馬の話あれこれ(その二)

第291回 平成26年8月 月例会 ②
馬の話あれこれ(その二)
村本
博
馬は、人類のパートナーとして、長い歴史を歩んできました。速く、力強く、さらに遠くへ、馬の文
化史は人類の夢と理想を担い、国家の隆盛を支えてきました。
馬の家畜化のあと馴致により車輪が発明されたのは紀元前三〇〇〇年メソポタミヤにおいてで
あるらしい。シュメール人は重い板を互い違いに固定し、ほぼ円形に近い円盤であった。不格好
な、重厚・鈍重な四輪のものだった。車輪に革を巻き付け銅の釘で固定しましたがアッシリアの時
代になると青銅・銅のベルトが巻かれ鉄器の発達により鉄のベルトが付けられました。
紀元前一八〇〇年頃馬が引く戦争用の軽快な二輪戦車(シャリオット)が小アジアのヒッタイト人
と呼ばれる騎馬民族により発明された。木製のスポーク付きの車輪でスポークの数は四〜六本で
非常に軽量化されるに至った。御者と射手、槍兵の三人乗りで機動性のあるものであった。
中国安陽に近い殷墟の遺跡(前一三〇〇〜一〇五〇年)から中国最古の絵文字である甲骨文
字が出土している。車軸で結合された車輪並びに轅棹と二つの軛棒の抽出のある戦車の象形文
字がある。小屯の王家の墓室から馬骨と共に四頭立ての二輪戦車が発掘され、胸壁、車輪など
鮮明に残り、防護力と攻撃力に優れたものであり、馬の銜(ハミ)にも改良の跡があり驚かされたも
のである。
この戦車は急速な勢いで西部アジア・インダス河畔・中央アジア・エジプトにも達した。
轅(ながえ)等の真直ぐな部分は?(かしわ)材、軛(くびき)はシデの木、?(ぼう)はトネリの木であ
る。
エジプトに東北からヒクソク人が侵入した頃(前七〇〇年頃)馬も戦車も存在していなかった。こ
の時に馬と戦車をもたらしたといわれているが立証するものは存在しない。ヒクソク人による支配時
代は古代エジプトにおける暗黒時代と呼ばれているように、ヒクソク人は絵画等の表現物を残さな
かったから、エジプトに馬と戦車をもたらしたという確証は見つけ難いがケモーゼ王に関する記録
によるとヒクソク人国外追放の時、馬と戦車の記録がある。ヒクソク人はエジプト侵入の時家馬と戦
車をもたらしたのかも知れない。
テーベ出土の古代エジプトの軽戦車(前一五〇〇年頃)は車体が完全に残っている世界最古
の車である。
馬の嗅覚
ペルシャ帝国を創建したキルス王(前五五〇〜五二九年)は騎馬に巧みなリジア人をサルジス
城外に攻めた時、輜重用の駱駝を前線に立て騎兵を殿にして攻めた。リジア人の騎馬は駱駝の
異様な形貌を見て恐れ、その異臭を嫌ったため潰滅したとある。
戦争の時、象、駱駝で勝ちを制するのは最初だけで馬が象・駱駝に慣れれば最後の勝利は馬
である。過去の歴史が戦争で決定され馬の活躍であるなら歴史は馬がつくったと言わざるを得な
い。
中国は昔から「馬の背は国をつくる」といわれており古今の名将、英雄には必ず名馬があり戦場
においては、人は馬を労り、馬は人を助け一心同体となって戦った。アレスサンドロス大王とブケ
ファルス、ワシントンとコペンハーゲン、ナポレオンとマレンゴー等で大型の馬格が好まれた。
ナポレオンは身長一六六センチ、フランス人の標準では小男に属している。彼は帽子、軍服な
ど自分でデザインして小柄である欠点をカバーしていた。同時に馬上の英姿の演出については、
自分を引き立たせる馬、精悍であり皇帝の乗馬にふさわしい品格を備えた白馬を愛用した。
J・L・ダヴィストの画いた「サン・ベルナール山のボナパルト」(一八〇〇年)という題名のアルプス
越えの雄姿の絵画が有名である。アルプスは寒くあの服装で山越えできなく毛布にくるまりロバで
越えたとか風評であったが当時の記録によると、馬が脚を滑らせて危うくアルプスの谷底に落ちか
かるところをガイドの機敏な行動で救われたそうだ。(一八〇〇年七月二十日の出来ごとだったと
ある)ナポレオンの服装はそのままだが白馬、栗毛だったりあるいは斑点のある白馬だったり、馬
の数も常用最低八頭以上はいたといわれている。
牝馬の用兵(四国軍記)
秀吉の弟秀長が四国征伐の折、五百騎と多数の歩兵で淡河(おうご)氏を攻めた。開戦と同時
