法然上人鍛仰会 Januωy

浄土第 79巻 1 号 ( 毎月 1 回 1 日発行 ) 平成 25年 1 月 1 日発行
昭和 10 年 5 月 20 日第 3 種郵便物館可
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法然上 人 鍛仰 会
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室岡置古の浄土宗寺院、満開寺の本堂は
平成 15年に建立された 11 間四方の大伽
藍だ 。 j諮問寺第七世の飯島英徳住臓とそ
の長男の飯島佳紀副住車露。
蘭
満開寺の本尊は、 関山である満向上人が芝
増上寺から遷座された阿弥陀如来立像だ.
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満岡上人は 74 歳の時に本尊ととも
に泊上寺から室蘭に赴いたが 、 再び
僧上寺山内の常照院に戻り 80 織で
遷化されている . 関山満岡上人像 。
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満開寺内陣. 右手奥の臨陣には成田山の不動明王の御身分が安置され 、 その前には護摩唱がある . 地元の不
動信仰を満開寺が受け入れたものだ 。
は f 浄土』 で出会 っ た吉田純二
郎の 本 も揃えている 。
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百
。
今回の取材に合わせて満岡寺飯島住臓に詠んでもらった俳句
40 年近くかけて集めたという
「 のら く ろ 」 の全集 。 飯島 住職
飯島住臓が今も大切に持ってい
る母から最初にもらった漫画 。
『 婦人倶楽部j 昭和 8年 9 月号の
別冊付録だった「凸凹黒兵衛」。
美疎しい水に恵れた沢 町 に移転してきた満開寺 。 暖
かい室蘭は 、 雪が少なく外墓地もある 。
無縁の方々の供養のために作られた参道脇の御堂 。
明治中期に不動信仰が盛んになり 、
成田山の不動明王の御身分をいただ
き 、 満岡寺に記られることになった
不動明王像 .
この観世音菩薩像は日蓮六老僧の一
人で 、 北海道に伝説を残す B 持上人
( 鎌倉時代 ) の作 。 臼本製鋼の守護
神だ っ たものが 、 戦後縁あ っ て満岡
寺に詑られることとなった .
昨年 11 月に第3回全国工場夜景 サミ ッ トが室蘭で関かれたが、
鉄の街室蘭の夜景 は素晴らしい 。 奥に架かるのが白鳥橋 .
浄土
2013/1 月号目次
カラーデラピア寺院紀行
室蘭満同寺 ・
…・ー…写真= タカオカ邦彦
法然上人をめぐる人々を終えて ・ ・…・ ……・
… 石丸品子
I
6
聞き手= 長谷川岱潤
寺院紀行
室蘭満開寺 ・・・・・・・ 目 ・・・・・・・・・・ ・ ・・・・ 0 ・・・・・・ ・・ ・・ ・ ・・・・ ・・ ・・ ・ ・・・・・・・ 真山
会いたい人
串田和美さん ②…・・………・…・・・…・・…・・ 関
響流十方 -
…・…
… …
剛
1
6
容子
24
… ・ …・…・ … ・… 小村正孝
34
••• 前田和男 3
8
J フォーラム ...・ H ・.....・ H ・.. . ....・ H ・ ...…・一一・・… …・・
…・ … … … 4
7
誌上句会 …. . .・ a ・ - …. •••••••••••••••••••••••••.・ ・・ ・ ・・ ・・ ・・・・・・・・・・・ ・ 選者= 1曽田河郎子
4
8
連載小説
渡辺海旭
マンガ
さっちゃんはネッ
編集後記
表紙裏 ・
…・・…・・・…・・…・ ・ ・…・・・… ・
… …
・
…・…・・ ・
・・・・…
かまちよしろう
…...... . .. .. .. .. ........... . ...... . ....... .・ ・・・・・・・・・・・・・・ a ・ ・・・・・・ ・ ・・・ ・・
平副証物語断 :et
背表紙裏 . "番安の美味係訪
表紙題字=中村康隆元浄上 門 主
アートディレクション= 近藤十問郎
協力= 迦陵頻伽舎
5
1
5
2
日リ
編
石 め j去l i
丸
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回目
zz
先
生
聞
く
石 九,'IÙ f先生に 聞 く
編集この「法然上人をめぐる人々」は、
一九九七年の 一月号から連載が開始されまして、
。
長谷 川編集長に 一度メ
。
昨年 二 O 一二年の十月号まで足掛け十五年、途中で少し休憩の時期がございましたが、な
。
ルでご返信くださり、その短いお 言葉に励まされて、今
。
んと八章七十五回という連載をお書きいただきました 本当にお疲れさまでございました
1
石丸編集部の皆さんにはいろいろとお煩わせしてしまいました
ールでお送りしますと、すぐメ
。
。
。
浄土学や法然教学の専門家でなく、また、ご信仰
日まで何とか書き続けることができました
。一 度もないですね
一度も穴を開けませんでしたね
編集ありがとうございます
石丸
編集そうですね
ちにとりましては本当にありがたく、感謝申し上げたいと思います
。
。
も違う先生が、ここまで法然上人のことを長きにわたってお書きいただいたことが、私た
きょうも先生の法然上人に惹かれた理由などをお伺いできたらと思います
最初に、法然上人についてお書きいただくのに周辺の人々から法然上人を取り上げてい
。
くという書き方、また、学者である先生が、評伝ではなくて、小説という形でこれをお書
。
それを覚
長谷 川先 生から法然上人について何か書くようにというご要望だったと思
きになり、志したお気持ち等をお聞きしたいと思います
。
石丸最初は、
。
しかし、私は「法然上人のことはとても書けません」とお断りいたしました
います
えております
「聖者は聖者にしか書けない」ということを私自身常日頃から感じておりまして、法然上
7
。
人は、余りに偉大すぎて、ご人格も深遠で、とても私のような人間には書けないというこ
とを常々思っておりました
。
。
ですから、法然上人の周辺の方であったら書かせていただけるでしょうか、ということ
をお尋ねしたことを覚えています
そうしましたら、「それでもいいですよ」とおっしゃってくださいました
初めはこん
なに長くなるとは予想もつかなく、何となく、大胡四郎隆義のことから書き始めました
評伝やエッセ ーではなく、こういう小説の形をなぜと ったのかといいますと、かねがね
私は小説を書きたいとずっと思っておりましたが、なかなかその機会がありませんでした
。
。
。
それで力も得まして、小説を書
先生が
そのとき、選
。
評伝、エッセー、評論を書く機会はたびたびあるのですが、小説のご依頼をいただくこと
ただ最初のとき、私は式子内親王伝で「紫式部文学賞」を受賞しました
がなく、発表する場もなかったのです
。
考委貝の大庭みな子先生という有名な小説家がいらして 、もう亡くなりましたが、
私に「小説を書いてみなさい」とお薦めくださいました
浄土 」 の誌面を借りて小説に挑んでみよう
『
浄土 」 の方からお話をいただきまし
きたいな、書きたいなと思っているところに、月刊 「
。
て、本当にご迷惑だったかもしれませんが、
というのが最初でございます
編集大胡四郎の親
。
章がまとまっておりますが、第
1
2
子の話から始まりまして、最初は、 「
四十八巻伝 」 に出てくる高砂の
漁師ですとか、室ノ津の遊女のお話等のところで、第
章は本当に先生の真骨頂と申しますか、式子内親王さんのお話です
先生の中では式子内親王さんと法然上人の関係というのは、非常に興味のあるところで
8
石丸晶 子先生に Illl く
。
そうですね
ございますね
石丸
。
ただ、式子内親王と法然
上人には、大変心惹かれておりますが、最初、
ご存じように
それを式子内親王から入らずに、大胡四郎隆
。
三 十通現存していま
義のことを考えておりました
。
法然上人にはお手紙が
す
。
それで私は、かね
そのお手紙の中で、大胡太郎実秀の妻にあ
てたお手紙があるのです
て、法然上人からこんなすばらしいお手紙を
。
そこにいた
赤城
ど
一人の女性が道
。
もらった女性のことを書きたいと思っており
ました
。
この大削家のところは赤城山麓です
山麓の豪族です
。
を求める心が深くて、わざわざ法然上人にお
念仏の教えについて尋ねる使者を立てた
たのです
。
んな女性だったろうかと、すごく関心があっ
。
是非この女性につ
それで図書館に通いまして、大胡家とその
周辺について調べました
9
。
。
いて書きたいと思って書いたのが初めですそれが式子内親王からは入らなかった型由です
