在米ベトナム人とベトナム 送金とヒトの流れにみる祖国との紐帯と影響力

在米ベトナム人とベトナム
送金とヒトの流れにみる祖国との紐帯と影響力
古屋博子
はじめに
移民や難民の規模が拡大している現在の世界で、移民はホスト社会に適応しながらも
祖国との紐帯をさまざまな形で保っている。さらに、移民自身が意図しなくても祖国に
多大な影響を与えている場合もある。それは交流が自由な国どうしの間だけでなく、送
り出し国と受入国が国交を断絶している場合でさえもそう言えるだろう。そういった場
合、移民は祖国の国家建設にとってどのような意味を持っているだろうか。
現在、ベトナム国外に居住する「在外ベトナム人」と呼ばれる人々は推計約 200 万人、
その中でもアメリカ在住のベトナム人は 108 万 3,918 人、総数の約半分を占める一大勢
力である。難民として国外に脱出した経緯から、長い間アメリカ在住のベトナム人とベ
トナム社会主義共和国政府(以下ベトナム政府)は対立の構図で語られてきた。ベトナム
政府は在米ベトナム人を「反動分子」などと呼び、常に警戒してきたし、在米ベトナム
人側も太平洋を隔てた地で「打倒共産党政権」を掲げ反共活動を繰り広げた。ところが、
1990 年代後半から、ベトナム政府の彼らに対する論調は変化する。「同胞」「祖国の国家
建設に貢献」などの在外ベトナム人に対する発言の中に、在米ベトナム人が含まれるよ
うになった。また、従来ベトナムの独立と戦争勝利に貢献した在外ベトナム人のみを指
す言葉であった「越僑」という言葉の使用をやめ、あらゆる立場の在外ベトナム人を含
む「海外在住ベトナム人」という言葉を作り出した。94 年以降、政策や政府委員会(行
政機関)名も全て「海外在住ベトナム人」に変更され、政策も全ての在外ベトナム人が対
象になった。
これらの流れは、1986 年に採択されたドイモイ政策が軌道にのり、対外開放が進み、
在外ベトナム人を含めて交流が進んだ結果、現れた変化のようにもとることができる。
しかし、ドイモイ以前の対立の構図と、1990 年代後半に起こったベトナム政府の態度
変化の間は空白のままである。なぜベトナム政府はかつて「反動分子」と呼んでいた相
対立する立場であった在米ベトナム人を取り込むようになったのであろうか。また、い
つからその重要性に気づいたのか。そして、対在外ベトナム人諸政策を改善したあと、
具体的にどのような変化があったのか。これらを明らかにすることが本稿の目的である。
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従来、共産党資料の分析が主流であったベトナム現代政治研究において、在外ベトナ
ム人という国家の枠からははみ出た主体は研究対象にあまりされてこなかった(1)。しか
し、在外ベトナム人がベトナム政府の政策にどのような影響を与え、どのような意味を
持っているのかを検証することで、ドイモイ政策以降のベトナムの変化について別の角
度からも検討を加えることが本稿の狙いである。また、従来在米ベトナム人は「アジア
系アメリカ人研究」の分野では扱われてきたが、これは当然のことながら、いかにアメ
リカ社会に適応しているか、といった点のみの分析で終わっている(2)。しかし、上記に
も述べたように、移民と祖国の紐帯が強い現在、アジア系アメリカ人研究の分野でも祖
国との紐帯や関係性、影響力といった要素は、彼らのアメリカ社会への同化やエスニシ
ティの問題を図る上でも今後より重要になるだろう。その点で本稿はベトナム地域研究
に位置付けられながらも、何らかの形でアジア系アメリカ人研究にも貢献できることを
願っている。
1.ドイモイ以前の在米ベトナム人の状況
まず、ベトナム人がアメリカへ渡った経緯と傾向をみてみる。ベトナム戦争が終結す
る 1975 年以前は、アメリカで永住権を取得したベトナム人はわずか 1 万 7,985 人であっ
(3)
。
た(1956 ─ 74 年)
しかし、ベトナム戦争終結以降その数は増大し、1975 年から 98 年までの間にアメリ
カ永住権を取得したベトナム人は 94 万 695 人、23 年間で約 52 倍に激増した。2000 年の
センサスではベトナム人は 108 万 3,918 人と推計されており(4)、約 200 万と言われる在外
ベトナム人の半分がアメリカ在住である。
(1) ベトナム人の渡米パターン
1975 年以降のベトナム人の渡米時期や方法には主に三つの波がある。
① 1975 年の戦争終結直後、アメリカ政府企業関係者と共に渡米した難民
旧南ベトナム政府、軍、アメリカ軍、政府、企業で、役人、軍人、医師、エンジニア、
教師等として働いていたエリート層で、撤退するアメリカ関係者と共にサイゴンを脱出
し、渡米した。職歴からも英語を話せる割合が高く、1975 年の 1 年間だけで渡米総数は
12 万 9,000 人にのぼった。
②中越関係の悪化と共に流出した華僑・華人および、その影響を受けて流出したベト
ナム人難民(ボートピープル・ランドピープル)
ボートピープルは、中越関係の悪化と社会主義経済政策の推進により打撃を受けた華
僑や華人(5)が陸路と海路から脱出したことに端を発している。1978 年初頭に資本主義的
商業活動の停止や、突然の南北通貨統一の措置が発表され、それに伴い一定額以上の銀
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行資産が凍結されるなど、華僑、華人には不利な状況が続いていたが、さらに中越関係
が悪化する。また、78 年は 8 月から全土で洪水にみまわれて食糧が減産、国際情勢だけ
でなく、経済面でも危機的な状況を迎えていた。こうした要素が重なり、春先からラン
ドピープル、9 月からボートピープルの数が急増し始めていたが、11 月にベトナム軍が
カンボジアへ侵攻、79 年 2 月に中越戦争が勃発、3 月にベトナム全土に総動員令が出さ
れると、その数はさらに増えた。この時期に陸路でベトナムから中国に逃れた華僑の数
は約 26 万人、周辺諸国へ流出したボートピープルの数は 78 年 8 万 6,373 人 (そのうち
80 % が華僑)、79 年には 20 万 2,158 人にのぼった。この、大量の華僑流出の背景には、ベ
トナム政府による積極的関与があった(6)。また、国際社会が彼らを積極的に受け入れた
ことから、華僑に続いてベトナム人のボートでの脱出が増加したが、ベトナム政府は積
極的な防止措置はとらなかった。
このようなボートピープルを最も積極的に受け入れたのが当時ベトナムと国交を断絶
していたアメリカであった。ボートピープルの発生当初からアメリカは 1979 年に 5 万
900 人、80 年に 9 万 9,300 人を受け入れている。88 年 11 月までの段階で、各国に定住し
た難民 116 万 7,548 人のうち、アメリカは約 60 % の 70 万 5,987 人を受け入れている。二
番目に多く受け入れたカナダでも 11 万 9,609 人と約 10 % 程度で、続いてオーストラリア
がやはり 10 %、フランスも 9 % ほどである(7)。しかもこの時期までに出国した人々は上
に述べたとおり、旧南ベトナム政権の関係者かベトナム共産党の国家建設の方向に合致
しないとされた人々、また共産党政権以降の現状に不満で逃れた人々であったので、必
然的に反共の傾向の人々がアメリカに集中することになった。
③ 1980 年代後半以降増加する、合法出国計画(ODP)による合法的移民
ボートピープルが問題となった 1979 年 6 月、ベトナムと国連難民高等弁務官事務所
(UNHCR)の間で ODP が結ばれた。ボートで漂流中、ボートが転覆し全員死亡したり、
タイ近海で海賊に襲われ金品を強奪されたり殺人・レイプ等の被害にあうケースが多発
したため、悲惨なボートによる脱出を減少させようと、条件に適合した者(8)を合法的に
出国させることが目的である。これを受けてアメリカは 80 年からこの規定に基づくベト
ナム人も受け入れ始めた。しかし受け入れを開始したといっても当初はベトナム側の審
査が進まず、80 年は 664 人、81 年は 1,705 人と、実際に渡米できたのは少数であった。
年間 1 万人を超えるのは 85 年以降、 3 万人を超えるのは 89 年以降である。 80 年から
2000 年までの 20 年間で、合計 48 万 2,576 人が ODP でアメリカに渡っている(9)。
(2) 在米ベトナム人側の反ベトナム共産党活動
上記のベトナム人の渡米パターン三区分のうち、①②の人々は、過去旧政権側に就い
ていたり、社会主義政策を推進したベトナムを経験し、共産党の路線とは異なるゆえに
排除された背景からみてもわかるように、共産党政権に対する嫌悪感は強く反共の傾向
