『ある社会科学者の遍歴-民主ドイツの旅』再訪

『 ある社会
ある 社会科学
社会 科学者
科学 者 の 遍歴-
遍歴 - 民主ドイツの
民主 ドイツの旅
ドイツの 旅 』 再訪
大島
昌二
(会友)
昨年の 10 月にドイツを旅行した。私はこれまでにも仕事で1週間ほ
どフランクフルトに滞在したことを始めとして、ドイツの都市の幾つか
を垣間見ていたが、それらはベルリンの東半分を除けばいずれも西ドイ
ツであった。今回は前々から一度行ってみたいと思っていた旧東ドイツ
のドレースデンがお目当てであったが、併せて訪れたアイゼナッハ、エ
アフルト、ワイマール、ライプチヒなどのすべての都市がいずれもかつ
ては東ドイツの都市であった。
ヘルシンキ経由でフランクフルトに着陸してから最終目的地のベル
リンまで、ドイツ国内はすべてバスでの移動、晩秋のドイツでは珍しい
快晴続きで、道筋から日々黄葉を満喫するという幸運に恵まれた。ドイ
ツではゲーテの生誕地であるフランクフルトから、晩年を送ったワイマ
ールをへてライプチヒまでの 400 キロほどを「ゲーテ街道」と呼んでい
るが、この道筋はゲーテやシラーなどの文豪にとどまらず、バッハを始
めとする音楽家や宗教改革への道を開いたルターなどの偉人の足跡に
満ちている。旅行会社の企画に乗った旅なので、すべてを自分が意図し
て選んだルートではない。しかし、帰国してふと思いついて『ある社会
科学者の遍歴』
(以下では『遍歴』)を取り出してみると、ほとんどの都
市に大塚先生の足跡があった。
東西ドイツの統一以来だけでも長い年月を経ているし、都市の景観だ
けでもかなり変化していることであろう。しかし、私の古い頭からは「東
ドイツ」という観念を拭い去ることができない。ドイツ人の間でも「東
ドイツと西ドイツ」という地理的かつ文化的な概念が今でも日常的に念
頭にあると教えられた。そのことはまず店舗などで英語がなかなか通じ
ないということで実感された。
日本では見つけられなかった剛毛のヘア・ブラッシを買おうとして身
振 り 手 振 り で 説 明 し て も 通 じ な い 。 結 局 2 人 の 店 員 が 相 談 し た あげ
く”Haar Pflege?” ということになった。
「それ、それ!」。
「ハール・
プフレーゲ」は知らなくとも「ハール」と「プフレーゲ」なら知ってい
る。懐かしい感じがこみ上げてきた。後で聞いてみると、今は英語にな
ったが、かつては学校で教えられた第一外国語はロシア語だった。西ド
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イツではこちらがたどたどしいドイツ語で話すと、「英語で話しましょ
うか?」と問われるほどだったから、ドイツ人はみんな英語に堪能なの
だと思い込んでいた。一見の旅人はこんなことから学び始めなければな
らない。
アイゼナッハ
フランクフルトからの夜行バスで最初に訪れたアイゼナッハは古い
中世の都市である。戦略的な理由でソ連軍が素通りしてくれたお蔭で第
2次大戦を無傷で過ごしたという。そこで宿泊したシュタイゲンベルガ
ー・ホテルはルター時代からあったといい、通りをへだてた広場にはル
ターの銅像が建ち、近くには古い城門が残っている。ホテルの木造のロ
ビーには天井画が描かれ、受付の背後にはこの町で生まれたバッハの若
き日の肖像画が2枚飾ってあった。この町にはもちろんバッハ博物館が
あるが、音楽の街ライプチヒにも立派なバッハ博物館があった。
アイゼナッハには、市街を一望にする小山の上に最もよく保存された
ドイツ中世の城砦というヴァルトブルグ城があり、ルターの事跡を残す
統一ドイツのシンボルとして 1999 年に世界遺産に指定されている。城
砦には珍しくアラブ風の装飾を施した大広間があり、そこで吟遊詩人が
歌合戦を行い、ワグナーの歌劇タンホイザーはこれを取り入れたものと
いう。
この城のルターの部屋では、教皇権を否認して偽名で匿われたルター
が聖書の独語訳を完成している。彼はそこで「インクを悪魔に投げつけ
