This page is protected. This page is protected. まえがき モータウンは60年代の大衆音楽に非常識な衝撃=快楽を与えた、希有なインディペンデ ント・レーベルである。ソウル・ミュージック、ポップス、いずれの方向からでも興味深 い作品、アーティスト、エピソードを数多く残している。60年代中期のアメリカン・ヒッ ト・チャートでモータウンは独立独歩で老舗メジャー・レコード会社や押し寄せるイギリ スの若僧たちと五分以上に渡り合ったほとんど唯一のレコード会社だった。その後、たく This page is protected. さんの作品を残し、紆余曲折を経て、現在に至っている。 モータウンは確かに“特別な”レーベルだった。本書はその足跡を辿りつつ、レコー ド・ガイドの役割も果たせるようにとの意図で構成したものである。 偉大なるモータウン、イイ話だらけのモータウン、その功績の数々を知るお手伝いがで きれば幸いです。 湯浅 学 モータウンを後にしたH-D-Hは ∼ホットワックス/インヴィクタスとその周辺… ……………………p.68 モータウン1957-59 ∼ベリー・ゴーディーの苦悩 ……………………………………………p.06 モータウンの礎となった人々 19. ノーマン・ホィットフィールド ……………………………………p.71 モータウン1960-67 ∼デトロイトから全米へ …………………………………………………p.09 ノーマン・ホイットフィールドは熱かった ………………………………p.72 ビートルズとモータウン ∼ビートルズは最後までモータウンと離れず …………………………p.12 モータウン1973-77 ∼明日は何処に ……………………………………………………………p.74 モータウン1968-72 ∼内省と新展開のはざまで ………………………………………………p.16 ディスコとモータウン ∼コモドアーズと魔境 ……………………………………………………p.77 60年代モータウン・サウンドの研究 ∼いい音とは“イイ音”なり ……………………………………………p.18 モータウンの礎となった人々 20. リック・ジェームス …………………………………………………p.80 モータウンの礎となった人々 1. ベリー・ゴーディー・ジュニア ………………………………………p.24 2. スモーキー・ロビンソン&ミラクルズ ………………………………p.25 モータウンの80年代 ∼迷いのままに ……………………………………………………………p.82 3. マーヴェレッツ …………………………………………………………p.27 4. メリー・ウェルズ ………………………………………………………p.28 モータウンの90年代そして現在 5. コントゥアーズ …………………………………………………………p.29 ∼モータウンの旅、第2章 …………………………………………………p.86 This page is protected. 6. マーヴィン・ゲイ ………………………………………………………p.30 7. スティーヴィー・ワンダー ……………………………………………p.32 ヒップホップとモータウン 8. ダイアナ・ロス&シュープリームス …………………………………p.34 ∼その相性について …………………………………………………………p.90 9. マーサ&ザ・ヴァンデラス ……………………………………………p.36 10. テンプテーションズ …………………………………………………p.38 11. フォー・トップス ……………………………………………………p.40 80年代イギリス(ニューウェイヴ)とモータウン ∼モータウン・サウンドはいかに消化されたか ………………………p.92 12. Jr.ウォーカー&ザ・オール・スターズ ……………………………p.42 13. ラフィン・ブラザーズ ………………………………………………p.43 14. グラディス・ナイト&ザ・ピップス ………………………………p.44 ジャズとモータウン ∼ベリーの憧れ ……………………………………………………………p.96 15. エドウィン・スター …………………………………………………p.45 16. ジャクソン・ファイヴ ………………………………………………p.46 17. ザ・ファンク・ブラザーズ …………………………………………p.48 クラブとモータウン ∼グローバー・ワシントン・ジュニアは なぜクラブ世代に支持されるのか …………………………………p.100 おそるべきジェームス・ジェマーソン再考 ………………………………p.50 歌謡曲とモータウン モータウン・スタジオ見学記 ………………………………………………p.56 映画『永遠のモータウン』の魅力 …………………………………………p.58 ∼至るところにモータウンあり ………………………………………p.102 チカーノとモータウン ∼愛ゆえのちぐはぐなその関係と魅力 ………………………………p.104 『永遠のモータウン』論評 …………………………………………………p.61 レアシングル事情 まんが世界のファンク・ブラザーズ的… …………………………………p.63 ファンク・ブラザーズのアルバイト ∼マニア予備隊のみなさんへ …………………………………………p.108 モータウン ディスク・ガイド1 ………………………………………p.110 ∼そこらでちょちょいと …………………………………………………p.64 モータウン ディスク・ガイド2 ………………………………………p.165 モータウンの礎となった人々 18. H-D-H …………………………………………………………………p.67 あとがき ……………………………………………………………………p.190 CONTENTS まえがき ………………………………………………………………………p.03 モータウン 1957-59 ∼ベリー・ゴーディーの苦悩 おり、バス・タムを使って低音部を強調したり ルズの大ヒット曲「タミー」にちなんだ命名。 ズと改名させる(メンバーに女性のクローデット (ゴーディー大のお気に入り)タンバリンでビー 親しみやすい名をという配慮から) 、その第1弾 がいるのにマタドールズというのは変だ、との忠 トを強化したりバリトン・サックスで喝を入れ としてジョンソンの「カム・トゥ・ミー」をリ 告による) 。58年2月、ゴーディーの作曲/プロデ たりといった、後のモータウン・サウンドの諸 リースする。レコード番号はTamla-101。資金 ュースによる「ゲット・ア・ジョブ」で、ミラク 要素がすでにしっかりと導入されている。 はゴーディーが実家から借りた700ドルだった。 ルズはデビューする。ゴーディーとスモーキーの ここからタムラ/モータウンのレーベルとし 長い長い友情(ほとんど肉親のような関係ともい 3年間ウィルソン・プロジェクトにどっぷり 関わっていたにもかかわらず、ゴーディーの収 ての具体的な歩みが始まる。 入は決して満足のいくものではなかった。 「作っ 始まるのだが、「カム・トゥ・ミー」はマー われる) 、モータウン・レコードの唯一の不変の 人間関係の始まりでもあった。 元プロ・ボクサーのデトロイト野郎=ベリ ているのはこの俺なのに」との感慨は、レコー ヴ・ジョンソンとともにユナイテッド・アーテ ー・ゴーディー(ジュニア)は、ビ・バップに ド会社に曲を提供しているだけの自分、という ィストに売り込まれ、これが即座に受け入れら ベリー・ゴーディーの姉グエンが、ジャッキ 心を奪われた(実は)ジャズ・マニアであった。 立場の弱さの自覚をうながした。ようするにこ れてしまう。 「カム・トゥ・ミー」はすぐに全国 ー・ウィルソン作品の曲作りでのベリーのパー が、自分の愛する音楽は商品としては大きな利 のままでは名は少しは知られても借金が返せん 配給されUnited Artist-160番で全米R&Bチャー トナー=ビリー・デイヴィスと共同で59年に設 益をもたらさないものであることも、経験とし じゃないか、ということだった。誰かにかすめ ト6位/ポップ・チャート30位のヒットとなる。 立したアンナ・レコードからリリースされたバ て(自営の3Dレコード・マートの倒産により) 取られるくらいなら多少の犠牲をはらっても自 以後ゴーディーは、61年まで、自作曲の他、モ レット・ストロングの「マネー」である。この 身に染みて知っていた。借金を抱えてフォード 分のところにもっと儲けの入るやり方を考え出 ータウンのスタッフとなるウィリアム・ミッキ 曲はベリー・ゴーディーが、後にモータウンの の組み立て工場で働き“充電”したゴーディー し、実践しなければならぬ。ウィルソン作品へ ー・スティーヴンソン、ラモント・ドジャーら 秘書となるジェイニー・ブラッドフォードと共 は、音楽を作ることにあこがれを転換する。作 の関与がゴーディーの負けじ魂に火をつけた。 を曲作りに起用しつつ、ジョンソンのプロデュ 作し、プロデュースも担当、ベリーが姉に販売 ースを手がける。 権をリースしたものだった。ベリーにとって最 This page is protected. もうひとつ、モータウン前史の重要作がある。 曲家になるという希望は、やがてレコード(も まずゴーディーは原盤制作を自前でやり、そ ちろんシングル)を作ること(プロデュースす の販売権を大手レーベルに売り込むというプラ も切実な問題「金が欲しい」をストレートに表 ること)へと展開していく。 ンを考えつく。そのプラン実行のパートナーと 現したこの曲は、その思いが音にも如実に現わ 初めて世に出たゴーディー作品はブランズウ なったのが豊かな音楽的才能を持つレイノマ・ れていた。すでに何作もの曲を世に送り出して ィックからの、ジャッキー・ウィルソンの「リ ライルズだった。ふたりは結婚もしたが、レイ Marv Johnson 『Come to Me』 いるにもかかわらず、結局白人仲介人の搾取か ート・ペティート」だった。57年のことである。 バー・ヴォイセズという名でバック・コーラス ゴーディーはビリー・デイヴィス(当時はタイ を手がけたり、もちろん共同でプロデュースも ロン・カルロというペンネームを使っていた) した。レイノマはベリーの仕事の影の要人だっ ゴーディーには57年重要人物との出会いがあ ル型の編曲によってポップに炸裂していた。基 との共作で59年までに「ロンリー・ティアドロ た。彼女の支援を受けてゴーディーが手がけた った。ウィリアム・スモーキー・ロビンソンであ 本的な疑問、売れているのになぜ自分のところ ップス」や「ザット・イズ・ホワイ」 「アイル・ のが、マーヴ・ジョンソンだった。58年にジョ る。自らのコーラス・グループ=マタドールズを にはお金がはいってこないのか、お金を手にす ビー・サティスファイド」などの名作を続々発 ンソンの「ワンス・アポン・ア・タイム」をプ 率い、曲作りにも励んでいたスモーキーはすぐに るにはどうすればいいのか、3年かかって、仮 表した。これらには、ディック・ジェイコブス ロデュースした後、59年にゴーディーは初の自 自分より11歳年上のゴーディーを慕うようにな にもデトロイトでは少しは売れっ子のコンポー と共同でプロデュース/アレンジにも関わって 前レーベル=タムラを設立(デヴィー・レイノ る。ゴーディーはマタドールズをすぐにミラクル ザー/プロデューサーのはしくれとなったはず 6 (Tamla 101) らは逃れらね運命にあるのか、とのやるせなさ がゴーディー得意の力強いビートによるゴスペ 7 なのだが…。ゴーディーのこの疑問に答えを出 に黒人音楽の世界は、リズム&ブルースからソウ したのはスモーキーだった。 「販売を他人の手に ルへと、新たな洗練によって大きく変化し、質、 ゆだねているからではありませんか?」と。ゴ 量ともに加速度的に濃くなっていった。モータウ ーディーさんほどの人ならば原盤権のリースを ンが成長していったのはそんな時代だった。 やめ、製造、販売、宣伝、のすべてを自前でま かなうレコード会社を作るべきですよとスモー キーは以前から考えていたという。 ベリー・ゴーディーは引越しを期に次々に自 ぶればオクラ入りする録音も少なくなかった。 ゴーディーにとってタムラ/モータウンの音 モータウン 1960-63 ∼デトロイトから全米へ 身の運営する会社を設立した。 楽は世間に挑む武器だった。ゴーディーは勝つ ことだけを考え続けた。チャートでの好成績が 勝利であった。モータウンは時とともにゴーデ ィーに、アメリカ合衆国における黒人社会のひ 自身の、及び関連スタッフ/アーティストに とつの夢をイメージさせるようになった。完全 そのための基地となる物件を探し出して来た よる楽曲を管理するジョーベット音楽出版(ベ 自前による黒人大衆音楽レーベルの成功、とい のはレイノマだった。デトロイト・ウェスト・ リー・ゴーディーの3人の娘、ジョイ、ベティ 60年10月にタムラからリリースされたスモー グランド・ブルーヴァード2648番地。 ー、テリーの名を合体させたもの) 、ベリー・ゴ キー・ロビンソン&ザ・ミラクルズの「ショッ この2階建てのビルに、ゴーディーは家族とと ーディー・ジュニア・エンタープライズ、ヒッ プ・アラウンド」は61年初頭、ゴーディーに最 もに59年初夏に引越した。1階をスタジオとロ ツヴィルUSA、レーベル所属アーティストのマ 初の完全自前による全国ヒット(全米ポップ・ たかは分からない。しかし61年暮れのマーヴェ ビーに改造し、入り口正面にある大きなガラス窓 ネージメント会社=インターナショナル・タレ チャート2位)をもたらす。 レッツ「プリーズ・ミスター・ポストマン」の にゴーディーは“HITSVILLE USA”と記した。 ント・マネージメント(略してITM) 、そして、デ そのころにはスモーキー以外にもゴーディー 全米ポップ・チャートの1位獲得以降、モータ そこが正真正銘の“ヒットの郷”となるにはさほ トロイトの別称であるモーター・タウンを略した 周辺には多くのタレント、スタッフが集められ ウンが何事かを成し遂げるべき組織である、と ど時間はかからなかった。なによりも仕事、音楽 モータウンを冠した、モータウン・レコード・コ ていた。コントゥアーズ、エディ・ホーランド、 の使命感を抱いたとしても不思議はない。むし を制作することが好きな男ベリー・ゴーディー ーポレーションであった。と同時にマーヴ・ジョ シュープリームス、マーヴィン・ゲイ、スピナ ろそうするように自分を仕向けて行った節はあ は、全米に自分自身の手で配給しヒットを生み出 ンソンの「カム・トゥ・ミー」以後エディ・ホー ーズ、マーヴェレッツ、スティーヴィー・ワン る。 すことに邁進した。インディペンデントのレーベ ランドの「メリー・ゴーランド」をリリースした ダー。スタッフでは、ウィリアム・ミッキー・ さらに地元モータウンのミュージシャンを集 ルは全米各地にあった。地元を中心としたローカ のみで凍結されていたタムラ、新たに開設された スティーヴンソン、ハーヴェイ・フークア、ジ めて専属の伴奏用バンドを編成したことによっ ルなヒットを生み出し、細々と、しかし良質な作 モータウンのふたつのレーベルが始動する。タム ョニー・ブリストル、ラモント・ドジャー、ブ て、サウンド面での独自性が急激に促進される。 品を提供することを主眼とし、それを実践してい ラ再始動の最初のシングルは地元デトロイトの ライアン・ホーランド、クラレンス・ポール、 録音面での技術的模索、実験も62年以降加速さ るレーベルは数多かった。現在もなおそうした地 ザ・スィンギング・タイガースの「スネーク・ウ ロバート・ベイトマン、フレディー・ゴーマン れる。それもこれもゴーディーのGOサインを 元型独立レーベルの存在は重要であり、それらに ォーク」 (Tamla-54024)、モータウンはミラク といった制作/曲作りのスタッフ、さらに配給 得なければ、ゴーディーとの勝負に勝たなけれ よってアメリカの音楽産業は奥行きを増してき ルズの「バッド・ガール」 (Motown-G1。この 部門を取り仕切るやり手の白人、バーニー・エ ば、タレントの熱唱も制作スタッフの創意工夫 た。メジャー・レーベルの巨大化と独立レーベル シングルはチェスからChess1734としてリリー イルズがいた。 もまるで陽の目を見ずに埋もれてしまうからで の独自のネットワーク作りとの相克が全体を活性 スされたものの自前による再リリース。さらに 制作陣はスティーヴンソンを中心に、次から 化させる。50∼60年代はそうした独立レーベル Motown-G1はすぐにMotownTLX-2207として 次へと曲を作り、レコーディングした。それは ゴーディーは強引ではあったかもしれない と大手レーベルとの相互関係が、音楽の流行モー 再プレスされている)だった。 社内会議に諮られ、ゴーディーの同意を得て発 が、傲慢でも高慢でもなかった。すべては賭 売された。会議で推挙されてもゴーディーがし け/勝負に勝つためだった。なによりゴーディ ドそのものに関わるスリリングな時代だった。特 8 This page is protected. (湯浅 学) うものは黒人による運営ではまだ存在しなかっ た。 ゴーディーの野心にどの程度の具体性があっ ある。 9 ー自身がソングライター/プロデューサーであ す。パッケージ・ツアーでモータウンというレ 若いギター・コンボがアメリカのみならず全世 り、レーベル・オーナーでありながら他のスタ コード会社の宣伝とアーティストの鍛錬、興行 界を席巻した年だ。一方モータウンでは61年か ッフ同様勝負(社内会議)に挑む者のひとりで 収入の運用が同時におこなえるという利点があ ら鳴かず飛ばずだったシュープリームスがつい もあった。一博徒としてゴーディーは、他のス った。もちろんバック・バンドのミュージシャ に「ホエア・ディド・アワ・ラヴ・ゴー」でヒ タッフたちと市場のライヴァルの両方と争う身 ンはじめ出演者やツアー・スタッフにとっては ットを飛ばす。しかも全米ポップ・チャート首 であった。そうした自身を楽しまずにはいられ 楽な仕事ではなかった。しかし後のない新興レ 位の。 なかったのだ。 ーベルにとってこのイヴェントは社の命運に少 制作陣では、若さでホーランド/ドジャー/ なにしろゴーディーは窓ガラスにしたたるふ なからぬ影響を与える重要な賭けだった。事故 ホーランド・チームが(叩き上げのミュージシ たつの水滴を見て「どちらのしずくが先に下の やいざこざはあったものの、23日間で19都市を ャンから見ればデタラメな)新機軸を打ち出し、 窓ワクにとどくか賭けよう」と、かたわらにい まわる第1回のレヴューはなんとか果たされ ヒット曲を量産していく。チャートには毎週複 る者を誘う男である。 た。レコード会社がツアーをサポートするのが 数のタムラ/モータウン/ゴーディー作品が顔 This page is protected. ミラクル、トライ・ファイ、ハーヴェイなど 当たり前になるのは70年代初頭からのこと。そ モータウンと関係のある者が運営したり関わっ の点においてもモータウンは先駆的役割を果た たりしたレーベルを吸収し、さらにグループを した。 を見せるのが当たり前の状態となる。 シュープリームスはその後65年5月の「バッ ク・イン・マイ・アームズ・アゲイン」まで連 中心にリリースしようと新たなレーベル=ゴー いくつかのグループや歌手がセットになっ 続5曲を全米首位に輝かせるという快挙を成し ディーを開設したりするうちに、62年以降、モ て、ツアーするのがモータウンでは当たり前に 遂げて(ゴーディーの願い通り)モータウンの ータウンからのヒットは急増していく。メリ なっていく。ステージでは前後のタレントに負 表看板となるのであった。 ー・ウェルズとコントゥアーズが…、63年には けまいと出演者同士が火花を散らすようになっ 64∼66年、売上的にも作品内容の充実度と量 スティーヴィー・ワンダー、マーサ&ザ・ヴァ た。そうやってお互いが闘志を燃やしておのれ の多さからしても、まさしくモータウンの黄金 痺状態となった。年々悪化する治安と経済状態。 ンデラス、マーヴィン・ゲイもチャート上位の を高めていこうとすることはゴーディーの狙い 時代というにふさわしい時であった。主要アー 一方、ベリー・ゴーディーはラスヴェガスやロ 人となっていく。タムラ/モータウン/ゴーデ でもあった。 ティストの他にもブレンダ・ハロウェイや、ジ サンジェルスで余暇を過ごすことが増えるよう ュニア・ウォーカー&ザ・オール・スターズ、 になった。デトロイトは日毎にハードさを増し ィーは、新しい何かをもたらす新しいアメリカ コンポーザー/プロデューサーのノーマン・ 人のための音楽の発信源として、アメリカ黒人 ホイットフィールドは「モータウンでは、本当 スピナーズ、エドウィン・スターといった新し ていく。ゴーディーは自分の故郷であるデトロ コミュニティのみならず、アメリカ合衆国全土 にすべてが競争だった。それが次々とスターを い才能もスマッシュ・ヒットを生み出していく。 イトからの離脱の意を強めていく。モータウン から認知されるところとなった。 生み出す原動力になっていったんだ」と語って モータウンが黒人による独立企業として成長 といういわば音楽による共同体の内部ではエゴ いる。そのホイットフィールドも60年代中頃は していく一方で、社会的にアメリカ黒人の反差 のぶつかり合い、いがみあいが頻発し、外部か まだレギュラーの座をつかんではいなかった。 別闘争は公民権運動後も改善されない状況を実 らはモータウンに対する業界的圧迫が強まって ヒットがヒットを生む“流れ”が実感できる ようになった62年11月、ベリー・ゴーディーを はじめとするモータウンのスタッフは、所属ア 63年はモータウンがフル稼働に入った年とい 感するにつれ激しさを増していった。67年には いく。まだまだ作品の質的低下は少なく、チャ ーティストたちが次々に登場して歌うコンサー えるだろう。続く64年はさらに稼働速度が速く デトロイトで白人警官と消防士対黒人市民によ ート成績も良好だったのだが、変化の兆しはそ ト・ツアー=モータウン・レヴューを実行に移 なる。イギリスからビートルズをはじめとする る大規模な衝突が起き、暴動から市の機能は麻 こかしこに現われていた。 10 (湯浅 学) 11 ビートルズと モータウン ∼ビートルズは最後まで モータウンと離れず ているが、これにアイズレー・ブラザーズの 身さ》という「ゼアズ・ア・プレイス」のよう っち上げた。ニューヨークの黒人ガール・グル 「ツイスト・アンド・シャウト」(デビュー・ア な曲も生まれてくるわけだし、あの「シー・ラ ープみたいな曲だな》という「テル・ミー・ホ ルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』に収録) ヴズ・ユー」の“ウー”というフレーズに関し ワイ」や、《ウィルソン・ピケット風で、モー を加えてもいいだろう。ビートルズは、62年10 てでさえ、《あれはアイズレー・ブラザーズの タウン調の、4拍子のカウベル・ソングだよ》 月にレコード・デビューする前からすでにこれ 「ツイスト・アンド・シャウト」から取った》と という「家に帰れば」 (ともにジョン作)は、こ らの曲をライヴのレパートリーに取り入れてい いう発言も出てくるのだ。 のアルバムの収録曲だ。同じくこのアルバム収 た。試しに「ツイスト・アンド・シャウト」に 「プリーズ・ミスター・ポストマン」に関して 録の「ユー・キャント・ドゥ・ザット」をダイ 耳を傾けてみよう。オリジナルのほんわかとし は、《オリジナルのマーヴェレッツの色が濃い。 アナ・ロス&ザ・シュープリームスがいちはや くカヴァーしているのも見逃せないだろう。 エルヴィス・プレスリーへの向き合い方とは たリズミカルなアレンジは、ビートルズ・ヴァ ファンに教えられたんだ。封筒の裏に“Please 明らかに違う。挑むのではなく、取り込む。プ ージョンでは、ビートの効いたタイトなサウン Mister Postman”って書いてあってね》とポ 「マネー」は、オリジナルを凌駕するジョンの レスリーが同じ土俵で相撲が取れる“横綱”で ドへと大きく変貌している。特にジョンのヴォ ールは言っていたが、《オリジナル色が濃い》 雄叫びが聴かれるという意味でも、 「ツイスト・ あったとするならば、モータウンは、今風に言 ーカルの激しさといったらない。それにしても、 わりには、サウンドの切れ味はビートルズ・ヴ アンド・シャウト」の続編的な曲といえる。ビ えば、K-1の王者だったのである。 なぜここまで変えなければならなかったのか。 ァージョンのほうが明らかに鋭い。これもジョ ートルズは、60年から64年にかけてのライヴで ジョンに訊いてみると、こんな答えが返ってき ンが歌っているからと言えるかもしれない。ビ 演奏しており、62年1月のデッカでのオーディ た。 ートルズ(特にジョン)は、発売当時からこの ションや、63年10月のロンドン・パラディアム 曲を気に入っていたようで、61年と62年のライ での演奏が音源化されている。さらに解散間際 まず、他人の特技を見極めつつ、自分の技を 繰り出していく。ビートルズは、デビュー当初 は50年代のロックンロールやリズム・アンド・ This page is protected. 《黒人アーティストと共演するコンサートで、 ブルースのカヴァーも多く、そうした作品に独 「ツイスト・アンド・シャウト」を歌うのは嫌だ ヴをはじめ、62年1月のデッカでのオーディシ の69年9月にトロントで開かれたロック・フェ 自性を加えることで徐々にビートルズ・サウン な。なにか、しっくりこないんだよ。彼らの音 ョンや、3月のBBCラジオへの初出演時でも演 スティヴァルでの、ジョンの熱唱も忘れがたい ドを確立していったわけだが、モータウンもそ 楽って感じがして、居心地が悪くなる。体をよ 奏しているほどである。 の例にもれず、だった。オリジナルを取り込み、 じりたい気分だ…彼らのほうが、ずっと上手く オリジナルを越えていく。そのもっともわかり やれる》 ( 『ライヴ・ピース・イン・トロント』収録) 。 女性コーラス・グループの曲は初期ビートル 「ユーヴ・リアリー・ゴット・ア・ホールド・ ズの重要なレパートリーでもあり、モータウン オン・ミー」もすぐさまライヴのレパートリー やすい例として挙げられるのが、ビートルズが ジョンは、 “ビートルズ”の名前でアイズレー 所属グループ以外にも、クッキーズの「チェイ に取り入れられた曲で、 「マネー」と同じく63年 公にカヴァーしたモータウン関連の曲だ。ここ のオリジナル・ヴァージョンどおりにやる無意 ンズ」やシュレルズの「ボーイズ」 「ベイビー・ 10月のロンドン・パラディアムでの演奏が音源 では、それらの曲にまつわるメンバーのコメン 味さを肌で感じていたのだ。モータウンは、ビ イッツ・ユー」 、ドネイズの「デヴィル・イン・ 化されている( 「マネー」とともに『アンソロジ トをはさみながら、話を進めてみよう。 ートルズにとってあくまで“異種格闘”なので ハー・ハート」などをカヴァーしている。そし ー 1』に収録) 。また69年1月に行なわれた“ゲ ビートルズがカヴァーしたのは、具体的には ある。ならば、あとはモータウン・サウンドを て、それらの影響も取り入れて作られたビート ット・バック・セッション”でも演奏され、映 「プリーズ・ミスター・ポストマン」「ユーヴ・ ビートルズ・サウンドとしていかに《しっくり ルズのアルバムが、初めて全曲オリジナル・ナ 画『レット・イット・ビー』(70年)やDVD こさせるか》しかない。だからこそ、《モータ ンバーで構成された3作目の『ア・ハード・デ 『ザ・ビートルズ・アンソロジー』で演奏シーン 「マネー」の3曲。いずれもセカンド・アルバム ウンのブラック・ミュージック風の仕上がりを イズ・ナイト』 (64年)だった。《もう1曲アッ が観られる。ちなみに“ゲット・バック・セッ 『ウィズ・ザ・ビートルズ』 (63年)に収録され 考えたんだけど、歌詞はいつものレノン風の中 プテンポなのがほしいというので、その場でで ション”では、ほかにモータウンがらみの曲と リアリー・ゴット・ア・ホールド・オン・ミー」 12 13 して、ミラクルズの「アイヴ・ビーン・グッ 指したことがあるし(75年の『ジョージ・ハリ ト・ユー・イントゥ・マイ・ライフ」についても、 のようなジョンとポールのソロ・ナンバーも含 ド・トゥ・ユー」 「トラックス・オブ・マイ・テ スン帝国』収録) 、彼のソフト・ヴォイスと作曲 ジョンはモータウンの影響があると言っている。 まれている。個人的には、ビートルズと同じく ィアーズ」 、マーヴィン・ゲイの「ヒッチ・ハイ 能力に敬意を表して「ピュア・スモーキー」と さらに最後のオリジナル・シングル「レット・イ 原曲を崩してオリジナリティを出したマーヴィ ク」 、テンプテーションズの「マイ・ガール」も いう曲を書いたこともある(76年の『33 1/3』収 ット・ビー」のカップリング曲「ユー・ノウ・マ ン・ゲイの「イエスタデイ」と、スモーキー・ 取り上げられている。 録) 。さらにその「ピュア・スモーキー」や「ホ イ・ネーム」も、ジョンによれば「もともとはフ ロビンソンの、あまりにも情けない「アンド・ その「ユーヴ・リアリー…」を歌ったスモー エン・ウイ・ワズ・ファブ」(87年の『クラウ ォー・トップスのような曲にするつもりで、コー アイ・ラヴ・ハー」がお薦め。 キー・ロビンソンは、モータウン関連の中でビ ド・ナイン』収録)の歌詞に「ユーヴ・リアリ ド進行もそんな風になっているんだけど、そこか ートルズが最も直接的に影響を受けたミュージ ー…」のフレーズを登場させているほどである。 ら先に進まなくて、結局は冗談にしてしまった」 シャンだろう。ジョンは「ディス・ボーイ」に しかし、意外なことに、ポールにも、スモーキ という具合だ。ビートルズは最後までモータウン ついて《3パートのハーモニーがあるスモーキ ー・ロビンソンの影響を受けた曲があった。そ から離れず、なのだった。 ー・ロビンソン・タイプの曲を書いてみたかっ の曲とは何か? た》と語っているし、ジョージも《「ディス・ ●参考資料:『ジョン・レノン PLAYBOY インタ ビュー』 (集英社 81年) 『ビートルソングス』 (ソニー・マガジンズ 92年) ビートルズ解散後になると、モータウン所属ア This page is protected. ということで、いきなりクイズをひとつ。 ーティストとの交流などで目に付くのはそれほど ボーイ」のサビを聴けば、ジョンがスモーキ Q.ここでポールが挙げている曲名はなんでしょ 多くはない。72年8月にジョンの“ワン・トゥ・ ー・ロビンソン風に歌おうとしているのがわか うか?(答えは最後に) ワン”コンサートにスティーヴィー・ワンダーが るはずだ》と言っている。 「ユーヴ・リアリー…」 《曲を書いたのはぼくだったと思う。この点は 客演し、 「平和を我等に」を熱唱したこと( 『ライ のヴォーカルをジョンとジョージが分け合って 少し彼と食い違っているけどね。ジョンは忘れ ヴ・イン・ニューヨーク・シティ』収録)や、ポ いることでもわかるように、ジョージへの影響 てしまったか、ぼくが曲を書いたと思ってない ールが80年代に入ってからスティーヴィー・ワン 力は、ジョン以上に大きかった。64年にイギリ かのどっちかだろう、ジョンは歌詞というか、 ダー、マイケル・ジャクソンと共演(マイケルと スの音楽番組『レディ・ステディ・ゴー』に出 詩みたいなものを書き上げていた。彼が覚えて は喧嘩も)したこと、リンゴ・スターが78年のソ 演した際、新曲の「キャント・バイ・ミー・ラ るいろいろな人たちの顔といったことについて ロ・アルバム『バッド・ボーイ』で「愛はどこへ ヴ」を演奏する前に進行役のダスティ・スプリ 書いた歌詞さ。ぼくは彼のメロトロンに向かう 行ったの」をカヴァーしたことぐらいだろう。 ングフィールドに《気に入っているレコード と30分くらいで曲を書き上げた。ミラクルズに 逆にモータウンのミュージシャンがビートル は?》と訊かれたジョージは、《モータウン、 ヒントを得てね。実際、あの頃はそういうのが ズ・ナンバーをカヴァーすることももちろん多 タムラ・レコードならすべて気に入っているよ。 多かったな》 く、それらの曲が『モータウン・シングス・ビ ミラクルズ、マーヴィン・ゲイ、インプレッシ もちろん、60年代中期以降も、サウンド面にモ ートルズ』というCDにまとめられている。先述 ョンズなどだね》と返していたし、ビートルズ ータウンの影響がみられる曲は数多い。たとえば したダイアナ・ロス&ザ・シュープリームスの 解散後も、スモーキーの「ウー・ベイビー・ベ 《モータウンのベース・ラインを使っている》と 「ユー・キャン・ドゥ・ザット」やスティーヴィ イビー」のタイトルを借用し「ウー・ベイビー ジョンが言う「ドライヴ・マイ・カー」 (65年の ー・ワンダーの「恋を抱きしめよう」のほかに、 ビートルズ『ウィズ・ザ・ビートルズ』 (東芝EMI:TOCP-51112 63年) ビートルズ 『プリーズ・ミスター・ポストマン/マネー』 (東芝音楽工業:OR-1102 64年) ジョージ・ハリスン 『33 1/3』 (東芝EMI:TOCP-67335 76年) リンゴ・スター 『BAD BOY』 (Epic:EK35378 78年) V.A. 『Come Together: Motown Sings the Beatles』 (Razor & Tie:2031 94年) プラスティック・オノ・バンド 『ライヴ・ピース・イン・トロント』 『ラバー・ソウル』収録)もそうだし、翌66年の エドウィン・スターの「マイ・スウィート・ロ 書いてスモーキー風のヴォーカルと曲作りを目 『リヴォルヴァー』収録曲「ゴット・トゥ・ゲッ ード」やジュニア・ウォーカーの「マイ・ラヴ」 14 (東芝EMI:TOCP-65533 69年) 答え:「イン・マイ・ライフ」 (ユー・ノウ・ザット・アイ・ラヴ・ユー)」を 15 モータウン 1968-72 ∼内省と新展開のはざまで すでに64年のヒット曲量産体制時から、デモ録 入るとモータウンの中枢部には白人スタッフが増え なる。68年末ほどの勢いはもちろんないものの70 音されてコーラスが豊潤になり、R&Bやゴスペル ていく。これはもちろんゴーディーの意向によるも 年代に突入しても大ヒットは相変わらず生まれ続け を中心とした音楽的要素は多彩な陰影を持ってい のだが、対外的には決してイメージ的にプラスにな ていくが、 “ヒッツヴィル”というイメージを結ば た。参加ミュージシャン全員の意欲がはっきり伝 ることではなかった。 せるような勢いはあきらかに薄まっていった。 わってくる名演が紡がれていた。 『ホワッツ・ゴー 一方それでもモータウンから送り出される作品は しかしそれはミュージシャン各自が、自分の生活 イング・オン』はそれまでのモータウン史上、最 68年秋頃から、ホイットフィールドによるメッセ や環境を見つめ直す余裕あるいは問題意識を少なか も売れたアルバムとなった。ポップ、R&Bの両ア ージ色の強いものに刺激された作品や、サウンド的 らず作品に反映させることができるようになったが ルバム・チャートで首位を獲得した。69年後半か にもよりロック的な要素、ファンクなどを取り入れ ゆえである。マーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ らの約1年半をなにもせず悲嘆と虚無がないまぜ たものが増え、チャートでも好成績を残していく。 ワンダーはそうした“個人的見解”を昇華させるこ になった気持ちで過ごしていたマーヴィンの、念 音やリズム・トラックの制作、歌入れなどをロサン 68年12月の最終週の全米ポップ・チャートのベス とで70年代に特別な位置を手に入れた。スティー が創意に転じた希に見る結果である。 ジェルスやニューヨークで密かに行なっていたこと ト10に5曲ものモータウン作品がランク・インし ヴィーにはジャクソン5と共通する芸人気質があっ もあり、会社の組織を分散させることはモータウン ていたことは、モータウン作品がまだまだ世間とき たが、マーヴィンは迷い続けることが独自性として し、アフリカン・アメリカンの意識向上、現状打破 という(成長した)企業の大きさを考えれば当然と ちんとシンクロしていたことを物語っている。 This page is protected. 70年代初頭は社会状況を描写し、告発し、批判 作品に反映されていった。『ホワッツ・ゴーイン への共闘を呼びかけ激励する作品が数多く作られ デイヴィッド・ラフィンやダイアナ・ロスがグル グ・オン』 (71年)と『帰ってほしいの』の狭間で た。一方でアフリカン・アメリカンを主人公とする ープを離れて独立しソロ活動を開始したり、久々の モータウンは、揺れながら70年代の新たな道を開 アフリカン・アメリカン監督による商業映画が数多 内部のいざこざが増す一方だったこともゴーディ 新しい大型の才能集団ジャクソン5がデビューした 拓していったのだ。 く作られた。それらの多くが画面を演出する上でソ ーの気を滅入らせる原因となっていたことは容易に りしたのも60年代末。特にジャクソン5はゴーデ 「どうすりゃいいのさ、この私」と歌ったのは 想像がつく。それの決定打となったのがH-D-Hと ィー自ら先頭に立って制作を指揮し、その後70年 藤圭子だが(「圭子の夢は夜ひらく」70年4月発 映画のメッセージを代弁するものとして、音楽は画 の離別だった。H-D-H側の言い分は、売上に見合 代前半のモータウンを支える存在へと成長してい 売) 、その翌年マーヴィン・ゲイは「どうなってる 像と同等な存在としてそこでは扱われることが多か った利益報酬が分配されていない、というものだっ く。ジャクソン5は70年代初頭のやるせなさを吹 んだ」と歌った。この「どうなってるんだ」は った。ソウル・ミュージックの伝えるものが急速に た。67年後半から68年初頭にかけてもH-D-Hは良 き飛ばすという気概を全身全霊で伝えていた。ひた 「この世はいったいどうなっちまうんだ」というメ 密度を増した時代だった。ブラック・コミュニティ 作を連発していたが、結局調停は物別れに終わり むきさと無邪気さが確かな技術や整ったマナーと明 ッセージとなって以降、現在もまだ生き続けてい への経済的還元と意志改革とは切り離せぬ重要事と H-D-Hは、モータウンを離れる。ゴーディーはフ 確に一致していた。ポジティヴであろうとすればす る。ヴェトナム戦争は泥沼化し公害で人体は蝕ま して、音楽制作側に受け止められていった。 ランク・ウィルソンやハル・デイヴィスといった若 るほど自己否定を引き受けねばならなくなるよう れ、都市のゲットーは苦渋に満ちている。やりき その点でモータウンは先駆的役割を果たしてき 手(みなロサンジェルス在住)にH-D-Hの穴埋め な、居心地の悪さを社会的背景に反射させて改革の れなさの蓄積によってマーヴィン・ゲイは『ホワ た。70年代初頭には、フィラデルフィア・インタ 的作業を依頼する。若手にとっては荷の重い気乗り メッセージとして表現活動に反映させることが急速 ッツ・ゴーイング・オン』というモータウン初の ーナショナルやスタックスも、独立した経済基盤 のしない仕事であった。なにしろ何をどう作ろうが に隆盛していった70年代初頭の内省的空気と芸人 コンセプト・アルバムを作り上げた。マーヴィン の確立、黒人による黒人のための組織作りを実践 H-D-H作品と比べられるのだからろくなことはな 集団としてジャクソン5は一定の距離を保持しえ にとっては初のセルフ・プロデュース・アルバム していった。白人経済界から見れば単に“黒人相 い。H-D-Hとモータウン(ベリー・ゴーディー) た。ジャクソン5のヒットの連発以降、モータウン だった。曲と曲の間がつなげられ、大胆にストリ 手でも金になる”と考えての投資のひとつに過ぎ とは対立し、法廷闘争に発展した。68年も後半に からの諸作品には、どこかわだかまりがぬぐえなく ングスを導入し、存分にマーヴィンの歌が多重録 なかったのであろうが。 いう判断が下されても、首脳陣にとっては自然の流 れというものだったのかもしれない。 16 ウル、ジャズ、ファンクを積極的に取り入れていた。 (湯浅 学) 17 60年代モータウン・ サウンドの研究 ∼いい音とは“イイ音”なり 値より経験値が重視される。それはスポーツ選手に 博徒としての熱意がなくなってしまったことは、モ ポンスとなるべきだったのだろうが、この曲では とっては常識である。考えながら闘っていては勝て ータウン=ベリー・ゴーディーの夢の衰退を直接的 ブラスとウィルソンのやりとりに編曲されている。 ない。考察はすべて無意識化できなければほんの に意味する。その熱意こそが音に正直に表出してい ゴスペルのポップ化、50年代中期、ロックンロー 100分の1の差を瞬時に判断しかいくぐることはで ることがモータウン・サウンドの魅力の核だった、 ルが白人市場へ流入した後の黒人大衆音楽の主テ きない。スポーツは勝ち負けではない、というのな と考えるからである。 ーマがここでも試されている。さらにこの速いブ らばゴーディーの心がまえはスポーツ選手のもので ベリー・ゴーディーという熱意の中にはもちろん ギー・ビートと“ウーウウィー”というスキャッ はなく、勝負師、賭博打ちのものであるが、それは “黒人音楽企業として白人企業からの搾取と介入を ト・フレーズはフランキー・フォード(白人)59 アマチュアとプロの差。健康維持だの精神の安定だ 許さない”という意志が強固に組み込まれている。 年のヒット曲「シー・クルーズ」(R&Bチャート 生演奏の場の音響といったとき、個々の楽器でと の悠長なことを言っていられぬ、 「生活かかかって だからこそモータウンの作品群は、 (白人企業的常 11位)へあからさまに影響を与えている。ちなみ らえるか場に出された音全体でとらえるか、録音者 んだ、こっちは!」。だからスポーツに肉体/健 識から見れば)勝手に深化したり変化したりできた に小林旭さんの「アキラでツイスト」も「リー のとらえ方の位置と意志によって再現のポイント= 康/生活を蝕まれることをも厭わない。 わけだ。 ト・ペティート」の親戚である。 This page is protected. リアルのありようは大きく異なる。オーケストラの 音もまたしかり。ベースが歌を凌ぐことなど当た 必要なものを積極的に強化する、その当たり前の 個々の楽器が個々に“聴こえる”ことを鮮明の基準 りまえ。バースごとに定位が変わったり、高音部の 行為が、少々時代の平均から逸脱していただけだ。 バックを務めていたのはヒューイ・ピアノ・スミ にする場合と観客席で“聴こえた”感覚を基準にす ひずみや低音のブーストなども“必要”ならば“補 人を乗らせ高揚させる(つまり勝負に勝つ)ため ス&ザ・クラウンズ。モータウンとニューオリン る場合とでは同じ演奏でも録音物の再現される音の 整”などしない。むしろモータウンにおける“補正” には、重量感とスピード感を同時に増強する要素が ズは60年代前半相互に影響を与え合っていたが、 形/印象は大きく異なる。 とは(計測派の常識からすれば)極めて抽象的なも 必要だとベリー・ゴーディーは作曲家を志し制作実 そのスタートはゴーディーの“デビュー作”にあ フランキー・フォードといえばニューオリンズ、 ベリー・ゴーディーは生演奏によって生み出され のだ。抽象的とは制作者のひとりよがりであるとい 務に携わった当初から考え続けていたでろうことは ったとは。ゴーディー側から見ればニューオリン る音の内容ではなく音の効用のほうに耳と身体を開 うことも含めて、実は柔軟なものである。柔軟であ 「リート・ペティート」(57年)以下ジャッキー・ ズR&Bのとりわけドラムスとピアノの関係、シン いていたのだと思う。どうすれば“勝てるか”とい るからこそ、ゴーディーは作家/プロデューサー各 ウィルソンに(ビリー・デイヴィスとの共作で)書 コペイトされたスネアリングがビートの強化に有 うことを曲作りのときから常に考え続けていた人に 自にあれこれ命ずることもできるとともに各自に一 いた作品群にすでに如実に表われている。 効と考えての参照と考えるのが妥当か。ベニー・ とって音には“力”が必要であった。その力の素は、 任することもできたのだ。そしてそれを市場に出す ブレイクの多用によってリズムをより印象的な ベンジャミンのドラミングには、ニューオリンズ 安定した腰と筋力によって培われ保たれる、と。力 出さないは、社内の会議=賭博で決定される。社内 ものにし、コーラスにホーン・セクションがから のパワフルなドラマー=アール・パーマーやスモ とタイミングによって技はキマるが、技もまた経験 で勝ち残らねば一般市場=公の賭場には出してもら む「リート・ペティート」はシャッフルのビート ーキー・ジョンソンらの豪快さと揺れと鋭いショ によって研かれる。男度胸のゴーディー親分、 “い えないのが掟となっていた。 自体はさして工夫がほどこされているわけではな ート・フックの連打術を兼ね備えたような器用さ かに効くか”がなによりも大切だと信じこそすれ、 70年代以降のモータウン関連作品が60年代(主 いが、ウィルソンの伸びやかで軽妙な歌唱の活用 と力強さがある。ニューオリンズR&Bが全米に影 いい音とは、臨場感の高さや再現度の鮮明さにある に64∼68年)のそれと較べて、音に総体としての の仕方が特別である。“リート・ペティート”の 響を及ぼしていた黄金時代(ちょっと端折って述 などとはまったく考えていない。いい音とは“イイ 特色が感じられないのは、こうした社内的な争い、 “リート”の“リー”を極端な巻き舌でキメている べれば)55∼62年。デイヴ・バーソロミュー、ポ 音”、つまり印象の強さと深さで測るものであり、 度重なる賭博場の通過がなくなったことが原因だと ところにゴーディーの非凡なセンスが現われてい ール・ゲイトゥンといったバンド・リーダー兼プ 再現度の高さとは、 「いかに忘れられないあの感覚 考えられる。別稿にも記したが、賭場の場主であり る。さらに“オッオッオッオー”というところは ロデューサー/コンポーザーからよりモダンなア を蘇らせ定着できるか」ということであった。計測 胴元であり賭博師でもあったベリー・ゴーディーに 本来ならばコーラス隊とのコール・アンド・レス イディマン=アラン・トゥーサンが主導した時代 18 19 である。つまり初期モータウン(いわゆるモータ オーディションを受けに行く、ということがあった。 おそらく、ブッカー・T&ザ・MGズとジュニ ウン・サウンドが確立される以前)作品に、その そのときのニューオリンズ組の中にはアール・キン ア・ウォーカーがなければミーターズはなかった、 人音楽全般に有効である。ロックンロールがリズ 影響がしばしば登場する。ちなみにアール・パーマ グもいたというが、オーディションには全員が不合 と思うがこの三者は結局相互に響き合う定め。この ム&ブルースの公式化(ポップ化)の一環の中で ーは63年ごろロサンジェルスに活動の場を移して 格。仕方なくそのまま帰路に着いた。 鍵盤楽器とエレキ・ギターがからみ合うアンサンブ 生じたものだとすれば、ソウルはそれに対する黒 最後の一節は実は50年代後半以降のアメリカ黒 以後、しばしばモータウンの“ロサンジェルス・セ ニューオリンズといえば、アラン・トゥーサンは ルの中からエレキ・ギターによるいたずらと扇情的 人市場からの逆襲あるいは返答としてのゴスペル ッション”に参加していたようである。もちろん 機敏な新し物好きであったが、兵役後のリー・ドー 効果の速効性に着目しそれを一気に拡張してみせた の公式化(ポップ化)のひとつの答えである、と 70年代にも多くのモータウン作品でパーマーは叩 シーを演出する上で、ジュニア・ウォーカー&ザ・ 男がシルヴェスター・スチュアート=スライ・スト いう考察である。公式化を洗練、あるいは再構成、 いている。たとえばジャクソン5の初期作品群のセ オール・スターズの『ショットガン』を大いに参照 ーンであった。スライはDJ/プロデューサー/コ デフォルメと言いかえてもいいだろう。70年代の カンド・ライン系のノリはどうだ。 「ABC」のファ しているのは特筆すべきだろう。 ンポーザーだっただけに仕掛けが速くて大胆。人に 初めにスペシャルティの名コンピレーションを編 たとえばドーシーの「ライド・ユア・ポニー」の やらせるより自分でマイク握ってアジったほうが早 んだバリー・ハンセンは、50年代末から60年代前 アール・パーマーを置いて想像するとかなり合点が ギターのリフレイン、銃弾の発射音はあからさまに いとばかりにフロントに立つ。それが世の中を変え 半のサム・クック、レイ・チャールズ、ジェーム いく。そういえばキング・フロイドのアルバム『ハ 「ショットガン」である。そればかりか重いバス・ ート・オブ・ザ・マター』 (V.I.P. VS-407、71年) ドラムとタムの多用(ニューオリンズはスネア中心 スライ&ザ・ファミリー・ストーンを真正面から などの黒人男性歌手や、ザ・ドリフターズなどの は、編曲がハロルド・バティステで曲作りと演奏で が伝統)、ズンズンと遊ぶベース、さらにバリト ライヴァル視していた男にノーマン・ホイットフィ いわゆるバード・グループ以後のコーラス・グル マック・レベナック(ドクター・ジョン)が活躍し ン・サックスの導入、とこれほどの疑似デトロイ ールドがいる。 ープなどを総称して、かつて“リズム&ゴスペル” ている。在ロサンジェルスのニューオリンズ組ミュ ト・サウンド(しかもファンク方向からの)はむし しかしスライのファンクも基本はモータウン、つ ージシャンによる作品だ。キング・フロイドはチム ろ65年においては極めてめずらしい。しかしトゥ まりゴーディー同様のゴスペルのポップ化、プログ ニーヴィルでの一連のヒットで知られるが、おそら ーサンの天才性はそこからさらなるデフォルメを加 レッシヴ化であった。 く『ハート・オブ・ザ・マター』は69年ごろの録 えたところにある。極端なバス・ドラムの重量化を かつてグリル・マーカスはスライに関する論考 んだ音作り=強いドラムスとベース、それにタン 音でオクラになっていたものをフロイドの「グルー ピアノの低音部で補強して「ゲット・アウト・オ でこう指摘している。 「テンプテーションズとかジ バリンと鍵盤楽器、フックには必ずコーラス隊と ヴ・ミー」の大ヒット(R&Bチャート1位/ポッ ブ・マイ・ライフ・ウーマン」というブルース・フ ャクソン5のレコードはスライのサウンドに鼓舞 主唱者とのコール・アンド・レスポンス、という プ・チャート6位、70年)に便乗して掘り出して ァンクを、この疑似デトロイト・サウンドの流れの されたというよりも、それを公式化したものだが 形はつまり“街頭の自由化”と同様である。ゴー 来たものと考えるのが妥当だろう。キング・フロイ 中から生み出す。 (初期のモータウンがゴスペル音楽の向こうみずな ディーにはわかっていたのだ。ジャズのような洗 ンキーなビートが極めてニューオリンズ的なのも、 ドはモータウンのスカウトの目にかなわなかったと いうことか。 This page is protected. もとより、ファンクはニューオリンズのフォンク てしまうのだから、人生わからない。 ス・ブラウン、もちろんジャッキー・ウィルソン という語を用いたことがあった。 これこそがモータウン・サウンドの基本という べきものだったと今にして思う。ゴーディーの好 天真爛漫さを秩序立ったものにしたのと同様に) 練は街頭には不向きだ、と。だからこそ白人エン にルーツのひとつあり、との定説もあり、ドラムス スライの音楽に聞きとれるのは、それとは対照的 ターテインメントはジャズを搾取して劇場の中で 65年ごろのこと、ニューオリンズはお上の風紀 のボトムの強化とベースの関係に関しては、モータ に、多数の個人がひとつになっているという事実 洗練を行なってきた。やがてはゴーディーも“そ 正常化の嵐により、ミュージシャンの仕事が激減。 ウンに先んじていた面が多いことも押さえておかな である。そのようにしてこそ、彼らは個人として ちらの世界”との取り引きに埋没していくのだが、 かといって他の土地につてもない者も多かった。そ ねばらならぬところで、そうでなければこのニュー の自分を最高に表現できるのだ。それは街頭の自 60年代前半のモータウンは当てずっぽうの“街頭 こで一計を案じたニューオリンズ・ミュージシャン オリンズ経由のデトロイト・サウンドのファンク編 由であって、教会の自由ではない」(『ミステリ の自由”のための試作が群を成していた。 一行がマイクロ・バスを借りて北上、モータウンの はミーターズへとつながらなくなってしまう。 ー・トレイン』三井徹訳。第三文明社刊) 20 コンプレッサーの多用、大胆なイコライジング、 21 モータウンの 礎となった 人々 ベースのライン録り、パンチ・インの乱用など。 ロデューサーもディレクターもスペクターのみ。ア 全盛期のモータウンのレコーディング作業は自前 レンジャーの数もタレントも大モータウンとは比較 で勝手な進化を遂げていた。しかもホーランド/ にならない。しかし共通するのは、ワイルドにして ドジャー/ホーランドにおいてはテープの編集や 偏執的作業とひらめきの(強引ともいえる)実践。 リフレインを保存しておいて再利用するのが曲作 そしてどちらも美しくいびつである。モータウンも りの重要作業だったというから、サンプリング・ スペクター作品も未踏だろうが何だろうが念入りに マシーンが幅をかせる21世紀初頭とは、ブライア 自己の内にあるサウンド/ビートの実現に踏み込ん ン・ホーランドが昔やっていたことの焼き直しに でいったがゆえの“ポップ・アート” 。どちらもジ 過ぎない。 ェリー・リーバー&マイク・ストーラーによるドリ 60年代における横への広がり、モータウン・サ フターズの「ゼア・ゴーズ・マイ・ベイビー」 (59 ウンドの直接的影響ということでいえば、65年だ 年)に多大なる影響を受けている点も重要だろう。 けでも、レン・バリーの「1-2-3」 、ザ・トーイ ストリングスをパーカッシヴに使った黒人音楽の ズの「ア・ラヴァーズ・コンチェルト」 、フォンテ 先駆としてこの曲もまたリズム&ゴスペルのプロ ラ・バス「レスキュー・ミー」 、フォー・シーズン グレッシヴな一例だが、ストリングスを“街頭” ズ「レッツ・ハング・オン」などがあるし、その後 に引きずり出したということでは“教会内の響き” もたとえば、ヤング・ラスカルズ「ロンリー・トゥ つまりポップスのサウンド面での重要な要素のひ ー・ロング」 (67年)やファウンデーションの一連 とつ、 「エコー感の拡充」という課題を提出した歴 の作品、もちろんローラ・ニーロ、ダンヒル・レー 史的名作でもある。たとえば、 「ゼア・ゴーズ・マ ベルの諸作品など枚挙に遑がない。さらにアジアで イ・ベイビー」、「ベイビー・ラヴ」、「ゼン・ヒ は60年代末から70年代初頭にかけての大韓民国の ー・キッスト・ミー」、「ふられた気持」、(マーヴ 偉人=申重鉉(シン・ジョンヒュン)一連の作品を ィン&タミーのほうの) 「エイント・ノー・マウン 忘れてはならない。申先生の代表作のひとつキム・ テン・ハイ・イナフ」、「リヴァー・ディープ・マ チュージャのアルバムはアメリカでも当時リリース ウンテン・ハイ」と聴いて、ジョージ・ハリソン されていた。 の『オール・シングス・マスト・パス』へと至る、 This page is protected. モータウンのサウンド的ライヴァルは、後の影響 という聴取の旅をとりあえずお推めしておく。確 力の大きさと幅広さからいってもフィル・スペクタ かに人生至るところにモータウンとスペクターあ ーのウォール・オブ・サウンドと見るべきだろう。 り、と確信するのは俺がゴーディー化しつつある しかしモータウンは多彩な作家/プロデューサー からではないと思うのだが、いい音よりイイ音を 陣を擁するチーム・プレイ、対するスペクターは作 求めなければCDメディアは自滅する、というのも 家陣は(頭数では劣るが)充実していたものの、プ モータウン研究の結論のひとつ。 22 (湯浅 学) ヒッツヴィルの “おやっさん” 心優しき才人は 永遠の“弟” バンタム級で8戦し6勝1敗1引き分けの戦績 80年代初頭のニュー・ウェイヴ を残した。48年から50年にかけてのこと。その や現在のエレクトロクラッシュほ 後2年間兵役につき、除隊後デトロイトに戻る ど、さっさと消耗されてしまいた とたちまちジャズの虜になってしまう。当時の いという衝動のなかで音楽に臨ん デトロイトでは優れたミュージシャンが数多く でいたということはなかったと思 修行していた。53年にジャズを中心としたレコ うものの、それに近いものをセン ード店=3Dレコード・マートを開いたベリー スとして持っていたことがスモー (ジュニア)だが、売れるレコードはジャズでは キー・ロビンソン&ザ・ミラクル なく世俗的なブルースだということが身に染みて ズを60年代という大量消費と抵抗 わかるまでに2年かかった。3Dレコード・マー 文化に突き動かされていた激動の トは55年に閉店。フォードの工場で働き、離婚 時代に強く密着したサウンド・メ The Supremes Box ﹃ Berry Gordy ﹄ ブ ッ ク レ ッ ト よ り Smokey Robinson & the Miracles This page is protected. 訴訟を起こされたが、次の人生を作曲家としての イキングへと向かわせたことは、 おやじでありアニキであり先輩であり親分で 勝負に賭けるようになる。57年秋、新人歌手ジ まず間違いがない。どちらかといえばブルージ あろうと、29年11月28日デトロイトに生まれた ャッキー・ウィルソン用の曲「リート・ペティー ーでムーディーなコーラス・グループとして商 「ティアーズ…」が、当初は『メイク・イッ ベリー・ゴーディー(ジュニア)は思っていた ト」をビリー・デイヴィスと組んで完成させる。 業音楽のスタート地点に立ったザ・ミラクルズ ト・ハプン』(67年)の1曲としてリリースさ のだろう。それが“社長”の役割である、と。 ウィルソンもゴーディーと同時期にリングに上が が、60年代初頭のダンス・ブームを受けてカ れ、本人たちがあまり気に入ってなかったにも に導いたとも。 ベリー・ゴーディー・シニアは解放奴隷の子 っていたボクサー仲間だった。一発のヒットで世 ヴァー・アルバム『ドゥーイン・ミッキーズ・ かかわらず、3年後にブリティッシュ・モータ で、日の出から日の入りまで労働に励んで大家 界が変わる。大衆音楽とボクシングはそこが同じ モンキー』(63年)を制作したことはそれこそ ウンの都合でシングル・カットされたものだと 族を養った。その子ベリー・ゴーディー・ジュ だ。人生はことごとく博奕である、とゴーディー 彼らの山っ気のような感覚を象徴するトライア いう話はよく知られている。同曲は元々、ステ ニア(パップス)は地元ジョージア州オコニー は肝に銘じ、その博奕に勝つために全霊を傾けた。 ルだったわけで、それがあって初めて『ゴーイ ィーヴィー・ワンダーとヘンリー・コスビーが 郡でいくつもの事業で小さな成功を収めた後、 プライドが高かったのではなく、相手が白人だろ ング・トゥ・ア・ゴーゴー』(65年)だったの 作曲し、歌詞だけをロビンソンに依頼したもの 22年にデトロイトにやって来た。食料品店、左 うと黒人だろうと負けるのがいやだっただけだ。 であり、後にソウル・バラードとダンス・ビー で、これをまたロビンソンがさらに新しい曲へ 官などの事業/仕事に精を出し多くの子供を養 活動初期のゴーディーの作る曲、プロデュースす トが不可分に結びついた「ティアーズ・オブ・ とつくりかえたもので、いわばピークからエン った。8人の子供はそれぞれ強い結束、家族愛 る曲の多くがビートをできるかぎり強調していた ア・クラウン」へ至ったのではないかと思うわ ディングへと向かいつつあった感性と、大きな を持っていた。