共和主義の精神 - 東京成徳大学・東京成徳短期大学

共和主義の精神、共和国の身体
−ベンジャミン・ラッシュの「医学のアメリカン・システム」
高 野 泰*
はじめに―共和主義と医学理論
21世紀を迎えて数年を閲した現在であっても、われわれのアメリカ合衆国の建国の父祖へ向けるま
なざしは、こと啓蒙思想や民主主義といった概念を念頭に置くとき、現在に至る連続的な歴史の流れ
の中に取り結ばれ、必ずしも断絶した過去に埋没した存在とは捉えられないであろう。たとえば独立
宣言に署名した5人の医師たち、ジョサイア・バートレット、マシュー・ソーントン、オリバー・ウ
ォルコット、ライマン・ホール、そしてベンジャミン・ラッシュは、アメリカ独立支持者あるいは民
主的思想の持ち主として、ともすれば現代人とさほど変らぬ、ある種の進歩主義者の姿で認識されか
ねない。
ところが、18世紀の医学者としての彼らに目を転ずると、そこに現れるのは、十中八九、迷信に囚
われた野蛮で蒙昧なえせ科学者の像であろう。当時の医者の治療といえば、水銀化合物(!)をはじ
めとする下剤や吐剤の投与や悪名高い瀉血が中心であった。当然のことだが当時は、抗生物質もなけ
れば外科手術も未発達であった。
こうした18世紀の医学の実情を目の当たりにしたとき、今日のわれわれが直面するのは、今日とさ
ほど変らないかに見える民主主義的な政治思想と、本来ならば人命を救うためには最も肝要な技術で
あるはずだが、現代の水準からは想像もつかないくらいに劣悪な医療の実践との間のギャップである。
しかし、本校で取り上げるベンジャミン・ラッシュは、そのようなギャップを感じていたようには見
えない。彼にとって医学とはアメリカ独立革命と密接に関わりあいながら発展しつつあるものであっ
た。以前、筆者は精神医学に向けたラッシュの態度を18世紀的文脈の中で読み取る試みを行なったが1、
今回は身体の医学と共和主義思想とを同一地平に捉えるのが、目的となる。アメリカ建国期の共和主
義についての研究は国内でも数多くなされているが、18世紀の科学とりわけ医学を扱った研究は数え
るほどである。しかしながら、ここ数年日本でも注目を集めるようになってきた「サイエンス・スタ
ディーズ」の成果を鑑みるならば、建国期アメリカにおいて、科学が社会から独立して存在していた
*
Yasushi TAKANO 国際言語文化学科・英米言語文化専攻( English and American Course, Department of
International Studies in Language and Culture)
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東京成徳大学研究紀要 第 10 号(2003)
とは考えにくい。こうした点も念頭において、論を進めていくことする。
ラッシュの生涯と当時の医学
ラッシュが医師としてのキャリアを選択するのは、彼が15歳になろうとしたときに、長老派牧師の
勧めによってであった。1760年の秋に、ニュージャージー大学(現在のプリンストン大学)を卒業す
るにあたって、学長であったサミュエル・デイヴィーズ Samuel Davies とは法曹界に進むことを話し
あっていた。ところが、大学入学以前にその下で学んだ、叔父のサミュエル・フィンレー Samuel
Finley からは、弁護士は誘惑が多い職業なので、医師を目指したほうが良いという忠告を受けた3。
これを是としたラッシュは、デイヴィーズに推薦状を書いてもらい、当時のフィラデルフィアでは最
も高名な医師の1人であった、ジョン・レッドマン John Redman の下で医師修業を始めることにな
った。
当時のラッシュは、ほとんど睡眠もとらずに精勤したと自ら述懐するほど働き、ついには師の信頼
を得て、彼の代理として患者を診るほどになった。1761年から5年にわたる、この徒弟時代にラッシ
ュは、やはりレッドマン門下で、当時の医学の最先端の地の1つであったスコットランドのエディン
バラに留学してきたばかりの、2人の医師ウィリアム・シッペン Willam Shippen Jr. とジョン・モー
ガン John Morgan の教えも受けた。シッペンが1762年から65年にかけて行なった解剖学の講義と、モ
ーガンが帰国早々65年に始めたフィラデルフィア大学 College of Philadelphia の医学部における薬理
学の講義である4。この講義は、モーガンが提唱して実現した、新大陸における最初の医学のものと
されているが、もともとその構想はシッペンが持っていたものであった。シッペンはモーガンに構想
を話していたようだが、結局モーガンが1人で大学の理事会に働きかけて実現したため、シッペンと
の関係を悪化させる結果を招来することになった。これ以後、フィラデルフィアの医師業界は、派閥
争いが伝統となっていく。
1766年秋レッドマン、シッペン、モーガンら先達にならって、ラッシュは自らもエディンバラに留
学した。このエディンバラ滞在は、若きラッシュに多大な影響を与えた。彼は疾病分類学の権威であ
「医学の
ったウィリアム・カレン William Cullen に師事した。カレンはエディンバラ大学医学部で、
」の教授を務めていた。
理論と実践(the theory and practice of medicine: 現在の内科学および臨床医学)
ラッシュは、カレンから疾病分類学よりはむしろ、当時一般に信じられていた「体液」説に反対する
立場の、
「神経組織」説の多大な影響を受けた。
この「神経組織」説とは、医学理論の根底をなす考え方の一つである。そもそも、18世紀において
「体液」説によ
も、古典古代のガレノス Galenos 以来の「体液 humour 」説が広く信奉されていた。
れば、病いは4つの体液すなわち血液、粘液、黒胆汁、黄胆汁のバランスの不均衡によって引き起こ
された。ラッシュの生きた時代に広く行われていた治療法も、この「体液」説に基づくものであった5。
しかし17世紀以降、様々な医学理論の構築が模索された。その大きな流れは大別すれば、物理的医
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共和主義の精神、共和国の身体−ベンジャミン・ラッシュの「医学のアメリカン・システム」
