SSKP 船橋障害者自立生活センター ニュース

1977年 12月 3日 第 三 種 郵 便 物 認 可 ( 毎 月 18回 1,2,3,5,6,7の 日 発 行 )
1995年5月6日SSKP 増刊通巻第1876号
SSKP
船橋障害者自立生活センター
ニュース
1995年5月10日発行 第11号
編集:船橋障害者自立生活センター事務局
〒273
船橋市湊町1ー6ー12
郵便振替「 00140−9−609088 」
℡・FAX:0474‑32‑4554
特集:シドニーの思い出
去る94年の12月2日から10日までの9日間、オーストラリアのシドニーで開催のDPI(障害者インターナ
ショナル)の世界会議に参加するツアーが当センターの主催で実施されました。参加者は22名。慣れぬ異国の地で、
初対面の人も多い中で、お互いに不安や戸惑いもあったと思いますが、大きな事故もなく、それぞれに交流を深め、
いろいろな思い出を胸に帰国しました。
今号はそのツアーの特集を組んでみました。残念ながら、参加者全員に書いていただくというわけにはいきません
でしたが、旅行の雰囲気をできるだけ感じ取っていただければ幸いです。
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主な旅行日程と世界会議概要
野上 紘子
12月2日(金) 成田出発シドニーへ
師走とは思えない暖かさの日本から、団員22名と、添乗員でシドニーへの旅が始まる。成田空港では、一般乗
客に先立ち、全日空地上係員とスチュワーデスのお世話で搭乗、着席。航空会社の車いすは、ワンタッチで外側の大
車輪がはずれ、狭い機内通路に合わせた小車輪で動く車いすに早変り。定刻を30分遅れ、日本時間19時50分離
陸、全員元気いっぱいで順調な空の旅。
12月3日(土) シドニー市中観光
日付が変わって、成田から約5時間後の深夜、赤道付近を通過。赤道乱気流による揺れの予告アナウンスどおり、お
よそ30分間、相当のスリルを経験。赤道を飛び越えるという事で、南半球へ向かっているのだと実感。定刻、シド
ニー上空へ。日本との時差は2時間。これ以後の 表記時刻はシドニー時間とする。着陸間近真近になって、びっくり
させる事が一つ。スチュワーデスが機内全体をエアゾールスプレーで消毒して歩いた。機内アナウンスで、オースト
ラリア大陸に生育する、貴重な動植物の種を害から守る為の法的接置とわかる。
上空から見渡す朝まだ早いシドニーの街並、灰色の朝もやの中、コントラストの美しい緑色と赤色の混在が目に止
まる。街じゅうが木々で埋められている。渋い赤色は屋根の色、屋根の色は赤と、市の条例で定められているのかと
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1977年 12月 3日 第 三 種 郵 便 物 認 可 ( 毎 月 18回 1,2,3,5,6,7の 日 発 行 )
1995年5月6日SSKP 増刊通巻第1876号
思ってしまった程だが、後に現地ガイドの説明を聞いて納得。これは、テラコッタという素焼のかわらで、美しい落
ちついた赤色が木々の緑とマッチする事から好んで使用されているとか。
6:30
到着、キングスフォードスミス空港でも航空会社の日本人地上職員が、親身に一行のお世話をしてくれた。
入国審査を経て、ロビーへ、現地ガイドと職員、ワーキングホリデーの実習生の3人が出迎え。
8:00
ベンツ社製のコーチバス(観光バス)「ランブラ一号(ブラブラ歩き号の意味)」で、市内観光へ。メル
ボルン市から我々の為にやって来た、オーストラリアで一台きりの車いす用大型バスで、後部にリフが
あり、片側に7台の車いすが、固定される。もう1方の側には、通常の座席が20席、暖かく我々と行
動を共にし、我々のお世話をしてくれた運転手のジョン・ニクソン。英連邦に属するこの国では、イギ
リスと同じく右ハンドル。初夏の市内には、紫色の花、ジャカランタが多い。桜と同じ様に、花が終る
と葉の出る木。夏に迎えるクリスマスのイルミネーションに、ふとクリスマスを想う。
地震の無い国なので、石造りの家屋は100年以上の使用に耐えている。
ボンダイビーチ→王立植物園→オペラハウスを経て、ハイドパーク前の「マリオットホテル」にチェッ
クイン。
午後7:30 シドニー湾上で、ショウボートクルーズ。日没、午後7時30分頃。
12月4日(日)終日市内観光
午前 フェザーデル・ワイルド・ライフパークへ。
コアラ・カンガルー・エミュー・だちょう等の野生動物達と楽しいひとときを過ごす。
各々コアラを抱いて撮影。
ブルーマウンテンへ
高速道路を一路ブルーマウンテンへ向かう。ガソリンは日本の約半値・高速道路料金は大 形バス1台が4
ドル(約300円)。人手不足の為無人の料金箱にお金を投げ入れる。つ り銭は出ない。途中2000年オ
リンピック会場建設中の付近を通る。太陽熱利用水循環 設備の環境にやさしい選手村が出来上がる予定。市
中からは車で30分、船で20分の場 所にあるが、オリンピック開催決定の翌日には、付近の土地は80万
ドル値上がりしたと か。ブルーマウンテン山脈はオーストラリア唯一の山脈で1812年に発見された。金
鉱 が発見され、1850年ゴールドラッシュとなったが、わずか10数年で堀り尽くした。 さて、 ブルー
マウンテンという名前の由来だが、コーヒーとは何の関係もない。山一帯 でユーカリの木が茂り、ユーカ
リの葉から揮発性物質が空気中に蒸発し、それに太陽光線 があたると、周囲の空気はうす青色にかすむ。遠
方から眺めると、確かにブルーに見えた。 昼食後スリーシスターズへ、自然の造形物だがシドニー市内の地
盤と同じ黄色の砂岩より 茂る。
12月5日(月)
開会式 午前10時〜午後〜1時 (11:15〜11:45 休憩)
司会
ラッチェル・ハースト女史
アトラクションとして、先住民 アボリジニ5人による音楽とダンス
◎歓迎の辞
①オーストラリア副首相 ブライアン・ホウ氏
②ニュー・サウス・ウエルズ州知事 ジョン・フェイ氏
③DPIオーストラリア議長 アンドリュウ・キプリアノウ氏
④ニューサウスウェールズ州障害者連合会長 ローリー・アイルソップ氏
⑤DPI議長 ジョシュア・マリンガ氏
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1977年 12月 3日 第 三 種 郵 便 物 認 可 ( 毎 月 18回 1,2,3,5,6,7の 日 発 行 )
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◎DPI評価と各ブロック報告
DPI評価過程の展望
ヘンリー・エンズ氏
①アジア太平洋ブロック アキイエ・ノノミヤ氏
②アフリカブロック マリア・ランソさん と モハメッド・フォール氏
③ヨーロッパブロック マイルズ・ポール氏
④北アメリカ及びカリブ海ブロック モニカ・バートレイさん
⑤ラテンアメリカ マリア・シルヴェリア・リュビィオさん
◎全体会 午後2時〜5時30分(3:40〜4:10休憩)
○基調講演 ケープタウンのデズモンド・チュチュ大司教(ノーベル平和賞受賞者)
演題「人権と障害」
『人は障害者も健常者も同等に扱われるべき権利を有する。法の下に平等の価値がある。世界中から、貧困と病気
を無くする努力をすべきである。戦争をやめるべきである。環境持続開発を促進すべきである。私も皆さん方と共に
ある。我々の待っているものは何か?ーそれは行動だ。』
講演終了後、会場内からチュチュ大司教にいくつかの質問がなされた。
例 「あなたの教会には車いす用のトイレがあるのですか?」
○全体討論
①人権侵害
提案
南代表 デイリアタ・クリバリ氏(モーリタニア国)
北代表 ジャスティン・ダート氏(アメリカ)
提案後 討論
②社会的、文化的、経済的権利
提案
南代表 ウイリアム・ローランド博士(RSA)
北代表 トレズイア・デェジェナーさん(ドイツ)サリドマイド障害
提案後 討論
③環境を雑持しうる開発
提案
南代表 リビアナさん (コロンビアの女性に変更)
北代表 レエー・リン・ハレル氏 (オーストラリア)
提案後、意見発表を求めて、盛んに手があがった。
例
・先住民族の権利が侵害されている。アボリジニー(オーストラリアの先住民族)がダンスで参加するより、発言
の機会が与えられるべきだ。
・DPIの中には言語差別がある。
・〝人権〝ということばの定義が、先進国と発民途上国とで異なっているのではないか。
・アジア・太平洋ブロックとなっているが、アジアと太平洋では諸事情が異なり、ブロックを別にすべきではない
か。
◎レセプション
午後 18:00〜19:30
ニューサウス・ウェールズ州知事主催のカクテルパーティ。
12月6日(火)
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1977年 12月 3日 第 三 種 郵 便 物 認 可 ( 毎 月 18回 1,2,3,5,6,7の 日 発 行 )
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※終日 メイン会場では主要会議各小部屋ではそれぞれのテーマのもとで分科会が同時進行で行われ、各団員は
好みの会場に参加した。
私(野上)は、午前・午後ともメイン会場で、主要会議に参加したので、以下はその大ざっぱな記録です。
◎主要会議と各分科会 午前10時〜午後1時(11:15〜11:45休憩)
○主要会議 午前10時〜午後1時(11:15〜11:45休憩)
盲目のバキスタン女性の発言が印象深かった。
女性の人権の侵害について、
『我国(パキスタン)では 都市部でもそうだが、農村部に於いては、女性の権利の侵害はより大きい。女性も、男
性も、障害者も健常者も、誰しも等しく一人の人間として扱われるべき権利を有している。女性は男性の2倍、闘う
