ヨーロッパ基層文化研究 1 2005 バルセロナにおける バルセロナにおける二重言語 における二重言語と 二重言語と市民生活 中 村 節 子1 The use of two languages in Barcelona daily life. NAKAMURA Setsuko In Catalonia, one of seventeen autonomous states of Spain, the people use two languages: the Spanish and the Catalan. This paper analyze how two languages are used in the daily life of Barcelona, taking three families as examples. The Spanish is widely used and considered as a way of communication with other peoples. The Catalan is however encouraged to be used in public lives like in school and positively used by the people. キーワード カタルーニャ語、スペイン語、自治州、教育現場、家庭生活 はじめに ヨーロッパではヨーロッパ連合(EU)発足以降、国民国家を超えたヨーロッパとしてのグロー バル化が加速している。しかし、その一方で、地域特有の文化性を再評価する動きも高まって いる。 特に言語は地域文化の独自性を示す重要な要素である。グローバル化や通信技術が発展する 反面、古くから、地域言語が継続的に使われてきた地域では、自分たちの言語への想いが深い。 いわゆる標準語や共通語が浸透する中で、地域言語に対するこだわりと愛着は増幅する傾向が 見られるのである。 このようにグローバル化が進むなかで、 地域主義が台頭しているヨ―ロッパの一地域として、 本稿ではスペイン第二の都市、バルセロナに注目する。スペインは、17 の自治区域(州域自治) から成立している単一国家である(表 1 参照)。 地方自治制度は自治州(comunidad autónoma)、県(provincia)、市町村(municipio)の 3 層制 からなり、自治州は単に地方行政単位ではなく、政治的自治権を有している。各州が国の承認 1 名古屋大学大学院文学研究科博士後期課程。 27 バルセロナにおける二重言語と市民生活 を得た自治憲章に基づき、自己領域内を統治し、日本の地方自治体に比べ、はるかに強い権限 をもっているのが特徴である。 自治州のなかでも、カタルーニャ州とバスク州は、1931 年の第二共和制政府の際に、自治権 を承認されながらも、フランコ政権(1939 年~1975 年)により剥奪されたという経緯をもつ。 現在、カタルーニャ州では、国の言語であるカスティーリャ語 (いわゆるスペイン語を示す、 以下本稿ではスペイン語と表記する)とともに、カタルーニャ語(カタラン語)が公用語として認 められている。カタルーニャ語は単に地方で使用されている方言ではなく、スペイン国家にお いて現行の憲法で「地方語」の言語権として認められた公用語であり、独立した体系をもつ言 語である。 「公」という漢字が示す通り、役所や学校などの公的機関で公に使用されている1。 本稿では、筆者が 2002 年度より調査を行なっているカタルーニャ自治州の首府バルセロナに おいて、スペイン語とカタルーニャ語がどのように使用されているのかを、具体的な事例をも とに記述する。筆者の目から見た、市民の日常生活における使用言語の実態を報告し、その社 会背景を記述するのが目的である。 表 1 EU 加盟国の地方自治単位等の状況 国名 アイルランド 州域自治 広域自治 基礎自治 単位 単位 単位 8 34 151 3.7 70 56 481 59.2 245 95 8,074 57.0 301 2,301 8.1 84 イギリス イタリア 20 オーストリア 9※ 総人口 (百万人) 総面積 (千 k ㎡) オランダ 12 640 15.7 41 ギリシャ 54 5,921 10.5 132 スウェーデン 24 286 8.8 450 50 8,101 39.9 505 16 273 5.3 43 426 16,068 82.0 357 460 5.1 338 スペイン 17 デンマーク ドイツ 16※ フィンランド 1 フランス 26 100 36,679 60.2 549 ベルギー 3※ 10 589 10.2 31 ポルトガル 2 18 305 10.0 92 118 0.4 3 ルクセンブルグ 出典:Les Collectivités locales en chiffres 2000,ministere de l’Interieur,Paris ※印は連邦制をとる国。他の 12 カ国は単一国家である。スペインの場合、広域自治は県、 基 礎自治は自治体としての市町村を意味する。2004 年 5 月 1 日現在、EU 加盟国は全部で 25 カ国 である。 28 ヨーロッパ基層文化研究 1 2005 Ⅰ. 市民生活のなかの 市民生活のなかのカタルニア のなかのカタルニア語 カタルニア語とスペイン語 スペイン語 1. ケース① ケース① 私立学校に 私立学校に通うイネス、 イネス、両親は 両親は生粋の 生粋のカタルーニャ人 カタルーニャ人 筆者が 2002 年 9 月および 2003 年 8 月の約 2 ヶ月間滞在した家は、バルセロナから普通電車 で 30 分の距離に位置するサン・クガット (SANT CUGAT) 市にある。