学論 iatrophysics と化学的医学論 iatrochemistry の二つにまとめられる。ニュートンらの物理法則を
敷衍した前者の系譜のその1つとして、
「固体」説 solidism つまり体内の固体いいかえれば体組織に
病因を求める思想が形成された。この説を採った代表的医学者は、フリードリヒ・ホフマン Friedrich
Hoffmann であった。
1726年に創設されたエディンバラの医学部の教授陣は、アレクサンダー・モンロー Alexander
Monro I を始めとして全員が、ライデン大学のヘルマン・ブールハーフェ Herman Boerhaave の弟子
であった。本来ブールハーフェは、折衷学派で特定の医学理論に偏することなく、かつまた実践や観
察を重視する立場をとっており、エディンバラの学問的伝統もその流れを汲むものであった。しかし、
ラッシュの指導教官であったカレンは、ブールハーフェの伝統を承けて観察を基礎に疾病分類学を追
究しその大家として名を成す一方で、ホフマンの「固体」説を発展させ、体組織のなかでも神経組織
を重視した「神経組織」説を主張した6。これがカレンの弟子の二人、イギリスのジョン・ブラウン
John Brown とラッシュに引き継がれることになるのである。
ブラウンは1735年生まれで、エディンバラで学んだ時期はラッシュよりも早かった。ブラウンの学
説は、身体に対する刺激とそれに対する反応すなわち興奮が適度である場合に健康を保つとした。反
対に、刺激が過剰あるいは微弱な場合に病いが引き起こされるので、医師は患者の刺激の程度を考え
て、過剰な場合には鎮静剤を微弱な場合には興奮剤を与えるべきとした。ラッシュは、このブラウン
学説をさらに発展させて、あらゆる病いは過剰の刺激によって引き起こされると考えるに至った。つ
まり、ブラウンが病いの2つの原因とした過度の緊張と極端な弛緩のどちらもが、結局は過剰な刺激
に由来するもので、刺激が直接か間接かによって異なる症状を引き起こす、と彼は考えた7。間接的
な刺激とは、いわば、先行する刺激によって人体が疲弊することで弛緩するということである。現象
の認識はブラウンとほぼ同じだが、ラッシュは一歩進めて総ての病いの原因を、刺激に求めている。
当時のエディンバラでこのカレンの教えを受けると同時にラッシュは、化学の担当で炭酸ガスの発
見者として知られるジョセフ・ブラック Joseph Black の教えも受けた。このブラックからも影響され、
ラッシュは消化についての論文で学位を取った。ちなみにこの論文は、ブラックとモーガン、シッペ
ンそれにフランクリンに捧げられている。
その後エディンバラを離れロンドン、パリに遊学し、1769年秋に帰国したラッシュは、フィラデル
フィアで開業すると共に、モーガンの斡旋でフィラデルフィア大学の生化学教授に就任した8。この
任命は、もちろんラッシュのブラックへの傾倒と学位論文の内容に起因するものだが、ここにアメリ
カ初の化学教授が誕生したのであり、ラッシュは化学の分野の開拓者となった。また、この斡旋に見
られるようなモーガンとの親密な関係は、ラッシュを否応なくフィラデルフィアの医師業界における
党派的対立に巻き込んでいくことになる。
開業医として順調であった彼だが、アメリカが独立への道を歩み始めると、彼自身もその渦中に飛
び込んでいくことになる。初めに述べたように独立支持派として、独立宣言に署名する5人の医師の
うちの1人となった彼は、1777年には大陸軍の中部方面軍医監 Physician General of the Middle
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Department として、軍医総監シッペンの下で働くことになる。
しかし、この任命は却ってラッシュを窮地に落とす結果となった。前任者のモーガンを追い落とす
形で軍医総監に就任したシッペンを執拗に糾弾したことや、大陸軍総司令官ワシントンを解任しよう
とする陰謀に加担したと疑われたことで、ラッシュはワシントンから忌避されるようになり、翌年に
は職を辞することになった。とはいえ、英軍に占領されていたフィラデルフィアに帰り一開業医に戻
るという選択はなかった。この時期妻の実家のあったプリンストンに滞在していたラッシュは、医師
としてのキャリアを諦め、弁護士への転身を考えたほどであった9。この転職の計画はしかし、実行
に移されることはなかった。1778年の6月には英軍から開放されたフィラデルフィアに戻って、彼は
往診と大学での講義の毎日を送ることになる。この短い軍務の間に彼は、戦場での経験を基に『兵士
の健康維持のための諸案内』を著わし、大陸軍の衛生状態について警鐘を鳴らしている10。
パリ講和条約が締結されアメリカの独立が確定する1783年の春、モーガンの後を承けたラッシュは、
ベンジャミン・フランクリンとトマス・ボンド Thomas Bond が1751年に創設したアメリカ最初の病
院施設、ペンシルヴェニア病院 Pennsylvania Hospital の上級常勤医となった。精神病への関心を高め
た彼は、ここで様々な研究データを集めて、アメリカ初の精神医学の専門書を書き上げることになる11。
いずれにしろ由緒あるこの病院にしたことは、医師としてのラッシュの名声を高めることに一役買っ
たことは間違いない。
次なる彼の重要な医学的な活動は、2つの団体の設立であった。1786年に彼は、フィラデルフィア
無料診療所 Philadelphia Dispensary for the medical relief of the poor の創立者に名を連ね、かつ顧問医
師として生涯にわたって奉仕し続けた。翌87年には、フィラデルフィア医師会 College of Physicians
of Philadelphia の創設メンバーの一人として、中心的な役割を果たした。
彼の医学的経歴は、まだ止まるところを知らなかった。それは1789年、死去したモーガンの後を承
けてフィラデルフィア大学の「医学理論と実践」の教授に就任することで、新たな局面に入った。ま
たこの年には、彼の医学的業績の最大のものの一つに数えられる『医学的研究と観察』の第一巻が刊