。
。
章、
3
4
章、
。
。
章は法然上人の生きた時代の
5
平成 三年から始まって平成八年の十
。
。
、
式子内親王のときには、「なかなか法然上人が出てこなくて、編集部の者がしびれを切
。
そうでしたね(笑) でもそれから、
らしているから、早く法然上人を出してください」というご依頼がありましたね
編集
。
背景を書かなければと、先生がおっしゃっていて、ほんとに長い間法然上人が出てこなく
て、私どもはひやひやしていたんです
。
。
時代の中で、法然上人の念仏の教えもあるし、法然上人の悩みも、万
。
平家物語 」のお話をずっとお書きいただいたのですが、やっぱり、その時代というのが
『
そうですね
法然上人を描くためにとうしても先生には必要だったわけですね
石丸
民救済のみ教えも、時代の激動の中で生まれてきたと思うのです
。
そ し て、法然上人の教えにはいろいろな積み重ねがあって、例えば念仏信仰は、法然上
人 が創始したものではありませんよね
その前には、善導大師がいらっしゃるし、それから、 「
往生要集 」 をお書きになった源
信僧都がいらっしゃいます そういう方々の流れの中で、法然上人が出てこられたのです
。
が、法然上人とその方々とを分かつものは、やっぱり、時代があったと思うのです、差し
。
ちょっと長かったです
二月まで、
それで、どうしても平家のことも書きたいと思って、それで書かせていただきました
迫った時代です
そうですね
編集部の方がどれ程ひやひやされていたことでしょう
編集
「
平家物語」だったものですから(笑)
1
0
石丸晶 子先生 に 聞 く
。
石丸私は、いろいろ資料を調べまして、平家の人々も法然上人のみ教えに帰依していた
ことは、間違いないと思っていました
。
それは、いろいろなところで今まで書かせていただいたり、お話しさせていただいたり
したのですが、平家の人々は法然上人の教えによ って救われたと思うのです
あの法然上人のみ教えに接していなければ、平家 一門の人々は、どんな思いで死んでい
。
っただろうと思うと 、や っぱり、救われない気持ちがするのですが、法然上人のみ教えに
すがって、みんな南無阿弥陀仏を称えたのです
章、
7
でも、確かに、長かったと思います
。
章が、熊谷次郎直実から源智上 人、そして、親鷺さんという、法然上人の
。
『
平家物語 」 を読みましでも、「南無阿弥陀仏を称えるまで、しばし待て」と言って、首
6
を切られ、そのようにして死んでいくのです
編集
。
お弟子さんたちのお話を、ずっと取り上げてもらいましたが、書いていて何かお気づきに
。
なったこととか、お弟子さんのことで考えたことがありましたでしょうか
石丸 私は、勢観房源智上人にたいへん興味を惹かれました
。
。
。
開山上
。
勢観房源智上人は平家の嫡流でありまして、そういう意味からも平家の人たちを書いて、
それで源智上人につなげるという意味もあったのです
。
源智上人には、初めはさほど関心がなかったのですが、大本山知恩寺に行ったとき、そ
こに所蔵しておられる国宝級のものを見せていただいたことがありました
そうするとそこに源智上人の彫像があったのです それ以前には源智上人といいますと、
寺、金戒光明寺など、総本山、大本山の 二祖です
何かすごく背が高く、堂々とした大男、強くて丈夫な方という印象を持っていたのですが
編集源智上人は知恩院、知恩
1
1
人は法然上人ですが、法然上人は名前だけで、
。
本当は源智上人が全部お建てになっていると
いっていいでしょ、っ
それに法然上人の 一周忌にあてて四万人も
の念仏結縁を行ってお作りになった阿弥陀如
来像の話もありますし、先生がそういうイメ
。
寺に参りまして、源智上人の
ージをお持ちになるのは、無理もないことだ
と思います
石丸でも知恩
かよわげで、きゃしゃで、優美で「ああさすが、平家の嫡流」と思うようなお姿なんです
。
。
彫像を拝見いたしましたところ、何かすごく
私が今までイメージしていたのと全然違うお姿の、面影を残した彫像が残っておりました
。
それで、源智上人にすごく心を惹かれまして、源智上人についていろいろ調べてまいり、
上人は石清水八幡宮との関係が非常に強いというようなお話がありますが、岩
それで、小説を脅かせていただきました
編集源智
家としての、というと、おこがましいのですが、行き当たった結論
。
清水八幡宮の紀氏との関係というのは、どういうふうなものなのでしょうか
石丸これは、私の作
。
といいますか、推理なんですが、小説を書いていですごく思ったのは、書きながらいろい
ろなものが見えてくるんですね
。
エッセーとか評伝では、それが余りないんです書きながら、 その人の先のことが見え
1
2
石丸品子先生に |品| く
。
小説
る、その人の心中が見えるというのは、やっ
ぱり、小説以外にはないと思いました
。
を 書 いていると、おのずから筆が押されてい
くんです
そして、源智上人のお父さんは、清盛
。
それで、紀氏との関係ですが、私は源智上
。
人のお母さんであったと思えるようになりま
した
って両親
の孫、清盛の長男重盛の四男師盛なんです
そうすると、源智上人が、どうや
から生まれたかということを、おこがましく、
作家的想像力で推理したかといいますと、お
っ て、そこに
すると、どうし
。
母さんは、岩清水八柵宮のお嬢さんであり、
紀氏であったと推定します
てお父さんとお母さんが知り合
。
源智上人が生まれたかということになるわけ
です
。
そこでお母さんは、重盛の館、平家の館に、
上がっていたのではないかと想定致しました
宮仕えといいますか、侍女奉公、女房として
そして、そこで師盛の愛を得て、源智上人
1
3
を身ごもったのだと思うのです
そうですね
。
。
。
。
ちょうどその
七月に都落ちしていきます
。
八 三年というのは
、
平
。
らくお母さんはまだ身ごもった直後で、師盛も、女房に身ごもらせたこ
。
源智上人が生まれたのは 一一八 三年なんです
。
家が都落ちした年なんですね
橿集はい
石丸それで、恐
。
だから、お母さんが師盛の子供を身ごもったというのは、誰も知らないで、お母さんは、
とを知っていたかどうか、そういう状況の中で、平家 一族は都落ちしていったわけです
実家の岩清水八幡宮に帰ったと思います
。
だから知っていたのはお母さんと、お母さんの乳
そう推定したのです
一門の男子はみんな殺されていますから、清盛の直流、平
。
そして、そこで源智が産まれました
母とか、実祖父母ぐらいでしょう
源氏が興っていた問、平家の
。
。
ものすごい殺裁であ
。
家ゆかりとわかる人は、全部殺されているんです それもひどい殺し方だったと 言 われま
す
。
だから、女の人は気が変になってしまうほど、関係者が殺された
。
。
十 三歳まで、
。
そういう中を生き延びてきたということを考
一番妥当じゃないかと、思っています
ったということが、歴史上に残っています
えますと、私のように推理するのが
三歳のときです
、あり得ないですね、生き延びることができましたのは
それで、法然上人のお弟子さんに正式になるのが、十
編集そうでしょうね
石丸
。
実家の岩清水八幡宮にかくまわれていた だけど、誰の子供かどうかは全然わからないし、
お母さんが平家に宮仕えしている間に、父親は誰か知らないけれども、誰かと愛し合って、
1
4
不i丸品 iι先生に聞 く
子供が産まれたということしかわからない
。
。
お母さんはもちろん、誰も、「これは師盛の息子だ」なんてことは、絶対に 言えない状
況でした
それで、卜 三歳までかくまわれていたけれども、そのときに、その辺りも小説に書いた
んですが、だんだん成人していくと、かくまいきれなくなって、万 一のことを両親という
。
か、お母さんも、紀氏の祖父母たちも懸念して、都で名高い、学、徳ともに聖者と言われ
る法然上人のところに、源智を預けたのではなかろうか、そのように私は思うのです
(つづく)
1
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北海道・室蘭
満問寺
タカオカ邦彦
傾向移
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真山剛
文/
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ロ
闘闘・聞聞開閉開閉欄馳畢
米寿を迎えた田河水泡先生が昭和 62年に室蘭を窃れた時の配念写実 . 前列中央が回河水泡先生
ご夫妻 . A前列 、 右舗が飯島現満問寺住臓とご内室としこさん . 飯島住臓は生前はご自宅 、 没後
は墓参りをされるほど田河先生とは舵懇の間柄となった .
