東京→京都 ママチャリ500 キロの旅

期、親と喧嘩して定期が買えなかった私は、家から学校まで片道約 40
公開コピー誌
キロを 2 時間かけて自転車で通っていた。これを人々に言うと、「そ
東京→京都 ママチャリ500
キロの旅
言われてしまうのだが、「バイトしてカネためて、オンナとデェトし
れはバカだ。カネがなかったらバイトでもすればいいではないか」と
て」という、おきまりの大学生スタイルを嫌悪していた私は、死んで
もバイトなんてしてやるものかと堅く心に誓っており、この上なく貧
乏で不潔なスタイルを学校のアベックどもに見せつけるべく、汗だく
暗黒通信団
の自転車通学を選んだのである。最初の頃は足をつったり、ブッ倒れ
て学校を休んでいたものだが、人々の軽蔑と驚嘆の目は、(まさに同
人誌を作るがごとく)何物にも代え難い快感であり、授業とは別の動
機で出席率は非常に良かった。親が私の破綻ぶりを見かねて、強制的
1 はじめに
●
に自動車教習所に監禁するまで、約 1 年もそんなことを続けたため、
諸君!
自転車に対する根性にはそれなりの自信が形成されたと思う。
時代は、自転車である。新幹線など使うのは、軟弱者の印だ! そ
そして大学院進学とともに、昔、東京メトロに対して持っていた私
んなことで、きたるべきセカンドインパクトが乗り切れると思ってい
怨を晴らすべく(そう、非常に貧乏だった私は、定期をなくしたとき
るのか!? (青春 18 切符は許す)
に、全財産がわずか 7 円だったために、初乗りの切符が買えず、日
世の中には、自転車で長距離を乗るのはバカだという信仰がある
比谷公園で蚊に刺されながら浮浪者と酒を飲んで寝たのである。も
が、そんなものは嘘だ! 人力こそ、移動の大前提なのだ。人類史上
ちろん東京メトロは悪くないが、国家に喧嘩を売る勇気のない小市民
最も燃料効率の良い乗り物をバカにし、下卑た悦楽のために、過去の
としては、恨むとしたら地下鉄しかない)東京に自転車を常駐させる
労働者の犠牲のたまものたる鉄道や、自動車道路を、安易に利用する
ことにした。東京という街は、思いのほか小さい街で、私怨を抜きに
とは何事か。
しても、自転車で移動するのが最も効率よい。嘘だと思ったらやって
今回私はそれを示すべく、ろくに地図も持たずに、下調べもせずに
みればいい。切符を買って階段をのぼりおりし、ホームで列車を待っ
京都まで自転車に乗っていった。これはその栄光の記録である。心
て、駅から目的地まで歩いて...... という時間も含めれば、時速 40 キ
してよむべし。そして汝も自転車の道に目覚めるべし!
ロ程度の地下鉄なんてそう速いものでもないはずだ。私は「地下鉄を
使うのは、軟弱な民間人だ」などと宣言し、若さと体力を背景に、23
区のほとんどを自転車で乗り回した。去年は少なく見積もっても一
2序
●
日平均 5 キロは走っていたと思う。
東京と京都の距離は、おおよそ 500 キロ(125 里)である。500 キロ
だが、自転車にいかに親近感があったとはいえ、さすがに理性的な
と言えば、通常は新幹線か大垣夜行、忙しい人は飛行機でも使おうか
私(笑)はこれで長距離を乗ろうとは思わなかった。長距離には「青
と思うだろう。この距離は、国家試験や就職面接に出題されたりする
春 18 切符」というのが貧乏人の常道であり、宿代や食費も考えれば、
ほど有名だが、実感するのはなかなか難しい。マラソン 10 回分以上
自転車などは時間的にも金銭的にも全く効率的ではない。だが、彼
といえば、とてつもない長さだし、新幹線で 3 時間もかからないとい
の、ほとんど江戸時代に逆行したような行動は、私の中の童心にカッ
えば、それほど遠いとも思わない。東京大阪間を日常的に移動してい
と火を付けた。お金を超えた次元で、遠距離の自転車旅行は挑戦的で
るサラリーマンだったら、近いとさえ思うだろう。
やりがいがあったのだ。
しかしまぁ、500 キロともなれば何らかの交通手段を使おうと思う
人間は何かに挑戦し続けねばならない。それが面白いことならなお
のが常識であり、通常、これを人力で走破しようなどと思う人は、あ
さらだ。そして面白いことはさっさとやるのがよろしい。彼の自転車
まりいない。だがそれは、新幹線が余りに便利であるがゆえに、旅の
旅行の計画を聞くや否や、私はその春から京都に進学する友人にメー
本質を見失っているだけなのだ。もっとも、かくいう自分も、知り
ルし、自転車だけを東京に残しておいてくれるように頼んだ。それに
合いにそういう人間がいなかったら、思いつきもしなかったもので
乗っていこうというわけである(なぜなら復路まで自転車を携える余
ある。
裕はなかったからだ)。倦怠期にそんなことをしたものだから、反動
確かに彼はその点で常軌を逸していた。彼は仙台から明石までを
で寝込んでしまい、出発が遅れたりもしたが、寝込んでいたことがか
自転車で走破することを目論み、ある日嵐のように私の家にやって
えって体力的休養となり、後に救いとなったような気もする。
きて、メシを食べ、また雨の中を去っていった。予告されていたとは
とにかくも、これはその「旅」の記録ということになる。「旅」と
いえ、私は「さすだが!」と思い、半ば畏敬の念をもって見ていた。
「旅行」は違う概念である。修学「旅行」は絶対に事故が起こらない
当時は、毎年春先にかかる倦怠期の真っ最中にあった。何をやるにし
ように先生方が綿密な計画を立てて、自由行動もほとんどなく、さな
ても、やる気が枯渇していて、寝ているのか起きているのかもよく分
がら通訳付きのパックツアーのごとく名所旧跡をひきまわされるも
からない呆然とした日々だった。経験上、こういう状態を脱するには
のだ。だが、「旅」というのは違う。わざわざ行き先を決めなかった
「運動」することが良いことを知っていたが、通常のつまらない運動
りして、さまようこと自体を美とする芸術である。かなり治安がよく
はやる気になるはずもなく、何かとてつもなく「面白い運動」が必要
て安全な現代日本にあっては、逆にかなり準備に手抜きをして、常軌
だったのである。去年はアメリカに単身乗り込んだ。その前にはま
を逸した無謀な行動をとらないと、死ぬか生きるかの瀬戸際みたいな
た別の場所に過激な旅にでたような気がする。今年はどうする? 場面には遭遇できない。科学文明下で本当に「旅」を味わうのは、実
迷っていた心はその時、過冷却の水が一瞬で凍り付くように、固まっ
は結構難儀なはなしで、それゆえ真の贅沢とでも呼ぶべきものなので
た。それから 2 日後には自分も同じ道を走っていたのである。合掌。
ある。
少し自慢話を書かせてもらおう。
この本にはさも悲壮に書いてある部分があるが、それを読んで同情
もともと自転車そのものには多少の自信があった。大学時代の一時
1
するのは作者の意図するところではない。作者はそれを楽しんでやっ
センチのところに置いてある。しかしダメなのだ。その最初の 1 秒
ている真性のダメ人間、ホンモノの好事家なのである。これは遠大な
が踏み出せないのだ。それはここ 1 ヶ月ほど続いていた症状である。
ギャグである。それを念頭に置いて読んでいただきたいと思う。
とにかく無気力につぐ無気力。自転車で長距離に挑むというのは、そ
れを何とか打破したいという意味もあった。特に理由なく怠惰が続
くときには、肉体的に思いっきりハードな試練をかましてみるのがよ
3 4 月 6 日 曇のち雨
●
い。それで交感神経と副交感神経のバランスが回復する場合もある。
だいたい、春先は天気が不安定なのだ。本当はこの日の夜に出発する
頭では分かっているのだが、つまらない講義をつい自主休講してし
予定だったのだ。そして滅多にいけない横浜のW氏の家に泊めても
まうが如く、理性だけではどうにもならないものなのである。これは
らって、7 日には早朝に横浜から出発する予定だったのだ。そういう
苦痛であるし、自然状態とは言いがたいから、やはり病気の一種なの
話を遥か前からしていて、先方さんの了解も得ていたのに。
だろう。そんなことをダラダラと考えながら、やっぱり眠ってしまっ
雨である。それもどしゃぶり。
た。まったく惨め。
何と縁起の悪いことか。もちろん雨なんか無視して特攻するという
だが、天気予報に反して、雨はもう降らなかった。そして真夜中に
のも一つの手であったが、常識的見地からすれば、真夜中にずぶぬれ
なって徐々に湿度が低下してくると、夢の中で頭のどこかがクリアに
のタヌキみたいな生物が、全身から雨水を滴らせながら家に上がり込
なってくるのが感じられた。空回りしていた妄想が鎮まり、思考のお
んでくるのは、W氏の家人にとって、たまったものではないだろう。
おもとの大車輪がゆっくりと動き出す。あ、これはいい感じだな、と
というか、そういう屁理屈をつけて、要するにやる気が萎んでし
夢の中でもう一人の自分が呟いた。
まったのだ。人間、低気圧が来ると眠くなるものである。午前中いっ
東京から京都まではA氏の資料によれば 525 キロ。明日の朝に出
ぱいを掛けて、研究室の用事を済ませ、夕方家に帰ると、もう精神力
発するとして、京都観光も考えれば、これを実質 4 日で走破しないと
は枯渇してしまっていて、何もかも全くやる気がおきず、図書館から
いけない。不慮の事態に備えて 1 日の余裕を取るとすれば、計画段階
借りてきた京都見物の本を朦朧とした目で眺めながら、いつのまにか
では 3 日で走破するように考えないといけない。となると 1 日あた
寝いってしまった。春はあけぼの、とは誰のセリフだったか。それは
り、170 キロ。自宅から東京都心までが約 30 キロだから、自宅東京
きっと間違いだ。「春はあほぼけ」が正しい。受験が終わった受験生
3 往復くらいの距離を乗らないといけないわけだ。実感の掴みにくい
のように、緩みきった運動神経は、脳がどんな電流を流そうが微動だ
人向けに書くならば、自宅東京都心間は JR の快速電車で 40 分くら
にしてくれない。
いの距離である。経験上、東京まで 1 往復するのに自転車ではどん
とはいえ、このまま短い春休みが、ありがちで怠惰な日常に埋没し
なにとばしても 4 時間はかかる。信号が少ないとすれば 3 時間くら
てしまうのももったい話だった。4 月 12 日(月)
、つまりあと 1 週間
いでいけるだろう。ゆえに一日 9 時間の自転車。しかもこれは全て
以内には、書評誌の編集会議のために、東京に戻らねばならぬ。それ
平地であることを仮定している。実際には起伏があるはずだから、こ
でなくとも、指導教官先生には、まさか実験機械を放ったらかしにし
う単純には行くまい。しかも長時間乗れば、それだけ疲労がたまって
て京都に遊びに行きますとは言えないから、家の用事で欠席しますな
ペースも落ちてくる。疲労をためすぎると、次の日に影響する。こう
どと適当なことを言ってある。もし期間内に帰れなければ自宅に電
考えるともう、これはただ事ではない。鉄人レースみたいなものだ。
話がかかってきて、どんなことになるか分かったものではない。京都
一刻も早く出発しなければ、あとで大変な後悔をすることになるかも
自転車遠征計画は、実行期間が限られているのだ。私はやらねばなら
しれない。
ぬ。鉄道に乗ってぬくぬくと旅行をする衆愚に、一泡吹かせてやらね
手がぴくりと動いた。午前 4 時にセットした携帯電話のアラーム
ばならぬ。だいたい京都のH氏やI氏にも 10 日までには到着すると
が鳴るまで、ぐっすり眠ろう。睡眠剤を飲む夢を見て(なぜなら睡眠
メールしてあるじゃないか。ブッ倒れている暇があるのか。悔しく
剤は実際にはちっとも減っていなかったのだ)、ぐっすり眠った。
ないのか、今寝ていてどうする、とまぁ、頭では思うのだが、体は春
先の低気圧には勝てない。脳内の際限ない葛藤の末、「次に目があい
4 4 月 7 日 快晴
●
たときに晴れていたら出発しよう」などという妥協案が提出され、瞬
時に了承されて、そのまま一気に眠りに堕ちていった。
夕方、ふと目があいた。しとしとと音がする。やっぱり雨だ。「こ
1 出発の朝
◆
れはきっと今出かけるのはヤバイという虫の知らせだ」などと理系ら
天気予報はこれから 3 日間は晴れだと言う。あてになるかどうかは
しからぬ屁理屈をこね上げ、本来は準備を完了しているべき時間なの