行されている12。
さらに、前の年に決まったフィラデルフィア大学とペンシルヴェニア大学の合併によって、1792年、
新たに編成されたペンシルヴェニア大学の「医学原理(the institutes of medicine: 現在の生理学と病理
学)
」教授職に就いた。このとき「医学理論と実践」教授の職はアダム・クーン Adam Kuhn の手に
移った。ただし臨床医学の講座はラッシュが教え続けた。97年にクーンが辞職すると、実質的にラッ
シュが兼任することになり、1805年には「医学原理」教授職を解かれ、正式に「医学理論と実践」教
授に任命された。この教授職は、1813年に死去するまで保持し続けた。
ラッシュの医学的キャリアの中で重要な出来事の一つに、1793年の黄熱病の流行とそれにまつわる
論争がある。現在でも西ナイル熱が流行していることからも看取されるが、フィラデルフィアのよう
な中部大西洋岸の都市は後背に広い湿地帯を抱えており、ここで生育する蚊を媒介とする伝染病は、
風土病と呼んでも良いほど都市生活とは切っても切れない関係にあった。このときも1801年にかけて
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共和主義の精神、共和国の身体−ベンジャミン・ラッシュの「医学のアメリカン・システム」
毎年のようにフィラデルフィアで黄熱病が流行することになる。
1793年、およそ30年ぶりに黄熱病がフィラデルフィアで流行すると、同業の医師たちの多くが速や
かに街から逃げ出したのに対してラッシュは、家族は非難させたものの、自分は市内に残って治療に
当たった。しかし、この時に開発したとされる、頻繁かつ大量の瀉血を中心とした彼のいわゆる「劇
的療法」は、前述のクーンをはじめとした同業の医師からの強い批判に曝された。ラッシュは翌年
『黄熱病の報告』を発表して、そうした批難に応えた。黄熱病に関する当時の彼の一連の著作は、当
時の詳細な模様を伝える資料として後の時代になっても参考にされた13。
ラッシュは、黄熱病の発生源を市内に求めたが、それが外国から持ち込まれたとする他の医師から
の激烈な反発を招いた。また接触感染のような直接的な伝染を後に否定したことも、彼の反対者を多
くする結果となった。実は彼は、当時の蚊の異常発生にも気づいており、その点では彼の観察は非凡
であった。結局この黄熱病をめぐる論争が元でラッシュは、93年にフィラデルフィア医師会のフェロ
ーを辞することになる14。
その後の1797年の流行の時には、当時フィラデルフィアに滞在していたウィリアム・コベットとい
う英国人ジャーナリストが、ラッシュの治療法の効果を疑問視し、死亡報告書の数を元にラッシュは
むしろ患者を殺していると糾弾した。これは後には裁判沙汰に発展した。この裁判には勝利するもの
の、こうしたさまざまな事件を通じてラッシュは、医学教育者としての多大な影響力を生涯に渡って
保ち続けたのとは裏腹に、少なくとも公人としての地位は相当揺らいだ様である。またこれら一連の
事件が、彼に『自伝』を書かせるきっかけともなったことも、付言しておく必要があるだろう15。
ちなみに、黄熱病の原因が蚊が媒介するウィルスであることが確認されるのは、1900年のことであ
る。また少なくとも治療としての瀉血が効果がないことを最初に確かめたのは、フランスの医師ルイ
Pierre Charles Alexandre Louis であり、アメリカで彼の著作が翻訳されたのは1836年、すなわちラッ
シュの死後二十年以上経っていた16。同時代のラッシュの批判者も程度の差こそあれ、瀉血に代わる
有効な治療法を持っていなかったのである。代表的批判者の一人であったクーンも、ウプサラでリン
ネに学んでいる経歴を考慮に入れると、より進歩した見解を持っているようにもみえるが、彼が施し
えた治療も、質的にラッシュと異なるものではなかった。それゆえここでは論じないが、この黄熱病
をめぐる論争が、純粋に医学的なものではありえなかったと結論付けることも出来よう。
いずれにせよ、1800年以降のラッシュは、自身の健康上の問題もあって、医学教育以外の分野では
それ以前のような活発な活動を見せなくなる。ペンシルヴェニア病院とフィラデルフィア無料診療所
のポストを除けば、かろうじて公人としては、1797年に旧友ジョン・アダムズによって任命された合
衆国造幣局長官の職と、1803年についたペンシルヴェニア奴隷解放協会の会長の地位とに、13年に没
するまであったくらいである。
その一方で、医学教育者としてのラッシュは、大学の学生や開業における徒弟を含めると、3000人
以上を教えたとみられる。そのため、ラッシュの医学理論は19世紀初頭のアメリカにおいては、絶大
の影響力を誇った。その意味では、旧友レットサムが追悼文で、ラッシュを「アメリカのシデナム」
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と呼んでその死を悼んだのは、理由のあることだったのである。
ラッシュの医学理論−1.エディンバラの影響とそれからの「独立」
ラッシュがエディンバラに留学したことは既に述べたが、彼はその留学当時を回想して、「エディ
ンバラで私が過ごした2年間は、私の人生のいかなる時期であれ、私の性向や行動に与えた影響は、
最も重要なものであったと思う」と述べている17。これを見ると、彼にとってのエディンバラ滞在の
与えた影響は、医学の分野に止まらないことになるが、少なくともここでは彼の医学理論を通して、
その影響を検証していこう。
彼から受けた影響について、ラッシュは「偉大な人物を過剰に崇拝してしまうのは、いつも私の数
多い弱点の1つであったが、私の指導教官だったカレン先生以上に偉大な方はいなかった」と『自伝』
の中で振り返っている18。実際、フィラデルフィアに帰ってきた当初の、ラッシュの治療はまったく
「劇的」なものではなく、カレンに倣った穏健なものであったのである。カレンの治療法は、ブール
ハーフェの伝統に則ったもので、吐剤などの投薬もより穏健なものであり、むしろ飲食物を通じて体
力の回復を図るものであった。
こうしたカレンへの傾倒からラッシュが脱するのは、アメリカでの体験を通してであった。黄熱病