モータウンが家族のようだった、 のもそれが“勝負”だったからだ。その“勝負” けだ。フィラデルフィア・ソウルからディス 飛躍を目前に控えていた才能の交錯だったとい というのはベリー・ゴーディー(ジュニア)が へのこだわりが音響化されたもの、それが“モー コ・メソッドへと至るラインは、大袈裟なこと うことになる。様々な意味でこの曲は、だから、 自らの家族内の哲学を野心に合体させたところ タウン・サウンド”の核である。 をいえば、この山っ気によって熱く醸成された 奇跡だった。もしもシングル・カットが1年早 かったらどうなっていたんだろう…とか。 に原因がある。父ベリー(パップス)の仕事を ベリー・ゴーディー(ジュニア)にとっては のであり、ただひたすら内省の季節へと飛び込 手伝いながら、ベリー(ジュニア)はジョー・ 歌手も作家も曲もみな自分の家族であり、博奕 んでいった70年代のブラック・ミュージック モータウンという黒人企業は、実はザ・ミラ ルイスにあこがれてプロ・ボクサーになった。 のコマ、賽の目だった。 をその道だけで終わらせない選択肢へしなやか クルズのために設立されたようなレーベルだっ 24 (湯浅学) 25 ワイルドでブルージーな 香りを持つガール・グループ た。スモーキーことウィリアム・ロビンソンと ガット・ア・ホールド・オン・ミー」であり、 デトロイトのインクスター・ハイ・スクール ベリー・ゴーディーが初めてパートナーシップ 「トラックス・オブ・マイ・ティアーズ」だっ の同窓生5人、グラディス・ホートン、キャサ を組んだ当時、ゴーディーはまだフリーのプロ たというソウル・バラッド派のリスナーたち リン・アンダーソン、ワンダ・ヤング、ジョー デューサーであり、彼が手掛けたザ・ミラクル は、ロビンソンが実験的な試みを恐れることな ジアナ・ティルマン、フワニータ・カウアト ズの初期作はエンド・レコーズやチェスからリ く70年代に制作し続けた一連のソロ・アルバ (いずれも44年生まれ)によって結成され、60年 リースされ、そこからの利益を確実のものとす ムにも気をつけなければならない。ローリン に同ハイ・スクールのタレント・コンテストで るために、彼らはタミー・レコーズを設立した グ・ストーンズや果てはジャパンにもカヴァー 入賞、それがきっかけでゴーディーに紹介され のである。これが、タムラ、そして、後にモー されるなど、ザ・ミラクルズが(オフ・ビート るところとなった。いわゆるガール・グループ タウンと名を改め、「ショップ・アラウンド」 を多用していたインプレッションズなどとは違 的な売り出され方ではあったが、リード・ヴォ が全米2位のヒットになったことで、その運営 って)ロック・ミュージシャンから高く評価さ ーカルのグラディスの声にはざらついたブルー 資金を得ることになる。それから9年が経った れていた理由がきっとわかることでしょう。 ジーな色彩があり、それがこのグループの特色 70年に「ティアーズ…」が全英及び全米で 60年代後半になってロビンソンが発揮し始め (彼らにとっては初の)1位になっていなけれ たファルセット唱法を「モア・ラヴ」で終わり 61年8月、 「プリーズ・ミスター・ポストマン はザ・フーやラモーンズのファンをも驚かせる ば、できる限り早くグループを離れて新人の育 としてしまうのは、つまり、あまりにもったい B/W ソー・ロング・ベイビー」でレコード・デ であろう。デビュー曲大ヒット後、63年夏まで 成に努めたいとロビンソンが考えるようになっ ないと。 ビュー。この曲はたちまちヒット・チャートを に5枚ものアルバムをリリースしている。64、 This page is protected. のひとつになっていた。 Marvelettes イスティン・ポストマン」での徹底したダウ ン・ストロークのベース・プレイのドライヴ感 ていたのも、彼がモータウンという会社をその ちなみに高校時代の同級生によって結成され 上がり、61年12月にはポップ/R&B両チャート 65年は他のアーティストの台頭によりモータウ まま自分の会社として考えていたことの表われ たザ・ミラクルズはデビュー直前にメンバーの で首位に輝いた。ちなみにこの曲の当時のチャ ンの大看板からは外れたが、66∼67年には「ド である。彼が実際にライン・ナップから離脱し ひとりを徴兵に取られ、その穴をクローデット ートでのライヴァルはジミー・ディーンの「ビ ント・メス・ウィズ・ビル」や「ザ・ハンタ たのはその翌年で、しばらくはプロデューサー が埋めたと思ったら、「ユーヴ・リアリー・ガ ッグ・バッド・ジョン」やトーケンズの「ザ・ ー・ゲッツ・キャプチャード・バイ・ザ・ゲー としての関係を保つことになるものの、ほどな ット…」をレコーディングする直前にもピー ライオン・スリープス・トゥナイト」であった。 ム」などをヒットさせて健在ぶりを示した。ジ くして彼らの旧友たちは、74年に「ドゥー・ ト・ムーアを徴兵に取られ、ヴェトナム戦争に 62年には「プリーズ・ミスター・ポストマン」 ョージアナとフワニータが抜けてトリオとなっ イット・ベイビー」が13位、76年にも「ラ はけっこうな目にあわされていたグループだっ にそっくりなディー・ディー・シャープ(後に た後、68年にリード・ヴォーカルのグラディス ヴ・マシーン」を再度全米1位に送り込んだの た。♪スモーキーが歌うと――すべてを忘れて ケニー・ギャンブルの妻君となる)の「マッシ が抜けアン・ボウガンがかわりに入ったが、71 ち、コロンビアへと移籍した。 しまう…と、80年代に入ってABCのマーティ ュポテト・タイム」が大ヒットしている。いわ 年にスモーキー・ロビンソンのプロデュースで 71年の「アイ・ドント・ブレイム・ユー・ ン・フライが歌っていたように(「ホエン・ ゆるモータウン・サウンドとは違うもののベー 『ザ・リターン・オブ・ザ・マーヴェレッツ』を アット・オール」を最後に、チャート・ミュー ザ・スモーキー・シングス」 )、彼ら自身もそう スが強調され歪みが心地良い。音作りは他のモ 発表したもののさして話題になることなくグル ジックからはしばらく遠のいていたロビンソン したことは忘れるように努めていたということ ータウン作品にはないもので、初期の実験精神 ープは解散した。ノーマン・ホイットフィール 自身も81年には「ビーイング・ウィズ・ユー」 なんだろうか、それとも…? が如実に現われた作品がマーヴェレッツには多 ドの活動初期の作品提供も見られるし、くすぐ い。ジェームス・ジェマーソンが生ベースを弾 ったく粘りのあるハーモニーは今も根強い人気 いているものもあるし、第2弾シングルの「ツ を持っている。 をソロで、やはり全米1位としているけれど、 ザ・ミラクルズといえば「ユーヴ・リアリー・ 26 (三田 格) (湯浅 学) 27 英国でも人気の 初期モータウンのヒット・メイカー ヴォーカル録音を試させたという。 Marry Wells 初期モータウンの代表的女性ソロ・ヴォーカ ダミ声激唱エレキの響き ハード・ドライヴィンな名グループ 結成は59年。リード・ヴォーカルのビリー・ リスではブライアン・プール&ザ・トレメロウ さらにスタッフとしてスモーキー・ロビンソ ゴードンを中心に、ビリー・ホッグス、ジョ ズ、デイヴ・クラーク・ファイヴが、アメリカ ンが楽曲を提供、スモーキーのソフトなタッチ ー・ビハンクリー、シルヴェスター・ポッツの ではガレージ・パンクの雄ソニックスなど多数 の楽曲がウェルズのゆったりとしたハスキー・ 3人が集った。ヒューバートの従兄がジャッキ のバンドがカヴァーしている。 ヴォイスにうまくはまり、若いのに経験豊富な ー・ウィルソンだったこともあり、活動開始後 62年10月にはコントゥアーズのすべてが詰め 恋の指南役といったイメージが当時流行りの他 すぐにジャッキーの推薦によってモータウンと 込まれたアルバム『ドゥ・ユー・ラヴ・ミー』 のガール・グループの作品群とは異なる個性と の契約にこぎつけた。当時はリズム・コントゥ を発表、その後67年3月までにゴーディーから なって連続ヒットを生み出した。 アーズと名乗っていた。61年2月に「フォー 8枚のシングルをリリースしているがいずれも 64年にはアール・ヴァン・ダイク・バンドを ル・ロッタ・ウーマン」でレコード・デビュー、 中ヒットにとどまっている。いかにエレキ化さ 従え、しかも人気絶頂のビートルズとともに全 61年7月には「ファニー」をリリースしたが、 れたビートものの先端といえど、当初の爆発力 英をツアーした。ビートルズの推挙はあちこち どちらも売れなかった。62年に専属ギタリスト を維持するのは容易ではない。メンバーも何度 This page is protected. リストといえばこの人である。43年5月13日デ に載り、ウェルズは大スターとして扱われた。 としてヒューイ・デイヴィスが加入し、62年7 か入れ替わり、ジェラルド・グリーン、カウン トロイトに生まれ、60年にサンドールズのオー このときの経験が、ウェルズに上昇志向をもた 月に「ドゥ・ユー・ラヴ・ミー」をリリースす シル・ゲイなどの他、後にテンプテーションズ ディションを受けに行ったところ、当初バック らすきっかけとなったようで、20世紀フォック る。ツイスト感覚を盛り込んだこともよかった のメンバーとなるデニス・エドワーズやフォ メンバーのひとり兼ソングライターとして受け スからの移籍の誘いに乗り、モータウン/ゴー のか、これが全米ポップ・チャート3位を記録 ー・トップスのリーヴァイ・スタッブスなども たものの、歌唱に魅力ありとの判断によりソロ ディーとの訴訟へと発展する。ウェルズはそれ する大ヒットとなる。ベリー・ゴーディー作の 在籍していたことがある。グループは70年代以 歌手としてモータウンと契約するところとなっ に勝訴するが、モータウンを離れて以後、20世 この曲は当初伴奏陣にはまるで不評だった。は 降も細々と活動を続けた。不器用に欲望を圧縮 た。60年代12月に、アンダンテスがバック・コ 紀、アトコ、エピックといくつもの作品を発表 っきりしない妙な曲という印象だったからだ してビートに込めた「ドゥ・ユー・ラヴ・ミー」 ーラスを務めた「バイ・バイ・ベイビー」でデ しているが、どれもヒットには至らなかった。 が、ビリー・ゴードンが歌い出したとたんその の果たした役割は決して小さくない。 ビューした。この曲はウェルズが15歳のときに 作品の弱さゆえの結果ではあるが、一方でモー 印象は吹き飛んだ。ゴーディーのコンポーズ術、 書いたものだった。これがヒットし、ウェルズ タウンから離れたことでモータウンの魔力が効 プロデュース能力、おそるべし。す はマーヴェレッツとともにモータウンを支える かなくなったからだ、あるいは、モータウンが でに時代は次なる“激しさ”を求め 存在となった。64年までに全米トップ10ヒット ウェルズに圧力をかけたのではないか、等の憶 ていたことをふたつの曲のヒットは 曲を4曲も生み出し、その後何人もの女性ヴォ 測を生んだ。 物語っている。サウンド的に後に世 ーカリストとのデュオ作を発表するマーヴィ 最初期の61年、62年のウェルズのしなだれか 界を席巻するエレキ・ギター・コン ン・ゲイの最初のデュエット相手としても成功 かるような青い色気は、他の歌手にはもちろん、 ボに直結している点は重要だろう。 を納めた。 63年以降のウェルズにもない魅力である。そこ 激唱エレキ・ギターの荒削りな響 にこそモータウン・マジックを見る、というフ き。ドゥーワップとジャンプ・ブル ァンが実は多い。 ースの最もワイルドな面を強調した 歌唱力を見込んで契約したゴーディーは、ウ ェルズにふさわしい歌唱スタイル、声質を求め て「バイ・バイ・ベイビー」録音時には22回も 28 (湯浅 学) ものともいえる。実際この曲はイギ (湯浅 学) Contours 29 幅広い表現力を発揮した天才 情緒不安定な波瀾に満ちたその歩み 名曲(トータス松本版でご存じとい Marvin Gaye という幼少時代に遡るようだ。 う方もおられよう)だが、ここでも そんなマーヴィン少年にとって音楽は、自己 すでに彼自身でペンを執っていた。 確認のための貴重な手段だったともいわれる。 うな『レッツ・ゲット・イット・オン』でのセ ックス賛美も、本質的にはその賜物なのではな かろうか。 いっぽう、ホーランド/ドジャ たとえ他人が書いた曲であっても、彼のなかで だからといって彼自身が必ずしもカタルシス ー/ホーランドらモータウンのスタ は、歌われている虚像と、現実の自分との境界 を得られていたとは思えないのが事実だし皮肉 ッフ・ライターたちの曲(マーヴィ 線が曖昧で、場合によっては消滅さえしている なことだ。以前からのステージ恐怖症やドラッ ンの60年代ヒットの大半を占めるの のかもしれない。観念的な物言いになって申し グ依存に加え、コンサートの気まぐれなキャン はこれらのほう)や、ときにはポッ 訳ないのだが、そのように感じさせるヴォーカ セルや、プロ・スポーツ選手を本気で目指す、 This page is protected. プ・スタンダードなどにも挑むなか ルを彼がたびたび聴かせるのは事実だと思う。 などといった奇行も目立った彼の70年代は、 マーヴィン・ゲイは、モータウンやソウル・ で、ヴォーカリストとしての表現力も磨いてい シンガーとして最高のパートナーといえたタミ 離婚とその慰謝料問題、情熱的な再婚とその挫 ミュージックだけでなく大衆音楽全体で考えて く。しなやか、スウィート、ワイルド、切れの ー・テレルとの、デュエット時だけのヴァーチ 折、といったトピックも含む、浮沈の激しいも みても、稀なほど深い余韻を聴く者に残すこと 良さ、など様々な美点が目まぐるしく表われつ ャルな恋愛関係にも、まさかと思うほどのリア のだった。モータウンに抗いつづけた時代でも ができるヴォーカル・アーティストである。同 つ、どことなく情緒不安定なニュアンスも見え リティを生み出してしまうのである。そのタミ あったが、『アイ・ウォント・ユー』や『離婚 時に、たいへん複雑なキャラクターの持ち主で 隠れ……ゆえにリスナーは彼のことが気になっ ーの死に直面しては、彼は肉親かそれ以上とい 伝説』といったアルバムの素晴らしさには問答 もあり、シンプルなかたちでの人物総括、とい てしょうがないということにもなるのだろう えるほどの悲嘆にくれた。 無用のものがあった。 った行為にもっとも馴染まないタイプのひとり が、こうしたマーヴィン独特のヴォーカル表現 そのとき精神のバランスを大きく崩したよう といえる。ここでは彼のごく一部に触れるにす は、60年代に完成していったといえるだろう。 にも見えたマーヴィンだが、別の角度から見れ らCBSに移って『セクシャル・ヒーリング』 ぎないが、その歩みをざっと辿ってみたい。 ハワイやヨーロッパにこもり、モータウンか ただ、彼の内側では、小洒落たジャズなどを ば、結果的にアーティストとしての自分を(ド で再起を果たしたマーヴィンは、すでに葛藤ど 歌うサパークラブ・シンガー志望という本音 ラッグの力を借りたりと不安定ながらも)リセ ころかあらゆる負荷を洗い落とし、ほとんど生 39年にワシントンDCに生まれた。牧師の父親 と、R&Bスターを目指している現実とが軋み ットしたのかもしれない。『ホワッツ・ゴーイ まれ変わっているかのようだった。だが、再び をもち、ゴスペルに親しんだ彼は、ドゥーワッ をあげていたともいわれる。生涯つきまとった ング・オン』に始まる70年代の傑作群におい 始まったスターとしての日々が、彼の視界を歪 プ・グループの一員としてプロ・キャリアをス ドラッグとのつきあいも、かなり早い時期から て彼は、抱えた葛藤をなにかに変換するのでは めるのにさして時間はかからなかったようだ。 タート。その後モータウンに入社してソロ・シ 始まっていたようだ。 なく、ほとんど主題に据えたといえるほど、直 そして84年、彼にとって最大の壁といえた父 マーヴィン・ペンツ・ゲイ・ジュニアは、 ンガーを目指していくが、早い時期からソング 彼の生涯はたしかに波乱万丈なのだが、つき 接的なモチベーションにしているようであっ 親その人の手で、彼の人生は突然幕をおろされ ライティングを手がけるようになる。62年に つめればそれは、葛藤の絶え間ない連続といえ た。特徴ある多重録音コーラスなどはある意味 てしまったのである。 出た初ヒット「スタボン・カインド・オブ・フ るものだった。その原点は、クセの強い人物だ で象徴的でもあるが、そこには先の境界線もた ェロウ」は不滅のソウル・クラシックと呼べる った父親に対して屈折した感情を抱きつづけた ぶん存在しない。葛藤というと違和感がありそ 30 (出田 圭) 31 生え抜きのモータウン少年は、 やがて歴史にその名を刻む Stevie Wonder 降、変声期を経た後はソングライテ ズが思い出されるが、最近ではDJ スピナとボ ゥ・アイ・ドゥ」、商業的には失敗に終わった ィング面でも頭角を現わすようにな ビートがスティーヴィーのカヴァー曲だけで構 が、ストイックな音作りを当時のプリンスが絶 り、ロックの拡大で変化する時代に 成したDJミックス『ザ・ワンダー・オブ・ス 賛した87年のアルバム『キャラクターズ』な 対応したヒット曲を次々と連発。70 ティーヴィー』が発売され、クラブ・ミュージ ど、聴きどころは少なくない。ヒップホップ∼ 年代に入ってからは、ブラック・パ ック系ファンの間で大きな話題を集めたのは記 R&Bが完全にメインストリームを制圧するよ ワーの高揚に呼応してよりアグレッ 憶に新しいところ。ブラック・ミュージック界 うになった現在に、彼にそれに対峙しうるアプ シヴな音楽性を志向するようにな におけるビートルズ的存在は誰かと考えた時 ローチを求めることは酷だが、ヒップホップ黎 り、ムーグやアープといったアナロ に、それはスティーヴィー・ワンダーをおいて 明期の80年代前半に、その界隈の無名のアー グ・シンセサイザーを自らのサウン 他ないことを証明した1枚だった。 ティストのプロデュースなどを熱心に行なって This page is protected. ドに導入した。ほとんどの楽器を自 そんな無敵の黄金期を70年代に築いたステ いたことは忘れてはいけないだろう。 スティーヴィー・ワンダーというミュージシ ら演奏し『心の詩』『トーキング・ブック』『イ ィーヴィーも、80年代以降はやや安定した活 ところで、50年5月21日にデトロイトから ャンの40年以上に及ぶ長い足跡を辿ってみれ ンナーヴィジョンズ』『ファースト・フィナー 動が目立つようになったが、MTVの時代を迎 90マイルにあるミシガン州サギノウ市で生ま ば、それはモータウンの歴史とも合致するだけ レ』と1年未満の短いスパンで連発された傑作 えても彼のキャラクターや歌声は世代を超えて れたスティーヴィーは、本名がスティーヴラン でなく、黒人による米国ポピュラー・ミュージ 群は、ロック、ジャズからプログレ、ラテンを 愛され続けた。ポール・マッカートニーとの共 ド・モリス・ジャドキンス。早産だったために ックの歴史そのものを、たったひとりで体現し も飲み込んだ高次元の音楽性を示す一方で、グ 演による「エボニー・アンド・アイヴォリー」 長期間早産保育器に入れられ、過酸素状態にな ていることに気付かされる。目立って寡作にな ラミー賞を独占するような名声と商業的成功を や、アフリカの飢饉のためにスーパースターた ってしまった彼は、ご存じのように音だけの世 ってきた90年代以降にしても、さすがにシー 同時に獲得。76年にLP2枚+EPというヴォリ ちが結集したUSA・フォー・アフリカ「ウ 界の中で生きる運命を背負わされてしまった。 ンをリードしているとは言えない状況だったも ュームでリリースされた『キー・オブ・ライフ』 ィ・アー・ザ・ワールド」への参加、そしてシ しかし、サウンドトラックの依頼を受けた時に のの、ジョディシィによる「レイトリー」、イ も、クロスオーヴァー・ミュージックの極致と ングル「心の愛」の大ヒットなど、大物アーテ は、場面の情景を説明する付き添い人とともに ンコグニートの「ドント・ユー・ウォーリー・ 呼べるような壮大な内容で、当時のスティーヴ ィストとの共演も数多くこなしながら、時代の 映画を“鑑賞”し、常に映画のストーリーやシ バウト・ア・シング」などといったヒップホッ ィーのことを、ジャズ歌手の大御所であるサ ニーズに合わせた曲を次々と発表していった。 ーンにふさわしい音楽を制作しようと努めてい プ∼R&B、クラブ・ジャズ系の若手によるカ ラ・ヴォーンは“ヤング・デューク・エリント 音楽フリークの間では、この時期のスティーヴ たという。月並みな言い方だが、破格のブラッ ヴァーや、明らかに影響下にあることを感じさ ン”と称賛している。もちろんこれは、ヒット ィーは軽視されがちだが、欧米のアーティスト ク・ミュージックの改革者として、現在も現役 せたジャミロクワイやニュー・ソウル系シンガ 曲「愛するデューク」に引っ掛けての褒め言葉 としては希有なディープさでレゲエに取り組ん で活動を続けるスティーヴィー・ワンダーとい ーの活躍などにより、彼の存在感は依然として だろうが、当時のジャズ∼フュージョン系のア だ「マスター・ブラスター」をはじめ、ベスト う音楽家は、破格の勉強家∼努力人でもあるこ 健在だったように思う。 ーティストの間では、彼の曲がスタンダード並 盤『ミュージック・エイリアム』に収録された とは間違いない。 63年に、弱冠12歳でシンガー兼マルチ・プ みの頻繁さで無数に取り上げられていた。ポピ 10分以上に及ぶ大曲で、ハウス系DJの間では レイヤーの天才少年としてデビューを飾って以 ュラー曲のジャズ・カヴァーと言えばビートル クラシックとしていまだに重宝されている「ド 32 (吉本秀純) 33 モータウン黄金期の大輪の花 とがどんなことだったかを考えさせ るに充分ではないだろうか。 Diana Ross & The Supremes いつまでも雲の上にのっているわけにもいか み、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの影響 ず、シュープリームスが自分たちの方向性にサ が窺える『レット・ザ・サンシャイン・イン』 テンプテーションズがまだプライ ウンド面で自覚的になったのはサード・アルバ なども完成させている。 ムスというグループ名を使っていた ム『モア・ヒッツ』からである。あまりにもわ ガール・グループはその当時、4人組が定番 時期に、ダイアナ・ロスたちはその かりやすいサンプルといえるのが、セカンド・ だったので、ダイアナ・ロスは当初、数合わせ 女性版ということで、プライメッツ アルバムの最後とサード・アルバムの冒頭に繰 のために声をかけられたメンバーだったとか、 と名乗っていた。それをゴーディー り返し収録されている「アスク・エニー・ガー 絶頂期にグループを離れたフローレンス・バラ のオファーによってシュープリーム ル」で、後者は後の連続ヒットを引き寄せるか ードはモータウンとの裁判のあげく、結審直前 スと改め、レーベルもタムラからモ のようにスタッカート気味に調子が変えられて に病院で死んでいたとか、そんなような話は探 ータウンに移して3枚のシングルを いる。続く『アイ・ヒア・ア・シンフォニー』 せばいくらでもあるんだろうけれど、シュープ リリースするも、最高で75位とまっ では全体に「南太平洋」を思わせるストリング リームスというグループは、カーペンターズな This page is protected. たくの惨敗で、結成5年目にして付 スが多用されているので、この印象は一端は覆 どとは違って、どうにも陰の部分を探したいと シュープリームスは、ある時代のアメリカそ いたあだ名が「ノー・ヒット・シュープリーム るんだけど、その時期はH-D-Hがプロデュー は思わせないところのあるグループである。 のものである。それは60年代といってもいい (まるで振るわない最高峰)」だったというのだ ス・ワークを誰かと交替しようかと悩んだ時期 「ストップ! イン・ザ・ネーム・オブ・ラヴ」、 し、世界が「成長の限界」という思想に出会う からわからない。それが、マーヴェレッツの捨 でもあり、そこを脱してからはシュープリーム 「マイ・ワールド・イズ・エンプティ・ウィズ 前の最後の無邪気さを謳歌できた時代だったと てた曲を渋々レコーディングしたところ、以後、 スは再びタンバリンを跳ね散らかしたダンス・ アウト・ユー」、「リフレクションズ」、「サムデ いってもいい。あれから40年を経た今になっ 5年半にわたってアメリカの最高峰を走り続 ビートに返り咲いていく。ちなみにそのピーク イ・ウイル・ビー・トゥゲザー」…すべては輝 ても「バック・イン・マイ・アームス・アゲイ け、イギリスから飛び出してきたビートルズと ともいえる「ユー・キャント・ハリー・ラヴ」 いていました。ハイ、終わり…としてしまいた ン」や「アイム・リヴィン・イン・シェイム」 お互いに最後の最後までチャートで張り合い続 は初期の「カム・シー・アバウト・ミー」を いような。いまだにアメリカでは彼女たちの容 を聴くことは、だから、ノスタルジーの中でも けてしまったのである。ふわふわと雲にのって H-D-Hが手直しした曲である。「気がつくとゴ 姿をコピーした3人組がその辺りを歩いていた 筋金入りというか、人類はなぜあそこでとどま いるような気分の「ホエア・ディド・アワ・ラ スペル・ソングになっていたんだ(ラモント・ りすることもあるみたいだし、いつのまにかシ る方法を模索しようとはしなかったんだろうと ヴ・ゴー」は、そのようにして彼女たちが「ホ ドジャー)」。 ュープリームス自身が初めからそのような人工 いう後悔と、だけど、その時のことを少しは思 エア」に「ゴー」かを決定づけた。いまとなっ ローリング・ストーンズ「サティスファクシ 的存在で、それこそアンディ・ウォホールの版 い出せるという満足感の反芻のなかで、ありと てはマーヴェレッツもシュープリームスもこの ョン」と同様、いまとなってはディスコの走り 画がたまたま音楽というカタチを取っていただ あらゆる感情を一箇所に集中させてしまうよう 曲にどうしてそれほどの抵抗を示したのかよく にしか聴こえない「ユー・キープ・ミー・ハン けだったというような。 にさえ感じられる。66年にレコーディングさ わからない。ソングライティングはもちろん、 ギン・オン」は、H-D-Hが意識的にロックン・ ダイアナ・ロスが脱退してからのシュープリ れて、20年間も発表されなかった「イフ・ア シュープリームスの主要曲はそのほとんどを手 ロールを取り入れた曲で、これがきっかけでモ ームスはありがちなファンキー路線へと歩を進 イ・ルールド・ザ・ワールド(もしも私が世界 掛けたホーランド/ドジャー/ホーランド ータウンが全体に方向転換を果たしたとまでい め、「ネイザン・ジョーンズ」、「フロイ・ジョ を支配したら)」は、そのような考え方を持つ (H-D-H)である。仲が悪いのになぜかチーム われている。H-D-Hがモータウンを離れてから イ」とそれなりにヒット曲も出している。 こと自体、アメリカの60年代に生きていたこ 34 を組んでいた不思議な3人組である。 も彼女たちはさらにサウンド面での躍進を望 (三田 格) 35 じっと我慢のがんばり屋マーサ。 「ダンシング・イン・ザ・ストリート」は街頭革命のアンセム Martha Reeves & The Vandellas リンド・アシュフォードとともにデ なかったが、63年4月のセカンド・シングル 以外は、すべてホーランド/ドジャー/ホー ルフィスと名乗ってバック・ヴォー 「カム・アンド・ゲット・ジーズ・メモリー ランドが曲を書きプロデュースもブライア カリストとして参加。続いてデルフ ズ」はR&Bチャート6位にランク・インする ン・ホランドとラモント・ドジャーが担当し ィスはアンサー・ソング「アイル・ 初のヒット曲となり、同年8月には「ヒー ている。67年11月の「ハニー・チャイル」か レット・ユー・ノウ」をカップリン ト・ウェイヴ」が大ヒット。 「カム・アンド…」 らグループ名をマーサ・リーヴス&ザ・ヴァ グにしたシングル「イット・テイク はモータウンの屋台骨を支えるソングライタ ンデラスにあらためた。しかし、翌年マーサ ス・トゥー」を発表した。その後マ ー・チーム、ホーランド/ドジャー/ホーラ が体調を崩し、グループは一時的に解散。回 ーサは清掃会社や叔父のレストラン ンドにとっても初のヒット曲となった。しか 復すると妹のロイス・リーヴスと元ヴェルヴ でのウェイトレスなど、さまざまな し「ヒート・ウェイヴ」の発表後にアネット ェレッツのサンドラ・ティレーをメンバーに 仕事を経て、モータウンのA&Rをし が結婚を理由に脱退し、ベティ・ケリーが加 迎え、グループを再結成。ガール・グループ ていたウィリアム“ミッキー”ステ 入。64年8月に発表された6枚目のシングル が受け入れられにくい時代に、チャート・ア This page is protected. ィーヴンソンの下で働き始める。あ 「ダンシング・イン・ザ・ストリート」は大ヒ クションがかんばしくない中活動を続けたが、 “Hitsville U.S.A.”を戸外に掲げる、60年代 る日、レコーディング・セッションに来なか ット。ソングライター・コンビだったウィリ 72年、海外ツアーからデトロイト戻ると、モ にモータウンのスタジオがあった建物は現在 ったメリー・ウェルズの代わりに「アイル・ アム“ミッキー”スティーヴンソンとアイヴ ータウンはロサンジェルスに移転していた。 も残り、モータウン歴史博物館として観光客 ハヴ・トゥ・レット・ヒム・ゴー」を歌って ィー・ハンターがマーヴィン・ゲイと書いた 大晦日にデトロイトのコボ・ホールで行なっ を集めている。映画『永遠のモータウン』で 認められ、62年にマーヴィン・ゲイのセッシ この曲はグループの代表曲として知られるだ たコンサートを最後にグループは解散。マー マーサ・リーヴスはこの建物を前に「会社は ョンにデルフィスの面々を集めて参加。そこ けではなく、ミック・ジャガーとデヴィッ サ・リーヴスはMCAと契約を結びソロ活動を なんの予告もせずに、突然西海岸へ行ってし で彼女たちはベリー・ゴーディーに賞賛され、 ド・ボウイが85年にチャリティ・シングルで 始めた。 まった」とつぶやく。30年も前のことだけど、 ヴェルズとしてサブ・レーベルの“Mel-O-Dy” 共演する際に選び、ふたたびヒット・チャー 80年代末にマーサはアネット、ロザリンド いまだに納得いかないのよ、といった口ぶり からシングル「ユール・ネヴァー・チェリッ トを賑わせている。シュープリームスととも とともにグループを再結成し、89年に“モー で。 シュ・ア・ラヴ・ソー・トゥルー」を発表し にガール・グループの頂点に立った彼女たち ター・シティ”レーベルからシングル「ステ マーサ・リーヴスが生まれたのは41年7月 たが、売り上げはかんばしくなく、リード・ は、その後も「ノーホエア・トゥ・ラン」(65 ップ・イントゥ・マイ・シューズ」を発表し 18日。エライヤとルビーの3番目の子供で、 ヴォーカルのグロリアはグループを去ってし 年2月)、「ラヴ(メイクス・ミー・ドゥ・フ たが、商業的な成功には結びつかなかった。 長女だった。11ヵ月をアラバマで過ごしデト まう。3人組になったグループは名前をマー ーリッシュ・シングス)」(65年7月)、「マ 90年代に入り、マーサはアネット&ロザリン ロイトへ。歌の上手な子供だったマーサは高 サ&ザ・ヴァンデラスにあらため、モータウ イ・ベイビー・ラヴズ・ミー」(66年1月)、 ド、ロイス&デルフィン姉妹の両方とグルー 校卒業後、チェス・レコード傘下のレーベル ン傘下のレーベル“ゴーディー”から同年9 「アイム・レディ・フォー・ラヴ」 (66年10月)、 プを再結成してツアーを行ない、95年にはレ “チェック・メイト”でソウル・シンガーJ.J. 月に「アイル・ハヴ・トゥ・レット・ヒム・ 「ジミー・マック」(67年2月)とヒット曲を ッド・ツェッペリンやフランク・ザッパなど バーンズの「ウォント・ユー・レット・ミ ゴー」を発表。新たなスタートを切った。そ 連発。前出のスティーヴンソン/ハンターと と共に“ロックの殿堂”入りを果たしている。 ー・ノウ」のレコーディングにグロリア・ウ の後解散に至るまで、ほとんどの作品が“ゴ モータウン御用達だったクラレンス・ポール (市川 誠) ィリアムス、アネット・スターリング、ロザ ーディー”から出ている。この曲はヒットし が書いた「マイ・ベイビー・ラヴズ・ミー」 36 37 全員がリード・ヴォーカリストたる ダンスの鬼揃いの芸人集団 (「エレヴェーター・アイズ」)、ワン TEMPTATIONS アル・ブライアントも所属していた。 ァンク・ブラザーズの鼻息は俄然荒くなる。続 ダ・ウヴォーンとの5対1でDVと熱 整った眉&黒目がちに潤んだ瞳がハンサム過 く69年5月のシングル「ドント・レット・ 帯 雨 林 破 壊 を 憂 う (「 エ ラ ー ・ オ ぎるエディ・ケンドリックスと、タレ目がソフ ザ・ジョーンズ・ゲット・ユー・ダウン」は ブ・アワ・ウェイズ」)。以上2曲は、 トなポール・ウィリアムスは同郷出身、連れ立 16ビートにラテン・エレキが絡むという恐ろ デニス・ネルソンと唯一のオリジナ ってモーター・シティへ上京。ショービズ界を しい曲である。体同様ムチムチの喉から繰り出 ル現役メンバー、オーティス・ウィ 目指すもエディがひより、1度実家にバックレ されるデニスのヴォーカルと、左から右へ思い リアムスとの共同プロデュース。ど のち復帰、プライムズとして活動する。以上5 っきりパンするハーモニー。3分間という鉄の こまでもアーバンでコンテンポラリ 人は50年代後半から合流、60年にモータウン 戒めは既になく、終わらぬ意志が残るのみ。 ーなオケと空気中にあっさり霧散す 入りを果たす。 This page is protected. 73年、振り付けとバリトンを担当していた るコーラスはひたすらに表層的で、 「美しさが1分なら、君は1時間」(「ザ・ウ ポール・ウィリアムスがピストル自殺。ステー 鼓膜に届くまでの抵抗が限りなくゼロに近い。 ェイ・ユー・ドゥ・ザ・シングス・ユー・ド ジ上での役割は既にリチャード・ストリートに った類のつっこみが十二分に有効な昨今、テン 繰り返される愛の言葉と、ありとあらゆるもの ゥ」)とスモーキー・ロビンソンが色ボケの何 譲渡され、親友であろうケンドリックスはグル プスを聴くのは取り繕ったノスタルジアではな から乖離してしまった無害な問いかけは、あっ たるかを示し、60年代も半ばのテンプスは老 ープを脱退済み。会社は陽光眩いロサンジェル くもごもごとした危機感に依る。などと言って ちゃいけないポピュラー・ミュージックの理想 若男女黒白赤黄、ユニヴァーサルにどんとこい。 スへ移転し、ベリー・ゴーディーは映画制作に はみてもにやけてはいるわけで、和音のような 型である。 それダンスじゃなくて振り付けじゃん、とい アルの後釜として加入後、既にリードをとり始 はまろうとしていた。77年頃グループはモー 溜め息がもれますね。67年リリース、レーベ テキサス州テキサカーナ出身のオーティス・ めていたデイビッド・ラフィンは目の細かいや タウンを離れ、アトランティックにて4枚のシ ルの地元で収録された「ライヴ!」がもの凄い ウィリアムスは、50年代に自身の名を冠にし すりを心にかけるが如き歌いっぷり。彼はのち ングルと2枚のアルバムをリリースしたのち、 のは、黄色い声の緩急でもって彼らの振り付け たオーティス・ウィリアムス&ザ・シベリアン にメンバーの満場一致と自らの意志でもってテ 出戻りをキメる。同時にケンドリックス&ラフ を夢想し口パクならぬ振りパクができるから。 ズとして活動を開始。デトロイトの地元DJの ンプスを脱退、ソロとなる。代わりに加入した ィンも出戻る。82年のリユニオン・ツアー後 股を割らば床が悶え、四肢を振らば時空が震え 助力を得て、シングルをリリースしている。グ デニス・エドワーズが在籍時最後のヒットとな もふたりはデュオとしての活動を続け、ひたす る。テンプス・ウォークとはただのステップの ループ名をディスタンツに改名、レーベルも変 る75年「シェイキー・グラウンド」をぶりぶ らに往時を偲ばせるも現在は鬼籍の人である。 組み合わせではなく、熱狂と歓喜の伝導体であ え、再びシングルをリリース。この頃バスのメ りかます頃には、脱税にて服役のちペンキ屋と メルヴィン・フランクリンも、またしかり。 った。いざない続けてはや40年。もはや地球 ルヴィン・フランクリンが加入。学業とドゥー してモータウンの屍道をまっしぐらであった。 今までにテンプテーションズと呼ばれた男の 上にいざなう相手がいないほど。 ワップの両立を杞憂するママ・フランクリンに デトロイト暴動の1年3ヵ月後。MC5「キ 数、19人。「5つの肉体があたかもひとつの肉 対して、オーティスは自身の中退歴をひた隠し ック・アウト・ザ・ジャム」の5ヵ月前。丸顔 体のように動いた」とは、他ならぬベリー・ゴ 着地点を喪失した2000年「イア・レジスティ にした必死の説得をかます。このグループには、 のノーマン・ホイットフィールド、初の単独プ ーディーの弁である。 ブル」を聴くにつけ、継続は力なのかしらと思 のちに「俺には牛乳配達の仕事がある」という ロデュースによるシングル「クラウド・ナイン」 うことしばし。視姦の歌でセクハラを気にかけ 名言を吐きテンプスを首になるエルドリッジ・ がリリースされる。ここへきて、テンプスとフ むず痒過ぎるのと風呂敷がでか過ぎるのとで 38 (牧野琢磨) 39 これぞモータウンと呼ぶべきヒット曲揃いの ジャズ育ちの実力派グループ Four Tops 長きに渡ってメンバー不動で活動したことで も有名なフォー・トップスは、70年代以降の ェスと契約すると、すで り、64年には初ヒット「ベイビー・アイ・ニ なって、彼らはシーンに返り咲いた。83年に に存在したエイムス・ブ ード・ユア・ラヴィン」が出て、フォー・トッ は25周年を迎えた古巣モータウンに戻り、テ ラザーズとの混乱を避け プスは一躍、人気者になった。そして「アイ・ ンプスとのツアーにも出るなど盛り上がったも てフォー・トップスと改 キャント・ヘルプ・マイセルフ」「イッツ・ のの、その後、リリースした4枚のアルバムの 名した。しかしチェスか ザ・セイム・オールド・ソング」「サムシン セールスはふるわず、彼らは再度モータウンを らはシングルを1枚発表 グ・アバウト・ユー」といった、当時のモータ 離れた。そしてアリスタから88年に出した しただけに終わり、その ウンらしいキュートな曲を立て続けにヒットさ 『インディストラクティブル』を最後に、レコ 後もコロンビアを含むい せた。67年には趣向を変えてファンキーなマ くつかのレーベルを転々 イナー調の「リーチ・アウト・アイル・ビー・ This page is protected. ード契約を失った。 フォー・トップスは以後もツアーは続けてい としながら、ビリー・エ ゼア」を出すとこれも大ヒットとなり、この路 たが、97年6月10日、ローレンスが肝臓ガン クスタインのバック・コーラスとしてツアーを 線でも「スタンディング・イン・ザ・シャド で他界し、43年に及ぶメンバー不動の活動に するといった下積み時代を過ごした。 ウ・オブ・ラヴ」「バーナデット」などのヒッ 終止符が打たれた。グループは当然、解散も考 トが生まれた。これらはすべて、今なお聴き継 えたが、思い直して3人でザ・トップスと名乗 がれている名曲だ。 って活動を続け、ほどなく元テンプスのセオ・ 実績でテンプスに劣るせいか、常にテンプスの そして苦節10年を経た63年、以前から親交 後塵を拝していた印象があるかもしれない。し のあったベリー・ゴーディーが、モータウン傘 かし60年代に限ってはそれは事実誤認だ。64 下に新設したワークショップ・ジャズ・レーベ し か し 6 0 年 代 終 盤、ホ ー ランド / ドジャ ピープルズを迎え入れ、元通り4人組となって 年に揃って最初のヒットを出して以来、フォ ルに、フォー・トップスをジャズ・アクトとし ー/ホーランドがモータウンを去ると、ノーマ 名義もフォー・トップスに戻した。近年は95 ー・トップスはテンプスに負けず劣らぬ数のヒ て迎え入れた。早速フォー・トップスは、スタ ン・ホイットフィールドと組んでのサイケデリ 年からガンと闘っているリーヴァイがキモセラ ット曲を生んでテンプスと人気を二分し、モー ンダード・ナンバーを録音してアルバム『ブレ ック・ソウルで波に乗るテンプスとは対照的 ピーを受けながら療養しているため、新たにロ タウンを代表するグループのひとつとして大活 イキング・スルー』を完成させたが、間もなく に、フランク・ウィルソンと組んだフォー・ト ニー・マクネアーが加入し、セオがリード・シ 躍した。 市場調査でジャズのレコードのセールスが芳し ップスの人気は徐々に衰えていった。そしてモ ンガーとなってリーヴァイのパートを歌ってい 54年、デトロイトの高校生だったリーヴァ くないことを知ったゴーディーは、アルバムを ータウンがロサンジェルスへ移転した72年、 る。 イ・スタッブス(38年生まれ)、レナルド・ベ お蔵入りさせ(99年に未発表シリーズ“ロス フォー・トップスは故郷デトロイトに残るため モータウンを離れた。 ンソン(37年生まれ)、アブダル・フェイカー ト・アンド・ファウンド”の一環でようやく陽 (38年生まれ)、ローレンス・ペイトン(38年 の目を見た)、フォー・トップスをR&B市場へ 以後もダンヒル、ABCから数枚ずつアルバ 生まれ)の4人が、高校の卒業パーティのため 送り出すことに決めてモータウン本体へ移し ムを出したが、フォー・トップスに以前の勢い にフォー・エイムスを結成したのが、フォー・ た。するとホーランド/ドジャー/ホーランド は戻らなかった。最早これまでかと思われた矢 トップスの長い歴史の始まりだ。彼らは地元の の作風に、ゴスペル仕込みのリード・シンガー、 先の81年、カサブランカから出した「ホエ クラブなどで歌ううちに認められて56年にチ リーヴァイのパワフルで溌剌とした唱法がハマ ン・シー・ワズ・マイ・ガール」が大ヒットと 40 なおフォー・トップスは90年にロックの殿 堂入りを、99年にはヴォーカル・グループの 殿堂入りを果たしている。そして04年は結成 50周年を迎えた。 (河地依子) 41 歌もいける ソウルフル・サックス名人 人生いろいろな 兄弟まんだら らジュニア・ウォーカー&ザ・オール・スター ジミー(39年5月7日生まれ)とデイヴィッ ズは数枚のシングルをリリース。フークアの仲 ド(41年1月8日生まれ)のラフィン兄弟はミ 介によってゴーディーとつながり、64年8月 シシッピー州メリディアンに育った。父はバプ にモータウン内に発足させた(経営権を分散さ ティスト派の牧師であった。デイヴィッドは14 せる意図あり)ソウル・レーベルと契約、64 歳でディキシー・ナイチンゲイルズに参加し、 年8月のシングル「スタンズ・ブルース」を皮 ゴスペル畑で活動しながら50年代末アーカンソ 切りに続々作品を発表してゆく。外からモータ ーで競馬の騎手をしていた。歌うジョッキーだ ウンにやってきた、モータウン生え抜きのタレ ったデイヴィッドを“発見”したのはビリー・ ントたちとは違った濃さを放出する人たちの作 デイヴィスだった。ビリーの買った馬券の騎手 品をリリースしていったソウルの中ではグラデ がデイヴィッドだったかどうかは定かではない。 42年、アーカンサスのブライスヴィルに生 ィス・ナイト&ザ・ピップスと並ぶ存在だっ ビリーはグエン・ゴーディーとアンナ・レコー まれたジュニア・ウォーカーは、本名をオート た。それもこれも65年1月発表の「ショット ズを立ち上げ、歌手を探していた。ソロ歌手と バーがおり、そいつの紹介でゴーディーと知り リー・デヴォルト・ジュニアという。 ガン」の大ヒットあればこそだろう。83年ま してアンナやチェックメイトから数枚のシング 会った。61年にミラクル・レーベルから「ドン でにソウルから23作のシングルと16作のアル ルをビリーの制作で出したデイヴィッドだった ト・フィール・ソーリー・フォー・ミー」でレ バムを発表している。 が、ヒットには至らなかった。63年の暮れに同 コード・デビューした。が兵役で活動休止。64 Jr. Walker & the All Stars 子どものころインディアナ州サウス・ベンド に移り、そこでハイ・スクール時代にジャンピ This page is protected. David & Jimmy Ruffin 車工場の同僚のひとりにコントゥアーズのメン ン・ジャックスを結成し本格的演奏活動に入 本来の4人組オール・スターズの演奏にファ じように、シングル枚数を出しながら鳴かず飛 年に再デビューした。がさらに約2年の我慢、 る。すでにサックスとヴォーカルを担当し、ホ ンク・ブラザーズの面々の演奏が加わることで ばずだったテンプテーションズからエルドリッ 66年7月にやっと「ホワット・ビカムス・オ ンカーとして身をたてようと決心していたらし ウォーカーのプレイはさらに引き立ち、グルー ジ・ブライアンがクビになり、後釜を探してい ブ・ザ・ブロークンハーテッド」が、全米全英 い。このバンドはその後スティックス・ニック ヴは太くなりコクが出た。70年代に入ってか たオーティス・ウィリアムスは近所に住んでい 同時にトップ10入りする大ヒットとなった。そ ス・バンドと改名、地元で人気を得るが、ウォ らもファンク・ビートに難なく溶け込み、懐の るデイヴィッドのことをハタと思い出し、一緒 の後地道な活動を続けアメリカではヒットに恵 ーカーはバトルクリークに移住、その地でウィ 広さを知らしめた。ソウル/R&Bのインス にやらないかと声をかけた。デイヴィッドは快 まれなかったあものの、70年代に入ってからは リー・ウッズ(ギター)、ヴィクター・トーマ ト・グループとしては独自の領域を開拓したわ 諾した。見る者聴く者を圧倒するテンプテーシ イギリスでヒットを連発、米国に見切りをつけ ス(オルガン)、ジェームス・グレーブス(ド けだが、その柔軟性ゆえに、フュージョン期に ョンズが誕生した。その後いろいろあった。デ 72年には英ポリドールと契約した。80年にはロ ラムス)と出会いジュニア・ウォーカー&ザ・ は前時代的存在として扱われてしまったのは残 イヴィッドは68年にテンプスを抜けてソロにな ビン・ギブのプロデュースによる「ホールド・ オール・スターズを旗上げする。ジャズとソウ 念なことだ。その個性的フレーズの数々は近年 った。 「曲に紙やすりをかけて磨き上げるような オン・トゥ・マイ・ラヴ」を久々に全米トップ ルを混ぜ合わせ、ファンキーなビートをソリッ サンプリング世代によって再発見/再評価され 歌唱」とデイヴィッドを評したのはネルソン・ 10に送り込んだ他、86年にはへヴン17との共演 ドに表現したことで先駆的な存在だった。元ム ている。ウォーカーは95年11月23日ガンでミ ジョージである。数々のヒットを生み唯一無二 曲「ザ・フーリッシュ・シング・トゥ・ドゥ」 ーングロウズのリード・ヴォーカルだったハー シガン州バトルクリークの自宅で死去した。 の歌世界を拓いたデイヴィッドは91年オーヴァ も発表している。 ヴェイ・フークアが、妻グエン(ベリー・ゴー ディーの姉)と61年に設立したハーヴェイか 42 (湯浅 学) ードーズでこの世を去った。 60年にデトロイトにやって来たジミーは自動 豪快な芸達者デイヴィッドと地道で柔軟なジ ミー。印象は正反対な、兄弟であった。 (湯浅 学) 43 お手本的 プロフェッショナル・グループ Gladys Knight & the Pips どこか孤独な ソウルマン ィレクターとなるモーリス・キングだった。59 42年、ナッシュビル生まれ、3歳でクリー 年にはエレノアもグループを離れるが、かわりに ヴランドに移る。56年にフューチャー・チュ 従兄のエドワード・パタンとラングストン・ジョ ーンズというグループで歌い始め、59年にト ージが参加する。60年にハントンからジョニ レス・レコードか らデビュー。60∼62年は軍 ー・オーティス作品のリメイク「エヴリ・ビー 隊で過ごし、その後、いったんグループに戻っ ト・オブ・マイ・ハート」を発表。この原盤をシ たが、クリーヴランドにツアーに来たビル・ド カゴのヴィー・ジェイが買い取り61年に再リリ ゲットに気に入られて63年か らツアーに同行。 ースしたところ全米R&Bチャート首位(ポップ・ この時のマネージャーがエドウィンの声を聴 チャート6位)の大ヒットとなる。この年フュー き、いつかスターになると感じてスターと名付 リーと契約、 「エヴリ・ビート…」の再録盤や、 けた。そしてドゲットのデトロイト公演でゴー Edwin Starr アトランタのモライア・バプティスト教会の 「レター・フル・オブ・ティアーズ」などをヒッ サンシャイン聖歌隊、それがグラディス・ナイ トさせるものの、グループにはまったくお金が入 られ、傘下のリック・ティック(パーラメント ヒットとなったノーマン・ホイットフィールド トの歌手としての出発点だった。44年5月28日 ってこない“契約”となっていた。落胆からかラ も一時所属していた)と契約、「ダブル・オ のプロデュースによる反戦歌「ウォー」 (70年) アトランタに生まれた彼女は、8歳でCBSのテ ングストンは62年に脱退してしまう。しかしこ ー・ソウル」(65年)、「ストップ・ハー・オ は、もともとは当時サイケ路線を推し進めてい ッド・マック・アマチュア・アワーの全米決勝 れでブッバ、レッド、エド、グラディスという不 ン・サイト」 (65年)など自作のヒットを生む。 たテンプテーションズの『サイケデリック・シ 大会で優勝(賞金2,000ドル!)したのをきっか 動の編成となる。気を取り直して64年にマック このあたりの曲は、週末になると外部仕事に精 ャック』収録曲。ヴェトナム戦争の泥沼化で反 けに、兄のメラルド“ブッバ”ナイト、姉のブ スに移籍、 「ギビン・アップ」などヴァン・マッ を出していたアール・ヴァン・ダイクやベニ 戦運動が高まっていた時期だったため、学生を レンダ・ナイト、従兄のウィリアム“レッド” コイのプロデュースで名曲をいくつも残す。しか ー・ベンジャミン、ジェームス・ジェマーソン 中心にシングル・カットの要請が多々寄せられ ゲストとエレノア・ゲストとでピップスが結成 しこの当時も活動状況は決して順調ではなかった らによる演奏で、特に後者は最もモータウンっ たが、テンプスに政治的なイメージがつくのを され、本格的な芸能活動を開始した。52年のこ らしい。エレガントでぴったりと息の合った彼ら ぽいモータウンではない曲との評判だった。そ 嫌ったゴーディーは、かわりにエドウィンに歌 とだ。ピップスの名称は、彼らのマネージャー のパフォーマンスは、65年にモータウンに迎え して68年にモータウンがリック・ティックを わせてシングル化を実現。エドウィンはこの曲 であるやはり従兄のジェームス・ウッズの愛称 られると、モータウンの他の所属アーティストの 買収したのに伴い、エドウィンは本物のモータ でグラミーの最優秀男性R&Bシンガー賞を獲 “ピップ”にちなんでのもの。ピップスは並行し お手本とされた。8年間モータウンで過ごし多く ウンのアーティストとなる。自分で曲を書き、 得した。75年にモータウンを離れると、グラ てファウンテネアーズという名でゴスペル・グ のヒットを放った。モータウンのミュージシャン 激しくシャウトするエドウィンは、当時のモー ンティを経由して80年頃まで20世紀フォック ループとしても活動した。 との相性もたいそうよかった。しかし会社自体に タウンとしては異色の存在で、初ヒットとなっ スに所属。その後はイギリスに移住し、90年 対しては最後まで違和感が、あったという。73 た4枚目のシングル「25マイル」(69年。ジョ 前後にはモータウンのリヴァイヴァル・レーベ シカゴのブランズウィックから「ホイッスル・マ 年にブッダに移籍、さらなる活躍。79年にコロ ニー・ブリストルらとの共作)では、恋人に会 ル、モーターシティでのレコーディングを含め イ・ラヴ」でレコード・デビューを果たすがヒッ ンビアに移り80年代以降もより深い歌世界を伝 いに25マイルの道のりを急ぐ男が疲労困憊し 活動を続けたが、03年4月、心臓発作で他界 トには至らなかった。このレコーディングの際に えんと活動を続ける。 た自分を叱咤しながら歩を進める 熱い思いを、 した。 54年にブレンダが進学のために脱退。58年、 グループを指導したのが後にモータウンの音楽デ 44 ルデン・ワールドのエド・ウィンゲイトに認め This page is protected. (湯浅 学) ファンキーな曲調とともに気持ちよく表現し た。またポップ・チャート1位を記録し最大の (河地依子) 45 70年代前半のモータウンを牽引した 青いポップ・グループ のひとつだったわけだが。加えて、 ライター/プロデューサー集団:ザ・コーポレ コーポレーションの面々は、時にマイケルにバ 彼らはモータウン側の意向によって ーションの存在。J5がモータウンからのデビ ラッド風の大人びたラヴ・ソング−−「アイ デビュー秘話を捏造された。デビュ ュー・シングル「帰ってほしいの」以降、立て ー・アルバムのタイトル『ダイア 続けに放った4曲もの全米No.1ヒットのクレ 「きっと明日は」…etc.−−を歌わせた。ティー ナ・ロス・プレゼンツ・ザ・ジャク ジットは、当時、どれを見ても“ザ・コーポレ ネイジャーよりも上の年齢層、そして人種を超 ソン・ファイヴ』(69年)を見れば、 ーション”となっていた。当然、「帰ってほし 越したリスナーたちをも熱狂の渦に巻き込ん いの」以外の全米No.1ソング−−「ABC」、 で、J5は不世出の兄弟グループとなったので あたかもダイアナが彼らを発掘した ように思われるが、実は、J5を最 Jackson Five 初に見出したのは、やはりモータウ 「小さな経験」、「アイル・ビー・ゼア」−−の クレジットにも、個人名は一切なし。実際は、 This page is protected. ル・ビー・ゼア」、「さよならは言わないで」、 ある。次にモータウンが考えたのは、兄弟の切 り売りだった。マイケルのソロ・デビューは言 ン所属のアーティストだったグラデ モータウンの設立者B・ゴーディー・ジュニア うまでもなく、長兄ジャッキー、三男ジャーメ ジャクソン・ファィヴ(J5)はアメリカの ィス・ナイト&ザ・ピップスのグラディス、そ 張本人、フレディー・ペレン、アルフォンゾ・ インをソロ・デビューさせ、マイケルとジャー 音楽史上最も成功した兄弟グループとしてだけ してモータウン所属の中堅グループ:ボビー・ ミゼル、ディーク・リチャーズの4人がザ・コ メインはそれぞれ成功を収める。マイケルは ではなく、モータウンが60年代に別れを告げる テイラー&ザ・ヴァンクーヴァーズのB・テイ ーポレーションの正体だった。 べくデトロイトからロサンジェルスへと拠点を ラーだったことが後に判明する。アルバム・タ リスナーの対象をティーネイジャーに絞って (全米No.1)などの大ヒット曲を放ち、J5の 移し、来るべき新時代の70年代の幕開けを華々 イトルが『グラディス・ナイト(またはボビ いたJ5のサウンドは、あくまでもポップでカ 人気はすなわちマイケルの人気であることを強 しく飾るために必要不可欠だったグループとし ー・テイラー)・プレゼンツ…』より『ダイア ラフルでなければならない。何と言っても、シ く印象づけた。 て記憶されるべきである。それはまた、新しい ナ・ロス・プレゼンツ…』のほうが数倍もイン ンガーとしての天賦の才能に恵まれたマイケル J5がモータウンを去った76年、彼らはもは 時代の到来であると同時に、60年代を彩ったモ パクトがあることは、火を見るよりも明らかだ のヴォーカルを最大限に活かすには、サウンド や“ザ・サウンド・オブ・ヤング・アメリカ ータウン・サウンドの終焉でもあった。 った。 「ガット・トゥ・ビー・ゼア」、「ベンのテーマ」 の分かりやすさが必須であった。しかも、等身 (モータウンのキャッチ・フレーズ)”の体現者 J5は9人の兄弟姉妹のうち、長男ジャッキ モータウンからデビューする前年の68年、J 大の恋を歌わねばならない。J5がモータウン ではなくなっていたが、彼らがモータウンで駆 ー、次男ティト、三男ジャーメイン、四男マー 5はマイナー・レーベルのスティールタウンか からデビューした当初、マイケルは11歳。兄 け抜けた7年間は、まさに奇蹟のような歳月だ ロン、そして五男マイケルから成るグループで らシングルをリリースしているが、その事実は、 たちが何歳であれ、J5の曲は全てマイケルの った。最初から仕組まれ、仕掛けられた魔法だ ある。彼らは、徹底したステージ・パパの父親 モータウンと契約後の彼らの快進撃を思えば、 年齢とキャラクターを想定して作られた。少な ったとは言え、人々はJ5マジックに酔いしれ ジョーによって幼い頃から音楽の訓練を受け、 瑣末なことに過ぎない。いずれにしても、世間 くとも、デビュー・シングルから最初の3曲ま て熱狂したのである。そしてJ5のサウンドと デビューするべくしてデビューしたと言ってい の人々がJ5の存在を認知し、そして熱狂する では。と言うのも、モータウンにとっての最大 歌に宿るマジックは、今なお人々の耳と心を捉 い。もちろん、モータウン(ベリー・ゴーディ ようになるのは、モータウンの様々な仕掛けが の誤算は、いや、嬉しい誤算は、J5がティー えて離さない。 ー・ジュニア)の目に留まったことが、彼らを 上手く作用したからである。例えば(これも後 ネイジャー以外の年齢層からも絶大な支持を得 スーパー・グループの座に君臨させる最大要因 に内訳が明らかになるのだが)、ナゾのソング たことだったからである。それに気づいたザ・ 46 (泉山真奈美) 47 モータウンの濃厚な“影”集団 ヒット曲量産体制の真の立て役者 The Funk Brothers スタジオA。モータウ スローガン“ヒッツ・アフター・ヒッツ”を実 とも職人気質の的確さとも、楽曲を自らの色に ンの歴史はここから 現するべく、日々レコーディングに邁進する。 染め上げるアーティスト性とも“ノリ”が違う。 はじまる。名前をも つまり、売るための方策として、ホーランド/ 研鑽を積んだミュージシャンが互いを尊重し、 たず、野心的ですら ドジャー/ホーランドやスモーキー、ウィリア 演奏することに飽きないために技を磨き、誰か なかった数名のスタ ム・スティーヴンソン、ノーマン・ ホイット の穴は他が埋めるという組織vs個における実 ジオ・ミュージシャ フィールドなどの作/編曲家チームとともに、 践主義。それらがスネイク・ピット=蛇の穴と ンの集合体は限られ テンプテーションズ、シュープリームス、マー 名づけられたAスタジオに集う梁山泊にも似た た環境と設備のなか ヴェレッツ、フォー・トップスなどの楽曲の量 才能のうごめきから日々生み出される様。そう で盤上に歴史を刻み 産に彼らはとりかかる。移ろいやすい黒人社会 考えれば、同時期に活動したハウス・バンドの This page is protected. つけ、ソウル/R&Bの礎を築いたのみならず、 の消費欲を満足させることによる社是の完遂。 もう一方の雄=MG'sよりも彼らが匿名性と汎 ミュージシャンを起用し、断片を当て込むよう ポップ・フィールドに拭いきれない影響力を残 いきおい、彼らは 吹き込みを行なう歌手と対 用性で勝ることにも納得がいく。ミュージシャ に作品を構築する(いわゆる)スタジオ・ミュ すようになる。若干のメンバーの出入りはある 面することもなく、スコア(コード譜程度のも ンのクレジットが記載されないことによるファ ージシャン然としたスタイルとソウル黄金期を ものの、 ベースのジェームス・ジェマーソン、 のも多かったようだ)を渡され、プロデューサ ンク・ブラザーズの不遇はこれまでも数多く言 支えた“モータウン・サウンド”の総毛をざわ ギター・セクションにロバート・ホワイト、ジ ーやアレンジャーから(お任せであったとして 及されているが、巨大化する途上の音楽産業が つかせる昂揚感はなにかが違う。