努力が要る。同じ障害者でも、男性障害者の方が女性障害者より恵まれている。このようなまちがった考え方を取り
除く努力をしなければならない』
○分科会
午前10時〜午後1時 (11:15〜11:45休憩)
各テーマのもと、8部屋で8つの分科会が行われた。
(a)環境維持開発
(1)障害との関連に於ける環境維持開発の定義について
司会 ドゥラリアタ クゥリバリイ (モーリタニア国)
発表 ジィーン リュク サイモン (フランス)
(2)組織化 会員 運営方法について
司会 ポール レジュンヌ (カナダ)
発表 クリスティーン カニア (ウガンダ国)
(3)下部組織の参加について
司会 ゾーラ ラジャ (モーリシヤス国)
発表 グロリア ゴオフエ (ジヤマイカ)
(4)障害者運動に及ぼす環境問題の重要性と環境問題が障害者へ与える科学技術的影響について
司会 エンリック サルファテイ コーヘン (アルゼンチン)
発表 オロズマン ゼバロス (ウルガアイ)
(b)社会的文化的経済的権利
(1)機会的等についてー社会開発サミットへの準備
司会 ピーター ジョルト (ノルウー)
発表 ナット ヨハン オナルヘイム (ノルウー)
(2) 恋愛関係の権利について
司会 モニカ バートレイ (ジヤマイカ)
発表 スマサフ ヴイルソニイ (フィージー諸島国)
(3) 家族と自立生活について
司会 エリック ノルマン (カナダ)
発表 ジェーン キイフンギイ (ケニア)
(4) 障害と貧困について
司会 タムボ キャマラ (モーリタニア)
発表 ユッタ フリッケ (カナダ)
◎主要会議と分科会 午後2:30〜5:30 (3:45〜4:15休憩)
○主要会議
テーマ 社会的・文化的・経済的権利
司会
アネリィ ヨネケン女史(スウェーデン)
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発表
(1)機会均等について
北アメリカ・カリブ海ブロック グロリア・ゴッフェ(ジャマイカ)
(2)政策決定過程への参加権について
アフリカ ブロック ゾーラ・ラジャー(モーリシヤス国)
(3)恋愛関係の権利について
ラテンアメリカブロック ポーリナ・キャヴアダ(チリ)
(4)家族と 自立生活について
ヨーロッパブロック ディナー・ラドケ(ドイツ)
(5) 貧困と障害についてー1995年国連社会サミットへの提言
アジア太平洋ブロック プラディップ・マリック博士(インド)
発表後 討論
会場内から多数の発言がなされた。
例
・子供達に早期の人権教育が必要ではないか。
・障害児には特殊教育よりも、健常児との統合教育が必要
・人権意識に目覚めた教師を養成する、教師育成機関が必要なのではないか。
・何よりも草の根レベルで、障害者の活動や情報を伝える事が必要だ。 世界会議に参加した人
達は、自国に帰
国後、すぐ踏み出すべき活動である。
・国連採択の規則を各国の政治家達は良く理解し、実現に向ける努力をすべきである。
散会後、司会のヨネケン女史を中心として、このテーマに関し、DPI4ヶ年計画へ三つの提言を成文化する作業が
進められた。
◎分科会
(a)人権の侵害について
(1) 二重侵害の問題
司会 アナ・マリア・リマ・バルボサ(ブラジル) ポーリナ・キャヴアダ(チリ)
発表 マリア・シルヴィア・リュヴィオ(オンヂュラス)
(2)暴力と虐待の問題を含めて障害者の人権侵害の展望
司会 ギャブリエル・オンドウア(カメルーン)
発表 ポール・レジュンヌ(カナダ)
(3)障害者運動と国連の人権侵害問題との連携について
司会 パトリシア・ロック(イギリス)
発表 ジアリオス・ドゥベ(ヂンバビエ)
(4)障害者の人権侵害の監視と応唱
司会 アブ・ブリエトフ(オランダ)
発表 ロドリゴ・サンドブァル・ジメネツ(コスタリカ)
(b) 環境持続開発について
(1)〝環境持続開発〝を障害者との関連で定義づけると
(2)組織の開拓、会員、運営方法について
(3)仲間を広げる権利についてー国際的な技術援助研修支援
(4)障害者運動にとって、環境問題は何故重要であるか、
以下は、(4)のテーマに関するDPI副議長のカール・コンコラ氏の見解である。
(配市された資料の定期刊行誌16ページに記載)
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『環境問題が一般化されてきた今日、障害者の組織も自らの置かれている状況を発言する機会を捕らえてゆく事が
望ましい、環境保護は、社会を構成するあらゆる分野の人々に平等であるべきだし、環境と健康に関する研究では、
ある種の障害は、明らかに有毒汚染物質との因果関係で発生している事実からも、障害者の置かれている特別な状況
を考慮に入れられるべきだと要求しなければならない。
環境運動のキーワードは「環境持続開発」である。この造語は、未来の世代の人々にも、彼等のニーズを満たす余
地を残して、現代の人々のニーズに答える開発と定義される。この言葉は、開発体制と環境保護運動との間のギャッ
プを除くための表現として、造語された。では「環境特続開発」は障害者に何故、重要なのだろうか?第一に、障害
者も、環境特続社会の一員であるとの認識に基づくものだからである。第二に、障害者は環境開発の影響をいち早く
受ける身であるとの認識に基づくためである。障害と、人が置かれている環境との間には、因果開係がある。環境の
変化に応じて、障害の種類も変わる。障害者が自らに不利な環境と闘わなければならないのと全く同様に、病める地
球は、近代化によって受容しがたい状態となってしまった環境と闘わなければならない。 第三に、多くの障害は、地
球環境悪化には、天災による原因と人災による原因とがある。鉛公害から生ずる精神障害や、生態系が狂った結果、
蚊が多くなり、その蚊が誘因する障害の蔓延等がその例である。
第四に、障害者は、健常者よりも、環境変化に対して弱い。公害問題のある所で最初に徴候の表れるのは障害者で
ある。
さて、環境持続開発を唱える指導的立場の人達は、地球規模での新しい環境制御を強く主張しているのを見ても、
障害者と環境持続開発との関連は、いっそう明らかとなる。この地球規模環境制御という新しい考え方は、基本的人
権の思想に基づくものである。個人、地域、国家は、有機的に資源を保護し、統御する能力を持つべきだという考え
方である。環境的に後進国では、基本的人権も満たされていない事が多いので、障害者は、この新しい考え方を広め
ていくべきである。障害者が種々の権利を要求するという事は、障害者も健常者と同じように責任を持つ機会を求め
ているという事になる。
環境持続開発の為には、障害者も進んで責任を持つ覚悟である。人類の活動の結果生じた影響と生態系の複雑さを
学ぶ事も必要である。DPIにも障害者の取るべき行動として、責任を持つという課題がある。DPIのあらゆる活
動にも、環持続開発というテーマを含めるべきであり、この情報を共有していくべきである。1992年、リオデ
ジャネイロで開かれた地球サミットでは,リオ自立センターとDPIの共催で、環境と障害に関する世界初のシンポ
ジウムが企画された。そこで、全人数は地球の生態系と調和して生きる方法を探るべきであり、生物的多様性を尊重
すべきであるという宣言が採択された。環境持続開発を可能にするには、社会保障制度の整った社会が必要である。
独裁的で非民主的な社会では生態系のバランスも最悪状態にある例がある。例えば障害者のように、社会の最も弱い
集団に悪影響を及ぼす事になる地球環境悪化を防ぐ為に、地球の生き残りの為に、環境持続開発は必要である。リオ
に集まった全ての非政府組織でつくられた地球憲章では、地球の存在と 地球の美しさに感謝する一方、地球が受けて
きた ぞっとする害を指摘している。それは又、地球の保護と維持に必要な責任を分かち合う事をうたっている。環境
持続開発と障害との関連は明らかである。DPIのような障害者の為の組織は重要な役割を持つ。リオで開かれたシ
ンポジュウムの際の誓言文では、次のように障害者の結末と参加を唄っている。「障害者は、母なる地球上で、市民
としての連帯意識を自覚し、それを充分に行使する事を願う、リオ1992年会議に参加した障害者と支援者達は、
世界中の国家、政府、行政体、非政府開発機構に対し、我々の共通の未来の為に、協力してゆく事を提案する。』
12月7日 (水) 全員、DPIには参加しなかった。
午前中 自由行動
昼食マリオットホテル 1階のレストランで全員で
午後3班に分かれて、施設見学
私(野上)は、民間の福祉作業施設を見学しましたので以下はその記録です。
「AMAROO INDUSTRIES LTD」(アマルー産業有限会社)
オーストラリアでは、年収40万円以上になると税金を課せられるか収入額に応じ2〜3割から4割に達する人もい
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る。しかし、国家予算の8%が福祉関係費であり、高い税金を払っても、将来の 安心があるので、高い納税率には納
得している人が多い。
入口わきの壁に3枚の掲示物が目をひいた。
アマルーインダストリー社の使命
アマルーインダストリー社は障害者に対して、安定して、安全な前途を約束する為、良質のビジネスとサービスを開
発し経営するものとする。
アマルーインダストリー有限会社が大切にするもの
1障害者に安定して安全な将来を約束する。
2我社の取り扱う全ての物の品質に信頼を得る。
3取り替えに快く応じる。
4信頼できる財政、経営。
5礼儀正しいマナーの実行。
6全ての人に、いろいろな機会を開く。
アマルー・インダストリイ社のヴイジョン
・我社は、より大きく、より良く、忙しく、変化に富む事を目標とする
・我社は、独自の製品とサービスを開拓し、経済的基盤をより強固なものにする事を目指す。
・我社は、繁栄し安定している祖織体というイメージを誇れる事を目標とする。
