日本南アジア学会第25回全国大会 報告要旨集

日本南アジア学会第 25 回全国大会
報告要旨集
Proceedings of the Twenty-Fifth
Annual Conference
The Japanese Association for South Asian Studies
2012 年 10 月 6 日(土)∼7 日(日)
東京外国語大学
(府中キャンパス)
2012/10/6–7
Tokyo University of Foreign Studies
ごあいさつ
第 25 回日本南アジア学会全国大会(2012 年度)にようこそ。
開催校である東京外国語大学の近況をご紹介します。今年 2012 年 4 月から、単一学部であった
外国語学部が改組され言語文化学部と国際社会学部に分かれました。同時に、学生が専攻する南
アジアの言語として、従来のヒンディー語およびウルドゥー語に加えてベンガル語が新設され、我
が国有数の南アジア研究・教育拠点としてさらに充実しつつあります。
東京外国語大学に附置されているアジア・アフリカ言語文化研究所 (ILCAA) は、2010 年度から
発足した新たな制度のもと、共同利用・共同研究拠点としてそれまでの成果を継承しさらに発展
させつつあります。今大会の準備に携わった 3 名の所員の専門分野は南アジアの言語・宗教・歴
史です。
第二次大戦後、日本は南アジアの新生独立国と新たな世界秩序と枠組みの下で外交・経済・文化
交流の関係を結びました。その延長上にある今年 2012 年は、日印・日パ国交樹立 60 年の節目に
も当たります。この間そして現在の世界、日本、南アジアとそれを取り巻く環境における激動の
変化は過去のどの時代とも比較になりません。本大会では、政治・経済・外交は無論のこと、今
日地球的規模で大きく変動しつつある情報・知識・文化の領域も含めて、過去の蓄積を踏まえつ
つ日本と南アジアを軸にした未来への展望を考える機会と捉え、シンポジウム「日本と南アジア
の交流――人・モノ・知」を企画しました。
最後に、今回の全国大会の準備および運営に関わって汗を流し、また知恵を出してくださった
すべての方々に感謝申し上げます。特に、こまごまとした作業を含めご苦労していただいた大会
実行委員のみなさん、全国大会の内容を充実させるために貢献してくださった発表者のみなさん、
やや大きすぎるテーマのシンポジウムを快く引き受けていただいた諸先生方、当日の運営でお世
話になる大学院生・学部生の諸君、施設利用でお世話になった東京外国語大学の事務局に深くお
礼申し上げます。
日本南アジア学会第 25 回全国大会・大会実行委員長 町田和彦 大会事務局からのお知らせとお願い
• 受付手続きの際に名札をお渡ししますので、名札を常に身に付け、お帰りの際にはご返却下
さい。
• 100 教室にクロークを設けてありますが、クロークでお預かりすることのできるものは鞄な
どで、貴重品・衣服については預かりかねますので、ご容赦ください。
• 事前に昼食お弁当をご予約された方には、100 教室(クローク・大会本部)でお渡しします。
(当日分はありません)
• 休憩室を 104 教室に設けてあります。
• 弁当、空き缶、ペットボトル等は、分別した上で備え付けのゴミ箱に捨ててください。
• 当日の大学食堂の営業はありません。近隣の食堂も土日に営業しているところは少数です。
食堂コンビニ等の案内は web ページ(http://ilcaa.jp/jasas/ 末尾「会場とその周辺
など」
)をご参照ください。配布はいたしませんので、必要な方はご自分で印刷してください。
• 報告会場内では携帯電話の電源を切るか、マナーモードにしてください。
• 本大会会場以外の施設、講義室等への立ち入りは、ご遠慮ください。
• 建物内部はすべて禁煙です。喫煙の可能な場所は、屋外の灰皿の設置してある箇所のみと
なっています。
• 会場には、大会参加者用の駐車場はございませんので、自家用車での来場はご遠慮願います。
• 会員総会が 6 日 (土) 17: 30 から 101 教室(マルチメディアホール)で開催されます。積極的
なご参加をお願いします。参加者が少ないと定員数に満たず総会が成立しない恐れもありま
すので、ご協力をお願いいたします。
• 懇親会を総会終了後 6 日 (土) 18: 45 から大学会館ホールで行ないます。当日参加をご希望の
方はできる限り事前に受け付けで会費をお支払いください。
発表について
1. 発表題目、セッション構成員の変更は一切認められません。プログラムと同一にして下さい。
2. 発表者は、ご自分の発表の前の発表が開始する前に、発表会場の「発表者待機席」においで
下さい。
3. パソコン用プロジェクタの使用を申請された方は、ご発表が行われるセッション開始前の休
憩時間の終わる 10 分前までに会場係にお申し出ください。
4. 発表時に配布する資料がある場合は、予めご自分でご用意ください。配布資料は、余裕を
もってご用意の上(約 100 部程度)、会場係にお渡し下さい。
5. 発表時間は以下のように構成されます。時間厳守でお願いします。
個人発表 : 発表 18 分、質問 5 分、合計 23 分(初鈴 15 分、二鈴 17 分、三鈴 [発表終了]18 分、
ブザー [質疑終了]23 分)
セッション企画:「発表者数× 5 分」程度を目安に、フロアからの質問時間を充分に確保して
下さるようお願いいたします。
ii
地図と会場案内
多磨駅からの順路と東京外国語大学府中キャンパス内配置図
多磨駅からの順路
懇親会場
発表会場
諸会議会場(2階)
iii
発表会場配置図
ビデオ会場
第3会場
クローク・大会本部
入り口
受
付
第1会場
第2会場
休憩室
総会・シンポ会場
諸会議会場配置図
常務理事会・
英文雑誌
和文雑誌
理事会
英文叢書
日本南アジア学会第 25 回全国大会実行委員会
内川秀二 太田信宏(事務局長) 木村真希子 小牧幸代 佐藤斉華 志賀美和子 高島淳 二階堂有子 萩田博 町田和彦(大会実行委員長) 水野善文 山下博司(50 音順)
iv
日本南アジア学会 第 25 回全国大会
プログラム
Twenty-Fifth Annual Conference
The Japanese Association for South Asian Studies
2012 年 10 月 6 日(土)∼7 日(日)
東京外国語大学
(府中キャンパス)
日本南アジア学会第 25 回全国大会
事務局
東京外国語大学
アジア・アフリカ言語文化研究所
102 教室
1A1-1
1A1-2
1A1-3
1A1-4
1A1-5
103 教室
1A2-1
1A2-2
1A2-3
1A2-4
1A2-5
109 教室
1A3-1
1A3-2
1A3-3
1A3-4
1A3-5
110 教室
1A4-1
1A4-2
10 月 6 日(土)13:00–15:00 (slot 1A)
<自由論題 I >
司会:萩田博
1. 石田友梨
「18 世紀インド・ムスリムの理想社会――シャー・ワリーウッラー
『神の究極の明証 (Hujja
Allāh al-Bāligha)』より――」
.
2. 小川道大
「18 世紀後半− 19 世紀前半のインド西部における町(カスバ)の
内部構造――プネー県インダプール郡を事例に」
3. 杉本浄
「19 世紀における地質学調査と鉱山開発――英領インド・オリッサ
及び諸藩王国を事例に」
4. アメリア・ボ 「19 世紀インドにおける新聞と通信技術――テレグラフを事例に
ネア
――」
5. 間永次郎
「M.K. ガーンディーにおける『性のナショナリズム』」
<自由論題 II >
司会:小牧幸代
1. 高田洋平
「舗道住民の実践とネパールの都市的公共空間の現在」
2. 中川加奈子 「ネパールの民主化過程とカースト団体の試み――『ネパール・カ
ドギ・セワ・サミティ』の活動を中心に」
3. 佐藤斉華
「いかにして、彼女達は『仕事に満足』か?――カトマンズの女性
建築労働者の場合」
4. 幅崎麻紀子 「ネパールにおける家族計画をめぐる『開発』とローカルな実践」
5. 橘健一
「ネパール先住民チェパンの動物認識における『観点主義』と『多
自然主義』」
<自由論題 III >
司会:水野善文
1. 今村泰也
「ヒンディー語における複数の所有構文の併存について」
2. 西 岡 美 樹・ 「ビハーリー方言にみられる標準ヒンディー語の影響――形態・統
R. Kumar
語的特徴に焦点をあてて」
3. 山畑倫志
「初期アパブランシャ語の推定について」
4. 西田文信
「ブータン王国の East Bodish 諸語の系統と分類について」
5. 安念真衣子 「ネパールにおける少数民族言語識字教育の実践――J 村における
タマン語話者の日常実践から見えるもの」
<ビデオ報告>
1. 小日向英俊 「インドを聴く・見る・演じる人々――日本における異文化音楽受
容史の視点から」
2. 深尾淳一
「オーラルヒストリーによる現代インド映画産業の研究」
vi
102 教室
1B1-1
1B1-2
1B1-3
1B1-4
1B1-5
103 教室
1B2-1
1B2-2
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1B2-4
1B2-5
109 教室
1B3
1B3-1
1B3-2
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1B3-4
110 教室
1A4-1
1A4-2
10 月 6 日(土)15:15–17:15 (slot 1B)
<自由論題 IV >
司会:山下博司
1. 山本達也
「舞台裏の歌い手たち――チベット難民ポップミュージシャンを事
例に」
2. 田森雅一
「インド音楽の社会的世界とその変容――Who’s Who of Indian Musicians 1968 & 1984 の定量的把握」
3. 五十嵐理奈 「ダッカ旧市街の独立戦争壁画とバングラデシュ美術」
4. Dominik
「Transnational networks and identities: The case of Indo-Fijian miSchieder
grants in Japan」
5. 拓徹
「1982 年カシミール禁酒運動の位相」
<自由論題 V >
司会:佐藤斉華・森本泉
1. 澁谷俊樹
「カルカッタの火葬場のカーリー女神祭祀――女神の舌の秘密をめ
ぐる考察」
2. 江原等子
「タミル・ナードゥ州チェンナイの「コティ」たちのライフストー
リー」
3. 菅野美佐子 「ウッタル・プラデーシュ州における村落政治の変容をめぐって
――人類学的手法によるジェンダー分析」
4. 松尾瑞穂
「擬似的家族関係の構築――インドにおける代理懐胎の人類学的研
究」
5. 脇田道子
「
『係争地』に住むということ―インド、アルナーチャル・プラデー
シュ州のタワン県の場合―」
<テーマ別セッション I >
「近現代インドにおける食文化とアイデンティティ」(代表者:井坂理穂)
井坂理穂
「近現代インドにおける食文化とアイデンティティ」(テーマ趣旨
説明)
1. 篠田隆
「インドにおける食料消費の動向と地域性」
2. 山根聡
「ウルドゥー語と都市文化 ― 食文化を通した語彙の洗練とトポフィ
リア」
3. 小磯千尋
「インド都市中間層の食文化の変容 ― 外食、飲酒、健康指向」
4. 井坂理穂
「植民地期インドにおけるイギリス人家庭と料理人」
<ビデオ報告>
1. 小日向英俊 「インドを聴く・見る・演じる人々――日本における異文化音楽受
容史の視点から」
2. 深尾淳一
「オーラルヒストリーによる現代インド映画産業の研究」
17:30–18:30
18:45–20:45
会員総会 マルチメディアホール 101 教室
懇親会(大学会館 1 階ホールダイニング)
vii
102 教室
2A1-1
2A1-2
2A1-3
2A1-4
2A1-5
103 教室
2A2-1
2A2-2
2A2-3
2A2-4
2A2-5
109 教室
2A3
2A3-1
2A3-2
2A3-3
2A3-4
2A3-5
2A3-6
110 教室
1A4-1
1A4-2
10 月 7 日(日)09:30–12:00 (slot 2A)
<自由論題 VI >
司会:木村真希子・志賀美和子
1. 林裕
「アフガニスタン・カブール州北方郡部における地方ガバナンス―
元戦闘員および農民への聞き取り調査に依拠した考察―」
2. 石 貴比古 「江戸時代の世界地図における天竺の表現について」
3. 榊和良
「サンスクリット古典のペルシア語訳とカーヤスタのアイデンティ
ティ」
4. 石川寛
「ヴァーカータカ朝研究の新動向」
5. 高田峰夫
「タイに陸路で向かった人々――『南アジア』と『東南アジア』の
繋がりを考える:①ムスリムの事例(中間報告)」
<自由論題 VII >
司会:内川秀二
1. 谷正和
「カースト・民族集団と砒素汚染被害の関係」
2. 柳澤悠
「小規模・零細工業の発展と農村における『疑似ブランド品』需要
の展開:一試論」
3. 森田剛光
「西北ネパール山岳地域における開発の動態とその変容――ネパー
ル・アンナプルナ山岳地域社会の事例」
4. 辻田祐子・小 「カースト、土地、労働移動――ビハール州の事例から」
田尚也
5. 柄谷藍香
「インドにおける児童労働政策の展望」
<テーマ別セッション II >
「ベンガル研究における文学的構想力と歴史的構想力の交差に向けて」
・代表者:谷口晉吉、丹羽京子 ・コメンテーター:臼田雅之
谷口晉吉・丹 「ベンガル研究における文学的構想力と歴史的構想力の交差に向け
羽京子
て」
(テーマ趣旨説明)
1. 古井龍介
「ベンガル社会の形成:中世初期におけるその萌芽」
2. 北田信
「カトマンドゥ盆地に保存されるベンガル語・ミティラー語演劇写
本」
3. 谷口晉吉
「ベンガルの地域類型論の構築に向けて」
4. 神田さやこ 「商家の活動からみた 18 世紀末から 19 世紀前半のベンガル」
5. 外川昌彦
「岡倉天心のインド体験 ―タゴール、ヴィヴェーカーナンダ、堀至
徳との交流から―」
6. 丹羽京子
「カジ・ノズルル・イスラムの文学史的位置づけに関する一考察」
<ビデオ報告>
1. 小日向英俊 「インドを聴く・見る・演じる人々――日本における異文化音楽受
容史の視点から」
2. 深尾淳一
「オーラルヒストリーによる現代インド映画産業の研究」
viii
10 月 7 日(日)13:00–16:30 (slot 2B)
101 教室 全体シンポジウム「日本と南アジアの交流――人・モノ・知」
・司会:小西正捷 ・コメンテーター:小谷汪之
2B-1
「日本と南アジアの交流――人・モノ・知」(趣旨説明)
2B1-1
1. 応地利明
「天竺・印度・インド――近世から近代へ」
2B1-2
2. 斎藤明
「南アジアと日本──大乗仏教研究の昨日・今日・明日──」
2B1-3
3. プ ラ シ ャ ン 「日本と南アジアの言語交流の最前線――日本語・マラーティー語
ト・パルデシ 基本動詞ハンドブック作成の試み」
2B1-4
4. 堀本武功
「日本の南アジア外交――緊密化する対印関係」
2B1-5
5. 内川秀二
「貿易から経済協力へ――日印経済関係―」
2011/12 年度第 2 回理事会
2012/13 年度第 1 回常務理事会
2012/13 年度第 1 回理事会
和文雑誌編集委員会
英文雑誌編集委員会
英文叢書・刊行助成委員会
各種会議の日時と場所
10 月 6 日(土) 10:30∼11:30
10 月 6 日(土) 11:30∼11:45
10 月 6 日(土) 11:45∼12:45
10 月 7 日(日) 12:00∼13:00
10 月 7 日(日) 12:00∼13:00
10 月 7 日(日) 12:00∼13:00
ix
本部管理棟 2 階大会議室
本部管理棟 2 階小会議室 1
本部管理棟 2 階大会議室
本部管理棟 2 階中会議室
本部管理棟 2 階小会議室 1
本部管理棟 2 階小会議室 2
10 月 6 日(土)
13:00∼15:00
自由論題 I
自由論題 II
自由論題 III
ビデオ報告
1A1-1
18 世紀イ ンド ・ムスリムの理 想社会
―シャー・ワリーウッラー『神の究極の明証(Ḥujja Allāh al-Bāligha)』より―
石田友梨
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程
<1. はじめに>
本発表の目的は、18 世紀のインド・ムスリムを代表する思想家シャー・ワリーウッラ
ーShāh Walī Allāh (1762 年没)のイルティファーカート(irtifāqāt)論に基づき、当
時のインド・ムスリムが描いた理想社会を明らかにすることにある。
ワリーウッラーは、1703 年デリーに生まれた。ムガル帝国の衰退が始まり、ムスリム
が支配者としての地位を失っていく時代のなか、ワリーウッラー はクルアーンとハディー
スを重視し、イスラームの改革を唱えた。彼の思想は、ムジャーヒディーン運動、アリー
ガル運動、デーオバンド学派などの南アジアの主要なイスラーム改革運動に影響を与えた
とされている。
イ ル テ ィ フ ァ ー カ ー ト と は 、 ワ リ ー ウ ッ ラ ー の 主 著 『 神 の 究 極 の 明 証 ( Ḥujja Allāh
al-Bāligha ) 』 (以下 『明証』) に お い て 論 じ ら れ る 、 四 段 階 の 社 会 を 指 す 用 語 で ある 。
簡潔に述べるならば、自給自足の原始社会、商取引が行われる都市社会、紛争の調停者が
現われる法治社会、諸国が統一されるカリフ制社会の 四段階である。イルティファーカー
ト論の記述を検討していくことにより、理想とされた社会がどのようなものであったかを
考察したい。
<2. イルティファーカート論に関する先行研究>
「イルティファーカート」(irtifāqāt)という言葉はワリーウッラーの造語であるが、
アラビア語の語根“r-f-q”の第 8 形動詞「活用する」(irtafaqa)の動名詞(irtifāq)の
複数形に由来する。この言葉を用語として訳出する際には、「文明の支え(the supports
of civilization)」1、「社会発展の四段階(the four stages of social development )」
2
、「社会組織論」3などの言葉が当てられてきた。
人間の社会を四段階に分けて考察するイルティファーカート論は、ワリーウッラーの
思想の中で、とりわけ多くの研究者たちの関心を集めてきた。西洋に先駆けて築かれた社
1
Marcia K. Hermansen (trans.), The Conclusive Argument from God: Shāh Walī
Allāh of Delhi’s Ḥujjat Allāh al-Bāligha, Leiden: Brill Academic Publishers, 1996.
2
Muhammad al-Ghazali, The Socio-Political Thought of Shāh Walī Allāh ,
Islamabad: International Institute of Islamic Thought and Islam ic Research Institute,
International Islamic University, 2001.
3
加賀谷寛『イスラームの宗教思想にみられる社会組織論』アジア経済研究所、 1969 年。
­2­
日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
会学とも、イスラーム哲学を確立したファーラービー(al-Fārābī, d. 950)より受け継が
れる政治哲学とも、イブン・ハルドゥーン(Ibn Khaldūn, d. 1406)『歴史序説』の 18
世紀南アジアにおける改訂版とも捉えることができるからである。しかし、パキスタン建
国に伴いワリーウッラー研究が興隆してきた歴史をふ まえるならば、過去の偉大な思想家
との関連付けには注意を要する。『明証』の序文で名指しされるガザーリー(al-Ghazālī,
d. 1111)や、ワリーウッラーの自伝から辿ることのできる師弟関係にまずは考察の範囲
を限定するべきであろう。
<3.『神の究極の明証』におけるイルティファーカート論の位置づけ>
イルティファーカート論を取り上げるに際には、『明証』の序文におけるワリーウッラ
ーの執筆意図を汲む必要がある。ワリーウッラーは、諸学の基礎となるハディース学の重
要性を説き、隠された神の意図(asrār)を解明することを宣言している。イルティファ
ーカート論は『明証』の第三巻に当たり、その他の巻は宗教的義務、生前と死後における
賞罰、預言者ムハンマドの言行から導かれる法などについて書かれている。 このことから
も、四段階に分けることで人間の社会そのものの仕組みを解明するというよりも、神がい
かに人間の社会を秩序づけたかを示すためにイルティファーカート論は 述べられていると
みるべきである。
イルティファーカート論のなかでワリーウッラーは、自らの社会が衰退しつつあるとの
認識を示してもいる。ワリーウッラーが衰退の原因として挙げるのは、傭兵や学者 といっ
た政府への寄生者の増大と、政府による過重な税の賦課の二点である。 これらは、当時の
ムガル帝国への批判と捉えることも可能であろう。ワリーウッラーは、普遍的善
( maṣlaḥa kullīya ) の 知 識 を 神 に よ っ て 与え ら れ た 者 が 、 こ の よう な 悪 し き 慣 習 を 排 す
るために戦い、正しき慣習を確立することを奨励する。これらの記述が、後のイスラーム
改革運動に思想的根拠を与えたと思われる。目指すべき正しき慣習が何かを知るためにも、
預言者ムハンマドの言行を伝えるハディース学は必要とされるの である。
<4. おわりに>
ワリーウッラーが説くように、人間の社会が四段階に分けられるとした場合、最も理想
的な社会は、最後に挙げられるカリフ制社会となるであろう。ワリーウッラー自身が断り
を入れているように、「カリフ」という言葉は宗教的な用語ではあるが、最高支配者を指
している。そのため、社会の住民や慣習が異なれば、必要とされるカリフ像も異なる。イ
ルティファーカート論には、四段階の基本的な社会の進展を前提としながらも、気候や住
民の気質による慣習の多様性を認める箇所が見受けられる。 その一方で、神の定めた正し
き慣習の確立が求められていることは、前述のとおりである。ワリーウッラーの理想とし
た社会が、複数の慣習が許容される社会であるのか、ひとつの慣習に統一された社会であ
るのかは、ワリーウッラーの記述を詳細に検討することで明らかとなるであろう。
­3­
1A1-2
18 世紀後半-19 世紀前半のインド西部における町(カスバ)の内部構造
-プネー県インダプール郡を事例に-
小川
道大
横浜市立大学ほか非常勤講師
現在のインドで村と市の間の町(Town)や、旧市街の一部を指す際にしばしば用いられ
るカスバ(Qasbah)という語はアラビア語を起源とし、インドのみならずイスラーム世界
で広く用いられている。インド史上で、この語の使用は中世のデリースルタン期に遡り、
この時期に置かれた砦を中心に町が形成され、やがて市場が開かれ、ムガル期以降、カス
バは地方経済の中心となった。さらにその中で市にまで成長したカスバは旧市街の一部に
その名を残すことになる。これに加えてムガル帝国内では、砦に起源を置かず、市場を中
心とするカスバが数多く誕生し、カスバの数の増大が最盛期のムガル帝国および 18 世紀
の継承国家の経済発展の根拠とされてきた。インド経済史の一分野としてカスバの研究が
行われてきたが、主にカスバの数や周囲との関係が取り上げられ、カスバ自体の内部構造
が考察されることはほとんどなかった。カスバの社会経済構造の解明はカスバ研究の中心
となるテーマであり、インド社会経済史の重要な問題となる。本発表は、プネー文書館で、
18 世紀後半~19 世紀前半の詳細なマラーティー語(モディ体)史料が得られたマハラシュ
トラ州のプネー県インダプール郡を対象に、カスバの内部構造を考察する。
インダプール郡(パルガナ)にはカスバ・インダプールとカズバ・バワデが存在し、カス
バ・インダプールは、少なくとも 15 世紀に存在が確認される砦に起源をもち、現在まで
郡 行 政 の 中 心 で あ る 。 そ し て マ ラ ー タ ー 後 期 (1761-1818)お よ び 英 領 期 も 、 少 な く と も
19 世紀前半は郡の交易ネットワークの中心であった。マラーター王国下のカスバは、一
般に市場(Peth)と、それ以外の地域(Munjeri)に分けられる。しかし史料でカスバ・イン
ダプールは、前者が「ペート(Peth)・インダプール」と呼ばれたのに対し、後者は「カス
バ・インダプール」と呼ばれ、全体として「カスバおよびペート・インダプール」と呼ば
れた。本発表も史料のままに、この呼称を用いることとする。ペート地域の面積は全体の
0.8%に過ぎず、99%以上がカスバ地域であった。史料の特徴の一つに、カスバ・インダ
プールとペート・インダプールで別々の会計帳簿が作成されていたことが挙げられる。帳
簿によるとカスバ・インダプールからの主な税収は、18 世紀後半-19 世紀前半を通じて
地税であった。同地域はインダプール郡内で最大の面積をもち、地税収入も最大であった。
すなわちカスバ・インダプールは郡最大の農村であった。通関税史料によると、ペートお
よびカスバ・インダプールはモロコシなどの穀物を他村に輸出していた。他村から入り市
場で取引のあった穀物以外に、カスバ地域で生産された穀物が輸出された可能性は十分に
ある。カスバ地域のごく限られた地域に井戸と水路による灌漑農地があり、乾地は散在し
­4­
日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
ていた。マラーター後期は乾地がしばしば耕作不可能となり、帳簿の乾地面積は変動した。
灌漑地の値は変動しなかった。職人・商人もカスバ地域で活動しており、伝統的なバルテ
ー職人の税(Balute)、又はその他営業税(Mohtarfa)を支払っていた。
ペート・インダプールに農地は存在せず、その他営業税(Mohtarfa)が最大の税収とな
った。営業税は、職種または職人集団ごとに集められ、食料雑貨の店主(Bakal)、肉屋、
布商人、両替商(Saraf)、油業者・商人(Teli)や金細工師などの各種商人・職人がこの税
を払っていた。ペートは市場であるとともに、多くの職人が集まる手工業の中心であった。
このようにカスバ地域とペート地域の産業構造は大きく異なっていた。しかし両地域
は同一のヒンドゥー寺院や人物に村の寄付を行い、村役人も同一であった。社会的・行政
的に両地域は一つの単位であったと考えることができる。両地域の行政のトップには一人
の村長(Patil)がいたが、彼はカスバ地域からは穀物、飼葉など農産物を、ペート地域で
は各種工芸品を自らの取り分として集めており、経済構造に応じた特権も享受していた。
カスバおよびペート・インダプールにおいて特に注目すべき集団がグジャールである。
グジャールはグジャラート商人のサブ・カーストである。先行研究によるとインダプール
郡周辺に 1760 年代にグジャラート商人が来たとされており、ペート・インダプールの営
業税は 1780 年代から特に詳細なリストが得られるが、食料雑貨の店主の項目の中にグジ
ャールを見つけることができる。注目すべきは、グジャールがこの頃、村長を中心とした
「村の政府」に金を貸しつけていたことである。帳簿の示す限り「村の政府」はグジャー
ル以外に債務を負っておらず、グジャール集団が「村の政府」の唯一の資金調達源となっ
ていたと考えられる。1790 年代に、彼らは営業税の徴収に立ち会うようになっており、
政府と強い結びつきをもっていた。グジャラート商人は 19 世紀後半にインダプール郡を
含むプネー県で最大の金貸し集団となるが、植民地化以前に、彼らは金貸し業によって政
府と強く結びつき、確固たる地位を得ていたのである。またグジャールはカスバ地域にも
店舗をもち、営業税を支払っていた。おそらく彼らはカズバ地域の穀物をペート地域で売
り、市場の取引で得られた手工芸品等をペート地域からカスバ地域に持ち込んでいたと考
えられる。商人集団として、グジャールは構造の異なる二つの経済を結び付けていたとい
える。ただしカスバ地域の地税納税者や職人が、ペート地域で食料雑貨店を営んでいたこ
とも明らかになっており、両経済を結び付けていたのはグジャールのみではなかった。
本発表の史料は、1818 年のインド西部の植民地化をまたぐ、1760 年代から 1840 年代
までのモディ体のマラーティー語史料である。ここで明らかにしたペートおよびカスバ・
インダプールの内部構造は 18 世紀後半には確認できる。1802 年のマラーター勢力の内
紛と翌 03 年の飢饉で人口が激減し、農地の多くが放棄されるなど内部構造に 19 世紀初
頭に変化がみられるが、英領期の 1820 年代には 18 世紀後半の内部構造が回復する。
1850 年代にペートおよびカスバ・インダプールとプネー間の道路が整備され、地方経済
に変化をもたらしたと先行研究で言及されている。しかし少なくとも 1840 年代までは、
ペートおよびカスバ・インダプールに本発表でで示した内部構造が維持されていた。
­5­
1A1-3
19 世紀に おけ る地質学調査と 鉱山開発
―英領インド・ オリッサ及び諸 藩王国を事例に -
杉本 浄
東海大学
昨今のインドの高い経済成長とともに、鉱山開発の速度が加速化している。そのよう
な土地の多くはトライブの人々が多数居住する丘陵地帯にあり、急速な開発の下で開発業
者とトライブとの間の土地をめぐる対立や格差意識の拡大から生ずる被開発者の不満が浮
上している。現代インドにおいて天然資源をめぐる開発問題はこのような生活圏である土
地の強制摂取や立ち退き補償のみならず、環境や生態系の破壊、鉱山権をめぐる汚職や不
法採掘など広範囲およんでいる。
こうした鉱山開発の先陣を切ったのは 19 世紀前半に本格化する炭鉱である。当初はガ
ンジス川を往来する蒸気船に石炭を供給するために開発が進んだ。さらに需要が高まった
1830 年代後半には石炭と天然資源を調査する委員会がはじめて設けられた1。この当時か
らガンジス川沿いのラニガンジは最も採掘量が多い炭鉱であり、蒸気船の石炭需要を支え
た。その後、1860 年代からはじまる鉄道網の急速な拡大化とジュート産業の発展を背景
に国内産石炭の需要が一層高まる中で、イギリス民間会社が主導する炭鉱開発が活発化し、
1880 年代までに 40 以上の炭鉱が開鑿されていった。
本発表が対象とするオリッサ地方の天然資源については、その存在をはじめて紹介し
たのはスターリング(A. Stirling, 1793-1830 年)だとされる。彼はオリッサ地方に関す
る地誌を 1825 年に発表する中で、丘陵地域に豊かな鉄鉱石が存在し、いくつかの川で砂
金が採取されていることを紹介した2。次にアジア協会の図書館員兼キュレーターのキト
ー(M. Kittoe, 1808-1853 年)が、先のスターリングが紹介した 遺跡群の追跡調査に訪れ、
偶然炭田層を発見している3。これは先に紹介した調査委員会に報告され4、さらなる精査
を依頼された。ただちに彼は丘陵地域の豊かな炭田および鉄鋼石資源についてさらなる調
1
R ep o r ts o f A C omm ittee fo r In ve s tig a ting the Co a l a nd Mine r a l Re s ou rce s o f Ind ia ,
Calcutta, 1838.
2
A. Stirling, “An Account, Geographical, Statistical and Historical of Orissa
P r o p e r, o r C u t t a c k ” , A s i a t i c R e s e a r c h e s , v o l . 1 5 , 1 8 2 5 , p . 1 7 9 .
3
M. Kittoe, “Section of a Hill in Cuttack supposed to be likely to contain coal ”,
Journal of Asiatic Society of Bengal , vol.7, 1838, pp. 152 -155.
4
Reports of A Committee for Investigating the Coal…p.7.
­6­
日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
査をもとに発表している1。
このような資源調査がオリッサにおいてさらに本格化するのは、1851 年のインド地質
調査局の誕生以後であり、先のキトーによる炭田調査をさらに精査する報告が最初になさ
れた2。また、同調査局に勤務したボール(V. Ball, 1843-1894 年)は 1870 年代にオリ
ッサ藩王国の天然資源を調査している3。このような調査が進むにつれ、オリッサの丘陵
部(その多くは藩王国だったが)は豊かな資源を持つことが知れ渡ることで、イギリス人
行政官や藩王たちの側から石炭、石灰岩、鉄鋼石などの鉱山開発を促す要求がなされた。
しかしながら、消費地から遠いため採算も合わないことから、こうした資源が実際に採掘
されるのは、この一帯が鉄路で繋がる 20 世紀初頭を待たねばならなかった。
現在、オディシャー(オリッサ)州では資源の需要の拡大とそれに伴う州政府の積極
的な外資の受け入れによって鉱山開発が急速に進められ、鉱物の総生産量では全インドの
16%のシェアを占めるに至った (2008-2009 年)。しかしながら、これまでの研究史にお
いて、オリッサだけでなくインドに関する植民地時代から現在までの鉱山史を体系的に論
じた研究はほとんどなかったと言ってよい。これまでの研究は主に 20 世紀初頭からの労
働運動史、トライブの抵抗運動史、産業史、あるいは科学史や技術移転史といった文脈に
おいてなされてきたのである。
本発表ではオリッサのみならず、インドの鉱山開発史を体系化するという長期的な展
望の下で、開発の前段階にあった 19 世紀中のオリッサにおける地質調査に注目し、その
調査過程を明らかにする。その中で、鉱山史の新たな地平を切り開くための方法、および
鉱山に注目することで得られる新たなインド近代史の視角を提示したい。
1
M . K i t t o e , “ R e p o r t o n t h e C o a l a n d I r o n M i n e s o f Ta l c h e e r a n d U n g o o l ” , J o u r n a l
of Asiatic Society of Bengal , vol.8, 1839, pp. 137-144.
2
T h o m a s O l d h a m , “ P r e l i m i n a r y N o t i c e o n t h e C o a l a n d I r o n o f Ta l c h e e r, i n t h e
Tr i bu t a r y M eh a l s o f C u t t ac k ” , Me m o i r s o f th e G eo l og i c a l S u rv ey o f I n d ia , vo l .1 ,
1856, pp.1-31.
3 V. B a l l , J u n g l e L i f e i n I n d i a o r t h e J o u r n e y s a n d J o u r n a l s o f a n I n d i a n
Geologist, London, 1880.
­7­
1A1-4
19世紀インドにおける新聞と通信技術--テレグラフを事例に
アメリア・ボネア(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)
1.はじめに
植民地期インドにおける新聞に関する研究は数多いが新聞と通信技術のかかわりに焦点をあてた研
究は僅かしかない。しかし、19世紀に実用化した蒸気船や電信などのような技術は新聞の発達過程
において大きな意味をもっていた。特に電気電信は、他の技術と違い、電気を利用することによって、
短時間で情報を遠方に伝達し、時間や距離を越えられる技術として注目を浴びた。すなわち、それ以
前は一体化していた通信と交通は、電信の利用によって、歴史上初めて分離されることになったので
ある。電信ネットワークの構築と拡張によって、インド亜大陸内だけでなく、イギリスとインド、ヨ
ーロッパとアジア間の情報交換はスピード化され、インドにおけるニュース報道にも大きな変化がみ
られるようになった。本発表は、電信ルートの開設と普及を明らかにした上で、19世紀インドで刊
行された英字新聞をいくつか取り上げ、インド新聞史における技術の意味と役割について検討する。
2.電信ルートの構築と普及
1 8 5 1 年 、 ア イ ラ ン ド 出 身 の 医 者 で 科 学 者 で あ っ た ウ イ リ ア ム ・ オ シ ョ ー ネ シ ( William
O’Shaughnessy)が実験用の電信線を建設し、インド初の陸上電線でカルカッタとダイヤモンド港を
結ぶことに成功した。この電線の長さは51マイルに過ぎなかったが、新聞読者の多くに求められて
いた様々な経済情報――両替相場、船舶の入出港、市場動向など――を迅速に伝達し、カルカッタの
商人にとって大きな利益をもたらした。しかし、電信の実用分野は貿易商に限らず、イギリス植民地
の行政と軍事戦略のうえでも大きな役割を担った。電気電信の可能性を早期から認識したインド総督
ダルフージーとイギリス東インド会社の取締役会が電線路の拡張計画書を認可した結果、僅か5年間
で約3,000マイルの陸上電線が建設され、インドの主な都市カルカッタ、アグラ、ボンベイ、ペ
シャワルとマドラスは電信ネットワークに組み込まれることになった。これらの電線路は1855年
2月1日に開業し、植民地行政官や商人のみならず、一般人による利用も認められることとなった。
イン ド亜大陸 における 電信 網は急速 に拡張し、1 900年 の時点では、 インド電 信局( Indian
Telegraph Department)は約5万5千マイルの電信線と250の電信局を管理していたという。
一方、19世紀半ばごろからロンドンとインドを電信線で結び付けようとする試みも相次いだ。そ
の努力の結果、すでに1865年までに二つの地上電線ルートが敷設された。一つはサンクトペテル
ブルグとテヘランを経由し、もうひとつはコンスタンティノープルとバグダッドを経由してロンドン
とカラチを繋いだ。さらに、5年後の1870年に紅海の海底電線の敷設も完了された。地中海の海
底電線はスエズ運河を経由してインド洋に入り、ボンベイに達することによって、イギリスとインド
をイギリス独占の電信線によって直結したのである。このような電信線の構築と拡張によって、一種
のグローバルな情報通信ネットワークが確立され、イギリス帝国の軍事や通商のみならず、イギリス
とインドにおける新聞界をも支えたのである。
3.電信の普及とニュース報道の変容
19世紀に起きた通信技術の発展はインドにおけるジャーナリズムにとってどのような意味を持っ
ていたのか。メール・ゴルマンによれば、電信が新聞界にもたらした変化は「革命」と呼ぶにふさわ
しいものであったという。たしかに、電信の利用によって、インド内ばかりではなく、イギリスとイ
ンド間のコミュニケーションは著しく向上し、特に商人や行政官にとって不可欠なものとなった船
舶・経済・政治などに関する様々な情報は迅速に報道されるようになった。それまで東インド会社が
運営した喜望峰回りの帆船で 4 ヶ月もかけてロンドンとカルカッタ間の郵便が運ばれたのに対して、
電信の利用によって僅か数日間、数時間、後には数分間でインド側と情報のやり取りが可能になった。
­8­
日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
しかし、電信の発明と普及によって、以前からの情報交換手段は利用されなくなったわけではない。
むしろ、蒸気エンジンと東洋航路の改善によって、イギリスとインド間の郵便運送も定期化されるこ
ととなったのである。イギリスの汽船会社のなかで特に有名なのは Peninsular and Oriental Steam
Navigation Company(以下、P&O を略する)であった。P&O はイギリス政府から郵便運送契約を獲得
し、インドとイギリス間の直通運航を独占したため、新聞と情報交換にとって重要な役割を果たして
いた。P&O は地中海とスエズ運河を経由して本国とインドを結び、月に 1 度、後に2度運行していた。
このように、19世紀後半のインドにおいて刊行された多くの新聞は電信と蒸気船という通信と交通
技術を共に利用し、ニュースの収集に挑んだのである。
しかし、電信による情報通信には長所ばかりではなく、短所も少なくなかった。その一つは、情報
の通信代であった。19世紀末まで特に海外向けの通信代があまりにも高かったため、電報の長さは
限られていた。経済や戦争情報を交わすには最適であった電信は、実際に報道の要点をまとめた「事
実」の伝達に利用されることが多く、記事の詳細は依然として船舶によって文書という形で郵送され
続けたのである。その結果、情報は発生順ではなく、インドに届き次第報道され、違う技術手段によ
って送られたものの内容に時差が生じ、読者を混乱させることもしばしばあった。例えば、1866
年7月10日に陸路郵便で送られた普墺戦争に関する報道が戦争の始まりを発表したのに対して、同
じ日に掲載されたロイター電が戦争の終結を宣言した。
さらに、電信とは文字や数字を電気信号に変換して遠方に送る装置であるため、特に数字と見慣れ
ない固有名詞を読み解く際、間違いが起こりやすかった。ボンベイの『タイムズ・オブ・インディア
(Times of India)』、カルカッタの『イングリッシュマン(Englishman)』,マドラスの『マドラ
ス・タイムズ(Madras Times)』による普墺戦争の報道を検討すれば明らかなように、地名や人名の
間違いがしばしば起きた。このようなミスに苦しんだのは特に商人たちであった。両替相場や市場動
向を示すような情報をめぐるトラブルが相次ぎ、インドの商人が電信の働きに対して文句を付けるこ
とも珍しくなかった。
その他、電信網の拡張自体にも限界があったと言える。主にボンベイやカルカッタ、マドラスなど
のような港湾都市と地方の町(mofussil)の間では報道の格差が際立っていた。さらに、ボンベイは
インド亜大陸の海上交通の拠点だけでなく、情報の拠点でもあった。特に 1860 年代にボンベイがカル
カッタに代わって郵便の入港都市となって以来、ボンベイで刊行された新聞は他の大都市の新聞より
約 1-2 日早く最新情報を掲載できるようになった。
最後に、ロイター通信社が配信していた電報を受信した新聞と受信しなかった新聞の間にも格差が
みられた。1879年の契約書によれば、ロイター電を受け取った『ボンベイ・ガゼット(Bombay
Gazette)』は一年に4,800ルピーの受信代を支払わなければならなかった。戦争の間、この額は
さらに増え、6,000ルピーに達した。19世紀インドで刊行された邦字新聞の他、英字の週刊
紙・隔週刊紙や小型の日刊紙にとっても、それは手の出せない金額であった。1900年1月、
Surendranath Banerjea の経営した日刊紙『ベンガリー(The Bengalee)』が初めてロイター通信社
と契約を結び、ロイター電を受信し始めた。しかし、実際には『ベンガリー』紙も大都市の、大手新
聞で、英語で刊行されていた。ロイター電を受け取れなかった現地語や英語の新聞は大手の日刊紙か
ら転載記事を載せることが多かった。
4.まとめ
以上のように、19 世紀インドにおける新聞が交通手段と情報通信手段と共に急速に変化していった
ということがわかる。しかし、その変化の内容には、地域的・経済的な格差があり、通信革命は新聞
ごとによって異なったものであったということも明らかであろう。
­9­
1A1-5
M・K・ガーンディーにおける「性のナショナリズム」
間
永次郎
一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程
コロンビア大学大学院総合文化研究科客員研究員
本発表の目的は、M・K・ガーンディーの「ブラフマチャルヤ(brahmacarya)
」思想における「性欲
(viṣay、vikār、viṣay-vāsanā)
」理解に着目しつつ、彼の「政治(rājanīti)
」と「自己(ātmā)
」概念との
関係を探究することにある。近年における、Alter(2000)や Tambe(2009)の研究で論じられているよ
うに、ガーンディーは、国民の集合(nationalist collective)を、de-sexualization する必要のある一つの身
体と見なしていた。この国民身体政治(nationalist body politic)の観点から、しばしば、コミュナル暴力、
売春、不可触民制度などの諸問題は、ガーンディー自身の自己に潜在する、性欲の有無に起因している
と考えられた。これまでアシス・ナンディーを始めとした多くの研究では、男性的反帝国主義政治に対
する国民政治の「女性化」に示されている gendered nationalism の観点から、ガーンディーは語られてき
た。それに対し、ガーンディーにおける政治言説が、彼自身の内における性欲との葛藤といった、セク
シュアリティ認識と、いかなる関係にあったのかを論じたものは極めて少ない。本発表では、こうした
ガーンディーのセクシュアリティ認識に規定された国民身体政治の思想を、「性のナショナリズム
(nationalism of sexuality)」と呼び、この概念が、
(1)南アフリカ滞在期(1906―1914)においてブラ
フマチャルヤの誓願が交わされてから、第一次非協力運動終了までの「前期」(1906―1922)、(2)ヤ
ラヴダー刑務所収容後から晩年における「ブラフマチャルヤの実験」が開始されるまでの「中期」
(1922―1944)
、(3)実験開始から暗殺までの「後期」(1944―1948)という三つの時期において、い
かに変遷していったのかについて、個別に考察を加える。
(1)前期(1906―22)
ガーンディーが、最初にブラフマチャルヤの誓願を交わしたのは、彼が南アフリカに滞在していた
1906 年 8 月であり、これは、生涯最初の「サッティヤーグラハ(satyāgraha)1」が開始される僅か一ヶ
月前に起こった。Alter によれば、
「サッティヤーグラハとブラフマチャルヤとの関連は決定的であり、
[……]後者が前者を実現するための手段――唯一の手段――を提供していた」
(Alter 2000: 24)という。
この時期におけるブラフマチャルヤ思想は、Śrīmad Rājcandra(1867―1901)から教わったミルクの摂取
と「精液(vīrya)
」の生成との関係に示される消極的な性的禁欲主義に基礎付けられていた2。同時に、
サッティヤーグラヒーとの関係から論じられた厳格な売春批判を始めとした女性観は、トルストイの
『クロイチェルソナタ』や『性欲論』をも彷彿させるものであった。前期におけるガーンディーのセク
1 サッティヤーグラハは、
「自己(ātmā)
」或いは「良心の声(voice of conscience)
」に従うといった「宗教的(dharmik)
」
或いは「道徳的(naitik)
」行動であり、このことは同時に、
「自己の観点から従った倫理(ātmānī drṣṭe pāḷelī nitī)
」でもあ
る「政治(rājanīti)
」領域における「主張(agraha)
」をも意味した。つまり、サッティヤーグラハは、
「私的なるもの(khāngī)
」
と政治領域とを架橋する運動であり概念でもあるとされた。
2
ガーンディーは『自叙伝』において、ミルクが性欲を生み出す原因となり、ブラフマチャルヤを遵守する際に、妨げに
なることを、Rājcandra から学んだことを語っている(Gāṁdhī 1947: 219, 334)
。Rājcandra によれば、
「ミルク、カード、
ギーまた、そのような他の固形物」を摂取することは、
「精液(virya)の生成を助長し、高揚と興奮を加速させる」とい
う。さらに、Rājcandra は、
「これらはあなたの性交渉の欲求を増進させる。故に、ブラフマチャーリーにとって望ましい
ものではない」と述べている(Rājcandra 2010: 187)
。
­ 10 ­
日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
シュアリティ認識と政治言説との関係は、植民地主義的自己抑制のイデオロギーや性科学観に裏付けら
れていた。
(2)中期(1922―44)
1920 年代から、ガーンディーにおける女性、ミルク、また、精液に対する理解に変化が見られるよう
になる。例えば、ガーンディーは、公共の場における女性との身体的接触を、必ずしも否定的なものと
してではなく、「相互間の[霊力の]向上」が伴う「悦ばしいもの(rasamay)」とも捉えるようになっ
ていく。こうした、ガーンディーのセクシュアリティ認識の変化を促したのは、1923 年に、ヤラヴダー
刑務所で読んだ、Sir John Woodroffe の Shakti and Shakta(1918、以下、SS)であった[S.N.3 8039]
。本
発表では、この著作において説かれているタントラ思想やクンダリニー・ヨーガを始め、その他、①「性
欲(kāma)
」
、②「母性崇拝(Mother-worship、Cult of the Mother)
]
、③「供犠(yajña)
」という三つの概
念に着目し、これらの諸概念が、中期以降のガーンディーのセクシュアリティ認識と政治言説にどのよ
うに反映されていったのか、を検討していく。
(3)後期(1944―8)
具体的な時期が定かではないが、1944 年以降、ガーンディーは女性と裸で同衾を開始した。これは、
しばしば、
「ブラフマチャルヤの実験」とも呼ばれる。この「実験」が行使されるに至った経緯と、そ
れを基礎付けていた思想が如何なるものであったのか、を分析した研究は皆無に等しい。本発表では、
この実験に至る経緯と、それを支える思想を、実験の参加者であったマヌベーン・ガーンディーが執筆
した Eklo Jāne Re: Gāṁdhījīnī Noākālīnī Dharmayātrānī Ḍāyarī(『一人歩め:ガーンディージーのノーアー
カーリーの宗教巡礼の日記』
)(Gāṁdhī 1954)と N. K. Bose Papers4を使用することで読み解いていく。
発表者は、この実験において、晩年におけるガーンディーのセクシュアリティ認識は最も顕著に示され
ていると考える。本発表では、SS における「供犠」と「自己省察(ātmadarśan)
」概念との関係から、
精液の「集合(saṅgraha)
」から「変化(parivarttna)」を通して「智覚者(sthitāprājñā)」の状態に至る
までの実験における思想構造を分析していく。そして、こうした、ガーンディー晩年に示された「新し
い思考枠組み5」が、同時期のコミュナル対立、売春、不可触民制度を巡る政治言説と密接な関係があっ
たことを示す。
参考文献
Alter, Joseph. (2000). Gandhi's Body: Sex, Diet, and the Politics of Nationalism. Philadelphia: University of
Pennsylvania Press.