が非常に強い。従って、特に難民の第二波がアメリカに到着し始め、コミュニティが形
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成され始めると同時に、多くの反共組織が設立され始めた(10)。「ベトナム解放統一国家戦
線( Mat tran quoc gia thong nhat giai phong Viet Nam )」(1982 年設立)「ベトナム革命連合
(11)
( Lien Minh Cach Mang Viet Nam )」
(1984 年設立)
、などの反共組織ができたのも、②
の人々がアメリカに定住し始めたころである。「ベトナム解放統一国家戦線」の政治綱領
には、①救国: 祖国解放のため大団結して武装闘争を促進する、②建国: ベトナム共産党
および関連組織の解散、閣僚評議会等政府機能の停止(12)、の二点が主な活動目的として
明記されており、武力でベトナム政府を打倒し、新たに自由で人権と豊かな生活が保障
され民主的で独立した国家を建設することが述べられている。
また、メディアも創刊され始めた。カリフォルニア州だけでも、「海外ベトナム( Viet
Nam Hai Ngoai )」(1977 年創刊: 隔週)、「ベトナム人( Ngu™i Viet )」(1978 年創刊: 日刊)、
(1978 年創刊: 2 ヵ月毎)、
(1980 年創刊: 月刊)、
「証人( Nhan Ch•ong )」
「覚醒( Th•c Tinh )」
「自由ベトナム( Viet Nam Tu Do )」(1981 年創刊: 週刊)が発行されたが、多くが反共の傾
向を持っていた。
また、旧正月( Tet )などのコミュニティ行事が行われるようになったが、これらは
全て反共組織がとり仕切った。コミュニティの行事には必ず旧南ベトナム政権の国旗が
掲揚され、過去に関する共有がさまざまな形で行われた。
以下で注目したいのは、1980 年代、コミュニティが反共一色だったにもかかわらず、
ベトナムに残された親族への援助は非常に活発であったことである。そしてこの「援助」
が、意図せざる結果としてベトナム政府の目を在米ベトナム人に向けさせることになる。
(3) 祖国との断絶と紐帯─コミュニティの形成と送金・仕送りネットワーク
まず、コミュニティの形成について簡単に概説しておきたい。第二の難民の到着と共
に、アメリカではベトナム人コミュニティが形成され始めた。そのうちの一つ、リトル
サイゴンと呼ばれる全米最大のベトナム人コミュニティは、ロスアンゼルスのオレンジ
カウンティにある。2000 年現在オレンジカウンティには 13 万 5,548 人のベトナム人が居
住しており(13)、リトルサイゴンはその中心となっている。ボルサ通りを中心に 2 マイル
以上にわたってベトナム人店舗が立ち並び、北はウェストミンスター通りからマックフ
ァーデン通り、西はビーチ通りからユークリッド通りまで延び、ウェストミンスター市、
ガーデングローブ市を中心として、サンタアナ市やファウンテンバレー市近辺にまで膨
張を続けている。
1978 年の時点では、ベトナム人経営の店舗はホアビンマーケットという雑貨屋が 1 軒
と、医療所と薬局が 1 軒ずつあるのみであった。79 年の時点でも 30 軒だけであったが(14)、
華僑を含む難民第二波の到着と共にコミュニティは拡大し続け、81 年には 250 から 300(15)、
88 年には 700 から 800 軒、94 年には 1,200 軒、現在では 4,200 ものビジネスが成り立っ
ている(16)。
リトルサイゴンが形成され始めた 1980 年当時、ベトナムとアメリカの国交は正常化し
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ておらず、経済制裁も続いていたこと、また難民として祖国を離れた背景から、当時の
在米ベトナム人がベトナムを再訪することは事実上不可能であった。それだけでなく、
電話も直通回線はなく、祖国と連絡をとる物理的手段も閉ざされていた。
しかし、彼らはさまざまな手段を用いて祖国に残る親族との関係を維持する。その一
つが、送金および小包での品物郵送であった。コミュニティの拡大と共にこの活動は拡
大し、1988 年にはコミュニティのビジネスの約半分が何らかの形で本国との関係を生か
したものとも言われている(17)。では具体的に、限られた条件下で彼らはどのように祖国
に仕送りをしたのであろうか。
(仕送り品郵送)
まず、1978 年にアメリカ政府が人道的配慮に基づいて、個人の使用目的に限って日用
品のベトナムへの郵送を許可し、ベトナムに残る親族へ物品を送ることが可能になった。
しかし、容量は一回 2 ポンド以内に制限されていた。特にベトナムで欠乏しておりかつ
換金性の高い薬や布地、また衣類や電気プラグ、ボールペンなど日用品が好まれた。
続く 1979 年ごろから、アメリカ商業省の認可を得た小包郵送代行業者があらわれる。
経済制裁が行われていたため、小包の中身は 200US ドルを超えないこと(87 年には 400
ドルに引き上げ)、小包は、1 ヵ月に一つのみであること(同名者から同名者への場合)、中身
は食料、衣服、化粧品、薬などに限ること、などの制約があった。船会社、スーパーマ
ーケット、薬局、洋品店などがこの業務を請け負い、上記の品物以外に自転車やテレビ
などの郵送も取り扱っていた。
アメリカ商務省輸出局の年報によれば、このようにして人道的見地からベトナムへ送
られた医薬品と小包の総額は、1979 年に約 50 万 US ドルであったのが、80 年には 830
万ドル、81 年には 2,800 万ドル、82 年に 4,800 万ドル、そして 83 年に 9,700 万 US ドル
のピークを迎え、84 年には 4,830 万ドル、85 年に 3,900 万ドル、86 年に 5,500 万ドル、
87 年に再び 8,300 万ドルに上昇し、88 年に 7,100 万ドル、89 年に 1,000 万ドルになって
いる(18)。約 10 年間で小包だけで約 5 億ドル相当がアメリカからベトナムへ流れたことに
なる。
(送金)
この時期の送金ルートは主に二つあるが、両方とも非公式である。一つは、実際に金
銭は動かさずに行う方法。二つ目は、アメリカの銀行口座からいったん第三国の銀行を
経由しベトナムの銀行に振り込む方法である。一つ目の方法は、たとえば送金業者 A が
リトルサイゴンで送金の依頼を B から受け取ると、それを本国にいる A の代理人 AÕに伝
え、本国でストックしている金で、依頼人の親族 BÕに金銭を渡すという方法である。BÕ
は 2 週間ほどで受領できる。これは、本国に財産を残し、また香港など第三国にもルー
トを持っている華僑系の業者が主にとった方法である。この送金を請け負うことで、ベ
トナムに残してきた財産を政府に没収されることなく清算でき、アメリカで貯蓄するこ
ともできる。非合法なので、アメリカ、ベトナム両方に税金を払う必要はない。第二の
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方法のように英語で繁雑な手続きをする必要もなく、金銭(Money)だけでなく金(Gold)
も取り扱えるため、第一の方法が流通した。
2.ベトナムの状況
(1) 経済状況と送金
では、これらは当時のべトナムの経済社会にとってどのような意味を持っていたのか。
1978 年から、ニューヨークの国連本部内にベトナム代表部が設置された。アメリカと国
交を正常化しておらず大使館を設置していないベトナムにとっては、唯一のアメリカや
西側諸国との窓口であった。当初、代表部の活動は、アメリカをはじめとする西側諸国
との対話が中心であったが、次第にアメリカ在住のベトナム人に着目する。代表部は、
在米ベトナム人を、①愛国的グループ、②反動的グループ、③祖国に愛着を持ち、生活
レベルで助けようとするグループ、の三つにわけ、③のグループが一番多いと判断、「生
活レベルでの援助」がしやすくなるよう便宜を図るように本国政府に働きかけるように
なった(19)。
当時ベトナムは、戦後の疲弊、社会主義的経済改革の失敗、1977 年から続いた天災お
よび西側諸国からの経済制裁にカンボジアと中国との戦闘準備などで食料と消費物資の
著しい不足にあった。外貨準備高をみてみると、78 年でもわずか 1 億 9,500 万ドルであ
ったのが、80 年にはわずか 8,000 万ドル、82 年には 1,600 万ドル、同じく 84 年にはさら
に 1,600 万ドルにまで落ち込んでいる(20)。また、対外債務総額も 81 年は 46 億ドル、82
年は 53 億ドル、83 年度末には 60 億ドルにまで達し、85 年には 67 億ドルと膨らむ一方
