図録 - 人間・科学・宗教オープン・リサーチ・センター

龍谷パドマ9
宮沢賢治の銀河世界
The Galactic Realm of Kenji Miyazawa: A Quest for The True Happiness of All Beings and Things
鍋島直樹 編
み ん な の ほ ん と う の さ い わ い を さ が し に
文部科学省オープン・リサーチ・センター整備事業
(平成19年度〜平成21年度)
龍谷大学 人間・科学・宗教 オープン・リサーチ・センター
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
パドマ −Padma−
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
パドマ(Padma)とは汚泥の中から咲く紅蓮華のことです。
人間・科学・宗教 オープン・リサーチ・センターは、科学、生命倫理、環境、共生、社会福
祉の課題に対し、本学の建学の精神の意に沿いながら、グローカルに発信することを目的
にしています。
研究展示パドマ館では、貴重文化財の展示とともに、「人間と銀河系との一体感」「いの
ちあるものすべてへの慈悲」をわかりやすく提示していきます。
Padma is a lotus flower which is a symbol of Buddhism.
The lotus lives in muddy waters but rises above to clean air; then it blooms into a gorgeous
flower. This resembles man living in the world of suffering and rising above that world into the
land of purity.
至心館近影
至心館及研究展示館「パドマ」(Exhibit Hall Padma)
至心館の「至心」とは真実を顕します。至心館は「真
実を求め、真実に生きる」という本学建学の精神に基づ
いた、本学らしい特色ある研究を推進し、世界に発信し
て欲しいとの願いから命名されたものです。
至心館2階に研究展示館「パドマ」があります。この
研究館では、「仏教生命観に基づく人間科学の総合研
究」のもと、パネルや貴重文化財を展示し、「生きとし
生けるものへの慈愛」「民族の共生を願って」などの
テーマをわかりやすく学習できるようにしています。
目 次
ごあいさつ 龍谷大学 人間・科学・宗教オープン・リサーチ・センター長 鍋 島 直 樹 …… 2
展示品図録
宮沢賢治の座像 幼童期肖像 宮沢賢治と妹のトシ 宮沢トシ肖像 宮沢賢治と弟の清六肖像 宮沢賢治の立像 宮沢賢治自筆スケッチ 菩薩像 宮沢賢治『春と修羅』「永訣の朝」自筆原稿 銀河鉄道のジオラマ 岩手軽便鉄道の写真 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』自筆原稿 『銀河鉄道の夜』にみる鉱物 黒曜石でできた天の川の地図 イギリス海岸の写真 宮沢賢治ゆかりのバタグルミ 『雨ニモマケズ』手帳 宮沢賢治画「日輪と山」
アインシュタインと宮沢賢治 愛の人として(斉藤文一監修 アインシュタインLOVE日本実行委員会)
井堂雅夫 木版画作品 井堂雅夫 『よだかの星』(サンマーク出版)絵本原画作品 佐藤国男 木版画作品 3
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論文・解説
宮沢賢治記念館の特別展「風の又三郎」
▪特別講演▪ 宮沢賢治の銀河世界 『銀河鉄道の夜』の深層 宮沢賢治の仏教的人間観 すべてのものはつながりあってできている 22
宮 澤 和 樹 …… 29
鍋 島 直 樹 …… 33
信 楽 峻 麿 …… 59
『銀河鉄道の夜』にみる賢治の妹トシへの思い 鍋 島 直 樹 …… 62
宮沢賢治の一生とその作品にみられる仏教観 白 石 明 子 …… 75
無限なるもの 井 上 善 幸 …… 88
“Strong in The Rain”by Kenji Miyazawa 『雨ニモマケズ』の全頁写真 日本医師会 …… 90
91
宮沢賢治の五つの作品について 『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『貝の火』『よだかの星』『虔十公園林』
92
宮沢賢治の童話に関する学生の感想文 95
宮沢賢治の年譜と生涯 宮沢賢治記念館のご紹介 宮沢賢治学会イーハトーブセンターのご紹介 林風舎のご紹介 井堂雅夫プロフィール・ギャラリー雅堂のご紹介 佐藤国男プロフィール・山猫工房のご紹介 仏教の人間観 103
108
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ごあいさつ
人間・科学・宗教オープン・リサーチ・センター研究展示パドマ館にご来場いただき、
誠にありがとうございます。文部科学省、ならびに、関係各位には、当センターに対し、
格別のご支援をたまわり、心より御礼申し上げます。
このたび、パドマ館において、「仏教生命観」
「仏教人間観」をテーマに研究をすすめて
参りました第₂ユニットの主催による、
「宮沢賢治の銀河世界──みんなのほんとうのさ
いわいをさがしに」の展観を開催いたします。
宮沢賢治(1896年8月27日生〜1933年9月21日没)はこう記しています。
「みんなむかしからのきょうだいなのだから
けっしてひとりをいのってはいけない。
」
(
『春と修羅』
「青森挽歌」)
「自我の意識は個人から集団社会宇宙へと次第に進化する。この方向は古
い聖者の踏みまた教えた道ではないか。新たな時代は世界が一の意識に
なり生物となる方向にある。正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に
意識して、これに応じていくことである。
」
(
『農民芸術概論綱要』)
ふりかえってみると、私たちの世界ははたして一つの意識になっているでしょうか。私
たち人間は、銀河系のなかにすむ兄弟として助け合っているでしょうか。戦争やテロ、虐
待や自殺の連鎖は、人々が相互に理解できずに、それぞれの闇の中で行き詰まっているこ
とを示しています。いつの時代にも大切なのは、あらゆるものが相互に支えあうことであ
り、ほんとうの幸せを願う慈愛です。宮沢賢治が示すように、人間と動植物、さらには宇
宙との一体感は、あらゆるいのちへの感謝と慈しみを生みだしていくことでしょう。
この展示に際し、岩手県花巻市、宮沢賢治記念館、宮沢賢治学会イーハトーブセンター、
林風舎の宮澤和樹代表取締役、アインシュタインLOVE日本実行委員会、日本医師会、新
潟大学名誉教授 斉藤文一氏、木版画家の井堂雅夫氏ならびに佐藤国男氏にご協力を賜り
ました。皆様のご尽力により、宮沢賢治記念館による『特別企画展 風の又三郎』
、
『銀河
鉄道の夜』や『春と修羅』直筆原稿、宮沢賢治と妹トシ、弟宮沢清六、岩手軽便鉄道の写
真などを展観することができました。ここに厚く御礼申し上げます。この展示をご縁に、
ぜひ花巻を訪ねてみてください。賢治の亡き後、弟の清六をはじめとする宮澤家に有縁の
方々や賢治を愛する研究者・芸術家が、彼の作品の真価を守りつづけておられます。
2008年新春には、井堂雅夫絵本原画展『よだかの星』(サンマーク出版)を特別公開させて
いただきたいと存じます。この展示を機縁として、子どもから大人まで、世界中の人々と
ともに、かけがえのないいのちを尊重する心を育んでいきたいと願っています。
龍谷大学 人間・科学・宗教オープン・リサーチ・センター長
鍋 島 直 樹
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展示品図録
宮沢賢治の座像(大正13年)
花巻農学校教諭時代。上着は鹿皮の陣羽織を
仕立て直したもの。この頃初めて著書二冊を
刊行。年末賞与。87円。 (宮沢賢治記念館)
幼童期肖像
宮沢賢治5歳と妹のトシ3歳頃の小正月。
(宮沢賢治記念館)
宮沢トシ肖像(大正7年頃)
大正8年東京の日本女子大卒業。同9〜10年花巻
高等女学校教師。同11年11月27日24歳で死去。
賢治の悲しみは深い。
(宮沢賢治記念館)
宮沢賢治と弟の清六肖像
「仙台にて、
陸軍大演習後(大正14年10月頃)左 宮澤清六 右 宮澤賢治」
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宮沢賢治の立像(大正15年)
花巻農学校付近。この年国民高等学校講師兼
任。3月退職し羅須地人協会開設。12月上京
し高村光太郎に会う。 (宮沢賢治記念館)
宮沢賢治自筆スケッチ 菩薩像
賢治は「求道すでに道である」という。発心
し仏道を求めるとは、すでに菩薩行道(実践)
を進んでいることである。
(宮沢賢治記念館)
宮沢賢治
『春と修羅』
「永訣の朝」
自筆原稿
妹の死を悼む一連の挽
歌群が含まれている。
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銀河鉄道のジオラマ(龍谷大学 人間・科学・宗教オープン・リサーチ・センター)
岩手軽便鉄道
大正4年に花巻と仙台峠間が開通した岩手軽便鉄道は、外国製十余台の機関車で三陸沿岸への交通に往復した。岩
手軽便鉄道は、宮沢賢治にとって『銀河鉄道の夜』のイメージを膨らませた。
(宮沢信一郎撮影)
(宮沢賢治記念館)
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』自筆原稿 第1葉
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』自筆原稿 第73葉
入沢康夫監修・解説『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の原
稿のすべて』参照。1977年。
(宮沢賢治記念館)
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『銀河鉄道の夜』にみる鉱物
ルビー原石
「蝎の火」「鋼玉」
(コランダム)
(『銀河鉄道の夜』)
サファイヤ原石
「青宝玉」「鋼玉」
(コランダム)
「アルビレオ(白鳥区)
」
(
『銀河鉄道の夜』
)
水晶
「この砂はみんな水晶だ。中で小さな火が燃えている。」(『銀河鉄道の夜』
)
「小さな錐の形の水晶の粒」(『やまなし』)
トパーズ原石
「黄玉」
(
『銀河鉄道の夜』)
ムーンストーン原石
「月長石ででも刻まれたような、すばらしい紫のり
んどうの花が咲いていました。
」
(
『銀河鉄道の夜』)
オパール原石
『貝の火』のモデル。様々な色を宿し映すとともに、
熱と乾燥に弱く割れやすい。蛋白石
黒曜石でできた天の川の地図
黒曜石の原石
カムパネルラは、円い板のようになった地図を、
しきりにぐるぐるまわして見ていました。「この
地図はどこで買ったの。黒曜石でできてるねえ。」
(
『銀河鉄道の夜』
)
(十勝工芸社による作品)
イギリス海岸
「プリオシン海岸」
のモデル。
(
『銀河鉄道の夜』)
(宮沢清六撮影)
宮沢賢治ゆかりのバタグルミ
「くるみの実だよ。そら、
沢山ある。
(
」
『銀河鉄道の夜』)
(宮澤和樹氏よりいただいた写真)
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『雨ニモマケズ』手帳
賢治の没後、宮沢清六が兄賢治のトランクから発見した。昭和
6年10月上旬頃から、年末もしくは翌年1月頃まで使われたとさ
れている。「雨ニモマケズ」の詩は、11.3の日付があり、賢治
35歳の時に書かれたと推定されている。
宮沢賢治画「日輪と山」(水彩画)
制作年代不詳。
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南天の銀河系中心 「日輪と山」(Ⓒ 林風舎)
「さそり座から南十字星へ」
「銀河系の人」
特異(超自然的)な賢治画(水彩画)
暗黒星雲が顕著。
宮沢賢治の宇宙観の源泉。
撮影:藤井 旭 アインシュタインによる若者たちへの呼びかけである。きみたちが日頃抱いている願
宮沢賢治の銀河系・生命観をめぐって
望は、きみたち自身が、全ての生きものにたいする愛と理解を果たすことなしには、決
してみたされないだろうという。愛の人・アインシュタインのメッセージである。それは、
賢治の「おお、朋だちよ」にもつながる。彼もまた熱烈な愛の人であった。賢治画は、日
賢治によれば、妹が行った死の彼方では、時間の進み方も、物のあり方も違うという。
そういう世界は、高次元の確かな法則の空間であって、眼には見えないけれども、こちら側の
現実世界をも貫徹しているのではないだろうか。
そこから、今彼の手もとに、
「ひときれの手紙」が届いた。それを読み解き、そこから生きていか
輪と山という二つのものが、宇宙の中での不思議な出会い。全体は超自然的な光景で、
ここには賢治の法華経信仰が燃焼しているのだ。アインシュタインと賢治は異なった信
仰から同じ愛の道へと辿り着いていったのだ。
ねばならない。写真「南天の銀河系中心部」は、光明と暗黒とが激しく交錯する空間で、賢治の
宇宙観の源泉。写真「プレアデス星団」は、星のファミリーとしてもっとも美しいもの。
おまへは
その巨きな木星のうへに居るのか
鋼星壮麗のそらにむかふ
ああけれどもそのどこかも知れない空間で
光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか
………此処あ日あ永あがくて
一日のうちの何時だがもわがらないで……
ただひときれのおまへからの通信が
いつか汽車のなかで
わたくしにとどいただけだ
「無声慟哭」内「風鈴」 ああ、若者よ。知っているか? きみたちの熱烈な願いが満たされるためには、
人々の、そして動物、植物、
星々の愛と理解に達することが出来、
かくしてあらゆる喜びが自分の喜びとなり、
あらゆる苦痛が自分の苦痛となることが、
唯一の道であることを。
アインシュタイン 「アインシュタインと
宮沢賢治」
「プレアデス星団」
星団(星のファミリー)として、もっとも美しく、
古来、世界の諸民族で注目され、
信仰の対象にもなった。
賢治作品「雁の童子」もこれにちなむ。
撮影:藤井 旭
RCPGN&C
12
愛の人として
…おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園と
われらのすべての生活を一つの巨きな
第四次元の芸術に創りあげようでないか…
まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて
無方の空にちらばらう
宮沢賢治
RCPGN&D
」
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なべての悩みをたきぎと燃やし なべての心を心とせよ
風とゆききし 雲からエネルギーをとれ
われらに要るものは
銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である
「農民芸術概論網要」
「四次元時空」
時間と空間をあわせ持った
高次の存在として 銀河系が、年に一度、南の空に垂直に立った姿で出現する。地上のすべてのものを圧倒する存
在感である。地平線のあたりでは、光がたぎるように散乱する。中ではエネルギッシュな反応
が進行しており、四次元時空が緊密に入りくみ、エネルギーと物質は烈しく相互変換するのだ。
夏の夜、このような姿に出会った賢治は、そこに働いている四次元時空の力学を感じて、
「銀
河鉄道の夜」を構想した。そうして、
「正しく生きるとは銀河系を自らの中に意識し」と書き、さ
らに「われらは世界のまことの幸福を索ねよう」と書いたのである。
正しく強く生きるとは
銀河系を自らの中に
意識してこれに
応じて行くことである
われらは世界の
まことの幸福を索ねよう 求道すでに道である
「農民芸術概論網要」
こと
はくちょう
天頂
プリオシン・コースト
わし
銀河系
銀河系
直立する天の川
いて
さそり
東
地平線
(はくちょう座、
こと座、
わし座、
いて座へかけて)
宮沢賢治作品「銀河鉄道の夜」
の世界
撮影:藤井 旭
参照イラスト
「銀河鉄道の夜」
はどこを走るか
西
南
北上川
北上川
イギリス海岸
イギリス海岸
アインシュタインと宮沢賢治 愛の人として
修羅の渚
RCPGN&E
斉藤文一監修
(アインシュタインLOVE日本実行委員会)
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井 堂 雅 夫 木版画作品 井堂雅夫 木版画「宇宙の微塵となりて」
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Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
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井堂雅夫 木版画「宇宙の森」
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井 堂 雅 夫 絵本原画作品
『The Nighthawk Star(よだかの星)
』
(国際言語文化振興財団/サンマーク出版)より
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それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだ
がいま燐の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。
すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになって
いました。
そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。
今でもまだ燃えています。
(宮沢賢治『よだかの星』
)
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佐 藤 国 男 木版画作品 佐藤国男 木版画『銀河鉄道の夜』ケンタウルスの星祭
佐藤国男 木版画『銀河鉄道の夜』白鳥駅
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佐藤国男 木版画『注文の多い料理店』
佐藤国男 木版画『双子の星』
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佐藤国男 木版画『風の又三郎』
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佐藤国男 木版画『ポラーノの広場のうた』
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論文・解説
22
宮沢賢治記念館の特別企画展「風の又三郎」
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
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24
宮沢賢治記念館の特別企画展「風の又三郎」
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
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宮沢賢治記念館の特別企画展「風の又三郎」
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
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宮沢賢治記念館の特別企画展「風の又三郎」
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対談
「宮沢賢治の銀河世界」
宮澤和樹(みやざわ・かずき)
(株)林風舎代表取締役。
宮沢賢治の弟・清六の孫にあたる。
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▪おしゃれでユーモアのあった賢治さん▪
鍋島 私たちはテロ、凶悪犯罪、虐待など、信じられないような現実に直面しています。今、必要なの
は宮沢賢治さんが見た美しい世界ではないでしょうか。その世界の背景には仏教が存在します。今
日は、賢治さんの弟・清六さんのお孫さんで、賢治さんにまつわるさまざまな取り組みをされてい
る、林風舎代表取締役の宮澤和樹さんに岩手県花巻市からおいでいただき、賢治さんの仏教観や宇
宙観をお話いただきたいと思います。
宮澤 宮沢賢治というと、ストイックで暗いというイメージがあるようですね。私が甥の子どもだとい
うと、
「ああ、あの薪を背負っている人」と言われることがありました。二宮金次郎さんと間違え
てるんですね(笑)。しかし、私の家では「賢治さんはユーモアのある面白い人だった」と伝わっ
ているのですよ。
鍋島 うつむいて歩いているこの写真からきたイメージでしょうか。
宮澤 これはクラシック好きの賢治さんが、新しいカメラを買った友人にベートーベンの真似をして
撮ってもらった写真です。
鍋島 おちゃめな方だったのですね。
宮澤 そうですね。それにとてもおしゃれです。歩くのが好きで体格もがっちりしていました。
鍋島 賢治さんは浄土真宗の篤信の家庭で育ち、子どもの頃から暁烏敏など、そうそうたる仏教学者の
講義を受けていました。しかし、青年期には法華経の世界に入っていった。その理由はなんでしょ
うか。家への反発からでしょうか。
宮澤 私は研究者ではありませんので想像でしかありませんが、やはり父親との葛藤でしょうね。賢治
さんは子どもの頃から常にお寺に出入りしていましたが、当時、花巻の真宗門徒には裕福な家庭の
人が多く、賢治さんの家も質屋を営み、貧しい農民を相手にしていました。そのギャップを生活の
中で感じ、仏教とは?という疑問が生じたのでしょう。
鍋島 なるほど、当時の花巻には豊かな人々のための浄土真宗というイメージがあったのですね。
宮澤 日蓮宗は現世利益、この世の理想社会を実現することを打ち出しています。賢治さんは岩手県を
「イーハトーブ」、つまりドリームランドにしたかったのでしょう。当時、日蓮宗のお寺がなかった
花巻にお寺を造ったほどです。いやあ、しかしこういう話を龍谷大学でするのは、なんだか抵抗が
ありますね(笑)。
鍋島 父親の政次郎さんが息子の賢治さんを心配して、一緒に京都に旅行をしていますね。そのとき、
どうして比叡山に行かれたのでしょうか。
宮澤 比叡山は、最澄や法然や親鸞や日蓮など数多くのすぐれた仏教者たちが学んだ場所です。親鸞も
日蓮も学んだ仏教の総本山のような聖地をたずねることで、父親と息子賢治さんの心をつなごうと
したのかもしれません。
鍋島 なるほど、そうですね。賢治さんは父親にかなり反抗したようですが、お父さんの愛情も深いで
すね。
29
宮澤 そうですね、両親の愛情がなかったら、素晴らしい作品は生まれてなかったでしょうね。
▪「雨ニモマケズ」を記した手帳を復刻▪
鍋島 和樹さんは、あの『雨ニモマケズ...』が記された手帳を復刻されましたね。その中の「ヒドリノ
トキハ」の部分ですが、私たちは「ヒドリ」ではなく「ヒデリ」と習いましたが。
宮澤 これは作品として発表するつもりではなく、自分の心境を手帳に書いただけなのでしょう。手帳
には確かに「ヒドリ」とありますが、祖父の宮沢清六が高村光太郎氏らと一緒に編集するときに、
「ヒ
デリ」と改訂したそうです。一説に「ヒドリ」とは岩手県のある地域の方言で「日雇いかせぎ」を
意味するそうですが、祖父も「ヒドリ」という言葉は知らなかったそうですし、前後を考えて「日
照り」とした。他の部分には方言が入っていなかったからということもあります。
どっちが正しいか、というより僕はどちらでも良いと思います。それよりも「玄米四合」を戦時
中は「二合」に直されたと聞いています。そうした改訂の方が問題だと思っています。
鍋島 何かに偏ってしまうと、イメージが損なわれてしまいますからね。仏教は偏りのない心を大切に
しています。「ヒドリ」「ヒデリ」、どちらもそれぞれに深い意味がありますね。
宮澤 祖父は「中庸」という言葉を使いました。そのときの状況に合わせて柔軟に考えていけば良いと
いうことです。
鍋島 仏教では、一つの言葉にしがみつくのを「煩悩」といい
ます(笑)。
宮澤 齋藤孝さんの本『声に出して読みたい日本語』がヒッ
トして以来、日本語ブームというか、賢治の作品もまたま
た注目を集めています。それで『雨ニモマケズ』をコマー
シャルに使いたいという依頼がしょっちゅうあります。リ
フォーム会社だったり、消費者金融だったり(笑)。
私どもの林風舎は、宮沢賢治の作品、写真などのイメー
ジを守るために設立しました。没後50年で著作権はなくな
りますが、特定の会社のPR道具になるのは別です。賢治
■手帳「雨ニモマケズ…」
さんの人格を守るのは私たちの役目。写真にも必ずコピー
手帳の51〜59ページに記入。
昭和6(1931)年11月3日の日付。病床での密やか
な悲願自戒の記録。死後に発見された。
ライトのマークを入れてもらっています。
▪書くことは仏教の心を伝えること▪
鍋島 本当の賢治さんの心を守っていくということですね。もう一つ尋ねたいことがあります。その手
帳の詩の最後に「南無妙法蓮華経」とあります。これはこの詩のまとめの言葉なのでしょうか。
宮澤 「南無妙法蓮華経」がたくさん書いてある、曼荼羅ですね。「南無妙法蓮華経」が『雨ニモマケズ』
の作品に含まれるかどうかは、書いた本人にしか分からない。でも限定されないほうがいいと私は
思っています。
鍋島 身近な仏さまを手帳に書きとめて、守ってもらいたいと思っていたのかも知れませんね。
宮澤 この詩で重要なのは、
「東ニ病気ノコドモアレバ」
「西ニツカレタ母アレバ」などの次に続く「行ッ
テ」という言葉だと祖父は言っていました。待つのではなく、行って実践するということです。
鍋島 お祖父様は賢治さんの死後、ものすごい努力ですべての作品を出版されました。
宮澤 賢治さんは37歳で早逝しましたが、その代わり祖父は97歳まで生きました。世の中に宮沢賢治を
紹介しようという一念だったと思います。第2次世界大戦の空襲では、作品や手紙をもって防空壕
30
に飛び込み、味噌や醤油をかけて火から守ったそうです。そして、実家が全焼した時は「せいせい
した」と言っていましたね。やはり賢治さんと同じように、質屋や古着商の名残がある家が嫌だっ
たのでしょう。祖父はずっと古道具や古美術が嫌いで、ガラスやプラスチックが好きでしたね。
鍋島 童話『どんぐりと山猫』では、どんぐりの裁判をするときに、
「このなかでいちばんえらくなくて、
ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえら
いのだ」と言い渡しています。この言葉は、比べられないいのちを示したものでしょう。このよう
に宮沢賢治さんの童話には、仏教の世界観が流れていると感じます。
宮澤 それを伝えたいために書いたのだと思いますよ。賢治さんは国柱会という宗教団体に入りたいと
東京へ行きましたが、そこで「あなたができることで教えを伝えていきなさい」と諭されました。
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
それが文章を書くことだったのです。賢治さんは思春期の人に読んでほしいと言っていたそうです。
鍋島 仏教を伝える結晶が、童話だったのですね。僕は思春期が遅いのか(笑)、最近になって『注文
の多い料理店』の序文が大好きになりました。「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、
きれいにすきとほった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます…」。
宮澤 教科書で習った時は、暗い印象で宮沢賢治が嫌いだったけど、大人になってから好きになったと
いう人も多いですよ。年齢やその時の状況で受け止め方が違いますね。
鍋島 何度でも読めばいいのですね。ところで「桃いろの日光」は、岩手県には本当にあるのですか。
宮澤 ええ。花巻市は盆地で広い平野があります。朝もやの中、日が昇ってくると太陽の周りにモワモ
ワと光の筋が見えてきます。これが、チンダル現象というものなのでしょう。賢治さんは「光のパ
イプオルガン」と表現しました。
▪宇宙世界を知っていた科学者▪
鍋島 今日は『銀河鉄道の夜』に書かれている世界もお聞きしたいと思っています。タイタニック号で
亡くなった人たちも登場してきますね。
宮澤 ちょうどその頃、タイタニック号が沈んだことがニュースになっていた時でした。ちょっと前の
1922(大正11)年には、アインシュタイン博士が日本にやって来ました。賢治さんはそのアインシュ
