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アラブ韻文文学におけるテキストと伝承
森
口
明
美
Analysis of the Oral Tradition of the Pre-Islamic Poetry
Akemi Moriguchi
抄
録
アラブ文学においては一般に韻文が最高の文学的表現と考えられてきた。中でもジャー
ヒリーヤ時代(イスラム勃興以前の無明時代)のムアッラカート(mu allaqāt)と呼ばれ
(
る7つあるいは10の長詩はすべてのアラブ詩の中で最高傑作とされている。ジャーヒリー
ヤ時代の韻文はアラブ人の生活や精神を反映するだけでなく、コーランのアラビア語とと
もに古典アラビア語の成立に多大な影響を与えたとして言語学的にも重要である。その一
方で、伝承過程における様々な問題点も指摘されている。本論文では、ジャーヒリーヤ時
代の代表的詩人、イムルウルカイス(Imru al-Qays, d. c.550)のムアッラカ(mu allaqa,
)
(
ムアッラカートの単数形)のテキストの比較分析を行った。その結果、対象とした5つの
テキストはすべて異なっていたが、その違いは限定的かつ規則的であった。
キーワード:ジャーヒリーヤ(無明)時代、アラブ詩、口承文学、韻律学、伝承
(2006年9月25日受理)
Abstract
The Arabs have admired poetry since the pre-Islamic age, considering it as the most
excellent literary form for expressing their thoughts and feelings. An accepted traditional
opinion says that the mu allaqāt(the “suspended odes”, the canonical seven, or ten
(
greatest odes of the Jāhilı̄ya)of the pre-Islamic age are the masterpieces of Arabic literature
through all the ages, both pre-Islamic and post-Islamic. Not only did the pre-Islamic poetry
reflect the Arab’s ways of life and their spirits, but also it contributed greatly to the
linguistic development of the classical Arabic, no less than the Qur ān did. The researchers
)
of the pre-Islamic poetry have been always confronted with the variety of its existing texts
owing to the oral poetic tradition. This article deals with the five texts of Imru al-Qays’s
)
mu allaqāt (a singular form of mu allaqāt)one of the most famous pre-Islamic Arabic
(
(
odes, and analyzes their differences. It was found that their differences have restrictions
and regularities.
Key words : al-Jāhilı̄ya(barbarism), Arabic Poetry, Oral Literature, Prosody, Tradition
(Received September 25, 2006)
― 1 ―
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0
6)
1 . はじめに
「アラブ文学」と聞いて「アリババと四十人の盗賊」や「シンドバッドの冒険」、を思い
浮かべる人も多いことだろう。
『アラビアン・ナイト』または『千夜一夜物語(Kitāb Alf
Layla wa Layla)』として知られるこの説話集は、9世紀頃まずその原形が形成された。そ
の後、多くの説話がつけ加えられ、文字通り千一夜の物語りを含んだアラビア語の原典が
書物の形として印刷されたのは19世紀になってからのことである。ヨーロッパでは『アラ
ビアン・ナイト』の面白さや文学的価値が高く評価されたが、アラブ文学では純文学とは
区別され、単なる娯楽と評価されることが多く(杉田,
2001:12―228)、その成立過程す
らいまだはっきりとは分かっていない。
一般にアラブ文学史では、全期を通じて、詩などの韻文作品が重要視されている。特に
1
は、韻律や修辞の面でも非常に高いレベルにあ
イスラーム以前の長詩(カシーダ qa・sı̄da)
り、後世のアラブ文学に多大な影響を及ぼしたとされている。近代以降は、ヨーロッパ文
化の影響を受けて伝統的な詩の枠組みを打破する動きが活発化するが、その一方で、アラ
ブ世界においてもアラブ古典詩の本格的な研究が始まった。
研究者たちの多大な努力によって偉大なるアラブの文化的遺産は今日まで輝きを失うこ
となく受け継がれてきた。その一方で、オリジナルテキストの決定など伝承過程で生じる
問題点の多くは未だ本格的な解決にいたっていない。
本論文は、現代におけるアラブ古典詩研究の成果を比較分析することにより、韻文テキ
ストとその伝承についての再考を試みたものである。
2 . アラブ文学の時代的背景
分析に先駆けて、まず近現代におけるアラブ古典詩の研究が、アラブ文学の中で、どの
ような位置づけにあるのかを確認しておきたい。
2
時代、8世紀中期
一般にアラブ文学は、イスラーム以前のジャーヒリーヤ(Jāhilı̄ya)