寺院紀行
まんけいじ
。
「いやいや、お待ちしていました いつ取材に来てくれるかと待つ
ていましたよ(笑こ
。
。
バックナンバ ー揃
北海道室蘭の名刺、満開寺の飯島英徳住職は私たち取材班をこう
言 って歓待してくれた
浄土」の愛読者でしてね
「実は先々代、先代も『
っています」
浄土」の愛読者ということはつゆ知らず、た
満開寺の歴代住職が 『
だ今の住職が 『
浄土 」に毎号投句されていることから取材を申し込ん
。
給土」の取材を待ち焦がれていたとは、こ
だのだが、まさか愛読誌 『
。
「そして、これが頼まれていた俳句です」と今度は小さい色紙を差
んなに嬉しいことはない
し出してくれた
一句
取材の日程や内容をお伝えする手紙に、今度の掲載に合わせ
。
浄土 」のバ
もし読者のお手元に 「
ッ
クナンバ
。
お読みいただけないでしょうか、とお願いをしていたからだ そう、
飯島住職の趣味は俳句
。
。
。
毎月欠かさず飯島住職が投句されている 昨年十 二月号の句
ーがあれば、「浄土の広場」の浄土誌上句会の頁をお聞きいただき
たい
浄土誌に名遣し吉田絃 二郎
と、以前の句からいくつかを並べさせていただこう
その女や尼入道我が母よ
17
1
頁にも掲載してある、今回の取材のために詠ん
琴の音よ古き悲しき想いあり
そして巻頭カラ
。
でくれた勾が・・・・・・
金色の位牌拝みて歳を取る
。
さらにバックナンバーを開いてみたが、飯島住職の句は、
いかがだろう、どの句からもとても強い想いが伝わってくるよう
に思える
母への想い、僧侶としての日常、浄土への憧憾とテi マが 一直線に
。
並んでいて全くプレがない こうした句に込められた想いは飯島住
。
取材
。
職の優しく律儀でひたむきな人柄そのもの、ということのようだ
さて、満問寺の歴史を伺う前に室蘭の魅力をお伝えしよう
地上には整然と並ぶ照
。
前日、日が落ちる頃に千歳空港からレンタカーで室蘭へ向かったの
だが、平成十年に開通した白鳥大橋から見渡す夜景はまさに絶長
。
。
製鉄所、製鋼所、製油所が立ち並ぶ夜
北海道で夜景といえば函館が有名だが、町の灯りを楽しむ函館に対
し、室蘭はご存じの鉄の町
景は、町の夜景とはひと味もふた味も違う
明の輝きにゆらめく炎と煙がアクセントとなり、そして何色もの色
が重なりあう迫力ある建物壁、海上にはマストから緩やかに流れる
。
。
そし
そして翌朝、室蘭の街中のホテルを早く出て地
ここは地球の丸さを実感できる絶景ポイント
。
灯火、そして空中には真っ白にライトアップされた白鳥大橋 思わ
。
ず見とれる夜景だ
球岬展望台へ
本堂奥にある納骨堂・
18
寺院紀行
て室蘭の街を望できる測量山展望台からは遠く有珠山も望める
。
。
ご当地ラーメンのカレ
l
味
残念なのは、登別、洞爺湖と温泉地に挟まれていて、室
とにかく室蘭には九つもの展望台がある、これでおわかりいただけ
るだろう
蘭の夜景や絶景が埋もれがちなことだ
蘭の
PR
はこのぐらいにして、本題に入ろう
。
。
も札幌の味噌、函館の塩、旭川の醤油にひけをとらない:::、と室
。
閉山が浄土宗大本山増上寺の名僧
室蘭最古の寺となる満開寺の創建は文久 二年( 一八六 二)で、正
式な寺号は安祥院常照山満問寺
。
満問上人で、その名前が寺名となっている満向上人は九州諌早の出
身で江戸、芝の増上寺山内の常照院に住していたが、七十四歳の時に
。
かつての元室蘭、現在の崎守町にあった本堂を解体移築し現
。
その後、常照院に戻られて八十歳で遷化
現在の本尊であるおよそ 三 尺 三寸の阿弥陀如来立像を抱持して蝦夷
の室蘭へやってこられた
されたが、常照院には満向上人時代の水鉢が今も残っているという
さて、創建から十年経った明治五年( 一八七 二)、札幌と 室蘭を
。
結ぶ鉄道の開通、新室蘭港の開港に伴って満開寺は移転することに
なる
在の沢町に移ってきたのだが、この沢町を本拠地として地蔵堂、太
子堂、不動堂、観音堂、善光寺(後に善行寺に改名)と近隣に多くの
。
当時は室蘭郡の通達により宗派を問わず、神宮も含め
説教所という布教拠点を置いて、数人の僧侶が大いに説教をして回
ったという
豆本収集も趣疎のひとつで
浄土三部経.
、
写真は
1
9
ての幅広い布教活動が推奨、展開されていて、満問寺も毎月三 回、
。
一の日には定例の布教を行い、門前も大いに賑わったという今で
こそ落ち着いた街並みだが、当時の満開寺の門前には魚屋、果物店、
。
。
さらに明治 二 十 三年頃から不動講の信仰組
そして、明治十四年には明治天皇御巡幸の非常時
豆腐屋、ブリキ屋、タバコ屋、そして味噌と醤油工場と、何でも揃
う門前町だった
御立退所になっている
織が信徒問にめばえ、明治三 十 二年七月に千葉県成田山新勝寺から
。
ち
御本尊の大聖不動明王の御身分が満開寺に勧進され、毎年七月四、
五日に行われるお不動さまの例大祭は室蘭最古の祭りとなった
。
。
また、地名からもわかるように沢町は水が豊富
。
まさに移転後の満開寺は新生室蘭のあらゆる
。
なみに、現在も不動明王像は本堂脇陣に安置され、例大祭には法要
が務められている
なところでもあった
面でその中心地となった名剰なのである
こうした満開寺の興隆を担ったのが、第五世の飯島覚道上人だ
江戸時代末期に長野県に生まれ埼玉の川越蓮馨寺で僧侶となり、明
三十四年に同寺の住職となり、明治四十四年には法然上人御忌七百
治 二十五年に 二十七歳で有珠善光寺に入り、布教活動に従事、明治
年大遠忌の大本山増上寺法主の御代理導師を努め、大正八年に満開
。
ごぜん
昭和 二十年に八十歳で遷化されるまで御前さま
。
寺第五世住職になられた 四年後には宮地 三百坪の払い下げを受け
満問寺本堂を新築
測量山展温台から-~置する室蘭.室蘭 l草地球の丸さを実感でき
る地主事脚展望台など全 BBで 9つの展望台がある風光明婦な地だ.
20
寺院紀行
と呼ばれ檀信徒に大いに愛された住職だった
。
その後を継いだのが、奈良大道第六世住職だ
。
。
奈良住職は明治四
奈良住職は飯島党道上人が御
十四年富山県生まれ、幼少の頃に北海道積丹の奈良家に入籍、その
後に先々代飯島住職に弟子入りする
l
ル新築、納骨 堂新築 、本
前さまと呼ばれたのに対して、方丈さまと呼ばれたが、戦後の満開
寺を大きく発展さ せた住職で、満岡 寺 ホ
堂増築、参道整備、納骨堂檀徒ホ l ル再築と五十年に及ぶ在位期間
。
中に満同寺の伽藍を整え、また各種役職を務められ、大沢町の善行
寺の住職も務められてきている
。
しかし、男の 子が
その奈良住職が大正大学を卒業した秋に先々代飯島住職の 一人娘
照子さんと結婚、昭和八年に現住職が生まれる
。
飯島住職七歳の時
飯島住職は祖父である先々代から読経を教わったこと、小
。
その後 三人の女 子を産んだ
産まれたら師僧であり先代である飯島住職の養子に出す約束があ
り、現住職は奈良姓から飯島姓となる
。
照子さんだが、昭和十五年に病死されてしまう
だ った
。
婦人倶楽部 」 の別冊付録「凸凹
母が愛読していた 「
学校 三年ぐらいから檀家回りをしたことなど、幼少時代のことをよ
く覚えている
。
そし
で)を母からもらい、まだ字が読めないながら絵を楽しんだことが
黒兵衛」(のらくろで有名な回河水泡作の黒うさぎが主人公の漫画
母の大事な思い出の 一つで、今も大切にその本を持っている
室蘭新駅舎
旧廠舎も残っている.
