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「風景の再生」 田窪 恭治

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アジア太平洋文化への招待
風景の再生
田窪 恭治
たくぼ きょうじ
美術家、金刀比羅宮文化顧問
1949年愛媛県生まれ。多摩美術大学卒業後、国内外の画廊や美術館などで発表多数。
1989年から1999年まで実施した「サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂再生プロジェクト」により
「芸術・文化勲章オフィシェ」
(フランス)、
「村野藤吾賞」
(建築)など受賞。
現在「琴平山再生計画」を実施中。
著書に『林檎の礼拝堂』
(集英社)、
『表現の現場』
(講談社現代新書)。
「こんぴらさん―海の聖域(日本絵画の至宝)」展 展示風景、2008年10月15日∼12月8日
(フランス国立ギメ東洋美術館)一番奥に奥書院・上段の間(花丸図)が見える。
右:金刀比羅宮・白書院(椿書院)障壁画展示風景
「若冲の部屋」と
「こんぴらさん―海の聖域展」
襖絵は、金刀比羅宮の文化財を代
表するもので、その全てが国の重要
文化財に指定されている国の宝で
2008年10月15日から12月8日まで、パ
もあります。
じっと目を凝らすと、金砂子の背景から紅
リのフランス国立ギメ東洋美術館にて日仏
この展覧会を企画するに当って私がま
い椿や白い菊、梅や山百合、朝顔や鉄線、
修好通商条約締結150周年記念の催し物
ず最初に考えたことは、従来の様に襖絵
紫陽花や向日葵などなど・・・、色鮮やか
のメイン・イベントの一つとして「こんぴら
を美術館や博物館の中にあるガラスケー
な花々が暗い闇のなかから湧き出して、私
さん‒海の聖域(日本絵画の至宝)」展が
スに入れて展示するのではなく、金刀比羅
の目の前に次々とその姿を現したのです。
開催されました。
宮の書院と同じ様なイメージで、空間ごと
私は座っていた畳の床からふわふわと浮
この展覧会は、讃岐のこんぴらさんで
展示することでした。これまでヨーロッパ
きあがり、沢山の折花とともに宇宙をさま
有名な金刀比羅宮に所蔵されている江戸
の人々も木版画や掛け軸や屏風絵などは
よっているような錯覚をおぼえました。私
時代の襖 絵や桃山時代の屏風 絵など、
見たことがありますが、木造の書院空間に
はこの白日夢のような不思議な体験が今
約150点に及ぶ美術作品をパリまで運び
ある古い時代の障壁画を体験することは
だに忘れられなくて、あっち側(闇)と、
展示するという大変大掛かりなものでし
なかったでしょう。
こっち側(光)の世界を彷徨っているよう
た。
私が画家になりたいと思ったのは高校
な気がしています。
その中でも通常は非公開の金刀比 羅
一年生の時、当時の友人で現在の琴陵容
宮・奥書院にある、江戸時代中期の奇想
世・金刀比羅宮宮司に、伊藤若冲が描い
の画家、伊藤若冲が描いた上段の間 (花
た部屋を案内された時からでした。
丸図)は特に貴重な作品ですが、さらに表
今から45年前の秋の日の午後、ひんや
書院の5つの部屋に描かれた円山応挙の
りとした空気のなかで、薄暗い部屋の壁に
2
ACCUニュース No.372 2009.3
伊藤若冲
(花丸図)
1764年制作
拡大写真
ア ジ ア太 平 洋 文 化 へ の 招 待
西洋アカデミズム
しかし、
その後私が画家になるために勉
強をしたのは西洋のアカデミックな美術教
育でした。
それは幕末に鎖国を解き、フランスをは
じめヨーロッパ各国と通商を始めた150年
の日本の歴史と無縁ではありません。明治
に入り、フォンタネージなどヨーロッパから招
聘された美術教師や、黒田清輝、浅井忠
など、数多くの留学生がフランスから帰国し
て、ギリシャ・ローマの美の基準を基礎とし
右:サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂(林檎の礼拝堂)内部、
入口・イチイの木を臨む。
左:サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂(林檎の礼拝堂)外観
(フランス・ノルマンディ地方ファレーズ市近郊のサン・マルタン・
ド・ミュー村)
たアカデミックな西洋の美術教育を日本に
取り入れました。その後フェノロサや岡倉天
心による、日本の伝統的な美術教育を啓蒙
した時期もありましたが、日本政府は基本
的にヨーロッパのアカデミックな美術教育を
の対象として設定し、時間をかけて再生