その違いとは、 ョー・メッシーナ、エディー・ウィリス、ドラ も)指示を受け、右から左へとオケを片づける。 要請するヒットメイクの方程式と黒人音楽史の 音楽が産業化することで鍵をかけて引出しにし ムスのウィリー“ベニー”ベンジャミン、 リ リズム構造の複雑化(16ビートへの移行)、バ 転換点、さらにはスタジオ・ミュージシャンと まいこんだものだったのではないか、と今にし チャード“ピストル”アレンという地元のジャ ンド内での役割分担(ギターやキーボードのパ いう裏方仕事の権利、複数の要素が未分化に凝 て私は思う。ハウス・バンドのセッション・プ ズ・クラブの活動から生活の糧を得ていたミュ ートのプレイ・スタイルに応じた振り分け)に 縮された状況がファンク・ブラザーズの音を作 レイヤーたちが脂がのりきった演奏を繰り広 ージシャン集団の活動は、60年代初頭、鍵盤 インプロヴィゼーションをいかにして楽曲に馴 り、名前を奪ったのだ。70年代初頭、モータ げ、レーベルがロサンジェルスへと拠点を移す にアール・ヴァン・ダイクが加入する(同時期 染ませるか、という後世にも影響を与えたファ ウンが拠点をロサンジェルスに移すことで、フ 70年代初頭までのまるまる60年代、このディ にユリエル・ジョーンズ、ジャック・アシュフ ンク・ブラザーズのスタジオ・アンサンブル成 ァンク・ブラザーズは瓦解し、活動の場を失う。 ケイドでレーベルは看板となる音をものにし ォード、エディー “ボンゴ”ブラウンなども 立の背景には、ミュージシャン自身の力量とイ それはデトロイトの地域性と伝統からモータウ た。と同時にその期間でモータウンという黒人 打楽器パートに加わる)ことで冠に“ファン ケイケながらどこかいい加減な経営方針の間に ンが次への飛躍し、会社組織としても音楽的な によるヴェンチャー企業はヴェンチャーである ク・ブラザー ズ”という呼称を得る(命名は 個々人の創造性を活かす余地があったというの 内容としても、西海岸の洗練を求めたことの表 がゆえの混沌を少しずつ紐解き洗練へと向かう ベニー・ベンジャミンによる)。ミュージシャ が大きいのではないか。誰のための音か、とい われでもある。彼らは虚心にプレイすることで ことでなにかを捨て去りもするのだが…。 ンシップと人間性、ビジネス感覚のバランスを うこと以前にファンク・ブラザーズは歌を読み モータウンのサウンド自体と化し、結果として 59年、デトロイト、ウェストグランド・ブ 兼ね備えたアールを番頭役に据えた彼らは、創 砕き、自らの流儀で解釈し、音を添えた。ファ ポピュラー音楽史に雌伏したのだった。 ルーヴァード2648、通称=ヒッツヴィルUSA、 設者=ベリー・ゴーディー・ジュニアが掲げた ンク・ブラザーズの仕事は義務的なやっつけ感 すでにスタイルが確立されているスタジオ・ 48 (南部真里) 49 ー・ワンダーの「アイ・ワズ・メイド・トゥ・ イナ州チャールストン。早くに両親 ラヴ・ハー」だった。スティーヴィーの激唱と が離婚したことで、ジェームスは親 バック・コーラスの煽りもはもちろんだが、歌 類の家をたらい回しにされる。折良 裏の16分音符を使用した素早いパッセージと く音楽的素養のある祖母や叔母の元 印象的な8分音符のリフレインは、これほど攻 で育ったこと、事故により足を悪く 撃的で自由、なおかつ楽曲のメロディを強調し したこと、黒人にしては白すぎ白人 たベース・ラインがスター歌手(スティーヴィ にしては黒すぎるというコンプレッ ーはもうとっくにポール・マッカートニーとデ クス、ジェームスが楽器と向き合う ュエットしていた)のバックとして存在する、 ことを好んだ本当の理由は草深い南 のか。90年代以降のクラブ・カルチャーの台 という事実を見せつけ、全身から鱗が落ちる思 部に置き去りにされたままだが、後 頭、ブレイクビーツという名のリズム・コンシ いがした。素面になった。およそ15年前の話 年、モータウン・レーベルにおいて ャスネス、多数のムーヴメントの勃発と消滅。 だ。当時、大学の軽音楽部でベースを演奏しは 奇跡的なベース・ラインを生み出しつづけたジ をすでに知っていた。即決から行動。ジェマー 私たちには快楽原則に根ざした踊れるビートの じめたばかりの理想主義者とって、創造的な音 ェームスの最初の音楽体験はこうしてはじまっ ソンの以後の生活は4本の弦から弾き出される 獲得が急務だ。そこでは、なによりもグルーヴ 楽といえば混沌としたフリー・ジャズや即興音 た。ジェームスは楽器の修得という面では早熟 低音に基底部まで支配されたものになる。運が が重要だ。クラウドは太いベースと反復するビ 楽ぐらいで、かろうじてお勉強的にエレクトリ な才能を発揮し、家に置かれたピアノを独学で 良いことにジェマーソンは望むならば地元のジ ートに酔う。私たちが感じる快感原則はジャー ック・マイルスやオーネット・コールマンのプ 習得し、10代はじめには教会や食堂で演奏す ャズ・クラブでハンク・ジョーンズやケニー・ マン・エレクトロやテクノ・ポップ、あるいは ライム・タイム、ウルマーのブラック・ロック るようになったという。同時にジェームスのポ バレルからユゼフ・ラティーフといったジャズ レゲエの混在であったとしても、大元を辿れば、 から捉え直す形でソウルやファンク、R&Bの ピュラー音楽的素養は当時ラジオから流れてい 史に顔をのぞかせる面々とセッションを行なう 黒人音楽に行き着くことに異論はない。端的に グルーヴに邁進しようという矢先にぶつかった たゴスペルやブルース、ジャズなども順調に蓄 ことができたのである。ジェマーソンを含む、 言えば、途切れることなくビートを供給する 壁がジェマーソンだった。以降、私自身がジェ えられた。後に彼が生業とするベースに出会っ モータウンのハウス・バンド=ファンク・ブラ DJとは古いジャズ・クラブによくいる耐久性 マーソンの足下に近づくほどのベーシストにな たのは高校時代。54年、豊かさを求めて北部 ザーズのメンバーがソウルやR&Bという“お の高いハコバンと似たようなもんだ。蒸し暑い れたかはといえば、ほぼ挫折に近い形でうっち デトロイトに移った彼の母の元にジェマーソン 仕事”をこなしながら、つねにジャズに対する クラブの壁面に滴る水滴はミュージシャンの額 ゃたままだが、ソウル黄金期を象徴するモータ が呼び寄せられてからのことだった。 憧れを抱きつづけたことは複数の証言からも明 に流れる汗と同根。考えてもみろ。ブレイズだ .. ってファーストはあのモータウンからリリース ウン・サウンドを支えた彼のプレイ・スタイル 高校生活はジェームスの長いとはいえない人 らかになっているが、ジャズまだ前衛足り得た と人となりに迫ることで、在りし日の自分の向 生のなかでも転機となった時代だった。彼はこ 時代、彼らが器楽奏者として、そこからアイデ してる。連綿とつづくグルーヴの轍を遡れば、 けた鎮魂をここに記すものである。 の期間でベースという楽器と生涯の伴侶となる ィアを得ていたことは興味深い。ジェマーソン 36年1月29日、ジェームス・ジェマーソ アニー・ウェルズと出会い、卒業前にすでに結 にしても回帰する場所はジャズであり、トレー 筆者がジェームス・ジェマーソンという稀代 ン・ジュニアは港湾労働者の父と家政婦の母の 婚している。ジェームス・ジェマーソンという ドマークとなったフェンダー・プレシジョンを のベーシストに感応した最初はスティーヴィ 間に生まれた。場所は深南部、サウス・カロラ 男は人生の早い段階で自分がなにを成すべきか プレイしつつも背景にはつねにジャズが置かれ おそるべき ジェームス・ ジェマーソン再考 時代は変わるというテーゼは果たして正しい ファンクの鉱脈にぶつかるはずだ。 50 This page is protected. James Jamerson 51 ていた。弦高の高さやフラット・ワウンド弦を 経過音をつけ加え緊張感を醸し出すジェマーソ 使用していたこと、さらにはジェマーソンの奏 ンお得意のフレーズはまだないが、小節の最後 法として特徴的な人差し指1本による“フック” に先行音で次の小節の頭拍を代用しながらシン もアップライト・ベースの奏法を援用したもの コペイトさせる特徴的な解釈が早くも登場して だ。例えばミンガスのように、ジェマーソンが いる。61年になるとジェマーソンはアップラ エレクトリック・ベースを拒んだら、とも考え イトからフェンダー・ベースに持ち替え、数多 たこともあるが、60年代初頭、まだアップラ くのセッションに参加するようになる。すでに イトを使用していたジェマーソンの甘さすれす ジェームスはファンク・ブラザーズの一員だっ れのシンプルさはモダーンが複雑化し、やがて たのである。歴史に埋もれたもっとも歴史的な フリー∼クロスオーヴァーに至る流れのなかで このハウス・バンドについては別項にも記した 行き場を失っていたのではないか、という結論 ので、詳述は避けるが、楽曲へのアプローチと 初頭、ブラック・ミュージックは転換点にあっ 物。60年代初期のレコーディングも注視すれ にいつも至る。ジェマーソンはセッション・ミ アンサンブルの組立を解釈することが要求され た。“現場”においては4チャンネルが主流だ ばこのような奏法の片鱗も確認することはでき ュージシャンやサイドマンとして成功する資質 るレコーディング・セッションで、地元デトロ った当時、モータウン・サウンドの総本山=ス る。にしても音楽性の深化は一足飛びの感があ を備えていたとしても、リーダー作を生み出す イトで考え得る最高の面子が揃ったことは、ジ タジオAのコンソールは、64年ごろから自家製 る。ここにおいて顕在化してくるのがモータウ ような無二性とは無縁だったのではないか。ジ ェームス・ジェマーソンというミュージシャン の8トラック・システムを使用しはじめたとい ンというレーベルとジェマーソンの関係であ ェマーソンは解釈(ここには飛躍という意味も とってなににも代え難いことだったろう。ジョ う逸話もある。これまで、リード楽器の影に隠 る。 含まれる)の人である。自分のスタイルを誇示 ー・ハンター期からアール・ヴァン・ダイク期 れがちだったベース・サウンドが1トラックを モータウンが国人経営のレーベルでありなが するのではなく、楽曲に混ぜ込む。落とし前の を通してジェマーソンはファンク・ブラザーズ まるまる使用することで前面に出てきたのだ ら、より多くを売るために白人社会を見据えた つけかたに切れがある。もちろん、ジェマーソ のグルーヴにもっとも貢献した人物として記憶 と。奏法面に目を移せば、ジェマーソンのベー マーケット戦略(それが“戦略”と呼べるもの ンの資質を忖度するだけではモータウン・サウ されている。ミラクルズやフォー・トップス、 ス・ラインはリズムが細分化され、60年代の であったかはさておき)を展開してきたことは、 ンドの謎は解けない。60∼70年代の社会的状 マーサ&ザ・ヴァンデラスなどの初期コーラ 中盤以降、8ビートを追い越し、16分音符パ 彼らがヒット・チャートに送り込んだ楽曲の 況と彼を取り巻く人的環境、さらには録音や機 ス・グループでのファンク・ブラザーズの仕事 ッセージやシンコペーション、非和声的な経過 数々が強化する史実だ。巨大化する音楽産業の 材面からのアプローチを統合した結果を述べる は白人マーケットさえ意識した売るための、ま 音の使用、ダイナミックに音程を跨ぐフレーズ 構図に歩調を合わせ、モータウンもまた拡大を のが妥当だ。 の意味を私には感じさせるのである。60年代 This page is protected. いになったようにも感じる。野趣と洗練の化合 さにバブルなポップ感も散りばめているが、消 の組立…と、現代の視点にはノスタルジックと 図るようになる。ジェマーソンのベースに現わ ジェームス・ジェマーソンがはじめてモータ 費されることを普遍化と勘違いするような脆弱 も映る、太さや豊かさから現代的で複雑へと変 れる断層はこういったレーベルの拡張路線にあ ウンに吹き込んだのは、59年のミラクルズ楽 さはない。もちろん、歴史的名盤の影には消費 化している。60年代前半のファンク・ブラザ ると私は考える。と単純にいけばよいのだが、 曲「ウェイ・オーヴァー・ゼア」だった。使っ 対象にすらなからなかった作品も数多あるだろ ーズが地元ミュージシャンの寄り合い的なイメ その断層はジェマーソン個人の問題以上に歴史 ていたのは自前のドイツ製アップライト。この うが、ファンク・ブラザーズの伴奏がつけられ ージがあるとしたら、60年代後期の彼らはま そのものを飲み込む深淵でもあった。本稿を執 曲には60年代後半∼70年代前半の16分音符で ることで、そういった楽曲でさえ、なにかしら っとうな“スタジオ・ミュージシャン”の佇ま 筆するにあたって、キャロル・ケイのオフィシ 52 53 ジ ェ ー ム ス ・ ジ ェ マ ー ソ ン ︵ テ ン プ テ ー シ ョ ン ズ ﹃ エ ン ペ ラ ー ズ ・ オ ブ ・ ソ ウ ル ﹄ ボ ッ ク ス よ り ャル・サイトを覗いた。種々の映画/テレビ音 ルやドラッグがレコーディング・スケジュール を含めた作品なのであって、ここにアレンジャ 楽(『ミッション・インポッシブル』や『ゴッ に影響していただろうという想像(映画『永遠 ーの指定やレーベルからの要求が加われば容易 ド・ファーザー』のテーマなど知らない人はい のモータウン』でも酒に絡むエピソードは登場 にジェマーソンらしい音は作り込める。早計な ないだろう)からビーチ・ボーイズやサイモ するが経営者側からすれば事態はそれほど牧歌 結論は差し控えるのが身のためでもあるが、付 ン&ガーファンクルなど、ヒット曲を手がけ、 的なものとも言えなかったはずだ。実際、デト 言すれば、巨大化する音楽産業はローカリティ さらにはベース・メソッドを開発し、と西海岸 ロイトのテクノ系アーティストに以前取材した を次第に喪失し、スタジオ・ミュージシャンに のスタジオ・セッションをあらゆる意味で牽引 際、彼は「ファンク・ブラザーズは本当にドラ とっても、地元で仲間と演奏していただけでは した“白人女性”ベーシストである。彼女のサ ッグでひどかったらしいからね」と発言してい メシを喰っていくことも難しくなっていた。ジ イトにはこれまで仕事をした楽曲の数百曲(も た)、さらには確固たる地位を築いたキャロ ェマーソンの発言から検証することはできない っとだろうか)に渡るリストがあるが、そこに ル・ケイ自身が定説を覆す発言をする必要も希 が、彼にしても時代の波に飛び込むことが要求 はモータウンのヒット曲、シュープリームスの 薄だ。私はそこで考えたのだった。インディペ されたのだった。60年代のジェマーソンには音 「ストップ・イン・ザ・ネーム・オブ・ラヴ」 ンデント・レーベルだった時代とは違い、複数 楽的な潮流を見渡せるだけの視野はあった。音 やマーヴィン・ゲイ&タミー・テレルの「エイ の楽曲を同時に制作進行することが当然だった 楽にもジェマーソンという野生を許容する余地 ント・ナッシング・バット・ザ・リアル・シン 60年代中期以降のモータウンではデモをロサ があった。ジェマーソンにしても単に天才肌の グ」も並べられている。驚愕すべきは、冒頭に ンジェルスで録り、本番をデトロイトで行な ミュージシャンなだけではなく、生活するため 掲げたスティーヴィーの「アイ・ワズ・メイ うということも常態だった。どのテイクが世 より多くの語法を修得しなければならなかった 『ホワッツ・ゴーイング・オン』ではじめてス ド・トゥ・ラヴ・ハー」もキャロル・ケイが演 に出るのかは比較的決定権が大きかった現場 はずだ。60年代、ジェマーソンもスタジオ・ミ タジオ・ミュージシャンを表記し、正当な権利 奏した楽曲としてリストアップされている。一 のA&Rの決断次第だったのではないか。もは ュージシャンとして生き残るために誰かからな を与えた。だが、モータウンはすでにデトロイ 瞬、歴史に欺かれたような気持ちにさえなった やジェマーソン自身も鬼籍に入り、レーベル トのレーベルではなかった。数年後、移転した が、先の断層と突き合わせて考えると彼女の発 側も口をつぐむのであれば検証のしようもな にかを素直に学んでいたのではないだろうか。 .. ジェームス・ジェマーソンは伝説でしかない 言はかなり的を射たものともいえる。論理的に いが、私たちは残された音を聴き、判断する のかと問われれば、私は歴史であった、と応え 求め、デトロイトからロサンジェルスに移る。 考えると膨大な数に上るセッションをメンバー ことができる。前述のキャロル・ケイ版の るだろう。歴史には虚も実も含まれる。世界中 しかし、西海岸のきちんと管理されたスタジ の異同はあるにしてもファンク・ブラザーズだ 「アイ・ワズ…」は一部分がホームページ上 のベーシストに影響を与え数多くのフォロワー オ・ワークと端正な音作りはジェマーソンの肌 けでこなすことは困難だったこと(後年、ボ (http://www.carolkaye.com/index.html)に が名も知らぬまま追いかけたジェマーソンの後 に合うものではなかった。アルコールは正確に ブ・バビットが二番手のベーシストとしてファ アップされており視聴が可能だが、ピック奏 ろ姿からはポップの影が伸びていた。彼の幻影 ジェマーソンの体を蝕み、仕事は減る一方だっ ンク・ブラザーズに加わる)、70年代にはモー 法によるキャロル・ケイの音色は私が耳にして はだからこそ、リスナーの部屋にも有名無名を た。不遇のまま、83年8月2日、途切ること タウン自体がデトロイトからロサンジェルスへ いたものよりもアタック感においてレコード化 問わず真摯に音楽に向き合うミュージシャンが なくグルーヴを供給しつづけたファンク・マシ 拠点を移していること(レーベルの方向性の変 されたものよりも線が細く感じられた。だが、 集うスタジオに立ち現われるのだろう。71年、 ーンは遂に沈黙したのである。 化はさらに以前からのことだろう)、アルコー レコードというものはミックスやマスタリング モータウンはマーヴィン・ゲイの歴史的作品 54 This page is protected. レーベルを追うように、ジェマーソンも仕事を (南部真里) 55 ィストたちの当時の写真が掛けられているこ とを除けば博物館然としたところはなく、今 モータウン・ にもミュージシャンが集まってきてレコーデ スタジオ ィングが始まるような錯覚を覚えたのは、無 数のヒット曲を録音したミュージシャンたち 見学記 の魂が、このスタジオには宿っているからか もしれない。そう、70年代初頭にロサンジェ ルスに移転するまでは、モータウンの曲はこ 94年夏、Pファンクが出演した こで録音されていたのだ。テンプテーション ロラパルーザのミシガン公演を見 ズも、シュープリームスも、みんなここで歌 た帰り、デトロイトに寄った。ま ったのだ。 ずはユナイテッド・スタジオを訪 ねると、主のドン・デイヴィスは This page is protected. そういう歴史そのものの建物だから、いつ までもここに残しておいてほしいと思うが、 交通事故の怪我の療養中で、弟の この博物館はモータウン・レコーズからは完 ウィリーが留守を預かっていた。 全に独立して運営されているということもあ 同じ地域で古くから活動していたユナイテッ たが、それこそが60年代には24時間フル稼動 り、台所事情は厳しいらしい。建物も古いの ド(グルーヴズヴィル)とモータウン(ヒッ していたという、あの有名な“スタジオA” で維持費もかかるだろうし、貴重な品々が展 ツヴィル)は、互いのミュージシャンの行き だ。そこには映画『永遠のモ 示されているだけにセキュリティも大変だろ 来も多く、いわば仲間であり同志だ。ウィリ ータウン』でも見られるよう う。これまでにダイアナ・ロスやマイケル・ ーは今はモータウン博物館となった、かつて に、以前のままの古いピアノ ジャクソンなどが寄付金を送っており、近年 のモータウンのスタジオにも連れていってく やアンプ、マイク・スタンド、 は年に1度チャリティー・コンサートを開い れた。 写真で何度も見たとおりの外観の建 譜面立てなどが、むき出しで て収益を運営費に充てているようだが、なん 物は、思ったよりずっと小さかった。中には 置かれていた。おそらくはス とか乗り切っていってほしい。 10数人の観光客が集まっており、黒人男性の ティーヴィー・ワンダーが、 ガイドが巧みな話術で笑いをとりながら、昔 あるいはアール・ヴァン・ダ ータウン絵はがきや、一端をト音記号型に巻 のポスター(日本語のものもあった)や衣装、 イクが、はたまたマーヴィ いてある鉛筆、それに昔のアナログ盤のレー 譜面などが展示されている部屋やスタジオを ン・ゲイが弾いたにちがいな ベル部分を切り抜いたコースターなどを売っ 案内して回ってくれた。記憶が正しければ階 いピアノを、我々も触ること ていた。今は何を売っているだろうか。 段を数段下りた半地下のようなところに、板 ができるとは、なんて気さく 張りの小さなスタジオがひとつあるだけだっ な博物館だろう。壁にアーテ 56 余談ながら、私が訪れた当時、売店ではモ (河地依子) 57 後ろで演奏していた人の名前を知りません。ア 映画 『永遠のモータウン』 の魅力 メリカのみならず、世界中のポップ・ミュージ ックの礎と呼ばれるモータウン・ミュージック ですが、その屋台骨と呼ぶべき人々には、現在 に至るまで注目が集まることがなかったので す。 彼ら、通称“ファンク・ブラザーズ”は、モ ータウン専属のハウス・バンドとして数多の名 「永遠のモータウン」は、02年アメリカ映 曲を演奏してきました。映画の主役は彼らです。 画、監督はポール・ジャストマン。普遍にして 当時の演奏シーンや再現フィルム、貴重なイン 唯一無二と言われるモータウン・サウンドと、 タヴュー映像が、名曲誕生の瞬間をいきいきと それを創りだしたミュージシャンに光を当てた 描き出します。 作品です。 This page is protected. 往時のエピソードはどれも微笑ましいものば 映画の冒頭で、レコード屋にいるお客さんが かり。ベース奏者ジェームス・ジェマーソンが インタヴューを受けています。みんなモータウ ツアー中の車内で起こした珍事や、パーカッシ ンが好きだと答え、それぞれに好みのスターの ョン担当のエディ“ボンゴ”ブラウンのハッタ 名前を挙げます。マーヴィン・ゲイにスティー リの可笑しさ。彼は、本当は読めない楽譜をさ ヴィー・ワンダー、シュープリームスにテンプ も読めるかのように振舞うのが得意でした。ド だった」とはっきり答える彼ら。その友情と絆 テーションズ…。しかし、誰ひとりとしてその ラマーのベニー・ベンジャミンの遅刻癖とその の強さには深い感動を禁じ得ません。 58 ば、考える必要はなくなってしまうのです。 音楽が好きな人にとっては堪らない場面も盛 言い訳には、熱心なファンでな 映画はモータウン・サウンドの核心にも迫り りだくさん。3人いたドラマーの違いをリチャ くとも声をあげて笑ってしまう ます。胸がワクワクするあのサウンドは、どの ード“ピストル”アレンが実際にやってみせる かもしれません。 ようにして生まれたのか。ある人は作曲家と作 シーンや、ジェームス・ジェマーソン・ジュニ 67年にデトロイトで暴動が起 詞家の力と答え、またある人はシンガーたちの アが語る人さし指奏法の秘密。ファンク・ブラ こり、街は混乱していました。 素晴らしさにその答えを求めます。会社自体を ザーズの面々は、皆優秀なジャズ・プレイヤー スタジオでの仕事を終え、帰宅 称える人もいれば、ベリー・ゴーディー(モー だったそうです。セッションの仕事が終わって の途についたファンク・ブラザ タウンの創始者)に目を向ける人もいるでしょ も、彼らは地元のジャズ・クラブで夜通しセッ ーズは、お互いをかばい合いな う。しかし、映画の中では単純明快です。ドラ ションを重ねていました。そこで生まれたアイ がら車に乗り込みます。「誰か ムスに始まって、ベースとギターが加わり、更 ディアがモータウンでの演奏に持ち込まれ、楽 が危険な目に遭いそうになった にピアノとタンバリンがのっかる…。ファン 曲の隠し味となったのです。 ならば、喜んで体を張るつもり ク・ブラザーズが実際に演奏するところを見れ カメラは、黄金期モータウンのヒット生産工 59 いて、生前の彼が語る場面 ものの映画でこれほど感情的な気分になったの は特に印象的です。ある日、 は久しぶりで、最後は落涙。 たまたま入ったレストラン でこの曲が流れているのを 彼は聴きます。「このギター (出田 圭) 『永遠のモータウン』 論評 はわたしが弾いた」と話し すべての人が、やったことが過大でも過小で そうになるも、やめてしま もなく公正に評価されるといいと常々思ってい う彼。「どうせボケた老人と るので、大好きなPファンクがしばしばジョー 思われるからね」と、寂し 想像していた以上にカジュアルな感じの映像 ジ・クリントンだけの功績のように語られるの そうな笑顔を見せるのです。 だった。老ファンク兄弟の、スタジオ演奏や回 が不満で、事あるごとに各メンバーの功績につ カメラは、ファンク・ブラ 想で見せる普段着っぽい雰囲気は、豪華ゲスト いて書くように努めてきた。だからこの映画は This page is protected. ザーズの過去と現在を愛情 深く紡ぎます。 を招いた記念ライヴでもほとんどそのままだ。 “あのサウンド”たちが、こんな調子でヒョイ この映画最大の見所は、 デトロイトのロイヤル・オ 胸にしみた。前面に出るのはシンガーたち、あ るいは陣頭指揮を取ったゴーディーだけで、フ ヒョイっと産み落とされていったような気が、 ァンク・ブラザーズの名前が人々の口端にのぼ 本当にしてくる。すると余計に、筋金入りな彼 ることはなく(UKだけは別だったようだが)、 場、「ヒッツヴィルU.S.A.スタジオ」を再訪す ーク・ミュージック・シアターで行なわれた再 らの肝っ玉と音楽バカっぷりが伝わってきて、 演奏にも興味を持って聴いていた私にしたとこ る彼らの姿を追います。古巣に戻り、口々に当 結成ライヴです。このライヴは6日間にわたり 上映早々うるうるしてしまった。自分も十数年 ろで、94年までその名称すら知らなかった。バ 時の様子を語り出すファンク・ブラザーズ。静 行なわれました。綺羅星のようなモータウンの 前に訪れたあのスタジオで、伝説の人たちが叩 ンドの要だったベニー・ベンジャミン(ds)と かな興奮とともに複雑な思いが交錯するシーン 名曲をファンク・ブラザーズが再び演奏し、豪 いたり弾いたりしているのを見てまたうるう ジェームス・ジェマーソン(b)を含む数人が、 です。いまだ健在の人もいれば、既に他界して 華ゲストと競演を果たします。ブーツィー・コ る。以前からモータウン・ファンを自認してい すでに故人となっていたのは残念だが、残って いる人もいます。グループのリーダーでピアニ リンズが歌う「ドゥー・ユー・ラヴ・ミー」や、 たミシェル・ンデゲオチェロが、そのスタジオ いるメンバーが満足げに演奏する姿は、それを ストのアール・ヴァン・ダイクや、同じくピア ミシェル・ンデゲオチェロの「クラウド・ナイ とステージで歌った男性グループ曲のパフォー 見る者にとっても喜びだ。この数年は、誰の功 ニストのジョニー・グリフィス。彼は映画がプ ン」。新旧入り交じったゲスト・シンガーに、 マンスも素晴らしかった。彼女がボブ・バビッ 績か知られなくても、すべてはその功績の上に レミア公開される数時間前に亡くなっていま バックの演奏も熱を帯びていきます。 ト(b)に「人種対立の時代の人種混合バンドだ 積み重なっているという事実があればそれでい す。ドラマーのベニー・ベンジャミンとベース この映画のあと、ファンク・ブラザーズは全 ったファンク・ブラザーズ」について訊くくだ いとも思い始めていたが、やはりこうやってき 奏者のジェームス・ジェマーソン。とりわけ、 米ツアーを成功させました。今年にはヨーロッ りも印象的。ジェームス・ジェマーソン(b)や ちんと評価されるのが一番だ。それだけに映画 ギタリストであるロバート・ホワイトの死は映 パ・ツアーとオーストラリア公演の予定がある ベニー・ベンジャミン(ds)ら故人の逸話も興 完成後のピストル・アレン(ds)の死と、米公 画の制作者たちにとって重大な契機となったそ そう。04年のグラミーで功労賞も獲得してい 味深いが、サウンドについての話も最高に面白 開直前のジョニー・グリフィス(kbd)の訃報に うです。 ます。 く、観るほどに体が火照ってくるほど。だから、 はしんみりした。 「マイ・ガール」のギター・リフレインにつ 60 (牧野琢磨) (河地依子) にがい場面は余計に痛く刺さってもくる。音楽 61 原題はフォー・トップスのもじりで『Standi リスBBCあたりの制作ならばそうは思わなかっ ng in the Shadows of Motown』。“ザ・ファ ただろうか。そもそも映画の冒頭である情けな ンク・ブラザーズ”と呼ばれたモータウンのバ い風景、「モータウンを知らない人々」という ック・ミュージシャンたちは、大半のヒット曲 のがアメリカの情景だと思っていたし、よもや を演奏しているにもかかわらず、初期のレーベ ファンク・ブラザーズにスポットがあたった映 ルはミュージシャンをクレジットしなかったた 画となると大いに疑問をもたざるを得なかっ め(この背景にはさまざまな事情があるのだ た。そんなことを思いながらも映画はそのファ が)、熱心なマニアや一部のミュージシャンを ンク・ブラザーズをメインにゲスト・シンガー 除けば、注目されることはほとんどなかった。 が歌い、様々なエピソードを交えた構成で進む。 劇中では、ファンク・ブラザーズ本人たちの ジェームス・ジェマーソンのエピソード、ピス 口から直接、モータウン・サウンドの秘密が語 トル・アレンのドラムス講座、スタジオでのセ られる。あの強烈なグルーヴやユニークなアレ ッション風景などなど、モータウン好きには堪 ンジは、ジャズの素養をもつ彼らの力なしでは らないフレーズが映像が散りばめられている。 存在しなかったことがよくわかる。また、乏し やはり古くからのモータウン・ファンとして い収入や過酷なツアー生活、レーベル側からの は、サウンドについての解説が俄然面白い。立 監視といった厳しい状況のなかで固い友情をは 役者の彼ら自身が、嬉々としてサウンドの解説 ぐくんでいったミュージシャン同士の強い絆に をする。なかでもラテンの影響が踊り子から由 は、胸打たれるものがある。 来するとは驚いた。ついでにまた古くからのモ This page is protected. ブーツィー・コリンズやチャカ・カーンらを ータウン好きとして言わせてもらうならば、惜 ゲストに迎えた再結成ライヴで、ファンク・ブ しむらくは中途半端なゲストの歌はどうかと思 ラザーズは故人の遺影を掲げて栄光のモータウ う。契約の関係があるとしても、もっと相応し ン・ナンバーを演奏する。本国での公開は02年 いシンガーがいるだろうに。そのあたりがアメ だが、その後0 4年に彼らはグラミー賞の功労 リカ制作の限界かとも思った。 (葛原大二郎) 賞に輝いた。遅すぎた感もあるが、ようやく彼 らの業績に見合った正当な評価がなされたので ある。 (春日正春) まずこの映画がアメリカの制作と聞いて、奇 『永遠のモータウン』O.S.T. V.A. 妙な違和感を持ったのだった。これがもしイギ 62 (Universal : UICY-1232) ファンク・ブラザーズの アルバイト録音 ∼そこらでちょちょいと し、その活動期間はモータウンの全盛期と並行す 初期モータウンに参加していたドン・デイヴィス 前出のジャモ・トーマスのヒット曲を手がけた る。リリース中、最も売れたのがエドウィン・ス によるプロダクションから生まれたダレル・バン ポップコーン・ワイリーのプロダクションは、自 ターの「エージェント・ダブル・オー・ソウル」 。 クスの「オープン・ザ・ドア・トゥ・ユア・ハー らのレーベルであるソウルホークやカレン/カー ナショナル・ヒットとなったこの曲は、もろモー ト」など。度々アルバイト・セッションがヒット ラなどメジャー/インディー問わず多くのレーベ タウン・サウンド。ベリー・ゴーディーが激怒し を生むとモータウンは頭を抱えていたそうだ。こ ルに渡り制作に携わっている。ジミー・ソウル・ たとかしないとか。そしてこれをきっかけにエド のあたりのヒット曲に絡みつつ深くデトロイトの クラーク、エリック・アンド・ヴァイキングスな ウィン・スターがモータウンに引き抜かれる。こ マイナー・レーベルについて検証するのは後述す ど。制作頻度が高いのは60年代半ばから後期にか のころからスタジオ・ミュージシャンのアルバイ るとしょう。 けて。ダンス・ナンバーからバラードまで、どれ モータウン・サウンドの立役者といえばファン トに対する引き締めと、ライヴァル・レーベルつ 次に代表的なファンク・ブラザーズが関わった も質が高く、ファンク・ブラザーズだからという ク・ブラザーズ。スネーク・ピットと言われたモ ぶしにモータウンが豪腕振りを発揮していく。こ レーベルといえばインヴィクタス/ホットワック 以上に、ポップコーン・ワイリーらしさを感じさ ータウン・スタジオに出入りしたスタジオ・ミュ のレーベルの人気グループのファンタスティッ ス。H-D-Hが設立したレーベルならば当然と言え せ、デトロイト・ソウルを語る上で欠かせない作 ージシャンが、俗称としてファンク・ブラザーズ ク・フォーもこの時期にモータウンに引き抜か ば当然か。デトロイトのインディー・レーベルで と呼ばれたわけだが、すでに彼らの功績について れ、リック・ティックの音源をまとめたアルバム 活躍していたミュージシャンを大胆に登用した一 次にドン・デイヴィス。言わずも知れたジョニ は数多く語られているし、かつては謎多き実体に をモータウンからリリースしている。つまりは結 方で、そのサウンドの要としてファンク・ブラザ ー・テイラーやドラマチックスなどのスタック ついてもかなりの部分が知られることとなった。 局のところレーベルごとモータウンに買収され終 ーズのベテラン・ミュージシャンを配していた。 ス/ヴォルト関連の名プロデューサーだが、彼も 中でも触れられないことのひとつであった彼らが 焉してしまうが、そうしても違和感ない音源だら よってここでは、時代が60年代末から70年代初め またファンク・ブラザーズの一員であった。ここ モータウンのみならず多くのデトロイトのインデ けであったし、モータウン・サウンド満載のレー ということもあるだろうが、リフレッシュされた では彼が制作に携わり、ミュージシャンとしてフ ィー・レーベルに録音してきた事実も、今ではか ベルだったとも言える。J.J.バーンズ、パーラメ モータウン・サウンドといったような瑞々しさが ァンク・ブラザーズを起用した物を取り上げた なり知られることとなった。 ンツ、ドラマティックス、ホリデイズ、カール・ 溢れる。モータウンでの録音がありながらリリー い。というのも、ドン・デイヴィスのクレジット ここではそういった部分、モータウン以外のレ カールトン、タミコ・ジョーンズ、フレディー・ スが見送られたフレダ・ペイン、デイヴィッド・ だけだとイーグルまでたどり着いてしまうから。 ーベルで聴けるモータウン・サウンドについて触 ゴーマンなど…。様々なコンピレーション盤で ラフィンとバンドを組んでいたメルヴィン・デイ それを除いてもあまりの量になりそうなので、駆 れてみたい。 色々な形でリリースされているこれらの音源は、 ヴィス率いるエイス・デイ、スティーヴ・マンチ け足でたどろう。 それは当時の多くの黒人音楽にあった現象「擬 一聴の価値は十分ある。またレーベルは違うがキ ャ率いる100プルーフ、バリノ・ブラザーズ、ロ まず初期のダコ・プロダクションより、オージ 似モータウン・サウンド」といった類ではなく、 ャピトルズの大ヒット曲クール・ジャークはこの ーラ・リーなど。これらは再発を繰り返している ェイズ。今も活躍する名立たるこのグループ、デ 紛れもないモータウン・サウンド、つまりファン ゴールデン・ワールドでの録音。 ことから分かるように評価は非常に高い。 ビュー間もないころの60年代初頭に世に出すきっ ク・ブラザーズが聴けるレコードである。 まず、代表的なものといえばリック・ティッ This page is protected. 前述のエドウィン・スターのヒットと同じ60年 代のデトロイトが放ったナショナル・ヒットに さて、ここまでは割と知られた話のはず。では もっとマニアックに追ってみよう。 品群だと断言したい。 かけを作っている。60年代半ばにソリッド・ヒッ トバウンド・プロダクションを作ってからは、先 ク/ゴールデン・ワールド・レコードでの多くの は、やはりファンク・ブラザーズが関わっていた。 録音。このレーベルは60年代のデトロイトのイン ポップ・コーン・ワイリーによるセッションから 自らのレーベルやプロダクションを作り録音して ティーヴ・マンチャ、メルヴィン・デイヴィス、 ディー・レーベルで、エド・ウィンゲイトが主宰 生まれたジャモ・トーマスの「アイ・スパイ」と、 いたものから順に紹介してみる。 ホリデイズなどを、自らのレーベルのグルーヴズ 64 まずは、ファンク・ブラザーズのメンバーで、 のダレル・バンクスをはじめ、J.J.バーンズ、ス 65 無手勝流の作曲作法は コラージュの精神 ヴィルやソリッド・ヒット、ゴールデン・ワール ルデン・ワールド、Dタウンなど広く、J.J.バー モータウンが次々とヒット曲を出し ド、レビロットなどに幅広くリリースし精力的か ンズ、プレシジョンズなど多くのシンガーとグル ていったその原動力は、レコード・リ つ充実した活動。その後はスタックス/ヴォル ープに関わる。特に知られるのはあのジョージ・ リースにおける見事なまでの分業制に ト・レーベルへ迎え入れられさらに大きく飛躍し クリントンと設立したプロダクションだろうか。 よるところが大きい。ソングライト/ ていくこととなる。 レビロット・レーベルに残したパーラメンツのシ ミュージシャン/シンガー、その各々 ングルは彼らの制作となっている。 がチームを組み切磋琢磨し様々な作品 ジャック・アシュフォードの60年代の活動も知 られている。パイド・パイパー・プロダクション を設立した彼は、ロレイン・チャンドラー、ウィ ここまでがわりとまとめて語ることができるこ と。あとは掻い摘んでいくとする。 を残していった。今でこそ古くさくな った手法ではあるが、新興黒人レーベ H-D-H リー・ケンドリックス、ダイナミックス、キャバ ロバート・ベイトマンもファンク・ブラザーズ ルが音楽業界で生き抜くためにベリ リアーズなどをRCAレコードにリリースしてい を使って制作している。ルー・コートニーのリヴ ー・ゴーディーが腐心した方法であっ る。トニー・へスターのこの頃の録音も彼のプロ ァーサイドからリリースされたアルバムが代表 ただろうことは想像に難くない。まだ ダクション。自身のアシュフォード・レーベルも 作。ジョー・ハンターも多くのレコードにクレジ 名もないシンガー/ライター/ミュージシャン ライアン・ホーランドが作曲を担当し、ラモン 持ち、エディ・パーカーなど多くのシングルを残 ットされている。プロデュースにアレンジにと活 らを使わざるを得ないことがそうさせたのだろ ト・ドジャーがその両方に加わる形で曲を完成 している。どれも60年代のデトロイト・ソウル好 躍しているが、ドラマチックスの録音とかが有名 うか。とにかくこのシステムはヒットを量産し させていた。もちろん例外もあるし、過程から きには堪らないものばかりで、パーカッショニス だろうか。ハイ・サウンドで知られるメンフィス て答えを出す。そしてその中で、最もヒット曲 すればソングライター・チームとしての作品と トらしいダンサブルな楽曲に溢れ、どれも価値あ のウィリー・ミッチェルの初期録音もファンク・ を生み出したソングライター・チーム、モータ 解釈した方が良いだろう。因みにこの3人がチ る作品だと付け加えたい。 This page is protected. ブラザーズは深く関わる。スポート・レコードの ウンに最も利益をもたらした作曲家チームが、 ームとして活動を開始したのは62年頃のこと。 ギタリストのデイヴ・ハミルトンの活動も幅広 マスターキーズなどがそれにあたる。どうやらフ H-D-Hということになる。 3人ともモータウン入りは最初期からだが、そ くかつ興味深い。TCB/トパー/テンプル・レ ァンク・ブラザーズはアラバマのマッスル・ショ モータウンが70年までに全米ポップ・チャ れまでは各々が別のライターとの組み合わせで コードを持ち、バリノ・ブラザーズ、トビ・ラー ールズ録音にも関わっているようだし、活動形跡 ートに送り込んだ中で、全米ナンバー・ワンに 作曲をしていたり、またシンガー∼バック・シ ク、自らの録音などを残す。知る人ぞ知る録音と は深くそして広い。 輝いた21曲のうち12曲はH-D-Hによる作品。 ンガーとして録音していたりと、揃っての主だ ということで、大まかながらこの辺りでひと フォー・トップス、シュープリームス、マー った活動はなかった。モータウン・レコードの まず括ることに。とにかくきりがないくらい サ&ザ・ヴァンデラスのヒット曲のほとんどは システムが生んだ運命の出会いだったろうか。 サクソニストとしてファンク・ブラザーズの一 諸々出て来るし、ファンク・ブラザーズの奥深 彼らが手掛けたものとなる。 62年以降のモータウン・レコードの栄光と富 員だったマイク・テリーは、そのモータウンの録 さに根を上げそうにもなる。そういうぐらい探 さて、そのH-D-Hとは。ホーランド/ドジャ を思えば、このソングライター・チームの位置 音ではクレジットもないことから逆にそのことが 求するにはなかなか面白いテーマでもあるだろ ー/ホーランドのイニシャルを略したもので、 付けの大きさが見えてくる。キャッチーなメロ 知られていないくらいだろうか。彼が最も活躍し う。これをきっかけにモータウンだけではなく エディー・ホーランドとブライアン・ホーラン ディ、耳に残るフレーズ、稀有な作曲家チーム た60年代デトロイト録音は広く評価され、コレク デトロイト・ソウルといった形で、広く深く耳 ドのホーランド兄弟とラモント・ドジャーとい であることは間違いない。そして賞賛と高い評 ターにはファンク・ブラザーズの中でも1、2を にしてもらいたいと思う。 う3人のメンバーからなる作曲家チームがその 価も枚挙にいとまがない。 いえ、これらをまとめたコンピレーション盤もリ リースされている。 争うぐらいに賞賛されてもいる。その録音はゴー 66 (葛原大二郎) 正体。主に、エディー・ホーランドが作詞、ブ (葛原大二郎) 67 らだろう。一方、肝心なソフトの面はといえば、 せていたのに対し、デトロイトのミュージシャ している。アルバムは4枚。ジェネラル・ジョ 新興レーベルゆえに、シンガー/ミュージシャ ンたちが入り乱れていたインヴィクタス/ホッ ンソンのジャッキー・ウィルソンに通じる歌声 モータウンを 後にしたH-D-Hは… ンたちはオーディションやスカウトで集められ トワックスのほうがよりデトロイト・ソウルと とインヴィクタス・サウンドのコントラストが た。ただし、そこには純粋な新人はほとんど見 して色濃いとも言える。良し悪しはあれども、 みごとである。 ∼ホットワックス/インヴィクタスと その周辺 当たらず、いずれもがマイナー・レーベルでの その辺りにこのレーベルの評価の高さもあるの 豊富な録音経験がある猛者ぞろいだった。とく だろうか。 エイス・デイはメルヴィン・デイヴィスとい う稀有なシンガー/ドラマーが率いていたバン にバック・バンドは、あのファンク・ブラザー 72年にラモント・ドジャーがレーベルを離 ド。彼はスモーキー・ロビンソンのパーソナ ズの面々が多くの録音を支えていた。そしてそ れる。他の所属のシンガー/ミュージシャンら ル・ドラマーを務めもし、若き頃はデイヴィッ This page is protected. モータウン・レコードに多大なる利益をもた ういった連中がソングライトから音作りそして にも金銭トラブルが相次ぎ離脱者も続く。仕方 ド・ラフィンともバンドを組み、60年代は らしながらも、68年に金銭トラブルから訴訟 制作に渡る過程において、各々がチームを組み なく古い録音を焼き直し承諾なくレコードをリ 様々なデトロイトのレーベルでレコーディン ざたとなり、H-D-Hはモータウンから離脱する。 それぞれが競いながらレコードを作り上げてい リースすれば、騒動はさらに深まり、もちろん グ・キャリアを重ねていた実力者であった。2 その頃はといえば、ベリー・ゴーディーや会社 く。まるでその分業制はモータウンの手法その レコードも売れない。そしてやがてレーベルは 枚のアルバムを残す。特に1枚目は名作の誉れ に対する不満が所属のシンガー/ミュージシャ ままに。そうして作られたのがインヴィクタ 終焉を迎えることになる。短命であった。しか も高い。それに付け加えれば、このバンドには ンに鬱積しており、レーベルを移籍する者も出 ス/ホットワックス・サウンドであった。考え しながら、金銭トラブルとレーベル移籍をみれ ファンク・ブラザーズのベーシスト、トニー・ て来た。キム・ウェストンがそう。またストや ればファンク・ブラザーズがバックということ ば、そこまでもモータウンを踏襲するようで愉 ニュートンがいる。そのことから分かるように、 労働組合を作ろうという動きもあった。そして にH-D-Hの楽曲ならば、それはH-D-Hなきモー 快でもある。 インヴィクタス/ホットワックスの音作りにも 最もモータウンを揺るがす事件が、H-D-Hの離 タウン以上にモータウン・サウンドといっても ここからはそのインヴィクタス/ホットワッ 脱だろう。そして同年、自らのレコード会社イ いいのではなかろうか。それに当時のモータウ クス・レコードがリリースしたシンガー/グル ンヴィクタス/ホットワックスを設立するので ンがドラスティックに変化し、モータウン・サ ープについて触れていこう。 ある。 ウンドとしての統一感が薄まっていったのに対 まずはチェアメン・オブ・ザ・ボード。H- いものとなっている。インヴィクタス・レコー インヴィクタス/ホットワックス・レコード するなら、モータウン・サウンドの工程をその D-Hに誘われレーベル入りしたジェネラル・ジ ド入り前に1枚のシングルをモータウンのギタ はモータウンと同じくデトロイトを本拠とし まま踏襲したインヴィクタス/ホットワック ョンソンが、他のオーディションで選ばれた3 リスト、デイヴ・ハミルトンのレーベルから出 た。インディー・レーベルであったが、自らの ス・サウンドこそ新生モータウンであったとい 人と組んで作られたグループ。「ギヴ・ミー・ し、それが評判となってのインヴィクタス入り スタジオを持ち、配給をそれぞれコロムビア・ ってしまいたいほどだ。もちろんそこには新し ジャスト・リトル・モア・タイム」がデビュ だった。70年代デトロイトの最良のサンプル レコードとブッダ・レコードに任せ、すでにイ い作家陣や新しいミュージシャンが加わり、新 ー・ヒットしその後も順調にヒットを飛ばし、 だろう。 ンディーの体をなしてはいなかった。H-D-Hの しい息吹を感じることもできるし。さらにいう またクラレンス・カーターにカヴァーされてヒ 女性グループとしてハニーコーンも忘れては 資金力か、ヴァリューがなせるバックアップか ならば、モータウンが様々な録音を使って競わ ットした「パッチェス」ではグラミー賞を獲得 ならない。魅力的なリード・シンガーのエド 68 大きく関わっているバンドであった。 バリノ・ブラザースは1枚のアルバムを残す のみだが、その名声はこの1枚だけで揺るぎな 69 じっと見ていた 60年代の改革の鬼 森羅万象肥やしと飲み込むからポップ・ミュ ージックで、それに与する人見知りの彼。あき らめないのは曲に対する確信と座り込み根性の ナ・ライトを擁してヒットを飛ばし、「ウォン フレダ・ペインはH-D-Hがインヴィクタスで ト・アズ」がチャートのトップにもなった。フ 作ったダイアナ・ロスという感じだろうか。大 モータウン第3か第4の男は43年生まれ。少 ァンキッシュなインヴィクタス/ホットワック ヒットした「バンド・オブ・ザ・ゴールド」を 年時代をニューヨークのハーレムで過ごしたの ス・サウンドに弾けるような彼女らの歌声は、 はじめ、「ブリング・ザ・ボーイ・ホーム」な ち、家族でデトロイトへ移住する。ハイティー このレーベルを語る上で欠かせない。 どヒット曲も多い。アルバムはベスト盤を含め ンの頃には地元セルマ・レコーズにてプロデュ 故であった。 100プルーフはリード・シンガーのスティー 4枚。可愛らしさと色気が同居したような歌声 ーサー業を始め、若干の早熟さを発揮。63年 ヴ・マンチャに尽きるだろうか。レーベル入り がインヴィクタス・サウンドに映え、彼女もこ モータウンに入社し、A&Rアシスタントとし の前はドン・デイヴィスの元で録音し、またギ のレーベルの代表的シンガーとして記憶した てもの静かに機を見る。68年、ポピュラー三 タリストとしても様々な活躍をしていた人であ い。 る。アルバムとして2枚。どちらも質が高く、 This page is protected. ローラ・リーも重要な女性シンガーだろう。 Norman Whitfield 隊式掛け声があきれたぼういずを想起させる名ア 勇士ことホーランド/ドジャー/ホーランド レンジである。女性2:男性1のヴォーカル・グ が印税問題で訴訟を起こし、モータウンを退 ループ、アンディスピューティッド・トゥルース 先のフレダ・ペインとは対照的なディープな歌 く。これにゴーディーはうんざりしたが、ノ を自身の実験装置としてお抱え、編曲・改作を頑 声ではあるが、時代を反映した歌詞を力強く歌 ーマンがにんまりしたかどうかは謎。たぶん 固に繰り返す。ワウワウかまし過ぎたのは、モー ト・アルバムをリリースしていたのもこのイン う録音は聴き応えあるも した。ドのつく名曲ながらポップ・チャート タウンがエレキ人材の宝庫であったから。 ヴィクタスだった。モータウンでも仕事をして のとして推薦したい。 ソウル・ファンに熱い支持をされている。 Pファンクのあのパーラメントがファース で振るわなかったシングル「ゲット・レディ 75年モータウンを離れ、ホイットフィール いたジョージ・クリントンは、60年代デトロ 他にグラス・ハウスなど、素晴らしいシンガ ー」にて、スモーキーとテンプスの蜜月は終 ド・レコードを設立。マーヴィン・ゲイの「ホ イトのソウル・シーンでは割と名の通ったプロ ーやグループが所属し録音を残していた。どれ 了。続く「エイント・トゥー・プラウド・ト ワッツ・ゴーイング・オン」は4年も昔、ステ デューサー/ライターであった。H-D-Hと録音 も一聴の価値はあるものばかり。モータウンか ゥ・ベグ」は、イントロからピアノが切なく ィーヴィーの「ソングス・イン・ザ・キー・オ もしている。もちろん自身のヴォーカル・グル ら少し脱線はするが、できたら1度耳にしても 跳ねるノーマン作である。H-D-Hとの品質管 ブ・ライフ」が覚醒する1年前である。泣く子 ープ、パーラメントもシングルを精力的にリリ らいたいものだ。 理勝負に破れた「アイ・ハード・イット・ス が怯えたのち爆笑するPファンクはモータウン ルー・ザ・グレイプヴァイン」は既にグラデ 経由で大宇宙からゲットーへとうの昔に着陸済 代の移り変わりから音作りを大胆に変えた丁度 ィス・ナイト&ザ・ピップスのキメ曲となっ み。大所帯ファンク・バンド、ローズ・ロイス その頃にインヴィクタス入りしている。アルバ ており、60年代も後半。テキサス州はダラス ムは1枚。ノーマン・ホイットフィールドに対 出身の変態=スライがCBSより登場する。 ースし、ローカル・ヒットも飛ばす。そして時 抗する意識があったのかどうか。また、パーラ (葛原) 「戦争ってほんっと何にもならない」 ( 「WAR」 ) などのプロデュースを手掛け、76年サントラ 「カー・ウォッシュ」は大ヒット。曲も状況も ミュージシャンも変わり、何をどうすんのよと メントというかファンカデリックというか、こ と涎まみれの憤怒を散らし、エドウィン・スター やり方も変化を強いられたのち、ノーマン・ホ のジョージ・クリントンのバンドは、バックバ は71年グラミー最優秀R&B男性ヴォーカルを獲 イットフィールドは表舞台から姿を消す。 ンドとしてもこのレーベルを支えている。 得。くだんの曲のテンプス版は、メルヴィンの軍 70 (牧野琢磨) 71 ノーマン・ ホイットフィールドは 熱かった せたというは易いが、そこにポジティヴなメッ にある。その点においてホイットフィールドの セージとネガティヴな描写とを溶け合わせて皮 60年代末から70年にかけての作品群は、“ニュ 肉混じりに聴衆をアジテートする。スライ・ス ー・ソウル”の出発点というべきものだった。 トーンがDJでありレコーディング・プロデュー 72年といえば“ニュー・ソウル”全盛というべ サーだったことは、その音楽スタイルの攻撃的 き年だったが、その“先駆者”であるホットフ な面に強く作用しているだろう。ホイットフィ ィールドにとってはそろそろ結論を出す時期だ ールドはスライの音楽の強引さや破壊的イメー ったのではなかろうか。 「パパ・ワズ・ア・ロー ジと連帯を求めるメッセージ性の同居を濃厚に リン・ストーン」の遅効性の陰気なムードは、 モータウンは、黒人社会の発言や苦境を題材 引き継いでいる。しかもスライの音楽を求める 実験の果てに得た確信めいたものを感じさせる。 とした曲作りの点でも先んじていたばかりか、 人々は人種を飛び越えて存在している。ヒップ ホイットフィールドにしてはシンプルなサウン サウンド面での実験、ドラマ性の高い音楽的演 であることに、危険な風情(体制から見て)が ドは、ひたひたと増殖する虚無感をこれでもか 出においても積極的な面を見せていた。その首 加わっている。求道的でしつこい体質の(とし と聴かせるためのものだ。11分45秒の長尺は、 謀者の筆頭がノーマン・ホイットフィールドだ か思えない)いかつい顔相のホイットフィール ダメ押しの上にさらにダメを押さずにはいられ 知れない不安を与える。 「パパ・ワズ・ア・ロー った。ホイットフィールドは、俺がモータウン ドがスライ・ストーンの音楽的スリルとポップ ぬホイットフィールドの性質の現われだが、そ リン・ストーン」の大ヒット(全米ポップチャ のリーディング・ヒッターなんや、というなぜ さに着目したこと、その前傾姿勢の創造力をい れ以上に、演奏者間の意識の高揚を最大限に得 ート1位、R&Bチャート5位)は、モータウン か大阪弁の意欲の持ち主だった。60年代初頭か ち早く実行に移し、テンプテーションズという て、それを曲の中に抽出しようという現場監督 にアルバム主体の制作体制の強化を促進させた。 ら“モータウンを見てきた”執念の人である。 名門グループにあえてドラッグ賛美ともうけと の頑固な意志が強く働いた結果だろう。ホイッ しかしホイットフィールドの意欲はテンプテー ホイットフィールドはとりわけ68年の「クラウ められかねない「クラウド・ナイン」を歌わせ トフィールドのヘッド・アレンジは、各ミュー ションズとの反目を生むことにもなる。サウン ド・ナイン」以来、モータウンの作品をサウン たことの衝撃は、決して小さくなかっただろう。 ジシャンに執拗にリフレインを繰り返させる中 ドによる風景や思考の描写というホイットフィ ドとテーマを丸ごと変革することをひたすら考 それは私生児をテーマにしたシュープリームス で自然発生する新たなフレーズからこれはと思 ールドの実験は「パパ・ワズ・ア・ローリン・ え実行していった。ドラッグや意識改革、フラ の「ラヴ・チャイルド」以上のものだったので う物を感覚的に次々に採用し重ねてゆくものだ ストーン」以降、冗漫な印象が強くなる。さす ワーな世俗、混迷の日常感覚などのシリアスな はないか。 「クラウド・ナイン」にはテーマのみ が、 “スタジオ内で各ミュージシャンに念を送る がのホイットフィールドもさまざまな外圧や創 題材を積極的に取り上げていった。むしろラ ならずサウンド面での変革、それまでのモータ ホイットフィールドの図”というのはちょっと 意の空転によって、自分の内面の“サウンド風 ヴ・ソングといえるようなもののほうが少ない ウン作品にはなかったサイケデリックな色彩と 恐い。エドウィン・スターの「黒い戦争」 (70年) 景”を作品化しきる執念を保持できなくなって くらいだ。 ハードな音色が渦を巻くような演出がほどこさ やレア・アースの「アイ・ジャスト・ウォン しまったのかもしれない。ホイットフィールド れていたからだ。 ト・トゥ・セレブレイト」 (71年)に見られた攻 がモータウンを去ったのは76年のこと。ミラク 撃的仕掛けは「パパ・ワズ・ア・ローリン・ス ルズが「ラヴ・マシーン」で復活し、スティー ホイットフィールドがサウンド面で最も強く This page is protected. インスピレーションを得ていたといわれるのは 70年代初頭のいわゆる“ニュー・ソウル”作 スライ&ザ・ファミリー・ストーンだ。ゴスペ 品の特徴は、メッセージの濃さと映像イメージ トーン」にはない。むしろ抑制された暴力性、 ヴィー・ワンダーが『キー・オブ・ライフ』を ルとロックとサザン・ソウルをフュージョンさ を強く喚起させるサウンドのスケールの大きさ、 あるいは激昂の後のけだるさが聴く者に得体の 世に問うた年だった。 72 (湯浅 学) 73 モータウン 1973-77 件といえよう。個人的事情によるものとはい にもかかわらず、繋ぎ止めることに失敗した、 え、ミュージシャンそれぞれが自分の居場所 会社としてみれば汚点といわれても仕方のな を考えざるを得なくなっていた時代であった い例である。モータウンというレコード会社 ことが感じ取れる。 の体制の弱体化、つまりはベリー・ゴーディ 結局ゴーディーやモータウン首脳には70年 70年代中期はアメリカ大衆音楽界全体が迷 ーの影響力が年々加速度的に変化(衰退)し 代に入って以降「自分たちが流行を作ってい っていたこともあり、結局ダンス・ナンバー、 ていったことの現われととらえることもでき る」という意識が持てなかったのではないか。 ディスコ系の才能と楽曲に頼るしかなくなっ る。 流行に合わせ、願わくば半歩前へ進みたい、 る。 しかし逆に考えれば、それでは流行に対応 しきれない、という判断も成り立つ。 ∼明日は何処に てゆく。それも世の趨勢、と受け入れるしか どこかに分岐点はあるにしろ、70年代のモ 60年代に所属タレントを鍛え、苛酷なツア This page is protected. なかったのはいずれも同様。 という意識がせいぜいだったのではないか。 ーや営業仕事を課し、礼儀作法からマスコミ スティーヴィー・ワンダーやマーヴィン・ゲ ータウン(タムラ、ゴーディー、ソウルにし 73年にグラディス・ナイト&ピップスがブ 対応、生活態度まで指導/監督/管理したタ イは確かに誰にも真似のできない音楽を作り ても)は模索しながら、したままで終わって ッダへ、75年にはジャクソン・ファイヴがエ レント養成部がロサンゼルス移転とともに事 出し、セールス面でも大きな成果を上げた。 しまったのだった。後から考えるとマーヴィ ピックへ、76年にはミラクルズがコロンビア 実上消滅したこと。かつてのような丸がかえ しかしそれらの作品は、“アーティストが勝手 ン・ゲイが71年に『ホワッツ・ゴーイング・ へ、77年にはテンプテーションズがアトラン による制作体制を維持できる人材がいなくな にやったこと”だった。かつてのように毎週 オン』を発表していたことは社会全体(地球 ティックへとそれぞれ去ってゆく。モータウ ったこと。ミュージシャンそれぞれがプロデ の会議の中で勝ち上がって“ボスが賭けた” 規模で)とともにモータウンという会社の行 ン側としては、“お役御免”のロートルたちゆ ュースにより多く発言するようになったこと。 