ベンジャミン・ラッシュと精神医学の誕生 高 野 泰* Benjamin Rush and the Binth of American Psychiatry Yasushi TAKANO Benjamin Rush was evaluated again as the“Father of American Psychiatry,”when Americans have begun to lead psychological studies around 1946. In the late 1960s, however, such historians of psychology as Michel Foucault, Thomas Szasz, and David Rothman criticized the medical approach to mental illness as not being the liberation but rather the oppression of the afflicted. Such torchbearers as Rush were attacked in spite of the acclaim they had received. The aim of this paper is to reevaluate Rush as one of the physicians interested in psychiatry when it was in its infancy, and as one of the republicans who made great efforts in the course of American Independence. American colonies, in the midst of 18th-century, redefined lunatics as the mentally ill, and medical professionals began to treat mental illness as something that could or must be cured. Institutions such as the Pennsylvania Hospital where Rush worked later specializing in mental illness were therefore established. Rush himself made various proposals to reform both the environment of the patients in the hospital and the methods of treatment of mental illness. Rush published his pioneer work in psychiatry, Medical Inquiries and Observations upon the Diseases of the Mind, in 1812. This book shows his pathological views of mental illness as being connected closely to physical diseases. Under the influence of the faculty psychology, Rush defined mental illness as the misfunction of mental faculties. He recognized the mind-body interrelationship and claimed that the“proximate”cause of mental illness was a disorder in cerebral blood vessels which he called“morbid excitement.” For mental illnesses, Rush prescribed cold and hot baths as well as bleeding. He seemed to think that treatment, confinement and punishement were the same. But that did not mean he was not a humanitarian. Rather, it tells us what Rush saw as sanity, in other words, how he thought republican citizens should be. As a staunch republican he believed in the liberty and the right of self-control for human beings. Rush’s“clinical”view of American society and his new consciousness of human beings resulted in new ideas regarding mental illness. * Yasushi TAKANO 英語・英米文化学科(Department of English Language and English and American Culture) 63 東京成徳大学研究紀要 第 8 号(2001) はじめに 今から50年以上前のことだが、ベンジャミン・ラッシュは生誕200周年を迎えるにあたって、新た な称号を得ることになった。アメリカ精神医学協会 American Psychiatric Association の100周年に際 してファーは、ラッシュを「アメリカ精神医学の守護聖人」と呼んだ(1)。より有名な評言としては、 」という言 精神医学の権威マイヤーがなした「アメリカ精神医学の父“Father of American Psychiatry” 葉があった(2)。これ以後一般にラッシュの名は、精神医学と結びつけて記憶されることになる。 建国期において医学者・改革者として名声と権威を恣にしたラッシュであったが、19世紀後半には 嘲笑の対象になるか、もしくはほとんど忘却の淵に沈むかの存在でしかなかったようにもみえる(3)。 このような彼について世紀転換期以降になってようやく、本格的な資料集の刊行や伝記研究がなされ るようになった。しかし実のところ、彼の没後100周年の1913年においては、まださほどの関心を集 めるには至っていなかったのである(4)。 確かに、アメリカ初の専門家として精神医学について大学で講義を行い研究書を上梓した点からす れば、マイヤーらの評言は正当なものにみえる(5)。しかしより重要なのは、第2次世界大戦前後のア メリカがフロイト以降の心理学 psychology の先進国となる過程で、ラッシュの「再評価」がなされた ことである(6)。ここで筆者は、こうした「再評価」を跡付けようというのではない。むしろ、独立革 命の時代の遺産が、そうした「再評価」を通じて今世紀まで生きていることにこそ、問題の中心があ るだろう。しかしながら、1960年代から70年代にかけてフランスのフーコーやアメリカのサッス、ロ スマンらによって、精神医学が治療と解放を意味するものではないことを気付かせられた後では(7)、 ラッシュやピネル Philippe Pinel らの仕事を医学の進歩であり人道主義や博愛主義の勝利である、と 単純に称揚してしまう訳には、もはやいかなくなっている。 本稿の目的はこうして、希望に満ちているがもはや前時代的な称賛と、冷静だが代わりの選択肢や 先の展望を持たない点で袋小路に陥ったがごとき様態の非難との間で、宙ぶらりんとなったラッシュ を、新たな地平に置き直すというところに見出される。果たして精神医学は、狂気を道徳によって拘 束しようという意図なくして試みられた過ちとして、早急に廃棄されなければならないものなのだろ うか。