死を超えた願い-黄金の言葉-見ずや君 明日は散りなむ花だにも 命の

龍谷パドマ 7
死を超えた願い─黄金の言葉
あれを見よ 明日は散りなむ 花だにも 生命の限り ひと時を咲く
鍋島直樹編
Aspiration Transcending Death: Golden Words
龍谷大学人間・科学・宗教オープン・リサーチ・センター
文部科学省オープン・リサーチ・センター整備事業(平成14年度〜平成18年度)
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
パドマ −Padma−
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
パドマ(Padma)とは汚泥の中に咲く紅蓮華のことです。
人間・科学・宗教 オープン・リサーチ・センターは、科学、生命倫理、環境、共生、社会福
祉の課題に対し、本学の建学の精神の意に沿いながら、グローカルに発信することを目的
にしています。
その中で研究展示パドマに於ては、貴重文化財の展示とともに、「生きとし生けるもの
への慈悲」を親しみやすく、かつわかりやすく提示していきます。
パドマ……汚濁と寂しさに満ち満ちた現代世界に、人々の艱難辛苦の中から浄らかな花が
咲くことを願いつつ…。
至心館近影
至心館及研究展示館「パドマ」(Exhibit Hall Padma)
至心館の「至心」とは真実を顕します。至心館は「真
実を求め、真実に生きる」という本学建学の精神に基づ
いた、本学らしい特色ある研究を推進し、世界に発信し
て欲しいとの願いから命名されたものです。
至心館2階に研究展示館「パドマ」があります。この
研究館では、「仏教生命観に基づく人間科学の総合研
究」のもと、パネルや貴重文化財を展示し、「生きとし
生けるものへの慈愛」「民族の共生を願って」などの
テーマをわかりやすく学習できるようにしています。
目 次
ごあいさつ�������� 龍谷大学 人間・科学・宗教 オープン・リサーチ・センター長 武田龍精…… 2
展示品図録�����������������������������������
3
1.仏陀頭部 パキスタン・タルベラ出土 AD3-4C…………………………………………………… 3
2.仏陀頭部 アフガニスタン・ハッダ出土 AD3-4C………………………………………………… 4
3.仏陀頭部 アフガニスタン・ハッダ出土 AD3-4C………………………………………………… 4
4.菩薩頭部 アフガニスタン・ハッダ出土 AD3-4C………………………………………………… 4
5.仏陀頭部 ガンダーラ地方 AD3-4C……………………………………………………………… 5
6.蓮華座上仏陀 雲母片岩 ガンダーラ地方 AD2-3C…………………………………………… 5
7.火から救われたジョーティシュカ 雲母片岩 ガンダーラ地方 AD2-3C…………………… 6
8.仏陀涅槃図 雲母片岩 ガンダーラ地方 AD2C………………………………………………… 6
9.木造金泥塗宝冠仏坐像 ビルマ…………………………………………………………………… 7
10.釈迦如来三十五仏画(タンカ)…………………………………………………………………… 7
11.涅槃図……………………………………………………………………………………………… 7
12.国宝 山越阿弥陀図 原絵図は永観堂禅林寺所蔵(原寸大複元屏風装)…………………………… 8
13.山越阿弥陀図と無常院ミニチュア再現………………………………………………………… 9
14.光明本尊…………………………………………………………………………………………… 10
15.一休骸骨…………………………………………………………………………………………… 10
16.釈迦涅槃図 軸装………………………………………………………………………………… 11
17.三劫三千仏………………………………………………………………………………………… 11
18.阿弥陀如来二十五菩薩来迎図…………………………………………………………………… 12
19.往生要集…………………………………………………………………………………………… 12
20.
(和字絵入り)往生要集………………………………………………………………………… 12
21.恵心僧都絵詞伝三巻……………………………………………………………………………… 13
22.元享版 黒谷上人語燈録………………………………………………………………………… 13
23.親鸞聖人御消息写本……………………………………………………………………………… 14
24.親鸞聖人真筆皇太子聖徳奉讃断簡……………………………………………………………… 14
25.親鸞聖人安城の御影……………………………………………………………………………… 14
26.歎異抄 蓮如書写本……………………………………………………………………………… 15
27.恵信尼像 絹本着色一幅………………………………………………………………………… 15
28.恵信尼文書………………………………………………………………………………………… 15
29.慕帰絵……………………………………………………………………………………………… 16
30.九条武子典籍……………………………………………………………………………………… 16
研究論文
親鸞の往生思想………………………………………………………………………………内藤知康…… 17
仏教からみた死と慈愛—源信・法然・親鸞における死の超克…………………………鍋島直樹…… 25
黄金の言葉—先人の心に学ぶ
恵信尼の死の受けとめ方『恵信尼文書第八通』
…………………………………………………… 44
妙好人「石見の才市」顕彰会………………………………………………… 45
妙好人『石見の才市』
妙好人『お軽の歌』
…………………………………………………………………………………… 47
九条武子『無憂華』野ばら社………………………………………………………………………… 48
足利義山『義山法語』百華苑………………………………………………………………………… 50
甲斐和里子『草かご』百華苑………………………………………………………………………… 52
中村久子『こころの手足』春秋社…………………………………………………………………… 53
青木新門『納棺夫日記』文春文庫…………………………………………………………………… 56
金子大榮『歎異抄領解』『金子大榮選集 第 15 巻』在家仏教協会……………………………… 57
村上速水『親鸞教義の誤解と理解』永田文昌堂…………………………………………………… 58
信楽峻麿『この道をゆく』永田文昌堂……………………………………………………………… 60
大谷光真『朝には紅顔ありて』角川書店…………………………………………………………… 63
永観堂への道しるべ…………………………………………………………………………………… 64
ごあいさつ
人間・科学・宗教オープン ・ リサーチ・センター研究展示館パドマにご来場いただき、
誠にありがとうございます。文部科学省、ならびに関係各位には、当センターに対し、格
別のご支援を賜り、心より御礼申し上げます。
このたび、パドマ特別展示室において、
「仏教生命観と生死観」をテーマに研究を進め
てまいりました第2ユニット(代表:鍋島直樹教授)の主催による、
「死を超えた願い:
黄金の言葉—あれを見よ 明日は散りなむ 花だにも 生命の限り ひと時を咲く」の展
観を開催いたします。
人は、愛するものとの別れや死の予感を通して、いのちのかけがえなさに気づきます。
自分自身の死、また、愛するものとの死別の悲しみを、人はどのように受けとめたらよい
のでしょうか。
この展示では、先人たちのあらわした「黄金の言葉」を通して、生死を超えた真実、ま
ことの愛を学びたいと思います。一つは、仏教の流れに沿って、釈尊、源信、法然、親鸞・
恵信尼が、いかに病人を看取り、どのようにして死を超える道を見出していったかについ
てたずねます。もう一つは、九条武子・足利義山・甲斐和里子・中村久子・鈴木章子・金
子大榮・村上速水・信楽峻麿・青木新門・妙好人浅原才市・お軽などのあらわした言葉を
抜粋して、死を超えた願いと安らぎについて学びます。
この展示に関し、まず、中村久子女史顕彰会の代表三島多聞様・中村富子様、妙好人[石
見の才市]顕彰会の安楽寺の皆様に温かいご協力を賜りました。おかげさまで、中村久子
女史の遺品やお写真、浅原才市の肖像と紹介など貴重な品々を展示することができました。
また、ガンダーラ仏教美術の研究者である歐亜美術の栗田功氏のご協力により、紀元2
〜3世紀頃の Talberra 出土の Stucco、仏頭や貴重なガンダーラ、ハッダ地域の仏像、涅
槃像、仏伝レリーフなどを初めて展示いたします。約 1700 年以上も前に創られた仏像の
微笑や仏伝レリーフの物語は、時を超えて見るものに安らぎを与えてくれることでしょう。
さらに、永観堂禅林寺様の総長をはじめとする皆様にご協力いただきながら進めてまい
りました国宝「山越阿弥陀図」屏風(復元複製)と山越阿弥陀図・無常院のミニチュア再
現も公開させていただきたく存じます。来迎図を縁として、病の床で、人と人との絆、そ
してこの世を超えた真実の仏との絆を育んでいったことがうかがわれます。ご後援いただ
きました皆様に対し、ここに厚く御礼申し上げます。
あらゆるいのちは、時を超え、空間を越えて、さまざまなものに支えられ、願われて、
今ここにあります。死によっても消えることのない真実とは何かについて、この展示を通
して、ご一緒に探求することができれば幸甚です。
龍谷大学 人間 ・ 科学 ・ 宗教 オープン・リサーチ・センター
センター長 武 田 龍 精
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
ぶっだとうぶ
1 仏陀頭部
ストゥッコ パキスタン・タルベラ出土 A.D.3 〜 4C
高 41㎝
歐亞美術蔵
しっくい
ストゥッコ(Stucco)とは、細土に石灰を混ぜた漆喰で造られたものをいいます。ローマの漆喰技法がガンダーラにもたらされたと
言われています。ガンダーラ仏教美術の石製彫刻から始まりますが、200 年ほど後れて 3 世紀ごろからストゥッコ製彫刻が盛んに造ら
れるようになります。ストゥッコ像についていえば、特にアフガニスタンのハッダが有名ですが、パキスタン側ではタキシラやタルベ
ラからストゥッコ像が出土しています。 は じ ょ う は つ
ら ほつ
この頭部の髪の毛に注目して下さい。波状髪となっていますが、その上に螺髪(渦巻き状の毛)がほんの少し残っています。当時は
古くなった彫刻を上から新しく漆喰を塗って造り直すという習慣がありました。
この仏頭はその造り直した部分が剥げ落ちて、内にあっ
た当初の仏頭が残り、造り直した部分が髪に少し残っている状態です。学説では、ギリシャ・ローマ風な波状髪が最初で、次に螺髪が
現れるということになっていますが、この頭部は、そのことを証明しています。
(栗田 功)
ぶっだとうぶ
2 仏陀頭部
ストゥッコ アフガニスタン・ハッダ出土 A.D.3 〜 4C
高 11㎝
龍谷大学 人間・科学・宗教オープンリサーチセンター蔵
ストゥッコの技術はローマからガンダーラに伝わり、3 世紀にハッダで盛ん
に作られます。典型的なハッダの美顔です。表面に残っている肌色は当時の色
です。
(栗田 功)
ぶっだとうぶ
3 仏陀頭部
ストゥッコ アフガニスタン・ハッダ出土 A.D.3 〜 4C
高 11㎝
龍谷大学 人間・科学・宗教オープンリサーチセンター蔵
ぼさつとうぶ
4 菩薩頭部
ストゥッコ アフガニスタン・ハッダ出土 A.D.3 〜 4C
高 9㎝
龍谷大学 人間・科学・宗教オープンリサーチセンター蔵
耳飾があるかどうかわかりません。あれば菩薩、なければ仏陀と思われます。
通常仏陀の髪に装飾はありませんが、アフガンにはフランス隊の名付けた「飾り
ブッダ」があります。その可能性もあるかと思われます。
(栗田 功)
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
ぶっだとうぶ
5 仏陀頭部
ストゥッコ ガンダーラ地方 A.D.3 〜 4C
高 16㎝
龍谷大学 人間・科学・宗教オープンリサーチセンター蔵
れんげざじょう ぶ っ だ
6 蓮華座上仏陀
雲母片岩 ガンダーラ地方 A.D.2 〜 3C
高 36㎝
龍谷大学 人
間・科学・宗教
オープンリサーチセンター蔵
蓮華座で結跏趺坐する釈尊。蓮池には三
人の人物がいます。蓮の花から身を出して
います。蓮華化生かと思われます。また、
「蓮
池で蓮華座を用意するのは龍王ナンダとウ
パナンダであるから、蓮池から半身を出す
のはナンダとウパナンダであろう。」(『ガン
ダーラ美術とクシャーン朝』小谷仲男 p.120)
上部が欠損していますが、下部の曲線か
ら考えて、三葉形は通常ストゥーパの覆鉢
部の両側に取り付けられます。様式からみ
て、最盛期を少し過ぎた 3 世紀初頭かと思
われます。
(栗田 功)
ひ
すく
7 火から救われたジョーティシュカ
雲母片岩 ガンダーラ地方 サリバロール出土 A.D.2 〜 3C 高 38㎝
歐亞美術蔵
ラージャグリハ(王舎城)にスパドラという異教徒
(外道)の信者がいました。ある日釈尊は、彼の家に托
鉢に行きます。スバドラの妻は妊娠していました。そこ
で、スバドラは釈尊に、男の子が生まれるか女の子が生
まれるかを聞きます。男の子が生まれることを知り、喜
び、釈尊への布施もはずみました。そのことを知って釈
尊との関係を嫉んだ異教徒たちは、男に、恐ろしい子ど
もが生まれてくることを予言します。恐れたスバドラは
出産直前だった妻に毒を飲ませ、死なせてしまいます。
異教徒たちは、釈尊の予言を成就させないですんだこと
から、釈尊を負かせたと勝ち誇ります。死体は、荼毘に
付されますが、燃えさかる炎の中から、釈尊の力により
男の子が無事に生まれます。スバドラは異教徒の反対を
押し切ってまで、生まれた子供を育てることはできませ
んでした。
子供はマガダ国のビンビサーラ王に育てられ、
後に出家して阿羅漢になったと言います。炎の中から生
まれたので、
ジョーティシュカ(火炎中より得たるもの)
と名付けられました。
(栗田 功)
ぶっだ ね は ん ず
8 仏陀涅槃図
雲母片岩 ガンダーラ地方 スワート出土 A.D.2C 縦 34㎝ 横 23㎝ 厚 4㎝
龍谷大学 人
間・科学・宗教
オープンリサーチセンター蔵
ストゥーパの周りを装厳していたものの一部と思
われます。上はインド式欄楯(仏塔を囲う玉垣)。
下段に涅槃図。中央に北を枕に横たわる釈尊。その
背後に仏陀の死を悲しむマッラ族の人々。左端の人
物は誰でしょう。通常ここには悲しむヴァジュラ
パーニ(執金剛神)が表現されますが、この手には
ヴァジュラ(金剛杵)がありません。悲しみのあま
りいつも手にもっているヴァジュラを地面に落とす
という話が仏典にあるそうですから、ヴァジュラを
落としたヴァジュラパーニかも知れません。右端は、
釈尊の涅槃を一週間後に聞いて急いで来た第一弟子
のマハーカーシャパ(大迦葉)です。もう一人ベッ
ドの前で、禅定に入っているのは、釈迦入滅の間際
に法を聞き、すべて理解し、最後の仏弟子と認めら
れたスバドラが、火界定に入っている姿です。その
右には皮袋に入った水が棒に釣り下がっています。
背後両脇に双樹が表現されています。釈尊の上部に
いる者達は無常の理をさとり、仏法の真意を体得し
ていたので悲しまず静かに見守っています。
(栗田 功)
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
もくぞうきんでいぬりほうかん ぶ つ ざ ぞ う
9 木造金泥塗宝冠仏坐像
1 躯 木造 金泥塗り 着色 座高 60㎝
ビルマ国 年代不明 龍谷大学 学術情報センター蔵
頭部はラッサミー、右手は触地印
(降魔印)を結び、足は半跏趺坐を組
んでいる南方形の仏陀像である。台座の正面と左側面にビルマ文字が小
さく刻まれてあり、ビルマ仏であることを示す。頭に宝冠を頂くところ
から、出家直後の釈尊を表現したものと考えられる。
し ゃ か にょらいさんじゅうご ぶ つ が
10 釈迦如来三十五仏画(タンカ)
キャンヴァス寸法 縦 65㎝ 横 46.6㎝
外形寸法 縦 138㎝ 横 73㎝
龍谷大学 学術情報センター蔵
中央の本尊は、触地印を結んだ釈迦如来であり、その周囲に
三十四の仏が描かれた、釈迦如来三十五仏のタンカである。
タンカとはチベット仏教美術の世界における軸装仏画のこと
であり、キャンバスを取り囲む赤と黄色の縁、全体を覆う包布、
「風抑え」
と呼ばれる紐が付随している。
この表装様式によれば、
14 〜 15 世紀の作ではなく近現代の作のようである。青木文教
氏がどこでどのように入手したかは不明である。
ね は ん ず
11 涅槃図(資料記号 024.301-17-4)
道益筆 1 枚 紙本 版画 着色 縦 45㎝ 横 30.7㎝ 江戸時代初期 寛永頃
龍谷大学 学術情報センター蔵
涅槃図は釈尊入滅の場面を表すもので、日本では古くは法隆寺五重塔内塑像として作成されたものがあるが、藤原時代以後には大き
な画面の絵画に描かれたものが多いが、江戸時代になると版画類も作られ、人々の信仰に深く関わるようになった。この涅槃図は長方
形の画面中央にある沙羅双樹の下、金色に輝く釈尊が左手を伸ばし、頭北面西右脇を下に身を横たえ、眼を閉じている。枕頭では、諸
菩薩が釈尊の涅槃を見守り、脇や足元では、梵天・帝釈天をはじめ仏弟子や動物までも悲嘆の表情をあらわにしている。
こくほうやまごし あ
み
だ
ず
12 国宝山越阿弥陀図(原寸大復元屏風装)
一幅 顔彩方式絹本着色 縦 138㎝ 横 118㎝ 鎌倉時代 13 世紀前半(この山越阿弥陀図の原絵図は、永観堂禅林寺所蔵である)
龍谷大学 人間・科学・宗教オープンリサーチセンター蔵
なだらかな稜線のつづく山々の向こうから、転法輪印を結んだ阿弥陀如来が、正面を向いて上半身をあらわしている。阿弥陀如来の
背後には、大海が広がっている。観音菩薩と勢至菩薩が踏みわり蓮華に立ち、白い雲に乗って山を越え、往生人に向かって今まさに来
迎せんとする様子が描かれている。観音は往生人の乗る蓮台を両手で差しだし、勢至は合掌し、両菩薩ともに身体を前にかがめ死を迎
える人の心に優しく寄り添う。両菩薩の前方には、四天王が左右に立ち、臨終を迎える人が極楽往生できるように力強く見守っている。
あわせて二人の持幡童子が幡を掲げて、往生人を阿弥陀如来の方向に導こうとするのである。この四天王と二童子は、三善為康著『拾
がちりん
遺往生伝』(1132 年)に記載されている。阿弥陀如来は、背にほのかな白銀色の円光背を負い、画面左上のすみには、月
輪中に、大日
しったん
ほんぶしょう
如来の種子「阿」字が悉曇文字で記されている。密教の『大日経疏』などによれば、阿字は、本不生、すなわち、
「あらゆるものが空
であり生滅がないこと」「万有の根源」を象徴する。この山越阿弥陀図全体の清らかで透きとおった色調と月輪中の阿字とが指し示す
ように、月の光が山の向こうから届く情景を、阿弥陀如来と観音・勢至の来迎にたとえたのであろう。阿弥陀如来・観音・勢至の三尊
の身体は、ともに金泥で飾られ、法衣の彩色には、金・銀泥や切金が用いられ、繊細で柔らかな印象を与える。山裾には、桜や紅葉が
描かれ、日本人の愛する自然がこの絵に込められていることがわかる。
き え
この図は、高野山で行われていた真言浄土教の念仏の本尊とされる。真言宗の僧でありながら、法然の没後、法然に帰
依し、承久三
じょうへんそうず
年(1221)、禅林寺に入った静遍僧都(1165
〜
1223)が、
高野山で尊重されている阿字月輪観を通して感得した来迎図と伝えられている。
こんかいこうみょうじぼん
びゃくごう
この阿弥陀如来の両手には、金戒光明寺本の山越阿弥陀図と同様に、五色の糸をつけていた孔が残っている。また、阿弥陀の白
毫が
のりたねきょうき
えいしょう
深く数枚の裏打紙に達するまでえぐりとられている。
『宣
胤卿記』永
正
16
年(1519)5
月末の記事によると、天王寺西門西脇壁に描か
え し ん そ う ず
さんじょうにしさねたか
しょうまんぎょう
れていたという恵心僧都源信筆の山越阿弥陀図を写した三条西実隆所蔵来迎図の阿弥陀の白毫に、聖徳太子が勝
鬘経講讃のとき、毎日
たま
行水に使う水を浄めるため、法隆寺の井戸に沈めたという珠をはめていた、という記述がある。その意味で、この図の白毫が深くえぐ
りとられている理由は、ここに水晶などの珠を差し込んだか、もしくは、この部分に孔をあけ、絵の裏から灯火をちらつかせて、斜め
向き来迎図に必ず描かれている白毫から出る光線を、実際の光で放射し、臨終を迎えた往生者を随喜させたのではないか、と推察され
ている。さらにこの図は、阿弥陀如来の左右に、縦の折り目の跡が二本残っていることから、もとは屏風仕立てであったと考えられる。
この国宝山越阿弥陀図は、現存する山越阿弥陀図の一つとして、最古の優れた作品である。
(鍋島直樹)
10
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
やまごし あ
み
だ
ず
むじょういん
さいげん
13 山越阿弥陀図と無常院ミニチュア再現
縦 85.5㎝ 横 152.5㎝ 奥行 102㎝
制作スタッフ 総合協力 浄土宗西山禅林寺派 総本山永観堂禅林寺
監 修 龍谷大学教授 鍋島 直樹
制 作 株式会社方丈堂出版 光本 稔
家屋制作 有限会社製本工房 小幡 耕一
人形制作 アトリエ津田 津田 玲子
猫 制作 ミニチュア作家 内山 正一
桶 制作 檜細工師 三浦 宏
龍谷大学 人間・科学・宗教オープンリサーチセンター蔵
2006 年新春、山越阿弥陀図・無常院ミニチュア作品が、禅林寺永観堂様のご協力をえて完成しました。日本のミニチュア造形作家
の技術を結晶して、人形や舞台が作られました。この無常院ミニチュアは、山越阿弥陀図が人生の終末においてどのように使われてい
たか、中世の日本人がどのように死を迎えていたかを知ることができます。大きさは実際の 4 分の 1 スケールです。
中央に安置されている絵は、禅林寺所蔵・国宝山越阿弥陀図です。平安時代末期に描かれたとされ、現存する山越阿弥陀図の一つと
して、最古の優れた作品です。なだらかな山々の向こうから、阿弥陀如来がこちらを向いて上半身を現しています。阿弥陀如来の背後
には穏やかな海が広がります。右手の観音菩薩は往生人に蓮華の台をさしだし、左手の勢至菩薩は合掌して見守っています。山の両脇
には四天王がたち、悪魔から護っています。あわせて手前の二人の童子は旗を掲げ、
「極楽浄土はこっちだよ」と案内しています。
それでは、なぜこのような山越阿弥陀図が描かれたのでしょうか。中世当時、人々は戦乱や災害、飢饉や疫病に見舞われていました。
そこで平安に死を迎えられるように描かれたのです。日常生活に使われた終末期ケアです。山越阿弥陀図は古くは持仏堂に遡り、また
現代の家庭にある仏壇に通じるものでしょう。
ところで、この絵にはいくつかの秘密があります。一つは、阿弥陀如来の両手に五色の糸がつながれ、病人がその一方を握っている
ことです。五色とは、人間の五感を表わし、私の身も心もみ仏に抱かれていることを意味します。五色の糸は、極楽からこの世にかけ
られた虹の架け橋、死をこえた命の絆です。
二つめは、山々の中に、桜や紅葉などの木々が、同時に描かれていることです。桜と紅葉は、人生の四季を表すとも、極楽を表すと
がちりん
もいわれます。月輪、月の輪は、澄みきった仏の心です。人間と自然とが一つになっていく世界を象徴しています。満開の桜や紅葉を
ながめることで、病人と家族が、「あんなこともあったなあ」と、人生をふりかえることができたことでしょう。
もう一つは、阿弥陀仏の白毫が数枚の裏打ち紙に達するほど深くえぐりとられていることです。禅林寺永観堂様によると、その白毫
に、水晶の珠がさしこまれ、蝋燭の灯りをうけて、光輝いたとされています。また、夕焼けが屏風のうしろから差し込んで、白毫が光
り輝いたともいわれます。次第に眼が見えにくくなる病人にとって、光は大きな安らぎをもたらしたことでしょう。
大切なことは、いつも阿弥陀如来に見守られてひとりぼっちにならず、病人とみとる者とが、互いの願いや愛情を確認しあえたこと