の流行時に、体内の血液の半分以上を瀉血するという「劇的療法」を患者に施していくことになるラ
ッシュだが、いみじくも自伝の中に次のような彼の証言を見いだせる。
「フィラデルフィアで開業してから何年もの間、私はカレン先生の講義や出版物から
学んできた医学理論に基づいて診療してきた。しかし時間と観察と考察によって、私は
それが多くの部分で不完全であり誤っていると確信した。[カレンの理論の:筆者註]
その不完全と誤謬を発見したとき、私は医業を投げ出したくなる無力感に捕らわれ、時
に引退したくなった。私は、ある病いは理論に基づいて治療し、あるものは経験に基づ
いた。私は病いについて、読書し思考し観察したが、しばらくの間、私を満足させるよ
うな理論を見いだすことはなかった。カレン先生の名前は重みを持っており、彼の理論
と対立する考えを受け入れようとするとそのたびに私を押しつぶした。遂にいくつかの
病いについて、私は何本かの光明を見いだした。それらは初めは私の学生に、そして講
義で、最後には公に、1786年[ラッシュの記憶違いで実際は1789年:筆者註]の『観察
と研究』
[
『医学的研究と観察』:筆者註]として公表された。
」19
この『自伝』の証言には、いくつかの注目すべき点がある。その第一は、ラッシュが1769年にフィ
ラデルフィアに戻ってから数年の間に、カレンの医学理論から逸脱し始めていたことである。第二は、
ラッシュは異なる医学理論の信奉者だけでなく、同じエディンバラの学統に属する医者からも批判さ
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共和主義の精神、共和国の身体−ベンジャミン・ラッシュの「医学のアメリカン・システム」
れたということである。そして第三は、『医学的研究と観察』は自身が認めるように彼独自の医学理
論を公表したものである、ということである。
第二点は第一点が真実ならばあって然るべきことだが、その第一点の真偽は、第三点は併せて考え
ること、おおむね判断できる。
言及された『医学的研究と観察』は、初めは全五巻であった。第一巻が1789年に出版され、第二巻
が1793年、黄熱病が主題となった第三巻は1794年、引き続く黄熱病論争に応えた形の第四巻は1796年、
最後の第五巻は1798年に出て完結した。その後1805年に四巻本として第二版が現れ、1809年に第三版、
ラッシュの死後1815年に第四版と、収録論文の変更など手が加えられつつ、版を新たにしていった20。
この大作の初版の冒頭を飾った論文は、収録されたものの多くが1780年代半ば以降のものであるの
に対し、最も早期に書かれたものだった。それは、1774年にラッシュがアメリカ学術協会で行なった
報告を元にした、「北米インディアンの医療の自然史、および彼らの病いと治療を文明国と比較する
観点(以下「医療の自然史」)」である21。この著作においてラッシュは野心的であったので、英国学
士院の加入をもくろんだとされる。その出版に際しては膨大な註を施し、また『医学的研究と観察』
に収録するにあたってわざわざ加筆修正したほどである22。
実はこの「医療の自然史」の内容は、題名にあるような先住アメリカ人の人類学的研究がテーマと
いうより、アメリカとヨーロッパの医学を論じたものであった。ここでラッシュは、ヨーロッパ文明
が先住アメリカ人に伝播した結果、先住アメリカ人の死亡率が上昇したと論じ、北米植民地もヨーロ
ッパとりわけイギリスの文明の頽廃から逃れることで健康的になるとした。そのため、堕落した文明
の産物である不節制や精神病を根絶する必要が生じるのである23。
このような彼の議論が、他の医師や知識人を刺激するのは想像に難くない。ラッシュはいとこのホ
ール Elisha Hall に宛てて、この論文は「私が講義で教えている新奇な理論に満ちている」ので、大
学の同僚からはいつものように不評であったことを書き送っている24。
とすると、『自伝』における記憶の不確かさを若干割り引くとしても、少なくとも1774年の段階で、
ラッシュは「新奇な理論」を公にしていたということになろう。それが体系化されるのには、『医学
的研究と観察』の完成までかかったとしても、カレンの教えからの逸脱、言い換えればイギリスの医
学理論からの「独立」と「医学のアメリカン・システム」の成立は、既にこの年までにそのプロセス
を開始していたのである。
その後、独立戦争によって、北米植民地と本国イギリスの知的紐帯は一旦断ち切られ、1783年の講
和条約後ようやくラッシュは、イギリスのカレンや学友レットサムらと再び文通が出来るようになる。
その折にラッシュはレットサムに宛てて、『医学的研究と観察』の執筆が進行していることを初めて
示した25。そしてそこで挙げられている四つのテーマは、それぞれ間欠性熱病に対する発疱療法と瀉
血の有効性、破傷風の新しい治療法、猩紅熱における喉頭炎治療におけるカロメルの有効性、そして
道徳機能についてである26。いずれも後に『医学的研究と観察』に収録されているが、興味深いこと
には、そのうち破傷風に関する論は、独立戦争時の体験を元にしているとラッシュは述べている27。
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『医学的研究と観察』の第1巻をみると、その他にも「先の戦争において、合衆国の軍病院で発生
した病いに対する観察の結果報告」や「アメリカ独立革命における軍事的政治的事件が人体に及ぼす
影響の研究」といった論文が載せられており、独立革命がラッシュが構築しつつあったアメリカの医
学に対しても大きな影響を与えたことは、ほぼ間違いないようである28。
同じ頃にラッシュは、独立戦争の間にアメリカの医学がイギリスのものより大きく立ち後れたこと
を嘆き、師カレンに彼の新しい著作に前書きをつけてアメリカで出版したことを事後承諾の形で報告
するとともに、「科学の共和国のメンバーは、同じ家族に属します」といって、医学理論に英米の違
いがないかの様に書き送っている29。しかし、ラッシュのその後の著作を考えれば、この手紙の文面
こそが割り引いて考えられるべきであろう。
こうしてフィラデルフィアでの開業以来、カレンの医学理論からの「独立」を模索し始めていたラ