までのイスラーム初期、13世紀中期までのアッバース朝期、オスマン朝支配期、18世紀以
降の文学再興期に区分することができる。
ジャーヒリーヤ時代にも散文作品はあるが、文字の体系が不充分だったため、あまり発
達しなかった。その代わり詩的表現の分野が傑出し、数多くの詩が作られた。詩は記憶さ
れ、口伝えされていた(ヒッティ,1970:195,196)。
預言者ムハンマドにイスラームの聖典であるコーランが下され、ジャーヒリーヤ時代に
終止符が打たれるとアラブ文学は新たな局面を迎える。コーランとは「読誦」又は「読誦
されるもの」の意味で、暗記・朗唱するのが原則であった。しかしムハンマドの死後、ア
ラブ以外のイスラーム化に伴い、伝承に異同が生じ始め、正しいアラビア語を確立する必
要性が高まった。このようにイスラーム初期においては、アラビア語自体への関心が高ま
り、散文文学への誕生へつながった。またイスラーム化の結果、多くの非アラブ人が文学
の担い手となり、この傾向はアッバース朝でますます顕著となる。アラブ文学はコーラン
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森口:アラブ韻文文学におけるテキストと伝承
の注釈をはじめ、歴史・地理・医学・天文学・辞書・文法書・礼儀作法書など広範囲な内
容を持つようになった。このような教養人として心得るべき知的教養一般は「アダブ
3
」と呼ばれた。アッバース朝(749―1258)では、高度な修辞的技巧による芸術的
(adab)
な散文作品が数多く生み出され、その手法はすべての分野で活用されるようになり、アダ
ブ文学の絶頂期を迎える。またこの時代、ジャーヒリーヤ時代の古典詩は、注釈が加えら
れ、詩集として編纂された。ヘレニズム文化とペルシャ文化を吸収、同化して、イスラー
ム文化は中世における重要な地位を占めることとなる。
しかし、十字軍の頃からすでに東方においては、勢いにかげりが現れ、過去の模倣に終
始した創造性に乏しい作品が目立ち始める。
『アラビアン・ナイト』に代表される大衆の
娯楽を目的とした物語集が編纂されるようになったのはこの頃である。その後、16世紀に
オスマン帝国によって支配されると、文学活動は完全に低迷した。
このような状況に一大変化をもたらしたのが1798年のナポレオンによるエジプト侵入で
あった。ヨーロッパの軍事侵略ではあったが、文化的には重要な意味をもつ。その一つが
印刷機の導入である。すでに1
7世紀以降、イスラーム世界においても印刷が始まり4、書
物の中心が写本から刊本に移りつつあったが、中東地域全域で印刷が一般的になったの
は、19世紀のことである。カイロの郊外、ブーラーク5で、1821年、本格的な印刷が始まっ
たが、これは「アラブの覚醒」を表す象徴的なできごとであった。19世紀のアラブ古典文
学の印刷は、アラブ・イスラームの文化遺産の再認識につながり、それはアラブ近代文学
誕生を促すと同時にナフダと呼ばれるアラブ文芸復興運動やアラブ民族主義の高揚をも促
したのである。
近現代においては、ジャーヒリーヤ時代の韻文がアラブ人の生活や性向あるいはアラブ
民族の感性や信条を写し出すものとして、学問的にも芸術的にも注目され、研究が行われ
ている。
3 . アラブ古典詩の研究の歴史
アラブ文学史において最も独特で、世界に誇りえる芸術として賞賛されるジャーヒリー
ヤ時代の韻文は、灼熱と荒涼の砂漠地帯で生まれた。遠方に流れる水の音を聞きつけ、あ
るいは、はるか彼方の木立を見つけて漂泊する遊牧民族は、異常なまでに視覚・聴覚が発
達していた。勇敢で不屈の精神、掠奪と復讐の習性に鋭敏な視覚と聴覚こそが古代アラブ
人の特質で、彼らの眼と耳によって創り出されたジャーヒリーヤ時代の韻文は、まさに純
アラビア的な文化的産物と言える。詩人は様々な物を直感的に捉え、豊富な語彙で味方を
讃え、敵を痛烈に風刺して人々に深い感動を与えた。詩はジャーヒリーヤ時代における唯
一の文学的表現の手段であり、部族の知力は詩で評価された。詩は敵部族に心理的打撃を
加え、味方の部族を扇動し、行動に駆り立てる機能を担っていた。メッカの東方、ウカー
ズ(Ukāz)の定期市では毎年、詩人たちが作品を披露し合い、最高の栄誉を求めて争っ
ていた。詩人にとってウカーズの定期市は、自分の実力を世間に知らしめる唯一の場だっ
た。
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6)
当時の詩人は、自らが語り手として唱うことはなく、ラーウィー(rāwı̄)と呼ばれる語
り手兼説明役が、詩の背景や詳細を注釈し、聞き手を魅了していた。また、多くの場合、
ラーウィー自身も詩人で、自分もまたラーウィーを持っていた6と言われている。
詩には短詩(キトア qi・t a)と長詩(カシーダ)があり、一定の韻律と脚韻にのっとっ
(
ている。カシーダは、ジャーヒリーヤ時代の唯一の文学的表現の手段であり、最も完成し
た詩形式と見なされていた(ヒッティ,1970:197)。
イスラームになって、韻文の時代は終わりを告げたが、口承という伝統的手法はその後
もしばらく続けられた。ジャーヒリーヤ時代の韻文が記録という形で継承され始めたの
は、アッバース朝になってからである。ようやくこれまでラーウィーによって記憶、口伝
されていたカシーダは、ムアッラカートを代表とする詩集に編纂されることになる。
ムアッラカートは、カシーダの中で特に優れた七篇を集録した詩集で「七つの長詩
Tiwāl)」「七つの数珠つなぎの真珠(al-Sumūt al-Sab )」「黄金詩(al(al-Qa・sā id al-Sab al-・
)
(
(
「貴重なも
Muddahabāt)」とも呼ばれ、詩の傑作として讃えられた。ムアッラカートは、
の」あるいは「目立ったところに掛けられた」を意味するが、その名は、ウカーズの定期
市で表彰された各カシーダが金文字で刺繍されて、カアバ(al-Ka ba)神殿に掲げられて
(
いた伝説に由来する(el-Tayib,1983:111)。一般的には、7篇のカシーダを指すが、編者
によって、七篇の選択が異なったり、九篇や十篇のカシーダを含めたり様々である。