風景や、日本固有の風土から培われてきま
続けてきました。
する仕事にたずさわりました。最後に私が
した。
私が1968年に美術大学に入学した頃に
礼拝堂の内部に、ノルマンディの林檎を描
「風土」という概 念を定義したのは哲
は、フランスの印象派やエコール・ド・パリの
いたところから、今では地元の人や遠くか
学者で倫理学者の和辻哲郎(1889年∼
運 動 後さらに美 術 の中心地 がパリから
らここを訪れる人々の間では「林 檎の礼
1960年)です。和辻は特定の場所(土地)
ニューヨークへと移っていました。市場主義
拝堂」と呼ばれ、親しまれています。
の気候、地質、地味 、地形、景観などの
経済を謳歌し、大量消費文化と呼応する
ノルマンディはモネやピサロなど、印象
総称を「風土」といっていますが、さらに
ポップ・アートなどの現代美術がマスメディア
派の画家たちがこよなく愛した場所です。
地球を(1)モンスーン、
(2)砂漠、
(3)牧
を通じて世界中に喧伝されていた時代で
そして彼らは葛飾北斎や安藤広重などの
場、という3つの類型に分け、日本を(1)
す。
木版画を通じて日本の風景や文化に憧れ
のモンスーン地域であると位置づけてい
私はこの様な時代の渦の中で、当時の日
を持っていました。
ます。この地域の特徴は、熱帯の大洋か
本の美術教育に疑問を持ち、反芸術的な
実は私は礼拝堂の仕事をしているこの
ら陸に吹く季節風が暑熱と湿気との結合
自己表現に明け暮れていました。しかし私
頃から、私の美術家としての原点である金
を特 性としていますが、和辻は特に「湿
はその様な時代の風潮と急激な時間の流
刀比羅宮の「若冲の部屋」を丸ごとフラン
気」をこの地域の特徴に挙げています。日
れの中で、常に“何か”大切な何か、を忘れ
スに持って行きたいと思っていました。北
本人の暮らしはもちろん、この様な湿潤な
ているような気がしていました。
斎や広重などの作品だけではない若冲や
気候と無縁には成り立ちません。はじめ魚
応挙の障壁画のある書院空間を展示し、
や獣を追いかけていた縄文時代から、湿
日本人の総合的な美意識をヨーロッパの
潤な気候を利用した稲作文明が起こり、
人々に伝えたかったのです。出来ることな
弥生文化が出現します。
私はその後、フランスのノルマンディ地
らばモネやピサロやゴッホ、ゴーギャン達
美術的にみてもそれまでの荒々しい縄
方にあった古い小さな礼拝堂と運命的な
に、日本に来ることが出来なかった多くの
文土器に比べ、弥生土器は優美で円やか
出会いをし、
「風景芸術」を追求していく
印象派の画家達に、見せてあげたかった
な形に赤や黒などの最小限度の彩色がほ
ことになります。
のです。
どこされ、日本人の美の原点を見る思いが
「林檎の礼拝堂」と「印象派」
1989年から1999年の秋まで足掛け11
年、私は15世紀に建てられたまま廃墟化
します。日本人は中国や朝鮮半島からの
日本の「風土」
していた「サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝
堂」と、その周りに拡がる風景を私の表現
影響を何度も受けながら、その度に日本人
の美意識に適った方法で和様化の努力を
日本人の美意識は、日本特有の自然の
続けてきました。
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アジア太平洋文化への招待
「西洋の花」・「日本の花」
人間中心の文化の中で疾走するヨーロッパ
私の表現の方向性を決めたのは10年を
の近代に、ほんの一瞬のショックを与えまし
超えるノルマンデイでの生活でした。私はこ
た。それが“ジャポニズム”です。
の時はじめて、自分より長い時間を生きるで
ヨーロッパ文明が日本に伝わるのは16世
紀半ば以降になりますが、ヨーロッパの近
代は眼と脳によって世界を解釈してきまし
あろう、
モノやコトの総体である特定の現場
「琴平山再生計画」
の風景を表現の対象とした仕事を「風景美
術」と呼び、作家がいなくなった未来におい
た。それは言い換えるならば、あくまでも人
ても生き続ける表現の現場を「風景芸術」
間中心の現象的な物の見方であり、外側か
と呼ぶことにしました。
ら世界を観察する、実証的で科学的な手法
ノルマンデイの礼拝堂再生の仕事では、礼
であるといえるでしょう。
拝堂の前に立つ樹齢600年のイチイの木と、
一方、日本人の世界のとらえ方は松尾芭
周りの景色に溶け込んでいた林檎の木が私
蕉や種田山頭火のように自然に分け入り、
に礼拝堂再生のヒントを与えてくれました。
自然と一体化し、世界の内部で体全体を
そして現在の私は、こんぴらさんに自生