あるいは、期せずして新しい人間像を提出してしまうことで今日の近代社会の諸問題を構成さ せるに至ったけれども、もはや捨て去ることなど叶わないものではないだろうか。 精神病の問題化 まずはじめに、狂気がいつごろどのようにして精神病として「再解釈」されていったのか、またそ の再解釈はどのような意味を持ったのかについて、語られなければならないだろう。 植民地時代のアメリカにおいては精神病は、「錯乱した distracted」とか月が精神に影響を及ぼすと いう考えに基づいて「狂気 lunatick」と呼ばれていた(8)。こうした表現は、精神病というものに対す 64 ベンジャミン・ラッシュと精神医学の誕生 る一般的な通念を表していたが、それは狂気という現象を医学的に考える姿勢の欠如を示すものであ った。啓蒙思想の影響で狂気が魔術と関連づけられることは次第に少なくなっていたが、17世紀には このような狂気の治療可能性についてはあまり考慮されることはなかったのである。当時の法律をみ ても、狂気に対する医療に言及したものはほとんどなく、社会的経済的結果に触れるのが通常であっ た(9)。そして、彼ら狂人の存在は、社会に対する如何なる脅威も与えるものともされなかった。その ため実際には、限られた場合を除いて、狂人は監禁や拘束の対象となることはなかった(10)。 狂気をめぐるこうした状況が転機を迎えるのは、18世紀に入ってからであった。狂人の存在が人々 の注目を引き、彼らへの社会全体による対応が求められるようになった。その理由は、まず第一に狂 人たちの社会的特性すなわち自立した生活ができない点にあった。その意味では、病人としての彼ら が問題なのではなかった。むしろ狂人は、自活できない貧困に喘ぐ者たちと同じ存在とみなされたの である(11)。そのため監禁による狂気の囲い込みは、医療目的というよりは経済的理由に基づくもので あった。個人的な努力によって狂人の生活を維持できないとすれば、社会全体の公的な施策によって それを行うことが試みられたのである(12)。 このような狂気への社会的対策としての監禁から、精神病の治療行為としての収容へと、狂気に対 する社会的態度が変化を遂げるのは、おそらくアメリカ初の病院施設であるペンシルヴェニア病院 Pennsylvania Hospital が造られた時期であろう。この病院において、精神病とベンジャミン・ラッシ ュの接点が見出されるのである。 ペンシルヴェニア病院でのラッシュの体験と活動 そもそもペンシルヴェニア病院そのものが、フィラデルフィアに流入してくる「哀れな異常者」を 収容・治療する目的で設立されたものであった(13)。フランクリン Benjamin Franklin は植民地議会に 宛てた請願書において、まずはじめに「狂人、精神に異常を来たし、理性的な機能を喪失した者たち の数が、非常に増加している」ことを指摘した(14)。そして通称「ベドラム Bedlam」と呼ばれたイギ リスのベツレヘム病院 Bethlehem Hospital を成功例として挙げながら、それらの精神病者に適切な治 療を施すことで、 「健康の恵みを享受し……社会の有用な構成員となり、自活し家族を養える」ように なる、と主張したのである(15)。そしてフランクリンらの請願が認可されて、1752年2月に開業したペ ンシルヴェニア病院が最初の精神病者を受け入れることになる。ここにおいて狂気が治療可能な現象 である精神病として、再定義されたのである。こうしてアメリカにおける狂気の歴史は、「新しい局 面を迎えた」のである(16)。 ラッシュは引退したジョン・モーガン John Morgan の後を受けて、1783年5月26日からペンシルヴ ェニア病院の常勤医として勤務することになった。ここで彼はとりわけ精神病患者に強い関心を示した ようである(17)。その理由は、一つは病院が設立時から精神病者を受け入れていたことにもあろう。し かし前述の病院設立の経緯を踏まえれば、彼自身が宣言しているように「狂気に苦しむ患者こそがペ 65 東京成徳大学研究紀要 第 8 号(2001) ンシルヴェニア病院の医者たちが治療すべき第一の対象であるという確信」があったことに、もっと も大きな理由があろう(18)。1787年には、彼が精神病患者を専ら担当することになっている(19)。いず れにしろ、確立した専門分野では未だなかったものの、病院での経験をふまえつつ彼が精神病医とし ての名声を確立していったのは、確かである(20)。 少なくとも1789年以降ラッシュは、精神病者の取り扱いを人道的にする提案を、何度か行うことに なる。彼によれば、それらの提案は「科学と人間性」の双方に益するものであった。つまり、精神病 の治療を進める上での必要がもちろんあっての提案であったが、同時に病院内での患者の待遇を改善 する効果も期待されるものであった。 まずはじめに改革の槍玉に挙がったのは、病院の居室であった。これらは「冬は湿気って夏は暑す ぎる」のであり、なにより換気がよくないため室内の空気は澱んでおり、 「その臭いは不快でありかつ 不健康で」あった。収容された患者で、2、3週間も経てば風邪を引かないものは僅かであり、中に は寒さから来る肺病で死んでしまう者もあった。ラッシュによれば、こうした施設上の問題は、患者 の治療に向けた彼の努力を無駄にさせるものであった(21)。 このようなラッシュの提案を踏まえてか、患者数の増加を主な理由として、ペンシルヴェニア病院 は居室の拡充を目指すことになる。1792年に資金集めのための請願が州議会になされ、2月に認可を 受け1万5千ポンドが準備されることになったが、資金不足や翌年の黄熱病の流行などで計画の遅延 を余儀なくされる。4年後の1796年11月に、ようやく西翼の別棟が完成することになる(22)。 また、1780∼90年代に確立されたと彼がいう新しい理論と治療法(これについては後述)に基づい た設備の拡充と患者の労働が、1798年に提案されている。その設備の拡充とは、一番下の階に浴室を 冷水用と温水用をそれぞれ二つずつ設置し、ポンプで浴室に水を供給できるようにする、というもの であった。この浴室設備は前述の西棟に付設され、翌99年の10月に使用されるようになった(23)。 一方の精神病者の労働は、病院の財政難を念頭に置いていることは間違いないが、今日で言う「作 業療法 occupational therapy」のようにもみえる。ラッシュは女性の患者に対しては「紡糸、縫製、バ ター作り」を奨め、男性の患者には「麦わらの刈り取り、機織り、庭の穴掘り、板材の裁断やかんな 掛け」 、そしていかなる理由か「牛馬のためにトウモロコシをひき臼でひく」ことに代表されるような 「輪状のものを回す」ことを推奨した(24)。 さらに、1803年には病院の医師らを動かして、患者のために次のような看護士を雇うことを提案さ せた。すなわち、 「精神病患者の友人であり世話人」として「精神病患者に付き添い、医師が患者に行 動の自由を与えたときは、居室に無事に帰るよう監督する」ことを任務とするのに「適任の人物」で ある。ラッシュ自身は「備忘録」中において、この看護士を「精神病患者の精神を覚醒させ統制するた めに、患者と散歩や会話などをして監督する、教養ある人物」と表現している(25)。 1810年には、かなり長文の書簡を病院の理事会に宛てている(26)。そこでは7つの提案を行っている が、それぞれの要点を紹介していくと次のようになる。第1点は重症で回復の見込みのない精神病患 者を隔離するために、独立した病棟を建設するというものである。これによって、軽症で回復過程に 66 ベンジャミン・ラッシュと精神医学の誕生 ある患者や精神病以外の患者に、重症患者が悪影響を及ぼすことを避けようという意図であった。そ して第2点は、男女を別な階に分けて収容するという提案である。 第3点は、患者の心身に同時に働きかけるような労働や運動、娯楽をさせるというものである。こ の娯楽には、 「ブランコ、シーソー、木馬」などの運動やチェスやチェッカー、フルートかバイオリン の音楽鑑賞、といったものが挙げられている。 第4点として、1803年に引き続き看護士の登用について提案している。