ムアッラカート以外の詩集には、アブータンマーム(Abū Tammām, c.805―845)によっ
d
dal al-Dabbı̄,
て編集された短詩集ハマーサ(hamāsa)や、編者アルムファッダル(al-Mufa
・
・・
・
d・
dalı̄yāt)などがある。
d.786)の名にちなんで名づけられたムファッダリヤート(al-Mufa ・
また、歌の書として知られるアルイスファハーニー(al-I・sfahānı̄, d.976)のキターブ
ア
ルアガーニー(Kitāb al-Agānı̄)は、古代から中世にいたる詩や歌をまとめたもので、各
詩や歌は、作者の名前だけでなく家系、伝記、さらには逸話にいたるまで記録されており、
詩人や歌人の百科事典として評価されている。
19世紀以降、アラブの覚醒とオリエンタリズムの潮流が、アラブの文化遺産であるジ
ャーヒリーヤ時代のアラブ古典詩に押し寄せたのは当然のことである。その本格的研究の
ためには、これまで各地に散在していた写本や断片を完全な形に復元することが最も基本
的かつ不可欠であった。ところが、その復元は困難を極め、今なお学者たちを悩ませ続け
ている。ジャーヒリーヤ時代のアラブ古典詩が口承文学である以上、その記憶や伝播の途
中で脱落や誤りが起こったり、ラーウィーの判断で故意に追加や削除が行われる可能性は
充分に考えられる。また、作者と作品の不一致や注釈の挿入など校正時の混乱も避けられ
ず、信憑性についての議論が繰り返されてきたことは言うまでもない。
「私たちがジャー
ヒリーヤ文学と呼ぶものの絶対多数は、まったくジャーヒリーヤ時代の作品ではない。そ
7
1926:65)
。」というアラブ
れらはイスラームの出現後捏造されたものである(Husayn,
・
古典詩の存在を根底から覆しかねない説まで現れ、改めてオリジナルを決定することの困
難さが決定づけられた。さらに Ahlwardt(1870)をはじめ多くの先行研究で、同一編者
による同一詩集であっても、写本によってカシーダの語句や読み方、詩行の数や配列、カ
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森口:アラブ韻文文学におけるテキストと伝承
シーダの掲載順序、集録されているカシーダの内訳が異なることも指摘されている。
以上のように、ジャーヒリーヤ時代のアラブ古典詩が写本によって大きくことなること
はすでに周知のことであるが、これまでは、違いがカシーダの内容に及ぼす影響など主に
意味的な関係が重視されてきたため、違いが現れる箇所や頻度、違いの分布、バリエーシ
ョンなど「違いそのものの」が明らかにされることは少なかった。本論文では「違いその
もの」に注目して、その実態を明らかにするために、異なる5つの詩集に収録されている
同一カシーダの比較分析を試みたい。
4 . カシーダの形式と内容
まず、カシーダについてごく簡単に述べておくことにする。すでに述べたとおり、ジ
ャーヒリーヤ時代の詩はカシーダと呼ばれる形式に発達した。このカシーダの語源は「何
かの方向に進む、目的に到達するように努力する」という意味の動詞 qa・sada である。こ
の名前が示すように、本来カシーダはストレートにではなく、遠まわしな方法で主題を表
現する詩の形式である(Goldziher,1966:10)。カシーダの特徴は、長ければ1
00行にも及
ぶほどの「長詩」であること、韻律や押韻規則に厳しく制限されていること、複数のテー
マの混合体であることの三点である。
4. 1
形
4. 1. 1
式
韻
律
カシーダの各行は、上の句と下の句から成り立ち、それぞれは一定の長音節と短音節の
組み合わせ8でできている。この音節の組み合わせの配列によって韻律が決まる。いずれ
の句も同一の韻律を保ち、さらに構成する全行が同じ韻律でなければならない。
音節の組み合わせ(タフイール taf ı̄l)は8種類だが、それぞれに変形が存在する。
(
16種類あるが、アラブ古典詩において最もよく用いられ、後述
韻律(バハル bahr)は
・
のイムルウカイスの詩も「タウィール(tawı̄l)調」なのでここではタウィールを例にとっ
て説明する。タウィールは「短 ― 長 ― 長」「短 ― 長 ― 長 ― 長」「短 ― 長 ― 長」「短 ― 長 ― 長 ― 長」
が基本で「短 ― 長 ― 長」には「短 ― 長 ― 短」、「短 ― 長 ― 長 ― 長」には「短 ― 長 ― 短 ― 長」など
のバリエーションもある。
(
短音節を 長音節を ― として図示すれば次のようになる。
4. 1. 2
脚
韻
古いカシーダでは第一行目の上の句と下の句は韻を踏まなければならず、しかもすべて
の行末で同じ韻が繰り返されなければならない規則になっている。第一行目の下の句の脚
韻文字9によってカシーダの区別がなされる。この文字がアラビア語のアルファベットの
2
3番目の文字 lām であればそのアラビア文字名から lāmı̄ya と呼ばれる。
4. 1. 3
文法的破格
厳しい韻律と脚韻規則に規制される一方で、行の最終音節で短母音の長母音化、短母音
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6)
の省略、追加などの緩和が認められている。また詩においてのみ許される語法(poetic
licenses)も数多い。
4. 2
内
容
典型的なカシーダは、ナシーブ(nası̄b, the amatory prelude)、タカッルス(takallu・s,
disengagement)、ガラド(garad, the main theme)の三部から構成され、各部は以下のよ
うにまとめられる。Bateson(1970:25―27)。
ナシーブとは、聞き手の郷愁や共感を喚起するための部分で、ここでは、廃墟と化した
野営地の跡にたたずみ今は離れてしまった愛人との恋の思い出が切なく歌われる。しかし
ナシーブの役割はそれだけではない。ナシーブは詩の中で最も高度に形式化された箇所
で、詩人が自分の技量を最も発揮できる部分である。したがってナシーブを比較すること
によって、カシーダの伝統的要素を正確かつ緻密に評価することができる。