同市のほぼ中心部にひろ がる「中央公園」に隣接した閑静な住宅地には、プールつきピソ(PISO)2が建ち並ぶ。バルセロ ナ市内と比べて、緑が多く、高級住宅地の趣である。その一角、4 階建てのピソの最上階に、7 歳の女の子であるイネスと、父親のハビエル、母親のアナの 3 人家族が暮らしている。 ハビエルは時計メーカーのコマーシャル・プランナー、アナは専業主婦である。夫婦はそれ ぞれに自分の車を所有し、イネスは私立学校「エスクエラ ヨ ー ロ ペ ア (ESCUELA 3 EUROPEA)」に通っている 。 イネスの家の広さは約 120 平方メートル。広々とした 3LDK のこの家には、週 2 回、通いの 家政婦が訪れ、家中を磨き上げる。ドイツ製の食器洗い機や電子レンジを備えたキッチンは、 いつもピカピカである。アナはきれい好きなうえに、簡単な調理を好むため、あまり汚れるこ ともない。5 年前に購入したこの自宅マンションの購入価格は約 3000 万。中流以上の家庭であ る。 イネスは小学校で、スペイン語、英語、カタルーニャ語を学んでいるが、家庭で両親と話す ときはカタルーニャ語を使っている。父親のハビエルの方針で、家庭内での会話は、カタルー ニャ語を使うように教育されているからである。 母親のアナは父親が医師で、厳格な家庭で育った。姉は弁護士、兄も医師である。アナは結 婚前まで、 アパレルメーカーのデザイナーをしていた。 イギリスの大学を出ていることもあり、 英語での日常会話には困らない。 反対にハビエルは英語が不得手で、 「僕は、英語が下手だからなあ・・・」と照れ気味に語る。 こんな彼らが、イネスを私立学校に入学させたのは、 「とにかく英語を使いこなせるようになっ て欲しい」という願いからである。 「英語ができないとヨーロッパでは生きていけないから」とアナはいう。 彼らにとって、将来、イネスが生きていく場所として意識しているのは「スペイン」でもな く「カタルーニャ」でもない。あくまでも「ヨーロッパ」なのである。最近、スペインの都市 部では英会話学校の看板が目立つようになり、英語教育が盛んであることがわかるが、ハビエ ルとアナのように考える父兄が増えているからであろう。 イネスは家庭のなかではカタルーニャ語を使って、両親との意思疎通をはかっているが、小 学校で、友達や先生と話すときは主にスペイン語を使うほうが多いらしい。彼女は筆者の息子 (同年齢)とよく遊ぶが、プールでも公園でも、スペイン語と英語を駆使して、息子にどんどん 話しかける。友達がやってくれば、スペイン語を使って、すぐ紹介する。 「あのね、この男の子は日本人よ。お母さんも日本人。お母さんはスペイン語を話すけど、 29 バルセロナにおける二重言語と市民生活 この子はうまく話せないから、やさしくしてあげてね」 。会う人ごとに言葉の問題を詳しく説明 する聡明な少女である。 イネスは私立学校に通っているため、学校での使用言語はスペイン語と英語が中心で、カタ ルーニャ語の授業はむしろ少ない。カタルーニャ自治政府は、幼稚園から高等教育にいたるす べての学校教育で、最低週 3 時間のカタルーニャ語教育を行うことを義務付けている。また、 学校の地域性に応じて①ほとんどの教科をカタルーニャ語で教える学校 ②カタルーニャ語と カスティーリャ語をほぼ同率で教える学校 ③ほとんどの教科をカスティーリャ語で教え、カ タルーニャ語教育を一強化として教える学校、この三段階教育を認めている(田澤 1992 : 138)。 1989 年から 90 年にかけて実施した統計によると、初等教育においてカタルーニャ語のみで 教育を行なっている学校は 36%、両言語が 64%であった4。しかし、2004 年に、スペインの銀 行系財団が独自に行ったアンケート調査によると、カタルーニャ州の学校教育の現場では、 85% がカタルーニャ語のみを使用していることがあきらかになった5。 またメディアの面を見ていくと、バルセロナにある 3 つの公共テレビ・チャンネルがあるが、 その放送言語は次のようにわけられている。 完全にカタルーニャ語だけで放送するチャンネルが「TV3」、大部分スペイン語で放送するチ ャンネルが「TVE1」 、スペイン語とカタルーニャ語が半々のチャンネルが「TVE2」である。 「TV3」 は 1984 年にスタートしたが、規模が小さいために、カタルーニャ州政府の援助も受けている。 そのため、コマーシャルの時間には度々、カタルーニャ州政府の PR が流される。 新聞は 5 つある日刊紙のうち、 「エル・ぺリオディコ(El Periódico)」 「ラ・バングアルディア(LA VANGUARDIA)」 「エル・パイス(EL PAÍS)」の 3 紙がスペイン語で、 「アブイ(AVUI)」 「ディアリ・ ダ・バルセロナ(Diari da Barcelona)」の 2 紙がカタルーニャ語である。しかし、「エル・パイ ス」と「ラ・バングアルディア」の両紙は定期的に、カタルーニャ語で書かれた書籍、美術、 演劇、映画などの評論を掲載する文化欄の付録をつけている(ロバート 1994 : 42-43)。そのため、 バルセロナでは、知識層はこの 2 紙を講読することが多いといわれる。 アナとハビエルは自宅では新聞を読まない。アナは外でも読む習慣がないが、ハビエルは会 社で読んでいるという。ふたりが日常的に楽しみにしているのがテレビである。夜 9 時ごろか らはじまる夕食の後、イネスを寝かせてからが、彼らのテレビの時間である。