Gāṁdhī, Manubhen. (1954). Eklo Jāne Re: Gāṁdhījīnī Noākālīnī Dharmayātrānī Ḍāyarī. Amdāvād: Navajīvan
Prakāśan Mandir.
Gāṁdhī, M.K. (1947). Satyanā Prayogo athvā Ātmakathā. Amdāvād: Navajīvan Prakāśan Mandir.
Rājcandra, Śrīmad. (2010). Mokṣamāḷā. Agās: Śrīmad Rājcandra Āśram.
Tambe, Ashwini. (2009). Gandhi's 'Fallen' Sisters: Difference and the National Body Politic. Social Scientist, 37
(1/2), 21-38.
3
Gandhi Papers[以下、S. N.]. Ahmedabad: Sabarmati Ashram Preservation and Memorial Trust.
4
N. K. Bose Papers[以下、B. N.]. Group 14, Correspondence, New Delhi: National Archives of India.
1947 年 3 月 16 日付のキショーレーラール・マシュルワーラー宛ての書簡において、ボースは、ガーンディー晩年にお
ける思想を、
「新しい思考枠組み(new way of thinking)」
[B. N. 68]と呼んでいる。
5
­ 11 ­
1A2-1
舗道住民の実践とネパールの都市的公共空間の現在
高田 洋平
京都大学大学院アジアアフリカ地域研究研究科
本報告は露天商やストリートで生きる若者、ストリートチルドレンといった「舗道住民」の日常実践
に関して人類学的な調査で明らかになった結果を踏まえ、ネパールの都市公共空間の一諸相について報
告するものである。
近年、カトマンズをはじめとするネパールの都市社会は著しい変化を遂げている。1990 年の民主化
以降、人やモノ都市に集中し、大型のショッピング・モールやビューティー・パーラー、中間層のイメ
ージが台頭し、高所得中間層を対象にしたゲートコミュニティやマンションの建設が進んでいる。日本
や欧米諸国の援助による「ロード・プロジェクト」など道路やインフラストラクチャーの整備が進めら
れ、都市の社会空間が再編されている。こうしたグローバルな富がネパールの都市の様相を著しく変化
させる一方で、同時にローカルな貧困が存在し、日々生み出されている。
グローバルな富とローカルな貧困が共存する都市カトマンズで、ストリートで寝泊まりする人やスト
リートチルドレンなど都市の公共空間であるストリートを生活の場としている人びとを、本報告ではア
パドゥライにならい「舗道住民」と呼称する。
「
『舗道住民』というカテゴリーは決して外部的なラベル
「舗道の人」
ではなく、自己構成的なものになってきている」[Appadurai2000:636]という指摘の通り、
を意味する「sadak mancche(mancche-haru)」という呼称はストリートで生活する人びとが自らを呼称
する際に使用する一般的な呼称になりつつある。また「家(家族)を持たない」という意味のホームレ
スという用語では捨象される現実を浮かび上がらせたいという意図からこの用語を採用する。
舗道住民は「都市の私的な領域以外の空間使用を決定づける全ての物理的空間と社会関係」
[Brown:2006]とされる都市的公共空間(urban public space)を生活の場としている。カトマンズの公衆
トイレの脇の空き地、壊れた噴水の残る小さなガーデンの跡地といった公的な空間を、彼らは私的領域
と公的領域の境界を曖昧にしながら生活の場所とする。公共空間についての人類学的な研究は、おもに
抵抗という物語のなかで、空間的に表現された権力に対して、空間の意味を読み替えるという人びとの
抵抗実践を描いてきた。そうした物語のなかでストリートは「生活の場」か「公共空間」かという二項
対立的な議論で語られ、舗道住民のようなストリートを拠点にする人びとは空間的な権力に抵抗する実
践の主体として配役された。こうした抵抗をめぐる研究はたしかに彼らのエージェンシーに注目し、そ
の点で生活の一側面を明らかにしていたが、同時に、現実に存在する構造的な権力を過小評価した見方
であるといった批判がなされている。
実際、彼らの実践は「生活の場」か「公共空間」かといった二項対立的な枠組みで語られる抵抗に特
徴づけられるというよりは、より広いネットワークと緩やかな共同性によって成り立っており、そこで
見出されるのは公的・私的といった区別では捉えきれない実践である。
本報告では、舗道住民の実践について、ネパールの首都カトマンズにおける今日的な変化という特定
の社会的条件を踏まえつつ報告したい。ただし、グローバルな富とローカルな貧困のあいだの矛盾を強
調するのではなく、グローバルな富の流入とローカルな貧困の拡大が同時並行的に起こっているカトマ
ンズという都市社会のなかで、いかに彼らは日常実践を展開し、都市的公共空間と関係しているのを中
­ 12 ­
日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
心に報告したい。
その際、特に彼らの身体の経験に着目する。というのも、ストリートチルドレンをはじめとする舗道
住民の人びとが経験は、状況を見極めて合理的に選択する主体よりも、身体の経験に基づいた方が説明
できることが多いように思えるからである。例えば、カトマンズのストリートで生活している 13 歳の
アシスは、村での重労働と義母による暴力に耐えかねて首都カトマンズに出てきた。カトマンズでホテ
ルの清掃人の仕事を見つけるが、やがてストリートを自らの寝床として生活するようになった。彼によ
って語られたこうした物語は、彼が状況をみきわめて合理的に選択したことを示していない。そこには
合理的な選択をする主体があるというより、痛みを逃れた身体があり、ドラッグや映画など都市が提供
する幻想や享楽に溺れる身体があり、そして一般的な道徳的規範とのあいだで苦悩し葛藤する身体があ
ると考えられる。
本報告では、このような身体に着目しつつ、舗道住民の人たちのあいだで共同性が如何に成り立って
いるのかといったことなどについて、身体の経験やパフォーマンス、そしてインタビューの回答を援用
しながら考察し、現代ネパールの都市的公共空間の一諸相として報告してみたい。
参照文献
関根 康正.2004.「都市のヘテロポロジー:南インド・チェンナイ(マドラス市)の歩道空間から」
『<都
市的なるもの>の現在:文化人類学的考察』(関根康正編)、東京大学出版会
Appadurai,Arjun .2000. Spectral Housing and Urban Cleansing: Notes on Millennial Mumbai:
Public Culture (12)3, pp.627-651.
Brown,Micheal Knopp,Larry.2006.Place or polygons? Governmentality, scale and the census in the
Gay and Lesbian Atlas. Population Space and Place (12)4,pp.223-242.
Onta-Bhatta,Lazima.2000.StreetChildren’s Subculture and cultural politics of childhood in
Nepal.phD thesis. Cornell University.
­ 13 ­
1A2-2
ネパールの民主化過程とカースト団体の試み
―『ネパール・カドギ・セワ・サミティ』の活動を中心に―
関西学院大学社会学研究科大学院研究員・先端社会研究所RA
中川加奈子1
ネパールは 1951 年、1990 年、2006 年の大規模な民主化運動を経て 2008 年には王制が
廃止され、現在、共和国としての体制への過渡期にある。特に制憲議会選挙が実施された
2008 年以降、
「カースト」
「ジャート」
「エスニシティ」などの民族範疇が、どのように国家
の中に組み込まれるのかが重要な焦点となっている。本報告では、カトマンズの先住民で
あるネワールの社会において、「カースト」に基づいて家畜の屠畜、解体、肉売り、家畜の
供犠等に従事してきた「カドギ」2のカースト団体(Caste Association)であるネパール・カ
ドギ・セワ・サミティ(以下、NKSS)の結成以来約 40 年間の活動を中心に取り上げる。
特に、NKSS が「カースト」という枠組みをどのように操作してきたのかに注目しながら、
ネパールの民主化が一つの「カースト」社会においてどのように経験されてきたのかを明
らかにしていきたい。
ネワール社会において、個々のカースト団体の結成は民主化の機運が高まる 1990 年代前
半頃から増えてきたとされている(Toffin 2007:371)。カドギは、ネワールの他カースト
に先駆け、パンチャーヤット体制下の 1973 年に NKSS を結成した。当時は食肉の市場化
が進み、肉売りを稼業とするカドギが増え、家畜の仲買を稼業とするムスリムとの交渉機
会が増えたため、これを有利に進めるべくカースト内で団結することが結成当初の主要な
目的であった。1975 年に NKSS は公共バスターミナルに飲料水タンクを寄進した。その後
も、同様に寺院や広場に次々と飲料水タンクを寄進し、カドギが「水不浄」とされるカー
スト差別に異を唱えてきた。また、
カーストを超えた社会貢献のため 1985 年に初めて NKSS
主催で国際赤十字社と提携する形で献血を行った。この献血事業は、2012 年現在も継続的
に実施されている。ここには、「カドギ・カースト」という枠組みをそのままに、よりよい
ものとしてイメージを読み替えていこうとする NKSS の方針を読み取ることができる。
1990 年の民主化以降、経済の自由化が進み、市場が急速に拡大するようになった。人口
も急増し、食肉の消費量は爆発的に増加した。カドギも含めたネワールのカースト間の関
係は、「カーストの相互依存関係から、職業区分へ」(Ishii 2007:126)と移行していった
のである。生計の資が個々による市場での競争へと移ったのち、いったん、NKSS の活動
はやや停滞気味となるが、2006 年の民主化運動以降において、再び新しい方針に沿って活
発化しつつある。ネワールの民族団体であるネワデダブ(Newa Day Daboo)と協調しなが
ら、「アディバシ」(先住民)としてのカドギという自己定義を多く用いるようになったの
である。
この方針の転換の背景には、リーダーの交代がある。2001 年の NKSS の代表選挙におい
て、当時 30 代の若者であった M 氏が代表に選出された。これまでは、年長かつ人々が出
した意見をまとめる調整役タイプの人物が代表を務めることが多かったが、M 氏はこれま
でのリーダー達とは異なり、自分でアイディアを打ち出し牽引していくタイプの人物であ
1E-mail:[email protected]
2ネワールのカーストであり、khaḍgī、nāy、śāhī
等を姓としているが、本報告では、対象カースト自身が
総称として最も用いる機会が多い khaḍgī(カドギ)で統一して論じる。
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
る。その後、M 氏は 3 期にわたって再選され、2012 年現在においても代表を務めている。
この間、NKSS は国中に支部を増設し、政治的な色合いを強めていく。中でも、2008 年に
は NKSS の抗議により、カドギは、国家ダリット人権評議会の条文のダリット・リストか
ら削除された。現地紙によって、国家ダリット人権評議会が、繰り返し、カドギがダリッ
トのための基金と便宜をうけられるようにカドギをリストに入れた旨説明したが、これに
対し M 氏は「カドギの紛争や不満は、内部の協議を通じて解決される」と主張していたこ
とが報じられている3。
一方で、民主化、市場化が浸透し、カーストと関係ない社会に直接つながるカドギも増
えてきた。これを象徴的に示しているのが、ネワールのさまざまなカーストにより構成さ
れる guwāli guṭhi の出現である。葬いの執行を明確な目的としてもった組織である sanā
guṭhi はカースト内の父系親族により構成されており、これは特定のカースト、特定の地域
の社会成員としての身元保証も果たす(石井
1980:209)重要な単位である。ネワールの
儀礼の根幹でもあった葬いに関する儀礼の簡略化のため、sanā guṭhi を離脱する人々、も
しくは、所属を残しながらも実際の葬儀において人手を借りるために、guwāli guṭhi を利
用する人々が都心部において増えてきている。
また、商業目的でカースト単位での団体・組合の形成も進んでいる。近年、ネワール社
会においてカースト単位で、サハカリ(頼母子講)の形成が進んでいる。婚資や教育費と
して、近年の高金利を生かした形でサハカリを共同運営するものが急増している。2009 年
にサハカリを発展させた形で、カドギ・カーストによる食肉組合が結成された。これは、
2012 年現在、約 1600 名にそのシェアを拡大させている。
このような、カーストを超えたつながりの形成や、カースト内の財政的な基盤の拡充を
受けて、NKSS はこれらの新たな活動とすみわけるように、カトマンズ盆地外のカドギへ
の啓発活動や貧困層の底上げに向けた活動に注力しつつある。2011 年には市役所と提携す
る形で、屠畜後の水牛の糞からバイオガスを発生させるコンポストプラントを形成した。
近年、1日当たり約 300 頭の水牛を集約している皮加工のビジネスマンから、一頭分の皮
あたり 10 ルピーの寄付を受け、地域での啓発活動に用いている。
これらの近年の動向は、
「カースト」という枠を、ある種ねじれを伴いながら、部分的に
強く打ち出し、また別の部分では「カースト」が関係ない社会の中にまぎれこませていく
という、錯綜した取捨選択の動きであるとみることができるのではないだろうか。最後に、
事例の分析から、NKSS の活動にみるような、
「カースト」という枠組みから創発されてき
た経済的・政治的・文化的実践が、ナショナル、グローバルな大きな変動のなかにどのよ
うに接合していくことができるのか、その位相から、若干の考察を加えたい。
【参考文献]
藤井毅、1989、「カースト論への視角とカースト団体」『アジア経済』30-3、30-52
Ishii, Hiroshi, 2007, “ The Transformation of Caste Relationships in Nepal : Rethinking '
Substantialization',” Ishii, Hiroshi, Gellner, David N. and Nawa, Katsuo(eds.), Political and Social
Transformation in North India and Nepal, New Delhi: Manohar Publishers & Distributors,
pp.91-130.
石井溥、1980、『ネワール村落の社会構造とその変化―カースト社会の変容』、アジア・アフリカ言語文化
叢書〈14〉
Toffin, Gérard, 2007, Newar Society –City, Village and Periphery-, Himal Books, Kathmandu, Nepal.
3
The Himalayan Times, 2008 年 3 月 19 日 3 面より。
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1A2-3
いかにして、彼女達は「仕事に満足」か?
カトマンズの女性建築労働者の場合
佐藤斉華
帝京大学文学部社会学科
「今の仕事にどれくらい満足していますか」-こう質問を投げかけると、カトマンズの女性建築
労働者達のほとんどが「満足」と応える。いかにして、彼女達はそう答えることになるのだろうか?
すぐに目に入るこの労働をめぐる諸条件-寒さ暑さ・雨風にさらされる労働環境、不十分な(とい
うよりほぼ皆無に等しい)安全・防護装備、それ自体は単調で楽しくない作業、不安定な雇用、建築
業界のなかで最低水準の賃金、熟練による収入上昇可能性の不在等-からすれば、この応答はある
驚きをもって捉えられざるをえないのである。本発表は、この問いに答えるべく、彼女達の労働世界
を探究する試みである。彼女達にとって建築労働とはどのような労働なのだろうか? 彼女達が仕事
に期待するのは、仕事から得ている期待とはどのようなものだろうか? そして、「仕事に満足」と
いう応答は、結局のところ、彼女達のいかなる行為として捉えられるのだろうか?
本発表が依拠する主たる資料は、2011 年 11 月~12 年 3 月にかけて行った、建築労働者女性を対象
にして主にカトマンズ盆地で行った、仕事と生活についての構造化インタビューで得られたものであ
る。質問票調査回答者(女性建築労働者女性=51 人)の大多数(41 人)は、大理石敷きの、または
砂利・大理石の破片等を混ぜたセメントを流した建物の床を大小の電動研磨機を用いて磨きあげる仕
事 (以下、研磨)に就いており、またこの職種はカトマンズの建築業界において唯一の完全な女性
職である。従って、以下の議論は基本的にこの研磨労働者を念頭において行う。
第一に、研磨と他の職種(彼女達自身が実際に参照しているであろう職種、即ち、彼女達が就いた
ことのある、もしくは就く可能性のある職)との比較を試みたい。彼女達のほとんどは農村部の出身
であり、村での農業労働・生計維持労働に従事したことがある。またその少なからずが、インフォー
マル・セクターにおける(ないしフォーマル・セクターでの非正規の)雇用/仕事(絨毯織り、縫製、
家事労働、内職など)も過去に経験しており、また建築業界内ではほとんどがまず未熟練労働を経験
した上で研磨職に移行してきている。これらの労働が比較対象となる。
まず仕事の内容に関して、彼女達の多くが口にするのは、研磨では「荷を担がないでよい」という
ことである。額と背で支え重い荷を担ぐことは、ネパールにおいて苦役の象徴と見なされるが、それ
は農村部の労働、建築における未熟練労働の「基本所作」でもある(前者では薪・水・飼葉から堆肥
や収穫物まで、後者では砂利・セメント・煉瓦等を「担が」なければならない)。収入に関していえ
ば、建築業界では最低水準に甘んじるとはいえ、他の可能な労働における収入に比べれば、1 日当た
りの稼ぎとしては相対的に恵まれる(ただし雇用が不安定なので、月単位の収入として恵まれる保証
はない)。仕事をめぐる社会環境に関していえば、労働の直接的な管理者はほとんどの場合現場に不
在(あるいはそもそも不在-請負形態をとる場合)であり、相対的に自律して仕事ができるととも
に、様々な現場で仕事をしていくことで広い仲間のネットワークを築けるという利点がある。縫製や
絨毯織り等ではめずらしくない厳しい労働管理や、雇用主の目に常にさらされ、また孤立しがちな家
事労働などとは極めて異なる、望ましい環境だといえる。またこれとも関連して、労働時間の管理も
一般にゆるやかであり、また通常相対的に短い 。
第二に、彼女達の仕事に対する期待、彼女達が仕事を通して得ようとしているものとの対照におい
て、研磨という仕事を見てみよう。「どれくらい満足か」ときかれて「満足」と応えた彼女達の多く
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
が付け加えるコメントは「食べる、着るのに足りている」、「生活がまわっている」というものであ
る。彼女達が仕事に期待するもの、それはまず、そして主に、彼女(とその家族)の生計維持の糧を
えることである。基礎的な衣食住の充足に加えて、多くの女性達は「子どもを学校に行かせられてい
る」というコメントも口にする。興味深いことに、建築労働者女性の少なからずは、その子どもを公
立学校ではなく、私立学校に-授業料とともに提供される教育の質にも大きくばらつきがあるとい
われるが-通わせている。前者の教育の質が低いという認識は労働者階級を含め都市部では常識化
しており、ともかくも私立と名のつく学校に通わせることは、現在のネパールの都市生活者にとって
「必要経費」化しているといってよいだろう。
この次世代教育のポイントにも関係してくるが、彼女達がこの仕事をしていることで抱くことを得
る将来への期待も重要である。より短期的には彼女達の仕事自体におけるステップアップへの期待が
ある。日雇い賃金が熟練によって上がることはなく、より賃金の高い建築業界内他職への移行も実質
的に閉ざされている研磨の仕事には、一見展開の余地はないように見えるが、実は全くないわけでは
ない。研磨機を自身で所有するようになることで、さらに日雇いでなく仕事を請け負うようになるこ
とによって、(仕事の回しようによっては)より収入を増やす道が開ける(ただし損を出すリスクも
負うことになる)。さらに彼女達が現在の仕事から得た収入でつなぐことを得ているのは、子ども世
代の自分達世代より「よい」将来への期待である。学校に通わせることで、教育のない自分達とは異
なるより「よい」仕事(=教育の必要なホワイトカラー職)に子どもが就くことを期待しているので
ある(その期待が叶うかどうかは、未来のみぞ知る)。今の仕事による収入から何とかやりくりして
捻出している教育への投資が、彼女達の次世代への期待を持続させており、そのことが翻って、今の
仕事への彼女達の満足にもつながっているのである。
第三に、彼女達の「仕事に満足」というこの応答行為の含み、それがいかなる行為であるのかにつ
いて検討しよう。「満足」と訳している応答の元の表現は”santusht-ai(満足) chu(です)”という
もので、「満足な、満足している」という意味の形容詞 santusht の語尾に-ai が付加されているかた
ちである。形容詞の語尾に-ai を付加するのは一般に「強調」の意であるともいわれるが、ここにい
う強調とは「極めて(満足)」という意味ではなく、そのよう(=満足)であるためにはなかるべき
状況(あるいは、そのようであるためにはありうべき状況の欠如)はあろうとも、それでもなお、逆
説的に、そのよう(=満足)である/であろうと応えている、という含みを示す。即ち、自らの仕事
が様々な点で全面的に満足すべきものではないことをはっきりと認識しつつも、あるいはもっと「よ
い」仕事もこの世界にはあることを知悉しつつも、それでもなお満足している、満足しようとしてい
る、さらにいえば、自分は満足だといおうという意思表明なのである。
ではここにいう、彼女達がそれをこえてなお満足だといっている、逆説の中身とはどのようなもの
だろうか。まず生活の余裕の欠如ということがある。将来(次世代)への展望こそかろうじて繋いで
いるにもせよ、研磨の仕事の収入水準は綱渡りの生計維持を支えるものであり、それ以上の安心・安
全を保証するものとはではない 。次に、この仕事自体における様々な困難の経験、認識ということ
がある。物理的に厳しい作業環境、職業病(の可能性)、賃金の未払い・支払いの遅れ、いわゆるセ
クハラ、(女性)建築労働者に対する世間の否定的な視線など、彼女達自身の話に耳を傾ければ、仕
事にまつわる問題はむしろ山積していることがわかる。彼女達の仕事への満足の表明は、そうした諸
問題への認識のなさを示すものではなく、そうした問題を認識しつつも全体として満足しようという、
彼女達の主体的な意志に貫かれた実践とむしろ見るべきである。この実践は、一方ではどんな仕事に
も困難は付きものという彼女達の現実的認識に支えられ、他方では、困難はあれこの仕事をして生活
を立ち行かせていこうという彼女達の毅然たる決意に支えられているのである。
いかにして彼女達は「仕事に満足」なのか。研磨という仕事が彼女達の労働世界のなかでは相対的
によい仕事であり、現在のささやかな期待に応えてくれるとともに将来への期待をつないでくれてい
る仕事であり、そうして決してそれがバラ色の理想的な仕事ではないとしても彼女達はこの仕事をし
ていこうといわば腹を括っているから、そう応答していた-このように答えることができよう。
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1A2-4
ネパールにおける家族計画をめぐる「開発」とローカルな実践
筑波大学
幅崎麻紀子
ネパールの女性たちの「生む・生まない」は、政府の人口政策と国際社会における人
口政策に翻弄されてきたといっても過言ではない。国際社会 の潮流とドナーエージェンシ
ーとなる国の政策によって、家族計画の名のもと、女性の身体は国際政治のターゲットと
されていると共に、家族計画は女性たちの生活に様々な影響を与えてきた。 本発表では、
ネパールにおける家族計画の導入のプロセスを概観すると共に家族計画が一連の「開発」
プロジェクトや識字教育と節合していく過程を考察する。そして、そのローカルな解釈と
利活用の方法について、ピルを事例としながら、家族計画をめぐる女性たちの実践につい
て考察する。
・家族計画浸透のプロセス
ネパールにおいては、国際機関や外国政府の支援を受け、 20 世紀後半より国策として
家族計画が進められ、ネパール全域へと浸透していった。それは、女性のリプロダクショ
ンにおける自己決定という意味でのバースコントロールをもたらすというよりも、「貧困
削減」や「人権問題」、フォーマル/ノンフォーマル教育と結びつき、「開発」行為の1
つとしてネパール全域へともたらされた。各種の家族計画が功を奏し、 1985 年を過ぎて
からであり合計特殊出生率は著しく下がり、2009 年には 2.8 まで低下している。
その経緯を時系列で特徴づけるなら、「家族計画導入の黎明期」「国家主導による家
族計画の拡大期」「共同体を活用した家族計画の拡大期」「共和制以降の家族計画」に分
けることができるだろう。
・家族計画導入の黎明期
1958 年 、 ネ パ ー ル 家 族 計 画 協 会 ( The Family Planning Association of Nepal
(FPAN))が設立され る等、当初、民間セクター主導で始められた家族計画であったが、
その後政府が徐々に関与し始め、出生率と「生活水準」とを関連付ける言説のもと家族計
画が進められていった。
・国家主導による家族計画の拡大
1970 年 代 に な る と 、 政 府 主 導 に よ る 家 族 計 画 が 本 格 的 に 進 め ら れ る よ う に な り 、
USAID 等の支援を受けて、ラジオプログラム等の広報活動に加え、家族計画冊子の出版、
家族計画に関する研修会や家族計画クリニックの全国展開、クリニックでの不妊手術等を
展開するようになった。同時に各五か年計画において、設置するクリニック数、家族計画
サービス提供数、合計特殊出生率の具体的数値を目標として掲げ られた。
・共同体を活用した家族計画の拡大
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
1980 年代後半には「家族計画」の文言が、五か年計画のあちこちにちりばめられ、 家
族計画に力を入れている様子がうかがえる。この時期 には、一時的な避妊方法と共に恒久
的に避妊法を定着させようとすると共に、家族計画の農村部に定着させるため、 家族計画
の実施単位を村落(VDC)とし、各村の女性をヘルスワーカーとして養成・雇用した。
また、家族計画と他の開発プログラムとの節合が行われ、家族計画教育が、森林組合研修、
工場研修、農業研修や村落活動研修に組み込まれて実施されるに至っ ている。更に、家族
計画は学校教育や成人識字教育等のノンフォーマル教育にも取り入れられ、多産が貧困に
繋がることが教育を通して広められている。
・共和制以降の家族計画
2008 年に連邦共和制に移行して以降、「社会的包摂」の視点から家族計画が実施され
ている。すなわち、社会的宗教的な障壁により、貧困層やダリット、先住民、マデシ、ム
スリム女性等へ、家族計画プログラムが定着していないことが改めて問題化され た。その
ため、女性の「エンパワーメントのため」に、ヘルスボランティアによる避妊プログラム
を特にこれらの層に行われることとなった。
以上のように、ネパールの家族計画は、民間から国家主導へ、そして、一般市民から
ある特定のグループへ、個人から共同体を使った啓発活動へ、教育や開発との節合へとい
う道を辿りながら進められていた。
・家族計画のローカルな実践:「月経を止める薬」としてのピル
その一方で、家族計画を持ち込んだアクターの意図を超えて、女性たちの間でその用
途と使用方法がローカルに解釈され、女性の生活を支えるツールの1つとなっている。
「家族計画」の枠組みでもたらされた低用量ピルは、女性の間では、月経日を遅らせるた
めに服用されている。それが家族計画で用いられる低用量ピルと同じ薬であることはあま
り知られていない。「家族計画教育」の普及により、女性達は家族計画の手段としての
「ピル」は知っているが、それとは別のものとして「月経を止める薬」を認識する。現在、
低用量ピルは、町の薬局でも購入することが可能で、「ピル」「月経を止める錠剤」と し
て、誰もが知っている薬として普及し、小売り販売されている。
月経によるケガレの文化、儀礼の遂行と家庭や社会におけるステータとの結びつき、
そして、生活スタイルの近代化と家族構成の変容等により、ローカルな女性の生活におい
て、ピルは儀礼を支える道具として、家族計画よりもむしろ「月経を止める薬」として女
性たちの間に位置づけられるにいたっている。つまり、家族計画を導入したアクターの意
図を超え、ネパールの女性達というローカルな文脈で解釈され、家族計画の枠組みを超え
て用いられているのである。そして、奇しくも家族や社会における女性の「伝統的」役割
を再生産し、女性の家庭や社会における位置づけを強固なものにするツールとなっている。
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1A2-5
ネパール先住民チェパンの動物認識における
「観点主義」と「多自然主義」
橘 健一
立命館大学 産業社会学部
近 年 の ア ニ ミ ズ ム 研 究 で は 、 Viveiros de Castro の 提 出 し た ア メ リ カ 先 住 民 の 「 観 点 主 義
(Perspectivism)」の議論(1998)が注目されている。その議論は、従来の自然と文化や身体と精神な
どの二項対立を基本とした議論を別の角度から捉え直すことを目指したもので、Viveiros de castro は、
西欧的な単一的な自然(身体)が多様な文化(精神、魂)を統合するという存在論的モデルとは異なっ
た、自然(身体)が多様(差異化され)だが、精神(魂)は単一だというアメリカ先住民のモデルを提
出した。
ここでいう「観点主義」とは、人間以外の存在にも観点の主体性(精神、魂)を認める立場をいうが、
そうしたある種の「観点主義」は、南アジアにも認められる。では、それはアメリカ先住民のものと、
どう重なり、どう異なっているのだろうか。あるいは、より広い範囲の資料に目を向けたとき、Viveiros
de Castro の議論には、新たな読み替えの可能性が開けるのだろうか。
本発表は、ネパール先住民チェパンにおける「観点主義」と「多自然主義」に関わる資料を提示し、
上記の問題の検討を目指すものである。
近年海外への出稼ぎが急速に広がるネパール社会だが、出稼ぎに行かず、山村に留まるチェパンの多
くにとって生業の中心は、常畑におけるトウモロコシやシコクビエの雑穀農業である。だが、1960 年
代のパンチャーヤット時代以前の生業の中心は、オカボやヒエなどの雑穀の栽培とイモの採集、そして
狩猟採集だったとされる。
チェパンにとって、狩猟(弓矢)の獲物の代表は、シカである。他にイノシシやキジも獲れたのだが、
シカが圧倒的に多かったようである。「昔はシカがしょっちゅう獲れた」とされ、射止めると、動物の
祖霊ムランに儀礼をおこない、獲物の肉の一部を捧げる必要があった。その肉を捧げるのは、srap とい
うムランの力を制御するためともいわれる。また、眼が充血して痛むと、それはそうしたシカ等の眼差
しの力(srap)によるものとされ、矢を用いた治療儀礼がおこなわれた。古老たちは、矢を手に持って、
矢尻を痛んだ眼に向けながら、シカなどの眼に戻れ、と唱え治療を行った。
このように弓矢猟の獲物に対しては、眼差しの力=観点が認められているが、他方で、網猟で捕らえ
られるコウモリや家畜のブタ等には、そうした力は認められていない。チェパンにおける動物の「観点
主義」の一部は、弓矢猟という人間の活動に結びついているといえる。
人間が捕食する動物は上記のものに代表されるが、人間に対する捕食者の代表は、森に住むトラであ
る。トラはかつて人間を襲い、死亡事故もあったとされる。だが、トラは単なる人間の捕食者としての
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
野生動物ではない。トラは人間の死後、様々な形で人間の身体から出てくる存在でもある。その一部は、
「魂のトラ」として祖先霊になり、他のトラは、生きた人間の魂を
らおうとする。パンデ(シャーマ
ン)は、そうした「魂のトラ」に供犠をおこない、治療儀礼で他のトラを追い払う。
また、トラは生きた人間の身体の中にも存在するとされる。心臓の鼓動は、心臓に住むトラによるも
のであり、しゃっくりはその「心臓のトラ」に掴まれたから起こる。また、「心臓のトラ」は小さな子
供には「早く成長するよう」、年寄りには「早く死ぬよう」働きかける。その「心臓のトラ」が、人間
の死後、魂の一部として出てくるといわれる。
このように、人間の身体の制御しがたい力(心臓の鼓動、しゃっくり、生死)の根源が、トラという
人間に対する捕食者の姿で表現されるのである。
人間の死後に魂は、時にこうしたトラの姿になるが、存命中の魂はしばしば虫の姿になる。虫は地を
う虫(シャン)と飛翔する虫(モオ)とに分類されるが、モオが人の口や鼻に入ると、「魂が戻って
きた」とされる。また、一部のハチ(アブ?)は、地下の世界のパンデの魂が地上の世界にやってきた
時の姿であるとされる。
太陽が沈む「地下世界」には、人間を病気にし、殺しもする様々な存在(日常に現れる動物、自然物、
人工物、祖先霊、ムランなども)がおり、それらに対してパンデは儀礼を実施し、人を病気にしないよ
う説得する。「地下世界」とは、人間にとっての出来事の原因や存在の起源の世界のように見える。ま
た、地下世界には、別の種類の人間もおり、地上の人間と違って、のどが腫れ、臭いのだという。地上
世界と地下世界とは、鏡の両面のように呼応しているように見えるが、身体=自然は異なっているので
ある(「多自然主義」)。このような地上と地下という複数の「自然」を繋ぐのが、両者のあいだを行き
来する魂であり、飛翔する虫であり、それらの眼差し=観点であるが、それは基本的に人間のものであ
る。
では、こうした複数の世界はなぜ必要とされるのだろうか。ここでは、人間の病い、死の原因といっ
た視覚的に確認することが難しい出来事を、視覚の外部にある世界(地下世界)の論理で解釈する、と
いう実践が確認できる。つまり、そうした解釈のためには、二つの世界は分かたれていなくてはならな
いし、だからこそ二つの世界のなかで、自然=身体は、別の姿を見せることになっていると考えられる
のである。
全体としてみると、チェパンの「視覚主義」は、動物間の身体の差異というより、弓矢猟という人間
の活動と結びついていること、動物と人間との身体的境界も明確化されていないことがわかる。また、
身体=自然の多様化は、生老病死など人間の存在に関わる出来事の解釈と結びついているように見受け
られ、Viveiros de Castro の議論、特に自然の複数化(「多自然主義」)や「観点主義」については、そ
うした出来事の解釈の具体的な事例と結びつけながら、再検討する必要があると考えられる。
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1A3-1
ヒンディー語における複数の所有構文の併存について
今村 泰也
麗澤大学大学院博士後期課程/国立国語研究所プロジェクト非常勤研究員
1. はじめに
ヒンディー語には英語の have に相当する動詞がなく、叙述所有(X has/owns Y)は、格/後置詞と
存在動詞 honā を用いて、
「X の近くに Y がある」
(所格構文)、
「X の Y がある」
(属格構文)、
「X に Y
がある」(与格構文)のように自動詞文で表される(次例(1)は所格構文の例)
。
(1) rameś=ke
Ramesh=GEN
pās
do
kāreṃ
haiṃ.
near
two
car.F.PL.NOM
be.PRS.3PL
‘Ramesh has two cars.’
(Kachru 1980: 122)
各構文の使用条件の概略は表 1 の通りであり、所有構文とそれが表す所有概念(所有の種類)は概
ね相補分布している(このうち、X ke pās Y honā「X の近くに Y がある」の用法は拡張している)。
所有概念
構文
具体的所有
1111111111
分離不可能所有
(例:本、お金、車)
抽象的所有
(例:身体部分、親族) (例:時間、権利、力)
X ke pās Y honā(所格構文)
+
一部の名詞は+
一部の名詞は+
X kā Y honā(属格構文)
-
+
-
X ko Y honā(与格構文)
-
-
+
表1
ヒンディー語の所有構文とそれが表す所有概念
世界の言語の所有構文を包括的に扱った Heine (1997) は、ある言語に二つ以上の所有構文があるこ
とは極めて普通のことであり、それらが競合することもあるが、一般的には新たな所有構文の発生に
伴い、既存の所有構文が次第に特定の用法、とりわけ抽象的所有に限られるようになると述べている
(p.109)
。また、分離不可能所有、抽象的所有を表す構文は古い可能性があると述べている(pp.232-233)。
本発表では、こうした類型論的な傾向に照らして、ヒンディー語における複数の所有構文の併存状
況は歴史的に重層化した結果であるという仮説を立て、インド・アーリア語の所有構文の変遷を示す。
2. 古期インド・アーリア語(OIA: 1500 BC-600 BC)の所有構文
古い段階のインド・アーリア語(ヴェーダ語、サンスクリット語)で所有は与格構文あるいは属格
構文で表され、動詞は as-「ある」、bhū-「なる、ある」、vidyate「ある」などが用いられた。次例(2)
は OIA の最古層の文献『リグ・ヴェーダ』(1200 BC 頃編纂)の一節で、与格構文が使われている。
(2) gambhīre
depth.N.SG.LOC
cid
bhavati
gādham
asmai.
even
be.PRS.P.3SG
ford.N.SG.NOM
3SG.DAT
‘even in deep water he has a ford.’
(Ṛgveda 6.24.8)
次例(3)はブラーフマナ文献(900 BC-600 BC)の用例で属格構文が使われている。
(3) manor
Manu.GEN
ha
vā
ṛṣabha
āsa.
EMPH
EMPH
bull.M.SG.NOM
be.PFV.P.3SG
(Śatapatha Brāhmaṇa 1.1.4.14)
‘Manu had a bull.’
サンスクリット語の与格の領域は特に属格によって強く侵食されていった(Taraporewala 1967
­ 22 ­
日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
quoted by Rosén 1989: 33)。したがって、サンスクリット語で所有が属格構文で表されることが多いと
いえども、与格構文がインド・アーリア語の所有構文の原型と考えられる(Bauer 2000: 174)。
3. 中期インド・アーリア語(MIA: 600 BC-1000 AD)における格の融合と後置詞の発達
プラークリット語(俗語)を代表するパーリ語では所有は以下のように表される。
(4) puttā=me
son.M.PL.NOM=1SG.DAT
na
atthi.