た」あるいは「インクで悪魔と戦った」と述べたと伝えられている。聖
書の独語訳はルターのものが最初ではない。しかし、もっとも広く読ま
れ、後世に甚大な影響を残したものだった。
後年ゲーテもここに5週間滞在して聖書の独語訳を行い「ドイツ国民
はルター以前には存在しなかった」と述べている。この言葉がこの城を
「統一ドイツのシンボル」とすることにつながるのかもしれない。ドイ
ツの旅がようやく始まり、ヴァルトブルグ城を見ただけで早くもこの国
の歴史に引き込まれる思いがした。ヒットラーもこの城を愛好し、城砦
の十字架を外してナチス党のシンボルであるスワスチカ(かぎ十字)に
変えるべく市当局と争ったとのことである。
ワイマール
ゲーテの生誕地であるフランクフルト・アム・マインを省略している
ので、私の通ったゲーテ街道には総じてゲーテよりもバッハやルターの
ゆかりが多いように思われた。エアフルトを経てワイマールに到着して
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ようやく写真でもよく見るワイマール国民劇場前のゲーテとシラーの
銅像を見上げた。この 2 人の堅い友情はよく知られている。これでよう
やくゲーテ街道の実感が湧いてきた。ワイマール共和国(1919~1933
年)の憲法はこの国民劇場で討議されて起草された。この建物は空爆に
よって破壊され、現存するものは戦後に建て直されたものである。
『遍歴』で大塚先生は 1922 年、1956 年、1966 年の3回にわたるワイ
マールへの旅を綴っておられる。
(このほかにも 1960 年にドイツを訪問
されている)。最初は第一次大戦後の疲弊したワイマール、あとの2回
は第二次大戦後、相互に 10 年のインターヴァルを置いた復興期のワイ
マールだ(229~280 頁)。その伝でいくと今回の私の訪問は、その延長
上の両ドイツ統一後ということになるが、もちろんその名に値する報告
ができるわけではない。いずれにせよ、ワイマールは都市全体が博物館
の名に値するもので、「古典主義の都ワイマール」として世界遺産に指
定されており、その細部も深部も際限がなく見える。
大塚先生は 1922 年秋に長い列車の旅の後でワイマールに着き、町の
中心の毎日市(いち)が立つという広場の前のホテルに泊まった。その
広場が「マルクト」広場であるならば、ゲーテの家(ゲーテ博物館)ま
では短い一本道である。ゲーテとシラーの 2 人の像を訪れたのは明くる
日、ゲーテの家、次いでシラーの家を見学した後であったが、その翌日
の夜も再び暗闇の中でこの像の前に立っている。貨幣の歴史に名高いハ
イパーインフレーションの最中、ドイツ人の生活はどん底に落ち込んで
いた。「なつかしいかぎりである。悲痛な・たえがたいほどのいまのド
イツ生活は、ときどき、ぼくをつきとばすのだが、そういうときにぼく
をドイツにひきもどしてくれたのは、100 年前の前進的な・充実した・
あたたかく・文化豊かなドイツだった。そして、そのようなドイツ文化
が手近にまとまってのこっているのは、ぼくには、ワイマールだけのよ
うに思われた」。
戦前の大塚先生の日記は、広壮なゲーテの家と質素なシラーの家を対
照的にとらえていて、どちらかといえば、シラーの方により多くの親近
感を持たれているようである。しかし、戦後は空爆で崩れ落ちたゲーテ
の家もシラーの家も立派に建て替えられて博物館として賑わっている。
先生はシラーについて、ベリンスキーの次のような言葉を教えてくれる。
「シラーの詩のなかで、かれの心臓は、たえず、人間と人間性とへの愛
の生命にみちみちた・火のような・高貴な血がみちあふれており、…宗
教的、国民的狂信主義にたいする、偏見に対する、虐殺と拷問にたいす
る憎悪心がみちあふれている」。
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『遍歴』にはワイマールについて詳しい記述があるが、それをガイド