不明だが、衛星写真の雲の動きを見る限りは、3 日くらいはもってく
だが、無視してそのまま寝る。やる気なし。全くなし。
れそうである。よくある歪んだ見方だ。
夜にまた目があく。だらだらしているときは、深くも眠れないもの
準備には注意した。何せ人力であるゆえ、荷物は最小限に押さえな
だ。とにかく浅い睡眠がだらだら続く。ここいらで精神科にでも行っ
ければいけない。実は後になって荷物に関してもっと効率の良い方法
てきつめの睡眠剤でももらってくるのが正しいのかもしれない。雨は
を思いつくのだが、とにかくこの時点では、重い荷物は徹底的に削減
やんでいたらしかった。だが天気予報によれば今夜いっぱいは雨だっ
するべく、ノートや着替えにいたるまで、念入りに削減した。その結
た。準備をしていれば、ここで起き出して出発することも出来たのだ
果、荷物は小さめの鞄におさまるくらい、ママチャリの前かごに余裕
が、準備は全くしていなかったし、やる気ゲージはマイナスを示して
で入るくらいにまで減った。3 泊のサバイバル系の旅にしてはかなり
いた。W氏に電話を掛け、今日の出発は延期する旨を伝える。本当は
少なめと言ったところか。寝袋や傘は天気予報を信じて持っていくこ
延期していたら間にあわないのだけれど。彼は聞くからに残念そう
とをやめる。ノートは解体して記録用の数ページだけ。コンピュー
だった。けれどもこれでは全くダメだ。許せ。準備の気力すらない。
タ類は一切持参せず。着替えは 1 着のみ。非常事態を考えればきり
この種の国内旅行に何を持っていくかは、実は長年の経験からリス
なく色々と必要になるが、そこはぜんぶ知恵と勇気で乗り切るとし
トを作ってある。そのリストに従えば最短 10 分で旅の用意など出来
て、情報ツールは携帯電話だけ。パンク修理キッド、携帯用空気入れ
てしまう。そしてそのデータはプリントアウトして、ベッドから 70
2
の類も一切持参をやめた。というのは経験上、パンクをするのは段差
の、さすがは関東平野であり、慶応三田校舎をこえて、品川区に突入
や砂利が多い都市部であり、都市部には自転車屋があるだろうからで
したのは出発からわずか 30 分後、8 時 30 分である。そのままノンス
ある。殆ど詭弁の世界だが、もし誰もいないところでパンクしたら、
トップで走り、川崎市に入ったのが 9 時丁度。ここいらでW氏に電話
それはその時で考えようと思った。そもそも借り物の自転車であるゆ
を入れて 10 時に横浜中央郵便局で待ち合わせることにした。天気は
え、パンクするような乗り方自体が遠慮されるべきである。まぁ、つ
快晴。春の風が冷たく気持ちいい。彼は横浜から戸塚まで一緒に走っ
まり何も考えていない。地図は必要部分だけを 3 枚のコピーにした。
てくれることになった。旅は道連れという。交通事故を起こしても、
お金をけちるべく、縮小の白黒コピーである。この情報不足が後で悲
一緒だったらなんとなく救われているような気がしないだろうか。
惨な事態を招くのだが、それはあとの話。旅というものは、情報があ
ところで、確かに電車賃がもったいないときは、疲れもほとんど来
りすぎてもいけないし、なさすぎても危険だ。その辺のバランスが面
ない自転車は便利であるが、こと京浜道路に関してはやめた方がいい
白いのだ。(詭弁)
かもしれない。というのは、自動車の排ガスがすごいのだ。春先に普
通に乗っていてすら気持ち悪くなってくる。夏あたりに行ったら光
化学スモッグで泣きをみるだろう。一時的なものだろうと思って我
2 日本橋
◆
慢していたが、実はこの傾向は横浜を過ぎるあたりまで続く。
東海道の起点は言わずとしれた東京都中央区「日本橋」である。デ
パートで有名な地区だ。日本橋は地名でもあるが、実はそういう名前
の橋が現在でも実在し(いつできたかについては 2 説があるためここ
3 横浜
◆
では触れない)、東海道起点の彫り込みがされている。川の上には首
その横浜市に入ったのは 9 時 50 分。川崎市は横に長い市であるか
都高が通っていて風情も何もあったものではないが、とにかく、東海
ら、縦に抜けるのはそうつらい話ではない。しかし神奈川県の半分を
道制覇をしようと思ったら、ちゃんと意地でも日本橋から出発せねば
占有する横浜市は、とにかくでかい街であり、市に入ったからといっ
なるまい。朝の 7 時に私は文京区の某所から自転車を回送してきて、
ても、中心部にでるまでは、また延々と走らなくてはいけない。東海
わざわざ 30 分も掛けて日本橋という名の橋を探し求めた。以前に自
道本線で東京横浜駅間は約 30 分。これが自転車だと約 2 時間半にな
転車で東京探検をした際に、そういう橋があることは知っていたのだ
る。東海道本線は時速 100 キロほどであるから、単純計算で自転車
が、見つけるのは案外に大変だった。何だかバカみたいな話だが、そ
は時速 20 キロ。まぁそんなものだろう。信号でしょっちゅうとめら
ういうところにこだわってしまうのが、人間というものなのである。
れてるにしては、速いというべきかもしれない。
とはいえ、いざ日本橋に立ってみると、周囲には秒単位で慌てるサラ
待ち合わせの横浜中央郵便局は駅の東口にある。新子安あたりの
リーマンばかり。「ちょっと写真を撮ってもらえませんか」と言える
陸橋で国道 15 号に乗り換え、とにかく広くてまっすぐの道をひた走
ような雰囲気ではない。ここでそれが言えるくらいになれば、オバサ
る。あまりに淡々としているので不安になり、道行くおばさんに「横
ンになれるのだが、まだ私はそこまで悟っていない。仕方がないので
浜駅はまだスか」と尋ねたが、「あなた自転車で駅まで行くの? 凄
橋だけを写すことにしたが、露光切り替えスイッチを間違っていて、
く遠いよ」という返事が返ってきた。何だかずれてる。京都まで行く
謎の心霊写真になってしまったと知るのは、それから 1 週間もあと
つもりだと言ったらどんな反応を示すか楽しみだったが、心臓発作で
の話。
も起こされたら嫌なので、そのままお礼を言って先を急いだ。民間人
をいじめるのは楽しいなぁ。
とにかく日本橋である。W氏に電話を入れて、午前 8 時ぴったり。
横浜の駅前は分かりにくい。第一京浜と第二京浜はいつのまにか
南へ向けて出発だ。最初の目標は横浜である。一人で力んでいる姿
合流していて、駅前を通る高速道路のジャンクションの下で複雑な曲
は、なかなか怪しかったに違いない。
ここで少し解説を入れよう。現在、在来道で東京から横浜に向かう
線を描いており、余所者には何がどこにつながっているのか分からな
には、大きく 2 つのルートがある。京浜急行とほぼ併走していく道
い。青い行き先標示を見ても、聞いたこともない地名が並んでいると
が国道 15 号線(第一京浜)、霞ヶ関から五反田、尻手を経由してい
非常に不安になってくる。しかも工事のせいで歩道はさらに複雑な
くのが国道 1 号線(第二京浜)である。通常は近道である第一京浜
経路を辿っていた。地図類はほとんど持ってきていないし、仮に持っ
(海沿いの道)を使うのだが、五街道が整備された江戸時代には、ま
てきたとしてもこんな近距離の拡大地図はなかったろう。郵便局の
だ品川区の海沿いは埋め立てなんてされてるはずもなく、国道 1 号
場所は、妥協して人に聞かないといけなかった。
(第二京浜)が最も海沿いの道だった。ゆえに厳格に東海道を踏襲す
道行くサラリーマンの人は言った。
「あ、目の前のそれだよ」
。
るなら、第二京浜の方を走らなくてはいけない。こういうことに変に
確かにそれは郵便局だった。サラリーマン氏は笑って去っていっ
意地になるあたりも人間味と言おうか。とにかく、網の目のような東
た。なんだかなぁ。W氏はまだ来ていなかった。まぁ休憩も必要だ
京の道路から、国道一号だけを選んで走るのである。簡潔にルート説
ろう。
公共建造物は、旅においては重要なポイントである。まず気がねな
明がなされてるA氏の公開メールから引用しよう。「日本橋を出てす
ぐ右折。国道 15 号と分かれる。横浜までは国道 15 号の方が近いが、
くクーラーを浴びられる。水が無料で飲める。地図が手に入る。椅
走ったことないのでどっちが大変かは不明。1 号を通ると東京駅北を
子もある。トイレもある。
熱をもったふくらはぎを冷やしつつ、あとで旅行記でも書くときの
通り、外堀のところで左折、日比谷公園の近くで右折、桜田門で左折
ためにメモを取った。
するコースとなる。三田で右折があるので注意。あとは五反田駅の
しかしこの時私は、後悔と共に非常に重要なことを思いついた。そ
下をくぐりひたすらまっすぐ。
」
東海道においては、江戸の出口は品川であった。現在はその南に
れは「局留め」の概念だった。あらかじめ家から、街道沿いの郵便局
大田区があるが、江戸時代には品川の宿までが江戸と定義されてい
に「局留め」で衣類や食糧を送っておけば、荷物は軽くてすむし、送
た。ちなみにこの地名も、かつて品川という川があったからだそうだ
料を考えたとしても、地元のディスカウントストアで一括購入できる
が、今は知る由もない。起点日本橋からは 2 里。A氏のくれたデータ
分だけ、現地のコンビニで調達するよりも経費は削減できるのだ。コ
によれば、10.6km である。案外近いものだ。微々たる起伏があるも
インランドリーにお金を払うくらいなら、送料にした方が良い。汚れ
3
た衣類や通過してしまった部分の地図、土産や記念品など、自転車旅
んどんひどくなり、雷まで鳴りはじめた。
「これはいかん」
、私は雨宿
行にとって邪魔なものは現地から家に向けてまとめて郵送してしま
りをするべく、近場の公共施設と思われる建物に逃げ込んだ。
えば、適宜必要なものを最小限だけ持ち運ぶことになる。地図なども
ここで私は一つの物体について語らねばならない。その物体は人
詳細なものがいつでも手元にあることになる。局留め郵便物は通常 1
間状で、「嫌な奴」と呼ばれている。我々はかつてこの物体について
週間程度は郵便局で保管しておいてくれるものなので、19 時まで開
の研究で大いに名を馳せたものである。この物体は、人間の振りをし
いている集配局に送っておけば、時間の融通もかなり利くではない
て就職活動をしたが、企業の人事部に物体であることを見抜かれて
か。あいた領域に寝袋でも詰めておけば、宿代まで浮く。「どうして
しまい、仕方なく小田原で合資会社を設立した。小田原と言えば「嫌
これを思いつかなかったのか」と後悔した。
な奴」の本拠地として、知人の間では名高い。このことを私も良く
W氏は 20 分ほどして来た。ドライバがなくて付けそこなった自転
知っていたが、あえて踏み込もうとは思わなかった。だが、私が逃げ
車用速度計(間抜け)と、使い終わった東京のポケット地図を押し付
込んだ公共施設には、非常に興味をそそる文字列が刻まれていたの
け、一緒に戸塚まで走ることにする。JR の線路に従って保土ヶ谷駅
だ。
『法人登記簿閲覧係』
。そう、その建物は他ならぬ「法務局小田原
の横を抜け、平戸の山を登り、A氏の助言メモに従って、不動坂で左
支局」であったのだ。法務局とは、法人登記をする場所である。つま
折した。ここはバイパスになっていて、戸塚駅の前を通るのが自転車
り合資会社の登記簿も、そこに保管されているのだ。雨宿りをするあ
的に正しいのである。この時点ではまさか、あとで自動車専用道路を
いだ、私は多少の金銭を払い、合資会社の登記簿をコピーしてもらっ
走りまくることになるとは思ってもいなかった。私自身は横浜市内
た。それは手数料以上に笑える代物であったが、それは別の話、別の
の構造を全く理解していないため、W氏とダベりながらついて行くだ
機会にお話ししよう。
けだったが、後で横浜区分地図をみると、西区、保土ヶ谷区、南区、
雨があがり、青空が見え始めたところで、再び自転車をこぎ始め
戸塚区という順に通ったようだ。W氏が権太坂のあたりでしょうも
る。夕方 4 時半。昔の人なら男も女もここで宿をとったものだそう
ないギャグを口走ったことを憶えているが、その詳細までは記録にな
だ。だが、今の私には時間がなかったし、「嫌な奴」のお膝下には 1
い。名言は細かく記録しておくべきである。江戸時代の旅人は、どん
秒でも長居したくはなかった。夕焼けの中、これから箱根は越せるだ
なに貧乏でも旅日記だけはきっちり付けたそうであるし。
ろうか?
