。それを狙ったのか、8
月10日の午前と午後の2度艦載機が来襲し、校舎を爆撃し校舎は大破し、火災を起こして、使用不能になり、
戦後の2学期からの授業再開に際して分:散授業を余儀なくされた。
'63
危険作業からの離脱
先に紹介したのだが、呉羽化学に動員された田村中学校の動きを再度詳述しよう。呉羽化学錦工場の当初
の従業員は1530名、応召者260名であった。1944年9月に、仙台高等専門学校(高等工業か、動員数不詳)、
田村中学校120名、植田高等女学校(動員数不詳)の学徒が動員された。相模海軍工廠には女子挺身隊が動
員されていた。1944年12月に、海軍からカーリット爆薬の製造を受託するに当たって生産責任者(社長)、
海軍監督工場責任者(副社長・常務)の体制を整えた。海軍は、1945年になると、過塩素酸系爆薬、過塩素
酸アンモン(いわゆるカーリット爆薬)の大増産計画を立てた。第1期生産計画年産2万トンの内、24,000
トンが呉羽化学に割り当てられた。さらに4月1日には、呉羽化学の本社が錦工場へ疎開してきた。こうし
て第一海軍火薬廠の原薬工場となり、モノクロルベンゼンは、由良精工へ、苛性ソーダは、宮城県船岡町の
第一海軍火薬廠へ納入された。過塩素酸アンモンは、新設工場用地の造成が終戦までに完成しなかったため
生産は開始していなかった。
学徒は、補習作業、液体塩素のボンベ詰め、運搬作業、装置の運転までの各現場に配属された。夜勤もあ
り、塩素ガスを吸い込んだり、ジニトロクロルベンゼンでかぶれたりといった厳しい労働環境であった。同
じく田村中学校の学徒が動員されていた隣接する加里興業の労働環境は、さらに苛酷だった。1945年の春に
なると、学徒の中に、病気で帰宅する者が続出し、夜勤や劇薬による事故などとを理由に、動員解除を要求
し、海軍省などの仲介にも拘らず、5月26日に、動員解除になり全員引揚げた。
第5節工場疎開と学校工場化
工 場 疎 開
工場疎開は、1945年3月10日の東京大空襲以降という認識でいたが、実際には、それよりも早く実施されて
いた。『福島市史』収録の福島市内の軍需工場等の疎開状況を点検すると、その前年の44年半ばから工場疎開
が開始されていた。例えば、沖電気(現オキエアフオルク)が、1944年には、野田村大字笹木野の鐘ケ淵紡績
笹木野工場の譲渡を受け、品川工場(機構部品)を疎開させ、9月15日には、福島第二高等女学校4年生116
名の学徒を受け入れている。10月16日には福島中学校5年生50名を受入れ、45年3月10日には、被災した大塚
工場を福島工場に疎開させたのであった。また、中島飛行機が、杉妻村大字郷野目の日東工鉱業福島工場の一
部、大日本兵器が、清水村大字森合字百舌烏坊の福島絹撚や小山荒井村字所窪の丸共製糸、品川航空計器が、
森合字下釜の鐘ケ淵紡績福島工場の譲渡を受けたのは1944年であり、中島は、その秋10月には、中島飛行機武
蔵工場から移転、福島工場(扶桑第170工場)を設立している。東京芝浦電気鶴見工場の一部が、松川町字天
王原に移転し、東京芝浦電気重電機製造所松川工場を設立したのは、44年7月20日であったし、富国通信機飯
野工場を飯野町字町にスタートさせたのも44年7月であった。こうした工場疎開の計画・実施の過程並びに学
校工場化との関係は、必ずしも明確ではない。ただし、主要都市からの集団学童疎開の計画が、44年の早い時
期から進められ8月には、その受入れが行なわれたことから見て、工場疎開もそれと前後して進められていた
と見てよいであろう。
それに一段と積極的に取り組むのは、何と言っても、1944年秋からの本土空襲の激化以降といえよう。日立
製作所が工場疎開計画を進めるのは、45年1月の本土決戦を控え、最高戦争指導会議が軍需工場などの「分散
疎開などの緊急重点施策を発表してからであった。日立製作所は、45年1月22日付で各部・課・現場から工場
疎開計画一覧表」を提出させ、2月3日に工場長名で「工場疎開計画資料二関スル件」を政府に提出した。こ
れに対して政府は、4月に、兵器製造工場に対して防空法による疎開命令を発した(『多賀工場のあゆみ』)。
また中島飛行機も、1月に武蔵製作所の分散疎開地下工場の建設地を浅川・大谷・福島の三カ所に決定し、福
島の場合は、2月に建設関係職員を派遣し、3月に着工した(r1945年の福島』ほか)。
学校工場についての当初の考え方
1943年段階では、校舎は勤労奉仕で断続的に校舎の一部が空いていた。しかしこの段階では、学徒の勤労動
164
員先を自校の校舎にすることは、考えられなかった。また工場事業場の設備プラントを輸送して稼動させるま
でには、学校、つまり教員と生徒の覚悟と相当な資金と時間を必要としたから学校あるいは設置市町村側も事
業所=工場側でも積極的ではなかった。
ところが、43年9月2旧の閣議決定「現‘盾勢下二於ケル国政運営要綱」(福間『前掲書』P434、資料番号133)
に示された理工系学校の整備拡充と法文系学校の統合整理の方針や同年10月12日の閣議決定「教育二関スル戦
時非常措置方策」(福間『前掲書』p238、資料番号139)に示された
①中等学校の4学年制の繰上実施。
②中学校・高等女学校定員の凍結、男子商業学校の整理縮少、工業学校・農業学校・女子商業学校の拡充。
等に基づく43年11月29日の次官会議決定「学校校舎転用措置二関スル件」(福間『前掲書』P456、資料番号153
において
一、随時内閣二於テ内閣・内務・陸軍・海軍・文部・軍需ノ各省関係課長ヨリ成ル校舎転用措置二関スル協
議会ヲ開催スルコト
二、爾今之ガ転用措置ハ協議会二附議ノ上中央ヨリ夫々通告スルヲ以テ其ノ間転用二関スル決定的措置ハー
切差控フルヤウ取計ハレ度キ旨文部省ヨリ地方長官並二関係直轄学校長其ノ他必要方面二通告スルコト
三、協議会ハ速二校舎転用二関スル具体的措置案ヲ作成スルコト
(四、五、省略)
六、前項ノ交渉ニ依り解決シ得ザル場合ハ国家総動員法二基ク土地工作物管理使用収用令ノ発動ニ依り強制
措置ヲ講ズルモ巳ムヲ得ザルコト
七、前記三ノ具体案策定二当リテハ四大地区疎開ノ趣旨ニモ極力即応スル如ク留意スルコト
と定め、挙国体制であるばかりでなく、中央より通告する上意下達のもので、国家総動員法による強制措置さ
え辞さない強硬なものであった。そしてこの段階、つまりは、43年末頃から工場疎開が、具体化の方向を取っ
た
。
学校工場の具体化
しかし、この措置は、「学校を丸ごと譲渡させようという考えかたのようであって、学校の一部を工場とし
て使用することではなかったから、後に実際に行われた学校校舎の一部を工場として使用するという学校工場
とは、趣を異にしていた。」(福間『前掲書』Pl22)と理解されるが、44年1月18日閣議決定「緊急学徒勤労
動員方策要綱」(福間『前掲書』資料番号163)、2月25日閣議決定「決戦非常措置要綱」(同前、資料番号175)
と矢継ぎ早に指令を発し、3月7日閣議決定「決戦非常措置要綱二基ク学徒動員実施要綱」(同前、資料番号
177)において、各種学校、特に女子の学校を主流として学校校舎の軍需工場化の急速な具体化を図るとし、
3月24日発国192号「決戦非常措置要綱二基ク中等学校教育内容二関スル措置要綱ノ件」(同前、資料番号187
では、中等学校における生産と教育の一体化に依る戦力増強の強化を図り、学校工場化による下請作業は教育
の一環たらしめ、学校工場化を中等学校全体に拡大する方針を打ち出した。次いで3月31日発体68号文部次官
通達を経て、4月1日次官会議決定「学校校舎転用二関スル具体的実施要綱」(同前、資料番号193において
学校校舎ノ転用ハ左二依ル
ー、校舎ヲ転用スル場合ノ用途ハ概ネ軍教育用、非常用(非常公用・非常倉庫用・非常病院用等)、軍需工
場用ノ順位二依ル
(二、三、省略)
四、校舎ノ転用ハ現地利用ニ依り移築ハ之ヲ行ハズ
五、校舎ノ転用ハ貸借ノ方法二依ルヲ建前トス
(六、省略)
七、校舎転用ノ用途ノ決定ハ左二依ル
イ、国民学校、中等学校二付テハ地方庁、大学高等専門学校二付テハ文部省二於テ急速二転用校舎ヲ概定
ス
165
ロ、国民学校、中等学校二付テハ地方行政協議会長に於テ関係方面卜連絡シテ所管内府県毎二、大学高等
専門学校二付テハ43年11月29日次官会議決定二依ル校舎転用協議会ヲ活用シ転用校舎及其ノ用途ヲ決定
ス
(別記省略)
それで校舎の貸与・転用あるいは学校工場の受入過程を検証しようとしたが、大方の事業所や学校が、戦後
関係書類を廃棄・焼却し、或いは秘匿・非公開、或いは未整理、未調査、未公開のためその過程は、明らかに
されていない。今日までに公表された二、三の事例のみを紹介して置く。
私立福島成躍女子商業学校
私立福島成膜女子商業学校は、福島高等女学校と双壁をなす市内切っての伝統ある女学校で、1943年10月23
日発国474号文部次官通達「教育二関スル戦時非常措置二関スル件」(福間「前掲害』資料番号145)の「記」
第二の一(3)などによって家政女学校から女子商業学校にに改編されたもので、当時は、福島市宮町(現文
化学園)にあった。次に紹介する文書中の扶桑第170工場は、日東工鉱業福島工場の一部、軍命による譲渡を
うけて44年秋頃に疎開した中島飛行機製作所で、元工場の武蔵製作所に動員されていた東京家政学院高等女学
校の学徒20名が、進学を目指しつつ空襲の危険を避けて二次動員されていたところである。彼女達は、当初、
市内大町の到岸寺を宿舎としていた。元文書は、縦半罫紙に縦書であるが便宜横書きとした。
票
議
昭和二十年六月十八日
発案者福島成膜女子商業学校長熊田子之四郎
岡
立 案 者 教 諭 明 石 智 真 c 認 印 コ
ー、扶桑第一七○工場(中島飛行機製作所)ヨリ作法室(百畳間)一室ヲ宿舎(動員学徒又ハ女子挺身
隊五十名)トシテ借入方願出候間賃貸承諾可然哉
二、賃貸料
1.金壱百五拾円也
作法室一ケ月使用料、但し一畳ニツキ金壱円五拾銭ノ割トス
2.金五拾円
洗面所、便所、通廊一ケ月使用料
右金額ニテ貸借致シ度キ旨申出有之候間右賃貸承諾可然哉
一一一一-一一■■ーー一一一一一‐
一一一一一一一ー一一一-一一一一一ー一一一
一一一一一一ーーー---ーーー■■ーー一一■■ー■■一ー一一一一一一一一■■'一一一一‐一一一ー一−一一一一ー■■■■一■■ー■■一‐一一一一一一一一一一-一一一
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追伸
別記作法室ハ昭和二十年四月十三日付福島県内政部長名ヲ以テ
陸軍(軍)需品本廠盛岡出張所軍需資材格納用トシテ貸与方這
達有之候二つ現在之レト外二教室貸与中二候モ未ダニ資材ノ
ー物モ納庫ナク本校ニテハ平常通り使用致シ居ル関係上扶桑
第一七○工場ヨリノ申入レノ件県卜連絡致シ候処納庫前
迄貸付致スモ可ナル旨返答有之候間為念申添候
猶ホ貸付期間モーケ年トハ申セ暫定的ノモノニテ資材納
庫必要ノ節ハ即座二立退ク契約ニテ貸与致シ度候
(1998平成10年9月2日、福島成膜学園提供)
なお、福島成膜学園調査員(元福島成践女子高等学校[現福島成膜高等学校]教頭)鈴木次男からの添状に
は、「使用したかどうかについては、定かでありません。」とある。
166
日立製作所の工場疎開と学校工場化
日立工場においては、学校校舎の転用については、すでに44年8月に、水戸工業学校で学校設備を利用した
電動発電機類の生産を開始し、11月には、助川高等家政女学校でも2教室を転用して電波探知機蓄電器の生産
を開始した。45年2月に、「学校工場及び遊休既設建家利用疎開工場計画」を策定した。茨城県内の候補学校
は、15校2675人、福島県は、小名浜高女、磐城高女、会津工業の3校530人、宮城県は、宮城工業300人、岩手
県は、3校65人、茨城県内国民学校14校が候補として挙げられた。それに岩手県内2校、福島県内2校(喜多
方中学、喜多方高女)が追加された。5月25日段階で福島県内の喜多方工業と喜多方高女を除いて稼動した。
多賀工場でも2月13日に疎開計画を計画したが、余り乗り気でなかった。6月10日に、日立工場が空襲を受け
たため陸軍のトラック輸送隊の応援を得て7月中旬に疎開させた。学校工場は、計画19校中14校で稼動した。
しかし日立工場の茨城師範、日立中学、多賀工場の水戸高女、市立水戸高女、茨城女子師範、平工業などが空
襲などで焼失した。(『多賀工場のあゆみ』)
日立製作所多賀工場関係学校工場
学校工場名
開設年月
設備機械
学徒数
磐城中学枝
20.2
4
2
(
台
)
田村中学板
20.3
25
45
平工業学杖
20.6
43
264
425(人)
製
使用場可
品
設備部品、工具
講堂、教室
自動電圧調整器、直結発電機制徒’
寄宿舎
メガーリレー
教室、体操場
日立製作所多賀工場関係学校工場
学校工場宅
開設年月
設備機械
学徒数
製
使用場可
品
教室、体操場
会津工業学校
20.5
75
350
電波兵器用電動機類
喜多方中学校
20.5
36
170
GM型タービンポンプ
市立若松高等女学校
20.6
27
240
航空機用電動機
喜多方工業学杖
20.6
43
118
誘導電動機、交流発電機
喜多方高等女学校
20.6
18
150
ポンプモーター、鋳造品ほか
(「多賀工場のあゆみ」)
沖電気の学校工場化
沖電気株式会社用紙と欄外に刷り込まれた半罫紙に、ペンで書かれた1944年11月18日の記録がある。それは、
工場疎開打合会議の概要である。その会議は、軍需省軍需管理部において軍需省・軍需省軍需管理部・輸送部・
監督官、警視庁、運輸省・東京鉄道局と上板橋・隅田・大崎・汐留・新橋・上野・蒲田・大森・川崎の関係駅
が出席し、隅田川駅、蒲田駅、大森駅、上板橋駅、大崎駅、汐留駅、川崎駅、吉祥寺駅の順で協議が進められ
た。その内容の詳細は記録されていないが、各駅関係会社名が、次のようにメモされている。
(イ)隅田川駅一日本電気兵器沖電気
(ロ)蒲田駅一宮田製作所日本精密電機日本精工(株)大和軽合金
(ハ)大森駅一田中航空計器(二)上板橋駅一名和航空機
(ホ)大崎駅一大島電機工業大興電機(へ)汐留駅一住友通信工業
(卜)川崎駅一東芝通信工業支社(チ)吉祥寺駅一三鷹航空工業
沖電気株式会社高浜工場協力課・○KIなどと欄外に印字されている半罫紙に「疎開二関シテ」という日付
不明の次のようなメモがある。
167
疎開二関シテ
福島県二航空兵器総局長官ヨリ疎開ヲ命ジ来リタルエ場ハ左記
日 立 浜 通
大日本兵器
清水航機
東芝
沖電気
各工場ノ疎開ハ東北六県ノ長官ヲ中心トシタル行政協議会ニデモカケテ軍需監理部長官、各工場等力
参集ノ上協議スル以外二方法ナキ様ナリ
このメモから軍需省航空総局の、工場疎開ないし学校工場化が具体的に進捗しない状況への焦りと総局の性
急な命令に対する困惑が読み取れる。その後、東京芝浦電気の通信機製造所と沖電気の品川製造所が、勤労学
徒の割振りについて協議を重ね、1945年2月に、その成案を得た。次のような軍需省へ報告文書の手書きの草
案が残されている。
昭和20年2月日
東京芝浦電気株式会社通信機製造所長
沖電気株式会社品川製造所長
軍需省航空兵器総局第二局
電 器 課 長 殿
勤労学徒機動配置二関スル件協定
福島県保原中学校二係ル首題ノ件左記ノ如ク協定致シタルニ付報告ス
記
一、保原中学校ノ利用ハ沖電気トシ東芝通信ハ白河地区ヲ利用スルモノトス
ニ、前項二伴上現在保原中学校ヨリ東芝通信二対シ動員シアル学徒八○名ヲ沖電気保原工場(仮名)
二復帰セシメ新二沖電気ヨリ東芝通信へ移シ所要ノ人員ヲ補填スルモノトス
三、機動配置ノ処理ハ官へ一任シ相互転換ノ時期ハ概ネ昭和年月日ヲ予定ス
[立?]会者軍需省航空総局第二局電器課
この協定に基く沖電気福島工場長の転用校舎利用二関スル件なるメモがある。それを便宜表示してみる。
沖電気の転用校舎利用一覧
学校工彦
私立電気工業学校
主 要 業 務
雲(32)部品製作
工 場
床面積(坪)
所要人匡
機械工場
35
25
仕上工場
35
25
部品組立工歩
35
30
計
05
80
県立福島工業学校
各種機構部品組立調整
300
200
県立第二高等女学校
各種電気部品組立調整
300
200
備 考
女子寮ヲ借用ノ
コト
県立保原中学校
兵器組立配線及検査
600
計
400
130!