ハビエルは出張 も多いので、毎日ではないが、自宅にいるときはアナと仲良くソファにくつろぎ、夜中の 1 時 から 2 時ごろまで見ていることが多い。 そのせいか、ふたりとも朝は出かける直前まで眠っている。いちばんの早起きはイネスであ る。午前 7 時半ごろ、イネスはひとりで起きだし、冷蔵庫から冷たいチョコレートドリンクと、 ビスケットを取り出す。いつもの朝食メニューである。 テレビのまん前に、ひとり分のいすと、小さなテーブルを持っていき、 「ドラえもん」や「ク レヨンしんちゃん」などのアニメを見ながら食べる。バルセロナでは、ほぼ毎日、日本のアニ メが朝からカタルーニャ語で放映されているから、子どもたちは日本のアニメに夢中だ。日本 30 ヨーロッパ基層文化研究 1 2005 のアニメ人気は高く、 「しんちゃん」といえば、わんぱくな少年そのものを指す代名詞にもなっ ているのである。 イネスは大好きな日本のアニメを見終わり、 上機嫌で、 アナの運転する車で学校に行くのが、 平日の朝の光景である。 図1 スペインの自治区域および言語地図 ※スペイン全図と自治地域の正式名称に関してはスペイン政府観光局「スペイン」を、言語 地図および以下の「単一言語地域と二言語使用地域」に関しては、 『スペインの社会』の「言語 地図の見方」(壽里・原 1998 : 73)を参照し作成した。注・セウタとメリーヤは自治市である。 注・セウタとメリ-ヤは自治市である。またバブレ語(アストゥリアス語)はアストゥリアス 自治州とレオン県北部で残されているが、南のスペイン語、 西のガリシア語との摩擦によって、 現在では勢力を弱めている。 31 バルセロナにおける二重言語と市民生活 2. ケース② ケース② アンダルシアから アンダルシアから移住 から移住して 移住して 40 年、家政婦をして 家政婦をして一家 をして一家を 一家を支えるピラール えるピラールの ピラールの場合 先述のイネスの両親は二人ともバルセロナ出身のカタルニア人である。では、カタルーニャ 人以外の人々はどうであろうか。 筆者の知人のひとりに 59 歳の女性、ピラールがいる。バルセロナのめ抜き通り、ランブラス 通りに建つ「ルセウ劇場」の裏手に彼女が住むピソがある。エレベーターのない 4 階建ての古 いピソで、最上階が彼女の家である。広さは約 70 平方メートル、3LDK に、息子 2 人(34 歳 と 36 歳)とともに暮らしている。 アンダルシア出身の彼女がバルセロナに移住してきたのは、1965 年である。仕事をもとめて 夫ともにやって来た。その後、次々と子どもが生まれ、男の子 2 人、女の子 6 人を育て上げた。 女の子はすでに全員が独立し、家を出ているが、男の子には定職がなく、いまだにピラールの 家で同居しているのである。男の子とよぶには年齢がいきすぎているが、独立して生活できる だけの職がなかなか見つからないという。 筆者がピラール宅で昼食をともにした 2004 年 8 月 16 日にも、彼らは日中、家にいて、音楽 を聴いていた。肩から背中にかけて、竜の刺青をした長男が上半身裸で、時間をもてあまして いるようであった。バルセロナではここ数年、刺青が若い人々の間で流行しており、なかには 腕に「女」などの漢字を刺青した女の子もときどき見かける。 ピラールは現在、夫とは同居していない。もともと酒好きの夫は、バルセロナに来てからま すます酒癖が悪くなり、ほとんど働かなくなったという。 「こんな役に立たない男は追い出してしまえ!って、子ども達といっしょに家から追い出し たのよ。一番下の子が結構大きくなるまで(現在 27 歳の子が 17 歳になるまで) 、我慢したけど ね。やっとせいせいしたわ、出て行ったから。それで少し生活が楽になった」と、ピラールは 面白おかしく語る。 ピラール夫妻は正式に離婚はしていないらしい。ようするに 10 年前まで、家にいた夫はほと んど働かず、ピラールが自分の稼ぎだけで 8 人もの子供たちを育て、一家を支えてきたのであ る。 彼女はカタルーニャ語ができない。しかし、子どもたちはすべてバルセロナで教育を受けた ため、カタルーニャ語を理解している。カタルーニャ語がわからないピラールのために、子ど も達が母親と話すときは、スペイン語を使うのである。 美容師をしている 37 歳の娘のモンセはいう。 「お母さんはカタルーニャ語ができないから、実家に帰ったらスペイン語を使うわ。兄弟同 士の会話もスペイン語よ。だって、お母さんが理解できないとかわいそうでしょ」 彼女は 3 歳になるひとり娘をしばしば母親のピラールにあずける。孫娘のギセーラもピラー ルと話すときはスペイン語を使っている。しかし、モンセの家庭で、家族 3 人が日常的に使っ ているのはカタルーニャ語である。彼女の夫は食品関係の工場に勤務している会社員で、バル セロナ出身のカタルーニャ人である。ライアの勤務先である美容室で、同僚との会話もカタル ーニャ語であるが、スペイン語を使う顧客に対しては、自分たちもスペイン語を使っていると 32 ヨーロッパ基層文化研究 1 2005 いう。 働き者の母親、ピラールは現在も家政婦として、午前中、午後、夜と3つの家をかけもちし て働いている。ピラールがカタルーニャ語を身に付けなかったのは、彼女の仕事自体がカタル ーニャ語を必要としなかったからである。 「カタルーニャ語なんてできなくても、バルセロナで暮らしていけるわよ。みんなスペイン 語ができるんだからね」とくったくがない。ピラールは仕事の合間に自宅にもどり、昼食と夕 食づくりにはげむ。