です。人は、限りある命に気づくとき、限りなく尊いものになっていきます。仏に成るとは、限りなきいのち、無量寿の仏になってい
くということであり、亡き後も、遺族のともし火となって、ずっと心に生きているということなのです。
(鍋島 直樹)
11
こうみょうほんぞん
14 光明本尊(資料記号 021.1-102-1)
絹本着色 一幅
縦 118.8㎝ 横 88㎝
南北朝時代 14 世紀
龍谷大学 学術情報センター蔵
中央に金箔で、
「南无不可思議光如來」の九字名号が
蓮台の上に記され、名号からは三十四条の光明が放たれ
ている。その光明は、金色ではなく白色で描かれている
点が特徴である。また向かって右には「歸命盡十方无
光如來」の十字名号が、左には「南無阿弥陀佛」の六字
名号が記されている。これら三名号の間には左に阿弥陀
如来、右に釋迦如来が描かれている。こうした図像は名
号から光明を放していることから、光明本尊と呼ばれて
いる。
さらに向かって左側(天竺震旦部)に勢至・龍樹・天
親の三菩薩が蓮台に座し、その上方に菩提流支以下、曇
鸞・道綽・善導など七名の中国浄土教の高僧を描き、向
かって右側(和朝先徳部)には源信・源空・親鸞などの
日本の先徳が、その下には聖徳太子とその侍臣が描かれ
ている。この光明本尊で注目されるのは、親鸞の次の僧
として真仏が、その後は源海・了海・誓海・明光・了源
とつづくことで、了源系の門徒によって奉持されていた
と考えられている。
いっきゅうがいこつ
15 一休骸骨(資料記号 023.1-512-1)
一休宗純作 仙童筆 1 巻
紙本 墨書 墨画 着色
縦 22㎝ 長 775㎝
江戸時代後期 弘化 4 年(1847)
龍谷大学 学術情報センター蔵
一休宗純(1394 〜 1481)には『骸骨』の一著がある。この書は『佛鬼軍』と共に一休の手による絵入り法語の双璧である。これには様々
な骸骨の姿態を絵入りで紹介し、それに和歌が引用されている。全体には滑稽味が感じられ、娯楽性もあわせ持ち、大衆に世の無常を
痛感せしめて、求道心を喚起させようとしたことが伺える。後代にはしばしば一休の道歌として取り上げられることになるが、本書は
和歌を中心にした法語という性格を有する。
12
しゃか ね は ん ず
16 釈迦涅槃図
軸物 涅槃図寸法 縦 131.5㎝ 横 79.5㎝
外形寸法 縦 192㎝ 横 94㎝
龍谷大学 人間・科学・宗教オープンリサーチセンター蔵
「釈迦涅槃図の代表的構
図例」
善光寺世尊院釈迦堂蔵
❶釈迦(頭北面西右脇臥)
❷阿難尊者
❸地蔵菩薩
❹金剛力士
❺鉢・錫枝
❻羅 羅尊者
❼摩耶夫人
❽ビシャリ城から駆けつけた
老婆
❾阿闍世王
10 阿那律尊者
●
11 すずめ
●
12 つばめ
●
13 ねこ
●
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
さんこうさんぜんぶつ
17 三劫三千仏
軸物 一幅 南北朝時代頃摺
龍谷大学 学術情報センター蔵
十二月十九日より三日間、三劫三千諸仏名経によって、三世の三千の
仏の名前を唱えて、罪の消滅を祈る法会を仏名会といい、宮中でも室町
時代まで恒例の行事として清涼殿で行われていた。過去の荘厳劫に一千
仏、現在の賢劫に一千仏、未来の星宿劫に一千仏、合せて三千仏の出世
ありといわれている。
紙面縦 134㎝、横 64㎝、幅面縦 228㎝、横 80.6㎝。縦 74 列、横 42 列
の座像、計 3 千体。仏像一体の大きさは、縦 1.6㎝、横 1.3㎝で、わが国
最小の仏教版画といえる。又、中央下に小座像 36 体分の大きさの筆彩
入仏像があり、その一体の紙面は縦 10.5㎝、横 9㎝である。各像は通肩
の法衣を着け、蓮台上に座す如来形の姿が、三劫三千仏形式を示してい
る。
掛軸裏側に下の記載並びに蔵書印がある。
三千佛 佛名曾本尊
寶玲文庫 南山
(朱印)
13
あ
み
だ にょらい に じ ゅ う ご ぼ さ つ ら い ご う ず
18 阿弥陀如来二十五菩薩来迎図
(資料記号 024.301-24-12)
義賢筆 1 枚 紙本 版画 着色 縦 42.7㎝ 横 30㎝
江戸時代 17 〜 19 世紀 龍谷大学 学術情報センター蔵
この版画は極楽浄土へ往生することを願う念仏者に対し、臨終まぎ
わに阿弥陀如来が西方極楽浄土から雲に乗って観世音菩薩、勢至菩薩
をはじめ、二十五菩薩と共にこの念仏者の前に姿を現し、浄土へ引接
していく情景を表現した絵画である。積雪の富士山とその上方に太陽
と月が描かれ、画の下段には六字名号を中心に、左に善導大師・法然
上人を、右に往生人と僧侶を表し、画の周囲には法然上人の法語(一
紙小消息)を刻記する。周囲左方の小さな○印が 102 個あるが、これ
は念仏を一万遍称えては一個塗りつぶしていき、百万遍以上の称名念
仏の数を記録するために用いられたものと考えられる。
おうじょうようしゅう
19 往生要集(資料記号 021-150-6)
刊本 6 冊 縦 24㎝ 横 15㎝
鎌倉時代 建長 5 年(1253)
龍谷大学 学術情報センター蔵
本書は、数多くの経典の中から往生極楽に関する要文を選び集め、同心行者の指南として、源信僧都が 43 歳から 44 歳の時にかけて
撰述したもので、①厭離穢土②欣求浄土③極楽証拠④正修念仏⑤助念方法⑥別時念仏⑦念仏利益⑧念仏証拠⑨往生諸行⑩問答料簡の十
門から成る。龍谷大学所蔵のものは、3 巻 6 冊から成り、第 6 冊末には
「建長五年在歳癸丑四月肇彫九月畢切 願主道妙」
の記載がある。
『往
生要集』の版本は、鎌倉時代だけでも、承元版・建保版・建長版の存在が知られている。本書は寛和年間に日本に来朝した宋の周文徳
に贈られたところ、広く中国各地に流伝され、「日本の小釈迦源信如来」と崇められる程となったと伝えられている。
わ
じ
え いりおうじょうようしゅう
20 和字絵入 往 生 要集(資料記号 B 真聖 -64-3)
刊本 3 冊 縦 26㎝ 横 18.3㎝
江戸時代 寛永 2 年(1790)據元禄 2 年(1689)刊本再刻
龍谷大学 学術情報センター蔵
『往生要集』が後世に与えた影響は浄土信仰を基盤として
深甚なものがあるが、なかでも地獄・極楽のイメージは多く
の六道絵や浄土図のほか、江戸時代には絵入本によって普及
された。絵入本は、内容的には『往生要集』と題されるが、
全文はなく十門中、①厭離穢土と②欣求浄土の二門のみであ
り、上巻では「地獄物語」として八大地獄(等活地獄・黒縄
地獄・衆合地獄・叫喚地獄・大叫喚地獄・焦熱地獄・大焦熱
地獄・阿鼻地獄)の説相を、中巻では「六道物語」として地
獄を除いた餓鬼・畜生・修羅・人・天道を示して厭相を総結
させ、下巻では「極楽物語」として浄土十楽(聖衆来迎・蓮
華初開・身相神通・五妙境界・快楽無退・引接結縁・聖衆倶会・
見仏聞法・随心供仏・増進仏道)の説相を述べている。本書
は漢字平仮名文絵入となっている。それぞれに挿絵があり、
それは実に秀れたものであるが、さらに印象づけるため朱で
色づけがなされている。
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Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
え し ん そ う ず えことばでん
21 恵心僧都絵詞伝(資料記号日傳記 -1122-3)
法龍編 3 巻 江戸末明治初後印本 19 世紀
龍谷大学 学術情報センター蔵
慶應二年(1866)、台嶺前大僧正豪海が、源信僧都の八百五十年の遠忌に際して、追慕の心を込めて僧都の一代記を作り上げること
を発願し、これを受けた恵忍・堯道両師が、法龍に執筆を依頼し、成立したものである。臨終行儀について表された挿絵は、釈尊の入
滅と同じく頭北面西して遷化された僧都の姿が鮮明に描かれ、向かい合う仏像の左手より繋がれた五色の糸を手に取ることで、仏に迎
え取られ浄土へ導かれる様子を見ている、当時の人々における浄土への思いが写し出されている。
げんきょうばんくろだにしょうにんごとうろく
22 元亨版黒谷上人語燈録(資料記号 021-234-7)
7 巻 7 冊 元亨元年(1321)刊 了恵編
龍谷大学 学術情報センター蔵
浄土宗の開祖法然上人(1133 − 1212)の制誡や消息・法語・伝記などを書いたものである。
巻末に下記の奥書がある。
元亨元年辛酉のとしひとへに上人の恩徳を報じたてまつらんがため、又もろもろの衆生を往生の正路におもむかしめんがためにこの
和語の印板をひらく。一向専修沙門南無阿彌陀佛圓智 謹疏
沙門了恵感歎にたへず隨喜のあまり七十九歳の老眼をのこひて和語七巻の印本を書く。
元享元年辛酉七月八日 終謹疏 法槁 嚴巻頭
このことから、この版本は了恵自ら七十九歳の時に書いたものであることが知られる。了恵は法然の法語を法然上人の亡くなった凡
そ六十年後の文永十一年(1274)に漢文体の「漢語燈録」
、翌年和文体の「和語燈録」を編纂した。本書はわが国で最初に平仮名を使
用して刊行されたもので、貴重な資料である。
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しんらんしょうにんごしょうそくしゃほん
23 親鸞聖人御消息写本(資料記号 021-174-1)
親鸞聖人 88 歳(1260 年)
龍谷大学 学術情報センター蔵
親鸞聖人は、1259 年から 1260 年にかけてつづいた飢饉でなくなった人々
のことを深くあわれんだ。末燈鈔第 6 通は、親鸞聖人がその飢饉でなくなっ
た同朋の死を悲しむとともに、どのような死に方となっても、みな如来の慈
愛によって、極楽に往生することを明らかにしたものである。 (鍋島直樹)
しんらんしょうにんしんひつ こ う た い し しょうとくほうさんだんかん
24 親鸞聖人真筆皇太子聖徳奉讃断簡
一副 龍谷大学 学術情報センター蔵
親鸞聖人は、聖徳太子の事蹟を讃仰する和讃を二種類作っておら
れるが、そのうち「皇太子聖徳奉讃」と題された七十五首の和讃は、
奥書によって聖人八十三歳のときの作と考えている。
その聖人自筆本は、一頁に一首ずつ書いた袋綴の冊子だったと思
われるが、いつのころ誰がしたのか、その綴じがバラバラに解体され、
一頁ないし二頁ずつが熱心な門末の人々の間に分配されたらしい。
その多くは失われて、いまは僅かに十数頁分だけが各地に伝えられ
ている。龍谷大学が所蔵するのはその内の一頁で、右上隅に「十六」
と墨書があるのは、もとの冊子の第十六首にあたることを示し、左
端に三個の孔が見えるのは、もとの綴じ孔である。
筆跡は全く枯淡そのものながら、同時に強靱な筆力がうかがわれ、
聖人の御人柄がしのばれる。朱筆をもって、漢字に点や横棒が書き
けんはつ
加えられているのは、
「圏発」という一種の発音記号で、これもおそ
らく聖人の自筆と考えられる。
しんらんしょうにんあんじょう
みえい
25 親鸞聖人安城の御影
龍谷大学 学術情報センター 蔵
親鸞聖人 83 歳(1255 年)の肖像と伝えられる。三河国、安城
3年
ほうげんちょうえん
に伝来したのでこの名がある。法眼朝円筆。原本は西本願寺所蔵。
(精
密複製)
16
たんにしょうれんにょしょしゃほん
26 歎異抄蓮如書写本
龍谷大学 学術情報センター蔵
1280 年頃、親鸞聖人の門弟、唯円
の作とされる。親鸞聖人の言葉と唯
円の随想とが記されている。これは
室町期に、蓮如が書写したものであ
る。原本は西本願寺所蔵。
(精密複製)
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
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えしんにぞう
27 恵信尼像
絹本着色 一幅
龍谷大学 学術情報センター 蔵
親鸞聖人の内室、恵信尼の影像と称するものであ
る。恵信尼は寿永元年(1182)の生まれで、親鸞聖人
より九歳若い。専修念仏の停止によって越後の国府に
配流された親鸞聖人と結婚し、親鸞聖人の赦免に伴っ
て関東に赴き、六人の子女を儲けたといわれている。
その間二十年余り、帰洛する親鸞聖人とともに上京し、
七十歳頃再び越後に帰国している。文永五年(1268)
八十七歳頃の書状によれば、凡そ没年はそれに近い頃
であろうことが想定される。
影像は右向き、両手で念珠を持つ像容は、版画に彩
色を施したものである。容貌は、微笑みを浮かべ、柔
和感をもっている。向かって右端上部には「恵信禅尼」
の墨書がある。この像の制作年代については、室町時
代末期が通説となっているが、近年発見された水戸市
善重寺本によれば、近世江戸時代初期まで下がるもの
と考えられる。女性肖像画としては優品の一つである。
(精密複製)
え し ん に もんじょ
28 恵信尼文書
龍谷大学 学術情報センター蔵
これは、夫の親鸞聖人が往生したのを聞いて、娘の覚信尼にあてた恵信尼の書状である。妻の恵信尼は、夫の親鸞聖人(殿)が真実
の道を求めて生きたことをたたえ、「さればごりんずハいかにもわたらせたまへ。うたがひ思ひまゐらせぬ」
(だからご臨終はどのよう
であってもよいのです。極楽往生されたことにうたがいありません)と力強く訴えている。
(鍋島直樹)
原本は、西本願寺所蔵(精密複製)
17
ぼ
き
え
29 慕帰絵
龍谷大学 学術情報センター蔵
10 巻 本願寺覚如上人の行状絵巻。阿弥陀如来像のもとで、覚如上人が臨終を迎えた場面。原本は、西本願寺所蔵(精密複製)
く じ ょ う た け こ てんせき
30 九条武子典籍
龍谷大学 学術情報センター蔵
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● ● ● ●
研究論文
● ● ● ●
親鸞の往生思想
内 藤 知 康
1.往生思想の意義
仏教とは、ひとことでいえば転迷開悟の道である。インドで生まれた仏教は、その後東アジアを中
心に広まり、それぞれの地域の人々の民族性や文化に応じて多様に展開してきた。また、日本という
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一地域に限定しても、南都仏教・平安仏教・鎌倉新仏教と多様な展開を見せてきた。そのようなヴァ
ラエティに富んだ様相をみせる仏教ではあるが、共通点を見いだすとするならば、その一つに転迷開
悟の道ということを挙げることができよう。たとえば、浄土教系の教義構造と禅宗系の教義構造とで
は、一見百八十度相違しているかのごときところも少なくないが、現在の自己のありようが迷いとい
う状態であり、その自己の目指すべきありようが悟りという状態であるという点では一致している。
先に述べた多様性の大部分は、実は迷いから悟りへの道そのものが多様なものであることに起因し
ている。すなわち、迷いから悟りへの道という点では、全ての仏教は一致しているが、実は迷いから
悟りへの道はただ一本の道のみがあるのではなく、あるいは分岐し、あるいは合し、あるいは交差す
る様々な道があり、その様々な道の中からどのように自らの歩む道を選んでゆくのかということにお
いて、仏教は多様な展開を見せる。往生思想とは、そのような仏教の多様な展開の一つとして位置づ
けられる。
往生とは、簡単にいえばこの世の命を終えて他の世界に生まれることであるが、迷いから悟りへの
道という図式に即していうならば、往生とは、迷いの世界である娑婆(この世界)の命を終えて悟りの
世界である浄土に生まれることということができる。すなわち、多様に展開する悟りへの道は、この
世界において悟りを開くことを目指す道と、他の世界である浄土において悟りを開くことを目指す道
とに大別することができる。
仏教は釈尊にはじまる。釈尊はいまだ迷いの世界に沈み漂い続けている私たちに悟りへの道を教示
した。釈尊が他に対して悟りへの道を教示できるのは、釈尊自身が迷いから悟りへの道を歩み、つい
に究極の目標である悟りそのものに到達したからである。その意味で、私たちにとっての釈尊とは、
私たちを悟りへ向けて教導する存在、すなわち教主であると同時に、私たちに先立って悟りへの道を
歩んだ先達でもある。私たちは釈尊に教え導かれる存在であると同時に、釈尊の歩んだ跡を追随する
存在でもある。とすると、釈尊が悟りそのものに到達したのがこの世界においてである以上、釈尊の
歩んだ跡を追随するべき私たちが、この世において悟りを開くことを目指すのは理の当然であるとい
えよう。釈尊にはじまる仏教の歴史を通観したとき、この世において悟りを開くことを目指すのが仏
教の主流・本流であったということも、否めない事実である。しかしながら、一方に、他の世界で悟
りを開くことを目指すという往生思想が展開してくるのは、この世界において悟りを開くことの困難
性に起因すると考えられる。
この世界における開悟を困難にしている要因として、二つを挙げることができる。一つは外的な要
因であり、大きな要因の一つとして仏の不在がある。釈尊が悟りを開き、人々を教え導き、そしてこ
の世から去ってからすでに多くの時を経て、今や釈尊の存在は遠い過去の出来事となってしまった。
身近に釈尊という仏が存在し、適切な指導を受けることができた時代と比べて、悟りへの道を歩むこ
と自体が困難となった時代であるということができる。このような考え方は末法思想①として展開し
てくる。今一つは内的な要因、すなわち自分自身の中に悟りへの道を歩むべき能力が乏しいというこ
とである②。いくら眼前に悟りへの道が提示されても、その道を歩む能力を持たないものにとっては、
19
それは絵に描いた餅にすぎない。この外的要因と内的要因の二点によって、この世における開悟が困
難となっているのであり、その意味では、他の世界ー悟りの世界である浄土ーに生まれ、そこにおい
て悟りを開くことを目指す往生思想とは、悟りへの道を歩む能力に乏しく、なお仏不在の時代に生ま
れ合わせた存在のために提示された道ということができよう。
仏不在の時代という外的要因はさておき、悟りへの道を歩む能力の欠乏という内的要因について考
えるならば、浄土へ生まれてゆくという点に関しても、高度な能力が要求される道であってはならな
い。本来、迷いから悟りへ向かって歩む能力と、迷いの世界であるこの世から悟りの世界である浄土
に生まれてゆく能力とは同種の能力として位置づけられる。もちろん、悟りを完成することと浄土に
往生することとでは、前者は後者に比較してはるかに高度の能力が要求されるが、両者に別種の能力
が要求されるのではない。とすると、迷いから悟りへ向かって歩む能力が乏しいものは、迷いの世界
であるこの世から悟りの世界である浄土に生まれてゆく能力も乏しいはずである。これでは、往生浄
土の道が悟りへの道を歩む能力の乏しい存在のために開かれた道であるということの意味が失われて
しまう。そこに導入されてきたのが他力という概念である。
往生浄土の思想は、迷いから悟りへと歩む能力の乏しい(それは浄土に生まれてゆく能力が乏しい
ということでもある)存在のために提示された道であり、それゆえ浄土に生まれるためには、他より
来たる力が必要であり、その浄土が阿弥陀仏の浄土であるならば、阿弥陀仏の力としての他力に依る
のであり、その他力とは迷いの世界で苦しむ生きとし生けるもの全てを救おうとする阿弥陀仏の根本
的な願い(本願=いわゆる魏訳『大経』③の第 18 願)に基づく力であるから、本願力とよばれる。この
第 18 願は浄土教の歴史の中で、往生の因が示されているものとして注目されてきたのであるが、そ
の意義が、阿弥陀仏の名号(=南無阿弥陀仏)を称えるものを浄土に生まれさせると理解され④、ここ
に称名念仏による往生という流れが成立してくるのであり、日本においては、法然
(1132 〜 1212)
によっ
て念仏往生の教えとして確立したのであった。
往生浄土の思想の特質の一つとして、情的側面の重視ということが指摘できる。本来、大乗仏教の
基本理念は、固定的実体的存在への執着を離れるというところにある。その意味で、他方世界として
の浄土への往生を願うことは自他の区別という執着を助長するものではないだろうかとか、悟りの世
界を浄土というかたちで把捉することは本来実体的概念化を拒否する悟りそのものの実体的概念化に
つながるものであり、悟りへ向かって歩むこととは逆方向への歩みをうながすことにならないかと
いった疑問が提示されてきた。すなわち、往生浄土の思想とは大乗仏教の基本理念に反する思想では
ないかという疑問が提示され、また批判が加えられてきた。往生浄土の思想は、そのような疑問に解
答し、また批判に反論することによって、その成立根拠を確立してきたということができる。
往生浄土の思想の成立根拠の一つは、先に縷々述べてきたように、この世における悟りの完成の不
可能性である。これは現実的な根拠であるといえよう。そしてまた、他方世界としての浄土への往生
を願う往生浄土思想が大乗仏教として成立するか否かという問題提起に対する解答は、その成立根拠
を明らかにするものであり、これは理論的根拠を与えるものであるといえよう。
大乗仏教において、迷いと悟りは不二にして二とされる。すなわち、迷いと悟りとは本来的に同質
であり、また異なったものでもある。不二の側面は煩悩即菩提や生死即涅槃という言葉で表現され、
二であるという側面は断惑証理(煩悩を断ち切ることによって悟りそのものを証する)というかたちで
あらわされる。迷いはそのまま悟りであるとされ、また一方では迷いの消滅こそが悟りの成立である
とされる。このような迷いと悟りの関係は、氷と水にたとえられる⑤。迷いは氷にたとえられ、悟り
は水にたとえられる。氷と水とは、まさに同質でありながら相異するものということができる。氷と
水とはともに H2O であるという意味では同質であり、前者は個体、後者は液体という意味では相異
している。そして、氷と水の関係が、氷と水とは同質であるから氷が溶けると水になり、氷と水とは
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相異しているから氷は溶けないと水にならないということになる。迷いと悟りの関係も同様に考える
ことができる。すなわち、迷いと悟りとは同質であるから迷いの私が悟りの仏に成ることができ、迷
いと悟りとは相異しているから迷いというありようを悟りというありように変えてゆかないと私が仏
に成ることはできないということである。
このように迷いと悟りとの関係を不二にして二とするのが大乗仏教の基本的立場であるということ
ができるが、両者をふまえつつもどちらに重心を置くかによって教えのスタイルは相異してくるとい
うことができよう。不二の面に重心を置けば、自らの心中に仏を求め、この世界をそのまま浄土と観
てゆくということになる。逆に、二であるという面に重心を置けば、自らとは別なる存在として仏を
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
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位置づけ、またこの世界と別なる浄土へ生まれることを求めるということになる。往生浄土の思想と
は、まさしく後者のスタイルを中心とした思想である。
往生浄土の思想が、迷いと悟りとを相異するもの、単に相異するのみならず対立するものとしてと
らえるのは、全てのものを対立的にしかとらえることができない存在を対象とした思想であるゆえで
ある。理念としての迷いと悟りとの不二性は、理論としては理解可能である。しかし、あくまでも単
なる理論としての知的理解にとどまり、情的な把握や行動規範としての受容はあり得ない。にもかか
わらず不二の立場に固執するのは、逆に観念論に陥ることでしかない。このような私たちの現実をふ
まえたのが迷いと悟りとを対立的に位置づける往生浄土思想である。迷いと悟りとを対立的に位置づ
けるということは、浄土を彼方の世界として憧憬し、仏を慈愛に満ちた救済者とする情的な把握につ
ながるということである⑥。まさにこれこそが往生浄土の思想の中心を形成する宗教的心情である。
シュライエルマッヘルが宗教の核心として意義づけたいわゆる絶対依憑感情は、このような迷いと悟
りとを対立的に位置づけるところから生ずるものであるということができよう。
また、浄土は有相の世界として説示される。中国の曇鸞は、真実智慧無為法身と表現される無智・
無相が、有相荘厳と展開する構造を明かしている。このような構造は後に金獅子の譬喩を用いて説明
される。すなわち、根本無分別智・寂滅法性は金獅子の材質である金と喩えられ、分別智・有相荘厳