880
内指導者270
学徒611
168
これには、別にタイプ打ちの詳細な「学校工場設備申請書」と手書きの「工場化平面図」がある。
財団法人福島電気工業、工場設備申請害
関係工場所在地
一
二、名
利
三、責任者職氏名
四
信夫郡野田村笹木野
沖電気株式会社福島工場
生産担当者工場長技師松村源弥
工場側連絡責任者職氏宅
勤労課長副参事鈴木邦
学校側連絡責任者職氏名
教諭赤沼藤吉
五、工場所官庁名
一
陸海軍軍需会社指定工場
但本申請二依ル作業ハ軍需省航空兵器総局電気課御下命二依ル
六、校地校舎ノ使用箇所並二使斥
期借
別紙平面図参照
自昭和二十年三月一日至二十一年三月末日
七、学校設備ノ転用概況
高圧配電盤低圧配電盤附属一式其ノ他教室用具
八、設備増設ノ概要
旋盤一○台フライス盤一○台ボール盤八台
及其他特殊機械約一○台
九、作業内宅
○、作業時間配当編成
一
一
一
、
一
一
一 、
電波兵器部品製作並二組立調度
始業午前八時終業午后四時
生産量目標
軍需省示達生産数量ノ確保
動員学徒ノ学年科人員並二
動員サレタル学徒ヲ−隊十名トシテ編成ス
隊編成
一
三、指導責任者職氏宅
一四、工場ヨリ派進
指導者職氏名
教諭芳賀英作
工作工場場長技手下山田宗太郎
工作工場担当組長小松三保三
1
一
五、学徒ノ予備訓練方法
伍長安斎[(欠):
動員サレタル学徒ヲ福島工場二於テ約二週間程度学術科二付指導ノ上
帰校セシメテ作業二従事セシム
一
六、作業中ノ教育訓練
実際二付安全教育並二技術指導ヲナスト同時二規律訓練並二精神指導
ヲ行う
一
七 、 給 与
(イ)報償文部省基本報償算定基準二依ル
(ロ)其ノ他当該作業二従事スルエ員二準ジ食糧其ノ他物資ヲ供給
スル如クエ場側二於テ考慮ヌ
(イ)災害疾病等二対スル扶助ノ内宅
一
八 、 其 ノ 他
福島工場扶助規則二依ル尚詳細ハ学校並ニエ場側ト緊密ナル
連絡ヲトル
169
財国法人福島電気工業畢校平面圏
tiPf鰹,'γ#次謬Z〃、4"
/〃、Z々例〃′
リ
ケ
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一、
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ノ
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二歩雀逗勢了こ
溌馴釜琉芳憲景
夢
一
県立保原中学工場設備申請書
一、関係工場所在地
信夫郡野田村笹木壁
二、名
沖電気株式会社福島工場
称
三、責任者職氏名
四、
牛産相当者工場長技師松村源弥
工場側連絡責任者職氏名
勤労課長副参事鈴木邦一
学校側連絡責任者職氏名
教 諭 甲 賀 竪 助
五、工場所管庁名
陸海軍軍需会社指定工場
但本申請二依ル作業ハ軍需省航空兵器総局電気課御下命二依ノI
六、校地校舎ノ使用箇所並二使月
期間
別紙平面図参照
自昭和二十年三月一日至二十一年三月末{
七、学校設備ノ転用概乃
動員学徒ノ数タケ椅子ヲ借用ヌ
八、設備増設ノ概要
本示達数量完成二要スル組立設備並二検査器機等ヲ増設ス
九、作業内容
電波兵器組立配線並二検査
一○、作業時間配当編感
始業午前八時終業午后四時
一一、生産量目槽
軍需省生産示達数量ノ碓併
一二、動員学徒ノ学年・科人員立
第四学年生七十五名(現在東京芝浦電気株式会社二派遣中ノ者)ヲ−
二隊編成
隊九名又ハ十名トシ八隊二編成ヌ
一三、指導責任者職氏f
教諭甲賀竪団
一四、工場ヨリ派遣指導者職氏f
検査部長技師福田久
技術課長技師山'二|誠一
170
五、学徒ノ予備訓練方法
学校校舎に於テ約二週間程度ノ学術科ノ基礎訓練ヲ行ヒタル後作業二
従事セシム
六、作業中ノ教育訓練
実際二付キ安全教育並二技術指導ヲナスト同時二起立訓練並二精神指
導ヲ行う
七 、 給 与
(イ)報償文部省基本報償算定基準二依ル
(ロ)其ノ他当該作業二従事スルエ員二準ジ食糧其他物資ヲ給与ヌ
ル如クエ場側に於テ考慮ス
一
(イ)災害疾病等二対スル扶助ノ内容
八、其ノ他
福島工場扶助規則二依ル尚詳細ハ学校並ニエ場側卜緊密ナノI
連絡ヲトル
嬬立保原中学校平面圏
これによれば、1945年4月15日の横浜空襲で被災し、強制離脱した保原中学校東芝動員学徒の学校工場化に
よる配置転換が2月の段階で、協議されていたことになる。しかしあのような混乱を生じたということは、こ
れは、その後、何らかの障害が生じて実現に至らなかったということであろうか。
県立第二高等女学校工場設備申請書
一
関係工場所在地
二、名
利
信夫郡野田村笹木野
沖電気株式会社福島工場
三、責任者職氏名
生産担当者工場長技師松村源弥
四、工場側連絡責任者職氏名
勤労課長副参事鈴木邦
学校側連絡責任者職氏名
福島師範学校教授沢田幸平
福島第二高等女学校教諭佐川敏夫
五、工場所官庁名
陸海軍軍需会社指定工場
但、本申請二依ル作業ハ軍需省航空兵器総局電気課御下命二依ル
六、校地校舎ノ使用箇所並二使斥
期借
別紙平面図参照
自昭和二十年三月一日至二十一年三月末旧
171
七、学校設備ノ転用概況
教室設備一り
八、設備増設ノ概要
ボール盤ハンドプレス研磨盤
九、作業内容
電波兵器用電気的部品ノ組立調度並二検査
一
一
○、作業時間配当編成
一
一
一
一
及其他ノ小工具並二検査器具
始業午前八時終業午后四時
生 産 量 目 標
軍示達数量ノ確保(管制器、水晶片S○○小型コンデンサー)
動員学徒ノ学年・科
動員サレタル百十三名ヲ−隊九名又ハ十名トシ十二隊二編成ヌ
人員並二隊編威
一
三、指導責任者職氏程
福島第二高等女学校長津川正美
福島師範学校女子部長
一四、工場ヨリ派遣指導者職氏名
部品工場場長技手太田太三郎
機構部品工場担当組長塚原男
一
伍長立川治作
I
伍長荒木ひろゑ他女子六程
一
五、学徒ノ予備訓練方法
現在派遣中百十三名ハ既二予備訓練終了シアル、尚追加派遣サルル壱
二対シテハ学校二於テ約二週間程度ノ基礎訓練ヲ行ヒタル后作業二杭
事セシ上
一
一
六、作業中ノ教育訓縞
一般教育ハ完了、尚随時安全教育及精神指導ヲ重ネテ実施中ナI
七、給
(イ)報償文部省基本報償算定基準二依ル
与
(ロ)其ノ他当該作業二従事スルエ員二準ジ食糧其ノ他物資ヲ給与
スル如クエ場側二於テ考慮フ
一
八、其ノ
化
(イ)災害疾病等二対スル扶助ノ内容
福島工場扶助規則二依ル、尚詳細ハ学校並ニエ場側ト緊密ナル
連絡ヲトル
嬬立福島高二高等女学校平面圏
172
さらに次のような日付不明のタイプ打ち⑱軍需省軍需監理部発信とみられる県知事宛文書によって学校工場
の決定が通牒された。
⑱
福 島 県 知 事 殿
(メモ)東北軍需監理部長殿
工場疎開指導ノ件通牒
首題ノ件学校工場、同寮トシテ当局に於テハ左記ノ如ク決定シタルニ付指導相成度通牒ス
記
一、沖電気利用ノモノ福島県立第二高等女学校(本校ノ実体ハ女子師範部二付文部省卜交渉中)
福島県立八工業学校(旧商業学校)
(メモ)福島
保 原 中 学 校
私立福島電気工業学校
一、中島飛行機利用ノモノ福島県立福島中学校
其ノ他福島地区中等学校全部
通牒先関東軍需監理部、東北軍需監理部
写送付先中島飛行機株式会社、沖電気株式会社
これと全く同一の1945年2月6日付軍需省航空兵器総局総務局長発信、関東監理部長・東北軍需監理部長宛
文書の⑳⑤が存在する。
沖電気福島工場と第二高等女学校の学校工場
第二高等女学校の学徒の証言などをもとに沖電気福島工場と学校工場の様子をここにまとめて紹介しておく。
沖電気福島工場には、1944(昭和19)年9月15日に、4年生2クラス112名が動員された。それまでは、勤労
奉仕で渡利の十万劫山から松の材木を、1本材木に打ち込んだ模に縄を懸けて松齢橋を渡って学校まで引いて
くる作業をやった。女子師範の学生もやていた・そこは、品川・芝浦・蕨・浜松の工場と並ぶ機構部品工場で、
塚原昇一兄弟の担当であった。そこでの作業は、コンデンサー・ハンダ付け・ドリルによる窄孔などのしごと
であった。試験課に配属された学徒もあった。市内や飯坂方面の学徒は、奥羽線笹木野駅までの汽車通勤であっ
た。また、保原・大森・立子山・川俣方面の学徒は寮から通勤した。工場では、徴用工の加賀屋の旦那さんの
藤井さん、佐藤仕立て屋さんや大野屋化粧品店向いの阿部果物屋さんなどがいて親切に世話してくれた。寮は、
福島駅前の電車通りに面した福島館であった。1945年の2月ころから舟場町の学校の工場で働いた。一階南側
の広い教室が工場ではハンダ付けなどをやった。斎藤行江さんや丹治キイさんたちは、二階でコイル巻きをやっ
た。4月からは、専攻科生として8月15日まで継続動員となった。ある時、許可をもらって新開座に宮城久子
の「たぬき御殿」を観にいった。3月に、講堂で卒業式が行なわれた。ハガキより一回り大きな卒業証書であっ
た。武井千代さんのように就職した人もいたが、福地敏子さんは、福島師範学校に進学した。福島師範では、
渡利の十万劫山の開墾をやらされた。武井さんは渡利の福島蚕業学校で執務中に、専攻科生は川を挟んだ学校
工場で、7月20日の渡利沼町の爆撃を体験した。(02.3.20「第二高等女学校生徒座談会記録」より)
173
県内中等学校・国民学校の学校工場化
では、今日までに学校・自治体、或いは間取りなどによって確認できたものを一覧に表示してみる。紹介し
た沖電気福島工場の計画がどの程度実行されたかも検証できるであろう。
工場化学校名
工場名
転用用途
転用校舎施設
転用期間
福島経済専門学柱
福島フエ壌
45.3.へ
教室・講堂・寄宿舎
事務所・宿舎・資材置場
福島中学杉
福島フエ場
45.3へ
教室・寄宿舎・校庭
事務所・宿舎・食堂・資
材置場
福島高等女学桓
仙台陸軍被服廠
45.4.12-
教室
軍手かがり
8.23
福島第二高等女学校
沖電気
45.3∼《
女子寮
電気部品組立
福島工業学校
福島フエ場
45.4
柔道場
エンジン組立
沖電気
45.3∼§
教室
機械部品組立
沖電気
45.3∼《
教室
機械仕上・部品組立
私立福島成践女子商
中島飛行機福島工
45.6.10-
作法室
学徒または女子挺身隊循
業学校
場(扶桑第170工場)
杉妻国民学校
第一海軍技術廠
私立福島電気工業学
∼
校
全
(
?
