第一部 古代における婚姻形態 日本型社会の黎明 −平安期貴族社会を中心に− 纐纈 三奈子 はじめに 婚姻制度のはじまりとして律令の規定と現実の慣行という問題がでてくる。従来の学説 には三つの見方がある。一つ目は中国律令を継受しただけのわが律令の規定を解釈するの みので慣行を無視するもの、二つ目は律令の規定を問題とせず、もっぱら当時の一般資料 に見える慣行を素材として研究をすすめるやり方、三つ目はいわば折衷的方法で、律令の 規定に従いつつも一部において相反する慣行の存在を承認し、 両者を並べ置くものである。 家族法は保守的である事や、律令が唐からの継受してきたものであることを考えると、そ こには当然律令と慣行の矛盾がでてくるように思える。律令制度が整えられてきた時代背 景をみてみると、位階や官制の制度などの、政治色の濃いものが詳細であり、私法に値す る当時の婚姻制度が律令の規定に沿って行われていたとは言い難い。故に私は、婚姻制度 を律令におけるものだけに頼らず、慣習の面からも探って行く事によって当時の婚姻形態 を論じていきたい。 第一章 1 律令における婚姻制度 律令規定の婚姻要件 婚姻は戸令および戸婚律に規定されている。しかしその大半は唐律令を直写したもので あり、日本独自と考えられる条項は家を代表する婚姻の責任者、主婚の就任に際して、外 祖父母の地位が高いことである程度に過ぎない。 婚姻の実質的要件は男子一五歳女子一三歳であることである。これは唐律と同じで適齢 とする訓示規定であるので、これに違反しても、婚姻の効力には関係がない。また、万葉 集には良賤間の婚姻でない事、妾が存在しても差し支えないが重婚でない事が記されてい る。他にも禁婚親間でないこと、父母の喪中禁婚でないことや令集解には祖父母、父母、 伯叔父姑、兄弟の同意があることなどが定められている。婚姻の形式的要件としては純婿 取婚を例とする場合儒教の礼制にそった婚約にあたる定婚、結婚式にあたる成婚の二儀式 をあげることを必要とされた。唐では納采、間名、納吉、納徴、請期、親迎などの手続き を経ていた。定婚の儀は男家より女家に聘財を差し出し、女家の受領でもって成立、定婚 の効力は夫婦に準ぜられるものである。 「集解」の一説によると男家もこれにこれに準ずる。 成婚は結婚式の挙行にあたるが、官司への届出が要件であったわけではなかった。しかし 成婚以降その男女間は夫婦に準ぜられ、女家側から婚姻を取り消す事は禁じられた。男子 が成婚前に死亡すれば妻に準じて喪に服し遺産配分にあずかったのである。(この相続に関 しては第五章で、詳しく述べる事にする。) また定婚の儀以後に男の失踪逃亡などの不履 行事由あり、女家より取り消しをなした場合は笞五十の罰条が適用され、定婚を経ない婚 姻は姦として私通罪が双方に科され、その男女は永遠に夫婦になることが禁じられた。成 婚は定婚の儀より三ヶ月以内に行わなければならない定めであった。 2 結婚の効果 婚姻の効果としては前述の婚姻により、妻は婚姻後も実家の姓を称したが、以後男女及 古代における婚姻形態−平安期貴族社会を中心に−(纐纈) 1 第一部 日本型社会の黎明 びその親族の間に一定の親族関係が発生する。また、妻の持参した財産は夫婦同財の原則 により以後、夫の管理下におかれる。女子が夫権に服すべきことはいうまでもない。ただ し、律令制において、夫権は親権のごとく強大ではなく、妻を殺傷することは犯罪となり、 また、妻はその身を侵損された場合は夫を官に告訴することもできる。また規定上は婚姻 により夫婦同居の義務が発生した事は、名例律及び獄令に、流罪の夫が妻妾を置いて配所 に赴く事を禁ずる条文があることから認められる。 3 養老律令における妻妾規定 現存される養老律には妻妾の厳然たる差別がある。妻は正式の家族員として認められて いるが妾は認められず、妻よりも劣った存在として位置付けられている。戸婚律妻為妾条 には妻と妾の地位は法によりお互いに変更する事を禁じられていた。