ブック代わりにすることはできない。なぜなら『遍歴』は多分に目に見
えないものを見て歩いているからである。私がかろうじて記憶に残せた
のは「ゲーテの家」、「シラーの家」、それに「城博物館」とそこに展示
されたドイツ中世の名画の数々であった。それはザクセン・ワイマー
ル・アイゼナッハ公国の領主の居館であったところで、「遍歴」の時代
には現在のような画廊博物館として公開されてなかったこともあり、大
塚先生が訪れたようすはない。そこにはデューラーとクラナッハ、とり
わけ最後の 1 年をワイマールで過ごしたクラナッハの画を多く見るこ
とができる。市内には正面を明るい葡萄色に塗り上げたクラナッハの家
が残されている。
ライプチヒ
ワイマールからライプチヒまでバスで 2 時間あまり、広い野原の所々
に風力発電の風車が建っているのどかな田園風景が続いている。この都
市に始まってドレースデン、ベルリンへと移動するにつれて、ますます
現在に大きな影を落とす政治が姿を鮮明にしてくる。
『遍歴』はライプチヒに 30 頁を(そしてドレースデンには 50 頁を)
費やしている。この町は、バッハはもちろんのこと、驚くほど多数の世
界的な音楽家につながっている。ゲヴァントハウス交響楽団の根拠地で
あり、オペラハウスや著名な音楽学校にも事欠かず、わずか 23 歳で夭
折した日本の滝廉太郎も短期間だが、メンデルスゾーンが創設したライ
プチヒ音楽院に留学している。ライプチヒが何よりも音楽の街であるこ
とは、ここに幾つもの音楽散策路が用意されていることからも知ること
ができる。
『遍歴』が、ライプチヒがそのような音楽・芸術の町であることに言
及していることはもちろんだが、先生の真骨頂は別のところにある。
『遍
歴』は、ゲーテも学んだライプチヒ大学(東独時代はカール・マルクス
大学)、ヘルダー施設、イスクラ印刷所とレーニン記念館、カール・リ
ープクネヒトの家、ディミトロフ博物館などについて愛着を込めて語っ
ている。
ライプチヒでの私の時間は、先生も訪れているアウエルバッハのケラ
ーでの昼食をふくめて僅かに 3 時間半ほどであった。たしかに階段を降
りて入ったと記憶するこの広大な地下酒蔵は若き日のゲーテの行きつ
けの酒場であり、『ファウスト』に出てくる唯一の実在の場所という。
建造物の多くは外見だけを時には遠目に見ただけだったが、聖トマスと
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聖ニコラス教会だけは内部を見学できた。聖トマス教会の真向いには
「バッハ博物館」があり、音楽に疎い私にとって 2 度目のバッハ巡礼と
なった。忘れさえしなければ音楽の階梯を一歩登ったことになるのだが
…。
バッハは 1723 年から晩年まで聖トマス教会の聖歌隊長だったが、町
の主要な教会の音楽ディレクターも兼務したので、ライプチヒ最古の司
教座教会である聖ニコラス教会とも深いつながりを持っている。当時は
日曜ごとのカンタータと受難曲をこの 2 つの教会で交互に演奏するの
が仕来りだったとのことである。
聖ニコラス教会は「ベルリンの壁崩壊」に大きな役割を果たしている。
大塚先生流の表現を用いれば、「ベルリンの壁はライプチッヒから崩れ
た」といえるかもしれない。ガイドの説明と聖ニコラス教会のパンフレ
ットなどをもとにすれば以下のようになる。
「1980 年代の初め西ドイツの若者の間では軍拡競争に反対するデモ
が盛んに行われたが、東ドイツでこのような問題について討議できるの
は教会の中だけであった。聖ニコラス教会の内陣の天井画には平和の天
使が描かれている。そこでは毎年 11 月に「平和の祈り」が催されてい
たが、その祈りの集会が毎週月曜の夕方に開かれるようになった。最初
は少数であった集会は会を重ねるうちに次第に大きくなり、やがて当局
の暴力的な干渉をうけることになった。しかし、集会の規模は言論・政
治活動・出国の自由を求める人々によって拡大の一途をたどった。そし