ものではない。 く末に対する疑問も重ね合わされていたよう え、むしろ厄介払いができたと考えていたの など、理由はいくつも考えられる。デトロイ に思えてくる。 だろうか。 トを去る、ということの意味をゴーディーは ポップス界を制覇し、次はハリウッド、と考 ゴーディーが賭けていたのは映画だった。 72年6月でデトロイトのモータウンはなくな 73年∼77年にモータウンを支えていたの どうとらえていたのか。そこに“変化”の中 えるのは“アメリカ・ショー・ビジネス出世 ってしまい、フォー・トップスもスピナーズも は、ダイアナ・ロス、マーヴィン・ゲイ、ス 心がある。音楽製作がゴーディーにとって二 大閤記”においては当然の成りゆきかもしれ 他のレーベルに移ってしまう。しかしこの年は ティーヴィー・ワンダー、エディ・ケンドリ 次的なものになってしまったのではないか、 ない。しかし“手作り”で勝負するには世界 まだコモドアーズがバック・バンドから出世し ックス、コモドアーズ、そしてスモーキー・ と見るのはデトロイト寄り過ぎるか。 が違いすぎるのではないか。かねてよりのあ てモーウェストからデビューしたり、ダイア ロビンソンだった。コモドアーズをのぞくと デトロイトを去る、ということはデトロイ こがれ、ゴーディーにとっては全国民を納得 ナ・ロスの主演映画『レイディ・シングス・ いずれも60年代前半からモータウンで活動し トのミュージシャンを捨てる、ということだ。 させうるエグゼクティヴとなるには絶対にク ザ・ブルース』が話題を呼んだりもした。 ていた人々である。コモドアーズにしても結 地元のミュージシャンたちだから60年代中期 リアしなければならない世界だったか。いか しかし、73年になるとネガティヴな兆しが 成は68年の外様である。ジャクソン・ファイ のハードな録音スケジュールにも対応できた に“歴史を変えた”とはいえこのままではあ ひたひたと顕われる。テンプテーションズの ヴなどは70年代前半に全力で売り込み、知名 し、時間的精神的融通も効いた。なによりも くまで“レコード屋のおやじ”に過ぎぬ、と。 ポール・ウィリアムズの自殺はその象徴的事 度、セールスともに大きな成果を上げていた 地元意識には(かりそめにせよ)一体感があ しかもゴーディーにはダイアナ・ロスという 74 75 時の彼らのスタンスを的確に代弁しており、彼 等の本籍がどこにあったのかを如実に伝える1 “不世出の超大物”を名実ともに不動の存在に する、という使命があった。 チャートで一定の成果を得ていたわけだが、 モータウンという会社/ベリー・ゴーディー ディスコと モータウン ∼コモドアーズと魔境 曲と言っていい。ただ、これ以降コモドアーズ は(プロデューサー、ジェームス・アンソニ ー・カーマイケルの手解きのもと)ライオネ 『レイディ・シングス・ザ・ブルース』が の志向とは、それでよしとするものだったと ル・リッチーの才覚を際立たせていくことでフ ある程度の成功を収めたのが災いした、とし はいえないだろう。ディスコ戦線への参入も ァンク・バンドの枠を超えたオリジナルな存在 か今は思えない。『マホガニー』(75年)、『ビ もちろん行なわれ、当然のようにヒットも へと徐々に体質を変えていくことになる。 ンゴ・ロング・トラヴェリング・オールス 数々生んでいるが、それは世の流れに乗った どんなメジャー・レーベルでさえ足を突っ込 ただ、コモドアーズが大成功したにも関わら タ−ズ・アンド・モーター・キングス』(76 だけのこと。モーウェストにしろチサにしろ まざるを得なかったディスコの魔境。それはモ ず、モータウンは彼らの後続的なファンク・バ 年)、『ハイ・スクール』(78年)、『イッツ・ レア・アースにしろブラック・フォーラムに ータウンにしても例に違わず、だ。モータウン ンドを焦ってレパートリーに加えるようなこと フライデー』(78年)、(そしてとどめをさし しろ60年代末から70年代前半にかけてモータ がいかにディスコと関わったかは時代時代によ はしなかった。ブームが過熱する中、ファン た)『ウィズ』(78年)。と、『レイディ・シン ウン内に設立されたレーベルで、新しい才能 って無論異なるが、ディスコをヒットの爆心地 ク・バンドが先を争うようにアルバム・デビュ グス・ザ・ブルース』以後、短期間に5作の を育成する/未開の領域を開拓する、といっ とすべくアーティスト・レパートリーに変化が ーし始めるのは77年になってからのことで、 映画に関与したことは評価に値するかもしれ た機能を果たしたものはひとつもなかった。 現われ、意図的に“狙った”作風が増加傾向を マンドレー、プラチナム・フック、21stクリエ ない。 それでも70年代初頭にはまだ“何事か新しい 見せ始めたのは74年をまたぐ頃からだ。 イション、ボトム&カンパニー、スウィッチと スティーヴィー、マーヴィン、エディ、ジ ャクソン・ファイヴ(ジャーメイン、マイケ This page is protected. 動きを”との期待や希望がそうした新レーベ ル設立に感じられた。 まず、アーティスト・レパートリーの変化を いったフレッシュなファンク・スターたちが 最も象徴したのは74年に「マシン・ガン」の 続々とその雄姿を現わしている。しかしながら、 ヒットを放ったコモドアーズだろう(ただし、 コモドアーズに次ぐ典型的なディスコ・ヒット ルのソロ作も含め)以外でこの時期に全米ポ レコードを作って売るという仕事に、なん ップ・チャートで20位以内に入ったモータウ となく違和感が生じた。そんなベリー・ゴー この「マシン・ガン」はモータウン入社後通算 を放ったファンカーとなれば、やはりリック・ ン系アーティストは、グラディス・ナイト& ディーにとって、音楽市場は最早燃える賭場 3枚目のシングルだ)。世の中がファンク・サ ジェームスを置いて他になかろう。78年にモ ピップス(「ネイザー・ワン・オブ・アス」2 ではなかった、というだけのことか。 ウンドの一大興隆期ということもあったが、明 ータウンとのディールを手中にした彼はファー 確かつ直線的にダンス・フロアへと照準を絞っ スト・シングルの「ユー・アンド・アイ」をい イ・デクレアー」19位/73年)、テンプテー たファンクを若々しく演じた彼らはニュー・フ きなりビルボード・ブラック・チャートの頂上 位 / 7 3 年 、「 ダ デ ィ ・ ク ッ ド ・ ス ウ ェ ア , ア (湯浅学) ションズ(「マスターピース」7位/73年)、 ェイスでありながら、瞬く間にレーベルの花形 に送り込んでたちまち時代の寵児となる(ポッ デイヴィッド・ラフィン(「ウォーク・アウェ バンドへと化している。ディスコの申し子とし プ・チャートでは最高位13位)が、その後も イ・フロム・ラヴ」9位/75年)、テルマヒ ての彼らの姿は75年リリースのセカンド・ア 問題作を連発し、「ギヴ・イット・トゥ・ミ ューストン(「ディス・ウェイ」1位/77年)、 ルバム「コート・イン・ジ・アクト」でより浮 ー・ベイビー」、「スーパー・フリーク」を含む ハイ・エナジー(「ユー・キャント・ターン・ き彫りとなるが、事実、流行のダンス“バンプ” 81年リリースの5枚目のアルバム『ストリー ミー・オフ」12位/77年)だけである。R&B をテーマにした「バンプ」というヒット作は当 ト・ソングス』のミリオン・セラーで押しも押 76 77 デュースを託したことだろう。で、その目論見 た「アイ・ウイッシュ(回想)」や「アナザ は見事に的中し、どこを切ってもヴァン・マッ ー・スター」などはダンス・トラックとしても コイ印のシングル「ウォーク・アウェイ・フロ 実に優れている作品群だ。 ム・ラヴ」はデイヴィッド・ラフィン初めての 因みに、ディスコ・ブームが大衆の文化とし ナンバー・ワン・ヒットとなっている。このデ て本格的に定着したのは78年、つまり「サタ イヴィッド・ラフィンのサクセス・ストーリー デイ・ナイト・フィーヴァー」が公開された年 はディスコをマーケティングしたモータウンの のことだ。となれば、そのブームの盛り上がり レーベル史に残る確然たる成果と言ってよい。 を背景にした商業優先型のディスコ作品も当然 また、76年∼77年になるとオリジナルズ 増える訳だが、これが世の流れだったのだから、 (「ダウン・トゥ・ラヴ・タウン」)や、ダイア 今さらどうのこうのは言うのもおこがましい。 ナ・ロス(「ラヴ・ハング・オーヴァー」)、マ 行儀がいいまでの4つ打ちに、ベース・ライン This page is protected. ーヴィン・ゲイ(「ゴット・トゥ・ギヴ・イッ も単調な8ビート弾きで貫かれ、そしてBPM ト・アップ(黒い夜)」)、シュープリームス も130程度にまで上昇したマス・プロ・ディス されぬモータウンの一大看板となっている。リ たヒット作をコンスタントに生んでいるが、こ (「ユーアー・マイ・ドライヴィング・ホイー コ作品はこの時期のモータウンにも数多く残っ ック本人はファンカーである一方、曲作りの才 れでモータウンはひとつの定石を掴んだか、テ ル」)、テルマ・ヒューストン(「ドント・リー ており、78年に発売され、マイケル・ラヴス にも長けた歴とした音楽家ではあったが、ディ ンプテーションズの「ハッピー・ピープル」 ヴ・ミー・ジス・ウェイ」)、スモーキー・ロビ ミスがトータル・プロデュースしたその名もモ スコをヒットの震源地としたアーティストとい (74年)、ジャクソン5の「ダンシング・マシ ンソン(「ビッグ・タイム」 )等、それまでディ ータウン・サウンズの『スペース・ダンス』な う意味ではモータウンで最も成功した男と言っ ーン」(75年)、スモーキー・ロビンソンの後 スコとは直接的には無縁だった人たちもすすん る企画アルバムなどはそんなブームを今へと伝 ていいだろう。なお、80年前後のモータウン 釜にビリー・グリフィンの加わったミラクルズ でディスコ・トラックを取り上げるようになっ える1枚と言っていい(ただし、ここに収めら には他にもオゾン、ダズ・バンドといったファ の「ラヴ・マシーン」(75年)といった程よく ており、ディスコ・オリエンティッドなレパー れた「バッド・マウシン」は今もなお人気の衰 ンク・バンドも大型デビューを果たした後快調 ファンクなスパイスの効いたディスコ・スマッ トリーを常々十八番にしてきたエディ・ケンド えないクラシック中のクラシックである)。猫 にヒットを飛ばしており、ダンスフロアにおけ シュを次から次にモノにしている。そんな中、 リックスに至っては猛威を振るうフィラデルフ も杓子もディスコの時代だったから、ここら辺 るモータウンのブランド力は相変わらず強大だ ディスコ・ブームにあやかろうという目論見が ィア・サウンドを真正面から迎え撃ち、「ゴー は流石のモータウンも社会現象には背を向ける った。 誰の目にも明らかだったのは、69年のソロ・ イング・アップ・イン・スモーク」という傑作 ことができなかったということだろう。それと デビュー時の勢いを取り戻せずにいたテンプテ ダンサーをMFSBをバックに聖地シグマ・スタ は逆に、このような状況の中から、荒廃したデ が増え始めたきっかけはテンプテーションズか 一方、ディスコ・ブームに狙いを定めた作風 ーションズのオリジナル・リード・シンガー、 ジオでレコーディングしている。更に言えば、 ィスコを救うような格好でリック・ジェームス らソロに転向したエディ・ケンドリックス73 デイヴィッド・ラフィンが通算5枚目のアルバ 76年に名作『キー・オブ・ライフ』を発表し が登場してきたことにモータウンの強かな本音 年のビッグ・ヒット「キープ・オン・トラッキ ム『フー・アム・アイ』(75年)で、スタイリ たスティーヴィー・ワンダーも彼なりの解釈で が覗く。 ン」だったように思う。彼はこの後も「ブギ スティックスを当て、自らも「ハッスル」を大 ディスコ・ブームを綺麗に消化していたと言っ ー・ダウン」のようなダンスフロアを標的にし ヒットさせたばかりのヴァン・マッコイにプロ てよく、同アルバムからシングル・カットされ 78 (JAM) 79 昔はニ−ル・ヤングのバンド・メイト 80年代はパンク・ファンクの雄 び、しばらくは英米を行き来する生 活が続いた。 Rick James 80年の『ガーデン・オブ・ラヴ』を挟んで 翌81年には、リックの最高傑作と名高い『ス ァンク・ロックは歓迎されず、徐々に表舞台か ら消えていくことになる。 77年になると、リックは拠点を完 トリート・ソングス』が発表された。「ギヴ・ それから間もない90年に、MCハマーが「ス 全にアメリカに置くことにし、のち イット・トゥ・ミー・ベイビー」「スーパー・ ーパー・フリーク」を丸ごと流用した「ユー・ にリックのバック・バンドとなるス フリーク」(テンプテーションズがコーラスを キャント・タッチ・ミー」を大ヒットさせた。 トーン・シティ・バンドを結成。こ 担当)の大ヒットに導かれて、アルバムはビル これを足掛かりに再浮上することもできたはず のバンドでリックはファンクの新し ボードのチャートのトップ100に54週間居座 だが、ドラッグに溺れて度重なる暴力事件を起 い形を模索し、プログレッシヴかつ り、最終的にダブル・プラチナムを記録した。 こしていたリックは、有罪判決を受けて投獄さ This page is protected. メロディアス、そして決まり文句の そして受賞には至らなかったものの、シングル れ、2年間の獄中生活を送ることになる。96 48年バッファロー生まれ。ファンク・ロッ 連呼ではない実のある歌詞を備えながらロック (「スーパー・フリーク」)、アルバムともグラミ 年に釈放されたのちは、心を入れ替えてドラッ クを標榜し、ある意味モータウンらしからぬ過 と融合させたファンク・ロックを始める。そし ーにノミネートされ、リックの人気は頂点を極 グも断ち、98年に久々の新作『アーバン・ラ 激でワイルドな音楽性で、ロサンジェルス移転 て78年、デモ・テープを聴いたベリー・ゴー めた。以後、『スロウイン・ダウン』(82年) プソディ』を発表した。そこにファンク・ロッ 以降、右肩下がりになっていたモータウンを ディーが、今度はアーティストとしてリックを からは「ダンス・ウィズ・ミー」、『コールド・ クの面影はなく、アコースティックなサウンド 80年代に盛り上げた異端の功労者だ。 モータウンに迎え入れると、同年「ユー・アン ブラッデッド』(83年)からはスモーキー・ロ でしみじみ歌う作品だったのは驚いたが、とに リック・ジェームスとモータウンとの関係 ド・アイ」と「メリー・ジェーン」が早速ヒッ ビンソンとデュエットした「エボニー・アイ もかくにもリックは復活した。そしてヒップホ は、すでに60年代に始まっていた。15歳で入 トし、ファースト・アルバム『カム・アンド・ ズ」、ベスト盤『リフレクションズ』(84年) ップ系のサントラや、ラッパーのアルバムにゲ 隊した海軍から逃げ出した先のトロントでニー ゲット・イット』もゴールドを記録した。上々 に収録された新曲「17」、『グロウ』(85年)か スト参加するとともに、再びツアーにも出た。 ル・ヤングらと結成したマイナー・バーズが、 の滑り出しを見せたリックは、翌79年のセカ らは「キャント・ストップ」とコンスタントに しかし98年11月、ショーの最中に首の血管が リックの叔父がメルヴィン・フランクリン(テ ンド『バスティン・アウト・オブ・エル・セヴ ヒットを出しながら、83年にはティーナ・マ 破裂して病院に運び込まれ、一時は危険な状況 ンプテーションズのオリジナル・メンバー。故 ン』を発表すると、初の大がかりなツアーに出 リーに続いてメリー・ジェーン・ガールズもデ にも陥るほどの事態から長期休養を余儀なくさ 人)だったこともあり、60年代半ばにモータ た。同年のうちに『フィア・イット・アップ』 ビューさせるなど、リックは活発な活動を繰り れてしまった。幸いにも順調に回復して全快し ウンと契約したのが最初だ。このグループはモ も発表され、この時のツアーには彼が結成させ 広げた。しかし86年の『フラッグ』を最後に たものの、以後は無理のないペースでの活動に ータウンで何曲かレコーディングしたが、それ た女性ヴォーカル・グループ、メリー・ジェー モータウンを離れ、リプリーズに移籍する。 抑えているようだ。 らはリリースされることのないままグループは ン・ガールズが、バック・コーラスとして帯同 88年には心機一転『ワンダフル』をリリース 解散した。その後、リックはロンドンへ渡り、 した。またこの年には、リックが発掘しティー し、ロクサーヌ・シャンテをゲストに迎えた いくつかのバンドを結成するが、その活動と並 ナ・マリーを、モータウンからデビューさせて 「ルージー・ラップ」がヒットしたものの、す 行してモータウンとはソングライター契約を結 いる。 80 (河地依子) でにヒップホップに向かっていた時代に彼のフ 81 うとか疑心暗鬼になりつつも、リックの才能を強 できないのではなかろうか。彼は両刃の剣ではあ ィズ』の音楽にクインシー・ジョーンズをセッテ く意識していたという。だが、当時のマーヴィン ったものの、モータウンが自己改革、つまりポス ィングしたのはモータウンではない) 。 が、彼のキャリアでもっとも苦しい時期にあった ト・ディスコ期から80年代モードへリセットす のもまた事実である。 るための、一種の触媒になったとも思われるのだ。 な復帰作『パワー』でも、ホーランド/ドジャ マーヴィンだけでなく、当時は他の大物たちも そんな自己改革ひとつと思われるのが、80年 ー/ホーランド人脈とはいえ、デトロイトの気鋭 いまひとつ気勢が上がらない。スティーヴィー・ の『モータウン20周年』なる記念キャンペーン アンジェロ・ボンドを起用した。ボンドは翌年に ワンダーは3枚組のやや難解な大作がリスナーの だ(最初の全米ヒットから20年めという意味だ 困惑を招き、ダイアナ・ロスは映画『ウィズ』の ろう) 。これは、バーニー・エイルズに代わって (78年)などでモータウンに関わっていた同郷マ 70年代終盤のモータウンは、リック・ジェー 不調も響いてかヒットが出ず、マイペースなスモ 社長に就いたジェイ・ラスカーの最初の大仕事で イケル・ラヴスミスと組み、好バンドのオゾンを ムズというひとりの男に大きく揺さぶられた。ギ ーキー・ロビンソンはそこそこながら、古参テン もあった。ゴーディーが会長を務める複合企業体 手がけて極上のアーバン・ファンクを聴かせる。 ラギラした欲望や体臭を、タイトで鋭利な最新フ プテーションズはなんとアトランティックに移 モータウン・インダストリーズは、全米一優良な シックについては例外的なほどビッグだった ァンク・サウンドとともにストレートに打ち出す 籍。元テンプスのデイヴィッド・ラフィンとエデ 黒人企業としてすでに御墨つきでもあったのだ が、モータウンは以降もときおり外部プロデュー 彼の音楽は、従来のモータウンでは考えにくいス ィ・ケンドリックスも、また元スピナーズのG.C. が、当時は過剰な経費や映画制作の不調などがた サーを起用した。スモーキーの大ヒット「ビーン タイルでもあったろう。78年のデビュー以来、 キャメロンも、この時期までにモータウンを去っ 意味深な愛欲ソング「ユー・アンド・アイ」 、マ ていた。元気だったのは若手といえるか。77年 『モータウン20周年』は崖っぷちのキャンペーン リー・ソウルの才媛ジーン・カーン(82年)で リワナ讃歌「メリー・ジェーン」などのヒットを に華々しく登場したハイ・イナジーは伸び悩み気 といえた。その一環としては、『スーパースタ のノーマン・コナーズ、ダズ・バンドのファンク 連発。スキャンダラスで傍若無人なイメージを、 味だったものの、好バンドのスウィッチが健闘し ー・シリーズ』と冠された過去音源のベストLP 秀作群でのレジー・アンドリュース、フィニス・ 煙もろともまき散らすいっぽう、ヴォーカル/演 ていたし、なんといってもコモドアーズの躍進は シリーズが組まれたりもしたが、注目すべきは現 ヘンダーソン(83年)や新生テンプスの大傑作 奏/ソングライティング/プロデュースなどで非 大きかった。数年前からスロー系の美曲でクロス 役組による新作のほうで、その力の入れようには 『トゥルーリー・フォー・ユー』 (84年)でのア 凡な音楽性を披露。次世代の“あぶない黒人ヒー オーヴァー・ヒットを実現してきた彼らは、78 並々ならぬものがあった。 ロー像”を見せつけた。81年には、猥雑な下半 ∼79年に「永遠の人に捧げる歌」 「セイル・オン」 モータウンの 80年代 ∼迷いのままに This page is protected. たって、なんと倒産の危機に直面していたという。 モータウンは同年、テンプテーションズの秀逸 は、ブラッドストーンの秀作『ドント・ストップ』 グ・ウィズ・ユー」 (81年)も該当するし、フィ ル・マッケイ(元アース・ウィンド&ファイアー) スモーキー・ロビンソン「クルージン」が前年 なども記憶に残る。部分的とはいえ、こうしたオ 身ソングとリアルなメッセージが同居したアルバ 「スティル」などでその地位を確立する。原動力 からのロングラン・ヒットをつづけたのち、マイ ープンなスタンスは、従来のモータウンには少な ム『ストリート・ソングズ』を発表し、矛盾をは は稀代のメロディ・メイカーたるライオネル・リ ケルら兄弟たちと別れてモータウンに残っていた かったのではないか。 らむカリスマとしての存在も確立。ティーナ・マ ッチーだ。 ジャーメイン・ジャクソンが「レッツ・ゲット・ さて、どうにか崖っぷちの80年を乗り切った リーやメリー・ジェーン・ガールズをはじめ、み レーベル開業以来、常にポップ市場を睨んでき シリアス」で久々に大ヒットを記録。同曲を手が モータウン。ゴーディーの回顧録によれば、同年 ずから率いたストーン・シティ・バンドも手がけ た創始者ゴーディーは、実績あるリッチーに肩入 けたスティーヴィー・ワンダーも傑作アルバム には彼の切り札というべきジョーベット音楽出版 た彼は、当時のモータウンの顔といえた。たとえ れしたがったことだろう。反モータウン的な外様 『ホッター・ザン・ジュライ』を数ヵ月後に発表 も売却の危機にあったというから驚きだ。いっぽ ベリー・ゴーディー・ジュニアら経営陣に(文字 のリック・ジェームス(契約時にはもう30歳近 する。ダイアナ・ロスは、当時最先端のシックが う、リック・ジェームスにとってはこの『モータ どおり)煙たがられ、またポップ・マーケットに かった!)なんぞが“レーベルの顔”ヅラしてい 手がけた『ダイアナ』が大成功して第一線に返り ウン20周年』が、大きなヒットがない谷間の年、 容易に受け入れられなかったとしても。ちなみに たのは面白くなかったろうし。だがその反面、リ 咲いた。外部プロデューサーの起用例は以前にも というのもなんだか皮肉である。ちなみにこの年 マーヴィン・ゲイは70年代末ごろ、リックが若 ックの存在がこのレーベルのタガを外し、従来に あったが、これだけメジャーなセッティングは画 には、将来の重要アクトも登場している。前述ス 妻の浮気相手だとか、ファンを彼に取られてしま なかった風通しをそこにもたらしたことも、否定 期的といえた(ちなみにダイアナの主演映画『ウ ウィッチの兄弟グループともいえるデバージであ 82 83 る。70年代のジャクソン・ファイヴに相当する ッチーの初ソロ・アルバムがまだ売れまくってい は映画『ラスト・ドラゴン』のサントラから。そ プ・スターの頂点を競うかに見えたころ、そのプ タレントを求めていたはずのモータウンには、 るなかでの出来事だったと思う。輸入盤店ではそ の映画にはモータウン入りしたヴァニティ(元プ リンスの台頭と交差するかのようにリック・ジェ の他のモータウン新譜も品切れになったり、国内 リンス一派)が抜擢されている。また、この映画 ームスは失速。全米トップ10入りをついに果た だったろう。デビュー作は不発に終わったが、 盤の発売元が急遽替わったりと、この日本でも を配給したトライスター社の縁からか、TVドラ せぬまま、87年にリプリーズへと去った。 82年からは順調にヒットを飛ばし、80年代モー 諸々の影響が出ていた記憶がある。リッチーのま マで当っていた俳優ブルース・ウィリスが、モー タウンの主戦力になっていく。 っさらな新曲「オール・ナイト・ロング」は、初 タウンから歌手デビューしたりもしている。 (音楽性は異なるものの)願ってもないグループ 81∼82の2年間で、ビルボード誌のソウル/ アルバムが依然ヒット中の83年晩夏に発表。 こうした話題作の陰で、隠れた名品といえるア 入れ替わるようにモータウン入りしたのが、超 重量級ファンカーのジェネラル・ケイン。だが、 2枚の秀作をリリースするも、セールスは芳しく ポップの両チャートで1位になった曲は2曲だけ MCAへのお約束の手土産?といった憶測も呼ん ルバムも、80年代半ばのモータウンからは出て だった。うち1曲はホール&オーツで、いうなれ だ敏速なリリースだったが、これが記録的なヒッ いた。前出のマイケル・ラヴスミスをはじめ、フ ば逆制覇である。あと1曲は、ダイアナ・ロスと トになり、ニュー・アルバム『キャント・スロ ィリス・セント・ジェームス、ボビー・キングな で、リッチー抜きでの大ヒットを達成したが、翌 ライオネル・リッチーが歌った映画主題歌「エン ー・ダウン』も売れに売れた。マイケル・ジャク どなどである。いっぽう、先にも触れた当時のモ 86年にはポリドールへ移籍。いっぽうジャーメ ドレス・ラヴ」 。当時のアメリカが不況気味だっ ソンの怪物アルバム『スリラー』には及ばずとも、 ータウン社長=ジェイ・ラスカーは、60年代か イン・ジャクソンはすでに84年、アリスタへ移 たなど、諸々の背景はあるようだが、いずれにし 堂々のメガ・ヒットを記録したのである。84年 らヴィー・ジェイやABC/ダンヒルといったレー っていた。 ても黒人音楽にとっては、クロスオーヴァー・ヒ には、同年4月に悲劇的な死を遂げたマーヴィ ベルで辣腕を振るった人物。彼はABC時代の部下 デバージも、グループとしては86年ごろマイ ットがとくに難しかった時期といえそうである。 ン・ゲイに捧げた「ミッシング・ユー」をダイア スティーヴ・バーリをワーナーから引き抜き、と ナー・レーベルに移籍。エルとメンバー外の末弟 それでもリッチーは着々と足場を固めた。いっぽ ナ・ロスに書き下ろし、さらにあの「ウイ・ア もにメリー・ジェーン・ガールズのデビューやフ チコはソロとしてモータウンに残った。入れ替わ うスティーヴィー・ワンダーは82年、2枚組ベ ー・ザ・ワールド」をマイケル・ジャクソンと共 ォー・トップスの復帰などに一役買った他、過去 るように登場したのが、同じく兄弟姉妹グループ ストLPに収めた新曲を次々とチャートに送り込 作。翌85年には映画挿入歌の「セイ・ユー・セ のアルバムの廉価復刻や編集盤シリーズ、モータ のグィン(GUINN) 。女性リードを擁した実力派 み、翌83年にはモータウン系列でおそらく初の イ・ミー」が大ヒット、と快進撃はつづく。 This page is protected. なかった。 コモドアーズは85年の名曲「ナイトシフト」 ウン・クラシックス満載の映画サントラ『ビッ だったのだが、ヒットには至らなかった。同時期 84年にはロックウェルという新人が、マイケ グ・チル』など、旧音源の活用にも尽力したとい には中堅女性シンガーのステイシー・ラティソー ル・ジャクソンも客演したデビュー・ヒット「ウ われる。おりしもポップ市場では、モータウン・ がモータウン入りして健闘している。 83年3月、華やかに開催された『モータウン ォッチング・ミー」などで話題を呼んだ。だがや サウンドのリヴァイヴァル現象も起こっており シンガー・ソングライターのギャリー・グレン 25』の記念イヴィントでは、マーヴィン・ゲイ がてベリー・ゴーディー・ジュニアの実の息子だ (ワムやフィル・コリンズらのUK勢に加えホー が地味ながら見事なアルバムを出したものの、他 やダイアナ・ロス、ジャクソン兄弟たちなど、レ と知れ渡ると、皮肉にも人気が下降してしまう。 ル&オーツらも) 、そのあたりも見据えての戦略 にはスティーヴィーとスモーキーとリッチーしか ーベルを去っていた面々もステージに上がり、ゴ モータウンが若干遅れをとっていたといえる、リ だろうとはいえ、名曲・名作を容易に聴けるよう いないかのようにさえ思えた87年半ば、ラスカ ーディーの功績を称えた。この模様は後日TV放 ズム・マシン等を多用した“打ち込みサウンド” にした意義は小さくない。ハイ・レーベルの権利 ーは社長を辞任。ゴーディーは内部のふたりの重 送され、番組はエミー賞に輝き、記念LPなども でのプロデュース能力も期待されただけに、ロッ を得て、アル・グリーンやアン・ピーブルズらの 役を共同社長に抜擢し、かつてスタックスのボス 複数リリースされた。そうしたお祭りムードの裏 クウェルが伸びないのは痛かったようにも思えた。 作品を廉価復刻していた時期もあった。 だったアル・ベルを副社長に据える大型人事を敢 では、これまで以上の自己改革も進められていた。 デバージ周辺は比較的対応しており、85年の こうした企業努力も、ポップ市場での売れ筋と 行。だがゴーディーのなかでは、その前年から水 同年5月、モータウンは長かった独立レーベル時 大ヒット「リズム・オブ・ザ・ナイト」もそのひ ブラックな感覚との距離が開いた80年代半ばす 面下で動いていたある計画が浮上していた。モー 代にピリオドを打った。配給を大手MCAに委ね とつ。だが、そのサウンドに保守的な匂いも嗅ぎ ぎのレーベル状況を好転させられるものではなか タウンをMCAに売り払うというものである。 たのだ。MCAとの契約発表は、ライオネル・リ とれたのは否めない。ちなみに同曲が生まれたの った。プリンスとマイケル・ジャクソンがポッ ラップ・シングル、ゲイリー・バードの「ザ・ク ラウン」を世に送る。 84 (出田 圭) 85 モータウンの 90年代 そして現在 ∼モータウンの旅、第2章 若手コーラス・グループのトゥデイ、ガール・ ルを基盤に持ちながら、アップ・テンポではヒ 一部で高い評価を得たものの、広いファン・ベ グループのグッド・ガールズ、ボビー・ブラウ ップホップも難なくこなす彼らは、デビュー時 ースを獲得できる種類のものではなく、ノーマ ンの穴を埋めてニュー・エディションに加入し から着々と人気を築き上げ、「エンド・オブ・ ン・ブラウン、ノーマン・コナーズなども、あ たジョニー・ギルなどがヒットを生んだ。また ザ・ロード」が、ビルボード誌ホット・チャー る程度、同様だったと思われる。鳴り物入りの ヒップホップにも取り組んで、ラップ・アクト ト史上初の13週連続1位を記録し、音楽業界 船出を果たした“MoJazz”だったが、96年を のレクスン・エフェクトを送り出すとともに、 を騒然とさせた。勢いに乗ったモータウンは、 最後にジャズ系の作品の発表がなくなっている スパイク・リー映画『ドゥ・ザ・ライト・シン さらに新しいアーティストとどんどん契約し、 ところをみると消滅したようだ。 グ』やキドゥン・プレイ主演の『ハウス・パー 次々とアルバムをリリースした。また70年代 期 も、9 4 年に「 アイ ル・メ イク ・ラヴ ・ト こうした時 88年、ベリー・ゴーディーはモータウンを ティー』のサントラなどもリリースし、時代に からCTIの配給を担うなど、ジャズにも興味を ゥ・ユー」が自身の記録を塗り替えて14週連 カタログ含めてすべて手放し、83年から配給 遅れまいとする意志も見せた。その一方、同じ 持っていたモータウンは、この時期に“アーバ 続1位を記録する大ヒットとなったボーイズII 元となっていたMCAと投資会社ボストン・ヴ ように伝統のあるアポロ・シアターと組んで、 ン・コンテンポラリーなスムース・ジャズ”を メンを筆頭に、ジョニー・ギル、新人ジャネイ ェンチャーズに売却した。これにより黒人所有 同劇場の名物プログラム“アマチュア・ナイト” のレコード会社としての幕は閉じられ、新生モ ータウンの社長には、MCAのブラック部門を This page is protected. 扱うレーベルとして“MoJazz”も立ち上げた。 らの人気、そして豊富なカタログによって会社 の優勝者のアルバムをリリースするためのアポ しかし93年になると、ボストン・ヴェンチ は支えられ、モータウンにもまだ余力はあった。 ロ・シアター・レーベルを立ち上げ、その第1 ャーズはモータウンをポリグラムに売却し、ポ 成功も大きかったが、その一方、バズビーはい 業界1位に押し上げた功績を持つジェリル・バ 弾としてサラ・ヴォーンの再来といわれたミラ リグラムはベリー・ゴーディーに名誉会長職と かにも手を広げすぎ、収拾がつかなくなってい ズビーが就任し、「我々はモータウンの第2章 イラを90年に送り出した。 しての復帰を要請した。おそらく新しいアーテ るようにも映った。 を作る」と意欲を見せた。 こうした幅広く意欲的な活動の結果、88年 ィストの発掘だけではなく、モータウンの生え そして95年10月、任期満了に伴い辞任した 80年代のモータウンは、スティーヴィー・ こそビルボード誌でのナンバー1ヒットはボー 抜きアーティストであるスティーヴィー・ワン バズビーのあとを受けて、新社長にはアンド ワンダー、スモーキー・ロビンソン、ライオネ イズの「ダイアル・マイ・ハート」1曲にとど ダーやテンプテーションズの活躍を含め、伝統 レ・ハレル(当時34歳)が就任した。ブロン ル・リッチーといった生え抜きのヴェテラン勢 まったものの、89年はボーイズ、トゥデイな を引き継いだ形の発展も求めたのだろう。実際 クス出身のハレルは、ドクター・ジキル&ミス (MCA売却後にはRCAからMCAに移籍してい どの3曲、90年にはジョニー・ギルの3曲を のところ、バズビーが力を入れた新人アーティ ター・ハイドというラップ・デュオの片割れと たダイアナ・ロスも戻った)に、ある程度、頼 含む5曲のナンバー1ヒットを生み、バズビー ストたちの多くは、目立った成功を収めたわけ してアーティスト経験を持ち、83年からはラ った状態だったが、バズビーは新しいアーティ の挑戦は一応の成果を見た。91年にもシャニ ではなかった。ACブラック、ベイシック・ブ ッセル・シモンズのもとで働いたのち、87年 ストの発掘に精力的に動いた。その結果、テデ ースの忘れがたいヒット曲、「アイ・ラヴ・ユ ラック、ユアーズ・トゥルーリー、7669、ソ にアップタウン・レコーズを創設した人物だ。 ィ・ライリーやLAフェイスなど、旬のプロデ ア・スマイル」を筆頭に、いくつかのビッグ・ ウルトリーといった有望株も多々いたが、いず 以後はパフィ・コームズ(現P・ディディ)を ューサーを雇いながら、ジャクソン5を彷彿さ ヒットが生まれたほか、再度マイケル・ビヴン れもセカンドを出せる状況に持っていくことは 片腕としながらジョデシィ、メアリー・J・ブ せる兄弟グループのボーイズ、ニュー・エディ スが持ち込んだフィラデルフィアの若者4人 できなかったし、誰もがハテ?と首をひねる新 ライジを大当たりさせ、90年初盤までヒップ ション∼ベル・ビヴ・デヴォーのマイケル・ビ 組、ボーイズIIメンがデビューした。 人も少なくなかった。“MoJazz”にしても、 ホップ・ソウルの牽引力となって、その手腕を ヴンスが持ち込んだキッズ・グループのアナザ そして92年以降は、そのボーイズIIメンが旋 マイルスを失ってPファンクに一時期、身を寄 発揮した。モータウンとしても、今後の発展の ー・バッド・クリエイション(ABC)、正統派 風を巻き起こす。伝統的なヴォーカル・スタイ せたフォーリーのアルバムは、斬新な音楽性が ためにはヒップホップ・ソウルの市場開拓が必 86 87 要不可欠と思われただけに、ハレルの手腕に寄 の702、白人男性4人組の98゜あたりを除いて 99年に入ると間もなく、ユニヴァーサルの親 スティーヴィー・ワンダー、テンプテーション せる期待は大きかったはずだ。そしてハレル自 ニュー・アクトを発掘できなかったこと、そし 会社シーグラムがポリグラムを買収したため、 ズとともに、再度、戦列に並ばせた。 身もモータウンの運営を「生涯の夢」と語り、 て何よりこれといったヒットを出せなかったの モータウンはユニヴァーサル・グループの傘下 そして時は00年代を迎える。マッセンバー アップタウンでは必ずしも成し得なかったが、 では仕方がない。 に入ったのだ。それに伴いモータウンの社長も グ体制のモータウンは、確かにいいアルバムを 黒人リスナーだけにとどまらずクロスオーヴァ そして97年11月、ハレルの退任後、しばら 交代することになり、ジャクソンの在任期間は 出すようになった。エリカ・バドゥ、チコ・デ ーして幅広いオーディエンスを獲得すること く空席になっていた次期社長の座に、映画/ わずか1年半ほど。あっけない幕切れであった。 バージ、ブライアン・マックナイト、プロファ (それこそがモータウンをインターナショナル TVの世界で活躍していたハーレム生まれのジ そして新社長に任命されたのは、キダー・エ イル、みんないいアルバムを出した。それが必 な存在にしたものだった)を誓った。それまで ョージ・ジャクソン(当時38歳)が着任した。 ンターテインメント(マネージメント会社及び ずしもセールスに結びつくとは限らないが、モ の数年間、シーンを席巻していたサンプリング 『クラッシュ・グルーヴ』『ニュー・ジャック・ レーベル)の最高責任者にしてユニヴァーサル ータウンは少なくとも音楽的な信頼を取り戻し を主体とした曲作りから抜け出し、オーガニッ シティ』『ジェイソンズ・リリック』などをプ の重役を務めていたキダー・マッセンバーグ た。そして01年には新人のインディア・アリ クでロウな表現と、隙のないカッコよさを備え ロデュースし、ヒップホップ・アーティストを だ。マッセンバーグはここに至るまでに、ディ ーがブレイクし、同年度のグラミーで、(結果 た音楽を送り出すことで勝算もあると考えてい いち早く映画に出演させた実績のあるジャクソ アンジェロやエリカ・バドゥなどを発掘して成 的に受賞はならなかったものの)最優秀アルバ たハレルは、ホレス・ブラウン、ラダエ、マリ ンは、種々のサントラ盤を通してレコード業界 功に導き、以後ブームとなるネオ・クラシッ ム賞、最優秀シングル賞を含む7部門にノミネ オ・ワイナンズといったアーティストを新たに とのつながりが深かったとはいえ、意表を突く ク・ソウルの先鞭をつけた人物として名を馳せ ートされた。さらに翌02年度のグラミーでは、 迎え入れる一方、93年8月には38組いた契約 人選だった。しかしモータウンが70年代初頭 ていた。したがって彼の社長就任に伴い、すで 見事に最優秀アーバン/オルタナティヴ・アー アーティストを、96年3月までに17組に絞り にロサンジェルスへ移転した際の目的のひとつ に袂を分かっていたディアンジェロを除き、キ ティスト賞を獲得するに至った。 込んだ。 This page is protected. はハリウッド進出だったこと、そして実際にモ ダー・エンターテインメントのエリカ・バドゥ そうした成功の後ろでは、ダイアナ・ロスや しかし思ったように事は進まず、ハレルはた ータウンは初めて映画を作り、テレビ番組を作 とA+がモータウン入りし、のちにはチコ・デ チコ・デバージが去るといった動きもあった った2年で解雇された。結果が出せなかった者 ったレコード会社だったことを思うと、マル バージ、グリニーク、プロファイルとも契約し が、モータウンは新たにマイケル・マクドナル は往々にして何もかも悪く言われるものだが、 チ・メディア時代に対応した発展への期待を託 た。彼が契約を結ぶときは、自分で曲を作るこ ドやビー・ビー・ワイナンスを迎えるととも ハレルもその例に漏れず、オフィスの改築や、 す意味で、ジャクソンは適任だったのかもしれ とができて、20年はもつアーティスト、とい に、ドニー、ラティーフ、ケム、白人シンガー 自分が登場するポスターを作ってのキャンペー ない。なお社長の交代と同時に、ポリグラムは うのが重要な判断材料になるというが、もう何 のレミー・シャンド等の新人を発掘し、少数精 ンなどに費用をかけすぎたと言われた。しかし モータウンをマーキュリーのアーバン部門と位 年もの間、アルバム1枚で消えていくアーティ 鋭の姿勢を貫いて堅実な活動を続けている。前 ハレルの肝煎りでデビューしたタラルが、線の 置づけ、トニ・トニ・トニ、ブライアン・マッ ストが多かったモータウンにとって、この視点 任、前々任の社長が2年以内でポストを去ると 細いどうということのないシンガーだったこと クナイト、ウィル・ダウニング、デブラ・モー が持つ意味は大きい。90年代の大黒柱だった いう異常な事態は脱し、地に足を着けた活動が や、当時のモータウンで唯一、安定した高セー ガンなどをモータウンへ移籍させた。 ボーイズ「メンは巣立っていったが、ブライア できているのは何よりだ。マッセンバーグは着 ルスが見込めるアーティストだったボーイズII ジャクソンはモータウン40周年にあたる98 ン・マックナイト、702、ジャネイ、ウィル・ 任当初から、この職を5年以上、続けることは メンの面倒を見ず(それがのちの彼らの移籍に 年に際し、テレビ番組と連動した企画を展開す ダウニングは残り、そしてマッセンバーグはモ ないだろうと語っていたが、その期日はすでに 繋がったとも言われる)、在任中、彼らにアル るなど、新たなる発展へ向けて下地を築いてい ータウンを離れてSBKに行っていたスモーキ 過ぎた。モータウンの旅は続く。 バムをリリースさせなかったこと、女性トリオ たが、そんな矢先、外からの大きな力が動いた。 ー・ロビンソンを呼び戻して、ダイアナ・ロス、 88 (河地依子) 89 ヒップホップと モータウン ∼その相性について も物足りず、成功には至らなかったが、91年に どのラッパー勢と、イントロ、チェンジング・ 用されたのちは、99年にマイケル・ビヴンス 登場した女性ラッパー、M.C.トラブルは見込み フェイセズなどのシンガー勢が競演を繰り広げ のビヴ10所属の8歳から14歳までのシンガー、 があった。自分で曲を書き歌も歌える資質を十 る、さすがに手堅い作品だったが、ヒットした MC、DJの集合体、ピー・ウィー・オールスタ 分に生かし、歌とラップを自由に行き来した というニュースは記憶にない。また同年、危機 ーズが送り出された。もっともこれは新しいデ 『ゴッタ・ゲット・ア・グリップ』は評判を呼び、 に瀕する社会の非常事態を訴えることをコンセ ィールではなく、すでにあった契約を引き継い 将来を嘱望された。しかし不運にもM.C.トラブ プトに掲げた壮大な企画のコンピレーション だものと思われる。2000年代に入っての新た ルは、間もなく病気で急逝した。92年にはマイ 『ステイト・オブ・エマージェンシー:State な契約では、AZとジャーナリストなどがいる。 ケル・ビヴンス絡みのM.C.ブレインズのデビ Of Emergency : Society In Crisis Vol.1』も発表 前者はナズとの共演で頭角を現し、すでにアル モータウンの最初のラップ・アクトは、ジェ ュー作『ラヴァースレイン』から「オーチー・ された。これはパブリック・エネミーの「ラッ バム・デビューも果たしていたが、環境に恵ま リル・バズビー時代に入って間もない89年に送 クーチー」がヒットしたが、アイドルのりポッ プは黒人のCNNだ」という言葉を具現化したよ れず少年声の魅力と実力に見合った成功を上げ り出されたレクスン・エフェクトだった。テデ プな作風ではヒップホップとしての人気を長続 うなアルバムで、社会に貢献しようという発想 られずにいたところに、マッセンバーグが救い ィ・ライリーの実弟マーケルを含む3人組で、 きさせることはできなかった。それに対して はモータウンらしいし、ロード・フィネス、ア の手を差し伸べた。そして後者はポジティヴな デビュー作『レックス・N・エフェクト』は、 9 3 年にデビューしたハーレ ム 出 身 の ト レ ン イス・T、チャック・D、ファーサイドといった リリックスには一家言あるクリーンなイメージ 当時テディが身を寄せていたジーン・グリフィ ズ・オブ・カルチャーは、モータウンにはある 人選も、曲の合間に街の人々の生の声やイスラ の新人。両者ともメロディアスでポップな作り ンがエグゼクティヴ・プロデューサーとなって、 まじきカース(汚い言葉)を連発するストリー ム教のミニスター・ファラカーンの言葉などを のアルバムを出し、それらはある意味モータウ テディのニュー・ジャック・スウィングとラッ ト直送の3人組だったが、こうなると従来のプ 織りまぜるというアイデアもよかったが、やは ンらしくはあったが、ヒップホップらしいエッ プを合体させた“ニュー・ジャック・ラップ” ロモーションがうまく機能しないのか、デビュ りプロモーションがついていかなかったのだろ ジには欠けていた。 を標榜した。狙いは悪くなかったが、何故か当 ー作『トレンズ...』からの「オフ・アンド・オ うか、結果的に企画倒れとなり、Vol.1というか なにやらどこまで行ってもモータウンとヒッ のテディが関わらなかったせいもあり、“ニュ ン」が小ヒットになったにとどまり、セカンド らには、当初はシリーズ化を狙っていたのだろ プホップは折り合いが悪いようだが、もともと ー・ジャック・ラップ”というには音楽的に中 はリリースされなかった。この年には移籍して うが、それも果たせなかった。 60年代にはしつけ係を雇ってアーティストた 途半端だったものの、ちょっとしたヒットには きたクイーン・ラティファの『ブラック・レイ このように、ことヒップホップになると、今 ちにマナーや上品な立ち居振る舞いを教えてい なった。 ン』も出ており、以前から彼女が興味を示して ひとつうまくいかないモータウンだったが、 たモータウンとしては、ヒップホップとは根本 いた歌をふんだんに取り入れた内容が話題にな 95年に社長に就任したアンドレ・ハレルなら、 的な志向性に相容れないものがあるのかもしれ 積極的にヒップホップに取り組んだ。90年発表 った。以後、ラティファのベクトルは、より歌 突破口を開けるのではと期待がかかった。しか ない。しかしヒップホップも十分に多様化が進 の前半をメロウ、後半をダンスとしたレッド・ へと向いていき、コアなヒップホップからは遠 し彼の在任中はモータウン自体の活動が滞りが んでいるので、マッセンバーグの持ち駒である バンディットの『クール・ラヴァー・ボーイ』、 ざかっていくことになる。続く94年には、翌 ちで、リリース総数も少なかったため、ヒップ A+をはじめ、現在、在籍する何組かのヒップ 今ひとつユルいリッチ・ナイスの『インフォメ 年、社長に就任するアンドレ・ハレルと縁が深 ホップにまでは到底、手は回らなかっただろう。 ホップ・アクトが、これからどのように送り出 ーション・トゥ・レイズ・ア・ネイション』あ かったDJ・エディ・Fが、ひと足早くモータウ それはジョージ・ジャクソン時代も、ある程度、 されていくかを見守りたい。 たりは、ストリートのリスナーには今ひとつお ン入りしてリーダー作を発表した。ヘヴィ・D 似たようなものだったと思われる。 行儀がよすぎ、単にポップスとして勝負するに やピート・ロック&C.L.スムース、2パックな そしてこの経験を踏まえて、90年代前半は、 90 This page is protected. (河地依子) そして98年にキダー・マッセンバーグが登 91 80年代イギリス (ニューウェイヴ)と モータウン ∼モータウン・サウンドは いかに消化されたか 「マニー」をフライング・リザーズがとてつもな ロ・アルバム『ウェイキング・アップ』も(モ ァーを連発し始める。R・ストーンズのヴァー くヘンテコリンなカヴァー・ヴァージョンにして ータウンではないけれど)ジミー・ヘルムズの ジョンを念頭に置いていたのかもしれないけれ しまったことも、それが過去の音楽に対する批評 暑苦しいソウル・ヴォーカルをフィーチャーし ど、モッズ・リヴァイヴァルとしてザ・ジャム になっているようには思えても、継承だとかリス たサザーン・ソウルを骨格とするものだった。 の後に続いたシークレット・アフェアーもザ・ ペクトという概念にはほど遠く感じられたりした いってみれば、彼らは自分たちがローリング・ ミラクルズ「ゴーイング・トゥ・ア・ゴーゴー」 ものだ。ストラングラーズによるシニカルな「ウ ストーンズのようなものだったから「1977年に をピック・アップし、スペシャルズによるルー ォーク・オン・バイ」 、ジャー・ウォーブルによ ローリング・ストーンズはいらない」と歌って ファス・トーマス「ドゥー・ザ・ドッグ」、ト るキッカイな「ブルーベリー・ヒル」なども似た みたということなのだろう。世代は、そして、 ム・トム・クラブによるザ・ドリフターズ「ア 実際にはロック・クラシックにどっぷりだった ようなものだった。仮に伝統的な音楽を色濃く背 確かに一時的には入れ替わり、米ローリング・ ンダー・ザ・ボードウォーク」、エルヴィス・ パティ・スミスやシックスティーズ・タイプのブ 景に持っていたとしても、それこそスクリッテ ストーン誌はそれから10年後に80年代における コステロによるザ・ミラクルズ「フロム・ヘッ ロンディが先頭グループにいたにもかかわらず、 ィ・ポリッティのように、それをそれとはわから クラッシュによる「1977年にローリング・スト ないようにして出すことが一種のマナーのような ーンズはいらない」だとか、主力をロンドンに移 ものになってしまったともいえる。 してからのパンク・ロックが過去からの切断をあ まりにも強調していたために、70年代末に勢い This page is protected. バカでかい眼鏡で初めから開き直っていたエ ルヴィス・コステロを除けば、最初に大きく 最重要グループとしてクラッシュを選出し、 『ロンドン・コーリング』をアルバム・オブ・ ザ・ディケイドにマークしていた。 The Clash 『London Calling』 ド・トゥ・トー」やシュレルス「ベイビー・イ ッツ・ユー」と、直接的なアプローチはそこか ら堰を切ったように増え始める。ビザーレなイ メージを強調したソフト・セルがシュープリー ムス「ホエア・ディド・アワ・ラヴ・ゴー」を (epic : 36328) を得ていたニュー・ウェイヴがモータウンやそれ “転向”を表現したのはクラッシュだった。ジ カヴァーすれば、ジャパンもマーヴィン・ゲイ に限らず過去の音楽からの影響をあらわにするこ ョニー・オーティス・ショーを彷彿とさせる 「エイント・ザット・ペキュリアー」を取り上 とは、しばらくは辺りを憚れるようなことになっ 「ルーディー・キャント・テル」やウォール・ Topper Headon 『Waking Up』 (Mercury : 826779-2) げ、マリ・ウィルソンやトレイシー・ウルマン てしまった。ディスコ・ミュージックやクラフト オブ・サウンドそのままといえる「ザ・カー ワークの影響でエレクトロニック・ポップ・ミュ ド・チート」などを詰め込んだ『ロンドン・コ ージックが新感覚として持て囃されていたことも ーリング』が、パンク・ロックをR&R一本槍と クラッシュに影響されたのかどうかはわから ばもはやノスタルジー全開である。カーメルや これには拍車をかけ、ロンドン・パンクの中心的 いう呪縛から解き放ち、そのままシクスティー ないけれど、大西洋の対岸では翌年になってラ オレンジ・ジュースのように、さらに古い時代 存在だったジョニー・ロットンがPILとしてオル ズ・リヴァイヴァルの扉をあっけらかんと開け モーンズがプロデューサーにまさかのフィル・ タナティヴに向かい、ダブという手法が様々なレ ることとなった。この試みが大した反発も引き スペクターを迎え、しかも「ベイビー、アイ・ ヴェルに浸透していった事情も簡単に見逃すこと 起こさず、どちらかというと歓迎ムードで受け ラヴ・ユー」をカヴァーしてしまった…のと前 はできない。パンク・ロックが実質的にはロック 入れられたことは80年代の音楽シーンにとって 後して、今度はザ・ジャムがシュープリームス ン・ロール・リヴァイヴァルだったこともR&Bに はとても大きなことだったように思える。それ 「バック・イン・マイ・アームス・アゲイン」 のように姿かたちからシクスティーズに同化し ていくパフォーマーも現われた。ここまでくれ Soft Cell 『Non-Stop Ecstatic Dancing』 (Sire : 23694) Japan 『Gentlemen Take Polaroids』 は不利だった。そして、モータウン・クラシック から7年後と、少し時間の隔たりはあるけれど、 やアーサー・コンリー「スウィート・ソウル・ としてあまりにも有名なバレット・ストロング クラッシュを脱退したトッパー・ヒードンのソ ミュージック」といったR&Bクラシックのカヴ 92 (Virgin : 2180) 93 へと遡ってしまう人たちも少なからず出現し、 ウンドからスタートしたABCは、アーティキュレ プスのレヴェルにまで押し戻すにはやはりサイケ 気がつけば、マリ・ウィルソンのプロデュース イション・ビート・チェインジという名の通り、 デリック以前のモータウンまで戻ってしまうのが にあたったトット・テイラーがライヴではプリ 次第にビートを強化をさせていく一方で、メロデ 間違いの少ない筋道のたどり方だったということ ンス「テイク・ミー・ウィズ・U」を取り上げ ィ・ラインに余韻を持たせるような歌い方に変え に違いない。 ていたことが新鮮に感じられるほど、「新しい」 ていくことで、アルバムも5枚を重ねる頃には一 テクノでいえばハード・ミニマルがジャズ・ がどこへ消え去っていた瞬間もあったほどだっ 気にザ・ミラクルズへと近づいていった。カルチ ファンの耳にも届きそうになると、エレクトロ た。 ャー・クラブもブロンスキー・ビートもこの変化 クラッシュにさっさと揺り戻してしまうのと同 と同じ線上のどこかにいたようなものだ。多少ヒ じといえば同じである。スペシャルズとマッド ネくれてはいたけれど、ユーリズミックスなんか ネスの陰に隠れてもうひとつ目立たなかった も似たようなものだろう。バナナラマは声に張り ザ・ビートを母体とするファイン・ヤング・カ Fine Young Cannibals 『Fine Young Cannibals』 (IRS : IRS-5683) ABC 『Beauty Stab』 (Mercury : 814661-1) This page is protected. Fine Young Cannibals 『Raw & the Cooked』 (IRS : IRS-6273) Blaze 『25 Years Later』 (Motown : MOT-6301) ABC 『One Better World』 (Polygram : 8742892) がないという以外、シュープリームスのアレンジ ニバルズは、なかでは、セカンド・チャレンジ と受け継がれていったモータウン・サウンドの をそのまま再現しようとしている曲もあり、大体、 ということもあってか、比較的、成熟した音楽 メイン・モチ−フは、おそらくはエレクトライ 性を聴かせる3人組だった。コミュナーズまで ヴ101やタイレル・コーポレイションなどによる 歩を進めてしまうと、全編に渡ってフィリー・ ディープ・ハウスにその活路を見出していった と思われる。 「ウェイク・ミー・アップ・ビフォー・ユー・ゴ ーゴー」に「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」 そういった意味では、モータウン・サウンド (ワム!)とか、「ヒーズ・ガット・タクト」に ソウル・リヴァイヴァルという感じになってし は、80年代も半ばになる頃には、街のあちこち 「ハート・ワクワク」 (バナナラマ)というような まうけれど、 「ジョニー・カム・ホーム」のヒッ 話はアメリカに移ってしまうけれど、モータ から聴こえてきたといえるほどニュー・ウェイ 邦題をつけてしまう時点で、すでに時代はモータ トでいきなりフロント・ラインに躍り出てきた ウンというレコード・レーベルの底力ないしは ヴ・サウンドに消化されていた感がある。とり ウン・リヴァイヴァルとしかいいようのないヴァ ローランド・ギフトたちはフランキー・ゴー ブランド力をひとつカウントするならば、ディ わけその中心となったのはバナナラマやABC、 イブレイションに頭から呑み込まれていたような ズ・トゥ・ハリウッドが人工的なイメージをピ ープ・ハウスというフィールドでは初めての大 そしてザ・ビートが発展的な解消というやつを ものなのだ。トリップ・ミュージックとしてアブ ークまで押し上げようとしていた時期に、巧妙 きな一歩だったと考えられるブレイズのデビュ 遂げたファイン・ヤング・カニバルズだった… ストラクな方向性に進みすぎた70年代のロッ に泥臭さを紛れ込ませたR&Bサウンドで、60年 ー・アルバム『25イヤーズ・アフター』はモー というのはさすがに乱暴かな(スタイル・カウ ク・ミュージックを子どもにもわかるようなポッ 代後半のモータウン・サウンドを少しは大人の タウンがその受け皿となったのである。90年と 耳にも耐えるものへと昇華させていく。彼らが いう時点で、この判断はかなりクレヴァーかつ ンシルやそのフォロワーのように扱われていた ブロウ・モンキーズはどちらかというとシカゴ Wham! 『Make It Big』 最大のヒット曲である「シー・ドライヴズ・ミ 驚きに満ちたものだった。そして、ABCにとっ ー・クレイジー」を冒頭に置いたセカンド・ア ては14枚目となるシングル「ワン・ベター・ワ ルバム『ザ・ロウ&ザ・クックド』をリリース ールド」はブレイズがメイン・リミックスを手 (Epic : 86311) 色が強かった。ましてやソウル・ウィークエン ダーズたちを強く引きつけたワーキング・ウィ Bananarama ークからウェット・ウェット・ウェットへと続 『True Confessions』 した年は、しかし、すでにセカンド・サマー・ 掛け、この話はあまりにもうまく閉じてしまう く流れなどは) 。 (London : 828031-1) オブ・ラヴ=アシッド・ハウス・フィーヴァー のである。字数がまだ少し足りないというのに。 の年と重なり、70年代にはフィリー・ソウルへ (三田 格) マイケル・ジャクソン風のプリ・ディスコ・サ 94 95 ジャズと モータウン ∼ベリーの憧れ タムラ∼モータウンからの全米トップ10ヒ そ の 後 、 6 5 年 に はアー ル ・ヴァ ン ・ダイ ットを数えるのに両手が必要になろうという ク&ザ・ソウル・ブラザーズ名義のインスト集 務めたアーサー・アダムスのシングルも3枚)、 頃、ゴーディーはモータウンのジャズ系レーベ 『ザット・モータウン・サウンド』、65∼68年 同じく南ア出身のレッタ・ムブールが1作品。 ルとしてワークショップ・ジャズを興し、62 にかけてビリー・エクスタインの3作品がモー そしてやはり2枚のアルバムを残したのが、ジ ∼63年の短かい活動期間にシングル7枚とア タウン・レーベルからリリースされるが、60 ャズメンにしてポップス並みの好セールスを記 ルバム19枚を制作した。7枚のアルバムはお 年代末になって再びゴーディーが見せたジャズ 録し注目を浴びてすぐ他界してしまったギタリ 蔵入りになるもその中の1枚が90年代末にな へのアプローチがチサ・レーベルだ。英国経由 スト、ウェス・モンゴメリーの兄モンク・モン バムが各2枚(クルセイダーズのギタリストを って“ロスト&ファウンド”シリーズで陽の目 で60年代初頭に渡米した南アフリカ出身のト ゴメリー(ベース)であったことは見逃せない。 ベリー・ゴーディーはジャズ・ファンだっ を見たフォー・トップスの『ブレイキング・ス ランペット奏者ヒュー・マセケラと、ニューヨ またスチュワート・レヴィンは80年代に入り、 たという。クラブに通ってはその演奏に身を ルー』である。