たとえば、養老律に おいて父母の喪中に嫁娶した場合、「不孝」とされたが、妾を娶った場合は「不孝」されない で、免所居官にされたに過ぎず(名例律不孝条、免所居官条) 刑罰も父母・夫の喪中に嫁 娶した場合二年だが、妾の場合は二等を減じられた。(戸婚律居父母夫喪嫁娶条) このよ うに妾は正式の家族として迎え入れられてはいなかった。妻も夫に比べ権利は強くなかっ たが、妾に関しては妻よりも劣悪であった。妻は後の離婚のところで述べる七去といわれ る以外に離婚をすると罰せられるが、妾については何の規定もなく、いつでも夫の事由に 追い出す事が出来る一方で妾からは勝手に夫の許を去ることは妻と同様に禁止されていた。 また夫が妻を殺すと八虐のうちの「不道」とされたが妾についての規定はなかった。夫が妻 を殴殺した場合は普通の人を殴殺した場合より罪は二等軽く、妾を殴殺した場合はそれよ りさらに二等軽く、そして妻が妾を殴殺した場合も普通の人間に対してより罪が二等軽か った。(闘訟律殴傷妻条) 他にも養老令において離婚の手続きについて妻についてはまず 祖父母父母の意を経なければならないが、妾については条文規定がなく、全く夫の懇意に ゆだねられている。 養老令には妻妾制など、唐の令や礼をそのまま継受したものと考えられるが、一方で妻 妾同一の規定ないし思想も存在している。令の規定で儀制令五等親条では妻と妾を二等親 として並べている。この条文相当の唐令条文は存在していない。唐令においては妾は正式 の家族として迎えられていないので、この規定は我令固有のものだと考えられる。また唐 令に存在し、日本令に存在していないものもある。「娶妾仍婚契」というのは妾を売買する 意味合いがあり、日本では結婚に際し妻と妾の区別はほとんど存在しなかったため、購入 するという存在の妾がいなかったのである。日本の実情とかけ離れていたため、この条文 は日本令に採用されなった。唐令とは異なる妻妾同一視の思想は、令集解における明法家 の説にもみることができる。戸令殴妻祖父母条集解古記所引には「妾与妻同体」とあり、妻 と妾の区別のなさを示している。他に、戸令嫁女条集解朱説にも「妻妾並同者」とある。こ れらのことから、当時の養老律令の嫡妻・妾制は実態を反映しているわけではないことが わかってくるのである。 儀式と婚姻居住 律での婚姻形態は第一章で述べてきたが、唐制の影響下が非常に強いものであったこと 古代における婚姻形態−平安期貴族社会を中心に−(纐纈) 2 第一部 日本型社会の黎明 がわかる。形の上では律令の規定があったわけだが、では実際平安期ではどのような婚姻 形態が行われてきたのかを婚姻の際の儀式、居住状態を中心とする慣行面を通して探って いくことにする。 1 純婿取婚 摂関期から白川院政のころまでの貴族層については、その主な婚姻形態は純婿取婚とさ れている。この研究としては高群逸枝氏のものがあり、これを手掛かりにして話をすすめ ていきたい。純婿取婚とは男を妻方の生活体にくみ入れようとするものである。東南アジ ア等において、みられる母性制末期の婿取婚は妻家側から婿への労働力の需要によるとさ れる。日本も荘園社会では生産力の増大とともに男の労働力が要求されたので、長者層で はその地域の各戸の小世帯を崩壊させて自家の下人化したり、それと従来の妻問婚を利用 して、自家の娘や下人らの娘に通ってくる婿を住みつかせて婿取婚を発生させたりしたこ とが考えられる。 貴族社会においては純婿取婚の特徴をいえば、 1、娘の父が表面にたち積極的に父による儀式婚が行われる。 2、嫡妻的妻との生涯的同居婚傾向 3、妻家の後見ではじまる新所帯はやがて夫婦相互の別産共同世帯として独立 4、新世帯はカマド禁忌(母系同火の原理)の故に息子は成年に達すれば他家に婿取られて 去り、娘のみ家にとどまって婿取りをし、孫を産み育てる。絶対婿の実家に帰らない 5、家族は婿と外孫を包容し、息子とはたとえ嗣子であったとしても別居する 等の特徴をもつ。この1についての結婚決定権については後に詳しく述べることとする が、婿取婚の特徴をみると、婿は妻の家に居住することによって婚姻が成立されるものと 考えられる。