タインの相対性理論と仏教観を科学的に結びつけて、4次元、5次元の世界を構築していった作品
です。タイタニックで亡くなった人が銀河鉄道に乗り込んでくるわけですが、ハレルヤが聞こえる
途中の駅で降りていきます。天国はサウザンクロスにありますが、仏教はまだまだ先にあるという
ことを言いたかったのではないか、と思っています。
ますむらひろし氏が漫画化したものがアニメになり、その音楽を元YMOの細野晴臣さんが担当
した。細野さんのお祖父さんは、タイタニック事故で日本人でただ一人助かった人ですが、大変な
バッシングを受けたそうです。それで細野さんはこの仕事は偶然じゃないと喜ばれました。
鍋島 なるほど。自分だけが生き残った罪責感もあったでしょう。孫が偶然、作曲にかかわったとなる
とうれしいでしょうね。『銀河鉄道の夜』では、どこまでも続いて循環している命や、相互に支え
合い自分と他人の区別を超えた世界が感じられますね。そして、農民の幸せを願って書いた『農民
芸術概論』も印象的です。
宮澤 祖父は『農民芸術概論』が賢治さんの作品の"根っこ"だと言っています。そこから童話などに枝
葉が広がったのだと。
鍋島 思想の根源がそこにあるわけですね。「まずもろともに かがやく宇宙の微塵となりて 無方の
空にちらばろう」という部分は、特に大切にしていた言葉だそうですが。
宮澤 微塵というのは肉体が死ねば宇宙に散らばり、再び、混沌として散らばっている状況から核にな
ることを繰り返す、エントロピーの法則のようですね。
31
鍋島 相互相関の世界ですね。
宮澤 賢治さんは科学者でしたね。ある日、宇宙飛行士の毛利衛さんが岩手に来られました。『銀河鉄
道の夜』を読んだことが宇宙飛行士になるきっかけになったそうです。「私はスペースシャトルに
乗ったけれど、賢治さんはなぜ宇宙の姿が見えたのでしょう」と祖父に聞くと、祖父はじっと考え
てから「たぶん、見えたのでしょうな」と答えた。すると毛利さんも「ふんふん」とうなずかれま
した。賢治さんはゴッホの絵が好きなんですが、ゴッホの作品に空が渦巻いた絵「星月夜」があり
ます。それが銀河系の渦と非常に良く似ているのです。ゴッホはなぜ空に渦があることを知ってい
たのでしょう。ゴッホも生前は作品が売れず、没後に弟の手によって世に出ました。賢治さんと非
常に似ています。
鍋島 清六さんが書かれた文章に、賢治さんは晩年、衰弱した身体で「もう大循環の風の中に溶け込ん
でしまいたい」とつぶやいたとあります。それが以前よりも明るい顔だったと。
宮澤 「風を感じていなければいけない、世の中が風で動いている」と賢治さんはよく言っていたそう
です。童話『グスコーブドリの伝記』では、火山を爆発させて冷害を防ごうという描写があります。
CO2を噴出させることで気温が上がることを知っていた。つまり温暖化を防ごうという知恵を賢治
さんはすでに持っていたといえます。これからもアッと驚くことが次々と分かるかも知れませんね。
鍋島 火山を爆発させるには人が一人必要。そこでブドリという子が手を挙げる。自分自身は宇宙の微
塵になって......いつ読んでもいい物語ですね。
宮澤 賢治作品もある時期が来れば忘れ去られると思いますが、ここ100年ぐらいは読み継がれるでしょ
う。曲げたり、変な利用のされ方をせずに、ニュートラルに伝えていきたいですね。その窓口とし
て、いろいろな方に助けていただいています。今日も貴重な機会をいただいたことに感謝していま
す。
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(対談より抜粋 文責編集部)
※2005年12月1日(木)龍谷大学深草学舎3号館301教室にて開催
『銀河鉄道の夜』の深層
鍋島直樹
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
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はじめに 物語の深層へ
宮沢賢治は、どのような気持ちで物語を書いたのでしょうか。『注文の多い料理店』の序のなかには、
こう書かれています。
これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつ
てきたのです。
ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、
ふるえながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにも
う、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたま
でです。
ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのと
ころもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわか
らないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほ
つたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません1。
宮沢賢治は、自分の頭のなかで空想して物語を書いたというよりも、月明かりに照らされた鉄道線路
や草原にかかる虹や林にふきわたる風などから何かをもらって物語を書き上げたと記しています。
実際、宮沢賢治が鉄道に自分の気持ちを寄せて書いた作品は多く見られます。たとえば、『注文の多
い料理店』に収録されている「月夜のでんしんばしら」、亡くした妹のトシを想ってつづった『青森挽
歌』
、
『シグナルとシグナレス』の淡く悲しい恋の物語、そしてジョバンニがカムパネルラとともにほん
とうの幸せを求めて旅する『銀河鉄道の夜』へとつづいていきます。宮沢賢治にとって鉄道は、この現
実世界と交錯しながら、この現実世界の束縛を超えて、心を自由にしてくれるものだったのかもしれま
せん。そして鉄道は、孤独な自己がどこに向かって行けばいいのかを考えさせてくれる空間だったこと
でしょう。鉄道の車窓から見える風景や自然の風や光のなかにある「まことの力」は、宮沢賢治の心を
ゆさぶり、その感動が物語をうみだしました。「ふるえながら立つたりしますと」というのは、寒くて
ぶるぶるふるえるというだけでなく、山の風から何ともいえない力を受けて感動してふるえたのではな
いでしょうか。「なんのことだか、わけのわからない」というのは、人間の知恵では計ることのできな
い不可思議なはたらきをさしているのではないでしょうか。「まことのちから」の働きについて、宮沢
賢治はこう記しています。
もしも、まことのちからが、これらのなかにあらはれるときは、すべてのおとろへるもの、しわ
むもの、さだめないもの、はかないもの、みなかぎりないいのちです。(『めくらぶだうと虹』2)
33
この世のものは、すべて一秒ごとに削られ、変わり消えていくはかないものですが、そのなかに「ま
ことのちから」が働くときは、もろくはかない存在がそのままで限りなきいのちとなって煌いてきます。
この見方は、賢治が仏教や科学の研究によって見開いた思想です。時代の移り変わりとともに、すべて
は形を変え消えていきます。しかし、そのなかに「まことのちから」がはたらき、真実に道を歩いた人
の姿は見えなくなっても、その心は多くの人々の心のなかに生きていきます。不可思議な「まことの力」
は、
ささいな執着から自己を解き放ち、広い銀河世界のなかにある自己をめざめさせてくれるものでしょ
う。こうして宮沢賢治は、自分の書いた物語が、「あなたのすきとほつたほんたうのたべもの」となり、
読者の身と心を満たしてくれるものになってほしいと願っています。
河合隼雄は、宮沢賢治について、こう論じています。
宮沢賢治は「深層心理」の大家だと思う。と言っても、別に宮沢賢治が深層心理の新しい発見者
だと言うのではない。世界における最初の深層心理学体系の樹立ということならば、それは仏教に
その座を譲るべきだろう。ここには詳述できないが、仏教の唯識論などを読むと、実に古い時代に、
その深層心理についての研究と体系化が行われていたことがわかる。そして、宮沢賢治が仏教に強
く心を惹かれていたという事実は、彼が深層心理学の大家だということと無縁ではない。
古代と異なり近代は心の表層の方を鍛え、古代人の想像もできない自然科学の知識をもっている。
それがあまりに強力になったので深層心理のことや仏教の知など近代は無視してかかろうとしたの
だが、賢治は当時としては考えられないほどの知、つまり、自然科学も仏教にとりこんだ知をもっ
ていた。彼の深層心理学は現代的な様相を備えていた。しかし、それを人々に伝えるには体系化さ
れた「学」としてではなく、物語ることがもっとも適切だったのではなかろうか3。
思えば、近代人は心の表層ばかり整えがちで、最新装備で自らを守っているようなところがあります。
そして心の深層で感じられるいのちのはかなさ、光と闇、存在の悲しみ、深い心の絆を忘れています。
そのため、心の表層である自我によって、自己も他者も自然をもコントロールしようとするあまり、コ
ントロールされているものたちが反乱します。大切なことは、表層の自我によってすべてを統御しよう
とすることではなく、自分の愚かさを知り、すべての関係のなかに自分があると気づいていくことでは
ないでしょうか。ひとはひとりで生きているのではありません。誰かに支えられ、銀河世界のさまざま
なものとのつながりのなかで生かされています。ひとは、個人の幸福に焦点を当てて生きていますが、
いったん、自己の人生が、どれほど多くのものに支えられているかを理解できたなら、真実の理解をよ
り大きく広げることができるでしょう。普段は忘れている心の深層に入っていくとき、心は柔らかくなっ
てきます。ひとが孤独に耐えてふるえているのが見えてきます。あらゆる存在がかけがえのない宇宙の
中心となってきます。一粒の米の中にも宇宙があるように、すべてが無限につながってきます。こうし
たすべてが相互に依存しあっているという縁起の自覚は、「相手の悲しみを自分のことのように感じる
慈悲」や「あらゆるものへの感謝とその幸せを願う心」を生み出していくでしょう。また同時に、どう
しようもない修羅のような恐ろしい心を持っていることにも気づいていくことができるでしょう。宮沢
賢治の物語は、読者を不可思議な心の深層に導いて、ほんとうの幸せとは何かについて考えさせてくれ
ます。
一 『銀河鉄道の夜』の概要
『銀河鉄道の夜』は、貧しく寂しい少年ジョバンニが、夢の中で、心の通うカムパネルラと銀河をか
ける鉄道に乗って旅する物語です。ジョバンニの孤独さの影には、貧しい生活を支えるための活版所で
の仕事、母親の病、父親の不在、同級生からのいじめがあり、だからこそ本当の心の絆と幸せを求めよ
34
やみ
うとするせつなさがあります。「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんと
うのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んでいこう」というジョバンニの
言葉には、死をこえてつづいていくジョバンニとカムパネルラの愛情の深さが伝わってきます。自分の
何もかも投げ出しても、誰かのほんとうの幸せのために生きることができたらどんなにいいでしょう。
やがてジョバンニはカムパネルラを見失い、丘の上で目が覚めました。川辺に下りてくると、友達のザ
ネリを助けようとしてカムパネルラが水死したことを知ります。人は死んでどこへ往くのか、最愛のひ
とと別れた後、孤独のなかでどのように悲しみを生きていけばいいのか、死を超えたほんとうの幸せと
は何か、そういう大切な何かをジョバンニやカムパネルラ、乗客たちが語り、さらには銀河系に輝く星
が深く透明に問いかけてくれる物語です。
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『銀河鉄道の夜』は、宮沢賢治の著した未完成の最高傑作であり、読者一人ひとりの心境に応じてさ
まざまな意味を与えてくれます。宮沢賢治はこの長編童話を大正十三(1924)年頃から書き始め、晩年
まで原稿に手を入れていたといわれています。大正十三年は、宮沢賢治の二十八歳のときであり、詩集『春
と修羅』を上梓した年にあたります。その詩集には、大正十一(1922)年に亡くなった妹トシへの悲し
い哀歌「永訣の朝」「無声慟哭」「松の針」などが収録されています。大正十三年の『銀河鉄道の夜』の
最初形態では、ケンタウルス祭の夜のことが書かれていたようです。
『銀河鉄道の夜』の原稿は八三枚が現存しています。これまでの研究成果によると4、『銀河鉄道の夜』
の八三枚の原稿は順を追って書かれたものではなく、第一次稿から第四次稿までの、三度にわたる大き
な改稿を経て成立しています5。『校本宮沢賢治全集』(筑摩書房)の編集校訂にあたった天沢退二郎は、
『銀河鉄道の夜』の原稿の構造について、次のように説明しています。
賢治は第一次稿からほぼ十年かけて、第四次稿にいたるまで、三度の大幅な改稿を試みた。三次
稿までは、ジョバンニの入眠は、ブロカニロ博士による一種の催眠実験であり、旅の途中いくども
ジョバンニは博士の「セロのような声」による説明や指示を聞き、最後にカムパネルラがいなくなっ
たあと、博士自ら「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の痩せた大人」姿で車内に出現し、不思議
な「地理と歴史の辞典」を示しながら、ジョバンニにものの見方・考え方や進むべき道を教えさと
すことになっていた。このブルカニロ博士のいっさい登場しない第四次稿の成立を賢治が試みたの
は、やはり一九三一、二年頃と考えられている6。
一九三一、二年頃とは、宮沢賢治の三五、三十六歳、亡くなる二、三年前にあたりますから、晩年ま
で修正を加えていたことがわかります。
宮沢清六は、『兄賢治の生涯』のなかで、賢治の晩年についてこう記しています。
東京で遺書を書いてから、賢治は一冊の手帳にいろいろなことを書きつけて、遺書といっしょに
トランクのポケットに入れて置いたのであるが、死後にそれが見つかった。その手帳にあったのが
「雨ニモマケズ」であって、・・・
それからの二年はずっと病床にあって、詩や童話や文語詩を書いたり、頼まれればそれを発表し
たり、肥料の相談の返事を書いたりした。・・・
「風の又三郎」や「銀河鉄道の夜」も、このころに書き加えたりしていて結局は未完成のままで残り、
「セロ弾きのゴーシュ」は手のとどくところにあったそまつな紙に書かれていて、死ぬ少し前まで
筆を入れていた7。
このように『銀河鉄道の夜』は、宮沢賢治がその生涯をかけて手を入れつづけた原稿であり、そこに
は、妹トシの死に始まる悲しみ、存在の寂しさ、現実と夢、心の表層と深層、宇宙観や死生観、異なる
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神々の和解、死を超えた利他愛、ほんとうの幸せの探求など、他の作品とも共通する永遠のテーマを見
いだすことができるでしょう。
二 『銀河鉄道の夜』の物語のなかへ
1.午后の授業
それでは、
『銀河鉄道の夜』8の物語の世界へ入っていきましょう。物語は、学校の授業で牛乳の流れ
たようにみえる天の川について習うところから始まります。ジョバンニもカムパネルラも同じクラスで、
その授業を聞いています。
「ではみなさんは、さういふふうに川だと云はれたり、乳の流れたあとだと云はれたりしてゐた
このぼんやりと白いものがほんたうは何かご承知ですか。」先生は、黒板に吊した大きな黒い星座
の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のやうなところを指しながら、みんなに問をかけました。
カムパネルラが手をあげました。それから四五人手をあげました。ジョバンニも手をあげやうと
して、急いでそのまゝやめました。たしかにあれがみんな星だと、いつか雑誌で読んだのでしたが、
このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだか
どんなこともよくわからないといふ気持ちがするのでした。
ところが先生は早くもそれを見附けたのでした。
「ジョバンニさん。あなたはわかってゐるのでせう。」
ジョバンニは勢よく立ちあがりましたが、立って見るともうはっきりとそれを答へることができ
ないのでした。ザネリが前の席からふりかへって、ジョバンニを見てくすっとわらひました。ジョ
バンニはもうどぎまぎしてまっ赤になってしまひました。
先生がまた云ひました。
「大きな望遠鏡で銀河をよっく調べると銀河は大体何でせう。」
やっぱり星だとジョバンニは思ひましたがこんどもすぐに答えへることができませんでした。
先生はしばらく困ったやうすでしたが、眼をカムパネルラの方へ向けて、「ではカムパネルラさ
ん。
」と名指しました。するとあんなに元気に手をあげたカムパネルラが、やはりもぢもぢ立ち上っ
たまゝやはり答へができませんでした。
先生は意外なやうにしばらくぢっとカムパネルラを見てゐましたが、急いで「では。よし。」と
云ひながら、自分で星図を指しました。
「このぼんやりと白い銀河を大きないゝ望遠鏡で見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるの
です。ジョバンニさんさうでせう。」
ジョバンニはまっ赤になってうなづきました。けれどもいつかジョバンニの眼のなかには涙が
いっぱいになりました。さうだ僕は知ってゐたのだ、勿論カムパネルラも知ってゐる、それはいつ
かカムパネルラのお父さんの博士のうちでカムパネルラといっしょに読んだ雑誌のなかにあったの
だ。それどこでなくカムパネルラは、その雑誌を読むと、すぐお父さんの書斎から巨きな本をもっ
てきて、ぎんがといふところをひろげ、まっ黒な頁いっぱいに白い点々のある美しい写真を二人で
いつまでも見たのでした。それをカムパネルラが忘れる筈もなかったのに、すぐに返事をしなかっ
たのは、このごろぼくが、朝にも午后にも仕事がつらく、学校に出てももうみんなともはきはき遊
ばず、カムパネルラともあんまり物を云はないやうになったので、カムパネルラがそれを知って気
の毒がってわざと返事をしなかったのだ、さう考へるとたまらないほど、じぶんもカムパネルラも
あはれなやうな気がするのでした。
36
先生は夜空に広がるぼんやりとした白い銀河が何であるかを生徒たちにたずねます。カムパネルラが
勢いよく手を上げ、手を上げようとしたジョバンニもそれが星の集まりだと知っていたのに、先生に尋
ねられるとうまく答えられませんでした。そこで先生は星図をさしながら、天の川がたくさんの小さな
星であることを説明します。
ここで、
元気に手をあげたカムパネルラが、
「もぢもぢ立ち上った」まま、なぜ答えることができなかっ
たのでしょうか。そして、ジョバンニが先生から声をかけられたとき、なぜジョバンニの眼のなかに「涙
がいっぱい」になったのでしょうか。
そこには、ジョバンニとカムパネルラの間でしかわからない思いやりを感じます。二人とも、以前、
カムパネルラのお父さんの書斎にあった大きな本を見て、それが銀河系の星であることは知っていまし
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た。天の川が小さな星の集りであることは、二人で見つけた真実だったのです。しかし、カムパネルラ
は、ジョバンニが仕事で疲れていて、学校でみんなとあまり遊ばず話さないことを知っていました。そ
れでカムパネルラは、元気よく手をあげたものの、ジョバンニの気持ちを思うと気の毒で自分だけがよ
く知っているかのように得意気に答えられなかったのではないでしょうか。そして、ジョバンニは、カ
ムパネルラがそんな元気のない自分のことをひそかに心配してくれているのがわかってうれしくてもっ
たいなくて涙したのかもしれません。二人だけが知っている天の川の真実を、ジョバンニもカムパネル
ラも大事に心にひめて話さなかったこと、そこに二人の言葉にできない絆を感じます。
河合隼雄は、さらにこうも論じています。
二人はもじもじして答えられない。それは、この二人がすぐ後で、天の川が単なる「星」の集り
ではないことを体験するのを、どこかで予感していたからではないだろうか。賢治にとって、天の
川は星の集りであると同時に、それは「銀河鉄道」に描写されているような「川」でもあったのだ9。
このように河合隼雄は、天の川が星の集りだけでなく、銀河の水の流れる川であることを二人が感じ
ていたから、もじもじして答えられなかったのだろうと示しています。とても深い考察です。この午后
の授業のあと、ジョバンニとカムパネルラが銀河鉄道に乗って、「その銀河の水は、水素よりももっと
すきとほってゐたのです」と感じているように、天の川は本当に川であることを二人は予感していたの
でしょう。
2.活版所
ジョバンニは学校の帰り、校庭の桜の木の下でカムパネルラを中心にして七、八人が星祭で川へ流す
烏瓜について相談しているのを見かけました。しかし、ジョバンニは同級生への気持ちをふりはらうか
のように、手を大きく振って学校の門を出ました。そして大きな活版所で仕事をします。
ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子に座った人の所へ行っておじぎをしました。その人
はしばらく棚をさがしてから、「これだけ拾って行けるかね。」と云ひながら、一枚の紙切れを渡し
ました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平たい函をとりだして向ふの電燈の
たくさんついた、たてかけてある壁の隅の所へしゃがみ込むと小さなピンセットでまるで粟粒ぐら
ゐの活字を次から次と拾ひはじめました。青い胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、
「やう、虫めがね君、お早う。」と云ひますと、近くの四五人の人たちが声もたてずこっちも向かず
に冷くわらひました。
ジョバンニはおじぎをすると扉をあけてさっきの計算台のところに来ました。するとさっきの白
服を着た人がやっぱりだまって小さな銀貨を一つジョバンニに渡しました。ジョバンニは俄かに顔
いろがよくなって威勢よくおじぎをすると台の下に置いた鞄をもっておもてへ飛びだしました。
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こうしてジョバンニは細かい字を拾い集める仕事をなし終えて、小さな銀貨を一つをもらうと、急に
顔色がよくなり、元気におじぎして表にとびだしました。そしてパン屋へ寄ってパンの塊を一つと角砂
糖を一袋買い、走りだしました。
3.家
ジョバンニが勢いよく走って帰ってきたのは、裏町の小さな家でした。その家には、病気の母親がい
ます。ジョバンニは、買ってきた角砂糖を牛乳に入れて母にあげようと思っていました。しかし、母の
ための牛乳は届いていなくて、ジョバンニがそれをとってきてあげようといいます。ジョバンニはひと
りでトマトとパンをむしゃむしゃ食べながら、今はいない父親の話を母親に話します。ジョバンニは父
親が北の方へ漁に出ていてもうじき帰ってくると信じています。ジョバンニは母とこんな会話をしてい
ます。
「お父さんはこの次はおまへにラッコの上着をもってくるといったねえ。」
「みんながぼくにあふとそれを云ふよ。ひやかすやうに云ふんだ。」
「おまへに悪口を云ふの。」
「うん、けれどもカムパネルラなんか決して云はない。カムパネルラはみんながそんなことを云
ふときは気の毒さうにしてゐるよ。」
「あの人はうちのお父さんとはちゃうどおまへたちのやうに小さいときからのお友達だったさう
だよ。
」
「あゝだからお父さんはぼくをつれてカムパネルラのうちへもつれて行ったよ。あのころはよかっ
たなあ。ぼくは学校から帰る途中たびたびカムパネルラのうちに寄った。カムパネルラのうちには
アルコールラムプで走る汽車があったんだ。レールを七つ組み合せると円くなってそれに電柱や信
号標もついてゐて信号標のあかりは汽車が通るときだけ青くなるやうになってゐたんだ。いつかア
ルコールがなくなったとき石油をつかったら、缶がすっかり煤けたよ。」
ジョバンニは、みんなから父親の不在について冷やかされていました。しかし、カムパネルラだけは
決してそんなことは言わず、ジョバンニを心配してくれるのでした。ジョバンニは銀河のお祭りがある
ことを母に話して、出かけていきます。
4.ケンタウル祭の夜
ジョバンニが町の坂を下りて、大きな街頭の近くを通り抜けると、街頭の光を受けて、影ぼうしがで
きました。ジョバンニは、自分の影ぼうしをみて、まるで黒い機関車になっているかのように思って歩
いていると、いきなり同じクラスのザネリから、ジョバンニの父親の不在についてからかわれました。
「ジョバンニ、お父さんから、らっこの上着が来るよ。」その子が投げつけるやうにうしろから叫
びました。
ジョバンニは、ばっと胸がつめたくなり、そこら中きぃんと鳴るやうに思ひました。
「何だい。ザネリ。」とジョバンニは高く叫び返しましたがもうザネリは向ふのひばの植った家の
中へはいってゐました。
「ザネリはどうしてぼくがなんにもしないのにあんなことを云ふのだらう。走るときはまるで鼠
のやうなくせに。ぼくがなんにもしないのにあんなことを云ふのはザネリがばかなからだ。」
銀河のお祭りの夜に、ザネリから冷たい言葉を受けて、ジョバンニはひとり寂しかったことでしょう。
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やがて時計屋のショーウィンドーに、いろんな宝石が星のように動くガラス盤や星座早見図を見つけて、
ジョバンニは夢中になって見入りました。お店の中には、三脚つきの小さな望遠鏡が置いてあり、うし
ろの壁には獣や蛇や蠍の絵を書いた星座図が飾ってありました。
またそのうしろには三本の脚のついた小さな望遠鏡が黄いろに光って立ってゐましたしいちばん
うしろの壁には空ぢゅうの星座をふしぎな獣や蛇や魚や瓶の形に書いた大きな図がかかってゐまし
た。ほんたうにこんなやうな蝎だの勇士だのそらにぎっしり居るだらうか、あゝぼくはその中をど
こまでも歩いて見たいと思ってたりしてしばらくぼんやり立って居ました。
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それからジョバンニは母のための牛乳のことを思い出して、牛乳屋の黒い門をくぐります。ジョバン
ニがあいさつしても返事がないので、
「今晩は」と叫ぶと、ようやく年老いた女性がでてきました。しかし、
牛乳を手に入れることはできず、「ではもう少したってから来てください。」という女の人の返事を聞い
て、牛乳屋をあとにします。
十字になった町のかどを曲がろうとしたとき、ジョバンニは六七人の同級生を見かけました。ジョバ
ンニが道を戻ろうとしましたが、思い直して同級生のいる方へ歩いていきました。
「川へ行くの。」ジョバンニが云はうとして、少しのどがつまったやうに思ったとき、
「ジョバンニ、らっこの上着が来るよ。」さっきのザネリがまた叫びました。
「ジョバンニ、らっこの上着が来るよ。」すぐみんなが、続いて叫びました。ジョバンニはまっ赤
になって、もう歩いてゐるかもわからず、急いで行きすぎやうとしましたら、そのなかにカムパネ
ルラが居たのです。カムパネルラは気の毒さうに、だまって少しわらって、怒らないだらうかとい
ふやうにジョバンニの方を見てゐました。
ジョバンニは再び同級生たちから冷やかされたのでした。ケンタウルス祭の夜にもかかわらず、ジョ
バンニは同級生からのいじめにあって寂しくて声をあげ、黒い丘の上に走って行きました。
5.天気輪の柱
林を越えると、空がひらけて見え、丘の上にある天気輪の柱の下にたどりつきました。
ジョバンニは、頂の天気輪の柱の下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に投げました。
町の灯は、暗の中をまるで海の底のお宮のけしきのやうにともり、子供らの歌ふ声や口笛、きれ
ぎれの叫び声もかすかに聞えて来るのでした。風が遠くで鳴り、丘の草もしづかにそよぎ、ジョバ
ンニの汗でぬれたシャツもつめたく冷されました。ジョバンニは町のはづれから遠く黒くひろがっ
た野原を見わたしました。
そこから汽車の音が聞えてきました。その小さな列車の窓は一列小さく赤く見え、その中にはた
くさんの旅人が、苹果を剥いたり、わらったり、いろいろな風にしてゐると考へますと、ジョバン
ニは、もう何とも云へずかなしくなって、また眼をそらに挙げました。
天の川を眺めていると、ジョバンニはそれが冷たいところだと思えず、野原のように思われ、また煙
のようにみえると思いました。この天気輪の柱のある丘は、世俗の喧騒と天上の清らかさとの接点にあ
る場所でしょう。日常と非日常の境界、現実と夢との交流点、それがこの丘だったと思われます。
『新宮澤賢治語彙辞典』によれば、「天気輪の柱」とは、もっとも有力な説をもとにしていうと、
