追放されるロマ民族問題 ∼眩しすぎるほど華やかな花の都の影で生きる移民の人生∼ 沖 島 景 1.過酷な現状 ∼私の祖国とは一体どこ?∼ フランス違法キャンプで育ったロマ人たち パリの郊外、セーヌ=サン=ドニ県にある小道、パサージュ・デュポン。バラックの中 から出てきた少数民族ロマの少年は、スーパーのショッピングカートにドラム缶を入れて、 近くの公園へ向かう。朝の日課、水汲みだ。公園まで向う途中、通りに出されたゴミ箱を 覗く。今日は何の収穫もない。無念そうについたため息の、白い息が道に漂う。 この小道は、高級ブティックを脇に抱えたシャンゼリゼ通りからわずか 10 キロしか離れ ていない。しかし周辺には、窓ガラスが割れ、ゴミが山積みされているような、荒廃した 住宅が並ぶ。 フランス政府は7月、国内にいる不法滞在のロマ人を、祖国であるルーマニアやブルガ リアに強制送還する方針を決め、違法キャンプの撤去を開始した。キャンプが解体された 日の朝の様子を、ロマ人のステファン・ガランティはこう回想する。 「朝 6 時、突然保安機動隊がやってきた。外に出ると一枚の紙を見せられ、退去命令が出 ていると宣告された。お願いだから壊さないでくれと懇願したが、機動隊員は聞く耳を持 たない。唖然としながらも、子供の洋服だけはと、必死にかき集めた。その場に泣き崩れ て動けない女性もいたが、警察が両脇を抱えて連れだした。女性は『やめてー!』と泣き 叫んでいたよ。それでも引きずられながら道路まで連行され、舗道に投げ捨てられた。こ うして空になった家を、機動隊は次々と壊していったのさ」 。 また 24 歳のラモナは、赤ん坊に与えるミルクや服を持ち出す時間もなく追い出された。 「ル ーマニアに帰る?そんなことはできないわ。だって、私はこの地で育ったのだもの。ルー マニアに行っても、家族も親戚も、家もないのよ」 。 10 年前からこのキャンプに住んでいた彼女にとって、ルーマニアはもはや異国だった。彼 女には、帰るべき祖国がない。 この日に家を失ったロマの総数は 150 人を越える。行き場を失ったロマたちは、路上生活 を余議なくされた。これらの人々を救うため、複数の擁護団体が市と交渉し、 “一時的”と いう条件のもと、パサージュ・デュポンにキャンプを形成する許可が下りた。とはいえ、 そこに家があるわけではない。ロマたちは、捨てられていた木材などを町中からかき集め、 バラックを作った。ここに移り住んだステファン・ゲイリーは言う。 「ルーマニアに帰ったら、今よりもずっとひどい生活状態が待っている。自分の子供たち が、今の自分と同じように、家を探しながらさまようようなことがない世の中になるよう、 祈っている。私達は他のヨーロッパ人と同じように、働きたい。そして普通の家に住める ようになりたいだけだ」 。 ルーマニア、ブルガリアは、2007 年 1 月から EU に加盟している。しかし経済基盤が不 安定なことを理由に 7 年間の移行期間が設けられ、 他の加盟国のように圏内の自由な移動、 就労が許されていない。フランス政府は大人一人につき 300 ユーロの支援金を渡し、祖国 へ帰るよう手続きをしているが、実際にルーマニアへ帰った人は、再びフランスに渡って くるのが現実。 「歩いてでも、一年掛ってでもフランスへ戻りたい。フランスには、売り物になる金物や 衣類が山程捨てられている。ルーマニアには、そういう環境すらない」。 フランス政府が不法滞在者の国外追放の政策を打ち出したきっかけとなったのは、今年起 きた複数の非定住者たちによる暴動だ。ここで問題となるのが、非定住者=ロマ人ではな いことだ。社会学者のジャン=ピエール・リエジョワ氏はこう語る。 「ロマ人は、家族の結婚など、節目ごとに他の地へ引っ越すという傾向はあるが、それで も 10 年、15 年同じ地に住む人がほとんど。75%以上は定住していると言っていい」 。 それでも政府は暴動の後、 「国民の安全のもと」ロマ人の不法キャンプを優先的に解体し、 強制送還する方針を決めた。 写真 1:パサージュ・デュポンに建てられたロマ人のバラック 2.過去の記憶 ∼最後の証人、レイモン・ギュレム∼ 強制収容所へ向かう道で、当時を語る 「国民の安全のため」 。85 歳のロマ人、レイモン・ギュレムはこの言葉に背筋が凍る思い でいた。第 2 次世界大戦中のフランスでは、 「国民の安全のため」に多くのロマ人が命を奪 われた。ドイツの占領下ではあったが、ロマ人を強制収容所に送り込み、虐殺したのだ。 