ッシュは、いみじくも北米植民地が本国イギリスからの独立革命を推し進める過程と平行する形で、
彼の「医学のアメリカン・システム」の輪郭をかたどっていったのである。
ラッシュの医学理論−2.フィラデルフィア医師会の設立
しかしながら、『医学的研究と観察』はやはり個々の研究の寄せ集めであり、体系的な「医学のア
メリカン・システム」をそこから読み取ることはいささか困難である。そこでこの節では、1787年の
フィラデルフィア医師会の設立に際してラッシュが行なった講演を主に取り上げて、彼が語る医師会
の設立趣旨を通して、
「医学のアメリカン・システム」像を探っていこう。
この年の正月に彼は、「フィラデルフィア医師会設立記念講演−医師会の目的について(以下
「医師会の目的」
)
」と題する演説を行なった30。医師会の存在意義を公に明らかにするこの講演をした
は、発起人の一人であり会の発足後はフェローとなるラッシュその人であった31。初代の会長を務め
たのは、かつてのラッシュの親方レッドマンであった。選ばれた理由はおそらく、前述したような医
師業界の確執と無縁であり、かつまた当時の医師の中では最年長に属したからであろう。そうした事
情を弁えていたからかどうかは定かではないが、彼は就任演説において、専ら不健康に起因する不能
力の言い訳に終始していた32。
ラッシュのこの「医師会の目的」を検討すると、実は彼の考えていた「医学のアメリカン・システ
ム」がどのようなものであったかが、はっきりしてくる。この演説の冒頭で彼は、「哲学的道徳的探
究の対象に向かう精神に活力を与えた先の革命が、遂に医学にまで及び」
、
「アメリカの社会と政府の
現状に合わせた原則の上に」医師会が結成されたことを祝した33。明らかに、医学上の進歩や改革が
アメリカ独立革命と結びつけられている。
そして医師会の目的と意義は二つあり、高等教育機関としてのものと医学協会としてのものがある、
とラッシュは指摘した。高等教育機関として医師会は、第一に医師の診療に秩序と尊厳をもたらすと
された。これはもちろん、フィラデルフィアの医師業界の党派的確執を踏まえたものであろう。
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共和主義の精神、共和国の身体−ベンジャミン・ラッシュの「医学のアメリカン・システム」
第二に医師会は、医学研究の中心としての機能が期待された。ここでラッシュが次のようなことを
言明しているのは、重要である。
「われわれの病いの重さと、そしておそらく性質と、また我が国特有の多くの治療法
との多様性は、海外の研究所ではいまだ発見されておらず、研究所としての機能の必要
性を切実なものにしているのです。
」34
後述するが、そもそもラッシュが「劇的療法」を採用した理由は、アメリカにおいては病いはヨー
ロッパの場合より激烈であると考えたからに他ならない。その考えがここで表明されていることは、
見逃すことは出来ない。さらに進んで、アメリカ独自の病いとその治療法が存在するという見方は、
本来の医学理論の系譜から考えると大変奇妙なものであるはずだが、それこそが彼の「医学のアメリ
カン・システム」の考え方であった。同様の思想は、1790年に作られた師カレンの追悼文にも見いだ
せる。そこで彼はより明確に、
「アメリカ特有の病い全てに対する記述と治療が完成しない限り」
、如
何なる医学理論も完壁とは言えないだろう、と宣言している35。
続いて第三に、医師会としてまとまることでアメリカ政府の注意を向けさせることが出来るとした。
ここでラッシュは、1725年にロンドン医師会が英国庶民院に対して蒸留酒の害を訴えて法律化させた
例を引き合いに出している。これを踏まえて、連邦上下両院に蒸留酒の害と法的規制を求める請願書
を1790年に出しているのは間違いない36。また後の黄熱病の流行時にはラッシュ自身、実際にペンシ
ルヴェニア州知事の諮問を受けて、黄熱病の原因と今後の予想、性質について意見を述べている。
第四点も重要だが、医師会はフィラデルフィアの流行病の研究を促進するとされた。「ここでは臆
病な治療法が推奨され、劇的療法 sanguine は誤りだと教えられています」と、フィラデルフィアの
医療の現実を指摘する一文を差し込みながら、暗にその現状が研究の進展によって変わるだろうと示
唆している37。研究が進めば、ラッシュの「劇的療法」の正当性が実証されるだろうというのが、彼
の意図と考えてよい。
次に、医学協会としての医師会の役割についてであるが、これは端的に言って、上で述べたような
医学研究の成果を収集・公表することである。
ここにおいてラッシュは、「旧世界」ではなくアメリカの医師たちが、これまで明らかにされなか
った人体の秘密を暴き出すという期待を表明した。そして豊富なアメリカ独自の鉱物や植物が、化学
や植物学、薬物学の発展に寄与するだろうとした。またアメリカ特有の風土や生活習慣が、病理学に
貢献をなすと、彼は論じた 38。ここにある種の千年王国論的期待を見いだすことは困難ではないが、
ラッシュが愛用したキナノキの皮−本来はマラリアの特効薬であるが、彼は他の病いにも大いに処
方した−がアメリカで発見され、別名「ペルーの樹皮 Peruvian Bark 」と呼ばれていた様に、新大
陸で新たに発見される特効薬や治療法が他にもあると期待されたのは、理由がないことではなかった39。
続いて彼は、アメリカの自然や社会の注目すべき特徴を列挙しているが、その中で本論と関わるも
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東京成徳大学研究紀要 第 8 号(2001)
のを以下見ていくことにする。
生まれたばかりの国家の、
「農業や園芸、工業や商業、そして文明」の、
「最初から最後の段階まで
のそれらの転変」が健康や生命に与える影響を、アメリカでは観察することが出来る、とラッシュは
指摘した。そこで「自然の病いから人為の病い」へと移行する過程が実見できるであろう、というの
である 40。それはつまり、アメリカの文明が発展すればするほど、それは頽廃と隣り合わせであり、
「人為の病い」すなわち文明病が広がるということである。今日の生活習慣病の問題を先取りしてい