・我社は、いろいろな雇用条件を整えて、集団として働く楽しい環境を維持するよう努める。
・我社の社員は地域と連携を取り、その一員となること。
一行は、施設内を見学した後、ティールームでお茶とクッキーをごちそうになりながら、マネージャーとその秘書
の女性から説明を聞いたり、質問したりした、以下はそのまとめです。
勤務時間 午前7時45分〜午後4時(昼食とティータイムを含む)
休暇
毎週土曜日と隔週の金曜日
従業員
スタッフ 9名(マネージャー、秘書、指導者男女名2名)
障害者
85名
内
盲目者2名 車いす使用者2名 他は知的障害者
70%は自立生活者、その内30%は家族有全員が、自己、公営住宅、医療センター等より通勤。
給料
1日15ドル倍で、週給制週平均95ドル
生活費
国の障害者年金+(190ドル)給料(95ドル)で週平均285ドル
納税
所得に応じて、納税するが、税金を払っている人はごく少数。
仕事の内容 見学した施設では、製造は行われておらず、他社の製品の梱包と返品製品の欠陥か 所のセンター。
指導、研修 青い制服を着た男性、女性、各2名がマン、ワーマン 方式で、指導と監督を行う。転業訓練を最重要
視している。
技能のグレート 訓練により、身につけた技能を三つの等級に分類し、常にグレードアップを計る。能力向上の著
しい障害者は、他社への転職も斡旋する。年間8〜9名転職但し、多くの人は、あえてグレート
の向上を望まない。
転職
他社へ転職する際には、当社、指導者がつきそってゆき、先方の職場に順応できるまで、めんどうを見
る。転職しても、うまくゆかない場合もある。その時には、いつまでも戻ってきて、再び受け入れる体
制にあるので、安心して転職にチャレンジする事ができる。
労働組合 社内には結成されていない。
地域との交流 シドニー市内には障害を持つ生徒の学校が10数校有り、地域内の学校から当社に、職業自習に来る。
当社の課題 訓練により、技能の向上を図る事を大切に考えているが、多くの障害者に意欲
が無い。技能向上して、所得が増えると納税が必要となり、実質収入は大差ない。それなら、今の状況
で、ゆったりと働く方が良いと考える人が多く、やる気のある人が少ない。
主要会議
午前10時
オーストラリア女性障害者の会が主
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司会
テリー・フレッチャー
発表
エレン・グレッグ
(1) 交流について
ロレーヌ・ビーストン
(2) ネットワークについて
ラエ・リン・ハレハ
(3) コンピューターによるネットワークについて
(4)権限について
マーガレット・クーパー
(5)資金調達について ジャネット・ハント
(6)北京婦人会議に向けて
ジョアン・ヒューム
(7)DPI婦人委員会報告
アンリ・ヨネケン
休憩後、グループ討議と提案上の提示
全体会議
午後2時30分 5時30分 (3:45〜4:15休憩)
司会
ジョシュア マリンガ
国連パネルデイスカッション
2時30分〜3時45分
国連とDPIの今後の協力について
W、モム博士 (国際労働事務所)
ベングド、リンドクヴイスト (国連社会開発理事会からの特別報告者)
国際、非政府機関 パネル デイスカッション
障害者の国際非政府機関とDPIとの今後の協力
ボビー・ブラックソンさん (世界
ウイリアム・ローランド博士 (世界盲目者連合)
ジョン、ストット士 ( 国際リハビリ連合)
メアリ・オハゲンさん (精神病治療生存者連合)
国連報告の要旨
1993年12月20日国連総会に於いて、障害者の為の機会均等に関する 標準規則が採択された。
この標準規則は、国際的条約のような署名や批准が無いので、各国の障害者の現状を改善するのに積極的に取り入れ
てもらう為、各国政府宛に、書簡を送り、1995年4月までに、アンケートを返送してもらう。
全体会議
DPI公式世界会議 午前10時 午後1時
司会
ヘンリー・エンズ
世界会議 議長団の選出
世界会議 書記の選出
投票管理人の任命
議長団と協議して、議事録を承認する人を2名代表の中から任命
投票者登録簿の公認
次期世界会議役員候補を推薦する選考委員会の選出
世界協議会報告ーバンクーバ後のDPI活動報告
各議題の後で、会場からの質問に応ずる。
各国国内会議からの提案
細則の提案
、
起草委員会による提案
勧告と決議
討論
オーストラリア連邦障害者計画の提示 2時30分〜3時
カルメン・ローレンス博士 厚生大臣
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1995年5月6日SSKP 増刊通巻第1876号
四ヶ年行動計画の採用 3時〜6時
選考委員会報告ージョシュア・マリンガ議長が新執行部役員の報告
会場から発言を求める人が多く、会場は紛糾し、結論に到らず時間切れとなり、翌日の世界評議会で
最終結論を出す事になり、閉会式へ移行。
DPI閉会式
閉会式の最後に、日本の村山首相から寄せられた
メッセージが読みあげられた。
夕食会 午後7:00〜10:00希望者のみ、40ドルの別料金
コンベンションセンター内、パーティ会場ホールにて
車いすに乗ってダンスするアトラクション。
素晴らしいふれあいの旅
松村 ハルハ
オーストラリア・シドニー。一度は行きたかった都市。夢は色々ふくらみ・・楽しみにその日のくるのを待ちました。
でも、今回はボランティアにて参加、私に無事に務まるのか考えながら成田空港から無事機上の人となったときは正
直いってホッとしました。もう後戻りはなし、前進あるのみと・・・覚悟を決めて始めた事、でも女とは・・・(私
だけかな)悲しいかな、私が私がと前進する。相手の事を考えず与える事、手を貸す事、これが温かさと勝手に考え
て行動する。これが大きな間違いであった。同行した養護学校のベテランの先生が言われた一言で愚かな自分を知り
ました。
何かをしてあげるのではなく、どうしたら自分でできるように支えてあげられるか、自分の力で乗り越えなければ何
の意味もないことを・・・
この旅で私は素晴らしい女性に出会えました。その彼女はハートで生きているんです。体が健康なだけでハートの
ない生き方をしている現代社会・・・ハートで生きることの素晴らしさ何回感動の涙を流したかな・・・でも彼女は
涙ではないと言うのです。「又一緒に汗かこうね」素晴らしい言葉だと思う何回となく彼女と流した大汗・・・私は
一生忘れることなく生きて行けると信じます。シドニーと比較すると障害者の人達に対しての考え方が何事につけて
も遅れているように感じた私です。してあげるのではなく、受け入れてあげる、あまりにも受け入れる事が少なすぎ
る障害があることが可哀相ではなく頑張って一緒に歩きましょうと手を差しのべながら厳しく明るく友に歩くことを
信じ、これから何が出くるのか分かりませんが、小さなことを積み重ねてこれからの人生生きて行こうと思っていま
す。
素晴らしいふれあいの旅ありがとう。参加して良かった・・・・・
オーストラリア旅行記
山田 高
世界の仲間と交流を!!ある日突然、目に飛び込んできた「オーストラリアツアー」の記事分けもわからないのに
「絶対いかなきゃ」と感じた自分を、今思い出しています。
初めての海外、どんな人たちと行くのだろう、英語なんて全然わからない、どうやって会社を休もうか等。色々不
安があったけれどなんと言っても一番の不安は、自立センターとは、今まで全く関係のなかった自分がツアーのメン
バーに入れて貰えるかどうかであった。
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1995年5月6日SSKP 増刊通巻第1876号
無事ツアーのメンバーとして参加出来ることになり、一番の不安は無くなり、そして他のメンバーとの顔合わせと
旅行の説明会への参加、パスポートの手配等順調に進み、後はいかに休みを取るかだけになった。長期休暇を上司に
申し出、正式ではないが一応OKを貰ったが、なんと10月の人事異動で上司が変わってしまったのである。一瞬
「やばい!」と思ったが、もうオーストラリアに行くことしか考えてなかったので、何としてでも休みを貰おうと心
に決めたのであった。
そして12月12日を迎え、あの9日間が始まったのである。
そこは成田空港。集合時間の1時間前に到着し、待っている間みんなとうまくやって行けるだろうか、そして 上野
さん は本当に来るのだろうか、来なかったらどうなるんだろうと不安を抱いていたとき、あの巨体が目に映ったと
たん、あぁオーストラリアにいけるんだなぁ、と思いホッとした。
飛行機には搭乗のときから色々とすったもんだがあり、このツアーこの先どうなることやらと思いつつ日本を離れ
たのであった。飛行機の中では、みんなそれぞれ自分の役割をわきまえており、お互い助け合っていて長いフライト
の果てオーストラリアに着く頃には、ツアーのメンバーからツアーの仲間達という気持ちが、自分の中で芽生え始め
たような気がしていた。
オーストラリアに着いて、まず感じたことは、真夏で、もの凄く暑いと思っていたのにいきなり寒かったこと、そ
して滞在期間中もあまり夏を感じることが出来なくて残念だった。その後は、観光、会議、施設見学、ショッピング
と慌ただしく、そして、普段体験出来ないことができ、自分にとって今までの中で、一番楽しく、勉強になったと思
うことは、毎晩のように酒をのみ、とてもくだらなくて、面白く、ためになる話をした事だ。また、会議の途中ホテ
ルまで歩いて帰った時と、近くのスーパーで地元の人に混じって買い物をしたときなどは、観光地とは関係ない普段
着のままのシドニーの街の中の一部としての自分の存在を感じほんの小さな幸せをおぼえた。あと施設見学の帰り、
内心、一人で近くの駅から電車にのってシドニー中央駅まで帰ってみたかった。(なぜならば、施設へいく途中バス
