北京オリンピックにみる中国と台湾の「外交」問題

北京オリンピックにみる中国と台湾の「外交」問題
李
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仁愛
はじめに
2008 年 8 月,第 29 回目の夏期オリンピックが北京で開催される.アジアで夏期オリンピックが開
催されるのは,1988 年の韓国・ソウル大会以来 20 年ぶりであり,中華人民共和国での開催は初めて
である.北京市内を見学すると,「One World,One Dream」という大会スローガンが書かれた看板が至
るところで掲げられ,また,主要な観光スポットでは大会マスコットグッズも販売され,人々の意識
を高揚させる.メイン会場である“鳥の巣”と呼ばれる国家体育館を中心に,市の北側に位置するオ
リンピック公園周辺の関連施設の建設は着々と進行している模様だ.市中心部においても,建設ラッ
シュと言わんばかりに,工事現場やクレーン車の多さが際立って目に入る.中国当局の発表によると,
オリンピック期間中,北京を訪れる外国人の数は 50 万人と推計される.
北京での夏季オリンピック開催が決定したのは,2001 年の IOC1) 総会でのことである.大阪,パリ
など 4 つの都市と招致合戦を繰り広げた結果,開催地に内定した.最終決定要因として,IOC は,世
界一の人口大国であり経済成長の著しい中国での開催という商業的要因を挙げた.しかし必ずしも国
際世論は同調しなかった.中国における一党独裁政党の共産党政府の政治姿勢に対する批判,特に人
権軽視,環境・衛生問題,倫理的観点からの国際社会における姿勢が問題視された.そのなかのひとつ
として挙げられるのが,台湾の中国帰属問題である.台湾はオリンピックをはじめとする国際競技大
会や,国際組織において,「チャイニーズ・タイペイ」という呼称を用いられている.国であって国でな
い,独立国として認められず,場面によって呼称が使い分けられる複雑な立場である.本稿では中台
関係を歴史的に検証することからはじめ,北京オリンピックにおける中国と台湾の両岸問題を取り上
げ,それがいかに政治的問題をはらんでいるかを検討したい.
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台湾の歴史
台湾の歴史は外部からの支配と抑圧によって形作られている.17 世紀前半はオランダ,スペインに
よる植民地支配を受け,後半は清朝との戦いに敗れ逃れてきた明朝の鄭成功の本拠地となる.鄭成功
の死後,清朝の福建省に隷属され,大陸からの移民たちによる開拓が行われた.しかし 19 世紀末,朝
鮮内乱をきっかけに始まった日清戦争に勝利した日本が台湾の統治権を得,ここから約 50 年間,台湾
は日本の支配下に置かれることとなる.清朝政府による日本への台湾割譲に反発した住民たちは激し
く抗日運動を展開,約 5 年間続いたこの紛争において 1 万人以上の台湾人が命を落とした.1945 年,
太平洋戦争に敗戦した日本は台湾の所有権を放棄し,代わって中国(中華民国)の国民党政府がその
実権を握り,総統である蒋介石は二・二八事件などを徹底的に弾圧し,恐怖政治をしいた.当時国民党
は毛沢東率いる共産党と内戦状態であり,戦況も芳しいものではなかった.1949 年の国共内戦で完全
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に敗れた国民党政府は台湾に移住,これ以降事実上の国民党政府の蒋介石による台湾の直接統治が行
われることとなった.40 年以上続いた戒厳令や,知識分子・不穏分子を排除した政策に見られるよう,
独裁的な性格が強い反面,日米との経済的つながりによる工業の発展や国連安保理の常任理事国とし
ての地位もあり,国民の生活水準は向上していく.ところが 1970 年代に入ると共産党による大陸支配
が安定し,中華人民共和国を中国の代表として承認しようする動きが強まった.このときは二国とも
大陸と台湾はひとつの中国であるという見解を示したため,中華民国の国連脱退,かわって中華人民
共和国の国連加盟が決定した.これ以降,台湾は国際的に中国の一地方として位置づけられることに
なり,日本も大陸中国と国交を樹立し,中華民国との国交を断絶した.これと同様に多くの国が中華
民国と断交をしたが,社会的・経済的つながりは維持したままである.その後李登輝が総統に就任し
政治的自由化が進み,蒋経国が経済発展を著しく飛躍させ,現在は陳水扁が総統となっている.だが
国際的には台湾は中国の一部であるという位置づけは変わらず,台湾問題は中国の内政問題として認
識されている.