今回は第2の提案である男 女の隔離を念頭に置いて、 「かれら(患者)の娯楽に付き添い管理し、会話や読書、そして医師が折に ふれて提示する課題について読み書きさせることを任とする」知的な男女を雇うことをラッシュは薦 めている。 第5点として新たに、患者が医師の許可なしに家族や友人を含めた外来者と接触することを禁じて、 外界から隔離することを提案している。こうした患者管理の在り方が、一方で「非人道的」との後世 の非難を惹起しているわけだが、ここでのラッシュの論点は、患者がもらす病院への不満を親族知人 が真に受けて、不正や抑圧が行われているという誤解を避ける、患者個人のプライバシーを守る、ま た患者が見せ物になるために病院に精神病者が来たがらない現状を解決するためであった。 第6、7点は病院の設備に関する提案で、一つは患者の経済状態や病状によっては、羽毛や毛の布 団と肘掛け椅子を病室に設置することである。もう一つは病室内の便器に水を入れて、排泄物が異臭 を放つのを抑えようという提言である。この装置を発明した人物を、「新しい惑星を発見するよりも はるかに人間性と科学の点から称賛されるべき」である、とラッシュは評している。 この提言を受けて理事会は、委員会を作り調査報告をさせている。その報告はラッシュの提言に対 して、それぞれ次のような見解を示した。第1点の新規の病棟建設に対しては、予算上不可能である とした。第2の男女別収容については、できる限り速やかに採用することを薦めている。第3の労働、 運動と娯楽は既に実施済みであるとし、第4の監督者の任命の案は、男性については既に任命されて いるが、女性の担当官についてはまだであり、理事会での検討を薦めている。 第5点は、ペンシルヴェニア病院では、ごく近しい者でなければ患者に面会できないと、調査委員 会は主張している。第6点の布団については異議なしとしながらも、患者自身や他者を傷つける可能 性のある家具を居室に設置することには、否定的な見解を示した。最後に室内便器の改善については、 部分的に採用されているとし、可能な患者へは同様の設備をするべきとしている(27)。 その死に至るまで医療と改革への「熱情」を失わなかったラッシュは、最晩年の1812年にも、病院 の理事会に二つの提言をしている。その一つ目は、それまで暖房がなかった夜間について、担当者を 任命して各病棟を巡回して薪の補充をさせるというものである。それによって夜間でも暖房が使える ことになり、寒さによる患者の健康への悪影響が低減されるだろうという考えに基づいた提案であっ た。もう一つは、冷水・温水浴を治療法として用いる場合、当時のペンシルヴェニア病院の設備では、 服を脱いだ患者が毛布にくるまって病棟と浴室を行き来することになり、健康を害するおそれがある ので、何らかの対策を立てることが理事会に提言されている(28)。 67 東京成徳大学研究紀要 第 8 号(2001) これらの精神病治療と病院施設の改革への様々な提案とともに、言及しなければならないのが、ラ ッシュの二つの治療装置であろう。 初めに挙げるのは、下図のような「鎮静椅子 tranquillizer」と呼ばれたものである(29)。書き添えら れた説明によれば、次のようになる。図中の番号に従うと、1.椅子本体。2.患者の背丈に合わせ て上下する背板。3.頭部を固定する木枠、内部はリネンを張る。4.5.胴体を椅子に固定する強い 革ひも。6.腕や手を固定する革ひも。7.足を固定する足枷、椅子から突き出ている。8.水の入 った室内便器、椅子から取り外すことができる。そして椅子自体は床に固定されている。 ラッシュによれば、これは拘束衣の持つ害毒を除去する一方で、目的である身体的強制自体の利益 を享受できるものであった。彼はこの椅子について、以下のような利点を挙げている。 第一に、頭を上げた状態なので頭部の血圧を下げることができ、同時に頭部の血流自体はまったく 阻害されないこと。 第二に、身体が固定され筋肉が運動しないので血圧が下がること。 第三に、治療のために頭に冷水をかけたり足に温水をかけたりするのが、自由にかつ同時にできる こと。 第四に、患者の脈を取ったり静脈から瀉血したり、あるいは吐剤を投与することが簡単であること。 第五に、患者の身体が固定されているにもかかわらず、圧迫されないのでそのまま眠ることが可能 図 ラッシュの「鎮静椅子tranquillizer」 Gamwell and Tomes, Madness in America: Cultural and Medical Perceptions of Mental Illness Before 1914 (Ithaca, 1995).より 68 ベンジャミン・ラッシュと精神医学の誕生 であること。 第六に、拘束衣よりも患者自身が嫌がらないし、友人たちの感情も害さないこと。 これらの主張は大きく分ければ、まず精神病の原因を取り除くという病理学上の利益、次に治療を 簡単にするという治療上の利益、最後に患者の取り扱いに関する人道主義的な利益、これら3点に要 約されよう。 次の装置は、「旋回器 gyrater」とラッシュが名付けたものである。こちらは患者の運動器具として、 後に著書の中で紹介しているものである。そこで彼はこの装置がコックスの発案になるものだと述べ ているが、実際にはペンシルヴェニア病院において、ラッシュ自身が独自に製作させている(30)。 この「旋回器」は、何らかの理由でほとんど動かなくなってしまった精神病患者―ラッシュはそ れを「無気力性の狂気 torpor madness」と呼んだが―の頭部への血流をよくするための装置である。 実際にラッシュが使ったものは、板に患者を縛りつけて回転させるというものだった。もちろんその 場合、患者の頭部は回転軸とは反対の端に向けられ、遠心力を利用して頭部に血液を集める様に仕向 けられていた。こうして人為的に脳に血液を送ることで、病いが治療されることが期待されたのであ る。 以上見てきたような、ペンシルヴェニア病院での精神病治療をめぐるラッシュの活動と主張は従来、 人道主義の精華の一つとみなされてきた。しかしながらそれは、単なる改革精神の表れではなく、彼 の疾病観がそこに大きく関わっている。次の節では、彼の精神に関する病理学を見ていくことにしよ う。 ラッシュの精神の病理学|1.病因論にみる 精神病に対するラッシュの疾病観は、実のところ彼の身体の病いに対する見解と大差ない、と見ら れている。「アメリカのシデナム」という称号を奉られたラッシュ(31)だが、彼はむしろ臨床で得られ た知識より理論を優先する類の医学者とみなされることが多い。その医学理論の特徴は、従来の体液 説ではなくエディンバラでの指導教授であったカレン William Cullen 経由でブールハーフェ Hermann Boerhaaveの神経説を採ったところに存する。 師匠であるカレンの疾病分類学 nosology を越えて、ラッシュはあらゆる病いの原因は「刺激 stimulus」にあるとした。この刺激が外部からもたらされて、身体に「病的刺激 morbid excitement」 が引き起こされる。それによって人は病気になるのだが、その際に刺激を身体に伝えるのが神経組織 nervous system であった。そしてこの病的刺激は、毛細血管の拡張によって確認されるというのが、 ラッシュ独自の病理学である(32)。 全ての病いは一つの原因からなり、したがって治療法は一つしかないという彼の理論は、精神の病 いの領域をも含み込んだものであった。その場合に問題となるのは、脳における血管の状態であった。 69 東京成徳大学研究紀要 第 8 号(2001) 彼によれば、大抵の場合、精神病者においては脳の血管が拡張しており、それによって病的刺激が伝 えられているのであった。彼は次のように指摘する。 「精神病の原因は一義に脳の血管に存する……その他の動脈疾患を形成するのと同種の病的で異常 な作用に因っている。……これらは病いとりわけ熱病の統一性の一部分であり、精神病は熱病の慢性 (33) 。 的なもので精神が存する脳に影響しているものである」 それでは、身体の病いと同じように精神病も、瀉血によってどんどん治療していけばいいのかとい うと、そう単純なものでもなかったようである。