)
ロ
福島出張所設置
45.8.16
45.1
予定・中止
校舎の一部/廠舎南丘陵
∼
建設ヰ
岡山国民学校
福島フエ場
45.3
講堂
野田国民学校
仙台兵器補給廠
45.5.20∼
校舎の一部
川俣工業学校
陸軍製絞所
45.4.8∼
教室
45.5.1∼
教室・実習場
45.8
教室一配線工事のみで絃
へ
徴用工宿舎
川俣研究所
住友通信(扶桑
第220工場)
梁川高等女学校
八洲光学
へ
戦中止
保原中学校
沖電気
45.2.17
講堂・教室ほか
事務室・脱衣室・作業室
組立並びに検査室等
安積中学校
安積高等女学校
郡山高等女学校
東芝電気(扶桑
45.7.25
第238工場)
開所式
中島飛行機(扶
45.月日不
桑第130工場)
明
中島飛行機
45.7
∼
講堂ほ力
講堂
家庭科室等3教室
ハンダ付け・索眼付け‘
被覆線剥き
(扶桑)
郡山商業学校
郡山工機部
45.6
不畦
不砂
桃見台国民学校
中島飛行機(扶
45.5
不畦
不B^
桑第130工場)
174
∼
∼
工場化学校名
須賀川工業学柱
転用校舎施設
転用期間
工場名
共同電気須賀jll 45.4
教室3.図書室・簿記室‘
工場(東北風第
会議室・タイプ室・柔魚|
∼
12.24
転 用 用 途
道室2.雨天体操場なと
215工場)
262.5周
陸軍被服本廠イ1 45.6.1∼
講堂144坪
台出張所
須賀川高等女学校
中島飛行機(抄
不明
不畦
桑第3109工場I
石川高等女学杖
石川国民学杖
不匪
45.7
不破
棚倉陸軍飛行機
45.4.20
寄宿舎の一剖
相馬中学校学徒の宿舎
応用練習場
∼6.5
同前
45.4.20
講堂
相馬中学校学徒の宿舎
へ
∼6.5
私立石川中学校
陸軍第8技術研
45.4
不畦
45.4
講堂
45.4
不畦
45.3
不破
へ
究所分室
棚倉陸軍飛行機
へ
勤労報国隊員宿舎
応用練習所
理研希元素(抄
へ
桑第806工場:
田村中学校
日立製作所多賀
へ
機械25台・制御崖製造
工場
三春高等女学校
東京理イヒ
45.7.1-
教室
須賀川第一国民学校
共同電気(東北
45.5.15
西校舎
風第215工場I
∼
中島飛行機(抄
須賀川第二国民学校
沢田村国民学校
潜水艦探知器、航空用歪
気計器
45.5.29
桑第3109工場)
∼
東亜航空(扶桑
45.6.4
第157工場)
∼
第33359部隣
45.3
へ
講堂
講堂
1
,
6年生教室を除く全
飛行場建設部隊兵士宿舎
割
白河中学杖
中島飛行機
45.2
白河高等女学杉
中島飛行機
45.2
へ
へ
5教室壁抜き通し
キ115剣号組立て
講堂
キ115号部品、白河中工
場へ納入
棚倉高等女学校
中島飛行機
45.8.5∼
校舎1椋
白河第二国民学校
中島飛行機
不明
講堂
棚倉陸軍飛行機
45.4.20∼
講堂?
応用練習場
6.4
?
●
小野田国民学杉
安達中学校学徒宿舎
175
工場化学校名
釜子国民学校
工場程
同前
転用校舎施設
転用期匿
45.4.2-
転用用這
講堂?
福島中学校学徒宿舎
講堂?
安積中学校
6
滑津国民学校
同前
45.4.30∼
6.5
同前
45.4∼6
講堂
田村中学校
福島県国民学校初等
仙台陸軍被服廠
44.7.22∼
教室?
軍用襟章製作
44.11.12
講堂、第1、第2裁縫室
軍用襟章・略帽・軍用夏
45.8.2∼
体操場2、新鶴国民学校
服補綴
8.25
赤沢国民学校へ疎隣
45.4.6
不畦
不匪
45.6.21
教室、体操場
航空機用電動梯
不匪
陸軍病院用布団製作
科訓導会津養成所
〆。I
吉子川国民学校
(会津高等女学校付
設
)
会津高等女学校
同前
会津航空機(東
∼
部神第110工場)
若松高等女学校
日立製作所日立
工場(皇国第46S 契約するも
工場)
稼動せず。
仙台被服廠
不明
会津工業学校
日立製作所
45.5
体操場
旋盤設備、ポンプ・鋳造品
若松商工学校
会津航空機
45.4.15
不匪
不匪
不畦
不既
戦時中の増設校。建築中
不匪
∼
川崎引揚げ後
44.3∼?
二瓶航空機
45.6
∼
グfLQ
日新国民学校
昭和電工
止、敷地校舎を貸与。契
約解除後建築再開。詳細
不畦
喜多方中学校
日立製作所日立
45.4.6∼
→
新3年]
CM型タービンポンプ
教室、体操場
工場
日立製作所第:
[3年
45.6.10- 新3年
ポンプ製造
工場(扶桑第299
工場)
喜多方高等女学校
日立製作所日立
ポンプ・モーター、鋳造
45.6.11
教室、体操場
45.6
誘導電動機・交流発電機
年月不砿
不砿
縫室
44.9
北棟2階と1階の一割
軍用シャツ、ズボン下、
45.3隣
(倉庫)−借上げミシン進
階級章−45.9.1重
場式
却45.9.1
品移管
へ
ロ叩
工場(東北仁第
701工場?)
喜多方工業学校
日立製作所日立
へ
工場
中村女子商業学杖
仙台陸軍被服廠
?
●
相馬高等女学校
1
7
ビ
仙台陸軍被服廠
へ
工場化学校名
転用校舎施設
転用期借
工場名
転 用 用 途
双葉中学校
東京理化
44.?
生徒控室、生物実験室
20mm期間砲弾製造
磐城中学校
日立製作所多賀
45.6.23∼
工作室
設備部品・工具
冨士扶桑飛行桧
45.5.8∼
体育錐
不印
(東北神第118工
8.15
場
)
2.22∼設
柔道場・剣道場
不り
工場
磐城高等女学校
備機械運搬
平商業学校
日立製作所鮎I
45.5∼8
工場
(
l
市立平女子商業学校
仙台陸軍被服廠1 年月不匪
不明
軍用衣料品縫室
私立平陽女学校
同前
不明
軍用衣料品縫室
年月不匪
【注】1.上表中に若松商工学校が昭和電工を受け入れたのを1944年3月としているのには疑問が残る。
45年3月の誤りとも考えられる。
学校工場が疎開した例
会津高等女学校では、44年11月12日から仙台被服廠を受入れ、3,4年生を就労させていたが、45年8月
2日から6日の間に、高田町(現会津美里町)の赤沢国民学校と新鶴村の新鶴国民学校にミシン等の設備を
疎開させ、8月14日から22日まで毎日操業・就労した。8月22日に本校へ戻り8月31日まで操業就労した。
学校工場会津航空機との関係なのか、疎開の理由は、明らかではない。
第六節学校工場以外の疎開工場への動員
疎開工場と学徒動員
工場疎開は、学校校舎の転用によってだけ進められたのではなかった。都市、農村を問わず、有休施設ある
いは空閑施設は、工場疎開の格好の場所であった。あらゆる物資の生産・加工と販売が統制を受け、空き店舗
や空き倉庫が各地にあった。そこに疎開した工場は、中等学校の2∼3年生や空襲などによる離脱、帰校した
学徒や女子挺身隊や女子勤労報国隊の労働力に依存した。
疎開工場への動員
疎開工場
福島フエ場
所在地
清水村
動員学柱
動員学年
動員期借
特記事正
福島中学校
3年
45.6
8.IE
私立福島電気工
2年
45.4
8.16
女子挺身
45.5
8.1E
川崎離脱後再動員
(学徒)
45.5
8.IE
武蔵製作所疎開
へ
へ
業学校
私立福島成践女
∼
子商業学校
東京帝国大学工
∼
学部建築学
大日本兵器
品川計器製作所
小山荒井村
福島中学校
3年
44.9.14
/御山町
梁川高等女学校
4年
44.10.1
森合村
福島中学校
3年
44.9.14
福島高等女学校
4年
44.7.
177
疎 開 工 場
所在地
動員学校
私立福島成腰女
動員学年
動員期階
特記事正
女子挺身
44.1.10
福島中学校
4,5年
44.10.16
福島第二高等女
4年
44.9.15∼
福島工業学校
2年
44.12.1∼
野田国民学枝
高等2女子
44.12.1
東京家政学院高
4年
45.4
武蔵製作所から疎隣
女子挺身
45.5∼8.15
川崎離脱後再動員
子商業学校
沖電気
野田村
学校
中島飛行機福島工場
杉妻村
(扶桑170)
へ
等女学校
私立福島成膜女
子商業学校
精光社
福島市
附属国民学柱
高等2年
45(44?).10
東京芝浦電気重電桟
松川町
松川国民学核
高等1,2女子
不明
二本松第二国民
高等2男子
不明
製作所福島工壌
∼
学杖
八雲航空工業会社
桑折町
桑折高等女学校
女子挺身
45.2.15
郡是工業
桑折町
桑折高等女学校
女子挺身
45.4.6∼
日本蚕糸桑折工場
桑折町
桑折高等女学校
4年
45.7.18
東京元羽田の製糸工
棚倉町
二本松高等女学
女子挺身
45.(月日不明)
場(社名不明
枝
∼
飯野町
飯野国民学杉
高等2
44.12.1∼
郡是製糸本宮工珍
本宮町
本宮国民学校
高等2年
2011.
45.3.9.東京空襲
以後疎開
8.E
富国通信機器飯野工場
(本宮航空機製作所
7月より4カ月動員
∼
主に男子
[東北神第108工場)
三菱石油川崎工彦
二本松と本
日本女子経済専
(45.7.1
(蒲田)
宮の中措
門学校
蒲田就労、空
∼
襲疎開、8
(不明)
三春高女より進学
14帰郷、終
戦にて未就労)
日本電解郡山工場
郡山赤
安積中学校
4年
45.8.5∼
動員工場疎隣
日本アスベスト(皇
川東村(罰
私立福島電気工
2年
45.7∼8.15
建物完成、機械なし
国第846工場
南
)
業学校
中島飛行機
棚倉町(注
棚倉高等女学枝
未稼働
女子挺身
45.5
へ
町鎌田屋.