他6枚分は誰なのかさえ不明だ ークはブロンクス生まれのスチュワート・レヴ シンプリー・レッドら英国のソウル・ミュージ 焦がしていたとも伝えられる。そんな青年が が他には、ファンク・ブラザーズのピアノ奏者 ィン、ニューヨークの音楽専門学校で知り合っ ックの影響を受けた人々のプロデュースを数々 24歳にして最初に興した事業が3D レコー ジョニー・グリフィスのトリオの『デトロイ たふたりはコンビを組み、60年年代半ばチサ 手掛けるようになるのだった。 ド・マートなるジャズ専門レコード店、後年 ト・ジャズ』、チコ・ハミルトンらと共演した を創設した。67年全米12位のヒットになった には映画『ビリー・ホリデイ物語』を作った。 後に生地デトロイトで自身のカルテットを結成 ミリアム・マケバ(後にマセケラと結婚)の ダイアナ・ロスの銀幕進出に躍起なあまり、 したトロンボーン奏者ジョージ・ボハノンの 「パタパタ」を追うように、68年マセケラの ビリー・ホリデイの人生を乗っ取るようなか 『ボス・ボサ・ノヴァ』 、チャールズ・ミンガス 「グレイジング・イン・ザ・グラス」も全米1 たちでダイアナ・ロスの成功を図りジャズ・ と共演する一方ドナルド・バードとの双頭グル 位(R&B4週1位)の大ヒット、その翌年の ファンの顰蹙を買うヘマをしたが、それもか ープでも活動したバリトン・サックス奏者ペッ 話である。すでにデトロイトからロサンジェル でポップ100位内に初めて入ったジャズ・クル つて見た在りし日のビリー・ホリデイが鮮明 パー・アダムスのミンガス曲集、ホレス・シル スへの転居は決まっていたろう時期、拡張を狙 セイダーズはグループ名から“ジャズ”を取っ に焼き付いていたから…だったかもしれず、 ヴァー・クインテットで活動したドラムス奏者 いモーター・シティを置き去りにするかたちの た次作でチサ時代を終え、クルセイダーズとし せっかく開いたレコード店が2年ほどで閉店 ロイ・ブルックスの『ビート』等々。どれ一つ モータウンにとって、アパルトヘイト撤廃を背 ての第2作目『ハリウッド』はモーウェストか に追い込まれる苦い経験をした後も、ゴーデ 私は耳にしたことがないけれど、ミュージシャ 負ってもいた南ア出身マセケラの存在は、魂を ら72年にリリースされるも、このモータウン ィーは機会あるごとにジャズとの関わりを持 ンの出処・活動・表題から想像するに、デトロ 失い黒人同胞のコミュニティを忘れるのではな 新レーベルの命もまた短く(71∼73年)、クル った。その足跡は、実り少ないものを時間を イトという地を強く意識しつつボサノヴァやフ くより広い世界を見据えて…といった格好のイ セイダーズが注目を集めるようになるのはブル かけて育てる気などなく、好きなジャズであ ァンキー・ジャズはじめ当時の動きを視野に入 メージ戦略になることもゴーディーは見逃さな ー・サム移籍後のこと。だがモータウンは75 わよくば…と考えていた、としか思えないよ れたアルバム制作だったといえそうだ。 かった、と意地悪く見ることだってきる。とま 年、CTI/KUDUのディストリビューションを開 れチサとモータウンとの関係は71年までの約 始する。前述ウェス・モンゴメリーの成功を受 2年、シングル16枚とアルバム7枚をリリー け、70年A&M傘下にCTIレーベルを設立したプ ス。マセケラ、ジャズ・クルセイダーズのアル ロデューサーのクリード・テイラーはほどなく This page is protected. The Crusaders 『Pass the Plate』 (Chisa : 807) うでいて反面、生来の賭け師的性格というか Hugh Masekela 『オールド・ソックス、ニュー・シューズ』 『Hugh Masekela & Union of South Africa』 商売人としての先見の明のありようを面白い くらい伝えていて感心すらさせられる。 96 (Motown : 530330) 97 新たにKUDUを設立、そのR&B∼ソウルへの イケル・ウーバニアクやマイルス・デイヴィス にしあげた1作目に対し、聴きやすさを半減さ く『ナイト・ソング』…などといったら引く人 方向性を打ち出したサウンドはジャンルをクロ にも影響を与えたシカゴのピアノ奏者アーマッ せても冒険し、作り手側の思惑を打ち出したあ も多いだろうが、御大の演奏はメロディックで スオーヴァーして聴かれるようになり、その中 ド・ジャマルのアルバムもリリースした。が、 の時代にしか出せない音を刻んだ2作目――と いて力強く、聴き流そうにも決して聴き流せな から生まれたスター・プレイヤーがグローヴァ ジャズ/フュージョンも過渡期を迎え、モータ いうチサでのそれぞれの2作品の違いの面白 いラウンジ・ピアノ風のそれで、これだからう ー・ワシントン・ジュニアだった。ジャズ・ア ウンも25周年を華やかに祝ったのち自社ディ さ。それに作・編曲/制作に積極的に関わるよ るさいシカゴの聴衆の心を掴んでいた、と思え ルバム・チャート首位常連となりR&B∼ポッ ストリビュートを止めるに至り、自然とジャズ うになったグローヴァーの音楽家としての成 る魂感じるものである。そしてそのプロデュー プ畑でも徐々に浸透、75年作『ミスター・マ など忘れた(ついでにいえばテイラーも83年 長。それもこれも、待つことができずアーティ スはこの時期モータウンが迎え入れていたリ ジック』はR&B1位になり全米トップ10ヒッ にCTIの権利をCBSに売却し制作現場から引 ストの育成もできなかったかわり余計な圧力を ー・ヤング・シニア(ドラマーからプロデュー ト。彼はKUDU初作表題曲「インナー・シテ 退)。 かけることもなかった(たぶん)ことで作り手 サーへと転身)、ビリー・ホリデイに“レイデ に与えた自由が効を奏した、といえなくもない。 ィ・デイ”の愛称をつけ録音も共にしたサック ィ・ブルース」をはじめ「マーシー・マーシ しかし90年代に入ってモータウンとジャズ ー・ミー」「トラブルマン」等を当初から演奏 との関係を見直す動きからモー・ジャズ・レー そしてこと時流を鑑みるに、そうしたアーティ していた。アプローチの角度に違いはあれ、ゴ ベルが設立され、相談役となったノーマン・コ ストの顔ぶれ/音楽性は、機を見るに敏なゴー 本当のところどの程度だったかは不明なベリ ーディーとテイラー(同じ29年生まれ)が手 ナーズがみそめたノーマン・ブラウン(ギター、 ディーにとっては可能性ある、言い換えれば当 ー・ゴーディーのジャズへの思い入れ。だが、 を結ぶことは互いに効果絶大だったはずで、デ スティーヴィー・ワンダー<トゥー・ハイ>の たる率大な、たまらなく触手を動かされる存在 確かな見る目を持ちながら、待てなかったばか ィストリビューション開始から3年後の78年、 カヴァーでボーイズIIメンと共演)をはじめ、 であり、彼らと関わろうと動いたところに賭け りに勝てた勝負を逃し(クルセイダーズのモー モータウンはグローヴァー・ワシントンを獲得 後期マイルス・バンドのベース奏者フォーリ 師ゴーディーが窺われて面白い。 ウェスト後の成功も、グローヴァー・ワシント し『リード・シード』をリリースした。 ー、ウィントン・マルサリスが発掘したエリッ Grover Washington, Jr. 『The Best of Grover Washington, Jr.』 (Motown : 530620) This page is protected. ク・リード(ピアノ)等々の作品をリリース。 Ahmad Jamal 『Night Song』 スの巨匠レスター・ヤングの弟…であった。 ンの『ワインライト』の大ヒットも)、かとい って小さな勝ちにも名声だけにも満足できず、 (Motown : M7 945R1) 加えて、チサ、KUDU作品を含むモータウン・ しかしジャズは常に変わらず彼の憧れであり ジャズ作品のCD再発もされた。とはいえモー (だから踏み込むこともしなかったが)近くに タウン∼ゴーディーが直にタッチしていただろ フュージョン全盛最中の80年に、アーマッ あってほしかった。そうしたビジネスだけでは それを受けてかモータウン20周年キャンペ うのはワークショップ・ジャズだけで、KUDU ド・ジャマル(30年生まれ)のアルバムがモ 語ることのできないものがゴーディー∼モータ ーンの一環でか70年代末、モータウン内のジ は無論、単にディストリビュートするだけとい ータウンからリリースされたのはかなり意外だ ウンとジャズの関係にはあって、モータウン自 ャズ/フュージョン熱はにわかに高まり、“第 う以上の関係だった(はずの)チサも、その後 ったともいえるが、ポップス最高位3位を記録 体の実体がないに等しくなり寂しさや苦味が勝 2のクルセイダーズ”的新バンドのドクター・ の諸作も、モータウン・カヴァーはあれ音その し100週以上もチャート・インした58年作『バ るようになっても、ジャズ絡みのところには何 ストラットを送りだし、80年秋までに彼らの ものへの多大な関与はほとんど見受けられな ット・ノット・フォー・ミー』の人である。と ともいえぬほのかな甘さが漂っているのであ 2作目、グローヴァーの『スカイラーキン』と い。たとえばヒュー・マセケラとクルセイダー もすればフュージョンがそう呼ばれもしたイー る。 KUDU時代のベスト盤、東欧出身でニューヨー ズの――モータウンへの多少の配慮も見せつつ ジー・リスニングな、しかも80年代の匂いす クの隠れ顔役になっていたヴァイオリン奏者マ 洗練味あるよくプロデュースされた高質の作品 るサウンドの中にラウンジ・ピアノ風演奏を聴 98 (松永記代美) 99 クラブ・ミュージックと モータウン ∼グローバー・ワシントン・ ジュニアはなぜ クラブ世代に支持されるのか リラ的にブートで出すしかなく、90年代のヒ ントン・ジュニア。なかでもクラブ・リス に流されず、どこかほろ苦い感触がただよ ップホップは急速にメジャーとアンダーグラ ナーにとって一番人気なのは『ミスター・ っているのは、グローヴァー自身、その甘 ウンドに分離していった。 マジック』だ。私の手元にあるCDは95年に さがどのような苦闘を経て実現されたか身 90年代後半からは、ハードディスク・レコ モ ー タ ウ ン か ら 再 発 さ れ た も の で 、“ M o をもって知っているからだろう。 ーディングの普及でヒップホップの制作状況 Jazz”の表記も入っているのだが、プロデ 80年の『ワインライト』(エレクトラ)は も様変わりし、生演奏を導入した曲が増えて ューサーはクリード・テイラーで、オリジ グローヴァー・ワシントン・ジュニアの最 きた。サンプルしてバカ高いライセンス料を ナルは75年にCTIのサブレーベル、KUDUか 大のヒット作だが、ビル・ウィザースが歌 払うよりも自分たちで作ったほうがよっぽど ら発売されている。この時期モータウンは う「ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス」 街なかやラジオで流れるヒップホップにモ いいや、というわけだ。だがここ最近、その CTIのディストリビューションを手がけるな の邦題が、田中康夫の小説をもじった「ク ータウン・ネタが目立つようになったのは90 状況も変わってきているようだ。その一例はイ ど、両者は友好関係にあった。CTIのハイソ リスタルの恋人たち」というのもいま考え 年。モニー・ラヴの「イッツ・ア・シェイム」 エスタデイズ・ニュー・クインテット(マッド なイージーリスニング・ジャズはベリー・ ると感慨深いものがある。当時、大学生の This page is protected. (スピナーズの同名曲ネタ)や、パブリック・ リブ)の『スティーヴィー』。このロサンジェ ゴーディーにとって人種的・階級的なコン カーステレオで重宝されたというこの曲は、 エナミーの「ウェルカム・トゥ・ザ・テラー ルスの鬼才は、02年にまるまる1枚スティーヴ プレックスをくすぐる魅力があっただろう 消費社会の到来による物質的な豊かさを享 ドーム」(テンプスの「サイケデリック・シャ ィー・ワンダーのカヴァーというアルバムを作 し、クリード・テイラーにとってもKUDUの 受しながら、どこかでその虚しさを感じて ック」ネタ)、忘れちゃならないMCハマーの ったが、むろんリリースできるはずもなく、ご ブラック色を打ち出すためにモータウンの いたであろう当時の日本人の心象にしっく 「 ユ ー ・ キ ャ ン ト ・ タ ッ チ ・ デ ィ ス」( リ ッ く一部でひっそりとブートが出回っただけだっ イメージは利用価値が高かったはずだ。 りきたのだろう。 ク・ジェームスの「スーパー・フリーク」ネ た。と思いきや、ここにきて(04年)正式なリ 『ミスター・マジック』は純粋なモータ 現在のクラブ世代がグローヴァー・ワシ タ)がポップ・チャートでも大ヒットした。 リースが決定したのだ。従来ならば考えられな ウン作品ではないが、以前にもヒュー・マ ントン・ジュニアに魅かれる理由も、おそ この3曲の元ネタはいずれもミディアム・テ い事態である。スティーヴィー本人が絶賛した セケラやジャズ・クルセイダーズを手がけ らくこの延長線上にある。また、クラブと ンポのファンクで、1小節のループで作るヒ という噂もあるし、03年にブルーノートからア ていた当時のモータウンが目指していた方 モータウンの関係ということでいえば、現 ップホップの手法と相性がよく、キャッチー ルバムを出した実績が影響しているのかもしれ 向性のひとつが、グローヴァーのようなソ 在ハウス界の頂点に君臨するブレイズが90 なリフも反復するのに好都合だった。 ない。興味深い動向だ。 フト・サウンディングなソウル・ジャズだ 年にモータウンからアルバム『25 イヤー だがその直後、91年あたりからサンプリン マーヴィン・ゲイの『ホワッツ・ゴーイン ったことは想像がつく。70年代は公民権運 ズ・レイター』を出していたことも忘れて グをめぐる訴訟が相次ぎ、以降は元ネタをモ グ・オン』はヒップホップ/R&B界では大ネ 動がある程度の成果を収め、以前に比べれ はならない。これはハウス・ミュージック ロにパクッた曲は激減する。ヒップホップの タ中の大ネタだが、最近のクラブ世代のあい ば黒人の社会進出や地位向上も進み、夢の 史に残る名作であるとともに、モータウン アーティストはサンプル・ネタをクレジット だでは近年のレオン・ウェア人気もあいまっ また夢だったアメリカン・ドリーム、中産 のクラブ・ミュージックへのアプローチの するように義務づけられ、著作者の許可が得 て、『アイ・ウォント・ユー』のほうが受けて 階級的な生活への幻想が高まった時期でも 限界をも示しているのだが、そろそろ紙数 られない場合は発売延期や曲の差し替えもや いるようだ。癒し系ってやつですか。そんな あった。そんな時代にふさわしいBGMとし が尽きたので今回はこのへんで。 むをえず、という事態が続出した。というわ わけでメロウ&セクシー路線が好まれる昨今、 てグローヴァーの音楽は多くの黒人たちに けで、従来の手法で続けようとする連中はゲ とみに再評価が高いのがグローヴァー・ワシ 支持された。『ミスター・マジック』が甘さ 100 (春日正信) 101 モータウン的作曲術の効用の和式証明でありま 歌謡曲と モータウン ∼至るところにモータウンあり の構造を別の世界で変容/改訂し、拡張する。 る(79年) 。この曲を聴いて初めてなのにすでに す。 “モータウン的なるもの”が仮にあるとする 「真夏の出来事」は“シュープリームスのような 聴いたことがある、と思ったのは。毎週「サザエ ならば、それはリフレイン術であります。 「サザ イメージ”の曲ではなく、 “モータウンの楽曲群 さん」に無意識に親しんでいたからである。筒美 エさん」はそれを物語る入口にもなっています。 の骨格”を歌謡曲化した作品だった。 「サザエさ 京平は70年代以降の日本の歌謡曲を大きく変え 《(平山三紀の「真夏の出来事」の)曲作りの ん」はそのプロトタイプ的な位置にある。両者の た。その方法のひとつにモータウンの骨があった。 差はリズム/ビートとメロディーの関係にある。 筒美が先駆けであり、手本だったことでその着眼 手法の根本的な部分は、まさしくモータウンの H-D-Hスタイルなんだけど、これはH-D-Hのパ 「真夏の出来事」はメロディーとビートが最初か クリではなく、H-D-Hのノウハウをヒントにした ら最後までことごとく一体化している。だからB モータウンの基本形を我々日本人の多くは毎週 筒美京平のオリジナルということですね。関係と メロでベースがすさまじい演奏をしても聴き手の 日曜日の夕方に無意識に叩き込まれて来た。宇野 しては並列に近いでしょう。 (中略) 「真夏の出来 頭の中にはイントロから続くベース・ライン=A ゆう子の歌う「サザエさん」である。 事」のあのリズムリフっていうのは、筒美京平自 メロが残っている。モータウンの曲の多くが、イ 身によるものだからね。まあ、他の部分に関して ントロで主メロを叩き込まれるようなビート構造 は多くの作曲編曲制作者によって踏襲され転用さ れていった。 中川浩夫とアンジェラス 『ヨコハマ物語』 (ビクター:SV-1149) 毎週毎週“お魚くわえたドラ猫追っかけてはだ This page is protected. しで駆けてく”サザエさんのどこがモータウンな も、モータウン全般の手法が幅広く使われていて、 になっている。それがR&Bの基本といえばそのよ モータウンの粉が何年にもわたって日本の大衆 んですか、と問いながらじっくり聴いてみて下さ グロッケンやストリングスなんかのノセ方もそう うなのだが、実は60年代以前の歌謡曲ではリズ 音楽市場に撒き散らされた。さらに「ストップ! い。ドラムスとベースに注意すれば、ハタと膝を だし、コーラスもバカラック・シンガーズという ム/ビートはメロディーの保護あるいは支援用の イン・ザ・ネーム・オブ・ラヴ」が何度もディス 打つでありましょう。 よりジュニア・ウォーカー&ザ・オール・スター 役割しか与えられないのが普通だった。そうでは コでリヴァイヴァルしたり、フィル・コリンズが ズに近いよね》( 『リメンバー』第15号より) ない、ビートを強調した歌謡曲は、いわゆるノヴ 「恋はあせらず」をカヴァー・ヒットさせたりし 間奏部分に注目(耳)です。タッタッタッタッ と打たれるスネア、ランニングするベースの心地 よさ。 “みんなが笑ってる∼”の後のベースのラ ンニングも見事なモータウン(ジェマーソン!) です。メロディーに内包されたふわふわとした平 穏な家庭のムードを頑強だがまろやかなビートで と「真夏の出来事」を87年春に分析したのは高 ェルティー系作品として区別されることが多かっ たおかげで、モータウン菌はそのつど強さを増し、 た。しかし「真夏の出来事」はモダンではあるが、 有名フレーズ転用は加速した。モータウンは使い 至極まともな成人向けのラヴ・ソングである。そ 減りしないネタ床となった。引用は孫引きから今 こが画期的だった。ビートを強調するのではなく では多くが玄孫引き状態だ。それもこれも先達が メロディーと一体化させる、しかも流用ではなく 菌を吸引していたおかげで、作り手も聴き手も反 歌謡曲の言語体系と合致した形で。モータウンの 応が早くなっていたからである。モータウン菌は 平山三紀が71年5月25日に発表した「真夏の 骨格に歌謡性を見出しそれを自作で提示したパイ 今日も至るところで日本の歌謡界で納豆並みにポ 出来事」の作編曲は筒美京平。 「サザエさん」 (69 オニアの筒美は「マイ・ガール」に似たリフレイ ピュラーな発酵を続けている。探さなくてもしば 年11月10日発売)も筒美作品である。 「真夏の出 ンを68年発表の弘田三枝子の「可愛い嘘」で試し しば、ふいに出会うよモータウン、イン・ジャパ 来事」の作詞者の橋本淳によれば、 「真夏の出来 ている。この曲は中川浩夫とアンジェラスがテン ン。 事」制作時に、事前に筒美から「シュープリーム プテーションズへの思いを念写した「ヨコハマ物 スのようなイメージの曲にしたいので詞もそうい 語」 (73年)の姉的存在である。 護である。 平山三紀 『真夏の出来事』 (日本コロムビア:P-126) 支え、低音部にゆとりと遊びを持たせてふくらま せてゆく。働く父と母の関係をこの曲のベースと ドラムスは表現しているのです。 宇野ゆう子 『サザエさん』 (東芝EMI:TODT-2001) (湯浅 学) 筒美京平 『筒美京平HISTORY 1967∼1997』 それこそが不滅のホームドラマ・アニメ「サザ った方向で」という話があったという。 “イメー エさん」のサブリミナルな支持の裏付けであり、 ジ”を援用し、ハメ込むのではなく、 “イメージ” 102 筒美はその後石野真子のために「日曜日はスト (Sony:SRCL-4071∼8) レンジャー」でフォー・トップスを教示してもい 103 ジェルスには、次から次へと移民が押し寄せ、 の「お仕事」であろう。要するに、大概の場合、 された。戦略的ではなく、若いローカルのガレ 急激にそのコミュニティは膨らんでいったが、 音楽はどこかに回収されてこそ、初めて認知さ ージ・バンドを次から次へと録音し、シングル チカーノと モータウン 個々の出自が余りに複雑なため、コミュニティ れるのである。 盤をリリースしているうちに、そう呼ばれるよ をまとめていく社会資本が乏しく英語世代のチ チカーノ・ミュージックが抱える問題は、そ うになったのだ。60年代のイースト・ロサン ∼愛ゆえのちぐはぐな カーノたちに向けたメディア・サービスは今で の余りにあやふやな回収場所のことである。チ ジェルスは、まさにチカーノ・グラフィティと さえ発展途上にある。だから、ストリート・ワ カーノがブラック・ミュージックを奏でること 呼びたくなるような一大ユース・カルチャー・ イズという感覚でいうところのチカーノ・ユー のパラドックス。そんなパラドックスの周りで、 ムーヴメントが起きていた。地元カレッジで行 ス・カルチャーは、隣人であるブラック・メデ チカーノ・コミュニティとモータウンはたびた なわれた名物のバンド合戦。ハギー・ボーイ、 ィアから常に刺激を受けてきた。 び接近し合ってきた。 アート・ロボら有名ラジオDJによるデディケ その関係と魅力 モータウンが売りにしたどこか曖昧な共同体 幻想は、レコード会社の基本的なマーケティン その結果、ドゥーワップやジャンプ、またソ グを成功させた最も有効な戦略であったと思 ウル、ファンク、そしてヒップホップに至るま う。ゴスペルやブルースの呪縛からどこまでも でブラック・ミュージックの大きな音楽的要素 営を手掛けていたエディ・デイヴィスが主 解放されなかったスタックスと比べるまでもな を内包するチカーノによる音楽が、バリオ(メ 宰するランパート・レコー く、ジャズやアフロ・キューバンとも触れ合っ キシコ系住人が集まって暮らす場所。またそこ ドによって興 ていたモータウンの洗練された新しい音群はア に発生する一種の文化的連帯感も意味する)に ーバンという解放的なイメージを獲得して、ブ は数多のように生まれ、ひとつの伝統として今 ラックだけでなく、あらゆる人種や社会層の間 でも息づいている。日本ではソウル・ディー エディ・デイヴィスが手掛けたシン にも共感を生んでいったのだ。 ヴァなんていう焦点の定まらないお気楽な定 グル盤の発売がきっかけで、全米の ブラックに次ぐマイノリティであるメキシコ 義が一時持てはやされたが、当時のブラック・ チャートを賑わすバンドも登場し 系アメリカ人、いわゆるチカーノと呼ばれる人 カルチャーに起因する言葉のセンシティヴィテ た。「ラ・ラ・ラ・ラ」をカヴァー たちも例外ではなかった。ロサンジェルスのチ ィも知っていたチカーノたちは、60年代にイ したザ・ブレンデルズが64年に カーノは、50年代からブラック・ミュージッ ースト・ロサンジェルスから登場した音楽に対 ナショナル・ポップ・チャート ク専門ラジオ局を支えたコア・リスナーであ してイーストサイド・サウンドという言葉を使 の62位にランクイン。続けて、 り、モータウンのポップなヒット・チューンに って、コミュニティ・カルチャーとしての特色 ザ・プレミアーズが「ファー は絶大な影響を受けていた。アメリカ生まれあ を訴求することにしたのである。 ーション・ショー。ローライダーのルーツにな This page is protected. るいは幼少時に移住してきたチカーノは、全員 イーストサイド・サウンドは、レストラン経 ったチカーノ系カークラブの活況。イースト・ ロサンジェルス・クラシックスと呼ばれるア メフトのハイスクール・トーナメント。貧 困と闘う移民コミュニティであったが、 外からは見え難い独特な文化環境が創ら れ始めていたのである。 マー・ジョン」をカヴァー して19位までに昇りつめ、 がスペイン語を流暢に話せるというわけでない 演奏者が「音楽を創造」をすることは、「誰 し、当然メキシコの生活習慣のままアメリカで か」に「自身を語る」ことである。その「誰か」 ーズにライセンスされ、 生活しているわけでもない。イースト・ロサン を定めることが音楽ビジネスに課せられた最大 アルバムの全米発売ま 104 すぐにワーナー・ブラザ 105 で繋がっていく。さらに、65年、カンニバ なサウンドは、ブレイク・ビーツの大ネタとし ンとの契約が持ち上がった。結局はデトロイト うレーベルを設けて、世界的な人気を得ていた ル・アンド・ザ・ヘッドハンターズは、「ナ てDJの間でも人気である。ベースを担当した からロサンジェルスへオペレーションが移る過 プエルトリコ人シンガー、ホセ・フェリシアー ー・ナ・ナ・ナ・ナー」のフレーズで有名な ジョー・エスピノーサによると、彼らのヒッ 渡期の混乱でその契約は流れてしまったといわ ノを迎えアルバム『ホセ・フェリシアーノ』を 「ランド・オブ 1000 ダンシズ」で30位を記録。 ト・チューン「エクトール」はKGFJという当 れているが、果たしてそれだけであろうか。ブ 発売。「アイ・ワナ・ビー・ホエア・ユー・ア 彼らは、ビートルズの全米ツアーでオープニン 時の人気ブラック・ラジオ局がプッシュした初 ラックとチカーノ両方のマーケットを攻略する ー」が大ヒット。続けて2枚のアルバムを発売 グ・アクトを務めるまでの注目を集めた。 めての非ブラック・ナンバーだったという。ブ 戦略を見出せなかったという推測もできるはず するが、ホセの移籍と共に数年後、レーベルは 破竹の勢いで盛り上がるイーストサイド・サ ラック・サーキットでも知られるようになっ である。 消滅してしまう。ラティーノという差別化が、 ウンドとランパート・レコード。これは、モー て、あのザ・ワッツ103rdストリート・リズ それから約10年後にモータウンは、遂にチ タウンのチカーノ版になると地元コミュニティ ム・バンドと一緒にワッツ・フェスティヴァル カーノ系のロック・バンドをデビューさせた。 や若いミュージシャンたちは大きく夢を膨らま に出演する機会を与えられた。しかし、ステー ウングリア・カルメロ・ガルシア、へクトー せた。しかし、メイン・ストリームのマーケッ ジに上がるや否や、ブラックの観衆から大ブー ル・アンドラーデスらによるライオットという チカーノは往年のモータウンを愛する一方 トは褐色の肌をした彼らがチカーノであること イングを浴びせられる。まさかあのファンキー グループである。全体的には軽快なウェスト・ で、モータウン側はラテン・サウンドでチカー なんかには誰も気を止めなかったし、ラジオや な「エクトール」をチカーノが演奏していたと コースト・サウンドだが、1曲だけメキシカ ノにアクセスしようとして失敗。その余りにも TVも彼らが誰でどこから来たのかを伝えよう は思わなかったのだ。勿論、演奏が始まると大 ン・アクセントのスペイン語で歌うイースト・ ちぐはぐな関係。今でも、不可視なチカーノ・ としなかった。 変な盛り上がりになったというが、チカーノと ロサンジェルス・スタイルといえるラテン・ロ コミュニティは、世間からギャングや脳天気な いう存在が、いかに見え難い存在だったかわか ックが収録された。しかし、チカーノ・コミュ ラテン音楽でイメージされることが多い。モー るエピソードである。 ニティはもちろん、どこのマーケットでも成功 タウンに負けないぐらいファンキーでエロスに を収めることはできなかった。 満ちた完璧なソウル・ミュージックだったイー 6 8 年にアルバムを発売したザ・ヴィレッ ジ・カラーズというラテン・ファンク・バンド This page is protected. 逆にモータウンの信条を捻じ曲げることにもな ってしまった。 がいる。サンタナより先にウィリー・ボボの 同じくランパートからデビューしたリトル・ 「イヴィル・ウェイズ」をラテン・ロックにし レイことレイ・ヒメーネスは、幼少時から天才 再びモータウンがとった戦略は、カリブ海や ストサイド・サウンドのように、それはシリア たことで知られている。また最近ではサイプレ シンガーとして知られた。イーストサイド・サ 中南米からの出身者にターゲットを定めた汎ラ スになればなるほど、バリオの奥へと隠れてし ス・ヒルがサンプリングしたことがきっかけ ウンドの隆盛や南カリフォリニアでのメキシコ ティーノ・マーケット向けの作品を発売するこ まうのである。 で、オルガンとコンガによるそのグルーヴィー 系住人の増加なども背景にあってか、モータウ とだった。81年モータウン・ラティーノとい V.A. 『イーストサイド・ソウル・ク ラシックス1963−1977』 (BARRIO GOLD : BG-2011)※ 106 (宮田 信) ライオット ザ・ヴィレッジ・カラーズ 『ライヴ』 (BARRIO GOLD : BG-1004)※ 『ウエルカム・トゥ・ザ・ ワールド・オブ・ライオット』 (Motown : M6-806S1) ● ※のアルバムに関するお問い合わせは、MUSIC CAMP ENTERTAINMENT(03-5772-3556)まで。 Jose Feliciano 『Jose Feliciano』 (Motown : M8 953) 107 キング・スルー」、サティントーンズの『サテ 名でダンス・ミュージックを楽しむカルチャー いはず。究極のコレクションを目指す人の指標 ィントーンズ・シング』、キム・ウェストンの がある。60年代半ばから現在にいたるまで、 に。そして最後に、蛇足ながらモータウンとそ 『テイク・ミー・イン・ユア・アームズ』、リ クラブでソウル・ミュージックでひたすら踊り の関連のレア・シングルを列挙して締めくくり レアシングル事情 タ・ライト、ダウンビーツ、バレット・ストロ 狂う、それがノーザン・ソウルであってクラ たい。 ∼マニア予備隊のみなさんへ ング、ヴェルヴェレッツ、バーバラ・ランドル ブ・シーンの元祖とまでいわれている。そして フ、といったもの。こういった未発のLPは異 そんなシーンのDJたちはというと、誰も他の 常な値段で取引されている。サティントーンズ DJらが持っていないようなレアなレコードを が最も高いといわれ、$10,000を超えるとい かけることで差別化するスタイル。そこにDJ (葛原大二郎) ■The Andantes「Like a nightmare」 珍盤、奇盤、貴重盤の類が、コレクターの射 われている。やはり大モータウン、世界中にフ 間の競争もあれば、そういったレアな音源を楽 (V.I.P.) £3,000 ($4,200) 程に入ると法外なプライスがひとり歩きする。 ァンを持つだけあって、その道のコレクターも しみにする聴衆もいる。そんなノーザン・ソウ ■Dennis Edwards「Johnny on the spot」 やれオリジナルだ、やれプロモーション・コピ 多く、このレーベルでの希少価値の高いものに ル・シーンで最も人気があった曲のひとつが、 ーだ、ジャケ違いだ、テイク違いだ、未発表だ 対する熱狂度はやはり群を抜いているといわざ 先のフランク・ウィルソンの「ドゥ・アイ・ラ ■Chris Clark「Do I love you」(Acetate) …etc。様々な理由で付加価値が付き、あっと るを得ない。 ヴ・ユー」というわけだ。ノーザン・ソウルが $2,000 驚くような高額で取引される。そしてそんなレ コードが、俗にレア盤と呼ばれている。 さて、モータウンを「レア盤」といった括り This page is protected. さてさて、ここからが本題。LPなど序の 全盛期の70年代、毎週末に2,000人を集めて熱 口? さらにさらに高額で取引されるものがあ 狂していたそんな時代のクラブ・ヒットであ る。それは奥深きシングル盤の世界。 る。しかも抜群のレアリティ。しばらくすると で見てみたらどうだろうか。 ファンの要望に応えるようにリイシューはされ まず一般的なLPから。中古レコード・ショ ■Frank Wilson 「Do I love you」(Soul) た。だが、粗悪なブートまで作られもした。そ ップで堂々と鎮座する姿を目にした人も多いと $24,000. うすると当然のようにオリジナルの価値は上が 思われるが、60年代のオリジナルのプレスの このレコードが最も高いモータウンのレコー ろ う と い う も の 。 そ れから 20 年以 上 ノーザ ものは総じてレア盤といえよう。ミラクルズの ドと言われている。世の中に3枚のコピーが存 ン・ソウル・シーンからの羨望の的となり、プ 『ファビュラス・ミラクルズ』『クッキン』、エ 在しているとかしないとか。ようは正式にはリ ライスは上昇の一途をたどり今に至る。さすが ディー・ホーランド、コントゥアーズ、シュー リースされなかったという訳だ。それにしても のレアリティ、いややはりノーザン・ソウル・ プリームスの『ミート・ザ・シュープリームス』 理解し辛い金額。新車の値段? 嘘でも冗談で ファンの狂信ぶりあってのこの値段、もうひれ のファースト・プレス、リトルの頃のスティー もなく、この値段がコレクター間では相場と言 伏すしかないだろう。 ヴィー、エイモス・ミルバーン、コロンバスマ われている。 ン等々、この頃のものはみな高額で取引されて いるといっていいのでは。そしてさらには未発 表LPというマニアライクな品々もある。これ らはさらに高額。フォー・トップスの『ブレイ 108 (International Soulsville) £1,000 ではなぜこのようなプライスがまかり通って いるのか、補足しておこう。 日本以上にソウル・ファンが多いイギリス、 その北部地方では“ノーザン・ソウル”という Eddie Holland 『I Couldn't Cry If I wanted to / I'm on the Outside Looking in』 (Motown : 1049) 奥深いシングルの世界、そしてノーザン・ソ ウル、モータウン、それらが絡み合ったもの、 それがフランク・ウィルソンのレコードだろ う。モータウンの裏の顔役として、ぎらぎらし Jackson Five 『This is Record』 (Motown : −−) た輝きを放っていると思うのは筆者だけではな 109 Mary Wells Bye Bye Baby I Don't Want to Take a Chance Motown MLP-600 1961年 モータウンの記念すべき初アルバム。当然のことな がらプロデュースはベリー・ゴーディー。モータウン 設立の起点ともいえるマーヴ・ジョンソンの「カム・ トゥ・ミー」のカヴァーからこのアルバムを始めたの も、“始まりの印”を刻んでおきたいというゴーディー の気持ちの表われだろう。もちろんアルバムのメイン はヒット曲「バイ・バイ・ベイビー」だが、内容的に はモータウン見本市的なもので、ミラクルズの「ショ ップ・アラウンド」と「バッド・ガール」(女性用にバ ッド・ボーイと改訂)をやらされているのはいたしかたないところ。2曲目のヒット曲「アイ・ ドント・ウォント・トゥ・テイク・ア・チャンス」のストリングスの最後のリフレインがやたら におもしろい。ビートをできる限り強調して太く激しく陽気にうねりたいゴーディーの趣味がA 面にはずずんと貫かれている。「アイ・ラヴ・ザ・ウェイ・ユー・ラヴ」のボンゴはスティーヴ ィーだろうか? この曲と「レット・ユア・コンセンス・ビー・ユア・ガイド」は特にニューオリ ンズ色の出た作品。B面は対照的に「アム・ゴナ・ステイ」以外はブルージーにまとめ、ウェル ズが精いっぱい歌っている。妙に大人びないのがよい。 (湯浅) This page is protected. Mary Wells The One Who Really Loves You もちろんモータウン関連作の全てを網羅したものではない。入門用より数歩踏み込んだものを、と 考えて選盤した。ところどころアメリカ盤ではなく英国盤や再発盤のジャケットが入っている。タム ラ原盤なのにジャケットにはモータウンのロゴが付いていたり、見なれたアメリカ盤とは違うジャケ Motown MT-605 1962年 全米R&Bチャート2位のアルバム・タイトル曲とウェルズにと って初のR&Bチャート首位曲「ユー・ビート・ミー・トゥ・ザ・ パンチ」を含む2作目。当時19歳にしてはできすぎた洗練ぶり。 収録曲全10曲すべてがウェルズ用に書かれた曲で、会社にとって も重要度上昇の証し。ブルージーな感覚は薄れ、ミディアムの曲 で軽快感を強め、バラードでは背伸びなしのストレートな歌唱を ぶつけてまじめさをアピール。スモーキーがイイ仕事ぶり。 (湯浅) ットだったりするものがあるのはそのためである。つつしんでおわびします。さらに紹介したかった のだが、どうしても今回手に入らなかった作品というのもある。重ねておわびします。当然、何故こ んな盤が紹介されているのにあの名盤が載っていないのだ、という御意見御感想は多くの方々が抱か Mary Wells れるものと思う。選盤は編者の湯浅が勝手に行ったもので、アンケート調査やら相対的な基準とやら Two Lovers and Other Great Hits (多少は考慮したつもりだが)に基づいているものではない。重々おわびします。 まずはモータウンを支えたヒット・メーカーたちを中心に。 Motown MT-607 1962年 63年1月発売でスッキリ見通しのいいステレオ録音がなされて いる。ひずみのない、ロマンティックな色彩の音に合わせるかの ようにウェルズの歌唱にも拙さがまったくなくなり一気に6、7 歳熟した感じがする。スモーキーとミッキーのプロデュース。い かにもスモーキーなゆるい良品、マーヴィンに歌わせたい佳曲、 速効のジャンプ・ナンバー、ジャズ、ブルースとそれぞれ発声を 微調整して歌いこなすウェルズのテクニックが光る。 (湯浅) 111 Mary Wells Mary Wells Sings My Guy The Marvelettes Motown MLP-617 1964年 これもスモーキーとミッキーのプロデュース。『トゥー・ラヴ ァーズ』とは違った、リヴァーヴのかかったひずみが聴きやすさ を醸し出す60年代中期のいわゆる“モータウン・サウンド”で仕 上げられている。大ヒット曲「マイ・ガイ」の最後のヴォーカル とベースの掛け合いは秘密の関係を思わせる名演/名演出。浮遊 感を活かした歌唱で統一されていて、全体の安定した心地よさは モータウン時代のウェルズのアルバム中、最高。 (湯浅) 前作とうってかわってオリジナルで固めた3作目。B・ホーラ ンド/L・ドジャー/フレディ・ゴーマン作の甘酸っぱいのに骨 太な3曲を柱に、マーヴィン/スティーヴンソン/ゴーディー作 の名曲「ビーチウッド45789」の軽やかさ、スモーキー作「ア イ・シンク・アイ・キャン・チェンジ・ユー」のいじらしさも胸 に染みる。ワンダ・ヤングがちゃっかり復帰し、また5人組に。随 所にニューオリンズR&Bの影響が爽やかに表われた名作。 (湯浅) The Marvelous Marvelettes Please Mr. Postman Tamla TM-228 1961年 全11曲中7曲がモータウン系の他のアーティストの カヴァーだが、シュープリームスのデビュー曲「ア イ・ウォント・ア・ガイ」やマーヴ・ジョンソンの 「ハッピー・デイズ」や「オール・ザ・ラヴ・アイ・ゴ ット」などはオリジナルより、このマーヴェレッツ版 のほうがパワーがあってよいというのが定説。しゃが れたまま力で押して伸びやかに歌いまわすグラディ ス・ホートンのリード・ヴォーカルが、他の都会のガ ール・グループとの大きな相違点だ。“ウーワオ”と軽 く歌ったつもりが“グーヴァオ”と響いてしまう体質。加えて「ソー・ロング・ベイビー」で聴 かれる超ハイ・トーンの特殊ヴォーカルまでいる。そのため軽やかなバックのサウンドでは負け てしまうのだ。アップライトが主だが、ここで聴ける(おそらく)ジェマーソンのベースの重量 感ある響きとファンキーな遊びは61年のポップとしては驚異である。ゴーディー流は粗野でもや る気を感じさせる音のほうを選んだのだ。ここには62年以降のモータウンが捨ててしまう野性味 ある女性の愛がたっぷり詰まっている。この太いドライヴ感が英国青少年をも覚醒させた。とこ ろどころ電子オルガンが快演。 (湯浅) This page is protected. The Marvelettes Tamla TM-237 1963年 フワニータが抜け4人組に。B・ホランドとW・M・スティー ヴンソンのプロデュースで、ノーマン・ホイットフィールドが曲 作りに4曲かかわり一味変わったリフレインを提供している。少 し大人の感覚を加味しようとのねらいが感じられる。リードのグ ラディスの歌唱にも一皮むけたしなやかさが加わり、ベースが少 し前に出て低音部の安定のよくなったミックスとあいまって充実 のドライヴ感が表出している。演奏名人の小技が楽しい。(湯浅) The Marvelettes The Marvelettes Tamla TS-274 1967年 ロバート・パーカーの「ベアフッティン」から始まるのには意 表を突かれる。ジョージアナが抜け3人組になり軽みが出ている。 スモーキーの「ザ・ハンター・ゲッツ・キャプチャード・バイ・ ザ・ゲーム」とヴァン・マッコイの「ホエン・ユー・アー・ヤン グ・アンド・イン・ラヴ」がヒット。いわゆるノーザン・ソウ ル・マナーの佳曲が揃ったB面も楽しい。バカラック/デイヴィ ッドの「メッセージ・トゥ・マイケル」もならでは。 (湯浅) The Marvelettes Tamla TM-229 1962年 ワンダ・ヤングが抜けて4人組に。「…ポストマン」をパクッ て成功した「マッシュ・ポテト・タイム」の仕返しカヴァーに始 まり、エルヴィス、サム・クック、ロイ・オービソンらのヒット 曲を可愛く料理したカヴァー集。当初は『シング・スマッシュ・ ヒッツ・オブ62』と題されていた。唯一のオリジナル曲「トゥイ スティン・ポストマン」はダウン・ストロークに徹したベースが ガレージ・パンキーなイカした快速ダンス・ナンバー。 (湯浅) 112 Tamla TM-231 1962年 The Marvelettes The Marvelettes The Marvelettes Sing Playboy Sophisticated Soul Tamla TS-286 1968年 グラディスが引退、かわりにアン・ボーガンが加入しての初作。 線は細めになったが表現の幅は広がっている。前作でのまあまあ の成功をステップにして大人のソウルを目指している。コミカル な演出の「マイ・ベイビー・マスト・ビー・ア・マジシャン」 (R&Bチャート8位)から始まり、とまどいや失恋などをよりフ ァンキーに歌っていく。12曲中5曲がスモーキーの作品。アシュ フォード/シンプソンも印象的な2曲を提供。 (湯浅) 113 Smokey Robinson & the Miracles Smokey Robinson & the Miracles The Fabulous Miracles Hi, We're the Miracles 「ショップ・アラウンド」の成功以来ダンス・ナンバー路線を 続けたものの、なかなか大ヒットに結びつかなかったミラクルズ にとって、約2年ぶりのトップ10ヒットとなったのが、ロッカ・ バラード調の「リアリー・ゴット・ア・ホールド・オン・ミー」 だった。本盤は、その曲を含む63年の通算4作目。「リアリー・ ゴット…」タイプのバラードが多く収められ、スモーキーのソウ ルフルな歌唱を堪能するには格好の1枚だ。 (木村) Tamla TM-220 1961年 最初のビッグ・ヒット「ショップ・アラウンド」を 含むミラクルズの記念すべきデビュー・アルバム(61 年)。まだドゥーワップ・テイストを色濃く残している 楽曲が多く、スモーキーのハイ・テナーをリードに添 えた仕上がりは、例えばニューヨークのドゥーワッ プ・グループ、リトル・アンソニー&ジ・インペリア ルズあたりを彷彿とさせる。 「フーズ・ラヴィン・ユー」 「ディペンド・オン・ミー」などの情感あふれるバラー ドを聴けば、その辺の共通点はよく理解できるだろう。 モータウン入社前にチェスから放ったマイナー・ヒット「バッド・ガール」もそうしたタイプの バラードだったが、本作にはまだモータウン以前のスタイルから抜け切れていない面が見受けら れる。それでも、「ショップ・アラウンド」や「ウェイ・オーヴァー・ゼア」あたりの秀逸なリ ズム・ナンバーを聴くと、新たな時代へ向けた胎動を確かに感じ取ることができる。来るべき黄 金時代を目前にした、ある種の穏やかさというか余裕めいた感触は、おそらく当時のスモーキー の才能に裏付けられた自信から来るものだったのだろう。その後の大ブレイクを予見しているか のような、不思議な魅力を秘めた処女作だ。 (木村) Smokey Robinson & the Miracles The Miracles Doin' Mickey's Monkey This page is protected. Tamla TM-245 1963年 ポップ・チャートでもトップ10に入るヒットとなった表題曲を 中心に、50∼60年代の有名曲のカヴァーを集めて編んだ63年の ダンス・アルバム。ツイスト、ワトゥーシ、モンキーとダンス・ スタイルも様々に、「ツイスト・アンド・シャウト」「ドゥー・ユ ー・ラヴ・ミー」、なぜかどろ∼っとした「ダンス天国」などを、 スモーキーのエモーショナルなすすけたラヴリー・ヴォイスで聴 く味を、固いこと言わずに楽しむ。 (河地) Smokey Robinson & the Miracles Smokey Robinson & the Miracles Cookin' with the Miracles Going to a Go-Go Tamla TM-223 1962年 61年初頭に「ショップ・アラウンド」がR&B1位、 ポップ2位の大ヒットを記録。となれば、当然レコー ド会社側はこの路線での連続ヒットを期待するもの。 おそらく、次のシングル「エイント・イット・ベイビ ー」は、そんな要求に応えるべくして作られた作品だ ったのだろう。ところが、世の中そう甘くはないよう で、 「ショップ・アラウンド」の焼き直し的なこの曲は、 ポップ・チャートのトップ40入りすら叶わなかった。 62年に発表されたこのアルバムは、同曲を含むミラク ルズの2作目で、その手のダンス・ナンバーが多く収録されているのが目を引く。躍動感あふれ る曲調をどうにか手中に収めようと奮闘するスモーキーであるが、その意気込みが多少空回り気 味なのが残念なところか。それでも、その抜群のソングライティング・センスでもって曲のヴァ ラエティ度は飛躍的に増している。本作からのもうひとつのヒット曲「エヴリバディズ・ゴッ タ・ペイ・サム・デュース」は、流麗なストリングスを配したしなやかな佳曲で、この路線はそ の後、傑作「アイル・トライ・サムシング・ニュー」(個人的にはミラクルズの数ある作品の中 でも一番好き)を生むことに。ジャケのカッコ良さはピカイチの1枚。 (木村) 114 Tamla TM-238 1963年 Tamla TS-267 1965年 64∼65年にかけてのメリー・ウェルズ「マイ・ガ イ」、テンプテーションズ「マイ・ガール」という2曲 の全米ナンバー・ワン・ヒットによって、スモーキー はソングライターとして一気に頂点を極めた。そして、 その勢いをミラクルズの活動にもフィードバックする 形で誕生したのが、この65年の名作である。なかでも 冒頭の4曲は、いずれも全米トップ20ヒットという豪 華さで、しかもそのすべてがスモーキーのキャリアを 代表する傑作チューンなのだからスゴイ。ゴキゲンな ダンス・ナンバー「ゴーイング・トゥ・ア・ゴーゴー」、情感あふれるバラード「トラックス・ オブ・マイ・ティアーズ」、スモーキーの甘美なファルセットが絶品な、スウィート・ソウルの 原点ともいうべき「ウー・ベイビー・ベイビー」、いかにもスモーキーらしいメロディアスなミ ディアム「マイ・ガール・ハズ・ゴーン」と、すべて違うタイプのナンバーを出してくるあたり、 当時のスモーキーの脂の乗り具合がうかがえる。それだけじゃない。本作の見逃せないところは、 ヒット曲以外の作品におけるクオリティの高さ。なかでも「チュージー・ベガー」は屈指の名曲 だ。60年代のR&Bを代表する傑作アルバム。 (木村) 115 Smokey Robinson & the Miracles Smokey Robinson & the Miracles Away We a Go-Go Four in Blue Tamla TS-271 1966年 66年作品。タイトルからも分かるとおり、前作の延長線上の作 品を狙ったのであろうが、なぜかスモーキー自身のペンによる作 品は全12曲中4曲と極端に少ない。前作のヒットで多忙になった ため、満足な曲作りができる状態ではなかったのかもしれないが、 いずれにしても、前作があまりに充実した作品だっただけに、分 の悪い印象は拭えない。「オー・ビー・マイ・ラヴ」などのスモ ーキー作品には聴くべきものがあるだけに、余計に残念。(木村) カヴァーは好不調を計るバロメーター。本作の「ふられた気持 ち」はオリジナルに忠実なアレンジだがスモーキーの厳かで、丁 寧な歌唱が天国の入口近くまで我らを導く素晴しさ。ヒット曲は 含まれていないが、全体的なできは良い。 「ヘイ・ジュード」もも ろにスモーキー節になっている。フォーク・ロック調の「カリフ ォルニア・ソウル」はタミー&マーヴィン・ヴァージョン(実は V・シンプソンが代役歌唱)よりアレンジが凝っている。 (湯浅) Smokey Robinson & the Miracles Smokey Robinson & the Miracles Make It Happen What Love Has Joined Together Tamla TS-276 1968年 発売から3年後にイギリスでシングル・カットされた「ティア ーズ・オブ・ア・クラウン」が全英1位の大ヒットとなったため 曲順とタイトルを変えた盤も発売されている名作。スモーキーの 安定した作家力、歌唱力が発揮され、甘さと切なさが溢れている。 「モア・ラブ」と「ザ・ラヴ・アイ・ソウ・イン・ユー・ワズ・ ジャスト・ア・ミラージュ」がここからヒット。60年代前半のも ったりした感覚を活用しつつより爽やかな方向へと展開。(湯浅) This page is protected. Tamla TS-301 1970年 アルバム・タイトル曲(5分50秒)をとにかくメインにした6 曲入りで全尺27分36秒。しかしこの曲が入魂のスケールの大き な優しさに満ちた名曲。人に愛を説くに柔和なメッセージをもっ てするスモーキー。さらに「マイ・シェリー・アモール」はじめ すべてスローに料理した5曲のカヴァーがあなどれぬ絶品揃い。 ブレンダ・ハロウェイの「ユー・メイド・ミー…」などもスモー キーの持ち歌の如きこなれ方で酔う酔う。名盤。 (湯浅) Smokey Robinson & the Miracles Smokey Robinson & the Miracles Special Occasion A Pocket Full of Miracles Tamla TS-290 1968年 Tamla TS-306 1970年 68年リリースのオリジナル9作目。洗練されたダンス・ナンバ ーで新境地を切り開いた67年のヒット曲「アイ・セカンド・ザッ ト・エモーション」路線のモダンな感覚が息づく秀作に仕上がっ ている。なかでも際立つのが、シングル・ヒットでもある冒頭3 曲「イエスター・ラヴ」「イフ・ユー・キャン・ウォント」「スペ シャル・オケイジョン」。もちろんすべてスモーキー作品だ。時 代を意識したサウンド作りに注目しながら聴いてほしい。(木村) ミラクルズ流ニュー・ソウルというべきか? ここから「ポイ ント・イット・アウト」と「フーズ・ゴナ・テイク・ザ・ブレー ム」(アシュフォード/シンプソン作)がヒット。ところどころ に問題提起の風あり。ビートルズの「サムシング」とクリス・ケ ナーの「サムシング・ユー・ガット」をおごそかに合体してしま う技はさすが。静かに色彩が増し、ファンクをもろにやってみせ たり、スモーキーの苦心がにじんでいる愛すべき作品。 (湯浅) Smokey Robinson & the Miracles Smokey Robinson & the Miracles Time Out for Smokey Robinson & the Miracles One Dozen Roses Tamla TS-295 1969年 69年作品。基本的には前作『スペシャル・オケイジョン』の延 長線上にある作りながら、アルバムとしての聴き応えは、むしろ こちらのほうが上かもしれない。従来のようにシングル曲を冒頭 に無造作に配置するのではなく、アルバムとしてのトータリティ を意識した選曲&構成で、ニュー・ソウルっぽいジャケットから もそうした意識はうかがえる。カヴァー曲も、ここでは必然性を 持って響いており、最初から最後まで決して退屈させない。 (木村) 116 Tamla TS-297 1969年 Tamla T-312L 1971年 スモーキー流ニュー・ソウルの始まりというべき作品。ロマン チックな状況の中でもさらりと心に刺さる金言をしのばせてきた 詩人スモーキーがより明確に言葉を伝えるべく、ダブル・ジャケ ット内側に詞を掲載。悲哀がところどころににじみ、アメリカ国 内の世相が反映されているととることもできる。軽快な「アイ・ ドント・ブレイム・ユー・アット・オール」やスモーキー流ファ ンク「クレイジー・アバウト・ザ・ラララ」など良作多し。 (湯浅) 117 Smokey Robinson & the Miracles 1957-1972 デビューからスモーキーが独立するまでのヒット曲を満載した ライヴ盤。バラードも含め全体にテンポを上げているので多少味 わいは変わるが、熱気は増している。特にディスク2のA面では 初期にヒット曲が連発されてやられるし、イントロが出ただけで キャーキャーいく観客の声がとてもいい。ホーンとストリングス を組み入れた演奏も見事。収録時間が少なめなのだけが残念。ま るで乱れないスモーキーの歌唱の凄みに改めて脱帽。 (湯浅) The Miracles Do It Baby The Miracles Tamla T-320D 1972年 Tamla T6-334S1 1974年 スモーキー・ロビンソンの後釜に天性の美声の持ち主、ビリ ー・グリフィンを迎えた新生ミラクルズの2作目。74年産。フレ ディ・ペレンをプロデューサーに迎えたタイトル曲が待望のヒッ トとなり、このアンニュイでいて神秘的なムードが新たなミラク ルズ・スタイルとして見事に定着する。一方、レオン・ウェアを コンポーザーに起用したハル・デイヴィスの仕事も秀逸で、この 盤で彼らは完全に過去の束縛から解放されている。 (JAM) City of Angels Tamla T6-339S1 1975年 内容本位なら、他にも選ばれて不思議ではないアル バムはあると思う。だが、ここからファースト・シン グルになった「ラヴ・マシーン」がポップ・チャート で2週連続の首位(R&Bチャートは最高位5位)に輝 いたとなれば、新生ミラクルズの代表作はこの盤でな いと話は始まらない。彼らの長い歴史を振り返っても、 これ以前にポップ・チャートを制覇できたのは「ティ アーズ・オブ・クラウン」だけだし、グループからス モーキー・ロビンソンの陰を拭いきったという意味で もこのアルバムの成功は改めて大きく取り上げておくべきだろう。プロデュースはフレディ・ペ レンが連投するも、前2作での調理法にこだわらず、75年という時代の空気を呼吸する洗練され たヴォーカル・グループ像を彼らに求め、ミラクルズもその期待に見事応えた。明らかに白人市 場狙いの選曲に眉をひそめたくなる場面もあるが、既にタヴァレスを本格的ブレイクに導いてい たペレンにしてみれば、この手法にはそれ相当の確信があったはずだ。そんな中、圧巻なのはや はり「ラヴ・マシーン」だが、ビリー・グリフィンの美しい声が憂いのある曲調の上で舞う「ウ ォルドー・ロデリック・ディハマースミス」も素晴らしい。 (JAM) This page is protected. The Miracles Don't Cha Love It Smokey Robinson Tamla T6-336S1 1975年 Tamla T6-331S1 1974年 タイトル・トラックは物の見事な「ドゥ・イット・ベイビー」 の続編的作品で、してやったり、これもチャート上での戦績は 上々だった。プロデューサ ー、フレディ・ペレンの読み勝ちとい うか、この辺りから次作「ラヴ・マシーン」に至るまでのミラク ルズの躍進振りはお見事と言うしかなかった。アルバムは良曲の 巣窟でもあり、 「ジェミナイ」のようなキャッチーなダンス・ナン バーも、甘美な香りを放つバラードも総じて高品質。 (JAM) ファンクに始まり、ウィリー・ハッチのアレンジによるアーシ ーな「ア・タトゥー」に終わる安定した作。自分と自分の子供の ことや性愛に関する作品も。軽快な演奏がスモーキーの声をやさ しく包むように響くが芯は硬派なシンプルで引きしまったバック 陣。スモーキーのメッセージも伝わりやすい作り。ジーン・ペイ ジがアレンジで活躍。スキャットもキマった「アイ・アム・ア イ・アム」がヒット(R&Bチャート6位)。 (湯浅) The Miracles Smokey Robinson The Power of Music Tamla T6-344S1 1976年 「ラヴ・マシーン」の大ヒットの余勢を駆って、といくはずだっ たのにセールスは不発だったアルバム。だが派手な曲、ヒット曲 がなかっただけで内容はいつもながらの充実ぶり。全曲ビリー・ グリフィンとウォーレン“ピート”ムーアの作。プロデュースも ムーア。ファンクの「ゴシップ」、極甘バラード「ユー・ニー ド・ア・ミラクル」、ゆるやかに人類愛を歌った「レット・ザ・ チルドレン・プレイ」などメッセージもしっかり。 (湯浅) 118 Pure Smokey A Quiet Storm Tamla T6-337S1 1975年 全編に渡りスモーキーの世界観を満喫できる彼のソロ作の中で も屈指の内容を誇る1枚。75年発、通算3作目。プロデュースと ソングライトはほぼ彼が切り盛りするが、1曲1曲の粒立ちは良 く、特にA面の流れは芸術的とさえ言えるものだ。既に有名な表 題曲から続くジェントルな「ジ・アゴニー・アンド・ジ・エクス タシー」、弾ける一歩前のリズムが心地よい「ベイビー・ザッ ツ・バッカチャ」と得も言われぬムードの連続である。 (JAM) 119 Smokey Robinson Smokey's Family Robinson Smokey Robinson Warm Thoughts Tamla T6-341S1 1976年 「オープン」がスマッシュ・ヒット(R&Bチャート10位)した アルバムだが、エレクトリック・チェロのソロを導入したり、ヘ ヴィなファンクが2曲も続いたりするA面での実験とバラード長 尺3曲でまとめたB面の夢見心地との対比がおもしろい。アレン ジではソニー・バークとフレッド・スミスがスモーキーを補佐。 