使って特定の場所の本質や気配を感じ取る
するヤブツバキを手掛りに琴平山の自然に
ところにあります。
※
先程の和辻哲郎は、
その風土論 を書く
金刀比羅宮・新茶所「神椿」カフェ &レストラン
資生堂パーラー、2007年11月竣工
分け入ろうとしています。
我々日本人の感性は、日本という特定の
元となった『イタリア古寺巡礼』の中で、フィ
日本人は風の音を聞き、
その場所の空気
風土に育つ種の記憶の中に包まれていま
レンツェのウフィツィ美術館にある、サンド
を味わい、花を愛で、雨や雪と戲れながら
す。もちろん私も日本人の特性が包み込ま
ロ・ボッティチェルリの「春」の絵を評して、
全身で世界を感じます。そしてその現場で
れた種の一つです。
「(前略)ヴィナスの誕生について目ぼしい
得た、
リアルな感動を通して様々な表現が
その場所にしかない、何げない風景の再
のは〈春〉であるが、
(中略)絵の下部に、地
現れます。さらに、
それらの表現は長い年月
生は、現場に分け入り、
そこに生きるすべて
面を覆うて美しい草花が描いてある。そば
を経て能や歌舞伎、茶道や華道など、幾つ
のモノと対話を繰り返しながら、種の記憶
へ寄ってながめると一々の草花が実に細か
かの表現様式に還元されていきます。
を円念に辿ることによって、過去のなつかし
い線と色とをもって描かれており、桃山時
たとえば俳句のように、究極に圧縮され
い風景、言いかえるならば、特定の場所の風
代の極彩色の絵を見るような感じである。
た形式では五・七・五の一七文字を使って、
土に根ざした風景を取り戻せることができ
(中略)これだけ草花をおもしろく描き得
世界はおろか広大な宇宙まで表現できる可
るのではないでしょうか。それは一瞬たりと
る人が、どうしてこれをもっと大きく取り扱
能性を秘めています。
も休むことのない生物の死と再生の繰り返
い、
これだけで一つの絵を作ろうとしなかっ
私はフランスの礼拝堂の仕事が終わった
しの中で続く、自然の創造行為なのです。
たのか。
(中略)しかしこれはヨーロッパ人
あと、友人の琴陵容世宮司に招かれ、2000
自然が織り成す、本当の意味での風景芸
の芸術意志と東洋人の芸術意志の相違で
年から讃岐のこんぴらさんで「琴平山再生
術とは、人間が創造欲を捨て、
“無為自然”
あって、
(中略)ルネッサンスの人々にとって
計画」を実施しています。この計画は絵画
の状態に近づくことによって、はじめて視え
は自然の美は添え物以上の意味を持ち得
や建築だけではなく、
インフラの整備を含め
てくる世界ではないでしょうか。
なかった。自然は人間に従属すべきもの、
で
た山全体のランドスケープから、代々受け継
あった。」と西洋と東洋の芸術性の違いを
がれて来た文化財の修復・管理・展覧会の
指摘しています。
企画に至るまで、ソフトもハードも、
その総て
私も同感ですが、
ちなみに私を画家の道
が入り交った総合的な仕事です。
へと導いてくれた伊藤若冲の(花丸図)は
これまでの9年間ですでに計画の半分
「花」を主役に置いています。若冲の描く
は実現していますが、こんぴらさんの境内
折れ枝の花は、切り花であるにもかかわら
地は広大なため、これからまだまだ沢山の
ず異様な生命に溢れています。一つ一つの
計画を実行しなければなりません。私は金
狂おしいばかりの花の表情の奥に「命」が
刀比羅宮の若冲の部屋を振り出しに、ノル
宿っているようです。
マンディの礼拝堂を経て、金刀比羅宮にU
生活の中で自然を大切にする日本人の
ターンして、現在、
その鎮守の森の中で「風
美学は、産業革命やフランス革命とともに
景」について考えています。
「琴平山再生計画」について
琴 陵宮司と文化 顧 問で美 術 家の田窪恭 治は、
2000 年より金刀比羅宮が鎮座する琴平山を対
象に、
「琴平山再生計画」を実施しています。
それは信仰と文化の融合を目指し、絵画、建築、
庭園からランドスケープデザインなど、総合的な
整備・活性化プロジェクトです。既に、社殿ゾー
ンと文化ゾーンの二つのエリアが整備され、建
物の新築が 3 件、道路などのインフラ整備、文
化財の修復および管理、各種展覧会の実施など
が行われました。
進行中の琴平山再生計画の成果については、以
下のサイトをご参照ください。
http://www.konpira.or.jp/Recovery_plans
_of_Mt_Kotohira/index.html
(写真撮影:河村圭一氏)
※ 参考文献 :和辻哲郎著『風土』
『イタリア古寺巡礼』
(共に岩波文庫)
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