は金獅子の形相である獅子と喩えられる。金獅子の譬喩の意味するところは、獅子の像を溶かしては
じめて金になるのではないという点にある。獅子の形相をとっているままが金なのである。そのよう
に、仏・菩薩・宮殿・楼閣という差別相をとる有相荘厳のまま、寂滅平等の法性を本質としていると
いうことになるのである。それゆえ、仏・菩薩・宮殿・楼閣という差別相をとる有相荘厳の浄土を願
生することが、そのまま寂滅平等の法性を願求することになるのであり、有相の浄土への願生は、大
乗仏教の根本理念である空無我に背反するとの批判は、退けられなくてはならない。このような有相
荘厳の浄土こそが情的な把握を惹起するという点は、見逃されてはならない。
法然によって確立された念仏往生の教えは、専門的な修行はできず、かといって仏教で善根とされ
る堂塔伽藍の建築等に費やす財力も持たない一般庶民に熱狂的に受容され、その後の仏教界に様々な
影響を与える一大潮流としての位置を占めてくるのである。一般庶民にとっては、高邁な理念は何の
助けにもならず、また強固な意志を必要とする困難な修行も一般庶民には無縁のものであった。称名
念仏一つによって、慈愛に満ち溢れた仏に導かれ、輝くばかりの仏の世界に生まれてゆくことができ
るという往生浄土の思想によって、現在にも将来にも何の希望も持てなかった当時の貧しい民衆は、
大きな希望の灯火を持つことができたのであった。
2.親鸞の往生思想
親鸞
(1173 〜 1262)の往生思想は、師法然の念仏往生思想を承け、その極致に達したものと位置づ
けることができる。すなわち、往生浄土の道が悟りへの道を歩む能力の乏しい存在のために開かれた
道であるということを承けつつ、単に能力が乏しいにとどまらず全く能力を持たない存在のためであ
21
るとまで徹底される⑦。それゆえ往生という事態は、救うものと救われるものとの協力関係、換言す
れば救われる側の力が幾分か役にたつことによって成立するのではなく、百パーセント救う側の阿弥
陀仏の力のみによって成立するという、いわゆる全分他力の思想が打ち出されてくるのである。救わ
れる側の力がゼロとされるということは、救う側の力の完全性が要求されるということである。そし
て、救う側の力が完全であるということは、救済という事態そのものも完全であるということを意味
する。救済という事態そのものが完全であるということは、往生という事態が単に悟りへの道を歩む
場の転換ということを意味するのではなく、まさに悟りそのものの完成を意味するということである。
親鸞においては、往生とはそのまま悟りそのものの完成であり、それはまた救われる側であった私た
ちがそのまま救う側として活動する力を身につけるということでもあった⑧。
親鸞以前の淨土教においては、往生とは悟りへの道を歩む場の転換であり、たとえば仏が不在であ
るこの世界を捨て、仏が現在する淨土へ往生し、仏の指導を受けつつ悟りへの道を歩むということを
意味するものであった⑨。そしてまた、修行の場の転換は、いくら努力しても悟りへの曙光も見えな
かった存在が悟りの完成を約束された存在、悟りを開くことが決定した存在と位置づけられることで
もあった。すなわち、浄土に往生したものは、悟りを開くことが決定した存在であるところの正定聚
として位置づけられることになる。ところで、親鸞は正定聚という位置づけを、今この世において語る。
往生は、その性格上、この世の命の終末において語られる事態である。その意味で、往生思想は未
来主義になりやすい思想であるということができよう。しかしながら、親鸞の往生思想においては、
往生という事態と悟りの完成とが等値概念となっている関係上、正定聚という位置づけは今この世に
おいて語られる。すなわち、救済という事態が必ずしも未来優位で語られるということにはならない
ということである。否むしろ親鸞においては、今現在における救済の成立こそが中心であり、極言す
れば未来の命終時における往生を今現在における救済の成立に伴う副次的なものと位置づけることす
らできる。仏教の基本線が転迷開悟であるかぎりは、未来浄土において悟りが完成することこそが往
生思想の中心課題であるといわざるをえないが、親鸞における最優先課題は、今ここにおける救いの
成立であり、未来浄土における悟りの完成は今ここにおける救いの完成の必然的な結果として位置づ
けられる⑩。そして、未来の往生の可否は、私たちが、自らに課せられた課題とし思いわずらうべき
問題ではなく、一切の生きとし生けるものを救う仏のはたらきそのものの問題であるということがで
きる。
『歎異抄』において紹介される「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また
地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。」との親鸞の言葉は、このよ
うな事情をあらわしているといえよう。
親鸞における今ここでの救いの成立とは、真実と出遇い、真実によって支えられ、真実によって包
み込まれているということを意味する。迷妄そのものでしかない存在が、彼方より来たった真実と出
遇い、その真実に支えられ包み込まれたという事態こそが、親鸞における救済の成立であった。親鸞
において、その真実との出遇いとは本願を説示する真実の教えとの出遇いであり、それは本願そのも
のとの出遇いである。また、真実に支えられ包み込まれているということは、仏の光に摂め取られ、
照らされ護られていると感受された事態であるということができる。そしてそれは今現在の事態で
あって、
決して未来におこってくる事態とされるのではなく、その意味で、親鸞における往生思想とは、
未来主義的なものではなく、今現在ということを中心に置いた思想であるということができよう⑪。
親鸞の往生思想が、現在に中心を置いた思想であるからといって、単に現在のみに関心を向け、未
来を無視するといったものであるはずがないのは、またいうまでもない。往生思想そのものが、今こ
の世における悟りへの道の完成に対する絶望を大きな要因として成立してきたということはすでに述
べた。往生思想がそのようなものである限りは、親鸞の往生思想のみがひとり例外であるはずはない。
というよりも、往生思想が今ここにおける悟りの完成の不可能性に立脚している以上、命終後という
22
未来に目を向けるのは、往生思想の基本的枠組みそのものであるということができる。言い換えるな
らば悟りの完成そのものや往生という事態を今ここにおいて語るのは往生思想の基本的枠組みの破壊
であり、往生思想そのものを無意味なものとならしめるものとなってしまう。
親鸞も往生を基本的には命終において語る。今ここにおける救いの成立を強調する親鸞においても、
今ここにおける救いの成立の必然的帰結である往生という事態、それがそのまま悟りの完成であると
いう事態、またそれが自在の救済能力の完成であるという事態は、まさに命終によって生じる事態で
あると位置づけられている。親鸞において、命終によって往生してゆくべき浄土は、
「無量光明土」
(『浄
土真宗聖典・原典版』125 ページ)と表現されている。命終わってゆくべき世界は、決して闇に閉ざ
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された世界ではなく、逆に光に満ち溢れた世界であるとして説示される。また、浄土に往生すること
に関し、救われる側の私たちの力が関与するのではなく、全面的に救う側の仏の力のみによるという
ことは、救われるものは、みな同一の要因によって往生してゆくということを意味している。親鸞に
おいては、往生という事態に救われる側の力が関与するならば、救われるものの能力が千差万別であ
るゆえ、また千差万別の世界に往生してゆくと示される⑫。すなわち同一の要因によって往生してゆ
くならば、みな同一の浄土に往生してゆくことができるということになる。親鸞が、その書簡におい
て、自らの高齢を理由として先立って浄土に往生してゆくであろうと述べた後、「浄土にてかならず
かならずまちまゐらせ候ふべし」と記し、また他の書簡において、「かならずかならず一つところへ
まゐりあふべく候ふ。」と記すのは、このような事情を意味している。
このような親鸞の言明について、仏教に対する高度の理解を有する人々を対象としていると思われ
る『教行信証』のような書物におけるものではなく、素朴な念仏者を対象とした書簡におけるもので
あることから、親鸞の本意ではなく、初学者に対する方便的な表現と位置づける主張も存在する。し
かし、親鸞は『正像末和讃』の末尾で、
よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを
善悪の字しりがほは おほそらごとのかたちなり
とうたって、文字も知らぬ人々にこそ真実が存在し、文字を充分に使いこなす知的エリートは却って
虚妄でしかないと示している。また、親鸞においては真実と方便の峻別は明確であり、自身を真実に
導き入れた仏の方便に対しては、深く感謝するべきものとして位置づけられるのは当然であるが、凡
夫の自覚を痛切に述べる親鸞自身が他者に対して方便を用いるということはありえず、関東の素朴な
念仏者に対して、表現をかみ砕くことはありえても、教えそのものの程度をおとすということは考え
られないということを付け加えておきたい。
往生浄土という事態は、悟りの完成であり、同時に救われる側であった私たちがそのまま救う側と
して活動する力を身につけるということ、すなわち自在の救済能力の完成でもあるということについ
ては、すでに述べたところである。迷いの世界に生きる私たちは、自らの虚妄性によって自らを束縛
してゆく、
それは蚕が自ら紡いだ糸によって自縄自縛することにたとえられる。蚕ならば、自ら羽化し、
自らを閉じこめた繭を自ら引き裂き、飛翔することも可能であろうが、そのような力を持たない私た
ちにおいては、全て仏の力によらざるをえない。仏の力によって成立する往生浄土という事態は、あ
らゆる束縛から解放されるということであり、そこにおいて自在の救済能力も完成されるのである。
まとめていうならば、親鸞において往生という事態は、光に満ち溢れた世界に生を受けるというこ
とであり、その世界においてはあらゆる束縛から解放され、また先だっていった人々、いったんは死
別した有縁の人々と再び出会うことができるという事態を意味している⑬。そして、往生という事態
は、今現在において救いが成立していることの必然的な帰結であり、今現在における救いの成立とは、
23
本願と出遇い、仏の光に摂め取られ、照らされ護られているということを意味しているのである。親
鸞の往生思想においては、今現在の生がすでに仏の光の中に生きているという生であり⑭、また同時
にこの世の生を終えた後には、光に満ち溢れた世界に生まれ、迷いの束縛から解放され、かつ懐かし
い人々との再会を期することができるというものであったということができる。
親鸞の往生思想は、一切の生きとし生けるもの全ての開悟という大乗仏教の極致であり、高邁な理
念をもてあそぶ観念の遊戯に堕することなく、日常生活において、泣き、笑い、怒る、普通の人々の
素朴な感情に対応し、受容し、包みこむ思想であると結論づけられるであろう。
注
① 『大集経』「月蔵分」(『大正新脩大蔵経』13 巻 376 ページ中〜)等に基づき、仏の滅後漸次に仏法が衰滅してゆくとする思想。
中国における末法思想の鼓吹は南岳慧思(515 〜 577)を嚆矢とすると考えられ、その『立誓願文』には、
正法従甲戌年至癸巳年足満五百歳止住。像法従甲午年至癸酉年足満一千歳止住。末法従甲戌年至癸丑年足満一万歳止住。
(『大正新脩大蔵経』46 巻 786 ページ下)
と、正法五百年・像法一千年・末法一万年が述べられている。その他に正法五百年・像法五百年説、正法一千年・像法五百年説、
正法一千年・像法一千年説等があり、仏滅後末法に入るまでの年数は一準ではない。また、仏滅年代についても異説があり、
両者を組み合わせると、末法初年を何年とするかについては、諸説の間に千年以上の開きが存在しうる。
なお、正法時・像法時・末法時それぞれの様態については種々に説かれるが、正法時には教・行・証の三法がそろうが、像
法時には教・行はあるが証を欠き、末法時には教のみ存在し、もはや行・証は滅すると整理することができる。親鸞は、『正
像末和讃』において、
末法五濁の有情の 行・証かなはぬときなれば
釈迦の遺法ことごとく 龍宮にいりたまひにき(『浄土真宗聖典・原典版』722 ページ)
とし、また、『教行信証』「化身土文類」では、
聖道諸教為在世正法而、全非像末法滅之時機。已失時乖機也。浄土真宗者在世正法像末法滅濁悪群萌斉悲引也。(『浄土
真宗聖典・原典版』522 ページ)
聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土
真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。
聖道諸教行証久廃、浄土真宗証道今盛。(『浄土真宗聖典・原典版』598 ページ)
聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。
と、自力聖道の法門は釈尊滅後、時を経るに従って衰滅するが、他力浄土の法門はいくら時を経ても衰滅することはないと
述べる。
② 浄土教の流れにおいては、中国から日本にかけて、人間存在の罪悪性、就中自己の罪悪性が強調される傾向が強い。以下、
例示する。
曇鸞『往生論註』
有二種功徳。一者従有漏心生不順法性。所謂凡夫人天諸善、人天果報、若因若果、皆是顛倒、皆是虚偽。是故名不実功徳。
二種の功徳有り。一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。所謂凡夫人天の諸善、人天の果報、若しは因若しは果、
皆是顛倒、皆是虚偽なり。是の故に不実の功徳と名づく。(『浄土真宗聖典・原典版・七祖篇』63 ページ)
仏本所以起此荘厳清浄功徳者、見三界是虚偽相是輪転相是無窮相、如 蠖循環、如蚕繭自縛。哀哉衆生、締此三界、顛
倒不浄。
仏本此の荘厳清浄功徳を起したまへる所以は、三界を見そなはすに是虚偽の相、是輪転の相、是無窮の相にして、
蠖の循環するがごとく、蚕繭の自縛するがごとし。哀れなるかな衆生、此の三界に締られて、顛倒・不浄なり。(『浄
土真宗聖典・原典版・七祖篇』65 ページ)
曇鸞『讃阿弥陀仏偈』
我従無始循三界 為虚妄輪所廻転
一念一時所造業 足繋六道滞三塗
我無始より三界に循りて、虚妄輪の為に廻転せらる。
一念一時に造る所の業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。(『浄土真宗聖典・原典版・七祖篇』200 ページ)
道綽『安楽集』
又復一切衆生都不自量。若拠大乗、真如実相第一義空曾未措心。若論小乗、修入見諦修道、乃至那含羅漢、断五下除五上、
無問道俗、未有其分。縦有人天果報、皆為五戒十善能招此報。然持得者甚希。若論起悪造罪、何異暴風駛雨。
又復一切衆生都て自ら量らず。若し大乗に拠らば、真如実相第一義空曾て未だ心を措かず。若し小乗を論ぜば、見諦
修道に修入し、乃ち那含・厭漢に至るまで、五下を断じ五上を除くこと、道俗を問ふこと無く、未だ其の分に有らず。
縦ひ人天の果報有れども、皆五戒・十善の為に能く此の報を招く。然るに持ち得る者は甚だ希なり。若し起悪造罪を
論ぜば、何ぞ暴風駛雨に異ならむや。(『浄土真宗聖典・原典版・七祖篇』274 ページ)
善導『観経疏』「散善義」
言深心者即是深信之心也。亦有二種。一者決定深、信自身現是罪悪生死凡夫、曠劫已来常没常流転。無有出離之縁。
深心と言ふは即ち是深く信ずる心なり。亦二種有り。一には決定して深く、自身は現に是罪悪生死の凡夫、曠劫より
已来常に没し常に流転して、出離の縁有ること無しと信ず。(『浄土真宗聖典・原典版・七祖篇』518 ページ)
源信『往生要集』
但顕蜜教法、其文非一。事理業因、其行是多。利智精進之人、未為難。如予頑魯之者、豈敢矣。
24
但し顕密の教法、其の文一に非ず。事理の業因、其の行是多し。利智精進の人は、未だ難しと為ず。予がごとき頑魯
の者、豈敢へむや。(『浄土真宗聖典・原典版・七祖篇』891 ページ)
源空『和語灯録』巻 5、24「諸人伝説の詞」
十悪の法然房が念仏して往生せんといひてゐたる也。又愚癡の法然房が念仏して往生せんといふ也。
(『真宗聖教全書』4 ー
677 ページ)
かなしきかな、かなしきかな、いかがせん、いかがせん。ここにわがごときは、すでに戒・定・慧の三学のうつは物に
あらず。(『真宗聖教全書』4 ー 680 ページ)
③ 漢訳〈無量寿経〉のなかで、
『大阿弥陀経』
・
『平等覚経』
・
『無量寿経』の 3 本については、訳出の時代や訳者には疑問があり、
『無
量寿経』も曹魏という訳出の時代、康僧鎧という訳者については誤伝であると見なされているが、かといって訳出の時代や
訳者に定説が確立しているわけでもないので、一応魏訳『大経』と表記しておく。
④ 第 18 願文を素直に読めば、
「欲生我国」と「若不生者」に挟まれる「乃至十念」こそが往生の因であると見なしうる。その「乃
至十念」の意味するところについては、十念を聖者にのみ可能な慈等の十念とするなど諸説があるが、善導は十念を十声の
称名念仏と解釈し、十に「乃至」が冠せられてあるので十という数に限定されず多くは一生涯の念仏相続から少なくは一声
の称名念仏までも包含すると理解し、法然も善導の理解を継承している。
⑤ 親鸞も『高僧和讃』に、
無碍光の利益より 威徳広大の信をえて
かならず煩悩のこほりとけ すなはち菩提のみづとなる(『浄土真宗聖典・原典版』711 ページ)
罪障功徳の体となる こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし さはりおほきに徳おほし(『浄土真宗聖典・原典版』712 ページ)
と、氷と水の譬喩を用いている。
⑥ 道綽の『安楽集』には、
唯有浄土一門、可以情稀趣入。
唯浄土の一門のみ有りて、情を以て稀ひて趣入すべし。(『浄土真宗聖典・原典版・七祖篇』209 ページ)
⑦ たとえば、善導の『観経疏』の
不得外現賢善精進之相、内懐虚仮。貪瞋邪偽奸詐百端、悪性難侵事同蛇蝎、雖起三業名為雑毒之善、亦名虚仮之行。不名
真実業也。若作如此安心起行者、縦使苦励身心、日夜十二時急走急作、如炙頭燃者、衆名雑毒之善。欲回此雑毒之行、求
生彼仏浄土者、此必不可也。(『浄土真宗聖典・原典版・七祖篇』516 ページ)
は、通常
外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、
三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。真実の業と名づけず。もしかくのごとき安心・
起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて
雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。(『浄
土真宗聖典・原典版・七祖篇』の訓読、209 ページ)
と、内懐虚仮のまま如何に努力するとも、所詮雑毒の善、虚仮の行にすぎず、その雑毒の善、虚仮の行によって往生を求め
ても不可であると、内懐虚仮を強く戒めるものとして訓むべき文を、
外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。
三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。もしかくのごとき
安心起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を灸ふがごとくするものは、すべて雑毒
の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり。(『教行信証』
「信文類」
の訓点に基づく訓読、『浄土真宗聖典・原典版』271 ページ)
と訓むべき訓点を付し、衆生の本来のありようとしては内懐虚仮であるゆえに自力往生の不可なることを示し、外現賢善精
進之相を強く戒めるものとして意義づけている点や、その意を承けて、『教行信証』「信文類」には、
一切凡小、一切時中、貪愛之心常能汚善心、瞋憎之心常能焼法財。急作急修如炙頭燃、衆名雑毒雑修之善。亦名虚仮諂偽
之行。不名真実業也。以此虚仮雑毒之善欲生無量光明土、此必不可也。(『浄土真宗聖典・原典版』293 ページ)
一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸
ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚
仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
と、自力往生の不可能性を示すものなどから看取することができる。
⑧ 『教行信証』「証文類」には、「必至滅度之願 難思議往生」と標挙し、その内容として、
謹顕真実証者、則是利他円満之妙位、無上涅槃之極果也。
つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。
二言還相回向者、則是利他教化地益也。
二つに還相の回向といふは、すなはちこれ利他教化地の益なり。
と、無上の悟りと、それに付随する自在の救済能力の完成とが示される。
⑨ 一例を挙げれば、道綽の『安楽集』には、兜率往生と西方往生とを比較して、
又来雖生兜率、位是退処。是故経云、三界無安、猶如火宅。二往生兜率正得寿命四千歳。命終之後不免退落。三兜率天上
雖有水鳥樹林和鳴哀雅、但与諸天生楽為縁。順於五欲不資聖道。若向弥陀浄国、一得生者悉是阿毘跋致。更無退人与其雑居。
又復位是無漏出過三界不復輪廻。論其寿命即与仏斉。非算数能知。其有水鳥樹林皆能説法、令人悟解証会無生。
又来兜率に生ずと雖も、位是退処なり。是の故に経に云はく、三界は安きこと無し、猶火宅のごとしと。二には兜率に
往生して正に寿命を得ること四千歳なり。命終の後退落を免れず。三には兜率天上には水・鳥・樹林和鳴哀雅なること
有りと雖も、但諸天の生楽の与に縁たり。五欲に順ひて聖道を資けず。若し弥陀浄国に向かはば、一たび生ずることを
得る者は悉く是阿毘跋致なり。更に退人の其と雑居するもの無し。又復位は是無漏にして三界に出過して復輪廻せず。
其の寿命を論ずれば即ち仏と斉し。算数の能く知るところに非ず。其水・鳥・樹林有りて皆能く法を説き、人をして悟
解して無生を証会せしむ。(『浄土真宗聖典・原典版・七祖篇』244 ページ)
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25
と述べ、往生して阿毘跋致という菩薩の位に至ることや、浄土においては水・鳥・樹林が法を説き進道を資けることが示さ
れている。また、善導の『観経疏』「玄義分」において、往生別時意が会通された後、
然正報難期。一行雖精未剋。依報易求所以一願之心未入。雖然、譬如辺方投化即易、為主即難。今時願往生者、並是一切
投化衆生豈非易也。
然るに正報は期し難し。一行精なりと雖も未だ剋せず。依報は求め易けれども、一願の心を以ては未だ入らざる所なり。
然りと雖も、譬へば辺方化に投ずるは即ち易く、主と為ることは即ち難きがごとし。今時の往生を願ずる者は、並びに
是一切化に投ずる衆生なり。(『浄土真宗聖典・原典版・七祖篇』367 ページ)
と、念仏一行による成仏を否定し、往生して浄土の聖衆となるのであって、決して成仏するのではないことが示される。
⑩ たとえば、『浄土文類聚鈔』には、
信知、無上妙果不難成、真実浄信実難得。(『浄土真宗聖典・原典版』609 ページ)
まことに知んぬ、無上妙果の成じがたきにはあらず、真実の浄信まことに得ること難し。
と、未来の往生即成仏という事態に比して、今現在における往生の因の成立(真実信心の獲得)こそが焦眉の急であるとの意
が示されている。
⑪ 親鸞は諸処に自らのよろこびを述べているが、それは、『教行信証』「総序」の
噫、弘誓強縁、多生 値、真実浄信、億劫 獲。遇獲行信、遠慶宿縁。ー中略ー爰愚禿釈親鸞、慶哉、西蕃月支聖典、東
夏日域師釈、難遇今得遇、難聞已得聞。(『浄土真宗聖典・原典版』164 ページ)
ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。ー中略ー
ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、
聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。
の文や「行文類」の
爾者獲真実行信者、心多歓喜故、是名歓喜地。是喩初果者、初果聖者、尚睡眠懶堕不至二十九有。何況十方群生海、帰命
斯行信者摂取不捨。故名阿弥陀仏。是曰他力。(『浄土真宗聖典・原典版』233 ページ)
しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。これを初果に喩ふることは、初果の聖者、
なほ睡眠し懶堕なれども二十九有に至らず。いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。
ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。
の文、また「化身土文類」の
爰久入願海、深知仏恩。為報謝至徳、 真宗簡要、恒常称念不可思議徳海。弥喜愛斯、特頂戴斯也。(『浄土真宗聖典・原典版』
522 ページ)
ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を うて、恒常に不可思議の徳
海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。
の文等に明らかなように、基本的には遇法の喜びである。
⑫ 『教行信証』「真仏土文類」には
良仮仏土業因千差、土復応千差。(『浄土真宗聖典・原典版』471 ページ)
まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。
と示される。
⑬ 妙好人浅原才市が、
わしのちちおや 八十四歳
往生しました お浄土さまに
わしのははおや 八十三で
往生しました お浄土さまに
わしもいきます やがてのほどに
親子三人 もろともに
衆生さいどの 身とはなる
ごおんうれしや なむあみだぶつ
と歌うのは、まさに往生がこのような事態として受容されていることを示している。
⑭ 妙好人浅原才市は、自らを
わたしゃあさまし
泥の暗闇 とりえなし
天地のやみで ぶらぶらと
おちることを知らずにくらす
ぶらぶらと世をすごす このあさましが
と歌ったり、
じゃけんなり あさましなり 鬼なり
これがさいちがひひろなり
あさまし あさまし あさましや
と慚愧し、同時に
あさましや さいちこころの火の中に
大悲のおやは 寝ずのばん
もえる機を ひきとりなさる
おやの慈悲で
と、そのような自己が仏と不離であるとの感慨を歌いあげている。
26
仏教からみた死と慈愛
—源信・法然・親鸞における死の超克—
鍋 島 直 樹
はじめに
人は、愛するものとの別れや死の予感を通して、いのちのかけがえなさに気づく。死の前における
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患者の苦しみと願い、その家族の悲しみを、人はどのように受けとめたらよいのであろうか。欧米に
おいて、
「メメント・モリ」と表現してきたように、禅仏教においても「大死一番」といい、浄土教
においても「後生の一大事」といって、仏教では、死を見据えながら人生を生きよと教えてきた。な
ぜなら、人は、自己や愛するものの人生の終末について思いめぐらせるとき、ひるがえっておのずと、
生きることの意味、精神性を求めるからである。
死をみつめる意味について、 日本精神史の研究者、 亀井勝一郎(1907-1966)は、次のように記して
1
いる。
「われわれは平生、友だちの間でも夫婦の間でも、しばしば憎しみあったり争ったりして、
必ずしも円満な生活を送ってはいない。愛はつねに嫉妬や憎しみを伴う。ところが、もし愛
するものや友だちが死んだとしたならば、われわれはどういう感慨を抱くか。平生の憎しみ
や欠点などを忘れて、その面影の一つ一つが懐かしい思い出になる。争ったことさえ今は切
実に回想されるであろう。つまり死に直面して、はじめてわれわれはその人のさまざまの願
いや行いや仕事の意味をはっきり知る。死は人間の生命を完璧に語る。死んでみてはじめて、
なるほどああいう人間だったのかということがいよいよはっきりして、愛情の涙を流す。と
ころでもしこの世で一番深い愛があるとすれば、死してはじめて語りうる態の願いを、生き
ている生身のまま感じる−それが一番深い愛というものではなかろうか。」
このように、死と死にゆくことは、自己の人生の意味を知り、真の優しさと慈愛にめざめる時にな
るだろう。仏教の見方を通じて死と死にゆくことを臨床的に研究することは、仏教と心の開発との関
係を明らかにすることができるだろう。
この論考では、第一に、日本におけるホスピス緩和ケアと仏教者によるビハーラ・ケアの理念と活
動について紹介したい。
第二には、仏教における死の看取りと死の受けとめ方に焦点を絞って考察したい。具体的には、釈
尊、源信、法然、親鸞が、いかに死を見つめ、どのようにして死の苦しみを超えていったかを、歴史
的な流れに沿って考察する。
第三には、その仏教の伝統と精神性にもとづきながら、死を前にした人間の願いと死の看取る姿勢
を明らかにしたい。
1.日本における死をめぐる現実
1970 年代より日本社会において、人々は脚色された死の映像は知りつつも、自己や愛する人々の
死について考えることを延期し、死を忘れて生活するようになった。日本人の死に対する意識が変わっ
てきた背景とその現実には、およそ四点があげられる。
27
(1)長寿化社会
第一には、日本人の平均寿命が伸びたことにより、死が自分自身の身近なものではなくなった。
2002 年には、男性 78.32 歳、女性 85.28 歳となって世界最高水準の長寿国となり、医学の進歩により、
2
新生児の死亡率や急性疾患による死亡率が低くなっている。
(2)核家族化の定着
第二には、核家族化が定着したことにより、家族の老いや死を日常生活において看取ることが少な
くなった。2003 年には、単独世帯と核家族世帯が日本全体の 84%を占めており、両親や祖父母と離
3
れて暮らすようになっている。
(3)病院・施設で死を迎える時代
第三には、医療施設で死を迎える人が 80%を占めるようになったことである。4 すなわち、死を迎
える場所が、自宅から病院や高齢者ケア施設に移り、人々が人の臨終にいたる過程に日常触れること
が少なくなっている。特に、1950 年頃、日本人の 90%が自宅で死を迎えていたのに比べると、21 世
紀の日本では、核家族化が定着し、夫婦が共に仕事をするようになった。そのため、若い世代が忙し
く、次第に育児や病気の家族を看取るゆとりを失っているといえるだろう。人が年々歳々老いていく
姿、病気に苦しんで呻く姿、臨終に息を引き取る死の姿に向き合うことなく生きているのが、欧米化
された日本の文化である。
(4)自殺者の増加
しかしながら、その一方、日本では自殺者の数が毎年増加している。総務省統計局の国勢調査報
告によれば 5、2003 年中における自殺者の総数は 34,427 人で、前年に比べ 2,284 人(7.1%)増加した。
性別では男性が 24,963 人で全体の 72.5%を占めている。また、年齢別状況をみると、60 歳以上が
11,529 人で全体の 33.5%を占め、次いで 50 歳代、40 歳代の順となっている。この自殺者数は、1978
年の自殺者数 20,788 人に比べると、最近の 25 年間で 1 万 2 千人近く増え、特に男性だけで一万人以
上も増えているのがわかる。自殺の動機としては、家庭問題、健康問題、勤務問題、経済問題、男女
問題、学校問題などが報告されている。すなわち、経済の高度成長に伴い、生活が豊かになってきて
いるにもかかわらず、それと反比例するかのように、自殺者の数が増えてきているのである。もちろ
ん自殺の原因は、上記のように、さまざまなことが錯綜し、何かに特定されるわけではない。ただい
えることは、高度化された生活環境のなかで、ひとりの人間が誰からも必要とされていないと感じて
いることが根底にある。抱えきれない問題を個人的に解決しようとする一つの方法として、自殺を選
択しているという現実がある。自殺者の増加は、人々が現実の生活のなかで確かなよりどころを失い、
人間と人間との心の本当の結びつきが希薄になってきている一つの兆候であるかもしれない。虚構の
社会の中で、死だけが現実味を持って、自己の存在を確かめられるのかもしれない。
このように、先進国と呼ばれる日本社会は、死を忘れて日々の生活に懸命になっている姿勢と、何
かに追いつめられ死だけが安らぎのように感じている姿勢との両面を、同時に有しているといえるだ
ろう。
2.日本におけるホスピス・緩和ケア
日本では、高齢化社会をむかえ、ホスピスに対する関心や必要性が年々高まっている。1980 年代
初頭より、日本でもホスピスへの取り組みが始まった。1990 年に緩和ケア病棟として、厚生省に初
めて認可されたのは、柏木哲夫などによる淀川キリスト教病院ホスピス
(大阪市東淀川区)、また原義雄・
千原明による聖隷三方原病院ホスピス病棟(浜松市三方原町)や坪井病院ホスピス病棟(福島県郡山市)
が始まりである。
全国ホスピス・緩和ケア病棟連絡協議会によると、2003 年 6 月現在で、緩和ケア病棟として承認
28
された施設は、日本全国に 117 施設 2,229 床ある。全国ホスピス・緩和ケア病棟連絡協議会の『ホス
6
ピスってなあに?』では、ホスピスについて次のように説明されている。
「あなたがどのような状態にあるかということを、ホスピス・ケアに携わるスタッフ全員が
理解し共有することを大切にします。あなたの肉体的な痛みの緩和、精神的な不安の緩和、
日常生活への援助、そしてあなたと痛みをわかち合っているご家族への援助も行っています。
あなたとご家族と話し合いながら、限られた時間のなかであなたが一番あなたらしく振る舞
えるように、チームが一丸となって考え支えます。ホスピス・ケアとは、その人がその人ら
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しい生を全うすることができるように援助することと言えます。」
日本におけるホスピスは、当初、病気の治療をあきらめて、安楽な死を待つ施設としてみなされ、
多くの患者や家族に、ホスピスの実践は受け容れられなかった。しかし次第に、ホスピスが、全人的
な苦痛を緩和するとともに、ケースバイケースで、患者に治療を施し、最後まで自分らしく生きるこ
とを支援するプログラムであると理解されるようになり、その結果、緩和ケアの必要性を患者や家族
が認めるようになってきた。
3.日本におけるビハーラ・ケアのコンセプト
「ビハーラ」とは、サンスクリット語で、「精舎・僧院」「身心の安らぎ」「修行を実践する道場・休
息の場所・病院」を原意とする。このビハーラ・ケアのコンセプトは、仏教生命観にもとづいている。
仏教生命観は、縁起思想に基づく。仏教の生命観は、「時間的にも空間的にも、自己の生命が宇宙の
あらゆる生命と存在に支えられて成立していることを自覚し、自己中心主義を反省して、あらゆる存
在への共感を生みだしていく世界観」である。この縁起の自覚を通じて、仏教者は、孤独な人間の悲
しみや苦しみに寄り添ってきた。
た みや まさし
1984 年、田宮 仁は、キリスト教のホスピス・ケアの精神に学び、「仏教を背景としたターミナル
ケア
(終末期医療)施設」の呼称として、現代の「ビハーラ」を提唱した。
日本におけるビハーラ第一号は、1993 年に設立された新潟県長岡市にある長岡西病院ビハーラ病
棟
(22 床)
である。長岡西病院ビハーラ病棟の理念は、こう記されている。
(1)限りある生命の、その限りの短さを知らされた人が、静かに自身を見つめ、また見守られる
場である。
(2)利用者本人の願いを軸に看とりと医療が行われる場である。そのために十分な医療行為が可
能な医療機関に直結している必要がある。
(3)
願われた生命の尊さに気付かされた人が集う仏教を基礎とした小さな共同体である。(ただし
利用者本人やその家族がいかなる信仰を持たれていても自由である)
このビハーラの理念には、誰もが抱える「生・老・病・死」の苦悩について、医療や福祉と共に、
仏教徒も責任をもって応えていきたいという願いがこめられている。
7
また 1987 年、浄土真宗本願寺派は、「ビハーラ活動」の理念を次のように発表している。
「この「ビハーラ活動」とは、仏教徒が、仏教・医療・福祉のチームワークによって、支援
を求めている人々を孤独のなかに置き去りにしないように、その心の不安に共感し、少しで
もその苦悩を和らげようとする活動です。そして私たち自身が、苦しみや悲しみを縁として、
自らの人生の意味をふりかえり、死を超えた心のつながりを育んでいくことを願いとしてい
ます。すなわち、「ビハーラ活動」とは、「生・老・病・死」の苦しみや悲しみを抱えた人々
29
を全人的に支援するケアであり、「願われたいのち」の尊さに気づかされた人たちが集う共
同体を意味します。」
これらと同様に、1980 年代より、浄土宗、曹洞宗、臨済宗、天台宗、真言宗、日蓮宗など仏教各派でも、
病院や老人ホームにおいて、ビハーラ活動に着手している。
このようにビハーラ・ケアとは、患者と家族に対する敬愛と傾聴に始まり、死の苦しみを超えて心
と心をつなぐ活動である。すなわち、死に直面する患者と家族が、死についてどう考え、人への愛情、
自らの人生の意味をどう考えているかを傾聴する。
ホスピス・緩和ケアは、患者が死に至るまで、全人的な苦痛を和らげ、慈しみの心をもって、患者
と家族を看取り、支援することをめざす。第一に、ビハーラ・ケアもこれと同じ目標をもっている。
第二に、ビハーラ・ケアは、愛する者の死後、死別した遺族の悲しみに寄り添い、支援することをめ
ざす。したがって、ビハーラ・ムーヴメントは、残された遺族と亡くなった方々を、死後においても、
大切な思い出を通して、結びつけることを願っている。
4.仏教における死の看取り
それでは、仏教における死の看取りの理念と実践を、歴史的な脈絡のなかでふりかえってみたい。
仏教はあらゆるものは相互に支えあって生かされているという、縁起の真理を学び、生きとし生け
るものの安らぎを願って、人間的な成熟をめざす宗教である。仏教徒は、病気をまじないや占いによっ
て治すのでもなく、運命としてただあきらめるのでもなく、医師に診断された病気として理解し、医
学的な治療を受けて少しでも快方に向かうように願ってきた。仏教は医療に対し、常に敬意を示して
きた。
仏典には、ブッダは「大良医」「大医王」であると呼称され、仏の教えは、人間の苦しみを和らげて、
身心の安らぎをもたらす「薬」に喩えられている。ブッダは、相互に看取りあうことの意義について、
8
『増壱阿含経』巻四十に、次のように説いている。
「仏、諸比丘に告げたまはく、『汝ら出家せし所以は、共に同一の水乳なり。然るに、各々膽
死せざりき。いまより已後、まさに展転して相膽死すべし。もし病比丘にして弟子なき者は、
まさに衆中において次を差(わか)ち、病人を看せしむべし。しかる所以は、これ離れおわっ
み
て、さらに所為の処福、病之人を視るに勝る者を見ざればなり。それ病を膽るものは、我を
み
膽るのと異なることなし。』病を看取ることは、自分自身を看取るのと異ならない。」(大正
大蔵経第 2 巻 767 中)
<現代語訳>
「仏は僧侶たちに告げた。あなたたちが出家したということは、水と乳がよく混じりあうよ
うに共に同朋であることを意味する。しかし、お互いにあまり看病してこなかった。これか
ら後は、支えあい互いに看病しあうことを願う。もし病の僧侶でありながら、自らの弟子の
いないものは、他の比丘たちが交代して、病人を看病せよ。なぜなら、行いを通していたる
幸せのなかで、病人を看病することに勝るものはないからである。病者を看取るものは、自
分自身を看取るのと同じである。」
このように仏教では、看病する自分自身が、逆にその病める人から、はかなくも、かけがえのない
生命の現実を学んだ。
こうしてインドにおける初期の仏教から、中国・日本の浄土教に至るまで、病人を温かく看取るムー
30
ヴメントがつづけられてきた。病人を看取ることを縁として、看取る人自身が、自己をふりかえり、
病気の人々とともに、仏の法、真理への道を求めたのである。
5.日本浄土教における死の看取り—源信の『往生要集』臨終行儀と二十五三昧会
日本では、5 世紀頃の中国浄土教の看病法を受け継ぎ、多くの仏教徒が、極楽浄土への往生を願った。
おうじょうようしゅう
日本において仏教における死の看取りが確立されるのは、源信(942 〜 1017)の『往生要集』(985.4)、
よこかわしゅりょうごんいん
にじゅうござんまいえ
およびそれを教学的基盤として生まれた比叡山の横川首楞厳院における二十五三昧会(986.5.26 〜)
である。
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源信は『往生要集』のなかで、中国浄土教における臨終行儀の具体的な実践について、取りあげて
いる。そこでは、はじめに道宣の『四分律行事鈔』、『法苑珠林』、善導の『観念法門』、『大智度論』、
道綽の『安楽集』によりながら、「行事」をあかし、つづいて『大円覚経』の本覚思想、『無量寿経』
の第十九願、第二十願や『華厳経』の光明摂取の思想、『観仏三昧海経』、懐感の『群疑論』などによ
りつつ、
「勧念」について記している。
その「行事」についてみると 9、祇園精舎の西北の角、日の沈むところに、「無常院」という病人
を世話する施設が建てられている。まず病人は、いつまでも残る世俗への愛着を断つために、金箔の
阿弥陀仏の像を安置した無常院の建物に連れてこられる。無常院には、来るものは多いが、戻って行
くものは一人か二人である。その名は、日没の夕日を見ながら、暮れていく自己の無常さについて思
いを深めることになぞらえている。病人はここで仏法を専心に瞑想する。そして面を西方に向けた阿
弥陀仏の左手につながれた五色の長い幡(布)の一方を、病人が握り、仏に従って、一緒に極楽へ往生
しようと願うのである。看取る者は、香を焚き、散花して部屋を荘厳する。また病人が大小便・嘔吐・
唾などをもよおしたときは、その都度、それを取り除いてあげるとしている。
源信自身が、五色の糸を握って臨終を迎えたと伝えられている。平安時代から鎌倉時代にかけて、
多くの山越阿弥陀図が、源信の『往生要集』に学び、死にゆく人のために描かれた。
さて、阿弥陀仏を本尊として安置する死の看取りを整理すると、つぎの二つの形式が考えられてい
た。
< 1 > 阿弥陀仏西面型
──────病人は阿弥陀仏の背中をみながら、仏と一緒に往生する。往生従仏型
(『四分律行事抄』による)
< 2 > 阿弥陀仏東面型
──────病人は阿弥陀仏と向き合い、仏の来迎を心に想う。来迎対面型
(『法苑珠林』による)
ただし実際の臨床では、仏との一体感のある、二番目の形式が用いられた。
京都禅林寺に所蔵されている国宝、山越阿弥陀図は、十二世紀後半に、真言宗や浄土宗において、
10
実際に臨終行儀に用いられ、日本最古の作品である。
次に、
『往生要集』には、善導『観念法門』「入道場および看病人法用」によりながら、病人の看取
11
り方について次のように明かしている。
① 行者は病気のときも、そうでないときも、命終の時にはもっぱら念仏三昧によること。
② 面を西に向けて阿弥陀仏をもっぱら観想し、心と口とを相応させて、念仏の声が絶えることの
ないようにし、往生の想と、蓮華の台にのった浄土の菩薩たちが来迎引摂する想をなすこと。
③ 病人は、そのような来迎が近いと感じれば、その心的境位を語り、看病人は記録すること。
④ 病人が語りにくい時は、看病人から、どのような境涯を見たのかを尋ね確かめること。
⑤ 病人が罪の相や地獄の相にさいなまれる時は、そばにいる看病人が、その人のためにともに
31
念仏を称えて懺悔し、その人の罪を浄化するようにせよ。罪が浄化したら、蓮台にのった仏、
聖聚がまさに現前してくるであろう。その時には、前と述べたように、その心境を記録する
こと。
⑥ もし行者の六親眷属(父母兄弟妻子)などの親類が、 訪ねてきて看病する際には、 酒・肉・
五辛(韮・葱・大蒜・ラッキョウ・ハジカミ)を食べたものを部屋に入れてはならない。も
しそういうこの世への強い執着をもつ病人に近づけば、病人は澄浄な心(The mind of
Tranquility)を失い、鬼神のような迷いが心をかき乱して、三悪道に堕ちてしまうだろう。
⑦ そばで看取る念仏の人も、病人の同じ仲間として、誠実な心で仏の教説をたてまつり、見仏
の因縁をなすこと。
この引用の後には、『大智度論』によりながら、念仏して、心で一つのことを思いつづけていけば、
ついにはそれが成就するという、継続心
(The mind of consistency)
の大切さを明かし、さらに『安楽集』
によりながら、臨終に限らず、平生から同志と約束して、念仏を称えて、浄土を願うことが肝心であ
ると教えている。
次に、
「勧念」についてみると、看取るものが、仲間のために病床を訪ね、念仏を勧めることの意
12
義を明かしている。その十番目には、次のように記されている。
ぶっし
「十にはまさしく終りに臨む時にいふべし、「仏子、知るやいなや。ただいまはすなはちこれ
しょうじょいちじょう
最後の心なり。臨終の一念は百年の業に勝れり。もしこの刹那を過ぎなば、生処一定しぬべ
し。いままさしくこれその時なり。まさに一心に仏を念じて、決定して西方極楽の微妙浄土
の八功徳池のうちの、七宝蓮台の上に往生すべし」と。(『往生要集』巻中 七祖註釈版聖典
1055 頁)
<現代語訳>
「仏の子よ。いよいよ人生の最期の時である。臨終の一念は、百年の業に勝っている。この
ときを過ぎたら、生まれていくところが決定する。いまはまさしくその時である。どうか一
心に仏を念じ、心決定して、西方極楽のたえなる浄土の八功徳池の七宝蓮華の台のうえに往
生してください。」
このように、『往生要集』の臨終行儀は、インドや中国以来の伝統を受け継いだ看病法であり、病
人は、看病人のそばで、傷つくことを恐れずに自らの心境を素直に告白することができた。病人も看
取るものも、浄土に往生できるように支えあい、ともに念仏して、死にゆく苦しみを超えようとして
いたわけである。特に注目すべきは、源信が臨終行儀において、死にゆく人も、その病人を看取る仲
間も、みな同じ「仏子」(み仏の子よ)と呼んでいることである。およそ人は生涯、自己の中に、もう
一人の理想的な自己をいだきつづけているものである。そしてその現実と理想のはざまにある、自ら
の心情をそのまま黙って聞いてくれることを、他者に望んでいる。飾らずに告白すること自体が心の
成長をもたらす。また自分自身の病苦を癒していくことになるだろう。その意味で、自己の心境をご
まかさずにくりかえし慚愧することは大切である。加えて、看取るものたちも、死にゆく人の姿を鑑
として、心の絆を育み、彼岸往生という究極的な理想をめざしたのである。
6.法然における臨終行儀の尊重と自由化
12 世紀鎌倉時代にはいると、各種の往生伝が編纂され、臨終行儀も流布していた。しかし人々
のなかには、死の看取りの形式にこだわったりするものや、自らの問題を解決するために、焼身や
入水往生などの劇的な最期を選び、自死するものも現れた。このような苦難な時代にあって、法然
32
13
(1133-1212)は臨終行儀を尊重しつつも、その儀礼執行に固執しなかった。
法然は、その形式や死に
様にとらわれず、日頃からただ念仏を申すことによって、臨終に必ず阿弥陀仏の来迎があり、浄土往
生できることを明かした。
「先徳たちのおしへにも、臨終の時に、阿弥陀仏を西のかべに安置しまいらせて、病者を西
向きにふして、善知識に念仏をすすめられよとこそ候へ。それこそあらまほしきことにて候
へ。ただし死の縁は、かねておもふにもかなひ候はず、にはかにおほぢ・みちにおはる事も
候。また大小便利のところにて死ぬる人も候。前業のがれがたくて、たち・かたなにていの
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ちをうしなひ、火にやけ、水におぼれて、いのちをほろぼすたぐひおほく候へば、さように
しに候とも、日ごろの念仏申て極楽へまいる心だにも候ひとならば、いきのたえん時に、阿
14
弥陀・観音・勢至、きたりむかへ給べしと信じおぼしめすべきにて候也。