得意のパエリアなどアンダルシアできたえた料理の腕は健在だ。彼女は働 き詰めの日々のなかで、家族の面倒をよく見、孫たちを可愛がる。 そんな彼女が、友達と自由にぶらつく時間を持っている。バルセロナで催される祭りだ。彼 女が大好きなのは、毎年、9 月下旬に開催される「メルセ祭」6である。 「だって、素晴らしいでしょ、あの巨人人形!(写真 1 参照) 。通りを行進する巨人人形のパ レードを、毎年、いちばんの楽しみなのよ。女友達をさそって見に行くの。彼女はお酒好きで、 ビールをいっぱい飲むから、すぐ酔っ払って困るけれど・・・私が彼女を抱きかかえて、家ま で送り届けるはめになるからね(笑)。でも楽しいわよ」 「メルセ祭」のスケジュールや演目、内容説明などが書かれた広報物の大半は、カタルーニ ャ語のみで表記されている。スペイン語版と英語版は、全体の催しを要約したものが出されて いるだけである。しかしピラールは、さほど不自由を感じないという。 「だって、毎年見に行っているから、だいたいどんなものが見られるか、わかるのよ。それ になんとなく出かけていっても、何かしら面白いものに出会えるしね。コンサートだって、あ ちらこちらの広場や通りでやっているからね」 バルセロナに住む彼女にとって、 「メルセ祭」は自慢の一つであるとも語った。バルセロナは 移民の多い大都市である。総人口約 150 万人のうち、10 万人は外国人である。南米のエクアド ルからが最も多く、1、4 万人にのぼる。アフリカ各国からの移民は合計で約 1 万人である7。 またバルセロナにはスペイン国内の各地方からの移民も多く入り込んでいる。最も多い移民 は、アンダルシア州出身が 11 万人、次にカスティーリャ地方のレオン県出身の 5、5 万人、アラ ゴン州出身の 4、7 万人とつづく。このように全人口の 35%がカタルーニャ州以外の出身者が占 めている。そのため、国の公用語であるスペイン語は無視できないのである。 筆者が、はじめて「メルセ祭」を見た 1991 年の時点では、英語版がまったくなかったこと を考えると大きな変化である。 しかし、この 11 年間の世界情勢の変化、1999 年に欧州に“euro”=ユーロが誕生したこと、 さらにここ数年のインターネットの普及を考えると、英語版パンフレットの存在感の薄さが意 外でもあった8。 ピラールは「メルセ祭」のパンフレットレットなどはほとんど見ないという。 「街に出て、いつ巨人人形のパレードがあるの?とたずねれば、皆教えてくれるわよ」 ただし――人によってまったく言うことが違う場合が多い――このことを認識していれば、 困らないという意味である。つまり、スペイン人ははっきりした情報をもっていなくても、堂々 33 バルセロナにおける二重言語と市民生活 と自分の憶測だけで断言する国民性である。特にカタルーニャ人はプライドが高く、たずねた ことに対して「知らない」とはいわない。そこを理解し、情報の正確さを相手に求めなければ すむのである。 写真 1 「メルセ祭」のパレード 写真 2 パレードの準備をする「ピの巨人人形グループ」の人びと 右端が本文(ケース③)で登場するホセ・ルイス。左側の腰巻(Fafa)をつけている男性は、同 グループ代表のホセ・ルイス(同名)。メンバーたちから、二人のホセへの信頼はあつい。 34 ヨーロッパ基層文化研究 1 2005 3. ケース③ ケース③ フランコ独裁 フランコ独裁の 独裁の時代に 時代に教育を 教育を受けた、 けた、年金生活者の 年金生活者の A 氏の場合 ケース②で記述したように、ピラールが大好きな「メルセ祭」のなかでも、最も楽しみにし ているのが巨人人形によるパレードである。 「メルセ祭」では、期間中、巨人人形や獣人形が市 内の中心地を練り歩くパレードや、サン・ジャウマ広場9巨人人形が登場するパレードやパフォ ーマンスが企画される。 バルセロナでは、巨人人形が 100 体前後存在するが10、これらを保有し、祭りの際に動かす 祭祀集団のリーダー的存在となっているのが、 「ピの巨人人形グループ」である(写真 2 参照) 。 同グループは400 年の歴史を持ち、旧市街内のピ地区を拠点に活動し、ピ教会の中に事務所 を構えている。ホセ・ルイス(50 歳)はここに30年間所属し、主力なメンバーとして活躍し ている。昼間は薬剤師の仕事をし、週に1~2回、仕事を終えた夜に、稽古や会議に参加する。 週末や祝日には、祭りに招かれ、活動することが多い。彼は20年前から、巨人人形に関する 資料を集めはじめ、自宅の一部屋をコレクションルームとして友人や知り合いに公開している という。 「自宅の一部屋を美術館のようにしたから、見に来ないか」と、さそってくれたのであった。 筆者は 2004 年 8 月5日、バルセロナ港に隣接するバルセロネータ11に程近い住宅地にある彼 の自宅を訪ねた。その際、ホセといっしょに出迎えてくれたのが、同居している妹夫婦であっ た。ホセは、この妹夫婦と 3 人で、ピソに住んでいる。 ホセは現在、独身である。一度、結婚した経験はあるらしいが、そのことにはふれたがらな い。同居している妹は 47 歳、義理兄にあたる彼女の夫(以下、A 氏とする)は 65 歳である。 昨年、A 氏は企業を定年退職したため、今は妻と自宅で過ごすことが多い。筆者がホセと話を している間も、夫婦仲良くソファに腰掛けて、テレビを見ている。現在では慎ましやかな年金 生活を送っているというが、イタリア製のガラス食器や陶器を趣味としているらしく、美しく 調度品が飾られた中流家庭である。 彼らの家はエレベーター付の清潔な 4 階建ての建物の 3 階にあり、地下鉄の駅からは歩いて 3 分の距離にある。