で(21)、著しく外貨が不足していた。
経済恐慌の事態打開のためにとられた諸措置が著しい成果をあげぬまま、閣僚会議は
1980 年 1 月 31 日付けで「ベトナムへの外貨送金を奨励する決議」(No. 32-CP 1980 年 1 月
31 日)を採択する(22)。この決議は「在外ベトナム人が家族と縁者に外貨を送ることを許
可・奨励し、全てのベトナム公民と全ての経済、文化、科学、技術機関、全ての合法的
社会機関に対し、外国人民から送られた外貨を受け取ることを許可」するものであった。
その翌年の 1981 年に入ってドン貨と US ドルの闇交換がホーチミン市だけでなくハノイ
市にも広がり、かつ闇交換相場が 81 年に入って急騰する(3 月 US$1 = 17 ドン、7 月には
(23)
37 ─ 40 ドン)
。こうした闇での外貨取引を規制して外貨を国家財源として獲得するため、
「外国為替管理の強化と国内市場における外貨の流通を禁止する首相令」( No. 135-TTg
1981 年 6 月 22 日)が発令された(24)。在外ベトナム人から国内の家族への外貨送金を受け
取る場合、受取人に対し送金総額の上限 50 % までに対し奨励交換レートが設けられ、受
取人が外貨のドン貨への交換を望まず、外貨で預金する場合は銀行規定の利息を受け取
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ることができ、預金引出しのある場合は外貨相当クーポン券が交付される。また、現在
人民が保有している外貨は各人民委員会が政策を説明し 7 月 31 日までに残らず銀行に寄
託させる、という規定がされている。また、ベトナム政府は輸出入の中央統制も緩和し、
地方レベルの機関が輸出入公司を設立することも許可、諸地域、諸輸出入機関の自主的
貿易活動を認めた(「各省および中央直轄市の輸出入活動権に関する閣僚会議の 40-CP 号議決を
(25)
実行するためのガイドライン」〔No. 35-TTg 1981 年 2 月 11 日〕)
。
しかし政府は、1983 年にはいったん地方の輸出入の権限をふたたび制限し (「輸出入管
理強化と輸出措置に関する閣僚評議会 1982 年 7 月 10 日 113 号決議 6 条施行のガイドライン」〔No.
(26)
118-LBTT/NgT/NHNN〕)
、同時に、在外ベトナム人からの送金および小包に関してもふ
たたび規制する(「1982 年の社会主義諸国に定住する親族を持つ家族の、援助送金、仕送り物資
(27)
受け取りに関する閣僚評議会 151 号決議の一連の改正」
)
。送金額、回数は無制限だが、受取
人の銀行からの引き出しにはベトナムドンであること、年に 2 回のみであることの制限
を設けた。海外の親族からの小包は年 3 回、総額 200US ドルまでに、その逆は総額
100US ドルまでとした。
なぜ、ベトナム政府は送金・小包緩和政策をふたたび厳しく制限したのか。1980 年か
ら、ソ連を中心とする社会主義諸国にベトナム人の労働力輸出が開始された。これは、
膨張する対外債務の肩代わりの一環として始まり、当初上記の緩和策は、これら社会主
義諸国に居住するベトナム人が対象と思われていた。
しかし、これらの決定が在米ベトナム人からの送金と小包の増加という副産物をもた
らすことになった。社会主義諸国に居住するベトナム人は人口も経済力も在米ベトナム
人に匹敵するほどではなく、先にみたように 1983 年の在米ベトナム人からの小包だけを
とってみても 9,700 万ドルにまでのぼっており、こうした医薬品や布地、缶詰などの、
親族用として送られてきた物資の余剰分は闇市場にまわされ、活性化したため、83 年に
政府がいったん制限する措置をとったと考えられる。
こうして、最大時で年間 9,700 万ドル、1979 年からの 10 年間で総額約 5 億ドルにのぼ
った小包の総額は、この段階で既に政府に在米ベトナム人の重要性を認識させることに
なった。
(2) ドイモイ立案と在米ベトナム人
それでは、いつからベトナム政府が在米ベトナム人を重要と認識し始めていたかにつ
いてさらに検討を進めたい。ベトナム政府がドイモイ開始以前、立案の段階で、在米ベ
トナム人を視野にいれていたことを示すいくつかの資料がある。
1984 年に当時べトナム共産党の序列第二位の政治局委員だったチュオン・チン
( Tru™ng-Chinh )が、研究者・官僚を含む改革派知識人を結集して顧問グループをつく
った。このグループは共産党第六回大会でのドイモイの提唱に大きな役割を果たしたグ
ループであるが(28)、その 85 年 11 月 25 日の会合で、当時の国家計画委員会の幹部だった
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ヴー・クオック・トゥアン( Vu Quoc Tuan )が、越僑送金に関して次のような発言をし
ている。
「われわれは、5 億ドルほどの外資を必要としているが、2 ─ 3 億ドルしか確保できて
いない。したがって積極的なドル吸収政策が必要である。現在外国には、フランス
に 30 万、アメリカに 20 万 (ママ) の越僑がいる。年によってはこれらの越僑から
3,000 万ドルを吸収したことがある。潜在的な可能性は 8,000 万ドルほどある。越僑
送金の金額や回数に制限を設けるべきではない。今は 1 年に 3 回まで、1 回 2,000 ド
ルまでという制限をしているために、かなりの送金を無駄にしてしまっている。越
僑の親族には外貨で購入した商品を扱う店を出させてもよい。こうした送金を受け
る国内居住者が 20 万戸あり、1 戸あたり 1 年で 300 ドルを受け取ったとして、年間
(29)
。
に 6,000 万ドル入手できることになる」
また、チュオン・チン自身も、1985 年 5 月の政治局会議で次のような発言をしている。
「(国家丸抱え〔bao cap〕をやめれば─引用者注)社会主義兄弟国との協力ももっとう
まく行えるようになろう。また、越僑、第三世界諸国、西側諸国も含めて、外部の
(30)
。
資金を吸収し、技術を吸収できる条件がある」
これは、ドイモイ路線が採択された 1986 年 12 月の共産党第六回全国大会、党中央委
員会政治報告でのチュオン・チン自身の発言に続く。同年 7 月にレ・ズアン( Le Duan )
書記長が死去し、チュオン・チンは新書記長として、政府を代表する立場で以下の報告
をしている(31)。
「外貨の国内価格レート、貿易決算と越僑送金の交換レートが、実勢価格に遅れない
よう、適時調整するシステムをつくる。越僑が国に、日用品の代わりに送金や物資
を送ることを奨励する政策を出す。(中略)外国人と越僑が我が国に経営などに協力
するよう条件を整えるために、投資法の公布と平行して、諸政策、措置を講じなけ
ればいけない。越僑が投資、技術や資金などさまざまな方法で国家建設に貢献し、
世界各国、外国企業や経済組織との協力関係拡大の支援に僑胞の可能性を発揮でき
(32)
。
るよう、彼らを動員しとりまとめていくことを重視する」
「外国で生活するベトナム人は、現在の社会に適応しながら故郷とも深い絆で結ばれ
一つの共同体を形成している。我が党と国家は、同胞の愛国心に共感し、高く評価
しており、同胞が団結した共同体を築き、国内の老若男女と対話をし、日ごと祖国
(33)
。
の建設事業に貢献するために、さらに有利な条件を整えるつもりである」
このようなチュオン・チンの政治報告は、同大会の決議にも反映された。
「海外で生活するベトナム人たちが、現在の社会に適応しつつ故郷と深く関係を結び
ながら団結した共同体を築き、(ベトナムの─引用者注)国家建設により多くの貢献
(34)
。
ができるよう有利な条件を整える」
そして、第六回大会から約 1 週間後の 12 月 24 日、ベトナム通信社の報道でホアン・
ビク・ソン( Hoang B’ch S™n )外務次官は、次のように社会主義国に居住するベトナム
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人だけでなく西側諸国に居住するベトナム人のことも含めて便宜を図ることを発言して
いる。
「今日では約 100 万人以上のベトナム人が 40 ヵ国以上の外国に居住している。政府
は在外諸種ベトナム人社会への接近を進めており、これらの人々からの援助は当面
のベトナムにとって貴重である。海外在住ベトナム人達は 1 億ドル以上を祖国に送
金している。党第六回全国大会の結果とベトナム経済の緊急情勢からすると、政府
は在外ベトナム人に対し親類訪問や里帰りなどのための便宜をいっそう図ることに
(35)
。
なろう」
それは以下でより明白に語られている。このホアン・ビク・ソン外務次官は、外務省