ナシーブでの詩人の目的は、美的感覚・表現力・語法の簡潔さ・迫真性において先人た
ちやライバルたちを凌ぐために、彼の持ちうるすべての技でテーマを美しく飾り立てるこ
とである。
見事なナシーブで聴衆を惹きつけた詩人は、多くの場合、恋人との離別から彼自身の旅
への描写に移る。そのため第二部はしばしば旅のテーマと呼ばれている。ここでの目的は、
自らを詩人としてだけでなく部族における勇者として称賛することである。詩人の馬やラ
クダの描写は彼自身を反映するものである。もし馬が迅速に突進したり、多くの負傷を受
けたならそれは彼が幾多の戦いに参戦したことを意味し、ラクダが長時間渇きに耐えてい
れば彼自身もまた過酷な旅の非常な困苦に耐えうる男であることを示唆する。きわめて情
熱的に歌い上げられる部分である。
旅のテーマのあと、いよいよ最終部である本題へと入る。ここは、詩の中で、厳格さと
いう点ではもっとも制約の少ない、多様的な要素(部族生活の肖像、酒盛り、嵐、詩人や
その部族の勇敢さ、パトロンの気前のよさ、戦さや襲撃、教訓的かつ悲観的な砂漠の倫理
観など)を含みうる部分である。伝統的な方法で伝統的なテーマを扱いながらも詩人が最
も自由に表現した部分である。
5 . イムルウルカイスのカシーダ
5. 1
イムルウルカイス
イムルウルカイスは、ラーウィーたちによってその詩や人について数多くの伝承をもた
らされた最古の詩人と言われている。ラーウィーたちの伝えるところによると、彼はキン
1
0
の王子で、名はハンダジュブヌフジュル(Handaj
Ibn Hujr)
、別名を
ダ族(Banū Kinda)
・
・
イムルウルカイス、異名をアブーワフブ(Abū Wahb)といい、母親はファーティマビン
トラビーア(Fā・tima Bint Rabı̄a)だということだが、彼自身の名前および母親や父親の名
、アルマリクルダ
前については異なる意見もある。また彼はアブーハーリス(Abū Hārit)
・
、ズールクルーフ(Dū al-Qurūh)としても知られている。彼の
リール(al-Malik al-Dillı̄l)
・
・
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名前に結びついた伝説や伝承は数多く流布しているが、それがジャーヒリーヤ時代から継
1958:195)。
承されたものであるかどうかは定かではない(Husayn,
・
5. 2 形 式
前述したように、脚韻文字が lām の lāmı̄ya で、韻律は、タウィール調となっている。
第1行目の韻律は次のようである。なお日本語訳は池田(2003:5)を使用した。
wa manzilı̄
qifā nabki min dikrā habı̄bin
・
bi siq・ti l liwā bayna d dakūli fa hawmalı̄
・
止まれ、恋人とその住まいを思い出して、さあ泣こう。アッダフールとハウマリと
(
〉
fa tūdi
ha fa l miqrāti lam ya fu rasmu-hā
・ ・
li-mā nasajat-hā min janūbin wa sam alı̄
)
トゥディフとアルミクラートの間の、砂が寄り合うふちべに、彼女の住まいはまだ跡形
を留めているが、それは南風と北風が織り成したものである。
tarā ba ara l ar āmi f ı̄ ara・sāti-hā
(
)
)
(
wa qı̄ āni-hā ka- anna-hū habbu
fulfilı̄
・
(
)
中庭やその先に広がる低地を見れば、コショウの実さながらのレイヨウの糞が散らかっ
ている。
5. 3 内 容
Bateson(1970:42―44)は、このカシーダを次のように分析している。
このカシーダの特徴は、ナシーブから旅のテーマに移る前に、詩人の数々の情事につい
ての逸話が克明に叙述され、詩に並外れたエロティシズム11を与えていることである。
カシーダは厳密な意味でのナシーブで始まる。かつて恋人と過ごした野営地の殺伐たる
風景の描写は真に迫り、一方恋人は匿名で語られる。簡潔で見事なナシーブは、詩人を
数々の情事への回想へと導く。
走馬灯のように浮かぶ恋人たちとの思い出は大胆かつ繊細にしかも生々しく歌い上げら
れている。恋人たちは、その一人一人の美しさが芸術的に描写されている。
愛に溺れ、捨てられた彼は、その軽率さを誹謗されて失意の底に沈むが、生き生きとし
た夜の描写によって次の旅のテーマへと見事に移行する。
旅のテーマでは実際の旅ではなく、2つの狩猟における馬の勇敢な様を称賛している。
獲物の血に染まりながらも野獣さながらに荒れ狂う馬と狩の描写12は鮮やかに視覚に訴え
る。
最終部のテーマは嵐である。ここでの目的は純粋なる審美的楽しみの追求といえる。書
き出しや詳細な自然の豊かさの描写はナシーブを彷彿とさせ、カシーダが本筋から逸れる
ことを防いでいる。猛烈に吹き荒れる嵐13、その嵐が残した悲惨な爪あと、しかし嵐によっ
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て清新された穏やかな砂漠の描写でカシーダは終わる(Bateson,1970:42―44)。
6 . イムルウルカイスのカシーダに見るバリエーション
ここでは、最も有名なジャーヒリーヤ時代の詩人であるイムルウルカイスの代表的なカ
シーダにどのようなバリエーションがあるかを検討してみたい。
003)、Ahlwardt(1870)、al- A・t・tār(2002)、al-Zawzanı̄(1921)、
テキスト14に は 池 田(2
(
al-Zawzanı̄(2002)を 用 いる。池 田(2003)は、al-Zawzanı̄15、al-Anbārı̄16、al-Tibrzı̄ な ど
複数の詩集を参考にしてまとめられた最も包括的なテクストと言える。また日本語訳は当
時のアラブ人の気質や生活を見事に再現するだけでなく、言語学的理解にも非常に有効で
ある。Ahlwardt(1870)は、Ela lam17による主に2つの写本を独自の方法で編集したもの
(