、
21
て、その本と母の面影が重なり、大正大学時代に東京御徒町の松坂
。
そして、「のらく
少年倶楽部 」 のらくろ展」で田河水泡に色紙にサインをも
屋の「 「
らった上にかみなりの絵を描いてもらっている
ろ」熱は母への想いとともにますます高まり、発行元の講談社に嘆
願して「のらくろ」を全巻揃え、田河先生との交流はどんどん深ま
。
そ
田河先生にし
り、昭和六十年に田河先生が室蘭を訪れた時に学生時代にもらった
。
三十年前の自分のサインとの再会となったわけだ
かみなりの絵の色紙に落款を押してもらったという
ても、およそ
して、飯島住職は四度も室蘭を訪れてくれた田河先生の東京町田の
。
何事も 一一筋の静かな熱血漢なのである
玉川学園の自宅へも伺っているし、没後には多摩霊園にお墓参りに
。
その飯島住職は大正大学で務土学を学び昭和 三 十 三年に僧侶とな
。
。
そう 言う奥様も室蘭から少し離れた白老の商売家に生
るあの
V
.る
も行かれている
り、昭和四十 一年より先代住職の養母が 一人住んでいた善行寺に居
を移し、昭和五十四年には普行寺の住職となる そして、平成六年、
先代奈良大道住職選化にともなって満問寺第七世住職となった そ
。
して平成十五年には現在の本堂を建立、翌年には中興・開山号を授
与されている
。
「住職はいまだに母への想いで生きていますから:::」と奥さまの
としこさん
まれ、十四歳で母を亡くされている 。二 十 三成で満問寺にお嫁にき
て箇E
し縮。
いに
f
:
r
醤
寺
飯
島
住
臓
が
兼
務
22
寺院紀行
たが、その理由は「お寺はお米があるから」
。
そして、ある時、母
の字が好きで実家から持ってきた母の卒業アルバムを見ていたら、
。
その時の驚きはもとより、そのことが同じ境遇
なんと住職の母と自分の母が室蘭高等女子学校の同級生だったこと
がわかったという
。
。
そうそう、高校時代のエピソードを忘れてしまった 高校生のた
の 二人の併をさらに深めたという
「真剣」という題で「指
めの 『
拳窓 」という学参誌の読者文芸欄の 二行詩コーナーに住職が高
。
に
二行詩で、作品評に「簡勤さ
校 三年生の時に応募した作品が掲載された
。
先にうつる影進学の原動力」という
に敬服する」とある
。
その実直さは若い
浄土」 誌面で吉田絃 二郎に会え、そして母の導きで田
「
浄土 」
幼くして亡くした母への供養の為に仏道修行に励み、「
会え、その
河水抱先生に会えたことを喜びとする飯島住職
。
頃から変わることなく七十八歳の今日まで続けられている
日々、先代と母の位牌、先々代の位牌に手を合わせ供養している
。
飯島住職 風光明蝿な室蘭は俳句に詠む素材に事欠かないはずだが、
。
そうした飯島住職ならではの句を、この
飯島住職はこらからも変わらず父と母、そして仏道への想いを詠み
続けていかれるのだろう
。
浄土 」 で拝見し続けられるは大いに楽しみなことである
『
(ルポライター)
飯島英徳住臓
。
実直なお人柄が港み出ている満岡寺、
2
3
関容子
j・置v 世カオカ邦彦
会 いたい人
いつも身近にいた吉田日出子の存在を抜きに
血中田さんヒストリーを見て行く上で、俳優
には文学座から芥川比呂志や岸田今日子など
人は文学座に研究生として入る。その少し前
養成所を 三年間で卒業し、昭和四十年、 二
が大挙して去る分裂事件があったばかりだっ
座養成所から文学座、やがては自由劇場へと
しては語れない。
たのは美空ひばり。へンで刺激的で奇妙で不
君たちすぐ辞めないよね、って念を押された
「面接のとき、演出家の木村光 一さんから、
た。
思議で:::何か特殊な生き物みたい」と話し
のにじきに辞めたし、木村さんも結局あとで
彼女があるインタビューで、「影響を受け
ていたが、この形容はのちの自由劇場のマド
文学座で僕は価口 一葉の『十 三夜』にせり
辞めるんだけどね(笑)。
る。
ンナたる女優吉田日出子にそのまま当てはま
何だかつまらなくて、来年は俳優座養成所受
っと出るだけ。おせきが落ちぶれた昔の恋人
れずに戻ってくるおせきの弟役
な家庭から金持ちの家に嫁いで屈辱に耐えら
ふのない少年役で出たのが初舞台です。貧乏
けようと思って、そこで出会ったのが日出子
の人力車から降りてしみじみ語り合って、 二
「僕は高校を出て日大の芸術科に入ったけど
さんです。お互いにまだ十代。そのころは彼
人で歩いて立ち去ったあとに、僕が袴はいて、
最後にちょ
女もそんなに突出した感じはなくて、演技の
肩から白いカバン下げて、薄を持って、口笛
で鉄道唱歌を吹きながら舞台を通りすぎて
。
のは苦手だったらしいけど、そのうちだんだ
実習で意味もなく泣けとか笑えとか言われる
ん頭角を現してきで、千田是也さんに本公演
やまひだ
幕、というものでしたね
日出子さんのほうは、水上勉さんの『山襲』
。
の子供の役とか娘役とかに抜躍されてました
からね」
2
5
自由劇場「上海パンスキング」の楽屋での$固さんと吉田日出子さん o (燭~/タカ オカ邦彦)
という芝居でかなりいい役がついた。僕もし
ゃべるのが不自由で足の悪い男の役で実は水
しん
にやるべき人を見つけ出すのは天才よ、って」
りはできないんだけど、いいなと思って一緒
すごい。私の才能は、自分であれこれ考えた
「このときにデコ(日出子)の
言 ったことが
佐藤信と共に自由劇場を旗揚げする。
て串田、吉田、清水鉱治が辞めて、斎藤憐や
の樹木希林)が辞めて六月劇場を作り、続い
まず、草野大悟、岸田森、悠木千帆(のち
られましたからね」
だから辞めると言い出したときは、すごく怒
の芝居、面白いのよね、って言ってました。
さんや荒木道子さんがじっと見てて、あの子
してしまう感じになるんだな。袖で杉村春子
気が漂い出して舞台の四角い空間を総て支配
てただフワッと出てくるだけで、不思議な空
ゃい体で子供みたいな顔した人が篭を背負っ
日出子さんは山の小娘の役で、あの小っち
上勉さんに特別にほめられたんですけどね・・・・・旬
26
会いたい人
これは殺し文句!
全盛 時代の自由劇場のドキュ
。
であった あとでわかるんだけど、ガラス屋
の息子さんが日芸(日大芸術科)に通ってて、
そこをドラムの稽古場にしてたんだね 。三十
「
ついこの間、
メントを、座・高円 寺 で観てきたけど、若く
坪足らずの狭い場所だけどみんな気に入っ
しかしデコのお母さん
の知人が何百万か貸してくれたり、オーナー
。
てツルツルした肌のデコが若者たちが次々に
わかるのは、あんたたち可哀そ
んだけど資金がない
て、ここで芝居をしよう、ということになる
。
。
何だかわかんないよ、あんたたち
言 い放つ理屈っぽい演劇論を聞くうちに、ひ
と言言 う
のおばあちゃんが芝居好きで待ってくれたり
の言 うこと
うだな、っていう気がすること:::そした
したんで、そこを劇場に改装して、間もなく
。
ら熱弁ふるってた若者たちが絶句しちゃって
柿落し、旗揚げに漕ぎつけることができた。
届けは 一応八十人定員なんだけど、大当りの
1
ハ
l
言
ときは 二百人近くも入って、もう酸素が足り
ないから大きな 声出せないで、ハ
たりしてましたね(笑) 」
l
l
を待ちながら』
四世』に変え、
串田さんの傑作『もっと泣いてよ、フラツ
おかげで僕が主役になった。
てピランデッロの『ヘンリ
だったが、 当時劇団民芸が上演権を持ってい
二作目がベケットの『ゴト
旗揚げが佐藤信の『イスメネ・地下鉄』、
っ
ね(笑)」
こちらは『裸の 王様』の無垢な眼をした少
年のよう。
自由劇場発足まで、当時まだ工事中だった
地下鉄六本木駅の階段に 集っ て、場所や資金
。
集めの相談をした。まるでブロードウェイ・
ミュージカルの舞台みたいだ
ったら、水
「ある夜中、ガラス屋のピルの地下に降りる
戸 があいてて、暗い階段を降りて
が少したまってたけど、ドラムセットが置い
27
。
パ l』や斎藤憐の代表作『上海パンスキング』
で評判を呼ぶのは十年程あとのこと
。
のように、色とりどりの料理がきれいに盛り
つけられているようで楽しかった
串田さん演じるギャングのボス、アスピリ
ンが小娘のフラボ
「
パンスキングが大当りして、銀座の博品館
でやってくれないか、っていう話が来たとき
に舞い上がるのは『十 二夜』のマルヴォ
l リ
嬢からもらった嘘の恋文
も、今の若者ならすぐ飛びつくところだけど、
オ(よりは純情だが)みたいだし、小日向文
世のコミ帝国 皇 太子がサーカスのお 天気 サラ
l
どうする?ってみんなで顔を見合せちゃっ
てね
に恋して道化になり下がる話は、デートリツ
あのころは先のことなんて本当に考え
てなかったなあ 。当 時の若者たちのそういう
ヒの映画『嘆きの 天 使』を思わせる
。
生き方が別に珍しいことでもなかった。今は
圧倒的にチャ ーミングだったのは、 吉 田日出
の末
しかし
みんな計算するし、そのお手本もあるけど、