当時の居住状態を調べてみると男は結婚とともに自分の生まれ育った家を離 れ、妻方の住居に移るという形が多くみられる。これを妻方同居という。女は生涯の住居 を夫からでなく自己の父や母から与えられそこに夫を迎えていた。これは一女(主に長女) のみによって行われ、 それ以外の娘たちは初めから別に新居が用意されたといわれている。 例えば、藤原道長は源倫子と源明子という主として二人の妻がいたが、倫子とは同居、明 子とは別居をしていた。「栄華物語」「御堂関白記」によると倫子は宇多源氏雅信と藤原穆子 との間に生まれ、そこの住居は土御門殿と呼ばれていた。道長はそこで、終生をすごしこ こを整備・拡張した。土御門殿を倫子夫婦に譲った雅信は鷹司殿に移住している。つまり、 倫子は生涯自家居住をしておりそこに道長が同居するという形をとっていたことになる。 そして後に倫子は父母から鷹司殿も譲られている。このように、男は妻の家に婿取りされ ていっていき、その家で生涯を過ごす事は少なくなかったのである。 2 一夫一正妻・多副妻制 純婿取期は自然的一夫一妻制の成立(対偶婚)の段階である事を高群逸枝氏は指摘してい る。貴族層において十世紀前後に成立した儀式婚が正妻制の成立を証明している。高群逸 枝は純婿取婚に対し、前代からの多妻平等が持ち越されているものの、夫婦平等の俗がう まれたとしている。これは多妻の中で、正妻の成立を論じている。この正妻制の成立の裏 づけとして、梅村恵子氏の研究がある。 『大鏡』に「北の方二所おはします」と記される道 古代における婚姻形態−平安期貴族社会を中心に−(纐纈) 3 第一部 日本型社会の黎明 長妻の倫子と明子のうち正妻は倫子である点、 『栄華物語』 に「あまたの北の方」がいたとさ れる師輔の正妻は盛子である点、後世「三妻」と称せられた兼家の正妻は時姫である点を論 証する事によって、正妻制を証明している。これらのことから、多妻の中でも一正妻の存 在をうかがうことができる。しかし正妻の地位は他の妻に対して格段の差があったかとい うとそうではない。というのは、十世紀以降の物語文学の中では二人の妻を持つ話が何例 かみられたり、 『栄華物語』 に「あまたの方」などにみられるように正妻と認識されていたと しても、だからといって、優越的地位を確立していたわけではないと考えられる。 そして、このような儀式婚が行われている一方で、儀式婚の形をとらず恋愛婚ともいえ る婚姻やさらには複数の女性との儀式婚をおこなう例もあった。またこの儀式婚を文学作 品の『源氏物語』を素材としておしすすめたのは木下ユキエ氏である。正妻の条件として、 親の介入するけしきばみの存在、三日餅の儀など結婚に付随してみられる儀式の挙行、同 一居住空間における共住の事実、「北の方」の呼称の存在にあるとした。 3 儀式婚の詳細 純婿取婚での儀式婚とはけしきばみ、文使い、婿行列、火合わせ、沓、衾覆、後朝使、 露顕、婿行使等の一連の複雑な儀式からなるものである。儀式婚の成立は正妻制の出現で あると考えられるというのは二で述べた。ここでは儀式の詳細を書く。 けしきばみとは求婚で、妻方の父によってなされる。高群逸枝氏はけしきばみの求婚方 法は露骨ではなく、知人や召使等を間にたてて、それとなくほめやかすやり方で求婚者は 当事者から妻方の父に移っているものの、当事者の自由結合を第一義とする観念が失われ ていないとしている。つまり、結婚決定権を当事者にあるものとしている。 文使はけしきばみの話がまとまると婿から擬制の求婚がなされる。起源はある男が女に 懸想してその旨を直接女に告げて承諾を求めるという自由恋愛の一種に過ぎなかったが、 このころから形式的な形をとりはじめたものと考えられる。 婿行列は文の往返がおわり夜になると婿が出立してくることである。これも時代が下る につれて、忍び通いの簡素さはなくなり、華美なものとなっていった。 火合わせとは婿行列が女の家に到着すると女の家から近親の若者が脂燭を持って出迎え、 その脂燭に行列の前駆が婿家から携えてきた松明の火をうつし、先頭にたって婿を張台の 間に導きいれる。その脂燭は廊、張側などの灯炉に点ぜられ三日間消さずにおき、その後 カマドの火に混ずる。 