内にある「越僑委員会」の委員長も兼任していた人物であるが、1987 年 5 月の「ベトナ
ム・クーリエ」に「越僑コミュニティ」と題する原稿を寄稿している(36)。それはまず、
「外国に居住しているベトナム人たちを『ディアスポラ』と呼ぶ人がいるが、私はこ
れを使わない。なぜなら海外のベトナム人コミュニティはベトナム国民(Vietnamese
Nation)の一部であることを強調したいからだ」
。
と、海外のベトナム人はベトナム国民の一部であることを強調する文面から始まり、
越僑の歴史的背景に、「傀儡政権」などの刺激的な単語を使いながらも難民を含めて触れ
たあと、
「海外に住んでいるベトナム人は現地への適応にもかかわらずベトナム人アイデンテ
ィティを維持している。アメリカ在住のベトナム人─越僑の半数を占める─に
行われた 1985 年の世論調査では、92 % がベトナムの夢をみるとし、89 % がベトナ
ム人であることに誇りを持ち、88 % がベトナム人名を維持したい、という結果がで
ている。海外の同胞は、いつの日か祖国を再訪したいと思いつつ、自らを祖国から
亡命したものとしてそれは許されないと考えている。
(中略)かつてホー・チ・ミン( Ho Ch’ Minh )主席は『全てのベトナム人は愛国
者になる可能性を持っている』と発言した。それゆえに、海外越僑コミュニティも
国家の一部としてみなすことができる。
(中略)越僑の人口は一県の人口に相当する程度だが、特に科学技術の分野で素晴
らしい可能性を持っている。推計によれば、越僑知識人は資本主義諸国に約 30 万人
いると言われている。そして今後も若者を中心に増加するであろう。
(中略)経済分野では、越僑コミュニティはまだ巨大資本も大企業も管理するには
及んでいないが、相当の可能性を持っている。この分野に正しい政策が適用されれ
ば、われわれにとっては国家発展のために必要な、多額のハードカレンシー(37)や設
備や物資を確保できる」。
と、世論調査やホー・チ・ミン主席の発言を引き合いにして「全てのベトナム人の」
正統性と有効性について述べている。ホー・チ・ミンの発言を引用すれば、賛否両論の
ある問題でも、正統性を与えることができる。
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このように、これら政府要人の発言には、単に従来の愛国的な在外ベトナム人だけで
なく、はっきりとアメリカ在住のベトナム人も視野にいれたものであることがわかる。
そしてこれらの発言の全てが彼らの持つ、①経済力、資金力と、②知識、技術の二点に
集中しており、当時のベトナムが緊急に必要としていたこの二分野での期待度が高いこ
とがわかる。このように、ドイモイ立案の段階で、従来単なる反動分子とみなされてい
た在米ベトナム人を含めて刷新政策を打ち出すことが討議されていたのである。
3.ドイモイと対在外ベトナム人政策
以上みてきたように、1986 年のドイモイ開始の段階では、ベトナム共産党は、アメリ
カ在住ベトナム人が本国の経済再建に活用できることを十分認識していた。そしてドイ
モイ路線が採択された直後の翌 87 年 4 月から、ドイモイ政策の先陣を切って対在外ベト
ナム人政策が相次いで打ち出される。
(1) 送金・仕送り
まず 4 月 11 日、「社会主義諸国に定住する在外ベトナム人の家族支援送金・仕送り品
受け取りに関する制度改定と補充の決議」(No. 126-CT 1987 年 4 月 10 日)および「社会主
義諸国(略して外国)に定住するベトナム人の家族支援送金・仕送り品受け取りに関する
(38)
126 号決議実行のためのガイドライン」(No. 128-CT)
が発令された。決議の第一項に
は「政府は海外在住ベトナム人が、親族を助け、国家建設に貢献するために、送金、生
産資材、または日用品を国に送ることを奨励する」、また通達には「政府は海外在住のベ
トナム人が送る金銭と品物をできるだけ多くするために適した政策と措置を講ずる」と
明記し、(a)送金はベトナムドンで引き出せる、(b)外国通貨を取り扱う店で品物を買う
場合は外貨も引き出せる、(c)引き出し回数は無制限、などが定められている(39)。これに
より、従来制限のあった引き出し回数が撤廃され、外貨での引き出しが可能になった。
新決議に沿って、ホーチミン市人民委員会は海外の親族からの市民への物品、金銭輸
送のためのサービス代理業として、公司 COSEVINA の設立を決定した(40)。市民への外
貨の交換、金銭受け取り、送られてきた品物の分配を請け負う。また現地での輸出業務
の取り扱い、金銭、または品物をホーチミン市に残る親族へ送るよう勧誘することも目
的である。また、在外ベトナム人および国内の親族からの要求により、輸送、宿泊、観
光、食事、保険、買い物、修理などのサービスも行う(41)。COSEVINA は後に述べるよ
うに在米ベトナム人に対し積極的に送金の働きかけをし、成功する。
また 11 月 5 日、「越僑が親族訪問時に持ち帰る物品の免税に関する決定」(No. 312-CT
(42)
1987 年 11 月 5 日)
も公布され、この決議に沿って、18 歳以上の越僑一人につき 300US
ドル以内、帰国する家族全員で 600US ドル以内が免税となった(免税対象の品物に、バイ
82
アジア研究
Vol. 48, No. 4, October 2002
ク、カラーテレビ、ビデオカセットは含まれない)。
(2) ベトナムへの入国(帰省)
送金緩和と並んで画期的であったのが、「旅行活動促進と旅行業務管理組織整備に関す
る議決」(No. 63-HDBT 1987 年 4 月 11 日)である(43)。旅行を制限する繁雑な各手続きを廃
止し、出入国規制や税関規定、国内往来に関する手続を今後は速やかに施行すること、
また旅行者の映画撮影、記念撮影や接触などをより緩和することなどが指示され、これ
により在外ベトナム人がベトナムへ里帰りする門戸が開かれた。また、在外ベトナム人
が祖国を訪問する場合、宿泊費や航空運賃は外国人価格の 25 ─ 30 % 割引となり、ドルと
ドン貨も外国人観光客の場合よりも 5 倍の価格で両替するという特別待遇が打ち出され
た。この指令についてグエン・クアン・チン( Nguyen Quang Trinh )観光総局長は 4 月
23 日のベトナム通信社の報道で、「今後はベトナム旅行を望むいかなる国の人にも入国
ビザが発給される(観光ビザの期間は 15 日間)。出国したベトナム人は誰でも、観光旅行と
あわせて故郷を訪問することができる」と明言した(44)。
4.在米ベトナム人の反応
(1) 帰省
規制が緩和された 1987 年から 88 年までの間に在米ベトナム人でベトナムを訪問した
者は約 6,000 人(45)だけであった。しかし、90 年には 1 万 6,003 人、91 年には 2 万 3,960
人、92 年には 3 万 5,114 人、93 年には 7 万 8,024 人、94 年には 10 万 9,738 人と年毎に急
増し、4 年間で 10 倍ものアメリカ在住のベトナム人が帰省するようになった(46)。かつ図 1
をみてもわかるように、アメリカからの帰省者は、帰省者全体の約半数にあたった。し
かも帰省理由はどの年も約 90 % が「親族訪問・旅行」で「ビジネス」目的より圧倒的に
多い。
1993 年から飛躍的に伸びている理由は、92 年からベトナムへの航空券(第三国経由)
がアメリカ国内で購入できるようになったことである。89 年末のベトナム軍のカンボジ
アからの撤退の発表を受けて、ブッシュ米大統領は 91 年 4 月、米越関係段階的正常化の
ためのロード・マップを提示した。これを受け、諸制限が緩和され始めた。航空券だけ
でなく、92 年 4 月から AT&T と MCI が直通電話を開通したことで、従来第三国を経由
して 1 分 10 ドル近くかかっていた国際電話も 2 ドル程度でかけられるようになり、以前
より祖国にアクセスしやすい条件が整えられた。
また、帰省者が再びアメリカへ戻り、帰省しても安全であることが証明されると人々
の心理的抵抗も薄らいでいった。さらにこの時期、帰省者がアメリカに持ち帰ったベト
在米ベトナム人とベトナム─送金とヒトの流れにみる祖国との紐帯と影響力
83
図1
居住国別里帰り越僑数の推移
(単位:人)
120,000
100,000
80,000
60,000
40,000
20,000
0
36,145
1990
59,071
1991
居住国 アメリカ
居住国 カナダ
76,100
1992
居住国 フランス
居住国 その他
152,675
1993
202,046
1994
居住国 オーストラリア
(出所)
1993, 1994より著者作成.