実のところ精神の病いについてのラッシュの議論は、 もう少し陰影に富んだものとなっている。 前述したラッシュの医学理論は一般に、デカルト的な機械論の影響下にあるとされ、それゆえにラ ッシュは、その宗教性に関わらず唯物論者と呼ばれることすらあった(34)。精神医学においても同様で、 彼は往々にして精神病の原因を身体に帰そうとする「身体論者 somatist」とされている(35)。確かに彼 は、身体と精神の相関性を重視し、身体に対する何らかの外的働きかけが、精神へも影響を及ぼすと 論じている。そして精神病の原因として、脳への外傷や腫瘍、水腫をはじめとする脳疾患を挙げてい る。奇妙なことだがそれと同時に、蒸留酒の不節制な飲酒や自慰が、精神病の原因として断罪されて もいる(36)。 こうしたラッシュの身−心相関の概念は、しかし、単純な機械論と片づけてしまう訳にはいかない。 彼の病理学の機械論的要素は、ハートリー David Hartley に由来するものであるが(37)、それはラッシ ュが精神の病いをすべからく物理的に説明できると考えていたことを意味しない。彼がときに、機械 とのアナロジーで精神病を説明することがあっても、身体的原因のみが精神を病いに陥れると主張し たことにはならないのである。 実際には彼の精神の病理学は、身体を通じて精神に働きかける病因と精神を通じて身体に働きかけ る病因の二つを想定していた。最終的には直接的な原因としての脳内の血管にみられる異常に到達す るのだが、それを引き起こすのは、身体における刺激だけではなく、精神に対する刺激|それが身 体に働きかける|でもあるというのが、彼の下した結論であった (38)。「知性における精神障害 intellectual derangement」について彼は、身体的原因よりも精神的原因の方がより普通であるとして、 ビセートル Bicêtre とペンシルヴェニア病院の例を挙げている。ラッシュの集計によれば、1812年の 段階で収容された患者で病因がはっきりしている50人のうち、精神的なものによるのは34人であっ た(39)。 ここで、ラッシュが用いている「精神障害 derangement」という言葉に、若干の説明を加える必要が あるだろう。併せて、彼の精神病の定義も紹介していく。 彼の精神医学がハートリーの機械論の影響下にあることは既に述べたが、そのハートリーが創始者 とされる連合心理学 associationism の流れに、もちろんラッシュも属すると考えられている。その一 70 ベンジャミン・ラッシュと精神医学の誕生 方で彼は、レイド Thomas Reid の機能心理学 faculty psychology の影響も受けている(40)。そのため ラッシュは、精神病に関する主著『精神病についての医学的研究と観察(以後『精神病について』 ) 』の 中で、精神の「機能 faculties」と「作用 operations」について、論じることからはじめているのである。 よってこれ以降、この著作を参照しつつ、論を進めていこう。 ラッシュによれば、精神の機能としては理解 understanding・記憶 memory・想像 imagination・感 情 passions・信仰 principle of faith・意志 will・道徳機能 moral faculty・良心 conscience・聖なる感 覚 sense of Deity の9つがある。それに対して主要な精神の作用としては、知覚 perception・連想 association・判断 judgement・理由付け reasoning・意志作用 volition の5つがあるという(41)。 彼は「精神障害」という用語を、精神病を精神の機能の病いを指すために使ったと述べている。そ して、最も一般的な精神病は、理解における精神障害であるとした。これこそが、彼がいうところの 知性における精神障害であり、今日的な意味での精神病とほぼ同義と考えてよいだろう(42)。 この知性における精神障害のうち、部分的なものとしてラッシュは二つを挙げた。そこで彼は新た 、喜悦を伴うもの な用語を用いて、悲嘆を伴うものは鬱病 tristimania(一般的には hypochondriasis) は躁病 amenomania(melancholia)と分類した(43)。 一方、全般的な知性における精神障害は、リューマチと肝炎に倣って三つに分類され、それぞれ緊 張性急性精神病 mania、軽症の慢性精神病 manicula、無気力性精神病 manalgia と呼ばれた(44)。急性 精神病は症状として、凶暴な顔つきで、いつも唄を歌っていたり動物の真似をしたりと異常な行動を とり、寒暖に無感覚だが聴覚や視覚は並外れて敏感であるなどとされた(45)。二番目の慢性精神病はほ とんど急性の場合と同じで、指摘された違いは寒さに対して敏感である点ぐらいである(46)。 第三の無気力性精神病は、無口になりいつもうつむき加減で、自分の身なりや周囲の人々などの身 の回りの事象に無頓着になり、寒暖にも無感覚であるとされた。また、時に固定した姿勢を取り、社 会との関わりを断とうとするとも、ラッシュは述べている(47)。 これらの知性とりわけ理解に関する精神障害に続いて、精神作用としての連想の精神病、判断と理 性に関する障害 dissociation を取り上げたラッシュが俎上に載せたのは、意志や記憶、感情、信仰に おける精神障害およびそれらの複合障害であった(48)。そして最後に掲げたのは、道徳機能の精神障害 moral derangement であった。興味深いことに、意志の障害と関連した道徳機能障害の症状として、 ラッシュは殺人と窃盗、虚言、飲酒を指摘している(49)。また、別なところでは、自殺や泥酔と合わせ て、 「無念さ、恥、怖れ、恐怖、怒り、違法行為は一時的な精神病である」としている(50)。 以上みてきたように、ラッシュの精神病理学は、9つの精神の機能のいずれか一つあるいは複数に 起こる障害を、精神病として規定した。とはいえ、それらの機能障害は、遠因 remote cause としては 身体的であれ精神的であれ、つまるところ脳の血管の異常|「病的刺激」を直接の原因proximate cause として発生するのである。 71 東京成徳大学研究紀要 第 8 号(2001) ラッシュの精神の病理学|2.治療法にみる このような診断に対応する治療法を、彼はどのように提起しているだろうか。次に精神病の治療法 を通して、彼の精神の病理学のもう一つの容貌を確認することにしよう。 当然のことだが、病いを引き起こす原因が全て同じであるという彼の思考からは、病いにはそれぞ れ異なった最適な治療法があるという発想は、生まれるべくもなかった。基本的にはどの種類の精神 病でも、同様の治療法が推奨されることになる。 先に記した『精神病について』中のラッシュの分類に依拠すれば、精神病には部分的なものが2種 類、全般的なものが3種類あることになる。そのうち彼が治療法について特に詳細に記述しているの は、部分的な病いでは鬱病であり、全般的なものでは急性精神病と無気力性精神病である。 それぞれについてラッシュは、直接身体に向けた治療法と間接的に精神を媒介とする治療法の2種 類を考えていた。まず身体的治療から概観していくと、いわゆる「劇的療法」の範疇に属するものが 列挙されている。無気力性精神病では脳への血流の不足が原因と考えられたのでその限りではないが、 一般に彼の十八番と目される瀉血が第一に推奨され、その後下剤や吐剤の処方が挙げられている(51)。 これらの身体の病いの場合と共通した治療法の他、注目すべきものとしては、今日言うところの作 業療法やショック療法を彼が採用している点がある。作業療法に該当するものとして彼は、労働や運 動、娯楽を挙げている。これは、前節で触れた彼のペンシルヴェニア病院に対する1810年の提言の中 にも、見ることができるものである。 この治療法に属するものとして例えば、乗馬や馬車での遠乗り、馬追い、狩猟、ブランコ乗り、輪 投げなどの運動や読書、チェスやチェッカー、プッシュ・ピンといった遊戯、パーティーやコンサー トでの音楽鑑賞が挙げられている。