の窓から外を見ていたら、そこにはオーストラリアの普通の生活が映っていて、それに触れられるような気がしたか
ら。少し変だと思いますが。)そんな事をしているうちにあっという間に最終日を迎えてしまった。もう少しオース
トラリアを楽しみたかった。
渋々帰りの飛行機に乗り、窓から段々小さくなっていくシドニーの街を眺めていると、とても寂しく悲しい感じが
した。チャンスがあったらまた来よう、いや、チャンスを作って、絶対に来よう。それまで、しばらくの間オースト
ラリアよ、さようなら。
日本に帰ってきて、日常の生活に追われる今、もっとあの9日間を有意義に過ごせたのではないか、もっと自分に
出来ることがあったのではないかと反省することばかりのような気がする。そして、その反省を今後の生かし方に
よって自分自身が、一回りも二回りも大きくなれるような気がする。
この旅行記を書いていると色々なことを思い出します。単なる思い出にはしたくないので、またこのような企画が
あったら必ず声をかけて下さい。絶対参加します。そしてツアーで知り合った見なさん、いつまでも友達でいて下さ
い。ありがとうございました。
オーストラリア旅行記
山内 一三
はじめに
平成六年十二月、オーストラリアのシドニーに於いて開催された「国際障害者運動世界会議」に参加する機会を得
ました。七日間の滞在でしたが、とても楽しいひと時を過ごすことができましたので、その一部を紹介しましょう。
シドニー
オーストラリアの経済・文化の中心でありニュー・サウス・ウェールズ州の州都。市の中心部は、東西500㍍、
南北2㌔足らずのため2日もあれば市内の主な見どころを巡ることが出来ます。
十二月二日(金)くもり
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1977年 12月 3日 第 三 種 郵 便 物 認 可 ( 毎 月 18回 1,2,3,5,6,7の 日 発 行 )
1995年5月6日SSKP 増刊通巻第1876号
成田発十九時二十五分全日空十三便で機上の人となる。シドニーまでは直行便で九時間二十分、機内食の後、映画
が上映されるがあまり面白くないので眠る。
午前四時頃だろうか空が少し明るくなってきた、しばらくすると赤くなって来る、なんと「日の出」ではないか高度
1万㍍からのご来光に遭遇、その美しさは言葉では表現できないのでご勘弁を。
十二月三日(土)晴
午前六時四十分シドニー空港に到着、迎えのリフト付きバスで市内観光へ
★ボンダイ・ビーチ
シドニー市内から車で二十分程の所にある海水浴場、砂浜がとても美しい、土曜日とあって朝から水泳をする人、
ウィンドサーフィンを楽しむ人等で賑わっていました。
★オペラハウス
写真等で知ってはいたがその巨大な建造物にただただびっくり、早速記念写真をパチリ。
★ダーリング・ハーバー
シドニー水族館、国立海洋博物館、ショッピングセンター等があり市民の憩いの場、日本食のファーストフード店も
ありここで昼食。
★シドニー湾クルーズ
十九時出航、世界三大美港の一つポートジャクソン湾(通称 シドニー湾)のクルーズ。オペラハウスを見ながら青空
にくっきりと映えるハーバードブリッジなど美しい市街の夜景がとても素晴らしい。又船内では美女五人によるライ
ンダンスや歌などもありシドニー観光の目玉でしょう。
十二月四日(日)晴
★ワイルドライフ・パーク
シドニー市内から西に約40kmにある動物園、ワイルドライフの名で分かるように「野生」を尊重し動物を飼育してい
る。又三十頭のコアラがいるコアラ園では、午前と午後の二回コアラを抱いて記念写真を撮ることができます、私も
写してきました。
★ブルーマウンテン
シドニー市内から西に約100kmの所にある山岳リゾート、標高1000㍍級の山々が全山ユーカリ樹海でスリーシス
ターズと名付けられた奇岩等の眺めはすばらしく、石川五右衛門ならずとも「あぁ絶景かな絶景かな」
十二月五日(月)晴
●開会式及び総会
オーストラリア原住民「アボリジニ人」による歓迎の踊りにつづき、州知事の歓迎の挨拶の後、討論に入る。会議の
内容は省略します。
●州知事主催のレセプション
十九時から立食パーティー始まる。オーストラリア産のワインが気に入り相当酔いがまわったころ、この会議のボラ
ンティアで来ていた現地の高校教師「ミス・マリリン」に話し掛けられて意気投合、七日(水)に食事をする約束を
して別れる。
十二月六日(火)晴
●全体会議及び分科会
私は分科会へ出席、「障害者とその家族」がテーマ。日本と同じく経済的な問題がほとんどでした。経済的に恵まれ
ている自分の幸せに感謝。
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1995年5月6日SSKP 増刊通巻第1876号
◆シーフード料理
ホテルから車椅子で十五分位の所、店の名は「ブルーエンジェル」予約してあったので車椅子の客であることは店も
承知していたが、いったらその店なんと地下にあるではないか、これは困ったと思っていたら定員二人が来て車椅子
ごと店の中へ、「あぁやれやれ」この店は水槽から取り出したロブスター(伊勢エビ)を好みに応じて調理してくれ
ます。私は「刺し身」を注文、とても美味。
十二月七日(水)小雨
●昨日に続き全体会議及び分科会
◆イタリア料理
ミス・マリリンと食事の場所、彼女の仕事の都合で二十一時にホテルで待ち合わせタクシーで出かける。店の名は
「ベッピーズ」単語を並べるだけの私の英会話力も彼女の努力であっという間に楽しい時間も過ぎ、時計は十二時少
し前、明日のことも考えて店を出る、ホテルまで送ってもらい再会を約して「おやすみなさい」。
十二月八日(木)晴
●女性委員会総会
会議は失礼してショッピングへ
★デビット・ジョーンズ
オーストラリアでも指折りの大きなデパート、ホテルから車椅子で十分くらいの所にあり店内は車椅子でも楽に動け
る広さで落ち着いた雰囲気のとても素敵なデパートでした。因みにこのデパート日曜日は休業と聞き日本人との考え
方の違いを改めて認識させられました。又近くにはシャネル、ルイヴィトンといったブランド店もあり日本人も多く
見られました。
★クィーン・ビクトリア・ビルディング
ピエール・カルダンが「世界で最も美しいショッピングセンター」と絶賛したと聞き、行ってみました。三階建ての
名店街とでもいったところでしょうか、私はYシャツとベルトを買いました。
★ザ・ロックス
十八世紀英国から来た流刑囚により教会、家が建てられたと言う、まさにシドニー発祥の地植民地時代の面影を残す
家屋が並ぶ。是非一度立ち寄ってみてください。
◆中国料理
参加者全員での夕食会、店の名は「マリーゴールド」きらびやかで大きな広東料理店、料理も美味しく呑むほどに酔
うほどに話しが弾み、とても楽しい夕食会でした。
十二月九日(金)晴
●会議最終日
少々疲れたので会場近くの「チャイナタウン」へ散策に出かける。十八時二十分会議終了。十九時から「さよなら
パーティー」始まる、立食かと思ったらテーブルでの食事、人数も多くとても賑やかな楽しいパーティーでした。
十二月十日(土)晴
午前八時五十五分シドニー空港離陸、機内食の「日本そば」がとても美味しく日本人であることを実感する。少々疲
れが出て眠る、十六時二十分成田着。迎えの車で一路自宅へ十九時に我が家に無事到着しました。寿司と味噌汁で夕
食。あぁやっぱり日本食はいいなぁ。(典型的な田舎者)
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1995年5月6日SSKP 増刊通巻第1876号
楽しかったオーストラリア旅行記もこれでお開きとしましょう。
おわりに
今回の会議に私よりも重度の障害を持つ人も参加しておりました、二度と海外旅行など出来ないと思い込んでいた自
分の心の狭さが恥ずかしくさえ思えました。皆さんも都合の許す限り海外旅行をしてみてください。違った世界が見
えてくると思います。
人生二度ないのですから・・・
DPI世界会議参加ツアーを振り返って
宮尾 修
1
昨年94年12月、私たちは22名のチーム・ツアーで、DPI(障害者インターナショナル)世界会議に参加す
るため、会議が行われたオーストラリアのシドニーに行ってきました。
もうそれから三ヶ月たちますが、おくればせながら参加して下さった皆さん、およびカンパその他で応援してくだ
さった方々に対し、ツアーの企画・運営に当たった者として厚くお礼を申したいと思います。
ツアーは12月2日〜10日の日程で、船橋障害者自立生活センターの主催、アイ・ジー・エス・トラベル社の取
扱で実施されました。参加者は障害者11名、健常者11名で、このうち車椅子は電動5人、手動2人の7人いまし
た。それに添乗員として上野重男さんが同行、利用した旅客機は往復とも全日空、滞在したのはシドニーマリオット
ホテルでした。
現地でのスケジュールは、到着した12月3日と翌4日がシドニー市と付近の観光、5日〜9日は世界会議参加、
および障害者施設の見学等を行いました。この間、世界会議初日のレセプション、最終日のバンケットなどにも参加、
12月10日午後、無事帰国しましたが、現地での移動ではツアーコントラクター・パシフィック社の手配により、
リフトつきの大型バスをチャーター、現地案内役として田中正則さんが、滞在中の全日程に関与、こまかいフォロー
をして頂きました。
2
このツアーは94年度事業計画の一つとして昨年はじめに企画、アイ・ジー・エスの協力を得ながら計画をつくり、
7月から9月にかけて参加者を募集して行ったものですが、実現するについてはいくつか困難にも遭遇しました。第
1はツアー定数の確保と介助者になってもらえる健常者の参加ですが、二度の新聞報道によって、クリアーすること
ができました。第2は世界会議での通訳です。この問題は他のツアーが派遣する同時通訳者の通訳を私たちも利用す
ることにしましたが、しかしそのための通訳料が上乗せされてしまいました。第3はこうした負担にともなって、船