家の広さは約 100 平方メートル。2LDK の間取りで、2 つのプライベート ルームにそれぞれトイレと浴室がついている。はじめて訪問した私たちを、彼らは 3 人そろっ て、リビング⇒台所⇒洗濯場所⇒ベットルーム⇒洗面所兼浴室という順序で、すべての部屋を 隅々まで案内してくれた。 はじめての来客に対して、家中を案内して見せるという行為は、スペインでは来客者に対す る親愛を意味する。こうすることで、 「あなたのことを信頼している、そして私たちは友達です よ」と意思表示するのである。 そして、ホセの自室に、巨人人形に関する書籍や模型の人形、関連グッズ、写真類などが整 然と並べられ、 「美術館」そのものになっていることがわかった。ライティングにまで凝ってい る。この「美術館」の片隅にはホセが使っているベットがひっそりとあった。どこに収納して いるのか、他に私物らしいものは見あたらない。 「私がこんなに巨人人形を探求し、 『ピの巨人人形グループ』の活動をしていても、妹夫婦は 35 バルセロナにおける二重言語と市民生活 まったく巨人人形には興味がないんだよ(笑) 。だから、家で、巨人人形の話はできないんだ。 話が合わないからね」 ホセが所属するカタルーニャ意識の強い「ピの巨人人形グループ」では、会議の際、カタル ーニャ語を使って話し合う。スペイン語しか理解できない人がいる会議の場合には、スペイン 語を使って説明し、仲間との会話もスペイン語に切り替える。 しかし、 ホセの自宅で使われる言葉はスペイン語である。 彼らは筆者のために 3 人そろって、 あえてスペイン語を使ったのではなく、日常的に使用しているのであった。 ホセも妹もこの地区で生まれ育った。義理兄もカタルーニャ人であるのにもかかわらず、意 外であった。 お腹をつきだした、恰幅のいい A 氏が突然、語調を強めて語りだした。 「私はカタルニア語を話せても、書くことができない。学校で習ってないからね」 。 A 氏の年齢から推定して、生まれたのは 1940 年前後である。1936 年からはじまった 3 年に およぶスペイン市民戦争後、フランコ政権がスペインを支配したのが、彼はその直後に生まれ ている。つまり、学齢期も、フランコ政権まっ只中で、ことごとくカタルーニャ語の使用を弾 圧したフランコ政策のもとで、スペイン語による学校教育を受けてきた世代である。彼はスペ イン語なら、読むことも書くこともできるので、 ずっと家ではスペイン語を使ってきたという。 ちなみにカタルーニャ語を「書くことができる」人の割合は学校教育と深く関わっており、 年代別では、15 歳~29 歳の 47、8%が書けるのに対して、フランコの時代に教育を受けた世代 は 20%しかできない12。カタルーニャ語がカタルーニャ人としての誇りであることは自認なが らも、カタルーニャ語は話せても、読み書きがたどたどしい A 氏にとっては、スペイン語を使 う方が都合がいいという。 ひととおり自宅を案内してくれた A 氏は、居間のマガジンラックから、 雑誌を一冊取り出し、 テーブルに広げてみせた。 「ほら、この雑誌に書いてあるんだが、フランコはアメリカに協力して、日本と戦争しようと していたらしい」。 雑誌は「Clio」という、バルセロナとマドリードに編集部がある歴史雑誌であった13。 2004 年 6 月9日発行の同誌には、フランコが第二次世界大戦の枢軸国14の敗戦を予見し、アメ リカに協力して、日本に宣戦しようとしていたこと、また日本のアジア侵略における残忍性を 批判して日本を「東洋の野蛮国」と認識していたことなど記載されていた。 A 氏はさらに「フランコは、ほんとうにフランコは愚か者だよ」と、内に秘めた怒りの感情 を垣間見せた。 カタルーニャがフランコの独裁により自治権を失い、カタルーニャ語の使用も禁止された歴 史もまだ遠い過去のものではない。その過去を内に秘めながら、彼はスペイン語を使い、 日 常生活を送っているのである。 36 ヨーロッパ基層文化研究 1 2005 Ⅱ. 強まるカタルーニャ まるカタルーニャ語優先 カタルーニャ語優先 これまで 3 つの家庭から、使用言語の実態を述べてきたように、各人の考え方、職業、これ まで受けてきた教育などで、スペイン語とカタルニア語の使い分けが行なわれている様子が見 えた。つぎに、街中でのやりとりや表示について見てみよう。 バルセロナ市の中心部で、バル15や商店に入ったとき、まず店主や店員から話しかけられる 最初の言葉は、ほとんどの場合、カタルーニャ語である。それに対して、こちらが流暢なカタ ルーニャ語で応えれば、彼らはそのままカタルーニャ語を使い続ける。しかし、こちらがカタ ルーニャ語を理解できないとわかると、とっさにスペイン語に切り替える。英語で話しかけら れることは、三ツ星以上のホテルや空港を除いては、ほとんどない。 美術館内の表示を例にとると、 「出口」を示す場合、 「SRTIDA」、 「SALIDA」、 「SORTIE」 、 「EXIT」 と 4 段組みで記されている場合が圧倒的である。 カタルーニャ語を頭にして、 次にスペイン語、 フランス語、英語の順番で書かれている。 カタルーニャ語はそもそも 12 から 15 世紀に栄えたアラゴン王朝の言語で、スペイン語とフ ランス語を合わせたような言葉である。 「おはよう」は「Bon dia」 、 (Buenos dias) 、 「さようなら」 は「Adeu」(Adios) 、「どうぞ」は「Si us plau」(Por favor)になる(カッコ内は、スペイン語語 表示)。 