」
法然はここでこう明かしている。「善導や源信などの先徳たちの教えにあるように、人が臨終を迎
えるときに、阿弥陀仏を西の壁に安置し、病人は顔を西向きに寝させて、病人のそばにはよき先生に
念仏をすすめてもらうのがよいだろう。しかし、死の縁は無量である。自分の予想しているように死
を迎えるとは限らない。突然、大きな道や裏路地で命を終えるときもある。また便所で亡くなる人も
ある。前に為した行為がもとで、太刀や刀によって切られて命を失ったり、火に焼けたり、水におぼ
れて、命をなくす人もいる。しかしどのような死を迎えるとも、日頃より念仏をもうして、浄土を願
う心さえあれば、息の絶えようとするときに、阿弥陀仏、観音菩薩、勢至菩薩が必ず迎えにやってく
るとどうか信じてください。」このように法然は、人間のさまざまな死の現実を知り、いかなる死を
迎えるとも、日頃から念仏する人々は、必ず仏の来迎があると明かした。
実際、法然はその死に臨んで、五色の糸を手にとらずに臨終を迎えた。
「又弟子等、仏の御手に五色の糸をつけてすすむれば、これをとり給はず、上人給はく、如
此のことは是つねの人の儀式なり。我身においてはいまだかならずしもといひて、ついにこ
15
れをとり給はず。
」
16
法然は次のようにも述べている。
「たがひに順逆の縁むなしからずして、一仏浄土のともたらむ」
どのような死を迎えるとも、むなしいものではない。必ず阿弥陀仏の浄土の同朋となるだろう。と
いう意味である。死は悲しくも、また尊いものである。
こうして法然は、源信の来迎観を一歩進めた。すなわち、源信が、臨終正念に安住して後に、来迎
があるとしたのに対し、法然は第十八願、念仏往生の願に基づき、平生からただ念仏申すところ、臨
終に来迎引摂がもたらされ、自ずと正念に住して往生する、と明かしたのである。
7.親鸞における死の受けとめ方
法然の薫陶を受けた親鸞(1173-1262)は、死をどのように受けとめたであろうか。また親鸞は、覚
信坊という門弟の死について、こう語っている。
「そもそも覚信坊の事、あわれにおぼへ、またたふとくもおぼへ候。そのゆへは信心たがわ
33
ずしておはられて候。」(覚信の死を偲んで)
(御消息 13 浄土真宗聖典 766 頁)
ここより第一に、親鸞は死の現実を、悲しさ Sadness と崇高さ Sublimity の両面から受けとめてい
た。この覚信坊が、感謝の想いで念仏を称えて、死を迎えているところには、念仏の意義をも見出す
ことができるだろう。
また、親鸞は弟子たちの臨終に際して、数多くの手紙を送っている。たとえば、
「この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄
17
土にてかならずかならずまちまゐらせ候べし。
」
「私は今はもうすっかり年を取ってしまいました。定めしあなたに先だって浄土に往生するでしょう
から、あなたを浄土で必ずお待ちいたしましょう」という意である。ここより第二に、親鸞は、死は
終わりでなく、浄土に誕生することであり、死別してもまた会える世界がある
(「倶会一処」)
と明かした。
親鸞はまた、浄土を「安養」「無量光明土」とも表現している。死ぬこと自体は決して不幸ではなく、
人間の思いの及ばぬ死の彼方は、仏の光に満ちていると説いて、人々に死を超えた解決を示したとい
えるだろう。
第三に、仏は悩めるものをそのままで今ここにおいて摂取する、と親鸞は明かしている。救いの成
立について、第十八願、至心信楽の願に基づき、親鸞はこう記している。
「真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに正定聚の位に住す。このゆえに臨終まつことなし。
18
来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生またさだまるなり。来迎の儀則をまたず。
」
第四に、親鸞は、死の迎え方の善し悪しを問題にしなかった。悲哀に満ちた死を、めでたき往生と
して受けとめた。19 中世当時、飢饉で苦しみながら亡くなった同朋を哀れに思いつつ、親鸞はこう記
している。
「まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定のひとは、疑いなければ正定
聚に住することにて候ふなり。さればこそ愚痴無智のひとも、をはりもめでたく候へ。如来
20
の御はからひにて往生するよし、ひとびとに申され候ひける、すこしもたがはず候なり。
」
ここより平生において、人間の計らいを超えた、阿弥陀仏の本願を信順して念仏するところ、往生
すべき身と定まると、親鸞は示した。臨終における人間の心の状態によって往生が決まるのではない。
如来の計らいによって往生する。
第五に、死を受け容れられない人を、そのままで仏は摂取する、と親鸞は明かした。『歎異抄』第
九章に、死と大いなる慈悲についてこう記されている。
「まことによくよく煩悩の興盛に候にこそ。なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて、ち
からなくしておはるときに、かの土へはまひるべきなり。いそぎまひりたきこころなきもの
を、ことにあわれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生
21
は決定と存じ候へ。
」
死を受容することは、多くの人間にはとてもむずかしい。しかし、それでよいのである。自らをい
34
つわらずに、臨終まで残る不安や寂しさを抱えたままで、仏に救われる。なぜなら、迷い深きものを、
仏はあわれみ、迷いの身と心に、仏の慈悲が貫徹するからである。
いかに看取りの環境を整え、自己の心を統御しようとも、安らかな死が迎えられるとは限らない。
だからこそ親鸞は、臨終において自己の計いで念仏し、来迎を期するのをやめて、摂取して捨てない
阿弥陀仏の慈悲に乗託した。第十九・二十願の道から、第十八願の道への転入である。それは「愚者
になりて往生す 22」る道である。阿弥陀仏の慈悲に抱かれているから、臨終まで残る不安や寂しさを
抱えたままで救われるのである。
第六には、浄土で仏となり、再び生死の苦しみの世界に還って、人々を迷いから悟りに導くと、親
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鸞は明かしている。これが還相廻向の思想である。還相廻向とは、死を超えてつづく大いなる慈悲、
仏の働きを表わしている。
「おくれさきだつためしは、あはれになげかしくおぼしめされ候とも、さきだちて滅度にい
たり候ひぬれば、かならず最初引接のちかひをおこして、結縁・眷属・朋友をみちびくこと
23
にて候。
」
亡き人は、遺族にとって、真実への道標、導き手となる。念仏者は、往相還相の働きのなかに生か
され、死を超えて互いに師弟となって導きあうことを、親鸞が願っていたといえるだろう。
8.仏教における死と精神性
それでは、死を前にした人間の願い、ならびに、死を看取る姿勢を具体的に考察し、仏教の精神性
と安らぎについて明らかにしたい。
(1)
死と死にゆくことの恐れの核心
世界保健機構 WHO によると 24、末期患者は、身体的苦痛(physical pain)
・心理的苦痛(mental
pain)
・社会的苦痛(social pain)
・実存的苦痛(spiritual pain)を抱え、しかもそれらの苦しみは相互に
関係しているとされている。このうち、実存的苦痛とは、霊的苦痛、存在的苦痛とも訳され、「患者
が自らの死に直面するときに、自らの人生の意味を求め、自分の存在意義をふりかえること。過去か
ら抱いてきた罪を慚愧したり、世話になった人々や自分の人生に感謝すること。家族や知人との和解
を求めること。また苦しみの中で神の愛や仏の慈悲に心の救いを求めること」を意味する。
25
日本の緩和ケアを推進してきた澤田愛子は、こう述べている。
「死にゆく人々は例外なく真実の人間的な出会いや、交わりを求めていると言われている。
彼らの前では偽りの友情とか、打算で動く人間関係は崩壊するのだ。ただ真実の交わりのみ
がそこに残る。」
26
では具体的に、ある男性患者の手記を引用して、死に直面した人間の心を明らかにしてみたい。
「どうしても逃げることのできない死という現実に直面したとき、人間はどうすればいいと
思う?ある人は悲観して一日中泣きつづけるかもしれないし、生きる力を失ってしまう人も
いるかもしれない。
しかし、お父さんは、そんなことを少しも考えなかった。お父さんは可能な限り、お前や
お姉ちゃんやお母さんたちといっしょに、生きている時間を長くしたいと考えた。だれでも
いつか、どこかで何かを覚悟しなければならないときがある。そして、その覚悟のために必
35
要なのは、偽りのやさしさではなく、つらくてもすべてが事実であることを認識することな
んだ。お父さんはそう思う。そして、そのことをお前たちにも知っておいてほしかった。
しかし、この手紙をお前はいつ読むことになるのだろう。だが、そんなに遠い日でないこ
とは、確かなことだ。そして、そのときは遺書ということになっているだろう。この手紙は、
お姉ちゃんに手渡しておくことにするよ。お姉ちゃんならきっと、お父さんとの約束を守っ
て、そのときがくるまで大事にしまっておいてくれるだろう。
ああ、それにしても、お父さんの死がお前たちの夢の可能性を奪うかもしれないと思うと、
心が痛む。許してくれ。でもお父さんは愛するお前たちといっしょに生きている時間を少し
だけでも長くするために頑張ってみるからな。どうか、お父さんの人生最高の闘いぶりを見
ていて欲しい。そして、お前が困難に直面したときに、お前の体の中にお父さんの血が流れ
ていることを思い出してほしい。
いま、お前たちの寝顔をのぞいてしまった。お前たちの寝顔を見るのも、これが最後かも
しれないと思うと、どうしても見ておきたくなったのだ。つい、のぞき見してしまったこと
は許してくれ。それにしても皆、いい顔をして眠っていた。お前たちの寝顔を見ていると、
お父さんがどれだけお前たちを愛していたかがよくわかる。そして死ぬかもしれないことが、
少しも怖くない理由がいまよくわかった。お父さんがお前たちのこと命も惜しくないほど愛
していて、そしてお前たちも同じくらいお父さんのことを愛してくれているのを感じるから
だ。
そうなのだ。死を乗り越えることができるのは勇気でもあきらめでもない。慈悲なのだ。
愛していること、愛されていることを感じ合えたときに、すべての恐怖は消え去っていくの
だ。やがて、いつかきっとお前にもわかる日がくるだろう。
さて、名残りは尽きないが、そろそろ旅立ちの準備に入らなければならない。最後の闘い
の準備だ。この辺で、この手紙も終わりにしよう。その前に、もう一言。お前にはまだ荷が
重いかもしれないが、男なのだから、お姉ちゃんとお母さんのことをよろしく頼む。
お父さんは心の底からお前たちを愛していた。
さようなら
父より」
この手記が示すように、死に追いつめられた人々は,孤独のなかで、偽りのない心の絆を求める。
患者は終末期において、自分が誰かを愛し、自分も愛されていると実感できたとき、その心の結びつ
きが生きる力となる。患者は自らの死を受容することを目標としていない。限られたいのちの間、愛
する人々とともに、精一杯生きることが志願となっている。
(2)
死を前にした人間の願い
人間は苦しみのなかで、成長していく資質をもっている。
「煩悩即菩提」、「生死即涅槃」と、大乗仏教において説かれてきたように、人は、苦しみのなかで人
生の意味を見出すことができる。仏の慈悲に抱かれて、迷いがそのまま悟りの真実に転じられていく。
その意味で、死の看取りにおいて求められることは、患者それぞれの全人的な苦痛を和らげることと
同時に、苦しみの中で患者が見出す真実や、苦しみに左右されない患者の願いを理解していくことで
あろう。
死に直面している患者が願っていることは、何であろうか。死を自覚した人間には、およそ三つの
願いを有している。
A. 日常性の存続
第一には、「日常性の存続」である。
36
患者は、身体的苦痛が和らぎ、少しでも病状が改善して、ささやかな日常が一日でもつづいてほし
いと願う。例えば、自らの思い出を語り、自分自身にもいい時があったことを、家族と確かめあう。
住み慣れた自宅の私室で過ごす。自宅の食卓で家族と一緒に食事をする。病室を出て、歩きなれた散
歩道を歩く。家族や子どもの幸せのために何かをして、わずかでも貢献できることなどがある。死を
前にした人間の願いは、特別なことではない。患者のほとんどが病を通して、あたりまえの日常生活
が貴重であることにめざめる。
B. 願いの継承
第二には、「願いの継承」である。
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
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死を前にした人間は、最期まで、終わりのない夢や願いをいだいている。その意味で、患者の愛情
や志願を、看取る家族縁者が確かに受けとめていくことが望まれる。もし看取る人々が、患者の願い
を確かに受け継いでいくという気持ちを、終末期に、患者に伝えることができたら、その患者と家族
の絆は死を超えたものとなるだろう。
C. 再会の希望−死を越えてつづく心の絆
第三には、「再会の希望」である。
死にゆく患者にわきおこってくる清らかな希望は、愛する人々との再会の希望である。患者は、現
実的には、もう会えなくなることを自覚しながらも、愛する人々とまた会いたいと願うようになる。
家族もまたしばしばそう願う。
重要なことは、この再会の希望は、人間の希望の質的転換を表わす。希望の質的転換とは、名誉や
財産などこの世で達成しようとする願望よりも、死を超えたまことの愛情を求めるようになることで
ある。実際、釈尊は、自分の死が近づいたときに、弟子たちに対して、「生まれたものは必ず死すと
いう道理を何人も免れることはできない。無常の道理は絶対である。しかし、死ぬのはこの私の肉体
である。それは朽ち果てるものである。真の生命は、私が見出し、私が説いた理法である。それに人々
27
が気づいて実践しているならば、そこに私は生きている。永遠のいのちである」と説いたという。
浄
土教においては、死別しても、また浄土で会えると教え、また亡き人は仏となって遺族の心を導いて
くれると説いている。このように、心の中に愛する人が生きつづけるという実感は、患者の孤独感を
和らげ、死を超えて、家族と患者の心をつなぐことになるだろう。
死は、
日常生活をこえた次元にある限りなきいのちへの視座を開いてくれる。限りあるいのちとは、
無常にして交換できない一人一人のいのちである。人は、限りあるいのちに気づくことを通して、死
に左右されない限りなきいのちを見開いていくことができる。
ここで、死にゆく人の願いを知るために、三人の女性の手記を紹介したい。
(1)
鈴木章子『癌告知のあとで』
鈴木章子は寺院にある幼稚園園長をしていた。癌の告知を受けたとき、ショックでその事実を受け
容れられなかったが、父親の言葉に導かれて、「誰にも代わってもらえない自分」であることに気づ
いた。四十七歳で亡くなった。鈴木章子は、死のニカ月前に四人の子に、次のような詩を贈っている。
今
私が
主人が
子供達が
37
この茶の間で
しゃべり
笑っている
何千回とくり返された情景が
今 不思議で
あしたにでも
壊れてしまいそうで
だきしめたくなります 28
この「今」という詩には、患者にとって、家族と共にすごす日常生活がいかに尊いものであるか示
されている。鈴木章子が、「日常性の存続」を願っていることがわかる。
満足
誰の人よりも一歩前
そんな刹那的人生を
子供達よ
過ごしてくれるな
どこまでいっても
満足などない
競うことなく
比べることなく
うらやむことなく
嘆くことなく
卑下することなく
あなたの花を咲かせておくれ
おまえはおまえで充分
あの庭のバラのように
あの庭の松のように
人間成就の花を咲かせておくれ
そこに本当の満足が生まれる 29
この「満足」の詩には、母である彼女が、子どもにかけた願いが込められている。その願いとは、
子どもたちが、これからも、他人と比べる必要のない、オンリーワンの人生を生きてほしいというも
のであった。また、彼女自身は、自分の心境を次のように綴っている。
「好き勝手に生きて申し訳ない私なのに、突然の死を賜ることなく、自分の生き方や死に方
を問わずにいられない、ガンという病気を賜ったことを感謝しております。30」
「今更手術しなくても」とか「もう痛い思いしなくても」とささやきがきこえるけれど、終
末医療に向かっているお母さんにとって、捨ててはいけない生命・一日の生命の尊さを生き
続けることが吟味ある生き方であり、これに勝る日常はないと思えてきました。
38
31
南無阿弥陀仏の導かれるままに・・・。
」
安らかに死ぬことが、彼女の願いではなかった。彼女にとって尊厳のある生命とは、死への苦しみ
のなかで、一日一日を大切に生きつづけることであった。
(2)
中島みどり『白蓮華のように−あなたに会えてよかった』
中島みどりは、自らの死を自覚しながら、自分自身の心の依り処を回想し、子どもに自らの願いを
伝えている。次の文章は、「大悲の親にいだかれて」と題して、子どもに綴っている箇所である。
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「大悲の親とは、いったい誰のことかと思いますね。そのお方はね、阿弥陀如来様のことです。
お母さんは、幼い頃より死に対しての不安がありました。ひとりぼっちになるのがこわかっ
たのです。死んでしまったらひとりぼっちになってしまうと思っていたのです。愛する人た
ちと、死んでしまったら二度と会うことはできないのだと思っていたのです。だから、とて
もさみしくて、やりきれない悲しさで一杯でした。でもね、お母さんのお母さんがね、「心
配はいらないよ、お寺にお参りして聞かせていただければ、きっと解決できるよ」と教えて
くれたの。だから、お母さんは必死でお寺にお参りしたわ。でもね、わかろうとすればする
ほど、わからなくなるの、聞けば聞くほどわからなくなる気がして、お母さんも短大ぐらい
までは、ありがたいとか、守られているとか、思ったことはないし、まして、安心などでき
ようもなかった。だから、いつも不安はつきまとっていた。でもね、あるとき、ふと胸が熱
くなるほどありがたいなーって思ったことがあったの。お寺にお参りして聴聞に遇っていた
ときだったと思います。そして、とめどもなく涙があふれて私自身のおろかさと、この身の
幸せを感じたことでした。
このとき、私ははじめて、ありがたい、もったいない大悲の親に、いだかれていたのだな
と思うことができたのです。その気持ちは幼い頃、仏だんの中にあった親鸞聖人の「御一代
記」を読んで涙し、感動したときのよろこびにもにていました。
お母さんの心の師は、親鸞聖人でした。この親鸞様の本がご縁で真実の親様に遇うことが
できました。ありがたいことです。こうして病気になっても少しもさみしくありません。仏
様と二人づれと思えば生も死もなくなります。苦しいときも、痛いときも、楽なときも、い
つでも一緒の阿弥陀さま、ついつい口から“なもあみだぶつ”と出て下さいます。心配する
な、ここにいるよ、といつも声をかけて下さいます。ありがたいことです。お母さんの目は、
凡夫の目だから、仏さまを見ることはとうていできませんけど、仏さまはいつも離れずつき
まとって守って下さっているのです。それは、お母さんだけでなく、夏美や洋生はもちろん
のこと、すべての人たちのことを、わが子のように大切に思って下さっているのです。
だから、夏美も洋生もどうか手を合わせる子になって下さい。お仏だんに、お寺にお参り
してくれるような人になって下さい。そして、あなたたちが精一杯生きて、この世が終わっ
たら母の待つ、お浄土(阿弥陀さまの国)に生まれてきて下さいね。また会える世界があると
いうことは幸せなことです。この世でどんなにつらいことがおこっても、がんばってのりき
れるでしょう。死んでしまったらおしまいと考えるのはあまりにもさみしすぎますね。死ぬ
のではなく、生まれてゆく世界があるのです。愛する人と会える世界があるのです。それが
わかると安心してこの世を生きていけるでしょう。夏美、洋生、どうか安心してこの世を渡っ
て下さい。母はいつでも、あなたたち二人の心の中に生きつづけています。さみしいとき、かな
32
しいときは“なもあみだぶつ”ととなえて下さい。お母さんはいつでも守ってあげます。
」
39
(3)
平野恵子『こどもたちよ ありがとう』
平野恵子は、三人の子どもに恵まれたお寺の坊守であった。彼女が三十九歳の冬、お寺で新年を迎
える準備をしていたとき、下腹部の激痛におそわれ、多量に下血した。彼女はただならぬ重い病気で
あることをさとった。あふれでる涙のなか彼女はこう思った。
「この目の前の現実は、夢でもなく、幻でもない。間違いのない現実なのだから、決して逃
げる訳にはゆかない。きちんと見据えて対処してゆかなければ・・・33」
彼女は癌の告知を受けて後、三人の子どもたちへ、母親としてあげられることは一体何だろうと考
えた。彼女は、死を前にした自分の願いを、こう記している。
「お母さんの病気が、やがて訪れるだろう死が、あなた達の心に与える悲しみ、苦しみの深
さを思う時、申し訳なくて、つらくて、ただ涙があふれます。でも、事実は、どうしようも
ないのです。こんな病気のお母さんが、あなた達にしてあげれること、それは、死の瞬間ま
で、
「お母さん」でいることです。
元気でいられる間は、御飯を作り、洗濯をして、できるだけ普通の母親でいること、徐々
に動けなくなったら、素直に動けないからと頼むこと、そして、苦しい時は、ありのままに
苦しむこと、それがお母さんにできる精一杯のことなのです。そして、死は、多分、それが
お母さんからあなた達への最後の贈り物になるはずです。
人生には、無駄なことは、何ひとつありません。お母さんの病気も、死も、あなた達にとって、
何一つ無駄なこと、損なこととはならないはずです。大きな悲しみ、苦しみの中には、必ず
それと同じくらいのいや、それ以上に大きな喜びと幸福が、隠されているものなのです。子
どもたちよ、どうかそのことを忘れないでください。
たとえ、その時は、抱えきれないほどの悲しみであっても、いつか、それが人生の喜びに
変わる時が、きっと訪れます。深い悲しみ、苦しみを通してのみ、見えてくる世界があるこ
とを忘れないでください。そして、悲しみ自分を、苦しむ自分を、そっくりそのまま支えて
いてくださる大地のあることに気付いて下さい。それがお母さんの心からの願いなのですか
ら。
34
お母さんの子どもに生まれてくれて、ありがとう。本当に本当に、ありがとう。
」
この一文には、母親として最期まで生きたいという彼女の希望とともに、彼女の子どもへの願いが
表現されている。死を自覚した彼女は、「日常性の延長」を願い、悲しみとともに、家族への感謝の
気持ちがあふれている。もう一つは、
「大きな悲しみのなかにも、深い幸せが秘められている」といい、
逆境から生まれる真の優しさを、子どもたちに示している。
さらに、彼女は、死の前で、子どもたちに次のような手紙を送っている。
「由紀乃ちゃん、お浄土で待っております。あなたがその貴い人生を終えて、重い宿業の身
体を脱ぎ捨てる時、お母さんとあなたは、共に風となり野山を駆け巡ることができるでしょ
35
う。梢を揺らして小鳥達と共に歌をうたうこともできるでしょう。
」
「お母さんは“無量寿”の世界より生まれ、
“無量寿”の世界へと帰ってゆくものであります。
何故なら“無量寿”の世界とは、すべての生きとし生けるもの達の“いのちの故郷”そして、
40
お母さんにとっても唯一の帰るべき故郷だからです。お母さんはいつも思います。与えられ
た“平野恵子”という生を尽くし終えた時、お母さんは嬉々として、
“いのちの故郷”へ帰っ
てゆくだろうと。そして、空気となって空へ舞い、風となってあなた達と共に野を駆け巡る
のだろうと。緑の草木となってあなた達を慰め、美しい花となってあなた達を喜ばせます。
また、水となって川を走り、大洋の波となってあなた達と戯れるのです。時には魚となり、
時には鳥となり、時には雨となり、時には、雪となるでしょう。・・・
“無量寿=いのち”とは、すなわち限りない願いの世界なのです。そして、すべての生きも
のは、
その深い“いのちのねがい”に支えられてのみ生きてゆけるのです。だからお母さんも、