(45.5)後、再動員
南町藤田屋
陸軍製紋脇
喜多方中学校
3年
45.6
へ
熱塩加納木
喜多方中学校
3年
45.6
∼
(赤崎林)
喜多方高等女学杖
2年
45.7.19-
喜多方町(枢
藤沢・横河電機離脱
造店倉庫
178
半地下工場
疎 開 工 場
所在a
陸軍第三技術研究所
喜多方町
動員学杉
喜多方中学校
3年
喜多方町
喜多方高等女学
4年
(宇内味噌
枝
(裁判所)
池貝鉄工所
動員期間
動員学年
特記事項
不匪
45.4.15横浜川嵯
45.5
∼
醤油店)
空襲後、疎開、再勇
員
第七節いわゆる農兵隊一甲種食糧増産隊一
深刻な食糧不足
これまで紹介してきた日記などの記録や回想記に見られるように学徒たちを取り巻く食糧事情は、悪化の一
途を辿るばかりであった。食糧生産のためには、農業労働力が充足されなければならない。そのために農家の
子女で、働き手は父母だけであるとか、父母のどちらか一人しかいないとか、働き手が、病弱であるとか、出
征しているとか、様々な事情からの動員学徒が農業労働力として不可欠だという場合には、産業組合とか農事
実行組合とかからの要請とか証明とかによって農業要員として動員解除になることはすでに触れた。しかしそ
れは個々の農家の労働力の確保にしかならない。大掛かりな食糧増産のための労働力はそれまで学徒の勤労奉
仕や勤労動員、例えば、会津工業学校学徒の若松市港町方面での暗渠排水工事や福島師範学校本科1年の学徒
の山形県寒河江町での暗渠工事などがある。しかしそれらの学徒は、素人の労働力である。所期の成果を挙げ
ることは、極めて困難である。
いわゆる農兵隊の倉I設
村内で充足できない訓練された農業労働力の養成と活動が求められた。そこで先ず1944年9月20日発国322
号、各地方長官宛、文部省国民教育局長、農商省農政局長通達「青年学校令施行規則第32条ノ規定二依ル食糧
増産隊施設認定二関スル件」(福間、『前掲書』、資料278)の前文において
食糧ノ国内自給態勢強化並二農家後継者確保ノ緊急性二鑑ミ食糧増産隊ヲ組織セラレタル処之二参加スル
青年学校生徒ノ教授及訓育ノ取扱二関シテハ(中略)今回食糧増産隊(甲)ノ施設ヲ整備シ之ヲ青年学校令
施行規則第32条第2号ノ規定二依ル認定施設トシー層隊員ノ訓育ノ徹底並二隊員組織機能ノ発揚ヲ図ルト共
二青年学校教育義務制ノ完壁ヲ期スルコトト相成りタルニ付テハ(後略)
と述べ、通達第1条、第2条において
一、食糧増産隊ノ施設ハ成ルベク農業報国会都道府県支部長ヲ設立者トシ独立設置又ハ都道府県立修錬農場
等二併設スルコト
ニ、施設ノ職員中ニハ相当数ノ青年学校教員資格規定二依ル有資格専任職員ヲ置カシムルコト
と規定し、さらに同年9月21日次官会議決定「農業労力非常対策要綱」(福間、『前掲書』資料279)において
一、農業労働組織ノ強化
(一)各都道府県二於テノ農村青少年等ヲ以テ編成セル食糧増産隊(甲)ヲ拡充シ随時随所二出動シテ農
耕土地改良等二従事セシメ、村内二於テ自給シ得ザル労力ヲ迅速二補給セシムルト共二食糧増産ノ椎
進力タラシムルコト
(二)(三)省略
二、学徒等ノ動員
(一)農業関係大学、専門学校及農業学校学徒並農村地方に於ケルー般男女中等学校生徒及国民学校高等
科児童ハ国民動員計画に基キ必要二応ジ通年若ハ長期間継続シテ之ヲ農業二動員スルコト、尚特技ア
ル学徒ノ動員二付テハ可及的其ノ特技ヲ活用スル様考慮スルコト
(二)省略
179
三、労力受入態勢ノ整備
(一)村外労力ノ受入二付テハ町村農業会之二当ルモノトシ村内農作業計画二基キ最モ有効二之ヲ運用ヌ
ル如ク其ノ態勢ヲ整備スルコト
(以下省略)
さらに1944年12月28日動総97号、各地方行政協議会長、地方長官(警視総監)宛、文部省総務局長、農商雀
農政局長通牒(福間、『前掲書』資料314)において
一、本年度国民学校高等科ヲ修了スベキ学童ニシテ卒業後甲種食糧増産隊員二内定セル者二関スル動員ハ学
級単位ニ依り之ヲ行フヲ原則トスルモ、必要アル場合ハー学級ヲ少数単位ノ部班組織二分割シテ出動セシ
ムルヲ得ルコト
ニ、前項ノ学童動員ノ出動期間ハ昭和20年2月1日ヨリ3月末マデトスルコト
(三、四省略)
福島県の対応とその実態
このような矢継ぎ早な通牒・通達・次官会議決定等による甲種食糧増産隊の結成と活動の実態がなかなか托
握出来なかったが、2001(平成13)年に、各教育事務所収蔵『平成11年度学校要覧』記載の各学校沿革より
1944年当時、高等科が設置されていると推定される(南会津教育事務所管内を除く)352校に対する学徒勤美
動員の実施状況の文書照会の回答のうち、新地町立福田小学校(記載者持舘明彦教諭)から寄せられたか回答
には、卒業生福島三郎からの聞き取りが記載され、かつ1994(平成6)年の「農兵隊(甲種食糧増産隊)第1
中隊矢吹会会員名簿」が同封されていた。この名簿を手掛かりに、会員10数名に、出身学校の照会を行い、そ
れによって中隊長山形光郎、隊員矢内市助より山形光郎著「回顧六十年一三流校長奮戦記一」と写真の提供を
受け、体験談などを聞き取ることができた。また、2009(平成21)年には、桑折町教育委員会の配慮で、「Hモ
和14年10月以降伊達教育部会桑折支部日誌」を検索する機会を得て新たな事実が判明し、全貌とまではいえな
いものの、その凡その輪郭を把握することが出来た。さらに2010年7月には、福島市清水地区の斎藤庄市から、
みみよう
同年8月には、河沼郡会津坂下町大字見明の斎藤興志夫からその体験を聞き取ることができ、その範囲が喋
内全域に及んだことがほぼ確認された。その概要を以下に紹介する。
1941(昭和16)年4月山形光郎、青年師範学校本科に入学する。
43(昭和18)年3月山形光郎、青年師範学校を卒業し、請戸青年学校教諭となる。
44(昭和19)年7月16日桑折支部学校長打合せにおける県視学指示事項中
(へ)食糧増産隊1名(筆者注恐らくは1名以上)確保ノコト
これにより食糧増産隊志願は、各校1名(以上)を学校仲介で推奨したと見ら
れる。
44(昭和19)年12月16日桑折支部班内校長会における協議事項中
5.甲種食糧増産隊ノ中隊長選衡二関スル件
これにより中隊長の選考は、教育部会で行なったことが分かる。
44(昭和19)年12月
現職のまま茨城県内原訓練所に入所(修業期間2か月)
『‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐..‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ I
I母は、昭和14年に亡くなった。父は、昭和12年に徴兵で従軍した。昭|
|和16年10月に2度目の召集を受け、横須賀に入隊しラバウルへ出動して|
|いた。自分も、海軍を志願しようとしたが、親族会議で人手が欲しいか|
|らと反対された。矢吹ケ原は1か年なので許された。父が復員してきた|
|のは、昭和21年だった。(矢内市助の話i
45(昭和20)年2月8日福島三郎外7名(福田)、荒健悟(新地)、中島宏(中村)、坂下昇(真野)、牛
来裕(小高)、滝浬繁春(富岡)、矢内市助(富岡)、遠藤竹治ほか9名(広野)、
寮藤庄市外5名(清水),斎藤興志夫ら5名(川西),坂下町2名,若宮村6∼7
1
8
(
名、金上村1名、広瀬村3名、八幡村2名、高寺村5名(両沼地区全体で150名
くらい)が入隊する。佐藤洋一(新地出身)が第1中隊長、湯田春男が第7中隊
長、山形光郎(幾世橋出身)が第11中隊長に任命される。県下総員1800名、1個
中隊180名、第11中隊180名、3小隊編成、小隊長各2名、農学校卒業生を充てる。
他に大学生を6名ずつ充てる(拓殖大学など)。
※斎藤興志夫の証言では、出発前に「留守中お世話になります」と村に挨拶回り
をした。服装は戦闘帽に巻脚祥、荷物は母親の手作りのリュック型布袋。布団
は持ち込みだった。万歳の見送りを受けて、坂下駅から汽車に乗った。分隊編
成の方法は、背の大きい順に一列横隊に並び、1,2,3、……と3隊に分け
た。さらに1小隊を4分隊に分けた。斎藤興志夫は、第7中隊第2小隊第1分
隊に配属された。中隊長は軍人(?)、小隊長は会津農林学校出身者であった。
第6中隊は耶麻郡、第7中隊は両沼地区で編成。
これから中通りが、北から第1∼第5中隊、会津が第6∼第9中隊、浜通り
が第10∼第11中隊に編成されたと推定される。
第1中隊中隊長佐藤洋一
第7中隊中隊長湯田春男
小隊長第1小隊長佐藤隆一、第2小隊長佐瀬敬、
第3小隊長馬場某
※矢内市助の証言では、第11中隊は相馬郡と双葉郡の上岡村以北、第10中隊は双
葉郡の久之浜以南と石城郡であったという。
矢吹会名簿より………()内物故者氏名・員数
第11中隊中隊長山形光郎
小隊長永野好新開忠雄高野充男
(脇坂四郎佐藤定正黒木辰夫)
隊員106名(16名)
学歴等内訳教練指導員1,農学校卒8、青年師範学校・拓殖大学生数名
2月11日矢吹ケ原の県立矢吹修練農場にて入団式挙行される。
農兵隊本部平山所長、軍事教練係(斎藤中尉)物品係庶務係など。
斎藤庄市の証言では、入所当初は、道場内での訓練や作業のため所内の宿舎で
生活した。宿舎は、かまぼこ型の建物であった。援農活動や農業土木工事に出動
すると出動先の農家に分宿したという。第11中隊は始め西白河郡信夫村大字下新
城渡辺儀正宅に分宿した。(訓練所まで4キロメーター)
矢内市助の証言によれば、宿舎は酪農講習所南側にあったが、陸軍の兵隊(矢
吹飛行場の陸軍で熊谷の分隊)が駐屯していたため信夫村の民家に分宿した。第
10中隊は泉崎村の民家に分宿したという。
日課4時:炊事班起床
5時:起床ラッパで起床、整列、中隊長殿へ敬礼、
宮城遥拝、勅語奉読、軍人勅諭、農兵隊綱領、農兵隊の歌
日本体操一上半身裸で雪踏みの駆け足で唱える−
181
農兵隊綱領(目的)
農兵隊は天祖の宏護を奉じ心を一に
して追進し身を日本国食糧増産の聖業
に捧げ神明に誓って天皇陛下の大御,[
に副ひ奉らんことを期す
農兵隊の歌
『.。‐-....‐..・・‐‐‐。.‐‐........‐‐..‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐。.‐‐‐。.‐一・.‐‐.。. . ‐..‐.。。.‐‐‐‐..‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐..‐‐‐. ‐‐‐。。..‐‐‐‐‐‐‐‐
−やまとばたらき−
Iひふみよ…………やまとことば立てみたましづめ
Iおるがめうてすてふきすていざ進め
I参いのぼれ気吹き吹きすて天晴れ
た の
Iあな面白あな手伸しあなさやけ
天皇陛下弥栄(三唱)、(入浴)、朝食、
万世一系たぐいなき
訓練所まで軍歌を高唱しながら行軍。
すめらみことを仰ぎつつ
午前:作業(雪で作業中止の場合は学科)
天がい万里、野に山に
午後:学科、教練、礼拝指導、軍歌練習
荒地拓きて敷島の
大和心をふるふこそ
日本男児の勤めなり
北海の果樺太に
その名あがる森深く
極東輝くいつの日に
きんぱが光る野は白し
大和心をふるふこそ
日本男児の勤めなり
--‐-‐‐‐-‐‐------ー.。‐..‐..‐‐‐‐‐‐‐..‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐..‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐..‐.。‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐....‐‐‐‐..‐‐‐‐..‐‐‐‐‐‐‐‐..‐‐‐‐‐‐・・・.‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐..‐‐‐‐‐‐‐‐..‐‐‐‐..‐‐‐‐‐‐‐|
畜藤興志夫の話
I入隊後、40日間は基本教育。歩調訓練や精神教育、具体的には「勅諭集」の朗読や団体としての心得|
|などであった。炊事当番・風呂当番・本部当番が周期的に回ってきた。炊事当番は朝4時起床で一番辛’
|かつた。食事は玄米8分、おかずは梅干1つと沢庵2切れ。内容はともかく食うには困らなかった。本I
I部当番は着信・送信両方の手紙をチェックする。愚痴のような文は消させられた。宿舎の部屋は広く、|
|真ん中に1間の通路があり両側に畳が敷いてあって雑魚寝であった。
|小隊長には毎日のようにビンタをされて辛かったが、農作業を色々教えてもらった。
|小遣いとして月に10円貰った。
’3月20日に終了した。
’一−一一一一一一一一一口■一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一、■,一一一一一一一↑■,一一一・画,−−−ロローーーーー一一一・■一・■・■・■・■一・■一・■一一一一一・■一・■一一一一一一一−一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一....‐..−−一一一一一一一一一一一一一一一一一一=−-一一一一一一‘.,−−=−−−−−−−−..−..−..一一一一一一一一=
第1中隊
(出動時期や小隊ごとの行動の詳細は不明)
会津の柳津村、西白河郡釜ノ子村、田村郡中妻村などを転々とした。
第7中隊
45年3月22日に双葉郡夜ノ森北部の留守家族の援農活動・暗渠工事に初出動した。相馬郡東玉野の築堤工事、
耶麻郡慶徳村松野の築堤工事、その他中通りや会津地方の援農活動に従事した。地元の広瀬村にも6月の田植
えと10月の稲刈りの2回来た。終戦は、裏磐梯の蛇平の開墾に従事していたときであった。
第11中隊の出動状況
(出動時期不明、中隊全体行動と小隊別行動とがあり詳細不明につき月日なしで羅列し、別行動や月日が
推定されるものについては、その都度注記する。)
○養蚕:双葉郡苅野村大字立野
同幾世橋村字内匠町
○県農業試験圃場造成
182
:耶麻郡桧原村桧原湖原県農事試験場
○援農稲刈り作業
:大沼郡新鶴村大字鶴ノ辺
同大字沼田、立石田(1945年9月10日∼9月25日)
○築堤工事:羽鳥築堤一双葉郡長塚村大字鴻草(安井祥治宅)
築堤工事一同上繁岡村松ケ岡堤(井出川堤防)
同久之浜町字北町(新妻久五郎宅)
同同(久之浜国民学校)
同上郡山村岩井戸(岩井戸温泉宿泊)
玉野築堤一相馬郡玉野村(各国民学校)
○援農・開墾作業
:双葉郡広野町大字下北迫、県立双葉修錬農場
※山形回顧録では、玉野の築堤工事は中隊全員が参加し、8月14日に、1ケ月で終了し、双葉修錬農場
へ向い行軍してきたが、中村空襲で常磐線が不通のため中村女子職業学校に宿泊し、その夜は大空雲
で中村第一国民学校の防空壕に避難させた。その朝開通した列車で広野駅に到着し、広野郵便局ほか
のラジオがある民家に分散して重大放送を聞いた。矢内の証言によれば、終戦直後、広野の農場で開
墾に従事し、その後移動し、若松でアメリカ軍兵士に出会ったという。その後帰郷し、久之浜の築堤
工事に従事した。その工事は、大久川の河口付近の堤防工事であった。岩井戸は、滝ノ沢の堤で第3
小隊のみで従事した。そこへ山形中隊長が部下2名を伴って出向いたのはある秋の日の夜半であった。
隊員たちは、麓の岩井戸温泉の鶴屋などに宿泊した。矢内市助の証言では、とても寒い季節であった。
暖をとるための焚き火も許されなかった。すると隊員の一人が、溜池に飛び込んだ。ずぶ濡れになっ
た隊員の作業衣や下着を乾かさなければならないといって焚き火をたいてみんなで暖をとったという。
斎藤庄市の証言では、敗戦後の隊の活動や解散については、混乱があったようで、第1中隊は、釜ノ
子で8月15日を迎え、その後、中妻村などの援農活動に従事し、12月に解散、帰郷したという。斎藤
興志夫の記‘億では、初出動は双葉郡夜ノ森周辺であった。終戦の時は、裏磐梯の蛇平の開墾に従事し
ていた。終戦後は「列をつくって歩くな」「隊長と呼ぶな」「敬礼するな」などといわれた。また、「分
隊」を「班」と呼ぶようになった。
卒業直前志願とその配慮
国民学校高等科の卒業直前の志願ということだが、斉藤庄市の証言によると、清水国民学校では、志願といっ
ても事実は、耕地面積8反歩あるいは1町歩以上の農家の長男、農業の後継者6名ほどが指名されたという。
斎藤興志夫の記'滝では、川西国民学校では担任が長男は1年勤めれば徴用令(白紙召集)が免除になると奨め
たという。(当時需藤興志夫家の耕作反別は、田6反、畑3反の計9反であったという。)その卒業はどうなっ
たのか。矢内市助は、卒業扱いにされていたことが後で分かったという。(需藤興志夫は卒業証書がないとい
う。)こうした証言は次の記録によって裏付けられる。
1945年3月16日伊達教育部会桑折支部班内校長会
県視学殿訓示
1.防空対策ノ件
3.甲種食糧増産隊員二対スル件
校長二於テ慰問シ実情ヲ査察シテクルコト
父兄ヲ動揺セシメザルコト
修了証書ハ家庭ニトドケルコト
斎藤庄市の場合は、45年3月、父が代理で清水国民学校の卒業式に参列したという。なお斎藤庄市には、日
記もあり、それを基にした自分史『喫茶去』(平成16年刊)がある。
183
農兵隊の修了
1946(昭和21)年3月に、富岡第一小学校で卒業式が挙行された。第7中隊は、46年3月上旬に正式の修了
式の形式ではなく、「1年間ご苦労様でした。これからは家業に励んで下さい。」といわれて修了した。それに
よって卒業後の1年間は、県農事講習所卒業という学歴が認められることになった。
この節の始めに記したように、これらの記録が後述するように戦後処理の過程で隠滅されたか、後年あるい
は現在進行中の文書保存の規定によって廃棄処分されてしまったか、保存されていても個人情報の保護という
大義名分を楯に封印されてしまっているか、実に寒心に堪えない状況にある。
第八節動員の解除と実務科または専攻科の修了
敗戦と動員の解除と帰校・帰郷
すでに様々な動員解除の事例を取り上げてきた。2,3年生の動員は何時解除されたのか、5年卒業生や4
年修了生の実務科生または専攻科生などの継続動員が何時まで継続されたのかないしは実務科や専攻科の修了
は何時だったのか。解除後の帰省や帰校の状況はどんなだったのか、判明した範囲で整理する。
学校名
福島経済専門
学年・学洞
3年(21回
解除月日
動員先.解除場所
不二越鋼材
月 E
修了年月日
修了年月日
終了生数
特記事項
44.9
繰上卒業・学
末
徒動屋
新3年(22回)
藤ヶ谷/日曹会津
8.16
新3年(同)
日立
8.16
45.9.2(
卒業161 入 学 数 2 1 7
45.12.31
卒業2(
動員前入隊31
46.3.31
卒業2(
動員数18(
(戦災死
動員後入隊w
者も含む
戦災死数(
残留解除数3(
新2年(23回)
日立
入学数171
8.1
動員数177
動員後入隊5(
残留解除<
福島師範学校
福島中学校
184
男子本科3年
東北船穿
9.7
辰
福島製作所
不明
同新3年
北海道大樹村
10.1
辰
東北船穿
9.7
辰
福島製作所
不明
同新3年
大日本兵器富旧
不明
男子予科3年
住友特殊鎌
8.4
同新3母
大日本兵器
不明
女子本科新3年
福島製作所
不明
辰
東北船奔
不明
同新2写
沖電気
不明
5年
福島製作可
3月卒業
后
沖電気
同
45.9.'