これらは言ってみれば、気晴らしの要素が治療法としての効果を 期待された訳である。が、とりわけ無気力性精神病には、脳に血液を送るという医学的効果への期待 から、前述の「旋回器」の有効性が主張されていた。ラッシュはこの治療法を試みた3回の例では、 内2回について患者の脈拍が上昇したと報告している(52)。 次のショック療法であるが、ラッシュは患者に恐怖や非常な苦痛を与えることを、繰り返し推奨し ている(53)。具体的には、乗っていた馬が暴れだした例や、自分がガラスだと思い込んでいる患者が座 ろうとしている椅子を引いて転ばせた上で、彼に大量のガラスの破片を見せた例、麻薬中毒になった 女性に薬が入っていると見せかけたびっくり箱を開けさせた例などが、恐怖による治療例とされた。 また、自分が死んでいると思い込んだ鬱病の患者に対して、彼に聞こえるように医者が友人に死因を 調べるために解剖しようと提案すると「たちどころに」直った、と聞き及んだとラッシュは紹介して いる(54)。 同様に、非常な痛みによる治療例として、膀胱の結石やモグサによるお灸、マスタードを足に塗り 付けることや頭を殴られることなどが挙げられている。実際の成功例としては他に、逃げ出した無気 力性精神病の患者が近隣の家に逃げ込んだところ、家人に激しく鞭打たれ、その結果快癒したという 72 ベンジャミン・ラッシュと精神医学の誕生 件が報告されている(55)。 このショック療法に関連して、特にラッシュが好んだのは、シャワー療法であった。確かに彼は、 前述の通り1798年にペンシルヴェニア病院に要請して浴室を建設させているが、『精神病について』 でもほとんどの場合、この温水と冷水を組み合わせた入浴あるいはシャワーを勧めている(56)。この治 療法への最も早い彼の言及は、1787年のイギリスのレットサムに送った書簡中に既に見られる(57)。 基本的には温水浴をさせた後に冷水をかけることを推奨しているが、いずれにしろ温水浴に対して 彼が期待していたのは、体温よりも若干高目の温水によって刺激をもたらし、「発汗作用を及ぼし」 たり、「動脈のシステムに働きかけ」たりすることであった(58)。一方の冷水は、鬱病の場合には単独 での使用は忌避され、温水浴と組み合わせることが提案された。無気力性精神病の場合には単独での 使用も容認された。より多くの場合、冷水はシャワーの形で患者にかけることが推奨された。ふりか かる「水の重さと運動力による刺激」が患者に加わり、 「身体組織 system に対して非常に強力なショ ックを与える」とラッシュは考えていたのである(59)。 実はこれらの「純」医学的治療法に立ち混じって、精神病に関するラッシュの態度の基底にあるも のを示す、非常に重要ないくつかの治療法が掲げられていた。それらは今日のわれわれからすれば、 二つの全く正反対の容貌を見せている様に思われるものである。しかしながらラッシュの中では、全 く矛盾なく共存していたというのは、非常に注目すべき点であろう。 二つの顔のうち、先に「人道主義」者としてのラッシュの相貌を見ることにしよう。鬱病の治療法 における注意の中で彼は、精神科医が第一にしなければならないこととして、「患者の病いを真剣に 扱う」ことを挙げている。自分の病いに関する患者の意見が如何に間違っていようとも、病い自体は 「現実」のものであり、医者は病いの症状と原因についての患者の長たらしい退屈な話にも「注意深く 聞き入る」ことが必要と、彼は指摘している(60)。 同様に彼がたびたび提案した室内便器の改善案も、清潔な居室に患者を住まわせようとする「人道 主義」的思考の産物であったと言える(61)。また精神病患者への訪問者を禁止しようというのも、実は 患者を好奇の目から守りプライバシーを保護しようという意図に基づいていたことを、彼は著書にお いて示している(62)。 看護士に関して彼がなした提案も、やはりこの考えに由来している。 『精神病について』の中で改め てこのテーマを取りあげたラッシュは、常に患者につきそい彼らの精神を方向付けるような看護人が 存在しないことを嘆いてみせた。こうした看護人は、 「精神病の原因となった事柄から会話をそらし、患者の喜ぶような話をし、面白い本の一節を選ん で読んでやりあるいは読ませ、患者の心身の活動を監督し、食卓においては主人としてもてなし、監 視員による手荒く侮辱的なあしらいから保護し、ともに散歩や乗馬をし、楽しみを分かち合い、懲治 の種類や程度を決める。 」 73 東京成徳大学研究紀要 第 8 号(2001) とラッシュは描写している(63)。 患者の人間の尊厳を守ろうというこれらの試みが、 「人道主義の遅すぎる進歩」でしかないことを彼 は嘆いている(64)。ところが、そのかたわら最も一般的である急性精神病の治療を語る際に、かなり紙 幅を割いて患者に対する管理 government を徹底することから始めているのは、一体どういう訳なの だろうか?ラッシュの説明によれば、それは患者の「服従と尊敬と愛着を確かなものにする」ことで あり、そのことが「医者が容易かつ確実、成功裡に治療を施すことを可能にする」というのである(65)。 ここにおいてラッシュの治療のもう一つの相貌が、明らかになる。 この管理という目的を達成するための前提として、それまで親しんだ家族や知人友人の付き合いの 輪の中から、患者を隔離することが必要であるとした。それが不可能ならば、普段使っていない一室 に患者を監禁し、面識のない人間を監視につけることが薦められた(66)。 その上でまず第一に、患者の注意を引き医者と視線を交わすように患者を仕向けることを求めた。 その場合、眼光で威圧しようとするより、穏やかだか落ち着いた目をしている方がより大きな効果が 期待でき、場合によりこの上ない厳めしさと慈愛の間を行き来することがよいとされた。第二に、医 者の声による支配が目指された。状況に応じて、荒々しい声や優しい声、悲痛な声が使い分けられる べきとされた。続いて第三には、医者の表情によって患者を支配することが要求された(67)。 第四以下では、患者に対する行動が話題となった。まず患者に対して威厳を保つことが要求された。 患者との対話において、軽はずみな行為は厳禁であった。患者の受け答えが無礼でふざけたものであ っても黙って聞かなければならず、それを笑ってはならないのである。第五に、公正を保ち誠実を心 がけることが挙げられた。そして第六に、医者は患者を尊重するべきとされた。社会的地位や生活習 慣に従って、患者を扱わなければならなかった。実は、ラッシュがペンシルヴェニア病院に提言して 患者の居室にベッドや安楽椅子を設置させようとしたのも、こうした意図から発したものであった。 第七には、親切な行為が患者の服従と愛着に必要とされた。そのため喜ばしい処方は患者の眼前で行 い、苦痛を伴うものは看護人を通して行うことが薦められた。同様の意図を持って患者に果物やお菓 子といったちょっとした贈り物をすることも歓迎された(68)。 もしこれらの手段が効果がなければ、強制という手段に訴えることをラッシュは薦めた。その具体 的な手段として四つが挙げられたが、それぞれ1.拘束衣または「鎮静椅子」による拘束、2.好物 を食べさせないこと、3.服の袖から冷水を注ぎ込むこと、4.冷水シャワーを施すことであった(69)。 この「鎮静椅子」が人道上いかなる利点を持つと言っても、そもそも患者を拘禁する必要がなけれ ば意味がなかった訳で、ラッシュが患者の管理を意図しなければ椅子を用いる必要自体が存在しなか ったのである。 同様に前述の冷水シャワーを施すことについて、様々な「懲治 punishment が期待通りの効果を挙 げない場合、死の恐怖に訴えることは適当であろう」と彼は記してもいる(70)。別なところでは20∼30 分冷水をかけ続ける、あるいは浴槽も飛び込めるくらいの大きいものがいいなどと述べている。そう すると、患者にとっては頭部への刺激という治療行為よりも、溺れ死ぬ不安の方が有効であったのか 74 ベンジャミン・ラッシュと精神医学の誕生 も知れない。 これらの治療上の心得を聞かされた後では、ラッシュが人道的な側面を持っていると評価されるこ とに対して、疑問を抱かざるを得ない。