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一般財団法人オレンジクロス 第 2 回 看護・介護エピソードコンテスト 大賞

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一般財団法人オレンジクロス
第 2 回 看護・介護エピソードコンテスト
大賞・優秀賞作品
p. 1
【第 2 回看護・介護エピソードコンテスト選考委員】
選考委員長 シルバー新報 編集長
川名佐貴子氏
選考委員
暮らしの保健室 室長
秋山正子氏
選考委員
JCHO 東京新宿メディカルセンター 地域連携・相談センター長
溝尾朗氏
【受賞作品一覧】
大賞
地域のつながりが生んだ支援
川手弓枝さん
P.3
優秀賞
今も心に誓った介護
大澤憲夫さん
P.8
優秀賞
そばにいてくれたらいいから
稲葉典子さん
P.10
優秀賞
かざぐるま
三島裕子さん
P.12
特別賞
きみえさんちものがたり
三上薫さん
P.15
p. 2
【大賞作品】
地域のつながりが生んだ支援:川手弓枝さん
今から十年余り前、遠方で市町村保健師をしていた私は、おひとりさまの三十路女。父親のがん
闘病生活と介護のため故郷に戻ってきた。懐かしい友人達は子育て中、毎日育児に忙しい。「子
どもが言うこと聞かなくてさ~もう、たいへん!」と言う声は生きる力に満ちあふれていて、なんだ
か眩しい。私の周りで、親の介護をしている人はまだいなかった。この時、親の世代は50~60代
で、公園ではかわいい盛りの孫と手をつないで微笑む姿を見かけた。生死をさまよう父とは、まる
で別世界の出来事だ。久しぶりの故郷は、天国と地獄の分岐点だった。
知り合いからは、「保健師なんだから、ちょうどいいじゃん、がんばってね」と応援メールが届い
た。仕事柄、周りからはちょうどいいように見えるのかな。“あなたはひとりでも大丈夫よね”と突き
放されたようで心細くなった。親が病み細る姿・・・ 資格が有ろうと無かろうと、悲しいのは同じな
のに! そう叫び出したいのをグッとこらえた。
仕事では保健師として地域の人々を“支援する側”、プライベートでは家族介護者として“支援を
受ける側”、私はこの2足のわらじを履くこととなった。
帰郷後すぐ、在宅介護支援センターに再就職をした。65歳以上の方のお宅を訪問して高齢者ひ
とりひとりの生活状況を確認する、そして健康に過ごし安心して暮らせるように支援する業務(高
齢者実態把握調査)に就いた。以前は、母乳の匂いのする新生児を訪問していた。毎日高齢者の
方を訪問してお話をじっくり伺うことは、自分にとって驚きと発見の連続であった。高齢者の話の中
には、地域保健事業のヒントがたくさん詰まっていた。
農家をしている80代の女性・Aさんは、旦那様を亡くされてからひとり暮らしだ。お話を伺ってい
ると軽度の認知障害がみられた。離れて暮らす息子さんから、「家に来た人には、用件をノートへ
書いてもらうように」と言われているそうだ。ノートの最初のページには、「母は少しもの忘れがある
ため、御用のある方はこのノートに記入をお願いします。私が月に何回か参りますので、母が忘れ
ていたら対応致します」と息子さんからのメッセージが書かれていた。そこには組合長、民生委
員、農業委員、社会福祉協議会の方など、訪問した方々が日付・訪問者名・用件を記していた。
「保健師さんも、これ(ノート)書いて。わし(私)すぐ忘れるから、よく息子に怒られるんな。でもな
ぁ、これ作ってからは安心よ」とおっしゃって、ノートを手渡された。「わしに似ず賢い息子で、いい
子なぁ」と笑った。そのノートは、“Aさん” と “遠くから母親を見守る息子さん”、両者の絆が具現
化したような存在に感じられた。後日、ノートを介して私の訪問も息子さんに伝わった。息子さんか
ら緊急時の連絡先を知らせて下さり、そのノートは遠方の家族と連携を取る連絡帳として大活躍し
p. 3
た。その連絡帳は親子の絆だけでなく、“Aさん”と“地域の人々”をつなげる絆にもなっている。素
晴らしいアイディアだと感動した。それで、Aさんのノートのことを心ひそかに、『絆の連絡帳』と名
付けた。
高齢者の方はゆっくりとしたスピードで何回も話をくり返されるので、どうしても訪問時間が長くな
る。しかし、そこには学ばせていただくべき要素がぎっしりと詰まっているから、訪問するたびに私
の心は突き動かされる。昔の刑事ドラマに「刑事は足で稼ぐものだ!」というセリフがあったが、保
健師も地域を訪問して“足で稼ぐ”重要性を学んだ。実際に訪問のため地域へ足を運ぶと、ひとり
ひとりのお顔がしっかりと見えた。地域の人同士のつながりがわかるようになり、地域の中に在る
様々な絆を感じた。地域の人々への理解が深まると、その地域が抱える介護問題などの課題も
浮かび上がってきた。仕事を介して、私自身も地域とつながっていることを実感するようになっ
た。
高齢者の方の話を真剣に聞いている間は忘れているのだが、移動する車中では父のことが頭を
よぎる。親御さんの元気な姿が見られる息子さんや娘さんはお幸せだな・・・ と羨ましく思った。意
識不明の状態から1カ月後、父は意識を取り戻した。6カ月間の入院治療を経ても、言葉が話せな