沓取りとは婿がぬいだ靴を新婦の父母によってその夜から三日夜臥床内に入れられる。 この様に新婦方で抱いて寝る婿の沓は毎朝婿が帰るとき持ち出される。そして三日後また は露顕日に婿はもう永久に新婦方の族員と観念されるので、沓は婿に返すなり、または新 婦方に納めるなりする。 衾覆とは婿が沓をぬいで、新婦方の中廊づたいに寝殿へといき、簾をくぐって張台の前 へでる。張中には新婦が入っているのでそこへ婿が入って着物を脱ぐ。そこに衾覆人が衾 をかける。 後朝使は男が泊まった次の日の朝帰って、別れた直後男から女に使いをやって余情を述 べ、さらにその夜の再会を約束する、それに対して女からも応えをすることをいう。 このような儀式を経て正式に婚姻関係は結ばれた。 古代における婚姻形態−平安期貴族社会を中心に−(纐纈) 4 第一部 4 日本型社会の黎明 結婚決定権 『今昔物語』をみると、その中の婚姻二八七例中、婚姻開始の記載があるのは六一例で あり、そのうち正式に親によって親の家で開始されたものが三十例ある。これはすべて妻 方の親によるもので、夫方の親によるものは一例もない。これは、地方や庶民のあいだに も婿取婚であったことがわかる。また高群氏は娘の父たる家父長による婿取りを婿の妻族 化ととっている。しかし、これ対し関口裕子氏は婿取りは対偶婚から単婚への移行の一環 であり、娘の父による婿取りはその本質は家父長婚であると主張している。 八世紀の通い婚においては男から女の許へ通うのが一般的であったが、女から男の許へ 通うこともあった。それは女からの求婚権であるとみられている。しかし、儀式婚のよる 婚姻が形作られてくると、女からの通いは認められず夫の通ってくるのをひたすら待つよ うになる。これは『蜻蛉日記』の著者をみれば明らかである。平安以前は、女側の母によ って、婚姻は監視、黙認、承認され男を婿として通わせ、または住まわせる権利を持つよ うになっていた。そして、その後母だけではなく父もその権利を持つようになってくる。 こうなると、求婚者は娘を超えて両親に直接求婚したりするようにもなった。 貴族社会においては娘の父が婿選び、つまり結婚決定権を持つ事によって、これは「けし きばみ」の儀式として確立していくにしたがって、 女性の求婚権の喪失へとつながっていく のであった。父が婿取りを決定するということはまず娘を引き取ることからはじまってい る。父は別居の妻から娘だけを自己で引き取るという形をとっている。これは父の自己の 子孫を掌握しようとするものである。また父は娘の婿とも深い結びつきにあった。婿たち にとって妻の父は最大の後見者であった。 『栄華物語』のなかで道長は息子頼道に対し、「男 は妻から」という言葉をもって教えたとあるが純婿取り婚下で、 結婚決定権が父にあるとい うことは婚姻の果たす役割は政治的な役割を含んでいることになる。 そしてこれは「家父長 制」のはじまりなのである。 5 入墓規定 純婿取り婚による夫婦の共住はあったが、では入墓する際には夫婦で同墓地であったの だろうか。藤原北家を中心として入墓規定を見てみる。原則的入墓規定は「死者は父系氏族 の共同墓地へ入る」ということであった。 したがって夫婦であっても別の墓地になることを 意味する。これは夫婦が異なる氏の場合である。たとえば、藤原道長と源倫子はそれぞれ の墓地が確認でき、別墓地であった事がわかっている。藤原氏を中心として入墓をみてみ ると、原則的傾向として既婚婦人であっても自族の墓地へ入っている。藤原兼家の娘超子 と詮子はそれぞれ天皇の妻であったが自族の木幡墓地へ入っている。藤原道隆は高階成忠 の娘貴子と結婚し、伊周、定子等が生まれている。貴子は高階氏出身であったため、藤原 氏の木幡墓地には埋葬されていない。 『栄華物語』 には伊周は母方と父方の別の墓地に詣で ていることが書かれている。これで、原則として「子は父系氏族の墓に入る」という規定で あることがわかる。これは妻が夫と氏族を別にする場合妻は父方の氏族につくということ である。