戸塚駅界隈で「BYG」と書かれた、とてつもなく不味いジュース
をのみ、ラーメンを食べて別れた。余談だが、このラーメン屋、「て
5 箱根
◆
んてまり」という名前で 735 円の割には、やたらに量がある。
かつて小学校の頃、音楽の時間に滝廉太郎の歌曲というのがあった。
「箱根の山は天下のけん」という歌である。
「箱根」も「山」も「天下」
4 小田原
◆
も漢字なのに、「けん」だけはひらがなだった。この「けん」とは何
戸塚駅前で写真を撮ってW氏と別れたとき、すでに午後になってい
であるかということでガキ大将連中が首を傾げていたが、当時私は頑
た。ゆっくりし過ぎたのだ。心なしかスピードがあがる。今日の目
として「犬」だと思っていた。
「箱根の山は天下の犬」
。つまり、きっ
標は最長で静岡である。もはや絶対無理だ。最短でも箱根を越える
と箱根の山は犬のように吠えて、通ると山にかみつかれてしまうの
ことが必須である。しかしこれも危ない。もしこのペースで行って
だ。先生は「これは箱根の山がとても険しくて大変だという歌です」
いたのでは、4 日あっても到底上洛できないだろう。自分の自転車で
と解説した。「険しい」という単語の意味は分からなかったが、「危
あればリタイヤしてクロネコに自転車だけ送ってもらうという手も
険」の「険」の字であるからして、危ないんだろうと思った。だから
あったが、しかしこの旅行のためにわざわざ自転車を借りた手前、そ
やっぱり箱根の山は犬なんだと思っていた。折りしも社会の時間に、
れはやりたくなかった。何としても京に上るためには、夜を徹してで
箱根にはやたら厳しい関所があったことを習ったし、五代将軍が犬を
も走らなくてはいけない。しかし徹夜でフラフラの運転をして、白昼
過剰に大事にしたことを習ったものだから、きっと箱根には江戸幕府
堂々とトラックに轢かれる図を想像するに、やっぱりそれもいけない
が秘密にしていた何かがあったに違いないと、堅く信じていた。いく
と思うのだった。初日からして、悲惨な心境だ。しかし実は、その先
ら何でも山が人を喰ったりすることはないだろうから、きっとこれは
に待っていたのはもっと間抜けな状況だったのである。
バミューダ海域と同じで、学研の本に載っていた「古代超文明」とい
茅ヶ崎市に入ったのは 13 時 57 分。このあたりから、国道一号は
うやつに違いない。徳川幕府はきっと箱根山中で古代人類に関する
片側 1 車線になる。平塚市 14 時 15 分。大磯町 14 時 40 分。ちなみ
重大な秘密を見つけていて、それを外国に知られたくないから鎖国を
に大磯郵便局は国道 1 号沿いにあるので、前述の局留め送りに適して
したのだ、などと理屈づけをしてした。それでも、とにかくテストの
いる。とはいえ、ここはまだ近場だから、実際に局留めで使うことは
点だけはよかったので、誰も文句は言わなかった。
ないだろう。大磯町までで中央区から約 80 キロである。一日 170 キ
その後、車で箱根を通ることは何度かあった。伊豆に授業に行った
ロを走るとすると、これでようやく半分だ。なんと途方もない距離で
ときや、スキューバダイビングに行ったときである。その時、犬はい
あろうか。既に全身が火照っていて、この倍を乗るかと思うと、げん
なかったが、とんでもない坂であることは知っていた。だが、車で登
なりし、心理的に負けている。
る坂と、自転車にとっての坂は、さらに全然疲労の度合いが違うので
ある。それを私は甘く見ていた。
初めて小田原市という看板に出会ったのは 16 時であった。日は傾
きかかっており、入道雲のような雨雲が空いっぱいに広がりつつあっ
加えて私は、箱根の地形を全く把握していなかった。国道一号を際
た。またしても天気予報に裏切られたわけだ。晴れを信じて雨具を
限なくまっすぐ行けばいいにちがいないと思っていて(実際それは間
持ってこなかったのに、初日からして裏切られるとは。ぼつりと水滴
違いではないのだが)どこまでが登りで、どこまでが下りなのかの資
が顔にあたる。「参ったなぁ」と呟いたが、まだ傘を買おうという気
料を全く持ちあわせていなかった。私は箱根町で本屋の前を素通り
分にはならなかった。雲の動きからして、ニワカ雨に違いないから
し、代わりに一袋 100 円のミカンを 2 袋買い込み、意気揚々と山中
だ。国道 1 号は小田原の中心部でいったん T 字路にぶつかる。これ
に乗り込んでいった。
を左に折れ、また右に曲がって行くのがルートである。だが、雨はど
4
■ 箱根湯本
る邪魔な鉄の塊だった。それまで快調に時速 20 キロをキープしてき
登ってる当時には、事前準備を怠った私は地図一枚もってなく、箱根
た私は、箱根に来て、時速 2 キロ(上り坂徒歩)にまで落ち込んだ。
の地理など全く理解していなかったが、まぁ、ここでは利便のため、
温泉の明かりが見えたが、もう周囲は暗くて何だか良く分からない。
先に地理を書いておこう。実は「旧東海道」というのはこれから書く
「地図だ、地図がないとどうにもならん!」私は森の中で一人叫んだ。
道筋とは違った道で、そちらには温泉街がないため、分岐点で散々に
反響は全くない。森の中で声を出すと、なおさらヤバさがしみてき
迷った挙げ句、「旧東海道」ではない国道一号を通ることにした。さ
た。焦ってくる。
すがに夜中に山道を登ろうというのだから、民家があった方が良いに
確かに峠までの距離が分からないと、所要時間の出しようもない。
違いないということである(分岐点にさしかかる頃には既に意気消沈
それがたとえ途方もない距離だったとしても、全くわからないよりは
していたことも事実だ。
)
。これがバイクなら、迷わず近道を通るに決
戦略が立てられる分だけ、焦燥感が減るだろう。箱根は常識的に車で
まっているが、何せママチャリであるので、油断は禁物である。地図
くるものだから、道沿いに案内板が立っているわけでもないし、三島
がない時点で油断しているとも言えなくもないが。ちなみにこの「旧
まで二十数キロという国道の青い案内板以外、情報は皆無に近かっ
東海道」は小田原から西に向かって箱根登山鉄道で 4 駅、「箱根湯本
た。箱根八里... と呟いてみる。32 キロ。もう 10 キロも来たじゃな
駅」の手前から左に分離し、西ヘむかって須雲川沿いに芦ノ湖畔ま
いか。
で、何もない山中を貫いている。国道一号の方は、そのまま真っ直ぐ
むなしい。
早川と登山電車沿いに登って行き、いくつかの温泉を経由したあと、
しかも、その案内すらも、夜で見えなくなりつつあった。「ホー
宮ノ下温泉を過ぎたあたりで左に曲がり、これまた何もない山中を貫
ホー」という鳥の鳴き声がする森の中で、片側一車線。霧が立ちこ
くのだが、国道一号の方がやや真空地帯の距離は短いようだ。
め、人ひとり車一台も通らない。ところどころ、ランプの切れかかっ
というわけで、まずは小田原から箱根登山鉄道と早川に沿って登っ
た街灯が濡れたアスファルトを照らす。これが天下の国道 1 号だろ
ていくのである。箱根町というのは神奈川県側であり、箱根峠を越え
うか? どこからトトロが出てきても不思議ではない。
て静岡県にはいると三島市である。小田原市を脱して「箱根町」の看
板を過ぎると、まさに渓谷の麓といった感じで、風は肌に冷たく、夕
■ 大平台温泉
日がことさらに不安感を煽る。だがまぁ、夕七つで閉門してしまった
大きなカーブを曲がると、そこに温泉街がひらける。大平台温泉であ
昔ならいざ知れず、夜型現代人としては、ここで踏みとどまるにはま
る。もちろん当時は温泉の名前すら知らなかった。登山鉄道の駅がか
だ時刻が早すぎる。今までのペースから行けば、山道であることを加
いま見え、そのふもとに一軒のラーメン屋がある。夜になり人通りも
算しても、夜の 10 時くらいまでに峠を抜けて三島市に入れるだろう
なくなると、さっさと店じまいしてしまうのだろう。今まさにその店
し、そこでゆっくり休息をとれるだろうと計算した。東海道一の伝説
は閉店になろうとしていた。旅人にとって、食べ物屋は貴重な情報源
的難所を、宿題として残したまま寝るのは、まったく気分が悪いとい
である。ここで地図を見ようと、私は閉店間際に飛び込んだ。もはや
うものだ。どうせ山中には温泉があるのだから、くたばったらそこで
気温は一桁台だったろう。汗は湯気となって、全身から立ち昇ってい
温泉につかってゆっくりしよう。
た。店の主人は奇妙に思ったに違いない。登山鉄道で来るにしても、
箱根湯本までは、変速を最低に落とし、まぁところどころで休憩す
車で来るにしても、汗だくになる要因なんてどこにもない。ラーメン
れば立ちこぎで何とか登ることが出来た。途中、箱根新道という有料
を注文すると、「犬が出ましたか?」と聞かれた。聞くに、この地域
道路の入り口(近道)があるのだが、自転車で通過しようとすると、
では野犬の群が人を襲ったりするそうな。まさに箱根の山は「犬の天
料金所で門前払いされた。仕方あるまい。旧東海道との分岐はこの
下」だったのである。全く、聞けば聞くほど不安になる材料ばかりが
あたりである。旧東海道の方が距離は短いが、途中に何もないため危
増えてくる。私はそうではなくて、自転車できたのだと言った。そし
険だ。どうする? 悩んだ末、やはり国道一号を通ることにした。こ
て悴んだ手を暖めながら地図を見せてもらった。
の先に広がる苦難を肌で感じていたのかも知れない。湯本駅界隈は観
愕然とした。箱根湯本からここまで苦労して、いまだ峠までの 5 分
光客で栄えていたが、いざ戦地へ臨まんとする孤独なチャレンジャー
の 1 すら来ていないではないか。これはダメだ。どこかで泊まらな
にとって、皮相なお土産など邪魔以外の何でもない。
いといけない。店の人は良い人であった。「旅館は全部予約制ですか
登山鉄道の箱根湯本駅を過ぎ、箱根湯本温泉なる温泉郷を過ぎる
らね。いきなり行って泊めてくれるところなんてありませんよ」と言
と、急な登りにさしかかる。道は左右に曲がり、とてもママチャリで
いながらも、知り合いの旅館に電話を掛けてくれた。なるほど確か
は乗ったまま走ることが出来ない。しかたがないので湯気をふいて休
に、カプセルホテルじゃあるまいし、いきなり予約もなしに攻め込ん
憩してから、押して歩くことにした。向こうから車に乗ったおばさん
でも料理の都合もあるだろうし、断られるのが当たり前かも知れな
団がやってきて、私を見て物笑いにした。「若いのねぇ」とか「ダイ
い。電話の向こうでは露骨に嫌がっていた。そこをラーメン屋の主
エット?」とか「峠まではまだ相当あるわよ」等々も文字列を浴びせ
人が何とか頼み込んだ。
てきた。適当に生返事をして、逆に峠までの距離を尋ねたが、納得い
「何とか泊めてくれるそうだよ。どうする?」主人が電話をつなげ
く回答は得られなかった。地図もない中で「相当の距離」という単語
たままこちらを向いた。
「いくらでしょうか?」と私は聞いた。
「9000
だけが、脳裏に焼きついた。「これはやばいんでないかな。もしこの
円」ぶっきらぼうに返事がかえってきた。まさかこんなピンチになっ
まま全山を押して歩くことになったら、本当に徹夜になってしまう」
。
てカネ勘定するとは思ってなかったらしい。「泊めてくれるだけでも
おばさん団は「おほほほほ」と笑って、車に乗り、去っていった。そ
ありがたいと思え」と言わんばかりだった。だが私は貧乏学生だっ
りゃぁそうだろう。彼女らは車内から適当に周囲を眺めているだけ
た。9000 円は高すぎる。それは明らかに予算を大幅にオーバーして
なのだから、土産話とメシとコストのことは考えても、距離のことな
いた。それだったら徹夜の方がまだよい。一瞬の躊躇の後、私はこの
んて頭にないに違いない。自転車で箱根を登ろうというのは、単なる
好意を無碍に断った。
クレージーでしかなく、土産話に不潔な華でも添えることだろう。
私の決断はこのラーメン屋の信用をいたく傷つけたに違いなかっ
小田原から 1 時間。もはや自転車は押して歩くだけであり、単な
た。日本の田舎というものは、こういう人のつながりが大事なのだ。
5
そちらから頼んでおいて取り下げとはなんだ、ということになるのだ
の他 3 日くらいなら耐えられそうなくらいの食糧を買い込み、特攻
ろう。それは肌で感じられた。気まずい雰囲気が流れた。店の主人
兵のような(どんな?)形相で自転車を押し始めた。少し重いが仕方
は敵意を持った視線であえて宙を睨んだ。何も言わなかった。私も
あるまい。犬が出たら、花火の水平掃射で威嚇し、自転車で坂を下っ
何も言わなかった。私は 1000 円札をおいて、「ありがとうございま
て逃げることにする。まぁ、これだけの急坂なら速度も十分出るだ
した。おつりははいりません」と言い、そそくさと店を出た。ちなみ
ろう。
にラーメン代は 750 円だったのだが。この店の一件は、今回の旅行
嫌みなほどに星が綺麗だった。森の切れ目で、しっかりと 4 等星
程の中で、精神的に一番辛いものだった。正直なところ、お金が全く
まで見える。天の川までくっきりだ。今頃あの辺の温泉では、バカな
なかったわけではない。非常用の準備金を用意してある。だが私は
アベックどもが、平和にいちゃいちゃしてやがるんだろうと思うが、
本能的にケチだった。
もうひとりの自分から、バカはどっちだと言う反論を瞬時に受けてし
これでこの周囲の旅館に泊まれなくなったことは確実だ。という
まって、何も考えないことにした。
ことは先に行かなくてはいけない。私は贖罪を求めて山に登る罪人
のように、重い心を引きずって森へと入っていった。
■ 小涌谷温泉
しかし、襲ってきたのは犬ではなかった。宮ノ下から左に曲がって半
■ 宮ノ下温泉
時間ほど、突如ライトに照らされ、ペッポッパーという愉快なクラク
人通りがないとはいえ、さすがは天下の国道一号線だ。ジュースの自
ションが鳴る。これはさすがに予想していなかった。暴走族だ。こ
動販売機だけは大量にある。コンビニも結構ある。それは何とかな
れでは花火なんて逆効果だ。しかしもう自暴自棄状態になっていた
るのではないかという仮そめの希望を植え付けた。2 時間で 20 %だ
ので、「こりゃ、かなり激しい旅行記が書けるっす。同人誌になるも
としたら、峠までは 10 時間かかることになる。現在午後 7 時。本当
しれんっす」と呟き、停止した。まったく次から次へとよくピンチが
に徹夜になるのかも知れない。9000 円でも泊まってしまった方が良
来てくれる。私はさっと携帯電話の電波状況を確認した。アンテナ
かっただろうか?