また人の名前もスペイン語とカタルーニャ語では綴りが異なり、スペイン語表示でハビエル 「HAVIER」とアナ「ANA」が、カタルーニャ語では「XAVIER」 「ANNA」となる。そのため、 日本から手紙を出す際、どちらを使うかを迷うことになるが、筆者はケース①のハビエルには カタルーニャ語の名前で、アナにはスペイン語の名前を使う。アナはハビエルほど、カタルー ニャ語に対するこだわりがないうえ、私たちの手紙やメイルのやり取りはスペイン語だからで ある。 ビジネスマンであるハビエルによれば、彼は仕事先と相手によって使い分けているという。 つまり、相手がカタルーニャ語を優先する人物であれば、ハビエルは必ずカタルーニャ語を使 っている。 近年の社会情勢を振り返っても、カタルーニャ人がカタルーニャ語にこだわる事実が報道さ れてきた。特に 1992 年のバルセロナオリンピック開催に関連する出来事は、日本でも新聞紙上 に大きく報道された。その内容は次の通りである。 オリンピックをひかえ、もともと政治的活動や民主主義的活動にとは無縁と思われている、 カタルーニャの公共企業の連合団体と各種のスポーツ団体が、スペインではなく、カタルーニ ャの「国名と国旗」の下でオリンピックに参加したいと表明した。彼らは、オリンピックの公 用語にカタルーニャ語を採用すべきだと表明し、国際オリンピック委員会に申しいれた。 スペインとは別個に、カタルーニャ・オリンピック委員会(COC)の創立を提案し、「だれ にも、その独自の旗の下でオリンピックに参加する権利がある、なぜわれわれカタルーニャ人 37 バルセロナにおける二重言語と市民生活 がスペインの旗の下で競技をしなければならないのか」と主張したのである。 結局、COC 創設の申請は、カタルーニャ出身のサラマンチ IOC オリンピック会長ににべも なく断られたものの、カタルーニャ語は英語、フランス語、スペイン語と並んで、四つの公用 語の一つに加わることができたのである(川成 1994:369-370)。 オリンピックの 5 年後には、カタルーニャ語にこだわる人々にとっては朗報となる言語政策 法、カタルーニャ語法案が 1997 年に、80%の賛成多数で自治州議会を通過した。この法律は州 政府諸機関・公共企業などに、スペイン語とカタルーニャ語の両公用語で対応することを義務 付け、役人・職員の採用にはカタルーニャ語の既習を条件としている。そのうえ、映画やラジ オ・テレビ番組などにカタルーニャ語使用の割当制を導入し、公共・私企業の案内や広告にカ 。 タルーニャ語表示を義務付けている(立石 1998) これまでにも、カタルーニャ語に関する法律は制定されてきた。特に 1983 年には「カタルー ニャ言語正常化法」という法律が作られ、 カタルーニャ語を生活のあらゆる面で使おうと促進し てきた経緯がある。 そうした姿勢は、バルセロナの祭礼の場面でも見受けられる。ケース②のピラールが大 好きだと語っていた「メルセ祭」の総合案内のほとんどがカタルーニャ語で書かれていること は先述した通りである。 また 2002 年の 「メルセ祭」 の期間中、 カタルニア広場で行なわれる市民参加のコーナーでは、 ボランティア団体や市民団体など、少なくとも 50 団体が参加し、難民救済や環境問題への取り 組みなど、さまざまな活動を紹介する特設テントが設けられていた。それらの看板や展示物な ど、見わたす限り、ほとんどがカタルーニャ語表示であった。 このような市民活動の現場状況から見ても、バルセロナではカタルーニャ語を使用する方向 に拍車がかかっているように思われる。 おわりに ケース①のイネスは父ハビエルの教育方針で、家庭内ではすべてカタルーニャ語であった。 スペインの公用語であるスペイン語や英語の必要性を感じながらも、家庭ではあくまでも、カ タルニア語を優先させようとするハビエルの民族意識がうかがえる。 社会全体から見れば、新聞やテレビなどのメディアで、カタルーニャ語とスペイン語が共存 しているように、カタルーニャ人がスペイン語を蔑ろにしているわけでもない。バルや商店で も、カタルーニャ語を使わずに、スペイン語のみでの会話は成立する。 ケース②で記述したアンダルシア出身のピラールが、 スペイン語だけで生活していたように、 バルセロナではカタルーニャ語を理解できなくとも暮らしていくことができるのである。 その一方で、ケース③のA氏に見られるように、 フランコ独裁時代に学校教育を受けた人が、 家庭内ではスペイン語を使い会話している人もいることも、今回の調査であきらかになった。 これらの3つのケースで見たように、バルセロナではスペイン語とカタルーニャ語この 2 つ 38 ヨーロッパ基層文化研究 1 2005 の言語を理解できる人々、すくなくとも会話ができる人々は、自分たちの意志や状況にあわせ て2つの言語を使い分けていた。 さらに、これまで街中の様子や「メルセ祭」における言語使用状況を述べてきたように、バ ルセロナにおける日常の場面では、市民はカタルニア語を積極的に使おうとしている傾向が強 いように見受けられる。そして、ピラールの子ども達がそうであったように、バルセロナで生 まれた彼らは、カタルーニャ語を使うカタルーニャ人として生きることを選択していた。 カタルーニャ語は他の少数言語と異なりフランコ独裁政権下においても、日常生活の言語と して現在まで途切れることなく使われてきた歴史がある16。社会のなかでマイノリティの言葉 ではなく知的・社会的言語としての地位を確立している点においてである。