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「地蔵車とも言い、所によっては念仏車、菩提車、血縁車等とも言う。東北地方の風習で、宗派
の別なく寺や墓地、村境等に柱を立てて、晴れや雨などの農耕に幸いする天候を祈り(お天気柱、
天気輪の塔)、また亡者の菩提をとむらう仕掛けをしたもの。石造りの柱の手の届く部分をくりぬき、
円い鉄の輪をはめ込み、願いを込めてその輪を右回し、あるいは左回しに回したという。今もアジ
ア各地の仏跡に見られる魔尼車(魔尼は珠の意、如意輪)の列を参詣者が次々と回していく風習が
あるのを思い出させる。」10
と説明されています。実際に、宮沢賢治が一時下宿した盛岡の清養院
には、当時から「天気輪の塔」がたっています。高さ三メートルの石
に「南無阿弥陀仏」と刻まれ、鉄製の輪が下部にはめこまれています。
また、宮澤和樹氏の案内により、新しい発見がありました。賢治が生
まれ育った花巻市内に、浄土宗松庵寺があります。その松庵寺の境内
には、やはり天気輪の柱が建っています。左の写真は新しく建てられ
たものですが、賢治の生存していたころから松庵寺には、天気輪の柱
があり、その丸い鉄製の輪を雨の日には下に回し、晴れの日には上に
回して用いたとされています。天気輪の柱には、「南無阿弥陀仏 光
明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」と記されています。そして、宮
澤和樹氏によると、この松庵寺の奥には小高い丘がつづいています。
そこには大きな木が立っていて、天気輪の丘のイメージにつながりま
す。天気輪の柱は、銀河系宇宙の円形状の渦巻きにもイメージが重なります。さらに、天気輪の塔が、
死者の菩提をとむらう役目を果たしていた点から考えると、この天気輪の柱のある丘は、生と死の接点
であったとも受け止められます。亡くなってしまったカムパネルラや沈没船の乗客たちと生きている
ジョバンニとがいっしょにいられる交流点を、
「天気輪の柱」のある丘は示唆しているのかもしれません。
6.銀河ステーション
やがてジョバンニは、天気輪の柱のある丘の上で、不思議な声を聞きます。
するとどこかでふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションと云ふ声がしたと思ふとい
きなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の蛍烏賊の火を一ぺんに化石させて、そら中に
沈めたといふ工合、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫れないふ
りをして、かくして置いた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかへして、ばら撒いたといふ風に、
眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思はず何べんも眼を擦ってしまひました。
ダイアモンドの宝石をいっぺんにたくさんひっくりかえしたように、ジョバンニの目の前は光に包ま
れました。そして気がつくと、岩手の軽便鉄道の車室に座っていました。自分のすぐ前の席には、ぬれ
たような真っ黒い服をきた背の高い子どもがいました。それはカムパネルラだったのです。
ジョバンニは、
(さうだ、ぼくたちはいま、いっしょにさそって出掛けたのだ。)とおもひながら、
「どこかで待ってゐやうか」と云ひました。するとカムパネルラは
「ザネリはもう帰ったよ。お父さんが迎ひにきたんだ。」
カムパネルラは、なぜかさう云ひながら、少し顔いろが青ざめて、どこか苦しいといふふうでし
た。するとジョバンニも、なんだかどこかに、何か忘れたものがあるといふやうな、おかしな気持
ちがしてだまってしまひました。
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カムパネルラの顔色が青ざめて、苦しい感じがしたのはなぜでしょうか。それは、カムパネルラが友
達のザネリを助けようとして川に入り、溺れて亡くなっていたからではないでしょうか。
カムパネルラは円い板のような天の川の地図を見ていました。その地図は黒曜石でできていました。
黒曜石とは、天然でできた黒いガラス石です。窓から外を見ると、銀河の岸に、銀色の空のすすきが、
風に揺れて波立っています。野原いっぱいに燐光の三角標が輝いています。しばらくすると、月長石で
刻まれたような紫のりんどうが咲いていました。
7.北十字とプリオシン海岸
カムパネルラはジョバンニにこう話しかけます。
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「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだらうか。」
いきなり、カムパネルラが、思ひ切ったといふやうに、少しどもりながら、急きこんで云ひました。
ジョバンニは、
(あゝ、さうだ、ぼくのおっかさんは、あの遠い一つのちりのやうに見える橙いろの三角標のあ
たりにゐらっしゃって、いまぼくのことを考へてゐるんだった。)と思ひながら、ぼんやりしてだまっ
てゐました。
「ぼくはおっかさんが、ほんたうに幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいど
んなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだらう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたい
のを、一生けん命こらえてゐるやうでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないぢゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びま
した。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんたうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。
だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思ふ。」カムパネルラは、なにかほんたうに決心
してゐるやうに見えました。
現実の世界では、カムパネルラは、友達を助けようとして死んでしまいました。その行為がよかった
のかどうか、カムパネルラは心配だったのでしょう。それで「おかあさんはゆるしてくださるだろうか」
とカムパネルラはジョバンニに気持ちを打ち明けたのでしょう。「ほんとうにいいことをしたら、いち
ばん幸なんだねえ」というカムパネルラの言葉は、本当の幸いのために自分のいのちを投げ出すことを
しっかり認めている感じが伝わってきます。
にわかに車内はぱっと明るくなりました。銀河の河の流れの中に、ぼうっと青白く光る島が見えまし
た。その島には立派な白い十字架がたっていました。車内の旅人たちは、バイブルを胸にあてたり、水
晶の珠数をかけたりして、その白い十字架に祈りをささげていました。二人も立ち上がります。そのと
きカムパネルラの頬は、りんごのように美しく輝いていました。
やがて白い十字架の島は遠ざかっていきました。銀河の河の向こう岸にも、銀色のすすきが風にひる
がえっています。りんどうの花も草の中から見え隠れしました。いつのまにかジョバンニの後ろの席に
は、カトリック風の尼さんが座って、銀河の川からの音を聞いていました。
しばらくして、電車は白鳥の停車場にたどり着きました。二人は誰もいない駅を降りて、「停車場の
前の、水晶細工のようにみえる銀杏の木に囲まれた、小さな広場」に出ました。そしてまっすぐの道を
行くと、まもなくきれいな河原に来ました。その砂は水晶でできていて、中では小さな火が燃えていま
した。
カムパネルラは、そのきれいな砂を一つまみ、掌にひろげ、指できしきしさせながら、夢のやう
41
に云ってゐるのでした。
「この砂はみんな水晶だ。中で小さな火が燃えてゐる。」
河原の瓦礫は、すべて透きとおり、水晶やトパーズなどでできていました。
ジョバンニは、走ってその渚に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水
は、水素よりももっとすきとほってゐたのです。それでもたしかに流れてゐたことは、二人の手首
の、水にひたったとこが、少し水銀いろに浮いたやうに見え、その手首にぶっつかってできた波は、
うつくしい燐光をあげて、ちらちらと燃えるやうに見えたのでもわかりました。
銀河の河には、水素よりもすきとおった水が流れていました。手首にあたると、その波は光り輝きま
した。
それから、プリオシン海岸に二人は向かいます。プリオシン(Pliocene)とは、第三世紀後半の鮮新
世をさします。花巻には、宮沢賢治が名づけたイギリス海岸があります。イギリス海岸とは、北上川の
泥岩層の川岸のことで、その泥岩層からは、百二十万年前くらいのバタグルミの化石や偶蹄類という太
古の哺乳類の化石がでてきます。宮沢賢治は農学校の先生をしていたときに、生徒たちをこのイギリス
海岸によく連れていきました。その体験をもとに、銀河のプリオシン海岸の地層の物語が描かれている
のでしょう。
「おや、変なものがあるよ。」カムパネルラが、不思議さうに立ちどまって、岩から黒い細長いさ
きの尖ったくるみの実のやうなものをひろひました。
「くるみの実だよ。そら、沢山ある。流れて来たんぢゃない。岩の中に入ってるんだ。」
「大きいね、このくるみ、倍あるね。こいつはすこしもいたんでない。」
・・・・
「君たちは参観かね。」その大学士らしい人が、眼鏡をきらっとさせて、こっちを見て話しかけま
した。
「くるみが沢山あったらう。それはまあ、ざっと百二十万年ぐゐい前のくるみだよ。ごく新
らしい方さ。ここは百二十万年前、第三紀のあとのころは海岸でね、この下からは貝がらも出る。
いま川の流れてゐるとこに、そっくり塩水が寄せたり引いたりもしてゐたのだ。このけものかね、
これはボスといってね、おいおい、そこつるはしはよしたまへ。ていねいに鑿でやってくれたまへ。
ボスといってね、いまの牛の先祖で、昔はたくさん居たさ。」
こうして銀河のプリオシン海岸の地層を見た二人は、白い岩のうえを走って、汽車にもどりました。
8.鳥を捕る人
二人は銀河鉄道に戻ると、茶色の少しぼろぼろの外套をきて、白い布で包んだ荷物をもった人から声
をかけられます。その赤ひげのひとは、鳥を捕まえる商売をしている人でした。赤ひげの男は、網棚か
ら包みをおろして、捕まえた鷺を二人に見せました。鷺は目をつぶっていました。
「こっちはすぐ喰べられます。どうです、少しおあがりなさい。」鳥捕りは、黄いろな雁の足を、
軽くひっぱりました。するとそれは、チョコレートででもできてゐるやうに、すっときれいにはな
れました 。
「どうです。すこしたべてごらんなさい。」鳥捕りは、それを二つにちぎってわたしました。ジョ
バンニは、ちょっと喰べてみて、
(なんだ、やっぱりこいつはお菓子だ。チョコレートよりも、もっ
42
とおいしいけれども、こんな雁が飛んでゐるもんか。この男は、どこかそこらの野原の菓子屋だ。
けれどもぼくは、このひとをばかにしながら、この人のお菓子をたべてゐるのは、大へん気の毒だ。)
とおもひながら、やっぱりぽくぽくそれをたべてゐました。
生き物を捕まえることは、仏教では「殺生」にあたり、いたずらな殺生は罪深いものとされています。
しかし、宮沢賢治は、この鳥を捕まえる仕事をしている人を、決して責めることなく、優しいまなざし
で見守っています。むしろ、鷺の肉が「チョコレートよりも、もっとおいしい」とジョバンニは思って
います。鷺の肉なのに、お菓子のような味がするといっているのはなぜでしょうか。鷺がお菓子のよう
においしいという宮沢賢治の表現には、生き物のいのちがとても尊いものであるとともに、殺生を生業
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とする人間も尊いことを言おうとしたように感じます。ジョバンニが、「この人のお菓子をたべてゐる
のは気の毒だ」と思いながら食べているところは、この鳥を捕まえる商売を大事に考えている証でしょ
う。
9.ジョバンニの切符
白鳥区のおしまいに、アルビレオが見えてきました。アルビレオ(Albireo)とは、白鳥座のβ星で、
白鳥のくちばしに位置する連星です11。
窓の外の、まるで花火でいっぱいのような、あまの川のまん中に、黒い大きな建物が四棟ばかり
サファイヤ
トパーズ
立って、青宝玉と黄玉の大きな二つのすきとおった球が、輪になってしずかにくるくるまわってい
ました。
そのうち、赤い帽子をかぶった銀河鉄道の車掌が、乗車切符の検察にまわってきました。カムパネル
ラは迷わずねずみ色の切符を出しました。ジョバンニは困っていましたが、上着のポケットから四つに
折ったはがき位の大きさの緑色の紙が出てきました。車掌はその緑色の紙を丁寧に開いてみました。車
掌は身なりをただしながら、その切符を三次空間から持ってきたものかを、ジョバンニにたずね、
サウザンクロス
「よろしうございます。南十字へ着きますのは、次の第三時ころになります。」といって、車掌は紙を
ジョバンニに渡して向うへ行きました。
カムパネルラは、その紙切れが何だったか待ち兼ねて、急いでのぞきこみました。ジョバンニも全く
早く見たかったのです。
すると鳥捕りが横からちらっとそれを見てあはてたやうに云ひました。
「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんたうの天上へさへ行ける切符だ。天上
どこぢゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな
不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける筈でさあ、あなた方大したもんですね。」
「何だかわかりません。」ジョバンニが赤くなって答へながらそれを又畳んでかくしに入れました。
ジョバンニの緑色のはがき位の大きさの紙は、天上だけでなく、どこでもいける切符でした。このジョ
バンニの切符について、恩田逸夫は、こう解説しています。
「銀河鉄道の夜」で、どんなところにでもゆける「ジョバンニの切符」というのは、賢治が深く
信仰していた『法華経』の思想のことと思われます。『法華経』の教えによってどのような理想の
境地にも到達できるということなのでしょう。仏教では「教え」のことを、正しい境地に導く「乗
りもの」といいますから、「銀河鉄道」という乗りものも、宗教と関係のあることなのです。それ
43
から、この作品に出てくる「第四次(元)」というのは「時間」のことで、それもただの時間では
なく、
「永遠」という時間なのです。これは、「宇宙根源力」が「永遠」であることと関係がありま
すし、この根源力のはたらき、つまり「まことの幸福」をもたらしたいという「宇宙意志」とも関
係のあることばです12。
このように、ジョバンニの切符は、すべてのほんとうの幸せのために、相手に寄り添い、安らぎの世
界に導こうとする心を象徴していると思われます。ジョバンニは、心の深層で、すべての幸いを求め、
すべての幸いを願って生きていました。相手の幸せが自分の幸せになる自利利他の道を求めていました。
鳥捕りがジョバンニのどこへでもいける切符を見て、うらやましがったのを知り、ジョバンニはこの鳥
捕りのことがとても気の毒になります。
ジョバンニはなんだかわけもわからずににはかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりまし
た。鷺をつかまへてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切
符をびっくりしたやうに横目で見てあはてゝほめだしたり、そんなことを一一考へてゐると、もう
その見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやっ
てしまひたい、もうこの人のほんたうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年
つゞけて立って鳥をとってやってもいゝといふやうな気がして、どうしてももう黙ってゐられなく
なりました。
「見ず知らずの鳥捕り」のために、ジョバンニは何かすることができないだろうかという気持ちが湧
き上がっています。それはジョバンニが、鳥を捕まえて喜び、ひとの切符を見てうらやましがっている
鳥捕りの生き方そのものに、誰しもがかかえる存在の寂しさや悲しさを感じたからではないでしょうか。
だからひとりきりの鳥捕りの本当の幸せにつながる道をジョバンニが願ったと思われます。
気がつくと、鳥捕りはもういませんでした。はじめは鳥捕りを邪魔にさえ感じていたジョバンニは、
今になってつらくなりました。
10.沈没した船の乗客たち
やがてどこからともなくりんごや野茨の匂いがしてきます。すると、そこに黒い髪をした六歳ぐらい
の男の子が赤いジャケットのボタンもかけず、ぶるぶるとふるえて立っていました。隣には黒い洋服を
着た背の高い青年がその男の子の手を引いていました。また青年の後ろには、十二歳くらいの茶色い目
をした女の子が青年の腕にすがっていました。
この人たちは、大型客船のタイタニック号が沈没して亡くなった乗客たちを象徴しています。それで
女の子がぬれたちぢれた髪をしていて、男の子もぬれたような黒い髪をしているのでしょう。そして青
年がこの姉と弟の不安を和らげようとします。
青年は教へるやうにそっと姉弟にまた云ひました。
「わたしたちはもうなんにもかなしいことないのです。わたしたちはこんないゝとこを旅して、
ぢき神さまのとこへ行きます。そこならもうほんたうに明るくて匂がよくて立派な人たちでいっぱ
いです。そしてわたしたちの代りにボートへ乗れた人たちは、きっとみんな助けられて、心配して
待ってゐるめいめいのお父さんやお母さんや自分のお家へやら行くのです。さあ、もうぢきですか
ら元気を出しておもしろくうたって行きませう。」青年は男の子のぬれたやうな黒い髪をなで、み
んなを慰めながら、自分もだんだん顔いろがかゞやいて来ました。
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神さまのところへいくから悲しいことはないと、青年が男の子と女の子たちを慰めています。燈台看
守がこの青年と子どもたちに、どこから来たのかとたずねると、青年が、氷山がぶつかって船が沈み、
救命ボートにみんな乗り切ることができなかったことを話し始めました。
私は必死となって、どうか小さな人たちを乗せて下さいと叫びました。近くの人たちはすぐみち
を開いてそして子供たちのために祈って呉れました。けれどもそこからボートまでのところにはま
だまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て、とても押しのける勇気がなかったのです。それで
もわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思ひましたから前にゐる子供ら
を押しのけやうとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまゝ神のお前にみ
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んなで行く方がほんたうにこの方たちの幸福だとも思ひました。それからまたその神にそむく罪は
わたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげやうと思ひました。けれどもどうして見てゐるとそ
れができないのでした。子どもらばかりボートの中へはなしてやってお母さんが狂気のやうにキス
を送りお父さんがかなしいのをじっとこらえてまっすぐに立ってゐるなどとてももう腸もちぎれる
やうでした。
このように沈没していく船上の人たちが、追い詰められるなかで、子どもたちを助けるために努力し
たこと、しかし、助けるよりも神の御前に行くことのほうが幸せであるかもしれないと思ったこと、そ
れからまた、神にそむく罪を一人背負って助けようとしたこと、それでもどうしても子どもたちを助け
ることができなかったことなど話しています。子どもだけをボートに乗せて、沈んでいく船に残った母
親と父親が耐えられない悲しみをかかえている様子がひしひしと伝わってきます。とうとうこの青年と
子どもたちは、大きな船の沈んでいく渦にまきこまれて死んでしまい、この銀河鉄道に来たのでした。
ジョバンニもカムパネルラも忘れていたことを思い出して眼が熱くなりました。ジョバンニは「ぼく
はそのひとのさひわひのためにいったいどうしたらいゝのだらう」と首をもたげて、ふさぎ込んでしま
ひました。
「なにがしあはせかわからないです。ほんたうにどんなつらいことでもそれがたゞしいみちを進
む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんたうの幸福に近づく一あしづつですから。」
燈台守がなぐさめてゐました。
「あゝさうです。たゞいちばんのさいはひに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめし
です。
」
青年が祈るやにさう答へました。
燈台守は、「正しい道を進む中でのできごとなら、たとえ死んでも本当の幸せにちかづく」といい、
青年も、
「一番の幸いに至るためにであう悲しみなら、どんな悲しみも神が深く知ってくれている」と
いうのです。この二人の言葉は、キリスト教において本当の幸せが何であるかを考えさせてくれます。
汽車はごとごとごとごと銀河の輝く川岸を進みました。すきとおったきれいな風は、バラの匂いでいっ
ぱいでした。燈台守が、黄金と赤で彩られた大きなりんごを青年やジョバンニたちに配りました。眠っ
ていた姉と弟にも手渡すと、子どもたちはその立派なりんごを見て喜びました。男の子は目が覚めると、
夢の中で、お母さんがりんごをひろってきてくれようとしたことを話しました。男の子はそのりんごを
まるでパイでも食べるように食べました。
11.ジョバンニの孤独
川の向こう岸には青く茂った林が見え、その森の中からきれいな音色が風に流れて聞こえてきました。
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かほると呼ばれる女の子は、「まあ、あの烏」といって鳥を見つけます。カムパネルラがその鳥が烏で
なくカササギだと叫びました。
青い森の三角標が汽車の正面に来ると、うしろのほうから讃美歌の合唱が聞こえてきました。やがて
青い森を通り越すと、楽器の音もかすかになっていきました。今度は、孔雀が羽根を広げたり閉じたり
しているのを見つけました。
またしばらくすると、まっくらな島の真ん中に、赤い帽子をかぶった男が赤と青の旗をもって、空を
見上げて信号を送っていました。その男のふる指揮棒のような旗にあわせて、幾万もの小さな渡り鳥た
ちが飛んでいきました。女の子がカムパネルラに話しかけて、その赤い帽子をかぶった男と鳥たちにつ
いてたずねます。そのそばにいたジョバンニはひとり悲しくなってきます。
(どうして僕はこんなにかなしいのだらう。僕はもっとこゝろもちをきれいに大きくもたなけれ
ばいけない。あすこの岸のずうっと向ふにまるでけむりのやうな小さな青い火が見える。あれはほ
んたうにしづかでつめたい。僕はあれをよく見てこゝろもちをしづめるんだ。)ジョバンニは熱っ
て痛いあたまを両手で押へるやうにしてそっちの方を見ました。(あゝほんたうにどこまでもどこ
までも僕といっしょに行くひとはないだらうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろさう
に談してゐるし僕はほんたうにつらいなあ。)ジョバンニの眼はまた泪でいっぱいになり天の川も
まるで遠くへ行ったやうにぼんやり白く見えるだけでした。
ジョバンニは、自分といっしょに行く人はいないのだろうかと思うと、悲しくてつらくて涙を流しま
した。
死んでしまったカムパネルラと女の子とはいっしょに行けないかもしれないと、ジョバンニは思っ
たのかもしれません。そして汽車はいくつかのシグナルとてんてつ器の灯りを過ぎて、小さな停車場に
停まりました。はるか遠くの野原の果てから、ドボルザークの新世界交響曲がかすかに聞こえてきまし
た。銀河鉄道のなかでは、みんなやさしい夢を見ていました。しかし、ジョバンニはひとりまたこう思っ
ています。
(こんなしづかないゝとこで僕はどうしてもっと愉快になれないだらう。どうしてこんなにひと
りさびしいのだらう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい、僕といっしょに汽車に乗って
ゐながらまるであんな女の子とばかり談してゐるんだもの。僕はほんたうにつらい。)ジョバンニ
はまた両手で顔を半分かくすやうにして向ふの窓のそとを見つめてゐました。すきとほった硝子の
やうな笛が鳴って汽車はしづかに動き出し、カムパネルラもさびしさうに星めぐりの口笛を吹きま
した。
こうしてジョバンニはひとり寂しくて、窓の外を見つめていたとき、カムパネルラも寂しそうに星め
ぐりの口笛を吹いています。寂しいのは、ジョバンニだけでなく、カムパネルラもまた寂しかったので
しょう。星めぐりの歌は、宮沢賢治の作詞作曲した曲です。
12.白い羽根を頭につけたインデアン
やがてコロラド高原と思われるところへ汽車は進んでいきます。とうもろこしがなくなったと思うと、
突然大きな黒い野原が広がりました。新世界交響曲がいよいよはっきり聞こえてくると、その真っ黒の
野原の中を一人のインデアンが白い鳥の羽根を頭につけて汽車を追ってきました。インデアンは踊って
いるかのようでした。その白い羽根が前に倒れると、インデアンは立ち止まり、一羽の鶴がふらふらと
インデアンの手に落ちてきました。インデアンはうれしそうに笑いました。そしてその人影がどんどん
小さくなっていきました。
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13.双子の星
汽車は下りに入り、どんどん降りていきました。空の工兵大隊が見えてきて、ジョバンニはすっかり
機嫌がよくなります。また、双子のお星さまのお宮が見えてきます。小さな水晶で作られたような二つ
ほうきぼし
のお宮が並んでいました。彗星が「ギギーフーギギーフー」と音をたてていました。『双子の星』とい
う作品は、宮沢賢治の初期の作品で、妹トシや弟清六に読み聞かせて喜んでもらった物語です。そのよ
うなうれしい思い出が、この『銀河鉄道の夜』の物語にも流れているのかもしれません。
14.蠍の火
しばらくすると、川の向こう岸が赤くなりました。向こう岸の野原に大きな真っ赤な火が燃え、黒い
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煙が高くのぼっていました。
「ルビーよりも赤くすきとほりリチウムよりもうつくしく酔ったやうになっ
さそり
て」その火は燃えていました。その火が何の火なのかをジョバンニがたずねると、カムパネルラが「蠍
の火だな」と答えました。そして女の子がその「蠍の火」をめぐって、一匹の蠍の物語を話します。
「蝎の火って何だい。」ジョバンニがききました。「蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃
えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。」「蝎って、虫だらう。」「えゝ、蝎は虫よ。だけ
どいゝ虫だわ。」「蝎いゝ虫ぢゃないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾にこんなか
ぎがあってそれで螫されると死ぬって先生が云ったよ。」「さうよ。だけどいゝ虫だわ、お父さん斯
う云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がゐて小さな虫やなんか殺してたべて生きて
ゐたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられさうになったんですって。さそりは一
生けん命遁げて遁げたけどたうたういたちに押へられさうになったわ、そのときいきなり前に井戸
があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。
そのときさそりは斯う云ってお祈りしたといふの、あゝ、わたしはいままでいくつのものの命をとっ
たかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられやうとしたときはあんなに一生けん命にげ
た。それでもたうたうこんなになってしまった。あゝなんにもあてにならない。どうしてわたしは
わたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったらう。そしたらいたちも一日生きのびたら