は一本も立っていない。お約束どおり、警察に電話することもできな
通りには散発的に旅館があった。明かりがついていて、暖かく、楽
いわけだ。そうこなくちゃね。
しそうだった。試しに道沿いにあった何軒かの旅館に、宿泊の可否を
暴走族にはセオリーがある。「相手にしない」ということだ。車
聞いてみたが、予約のない人間は門前払いされるだけだった。
だったらとことん無視すれば、族は勝手に去っていく。しかし、夜に
とにかく私は地図を頭の中にインプットした。どう行けばいいか
自転車を押して箱根を登っているとなれば、これは相手にしないでく
も分かった。ピンチになったときの人間の記憶力というものは驚異
れと言う方が無理だ。族は私をとりまき、いきまいた。
的で、1 度見ただけの地図でも、距離も地名も完璧に覚えている。そ
「へい、兄ちゃん。どこまでいくんだい?」
ういう人間の野性的なパワーを再発見するために、私はこういう無謀
マンガのような台詞まわしだ。私はわざと親しげに聞き返した。
な旅をするのかもしれない。
「箱根峠まではどのくらいかかるんでしょうか?」
野性的な本能は、時として色々奇抜なアイデアを与えてくれる。
このボケが分かってくれるかなぁ。暴走族は私の行く先を阻み、後
「タクシー」もそのひとつだった。タクシーのトランクに自転車を載
退させた。逆らっても仕方あるまい。よほど対応を誤らなければ殺
せてもらい、峠の頂上まで運んでもらえば、2000 円程度で問題は全
されはするまいよ。
て解決するではないか。私は 30 分も泣きそうになりながら登って、
だが、族のヘッドは単なるチンピラではなかったようだ。ことによ
次に見えてきた温泉郷で公衆電話を見つけ、タクシー会社を探して電
ると暴力団とつながりがあったのかも知れない。彼は手下がナイフに
話した。
手をやったとき、「よせ」と制止した。私がじたばたせずに覚悟して
答えは否定的だった。「自転車はねぇ、トランクには載りませんよ。
いることに気づいたらしい。私は別にやくざに知り合いがいるわけ
すいませんねぇ。いまどこですか? え、宮ノ下? 自転車でしたら
ではないが、彼の行動は何と言うか、独特のセンスに基づいていた。
峠まで 30 分くらいですよ、ははは」
以前、六本木でヤクザの抗争に巻き込まれかけたことがあるが、その
気楽に言ってくれるもんだ。自転車をちゃんとこげればそれでも
時、何となくヤクザの世界のセンスのようなものを、肌で知ったのだ
いいかも知れないが、今は押して歩いているのだ。徒歩でどのくらい
と思う。それに似ている。私はヘッドの視線に対して正面から見据
かかるかと聞いたら、今夜中には無理ではないかという答えが返って
え、ガンの張り合い(波動勝負?)に勝利した。ヘッドは言った。
「何
きた。
ならのせてやるぜ」。私は定石通りに丁寧に断った。そして暴走族は
だが私はめげなかった。この路線にはバスも走っていた。バスだっ
引き上げていった。
たら自転車でも載せてくれるにちがいない。バス会社に電話する。
あっけないと言えばあっけない。彼らもどこかの集合場所に行く
ダメだった。私は自暴自棄になりかけた。
最中だったのだろう。だが、疲れ切った心身に、これは堪えた。暴走
宮ノ下温泉は箱根でも比較的大きな温泉郷である。交番と消防が
族の一団が去っていくと、私はもう疲れ果てて、冷たいアスファルト
ある。交番だったら何か有用な情報が入るかも知れない。もはや私
に座り込んでしまった。「もうたくさんだ。冗談じゃないや。次の温
は完全に峠越えを諦め、藁をも掴む思いで交番の戸をあけた。
泉では全部の宿にアタックしよう」。牛乳をパックごと、がぶ飲みし
呼べど叫べど、誰も出てこなかった。障子の向こうからテレビの音
ながら、汗がどっとふきだしてくるのを感じた。再び立ち上がるまで
が聞こえてくる。相撲中継のようだ。
30 分くらい、そうして座り込んでいたように思う。体は段々と冷え、
私はキれた。「ほぉ、そうかい。何が何でも手抜きさせないという
いよいよ凍え死ぬかと思うまで、ひとり頭上の春の第三角形を眺めて
なら、こっちも受けてたったる。ふん、所詮は日本国内だろうがよ。
いた。動く気力は全くわかなかった。
犬でも何でもきやがれ。徹夜してやらぁ」。私はもしものために交番
「旅」とはこういうものだ。旅とは、惨めである自分を楽しむもの
の電話番号を記録し、コンビニに駆け込んだ。ロケット花火 4 発。ラ
だ。旅とは自然の大きさを知るものだ。旅とは、人の関係を見るもの
イター。持久戦闘用の食糧として、牛乳 3 リットル、食パン 2 斤。そ
だ。旅とは.....。
6
とりとめなく、湧いては消える想念が頭をまわった。吐く息は白
れば東京からでも見えるが、常に意識にのぼるほどはっきり見えるの
かった。
は、この箱根の峠からだ。
実はその後どうなったか、記憶が定かではない。ただ、小涌谷温泉
ダウンヒルの効果は絶大だった。時速は 50 キロをこえただろう。
のどこかで一泊 5 千円程度の宿を見つけて、そこに飛び込んだこと
わずか 10 分少々で三島市街についてしまった。
を覚えている。夜の 10 時を過ぎていた。私は朦朧とした頭で天気予
報を見て、携帯電話の充電をし、味気のない食パンを食べ、風呂場で
2 三島
◆
眠気と格闘しながら洗濯をし、部屋で衣類を乾かした。何せ着替えが
三島、というと新幹線のとまる駅である。「特別に有名な町でもない
1 着しかないので、毎日洗わないといけないのだ。日記を書く気力も
のに、どうして新幹線がとまるのか」と、その昔、疑問に思ったこと
なく、布団にはいるより前に、座ったまま寝てしまった。そして午前
がある。それは地図を見ると良く分かる。三島から新横浜まで、新幹
3 時くらいに寒くて一度目がさめたことは覚えているが、あとは知ら
線はトンネルの連続なのだ。昨日の国道一号もそうだが、峠は完全に
ない。
交通を分断している。天下の東海道ですら、夕方以降は車一台通らな
い。もちろん、東名高速や新幹線はあるが、それはもっと長距離のた
5 4 月 8 日 快晴
●
めに使われるのが普通だろう。というわけで、箱根から西と東では経
済圏も違うのだと思う。三島という駅は小田原と並んで「山のふも
と」、つまり山越えの「重要拠点」なのだ。これを実感するにはやは
1 箱根
◆
り箱根を越えてみるしかないだろう。ふもとで準備を怠ると、本当に
起床午前 10 時。携帯電話のアラームで目がさめた。大量に水を飲ん
大変な目にあうものである。本当に。
で寝たせいで、布団は汗でぐっしょりだった。すっきり快眠。全身に
もっとも新幹線は箱根を避けている。三島から熱海へ向けて真っ直
たまった乳酸も一緒に流れてくれたらしく、筋肉が嘘のように軽い。
ぐ伊豆半島をトンネルでぶち抜き、海岸沿いに小田原まで北上する。
Ok、これなら行けそうだ。
高速道路も箱根を避けている。東名高速は小田原の遥か北側から、南
結局昨日は 100 キロちょっとしか進めなかったわけで、当初の予
足柄、御殿場を経由して沼津インターまで真南に降りてくる。実はこ
定からすると大幅に遅れたことになる。このペースで行ったら 5 日
れら 3 つのルートは江戸時代以前かられっきとして存在した。箱根
もかかってしまう。今日は頑張って挽回しないといけない。距離リ
の関所だけが有名だが、3 つのルート全てに、ちゃんと関所があった
ストを見ながら、目標を浜松と定めた。最低でも静岡を越えてくれな
のである。
いと話にならない。夜に走るとろくなことにならないので、なるたけ
昼間のうちに着けるように急ぐべし!
3 清水町
◆
というわけで、かなり急いで朝食を食べ、10 時 15 分には宿を出
た。宿の人に詳しい道の起伏を聞くに、昨日のタクシー会社の人の話
三島を過ぎると、清水町という町がある。製紙業で有名な清水市とは
はおおよそあっていたらしい。つまり、箱根峠まで全部が登りなわけ
違う。清水市はもっと先だ。突入時刻は 12:35。
ではなく、この先ほとんどは距離的に下り坂なのだ。まずはこれから
ここまで明示的に書いたことはなかったが、実は私はほとんど歩道
30 分位のところに小頂点があって、そこから少し下ってまたのぼっ
を走っていなかった。というのも、歩道縁石の段差というのは、歩行
たところが国道一号最高点。そこからは長い下り坂になる。下り坂
者にとってはいいかもしれないが、自転車にとってはパンクの原因と
のあと、芦ノ湖を通って、さらに少しのぼったところが箱根峠なので
もなるため回避せざる得ないのである。余談だが、一般に都市部であ
ある。ゆえに下り坂をほぼ無時間で通過できる自転車としては、実質
ればあるほど自転車疎外傾向が強い。霞ヶ関の真ん中ではさすがに
のぼり 30 分強ほどで何とかなるということだ。これを昨日聞いてい
自転車用の横断歩道などが完備されてるが、地方中核都市の中心部で
れば、是が非でも三島まで乗っていったのかも知れないが、そこは
は、やたらひどい段差は当たり前で、工事中でも人間しか通れないよ
まぁ、過ぎたことだし諦めよう。どのみち体力的には限界まで乗った
うな狭い臨時通路を作るし、自転車など眼中にもない歩道作りが行わ
のだ。箱根がきつすぎただけなのだ。
れている。というか、年度末恒例の道路工事でも、車道の舗装直しは
同じ坂でも、昼と夜では大いに違う。夜はあんなに不安になったの
やっても歩道の舗装直しをやらないものだから、歩道はヒビ割れして
に、朝は素敵な新緑の中、この上なく快調だ。国道一号最高点は 874
たり雑草が覆ってたりして、危険極まりない。歩道の段差を何とかし
メートル。これみよがしに、日石のガススタンドがある。恨みを込め
てほしいというのは、全ての自転車ユーザーの願いであろう。近距離
て記念撮影。それから芦ノ湖湖畔まで長く急な下り坂になっている。
であればスピードを控えめに走れば抜けられないこともないが、今
11 時 25 分には下り坂をおりきって、箱根関所跡についた。ここで
回のように期限がついている長距離旅行ではそうも言ってられない。
記念撮影。実はここには箱根オルゴール館というオルゴールの専門
法律的にどうなのかというと、これがまた問題で、自転車は車両扱い
店があり、ひそかに楽しみにしていたのだ。だがオルゴール館にはラ
であるから車道を走るのが本来は正しいのだ。そのくせ、いたるとこ
ピュタのオルゴールがなかったのでダメだった。それから再び上り
ろで標識による規制が行われていて、歩道を走らせようとする。その
坂を押して歩き、11 時 50 分には天下の箱根峠を制覇。箱根峠は標高
歩道が、メンテナンス不良で危険なのである。実は静岡は最もこの傾
846 メートル。ここからは三島市まで延々と下り坂である。私はここ
向(自転車差別。もっというと弱者差別。)が強い。A氏をはじめと
でふと挑戦してみたくなった。ここから下り坂が終わるまで、ブレー
する自転車ランナー達は、みな一様に怒っているのだが、それはまた
キなしでつっこんだらどうなるだろう。あんなに苦労して位置エネ
後で触れることにしよう。
ルギーを稼いだたのだから、むざむざブレーキにくれてやることもあ
突如後ろから大音量でマイクが叫ぶ。「そこの自転車、とまりなさ
るまい。
い」。見なくても分かる、白バイさんである。なるほど、歩道を走れ
というわけで箱根峠からふもとの三島市までは腹いせダウンヒル
ということか。「どこ走ってるんだね? 死んじゃうよ」と警察官様
になった。富士山がはっきり見えるのはここからである。まぁ、頑張
は言った。私はすいませんと言って、自転車をかついでガードレール
7
越しに歩道に移動した。なるほど、見ると自転車は歩道を走るべしと
■ 太平洋ベルト
いう旨の標識が立っている。こりゃぁ、勝ち目ないね。この場は素直
かつて小学校の頃、日本の工業地帯はベルト状のラインに乗ってい
に従うことにしよう。白バイ氏は特別気にもとめた様子なく、そのま
て、それを太平洋ベルト地帯と呼ぶのだと教わった。東京から静岡、
ま走り去っていった。実は、自転車の所有者とか、どこまで行くのか
名古屋、大阪、瀬戸内海、北九州といった具合である。試験に出ると
とか、根ほり葉ほり聞かれたら、どうしようかと思っていた。何せ、
いうのでそのまま覚えたが、どうしてそうなのかというのは、当時最
借り物の自転車で京都まで行きますなどと言ったら、常識的には自転
大の疑問だった。もし、単に原油や製品積み卸しのための港湾が作り
車泥棒を疑われて不思議ではない。「ちょっと署まで...」ということ
やすいだけなら、何も三陸海岸でも北海道東方地域でも良いはずなの
になったら、ただでさえ足りない時間が、無碍に削られてしまう。そ
だ。高知県南部など、格好の工業地帯になるだろう。ところが実際は
こでこの際、そういう事態になったときのための答弁を練習しておく
瀬戸内海などの、見るからに国際貿易に不便そうなところにも、工業
ことにした。だいたい、しどろもどろになっていたらますます疑われ
地帯が形成されているのである。
るだけだ。別に悪いことをしているわけではないのだから、ハキハキ
西日本のことは知らないが、こと東海地域に関しては、やはり東海
と答えられるべきである。息を吸い、3 回ほど声に出してシミュレー
道の役割が大きいように思う。長い間、文化は関西中心だった。鎌倉
ションしておいた。これで完璧。自転車で遠出するときには、こうい
幕府が東国に文化拠点を築こうとしたが、次の室町幕府ではまた京都
うことも準備しておくといいかもしれない。
に中心が戻ってしまっている。関東が本格的に開拓されたのは、江戸
清水町を抜けると沼津である。ある学校の創立者ゆかりの地なの
幕府の時代である。江戸幕府は五街道を整備したが、最も活気があっ
だが、それはまた別の話であるから割愛しよう。富士山が大スケール
たのは、旧来の文化中心(京都)と新興都市(江戸)を結ぶ東海道で
で迫ってくるが、海岸線沿いの道なので別に起伏はない。このあたり
あった。江戸幕府はさらに参勤交代の制度を設けて大名にお金を使
は静岡県といえど、歩道でも十分に幅があり、走りやすかった。
わせた。これが今でいうところの経済刺激となって、東海道は大いに
4 富士市
◆
発展した。太平洋ベルトの形成には、東海道の発展が先にあったよう
に思う。ベルト地帯は貿易に便利な地域というよりもむしろ、中核都
静岡県は、とにかく国道を高架にするのが大好きらしい。そして高架
市を最短に結んだ昔の街道の結合を反映しているように思えるのだ。
になっている部分は、ほぼ間違いなく「自動車専用道路」になってい
最短経路なのだから直線に決まっていて、それがベルトの原型となっ
たのだ。もちろん、地図のない私は、当時知る由もない。これは走り
ている。
やすいと喜んでいた。
余談だが、ただ黙っていても大名がお金を落としてくれる東海地域