そうした点が、他の 地域から移り住んだピラールも、自分たちの子どもがカタルーニャ語を使い生きていくことに 抵抗をもたなかった理由でもあるように思われる。 市民の 35%がカタルーニャ人以外の人々が占めている現状を考えると、カタルーニャ語とス ペイン語が共存せざるをえない状況ともいえる。しかし、カタルーニャ人にとって、カタルー ニャ語こそ自分たちの言葉であるという、こだわりは強い。 しかし、カタルーニャ語を自文化の誇りとする人々も、その一方で、カタルーニャ語のみを 使用していたのでは、異文化の人びととの交流ができないという理由から、必要に応じてスペ イン語を取り込みながら、バランスを保っていることは、街の日常の光景を見てもあきらかで ある。 本稿では、市民生活の視点から言語の使用状況とその社会背景を記述した。今後は地中海都 市の開かれた一都市として、芸術文化都市を目指しつづけるバルセロナの文化状況をより深く 見つめてゆきたい。多様な出自や文化の相違を基盤にしつつ、さまざまな角度からの文化の協 力関係によって、どのように文化の融合性が成立しているのかを考察していくつもりである。 そしてバルセロナ市民の文化伝統創出の意義を、小さな事例を積み重ねながら、あきらかに していきたい。 謝辞 2002 年以来、筆者の調査に多大な協力をしてくださるカタルーニャの皆様に深謝いたします。 尚、2004 年度の現地調査は「財団法人日本科学協会」の笹川科学研究助成により実施すること ができました。ここに深くお礼申し上げます。 注 1 スペイン国内においてスペイン語以外の言語とは、カタルーニャ語、バスク語、ガリシア語 などを指す。それぞれの言語圏は、共通の歴史を持つ民族の文化圏を形成しており、自治州と して、境界を定め、独自の公用語を定めている。スペイン語は 15 世紀以降、勢力を伸ばしたカ スティ-リャ王国の言語が「スペイン語」として公用語化したものである。1977 年に公布され た現憲法では、第三条第一項に「カスティーリャ語は、国の公用スペイン語である。すべての 39 バルセロナにおける二重言語と市民生活 スペイン人は、これを知る義務を負い、かつこれを使用する権利を有する」と明記されている。 2 スペインでは、日本の「マンション」や「アパート」のような集合住宅をピソと呼ぶ。石造 りの建物のため、礎石には建築されて年号が刻まれている。バルセロナの旧市街では、18 世紀 に建てられたものもめずらしくない。古いものは、玄関等のスペースが広く、多くのピソが中 庭をもち、台所や洗濯場は中庭に面するように設計されている。エレベーターはもちろんのこ と、広いテラスがついた高級ピソから、エレベーターもなく老朽化したままのピソまで、設備 や外観もピソによって差がある。分譲型と賃貸があるが、値段は地域と周辺の環境によって大 きく異なる。また防犯上の問題から、住民以外は容易に建物に入れないよう、ほとんどの正面 玄関は頑丈な鉄製の扉で閉ざされている。訪問する際は、インターフォンで押し、住居者の許 可を得てから入る。バルセロナ市内では、門番を雇っているピソが多く、高級なピソになれば なるほど、セキュリィティチェックが厳重である場合が多い。 3 インターナショナルスクールである。2002 年 9 月の時点で、イネスは幼稚園部に通い、授業 料は日本円で月額約 4 万円であった。現在は小学部 1 年生になったため、授業料も上がってい ると思われる。スペインの義務教育は 6 歳から 16 歳までの 10 年間で、一次教育(6~12 歳)と二 次教育(12~16 歳)の 2 段階に分かれている。 4 この統計(山道 1993 : 307)のおよそ 6 年前にあたる 1983 年に、カタルーニャ語使用の正常化 を促し、言語的不平等の克服を目指す「カタルーニャ言語正常化法」がすでに作られており、 数字にはその効果もあらわれていると考えられる。 5 ラ・カイシャ財団の行った調査によると、カタルーニャ州での学校教育の 85%がカタルーニ ャ語のみで行われていることが判明した。この調査結果は 6 歳から 16 歳までの子供を持つ父兄 へのアンケートをもとにまとめられている。カタルーニャ州では、カタルーニャ語を自国の言 葉として擁護するために、カタルーニャ語により比重をおかれているのが現状といえる。学校 での両言語の使い分けに関して、27%の父兄が同じ比重で使用することが好ましいと考え、標 準スペイン語に重きを置くことを望むという父兄は 6%にしかすぎない。父兄協会連盟の会長 は、 「大部分の父兄は子供たちが適切な 2 つの言語教育をうけることをのぞんでいる」と話して いる。(スペインニュース・ドット・コム http://www.spainnews.com 2004 年 4 月 9 日付より抜 粋) 6 バルセロナの守護聖人であるメルセの日が 9 月 24 日であることから、この日を前後して、毎 年、約 5 日間にわたり開催される。巨人人形のパレードや「人間の城」などの伝統的なカタル ーニャの祭りに、現代音楽やスポーツ等のイベントが加わって、盛大に催される。 「メルセ祭」 は儀礼(ritual)と祝祭(festivity)が備わった都市型の祭礼である。 「メルセ祭」祭はイベント 的な要素も多く、一見すると都市型の総合文化イベントの様相を呈しているが、宗教的な祭礼 が出発点であることからも都市型祭礼といえる。バルセロナ最大の都市祭礼「メルセ祭」は、 近年、観客数を増し、2002 年度の総観客数は約 140 万人であった。1999 年度の総動員数が約 65 万人であることから、3 年間で倍増した(中村節子 2004 p55) 。