い・理解できない全失語、右上下肢に麻痺が残り歩けない身体状態だった。医師からは、一生寝
たきりだと告げられた。失語症のため他者との意思疎通が難しいことが、入院中も医療関係者を
悩ませた。家族とはアイコンタクトや表情で、なんとなく通じる時があった。そこで入院中は個室で
家族が付添うことを許可してもらい、母と私が交代して付き添った。そうした経過の中、家族にわ
かる範囲で本人の意思を代弁することが常になっていた。
そんな時、入院している急性期病院から回復期リハビリテーションまたは療養型病院への転院
か、または退院して在宅へ戻るかの話し合いをしたいと、病棟のソーシャルワーカーから告げられ
た。今から10 年前の話だが、病棟のソーシャルワーカーと看護師、介護保険のケアマネジャー、
本人(父)、家族(母と私)、で話し合いが行われた。看護師は「義幸さん(本人)ひとりでは出来な
いことが多いから」と、リハビリを続けられる病院への転院をすすめてくれた。話し合いの前日、ア
イコンタクトや絵を書いて父と相談した結果、本人は家に帰りたがっていることがわかった。そこで
家族は、退院を希望し在宅ではこんな風に生活したいと思っていると話そうとした。すると、「家族
のための話し合いじゃないんですよ、ご本人のための話し合いなんです。義幸さんがどうしたいの
か、が大事です」とソーシャルワーカーが厳しい口調で家族の言葉を遮った。そして、「義幸さんは
どうしたいですか?」とたずねた。「・・・・」父は答えなかった。答えたくても答えられなかったという
べきだ。
「義幸さん、どうされました? 何でもいいですよ、お家に帰るのが不安なら、転院してリハビリを
続けることもできますよ」と優しくなだめるように、ソーシャルワーカーは問いかけた。父は困った
表情を浮かべ、家族を見た。ケアマネジャーが、「義幸さんはご家族との意思疎通がなんとなく出
p. 4
来ているので言葉がわかるように見えてしまいますが、実は私達の言葉はほとんど理解できてい
ないと言語聴覚士の先生がおっしゃっていました」と言った。看護師も「家族との意思疎通は可能
とカルテには書いてありますが、私達看護師の言葉に対しては“こう言っているのかな”という推測
や勘でうなずいているように思えます」と言った。再度ケアマネジャーが、「ご家族とは病気になる
前から気持ちが通じているから、言葉が無くても通じるものがあるのかもしれません。でも病気を
機に関わったばかりの私達が義幸さんのお気持ちを知るには、ご家族の協力がないと難しいかな
と思います」と、家族が本人の気持ちを代弁することを容認してくれた。
「そうでしたか。私は可能なかぎり、義幸さんの意思を尊重できればと思ったものですから」とソ
ーシャルワーカーは言い、『本人の意思の尊重』という核心を突く言葉を全員に投げかけた。言葉
の理解ができず、話すことができない父。でも本当は、言いたいことや伝えたい思いが胸の内に
あふれかえっていることだろう。本当はどう思っているのか、どうしたら本人の意思を尊重すること
になるだろうか・・・ この問いかけは、この後に在宅で支援して下さるケアスタッフの皆さんおよび
家族にとっても、最大の課題となった。
話し合いの結果、退院後は住み慣れた自宅へ戻り、介護保険サービスを利用しながら在宅介護
をすることに決まった。福祉用具のレンタル・訪問看護・訪問介護・訪問リハビリ・訪問入浴など、
様々な介護保険サービスをケアマネジャーさんが手配して下さり、看護・介護・リハビリなどたくさ
んのケアスタッフに支援していただくことになった。
自宅へ戻れたものの、健康な時とはまるっきり変わってしまったことに一番ショックを受けている
のは、父本人であった。言葉が話せない(失語症)だけでなく、高次脳機能障害のため日時がわ
からない(記憶障害)、服の袖の通し方がわからない(失行)、自宅トイレへの行き方がわからない
(地誌的障害)など、次から次へと生活上困難な出来事にぶつかった。何が出来て何が出来ない
のか、家族もケアスタッフもすぐにはわからなかった。周りから理解してもらえない悲しみが積もっ
て、父から笑顔が消えた。気持ちが伝わらないことに苛立っている様子がみられ、次第にケアスタ
ッフへ怒りをぶつける場面が増えた。ケアスタッフ達から、「一生懸命やっているが、どう対応して
いいのかわからず困っている」と家族に告げられた。両者がギスギスとして、父とケアスタッフとの
間に明らかな溝が生じていた。父の目つきは険しさを増して表情は暗くなり、家族以外の人を受け
入れなくなっていた。その背中は、言いたくても言えないもどかしさと気持ちをわかってもらえない
悲しみにあふれていた。
私達家族も、何気ない言葉で傷ついていた。ある日、ケアスタッフの手を振り払った父の手が、
ケアスタッフの顔にバチンと当たってしまった。その人はあまりの痛さに顔を押さえ、「娘さん、保
健師なんでしょ? お父さんの言っていること、わからないんですか!」と声を荒げた。胸が張り裂
けそうだった。まったくその通りだ、何のために勉強してきたのか、何の役にも立ってない。無力な
自分が申し訳なかった。
p. 5
家族介護者として24 時間ずっとそばにいると、父の心の痛みがヒシヒシと伝わってきた。何て
言いたいのか父の言葉を一言一句そのまま理解することはできないけれど、悲しいとかつらいと