富士市に突入したのは 13:30 である。今日のペースはかなり順調
というのは、どうしたって保守的な風土にならざる得ない。競争原理
だ。とはいえ、まだ東京から約 140 キロ。昨日一日で来るはずだっ
よりも、いかにして既得権益を守るかという方向に発想がいくわけだ
たところにすら到達していない。3 日で行くという計画は、どう考え
から、富めるものはますます富み、貧しいものは常に貧しいという状
ても無理である。国道 1 号は新幹線と並び、駿河湾沿いに走ってい
況が生まれるのだろう。そうすると、長い間に資本の集中が起こり、
る。海の香りのする風が、高架を吹き抜けて行く。前方には大きな煙
工業などは興しやすくなるが、貧富の差は大きくなる。全部が全部で
突が、右手にはすぐそこまで富士山が迫っている。新幹線と共に田子
はなかろうが、自動車専用道路が幅をきかしている道路状況を見るに
の浦港を渡り、富士川の上で東京から丁度 150 キロの看板に出会う。
つけ、静岡とは元来そういう風土ではないかとさえ、思うのだ。
富士市は太平洋ベルトのイメージをそのまま絵にしたような工業都
市だった。だいたい、国道を走るのはトラックばかりで、その国道も
高架が続いている。しかも渋滞。歩道は存在せず、自転車が通ること
■ 静清
など念頭にないらしい。しかし、「道の駅」があることからして、別
富士市を抜けて富士山を後ろに見るようになってから、蒲原町、由比
に自転車が通っていけないということでもないらしい。ここで初め
町を通り、サッカーの街「清水市」に入ったのは 15 時である。日も
て「京都へ 350 キロ」の表示を見る。あぁ、この道は京都につながっ
傾きかけている。このあたり、登呂遺跡があったり、日本平として有
ているのだという不思議な安心感があった。余談だがこの「道の駅」
名な景勝地なのだが、時間がないので景色なんて構ってられない。
は、実は箱根にもあった。高速道路でいうところのパーキングエリ
しかし、道を間違ってしまったらしいのだ。確かに標識には国道 1
アみたいなものだ。この先でもお世話になった箇所がいくつかある。
号と書いてあるが、道路自体はどう考えても高速道路である。国道
いったい、高速道路のPAが先なのか、この「道の駅」が先なのかは
の、道路としての機能は完璧だが、周囲に山しかないのでは、地域の
知らないが、静岡の道路はどことなくセンスが高速道路である。工業
経済に全く貢献していない。こんな国道 1 号があり得るのだろうか、
優先、いうならば金持ち主導の経済構造を感じてしまうのは私だけ
と当時は非常に不安になったものだ。
だろうか。それ自体が悪いとはいわないが、公共道路である一般国道
後で知ることになるが、これが静岡バイパス銀座の始まり、「静清
を、半自動車専用道路に作り替えてしまうセンスには疑問を感じざる
バイパス」である。(実はそれ以前にもバイパスはある。沼津バイパ
えない。
スや富士由比バイパスというものであるが、それは全く気づかない程
静岡は、全国でも一番先に新しいものが導入されるモデル県であ
度のものなのでバイパス銀座には含めいないことにしよう。)
る。とにかく静岡でうければ全国規模で販売が展開される。どうし
工業都市清水市と県庁都市静岡市は隣り合わせの町である。東海
てだろうか? 「最も保守的なニオイがする静岡でうければ、他の地
道でも見るからに渋滞しそうな場所だ。そこで、2 つの町を丸ごと迂
域は大丈夫」ということなのかもしれない。亜硫酸ガスに虫食まれた
回するバイパスをつくろうという発想は、まぁ、至極妥当なものだろ
頭はろくなことを思い付かないものだ。
う。実際、この道路には信号はほとんど(全く?)なく、在来道との
接続も、ことごとくインターチェンジ方式である。片側 2 車線。高速
道路と呼ばずして、何と呼べばいいのか。東京にいたら一般国道がこ
5 バイパス銀座
◆
うなるとは想像もつかないだろう。この道路に迷い込んでしまった
のである。きっと入り口のどこかには自転車不許可とか書いてあっ
8
たのかもしれない。しかし、もう遅い。チャレンジャーに後退は許さ
代をケチって縮小したうえ、白黒にしたものだから、バイパスの存在
れないのだから。どこに続いているか皆目分からないが、国道 1 号だ
は確かに書かれているものの、どれが何だか分からない。地図をコ
という標識だけを信じて、ひたすらこぎ続けた。そういうわけで、清
ピーするときには一枚 20 円でもいいから原寸でコピーするべきだ。
水市と静岡市は、丸ごと通過することになってしまった。バイパスに
出来ればカラーでコピーすれば、なお良い。
て「ここから静岡市」の表示があらわれたのは 15 時 38 分である。
ただ、雑感的には有料でないバイパスはどれも通ったように思う。
静清バイパスの圧巻は、その最終場面、「丸子トンネル」である。
実は有料の自動車専用バイパスも、最近は夜中の 10 時から朝の 6 時
正確には「丸子藁科トンネル」といい、全長 2027 メートルである。
までは料金所がフリーとなるので、自転車でも物理的には通過可能で
もちろん行ってみるまでは、名前も長さも知らない。走ってる途中で
ある。法律的には決してオススメはしないが。
は、それがバイパスであることすら知らなかったのだから。
このあたりの通過時刻を書いておこう。もはや焦燥感だけでこい
丸子トンネルは、長さも凄いが、トンネル内の側道が幅 80cm しか
でいるので、風情も何もないが、おかげさまで平均時速 30 キロオー
なく(当たり前だ。自転車の走行なんて考えてないのだから。
)
、しか
バーで走っていることになる。岡部町 17 時 10 分、藤枝市 17 時 20
も途中に自動車事故の残骸破片が多数散らばっていて、走行が極めて
分(この速度は驚異的だ)、金谷町 17 時 54 分。
危険だ。その上、換気がなっていないため、トンネル内は窒素酸化物
静岡に来て一番感じたのは、町が不連続だということである。東京
が充満しており、おそらくただ立っているだけでも吐きそうになる。
都市部に暮らしていると「町同士が森で分断されてる」なんてことは
このトンネルは余りにひどかったので、あとで建設省に直訴してやろ
まずないのだが、静岡の場合、市と市の間には、広大な樹海が広がっ
うと思い、出口で記念写真を撮ってしまった。自転車で通ったこっち
ている。町同士を結ぶ幹線道路以外には道も街灯もないし、市は周囲
が悪いので直訴こそ出来なかったが、全行程を通じても 1 番か 2 番
を深山に囲まれた、孤立した都市である。海岸沿いの東海道ですらそ
にひどかったトンネルである。ちなみにこの先には、側道の真ん中に
うなのだ。幹線道路すらない山に入ったら、いったいどんな状態にな
反射板が据えられていて、否が応でも後ろから車が来るかを見ながら
るか予想もつかない。
車道を走らないといけないトンネル(牧ノ原スリートンネルズ。おそ
おそらく日本の都市の大部分では、こちらのほうが普通なのだろう
らく島田バイパスのどこかだろうと推測される)や、前方からも自転
と思うが、何だか底知れぬ自然の大きさに圧倒される気がする。夕方
車が来て困ってしまったトンネルもあったが、ランクの高さは丸子ほ
にバイパスなどを走っているとなおさらだ。周囲にコンビニ一軒な
どではない。
く、無機的な車が追い抜いていく中、前方には赤く巨大な太陽が今ま
そういうトンネルの走り方について、身をもっていくつかの知見を
さに沈まんとす。紫色の雲が流れ、耳元で不安げな風がびゅうびゅう
得たので、ここに書いておこう。
となる。さながらサハラ砂漠のハイウェイを走っているような気分
まず、トンネル内ではとまるか、思いっきり速く走るか、どちらか
だ。パズルの写真になりそうな雄大な景色の中、緩やかな上り坂をこ
でないといけない。前者なら車が安全に追い抜いてくれるし、後者な
いでゆく。もう最高の旅情である。これはなかなか国内で体験でき
ら車に余り不快感を与えずに堂々と車道を走れる。最悪なのは、ノロ
るセンスではない。
ノロ走ることだ。トンネル内渋滞の原因ともなるし、特に 2 キロもあ
自転車の旅は、大平原を走るシベリア鉄道のようだと思った。ある
るような長距離トンネルでは、通過時間が長いと、それだけで有毒ガ
いは青森終着間近のブルートレインか。脳裏に「青森、青森ー」とい
スにやられる。
う、夜通し走って疲れ切った車掌の声がひびく。線路が道路になった
次に、出来る限り勇気を持って車道を走るべきである。この種のト
だけで、依然として大平原を細い線でつないでいるイメージは変わら
ンネルは、どこも側道が狭いし、側道には必ず何か障害物が落ちてい
ない。峠と谷のセットをいくつも越えて、未開の原野を切りひらいて
るものだ。自転車が転倒するとしたら原因は 2 つしかない。一つは
いくような、不思議な達成感がある。
障害物の回避に失敗して転倒する場合だ。この度合いが、側道では格
日没とともに、気温がぐっと冷えてくる。追い越していく車がパッ
段に大きくなる。もう一つの転倒原因は、大型車の風圧である。大型
シングしてゆく。自転車は走るなという意味だ。が、バイパスとい
車が近づいてくるときは押され、抜かれるときは吸われるのである。
うのはことごとく、「いつのまにか」入ってしまうものなのだ。私は
このバランスを過って巻き込まれる場合が結構ある。風圧に対応す
ただ単に、1 号の標識を追ってきただけである。間抜けかもしれない
るには、
「不安定な状態で抜かれない」ということが大事だ。そこで、
が、悪くはない。
わざと高スピードで堂々と車道を走り(こうすることで、後続の自動
夜になるとバイパスを照らす明かりが、なかなかのハイセンスだ。
車に自分の存在をしっかりと認知してもらうという意味もある)、あ
風は急に冷たくなってくる。足は冷えてくると痛くなってくる。そ
る程度後ろに自動車がたまってきたら、停止して、一気に抜いてもら
ろそろ今日の限界だ。このペースなら浜松までは到着できる。袋井
うのである。停車している時にどんな風圧をうけても、それは別に危
市通過、20 時ちょうど。
険ではない。
ふとこんなことを考えた。
道路交通法的にどうなのかは知らないが、実際的にはこれを繰り返
大規模交通を誘致したがる田舎は多いが、長距離交通は本当に地域
すのが一番安全に通過できる方法らしい。
を振興するのだろうか? 例えば昔の宿場では旅人が銭を落として
いったが、今では新幹線でひとっとびだ。通過される街にはなんの恩
恵もない。騒音があるだけだ。例えばこんな風にバイパスを作って
■ 無心走行
も、多くの車は静岡市も清水市も、掛川市も磐田市も通過してしまう
丸子トンネルを抜けてすぐ、静清バイパスは終わり、従来の 1 号線に
だけだ。彼らは本当にそれを分かってバイパスを作ったのだろうか?
戻る。ここへ来て初めて、今まで通っていたのがバイパスだと知る。
国道を管理しているのは建設省なのだから、地域の意向なんて知っ
そういう状況だから、この先他にも色々なバイパスを通ったのだが、
たことなく作ってるのかもしれないが、それだったら静岡だけこんな
どのバイパスを通ったのか、全く記録できなかった。実は静清バイパ
にバイパスが多いのは疑問だ。地元の政治家とかの、よく分からない
スだって、丸子トンネルの件がなければ特定できなかったのだ。
力学関係もあるのかもしれないが、結局は工業に有利なようにバイパ
このあたりはもともと大きめの地図をコピーしたものだが、コピー
9
スを作っているわけで、地元の小規模業者よりも大会社の意向が優先
053-455-1126。浜松駅から徒歩 15 分。到着したときは 22 時 30 分
されている土地柄を感じてしまう。
だったが、特に問題はなかった。
6 浜松市
◆
舎でも、健康センターはある。健康センターというのは、要するに老
なるほど、カプセルホテルは地方にはほとんどないが、そういう田
人向けの風呂屋だが、たまにものわかりのいい経営者がいて、バック
東京から 280 キロ。県庁静岡市をしのいで、静岡県最大の都市であ
パッカーが使えるように配慮してあったりする。宿として営業許可
る。21 時ちょうど。これでもう全行程の半分以上は来たということ
を取るには、防災などで厳しいチェックが必要だが、24 時間風呂屋
だ。静岡の西部から急に「サークルK」が増えてきたと思っていた
として実質的に宿を運営すれば、そういう手続きなしに経営できるの
ら、ここも「サークルK」が繁殖している。セブンイレブンはなぜか
で安くあがる。うまく考えたものだ。この宿は、まさに貧乏旅行者に
見あたらない。コンビニ生態系にも住み分けがあるのだろうか?
とっては理想的だった。風呂あり、布団あり、洗濯機、乾燥機あり、
そろそろ体力的にも限界だし、宿を探さねばなるまい。ビジネスホ
テレビあり、電話機あり、ジュース自販機あり。つまり、天気予報が
テルならともかく、学生向けの安い宿は、都市にしか存在しない。そ
聞けて、風呂上がりにジュースを飲んで、洗濯が出来て、布団で寝る
して、この次に安い宿のありそうな町といったら、もう名古屋であ
ことが出来るのだ。洗濯が出来るというのはポイントが高い。普通の
る。名古屋まではとても行き着けまい。
ビジネスホテルだったら、乾燥機までは、まず無理だろう。ついでに
天竜川を越え(実は東京から 250 キロ地点は天竜川の真ん中だっ
いうと、この健康ランドは、朝 9 時に強制的に叩き起こしてくれる。
た。150 キロ地点が富士川だったので、このあいだが丁度 100 キロで
10 時までに出ないと次の日の料金を取られてしまうのだ。なんと健
ある)、国道 1 号を脱して国道 152 号に入る。この道路は浜松市の中
康的な宿だろう!
心部に向かう誘導線である。道路の途中にラーメン屋があった。名
を「満珍満」という。替え玉付きのラーメン一杯 360 円という、まぁ
許せる値段の店である。客の入りも良さそうだ。昨日の牛乳 3 リッ
6 4 月 9 日 晴のち雨
●
トルも食パンも尽きた今(というか、それだけで一日を乗り切った私
9 時きっかりに叩き起こされ(文字どおり、掃除に来た従業員のおば
も大したもんだ)、どこかでメシを食べねばならなかった。バイパス
さんに蹴飛ばされて起こされた。すごい迫力だ。
)9 時 30 分には呆然
で冷え切った肢体は自然とそちらに向かった。
として宿の外にいた。死んだように眠ったので、疲れはとれたが、今
旅行者がよく誤解していることだが、田舎に来て土産のものを食べ
日は天気が不安だ。夜には雨になるという。行けるところまで行っ
ようとするのは、目当ての料理屋が特定できている場合でも除けば、
て、雨になったら宿で倒れて寝る、というのが理想的パターンだが、
大抵ろくなことにならない。浜名湖だからウナギ屋だ、というのは、
果たしてそう、うまくいくだろうか?