である。分析対象とした写本は約2018に及び、写本間の主な相違点は一覧表で示されてい
002)は、基本的には al-Zawzanı̄(1963,1978)に依拠しながらも al-Anbārı̄
る。al- A・t・tār(2
(
〉
(1963)や al-Sinqı̄・tı̄(n. d.)も参考に再編集されたものである。池田(2003)および al- A・t・tār
(
(2002)が参考とした al-Zawzanı̄ のテキストとして本論文では al-Zawzanı̄(1921,2002)を
採用することとした。以後、各テキストは順に I、Ah、At、Z-a、Z-b で示した。なお、日
本語訳、および詩行のナンバリングは、池田(2003)をそのまま利用した。
7 . 各テキストに見られる違い
各テキストに見られる違いは、「単語の違い」と「詩行の違い」に大別できる。
7. 1 「単語の違い」
「単語の違い」をただ漫然と列挙すれば約4
0あるが、これらは以下の8つのグループに
分けることができる。
(1)単語そのものが異なる場合
頻度が最も高く、18例ある。そのうち最も典型的なケースは、同じ意味の異なる単語が
使われている場合で、18例中5例である。たとえば11行目、I と Ah では、「ラクダの鞍に
という名詞が使われているが、Z-a、Z-b、At では同じ意味を表す別
積まれた荷物」に rihl
・
の名詞 kūr が使われているようなケースである。その他には同一音の単語を動詞と見なす
か前置詞と見なすかで異なる場合が1例、非常によく似た音を持つ別の単語の場合が2例
ある。さらに単数形と複数形で異なる場合が1例確認されるが、詩人あるいはラーウィー
の高いアラビア語能力を反映するものとして興味深い。しかし中には写本の不鮮明さや不
注意からの単純なミスと思われるケースも少なくない。どの時点で混乱が生じたかを決定
〉
するのは困難だが、2
4行目の yusirrūna(彼らは批難する)のようにすでに初期の段階で
認識されていたことが明示されている場合19もある。ちなみに At 以外のテキストでは
yusirrūna(彼らは秘密にする)となっている。yusirrūna では「私を殺そうと密かに狙う」
〉
の意味となり文脈と合うが、yusirrūna では「私を殺すことを批難する」となって不自然
な意味となる。
― 8 ―
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〉
ただし rihhl
と kūr にしても yusirrūna と yusirrūna にしても長短の音節構造は同じで韻
・
律に影響をあたえることはない。
(2)母音の発音が異なる場合
単語そのものは同じだが発音が異なる場合である。12行目の「白絹の房飾り」は Z-a で
は ad-dimiqsi と読まれるが、他のテキストでは第二母音が a で ad-dimaqsi と読まれてい
るようなケースである。
ただし、本来、アラビア語は母音を表記しないので、固有名詞や一般的でない単語の発
音に乱れが生じることは珍しいことではない。したがって母音の違いをバリエーションと
見なすかどうかは検討が必要である。
また(1)と同様に、この場合も韻律が変わることはない。
(3)人称代名詞が異なる場合
35行目「その房」の「その」に I、Ah、Z-a では、3人称、男性、単数形の人称代名詞
hu20を用いているが、Z-b、At では3人称、女性、単数形の人称代名詞 hā が使われている
ようなケースである。代名詞が指す単語の解釈の違いによるものと考えられるが、hā を
使うべきところが hu になっている意味的にも文法的にも明らかに誤ったケースが2例確
認された。
(4)接続詞が異なる場合
Z-b、At では、24行目の冒頭に等位接続詞である fa(そして)があるが、I、Ah、Z-a に
はない。なお、fa がある場合は直後の動詞が jāwaztu(私は忍び込んだ)で、fa がない場
合は tajāwaztu(私は忍び込んだ)になるのは、韻律の関係からであろうが、幸いこの2
つの動詞はほとんど同じ意味である。
(5)前置詞が異なる場合
46行目21、I、Ah では「∼の中」を表す fı̄22が使われているが、Z-a、Z-b、At では「∼か
ら」を表す min23になっている。
(6)格語尾が異なる場合
58行目 I、Z-a、At では主格を示す格語尾 u が付いた al-gulāmu(若者は)となっている
が、Ah、Z-b では対格を示す格語尾 a が付いた al-gulāma(若者を)となっている24。
(7)単語が脱落している場合
13行目 I、Ah、Za、Zb ではkidra unayzatin(ウナイザ(恋人の名前)の乗りかご)で
(
あるが、At はkidra がなく unayzatin(ウナイザの)だけである。ただし、At では明らか
(
に文法的に矛盾するのでこれは単なる印刷ミスの可能性が高いと思われる。
(8)単語の順序が異なる場合
10行目 I、Za、Zb、At は、la-ka min-hunna ・sālihin(あなたにとって彼女らとの楽しい
・
sālihin
la-ka min-hunna(同上)と
(日))であるが、Ah では・sālihin(楽しい)が先に来て
・
・
・
なっている。
上記の違いを表にまとめると次のようになる。
なお、表中日本語訳は原則として(池田,2003)に依拠するが、*印は筆者の訳である。
― 9 ―
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6)
7. 2 「詩行の違い」
詩行
I
Ah
Za
Zb
At
(1) 11
li-ri・
hli-hā
li-rihli-hā
min-kūri-hā
min-kūri-hā
min-kūri-hā
・
ラク ダ の 鞍 に 積 ラク ダ の 鞍 に 積 ラク ダ の 鞍 に 積 ラク ダ の 鞍 に 積 ラク ダ の 鞍 に 積
まれた荷物に
まれた荷物に
まれた荷物から* まれた荷物から* まれた荷物から*
(2) 12
ad-dimaqsi