NEG
be.PRS.3SG
‘I have no sons.’
(Duroiselle 1997: 155)
パーリ語では格の区別が衰退し、与格と属格の形はほとんど常に同じになった。また、MIA の後期、
アパブランシャ語では格の融合が進み(OIA の[呼格を除く]7 格から 4 格へ)、代わりに後置詞が発
達した。例えば、pās-i ‘side, region of the ribs’ (< OIA pārśva) は近接(in the proximity/nearness of)を意
味するようになり、最終的には後置詞(at/to)に変化した(Bubenik 1998: 81-82)
。(5)は複合語 N-pāsi
の例、(6)は絶対形 pāsu(先行する名詞は属格をとる)の例である。
(5) gayau
go.PP
guru-pāsi.
teacher-side.LOC
‘He went to the side of the teacher. > He went to (the proximity of) the teacher.’
(Kumārapālapratibodha 101.1 [1195 AD])
(6) vasudevaho
Vasudeva.GEN
pāsu
gau.
proximity
go.PP
(Riṭṭhanemicariu 4.7.8 [8th century])
‘He went to (the proximity of) Vasudeva.’
以上のように、もともとは語彙的要素であった pās-i ‘side, region of the ribs’ は具体的な意味が希薄
になり、文法的要素に変化した(=文法化した)。
新期インド・アーリア語(NIA: 1000 AD-present)の一つであるヒンディー語では、X ke pās Y honā
「X の近くに Y がある」が具体的所有を表す構文になっている(上例(1))
。これは上記の pās-i の文法
化よりも一段と進んだ文法化であり、上例(5)-(6)より後の変化と考えられる。
4. まとめ
ヒンディー語における複数の所有構文の併存はインド・アーリア語の所有構文の変遷を反映し、重
層化したものと考えられる。すなわち、歴史的に与格構文が最も古く、次いで属格構文、所格構文が
現れた。ヒンディー語ではこれらの所有構文が所有概念によって使い分けられており、典型的な所有
(具体的所有)は新たに発生した所格構文で、分離不可能所有は属格構文で、非典型的な所有(抽象
的所有)は最も古い与格構文で表される。このような複数の所有構文の使い分けは類型論的な傾向に
も一致している。
主要参考文献
Bauer, Brigitte (2000) Archaic Syntax in Indo-European. Berlin & New York: Mouten de Gruyter.
Bubenik, Vit (1998) A Historical Syntax of Late Middle Indo-Aryan (Apabhraṃśa). Amsterdam & Philadelphia:
John Benjamins.
Heine, Bernd (1997) Possession: Cognitive sources, forces, and grammaticalization. Cambridge: Cambridge
University Press.
­ 23 ­
1A3-2
ビハーリー方言にみられる標準ヒンディー語の影響
―形態・統語的特徴に焦点をあてて―
Rajesh Kumar
Indian Institute of Technology, Patna
西岡 美樹
大阪大学
現代のマスメディアの発達によりことばの発信力が強まったため、インドの主要公用語である標準ヒン
ディー語もインド国内外で急速に普及しつつある。しかし、各地域で日常的に使用されているのはその地
域の話しことば、すなわち方言(dialects)である。これらが標準ヒンディー語との言語接触を起こし変容
していることは、想像に難くないであろう。一般的にこれを言語変化と呼ぶが、ヒンディー語使用地域の
最東端に位置するビハール州で話される代表的な方言ボージプリー(Bhojpuri)、マガヒー(Magahi)、マイテ
ィリー(Maithili)1でもさまざまな言語変化が生じつつある。
本発表では、任意のヒンディー語文をそれぞれの方言の母語話者2に表現してもらった例のうち、標準ヒ
ンディー語の影響と考えられる形態・統語的言語変化について観察し、分析を試みる。
一般的に目に見える主な言語変化としては(1)語彙面、(2)機能面の二つがある。
(1)語彙面の影響
語彙面での影響の例は枚挙にいとまがないが、以下に少し例を紹介する。
Hindi
akhbār
kām
pānī
pepar
saṛak
English
‘newspaper’
‘work’
‘water’
‘paper’
‘road’
Bhojpuri
pepar
kāj
pānī / jal
panna / kāgaz
rāstā
Magahi
pepar
kām / kāj
pānī / jal
kāgaz
rastā
Maithili
pepar
kām / kāj
pāin / jal(ə)
kāgaz
bāṭ
これらの使用語彙の中にはウルドゥー語、英語の語彙もみられるが、いずれもヒンディー語経由で流
入している。併記されている語彙は、ヒンディー語から流入してきたものと元々使用していた語彙が併存
していることを表わす。なお、pāin のように若干の音韻変化を伴う場合もある。
(2)機能面の影響
以下の標準ヒンディー語 (a)「あなたはこれらの本を読む必要がある。」に対し、該当の3方言で言い換
えたものがそれぞれ(a-1)、(a-2)、(a-3)である。
(a)
āp
You
[Bhojpuri]
(a-1) raūā
you.HON
[Magahi]
(a-2) apnā
you.HON
ke lie
for
ye
these
khātir
for
lāgi
for
kitābẽ
book.f.pl
ī
this
ī
this
kul
all (pl)
sab
all (pl)
paṛhnī
read.INF (f.sg/pl)
kitabiyā
book
kitabiyā
book
1
zarūrī
necessary
paḍhal
read.INF (PFV)
paḍhnā
read.INF
haĩ.
COP.PRS.pl
jarūrī
necessary
jarūri
necessary
ha.
AUX.PRS.sg
ha.
AUX.PRS.sg
現在では独立した language として扱われるが、ここでは Grierson (1883)の’Bihari language’の括りに倣い、ヒンディー語の
dialect のレベルで扱う。
2
主なインフォーマントは、ボージプリーは Arrah、マガヒーは Patna、マイティリーは Darbhanga の出身で、年齢は概ね 35
歳以下である。
­ 24 ­
日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
[Maithili]
(a-3) ahā̃k
you.HON
lel
for
ī
this
pothī
book
sab
all (pl)
paḍhnāī
read.INF
āvaśyak
necessary
aichi.
AUX.PRS.sg
まず「これらの本」に注目すると標準ヒンディー語がもつ「本」の複数形 kitābẽ を表わすために、(a-1)
では kul「すべて」、(a-2)と(a-3)では同義の sab という語彙を用いている。Cardona & Jain(2007)の The
Indo-Aryan Languages によると、例えばボージプリーおよびマガヒーの名詞で複数を表わす場合、接辞-an
を付加する型と、別の語彙(物には sab、人には log という数量詞を使用。kul については記述がない。)
を後置する迂言型がある。ただし、(a-1)、(a-2)については、本来の語順ではなく名詞の前に置かれている。
ヒンディー語の数量詞(同じ語彙の sab を含む)の前置の影響によるものと考えられる。
続く「読むこと」にあたる不定詞/動名詞3の部分については、マガヒーにはヒンディー語の不定詞/動
名詞である-nā 形が存在しない。マイティリーの-nāī 形も元々見られなかった形だが、現在ではよく使用
される。また、文末のヒンディー語のコピュラ hai/haĩ に相当するマイティリーの助動詞は、口語では
aich(i)(標準語は achi)だが、これをヒンディー語のコピュラで代替する例も少なからず観察される。
次は標準ヒンディー語(b)「人々は本を読み始めた。」をそれぞれの方言に言い換えたものである。
(b)
logō̃
people
ne
ERG
[Bhojpuri]
(b-1) sabhe-koi
all-some
[Magahi]
(b-2) adīmīyan
people
[Maithili]
(b-3) lok
people
kitābẽ
book.f.pl
kitabiyā
book
sab
all (pl)
sab
all (pl)
paṛhnī
read.INF (f.sg/pl)
paḍhe
read.INF (IPFV)
kitabiyā
book
pothī
book
ka
GEN
śurū
started
surū
started
paḍhe-lā
read.INF (NEUT) - for
adhyayan
reading
kī̃.
do.PST.f.pl
ka4
do
surū
started
kaināī
do.INF
dehalas.
give.PST
kailakai.
do.PST
prārambh
start
/
kar
do
delkai.
give.PST
kalaith.
do.PST
(b-1)、(b-2)の動詞形 dehalas および delkai もまた、元の語幹 da-がヒンディー語の語幹 de-に置き換わっ
ている例である。 (b-3)をみると、標準マイティリーは属格接辞-k/-ak が存在し本来なら pothīk になるとこ
ろだが、pothī ka のように属格接辞を用いるのではなく後置詞を伴った表現を使用している。これはヒン
ディー語の属格後置詞 kā からの類推によるものと考えられる。
結論として、標準ヒンディー語の影響により、語順の変化や、動詞の形態、格接辞から後置詞使用への
移行等の言語変化がビハーリー方言に生じつつあることを示す。
<参考文献>
Beams, John. A Comparative Grammar of the Modern Aryan languages of India : to wit, Hindi, Panjabi, Sindhi, Gujarati, Marathi, Oriya
and Bangali. Vol. 3. London: Trübner, 1879. 3 vols.
Grierson, George A. Seven Grammars of the Dialects and Subdialects of the Bihárí language, spoken in the province of Bihár, in the
eastern portion of the North-western Provinces, and in the northern portion of the Central Provinces. Delhi: Bharatiya
Publishing House, 1883.
"Maithili." n.d. Language Information Service (LIS) - India. Ed. Cetnral Institute of Indian Languages. Accessed 15 Aug, 2012.
<http://www.lisindia.net/Maithili/Maithili.html>.
Verma, Manidra K. "Bhojipuri." The Indo-Aryan Languages. Ed. George Cardona and Dhanesh Jain. Routledge, 2007. pp.515-537.
Verma, Sheela. "Magahi." The Indo-Aryan Languages. Ed. George Cardona and Dhanesh Jain. Routledge, 2007. pp.498-514.
Yadav, Ramawatar. "Maithili." The Indo-Aryan Languages. Ed. George Cardona and Dhanesh Jain. Routledge, 2007. pp.477-497.
3
4
言語記述者によって呼称が異なることもあるが、ここでは統一して不定詞の INF で表示した。
ka は kar が訛った形。
­ 25 ­
1A3-3
初期アパブランシャ語の推定について
山畑 倫志
北海道大学
本発表の目的は規範化される以前のアパブランシャ語の姿の解明である。アパブラン
シャ語(Apabhraṃśa)は紀元六世紀ごろから十七世紀頃までインド西部を中心に北イン
ドの各地で各種説話作品や宗教詩のために用いられた言語である。どのような経緯で文章
語となったかは未だ定かではないが、十二世紀のグジャラートのジャイナ教徒ヘーマチャ
ンドラ(Hemacandra)の諸著作によって一定程度の規範化がなされた。それまではアパ
ブランシャ語文献の間で同一作品の中においてさえ種々の言語特徴上の差異が見られる。
そのような差異の原因として地域的な特徴、すなわちより後代の近代諸語と関連づけ
る考え方もあるが、各地域の近代諸語と呼応する明確な特徴は認められない。また文献の
作成地の大部分がインド西部ということもあり、本来はインド西部の一言語であったと考
えられる。そうした場合、アパブランシャ語に含まれる差異を地域性とは別の形で説明す
る必要が出てくる。本発表ではそれを文章語としての定型化の過程の中で生じたものとと
らえ、その初期段階の様相を明らかにする。
ヘーマチャンドラはアパブランシャ語について文法、詩作法、語彙、韻律といった各
方面について著作を残し、それが規範となって広まっていった。だが彼の時代までにも詩
作のための参考書が種々作られている。そこで見られる諸規則は必ずしも実際の作品に適
合するものではなく、そのずれは伝承されてきた言語規則と実際に使用されている言語の
差 と み な し う る 。 Bhayani ( 1993 ) は ヘ ー マ チ ャ ン ド ラ の ア パ ブ ラ ン シ ャ 語 文 法 書
Śabdonuśāsana にそういった事例があることを指摘し、検討している。
Bhayani によるとヘーマチャンドラの文法規則の中にはアパブランシャ語文献一般に
合致しないだけではなく、彼自身が引用した詩節にもほぼ例がないものがある。母音間の
無声閉鎖音の有声化(8.4.396)、r の後続する複合子音の保存(8.4.398)などがそれに
あたる。これらの特徴はヘーマチャンドラの著作にはほとんど用例がないが、他の作品か
らいくつかの用例が散見される。Rudraṭa の Kāvyālaṃkāra に対する Namisādhu(十一
世 紀 ) の 注 釈 や Bhoja ( 十 一 世 紀 ) の Śṛṅgālaprakāśa と い っ た 詩 論 書 、 Svayambhū
( 十 世 紀 以 前 ) の
Svayambhucchandas
や
Vṛttajātisamuccaya などの韻律書である。
­ 26 ­
Virahāṅka ( Svayambhū
以 前 ) の
日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
これらの用例は著作の性質上韻文のものであるが、インドの古典文献に用いられる韻
律は時代によって変化するため作成時期の推定に資するばあいがある。アパブランシャ語
の時代には従来の音節数に基づく韻律からモーラ数を基礎にした韻律への移行が大きく進み、
脚韻の多用などそれ以前には見られなかった特徴も出現する。このような韻律の変化は徐々
に進んでいき、ヘーマチャンドラに至ってアパブランシャ語で用いられる韻律がほぼ規定さ
れ る よ う に な る 。 上述の用例はすべてマートラー律(Mātrā)あるいはラッダー律(Raḍḍā)という韻律
で書かれたもの、もしくはその一部とみなしうる。アパブランシャ語文献で用いられる韻
律は多種多様であるが、用例の韻律の偏りからこの二つの韻律を比較的古い韻律とみなす
ことが可能である。Kāvyālaṃkāra 1.30 においてガーター律(Gāthā)、シュローカ律
(Śloka)、マートラー律が対比されており、これはそれぞれプラークリット諸語、サン
スクリット語、アパブランシャ語の代表的な韻律をあげたものと思われ、マートラー律が
アパブランシャ語でしばしば用いられたことを示している。
アパブランシャ語文学の代表的なジャンルであるジャイナ教行伝説話はマートラー律
やラッダー律だけにとどまらない様々な韻律を用いるサンディバンダ(Sandhibandha)
と い う 形 式 が 主 流 で あ る 。 代 表 的 な サ ン デ ィ バ ン ダ 形 式 の 作 品 で あ る Paumacariu は
Svayambhū が著しており、その時代にはすでに初期アパブランシャ語を用いることは少
なくなっていたと考えられる。しかし先人の著作を参照して記述する詩論、韻律、文法な
どの論書類には初期の特徴が残存し、サンディバンダが確立する以前のアパブランシャ語
を伝えているものと思われる。
ただ、現存する文献が徐々に成立していった可能性もあるため、マートラー律やラッ
ダー律の詩節について内容と言語の両面でより古い特徴を有していないか調査する必要は
あるだろう。
Bhayani の述べるように初期のアパブランシャ語がプラークリット諸語の一つシュー
ラセーナ語(Śaurasenī)から影響を受け、後代に至って同じくプラークリット語のマハ
ラーラーシュトラ語(Mahārāṣṭrī)の影響が大きくなったとの仮説は未だ確言すること
はできない。だが、アパブランシャ語で書かれたジャイナ教説話が十二世紀以降盛んにな
っているグジャラート語文学のラーサなどに影響を与えていることを考慮すると、後代に
おいてはインド西部での文章語としての性格が強かったと言えるであろう。
参考文献
Bhayani,
Harivallabh
Cunilal.
1993.
Indologische Studien. vol.7. pp.1-7.
­ 27 ­
"On
Early
Apabhraṃśa".
Berliner
1A3-4
ブータン王国 の East Bo dish 諸語の系統と分 類について
西田文信
秋田大学国際交流センター
1. ブータン諸語について
Linguistic Survey of Bhutan(van Driem 1991)の出版以前はブータン王国の諸言語
についてはまとまった記述が皆無であった。現在、ブータン王国では 20 言語が分布して
いる。Van Driem(2001)によればブータンの諸言語は以下のように分類される:
・Central Bodish : Dzongkha, Cho -ca-nga-ca-kha, Lakha, Brokpa,
Tibetan, Brokkat
・East Bodish : Kheng, Bumthang, Dzala, Kurtöp , Mangdebi-kha, Chali,
Black Mountain, Dakpa
・Other Tibeto-Burman Languages: Tshangla, Lhokpu, Gongduk, L epcha
・Indo-Aryan Language: Nepali
・Indo-Germanic Language: English
ブータン諸語の言語分布及び話者人口の一覧は以下の如くである:
2.East Bodish 諸語について
本稿で系統分析する East Bodish 諸語は Shafer (1954) において初めて導入された用
語であり、古典チベット語と大いに関係があると推定されてきた言語群である。 インドの
アルチャーナルプラデーシュ州で話されている Tawang 語もこの語群に含まれる。
本発表の目的はブータン王国で話されている East Bodish 諸語の系統を、音韻変化の
データを根拠として再構築することにある。従来の分類は言語以外の要因を基にしたもの、
­ 28 ­
日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
根拠が不明確なもの、乃至は僅かな言語特徴により分類したものが提示されているのみで
ある。本稿では、系統分類に関して、複数の合流変化を証拠として一定の手続きを施した
結果を分析する。発表者自ら収集した語彙データに依拠 2 つの方法論を用いて得られた
言語間の親疎関係を報告する。
2. 最節約原理(Maximum Parsimony Principle )に基づく系統分析
本発表では、先ず、音韻変化のデータを証拠として再構築することを目的とし、複数
の合流変化を証拠とし て最節約原理(Maximum Parsimony Principle )に基づき系統を
分析した結果を提示する。先ず、合流変化を語彙のデータから抽出し、次に最小の単系統
群を設定し、この仮定に反する innovation を除外した。
3.語彙比較による系統分析
次に言語間の語彙比較を行い語彙の一致率を算出した結果を報告する。 East Bosidh 諸
語にとって基礎的と考えられる 200 語彙項目を指定し、上記 8 言語について当該単語を
リストアップし、それらを比較することで諸語間の親疎関係を推定した。高い一致率を示
す二言語は分岐が近いとする考え方で比較を試みた。 一致率の算出は音韻対応に合致した
類似であるかどうかという基準で行った。
4.East Bodish 諸語の系統分類
以上 2 つの方法論によって得られた系統分類の結果を図示すると以下の如くになる:
今後は、個別言語の音韻史をより解明すること及び語彙の示す歴史的情報を更に活用す
ることで、系統分類の精度を上げていくことが課題となる。
参考文献
van Driem, George. 1991. Report on the first linguistic survey of Bhutan . Thimphu:
Royal Government of Bhutan.
van Driem, George. 2001. Languages of the Himalayas . Leiden: Brill.
西田文信. 2009.「マンデビ語初期調査報告」『人文研究』38: 63-74.
Shafer, Robert. 1954. “The linguistic position of Dwags.” Oriens, Zeitschrift der
Internationalen Gesellschraft für Orientforschung 7: 348-356.
­ 29 ­
1A3-5
ネパールにおける少数民族言語識字教育の実践
―J 村におけるタマン語話者の日常実践から見えるもの―
安念真衣子
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程
[email protected]
1.はじめに
本発表では、タマン語識字教育を事例として、ネパールにおける少数民族言語識字教育の実態につい
て報告する。
筆者の調査地域では 2010 年から 2012 年にかけてタマン語識字教室が開かれた。現在では、
教室の開催に関わった NGO から、9 か月間のプログラムを終えた「成功例」として語られており、一
方、J 村の人々からも、タマン語識字教室は「成功例」として語られることがある。それぞれ何をもっ
て「成功」とされているのだろうか。本発表では、少数民族言語識字教育が行われる地域的文脈を把握
し、そうした活動が具体的にどのように日常生活に組み込まれているのか、そして立場の異なる人々が
その実践にどのような目的や意味を付与しているのか検討する。
ネパールの公用語はインド・アーリア語族のネパール語である。タマン語はチベット・ビルマ語族の
言語であり、多言語状況にあるネパールの中で、約 100 万の話者がいるとされ、人口の 5%程度を占め
る。ネパール国内で使われるチベット・ビルマ語族の言語の中では、最も話者数が多いとされる。
これまでに識字教育を論じた研究を取り上げると、例えば、Robinson-Pant[2000]や Deyo[2008]は、ネ
パールでの調査において、政策立案者、フィールドワーカー、参加者といった、識字教育に関わる人々
の間の識字教室に対する考え方の相違に着目した。こうした研究は、リテラシー観の多様性という観点
が強調されることになったが、一方でそれは両者が相容れない存在として描かれるという問題点を含む
ものでもあった。Trudell and Klass[2010]は、識字教育において学習の対象となる言語に注目した。そし
て、公用語と異なる言語の学習が集団の団結や連帯感をもたらす為に行われると指摘する。Trudell and
Klass[2010]による、識字教育の運営者側の視点からの分析に基づく研究からは、住民や学習者の見方を
踏まえて一考する必要があると考えられる。公用語習得を目標とする識字教育とは、対象となる言語の
社会的位置付けが異なり、また活動の担い手の社会的立場が異なる識字教育を、人々はどのように捉え
ているのだろうか。そこで本発表では、タマン語識字教育を取り上げ、住民や学習者、推進する立場に
ある NGO のスタッフ等に対する聞き取り調査をもとに、人々の日常生活におけるタマン語識字教室の
実態を検討する。なお、識字教室に対する語りや識字教室が執り行われる様相については、発表者が、
2010~1012 年に行った約 5 か月間の現地調査をもとに発表する。
2.タマン語識字教育をめぐる歴史的背景
ネパールにおける識字教育は、1950 年の民主化以降行われてきた。国民国家を構築する過程において、
教育制度の拡充が課題となり、その一つの取り組みとして識字教育が取り上げられたのである。パンチ
ャーヤット期のこうした取り組みは、一部の人による「特権としての教育」から、国民が享受すべき「権
利としての教育」へといった一面を持つ。一方、そこでは公用語であるネパール語の読み書きを習得す
ることが目的とされたため、教育を通してネパール語使用が強化される過程でもあった。そのため、こ
­ 30 ­
日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
うした言語政策に対して反発する動きも生じることにつながった。そして、1990 年に、憲法上、ネパー
ル語以外の言語が公に認められるに至ると、タマン語識字教育をはじめとして、ネパール語以外の言語
を用いた教育が盛んに行われるようになってきた。そこには、ネパール語の使用を強制する言語政策へ
の反発、また国際社会で高まった先住民運動を受けて、ネパール国内でも民族運動団体の活動が活発化
したこと、そして憲法において諸言語への言及がなされたことで、それぞれの言語の使用・権利を主張
しやすくなったことといった状況があったと考えられる。
タマン語識字教育に最も早くから取り組んできた団体のひとつにネパール・タマン人協会が挙げられ
る。この団体は、1956 年に結成し、
「タマン語、文字、芸術、宗教、文化の保存、尊重、促進、発展」
を目的に掲げてきた。パンチャーヤット期には活動を差し止められたが、1988 年に再結成し、全国的に
活動を続けている。タマン語識字教育用の教科書の発行や、現在では、識字教育のみならず初等教育用
のタマン語教科書を作成するなどの活動を行っている。
3.J 村におけるタマン語識字教室
J 村のタマン語識字教育のプログラムは、東タマン言語協会によって企画されたものである。東タマ
ン言語協会は、2001 年に活動を開始し、2007 年にネパールの NGO として登録された団体であり、教科
書や小冊子の出版活動や、識字教育の教師を育成するワークショップ等の活動を行っている。J 村での
識字教室は、2010 年に住民と協働的に開始され、2012 年 1 月までの乾季に計 9 か月のプログラムが行
われた。女性を中心に 4 つの教室で各 15 人程度が登録され、土曜日を除いて毎日 2 時間の教室が開か
れた。教師の役割を担うのは村の住民で、東タマン言語協会の開催するワークショップに参加した 10
代の女性 3 人と 30 代の男性である。教室では、談笑や、教科書の暗唱や復唱が行われる。識字教室の
開催に当たっては、東タマン言語協会から、経済的・物質的支援が行われた。
4.教室についての語り
先に述べたように、J 村での教室については、東タマン言語協会から、9 か月間のプログラムを終えた
「成功例」として語られている。一方、J 村の人々からも、タマン語識字教室は「成功例」として語ら
れることがある。それぞれ何をもって「成功」とされているのだろうか。東タマン言語協会のスタッフ、
J 村住民及び識字教室に通う女性たちの、日常実践に注目して地域的文脈を把握し、各々の識字教室に
対する語りを、誰の立場から、どのような関心に基づく言葉・内容なのかを考えつつ、立場の異なる人々
が、自らの生活の中で識字教室をどのように捉えているのか考察していきたい。
参考文献
Deyo. Lisa. 2008. Exploring the Concept of Learning: A Case Study of the Women’s Economic Empowerment and
Literacy Program in Nepal. Germany: VDM Verlag Dr. Müller Aktiengesellschaft.
Robinson-Pant, Anna. 2000. Why Eat Cucumbers at the Time of Dying?: Women’s Literacy and Development in
Nepal. Hamburg: UNESCO Institute for Education.
Trudell, Barbara and Anthony R. Klass. 2010. Distinction, Integration and Identity: Motivations for Local
Language Literacy in Senegalese Communities, International Journal of Educational Development 30:
121-129.
­ 31 ­
1A4-1
インドを聴く・見る・演じる人々
— 日 本 に お け る 異 文 化 音 楽 受 容 史 の 視 点 か ら — 小 日 向 英 俊
東京音楽大学
本ビデオ報告では、南アジア音楽(以後「インド音楽」、舞踊含む)の日本における
受容史を、明治期から現在までを対象に音と映像を活用して報告する。
日本とインド音楽の接触を通時的に俯瞰すると、1.想像(奈良時代〜)、2.人的交流
( 幕 末 ・ 明 治 期 ) 、 3.学 術 対 象 ( 第 二 次 世 界 大 戦 前 ・ 後 〜 ) 、 4.見 る ・ 聴 く ( 1960-70
年)、5.演じる(1980 年代~)、6.深化と変容(1990 年〜)の各時代となるだろう。
インド音楽との接触は、インド僧ボーディセーナ(菩提僊那)による東大寺大仏開眼
供養会(752[天平勝宝 4]年 4 月)でのインド式声明に遡ることができる1。供養会では、
インド音楽の他、中国、朝鮮半島地域の音楽も鳴り響いたとされる。しかしこの例外を除
き、日本人が南アジア人の演奏によるインド音楽を直接に見聞きすることは明治期までほ
とんどなかったと考えられる。「天竺」の音楽は、長く想像上の音楽であった。
時を経て慶応年間(1865-1868)には、イギリス軍の一員としてごく短期間、現パーキ
スターンのバローチスターン州出身のインド兵が開港後横浜に駐屯した2。生まれ故郷の
歌を仲間内で口ずさむことはあったに違いないが、現在のイギリス館周辺地区に駐屯した
彼らの音楽は一部を除き日本人に知られる機会はなかったと思われる。
1 8 7 7 ( 明 治 1 0 ) 年 に は 、 カ ル カ ッ タ ( 現 コ ル カ タ ) の 音 楽 学 者 S . M . タ ゴ ー ル が 、
インド音楽を世界に知らしめる活動の一環として、日本の皇室にもインド楽器 3 点とイ
ンド音楽書を寄贈した3。寄贈楽器は、高度な装飾を施し美的価値の高いものではあった
が、日本人の目は楽しませたが耳を楽しませることはなかった。
しかしその後に始まるインド人商人の横浜居住が、実際に鳴り響くインド音楽を日本
の地にもたらした可能性がある。明治 30 年代(1897-1906)当時横浜で増加した主に西
インド出身のパールスィーとシンディー商人たちである。1903(明治 36)年には、少な
くとも 16 軒のインド人商会が横浜に存在した4。次第に数を増すインド商人コミュニテ
ィーは、1923(大正 12)年の関東大震災時の外国人商人に対する日本人からの援助の返
礼として 1939(昭和 14)年にインド水塔を贈った。ホスト社会横浜住民とインド商人間
の緊密な共存関係を示している。宗教音楽や季節の音楽など、インド商人の家庭生活に何
らかの音楽が存在したと考えることは自然だが、横浜住人とどのような音楽上の交流を持
ったかについては、さらなる調査が必要である。
ベンガル出身の文化人ロビンドロナート・タクル(1861-1941)は 1916(明治 49)年
に来日し、タゴールソングを披露した。タゴールソングの愛好者は、現在も日本に存在す
­ 32 ­
日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
る。
第 二 次 世 界 大 戦 前 か ら 開 始 さ れ た イ ン ド 音 楽 の 学 術 研 究 は 、 音 楽 学 者 小 泉 文 夫 の イ
ンド留学(1957 年)などを経て盛んになる。研究者が直接インドに赴き、その音楽実践
を修得する流れが始まった。また放送メディアによる、インド音楽を含めた民族音楽番組
も開始された。これにより、いわゆる「民族音楽」への一般民衆における理解につながっ
た。その一方、大きな影響を与えた欧米ポピュラー音楽を通じて、インド音楽は間接的に
受容された。英国のロックバンド The Beatles(1962-1970)などを通じたインド音楽受
容である。この時期のインド音楽受容には偏りがあり、聴かれ方にも時代の文化背景が影
響した。「インド音楽=スィタール」という言説が生み出され、インド音楽の精神性が強
調されつつ、サイケデリックアートの源泉としても機能した。
もう一つの潮流は、民主音楽連盟による文化交流事業である。1970 年代より会員を募
った音楽イベントには、スリランカなども含めた南アジア舞踊団体が招聘され、その活動
は 1980 年代まで継続した。これらは、その後の南アジア人演奏家の日本招聘のきっかけ
としても機能した。
1 9 9 0 年 代 以 後 、 イ ン ド 音 楽 受 容 は さ ら に 大 き な 広 が り を 見 せ た 。 イ ン ド 音 楽 は 「 見
る・聴くもの」から「演じるもの」へと変わった。インド各地の芸術拠点に赴き、インド
音楽を学び帰国する人々が増加した。彼らの演奏の場は相対的に限られたが、世界各地の
非南アジア系インド音楽実践家とのつながりも見せ始めている。この時期に普及したイン
ターネットが、このような連帯を促進したと考えられる。
異 文 化 の 受 容 に 、 文 化 変 容 は 避 け ら れ な い 。 現 在 ま で 日 本 に 受 容 さ れ た イ ン ド 音 楽
は、その種類の拡大とともに様々な変容が観察できる。音楽・社会環境の影響を受けたの
である。これらの受容史を時代変遷とともに、公的受容、私的受容、ネットワーク的受容
の観点から整理し映像化する。
1
菩提僊那来日と大仏開眼供養会については、後代の史書・説話集・歌論・軍記物語など
において、大仏造営費の勧進に起用された僧行基と菩提僊那の神秘性や式典の晴れがまし
さを讃える意図により、神秘化した物語が流布している。北村, 昌幸. 2006. 「大仏供養
導師説話の変容 : 『太平記』における引用意図をめぐって」『日本文藝研究』 58 (1)
(June 10): 1-17、および、義江, 彰夫. 2003.「菩提僊那・行基に関する史実と説話化」
『大倉山論集』48:21-62、を参照。
2
水 彩 画 「 第 2 0 連 帯 ス ミ ス 中 尉 が 描 い た 幕 末 の 横 浜 ( S m i t h P a p e r s ) 」 ( 横 浜 開 港 資 料 館
保管)には、スィク教徒と思われるインド兵が描かれている。横浜対外関係史研究会など.