子の トランク・ジルで、彼女に魂を 奪われる
l
。
せりふも何となく古い翻訳
l リ
。
あのころは世の中がどうなるかわからなかっ
。
て、そこにジルが登場するんだけど、デコに
中に沈んで行くように落してくれ、って 言っ
「トランクを上からゆっくりゆっくり、水の
調で、今では総てがセピア色の思い出だ
路も哀れだった
八百長ボクサー、クリンチ・チャ
一生あの六本木で芝居し
たから、みんな明日くらいまでしか考えなか
った。もしかしたら
てたかもしれないし、それがいやだとも思わ
なかったし、どうする?って考えて、もう
」
ちょっと世の中に出て行こうか、って決心し
て博品館に出たわけです
疲れ果てて出てきて、とかリアルに言っても
ツと舞い上がるように出てきて、って言うと、
伝わらない。まるでひしゃげた紙が風でフワ
お酒落な店のワンプレート・ランチ
私はあのころの息苦しい狭い劇場で観た
。
『もっと泣いてよ、フラッパー』がとっても
好きだ
28
会 いたい人
。
たちまち目が輝き出して、わかった、って
言
女を演じる 吉 田日出子が首を振りながらくね
くねと舞台を滑るように歩く姿が印象的だっ
。
前に思ってね、クスコを 玉 三郎、 皇 太 子 のア
「
あの芝 居を僕は歌舞伎でやりたいと何年か
。
う
た
あるときは、普段見えないようなワタポ
コリが、日の光があるためにフッと飛んでる
のがわかるような存在、とかね(笑) する
と彼女の芝居が現 実 の人のようにも、影の人
こうしていろんなこ
テノを染五郎、弟のカミノを勘太郎(現・勘
。
のようにも見えてくる
って実 現しなかった
。
クスコは中年で、妖し
之助、って配役まで考えたけど、いろいろあ
九郎)、阿呆を 装 っている末弟のイヨノを七
。
とを 言 い合って、共通の感性が 生 まれてきた
んだと思う
フラッパー』を新しいキャスティ
い色気があって、最初は権力に反感を持って
1
ングで再演、という話もあるんだけど、ひと
たのに途中から権力欲にめざめて行く、とい
この『
月足らずでこの感性を伝えようと思っても
。
。
。
。
彼女は 実はものすごい努力家
なんであんなに稽 古 するかというと、
だから稽古しない人のことを怒るんで
すよ でもあれほど稽古してても上がり性で、
です
には人の何倍も稽古しなくちゃならないわけ
舞台の上で自由になりたいからで、そのため
でね
晴らしかった
しかしデコのクスコのあの独特の動きも素
。
う面白い役で、女方が演じたらまた別の味に
ンで観
妖艶な魔性の
なると思うけどね
ね、多分無理でしょうから新しい発想でつく
らなければね
」
そしてもう 一つ、私の好きな自由劇場時代
l
の作品は、斎藤憐作、串田和 美 演出・ 美 術の
。
『クスコ 』。こちらは平成 五 年のコク
た
クスコは 皇 太 子 担になる自分の娘につきそ
。
って行って、母親のほうが 皇 太 子 に見初めら
れ、ここに愛の叛乱が起こる
2
9
初日なんか幕があく前にチラッと見ると膝が
ガクガクふるえていたりする(笑)。それで
舞台に出ればまるでアドリブで演じてるみた
いな由な感じになるんですよね」
自由劇場はさまざまな演劇人や演劇グルー
区切りをつけ、解散となる。
プを輩出しながら、発足以来 三十年で 一応の
柿落しの逆だからというので柿上げと酒落
。
l
』。串田さ
んと笹野
f年七月、演目はピンタ
の『ダム・ウェイタ
じつに華やかだった。幸四郎さんもいればジ
「あのときは連日超満員で、特に楽日なんか
ちょっとうなずいて挨拶したりしていた。
のナイフ投げの稽古をしながら、知った顔に
くと、満員のお客を前にして串田さんが劇中
ようやく切符を手に入れて地下へ降りて行
高史の 二人芝居だった
l
た最後の公演は平成
自由劇場の稽古耳目の串田さん o 30数年前.
(煩彫 / タカオカ邦彦)
3
0
会 いたい人
ュリ l( 沢田研 二)ゃいろんな役者がいて、
婚という新しい生活がはじまる。
「
まあね(笑)、最終公演のときの写真を連
日撮ってたのが今の女房で、 三十年下です。
。
ね これで終りとなるとみんな去りがたくて、
彼女は日芸を出て写真撮り始めたころに篠山
客席も芝居みたいで夢のような空間でした
飛び入りで歌ったりひと晩中パーティーみた
と書いて行った
でやることが 一杯あって毎日忙しくて、結婚
道に専念していた。僕はそんな年齢になるま
るより撮るほうがやっぱり好きで、写真家の
りながら写真も教わってたんだけど、撮られ
紀信さんに声をかけられて、彼のモデルをや
。
いになって騒いで、劇場としては幸せな終幕
だったと思う
196611996
いよいよそこを去るとき、黒い壁に白いチ
ョークで
の仕事で南
してマイホームとかいうのが男としていやだ
NHK
アフリカに行って、 一か月して戻って夜中に
んだけど、僕は次の日から
ったわけね。でも今はよかったなと思ってま
ルの『スカバン』をグ
きな時間がよみがえってくるしね」
えて、少年のころ親父と山で静かに過した好
六本木へ行ってみたらもう中をこわしてて、
。
で
ドが垂れ
す。子供も生まれたし、僕が芸術監督をして
l
工事の道具なんかも置いてある。懐中電灯を
ンとコ
いる松本なんかに行くと屋上から山がよく見
l
頼りに降りて行くと、ひと月前のあの賑わい
とは打って変って、プラ
てたり、百年も経った遺跡みたいだった
l
ローブ座で観たとき、更にその十何年か前、
何年か前、モリエ
分の人生もここでひと区切りしたなあ、とい
も、壁に書いた僕の字はそのままあって、自
コク
二夜とは
ンの『スカバン』で七之助が演じたあ
う何とも 言 えない気分になって、しばらくそ
の子供の役は:::とプログラムで探したら
「串田十 二夜」とあった。え?十
1
の場に立たずんでいましたね 」
その後しばらくヨーロッパを放浪して、結
3
1
酒落た芸名
(KH
串田)『ファウスト』を書いたもの。
てくと、みんなジュニアのことだと思うけど
「いや、十二夜は本名です。でも外国へ連れ
たんです。パリでオーディションした現代サ
するとか、全部入れて、僕のファウストにし
の話とか、ハンバーガー片手にヒッチハイク
とすっかり感心した覚えがあ
ね。生まれたとき、本棚の背表紙をずうっと
ーカスの人たちとか、
f
見て行ったら『十 二夜』という文字が目に飛
ーディオンとか、賑やかで寂しくて、お祭り
「
子供のころの山登りの思い出とか、紙芝居
びこんで来て、それを名前にした。今、十 三
みたいだったでしょ。ゲーテの原作はキリス
る。
歳。芝居にはいろんな難関があって大変なの
ト教の宗教思想に基づいてるけど、僕のはま
ファウストを演じたのは笹野高史、メフィ
の奏でるアコ
をいつもそばで見てるから、今のところ演劇
ったくそこから離れた現代劇です」
coba
をやる気はないようです」
ストフェレスが串田さんでちょっと意外な配
一人称演劇
串田さんは今年七十歳になった。
さんがファウストでは、あまりに
役だったが、舞台を観て納得がいった。串田
ら死に向って歩き始めると知り、切なくて怖
になってしまう。
十代のころ、生あるものは生まれた瞬間か
くて、昼を見上げて泣いたという。
長年の課題だった「世界は週末に向っている
うに錯覚する瞬間が、芝居の面白さなんじゃ
を使ってその先にある真実がふっと見えたよ
「演劇って総て嘘なんだけど、嘘という表現
のに、人の欲望は限りなく。われわれは知ら
ないかと思う。この問、久々に『天井桟敷の
この十月に上演した『 K. ファウスト』は、
ない問に恐ろしい代償を求める悪魔と契約し
人々』を DVD で観て、あれは背景も全部書
l
マで、独自の
たのではないか」というテ
3
2
会いたい 人
。
でもものすごく 美
それでキャベツに竿を突きさして、こうやっ
。
。
ああ、太陽だ太陽だ、っ
んだよ、って 言 ってると、キャベツが本当に
て東の 空から顔を出して、キラキラ光り輝く
」
キラキラ輝き出す
。
オレ達は神様なんか
一人の泥棒は、あれは太陽なんかじゃな
て、その泥棒は教祖犠みたいになって行く
もう
い、ただのキャベツだ
。
。
(
笑) 来年の六月、松
」
やっぱり芝居は人間が感性で作り上
。
このニュアンスが無意識に僕の作る芝
割りで嘘だらけなんです
しい
居の中に入ってるんだな、と思いました
ところで、串田和 美十九歳の処女戯曲が最
。
近発見されたそうだが、荒筋を伺うと既に十
分、現在の演劇観に基づいている
。
」
(この人おわり)
げたものが 美 しいと思いますね
れない
の人間眺めてるほうがよっぽど面白いかもし
「
リアリズムがいいんだったら、道端で本物
とがわかる
アリズム演劇に対する強い抵抗感があったこ
つまり、串田さんはもう十代のころからリ
て、とても楽しみにしてるんです
。
になるの
じゃなくてただの泥棒だ、って叫び続けて幕
んでるほうの泥締役
「友だちがガリ版刷りの台本を送ってくれた
んだけど、高校を卒業した年に、斎藤憐たち