て 1989 年 10 月 9 日、7 万人に膨れ上がった参加者が「われわれが国民
だ(主権者だ)」と叫びながらデモ行進を始め、これによって東ドイツ
平和革命の口火が切られます。瞬く間に東ドイツ全土に広まった蜂起運
動はその 1 ヶ月後にベルリンの壁を崩壊させたのです」。
聖ニコライ教会内部の列柱はシュロの木をデザインした斬新なもの
で上部に青い葉が繁っている。教会の外にはその柱のレプリカがその日
を記念して建てられている。(09 年に NHK で放映された国際共同制作の
ドキュメンタリー「ライプチッヒの奇跡」をご覧になった方もおられる
だろう)。
ドレースデン
陶器の町マイセンで、ゆったりと流れるエルベ川の橋の上から古城を
眺めた後、いよいよドレースデンに到着した。エルベ川のほとりの広い
展望に恵まれた中世の都市と、大きくはなくともすべてが一級品の優れ
た絵画を堪能させてくれる美術館が待っていた。ゼンパー・オペラハウ
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スでドニゼッティの歌劇「愛の妙薬」を観ることもできた。このオペラ
ハウスも戦災で崩れ落ち 1985 年に再建されたものだが、まるで昔から
立ち続けているかのようだった。ツヴィンガー宮殿からエルベ川寄りの
広い劇場広場にあり、正面入り口の左右は定番のゲーテとシラーの像、
左端にシェークスピア、右端にモリエールの像が控えている。
英米空軍の無差別絨毯爆撃によって旧市街のほとんどが瓦礫と化し
たドレースデンも復旧が進み、今では昔と今の建物の区別がつかない。
もちろんそう思うのは念入りな再建が行われたためで、古くは見えても
ほとんどの建物は新しい。最も広く知られたドレースデンの写真は、市
庁舎の塔上、アウグスト・シュライトミュラー製作の女神像の傍らから
見下ろした爆撃の跡であろう。立ち残った無数の柱が墓標のように天を
指し、窓のない壁がところどころに残っている。
その壊滅と復旧を象徴するのが、フラウエンキルヒェ(聖母教会)で
ある。1 万個以上の瓦礫が 95%以上の正確さで元の位置に戻されたとい
う。その倒壊以前の黒ずんだ砂岩が新しい灰色の砂岩の壁面にはめ込ま
れて黒いまだら模様を作っている。砂岩に含まれる鉄分は年月を経るに
したがって硫化鉄に変わって黒く変色し、まだら模様はいずれ消えて行
くと考えられている。再建は 1994 年に着手され、2005 年に完成した。
その時のニュースがテレビなどで世界に伝えられたことを記憶してい
る人も少なくないだろう。
このように眼前にあるドレースデンはどれを本物と受け入れたらよ
いのだろうか。何がどのように変わったのだろうか。空爆だけでなく市
街戦が行われ、多くのものが破壊されたドイツでは、ワイマールでもラ
イプチヒでも同じ疑問が浮かんできた。しかし、それはドレースデンに
おいてもっとも際立っている。その実際に接近するには『遍歴』の助け
を借りる必要がある。
大塚先生が 1956 年に初めて見たドレースデンは廃墟そのものだった。
『遍歴』には「ありし日のフラウエン教会」の絵葉書と並べて、先生が
1966 年に写された「戦争警告記念史跡」に変貌したフラウエン教会の
残骸が掲載されている。爆撃によって「15 平方キロメートルの上に立
っていた 1,000 万平方メートルの住宅面積が破壊され、山積した破壊物
は、1,200 万立方メートルに達した。死者 35 万人(注-これは過大に
過ぎ、現在は 25,000 人と推定されている)。画廊の損害も甚大で、芸術
品はあらかじめ疎開されていたにもかかわらず、197 点の名画が灰にな
ってしまった」。戦後 11 年目でも破壊状態は惨憺たるもので、「5 階の
屋根から地階までぶちぬけた建物があり、がれきの山があちこちにあり、
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町の中に一面の草原があり、人間のいない道路には枯葉が吹き流れてい