いわゆる軽いダンス・ナンバーがないのはスモーキーの意地か体 質か。シンセが静かにいい仕事をしている。 (湯浅) スモーキー、80年代の幕開けを飾った充実の作品集。「クルー ジン」が広く受け入れられたことで、アルバムの調子そのものが しっとりと落ち着き、無理な力みはどこにも感じられなくなって いる。タイトル曲は既に有名と思うが、「トラヴェリン・スルー」 や、奥方クローデットを迎えた「ワイン・ウイメン・アンド・ソ ング」もそれに匹敵もしくはそれ以上の仕上がりだし、アルバム の一体感も抜群である。歌の“艶”も文句なし。 (JAM) Smokey Robinson Deep in My Soul Tamla T8-367M1 1980年 Smokey Robinson Tamla T6-350S1 1977年 ハル・デイヴィス、ジェフリー・ボウエン、マイケル・サット ンらをプロデューサーに迎え、スモーキーはソングライトさえ彼 らに託した77年発表の異色作。だが、レパートリーは総じてスモ ーキーのほうをちゃんと向いており、特にジェフリーの手掛ける 「ユー・キャン・ノット・ラフ・アローン」はスモーキーが作る 以上にスモーキーらしいキャリア中期の名作である。続く「イ ン・マイ・コーナー」も彼の作だが、こちらも文句なし。(JAM) Being With You Tamla T8-375M1 1981年 80年代のスモーキーの好調さをつまびらかに教えて くれる81年リリースの名盤。チャートのほうも彼のキ ャリア上最良の結果を残し、シングル「ビーイング・ ウィズ・ユー」はブラック・チャートで5週連続の首 位、アルバム・チャートでも同じく5週首位に輝き、 ゴールド・アルバムに認定されている。きっかけはや はり79年の「クルージン」の成功だと思うが、実際に 80年前後のスモーキーの音楽はディスコの嵐に明け暮 れた末の時代にピタリとはまる“ミュージカル・レメ ディ”的な響きを持ち、彼は確実に時代の欲求に応える存在だったように思う。アルバムはジョ ージ・トービンがプロデュースを担い、ソングライティングはスモーキー自身に、ゲーリー・ゴ ーツマンや、フォレスト・ハミルトンらが加わるという格好となっているが、アルバム中唯一座 りの悪いジャクソンズみたいなファンク作品「キャント・ファイト・ラヴ」を除けば、スモーキ ーらしさが隅々にまで溢れる1枚となっている。ベスト・カットはふくよかなリズムに優美な歌 声が乗る「ビーイング・ウィズ・ユー」だろうが、端正な旋律を持つバラードの「ユー・アー・ フォーエヴァー」、 「フー・セッド」も最高だ。 (JAM) This page is protected. Smokey Robinson Love Breeze Tamla T7-359R1 1978年 イントロのハイハットの裏打ちを聴いて一瞬スモーキーもやっ ちまったか、と思うのだが、さすがに易きには流れない。ロサン ジェルスの名人大挙参加で編曲/演奏は充実。ミラクルズ風とも いえる爽快なひねり入りの「マダム・X」、極メローなヒット曲 「デイライト&ダークネス」に身も心も溶け、せつないファルセッ トを混ぜ込んだ美メロの「アイム・ラヴィング・ユー・ソフトリ ー」で聴く者を粉にする。70年代後半の代表作では? (湯浅) Smokey Robinson Where There's Smoke... Smokey Robinson Tamla T7-366R1 1979年 自分の呼吸を取り戻し、80年代躍進の足掛かりとなった79年の 名作。とはいえ、彼にしてはお気楽なディスコ作は未だ姿を消し てないし、力んだ痕跡はありありなのだが、そんな気掛かりを全 て吹き飛ばしてくれたのが「クルージン」だ。久方ぶりに味わう スモーキーならではのもてなしの何という洒脱さよ。こんなスモ ーキーが待望されていたからか、「クルージン」はチャートでも 根強い支持を集め、彼はこれで完全に波に乗り直した。 (JAM) 120 Yes It's You Lady Tamla 6001TL 1982年 「ビーイング・ウィズ・ユー」に続く82年発表の名盤。プロデ ュースはジョージ・トービンに変わるも、スモーキー以下ソング ライター陣に変動なし。79年の「クルージン」以降確立したスモ ーキーならではの世界は表題曲に見出せるが、本作のキラー・ト ラックは何と言っても「テル・ミー・トゥモロウ」だろう。時流 を睨んだダンス・ナンバーをこんなにもホロ苦く、そして粋に歌 いきれるのはスモーキー生来のセンスの賜物と思う。 (JAM) 121 Smokey Robinson Touch the Sky Marvin Gaye The Soulful Moods of Marvin Gaye Tamla 6030TL 1982年 キーボード、シンセ類全部にドラムスまで担当してスモーキー 組の番頭さん=レジナルド“ソニー”バークとスモーキーの共同 プロデュース。昔からそうだったといえばそうだった“さりげな いモダンな快感”がそこらじゅうから誘いかける傑作。名うての 演奏者にまざってジェマーソンの息子も参加。よりシンプルに浮 遊し囁きかける音作りでメロディー/コード感の美もストレート に伝わってくる。恋愛の基本を気持ちよく伝授してくれる。 (湯浅) ザ・ムーングロウズのメンバー、モータウンのセッション・ドラマ ーを経て、ようやくソロ・デビューにこぎつけたが、ジャズ・ヴォー カル然としたこのファースト・アルバムは大失敗に終わった。デビュ ー曲「レット・ユア・コンシャンス・ビー・ユア・ガイド」 (ベリ ー・ゴーディー・ジュニア作)も全くヒットせず。が、このアルバム が失敗したからこそ、後のマーヴィンがあるのもまた事実。それにし ても、成熟(老成?)したヴォーカルに驚かされる。 (泉山) Smokey Robinson Essar Tamla TM-221 1961年 Marvin Gaye Tamla 6098TL 1984年 スモーキー作ではない曲が3曲あり、うち2曲は制作にも関与 せず、何曲かはストリングスで飾るものの全編通してシンセの台 頭が著しい。変な言葉遊び満載の意味不明の歌詞で、マイケル・ ジャクソンのようにハード・ロック・ギターも盛り込んだ、よく 言えばエキゾチックな1曲目「アンド・アイ・ドント・ラヴ・ユ ー」が象徴するように、スモーキーの歌の変わらぬ魅力を生かせ ず、珍しく胡散臭い。案の定ヒットしなかった。 (河地) That Stubborn Kinda' Fellow Tamla TM-239 1963年 デビュー・アルバムの大失敗を受けて、スタンダー ド・ナンバーを歌って万人に愛されるシンガーになり たいというマーヴィン本人の希望は却下され、モータ ウンは彼をR&Bシンガーとして仕立て直した。結果、 これがあのちっともソウルフルじゃない『ザ・ソウル フル・ムーズ・オブ…』を歌ってたシンガーと同一人 物かと疑ってしまうほど、ヴォーカルが活き活きとし て年齢相応(当時24歳)の若さが漲っている。昔、ま んまの「頑固な奴」という邦題だったタイトル曲 (R&Bチャート8位)は、マーヴィンにとっての記念すべき初ヒットとなった。続いて「ヒッ チ・ハイク」、「プライド&ジョイ」(ゴーディーの実姉でマーヴィンの最初の妻アンナに捧げた 曲)を立て続けにヒットさせ、彼はR&Bシンガーとしての揺るぎない地位を着々と築いていく。 非シングル曲「ゲット・マイ・ハンズ・オン・サム・ラヴィン」や「テイキング・マイ・タイム」、 演奏時間わずか2分足らずの「アイム・ユアーズ、ユア・マイン」といったミディアム∼アッ プ・テンポのナンバーでも、タイトル曲や「ヒッチ・ハイク」で聴かれる粗削りなシャウトが 所々で顔を出す。その向こう見ずなところもたまらなく魅力。 (泉山) This page is protected. Smokey Robinson Smoke Signals Tamla 6156TL 1985年 前作以上にエレクトロ化が進んでストリングスは姿を消し、共 作含めて自作曲は5曲で共同プロデュースが1曲に。今なお迷走 中なるも、テンプスが心温まるコーラスを加えた「ビー・カイン ド・オブ・ザ・グロウイング・マインド」、スティーヴィーと共 作した凝った作りの「ホールド・オン・トゥ・ユア・ ラヴ」あた りが聴きもの。他にハーブ・アルパート、タワー・オブ・パワー のホーン隊、リチャード・カーペンターも参加。 (河地) Smokey Robinson Intimate Marvin Gaye Motown 012 153 741-2 1999年 久方ぶりのフル・アルバム、と思ったらエグゼクティヴ・プロ デューサーにゴーディーの名が。引退の二文字はゴーディーには 無縁、と思いつつ、男の花道という言葉も浮かぶ超大人の豊かな 歌また歌。スモーキー・ヴォイスは不滅。スモーキーのひとり多 重唱がなにより素晴らしい。難しいことを簡単にやっているよう に感じさせるのは昔からだが、落ち着いて愛を説くその姿を思い 浮かべると胸が熱くなる。凄いバラード、濃いミディアム。 (湯浅) 122 When I'm Alone I Cry Tamla TM-251 1964年 デビュー・アルバムも含めて、マーヴィンは生前にセールスを 無視したアルバム(つまりほとんど趣味でレコーディングしたよ うな作品)を計4枚残している。これはそのうちの1枚で、モー タウンお抱えソングライターの楽曲は皆無。コートの襟を立て、 ガス灯らしき明かりの下で紫煙をくゆらせるカヴァー写真でのマ ーヴィンは、さながらジャズ・ヴォーカリストのよう。熱心なフ ァン以外には、内容的にちょっとツラいものがある。 (泉山) 123 Marvin Gaye Marvin Gaye In the Groove How Sweet It Is to Be Loved by You 初の全米No.1ヒット曲「悲しいうわさ」が収録されているが、 実は当初はシングル化の予定さえなかった。口コミで人気が高ま り、シングル化して全米を制覇したところで、モータウンはアル バムのタイトルを同曲に変更し、カヴァー写真を変えただけで全 く同じ内容でリリースし直した。それほど「悲しいうわさ」のイ ンパクトは強い。地声とファルセットを駆使するマーヴィン独自 の唱法は、このアルバムで完全に確立されている。 (泉山) Tamla TM-258 1965年 マーヴィンにとって初めて全米トップ10入りしたの が本アルバムのタイトル曲(全米6位)。同曲、「ユア ー・ア・ワンダフル・ワン」、「ベイビー・ドント・ユ ー・ドゥ・イット」(全米27位)、バラードで隠れた名 曲の「フォーエヴァー」の4曲は、マーサ&ザ・ヴァ ンデラス、シュープリームス、フォー・トップスらに 大量のヒット曲をもたらしたモータウン専属のソング ライター/プロデューサー・トリオ=ホーランド/ド ジャー/ホーランドの作品(または共作)で、飛ぶ鳥 を落とす勢いだった彼らとマーヴィンを組ませることで、更にマーヴィンをスターにしようとす るモータウン側の計らいに相違ない。セカンド・アルバムでみられたやや不安定なヴォーカルは すっかり影を潜め、地声とファルセットを巧みに操るマーヴィン独自の唱法が、早くも完成に近 づきつつある。ゴーディー作の「トライ・イット・ベイビー」 (当時の邦題は「やってみようよ」、 全米15位)こそジャジーなムードが漂うが、デビュー・アルバムの時のような無理に背伸びして 歌う様子は微塵も感じられない。実に気持ち良さそうに、楽しげに歌うマーヴィン。特に、女性 リスナーのハートをガッチリ掴んだタイトル曲にそのことが顕著。 (泉山) Tamla TS-285 1968年 Marvin Gaye M.P.G. Tamla TS-292 1969年 60年代のマーヴィンのヴォーカルは、67∼69年が成 熟期である。特に、デュエット・パートナーのタミ ー・テレルが脳腫瘍のために70年に死去し、そのショッ クから対人恐怖症に陥って音楽活動を停止してしまう 前年にレコーディングされた本アルバムでの唱法から は、鬼気迫るものさえ感じずにはいられない。何と言 うか、喉を極限まで使い果たしている、とでも表現す ればいいだろうか。オープニングの「ハートがいっぱ い」(R&Bチャート1位、全米4位)、続くドリフター ズのカヴァー「ジス・マジック・モーメント」まではまだしもソフトな歌い方をしているが、3 曲目「恋とはこんなもの」(「悲しいうわさ」の続編のようなナンバー/R&Bチャート2位、全米 7位)から曲が進むにつれ、マーヴィンのヴォーカルには“泣き”が混じり、喉が切れそうなシ ャウトがあちらこちらで聴かれるようになる。「エンド・オブ・アワ・ロード」(R&Bチャート7 位)は、当時マーヴィンと妻アンナの関係が悪化していた様子が投影された曲だと言われ、劇的 なサウンドを従えて歌うマーヴィンのヴォーカルは絶叫そのもの。シングル曲以外にも捨て曲な しの完成度の高いアルバムである。 (泉山) This page is protected. Marvin Gaye A Tribute to the Great Nat King Cole Tamla TS-261 1965年 生涯、マーヴィンが憧れ続けたシンガーが3人いる。サム・ク ック、フランク・シナトラ、そしてナット・キング・コール。ア ルバム・タイトルを見て分かるように、これは彼に捧げられたカ ヴァー集である。もちろん、ヒットさせようなどとは毛頭考えず に制作された、マーヴィンの個人的な思い入れが込められた作品。 他のこの手のアルバムよりも聴き易いのは、曲が耳に馴染んでい るためか。いずれの曲も、丁寧かつ真摯に歌われている。(泉山) Marvin Gaye Moods of Marvin Gaye Marvin Gaye Tamla TS-266 1965年 ヒット曲の寄せ集め的アルバムだが、スモーキー・ロビンソン作 の「アイル・ビー・ドッゴーン」と「エイント・ザット・ペキュリ ア」 (どちらもR&Bチャート1位)が収録されているだけで、その ことを甘受することができる。それほどその2曲が素晴らしい。 「テイク・ジス・ハート・オブ・マイン」、「ユア・アンチェンジン グ・ラヴ」などの中ヒットも収録。同じ時期のヒット曲「プリテ ィ・リトル・ベイビー」が未収録なのが惜しい。 (泉山) 124 That's the Way Love Is Tamla TS-299 1970年 「悲しいうわさ」の作者ノーマン・ホイットフィールド&バレ ット・ストロング作のタイトル曲がヒットしたため急遽レコーデ ィングされたアルバムだが、卓越したヴォーカルに救われる。ビ ートルズの「イエスタデイ」、ヤング・ラスカルズの「グルーヴ ィン」のカヴァーは哀愁たっぷり。アメリカでシングル・カット されなかった「アブラハム、マーティン・アンド・ジョン」はイ ギリスでヒットし、今もUK 産のベスト盤に収録される。 (泉山) 125 Marvin Gaye Marvin Gaye What's Going On Let's Get It On Tamla TS-310 1971年 “マーヴィン・ゲイの最高傑作は?”と訊ねられた なら、恐らく大半の人はこのアルバム名を口にするこ とだろう。デュエット・パートナーのタミー・テレル の死にショックを受けて対人恐怖症に陥り、一切の音 楽活動を停止してしまっていたマーヴィンを創作に駆 り立てたのは、ヴェトナム戦争の帰還兵だった弟フラ ンキーから聞かされた戦場の悲惨な光景だった。その ことに触発されて作ったのが反戦歌のタイトル曲 (R&Bチャート1位、全米2位)である。同曲以外の収 録曲も全てメッセージ・ソングもしくはゴスペル・ナンバーと呼んでも差し支えないような楽曲 で、その内容は同胞への問いかけであったり、環境汚染への憂慮であったり、都市生活で貧困に 喘ぐ人々の声なき叫びの代弁であったり…。本アルバムはモータウン史上初のコンセプチュア ル・アルバムという点においても革新的だったが、ミュージシャンの名前が初めてクレジットさ れたこと、サウンドが洗練を極めていること、歌詞が初めてプリントされたこと、モータウン所 属アーティストによる初のセルフ・プロデュース作品であることなど、何から何まで型破りであ った。半永久的に聴き継がれていくであろう不朽の名作。 (泉山) Tamla T-329V1 1973年 『ホワッツ・ゴーイング・オン』と並んでマーヴィ ンの代表作に挙げられる作品。この2枚は、70年代の マーヴィン・ゲイを語る上で決して外してはならない。 社会的メッセージが綴られた『ホワッツ…』とは打っ て変わり、本アルバムの一貫したテーマはズバリ男と 女の関係、つまり愛とセックス、そして別れ。かなり 直接的な内容のタイトル曲は「悲しいうわさ」以来5 年ぶりの全米No.1ヒットとなった。即物的と形容して もいいほどのセックス讃歌でありながら、マーヴィン が歌うと不思議と下品にならない。その辺りが、セックス・シンボルの異名を取る現代のR&Bシ ンガーも含めた他の男性シンガーたちとは明らかに一線を画す最大の要因であり、マーヴィンに 備わった天賦の資質。この作品をレコーディングしながらマーヴィンはコンセプトを練りに練っ たはずで、例えばそれは、LPで言うとB面の1曲目「夢を追いかけて」から2曲目の「遠い恋人」 へと続く絶妙なつなぎ部分からも推測できる。男の弱さをとことん露呈した「ひとりにしないで」、 「淋しい祈り」など、どの曲にもマーヴィンの実像が投影されており、これは彼の傑作であると 同時に、私小説でもあると明言したい。 (泉山) This page is protected. Marvin Gaye Marvin Gaye Trouble Man Tamla T-322L 1972年 Tamla T6-342S1 1976年 マーヴィンがサントラを手掛けたのは、これが最初で最後。ヒ ットしたタイトル曲(全米7位) 以外はほとんどがインスト・ナ ンバーで、いずれの曲も陰影に包まれている。映画公開当時の邦 題『野獣戦争』には思わずのけぞるが、インスト・ナンバー中心 のこのアルバムがR&Bチャート3位、全米14位を記録したことに もいささか驚く。アルバム・タイトルは、私生活でトラブルにま みれていたマーヴィンの代名詞にもなった。 (泉山) 『レッツ・ゲット・イット・オン』以降、オリジナル・アルバムを 一向に制作しようとしないマーヴィンに業を煮やしたベリー・ゴ ーディー・ジュニアが、既に完成していたレオン・ウェアのアル バムを譲り受けさせてレコーディングしたもの。第三者の息が吹 きかかった作品とは言え、ヴォーカルの多重録音を駆使した緻密 な仕上がり。タイトル曲「アフター・ザ・ダンス」がヒットした が、多重録音の妙が最も冴えるのは「恋人たちの神話」 。 (泉山) Marvin Gaye Marvin Gaye Live! Tamla T6-333S1 1974年 最近、未発表のライヴ盤が複数リリースされているが(中には 海賊版の匂いがするものも…)、生前に発表したライヴ盤は3枚 のみ。再発されていない『オン・ステージ』(63年)の若々しい マーヴィンのライヴも捨て難いが、どれか1枚を選べと言われた ら、迷わずこれを選ぶ。「遠い恋人」の哀切極まりない熱唱は、 スタジオ録音ヴァージョンでは決して求め得ない。聴いているう ちに、阿鼻叫喚のるつぼと化した観客と一体になれる。 (泉山) 126 I Want You Marvin Gaye Live At The London Palladium Tamla T7-352R2 1977年 アナログ盤は2枚組で、ディスク2のB面は「ガット・トゥ・ ギヴ・イット・アップ(黒い夜)」(全米No.1)のロング・ヴァー ジョン1曲のみ。本アルバムがR&BチャートNo.1、全米チャー ト3位を記録したのは、恐らく同曲のお蔭だろう。離婚問題を抱 えていた当時のマーヴィンは精彩を欠いており、74年のライヴ・ アルバムと較べると、どうしても内容的に劣る。デュエットの相 手を務めるフローレンス・ライルズのヴォーカルも弱い。(泉山) 127 Marvin Gaye Marvin Gaye Here, My Dear Diana & Marvin Tamla T-364LP2 1978年 最初の妻アンナ・ゴーディーとの泥沼の離婚劇を赤裸々に綴っ た自虐的アルバム、と言ってしまっては身も蓋もないが、じっく りと耳を傾けてみると、実に良く作り込んである。シングル・ヒ ットは「輪廻」(R&Bチャート23位)のみだが、これはアルバム 単位で評価されるべき作品。過去のコンセプチュアル・アルバム 同様、一定の流れに沿ってストーリーが澱みなく進んでいく。そ れにしても、印税の全てが慰謝料に消えたとは…。 (泉山) ベリー・ゴーディー・ジュニアの発案により、トップ・スター 同士の共演が実現。日本ではスタイリスティックスのカヴァー 「ユー・アー・エヴリシング」の人気が高いが、本国ではシングル 化されていない。アメリカでヒットしたのは、「噂の二人」(全米 12位)や「マイ・ ミステイク」(全米19位)。実はこのアルバムは レコーディングが別々に行なわれたのだが、マーヴィンとダイア ナの力量を以てすれば、でき映えが悪かろうはずがない。(泉山) Marvin Gaye In Our Lifetime Motown M-803V1 1973年 Marvin Gaye & Tammi Terrell Tamla T8-374M1 1981年 マーヴィンがモータウンに残した最後のオリジナル・アルバム にして、最も内容が乏しい作品。それは彼の責任ではなく、マー ヴィンとの関係が悪化していたモータウンが、本人の承諾を得ず に未完成のままリリースしてしまったため。が、楽曲のできは決 して悪くはなく、もしもそれらを心身共に健全な状態のマーヴィ ンが歌っていたら…と思うと残念でならない。『ミッドナイト・ ラヴ』(82年)の布石になっていたかもしれないのに。 (泉山) The Complete Duets Universal 016402 2001年 モータウン時代に4人の女性──メリー・ウェルズ、 キム・ウェストン、タミー・テレル、ダイアナ・ロス── とのデュエット・アルバムを発表したマーヴィンだが、 最も人気を博して長続きしたのは、3枚のアルバムを 共にレコーディングしたタミーとのコンビだった。『ユ ナイテッド』 (67年)、 『ユアー・オール・アイ・ニード』 (68年)、『イージー』(69年)の3枚に加え、ふたりの デュエットによる未発表曲、タミーの未発表のソロ・ ナンバーなどを収録して“完璧なるデュエット盤”と 謳った2枚組CD。これは既に公になっている事実だが、脳腫瘍に冒されて病床にあったタミー に代わって、ふたりのデュエット・ナンバーの大半を作/プロデュースしていたヴァレリー・シ ンプソンが『イージー』の収録曲12曲のうち10曲をレコーディングしていたため、厳密に言えば この作品は“完璧なる”とは呼び難い。それでもその事実を黙認してしまえるほど、マーヴィ ン&タミーのコンビは極上のデュエットであり、時に神々しくさえある。代表曲「エイント・ノ ー・マウンテン・ハイ・イナフ」をはじめとして、特に最初の2枚のアルバムに収められた楽曲 は、どれもこれもが素晴らし過ぎて、語る言葉さえ見つからない。 (泉山) This page is protected. Marvin Gaye & Mary Wells Together Motown MLP-613 1964年 既にスターだったメリーと組ませることで、モータウンがマー ヴィンの人気上昇を目論んで企画されたデュエット盤。両A面扱 いだった「ホワッツ・ザ・マター・ウィズ・ユー・ ベイビー」 (全米17位)、「ワンス・アポン・ア・タイム」(同19位)がヒッ トしてモータウンの思惑通りになったが、このアルバムを最後に メリーが移籍してしまったため、インスタント・デュオに終わっ た。時折、遠慮がちに歌うマーヴィンが微笑ましい。 (泉山) Marvin Gaye & Kim Weston Take Two Marvin Gaye Tamla TS-270 1966年 メリー・ウェルズが他レーベルに移籍し、新パートナーに抜擢 されたのは、モータウンお抱えソングライターのひとりだったウ ィリアム・スティーヴンソンの奥方。声質はメリーに似ている。 アップ・テンポの「イット・テイクス・トゥ」(R&Bチャート4 位、全米14位)がこのデュオ最大のヒット曲だが、「恋はミラク ル」、「アイ・ウォント・ユー・アラウンド」などのバラッドで 醸し出されるロマンティックな雰囲気に酔う。 (泉山) 128 Lost And Found:Love Starved Heart (Expanded Edition) Motown 012 153 868-2 1999年 この作品は既発の未発表曲集に更に曲を加えて再々リリースし たもの。マスター・テープをもっときちんと探してからリリース してほしいものだが、そんな不満も吹き飛んでしまうほど、25 曲+インタヴューから成るこの未発表曲集は内容が濃い。どうし てこれまでお蔵入りしていたのか首をかしげたくなる佳曲ばかり だ。レコーディング時期は63∼71年とバラつきがあるものの、楽 曲のでき映えもマーヴィンのヴォーカルも文句なし。 (泉山) 129 Little Stevie Wonder The 12 Year Old Genius Stevie Wonder Tamla TM-240 1963年 品番の上では3枚目のアルバムだが、シングル・カットされた 「フィンガーティップス」のヒットを受け、前2作に1ヵ月半先駆 けてリリースされたライヴ盤。曲目は2枚のアルバムからのベス ト的な選曲となっている。観客を煽りながら7分近くに及ぶ長尺 となった「フィンガーティップス」、ドラムスを叩きながらコー ル&レスポンスを誘う「ラ・ラ・ラ」など、録音は少々ラフだが スタジオ盤以上にいきいきとした演奏と歌で楽しませる。(吉本) Little Stevie Wonder Tribute to Uncle Ray Tamla TM-232 1963年 This page is protected. 砂浜にぺたんとしゃがみ込んでニッコリのスティーヴィー流リゾ ート音楽。波音とタヒチアンなボンゴとせわしなく奏でられるスト リングスとのアンバランスが魅力。B面のダンス系小品に躍動感が あるものの、いわゆるビーチものもサーフな明朗さが薄い分カミュ 的で物思いふけるために海に来た者にこそふさわしい。ジャック・ ニッチェの『ザ・ロンリー・サーファー』と併聴すると良さが倍加 します。変声期でもしっかり歌に取り組んでいる。 (湯浅) Up-tight Tamla TS-268 1966年 変声期を迎えて1年間を作曲の勉強に費やし、新たなスティー ヴィーの始まりを告げた66年作。R&Bチャートで1位を記録した 「アップタイト」をはじめ、早くも4曲で共作者クレジットに名 を連ねている。ロックの隆盛に呼応してリズミカルなR&Bが大半 を占め、ディランの「風に吹かれて」を黒っぽく仕立て上げたカ ヴァーも面白い。過去との対比として収められた「コントラク ト・オブ・ラヴ」は変声前の録音の中でも出色の1曲。 (吉本) Stevie Wonder Little Stevie Wonder Tamla TM-233 1963年 Down to Earth Tamla TS-272 1966年 マルチ・プレイヤーとしての才に焦点を当てた全編インスト作 で、曲によってボンゴ、ハーモニカ、ドラムス、オルガンなど 様々な楽器を担当している。ローランド・カークばりの歌心溢れ る熱演で、ジャズ畑の大人たちと互角に渡り合うスティーヴィー 少年。 「ソウル・ボンゴ」やラテン調の「マンハッタン・アット・ シックス」などは当時のアート・ブレイキーなどを思わせるファ ンキーさで、レア・グルーヴ系のDJの間でも人気が高い。 (吉本) 1曲目の「太陽のあたる場所」は彼のペンによるものではない が、黒人ソウルという枠にとどまらないスティーヴィーの特性が 発揮された決定的なナンバー。同様にこの作品ではソニー&シェ ール「バン・バン」 、バーズでお馴染みの「ミスター・タンブリン マン」などがカヴァーとして取り上げられており、典型的なR&B に収まらない方向性を明確に打ち出している。自ら作曲に関わっ た3曲の、後年に繋がる節回しが見え隠れする点にも注目。 (吉本) Stevie Wonder Stevie Wonder With a Song in My Heart Tamla TM-250 1963年 ジャジーなオーケストラをバックに「星に願いを」 、チャップリ ンの映画で知られる「スマイル」などを取り上げた、スティーヴ ィーの長いキャリアの中でも唯一のスタンダード集。大人っぽい 枯れた情感や抑揚を必要とするバラードでは、さすがに声変わり 前の歌い回しがアンバランスに感じられるが、逆に13歳らしさが のぞく魅力も。 「ゲット・ハッピー」などのスウィンギーかつ明る い曲調では、のびやかに非凡な歌唱力を発揮している。 (吉本) 130 Tamla TM-255 1964年 Stevie Wonder このアルバムこそが実質的なデビュー作で、タイトル通りに同 じ盲目のシンガーであるレイ・チャールズのナンバーや彼の名唱 で知られる曲を10曲中8曲で取り上げている。声変わり前の瑞々 しい歌声で、50年代テイストのR&Bからジャジーなフィーリング を要するスタンダードまで見事に歌いこなしており、オリジナル の「サンセット」では、すでに作曲クレジットに本人の名が。 初々しいが安易に“子供ソウル”と呼ばせないプロの所業。 (吉本) Jazz Soul of Little Stevie Stevie at the Beach I Was Made to Love Her Tamla TS-279 1967年 “ブラック”の枠にとどまらない方向性を打ち出した前作とは対 照的に、こちらでは黒人シンガーの大御所による有名曲を幅広く 取り上げている。「マイ・ガール」、オーティスの「リスペクト」 をはじめ、JBの「プリーズ、プリーズ、プリーズ」、リトル・リ チャードやマーヴィン・ゲイの曲もカヴァー。その中でオリジナ ルの表題曲「愛するあの娘」はチャート2位を記録するヒットと なり、先達と肩を並べる存在となった彼を象徴するよう。(吉本) 131 Eivets Rednow (Stevie Wonder) Stevie Wonder Alfie Signed, Sealed & Delivered Gordy GS-932 1968年 自らの名前を真逆にした“EIVETS REDNOW”名義で68年に発 表された、全編インストによる異色作。スティーヴィーは大半の曲 でハーモニカのみを担当し、イージーリスニング風のゴージャスな オーケストラをバックに、バカラック・ナンバーや、ソフト・ロッ ク風のアレンジでヒュー・マセケラのヒット曲などを取り上げてい る。余興的な作品だが、黒いトゥーツ・シールマンスといった趣で、 ラウンジ・ジャズの隠れ名盤と呼べる1枚だ。 (吉本) ゴーディーの手を振り切って、表題曲やビートルズの「ウイ・ キャン・ワーク・イット・アウト」を含む5曲を単独・共同プロ デュースし、次作以降のセルフ・プロデュース体制の先鞭をつけ た70年度作品。オーソドックスなモータウンの色とスティーヴィ ーの色の抜き差しが当時の状況を反映し、ジャケットの軽いノリ に反して、じっくり聴く甲斐のある内容。また「ジョイ」はのち に第2期ジェフ・ベック・グループがカヴァー。 (河地) Stevie Wonder Stevie Wonder For Once in My Life Tamla TS-291 1968年 通算13枚目。70年「サインド、シールド&デリヴァード」のち ょっと前。過渡期の作品と言えなくもないが、節々に覗かせる覚醒 への萌芽にじんわりと興奮を覚える。ハーモニカ・トリルとハンサ ム声の表題曲、鼻息が情感へと昇華された「アイ・ドント・ノウ・ ホワイ」 、ニュー・ソウルという言葉を無効化しそうな「ドゥ・ア イ・ラヴ・ハー」等々、泡吹くこと請け合い。 「トーキング・ブッ ク」を酒の席で強要されたら本作を薦めることを薦める。 (牧野) This page is protected. Where I'm Coming From Tamla TS-308 1971年 70年代への突入とともに、サウンド面での主張も濃密に反映す るようになってきた彼の変革期を捕らえた71年作。電子チェレス タの弾き語りによる冒頭の「ルック・アラウンド」、クラヴィネ ットをワウ・ギターのようにかき鳴らし、ソウル・ジャズ風のオ ルガンが高揚感を高める2曲目の「ドゥ・ユアセルフ・ア・フェ イヴァー」以降はまだオーケストレーションを主体とした音だが、 曲調はスピリチュアルな雰囲気のものが増えてきている。(吉本) Stevie Wonder Stevie Wonder Music of My Mind My Cherie Amour Tamla TS-296 1969年 スティーヴィーの作品としてはモータウンがクリエ イティヴィティを完全にコントロールした最後のアル バムで、ヘンリー・コスビーによるプロデュースの69 年度作品。だが大ヒットした表題曲は数年前の録音で、 しかも「アイ・ドント・ノウ・ホワイ」のB面としてリ リースされており、こんなところにもコントロールの 一端が垣間見える。本作からのもうひとつのヒット曲 「イエスター・ミー、イエスター・ユー」は、「太陽の あたる場所」「フォー・ワンス・イン・マイ・ライフ」 などと同じくロン・ミラーが作者に名を連ね、ボブ・ディランの「風に吹かれて」のカヴァー以 降、顔を出すフォーキーな感触を備える。また当時のモータウンのお家芸だったカヴァーはドア ーズの「ハートに火をつけて」。他にも場末のクラブのような妖しげな雰囲気を持つ「シャド ウ・オブ・ユア・スマイル」、重厚な歌い込みが本作の中では異彩を放つ「ギヴ・ユア・ラヴ」 等、ヴァラエティに富む内容だが、どういうわけか全曲オーケストラを使った豪勢なプロダクシ ョンで、それが全体のトーンを統一している。そしてオーケストラをバックにしたハーモニカ・ ソロがふんだんに聴けるのも楽しい。 (河地) 132 Tamla TS-304 1970年 Tamla T-314L 1972年 この後の4作が絶頂期とされているが、ムーグなどのアナロ グ・シンセをアグレッシヴに使いこなして、最も“ニュー・ソウ ル”的なサウンドを聴かせるのはこの作品である。スライ・スト ーンのような攻撃的なファンクから、終盤は電子音のシーケンス へと突入する冒頭の「ラヴ・ハヴィング・ユー・アラウンド」を 筆頭に、組曲的な構成の「スーパーウーマン」 、クラヴィネットを フォーク・ギターのように使った「輝く太陽」も美しい。 (吉本) Stevie Wonder Talking Book Tamla T-319L 1972年 サウンド面での実験の過激化とポピュラリティの強化が反比例 することなく同時進行するという、アーティストとして理想的な 黄金期への突入を告げた72年作。前作から導入したアナログ・シ ンセを、曲に合わせてチョッパー・ベースのようにヴァイオリン のようにと自由自在に使いこなし、電子ピアノの残響音も随所で ムーディーに多用した黒いエレクトロニカル・パレード! 1曲参 加したジェフ・ベックのジャジーなギターも聴きもの。 (吉本) 133 Stevie Wonder Stevie Wonder Innervisions Songs in the Key of Life Tamla T-326L 1973年 前作からわずか9ヵ月という短いインターヴァルで 発表されたものの、連続して聴き比べてみれば、サウ ンド面でも作曲面でも怒濤の進化を遂げているのがわ かる。まず、アナログ盤でA面に当たる前半は、たたみ かけるようにエクスペリメンタルな曲が並ぶ。グルー ヴィーなフュージョン風のリズム隊に、割って入るよ うに変拍子コーラスが加わり、サビらしきフレーズに 着地しないままスリリングに進行してゆく「トゥー・ ハイ」に始まり、続く「ヴィジョンズ」も1小節ごと に転調するようなトリッキーな2本のギター(エレキはデイヴィッド・T・ウォーカー)を伴奏 にスピリチュアルなメロディを歌い上げる。3曲目の「汚れた街」も、間奏でムーグがシンフォ 系プログレのようなフレーズを挟み込んでくるし、ホセ・フェリシアーノのスパニッシュ・ボッ サなカヴァーで知られる「ゴールデン・レディ」もロマンティックな曲調だが、リズム、曲展開 ともに一筋縄ではいかない。一転して後半は、ひとり多重録音ファンクを極めた「ハイヤー・グ ラウンド」、ラテンな「ドント・ユー・ウォーリー・バウト・ア・シング」などと明快な楽曲が 並び、硬軟を使い分けた構成でさらなる頂点へ登り詰めた。 (吉本) Tamla T13-340C2 1976年 300曲以上用意された中から21曲に絞られたという、 LP2枚に4曲入りのEPを加えてリリースされた2年ぶ りの大作は、前作までに培ってきたジャズ、電子音楽 からラテンに至るまでの汎ブラック・ミュージックな 音楽性を、よりエンタテインメント度を上げて一気に 解き放ったかのような痛快巨篇。このような大作とな ったのは、実は発売の1年前にアルバム1枚分の録音 は終えていたものの、モータウンとの契約更新に時間 がかかったのと、もはやこれくらいのスケールでない とスティーヴィー自身が満足できない状態になっていたのが理由と思われる。デューク・エリン トンに捧げられた「愛するデューク」を筆頭にゴージャスなアレンジの楽曲が目立つが、特に雄 大なサルソウル・チューン「アナザー・スター」でソロを聴かせるジョージ・ベンソン(g)と ボビー・ハンフリー(fl)、「アズ」のハービー・ハンコック(el.p)、隠れ名曲「サマー・ソフト」 で心地よいオルガンを奏でるロニー・フォスターなど、ジャズ系プレイヤーによる好演も聴きも の。また、ズールー語∼スペイン語∼英語の3ヵ国語で歌う「歌を唄えば」も印象的で、言語の 面でも垣根を超えんとする意志に敬服させられる。 (吉本) This page is protected. Stevie Wonder Stevie Wonder Stevie Wonder's Journey Through the Secret Life of Plants Fulfillingness' First Finale Tamla T6-332S1 1974年 天まで続く鍵盤の階段とともに、デビューした少年 時代からグラミー賞の常連になるまでを絵巻風に描い たジャケットで発表された本作は、タイトル通りに音 楽家としての第1章に自ら区切りを付けた作品。前作 をリリースした直後に自動車事故によって死に直面し たことが影響したのか、サウンドの表面的なアグレッ シヴさは後退し、ミディアム・テンポで、メロディア スかつドリーミーな雰囲気を持った楽曲が並んでいる。 とはいえ、休養でジャマイカを訪れた際に生まれたと いう「レゲ・ウーマン」、セルジオ・メンデスからアドヴァイスを受けながら完成させた「バー ド・オブ・ビューティー」など、レゲエやブラジル音楽に触発されながらその習作にとどまって いない楽曲も含まれ、音楽的にはさらなる高みへと到達している。また、近作ではあまり吹くこ とのなかったハーモニカがポップな曲調に合わせて随所で使われ、アナログ・シンセももはや “目新しい楽器”という印象を与えないほどにスムース。特に「クリーピン」における美しいト ーン制御は白眉だろう。いわゆる3部作の中では最もエッジに欠けるが、24歳にしてこの音宇宙 を築き上げていること自体が驚異だ。 (吉本) 134 Tamla T13-371N2 1979年 前作と同じ2枚組の大作だが、サウンドのトーンは対照的なま でに内省的。植物の成長をテーマにした映画のサントラとして制 作されたため、映像とのリンクでこそ効果を発揮しそうなインス トと80年代以降のバラードのお手本のような超メロウな「愛を贈 れば」などが混在しており、少々とっつきにくい印象がある。が、 子供たちをコーラスに起用した日本語曲、インドやアフリカの音 楽に強く傾倒した曲もあり、超人的なヴィジョンは健在。(吉本) Stevie Wonder Hotter Than July Tamla T8-373 MI 1980年 商業的に不振だった前作から、鮮やかにソウル∼ポップス路線 へとカムバック。ボブ・マーリィを思わせる曲調で真っ向からレ ゲエに取り組んだ「マスター・ブラスター」や、テクノ・ポップ なシンセのリフも聴き逃せない「ハッピー・バースデー」がサウ ンド的にも際立っている。70年代前半の諸作と比べると決定打に 欠ける感は否めないが、時流に合わせてディスコ∼クロスオーヴ ァーなノリを全開にしたナンバーも聴き応え充分の濃密さ。 (吉本) 135 Stevie Wonder The Woman in Red The Supremes Motown 6108ML 1984年 オリジナル作品としては4年ぶりとなった84年作は、同名映画 のサントラとして発売された。3曲で参加しているディオンヌ・ ワーウィックとの甘いデュエットも見事にブラコンしていて興味 深いが、改めて注目してほしいのは、彼流のニューウェイヴ・フ ァンクと言える「ラヴ・ライト・イン・フライト」と「ドント・ ドライヴ・ドランク」の2曲。簡素な伴奏とメロディのリフレイ ンだけで6分以上持たせる「心の愛」も、やはり偉大では?!(吉本) Stevie Wonder In Square Circle Tamla 6134TL 1985年 「心の愛」のヒットから間髪入れずに送り出された85年作で、 MTV全盛の時流を汲んでデジタルな機材を多用した音作りが目立 つ。 「パートタイム・ラヴァー」がヒットしたが、クールなビート とホーン使いが渋い「ゴー・ホーム」 、シンクラヴィアを駆使して 自然音を重ねた「オーヴァージョイド」も秀逸。南アフリカのコ ーサ語のコーラス隊を起用した「イッツ・ロング」も、同時期の ポール・サイモン『グレイスランド』に比すべき曲だ。 (吉本) Meet the Supremes Motown MT-606 1963年 言うなればシュープリームスのお披露目アルバム。そ のわりには影が薄いのは、誰もが知っている耳に馴染 んだ大ヒット曲が1曲も含まれていないから。後の栄 光がウソのように、デビュー当初の彼女たちはヒット 曲に恵まれず、 “ザ・ノー・ヒット・シュープリームス” とまで呼ばれた。モータウンからの記念すべきデビュ ー・シングル「アイ・ウォント・ア・ガイ」、そのB面 だった「ネヴァー・アゲイン」にしても、サウンド的 にもヴォーカル的にも迷いが見える。むしろ、ダイア ナ・ロス以前にグループのリード・ヴォーカルだった故フローレンス・バラードがソロで歌う 「バタード・ポップコーン」、もうひとりの“シュープリーム”メリー・ウィルソンのソロ・ナン バー「ベイビー・ドント・ゴー」が印象に残るが、そうしたソロ・ナンバーが挿入されていると ころにも、グループの方向性が定まっていなかったことが窺い知れるのではないか。が、ダイア ナのポップできらびやかなヴォーカルをここに収められている楽曲が活かしきれていないだけ で、その歌声はやはり強烈に耳に響く。本アルバムのリリースからわずか半年後、彼女たちは 「愛はどこへ行ったの」で頂点に君臨する。 (泉山) This page is protected. Stevie Wonder Jungle Fever The Supremes Motown MOT-6291 1991年 スパイク・リーの映画のサントラだが、いわゆる映画音楽的な インストはなく、リーの作品にインスパイアされて生まれたソロ と考えていい。サウンド的には、前作『キャラクターズ』での音 数をストイックに絞った打ち込みファンク路線の発展型で、ニュ ー・ジャック・スウィング風のリズムを導入した「イーチ・アザ ーズ・スロート」では「ドゥ・アイ・ドゥ」以来(!)のラップ も聴かせる。表題曲でのスワヒリ語のコーラスも印象的。(吉本) Stevie Wonder Conversation Peace Motown 314530238 1995年 95年のリリースだが、89年頃から同名タイトルでの発表がアナ ウンスされていた作品で、90年代唯一のオリジナル・アルバムと なった74分に及ぶ大作。重厚なゴスペル・コーラスで表題曲に壮 大なうねりを加えるサウンズ・オブ・ブラックネスをはじめ、テ イク6、B・マルサリス、アニタ・ベイカーなどとゲスト陣も豪華 で、曲調も70年代に匹敵する多彩さだ。ダンスホール・レゲエに 挑戦した楽曲もあり、汎ジャンルな持ち味を発揮している。 (吉本) 136 Where Did Our Love Go? Motown MT-621 1964年 デビュー・アルバムの約1ヵ月前にリリースされた シングル「恋のキラキラ星」(全米23位、ホーランド/ ドジャー/ホーランドの作・プロデュース)でようや くグループの確固たる方向性を掴んだ彼女たちに、も はや迷いは微塵もない。リード・ヴォーカルのダイア ナ・ロスのキンキラ・ヴォイスに、フローレンス・バ ラードとメリー・ウィルソンの控えめなコーラスが絶 妙に絡んでH-D-H作品を歌えば、そこに世界中の人々 を魅了するシュープリームスのスタイルが完成する。 アルバム・タイトル曲、「ベイビー・ラヴ」、「カム・シー・アバウト・ミー」と立て続けに全米 首位を制覇した彼女たちの当時の人気は凄まじく、まだラジオ局に新曲のシングル盤が届いてい ないうちにリクエストNo.1になったというエピソードが残っているほど。3人の魅力もさること ながら、やはりH-D-Hと組んだことがシュープリームスを他の追従を許さない史上最高のガー ル・グループの座に押し上げたと言えるだろう。全12曲の収録曲のうち8曲がH-D-H作品で、そ のうちの3曲が全米No.1ヒット。H-D-H作品以外では、スモーキー・ロビンソン作の「ブレス・ テイキング・ガイ」なども悪くない。 (泉山) 137 The Supremes A Bit of Liverpool The Supremes Motown MS-623 1964年 当時のアメリカでもビートルズ旋風が吹き荒れていたが、彼ら に対抗できる唯一のグループがシュープリームスだと言われた。 そのビートルズのカヴァー4曲に加え、ジェリー&ザ・ペースメ イカーズ、ピーター&ゴードン、アニマルズらUKグループのカ ヴァー、モータウン所属のミラクルズやコントゥアーズのカヴァ ーで構成されている。モータウン・サウンド愛好家が多いイギリ スのマーケットを多分に意識した企画盤だろう。 (泉山) The Supremes The Supremes Sing Country Western & Pop Motown MS-625 1965年 これも『ア・ビット・オブ・リヴァプール』と似たような企画 盤のひとつで、カントリー・シンガー、ウィリー・ネルソンのカ ヴァー「ファニー・ハウ・タイム・スリップス・アウェイ」で幕 開け。が、全曲がカントリー・ソングのカヴァーではなく、モー タウンの専属ソングライター/プロデューサーのクラレンス・ポ ールの作(スティーヴィー・ワンダーとの共作もあり)が全11曲 中7曲を占める。カントリー調にポップ色も加味しつつ。(泉山) I Hear a Symphony Motown MS-643 1966年 タイトル曲は言うまでもなく全米No.1ヒット。それ と「二人だけの世界」(全米5位)を除けば、ほとんど がカヴァーで、ビートルズの「イエスタデイ」、映画の 挿入歌「アンチェインド・メロディー」や「わが心に 歌えば」、ミュージカルのテーマ曲「ウィザウト・ア・ ソング」などを、オーケストラ風のサウンドを従えて 歌っている。それらのカヴァー曲は、ダイアナのソ ロ・ナンバーと言っても過言ではないほどフローレン ス・バラードとメリー・ウィルソンのコーラスがほと んど聴こえない。このアルバムがリリースされた翌年にグループ名をザ・シュープリームスから ダイアナ・ロス&ザ・シュープリームスに改めるための布石だったのでは、と考えるのは穿ち過 ぎだろうか。面白いのは、彼女たちの足元に遠く及ばなかったガール・グループ=ザ・トイズ (やはり3人組)の唯一の大ヒット曲「ラヴァーズ・コンチェルト」(65年/バッハの「メヌエッ ト」を下敷きにした可愛らしいラヴ・ソング/オリジナルは全米2位)をH-D-H色を強く打ち出 したアレンジに仕立てて歌っている点。“No.1ガール・グループは私たちなのよ!”と言わんば かりの漲る自信を感じずにはいられない。 (泉山) This page is protected. The Supremes We Remember Sam Cooke The Supremes Motown MS-629 1965年 読んで字の如くサム・クックのカヴァー集。このアルバムがリ リースされた前年の64年12月11日に彼は銃殺されている。よっ て、本アルバムのタイトルが“私たちはサム・クックを忘れない” となっているわけ。57年の全米No.1ソング「ユー・センド・ミ ー」のカヴァーを筆頭に、「キューピッド」、「ブリング・イッ ト・オン・ホーム・トゥ・ミー」、「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・ カム」などの有名曲を真摯に歌い上げた好盤。 (泉山) The Supremes More Hits by the Supremes Motown MS-627 1965年 全米No.1ヒット「ベイビー・ラヴ」のシングルのB面だった「ア スク・エニイ・ガール」をオープニング・ナンバーに持ってくる辺 り、シングル盤をせっせと集めて聴いていた人々のために企画され たベスト盤といった趣。全曲がH-D-H作品で、全米No.1ヒット 「ストップ・イン・ザ・ネーム・オブ・ラヴ」と「バック・イン・ マイ・アームズ・アゲイン」を収録。非シングル曲でも、 「ウィス パー・ユー・ラヴ・ミー・ボーイ」など佳曲が少なくない。 (泉山) 138 Supremes A' Go-Go Motown MS-649 1966年 初めて全米アルバム・チャートで首位に立った作品。 フィル・コリンズのカヴァーでも有名な全米No.1ヒッ ト「恋はあせらず」、中ヒット「恋は切なく」(全米9 位)の他は、モータウン所属の他のアーティストのカ ヴァーが中心。アイズレー・ブラザーズの「ジス・オ ールド・ハート・オブ・マイン」、フォー・トップスの 「シェイク・ミー、ウェイク・ミー」「ベイビー・ア イ・ニード・ユア・ラヴィン」「アイ・キャント・ヘル プ・マイセルフ」、テンプテーションズの「ゲット・レ ディ」、モータウン設立当初のバレット・ストロングのヒット曲「マネー」などを、ソツなくカ ヴァーしている。モータウンはひとつの楽曲を複数のアーティストたちにレコーディングさせて いるので、その曲を歌って大ヒットさせたからといって、そのアーティストがオリジナルとは限 らない場合が多い。ここに収められている「プット・ユア・プレイス・イン・マイ・プレイス」 もアイズレー・ブラザーズがこのアルバムがリリースされた年にやはりアルバムに収録している ため、どちらがオリジナルかは未だ不明。フランク・シナトラの娘ナンシーの全米No.1ヒット 「にくい貴方」のカヴァーが異色。 (泉山) 139 The Supremes The Supremes Sing Holland-Dozier-Holland Diana Ross & The Supremes Motown MS-650 1967年 Motown MS-679 1968年 “シュープリームス、○○を歌う”の企画盤の流れを汲んでい るが、これは彼女たちをスーパー・グループへと変貌させたH-DH作品ばかりを歌ったもので、そのシリーズでも究極の1枚と言 える。全米No.1ソング「キープ・ミー・ハンギン・オン」「恋は はかなく」の他、フォー・トップスの「セイム・オールド・ソン グ」やマーサ&ザ・ヴァンデラスの「ヒート・ウェイヴ」のカヴ ァーも。アルバム全体でH-D-Hサウンドが炸裂。 (泉山) フォー・トップスと並んでモータウンで最も人気があった男性 ヴォーカル・グループ、テンプテーションズとのジョイント。後 のフィラデルフィア・サウンドの仕掛け人ケネス・ギャンブルが ペンを執った「君に愛されたい」(全米2位)が何と言っても異 彩を放つ。マーヴィン・ゲイやミラクルズなど、モータウン・ア ーティストのカヴァーも、2大グループの共演だけに、豪華な仕 上がり。最高峰のグループ同士の競演と呼ぶべきか。 (泉山) The Supremes Diana Ross & The Supremes The Supremes Sing Rodgers & Hart Motown MS-659 1967年 Love Child Motown MS-670 1968年 アメリカのTV局ABCで放映された特別番組『Rodgers & Hart Today』に出演した際のステージを収めたアルバム。彼女た ち以外にも、ママス&パパスやカウント・ベイシーらが出演してい た。もちろん全曲がロジャース&ハート作品で、有名な「ザ・レイ ディ・イズ・ア・トランプ」や「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」 などを、臆することなく歌いきる。故フローレンス・バラードのラ イヴの歌声が聴けるという点ではかなり貴重。 (泉山) 約1年半ぶりの全米No.1ヒット曲「ラヴ・チャイルド」は、彼 女たちにしては珍しいメッセージ・ソング。しかも、H-D-H作で はない。それどころか、本アルバムに彼らの楽曲は皆無。その理 由は、このアルバムがレコーディングされた頃、彼らがモータウ ンと金銭面でモメていたから。故に彼女たちも他のソングライタ ーと組まねばならならなかったが、タイトル曲が大ヒットしたお 蔭で、H-D-H サウンドからの脱皮に成功した。 (泉山) Diana Ross & The Supremes The Supremes with the Temptations Reflections T.C.B. 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Motown MS-665 1968年 Motown MS-682 1968年 グループ名をダイアナ・ロス&ザ・シュープリームスに改めて からの初のオリジナル・アルバム。珍しく全米No.1ヒット曲は含 まれていないものの、タイトル曲(全米2位)、「フォーエヴァ ー・ケイム・トゥデイ」(同28位)、「イン・アンド・アウト・オ ブ・ラヴ」(同9位)などにH-D-Hサウンドを歌う過程でのグル ープとしての成熟ぶりが窺える。脱退したフローレンス・バラー ドに代わってシンディ・バードソングが新加入。 (泉山) 再びテンプテーションズとの共演盤で、アメリカのTV局NBCで 放映された特番の模様を収めたもの。双方のグループが互いのヒ ット曲を単独あるいは共演で歌う。ビートルズやポール・アンカ の曲、ミュージカル・ソング「見果てぬ夢」などを取り上げて歌 っているところをみると、観客に白人も多く含まれていたのでは ないかと推測される。ダイアナと「見果てぬ夢」でリードを二分 する故ポール・ウィリアムスが素晴らしい。 (泉山) Diana Ross & The Supremes Diana Ross & The Supremes Sing And Perform "Funny Girl" Let the Sunshine In Motown MS-672 1968年 64年に上演された大ヒット・ミュージカル『ファニー・ガール』 (喜劇女優ファニー・プライスの伝記的物語。主演はバーブラ・ス トライザンド)の挿入歌のカヴァー集で、このアルバムがリリー スされた年に映画化もされた。かねてからダイアナ・ロスをハリ ウッドに進出させたいと考えていたベリー・ゴーディー・ジュニ アの思惑が見え隠れする企画である。ミュージカル・ソングのカ ヴァーだけに、アルバム全体の作りが華美でやや大仰。 (泉山) 140 Diana Ross & the Supremes Join the Temptations Motown MS-689 1969年 タイトル曲からしてカヴァーである。ミュージカル『ヘアー』 の挿入歌で、フィフス・ディメンションが歌って全米No.1ヒット になったもの。この頃になると、レコーディングにメリー・ウィ ルソンとシンディ・バードソングが参加しないこともしばしばあ り、アルバム全体がダイアナのソロ作品に聴こえなくもない。 「ラヴ・チャイルド」の続編の如き「スラムの小鳩」が出色ので き映え。 (泉山) 141 The Supremes With the Four Tops The Magnificent 7 タイトルは、 “シュープリームス3人+フォー・トップス4人= 堂々たる7人”の意味。が、このアルバムがリリースされた時点 でダイアナはソロ・シンガーに転向し、代わってジーン・テレル がリード・シンガーになっていたため、残念ながらかつてのテン プテーションズとの共演のようなゴージャス感は求め得ない。ラ ストを飾る「トゥゲザー・ウイ・キャン・メイク・サッチ・スウ ィート・ミュ ージック」なんかは悪くはないが…。 (泉山) The Supremes The Supremes Diana Ross Motown MS-717 1970年 Motown ML-828S1 1975年 ダイアナに代わってリード・ヴォーカルを務めたジーン・テレ ルがグループを去り、グラス・ハウスのヴォーカリストだったシ ェリー・ペインが新加入して初めて制作された作品。ダイアナ脱 退後にもヒット曲はあるが、本アルバムからは全く生まれず。 「ホエン・キャン・ブラウン・ビギン」、「アイ・キープ・イッ ト・ヒド」といった佳曲もあるだけに、ダイアナを欠いたシュー プリームスをモータウンが見限ったとしか思えない。 (泉山) Touch Me in the Morning Motown M-772L 1973年 ダイアナにとって「エイント・ノー・マウンテン・ ハイ・イナフ」に続く2曲目の全米No.1ヒットとなっ たのがタイトル曲。しかしながら、当時のR&Bチャー トでは5位止まりだった。これと同じ現象は、スティ ーヴィー・ワンダーの「ユー・アー・ザ・サンシャイ ン・オブ・マイ・ライフ」(73年/全米No.1、R&Bチ ャート3位)でも起きている。端的に言えば白人マー ケットでのウケが良かったということだろうが、ダイ アナやスティーヴィーのそれらの楽曲も含めて、デト ロイトからロサンジェルスに拠点を移した70年代のモータウン・サウンドはいわゆる“ニュー・ ソウル”と呼ばれる洗練された音作りを目指していた。そのことは、本アルバムからも窺い知れ る。シュープリームス時代からダイアナは様々なジャンルの曲を歌ってきたが、例えばここに収 録されたロジャース&ハート作の「リトル・ブルー」、ジョン・レノンのカヴァー「イマジン」 などをシュープリームス時代のカヴァー曲と聴き較べてみれば、サウンドがいかに洗練されてい るかが一目瞭然。そしてダイアナのヴォーカルは、「エイント・ノー…」を経て「タッチ・ミー …」に辿り着く頃には、益々ドラマティックな様相を呈するようになる。 (泉山) This page is protected. Diana Ross Diana Ross Diana Ross Motown MS-711 1970年 Motown M-812V1 1973年 シュープリームス時代とは打って変わり、カヴァー写真でのダイ アナはかなりボーイッシュな印象。オープニングを飾る記念すべき ソロ・デビュー曲「リーチ・アウト・アンド・タッチ」は全米20 位に終わったが、マーヴィン・ゲイ&タミー・テレルの「エイン ト・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」のカヴァーは、アレンジを 大胆に変えてセリフ仕立てにしたことが功を奏して全米No.1に。 ダイアナのドラマティックな歌とセリフが実に見事。 (泉山) このアルバムが日本でリリースされた当時の邦題は『わかれ』。 