白絹の房飾り
ad-dimaqsi
白絹の房飾り
ad-dimiqsi
白絹の房飾り
ad-dimaqsi
白絹の房飾り
ad-dimaqsi
白絹の房飾り
(3) 35
gadā iru-hu
その巻き毛
gadā iru-hu
その巻き毛
gadā iru-hu
その巻き毛
gadā iru-hā
彼女の巻き毛*
gadā iru-hā
彼女の巻き毛*
(4) 24
tajāwaztu
私は忍び込んだ
tajāwaztu
私は忍び込んだ
tajāwaztu
私は忍び込んだ
fa-jāwaztu
fa-jāwaztu
そし て 私 は 忍 び そし て 私 は 忍 び
込んだ*
込んだ*
(5) 46
f ı̄
∼の中に
f ı̄
∼の中に
min
∼より*
min
∼より*
min
∼より*
(6) 58
al-gulāmu
若者は
al-gulāma
若者を*
al-gulāmu
若者は
al-gulāma
若者を*
al-gulāmu
若者は
(7) 1
3
kidra unayzatin kidra unayzatin kidra unayzatin kidra unayzatin
unayzatin
ウナ イ ザ の 乗 り ウナ イ ザ の 乗 り ウナ イ ザ の 乗 り ウナ イ ザ の 乗 り ウナイザの*
かご
かご
かご
かご
(8) 10
la-ka min-hunna
sālihin
・
・
あな た に 彼 女 ら
との楽しい*
)
)
(
)
(
(
sālihin
la-ka
・
min-hunna
あな た に 彼 女 ら
との楽しい*
・
la-ka min-hunna
sālihin
・
・
あな た に 彼 女 ら
との楽しい*
)
(
la-ka min-hunna
sālihin
・
・
あな た に 彼 女 ら
との楽しい*
)
(
la-ka min-hunna
sālihin
・
・
あな た に 彼 女 ら
との楽しい*
「詩行の違い」も3つに分けることができる。
(1)詩行そのものが異なる場合
30行目 I では madadtu bi-gu・snay dawmatin(私がドウマの二つの枝に手を伸ばすと)だ
が、他のテキストでは ha・sartu bi-fawday ra si-hā25(私が彼女の顔の両側に手を当てると)
)
である。あるいは別の例として Z-a、Z-b、At では47行目の前半と4
8行目の後半で1つの
詩行になっているケースもこれに含まれる。
(2)詩行の脱落
たとえば、Z-a、Z-b、At では49∼52行目が脱落26しているようなケースである。
(3)詩行の順序
Z-a、Z-b、At では31行目と3
2行目の間に41行目が入り、3
1―41―32の順になっているよ
うなケースである。
7. 3
分析のまとめ
「単語の違い」は、一見、広範囲で複雑なようだが、それぞれには2つの共通点がある。
と kūr の例
まず1つ目は「違い方が限定的であること」である。
(1)のケースとして rihl
・
を挙げたが、 5つのテクストに使われている「ラクダの鞍に積まれた荷物」を表す単語は、
と kūr の2種類だけである。それ以外の「ラクダの鞍に積まれた荷物」を表す単語は
rihl
・
―1
0―
森口:アラブ韻文文学におけるテキストと伝承
使われていない。つまり「違う」とはいえ5つのテキストで用いられる単語がばらばらに
異なっているわけではない。
(5)の前置詞についても同様である。f ı̄(∼の中に)や min
(∼から)以外にも前置詞の種類は非常に多いにもかかわらず、4
6行目の違いは、どのテ
キストでも f ı̄ か min のどちらかであって、テキストによって使われる前置詞がまちまち
というわけではない。2つ目の共通点は「違いの発生箇所が極めて限定的なこと」である。
(3)の人称代名詞について言えば、カシーダに使われている人称代名詞は全部で80以上あ
る。しかし、5つのテキスト間で混乱が見られる人称代名詞は全部で3箇所だけである。
(5)の前置詞に関しても同様である。前置詞は全部で1
00以上使われているが、違いが見
られるのはたった1箇所にすぎない。(4)接続詞に関しては、本カシーダでは、接続詞 fa
(そして)があるかないかの違いだけで、別の接続詞が使われるといった接続詞同士の混
乱は全く認められなかった。ちなみにアラビア語にはいわゆる等位接続詞が2種類あり、
文法学上は明瞭に区別されているものの、後世の文学作品においてしばしば両者が混乱し
て使われる。それを考慮すれば本カシーダにおける接続詞の正確さは賞賛に値するものと
いえよう。「詩行の違い」も「単語の違い」と同様、「違いの発生箇所が極めて限定的」と
言う点で共通している。詩行の脱落が起こる箇所は2箇所、詩行そのものが異なる場合も
2箇所である。詩行の配列や詩行数の違いは、
「詩行の順番」と「詩行の脱落」の組み合
わせの結果生じたものと見なすことができる。
8 . まとめ
現在、信憑性があり完成度が高いと評価されている5つのテキストに収録されたジャー
ヒリーヤ時代を代表するカシーダでさえ、二つとして同じものはなかった。このことはい
かにオリジナルのカシーダを決定することが困難であるかを如実に示すものであろう。し
かしこのカシーダに関する限り、写本間の違いは決して無秩序ではなく、限定的、かつ規
則的であったと言える。とりわけ接続詞や前置詞、人称代名詞など文法上の混乱が極めて
少ないことは、詩人のみならずラーウィーや編者たちの高度な言語知識を証明するものと
して興味深い。
イムルウルカイスの伝承や説話が、ジャーヒリーヤ時代のものか否か、その説話に結び
ついたカシーダがジャーヒリーヤ時代のものか否かといったカシーダそのものの信憑性に
ついては本論文の範囲をはるかに超えるものなのでここでは触れないが、少なくとも伝承
については正確であったと言えるのではないだろうか。
厳密な韻律と脚韻規則に制限されたカシーダでは、韻律を破る相違は原則的にありえな
いという事情が働いて、テキスト間の相違も韻律内の限定的で小規模であったのかもしれ
ない。しかしこれはどのカシーダにも共通することなのであろうか?