まぁほぼ確実に失敗するだろう。というのも、田舎の料理屋もバカ
ほんの余談だが、浜松市には「可美」という地名がある。かつて私
じゃないから、そういうカモ旅行者の誤解を狙った商売をしてくるも
が、ある非公開小説の主人公にした名前である。そこにはスーパー
のなのだ。つまり、高いだけ高くて不味いのである。だから現代にお
マーケットがあった。自動ドアがひらいたので中に入って、かごに商
いて、真の旅人は土地のものを食べようなどとは思わない方がいい。
品を入れていたら、店の人に「開店は 11 時からだ」と告げられた。
そういうものはパック旅行の宴席で食べれば良い。
それなら入り口は閉めといてもらいたいものである。貧乏な旅にあっ
全国どこでも、特に旨いわけでもなく、不味いわけでもなく、値段
ては、よくスーパーマーケットで食材を買い込むのだが、自転車の場
も高くもないとすれば、ラーメン屋である。それも、繁盛している
合は輸送コストもかかるため、もしかしたらその場で食堂に入った方
ラーメン屋がよい。よく、さびれ果てたラーメン屋を指して「こうい
がいいのかもしれない。本当は学食ハッカーとして、静岡大の食堂で
うところが案外旨かったりするんだよ」という御仁がいるが、まぁ、
朝ご飯を食べたかったのだが、場所が良く分からなかったので諦め
ほぼ確実に嘘だ。
た。まぁ、とにかく地図は大事である。はい。
そして旅人たるもの、料理屋は貴重な情報源である。だいたい道行
く町の人にいきなり「安い宿知りませんか」と斬り込んでも、有効な
1 新居関所
◆
情報など返ってくるはずもない。私は安くて良い宿を求めて、その
東海道の二大関所が、箱根ともう一つ「新居の関」である。浜名湖の
ラーメン屋に入った。
西岸に位置し、かつて浜名湖に橋が架かっていなかった頃には舟で
「兄ちゃんどっから来たね? 東京? ほー、京都まで行くのか。
渡っていた。「今切の渡し」というそうである。
替え玉入れとくよ」店の主人は私の汗だくでボロボロのスタイルに
国道 1 号に沿って浜名湖を渡るいくつかの橋のうち、最初の橋で東
も特に不快になった様子はなかった。150 キロも走れば、否が応でも
京から丁度 270 キロである。現在の浜名湖には大量の橋が架かって
服はヨレヨレになり、顔は汗で黒光りしてくる。普通は飲食店ご遠慮
おり、橋だけ見ても絶景といえよう。右から順に新幹線、在来 JR、
の客だ。私は不思議に思って聞いた。「あぁ? 兄ちゃんと同じくら
国道 1 号、浜名バイパスの順に並んでて、かなり圧巻である。いわゆ
いにボロボロの奴が、一月前くらいに来たよ」店の主人は快活に笑っ
る(東名高速を除く)交通の大動脈がここに一気に集約しているわけ
た。貧乏人は似たような思考をするものだ。苦笑いするしかない。主
で、津波でも襲ってきたら、楽しいことになりそうだ。浜名湖といえ
人はオススメを宿を紹介してくれた。それはカプセルホテルでもビジ
ばウナギだが、通りにはどうも胡散臭いウナギ屋しかなく、ウナギは
ネスホテルでもなかった。健康ランドである。一泊 1700 円。「ちゃ
食べ損ねた。
んと眠れます?」私は不安になって聞いた。「雑魚寝だがね、静かだ
さて、箱根はともかく、どうしてこんなところに関所をもうけたの
し暗いし布団もあるよ」。農家の納屋とか警察の留置所とかだったら
かは、なかなか謎である。箱根の場合は、2 つの最高点の間の谷間に
嫌だなぁ。
関所があった。つまり、関所破りがどっちに逃げても、逃げづらいよ
主人は忙しい中、地図を書いてくれた。私はお礼を言って店をあ
うなところに関所を作ったわけだ。新居関の場合、一つは「今切の渡
とにした。この宿、実は本当に使える宿だったので、ここで紹介し
し」である。関所を突破しても、「今切の渡し」を脅してシージャッ
ておこう。「浜松健康センター バーテンバーテン」という。電話
10
クしなければ、江戸方面には逃げられない。では、もう一つの難所は
どこにあるのかというと、実はこれから書く「潮見峠」というのがそ
2 豊橋
◆
れなのだ。これは現在でも愛知県と静岡県の県境になっている、なか
その昔、豊橋市は「吉田」と言った。明治になってから「豊橋」に改
なか急な山なのである。関所というのはなかなか良くできた場所に
名したのだと、どこかで聞いたことがある。今では掛川とともに、東
あると思われる。よく振り返ってみれば、(バイパスではない)生粋
海道本線の発着駅になっているので全国的に有名だ。
の東海道には単発の山はあっても、なかなか「谷」というものがない
静岡がブルジョワセンスの県だとしたら、愛知というのはこれまた
のだ。
変なセンスの県なのかもしれない。豊橋に入ってすぐ、何とも得体
再びA氏のメールを引用させてもらおう。「全線を通しての難所は、
の知れない看板を発見した。「酵素の里へようこそ」とか「犬の激安
箱根峠、日坂峠、潮見峠、鈴鹿峠、逢坂山くらい。日坂、潮見は静岡
王!」といった看板である。「酵素の里」も怪しいが、この「犬の激
県道で、道路がヘボいので注意」とある。このうち日坂峠というの
安王」というのは何者だろうか?
は、間違ってバイパスを通ってしまったために、いつのまにか苦労な
いや、別に安く売ることそのものをどうこう言うつもりはないが、
くクリアしてしまっていた。というわけで、東海道五大難所の一つ、
犬がスーパーの特売よろしく赤と黄色の激安値札を下げて 198 円あ
潮見峠である。だいたい関所を作るような場所なのだから、覚悟して
たりで売られている姿を想像すると、何だかすさまじいものを感じ
かかった方がよい。
る。もっと問題なのは、そこで買われた犬の末路だ。きっとその犬
しかし実際、この峠は、峠自体が難所というわけではなかった。箱
は、ことあるごとに「どうせお前は激安だから」と言われて虐待され
根で嫌というほど峠を味わった身としては、もう少々のことでは辛い
続けるのではないか。あるいは、名前そのものが「イチキュッパ」な
とも思わない。
どとつけられ、
「おい、イチキュッパ、散歩だぞ」などと言われて「ワ
そうではなくて、この峠は静岡県の横暴が最もよくにじみ出ていて
ン」と嬉しそうにシッポを振っている姿を想像すると、もう涙が出て
いるのである。実は国道 1 号は、真っ直ぐ行こうとすると、潮見バイ
くる。偏見であろうが、犬の激安王で犬を買おうとする人間には、ど
パスなる有料道路になってしまう。つまり料金所があって、自転車は
うもまともな飼い主のイメージを抱けないのである。このあたりに
容赦なく追い出される。そこまではまぁ、いつものことだから良いと
は犬鍋の風習でもあるのだろうか。それなら少しは納得がいく。と
しよう。仕方がないので迂回しつつ山を登っていくのだが、許しがた
もかく、さすがは徳川家康を輩出した地である。底知れぬセンスを秘
いことには、峠の最もきついところで、自動車専用道路にはトンネル
めているものだと、感心せざる得なかった。
が掘ってある。自転車とか歩行者にはトンネルはなく、トンネルに向
豊橋市街についてみると国道 1 号を路面電車が走っている。その
けてスイスイ走っていく車どもを見おろしながら、大真面目に峠を越
せいで渋滞が発生している。東海道中唯一らしい。さながら西欧に
えて歩かないといけない。これが結構つらい。
来た明治の日本人のように、口をあんぐり開けて、見とれてしまう。
きっと道路管理者の論理としては「料金を払っている自動車様に
おそるべし愛知。
サービスをするのは当然のことだ」という、モロ資本の論理で来るの
頭の芳香族化合物がほぼ全部蒸発したようなので、ようやくここの
だろう。が、自転車の身としては「ふざけるな、交通弱者の我々こそ
コンビニで食糧を調達することにした。またしても「サークルK」で
トンネルを通るべきではないのか」と言いたい。そして、それがその
ある。前にも書いたが、サークルKなんて東京では新宿通りにあるも
場で言えない状況に、やり場のない怒りをおぼえるのである。だいた
のしか知らない。それが静岡西部から急速に勢力を伸ばしてきて、今
い、通行料を払う意志はあるのに、払わせないで通さないというの
や通りを席巻しているのである。全国コンビニ勢力分布図なるもの
は、弱者虐待以外の何だというのか。経済優先? 何のための一般道
があったら、是非見てみたいものだ。
路だ?
貧乏旅行のための食糧調達入門を書いておこう。本来もう少し時
自分で勝手に自転車に乗ってきて、その言いぐさは何だといわれる
間があったら、高いコンビニは使わずに、地域のディスカウントスト
かもしれないが、仮に自動車の持てない貧乏な病気の老人が、隣町の
アやスーパーマーケットを使うのだが、この旅は時間との勝負なの
医者に行こうとして、歩いて峠を渡っているうちに、倒れて死んでし
で、仕方なくコンビニを使うとする。コンビニで最も値段対効率がい
まったら、これは少なからずの社会問題になるだろう。そうなる前
い飲み物は、100 円のパックジュースと、牛乳である。しかしこれら
に、何とかするのが行政の役目なのではないのか?
には致命的な弱点がある。あけたら最後、一気に飲まないといけない
上り坂に加えて、憤怒のせいで体温がどんどんあがってくる。しか
のである。1 リットルなど、結構苦痛だ。そこでどうするか。長い旅
し、幸いなことに静岡県への不平不満はここを頂点とし、峠とともに
をするときには、500 ミリのペットボトルに 100 円のジュースを継ぎ
終了した。憎たらしいことに、そのまま潮見峠を越えると、愛知県な
足してゆくのだ。
のである。
話をコンビニに特化しよう。経験上、コンビニで最も効率の良い
とはいえ、余りに怒っていたので、下り坂の途中で入ったサークル
食事は、食パンと牛乳と 90 円チョコのセットである。90 円のチョ
Kで、こともあろうかトイレ用消臭剤を頭からかぶってしまった。何
コレートと食パンを口に入れ、ペットボトル化した牛乳を飲むのだ。
喰わぬ顔をしてトイレから出てきたものの、いつもならトイレを借り
結構美味しく、どんなに空腹でも 500 円以下で確実に満腹になれる。
たお礼に 100 円ジュースの一本でも買っていくのだが、この時ばか
何せ食パン一斤など、常人が一回で食べる量ではないから、ほとんど
りはさすがに商品に手を触れる気にならず、どうしたものかと右往左
の場合は 2 食分になる。一食 200 円ともなれば、駅のカケソバと同
往していた。幸い、店の女子高生店員が事態を察知して、何もいわず
等だが、麺類は一般に腹持ちがわるいので、貧乏旅行の時にはご飯も
に布巾で頭を拭いてくれたが、前代未聞の間抜けな事態に、笑いを堪
のかパンが良い。これに自宅からもってきたビタミン剤を加えれば、
えているのがヒシヒシ感じられた。返す言葉なく、逃げるように店か
まぁ何とか生きていける。
ら脱出したが、髪の毛から高濃度の芳香族化合物を放射しながら走っ
そしてコンビニでは地図を見なければいけない。箱根の一件以来、
ていると、すれ違う農家のオバサンたちが一様に振り向いていく。し
地図はかなり精密に見るようになった。とはいえ、分厚い全国道路地
ばらく怒るのはやめようと思った。
図を持ち歩くのは効率が悪いので、地域のコンビニで閲覧させても
11
らう。コンビニではたまに郵便切手を扱っているので、不要になった
ときついということだ。つまり坂に弱い自転車向きではないのであ
物資(カメラのフィルムとか、日記とか、通過した部分の地図とか、
る。昔の人はよく道を知っていた。実は美濃の方にも「不破の関」と
レシート類だ)を封筒に詰めてポストから東京に送り返してしまう。
いう関があるが、鈴鹿の方が通行が楽だと知って、東海道は鈴鹿まわ
全国共通 50 グラムで 90 円(ただしカメラフィルムを入れると幅と
りになっていたのである。
して定形外になるので注意が必要だ)なので、重ささえわかれば持ち
余談だが、
「関東」という語も、本来は京都の隣にある「逢坂の関」
合わせの切手でも何とかなるものだ。50 グラムくらいで何だという
より東を指していう言葉で、その意味では、京都より東は全部「関東」
かもしれないが、これは主に紛失対策と、雨対策である。小田原で雨
であった。古くは、ここに出てきた 3 つの「関」を称して「三関」と
に降られたとき、貴重な旅の記録が濡れてしまったことがあった。私
呼ばれたそうである。
は水生ボールペンで記録をつけているため、雨は天敵である。ぬれて
はいけないものは、優先的に送るべきだ。ポストにさえ入れてしまえ
4 名古屋
◆
ば、雨にぬれることはないのだから。
豊 明 市 を 過 ぎ た あ た り に 桶 狭 間 戦 場 跡 が あ る 。名 鉄 の「 前 後
(ZENGO)」駅を過ぎて、国道 1 号から左に曲がるとすぐの場所
3 東海道とは?
◆
である。信長が今川義元を討ち取ったという、例の場所だが、今は記
国道 1 号の 300 キロポストは小坂井町欠田というところである。150
念碑があるだけで、ジュース自販機の一つもない小さな公園である。
キロ、250 キロともに川の上だったので、少しは期待したのだが、こ
とにかく、ここで休憩し、京都に電話をかけることにした。「明日に
こは陸地の上だった。最も近い川は、用水路で有名な豊川。350 キロ
は到着できる予定」であると。雨さえ降らなければ、今日中に四日市
は川の上だろうか?