た」。
こんな有様だったから『遍歴』はあるべきドレースデンを描くのに―
そして失われた名画を鑑賞するのにも―カラムジーン(ロシアの歴史
家・文芸家)や童話のアンデルセンの文章を引用しなければならない。
ゲーテが「わたしの滞在のわずかの日数は、画廊にだけささげられた」
と書いたドレースデンの誇る名画のコレクションがどのようにして保
存され、またどのようにして失われたかも記録をたどって調べなければ
わからない。
先生が実際に目にされた作品では、ラファエロの「シスタインのマド
ンナ」に写真入りで4頁を費やされており、ほかにもルーベンスの「噴
水のそばのバトセバ」と「白鳥とともにいるリーダ」に目を引きつけら
れている。とりわけリーダの画の前で「ぼくは、ここでうごけなくなっ
て、大きな平たい腰掛に腰をおろして静かにルーベンス室の異様な雰囲
気にひたっていた」と書いておられる。
私も「シスタインのマドンナ」を見ることができた。それはこの絵が
門外不出でドレースデンを去ることがないお蔭であった。ちょうどパリ
のルーブルでは大規模なラファエロ展が開かれていたが、そのルーブル
展を論評した美術評論家(Jackie Wullschlager)はそこに不在のラフ
ァエロ作品に言及して「ラファエロの最高の祭壇画であり、彼が生涯を
通じて崇拝し続けたレオナルドのモナリザに対するラファエロの回答
である」と述べている。
私が日本から持ってきたドレースデンは、このアルテ・マイスターの
画廊はもとよりだが、市庁舎から見下ろした廃墟の写真、それと対をな
す再建されたフラウエンキルヒェ、さらにはカナレットがエルベ河の彼
岸から描いた旧市街のスカイラインであった。カート・ヴォネガットの
『スローターハウス5』では、捕虜として空爆を体験したアメリカ兵が
その爆裂音を天井裏で巨人が暴れまわるさまに形容していた。
ポツダム
ベルリンからは日帰りでポツダムへ行き、サンスーシー宮殿とポツダ
ム会談の会場として名高いツェツィーリエンホーフを訪ねた。途上では
『遍歴』で懐かしく追想されるヴァン湖(ヴァンゼー)を望見できた。
ヴァンゼーは、湖ではなくエルベ河にそそぐハーフェル川の一部で、地
域の名前でもある。
ツェツィーリエンホーフは米英ソ3国の首脳が会して対独講和条件
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を討議した会場となり、ヤルタ協定を追認する形の「ポツダム協定
(Potsdam Agreement)」はここで成立した。これはその後、紆余曲折を
経ながら半世紀にわたってヨーロッパの政局を左右する重要な文書と
なった。日本に対して無条件降伏を勧告する「ポツダム宣言(Potsdam
Declaration)」も同じ時期に同じ場所から発せられたために、この 2 つ
は往々にして混同される。対日宣言は 7 月 26 日、原爆実験成功の 10 日
後に米英と中国の3カ国(米英の首脳はポツダム滞在中であったが蒋介
石の合意は電話で取り付けられた)が共同で行い、後にソ連がこれに加
わったものである。
会議室は会談当時の円形テーブルが色あせた朱色のテーブルクロス
で覆われ、壁面は黒褐色の木造パネルが張られている。ハーフライトの
質実な感じの部屋であるために、却って歴史の重要な一齣を再現してい
るようで印象深かった。この 5 月 26 日には、この旧邸の中庭でドイツ
を訪問中の中国の李強克首相がポツダム宣言に言及して、記者団と思わ
れるグループに強い口調で「第二次大戦の勝利の成果を破壊したり否定
したりしてはならない」と演説している。
最後に見学したのは、私にとっては 1991 年以来となるベルリンであ
った。『遍歴』はもちろんベルリンについてもっとも詳しい。しかし、
この大都市について小さくまとめるのは至難である上に、すでに与えら
れた字数は大きく超えてしまっている。
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