今回の分析ではテキスト間の大きな相違は見つからなかったが、さらに大きな異同・削
除・追加などが見つかる可能性は否定できず、その分析は今後の課題となった。
―1
1―
大阪女学院大学紀要第3号(2
0
0
6)
参考文献
池田
修 「アルムアッラカート試訳(Ⅰ)
イムルアルカイス」『関西アラブ・イスラム研究』
3,2
0
0
3,
pp.1―1
3.
イスラーム辞典
杉田
大塚
和夫他編
1
1
8 名作への招待』 池田
西尾
岩波書店 2
0
0
2.
英明 「世界の芸術家の霊感源」『コーラン アラビアン・ナイト… 週刊朝日百科世界の文学
哲夫 『図説
修編
朝日新聞社 2
0
0
1.
アラビアンナイト』 河出書房新社 2
0
0
4.
ヒッティ. K. F. 『アラブの歴史(上、下)
』
岩永
博訳
講談社学術文庫 1
9
8
2.
Ahlwardt, W. The Divans of the Six Ancient Arabic Poets, London,1
8
7
0.
al- A・t・tār, Slaymān al-Mu allaqāt al -sab , Cairo,2
0
0
2.
(
(
(
Bateson, M, C. Structural Continuity in Poetry, A Linguistic Study in Five Preislamic Arabic Odes, Paris,
1
9
7
0.
Encyclopedia of Arabic Literature 2vols, ed. J. S. Meisami, P. Starkey, Routledge,1
9
9
8,[E. A. L.]
.
Goldziher, I. A Short History of Classical Arabic Literature, Hildesheim,1
9
6
6.
a”, Encyclopaedia of Islam New ed. vol.3, Leiden, p6
4
1.
“Hutay
・
)
Husayn,
Tā・
h・
ā F ı̄ al -adab al -jāhilı̄, Cairo,1
9
5
8.
・
Nouryeh, C. Translation and Critical Study of Ten Pre -islamic Odes, New York,1
9
9
3.
el-Tayib, Abdulla “Pre-Islamic poetry,” Arabic Literature to the End of the Umayyad Period, ed. A. F. L.
1
3.
Beeston et al., Cambridge,1
9
8
3, pp.2
7―1
Wright, W. A Grammar of the Arabic Language,3rd. ed.,2vols. in1, Beirut,1
9
7
4.
〉
al-Zawzanı̄, A・
hmad. b. al-Husayn
Sar ・
h al-mu allaqāt al -sab , Beirut,2
0
0
2.
・
(
(
〉
Kitāb sar ・
h al -mu allaqāt al-sab , Cairo,1
9
2
1.