1 9 9 9 . 『 横 浜 英 仏 駐 屯 軍 と 外 国 人 居 留 地 』 東 京 、 を 参 照 。 3
寄 贈 楽 器 は 現 在 、 国 立 東 京 博 物 館 所 蔵 。 塚 原 , 康 子 . 2 0 1 0 . 「 明 治 1 0 年 S . M . タ ゴ ー ル
が日本に寄贈したインド楽器と音楽書」『音の万華鏡 : 音楽学論叢』(藤井知昭など
編 ) 東 京 : 3 0 5 - 3 2 6 、 を 参 照 。 4
小 口 , 悦 子 な ど . 2 0 0 0 . 『 儀 太 郎 の シ ル ク ロ ー ド : 明 治 ・ 大 正 期 の 絹 織 物 輸 出 商 ・ 澤 田
儀 太 郎 の 生 涯 』 . 大 阪 : 7 6 - 8 1 、 を 参 照 。 ­ 33 ­
1A4-2
「オーラルヒス トリーによる現 代インド映画産 業の研究」
深尾 淳一
映画専門大学院大学准教授([email protected])
本発表は、科学研究費補助金基盤研究(B)「オーラルヒストリーによる現代映画制作
の研究」(課題番号:19320100)により行なわれたインドの映画関係者に対するインタ
ビュー調査に基づくものである。
インド映画産業の研究においては、統計資料などのデータが十全でないこともあり、
オーラルヒストリーはかなり有効な手法である。本研究の特色は、監督や俳優といった、
個々の映画作品の実際の制作に従事する人々よりも、その全体的な統括の立場にあるプロ
デューサーを中心的なオーラルヒストリーの対象としている点にある。それによって、産
業としての映画という側面により焦点を合わせることができ、また、そのインタビューを
映像記録として残すことで、資料としての価値を高め、将来の多様な用途での活用にも考
慮を払っている。
インタビューは、ムンバイーとチェンナイにて、2008 年 9 月 23 日~10 月 1 日にかけ
て行なわれた。インタビュー対象者の経歴を以下に記し、本発表の背景の理解に供したい。
(1)リテーシュ=シドワーニー(Ritesh Sidhwani)
1971 年生まれ。28 歳のとき、友人のファルハーン=アクタルとともに、エクセル=エ
ンタテイメント社を設立する。1999 年の第一作『Dil Chahta Hai』は、中流家庭の若者
たちの悩みと成長をヴィヴィッドに描き、国家映画賞最優秀ヒンディー語映画賞など、
数々の賞を受賞した。その他、『DON ドン/過去を消された男』( Don、2006 年)、
『Rock On!!』(2008 年)、『Don2』(2011 年)などの作品を製作。現在最も活躍の
目覚しい若手映画プロデューサーの一人であ る。
(2)ペヘラージュ=ニハラーニー(Pehraj Nihalani)
2008 年まで 16 年間にわたり、映画・テレビ番組製作社協会 の会長を務めたヒンディ
ー語映画界の重鎮。家業は繊維商であったが、24 歳のときに自ら映画会社を設立する。
1986 年の『Ilzaam』で主役にゴーヴィンダーを起用し、彼を一躍人気スターの座に押し
上 げ た 。 他 に 、 ゴ ー ヴ ィ ン ダ ー 主 演 の 『 Shola aur Shabnam 』 ( 1992 年 ) 、
『Annkhen』(1993 年)など、数々のヒット作を手がけた。
(3)ラヴィ=グプタ(Ravi Gupta)
IIT ムンバイー校修士課程、私立経営学大学院 MBA 課程を修了し、国立映画振興公社
取締役、国立映画テレビ学院運営評議員などを歴任し、現在はヒンディー語映画最大手の
映画会社ムクタ=アーツ社 C.E.O.のかたわら、2006 年に設立されたホイッスリング=ウ
ッズ国際映画学院の取締役を務める。
­ 34 ­
日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
(4)ラームクマール=ガネーシャン(Ramkumar Ganesan)
父親はタミル映画界の誇る名優シヴァージ=ガネーシャンであり、弟のプラブとともに、
シヴァージ=プロダクションズ社の共同経営者を務める。同社は、 1956 年にシヴァージ=
ガネーシャンとその弟の V.C.シャンムハムにより設立された。ラームクマール自身は、
大学商学部を卒業した後、アメリカに留学して定住することを望んでいたが、叔父である
シャンムハムに請われ、いわば家業を引き継ぐかたちで、会社に加わることになる。
2005 年 に 製 作 し た 『 チ ャ ン ド ラ ム キ 踊 る ! ア メ リ カ 帰 り の ゴ ー ス ト バ ス タ ー 』
(Chandramukhi)は 800 日を越える連続上映記録を達成した。
(5)S.P.ムットゥラーマン(S.P. Muthuraman)
1935 年タミルナードゥ州カーライクディ生まれ。これまでに約 75 本の作品を手がけ
たベテラン監督である。父親の伝手で、 同郷の A.V.メイヤッパンに出会い、AVM プロ
ダクションズ社の編集部で下積みを経験。助監督を経て、1973 年に監督デビュー。AVM
社は、1946 年に設立された現存するインド最古参の映画会社であ り、創業者のメイヤッ
パンは、カーライクディを本拠とする商業カースト、チェッティヤールの出身。AVM 社
の製作した映画作品は、タミル語のものを中心に約 170 本近くにのぼる。
(6)L.スレーシュ(L. Suresh)
1946 年チェンナイ生まれ。父親のあとを継ぎ、映画配給会社アーナンダ =ピクチャー
ズ社を経営。同社は現存する映画配給会社としてはインド最古参の一つである。 2007 年
の『Billa 』など映画製作にも乗り出してい る。インド映画連盟副 会長、南インド映画商
業会議所名誉幹事など、さまざまな要職にも携わっている。
本研究により、以下のようなことが明らかとなった。
(1)1998 年、当時の NDA 政権が映画産業の産業としての地位を認め、その後、そ
の決定に対応するかたちで法的に映画制作への融資が可能となった。経済自由化の流れと
あいまって、銀行や企業など正規のルートでの資金調達が容易となり、映画産業の「企業
化」が進展した。
(2)かつては、現場で年長者に師事し、直接経験を積むことが映画関係者として身
を立てるための一般的な方法であったが、「企業化」の進展とともに、より体系的なビジ
ネスとしての映画に関する知識・技能の習得が求められるようになり、そのような志向性
を持つ映画教育機関が設立されるようになった。
(3)テレビコンテンツの充実、特に連続メロドラマは、女性層を映画から引き離し、
その結果、映画には若者向けの主題を持つ作品が以前より目立つようになってきた。中流
家庭の若者たちの等身大の姿を描いた『Dil Chahta Hai』や『Rock On!!』などの作品の
出現はその傾向を如実に表している。
­ 35 ­
10 月 6 日(土)
15:15∼17:15
自由論題 IV
自由論題 V
テーマ別セッション I
近現代インドにおける食文化とアイデンティティ
ビデオ報告
1B1-1
舞台裏の歌い手 たち
―チベット難民 ポップミュージ シャン を事例に
山本達也
日本学術振興会特別研究員(PD)
本発表は、音楽に携わる人びとの「舞台裏」の活動に着目し、その活動がもつ局所性と
グローバルな広がりの双方を描きだすことを目的とする。具体的には、ネパール及びイン
ドで活動する現代的チベット音楽に携わるミュージシャン(シンガー)たちの活動を通し
て、CD の作成および公演機会の獲得という、彼らの創作活動において重要な実践がロー
カルなネットワークとグローバルなネットワークの双方によって支えられていることを例
証したい。本発表が提示する事例は同時に、チベタン・ディアスポラの現状を示す一つの
見取り図ともなるものである。
チベット音楽に関する先行研究が主に取り組んできたのは、表象にまつわる議論であっ
た。しかし、これら諸研究はミュージシャンが具体的な状況においてどのような活動をお
こない、音楽を制作するステップを歩み、その結果、表象に至るか、という点に関して 十
分に考察してきたとは言い難い。その一方、インドにおけるミュージシャンの生業に着目
する研究は十分な厚みをもっている。本発表は、生業としての音楽家という、インドでの
音楽研究の議論に連なるものである。
チベット難民社会における現代的な音楽の歴史は 70 年代初頭に細々とはじまり、90
年代初頭に最初の盛りあがりを見せる。現在、チベット難民社会に見られる現代的チベッ
ト音楽もこの盛りあがりとは無縁ではない。だが、現在の潮流を形づくっているのは 96
年のツェリン・ギュルメイによる「我が高僧(nga’i tsawa’i lama)」の登場である。
この曲のヒットにより、90 年代初頭までのチベット音楽とは異なったスタイルが主流と
なった。また、現在、多くのミュージシャンがネパールにレコーディングに行っているが、
そのレコーディング手法はツェリン・ギュルメイと、彼の友人であるネワール人アレンジ
ャーが確立したものである。このように、この曲のヒットは難民社会における聴衆が望む
音楽と、ミュージシャンがつくる音楽の双方に大きな影響を与えた。
同時に、このヒットは、現在にまで至る難民社会の抱える問題をも白日の下に晒すこと
になった。それは、違法コピーによる海賊盤の普及が引き起こすオリジナルの価値の低下
であり、CD の売り上げによる現金獲得の困難という問題であった。借金をして CD をつ
くり、売上でその補填をする、もしくは次のアルバムのための元手にする、という計画は
きわめて困難であり、アルバム一枚を発表して姿を消していったアーティストも多い。
こうした状況の中、副業で生計を立てながら音楽活動を継続していくミュージシャンも
­ 38 ­
日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
いる一方で、成功する(している)ミュージシャンの多くは音楽だけで食べていっている。
2008 年のチベットでの蜂起以降、服喪の続く難民社会において、公演機会は きわめて限
定されたものであり、成功するミュージシャン、成功しないミュージシャンの両者をめぐ
る状況に根本的な違いはない。それでは、何がこの両者を分かつのであろうか。 本発表が
特に着目するのが、ミュージシャンたちの舞台裏での活動である。 ミュージシャンが活動
しているのは、CD 制作や公演といった華々しい所謂「表舞台」だけではない。むしろ、
舞台裏での彼らの活動こそが、CD 制作費や、生計を立てるうえで重要な公演機会の獲得
にとって大きな役割を果たしており、ミュージシャンという生業の継続に重要な意味をも
っているのである。そして、舞台裏の活動を積極的におこなわないミュージシャンは、現
状、難民社会のなかで表舞台の活動を継続していくのは困難である。
それでは、ミュージシャンが舞台裏でおこなっている活動とはどんなものなのか。本発
表では、ローカルなネットワークによる活動とグローバルなネットワークによる活動の二
つに関する事例を特に挙げることにするが、この両者は容易に切断しえず密接に関わって
いる。まず、ローカルなネットワークによって展開される活動の一例として、祝い事の席
での演奏活動が挙げられる。ミュージシャンたちは地域で開催される結婚式や誕生日会な
どで演奏し、歌を歌うことで生計を立てていく。ここでは伝統的な楽曲と共に彼ら自身が
手掛けた楽曲も歌われるため、格好のプロモーションの機会にもなる。こうした機会を得
るためにミュージシャンたちはお互いにネットワークを形成し、時には他のミュージシャ
ンたちと共同で演奏することで、収入を折半する。
上述のようなローカルな活動に加え、グローバルなネットワークを生かした活動も彼ら
にとってきわめて重要なものである。具体的には、海外の親族や知人に CD を送付して販
売してもらうという、一見地味な活動が挙げられる。しかし、ネパールやインドでは一枚
当たり 150 ルピーから 250 ルピーにすぎない彼らの CD は、海外在住のチベット人に対
して売られた場合は 10 ドルから 15 ドルになる。この販売によって得られる利益は相当
な額に昇り、彼らの収入と次作の資金獲得においてかなりの重要な位置を占めるのである。
そして、この地道な活動はまた、のちに海外公演の機会を獲得するうえで大きな意味をも
つことにもなる。
このように、CD や公演での露出といった派手な活動からだけでは見えない実践が舞台
裏ではおこなわれている。ミュージシャンたちの生活と創作活動を可能にしているのはむ
しろこれら舞台裏での活動なのである。そして、それら舞台裏の活動はローカルなネット
ワークだけではなく、グローバルなネットワークにおいても展開されている。小規模のマ
ーケットに追い打ちをかけるかのような違法行為によって妨害され、継続的な活動が困難
なチベット難民ミュージシャンの活動を支えているのは、まさにディアスポラ的な状況こ
そが可能にしたローカルなネットワークとグローバルなネットワークの絡み合いなのであ
る。
­ 39 ­
1B1-2
インド音楽の社 会的世界とその 変容
― Who's Who of Indian Musicians 1968 & 1984 の定量的把握―
田森 雅一
東京大学大学院総合文化研究科
これまで南アジアの音楽や芸能、特にインド音楽に関して数多くの著作・論文が刊行さ
れてきた。しかしながら、インド古典音楽の社会的世界をマクロに把握するための定量的
資料となるとなかなか見当たらない。そこで、インド政府の教育研究機関であるサンギー
ト・ナータク・アカデミーSangeet Natak Akademi から刊行された、音楽家名鑑とも言
える Who's Who of Indian Musicians(以下 WWIM)』をテキストとして音楽家の諸属
性と社会関係に関するデータ(集計結果)の提供と分析を行い、マクロ的視点から北イン
ド古典音楽の社会的世界の探求を試みる。
インドの古典音楽は、その歴史的成立過程と音楽的特徴の相違から、南インド古典音楽
と北イン ド古典 音楽 に分類さ れる。 現地 において は、そ れぞ れカルナ ータカ Karnataka
音楽とヒンドゥスターニーHindustani 音楽と呼ばれる。特に後者は、13 世紀のデリー諸
王朝期からイスラーム音楽の影響を受け、主に宮廷で発展した音楽であり、実際、ムガル
帝国期の宮廷楽師の多くはイスラーム教徒であった(ヒンドゥーからの改宗者を含む)。
一方、インド古来の伝統音楽はガーンダルヴァ gāndharva とガーナ gāna に二分され
る[Srivastava1980] 。 前者 は い わゆ る 音 楽 主体 で 、 ラーガ rāga( 旋 律 )、 タ ーラ tāla
(拍節)、パダ pada(歌詞)の順に重視されるのに対して、後者は言葉・歌詞が主体と
なるいわゆる歌謡である。同様な観点から今日におけるインド音楽の分類を行ったクレー
シーに従えば、北インドにおけるラーガ主体の古典声楽様式はドゥルパド dhurpad やハ
ヤール khyāl などが、歌詞主体の準古典声楽様式にはトゥムリーṭhumrī やカッワーリー
qawwalī などが含まれる [Qureshi1986]。これらの分類は声楽を中心としたものである
が、シタールやサロードなどの旋律を中心とする器楽演奏も ラーガを主体とする古典様式
を基本として発展したものである。このようなラーガ演奏上の知識と技術はすべて師匠か
ら弟子への口承および身体技法としての暗黙知として伝承され、それによって音楽と音楽
家の正統性が担保されてきた。そのためか、 音楽家自身が様々な形式の談話において強調
するのは、個人の演奏技術や熟練度あるいは革新性といったことよりも、むしろ自らが所
属するガラーナーgharānā (音楽的・系譜的・歴史的に異なる「音楽の社会的単位」)の
伝統や師匠との関係性である。
注目すべきは、ガラーナーはヒンドゥスターニー音楽の世界に特有なもので、カルナー
タカ音楽にはガラーナーという用語・概念を用いて自分たちを位置づける集団は存在しな
いということである。ガラーナーについては、20 世紀後半以降のインド音楽に対する世
­ 40 ­
日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
界的な関心の高まりとともに、音楽美学や民族音楽学からの研究がなされるようになり
[e.g.Deshpande1973;Kippen1988] 、 音 楽 家 を 取 り 巻 く 社 会 環 境 の 変 化 と 彼 ら の 適 応 戦
略 な ど に 注 目 し た 人 類 学 的 研 究 も な さ れ て 今 日 に 至 っ て い る [e.g.Erdman1984;Neuman
1990(1980)]。ガラーナーを研究することは、音楽家とその諸集団や彼らのネットワーク
に光を当てるだけでなく、音楽を生業とする人々の宗教(改宗の問題を含む)やカースト、
婚姻関係・師弟関係・パトロンクライアント関係、また音楽・舞踊 と関係する女性たちと
の関係なども問題にすることになる[Tamori2008;田森 2004,2011]。
音楽家たちの語りにおいてはガラーナーが超時間的な概念として用いられる傾向にあ
るが、その言葉によって自分たちを語るようになったのはニューマンらが指摘するように
[Neuman1978]、20 世紀に入ってからと考えてよい。そして、ガラーナーという言葉が
一般に流通するようになったのは、ヒンドゥーの音楽家人口が増していく 20 世紀後半に
なってからと思われる。その背景には、独立後のインド社会における「音楽家」の位置づ
けや聴衆およびパトロンの変化、全国規模の音楽会議の各地での開催、大学・専門学校に
おける音楽教育の進展、ラジオ放送を中心とするメディアの普及・拡大、さらには欧米に
おけるインド人音楽家の演奏活動の活発化などがあげられる。しかしながら、そのような
インド独立後から今日に至る過程での、音楽家の社会的世界とその変化を定量的に把握す
るための資料となるとなかなか見当たらないのである。そこで今回は、 WWIM をテキス
トとして、音楽家たちの、①宗教、②ガラーナー、③師弟関係の3点に焦点をあてつつ、
それらの関係について把握するためのデータ(集計結果)の提供と分析を行う。
WWIM には、インドの芸術音楽分野を中心とする千数百名からのアンケート調査結果
に基づく個人別データが掲載されている。1968 年に第1版が出版され、1984 年には改
訂第2版が出版されたが、以後今日まで改訂新版は出版されていない。発表者はかつて、
1984 年の改訂第 2 版の基礎的集計を行ったが[田森 2001]、今回の発表では新たに第 1
版データの集計を行い、改訂第2版データ(再集計)との比較を試みる。それにより、
1960 年代から 1980 年代にかけてのインド古典音楽の社会的世界、すなわち音楽家の諸
属性と社会関係、およびそれらの変化を把握するための予備的考察を行う。より具体的に
は、音楽家の名前から宗教と性別を推測し、その構成を明らかにする。また、世代分布と
分野別(南インド古典/北インド古典)の音楽家分布・イスラーム音楽家の分布・ 女性音
楽家の分布、そしてヒンドゥスターニー音楽を中心に宗教別の所属(勤務先)、学位取得
状況、主な音楽活動についてまとめ、さらに音楽ジャンル別(声楽/器楽、声楽の様式、
楽器の種類など)のガラーナー認識や師弟間の宗教の相違を把握するための単純集計とク
ロス集計を行い、それらの集計結果について検討を試みる。
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1B1-3
ダッカ旧市街の独立戦争壁画とバングラデシュ美術
五十嵐 理奈
福岡アジア美術館
バングラデシュの首都ダッカの旧市街では、1971 年の独立から現在まで 40 年以上に
わたり、毎年、戦勝記念日の前の晩に、地域に住む人々の手によって、路地の壁に「独立
戦争壁画」が描き続けられてきた。二度の独立を果たしたバングラデシュにとって、
1971 年の独立戦争とは、バングラデシュ国家をひとつにするために欠かせない共有され
た歴史的経験である。そのため独立記念日や戦勝記念日にはさまざまな国家行事が行われ
るが、こうした国レベルでの独立戦争の表象とは別に、民衆レベルで連綿と歴史を記憶し、
語り継ぎ、描き継いできた表現のひとつが「独立戦争壁画」である。本報告では、この民
衆による芸術表現の「独立戦争壁画」を概説し、こうした事象が起きる理由、またそれが
バングラデシュ社会(この地域社会)においてどのような意味を持つものかを検討する。
ダッカの旧市街は、地元の人でなければ分
からないような迷路のように細い道が入り組
んだ地域であり、1971 年にバングラデシュが
西パキスタンからの独立を目指して闘ったム
クティ・ジュッド(自由解放線戦争、第三次
印パ戦争)の時に激しいゲリラ戦が繰り広げ
られた場所である。この地域に住む人々の家
族や親せきの多くが、戦争当時バングラデシ
ュ民兵とパキスタン兵の戦いの光景を目にし、
また自分たちの家族や親せきの多くも解放戦
士(フリーダム・ファイター)としてここで
命を落としている。彼らは主にリキシャワラ
ーや小売業などで生計を立てる経済的には低
階層に属し、独立から 40 年が経ち、どんど
ん再開発される他地域に対し、当時のままの
古い長屋が連なる下町に暮らしている。
路地の壁画に描かれるのは、銃殺される
人々の姿、撃たれた人を介抱する姿など戦闘
にまつわる場面や、国旗や国土の地図など独
立を主張するシンボルなどである。描き手は、
特に美術教育を受けたわけではない、その地域に住む主に 10 代の少年たちで、新聞や戦
争の報道写真、教科書などに掲載されている著名な美術作家の絵画などを模したり、また
­ 42 ­
日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
両親や親戚から伝え聞いた話を、色粉を溶いた絵具を使って、縦 1.5〜2m×横 2m 程度の
壁に描き出す。また、絵の横には少年たちによる詩がしばしば添えられており、戦争の記
憶は視覚表現と言語表現の両方の手段によって表現されてきた。
こうした独立戦争をテーマとした表現は、バングラデシュの様々な芸術のジャンルで
取り上げられてきた。いわゆる美術教育を受けた美術作家が戦後 70-80 年代にかけて描
いた作品の多くに独立戦争に関連するテーマがみられ、また独立戦争の当時はプロパガン
ダ・ポスターを手がけた作家も多い。また、大衆芸術としてのリキシャ・ペインティング
(庶民の足であるリキシャの背面に、職業としてのリキシャ・ペインターが映画俳優や社
会事象などを描くもの)のテーマとしても、70 年代には独立戦争の戦闘場面、女性に暴
行をふるう場面などがしばしば描かれてきた。しかし、この「独立戦争壁画」は、この地
域に住む人々が、その地域の人々のために描き、また毎年新しく描きなおして、その行為
を 40 年以上にわたって続けてきた点で、他の独立戦争をテーマとした表現とは異なる。
鶴見俊輔はこうした芸術と生活との境界線にあたる作品を「限界芸術」と呼び、純粋
芸術や大衆芸術とは異なる「非専門的芸術家によってつくられ、非専門的享受者によって
享受される」と説明した。鶴見のいうように「生活の様式でありながら芸術の様式でもあ
るような両棲類的な位置をしめる限界芸術」として「独立戦争壁画」を捉えたとき、この
事象が描く少年たちやこの地域に住む人々にとってどのような意味をもつのか、またこの
地域が背負ってきた歴史や記憶を人々がどう受け継いできたのかなどを理解する手掛かり
になるのではないだろうか。
〈参考文献〉
鶴見俊輔『限界芸術論』勁草書房、1967 年(ちくま学芸文庫、1999 年)。
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1B1-4
Transnational networks and identities: The case of Indo-Fijian migrants in Japan
Dominik Schieder, Hitotsubashi University
In this paper I discuss the preliminary findings of an ongoing research project which examines the lives and social
networks of Fiji Islander migrants in Japan. The presentation focuses particularly on Fiji Islander migrants of
South Asian origin – Indo-Fijians – who currently reside in the Kantō and Kansai areas. After providing some
general information about the Republic of the Fiji Islands I briefly discuss the history and the socio-cultural
background of the Indo-Fijians. I use this as a starting point to introduce the main socio-economic connections
between Fiji and Japan because it is within this framework that migration of Indo-Fijians to Japan happens. I
conclude the paper by addressing some of my main research questions such as why Indo-Fijians migrate to Japan,
how their social networks are constituted and if they maintain and/or create social relationships and cultural links
to Fiji, India and other South Asian immigrants in Japan.
The Republic of the Fiji Islands
The Fiji Islands, a former British Crown colony between 1874 and 1970, are located in the South Pacific Ocean.
The country’s total landmass, of which the two main islands of Viti Levu and Vanua Levu make up 87 percent, is
approx. 18,300 square kilometers. Compared to all other economies of the Pacific Island Forum’s member
countries Fiji’s is the most developed. In previous decades Fiji’s economy relied heavily on sugarcane, while
today the country’s economy builds on forest and fishery resources and tourism. In a global context Fiji is a
microstate. In a regional context, however, Fiji serves as a major traffic hub which connects many Pacific Island
states with the Pacific Rim. Fiji is home to numerous international organizations, diplomatic missions and nongovernmental organizations. According to the official census conducted in 2007, Fiji’s total population of 837,271
comprises 475,739 indigenous Fijians (56.8 percent) and 313,798 Indo-Fijians (37.5 percent), with the remaining
47,734 (5.7 percent) coming from other ethnic groups. Thus, Fiji’s society can be described as multi-ethnic and
multi-cultural. The Fiji Islander community in Japan reflects this multi-culturality.
The Indo-Fijians
The term Indo-Fijians commonly refers to the descendants of different groups of South Asian migrants who
arrived in Fiji between 1879 and 1946 from various parts of British India. The first to arrive were the indentured
labourers (girmitiyas) who worked predominantly in the sugar fields, following the establishment of a colonial
plantation economy. They were recruited from various parts of north and south India (present-day Bihar, Uttar
Pradesh, Bengal, Tamil Nadu, Andhra Pradesh and Kerala). Between 1879 and 1916 some 60,000 girmitiyas
come to the Fiji Islands. Of these only 12,000 returned to India at the end of their contracts. The rest made Fiji
their new home and established the foundations of an Indo-Fijian community which in 1901 already comprised 14
percent of the total population of Fiji and 45 years later became the major community of the archipelago
(representing 46,4 percent of the population as against the 45,5 percent represented by indigenous Fijians). For
the overwhelming majority of the girmitiyas, their move was equivalent to socio-cultural deracination and the loss
of material links with the Indian subcontinent. This in turn led to the decay of the caste system and to the
standardization of languages and religious practices.
The term Indo-Fijian is also used to refer to passenger migrants from the Indian subcontinent who began
to migrate to Fiji at the beginning of the twentieth century. These migrants were originally from Gujarat and
Punjab. The Punjabis came to Fiji as twice-migrants from Hong Kong and New Caledonia or migrated to Fiji
from the Punjab. They established themselves as planters, policemen and in the construction business. The
Gujaratis of Fiji distinguish themselves from other Indo-Fijians by participating in transnational social networks
which include their South Asian place of origin. Most Gujaratis refer to themselves as members of an endogamous
social group, they speak Gujarati at home and choose their marriage partners within their own jati. Moreover, they
monopolized the retail business and are generally regarded as economically successful.
In summary, the Indo-Fijians form a very heterogeneous group and are divided along a number of significant lines.
The main differences are of religious (e.g. Arya Samaj and Sanatan Sharma Hindus, Ahmadiyya and Sunni
Muslims, Sikhs and Christians) and regional nature (North India vs. South India, Punjab vs. Gujarat) or can be
linked to class-based factors and different types of migration.
Multi-ethnic and multi-cultural relations in Fiji have been implemented and shaped by colonial ideologies
and practices. Fiji colonial legacy has not only led to a strong narrative of the “economically successful and hardworking Indian” but also created numerous political and socio-cultural rifts. These in turn propelled social
conflicts mainly visible through smouldering ethnic tensions which in combination with class divisions and intraethnic divisions within the respective communities fuel a history of social, political and economic instability.
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
Today, after more than a century of Indo-Fijian struggle for political and cultural recognition and four
coups d’état, Fiji features prominently in discourses on the Pacific “arc of instability”. Without doubt the political
instability and the socio-economic insecurity of the majority of the Indo-Fijians have triggered large scale
emigration. Since the 1980s an estimated number of about 150.000 Indo-Fijians have left Fiji for greener shores.
While indigenous Fijians migrate abroad only temporarily mainly for socio-economic reasons, many Indo-Fijians
leave the islands for good. According to official data no Indo-Fijian family has opted to migrate to India. The
majority of the Indo-Fijians chooses to relocate to Pacific Rim countries such as Australia, New Zealand, the U.S
or Canada and there is a small number of Indo-Fijians in Japan. They represent a still unexplored element of the
transnational Indo-Fijian community.
International Fiji - Japan relations and transnational Fiji-Indians in Japan
When Fiji gained its independence from Britain in 1970 Japan was one of the first countries to endorse Fiji as an
independent nation. Diplomatic relations where fostered early in the 1970s and this was the initial starting point
for small scale transnational migration from Fiji to Japan. Fiji Islanders are a hardly visible migrant group in
Japan. This does not come as a surprise, given the fact that until today Japan is mainly perceived as ethnically and
culturally homogenous. However, while the total numbers of registered immigrants still make up no more than
some 1.6 percent of Japan’s total population, numbers are growing. Among the approximately 2 million foreigners
in Japan immigrants from Oceania, a category which includes Australians and New Zealanders, form micro
groups. In 2011, 201 Fiji Islanders were counted in Japan. While they are categorized according to occupation,
gender, age and prefecture, there are no ethnic distinctions made in the statistics.
As mentioned earlier, it is necessary to explore the international connections between Fiji and Japan in
more detail because they constitute the framework for small scale transnational migration. While there are a
number of international bonds such as development aid, language education and sport migration which lead to
specific social relationships between Japanese and indigenous Fijians, the connections between Japan and IndoFijians are limited to a small number of specific international ties.
On a political level Japan enjoys good relationships with Fiji. The Japanese government provides Fijian
citizens with annual trainee and student exchange programs as well as student scholarships giving Fijian students,
teachers and civil servants the opportunity to gain higher education in Japan. Thus, students make up a significant
number of Japan’s Indo-Fijians. Due to contract regulations only a very small number of students are able to stay
in Japan after finishing their studies. From a global perspective Japan’s economic interests in the South Pacific in
general as well as in Fiji in particular are somewhat marginal. Japan imports mainly fish, as well as wooden and
cork products from Fiji whereas Japanese exports to Fiji are mainly made up by cars, engine and machine parts.
The economic relations between the two countries trigger another form of small scale migration as a few IndoFijians have chosen to work in the Japanese automobile and car part industry. Furthermore, inter-cultural
marriages and partnerships between Japanese and Indo-Fijians are established through the tourism industry. For
example, tourist resorts such as Mana Island, a well known Japanese-owned holiday destination in Fiji, is a
meeting point for transnational couples. While the cultural encounters between Japanese and Fiji Islanders in the
archipelago usually lead to indigenous Fijian-Japanese relationships there is only a small number of Indo-Fijians
married to Japanese nationals.
Drawing on data which I have collected through questionnaires, participant observation and semistructured interviews with Indo-Fijians in the Kantō and Kansai areas I would like to formulate the following
hypotheses which have to been tested through further research:
♦ Indo-Fijians form a significant number of Japan’s Fiji Islander migrants and form a heterogeneous group which
reflects Fiji’s multi-ethnic and multi-cultural society.
♦ The experience of transnational migration of Fiji Islanders of diverse ethnic background to a “culturally
homogenous country” has led to a specific “gaijin” and pan-Fijian identity, created through socio-cultural
otherness, language barriers and the hardships of life-and-work-circles in Japan.
♦ The Indo-Fijians in Japan have established a strong sense of being Pacific Islanders and identify themselves as
Fiji Islanders, not as South Asians or Indians. None of my respondents has any personal family connections with
the subcontinent. Thus, India is considered neither home nor cultural hearth.
♦ Japan’s Indo-Fijians established a complex transnational network which excludes South Asia and constitutes
itself between Japan, Fiji and other nodes in the Pacific Rim.
♦ Moreover, for the absolute majority of Japan’s Indo-Fijian India is a place with which they share only diffuse
and unemotional relationships. Most Indo-Fijians have ambivalent relationships with Indian migrants from the
subcontinent. In conclusion, the Indo-Fijian migrant community is different from the larger South Asian diaspora
in Japan in many ways.
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1B1-5
1982 年カシミール禁酒運動の位相
拓
徹
州立ジャンムー大学社会学部博士課程(卒)
本発表は、1982 年 3 月にジャンムー・カシミール州(以下JK州)のアナントナーグ
(南カシミール)で起きた禁酒運動を題材に、インドの政治言説におけるセキュラーな主
体の再考を試みるものである。
本発表でとくに注目したいのは、カシミール紛争の分析において民族・宗教・アイデン
ティティーの問題が「セキュラーな」民主政治と対置されがちな点であり、また、後者の
「セキュラーな」論点がしばしば各論者の自己正当化の根拠となる点である。メ ディア言
説がインド政治の一大要素として台頭し始めた 1980 年代にあって、ゲリラ紛争へと向か
うカシミールの状況も、こうした言説のダイナミズムと不可分ではあり得なかった。本発
表では、これまであまり注目されてこなかった 1982 年カシミール禁酒運動の詳細を明ら
かにし、その背景にある経済やマイノリティー(カシミーリー・パンディット)の問題に
注目すると同時に、この事件をめぐる当時のインドおよびJK州の新聞報道の分析を通じ
て、カシミール紛争分析の言説が歴史的に持つ難しさの系譜学を試みたい。
事件が起きた 1982 年初頭、カシミール政治は 1975 年カシミール合意後のつかの間の
平穏の中にあったが、その一方で若い世代を中心に分離主義が再編成されつつもあった。
その背景には識字率や教育水準の向上による若者たちの政治・宗教意識の尖鋭化があり、
これに伴いスリナガル発行のウルドゥー語日刊紙を中心とする新聞需要も増加傾向にあっ
た。
南カシミールの中心都市アナントナーグにおける禁酒運動は 1982 年 3 月初頭、当時の
代表的な分離主義団体ピープルズ・リーグの若者たち(ムスリム)によって開始された。
その当初の形態は町の酒屋前にピケットを張り、酒屋から出てくる人々の酒瓶をとり上げ
て破壊するというものだったが、3 月 8 日に行政と警察が介入することにより若者たちと
警官隊の小競り合い(投石 vs.警棒)の様相を帯び始め、翌 9 日には暴徒化した若者集
団が町の酒屋 4 軒を略奪する事態を迎える。
問題を難しくしたのは、これらの酒屋の経営者がすべてカシミーリー・パンディット
(=カシミールのヒンドゥー教徒、当時カシミール人口の 4%弱を構成)だったことであ
る。インド全国紙は当時、こぞってこの事件をイスラム党ほかのイスラム原理主義者によ
るヒンドゥー・マイノリティーへの攻撃と報道した。他方、カシミール地元のウルドゥー
語紙によれば、この禁酒運動はセキュラーな市民運動でしかなかった。報道におけるこの
落差が生まれた背景には、いくつかの問題系とこれらをめぐる解釈の違いの存在が考えら
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
れる。本発表では、インドとカシミールそれぞれのコンテクストにおけるイスラム党
(Jama’at-e Islami)の歴史的位置とその解釈の問題、あまり知られていないJK州に
おける酒類取引の実情とこれをめぐる税収の問題、およびカシミーリー・パンディットに
とっての酒類取引の問題に注目し、報道におけるこの落差の説明を試みる。
この事件とこれをめぐる報道は結果的に、全インドのコンテクストではマイノリティー
としての(カシミール・)ムスリムの立場を難しくし、カシミール地元のコンテクストで
はマイノリティーとしてのカシミーリー・パンディットの立場を難しくした。こうした 状
況の生成における重要な要素として、本発表では当時の報道における「セキュラー=コミ
ュナルな」言説について考えてみたい。これはメディア批評家イクバール・マスードが言
及したような、表向きの形式はセキュラーであるにもかかわらず実質的にはマジョリティ
ー・コミュニティー側のマイノリティーへの偏見を含んだコミュナルな言説を指す
[ Masud 1992 ] ( な お マ ス ー ド 自 身 は 「 セ キ ュ ラ ー = コ ミ ュ ナ ル 」 の 語 を 用 い て い な
い)。こうした言説の登場は報道言説の量的増加および質的複雑化に由来すると思われる
が、いずれにせよその登場により、セキュラリズム/コミュナリズムの区別とその分析は
難しさを増すことになった。カシミール紛争の学術分析の文脈においても、この紛争を分
析する「セキュラーな」主体が無意識のうちにインド・ヒンドゥーあるいはカシミール・
ムスリムのマジョリティー主義(とその偏見)を含み持つとき、もしくは歴史的なセキュ
ラー言説がマジョリティー主義を含みつつ形成された可能性に分析主体が無関心であると
き、そうした学術分析の言説は歴史的なセキュラー言説の陥穽=マジョリティー主義によ
る差別的現実を再生産する可能性に満ちている。
カシミールをめぐる大きな問題のひとつは、インドの政府・国民・メディアがカシミー
ルのムスリム・マジョリティーをいかに「セキュラーな市民/国民」のカテゴリーに含め
ることができるかという点にあると考えられる。この点についての本発表の結論は、一言
でいえばシェイク・アブドゥッラー( 1905~82)の死後この包含が難しくなったという
ことである。カシミール・ムスリムにとっての「セキュラー」はインドから見れば分離主
義的・イスラム原理主義的に見え、インドにとってのそれはカシミール・ムスリムから見
ればヒンドゥー・マジョリティー主義的に見える。もし、こうした状況を研究する主体に
とっても純粋に「セキュラー」で中立的な立場というものがあり得ないのであれば、研究
主体にとって可能な選択肢の一つは、現在進行形「セキュラー」の 系譜を歴史的にたどり
つつ自らの位置を絶えず再確認することではないかと思う。
参照文献
Masud,
(ed.),
Iqbal.
Towards
1992.
‘Print
Media
Understanding
and
Communalism ’,
Communalism.
Research in Rural and Industrial Development.
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in
Chandigarh:
Pramod
Centre
Kumar
for
1B2-1
「カルカッタの火葬場のカーリー女神祭祀―女神の舌の秘密をめぐる考察―」
慶應義塾大学大学院
澁谷 俊樹
火葬場のカーリー女神(以下ショッシャン・カリ)は舌を出していない。理由は秘密である。当初こ
の女神の司祭 A.T さんは、「分かった。君は女神の秘密が知りたいのだね。けれども、それを私の口か
ら言うことはできないのだ」と語った。しかし、A.T さんの家は、発表者の下宿する S.G さんの家の近
隣にあり、両者は知人同士である。やがて A.T さんは、人々から聞いてきたこの女神の話が正しいか誤
りかを確認してくれるようになった。文献学においても人類学においても、夫を踏みしだく図像で表わ
された女神の舌にどのような意味合いが与えられているかを問うことは、女神と男神との関係だけでな
く、両者の上下関係と実社会における男女関係との相関性や、神格への信仰の姿勢のあり方の相違を理
解する上で、重要な意味合いを持つと考えられてきた。
報告で主題とする神像は、全インド的には光の祭りとして知られるディーワーリーと同日同夜、10
月半ばから 11 月半ばの新月の夜のカリ女神祭祀(以下カリプジャ)の折に、カルカッタのケオラトラ
火葬場の薪の遺体焼き場の上に、僅か 3 日間に亘って安置される粘土製の塑像である。祭祀が行われる
場所はカルカッタ最大の火葬場であり、その今日における知名度は、祭祀が行われるたった一夜で
80000 ルピー以上もの賽銭(2011 年度)を集めることにも示されよう。頭部の飾りを除いても背丈は
優に 3m はある。カリ女神のチャームポイントとも言い得る舌がないこの像を見て、そのことに気がつ
かないベンガル人の方が稀であろうが、その理由が「秘密(rahasya)」であることは、奇妙にも近隣住
民に良く知られている。
そもそも良く知られるカリ女神はなぜ舌を出しているのか?こちらからそのことを尋ねるまでもな
く、人々はその起源を語り始める。「昔々、天界を追われた男の神々が、光の中からドゥルガを生み出
し、それぞれの武器を渡して悪魔との戦いを依頼した。カリ女神はドゥルガの額から現れて、チャンダ
とムンダという悪魔を倒したあと制御が不能になった。大地が破壊されそうになり、恐れをなした神々
は、夫であるシヴァ神に彼女を止めてほしいと懇願した。シヴァ神が女神の足元に横たわると、女神は
誤って彼を踏んでしまった。自分の夫を踏んでいることに気がついた女神は恥じらい(lajja)で舌を出
した。その時の姿がこの神像である」。
ところが実際には、「恥じらい」で舌を出したことを裏付ける文献的典拠が存在しないことが指摘さ
れてきた。まずテクストとされるデーヴィー・マーハートミヤの物語では、悪魔を倒した女神は暴れる
ことなく、シヴァが呼び出されることもない。つまりコンテクストの後半部分の記述は得られない。コ
ンテクストの後半部分に最も近い記述を含む文献は、16 世紀以降北東インドで書かれたとされるアドゥ
ブータ・ラーマーヤナである。この文献の中でシーターがカリ女神のような姿に変身し、10 頭ラーヴァ
ナの兄の 1000 頭ラーヴァナを、気絶したラーマに代わって倒すが、女神はそのまま暴走する。そこで
神々に制止を頼まれたシヴァが女神に踏まれるのであるが、暴走は止まらず結局夫のラーマが起こされ
る。この文献は、暴走したカリのような女神にシヴァ神が踏まれるという物語の典拠にはなるが、「恥
じらいで舌を出した」という記述は含まない。その記述は文献ではなく、17 世紀にクリシュナーナンダ・
アーガマバギーシャが見たカリ女神の「夢告(swapnadesh)」に部分的に因む解釈が普及したものであ
る。そこでは恥じらいで舌を出すのは少女であって、カリ女神ではない。
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
人類学者 Menon & Shweder は、オリッサでの聞き取り調査により、カリの舌を恥じらいではなく「怒
り」の表現と主張する「タントラの解釈」が少数ながら存在することに着目している。ここで女神は家
父長的なヒンドゥーの秩序に馴化されるどころかそれに挑戦しようとしている、というかつてフェミニ
ストの間で好まれた見解を Menon らは採用しない。むしろこの「タントラの解釈」は、ヒンドゥー社
会を脅かし得る潜在的に危険な女性的力(シャクティ)を、結局は女神自身に制御させるために、「恥
じらいの舌」という一般的解釈を、「怒りの鎮静剤」として必要とする構図にあると彼らは結論する。
こうして Menon らは、宗教的図像とヒンドゥー社会との捻じれた関係を、女神の舌をめぐる解釈の相
違から分析している。
「怒りの舌」という解釈は報告で触れる事例にも見られ、これについては Menon らの見解が妥当で
あると考えられるが、ショッシャン・カリについてもう一つ別の「タントラの解釈」が存在し、この解
釈には Menon らの見解が該当しないことを明らかにする。その際問われるべきは次の疑問であろう。
すなわち、ショッシャン・カリには、「鎮静剤としての恥じらい」が必要だろうか?
報告では、まず祭祀組織と祭祀過程を概観したあと、主に聞き取り記録を資料として、女神の舌をめ
ぐる解釈の相違を整理する。つぎに祭祀の儀軌に含まれる文献の一部を検討し、上記の問いについて考
察を行い、最後にベンガルの女神信仰における宗教史的位置付けを示す構成を取る。
ショッシャン・カリの祭祀には次のような規則(niyam)がある。1、祭祀当日に 1 体の人間の遺体
が運ばれて来なかった場合、祭祀は行われない。2、祭祀は薪の遺体焼き場の上で執行する。3、山羊
を供犠する。4、火葬場で働くドーム・カーストが祭祀を補助する。
報告では、司祭や周辺住民への聞き取り調査に基づいて、女神の舌をめぐる解釈をめぐる考察を行う。
祭祀になぜこのような規則があるのか?女神はなぜ舌を出していないのか?そしてそれは火葬場近隣
の地域的文脈と、ベンガルにおける女神信仰の宗教史的文脈にどのように位置付け得るか?最終的な答
えは不明であるが、これら祭祀の規則は、火葬場の女神の舌に結ばれていると考えられる。
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1B2-2
タミル・ナードゥ州チェンナイの「コティ」たちのライフストーリー
江原 等子
京都大学大学院人間・環境学研究科 博士後期課程
タ ミ ル ・ ナ ー ド ゥ 州 に お い て 、 公 的 に は 「 ア ラ ヴ ァ ー ニ aravāṇi 」 あ る い は 「 テ ィ
ル・ナンガ イ tiru naṅkai」と呼ばれる 人々 の存在は今 日、次 第に可視 的にな ってきた と
見なすことができるだろう。このような人々を主題にした映画がつくられ、あるいは性病
予防や社会的地位の向上をめざす団体の活動が活発になるばかりでなく、州政府は福祉政
策をうちだし、2011 年には ID カードが発行されはじめた。これにたいしてストリート
においては異なる呼称が存在する。しかしこのような人々の多くのは侮蔑的なニュアンス
を 持 つ ス ト リ ー ト で の 呼 び 名 「 ペ ッ タ イ peṭṭai 」 ( 口 語 に お い て は ポ ッ タ イ ) 」 「 オ ン
パド ゥ oṉpatu( 口語 にお いて はオ ンボ ード ゥ) 」な どを 好ま ない 。本 論は かれ らの 自称
のひとつである「コ ティ koti」の語を用いる ことにする。
タミル・ナードゥ州では「ヒジュラ」という言葉はほとんど知られていない。しか
しメディアや活動団体においては、「トランスジェンダー」や「MSM」という呼称によ
って、インド他州でヒジュラと呼ばれてきた人々あるいは現象と、コティたちとの連続性
が認識されている。
文化人類学におけるヒジュラに関する議論は、20 世紀半ばまで遡ることができる。
1990 年に公刊されたセレナ・ナンダの『ヒジュラ:男でも女でもなく』は、ジェン
ダー(文化的・社会的性)役割あるいはジェンダー・アイディンティティの問題として論
じることで、それまでの議論を一新した。ナンダはヒジュラを制度化された第三のジェン
ダーであると位置づける。婚礼や出産の儀礼において担う役割やヒジュラたち自身の去勢
儀礼や性欲の断念における苦行者の側面、しかしそれと矛盾するようにも見える生計手段
としてのセックスワークなどが記述されると同時に、4 人のライフストーリーを取り上げ、
各人の多様なジェンダー役割/アイディンティティとの関わりが描き出されている[ナン
ダ 1999]。
他方、ナンダの提起した第三のジェンダーというヒジュラの位置づけにたいして、
批判もなされてきた。
ハイダラーバードで調査を行ったガヤトリ・レッディは、レッディは、セクシュア
リティ、宗教、ジェンダー、親族、そして階級などのさまざまな差異から構成されるもの
としてヒジュラというアイディンティティを理解しようとする。この地域のヒジュラは、
より大きな「コティ」というカテゴリーに包含されているが、このコティのカテゴリーは、
去勢の有無、性欲の断念の有無、宗教実践の有無、親族儀礼の有無、女性性を身に帯びる
か否かなどによって差異化され、またハイダラーバードのヒジュラ/コティではない人々
も用いている「信望 izzat」の原理に基づいて階層化されている。身体的な喜びや実践を
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
介して、アイディンティティと交渉し、ときにはコティのカテゴリー内部の異なるアイデ
ィ ン テ ィ テ ィ へ と そ の 帰 属 を 変 化 さ せ る 人 々 の 姿 を レ ッ デ ィ は 描 き 出 し た [ Reddy
2005]。
たしかに、レッディの用いる交渉や実践という概念によって、ハイダラーバードの
コティ及びヒジュラのアイディンティティの構成とそれらが身体化される様子は、よく理
解できるように思える。しかし、そうした分析枠組みから依然として取り残されるのは、
ハイダラーバードにおけるコティ、あるいは他地域におけるこれまで第三ジェンダーと言
われてきたような類似のカテゴリーの当該社会における差異化の問題である。たとえば、
タミル・ナードゥ州においては、このカテゴリーはコティという自称が表象する集団への
帰属の問題のみならず、アラヴァーニあるいはポッタイといった他者からの名指しの問題
でもある。このような差異化があるとするならば、人々は、どのようにそこへと方向づけ
られ、それと関わるのか。ここで、ナンダ、レッディが用いた手法であるライフストーリ
ーをとりあげることの重要性が、異なる文脈において浮上する。ライフストーリーを通し
て、このようなカテゴリーへの方向性や関わりがどのように生まれ、変化してきたのか、
またそういったことがどのように語られ、語る人の現在に反映され、また未来に投影され
るのか、ということを知ることができる。本発表は、タミル・ナードゥ州チェンナイで収
集された 2 つのライフストーリーの提示と分析を通して、ナンダ以来アイディンティテ
ィの問題として主に議論されてきたいわゆる第三ジェンダーの人々の経験を、他者や不可
避な出来事にたいする受動性の次元においてとらえることの重要性を提起する。とりあげ
る 2 つの事例においては、他者との関わりや出来事を通して、いわゆる第三ジェンダー
としてカテゴライズされるような行為やネットワークへの参入を促すような傾向性が醸成
されることが示される。さらに、そのような傾向性とは食い違う他者からの要請によって
形成される複数の傾向性のあいだで、一貫したアイディンティティに安定することなく
「どっちつかず」の状態を葛藤しながら、そのような生が生きられている可能性を指摘す
る。
参照文献
ナンダ、セレナ、1999、『ヒジュラ̶̶男でも女でもなく』、蔦森樹訳、青土社。
Reddy, Gayatri, 2005, With Respect to Sex: Negotiating Hijra Identity
in South India, Chicago: The University of Chicago Press.
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1B2-3
ウ ッ タ ル ・ プ ラデ ー シ ュ 州 に おけ る 村 落 政 治 の変 容 を め ぐ っ て
―人類学的手法によるジェンダー分析―
菅野
美佐子
日本学術振興会特別研究員(東京外国語大学)
1.はじめに
1993 年の地方議会における「女性の議席留保制度」の制定は、地方政治をジェンダー
の観点から、より民主的なものとする上で大きな飛躍となった。一方、地方分権化や女性
に対する法的措置などの民主化のプロセスには、国家のイデオロギーを社会の細部に浸透
させ、国家が管理可能な国民形成を促す統治技法であるという批判もみられる(Sharma
2010)。しかし、コーブリッジ(2005)らが示唆するように、国家や政治を多様な集団
や個人による諸制度および統治の日常的な経験の束と捉えるならば、その日常実践のなか
に統治や権力の軛に抗おうとする主体を見出す可能性は十分にあるだろう。事実、インド
社会の末端で政治にかかわる農村地域の女性たちには、政策を通じてもたらされる国家の
統治技法に支配されるばかりでなく、時にはそれらに反発したり、自らの生活実践に政策
や政治を巧妙に利用するという能動的な側面もみられる。
そこで本発表では、ウッタル・プラデーシュ州(以下 UP 州)東部農村での人類学的調
査にもとづき、女性たちの村落政治(パンチャーヤット)に対して自らの権利を求めて働
きかけを行った事例を通して、政治と交渉する女性たちのエイジェンシーを解明する。
2.北インドにおける女性と政治
UP 州では、議席留保制度の制定を機に、村落議会における女性の議員数は事実上増加
した。だが、発表者の調査地では、女性の外出や男性との接触が困難であるなど、女性が
村落政治の場で主体性を発揮する機会は依然として少ない。夫が留保議席を利用して妻を
議員候補に擁立するいわゆる「代理選挙」がみられるほか、議会内での横領、選挙時の賄
賂といった不正行為が横行し、村落政治そのものが十全に機能しない現状がある。こうし
たなか、調査地において、女性議員や政府/非政府系の自助組織に所属する貧困女性の間
からは、正規の政治的手段による自らの権利および生活保障要求の代替手段として、村社
会の互助的連帯のもとで議会を糾弾したり、利用するなどの手段を講じる動きがみられる。
具体例としては、調査村の女性議員が、貧困層の子どもに奨学金を給付しようとしな
い議長を、父兄とともに警察に連行するなどして給付へとこぎつけている。また、既婚女
性が婚家で虐待を受けた別の村では、事件を知った自助グループ関係者によって、虐待を
受けた女性とその家族の間で非公式裁判が開かれた。この裁判には多数の自助グループ・
メンバーに加え、複数の村落議員が仲裁役として参加し、当該女性に対する暴力の禁止と、
議会および自助グループ双方によるその後の監視が合意された。
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
3.考察:女性の「絆」を通した政治
上記の貧困女性による「権利要求」や「安全保障」実現のための一連の動きに一役買
ったのが、村落内での女性同士のネットワークである。このネットワークは、女性たちが
家内領域という生活圏において日常的に遣り取りを交わすなかで形成、強化されてきたも
のである。UP 州農村の貧困社会では、女性の生活圏として外庭や井戸、田畑、放牧地な
どが含まれ、女性たちはこの生活圏内で、親族女性や近隣の女性たちと日常的に交流し、
互いの絆を深めている。また、北インド以外でも報告されているように(常田 2010)、
村の女性たちは親族や近所へのお裾分けや、親族および近所同士での儀礼への参加を通じ
て、同村内の人々との互助関係の構築にも重要な役割を果たしている。上記の事例におい
てパンチャーヤット議長の奨学金給付の滞納を知ったのも、自助グループのメンバーが虐
待事件に対して裁判を実施したのも、日々交わされる女性同士の世間話が発端となってい
た。このように、女性たちが生活圏内で日常的に育むネットワークが政治とつながったこ
とで、彼女たちの要求が実現されたと考えられる。
4.おわりに
調査村の女性たちが自らの生活圏内で日常的に関わる政治は、村落議会という国家の政
治機構の末端であり、彼女たちもまた、雇用機会、年金、教育などを議会から受けること
で、国家の統治に積極的に絡め取られているといえる。また、かつて中央に集中していた
権力は、地方分権化とともに当該社会の支配構造に合わせて再形成されてきたという指摘
もあるが、女性の政治参画の遅れが、この社会のジェンダー・ヒエラルキーに起因するこ
とは言うまでもない。しかしながら、上記の事例で示したとおり、女性たちは議席留保や
議会内の諸制度を足掛かりに、村落社会の既存の支配構造や、議長および議会の権力に対
して訴えかける状況がみられるようになっている。そこには、単に国家の統治に従順な主
体ではなく、権力を糾弾したり利用したりする、ある種の抵抗的主体を見出すことができ
る。さらに、こうした動きが、女性たちの生活圏で繰り広げられる日常の延長にあるとい
う事実も、冒頭で引いた、国家/政治が諸制度や統治の日常的経験の束であるという見解
を後押しするものとなっている。今後も、調査地社会の動向を追っていきたい。
【参考文献】
Corbridge,S.,(2005)”Seeing
the
State:
Governance
and
Governmentality,
Cambridge: Cambridge University Press.