うに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまこ
とのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじ
ぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。い
までも燃えてるってお父さん仰ったわ。ほんたうにあの火それだわ。」
この一匹の蠍の物語にも、本当の幸せを求めて生きることが何であるのかを示しているように思われ
ます。蠍は、ある一面では、尾に猛毒を持った毒虫であり、修羅のような戦いの虫です。小さな虫を殺
して自分が生き延びる虫です。しかし、いたちに追いかけられて逃げて井戸に落ちておぼれかけたとき、
蠍の深く清らかなもう一面が現れてきます。おぼれて死にそうになったとき、蠍は今までたくさんの命
をとってきた自分を反省し、自分の命をみんなの幸いのためにささげたいと願うのです。いわば修羅の
ような存在も、菩薩のように、一切の幸せのために自らを捨身布施することができることをあらわして
います。
15.ケンタウルス祭
さそりの火がだんだん後ろの方になるにつれて、にぎやかな音楽や草花の匂いや人々のざわめきが聞
こえてきました。「ケンタウル露をふらせ」と、いきなりいままで眠っていたジョバンニのとなりの男
の子が叫びました。窓からは、クリスマスツリーのような真っ青なもみの木が立ち、その中にたくさん
の豆電球が蛍の集まったかのようについていました。ケンタウル祭をしている村が見えたのでした。こ
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のシーンは、地上の世界と銀河鉄道の世界とがふれあう場面のように受けとめられます。
16.サウザンクロス
しばらくして銀河鉄道は、サウザンクロスに近づきました。タイタニック号の乗客であった青年や子
どもたちはその駅で降りなくてはなりません。それでも男の子はその駅で降りたくありませんでした。
「ここでおりなけぁいけないのです。」青年はきちっと口を結んで男の子を見おろしながら云ひま
した。
「厭だい。僕もう少し汽車へ乗ってから行くんだい。」ジョバンニがこらえ兼ねて云ひました。
「僕たちと一緒に乗って行かう。僕たちどこまでだって行ける切符持ってるんだ。」「だけどあたし
たちもうこゝで降りなけぁいけないのよ。こゝ天上へ行くとこなんだから。」女の子がさびしさう
に云ひました。
「天上へなんか行かなくたっていゝぢゃないか。ぼくたちこゝで天上よりももっといゝとこをこ
さえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」「だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神
さまが仰っしゃるんだわ。」「そんな神さまうその神さまだい。」「あなたの神さまうその神さまよ。」
「さうぢゃないよ。」
「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑ひながら云ひました。「ぼ
くほんたうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんたうのたった一人の神さまです。」
「ほ
んたうの神さまはもちろんたった一人です。」「あゝ、そんなんでなしにたったひとりのほんたうの
ほんたうの神さまです。」「だからさうぢゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんた
うの神さまの前にわたくしたちとお会ひになることを祈ります。」青年はつゝましく両手を組みま
した。女の子もちゃうどその通りにしました。みんなほんたうに別れが惜しさうでその顔いろも少
し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声をあげて泣き出さうとしました。
青年は、
「南十字星、サウザンクロスで降りて天上に行こう」と、男の子に呼びかけるのですが、男
の子は嫌がりました。ジョバンニは、「僕たちと一緒に乗っていこう。どこまでもいける切符があるん
だから」というと、女の子が「私たちもこのサウザンクロスでおりなきゃいけない。天上へ行くところ
なのだから」
と寂しそうに説得しました。ジョバンニが、
「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか」
というと、女の子は、
「天上には、お母さんも行っているし、神さまもそう説いています」と答えました。
ジョバンニは、「そんな神さまはうその神さまだ」と言い放ちます。すると女の子も、「あなたの神さま
がうその神さまだ」と返しました。
17.ほんとうの神さまの論争を超えて
そこで青年とジョバンニが、神さまについて話し合っています。注目されることは、青年が「ほんた
うの神さまはもちろんたった一人です」と言い切ると、ジョバンニは、「そんなんではなしにたったひ
とりのほんたうのほんたうの神さまです」と答えているところです。ここで「ほんたうの神さま」が「たっ
た一人である」ことを青年が強調すると、ジョバンニは、そうではなく、
「ほんたうのほんたうの神さま」
という表現に変えています。「たった一人」という表現も、「たったひとり」という表記に宮沢賢治は変
えています。そして最後に、青年は「ジョバンニやカムパネルラたちがほんとうの神さまの前で私たち
と会うのを祈ります」と話していますが、ジョバンニから見ると、サウザンクロスの駅で降りていくみ
んなの顔は青ざめ、みんな別れが惜しそうでしたし、泣きそうになっていると感じています。このよう
に、どれだけ深い信仰でも、たった一人の神さまだけを信じると主張することによって、ひとはしばし
ば、自分と異なるものを信じる人を除外し、人と人とが離れ離れになってしまうことをここに示してい
るのではないでしょうか。
それはまた、現実に、ユダヤ教のエホバとキリスト教のゴッドとイスラム教のアッラーの神々をそ
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れぞれ信じる人たちが、たった一人の神を自分たちの基軸に立てるために他の神を受け入れられず、互
いにわかりあえずに反目しあっていることを思い起こさせます。神をルーラー(Ruler)やロード(the
Lord)と呼ぶとき、それは一つのものさしや統治者となってしまい、他の神を拠り処とする人々を排
斥する論理に陥ってしまうのです。神の名の下で行われてきた正義のための聖戦(crusade, justwar)は、
まさしくそのことを意味しています。それは神ばかりではありません。仏教もまた戦争を賛美した歴史
を有しています。真実の仏教とは何かをめぐって、宗派間の論争もあります。そういう意味では、ほん
とうの神さまをめぐる論争は、神々を信じる人々の間だけでなく、仏に帰依する人々をも含めたすべて
の宗教において見られるものでしょう。宗教者の対話と相互理解は、
人類の抱えている継続的な課題です。
宮沢賢治自身にも、ほんとうの仏さまをめぐる論争が、父親の政次郎との間でありました。父親の宮
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沢政次郎は熱心な浄土真宗の門信徒で、仏教講習会を主催し、息子の賢治を幼少の頃から大沢温泉の講
習会などに連れて行きました。暁烏敏の『歎異抄講話』を賢治は深く読み、十六歳の中学校時代には、
「小
生はすでに道を得候。歎異抄の第一頁を以って小生の全信仰と致し候。13」と父親の政次郎に手紙を送っ
ているくらいです。しかし、十八歳のとき、浄土真宗僧侶、願教寺住職であった島地大等編『漢和対照
妙法蓮華経』を読んでから、賢治は朝日が昇るような感動を受けて、『法華経』に帰していきます。そ
れから賢治は、父親の政次郎に向かってくりかえし『法華経』の真実性を説き、論争しました。その意
味では、
「あゝ、そんなんでなしにたったひとりのほんたうのほんたうの神さまです。」と言い切るジョ
バンニの言葉は、そのまま宮沢賢治が父親に向かって『法華経』の真実を伝えてきた言葉と重なってい
るように思われます。すなわち、ほんとうの神さまをめぐる論争は、他人事ではなく、宮沢賢治自身の
かかえてきた課題であったことでしょう。
それでは、神々や仏を信じる人たちの間で起きる論争をどのように解決したらいいのでしょうか。神
を信じるものや仏を信じるもののそれぞれの救いをどのように考えたらいいのでしょうか。その答えを
示す宮沢賢治の言葉が、『銀河鉄道の夜』第三次稿に残されています。
みんながめいめい自分の神さまがほんたうの神さまだといふだろう。けれどもお互ほかの神さま
を信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。それからぼくたちのこころがいゝとか悪いと
14
か議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。(『銀河鉄道の夜』第三次稿。
第75葉)
この言葉は、カムパネルラがいなくなってジョバンニが泣いていたとき、セロのような声をしたブル
カニロ博士がカムパネルラの席に現れて、ジョバンニに穏やかに語る場面で書かれています。ここで重
要なことは、ほんとうの神さまをめぐる議論には勝負がつかないけれども、それでも、「ほかの神さま
を信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう」と言っているところです。いずれの神が優れてい
るかをめぐって対立する議論に耐えながら、しかも自分とは異なる神を信じる人々の行いについても涙
があふれるところに、論争をこえて相互に認め合う宗教的な寛容さを見出すことができます15。その涙
には深い安らぎさえ感じます。
宮沢賢治の宗教観について、西田良子はこう論じています。
「けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。」と書いた賢治
は、かつて「どの宗教でもおしまひは同じところへ行くなんという事は断じてありません。間違っ
た教えによる人はぐんぐん獣類にもなり魔の眷属にもなり地獄にも堕ちます。」と、折伏に懸命だっ
た頃の賢治とは明らかに異なる心境になっている16。
すなわち、宮沢賢治自身が、はじめは、
『法華経』に対する熱烈な信仰から、父親や保阪嘉内をはじめ、
自分とは異なる宗教を信じるものを折伏しましたが、やがて、この『銀河鉄道の夜』の原稿を校正した
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頃には、宮沢賢治の宗教観が柔らかく変容してきたといえるでしょう。
このように、晩年の宮沢賢治は、宗教間で人々が神や仏の優劣を論じ合うときに、相容れることがむ
ずかしいという悲しみを感じながら、自分とは異なる神を信じる人々の救いも尊重するようになってい
ました17。したがって、ここでジョバンニが伝えたかったことは、孤独な自己を深く支えてくれるもの
こそが「たったひとりのほんたうのほんたうの神」であり、「たったひとり」とは、唯一神ではなく、
自分にとってのかけがえなさを意味するものであり、その神以外には認めないという態度でなないと青
年に伝えたかったのではないでしょうか。
いみじくも親鸞の言葉を記した『歎異抄』後序には、次のような親鸞の宗教的な告白が記されています。
聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人
がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたち
ける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひし・・・(『歎異抄』後序18)
この文章は次のような意味です。「親鸞聖人がいつもおっしゃっていたことに、『阿弥陀仏が五劫とい
う果てしない長い時間をかけて思惟してたてられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、この親
鸞一人のためのものでした。ですから、それほどにかかえきれない重い業を背負った、この通りの私を、
救おうと思い立ってくださった阿弥陀仏の本願は、なんともったいないことであろうか』と、しみじみ
お話になっておられました。」
この「親鸞一人がため」のひとりは、「たったひとりのほんたうのほんたうの神」の真意と同じであ
るように思われます。宮沢賢治はこの『歎異抄』に中学校時代から読み親しみ、この文をどこかで記憶
していたかもしれません。悩めるたったひとりの自己のためにかけられた仏の願いであったと実感する
とき、仏はかけがえなく身近な存在となってきます。宮沢賢治が尊敬してよく読んでいた暁烏敏著『歎
異抄講話』には、「親鸞一人がため」のひとりについて、こう説明されています。
宗教を味わうには、常にこれを自分一人の霊性の救済の問題として味わうようにせねばならぬ。
これを普遍的の道理のように思うて聞いていては、いつまでたっても、安心が得られない。痛切に
19
自己の問題として考えねば、いかに仏の大慈悲を聞いたとしてもなんらの手ごたえがないのである。
神にしても仏にしても、それがこの自分ひとりの救済のためにある存在として自覚されるときに、は
じめて「本当の本当の神さま」「本当の本当の仏さま」となって深く自分の拠り所となってきます。し
たがって、ジョバンニの語った「たったひとりのほんたうのほんたうの神」とは、自分にとってなくて
はならないかけがえのない存在であることを表現したものであって、本当の神は唯一一人しかいないと
相手の信じる神を排除した主張ではありません。「ほんたうのほんたうの神」を信じるものには、自分
とは異なる神を信じるものをも認める寛容さがそこに生まれるはずです。そうジョバンニは、青年に伝
えたかったのではないでしょうか。
それでは、物語にもどりましょう。
そのとき、光でちりばめられた十字架は、まるで一本の木のように皮から立って輝き、十字架の上に
は、りんごの肉のような青白い雲が環になり仏さまの後光のようにかかりました。「ハレルヤハレルヤ」
という明るく楽しい声がひびきました。ラッパの音が遠くから聞こえてきました。そうして汽車は十字
架のちょうど真向かいに停車しました。
「さあ、下りるんですよ。」青年は男の子の手をひき姉妹たちは互にえりや肩を直してやってだ
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んだん向ふの出口の方へ歩き出しました。「ぢゃさよなら。」女の子がふりかへって二人に云ひまし
た。
「さよなら。」ジョバンニはまるで泣き出したいのをこらへて怒ったやうにぶっきり棒に云ひま
した。女の子はいかにもつらさうに眼を大きくしても一度こっちをふりかへってそれからあとはも
うだまって出て行ってしまひました。汽車の中はもう半分以上も空いてしまひ俄かにがらんとして
さびしくなり風がいっぱいに吹き込みました。
ジョバンニは最後まで十字架の停車場で降りて行く男の子や女の子たちと別れるのが寂しかったこと
でしょう。だから乗客がいなくなった車両ががらんとして寂しくなったと記されています。駅を降りた
人々はつつましく列を組んで十字架の前の天の川の渚にひざまづいていました。ひとりの神々しい白い
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着物を着た人が手を伸ばしてこっちへ来るのを二人は見ました。しかし汽車は動きはじめました。銀色
の霧が流れてきてあたりは見えなくなり、ただたくさんのくるみの木が葉をさんさんと光らし、黄金の
り
す
円光をもった電気栗鼠が可愛い顔をくるみの木の中からのぞかせているだけでした。
やがて、振りかえって見ると、さっきの十字架はすっかり小さくなってしまい、胸にかけるペンダン
トのような大きさになりました。女の子たちももうぼんやりして見分けられません。
18.ジョバンニの決意
ジョバンニはあゝと深く息しました。「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこ
までもどこまでも一緒に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば
僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」「うん。僕だってさうだ。」カムパネルラの眼には
きれいな涙がうかんでゐました。「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう。」ジョバンニが云
ひました。「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。
「僕たちしっかりやらうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くやうにふうと息をしな
がら云ひました。
ここにジョバンニの深い決意が述べられています。「どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもう
さいわい
あのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」
という決意です。そしてカムパネルラも「うん。僕だってそうだ」ときれいな涙をうかべて答えていま
す。この決意は長い銀河鉄道の旅路のなかから生まれた言葉でした。それでも、ほんとうの幸いが何で
あるかは、二人ともはっきりとわかっているわけではないのです。みんなの幸いのために身を粉にして
尽くしたいという想いが力となってただ伝わってきます。
すると、
「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ」とカムパネルラが天の川のなかのまっくらの孔を
指さしました。ジョバンニは、その「石炭袋」を見て、ぎくっとし、目をこすってもみえない黒い孔の
奥を見つめているうちに、眼がしんしんと痛むのでした。「石炭袋」とは、コールサック(Coalsac)と
呼ばれ、南十字星のα星の真東にある暗黒星雲です。20『新宮澤賢治語彙辞典』には、南十字星の近く
と北十字星の近くの二箇所にある暗黒星雲を石炭袋と呼ぶことがあると記し、
賢治は南北両石炭袋を、異次元世界に通ずる穴(孔)、すなわち冥界と現世を結ぶ通路として作
品を構成したことになる。21
と説明しています。その意味では、石炭袋なる暗黒星雲は、ジョバンニとカムパネルラにとって、この
世の岸を越えた彼岸につきぬけていたのでしょう。
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ジョバンニが云ひました。「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほん
たうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行かう。」「あゝきっと
行くよ。あゝ、あすこの野原はなんてきれいだらう。みんな集ってるねえ。あすこがほんたうの天
上なんだ。あっあすこにゐるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄かに窓の遠くに見えるき
れいな野原を指して叫びました。
ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむってゐるばかりどうしてもカム
パネルラが云ったやうに思はれませんでした。何とも云へずさびしい気がしてぼんやりそっちを見
てゐましたら向ふの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方から腕を組んだやうに赤い腕木をつらねて
立ってゐました。「カムパネルラ、僕たち一緒に行かうねえ。」ジョバンニが斯う云ひながらふりか
へって見ましたらそのいままでカムパネルラの座ってゐた席にもうカムパネルラの形は見えずジョ
バンニはまるで鉄砲丸のやうに立ちあがりました。そして誰にも聞えないやうに窓の外へからだを
乗り出して力いっぱい はげしく胸をうって叫び それからもう咽喉いっぱい泣きだしました。もう
そこらが一ぺんにまっくらになったやうに思ひました。
やみ
「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。
どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んでいこう」。このジョバンニの言葉は力強い響きがあり、ジョ
バンニとカムパネルラとの間に、死を超えてつづく深い絆があることを感じます。このジョバンニの決
意は、
「ああきっと行くよ」というカムパネルラの心にこだましています。するとカムパネルラは、き
れいな野原を見つけます。その野原にはカムパネルラのお母さんがいました。その野原は、カムパネル
ラにとってのほんとうの天上の世界だったのでした。
ジョバンニには、白くぼんやりしていて、そのきれいな野原がよく見えませんでした。それでも向こ
うの河岸に二本の電信柱が腕を組んだように連なっていました。赤い腕木を連ねて立っている二本の電
信柱は、あたかもシグナルとシグナレスの恋、カムパネルラとジョバンニの絆のように感じられます。
ジョバンニがもう一度「僕たち一緒に行こうねえ」といいながら振りかえったら、カムパネルラの姿は
ありませんでした。ジョバンニは力いっぱい叫び、そしてのどいっぱい泣き出しました。カムパネルラ
は、そのきれいな野原に行ってしまったのでしょう。ジョバンニは、こうして銀河鉄道という夢の中で、
学校や星祭ではあまり話しできなかったカムパネルラと心を深く通わせ、鳥捕りに出会ったり、沈没船
の青年と子どもたちがサウザンクロスの駅で降りていくのを見送ったりしたあと、二人で「どこまでも
どこまでも僕たちいっしょに進んでいこう」と誓い合いました。そしてその直後、カムパネルラは一人
きれいな野原に行ってしまったのでした。一人になったジョバンニは寂しかったことでしょう。銀河鉄
道の車内も広く冷たく感じたかもしれません。それでも、「どこまでもどこまでも僕たちいっしょに進
んでいこう」と二人が誓い合ったことは、カムパネルラが見えなくなった後も、ジョバンニの心に生き
つづけていると思われます。
19.目が覚めたジョバンニ
ジョバンニは眼をひらきました。もとの丘の草の中につかれてねむってゐたのでした。胸は何だ
かおかしく熱り頬にはつめたい涙がながれてゐました。
こうしてカムパネルラと別れた後、ジョバンニは、もとの丘の上で目が覚めました。ジョバンニの頬
を伝った涙は、カムパネルラといっしょに銀河鉄道に確かに乗っていたことを物語っています。涙は愛
情の証であり、心の深層が開いている表れです。夢から覚めて涙が流れていたという経験は、夢の中で、
そのひとの心の奥深くにある大切なものに触れたことを表しています。ジョバンニははね起きました。
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町に光はさっきより熱した感じでした。今まで夢で歩いた天の川もさっきの通りに白くぼんやりかかっ
ていました。南の地平線の上では煙ったようになり、蠍座の赤い星がうつくしくきらめいていました。
ジョバンニは、まだ夕ご飯を食べていないお母さんのことを胸いっぱいに思い出し、丘を走って下り
ました。再び暗い牛舎をたずねると、白いズボンをはいた人が出てきて、ジョバンニはさっきもらえな
かった牛乳をもらうことができました。
そして木のある町を通って大通りへ出てしばらくいくと、十文字になった道があり、右手の方の通り
のはずれに、カムパネルラたちが明かりを流しに行った大きな橋のやぐらが立っていました。
20.川に落ちたカムパネルラ
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ところがその十字路近くでは、女の人たちが集まって、橋のほうを見ながらひそひそと話していまし
た。
ジョバンニはなぜかさあっと胸が冷たくなったやうに思ひました。そしていきなり近くの人たち
へ
「何かあったんですか。」と叫ぶやうにきゝました。
「こどもが水へ落ちたんですよ。」一人が云ひますとその人たちは一斉にジョバンニの方を見まし
た。ジョバンニはまるで夢中で橋の方へ走りました。橋の上は人でいっぱいで河が見えませんでし
た。白い服を着た巡査も出てゐました。
ジョバンニは橋の袂から飛ぶやうに下の広い河原へおりました。
その河原の水際にはたくさんの明かりがともっていました。向こう岸にも、明かりが動いていました。
そのまん中を、川がわずかに音を立てて灰色に流れていました。ジョバンニは人の集まっている下流の
洲のところに走りました。するとジョバンニはいきなりカムパネルラと一緒だったマルソに会い、その
マルソがジョバンニに走り寄ってきて言いました。
「ジョバンニ、カムパネルラが川へはいったよ。」「どうして、いつ。」「ザネリがね、舟の上から
烏うりのあかりを水の流れる方へ押してやらうとしたんだ。そのとき舟がゆれたもんだから水へ
落っこったらう。するとカムパネルラがすぐ飛びこんだんだ。そしてザネリを舟の方へ押してよこ
した。ザネリはカトウにつかまった。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ。」「みんな探して
るんだらう。」「あゝすぐみんな来た。カムパネルラのお父さんも来た。けれども見附からないん
だ。ザネリはうちへ連れられてった。」ジョバンニはみんなの居るそっちの方へ行きました。そこ
に学生たち町の人たちに囲まれて青じろい尖ったあごをしたカムパネルラのお父さんが黒い服を着
てまっすぐに立って右手に持った時計をじっと見つめてゐたのです。
誰も一言もいわず、じっと河を見ていました。ジョバンニの足はふるえました。
下流の方の川はゞ一ぱい銀河が巨きく写ってまるで水のないそのまゝのそらのやうに見えました。
ジョバンニはそのカムパネルラはもうあの銀河のはづれにしかいないといふやうな気がしてしか
たなかったのです。
ジョバンニにとって、河いっぱいに映った銀河は、夢の中で銀河鉄道に乗ってたずねた銀河の川その
ものに見えたことでしょう。そしてその銀河のはずれのきれいな野原にカムパネルラがいるとジョバン
ニは実感していました。
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この『銀河鉄道の夜』に関連して、ぐんま天文台にお
いて、斉藤文一の企画構想のもとで、「新銀河鉄道の夜」
と題した展示がありました。そこに「大河に写る天の川」
(藤井旭撮影)の写真が紹介されています22。本当に美
しい銀河系の写真です。司修は、『銀河鉄道の夜』の中
の「大河に写る天の川」について、こう記しています。
窓から見える美しい宇宙の景観は、「イギリス海
岸」に書かれた景色に重なります。ススキの原や、
クルミの化石が、天の川の河原で見られます。賢治
は、北上川に映った銀河を、想像していたのではな
いでしょうか。
夜のイギリス海岸に立つと、黒い水の流れに、星
明りが映ります。花巻辺りの空は真っ暗ですから、
銀河は青く、ミルクのように白く、大空を横切って
見えます。それがそのまま手の届く川面にあるので
すから、実際に天の川を歩くことにもなるのです23。
この「大河に写る天の川」の写真を見ると、この世界
の川と銀河系の天の川とが結びついているようにさえ感
じます。宮沢賢治も実際に、この写真のように、天の川
が花巻の北上川に映るのを見た経験があったことでしょ
う。ジョバンニも、このような光景を見たと思われます。
ジョバンニは、カムパネルラが銀河のはずれにいると確かに感じているのですが、みんなは川の波の
間から、カムパネルラが出てくるのではないかとかすかな希望をいただいていました。しかし、カムパ
ネルラのお父さんはきっぱりと断言しました。
けれども俄かにカムパネルラのお父さんがきっぱり云ひました。
「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」
ジョバンニは思はずかけよって博士の前に立って、ぼくはカムパネルラの行った方を知ってゐま
すぼくはカムパネルラといっしょに歩いてゐたのですと云はうとしましたがもうのどがつまって何
とも云へませんでした。すると博士はジョバンニが挨拶に来たとでも思ったものですか、しばらく
しげしげジョバンニを見てゐましたが「あなたはジョバンニさんでしたね。どうも今晩はありがた
う。
」と叮ねいに云ひました。
カムパネルラの父親は、すでに自分の息子がおぼれて亡くなっていることを冷静に感じ取っていまし
た。夢の中で、さっきまでいっしょだったカムパネルラのことを、ジョバンニは彼の父親にだけは言い
たかったことでしょう。しかし「のどがつまって」何も言えませんでした。
カムパネルラがおぼれて亡くなったのにもかかわらず、反対に、カムパネルラの父親は、ジョバンニ
に優しく声をかけます。