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台湾の外交体制
台湾の正式名称は中華民国(Republic of China,R.O.C)である.国際社会においては台湾(Taiwan)
または中華台北(Chinese Taipei)が多用される.2007 年現在,台湾と正式に外交関係を樹立してい
る国は 24 カ国に過ぎない 2) .またその国々はいずれも小国である.国交のない国・地域との準外交的
な活動として,実務外交と呼ばれる経済・貿易・文化交流ならびに技術連携などを通じての実質的な関
係を築いている.今日のグローバル化におけるヒトの動きに対応するため,諸外国との間で実質的に
外交機能を有する「対外機構」を設置し,民間事務所の形によるビザ等の発行業務を完備した.日本に
ついては,台北駐日経済文化代表処が台湾側の大使館的な役割を担い,日本側は交流協会を台北に設
置して,元大使級の代表を派遣するなどして対応している.このような経済文化機構は現在 50 以上の
国と 90 余りの地域に設けられており,相互交流が実現している.
中台関係において,ひとつ大きな出来事と言えるのが,1997 年 7 月に香港が,99 年 12 月にマカオ
が,それぞれ中国に返還されたことであろう.この 2 地域には「一つの中国,二つの地区,二つの政治
体制」を表す「一国二制度」が適用されたが,これは元来,台湾の接収を目的としたシステムであった.
中国側は香港やマカオと同様に台湾を接収・統合し,大中華帝国の復活を夢見ているが,前例ほど簡単
ではないことは周知である.華やかな経済発展を成し遂げた台湾の 2200 万人の国民の自由な活動が保
障されうるかどうかはもちろんのこと,抑圧者と非抑圧者という歴史的関係,また政治的イデオロギ
ーの相違など,問題は山積みである.台湾内においては与党国民党が「中国」の統一名称での統一を示
している一方,野党の一部が台湾の独立を主張する動きも見せている.
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オリンピックにおける両岸問題
(1)「チャイニーズ・タイペイ」呼称問題
この呼び方が認められるようになったのは,1979 年名古屋で行われた IOC 理事会でのことである.
2 章で先述したように,国共内戦の結果,国民党政府が台湾に移住し,そこから中華民国の歴史はは
じまった.中国オリンピック委員会(COC)が創立したのは,その前の 1922 年であるが,この国民党
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政府の移転にともない,COC も同時に移転したことになり,IOC もそれを承認した.だが 1953 年に本
土の中華人民共和国にも中国オリンピック委員会が設置され,IOC は中国における二つの「オリンピッ
ク委員会」の存在を認めざるをえなくなった.台湾海峡をはさんで,両国がオリンピックにおける「呼
称」問題について,議論をはじめたのはこの頃である.59 年には IOC が台湾 COC に,試合において「台
湾(Taiwan)
」または「フォルモサ(Formosa)3」 」の名義を使用することを求めたが,台湾はこれを
拒否,R.O.C の名称の使用という決着に至った.その後,中華民国は国連を脱退,国際社会のなか
で孤立の様相を示す.その流れに追い討ちをかけるかのように,76 年のモントリオールオリンピック
において,開催国のカナダが,R.O.C の名称使用ならびにその国旗である青天白日満地紅旗を使う限
り,台湾からの選手を受け入れないという意思を表明した 4) .これ以降,この問題は中華人民共和国
側が優位に立つこととなる.文頭で述べたよう,79 年の IOC 理事会において,台湾のオリンピック委
員会が「Chinese Taipei Olympic Committee」の名称を用いることになり,旗・歌についてはそれまで使
用していた(中華民国の国旗・国歌)とは異なるものを採用するという条件のもと,オリンピックへの復
帰が決定した.
しかしこの呼称は,限りなく中国側の意図が入り込んだものである.チャイニーズ・タイペイの中国
語表記として,台湾側は正式名称である「中華民国」の名を利用した「中華台北」の名称を主張するも,
中国側のいう「中国台北」の名称を使わざるをえなくなった.台湾においては自らの選手チームを「中華
隊」もしくは「台湾隊」と呼ぶ.一方,中国国内における台湾についての報道をみてみると,そこではは
っきり「中国台北」という名称が使用されている.公式な場での台湾の呼称に関する指導が行われてお
り,そこに台湾を中国の一部・一地域として捉えようとする中国側の意図が見てとれる.台湾側は,1989
年に行われた台湾オリンピック委員会と中国オリンピック委員会の協議に場において,「中国台北」と
呼称せず,本来の「中華台北」の呼称を復活させることを要求しているが,中国側からの返答は芳しい
ものではない.