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今まで以上にあなた達の近くに寄り添っているといえるのです。悲しい時、辛い時、嬉しい時、
いつでも耳を澄ましてください。お母さんの声が聞こえるはずです。『生きていてください、
生きていてください』というお母さんの願いの声が、励ましが、あなた達の心の底に届くは
36
ずです。
」
彼女の子どもへの愛情は、この世限りのものでなく、死をも超えてつながる真の愛情である。死を
超えた親子の心の絆が、念仏であり、浄土であると彼女は実感している。その浄土は、生きとし生け
るものの故郷であり、無量寿の世界であると彼女は受けとめている。人は誰でも一人で生きているの
ではない。生きとしけるものは相互に支えあって生かされている。死に直面して、彼女はあらためて、
そう実感した。だから、彼女は死後、自己の生命が自然のあらゆるいのちと一体となり、限りなきい
のちとなって、子どもたちといっしょにずっと生きているといったのであろう。ここに仏教の精神性
ともいうべき、壮大な縁起の生命観が表現されている。
9.死にゆく人に対する看取りの姿勢
患者はしばしば、生涯の愛を確かめ合う最後の会話や時間をひたすら求めている。そのような際
に医師をはじめとする看取りのスタッフがなしうる大切なことは、患者のそばに座り、その患者の
気持ちをありのままに聞きながら、対話することであろう。「そこにいること(be there)」「患者の
発言を否定せずに黙って聞くこと」が、看取りの基本である。そのために、患者がありのままの気
持ちを大切な人と分かちあえる、くつろいだ空間のあることが望まれる。仏教の精神性(Buddhist
Spirituality)にもとづいた看取りの姿勢を、およそ次の六つの姿勢にまとめてみたい。
1)
真実を共有する
無常という人生の現実を、患者と家族、さらに看取るスタッフが共有することが大切である。病気
の事実を患者も家族も知り、相互にその真実を共有するときに、本当の会話が成り立っていくからで
ある。21 世紀に入って、日本の医療において、ようやくインフォームド・コンセントが定着してきた。
病気の真実を知ること、そして、嘘偽りのない素直な気持ちを互いにうちあけることが、患者本人に
とっても家族にとっても、心の重荷を和らげることにつながる。
2)
全人的な痛みを緩和する
身体的な苦痛を軽減することは、何にもまして大切である。止むことのない疼痛は、心まで傷つけ
てしまう。また昼よりも夜に痛みを感じやすい。身体的な苦痛が和らげば、心理的・社会的・精神的
苦痛も和らぐことが多い。ただし、他面、身体的な苦痛は、身体の不調を示す自然なサインである。
患者の中には、身体的な苦痛がつづいても、精神的なよりどころが確立されている方々もいることを、
看取るものは忘れてはならないだろう。
3)
「生の完遂」を援助する
患者が「死にたい」といった場合でも、その言葉の背後を充分に思いやる必要がある。「死にたい」
41
という言葉は、時として単に「迷惑をかけたくない」「今の自分は好きではない」という気持ちの表
現であり、さらには「生きたい」といった気持ちの裏返しでさえありうる。患者の気持ちや感情は、
そのときの状況や人間関係によって変化する。一つ一つの場面ごとに、患者が今何を一番願っている
かを知ることが求められる。
2004 年 2 月 18 日、日本医師会第Ⅷ期生命倫理懇談会の『医療の実践と生命倫理』という指針がだ
された。その指針によると、仏教のいのちに対する姿勢に基づきながら、医師の死に対する受けとめ
方について、次のように記されている。
「死に対する戦いの終わりとともに、より良い生を完遂する努力、すなわち尊厳を保って生
を全うすることの手伝いができたという成功感を共に確かめ、心の中に整理しておくことが、
37
国民に対する責任を果たすことにも通じるであろう。
」
「尊厳死とは、苦痛のない安らかな死を願ったもので、平安な臨終は人々の期待するところ
である。しかし、実際には『死の縁無量』といわれるように、交通事故や災害、超急性疾患
など、突然に死を迎えることもある。そこで、日本では昔から、どのような悲しい死を迎え
ても、死ははかなくも尊いものであり、その善し悪しを問題にしなくてもよいとしてきた歴
史がある。したがって医師は、安らかな死が最高の医療であるという見方を念頭におきなが
らも、他方いかなる“死”も尊いと受け止めることができるような深い人生観をもつべきで
38
ある。
」
「アドバンス・ディレクティブは、患者の、その時点よりはやや以前の意思を知るための重
要な手がかりの 1 つと考えるべきで、これにより末期医療についての治療方針が万事決定さ
れているとみなすことには、慎重さを要する。もし立法化する場合には、失効や書式の要件
までも広く考慮する必要があろう。それが最終決定ではなく、状況の変化により繰り返し確
認することにしておかなければ、アドバンス・ディレクティブの存在が反って障害になり、
39
実際に末期医療に入るそのときの患者の気持ちに沿うことができなくなるおそれがある。
」
身体的な苦痛を和らげることと、安楽死のように、死期を早めることとは別である。患者は死を受
容するために生きているのではない。終わりのない希望や夢を抱きながら最期まで生きている。僧侶
や医師たるものは、患者が安楽に死ぬことを援助するのではなく、その患者が自分なりの生を実現で
きるように、最後まで支援することが大切である。
4)
死の縁は無量であり、死の姿の善悪を問わない。
死の看取り(End of Life Care)は、患者自身のためのものである。臨終におけるカウンセリングを
考える際に、もしそれが、患者の死への道程を美化しようとする看取りになれば、さまざまな患者自
身の生を画一化することになるだろう。概して安らかな死を求めているのは、患者当人ばかりでなく、
看取る者の願望でもあり、そこに望ましい死や安楽死という理念の混乱がある。特に、看取る側の人々
からいえば、愛する病人が苦悶に満ちて死を迎える過程を見ているのがつらくて、ひそかに安楽死を
望むことも起こりうるであろう。しかし、それは患者本人の死を、看取る自分に耐えられるように都
合よく美化し、管理したいという、エゴイズムかもしれない。病人の安楽さを願っているようであり
ながら、実際には、看取っている自分自身の安楽さを望んでいることが多いからである。
親鸞思想に基づくビハーラ活動は、安らかな臨終になるようにコントロールすることを目的として
いるのでもなければ、死の姿の善し悪しによって、救いを裁定することを目的としているのでもない。
42
ビハーラ活動は、さまざまな人生の終焉を一つの個性ある死をして受けとめます。仏教においては、
患者は臨終の床で、外見を取りつくろう必要はない。患者はそのままで仏の慈悲に抱かれているから、
患者は自分自身をよく見せる必要はないのである。
5)
患者の心に学ぶ
病人を看取ることは、看取る自分自身を見つめることになる。看取るものは、さまざまな患者の姿
を通して、誰もがもっている普遍的な苦しみや願い、そして、精神的な安らぎが何であるかを、学ぶ
ことができるだろう。スピリチュアル・ケア(心のケア)においては、チャプレンが自分の考えを患者
に押しつけたり、信仰や布教を強要したりしてはならない。なぜならケアをする側の強い信仰や伝道
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は , 患者にとって脅威や叱責に感じることがあるからである。40 また反対に、患者や家族からの願い
を縁として、いつでも宗教的な対話を始めることができる。最も大切なことは、患者も家族も看取る
人も、いのちのはかなさを抱えた同じ人間であり、また尊い仏の子であるという自覚である。
6)
そばにいること
死を前にした人々は、今までの人生で身に着けていた仮面をぬいでいくようになる。患者は、美辞
麗句よりも、真実の理解を求めている。これは、看取る人々に、その人自身として偽りない心で、患
者のそばに寄り添う覚悟が求められているということである。看取る人々は、一切の虚栄や防衛をな
くし、相手の言葉に耳を傾けることがなければならない。患者はまた、安心して、傷つくことができ
るような時間を必要としている。たとえ患者のいうことが全部理解できなくても、理解しようという
心がありさえすればいいのである。
緩和ケアの理念に、「何かをすることではなく、そばにいてあげることである(Not doing but
being)
」という言葉がある。絶望的な状況におかれている人に、何もできなくてもそばにいて、手を
握ったり、優しく肩をさすったりするだけで、ささやかな支えになることを、この言葉は教えている。
慈悲の悲の原語カルナーは「呻き(うめき)」を意味する。悟った仏はいつも人間の苦しみをなんとか
共有し、
決して見捨てずに安らぎに導こうとするから呻くという意である。この仏の呻きの意味から、
人々は多くのことを学ぶことができるであろう。「そこにいる」という姿勢は、死にいたる苦しみに
ある患者を決して見捨てない勇気であり、誠実さであるともいえる。病が重くなり、死が近づくほど
に、言葉にならないコミュニケーションが重みを増してくる。まさにその時、どのように共にありう
るかが重要になってくる。
7)
念仏を称える
浄土教では、病人と共に、看取る人々もまた、念仏相続していた。平生から人生の終末において、
仏法を聴聞し、報恩感謝の心で、念仏相続することは、死にゆく本人だけでなく、残される人間にとっ
ても、生死の迷いを超えて、無量寿の浄土に生まれていく道を開く。先にも述べたように、親鸞の弟
子、覚信坊は、死の床で不断に称名念仏していた。その称名念仏は、仏やよき人々に出あったことへ
の感謝の気持ちを表わしたものであった。この称名がもたらす心の澄浄性
(tranquility of the mind)
は、
限りある自己の命に、限りなき本願が満ち満ちていることを表わしている。きわめて浄土教的な特質
であるが、念仏を称えることは、汚濁に満ちたこの世界において、煩悩にふりまわされている自己を
知り、罪の慚愧と、仏や愛する人々への感謝の気持ちをおのずと育むことになるだろう。
8)
死別後の遺族の悲しみに長期間寄り添う。
大切な人と別れることは深い憂いをもたらす。しかし、悲しみは別れと喪失に対する自然な感情で
ある。死別悲嘆は、感情の麻痺や無力感、孤独感、罪悪感と自責、怒りや不安、疲労と安堵感など、
人それぞれに複雑な現れ方をする。ただ、悲しみ自体が傷ついた心を癒す過程でもある。葬儀や法事
などで、涙を流し、悲しみを分かちあうことは、悲しみからたちあがる一歩となるだろう。浄土教で
は「還相回向」の思想を説く。亡き人は浄土に生まれて仏となり、再び娑婆世界に還って、遺族の心
43
の道標になるという意味である。亡き人は過去の思い出の中だけに生きているのではない。現在と未
来にも生きつづける。41 人は死別の悲しみを縁として、亡き人の心を知り、残された人々が今はなき
愛する人に学ぶことができるだろう。
結 論
このように死に直面するとき、人は自己の人生の意味をふりかえり、真の優しさと愛情に気づく。
患者とは、家族やよき理解者にめぐりあい、愛されていると実感できたとき、寂しさが和らげられ、
安らぎを感じることができる人たちである。ビハーラは、生老病死の苦しみのなかで、同じ人間が相
互に支えあって生かされていくという縁起思想に基づいている。また患者と家族、医療スタッフとが、
信頼できる人間関係を築いていくためには、あらゆるものは無常であり、いつか死を迎えるという真
実を共有する必要があるだろう。
仏教のビハーラ・ケアは、患者の死の恐怖をその都度、緩和し、患者を現状に充分に適応できる人
間
(A fully functioning person)になるようにしむけることではない。また看取る人にある何らかの力
で、相手を助けるのでもない。看取るものが、病人やその家族に誠実につくしても、なおそこに限界
があるからである。相手に対して何も十分なことができなくても黙ってその人の苦しみと願いを共有
しようと努力することが、自他不二の慈悲の姿勢である。
仏教者のケアは、その情緒的な対応を超える視座を示していた。それは、いかなる患者も、死への
不安をかかえたままで、仏の慈悲にいだかれて、限りなきいのちへと成っていく、という視座である。
生死を超える心の絆が、患者と家族、友人、恩師との間に感じられるとき、その心の絆は、患者にも
看取るものにも安らぎとなっていくことであろう。このように仏教の精神性は、順境だけでなく逆境
のなかで見いだされる真実の願いであり、その真実の願いは、いかなる状態で死を迎えようとも左右
されることのない確かな慈愛となる。
注
1 亀井勝一郎『愛と祈りについて』146 頁。大和書房。
2 厚生労働省の統計データによると、1947 年には日本人の平均寿命が男性 50.66 歳、女性 53.96 歳、1950 年には平均寿命が男
性 58 歳、女性 61.15 歳であった。しかし、1971 年に平均寿命が男性 70.17 歳、女性 75.15 歳となって、男女共に 70 歳を越えた。
「日本人の平均余命」厚生労働省統計情報部。2002 年。
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/life02/index.html
3 2003 年 5 月 5 日において、日本における単独世帯は 23.3%。核家族世帯は 59.7%。三世代世帯は 10.4%。その他の世帯は 6.6%
である。平成 15 年国民生活基礎調査概要 厚生労働省。2003 年。
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa03/1-1.html
『第三次国民生活審議会答申』第二部第二章第三節「家庭の変化と課題」内閣諮問委員会。1970 年。
http://www.consumer.go.jp/kankeihourei/shingikai/spc03/toushin/spc03-toushin_1-2_2_3.html
4 日本において、1951 年には施設内死亡 11.4%、施設外死亡 88.4%(自宅 82.5%)で、八割以上が自宅で死を迎えていた。しか
し、1977 年には施設内死亡 50.6%、施設外死亡 49.4%となり、病院や老人ホームなど施設内で死を迎える数が、自宅などの
施設外で死を迎える数よりも多くなった。さらに 2002 年には施設内死亡 83.9%、施設外死亡 16.1%
(自宅 13.4%)
となっている。
施設外死亡日本における施設内死亡と施設外死亡の統計データ。厚生労働省統計表データベース。
http://wwwdbtk.mhlw.go.jp/toukei/index.html
5 総務省統計局国勢調査、ならびに警察庁生活安全局地域課『平成 15 年中における自殺の概要資料』参照。平成 16 年 7 月。
http://www.npa.go.jp/toukei/chiiki4/jisatu.pdf
6 全国ホスピス・緩和ケア病棟連絡協議会編『ホスピスってなあに?』5 頁。NHK 厚生文化事業団。2003 年。
7 浄土真宗本願寺派伝道社会部「ビハーラ活動の理念と方向性」ホームページ。
http://www2.hongwanji.or.jp/social/vihala/html/rinen.html
8 大正大蔵経 2 巻 767 中。
9 恵心僧都全集 1 巻 170-172 頁。石田瑞麿訳『往生要集 2 日本浄土教の夜明け』133-136 頁。真宗聖教全書 1 巻 854-855 頁。
浄土真宗聖典七祖篇注釈版 1044-1045 頁。本願寺出版社。
10 国宝山越阿弥陀図 Amida Buddha Coming Over Mountains, Japanese National Treasure, Eikando Zenrinji, Kyoto,
12-13Century, Silk Standing Screen, height 138.0com, width 118.0cm 山越阿弥陀図には、なだらかな稜線のつづく山々の向
こうから、転法輪印を結んだ阿弥陀如来が、正面を向いて上半身をあらわしている。阿弥陀如来の背後には、大海が広がっ
ている。観音菩薩と勢至菩薩が踏みわり蓮華に立ち、白い雲に乗って山を越え、往生人に向かって今まさに来迎せんとする
44
様子が描かれている。画面左上のすみには、月輪[がちりん]中に、大日如来の種子「阿」字が記されている。密教の『大
日経疏』などによれば、阿字は、本不生[ほんぶしょう]、すなわち、
「あらゆるものが空であり生滅がないこと」「万有の根源」
を象徴する。阿字には、行者が宇宙と 1 つになるという意味が込められている。山裾には、桜や紅葉が描かれ、日本人の愛
する自然がこの絵に込められていることがわかる。
国宝山越阿弥陀図は、高野山で行われていた真言浄土教の念仏の本尊とされる。
この阿弥陀如来の両手には、五色の糸をつけていた孔が残っている。また、阿弥陀の白毫[びゃくごう]が深く数枚の裏
打紙に達するまでえぐりとられている。この図の白毫が深くえぐりとられているのは、ここに水晶などの珠を差し込んだか、
もしくは、この部分に孔をあけ、絵の裏から夕日や灯火をちらつかせとされている。白毫から放たれた光は、次第に意識が
遠のいていく病人を照らし、安心を与えたことだろう。山越阿弥陀図を中世当時の屏風仕立てに復元してみると、一つ一つ
の絵が、見るものに立体的に迫ってくる。観音・勢至の二菩薩は、優しく手をさしだして、病気の気持に寄添うような感覚
がある。なだらかな山々や四天王は、病者を包みこんでいく。病人に迷いや苦しみの山々がありながらも、その山越しに、
阿弥陀仏が今、病者をそのまま救うことを、この絵は実感させたことだろう。
11 恵心僧都全集 1 巻 172-181 頁。石田瑞麿訳『往生要集 2』139-149 頁。真宗聖教全書 1 巻 855-861 頁。七祖註釈版聖典 1045-1046 頁。
12 恵心僧都全集 1 巻 178 頁。七祖註釈版聖典 1055 頁。
13 鍋島直樹「法然における死と看死の問題(2)」龍谷大学論集 436 号。1990 年。
14 「往生浄土用心」昭和新修法然上人全集 564 頁。
15 「御臨終の時門弟等に示される御詞」法然上人全集 724-725 頁。
16 黒谷上人語灯録 12。
17 『末灯鈔』12 通 註釈版聖典 785 頁。
18 『末灯鈔』1 通 親鸞 79 歳 註釈版聖典 735 頁。
19 浅井成海「親鸞の生死観」343 頁。日本仏教学会編『仏教の生死観』平楽寺書店。1981 年。
20 『末灯鈔』6 通 親鸞 87 歳 註釈版聖典 771 頁。
21 『歎異抄』第 9 章 註釈版聖典 837 頁
22 『末灯鈔』6 通 註釈版聖典 771 頁。拙稿「親鸞とその門弟における死の超克」357 頁。真宗学 97・98 号。1988 年。
23 『末灯鈔』14 通 註釈版聖典 767 頁
24 世界保健機関(WHO)編『がんの痛みからの解放(第 2 版)』 金原出版 1996 年。世界保健機関(WHO)編『がんの痛みからの
解放とパリアティブケア』 金原出版 1993 年。
25 澤田愛子「死と孤独−−末期患者の心理的苦悶をみつめて」114 頁。樋口和彦・平山正実編『生と死の教育−デスエデュケ−ショ
ンのすすめ』創元社
26 山崎章郎著『病院で死ぬということ』「息子へ」214 頁。文春文庫。
27 中村元選集第 12 巻『ゴータマ・ブッダ 2』188 頁。春秋社。
28 鈴木章子著『癌告知のあとで』80 頁。探求社。
29 前掲書 201 頁。
30 前掲書 31 頁。
31 前掲書 232 頁。
32 中島みどり著『白蓮華のように−あなたに会えてよかった』21 頁 -24 頁。本願寺出版社。2001 年。
33 平野恵子著『子どもたちよ ありがとう』7 頁。法蔵館。
34 前掲書 18-19 頁。
35 前掲書 36 頁。
36 前掲書 37-38 頁。
37 日本医師会第Ⅷ期生命倫理懇談会 『医療の実践と生命倫理についての報告』25 頁。2004 年 2 月 18 日。
http://www.med.or.jp/nichikara/seirin15.pdf 筆者はこの生命倫理懇談会の委員をつとめた。
38 前掲書 20 頁。
39 前掲書 20 頁。
40 「シシリーのような深くて明確な信仰は、ともすると信仰を同じくしない人々に敵意や恐れさえも引き起こすこともあると
思います。これが起きていないのは、シシリーの側で妥協したり、自分の意見を変えたりしているためではないようなのです。
なぜなのでしょう。どうしたら、そういうことができるのでしょうか。それに明確には答えることはできませんが、恐らく
シシリーの信仰の持ち方は、同じ信仰を持っていない人を非難するように聞こえないためではないかと思います。ですから、
その信仰はもちろん脅威に感じられることもありません。つまり、少なくとも一人一人の人(患者とは限りませんが)に価値
を見出そうとするので、人はそれぞれ自分が人を愛したり、何かを与えたりすることができる人間なのだということがわか
るようになるのでしょう」(シャーリー・ドルプレイ著 若林一美他訳『シシリー・ソンダース』221 頁。日本看護協会出版。
1989 年)
41 Naoki Nabeshima,
“Shinran's Approaches towards Bereavement and Grief: Transcendence and Care for the Pain of
Separating from Loved Ones in Shinran's Thought", CCSBS On-line Publication Series 3. Institute of Buddhist Studies
Press. Berkeley, 2001, http://www.shin-ibs.edu/ccsbs4.htm
また、大谷光真(浄土真宗本願寺派門主)は、こう記している。「では亡くなった方と私たちとをつなぐものは、もう思い
出しかないのでしょうか。いいえ、私たちは、亡くなった方とともに生きていくことができます。人は亡くなって仏さまに
なります。浄土真宗の考え方では、生きているときに阿弥陀さまの願いを聞き、お念仏申す人は、この世のいのちが終わる
と阿弥陀さまの国に生まれて、仏さまになります。この仏さまとは、「力」や「はたらき」をいうのです。ちょうど季節の
訪れのようなものだといえばおわかりいただけるかもしれません。……仏さまも同じです。仏さまもまた、姿かたちでその
存在がわかるものではありません。私たちが、仏教の勉強をしたり、お寺へお参りをしたり、おつとめをしたりする、そう
した仏縁が重なるなかで、感じられるようになってくるものです。亡くなった方のお骨や思い出は過去のものでしかありま
せんが、仏さまとなった方とこころを通わせることは、現在も未来も、永遠に可能です。仏さまと私たちとは、常に一緒に
いられるのです。」(『朝には紅顔ありて』150-152 頁。)
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● ● ● ●
黄金の言葉—先人の心に学ぶ
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恵信尼の死の受けとめ方
恵信尼文書第八通
「わかさ殿」
便りをよろこびて申し候ふ。
さては、今年まであるべしと思はず候ひつれども、今年は八十七やらんになり候ふ。寅の年のもの
にて候へば、八十七やらん八やらんになり候へば、いまは時日を待ちてこそ候へども、年こそおそろ
しくなりて候へども、しはぶくこと候はねば、唾など吐くこと候はず。腰・膝打たすると申すことも
当時までは候はず。ただ犬のやうにてこそ候へども、今年になり候へば、あまりにものわすれをし候
ひて、耄れたるやうにこそ候へ。・・・
わが身は極楽へただいまにまゐり候はんずれ。なにごともくらからず、みそなはしまゐらすべく候
へば、かまへて御念仏申させたまひて、極楽へまゐりあはせたまふべし。なほなほ極楽へまゐりあひ
まゐらせ候はんずれば、なにごともくらからずこそ候はんずれ。
※「わかさ殿」………………親鸞と恵信尼の末娘、覚信尼とされる。覚信尼の侍女とみ
る説もある。
※ 時日を待ちてこそ候へ……浄土へ往生させていただく時を待っているばかりです。