夫婦別墓地とは妻が夫方の墓地に入らず、父方の墓地に入るためおこる現象であ るため、父と娘は同墓地であることが多い。歴代の天皇の妻となった摂関家の娘たちはほ とんどが父と墓地を同じくしている。では正妻的地位にあった妻の子供と妾的地位にあっ 古代における婚姻形態−平安期貴族社会を中心に−(纐纈) 5 第一部 日本型社会の黎明 た子供では入墓規定に差があったかというと、栗原弘氏によると藤原北家流の墓制を見る 限り、原則として妻の立場に関係なくすべての腹々の子供は父系氏族の共同墓地に葬られ ている。ただし、 『蜻蛉日記』の作者である道綱母は兼家の妾的存在であったが、この親子 の墓地や道長の妾的存在である明子とその子供の墓地は不明であるとしている。母方の墓 地にはいらず、父方の墓地にはいる原因として、子供の出自をあげる事が出来る。子供は 母系を称することはなく、父系出族として政治や社会に参加していた。しかし、住居規定 としては子供は母方で成長していった。これは一で述べた通りである。このことは婚姻住 居や相続で父系原理が貫徹していないことを示している。 第三章 離婚 1 律令における婚姻解消 律令における婚姻解消には、1、夫意によるもの 2、当事者の合意によるもの 3、 国家により強制させられるもの 4、男性側が、失踪その他の物理的に婚姻継続をさまた げる事故を発生せしめた場合のもの、 以上四種に分別される。 最後のものはさらに定婚後、 成婚前と成婚後との二種に細別される。1は「棄妻」や「放妻」ともいわれる夫側からの一方 的な離婚で追い出し離婚である。夫の尊属親の同意と離縁状を必要とした。離婚の法定原 因に、無子(妻五十歳以上で男子ない場合) 淫? 舅姑につかえず 口舌 窃盗 嫉妬 悪疾 がありこれを七去といった。しかし、「経持舅姑之喪」すでに妻が舅、姑の三ヶ月の 喪に服し終えている、 「娶時賤後貴」婚姻後妻の内助あり立身出世している、 「有所受無所帰」 離婚した妻に帰るべき家身寄りがない時には三不去といって例外的に認められなかった。 (七去三不去) 2は「若夫妻不相安諧。而和離者不坐」(戸婚律)とある場合円満離婚し得た。 3は「義絶」と呼ばれるもので夫が妻の祖父母や父母を殴打した場合や妻の尊属を殺した場 合、または妻が相手方にそうした行為を行った場合、罪自体、恩赦で許されたとしても双 方の意思とは関係なく国家が離婚を強制した。妻は一方的に婚姻を解消する事は出来なか ったが、4の場合の定婚後三ヶ月たっても夫が正当な事由なく成婚を挙げない場合や外国 で行方不明になって一ヵ年経過した場合、徒罪以上の罪を犯した場合などのときは官司へ の届け出、許可をまって別人への婚姻・再婚が認められた。律令制における離婚の法的効 果としては妻の実家より持参した財産中果実を含む現存財物が返還されること、双方の再 婚が認められることであった。 2 離婚の実態 律令では追い出し婚などの夫から一方的な離婚を宣言すると言うものがあったが、当時 の住居は主に妻の家であり、でていくのは夫であった。物語などではこれを、「夜離れ」「床 去り」といって、文字通り女の寝床を去るという意味であるので、制度的なものではなかっ た。したがって、離婚かどうかは時がたってから事後的に知るだけである。そのため、一 度離れても復縁する場合もある。その間他の男女と結ばれていればそれは多夫多妻もしく は重婚ということになる。律令では前に述べたように重婚を禁止している。初期のころに はこれに忠実であろうとしたようであったが、このころになると、そうではなくなってき ている。高群逸枝氏は愛情がなくなれば離婚するという当時の離婚の仕方、戸令七出条の 空文性、当時の離婚の具体的方法としての、夫が通わなくなるか出て行く場合と、妻が閉 古代における婚姻形態−平安期貴族社会を中心に−(纐纈) 6 第一部 日本型社会の黎明 め出す場合の併存、離婚の具体的方法としての 1取り交わした文殻の返却 2調度類、 装束等の返却 3「夜離」「閉め出し」等直接的行為の三類型の存在を指摘している。 離婚における女の立場は安易に「夜離れ」される非常に不安定なものであった。