ナム製の品々や、「ビデオレター」、ベトナムの風景を映した音楽ビデオなどが出回るよ
うになり、人々の郷愁を誘い帰省を促進した。当初は帰省しても、コミュニティの世論
を恐れ誰もその事実を口外しなかったが、帰省者の増加と共にコミュニティの空気も変
化していく(47)。1996 年には、旧正月の時期だけで帰省者が 26 万 5,000 人になり、この時
期は毎年臨時便が就航するようになった(48)。
また、これらの変化を受け、反共組織も変化する。当初の方針は「共産党政権を打倒
して祖国を奪回する」だったのが、共産党政権自体が変化すれば必ずしも打倒の必要は
ないとして、民主化や多党制の導入などに方針変更され、顕著な変化がみられるように
なった。
(2) 送金
当初、在米ベトナム人はこれらの政策に対して懐疑的であった。送金奨励については
良い傾向であると一定の評価を与えていたが(49)、旅行緩和によりベトナムへ帰省できる
ようになったことについては「カネのためにベトナム訪問を奨励している」「トリックに
すぎない」と不信感を示した(50)。このような状況の中、ベトナム政府は在米ベトナム人
に直接これらの政策を宣伝し始める。前出の公司 COSEVINA は 87 年 10 月より私信が
書ける小さなスペース付きのメイルグラムを印刷、ベトナムで人々に無料で配付し、当
時 955 ドン(1 週間分の賃金の半分に相当)の郵送費も負担して、海外の親戚に送ってもら
うキャンペーンを行った(51)。これには、家への送金の請願書と、アジア、ヨーロッパ、
アメリカ、カナダ、ニュージーランドとオーストラリアからベトナムへ送金する場合の
新しい方法が添付され、金銭はホーチミン市で COSEVINA が経営するインターショッ
プストアに送られ 2 週間以内に受け取れること、手数料は 5 ─ 6 % であることが明記され
ていた。
COSEVINA によれば、1987 年 10 月から 88 年 3 月の間にベトナムから送られたこの
「自分の親族のコメント付き」のメイルグラム約 4 万通のうち、半数が実際送金されてき
84
アジア研究
Vol. 48, No. 4, October 2002
た。その総額は僅か 5 ヵ月のうちに、約 20 万ドルにのぼる(52)。
1989 年ごろまでには、アメリカ在住のベトナム人からの送金総額は、闇送金も含めて
年 3 億から 4 億 US ドルに達していたと推計されている(53)。VINA-USA は、87 年に設立
され 88 年から正式な活動を始めた、ニューヨークに本社がある在米ベトナム人の送金業
者である。主にアメリカ、カナダ在住のベトナム人とその家族を対象とし、全米に約 24
の代理店を持ち、送金(金銭および金)と小包の郵送を請け負っている。基本的に金銭は
銀行を通じ送金をしている、合法的な送金業者である。この VINA-USA の 91 年の送金
総額は 2,300 万 US ドル、1992 年、93 年もほぼ同額、1994 年は 2,700 万ドルであった(54)。
ベトナム国家銀行の報告を基とした、図 2 の 1991 年の銀行経由の在外ベトナム人送金総
額は 3,500 万 US ドルであるから(55)、単純比較しても在米ベトナム人からの送金は圧倒的
多数を占めている。
図 2 にみられるようにその後在外ベトナム人からの送金は増加しつづけるが、VINA-
USA の伸びがあまりみられないのは、その後業者が増加したことが大きな要因で、図の
「送金業者」は政府の認可を受けた 40 業者の総額である。また、1994 年のアメリカの対
越経済制裁解除以降、送金業者の数は増加した。現在カリフォルニア州だけで送金の専
門業者は少なくとも 11 軒ある(56)。また、帰省者の増加と共に、直接手渡せるようになっ
たなど、正式チャンネル以外での越僑から本国の親族への金銭の流れが増大したことも
大きな要因である。よって、VINA-USA の停滞は在米ベトナム人送金の伸びを反映した
ものではなく、VINA-USA 以外にチャンネルが多様化したことにより起こった現象であ
り、むしろ在米ベトナム人からの送金額は増大している。
在外ベトナム人送金全体をみても、銀行経由、業者経由あわせて 1998 年の総額は 9 億
5,000 万 US ドルにのぼっており(57)、これ以外の非公式ルートをあわせると、総額は約倍
になるとベトナム政府は推計している。特に、難民が多く出たホーチミン市の占める割
合は高く、ホーチミン市民の 25 万世帯が海外に親族を持っており、毎年 4 億から 5 億ド
ルが送金されている(58)。
図2
(単位:$ US )
1,000,000,000
900,000,000
800,000,000
700,000,000
600,000,000
500,000,000
400,000,000
300,000,000
200,000,000
100,000,000
0
1991
1992
在外ベトナム人からの送金額
1993
1994
送金業者経由
1995
1996
1997
1998
国家銀行経由
(出所) Vietnam Economic News, No. 50, 1999, p. 12より著者作成.
在米ベトナム人とベトナム─送金とヒトの流れにみる祖国との紐帯と影響力
85
表1
しかし、送金に比べ、在外ベトナム
在外ベトナム人投資
認可された
投資数
実際の
投資数
実際の投資総額
($US)
•1988
1989
1990
1991
1992
1993
1994
10
9
13
2
7
9
1
6
4
9
1
7
9
1
3,453,650
6,520,200
33,110,000
865,859
5,564,972
26,205,192
3,250,000
合計
51
37
78,969,873
(出所)
No. 5, 1994, p. 11.