るという、穿った見方も出来ないではないが、むしろここでわれわれは、「医療の自然史」でラッシ
ュが語った議論を再び耳にしていることに気付くべきだろう。
アメリカ独自でヨーロッパに存在しないものは、自然界に限ったものではなかった。前述の様に
『医学的研究と観察』にも同趣旨の論文が収められているが41、ラッシュはアメリカの共和政体が健康
や生命に何らかの影響を及ぼすと考えた。彼によれば、万人に開かれた共和政治では、専制政治下よ
りも政治的「情熱」がより人間を刺激するのである42。
こうしたアメリカの独自性を称揚する言説をちりばめた医学理論の展望を述べつつ、彼は医師会が
担当者を任じて、気候や気温、気圧や湿度、風邪、降水量と死亡率を併せて記録することを勧めた。
また診療所で患者の病いを記録して、フィラデルフィアにおける流行病の正確な知識を得ること、医
学図書館を設置して医学的知識の普及を図ることを提唱した43。この部分も、どちらとも解釈のしよ
うはあるが、ラッシュの信奉する医学理論が証明されることを期待しているように見えないこともな
い。
演説の最後にラッシュは再度、革命と医学を結びつけた。彼は、「かつて不治とされた多くの病い
が、いまや医学に屈した」のであり、「革命は人類の幸福のために程なく始まる」ことへの期待は普
通である。自然とは、人間に対する恩寵を実現するために神がデザインしたものであり、「自然に存
在する病いで、治療法が存在しないものはない」との確信を、彼は表明した44。そして彼は、次のよ
うに締めくくった。
「自由で共和主義の政体が科学に及ぼした影響、先の革命における諸事件によってア
メリカ人が得た精神的活力を考えると、これらの[未発見の:筆者註]治療法を発見し適
用する名誉と幸いは、ほとんどの場合アメリカの医師たちのために取っておかれるのだ
との期待を、私は抱かざるを得ない。
」45
このようなラッシュの言説は、次のような『自伝』の述懐と重ね合わせるとき、その意味がいっそ
う明らかになるに違いない。
「アメリカ独立革命に参加し共和主義の諸原則を発展させることで起こった私の精神
的活動は、医学の古い理論を解体させることに大きな役割を果たした。
」46
78
共和主義の精神、共和国の身体−ベンジャミン・ラッシュの「医学のアメリカン・システム」
これまでみてきた様に、「医師会の目的」中でラッシュが示しているのは、アメリカの独立革命と
医学の進歩の連関である。この場合、医学全般の進歩を指しているのではない。彼が含意しているの
は、ヨーロッパにはないアメリカ特有の病いと治療法が存在するのであり、同時にアメリカ特有の健
康のあり方がある、ということである。「医学のアメリカン・システム」とは、共和主義国家アメリ
カが政治的に特別な存在であることを敷延して、医学的にもアメリカを特別視する見方を根底にした
ものであった。
結び−「医学のアメリカン・システム」と共和主義
本論を結ぶにあたって、当然のことだが、「医学のアメリカン・システム」と「劇的療法」をラッ
シュがどのように関連づけていたかに触れない訳にはいかないだろう。
アメリカ独自の病いと治療法の存在を信じたラッシュであったが、彼がアメリカ独自の治療法と信
じた「劇的療法」は、既に『医学的研究と観察』の中に見いだせる、とバターフィールドは指摘する。
肺病治療において彼は、激しい運動によって身体の活力を再び呼び覚ますことで、回復に向かうと唱
えたのである47。船旅や旅行を治療法に数え、しかも長旅で困難なものや激しい運動を伴うものが良
いとしてラッシュは、肺病の治療法は、「身体に最も大きな活力を与える[激しい:筆者註]運動や
労働」に存する、とイタリックで書き記した48。そしてフランクリンやシデナムに依拠しながら、乗
馬が治療に効果があったとして、
「肺病を劇的に治療するための全ての試みにおいて、
[激しい運動よ
って:筆者註]身体本来の活力を回復させることの効果」49を力説するのである。従来一般に推奨され
てきた、安静にすることで回復を促す治療法とは正反対のものが、ラッシュの治療法であった。
こうしたラッシュの言説が1789年の時点で存在しているということは、少なくともそれ以前に彼が、
効果を上げたと判断できるほどに「劇的療法」を試みていると類推するに足るものである。とすれば、
ラッシュの「劇的療法」とは、1793年の黄熱病の流行時に初めて用いられた頻繁かつ大量の瀉血に限
ったものではなく、従来あった治療法全般を極端に施すことであり、1789年以前から採用されていた、
ということになる。
次に何故、ラッシュが「劇的療法」を好んで用いたかという問いに対する答えだが、ここはラッシ
ュの友人であり、教え子でもあったラムゼーの言葉を手がかりとしよう。彼はラッシュの主張を次の
ようにまとめてくれている。
「これら[アメリカの病い:筆者註]は、激烈なものであり、旧世界の同様の病いに
処方されるよりもより強力な治療法が必要とされる」50。
つまり「医師会の目的」において、ラッシュがアメリカの病いの重さに言及したのは、アメリカの
病いがより劇症のものであるという彼の理解が、背景にあったからなのである。
79
東京成徳大学研究紀要 第 10 号(2003)
では何故、アメリカの病いは他の地域よりも重くなるのであろうか。ここで思い起こすべきは、ラ
ッシュが文明の程度と病いとを関連付け、また政治体制が人間に刺激を与えるとした議論である。い
わばカレン起源の「神経組織」説の主要なテーマの一つである「刺激」をラッシュが無制限に拡大し
た結果、前述の様に全ての病いの原因は刺激にあり、人間の心身に刺激を与えるものはことごとく病
いの原因となるとして、そこには政府の形態も含まれたのである。アメリカの共和政体は人々により
自由を与えるので、人々はより政治的情熱を発揮するようになる。それがより大きな刺激となってア
メリカ人の心身に影響を与える、というのがラッシュの論理であった。
ここでようやく本稿の目的である、身体の医学と共和主義思想とを同一地平に捉える視座に辿り着
くことが出来たようである。ラッシュは、共和主義政体の自由は、生物としての人間をより活気づけ
るとみなした51。要するに、より強い情熱を持つことで自由は得られるのであり、その自由は人体に
より大きな刺激を与える、ということである。ここで彼の「刺激説」は、共和主義思想の中に占める