Sharma
,A.,
(2010),”Paradoxes
of
Empowerment:
Development,
Gender
and
Governance in Neoliberal India” , New Delhi: Zubaan.
常田夕美子(2010)『 ポストコロニアルを生きる―現代インド女性の行為主体性』世界思
想社。
­ 53 ­
1B2-4
擬似的家族関係の構築―インドにおける代理懐胎の人類学的研究
松尾瑞穂
新潟国際情報大学情報文化学部
近年、インドは国境を越えた生殖ツーリズムの舞台として注目されている。2004 年から本格的に始
められたインドの商業的代理懐胎は、これまで NRI(在外インド人)をはじめとする海外居住者が主な
依頼者であると考えられてきたが、いまでは富裕層を中心としてインド国内にも広がりつつある。全国
には生殖補助医療を扱うクリニックは約 1000 あるとされ、そのうち商業的代理懐胎の実施を公開して
いるのは 20~30 軒ほどである。だが、生殖医療の利用が拡大されるに伴い、クリニックによる医療技
術の質・サービスのばらつきや金銭トラブル、代理懐胎で生まれる胎児の無国籍化などの問題が多数発
生している(松尾 2011)
。
インドにおける代理懐胎については、メディアやドキュメンタリー報道のみならず法学、生命倫理の
分野でも研究が進められつつある(cf.日比野 2011)。このような領域を研究対象とするとき、当然のこ
とながら経済格差を利用した先進国女性による途上国女性の「搾取」であるとか、子どもの「人身売買」
であるといった批判や、数多くの法的、社会的課題を無視し、「中立的に」語ることは不可能である。
そうした困難を認識しつつ、だがその倫理性の判断を早急に下すことをひとまず留保し、なぜ、そして
いかにこのようなシステムと実践が作動しているのか、そしてそれらが社会にもたらす変化を問う作業
も同時に必要だと思われる。
そうしたなか、人類学の分野でも代理懐胎をはじめとする生殖医療に関する研究が積み上げられつつ
ある。北米を中心とするこれまでの代理懐胎に関する人類学的研究においては、そこでみられる「贈与」
や「家族」という人類学の古典的な概念や制度の再編への関心が大きな地位を占めてきた。また、代理
懐胎を要請し成立させる生権力が指摘されてきた。インドを例にとっても、例えば Vora は、不妊症ク
リニックにおける生殖補助医療とそこでやり取りされる身体部品は、ポストコロニアル・インドにおけ
る身体へのバイオ権力の適用であると論じ(2009)、また、グジャラート州アナンドの不妊クリニック
を調査した Pande は、商業的代理懐胎を貧困女性の労働(経済)とケア(母性/道徳)としての側面
から論じ、代理懐胎をジェンダー化された労働として分析する(2010)
。
本報告では、こうした代理懐胎の人類学的研究を概観し、それがインドの商業的代理懐胎を理解する
うえでどのように適用できるかを指摘する。そのうえで、グジャラート州アナンドにおける調査をもと
に、商業的代理懐胎においてこれまで議論されてきた代理母と子、あるいは代理母と依頼人の間だけで
なく、擬制的家族関係が医師やエージェントと代理母、そして代理母同士において構築され、強調され
ていることを明らかにし、こうした代理懐胎の実践空間における関係性が、代理懐胎のプロセスが内包
する権力関係と贈与やケアという親密性を接合しているということを考察する。
調査対象とするグジャラート州アナンドの A クリニックは、インドではじめて商業的代理懐胎を実施
して以降、代理懐胎の中心としてメディアなどで大きく注目されている。こうしたメディア報道を受け
世界中から依頼者が集う A クリニックでは、現在年間 100 件を超す代理懐胎が行われている。代理懐胎
が産科婦人科学会の規制により禁止されている日本からも、これまで 10 組を超える夫婦がクリニック
を訪れ代理懐胎に取り組んできた。
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
代理懐胎にかかる費用はおよそ 150~200 万円と、北米などに比べると圧倒的に少ない。通常の意味
での妊娠、出産に加えて、排卵誘発剤の使用や子宮への胚移植、多胎妊娠など、代理母の身体への負担
は少ないとはいえないが、アナンドを中心としてグジャラート各地から代理母希望者は後を絶たず、依
頼人の増加にもかかわらずクリニックにとっては代理母を用意することはそれほど難しいことではな
いという。妊娠した代理母は、原則として出産まで「母の家」と呼ばれる代理母だけの専用空間で居住
することが求められ、自分の家族との接触は限定される。
初期の代理母がクリニックに勤務する看護師(キリスト教徒)によってなされたという経緯から、代
理母は相対的にキリスト教徒が多かったが、代理母の家族、親族、知人へと拡大するに伴い、代理母も
ヒンドゥー、ムスリムと多様化している。その結果、日本人などの東アジア系にはネパール系の卵子や
代理母を紹介する、インド人の場合にはヒンドゥーとムスリムの混同をしないなど、一定の民族的、宗
教的選別をクリニックが行う場合もある。その一方で、国境や階層を超えた、代理母と依頼人との「つ
ながり」が、治療の現場や代理母への説明、代理母自身の語りにおいて言説レベルで強調されている。
とはいえ、言説レベルでは両者のつながりが強調される一方で、実践レベルでは代理母と依頼人との
実際の接触は一過性で限定的なものになっている。北米などのように、代理懐胎で生まれた子に対する
代理母の権利(面会権など)がある程度認められている場合と異なり、インドの代理母と依頼人の間に
は圧倒的な経済・社会格差、そして言語や国境の障壁が存在し、両者が親密な関係性を構築することは
実質的には難しい。その乖離を埋め、代理懐胎のプロセスにおいて最も重要なカギを握るのが、クリニ
ックであり、その象徴としての産婦人科医師である。代理母と依頼人はクリニックを通して(のみ)出
会い、コミュニケーションをはかり、関係性を構築することが可能となる。
依頼人にとっては、代理母そのものよりも医師が実際の移植や妊娠の成功に直接関与する重大な役割
を担う。また、代理母や卵子、精子の選定をほとんどクリニックが行うことから、
(子の)
「プロデュー
サー」は医師であるとの認識を依頼人が抱くこともある。したがって、長期的な関係性はクリニック(医
師)との間に構築されやすく、季節のグリーティングや子どもの成長写真などを通した依頼人の感謝と
体験の共有は、代理母ではなく医師に向けられがちである。一方で医師たちは代理母らに「姉妹」を意
味するバヘンと呼ばれ、妊娠・出産の期間にわたり「母の家」で行われる妊娠儀礼などの主催者となる
だけでなく、代理母が終わった後の仕事の提供や家族の世話も含めた家長的な役割を持つ。さらに「母
の家」での 8 か月にわたる共同生活は、カーストや宗教も異なる代理母たちの間に親密性を構築し、代
理母たちによっても、また施設によっても「家族のよう」であると認識されている。胎児との間の親子
関係は否定され、また実子との実際的な親子関係は制限されるなかで、医師や代理母同士間での擬制的
家族関係が代理懐胎のプロセスと空間において新たに作り出され、共有され、強調される。
(参考文献)
、生殖テクノロジーとヘルスケアを考え
日比野由利編著 2011『報告書Ⅰインドとタイにおける生殖技術と法整備の現状』
る研究会。
松尾瑞穂 2011「代理懐胎のパラドックス―インド」
『世界の出産―儀礼から先端医療まで』松岡悦子・小浜正子編、勉誠
出版、pp.60-69。
Pande,Amrita 2010 ‘Commercial Surrogacy in India: Manufacturing a Perfect Mother-Worker’, Signs, vol.35, No.4, pp.969-992.
Vora, Kalindi 2009 ‘Indian transnational surrogacy and the commodification of vital energy’ Subjectivity, vol. 28, pp.266-278.
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1B2-5
「係争地」に住むということ
―インド、アルナーチャル・プラデーシュ州のタワン県の場合―
脇田道子
慶應義塾大学社会学研究科
博士課程
インドの一州でありながら、現在も中国がそのほとんどの領有を主張しているアルナーチャル・プラ
デーシュ州で中印両国が戦火を交えた 1962 年秋の国境紛争から今年は 50 年目に当たる。当時は、まだ
アルナーチャル・プラデーシュの名称はなく、北東辺境管区(North East Frontier Agency 略称 NEFA)と呼
ばれていたが、この紛争の西部地区と東部地区の武力衝突地のうち後者の主たる舞台となったのが、
NEFA の北西部に位置する現在のタワン県、そして西カメン県である。
インドの大敗に終わったこの紛争に関しては、マックスウェルがその歴史的背景から停戦に至るまで
の経過を詳述し、分析している[Maxwell 1970]。その中でも頻繁に引用されている Himalayan Blunder(ヒ
マラヤの大失敗)[Dalvi 1969]は、タワンの防衛のため、インド、中国、ブータン三ヵ国の国境付近でイ
ンド軍の「前進政策」の遂行の任に当たり、7 カ月間中国軍の捕虜となったダルヴィ准将による回顧録
であるが、それを読むとこの「前進政策」がインドにとっていかに無謀なものであったかがわかる。こ
の国境紛争は、ネルーの 15 年間の首相在任中もっとも重大な失敗であり、国民全体にこの敗北は大き
な屈辱感を与えた[Guha 2007:342]。1965 年の国防省の発表では、インド軍の戦死者は 1,383 名、行方
不明者は 1,696 名、そして捕虜は 3,968 名となっている。死傷者のうち 90%が NEFA における戦闘の
犠牲者であった[Maxwell 1970:424-425]。
これら国境紛争に関する文献により、当時の政局や軍隊内部の確執、軍事作戦の内容、インド軍兵士
がいかに疲弊し、悲惨な状態にあったか、そして紛争当時に交わされたネルーと周恩来の往復書簡に代
表される両国の非難合戦、そして双方の主張などを知ることができる。ただし、そこからは、当時戦場
になった現地の人びとの声はまったく聞こえてこない。
タワン県は、中国、ブータンと国境を接している地域で、主たる住民は、モンパと呼ばれる仏教徒の
トライブである。1914 年のシムラー会議でイギリス植民地政府とチベット政府の合意のもとで、中印
国境、いわゆるマクマホン・ラインがタワンの北に引かれたが、実際には、1950 年代初頭まで、タワ
ンはチベット政府に税と労役を課せられていた。それまで、タワンの人びとは、塩を求めてチベットへ
交易にでかけ、文化的にもその影響を強く受けてきた。独立後のインド政府の行政が及んでから約 10
年後の 10 月、中国軍侵攻の知らせを聞いて、タワンの人びとの多くが、農作物の収穫期を迎えた村を
離れ、難民としてアッサム平原へと逃れることとなった。実際には、中国軍は原則的には地元の人びと
に危害を加えることはなく、逃げる必要はなかったと回想する人もいるが、当時、この地域には電気や
電話はもちろん、軍隊用にすら満足な道路がなかったため、十分な情報は得られなかった。避難民の中
には、臨月を目前に控えた妊婦も混じっていた。タワンとアッサム平原との標高差は 3000 メートル以
上あるが、下りばかりではなく、その間には 4000 メートルの峠もあり、悲惨な逃避行だったという。
アッサムに到着後、臨時の難民キャンプでようやく一息ついて間もなく中国軍の停戦により終戦を迎え
たが、村へ戻る途中に人びとが沿道で目にしたのは、無残なインド軍兵士の遺体の群れであった。
本発表の目的は、この国境地帯の「係争地」に住むモンパの人びとの戦争体験をタワンの人びとの証言
を中心として報告し、50 年経った現在、同地域が抱える係争地ゆえの問題点を明らかにすることである。
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
当時を知る人びとの多くは高齢者で、当然ながらその数は年を追うごとに少なくなっているが、2005
年からこれまで現地で行ってきたインタビューを整理し、報告する。それらは、ごく一般の人びとの語
りであって、断片的な記憶も含まれているが、戦争の実態だけでなく、ブータン東部をも含めた広範囲
な逃避行からわかる当時の人びとの地域間関係を知ることもできる。いずれも貴重な歴史証言といえる
ものである。
紛争から半世紀過ぎた現在、表面的には、タワンの人々の間に紛争の傷や不安定な国境に住む不安は
見えない。また、インド政府もマクマホン・ラインを合法的だと主張する立場から、中国との国境問題
は解決済みという立場を取っている。しかし、実際には、現在でも両国軍が国境を隔ててにらみ合う武
装休戦の状態が続き、時には小競り合いが伝えられることもある。ダライ・ラマ法王のタワン訪問やイ
ンド首相の州訪問などのたびに中国から非難声明が出されることにも人びとは辟易している。中印国境
問題に関しては、短期的な最終決着を望んでいる中国と「解決には時間がかかる」とするインドの間に
長期的な展望の違いがある[吉田 2010:70]というが、地元の人びとにとって大きな問題は、軍事基地の
存在を理由に、空港、道路、通信などのインフラ整備がなおざりにされていることである。
タワンには、17 世紀に建てられたチベット仏教の大寺院タワン僧院があり、近くの村は、ダライ・ラ
マ 6 世ツァンヤン・ギャムツォ(1683-1706)の生誕地としても知られている。今春、アルナーチャル・
プラデーシュは、世界的な旅行ガイドブックを発行するロンリープラネット社によって「2012 年に行
きたいトップ 10 の地域」に選ばれた。そのキャッチフレーズには、
「最後のシャングリ・ラ」という言
葉が使われていて、タワンはその中でも中心的な観光地として扱われているが、シャングリ・ラへの道
は、夏は雨によるがけ崩れ、冬は雪で閉ざされる悪路である。地元の人びとの不満をよそに、道路状況
は一向に改善されない。それだけではなく、中国との国境一帯には観光地としての潜在性を秘めている
景勝地が多いのだが、それらへの外国人の立ち入りは禁じられている。「係争地」であることが、地域の
経済開発、特に観光開発を妨げているといえる。
しかし、もっと大きな問題は、マクマホン・ラインという未画定で越境不可能な国境によって、かつ
てチベットと結びついていたモンパの文化、経済圏が大きく変化していることであろう。本発表を通し
て、この点に関しても考察してゆきたい。
<参考文献>
Dalvi, J.P.
1969
Himalayan Blunder: The Angry Truth About India’s Most Crushing Military Disaster.
Delhi: Hind Pocket Books Pvt. Ltd.
Guha, Ramachandra
2007
India After Gandhi: The History of The World’s Largest Democracy.
New York: Harper Collins Publishers.
Maxwell, Nevil
1970
India’s China War. Bombay: JAICO Publishing House.
吉田 修
2010 「インドの対中関係と国境問題」『境界研究』No.1 、岩下明裕、福田宏(編)、pp.57-70、
北海道スラブ研究センター。
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
1B3
<テーマ別セッション I>
近現代インドにおける食文化とアイデンティティ
井坂理穂(東京大学)
本セッションの目的は、近現代インドにおける食文化の様々な変化に焦点をあてながら、これらの変
化が地域、宗教、カースト、ジェンダー、階級などに基づくアイデンティティや、インドというネーシ
ョン概念の構築・再構築過程とどのように関わっていたのかを明らかにすることにある。近現代のイン
ドにおける食文化の諸側面については、これまで歴史学、社会学、経済学、文化人類学、文学その他の
分野の研究者たちによって、異なる関心から取り上げられてきた。また、世界の広範な地域において、
インドの食文化に対する強い社会的関心がみられ、このテーマを扱った欧文・邦文の一般書も数多い。
こうしたなかで本セッションが着目するのは、こうした食文化に関する記述のなかで、しばしば地域や
宗教コミュニティなどの区分が前提とされ、あたかもこれらの区分によって食習慣や料理法が明確に分
かれるかのような印象を与えている点にある。近年の歴史学や社会学の成果が明らかにしているように、
地域・宗教・カーストなどの社会集団の区分は、実際にはきわめて流動的なものであり、歴史的に構築・
再構築されてきた側面をもつ。本セッションでは、こうした研究動向を踏まえつつ、食文化と社会集団
との対応関係を固定的なものとしてとらえるのではなく、多様な社会集団の構築・再構築の過程と食文
化とが、歴史的にどのように関わりあってきたのかを考察する。そのなかには、「インド」「インド人」
というネーション概念と食文化とを結びつける発想、すなわち「インド料理」という概念が、近代にど
のように構築され、時代が下るにつれていかに変化したのか、という問いも含まれている。
本セッションは、現在進行中の科学研究費補助金・基盤研究(B)「近現代インドにおける食文化とア
イデンティティに関する複合的研究」の成果をもととしており、それぞれ異なる方法論を用いる4名が、
これまでの研究内容を今後の見通しとあわせて報告する。まず篠田報告では、人々の地理的・経済的・
社会的属性が食文化とどのように関連しているのか、また、その関連が歴史的にどのように変化してい
るのかという問題設定のもとに、全国標本調査の「食料消費支出」に関する報告書が分析される。ここ
では特に、各食材の地域別の消費傾向に焦点があてられている。続く山根報告では、19 世紀半ばから
20 世紀半ばにウルドゥー語で書かれたデリー、ラクナウーの都市文化に関する文献の中から、食文化に
関する記述について、表現形態も含めた詳細な分析が行われる。これらの記述には、文人たちの抱く都
市への愛着、郷愁、誇り、変容しつつある社会への認識などが浮かび上がっている。小磯報告では、現
地調査をもとに、現代インドにおける都市中間層の食文化の変容が、外食産業、飲酒、健康志向などの
諸側面から検討される。最後に井坂報告では、植民地期にインドに滞在するイギリス人女性向けに書か
れた料理本や、彼女たちの残した回顧録などをもとに、在印イギリス人家庭で雇用されていた料理人の
実態と役割が考察され、こうした家庭で在地社会との接触を通じて構築された食にまつわる諸慣習や、
それらがインド都市部のミドル・クラス家庭に及ぼした影響が論じられる。
以上の4報告を通して、本セッションでは近現代インドにおける食文化とアイデンティティとの関係
について議論するとともに、食文化をめぐる歴史記述のあり方についても検討を加えたいと考えている。
­ 59 ­
1B3-1
インドにおける食料消費の動向と地域性
2012年10月6日
篠田隆(大東文化大学)
[email protected]
要旨
報告者は、近現代インドの食文化研究の一環として、地域、宗教、社会集団、階級など
の地理的・経済的・社会的属性が食文化とどのように関連しているのか、またその関連が
歴史的にどのように変化しているのかに関心をもっている。今回の報告では、上記の問題
関心のうち、地域と食材消費の関連について報告する。なお、地域は北部、東部、北東部、
西部、南部の4つに区分する。
資料として、インドの全国標本調査(National Sample Survey)の「食料消費支出」に
関する報告書を利用する。
「食料消費支出」調査は、
「雇用」調査とともに、全国標本調査
のもっとも主要な調査項目をなし、各ラウンドで必ず実施されている。そのうち、今回の
報告では、食料細目の個人消費月量および千世帯当たり消費支出世帯数のデータが得られ
る調査に依拠し、地域と食材消費の関連について、食料細目に踏み込んで検討を行う。主
要な検討項目は以下のとおりである。
第1に、主穀とその他食材の組み合わせについて。主穀のうち、米の個人消費量は北東部、
東部、南部で多く、小麦(ここでは全粒粉であるアーター)は北部、西部で多い。州別食
料細目別個人消費月量間の相関係数の分布をみると、小麦は乳製品のミルクやギ―(無水
バター)と強い正相関を、ヒヨコマメやケツルアズキなどの豆類、カリフラワーやホウレ
ンソウなどの野菜、粗糖、精製糖と中程度の正相関を示している。他方、米には強い正相
関を示す食材はなく、鶏肉とキャベツが中程度の正相関を示している。米と強い負相関を
示す食材には、小麦のほかに、ミルク、タマネギ、精製糖、粗糖がある。雑穀(トウジン
ビエやモロコシなど)は小麦や米に置き換えられ、個人消費量では重要度の低い穀物にな
っている。
第2に、地域の特徴をあらわす食材(個人消費量が他地域よりも相対的に多い食材)と
して、
(1)豆類:北部ではヒヨコマメ、ケツルアズキ、西部と南部ではキマメ、東部と東
北部ではレンズマメ、
(2)野菜類:北部ではカリフラワーとホウレンソウ、西部ではタマ
ネギとナス、南部ではオクラとトマト、東部ではジャガイモとナス、北東部ではキャベツ、
(3)ミルク・油脂:北部ではミルク、ギ―、西部では落花生油、南部ではココナツ油、
東部と北東部では芥子油、が指摘できる。油脂は、料理の味や風味に大きな影響を与える。
また、油脂の種類により、強く相関する食材の組み合わせが異なっており、この意味で食
文化の地域性をよくあらわす重要な食材となっている。
­ 60 ­
日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
第3に、肉食の動向について。肉類の個人消費月量は、全体的に増加傾向にある。ただ
し、肉類とりわけ牛肉や豚肉の個人消費データについては、諸種の規制や心理的抵抗から
過少報告されている可能性が大きい。個人消費月量および千世帯当たり消費世帯数の双方
で重要なのは、魚とヤギである。とくに、魚は農村部では千世帯当たり300世帯前後、
都市部でも250世帯以上が消費するもっとも一般的な肉食の食材で、北部を除くインド
全域で消費されている。これほどの重要性をもちながら、魚食あるいは魚料理がインドの
食文化としてきちんと位置付けられてこなかったのは残念なことである。
資料:
National Sample Survey Organization(2011), Key Indicators of Household Consumer
Expenditure in India, 2009-2010, NSS 66th Round.
National Sample Survey Organization(2011),
Level and Pattern of Consumer Expend
iture in India, 2009-2010, NSS 66th Round, No.538.
National Sample Survey Organization(2001),
ities in India, NSS 50
th
Consumption of Some Important Commod
Round,No.461.
National Sample Survey Organization(1997),
ities in India, NSS 50th Round,No.404.
­ 61 ­
Consumption of Some Important Commod
1B3-2
ウルドゥー語と都市文化―食文化を通した語彙の洗練とトポフィリア
山根聡(大阪大学)
本報告は、19 世紀半ばから 20 世紀半ばにウルドゥー語で書かれたデリー、ラクナウーの都市文化に
関する記述の中から、特に食文化に関わる部分を取り上げ、都市への愛着、郷愁、誇りといった「トポ
フィリア topophilia」1がいかに醸成されたかを考察する。デリー、ラクナウーはいずれもムガル朝と英
領期に栄枯を経験した大都市で、衣食住や言語など文化的諸側面で西アジアや中央アジアの文化やイス
ラームの影響を受けた。建築では王族やイスラーム聖者の墓廟の建設や市壁に囲まれた都市建設が進み、
言語ではアラビア語やペルシア語の語彙を多く含んだ美的語彙や独特の表現が発達した2。
19 世紀、イギリス人の依頼で都市や遺跡の記録が書かれた。最初期の作品には Charles Theophilus
Metcalfe(1785-1846)、William Fraser(1784-1835)らの要望に応えて 1820 年代半ばにペルシア語で書かれた
デリーの建造物の記録[Beg]がある。英領期にはイギリス人による地誌編纂作業と並行して、現地の文人
による英語での地誌が書かれた。これらの地誌はイギリス人を読者として想定していたと考えられる。
英語の地誌と一線を画すのが、ウルドゥー語による都市文化の記述である。18 世紀半ば、Nādir Shāh
や Aḥmad Shāh の度重なるデリー進攻でデリーの街を逃れた詩人 Mīr Taqī Mīr(1810 没)らは、ラクナウー
に移住後もデリーへの募る郷愁をウルドゥー詩に託した[Yamane 2000;山根 2000]。また[Inshā]は、19 世
紀初めにペルシア語で書かれたウルドゥー語の文法書だが、そこにはデリーの城下町 Shāhjahānābād の
独特な口語表現や女性の慣用句が紹介されている[Yamane 2009]3。同書に食文化を扱うくだりはないが、
デリーに住まう人々が都を誇りとしていたことは明らかである。
食文化など宮廷や都市の文化の記述は『四人の托鉢僧の物語 Qiṣṣa-e Cahār Darvīsh (Bāgh o Bahār) 』
に代表される物語文学(dāstān)での食事など文物の羅列に見られる[アンマン:24]。講談調の物語文学での
語彙の羅列はリズミカルな効果をもたらしていた。都市文化を回顧的に描くようになったのは、デリー、
ラクナウーの両都市の政治権力が衰退した 19 世紀末から 20 世紀初めにかけてのことである。Dihlavī
の『最後の宴 Bazm-e Ākhir』(1890)には様々な料理や食器名が羅列され、王族の優雅な食事の様子が詳述
された[Dihlavī:15-18]。同書に紹介されたナーンの種類は 25、料理名は 118 に及ぶ。同様の回顧録は 20
世紀初めのラクナウーでも記された。[Sharar]はラクナウーでのプラーオには数十種類があったとし、う
ち 7 種類を紹介している。
プラーオのもてなしを楽しんだ Nawāb Ḥusain Khān が「ご飯の君(cāwal wāle)」
と呼ばれた話や、腕利きの料理人の逸話などがちりばめられている。
『最後の宴』の序文で Walī Ashraf Ṣubūḥī は、
「本書の刊行により、インド大反乱後の文人らが、当時
のデリーの模様を描くきっかけとなった」として、同様の書籍 15 冊を挙げている[Dihlavī:9]。大反乱を
きかっけに、ウルドゥー詩では都の荒廃を嘆く哀悼詩が多く書かれたが[Yamane2000;山根 2000]、散文
でも往時の栄華を懐古する風潮があった。それら回顧録に描かれた贅を尽くした肉料理を主体とする食
文化は、インド・イスラーム文化の栄華の象徴であった。これらの記述が英語でなくウルドゥー語であ
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トポフィリアとは、地理学者イー・フー・トゥアンの造語で「場所への愛」を指す。
「酒を飲む」を「花を飲む phūl pīnā」などの表現。
3 ただし城内の王族と城下町 Shāhjahānābād の言葉にも大きな差があった。[Firāq:41]は、城下町の娘た
ちが互いを「お前 tu」と呼ぶことに王族の娘が「奥方 begam」ではないと驚いた話を紹介している。な
お Inshā は、デリーの洗練された言語を話す人々が、Nādir Shāh らのデリー進攻後、ラクナウーに移住
したことが、デリーの洗練された言葉づかいを広めたと記し、そのデリーの口語の影響を受けない発音
をする人が本当の「ラクナウー人」であると指摘している[Inshā:113-125]。
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
ったのはなぜだろうか。理由として、料理や食器に関する多彩な語彙や、王族の食事作法の一つ一つの
仕草の妙を英語で伝えることが難しかったとも考えられる。また豊かな都市文化を後世に伝えたいとい
う文人の願いや、回顧録が知識披露を競い合う場として機能していた可能性も考えられる。いずれにせ
よ、食文化の語彙群の記述は、都市への郷愁や愛着を見事に映し出している。
英領期に入り、西洋文化が浸透し始めると、インドのムスリムは食文化の変化に戸惑った。詩人 Mirzā
Asadullāh Khān Ghālib のように書簡でリキュールを褒めたたえる者もあれば[Ghālib:511;山根 2002:82-83]、
Nadhīr Aḥmad(1836-1912)のように、小説の登場人物を通してナイフやフォークを使ってイギリス人と会
食する体験に戸惑うムスリムを描く者もあった[Aḥmad:47;53-56;93-97]。滅び行く文化と到来する文化の
交錯を、ウルドゥーの文人たちは、食文化を通して描いたのである。食文化などムガル期の貴族文化に
おける細やかで優美な表現は、この都市の文化(文脈)で生活する人々の気概を反映させた。都市文化の
洗練された表現を発展させたウルドゥー語が、「インド・イスラーム文化」の象徴となっていった経緯
には、アラビア語やペルシア語など外来語彙の多用のみならず、洗練された表現に外来語彙が効果的に
用いられた、という点が重要であろう。ペルシア詩の「ブルブル鳥」があってこそ、「ブルブル鳥の涙
ほど ba-qadr-e ashk-e bulbul(「ほんの少し」)」という慣用句が成立するのである。
食文化を通してウルドゥー語で描かれた作品群は、1981 年にデリーに設置された Urdū Akādemī Dihlī
がデリーに関する文献を復刊して再び人々の目に留まるようになり、The Lucknow Omnibus のような英
訳が刊行されるようになっている。
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1B3-4
植民地期インドにおけるイギリス人家庭と料理人
井坂理穂(東京大学)
本報告は、植民地期にインドに滞在するイギリス人女性向けに書かれた料理本や家事全般に関するマ
ニュアル本、イギリス人女性たちの残した回顧録などを通じて、イギリス人家庭で雇用されていた料理
人たちの実態と役割とを検討するものである。「食」という場において、植民地支配者と在地社会とを
結ぶ役割を担っていたともいえる料理人たちに着目することで、インド在住のイギリス人たちが在地社
会との接触・相互作用を通じて、食をめぐる独自の慣習をどのように構築していったのか、さらには、
こうした諸慣習が台頭しつつあるインド都市部のミドル・クラス家庭にどのような影響を与えたのかを
考察する。そこには、植民地期にイギリス人支配者層やインド人ミドル・クラスの間で、家庭における
食のあるべきかたちがどのように再規定され、それが彼らの理想とする家庭像や、彼らの社会的な地位
やアイデンティティのあり方といかに関わっていたのかが示されている。
本報告は主に2つの部分に分けられる。まず前半部では、イギリス人家庭における料理人の実態を検
討する。イギリス人向けの料理本や彼らの残した回顧録からは、在地社会においてイギリス人家庭が食
に関していかに在地の料理人に依存していたのかが示されている。インド在住のイギリス人家庭におい
ては、一般に食材の購入や調理は、イギリス人女性(メムサーヒブ)の指示のもとに、在地で雇用され
た料理人が行うものとされていた。料理本や回顧録の著者たちは、その主な理由として、本国とインド
における調理環境の違い、気候、市場への不慣れ、家内労働者にまつわる在地の慣習などを挙げている。
家庭における彼女たちの役割は、ときには帝国支配そのものとも重ね合わせられながら、いかにインド
人の家内労働者たちを指導し、家や家計を管理するかにあるとされていた。イギリス人家庭で雇用され
る料理人は、その他の家内労働者の場合と同様に、人的ネットワークを通じて、あるいは以前の雇用主
からの紹介状にもとづいて選ばれた。イギリス人官僚・軍人やその夫人たちの回顧録には、紹介状の信
憑性のなさ、
「よい」料理人をみつけることの難しさ、賃金をめぐる問題などが詳細に描かれている。
料理人は、メムサーヒブからの指示のもとに市場で食材を購入し、バンガローの外に別棟として建てら
れた台所で調理を行った。料理本や家の管理についてのマニュアル本では、こうした台所の調理環境の
悪さや不衛生さがさかんに強調されており、メムサーヒブは在地の家内労働者たちに衛生面について厳
しく指導を行う必要があるとされている。メムサーヒブはまた、これらのマニュアル本や、彼女たち向
けに出版されている家計簿・情報誌などに頼りながら、料理人の申告する食材の価格を点検し、家計を
管理し、何を調理するのかを決め、つくり方について彼らに指示を出した。しかしその一方で、こうし
た本のなかには、調理道具の選択や調理の現場は料理人にまかせ、台所に頻繁に立ち入らないことを勧
める記述や、料理人が買い物の際に若干の金銭や食材を自分のものとすることについては大目にみるよ
うに助言する記述もみられ、料理人のやり方にある程度まかせざるをえなかった状況をうかがわせる。
また、料理人から調理法を学んだり、メニューについて彼らと相談することを勧める記述などもみられ、
実際に料理本のなかにはこうした接触・交流がもとになったと思われる調理法が多数紹介されている。
衛生や金銭面については彼らに対する不信感を表しつつも、メムサーヒブたちにとって家を運営するう
えで料理人は欠かせない存在であり、
「よい」料理人を確保することは重要な課題であった。回顧録の
なかには、料理人がより条件のよい職場をみつけて家を去っていったり、転勤先で料理人を探すのに苦
労したエピソードなどもあり、とりわけ料理人に対する需要が高い地域においては、彼らは他の家内労
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
働者の場合に比べて、雇用主に対してある程度強い立場をもちえたと思われる。
報告の後半部では、こうしたイギリス人家庭と料理人との接触のなかでうまれた料理や食をめぐる諸
慣習が、インド各地のイギリス人コミュニティにどのように広まっていったのか、さらには、19 世紀半
ば以降台頭しつつあったインド人ミドル・クラスの家庭にどのような影響を与えていたのかを検討する。
上記のような料理本やマニュアル本、家計簿や家計管理に役立つ情報誌は、ロンドンばかりでなく、カ
ルカッタ、ボンベイ、マドラスなどインド各地で数多く出版されていた。なかには在印イギリス人向け
の新聞・雑誌で紹介されたり、読者から好評を博し、複数の都市から何度も版を重ねて出版されるもの
もあった。こうしたマニュアル本の全インド的な流通に加えて、イギリス人官僚・軍人たちの転勤や地
域を超えた交流も、インド在住のイギリス人コミュニティの間で食をめぐる情報(調理法も含め)や慣
習が広く共有される状況をもたらしたと考えられる。
これらのイギリス人コミュニティの間での料理や料理人に関する情報や慣習は、在地社会、とりわけ
都市のインド人ミドル・クラスの間にも一定の影響を与えていったと思われる。たとえば 19 世紀後半
の記述によれば、ボンベイのパールシー・エリートのなかには、イギリス人家庭と同じように、テーブ
ルを囲んで男女が同席して食事をしたり、イギリス人家庭と同じような構成で家内労働者たちを雇い、
台所を料理人にまかせる者たちもみられる。イギリス人向けの料理本とよく似たパールシー向けのグジ
ャラーティー語の料理本も 19 世紀後半から出版されはじめ、こうした料理本を参照しながら主婦が料
理人に指示を出すこともあった。パールシー家庭に限らず、植民地期の都市部ミドル・クラスの間では
家内労働者の雇用が広く行われていた。こうした家内労働者のうち、とりわけ料理人の雇用については、
イギリス人家庭の場合とは異なり、ときには議論・論争の対象となることもあった。その背景には、調
理を誰が行うのかという問題が、イギリス支配や英語教育、社会改革運動の影響下で再検討されていた
家庭における女性の役割や、あるべき妻・母親像と大きく関わっていたことがある。イギリス人家庭を
意識しながら、妻には自ら台所に立つのではなく料理人を指導する役割を期待するエリート男性たちも
いる一方で、こうした夫の意向にとまどう女性たちや、家族の食事は妻や母親が自らの手でつくるべき
であるとする強く主張する人々も存在した。このほかにも 19 世紀後半から、インド人女性たち向けの
在地諸語雑誌や家事のマニュアル本がさかんに出版され、イギリス人女性向けの出版物にみられるのと
同様に、衛生、栄養、家計管理の重要性が強調されるようになったことや、女子教育の場を通じてもこ
うした知識が教えられるようになったことも注目に値する。20 世紀に入ってからは、官僚・軍隊の「イ
ンド化」が進むなかで、イギリス人と「同僚」として働くインド人エリートたちの数も増え、バンガロ
ーに住み、別棟の台所で料理人の料理をさせたり、イギリス人も含むさまざまなコミュニティ出身の同
僚・友人たちを招いて食事を共にする人々も増えていったと思われる。イギリス人やパールシーの家庭
では、肉・魚を扱うという理由からムスリムやクリスチャンがしばしば料理人として雇用されていたの
に対して、上位カースト・ヒンドゥー家庭では上位カーストの料理人が雇用されることが多かったと思
われ、たとえばこの時代に子ども時代を過ごした女性によって書かれた回想録のなかには、来客のため
の特別の料理(肉料理など)を用意する際には、父親が下位カーストの料理人を呼んでいたという記述
もみられる。
本研究はまだ開始してからまもなく、とりわけ後半部については数多くの課題が残っている。ミド
ル・クラス家庭における料理人の実態・役割についてのさらなる検討に加えて、ナショナリズムの台頭
やガンディーの政治・社会運動がミドル・クラス家庭における料理の観念や料理人の存在に与えた影響、
インド独立に伴う料理人たちをめぐる状況の変化、植民地期以降の外食産業の発展とそこに雇用された
料理人たちの実態などについても、今後調査を進める予定である。
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10 月 7 日(日)
9:30∼12:00
自由論題 VI
自由論題 VII
テーマ別セッション II
ベンガル研究における文学的構想力と歴史的構想力の交差に向けて
ビデオ報告
2A1-1
アフガニスタン ・カブール州北 方郡部における
地方ガバナンス
―元戦闘員および農民への聞き取り調査に依拠した考察-
林
裕
東京大学大学院新領域創成科学研究科
2001 年 9 月 11 日以降、アフガニスタンへの注目が増し、「国家」としてのアフガニ
スタン、あるいは国家の復興や政治的な考察は多くなされる一方、 2005 年前後から治安
事件が増加していく中で、地方や農村部における実態調査に基づいた考察は散見されるの
みにとどまっている。
本発表は、2001 年以降、深刻な汚職状況など、常にガバナンス の弱さが指摘されるア
フガニスタン「中央政府」ではなく、国民の 8 割近くが居住する「農村部」に焦点を当
てる。特に、中央政府のガバナンスとは対照的に、実生活において地域に根付いて機能し
ている地域社会とその地方ガバナンスを考察にすることで、広く指摘されているアフガニ
スタン中央政府の弱いガバナンスとは様相を異にする、地方農村部のガバナンスの一端を
明らかにすることを意図する。
具体的には、アフガニスタン・カブール州北方に位置する、カラコン郡およびミル・
バチャ・コット郡の 2 郡を対象として取り上げる。そして、聞き取り調査は、両郡に居
住する(1)元戦闘員、および(2)農民を主たる対象とする。
両郡は、1970 年代の対ソ戦および以後の内戦期において、首都攻略のための要衝とし
て、激しい戦闘が展開された地域であり、武装勢力によって住民の強制退去も行われ、内
戦前から存在していた伝統的地域農村社会も大きな影響を受けた場所である。だからこそ、
紛争の影響を受けた同国の地方農村社会の、現在の地方ガバナンスを観察する際の事例と
して適当であると考えられる。聞き取り調査の対象として元戦闘員を取り上げた理由は、
対ソ戦期や内戦期に難民あるいは避難民として戦闘を避けたのではなく、地域を守るため
に戦った元戦闘員は、農村部の積極的な構成員であると考えられるためである。そして、
農村社会の主たる構成員である農民もまた今回の聞き取り調査の対象とすることで、より
詳細に農村部における現状を把握するように努めた。聞き取り調査は、半構造化インタビ
ューを主たる方法として行った。本報告では、これらの聞き取り調査に依拠して、アフガ
ニスタン農村部における地方ガバナンスの状況を検討する。
報告者が 2004 年 12 月に実施した 同地域の 元戦闘員に対する聞き取り調査からは、
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
1979 年以降の対ソ戦、およびソ連撤退後の内戦の中で戦闘員として参加していた、農村
の若年男子たちが、2001 年以降も、かつて所属していた部隊・軍閥との結びつきを維持
しつつも、農村部に伝統的に存在していた有力者たちとも深い結びつきを有していること
を示していた。それは同時に、カブール市から車でわずか 1 時間超の距離にある、カブ
ール州内の郡部ですら、中央政府の行政機構・郡政府よりも、野戦司令官や農村社会にお
ける有力者による「統治」が機能している事の裏返しであるといえる。本報告では、
2004 年 12 月の追跡調査として、2012 年に行った現地調査も踏まえ、両郡における地方
ガバナンスの状況を検討する。
本報告は、アフガニスタンの現在を考察する際に、「国家」という単位のみではな
く、中央政府の弱いガバナンス下だからこそ、「地方」を考察レベルとして設定すること
によって、一地方ではあるものの内戦後のアフガニスタン社会の実 態をより精緻に把握し、
今後のさらなる検討の基礎を提供するものである。
主要参考文献
Amin Saikal, "Afghanistan's weak state and strong society" in Simon
Chesterman, Michael Ignatieff, and Ramesh Thakur (ed.), Making States
Work: State Failure and the Crisis of Governance, United Nations University
2005.
Barfield, T., Nojumi, N. and Their, J.A., The Clash of Two Goods: State and
Non-Satte Dispute Resolution in Afghanistan, W ashington D.C.: United
States Institute of Peace , 2006.
Colin Deschamps and Alan Roe, "Land Conflict in Afghanistan: Building
Capacity to Address Vulnerability", Afghanistan Research and Evaluation
Unit, 2009
Derick W . Brinkerhoff, ed., Governance in post-conflict societies: rebuilding
fragile state, London: Routledge, 2007
Hassan M. Kakar, Afghanistan: The Soviet Invasion and t he Afghan Response,
1979-1982, University of California Press, 1995.
Liz Alden W ily, “Looking for Peace on the Pastures: Rural Land Relations in
Afghanistan”, AREU 2004.
Richard Ponzio, Democratic peacebuilding: aiding Afghanistan and other
fragile states, Oxford University Press, 2011.