レイモンはフランスの強制収容所にいた中で、現在も生き残る最後の人物だ。今年の 11 月 27 日、彼は再び 70 年前通った“恐怖の道路”を歩き始めた。二度と同じことが起こらない ように祈りをこめて。 この日、パリ郊外のブレティニーで、第 2 次世界大戦中に強制収容所に送られ、犠牲と なったロマ人の追悼式典が開かれた。 サーカスや映画館を営んでいたレイモンの家に、突然警察がやってきたのは 1940 年 10 月 4 日、朝 6 時のことだった。連行された理由は、 「ロマ民族である」こと。 「私の父は第一次世界大戦中、フランス軍として戦った過去がある。だから父は、まさ か自分の家族が捕まるとは思っていなかった」。 約 2 カ月間、牢獄に監禁され、同年 11 月 27 日、とうとう強制収容所に移される日がや ってきた。 あの日からちょうど 70 年。世の中には平和が戻ったものの、ロマ人に対する差別は消え ることがない。レイモンは言う。 「同じ悲劇を二度と起こしてはいけない。そのためには歴 史を忘れないことが大切だ」 。そこで、強制収容所に連れていかれたレイモンが実際に歩い た道を、追悼式典参加者で再び歩くことになった。 日中でも氷点下。分厚いダウンを着こんで参加した私とは対照的に、レイモンは細い体 に薄でのブレザーを着ているだけだ。「鍛えられているからね」と微笑む。強制収容所へ繋 がる道は現在農場となっており、視界を遮るような建物は何一つ見当たらない。その中央 を、雨が凍りついた土をシャリシャリと踏みながら、前へ進んだ。道中、レイモンの口数 は少ない。しかし、当時のことは今でも鮮明に覚えている。 「簡素な強制収容所はひどい状態だった。屋根だけあり、囲いもない部屋の中で、凍えな がら肩を寄せ合った」 。 そのまま黙ってしまうレイモン。そんな彼をフォローするように、孫が言葉を続けた。 「体力のない者は、どんどん衰弱したそうだ。最も犠牲になったのが、幼い子供たちだ。 毎日、次々と子供が息を引き取っていく。その傍で死体を抱えながら泣き崩れる両親。君 はそんな状態が想像できるかい?」 返す言葉が見つからず、思わず視線を逸らす。辺りに広がる大地があまりにも無限で、急 に苦しく思えた。まるで希望がない未来を、彷徨っているかのように感じた。 レイモンが再び重い口を開いた。 「このままでは自分も死んでしまうと思った」。 そこで命がけで強制収容所を脱走し、約 450 キロ先の、ブルターニュ地方まで歩いて行っ たという。しかし、農村での仕事を見つけ働き始めた矢先、再び警察がやってくる。 「市長が私の戸籍を見せて、あいつはロマだって言いつけたんだ」 こうして再び強制収容所へ送還さる。そこで目にしたのは、まだ 3,4 歳の小さな子供たちが、 兵士に棒で叩かれ、気絶している姿。あまりの酷さに、気が付いたらレイモンは兵士を殴 っていた。そして今度はドイツの強制収容所へ送り込まれることになる。 「フランスには家族がいる、どうしても帰らねばならなかった」 。 レイモンは負けなかった。貨物列車の石炭の中に隠れ、フランスまで舞い戻ったのだ。65 キロあった体重は 40 キロまで減った。その後、家族に会えるまで十数年の年月を要した。 孫は言う。 「祖父は当時の話を、今でもしたがらない。 」 実は戦後数十年間、レイモンは自分が強制収容所にいたという事実を、子供にすら話して いなかった。そんなレイモンが近年事実を話し始めたのは、変わらぬロマ人への差別を撤 廃するには、自分が戦争時の体験を知る最後の証人として発言する義務があると感じたか らだ。例えば今年 10 月には、フランスの移動犯罪対策局がロマ人のDNAを採取し、ファ イルを作成していたことが発覚した。DNAを採取されたロマ人を知る人物は、こう証言 する。 「彼女は滞在許可が今年末まであり、犯罪歴もない。政府が管理する理由は一つもない」。 レイモンはこんな現実を嘆く。 追悼式典に参加したロマ人はみな口をそろえて言う。 「フランスの標語は『自由・平等・博 愛』 。我々には自由はある。しかし平等であったことは一度たりともない。博愛は、フラン スに住むロマ民族、つまり仲間同士の間でしかない」。 写真 2:追悼式典にポニーと共に参加した、最後の証人レイモン・ギュレム 3.未来へ ∼ロマ人をフランス社会に迎え入れるために∼ オーベルヴィリエ市の取り組み パサージュ・デュポンからわずか 2 キロ離れたオーベルヴィリエには、市の支援によっ て作られたロマ人のための小さな“村”がある。