橋センターの支出が大きくなったことです。
これらは当時協力して頂いた皆さんのご尽力により、いずれも何とか乗り切りましたが、なかでも朝日新聞の桑折
勇一さん、池沢敏夫監査にはお世話になりました。また、大橋和夫船橋市長、高木恒雄船橋医師会長ほか、たくさん
の方々から多くのカンパを頂いたことも報告しておきます。
3
ここからは個人的な報告になりますが、現地シドニーに到着語、第1日目はオペラハウスやハーバーブリッジなど
観光めぐりとシドニー湾のショーボート、2日目はシドニー西方に広がる壮大なブルーマウンテンと対面しました。
ブルーマウンテンというのは、あたりいっったいの山や渓谷が一面に青く霞がかって見えるところからその名がつい
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たものですが、この現象はユーカリの木が発する樹脂の粒子が太陽光線と接触、最短波長の青い光線の反射によって
起こるのだそうです。
滞在3日目からはDPI世界会議が始まり、5日間にわたり連日参加しました。幕張メッセをほうふつとさせる大
きな会場で開かれた世界会議は、100以上の国から1000人が参加、このうち90人余りが日本からの参加者で
した。「JDジャーナル」(日本障害者協議会月報)に載った中西由起子さん(DPI日本会議国際部長)のレポー
トによると、会議の主なテーマは「人権の侵害」などの三つで、最終日に「DPI戦略的活動計画への提言」が採択
されたとなっています。
また、世界役員の顔触れも一新、これまで議長だったアフリカのジョシア・マリンガに代わり、フィンランドの
カッレ・コンコラが新しい議長になったとありました。途上国を中心とする出席者の発言が活発だったことからも、
こうした交代の流れは現場でも分かりましたが、それにしても言語能力がないための理解不能は自分の無知とはいえ、
つくづく情けなくなりました。一応、イヤホンで聞く通訳はありましたが、当然十分なものではなく、地元事務局の
対応も明確でないところがありました。
しかし、一番残念だったのは、折角100人近くも日本から行っていながら会議で発言する人がほとんどいなかっ
たことで、最終日とその前日、私と杉井さんで発言しただけだったのは、なかなか国際化できない日本の現状を見る
ようで大変もどかしい思いがしました。
4
次に会議以外のことで感想を書くと、まず、私は十年ぶりで空の旅をしたのですが、それにしては航空会社の障害
者に対する扱いは変わっておらず、サービスの進歩が全くないと思いました。空港の対応、障害者用設備も、成田よ
りシドニーの方がまさっています。シドニー市内は坂が多く車いすでは歩くのが骨なところもあるようですが、地理
や環境になじみさえすれば電動車いすでいけない場所はなく、かなり快適な生活ができそうです。
滞在中3つの判に分かれて施設見学をしましたが、私の行った州立のリハビリテーション・サービスセンターは、
日本でいうと職安と相談所と機能訓練センターとを一緒にしたようなところで、機能、理学、心理、職業の専門ス
タッフがそろっていました。しかも、こうしたセンターがその州だけで50もあり、その一つ一つが地域に住む対象
者のケアーをしているというのです。街行く人たちやチャーターしたバスのキャプテンなど、滞在中に接した豪州人
の自然で大らかな態度と合わせ、オーストラリア社会は意外に骨太で懐の深い社会だと思いました。
個人的に残念なのは立場上勝手ができず、街へほとんど出なかったことです。乗り物も山高帽子のような車いすご
と乗れる背の高いタクシーに乗っただけで、モノレールも地下鉄も乗らずに終わってしまいました。エビやカキなど
のほか、はじめて口にした食べ物もありましたが、それよりもおスシを二度も食べたのは予想外です。
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出発する前、最も心配だったのは滞在中の生活、ツアーの運営、健康の保持などでしたが、介助役の人たちの真心
溢れる活躍によって、無事乗り切ることができました。この点については、率直にいってかなり不安だったので、帰
りの飛行機が成田についたときは本当にほっとしたのを覚えています。
こうして今回のツアーが、ともかく何事もなく終了できたのは、参加した皆さん全員のご協力と、上野さんのソロ
バン度外視の献身的な働きのお陰です。このツアーを計画した最大の意図は、一見無謀とも思えるこうした旅行をす
ることによって、自立への自信を自分で持つことにありました。意図の一端は達成できたのではないかと思います。
最後に今回のツアーで印象深く、今もハッキリ覚えているのは、現地でガイドに当たられた田中さんの言葉です。
田中さんはオーストラリアにやってくる最近の日本人を見ていると、「日本はこれからどうなるんだろうと心配に
なってくる」といわれたのです。それから3カ月、昨今の有様を見ると、日本にいても田中さんのような言葉が出て
きてしまいそうです。
DPIオーストラリア旅行に参加して
河西
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禮子
1977年 12月 3日 第 三 種 郵 便 物 認 可 ( 毎 月 18回 1,2,3,5,6,7の 日 発 行 )
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なつかしい旅行中の写真を見ながら、あの人、この方、いまどうしているかしらと思います。
9日間の短いお付き合いでしたがその間ずいぶんいろいろなことを話したり感じたりしました。
DPIという聞き慣れない言葉と共に車椅子の方や軽い障害の方、そして何にも知らない、英語もしゃべれない私の
ようなおばさん達の混成チームが大挙してオーストラリアへ出発したのですから、添乗員の上野さんのご苦労はいか
ばかりだったかと本当に頭の下がる思いです。でも、てんやわんやで過ごしたその時が今とてもなつかしく思い出さ
れます。きっと他では味わえない人間味のある旅行になったからだと思います。
朝日新聞に出ていた障害者世界会議に一緒に参加しませんか、という記事に行きたいなーと無性に思い、あのお金
とこのお金をこっちに回して、と咄嗟にやり繰りを考え、主人に行きたいのだけど・・・と恐る恐る提案してみると
意外にあっさりと行ってくればという返事、さっそく参加を申し込みました。(あとで聞くとまさか本当に行くとは
思わなかった、とぼやいていましたが)
そんなこんなで出発の当日、成田へ集まった皆様のとても元気な様子によかったなと思い、
帰るまで元気で楽しく過ごせるようにと祈りました。
沢山の車椅子で飛行機に乗るのは通路が狭くてとてもたいへんでしたが、どうにか全員無事に席につき、出発、一
路シドニーへと飛び立ちました。出発前1、2回会っただけでも同じ目的に心が弾み、楽しいおしゃべりと一眠りの
間にもうシドニー湾が見え、空港に無事着陸、みんなとても元気で異国の地に来たことを心から楽しんでいる様子で
した。
空港には既に大きなリフトバスがチャーターしてあり、車椅子も簡単に乗り込めました。
日本にもあるのでしょうがふだん余り見かけることがないので、本当に素晴らしい物だなと感心しました。運転手の
ジョンさんは大きなタフガイという感じのハンサムな人で、たえずにこにことしてユーモアがあり、特に女性に人気
がありました。シドニーでの滞在中ずーっと一緒に行動しましたが、どんなこともいやな顔をせず一生懸命取り組ん
でくださり、私たちの都合でコースを変えたり、遅くなったりしても「ノープロブレム」といって気持ちよく付き
合ってくださった本当にお世話になったとても素敵な人でした。勿論仕事ですが、それを越えたボランティア精神を
教えられた気がしてとても印象深かったです。
もう一つ国際会議場に行って、本当に参加してよかったなと思ったことがあります。世界各国の障害者と呼ばれて
いる人々、主に車椅子の方が多かったのですが、その人達の行動力、人なつこさ、明るさ、そして堂々とした発言、
自身障害があるのにボランティアとして他の人を思いやっている優しさなど、今までの私たちの障害者という固定観
念を吹き飛ばし、実に伸び伸びと自然にふるまっている姿に、障害の有る無しは問題なのではなく、人間としてどの
ように生きるかが私たちに問われているのではないかと思い感動しました。アメリカ、イギリス、南アフリカ、オー
ストラリア、ウガンダ、そのほか覚え切れないくらいの国々の方々が障害と共に集い、それぞれのいま置かれている
立場や悩み、困難、提案などを話し合いながらより差別のない世界を作りあげて行くために一つずつ問題点を整理し、
全世界へのアピール宣言を作りあげて行くその中に今私が身をおいているのだという臨場感がとても素晴らしかった
と思います。ただ本当に残念だったのは、私が英語が大の苦手で、日本語通訳に頼らざるを得ず、本当の生の声を理
解できなかったことです。
この会議の合間にシドニーの街をブラリとしました。山崎さん、梅沢さんと美術館に行ったこと、雨の中、車椅子
用のレインコートを試したいと山崎さんとホテルの前のハイドパークを散歩したこと、みんながブランド土産店に
行ってる間にひとりでカテドラル(教会)へ行きゆっくりと静かなムードを楽しんだこと、思い出は尽きませんが、
この旅行を通して、人を見る目を少しでもナチュラルに出来るようになったらうれしいなと思いました。自立セン
ターの宮尾さん、杉井さん、山本さん、そして一緒に参加した皆さん、本当にありがとう、そしてお疲れさまでした。
又いつか一緒にどこかへ行きたいですね。
そして、9日間ひとりで留守を守って、快く送り出してくれた主人にも本当にありがとうとお礼を言いたいと思いま
す。
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センターを知り、そして行動を!