上記の四つの強制の手法に続けて彼は、「これらの軽度だか 恐怖の念を起こさせる懲治の手法を適切に適用すれば、精神病者を管理するために鎖はほとんど必要 なく、鞭は全く必要なくなる」と述べている(71)。この部分だけを見れば、精神病者を鎖から解き放っ たピネルと同じ物語を創り出したくなることは、理解できる。とはいえ、 「人道的」であることが、精 神病者の自由を保障し苦痛を取り除くことを意味するのだとしたら、ラッシュの治療法は「人道的」 の語に値しない。 同様の彼の「背信」は、他でも見ることができる。患者に対する支配の方法を語った後で彼は、具 体的な治療法として、孤独と暗闇、それと患者の身体を立ったままで寝かせないことを提出している のである(72)。孤独によって患者の感情が刺激されなくなり、さらに暗闇によって沈黙、そして光によ る刺激がなくなり暗やみに恐怖を覚えることで脈拍の低下がもたらされるとした。また立位で眠らな い患者からは、脳の「病的刺激」が取り去られるとした。しかしこれらの治療法は、現象だけを見れ ば、拷問としか思えない類のものではあった。 結 び ベンジャミン・ラッシュの精神医学をわれわれは、どのように理解することができるのだろうか。 あるいはそれは、人道的であるか否かについて評価を下すことで完了するのだろうか。 彼は『精神病について』の巻末で次のように述べている。 「……もしも私が、自分の願いに添うように、この著作によって医学の利益を増進させえなかった としても、人道のための私の努力は同じく不成功に終わることがないよう希望する。と同時に、この 精神病者の履歴を読むに値すると考えた全ての読者が、病人の苦しみに対して心からの同情を感じま (73) た親切心から彼らの助けとなってくれることを、望むものである。 」 このようなラッシュは、別に自分の数々の非行を悔いている訳でも、偽善者を装おうとしている訳で もないだろう。むしろ彼の言葉は本心から出ているはずである。 ここで指摘できることは、ラッシュにおいて精神病の治療 treatment と病院への収容 confinement と懲治 punishment はほぼ同意義であった、ということである。第三者とりわけ後世のわれわれから すれば、ときに人道的にときに残忍にと、矛盾してみえるとしても、ラッシュ自身の中では何の矛盾 も齟齬もなかった。彼は治療として有効に思われたものとして、病院への収容監禁と懲治を取り上げ ただけであった。 もちろん、精神病に対する彼のこうした態度は、彼の分類法にも明らかに見て取れるような精神病 75 東京成徳大学研究紀要 第 8 号(2001) に対する無理解に由来するのではなかった。ラッシュは精神に関して、「正常|他の人々のように 物事を判断する性向、規則正しい習慣」 、そして狂気は「そこ(正常)からの逸脱」と書き残している(74)。 ここで問題の所在が明らかになってくる。ラッシュにとって改革すべきなのは、「正常から逸脱」 したものであった。彼が刑罰や刑務所改革を推進したのも、禁酒改革を奨励したのも、社会的規範か ら逸脱した犯罪者や飲酒家を改革しようとしたからなのであった(75)。 そう言えばラッシュは、精神病の一種として精神機能の障害を含めていなかったろうか。またその 症状として、殺人や窃盗、飲酒や虚言を挙げていなかったろうか。これも単に当時の医学が「遅れて」 いたことに原因があるというよりは、彼の精神病の定義が「正常からの逸脱」というものであったこ とに、より大きな理由があるであろう。それらの逸脱行為の存在を「臨床的に」言い換えれば現実に 即して認識したことによって、ラッシュの精神病観が形成されたと考えるべきである。 確かに彼は、精神病を魔術のような超自然的事象に結びつけることを全くしなかった。むしろ彼は、 過去には火炙りや絞首刑にかけられていた精神病者が医学によって救われるようになったとでも言い たげである(76)。精神病に限らずほとんど全ての逸脱行為|サッスによれば、ラッシュは自分が「嫌 (77) |を医学的に解釈しようとした。 悪した、あるいは劣等であると判断した事柄全て」 このような社会問題あるいは逸脱行為の医療化(78)の背景には、彼の「臨床的」観察が横たわってい る。より正確に言えば、彼の社会現象に対する観察が、それらの医学的な見地からの解釈を導いてい るのである。ラッシュは精神病の遠因として、様々な社会現象に言及している。 彼は「社会の状態、ある種の主張・生業・娯楽や政府の形態」が、精神病の遠因として大きな影響 を及ぼすとした(79)。例えば、急激な経済的変化を体験した特に財産を失った者は、精神病になりやす いとした。そうすると投機的な経済活動は精神病をより多く引き起こすのであり、南海泡沫事件の折 にイギリスの収容施設が賑わったのは、その所為であるというのである(80)。また彼は、過小な紙幣の 発行量における独立革命後の投機熱は、情熱というよりは病いとして考えるべきとも主張している(81)。 政治に関して、一般に民衆の自由を抑圧する専制政治は、精神病の原因となりやすいとラッシュは 判断している(82)。その一方で彼は、アメリカの独立は反対派の人たちの間に「革命病 revolutiana」と いうべき鬱病を引き起こし、賛成派の間には自由に対する過剰な熱情が、理性や政府によって歯止め が効かない主張や行動を生み出しており、それは「無政府病 anarchia」という精神病の一形態である とも述べている(83)。 このような社会現象への観察を基底に置いた「病い」観|裏返せば「正常」観である|の中にこ そ、ラッシュあるいは同時代の共和主義者の人間観を見出すことができると言える。当然のことだが その人間観は、「人道的」であるか「抑圧的」であるかという二元論で語ることを許さないものである。 敢えてそれらの用語を使用するならば、「人道的」であると同時に「抑圧的」であるとしか言い様はな いであろう。 そうした用語の選択より遥かに重要なことは、それぞれの用語の根底にひそむ意識である。「人道 的」と評されるラッシュの言説は、彼が人間に対する「新しい」意識を持っていることを示唆している。 76 ベンジャミン・ラッシュと精神医学の誕生 独立革命支持の彼の政治的立場からすれば、市民が持つ自由とはすなわち自らを治めることができる 自由である。それは換言すれば、自由によって自らを「支配」する権利が保障されるというのが、 「正 常」な政治的状況なのである。 そのラッシュが一方で、精神病者に対して医者の「支配」を貫徹しようとしたのは、まさにここに 理由があった。彼は他者に対する支配を志向したのではなく、自らを「支配」すなわち「管理」できな い病人たちに対して、その「正常」から逸脱した状態の改善を図ろうとしていたのである。そのため の医療行為であり、医者による患者の「管理」であった。 このようなラッシュのいわば両義的な態度が、皮肉にも精神医学の確立と深く関わる結果になった のである。とは言え、何故こうした自由と管理という権力=知の編制が、医学という分野を通してな されたのかという問いにまで、ここで答えることはできない。そのためには今後、身体の医療へ向け られたラッシュのまなざしを検証していくことが必要であろう。 〈注〉 盧 Clifford B. Farr,“Benjamin Rush and American Psychiatry,”American Journal of Psychiatry, 100(1944): rpt., 151(June 1994), supplement, p.66. 盪 これもやはり、アメリカ精神医学協会の百周年記念会議でシュライオック(Richard H. Shryock)ととも に行ったシンポジウムの内容に基づいたものであった。Adolf Meyer,“Revaluation of Benjamin Rush,” American Journal of Psychiatry, 101(1945), 433-42. 引用は特にpp.433, 442. 蘯 例えば、Oliver W. Holmes,“Currents and Counter-Currents in Medical Science.”In Medical Essays, 18421882 (Boston, 1888), pp.192-93. 