か気持ちは理解できるかもしれない・・・ 父の気持ちをケアスタッフの皆さんにも知ってもらいた
い!そう思った時、ふと、以前訪問したAさんの“絆の連絡帳”を思い出した。「これだ!」、家族介
護者としての私と保健師としての私がつながり、ひとつになった瞬間だった。
『ソワソワした表情で左手を動かす時は、トイレです』『最近はテレビの裏側が気になって仕方あ
りません』『物を投げる時は、悲しみでいっぱいの時です』など、家族が気づいたことをノートに書
いてケアスタッフに見てもらえる連絡帳を作った。そのノートの最初のページには、 《義幸のこと
を知ってください》という題名で、元気な頃の写真を貼り、好きなこと、苦手なこと、どんな仕事をし
てきて、どんな性格か、など本人の自己紹介ページを設けた。Aさんの『絆の連絡帳』を応用し
た、『我家流の絆の連絡帳』の誕生だ。
ケアスタッフの皆さんに困ったことがあれば、「今日はこんな様子で、こんな時に困りました。他
のスタッフの方はどうしていますか?」という感じで連絡帳へ記入してもらった。困っているからこ
そ、みんなで共有して知恵を出し合おうと思った。各ページに縦線を引き、欄を4つ設け、①日時
②サービス名・担当者名 ③本人の様子と困ったこと ④対応策 と4項目記入してもらった。④対
応策には、他のケアスタッフや家族介護者から「自分はこう対応しています」といったアドバイス
や、「こんな風にしたら、今日はうまくいきました」といった体験談を記入してもらった。看護・介護・
リハビリなど各ケアスタッフの専門性や経験をもとにして、お互いにアドバイスし合うようにした。
毎回連絡帳の記録をお願いすることは、ケアスタッフの負担を増やすことになる。私達(要介護
者・家族介護者)の介護負担額は増えるが、各ケアの単位数を増やしてもらうことで連絡帳を書く
時間を確保してもらった。ケアスタッフ皆さんが根気よく連絡帳を続けてくださったおかげで、バラ
バラとしていた支援チームがひとつにまとまっていくのを感じた。連絡帳を続けていくと、たくさん
の困りごとの中に共通した課題が見えるようになった。ケアマネジャーさんも連絡帳を見るように
なり、「共通した課題をもとに居宅サービス計画を立てる」という流れが出来上がった。看護・介
護・リハビリなどのケアスタッフ達が連絡帳を介してつながり、ケアマネジャーもいっしょに共通の
課題を見つけ、関係職種が連携して支援をしてくれた。連絡帳は何冊にも増え、途中でメンバー
が交代しながらもケアスタッフの連携は続いた。すると、ケアスタッフ・父(本人)・母と私(家族)と
の間にあった溝が徐々に埋まっていき、新しい関係性が築かれ始めた。
自分の心の殻に閉じこもった父は、薄皮を剥ぐように少しずつ、長い時間をかけて支援する必要
があった。次から次へと困難が生じて、気苦労は絶えることが無かった。それでも5年後、父は笑
顔を取り戻すことができた。ほんの短い期間だったが、もう一度、家族とそして支援し続けて下さっ
p. 6
たケアスタッフの皆さんといっしょに、笑い合えた時期があった。その後寝たきりになってからも在
宅で暮らし、「生きていてくれてありがとう」と感謝の気持ちをこめて大切な父を抱きしめることがで
きた。そこには要介護者・家族介護者・ケアマネジャー・ケアスタッフ、みんなで10年かけて築き
上げた「絆」があった。『絆の連絡帳』が、在宅介護をする私達をつなぐ『本物の絆』になっていた。
その中味は、困難に目を背けず根気よく支援し続けて下さった皆さんの愛と努力にあふれてい
た。在宅介護とは、地域で生活する中で生まれる絆のひとつだと感じた。
そういう日常が送れたのは、在宅介護において看護・介護・リハビリ・ケアマネジャーなど、多職
種のケアスタッフが連携して支援してくれたからだ。要介護者が話せないと、本人の意思の確認
は難しい。『本人の意思を尊重すること』とは、言葉を一言一句正確に理解することばかりではな
いと感じた。本人が笑顔を見せてくれ、生きていて良かったと実感してくれる日々の積み重ね、そ
うした日常生活そのものこそが、その人の意思が尊重されている状態ではないかと思う。たとえ寝
たきりになって言葉は通じなくても、ケアしてくれる人との間に絆があれば、本人の意思を尊重し
た生活は続けられるだろう。寝たきりになっても家族の大黒柱として懸命に生き抜いた父の背中
が、2足のわらじを脱いだ私にそう教えてくれた。
振り返れば、保健師の時にAさんから学んだ“絆の連絡帳”がヒントになって、家族介護者となっ
た私を助けてくれた。ひとりの人間が、支援する側になったり支援を受ける側になったりして、人生
のどこかでつながっている。どちら側であっても、様々な絆を介してつながっていく。
在宅介護とは、地域で生活する中で生まれる絆のひとつだ。支援を受ける側の要介護者は、病
気や障がいを抱えながら“地域で生活する人”である。また、支援する側のケアスタッフも、仕事を
しながら“地域で生活する人”である。支援を受ける側と支援する側、どちらの立場にいようとも私
達は、絆を介してつながり地域の中で生活している。たとえ寝たきりで言葉が話せなくても、その
人の意思が尊重され人生の最期まで安心して生活できる絆がある、そんなつながりのある地域