そこで、 女はより自己の生計は生家に頼ることになるのである。しかし、婿取りされた男は妻の家 に居住している場合、妻の家を出ることになると一度生家に戻る事になる。しかし生家は 娘が継いでいるため、もう一度再嫁する必要があった。このように男は生涯を通じて同一 の家屋に住み通すことはほとんどなかった。それに対し、女は前述したように原則として 住居を父母から与えられ自家を離れる事はほとんどなかった。では離婚した夫婦の子供は どうなっていたのかというと、 子供は妻家に置き去りにされるのが原則であった。 しかし、 両親の離婚によって親族関係を抹殺されることはなく、 父母の存在は変わらないのである。 これは家父長制下の「家」制度がまだ完全に成立していないことを示している。ただ、第一 章 結婚決定権のところで述べたように純婿取り婚は父のよる決定によって、 行われる「家 父長制度」のはじまりでもある。つまり、この期は「家父長制度」への過渡期だと考えられる のである。 婚姻に際しては儀式をふまえたはっきりとしたものに対し、離婚ははっきりとした離婚 の宣告などは行われず、曖昧な形であった。むしろ、たとえあきたのでのであってもそう とは言わず、名残をおしみつつ、情趣深く別れようという当時の形が物語などからうかん でくる。これは離婚によって、女が経済的に貧窮することや世継ぎを産むための期待を後 世ほど負っていなかったからであろう。室町以降江戸期に入ると律令にある「棄妻」のよう に離婚は露骨なものとなってくる。婚姻では締結、子の誕生によって、政治的社会的影響 は大きいが、 離婚に関してはそれほど重視するわけではなく、 曖昧で趣深く行われていた。 3 女性の離婚権の有無 律令では夫権が強く、離婚権は夫にあった。しかし、この期の離婚は女性に離婚権があ るように解釈されているものも多い。高群逸枝氏は妻の夫の追い出しや離婚と再婚の容易 を指摘し妻方の離婚の主導権を認めている。また、田端泰子氏は『伊勢物語』などから離 婚における男性と女性の立場は対等であったとしている。服籐早苗氏も浮気ばかりする男 性に対し、女性は我慢する事なく堂々と自己主張できたとしている。このころの離婚権は 女性にもあったのだろうか。しかし、高群逸枝氏が主張している夫への閉め出しは稀であ り、氏があげている『伊勢物語』の中では一例にすぎない。また、 『蜻蛉日記』をみてみる と、筆者は夫兼家をひたすら待ちつづける。その間に他の男性と関係をもつことはなかっ た。和歌のやり取りはあったが兼家が通わなくなってからも、再婚した形跡はない。 『今昔 物語』のなかでも、夫を待ちつづける妻がいる。夫は妻の家に通わなくなることで、婚姻 関係を終了した。これは男性が自分から結婚生活を動かすことができると解釈できる。物 語で平安期に離婚された女性は夫の愛の復活を待ちつづけ、時にはそれが叶うがそうでな いときは落胆のあまり死んでしまうこともあった。また、夫への恨みが募り、生霊・死霊 となる話は多い。それに対し、自分から夫を替えて自由奔放な恋愛をした女性はほとんど 出てこない。もちろん夫と死別した後、再婚した女性はいる。 また、夫のもとから逃げ出し、再婚した女性もいる。この場合は妻の離婚の意思表示と 考えらていた。しかし、こういった例外的なものを除き、離婚権はほとんどが男性方にあ 古代における婚姻形態−平安期貴族社会を中心に−(纐纈) 7 第一部 日本型社会の黎明 ったといえる。栗原弘氏はこのような曖昧な離婚状態は一夫多妻制のもと「夫には性の自 由」が「妻には性の忍耐」が与えられたとして、女性の離婚権の劣位性・従属性・受動性をあ げており、それに対し男性優位性・主体性・主導性を指摘している。 第四章 相続 1 相続規定 相続は唐制をそのまま継受されたに等しい婚姻・離婚法にくらべいくつかの相違がみら れる。相続は継嗣令に規定されている継嗣法と戸令に規定されている財産相続法の二つに 区分している。家督相続を継嗣といい、嫡子相続をもって原則とされる。これは位階相続 といえるほどの階級性を帯び法定順序があった。