「あなたのお父さんはもう帰ってゐますか。」博士は堅く時計を握ったまゝまたきゝました。
「いゝえ。」ジョバンニはかすかに頭をふりました。
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「どうしたのかなあ。ぼくには一昨日大へん元気な便りがあったんだが。今日あたりもう着くこ
ろなんだが。船が遅れたんだな。ジョバンニさん。あした放課后みなさんとうちへ遊びに来てくだ
さいね。」
さう云ひながら博士はまた川下の銀河のいっぱいにうつった方へじっと眼を送りました。
ジョバンニはもういろいろなことで胸がいっぱいでなんにも云へずに博士の前をはなれて早くお
母さんに牛乳を持って行ってお父さんの帰ることを知らせやうと思ふともう一目散に河原を街の方
へ走りました。
物語は、ここで終わっています。
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カムパネルラの父親がジョバンニの父親のことを心配し、きっと帰ってくると話しているところは、
カムパネルラの父親の悲しみをつきぬけた優しさを感じます。カムパネルラの父親とジョバンニの父親
は、仕事は全く違っても、手紙を交換するほどの仲良しでした。ジョバンニが同級生にいじめられても、
カムパネルラだけが優しく見守ってくれたように、カムパネルラの父親にもその優しさを深く感じ取る
ことができます。そしてまた、ジョバンニだけでなく、カムパネルラの父親も、銀河のいっぱい映った
川下をじっと見つめています。ジョバンニは何も伝えられませんでしたが、カムパネルラの父親にも、
銀河のはずれのきれいな野原にいる息子が感じられていたのかもしれません。
こうしてジョバンニは、牛乳を持ってお父さんの無事を早く知らせようと、お母さんのもとへ帰って
行きました。
三 『銀河鉄道の夜』の深層
この物語では、「乳の流れたあと」とよばれる銀河系の天の川(The Milky Way)と、母親のために
飲ませてあげたい「牛乳」が登場します。この牛乳には、母なるものをイメージさせる暖かさや優しさ
が込められています24。また、牛乳は、宗教的な隠喩であり、宮沢賢治が重んじた仏教においては、乳
は蜜のように人を養い育てるものであり、「一切衆生悉有仏性」(『涅槃経』)と説かれるように、生きと
し生けるもののなかに埋もれている仏性を牛乳に喩えます。仏性とは、仏の性質、仏となりうる可能性、
すべての存在に具わっているかけがえのなさを意味します。すなわち、乳のもつ五種の味は「五味」と
いわれ、時がたつとともに変化して味が深まるように、すべてのひとも真実を求め、やがて時の経過と
にゅうみ
らく み
ともに成長していくというのです。たとえば、『涅槃経』では、牛乳を精製するときに、乳味・酪味・
しょうそみ
じゅくそみ
だい ご
み
生酥味・熟酥味・醍醐味と成熟していき、その醍醐味はニルヴァーナ、涅槃に比定されています25。こ
のように牛乳は、母のような慈しみを象徴するとともに、迷いからさとりにいたる精神的な成長過程を
も示唆しているといえるでしょう。
この牛乳のテーマについて、別役実と天沢退二郎が示唆に富んだ対談をしています。
天沢 母親との関係でいえば、最後には牛乳を持ってお母さんのところへ走っていくわけです
けれども、ミルクというのは、本来は母親が子供に与えるものですよね。それが『銀河鉄道の夜』
では逆転しているのです。親が子供に与えるものであるところのミルクを持ってジョバンニはうち
を目指すわけで、それも、明らかにある成長儀式を終えたことを示していますよね。・・・天の川
はミルキーウェイともいうわけだけども、牛乳のテーマとジョバンニの成長儀式との関係は、全編
を通じて見事に貫徹されているわけですね。
別役 母親の目が閉ざされて、子供が独立して、それが共同体における一人の少年の成長のた
めの儀式だというふうに考えて、さらにカムパネルラに対するあこがれが父親願望だと置き換えて
みると、カムパネルラを思慕しながら幻想領域を体験して、結局カムパネルラと別れ、つまり父親
55
から独立して成人して帰ってくると、実の父親が帰ってくる。最後に父親が帰ってくることで、そ
のあたりの構造がひじょうにわかりやすくなりますね26。
すなわち、天沢退二郎は、ジョバンニが母なるものを象徴する牛乳を手に入れるまでの成長儀式が全
編に流れているといい、別役実は、それに加えて、カムパネルラと別れてから、実の父親が帰ってくる
という構造に、父なるものを思慕し手にする成長過程が示されていると指摘しています。ジョバンニは、
はじめに母なるものと父なるものを見失っていたため、心の深層でそれらを求めて旅のなかで成長して
いくことができたのでしょう。
この物語の最初では、ジョバンニが母のために牛乳を牛舎まで取りに行きましたが、その牛乳は手に
入りませんでした。ケンタウルス祭りに行こうとすると、同級生から仲間はずれにされ、寂しくて叫び
ながら丘に向かって走りました。ここまでのジョバンニの心の深層は、牛乳が手に入らないことに象徴
されるように、父母の暖かさを感じられない寂しさ、疎外感が描かれているかのようです。やがてジョ
バンニは、天気輪の柱のある丘の上で、からだを冷たい草に投げて、天の川を見上げているうちに、さ
あっとあたりが明るくなって、いつのまにか岩手の軽便鉄道に乗っていて、カムパネルラと会いました。
二人が白鳥の停車場を降りて河原に行き、ジョバンニが「銀河の水」に手をひたすと、その「銀河の水」
は透き通り、手首にぶつかってできた波は燐光をあげてちらちら燃えるように光りました。ここでジョ
バンニが「銀河の水」に手をひたすということは、まさしく「乳の流れたあと」のミルキーウェイに心
をひたしたことを意味しているのではないでしょうか。そこには、透き通ったミルクのような天の川、
すなわち、慈愛に満ちた母なる銀河系に自分がそのままで受け入れられていることを深く表しているよ
うに感じます。そして、ジョバンニは鳥捕りや沈没した船の乗客たちにめぐりあって別れていくのです
が、カムパネルラとはずっといっしょにいて、二人きりになりました。ジョバンニが「どこまでもどこ
さいわい
までも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなん
か百ぺん灼いてもかまわない」と決心すると、カムパネルラも「うん。僕だってそうだ」ときれいな涙
をうかべて応じました。やがてカムパネルラは、石炭袋の近くにきれいな野原を見つけて姿が見えなく
なってしまうのですが、この二人で一緒に進んで行こうとした決意は、乳の流れたあとの天の川のよう
にずっと輝き残っています。その意味では、「銀河の川」に手をひたし、ついにカムパネルラと決意し
たときには、もうジョバンニはすでに母なるものに抱かれていたのではないでしょうか。だから目が覚
めてから、母親のための牛乳をたやすく手にすることができたのでしょう。母なる銀河系が川に映り、
まるで空のように見えたのは、ジョバンニの心の奥底で母なるものに抱かれている確信が生まれている
ように感じられます。銀河系のはずれにきっとカムパネルラがいるとジョバンニが確信できたのは、カ
ムパネルラとジョバンニとの絆が死を超えたものになっていたからでしょう。さらに、最後のカムパネ
ルラの父親の優しい言葉には、ジョバンニの父親の愛情をあわせて感じることができます。ちょうど牛
乳が熟して醍醐味となるように、銀河鉄道の旅を通して、ジョバンニは孤独のなかで成長し、母なる「銀
河系を自らの中に意識し」(『農民芸術概論綱要』)、目には見えない真実の絆を感じ取っていくことがで
きたように思われます。
『銀河鉄道の夜』の物語は、白鳥座の十字架から南十字星の十字架までにいたる旅として注目されて
います。しかしはたしてそうでしょうか。物語は、天上で降りるところでは終わっていません。重要な
ことは、ジョバンニもカムパネルラも、青年や子どもたちに別れを惜しみつつ、サウザンクロスでは降
りていないということでしょう。サウザンクロスの十字架の星で降りていく人々もいることを、この銀
河鉄道の旅路で示しているだけで、二人を乗せた銀河鉄道はまだ走りつづけています。
大乗仏教とは、「大きな乗り物の意で、自分ひとりのさとりのためでなく、多くの人々を救う巨大な
乗り物のような仏教」27をいいます。銀河鉄道は、この大乗のように、生きとし生けるものをわけへだ
てなく安穏へ導く乗り物を象徴しているように思われます。銀河鉄道に乗る人々はさまざまであり、鳥
56
捕りのように殺生を生業とするものも、キリスト教の神を信じるものも乗せて、それぞれにふさわしい
停車場で降りていくことができます。だからこそ、ジョバンニとカムパネルラは、天上につづくサウザ
ンクロスの停車場で降りずに、「みんなのすべてのさいわい」をさらに求めて旅をつづけたのです。銀
河鉄道は、選ばれた人々だけが乗ることのできる乗り物ではありません。銀河鉄道には、誰でもわけへ
だてなく乗ることができ、生きとし生けるものや宝石でできた河原や水素の川がその沿線に存在し、人々
は自分の信じる停車場で降りることができます。すべてを受けいれる女性のような優しさと一人ひとり
の生き方を尊重する寛容さを銀河鉄道に見ることができるでしょう。あたかも『シグナルとシグナレス』
で描かれた岩手軽便鉄道が、女性のシグナレスの居場所であり、恋人の男性シグナルのいる東北本線に
つづいていたように、銀河鉄道の岩手軽便鉄道にも黙って人々を受けいれる優しさを感じます。
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『ポラーノの広場』のなかで、宮沢賢治はこう歌っています。
まさしきねがひに いさかふとも
銀河のかなたに ともにわらひ
なべてのなやみを たきゞともしつゝ
はえある世界を ともにつくらん28
信仰や信条が人それぞれ異なって、互いに言い諍っても、銀河系のはるか彼方でともに笑おう。すべ
ての悩みをたきぎとして燃やし、あらゆるものが輝く世界をともにつくろう。この詩にもあるように、
宮沢賢治は、人と人とが対立する現実を見据えながら、銀河の彼方でともに喜び、すべての幸いをとも
に願っていこうとしていたのです。
『銀河鉄道の夜』の現実世界では、母親の病気や父親の不在、労働、そして同級生からのいじめを受
けてジョバンニは孤立しています。さらに、ジョバンニの唯一の理解者であるカムパネルラは、いじめっ
子のザネリを救おうとしておぼれて死んでしまいます。心の表層には、驚きや疎外されたさびしさ、思
いがけない死別の悲しみがおおっています。『銀河鉄道の夜』は、すべてを失い、すべてに別れ、すべ
てから遠ざかっていく物語なのです29。しかしそれでも、夢の世界、すなわち、心の深層では、ジョバ
ンニとカムパネルラは銀河鉄道に乗って、この現実世界を超えた銀河の川を旅し、二人はほんとうの幸
いを求めて、「どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう」と誓い合い、何ものをも恐れない絆
が育まれています。だからこそ表面的には、可哀想なジョバンニの孤立と残酷にさえ感じるカムパネル
ラの死の現実があろうとも、心の奥深くでは、その二人の絆は、この世界の河に映った銀河系の天の川
のように、死を超えてもつづいているのではないでしょうか。ひとはひとりで生きているのではありま
せん。他の誰かに生かされています。ひとのいのちや愛情は死ねば終わりでしょうか。決してそうでは
ありません。相手から受けた愛情、そして自分が相手のために尽くしたまことの愛情は、死別した後か
らかえって深く感じられるものです。
このような死を超えたまことの絆については、『めくらぶどうと虹』のなかにも見られます。「私を連
れて行ってください」と求めるめくらぶどうに、虹がこう語りかけています。
「いゝえ私はどこへも行きません。いつでもあなたのことを考えてゐます。すべてのまことのひ
かりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行くのです。いつまでもほろびるといふ
ことはありません。」30
虹ははかなく消えてしまう存在ですが、まことのひかりのなかで、虹とめくらぶどうはいのちの無常
さを超えて「いっしょに」行くことができることをここに示しています。まさしくそのように、カムパ
ネルラのいのちは、同級生のザネリを助けるためにはかなく消えてしまいましたが、ジョバンニとカム
57
パネルラが感じあえたまことの絆、まことの慈悲は、死を超えてつづいていくことを宮沢賢治が示そう
としたと考えられます。ひとは誰しも愛するものと別れなければならないという孤独な悲しみをかかえ
ています。しかし、誰しも心の底では独りぼっちであることに気づいたとき、そこから相手に対する無
上の優しさが生まれてきます。「どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう」という心の絆を感
じるとき、ひとは孤独のなかでこそ、自分を卑下せずに、本当の幸いのために生きようとする志願が湧
きおこってきます。宮沢賢治は、そう私たちに話しかけてくれているように感じられるのです。
₁ 「注文の多い料理店」序。『新校本 宮澤賢治全集』第12巻。7頁。筑摩書房。1995年。
₂ 「めくらぶどうと虹」。『新校本 宮澤賢治全集』第8巻。113頁。筑摩書房。1995年。
₃ 河合隼雄「深層心理」『生誕百年記念 宮沢賢治の世界展』50頁。朝日新聞社。1995年。
₄ 天沢退二郎「『銀河鉄道の夜』の原稿の構造」
『別冊太陽 宮沢賢治 銀河鉄道の夜』50頁。平凡社。1985年。「銀河鉄道の夜」
『生
誕百年記念 宮沢賢治の世界展』69頁。朝日新聞社。1995年。
₅ 入沢康夫監修・解説『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の原稿のすべて』参照。宮沢賢治記念館。1996年。西田良子編『宮沢賢治「銀
河鉄道の夜」を読む』には、第一次稿から第四次稿にいたる宮沢賢治の創作意識の変化について詳しく考察されている。創元社。
2003年。
₆ 天沢退二郎「収録作品いついて」宮沢賢治『新編 銀河鉄道の夜』347〜348頁。新潮文庫。1989年。
₇ 宮沢清六『兄のトランク』262〜263頁。ちくま文庫。1991年。
₈ 「銀河鉄道の夜」第四次稿最終形。『新校本 宮澤賢治全集』第11巻。123〜171頁。筑摩書房。1996年。
₉ 河合隼雄「解説 過透明なかなしみ」241〜242頁。宮沢賢治『銀河鉄道の夜』角川文庫。1996年。
10 原子朗著『新宮澤賢治語彙辞典』第二版。492〜493頁。東京書籍。2000年。
11 『新宮澤賢治語彙辞典』31頁。
12 恩田逸夫「解説」311〜312頁。『宮沢賢治童話集Ⅱ 銀河鉄道の夜』岩波書店。1963年。
13 『新校本 宮澤賢治全集』第十五巻。書簡本文編。16頁。筑摩書房。
14 「銀河鉄道の夜 初期形三」。『新校本 宮澤賢治全集』第10巻。174〜175頁。筑摩書房。1995年。
15 竹内整一著『〈かなしみ〉と日本人』11頁。NHKこころをよむ。NHK出版。2007年。竹内整一は、「〈かなしみ〉とは、みずか
らの有限さ・無力さを深く感じる感情ですが、しかし、そうしたことを感じることにおいて、そこに、ある種の倫理性、ある
いは無限(超越)性を獲得できる感情としても働いています」(3頁)と論じている。
16 西田良子「四つの「銀河鉄道の夜」」217〜218頁。西田良子編『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」を読む』所収。
17 山根知子は、「青年が自らの信じる神を唯一絶対化して、他を排斥する「たった一人の神さま」と示したのに対して、ジョバン
ニは、先の成瀬仁蔵の帰一思想を語った言葉にあるように、種々の異なった特色を持つ多数が調和し、何者も排斥しない天地
の実在である「ほんたうのたったひとりの神さま」を示したかったのだということではなかろうか。」と論じている。山根知子
著『宮沢賢治 妹トシの拓いた道—銀河鉄道の夜に向って』339〜330頁。朝文社。2003年。
18 『歎異抄』後序。浄土真宗聖典註釈版第二版。853頁。
19 暁烏敏著『歎異抄講話』549頁。講談社学術文庫。1981年。原本は明治44(1911)年初版。
20 天沢退二郎解説注解『新編 銀河鉄道の夜』327頁参照。新潮文庫。
21 『新宮澤賢治語彙辞典』404頁。
22 ぐんま天文台発『新銀河鉄道の夜』のホームページに写真家藤井旭撮影の「大河に写る天の川」の見事な写真が掲載されている。
http://www.astron.pref.gunma.jp/inpaku/galexp/milkyway.html
23 斉藤文一・司修「ぐんま天文台発 新銀河鉄道の夜」編集後記。『Stellar Light』No.9。県立ぐんま天文台。2002年7月。
24 垣井由紀子「乳と牛乳」30頁。西田良子編『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」を読む』所収。
25 中村元著『仏教語大辞典』上巻。「五味」の事項。375頁。東京書籍。大塚常樹。注釈。宮沢賢治著『銀河鉄道の夜』234頁。角
川文庫。1996年。
26 「対談 別役実・天沢退二郎 ジョバンニとカムパネルラ 出会いと別れ」。『別冊太陽 宮沢賢治 銀河鉄道の夜』101〜102頁。
27 中村元著『仏教語大辞典』下巻。「大乗仏教」の事項。922頁。
28 「ポラーノの広場のうた」。『新校本 宮澤賢治全集』第11巻。122頁。筑摩書房。1996年。
29 「対談 別役実・天沢退二郎 ジョバンニとカムパネルラ 出会いと別れ」。『別冊太陽 宮沢賢治 銀河鉄道の夜』104頁。
30 「めくらぶどうと虹」。『新校本 宮澤賢治全集』第8巻。113〜114頁。筑摩書房。1995年。
58
宮沢賢治の仏教的人間観
──すべてのものはつながりあってできている
信楽峻麿
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
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『雨ニモマケズ』
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノイネノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイイトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニ デクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
(『新校本 宮澤賢治全集』第13巻。521-525頁。筑摩書房刊)
59
これは宮沢賢治(1933年没)の有名な詩です。彼の死後に、そのトランクの中にあった、手帳に書か
れていたものです。まことに、純粋にして崇高な詩です。
彼は、明治の中ごろに岩手県の花巻に生まれましたが、両親はともに熱心な真宗の信者でした。だか
ら三歳の時には、真宗の礼拝で用いる『正信偈』と『白骨の御文章』を、すべて覚えていたといいます。
その母イチは、いつも「人間は他人のために、何かをしてあげるために生まれてきたのだ」と教えてい
ました。そのような両親の感化によって、彼は、中学生時代には、親鸞聖人(浄土真宗の開祖・1263年
寂)の『歎異抄』に深く心酔し、またその後には、『法華経』を学んで、そこに説かれるところの大乗
仏教の原理について、深く感動したといいます。
彼は、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)を首席で卒業しましたが、何よりも世の人びとの役
に立つ人になりたいと願って、地元の農学校の教師になりました。しかし、たんに教室で生徒を教えて
いるだけでは、充分に満足できなかったのでしょうか、教師をやめ、農村生活の改善をめざして、農村
の現場でいろいろと働きました。ことに当時の東北地方の農村は、環境条件もきびしく、農民の生活は
決して楽ではありませんでした。彼は、この農民の幸福を夢見て、いろいろな事業に手をだしましたが、
いずれもうまくいきませんでした。彼は30歳で、農民の理想郷を想定したところの羅須地人協会なるも
のを発足して、荒地を開墾し、当時としてはめずらしかった野菜や花の種子を、外国から取りよせて栽
培しました。そしてその協会に、農学校の教え子たちを集めて、エスペラント語、土壌学、植物生理学、
芸術論など、はばひろい勉強会をおこないました。
彼がめざしたものは、「農民は芸術家であり、宗教家でなければならない」というものでありました。
当時の東北地方の農民の、きびしく暗い日常生活を、夢のある明るいものに改良していこうと考えて、
その農民の意識と生活の変革を願ったわけです。外国から求めた花の種子をまき、エスペラント語を教
えたのも、世界の農民と地元の花巻の農民とが、深くつながっているという、広い視野を育てるための
ものであったと思われます。
また彼は、ことに文学的才能にも恵まれて、詩、童話、短歌なども作っており、あのユニークな童話
は有名ですが、その多くは死後に発表されたものであります。その他の論説もふくめて、これらの作品
の全篇に貫かれているものは、その『法華経』を通して学んだところの、大乗仏教の自利利他の原理、
「一
人は全体のために、全体は一人のために」という精神でありました。そしてまた、彼の生涯は、そうい
う大乗仏教の菩薩の道をめざして、真摯な一人の求道者として、それを理想主義的に追求し、実践して
いった、ともいいうるように思われます。その作品である『農民芸術概論綱要』の序論に、
世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない。自我の意識は、個人から集団
社会宇宙と次第に進化する。この方向は、古い聖者の踏み、また教えた道ではないか。新たな時代
は、世界が一つの意識になり、生物となる方向にある。正しく強く生きるとは、銀河系を自らの中
に意識して、これに応じて行くことである。われらは世界のまことの幸福を索ねよう。求道すでに
道である。
と述べているものは、まさしく大乗仏教の精神を深く体解した文章である、といいえましょう。それ
は最初に引用した「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」の詩に、そっくり重なるものでもあります。そのこ
とはまた、生涯独身であった彼が、もっとも愛した妹のとし子の死を悼んで詠んだ「青森挽歌」の中の
一節に、
みんなむかしからのきょうだいなのだから、けっしてひとりをいのってはいけない。
とあるものにも、深く通じるものでありましょう。
60
宮澤賢治の、世の万人を平等に愛する、その心の広さと深さには、ひとしく教えられるところであります。
この文章のタイトル「すべてのものは つながりあってできている」とは仏陀の教言であって、それ
につづいて、
「一つの網の目が、それだけで網の目であると考えるならば、大きな誤りである。網の目は、
ほかの網の目とかかわりあって、一つの網の目といわれる。網の目は、それぞれ、ほかの網が成り立つ
ために、役立っている」と説かれております。(『仏教聖典』おしえ 第一集 因縁 第二節 不思議な
つながり 出典『勝鬘経』)
このことは、お互いにいつも自己中心的な生き方ばかりをしている、今日の私たちの行き方が、きび
しく問われてくる仏陀の教言です。まことに、「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福は
ありえない」といわれるとおりであります。
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『銀河鉄道の夜』にみる賢治の妹トシへの思い
──「みんなのほんとうのさいわいをさがしに」
鍋島直樹
一 賢治の妹トシへの思い
宮沢賢治には、二歳下の妹トシがいました。トシは賢治にとってよき理解者でした。父親の宮沢政二
郎が自ら尊重する浄土真宗と賢治の見出した『法華経』について論争しているときも、妹のトシは賢治
の立場を静かに認めていました。大正七(1918)年十二月、トシが日本女子大学校家政学部本科三年の
とき、肺炎にかかって入院したとき、賢治は急いで上京し、トシを看護しています。トシはその静養中
に賢治の短歌を整理、清書しました。大正九(1920)年九月に、トシは健康が回復してから、母校の花
巻高等女学校教諭心得となり、英語や家事を教えていました。この頃、賢治が中心となり、関徳爾らと
ともに『法華経』の輪読会を開いていたときに、トシもこれに参加していたとされています。賢治が新
しく見出した仏教の世界を童話に書き表すようになってから、書きあげた童話を妹のトシや弟の清六た
ちに読み聞かせていたともされています。しかし、トシは翌年の大正十(1921)年六月頃より、過労の
ため発熱し、八月に入ってからは喀血しました。そのとき、賢治は『法華経』の信仰を求めて上京して
いましたが、電報で「トシビョウキスグカエレ」という連絡を受けて、花巻に帰宅しました。トシは大
正十(1921)年九月に学校の教諭を退職し、療養に専念しましたが、大正十一(1922)年十一月二七日
に、結核のため二四歳の若さで亡くなりました1。このとき賢治は「押入れをあけて頭をつっこみ、お
うおうと泣いた」と伝えられています2。
そのような賢治の妹トシを思う気持ちが、
『銀河鉄道の夜』の物語に盛り込まれています。小西正保は、
こう論じています。
「銀河鉄道の夜」は、そうした賢治のトシへの思いが支えになって生まれた作品といってもよい
のではないか。ジョバンニとカムパネルラとの関係を、賢治とトシというふうにオーバーラップさ
せて読んでいくと、いっそうジョバンニのかなしみが読むものに伝わってくる。(精神分析学者で
あり賢治研究者でもある福島章氏は、その『宮沢賢治—芸術と病理』という著書のなかで、「『銀河
鉄道の夜』は、たしかにジョバンニとカムパネルラの物語ではあるけれども、実は賢治ととし子の
物語なのだといえるのである」といって、詳細にその病跡学的な研究を発表している)・・・
賢治はつねにこの作品を身近において推敲をくりかえしていたもののようである。死の数日前ま
でも手を入れていたとさえいわれている。もっともふかくその完成を願っていたのは賢治その人で
あったろう。そのことによって賢治はみずからの妹への愛慕を何とかしてのりこえていきたかった
のではないかと思える。だが、賢治の死によって作品は永遠の未完成として残り、同時にその死に
よって賢治は妹トシへの同行の思いを果たすことになったといえるかもしれない3。
この作品のなかのジョバンニとカムパネルラを、賢治とトシというふうに重ねあわせて読んでい
くと、死の世界へ行ってしまったカムパネルラ(トシ)とともに幻想四次元の銀河鉄道に乗って、
どこまでもともに行きたいと願うジョバンニ(賢治)の思いが、強くつたわってきます。
62
さらにはこの作品のなかには、賢治が十八歳のときに「如来寿量品第十六」を読んで深く感動し
て以来、ひとすじに追い求め、かつ、そう生きてきた菩薩行(善を積むことによって人びとのほん
とうの幸せを願い、そのことによって永遠の生命を得るという)の主題が所々に伏せられています。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行かう。僕
はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いても
かまはない。」
というジョバンニのことばに、その思いが象徴的にこめられているといってよいでしょう4。
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また、中村文昭は、次のように『銀河鉄道の夜』について解説しています。
《死してのち星となる命》といった夢想を信じるか否かは別として、溺れたカムパネルラをさが
す人々にたいし「ジョバンニはそのカムパネルラはもうあの銀河のはずれにしかいないというよう
な気がしてしかたがなかった」と考え動揺しない終幕は、一見唐突に見える。しかし、この終幕こ
そ妹トシの死に慟哭した生身の詩人の人生にたいする祈りにもちかい解答があったと言える5。
このように賢治のトシへの思いが、ジョバンニとカムパネルラの二人の絆に反映されているとされて
います。ただし、天沢退二郎はそれとは異なる見方も提示しています。
私たちが、『銀河鉄道の夜』を読み味わうとき、ジョバンニを賢治、カムパネルラをとし子にな
ぞらえ、両者の心的関係までも、いわば裏目読みに従って解釈するということは、私はあまり賛成
できない。ジョバンニはあくまでもジョバンニ、カムパネルラはあくまでもカムパネルラであり、
物語世界を実人生へ還元して解釈すべきではない。というだけではなくて、この物語における二人
の少年、実人生における賢治の妹のそれぞれの心的関係は、基本的に異なるからである。
しかしながら、現実に宮沢賢治が大正十一(1922)年十一月二七日に、妹とし子(トシ)を病に
より失ったという出来事と、作品『銀河鉄道の夜』の発想・成立との間に、深い関係があることは、