在宅介護支援を目指して今後も尽力したい。
p. 7
【優秀賞作品】
今も心に誓った介護:大澤憲夫さん
私が初めて認知症(当時は、「痴呆症」と呼称されていました)の方と出会ったのは、34年前、青
森の津軽地方にある特別養護老人ホームに勤務した時です。
正直、「認知症」という言葉は知識として持ち合わせていましたが、実際、その状態を目の当たり
にしたのは、この時が初めてでした。しかし、実際に認知症の人を知るというエピソードがスタート
したのは、勤務して一通りの仕事ができるようになった6ヶ月後でした。私は女性4人の1室を任さ
れることになりました。その部屋は特別室でした。どうして特別室なのかは、認知症状が重い人の
部屋だからです。ベッドは転落の恐れがあるため撤去され、床は畳敷きで、失禁や便弄りで汚れ
ないようにビニール製の茣蓙で覆っていました。また部屋の壁は誤って頭を打たないように、クッ
ション入りの特殊加工されたものが腰の高さまで施工されており、衣類用ロッカーとトイレ以外は
何もない部屋でした。
その特別室で生活していた人たちは認知症状も様々で、性格も個性的で、特に皆が揃って機嫌
の良い時などは通じない会話で盛り上がることも多々ありました。
今、振り返ってみると経験の全く乏しかった私は、彼女たちを人生豊かな高齢者としてみていな
かったように思います。日々のルーチン化された業務に追われ、認知症という得体の知れない暗
闇の中で、彼女たちは喘ぎ苦しむこともあっただろうに、そんな思いに気が付かず、「認知症=何
も分からない人」という既成概念に囚われて介護をしていたのかもしれません。しかし、ある出来
事がきっかけで、私の心の呪縛は解かれ、彼女たちへの思いが180度変わったのです。それは今
でも鮮明に私の脳裏に刻まれています。
たった一つのリンゴが、認知症の人は何も分からないという誤った考えを正してくれました。どこ
から手に入れたのか、4人の中で一番穏やかなNさんが、一つのリンゴを大事そうに懐に入れてい
たのです。ところが、そのリンゴを奪おうと、いつも不機嫌なOさんがNさんの懐に手を入れようとし
たのです。「パシ!」とNさんの手がOさんの頬を平手打ちしました。いつもはNさんが素直に相手
の欲しいものを渡して一件落着なのですが、その攻防は、なかなか静まりませんでした。いつにな
くNさんが顔を紅潮されて激怒していたこともあり、私はいつもと違う彼女たちの雰囲気を察知し
て、二人の間に止めに入りました。その時です。争いの元となった、そのリンゴをNさんは私に差し
出したのです。一瞬、私は驚きましたが、すぐに火種のリンゴを私に預けることで、Nさんは難を逃
れようとしたんだなと思いました。でも、本当は違ったのです。Nさんの私に向けた言葉で、私の頭
p. 8
の中は真っ白になりました。
「わのリンゴ、ふとつだばて世話っこさなってる、なさけるはんで受げどってけろ(わたしのひとつ
しかないリンゴだけれど、私の面倒をみてくれているあなたにあげたいので受け取ってください)」
その津軽弁は、「認知症の人は何もわからない」ということを否定するものでした。Nさんは、しっか
り感じている。分かっているのだと確信した瞬間でした。私は、その時から彼女たちの代弁者にな
ろうと決心したのです。
認知症当事者の思いが後回しにされていた、あの時代から、数十年の年月を超えて、ようやく当
事者の声に耳を傾ける社会になってきました。その思いを心に誓いながら、私の経験と知識を伝
え、介護とは、どういうものかを考えられる人を育てていきたいと思っています。
あれから34年、彼女たちの心の声が私の心の支えとなり、今でもその思いは変わらず続いてい
ます。
p. 9
【優秀賞作品】
そばにいてくれたらいいから:稲葉典子さん
「何もしなくていい、そばにいてくれたらいいから」
患者さんから、この言葉を私が最初に聞いたのは、今からちょうど 20 年前、がん専門病院で準
夜勤をしていた時でした。膀胱がんで背骨に転移していた 60 代のその女性の患者さんは、個室
で眠れない夜を過ごしていました。私が、深夜勤務担当への申し送り前のラウンドで病室に伺っ
た際、家族への思いや孤独な感情を話してくれた後のことです。
準夜勤務の担当業務が終わると病室に向かい、「仕事しながらでいいからね・・・」という言葉に
甘え、ベッドサイドに腰掛けカーデックスで記録を記載していました。ひと通り記録が終わったら、
彼女はうとうとされながらも右手を布団から出してきたので、私はそっと手を握りました。
その間、何か会話をした記憶はありません。私も横でうたた寝しながら、ただすっと手を握り続
けました。30 分ほどして彼女の寝息を確認し、そっと手を離すと「ありがとう、もう大丈夫」と彼女は
微笑んでくれました。
「もう少しいます」
当時の私は看護師になって 4 年目、がんによる疼痛も強くなり、きっと彼女は辛い思いでいるの
だろうと考えながら、「患者さんの思いに寄り添えた」という妙な満足感も得ていたように記憶して
います。ただ、そのような私の勝手な自己満足が彼女に伝わり、「もう大丈夫」と言わせたのかもし
れない、と最近では振り返るようになりました。
彼女は、それから2週間後に、一番彼女が気がかりに思っていたご主人に見守られて亡くなりま