人からの投資は伸びない。政府は 1992
年に「外国投資法」を発令、かつ 93 年
5 月にも「在外ベトナム人の投資を促
(59)
(No. 29-CP)
を出したが、
進する議定」
あまり効果はみられない。88 年から 94
年の間の認可案件は 51 件(表 1)、外国
投資と比較すると、 88 年から 96 年の
台湾からの認可投資案件は 286 件で、
登録投資総額は 39 億 1,730 万 US ドル、
と規模が違う。88 年から 95 年の間、ホーチミン市で実際に行われた在外ベトナム人投資
15 件のうち、在米ベトナム人のものはわずか 2 件であった(60)。
このように、ベトナム政府の期待とは逆に、投資の分野ではあまり成果があがってい
ない。彼らの資金力を疑問視する声もあるが、送金総額をみる限り十分と言える。自分
の身内には支援を惜しまなくても、政府を相手に仕事をするとなると依然として警戒感
が強く、また個人レベルや人道的な交流には寛容になっても、ベトナム政府相手に金を
儲けることに対しては、特に在米ベトナム人コミュニティでは根強い批判もあることが
理由に挙げられる(61)。政府の目的は、闇で流れていた在米ベトナム人からベトナムへの
カネの流れを政府の目の届くところへ表出させることであったが、緩和政策は、送金に
関しては政府の目の届かない部分の種類、量ともに増大させ、投資に関しては伸び悩む
という、結果的に目にみえる部分は期待したような成果が得られなかった、と考えられる。
(3) 認識の変化
このような流れを受けて、在米ベトナム人コミュニティではベトナム政府に対してど
のような認識の変化がうまれたのか。まず、前述の反共組織の変化をみてみたい。「ベト
ナム解放統一国家戦線」の主張に 1990 年ごろから変化がみられるようになった。活動方
針も、①幹部をベトナムの大都市に潜入させて活動、②ベトナム共産党内部の矛盾や分
裂を広げる(62)とし、かつての武力による政権打倒から方針を転換させた。かつ、ベトナ
ム国内での活動を基本にしており、以前の「ベトナムに足を踏み入れること自体が裏切
り行為であり、ベトナム共産党政権を助けることになる」という論調からは大きく転換
がみられる。また、コミュニティ内にも現在のベトナムとの交流を推進するグループが
現れた。特に、「オレンジ・カウンティベトナム人商工会議所」は経済面での交流を積極
的に推進することを主張し、激しい反対にあいながらもハノイに経済ミッションを派遣
したり、教育や洪水被害などの人道的援助をするベトナム人非政府組織(NGO)団体が
できるなど、反共組織以外の活動も活発化している。
また、以下の世論調査によれば(表 2)、依然ベトナム政府を「好きではない」とする
86
アジア研究
Vol. 48, No. 4, October 2002
人が全体の 59 % いるものの、ベトナムの民主化について、「打倒しなければいけない」
とした人は 37 %、「適正な圧力をかければよし」とした人は 31 % と均衡している。以前
主流であった「ベトナム共産党政府を打倒して新たに民主的な国家を建設する」という
考え方だけでなく、圧力をかけることでベトナム自身が民主化すれば良い、という考え
方も増加していることがわかる。これは、経済制裁解除の決定を支持しない人は 20 % に
対して支持する人は 54 % にのぼり、その経済制裁解除がベトナムの民主化促進につなが
ると考える人が 49 % も占めていることからも、交流によってベトナム自身の変革を促す
ことを考える人が増加し
ていることがわかる。
また、民主化が達成さ
表2
Los Angeles Times による世論調査
1. あなたの現在のベトナム政府に対する印象は?
れたらベトナムに戻って
好き
合計•
18─29歳
30─49歳
50歳以上
15%
59%
28%
21%
54%
16%
12%
59%
30%
12%
67%
34%
永住するか、という問い
好きではない
には、「アメリカに残る」
わからない
が全体でも 40 % 、若年
2. あなたはベトナムに対するクリントン大統領の経済制裁解除の決定を支
層にその傾向が強いとし
持しますか?
ても、第一世代である
強く賛成する
30 歳以上で 36 %、50 歳
まあ賛成する
以上でも 28 % を占めて
あまり賛成しない
強く不賛成
合計•
18─29歳
30─49歳
50歳以上
33%
21%
7%
13%
26%
43%
21%
7%
10%
19%
30%
20%
8%
14%
28%
24%
24%
6%
14%
32%
いる。しかしだからとい
わからない
って彼らの祖国に対する
3. 経済制裁の解除はベトナムの人権と民主化を促進させると思いますか,
感情が薄まっているわけ
後退させると思いますか?
ではないことは、本稿で
促進させる
取り上げた在米ベトナム
後退させる
人の里帰りブーム、そし
て祖国の政治動向に対す
る過敏な反応からみても
あまり効果はない
わからない
18─29歳
30─49歳
50歳以上
49%
13%
16%
22%
58%
10%
17%
15%
45%
14%
15%
26%
41%
15%
18%
26%
4. もし現在のベトナム政府が崩壊し、ベトナムに民主主義が確立したら,
あなたはベトナムに永住しますか?
明白である。むしろ、安
定した生活基盤や国籍を
合計•
帰国
アメリカに残る
合計•
18─29歳
30─49歳
50歳以上
33%
40%
27%
27%
53%
20%
32%
36%
32%
47%
28%
25%
維持しつつ、祖国とも関
わからない
わっていこうとする人の
5. 現在の政権に適正な経済的圧力を加えるとベトナムでは民主化が達成さ
国際的移動の現代的特徴
れるでしょうか? それとも民主主義を確立するには現在の政権が打倒
されなければならないと思いますか?
が顕著にあらわれている
と言えるのではないだろ
うか。
正しい圧力
打倒
わからない
31%
37%
32%
(出所) Los Angeles Times, Jun. 12, 1994. 対象: Los Angeles, Orange,
San Diego, Riverside, San Bernardino, Ventura County に居住する
ベトナム人 861人、電話による聞き取り調査、1994年3月28日─4月
19日に実施.
在米ベトナム人とベトナム─送金とヒトの流れにみる祖国との紐帯と影響力
87
むすび
はじめに問題提起したように、なぜベトナム政府はかつて反動分子と呼んでいた在米
ベトナム人を取り込む方向に転換したのか。それは、彼らの親族に対する仕送りおよび
ドル送金が当時のベトナム経済に大きな比重を占めたからであった。そしてベトナム政
府が彼らの重要性を認識したのはドイモイが軌道に乗った結果ではない。表面的には国
交は断絶し、ベトナム側も彼らを反動分子と公言し、在米コミュニティ側も打倒共産党
政権を掲げていた時代に、両者の間は送金や小包といったモノの流れを通じて緊密に結
ばれており、困窮していたベトナム経済にとって重要な役割を担っていた。政府指導部
内ではドイモイ政策の立案段階で既に経済の打開策に彼らの送金が有効であることが認
識されており、活用すべく活発に議論がされていたのである。
これまでベトナム政府と在米ベトナム人の関係は、1980 年代は対立と相互不信という
構図で語られてきた。しかし、送金というファクターを通してみると、90 年代に入って
起きた両者の関係緩和は、政治的には両者が対立していた時期にネットワークが形成さ
れ、活発に機能していたことに端を発している。それゆえに、ベトナム政府側もドイモ
イ案の浮上と共に条件を整備することができ、かつ在米ベトナム人側も即座に反応する
ことができたのである。そして、これらは相互認識や彼らを取り巻く状況にさらなる変
化をもたらした。
しかし、諸改善策が打ち出された後、送金や里帰りなどの面では効果があったものの、
投資など国家建設に直結する分野では成果があげられていないのは、これらの場当たり
的な改善策では急変する状況に対応しきれなくなったことが一因でもある。これが、よ
り踏み込んだ 1998 年以降の第二次改正につながることになるが、その検証は別稿に譲り
たい。
*本稿は、平成 12 年度文部省科学研究費「特別研究員奨励費」による研究成果である。
(注)
(1) Tran Trong Dang Dan, Ngu™i Viet Nam ™ N•oc Ngoai, Ha Noi: Nha Xuat bažn Ch’nh Tri Quoc Gia,
1997. 世界各国のベトナム人について取り扱った概説書。
( 2 ) 代表的なものとして、ベトナム系アメリカ人の概説書としては、 Paul J. Rutledge, The Vietnamese
Experience in America, Blooming and Indianapolis: Indiana University Press, 1992; Jeremy Hein, From
Vietnam, Laos, Cambodia: A Refugee Experience in the United States, New York: Twayne Publishers, 1995. 同
化、適応、変容に関しては、David W. Haines(ed.), Refugees as Immigrants: Cambodians, Laotians, and
Vietnamese in America, Rowman & Littlefield Publishers, Inc., 1989; Charles C. Muzny, The Vietnamese in
Oklahoma City: A Study in Ethnic Change, New York: AMS Press, Inc., 1989; Nazli Kibria, Family Tightrope:
The Changing Lives of Vietnamese Americans, Princeton University Press, 1993. インタビューを中心にしたも
のは、James M. Freeman, Hearts of Sorrow: Vietnamese American Lives, Stanford CA: Stanford University
Press, 1989; John Tenhula, Voices from South East Asia: The Refugee Experience in the United States, New
York : Holmes&Meier, 1991; Joann Faung Jean Lee, Asian Americans, New York: The New Press, 1991. 中国
系ベトナム人に関しては、Joe Chung Fong, The Development of the Chinese-Vietnamese Community in San
Francisco: 1980 ─ 1988, University of California Los Angeles, 1988; Steve Gold, ÒChinese-Vietnamese
88
アジア研究
Vol. 48, No. 4, October 2002
Enterpreneurs in California,Ó Paul Ong, Edna Bonacich, and Lucie Cheng(eds.), The New Asian Immigration
in Los Angeles and Global Restructuring, Philadelphia: Temple University Press, 1994. アジア系アメリカ人の
比較では、Ronald Takaki, Strangers from a Different Shore, A Penguin Books, 1989; Lan Cao and Himilee
Novas, Everything you need to know about Asian-American History, A Plume Books, 1996 などが挙げられる。
(3) U.S. Department of Justice and Naturalization Service, Statistical Yearbook of the Immigration and
Naturalization Service, 1980.