これまた否定しようのないことである。・・・
ある夢辞典によれば、汽車の夢は、愛する人との死別に照応するという。もしかして賢治も、と
し子の死のあと、死の国をゆく汽車の夢を見たのかもしれない。そうでなくても、大正十二(1923)
年八月の、教え子の就職依頼を目的とした樺太旅行を契機にして生まれた「青森挽歌」以下の詩篇
が、紀行詩であると同時に、否それ以上に、死せる妹を悼む挽歌詩群となったのは“汽車旅行”と
いう設定そのものと、愛するものを失ったあとの夢との、深い関係によるものと考えられる6。
天沢退二郎の『銀河鉄道の夜』に対する視座は重要です。一つの物語をその背景となる著者の現実の
人生と関係づけて読むことは、その物語自身を理解することにはならないことがあります。すなわち、
『銀
河鉄道の夜』は、どこまでもジョバンニとカムパネルラの物語として読み味わうことを基本にしなけれ
ばならないでしょう。このように、『銀河鉄道の夜』の物語は、宮沢賢治の妹トシへの思いが昇華され
ながら書かれた作品です。しかし、賢治とトシという二人の間柄ばかりに重ね合わせて、作品を理解す
るのではなく、『銀河鉄道の夜』作品全体には、賢治のさまざまな人との出会いと別れ、地質学や鉱物
学や天文学の科学的視座、タイタニック号の沈没をめぐる人間の救い、賢治の追い求めた「すべてのほ
んとうの幸いのために生きる」という永遠のテーマが盛り込まれていることを忘れてはならないでしょ
う。
63
また、
『銀河鉄道の夜』と連なるテーマをもつ作品として、はかないいのちに働く「まことのちから」
を描いた『めくらぶどうと虹』、吹雪のために死んでいく弟を必死で助ける兄を通して、まことの道を
考えた『ひかりの素足』、かぶと虫や羽虫のいのちを奪ってしかいきられない自分の罪業を知り、星に
向かって飛翔する『よだかの星』、さそり座の物語の紹介されている『双子の星』、周りから認められな
い二人が障害を越えて恋しあう『シグナルとシグナレス』などがあります。それらの童話の底に流れて
いる「ほんとうの幸いとは何か」「永遠のいのちとは何か」のテーマが重層しながら、『銀河鉄道の夜』
に合流していくようにみることができるでしょう。そして何よりも、読者自身が自らの経験や理想に照
らしながら、
『銀河鉄道の夜』を自由に受けとめていくことが大切であるといえます。
それでは、賢治の詩をたずね、賢治のトシへの思いが、『銀河鉄道の夜』のジョバンニとカムパネル
ラにオーバーラップしているところをたずねてみましょう。
まず、
宮沢賢治は妹トシとの最期の別れの悲しみを、
『春と修羅』の「永訣の朝」において歌っています。
その詩のなかで、
うすあかくいっさう陰惨な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
じゅんさい
青い蓴菜のもやうのついた
とうわん
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
さうえん
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを(「永訣の朝」7)
という文があります。トシは臨終の床で、「あめゆじゅとてちてけんじゃ(雨雪のみぞれをとってきて
ください)
」と賢治に頼みました。賢治は陶製のお椀にみぞれをとるために、「てっぽうだま(鉄砲玉)」
のように、外へ飛び出しました。この「てっぽうだま(鉄砲玉)」という表現は、不思議にも『銀河鉄
道の夜』の物語に見られます。すなわち、ジョバンニが心の通じ合うカムパネルラと「どこまでもどこ
までも僕たち一緒に進んで行こう」と誓い合った後、ふと振りかえると、カムパネルラの姿が見えなく
なって、ジョバンニは「鉄砲丸(てっぽうだま)」のように立ち上がったと書かれています。
64
「カムパネルラ、僕たち一緒に行かうねえ。」ジョバンニが斯う云ひながらふりかへって見ました
らそのいままでカムパネルラの座ってゐた席にもうカムパネルラの形は見えずジョバンニはまるで
鉄砲丸のやうに立ちあがりました。そして誰にも聞えないやうに窓の外へからだを乗り出して力
いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉いっぱい泣きだしました。(『銀河鉄道の夜』8)
ここに、賢治が妹トシを亡くすときの悲しみと、ジョバンニがカムパネルラを見失うときの悲しみと
が深く呼応しているように感じます。「鉄砲丸(てっぽうだま)のように」とは、相手をひたすら思い
飛んでいく気持ちが表れています。そして、「あめゆき」のみぞれを、「銀河や太陽 気圏などとよばれ
たせかいのそらからおちた雪」と賢治が表現しているところも、
『銀河鉄道の夜』の宇宙観とどこか重なっ
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ているように思われます。
また、
『春と修羅』に収められた「無声慟哭」に、賢治は亡くなったトシを追憶してこう書いています。
こんなにみんなにみまもられながら
おまへはまだここでくるしまなければならないか
ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ
また純粋やちいさな徳性のかずをうしなひ
わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき
おまへはじぶんにさだめられたみちを
ひとりさびしく往かうとするか
信仰を一つにするたったひとりのみちづれのわたくしが
あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて
毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
おまへはひとりどこへ行かうとするのだ(「無声慟哭」9)
ここに「信仰を一つにするたったひとりのみちづれ」(「無声慟哭」)と、賢治がトシを呼んでいます。
こうした賢治とトシの心の絆は、彼女の亡き後も、賢治の心に生きつづけていることがうかがわれます。
「無声慟哭」には、次のような表現も見られます。
髪だっていっさうくろいし
まるでこどもの苹果の頬だ
どうかきれいな頬をして
あたらしく天にうまれてくれ(「無声慟哭」10)
賢治からすると、妹トシの臨終の姿は、髪がいつもより黒く、こどもの苹果の頬のように見えました。
この「苹果(りんご)のような頬」という表現は、『銀河鉄道の夜』の物語で、くりかえし使われてい
る表現です。
カムパネルラの頬は、まるで熟した苹果のあかしのやうにうつくしくかゞやいて見えました。
(『銀
河鉄道の夜』11)
ここに示したように、亡くなったときのトシの「苹果の頬」と、銀河鉄道に乗っているカムパネルラ
の「熟した苹果」のような頬とは、よく似ています。もちろんこれだけでなく、苹果のような頬や「苹
果の匂い」は、船が沈没して銀河鉄道に乗ってきた女の子などにも用いていますから、ひとが亡くなっ
65
たときの清らかな顔を「苹果の頬」のように、賢治は感じ取っていたのでしょう。
さらに、
『春と修羅』には「青森挽歌」が収録されています。この詩には、大正十二(1923)年八月
一日の日付が入っています。「青森挽歌」とは、賢治が花巻から青森、北海道に向かう電車の中で、前
年の十一月二十七日に亡くなった妹トシの死を悼んで書いた挽歌です。
こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる
(乾いたでんしんばしらの列が
せはしく遷ってゐるらしい
れいらう
きしゃは銀河系の玲瓏レンズ
巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)
りんごのなかをはしってゐる(「青森挽歌」12)
このような鉄道の窓から見える情景は、『銀河鉄道の夜』の風景と重なってきます。
あいつはこんなさびしい停車場を
たったひとりで通っていったらうか
どこへ行くともわからないその方向を
どの種類の世界へはいるともしれないそのみちを
たったひとりでさびしくあるいて行ったらうか(「青森挽歌」13)
『銀河鉄道の夜』の物語にも、ジョバンニとカムパネルラが白鳥の停車場で降りたり、沈没船に乗っ
ていた青年や男の子や女の子たちがサウザンクロスの停車場でさびしそうに降りていくシーンがありま
す。宮沢賢治にとって鉄道の停車場が、亡くなった人たちの降りていく場所のように感じられていたの
でしょう。
「青森挽歌」には、亡くなったトシとの通信が許されていないのだろうかという問いに対して、賢治
は「許されてゐる」と自ら記し、
われらが上方とよぶその不可思議な方角へ
それらがそのそのやうであることにおどろきながら
大循環の風よりもさはやかにのぼって行った
わたくしはその跡をさへたづねることができる(「青森挽歌」14)
と書いています。賢治は夢の中で、トシの行った跡をたずねることができたのです。『銀河鉄道の夜』
においても、夢の中でみたジョバンニとカムパネルラの出会いが、いまは亡き大切な人と心通わせるこ
とができることを示しています。宮沢賢治は、妹トシの死後の救いについて、
おれのいもうとの死顔が
まっ青だらうが黒からうが
きさまにどう斯う云はれるか
あいつはどこへ堕ちやうと
もう無上道に属してゐる(「青森挽歌」15)
66
と書いています。無上道とは、この上ない悟りの安らぎの境地です。トシが仏のさとりの道を歩んでい
ることを賢治が確信していることが、この一文から伝わってきます。そして最後に、
おまへの武器やあらゆるものは
おまへにくらくおそろしく
まことはたのしくあかるいのだ
《みんなむかしからのきやうだいなのだから
けっしてひとりをいのってはいけない》
ああ わたくしはけっしてさうしませんでした
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あいつがなくなってからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかったとおもひます(「青森挽歌」16)
と締めくくられています。ここには、亡くなったトシが「みんなが昔からの兄弟なのだから、決して自
分一人だけの幸せを祈ってはいけないよ」と賢治に呼びかける声になって、聞こえてきたかのようです。
このような表現は、妹トシに名づけた「手紙 四」という短い話にもあらわれています。
みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから、チュンセがもしホーセをほんたうにか
あいそうにおもふなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければい
けない。(『手紙 四』)
そして、これらの賢治の表現が結晶して、『銀河鉄道の夜』に受け継がれていきます。
僕、
きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。(『銀河鉄道の夜』第一次稿・
第二次稿・第三次稿17)
このジョバンニの熱い決意は、宮沢賢治が妹トシを思うなかでうまれたものであり、ずっと心に暖め
られていたものであることがわかります。
宮沢賢治が中学校時代に心のよりどころとしていた『歎異抄』には、
一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成り
てたすけ候べきなり。(『歎異抄』第五章18)
と記されています。「生きとし生けるものはすべて生まれ変わり死に変わりしながら父母であり、兄弟
姉妹であったのです。いずれも次の生では仏に成ってあらゆるものを救います」という意味です。この
ようなすべてが支えあい、依存しあっているから、自分だけの幸せを追求し、暴力をふるってはならな
いという精神は、すべての仏教の根底にある思想です。無上道とは、そのようなすべてのものの幸せを
願って生きる道であるともいえるでしょう。宮沢賢治が「青森挽歌」の最後に、「あいつだけがいいと
こに行けばいいと そういのりはしなかったとおもいます」と記しているのは、まさしくそういう自他
不二の精神を示しています。この「青森挽歌」の最後の部分は、『銀河鉄道の夜』において、
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行かう。僕は
67
もうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかま
はない。
」
(『銀河鉄道の夜』19)
とジョバンニが決意する内容と響きあっているように思われます。すなわち、ジョバンニが心の通うカ
ムパネルラといっしょに本当の幸いを求めてどこまでも進んでいこうとする決意と、宮沢賢治がトシの
亡き後も、トシといっしょにみんなの幸いを求めていきたいと願っていた気持ちと深く呼応しているよ
うに感じられます。
二 「みんなのほんとうのさいわいをさがしに」──修羅と菩薩のはざまで
『銀河鉄道の夜』のなかで、二人きりになったジョバンニは、カムパネルラにこう呼びかけます。
「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに
行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行かう。」(『銀河鉄道の夜』20)
この「みんなのほんとうのさいわい」とは何でしょうか。宮沢賢治は『農民芸術概論綱要』のなかで、
幸福についてこう記しています。
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である21
世界がすべて幸福になるとは、世界中の人々の貧しさや苦しみをなくし、みんなが幸せになるとき、
はじめて自分も幸せになることです。そして自己の意識が個から集団社会に、さらに宇宙へと進展して、
世界が一つの意識になり、同じ一つのいのちとなって生かされていくことが、本当の幸福をめざしてい
くことになると、宮沢賢治は明かしています。賢治の弟の宮沢清六は、「世界がぜんたい幸福にならな
いうちは個人の幸福はあり得ない」という意味について、こう述べています。
「世界」というのを『広辞苑』でひきますと、たくさん書いてありますが、一番まっ先に書いて
あるのが仏教の「世界」です。「世」は「三世」とかいいまして、過去、現在、未来を「世」とい
います。
「界」は「東西南北」
「上下」をいうと書いてあります。ところで「東西南北」は平面です。
「上下」は立体です。ですから宇宙全部ということになります。「世」は、過去、現在、未来ですか
ら、広義の「世界」ということになりますと宇宙の過去、現在、未来、及び空間全部をいうことに
なりますので、これまた、たいへんなことでございます。・・・
「個人が幸福になれば世界が全体幸いになるんだから、それでいいのでしょう」というのは、た
いへんちがうと思います。どうしてちがうかといいますと、世界という意味の考え方がちがうので
す。賢治のいっているのは地球だけのことではないのです。宇宙全部、過去、現在、未来。あの「農
民芸術概論」の場合は、まちがいなく、いちばん広義の世界をいっているわけです。「世界がぜん
たい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」ということは「地球上の人間だけが幸せに
なっただけで、全部が幸福になるということではないのだ」という今の宇宙時代の始まり、公害時
68
代の始まりを、すでに四十年、五十年前に書いていたのですから、私どもは、ひじょうにいいこと
を書いておいてくれたんだと思います22。
また原子朗は、宮沢賢治のくりかえして使う「みんな」「いっしょに」の意味について、こう論じて
います。
「みんな」、
「いっしょに」ということが人間だけを意味しないことは、さきほどいったとおりです。
賢治のこの共同制、共同体の考えは、生きている自然や宇宙にまで及びます。私のことばでいうな
ら、山河共同体、宇宙共同体ともいえるものです。閉ざされることのない、どこまでも開かれた世
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界です。小さな虫やキノコに接するときにも、その信念があるのと、ないのとでは、ずいぶんちが
います。賢治の生き生きとした言語世界の時間と空間は、ぜったい前者です。世の中のきまりや習
慣に、おとなはもちろん、こどもたちまで閉じこめられそうになっている現代、賢治の詩や童話は、
そうした私たちの感性に大きな風穴をあけてくれるような気がします。それは現在というより、未
来的な開放感といえるものかもしれません。かといって、けっして賢治は楽観的、楽天的ではない
のです。どう生きていいのか迷っている人たちに勇気を与えてくれるような、いっしょに耐えるこ
とを呼びかけてくれているような、そんな意味での未来性です23。
このように広げれば、人類だけでなく、生きとし生けるものの幸せ、さらには、銀河系宇宙全体を視
野に入れて、そのすべてが幸福になることが、個人の幸福になるということでしょう。そして過去・現
在・未来のすべての時間において、相互に関係しあい、支えあって幸福を実現していくということでしょ
う。相互に支え合う縁起の果てしないネットワークは、単に空間的にだけではなくて、時間的にもつな
がっています。宇宙のあらゆる存在のつながりの自覚は、今までに亡くなってしまった人々と、これか
ら未来に生まれてくる人々をともにこの現在において結びつけます。そのような相互の結びつきを感得
することによって、世界全体の幸福を願う心が強くなってくるのです。
仏教の生命観は、縁起の思想に基づいています。それは、時間と空間を超えて、あらゆるものが相互
に関係し、支えあっていることを知り、感謝して生きることを教えています。しかし、そのとき、人が
他の生命を奪ってしか生きえない悲しみを知り、相互に傷つけあっている現実をも知ることになります。
すなわち、人間と動物と自然のすべてが相互に支えあっているという光のような側面とともに、他の命
を自らの糧として貪り食べ、戦いによって相互に殺しあうという闇のような側面との両面を、命あるも
のすべては有しているのです。言い換えれば、一つの命は、他の命を犠牲にして自ら輝き、自己の幸福
は、他の誰かの不幸の上に成立しています。ここに幸福を求める人間の矛盾と深い悲しみがあります。
宮沢賢治は、そういう自分自身を「修羅」と呼びました。『春と修羅』には、こう記されています。
ああかがやきの四月の底を
はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのだ(「春と修羅」『春と修羅』24)
まことのことばはここになく
修羅のなみだはつちにふる(「春と修羅」『春と修羅』25)
すべてが輝く春の日にも、生きている限り、貪りつづけなければならない修羅のような自分に気づき、
宮沢賢治は歯軋りしながら蠍の火のように赤く燃え、行き来しています。ひとひらの真実の言葉もなく、
どうしようもない修羅のような自分に涙しています。自己のなかに潜む傲慢さや貪欲さ、そして闘争を
69
好む性質をありのままに見つめ、宮沢賢治は自己を「修羅」として受けとめたのです。
宮沢賢治の心の拠り所となった島地大等編『漢和対照妙法蓮華経』の巻末語註26には、
阿修羅(asura)略して修羅といふ。非天、非類、不端正と訳す。十界、六道の一。衆相山中、
とうじょう
又は大海の底に居り、闘諍(あらそい)を好み常に諸天と戦う悪神なりといふ。
と説明されています。阿修羅は、はじめは善神の名前でしたが、後代、非天、すなわち、悪神とされ、
常にインドラ神や日や月と争う者となり、迷いの道である六道の一つで、須弥山のふもとの大海底にそ
の住居があるとされています。十界とは、地獄界・餓鬼界・畜生界・阿修羅界・人間界・天上界という
六つの凡夫の迷う世界と、声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界という四つの聖者のさとりの世界とをあわせ
じっかい ご
ぐ
た十の世界です。『法華経』では、一切成仏思想に基づいて、十界それぞれに十界を有する「十界互具」
を説いています。すなわち、十界の一つひとつが互いに他の九界を具え、地獄の衆生や阿修羅も仏や菩
薩になりうることを明かしたものです。その意味では、宮沢賢治は、自らを修羅のような存在と自覚し
つつ、あらゆるものの幸せを自らの幸せとする菩薩のような生き方を志向していたのではないかと思わ
れます。
宮沢賢治が、自分の修羅なることを自覚しながらも、菩薩のように生きたいと願ったことは、『雨ニ
モマケズ』の詩にうかがうことができます。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
70
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ27
ここに宮沢賢治が「デクノボー」と呼ばれるような存在になりたいと願っていたことがうかがわれま
す。
「デクノボー」とは、木偶坊とも書き、こけしや木製の人形を原意とします。『法華経』に説かれる
じょうふきょうぼさつ
常不軽菩薩は、その「デクノボー」という菩薩の姿をよく表しています。『法華経』第二十常不軽菩薩
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品には、
「我は深く汝等を敬ひ、敢へて驕慢せず。所以はいかんとならば、汝等は皆、菩薩の道を行じ
て将に作仏することを得べし」「我、敢へて汝らを軽しめず、汝等は当に作仏すべきが故に」と説かれ
ています。仏教学者の丹治昭義は、常不軽菩薩についてこう説明します。
『法華経』の説く教えは、常不軽菩薩が一切衆生は仏になると確信し、尊敬したとき、そのとき
本当に生きたリアルな教えとなる。百の説法も朝晩の度胸も、常不軽菩薩が「あなたは仏になります」
ということにつきるであろう。仏になるものとしてすべての衆生を尊敬し、礼拝する以外に、菩薩
行としてなすべき行ないはありはしないし、『法華経』が説いていることもそれ以外にない28。
すなわち、常不軽菩薩とは、生きとし生けるものは仏の性質、仏性を有しているから、すべての存在
を仏に成るものとして礼拝し、尊敬した菩薩のことです29。木製の人形の「デクノボー」ように、ひと
から誉められもせず、邪魔にもならないで、相手を尊重し、相手の幸福のために身を粉にして尽くした
いというのが、宮沢賢治の願いでした。『新宮澤賢治語彙辞典』の「デクノボー」の説明には、こう記
されています。
「慾ハナク/決シテ瞋ラズ/イツモシヅカニワラッテヰル」(同詩)生きかたが、何故賢治の思想
となりうるのか。それは自己の内なる二極、修羅とまことの壮絶な格闘を抜きにしては理解するこ
とはできないだろう。その内面の劇の帰結点がデクノボーであったと言えよう30。
ここに明らかにされているように、宮沢賢治は、修羅のように貪り争いつづけるような自己であると
慙愧していたからこそ、常不軽菩薩のようにすべての存在を敬って、すべての幸福のために生きようと
したのでしょう。
また、平成十七(2005)年十二月一日に、宮沢清六の孫にあたる宮澤和樹氏(林風舎代表取締役)に
龍谷大学で講演をいただいたとき、この『雨ニモマケズ』の詩のなかで、宮沢賢治が重要視していた言
葉は、
「行ッテ」であるとうかがいました31。貧しさや病気の苦しみにあるもののそばへ「行ッテ」、自
分の身をおくことが大切であるということでしょう。同時に、「行ッテ」というのは、そこに行くプロ
セスも大事なのです。思い切ってそこに行こうとするとき、まだそこに到達していなくても、向かって
行く一歩一歩のなかに思いがけない出会いや気づきがあります。自分が相手の気持ちに歩み寄っていけ
ば、相手が向こうから歩み寄ってきてくれます。「行ッテ」というのは自分の身体が行くだけでなく、
真に心が相手に至ることでしょう。「行ッテ」という菩薩の精神は、一方的な自己犠牲ではありませ
ん。相互の愛情が深く重なりあうことです。宮沢賢治は自らの理想とする菩薩精神を、
「自己犠牲(selfsacrifice)
」の精神というようには一度も表現していません。本来、菩薩の精神は、自利利他円満の安穏
をめざしています。我を先とし我を軸とする自我的方向を転じて、相手を先とし銀河系の世界全体を軸
とする無我的な方向に、自己の生き方が置かれるとき、それが菩薩の行といわれるのです32。しかも、
71
その菩薩の実践は永遠の未完成であることを内に含んでいます。なぜなら死を免れることができないよ
うに、どれほど相手を思うとも、何もなしえないことがあるからです。だからこそ終わりのない情熱を
もって、すべてのものの幸福のために生きようとするその過程が重要であり、永遠に未完成の行として
道を歩みつづけるところに、菩薩の利他愛があります。いわば、その仏教の幸福観とは、
“There is no way to happiness. Happiness is the way.”Buddhist Proverb
というものです。このように「行ッテ」や「デクノボー」に込められた菩薩の精神には、そういう自利
利他円満の志願がこもっています。
最後に、梅原猛の論を通して、もう一度、宮沢賢治のもつ仏教的なまなざしについて、学びたいと思
います。
宮沢賢治の童話は決して子供のためのものではない。むしろ賢治は、自分の思想の必然性によっ
て童話という創作を書かざるを得なかったのである。小説というものは人間を書くものであり、人
間中心主義をなかなか免れることはできないが、童話というものは、その形式の必然上、人間中心
主義を免れるものである。賢治の童話においては、動物や植物も人間と同じような心をもち、人間
と同じような言葉を語るのである。そしてここでは人間と動物とが互いに相戦い、ときには殺し殺
される関係に立ちながら、なおかつ相互に愛し合い、思いやり合いながら生きている姿が描かれて
いる。
賢治が信じた『法華経』の信仰というものは、まさにこういう人間と他の生きとし生けるものが
争いあい、殺し合いながらも、なおかつ共存し、互いに愛し合い思いやる世界なのである33。
以上見てきたように、宮沢賢治のめざした幸福観は、大乗仏教の菩薩道に基づき、自己中心的な幸福
追求を反省し、自己が他のすべての存在との相互関係の中にあることを知り、自利利他の恵みを願って、
世界が全体幸福になるために骨をくだいていくところにあります。宮沢賢治は私たちにこう呼びかけて
います。
まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて、無方の空にちらばらう。(『農民芸術概論綱要』34)
「さあ、皆いっしょに輝く宇宙の微塵となって、あらゆる世界の空に飛んでいこう」と呼びかけた言
葉です。宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』には、その心がよく表れています。賢治は晩年、病気の
せいで、のどから血がわいてくるのですが、
「自分のからだが火山とともに燃え、石灰という肥料になっ
て田畑に降り注ぎ、豊かな実りをもたらしたい」と心の底から思っていたのでしょう。
35
この「微塵」とは最も深い仏の慈悲のことです。親鸞は「この如来、微塵世界に満ち満ちてまします」
と示されています。「仏は、塵のような小さな世界の隅々にまで至り届いて満ち満ちている」というこ
とです。宮沢賢治の文章には、仏の願いがあらゆる存在に満ち満ちているから、自分自身が宇宙の微塵
となって、
世界の安穏のために赴こうという願いがこもっています。「微塵になりて」とは、きめ細かく、
相手の心にしみ通っていく優しさでしょう。私自身も微塵になって、相手の苦しみに寄り添っていけた
らと、この言葉から学ぶことです。
縁起の見方は、万物一体感となってあらわれます。相手の中に自己を発見し、相互のつながりの中で、
自己が知られてくるのです。あらゆる生命の普遍的な苦しみの連鎖に気づくことを通して、ひるがえっ
て、普遍的な生命の連帯感が育まれてくるのです。自分の殻を破って、「生きとし生けるものはすべて
仲間である。一つの生き物である」と思いあえるところに宮沢賢治の示した「ほんとうのさいわい」へ
72
の道があります。
しかしすべての存在が相互に支えあう関係であるとはいえ、現実には、人間と動物は、相互に殺し合
い、戦う関係です。『よだかの星』のよだかが、内面では自分自身をよい鳥のように思っていても、無
意識にカブトムシを飲み込み羽虫を食べつづける存在であることに涙したように、人間もまた本来、他
の命を奪ってしか生きえない宿業をかかえています。『銀河鉄道の夜』に登場する蠍は、いたちに追わ
れて逃げ惑い、井戸に落ちて死ぬときになって、今まで小さな虫を殺して自分が生き延びてきたことを
振りかえり、自らの命をすべての幸いのために捧げたいと願いました。蠍は自らの毒で敵を殺し、小さ
な虫を貪りつづける修羅の自分自身に気づいたとき、はじめて清らかな捨身布施の気持ちが湧きあがっ
てきたのです。蠍のからだが真っ赤に美しく燃えているのは、すべての幸いのために自分自身を燃焼さ
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せているからでしょう。よだかや蠍は、まさしく修羅のような存在であり、宮沢賢治自身と重なる生き