タイトル曲は全米14位と振るわなかったものの、時にシュープリ ームス時代を彷彿とさせるきらびやかさを見せて歌い、時にジャ ジーな雰囲気を漂わせて気だるく歌う、ダイアナのヴォーカリス トとしてのスタイルが確立されたのがこの時期なのではないかと 思う。地味な作品だが、このアルバムでしか聴けない楽曲が多数 あるため、コレクターズ・アイテム的な1枚だ。 (泉山) Diana Ross Diana Ross Lady Sings the Blues Motown M-758D 1972年 ダイアナをハリウッドに進出させようというベリー・ゴーディ ー・ジュニアの計画は着々と進行し、遂に彼女は映画『ビリー・ ホリデイ物語』で主役の座を射止め、何とアカデミー賞主演女優 賞にもノミネートされた。これは同映画のサントラであり、ダイア ナのソロ作品で唯一全米アルバム・チャートを制覇。シングル・ヒ ットは「グッド・モーニング・ハートエイク」のみだが(全米34 位) 、映画同様、アルバムのクオリティも非常に高い。 (泉山) 142 Last Time I Saw Him Live at Caesar's Palace Motown M6-801S1 1974年 ソロになってからの初のライヴ・アルバム。ソロ・ヒット曲に 加え、お約束のシュープリームス・メドレー、 『ビリー・ホリデイ 物語』のサントラ盤収録曲のメドレーまであって、サーヴィス精 神タップリのステージ構成だ。ミュージカル『ファニー・ガール』 や『ピピン』、『ポーギーとベス』の挿入歌、ロジャース&ハート 作の「ザ・レイディ・イズ・ ア・トランプ」なども歌っており、 ダイアナの目の前にいる観客層の幅の広さを窺わせる。 (泉山) 143 Diana Ross Diana Ross Martha & the Vandellas Come and Get These Memories Motown M-861S1 1976年 「マホガニーのテーマ」で幕を開けるのでまた芝居がかっている のかと思ったら「ラヴ・ハングオーヴァー」でグルーヴィーに酔 わせる。久々にR&B、ポップ両チャートで首位となったこの曲は、 もろに時代の要請に応え途中で軽快ディスコに展開する。B面は これまでの活動をダイジェストした感じの佳曲が並ぶ。シュープ リームスをファンキーに仕立て直したような「ワン・ラヴ・イ ン・マイ・ライフ・タイム」もスマッシュ・ヒット。 (湯浅) 当時、モータウンのA&Rだったミッキー・スティーヴンソンと H-D-Hのブライアン・ホーランドが大半のプロデュースを手がける など、制作のほとんどを身近な人で固めたファースト・アルバム。 骨格のガッシリした演奏をバックに、キラキラしたポップスの魅力 をてらいなくまっすぐに聴かせる。そして、なんといってもジャケ のクマちゃんがいい。収められている音楽には、そのクマちゃんの ムックリした体躯に共通する親しみ易さと安心感がある。 (市川) Diana Ross The Boss Gordy G-902 1963年 Martha & the Vandellas Motown M7-923R1 1979年 盟友、アシュフォード&シンプソンと再び手を組み、彼女たち の作品を大らかに歌った79年の作品集。流石に相性も良く、モー タウン史上屈指の古典ダンス作「ザ・ボス」等、レパートリーに も恵まれたが、ヒットを生むには至らなかった。76年の「ラヴ・ ハングオーヴァー」以来大ヒットに見放されてきた 彼女にとって 79年近辺は最大の岐路だったように思う。翌年、この岐路を脱す るため彼女はシックをプロデューサーに迎え入れる。 (JAM) Heat Wave Gordy G-907 1963年 グループの代表曲「ヒートウェイヴ」を収録したア ルバム。アメリカでの発売は63年9月。プロデュース をブライアン・ホーランドとラモント・ドジャーのふ たりが担当しているものの、収録曲は表題曲以外は有 名曲や当時のヒット曲などのカヴァーが占めている。 62年のイタリア映画『世界残酷物語』のテーマ・ソン グ「モア」、フィル・スペクターが手がけたクリスタル ズ63年のヒット曲「キッスでダウン」とダーレン・ラ ヴ「ボビーが帰ってくるまでは」、ピート・シーガー 「天使のハンマー」などの意外な選曲。当時のコンサートでは観客の関心を惹くために、オリジ ナル・ナンバーとカヴァー曲を半々の割合で歌っていたというから、そこでの曲をそのままレコ ーディングしたということなのかもしれない。また、さまざまなタイプの曲を取り上げることは、 急激に注目を集めつつあったモータウンの当時は新人だった他のアーティストやハウス・バンド だったファンク・ブラザーズの音楽性を広げる試みのひとつでもあっただろう。65年3月に発売 されたイギリス盤では、一部の曲が「ダンシング・イン・ザ・ストリート」「クイックサンド」 などアメリカ盤発売後のヒット曲と差し替えられた。 (市川) This page is protected. Diana Ross Diana Motown M8-936 1980年 あらゆるアプローチで様々なチャレンジを行なって きたにもかかわらず、ことシングル・ヒットに関して は76年の「ラヴ・ハングオーヴァー」以来これといっ た“大当たり”をモノにしていなかったダイアナ・ロ ス。そんな彼女がここが勝負とばかりに、時のプロデ ューサー、シックのふたり(ナイル・ロジャース&バ ーナード・エドワーズ)を招いて作り上げた80年の問 題作。時代のビートを求めてのプロデューサー・チョ イスは今ではひとつも珍しいことではなくなったが、 本アルバムはその“ヒット祈願”的な手法を最も分かりやすい形で示した金字塔と言える1作だ。 そんな企みは全てプラス方向に働き、「アップサイド・ダウン」は彼女のソロ・キャリア史上 最大級のヒットとなった。それどころか、アルバムのほうもブラック・チャートで8週間連続で 首位を独走し、彼女初めてのミリオン・セラーとなっている(ポップ・チャートでは最高位2位)。 これまでのダイアナらしい表現が遠慮を強いられた面も少なからずあるが、彼女が80年代のヴァ イブとここまで劇的に向き合えたことを何より評価すべきだろう。彼女の潜在的な才能を無理な く引き出したシックの感覚も素晴らしい。 (JAM) 144 Martha & the Vandellas Dance Party Gordy G-915 1965年 発表するシングルが軒並みヒットしていた時期のアルバムで、 ミッキー・スティーヴンソンとジョー・ハンターがプロデュース。 大ヒットした「ダンシング・イン・ザ・ストリート」や63年にミ ラクルズがヒットさせた「ミッキーズ・モンキー」など、作曲も H-D-Hを中心とした身内が手がけている。ダンス音楽としての機 能に則した、ファンキーで目鼻立ちのはっきりしたアレンジがか っこいい。演奏も歌も安定しており、自信に満ちている。 (市川) 145 Martha & the Vandellas Watchout! The Temptations Meet the Temptations Gordy GS-920 1966年 のちにローラ・ニーロがカヴァーした「ジミー・マック」や 「アイム・レディー・フォー・ラヴ」など、ソウル・クラシックス となった名曲を多数収録。前作とは一転、陰影に富むメロウな曲 調が多くなり、それまでの3人そろって歌い通すスタイルから、 マーサ・リーヴスのソロ・ヴォーカルを中心にほかのふたりがとき おりコーラスをつけるようになった。ストリングスの多用やステレ オの特性を意識した定位など、サウンド面の変化も多い。 (市川) 62年からのシングルを集めたデビュー作のため、作者もプロデ ューサーも様々で、いろいろな調子の曲がある。発表当時の最新 シングルで初ヒットと なったエディ・ケンドリックスがリードの 「ザ・ウェイ・ユー・ドゥー」以外はデイヴィッド・ラフィン加 入前の録音で、ほとんどの曲でリードを取っているポール・ウィ リアムスの、ジリジリと焼け付くような歌が胸にしみる。まだド ゥー・ワップ調のコーラスが色濃く残る。 (河地) Martha Reeves & the Vandellas Ridin' High Gordy G-911 1964年 The Temptations Gordy GS-926 1968年 一応グループ名義の作品になってはいるものの、ほとんどマー サ・リーヴスがひとりで歌っている。68年にモータウンから独立 してしまったため、H-D-Hの作品は「リーヴ・イット・イン・ザ・ ハンド・オブ・ラヴ」の1曲のみ。ほかにバカラック&デイヴィッ ドの2曲と、全盛期のモータウン・サウンドを再現したようなステ ィーヴィー・ワンダーのアップテンポな「アイム・イン・ラヴ」な ど試みは多い。ジェームス・ジェマーソンのベースが光る。 (市川) The Temptations Sing Smokey Gordy G-912 1965年 テンプスをヒットさせるために誰が曲を書くべきか、 モータウンは社内コンペを行ない、スモーキーが 「ザ・ウェイ・ユー・ドゥー」で勝利した(涙をのんだ のはノーマン・ホイットフィールドだった)のを受け て、セカンドはスモーキーの曲ばかりを歌わせた。 「ザ・ウェイ…」も再録、そして不朽の名曲 「マイ・ガ ール」(イントロのフレーズを作り出したロバート・ホ ワイトの映画での哀しい述懐を思い出す)を含む。デ イヴィッド・ラフィンの加入でテンプスのリードは3 人で分けあわれ、デイヴィッドがリードを取ったのは「マイ・ガール」、続いてヒットした同路 線の「イッツ・グロウイング」を含め3曲のみだが、かすれ気味のラフ・ヴォイスでの熱唱に魅 せられた人は数知れず、瞬く間にデイヴィッドはテンプスの顔になった。「ユール・ルーズ・ ア・プレシャス・ラヴ」ではメルヴィン・フランクリンの低音リードが一節入り、のちの5人リ ード体制のヒントを見る。後半はカヴァーでメリー・ウェルズの曲が1曲、あとはミラクルズ。 後者はもちろんエディがリードで、「ユーヴ・リアリー・ガット・ア・ホールド・オン・ミー」 をはじめ、まるでスモーキーのような歌い方だ。 (河地) This page is protected. Martha Reeves & the Vandellas Sugar n' Spice Gordy GS-944 1969年 体調を崩し休んでいたマーサ・リーヴスが活動を再開。グルー プのメンバーも一新してレコーディングに臨んだ。H-D-Hの穴を 埋める人材として重宝されていたアシュフォード&シンプソンが 2曲提供、時代の趨勢に合致した曲調や編曲を取り入れるなど、 意欲的な作品だ。唯一のシングル曲「テイキング・マイ・ラヴ」 はポップ・チャートで102位と振るわなかった。しかし、アルバム 全体を通して丁寧に作られており、聴きどころは多い。 (市川) Martha Reeves & the Vandellas The Temptations Natural Resources Temptin' Temptations Gordy GS-952 1970年 1曲目が流麗なアレンジのジョージ・ハリスン「サムシング」。 ほかにもジミー・ウェッブ「ディドゥント・ウィー」、フレッ ド・ニール「エヴリバディズ・トーキン」、ジャッキー・デシャ ノン「恋をあなたに」などカヴァー曲が多い。ホーン・セクショ ンやストリングスなど編成は豪華だが、全体的にやや安直な作り であることは否めない。ヴァラエティに富んでおり、ラスヴェガ スのショウを聴いているような楽しさはあるけれども。 (市川) 146 Gordy G-914 1966年 スモーキーとウォーレン・ムーア作の必殺ムーディー作品「シ ンス・アイ・ロスト・マイ・ベイビー」が目玉。全12曲中6曲が スモーキー、4曲がノーマン・ホイットフィールド、2曲がミッ キー&アイヴィーというプロデュースの内訳。65年のこの時点で はスモーキーが頭1.5ほど抜きん出ているが、ミッキー&アイヴィ ー作品もメロディ・ラインに工夫があってあなどれぬ。歌唱のほ うは色彩の妙にいちいちやられるさすがテンプスな名作。 (湯浅) 147 The Temptations The Temptations Gettin' Ready Gordy GS-918 1966年 乗ってるスモーキーのプロデュース。ここから「ゲット・レデ ィー」と「エイント・トゥー・プラウド・トゥ・ベッグ」が大ヒ ットしたが、B面にも名曲が詰まっている。ソングライターとし てホイットフィールドとエディ・ホーランドがちょこちょこ起用 されている。エディのファルセット・リードが多く聴け、メルヴ ィンの低音を活かしたコーラス・ワークもテクニカル。リズム面 でも実験的な試みがいくつか見られ油断できない。 (湯浅) 67年リリース。ベリー・ゴーディーが企画したに決まってる通 算7枚目のアルバム。フランク・シナトラとの仕事で高名なドン・ コスタ、ビッグ・バンド・アレンジの名手オリヴァー・ネルソンら をアレンジャーに迎え制作された。緻密で壮大な編曲のため、実は この時期のどの作品よりもメンバーそれぞれの歌声を堪能できる貴 重盤。ミュージカル『ショー・ボート』の挿入歌、「オール・マ ン・リヴァー」はライヴでもメルヴィンの十八番でしたね。 (牧野) Wish It Would Rain Temptations Live! Gordy GS-921 1967年 こころの薄皮が火傷必至の鬼傑作盤。66年10月、地 元デトロイトはアッパー・デックでのライヴ録音。バ ック・バンドのコンダクトはギタリストでもあるコー ネリアス・グラント。上モノの音程が若干低いため揺 れが増幅し、方々に歓喜のボムが落ちております。初 期代表曲をちぎっては投げるメドレーで始まり、熱狂 のテンプス・ウォークが披露されているに違いない 「マイ・ガール」やら、ノリノリのグループ・イントロ ダクションやら、どれだけテンプテーションされるか ちょっと分かりません。レノン/マッカートニーの変則カヴァーに続く「ビューティ・イズ・オ ンリー・スキン・ディープ」ではラフィンの黒ブチ眼鏡がグルーヴで曇ります。ノーマン・グラ ンツ(ドラム)の手数も歌い出す「エイント・トゥー・プラウド・トゥ・ベッグ」までがA面。 B面1曲目、メルヴィンが軽妙にリードをとる「オール・マン・リヴァー」の後には会場とエデ ィケンが宇宙へ仰け反る「ゲット・レディー」が控えております。押しまくっては引きまくりの 「ユー・ウィル・ルーズ・ア・プレシャス・ラヴ」、なにげにディープな「ドント・ルック・バッ ク」で超円団。テンプスつったらこの盤ですよ、ほんと。 (牧野) This page is protected. The Temptations Gordy GS-927 1968年 通算9枚目。初期テンプスともお別れ、珠玉まくりの全12曲。 「太陽の光も青空も、お願いだからどっか行ってくれ」と歌い出 す表題曲では、ミスター横揺れことデイヴィッド・ラフィンが在 籍時最後の名唱をみせる。この曲は、ホイットフィールド&スト ロングがテンプスに書いた初のナンバー・ワン・ヒットであると 同時に、持続する抑制が何よりも雄弁であると証明し続けて来た モータウン・バラッドの何度目かの結実でもあります。 (牧野) The Temptations Cloud Nine Gordy GS-939 1969年 ホイットフィールドの執念と怨念が圧縮された「クラウド・ナ イン」と「ラン・アウェイ・チャイルド、ランニング・チャイル ド」の激しさに較べると、他は温厚な大人のソウルでハードコ ア/ソフト・ソウル・アルバムといった趣で、テンプスにしかで きぬ立体感。ゴーフィン/キング作のフレディー・スコットのカ ヴァー「ヘイ・ガール」が良好な仕上がり。大作で疲れた後にソ ファとぬる燗を用意する、そんな心遣いがうれしい名作。(湯浅) The Temptations Gordy GS-922 1967年 ノーマン・ホイットフィールド制作が半分ほどを占め、「アイ ム・ルージング・ユー」など2年後の「クラウド・ナイン」を予 見させるファンキーな曲を含む。ノーマンは他方でデイヴィッド とエディがツイン・リードを取るモータウン・スタイルのチャー ミングな「ユーアー・マイ・エヴリシング」も提供。この2曲に 加え、H-D-Hよりモータウンらしいフランク・ウィルソン制作の 「オール・アイ・ニード」他1曲がヒットした。 (河地) 148 Gordy GS-924 1967年 The Temptations The Temptations With a Lot O' Soul In a Mellow Mood Puzzle People Gordy GS-949 1969年 ブギウギ・ピアノに始まる「ヘイ・ジュード」が、盛り上がる 前に終わってしまうのも意外だが、前作のハードコア路線を拡張 したサイケデリックな(ファズ・ギターの多い)メッセージ性の 高いアルバム。O.C.スミスのカヴァー「リトル・グリーン・アッ プルズ」ののどかさの背後にも危機は忍び寄っているということ か。そんな中で「シンス・アイヴ・ロスト・ユー」のオーソドッ クスな佇まいが染みる。ラストの「スレイヴ」でとどめ。 (湯浅) 149 The Temptations The Temptations Psychedelic Shack Gordy GS-947 1970年 70年、怒濤のテンプス中間報告。 『コールド・ナイン』より始ま ったサウンドの化学が反応を続けます。コシとコブシのエドワー ズ、穏やかに迫るケンドリックス、常に大活躍のフランクリン。 「役者のために脚本を書いているようだった」とはバレット・スト ロングの弁。モチーフが何であろうと、やることは変わりません。 5人とホイットフィールドが四つ身で想像を超えます。何でも歌 えるからコーラス・グループ。親しみやすさで最前線。 (牧野) The Temptations Sky's the Limit Gordy GS-957 1971年 テンプスの面々が夕焼けの宙空に浮かんでいる最高のジャケッ トが物語るように中身もムーディーな曲に名品の多い充実作。ス トーンズもカヴァーした「ジャスト・マイ・イマジネイション」 のストリングス・アレンジに改めて感動する。バレット・ストロ ング/ノーマンのコンビの作品集としては最高傑作では。ゴスペ ル風の展開でうまさが光るのも実力派ならでは。長尺曲へと至る 曲順もよく、主張もズズンと甘/辛のメリハリが見事。 (湯浅) Masterpiece Gordy GS-965L 1973年 『クラウド・ナイン』からの流れのノーマン・ホイ ットフィールド制作で発表された73年度作品。この頃 のテンプスのアルバムの多くがそうであるように、バ ックの演奏にも重きを置いたサイケなファンクと美麗 スローの2本立てだが、スローは冒頭の「ヘイ・ガー ル」のみで、それも極端にトロトロだ。驚くのは表題 曲がアイザック・ヘイズばりの14分近い組曲風の作り なこと。「パパ・ワズ・ア・ローリン・ストーン」の12 分弱ではまだ短かいと思ったのだろうか、それより少 しだけ長い曲を作った。多少、冗長にも感じる部分はあるものの、ワーワー・ワトソンやロバー ト・ワードのギターを筆頭にコクのあるバンドの演奏を、ホーンズとストリングスを含めてたっ ぷり楽しむことができる。でもそれは他の曲も同様なので、タイトなほうがよければ6分ほどの 「プラスチック・マン」をどうぞ。インスト重視の傾向は全編に及んでいるので歌は少なめだが、 デニス・エドワーズのサイケなプロダクションを切り裂いて迫ってくる激しさ、そしてエディ・ ケンドリックスの穴を埋めた若きファルセット・ヴォーカルのデーモン・ハリスの美声など、少 ないながらも充実している。 (河地) This page is protected. The Temptations The Temptations 1990 All Directions Gordy GS-962L 1972年 71年、「ジャスト・マイ・イマジネイション」を経て 遂にエディ・ケンドリックスが脱退。間にひとり挟み、 ボルチモア出身20歳そこそこのデーモン・ハリスが加 入する。アルコールと酸素ボンベにハマり、ポール・ ウィリアムズはリチャード・ストリートと交代。テン プスの1年は目まぐるしいですが、ノーマン博士の実 験はいまだ継続中であります。グラミー・インスト部 門受賞の「パパ・ワズ・ア・ローリン・ストーン」を 含む、72年の本作。ホイットフィールド/ストロング 作は「ファンキー・ミュージック・ショー・ナフ・ アーンズ・ミー・オン」と前述の2曲のみ。 ゴテゴテのピアノにブラシが踊る「ラヴ・ウォーク・ミー・アップ・ディス・モーニング」、チ マチマっとかわゆい「アイ・エイント・ガット・ナッシング」などなど。とりわけイワン・マッ コル作「ザ・ファースト・タイム・エヴァ」は、呼吸と声帯とストリングスがミクロに揺れ合う 超佳曲。アイザック・ヘイズら複数の作曲家によって大騒ぎに幕が引かれたのち、時流に乗って か甘さが復権します。と言ったところで、そこはテンプス。くだけません。ちなみに、「パパ・ ワズ…」は2000年にフォー・トップスがカヴァー。何となく分かりますね。 (牧野) 150 Gordy G-966V1 1973年 ノーマン・ホイットフィールド制作の最終作品。A面は5曲で、 前作「マスターピース」よりも整理された曲を聴くことができ、 R&Bチャート1位になった「レット・ユア・ヘア・ダウン」や、 「ユーヴ・ガット・マイ・ソウル」など全員リード体制のサイ ケ・ファンクがメインの中、美麗スローの「ヘヴンリー」が映え る。B面は2曲で表題曲はなぜか打ち込みビート。そして「ズー ム」が壮大なオーケストレーションの組曲風だ。 (河地) The Temptations In Japan! Victor SWX-6083 1973年 実力派ならではの好ライヴ盤を残しているテンプスなら69年の 『ライヴ・アット・トーク・オブ・ザ・タウン』は当然なのだが、 日本公演の記録ということであえてこれを挙げておく。バックの 演奏のもたりを歌がカヴァーし、音のスキマを物ともしないコー ラスの妙がよくわかる。「プラスティック・マン」に始まり「パ パ・ワズ・ア・ローリン・ストーン」に終わる流れもこの時代な らではのもの。特に後半がなごみます。 (湯浅) 151 The Temptations A Song for You The Temptations Gordy G6-969S1 1975年 ノーマン・ホイットフィールド体制を終わらせジェフリー・ボ ーウェンを中心とした制作の第1弾で、サウンド重視に傾いてい た方針を再度、歌重視に。Pファンクからビリー・ベース(b)と エディ・ヘイゼル(g)が合流した「ハッピー・ピープル」「シェ イキー・グラウンド」の2大ファンクがヒット。表題曲をはじめ とするスローでのデニス・エドワーズの歌い込み、「ファイアー フライ」でのメルヴィンの低音リードも必聴。 (河地) The Temptations House Party Gordy G-973V1 1975年 朴訥な表ジャケとは裏腹に、1曲目「キープ・ホールディング・ オン」 (ホーランド兄弟作)からデニス・エドワーズがムッチリ。本 作のリリースは75年。脱退したデーモン・ハリスに代わりグレン・ レオナードが加入しておりますが、 「キープ…」のB面となる「ホワ ット・ユー・ニード・モスト」ではハリスのファルセットが聴けま す。こちらはスージー・イケダのプロデュース。ノーマン体制では 有り得なかった柔らかくてあったか∼い雰囲気の好盤。 (牧野) Reunion Gordy 6008GL 1982年 タイトルどおり、エディ・ケンドリックス、デイヴ ィッド・ラフィン、デニス・エドワーズ、メルヴィ ン・フランクリン、オーティス・ウィリアムズの往年 組にグレン・レオナード、リチャード・ストリートの 現正規組も加わり7人のテンプス揃い踏み。しかもオ ープニングは当時絶好調のリック・ジェームス作/プ ロデュースのファンク大会9分45秒「スタンディン グ・オン・ザ・トップ」。エディ、デイヴィッド、デニ スにリックもしゃしゃり出ての歌の競演。その他、 久々バレット・ストロング1曲、スモーキー2曲、ロン・ミラー1曲の他、御大ゴーディーも2 曲をプロデュース。本作に込めた“社”の心をしっかりと提示した。収録曲7曲だが尺もほどよ く内容はさすがに濃い。メルヴィンとエディのからみ、かつてのようなゴリ押しは控えめのデイ ヴィッドだが渋みを強めた独唱は新たな深さを醸し出していて凄い。リズムとメロディーが軽や かにたわむれるスモーキーのミディアム2曲のほのぼのとしたデニスの歌も頼もしい。曲がいい から主唱も順調、だからコーラスも冴えて技もいちいち光る。鍛え抜かれた人たちがまともに渡 り合える場がこうして実現したことがなにより尊い。 (湯浅) This page is protected. The Temptations The Temptations Wings of Love Gordy G6-971S1 1976年 Motown 0568 1995年 ジェフリー・ボーウェン制作の最後の作品。当初はデニス・エ ドワーズのソロの予定だったらしく、リードはすべてデニスでコ ーラスも申し訳程度。ディスコ小品が続くA面はPファンクのビリ ー・ベースとスライの兄フレディの参加がミソ。実はスライ& ザ・ファミリー・ストーンが丸ごと参加し曲も書いたという説も あり、それもうなずけるサウンドに一変しているので、その手が 好きな人はきっと気に入る。B面はスロー3連発。 (河地) 95年にオリジナル・ベース・ヴォイスのメルヴィン・フランク リンを失い、Pファンクからレイ・デイヴィスを迎えて発表した スタンダード集。リードはアリ・オリー、これが初録音のセオ・ ピープルズ、ファルセットのロン・タイソンというなかなかの強 力布陣で、必ずしもテンプスらしくない曲でも味わいは尽きない。 メルヴィン最後の録音「ライフ・イズ・バット・ア・ドリーム」 にはスティーヴィー・ワンダーがハーモニカで哀悼参加。(河地) The Temptations The Temptations Power Gordy G8-994M1 1980年 アカペラ・コーラスで幕を開けるさすがの歌世界。デニス・エ ドワーズががんばったモータウン復帰第1作。ベリー・ゴーディ ーとアンジェロ・ボンドのプロデュースを主に、W・ウィザース プーンとテディ・ランダッツォが2曲ずつ制作を担当。メンバー 5人で合作した3曲の力のこもり具合も格別。バック陣もアー ル・ヴァン・ダイクはじめ新旧名人多数参加。ゴーディーはミキ シング担当としてもクレジットあり。 (湯浅) 152 For Lovers Only Phoenix Rising Motown 530937 1998年 84年「トリート・ハー・ライク・ア・レディ」でハネたアリ・ オリー・ウッドソンは既におらず。94年の教条シングル「エラ ー・オブ・アワ・ウェイズ」を含む、通算57番目。矢沢永吉のプ ロデュースで知られるナラダ・マイケル・ウォルデン等、複数のプ ロデューサーによるトラックは隙を見せないまろやかさ。ここにお いてブラコンとはブラック・コンサヴァティヴの略であったりす る。らしさってなんですか、と問われているのはあなた。 (牧野) 153 The Four Tops The Four Tops On Top Four Tops 快調な活動ぶりを物語る3作め。スティーヴィーとアイヴィ ー・ハンターの共作「ラヴィング・ユー・イズ・スウィーター・ ザン・エヴァー」も明朗で印象深いが、H-D-Hの才気が光る「シ ェイク・ミー、ウェイク・ミー」にやられる。ピアノとベースの ユニゾンのリフレインによるイントロから歌が桜の開花のように 展開する快感。B面のカヴァー曲の数々にも発見多々あり。ラス トの正統派ノーザンの「ゼン」も忘れがたい。 (湯浅) Motown MS-622 1965年 ゴーディーの意向でポップス・フィールドに打って 出たフォー・トップスの実際のデビュー作で65年の発 表。半分強がH-D-Hの作・制作で全編をデトロイト・ サウンドが貫く、というモータウン・マナーの作りの 中、リーヴァイ・スタッブスのリード・ヴォーカルは 明らかにより力強くソウルフルになっており、用意さ れた楽曲への見事な対応力に、実力者の力量を見る。 一方コーラス・ワークは、同時期のテンプテーション ズなどと比べるとドゥー・ワップ色がなく流麗で、そ こにはジャズの面影を見ることができるとともに、フォー・トップスのスタイルの特徴にもなっ ており、このアルバムで、のちのキャリアを通じて変わることのない基盤が、早くも築かれてい る。ここからは「ベイビー・アイ・ニード・ユア・ラヴィン」「アスク・ザ・ロンリー」などが ヒットし、直後にやってくる大ブレイクへ導いた。ヒット曲ではないがウィリアム・スティーヴ ンソンとアイヴィー・ジョー・ハンター作・制作のやや重厚な「ドント・ターン・アウェイ」 「ティーハウス・イン・チャイナ・タウン」などでのリーヴァイの熱唱や、あまり話題にならな いラスト2曲のスローも聴き捨てならない。 (河地) The Four Tops Live! This page is protected. The Four Tops Motown MS-654 1966年 通算4枚目。地元デトロイト「アッパー・デック」でのあっつい ライヴ録音。観客歌ってる率高し。 「リーチ・アウト・アイル・ビ ー・ゼア」やら、 「アイ・キャント・ヘルプ・マイ・セルフ」やら 持ち曲なんて軽々こなす。本家よりしつこい「イッツ・ノット・ア ンユージュアル」 、得意と思われる「アイ・レフト・マイ・ハート・ イン・サンフランシスコ」 、ハーモニーに逆毛立つ「ザ・ガール・フ ロム・イパネマ」など、ポピュラー応酬に満面の笑み必至。 (牧野) The Four Tops The Four Tops Second Album Motown MS-634 1965年 疑惑と勘繰りと歯ぎしりと喜びと憧憬とその他諸々 とが反射増幅するからタムラ/モータウン。ヒッツヴ ィルとはスタジオの体を成す鏡面の家であった。と言 う訳でフォー・トップスのセカンド・アルバム、65年 のリリース。友達の誕生日パーティにてキャリアを始 め、技に磨きをかけること約10年。白Yシャツと黒ズボ ンでもって目にも安心、リードのリーヴァイ・スタッ ブスが第一級の懇願芸を披露します。ローレンス・ペ イトン、アブドゥール・ファキール、レナルド・ベン ソン、以上3人が綴る軽やかなコーラスがそれを後押し。抜かりはありません。モータウン・サ ウンドと同義の「アイ・キャント・ヘルプ・マイ・セルフ(シュガー・パイ・ハニー・バンチ)」 に始まり、ブラスとタムタムが煽る「イッツ・ザ・セイム・オールド・ソング」、端正なベース とヴィブラフォンの「シンス・ユーヴ・ビーン・ゴーン」等々、全編にホーランド/ドジャー/ ホーランド節が炸裂。フィルイン率高し。音作りは混みいってますが、のっかるハーモニーは何 気に涼しげ。モータウンとはここにいるみんなよ! とファンの女の子が言ったかどうかは謎で すが、取りあえず欲望の向こう側にはありません。 (牧野) 154 MotownMS- 634 1966年 Reach Out Motown MS-660 1967年 67年リリースの本作は、究極のポピュラー・コラージ ュ・チームことホーランド/ドジャー/ホーランドによ る無茶な離れ技と、それを何なく越える居直りの美学が 凝縮された怪物盤である。街角のドゥー・ワップよりも 端正なジャズ・コーラスが身上であろうトップスに、整 った起承転結を初めっから拒否っていたH-D-Hのプロダ クションがハマり過ぎて恐ろしい。フラメンコ・ポップ にミシガン野郎が煩悶する「リーチ・アウト・アイル・ ビー・ゼア」、開始30秒がブレイクビーツに聴こえなく もない「7ルームス・オブ・グルーム」、伝統の鉄道模写が披露される「ラスト・トレイン・ト ゥ・クラークスヴィル」などなど、A面で既にグッタリ。B面1曲目何故だかサーフ・ロック調の 「アイム・ア・ビリーヴァー」の次には、これまたもの凄い「スタンディング・イン・ザ・シャド ゥ・オブ・ラヴ」が控えております。 「バーナデット」のベースに耳がいく頃には脳味噌が揺れ過 ぎて前後左右が定かではありません。壮大過ぎる「ワンダフル・ベイビー」に至り、使ったことな い筋肉が反応を始めます。野卑に洗練されているからフォー・トップス。頼めばお金は貸してくれ そうですが、その際お話を頂くこと5時間半。絶対に目を背けてはいけません。 (牧野) 155 The Four Tops Yesterday's Dreams Jr. Walker & the All Stars MotownMS- 669 1968年 コンガとベースで妖しく仕上げた「サニー」やベースの遊びが 楽しい「デイドリーム・ビリーヴァー」などカヴァーもそれなり の聴き所が必ずあるのが実力派の印。A面のオリジナル作品群はよ り重厚さを増している。 「アイム・イン・ア・ディファレント・ワ ールド」の念入りな作りももちろん、ハンターとゴーガ関連の3 曲でのワイルドなコーラス・ワークにも注目。 「恋はフェニックス」 のお約束的仕上がりに思わず拍手してしまいました。 (湯浅) The Four Tops Changing Times Motown MS-721 1970年 This page is protected. Motown M-748L 1972年 72年リリース、こちらもフランク・ウィルソンのプロデュース。 スイートでメロウな楽曲群が、トップスのコーラスにどハマり。フ ォー・トップスは70年代のほうが好き、という人が案外多いのも 頷けます。のっけから朗々と謳いあげる「アイ・アム・ユア・マン」 に始まり、表題曲、メンバーも曲作りに参加した「ヘイ・マン」や 「ハウ・ウィル・アイ・フォゲット・ユー」等々、夢見心地の佳曲 揃い。激動の時代に咲いちゃったハーモニーの花一輪。 (牧野) The Four Tops Road Runner Soul SS-703 1966年 前向きな放置プレイで大成功なグループのサード。66年リリー ス。表題曲をはじめ、なぜか爽やかな「マネー」やら「サンホゼ イ」やら純R&Bな曲目で楽しめます。ソツないね、と言ってしま う人がいるかもしれませんが、それは会社でやってることなんで。 シャッフルの奥で跳ねるシャッフルでもってシャッフルかますっ てな感じにリズムが入れ子状態のゆえとどのつまり必聴盤である ことに変わりはありません。未舗装の工業都市ホンク。 (牧野) What Does It Take to Win Your Love Soul SS-721 1969年 久保田麻琴と夕焼け楽団の名曲「星くず」を彷彿させるアルバ ム・タイトル曲が大ヒット(R&Bチャート1位、ポップ・チャー ト4位)となり、軽快でメロウな新生面を見事に開いた名作。ヴ ォーカルにも力をそそぎ、コーラスも含めてがっちりアレンジさ れた曲が目立つ。プロデューサー、ジョニー・ブリストルの技も の。シンプルでブルージーな曲でも全力で吹きまくのがウォーカ ー流と知らしめる不滅のサックスももちろん。 (湯浅) Jr. Walker & the All Stars Motown 53365 1999年 もともとジャズを歌っていたフォー・トップスは新設のジャ ズ・レーベルからデビューする予定だったため、契約直後の63∼ 64年にビッグ・バンドなどをバックにスタンダードを録音したも のの、方針が変更されポップスで売り出すことになった。それで お蔵入りになった作品が、 “ロスト・アンド・ファウンド”のシリ ーズで99年に陽の目を見た。リーヴァイ・スタッブス以下、みず みずしい声で高級感あるジャズを歌う、知られざる姿だ。 (河地) 156 主役のサックスがエコーの奥にいる珍奇な空間作りのブルース 「クレオズ・ムード」に始まり、妙なバランスのミックスがポリ リズミックな(つまりファンキーな)演奏をスリリングに演出し ている名作。映画『マルコムX』でも象徴的に使われていた「シ ョットガン」をはじめ、リー・ドーシー他、60年代後半のアレ ン・トゥーサン作品への影響はかなり大きい。シンプルなリフを どんどん盛り上げるブロウとヴォーカルの熱さは格別。 (湯浅) Jr. Walker & the All Stars The Four Tops Lost and Found: Breaking Through Soul SS-701 1965年 Jr. Walker & the All Stars 70年代に至り、プロデュースはフランク・ウィルソンに委ねられ る。ドタマから爆発していた師匠ホイットフィールドと異なり、彼 の仕事は抑え気味に効いております。 「レインドロップス・キープ・ フォーリン・オン・マイ・ヘッド」のカヴァーや、ロマンチックに 本領発揮の「トライ・トゥ・リメンバー」 、ヴォーカル回しが嬉しい 「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」など、つぼを心得 た編曲と腰の落ち着いたハーモニーが楽しめる好盤。 (牧野) Nature Planned It Shotgun A Gasss Soul SS-726 1970年 くあーッつってぴゃーッってなってブブブぶピーッてな男の8 枚目。70年リリース。わななきも高らかに歌謡テナーのお手本プ レイが満載です。元よりコードに忠実なため、要所要所の16分音 符が映えます。やかましい彼女にメロウなサックスで堀を埋める も結局ディス・コミュニケーションな「シャット・アップ、ドン ト・インタラプト・ミー」最高。ブロウと言うよりスクリーム。 自分が燃料なので地球にも優しい全11曲でありました。 (牧野) 157 Gladys Knight & the Pips Gladys Knight & the Pips Everybody Needs Love Neither One of Us Soul SS-706 1967年 モータウンからのデビュー・アルバムで、タイトル 曲(昔の邦題「誰もが愛を求めてる」 /R&Bチャート 3位、全米39位)、代表曲のひとつ「悲しいうわさ」 (R&BチャートNo.1、全米2位)がヒットした。後者 は彼女たちがオリジナルだと思われがちだが、実はモ ータウンでこの名曲を最初にレコーディングしたのは、 意外なことにミラクルズ(66年)。68年にマーヴィン・ ゲイのヴァージョンが 全米No.1ヒットとなったが、 ここに収められたアップ・テンポのヴァージョン(言 うなればN・ホイットフィールド&B・ストロングのサイケ調サウンドの前触れ)のアレンジを がらりと変えていた。ノリのいい「悲しいうわさ」や「エイント・ノー・サンシャイン・シン ス・ユーヴ・ビーン・ゴーン」でのグラディスのはちきれんばかりのヴォーカルも聴いていて気 持ち良いが、今もファンの間で根強い人気があるバラード・ナンバー「私をやさしく抱きしめて」 (B-1)や「シンス・アイヴ・ロスト・ユー」での温もりある歌声が、やはり彼女の真骨頂。バ ーバラ・メイソンの65年の大ヒット曲「イエス・アイム・レディー」のカヴァーもなかなかので き。23歳だった若き日のグラディスのヴォーカルが眩しい。 (泉山) Soul S-737L 1973年 グラディスとピップスの、モータウンでの実質的な ラスト・アルバム。これは彼女たちの全キャリアを代 表する1枚といっても過言ではないだろう。前作『ス タンディング・オヴェイション』に比べてバラード率 が低いから好みも分かれるところだが、ここには一撃 必殺のスロー・ナンバーがある。アルバム冒頭を飾る タイトル曲(邦題「さよならは悲しい言葉」)は、筆者 の個人的見解では、女性シンガー史上でも十指に入る バラードだ。カントリー系ソングライターによる曲だ が、グラディスの解釈もすばらしく、こんなのを最初に喰らうと、以降を冷静に聴くのは難しく なる。とはいいつつ、2曲めのミディアム・バラードも実はいい曲だ。作者のひとりジョニー・ ブリストルは本作品の約半分を手がけ、彼による他のグルーヴィー曲でのぐぃぐぃといく感じは、 ファンキーなグラディスをホットに引き立てる。それらの多くはステイプル・シンガーズへの意 識も感じさせるが、ビル・ウィザース曲のカヴァーを含めて、そうしたファンク調でのヴォーカ ルのヘヴィな感触はとても格好よい。ともあれ、先のタイトル曲がソウル・チャートを制覇する なか、彼女たちはモータウンを去ったのだった。 (出田) This page is protected. Gladys Knight & the Pips Nitty Gritty The Ruffin Brothers Jimmy & David Soul S-713 1969年 ノーマン・ホイットフィールドが新機軸をテンプテーションズ に試みた直後の作品。多くの曲の音にはスライ以降の感覚が強く、 かつてのモータウン・サウンドの痕跡は少ないが、抑えも利いた グラディスの歌声はいっそうタフ。大ヒットしたタイトル曲は、 パーカッシヴなゴスペル調ファンクの傑作。アシュフォード&シ ンプソンによるヒット・バラードもいい。ナチュラル・ショート 姿でジャケットに写るグラディスも時代を反映か。 (出田) Gladys Knight & the Pips Standing Ovation Soul S-736L 1971年 前作『恋の苦しみ』も手がけたクレイ・マクマレイとジョニ ー・ブリストルの仕立てで、グラディスがより存分に歌い上げた アルバム。過不足ないドラマ性をもつサウンドが熱唱を絶妙に盛 りたて、ピップスの切れ味よい後押しも光る。マクマレイ「愛を 教えて」「マスター・オブ・マイ・マインド」、ブリストル「ギャ ランティ」「ホール・ロッタ・マン」など、秀逸バラードが並ぶ。 ジェームス・テイラー曲などのカヴァーもよい。 (出田) 158 I Am My Brother's Keeper Soul SS-0728 1970年 男同士のデュオというのはスリリングだ。お互いす ぐに張り合い、負けじ魂が発光発熱しがちだからだ。 勝負、という態勢に入り込み力と力の出し合いとなっ て、意地と意地が火花散らし、聴くほうもそれについ 付き合って熱くなるので体力使いすぎ疲労ということ が少なくない。力技のデイヴィットにマイルドなジミ ーというイメージで、ジミーがやはり脇にまわるのか な、と予想して針を落とすと、さすがは兄弟。お互い の足りないところを補い合ってさらなる高みへと踏み 込もうという腰の落ちついた、まろやかで伸びのある、濃厚なのに爽快な歌が綱になっている。 プロコル・ハルム調といえなくもない開巻の曲が「ヒー・エイント・ヘヴィ、ヒーズ・マイ・ブ ラザー」である。ジミーがリードをとることでデイヴィッドの瞬発力も活きる、という曲も少な くない。本作からシングル・ヒットしたのがアルバム中最も凡庸な「スタンド・バイー・ミー」 のカヴァーだけとはもったいないことだ。テンプス調のファンクも極甘の中にデイヴィッドが苦 味そそぐバラードも、いちいち琴線を刺激する。地味な佳曲を揃えた選曲もふたりの技芸域の広 さを示すバラエティ豊かなもの。男ふたりの思いやりが美しい名作。 (湯浅) 159 David Ruffin My Whole World Ended Jimmy Ruffin MotownMS- 685 1969年 Soul SS-727 1970年 軽く歌っても激唱になってしまうひずみの中に愛があるデイヴ ィッドを支えかつ歌世界を拡張しようとの試みを実践した力作。 ストリングスと金管・木管を導入し厚いコーラス隊も配してのバ ックのサウンドのスケールは大きい。大きいのだがデイヴィッド はそれを大きいと感じさせないほど強い。硬軟揃えた楽曲も粒揃 い。ブリストルとフークアの苦労がしのばれる。本作をスペクタ ーがやっていたら、と想像して聴くと凄く楽しい。 (湯浅) 70年の3作目。特に美声でも巧みでもないが、個性的なハイ・ テナーの人情味のある歌は美味。ストリングスを多用して飾った バックがジミーの素朴な 歌に今ひとつそぐわなかったせいかヒッ ト曲は出なかったが、ハル・デイヴィスとバート・バカラック作 で語り入りのスロー「ディス・ガイズ・イン・ラヴ・ウィズ・ユ ー」、軽快な「オン・ザ・ウェイ・アウト」などの名曲がある。 バック・コーラスにオリジナルズが参加。 (河地) David Ruffin Edwin Starr Feelin' Good Motown MS-696 1969年 人の世のあれこれが曲芸かサーカスのように感じられる。その 心情を転写したかの如き「ラヴング・ユー(イズ・ハーティン グ・ミー)」の絶妙なイントロに誘い込まれる。トラフィックの 「フィーリング・オールライト」は重く太くファンキーに、ジョニ ー・テイラーの「アイ・クッド・ネヴァー・ビー・プレジデント」 は説得力が増している。マーヴィン&タミーの「ホワット・ユー・ ゲイブ・ミー」も一気に男臭く新たな魅力を発している。 (湯浅) This page is protected. David Ruffin Who I Am 25 Miles Gordy GS-940 1969年 モータウン移籍第2弾で、表題曲の大ヒットで国外にもその名 を知らしめた出世作。スティーヴィーが作者に名を連ねる「プリ ティ・リトル・エンジェル」のようなきれいなメロディーを歌う と勢い余って音程をハズすが、表題曲でのパワフルな歌や「アイ ム・スティル・ア・ストラグリング・マン」での気持ちを絞り出 すような名唱は格別だ。むしろスタックスあたりに通じるアーシ ーさを備え、モータウンでは異色なタイプ。 (河地) Edwin Starr Motown M6-849S1 1975年 War & Peace Gordy GS-948 1970年 75年制作の通算5作目。テンプテーションズから独立した後、 デビュー・アルバム以降これといったヒットを放てなかった彼が 時流に寄り添い、ヴァン・マッコイに制作を委ねた勝負盤。そし て、そのチャレンジは物の見事に吉と出て、フィリーの風を満身 で浴びた「ウォーク・アウェイ・フロム・ラヴ」が大ヒットを記 録。テンプス時代からの歩みに照らすと違和感はあるものの、彼 の歌声は決してムードに流されず、味わいは格別。 (JAM) モータウンの反戦歌こと「ウォー」を含む。くだんの曲は憤唱 と呼ぶにふさわしいものですが、実は怒ってばかりではありませ ん。 「ランニング・バック・アンド・フォース」や「シー・シュッ ド・ハヴ・ビーン・ホーム」で聴かせる歌声は伸びやかで切なげ。 硬軟どんとこいな喉の持ち主でしたが、03年、イギリスはノッテ ィンガムの自宅にて心臓発作で亡くなりました。合掌するととも に、戦争ってほんと何にもならないなあと思うのです。 (牧野) Jimmy Ruffin Edwin Starr & Blinky Jimmy Ruffin Sings Top Ten Soul S-704 1967年 デイヴ・ステュワートもポール・ヤングもカヴァーした「ホワ ット・ビカムズ…」を含む代表作。おだやかな歌いまわしの奥に 豊かな情が漂う快唱集。失恋しながらも泣かずについ笑ってしま うような苦笑いやハニカミを多く感じさせるさわやかな曲/サウ ンド揃い。トニー・オーランドの「ハーフウェイ・トゥ・パラダ イス」やロス・ブラボスの「ブラック・イズ・ブラック」など好 カヴァーも英国人好み。 (湯浅) 160 The Groove Governor Just We Two Gordy GS-945 1969年 ハスキーでひたむきなゴスペル育ちのブリンキー(本名ブリン キー・ウィリアムス)とゴリゴリの男節エドウィンとでは力が均 等でないだけに健気な妹とヤクザな兄のイメージが横溢、これは これであまり類を見ないデュオとなっていて大いに楽しめる。プ ロデュースはフランク・ウィルソン。ファンキーな「アイム・グ ラッド・ユー・ビロング・トゥ・ミー」のハイ・テンション、 「ウ ー・ベイビー・ベイビー」の合体しない愛情表現は絶品。 (湯浅) 161 The Jackson 5 Diana Ross Presents the Jackson 5 The Jackson 5 Motown MS-700 1969年 69年のデビュー曲「帰ってほしいの」がポップ、R&B両チャ ートで1位という大ヒットになったのを受けて発表されたデビュ ー作。上記「帰って…」のB面だったミラクルズ曲「フーズ・ラ ヴィング・ユー」をはじめカヴァーが大半を占め、他にフォー・ トップス、テンプス、スティーヴィー、スライなどの曲も。なお ダイアナ・ロスが発掘したと大々的に謳っていたが、話題作りの ためのでっちあげだったことが後に判明。 (河地) 少なく見積もっても億単位の人間の生霊が憑衣してなけりゃあ んなことにはなりますまいと、オカルト的な側面のみ照射される 今日のマイケルですが、こちらは4枚目(クリスマス・アルバム を含めると5枚目)。デビュー後の激震を経た余波である。オー プン気味のハイハットとお家芸のタンバリンでもって、モータウ ンなのにモータウンのパロディのように聴こえる不思議。という わけで聴け、トゥー・マッチ・ヤング・アメリカの声。 (牧野) Lookin' Through the Windows ABC Motown MS-709 1970年 デビュー曲「帰ってほしいの」に続いて、ポップ、 R&B両チャート1位を獲得した「ABC」「ラヴ・ユー・ セイヴ」を含むセカンド。前作から半年と間をおかぬ 70年4月の発表だが、前作とは比べものにならないほ どまとまりのあるアルバムになっているのは、マイケ ルの歌がすっかりこなれて天才性を存分に発揮し、「ワ ン・モア・チャンス」などのミディアムでの成長も著 しいことが大きい。そして前作では兄連中も何曲かで リードを取ったが、ここではジャーメインの「アイ・ ファウンド・ザット・ガール」を除き、マイケルがリードを取っている。相変わらずスモーキ ー・ロビンソン、スティーヴィー・ワンダーとカヴァーは多く、他にもデルフォニックスの「ラ ラは愛の言葉」、ファンカデリックの「アイル・ベット・ユー」にも果敢に挑戦、スウィートな 前者、サイケな後者ともに、マイケルの歌はそれなりの成果を上げている。なお前作から引き続 いて肝となる曲の作者やプロデューサーのクレジットに登場するザ・コーポレイションは、60年 代末のH-D-Hの離脱後、ゴーディーが契約したフレディー・ペレンを中心とする3人のプロデュ ーサー・チームだ。 (河地) This page is protected. The Jackson 5 Motown M-750L 1972年 派手なイントロに意表をつかれるタイトル曲(昔の邦題は「窓 辺のデート」)がティーネイジャーの恋心を素直に歌っている。 マーヴィン・ゲイ&タミー・テレルの「恋はほんもの(後に“恋 はまぼろし”)」、ジャクソン・ブラウンの「ドクター・マイ・ア イズ」といった幅広いジャンルのカヴァーは彼らの、延いてはモ ータウンのお家芸。デビュー当初のような大ヒット曲はないが、 バブルガム・ソウルの残り香を感じる最後の作品。 (泉山) The Jackson 5 Skywriter Motown M-761L 1973年 マーヴィン・ゲイの『レッツ・ゲット・イット・オン』のアレ ンジャーとしても知られるジーン・ペイジを起用するなど、ザ・ コーポレーションからの脱皮を試みる様子が窺える。J5のアル バムとしては最もヒットしなかったが(全米チャート44位)、小 ヒット曲「ハレルヤ・デイ」(全米28位)にデビュー当初のJ5 らしさがわずかに感じられる。ジャーメインがリードで頑張る 「コーナー・オブ・ザ・スカイ」の清々しさよ。 (泉山) The Jackson 5 Motown MS-718 1970年 デビューから立て続けに放った全米No.1ヒットの4曲目がオ ープニングの「アイル・ビー・ゼア」。マイケルとジャーメイン がリードを二分するこの曲で、J5は大人のリスナーたちからも 支持された。モータウン・サウンド愛好家以外を意識したカヴァ ー(サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」、デルフォ ニックスやミラクルズの楽曲)も収録されているが、最もJ5ら しさが出ているのは溌剌とした「ママの真珠」。 (泉山) 162 Motown MS-735 1971年 The Jackson 5 The Jackson 5 Third Album Maybe Tomorrow Get It Together Motown M-783V1 1973年 マイケルの声変わりが落ち着いたタイミングをとらえて、曲、 歌声ともにキッズ・グループから一歩を踏み出した73年度作品。 プロデュースはハル・デイヴィスで、H-D-H曲も1曲残るものの、 当時のテンプスさながらに1ラインずつ歌い回すノーマン・ホイ ットフィールドが絡んだサイケな3曲のトーンが、本作の核とな っている。またファンクな「ダンシング・マシーン」は久々のナ ンバー1ヒットとなった。 (河地) 163 Jermaine Jackson Let's Get Serious Motown M7-928R1 1979年 ジャーメインにとっての最大ヒット曲となったタイトル曲(全 米9位/スティーヴィー・ワンダーのプロデュース)。この曲で 彼はグラミー賞にもノミネートされた。70年代のソロ・アルバム では、ベーシストであることもアピールするためかインスト・ナ ンバーを挿入して迷いもみられたが、本アルバムではシンガーと しての自信に溢れている。タイトル曲のようなアップ・テンポも いいが、バラードを歌うヴォーカルが温かい。 (泉山) Michael Jackson Got to Be There Motown M-747L 1972年 タイトル曲は、マイケルの記念すべきソロ・デビュー曲(全米4 位)。“独りJ5”の如き「ボクはキミのマスコット」や「ロッキ ン・ロビン」などの他のヒット曲でも幼いマイケルの魅力が充分 に発揮されているが、ビル・ウィザーズの「エイント・ノー・サ ンシャイン」やシュープリームスの「恋ははかなく」、ジェーム ス・テイラーの「君の友だち」のカヴァーを大人顔負けの情感タ ップリのヴォーカルで聴かせるマイケルに脱帽。 (泉山) This page is protected. Michael Jackson Ben Motown M-755L 1972年 72年に発表されたマイケルのソロ第2弾。同年は初 ソロ作とジャクソン5のアルバムも出ており、当時の モータウンでは珍しくないハイ・ペースとはいえ、相 当なリリース・ラッシュだ。しかしマイケルの元気と 天才性はとどまるところを知らず、繊細な表現には確 実に磨きが掛かり、かつ溌剌と躍動する歌は最高だ。 前作ではウィリー・ハッチを招いたりしたが、今回は おなじみのザ・コーポレーション、ハル・デイヴィス を筆頭に手堅くまとめられ、ポップスとしての完成度 の高さは言わずもがな。表題曲はアコースティック・ギターの演奏と、それにかぶってくるスト リングスが印象的なスローで、よくしつけられたベンという名前のネズミと男の子の友情を描い た同名映画の主題歌だ。R&Bチャートでは5位止まりだったが、ポップ・チャートで1位になっ た。グループの「アイル・ビー・ゼア」と並び、クラシックとなっている名スローで、切ない情 感がにじみ出すマイケルの歌が胸を打つ。他にはスティーヴィー・ワンダーのファンキーな「シ ュビドゥビ・ドゥー・ダ・デイ」、テンプテーションズの「マイ・ガール」などのマイケル・ヴ ァージョンを聴くのもまた楽しい。 (河地) 164 ここからは主流とはいえないが、捨ておけない名作を年代順に最近作まで大雑把に選出したもので ある。それぞれ色彩が大きく異なる作品がモザイクを作り出しているのだが、通奏低音は確かにある。 未だにそれは奏でられている、と思いたい。のだが。 Marv Johnson The Ultimate Collection Eddie Holland Marginal MAR-069 1996年 プレ・モータウンの重要作「カム・トゥ・ミー」をはじめとす るゴーディーの初期作と60年代後半のモータウンでの作品とがま とめて聴ける28曲入りCD。ジャッキー・ウィルソンのような華 はないが、まろやかさと武骨さがまざりあったジョンソン節はい い湯かげん。ビートを強調した音作りのプロトタイプやスモーキ ーやブライアン・ホーランドをはじめ、モータウン仕事人たちの 60年代初頭の習作の数々が聴けるのも貴重。 (湯浅) The Contours Do You Love Me (Now That I Can Dance) Gordy G-901 1962年 初期モータウンを代表するとともにワイルドなダン ス・ビート・メーカーとしてのプロデューサー=ベリ ー・ゴーディーの実力が存分に発揮された重要なアル バム。「ドゥー・ユー・ラヴ・ミー」の、ベースが符点 に徹することでファンキーな間を生み出しているのに 対してスネアとバスドラを強調してひずんだドライヴ 感を実現したドラムスの音がダミ声とぴったり合致し ている。4作目のシングル「シェイク・シェリー」で は逆にミッド・テンポのダンス・ナンバーなのでベー スをぐっと前に出してひずませてグルーヴさせている。11曲中ゴーディーの単独作が4曲、ゴー ディーとニコラスの共作が1曲とゴーディーの意気込みがわかる。4枚目のシングルまでのA/B 面が中心ではあるが、「リート・ペティート」以来のゴーディーの攻撃的作風のあれこれを開陳 したものである。スティーヴンソンやスモーキー作の他の曲と較べるとゴーディーのハードさが よくわかっておもしろい。リズム・パターンにニューオリンズR&Bの影響が濃いが、ベース・ラ インの違いが特殊なノリとなって表われている。絶妙なオトボケ歌唱が歌の途中で激しいダミ声 に変わる性愛欲丸出しの「ホール・ロッタ・ウーマン」も傑作。 (湯浅) Eddie Holland Motown MT-604 1962年 バレット・ストロングとミッキー・スティーヴンソ ン作の「ジェイミー」のヒット(R&Bチャート6位) で将来を期待されていたが、ステージでの極度の緊張 が克服できないために歌手活動を断念した惜しい無念 のエディー唯一のアルバム。エディー自らも詞を書い ている他、スモーキー以外のモータウン作家陣が揃っ て曲作りに参加していることからもエディーにかける 社の期待の大きさがわかる。しかも61年録音でこの厚 いストリングスはやはり特別。それだけに落胆もさぞ 大きかったろうと想像される。とはいえ高声にも伸びのあるまろやかな歌唱はさわやか、ジャッ キー・ウィルソン系“地方のサム・クック”という感じで好感が持てる。エキゾティックな演出 の「イフ・クレオパトラ・トゥック・ア・チャンス」やツイスト系の「ゴッタ・ハヴ・ユア・ラ ヴ」と「トゥルー・ラヴ・ウィル・ゴー・ア・マイティ・ロング・ウェイ」(ホーランド/ステ ィーヴンソン/ホーランドというめずらしい共作)も興味深い。しっかりとした歌唱力ゆえ、相 当数の未発表録音がエディにも残されているものと想像される。シングルのみのリリース作も多 いし集大成したCDがほしいところ。英国の方々に期待。 (湯浅) This page is protected. Amos Milburn The Motown Sessions, 1962-1964 The Best Of Funk Brothers-20th Century Masters The Millenium Collection- Motown B000206402-02 2004年 世界的な再評価の波に乗り、04年にリリースされた編集盤。オ ルガンの音が存在感を発揮する60年代初期から70年代のニュー・ ソウルの夜明けまで、年代を追うように配置されたオケの数々はモ ータウン・サウンドの見本市の感あり。録音技術/ビートの質的変 化も一目瞭然で、歌が省かれた分、ファンク兄弟のソウルが丸裸 になっている。アール・ヴァン・ダイク名義の楽曲ではジャズの 出自も感じさせ、奔放なプレイで自由度も3割増し。 (南部) Billy Eckstine Motown 31453-0611-2 1996年 米西海岸のピアニスト/シンガーのモータウン作品は63年4月 リリースのアルバム『リターン・オブ・ザ・ブルース・ボス』 。