に淡河弾正は牝馬五十頭余りを放った。あわて喜んだのは豊臣方の馬、大声にいななき牝馬め
がけて駈けだす始末、豊臣方は大混乱である。この時を逃さじと淡河方は攻撃に出たので豊臣
方はさんざんの負け方であった。「牝馬敵陣を潰滅す」である。「?将〟を射んと欲すれば馬を射
よ」といわれていますが、「勝」を得んとすれば女馬をあてがうが一番よさそうである。世の男性方ご
用心の上にもご用心を・・・・。
馬の嗅覚は、自分の仲間を識別したり行動圏を確認できる。自分の馬房に帰るのも自分の臭い
を知っているからである。又、自分を世話してくれる人固有の臭いを識別している。夜道に目が利
くと云うが鋭敏な嗅覚である。血の匂いには弱いようである。戦場での血なまぐささには平気であ
る。牧草地などで馬が一斉に頭を風上に向けて草を食べているのは、嗅覚をフルに使って肉食
獣の襲撃に備えていた先祖の習性である。
鎌倉時代の武士と名馬についても畠山重忠と三日月(四尺七寸)、佐々木高綱と生?(いけづ
き)(四尺八寸)、藤原国衝と高楯黒(四尺九寸)、源義経と青海波(四尺七寸)、太夫黒(四尺六
寸)、源範頼と月輪(四尺七寸二分)と当時の馬としては大形である。
鎌倉由比ケ浜南遺跡から人骨と多くの動物遺体が発見されました。馬骨は、八三体確認されま
した。体高一四〇.六〜一四三.六センチ、四尺六寸から七寸程度、当時としては大形である。
馬骨を復元しているのは鎌倉市教育委員会蔵でありますが「どこの馬の骨」と思うが骨であるとこ
ろに意義があると思うので一度見学してみるのも悪くはない。
ナポレオンの愛馬マレンゴの骨がロンドンにあるナショナルアーミー博物館のガラス箱に入って
いる。
輓曳(ばんえい)競馬
世界で一ヵ所だけの引き馬競争が北海道帯広にある。馬に鉄橇(そり)を引かせ全長二百米の
直線コースを走るレースである。途中二ヶ所に坂がある。これが障害となる。中央競馬の天皇賞
(春)は、三千二百米、距離の短いNHK杯でも千六百米ある。この競馬の魅力は、重い鉄橇を引
く馬の力と持久力、それを扶助する騎手のテクニックが馬と人間が刻むロマンが迫力あふれる勝
負になる。
馬の体重は最高一屯、サラブレッドの二倍である。最高一屯の荷物を積んだ鉄橇を大きな坂道
を一気に登り切る馬、登れず途中で息を整える馬もいる。人馬一体となって前に進もうとする振り
絞る姿が良い。
明治の北海道時代で活躍した農耕馬を祭り競馬としたのが始まりである。
昭和二十一年(一九四六年)公営競技と認められ道営として開催されたが間もなく廃止された。
五三年から帯広市が運営を始め現在に至っている。
吉宗の馬好き
吉宗は質素倹約を旨としながら、王者の趣味で鷹狩の復活、象やダチョウなど珍しい動物を輸
入して、自ら楽しむと共に、庶民を熱狂させた。「享保の象」(一七二八年)が有名である。享保八
年(一七二三年)御用方通詞を通して、洋馬の発注をオランダにした。管理貿易の時代年間の入
船数、貿易高も定められていたがよほど馬の遠洋輸送が難しかったのだろう一七二五年夏やっと
馬五頭を載せてきた。このあと連年オランダ船は馬を持ち渡った。一七二七年馬術師ケイゼルは、
ペルシャ馬二頭と共に来日。将軍の御馬方富田又左衛門に出島で洋式馬術を伝習した。御用
方通詞今村源右衛門英生はケイゼルの通訳を務めるかたわら馬の治療に関するオランダ語の原
書であるファン・フールの「馬療書」(一六八八年初版)をケイゼルが持っていたのでケイゼルとの
問答で書にまとめた。これが「西説伯楽必携」で、有名な杉田玄白の「解体新書」より半世紀も早
い蘭書翻訳第一号である。
ケイゼルは八百貫以上の褒章にあずかり帰国するが船中で報奨金目当ての船員達に殺害され
てしまう。事件を知った吉宗は翌年ケイゼルの妻子に見舞金を贈り、オランダ船の乗組員をきびし
く戒めた。洋馬伝来にまつわる悲劇としてよく知られた話である。
享保十年、幕府公認の中国貿易船で寧波(ニンポー)から朱来章兄弟が来日した。来章は医師
で蘇州から来た唐医とともに、魚介・植物・鳥獣の漢名について講義した。特に薬用植物に興味
を深めた吉宗は「小石川薬園」を設立に至る。朱来章は中国書(漢書)の商いもしたが清朝(中