(4) U.S. Census Bureau, Census 2000.
(5) ここで華僑とは、中国籍を保持したままの人のことを指し、主に最恵国待遇が適用されていた北部ベトナ
ム、中越国境に居住していた人を対象とする。一方華人は既にベトナム国籍を取得した人の意味で用いている。
南部では、南ベトナム時代に華僑は全員ベトナム籍に加入させられている(古田元夫『ベトナム人共産主義者
の民族政策史─革命の中のエスニシティ』、大月書店、1991 年、584 ページ)。
(6) 1978 年は、個人では調達できない大型船舶による脱出も多く、11 月 9 日難民 2,504 人を乗せたハイフォン
号(1,500 トン)がマレーシアに、12 月 23 日難民 2,700 人を乗せたフエイフォン号(2,290 トン)が香港に、
12 月 27 日難民 2,318 人を乗せたトウンアン号(4,000 トン)がフィリピンに到着した(東南アジア調査会『東
南アジア要覧』1979 年版、1 ─ 97 ページ)。これらの大型船舶はベトナム政府もしくは中国政府の関与なしで
は調達できなかったとみられている。
また、現在リトルサイゴンマーケットオーナーのチャン・ズーによると、中国系である彼は 1975 年以降商
売ができなくなったことから脱出を計画していた。78 年に息子 2 人を先に送りだした直後に「華僑追放政策」
が発表されたため、その政策に従って出発の登録をし、船の所有者と政府に全財産を支払い、2,000 ドル相当
を持って残りの家族全員で脱出をしたという(The Vietnamese Community in Orange County, An Oral History
Vo. 1 Business Development, The Vietnamese Chamber of Commerce in Orange County and New Hope
Library, 1991, pp. 92, 112)。
この「華僑追放政策」の発令日は明らかでないが、彼らは近隣諸国の島に到着後、そこの難民キャンプに 8
ヵ月滞在し、アメリカに 1979 年 7 月 21 日に到着したことから計算すると、彼らがベトナムを脱出したのは 78
年 12 月ということになる。登録から脱出までにかかった時間がわからないが、少なくとも「華僑追放政策」
が発表されたのは 78 年 12 月以前、ということになり、「78 年 9 月以降の難民の増加」と一致する。また、ベ
トナム共産主義者は、77 年に国籍があいまいであった中越国境付近の華僑に、続く 78 年春には北ベトナム在
住華僑全体に対して国籍の最終的選択を求め、中国籍を保持してベトナム国内に留まる場合は、就業、教育等
に制限のある外国人扱いにすると明らかにしており(古田、前掲書、584 ページ)、これが華僑追放政策とも
考えられる。華僑と限定してはいないが、77 年 4 月 25 日に「ベトナムに居住し生活を営む外国人に対する政
策」
(閣僚会議決定 No. 122-CP)が出されている( Cong Hoa Xa› Hoi Chu Nghia Viet Nam. Cong bao, No.
15, 1978, Phu Ban )。
(7) 内閣官房インドシナ難民対策連絡調整会議事務局『インドシナ難民の現状と我が国の対応』、1989 年。
(8) ODP の対象者は、以下のとおり。レギュラー・プログラム: アメリカに近親者が居住している者(家族再
会プログラム)、前アメリカ軍政府関係者、前アメリカ軍関係者。アメラジアン・プログラム: 2 年後の 1982
年より「アメラジアン」と呼ばれる米兵とベトナム人の間に生まれた混血児とその家族も条件に加わった。
H.O.プログラム: 1990 年からは、旧南ベトナム政権やアメリカ軍政府と関係していたために「政治犯」として
再教育キャンプに収容させられた人々とその家族を対象にした「 H.O. プログラム」も新たに開始された
(United States General Accounting office, Refugee Program, The Orderly Departure Program From Vietnam,
April 1990)。
( 9 ) U.S. Committee for Refugees, Immigration and Refugee Services of America, Refugee Reports,
Washington DC, Dec. 31,1995, p. 5; U.S. Committee for Refugees, ÒCountry Report; Vietnam,Ó 1997, 1998,
1999, 2000.
(10) ②の人々の流入後に反共組織が多く設立された理由は、アメリカにおけるベトナム人人口の増加も一因で
あるが、中国とベトナムというベトナム戦争中は兄弟国であった二国が戦争を始めたことにより、社会主義に
ほころびが見え始めた、としてベトナムの社会主義政権崩壊が近く、打倒することが可能ではないかと期待す
る傾向が強くなったためである。そのため、この当時の反共組織が掲げた目的は、「ベトナム共産党政権の
打倒と祖国奪回」であり、とにかく現政権を倒すことに主眼が置かれた。Mat tran quoc gia thong nhat giai
phong Viet Nam. ÒCuong Linh Ch’nh Tri,Ó Mar. 8, 1982.
(11)「ベトナム革命連合」は 1984 年設立。75 年以降に設立された「ベトナム民族再生党」、「国家再生民族連
合」などの反共グループの連合体。ベトナム民族再生党の幹部の一人だった Nguyen Trong Nhan はベトナム
共産党兵士を活動に勧誘する「平和と自由軍事作戦」遂行のためカンボジアに渡り、86 年 9 月 20 日に死亡、
ベトナム人コミュニティでもニュースになった。
(12) Mat tran quoc gia thong nhat giai phong Viet Nam, ibid.
(13) U.S. Census Bureau, Census 2000.
在米ベトナム人とベトナム─送金とヒトの流れにみる祖国との紐帯と影響力
89
(14) Los Angeles Times, Feb. 13, 1988.
(15) Los Angeles Times, July 10, 1981.
(16) アメリカで技術職や専門職を再取得して生計を立てようとする傾向が強かった①の人々に比べ、②のうち
特に華僑は家族や知人の縁を生かして商売を起こすものが多かった。リトルサイゴンビジネスの 40 % はこれ
らの華僑経営だとも言われている。Steve Gold, ÒChinese-Vietnamese Entrepreneurs in California,Ó Paul Ong,
Edna Bonacich and Lucie Cheng ( eds. ), The New Asian Immigration in Los Angeles and Global
Restructuring, Philadelphia: Temple University Press, 1995, p. 199.
また、現在のリトルサイゴンの土地を最初に購入し、不動産投資したフランク・ジャオ(Frank Jao)、リト
ルサイゴンに「サイゴン・スーパーマーケット」など 7 つのスーパーマーケットを所有するグエン・ズー
(Nguyen Du)共にサイゴン出身華僑であり、ベトナム人コミュニティの形成と発展に華僑は大きな役割を果
たしている。
(17) Orange County Register, Aug. 21, 1988.
(18) Export Administration Annual Report to U.S. Commerce Department, cf. Thom Tram, ÒTransnationalism
and Remittances among Vietnamese Americans,Ó Paper presented at the Regional Conference of Association of
Asian American Studies, Nov. 23, 1996.
(19) 1978 年より 7 年間代表部に在籍していた元外交官へのインタビュー、Mar. 12, 2001.
(20) 東南アジア調査会、前掲書、1982 年版、1 ─ 19 ページ。1985 年版、1 ─ 21 ページ。
(21) 同書、1985 年版、1 ─ 33 ページ。1986 年版、1 ─ 31 ページ。
(22) Cong Hoa Xa Hoi Chu Nghia Viet Nam. C™ng b‡o, No. 2, 1980, p. 26.
(23) 東南アジア調査会、前掲書、1982 年版、1 ─ 48 ページ。
(24) 同書、1 ─ 48 ページ。
(25) C™ng b‡o, No. 6, 1981, p. 109.
(26) Ibid., No. 18, 1983, p. 326.
(27) Ibid., No. 2, p. 25; No. 3, pp. 45, 52; No. 4, p. 67; No. 7, p. 127.