不畦
船便なく残筈
学校名
学年・学科
解除月日
動員先.解除場所
月日
后
仙鉄福島管理割
后
4年
横須賀海軍工廠
3月卒業
修了年月日
修了年月日
終了生数
特記事喉
中1組の場合
4年在籍48
動員数40
継続数40
6月末3C
7月始めC
后
沖電気
8.15
新4年
福島製作所
8.15
辰
品川計器製作所
8.15
辰
大日本兵器
8.15
新3年
飛行場建設→福島
8.15
未就職者のみ
フエ壌
福島高等女学校
4年
品川計器製作所
専攻8.2(
辰
仙鉄福島管理部
后
卒業時再動員
解雇就職など
の事例も
福島第二高女
福島商工学校
辰
日東工鉱業福島
辰
新4年
横須賀海軍工I海
8.22
新4年残留組
仙台陸軍被服廠
8.23
4年
沖電気
専攻8.IE
新4年
福島製作所
8.23
商業5年
福島製作所→権
専攻
島フエ場(学校
8.15
学校工場閉鎖
45.9.2C
山居・本内)
同4年
同上(一部
辰
新4年
福島製作所
8.15
新3年
福島製作所→東北
8.15
同上
興業
工業(機械)菊
同上
8.15
工業(電気)同
沖電気
8.15
工業(電気)新
同上
不印
4年
日東工鉱業福島
専攻、不匪
3年
片倉製糸郡u
新3年
日東工鉱業福島
8.15
4年
川崎化工機川艦
4.16
3年
2年
市立女子商業
飯坂高等女学
郡山空襲後離脱
川崎空襲
解除帰劉
校
3年
同上
同
后
1
8
[
学校名
修了年月E
解 除 月 日
学年・学科
動員先.解除場所
修了年月日
月日
瀬上高等女学校
不明
不明
不匪
私立福島電気
3年
東北興業福島
不畦
新3年
日本アスベスト→
8.17
工場疎開(石川郡
18頃帰杉
終了生数
特記事疋
工業学杉
川束村)
財団福島成躍
同
協三工業
8.15
同
昭和鉄工所
8.15
新2年
福島フエ場
8.15
女子挺身隊
田中ダイガスト→
8.15
福島フエ場/中島
女子商業学校
飛行機福島
福島師範附属
4年
日東工鉱業福島
8.15?
新4年
后
帽
高等2年
精工社
不呼
ぐ
『
国民学校
高 等 科 1 , 2 福島製作所
民学校
年(男子)
守山清「回想記」によれば、工手学科生だとし
不印
ョ
︸一
福島市第四国
なお、第四国民学校には、工手学校(青年
学校)が付設され、木工と金工の2科があった‘
松川国民学校
高等2年
東芝重電機福島
不印
清水国民学校
高等2年
矢吹ケ原修練農場
1
2
.
川俣工業学校
日東工鉱業冨久山
染色科5年
−
46.3.31
解散、帰#
県農事講習所修了
不印
不砂
61
沿革・台帳に
記録なし
川俣高等女学
同4年
后
不印
女子挺身隊
横須賀海軍工問
8.1E
4年
辰
8.I5
不砂
同上
不猷
継続38名
校
台帳に記録なし
新4年
梁川高等女学
4年
校
東洋パラシュート
8.17解
川俣
除、登杉
大日本兵器福島斧
不印
不破
継続50名程
−
新4年
古河鋳造川Ill奇
4.17*
川崎空襲
除、帰劉
保原中学校
5年
伊達製銅
不印
不匪
継続数不明
4年
東芝電気通信気‐
4.28離脱
不既
川崎空襲
再動員(国鉄・産
帰郷。再勇
鉄・製糸工場;
員後の解附
不り
186
学校名
学年・学科
新4年
解除月日
動員先.解除場可
横浜ドッグ/日東
月 E
修了年月E
修了年月E
特記事項
終了生封
同
后
いあぶ開墾
化学
保原高等女学
新3年
石戸村開墾作業
終戦後も
女子挺身陰
東芝電機鶴見
8.IE
伊達製鋼
不明
東京兵機
継続4.
校
4年
川崎空萎
23離脱、
帰郷
新4年
同上
4.23離
同上
脱、帰郷
安達中学柱
5年
本宮航空機
3月卒業
4年
川崎化工機
継続、不
川崎空塗
明
新4年
同上
不匪
同上
新4年
本宮航空機→福島
8.5
本宮空襲後再
の工場
二本松高等女
女子挺身陰
元羽田の製糸工場→
動匡
東京空雲
8.IE
棚倉町の疎開工場
学杉
4年
日東工鉱業福島
専攻8
45.9.30
昭和20年度
当初動員64
専攻科就業
157
者3(
新4年
日東工鉱業冨久li
郡山空雲後再
8.1!
→同第二工場
桑折高等女学
4年
日本蚕糸桑折
校
動屋
継続、付
設課程
45.9.2(
(9.29とも)
8.15^
飯野国民学校
高等科2年
川口電気飯野
3.31卒
桑折醸芳国民
高等科2年
梁川蚕種会社
不匪
二本松第一国
高等科(女子)
日本蚕糸製造二本
8.1!
動員年月不畦
二本松織物工場
8.1!
同上
二本松製作所
8.1!
同上
東芝重電機福島
8.1(
同上
本宮航空機
8.1!
5月動員
渡辺ファイバー
8.1!
同上
本宮製作所
8.IE
同上
松
民学校
二本松第二国
高等科(男子)
民学校
本宮国民学校
高等科2年
(主に男子)
高等科
(主に女子)
187
学校名
本宮高等女学
学年・学科
解 除 月 E
動員先.解除場所
修了年月E
月 E
女子挺身隊
立川陸軍航空閥
8.22
4年
片倉製糸郡u
継続、不明
新3年
渡辺ファイバー
継続、不明
5年
京三製作可
継続、5.
修了年月日
特記事項
終了生数
校
安積中学校
郡山空萎
9促
46.3.2り
本宮空雲
横浜空萎
7全員弓
場、不明
4年
日本電解製鉄所→
継続、付
8.5日本電解郡
設科、不
山(疎開工場)
明
東洋電機戸塚
継続、付設
科
不り
不母
7.1
全員引揚
新4年
新3年
日本化学郡Li
不明
東亜航空機須賀川
不明
保土ケ谷化学郡山
継続、
→熱海工場
8.E
飛行場建設→8
8.1
2保土ケ谷熱海
725束芝電機(学
8.55
校工場)
安積高等女学
女子挺身陽
日東工鉱業冨久止
不明
/第一/第二/郡山
枝
駅/工機部/東北ア
ルミ/日本科学/詞
便局/防空監視ロド
東芝川Ill奇→工場疎
不明
川崎空華
開(不明)
4年
日東工鉱業第一
継続、専攻
8.1
同第二
継続、専攻
8.ル
継続、専
8.10被爆壊
攻不明
減
日本化学郡山
不明
郡山空塗
保土ケ谷化学
不明
同
同第三(中島)
新4年
→勤労奉仕
日東工鉱業第一
188
8.1
学校名
郡山高等女学
学年・学科
解除月日
動員先.解除場河
女子挺身隊
日立航空機立jI
4年
仙鉄郡山駅
月 E
修了年月日
修了年月E
特記事項
終了生封
不砿
枝
8月末解
学校復帰認めら
雇
れず
継続、専
不明
一
片倉製糸郡山
郡山空襲
辰
攻8.15
学校復帰
郡山商業学校
新4年
仙鉄郡山駅
8.1!
后
新3年
柳沼養蚕所
不砿
后
学校工場(中島)
8.1!
保土ケ谷化学郡山
継続、実
5年
不明
郡山空萎
不明
后
務科不明
4年
仙鉄郡山工機部
継続、実
務科?不
新4年
学校工場(工機部)
砿
浜津鉄工所→仙鉄
高玉
郡山工機部/保土
8.1!
辰
ケ谷化学郡山→工
場疎開(高玉)
日和田国民学
高等科2年
保土ケ谷化学
校
芳山国民学校
辰
既
高等科2年
片倉製糸郡山
(女子)
桃見台国民学
空襲後不
高等科2年
継続、
后
8.1E
日東工鉱業第三
校
継続
不明
辰
8.10壊滅
東北アルミ
継続、不明
不明
后
郡山工機部
同
不明
后
片倉製糸郡山
同
不明
后
日本専売局郡li
同
不明
辰
保土ケ谷化学→空
同
不明
后
44.12繰
45.9.3(
襲後再動員(学校
工場〔中島〕?)
須賀川工業学
5年
東京機械玉川
校
上卒業、
第一専攻
科u
継続、専
攻科不明
4年
東北航空機郡山
同不明
東亜航空電機
継続、専
攻科不明
郡山空塗
45.9.30
第二専攻
科3[
189
学校名
学年・学科
新4年
修了年月E
解 除 月 E
動員先.解除場所
月日
学校工場(共同雷
12.24
修了年月日
終了生数
8.9須賀川
気須賀川
新3年
矢吹飛行場建設→
特記事項
空襲
不明
6.1再動員
不明
高女動員数
陸軍被服閥
須賀川高等女
4年
東亜航空電機
学校
45.2.17
現在2U
石川高等女学
新4年
『
不明
新3年
学校工場(中島!
不明
女子挺身隊
横須賀第一海軍航
不明
空工廠土浦航空隊
校
4年
新4年
私立石川中学
5年
保土ケ谷化学
不明
日東工鉱業第二
不明
ヂーゼル川崎
継続、専
→再動員不明
攻
ヂーゼル川崎
8.IE
川崎空塗
→学校工場不印
中止
4.22引揚49
相模陸軍造兵厩
継続、
校
45.1.1(
34
川崎空襲引揚
6.27残留7
不り
8.1E
4年
日立製作所(電線)
継続、
不り
8.1E
新4年
東芝重電機(鶴見』
不明
新3年
沢田飛行場建誌
8.1E
川崎空塗
→陸軍第8技研‘
理研
田村中学校
5年
日立製作所(多賀)
8.1E
不り
不匪
継続、空襲
不り
不畦
→学校工場
4年
横浜ゴノ
{鍋脱帰郷
4.15
横浜空塗
不明
新4年
呉羽化学(錦
5.2(
毒ガス製造
離脱帰郷、
不明
加里興業錦工嵯
8.21
香藤勉表彰1ナ
の日付
新3年
沢田飛行場建誌
8.15¥
→日本化学なと
三春高等女学
女子挺身隊
相模陸軍造兵府
8.1E
東芝電機京町
8.IE
校
19C
学校名
学年・学科
4年
解除月日
動員先.解除場所
郡山貯金局支局
月[
継続、専攻
修了年月日
修了年月日
45.9.30
終了生鍔
動員数1ll 郡山空襲
科 4.1
継続数I1l
後自宅矧幾
途中解除甥
9.17任斥
東北航空
3
4
変え
進学数不り
継続、専攻
最終解除鴬
科 8.1!