べき位置を得たことになる。精神にしろ身体にしろ、より激烈な性質のものが共和主義に相応しいの
であり、また共和国そのものも心身への刺激が専制国家より大きいものとなる。それ故、自由な国家
では病いはより激烈なものになるざるを得ない。
まさにそれこそが、ラッシュが「劇的療法」を採用した理由に他ならない。劇症の病いに相応しい
のは、より激しい治療法という訳である。これこそが彼の主張した「医学のアメリカン・システム」
なのである。ここにおいて、共和主義の精神である自由と共和国における人体の病いと治療は、ラッ
シュの中で完璧に結びつくのである。そして、ラッシュにとっての共和主義の実践とは、このように
社会問題を医学的に定義していき、医師として解答を与えることだったのである。
〈注〉
1
拙稿、「ベンジャミン・ラッシュと精神医学の誕生」
『東京成徳大学研究紀要』第8号、2001年、63-80頁。
2
肥後本芳男「ベンジャミン・ラッシュの劇的療法とスコットランド啓蒙思想」
『同志社大学英語英文学研
究』第70号、1998年、183-208頁。Higomoto Yoshio,“Medicine at the Time of the American Revolution,”
Nanzan Review of American Studies, 19 (Summer 1997), 41-58. また概説書として最近翻訳が出版されたもの
として、ジョン・ダフィー著、網野豊訳、『アメリカ医学の歴史−ヒポクラテスから医科学へ』(二瓶社、
2002年)。
David Hawke, Benjamin Rush: Revolutionary Gadfly (Indianapolis, 1971), pp.24-25; George W. Corner, ed,
Autoblography of Benjamin Rush (Princeton, 1948. 以下、Auto), pp.36-37.
David Cooper, Ill, and Marshall A. Lodger, Innovation and Tradition at the University of Pennsylvania
4
school of Medicine: An Anecdotal Journey (Philadelphia, 1990), pp.11-12; Auto p.39.
5
以下のヨーロッパの医学史については、例えば、Erwin H. Ackerknechet, A Short History of Medicine
(New York, 1955), Chapter 10 and 11; Charles Singer and E. Ashworth Underwood, A Short History of
Medicine (Oxford, 1962), pp.137-44, 147-51.邦語では、ジョン・ダフィー、前掲書、特に7-8、17-18頁
6 カレンの占める医学史的地位については、Michael Barfoot,“Philosophy and Method in Cullen’s Medical
Teaching,”in A. Doig, et al. eds., William Cullen and the Eighteenth Century Medical Work (Edinburgh, 1993),
3
p.110.
7
『自伝』の編者コーナーは、付録1の中で、カレンやラッシュらの医学理論を論じた当時の論文を紹介
しながら、ラッシュの医学理論を紹介している。Auto, pp.361-66.特に、pp.364-65.
8
80
Rush to John Morgan, 20 January, 1768, Lyman Butterfield, ed., Letters of Benjamin Rush (2 vols, Princeton,
共和主義の精神、共和国の身体−ベンジャミン・ラッシュの「医学のアメリカン・システム」
1951.以下Letters), vol I, pp.49-52,自伝では、エディンバラへ行く以前に既に、モーガンから教授職の話があ
ったと記している (Auto, p.81.)。
9
Hawke, 前掲書, p.223; Auto, pp.137-38.
Rush,“Directions for Preserving the Health of Soldiers: Recommended to the Consideration of the Officers in
the Army of the United States of America (Philadelphia, 1777).”
10
11
精神医学におけるラッシュについては例えば、拙稿、前掲論文。
Rush, Medical Inquiries and Observations (vol 1, Philadelphia, 1789. 以下、MIO.).
Rush,“An Account of the Bilious Remitting Yellow Fever, as it Appeared in the City of Philadelphia, in the
Year 1793 (Philadelphia, 1794).”『医学的研究と観察』初版の第3巻となったこの著作だが、その後も黄熱
12
13
病に関するラッシュの意見はたびたび刊行され、1805年の『医学的研究と観察』の第二版では、第3・4
巻に彼の黄熱病に関する著作がまとめられている。
14
黄熱病の流行については邦語では、山田史郎、「黄熱の首都フィラデルフィア、1793年−ある印刷・出
版業者と建国のメディア」、遠藤泰生他、『常識のアメリカ・歴史のアメリカ』(木鐸社、1993年)、75-112
頁。および肥後本、「ベンジャミン・ラッシュの劇的療法とスコットランド啓蒙思想」。John H. Powell,
Bring Out Your Dead: The Great Plague of Yellow Fever in Philadelphia in 1793 (1949; rpt. Philadelphia, 1993).