(28) 詳しくは以下を参照。古田元夫「ドイモイ路線誕生時の党内論争」、白石昌也・竹内郁雄編『べトナムの
ドイモイの新展開』、アジア経済研究所、1999 年。
(29) 1985 年 11 月 25 日のチュオン・チン政治局員顧問グループ会合記録資料。
(30) Bai phat bieu cua dong ch’ Truong Ch“nh tai Hoi Nghi Bo Ch’nh Tri ban ve gia-long tien, ngay 1013-5-1985.
(31) この大会でチュオン・チンは書記長の座を後進に譲り、新しく改革派のグエン・バン・リン( Nguyen
Van Linh )が書記長に選出された。
(32) ÒBao Cao Ch’nh Tri cua Ban Chap hanh trung uong Dang Cong San Viet Nam tai dai hoi bieu to¿n
quoc lan thu VI cua Dang,Ó Nhan Dan, 16. 12. 1986, p. 5.
(33) Ibid., Nhan Dan, 17. 12. 1986, p. 2.
(34) ÒNghi quyet Dai Hoi Dai Bieu Toan Quoc Lan Th• VI Dang Cong San Viet Nam,Ó Nhan Dan, 20. 12.
1986.
(35) 東南アジア調査会、前掲書、1987 年版、1 ─ 94 ページ。
(36) Hoang Bich Son, ÒThe Overseas Vietnamese Communities,Ó Vietnam News Agency, Vietnam Courier,
No. 5, 1987, p. 7 ─ 8.
(37) ハードカレンシーという言葉を使っているところにも注目したい。当時社会主義諸国に居住していたベト
ナム人は、当地の通貨でしか送金できない。騰落の可能性の高いそれらの通貨よりも、安定した米ドルでの外
貨獲得をベトナム政府は必要としていたためである。
(38) C™ng b‡o, No. 7, 1987.
(39) これは「社会主義諸国に在住するベトナム人」としているものの、内容は特に社会主義国からであろうと
他国からであろうと問題がないものになっている。
(40) 決議に「社会主義諸国に居住する在外ベトナム人」となっているのに、なぜホーチミン市は在米ベトナム
人をも対象とする公司の設立ができたのか。これには二つの可能性がある。第一は、前述のヴー・クオック・
トゥアンらの在米ベトナム人を重要視した発言というのは、政府内で権力を持った人物の発言であったとはい
え、公式の発言ではない。従って、在米ベトナム人も含めた形で緩和策を打ち出すという党のコンセンサスが
あったわけではなく、国の安寧を重視するグループのことも考慮して、「社会主義諸国に居住する」という但
し書きをつけ、実際は制限をつけずに誰でも対象になるようにした、とする考え方である。第二は、ホーチミ
ン市が積極的に解釈して、中央の意向とは別に全ての在外ベトナム人を対象に活動する機関を設立したという
ものである。いずれにしろ、ベトナム政府の本音と建前の関係のみならず、中央と地方の関係を考察する上で
興味深い問題であり、引き続き調査を進めたい。
(41) ハノイ国内放送 4 月 18 日 東南アジア調査会、前掲書、1988 年版、1 ─ 52 ページ。
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アジア研究
Vol. 48, No. 4, October 2002
(42)
(43)
(44)
(45)
(46)
C™ng b‡o, So19, Nov. 15, 1987.
Ibid., April 30, 1987, p. 134.
東南アジア調査会、前掲書、1988 年版、1 ─ 52 ページ。
Ngu™i Viet, Westminster, Aug. 24, 1988.
Cong Hoa Xa Hoi Chu Nghia Viet Nam Tong Cuc Thong Ke, Nien Giam Thong Ke, NXB Thong Ke,
1993, 1994.
( 47 ) Nguoi Viet Yearbook に初めて「ベトナム旅行取り扱い」の広告が出たのは 1992 年、 3 件( Nguoi
Viet, Nguoi Viet Yearbook, Westminster, pp. 382, 383)。92 年以前にベトナム旅行を取り扱っていたのは 2 件、
そのうちブラジル人経営の Bolsa Travel は問題なかったが、ベトナム人経営だった Wall Travel は放火された。
また、新聞記事にも変化がみられる。 1988 年当時は、帰国したベトナム人はまだ特別扱いで、内容も
「 ODP 問題解決のため政府代表団の一員として訪問したベトナム人の記録」( ÒAn Emotional Visit Home:
Vietnam ─ 13 Years Later,Ó Los Angeles Times, Feb. 23, 1988)や「ガンで危篤の母に会いに行くこと決意
した息子」の話(ÒÔLast Time I can see my motherÕ Dutiful son risks trip home to Vietnam,Ó San Jose Mercury
News, 1988)など、その任務の特異性が強調されている。しかし、帰省者が急増した 1992 年ごろになると、
帰省記事は、特殊なものから、普通のベトナム人のはじめての帰国の心情をつづったドキュメンタリー的なも
のが多くなる。(ÒA Journey Home-Family Reunion; NamÕs Story,Ó Orange County Register, Feb. 9, 1992;
Feb. 16, 1992; Feb. 23, 1992; ÒNot All The Wounds Have Healed,Ó O.C. Register, Parade, Aug. 23, 1992;
ÒComing Home: A Personal Journey back to Vietnam,Ó San Jose Mercury News, Feb. 13, 1994; ÒYears, Miles
Yield to Reunion,Ó San Jose Mercury News, April 24, 1994; ÒSerching for Nguyen Tan Hung; For the
Daughter of a South Vietnamese Army Captain Missing in Action, The Hardest Part is Never Knowing, Or Is
It?,Ó Los Angeles Times Magazine, Aug. 28, 1994; ÒA Regards to the Past: North Vietnam Journey Brings
Honoe to Ancestors and Hopes for the Future,Ó L.A. Times, Sep. 28, 1994; ÒJourney to Vietnam, An O.C.
WomanÕs Homecoming,Ó O.C. Register, Mar. 2, 1995; ÒBack to the Future: Returning Vietnamese are an
often-resented new elite in former homeland,Ó San Jose Mercury News, April 17, 1995; ÒHome Again, with
Hope,Ó L.A. Times, June 13, 1995)。また、本も出版されるようになった。これらは単なる個人的記録にとど
まらず、自らの帰省の体験と心情を通じて、アイデンティティや民族といった普遍的な問題にまで深く掘り下
げている。Nguyen Qui Duc. Where The Ashes Are: The Odyssey of a Vietnamese Family, Addison-Wesley
Publishing, 1994; Phan Tran Hieu. Coi Nguon Bat AnÑRoots of Unrest. O.C. Register. 1999; Andrew X.
Pham. Catfish and MandalaÑA Two Wheeled Voyage Through the Landscape and Memory of Vietnam.,
Picador USA, 1999.
(48) Vietnam News, Jan. 15, 1996, p. 4.
(49) Nguoi Viet, April 23, 1987.
(50) Ibid., June 11,1987.
(51) Los Angeles Times, Aug. 22,1988.
(52) Ibid.
(53) Ban Viet Kieu TP. HCM, Hoi Nghi h™p tac kinh te va khoa hoc ky thuat TP. Ho Ch’ Minh va Viet
Kieu 5-12-1990Ñ7-12-1990, Phong kinh te khoa hoc ky thuat, 1991, p. 120.
(54) Que Huong, Ha Noi, so 7, 1995, p. 24.
(55) Vietnam Economic News, No. 50, 1999, p. 12.
(56) Nguoi Viet. Nguoi Viet Yearbook:
Vietnamese American Business Directory, Westminster, 2001.
(57) Vietnam Economic News, No. 50, 1999, p. 12.
(58) Sai Gon Giai Phong, May 25, 1998, p. 2.
(59) Cong bao, So 15, Aug.15, 1993, p. 362.
(60) Que Huong, So 5, 1994, p. 11.
(61) オレンジカウンティのベトナム人商工会議所は、1994 年経済制裁解除直後にハノイに通商使節団を送っ
たが、反対派の激しい抗議にあい、派遣前に 800 人規模のデモに(Los Angeles Times, Sep. 9, 1994)、後にも
反対派に取り囲まれた(Orange County Register, Nov. 10, 1994)。
(62) Mat tran quoc gia thong nhat giai phong Viet Nam. ÒTr“nh –au tranh cham d•t che ao Viet Cong
trong hai thap nien 80 va 90,Ó p. 6.
(ふるや・ひろこ
在米ベトナム人とベトナム─送金とヒトの流れにみる祖国との紐帯と影響力
東京大学大学院)
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