新4年
田村農蚕学校
日本化学三看
8.E
郡山貯金局支局
8.IE
(学年不詳}
学校工場(東京理化)
不匪
2年
陸軍軍馬補充部庄
不匪
特記事項
郡山空塗
不明
郡山空塗
河支部
須賀川第一国
高等科
民学校
須賀川第二国
学校工場(共同雷
不瑛
気・中島飛行機)
高等科
民学校
学校工場(東亜航
不匪
空
)
沢田国民学校
高等科2年
沢田飛行場建設
8.IE
三春国民学校
高等科
日本化学三壱
不匪
白河中学校
5年
横須賀海軍工廠
3月卒業
4年
辰
継続、実務
不明
実務科卒1
科8.17
新4年
辰
継続6
8.17ffi
除8.2(
引揚
白河高等女学校
新3年
学校工場(中島)
8.IE
女子挺身隊
立川陸軍航空工廠
不匪
4年
東芝通信工業小向
継続、専攻
→再動員=学校工
科?4.16
場(中島)
帰郷、不明
保土ケ谷化学郡山
不明
新4年
不明
不り
川崎空塗
郡山空華
→再動員=学校工
場(中島)
私立白河高等
新3年
学校工場(中島)
不匪
女子挺身隊
荒井紡績所
不既
4年
東芝通信機柳町
綱売不明
家政女学杉
不明
不り
不明
不り
川崎空塗
5.1ころ
全員帰郷
白河製糸
不吠
191
学校名
白河商業学校
学年・学科
5年
解 除 月 E
動員先.解除場所
日本精工藤が
修了年月日
月日
継続、実
修了年月日
終了生数
不破
u
不Iザ
不明
∼
特記事項
(
2
務科不明、
8.15
4年
『
継続、不
明
新4年
三菱化工機川艦
空襲後ば心
川崎空襲
ばら帰棚
東白川農蚕学
新2年
校
棚倉高等女学
女子挺身隊
校
陸軍軍馬補充部E
8.20こ
河支部
ろ帰郷
横河電機(三鷹一
5月頃ば
辻堂)
らばらに
湘南空襲?
解除帰銀’
4年
土浦第一海軍航空廠
8.IE
片倉製糸郡吐
不り
横須賀海軍工廠迄
継続、雪
機剖
攻洞
郡山空襲
不砂
34
動員数06
継続数100
8
.
解除数61
17
進学数5
残留解除34
新4年
同実験音’
動員数112
8.1E
残留112
不明(帰郷後
疎開工場(学校と
学校工場
の女子挺身隊
民家:
は8.15
学校工場(中島飛
不り
員も)
白河第三国民
高等科?
学校
小野田国民学
行機?)
高等科?
(沢田飛行場建設)
安達中学学徒
不り
宿舎
校
釜子国民学校
高等科?
(沢田飛行場建設?)
福島中学学徒
不り
宿舎
滑津国民学校
高等科?
(沢田飛行場建設?)
不砂
吉子川国民学
高等科1,2
沢田飛行場建設
45.4
校
年(男子)
→矢吹松倉開墾
6
安積中学学徒
宿舎
→
7
田村中学学福
へ
宿舎
へ
8.上旬
高等科1,2
矢吹松倉開菱
年(女子)
45.5
開墾出動
13
年次や俳
∼
8
上旬
墾面積ま
ちま世
会津中学校
192
5年
沼ノ倉発電可
-44.11.上
学校名
学年・学科
解除月日
動員先.解除場所
→日本鋼管
修了年月日
月日
継続、4
修了年月日
終了生数
不明
不砂
特記事項
川崎空重
20帰銀’
4年
→若松駅
継続、不印
不明
不明
日本鋼管
継 続 4 不明
不明
川崎空墜
20帰劉
新4年
若松駅
継続、不叩
ヂーゼル川艦
4.16
川崎空襲残留
一部帰郷
40^
4.27帰郷
川崎空重
東京衡機
不明
不明
再動巨
→星野鉄工所
不明
? へ
8.16
→三菱製鋼広田
不明
7.10
∼
8.16
→会津中学事務
7.10
I
∼
8.16
→暗渠工事・松根
不匪
掘り
初等科訓導会
生徒52名
津養成所
会津高等女学
軍用襟章製作(会
不匪
不明
不明
45.9.22
不明
津高女付設養成所)
女子挺身隊
校
会津航空/横須賀
不匪
海軍工廠/三井精
機/住友通信
5年
学校工場(軍服縫製)
3月卒業
4年
同上
総売専攻、
疎開、復帰
∼8.3
新4年
同上
同(?
新3年
学校工場(会津航
6.20ま
空機)
で研修
8.25
新2年
学校工場(軍服縫
不畦
製)→防空壕構築
若松高等女学校
女子挺身隊
4年
横須賀海軍工廠
不畦
日立精機(東京)
不既
会津航空機
3.28
卒業
昭和電工広圧
3.28
卒業
193
学校名
学年・学科
解除月日
動員先.解除場所
国産電機小田原
修了年月E
修了年月日
月日
継続、専攻
特記事理
終了生数
不明
不明
科、要員剛
除などにて
6月ごろ鵬
滅
《
新4年
日本曹達会拝
8.15解
昭和電工広圧
除、帰宅
会津航空機
8.16登核
学校工場(日立製
45.6.
作所日立工場)
21契約
稼動せす
新2,3年
学校工場(陸軍病
不既
院野布団縫製)
会津工業学校
5年
呉羽化学高萩
不匪
不畦
不明
三菱鋼材広田
不匪
不既
不明
昭和電工広圧
8.15
不匪
不明
品川白煉瓦湯本
不明.
不匪
不明
4年
新4年
玉音放這
糧問題で対立
は家で鴫
し引揚げたと
いた
を
不破
不畦
不明
会津兵器
不畦
不匪
不明
鈴善工業
不畦
吉田製板
不匪
各学年帰郷組
学校工場(日立)
45.E
不匪
不明
5年
ヂーゼル川崎→
不匪
不砿
不明
不畦
不既
32
年年
福島製作所
新新
若松商工学校
毎食右飯、食
へ
川崎空雲
学校工場(会津航
空機)
4年
日本曹達会肴
不匪
新4年
横須賀海軍工廠
引揚交渉タ
剛 8.18
残留組
若松女子商業
会津製材
不猷
不畦
不既
会津航空機
不w
不砿
不砿
学校工場(昭和電工)
不破
不破
不匪
不明
不明
不破
高等科
学校工場(二瓶航
6.貸与
空機)
9.解除
横須賀海軍工廠
継続、実務
学校
日新国民学校
喜多方中学校
5年
科、不剛
194
学校建築中止、
∼
貸与
45.9.3(
1
学校名
学年・学科
4年
解除月[
動員先.解除場所
東芝電気京町
修了年月日
月 E
継続、実務
修了年月日
45.9.3(
終了生数
特記事項
川崎空雲
5
科 4.19
全員帰校
新4年
岩瀬工機喜多夫
不明
→学校工場(日立
不明
→陸軍製械所(町
不明
内酒店)
−う
同(熱塩加納
不明
赤崎林)
→陸軍第3技研
不明
(裁判所)
新3年
耶麻高等女学
学校工場(日立I
6.∼ 不明
陸軍製械河
6.∼不匪
女子挺身陽
不り
2年
鈴木製糸(喜多方I
枝
3.卒業
解階
日東工鉱業冨久山
継続、専
郡山空襲
攻科9.
30解除
喜多方高等女
新2年
不り
女子挺身陽
横須賀海軍工廠1
不明
昭和電工喜多主
不明
昭和電工喜多方→
継続、専
池貝鉄工所→疎開
攻科4.
(池貝=宇内)
17帰校
新4年
昭和電工喜多丈
不明
新3年
学校工場(日立製
6.1
へ
陸軍製械所(熱塩
7.1
へ
加納
不明
昭和電工喜多夫
継続実務
学杖
4年
不印
継続120 川崎空襲
不印
不明
不印
継続3(
動員数121
継続数12
作所日立工場
新2年
喜多方商業学
4年
校
龍 8.16
坂下高等女学
校
4年
同→学校工場(日
ハ0
新4年
∼
日立
立製作所日立
8.1f
横須賀海軍工廠探
継続、専
沢分工坊
攻科8.
6.I1
19解除
残留2 進学数10
∼
残留解除2
195
学校名
猪苗代高等女
学年・学科
修了年月E
解 除 月 日
動員先.解除場所
月日
新4年
后
8.19解除
女子挺身隊
日立航空機立川雲
終戦、帰
作所
’
銀
日本曹達会舜
不畦
日東工鉱業第二
継続、専
学杉
2年
修了年月日
特記事垂
終了生数
46.8.15
28
45.9.28
9
攻科8
14帰郷
日橋第二国民
新2年
日東工鉱業第一
不匪
高等科●2年
三菱製鋼広田
8
.
5年
日東工鉱業福島
継続、実務
−
学杉
相馬中学杉
科、不叫
4年
東芝電気柳町
継続、実移
川崎空襲
不匪
科 4.23
全員引#
東芝電気大宮
継続実蔚
不匪
当初6吋
后
引揚1I
科 6.16
全員引捗
新4年
→日東工鉱業福島
8.16
海軍航空技術支廠
8.2(
班別帰佳
新3年
沢田飛行場建設
不印
→7.7∼海岸蓮壕
→8.9新沼被爆者
救護、8.15登校停
止
中村女子商業
女子挺身隊
芝浦工作機械鶴見
学校
8
.
1
5
解
除
、
動 員 1
8.16帰郷
帰 郷 1
残留3
相馬高等女学
日立航空機立川
不印
住友通信川嵯
不砂
2年
学校工場(縫製)
不り
女子挺身隊
相模原陸軍造兵廠
不り
同窓会主催解笥
校
昭和飛行機昭島
不印
横須賀海軍工廠
8.IE
全工廠壬
音放送
196
45.10.6
式
4
学校名
学年・学科
解除月日
動員先.解除場可
月 E
三国商工北綱島工業
不明
日東工鉱業福島
不明
日立製作所(日立
不明
修了年月E
修了年月E
終了生数
特記事項
→盛岡疎開)
4年
卒業時185
学校工場(陸軍被
継続、専
服廠)
攻科8
7.2114
→卒業後原町警察
16登校
修了者9
45.9.2(
署防空監視哨
新4年
日東工鉱業冨久lL
8.16登
校
相馬工業学校
新3年
原町飛行場
不匪
商業科5年
帝国金属原町工場
継続、専攻
不明
不匪
再動員1
科、不明
同4年
帝国金属(本社→
継続、専
45.6.30除籍
引揚後原町)
攻科4
7.13解笥
30引揚
原町紡績原町
継続12
継続、専
攻科不明
同新4年
不明
帝国金属本社
離脱月日
4.4
不明
横浜空雲
原町紡績原町
不明
製塩会社(社名不明)
不明
女子挺身隊
不明
不明
4年
原町紡績原町
継続、専攻
同心3年
原町高等女学
同上
枝
不明
不母
科、不匪
新4年
双葉中学杉
5年
日東工鉱業冨久山
4.14帰
郡山空襲
→再動員原町紡績
校
再動員後学校徒
原町
8.1!
泊や自宅待機‘
日立製作所日立
継続、実
不明
不印
6.10被爆
生産不哉
務科?6.
14引揚
4年
日立製作所多芸
同上
新4年
東京理化(新山)
不明
新3年?
学校工場(東京理化)
不明
新2年?
海岸陣地銃座工事
8.1(
不明
不砂
同?
原町銃爆華
自宅待機
浪江高等女学
女子挺身隊
日本光学
不明
枝
197
学校名
学年・学科
4年
解除月日
動員先.解除場所
修了年月E
月日
東芝電機鶴見
8.15
住友通信機
不既
横須賀海軍工廠
不畦
日本光学
不匪
横須賀海軍工廠
継続、専攻
修了年月日
45.9.30
終了生数
7.7
特記事理
動員当祇
科
追 加 2 1 100
8.21帰校
修了者56
帰校者98 同上
新4年
同上
8.21帰校
高等科2年
矢吹ケ原修練農場
12
46.そ
甲種食糧増産隊
解散1
県農事講習所
高等科2年
同上
同上
同上
不明
山上国民学校
高等科2年
同上
同上
同上
不既
八幡国民学校
高等科2年
同上
同上
同上
不砿
新地国民学校
高等科2年
同上
同上
同上
不日月
中村国民学校
高等科2年
同上
同上
同上
不匪
磯部国民学校
高等科2年
同上
同上
同上
不匪
日立木国民学
高等科●2年
同上
同1
同上
不砿
鹿島国民学校
高等科2年
同上
同上
同-t
不吠
真野国民学校
高等科2年
同上
同上
同上
不匪
原町国民学校
高等科2年
同上
同1
同上
不畦
学徒勤労協力
原町紡績原町
不可
8.1(
8.1C
原町空襲
福田国民学校
駒ヶ嶺国民学
不明
校
(
第
一
二?)
枝
隊(学年不明)
引率教討
被爆死
高平国民学校
高等科●2年
甲種食糧増産隊
1
2
.
I■■■■■■■■■■■■■■■■■■
45.6.3
解笥
県農事講習所
不明
大護国民学校
高等科2年
同上
同上
同上
不明
太田国民学校
高等科2年
同上
同上
同上
不明
石神国民学校
高等科2年
同上
同上
同上
不明
小高国民学校
高等科2年
同上
同上
同上
不明
福浦国民学校
高等科2年
同上
同上
同上
不明
金房国民学校
高等科2年
同-t
同i
同上
不明
草野国民学校
高等科2年
同上
同上
同上
不明
飯曾国民学校
高等科2年
同上
同上
同上
不明
富岡国民学校
高等科2年
同上
同上
同上
不明
楢葉国民学校
高等科2年
同上
同1
同上
不明
広野国民学校
高等科2年
同上
同上
同上
不明
198
学校程
磐城中学校
学年・学奉
解 除 月 E
動員先.解除場所
修了年月E
月日
修了年月日
終了生数
5年
常磐炭釦
不印
不匪
不明
4年
日立製作所(多賀
継続、実瀞
不匪
不明
不匪
不明
不畦
不明
不匪
不明
不砂
不匪
→6
新4年
末学校工場
特記事唾
科?不リ
藤沢飛行場建設
8.21帰郷
→第三海軍航空隊
9.7登校
飛行場建設(大槻)
磐城高等女学
女子挺身隊
横須賀海軍工廠
不印
品川白煉瓦湯本
不印
研究所?
不印
常磐炭釦
不印
帝国通信工業川│崎
継続、徴月
枝
4年
■■■■■■■■■■■■■■
川崎空襲
一
被災帰舶
6.17復帰
不
リ
日東工鉱業第一
継続、零
攻科?、
8.1E
日東工鉱業冨久li 継続、言
郡山空襲
攻科?空
襲侭帰郷
自宅待椙
新4年
新3年
品川白煉瓦湯本
不り
横須賀海軍工間
8.18帰校
品川白煉瓦湯本
不り
学校工場(冨士扶
8.E
桑飛行機
市立平高等女
不畦
三菱造船所
横浜空雲
4.13?
帰郷
学杉
2日後全焼
不明
平工業学校
電気科4年
日立製作所山手
継続、実
→日立亀有
務科?8.
不り
不匪
1
5
?