嫡妻長子・嫡出長孫・嫡妻長子同母弟・ 庶子等という順序である。すなわち大宝令による継嗣は八位以上の有位者の家長、位階の 相続規定といえるもので、三位以上は子・孫に及ぶ蔭位の特権、早世、罪疾、任に堪えら れない場合の立替嫡子相続などが詳細に保証され、四位以上八位以上は嫡長子を定めるも ので、五位以上の嫡子選定は治部省への届出を要し、特に嫡子を入れかえる場合には、治 部省が申請の実情を調査した上で決定を下した。大宝継嗣令では孫の蔭で矛盾が生じたの で養老令では改訂されている。 財産相続は大宝戸令応分条でみるごとく唐律の諸子均分主義を大きく改正している。以 下は示しておく。 1財産相続は家、家人、奴婢、財物であり、この中より妻がもたらした奴婢は除く。 2相続財産物中、嫡子に財産の半分とその他の資産すべてを相続させ、残りの半分を 庶子 が均分して相続される。この場合の庶子は嫡子を除いた嫡出男、及び庶出の 男子の総称である。これは極端な嫡庶異分主義である。 3この相続規定は内八位以上の有位者にのみ規定されると考えらる。 4被相続人の遺言(存日処分)は家人、奴婢についてのみ認められる。 この他には代位相続についてなどの規定が記されている。 これに対し以下に書く養老戸令応令条における改訂では大宝戸令応分条の嫡庶異分主義 を大幅にゆるめられている。また女性の相続範囲を大幅に広げたものであった。顕著にあ らわれているのは相続財産のであった。 1相続財産に田地がくわえられ、氏賤は氏宗が相続し、功田功封は被相続人の男女が均分 することになった。大宝戸令応分条では除かれた妻の奴婢もそこに加えられた。 2相続財産の文法は嫡母、継母、嫡子二分、庶子一分、女子、妾半分と改められている。 しかしこれに関して中田薫氏によると、嫡母、継母相続分二に対し妾は半分でその差が激 しいようであるが、嫡母、継母とは嫡子にとって実母でない場合であり、「正妻」の実子が 嫡子となった場合「正妻」の相続分はなく、母子同財の原則からいって嫡子が養うべきもの であり、一方妾は自分自身が分財にあづかりその子も一分を与えられるので実質的には妻 と妾の相続分はそれほど変わらないのであった。 3規定は有位者、庶民を問わず適用されることになったと考えられる。 4共同相続人が遺産の分割を欲せず、同居共財を望む場合、及び被相続人が生存中に行っ た存日処分の場合、その証拠がはっきりしていれば本相続法に拘束されない。 古代における婚姻形態−平安期貴族社会を中心に−(纐纈) 8 第一部 日本型社会の黎明 代位相続に関しても女子、妾に対しての規定が広がっている。このように養老戸令応令 条は、庶民にまで適用範囲を広げ、現状と合うように改正しようとした。また被相続人の 意向が大きく反映される存日処分の権を戸令でも確認した。この改訂は有位者の遺産相続 法である嫡庶異分主義と庶民の均分主義とを折衷したとされるが、これらの規定はどちら の慣習とも合致しなかったようである。 2 相続の慣習 律令が夫婦の財産を同財としていたのに対し、慣習では夫婦別財産であったとされてい る。また、夫婦間だけでなく、親子・兄弟・姉妹間も別財産であった。これは結婚後も妻 の財産は夫とは独立して所有され、離婚が発生しても妻は自分財産を失う事はなかったこ とを示している。女性は財産を獲得する機会はそれほど多くなかったが、これに対して、 保障的意味合いから男子より女子のほうが多くの財産が与えられている場合が多い。親か らの財産相続は当時の貴族女性にとって、経済上必要なものであった。それには氏族的な ものが強く現れていて、 『栄華物語』によると一条太政大臣為光には息子が何人かいたが、 娘の三の君に本第の一条殿および全財産をゆずったとしている。 『小右記』 の筆者右大臣藤 原実資も息子ではなく、女子千古に譲っている。高群逸枝氏は、妻は夫とは別に荘園の本 所や政所、家司を持ったとしており、品格のある氏族の女性なら自己と所生とを保証する にたりる家と財産は持つべきだったとして、女性の経済的独立、女系の相続を強く主張し ている。