盻 実際にはミルズ(Charles K. Mills)が1886年に、精神医学における先駆者としてラッシュを評価している が、それはむしろフロイト以前の心理学の文脈においての言であろう。 Mills, “ Benjamin Rush and American Psychiatry,”Medico-Legal Journal, 4(1886-87). 眈 このような形のラッシュの評価は、比較的新しいものでは例えば、Norman Dain, Concepts of Insanity in the United States, 1789-1865 (New Brunswick, 1964), pp.21-22. 眇 本稿では、原則として精神医学(psychiatry)と心理学(psychology)というように訳し分けることとする。 ただし両者の差異が例えば心因論と機械論といった明確なものでないことが、議論をやや不明瞭にしてい る部分は否定できない。 眄 (新潮社、1975年); Thomas ミシェル・フーコー著、田村俶訳、『狂気の歴史|古典主義時代における』 S. Szasz, The Manufacture of Madness: A Comparative Study of the Inquisition and the Mental Health Movement (New York, 1970); David J. Rothman, The Discovery of the Asylum: Social Order and Disorder in the New Republic (Boston, 1971). 眩 精神病の歴史に関する概観を与えてくれる研究としては、例えば、Gerald N. Grob, The Mad Among Us: A History of the Care of America’ s Mentally Ill (Cambridge, Mass., 1994); Lynn Gamwell and Nancy Tomes, Madness in America: Cultural and Medical Perceptions of Mental Illness Before 1914 (Ithaca, 1995). ここでは、 Grob, 前掲書, p.5. 眤 Grob, 前掲書, p.7. 眞 同上, pp.14-15. 眥 同上, pp.16-17. 眦 Rothman, 前掲書, p.4. 眛 そもそもの発案は、フランクリンの友人であったボンド医師(Dr. Thomas Bond)によるものであるが、 設立に関してはフランクリンが寄与する所が大であった。例えば、松本慎一・西川正身訳、『フランクリン 自伝』(岩波書店、1957年) 、195-97頁。 77 東京成徳大学研究紀要 第 8 号(2001) 眷 一般にフィラデルフィアの都市化に伴い、精神病が問題化していったと観られているが、例えばイギリ スでは、発病率の増加という認識が精神病の問題化の背景にあるとされていることは、興味深い。Dain, 前 掲書, p.8. 眸 Benjamin Franklin, Some Account of the Pennsylvania Hospital (Philadelphia, 1754), pp.3-5. Thomas G. Morton and Frank Woodbury, The History of the Pennsylvania Hospital, 1751-1895 (Philadelphia, 睇 1895), pp.32, 113. 睚 Benjamin Rush,“List of Lunatics in Pennsylvania Hospital,”31BR-MSS31, quoted in David Hawke, Benjamin Rush: Revolutionary Godfly (Indianapolis, 1971), p.291n19. 睨 To the Managers of the Pennsylvania Hospital, Dec. 20th, 1789, Lyman Butterfield, ed., Letters of Benjamin Rush (2 vols, Princeton, 1951. 以下Letters), vol. 1, pp.528-29. 同宛の1810年9月24日付けの書簡でも、設立時 のフランクリンとボンドとの同趣旨の逸話をラッシュは紹介している。ただしこの逸話の出典を、編者バ ターフィールドは確認できていない。同上、vol II, p.1063n. 睫 To John C. Lettsom, September 28th, 1787, 同上, vol. I, p.443. 睛 例えば、「精神病の多くの症例を、私は最近(ペンシルヴェニア)病院でも自宅でも扱うようになった」 という1795年12月の証言や、「精神病の治療に関する最近の成功によって、私のところにやってくる精神病 の患者が増えてきた」という1796年4月のものから、伺い知ることができる。To Ashton Alexander, Dec. 21st, 1795; To John Redman Coxe, April 28th, 同上, vol II, pp.766, 774. 睥 To the Managers of the Pennsylvania Hospital, Dec. 20th, 1789, 同上, vol. I, p.529. Morton and Woodbury, 前掲書, pp.114, 144; George W. Corner, ed., Autobiography of Benjamin Rush (Princeton, 1948. 以下Auto), p.216. 睾 Nathan Goodman, Benjamin Rush: Physician and Citizen, 1746-1813 (Philadelphia, 1934), p.256. 睹 To Samuel Coates, April 30th, 1798,Letters, vol. II, p.799. 瞎 Morton and Woodbury, 前掲書, p.148. 自伝中の「備忘録」では1802年の1月4日の件として記録されてい るが、おそらくはラッシュの記憶違いのようである。Auto, p.262. 瞋 To the Managers of the Pennsylvania Hospital, September 24th, 1810, Letters̈, vol.Ⅱ, pp.1063-66. 瞑 Morton and Woodbury, 前掲書, p.151. 瞠 To the Managers of the Pennsylvania Hospital, December 26th, 1812, pp.1172-73. 瞞 椅子の形状および利点の説明は、To John Redman Coxe, September 5th, 1810, 同上, pp.1058-60. バターフ ィールドによれば、もともと図と説明はコックスの『フィラデルフィア医学総覧(Philadelphia Medical Museum)』に掲載されたものである。 瞰 コックスはもともとのアイディアは、エラズマス・ダーウィンのものとしている様である。 Albert Deutsch, The Mentally Ill in America: A History of Their Care and Treatment from Colonial Times (New York, 1937), p.79; To Timothy Pickering, March 2nd, 1808, Letters, vol. II, p.961; Rush, Medical Inquiries and Observations upon the Diseases of the Mind (1812; rpt., New York, 1962. 