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2A1-2
江戸時代の世界地図における天竺の表現について
石崎貴比古
東京外国語大学博士後期課程
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江戸時代初期に本格化した「三国世界観から五大州」という世界認識の移行に伴い、日
本人の天竺観は変容した。現在、天竺という言葉は「インドの古い名称」と考えられてい
る。確かに仏教の祖国であった天竺は、大航海時代に伴う地理知識の蓄積に従って最終的
にインドと呼ばれるようになった、というのが一般的な理解である。しかし世界地図に記
された天竺の表現を歴史的に辿ってみると、このような理解が実情とは異なることが分か
る。つまり、天竺という古称がインドという新たな名称に変化し たのではなく、日本人が
天竺として認識していた場所が、次第に現在我々がインドと呼ぶ場所へと同定されていっ
たというのが、より実情に即した理解だと考えられる。本発表は江戸時代初期の世界地図
における天竺の表現を検討し、その変化の過程をより深く理解することを目的とする。
日本人の世界認識が大きく変容するきっかけとなった最初の出来事は南蛮人と呼ばれ
たポルトガル人との出会いであった。彼らはヨーロッパで作成された当時としては最先端
の世界地図を日本にもたらした。しかし、当然ながらそれらの 世界地図には、それまで日
本人が世界の三分の一を占める国だと認識していた天竺は、どこにも記されていなかった。
16 世紀の後半に彼らがもたらした世界地図そのものは現存していない。しかし、当時の
日本人が見たことが史料上から確認できるのがアントワープの地図製作者アブラハム・オ
ルテリウスによる史上初の世界地図帳『世界の舞台』( 1570 年初版)である。『世界の
舞台』に記された地名はアルファベットによるもので、当然ながら天竺という語はどこに
も存 在しない。イ ンド亜大陸に 記されてい たのは、 India orientalis、 Delli、 Goa、
Orixa など、当時の日本人にとっては未知の名称ばかりであった。
南蛮人がもたらした地図をもとに絵師が屏風に描いた南蛮世界図屏風は、日本人自身
が描いた最初期の世界地図であり、現在 20 点ほどが現存している。これらの世界地図は
1枚の原図からすべてが作成されたわけではなく前後関係について も諸説あるが、最も初
期のものとして大方の見解が一致しているものが 堺市の山本久氏の所蔵品である。16 世
紀末に作製されたこの世界地図に記載される地名のほとんどはラテン語の欧文地名を平仮
名で記したものだが、若干の地名が漢字や平仮名によって表記されている。この世界図の
中で天竺は「てんじく」という平仮名表記で登場するが、記されている場所はインド亜大
陸ではなく、現在のタイ付近であることは注目に値する。一方、インド亜大陸には南蛮、
こは(ゴア)といった知名が記されている。西洋式の近代的世界地図が紹介された直後の
時代の日本人にとって、天竺とインド亜大陸は無関係だったことが分かるだろう。
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
その後 17 世紀に入ると日本人の世界認識に大きな影響を与えた世界地図が登場 する。
マテオ・リッチが 1602 年に初版を北京で出版した『坤與万国全図』である。 同図は 17
世紀半ばに日本に伝来し、版本からいくつかの写本が作られた。その際に彩色が施され、
地名の一部が改訂され、振り仮名が付された。同図はそれまでの世界地図に例を見ないほ
ど細かな地名が記載されており、インド亜大陸においても例外ではない。その中で亜大陸
中央部には「インテア」と振り仮名が振られた印度厮當、そして南インド中央部には振り
仮名なしで應帝亜と記載されている。印度厮當は indostan、應帝亜は india からの音
写であると思われ、両者ともにいわゆる「インド」の総称であるが、双方が同時に記載さ
れている。また、ヒマラヤ山脈南部に小天竺、グジャラート付近に西天竺との記載がある。
南蛮世界図屏風のうち江戸時代初期に作製されたものの中にはインド亜大陸北部に天竺と
記された例もあることから考え合わせると、 17 世紀初頭から半ばの間に、天竺はインド
亜大陸と結び付けられるようになったと考えられる。
『坤與万国全図』の影響を受け、その後日本ではリッチ系世界図と総称される様々な
世界地図が作成される。日本で初めての刊行世界図とされる『万国総図』( 1645 年刊)
は、『坤與万国全図』の影響を受けた日本製世界図としては最初期のものであるが、天竺
は記載されず、亜大陸中央にインヂアと記されている。また、亜大陸北部には枠 で強調さ
れた「アジア」の文字が見られる。一方、『万国総図』と直接的な継承関係が ある『万国
総界図』(1688 年初版)においては『万国総図』でインヂア、アジアと記されていた亜
大陸には「小天竺」と大きな文字が書かれている。つまり『万国総図』から『万国総界図』
が製作されるにあたり、この部分が改変され天竺が復活しているのである。この後、天竺
は江戸時代の日本人の世界観に大きな影響を与えたとされる西川如見『増補華夷通商考』
所載の「地球万国一覧之図」(1708 年)等においても亜大陸上に記され続けた。
その後 18 世紀半ばになると蘭学の隆盛とともにリッチ系世界図から脱却した東西両半
球図が登場し、江戸時代後期には次第に天竺を記載しない世界図が作成されるようになる。
高橋景保が作成した官選の世界地図『新訂万国全図』( 1810 年)や、蘭学者箕作省吾に
よる『新製與地全図』( 1844 年)などがその例である。しかし、このような知識人によ
る世界地図から天竺が姿を消していく一方、民衆向けの通俗的な世界図においては幕末ま
で天竺の記載が存続する。
このように世界地図の歴史的変遷を見ると、天竺が当初は亜大陸とは無関係に存在し
た時代があったことが分かる。その後、リッチ系世界図に見られるように天竺は亜大陸と
結び付けられ、インヂア等と言った名称と併存し、最終的には世界地図から姿を消した。
世界地図における天竺の表現の変遷は、日本人のインド認識の変遷 として重要なだけでな
く、日本人の世界認識の特異点を論じる上でも、より詳細な検討が必要であると考える。
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2A1-3
サンスクリット古典のペルシア語訳とカーヤスタのアイデンティティ
榊
和良
北海道武蔵女子短期大学
インドとイスラーム世界との間の翻訳を通じての文化交流が最も顕著であった時期は、ムガル朝時代、
とりわけ16世紀終わりから18世紀半ばまでであった。この時代までに数多くのサンスクリット語文
献がペルシア語に翻訳され、インド人の考え方は次第にインドのムスリム知識人たちの世界に知られて
いた。当初、翻訳活動の担い手は、イラン高原周辺や中央アジアからやってきて、インドに一時的にあ
るいは恒久的に住みついた教養のある名家出身とされる移住者たちであった。彼らは中央政府や地方政
権の支配者や貴族たちの庇護を受けて行財政の業務に従事するとともに、ムガル宮廷を学問の座、幅広
い文学活動の拠点にした。
一方、異なる宗教を信じ、異なる民族的背景をもつ非ムスリムたちの中でも、古来、世襲的に宮廷付
きの書記や財務官として働いたカーヤスタやカトリーに属する人々が、行政語であり文化語となったペ
ルシア語を、サンスクリット語で著されたペルシア語教則本や辞書を編み出しつつ学び、ムスリム政権
のもとでも、行財政や税務の中・下級官吏として職を得て、書記として翻訳活動にも携わるようになっ
た。その結果、彼らの翻訳や文学的・歴史的叙述は、インドにおけるペルシア語文学だけでなくインド
の近代諸語による文学の発展に重要な貢献をすることになった。
Sāra Tattva(真理の摘要)(ペルシア語タイトル Khulāṣah al-Khulāṣah)は、デーヴィー・ダースとい
うサンスクリットの伝統的学問を身につけイスラーム的な環境で育ったヴィシュヌ派のヒンドゥーで
あるカーヤスタが、幅広い学問分野のサンスクリット古典のペルシア語訳や翻案を選び出し、ヒジュラ
暦 1084(1673)年に完成させた作品である。翻訳史の新しい時代を切り開いたカーヤスタたちの訳を、
それまでになされたムスリムによるペルシア語訳、底本とされたであろうサンスクリット原典とあわせ
て批判的に分析することも、ある程度可能であり意味のある研究ではあるが、ここでは、翻訳者として
のカーヤスタに焦点を当てる。
ムスリムの翻訳者たちの側には、異教徒の聖典の翻訳に従事することへの嘆きや背教や異端扱いされ
ることのないようにという信仰心との葛藤があった一方で、ヒンドゥーの翻訳者たちの台頭は、自らの
文化を異なる言語で翻訳するという自らの文化的アイデンティティを示すチャンスをもたらした。サン
スクリット古典のペルシア語翻訳史研究において、これまでヒンドゥーの翻訳者の立場についてはほと
んど考察されることがなかった。本発表では、ペルシア語によるヒンドゥーの翻訳者たちの文化的アイ
デンティティの発現の姿を、 Sāra Tattva 編纂の意図を考察することから明らかにする。
デーヴィー・ダースはこの書を7章に分ける。それぞれの章に表題はないが、主題を表す見出しが細
かくつけられている。第1章では世界の創造から始まる神と世界と人間の関係、第2章では人間存在の
精神生理学的な探究、音楽、医学、馬学、王朝史、行政学、軍事など諸学の概観、第3章ではカーヤス
タの起源から著者自身の家系、幾何学や占星術をはじめとして書記階級に必須とされた学問や技術の概
要、第4章では出家者と在家者のダルマ、ヴァルナ・アーシュラマのあり方、第5章では日々の儀礼や
有徳とされる行為、第6章ではブラフマンの本質、サーンキヤ・ヨーガ、アシュターンガ・ヨーガ、ラ
ージャ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、死の予兆、息による占いなど、そして第7章では神を知るための
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
霊知とヨーガ、解脱に至るための書物が説かれる。
この書に含まれる出典が明らかにされている文献としては、Mahābhārata, Viṣṇu-purāṇa, Gītāsāra,
Laghuyogavāsiṣṭha, Aṣṭāvakragītā, Kokaśāstra などがあり、さらにタイトルへの言及はないものの Baḥr
al-Ḥayāt, Śivasvarodaya, Majmaʻ al-Baḥrayn, Mukālimah-yi Bābā Lāl wa Dārā Shukoh, Śālihotra などが含ま
れる。ある意味ではこの書は、デーヴィー・ダースが考える14種の学問分野が網羅されたサンスクリ
ット古典のペルシア語訳や翻案などからの撰文集ともいえる。さらに、ムスリムの観点から翻訳された
術語に加えられたデーヴィー・ダースの注釈的説明からは、インドの伝統的諸学の知とイスラームにお
けるギリシア的諸学の知を兼ね備えたヒンドゥーの書記の能力の高さを窺い知ることができる。
一方、書記階級に求められる学問や技術としては、会計学をはじめとして、記数法、習字、文書起草
法、能書学、詩作法などが挙げられ、「数学や商売の知識がなければ、仕事も成功も名声も富も繁栄も
得られない」と述べるように、実学が重んじられていることがわかる。多宗教多民族社会を統治するイ
スラーム政権下では、宗教的・言語的に多様な人々が共存し、異教徒の官僚たちをささえる知恵や技術
が伝えられてきた。書記たちの歴史においても、さまざまな規範の書(dastūr-nāmah)が著され、技術
的な能力だけでなく、豊かな知性をもち、思慮深く、誠実・清廉で職務にふさわしい振る舞いとはいか
なるものかという文化的伝統を伝えてきた。異教徒であれ、そのような知性を身につける環境が整えら
れていたのである。イスラーム政権下のインドにおいても同様に、規範の書がカーヤスタらによっても
著されるようになり、この書はそうした伝統に立った「書記のための鑑文学」ともいえる側面ももって
いるのである。
カーヤスタの起源については、歴史家や人類学者たちの間で諸説があるが、碑文にも見られるように、
9世紀までにカーヤスタは自らの先祖を神々や聖仙に求め、系図を作り上げることでその系譜を正統化
しようとする行為を確立した。デーヴィー・ダースは、カーヤスタ誕生の神的起源と4つのヴァルナに
対して優位に立ちつつも彼らに奉仕する義務を与えられた第5のヴァルナとしての位置づけを、プラー
ナ文献に残されるパラシュラーマ伝説やチトラ・グプタ伝説などの神話的系譜と、自伝的に語られる現
世的系譜や土地とのかかわりを通じて正当化しようとした。
デーヴィー・ダースによると、カーヤスタにとって最も重要なことは、4つのヴァルナそれぞれのダ
ルマを完成させることである。そのために、カーヤスタの毎日の行為規則は、一日を四分割した時間帯
に4つのヴァルナのダルマを割り当てることで示される。これらの義務は、この書の第4章と第5章に
おいて詳細に説明される。こうした枠組みの中でカーヤスタの行為規則を示すことは、4つのヴァルナ
の義務を包括するダルマを実践する第5のヴァルナとしてのカーヤスタのアイデンティティの表明で
あった。
デーヴィー・ダースがこの書でカーヤスタやカトリーたちに求めたものは、「鑑文学」に示されるイ
スラームの倫理的規範 (akhlāq, adab) にも通じるヒンドゥー・ダルマの遂行であり、その身の処しかた
や人間としてのありかたは、職業的知識や技術より重要なものとみなされた。そしてそれを身に着けた
カーヤスタとしてのアイデンティティと自負が、この書を編纂させ、子孫に伝えようとしたのである。
自ら、敬虔なラーマ信徒であることを告白し、真理の探究のためにさまざまな宗教家や賢者らに学んだ
というデーヴィー・ダースは、スピリチュアルな世界への志向性を随所に示すことから、バクティ思想
研究の上からも興味深い対象であり、たとえ限られた対象にむけて著された文献であるとはいえ、この
書のもつ意義は大きい。
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2A1-4
ヴァーカータカ朝研究の新動向
石川
寛
財)東洋文庫
ヴァーカータカ朝は、グプタ朝とほぼ同時代の 3 世紀中頃から 6 世紀初頭にかけてデ
カン地方の北西部を支配した王国である。王国のもとで豊かな仏教壁画を擁するアジャン
ター後期窟が開鑿されたことは広く知られている。王朝の歴史研究は、 1963 年に
V. V. M i r a s h i に よ っ て 。 主 要 史 料 で あ る 刻 文 が 、 C o r p u s I n s c r i p t i o n u m I n d i c a r u m ,
volume 5
として校訂・出版され飛躍的な進展をみたが、その後いくつかの新しい刻文
の発見があり、また従来のテクストの判読に対する新しい見解も提出されている。とくに
1990 年代を中心にナーグプル大学の A.M.Shastri によって、ヴァーカータカ朝期の歴
史像の再検討が精力的に推し進められて今日に至っている。
本発表では、A.M.Shas tri による、王朝の起源地、首都の移動、周辺諸王朝との関係、
等についての新見解の当否を検証しながら、その焦点の一つであるカダンバ朝や前期チャ
ールキヤ朝など南インド諸勢力との関係について私見を述べたい。
1)王朝の起源地
V.V.Mirashi は か つ て ア ー ン ドラ 地方 起 源 説を 主 張し たが 、 刻文 の 解釈に 妥 当 性を欠
いて いて定説と なるに至ら ず、 その後も議 論が続いた 。 A.M . Sh a st ri は 、現マデ ィヤプラ
デーシュ州パンナー県ナンチュナーに同定されるカーンチュナカーを王朝創始時の首都と
し、起源地もこの都市周辺に求めた。
王朝はかなり早い段階からヴィンディヤ山脈をはさんでさらに南方の現マハーラーシ
ュトラ州ヴィダルバ地方にも足跡を記している。ナンディヴァルダナ(現ナーガルダン)
には数多くの刻文がのこされており、このナンディヴァルダナを起源地とみる史家も少な
くない。現時点では両者のいずれかを起源地として断定することは難しいが、少なくとも
ヴンディヤ山脈をはさんだ南北の範囲に起源をもっていたことはほぼ確実と考えられる。
2)首都の移動
王朝は2代プラヴァラセーナ1世の治世中に拡大した領土の西部の統治を、息子の サル
ヴァセーナ1世に委ねた。これ以降王国は東部と西部の二派に分かれて統治されることな
り、前者を王統主派、後者を王統分派として区別するのが一般的となっている。分派の首
都はサルヴァセーナ1世を継いだヴィンディヤセーナ(ヴィンディヤシャクティ2世)の
時から、ヴァツァグルマ(現ワーシム)に置かれていたことが明らかとなっている。
逆に主派の首都は移動していたことが刻文の記載から確実である。最初の首都は、先述
の カ ー ン チ ュナ カ ー 説 ( A.M. Sh a s tri ) と ナ ン デ ィヴ ァ ル ダ ナ説 と に 分 かれ る 。 そ の 後 パ
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
ドマプラ、ナンディヴァルダナ、プラヴァラプラと移 動した。移動には当然政治的理由か
あったと考えられるが、詳細は分からない。王朝初期にはグプタ朝 サムドラグプタの軍事
遠征、後半期には分派との関係が影響した可能性が推測される。
3)周辺諸王朝との関係
周辺諸王朝との関係では、婚姻を通じて深い結びつきのあったグプタ朝とのそれが重要
であるのは言を俟たない。しかしグプタ朝への従属の度合いについては議論がある。
A.M.Shastri はこれを同盟関係に近いものとみなし、従属説に否定の立場を鮮明にしてい
る。この問題については今後両者の史料のさらに綿密な付き合せが要請される 。
東部インドおよび南インドの諸勢力との関係については従来積極的な議論がなされてこ
なか った。 A. M . Sh a stri は こ の状況に一石 を投じ、南 西デカンの カダンバ朝に対 して強い
影響力を行使したとの見解を示す。そのあらわれの一つとして、カダンバ朝弟王統のシン
ハヴァルマンは、ヴァーカータカ朝分派のサルヴァセーナ2世の力で 即位したとする。シ
ンハヴァルマンのムーディゲレ銅板文書の解釈から導き出された見解であるが、サルヴァ
セーナ2世とシンハヴァルマンの両者の年代の開き(約 35 年間)をはじめとしてそれを
是とするには多くの難題が残されており、現時点では承認することは困難である。
カダンバ朝は北インドの先進的なサンスクリット文化を熱心に取り入れた王朝であり、
その点でヴァーカータカ朝との関係の解明はきわめて重要な意味をもつが、まず両者の刻
文の付き合せが肝要であり、今後の課題としたい。ここではより広い文脈から 、関連する
問題の一つとしてアジャンター後期窟の造営の担い手について考察 する。
後期窟(5世紀後半)の最盛期を示すものとして、 16 窟、17 窟、1窟、2窟などがそ
の壁画の存在とともに注目されてきた。 16 窟は分派のハリシェーナ王の大臣ヴァラーハ
デーヴァによる造営が窟に残る碑文に記されている。17 窟は王朝に従属した地方支配者
の手になるもので、その統治地域は王国南部に位置していたとする見解が今日有力となっ
ている。続いて6世紀の後半にかけて、7窟、 27 窟、28 窟など最末期の窟が造営された
が、中には未完におわったものも存在する。それらはヴァーカータカ朝滅亡後も建設が着
手された可能性が大きい。さらに既存の諸窟も、7世紀前半の『大唐西域記』の記述や同
世紀の最後の四半期の刻文から、その時点でも信仰活動が継続していた ことが明らかとな
っている。
6~7世紀にアジャンターの周辺地域に政治的影響力を及ぼした可能性が考えられるの
は、東方のヴィシュヌクンディン朝や北のカラチュリ朝をはじめとして複数存在するが、
南インドではカダンバ朝やわけてもバーダーミを都とする前期チャールキヤ朝が注目され
る。同王朝はタミル地方のパッラヴァ朝とともに初期のヒンドゥー教建築や美術において
質の高い造形を展開しており、アジャンター周辺地域を支配下におさめたことは 、仏教と
ヒンドゥー教の違いを超えて、そこに強い影響関係が成立したことが推測されるからであ
る。
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2A1-5
タイに陸路で向 かった人々 1
‐「南アジア」と「東南アジア」の繋がりを考える:①ムスリムの事例(中間報告)‐
高田峰夫
広島修道大学
これまで報告者は主にバングラデシュについて調査研究を行ってきた。「南アジア」
世界の枠組みで考えた場合、バングラデシュは「南アジア」の周辺に位置する。これまで、
バングラデシュ研究は「ベンガル」地域、引いては「南アジア」世界を前提に議論が進め
られてきた。いわば「南アジア研究」の一部としてのアプローチである。また、バングラ
デシュの圧倒的なマジョリティがムスリムであり、同国がイスラーム世界としての色彩を
色濃く持つことから、中東イスラーム社会との関わりにも注意が払われてきた。この場合、
「イスラーム研究」的なアプローチと言えよう。しかし、「南アジア」世界がそれだけで
孤立して存在するわけではない。バングラデシュの東隣には広大な「東南アジア」世界が
広がる。この事実を考える時、これまでのように東方への目配りを遮断し、西方にばかり
目を向ける研究姿勢には疑問が生じる。
ひるがえって「東南アジア」世界に目を向ければ、ビルマの東に位置するタイには
「インド系」(南アジア系)の人々のコミュニティがあることは良く知られてきた。これ
らの人々の来歴については、その多くがパンジャーブ人のシク教徒やタミル人であること
から、そこに「海を介した」交流があった(ある)ことを指摘する研究がある(佐藤宏、
Mani、他)。ただ、それらの研究はタイの南アジア系の人々の中に一定数のムスリムが
いたことに触れるものの、彼らの出自については言及がほとんどない。他方、英領期のビ
ルマには多数の「インド系」の人々が居住し、第2次大戦以前のラングーン(現ヤンゴン)
の人口は「インド系」が過半を占めていたことを、当時のセンサス資料やそれを基にした
ビルマ研究が指摘している。「インド系」とされる人々の中には、人口的に見て多数を占
める集団の 1つとし て ”Chittagonian” ( チ ッ タ ゴ ン 人 = 現 バ ン グ ラ デ シ ュ 南 東 部 の 広域
チッタゴン地方ないしその周辺の出身者)が挙げられており、そのほとんどはムスリムで
あったとされる。地理的に見れば、バングラデシュ南東部からビルマ西部にかけてはアラ
カン山脈が広がり、特に、ビルマ(現ミャンマー)領内ではアラカン(ヤカイン)州と他
の地域とを隔てる形で、交通の支障になってきたのは事実である。しかし、それとてヒマ
ラヤ山脈のような絶対的な障害であったわけではない。また、ビルマとタイの間には緩や
かな丘陵地帯があるものの、この地域で継続的に行き来があったことは、両国の歴史を少
しでも振り返れば、王国間の戦争と土地争いが繰り返されたことからも明らかである
(例:”Our War with Burma”)。とすると、タイの南アジア系ムスリム(少なくとも、
その一定の部分)は、「陸路で」ビルマを経由する形で、東部ベンガル(現バングラデシ
ュ)にその出自があるのではないか、との可能性に思い至るのは自然であろう。
同時に、南アジアから東南アジアまでを一続きで俯瞰してみると、バングラデシュは
むしろその中心に位置し、南アジア世界、東南アジア世界、その両方の連続性を考えるに
は絶好の場にある。こうした位置づけから、上記の可能性、すなわちタイの南アジア系ム
スリムの出自を東部ベンガル(現バングラデシュ)に探ることは、これまで2つの別々の
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
世界として切断されてきた「南アジア」と「東南アジア」とを繋ぎ直す試みともなり、と
りわけ、これまで関心が払われることが少なかった「陸路」による2つの世界の繋がりに
注目することにもなろう。引いては、それが「南アジア」世界と「東南アジア」世界とい
う「2つの」世界を捉えなおす一つの契機になるのではないか。
報告者は、先に拙著(2006) を公刊した際、 その付論の中でバングラデシュ側か ら見た
「東南アジア」世界との(部分的)連続性の可能性を指摘した。要約的に記せば、1)バ
ングラデシュ・ムスリム社会と東南アジア社会との類比、2)東南アジアを「沼地社会」
(鶴見)や「小人口社会」(坪内)と捉える見方との類比可能性、3)「開拓社会」とし
ての共通性、4)バングラデシュからインドへの人口移動を検討した中で提唱された『フ
ロ ン テ ィ ア 農 民 論 』 (Samaddar) の 東 方 へ の 拡 張 、 等 で あ る 。 こ れ に 加 え て 、 近 年 で は
van Schendel が「ボーダー研究」の視点から興味深い議論を展開している。また、報告
者自身がバングラデシュの人々と社会を見聞する中で経験的にその連続性を意識させられ
ることもあった。これらは全て「バングラデシュ側から」の見方になる。
これを「東南アジア側から」見ればどうなるのか。このような観点から、報告者は近
年、タイにおける調査研究に着手した。その結果、いくつかの意外な事実が浮かび上がっ
た。(ちなみに、以下で「発見」とは、これまで筆者も含め、多くの研究者の視野にそれ
らの人々の存在自体が入っていなかったことの表現、程度の意味である)
1.
タイ北部では現地で「パターン」と呼ばれるパキスタン系(事実上はパシュトゥン
系)の人々がいることは以前から知られていた(村上)。また同じく同国北部の中
国(雲南)系ムスリムに関する研究では、彼らとは別に「インド系」ムスリムが存
在することも指摘されてきた。しかし、その内実については、ほとんど研究がない。
実際に調べると、実はチェンマイの「インド系」ムスリムの多くが「バングラデー」
(事実上、現バングラデシュ東部地域)出身者の子孫であり、それらの人々が集中
してコミュニティを形成していることを「発見」。
2.
バンコクで多数見られる「インド系」の人々の中に、実は多数の「ビルマ系ネパー
ル人」がいることを「発見」(正確には、ビルマ語をネイティブとする「ネパール
系ビルマ人」)。しかも、若い世代が続々と流入を続けている。
3.
さらに、上記1の関連から、チェンマイで「バングラデシュ系」ムスリムに関して
予備調査を開始するう ちに、多数の”Burmese Muslim” が「不法滞 在」し、現在も
続々と流入している事実を「発見」。それらの人々は、形質上も文化的にも、明ら
かに南アジア 系(恐ら くはバングラ デシュ系 )の子孫だが 、 Rohingya ば かりでは
ない。
つまり、以上の人々の存在に着目することで、これまで見えていなかった「南アジア」
(主に「南アジア東部」=現バングラデシュからネパールにまたがる地域)と「東南アジ
ア」の地域的連続性が浮かび上がってきた。
今回の報告では、この中からタイ北部のチェンマイ市を中心に分布する「バングラデ
シュ系」ムスリムの事例を取り上げ、若干の検討を加えたい。
1
本研究は、科学研究費助成「タイに陸路で渡ってきた南アジア系及びミャンマー系移
民:地域研究の新たな地平を拓く」(代表:高田)に基づいて実施したものの一部である。
­ 79 ­
2A2-1
カースト・民族 集団と砒素汚染 被害の関係
谷正和
九州大学
アジア各地で、砒素に汚染された井戸水を飲むことで慢性砒素中毒が発生している。
砒素汚染は自然由来のものであり、住民の属性とは無関係なはずであるが、これまでの研
究では貧しい住民がより被害を受けていることが知られている。しかし、経済力以外の社
会的属性が砒素汚染という環境問題による被害の発現にどう影響するかについては、まだ
研究が進んでいない。そこでこの研究では、ネパール・ナワルパラシ郡の砒素汚染地 58
か所の村における調査データを使い、カースト制を構成している社会集団を単位として砒
素中毒発症の関係を分析した。さらに、その分析で得られた社会集団と砒素被害の傾向を、
砒素中毒と関連がある可能性のある「世帯経済力」、「教育程度」、「リスク行動」とい
う 3 つの社会的要因との関係という視点で考察した。
研究対象地はネパール南部のテライ平原の中央に位置するナワルパラシ郡の砒素汚染地
域である(図1)。テライ平原の 20 すべての郡で砒素汚染が確認されているが、ナワル
パラシ郡はその中で最も汚染の深刻な地域である。このナワルパラシ郡では、砒素汚染地
の住民・行政の砒素汚染に対する対処能力向上のため、2010 年 12 月から国際協力機構
(JICA)草の根協力事業が実施されている。本稿は、その草の根事業の一環として実施
した事業対象 58 コミュニティにおける世帯悉皆調査に基づいている。調査はネパール語
の調査票を用いた対面他記式聞き取りによって、事業スタッフが行った。この調査によっ
て記録されたのは 5,798 世帯、32,925 人(男性 16,933 人、女性 15,992 人)である。
表 1 はカースト・民族集団ごとの基本的統計値集計と千人当たりの患者数示したもの
である。全体の平均では、千人毎の患者数は約 12 人であるが、上位カーストのブラフマ
ン、チェットリの患者数はこれに比べてはるかに低く 1.3 人である。それ以外の集団で
20
15
10
5
0
図 1 テライ地方とナワルパラシの位置
図2集団ごとの千人当たりの疑い患者
­ 80 ­
日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
は、イスラム教徒と民族集団が平均より患者発生数が低く、ダリット、中位カーストはほ
ぼ平均と等しい。その中で突出して患者数が高いのはこの地方の先住民であるタルー族で、
1000 人当たり 18.7 人である(図2)。
この結果を受けて、タルーの砒素中毒り患率が突出して高い理由を探るため、砒素中毒
と関連すると考えられる要因を分析した。まず、集団の平均年収を比べると、必ずしも直
線的ではないものの、先行研究と同様に、全体としては年収が上がるにつれて患者発生率
が下がる傾向がみられる(表1)。世帯ベースで見ても、患者のいない世帯(N=5535)
の 平 均 年 収 は 101444 ル ピ ー で あ る の に 対 し 、 患 者 が 1 人 で も い る 世 帯 ( N=263 ) は
80464 ルピーと約 20%少なく、統計的にも有意な違いがある(t= 2.983, p=0.003)。
しかし、タルーの年収は低いものの、他の集団と比べて特別に低いわけではない。
教育を受けた期間をみると、ブラフマンが最も長く 8.3 年、チェットリ 7.1 年と続き、
タル ーは 5.0 年 と平 均に 近く 、最 も教 育 年数 の短 いの はダ リ ット で、 3.1 年で あ った
(表2)。このように、タルーの教育程度は中位に位置しているので、もし教育が砒素中
毒の発症に何らかの関係があるとしても、教育年数でも集団としてのタルーの砒素中毒発
症率の高さは説明できない。
3 つ目の要因として、飲酒、喫煙というリスク行動との関係を見てみる。砒素中毒の症
状が見られない住民をみると、喫煙率は 16%、飲酒率は 13%、これに対し砒素中毒の症
状のある住民間では、喫煙率は 34%、飲酒率は 28%と症状のない住民に比べて、2倍以
上の比率であった。したがって、喫煙、飲酒も砒素中毒発症と何らかの関係がある可能性
がある。しかし、社会集団をみると、疑い患者の喫煙、飲酒率が高いのは中位カーストの
(42%、29%)、ダリットの(39%。32%)これに対し、タルー族の皮膚症状がある住
民の喫煙、飲酒率をみると、それぞれ、28%、29%と、ほぼ疑い患者全体の平均に近い
かそれ以下である。したがって、リスク行動という要因も、砒素中毒の発症とは関係があ
る可能性があるものの、タルーの発症率の高さをリスク行動で説明することはできない。
この分析でカースト・民族集団で砒素中毒り患率を比較すると、上位カーストが低く、
先住民タルーのそれが突出して高いことが分かった。しかし、砒素中毒と関連がある可能
性のある要因の分析では、タルーの罹患率が特別高くなる傾向は認められなかった。
表1カースト・民族集団ごとの世帯数、人口、砒素
中毒疑い患者数、1000 人当たり患者数、平均年収
世帯数
人口
患者
千人毎
患者
平均年
収
上位カースト
781
3980
5
1.3
154926
中位カースト
1829
10715
120
11.2
80544
ダリット
836
4709
48
10.2
99214
他民族
390
2062
15
7.3
158934
1788
10355
194
18.7
84979
167
1081
7
6.5
103126
5798
32925
389
11.8
100492
タルー族
イスラム教徒
総計
­ 81 ­
表2ジャットごとの平均教育年数
ジャット
上位カースト
中位カースト
ダリット
他の民族
タルー族
イスラム教徒
合計
16歳以
上の人数
2908
7008
3017
1558
7263
687
22458
平均教
育年数
7.9
4.1
3.1
6.7
5.0
3.6
4.9
2A2-2
小規模・零細工業の発展と
農村における「疑似ブランド品」需要の展開:一試論
柳澤
悠
インド経済の成長率は 1980 年前後に加速化するが、農業部門の成長と農村需要の増大がこの経済
成長加速化の最大の要因として指摘されている(Pulapre Balakrishnan, Economic Growth in India: History
and Prospect, Delhi: OUP, 2010)。この中で、工業部門も成長してゆくが、1972 年から 1987 年までの間
に製造業の雇用者の増大率は、組織部門で年 1.25%だったが、非組織部門では 4.47%に達し、雇用者
数に関しては工業部門の成長はインフォーマル部門が主導した。こうしたインフォーマル部門の優越
については、政府による産業規制や労働法制などに主因を求める説は有力であるが、政府規制等がほ
と ん ど な か っ た 1930 年 代 の メ リ ヤ ス 生 産 の 事 例 や Tirthankar Roy (“Development or Distortion?
‘Powerlooms’ in India, 1950-1997,” Economic and Political Weekly, 33, 16, 1998)が明らかにするように、政
府による諸規制等は小規模・零細規模工業の発展の促進要因の一つではあれ、主因とは言い難い。本
報告では、パワールーム産業、既製服・メリヤス品生産、履物製造業、プラスチック再生業などを例
として、農村社会における安価な工業品への需要増大に注目しながら、安価工業製品の生産・流通の
システムと生産者の小規模性・零細性との関連について、市場調査資料や既往の産業集積地の研究に
依拠しながら、試論的に考察したい。
(1)パワールーム産業、既製服・メリヤス品生産、履物製造業、プラスチック再生業など小規模・零
細規模工業の発展は、農村市場や貧困者層の需要の増大が主たる基盤となっている。パワールーム部
門は農村市場を掌握することでミル部門を圧倒してきたし、綿ニット(メリヤス)産業も、農村や貧
困層の市場を主たる基盤として発展してきた。履物生産の動向は、安価な非革の履物を選好する農村
住民の動向によって基本的に規定されている。
(2)農村市場の中で非常に重要な部分を占めるのは、農村の非エリート層の需要である。Filippo Osella
and Caroline Osella (“From Transience to Immanence: Consumption, Life-Cycle and Social Mobility in Kerala,
South India”, Modern Asian Studies, 33, 4, 1999)などによれば、階層的な農村社会において、経済的購買
力を増大しつつある非エリート階層は、村内有力者層への抵抗や社会的な上昇への志向を、工業品を
含むさまざまな消費の多様化の形で表出するが、その際それは、品質保証はないが安価な「疑似ブラ
ンド」品への需要増大となって現れる。
(3)小規模・零細企業は、安価品生産に適合した生産のシステムをもって、こうした農村や貧困層の
「疑似ブランド品」需要に対応していると思われる。安価品は、一般に零細規模生産者によって生産
されている。例えば、デリーの既製服生産企業に関する調査は、この地域の既製服生産者が生産規模
で大きく 3 つの層に分かれ、それぞれが製品の価格帯と関連していることを示唆する。こうした関係
は、アーグラー市の履物産業の場合、一層顕著に見られる。
a) これらの産業では、一般に生産の最小ユニットが小さく、かつ小ユニットでの生産が効率的であ
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
る。既製服産業中心地 Tiruppur の場合、中心的な工程の縫製工程では、6-8 台の縫製機が一台のモー
ターで動かされるパワーテーブルが、生産のユニットとなっている。
b) こうした縫製の小規模の生産ユニットでは、現場で生産過程に参加しながら監督を行う形の労働
者管理が生産効率の上昇に成功している。より大きな工場はユニットを自工場内に複数擁しているが、
その場合にも、経営者はその工程を直接統括しないで、「内部コントラクト」に出している。
c) 細分化され、かつ変動する市場にむけて、多様なサイズ、スタイル、素材、生産方法、質など無
数に近い組み合わせから成る製品を生産するうえで、標準的な製品を大量ロットで生産する方式より、
小規模生産による生産が適合している。織物業の場合に、織機の操業速度は生産効率にとって決定的
ではなく、どのように製品を替えながら多様な織物を生産するかのが特に重要であり、その点でパワ
ールーム企業の迅速な対応力は、大規模生産方式のミルよりも高い効率を実現させる重要な要因の一
つである。
d) インフォーマル工業では、出稼ぎ性をもった低教育水準の労働者を多く雇用している。その背後
には、安価な疑似ブランド製品の生産に従事している小規模・零細産業のほとんどの分野が労働者に
高度な熟練や知識を要求しない水準にあり、かつ季節的変動の激しい市場に依存して生産していると
いう事情がある。経営側が、世代的な再生産はもちろん現在の労働者についても農村社会に負担を転
嫁することで、低学歴労働力を安価に使用するシステムといってよい。コントラクターは農村に拠点
をもつ出稼ぎ型労働力を都市インフォーマル部門の労働需要と結びつける機能をもっている。
e) 小規模・零細生産者は、原料や機械など生産に必要な投入財を安価に入手することによって、生
産コストを引き下げてきた。アーグラー市履物業の零細生産者は、しばしば不適格品を扱う市場で原
材料を入手し、再生ポリ塩化ビニール(PVC)は安価な靴や家具の原料として使われている。ルディ
ヤーナ市の機械工業の場合には、裁断した残りの金属板を順次下流の工場が再利用し、最後はスクラ
ップ鉄として再生するというシステムがある。また、機械は中古を買うことが多く、輸入機械のコピ
ー品を作成して使用することも多い。
f) パワールームやいくつかの小企業・零細工業の分野では、経営者の生産や取引の現場への参加の
深さが、重要な競争力となっている。生産の実際を悉知した経営者が、自ら労働に参加しながら監督
を行っていることが、Tiruppur のメリヤス業がインド市場で地位を確立するうえで重要な貢献をして
いるように思われる。ルディヤーナ市の軽機械工業や金属工業のダイナミックな発展を担ったのは、
自ら熟練職工でもある経営者達である。
これらの諸側面は相互に関連している。
「安価であるが質の保証がない」疑似ブランド製品を生産す
るに適した一連のシステムを、小規模・零細規模経営はもっているといってよいだろう。
(4) さらに、1980 年代から始まる輸出の増大にもかかわらず、インドのインフォーマル工業の拡
大・発展の特徴を基本的に規定しているのは、輸出ではなく、変動する農村社会や都市の下層を含め
た広範な階層の消費動向であったこと、輸出の増大が経営規模の拡大をもたらすかどうかは、画一的
にはいえないこと、東アジアからの中古機械など輸入機械の導入が中小・零細企業の発展にとって重
要であったことなど、貿易との関連を指摘する。
(5)これら小規模・零細工業が、農村社会や地域社会と密接に結合して発展してきた、いわば「農村
的起源」をもつ「下からの発展」としての特徴をもっていることも指摘する。
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2A2-3
西北ネパール山岳地域における開発の動態とその変容
̶ネパール・アンナプルナ山岳地域社会の事例
Dynamics of development and transformation in the northwestern mountainous region of Nepal
- Case study of community in Annapurna mountain area
森田
剛光 (名古屋大学大学院文学研究科)
MORITA, Takemitsu (Graduate school of letters, Nagoya University)
E - mail : [email protected]
本研究発表の目的は、西北ネパール山岳地域における開発の動態から、人々の生活の変化・社会変容
を考察することにある。
現在のネパールは、マオイストとの 10 年にも及ぶ人民戦争という内戦を経て、王制を廃止し、連邦
民主共和制に向けた体制の転換期にある。しかしながら、マオイストが掲げる理想とは逆説的に、地域
社会の近代化とグローバル化は加速、定着化することになった。この期間、国難の危機を避け、低迷し
たネパール国内の経済状況に活路を見出すべく、海外への出稼ぎを選択する人々の増加と組織化が進ん
だ。多くのネパールの人々が、東南アジア、中東へとむかう現象が増大した。
近代化、資本主義の急速な浸透は、海外からの多額の送金と、もたらされる大量の情報や物資という
形でネパールに流入しつづけている。結果としてネパールは、人口の 7.2%にあたる 192 万人が国外に
居住し、移民による送金が、国内総生産の 22%にのぼる移出民国家になっている(2011 年)。
都市人口は、急速に地方から移動、移住する人々流入によって増加しつづけている。他方で、人々を
送りだしたため、山岳地域では、村落内の人口が減少し、村落の維持もままならない状態に陥っている
ところも少なくない。しかしながら、その実態は、十分な研究と議論が行われていない。人民戦争によ
る政治的状況が、村落での研究調査を阻んできた側面に加え、近代化による都市への集住と村落の過疎
化として、画一的にとらえる傾向から見落とされてきためである。
この現象を媒介し、より強化しているのは、ネパール各地に拡げられている自動車が通行可能な道路
の敷設と延伸である。道路の敷設は、ネパールの地域社会の物流、生業形態などへ様々に影響を与えて
いる。従来ならば、都市部に移動する際、何日も山道を徒歩で移動する以外に方法をもたなかった村落
において、外部との接触と交流の機会を格段に増大させた。道路の敷設の影響は、流入する物資への購
入機会と依存度を増やし、半自給的な地域においても、貨幣経済へさらなる依存と転換を余儀なくさせ
ている。そのため、ますます都市部へ、海外への出稼ぎにネパールの人々を向かわせる。
西北ネパール、アンナプルナ山岳地域にあるカリガンダキ渓谷では、道路敷設に関わった他地域の
人々が、敷設後も村落に残り、村落システムを担い、維持している実態がある。道路敷設と開発の結果
によって、地域社会の民族構成に変化が生じ、村落の社会・政治システムの改変をもたらしている。
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
同地域では、道路敷設が、ポカラや他地域から多くの物資が押し寄せる契機となっている。一方で、
当該地域人々は、敷設された道路を積極的に活用している。ムスタン郡の村落において、この地域の名
産となっているリンゴを、従来の主要な輸送手段であったカッチャル(ロバ)に代わり、ジープ、マイク
ロバス、トラックを利用することで、より大量に、より安価に、より早く出荷することが可能になった。
さらに住民間の協議により農家を組織化することによって、以前に比べ、安定的な現金収入を得られる
ようになっている。今後、西北ネパールでは、国境が開かれたならば、インドと中国を結ぶ、大型トラ
ックが通行する幹線として機能し、その変化は、さらに急速、かつ大規模なものになると予測される。
本研究発表では、発表者が、2001 年以降、継続的に研究調査を実施してきたアンナプルナ山岳地域
のカリガンダキ渓谷を中心に、地域社会の変容を編年的に考察し、西北ネパールの山岳地域に住む人々
の社会の構造的変化を明らかにする。さらに本発表者が、GPS ロガーの計測を元に以前発表した(2009
年、日本南アジア学会第 22 回全国大会、於北九州市立大学)同地域の道路の空間的な拡がりのデータを
最新のものに更新し、新たに考察に加える。
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2A2-4
カースト、土地、労働移動―ビハール州の事例から
日本貿易振興機構アジア経済研究所
立命館大学
小田
辻田
祐子([email protected])
尚也 ([email protected])
<要旨>
本報告は、2011 年 11 月にビハール州東チャンパ―ラン県 4 村 200 世帯を対象に行った標本調査を
もとに出稼ぎ労働移動を社会階層、土地所有の視点から検証した調査報告である。農村世帯の出稼ぎ
労働移動の決定要因を分析した結果、社会階層別ではムスリムの出稼ぎ労働が多く、指定カーストで
少ない傾向がみられた。土地所有と労働移動の関係をみると、土地なし層や小規模な土地所有世帯で
は出稼ぎ労働移動の可能性が高いが、土地の所有サイズが増加するにつれて移動する可能性は低下す
る。しかしながら、大土地所有世帯になるほど労働移動が高くなる傾向がみられた。土地所有と労働
移動の関係は非線形(逆U字型)であると考えられる。
<問題意識>
途上国では、所有する農地が生活の糧を得るのに十分でない世帯がある。農村での雇用機会、とくに
非農業部門の雇用機会は限定的である。それでも全世帯が労働移動をしているわけではない。本報告
では「世帯」に注目する NELM(New Economics of Labor Migration)の枠組みから、農村世帯の「社
会階層」「所有する土地」に注目して、労働移動の決定要因を探る。
<先行研究>
・社会階層と労働移動の間には相反する関係:低カースト層で短期の出稼ぎ労働移動が多くみられる
という研究(Breman, 1994; Deshingkar & Farrington, 2009)。一方で、出稼ぎ労働移動のプッシュ
要因と考えられる貧困と労働移動との間に強い関係はみられないとの研究(Bhagat, 2010) 。
・土地の所有規模と労働移動の間には相反する関係。土地なし、小規模土地所有世帯で労働移動の確
率が高く、所有する土地が増加するほど労働移動は低下。大都市所有世帯では再び増加するU字型の
関係(Oberai and Singh,1983; Van Wey, 2005; Winters et al. 2001)。一方で、土地のサイズと国内
労働移動の関係は不明瞭(Oda, 2007)との研究。
・先行研究から導きだされる結論は、ケースバイケースであり、労働移動の背景を詳しく検討する必
要がある。
<定義>
・出稼ぎ労働者:過去 1 年間に 1 か月以上連続で村外での労働に従事した者。村外に通勤して農業、
非農業職に従事する労働者は含まない。
・世帯:通常 chulha を共有する者。ただし、村に配偶者、親、子供のいずれかが居住しており、一
年に最低一度帰省、もしくは送金をした村外居住者(既婚者で妻子が村外居住の場合を除く)を含む。
<世帯レベルの労働移動の決定要因>
・プロビット推計
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
説明変数:過去 1 年以内に少なくとも 1 人の出稼ぎ労働者がいた世帯=1、過去に出稼ぎ労働者が全
くいない世帯=0
被説明変数:世帯の規模、カースト・宗教(OBCs, EBCs, SCs & Muslim)、世帯の所有する農地、
世帯の所有する農地の 2 乗
・推計:①カースト・宗教、土地の全変数(Eq1)。カーストと土地に共線性の可能性があるので、
②カースト・宗教変数(Eq2)、③土地変数(Eq3)
<推計結果と議論>
表1 世帯レベルの労働移動決定要因
EQ(1)
Variable
Household size
0.135 ***
(0.045)
OBC
-0.193
(0.313)
EBC
0.128
(0.353)
SC/ST
-0.141
(0.396)
Muslim
0.862 *
(0.500)
Landholding size
-0.498 **
(0.227)
Landholding size squared
0.054 *
(0.033)
Constant
-0.231
(0.334)
Obs.