面白いでしょっ・僕はもちろん叫
と『エピローグ、プロローグつきの三 つの話』
ルを借りて、出演者は
本で若い人たちがこれを上演する話があっ
l
。
というのを 書 いて 一日だけ上演した 。三 鷹の
キリスト
。
。
斎藤は彼らしくロシアの
懸命に切符売ってでも赤 字だった
国際基督教大 学 のホ
寄せ集め
けど、楽しかった
革命家とスパイの話を書いて、僕のは『太陽
へン
ッと人が 集
。
と泥棒』という芝居 。二 人の泥棒が北の国へ
l
行ってどんどん穣ぐけどつかまらない
だと思ってると、そのうちワァ
ってきて歓迎されて、この国には太陽がない
からどんなものか教えてくれ、って言 われる
3
3
響流+方
(
初期経典 「
法句経」
人の生を受くるはかたく
やがて死すべき者のいま生命あるはありがたし
正法を耳にするはかたく
諸仏の世に出づるもありがたし
年末所感
182
※友松岡諦訳
)
τ一一一ー一一ーー
響流十方
また新しい年がや
。
。
。
新しい年を
歳を 一つ、無事に重ねられるこ
あたりまえ」的表現はよろしくない
「
っ てくる
いや、こうした受け身的
迎えることができそうだ、とすべきであろう
。
。
のだが・:・
とに、そしてそれは、日々暮らせてきた、その積み重 ねにこそあるという 事実
に感謝しなければならない
。
。
あくまで、それま
もちろん、誰かと比べてというこ
あくまで 一身上の理由からであるが、平成 M年という年は公の面でも私の面
った
。
自分としては精い っぱい考え、動いて
自分よりはるかに忙しい人はいくらでもいる
。
でも、何につけパタパタと慌ただしか
とではない
。
。
そもそもキャパ
。
人生とはそういうものだと 言 えばそれが 真 理だろうし、
っているようにさ
ったが、さまざまなことが次から次と起こり、 事 がはかどらない
での自身の上で比較してのことである
いるつもりだ
った
すぐ脇を、何かが薄笑いを浮かべながら横目で通り過ぎてい
え思え、恨めしか
仏教者としてそんなことも知らないのかと叱 責 もされそうだ
ィ
ブな見方が先行していた
。
。
の低さと 要領の悪さが大きな理由であることは承知している どうしてもネガ
テ
「またか:::」 「なんでこうなんだ:::」
3
5
l
。
ピリピリしたオ
パスになっていたことには気
ため息とぼやきを、ずいぶんと家人に聞かせてしまった
ラを発していたらしく、子どもたちもかなりナ
。
づいていた 悪いとはわかっていたが、気持を切り替えることが出来なかった
。
九月十 一目だった
。
1
一年前の同
。
。
「慌しい」「忙しい」と愚痴るのは、「十(こころとが「荒れている」、「十」を
。
「亡くした」証拠だと、教えてくれているではないか まさにそのとおり
秋、所用で被災地石巻の寺院にうかがった
時期に訪れたときと比べ、海岸縁に積まれている瓦礁の山は確かに低くはなっ
。
一年半が経つことで
一つの区切
。
ていたが、全体的には「あまり変わってないな」という印象を受けた 前日か
らテレビや新聞では、
H
あ
の日 H からちょうど
りを迎えるとするような報道が、盛んになされていた
。
私たちには
。
。
今
昨日から、テレビも新聞もそん
。
u ではないし、節目なんてない
子どもの死は受け入れられていない」
もう
H
μ
そのお寺にお参りに来られていた、子どもさんを津波で亡くしたという複数
の親御さんと話すことができた
。
つもう 一年半がたつた、節目の日を迎えた
なニュアンスばっかり
もあの日の、あの時刻で止まったまま
36
響流十方
「子どもと過ごした十二年間は妄想で、今の、この辛い毎日だけが現実なので
はないか:::そんなふうにしか思えません」
。
本来なら、信頼できるかどうかどうかもわからない、
かき消してしまいたいであろう苦しい胸の内を、初対面の筆者に吐露してく
れたのはなぜだったか
。
。
きっと誰でもいい、話したかったのかもしれない
。
話さずにはいら
しかも数時間で帰ってしまうような人間にそんなことは話したくはないはずで
はないか
れなかったのかもしれない
報道からではわからない真実、そして答えがあるのかどうなのかもわからな
い難問 。筆者には満足な返答は、ついに見つからなかった。「そうですか:::」
。
。
を小さく繰り返していただけの無力な自分だった 親御さんの頬を伝っていた
涙を正面から見ることに耐えられず、下を向いてハンカチで目を押さえていた
。
あの親御さん方は、どんな思いで新年を迎えられることだろうか 少しでも心
。
に落ちつきが取り戻せていますように:::そう祈るしかない
。
。
(小村正孝)
恥ずかしきと申し訳なきと同居しながら、残りわずかとな
師走になったばかりの頃、震災のニュースを見ていて、ふと親御さん方のお
顔が思い出された
った年末を過ごしている
3
7
⑮快僧渡辺海旭
前田和男
金中に
述~~
を
求
め
て
、征中に円を求めて
小波は、尾崎の紹介で博文館の社員となり
。
同社が発行する「少年世界」の編集にたずさ
ある日、尾崎に連
。
。
「なるほど、それが真相とは:・ しかし、
聞き終えた哲人伯爵は海旭の顔を覗き込ん
だ
なぜ貴兄はそれほど詳しいのだ」
。
「この小説にはある奇縁
旭海
は 一瞬言い淀んでから
「実は私も・:」と
わりながら、作品を発表
。
「ほう、コ l
ヨ
l
クワンに見初めた
哲人伯爵は眼に好奇の色を宿して身を乗り
があるのです」
れられて、文人墨容が集う芝の高級料亭「紅
しかし、小波が京都の新聞社
おずおずと返した
。
葉館」でミツコの同僚女中の中村須磨と出会
い恋仲になる
に単身赴任している聞に須磨は博文館の若社
これ
だした
。
長 ・大橋新太郎に心変わりしてしまう
。
うなほど大仰な仕種で手を撮った
。
「めっそ
海旭は頬を赤らめて、顔の前で風が起きそ
女性でもおったのか」
。
これが真相である
を知った紅葉が激怒、紅葉館に乗り込んで須
磨を足蹴にする
・
問良 一のモデ
うもない」
すなわち、主人公の背学生
ルは巌谷小波、貫 一の許婚・宮のモデルはミ
。
「だったら、聞かせてはくれぬか」と哲人伯
。
ツコの同僚の中村須磨、そして宮を妻にする
爵は促した
。
今度は伯爵が東洋の学僧の卵と
富豪のモデルは博文館の 若社長の大橋新太郎
奇縁のつながりを予感する番だった
海旭は先ほどまで回想にひたっていた 一端
ただし、芝の高級料亭「紅葉館」は「熱海の
海岸」に、またその熱海の海岸で貫 一がお宮
すると、口減ら
しのため寺に預けられたものの、住臓が高齢
を披露しようと目を閉じた
。
と困窮のため寺を出るはめになった十五歳の
。
業を小波のそれに脚色したものなのであった、
を足蹴にする場面は紅葉自身の紅葉館での所
ルコ
春のことがまざまざと匙ってきた
3
9
量る博文館の小僧時代
。
として東京堂(ト l ハンの前身)、出版物を
宣伝する広告会社として内外通信社を設立
ついには博文館印制所(共同印刷の前身)を
創業して、後の世でいうマルチメディア玉、
海旭は、博文館という出版社を立ち上げよ
うとする野心家・大橋佐平を住職から紹介さ
総合文化起業家に成り上がる
。
れ、本郷弓町に大橋が自宅兼事務所として借
こんな博文館の泰明期に、海旭は下働きと
して徹底的にこきっかわれた
。
りた長屋に住み込むことになった 大橋は加
藤弘之など有名文化人を次々と訪ねては、原
速かったが、日本の知と文化の近代化の禦明
待していたような己の知を磨く営みとはほど
とても当初期
稿や論文の転載をとりつけ、これをまとめた
。
日本大家論集 」 を創業第 一弾として発刊し
『
海旭は 一番年下の小僧として、佐平の尋常
。
をもっとも身近で体験できたことは、それは
やが
ならざるエネルギーに圧倒されながら、雑務
。
たところ大当たり
それで興味ぷかかった
「
少女世
に追われているある日、有力雑誌社や新聞社
これに勢いを得た佐平は、
実に 二 日に 一冊という恐るべき頻度で、十年
て 「
太陽 」 という雑誌で当てるや、
をまわって、雑誌や書籍を買い求め、それを
。
界」「少年世界 』「幼年世界 」「幼年画報 」「新
たらずの聞に千点を超える書籍を刊行
青年 」「中学世界 」『女学世界 』『農業世界 」
積んだ荷車を引いて、本郷の本社へ汗をふき
。
太郎をまじえて、応接室で酒を酌み交わして
その後、若き客人たちは、若社長の大橋新
。
文芸倶楽部 」「講談雑誌 』『探偵小説」『野球
「
ふき運び込もうとしたときだった
海旭より
界」 など年代別・分野別の雑誌を次から次へ
年上の男連れ三人が、ちょうどやってきた
。
として送り出し、押しも押されぬ大出版社へ
と飛躍をとげる
さらには、町の本屋と出版社を取次ぐ部門
4
0
査中に月を求めて
歓談になった
。
海旭は、呼ばれて追加の酒を
もっていくと、ちょうど尾崎紅葉が巌谷小波
ところだった
。
という小説家志願を若社長に紹介をしている