また、服籐早苗氏の『平安遺文』所収文書の分析結果によると、荘園領主層での 荘の財産被処分者の男女比は四七%対五三%と財産処分者の男女比は五七%対四三%と算 出されていて、ほぼ男女対等に行われていたと考えられる。また、氏の所収の売券の親族 連署率を調査したものによると、配偶者の連署は平安時代の売券の二%しか見られないこ とを実証したところから、平安時代において妻の財産に対し夫が合意しなければ処分が認 められなかったというような慣習は成立していたとは考えられず、財産所有・処分権の法 的主体性は妻自身にあったことを述べている。 ただ、平安時代の財産の相続に関しての具体的資料は少なく、例えば夫婦の婚姻後にで きた財産は離婚後どう処分されたかなどははっきりとしたことがわかっていないのが実情 である。女性に相続の権利があったこと、夫婦が別財産制度をとっていたことは事実であ る。しかし、江上守氏の『宇津保物語』の研究では「女性の経済的自立性の欠如」が指摘さ れており、女性が親より多くの財産を相続しても夫などが後見していなければ、周囲から ないがしろにされ、他人に土地を奪われてしまう実例もあげられている。女性が財産を長 期にわたって、安全に所有しつづけるためには、父や夫の後見が必要であっただろう。こ の理由に関して栗原弘氏は兄弟・姉妹の分割相続と別財産制をあげており、この制度は支 配と被支配の関係ではなく、平等な関係であったため、連帯性が弱く、兄弟・姉妹であっ てもお互いの財産に交渉することはないため、保護することもなかったと考えられる。 おわりに 平安期の婚姻形態は律令とはかけ離れた慣行で行われていたように感じられる。ただ、 唐から継受した律令を日本の慣行と近づけようと改訂をしようと試みはあった。慣行面か ら探って、平安期での女性の権利の強さを主張する文章は多い。これは女性が恋愛の自由 古代における婚姻形態−平安期貴族社会を中心に−(纐纈) 9 第一部 日本型社会の黎明 をこの頃手に入れていたことや財産を父母から主に受け継いでいたように感じられる事が 理由としてあげられるのであろう。ただ、実際は恋愛には制約が多く、財産も父親や夫の 保護下にあったのが事実である。婚姻において高群逸枝氏の功績は大きい。ただ、女性の 権利の強さを主張しすぎている面も多いように思われる。私としても平安期、女性には婚 姻権や相続権があったと考えたいところがある。しかし、本当にそうなのかは資料を正し く解釈し多方面から婚姻をみることによってわかることである。平安期では婿取りが主な 婚姻とされていた。これによって、女性は自家を失うことなく生活の不安は以後の時代よ り少なかった。しかし、自由がきくといっても結婚決定権が当人だけにあったわけではな い。また政治を行うのは主として男性であった。男性の権利は強く、主張されているほど には女性に権利があったようには感じられない。しかし、この後の時代、女性が律令の離 婚規定にみられる「棄妻」などによって、もっと過酷な婚姻関係を強いられる事を思えば平 安期の婿取り婚は女性に夢を持たせてくれていると言えるのではないだろうか。 参考文献 日本婚姻史 招婿婚の研究 高群逸枝 理論社 高群逸枝 理論社 1963年 1953年 婚姻の民族 東アジアの視点から 江守五夫 吉川弘文館1998年 婚姻と女性 総合女性史研究会 吉川弘文館1997年 日本女性生活史 女性史総合研究会 東京大学出版1990年 古代の家族と女性 平安朝の家と女性 日本中世の女性 義江明子 岩波書店 1995年 服籐早苗 平凡社 1997年 田端泰子 吉川弘文館1987年 日本律の基礎的研究 日本古代法制史 高塩博 汲古書院 1987年 利光三津夫 慶応通信株式会社 1986年 日本女性史の研究 脇田晴子東京大学出版1992年 律令国家における嫡妻・妾制について 関口裕子 1993年 平安朝の女と男 服籐早苗 中央公論 1995年 平安時代の離婚の研究 栗原弘 弘文堂 1998年 古代における婚姻形態−平安期貴族社会を中心に−(纐纈) 10
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