した。
「何もしなくていい、そばにいてくれたらいいから」
20 年前と同じこの言葉を、再び聞く機会がありました。ご自宅での看取りを自ら希望されている
方で、訪問看護で関わり始めて 1 年半が経過した昨年の 12 月でした。70 代の男性ですが、20
年前の彼女と同じ、膀胱がんで背骨に転移して座ることもままならない状況でした。
訪問看護としての長い支援の中で、特定の信仰を持っているわけではない、タクシー運転手の
仕事をしていた彼は、私によく哲学的な話をしてくれました。
ある日の訪問看護記録に、私は彼の話した言葉を記述していました。「人間の意識は、能動意
識、受動意識、潜在意識に分けられる。能動意識がやられると自分のように足が動かなくなる。意
識とは、はすの花や葉の下の部分で、底辺には時間がある。花の部分は人間の情愛、慈愛にあ
p. 10
たる」私は、下肢の浮腫へのマッサージをしながら、彼の話す言葉の意味を時々確認し、頷いて
話を聴いていました。
その話に対する私のアセスメントは「ご自身の命についてどう考えておられるのか、スピリチュア
ルペインの部分までは掘り下げることができなかったが、この話題をトリガーにしていくことができ
る」と記述していました。看護職として 20 年以上働いてきた中で、スピリチュアルケアの実践をし
ているのだ、という自負と、その実践を言語化することで訪問看護師の専門性を見いだそう、と肩
に力を入れていたように思います。それから、彼は訪問するたびに、釈迦如来の話や、日本と世
界の個人主義、自由主義の違い、千利休の話などをしてくれました。
そのような経過の中で、私は2度目のあの言葉を耳にしたのです。
その後に彼はこう言いました。「年は越せそうだけど、この先長くない。40 年かけて勉強してきたこ
とを、今のあなたに話してもわからないと思うけど、あなたが 40 年経った時にも心のどこかで残っ
てくれていたらと思う。マッサージも何もしなくていい。あなたの時間がある時に来てくれて話を聴
いてくれたらいいから」
その言葉を聞いてはっとしました。私が、20 年前に経験し今振り返ると自己満足だったのでは、
と思うような支援を、また繰り返しているのではないか、と自問しました。彼と彼の家族のために、
訪問看護師としてできることは何か、それはそばにいて話を聴くこと、確かにそうかもしれません。
しかし、彼との対話の中では、話を聴くことそのものも、何かをしたい、という自分本位の考えでは、
とおこがましいことのようにも思えてきていました。ただ、無になって彼の話を聴き、彼が生きた証
を心に刻む、彼が亡くなっても誰かの心で生き続けるんだ、ということを私は彼にフィードバックで
きていただろうか、と考えると、答えは彼の中にあることに思い至りました。
年を越して、喘鳴が強くなり少しずつ意識が遠のく中でも、「話してください。聞こえています。」
と彼は対話を望まれました。私は、今までに彼が話をしてくれた、意識や主義について、問いかけ
るように話をしました。そして 2 月初旬、ご家族に見守られながら永眠され、エンゼルケアで訪問
した際は本当に穏やかなお顔をされていました。
「何もしなくていい、そばにいてくれたらいいから」と一介の看護師である私に言ってくれたお二
人に、最期の時を一緒に過ごさせていただいたことへの感謝を伝えたい思いでいっぱいです。も
し、伝えることが叶うのならば、お二人に尋ねてみたいことがあります。
「私はお二人がこの世で確かに生きた、という証人の一人としてその役割を果たすことができた
でしょうか。本当に心を傾けて思いを拝聴することができていたでしょうか。看護師としての実践と
いう、よこしまな気持ちを感じさせずにそばにいることができていたでしょうか。」
p. 11
【優秀賞作品】
かざぐるま:三島裕子さん
高校を卒業して特別養護老人ホームに就職した私は、仕事に慣れるのに必死だった。毎日が
失敗と発見の連続だったあの頃、新しく入所されてきた一人の女性利用者様がいた。担当の階で
はなかったが、全階共同で使う浴室で見かけることがあり、見た目にも可愛らしい方で、とても職
員に気を遣い遠慮されている様子が見て取れた。脳梗塞の後遺症で片麻痺ではあったが、ほと
んどの生活動作は自立されていた。
ある日、入浴介助をさせて頂く機会があった。「まだ不慣れなので、気づいた事があれば言って
くださいね」と前置きをして介助にあたった。
更衣中も洗身中も入浴中も、O さんはとても優しく色々な事を話してくれた。娘時代の事や結婚し
てからの事、ご家族の事や脳梗塞になってしまってからの事など。
私が遠目に見ていた O さんは、少し無口な印象があったけれど、その日はとても饒舌だった。今
思えば、緊張していた私を気遣ってのことだったかもしれない。でも、その時の私は、ただ自分の
ことを話してくれて笑ってくれて「ありがとう」と言ってくれたことが、ただただ嬉しかった。私は O さ
んの事が大好きになった。
それからというもの、休憩時間や夜勤明けで退社する前に O さんの居室へ遊びに行き、5~10
分会話をするのが楽しみのひとつになっていた。O さんが、私の担当している階に下りてきてく
れ、話しをすることもあった。仕事で疲れている時も、ちょっと落ち込んでいる時も、顔を見るだけ