(2)聖火リレールート問題
北京オリンピックにおける聖火リレーのルート問題も,中国
と台湾の政治的関係が,スポーツの場を借りて顕在化したもの
といえる.当初構想されていた聖火リレーのルートは,ベトナム
から台湾,香港,マカオを経由して中国北京に届くものであっ
た.これに対し台湾側は,1)台湾から香港・マカオを通って北
京に向かうルートは,「中国台湾」から「中国香港・マカオ」へのリ
レー,中国の国内ルートだと認識され,中国の一部だとみなさ
れる危険性のあるルートである.2)中国側の主張する,聖火リ
図 2 チャイニーズ・タイペイオリン
ピック委員会の旗
レー通過中における国旗・国章・国家の沿道での使用禁止は,中華台北五輪委員会が IOC の組織におけ
る一つの国家を代表するオリンピック委員会の一員としての権利を奪うものである.として抗議を行
った.オリンピックの聖火リレーのルートに指定されるということは,オリンピック委員会のメンバ
ーとして,また国際社会における一国家として名誉あるものであり,当初は台湾側も受け入れの方針
を示していた.しかし台湾側の,聖火リレーコースで台湾の前後を「完全な第三国」とするもの,聖火
リレー中の国旗や国歌の使用という要求は中国側に認められず,双方は IOC の指定した期限までに協
議の合意に至ることができなかった.その結果,2008 年オリンピック聖火は台湾を通過しないことが
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正式に決定された.これに対して中国オリンピック委員会は「原因は,台湾が聖火リレーを政治問題化
したことにある」と非難し,委員会の副主席は「責任はすべて台湾にある.IOC メンバーが聖火リレー
を拒絶するとは,前代未聞である」と述べた.一方台湾においては,一部の政治家たちから,北京オリ
ンピックをボイコットすべきだなどの,過激な発言が飛び出す一幕もあった.だがこれについては,
台湾副総統の呂秀蓮氏が,「聖火リレーのルートとオリンピックに参加する・しないは別問題.台湾人
選手の北京オリンピック参加は保証する」と話し,台湾の北京オリンピックボイコットの可能性は否
定した.
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おわりに
「近代オリンピックの父」と呼ばれるクーベルタンはオリンピックのあるべき姿として,「スポーツを
通して心身を向上させ,さらには文化・国籍など様々な差異を超え,友情,連帯感,フェプレーの精神
をもって理解しあうことで,平和でよりよい世界の実現に貢献する」と述べた.しかしオリンピックは
その理想とは裏腹に,政治的道具として使われることも多かった.ここでもう一度考えるべきなのは,
オリンピックの主体は,国民国家ではなく,その国民国家を形成する「人」であるということである.
各国が覇権を争う帝国主義の時代に提唱されたオリンピックの理想は,今日においても真の意味で達
成されていない.中国と台湾,複雑な歴史関係をもち,地理的にも近い位置にあるこの二国は,それ
ぞれの「国家」としての主張に翻弄され,結果的に,オリンピックが国際的かつ国内的な政治の道具と
して,利用されてしまっているという現実がある.スポーツが果たしうるもうひとつの役割,すなわ
ち「国際交流」や「平和」について,再検討を加える時期に来ている.
[注]
1)International Olympic Committee(国際オリンピック委員会)
2)外務省ホームページから引用.
3)フォルモサ(Formosa)とはポルトガル語で「麗しい」という意味.大航海時代,台湾にたどり着い
たポルトガル人がその美しさに,「Ilha, Formosa(イラ,フォルモサ=麗しい島)」と叫んだと伝え
られる.今日の欧米諸国では,フォルモサが台湾の代名詞となっている.
4)カナダは 1970 年に中華人民共和国と国交を樹立した.
[文献]
岡田 充 2003.『中国と台湾:対立と共存の両岸関係』講談社.
楊 中美著 趙 宏偉・青木まさこ編訳 2000.『一つの中国一つの台湾:江沢民 VS 李登輝』講談社.
外務省ホームページ http://www.mofa.go.jp/mofaj/
台湾週報ホームページ http://www.roc-taiwan.or.jp
日本オリンピック委員会(JOC)ホームページ http://www.joc.or.jp/index_joc.asp
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