ラッシュを中心にしたものでは、Nathan G. Goodman, Benjamin Rush, Physician and Citizen, 1746-1813
(Philadelphia, 1934), chap. VIII, IX; Carl A, L. Binger, Revolutionary Doctor: Benjamin Rush, 1746-1813 (New
York, 1966), chap. 11.
Binger, 前掲書, p.248.
16 Pierre Charles Alexandre Louis, Researchs on the Effects of Bloodletting in Some Inflammatory Diseases, and
on the Influence of Tartarized Antimony and Vesication in Pneumonitis, trans. C. G. Putnam, (Boston, 1836).
17 Rush, Auto, p.43.
15
18
前掲書, p.88.
19
前掲書, p.87.
詳細は以下を参照、Claire G. Fox, Benjamin Rush, M. D.: A Bibliographic Guide (Westport, 1996). ただし
20
現在、単行本として見ることが出来る第4版は、第2版の目次とはかなり異なっている。 MIO (4 th ed.
1815; rpt., New York, 1972).
Rush,“An Inquiry into the Natural History of Medicine among the Indians of North America, and a
Comparitive View of their Diseases and Remedies with Those of Civilized Nations.”
22 Hawke, 前掲書, pp.111-14.
21
23
『医学的研究と観察』収録時に割愛された部分もあるので、ここでは講演後に単独で出版されたものを
参照した。Rush,“An Enquiry into the Natural History of Medicine among the Indians in North-America, and a
Comparitive View of Their Diseases and Remedies, with Those of Civilized Nations: Together with an
Appendix, Containing Proofs and Illustrations (Philadelphia, 1774),”pp.39-41, 64.
24 Rush to Elisha Hall, November 10th, 1774. 引用は、Hawke, 前掲書, p.113.
25 Rush to John Coakley Lettsom, November 15th, 1783, Letters, vol I, pp.312-13.
26
それぞれ次のタイトルの論文と見られる。四つ目が第2巻に収録された以外は、総て第1巻に収録。
“ An Account of the Effects of Blisters and Bleeding in the Cure of Obstinate Intermitting Fevers ”:
: An Account of the Scarletina A nginosa, as it A
“Observations upon the Cause and Cure of the Tetanus”“
ppearedin Philadelphia, in the Year 1783 and 1784”“
: An Inquiry into the Influence of Physical Causes upon
the Moral Facuity.”
27 Letters, vol I, p.312.
28 それぞれ、Rush,“The Result of Observations Made upon the Diseases which Occurred in the Military
Hospitals of the United States, during the Late War”“
: An Account of the Influence of the Military and
Political Events of the American Revolution upon the Human Body.”同様の指摘は例えば、Brooke
Hindle, The Pursuit of Science in Revolutionary America, 1735-1789 (Chapel Hill, 1956), pp.239-40, ヒンドルに
よれば、こうしたアメリカ独自の医学への志向は、一人ラッシュに止まらなかった。
29
Rush to William Cullen, September 16th, 1783, Letters, vol I, pp.310-11.
81
東京成徳大学研究紀要 第 10 号(2003)
Rush,“A Discourse Delivered Before the College of Physicians of Philadelphia, Feb. 6, 1787: On the Objects
of Their Institution (以下、“On the Objects of Their Institution.”),”Transactions and Sturies of the College of
Physiclans of Philadelphia, 5th ser. 9 (March 1987 ).
30
31
フィラデルフィア医師会を研究した重要な著作は二つあり、それぞれ医師会の百周年と二百周年を記念
して編纂されたものである。しかし、医師会の設立においてのラッシュの役割は、ラッシェンバーガーに
は言及がない。ラッシュの重要性を指摘したのは、ベルの功績である。William S. W. Ruschenberger, An
Account of the Institution and Progress of the College of Physicians of Philadelphia during a Hundred Years,
from January, 1787 (Philadelphia, 1887); Whitfield J. Bell, Jr., College of Physicians of Philadelphia: A
Bicentennial History (Canton, Mass., 1987).
32 この指摘も、Bell, 前掲書, pp.10-11. レッドマンの就任演説は、ラッシェンバーガーの著作に付録として
収められてる。Ruschenderger, 前掲書, pp.179-83.
33 Rush,“On the Objects of Their Institution,”p.66.
34
前掲論文, pp.66-67.
Rush,“An Eulogium upon Dr. William Cullen, Professor of the Practice of Physic, in the University of
Edinburgh,”Michael Meranze ed. Essays-Literaty, Moral and Philosophical (1798; rpt., Scheneatady, N.Y.,
35
1988), p.208.
Rushenberger, 前掲書, p.186; John A. Krout, The Origins of Prohibition (New York, 1925), p.70.
37 Rush,“On the Objects of Their Institution,”p.67.
36
38
前掲論文, pp.67-68.
Binger, 前掲書, pp.181-82.
Rush,“On the Objects of Their Institution,”p.68.
41 Rush,“An Account of the Influence of the Military and Political Events of the American Revolution upon
the Human Body.”
42 Rush,“On the Objects of Their Institution,”pp.68-69.
43 前掲論文, pp.70-71.
44 前掲論文, pp.71-72.
45 前掲論文, p.72.
46 Auto, p.89.
47 Rush,“Thoughts upon the Cause and Cure of the Pulmonary Consumption (Philadelphla, 1789).”そもそも
バターフィールドの指摘は、Letters, vol I, p.444. 筆者は『医学的研究と観察』の1815年の版を見たため、
39
40
版の違いによる内容の差異が多少あるかも知れない。
48
Rush, MIO (1815; rpt, New York, 1972), pp.38-39.
49
前掲書, p.41.
David Ramsey,“An Eulogium upon Benjamin Rush, M. D., Professor of the Institutes and Practice of
Medicine and of Crinical Practice en the University of Pennsylvania (Philadelphia, 1813),”p.27.
51 Rush,“An Inquiry into the Cause of Animal Life,”MIO (1815; rpt., New York, 1972),p.40.
50
82