フランス社会への統合を目指したプログ ラムで、2007 年から始められた。 市庁舎から徒歩 20 分。緑の柵で囲まれた村の中には数軒の仮設住宅がある。それぞれ 30 平米程で、一軒に一家族、4∼6 人が住んでいる。与えられた住居はあくまでも仮住まいで あり、自立可能になり次第、出ていかねばならない。子供がいる家族は、学校へ行かせる 義務を負い、仕事が見つかれば、家賃として給料の 10%を納める。支払う金額よりも、こ うして毎月家賃を払う習慣をつけることが、自立への第一歩なのだ。プログラムが始まっ た当初、村には 20 家族が住んでいたが、この 3 年間で 6 家族が自立した。 オーベルヴィリエ市長であるジャック・サルヴァトーレは言う。 「オーベルヴィリエの人口のうち、外国人は 35%にも上る。このような多国籍の中で、互 いの文化を理解し合いながら生活を営むのは難しく、異国籍間の争いが絶えないのが現状」 。 その中でも、なかなか定職に就かず、市内にスラム街を形成するロマ人たちは、常に攻撃 の的となっていた。最も、ロマ人ということで差別され、定職に就けないことがスラム街 を形成させてしまう原因でもあった。そこで考え出されたのが「ロマ人の統合プログラム」 である。 このプログラムはロマ人の自立及びフランス社会への適応を目指したもので、参加者は 市から家を提供される。そして職の斡旋や各種相談を無料で受けられる代わりに、ロマ人 自身がフランス社会へ適応する努力をしなければならないというものだ。また、プログラ ムに参加しないロマ人は、オーベルヴィリエから出て行かねばならないことも決定した。 とはいえ、市にとっても費用面などの負担は大きく、全てのロマ人に対してプログラム を提供できるわけではない。そこで人権保護団体やロマ支援会など複数の団体によって、 参加家族の選定が行われた。厳しく問われたのが、フランス語の学習意欲、就職及び勤労 の意思、子供の教育義務を果たすか、という 3 点。これはフランス政府が日本人を含む全 移民に対して重視している項目と一致する。 市長はプログラムの意図をこう説明する。 「ロマ民族の中には、自分たちの生活文化を誇りに思い、フランスに“統合”されること を拒む人も多い。しかしフランスで生きて行くためには、この国の価値観を理解し、規則 を尊重しなければ、平和な日々を保証することができない」 。 この村に住むロバートは、政府系機関内にある食堂の厨房で働いている。ここに入るま でバラック暮らしだった彼らにとって、少し汗ばむ程暖められた部屋の中で生活できる今 は、平和そのものだ。ロバートは、仮設住宅の内部を案内してくれた。キッチンにリビン グ、子供部屋と寝室があり、テレビも洗濯機も備え付けてある。 「以前住んでいたスラム街での生活は、恐怖との戦いだった。その日の生活で精一杯。 自分に明日があるのかも分からない。だから当然、計画を立てて人生を歩むことなんて考 えられなかった。ここに来て、平和と安全が確約されたからこそ、初めて未来にむけて一 歩を踏み出すことが出来た」 。2 人の子供たちも、それぞれフランスでの生き場を見つけた。 息子は窓枠の製作会社に就職が決まり、娘もフランスの学校に馴染んでいる。ロバート一 家は、確実に明日に向って進んでいる。 彼らが入居した 2007 年、 オーベルヴィリエにいたロマ民族の家族数は約 200。その中の、 たった 1 割ではあるが、20 家族に蒔かれた未来。その種は“花の都”の郊外で、確実に芽 を出し育っている。花が咲いた暁には、都に咲く煌びやかな花の中に混じり、実を結んで くれることだろう。 残り 9 割の家族は、今ごろどうしているのだろう。白い息を吐きながら、バラックの中 で今日の食料を探しているのだろうか。チャーター便に乗って国外追放されただろうか。 もしかしたら、ハンガリーやスロベニアを通り、2000 キロの距離をフランスへ向かってい るのかもしれない。2014 年、EU 移行期間が終了するルーマニアとブルガリアは、他の加 盟国と同様に、移動の自由や労働の権利を取得する。もう追い出すことの出来なくなった フランスは、そのときどんな顔つきでロマ人を迎え入れるのだろうか。 写真 3: 「ロマ人の村」の仮設住宅。この日は、子供たちが村の住民の誕生日会を準備して いた
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