(
(
註
1 カシーダについては本論文4で後述。
2 アラブでは、イスラーム勃興以前を「無明」の時代という意味で「ジャーヒリーヤ時代」と呼
ぶが、文学的には特にイスラーム前約1
5
0年(西暦5世紀末以降)を指し、アラブ古典詩はこの
時代に黄金期を迎えたとされている。
なおジャーヒリーヤをアラビア文字で表記すれば
となるが、本論文ではアラビア語は
ローマ字転写で表記する。
3 アダブは今日、一般的に文学を指すアラビア語である。
4 すでに東アラブでは、1
8世紀初頭にシリアのアレッポで最初の印刷所が設立された。その後、
レバノンやベイルートにも建てられたが、それらはローマ聖教やカトリック教会による印刷所
で、主に福音書やモーセの五書を始めとする礼拝用の書物が印刷されていた。
5 ブーラーク印刷所で最初に印刷されたのは『アラビアン・ナイト』である(西尾,
2
0
0
4:2
3)
。
6 代表的なムアッラカート詩人であるズハイル(Zuhayr Ibn Abı̄ Sulmā, d.6
0
9)は、母方の叔父、
〉
〉
バシャーマブンアルガーディル(Basāma Ibn al-Gādir)とアウスブンハジャル(Aws Ibn Hajar,
・
d.6
2
0)のラーウィーであると同時に、彼自身はフタイア(al-Hu
tay a, d.6
7
8?)というラーウ
・ ・
)
ィーを持っていた(el-Tayib,1
9
8
3:2
9)
。
7 著者ターハーフサイン(T・
āhā Husayn,
1
8
8
9―1
9
7
3)はエジプトの学者、作家。カイロ大学で博
・
士号取得後フランスに留学、帰国後カイロ大学文学部古代史教授、のちにアラブ文学教授とな
る。 小説家としても名声を確立。 アラブ文学に関する著書論文は多数。 教育改革にも尽力した。
(イスラーム辞典,2
0
0
1:6
0
9)
。
8 アラビア語には1種類の単音節「子音+短母音」と2種類の長音節「子音+長母音または二重
母音」「子音+短母音+子音」がある。
―1
2―
森口:アラブ韻文文学におけるテキストと伝承
9 脚韻文字および押韻の細則は、Wright,1
9
7
4, vol.2, pp.3
5
2―3
5
4を参照。
1
0 4
8
0年頃から5
2
9年までの約5
0年間、アラビア半島の中央部から北部にかけての諸族を統合して
キンダ王朝を樹立した。南アラビアのヒムヤル王国を後盾にユーフラテス地方のラフム朝やシ
リアのガッサーン朝に対抗した(イスラーム辞典,2
0
0
1:3
2
3)
。
1
1 その例として2
6行目が挙げられる。
fa-ji tu wa qad na・
dat li-nawmin tiyāba-hā ladassitri illā libsata lmutafa・
d・
dali
)
)
訪ねてみると、彼女はテントの中で衣装を脱ぎ、眠りにそなえ薄地の寝巻きだけを身にまとっ
ていた(池田:2
0
0
3,8)
。
1
2 その例として6
3行目が挙げられる。
〉
ka- anna dimā a lhādiyāti bi-na・
hrihi u・
sārat ・
hinnā i bi-saybin murajjali
)
)
(
)
群れを先導する野牛の血が午の首を染めているが、あたかも、それは白髪の巻き毛を赤く染め
たヘンナの汁のようだ(池田:2
0
0
3,8)
。
1
3 その例として7
2行目が挙げられる。
di u sanāhu aw ma・
sābı̄・
hu rāhibin amāla ssalı̄・ta bi-d・
dubāli lmufattali
yu・
)
)
)
光り輝くさまは、よじられた芯に油を注いで照らす修道僧の灯火のようだ(池田:2
0
0
3,9)
。
1
4 本分析では現在、最も完成され、信憑性の高いテキストとして5つの詩集を選んだ。しかし写
本そのものを編集したテキストとすでに編集されたカシーダを再編集したテキストが混在して
おり、比較対照テキストとしての有効性には若干の疑問を残したままとなった。テキストの選
択も今後の課題の一つである。
1
5 Abū Abd Allāh al-Husayn
Ibn A・
hmad al-Zawzanı̄(d. 1
0
9
3)
、言語学者、アラビア語 ― ペルシャ語
・
(
〉
辞書編纂多数、ムアッラカートの解説書(Sar ・
h al -mu allaqāt)は特に有名(E. A. L.,1
9
9
8:8
2
2)
。
(
〉
1
6 al-Anbārı̄ Abū Bakr Mu・
hammad Ibn al-Qāsim(8
8
5―9
4
0)
、ハディース学者、言語学者、著書に
Sar ・
h al -qa・
sā id al -sab al -・tiwāl al -jūhilı̄yāt, Kitāb al -adād など(E. A. L.,1
9
9
8:8
9)
。
)
(
〉
〉
1
7 Yūsuf Ibn Sulaymān al-A lam al-Santamrı̄(1
0
1
9―1
0
8
3)
、アンダルシアの言語学者、著書に Sar ・
h al(
〉
mu allaqāt, Sawāhid Sı̄bawayh(E. A. L.,1
9
9
8:7
0
4)など。
(
1
8 比較分析した写本については Ahlwardt,1
8
7
0, pp. XV1
1∼ XXV1を参照。
〉
1
9 「Ela lam は yusirrūna としているが、Ela lam 自身は yusirrūna の方が適切であると述べている。」
(
(
(Ahlwart,1
8
7
0:7
3)
2
0 韻律上、実際の発音は-hū となる。
〉
gadā iru-hū mustaszirātun ila l ulā
)
)
(
ta・
dillu l iqā・
su fı̄ mutannan wa mursalı̄
(
その巻き毛は束ねられて競り上がり、一部は二筋に、他は乱れて、彼女の額に垂れ下がっていた。
池田(2
0
0
3:7)
2
1 英訳では“go on, unveil the morning”(Nouryeh,1
9
9
3:5
8)
。
2
2 池田(2
0
0
3:7)では、「夜明けがそなたに勝る」と訳されている。
2
3 al-Zawzanı̄(1
9
2
1:2
6,2
0
0
2:2
3)は、この min を「min+比較級」の min で「∼より」の意味と
解釈している。
2
4 池田(2
0
0
3:8)では、「若者は(馬の背から)滑り落ち」と訳されている。al-Zawzanı̄(2
0
0
2:
2
8)の注釈によると「(馬が)若者を滑り落とし」と解釈されている。
2
5 池田(2
0
0
3)
、al-Zawzanı̄(1
9
2
1,2
0
0
2)によると別の伝承もある。
2
6 この4行は他の詩人の作であると言う説もある。
―1
3―