ピラールの家は、 「メルセ 祭」の中心地となる旧市街に位置している。 「メルセ祭」の日程の前後も、バルセロナ市内では、 各所で音楽イベントなどが行われ、通りには、ワインやチーズ、伝統工芸品や本を並べた出店 が軒をつらね、市民を楽しませる。 7 「バルセロナの人口構成・国籍(2001 年)」より抜粋 出典:Ajuntament de Barcelona http: //www.bcn.es 8 欧州連合(EU)加盟 15 カ国のうち、11 カ国が通貨統合第一陣としてユーロを導入した。スペ インもこれらの国のひとつである。2002 年 1 月 1 日から、紙幣や硬貨が市内に出回り始めた(そ れまでは銀行や企業の振替決済のみに使われていた) 。バルセロナ市内では 2002 年 9 月の時点 で、ほとんどの店がユーロのみで表示であった。しかし、なかにはそれまで使われていた通貨 単位のペセタと、ユーロの両方を表示しているところもある。ゴシック地区のバル(BAR)に ある公衆電話は、まだペセタが使えた。一般市民は、商品が高額になればなるほど、ユーロで の単位に戸惑うことが多いように思われた。スーパーなどでは、いっせいに商品価格が、ペセ 40 ヨーロッパ基層文化研究 1 2005 タからユーロに切り替えられ、便乗値上げが目立った。 9 旧市街、ゴシック地区のほぼ中央にある広場。この広場を間に挟むかたちで「カタルーニャ 自治政府庁舎」と「バルセロナ市役所庁舎」が向かい合って建っている。 10 Jordi Pablo“LA MERCË IL・LUSTRADA” (2000 p106) ではバルセロナ全体で 93 体と 記され、Generalitat de Catalunya-Departament de Cultula “QUADERNS DE CULUTURA POPULAR” (2000 p6)では 150 体以上と記載されている。このようなことから、修復や復元 が繰り返される巨人人形の正確な実数はつかみにくいと思われる。 11 1992 年のバルセロナオリンピックが開催される前まで、バルセロネータには低所得者の住 宅が密集し、安くておいしいレストランも多かった。それらは、バルセロナ市の要請により、 すべて撤去され、人工的な美しさの海岸通りに整備された。 12 この統計は 1986 年のものであるため(山道 1993:307)、現在では、若い世代がカタルーニ ャ語を書ける比率はより高いはずである。スペインでは、内戦後の 1945 年に、 「公教育法」が 定められ、スペイン語を唯一の教育言語としてきた歴史がある。 13 発行元は Wanadoo、価格は 3 ユーロ(約 420 円)である。 14 1940 年 7 月 27 日に三国同盟を締結したドイツ・イタリア・日本のことを指す。 15 BAR と書く。コーヒーやジュールから、アルコール類までそろえ、サンドイッチやつまみが あり、軽い食事をとることができる。中丸明は「朝からやっているのがうれしい。呑ン兵衛に とっては天国のような国だ。酒が飲めないからといってバルを犬猿したのでは、この国はなに も見えてこない。バルは酒も提供するが、それにもまして社交場なのだ」としている(1992: 34)。 16 田澤耕は、国家を持たない少数言語が、現代言語として使用されるためには、①どのような 言い表し方が正しいという規則がある(文法)②発音を文字で書き表わすために一定の規則が ある(正書法)③どのような単語を使うかが決まっている(辞書)とう三つの要素が必要である ことを指摘しており(1992:90)、ここからもカタルーニャ語の自律性がうかがえる。 引 用 文 献 壽里順平・原輝史編 1998、 『スペインの社会~変容する文化と伝統』 、早稲田大学出版 川成洋 1994、 「果敢なる失敗と惨憺たる成功~スペイン・カタルーニャの再生をめぐって」 『幻 想のディスクール~民衆文化と芸術の接点』倉智 恒夫・水之江 有一・前田 彰一 編、多賀出版 山道佳子 1993、 「カタルーニャ」『世界の民 光と影 下』 綾部恒雄監修 信濃毎日新聞社 編、明石書店 (財)自治体国際化協会編 2002、 『スペインの地方自治』 、(財)自治体国際化協会 スペイン政府観光局 『スペイン』 田澤耕 1992、 『カタルーニャ 50 の Q&A』、新潮社 中丸明 1992、 『スペインを読む辞典』 、JICC 出版局 中村節子 2004、 「スペイン・バルセロナにおける都市祭礼の文化人類学的研究~メルセ祭と祭 祀集団を中心にして」、名古屋大学大学院文学研究科 2004 年度提出修士論文(未刊) ロバート・ヒューズ 1994、 『バルセロナ~ある地中海都市の歴史』田澤耕訳、新潮社 立石博高 1998、 「スペイン・カタルーニャの言語政策法」 『朝日新聞』1998 年 4 月 9 日付 Centre de promoció de la cultura popular i tradicional catalana 2000, QUADERNS DE CULUTURA 41 バルセロナにおける二重言語と市民生活 POPULAR, Generalitat de Catalunya-Departament de Cultula. Jordi Pablo 2000, LA MERCÈ IL・LUSTRADA, Ajuntament de Barcelona-Institut de cultura. 1970、『世界大百科事典・世界地図』 、平凡社 42
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