梅澤 綾子
私は今まで千葉県に住んでいながら、まず船橋障害者自立生活センターを知らなかったのです。
12月のオーストラリア旅行に参加したのも、当センターを知りたかったと言うのが大きな理由でした。それにいろ
んな場で人とかかわることがなく単調ぎみの生活を送っていたこともあったので、人ともっと違うところで関われた
ら(交遊関係を広げる機会だなぁ)また福祉を基本においているところでちょっと働いていますが(全国社会福祉協
議会)事務処理ばかりで、障害者の方、高齢者の方等に対して動く機会がないので、外から関わっている方、情報を
得ている方がどのように感じているのか外からの声を聞きたかった〜もしかして知る機会だと思ったのです。また介
護職につくための勉強をしたのにも関わらず、現在は使っていなかったので忘れている技術を使えるかも!!使って
感覚を取り戻そうとも思ったのです。
でも思いは募りますが、12月初めという忙しい中休んでの参加は、戸惑いと共にだいぶ大きな負担をかけること
によりぎりぎりの決断上での参加でした。
初めて知り合う方と9日間も共に生活できるのかなぁ?初めての海外旅行がこの様な形だもんなぁ よくそんなのに
参加しようと思ったね
うわぁ高い (30万円に対して)周囲のいろんな意見に揉まれていました。
こうなったら30万円分いろんな発見をしよう、楽しんでこよう、たっぷり喜怒哀楽をしようと思いました。
実際旅行に参加をしてみると・・・意見の食違い、食事!!伝達不足、介助者の割り振り・・・自分で好きなよう
にできる旅行とは違う介助者としての参加によって生じることに出会いました。いろんな職のいろんな年齢層の方が
集まっていたので仕方がないことだ、と思いました。参加者の中で(若い方で)センターのことが何も解っていな
かった私は随分、心を痛めたことでした。どこにでもおきる人間関係のもつれ・・・オーストラリアに来て起きるな
んてちょっとがっくりでした・・・まぁ、これも今になっては何ともありません。
私は障害者について頭でわかっているつもりで実際は何もわかっていないんじゃないのかなぁ、障害者、障害者と
強くいってしまうことが相手に対して、悪く勝手に隔たりを作っている気がしたのです。ある体の部分が不自由なだ
けなのに〜共に生活をして、自分より、より多くのことを知り、解っている方ばかりで〜こちらが勉強をさせていた
だきました。自分は2年間社会福祉を勉強しましたが、何も解っていなかったんだ。何が生かされたのかなぁ?自問
自答でした。何を学んだのか、何を知ったのか、会議のことをきっかけとしてどうだったか、問われても難しいので
すが、もっと素直になりたい、障害者の方と付き合っていきたい(関わっていきたい)ということです。行動におこ
してみなくては、解らないことは、そのままなので・・・
自分だっていつ障害者という立場になるか解らない人生を歩んでいるのだから・・・行政が障害者の声、助成金が
欲しいという団体にうまく行き渡っていないという気もしました。うわぁ〜心が痛い。
そして、日本の福祉を考えさせられたなぁ。当事者の意見がもっと入るべきですよね。いろんな思いの中、現実に
体をリズムを取り戻すために必死でした。
旅行後、自分が変わっていればいいのですが〜これは、よく解りません何度かメンバーの方と会う機会があったのに、
参加できず、お写真を頂いたのにお礼が出来ませんでした。この場をかりて本当に有難うございました。
急に原稿をと言われても、うまく文章が書けずあ〜恥ずかしい状態です。いつかお会いできたら、その時はよろし
くお願いします。
世界会議で知り合った彼女
関根 義雄
1994年12月2日金曜、船橋障害者自立生活センターが企画したDPI(障害者インターナショナル)世界会
議に参加するため、一行を乗せたジャンボ機はオーストラリア・シドニーに向けて、成田を飛び立ちました。世界会
議という大きな国際交流の場で、体験したことをこれから話したいと思います。
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1977年 12月 3日 第 三 種 郵 便 物 認 可 ( 毎 月 18回 1,2,3,5,6,7の 日 発 行 )
1995年5月6日SSKP 増刊通巻第1876号
私は2年前、ダスキンが企画した障害者リーダー海外研修派遣で2週間に渡り、アメリカへ行く機会を持ちました。
確かに大きな国であることを体験しながら、自立生活運動の広がりを感じました。1990年、ADA(アメリカ障
害者法)が制定され、日本にも大きな衝撃が走りました。すべての障害者は平等な権利を保証されなければならない
と謳った法律です。
今回の世界会議でも、メインテーマに 障害者の差別と人権 が挙げられてきました。確かに先進国といわれてい
る欧米諸国の人たちからは自分たちの運動の経過報告やさまざまな差別問題について提起をされていましたが、これ
から世界が何を統一問題にしていくことも、わからない自分にとってはただ聞いているだけに終わりました。
シドニーに着いてからまもなく、リサという女性と出会いました。総会の参加申込に行った際、会場となったコン
ベーションセンターであいさつを交わした時に彼女の年を間違えて言ってしまったことが幸いし、それ以後友達にな
りました。彼女は5人兄弟の末っ子で、幼いときから施設で勉強しながら過ごし、20歳を過ぎてから自立生活を考
えたそうです。今回は全国各地区の障害者団体とボランティア組織によって結集され、会議の運営に当たっていまし
た。
そこで彼女は、オリジナルTシャツの販売を1日交代で会場に詰めていました。会議の合間を見て、食事をしたり、
船橋が企画した親睦会にも誘い、快く応じていただきました。会話に障害があったにもかかわらず、滞在中お世話に
なったツアー・コンダクターの田中さんのお陰で、素晴らしい出会いとなりました。知り合ってから、お互いのこと
を理解するために単語を並べただけで四苦八苦したことも、なつかしい思い出となりました。
気候で言うと、ちょうど日本の入梅の時期に差し掛かり、日も長く、湿気がないため気持ち良く過ごすことができ
ました。開会式があった夕刻、州知事主催の歓迎レセプションに招待されました。午前中から議論を交わした仲間も
和やかな雰囲気でしかもゴージャスな趣でした。あまり縁のない私にとって、外国人が話しかけている姿を見るとな
んて日本人は大衆民族であるかを痛感させられる思いでした。やっと日本を離れたのだから、もっと各国の障害者と
話せば良いものを、日本人同士が集まって世間話になってしまうのはどうしてなのでしょうか。前にも言ったように、
英語が話せないことがこんなにも不自由を感じたことはありませんでした。
しかも彼女は、勤務先で仕事をしていた際、上司から侮辱されたことで、法務局に行って訴訟の申請をして来たと
話してくれたことに驚きました。日本ではあまり例を見ないことですが、向こうでは日常において差別と感じられる
ことに関してはきちんと主張していかないことには障害者に対する認識は変わっていかないそうです。逆に言うと、
自分にふりかかったことを前向きに出ていくことで社会に訴えかけていることを感じました。
確かに世間一般から見れば、障害者は家族とか施設の中でしか生きられないと思われてきました。その名残は今も
根強く残っています。しかし、分科会のなかで施設=差別とか隔離とかいう言葉が頻繁に飛び交っていたのも事実で
す。
日本では曖昧な表現で、きちんとした理解をされていないまま、権利擁護やオンブズマン制度が一人歩きをしている
かに見受けられます。
短い間でしたが、彼女に出会えたことは最高の思い出になったうえ、彼女のでた行為は、衝撃として私の心に刻み
込まれています。差別と言うことただ感じるだけではなく、もっと社会に訴えていく必要があることを、もう一度考
え直していきたいと。感じています。
最後に私をいろんな意味で応援していただいた皆様にお礼と、今後の良き仲間としてお付き合い願いたいと思いま
す。また機会があれば、飲み明かしましょうね。
シドニー世界会議の旅
榊原 美代子
長い人生の中で初めての海外旅行、人生最高の思い出になりました。
初めは、心配もありましたが旅行社の上野様にお会いして、色々お話しを伺いました。
まず、いろんな友達の経験を聞いて二度と「チャンス」はないと考えました。仕事の間に訪問して「渡航手続」の代
行までして頂いて、私は嬉しくてたまりませんでした。
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1995年5月6日SSKP 増刊通巻第1876号
出発の日は朝早くからソワソワしてました。家を出るとき子供たちが「お母さん、体に気をつけてね」と、見送っ
てくれました。午後3時頃成田空港に着いて午後7時20分頃飛行機内に入りました。
シドニー到着は3日の朝6時40分頃、長い旅で「足が痛かった。」シドニーの町は大都市と緑の街でただ驚きまし
た、バスでいろんな所を見学して夜は観光船に乗りオペラハウスをバックに写真を撮ったり食事などをして最高の記
念になりました。ホテルの中からの夕暮れの待ちもとても美しかった。3日目はバスで動物公園に行き初めて見るコ
アラを抱かせてもらったり、カンガルーにも会えました。気分はとっても最高でした。それから雄大に広がる山岳国
立公園で三奇岩をアボリジニ伝説の三姉妹に見立てたスリー・シスターズは最高の山で私は岩の表面の色が変わって
いるのを時間をかけてゆっくりと眺めていました。4日目からは世界会議に参加しました。広い会場の中は世界中か
らの障害者の代表が集まってきてました。初めて色々な国の人々に出会って心豊かになりました。
夜の開会式、州知事主催歓迎会では色々な国の人とお話をしたり、食事をして、いい勉強ができた気がします。一
人一人みんな違う障害者でも心がとっても明るかった。自分は今まで暗くなっていた。それはこの一年嫌なことが多
かったからです、父母が亡くなってしまい、そのとき私は一生の終わりと感じていた。
でも、この会議に参加して久しぶりに自分のことを考える時間がたくさんあって心の底から本当にリラックスした
時間を過ごしました。
閉会式でも、色々な国の人々との夕食会やアトラクションは最高でした。二度とこんな時間はないと思うと寂しくて
たまらなかった。会場を後にして夜の街を歩きながら長い一日が過ぎていきました。
9日間のシドニーの旅は最高にいい思い出として残りました。もっと時間があったら見学したかった。
最後に、添乗員の上野様、ボランティアの皆さん、自立生活センターの方々沢山の思い出をありがとうございました。
今は一日一日をゆとりをもって過ごしたいと思っています。
初めての海外旅行・・・障害者との心の触れ合い!
小松崎 哲一22才(恋人募集中!!)