でもホッとして、他愛のない話しをするだけで気分が晴れた。私のオアシスだった。
そんな日々が 3 ヵ月程経った初夏。
ある日の夜勤中に折り紙で風車を作った。翌朝になり、その風車を手土産に O さんの居室を訪ね
た。いつものような優しい笑顔が待っていた。風車を渡すと、とても喜んでくれたのを覚えている。
居室の窓からベランダに出ると、風を受けクルクルクルクル・・・と風車は気持ちよさそうに回った。
上手に作れた事も嬉しかった。「明日は休みだから、また今度ね」別れを告げ、自宅に帰った私は
夜勤明け特有の強烈な睡魔に襲われ眠りに落ちた。
目が覚めると夜中。携帯電話の着信を告げるランプが光っているのに気が付いて、着信相手を
確認すると、今日夜勤入りしているはずの先輩からのものだった。慌てて掛けなおすと、予想だに
していなかった内容に言葉を失った。
「明けなのにごめんね。実は O さんが亡くなったの。あなた仲が良かったから連絡したほうがい
p. 12
いと思って。明日休みでしょ?明日の朝には出棺だから、顔を見たいならおいで。」
寝ぼけた頭では、すぐに理解が追いつかなかったが、電話を切ると着替えをして施設へ向かっ
た。車を走らせている間も、“まさか”という思いしかなかった。まだ就職してから、誰かが亡くなっ
たことがなかった事もあってか、まったく現実味を帯びてこなかった。
施設に到着すると、慌てて O さんの居室に向かった。ベッドの上に横たわる O さんは、すでに看
護師さんからのエンゼルケアを受け、化粧も身支度も整えられていた。その温かさのない顔を見
たとき、やっと実感が湧いてきた。
――――――――――――あぁ、もうお話しできないんだね。
瞬間、涙があふれてとまらなくなった。顔も手も冷たくて、通いなれた居室ですら冷たく感じた。ど
のくらい泣いただろうか、控えめなノックのあと居室の扉が開き電話をくれた先輩が入ってきた。
何があったのか問うと、「ポータブルトイレから立ってズボンを上げようとした時に、バランスを崩し
たのか前へ転んだみたい。巡回で見回ってきて発見した時には、もう・・・」先輩の赤く腫れた目
に、また涙があふれてきた。
食事も着替えもトイレも移乗も、いつもちゃんとやれていたのに、どうして今日は転んじゃった
の?体調が悪かったの?足元が滑ったの?色んなことが次から次へと頭に浮かんでくるのに、言
葉にはならなかった。
「枕のとこに、あなた宛ての紙が置いてあったよ」
その言葉に促されるように枕元を見てみれば、黄色い広告用紙が置いてあった。その裏には、利
き手ではない手で頑張って書いてくれたであろう俳句が残されていた。
風車
やさしき人の プレゼント
日毎眺めて
心やすらぐ
風うけて くるくるまわる
造られし人の
風車
思いをこめて
あれから 11 年ほどの歳月が過ぎ、私も 30 歳を迎えた。
私の部屋には、今もあの黄色い広告用紙が額に入って飾られている。今でも鮮明に蘇るのは、O
さんの優しい笑顔とクルクルまわる風車。
O さんを通して、初めて“死”を身近に感じ実感したことで、一緒に過ごせる時間の尊さを思い知っ
p. 13
た。あの時から仕事に対する姿勢が変わったと思えるのは、今だからこそ分かるものなのかもしれ
ない。『明日また会えるとは限らない。今日が最期かもしれないと思って接しよう』
あの日そう心に決めた思いを、今までも、そしてこれからももち続けていきたいと思う。
p. 14
【選考委員特別賞作品】
きみえさんちものがたり:三上薫さん
ささえるさん夕張は、医療法人ささえる医療研究所を母体として、夕張で介護事業を運営してい
ます。1 つの建物の中に、居宅介護支援、訪問介護、定期巡回随時対応型訪問介護看護の 3 事
業所があります。職員は 8 名の小さな事業所です。以前は夕張市内の清水沢という地区で事務
所を構えていましたが、現在は利用者様の一軒家を譲り受け、事務所として利用させていただい
ています。
私達はこの事務所を「きみえさんち」と呼んでいます。「きみえさん」とはその家に元々住んでい
た利用者様で、102 歳のおばあちゃんです。これからそのきみえさんのお話と、お宅を譲り受ける
ことになった経緯をお話したいと思います。
平成 24 年 9 月。きみえさんは、元々訪問診療と看護、通所リハビリを利用されていました。訪
問診療の担当は、当法人の村上先生です。ところが、通所リハビリに行く日も朝、起きられなかっ
たり、行ってもほとんど寝て過ごす事が多くなってきていました。
訪問看護を通じてその状況を聞き、定期巡回ならご本人の起きている時間に、自宅で入浴でき
るのではないかと思い、ご家族様にサービスの説明させていただきました。当初、すぐには利用を
決められなかった様子でしたが、「お風呂好きな母をお風呂に入れてあげたい」という気持ちが強
く、定期巡回の契約をしてサービス開始となりました。
きみえさんは、定期巡回のスタッフはもちろん、他サービスの職員が来てもいつも笑顔で、いつ
もきれいに身支度をしており、いつも人に気配りをする方でした。入浴介助をしている私たちに「あ
なたも一緒にどう?気持ちいいわよ」と笑顔で言われたり、「若い時の夢は宝塚に入団する事だっ
たの」とお話したり、本州に住んでいた時の話や、旅行の話等やさしい口調でお話されていました。