こ のCDはそのアルバム音源と未発表だった62∼64年のセッションを 集めたもの。軽妙なミルバーンの歌唱とピアノだが、ベース重めで、 バリトン・サックスが効いているのはモータウン流というところ か。ラモント・ドジャーが2曲でドラムスを。スティーヴィーもハ ーモニカで「チキン・シャック・ブギー」に参加している。(湯浅) 166 The Funk Brothers The Prime of My Life Motown MS-632 1965年 大御所歌手もちんまりモータウンに収まって渋い喉を聴かせて いる。ブルースというよりもろにゴージャスなジャズ。高音より も中域が鋭く低音が伸びやかな声なのでたいそう心地よい。スト リングスがまろやか。プロデュースはウィリアム・スティーヴン ソン。ジル・アスキー、メルバ・リストン、ボビー・タッカーの 3人が全精力を傾けてアレンジしている様が目に浮かぶ。リズム が前に出た“モータウン風”も1曲ある。 (湯浅) 167 Brenda Holloway The Isley Brothers Every Little Bit Hurts This Old Heart Of Mine Tamla TM-257 1964年 幼い頃に教会の聖歌隊で歌っていた経歴を持つが、 決してシャウトしまくるタイプのシンガーではない。 そのふんわりと包み込むようなヴォーカルは、たとえ るならメリー・ウェルズとグラディス・ナイトを足し て2で割った感じで、じんわりと心に沁み入る。彼女 にとっての最大ヒット曲(全米13位)となったタイト ル曲などはその好例。切ない女心を抑揚のあるヴォー カルで表現する様は、さながら短編恋愛小説の読み聴 かせならぬ歌い聴かせのよう。同曲のようなバラー ド・ナンバーがアルバムの大半を占めるが、ちょっとだけミディアム・テンポにアレンジし直し たミラクルズの「フーズ・ラヴィン・ユー」のカヴァー、ブレンダ自身が作詞作曲した「ラン ド・オブ・ア・サウザンド・ボーイズ」での明るいヴォーカルも隠れた魅力。中には、メリー・ ウェルズそっくりに歌う「ア・フェイヴァー・フォー・ア・ガール」なんて曲もあって、ブレン ダも声質が似ていることを意識していたのかな、という楽しい想像も膨らむ。圧巻なのは、レ ス・バクスターのあの名曲「アンチェインド・メロディ」(55年/全米No.1)のカヴァーで、情 熱的に歌い上げるブレンダに、ヴォーカリストとしての底力をみた。 (泉山) Tamla TS-269 1966年 アトランティックからワンドへ移籍後、62年「トゥ イスト・アンド・シャウト」のヒットを経て自主レー ベルT・ネックを立ち上げるもうまいこと運ばず。アイ ズレー・ブラザーズは65年タムラ/モータウンと契約 をかわす。翌年リリースの本作は、何ぞ文句あんのか キモイって言ったやつ前出ろ殴るぞ、と怒られそうな 名作である。爆笑必至の「ストップ・イン・ザ・ネー ム・オブ・ラヴ」に始まり、モータウンでの唯一のヒ ットとなる表題曲、しなやかに音割れする「フー・ク ッド・エヴァー・ダウト・マイ・ラヴ」、ドラムスが投げやりな「アイ・ヒア・ア・シンフォニ ー」など、ピッチの揺れにも人柄が見え隠れ。明らかに規格外な歌声が熱の密度を上げ、ファン ク・ブラザーズのアタックはどれも2、3割増しとなる。アイズレーとツアー中の59年、新婚ほ やほやであったスモーキーはファンの女性ふたりにキス攻撃をくらい、悪いことに妻クローデッ ト・ロビンソンがそれを目撃する。怒り心頭の彼女を真摯になだめ、レーベル在籍中でもないの に長男ケリーはモータウンいい話列伝に名を刻む。恐るべきは愛のひと。次作『ソウル・オン・ ザ・ロックス』と併せて2 in1CDにて入手可能。 (牧野) This page is protected. The Isley Brothers The Elgins Soul on the Rocks Darling Baby V.I.P. VIP S-400 1966年 特に激しく個性的ではないがほのぼのとした味わいが かえって印象に残る原因となる音楽があるが、このグル ープの作品もそういうもの。デューク/ピーコックに録 音を残しているダウンビーツがその前身。デトロイト出 身で、リード・ヴォーカルが紅一点サンドラ・マレッ ト・エドワーズ、あとの4人男がジョニー・ダウソン、 クレオータ・ミラー、ロバート・フレミング、ノーバー ト・マックリーン。ボニー・ポインターのカヴァーした 名曲「ヘヴン・マスト・ハヴ・セント・ユー」(R&Bチ ャート9位)と、ジャッキー・ムーアもカヴァーした「ダーリン・ベイビー」 (R&Bチャート4位) のヒットで知られているが、ホーランド/ドジャーのプロデュースによるこのアルバムには他に も「プット・ユアセルフ・イン・マイ・プレイス」や「ステイ・イン・マイ・ロンリー・アーム ズ」などの佳曲が収録され、全体の仕上がりも質素で清潔でグレードはとても高い。サンドラに もうちょっと色気があったらとも思うが、素朴そのものな歌いまわしがかえって一途な思いを表 現することもあるわけで演奏もミックスもアレンジもバランスがとてもいい。本作発表後「イッ ツ・ビーン・ア・ロング・ロング・タイム」もスマッシュ・ヒットさせている。 (湯浅) 168 Tamla TS-275 1967年 68年リリース、モータウンでの通算2枚目にして最後のアルバ ム。複数のプロデューサーに揉みくちゃにされた結果ロナルドの 歌声は艶を増し、初期酸欠状態からメロウへと見事な振り幅を見 せ始める。 「ホワイ・ホエン・ラヴ・ゴーン」やら「ビハインド・ ア・ペインテッド・スマイル」やら、水面下で裾野が広がってるの は明らか。地元贔屓はいた仕方ないこと。翌年にはモータウンを離 れ、再びT・ネック・レーベルを始動させることになる。 (牧野) The Spinners The Original Spinners Motown MS-639 1967年 60年代初期のトライ・ファイ・レコードでの録音と、64年モー タウン入りした後の録音をまとめた、スピナーズ最初のアルバム。 トライ・ファイ時代はドゥ・ワップ臭が色濃いが、アーリー・ソ ウル的な要素も強く、けっこう楽しめるはず。しかしやはり、モ ータウン入り後の録音は文句なく素晴らしい。リード・シンガー のボビー・スミスがモータウン・ビートにのってはつらつと歌う その魅力は、時代を経た今でも色褪せることはない。 (葛原) 169 Shorty Long The Spinners Here Comes the Judge 2nd Time Around V.I.P. VIP S-405 1970年 アトランティック移籍前、フィリっちゃう以前のス ピナーズはしなやかにケバ立つ徒花系。G.C.キャメロ ンのリードと折り重なるハーモニーはジャケをみても 明らかな花弁の如き美しさ。57年にグループ結成。モ ータウン入りは60年代の中盤で、本作のリリースは70 年。スティーヴィー・ワンダーとシリータ・ライトの 共作にてグランド・マスター・フラッシュ引用の「イ ッツ・ア・シェイム」で高らかに始まり、「トゥギャザ ー・ウイ・キャン・メイク・サッチ・スウィート・ミ ュージック」で早くもスピナーズ宣言。出し惜しみがありません。オリジナルより迫ってる感強 しの「ウー・チャイルド」やら、ベースが卑怯過ぎる「マイ・ホール・ワールド・エンディッド」 (オリジナルはデイヴィッド・ラフィン)やら、カヴァー曲もどえらい事態であります。B面5曲 目、 「アット・サン・ダウン」の鼻息パーカッションに至ってはキャメオのラリー・ブラックモン に影響大。移籍に伴い72年にグループを抜けたキャメロンですが、脱退したバーリトン・ヘンダ ーソンに代わり、03年テンプテーションズに加入したそうです。デニス・エドワーズ以来の1/5 マッチョなテンプス。 (牧野) This page is protected. Soul SS-714 1968年 前身は58年結成のマジェスティックス。後にテンプスに加入す るリチャード・ストリートが在籍の女ひとり男3人編成のコーラ ス・グループ、モータウンでの唯一のアルバム。60年代前半のポ ップ感覚と60年代中期のソウル流儀が混合したモダンすぎない素 朴な甘酸っぱさが独特。当然典型的ノーザン・スタイルの曲もい い。「サーヴ・ユアセルフ・ア・カップ・オブ・ハッピネス」、 「ユー・シェア・ザ・ブレーム」など名曲多し。 (湯浅) Dr. Martin Luther King, Jr. ...Free At Last Bobby Taylor Taylor Made Soul Gordy GS-942 1969年 後にチーチ&チョンで名を成すトミー・チョンがギタリストで 参加していたヴァンクーヴァーズを従えて「ダズ・ユア・ママ・ ノウ・アバウト・ミー」を68年にヒットさせたテイラーの、地味 ながら聴き応え十分のソロ作。ファズ・ギターが唸る「エリナ ー・リグビー」のカヴァー、フィドルが大活躍のカントリー風ソ ウルの名品「アイ・ジャスト・キャント・キャリー・オン」他、 しっかり編曲されたノーザン・ソウルで酔わせます。 (湯浅) The Earl of Funk Soul SS-715 1970年 擬似ライヴ仕立ての実質ファンク・ブラザーズのアルバム。ム ーディーな曲でヴァン・ダイクのオルガンのうねりに巻かれるの もいいが、多分にミーターズ( 「シシー・ストラット」をナイス・ カヴァー)を意識したとおぼしきファンク・ナンバーの数々の重 心は低いのに軽快で後味が粘らない柔軟性がおもしろい。ヴァ ン・ダイク作となっている曲は普段の夜のジャムという感じでリ ラックスしつつビートの練られ方、音の溶け具合とも快感。 (湯浅) Tammi Terrell Gordy GS-929 1968年 68年2月4日のエベニザー・バプテスト教会と狙撃される前日 68年4月3日のメンフィスでのスピーチを収録。あまりにも有名 な「I Have A Dream」が聴ける。68年6月5日に追悼の意を込 めてリリースされている。モータウンではブラック・フォーラ ム・レーベルが立ち上げられ、他にもキング牧師のヴェトナム戦 争についてのスピーチ、ストークリー・カーマイケル、ラングス トン・ヒューズの語りなどをアルバム化している。 (湯浅) 170 日本語でいくと短田長介でしょうか。150センチ弱の背丈に因ん だ芸名のシンガー・ソングライターでピアノもいける。小型JB的 しゃがれ系ヴォーカルでファンキーに攻める。ミッチ・ライダー やブルース・スプリングスティーンもカヴァーした「デヴィル・ ウィズ・ア・ブルー・ドレス・オン」はブルージーな名曲。いち いちちょちょいとひねりを入れるユーモア・センスも光る。69年 にボート転覆事故で29歳で他界。惜しい才能を失した。 (湯浅) Earl Van Dyke The Monitors Greetings! We're the Monitors Soul SS-709 1968年 Irresistible Motown MS-652 1969年 マーヴィンとのデュオの成功のために棚上げされてしまったタ ミーのソロ録音集。後にマーヴィンの声が加えられる曲のもとの 形が聴ける。65∼66年録音が主で、発表は69年6月。ハーヴェ イ・フークアとジョニー・ブリストルのプロデュースで作家陣も きちんと顔を揃えている。60年代初頭の感覚のメロディを遊び心 を加えて太いビートで演出し直すなど技もの続出のアレンジで、 実力派ならではの歌唱を活かした秀作が揃っている。 (湯浅) 171 Rare Earth Get Ready The Originals Rare Earth RS-507 1969年 前身は61年結成のサンライナーズ。このデビュー盤が全米12位、 「ゲッド・レディー」 (もちろんテンプテーションズのカヴァー)が ポップ・チャートで4位の大ヒット。トラフィック+アイアン・バ タフライ+ヴァニラ・ファッジの線。モータウンにロック部門を開 いた功労者だが結局はN・ホイットフィールド関連。歪んだギター とエコー使いはサイケだが音はさほど重くないのが逆に魅力かも。 70年代を通じて作品を発表し続け、ファンク化した好盤も。 (湯浅) The Fantastic Four Best of the Fantastic Four Soul SS-729 1970年 オリジナルズというグループの恐ろしさを深々と刻みこむ70年 発表の傑作録音。通算4作目。「ベイビー・アイム・フォー・リ アル」を含む1枚目、タイ・ハンターが加わる「ゲーム・コール ド・ラヴ」を支持する向きもあろうが、彼らの魅力の核心に触れ るならまずはこの盤。グループがリード・シンガー4人を抱えた 時、どんな現象が起きるのか。それを体現したアルバムのB面は まさに“ソウル・アート”の博物館状態である。壮絶。 (JAM) Hearts of Stone Soul SS-717 1969年 実力あるがゆえに他の人気グループとのバランスからかえって 社内的には冷遇されてしまったデトロイト出身のヴェテラン男4 人組のモータウンでの唯一のアルバム。ジェームス・エップスの 骨太なヴォーカルが爽快で、奥行きのある重めのサウンドにぴっ たりハマる。ファルセットもイケるコーラスも多彩で、甘いの苦 いの激しいのほのぼのものと4人のブレのない底力を知らしめる 内容の名作。地味だが美しい伴奏も実に的確。 (湯浅) This page is protected. Stop the World: We Wanna Get Off V.I.P. VIP S-404 1970年 70年に発表されたノーザン・ソウル・ファンには絶大なる人 気を誇る4人組唯一のアルバム。リリース元は“V.I.P.”。レパー トリーのほとんどはカヴァー作だが、本作の人気の元は「イッ ツ・ア・ロンサム・ロード」と「イフ・アイ・クッド・ギヴ・ユ ー・ザ・ワールド」のオリジナル2曲が握っていると言っていい。 双方とも若々しいハーモニーとノーザン・ビートとが綺麗に衝突 する典型的なモータウン・サウンドで、いつ聴いても鮮烈。 (JAM) Hugh Masekela The Originals Reconstruction Baby, I'm for Real Soul SS-716 1969年 数多いグループの中でも屈指の実力を誇る強者。ラ モント・ドジャーの計らいでモータウンと契約、傘下 レーベル“SOUL”から66年に発表した「グッドナイ ト・アイリーン」で公式デビューした後にメンバーを フレディー・ゴーマン、ヘンリー・ディクソン、ウォ ルター・ゲインズ、CPスペンサーの4人に固め、70年 に発表したのがこの処女アルバムだ。ここに至るまで に先のデビュー盤も含め彼らには計4枚のシングルが あるが、アルバムの呼び水となったのはマーヴィン・ ゲイが曲作りに関わった4枚目「ベイビー・アイム・フォー・リアル」のヒットである(当初 「グリーン・グロウ・ザ・リラックス」だったアルバム・タイトルも後に「ベイビー・アイム…」 に変えられている)。ただのヒット曲であるだけでなく、この曲で4人が順に歌いつぎ、折々の 個性を衝突させあうというオリジナルズらしいスタイルが確立された点も重要で、後に生まれる 彼らの傑作の多くはこのスタイルで歌われたものだ。他の収録曲はソロ・リードによるもので、 スペンサーの美しい歌声が映える先の「グリーン・グロウ…」やヘンリー・ディクソンが豪快に 歌う「ホワイ・ホエン・ラヴ・イズ・ゴーン」等秀作揃い。 (JAM) 172 Naturally Together Chisa CS803P 1970年 南アフリカ出身トランペット奏者の自主レーベル=チサ発1作 目。ジョニ・ミッチェルのカヴァーも自作のアフリカ色のロック やジャズやR&Bも、都会的でいて揺るぎない。大きな視野・音楽 観が見て取れる。超スロー・バラードになったシュープリームス 「ユー・キープ・ミー・ハンギン・オン」とビートルズ「アイ・ ウィル」での彼の歌がまたソウルフルで魅力的。スチュワート・ レヴィン制作、クルセイダーズのメンバーが共演。 (松永) The Jazz Crusaders Old Socks, New Shoes...New Socks, Old Shoes Chisa CS804P 1970年 「レイニー・ナイト・イン・ジョージア」やビートルズ「ゴール デン・スランバー」のカヴァーも、彼ら流儀の大らかなテキサ ス・ファンクに仕上がった。初の全米ポップ100入りを果たした、 “ジャズ”を冠したバンド名義での最後の1枚。捻りの入った 「ジャズ」なる曲や、スライ&ザ・ファミリー・ストーン「サン キュー」でのどこか彼ら本来の持ち味とは一味違うファンクぶり が聴けるのも旨味。スチュワート・レヴィン制作。 (松永) 173 The Undisputed Truth The Undisputed Truth Thelma Houston Gordy G-955L 1971年 ノーマン・ホイットフィールドがコズミック・サイケを実現さ せるべく連れてきた、リードのジョー・ハリスと女性ふたりのグ ループのデビュー作。前年のテンプス曲「ボール・オブ・コンフ ュージョン」のディレイやエコーなどエフェクトを利かせたリメ イクを聴くと、ノーマンの考えていた音世界がわかる。ストリン グスを含めロータリー・コネクションに通じる要素もある。陰鬱 な「スマイリング・フェイシズ」がヒットした。 (河地) The Undisputed Truth Face to Face With the Truth Gordy G-959L 1972年 ノーマン・ホイットフィールドが手掛けたグループ、 アンディスピュ−ティッド・トゥルースは、同時代の 同じプロデュースだったテンプテーションズよりも、 より実験的というかプロデューサーの意向を反映する 録音の対象だったようだ。オーディションによって集 められレコード会社によって作られたグループという のもその一因だろう。 グループとしてシンガーとして魅力的なのは確かだ が、作品としてどうかといえば、これはもうまさしく ノーマン・ホイットフィールドの作品だとして評価するしかないのでは。 コンセプト・アルバムと呼んでもいいような時代性を反映させながらの本作もそうだ。デニ ス・コフィーのギターを大胆にフィーチャーし、アコースティック・ギターからパーカッション のからみなど、ダンサブルなナンバーはなく、ともすればフュージョンかと見間違う要素満載の 中、ひとつの楽器のパートのようにヴォーカルも存在している。ノーマン・ホイットフィールド を語る上で欠かすことのできないアルバムか。マーヴィン・ゲイのあの「ホワッツ・ゴーイン・ オン」のカヴァーに集約されている。 (葛原) This page is protected. The Undisputed Truth Law Of The Land Mowest MW-102L 1972年 76年に「ドント・リーヴ・ミー・ディス・ウェイ」で全米ポッ プ・チャート1位を獲得するテルマのモーウェストからのアルバ ム。長年鍛えたゴスペル流儀をそのまま、パワフルかつポップな 演出で展開。アル・クーパーの「ゼア・イズ・ア・ゴッド」、バ リー・マンとシンシア・ウェルの「ブラック・カリフォルニア」 と選曲にもひねりあり。プロデュースはジョー・ポーター。サザ ン・ロック的アプローチ多数あり。 (湯浅) Syreeta One to One Tamla T6-349S1 1977年 モータウン社秘書、雑用、コンポーザー、スティーヴィーの相 棒と歩んだ才女がレオン・ウェアのプロデュースで作ったアルバ ム。70年代前半の実験的作品もおもしろいが、本作では、デイヴ ィッド・T・ウォーカーやチャック・レイニーら名人の細やかな 技の数々が効いており、スティーヴィー作の陽気な小品もあるも のの、全体に華々しくスケールの大きな音世界が展開されていて 酔える。随所にゴスペル感覚が溶かし込まれている。 (湯浅) Willie Hutch The Mack Motown M-766L 1973年 ハッチの映画物といえばいの一番は『フォクシー・レディ』だ ろうが、ジャケと歌ならこちらです。顔のアップに自信のほどが 表われている。エド・グリーンとウィルトン・フェルダーのリズ ム隊、デイヴィッド・Tとディーン・パークスにハッチ自身のギ ターがからむ快調ファンクはもちろんワウ効かせてスリル盛り上 げ。歌は声量ではなく心だよ。とばかりにハスキーに迫るハッチ 節には切ない男汁がほとばしっている。重ファンクも良。(湯浅) Willie Hutch Gordy G-963L 1972年 ノーマン・ホイットフィールドの試作用ユニットだが、こうい う踏み台的グループが意地を見せるところがモータウンの奥深さ。 「ジャスト・マイ・イマジネーション」を冷々とカヴァーしている のもおもしろいがツボは「パパ・ワズ・ア・ローリン・ストーン」 。 こちらのほうがリリースは先。R&Bチャート24位までいってます。 リード・ヴォーカルのジョー・ハリスは高校時代のメリー・ウィ ルソンと同級生だった。通算3作目のアルバム。 (湯浅) 174 Thelma Houston Concert in Blues Motown MG-854 S1 1976年 ウェスト・コーストのシンガーで60年代から録音があるが、ラ イターとしての評価が一般的にも業界的にも高いとみえ、モータ ウン入りした70年代初めも、まずはライターとしてのものだった。 その後も映画音楽を多く手掛け、彼のシンガーとしての作品とい うと印象に乏しい。だからといって内容が劣ると いう訳ではなく、 本作などいまだに古臭くならない録音と呼びたいほど。ミッド・ テンポの曲など彼の代表作として推したいくらいだ。 (葛原) 175 Eddie Kendricks People...Hold On G.C. Cameron Love Songs & Other Tragedies Tamla T-315L 1972年 72年リリース、ソロ転向後のセカンド。 「キープ・オン・トラッキ ン」の1年前。ノーマン研究所首席のフランク・ウィルソンや、デル ズのプロデュースで知られるボビー・ミラーによるトラックは有機的 な組み立て具合。ファルセットとは魅力のひとつでしかなく、こぼし て被せても吸わない絹のようなもの。心地良いハズの曲でも妖しく揺 らぐ力量に静かな迫力を感じます。表題曲「ピープル・ホールド・オ ン」に全てが溶解する名作っすよ、エディケンさん。 (牧野) Motown L6-819S1 1974年 スピナーズのリード・シンガーからソロに転向、74年にリリー スされた初アルバム。スティーヴィー・ワンダー、ウィリー・ハ ッチ、ヴァン・マッコイら、多彩なプロデューサー陣を迎えるこ とで新たなアーティスト・カラーをまさぐった印象があるが、根 が敏捷性に富んだディープな歌い方をする人なだけに最良なのは 3曲を手掛けたウィリー・ハッチとの相性。「ユア・ラヴ・ウォ ント・ターン・ミー・ルース」をはじめ、どれも最高。 (JAM) The Commodores Eddie Kendricks Machine Gun Eddie Kendricks Motown M6-798S1 1974年 Tamla T-327L 1973年 エディ・ケンドリックスはテンプテーションズの “華”だった。煌めき、揺らめくその美麗なまでのファ ルセットがグループの表情をどれだけ端正にしたこと か。テンプス・ファンに彼の存在の大きさを語るなど 釈迦に説法とも思うが、デイヴィッド・ラフィンに比 べ軽視されがちな傾向には改めて楔を打ちたい。71年 のアルバム「スカイズ・ザ・リミット」に収録され、 彼ら最大級のヒットとなった「ジャスト・マイ・イマ ジネイション」での雄姿を実質的なラスト・パフォー マンスとして同年にソロ独立、着実にキャリアを積む中で本格的なブレイクを果たすことになっ たのが73年産となるこの通算3作目である。フランク・ウィルソン&レオナード・ケイストンと ガッチリ手を組んだ彼はディスコ・ブームを手玉に取った「キープ・オン・トラッキン」で新た なエディ像を宣誓するが、エディの持味は曲調によって変化するほど柔ではなく、「ダーリン・ カム・バック・ホーム」のような粋なダンス作でも、今にも蕩けそうなスウィート・ソウルでも 彼の歌声の映え方は美しいことこの上ない。こうして時代との対話が成功したのは彼生来の洒落 た感覚によるところも大きかったように感じる。 (JAM) グループの結成は68年と意外と古い。しかも、その 後アトランティックを経て、(モータウン傘下の)モー ウェストへと移籍、そしてモータウンに引っ張りあげ られてと、決して彼らは悠々とアルバム・デビューに 漕ぎ着けた訳ではない。だが、モータウン初の大型フ ァンク・バンドということもあり、レーベルが彼らに 大いなる期待を寄せていたのは確実で、オープニン グ・セレモニーに相応しいインパクトあるシングル・ ヒットを期してレコーディングされたのが匿名性漂う インストゥルメンタルの表題曲である。だが、一転してアルバムで披露されたのはライオネル・ リッチーとウォルター・オレンジの2枚看板を前面に押し出しながら、ファンクもバラードも同 等の間合いで演じられるソフィスティケイトされたバンド・サウンドだった。ジェフリー・ボー ウェンやクレイトン・アイヴィーら、外部プロデューサーの手助けもまだあるが、コモドアーズ 的なカラーはこの時点でほとんど完成を見ていたと言っていい。ファンクではディスコ・シーン に切り込む際、最強の武器となった「バンプ」が目立つが、「ズー」のようなバラードもファン ク・バンドとは思えない繊細なハーモニーを聴かせる。 (JAM) This page is protected. Eddie Kendricks Boogie Down! The Commodores Tamla T-330V 1 1974年 「キープ・オン・トラッキン」成功の波に乗って74年にリリー スした通算4作目に当たるソロ・アルバム。プロデュースは引き 続きフランク・ウィルソン&レオナード・ケイストンが担当、再 度ディスコを標的にしたタイトル・トラックは思惑通りの大ヒッ トとなっている。とはいえ、アルバム全体が流行に汚染され過ぎ ていることはなく、彼の鯔背なファルセットの活きるレパートリ ーも少なくない。中でも「ハニー・ブラウン」は絶品。 (JAM) 176 Natural High Motown M7-902R1 1978年 アトランティックでのデビュー録音を頂点に、坂道を転がり落 ちるが如く軟弱になっていくグループという認識だが、世間的に はメロウな面が広く受け入れられ、逆にチャートを席巻するグル ープになっていった。77年の本作もヒット・バラードが収録され、 一般的認知度も高い。しかし生来はファンク・バンド。アルバム 単位だと角は取れたとはいえ、質の高い演奏力もつだけあって聴 きものもあり侮れない。個人的にはタイトル曲が好み。 (葛原) 177 Dynamic Superiors Dynamic Superiors Ronnie McNeir Motown M6-822S1 1975年 Motown M6-870S1 1976年 ヴォーカル・グループの名門モータウンにあって、このワシン トンDC出身の5人組はその中でも特に異色な存在だった。トニ ー・ワシントンの官能的なファルセットを核にどこまでもスウィ ートなハーモニーを聴かせる連中で、本作は74年の処女作。アシ ュフォード&シンプソンの全面援護を受け、レパートリーは揃い も揃って甘美。「シュー・シュー・シャイン」は無論、後にミラ ージもカヴァーした「ロミオ」等、否応なしに蕩けます。(JAM) デトロイト育ちのロニー・マクネアは、地元のインディー・レ ーベルより60年代にデビューしている。それから10年近くを経て 出された本作は、ソングライトのみならずインストゥルメンタル 全部を引き受けたマルチ・プレイヤーとしてのものだった。ジャ ジーなサウンドで彩られ、ミュージシャンとしての腕前 をいかん なく発揮している。変わり行く時代と黒人音楽に、多才な能力を もって映し出そうとしているのだろうか。 (葛原) Bottom & Company Sly, Slick & Wicked Rock Bottom Gordy G6-977S-1 1976年 Sly Slick And Wicked Ju-Par JP6-1003S1 1977年 Pファンクとブーツィーズ・ラバー・バンドで知られるホーニ ー・ホーンズのトランペット奏者リチャード“クッシュ”グリフ ィスが、その直前に在籍したグループの76年度作品。洒落っけや 重厚さはないものの、ヴォーカルを前面に立てた曲作りはポップ で、全編に人懐こさがにじみ出るファンクが快調だ。数曲あるス ローもなかなかよく、特に「ファイヤーフライ」はメロディーが いい。愛すべきB級ファンク・バンド。 (河地) ピープルからの大名曲「ショー・ナフ」 (PE-625/73年)で人気 の高い男3人組のフル・アルバム。主唱のジョン・ウィルソンはな かなかなテクニシャン。スローからファンキーなのまでいろいろや っても無理がない。ウォルター・ウィリアムズ、エド・レバート、 ロイ・ノーマンのプロデュース。激唱と力で押すコーラスもいいが、 泣きのファルセットと冷静なコーラスの妙が見事な「キャント・ホ ールド・イット・バック・ノー・ロンガー」は名曲。 (湯浅) Yvonne Fair Lovesmith This page is protected. The Bitch Is Black Motown M6-832S1 1975年 Lovesmith Motown M8-959M1 1981年 シャンテルズのメンバーを経由して、ジェームス・ブラウンの 元で腕を磨いた女性。ノーマン・ホイットフィールドに見初めら れてモータウンに入社、75年に本作でアルバム・デビューを果た した。アルバムは完成形に向けて加速中だったノーマン流ファン クの実験場という性格があるものの、ノーマンも屈強なビートを 活かすには彼女のような爆発力あるヴォーカルは渡りに船だった ように思う。ファンク作は全て強力、文句なし。 (JAM) スミス・ブラザーズ∼スミス・コネクション(名作!)を経て こうなったデトロイトのスミス兄弟。リーダーのマイケル・ラヴ スミスのプロデュースで、その凄さが全面開花した名作。過去の モータウンの有名フレーズや流行りのパッセージをわざと織り込 む余裕のアレンジもマイケルによるもの。正調ファンクも絶好調 で、歌謡ファンクも美味だし、お得意のスローとミディアムの切 ないまろやかさは絶品という以外にない。 (湯浅) Leon Ware Switch Musical Massage Gordy G6-976P1 1976年 マーヴィンの『アイ・ウォント・ユー』につながる作品。ソロ としては(サントラを除くと)2作目。ギャドソン、レイニー、 デイヴィッド・Tと名うての名手が基本を固め、メロウな歌唱を 守るかのように名曲ともしっかり演出されている。ミニー・リパ ートンとのデュオでは気合い入り過ぎ感も。軽ファンクが性愛表 現へとよじれていったり、切ないストリングスのリフが渦巻いた りでやれることを全部出し切りたかった作品。 (湯浅) 178 Love's Comin' Down Switch Gordy G7-980R1 1978年 78年デビュー、オハイオ出身の6人組。モータウンが育てあげ たバンドの中では最も多芸多才な部類に入る人たちである。彼ら が一介のバンドといかに異なるかはボビー・デバージとフィリッ プ・イングラムというふたりの個性派シンガーを含むことでも分 かるが、事実本作からヒットしたのもヴォーカル・グループ然と した「ゼアル・ネヴァー・ビー」だったりする。ゆえにファンク 作は隠れがちだが、溌溂一途な姿は十分評価に値する。 (JAM) 179 Bloodstone Don't Stop Rick James Motown M7-909R1 1979年 ロンドンからモータウンに移籍した彼らが78年に発表したカル ト・ソウル・アルバム。間口が広く、手先も器用なファンク・バ ンドという認識を綺麗に覆し、ここでの彼らは混じりっ気なしの ヴォーカル・グループ、タイトル・トラックの「ドント・ストッ プ」、名曲の誉れ高い「アイム・ジャスト・ドゥーイング・マ イ・ジョブ」を筆頭に鮮烈なレパートリーが続出する。マイケ ル・ラヴスミスをはじめ、バックアップ陣も精鋭揃い。 (JAM) Grover Washington, Jr. Skylarkin' Motown M7-933R1 1980年 KUDU→モータウン→エレクトラと発表の場を変える間に作・ 編曲等に積極的に取り組みだしたサックス奏者が、再びモータウ ンから発表した彼自身の制作による79年10月録音。ビートの感 触をはじめ完全に80年代サウンド、来る大ヒット作『ワインライ ト』の香も匂う。S・ワンダー作「アイ・キャント・ヘルプ・イ ット」、ローランド・カーク作「ブライト・モーメンツ」は出色 のでき。ジャズ1位/R&B7位/全米24位を記録。 (松永) Street Songs Gordy G8-1002M1 1981年 デトロイトで関わりの深かったPファンクが70年代後 半に着々と人気を上げていく中、彼らに対抗しうる唯 一のモータウンの勢力としてゴーディーが期待を寄せ たのがリック・ジェームスだった(80年代に入るとも っぱらプリンスと比較されたが)。そのため彼はデビュ ーの78年から、ワイルドな音楽性やルックスがどんな にモータウンのイメージに相応しくなかろうと、基本 的に黙認されたようだ。本作は81年発表の5作目で、 そうしたリックの持ち味が発揮された文句なしの代表 作。いずれもベース・ラインが殺人的にクールな「ギヴ・イット・トゥ・ミー・ベイビー」と 「スーパー・フリーク」(のちにMCハマーが「ユー・キャント・タッチ・ディス」でリメイクし て大ヒットさせた)という2大ヒットのファンクだけでなく、当時の恋人ティーナ・マリーとの デュエットでコテコテに歌い上げるスロー「ファイアー・アンド・ディザイアー」、レゲエを取 り入れた「ミスター・ポリスマン」などもある。叔父メルヴィン・フランクリン(故人)が在籍 したテンプスとスティーヴィー・ワンダー(ハーモニカ)のゲスト参加が、リックがモータウン の所属であったことを思い出させる。 (河地) This page is protected. DeBarge Rick James Come Get It! Motown 12085 1978年 Gordy 6012GL 1982年 78年に本作をひっさげミュージック・シーンに颯爽と登場したリ ック・ジェームス、ディスコ・ヒーローとしてもてはやされ、プリ ンスと並び評されたこともあった。享楽主義的ディスコ・ファン が彼の主な支持者。恥じ知らずなくらい脳天気なディスコ・ファ ンクは、パーティ・グッズの欠かせないひとつだった。ディスコ の隆盛と歩調を合わせるかのような彼の人気ではあったが、これ もサウンド作りに秀でた才能があったからこそだろう。 (葛原) エル・デバージを中心にした混声兄弟グループ。長兄がスウィ ッチの主要メンバーだったことから、81年にモータウンと契約、 本作は「アイ・ライク・イット」のヒットでブレイクを果たした 82年発表の2作目だ。エルの中性的でいて柔な魅力を中心に据え たグループだが、アイドル的な打ち出しも効いて、これ以降彼ら は80年代のモータウンを象徴する看板アーティストに化す。ただ、 アイドルとはいえ、作品集としての手応えは十分。 (JAM) Rick James The Dazz Band Bustin' Out of L Seven Gordy G7-984R1 1979年 モータウンの異端児のセカンド・アルバム。カヴァー写真のイ ラストからしてスゴイ。こう見えても、リックは実はかなり歌え る人で、タイトル曲(R&Bチャート7位)や同曲の前にシング ル・カットされた「ハイ・オン・ユア・ラヴ・イート」(R&Bチャー ト12位)といったヘヴィーなファンク・ナンバーででさえ、サウ ンドに負けないほどの厚みのあるヴォーカルを披露している。 所々に荒っぽさも残るが、それもこのアルバムの醍醐味。(泉山) 180 All This Love Let the Music Play Motown M8-957M1 1981年 キンズマン・ダズ時代から通算すると4作目に当たる隠れた傑 作。「レット・イット・ホイップ」で飛躍する直前の録音集で、 彼らにとって掛け替えのないプロデューサー、レジー・アンドリ ュースとの関わりもここから始まっている。技術一流、ヴォーカ ル・パートの充実度も屈指の連中ゆえ、ブレイク前のアルバムも 秀作揃いだが、特に強烈なのが本作。表題曲は言うに及ばず、 「ノック・ノック」をはじめとするバラッド群も美しすぎ。 (JAM) 181 Wrecks-N-Effect The Dazz Band Wrecks-N-Effect Keep It Live Motown 5350 1982年 ジャズを基盤に持つボビー・ハリスが結成したクリ ーヴランドの8人組、キンズマン・ダズが前身で、 20thセンチュリーからフィリップ・ベイリーのプロデ ュースで2枚のアルバムを出したのち、レーベル閉鎖 に伴い80年にモータウンに移籍。その時にダズ・バン ドと改名し、大幅なメンバー交替によって、看板シン ガーとなって人気を博すスキップ・マーティンも加入 した。本作は82年に発表されたモータウンでの3作目。 プロデュースは前作から引き続きレジー・アンドリュ ースで、彼と彼の相棒レオン・チャンクラーの助力のもと、808のビートが刺激的なダンス・チ ューン「レット・イット・ホイップ」及び表題曲が大ヒットした。他にもスキップのコクのある 歌が堪能できるミディアム/スロー、あるいはベイリー仕込みかとも思われるピエール・ドゥマ ッドのファルセット・リードによるスローなど、守備範囲は広い。なお「レット・イット・ホイ ップ」は、のちにトレチャラス・スリー(クール・モー・ディーが在籍した)がフィリッペ・ウ ィンを招いて「ホイップ・イット」としてリメイクし、オールド・スクールのクラシックとして 聴き継がれている。 (河地) This page is protected. MC Trouble Gotta Get a Grip Motown 6303 1990年 レイクサイドの歴代メンバーを父親と叔父に持つ、ロサンジェ ルスの女性ラッパーの91年度作品。まだ女性ラッパーが稀少だっ た時代に、やや単調とはいえ堂々たるラップは爽快で、もともと はシンガー志望だったため歌も交え、さらにはレーベル・メイト のグッド・ガールズも招いたりと、華やかな作品に仕上げた。全 曲の作/プロデュースに関わる意欲的な姿勢と才で期待された が、間もなく病に倒れ、最初で最後のアルバムとなった。(河地) Morocco 6067C 1984年 Boys Motown 6302 1990年 女性シンガー、フィジー・クイックを核とするオークランドの ニュー・ウエイヴ・トリオの唯一のアルバムで、当時新設された ロック部門モロッコからのリリース(他に小型ヴァン・ヘイレン 風のデューク・ジュピター、ギター小僧キッド・グローヴなども 出た)。シンセを利かせた軽快なポップスをキュートなチャカ・ カーンのようなフィジーの歌で聴くのは悪くない。フィジーは86 年にモータウン本体からソロ作を発表した。 (河地) ロサンジェルスで見い出された4人組の兄弟グループ。これは2 作めのアルバムで、当時15歳程度だった次男ハキームを中心に自 分たちでプロデュースも手がけた意欲作だ。ニュー・ジャックを基 調としたバランスのよいサウンドに、勢いまかせではなくなったヴ ォーカルが乗る。ヒットした「クレイジー」などでの手ごたえに、 オトナのリスナーたちも“バブルガムR&B侮れず”の感を強くし た。ハキームは以降クリエイターとしても活躍する。 (出田) Rockwell Johnny Gill Somebody's Watching Me Motown 6052 1984年 モータウンの創設者ベリー・ゴーディー・ジュニアの息子(本名 ケネディ・ゴーディー) 。ヒットしたタイトル曲(全米15位/ゴー ルド・ディスク)はデビュー曲で、サビの部分を歌っているのは既 にモータウンのアーティストではなかったマイケル・ジャクソン。 ハッキリ言えば、マイケルの印象的な歌声のお蔭でヒットしたよう なものだが、セカンド・シングル「オブセンス・フォン・コーラー」 のようなヘタウマ加減が妙な魅力になっている。 (泉山) 182 テディ・ライリーの実弟を含むハーレムの3人組による89年度 作品で、モータウンから出た最初のラップ・アルバム。本作にテ ディはノー・タッチながらニュー・ジャック・ラップを標榜し、 その名も「ニュー・ジャック・スウィング」や、エムトゥーメの 「ジューシー・フルーツ」を使ったスウィートな「ジューシー」 がヒットした。しかしこれ1作で移籍し、テディを迎えた次作で ブレイクしたのは皮肉。 (河地) The Boys Tiggi Clay Tiggi Clay Motown 6281 1989年 Johnny Gill Motown 6283 1990年 ボビー・ブラウンがジョニー・ギルに替わり、ジャム&ルイス (J&L)がバックについたニュー・エディションは、激変したとい ってもよかった。その余韻も覚めやらぬうちに出たジョニーのア ルバムがこれ。J&Lの楽曲にはポスト・アレクサンダー・オニー ルといった気配も色濃いのだが、入魂のほどは圧倒的。対するベ イビーフェイス組は、スムーズな作りで彼のブ厚い歌声を活かし、 金字塔バラッド「マイ・マイ・マイ」を生んだ。 (出田) 183 Gerald Alston Today Open Invitation Motown 6265 1990年 80年代後半にはクワイエット・ストーム路線も全盛だったが、 モータウンの代表選手といえば彼だろう。マンハッタンズのリー ドとして鳴らした彼の王道的なソウル・マナーを、当世アーバン 流儀であつらえたのは、秀逸だった88年の初ソロ作にも参加のバ イ・オール・ミーンズ一味で、「スロー・モーション」などのヒ ットを生んだ。他の制作陣も柔らかいブラコン仕様で彼のレイデ ィ・キラーぶりを演出。まさにウットリな1枚。 (出田) テディ・ライリーがらみでデビューした男性4人組。この2作 めでは、テディ一派だったバーナード・ベル、グラウンド・ビー ト以降のR&Bモードを開拓していたDr.フリーズや、新進のキャ ラクターズらを起用。テディの直接参加はなく、ヒット・シング ルも多くは出なかったものの、後年ソロとしても活躍したビッ グ・バブのヴォーカルや、バックのハーモニーも厚みを増して、 アルバムとしての聴きごたえはアップした。 (出田) Coolin' At The Playground Ya' Know Cooleyhighharmony (Spanish version) Motown 530231 1993年 / Motown 6320 1991年 90年代のポップ・シーン全体を考えても、ヴォーカ ル・グループとして最大の人気を獲得したといえる彼 ら(後半はバックストリート・ボーイズが逆転?)。 「エンド・オブ・ザ・ロード」やのちの「アイル・メイ ク・ラヴ・トゥ・ユー」で、ビルボードのポップ・チ ャートの記録を塗り替えたのは、将来も色褪せぬ偉業 だろう。このアルバムは彼らのデビュー作に、その後 大ヒットした「エンド…」と別テイクなど5曲を加え たもの。バラード・グループというイメージが確立さ れる以前の姿も捉えたこのアルバムは、ある意味で彼らの魅力をより正確に伝えてもくれる。テ イク6に憧れていたともいうフィラデルフィアの4人組から、溌溂とした魅力を引き出したのは、 アトランタの気鋭ダラス・オースティン。アップ曲も充分にイケているし、スローでは彼らの非 凡な実力を存分に活かし、リードとハーモニー双方を際立たせた。なかでもヒットしたのは、 70sソウル・バラッドのカヴァー(出典元はモータウンのサントラ『クーリー・ハイ』)だったが、 本作品に収められた楽曲群は、ベイビーフェイスやジャム&ルイスらと組んでいく4人のポテン シャルをすでに充分に見せつけている。 (出田) This page is protected. Shanice Motown 6318 1991年 上は12歳から下は7歳の、文字どおり「お子ちゃま」による6 人組(男子)。ニュー・エディションのマイケル・ビヴンズによ って見い出され、アトランタの俊英ダラス・オースティンがおも に手がけている(同様の経緯をもつボーイズIIメンも参加)。ヒッ トした「アイーシャ」「プレイグラウンド」をはじめ、90年代初 頭らしい硬質なニュー・ジャック・サウンドでの、子どもパワー 全開のパフォーマンスは意外と痛快なのだ。 (出田) Foley 7 Years Ago...Directions In Smart Alec Music Mo Jazz 7001 1993年 マイルスのツアー・バンドとPファンクを渡り歩いた、ギター をベースのように弾くフォーリーの93年の初ソロ作で、前年に始 動したモージャズからのリリース。ジョージ・クリントン以下P ファンクのメンバーが大挙、駆けつけたのをはじめ、スピーチ、 EW&Fのラリー・ダン、マイルスつながりのケニー・ギャレット らが参加し、新感覚のゴッタ煮音楽がジャンルを無視して縦横無 尽に展開される様が実にスリリングだ。 (河地) Blu Motown 6319 1991年 当時の若手でもピカイチといえた女性。アイドル然としたイメ ージをも裏切らずに、かなりの奥行きを加えてしまう表現力は高 く評価されてよい。このセカンド・アルバムは、18歳くらいだっ た彼女の、ポップな魅力が全開となった作品。10数年を経てCM で使われた「アイ・ラヴ・ユア・スマイル」は不滅の青春ポップ だ。モータウンらしい名盤でもあり、プロデュースのナラダ・マ イケル・ウォルデンにとっても屈指の1枚だろう。 (出田) 184 Motown 6309 1991年 Another Bad Creation Boyz II Men Inner Child The New Formula Out of the Blu Motown 530385 1995年 この作品に何も感じないソウル・ファンは心に穴があいてい る、とはえらく乱暴な物言いだが、そのくらい聴かせる男性シン ガーの唯一のアルバム。手がけるはトニ・トニ・トニ好調期のド ウェイン・ウィギンス、惚れ込んだのが現ヒドゥン・ビーチ・レ ーベル(ジル・スコットなど)のスティーヴ・マキーヴァー。セ ールス的には成功しなかったが、90年代モータウン屈指のメロ ウ&クールな名盤。見つけたら買っときましょう。 (出田) 185 Rosie Gaines Closer Than Close Brian McKnight Motown 530462 1995年 Polydor 1157 2000年 かつてエピックからデビューしたのち、プリンス一座のキーボ ード&ヴォーカルを務めた才媛の、約10年ぶりとなった通算2作 め。プリンス作品でも聴かれたタフな歌声が、正調ソウルからテ ンション利いたジャジー・グルーヴまでをまっすぐに貫く。プリ ンスとの共作曲を含む生演奏主体の本作品も、名伯楽スティー ヴ・マキーヴァー肝煎りの1枚だろう。ボブ・マーリー曲のソウ ルな解釈も素敵な、90年代モータウンの隠れ名盤。 (出田) 99年発表の『バック・アット・ワン』から名曲の誉れ高い表題 曲が大ヒットしたのに伴い、過去のヒット3曲を入れ替え収録し ての出し直し盤。前作『エニィタイム』ではパフ・ダディなどの 起用が物議を醸し、本作でもロドニー・ジャーキンスを2曲で起 用したが、いつでも基本はすすけた声を駆使したほろ苦くいスロ ーを中心としたブライアン独自の美しい世界。トータルにすぐれ、 息長く活動できるアーティストの典型だ。 (河地) Zhane Will Downing Pronounced Jah-Nay Motown 6369 1994年 きっかけはヒップホップ・フィールドで、ジャズやゴスペルを 背景とした高度な音楽性を併せもつ──現在ではさほど珍しくな いそんなアーティスト像の、先駆けのひとつといえるジャネイ。 コード・ワークやハーモナイズの冴えはまさに非凡。ケイ・ジー (ノーティ・バイ・ネイチャー)による出色のバック・トラック は、R&Bの大きな指標にもなった。90年代R&Bシーン最重要作 のひとつ。97年の2作めも甲乙つけ難い充実度。 (出田) This page is protected. Mario Winans Story of My Heart All the Man You Need Motown 157881 2000年 ジャジーなテクニシャンという印象も強い人だが、基本はソウ ルにあるのだと筆者は思う。出自にはルーサー・ヴァンドロスな どに近いところもあるのだ。モータウンに移籍しての本アルバム で、彼のエモーションはついに封印を解かれることに。ザ・ルー ツなどのフィリー人脈をも巻き込んでの、芯のとおった男っぷり は、通算8作めにしての快挙だし、社長キダー・マッセンバーグ の功績のひとつでもあろう。食わず嫌いは損ですぜ。 (出田) India.Arie Motown 530776 1997年 Acoustic Soul Motown 013770 2001年 ゴスペル一家ワイナンズのはみ出し者。本初ソロ作発表時はダ ラス・オースチンのプロダクション所属で、曲作り、プロデュー ス、演奏、歌、ほぼすべてをひとりでこなしている。はかなげな ファルセットと切なく張り上げるハイ・トーン・ヴォイスが、幻 想的な美しさを備えためくるめくトラックと境目なく一体となっ て、一貫性のある世界を構築した。このあとマリオはバッド・ボ ーイへ行き、名プロデューサーとして活躍。 (河地) 有名なリリス・フェアにアマチュア出場し、キダー・マッセン バーグの目にとまった才媛。シンガー・ソングライター的だが、 メロディーや歌詞への偏重は感じられず、グルーヴのちからを疑 ってなさそうなところもいい。来日ステージではファンキーな面 もかなり見せた。そのへんも、敬愛するというスティーヴィー・ ワンダーに通じるか。01年の本作品はフックの利いた印象深いデ ビュー盤。翌年の2作めはスルメ的味わいの秀作に。 (出田) Profyle AZ Whispers in the Dark Motown 1508 1999年 キダー・マッセンバーグ自らサインしたロサンジェルスの男性 4人組のデビュー作。新世代のボーイズIIメンといったスタンス の実力派で、ジョン・ジョン、キダー直属のジョーなどをプロデ ューサーに起用し、ミディアム、スロー問わず新人らしからぬ風 格のある歌を聴かせた。マーヴィンのトリビュート盤やサントラ などにも参加して期待され、翌2000年にはセカンドから「ライ アー」をヒットさせたが、そののちモータウンを離れた。(河地) 186 Back at One and More Aziatic Motown 018 074 2002年 ナズの「ライフズ・ア・ビッチ」でセンセーショナルなデビュ ーをしたものの、以後はビジネス上のトラブルが続き活動が思う に任せなかった実力派が、モータウン入りして放った移籍第2弾 で、ナズとの共演曲も収録。前作は硬派な少年声の持ち味が空回 りして中途半端だったが、ここでは骨がありつつメロディアスで 華やかなトラック群と噛み合った。しかしヒップホップの扱いに 手こずるモータウンが不満で、これを最後に離脱。 (河地) 187 Erykah Badu Mama's Gun Motown 14737 2002年 90年代屈指の注目度で登場したエリカ・バドゥは、 現オーガニック・ソウル・シーンのカリスマである。 作品でもステージでも、ときに過剰なほどの演出性を 見せた彼女は、シーンの多数派たるナチュラル志向と は対極的だ。けれどもそれは、描くべきモノが明確す ぎるほどのヴィジョンとともにある証左ともとれる。 この作品は、彼女を見い出したキダー・マッセンバー グのモータウン入りに伴う、バドゥの移籍後第1作、 ライヴ盤を挟んで約4年ぶりとなったアルバム。バド ゥ自身が制作を主導し、ディアンジェロやコモンなどの傑作で話題を呼んでいたソウルクエリア ンズらがサポートした。ここでは、ジャズっぽくメロウな音が基調なのは変わらないものの、デ ビュー作にはなかったざっくばらんな表情が、程度の差こそあれほぼ全編に見てとれる。スライ っぽいファンクや、レゲエ・チャント調の曲もあり、どれもたしかにスピリチュアルなのだが、 ぶっちゃけた生身っぽさが滲み出ているのを感じる。全体の質もデビュー作以上だろう。ジャケ ットも、ミステリアス性の過剰な強調から一転、ストーンな表情の彼女がレトロに縁どられた。 趣を再度若干変えた03年の次作も秀逸。 (出田) This page is protected. Donnie The Colored Section Motown 32402 2002年 ケンタッキー生まれ、アトランタ育ちのシンガー・ ソングライターでマーヴィン・ゲイの従弟のデビュー 作。01年から何枚かのシングルを出したのち、02年11 月にジャイアント・ステップからリリースされたが、 交流の深いインディア・アリーが所属するモータウン とのコラボレーションで、03年5月に出し直された。 唱法、多重録音コーラスの組み立て方、コード進行と メロディー・ラインなど、至るところにスティーヴィ ー・ワンダーの影響が見て取れるが、「今なお奴隷制の 影響が残る社会において、このアルバムを作ることで、人種差別を乗り越えようと思った」と語 るように、思想面も含めて自己が確立されているため、影響は借り物に終わらず血肉となって、 全編が説得力に富む。そして「ビューティフル・ミー」で聴かせる、歌い出しをタメるディアン ジェロ流儀も、現代っ子としてはお手の物だ。多くの楽器も担うプロデューサーのスティーヴ・ ハーヴェイは、時にはスティーヴィーのクラヴィのようなシンセを響かせながら、アル・マッケ イ、ボビー・ワトソン、ビリー・プレストンなどを起用して本物の70年代のテイストも加味し、 手堅くドニーの世界を支えている。 (河地) 『ソウル・ミュージック・コレクション/モータウン・ボックス』 全曲オリジナル音源/デジタル・リマスター CD/カセット10巻 ビギナーからマニアまで。米国モータウン本社公認のCDボックス・セット。全221曲収録! 代表曲からレアなライヴ録音まで通な選曲で誰もがうなる。全124ページの豪華解説書『モー タウン・ガイドブック』付。 お問い合わせは、日本音楽教育センター 電話03-3378-4600 188 あとがき とりわけ60年代作品の魅力をしぶとく体感するならば、ヒット曲といえどもシングル盤 曲のたとえば『タムラ・モータウン、ビッグ・ヒッツ&ハード・トゥ・ファインド・クラ (もちろんアナログ7インチ)をせっせと集めるのが筋というもの。オリジナル・アルバ シックス』シリーズや、『タムラ・モータウン、コノシュアーズ』(通好みモータウン、と ムには入っていないA面曲も多数存在する。“ヒッツヴィル”というからには、何度も言 いう感じか)シリーズなどを聴いていると、超ヒット曲以外の名作というのはほんの少し うようだが、市場に賭けてナンボのネタを、しぶとく作っていさぎよくリリースしていた のハミ出しによって個性を知らしめているが“基本的モータウン度”はどれもみなあまり わけである。「次は頼むぜ」とゴーディーはいとしのシングル盤にキスぐらいはして送り 変わらない、ということをこれら英国マニアの仕事は我々に教えてくれる。 出していた、と思いたい。 62年時点ですでにモノラル盤とステレオ盤が同時発売されることもままあったモータウ 実はオリジナル・アルバムの復刻/CD化も決して満足のいくものではないのが現状。 ンは、ヒッツヴィルのスタジオ以外での録音も少なくなかったことがいろいろ聴くうちに 同じような曲が並べ替えられただけのオムニバス盤ばかり何種類も出るのには呆れるばか 実感できてくる。いちいち発見、やたらに多い。それはイイかげんだったからでもあり、 り。キャリー・E・マンスフィールドとパティ・ドロシンズがプロデュースしたボック 決した勝負をいちいち振り返らなかったからでもある。 This page is protected. なんだかんだいっても、ベリー・ゴーディーが作らなければこの世にモータウンは出現 ス・セット『ヒッツヴィルU.S.A.』が出たのは92年。もう12年も前の事だ。 所在不明のマスター・テープがあまりにも多いとか、ジャケットは現物もポジもネガも しなかったのだ。どうころんでもそれだけは確かなのだ。83年のモータウン25周年記念ス 紛失したままのものばかりだとか、過去の遺産に関する悲しいうわさを耳にすることは多 ペシャル・イヴェントの1コーナー、「モータウン・サウンドとは何だったのか?」で、 い。 その問いに対して、ハル・デイヴィス「思わず指を鳴らしたくなるテンポ、タンバリン、 腰すえて調査せねば、さらにわけわからなくなりゃせんか。と思う。なにしろ世に送り それにどっしりしたベースだ」。スモーキー「底を支えるサウンドだよ。 (バス・ドラムの) 出したものも多ければ、ゴーディーの一声でまるで人の耳に触れぬままカビの友となった フットワークを聴いてみなよ。ベースがどんなにすごいか聴いてくれよ」。ブライアン・ 録音はさらに多いといわれている。 ホーランド「高音を強調したサウンドさ。ぎりぎりまでね」。ベリー・ゴーディー「ねず やたらにたくさんの“ミックス違い”を作らせたといわれるゴーディーの耳にかなわな みとゴキブリと愛と根性を混ぜ合わせたものさ」。ボブ・ジョーンズ(宣伝担当重役)「場 くとも、21世紀のモータウン・ヘッズの耳には十二分に効くものだっておそらく富士山の 末の小屋と不屈の精神とゲットー」。とそれぞれが答えた後で再び“おやっさん”登場、 ゴミぐらい大量にあるだろう。 そしてこう言う。「要するに、何がモータウン・サウンドなのか、俺にもよくわからん」。 “本社”の人たちはどう考えているのだろう。と思うことしばしば。それでも実にイ イ・コンピCDはあるものだ。見ればそのほとんどはイギリスで編まれたものだ。 「60年代はシングル盤」との原則にのっとって、コテコテで、さわやかな、愛のある選 190 よくわからないから、やめられないのだと、それだけはこの本を作って、よくわかりま した。実に。 2004年春 湯浅 学 191 執筆者一覧 泉山真奈美 (いずみやま・まなみ) 市川誠 (いちかわ・まこと) 出田圭 (いでた・けい) 春日正信 (かすが・まさのぶ) 河地依子 ( か わ ち ・ よ り こ) 木村ユタカ ( き む ら ・ ゆ た か) 葛原大二郎 (くずはら・だいじろう) JAM (じゃむ) 南部真里 ( な ん ぶ ・ ま さ と) 藤本国彦 (ふじもと・くにひこ) 松永記代美 (まつなが・きよみ) 牧野琢磨 ( ま き の ・ た く ま) 三田格 (みた・いたる) 宮田伸 (みやた・しん) 湯浅学 ( ゆ あ さ ・ ま な ぶ) 吉本秀純 (よしもと・ひでずみ) 企画・編集 鬼頭正樹 (K &B パブリッシャーズ) 編集・本文DT P 小田晶房(m a p) 協力 シネカノン ユニバーサルミュージック 『モータウン・ハンドブック』 2004年5月20日 初版発行 編者 湯浅学 装丁 五十嵐たかし 発行者 河村季里 発行所 株式会社K&Bパブリッシャーズ 〒101-0054 東京都千代田区神田錦町2-7 戸田ビル3F 電話 03-3294-2771 発売元 株式会社飛鳥新社 〒101-0051 東京都千代田区神田神保町3-10 神田第三アメレックスビル 電話 03-3263-7770 印刷・製本 中央精版印刷株式会社 © Manabu Yuasa, 2004 Printed in Japan 落丁本、乱丁本はお取り替えいたします。 ISBN4-87031-603-X C0073 This page is protected.
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