スマナサーラ長老の法話 2009.10.2 宝泉寺 宿泊仏教実践会 質問

スマナサーラ長老の法話
2009.10.2
宝泉寺
宿泊仏教実践会
(文字データ変換・編集:木本伸子さん)
質問(「無明」と「無痴」の違い)についての長老のご説法です。
「無明」は、「無明」とおっしゃっている通り「無明」で。「無痴」
というのは、「無明」がちょっと波を作るんですね。「無明」が作る
波が貪瞋痴なんですね。だから、
「貪」といえば、ちょっと色がつい
ていますね。欲という。
「怒り」といえばちょっと色がついていますね。派手に。
「無痴」の「痴」の場合、何だかわからない、どろどろしてね。
だから、我々瞑想するときは、自分の妄想は「貪瞋痴」で「貪」も
わかるし、「瞋」もわかるけど、「痴」って何かわからなくなっちゃ
うんですね。そういう風にちょっと掴みにくいようなところがあり
まして、弱いんですね。だから、妄想の中ではね。
「怒りではない妄
想と、欲でもない妄想が、無痴の妄想ですよ。」と分析は簡単です。
「これは欲の妄想」
「これは怒りの妄想」
「これは欲でも(怒りでも)
ない、じゃあ無痴」すごい簡単に分類できます。その場合は「貪瞋
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痴」ですから同じ波ですね。
無明というのは海のごとくもうかなりの、本来の姿という感じなん
ですね。
しかし、同義語で理解するのも別にかまいません。
(無痴は)パーリ
語では『moha(モーハ)』を使いますから、(無明は)『Avijjq(ア
ヴィッジャー)』ですからね。
で、わかりやすくいえば「貪瞋痴」は不善で罪なんですね。
「あんた
勝手にやっているんではないか。コントロールできるでしょう。」と
いうちょっと厳しい態度なんです。自然ということはないんです。
怒りが生まれないようにすることはできます。
貪りが生まれないように自己制御できます。
無痴も出てこないように自己制御できます。
だから自己制御できるところをやっていない場合は、罪になるんで
す。悪業になるんです。
無明はそういうと、そう簡単ではないんです。
みょう
「 明 が無い」ということだからね。
何か無いことを罪やと言っちゃってもね。成り立たないんです。
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で、それで、無いものは得る努力しなくっちゃいけない。それが修
行になるんですね。
修行すると、無痴はじわじわじわじわと智慧が現れる度に・・智慧
みょう
と 明 とも言うでしょう。で、現れる度に、もう減って減っていくん
です。で、智慧が完成したら無明はなし。
まあそういうことで、
「無明」という言葉を使うと当然「不善」のほ
うにカテゴライズしますが、罪としてちょっと言ったら残酷ですね。
悟っていない人ならみんな「無明」だからね。
悟っていない凡夫の人々も一生懸命、怒りを制御し、欲を制御し、
理性の人間になろうと頑張っていますからね。そこら辺で、
「善行為」
というんですね。
だから「貪瞋痴」を放っておくこと自体、罪を犯していることなん
です。
だから、制御しても、(制御)しても現れる。(制御)しても現れる
んですね。やりきれないんですね。だったら修行して無明断ちなさ
いということになるんです。
雑草は取っても、取っても出ますから。
「じゃあ、諦めた」と言って
はとんでもないことですよ。
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諦めるんじゃなくって、雑草出るたびにもう修行しなくっちゃいけ
ないんです。
「やりきれんわ」と・・・。わかってますよ。そんなこと。やりき
れんと文句通じません。雑草が出たら取りなさい。で、雑草が出な
い状況にしたら終わりでしょう。
だから、智慧で無明を無くさなくっちゃいけないんです。
それには、やっぱり修行しか方法はありません。
修行といっても、妄想やめることですからね。
妄想自体がもう無明から生まれるんです。
無明だから捏造するんです。
捏造することは罪とは言わないんです。
捏造してから、怒りを作るわ、欲を作るわ・・。もう罪人。
人間は、捏造することは、もう人間でいる限りしょうがない。たと
ねずみ
えば、ご飯見たら、食べられるものだと思っちゃうし、 鼠 みたら食
べられるものだとは思わない。それで ok です。それ勘違いしたら困
ります。だから、ご飯見て「あっ、ご飯だ。
」と思うことも捏造です
けど、まあそれがもう捏造は、都合で捏造するんだからね。それは
罪になりません。しかし、
「こんなおいしいご飯、毎日食ってやりた
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い。あいつにあげるものか」とかね。そこは罪ですね。それはやり
すぎ。
「あ、ご飯ですね。おいしいご飯ですね。」と。
「もう一人いたなら、
二人で食べましょう」とかね。そこまではごく普通でね。
「お前にあげるものか」とかね。
「食べたいなら自分で買ってよ」と
か・・。それはもうやりすぎ
捏造は。
そういうことで、捏造するときはどうしても貪瞋痴が生まれるんだ
から、制御しなくっちゃいけない。
制御しても、制御しても、その雑草が出ます。
それで、思考をとめるという仕事で智慧が現れたらもう話は終わり
です。やるべきことは終わっちゃいます。そういうことになります。
一切の無常という法則をね。智慧で見ると無明が消えます。
捏造で見たっても、無明はそのまんまです。
「あっ、無常だ。無常だ。」とかね・・・みんなよく言ってますね。
うるさいんですね。
(笑)すごいもう・・・無常じゃないんです。
「何
か壊れたんだから無常だから・・・」とかね。そんな程度でなくて、
智慧で、素粒子のレベルでね。物事をね。光の速度より速く、物事
が変化していくということを観察しなくっちゃいけないんです。そ
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のときはこの捏造した現象の無常じゃ足りません。真理をみなくっ
ちゃいけない。
何を見て「バラの花だ」と捏造したところで、何を見たのかという
こと大事なんです。捏造する前に。
それが無常なんです。
バラの花はカラスの目にも入りますよ。で、カラスがバラの花だと
は捏造しません。カラスにはそんな都合がありません。
これはバラの花だと言ったとしてもカラスには何の関係もないんで
す。カラスの人生には・・。
だからカラスは何か別の捏造をする。人間には人間の人生にバラの
花がいろいろ関わりをもっていますから、
「あーバラの花だ。綺麗だ」
とか捏造する。
そこでポイントは、カラスの目に触れた情報は何なのか、人間の目
に触れた情報は何なのか。それは同じ情報なんですね。
その同じ情報自体が無常なんです。
それが恐ろしい勢いで変化するものなんです。
その無常ということを発見した時点でもう無明が終わっています。
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