※ なにごともくらからず……どんなことも明らかにご覧になることができますから。
※ かまへて……………………必ず。
46
(恵信尼 87 歳の手紙。第八通 注釈版聖典 823-824 頁 本願寺出版社)
妙好人 石見の才市 妙好人[石見の才市]顕彰会
浅原才市は嘉永 3 年
(1850)
石見国大浜村小浜
(現温泉津町小浜)
に生まれ、父は要四郎、母はスギといっ
た。
才市 45 歳のとき、父が 82 歳で往生した。父の死後、「親の遺言、南無阿弥陀仏」と才市の求道の
念は激しく燃え、60 歳を過ぎた頃から彼の心は次第に明るく開け、如来様の絶対のまことの心が自
分に働きかけ、そして自分を包んで下さるという感動が自然に「南無阿弥陀仏」とともに「口あい」
(詩)
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となって口からあふれ出るようになった。それをカンナ屑や下駄の歯切れに書きとめて、何度も読み
返し味わって「お念仏」を喜んでいた。
その一生は、才市自身の言葉通り「帳面つけるも南無阿弥陀仏」「ご恩うれしや南無阿弥陀仏」の
生活であった。のちにすすめられて「口あい」をノートに清書し、そのノートは約 70 冊にもなり、
歌われた詩は 1 万首に及んだ。才市の日常生活は、実に平凡な目立たないもので、ただよくお参りす
るお同行であったが、その詩を読むとその信仰は例えようもなく深く、浄土真宗の信心の極致を示し
ている。まさに鈴木大拙博士が絶賛された「日本的霊性」そのものである。
「かぜをひけば せきがでる
さいちが ごほうぎのかぜをひいた
ねんぶつのせきが でる でる」
なんと素晴らしい歌であろう。浄土真宗の自然法爾の世界が実に素直に詩われている。如来様のお
慈悲の確かさを心ゆくまで味わっていたのである。
わしわ せかいのひとの
ほをとをにんであります
ゆうもいわんもなく
をやがしぬればよいとをもいました
なしてわしがおやわ
しなんであろうかとをもいました
このあくごを だいざいにんが
これまで こんにちまで
だいちが さけんこにおりましたこと
わしがちちをや 八十三さい
を上しました を上どさまえ
わしがははをや 八十四さい
を上しました を上どさまえ
わしもゆきます やがてのほどに
をやこ三にんもろともに
しゅ上さいどのみとわなる
ごをんうれしや なむあみだぶつ
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あくにあく あくをかさねて
しゃばでもつくる
あさましとは みなをそだ
をそだ をそだ わしがな みなあくだ
ええも わるいも みなあくだ
あさましが ないならば
みだの上をどわ できんのに
あさましがあるゆえに
こさえてもろた みだの上どを
しぬること あじよて(味わって)みましょ
しぬるじゃのうて(なくて)いきること
なむあみだぶに いきること
なむあみだぶつ なむあみだぶつ
いきること
きかせてもろたが なむあみだぶ
うれし うれし いきるがうれし
なむあみだぶつ
さいちゃ りん十すんで そをしきすんで
みやこに こころすませてもろて
なむあみだぶつと うきよにをるよ
ええな
せかいこくうが みなほとけ
わしもそのなか なむあみだぶつ
わしほど しやわせなものわない
にんげんに うまれさせてもろて
またごくらくに うまれさせてもろて
なむあみだぶつ なむあみだぶつ
妙好人[石見の才市]顕彰会
〒 699-2511 島根県大田市温泉津町大字小浜
安楽寺内
TEL:(0855)65-2241
FAX:(0855)65-3248
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かる
妙好人 お軽の歌
むつれじま
お軽
(1801 〜 1857)
は、下関市六連島に育ち、感受性豊かで、飾らない勝ち気な女性でした。そのため、
同じ島に住む若い男性たちは、彼女の負けず嫌いの言動に反感をいだき、
「お軽の所へは婿養子に行っ
てはいけない」とまで言うようになります。お軽はこれが胸にこたえ、自分の気性の激しさを反省し
ます。
ようやくご縁あって、お軽は幸七を婿養子に迎えます。ところが、その後幸七が、ある女性と懇意
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になりました。島の仲間たちは幸七に味方をして、その事実を隠しますが、ついにお軽は夫の浮気を
知って、逆上し、幸七を責め立てます。それを見た島の人々は「幸七は日頃お軽の尻に敷かれている
ので、よそに出た時ぐらい浮気するのはあたりまえ」と彼女を冷笑するのです。お軽は二人の子供を
抱いて、玄界灘の岸に立ち、死のうと思いました。
さいきょうじじゅうしょくげんどうし
追いつめられたお軽は、西教寺住職現道師に、自分の苦しさをうち明けます。すると、現道師は「幸
七のことは、あなたにはかえってよかった」と言うのです。「人が苦しんでいるのに、よかったとは
何事ですか。」とお軽が怒ると、「こんなことでもなければ、あなたは仏法を聞くような人ではないか
ら、よかったといったのだよ。」と現道師が答えます。お軽は腹を立てて帰ってしまうものの、やが
て現道師のことばの深い意味に気づき、ひるがえって仏法を求めます。お軽の熱心な聴聞は、島の内
外に及びました。それでも真実の世界に安住できません。三十五歳の時、お軽は死を宣告されるほど
の重病にかかりました。病の床で彼女は「ごいんさん、ごいんさん」と呼びつづけました。病床にあっ
てなお現道師の法話を聞くのです。そしてとうとう彼女のつらかった心にみ仏の慈悲がしみわたりま
よろこ
す。真実の歓びにつきうごかされて、お軽は次の歌を記しています。
聞いてみなんせまことの道を 無理なおしへじゃないわいな
まこときくのがおまへはいやか なにがのぞみであるぞいな
げんぜ
自力はげんでまことはきかで 現世いのりにみをやつす
しあん
思案めされやいのちのうちに いのちをはればあとじあん
りょうげ
領解すんだるその上からは ほかの思案はないわいな
ただでゆかれるみをもちながら おのがふんべついろいろに
おのがふんべつさっぱりやめて 弥陀に思案にまかしゃんせ
(大洲彰然著『お軽同行物語』100 頁。永田文昌堂)
この後、幸七とお軽は仲良く一緒にお寺にお参りするようになりました。
私たちは自分の思いにしがみついて生きています。「なぜこの私の想いをわかってもらえないのか」
と。苦しみの原因は自分自身の執着にあります。私は小さな世界に行き詰まったとき、お軽の歌を声
に出して読みます。するとみ仏の広々とした慈悲が私にしみとおって、素直で自由な心が開けてくる
のです。
49
九条武子『無憂華』
「悪の内観」
(『無憂華』1927 年)
「善をよろこび悪をにくむは人情である。しかし悪を嫌って顧みなかったら、悪は永久に救われると
きがないであろう。善はすすめるべきことである。しかし何人(なんぴと)も、みずからの善をほこっ
てはならない。むしろ他の悪によって、みずからの悪に泣くところがなかったならば、みずからの内
面が、つねに悪の炎に燃えていることも気づかずにいよう。みずからの悪をかえりみ得ないものは、
ともすれば自我の小善を高ぶりがちである。御同朋の上よりすれば、善人も悪人も、ひとしく求道の
親しい友である。私たちは善そのものの肯定よりも、悪そのものの肯定によって、しみじみとみずか
らの内面を、反省させられずにおられない。」(『九条武子 歌集と無憂華』170 頁。野ばら社)
「慈眼のまえに」(『無憂華』)
「救いのめぐみにかくれて、つねに悪しきを重ねているのは悲しい。私たちはほとけの慈悲に馴れて、
もてあそ
ほとけを弄んではならない。みずからの弱い貧しさをかえりみると同時に、めぐまれた救いの喜びを
味わう。弱きものこそ強くありたい。
あわれわれ生々世々の悪をしらず慈眼のまえになにを甘ゆる 」
(前掲書 186 頁)
「幼児のこころ」(『無憂華』)
「幼児が母のふところに抱かれて、乳房をふくんでいるときは、すこしの恐怖も感じない。すべてを
ひざまず
託しきって、何の不安も感じないほど、遍満している母性愛の尊きめぐみに、跪かずにはおられない。
いだかれてありとも知らず おろかにも われ反抗す 大いなるみ手に
しかも多くの人々は、何ゆえにみずから悩み、みずから悲しむのであろう。救いのかがやかしい光の
そじゅん
なかに、われら小さきものもまた、幼児の素純な心をもって、安らかに生きたい。大いなる慈悲のみ
はぐく
手のまま、ひたすらに久遠の命を育みたい。——大いなるめぐみのなかに、すべてを託し得るのは、
美しき、信の世界である。」
(前掲書 160-161 頁)
「罪のなげき」(『無憂華』)
「道をもとむる人のなかに、ともすれば人生を罪深いものとして、これを否定しようとするものがある。
おのの
しかしながら否定し得ない現実の前には、何人も心おどろき慄かざるを得ないのである。救済のひ
かりは、悩めるもののためにかがやいている。ひかりは呪われた罪をこそ照らしてくれる。悩みのあ
るところ、ひかりはつねに、悩めるものと共にあるのである。
光に照らし出されたよろこびを味わうものは、また罪のなげきを味わうものであろう。否定し得な
い罪をみつむるものこそ、真実に救いのよろこびを受け入れることが出来る。」
50
(前掲書 200 頁)
「無言の啓示」(『帰命』)
「光は闇をもとめて歩む。尊き啓示は高くかかげられていながらも、導きのままに久遠の光にふれ得
ない生けるものすべては、みずから宿業の扉を固く閉ざして、我執の闇路にさまようていることが知
やわ
いだ
られる。しかも歎きのあるところ、光はつねに慈愛の翼をひろげて、心いためるものを軟らかに抱き
あげる。
迷妄の深き霧を隔て、愛しきわが生命を、永劫に光明と告別してはならない。」
(前掲書 262 頁)
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あれを見よ 明日は散りなむ 花だにも 生命(いのち)の限り ひと時を咲く
九条武子(1887 〜 1928 明治 20 〜昭和 3)
西本願寺・大谷光尊の次女として生まれる。12 歳で男爵・九条良致に嫁ぐ。夫が正金銀行ロンドン支店勤務となったため渡英。
1 年半にして単独帰国。後、孤独を守った。佐々木信綱に師事。大正三美人の一人に数えられ、才色兼備の麗人として有名。
仏教婦人会の創設や京都女子大学の創立に携わった。1923(大正 12)年 9 月 1 日、関東大震災で築地の家を焼かれ、淀橋区下落
合の借家に移る。関東大震災を縁として、悲惨な被災者や孤児の救援に努めるなど、さらに率先して社会事業に取り組んだ。
1920(大正 9)年、処女歌集『金鈴』を発行、1927(昭和 2)年、歌集『無憂華』を出版した。1928(昭和 3)年、41 歳のとき、
震災以来の過労から発病、1 月 17 日青山の磯部病院に入院。1 月 27 日敗血症と診断される。2 月 7 日夜、合掌して念仏を称えつ
つ 41 歳の生涯を終える。亡くなった後に追悼歌集『白孔雀』が出版された。
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足利義山
『義山法語』
甲斐和里子編
三女おとぢ大病にかかれりと
きき進徳教校よりおくりし文
ひとへに仏の御ちからにて助けたまはるなれば、たとひ歓喜の心のおこればとて、これにて参らる
ると思ふべからず。また歓びのなければとて、かくては参られまじと、気遺ふべからず。
ただ思ひだせしときは、いつにても、今の心のままにて助けたまふとはありがたやと思ひて、称名
相続するばかりなり。
それにて往生のちがうことあらば、仏も蓮台には居らじと約束したまひしうへなれば、さらに気遺
ひあるべからず。
ただこのあさましきままを、おとさぬとある仏をたよりとして外に何事も考ふるに及ばず。
ありがたき心はおこらずとも、御礼の称名わするることなかれ。
いよいよ重患となり往生の日もせ
まれりとききふたたび遺はせし文
不定のさかひに候へば、誰が先だちまうすべきやらん、一日もゆだんならず候へば、かならずかな
らず御慈悲をわすれざるよう心がけらるべし。
わが心をさぐりて、いろいろ案じ候へば、ワヤワヤとわからぬやうになるべければ、それをばまま
よとうちすてて、このままを御助けとよろこぶべし。
よろこばれぬときは、無理によろこぶにも及ばず、ただ称名して、御助けをまつばかりにすべし。
往生浄土の望みなきにはあらざれども、常に世のことに心みだされ、道心もおこらず、浅間しくあ
かしくらすにつけて、このありさまにては御助けもあるまじなど気遺ふはあやまりなり。
かかる懈怠のものをも救いたまふ大願業力のありがたさよとよろこぶべし。
わが心をいろいろ案じまはして、これにてよきか、あしきかと願力の手強き御手もとを外へとりの
けて、要らぬ心配をなすべからず、いつにても未来のこと思ひいで候ときは、何事も引受て助けんと
ある御喚声を仰ぎたてまつるべし。
そればかりにて、何時おそろしきやまひにとりあひ、称へず念ぜずして、苦しきまま命終り候とも、
蓮台にて眼をさまさせたまふことを、一念発起平生業成とは仰せられたるなり。
かへすがえす往生のことについては、一切如来様が引うけて居てくださるから、おまへは、ちつと
も心配せいでよろしく候。あらあらかしこ。
長男日野義淵が大学病院にて危篤に
陥りたる時半紙一まいに大きく書き
ておくりし文
マイルハカライヲスルニアラズ。マイラシテクダサルヲマツバカリナリ。
52
(『義山法語』甲斐和里子編。6 頁 1 行目〜 10 頁 1 行目。百華苑。1955(1985)年)
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慚愧
み光のうちにすむ身のおろかにも
死ぬてふことは淋しかりけり
よろこびの日に日に近くなりゆくを
よろこびえざるわが心かな
おどりあがりよろこぶべきをよろこばぬ
われをあはれとみそなはすらん
辞世
生まれずは覚らじとこそ誓ひてし
弥陀の御国へ今ぞゆくなれ
(58 頁 7 行目〜 59 頁 5 行目)
足利義山(1824 〜 1910)
江戸時代後期から明治時代にかけた浄土真宗本願寺派の真宗学研究者。宗学は、僧叡の門弟である慧海や泰巌に学んだ。1849
年備後の勝願寺に入る。大教校教授、広島の博練教校総監などを経て 1890 年大学林教員となる。1891 年法嗣大谷峻麿(光瑞)
の学事係を務め、大谷学問所において教行信証などを進講した。この年、東陽円月と滅罪義論争を展開し、円月の「体滅相存説」
を批判して「いわれ滅罪説」を主張した。1891 年勧学となり、1895 年西本願寺の安居で「正信念仏偈」を講義した。1897 年大
学林綜理に就任した。1890 年仏教大学(龍谷大学)講師。僧叡の学系を承けるが、学派にこだわらず空華学派などの学説を広く
尊重し、折衷的な学風を築いた。著書に、『教行信証摘解』9 巻、『真宗百題啓蒙』、『真宗俗門』、『真宗弁疑』、『二種深信対問』
など多数。足利瑞義、甲斐和里子の父である。
53
甲斐和里子『草かご』
み仏を呼ぶわが声は
よ
み仏のわれを喚びますみこゑなりけり
み仏のみ名を称えるわが声は
わが声ながら尊かりけり
ともすれば 人のうへいうこの舌も
み
な
仏の御名を呼ぶときのあり
やっかい
手に合わない 厄介な我の心を
み
て
如来の大きな御手に お渡しする
西の方遠にまします御仏は
わが心にも亦ゐますなり
み
と
みほとけ
泣きながら 御戸を開けば 御仏は
え
たヾうち笑みてわれを見そなわす
ともしびを 高くかかげて わがまへを
行く人のあり さ夜なかの道
思ふことなる世なりせば
こ
籠のうちの鳥をみそらにみなはなたまし
岩もあり 木の根もあれど さらさらと
たださらさらと 水のながるる
(甲斐和里子著・佐々木徹真編『新修 草かご』百華苑出版。1964)
甲斐和里子(1868 〜 1962 明治元〜昭和 37)
1899(明治 32 年)に、甲斐和里子(旧姓・足利)は、松田甚左衛門の助力を得て、京都市下京区東中筋通花屋町上ルに顕道女学院(現
在の京都女子学園)を創立。和里子は女性の地位向上のためには仏教精神に基づく女子教育が大切であると決意し、女子教育の
樹立に尽くした。
54
中村久子『こころの手足』
◆中村久子の苦悩と求道
中村久子は幼い頃、突発性脱疽がもとで両手両足を失い、一時は失明の苦しみまで経験しました。
心中まで思い詰めた母も、しかし娘に独立して生きる道を選ばせるため、縫い物の猛特訓を始めます。
その後、父親の死、母親の再婚、義父の冷たさ、見世物興業への売却など、苦難がつづきます。中村
久子は、想像を絶するような苦しみの渦中で、生きていくために芸を身につけていきます。芝居小屋
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に雇われて口だけで文字を書いてみせました。
中村久子は、見世物小屋時代に、そのつらい経験を書いた文章が認められて、雑誌に掲載されます。
それが縁となり、努力してきた久子の境涯が世間に注目されました。そして、全国の学校や婦人会や
寺院で、苦しみのなかで生き抜く道を講演して歩くようになります。しかし久子は心の中に、自分の
苦しい経験を人に説いて聞かせてあげているという慢心を見つけて悩んだとされます。
◆『歎異抄』との出会い
東京のある婦人会に招かれたとき、福永鵞邦という書家で熱烈な浄土真宗の門信徒に出あい、その
姿に心動かされました。そしてついに久子は、大須賀秀道の『歎異抄真髄』を読んで、親鸞の心に出
あうのです。
『歎異抄』との出会いによって、久子は傲慢な自我を見いだし、最初に自分を支えてくれた見世物
小屋に、もう一度ありのままの姿で戻っていくのです。この姿は、飾らない素直さをもって生きるこ
とが自分の生きる道であり、逆境の中でこそいのちは煌めくということを学ばれたのでしょう。
「そのお言葉はまさに旱天に慈雨。長い間土の中にうずめられていた一粒の小さい種子がよ
うやく地上にそうっと出始めた思いがしました。そして幼い日に抱かれながら聞いた祖母の
念仏の声が心の裡にはっきりと聞こえたのです。どれほど自分で考えてみたところで何がで
きよう。そうだ、お念仏をさせて頂きましょう。そして仏様にすべてはおまかせ申し上げよ
う。ようやく真実の道が細いながら見出せた思いがいたしました。」
(中村久子『こころの手足』135 頁。春秋社。1971 年)
◆苦しみの中で見開いた世界
中村久子は、苦しみの中で見出した救いを、次のように表現しています。
「はからおうとしても
何一つ自分の力で
はからうことをようしない私
はからえないままに 生かされている私」
「怒りのままに
腹立ちのままに
かなしみのままに
与えられないままに
足らないままに
生かされているこのひととき
55
手足の無いままに生かされておる
真理の鏡によって 自分の
心のとびらを そうっと開いて のぞく
そこにはきたない おぞましい自己がある——
そして 今日も無限のきわまりない
大宇宙に 四肢無き身が
いだかれて 生かされている——
ああこの歓喜 この幸福を
「魂」を持っておられる誰もが共に
見出してほしい
念願いっぱいあるのみ——。」
(中村久子『こころの手足』146 頁)
「逆境こそ恩寵なり。」
「人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はない。」
「どんなところにも生かされていく道はございます。」
(黒瀬昇次郎『中村久子の生涯』292 頁。致知出版社)
「人間には絶え間のない苦しみがある。夫に先立たれた妻、子に死なれた親、一生身動きす
らもできないお気の毒な方もあります。どんな境遇の人でも、その苦しみや、かなしみを、
ぐちや、不平で終わることなく、それを喜びにかえていただくことが、善知識と思わせいた
だき、われ一人の助かりでなく、人さまにも喜びをお分けさせていただくのでございます。」
ある ある ある
さわやかな
秋の朝
「タオル 取ってちょうだい」
「おーい」と答える
良人がある
「ハーイ」という
娘がおる
歯を磨く
義歯の取り外し
かおを洗う
短いけれど
指のない
まるい
つよい手が
56
(黒瀬、前掲書 306-307 頁)
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
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何でもしてくれる
断端に骨のない
やわらかい腕もある
何でもしてくれる
短い手もある
ある ある ある
みんなある
さわやかな
秋の朝
(中村久子『こころの手足』156 〜 157 頁)
中村久子(1897 〜 1968 明治 30 〜昭和 43)
明治 30 年 11 月 25 日、飛騨高山市に釜島栄太郎、あやの長女として生まれる。3 歳のとき、足の霜焼けがもとで突発性脱疽
となり、ついに両手両足を失う。7 歳の時、父の死に遭う。8 歳の時、母の再婚により、藤田家の一員となる。大正 5 年、自ら
見世物小屋に売られ、荷車に乗せられて郷里高山を出る。同年、名古屋大須「宝座」で「だるま娘」の看板で、見世物芸人の生
活が始まる。大正 9 年、弟栄三、母あやと相次いで肉親の死に遭う。大正 10 年、中谷雄三と結婚、翌年、長女美智子生まれる。
大正 12 年、夫雄三と死別。大正 12 年、進士由太と結婚、翌年、次女富子生まれる。大正 14 年、夫由太と死別。大正 15 年、定
兼俊夫と結婚、昭和 2 年、三女妙子生まれるも翌年死別。離婚。昭和 9 年、中村敏雄と結婚。昭和 12 年 4 月 17 日に東京日比谷
公会堂において、ヘレンケラー女史と会見、口で縫った日本人形を贈る。この頃から頼まれて講演に出るようになる。昭和 17 年、
22 年間の見世物芸人生活に訣別する。講演が多くなり、婦人会、母の会、お寺、傷痍軍人会、学校、刑務所等を廻る。夫や娘に
負われて全国を歩いた講演は死ぬ直前まで続いた。昭和 18 年『宿命に勝つ』刊行。昭和 23 年、京都府立盲学校においてヘレン
ケラー女史と再び会見する。昭和 24 年『無形の手と足』刊行。昭和 30 年、同じ盲学校において、ヘレンケラー女史と三回目の
会見をする。昭和 30 年『私の越えてきた道』刊行。昭和 33 年、甲斐和里子と対談し、
『大乗』昭和 33 年 7 月号に掲載。昭和 37 年、
NHK ラジオの人生読本で、「御恩」と題して放送。昭和 40 年、高山市国分寺の境内地に悲母観音像を建立。昭和 42 年、座古愛
子女史の 23 年忌の法要を、神戸祥福寺と神戸女学院でつとめ、『座古愛子女史の一生』を編著刊行。昭和 43 年 3 月 19 日、高山
市の自宅において永眠、72 歳。普行院釈尼妙信。
57
青木新門『納棺夫日記』
人は、自分と同じ体験をし、自分より少し前へ進んだ人が最も頼りとなる。・・・
親鸞には、少し前を行くよき人(法然)がいた。
末期患者には、激励は酷で、善意は悲しい、説法も言葉もいらない。
きれいな青空のような瞳をした、すきとおった風のような人が、側にいるだけでいい。(青木新門著『納
棺夫日記』136-137 頁。文春文庫。1996 年)
「・・・・ 世の中がとっても明るいのです。スーパーへ来る買い物客が輝いて見える。走りまわる子ど
もたちが輝いて見える。犬が、垂れはじめた稲穂が、雑草が、電柱が、小石までが輝いて見えるので
す ・・・・」
このように全てが光に包まれた世界は、普通の人には見ることができない。
親鸞は、見えなくてもいいのだという。見えないままに、その不可思議光を信じなさいという。
極重悪人唯称仏
我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見
大悲無倦常照我
——救いようのない者たちよ、みんな光の中にいるのだ。今はただ、煩悩に遮られて見えな
いだけである。しかし大悲(光)は、永遠に輝いて、私たちを照らしつづけている。だから
念仏を称えていればよいのだ——
私は、湯灌・納棺をしていた頃、死者と私
だけがぽっかりと光に包まれているような奇
妙な経験をしたことがある。
限り無い欲望の螺旋階段が、何かの拍子に
崩壊し、
真っ逆様に落下しながら見たものは、
か弱い生命の光であった。焼け野原の戦災の
あとにみる一輪の花のようでもあった。(前
掲書 138-139 頁)
青木新門
1937 年、富山県入善町に生まれる。早稲田大学中退後、富山市内で飲食店を経営したが倒産。新聞の求人広告をみて、冠婚葬
祭会社に就職。専務取締役を経て、現在は相談役を務めている。「納棺夫」とは、著者の造語であり、その体験を『納棺夫日記』