物です。このように宮沢賢治は、他の命をとってしか生きられないという生の矛盾に悩み、修羅でしか
ないという悲しみの感情から、みんなのほんとうの幸いを願う慈愛を育んでいったのです。宮沢賢治は、
蠍のような修羅の自分自身を悲しいくらい知っていたからこそ、常不軽菩薩のような利他愛に生きよう
としたといえるでしょう。
₁ 原子朗著『新宮澤賢治語彙辞典』第2版。690頁参照。東京書籍。2000年。
₂ 「年譜」。『新定本 宮澤賢治全集』第16巻下。244頁。筑摩書房。
₃ 小西正保著『私の宮澤賢治論』48-49頁。創風社。1997年。
₄ 小西正保「解説 賢治童話の大きな主題−菩薩行と永遠の生命」242頁。宮沢賢治著『銀河鉄道の夜 宮沢賢治童話集』偕成社
文庫。小西正保著『私の宮澤賢治論』321頁。創風社。
₅ 中村文昭「解説 燃えたぎる修羅」251頁。宮沢賢治著『銀河鉄道の夜』。集英社文庫。1990年。
₆ 天沢退二郎「カムパネルラととし子」92-93頁。『別冊太陽 宮沢賢治 銀河鉄道の夜』。平凡社。1985年。
₇ 『春と修羅』「永訣の朝」。『新校本 宮澤賢治全集』第2巻。138-140頁。筑摩書房。1995年。
₈ 「銀河鉄道の夜」。『新校本 宮澤賢治全集』第11巻。167-168頁。筑摩書房。
₉ 『春と修羅』「無声慟哭」。『新校本 宮澤賢治全集』第2巻。143頁。
10 前掲書144頁。
11 「銀河鉄道の夜」。『新校本 宮澤賢治全集』第11巻。139頁。
12 『春と修羅』「青森挽歌」。『新校本 宮澤賢治全集』第2巻。366頁。
13 前掲書368頁。
14 前掲書373頁。
15 前掲書377頁。
16 前掲書378頁。
17 「銀河鉄道の夜」初期形一。
『新校本 宮澤賢治全集』第10巻。27頁。初期形二。前掲書130頁。初期形三。前掲書176頁。筑摩書房。
1995年。
18 『歎異抄』第五章。浄土真宗聖典註釈版聖典第2版。834-835頁。
19 「銀河鉄道の夜」。『新校本 宮澤賢治全集』第11巻。167頁。
20 前掲書167頁。
21 『農民芸術概論綱要』。『新校本 宮澤賢治全集』第13巻。9頁。
22 宮沢清六「賢治の世界」。1974年10月の講演筆録。宮沢清六著『兄のトランク』222-223頁。ちくま文庫。
23 原子朗「未来の世界へ」14頁。『生誕百年記念 宮沢賢治の世界展』図録。1995年。朝日新聞社。
24 『春と修羅』「春と修羅」。『新校本 宮澤賢治全集』第2巻。23頁。
25 前掲書24頁。
26 島地大等編『漢和対照妙法蓮華経』の巻末語註「阿修羅」。明治書院。大正3(1914)年。『新宮澤賢治語彙辞典』350頁。「修羅」
の事項。
27 「雨ニモマケズ」手帳。『新校本 宮澤賢治全集』第13巻。521-525頁。
28 丹治昭義『宗教詩人 宮澤賢治 大乗仏教にもとづく世界観』197頁。中公新書。1996年。
29 丹治昭義によれば、大乗仏教における三つの菩薩に『法華経』の独自の二つの菩薩を加えて、菩薩を五種に分類している。す
なわち、(1)釈尊の過去世と成道以前、(2)大乗仏教徒としての菩薩、(3)観世音菩薩、(4)菩薩、(5)常不軽菩薩の五種の
菩薩である(前掲書167頁)。『法華経』の独自の二菩薩とは、地湧菩薩と常不軽菩薩である。その地湧菩薩とは、『法華経』に
のみ特徴的な菩薩の思想である。『法華経』「」には、無数の菩薩たちが『法華経』を護持し宣布するために、釈尊の滅度した後、
大地がさけ、その裂け目から無数の地湧菩薩たちが出現したと説かれている。丹治昭義は、「この「地湧」という主張は「天か
ら降る」という天に対する地の復権を意味する。真の宗教は天にあるのではなく、この地上にこそあるというメッセージであ
る。」(178頁)と明快に論じている。また、「宮澤賢治は特に、地湧菩薩については特に詩や童話を書いていない。しかし第一
部で述べた『春と修羅』の序で企てた「宗教の変換」は、この地湧の思想によっていることは疑いない。「雨ニモマケズ手帳」
で彼は、
「曼荼羅」を四ページ、六〇ページ、一四九ページから一五六ページに三回都合五回書写している。
・・・南無浄行菩薩、
南無上行菩薩、南無妙法蓮華経、南無無辺行菩薩、南無安立行菩薩。・・・この四菩薩こそは地湧菩薩たちの代表であり、指導
73
者の菩薩である。
・・・彼(賢治)が修羅と化してなろうとした菩薩は地湧菩薩であったであろう。」(180-181頁)と論じており、
地湧菩薩は、この世で『法華経』を修行する人々をさし、賢治自身が修羅になってなろうとした菩薩であるとしているところは、
賢治の菩薩観を理解するうえで傾聴すべき点である。
30 『新宮澤賢治語彙辞典』485頁。「デクノボー」の事項。
31 宮澤和樹「宮沢賢治の銀河世界」。2005年度龍谷大学人間・科学・宗教オープンリサーチセンター研究成果報告書。2006年。
32 遊亀教授「人間存在の仏教的把握」53頁参照。『仏教の人間観』所収。平楽寺書店。1968年。
33 梅原猛「総論」11頁。『生誕百年記念 宮沢賢治の世界展』図録。1995年。朝日新聞社。
34 『農民芸術概論綱要』。『新校本 宮澤賢治全集』第13巻。15頁。
35 『唯信鈔文意』。註釈版聖典708頁。
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74
宮沢賢治の一生と
その作品にみられる仏教観
白石明子
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はじめに
宗教の定義とは、「神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離された神聖なもの
に関する信仰・行事。また、それらの連関的体系、帰依者は精神的共同社会(教団)を営む」(『広辞苑』)
とされている。
近年、仏教というものはただ宗教、もしくは学問としてだけではなく、医療の立場、それも身体のみ
ならず心の面に対しても用いられる機会が増えてきている。職場や学校、人間関係など日々の問題に磨
耗し、自殺を選ぶという決断がもはや他人事では済まされなくなっている。そのような我々に必要なの
はいったい何だろうか。私は、「心の支え」ではないかと考える。人の心を支えることは出来ないもの
だろうか。そういった意味でのゆとりを、仏教を通して見出すことが出来ないだろうか。
私が宮沢賢治をテーマに選んだのはそこに理由がある。宮沢賢治といえば、その名前、作品をひとつ
でも知らない者はいないであろう。こどもには絵本や教科書、大人には文学書、詩集など、膨大な作品
が残されている上に、とてもやわらかな言葉遣いで書かれた童話が多いために読みやすく、呑み込みや
すく、感じやすい。まさにその親しみやすさはとっつきやすさに比例しているといえる。ただし彼の人
生、またその物語において仏教は欠かせない存在である。「宗教」と聴くと、大概の人は構えてしまい
かねない。しかし、宮沢賢治の作品と聞けばそうはならないであろう。つまり彼の文章に触れることは、
仏教に触れるとても良い手段でありチャンスとなるだろう。
この論では、今を生きる我々の心に必要なものとは一体何であるのかを、宮沢賢治の一生とその作品
にたずね、そこに流れる彼の仏教的な視座を学びたいと思う。
一 宮沢賢治と仏教
1.宮沢賢治の生涯
まず、宮沢賢治の三十七年間の生涯を、幼年期・少年期・青年期の三つに区切り、整理してみる。1
(1)幼年期
宮沢賢治は一八九六(明治二十九)年八月二十七日、岩手県稗貫郡花巻里川口町(現在の花巻市豊沢
町)の質屋・宮沢家の長男として生まれた。この年には東北で大地震が起こり、三陸海岸一帯は津波の
被害により一万一千人の死者が出たと記録がある。またこの時代の東北に住んでいた者の大部分が農民
であったという。
岩手県は北上山脈と海岸線に挟まれているため大部分が山地で、水田は県の中央にわずかにあるだけ
という、農耕が極めて難しい場所であった。東北北部の為に、その寒冷の気候の具合ひとつでその年の
稲の具合が大きく左右され、また海流に関しても、ちょうど暖流と寒流がぶつかる地点のためそのどち
らの影響も受けてしまう。更に、県の中央を走る北上川が氾濫の起こりやすい川であり、それらが重な
ると度々飢饉が起こり、また農民が一揆を起こすこともしばしばであったという。この土地にうまれた
75
賢治が、家を継ぐことよりも農業に全力をつくしたのは、故郷に対する熱い思いがあったからであろう。
一九〇三(明治三十六)年、賢治が六歳の時町立の川口尋常高等小学校(後の花城小学校)に入学す
る。三年生になった年は日露戦争が勃発した年でもあった。七歳になった頃赤痢を病んでもいる。昔か
ら体の弱い子供であったようである。
(2)少年期
一九〇九(明治四十二)年三月、賢治が十二歳の春小学校を卒業する。賢治が小学校に通っている間
に学制が改正され、尋常科は六年制へと変わった。祖父の意見があって、本来ならば小学校を終えた時
点で実家の質屋の跡継ぎの見習いをする筈であったが、父政次郎の薦めもあって、四月に盛岡中学校(現
在の盛岡第一高等学校)に入学する。一九一四(大正三)年三月、十七歳で同学校を卒業すると、以前
から悪かった鼻の手術のために盛岡にある岩手病院に入院するも治りが悪く、発疹チフスの疑いもあっ
てここに暫く滞在することとなる。この時賢治は父に進学の希望の旨を伝えるも、中学校での成績、生
活の乱れを理由に断念させられることとなった。
(3)青年期
一九一五(大正四)年、賢治十八歳の時、質屋の見習いをさせたところ向いていないようだと判断し
た父は、賢治に再度進学の道を薦める。そして翌年の四月、賢治は盛岡高等農林学校(現在の岩手大学
農学部)に主席で合格することとなる。
本学で賢治は地質学研究で著名な関豊太郎教授に出会う。以後調査の際は教授のお供で歩くなど、親
交を深めた。
一九一八(大正七)年三月、賢治二十一歳の年、盛岡高等農林学校を卒業するも、現段階で賢治に家
業を継ぐ気が未だないために父子の間で論争が起きる。父にしてみれば、第一次世界大戦中のご時勢に
息子が徴兵されることを恐れるが、賢治にしてみれば、関教授について岩手地区の地質の調査を研究す
る為に研究生として学校に残る道は将来の道へつながるものではないとして、決断に時間を要した。そ
の後結局、賢治は研究生として学校に残ることとなり、土質調査をおこない、優れた業績を残した。ま
た同年、日本女子大学在学中の妹トシが病に伏してしまい、上京して看病にあたることとなる。
一九二○(大正九)年、賢治二十四歳。二年間の研究生生活を終えた賢治は、大学に助教授として残
るという関教授の申し出を断り実家に戻る。この頃から賢治は『法華経』を熱く信仰するようになり、
思想に関して父ともめるばかりか、修行して歩く様を近所からも非難されてしまう。
翌年一月賢治は上野にて田中智学によって開かれた、日蓮の教えを学ぶ「国柱会」を訪ねるべく身ひ
とつで上京する。しかし、同年九月、花巻高等女学校にて教師をしていた妹トシが発病し、賢治はまた
岩手へと戻る。またこの時土産にと、三千枚の原稿用紙に書き記した童話を賢治が持って帰ったことは、
甚だ有名である。
十二月になると賢治は花巻農学校教諭に就く。賢治の教育は教科書にこだわらず芸術や音楽などにも
幅広く富んでおり、郡視学(教育委員会委員)がわざわざ見に来る程評判が良かったという。
一九二二(大正十一)年、賢治二十六歳の時、妹トシの病が再度発病したため、下根子桜にある宮沢
家の別荘で療養を続けるトシの看病に勤しむが、そのかいなく、トシは同年十一月二十七日、二十四歳
の若さでこの世を去る。賢治の落ち込みようは激しく、翌年七月に単身青森、北海道、樺太(現在のロ
シア共和国サハリン州)を旅行するが、そのときトシの魂への挽歌を多く綴っている。
翌年一九二四(大正十三)年四月、賢治二十八歳の時、詩集『春と修羅』を出版、更に十二月、初め
ての童話集である『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』を出版する。
一九二六(大正十五)年三月、賢治二十九歳にして花巻農学校の教師を辞める。その後トシが晩年療
養した下根子桜の家にて、自炊生活を営むようになる。まだ同年八月十六日、「羅須地人協会」という、
働く農民のための協会をつくる。そこでは農学のみならず、こどもを集めて会を開いたり、コンサート
を開くなど様々な活動をおこなった。
76
一九三一(昭和六)年九月、賢治三十五歳のとき、肥料を作る仕事のために上京した先でトシと同
じ結核に倒れ、花巻での療養を余儀なくされる。療養は二年の間続くが、一九三三(昭和八)年九月、
三十七歳の夏の終わりに容態が急変し、父と母や弟の清六の見守る中で息を引き取った。
2.宗教遍歴
十七世紀に京都から岩手へ移り住んだといわれる始祖藤井将監から脈を引いてか、宮沢家は代々、浄
土真宗を信仰し、賢治の家族も勿論熱心な信者であった。先に日蓮の教えを仰ぐため上京したくだりを
記したが、もともと賢治も家族同様、浄土真宗を信仰していたことは事実である。父方の祖母キンはた
えず称名念仏を唱えており、また父の姉であり賢治の伯母ヤギは朝夕の勤行は決して欠かさず、幼い賢
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
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治に親鸞の「正信偈」や蓮如の「白骨の御文章」を聞かせることが多かった。小学三、四年の頃は仏像
の絵を描いたり粘土で作ったり、また中学にあがると木彫りのものを作ったり買い集めるなど、非常に
親しんでいたことがわかる。賢治の父政次郎もまた熱心な信者で、町の門徒達の中心となり先頭となっ
て、毎年京都から暁烏敏などを呼んで講座を開いたり、書物を編集して自費で刷って配布するなど熱心
に活動をおこなった。
このような環境で浄土真宗が賢治にもたらした影響は、後に賢治が『法華経』に転向した後もなお消
え行くことなく彼の人格に大きく根を張っていった。それは作品からも見て取ることが出来る、後の第
二章でわかるように。
ともあれ賢治は、浄土真宗と『法華経』のふたつの宗教の間で揺れ動いたのではない。盛岡中学に進
学し寮での生活を始めた頃になると、賢治はキリスト教に対する関心を持ち始める。盛岡にあったバプ
テスト派の教会に通うようになり、また中学で英語を教えていたヘンリー・タピング夫妻との親交が始
まったのもその頃である。
しかし賢治はまったく同時期にカトリック派の教会に通っていたのである。そこにいたフランス人の
宣教師プジェー氏とも親交を深めた。それは、
プジェー氏は古い絵画を好むとか 家にかへりてたづね贈らん2
という短歌を大正五年三月、賢治十九歳の時に書き残していることからも分かる。
ここで一旦、バプテスト派とカトリック派とをそれぞれ読み解いてみる。3
バプテスト派とはプロテスタント教派のひとつである。バプテストとはバプテスマ(浸礼)を行う者
の意味に由来し、英国の分離派思想から発生したキリスト教プロテスタントの教派のひとつである。プ
ロテスタントとは十六世紀初めカトリック教会の改革派がおこした教派で、それゆえに新教徒とも呼ば
れる。聖書が唯一の信仰の拠り所であり絶対であるため、そのあるがままを信仰しようとする筑後無諺
説もしくは逐語霊感説が支持されている。また福音主義よりも聊か急進的であることが特徴でもある。
一方カトリック派とはローマ教皇を中心とした聖職位階制度を用いた、キリスト教の中でも最も大き
い教派である。日本ではかつて「天主公教会」とも称された。その教説は旧約聖書及びイエス・キリス
トと使徒の教えに由来している。聖母マリアに対する尊敬、洗礼、聖餐、堅信、叙階、結婚、ゆるし、
終油の七つの秘跡などが主な特徴である。「神父」という単語はカトリック教会の司祭に対する通称で
ある。一般に正統的なキリスト教といわれると同時にプロテスタントに対する派でもあるのである。ふ
たつの派が交わらないことはおろか、それぞれの教会に同時期に通うということはありえないというこ
とがここから見て取ることが出来る。
更に賢治は中学を卒業の秋、盛岡にある願教寺にて島地大等著作の『漢和対照妙法蓮華経』を読んだ
のをきっかけとし、国柱会に傾倒していく。それに関して残された書簡からも読み取ることが出来るの
である。
77
『法華経』を篤く信仰するようになった賢治は、浄土真宗の熱心な信者であった父政次郎としばしば
論を交わしてぶつかりあうようになる。その様が色濃くあらわれているのが一九一八年二月二日に父に
あてた手紙である。そこには、
毎度申し上げ候ごとく実は小生は今後二十年位父上の曾つての御勧めにより静に自分の心をも修
習し経典をも広く拝読致し幾分なりとも皆人の又自分の幸福となる様、殊に父上母上又亡祖父様乃
至は皆々様の御恩をも報じたしと、考へ自らの及びもつかぬ事ながら誠に只今の如何なる時なるか
吾等の真実の帰趣の何れなるやをも皆々様と共に知り得る様致したくと存じ只今の努力はみな之に
基き候処小生の信仰浅きためか縷々父上等にも相逆らひ誠に情無く存じ居り候
亡祖父様いづれに御出でなされ様やも明かならず実は忽ちに出家をも致すべきの所只今は僧の身
にて却て所説も聞かれざるの有様にて先づ一度は衣食の独立を要すと教へられ又斯く思ひて折角働
く積りに御座候、繰り返し候へども元来小生の只今の信も思想も父上の範囲を出で申さず書籍とて
もみな父上の読み候もののみを後にて拾ひ読み候のみに御座候 父上は従来小生の極端なる立場に
あるときは常に一方の極端なる立場に立たれ自ら悪者ともなりて間違ひなき様導き下され候事誠に
有難く存じ居り候
さて然らば如何にしてこの御恩の幾分をも報じ申さんやを真面目に考へたる事全く無之とはよも
や御疑無之と存じ候、誠に仮に世間にて親孝行と云ふ如く働きて立派なる家をも建て賢き子孫をも
遺し何一つ不自由なき様に致し候ともこの世に果して斯る満足は有之べく候へや 報恩には直ちに
出家して自らの出離の道をも明らめ恩を受けたる人々をも導き奉る事最大一なりとは孰れの宗とて
教へられざるなき事に御座候 小生にとりては幸いにも念仏の行者たる恩人のみにて敢てこの要も
なく日本一同死してみな極楽に生るゝかとも見え候へども斯てだても尚外国の人人総て之れ一度は
父一度は母たる事誤なき人人はいづれに生れ候や ましては私の信ずるごとくば今の時念仏して一
人か生死を離るべきやと誠に身の置き処も無之次第に御座候
願はくば誠に私の信ずる所正しきか否や皆々様にて御判断下され得る様致したく先づは自ら勉強
して法華経の心をも悟り奉り働きて自らの衣食をもつぐのはしめ進みては人々にも教へ又給し若し
財を得て支那印度にもこの経を広め奉るならば誠に誠に父上母上を初め天子様、皆々様の御恩をも
報じ折角御迷惑をかけたる幾分の償をも致すことと存じ候4
とある。人のため、自分の幸福のために、心を糧に修行を積もうとしても、自分が至らないためか全う
することが出来ない。まず自分が何か行動を興そうとしても、書物ひとつとってみても未だに父の影響
のもとから抜け出すことが出来ないでもいる。それならばどうしたらいいかと考えてみると、出来るこ
とならば自分は日本人に対するのみならず、支那や印度など外国諸国に住む人々をも救うことがしたい、
それが父母を初め天子様、自分の周りにいるたくさんの人々の恩に報いることに繋がるのではないかと、
賢治は記している。
この手紙を書いた一九一八年の賢治は盛岡高等農林学校を卒業し、その後家を継ぐか否かで父と討論
を繰り返した時期でもある。ここから賢治は、職業のみならず、宗教の面でも、実家から独立しよう、
もしくはしなければならないと考えていたのではないだろうか。
ところで賢治には保阪嘉内という親友がいたのだが、同年三月に学校を除籍された彼にも手紙を送っ
ている。
78
新らしく書き出します。保阪嘉内は退学になりました。けれども誰が退学になりましたか。又退
学になりましたかなりませんか。あなたはそれを御自分の事と御思ひになりますか。誰がそれをあ
なたの事ときめましたか又いつきまりましたか。私は斯う思ひます。誰も退学になりません 退学
なんと云ふ事はどこにもありません あなたなんて全体始めから無いものです けれども又あるの
でせう 退学になつたり今この手紙を見たりして居ます これは只妙法蓮華経です。妙法蓮華経が
退校になりました 妙法蓮華経が手紙を讀みます 下手な字でごつごつと書いてあるらしい手紙を
讀みます手紙はもとより誰が手紙ときめた譯でもありません 元來妙法蓮華経が書いた妙法蓮華経
です。あゝ生はこれ法性の生、死はこれ法性の死と云ひます。只南無妙法蓮華経只南無妙法蓮華経
至心に帰命し奉る萬物最大幸福の根原妙法蓮華経 至心に頂禮し奉る三世諸佛の眼目妙法蓮華経
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
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不可思議の妙法蓮華経もて供養し奉る一切現象の當体妙法蓮華経
保阪さん私は愚かな鈍いものです 求めて疑って何物をも得ません 遂にけれども一切を得ます
我れこれ一切なるが故に 悟つた様な事を云ふのではありません 南無妙法蓮華経と一度叫ぶとき
には世界と我と共に不可思議の光に包まれるのです あゝその光はどんな光か私は知りません 只
斯の如くに唱へて輝く光です 南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経 どうかどうか保阪さんすぐに唱へ
て下さいとは願へないかも知れません 先づあの赤い經巻は一切衆生の帰趣である事を幾分なりと
も御信じ下され本気に一品でも御讀み下さいそして今に私にも教へて下さい。5
更に同年六月二十六日、保阪の母が亡くなったことを人づてに聴いた賢治は、再度手紙を書いている。
此の度は御母さんをなくなされまして何とも何とも御気の毒に存じます。
御母さんはこの大なる心の空間の何の方向に御去りになったか私は存じませんあなたは今は御訳り
にならない。
あゝけれどもあなたは御母さんがどこに行かれたのか又は全く無くおなりになつたのか或はどちら
でもなか至心に御求めになるのでせう。
あなた自らの手でかの赤い經巻の如來壽量品を御書きになつて御母さんの前に御供へなさい。
あなたの書くのはお母様の書かれると全じだと日蓮大菩薩が云はれました。
あなたのお書きになる一一の經の文字は不可思議の神力を以て母様の苦を救ひもし暗い處を行かれ
れば光となり若し火の中に居られゝば(あゝこの仮定は僞に違ひありませんが)水となり、或は金
色三十二相を備して説法なさるのです。
あなたは御母さんの棺の前で自分一人の悟りを求めてはいけません。
心は勿論円周でもなければ直線でもないでせう。
今夜はきっと雑誌を作つて御送りします6
これらを通して、当時の賢治の信仰のベクトルが何処へ向かっていたかが明確に見て取れる。自分は
愚かな鈍いものであるのだけれども、世の総ては妙法蓮華経である、と賢治は記している。南無妙法蓮
華経と唱えれば、たちどころに果てしなく輝く光に包まれるであろう、「一切衆生の帰趣である」と、
絶大な信頼を寄せていたことが伺い知れる。にも関わらず、同時に「すぐに唱へて下さいとは願へない
かも知れません」とも記している。これだけ度々何度も南無妙法蓮華経と唱えていながら、である。
この流れから推測するに賢治はこれらを通じて、単純に『法華経』の素晴らしさを伝えたかった訳では
ないのではないか。
それは保阪嘉内に宛てた二つ目の手紙にある「自分一人の悟りを求めてはいけない」というくだりに、
総て凝縮されている。賢治は自分の信じた『法華経』の力をもって、保阪の悲しみに暮れる心を、その
煩悩に縛られた今の状態から解き放つことが出来はしないかと考えたのではないだろうか。
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先にも書いたように、賢治は幼少の頃、父や祖父母の影響で浄土真宗を厚く信仰していた。しかしい
つしか賢治にとっての浄土真宗は、賢治にとっての、家であり、家業であり、父でもあったのではない
だろうか。家業を継ぐことも、浄土真宗を信仰することも、父という大きな傘の内側にとどまったまま
のように賢治には思えたのではないだろうか。それは、
先づは自ら勉強して法華経の心をも悟り奉り働きて自らの衣食をもつぐのはしめ進みては人々に
も教へ又給し若し財を得て支那印度にもこの経を広め奉るならば誠に誠に父上母上を初め天子様、
皆々様の御恩をも報じ折角御迷惑をかけたる幾分の償をも致すことと存じ候7
というくだりからも判断することが出来る。『法華経』が何にも勝る道であるということではない。む
しろ『法華経』に興味をもつようになっても、幼い頃父や祖母から受けた浄土真宗の教えは賢治の中に
根強く残っていたといってもいい。それは賢治の遺した作品からも推察することが出来る。ただ、自ら
選び進むことこそが自らの道であり賢治の望む自立の姿であり、それは父の跡を追うことでは叶わない
と考えたのであろう。人を救うために賢治が心に抱いた『法華経』とは、一体如何なる教えなのであろ
うか、次の第二章にて作品を考察する中で、読み解いていきたい。
二 作品考察
次に、宮沢賢治の作品から、その無常観、仏教観を通じて、賢治が感じた「生命」について論じてみる。
1.『やまなし』にみられる生命観と無常観
『やまなし』は一九二三(大正十二)年四月、賢治二十七歳の時に書かれた。一般にこの作品は形式
上散文詩に分類されるが、その内容から童話に含まれることも多い。
この話は小さな谷川の底に住む蟹の兄弟、及び親子の会話と自然の描写で構成された比較的短いもの
である。時は五月と十二月のふたつの季節からなり、兄弟蟹の成長も会話から見て取ることができ、一
見微笑ましい。しかし単なる童話ではなく、この作品には様々な描写を通じて自然の摂理ともいえる無
常な現実が冷静に記されているのである。
第一段落「五月」の章では兄弟が「クラムボン」について話をしている。当初は「クラムボンはわらっ
たよ8」と穏やかに話をしているが、不意に兄弟の上を魚が通り過ぎると一変し、「クラムボンは死んで
しまった」
「殺された9」と話し出すのである。
単純に流れからみると「魚」が「クラムボンを殺した」ようにも考えられるが、兄弟に、クラムボン
の死への悲しみはそこから感じることが出来ない。驚くべきはこの後再びクラムボンは「笑う」と記さ
れているのであるが、ここにクラムボンが再生したのか、それとも兄弟がクラムボンの思い出を語って
いるのか判断することは出来ない。が、兄弟の会話の雰囲気からして、クラムボンが再生すると予期し
ていたとも、過去を懐かしむ程に兄弟が大人であるとも考えられない。もっと単純に、兄弟は目の前の
生を、そして訪れた死を眺めていたのではあるまいか。
また、先ほど兄弟の上を泳いでいた魚はいきなり飛び込んできた「青びかりのまるでぎらぎらする鉄
砲玉のようなもの10」に「上のほう」へ連れて行かれてしまう。怯える様子の兄弟蟹に対し父蟹は「魚
はこわいところへいった11」と話す。これは死とは恐ろしいもの、世界であるという意識だ。しかし父
は「おれたちはかまわないんだから12」という。文章の前後を読むとこの鉄砲玉とはつまりかわせみの
ことであり、
「かまわない」とは、かわせみは魚を食べる生き物で自分たちに危害は加えないと理解出
来る。害はないのであれば父は彼らにわざわざ「こわいところへいった」と話さなくても良いのではな
いか。話すことで余計に怯えさせてしまうのではないだろうか。私はここに賢治の生命観があらわれて
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いるように考える。
近しい人や飼っている動物などの死への直面、事故に巻き込まれるなどして負った怪我が大きければ
大きい程、私たちは死を身近に感じる。逆に言えばそこまで事態が切迫しなければ感じることが出来な
いのである。その時の「死」とは生命の終わりであり、生き残る側からすれば死によって永遠に引き離
されてしまう訳で、それは不条理であり恐ろしいもの以外の何者でもない。しかし「死」とは至るとこ
ろに溢れている。何故ならその訪れとは、生きる者にしかやってこないからである。どの瞬間でさえも
生命の誕生あれば終焉もあり、それらは私たちの知る所見える所の内でも外でも無数に存在する現象だ。
生も死も平等に、当たり前のことなのであるということを賢治は『やまなし』に記したのではないだろ
うか。
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先に述べた通り私たちには、生の自覚はあろうとも死の自覚は限りなく薄い。それは単純に意識だけ
の問題ではない。年々医療が進歩し、怪我や病も過去に比べれば格段に治りやすく、また延命なども可
能となってきている。また文化の面においても、死を美しく描いた小説や映画の流行、反対にゲームや
漫画などに用いた為に死そのものを軽く扱う結果になってしまうメディアなど、私たちの周りからは死
を死として受け入れる要素がことごとく省かれているのではないか。ここに昨今目に見えてきている自
殺者の増加も原因があるように私は思う。私たち一人ひとりとはつまり「生」であり、それ故に一人ひ