「ただ、持ち込んできた小説は、甘ったるく
愛の小説がかけなくなってしまうぞ」
。
ますます顔を赤くする小波に、紅葉と美妙
海旭は、容人が散らかしたまま去った宴の
と若社長は腹をかかえて笑うのだった
跡を始末して、なにか苦いものを感じながら、
。
生活のためとはいえ、こ
それまで忙しさにかまけて仕事の意
。
応接室を後にした
。
ってまだまだ青い」と紅葉は断じた
の世界にいつづけることは果たしていいのだ
ろうか
義を考えるひまもなかった海旭だったが、こ
の日の出来事で、文明開化の花ともてはやさ
。
若社長はこれに好意をおぼえたらしく、
。
そんな想いが日々つのり、
。
えるようになった
れる出版文化の世界に距離感とむなしさを覚
頬を赤くして反論した
いけないのですか」と小波は口先を尖らせ、
「どこが青いのですか、甘ったるいのどこが
。
海旭はついに辞めることを決意
。
から、これからは子供むけはあるかもしれぬ
「そうか、世の中は大人向けの戯作ばかりだ
機会をみて親父の佐平翁に相談をして、売り
ちょっとの出版社勤めであった
「お前は女を知っているのか・:」
「子供向けの純
。
「
少年文学叢書』 に「こが
ね丸」を発表、これが好評を得て、児童文学
十四年、博文館の
巌谷小波は、海旭が辞めた 二年後の明治 二
るのである
得度、ここから現在にいたる学僧生活が始ま
海旭は小石
わずか 一年
出しを考えてみるか」と 言うと、「諸君、酒
。
川は初音町の源覚寺の住職・端山海定の下で
。
私がおごろう」と誘った
も切れたから、これから吉原にでも繰り出す
か
。
。
言
一番年長の美妙が「小波は、まだ子供だか
った
らむりでしょう」と返すと、小波に向けて
すかさず紅葉が茶化した
4
1
者として華々しくデビュー、 一躍有名になる
。
以後博文館と組んで児童文学作品を発表、日
本を代表する児童文学者の鴨矢となった
。
。
これで紅葉は不動の
あの出会いから十年後、明治 三十年に紅葉
が 「
金色夜叉」 を発表
名声を確立するが、実はあの時の問人のうち
三人がからみあったモデル小説だったと海旭
は知って、その想いをいっそう強くしたのだ
また、美妙も紅葉も硯友社同人として、明
文書倶楽部 」
治 二十八年に博文館の文芸雑誌 『
った・: 。
。
。
「さあきあ、わが妻が関わる物語に貴兄がど
遠いところから哲人伯爵の声がした
と、そこまで海旭の回想が進んだところで、
などを活躍の場として、文壇で名声を不動の
ものにしていく
また大橋新太郎は、博文館の創業者で父親
でもある大橋佐平の跡を襲って、社長に就任、
う関わっているのか、聞かせてくれたまえ」
社業を大きく発展させ、大日本麦酒、日本硝
子、日本郵船、王子製紙など大手企業の役員
恐らく海旭の回想のため会話が途切れたの
。
。
「ご令室も関わっていた小説を生むことにな
返した
は数分だったろうが、海旭はあせって 言 葉を
を歴任、東京商工会議所の理事をつとめたの
ち、衆議院議員、貴族院議員にもなった
海旭は、紅葉、美妙、小波、新太郎の前躍
を知って、四人との印象深い出会いをなつか
った虚飾の世界、その片隅に実は私もいたこ
。
とがありまして 十台半ばの小僧の頃ですが、
しく感じたが、もう少し博文館にいたらよか
むしろ博文
。
子供心にどうしても馴染めそうにない、いや、
ったとは露ほども思わなかった
館を早々とやめるきっかけになって、虚飾の
わずか 一年で辞めて仏門に入ったのです。
し
このまま馴染んではいけないという気がして、
。
業界から早く足を洗うことができてよかった
と思った
4
2
必中に丹を求めて
かし、今にして思えば、かつて虚飾の世界に
哲人伯爵も探くうなずいた
ど似通っている」と海旭が感慨深げにいうと
。
。
どうやら父の後を継いだボヘミアの
広大な領地に聾えるロンスペルク城での哲人
むった
哲人伯爵はふーっとため息をつくと目をつ
ながり重なっていた
亭をめぐる 二人の奇縁は、今やしっかりとつ
今まではそれぞれ別々だった東京は芝の料
。
身をおいていたことは、私の今にとって大い
に意義があったと思っています」
慌てたために経緯をはしよって結論だけを
言 ってしまい、真意が届いたかどうか不安だ
。
。
ったが、哲人伯爵は持ち前の直感で十分に理
解したようだつた
。
「そうか それは大いに結構 大いに同感だ」
「日本から帰
。
海旭も哲人
宗学支校での勉学 三昧の回想へと没入した
。
生活の回想に入ったようだつた
。
哲人伯爵は大きくうなずいた
伯爵に付き合って、博文館を辞めてから浄土
おかげ
おそらく周囲からするとさっぱり会話がは
。
国した私は父の急死で外交官を辞めることに
で仏教と哲学をきわめ、こうして斯界の碩学
なり、田舎に引っ込んでの読書 三味
ずんでいないように見えたかもしれないが、
。
辞めてよかっ
。
泰斗とも交わることができる
唯 一
(この項つづく)
。
当人同士は 言 葉は交わさずとも思索的な交流
父の死は残念だが、人生
たとつくづく思う
。
貴兄が 一時席をおいていた出版業も相当
ははかられ、いたって満足だった
。
の転換点を与えてくれたことに感謝をしてい
る
だろうが、外交の世界も虚飾の極みだ
よかったのはわが妻ミツコと出会えたことだ
けで、もっと早くやめておけばよかった」
「それにしてもお互い、他人とは思えないほ
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ちこちのぞいて回る 鴎外居であろうとどこ
であろうと、どの部屋も見落としては損だと
ばかりうろうろする 「
迷子めいて」は、言
われてみれば正にその通りである
男子誕生、初春の光の中
増田信子
〈佳作〉冬ざれや硫黄の強き子宝湯
冬うらら漁村に子等の声聞かず
田
みな迷子め いて秩日の鴎外居
特選
〈
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。
勤する 行事 その他、四季 それぞれに決まり
の衣更えがあり、制服などは実
忠に守 って出
着 るもの 一つ取 っても、衣更えがあれば後
規則あるものの如しゃ冬支度
特選
〉
〈
浄一
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規
竹橋一平
山内桃児
48
•
•
が多い
。
。
冬支度にしても、その規則に乗って
のことのように思われるのである
早乙女喜栄子
井村善也
〈
佳作〉子規の忌にあらためて引く季語辞典
不規則な暮らしになれて冬に入る
浜口佳春
保
軒氷柱定規持ち出 し計る子等
。
その干し加減
。
。
丸のままのは漬け物にするのだろう
。
」 という
「吹かれて白し
坂巻悠美
山口信子
東
-自由題
浜風に吹かれて白し干し大根
丸のままの干し大根に切り干し大根、その
。
てくる
どちらでもよい 海からの風に吹かれて乾い
か
を毎日見守 って行くのである
〈佳作〉点滅の灯や雪の夜の滑走路
行く秋や殻剥きにくさ読で卵
銀本落ち葉あたたかそ-つな吹き溜まリ 吉崎美和子
49
特選
〈
〉
選者=鎗田河郎子
浄土臆上句会の
お知らせ
平
家
自由題
差
初雁や隠居に規矩の有りという 省関あさ子
-規
41714
明照会館内
浅野共同
内藤隼人
工藤掠
千駄木敏郎
早乙女必栄子
佐必殺子
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を挿して入金す
袴田阿形
内藤隼人
佐々木美 令
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風日までの谷に鳴る下駄冬銀河 官松亜紀子
集灯や
三島治
空深く足柄山の色紅葉
森懐人
月影やア 1ムストロング微笑みて 飯島英徳
銀杏散る厩の跡の喫茶店
鳥羽梓
山内桃児
償問あさ子
指鄭や向き合ったまま夕日落つ
- 自由題
乱舞して命を繋ぐ秋あかね
主居ぬ星逢う夜のいと寂し
まだ残す内規としての相子湯かな遠繰葉子
山墓地に規格外なる寒さあり
安藤美佐子
秋声や圧すと・揃いという基準
他人様の菊に定規をあてており
鮭などは北の規範にしたがえり
佐藤雄子
遠藤ゆかり
鳥羽梓
・子
笠井亜子
湯沢享
日冬聞い寺には寺の規定あり
晩秋の定規に赤き点あまた
所在なき雲形定規冬隣
抱く秋の杓子定規な義母の肩
誌上句会〈編集部選〉
佐藤雅子
森懐人
きざはしの詳提子愛でて行きかい
償ぬ
問あさ子
白壁の蔵に隠れて薮柑子
疎M
ら
子規の庭訪う秋の'H
鳥羽梓
早乙女H栄
M子
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すすき野に点線摘く赤帽子
秋の暮玉子でとじるうどんかな
を呼べ霜月の孔子廟
UFO
0
チ供にも大人の事前文化の日
工藤凶作
漁師らの古びし椅子や日向ぽこ 井村善也
山内桃児
親も子も n 溜りにいる狛の秋