以下Diseases of the Mind), pp.224-25. 瞶 John C. Lettsom, Recollections of Dr. Rush (London, 1815), p.3. 瞹 最も新しくラッシュの医学理論を紹介したものは、例えば、Lisbeth Haakonsson, Medicine and Morals in the Enlightenment: John Gregory, Thomas Percival and Benjamin Rush (Atlanta, 1997), pp.200-16. 瞿 Rush, Diseases of the Mind, pp.17-18. 同様の見解は他にも例えば、同上, p.26. 瞼 例えば、Woodbridge Riley,“Benjamin Rush, as Materialist and Realist.”Bulletin of the Johns Hopkins Hospital, 18(March 1907). 瞽 例えば、Dain, 前掲書, p.16. 瞻 Rush, Diseases of the Mind, pp.30-33. 同様に、同上, pp.19-21. 矇 例えば、Rush,“An Inquiry into the Cause of Animal Life,”In Michael Meranze, ed, Essays--Literary, Moral and Philosophical (1798; rpt., Scheneatady, N.Y., 1988), p.5. 睿 矍 このようなラッシュの議論は、今日的な医学的知の構制下ではかえって理解することが難しくなってい る。解読の試みとした成功したものの一つとして、ここでは主に以下の研究を参考にした。 Richard H. Shryock,“The Psychiatry of Benjamin Rush,”American Journal of Psychiatry, 101(Jan. 1945), pp.429-432; Fritz Wittels,“The Contribution of Benjamin Rush to Psychiatry,”Bulletin of the History of Medicine, 20(July 78 ベンジャミン・ラッシュと精神医学の誕生 1946), pp.157-166; Eric T. Carlson, and Meribeth M. Simpson.“The Definition of Mental Illness: Benjamin Rush(1745-1813),”American Journal of Psychiatry, 121(Sept. 1964), pp.209-214. Rush, Diseases of the Mind, pp. 46-47. 矚 ハートリーとレイドの影響については例えば、Eric T. Carlson, J. L. Wolock and P. S. Noel, eds., Benjamin Rush’ s Lectures on the Mind (Philadelphia, 1981), pp.27-30. 矜 Rush, Diseases of the Mind, p.10. ただし彼が用いた「道徳機能」の語は、ビーティー James Beattie のもの を借りている。 Rush, “ An Enquiry into the Influence of Physical Causes upon the Moral Faculty (Philadelphia, 1786),”p.3. 矣 Rush, Diseases of the Mind, pp.11-13. 矗 矮 同上, pp.74-76. 矼 同上, pp.141-42. 砌 同上, pp.144-46. 砒 同上, p.214. 礦 同上, pp.216-19. 医学史研究にはつきものの不確実性なのだろうが、実のところ、こうした病いが現在の 医学的見地からどのように分析・診断されるかについて、全く違った結論であろうこと以外には、専門外 の筆者はなんら見解を示すことが出来ない。ビンガーなどはこの慢性精神病を精神分裂症の一種である緊 張症 catatonia に分類しているが、その妥当性に確信はない。Carl Binger, Revolutionary Doctor: Benjamin 砠 Rush, 1746-1813 (New York, 1966), p.267. Rush, Diseases of the Mind, pp.259. 263, 276, 291, 314. 礪 同上, pp.264-66. 硅 碎 Rush,“Lecture on the Medical Juriprudence of the Mind,”In Auto, p. 350. Rush, Diseases of the Mind, pp. 99-100, 185-91, 194-95. 硴 同上, pp.104, 117-24, 203, 211, 224-28 284-85. 碆 同上, pp.104-105, 108-12, 211-13, 229. 硼 同上, p.110-11, 126-27, 211. 碚 同上, pp.104, 212, 229. 碌 同上, pp.103-104, 183-84, 203, 222-23. 碣 To John C. Lettsom, September, 28th, 1787, Letters, vol. I, p.443. この中でラッシュはこの入浴療法をイン ディアンの療法に倣ったと述べている。 碵 Rush, Diseases of the Mind, pp.103, 222. 碪 同上, pp.203, 222-223. 碯 同上, pp.105-106. 磑 同上, pp.237-38. 磆 同上, pp.238-39. 磋 同上, pp.241-42. 磔 同上, p.243. 碾 同上, p.174. 碼 同上, pp.174-75. 磅 同上, pp.175-78. 磊 同上, pp.178-81. 磬 同上, pp.181-83. 磧 同上, pp.182-83. 磚 同上, p.183. 磽 同上, pp.191-93. 磴 同上, pp.366-67. 礇 Rush,“Lecture on the Medical Juriprudence of the Mind,”In Auto, p.350. 礒 刑罰および刑務所改革については、拙稿「犯罪、身体、刑罰|共和主義者の刑罰改革」『東京成徳大学 人文学部研究紀要』第7号、2000年。 79 東京成徳大学研究紀要 第 8 号(2001) 礑 礙 Rush, Diseases of the Mind, pp.138-39. Szasz, The Manufacture of Madness, p.154. 礬 同上, p. 139. 礫 Rush, Diseases of the Mind, p.65. 祀 同上, pp.41-42, 66-67. 祠 Rush,“An Account of the Influence of the Military and Political Events of the American Revolution upon the Human Body (1789. 以下“American Revolution upon the Human Body”),”In Medical Inquiries and Observations (Philadelphia, 1815), pp.132-33. 祗 Rush, Diseases of the Mind, p. 68. 祟 同上, pp. 70-71; Rush,“American Revolution upon the Human Body,”p.134. 80
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