に結実した。著書に、詩集『雪原』、エッセイ集『木漏れ日の風景』『人間を観る』(共著、法蔵館出版、2006 年)など。
58
金子大榮『歎異抄領解』
月夜、遠方の友を思ふ。われ月光となりて友を音訪へるのである。華を贈りて病者を見舞ふ。われ
花となりて病床を慰問せるのである。情至れば形ある身もなほこの自在の業を為すことができる。ま
して永遠の真実と一味ともならば、何事か思ひのままならぬものがあらう。われは万象となりて神通
を現はし、万象はわれとなりて妙法を説くに碍りはないのである。
花びらは散っても花は散らない。形は滅びても人は死なぬ。永遠は現在の深みにありて未来に輝き、
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常住は生死の彼岸にありて生死を照らす光となる。その永遠の光を感ずるものはただ念仏である。
(金子大榮「歎異抄領解」『金子大榮選集 第十五巻』34 頁。在家仏教協会。1956 年)
※もとは『意訳歎異抄』(昭和 24 年(1949)4 月刊行。全人社)に、この言葉は書かれている。『意
訳歎異抄』は、金子大榮 69 歳の時に執筆され、歎異抄第 4 章の意訳の箇所に上文が書かれている。
金子大榮(1889-1975)
1889 年新潟県中頸城郡高田最賢寺に生まれる。 真宗大学卒業。1911 年浩々洞の雑誌『精神界』の編集担当。東洋大学教授、
真宗大谷大学 教授、広島文理科大学講師、1951 年大谷大学名誉教授に就任。1975 年 10 月 20 日逝去。
59
村上速水『親鸞教義の誤解と理解』
「生死を超克する道」
生の一面がどれほど満たされても、死の前には空しいものでしかない。生の底に死が横たわり、死
のために常に生が脅かされているかぎり、生の充実はありえない。死が乗りこえられてこそ、生が真
に充実するのである。仏教が死の解決を説くのは、そういう意味からである。決して生と切り離され
た死の解決を説いているのではない。聖人が求めた「生死いづべき道」とは、そういう道であった。
生死を超克する道であった。生死の枠外に出ることである。生と死にわずらわされない世界をもつと
いうことである。それは生死の帰依処を得ることにほかならないであろう。・・・
生死の苦海ほとりなし
ひさしくしずめるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
のせてかならずわたしける
(『高僧和讃』龍樹讃)
ちぐう
という和讃は、聖人が本願(弘誓)に値遇した讃歌である。
「生死出づべき道」の前には、この世のものはすべて空しく無力なものでしかなかった。生死の帰
依となるものは、念仏でしかなかった。それが
煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもて、そらごと、たわごと、まこ
とあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします
(『歎異抄』後序)
という述懐であった。これがあの問いに対する答えであった。したがって聖人の説く「まこと」とは、
生死の帰依処を意味している。「念仏のみぞまこと」という念仏とは、単に死の解決のためにあるの
ではない。それに依って生き、そこに安らかに死んでゆけるものが、聖人における念仏なのである。
60
(村上速水『親鸞教義の誤解と理解』104-107 頁。永田文昌堂。1984 年。)
『病いに生かされて─親鸞を慕う人生─』
「うれし」と「ありがたし」
数年前に亡くなられた広島の斉藤正雄翁は、希有の念仏者であったが、その生涯には幾多の苦難の
時代があったと聞く。その晩年には、よく「私は損をして嬉しいとは思わないが、有難いと思う」と
しみじみ述懐されたことを想い出す。「うれし」と「ありがたし」と、どう違うのか。何となく分る
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ような気もするが、はっきり分らない。……中略……
私が病気になって、京都市立病院に入院しているときに、あるご婦人が見舞いに来られて「病気を
敵にしてはいけません。病気を友として仲良くして下さい」といわれた。その時、内心では「馬鹿な
ことをいうな、他人のことだと思って。この苦しみがわかるものか」と思ったことがある。
ところが最近では斉藤翁と同じように、「病気をして嬉しいとは思わないが、有難いと思う」よう
になった。先の婦人の言葉も素直に頷けるようになった。そこで私流に両者を比較すれば、「ありが
たし」とは、病気をしてはじめて今まで気づかなかった喜びの再発見であり、「うれしさ」にはその
ような語感はない。だから「うれしさ」は「シンプルなよろこび」であり、「ありがたし」は「屈折
したよろこび」である。そしてそれは、まさしく「転悪成善のよろこび」に外ならない。
(『病いに生かされてー親鸞を慕う人生ー』141 − 142 頁。樹心社。1987 年)
村上速水(1919-2000 大正 8 年〜平成 12 年)
大正 8 年、岡山県後月芳井光栄寺に生まれる。昭和 17 年、応昭、三年間兵役に従事。昭和 22 年、鹿児島県薩摩郡桶脇町比野
永照寺に移籍。昭和 41 年、龍谷大学教授。昭和 44 年、龍谷大学宗教部長。昭和 52 年、龍谷大学文学部長。昭和 53 年、病気の
ため辞任。昭和 56 年、浄土真宗本願寺派勧学を授与。昭和 60 年、安居本講を命じられ、『正信念仏偈』を講ず。昭和 61 年改悔
批判与奪を命ぜられる。平成 12 年、往生。
著書に、『人生の考え方』百華苑、『親鸞読本』百華苑、『親鸞教義の研究』永田文昌堂、『道をたずねて』教育新潮社、『親鸞
教義の誤解と理解』永田文昌堂、『正信念仏偈讃述』永田文昌堂、『親鸞教義とその背景』永田文昌堂、『親鸞聖人のことば−わ
かりやすい名言名句』法蔵館、『病に生かされて−親鸞を慕う人生』樹心社、『教行信証を学ぶ—親鸞教義の基本構造』永田文昌
堂など。
61
信楽峻麿『この道をゆく』
「父を見送る心」
父が残した言葉
つい先日、父が死んでゆきました。九十五歳という長寿をめぐまれて、ローソクの焔が燃えつきる
ように、ほんとうに静かに息たえてゆきました。かねてより覚悟していた父との別れではありました
が、やはりいまの私にとっては、心の中に大きな穴があいたようで、深い寂寞を覚えずにはおれませ
ん。あらためて親というものの存在観を思うことであります。
その父が、危篤状態に陥ったとき(それからまたしばらく生きながらえたのですが)のことです。い
つも地元の福原医院の若先生に往診していただいていたわけですが、そこの老医院長先生は、父と小
学校時代の級友で、長い交流を続けて今日に至っておりました。そこで父が危篤ということを知られ
たこの老先生は、自分も九十歳過ぎの老体をおして、看護婦さんをたよりに、わざわざと私の家にま
でお見舞、往診してくださいました。その時、この先生は、ひととおりの診察のあと、聴診器をはず
しながら、父に顔を近づけて、
「ご老院、あと、もうしばらくですぞ。私もあとから参りますからな」
と声をかけてくださった。父は分かったのでしょう。ものは言えないままに、軽くうなずきながら、
両手を合わせて感謝の意をあらわしました。私はこの光景にふれて福原老先生の人柄を思うたことで
あります。世間には名医といわれる人は多いでしょうが、このように臨死の患者に向って、死期の真
近かさを告げ、自分もまた、と語りうる医師がどれほどあるでしょうか。医師とは、身の病を治し、
心の病いを看とることを務めとするものであるとすれば、この老先生のような方こそ、まことの名医
というべきではないでしょうか。私は、こういう医師に看とられて死んでいった、父の仕合わせを思
わずにはおれません。
父は、私たち家族のものにあてた遺言状を書いておりました。まだ元気だったころに認めたものと
思われますが、仏壇の引き出しの中におさめてありました。そこには、人間の世界に生まれえたこと
の不思議さと、家族としての出あいの宿縁を深く思えということ、そして念仏を大切に生きよ、浄土
で待っている、という教誡の言葉が書かれておりました。
私には兄がおりましたが、四十数年まえに、若い生命のまま病没しました。この兄もまた死の直前
に、
「またあおう」といい残してゆきました。父も兄も、私に向って再会を約して死んだのです。い
まの私には、父の「浄土で待っている」という遺言と、兄の「またあおう」という別れの言葉は、と
もに重い意味をもった言葉として、くりかえして私の胸奥にひびいてまいります。
現代の人々の中には、このような父や兄の言葉、そしてそれをめぐる私の思いについて、そんな死
後の話などとうてい認められないと、一笑に附す人も少なくないと思われます。しかしながら、私は
この父の遺言と兄の別れの言葉を、末とおる真実の言葉として、すなおに受けとめ、その言葉の如く
に、父や兄らとの再会を楽しみつつ、これからの人生を生きてゆきたいと念じております。
未来が見えてくる叡知
そこで私はこう思います。人間がもつところの知恵には、科学的な叡知と宗教的な叡知があるとい
うことです。その科学的な叡知とは、広狭浅深さまざまな相違はあるとしても、現代人の誰もが身に
つけているところの知恵であって、人類はこのような叡知にもとづいて、多くの文明を築きあげ、今
日のような歴史や社会を進展せしめてきたわけです。
62
そしてもうひとつの宗教的な叡知とは、いまは仏教における叡知について、ことには親鸞聖人の教
えによって申しますと、念仏を申す日々の世界を通してひらけてくるところの、この世を越えた出世
なる「信心の智慧」を意味します。人間はこの信心の智慧においてこそ、はじめて真実に出あい、人
間に生まれたことの尊さを思うようになります。そしてこの信心の智慧によれば、いままでの世俗の
知恵では見えなかったものが、新しく見えてくる、知られてくるようになってきます。いま父がその
遺言において「浄土で待っている」と申し、兄が「またあおう」といい残した言葉の意味する世界は、
たんなる世俗の次元のことがらではありません。それはひとえに、このような、出世なる信心の智慧
によって、たしかに見ひらかれた世界についていったものにほかなりません。
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今日における科学的な叡知によれば、古い過去の歴史について、さまざまに測定し、細かに解明す
ることができますし、また未来についても、対象によっては的確に予知できるようになってきました。
たとえば、何十年か先きの日蝕が生じる時間は、一秒の狂いもなく正確に計算されますし、テレビの
天気予報も、ほとんど間違いなく明日の空模様を知らせてくれます。
それと同じように、宗教的な叡知としての信心の智慧によるならば、また私自身の過去と未来につ
いて、明確に知見することができます。親鸞聖人が、自己の現実相を深くみつめて、その過去におけ
る無始以来の罪の宿業を痛み、また仏の大悲摂取を念じて、その未来における往生成仏を喜ばれたの
は、いずれも、このような信心の智慧にもとづいて見通された世界でありました。もとより、ここで
いう科学的な叡知によって見られ、知られるということと、宗教的な叡知としての信心の智慧にもと
づいて知られてくるということは、同じ知られるといっても、まったく次元を異にするものでありま
す。両者は決して混同されてはなりません。しかしながら、それらの叡知によれば、ともに過去が知
られてき、未来が見えてくる、分かってくるわけであります。
仏の生命をたまわる
親鸞聖人が教えられた本願念仏の道とは、このような宗教的な叡知としての、「信心の智慧」を身
にうることにほかなりません。そしてこの信心の智慧をうるものは、またその必然として、この世間
を越えた、まことなる仏の生命をたまわって生きてゆくことができるようになります。親鸞聖人が、
信心の智慧をうるものは、
「如来の家に生まれる」
(行文類)と明かされ、またその信心を釈すについて、
「本願を信受するは前念に命終するなり。即得往生は後念に即生することなり」(愚禿鈔)
といい、信心とは、生まれたままのこの世俗の生命に死して、新しく仏の生命にたまわって生きてゆ
くことであると語られるゆえんであります。
私はものの生命には、およそ三種の生命があるといいうるように思います。その第一の生命とは、
もっとも素朴な生命のことで、微生物に宿っているような生命、さまざまな植物に見られるような生
命のことです。人間についていえば細胞の生命です。人間の身体は総計五十兆くらいの細胞によって
成りたっているといわれます。その細胞のひとつひとつに生命があるわけで、それはつねに休むこと
なく次々と分裂して、古い細胞は死んでゆき、新しい細胞が生まれてきます。何か月かのあいだには、
細胞の全部が入れかわってしまうのだそうです。そしてそのような細胞は、たとえ人間が死んでも生
きているわけです。土葬した死体を何日めかにだして見たら、口ひげや爪がのびていたといわれるこ
とがありますが、これはその死体の細胞がまだ生きていたことを物語るものであります。最近やかま
しくいわれるようになった、心臓や腎臓の移植ということも、このように、人間は死んでも細胞は生
きているということから、それを取りだして他人の身体に移植しようというのです。生命というもの
を問題にするときには、先ずこのような、もっとも素朴な生命というものが考えられてきます。
そして第二の生命とは、人間ひとりひとりの個体を成りたたしめているような、人格としての生命
をいいます。そのような生命は、たんに人間のみではなく、犬や猫などのすべての動物にもひろげて
63
考えることができましょう。第一の生命体としての細胞がたくさん集まって、ひとつの個体、人格や
犬格、猫格が形成されている、そういう個体における生命です。このような生命は、第二の生命とい
われるべきものでありましょう。この第二の生命は、第一の生命に支えられ、その新陳代謝によって
成りたち、相続されてゆくわけであります。ふつう私たちが生命といっているものは、このような個
体としての、第二の生命を申しているわけであります。
しかしながら、私はいまひとつ、そのような第一の生命、第二の生命に対して、第三の生命という
もの、さきほど申した宗教的な叡知によって見いだされるところの、宗教的な生命とも言うべき生命
を思うのです。それはひとえに、念仏において、信心を開くことにおいて、仏からたまわるところの
「仏の生命」であります。それはもはや、この世の生命ではありません。この世の生命は、いずれも
限りある生命であり、迷えるものとして地獄ゆきの生命でありますが、この仏の生命とは、無量寿と
して、
信心の開発において、
「如来の家に生まれる」ことにより、また「後念に即生する」ことによって、
仏よりたまわるところの永遠の生命であります。肉体は滅びても死ぬことのない生命です。ある先達
が、花びらは散っても花は散らない世界がある、と語られましたが、まさにそういう永遠に散ること
のない花そのものの純粋生命をいうわけです。浄土真宗において、浄土に往生すると語るのは、この
ような仏の生命をたまわって、新しい生命に生まれ、真実の生命を生きてゆくことを意味するものに
ほかなりません。
私の父が「浄土で待っている」と遺言し、兄が「またあおう」といい残した言葉は、まさしくそう
いう第三の生命、仏の生命をたまわって生きる世界の中で語られたものでありましょう。私はいまあ
らためて、父や兄が残した言葉を通して、そういうもうひとつの真実の生命、永遠の生命というもの
を深く思念し、そういう生命をたまわって生きることの喜びをおぼえることです。(昭和 62 年 8 月)
(信楽峻麿著『この道をゆく』127 頁 -138 頁。永田文昌堂。1988 年)
信楽峻麿(1926 〜)
1926(大正 15)年、広島県教円寺に生まれる。昭和 17 年、浄土真宗本願寺派にて得度。昭和 20 年、学徒徴兵により北海道旭川
部隊に入隊。昭和 27 年、平安高等学校教諭として勤務。昭和 45 年、龍谷大学文学部教授。昭和 50 年、教円寺住職に就任。昭
和 56 年、龍谷大学文学部長。平成元年、龍谷大学学長。平成 7 年、財団法人仏教伝道協会第 6 代理事長に就任、現在に至る。
著書に、
『浄土教における信の研究』永田文昌堂、
『真宗教団論』永田文昌堂、
『真宗入門』百華苑、
『安心決定鈔講和』よび声社、
『宗教と現代社会』法蔵館『この道をゆく』永田文昌堂、
『親鸞における信の研究』上・下二巻、永田文昌堂、
『みちしるべ−教—』
仏教伝道協会、
『仏教の生命観』法蔵館、
『教行証文類講義』第 1 巻 - 第 9 巻、法蔵館、
『親鸞と浄土教』法蔵館、
『親鸞とその思想』
法蔵館など。
64
あした
大谷光真『朝に紅顔ありて』
「
『後生の一大事』という言葉があります。「後生」すなわち、私がこの世の生を終えた後に受ける、
いのちの世界、それを「一大事」の問題として見据えながら人生を生きる、という意味が込められて
います。これは先ほどの「メメント・モリ」につながる表現といえるでしょう。『後生の一大事』は
日常生活を超えたところにあるいのちの問題を、私たちに突きつけた言葉です。私たちは死んだらど
うなるのか、どこへ行くのか、地獄へ堕ちるのか、極楽浄土に往くのか、これを解決せずして、この
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世に生まれてきた意味はないということです。『後生の一大事』が教えるのは、「死」に思いをめぐら
せるということは、生きる意味を考えることと表裏一体をなしているということです。「死」につい
て考えることにより、その人の「生」は、きっと深く充実したものになるはずです。」
(『朝には紅顔ありて』146-147 頁。角川書店)
「亡くなった方と私たちとをつなぐものは、もう思い出しかないのでしょうか。いいえ、私たちは、
亡くなった方とともに生きていくことができます。人は亡くなって仏さまになります。浄土真宗の考
え方では、生きているときに阿弥陀さまの願いを聞き、お念仏申す人は、この世のいのちが終わると
阿弥陀さまの国に生まれて、仏さまになります。この仏さまとは、
「力」や「はたらき」をいうのです。
ちょうど季節の訪れのようなものだといえばおわかりいただけるかもしれません。・・・・ 仏さまも同
じです。仏さまもまた、姿かたちでその存在がわかるものではありません。私たちが、仏教の勉強を
したり、お寺へお参りをしたり、おつとめをしたりする、そうした仏縁が重なるなかで、感じられる
ようになってくるものです。亡くなった方のお骨や思い出は過去のものでしかありませんが、仏さま
となった方とこころを通わせることは、現在も未来も、永遠に可能です。仏さまと私たちとは、常に
一緒にいられるのです。」 (『朝には紅顔ありて』150-152 頁。角川書店。2002 年)
大谷光真(1945 〜)
1945 年京都市生まれ。東京大学文学部印度哲学科卒業。龍谷大学大学院文学研究科修士課程修了、東京大学大学院印度哲学
専攻修了、1960 年に得度、1977 年に浄土真宗本願寺派門主の法統を継承、親鸞聖人から数えて第二十四代の門主。その後、三
度にわたり、全日本仏教会会長を務める。現在、全国教誨師連盟総裁。著書に『朝には紅顔ありて』角川出版、『さとりと信心』
本願寺出版、仏典講座『浄土論註』大蔵出版、『現代における宗教の役割』東京堂出版、『願いに応える人生』本願寺出版など。
65
永観堂への道しるべ
永観堂の略史
おく山の岩がき紅葉ちりぬべし、
照る日の光、見る時なくて
「古今集」
しんじょうそうず
この歌は、平安時代初期に、永観堂(禅林寺)を創建された弘法大師の弟子真 紹僧都(797 〜
873)の徳を慕って、自分の別荘を寄進した藤原関雄の詠んだ歌である。それから後今日まで、幾
多の文化人達の筆や口にもてはやされ、親しまれてた“モミジの永観堂”は、千百有余年のかがや
かしい歴史を持った京都有数の古刹である。
しん き
創建にあたって、真紹僧都は「禅林寺清規」に、「仏法は人によって生かされる、従って、我が
建てる寺は、人々の鏡となり、薬となる人づくりの修練道場であらしめたい。」照り映えるモミジ
葉の輝きにも負けぬ、知徳とともにすぐれた人材養成の理想の旗印に揚げられたので、風光の美し
さとともに、伝統的に各時代の指導的人材輩出を数多く見た。
みな人を渡さんと思う心こそ
極楽にゆくしるべなりけり
「千載集」
ようかん り っ し
と詠まれた永観律師(1033 〜 1111)はことに高名である。律師は、自ら「念仏宗永観」と名の
られる程、弥陀の救いを信じ、念仏の道理の基礎の上に、当時、南は粟田口、北は鹿ヶ谷に到る東
山沿いの広大な寺域を持った禅林寺の境内に、薬王院という施療院を建て、窮乏の人達を救いその
薬食の一助にと梅林を育てて「悲田梅」と名付けて果実を施す等、救済活動に努力せられたことは、
多くの史書にみえる。
じょうへんそうず
鎌倉時代の初め、源頼朝の帰依をうけた真言宗の学匠静遍僧都(〜 1224)が、法然上人(1133
〜 1212)の死後、その著「選択本願念仏集」にある念仏義を批判するために、再三再四読み下す
うちに、
自らの非を覚り、誹謗の罪をくいて、上人をこの寺の十一代に推し、高弟西山証空上人(1177
〜 1247)に譲ることを墓前に誓われたことに起因し、今日まで、約八百年永観堂は浄土宗西山禅
林寺派の根本道場として、法灯を掲げている。
永観堂の文化財
「着色山越阿弥陀図」
(国宝・平安時代)、「金銅蓮華紋磬」
(国宝・唐代)、阿弥陀如来木像(みかえ
り阿弥陀・鎌倉時代・重文)、「絵本金地墨画波涛図」
(重文・長谷川等伯)など国宝重文級五十八点
が特に有名。その他多数の障壁画。阿弥陀堂、釈迦堂、納骨堂、鐘楼、勅使門、中門は京都府の指
定文化財
(平成 17 年指定)
浄土宗西山禅林寺派
総本山 永観堂 禅林寺
〒 606-8445
京都市左京区永観堂町 48
TEL:075(761)0007
FAX:075(771)4243
http://www.eikando.or.jp/
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後 援
歐亞美術
〒104-0031 東京都中央区京橋2-9-9 ASビルB1F
Tel&Fax:03-3561-5273
中村久子女史顕彰会
〒506-0857 岐阜県高山市鉄砲町2番地 真蓮寺内 三島多聞
Tel:0577-34-2507
妙好人[石見の才市]顕彰会
〒699-2511 島根県大田市温泉津町大字小浜 安楽寺内
Tel:0855-65-2241
浄土宗西山禅林寺派 総本山 永観堂禅林寺
〒606-8445 京都市左京区永観堂町48
Tel:075-761-0007
執筆者
武田龍精 当センター長。龍谷大学文学部教授。 文学博士。真宗学。
ユニット1代表。
内藤知康 龍谷大学文学部教授。本願寺派勧学。 真宗学。
ユニット2
鍋島直樹 当副センター長。龍谷大学法学部教授。仏教の思想。
ユニット2代表。
研究協力者
大谷光真 浄土真宗本願寺派第24代門主
信楽峻麿 仏教伝道協会理事長。龍谷大学元学長。文学博士。真宗学。
ユニット2。
矢田了章 龍谷大学文学部教授。真宗学。
ユニット2。
龍溪章雄 龍谷大学文学部教授。真宗学。
杉岡孝紀 龍谷大学文学部助教授。真宗学。
ユニット1。
殿内 恒 龍谷大学社会学部助教授。真宗学。
ユニット2。
玉木興慈 龍谷大学文学部助教授。真宗学。
ユニット1。
井上善幸 龍谷大学文学部専任講師。真宗学。
ユニット2。
美術研究者
栗田 功 歐亞美術・日仏交易株式会社 代表取締役。
ガンダーラ美術研究者。主著『ガンダーラ美術Ⅰ・Ⅱ』二玄社
展示協力者
青木正範 龍谷大学学術情報センター主幹。大宮図書館。
リサーチアシスタント
巖 照正 打本未来 北岑大至
この出版は、
文部科学省オープンリサーチセンター整備事業(平成 14 年度∼18 年度)
の研究成果です。
死を超えた願い─黄金の言葉
Aspiration Transcending Death: Golden Words
2006年6月14日 初版第一刷発行
編 者 鍋 島 直 樹
発行所 龍谷大学 人間・科学・宗教 オープン・
リサーチ・センター
製 作 河北印刷株式会社
Buddha’
s Head, Stucco, Talberra, AD3-4C
中村久子
(1897~1968)
九条武子
(1887~1928)
龍谷大学
Padma
非 売 品