極月の依子を包む手の速さ
締切 ・二O = 二年一月二十日
発表・ 「
浄土 」 二O 一三年四月号
『南風 」主宰)
選者 ・摺白河郎子 (
応募方法
。
loo11
東京都港区芝公園
・ いずれの題とも数の制限はありません
往来の衰の往来暮の秋
.特選各 1名・佳作各 3 名
尉紐のこんなところを烏渡る
一
何句でも可)と、住所・氏名を必ずお書き下 店頭の鯛焼見つめ人静か
薬害に俳句 (
さい
銀将に雪降るごとし投了図
宛先
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浄土 」誌上句会係
月刊 『
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年
かまちよしろう先生作新聞四コマ漫画 「ゴンち ゃ ん」が各地方新聞に掲載されています 。(
静岡新聞・山梨日日新聞 ・北日本新聞
福島民報 ・宮崎日日新聞・新日本海新聞・神戸新聞
・
岐阜新聞・中国新聞・四国新聞 )
刊さ鳴で開ラ
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編集後記
不安顔笑ふが知く初東雲
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ムなど多彩な
活動家の僧侶で認
先日釈徹宗さんという 大 阪 の 浄 土 真 宗
の方の講演を隠いた
知症高齢者のグループホ
活動をされている方でし た が 、 最 後 に ま
。
時間を、許し、価値あるものにできたら、
。
「
存在の時間 」 と名付けたいとおっ
すばらしいのではないか、その時間のこ
とを
しゃった
その後読んだ五木寛之さんの 『
選ぶ力』
。
に篤くべきことが苫かれていた それは、
この園では十四年続いて 三 万数千人の自
殺者が出ているが、自殺者はたばこを吸
水科善隆 (長野 ・覚康守)
宮林昭彦 (大本山光明寺)
(位称 略 ・ 五+音順)
山田和車種 (諏訪 ・点松 院)
は次に行く時聞が迫りイライラしてしま
ったが、たばこを吸われる方はラッキー
とばかりパスから降りて 一服されていた
しみたいものだ
。
斎藤晃道
長谷川岱潤
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悼式会社シ
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(長)
今年は理不尽に与えられた待つ時間を楽
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佐山哲郎
青木照窓
村田洋一
年会資六 千円
七卜九 巻 ご 川町り頒
価 六百 円
発行人 Il--
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発行 平成 て 卜 五年 4川 一n
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う人は少ないということだそうだ
これ
はちゃんと調べてみる必要があるとおっ
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車が 一分遅れただけでイライラし、パソ
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先日旅行でパスの出発時間にみんなが
納得のゆくことだ
しゃっているが、前の話と合わせると、
二
コンの立ち上がりゃ、エレベーターの開
閉など、数秒が我慢できない、他人に
佐藤良純 (小石 川・光闘 寺)
東海林良雲(塩釜・雲上寺)
須藤隆仙 (函館・称名寺)
高白書奪行(大阪・ 一 心寺)
田中光成 (町悶 ・ 養述寺)
中島真成 (青 山・梅 :容院)
中村康雅 (消水・実相I 寺)
中村瑞貧 (仙 台 ・怨鈍 院)
野上智徳(静岡・宝台院)
藤田得三 ( 鴻巣・ l援願寺)
掘田章文 (静岡 ・ ヨ告防院)
:$:多義敏 (両国・回向院)
真野積海(大本 111 消浄華院)
刷憎之(網代・教 安寺)
合わせて集合したものの、お 一人それか
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大江田樽導 ( fdl 台・西方寺)
北山大超 (焼津 ・光心寺)
加藤亮哉 (五反問 ・ 専修寺)
熊谷鋪彦(佐賀・本願寺)
粂原恒久 (川越・ 主主型車寺)
佐藤孝緩 (鎌倉 ・ 高徳院)
佐藤成順 (品 川・願行寺)
れは大変危険な兆候だと お っ し ゃ っ て い
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魚尾孝久 (三 島・願成寺)
らおトイレに行く方がいらした。私など
飯田実緩 (駒ヶ線 ・ 安楽寺)
た。むしろ理不尽に与え ら れ た こ の 待 つ
雑誌 『浄土』
特別、維持、賛助会員の方々
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泰雲
文と写真
篠根果樹園 北海道
あけまして、おめでとうございます
新年を寿ぐすばらしい青葉があります 。 「中11;釜共 ti 瓜年度 J
相逢うて共に高年の J長びを tl す 。 .l;l r.!S 大徳寺 IJf.JI I I 、大燈同 日市宗
曲全妙超禅師の 語録 より引Jl1させていただきました 。
きて、新年にふさわしいリンゴの約介です
その名は『旭 Jo
l lJ J に大阪の名 J,t; r カハラ j のご巨人 ・ 森義文氏から l頁いた
美しい リンゴは、JJi{E
r
)[IJ. りんご愛好会 」ができるほどの人気
で入手困難 。 驚くべきことに、あのイI 名なアップル H のロゴに
もなっているのです 。
『 旭 』 は 1811 年にカナダで発見された,Jï い品位で、発見者が
MCINTOSH 氏なのでマ ッキン ト 7 シュと 命才1 されたそうです 。
日本に入 ってきたのは 明治時代、さわやかな際 11求、
ーで~Jl っ 1I の果肉、薄い皮、古い品磁独特の良い杏り
では 40年前までは身近なリンコe だ、ったそうです
リンゴが好まれ、
ジュ ーシ
北海道
が、昨今 甘 い
.J;!U脅する民家が減り、人下|材難な希少なリン
ゴとなったのです 。
寒冷地に適した品積。 北海道、なかでもオホーツクの 『 旭 』
が以 117i とされています
北比1I'îの篠似果樹同ではこの際史をた
やさないように大切に守り続けています 。 む'J~{FIO 刀の初旬から
販売して llJ J の rl'íりまでが食べ頃になります
篠線果樹園
0900002 北海道北見市昭和 213
0157255502
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法然上人鏑仰会の
当会発行の書籍 、 雑誌
のお求めは 、 当会へ直接
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お 申 し込みください 。
なお 、 月 刊 『 浄土 j を除き送料は
発行人 / 佐藤良純
響流+ 方
含まれてお り ません 。 別途 実 費を
申 し受けま す 。
法然上人鏑仰会
電話 /03・3578・6947
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袖山 祭輝 ・ 林 間 康順 ・小村正孝
響流十方こう否じっぽう
編集人 / 大室了時
其の二
640 円 ( 税別 )
iま然上人鍋仰会
向) ~
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「法然上人鎗伝鎗薫・」
( 8 枚セ ッ ト ) 500円 (税別 )
閉浄
店 土宗大本山増上寺蔵
「法然
上 人絵伝 ・残欠 ニ巻本」より
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絵鎗上人m働金
自火 二世本-
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『念悌積本j 完全復刻版
ゆ土*大本山相 koa
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法措上 人 絵伝
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1 ,600 円 (税別 )
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600円 (税別 )
念悌讃本
編集チ|フ / 長谷 川 岱潤
智満十方こう否じっぽう