きみえさんは長女様と同居しており、市外には次女と三女様。道外に長男様ご夫婦がいて、長
女様がキーパーソンでした。サービスが入った時点で既に 100 歳を迎えられており、ご家族皆様
で交代して介護されていました。
どなたも介護には熱心で、「お母さんの笑顔がみたいし、育ててもらった恩返しができる」と言わ
れていたのを思いだします。家族みんなで介護する、というのは出来そうで出来ないことです。家
族の協力が得られず在宅生活を断念する方も多くみてきた中で、こんないいご家族に出会えてよ
かったと今でも思います。そしてそれも、きみえさんが家族の為に長年頑張ってきた結果なのだと
強く感じました。
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平成 24 年 12 月。きみえさんは体調を崩し、自宅での入浴ができなくなりました。また、以前は
ベッドと車いすを行き来されていたのですが、ベッド上だけで過ごす事が多くなっていました。そこ
で入浴介助だけのサービスでしたが、排泄介助のサービスに変更となり、毎日 3 回ずつ、1 回 15
分~20 分という形で対応させていただくこととなりました。
定期巡回随時対応型訪問介護看護は、平成 24 年 4 月から新しく導入された制度です。きみえ
さんと関わらせていただいていた当時は、国内でも実施しているところは珍しく、郡部で実施して
いる地域は夕張だけでした。
そのため、全国から見学の方がみえた時には、よくきみえさんの家にお連れしました。その都度
きみえさんには、「見学の方をお連れしていいですか?」とうかがっていましたが、いつも「どうぞ」
とにっこり。見学に来られた方にも笑顔をみせ、嫌な顔せず対応してくれていました。
きみえさんは、宝塚に入りたかったという夢を持っていたこともあり、元々運動神経が良く活発な
方だったようです。スポーツ観戦が大好きで、テレビで相撲やアイススケート等をみては「すばらし
いね」と喜んでいました。
きみえさんから教わったことのひとつが、「一髪、二化粧、三姿」という言葉です。
一髪 → 髪を整える。
二化粧 → お化粧をする。
三姿 → 身支度を整える。
この順番を守り長年生活をしてきたそうです。私は、休みの日は化粧もせず、ジャージで過ごす
話をすると「若い時からちゃんとしないとね」と愛のムチ。娘さんも「私たちも結構言われるんです
よね」と苦笑いをされていました。でもその言葉通り、お写真を撮らせていただきたいとお願いをす
ると、眼鏡をかけて髪型や表情を確認し、お気に入りのカーディガンを着て撮影に臨んでいました。
また、元気に通所リハビリに通っていた頃も、しっかりと身支度をして、ストッキングもはいて通わ
れていたようです。気品があり、瀟洒で、私も年齢を重ねていく上で、きみえさんのようになれれ
ばいいなと今でも思っています。
娘さんも愛用している金粉入りの化粧水や石鹸も使っていて、訪問するとお顔に金粉が付いて
いることもありました。「あら~、いらっしゃい」と、キラキラの笑顔でお迎えしてくれたことを思いだ
します。
私は、高齢者の方は肉類よりも魚類を好み、煮物やあっさりした食べ物を好んで食べると勝手に
思い込んでいました。しかし、きみえさんはグラタンやチーズ、鶏肉等を好み、魚はあまり好みま
せんでした。ご家族はいつも献立をご本人と相談していて、沢山食べてくれると喜んで作っていま
した。繊維質の野菜や、トウモロコシといった皮があるものはしっかりと咀嚼をした後、きれいに口
から繊維だけを出す癖もありました(昔からだそうです)。
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お菓子も大好きで、100 歳のお誕生日には、村上先生からじゃがりこ 1 箱をプレゼントされてい
ました。塩分が多いお菓子なので、むくみの事を考えると普通の医者は「塩分が多いから食べな
い様に、減塩してね」と言って食べさせないと思います。ところが村上先生は「むくんだ時はまた診
に来るから、好きなだけ食べていいよ」と言って、きみえさんも喜んで食べていました。年齢を考え、
節制するよりもまず本人の好きなようにして、周りはそれをサポートするべきとの考えからです。ど
うなったか想像はつくかと思いますが、やはり両下肢にむくみを確認することとなり、先生が往診
することになりました。今ではいい思い出と、先生もお話されています。
月日は経ち、きみえさんは熱発を繰り返す様になりました。熱発が起こるたびにADLが低下し
ていき、食事の量も少なくなり、寝ている時間が多くなってきました。元々仙骨が突起している方
で、栄養状態も低下していたこともあって、皮膚の状態にはかなりの注意を払っていたつもりでし
たが、それでも仙骨に褥瘡が出来てしまいました。訪問看護とも連携しながら対応していましたが、
きみえさんが痛がったり、辛い表情をしているのが切なくて堪りませんでした。
昔、上司から教わったことがあります。「利用者様の身体を綺麗にし、傷をつくらずにケアするこ
とがあなたたちの仕事であり、傷をつくってしまったことは、あなたたちのケアの結果です」。その
言葉がきみえさんのケアに行くたびに思いだされ、どうにか改善できないかと、訪問診療の先生