166
Pseudo R-square
0.106
Log likelihood
-97.64
EQ(2)
0.0978 **
(0.040)
-0.0188
(0.301)
0.5274 *
(0.311)
0.2817
(0.352)
1.2404 ***
(0.473)
-0.500
(0.313)
166
0.076
-101.33
EQ(3)
0.129 ***
(0.043)
-0.588 ***
(0.203)
0.065 **
(0.032)
-0.139
(0.240)
166
0.076
-100.96
*, ** and *** indicate significance at 10%, 5% and 1% level, respectively.
・世帯のサイズが大きいと労働移動の可能性高い。世帯の人数が多い世帯(とくに男性の人数)では
出稼ぎによる家族労働への影響が少ないとする先行研究と整合的。
・社会階層と労働移動:ムスリム世帯で有意に高く、指定カースト世帯で低い。なぜ、同じように経
済社会的弱者層とみなされるムスリムは労働移動し、指定カーストはしないのか。
・土地と労働移動:所有する農地の係数がマイナスで有意、土地のサイズの二乗がプラスで有意→土
地なし、土地の所有サイズが小さい世帯では農業以外の労働移動へのインセンティブが高い。土地の
サイズが大きくなると農地からの収入があるため労働移動の必要なし。しかし大土地所有世帯では労
働移動の確率増加。教育水準が高く、都会での高収入の機会があるからではないか。
<参考文献>
Tsujita, Y. and H. Oda (2012) Caste, Land, and Migration: A Preliminary Analysis of a Village
Survey in an Underdeveloped State in India, IDE Discussion Paper 344
(http://www.ide.go.jp/English/Publish/Download/Dp/334.html)
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2A2-5
【インドにおけ る児童労働政策 の展望 】
【柄谷 藍香】
【大阪大学大学院
国際公共政策研究科
博士後期課程3年】
インドにおいて、1980 年代から多角的に講じられてきた児童労働廃止政策が 児童労働
を創出している地域、そしてより狭義である家庭に普及したことによって発生した、「従
来の児童労働」と「現代の児童労働」の相違点を検証した上で、既存の児童労働廃止政策
にはどのような効力があり、また、今後どのような政策が必要とされているのかを明らか
にすることを本報告の目的とする。
まず、インドにおける児童労働の近年のトレンドを列挙すると、5~14 歳の児童労働
者人口は、CENSUS of INDIA の統計結果によると、1971 年は約 1,080 万人、1981 年
は約 1,360 万人、1991 年は約 1,130 万人、2001 年は約 1,270 万人に上る。しかし、
National Sample Survey の 2009-2010 年の統計によると、5~14 歳の児童労働者人口
は約 490 万人と公表されており、2001 年からのおよそ 10 年間で、児童労働者数が大幅
に減少している。インドでは、具体的にどのような児童労働廃止政策が履行されてきたの
か。
イ ン ド 政 府 は 1987 年 に 「 国 家 児 童 労 働 政 策 ( ”NCLP” : a National Child Labour
Policy 、 以 下 、 ”NCLP” ) 」 を 採 択 、 そ の 翌 年 の 1988 年 に 「 国 家 児 童 労 働 計 画
(”NC LP s”:N ational C hild Labour P rojects )」を成立し、 児童労働問題に対処するた
め、1980 年代後半から本格的に国家児童労働政策を開始した。このようなインド独自の
児童労働廃止に向けた活動計画を補完する目的で、1992 年に ILO の「児童労働廃止に関
す る 国 際 計 画 ( 以 下 、 ”IP EC”) 」 と 呼 ば れ る 技 術 協 力 活 動 、 い わ ゆ る 教 育 プ ロ グ ラ ム に
調印した。今日の”N CLP” は 272 地域において活動を展開し、 ”N CLP”の対象地域に ILO
の 児 童 労 働 廃 止 プ ロ ジ ェ ク ト が 適 用 さ れ る 形 態 を と っ て い る 。 こ の こ と か ら 、 ”IP EC”は
国際的且つ外 部からの 一方的な支援 ではなく 、 ”NC LP ”と密 接に絡 み合う関係性 である と
言える。”IP EC”の イ ンド国内プロジェクトには、 ”INDUS P roject (2003 年1月~ 2009
年 3 月 ) ” や ”Converging Against Child Labour: Support for India ’s Model Project
(2008 年9月~2012 年3月)(以下、”Convergence P roject” )”等がある。
”INDUS Project”は、 アメリカ労働省およびインド政府から出資された 4,000 万ドル
の 予 算 で ILO に よ っ て 実 施 さ れ た 。 対 象 地 域 は 、 Madhya Pradesh 、 Maharashtra 、
Ta m i l N a d u 、 U t t a r P r a d e s h 、 以 上 4 州 内 の そ れ ぞ れ 5 地 域 及 び N C T o f D e l h i 、 の 合 計
21 地域である。対象となっているのは、手巻きビディー/タバコ、真鍮産業、レンガ産
業、花火産業、履物工業、ガラス産業、錠前産業、マッチ産業、採石場、繊維産業の合計
10 の 指 定 さ れ た 有 害 労 働 産 業 に 従 事 し て い る 子 ど も た ち 80,000 人 で あ っ た 。 対 し
て、”Convergence P roject” は、 ”INDUS Project”と同様、アメ リ カ労働省およびインド
­ 88 ­
日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
政府から出資されたも の の、予算は非公表 となっている。対象地域 は、Bihar、Gujarat 、
Jharkhand、Madhya Pradesh、Orissa、以上5州内のそれぞれ2地域、合計 10 地域とな
っている。対象となっているのは、手巻きビディー/タバコ、お香産業、金属収集、家内
労働、石炭収集、建設業、露店、花火産業、溶接産業、ポリエチレン加工業、ゴミ拾い、
採石場、服飾、カーペット産業、レンガ産業の合計 15 の指定された有害労働産業に従事
している子どもたち 48,000 人である。それに加えて、14~17 歳の子どもたち 2,000 人
への特殊な技術を習得させることを目的とした職業訓練が実施されている 。
”INDUS
P r o j ec t ” の 主 た る 目 的 は 、 ” Tr an s i t i o n a l
Education
Centres” ( 以
下、”TEC”)と呼ばれる、いわゆる NFE を子どもたちに提供することにあった。”TEC”
での教育は、学校に一度も通ったことがない子どもたちやフォーマル教育を退学せざるを
得ず労働を強いられていた子どもたちを労働から引き離すための触媒的な役割を果たすこ
とを目的としてきたが、実際のところは労働と学習を両立している子どもたちがかなり多
い。報告者が、 ”INDUS Project”及び ”Convergence P roject” 双 方の対象地域に該当し て
いる、Madhya Pradesh の Jabalpur 内のスラム街で行った調査では、89%の子どもたち
が労働と学習を両立していた。従って、既存の政策では、プロジェクト対象者は児童労働
を続けながら教育を受けるという日々を送っており、すべての子どもたちを対象としたア
フターケアはないに等しい。
これに対して、”Convergence P roject” は「ITI トレーニング」を 2012 年1月から開
始している。 ”ITI”とは”Industrial Training Institute ”の略称で、コンピュー ターやモバ
イル関連等、合計 1,386 種類のトレーニング内容がある。ITI トレーニング受講対象者は
ILO のプロジェクトの下で教育を受け、その後正規学校において 8th grade(中学2年修
了)まで教育を継続することができた 14~17 歳の子どもたちである。8th grade 修了者
という条件を設けているのは、トレーニングにおいて特殊な技術を得るには基礎学力が必
要となるからである。当該トレーニングの Jabalpur における予算は一年間 2,155,500 ル
ピー(約 144 万円)で合計8種類のトレーニング内容が実施される。このように ILO の
プロジェクトは、子どもたちが教育を踏まえた上で何かしら特殊な技術を要する職業を得
るために、教育から職業訓練へと移行しつつあるのである。
このような実践的なプロジェクトが行われる一方で、インドにおいて国内的な法の下
の 自 助 努 力 も 児 童 労 働 廃 止 に 向 け て 進 め ら れ て い る 。 特 に 、 公 益 訴 訟 ( ”PIL” : Public
Interest Litigation )は直接の被害を受けた当事者に拘らず、裁判所が「公益的精神を持
ち、且つ善意を持って行動している」と認めるならば、第三者も原告となり得るという特
徴があり、社会への影響力も大きいとみなされている。公益訴訟の児童労働関連判例の代
表的な事案には、”Bandhua Mukti Morcha vs Union of India” 、”M.C. Mehta vs State
o f Ta m i l N a d u ” 、 ” B a c h p a n B a c h a o A n d o l a n v s U n i o n o f I n d i a ” 等 が あ る 。 前 者 二 例 は 、
1980 年代初めから半ばに提起された訴訟であり、児童労働関連法の改革に貢献した。ま
た、”Bachpan Bachao Andolan vs Union of India” は、2005 年に提起された比較的新
しいケースであり、2009 年7月 15 日の判決確定後、その前年までに比べ2倍以上の児
童労働者が救出されるようになり、さらに逮捕された雇用者は7倍以上に上る。
児童労働廃止に向けた国際的援助及び国内政策の相互の関係性の実態とその実行力、
そして、公益訴訟の経緯や判決後の実態を明らかにし、より有効な児童労働廃止に向けた
政策立案につなげたい。
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
2A3
「ベンガル研究における文学的構想力と歴史的構想力の交差に向けて」
谷口晉吉・丹羽京子
本セッションはベンガル研究における歴史的アプローチと文学的アプローチの交流の可能性を探る
ものである。もとより文学研究と歴史研究は目的も方法も異にしており、簡単に結びつけることはでき
ないものの、今後の柔軟な研究活動につなげていくため、共通の「場」と「人」を対象とする歴史的分
野と文学的分野の交流を行う意義は少なくないと思われる。本セッションの構想力という言葉は哲学者
三木清の用語からきているが、それはこの言葉が文学の分野における感性的なものを含みこんだ社会・
人間の把握と、歴史研究の本分たる客観的事実と論理に基づく社会・人間の把握との交流をとおして、
お互いに学びあい、それぞれの領域における社会と人間の把握のリアリティーを深めていきたいという
このセッションの目的に合致すると考えられるからである。
文学に関して述べれば、ベンガル文学はこれまでタゴールを一種の頂点とした「近代的な」文学を前
提として語られることが多かったのだが、その全景を見渡すといわゆる「ハイ・カルチャー」としての
文学では見過ごされがちな「文学」シーンが脈々と流れていることもまた事実である。タゴールとてバ
ウルなどとの接触なしではベンガル詩人として大成できなかった側面があり、そうした中世以来のダイ
ナミックな文学活動を視野に入れた文学研究は今後いっそう重要となろう。そのような文脈から、ここ
では「文学」を広く捉え、また「文学の場」を意識しつつ、中世におけるベンガルの演劇や近代以降の
詩と歌の扱いといった問題を通して、本来分離することができなかった歌謡や演劇的側面をも含みこん
だベンガル文学に迫っていくためのヒントを提示するつもりである。
一方、ベンガルの古代から近代の歴史研究には、これまでさまざまな観点からの蓄積があり、それら
がベンガルの各時代の「文学が行われる場」や「人」に関して、どのような知見を示し、どのような歴
史像を提示できるかという観点からも、それぞれの歴史的研究は他分野の研究に貢献するところが大で
あると考えられる。ここでは、歴史研究者のこれまでの研究に基づいて、近代ベンガル社会の特徴とさ
れるクシャトリヤの欠落したジャーティー秩序とクリニズムの起源を中世初期における社会状況の中
に探り、次いで、ベンガルの植民地近代における村落支配と農村社会の構造を地域類型と開発の進行と
の関わりで理解し、さらに、植民地都市コルカタを中心として広汎なネットワークを構築し、塩取引な
どを出発点として富を蓄え、土地を集積した商業エリート層の経済活動を考察することを通してベンガ
ル社会・経済・文化の特質を検討したい。なお、彼らは宗教的・文化的パトロンとしても顕著な役割を
果たしており、岡倉天心など日本人芸術家たちを迎え入れたタゴール家もその一つである。最後に、天
心のインド体験を再考し、タゴールやヴィヴェーカーナンダとの交流を検討することにより、ベンガル
の近代を多角的に捉えたい。こうして日本という要素を加えることで、新たな視点が生まれることも期
待される。
以上のような文学、歴史の両分野における多様な研究の交差する地点で、新たなベンガル像を構想す
る道筋を考えていくことが本セッションの目的である。
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2A3-1
ベンガル社会の形成:中世初期におけるその萌芽
古井
龍介
東京大学東洋文化研究所
近代ベンガル社会を特徴づけるのはブラーフマナとシュードラで構成される独特のジャ
ーティ秩序と、特定のブラーフマナ・カーヤスタ家系に特権的地位を与えるクリニズムで
ある。後世の伝統はそれらの起源をヴァルナ間混交とアーディシューラ、バッラーラセー
ナ両王の事績に帰するが、その歴史的信憑性は低い。一方、中世初期の碑文および文献史
料 か ら は 9 - 13 世 紀 の 社 会 変 化 に お け る そ れ ら の 萌 芽 が 読 み 取 ら れ る 。そ こ に は ま た 、新
たな社会秩序の形成に伴う諸集団間の緊張と交渉が認められる。
ブラーフマナ:アイデンティティーの明確化・ネットワークの形成・権威の確立
5世紀の銅板文書に初めて登場して以来、ベンガルにおける初期のブラーフマナは何よ
りも土地保有農民層、中でも在地有力者層の一部として存在していた。彼らはその後、ア
イデンティティーを明確化しつつ他の在地有力者層とともに台頭し、農村の主要な住人で
あり続けたが、9世紀以降、それらとは区別された高位のブラーフマナの存在が顕著とな
る。彼らは特定儀礼の専門家などとして王権により特に土地・村落を施与され、あらゆる
収入・資源の徴収権とその他の特権を与えられて農村に居住し、学識(ヴェーダ学派・学
統・特定の知識)と親族関係(ゴートラとプラヴァラ、3代ないし4代に渡る家系)に基
づくより明確化されたアイデンティティーを主張した。
北・西ベンガルの銅板文書には被与者の出身地と居住村落も記され、それにより彼らが
マディヤデーシャ出自を主張して故地の名を付けた集落を北ベンガルに設立し、また、出
身地・居住村落・被与村落を結ぶネットワークを形成したことが示唆される。ネットワー
ク 形 成 は 王 権 に よ る 村 落 施 与 の み な ら ず 、ブ ラ ー フ マ ナ の 自 主 的 移 住 に よ っ て も な さ れ た 。
ネットワークの結節点となる拠点村落も形成され、それらの展開したヴァレーンドラ、ラ
ーダという下位地域が重要なアイデンティティー構成要素となっていった。
11 世 紀 以 降 、王 権 が ダ ル マ シ ャ ー ス ト ラ と プ ラ ー ナ を 規 範 と す る 傾 向 を 強 め る と 、高 位
のブラーフマナは特定儀礼(シャーンティ、マハーダーナ)の専門家およびダルマの権威
(ニバンダ編纂者)として王権に接近し、規範の保持者として宮廷に権威を確立した。彼
らはまたプラーナの編纂を通して女神の大祭など在地の信仰体系の取り込みと自身の司祭
としての組み込みを図り、土地保有権も集積して農村での権威の強化に努めた。
同業者集団の形成:ジャーティへ
ブラーフマナらのアイデンティティー明確化とネットワーク形成に並行して、他の社会
集団にも同様の動きが認められる。碑文で比較的明らかとなるのは書記集団であり、9世
紀以降、同業家系間の婚姻や、銅板文書銘刻に専従する家系の登場、彼らが拠点とする村
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
落の形成が見られる。また、近年発見された新史料により、複数の市場を拠点とする商人
たちがヴァニググラーマと呼ばれる同業集団を形成していたことも明らかとなった。
社会秩序体系化への試みとそれに伴う交渉
ブラーフマナの権威の確立と同業者集団の形成という文脈の中、前者による社会秩序体
系 化 へ の 試 み が 、13 世 紀 成 立 の ブ リ ハ ッ ダ ル マ プ ラ ー ナ 所 収 の 物 語 か ら 読 み 取 ら れ る 。そ
こでは、ダルマスートラ以来のヴァルナ間混交の理論と叙事詩・プラーナのヴェーナとプ
リトゥの神話を組み合わせて、様々な社会集団および外部者を4ヴァルナ混交とヴェーナ
の身体からのムレーッチャの誕生の結果として、また各社会集団の生業をブラーフマナ集
団 の 助 言 を 受 け た 正 し き 王 プ リ ト ゥ の 定 め た も の と し て 、そ れ ぞ れ 説 明 し て い る 。こ れ は 、
様々な同業者集団が形成され、新たな社会集団が加わりつつあった当時の社会的現実をブ
ラフマニカルな世界観・理論によって認識・説明するものだが、それにとどまらず、諸社
会集団をブラーフマナとの関係を基準に上・中・下の階梯に位置付け、その反抗と服属を
表象し、その生業をブラーフマナの構成するダルマの集会により決定されたものとするこ
とで、自らの優位を前提に社会秩序を再定義・体系化する試みと捉えられる。
物語の詳細な分析は、この試みに伴う他集団との緊張・交渉とその微妙なバランスを明
らかにする。生業を定義されるのは上層を中心とする知識、権力、富のいずれかを有する
集団に限られるが、それらは農村社会の中でブラーフマナがその協力を要した集団と解釈
される。特に重要なのは書記(カラナ)や医者(ヴァイディヤ)など別系統の知識の保有
者である。ブラーフマナは彼らの最上のシュードラとしての地位と知識の特殊性を認める
一 方 で 、自 身 へ の 忠 誠 と 依 存 を 強 調 し 、彼 ら に よ る 自 己 の 知 的 領 域 の 侵 犯 を 警 戒 し て い る 。
こ の よ う な 態 度 は 金 商 人( ス ヴ ァ ル ナ ヴ ァ ニ ク )・金 細 工 師( ス ヴ ァ ル ナ カ ー ラ )の 中 位 へ
の 格 下 げ と 生 業 の 再 定 義 や 、占 星 術 師( ガ ナ カ )の 地 位 の 曖 昧 な 定 義 な ど に も 現 れ て い る 。
結論
以上からはクリニズムの萌芽がより明確なアイデンティティーを有する高位ブラーフ
マナの、移住によるヴァレーンドラ、ラーダでの拠点形成とネットワーク構築、さらには
宮廷と農村社会における権威の確立にあり、ジャーティ秩序の形成が同業者集団形成とい
う社会的現実へのブラーフマナらによる解釈と体系化の試みに始まることがわかる。重要
なのはこれらが後世さらなる意味・解釈を付与され、受容されていく過程である。アーデ
ィシューラ/バッラーラセーナ伝説により、クリニズムの起源は社会的過程から王の事績
に転化された。異説の存在にも関わらず、ジャーティの起源はブリハッダルマプラーナの
ヴェーナによるヴァルナ混交とプリトゥによる生業の確定が定説となった。これらの解釈
を生み、その受容を促した社会的文脈は中世後期に求められる。モンゴロカッボ、チョイ
トンノの諸伝記などの中世ベンガル語史料は豊富であり、中世初期の変化を前提としてそ
れらを読みこむことで、近代ベンガル社会への道程を跡付けることが可能となろう。
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2A3-2
カトマンドゥ盆地に保存されるベンガル語・ミティラー語演劇写本
北田信
大阪大学
南アジアの近代演劇の発達において、ベンガル語演劇のなした貢献は大きい。19 世紀末よりメガロポ
リス・コルカタでは、ヨーロッパから輸入された近代演劇に、インドの伝統的な要素を加え、新しいス
タイルの演劇が誕生した。これがタゴールの演劇作品に影響を与え、さらにタゴールの作品は以降のベ
ンガル語演劇に受け継がれてゆく。それだけでなく、演劇の様式は映画に受け継がれ、ベンガル語映画
界は、その他の地域の映画たとえばボリウッド映画などとは異なる趣向の作品を生みだしてゆく。ベン
ガル語近代演劇を創始した人々は、ベンガル地方の伝統芸能(ジャットラなど)の影響を強く受けてい
たという指摘があり、また実際に、タゴールの演劇作品をみると、そうしたことは顕著に感じられる。
ベンガル地方は長く豊富な演劇の伝統を誇っており、巡回演劇であるジャットラだけでなく、仮面舞
踊のチョウや、音楽伴奏とともに宗教詩をパントマイムで見せるパラ・キルトンなど地域ごとに多種多
様である。
ところが、不思議なことに、中世ベンガル語文学として現在われわれの手に入る文献のなかには、戯
曲(演劇台本)は一つも伝わっていない。中世ベンガル語最初の文献 Shri Krishna Kirtan(クリシュ
ナ讃歌)は、おそらく今日のパラ・キルトンのように、歌い手が演劇的ジェスチュアを交えて見世物と
して演じたものだと推測されるが、伝わっている写本は、歌詞のみが記載されて歌詞集成の形態をとっ
ており、実際に上演する際に行われたであろう登場人物の台詞のやりとりなどについては痕跡がない。
同じことは他の作品にも言え、たとえば Manasaa Mangal(蛇女神の霊験記)も、現存するテキストは
叙事詩の形式をとる。つまり、中世ベンガル語には、サンスクリット・プラークリット古典劇や、タゴ
ールの演劇作品に相当するような戯曲テキストが、まったく残っていないのである。
西ベンガル州バンクラ県で筆者が実際に観劇することを得たパラキルタン(一人芝居)では、ラーダ
ー・クリシュナ伝説や詩人チャンディダースの禁断の恋の物語を、詩人の詩節からの引用をはさみなが
ら、語りや登場人物の対話の部分は、演じ手が、アドリブで行う、ということが見られた。中世ベンガ
ル語の文学作品は、おそらく、当時も同様に演じられたと想像される。だからこそ、演目のなかの、ア
ドリブで行われるダイアローグ(対話)は、テキスト化されなかったのだと考えられる。
ベンガル語の演劇台本は、意外にも、ベンガル地方ではなく、カトマンドゥ盆地で見つかっている。
ネワール族の王朝であるマッラ王朝時代に、カトマンドゥ盆地では文芸が盛んに振興され、戯曲が多数
著されたが、これらの戯曲の多くは、ベンガル語・ミティラー語で書かれている。そこには登場人物の
台詞が逐一記され、これらの言語の生き生きとした会話体の貴重な資料となっている。
カトマンドゥ盆地に保存されるこれらの演劇写本は、従来のベンガル語文学史研究においては、ほと
んど顧みられることがなかったが、実のところきわめて重要な意味を持つものだといえよう。マッラ王
朝下のカトマンドゥ盆地では、ベンガル・ミティラー地方からの文化輸入に努力がはらわれていたから、
これらの戯曲は、14 世紀~17 世紀のベンガル・ミティラーで行われていた演劇の形態を、忠実に保存
するものであると考えられる。これらの戯曲の作者は、多くがインド東部からカトマンドゥ盆地に移住
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
してきたバラモンであるが、中には、ネワール人の作家の手になるものとされるものも存在する。この
事例から、ベンガル語・ミティラー語が、今日のベンガル・ミティラー地域の境を超えて、通商・文化
交流の場で広く用いられるリングァ・フランカとしての役割を果たしていたことが分かる。またマッラ
王朝では、ベンガル語・ミティラー語を用いて著された作品に範をとりつつ、時代的に少し遅れてネワ
ール語による演劇作品が書かれ始める。そこにはカトマンドゥ盆地の地方色豊かな題材が扱われるよう
になり、
“ネワール的なるもの”と呼びうるものが、輪郭を取り始める。
マッラ王朝期に栄えた演劇文化は、今日でもカトマンドゥ盆地において、その後継・痕跡が認められ
る。たとえば、マッラ三王国のなかでも芸能がもっとも振興されたといわれる古都バクタプル(バルガ
オン)では、街区のあちこちで、市民によって風刺劇が演じられるという催しが毎年ある。
また、プラーナに題材をとった「マダーラサー姫の誘拐」は、カトマンドゥ盆地内で非常に人気が高
かったようであり、サンスクリット、ミティラー語、ネワール語による戯曲写本が多数残っているが、
現在でも、ファルピンの村落において、演じられているという。
以上のように、カトマンドゥ盆地に伝わるベンガル語・ミティラー語の戯曲写本群は、新期インド・
アーリア語の会話文体の唯一無二の貴重な資料であり、また、東部インドからネパールへつながってい
く共通した芸能文化の跡を示すものである。マージナルでマイナーな事象を観察することにより、広大
な言語文化圏の変化発展の本質に肉薄することができる、ということを示す、良い例だといえる。
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2A3-3
ベンガルの地域類型論の構築に向けて
谷口
晉吉
発表の狙い
私は植民地期北部ベンガルの地域研究を行ってきたが、そこにおいては既成のヒンドゥ・カースト論
的社会像では捉える事の難しい社会関係が展開しており、通説的なインド史理解・ベンガル史理解に対
して強い違和感を感じている。本発表の目的は、私の抱えるこの違和感を受け止めたうえで新たなベン
ガル歴史像を如何に構築したらよいのかという問題に迫るための予備作業の一環として、18 世紀後半か
ら 20 世紀前半という比較的に史料が多く残されている時期のベンガル社会の幾つかの重要な側面を考
察するということにある。
私は、ほぼ上記の観点に沿ってベンガル南部3県についてカースト、人口動態、農業生産、土地制度
などについて詳細な検討を行い地域類型の検出を行ったが、その他の地域についての同様な作業は未完
である。その為に、今回の報告では A において「カースト」の地域分布という限定された視角から植民
地期ベンガルにおける農村社会の地域類型論を展開するが、地域類型を構成するその他の諸側面につい
ては、B、C において一瞥するにとどめざるを得ない。いずれにしろ、ベンガル地方と一口に言っても、
その社会構造には実に大きな地域的偏差があり、文学研究であれ歴史研究であれ、この地域特性を踏ま
えた上で議論が展開されねばならないであろう。
A:社会集団の地域的分布の特徴
(1)ベンガルの県(district)レヴェルにおける地域特性を、1872 年、1901 年の2つの人口センサス
を用いて「カースト」という限られた視角から分析する。その上で、若干の県について 1881~1931 年
人口センサスを用いて、県の下の行政単位である地区(sub-division)、タナ(警察区)レヴェルの分析
を行うことにより、県レヴェルの分析では集計操作の過程で消えてしまうマイクロレヴェルの地域特性
のあることを特に指摘したい。
(2)地域特性を検出するために、幾つかの社会集団について地域分布を観察する。取り上げるのは、
1)Brahman、Baidhya、Kayastha の上位 3 集団、2)Kaibarta、Namasudra、Rajbangshi の 3 大集団
(人口数でみて)
、3)Bagdi、Sadgop などの農業集団、4)Shah、Sunri、Subarnabanikh、Gandhabanik、
Tambuli らの商業集団、5)Sutradhar、Teli、Tanti、Shankari、Kamar、Napit、Dhoba などの職能・
技能集団、6)Goala など牧畜集団、7)Pod、Tiyar、Manjhi などの漁業水運業集団、8)奴隷的従属労働
者集団 Sudra、9)Chamar、Muchi など不可触民とされる集団、10)Buna、Chuar、Santal、Bhumij、
Munda、Oraon、Lepcha、 Garo、Chakma などの山岳部族集団、そして、11)ムスリム集団である。
この分類は極めて不十分であり、バラモンなどは起源を異にするいくつかの系統に分かれるし、ムスリ
ムの中にも深い亀裂が走っているが、当面はこの大雑把な分類を採用しておく。
(3)この発表における社会集団に対応する言葉は生得集団 jati である。通説とは異なって、それをカ
ーストと呼ぶことが不適切な場合がある。Jati は必ずしもカーストと同義ではなく、むしろ部族 tribe
との親近性が強い場合もあると本報告者は考えている。
(4)諸社会集団の地域分布をみていくと、明瞭に指摘できるいくつかの特徴がある。バラモンといく
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
つかの職能・技能集団はほぼ満遍なくベンガル各地に展開しているが、他方、僅か数県にその居住が限
定される社会集団がある。後者は、ベンガルの東端(ミャンマーとの国境地帯)、北端(Himalaya の山
麓地帯)
、西端(Bihar、Orissa との境界地帯)、南端(ベンガル湾岸の森林地帯)など周辺部に多くみ
られる。なお、これらの社会集団の地域的集中性は、県レヴェルから、さらに地区・タナのレヴェルに
まで降りると、一層顕著になることが多い。
(5)巨大社会集団の中では、歴史的に早い時期にヒンドゥ社会への同化がすすんだ Kaibarta と比べ
て、同じく巨大集団である Rajbangshi や Namasudra などは、その内部に多くの職能・技能集団を持
つことを指摘できる。彼らは通常はカーストとして扱われているが、ヒンドゥ的社会分業体制から相対
的に独立した生活スタイルと生活基盤を、かなり遅い時期まで保持していたと思われる。恐らくこれと
密接にかかわる事実として、これらの経済的独立性の高い諸社会集団は地域的に相互に棲み分けを行っ
ており、同一地域に重なって存在することを回避していると思われることを指摘しておきたい。
(6)バラモンはベンガル全域に分布するが、その密度にはかなり明瞭な濃淡がある。とくに、北部ベ
ンガルにおける上位カースト層の分布密度は低く、他方、ベンガルの西部、中部、南部に彼らが非常に
濃い分布密度を示すいくつかの地域がある。北部ベンガルの人々の多くは、Koch、Mech などボロ(ボ
ド)を母語とし、かつては独自の王国と独自の社会・経済・文化秩序を持つ部族集団であった。この地
域では彼らこそが地域社会の主人公であり、彼らがヒンドゥ社会体系の中では不可触民の地位に置かれ
るとしても、彼らがそのような地位を甘受していたとは思われない。16 世紀以降の Neo-vaishnavism
のこの地域における隆盛の一つの土壌をここに見出すことが可能かもしれない。おそらく、西部ベンガ
ル(Medinipur、Burdwan、Birbhum、Bankura)における基層的な社会集団をなすと想定しうる Bagdi
の人々にとっても、事情は似通っていたであろう。
(7)ベンガルのムスリム集団の 95%以上は Atlaf、Ajlaf などと呼ばれ、ベンガル住民からの改宗者
であったと思われる。彼らは西方から移住して来た Ashraf とは明確に区別され、両者の間には社会的
交流はないと報告されている。東ベンガルでは全人口の 50%を超える人々がムスリムに改宗したのであ
り、彼らがどのような状況の中で主にどのような社会層からムスリムに改宗したのかを知ることは、わ
れわれの議論にとってきわめて重要な意味を持つのだが、残念ながらこれを解き明かす信頼度の高い史
資料は見いだせない。19 世紀中ごろまでは、この共通の基盤のゆえに、ヒンドゥとムスリムの間の双方
向の改宗や、民衆レヴェルでの共生や習合が成立し得たと思われる。
(8)最後に、個々の社会集団からではなく、ベンガルを構成する諸地方(division)ごとの社会集団
構成の特徴を概括的に示しておこう。
B:集団分布の地域的特性と農村社会構造の諸類型
C:人口構成の地域的特性を変容させる要因、特に、ジュート・水稲栽培と開発の進行
まとめ
(関連する地図と表は、発表時に配布する。
)
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2A3-4
商家の活動からみた 18 世紀末から 19 世紀前半のベンガル
神 田 さ や こ
慶應義塾大学
1 8 世 紀 末 か ら 1 9 世 紀 半 ば の ベ ン ガ ル で は 、 塩 商 い を 通 じ て ザ ミ ン ダ ー ル と な り 、 社
会的エリートの仲間入りをした商家が多くみられた。シュニル・ゴンゴパッダエの小説
『あの頃』では、カルカッタのジョラシャンコに屋敷をかまえるシンホ家は、富裕なザミ
ンダールとして登場する。同家はフーグリ県の寒村から移住し、塩商いで成功し、ザミン
ダールになったと設定されている。これは、実際にこの時期に急成長した商家の多くが辿
ったパターンであり、既存の商業コミュニティとは一線を画している。本報告は、塩商い
で成功した三商家をとりあげ、かれらの活動から、イギリス東インド会社政府(以下、政
府と略)と市場・商人との関係、嗜好や儀礼的価値を含む消費と商人との関係、多様なグ
ループを結びつける人的ネットワーク、多カーストの商人組織、仲介などの社会的諸制度
を明らかにし、対象時期のベンガル社会経済について検討したい。なお、本報告で使用す
る資料は、英国図書館および西ベンガル州立文書館所蔵のイギリス東インド会社文書、カ
ルカッタ高等裁判所所属の裁判文書である。
ベ ン ガ ル で は 、 1 7 7 2 年 に 塩 専 売 制 度 が 導 入 さ れ た 。 1 7 8 8 年 に 供 給 量 お よ び 回 数 を 制
限した競売による販売が始まると、一部の買付人が塩の買占めを行うようになった。政府
による供給量制限と買付人の買占めを通じた価格操作によって、塩価格が高値で維持され
るようになった結果、塩は地税に次ぐ主要財源となり、東インド会社統治を財政的に支持
するようになったのである。一方で、専売制度の確立は、特権商人やザミンダール等の旧
塩利害を生産・流通過程から排除することを意味し、「アマチュア」と称されるような小
商人に商機を与えた。この商機を掴んだのが新興塩商人たちであり、カルカッタあるいは
地方の商業センターに拠点をもつ卸売商人として、競売で塩を買付け、塩の現物取引を一
手に担うようになった。また、かれらは既存の商業コミュニティとは出自やカーストが異
なる、社会的には下位の商人であった。
本 報 告 で 取 り あ げ る 商 家 の 一 つ は 、 ノ デ ィ ヤ 県 ラ ナ ガ ー ト か ら カ ル カ ッ タ に 移 住 し た パ
ル・チョウドゥリ家であり、新興塩商人の中でもとくに強い影響力を持った商家であった。
同家は、製塩地域周辺やノディヤ県周辺だけではなく、ボドレッショル、カルナ等の西部
ベンガルの主要塩卸売市場のみならず、ナラヨンゴンジ、ダカ、シラジゴンジ等東部ベン
ガルの主要市場に支店・倉庫を配置し、パトナまでの地域を含む広大な流通ネットワーク
を築いた。同家がカルカッタの商人を代表するのに対して、他の二つは地方商業センター
を中心に活動する地方商家であった。フォリドプルのシャハ家は、カルカッタとシラジゴ
ンジを結ぶ地域を活動拠点とし、カルカッタおよびシラジゴンジに加え、ゴビンドゴンジ
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
等北部ベンガルの主要市場に支店・倉庫を設置した。ダカ近郊バリアティのシャハ(ロ
イ・チョウドゥリ)家は、東部ベンガル塩市場を寡占していた商家の一つであり、ナラヨ
ンゴンジを拠点に地域的なネットワークを構築した商家であった。
ベ ン ガ ル 湾 岸 地 域 で 生 産 さ れ た 塩 は 、 パ ル ・ チ ョ ウ ド ゥ リ 家 等 の 卸 売 商 人 に よ っ て 、 上
記のような主要卸売市場にある自家倉庫に運ばれた。そうした卸売市場には近隣地域の行
商人や小売商、遠隔地の卸売商人が塩の買付けに集まった。すなわち、主要卸売市場は、
モノだけではなく、多様な商人層の結節点でもあったのである。したがって、こうした市
場で取引を行うためには、支店や倉庫だけでは不十分であり、商慣習や言語が異なる多様
な商人層との取引関係を構築する必要があった。また、新規市場で卸売商人が取引を行う
ためには商人としての信用を獲得し、商売で成功するためには価格や嗜好、慣習等地域毎
に異なる情報を正確に把握するが必要であった。卸売商人に信用と情報を提供し、多様な
商人層を市場で結びつける役割を果たしたのが仲介者であった。本報告では、とくにゴマ
スタとダラールに注目したい。ゴマスタは商家の番頭として本店や支店の業務を担当した。
ダラールは市場における情報提供者であり、匿名の売り手と買い手を引き合わせる役割を
担った。いずれもそれぞれの市場で信用力が高い人物であり、地元の名士であった。かれ
らの多くがバラモンやカヨスト等上位カーストに属していたことも注目されよう。
塩 商 い で 成 功 し た 新 興 塩 商 人 の 中 に は 、 パ ル ・ チ ョ ウ ド ゥ リ 家 や バ リ ア テ ィ の シ ャ ハ 家
のように、広大な地所を経営する大ザミンダールとなり、エリートとして認められる家も
現れた。こうした新興商人の台頭は、既存の商業コミュニティ、エリート社会の秩序に異
変をもたらした。カルカッタ等の都市には、エリートの派閥であるドルと呼ばれる多カー
ストの組織があった。商人組織としてのドルの役割については不明な点も多いが、ムルシ
ダバードの事例をみる限り、信用ある商人による仲裁・調停、構成員間の商圏の調整、政
府に対する陳情の組織等の機能を果たしていたようである。ドルに入ることは新興商人に
とって信用・名誉・情報の獲得につながり、既存のドルは、力をつけてきた新興商人を内
部に取りこむことで、機会主義的行動を抑制し、秩序の維持をはかった。19 世紀後半に
なると、こうした多カーストの商人組織は急速に衰退した。その役割は、しだいに浸透し
てきた新たな司法制度やカースト別組織に代替されていったものとみられる。
た し か に 、 商 家 経 営 の 特 徴 の 一 つ と し て 、 経 営 の 基 本 単 位 が 家 族 で あ っ た こ と が あ げ ら
れる。通常、兄弟、父子、伯父/叔父と甥といった合同家族内でパートナーを組み、名前
を合わせた屋号で商いを行った。フォリドプルのシャハ家の事例のように、時には家族以
外の同カーストの商人とパートナーを組むこともあった。しかし、上述したように、家族
やカーストを超えた多様な人的関係もまた、この時期の商家経営の大きな特徴でもあった
のである。
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2A3-5
岡 倉 天 心の イン ド 体 験
―タゴール、ヴィヴェーカーナンダ、堀至徳との交流から-
外川昌彦
広島大学
現代ベンガル文学を代表するベスト・セラー作家シュニル・ゴンゴパッダエによる、
19 世紀のベンガル・ルネッサンスを舞台にした歴史小説『最初の光』では、岡倉天心の
1902 年のカルカッタ訪問を題材にして、天心がシスター・ニ ヴェディタに求婚をすると
いう場面を描いている[Prothom Alo, Sunil Gangopadhyay, 1996, p. 950] 。実際に
は、この時に天心が、ヴィヴェーカーナンダの忠実な弟子でアイルランド生まれの闘士ニ
ヴェディタに求婚することはあり得ないのだが、そこには今もベンガルの人々が抱く天心
へのひとつのイメージが、文学的な構想力を通して描き出されていると言えるだろう。
チョウロンギ・ロードの宮殿のように豪華な滞在先の一室で、ひざまずいて求婚をす
る岡倉天心に対し、ニヴェディタは、怒りもあらわに次のように答えるのである。
「あなたがこの国に来たのは、革命を起こすためではないのですか、ただ恋をするた
めなのですか。…『アジアはひとつなり』というあなたの考えさえ、ヨーロッパを追い
出して、代わりに日本が支配を広げようという、企みではないのですか。」
実際、これまで岡倉天心のインド訪問については、日本でもインドにおいても、多く
の関心が、異国での恋多きロマンチストとしての天心や、密かに革命運動家と通じていた
ナショナリストの天心というテーマを取り上げるものであった。しかし、その興味深いイ
メージとは裏腹に、現実の天心のインドでの滞在の経緯については、なお検証の待たれる