国)のスパイでもあったらしい。兄の朱佩章の紹介で騎射の達人陳采若と馬医の劉経先と沈大成
三名の来日である唐人グループから馬の乗り方・飼い方の実技指導と療治法も伝授された。長崎
に居た富田又左衛門は、くわしくメモをとり江戸の目賀田幸助(紀州から江戸入りした吉宗の側
近)に報告した。
今、国立公文書館の内閣文庫にある「馬医師唐人療治方書付」・「唐馬乗方聞書」が又左衛門
の報告書である。
天馬について
天上に住む馬、神通力を持つ馬、やがて西方の異国に産する馬全体を称するようになり馬は太
陽の子であると、かのギリシャ神話では、天空を駆ける翼のある馬ペガサスが創作されている。似
たような発想は洋の東西を問わずあるもので、吾国の聖徳太子は推古天皇六年(五九八年)の九
月甲斐黒駒の善馬に乗って雲に浮かび、富士山頂から信越を回って帰って来るのに三日しかか
からなかったと太子伝に書いてある。白馬に対する尊敬の念を示すもので、白馬神聖視するよう
になる。紀元前三世紀中国の公孫龍は「白馬は馬に非ず」・・・・むしろ天馬の中の天馬は白馬で
あると言わしめている。
二〇〇八年春奈良国立博物館でシルクロードを翔ける夢の馬「天馬」特別展が春開催された。
ユーラシア大陸を舞台にこれだけの天馬が集まったのは世界で初めてのことであり、シルクロー
ド東の終着地のゆえんであろう。
竜首水瓶(りゅうしゅすいびょう)
明治十一年(一八七八年)法隆寺から皇室に献納された三百三十件余りの宝物は、長く上野の
博物館(現在の東京国立博物館)に保管されてきたが、第二次大戦後、皇室財産が整理され昭
和二十四年(一九四九年)国に移管された。法隆寺献納第二四三号である。昭和三十九年国宝
指定時最近の科学的組成分析の結果、銅の鋳製で金、銀メッキ(鍍金)を施したものであった。形
状は長い頸をもつ下膨れの胴に、把手を取り付け、胴底に台脚を設け、注口には竜頭を像どった
蓋を蝶番で留めてある。側面に大きく翼を広げて天を駈ける天馬を二対前後に毛彫で表し、全体
に銀メッキを施し、天馬の部分だけ金メッキを加えている。把手は鱗と腹の襞を線刻で竜身を表し、
蓋の眼には緑色のガラス玉を嵌め、一本の角を出している。当初中国唐時代の作と見られていた
が天馬の毛彫の手法が日本の止利派の仏像線刻文様と共通点があり、七世紀中頃の日本製と
みる説が有力であるが結着はついていない。
ウズベキスタンの古都サマルカンドに「アフラシヤブの丘」と呼ばれる広大な都城遺跡がある。西
はヴィザンツ帝国内から東は唐の長安まで広域な商業活動に従事し、シルクロードによる東西文
化の架ケ橋となったソグト人(イラン系)の王都である。正倉院の香木にソグド文字が刻まれている
のを御存じの方が多いと思います。アフラシヤブ考古学博物館のソグド人の壁画に天馬(ペガサ
ス)がみられるというので、見学する機会を得た。ソグド人を乗せた駱駝、馬の姿の行列で、着てい
る服には動物文様(猪・山羊・翼をもった獅子・翼をもった犬の半身像)など布柄として描かれてい
た。
馬鞍に覆いかけた敷物に天馬が描かれていた、翼の先はくるりと曲がり連珠文の飾りが付いて
いる。右前脚を軽く上げて首は屈とうし綬帯をつけやや腰高であるが脚の繋ぎにリボンがあった。
この図柄は、エジプトのアンティノエ出土の天馬文飾に非常によく似ていること、ササン朝ペルシ
ャの王侯狩猟文録皿にリボンを付けた馬が多くみられる。
連珠文がペルシャ起源であると、彼等が天山山脈を越え、タクラマカン砂漠を渡り中国に伝えら
れ唐の人々から日本へと伝えられたのではないかと、日本に到着した有翼馬が竜首水瓶でペル
シャの伝統を承けた天馬と中国のモチーフを導入した竜が興味深いものである。
人類は馬から多くの感動を受け、その感動を表現するのが、詩文、美術になり、形の美と心の敏
を表す最良の対象が天馬を作ったのではないかと考える。
四万年前のフランスのラスコー洞窟の写実的な壁画に始まって近代絵画に至るまで人類は馬
の魅力を表し続けてきたのである。
(完)
参考文献
「家畜文化史」 法政大学出版局
「天馬展」
「故事馬百話」
「日本の国宝」
加茂 儀一
奈良国立博物館
筑摩文庫
朝日百科
多久 弘一