までは行けるだろう。週間天気予報によれば明日は雨だろうが、もう
小坂井町を過ぎると名鉄の豊川線と併走することになる。国府
最終日だから構わずつっこむ予定である。明日は雨の中の鈴鹿越え
(KO と読む)駅で休憩して写真を撮る。余談だが、関西は私鉄の天
であるから、激しい戦いになりそうだ。
下である。名鉄豊川線も付近の案内図だと、東京では JR の表記とし
名古屋市緑区に入ったのは 16 時 20 分であるが、ここから名古屋
て一般的な「白黒」のラインで、描かれている。このあたりに限らず、
の中心までは、また遠大な距離があった。高速道路の下を国道が走る
関西地方のほとんどで、料金の高い JR は敬遠されてて、身近な鉄道
のは、何だか秋葉原の高架下を走るような感じで圧巻だ。東京圏を離
といえば私鉄である。JR を使うのは東京に行くときとか遠距離旅行
れて初めての巨大都市だが、大都市というものはどこも同じ様なセン
をするときで、そのせいかどうか知らないが、青春 18 切符使いの若
スになるものらしい。名古屋の中心部といえば、河井塾が乱立してい
者でなければ、JR の客層は心なしか上品のようだ。それは気のせい
ることで有名だが、実際には中心部(中村区など)に出ないまま、港
だろうか?
区から四日市へ向けて南に折り返してしまった。なんせ夕方である
最初の頃は気合いを入れて感想やら通過時間を記録していたが、3
し、雨が降りかねない空であったので、一刻も早く距離を稼がねばな
日目にもなるともう飽きてしまって、もう何も書くことがなくなって
らない。そういうわけで、大都市名古屋はまた今度新幹線で来るとし
くる。豊川市通過 12 時 50 分、音羽町通過 13 時 15 分、岡崎市 14
て、さっさと通過してしまう。
時 00 分、知多市 15 時 20 分などと書いてみても、まぁ、嬉しくとも
名古屋といえば、輪中地帯である。古代文明の発祥じゃあるまい
なんともない。もちろん色々なことがあるわけだが、疲れが累積した
し、洪水で危険な場所に、大都市を建設するというのも疑問だ。この
まま走っていると頭が真っ白になって、結局は機械のようにこぐだけ
都市が発展したのは、織田信長の功績が大きい。彼は当時、京都以外
だ。こうなるともう旅の喜びも何もあったものではない。三河の国
の都市がどこも似たり寄ったりだった中で、全国に先駆けて楽市楽座
は淡々として、これがもし映画だったら、挿入歌の一つでも入ってし
をやり、商人を呼び寄せて街の基盤を整備した。今風にいうならば、
まいそうなくらい長閑である。要は本人の気の持ちようなのだが、頭
政府がいきなり貿易自由化をやり始めるようなもので、尾張内部の商
の中では、はやくも次の旅の計画が練られていて、それも、歩いて青
人にとってみれば、たまらないものだったろう。が、そこは専制君主
森まで行こうかとか、単身南米に乗り込もうかとか、ぶっとんでいる
ノブナガであるから、誰も逆らえない。否応ない競争にさらされ、そ
計画ばかりである。
れが結果として産業を大きく発展させた。歴史の偶然というのは大
しかたがないので、これから先を読む上で大事な、東海道に関する
きなものだ。今日は「尾張名古屋は城でもつ」といわれるが、その昔
話を書くことにしよう。
は、信長でもっていたような町だったと思う。町としてある程度発展
実は、東海道という概念は鉄道のせいでかなり歪められている。多
していたゆえ、江戸時代の間は西日本に目を光らせるという意味を
くの人は東海道といえば、名古屋から先、大垣、関ヶ原、米原を通っ
担って、尾張徳川家の領地となった。これでさらに発展し、現代にい
て京都に抜ける道だと思っているだろう。私も最初はそう思ってい
たる。
た。しかしそうではないのである。元来の東海道は、名古屋から北
現代にいたっても、この洪水の恐怖は消えたわけではない。例えば
ではなく南に下り、四日市を通り、亀山、関、鈴鹿峠を越えて滋賀県
名古屋市の先に長島町という町があるが、このあたりの民家はどれも
を貫いて京都に入るものなのだ。国道 1 号はそのように通っている。
高い石垣の上に家が組んであり、さながら沖縄の台風対策村落のよう
注意すべき点は、国道 1 号の場合、終点は京都ではなく大阪になって
だ。国道 1 号から見ると、そういう民家がポツリポツリとあるので、
いる点だ。もちろん、本来の東海道の終点は京都だった。この旅は、
かなり異様な雰囲気を醸ししている。が、これが木曽川と揖斐川に挟
厳格に東海道を踏破しようという企画なので、終点も大阪ではなく
まれた、まさに輪中のど真ん中だと知れば、理由は容易に予想つくだ
て、京都である。
ろう。
東京から名古屋まで、国道 1 号はそのまま交通の大動脈だった。だ
輪中を構成する 3 つの川は、東から順に「木曽川」「長良川」「揖
が、名古屋から先は、寂れたただの一般道路になる。どういう経緯で
斐川」である。東海道本線が通っているあたりでは、まだ少しは上流
鉄道が北回りに敷設されたのかは知らないが、少なくとも言えること
のため、これら 3 つの川が離れているが、河口では長良川と揖斐川
は、関ヶ原のあたりは美濃の山岳地帯で、これは鈴鹿の山よりもずっ
がくっついてしまい、「ながらいびがわ」なる一つの川となって伊勢
12
湾にそそいでいる。木曽川を抜けたのは 18 時 22 分。夜風がびゅう
確率 80 %。最終日を飾るにふさわしい天候である。もう洗濯するこ
びゅう吹く中、錆だらけのやたらに長い橋を走るのは、さすがに不安
とはやめた。どうせ濡れるのだ。ホテルの浴衣でそのまま眠った。
であった。渡ってる最中に地震でも来ようものなら、まず生きてはお
れまい。しかも橋の上というのは、どういうわけか風が強いのだ。欄
7 4 月 10 日 雨
●
干の高さは自転車のサドル程度で、到底身長に届かないものだから、
自殺しようと思えばいつでも自殺できる。不慮の事故死まで出来そ
うな感じだ。さすがに通行に際して、意を決すべく深呼吸の一つが必
1 朝
◆
要であった。
つい、ここ数日間の習慣で朝 8 時頃に目がさめてしまったが、外が大
雨なので、チェックアウト時刻ギリギリまで寝ることにした。すなわ
木曽川を抜けると、もう三重県である。次なる長良揖斐川を抜けた
のは 18 時 30 分である。木曽川もやたらに太い川で、銚子あたりの
ち 10 時である。残り距離は約 100 キロ。難関は「鈴鹿峠」。初日と
利根川と同じくらいの川幅があったが、長良揖斐川はもっと激しかっ
同じ状況だが、経験とカンを得ている代わりに、大雨と危険道路がつ
た。向こう岸が見えないくらいの川の中州に、なんと道路が走ってい
いている。
箱根のせいで、私は「峠」なる概念に一種の恐怖症となっていた。
て、橋の真ん中にその道へ抜けるための信号があるのだ。左(海のほ
う)には、怪しげなオレンジの光の列と謎の構造物があり、イカ釣り
自転車は平地に対しては無敵だが、のぼり坂に対して徹底的に弱い乗
漁船なみの異様な明るさで輝いている。何なのか全く予想がつかな
り物だ。鈴鹿峠全山が徒歩となることも考えねばなるまい。しかし初
い。防波堤かもしれない。
日と違うのはまさに「経験」の差だった。散々苦労した結果、自分の
このスケールで川が広がると、よくもまぁこんなところに大都市が
体力的精神的限界も、坂というものの辛さも分かっているので、どう
あるものだと不思議に思ってしまう。もちろん名古屋の中心部は輪
転んでも計画は精度良くたてられるだろう。そして、何より最終日で
中地帯からは少し東にあるのだが、東京でいうところの住宅地域は立
あるという余裕があった。例え夜中の何時になろうとも、今日を寝ず
派に輪中地帯にかぶさっている。その割に橋は少なく、国道 1 号の他
に走っても、もうこれで最後なのだ。もう、どんなひどい状況になっ
に、在来道の橋は国道 23 号線があるだけである。確かにこの川に橋
ても、陽気に走れることだろう。
とはいえ、紀伊半島というのは、やはり甘く見てはいけない、想像
を架けるのは大事業だろうが、現状では朝夕の大渋滞が容易に予想つ
もつかない辺境の地であるというイメージがある。
く。ご愁傷様。
かつて友人と京都旅行に行った帰りに、伊賀上野の忍者屋敷を見よ
うと、奈良から関西本線で四日市まわりで帰ってきたことがある。関
5 四日市
◆
西「本線」と名が付くのだから、さぞ立派な列車が走っているものだ
揖斐川を抜け、川越町に入ったのは 18 時 50 分。そのままノンストッ
と思っていたが、実際はなんとディーゼルのレールバスだった。つま
プで走り続け、四日市市に入ったのは 19 時 50 分である。雨が降り
り、駅は木造の無人で、代わりに 1 両か 2 両編成くらいの車両(車掌
つつあった。
は「くるま」と呼んでいた)の乗務員がドアのところで改札チェック
公害で有名な四日市市は、町にさしかかるといきなり硝酸の臭いが
をする。ドアのところにはまさにバスと同じ形式の両替機がついてい
する。最初は何かの腐敗臭かと思ったが、遠くに工場の煙突を見るに
て、見たときには唖然としたものだ。この関西本線というのがまた、
つけ、あぁあれか、と思った。暗くて良く分からなかったが、おそら
筋金入りの登山汽車で(列車で、と言えないところが悲しい)、山あ
く構造と規模からして石油化学コンビナートである。全国的に有名
り谷ありの山道を縫うように走っていく。私にとって、紀州のイメー
な「四日市ぜんそく」だが、こういう空気の中に住んでいたら、なっ
ジというのはそういうものである。到底自転車などで立ち入れる世
て当たり前だろう。それほどここの臭いは危険なものであった。
界ではなく、猟銃でも持っていかないことには、日暮れとともに熊に
おそらく寒冷前線だったのだろう。雨が少し降ってから、気温は
喰われてしまいそうな世界だ。ここを通る道を東海道と定めた古人
ぐっと冷えた。前線だとすれば、近く本格的な大雨が予想される。乏
は、ものすごく根性の据わったやつなんだろうと、敬服してしまった
しい理科の知識を総動員するに、もう急いで宿を探さねばならない。
ものだ。
食べ物屋に入って優雅に情報収集している時間はなかった。結局ここ
寒いなか、暖かい布団で寝ることは、幸せなことである。出征前の
まで傘も買わずに押し通してきたわけで、もうこうなったら意地でも
兵士のように、布団の中で少しづつ、雨に立ち向かう勇気を高めて
傘なしで行ってやると覚悟を決めている。だから、雨の前に何として
いった。
も宿に突入するべし。というわけで、道端で買ったバナナを食べなが
ら、歩行中のおばさんに宿を尋ねた。「分からないけど、JR の駅の方
2 亀山
◆
には余りなかったねぇ。近鉄の方に色々あるよ」。またしても私鉄で
ある。関西は私鉄天下だ。寒さに震えながら近鉄四日市の駅に行き、
四日市のビジネスホテルを出たのは 10 時 15 分。国道 1 号は市の真
改札の駅員にオススメの宿を尋ねた。自分は名古屋に家があるし、こ
ん中をどっかり貫いている。これを堂々と南下していくのだ。傘も
こに住んでる人はホテルなんて使わないから、良く分からないという
さしていないと、出発 5 分でびしょびしょだ。ただ、荷物だけはぬれ
ことだった。なるほど。それならもう電話帳しかあるまい。こうい
てはいけないので、汚れた衣類を入れていたビニール袋を二重にかぶ
うとき、公衆電話の電話帳は極めて便利なのだ。カプセルホテルは 1
せて口を縛っていた。こうすれば気持ち程度だが、水は入らない。人
軒もなかった。健康ランドはあったが、少し遠いし、3 つほど電話し
間はいくらぬれても、もう覚悟しているので問題なし。
た限りでは、どこも眠れそうなところではなかった。仕方ないのでビ
どだい、雨が降るともうどうしようもないのだ。運動靴はどうやっ
ジネスホテルである。まもなく適当と思われるホテルを発見し、滑り
ても水が入るし、旅には鞄を全部おおえるくらいのビニール袋が必要
込んだのは本降りの数分前。
不可欠だろう。実際にはそれでも水が入るもので、乾いた衣類はなる
べく奥に入れるとか、可能な限りの工夫をして、それでも濡れたら、
宿の窓から外を見たら、もうどしゃ降りである。ぎりぎりセーフと
もういざきよく諦める覚悟も必要だ。
いったところか。風呂に入り、テレビで天気予報を見た。明日の降水
13
追分交差点でわずかに右に曲がると、道は鈴鹿川に沿って、緩やか
なのぼりと下りが数回繰り返す。静岡の道は、バイバスのせいでジグ
3 鈴鹿峠
◆
ザグだった。愛知の道は舗装が甘くてデコボコだったが、どうも三重
亀山からは一貫して上り坂である。亀山市の隣が「関」町というのだ
の道路は起伏が激しいらしい。どこかしら問題はあるというものだ。
が、これが要するに「鈴鹿の関」の場所である。地図によれば色々旧
サーキットで有名な鈴鹿市に入ったのは 10 時 50 分。雨のせいで
跡があるそうだが、大雨と、町自体がさびれているので、ほとんど何
ペースが遅くなっているが、転倒しないためには、ある程度の低速化
も見る気にならない。そのまま通過。
はやむをえまい。
さらにしばらく走り、雨は霧となり、登りの途中で上り下りが分岐
11 時 20 分、亀山市突入。ここは先程書いた JR 関西本線の始着駅
し一方通行になる。A氏によれば、下り線(大阪行き)の方が高い地
(起点は名古屋)として、時刻表マニアの間で有名だ。時刻表では始
点を通り大変なのだが、安全をとってそのまま下り線を通ることにし
着駅を大きく太字で書いてあるので、否が応でも覚えてしまう。関西
た。分岐のあたりからは、箱根同様、降りて押して歩くことになる。
本線はここから国道 1 号に対して南側にそれていき、伊賀町、上野市
自転車と言ってもピンキリで、長距離用の自転車やマウンテンバイク
を経由して木津に向かう。
であればかなりの坂まで対応できるだろうが、おばさん御用達のママ
しかし町自体を見ている余裕は全くなかった。
チャリでは、全く勝てない。
———