今回のDPI参加ツアーは、私にとって全てが新鮮な印象を与えるものに感じられた。海外に行く事はもちろん、
飛行機に乗る事さえ初めての経験であった。そして、障害を持った人達と腹を割って話し合うという事も初めてのも
のだった。
宮尾さんからこのツアーのお誘いを受けたときは正直言って、とても行けそうもないと思ったのだが、トントン拍子
に話しは進み、本当に参加できると分かった時は、不安と期待で心が一杯であった。
しかし、一緒に参加する障害者が、皆、海外旅行経験者であったので、海外旅行に対する不安は消えてしまった。羨
ましいと思うと同時に、超行動的な障害者に自分も見習わなければならないとも思った。あまり私が、海外知らずで
あったので、実際、私の場合、障害者の皆さんに頼る所が多く、頼りたいが為に介助させて頂くといった形であった。
オーストラリアに到着した直後は、本当に海外旅行に来たと言うイメージが沸かなかったのだが、一日一日と日にち
が経つに連れて、日本との違いも見えて来た。大気、風景、出会う人々の雰囲気、日本に近い関係にあると言われて
も、新しい物を感じた時の、胸踊る、ワクワクした気持ちになった。
何と言っても、下手な英語を使っての人との触れ合い程、面白いものはなかった。自分の中の世界が広がるような、
素敵な笑顔を持つ人達がたくさんいたことに驚かされた。
FILの障害者とも、普段と違った心の付き合いが出来た事も嬉しかった。3年近く障害者と付き合ってきたが、今
回のような人間らしい、喜怒哀楽の大きな変化を伴った話合いは、お互いの心を分かり合えるに十分なものになった
と思う。恐らく、皆が皆、本当の自分自身に気付き、また相手の長所、短所も受け入れることができたと思う。私も、
普段、隠してしまっている自分をさらけ出し、飾らない自分を表現することが怖くなくなった。これは、とにもかく
にもFILの皆さんのおかげである。
DPIの会議には、少々失望したが、FILの宮尾さん達が、あの世界中の障害者の注目を受ける中で、堂々と発言
した姿は、本当に私を感動させてくれた。あの時の心の熱くなる気持ちは一生忘れられないであろう。また、海外の
障害者や、ボランティアの人々との話合いも、私に新しい発見をもたらしてくれた。日本より福祉の進んでいる国は、
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1977年 12月 3日 第 三 種 郵 便 物 認 可 ( 毎 月 18回 1,2,3,5,6,7の 日 発 行 )
1995年5月6日SSKP 増刊通巻第1876号
何をすれば改善されるか、どのように行動すれば実現するか、その事を本当に思い、考えられる人々が多いというこ
とに気付かされた。また、障害を持つ人々が、思った事をすぐ実行しようとする行動力を持っていることにも驚かさ
れた。日本もこのような環境を早急に作るべきだという思いを感じた。私も「少しでも、そのお手伝いが出来れば」
とも思った。
今回の旅行で、様々なことを経験させて頂いた、FILの皆様には本当にお世話になりっぱなしであった。その私を
「よく動いた」と言って頂いた皆さんの心の広さには、本当に頭が下がります。大学生活の中で、最高の思い出の一
つを作って頂いた事に感謝し、これからも、FILの皆さんをはじめ、多くの障害者の方との触れ合いを感じていき
たいと思います。
オーストラリア見聞記
田沼 敏夫
12月2日から10日まで9日間、障害者、健常者合わせて22人という大所帯のツアーで、D.P.I(Disabled
Peoples' International)世界会議に参加するためオーストラリアはシドニーに行ってきた。世界会議なんていうと、
すっげえ!と思われがちだが、実際は酒と寝不足の日々だった。行き帰りの飛行機の中はもちろんのこと、もう昼
間っからワインだ、ビールだって飲んでて、たまにまじめに会議に出ればうつらうつら。何しに行ったのかわかりゃ
しない。これはなにもぼくだけが呑ん兵衛だからじゃなくって、周りがみんなそうだったからだ(「周り」って誰
だ?)。
さて、いろいろなことが思い出されるのだが、印象に残っていることを時間の流れに関係なく、スケッチ風に書い
てみたいと思う。
【入れ墨の女性】
会議は世界中から100カ国以上、約700人ほどの人たちが参加して行われたのだが、肌の色も白いの黒いの茶
色いの黄色いの青いの、あっ、青いのは前夜の飲み過ぎで二日酔いの奴だ、とにかくいろいろな人が参加していたが、
みんなオシャレなんだ。中でも、年の頃なら25、6、車椅子に乗ったオーストラリアのとある女性なんか、サング
ラスをして、背中が半分くらい見えるドレスを着ていたのだが、その背中一面にかなり大きな入れ墨をしていて、思
わず「緋牡丹のお竜さん!」って声かけようかと思ってしまった。とにかく格好よかった。
【イカ墨スパゲッティ】
オーストラリアでの食事は毎回がスペシャルみたいな感じだった。朝昼晩と3食きちっと食べたのも珍しい。朝は
ほとんどホテルのレストランでのセルフサービスのバイキング。好きなものだけ取るのでつい多めに食べてしまう。
オーストラリアは特にシーフードがおいしい。
ある日の夕食に上野さん、桑折君、菊原君と一緒に『ベッピーズ』というイタリアン・レストランに行った。生ガ
キがとってもおいしかった。日本のよりやや大きく、肉厚だ。口に入れると、トロっととろけてチーズのようだ。
こってりとした感じがする。いくつでも食べれてしまう。
また、ここで初めてイカ墨スパゲッティを食べた。見た目に相違して大変美味だ。これもこってりしている。しか
し翌日と翌々日のウンコが真っ黒だったのには笑えた。昔見た難病もののテレビドラマの中の、「おかあさん、ぼく
のオシッコ、真っ赤だよ」というセリフを思い出し、思わず、「おかあさん、ぼくのウンコ、真っ黒だよ」と言いそ
うになってしまった。つまりイカ墨は1回で2度、3度と楽しめるというわけだ。これは得だと思う。
それはさておき、このとき食べた生ガキとイカ墨の味が忘れられず、日本に帰ってからもおいしい生ガキとイカ墨
を求めてさまよい歩いているのだが、どうもあのとき、あのレストランでの味には及ばない。生ガキはどことなく磯
臭いし(まあこれがおいしいといえばいえるのだが)、こってりとした、とろけるような感じがない。イカ墨はうす
い感じがする。おいしい店があったら紹介してほしい。
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ああ、もう1度『ベッピーズ』で生ガキとイカ墨スパゲッティを食いたい。そして真っ黒なウンコを見て笑いたい。
【深夜の市街散歩】
飲み会やるので何か酒とつまみを買ってきてくれ、ということで、ぼくと桑折君が深夜の市街に出かけた。みんな
がこの人選の不適切であることに気づくには1時間以上も待ちぼうけを喰わされねばならなかった。外国に行ったら
夜の街を徘徊しないでどうすると思っているぼくは絶好の機会だ、と合点承知の助。車椅子でも入れる飲み屋に入っ
て何か飲んでいこうと店を探したが適当なところがなかった。途中、路上で新聞や雑誌を売っているところがあった。
公道で堂々とノーカットのポルノ本を売っているのには日本との違いを感じた。相方がモロ本を2冊買って帰った。
途中の酒屋で酒を買ったり、あちこち店を覗いて回ったあげく、スーパーでつまみを買って帰った。ホテルに戻ると
ブーイングの嵐。ギャハハハ、楽しかった。それからの酒盛りのことは以下で。
しかしあのポルノ、結局誰が持って帰ったんだ?
【深夜の激論】
今回のツアーで有意義だったことの一つに連夜の酒盛りがあると思う。これがなかったら各人の評価は旅行前とさ
ほど変わらなかったのではないだろうか。本音を出し合っての議論、ときには喧嘩に近いほどの激論は、それぞれの
人間に対してより親密さを増すのに十分だったと思う。
宮尾さんと平山さん+αの三つ巴、四つ巴の喧嘩、小森谷君の涙ながらの真情の吐露、上野さんの名檄、平山さん
のアジ演説、山本君たちへの吊し上げ等々、ほのぼのと心温まるシーンの数々が思い出に残っている。
特に宮尾さんはお歳にも関わらず夜になると元気になるという印象を受けた。
「昼間のジジイはちょっと違う。夜のジジイはもっと違う。」と、あのとき、あの雰囲気の中では割と自然に言え
ても、こうして書いてしまうとシャレにならないかもしれないが。
【マーガレットおばさん】
実はオーストラリアに行く前、近所に住む新婚の友人から頼まれ事をされた。以前、DPIに参加したときお世話
になったマーガレットというおばさんがアデレードから来るはずだから渡してほしいものがある、ということで、彼
女の結婚式の時の写真と日本のおみやげを預かってきた。
会議初日、開会式の後、昼休みにマーガレットおばさんを探しに会場を走り回った。手がかりは眼鏡をかけていて、
太っていて、愛想のいいおばさん、というだけ。名札を覗き込んでは人違い、ということを何度か繰り返した後、
やっと探し当てることができた。マーガレットおばさんは、聞いていた通り、人のいいおばさんという感じの人だっ
た。友人のことをひとしきり懐かしがってから、「で、あんたはどうなの? まだ結婚してないの? ハリー・アッ
プ、ハリー・アップ! 人生は短いよ」ときたもんだ。これには照れてしまった。なんとかごまかしたが。
クロージング・バンケットでふたたび会ったとき、マーガレットおばさんは、ブーメラン型のボールペンをおみや
げにくれた。来年(95年)の4月頃、日本に行くからそのとき友人夫妻と一緒に会おうね、と言って。
【ジョ・ユンヒと君ちゃん】
台湾から参加したジョ・ユンヒと君ちゃんと仲良くなった。ジョは個人で参加したポリオの女性だ。台湾は中国と
の関係でまだDPIに加盟できないでいる、と言っていた。日本語がぺらぺらで、台湾の大学で日本語を勉強したそ
うだ。気さくで明るい人だ。
君ちゃんは林亮君という名で、君という字があることからみんなに君ちゃんと呼ばれているそうだ。台湾からシド
ニー大学にリハビリ・カウンセリングを勉強しに来ており、今回はボランティアとして参加しているという。卒業し
たら日本に行って勉強したいと言っていた。とても茶目っ気のある女性だ。
この二人とぼくと桑折君の4人で会場の隣のショッピングセンターで昼食を食べた。その後、一緒にショッピング
をした。オーストラリアには、コルクの付いた紐が縁から何本か垂れているカウボーイハットみたいな独特の帽子が
ある、と君ちゃんが言う。オーストラリアは蝿が多いので園芸家とか庭師とか外で仕事をする人はこの帽子をかぶっ
て頭を振って蝿を追い払うのだそうだ。最初は冗談を言っているのだと思っていたが、帽子屋で実物を見て、本当だ
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と分かった。日本の蝿取り紙の説明をして、コルクの代りに蝿取り紙をぶら下げたらいいんじゃないの、と言ったら、
げらげら笑っていた。で、おみやげにその帽子を買って帰った。
しかし日本ではこんな帽子かぶってる人見たことない。まあ陽射しが強い季節になったらかぶってみるか。
【シマちゃん】
シマちゃんは、会場前の芝生の庭園(タンバロンパーク)のはずれにあるカフェテラスの売店で働いている、ナイ
スバディでエキゾチックな顔立ちのイスラエル女性だ。とある日の午前、例によって相方と、会議をさぼってタンバ
ロンパークで昼寝をしていた。陽射しは強いが、風があるので気持ちがよい。しばらくして何か飲みに行こうという
のでショッピングセンターのほうに向かっていくとカフェテラスがある。そこの売り子さんの一人がシマちゃんだっ
た。
翌日、一緒に写真を撮ったり、桑折君は花をプレゼントしたりしていたっけ。
それにしても彼のピジンイングリッシュには恐れ入った。やはり人間、意志を伝えたい、なんとしてでもコミュニ
ケーションを図りたいという強い願望(別名、すけべ心)こそが大切なのだということを学んだ。英語が分からない