昭和航空機勝田
不明
不り
不既
日立製作所多賀
不明
不り
不匪
日立製作所鮎I
不明
不り
不匪
冶金採鉱科4年
日立鉱山
不明
不り
不匪
土木科4年
大昭鉱業上山田炭鉱
不明
不り
不既
機械科4年
専用鉄道工事
199
学校名
学年・学科
解 除 月 E
動員先.解除場所
日東硫黄鉱u
月日
不印
修了年月日
修了年月日
特記事項
終了生数
不砥
不明
炭住造成
不砂
軍関係志
川崎空襲
(秋田県生母内)
市立平商業学
新4年
日立製作所(工場?
3月帰郷
機械科新3年
日立兵器勝田
不砂
5年
日産自動車
継続、笑
校
願者(追
4.17帰郷
加卒業者)
新日本鋼管
同上
日の出製鋼
3.卒業‘
動員12
不印
継続
日本水素
同
古河鉱業
同
古河鉱業好間炭鉱
業前に全
不匪
23
不砂
軍関係志
帰郷5
願者1
継続、今
動員142
工場、計
継綜
三菱造船所
4.29離
不畦
→強制建物疎隣
脱
学校工場(縫製)
不り
日産自動車
→学校工場(日立
后
不畦
哨鼎1
日立製作所鮎川
14匡匡へ
4年
務科‘
科?8
不印
製作所鮎川)
新4年
不明
業学校(1944.
45.3.10
62
8
2
●●
77
市立平女子商
横浜空襲
4.1創立)
と空襲、移転
10.]
平陽女学校へ
私立平陽女学
不明
学校工場(縫製)
不り
2年
品川白煉瓦湯本
8.15
新2年
同上
8.15
不明
呉羽化学錦工場
不り
新4年
不破
新3年
日本水素小名浜
不り
女子挺身隊
京浜地区
不り
石城地区
不り
校
湯本高等女学
校
植田高等女学
校
町立小名浜実
業学校
小名浜高等女
学校
200
学校程
小名浜水産学
学年・学禾
解除月日
動員先.解除場所
修了年月E
月日
4年
不畦
新4年
日本水素小名浜
8.15
不匪
三崎海岸段丘崖に
不砂
修了年月日
終了生数
特記事正
格納庫構築
枝
7.26平空雲
平第一国民学
高等科1,2
枝
年(男子)
平第二国民学
高等科1,2
枝
年(女子)
平第四国民学
高等科(不明)
品川白煉瓦湯本
不印
高等科2年
甲種食糧増産陽
45.12*
46.〔
散
県農事講習所
大阪造船所(平)
8.15?
時動員中
不匪
枝
大久国民学校
錦国民学校
東京帝国大学
日本大学
高等科1,2
相模海軍工廠勿来
年
工場(呉羽)
工学部
武蔵製作所
建築学洞
→福島フエ坊
医学部
医学徒奉国運動農
不明
不印
8.15
不畦
不明
工場疎開動員
約7
不田
不既
不明
不明
派遣地不明
村派遣班
拓殖大学
不破
甲種食糧増産陽
4
5
.
1
2
解
間
不畦
日本医科大学
専門部
須賀川商業学校へ
45.5
不匪
疎開、陸軍病院で
28∼不り
教授3
学生200
実琶
東北帝国大学
理学部
不り
不匪
不明
郡山空雲
不り
不匪
不明
同上
呉羽化学錦工場
不印
不匪
不明
川崎村役場
不り
不畦
不販
保土ケ谷化学郡山
44.4
不母
不畦
沖電気福島工場
不明
不母
不匪
武蔵製作河
継続、 専
不砂
不匪
→中島飛行機福島
.
攻科 8
(扶桑170
15
日本化学工業郡止
工珪
工学部
保土ケ谷化学郡u
工竣
仙台工業専p^ 不畦
学杖
成膜高等学校
尋常科(旧帝!
の中学校
米沢工業専p^ 不匪
へ
動員30
学柱
東京家政学院
高等女学校
4年
武蔵動員102
福島疎開2C
201
第九節勤労動員の終馬
動員体制の空洞化
ここに至るまでの各節で、例示、紹介してきたように敗戦を待たずに動員体制は空洞化し崩壊していたとい
えよう。重ねて状況説明の記録や回想を紹介する。
【その1】
神谷病気は「ひじき」とうどんみたいなのを食わされて、フンづまりになって肺浸潤になった者がすごく
多かったんですね。二週間以上の医師の診断書があれば、一時平へ帰されたんですけれど、中に二週間
の診断書をもらうために、き醤油を飲んだ者もいたんです。原因不明の高熱が出る。そんな無茶をやっ
た者もいる。寮が桜木町の駅を下りて右手に中区役所があって、裏手に旅館を改造したような寮で、花
咲寮といった。ものすごく規律がやかましかった。憲兵の監督下にあったものだから。食物がすごく片
よっていた。カボチャの乾燥したものをご飯に入れたり、カブをトラック−台くらい配給になって、朝
昼晩カブ料理なんですよ。主食が米、それにカブのつけ物、カブのみそ汁、カブの煮物。家からパンや
粉を送ってもらって繋いでいたというわけです。
清水横浜などは最後の頃になると仕事がないんですよ。僕は教官室で雑誌読んだりして、たまに午前一回、
鴫原先生と交替で見回った。すると生徒は日向ぼっこしている。お前らあつちへ行ってろといわれたと
いう。仕事がないのだ。(「平商六十年誌』所収「座談会学徒動員の頃」より)
(注)神谷:31回卒、神谷光一郎。清水:清水幸蔵教諭。最後の頃:1945年4月15日川崎横浜空襲で被
災し、4月29日に離脱帰郷しているから1945年3∼4月頃のことであろう。
【その2】
大日本勿来炭砿では、昭和18年1年間で200名がブローカーに引き抜かれ、他の分野に流れていった。昭
和19年1月30日付の『毎日新聞』紙上座談会で、大日本勿来炭砿所長の荒木利恭はその状況を語っている。
「勤労報国隊の活動状況はどうか」という問いに、「私の所では全部坑内の採炭補助者として御願いしたいの
だが、実際は来山の40%程が関の山で、残りは体の都合で坑外(作業)になってしまう」と、動員が行き詰
まっている様子が伺える。
一方徴兵制度により、炭鉱自体も頑丈な熟練工が櫛の歯が取られるように減っていった。
(平成9年発行、郷土史『黒ダイヤの記'億』より)
平山さんの予言
学徒たちは、軍需工場で徴用の名の下に強制連行されてきた朝鮮人や強制就労されていた外国人伴虜たちの
姿に接することがあった。これから紹介するのは、平商業学校4年生が動員されていた古河鉱業好間炭砿での
体験記である。彼らは敗戦の半年ほど前には、敗戦の予言を耳にしていた。
炭砿には英米仏濠の捕虜が収容されていた。坑外でトロッコ(手押し小型炭車)に荷物や材料を積んで運搬
する作業もしていた。それを監視員が偉そうに木刀を杖にして指揮していた。作業中よく見かけるので、英語
で「グッドモーニング」とあいさつすると、「オハヨウゴザイマス」と日本語で答えてくれた。鼻と背の高い
外人はやせてキリギスみたいだったが、鬼畜どころか愛想のよい人間だった。しかし病気で亡くなる捕虜もお
り、大きな体なのに小さな棺をつくっていたのにはおどろいた。
朝鮮人とアイヌの労務者も多かった。平壌出身という平山さん(朝鮮名は金)と一緒に仕事をした時があっ
た。坑外の土木作業だ。平山さんは日本語の上手な頭のよい人だった。ある日、『日本は戦争に勝つとおもう
か』と、突然私に質問した。『神国日本は決して負けない』と真顔で答えた。平山さんは、いつになくきびし
い表'情で、『日本は近いうちに必ず負ける』と力を込めて言った。
二十年三月、平商を卒業と同時に古河好間をやめ、好間一小の代用教員になった。進学のための勉強が目的
だった。(中略)その年の八月十五日、平山さん予言の通り敗戦となった。古河好間炭砿には捕虜収容所もあっ
たし、朝鮮人労務者が多かったので、威張っていた日本人は急におとなしくなった。
202
ストックしていた特配物資(石けんや缶詰など)は、大分摘発されたようだ。平山さんから、石けんだった
か何か頂いた記'億がある。平山さんと働いたころ、弁当の半分をよく食べさせたことがある。そのお礼だった
のだろう。当時三十歳位だったろうか。同じ職場にいた藤田介君は、ある朝鮮人労務者に『私の友人が病気な
のに食糧の配給が全然ない。お米を探してくれ」と真剣に頼まれたそうだ。彼らは奴隷のように勝手にヤマか
ら出歩くことも出来なかったのである。
当時、朝鮮からきた同じクラスの権寧甲君は大正十四年生まれの三つ年上、人種偏見もなく一緒に勉強もし、
古河好問では日勤(土木作業)で皆んなと働いていた。(後略)
(平商第32回生同窓会『学徒動員物語』所収、小野姓匿「朝鮮人が敗戦を予言」)
学校工場の戦後処理
疎開工場、学校工場の後始末は、機械の処分や校舎教室の復元などさまざまな問題が介在して、生徒が教室
に戻り正常な授業体制に入るまでには、多くの困難に直面し、紐余曲折を経たことはあまり語り伝えられるこ
とがない。福島商工学校の柔道場はどうなったのか、白河中学校の教室はどうなったのか。二つの事例を紹介
する。
【その1】
若松市では、就学児童数の増加に伴い、1936(昭和11年に、第-鶴城)、第五(勤教)尋常高等小学
校の高等科を廃止し、新たに市内栄町に37年4月開校予定の若松高等小学校の設置を決定した。しかし完成
しないまま41年を迎え、国民学校令によって日新国民学校と改称し、一箕村大字上蚕養地区へ移転すること
にし、財政事'盾から42年には、起債を減額し建設を延期した。45年6月、建築規模を縮小、かつ工事中止の
やむなきに至り、南校舎を二瓶航空機工業に貸与することにした。敗戦後の45年9月に、二瓶航空機工業と
の使用契約を解消し建築工事を再開した。そこへ学制改革による新制中学校の設置問題が降って沸いた。47
年3月、第一∼第四の新制中学校の設置を決定し、第二∼第四中学校は、従前の小学校に併設し、第一中学
校は旧日新国民学校校舎を使用することにした。教育行政が戦時下の児童急増、軍需工場の疎開、戦後の教
育改革、それに加えて市の財政難の中に晒されていた一例である。
(『会津若松市議会史記述編1』による)
【その2】
昭和20年は実に多難な年でした。3月1日には機械科の第一回卒業式。3月10日には空襲にて校舎焼失。
その後商業学校の校舎一部借用、そして日立製作所の燃料計器課が商業の雨天体操場に疎開。7月28日には
商業学校が、空襲によって焼失。この間日立製作所は大空雲と艦砲射撃を受けました。日立製作所の3年生
は卒業式のため早く帰校しており、勝田の2年は寮が海岸近くに移転したため、砲弾が頭上通過したので被
害なく死体のあとかたづけ等して全員無事帰校しました。勤労奉仕に出た全員が無事であったことは唯一つ
不幸中の幸いでした。そして8月15日終戦の玉音を拝聴いたしました。
20年の後半から21年にかけて焼跡整理やバラック校舎の建築等がありました。焼跡整理で問題であったの
は商業学校に疎開した日立の工作機械で、アメリカは福島市に軍政部をおき、占領事務を行い、警察を通じ
て機械の管理を申し出てきました。責任は警察にあるが本校で黙っているわけにいきません。盗難にでもあっ
たら大変なので早く処分して貰いたかったが仲々坪があきません。そんなある日校長から問題の機械の工場
配置(図)を持って日立の燃料課長と県警本部に行くように言われました。翌日すぐ出県して警察本部に行
き、警官に案内され軍政部のキング少佐に面会しました。
少佐は課長と私に種々質問をされ、又当方の希望をきかれました。私は許されるなら機械を生徒の実習用
に譲りうけたい旨申しました。最后に少佐は仙台の司令部に電話して了解を得て○Kをとってくれました。
問題の機械は占領物件の枠外とする。後の処理は会社と学校の話し合いで決めるということになりました。
日立の課長も配線のどさくさで輸送が困難なとき日立まで運ぶことは容易でないから、会社に帰り上役と相
談してから学校の希望に添うようにしたい。といわれました。私も校長に報告して了解を得ました。二、三
日経って日立から返事が来て、株式会社であるからただでさしあげることは出来ないが、この際のことであ
203
るから工作機械全部を金一円でお譲りするということで解決しました。21年は復興の年。バラックながら仮
校舎が建てられまして辛うじて腰をおちつけての授業が出来るようになりました。この仮校舎が出来る迄は
多分磐城中学校の一部をお借りしていたような気がします。(昭和47年発行、平工業高等学校創立33周年記
念『新校舎落成記念史』所収、日野良太郎「回想」より)
(注)この間[日立空襲]:45年6月10日の空襲。連合国軍軍政部:仙台の軍政局(Rigion)管下の福島軍
政部(Team)、キング少佐はそのトップ、旧県教育会館(軍政部)、|日仙寿亭('情報部)、兵舎(品川
計器・福島製作所)などに分散配置。
【その3】
学校工場の設備撤去や旧状復元だけではなかった。県内各地、特に浜通りと中通の国民学校や中等学校に
は軍隊が駐屯して本土決戦に備えていた。その軍隊が何時撤去したかの記録も少ない。保原中学校には45年
の3月に東部伝第3377部隊(野砲兵第72連隊の連隊本部、輔重兵2大隊[兵400、軍馬1801)が駐屯していた。
この軍隊が漸く10月3日に解散撤退した。
(昭和51年2月27日発行「保高同窓会報」所収、氏家武「悪夢」)
敗戦・解除・帰郷
多くの学徒は、8月15日から数日の間に動員が解除され帰郷あるいは帰校した。しかし相馬高等女学校から
女子挺身隊員として日立製作所日立工場に動員された20名は、盛岡の学校への工場疎開に伴い、盛岡に移動し、
盛岡中学校の工場に出動した。松永美智子の回想には「かつて啄木が学んだという学校」と書かれているが、
「多賀工場のあゆみ」によれば、盛岡工業学校とある。その彼女たちは何時解除され何時帰郷したのだろうか。
解除、帰郷には次のような事例もあった。
【その1】
昭和電工広田工場に動員されていた若松高等女学校3年生(新4年生)は、8月15日に動員が解除された。
退社の際に食塩をスコップで1掬いずつ袋に入れて支給された。一旦帰宅し、翌8月16日に出校した。
(インタビュー「木村(旧姓稲生)淳子先生に聴く」)
【その2】
横浜市鶴見区の末広町の芝浦工作機械鶴見工場に動員されていた中村高等女子職業学校の女子挺身隊員は、