坂下という地名がある。古くはここも東海道五十三次に数えられ
雨は激しくなり、正面からたたきつけるように降ってきて、頬にビ
る「宿」だったが、江戸時代に洪水で押し流されてしまったそうだ。
シビシと当たった。メガネが雨で見えなくなり、何度も指でこすって
今は家一軒すらない。わずかにその地名を残しているのが、橋の名前
いるうちに、今度は指の脂がついて見えなくなってきた。焦点が合
である。このあたり、鈴鹿川の源流地で、「坂下橋」と称するいくつ
わなくなってくると、たちどころに気持ち悪くなってきた(私はそ
もの橋がある。
ういう持病を持っているのだ)。首筋から胸、下半身まで水がしたた
地図がない身にとって、この橋がどれほど続いたら峠なのかは、不
り、長ズボンは重くてしょっちゅうペダルにひっかっかった。何より
安極まりなかった。1 つ、2 つと数えているうちは良いが、5 つとか
も、ハンドルを持つ手が滑りやすくなっていて、立ちこぎなど到底出
6 つになると、もう無限大まで続きそうで、まだかまだかとイライラ
来ない状況だった。鼻が水で詰まったので、呼吸のために口を開ける
してくる。後にここを自転車で通る人のために、峠までの橋の数を書
と、口の中まで雨水が入ってきた。その上、時折右側を追い抜いてい
いておこう。「坂下橋」が 9 個、そのあとに坂下橋とは別の橋が 4 つ
く自動車が、たっぷりとドロ水を掛けてくれた。ブレーキはもう滑っ
ほど続き、そのあと突然トンネルが姿を現すのである。これは並の観
てしまってほとんど効かなかったから、スピード自体をゆるめる他は
光ガイドには書いてないだろう。
なかった。スピードを緩めると、こんどは待ってましたと言わんばか
雨の中を 1 時間半ほど歩いたろうか。トンネルが見えたときは、本
りに上り坂がやってきた。足がふるえた。ハンドルをふむたびに、靴
当に嬉しかった。もう身も心も冷え切っていて、生気を失った目で、
の中の水が「グジュッ」という不快な音をたてた。ついに耐えきれず
自転車にへばりつくように押していた。13 時 22 分。制覇の記念写
に、たまには止まって、全身の水を振り払わないといけなかったが、
真を撮ろうと思ったが、霧が立ちこめていて無理だった。それまで、
服を片手で搾ると、驚くほど水が滴った。昨日の汗もまとめて、泥水
坂下橋を一つクリアするごとに一回ずつ休憩をとっていたくらい急
となって流れていった。髪の毛も片手で搾ると水が滴った。とにか
な坂だったのである。箱根と違うのは、距離は短いが、ジュースの自
く全身水だらけだった。しかし上り坂で息は荒く、体も熱かった。寒
販機やコンビニの類は全くないということだ。そもそも今思うと電
冷前線の中、汗は湯気となってさらにメガネを曇らせた。血管が少な
気すら引かれてなかったように思う。苔の生えた道路脇の石垣には
い腹部だけがどんどん冷えてきたが、濡れた手で腹部を摩擦しても、
関西電力のケーブルがあったが、それは単にトンネルのための電力輸
ほとんど効果はなかった。
送用のケーブルで、国道で使うことは全く考えられていないようだっ
———
た。これを夜に通ったら、かなり怖いだろう。沢に転落するかもしれ
以上は、たまらず逃げ込んだドライブインのカレー屋(11 時 40 分)
ない。当然の如く車は一台も通らず、仮に助けを求めようにも誰もい
での記録を元にしている。とにかく、雨というのは大変だ。カレー屋
ない。沢に転落して死んだら、発見まで何日かかるだろうか。
の店員は全身から雨水をしたたらせている私を見て、露骨に嫌な顔を
トンネルを通りながら、ふとこういうことを思った。「どうして箱
した。ひきつった営業スマイルで、席は一番奥の、トイレのとなりに
根だけはトンネルがないのだろうか?」今まで通ってきた他の峠に
案内された。トイレの隣には、他の席からは巧妙に見えないように、
は、(中には自動車しか通れないものもあったが)全てに何らかの形
ロールティッシュが山積みにされていた。使えということだろう。私
でトンネルが掘ってあったのだ。首都圏に近く、一番トンネルを掘る
はロールティッシュ 1 本を使ってで頭から靴までを拭いた。使用済
べき峠に、なぜトンネルがないのだ? それは箱根温泉の圧力だろう
みティッシュはスーパーマーケットの大袋一杯分くらいになり、私は
か? 答えは分からないが、A 氏の話だと「新道がはやくに出来たの
それをまとめて水洗トイレに流した。もう、こうなったら、つべこべ
で、旧道はメンテされていないのではないか」とのことである。
言ってられるものか。それから念入りに手を洗い、冷えた体を温める
べく、大盛りのビーフカレーを注文した。カレーを待っている間に、
荷物のビニール袋を展開し、ノートがぬれていないことを確認して、
4 滋賀県∼京都
◆
この惨状を書き記した。そしてまた厳重にビニールで縛った。もっと
峠を越えてしまえば、もうそこにあるのは下り坂だけだ。滋賀県側で
も、財布を出すのを忘れて、あとでレジでまた開くことになったが。
は雨はあがっていて、曇っているだけだった。良くある話だ。ところ
は滋賀県土山町である。隣の甲賀町には JR 草津線が通っているが、
カレー屋の店員はありがとうとすら言わなかったが、この状態だと
別に責める気にもならなかった。外に出ると雨はいくぶん小降りに
土山町には鉄道はない。道中初めて、鉄道のない町である。ここにも
なっていた。この好機を逃すまい。私は自転車の鍵を探して、また荷
「道の駅」があり、「あいの土山」という。「あい」ははじめ「愛」か
と思ったが、そうではなく、「坂は照る照る鈴鹿は曇る相の土山雨が
物のビニール袋を展開することになった。
14
降る」という昔の歌からとったものらしい。滋賀県といえばもう、古
名古屋
くより歴史ある土地なのだ。
知多市
三河安城
この道の駅では、いろいろとお世話になった。雨の時期、入って左
奥にストーブが焚いてあり、峠越えで冷え切った体を暖めることが
豊川
出来た。濡れた服をかわかし、気の利いた店員さんにお茶をごちそう
潮見峠
してもらい、北海道から車で来たという老夫婦と、多少の世間話をし
浜松
た。これでもう、噂の難所は京の逢坂山だけだ。それとて峠ではない
天竜川
掛川
のだから、どうってことはないだろう。時刻は 14 時ちょうど。雨の
安部川
中はやはり大変だが、昼間であるゆえ、精神的にはそれほどでもな
三島
い。やはり夜と坂は、一番厳しい組み合わせなのだろう。こうやって
熱海
文章で書いてしまうと、その情感は薄れてしまうが、たかが光量が足
9:12
9:22
9:24
9:34
9:39
9:41
9:46
9:53
10:06
10:25
10:35
りないだけで、人の恐怖心は何倍にもふくれあがあってしまうもの
あの伊豆半島の山をトンネル 10 分で抜けてしまったのには驚い
だ。同じ道を昼間通ってもなんともないし、都会であれば夜なんて全
た*1 。新幹線は 1 万円以上がかかって、実に高い乗り物だが、それで
く問題ないのだが、やはり田舎の夜には物の怪の霊気でも漂っている
も人力に比べれば遥かに安いものだと、私は胸をはって宣言しよう。
のだろうか。自分でも自分が信じられないくらい、理不尽な不安にか
この膨大な距離を保線し、運転することもまた、JR 関係者の多大な
られるものである。
努力の結晶である。科学文明を知るには、非科学文明に身をおいてみ
土山町の先、水口町、甲西町のあたりはとてもゆるやかな下り坂に
る他はない。それが「旅」なるものの、意義である。交通機関を使う
なっていて、道路もよく、たまたま雨もやんでいて、道中で一番走
ことが当たり前となっている今、あえて「旅」にこだわることは、誇
りやすかった区間である。この道沿いに、またも面白い看板を発見
り高き芸術の魂である。距離を肌身で知って、交通機関を使うこと
した。「税金で学ぶ喜び」という、どこかの町の福祉課のポスターで
を、私は別にとめはしない。が、科学文明に溺れ、交通機関無しには
あった。きっとこのポスターの制作者は、「お金がなくて学校に行け
生活できなくなるようなことはいけないことだ。そういう軟弱な人間
ない小学生程度の子供たちが、町立の学校に通えて喜んでいます、税
が、大地震のときにパニックになり、都市を恐慌に陥れるのだ。徒歩
金は有効に利用されています」というようなことを書きたかったのだ
でも自転車でもいい。人間の可能性と限界を試すがよい。人間には、
ろう。だが、歪んだ私の目には、国立大学あたりのコンピューター端
まだまだ秘められたパワーがあるのだ。そしてそれを知る時、あなた
末室で、インターネットから怪しい情報を黙々とダウンロードしてい
は人間には限界もあるということを知るだろう。それこそが、文明社
る学生たちの姿が思い出された。まさに「税金で学ぶ喜び」である。
会にあって、科学技術につぶされない唯一の秘訣である。自然と肉体
確かに広い意味で何かを学んでいるのだろうが、何を学んでいるのか
を知れ! 挑戦せよ! その先に、真の文明人の姿がある。
は疑問だ。「田舎だから許されるポスターだよなぁ」と思ったものだ。
草津市着、15 時 30 分。左へ曲がり、ここからは名実ともに「東海
9 資料集
●
道」となる。いきなりの大渋滞だが、それはそれで嬉しい。自転車で
あるから渋滞は別に関係ない。夕食前には上洛できそうだ。大津市
1 持ち物一覧
◆
を通り、京阪電車と併走する。気合いが緩んでいていて、なかなかス
ピードが出ないが、まぁ、進みはするのでだいじょうぶだ。逢坂山に
さしかかるあたりで、またも大雨になった。昔の大名も上洛に際し
• 携帯電話/携帯充電器
て、こんな雨の中をのぼったのかと思うと、なかなか感慨深い。
• お金
• タオル
16 時 28 分。京都府の看板が見える。ここから京都府京都市だ。京
都に関しては色々と書けなくもないが、それはもっと専門の書に任せ
• ノート 5 枚
よう。下り坂の途中には高速道路のインターがあり、観光バスが大量
• 免許/保健証コピー
にとまっていた。そのせいで走りにくいのは確かだが、「京都」とい
• ビタミン剤
う感じが強烈にしてくる。慢性的と思われる大渋滞の中、見覚えある
• ビニール袋(小)
道を通り、東山 5 条交差点についたのは 17 時 18 分。道中パンクな
• ビニール袋(大)
し、健康に特別の問題なし。出発から 4 日目の夕方であった。
• 手拭い 1 枚
• 缶切り
• 石鹸
8 後日話
●
• 地図のコピー
京都に 2 泊して新幹線で帰ってきた。案の定、新幹線は滅茶苦茶に
• 水性ボールペン 2 本
速い。経路が違うため、必ずしも比較は出来ないが、それでも、文明
• 睡眠剤
の利器がいかに偉大であるかを、感じざるにはいられなかった。これ
• 服(1 着)
を知らずして、京都や大阪を遠いだの近いだの語る輩は、恥を知るが
• クレジットカード
いい。
一応、通過都市の一部について、その通過時間を記録しておいたの
2 距離一覧
◆
で参考にされたい。
*1
ちなみに、実は自転車で静岡に抜けるには熱海街道経由が最も楽である。その後 10 年もしてから徒歩で東海道を歩くことがあり、そのときは熱海街道を
使った。
15
して頂きました。
(A 氏のリストを元に生成)
東京中央区
藤沢市
大磯町
箱根町
沼津市
由比町
岡部町
掛川市
豊田町
豊橋市
音羽町
知立市
蟹江町
桑名市
鈴鹿市
土山町
栗東町
京都市
0.0
64.6
79.9
101.0
144.4
176.8
216.5
254.2
272.6
322.2
334.8
363.2
395.8
408.4
435.3
466.5
495.2
525.6
川崎市
茅ヶ崎市
二宮町
三島市
富士市
清水市
藤枝市
袋井市
浜松市
小坂井町
岡崎市
豊明市
弥富町
川越町
亀山市
水口町
草津市
▷ 自転車マニアの AasaPi!氏には、動機と情報の面で多方面に
18.3
69.6
85.3
138.1
158.9
187.2
221.3
263.0
279.8
326.9
351.6
369.8
400.0
412.8
442.7
476.3
499.4
横浜市
平塚市
小田原市
清水町
蒲原町
静岡市
金谷町
磐田市
新居町
豊川市
安城市
名古屋市
長島町
四日市市
関町
甲西町
大津市
渡り、御指南頂きました。
30.1
75.0
96.1
139.6
170.2
198.0
236.9
265.6
303.7
329.0
359.4
384.1
404.9
421.3
449.1
487.1
511.6
▷ 京都大学平井氏には、宿と洗濯機を貸していただき、京都を
案内して頂きました。
▷ 東北大学 S 氏には、本編執筆に際し WWW ページを参考に
させてもらいました。
▷ 回避堂主人の W 氏には、横浜近辺案内にてお世話になりま
した。
▷ 港区立赤坂図書館、国立国会図書館、都立日比谷図書館、柏
市立図書館の担当者様方には、資料等の閲覧にてお世話にな
りました。
▷ その他、暗黒団の皆様、道中には様々な方々にお世話になっ
たことを、紙面を借りてお礼申し上げます。
東京→京都 ママチャリ500キロの旅
1999 年 8 月 13 日 初版発行
2014 年 2 月 26 日 PDF 版公開
著 者 シンキロウ(しんきろう)
発行者 星野 香奈 (ほしのかな)
発行所 同人集合 暗黒通信団 (http://www.mikaka.org/~kana/)
〒277-8691 千葉県柏局私書箱 54 号 D 係
頒 価 0 円 / ISBN978-4-87310-***-* C0036
3 謝辞
◆
∑
∞
·`·
▷ 京都大学いそのん氏には、自転車と宿と X Window の本を貸
乱丁・落丁は在庫があればお取り替えします。単純なミスは脳内で補
完してください。内容のミス、反論は遠慮なくお寄せください。
c
⃝Copyright
1999-2014 暗黒通信団
16
Printed in Japan