からコミュニケイトできないということをよく聞くが、それはむしろ逆で、相手とコミュニケイトしたいという意欲
が十分強くないからいつまでたっても英語ができないというほうが正しいのだと思う。その意欲というのがすけべ心
だったとしても、それはそれで正当だと思う。その点、彼の「当たって砕けろ」精神には感服した。
【モノレール】
市内を巡回するモノレールに乗ってみた。8つある駅のうち、ほとんどの駅にリフト(エレベーターのこと)があ
り、非常に快適に乗降できる。ビルの中からホームに通じる駅ビル式の駅もいくつかある。ホームと車内の間に段差
や隙間がほとんどないので手動の車椅子でも楽に乗り降りできる。彼我の差を感じはした。日本のモノレールもそう
なっているのだろうか。
今回、このモノレールやタクシーなど交通アクセスの便利さ、配慮を感じたが、この面では日本はまだまだ遅れて
いると思う。
【信号】
ハワイでもそうだったが、オーストラリアでも、歩行者用の信号が青から赤の点滅に変わるのが早い。でも赤の点
滅の時間が結構長いので、この間は渡って大丈夫だ。これを知らないとあせってしまったりする。
気のせいかもしれないのだが、交通の流れが全体に日本に比べてゆっくりしているように感じた。急かすようなあ
くせくした動きがみられない。ゆったりとした大陸気質のせいだろうか。
【カックニーイングリッシュ】
カックニーイングリッシュのことは英語の教科書に出ていたので知っていたが、本当にそうなんだと分かって興味
深かった。教科書には例として、「I will go to hospital today. 」という文を挙げて、この「today」が「トゥディ」で
はなく「トゥダイ」になるため、耳から聞いただけでは、「I will go to hospital to die.」と同じになってしまう、とい
う一種の笑い話として出ていたのだが、実際、「day」は「ダイ」と発音されるんだなあ。その他、「nine」が「ノイ
ン」、「year」が「イー」になるなど個々の単語によって発音が変わるケースがあるようだ。慣れないうちは、早口で
しゃべられるとなかなか聞き取るのが難しい。
運転手のジョンが教えてくれたあいさつの言葉、「Good day, mate!」も「グッダイ、マイト」となる。
現地で関根君がナンパしたお茶目なボランティアの女の子、リサに、クロージング・バンケットのとき奇しくもふ
たたび「ってやんでい!」の発音を教えてあげる羽目になった。(「ふたたび」というのは、この言葉を最初に教え
たのはぼくではないからだ。)ところが、この「でい」の部分が何度正しても現地なまりで「だい」になる、つまり
「ってやんだい!」になってしまう。それじゃ江戸っ子じゃねえや、と思ったが、やっこさん、お構いなしに、日本
人と見るとニコニコして「ッテヤンダイ!」を連発していた。参ったなー。
【旅行後】
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宮尾さんとの短いやりとり。
「お互い、高学歴どうしということで君と桑折君をペアにしたんだけど、こりゃ失敗だったな。」
「いや、最適だったと思いますよ。でも、このコーディネイトをしたのは誰ですか?」
「私です。」
「それじゃ自業自得じゃありませんか。」
「あはははは。」
障害者の介助ということで、いつもぴりぴりとアンテナを張りっぱなしという人もいたようだが、障害者の立場か
ら言わせてもらえれば、何かしてあげよう、してあげよう、といつも身構えている、そういう気遣い、視線を案外プ
レッシャーとして感じている障害者も多いと思う。何か頼まれたときだけやってあげて、それ以外は知らんぷりとい
うスタンスも大切だと思う。
【最後に】
まだまだいろいろなこと、多くの人たちとの出会いが思い出に残っている。旅行前から知っていた人たちに対して
は、より深く人柄を知ることができたり、見直したりしたし、今回の旅行を機に出会った人たちに対しても、旅行中
に学んだり印象が変わったり(もちろんよい方向へ!?)した人も多い。
できれば次回の北京にももう一度このメンバーで行ければ面白いと思うが(もうこりごりだという声がどこかから
聞こえてきそうだが)、もうこういう面々で旅行することがないかもしれないと思うと、一層今回の旅行が貴重に思
えてくる。
この旅行の機会を提供してくれたFIL、そしてそれを支えてくれた多くの人たちに感謝の意を表して擱筆したい。
出会いこそ!!旅の真髄
杉井 和男
94年12月、DPI世界会議に参加するために、シドニーへ向かっていた。私自身にとって、第一回の世界会議
に続く二度目の参加であったが、それ以上に大きく違っていたのは今回は、ツアーを主催する側に回ったとゆう事で
あった。実際、現地でも色々な打ち合わせ不足や、準備不足からくる行き違いなどがあったが、特に大きな事故や怪
我もなく無事に9日間を過ごすことが出来たのは、千葉県の内外を問わず各地から参加して下さった、皆さんの協力
のおかげである。
会議の内容については、第1回の世界会議を経験しているだけにいささか失望の念を近じ得なかった。各国の社会
的経済的、あるいは文化的な発展段階の違いが障害者の問題についてもあからさまに表面化してしまって、一つの問
題についても、同じ土俵で議論をするとゆう状態ではなくて、意見の違いよりも国情の違いだけが浮き彫りになって
しまっているような印象を受けた。そのために話し合いが噛み合うことが少なくて、聴いていてもどかしい思いが強
かった。更に加えて、他の団体も含めて日本から100人近い人達が参加していながらほとんどの人が聞き役に回っ
て日本の実情を訴えるとか、自分の考えを発表するとかゆう人達がほとんど見られなかったのが以外でもあったし残
念でもあった。
そうゆう分けで今回の会議は、当初の期待にやや反してDPIとゆう組織の将来のあり方を明確に、感じ取ること
が出来なかったのは残念であった。しかし、ひるがえって考えてみるとDPIとゆう組織が抱えているのと同じよう
な問題を、私達のセンターも抱えているような気がしてくるのである。それは、すなわち障害の状況も置かれた環境
もそれぞれ異なる障害者に、どうやって自立への道を示して全体としてこのセンターの方向性をいかに定義できるか
とゆう問題にも共通しているようにおもえるからである。
今回の経験を、ふまえて各自が本当の自立へ向かって歩めるように祈ると同時になによりも今回の旅行で出会った
一人一人のメンバーとの交流を生かして、このセンターのこれからの大きな力としたいものである。固い話しばかり
になってしまったが、ほとんど観光などに個人的に歩くとゆう時間が取れなかったにもかかわらず、深夜の飲み会や
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色々な人達との語り合いを通して楽しい思い出もたくさんできた出来ることなら、別の機会には会議などの雑事に追
われる事がない状態でまた旅をしてみたいものである。お世話になった多くの方々にあらためてお礼を申し上げると
同時に今回の旅行に参加した皆さんには、これからもこのセンターにとっても、また私自身の人生においてもかかす
ことの出来ない人達で居て頂きたいとおもう。
DPIオーストラリア旅行について
添乗員 上野 重男
この旅行業界に身を置きかれこれ16年になりますが、まだ駆出しの頃、入社後3年が過ぎ旅行とは何たるかがぼ
んやり見え、仕事の価値を自分で勝手に決め付けて、転職も考え始めていたそんな時、お得意様からとんでもない難
題を突き付けられました。視覚障害者の方々の海外旅行を依頼されたのです。しかも観光に加えて、現地盲人協会、
盲学校や関連福祉施設の訪問など。当時海外旅行と言えば観光旅行が専らで視察旅行など耳にすれど経験はなく、頭
の中はパニックでした。その状態のまま企画、準備、添乗と無我夢中で時が過ぎ、気が付くと成田空港に帰国してい
ました。その時、お客様の涙ながらな感謝のお言葉を頂き、自分の身体が震えて涙が止まらなかったことを今でも覚
えています。その経験が13年もの間この業界から足を洗わせてくれず、未だにその感激を追い求めて日々悪戦苦闘
している中、何とも言えない不思議なご縁で、今回の企画のお話しがありました。
このDPI旅行の企画依頼をいただいた直後、幸運にも別の仕事で現地視察の出張がありホテルや交通機関の選定
に大いに参考になり、結果的にオーストラリアに1台しか無いリフト付きの大型バスを確保することができました。
が、良いことばかりではなく、国際会議事務局の対応が定まらず運営内容の不明確な部分も多く、私の不勉強も手
伝って、日程の詳細や登録料など費用の問題も未解決のまま募集することとなり、大きな赤字を抱える危険もあり一
時は不安で考え込んでしまいましたが、いざその時には、ほかの仕事でボランティア(そのお客様には内緒で寄付)
していただくつもりで開き直っておりました。船橋障害者自立生活センターの皆様も募集などに大変ご苦労をされ、
お陰様で何とか実施の運びとなりましたが、事前の説明会も予定通り開催はしたものの未解決事項も多く不十分なも
ので、大きな不安を抱えての出発となりました。旅行中は万全とは言えないまでも大きな事故や病気の方もなく無事
日程をこなしておりましたが、私自身個人的な事情で体調が万全でなく、皆様に大変ご心配をお掛けし誠に申し訳無
く思っております。また、皆様方のご要望に充分お応えできたとは言えず、いたらなさを痛感いたしております。
私の個人的な意見ですが、日本のお客様全体の傾向として、自己主張が苦手で大勢に従うようですが、もう少しご
自身が何をしたいか、何を食べたいか等を主張されても良いのではないでしょうか。多少の我儘もご自身が旅行を心
から楽しむ為には必要なことだと思いますし、我々も喜んで御手伝いさせて頂きます。大きな我儘はこまります
が・・・。
今回の旅行が皆様にご満足のいただけたのか大いに気になるところですが。またこの様な旅行に携わって行きたい
と願っております。幸いにも冒頭に述べました方々から14回目を数える旅行で、この夏カナダ横断の企画を頂き今
日も悪戦苦闘しております。
最後になりますが、今回の機会を得ることができ、また皆様のお力添えを賜り厚く御礼申し上げます。皆様のご多
幸とより良い明日が開けることをお祈りいたしております。
ワープロの普及のお陰で乱筆のお詫びはせずにすみますが、文才のない私の乱文をお許し下さい。
メッセージ
障害者インターナショナル(DPI) 94世界会議の開催にあたり、世界各国より開催地シドニーの会場にご参集
の障害者、並びに関係者の皆さんに対し、心よりお祝いを申し上げます。
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1977年 12月 3日 第 三 種 郵 便 物 認 可 ( 毎 月 18回 1,2,3,5,6,7の 日 発 行 )
1995年5月6日SSKP 増刊通巻第1876号
近年、社会保障への関心とノーマライゼーションの理念の高まりは、国際的にもめざましいものがあります。その
ような高まりをもたらす一翼として、DPIが果たしている役割を私は高く評価致します。
わが国においても、1981年の国際障害者年以来、「完全参加と平等」をめざして各種の福祉施策が進められい
ますが、とくに私の内閣では、障害者の自立と社会参加の拡大のため、私自身、その促進を国会の施政方針演説で強
調しているところです。
94世界会議が皆さんの連帯の場となり、充実した会議になることを心から期待します。また、さらなる発展に
向かって、DPIの運動がますます大きくなり、前進していくことを祈念致します。
1994年12月5日
障害者インターナショナル世界会議議長
ジョシュア・マリンガ殿
日本国内閣総理大臣
村山 富市
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