8月15日に解除になったが、常磐線が不通のため上野に1泊し、翌16日に無札で乗車した。中村駅に下車し
たら駅員にこつぴどく叱られた。誰も出迎えに来てくれなかった。
(座談会「中村高女女子挺身隊の想い出」)
【その3】
師範学校本科(男子1年の3,4,5組は、44年12月1日から山形県の西根国民学校に宿泊して、土建
会社の棒頭の監督で水田の暗渠工事に従事した。引率の先生が要求してくれたので1日6合の米飯が食べら
れた。賄いは村の女'性たちが担当し、天童温泉に案内されたこともあった。45年の1月末にその工事が終る
と、2月12日から藤沢の住友特殊製鋼に出動した。体力章検定で3班に分けられ屑鉄を材料に大砲の砲身を
製造する仕事に従事した。勤務は3交替であったが、工場の寮の食事は少なくて腹が減った。爆撃は受けな
かったが、材料が無くなって、2年に進級した4月末には帰休となった。次いで5月13日からは北海道広尾
郡の大樹村の石坂の農家に分宿して二頭立てのプラオやハロ−を使って1日1町歩くらいずつ耕転、砕士を
いなきび
し、大豆・蕎麦・稲黍(黍の改良種)・燕麦(馬の飼料)などを栽培した。また豚・鶏・羊などの世話もし
た。村に若い男がなく仕事は農家の主婦たちが中心になってやっていた。死んだ家畜やイカなどを食べた。
稲黍は美味かつた。収穫の時期と重なって出発が遅れ、連絡船がなかったため函館で待機した。連絡船は貨
物船でフキに飯が着いているような食事で食べ物が悪かった。帰校したのは10月1日であった。なお帰路は
岩手県の久慈農業学校と一緒だった。(インタビュー「渡辺四郎さんに聴く」)
終らざる豆
しゆむしゅとう
この終らざる夏は、浅田次郎の最新作の表題にあやかつた。この作品は、千島列島最北端の占守島の守備
204
隊の物語である。作中の登場人物ほど、法外な運命に翻弄されたというわけではないが、勤労動員学徒たちも
みんなが敗戦とともに帰郷できたわけではなかった。動員中に特殊な勤務を命じられた人、食糧増産は一層重
要だとばかりに戦後の開墾に出動させられた人たちがいた。その1,2例を紹介する。
【その1】
三菱造船所(横浜ドック)動員中の保原中学校新4年生は、4月15日の横浜川崎空襲で焼け出され4月28
日、強制離脱して帰郷し、多勢丸太製糸長岡工場や伊達駅・藤田駅・福島電鉄湯野一長岡などの避難庫や引
込み線工事などに出動していた。新3年生は8月5日から15日の間、霊山中腹の石戸村のいわゆる「いあぶ
開墾」に従事して、下山の途中、大石部落の農家のラジオから流れる終戦の玉音放送を聴き、みな荘然自失
の状態で帰宅した。そして8月22日に、学級担任から「敗戦国日本がこれから立ちゆくためには、何よりも
まず食糧確保が大事だ。明日から、そのための全校作業にかかる。それぞれ四本鍬若しくは唐鍬を担いで登
校せよ」と指示された。翌23日に、指導されるままに学年と組に別れて、思い思いの格好で作業道具を担い
で目的地へ向った。われわれの学年(4学年)は、霊山中腹を目指した。霊山特有の固い岩石が散らばる、
やや広い傾斜面にたどりつくまで二時間ほどは歩いただろう。私たちの三組は、その場に並んで引率の先生
の指示訓辞を受けた。「お前たち見て分かるように、石ころだらけの広場だ。肥やしも何も無い。こういう
処で育つのは、蕎麦しか無い。その蕎麦を蒔くために、これから開墾にかかる、両側一列に並んで、中央に
向かって、しっかり鍬を入れながら進め。いいか、わかったか」
私達は一心に作業に掛かった。双方の隊列が進めば、やがて衝突することを危ぶむ者は一人も居なかった
のかどうか。岩石に火花を散らす鍬の先、土より石の方が多いような地面に流れる汗を落しながら、兎にも
角にも振り下ろし振り下ろしして、前へ前へ進んだ。その時である。私の学帽(未だ戦闘帽のままだった)
の上から、ガツンと来た。見上げると、阿部秀雄君のまっ青な顔、同時に私の顔面から首筋にかけて生暖か
いものが同時に幾筋も伝うのが分かった。
周りの級友が急にざわめいた。先生が私の処へ跳んで来た。
「おい、みんな手拭を貸せ」
私の頭は、みんなの手拭で二重三重にグルグル巻きにされた。
それでも忽ち、それが鮮血に染まり、惨み、頬から顎にかけて滴るのが分かった。近所の農家で調達した
のか、ガタガタいわせながら山腹まで自転車を牽いて来た学友が居た。
「おい、早くしろ」
先生に言われるまま、私は後の頑丈な荷物台に跨った。
「しっかり、掴まれ」
サドルに両手を掛けたものの、濡れ雑巾で締め付けられたような私の頭は、腺I龍とした気分に襲われた。
先生と私を乗せた自転車は、何分位掛けて山からガタガタ道を駆け降りただろうか。掛田町の外科医院で応
ほうたい
急手当を受け、福島電鉄の電車を乗り継いでひとりわがやへ向った私は、グルグル巻きの繍帯だらけの頭で、
さぞ変装した透明人間にでも見えたに違いない。翌朝までロ申いていたのか、前後不覚に眠り込んでいたのか、
今は記憶にない。昼近くになって、心配そうな阿部君の父親が梁川町から一時間も電車を乗り継いで見舞い
に来られたと言う。後で聞いて知ったが、新聞紙に五百匁余りの牛肉だか豚肉だかをわざわざ持参されたと
いう。喰うもの使うもの凡て困っていたこの時期に、こんなに貴重で高価なものをどうやって手に入れ、お
持ちになられたのか、家族中の話題になった。
そんな風にして数日、寝たきりで居た私を覗き込んでいた父母たちが、怪誹な顔をし始めた。
「j悦郎、お前の顔腫れているんでないの?なんだか、腫れぼったく見えるよ、熱はないのか?」
戦後すぐの田舎医者には、消毒液も不足だったのだろう。傷口からの化膿菌が夏の終りの数日の間に顔や
首筋まで広がったらしく、枕に当たる首のリンパ腺が酷く痛み出した。
それから数日後、福島公立病院外科病棟に運ばれた私は、切開手術を受けないと命に関わると言われた。
執刀医師は八子先生。
205
「有名な立派な先生だから、大丈夫だぞ」
父も母も励ましてくれた。全身麻酔だというが、意識が全く無くなる訳ではなかろう。痛い痛いと悲鳴を
上げては'情けない。私は一計を案じた。痛さ辛さに堪えるために、何かに気持ちを集中させればいい。何分
かかる手術か分からないが、その間中別のことを一生懸命考えればいい。私の一計とは、英語の単語のスペ
ルを次から次へと頭の中で追い掛けることだった。一生懸命考えて考えて、辛さに耐えよう。それはアタリ
だった。頭蓋骨の表面をガリガリと削られる音は脳にも響いたが、兎に角英語のスペルをあてずつぽうに次
から次へと追い掛けた。顔面に並行する鍬の傷跡を、十文字に切るような形で切開手術は、八子先生の御蔭
で無事済んだ。
板敷きの廊下、板敷きの病室、大きな中庭を囲んだ二階建て病棟、そこで私は九月一杯入院の日々を送っ
た。外科病棟は、早々と’快癒退院する人、思いがけない大」怪我で緊急手術を要する人など、出入りが慌ただ
しい。(中略)私のベッドの下に、母は薄い布団と軍隊毛布を持ち込んで看病してくれた。病室の曇りガラ
スを通して入る西日に照らされながら、端座して一升壕に入れた玄米をサクサク、サクサクと褐いでくれた
母の姿が忘れられない。
九月末頃、見舞いに訪れた学友が思いかけない話題を提供した。
「先週、俺たちの学校でも同盟休校だったんだぞ」(中略)先生たちの困惑した顔を思い浮かべた。
それにしても育ち盛りの体は有り難い。十月早々退院の見通しを告げられた私は、福島の街をゆっくり歩
いてみた。病室に戻ったら、頭の中も足元もフラフラだった。傷口は落ち着いたものの、立って歩くことに
体がついて行けないのだ。
その後もベッドの上で読み進んだ本の一冊は、山本有三の長編小説『真実一路』で、死んだ長兄の遺品とも
いえる立派な菊判の函入り本、墨絵のような近藤浩一路の挿絵もしみじみとした絵だった。〈義損金〉とい
う文字とその言葉の意味は、この小説の中で初めて知った。
その後もう一度回復訓練のため外出した折、街の本屋に立寄った。カストリ雑誌やパンフレットの並んだ
奥に、硝子扉に錠をかけて並べられた一群の単行本があった。新刊本ではない。持ち主が物々交換に提供し
た書物である。眼を凝らしてみると、その中の一冊に『米百俵・・・山本有三』と読める。
店の親父さんに、恐る恐る尋ねてみると、『あ−あの段に並んでいるのは米五升だね』とあしらわれた。
「『米百俵』が、、米五升"か・・・」私はヘンに納得したような気分になって、薄暗い店から陽差しの強い表通
りに出た。
あの年の私を振り返ってみると、一歩間違えれば、
『アイツも霊山では可哀想なことをしたなぁ』
と、思い出される不在の身となっていても仕様がなかった筈である。生死を分けるいろいろな要素があると
すれば、それらすべての振り子が《生》の側に振れたと考えるしかない。
かくていやぶ開墾に3日間出動し、一旦帰宅し、さらに29日から31日までの3日間出動し、9月1日には
霊山に登り、2週間置いて9月15日と24日には丸太運びをおこなった。その後も勤労動員とも勤労奉仕とも
つかない高子沼の学校農園のいも掘りなど食糧増産の作業が断続的に続いた。
(県立学校退職校長会平成会会誌『茜雲」第10号所収、鈴木悦郎「生かされ残りの記」、昭和51年2月27日
発行『保高同窓会報」所収氏家武「悪夢」)
【その2】
平商業学校4年1組の約40人は、1944年11月20日(好間動員は5年生と同じ7月28日であろう)に古河鉱
業好間鉱業所に動員され、腰弁当をさげて、『木炭バス』に揺られて石炭生産の基礎的な補助作業員として、
自宅より毎日通勤して垢にまみれて皇国安泰のために、日々を送っていた。
たまたま秋口になって、組担任の前松先生から突然明日から会社の敷地内にある東京倖虜収容所第十四分
所(後、仙台伴虜収容所第二分所)の軍の経理要員として勤務することを命ぜられました。この組織は、古
河炭鉱に採炭夫として収容されている伴虜が働いている関係にて、会社から職員を提供する運命にあった次
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第です。
『鬼畜米英」と強烈な軍の指導が脳裏に浸透されていった時代で、この業務を遂行することに、苦慮した
のは事実でした。しかし、その当時は口外出来なかったが、彼らは、戦争を引き起こした『軍閥』が悪いの
であって日本人を憎むことは出来ない、人間皆平等な生活権があるとか、自由主義を唱える連中に接して将
に別世界に吸いこまれた様な毎日でした。そこには、香港作戦、シンガポール作戦に関係した伴虜が、四百
五十名あまり十三カ国の軍人たちが、自由を奪われて、苦しい中にも」快活に、石炭生産に努力していたが、
私にとっては、偏った思想教育に気付いた毎日でした。私は、深窓に閉ざされ、組主任の前松先生も収容所
の入門も許されなかった軍律そのもので、学友の皆さんを思う心があっても自由に外出できず、軍経理事務
に振り回されている中に霜が降り風雪が吹き荒れる冬も過ぎ、桜花に見ほれることなく時は流れました。
何時しか国内に敵機や艦砲射撃の砲音が聞こえる様になり、内地の兵士は敵の上陸作戦に備えて蓮壕掘り
に明け暮れるような事態を、出入りする憲兵の情報より知ることが出来た。学友もいない、前松先生は応召
されて戦地に向った。しかし、軍の将校は私を解放してくれなかった。「軍属になって現在の業務を遂行し
マ マ
てほしい、社会にででも君達は、海岸防備に招集され、本土決戦に参加することになるのだから、『皇国に
蓋す道は同じである。』」との強弁を深く理解して、卒業のはずであるが、何の連絡もないままに下士官待遇
軍属として軍経理を存続した。
そして、八月十五日、敗戦の日を迎えた。所長(将校)が、戦争終結を伴虜全員を集めて発表した。伴慮
は、平和の日が私たちにきたことを告げて戴え(い)て「ありがとう。」と喜んだ。そして、所内に楽しい
ジャズが流れはじめた。彼等は民主的な、そして自由な全体会議を開催して、供述書を仕上げて居りました。
軍人は皆復員命令にて郷里に帰っていった。彼等が引上げる時、私は食糧倉庫の鍵を渡されて、しばらく離
れないでいる様に、戦勝国より言われた。GHQ(マッカァサー司令部)より毎日の様に連絡が入って応答
に迫られた。会社の寮に食糧を持ち込んで、誰もいない施設に寝泊まりして対処しておりました。その後間
もなく将校と軍属二人が戦犯の疑いでMPにより拘束されたと聞いている。私も所内の事情を聞きただされ
た。解放されたのは、秋風の吹く頃であった。自由になった時の微風は、今も忘れることが出来ない。しか
し敗戦の巷は重苦しく、食糧事情は悪く、日用品にも事を欠き、自由と放縦をはきちがい(え)た民衆、将
に暗黒時代の中に解放され、戦時裁判の報道に、理解はあっても、今後の方針どころか、当時の戦犯処理が
おのの
解決される日までは、不安に戦く毎日を過ごした。その後秋田鉱山専門学校の採鉱科を専攻したり、東部石
炭砿技術員教習所の課程を終了して、『縁は異なもの』常磐炭砿株式会社に就職して、技術屋として記録を
追い廻したり、生産量の遂行に全精力を傾注し、日本経済の復活に向って人生を送った次第であります。
時は流れて(中略)平和な人間味を満喫出来る時代となった今、まぼろしの卒業式の開催の運びとなり、
」懐かしい学友と共に列席し、関係諸兄の思い出深きご挨拶に、流れる涙は止まらなかった。二度と繰り返し
てはいけない戦争だが、平商時代に経験した人生としての『運』の悪さに、今更ながら、『損をした』と残
念さが建ってくる今日この頃である。
(平商第32回生同窓会『学徒動員物語』所収、新妻昭雄「伴虜収容所で軍経理」)
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