や栄養士さんにアドバイスをいただきながら対応していましたが、最後まで改善することはありま
せんでした。
ADLや体力が低下していくにつれ、ご家族様も不安が募っている様子でした。訪問時間終了
後も、家族の不安や今後のきみえさんの変化として予想されることなど、我々の答えられる範囲
でお話をさせていただきました。きみえさん自身も不安だったのではないかと思いますが、何かし
てほしいことはありますか? と聞いても、いつも「何もないよ」というお答えでした。
でも、私たちスタッフの手をぎっちり握りしめることもあり、その時はきみえさんが手を放すまで
握っていました。言葉で不安を解消することもできますが、言葉だけでは伝えきれないこともある
と思います。そんな時、こうした形で少しでもお力になれたらとの想いからでした。
きみえさんはだんだんと足のむくみが強くなり、食事が摂れず、水分の摂取量も少なくなってい
きました。訪問診療の先生から、命の期限が迫っていることを聞き、ご家族様もこのまま家で最期
を迎えさせたいとの意向を確認しました。ご家族様は大きな混乱なく受け入れておられました。
平成 27 年 2 月 17 日。ご家族様に囲まれて、長谷川君江さんは永眠されました。享年 102 歳で
した。すぐに訪問診療の先生より連絡があり、遅い時間でしたがご自宅に訪問させていただきまし
た。訪問看護で着替えやメイクをしていただいたと言われ、お顔を見ると皮膚もツヤツヤしていて、
にっこりと微笑んでいるようでした。思わず「わあ、きれい・・・・・・」とつぶやいてしましました。「本当
にきれいで、母は幸せだったと思います」とご家族様も仰っていました。
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静かにお見送りしたいとの意向で、葬儀等は親族だけで執り行われました。私達は後日、お参り
させていただきました。
きみえさんが亡くなって数ヵ月後のことです。亡くなった当初は何度かお参りさせていただきま
したが、しばらくご無沙汰していました。そこで、久しぶりにお参りさせて下さいと連絡し、お宅に伺
いました。長居をするつもりはなかったのですが、本州の長男ご夫婦と、次女様もいらしていたの
で、再会に話が弾みました。
その中で「この家をささえるさんで、何かの形で使ってもらう事ってできないのかな?事務所でも
いいんだけど・・・」と長男様より提案がありました。
「長女も市外で生活していて、この先は家を壊してしまうだけ。でも、どんな形でもいいから家を残
したい。ささえるさんで使用してくれたら母も喜ぶはず」と・・・・・・。
突然のお話になんと返事をしていいのかわかりませんでしたが、とてもありがたいお話でした。こ
れ以上ないくらい光栄なお話です。その場では「先生に相談してみていいですか?」と返事をして、
早速村上先生に相談しました。すると「すごい話だね。家を譲ってくれるなんてそうある話ではな
いし、スタッフたちがきみえさんやご家族様と信頼関係があった結果だね」と喜び、快諾してくれま
した。その後はとんとん拍子に話が進み、事務所として使用させていただくことになりました。
きみえさんちは、築 50 年以上になります。少し直す場所はありましたが、きみえさんのものがた
りを語り継いでいきたいという皆の想いは同じでした。床を数か所直したほかは、押入れの扉を取
って棚にしたり、カーペットを敷く程度の事しかせず、きみえさんが住んでいた時とほぼ変わってい
ません。旦那様の写真ときみえさんの写真を並べ、賞状もそのままにしています。少し遅れ気味
の壁掛け時計もそのまま使用しています。
お看取りとしての関わりは、きみえさんが初めてではありません。その方その方の想いがあり、
その想いに寄り添い、穏やかに過ごす事が出来るようにすることが、ケアに関わる方全員に共通
することだと思っています。
お看取りするときには、いつもこう思います。我々スタッフが行ってきたケアで本当に満足して
いただけたのか。もっと出来る事はなかったか。ご家族様の支援もできていたか。介護職員の自
己満足になっていないか……。
「~していた」、「~思って」というのは、ただの自己満足です。本当のケアにはなっていないと思
います。100%の完璧なケアは今後も限りなく難しいと感じていますが、「ささえるさんでよかった」
と思っていただけるようなケアを続けていけたらと思います。
今年の 2 月で、きみえさんの一周忌でした。1 年が過ぎるのがこんなに早いのかと思い知らさ
れた期間でした。現在勤務しているスタッフの中には、きみえさんが亡くなった後から採用になっ
たスタッフもいます。事務所にかかっているきみえさん写真を見ながら、「私もお会いしたかったな
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あ」と残念そうに言います。きみえさんには、本当に教えていただいたことも多く、癒されたことも
多かったです。
きみえさんの生きてきたこの家で、今後出会えるご利用者様にもきみえさんの思いを、そして、
きみえさんのものがたりを語り継いでいきたいと思います。
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