部分が多く、その実証的な研究が求められていたと言えるだろう。
本報告では、このような 1902 年の岡倉天心のインド訪問とカルカッタでの知識人との
交流の経緯について、これまで取り上げられることのなかったベンガル語を中心としたイ
ンド側の資料を通して、再検討を試みるものである。
天心のインド滞在については、これまでその伝記的研究の分野では、岡倉古志郎、堀
岡弥寿子、稲賀繁美などの、優れた論考が著わされてきた。しかし、インド側での具体的
な交流の経緯やその影響の広がりについては、特に春日井真也による「堀至徳日記」の発
掘以降は、史料的研究には大きな進展は見られず、その検証がまたれていた。
それに対し、近年のベンガル研究では、ヴィヴェーカーナンダやタゴールなどの関連
研究には様々な進展がみられ、報告者もまた、タゴール生誕 150 周年を記念した一連の
セミナーにおいて、タゴールの伝記的研究を通した、その再検討の可能性を指摘した。
そこで本報告では、特にインド側の記録から明らかになる次の3つの史料群を通して、
天心のインド滞在の再検討を試みるものである。
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
(1)タゴールの天心との交流の経緯とその影響について
岡倉天心とラビンドラナート・タゴールとの交流については、これまでも様々な機会
に言及されてきたが、しかし、その具体的な交流の中身については、なお検証の余地が残
されていたと言えるだろう。本報告では、特にインド側の史料と日本側の史料との対比的
な検討を通して、天心のインド滞在の検証を試みる。具体的には、天心のニ ヴェディタと
の出会いや米国領事館での歓迎会の経緯、それに続くタゴールとの交流の経緯などを検証
する。また、創設まもないタゴールの学園に、天心が外国人として初めて訪問した可 能性
と、それを通したタゴールの天心との具体的な交流の可能性を検証する。
(2)ヴィヴェーカーナンダの天心との交流の経緯とその影響について
天心によるインド訪問のひとつの目的は、ヴィヴェーカーナンダを日本へ招聘するこ
とにあったが、これまでそれが実現しなかった理由は、ヴィヴェーカーナンダの病状の悪
化とその急逝にあるとされてきた。ところで、天心側の請願に対して、ヴィヴェーカーナ
ンダは日本への渡航をぎりぎりまで検討しており、天心もその急逝にも関わらず、その後
も日本での宗教大会の準備を続けていた。また、1893 年に中国と日本を訪問したヴィヴ
ェーカーナンダは、仏教を通したアジアにおける宗教文化の広がりに注目しており、これ
らの経緯が、天心との思想的な交流に与えた影響の可能性を検証する。
(3)天心のインド訪問における堀至徳の役割について
堀至徳は、岡倉天心と渡印し、創設間もないタゴールの学園で学んだ最初の外国人で
ある。しかし、その後、堀はインド旅行の途中で病死するので、これまで はインド留学に
挫折した留学僧として評価されてきた。ところで、堀のインド滞在の経緯を見ると、帰国
を勧める天心や親族の懇請を断り、その留学を続けるという主体的な取り組みが見られる。
また、天心がインド訪問の計画を準備する過程では、天心よりも早くインド留学の予定を
具体化させており、ジョセフィーン・マクラウドや織田得能のインド行きの計画と合わせ
て、それが天心のインド訪問を先導する役割を果たしていた 可能性を検証する。
本報告では、以上のような近年のベンガル研究の進展を踏まえることで、天心のイン
ド体験に、新たな光をあてようとするものである。従来の天心研究に見られた革命運動家
との結び付きやカルカッタでのロマンスという経緯は遠景に退けられ、むしろヴィヴェー
カーナンダやタゴールとの交流を通したインドでの知識人との交流が、そのインド体験に
豊かな意味を与えてゆく背景をなしていることが指摘される。もとより、当事者による日
記などの新資料の発掘が困難な中で、当時の状況を明確な全体像として描くことには なお
多くの課題が残されているが、これまで関連付けられることのなかった、日本側とインド
側の史料を対比的に検討してゆくことで、岡倉天心とインド知識人との交流の経緯を、よ
り具体的に把握してゆく可能性を示すことができればと考えている。
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2A3-6
カジ・ノズルル・イスラムの文学史的位置づけに関する一考察
丹羽京子
東京外国語大学
カジ・ノズルル・イスラム(1899-1976)は、記念碑的作品となった「反逆者」
(1922)の詩人とし
て知られるが、それら現代詩以外の「文学的」活動の幅も広く、その多彩で劇的な生涯を辿ると、多方
面に影響力を持った文人であることがわかる。貧しいイスラム教徒の家庭に生まれたノズルルは、若干
の習作ののちに、21 歳にして発表した一篇の詩「反逆者」で鮮烈にデビューし、ヒンドゥー、ムスリム
を問わず全ベンガル的な詩人として支持を集め、一世を風靡した。政治的な発言も臆せずに行い、投獄
経験も持ち、初期の共産主義運動とも関わったが、一方で歌手および歌の作り手としても広く知られ、
特に活動時期(1920~30 年代)の後半においては歌の分野で圧倒的な人気と影響力を誇った。総じて
ベンガル語圏でのノズルルの存在感は大きく、特にバングラデシュにおいてはノーベル賞詩人タゴール
(1861-1941)と並び称されるのみならず、まさに国民詩人といった位置づけを与えられている。
にも関わらず、従来のベンガル文学史におけるノズルルの扱いはけっして大きいとは言えず、また通
常世代的な観点からタゴールとタゴール後の「現代詩人」たちとの間に簡略に記述されるのみで、この
特異な詩人をベンガル文学の大きな流れのなかにどのように位置づけるべきかについての考察が十分
なされてきたとは言い難い。もちろん個別のノズルル研究には相応の蓄積があり、そこにノズルルの近
現代文学における重要性は見て取れるのだが、それらの蓄積が文学史に反映されるには至っておらず、
そこにノズルルという存在と従来の文学史記述との齟齬が見て取れるとも言えよう。
ノズルルの文学史上の扱いが定まらない、あるいは意外なほど小さい理由のひとつは、ノズルルが近
代以降連綿と続いてきたベンガル詩人たちの伝統とまったく異なるバックグラウンドを持っていたこ
とに求められよう。近代以降のベンガル文学史の軌跡は、タゴールをある種の頂点として捉えられるの
が通例で、タゴール後の世代はタゴールの継承、あるいはタゴールへの反発からそれを乗り越えるもの
として説明されてきた。しかしノズルルはタゴールの一世代下にあたるものの、タゴールの後半生と同
時期に活躍し、また始めからタゴールと異なった文学世界を展開していたため、この構図のなかにはお
さまりにくい。確かにノズルルは近現代ベンガル文学史のなかで「異色」の存在ではあるがしかし、だ
からといってノズルルを孤立した存在として捉えるのもまた正しいありようではないだろう。ノズルル
もまたそれ以前のベンガル文学の遺産を引き継いでおり――ただしそのありようは出自や経歴からし
てタゴールとは異なっている――、さらにノズルルの後の世代の詩人たちの作品にはノズルル詩の刻印
が少なからず見て取れるからである。また、イスラム教徒として初めて「全ベンガル的」な詩人となっ
たノズルルの存在は、その後のベンガリ・ムスリム詩人および作家たちのありように多大な影響を及ぼ
したのであり、その点においても文学史的な観点から再検討の必要があるだろう。
さらにノズルルを文学史のなかで扱うのをむずかしくしているのが、歌というジャンルの問題である。
ノズルルは現代詩をはるかに上回る数の歌を書き残しており、その影響力の大きさも歌というジャンル
においてより顕著であると言えるのだが、これらの歌をどう扱うかということは、「文学」をどう考え
るかという問題にも関わってくる。歌というジャンルに関して述べるなら、ベンガルにおいては近代以
降も有力詩人と歌の結びつきが強く、タゴールを始めとしてディジェンドロラル・ラエ(1863-1913)
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
やショッテンドロナト・ドット(1882-1922)など今日まで歌い継がれる作品を残した詩人は多いの
だが、歌というジャンルが半ば音楽に属しているために、通常文学史における歌の扱いは限定的になり
がちである。ただしここでもタゴールはいわば「別格」で、代表作のひとつ『ギタンジョリ』は歌であ
ることによって文学作品から除外されることはなく、あくまでタゴール詩の中心的な作品として扱われ
ている。
しかしノズルルの場合、その文学史的扱いはあくまで「反逆者」の詩人としてのそれであり、その歌
はいかに人口に膾炙したものであれ、文学作品として論じられることはほとんどない。その背後にはさ
まざまな要因があろうが、ここではタゴールとの比較において二点を指摘して起きたい。まずひとつは
ノズルル・ギーティが音楽的特性に優れていたために、またノズルル自身がミュージシアンとしての活
動を活発に行ったために、ノズルルの歌は文学としてよりむしろ音楽として扱われるようになっている
点、そしてふたつめがノズルルの場合、現代詩と歌の歌詞とのギャップが大きく見えるために別々に扱
われる傾向が顕著である点である。これらは結局のところ、ノズルルの、歌というものへのアプローチ
に関わるひとつの問題であるとも言える。
ノズルルの場合、その歌作りの原点は 10 歳にして加わったレトと呼ばれる旅芸人の一座にある。経
済的理由で学業を続けられずに自活の道を模索していたノズルルは、叔父の率いるレトに参加すること
で、伝統的なコビヤルの曲作りを学んだのだが、このときの歌作りへのアプローチがのちに歌謡界で成
功するノズルルのありようを決定づけたと言える。
「反逆者」で時代の寵児となった 1920 年代前半はノ
ズルルが現代詩を最も多く書いた時期になるが、その間も歌との関わりが止むことはなく、さらに 1920
年代後半からはノズルルの創作の比重は再び歌に移っていく。そしてその背景には当時急速に販路を拡
大しつつあったレコード業界との結びつきがある。レトとレコード産業ではその規模も対象とする聞き
手も異なるが、基本的に「求められるものを提供する」というありようは共通する。このような創作に
おける柔軟性は、ノズルル以外の詩人にはほとんど見られないもので、それが「近代詩人」としてのノ
ズルルを見えにくくし、さらには文学史的な記述からノズルルの歌を排除する力として働いていること
が考えられる。
つまりノズルルはいわば伝統的なコビヤルとしての創作のアプローチを持ち込んで、レコード業界で
成功をおさめ、現在の歌謡界につながるラインを構築したとも言えるのだが、それと同時に彼は「反逆
者」にあらわされたように「近代的自我」を強くアピールした詩人でもあり、ひとりの詩人のなかにそ
の両方のありようを見るとき、そしてその片方をいわば無意識的に排除するのではなく、総合的に考え
るとき、文学における「近代」を再考し、ひいてはベンガル文学を包括的に考察するヒントが導き出さ
れる可能性はないだろうか。
翻って見ればベンガル文学の様式はそもそも歌が中心であり、「歌」を「文学」から排除するように
なったのは、近代以降の文学観によるところが大きい。それにより音楽的要素を「文学」から排除する
のみならず、いわゆる現代詩と歌詞の差別化が行われ、さらにもともと歌が含んでいたポピュラリティ
ーやいわゆる「自己表現」とは異なる創作様式も暗黙の裡に排除されてきた可能性がある。しかしベン
ガルにおいてはタゴール詩ですら、
「歌となったがために、ベンガル全土においてこれらの人気はそれ
に匹敵するものを持たないものとなった」(ブッドデブ・ボシュ)と語られるのであり、この歌という
様式、そしてそれが持つポピュラリティーを抜きにして文学史を語ることは、大きな欠落を生じさせて
いるのではないだろうか。
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10 月 7 日(日)
13:00∼16:30
全体シンポジウム
日本と南アジアの交流――人・モノ・知
日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
2B1
シンポジウム
「日本と南アジアの交流――人・モノ・知」
我が国と南アジアとの歴史的な接点は、最初、仏教との連関で語られます。遠く遡れば、
インド出身の僧菩提僊那(ボダイセンナ)が導師を務めたとされる東大寺盧舎那仏像の開
眼供養会(752 年)に思いを馳せる人もいることでしょう。中国を経由して伝わった仏教が
我が国の思想・精神文化の形成に計り知れない影響を与えたことは周知のとおりです。ま
た仏教とともに請来された悉曇文字とその配列が仮名文字の「五十音図」の成立に深く関
わったこともよく知られています。一方、弁柄(ベンガラ)や桟留(サントメ)といった
日本固有の民俗文化の一部となった南アジアからの舶来物も忘れることはできません。
遠く海を隔てた南アジアと直接の関わりが始まるのは明治以降です。当時の急速な近代
化を記す日本産業史では、英領インドからの綿花輸入とそれに支えられた紡績産業の興隆
に多くのページが割かれています。19 世紀末から 20 世紀初頭にかけて、日本郵船ボンベイ
航路の開設、第二次日英同盟の締結など日本の経済・外交年表には南アジアをめぐる緊迫
した情勢が窺がわれる事項が並びます。この流れの中に、今年の本学会全国大会開催校の
前身である東京外国語学校におけるヒンドスターニー語・タミル語のコース設置を含める
ことができるかもしれません。
第二次大戦後、敗戦を経験した日本は南アジアの新生独立国と新たな世界秩序と枠組み
の下で外交・経済・文化交流の関係を結ぶことになります。今年 2012 年はその延長上にあ
り、また日印・日パ国交樹立 60 年の節目にも当たります。しかし、この間のそして現在の
世界、日本、南アジアとそれを取り巻く環境における激動の変化は過去のどの時代とも比
較になりません。
本シンポジウムでは、政治・経済・外交は無論のこと、今日地球的規模で大きく変動し
つつある情報・知識・文化の領域も含めて、過去の蓄積を踏まえつつ日本と南アジアを軸
にした未来への展望を考える機会になればと考えています。
・司会:小西正捷
・コメンテーター:小谷汪之
・発表
応地利明「天竺・印度・インド――近世から近代へ」
斎藤 明「南アジアと日本──大乗仏教研究の昨日・今日・明日──」
プラシャント・パルデシ「日本と南アジアの言語交流の最前線――
日本語・マラーティー語基本動詞ハンドブック作成の試み」
堀本武功「日本の南アジア外交――緊密化する対印関係」
内川秀二「貿易から経済協力へ――日印経済関係――」
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2B1-1
天竺・印度・インド――近世から近代へ
応地 利明
[Ⅰ] 近世における天竺観の変転
1) 天竺の実在認識―ヤジロウほか 2 人のゴア渡航・聖信学院での受洗(1548 年)
「天竺人・ザビエル」の来日(1549 年)と天竺人下級船員
2) ヨーロッパ的世界観の伝来→三国世界観の変容と天竺の相対化
天竺 : <贍部州の中心>から<世界の周縁>へ=既知と未知の境域
3) 天竺から印度(亜)へ
寺島良安『和漢三才図絵』1712 年:印度亜と天竺の 2 呼称の並立
新井白石『采覧異言』1713 年
:印度による天竺の代替
[Ⅰ]―1 近世的世界認識―3 つのパラダイム並存
ジョアン・ロドリゲス『日本教会史』1577 年:日本人のヨーロッパ的世界観への「全面転換」の自讃
しかしパラダイム・シフトではなく、新旧パラダイムの並存・鼎立
① 仏教的世界観:<贍部州の中心>としての天竺の持続―法隆寺における「五天竺図」の作成継続
モ ウ ル
② ヨーロッパ的世界観:<五大陸の1範域>としての応天亜(印度亜)
・莫臥爾→「天竺」の漂流
マテオ・リッチ(利瑪竇)「坤輿万国全図」 1602 年から 高橋景保「新訂万国全図」1810 年へ
③ 仏教的世界観への ②の包摂→贍部州 =<「中心=天竺」+「縁辺=欧・米・阿弗利加大陸」>
鳳潭(浪速子)
「南贍部州万国掌菓之図」1710 年
[Ⅰ]―2 商品地理から地誌へ―通事から蘭学者への担い手の転換
西川如見『華夷通商考』1695 年・
『増補華夷通商考』1708 年
山村才助『訂正増補采覧異言』1804 年:新井白石 1713 年の「訂正増補」に仮託
同
『印度亜志』1807 年:古典との断絶―「安日河」について「崎陽の北見見信ガ天地二球贅説
ニ此河ハ仏法ニ所謂ノ恒河ナリト仏書ヲ引イテ証セリ」との注記
[Ⅰ]―3 植民地・印度への注目―インド認識における近代への架橋
アン グ リ ア
山村才助 1807 年:ホムハイ(ボンベイ)とマテラス(マドラス)が諳厄利亜に属すると述べるが、詳
述なし←彼の参照蘭書は 18 世紀前半までの刊行=イギリスのインド支配の本格化以前
渡辺崋山『再稿西洋事情書』1839 年:イギリス・ポルトガル・フランスによる蚕食・植民地化の指摘
→海防の必要性を強調
『阿蘭陀回答書』1843 年:1842 年 6 月にアヘン戦争(1840-42 年)の詳報がオランダより通報され、
翌 1843 年 7 月に、幕府がオランダに対して質問を発する。
ベン ガ リ
それへのオランダの回答―「陸兵小筒大筒方共、欧羅巴人傍葛利人ニ而四千人」
[Ⅱ] 近代初頭における印度像の転換―文献から実体・実見へ
日本の開国時=「海の蒸気機関革命」期→大型蒸気船による長距離・短捷航路の採用
[欧州―東アジア]幹線航路 : [シンガポール―ゴール/コロンボ―アデン]=インド半島を迂回
[Ⅱ]―1 岩倉使節団のインド洋上での2つの記載・提言
久米邦武編『特命全権大使米欧回覧実記』1878 年
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
① アラビア海上での記載→<「欧州の勤勉」
:
「亜細亜の怠惰」>の対比→ ①「開化の等級」論
② ベンガル湾上での記載→ ②―1「印度南洋」への注目 、 ②―2 富国の源泉へのアジア主義
[Ⅱ]―2 岩倉使節団の記載・提言と初期「日本―英領印度」関係
①「開化の等級」論
福沢諭吉『世界国尽』付録 1869 年
内田正雄『輿地誌略』1870 年
②―1 初期・英領印度渡航者―外交史料館蔵『海外旅券下付返納表進達一件』をもとに
1)インド本体部への渡航者は少ない :セイロン寄港・訪問者の多さとは対照的←欧州航路船の石炭・水補給
2)[平民・庶民=圧倒的: 華族=浅野侯爵家のみ]、[自費渡航=圧倒的:官費渡航=少]―セイロンとの相違
3)被雇用者=多 : ほぼ水夫―長崎・横浜・神戸で集団被傭・乗船
4) 留 学 : 「羅典(甸)学」
・文学・理学修業
5) 仏教研究 : 僧侶―釈 興然=最初の南方上座部仏教僧、釈 宗演=後に円覚寺派管長
6)商業視察 : 茶業状況ほか
7)
「からゆきさん」=少 : しかし現実にはすでに多数在住―長崎から上海経由で来印か
②―2 明治期・対英領印度貿易
対英領印度貿易は、1876 年(明治9)の印度綿糸 142 俵の輸入に始まる
1 貿易総額 : 明治 30 年代以降は日本の貿易総額の 10%前後を占有―圧倒的に入超
2 主要品目 輸出 : 絹織物(主として羽二重)
、メリヤス、燐寸(M22 に初輸出)
輸入 : 実綿・繰綿、米・籾
[Ⅲ] 大阪・齢延寺 松本浩一郎墓碑銘を「読む」―印度綿直買ネットワークの形成
墓碑銘 : 「・・明治三十五年・・入三井物産会社翌年印度孟買派遣経三年又入中央州那具坡・・其地・・四十年・・卒」
1884 年以降の紡績業の好況・拡大→原料綿の需要急増→中国綿の輸入(1884 年、在神戸の華商・鼎泰号に
よる最初の輸入)→しかし中国綿の供給不安定→印度綿への注目→1889 年「印度綿業使節団」派遣
「高運賃+中間利潤大」→ボンベイ直航航路開設の模索→日本綿花株式会社設立と印度綿運送契約締結
―締結にあたっての渋沢栄一と Jamsetji N. Tata(1893 年来日)の役割大
総代理店制を廃し、印度綿の直買・加工一貫体系の構築 : 1920 年代前半・北部デカンにおける日
本綿花会社の場合=<43 副出張所(集荷)―3 直営所有工場(繰綿・圧搾)>の体系的配置
[Ⅳ] 天心・大観・春草の渡印―モンスーンの「発見」と朦朧体
福沢諭吉『文明論之概略』 1875 年 :
「日本人の誇る所は唯天然の物産に非ざれば山水の風景のみ」
コーチン
モンスーンに関する言説の前史:新井白石『采覧異言』
「各正」条 1713 年―「気候常熱、夏月連雨」
「印度海ノ如キ半歳毎ニ正ニ反対シタル方向ノ風アリ之ヲ「ムンス
内田正雄『「輿地誌略』 1870 年 :
ーン」ト名ク」
しかし両者とも局地気候・地方風として理解
谷津昌永『日本地文学』 1889 年 :モンスーン=「印度洋ヲ通過シ来ルモノニシテ・・多量ナル水分
ヲ含蔵シテ東部印度支那東南部及ヒ本邦南部ニ向テ吹キ来ル・・熱風」→世界の風系のなかに定位
志賀重昂『日本風景論』1894 年 :
「日本風景の渾円球上に絶特なる所因」=「湿潤気候と水蒸気」
福沢「日本風景論」への呼応と谷津のモンスーン論との結合
日本美術院同人による朦朧体 :谷津・志賀の言説との継起性→1903 年の天心・大観・春草の渡印
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2B1-2
南アジアと日本──大乗仏教研究の昨日・今日・明日──
斎藤 明
1.仏教と日本
南アジアから日本に伝わった知といえば、仏教を措いて語ることはできない。その知の
影響は、ただ単に宗教としての仏教にとどまらず文学、絵画・造形、建築、造園、伝統芸
能、儀礼・習俗等々、わが国の精神文化の隅々におよんでいる。かなの「五十音」の体系
が悉曇の字母表に由来することはよく知られているが、それ以前から文字の手習いや、物
の順序を示す際に、あるいはまた国語辞典の配列やカルタ遊びにも使われた「いろは歌」
もまた、
「諸行無常・是生滅法・生滅滅已・寂滅為楽」と詠まれた無常偈を意訳したものと
いわれる。
このような仏教のなかでも、日本に伝わった仏教にはいくつかの特色がある。中国や朝
鮮半島から、漢訳された仏典の形で伝承されたこと。漢訳仏典の読誦は音読みを基本とし、
読解については古典漢文の通例にならって書き下して日本語文として読まれたこと。いわ
ゆる大乗系の仏教が主流であったこと。明治以降、ヨーロッパから近代仏教学が伝わると、
広義のインド語による原典研究の重要性が次第に高まるようになったこと、等々である。
とくに、パーリ語によって伝承されるスリランカ上座部の仏典に注目が集まり、
「原始仏
教」あるいは「根本仏教」研究に大きな焦点が当てられるとともに、従前のような、すべ
ての仏典が釈尊一代の説法を伝えるという前提に疑問が投げかけられるようになった。
このような議論のなかで大きな論題になったのが、
「大乗仏説・非仏説」論争であった。
同種の論争は 4 世紀以降のインドでも見られたが、東アジアの仏教国では、いち早く近代
仏教学・インド学を導入した日本において顕著であった。
2.大乗仏説・非仏説論をめぐって
大乗仏説・非仏説論とは、大乗仏典はそもそも歴史上のブッダのことばを伝えるものか、
あるいは後代の創作にすぎないのか、という趣旨の論争であり、大乗仏教をめぐる関心事
の一つであった。この論争については、現在では、大別して歴史的な観点と、宗教思想史
上の意味づけという2つの立場から、結果として「中和」された解釈に落ち着いている。
仏滅年代論は、ひところ活発な議論を呼んだが、現在では紀元前 383 年頃(中村元説)
に代表される北伝説に近い解釈をとる研究者が多い。大乗仏典の成立は紀元前後以降と考
えられているため、史的ブッダの在世時に大乗仏典が成立していたという解釈はそもそも
成り立たない。ただし、大乗仏説論に立つ多くの論者は、仏教史上の内外の論争をふまえ
ながら、初期仏典が伝えるブッダのことば(縁起、法性、空など)を再解釈あるいは再評
価することによって大乗仏典が成立していることを強調する。要するに、ブッダのことば
に対する既存の解釈や力点の置き方にクレームをつけ、その意図を蘇らせたのが初期の「大
乗」仏典にほかならないという立場である。
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
しかも、歴史的な観点からは、パーリ語や漢訳が伝承する初期仏典もまた、スリランカ
やインド本土における伝承にもとづいて、現行のような固定した内容で文章化されるのは
紀元後のことであることが明かになっている。その意味で、成立後の比較的早い段階から
文字媒体によって書写され、儀礼や勤行の際に読誦されてきた大乗仏典に比較するとき、
初期仏典の文字資料としての先行性を立証するのはかなり困難な状況といえる。
ただし、仏教=釈尊一代の説法という前提や、あるいはまたそのような前提にもとづい
て成立した天台教判や華厳教判などの教相判釈については、再検証と意味づけの見直しが
求められている。
3.大乗仏教の起源と実態をめぐって
このような事情もあって、近年における大乗仏教研究の焦点は、そもそも「大乗」を自
称した仏教の特色は何か、その起源と背景は、そしてまた伝統的な仏教部派に比べ、イン
ドにおいていかなる実態上の相異があったのかに移ってきた。
この数十年の間に、大乗仏教に関する研究は目ざましく進展した。これにはいくつかの
背景がある。欧米における大乗仏教に対する関心の増大、個別の大乗経典研究の進展、在
家仏教起源説を提唱した平川彰説に関連して活発に展開された大乗仏教の起源および実態
に関する議論の高まり、くわえてまた近年のアフガニスタン、パキスタン、チベット(中
国)
、ネパール等からの大乗仏教系のインド語諸写本の発見と校訂本の公刊も見のがせない。
欧米における大乗仏教研究にこの間大きな刺激を与えたのが、チベット仏教およびその
文化に対する関心の高まりとチベット仏教研究そのものの深化・発展である。これに加え
てまた、上に指摘したサンスクリット語を中心とするインド語写本の発見が火付け役にな
った。
個別の大乗経典研究の進展についてもインド語写本の発見のもつ意義は大きく、これに
加えて、多くのチベット語訳カンギュル(仏説部)の写本・版本の公刊も少なからず寄与
した。また初期の大乗経典研究には漢訳資料の精査が欠かせないが、この方向での堅実な
研究成果も注目される。
大乗仏教の起源論をめぐっては、平川彰による一連の研究が、その後の活発な議論を促
してきた。平川は大乗仏教の形成に与った源流として、部派仏教の一部にあった大乗の法
身仏思想に連なる仏陀観や心性本浄説等の教理、仏伝文学に見られる菩薩観および十地や
六波羅蜜の説、仏塔信仰とそれに関連する観仏三昧、の三点を中心に詳論した。その上で
律の視点から最初期の大乗仏教の教団としての性格を論じ、その起源は伝統的な声聞僧伽
にではなく、仏塔を拠点とする-具足戒を受けない-在家教団にあったという仮説を
提唱し、以後、学界に大きな影響を与えてきた。
しかしながら、大乗仏教の成立の背景となった複数の源流や特質に関する指摘は今なお
肯定的に受けとめられているものの、大乗仏教の在家教団起源説に関しては、近年、様々
な角度から結果として否定的な見解が多く提出されてきた。
­ 111 ­
2B1-3
「日本と南アジアの言語交流の最前線―日本語・マラーティー語基本動詞ハンドブック作成の試み」
Prashant PARDESHI(プラシャント・パルデシ)
国立国語研究所 言語対照研究系
[email protected]
1.発表の目標
本発表では 21 世紀における日本と南アジアの言語交流の最前線の一例として国立国語研究所
(NINJAL: National Institute for Japanese Language and Linguistics)で推進している共同研究プロジェクト
「日本語学習者用基本動詞用法ハンドブックの作成」の研究活動を紹介する。本プロジェクトの学術的
な目標は、関連分野の知見を結集し、
「理想的な日本語基本動詞用法ハンドブックのプロトタイプ」の
開発を目指すことである。また、応用的な目標は、当該プロトタイプに基づいて、世界の日本語学習者
の体系的かつ効率的な学習に役立つ日・中、日・韓、日・英、日・マラーティー語版日本語基本動詞用
法ハンドブックの作成を試みることである。
上記の目標を達成するために、国立国語研究所が開発した「現代日本語書き言葉均衡コーパス」
(BCCWJ: Balanced Corpus of Contemporary Written Japanese)を最大限に活用し、コーパスから見えてく
る頻度、コロケーション、文型などに関する知見を研究成果に反映させる。また、研究成果のデータベ
ース化と一般公開を図り、世界の日本語教育現場への還元を図る。
本プロジェクトで作成している「日本語学習者用基本動詞用法ハンドブック」
(以下、ハンドブック)
では編集方針、見出し語の内容、執筆・編集方法のいずれにおいても従来の辞書にはない新たな試みが
行われている。本発表では、21 世紀の新たな「日本語学習辞書」
、また「二言語(多言語)辞書」作成
の一つのモデルとして日・マラーティー語版日本語基本動詞用法ハンドブック作成の取り組みを報告す
る。
2.ハンドブックの主な特色
本プロジェクトで開発する二言語ハンドブックの特徴は以下の通りである。

執筆・編集方針:ネットを通じて執筆・編集作業を行う。この方法により、時間と空間を超えて、
執筆・編集が可能となり、作業の効率化が期待される。文法的なもののみならず非文法的なもの
も記述し、その理由を説明する。

コーパス準拠:日本人の「正用」コーパスと学習者の「誤用」コーパスを参考にし、日本語の見
出しを執筆→国立国語研究所が開発した「現代日本語書き言葉均衡コーパス(BCCWJ)」検索ツ
ール NINJAL-LWP for BCCWJ (NLB)[http://ninjal-lwp-bccwj.ninjal.ac.jp/]および「寺村誤用例集デー
タベース」[http://www.ninjal.ac.jp/teramuragoyoureishu/]を開発し、ネットで公開。

二言語ハンドブック:対照研究の知見を生かし、学習者の母語との意味拡張、統語的振る舞いの
ずれなどに注意を喚起。また、語用論・文化的な要素についても説明する。

視聴覚的な要素の導入:意味と文法情報の理解・記憶を促進するために静止画や動画などを導入。
すべての例文に音声をつけ、ネイティブの発音を何度でも聞ける。これにより、アクセントやイ
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
ントネーションも学べる。

豊富な例文と検索:それぞれの語義毎にバリエーションに富んだ作例を多数盛り込んだ。また、
見出しの単位を超えて、特定の文法カテゴリー(例えば:受動文、条件文、など)別に例文の検
索が可能。

豊富な実例の確認:作例に加えて、本ハンドブックでは BCCWJ コーパスからの実例も同じ画面
で同時に確認することが可能。

公開媒体:スペースを気にする必要がないネットで公開。これにより、随時加筆・修正・アップ
デートが可能となる。また利用者から直接フィードバックをもらうことも可能であり、ユーザの
声を加筆・修正に反映できる。
3.将来の展望
本プロジェクトではこれまでにない新しいタイプの辞書(ハンドブック)の作成を目指している。上
述の通り、ハンドブックの見出し語は正用と誤用両方のコーパスデータに基づいて記述され、執筆者の
主観によって記述されている既存の辞書とは大きく異なる。また、視聴覚的コンテンツによる高い学習
効果が見込まれる。
ハンドブックは 2013 年 4 月からネットで一般公開する予定である。
公開後は世界中の日本語学習者、
日本語教師からフィードバックを得て、記述内容とインターフェースなどを改善するとともに、見出し
語の数を増やしていきたい。ハンドブックを多言語で展開するための仕組み(エディタ)はすでに整っ
ており、中国語、韓国語、マラーティー語以外の言語でも協力者が得られれば展開が可能である。
本プロジェクトは、日本語と学習者の母語との対照研究の知見を取り入れた研究であり、その成果は
日本語教育・研究はもとより、対照言語研究、理論言語研究、コーパス日本語学等に寄与することが期
待される。特に、ネット版のハンドブックは日本語教材が不足している南アジアの日本語教育現場に携
わる日本語教師および日本語学習者に大いに役立つと思われる。ハンドブック作成の取り組みを通じて
日本と南アジアの言語交流に少しでも貢献できれば編集・執筆者にとって望外の喜びである。
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2B1-4
日本の南アジア外交―緊密化する対印関係
堀本武功
Ⅰ.南アジアにおける超大国インドの存在
Ⅱ.1990 年代以降の日印関係の改善
1.歴史的経緯
(1)日本の 3 大外交支柱:アジアの一員
(2)1980 年代中頃から胎動
2.1990 年代以降の動き
(1)関係改善をもたらした要因
インドの経済自由化、印米関係の改善、日本にとってインドが持つ意味
(2)二つの時期
第 1 期 1990 年代
第 2 期 2000 年以降:2000〜2004 年と 2005 年以降
日印要人往来
注:外務省 HP「各国・地域情勢」のインド・要人往来から作成。日→印には、政府派
遣経済使節団 2 件(1992 年と 2000 年)を含む。
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
Ⅲ.日印関係緊密化の要因:経済と戦略(安全保障)
1.経済的要因
貿易、投資、ODA、CEPA(2012 年 8 月発効)
→主に二国間関係で
2.戦略的要因
(1)中国要因
(2)2000 年代(2000 年〜2009 年)
4 カ国枠組み(米日印豪)の動きと停止。二国間による安全保障態勢の構築
(3)2010 年代(2010 年〜2019 年)
アメリカのアジア回帰「Pivot to Asia」
(4)多国間関係における日印関係への変貌
Ⅳ.日印両国が目指すべき目標
地域的枠組みの必要性―東アジア共同体に向けて
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2B1-5
貿易から経済協力へ―日印経済関係―
アジア経済研究所 内川秀二
1.日本の近代化とインド
日本は 19 世紀末に近代的紡績業が興隆し、工業化が進んでいった。生産の増大とともに綿花を海外
から輸入するようになった。当初は中国から輸入していたが、1890 年代からはインドからの輸入が開始
された。当初は外国商船に輸送を依存していたが、1893 年に日本郵船のボンベイ-日本定期航路の開設
されたことで、日本紡績企業は輸送コストを引き下げることができた。こうしてインドからの綿花輸入
額は 1890 年の 111 万円から 1898 年の 3930 万円に増大した。この間に日本の紡績業は技術革新を進め
るとともに、生産能力の拡大を図った。1900 年代に入ると、質のよい綿花を確保するために、日本人商
社は現地に駐在員を派遣し、直接買い付けを行うようになった。この時期に日本はおもに中国、インド、
アメリカから綿花を輸入していた。
1902 年代に入るとインドは綿糸の主な輸出市場であった中国で在華紡(中国に進出した日本企業)に
市場を奪われるとともに、日本からインドへの綿糸輸出は 1910 年の 28 万ポンドから 1927 年の 2733 万
ポンドへと増大した。日本からの綿糸の流入によりイギリスはインド市場から後退を余儀なくされた。
また、綿織物についても日本からインドへの輸出額が 1910 年の 8 万円から 1927 年の 8613 万円へと急
増している。日本からの低価格品の流入によりインド紡績業は利益を確保できなくなり、インド紡績業
界には保護貿易へ要求が高まった。
2.貿易摩擦の始まり
1921 年にインドは関税自主権を獲得し、綿織物への関税を 11%に引き上げた。国内産の綿織物に対
する消費税が 3.5%で据え置かれたため、その差が保護関税となった。日本製綿糸・綿織物の輸入がさ
らに増大したため、1930 年には「インド綿業保護法」が成立し、綿織物への関税を 20%に引き上げる一
方で、イギリスには 15%の特恵関税を導入した。イギリスに対する特恵待遇の供与はランカシャーの意
図に反して、独立運動を高揚させ、外国製綿織物のボイコット運動へとつながった。さらに、世界恐慌
の影響でインド国内の購買力が低下したことも加わり、イギリスからの輸入は減少した。
1932 年に金輸出再禁止が実施されてから円の為替レートは暴落した。これにより日本綿織物はインド
市場で圧倒的に有利になった。これに対しインド側はインド産業の存立を危うくするような価格での輸
入に対して産業保護のための関税を付加できる「インド産業保護法」を制定し、日本製綿織物の関税を
75%に引き上げた。また、日印通商条約の破棄を通告した。これに対して日本側はインド綿の買い付け
を停止するという報復措置をとった。1934 年に両国政府は協議し、日本が綿織物の輸出を統制すること
と引き換えに、最恵国待遇を確保した。戦前の日印貿易は綿花と綿製品の貿易が中心であり、インド紡
績業界が日本からの輸入品に対して競争力を低下させていくという構図の中で捉えることができる。
3.戦後の日印貿易
第2次世界大戦後に日本の製造業は急速に成長した。1950 年代は綿業が基幹産業であり、1960 年代
には鉄鋼業がそれに代わる。基幹産業の高度化に伴い、インドからの輸入は綿花から鉄鉱石へと主要な
輸入品が変化していった。インドからの輸入は日本の総輸入額の2~4%に過ぎなかったが、日本の工
業化に原料を供給したという点で、重要な役割を果たした。
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日本南アジア学会第25回全国大会報告要旨集(2012)
4.日本製造業のインドへの進出
1980 年代に外資規制が緩和される中で、日本の主要自動車・オートバイ企業はインド企業との合弁企
業を設立した。その中で4輪ではスズキが、2輪ではホンダが成功例となった。インドの国内需要が急
速に拡大したため、地場下請企業が発展した。下請企業は日本企業との取引を繰り返す中で技術を習得
していく。また、日本企業も自社のエンジニアを下請企業に派遣して指導に当たるなど、現地調達先を
確保するのに積極的であった。日本企業がインド市場での競争力を維持するために現地調達を積極的に
進めた結果として、技術が普及した。インドが日本に期待しているのは援助よりもむしろ日本の進んだ
技術だといってよい。とはいえ、すべての企業順調なのではなく、進出した日本企業は提携先のインド
企業とうまくいかず、合弁を解消した企業もある。また、労務管理において問題も生じている。
2000 年代に入ると、日本企業のインドへの進出とともに、インド IT 企業の日本への進出も顕著にな
ってきた。これによって日本に長期滞在するインド人の数も急増した。
5.新たな経済協力の展開
1990 年代に入ると日本はインドへの円借款(低利での融資)供与額を増やした。この結果 2 国間援助
実施額を見てみると、他の先進国を圧倒している。しかし、1998 年にインドが核実験を実施した後、
ODA 大綱を理由に日本政府は新規円借款の供与を中止した。2001 年 10 月に「テロへの闘い」への取り
組みを評価するという名目のもとで円借款を再開した。2003 年度以降インドは円借款の最大受取国とな
っている。これまで日本の経済協力はメトロの建設や上下水道の整備といった個別プロジェクトに対し
て円借款を供与してきた。また、プロジェクトの実施者は国際競争入札によって決められるため、外国
企業が応札することもあった。
2006 年に日本政府が提案したデリー・ムンバイ間産業大動脈構想は、これまでの日本の援助方針を大
きく変えるものであった。太平洋ベルト地帯から着想された本構想では、デリーとムンバイ間に円借款
4500 億円で貨物専用鉄道を敷設するほか、今後5年間で官民合わせて総額 45 億ドルを工業団地、物流
基地、発電所などの建設事業に投資していく方針を日本政府は表明している。
この大動脈構想には三つの特徴がある。第一に、日本の円借款だけでなく、インド政府の資金さらに
は民間資金の活用までを視野に入れた総合的戦略である。第二に、この地域のインフラを集中的に整備
することで産業を集積させ、投資効率を高め、工業化を加速させるという長期的展望がある。本構想が
成功すれば、サービス業に比べれば低かった製造業の成長率が上昇するであろう。第三に、省エネと環
境に配慮した開発モデルを指向している。しかし、同時に問題もある。貨物専用鉄道にはインドで始め
て日本の技術の利用を条件とする本邦技術活用条件が適用されたため、外国の業者が単独では事業に参
加できない。つまり、
「紐付き」援助である。インドが日本の高い技術の移転を期待しているという点
からは正当化できるが、日本企業への援助であるという側面も否めない。
日印経済関係は、日本の経済発展とともに綿製品についてのライバル関係から、原料調達先に変化し
た。さらに、日本企業の投資先となり、現在は日本とインドがともに官民合同で工業化を推し進めよと
している。日本の政府が長期的展望のもとで工業化を支援するのは画期的である。しかし、一方でこの
開発構想によって生じる問題、たとえば環境破壊、立ち退き、さらには地域格差についても今後注視し
ていく必要がある。また、同時に日本は ODA を通してインドとどのように関わっていくのかという日
本側のスタンスが問われている。
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日本南アジア学会第 25 回全国大会報告要旨集
2012 年 10 月 6 日 発行
発 行 者
編集責任者
日本南アジア学会第 25 回全国大会実行委員会
町田和彦
高島 淳