とりに「死」があり、それは一定の時間や一定の条件を満たした時に訪れるものではなく、いつも背中
合わせであるということを賢治は受け入れていたのではないか。
勿論それは死に対して「悲しい」「寂しい」といった感情を持ち合わせていない訳では決してない。
その証拠に、賢治の妹トシが亡くなった時はその死を惜しむあまり、それから八ヶ月あまりトシに対す
る挽歌を二篇書き上げただけで伏していたと伝えられている。ただ、その様に悔やむ心はありながら、
死は確実に訪れるということは、賢治にはわかっていたのであろう。
一方、
『やまなし』において、無常観、生命観と共に象徴されるのが賢治独特の心象の風景ではない
だろうか。
心象とは、心の中に存在する、または感じとることの出来る、様々な像であり色であり光でありその
形は定まることのないもので、いわば賢治の見た世界を感覚的に表現したものであるといえる。
『やまなし』では「青じろい水の底13」
「銀の色の腹14」
「日光の黄金15」など、様々な色の描写が登場する。
また、
「錐の形の水晶」「金雲母のかけら」「ラムネの瓶の月光」「金剛石の粉16」といった、賢治がこよ
なく愛した様々な石の名前や、好物だったラムネのなどを用いて表現している。賢治自身も自らの作品
を「心象スケッチ」であると称したようにその様はどこか幻の様で実に童話らしい、一見夢見がちな雰
囲気を醸し出している。
しかしながらこれは「心象」である。この「心」とは、各々の心を指すのであり、つまり賢治の見た
世界とは誰の心にも映る全く同じ世界のことであるが、それをいかに表現するかはその心次第なのであ
る。
つまり『やまなし』とは、賢治の眼を通じて見えた、様々な色に彩られた心象風景であり、生命が存
在し存在するが故に、死も全く同様に存在するというごく普通の世界の一片であるといえよう。ここに
賢治の冷静な観察眼がうかがい知れる。
2.『貝の火』にみられる心の愚かさ
『貝の火』とは、子兎のホモイがひばりの子どもを助けたお礼に貰った貝の火という宝珠を手にして
からの日々を記した物語である。貝の火のモデルとなったのは蛋白石、つまりオパールであるが、オパー
ルは様々な色を宿し映すことで有名であると同時に、熱と乾燥に弱く割れやすい性質から「不幸を呼ぶ
石」と呼ばれたこともあるまさに限られた魅力溢れる宝を演出している。17
主人公は実に子どもらしい純粋な子兎であるが、純粋なゆえに残酷な面も持ち合わせている。それを
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最初に端的にあらわすのが溺れたひばりの子どもを救う場面である。溺れる様をみたホモイはすぐに飛
び込んで助け、安心させるために励ます反面、ひばりの子どものことは「顔中しわだらけで、くちばし
が大きくて、おまけにどこかとかげに似てゐる18」のでぎょっとして手を離しそうになったり、お礼を
言おうとした「鼠色の顔」をみてぞっとして飛び退いてしまったり、挙句の果てには家に帰りついた途
端うなされて熱病にかかってしまう。
そんなホモイは助けたお礼にと鳥の王から「手入れ次第で、どんなにでも立派になる19」という貝の
火という名の玉を授かる。玉は赤や黄の焔をあげて美しく燃えるように輝いているようにも、美しく静
かに澄んでいるようにも見られ、ホモイは当初謙遜して「見る丈けで十分です20」と言う。しかし、こ
こからホモイが日々変わり行くのである。宝をもったことでホモイは両親に大切に可愛がられ、野の動
物たちからは崇拝され、悪だくみをする狐にそそのかされて急激に傲慢になっていく。にもかかわらず
ホモイ自身の純粋さは簡単に失われることはなく、両親に諌められれば反省して涙をこぼす。
話の流れから予想するに、ホモイの心が汚れれば汚れるほど玉の光は失われ、もしくは割れてしまう
という結末が想像にたやすい。しかしそう簡単な問題ではなく、ホモイが大将気取りで野を歩き、悪さ
をすればする程その光はますます輝きを放つのである。毎日それを眺めながらホモイは不安と興奮に包
まれていく。自分の愚かさに涙しながら、まだ自分にはこの宝があるから大丈夫と、過信していくので
ある。こうしてじわじわと転落していく様が、なんとも人間くさいではないか。
その後、話は不意に終わりを迎える。ある時から玉は光を失い徐々に曇り始め、終にはただの白い石
へと変わってしまい、挙句の果てにその石が割れた粉がホモイの目に入り、失明してしまう。
この話で賢治が伝えたかったこととは一体なんであろうか。それは失明したホモイに父が伝えた、
「こ
んなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、一番さいはひなのだ。21」という言葉であ
るだろう。愚かなのは、宝に踊らされた自分自身であり、慢心すればするほど人は弱く、そして醜くなっ
てしまうのである。そしてそんな自分が信じる力など、単にめくらましの幻でしかないものである。そ
のような事態に、いつ誰しもが見舞われてもおかしくないのである。賢治はそれらを諌める気持ちを込
めたのではないだろうか。
童話とは、人だけでなく、このように獣や植物、建造物など様々なものに言葉という命を吹き込んで
構成されている。しかし大抵が、夢やどこかの世界の話のような、遠い話であるという印象を抱くこと
が多い。しかし賢治の童話にはそれがない。言葉を発しているものが何者であれ、リアルに、ごく身近
にその雰囲気、ぬくもりすら感じることが出来はしないであろうか。
『貝の火』はそれを端的にあらわしているといえよう。自らというものを如何なる時でも保ち続ける
のは非常に難しい。崩れてしまうのはこれほど簡単である。そんな恐ろしい警告のようで非常に生々し
い「人の心の弱さ」を描いたのが、この『貝の火』である。
3.デクノボーにみられる凡夫思想
賢治の最も代表的な作品のひとつに、『雨ニモマケズ』という詩が存在する。淡々とした短いもので
あるが、ここには賢治の理想ともいえる姿が描かれている。
欲ハナク 決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテ ヰル22
という箇所がある。穏やかにありたい、というささやかな願いとも思えるが、ここで重要なのは「ヰル」
という箇所ではないかと私は考える。自分から何か行動をおこす、というよりはただそこにある、居る
ということこそが賢治の望みだったのではないであろうか。その証拠にこの詩は、
82
野原ノ松ノ林ノ蔭の 小サナ萱ブキノ 小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモ アレバ行ッテ看病シテ ヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ 稲ノ束ヲ 負ヒ23
というように動詞が強調されて続いていくのである。自らを極力抑え、病や苦労などに困る者があれば
そこへ向かい、力になりたいという、賢治の力強い思いに満ち溢れている。しかしこの詩は決して、人々
の先頭に立ち率先していこうという姿勢では決して無い。それは次のくだりから判断出来る。
ヒドリノトキハ ナミダヲナガシ
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サムサノナツハ オロオロアルキ
ミンナニ デクノボート ヨバレ ホメラレモセズ クニモセズ24
涙を流し、おろおろと歩き、皆に愚か者と呼ばれ、褒められることもなく、何事も苦に思うこともな
い者になりたいという、その言葉からは、何か代償を求めるでもなく、驕ることでもない、ただ一途に
「人を救いたい」と思う気持ちがうかがい知れる。
またこの「デクノボー」を描いた『虔十公園林』という作品をとりあげてみる。
この作品において「デクノボー」と呼ばれるのは主人公である虔十である。彼は天気の動きや動物の
生きる様を見て喜ぶ純粋な一村人であるが、そんな彼は村人たちから愚か者と笑われている。しかしそ
んな虔十が植えた杉がいつしか大きくなり、子どもたちの遊び場となっていく。ただそれだけの話であ
る。また虔十は、子どもたちが遊ぶ様を見ることなく物語の途中でチブスにかかってあっけなく亡くな
るのである。その描写たるや、ほんの一、二行程度である。ここからも先に述べた通り、賢治の生死に
対する平等の普遍性が見て取れる。素晴らしいことを成し遂げた者が素晴らしい人生を送るというのは、
幸せなことであるが夢物語であり決して現実的ではないのである。
また最後の最後で若い博士がその林を見て虔十を思い出し、そこでやっと彼の功績が認められるのだ
が、賢治はそこに重きを置いてはいない。若い博士のつぶやく、「ああ全くだれがかしこく、だれが賢
くないかわかりません25」という呟きが、そのまま賢治の呟きとなっているといえよう。人間の価値と
いうものは、一様には判断出来ないのである。またそしてそれら価値というものはその時その時の集団
によって決められ、その枠に当てはまらない者は愚かであるとみなされる。『虔十公園林』は、そのこ
とがどれだけ愚かなことであるかを訴えた作品なのである。
ここにおいて真宗学を学んだ者の意見として、デクノボーと凡夫とのシンメトリーの関係を提示した
いと考える。
凡夫とは、端的に言えば、私たち愚鈍の衆生のことをさす。親鸞は『一念多念證文』に、
凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて欲も多く、いかり・はらだち・そねみ・ねたむ
こゝろ多くひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえずたえずと水火二河のたとへ
にあらはれたり26
と記している。これこそまさに「欲ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテ ヰル」人になり
たかった賢治の現実の姿なのではあるまいか。すなわち、親鸞の「愚かな凡夫として生きていく姿」が
まさに、
「デクノボー」として生きようとした賢治の、抜け出すことの出来ない人間性に通じるのでは
ないだろうか。それゆえに賢治は、凡夫であるさまと、それに照らし合わせたかのような「デクノボー」
を理想として掲げたのだろう。
またそれらの意識に極めて類似した性格を、親鸞の言葉の中にも見出すことが出来る。『正像末和讃』
83
に、
如来の回向に帰入して 願作仏心をうるひとは
自力の回向をすてはてて 利益有情はきはもなし27
と書かれている。これは、弥陀の本願の力を受け入れて菩提のこころを得た者は、自力の功徳ではなく
如来の他力の大いなる力によって衆生を救済することが出来るという意味である。しかし同時に、
小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ
如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき28
とも遺されている。これは、慈しみの心などもたないわが身では衆生の救済など不可能であり、如来の
本願をもってこそ漸くこの果てしない迷いを乗り越えられるという意味である。人を思い救うことを願
う純粋な心こそが自らの手枷足枷である煩悩であり、それゆえに自分とは本当に小さく愚かな人間であ
る、と解き悩み苦しんだ親鸞の姿はまさに、賢治の姿と重なりはしないだろうか。
『雨ニモマケズ』は一九三一(昭和六)年賢治三十六歳、病床に就いたまま手帳に記された詩であるが、
この時の賢治の信仰は『法華経』であった筈である。しかし、上記のことからも、幼少時に学んだ真宗
の根本的な思想は、一生涯を通じて賢治の中に存在したのではないか、と推察することが出来る。第一
章でも述べた通り、賢治は浄土真宗、キリスト教、日蓮宗へと様々に興味をもっていった。それらは賢
治の中で廃れることなく生き、こうして作品を通して表面化することとなっていったのである。このよ
うにして、ひとつの方向性にとらわれない賢治の文学は築き上げられていったのである。
以上のことを踏まえて、第三章では賢治のうちに潜んだ修羅と、彼が望んだ菩薩の道を、詩集『春と
修羅』を用いて考察する。
三 菩薩の精神
1.菩薩と修羅
賢治は詩集『春と修羅』にて、己を修羅であるとあらわしている。では修羅とは一体何者であるのか。
修羅とはすなわち阿修羅のことで、戦闘を好み帝釈天と争う悪神と称される。
ところが賢治の、他人を中心とする考え方は主に菩薩になぞらえて記されることが実に多い。菩薩と
は一般的に、悟りを求める衆生、または菩薩に継ぐ位のもので、悟りを求めて修行しつつ大慈悲の心を
もって衆生を救う者とされる。それでは何故賢治は自らを修羅であると称したのであろうか。
一つは、自らの貪欲な学習意欲を例えたものであると推察される。家業を継ぐことを頑なに拒んでの
就学、宗教観を巡っての父との論争はひとえに賢治の堅い意思があってのことであった。
またもう一つは、賢治の強い自己犠牲の日々を指し示していると思われる。
賢治が寒行に励んでいたことは有名である。一九二〇(大正九)年の春、夜になると水垢離を三杯とり、
絣の着物にマントを羽織り下駄を履いて、団扇太鼓を叩き、題目を唱えながら歩いていたという29。賢
治はこの寒行をもって何を示そうとしていたのであろうか。一見すると単なる宗教活動である。しかも
修行の内容は過酷で、簡単に実行に移せるものではない。にも関わらず行動におこした賢治を支えてい
たものといえばそれはひとえに南無妙法蓮華経の題目であり、またその法華の力をもて、少しでも多く
の人々にはかりしれない救いの光をもたらしたいという強い願いであったのである。そんな賢治の姿は
同胞からは温かく迎えられるが、そう簡単にその思いが届くことはなく、世間からは変わり者であると
囁かれ、勿論理解などしてもらえる筈もなく、特に父はそんな息子を恥じ、嘆いたという。
84
そこまでしても理想の「デクノボー」になれない自らを例えたのが「修羅」ではないだろうか。賢治
の「修羅」とは、理想を明確に思い描いていながら、そのようになりたくとも近づくことが出来ない苦
しい様であるといえよう。更にそんな賢治を惑わすかのように存在する彩り、咲き乱れる風こそが「春」
をあらわしているのではないだろうか。
この詩においても賢治の心象のスケッチは自然の美しさを漏らすことなく描いている。色づかいのみ
ならず、空や海、植物の有様がいきいきと記されており、まさに冬が終わり、様々な生命が春を迎えて
溢れるような勢いをもっていることがみてとれる。
その美しい風景の中に、はぎしりしながら行き来するのがひとりの修羅である。「砕ける雲」、「れい
ろうの天の海」、「聖玻璃の風30」など、以上のように表現の中には風を連想させるものがいくつも出て
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くるのが特徴的だが、これはまさに空と修羅の間を吹きぬける風なのではないか。理想と現実の狭間を
つめようにもつめることが出来ない賢治の、どこまでも駆け巡りとどまることのない苦しみの叫びなの
ではないだろうか。
しかしながら、自分自身を追い詰めるかのように理想を求めるその賢治の姿は先にも述べたように、
「菩薩」と称されることが多いのである。宮沢賢治というひとりの人間がある角度からは修羅と、また
ある角度からは菩薩と例えられる。にも関わらず賢治の求めた姿は「デクノボー」なのだ。この三者の
関係とは一体いかなるものであるか。
「菩薩」は人のために尽くし生きる崇高な人間像であるとする。人のために尽くす、という点からみ
ると実は「デクノボー」も、全く同一なのである。しかし賢治は「みんなにデクノボーとよばれ」たい
と遺している。デクノボーとは木偶坊、傀儡などの人形や、役立たずという意味を持つ語である。自ら
を省みず人のために行いをするということは、良いことであり、人々の手本であり、しばしば褒め称え
られ、また尊敬される場合が簡単に予想される。しかしそのように持ち上げられていけば、どんなヒト
であれいずれ目的を失い我を忘れ、過剰な自信や驕りにまみれてしまう可能性がある、ということを賢
治は知っていたのではないだろうか。またそのように自分がなってしまうことを恐れ、それゆえに敢え
てストイックなまでに自分自身を抑え込み、「デクノボー」という理想を掲げ、にも関わらず達成する
ことの出来ない自分自身を煩悩にまみれた愚かな「修羅」と称したのではないだろうか。しかしその賢
治のもがき苦しむ様こそがまさに、人のためを考える菩薩の道なのである。そう考えると、
「修羅」と「デ
クノボー」
「菩薩」の三者の図が見えてくるように感じられる。
そして賢治の思いが端的に、かつ際立って感じられるのは、まさに賢治本人の臨終の瞬間の遺言のく
だりであると私は考える。それは次の二節で読み解いていきたい。
2.最期の願い
先にも書いた通り賢治は一九三三(昭和八)年九月二十一日午後一時三十分頃急性肺炎にて永眠した。
この時の詳しい様は佐藤隆房氏筆の『宮沢賢治 素顔のわが友』という本にこう記されている31。
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・」というお題目が、繰り返し繰り返し高らかに聞こえて
来ました。みんな驚いて二階に上がって行きました。
蒼白な顔。胸の上に手を合わせて、厳粛なその姿。静かにも力強い、荘重な室の空気。気圏にまで
みなぎるその気魄。
お父さんは側ににじりよって、悲痛な声で
「何か言って置くことはないか。・・・」と言いました。
賢治さんは清らかな目を父に向けて、澄んだ声ではっきりと(略)
「どうか国訳の法華経を出版して下さい。そしてそれを知己の人々に差し上げて下さい」
85
出版は千部ほどで、表紙の色は赤、校正を頼む人を決めると、残りはあとで起きて自分で記すと父に
伝え、しかしながら、それは叶うことなく賢治は安らかに臨終を迎えることとなった。またこの時まで
に書き溜めた原稿に関しては、 「これらの原稿はわたくしの『迷の跡』ですから、どうにでも適当にし
てください」と父親に言い残している32。
私はこの賢治の最期の願いこそ、まことの菩薩行なのではないかと考える。彼が残る人々のために出
来る最後のそして最高の行が、自分に限りない導きの光を与えてくれた『法華経』を人々に託すことで
あったのであろう。そして同時に、死の間際になって尚その行いに励もうとするということは、それす
なわち最後のあがきであり、彼の一生をもってしても彼の理想には終に手が届かなかったということで
はないだろうか。
死の間際、それも若くして死ぬという場合、苦しみや悲しみといった煩悩はきっと大いに膨れ上がる
ことだろう。遣り残したことや生への執着はそれこそ尽きないものであろうと容易に想像がつく。にも
関わらず賢治は自らの死を冷静に受け止め、何をすべきかを考え、また最後に水を飲み体をオキシフル
で消毒し、
床についている。そんな彼の姿こそまさに修羅である自分から、菩薩の心を携えたデクノボー
へなろうとして、その矛盾の中ですべての幸いを願い続けたただの凡夫であったのではないだろうか。
結 論
人は様々な願いをもって生きている。それは自分自身への願いであったり、他者へ対する願いであっ
たり、実に様々である。しかし同時に、それらが簡単に叶うことのない現実に苦しむことも多い。いつ
の時代であれ、世相が変化し、過去が歴史と呼ばれるようになってもその姿は変わらない。人は、生き
ているからこそ苦しむのである。しかしながら、その苦しみがあるからこそ人はまた希望を持ち、理想
を抱いて生きていくのである。一進一退を繰り返す、それが「生きる」ということなのだろう。結果を
残すことも確かに重要であるが、それ以前に大切なものとは、生きる上で最も大切な、私たちが心に抱
いていくべき思いとは、いかに生を生きようかということではないか。
宮沢賢治という作家は実に多くの作品を遺した。しかしながら今も尚、作品のみならず賢治本人に惹
かれる人は多い。それは賢治が偉大な作家だからという理由だけではなく、その人生が実に豊かなもの
だからではないだろうか。様々な宗教の遍歴、父という大きな存在からの逃走、そして幾たびもの衝突、
また可能性を求めての就学、就職など、あちらこちら寄り道を繰り返した人生である。しかしそうであ
るからこそその破天荒な様が私たちの眼には魅力的に写るのである。
一度きりでその長さもひとそれぞれである生を、いかに生きるかもまたそれぞれである。それゆえに
私たちは一生懸命にならなければならない。ことに現代に生きる私たちには制約は甚だ多い。そのよう
な中で自分の人生をいかに彩るかは自分次第なのである。なのであるが、それは理想であり、ひとりの
力ではままならないことも多く存在する。それだからこそ私たちにはもがく必要があるのである。
「自分」
という存在は悔しいほどに小さい。それは誰もが幾度も自覚する意識である。その自分に宿る希望へ向
かう、そのひたむきな試行錯誤の様が、また実にその人の人生を深く豊かで魅力あるものへと導いてい
くのではないだろうか。
(2007年1月)
₁ 天沢退二郎・萩原昌好著 『宮沢賢治 イーハトーブロマン』 参照。くもん出版。1996年。佐藤隆房著 『宮沢賢治 素顔のわ
が友』 参照。桜地人舘。1996年。
₂ 山折哲雄著『デクノボーになりたい 私の宮沢賢治』 40頁。小学館。2005年。
₃ 『広辞苑』 参照。
₄ 『新校本 宮澤賢治全集』第15巻。45頁
₅ 『新校本 宮澤賢治全集』第15巻。58頁
₆ 『新校本 宮澤賢治全集』第15巻。91頁
₇ 『新校本 宮澤賢治全集』第15巻。47頁。
86
₈ 宮沢賢治著 『童話集 風の又三郎』148頁。岩波書店。1951年。
₉ 前掲書149頁。
10 前掲書150頁。
11 前掲書150頁。
12 前掲書151頁。
13 前掲書148頁。
14 前掲書149頁。
15 前掲書149頁。
16 前掲書152頁。
17 原子朗著『新宮澤賢治語彙辞典』462頁。
18 『宮沢賢治全集 5 』50頁。ちくま文庫。1986年。
19 前掲書53頁。
20 前掲書53頁。
21 前掲書76頁。
22 佐藤隆房『宮沢賢治 素顔のわが友』258頁。
23 前掲書259頁。
24 前掲書260頁。
25 宮沢賢治『童話集 風の又三郎』253頁。
26 浄土真宗聖典註釈版第二版。693頁。
27 前掲書604頁。
28 前掲書617頁。
29 佐藤隆房『宮沢賢治 素顔のわが友』59頁。
30 『宮沢賢治全集 1 』29頁。ちくま文庫 1986年。
31 佐藤隆房『宮沢賢治 素顔のわが友』250頁。
32 前掲書252頁。
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参考文献
『宮沢賢治全集』1。ちくま文庫 1986年。
『宮沢賢治全集』5。ちくま文庫 1986年。
宮沢賢治著 『童話集 風の又三郎』。岩波書店。1951年。
佐藤隆房著『宮沢賢治 素顔のわが友』。桜地人舘。1996年。
大室幹雄著『宮沢賢治 「風の又三郎」精読』。岩波書店。2006年。
山折哲雄著『デクノボーになりたい 私の宮沢賢治』。小学館。2005年。
天沢退二郎・萩原昌好著 『宮沢賢治 イーハトーブロマン』 くもん出版。1996年。
『新校本 宮澤賢治全集』第15巻。筑摩書房。1995年。
『新校本 宮澤賢治全集』第16巻。筑摩書房。2001年。
浅井成海著 『聖典セミナー 三帖和讃Ⅲ 正像末和讃』本願寺出版社。2004年。
原子朗著『新宮澤賢治語彙辞典 第二版』。東京書籍。1999年。
87
無限なるもの
井上善幸
物理学者アインシュタイン(1879-1955)は、このような言葉を残しています。
「無限なものは二つあります。宇宙と人間の愚かさ。
前者については断言できませんが。」
最後の一言は、科学者としてのアインシュタインらしい付け加えですね。宇宙は広いが、やがてその
限界が明らかになるかも知れない。だから、宇宙の無限さについては断言できません。けれども、人間
の愚かさは無限であると、アインシュタインは述べています。
ご存じの通り、アインシュタインはユダヤ人です。しかも、彼が生きた時代において、ユダヤ民族は
筆舌に尽くしがたい過酷な体験をします。「人間の愚かさ」という言葉には、そのような辛く苦しい悲
惨な歴史への思いが込められていたのかも知れません。また、アインシュタインは、原子爆弾を製造す
るための理論を発見した科学者でもありました。彼自身が直接、原爆の製造に関わっていたわけではあ
りませんが、しかし、広島と長崎に原爆が投下されたことに対して、とても心を痛めていたと伝えられ
ています。そうすると、“無限”とも言える人間の愚かさは、お互いに殺しあい命を奪いあう姿に対す
る嘆きとも受け取ることが出来ます。
* * *
1945年、広島に投下された原爆によって一瞬にして多くの命が無惨にも奪われた爆心地付近には、現
在、
広島平和記念公園があります。その公園に、
「広島平和の鐘」というのがあるのをご存じでしょうか。
広島平和記念公園には、毎年8月6日に鳴らされる鐘と、平和の時計塔の鐘(毎朝8時15分に鳴らされるチャ
イムの鐘)
、そして公園の慰霊碑の北側にある“悲願の鐘”という、3つの鐘があります。
公園の片隅にある、“悲願の鐘”には、興味深い言葉が刻まれています。
その一つは、「自己を知れ」という言葉です。「自己を知れ」とは、哲学者ソクラテスを生み出した、
デルフォイの神託からとられています。「自己」を知らない人は、「他者」を知ることも出来ないでしょ
う。他者を理解することが出来なければ、対立や、争いを避けることは、到底出来ません。二度と悲惨
な戦争を繰り返さないためにも、「自己を知れ」という言葉は、非常に重い意味を持っています。
鐘には、もう一つ重要な言葉がサンスクリットで記されています。
私が仏のさとりを得たとき
アミダという名は 生きとし生けるすべてのものに必ず届くだろう
もし聞えぬところがあるなら 誓って仏にはなるまい
不思議の力で大光明を放ち
すべての国の すべての人びとを照らし
わざわい
一切のむさぼりと怒りと怨みを除いて あまたの厄から救いたい
88
これは、アミダ仏の願いを説き示す『無量寿経』という経典の偈文、「重誓偈」の一節で、漢訳では、
第三偈の「我至成仏道 名声超十方 究竟靡所聞 誓不成正覚」と、第五偈の「神力演大光 普照無際
土 消除三垢冥 広済衆厄難」という箇所に当たります。(龍谷大学深草学舎の顕真館では木曜日の朝
の勤行で読誦されています。)
「重誓偈」は、生きとし生けるすべてのものを必ずほんとうの安らぎに導こうという、アミダ仏の願
いが重ねて誓われる偈文です。その願いが“悲願の鐘”に刻まれているのです。
“悲願の鐘”は、平和を願って造られた鐘です。その鐘に、アミダ仏の願いが刻まれている。このことを、
私たちはどう考えたらいいでしょうか。
* * *
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私たち人間は、平和を願ってやみません。けれども、私たち自身で、ほんとうの平和、ほんとうの安
らぎを実現できるでしょうか。この問いに対して、人類が歩んできた歴史は悲しい事実を突きつけます。
だからこそ、私たちは、私たち人間を超えた願いを求めるのではないでしょうか。
私は、
ブッダの教えを、私たちや私たちが生きる社会を映し出す鏡として捉えたいと思っています。
“悲
願の鐘”には「自己を知れ」という言葉が刻まれています。私にとって、自己を知るための鏡とは仏教
であり、端的に言えば、アミダ仏の願いです。
* * *
アインシュタインは、「宇宙と人間の愚かさは無限である。ただし、宇宙の無限さについては断言で
きないが」と言いました。そこで私は、アインシュタインの言葉を借りて、こう表現したいと思います。
「無限なものは二つあります。人間の愚かさとアミダ仏の願い。」
人間の愚かさが無限であるからこそ、その私たちを必ず救おうというアミダ仏の願いもまた無限なの
です。
アミダという名は、無限のひかりと無限のいのちを意味します。無限のひかりと無限のいのちは、は
かり知れない智慧と慈悲を象徴しています。はかり知れない智慧と慈悲は、生きとし生けるすべてのも
のを必ずほんとうの安らぎに導く、すくいのはたらきそのものです。このすくいのはたらきの無限さを、
無限の愚かさをもった私へかけられた願いと受け取っていく、そういうことを親鸞聖人は生涯をかけて
まな
伝えてくださったのではないかと思います。龍谷大学は、そんな親鸞聖人の教えを建学の精神とする学
びや
舎です。
(龍谷大学 宗教部報『りゅうこくno.78』より一部改)
資料提供;教学伝道研究センター
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STRONG IN THE RAIN
Kenji Miyazawa
日本医師会 訳
Strong in the rain
Strong in the wind
Strong against the summer heat and winter snow
He is healthy and robust
Unselfish
He never loses his temper
Nor the quiet smile on his lips
He eats four small bowls[i] of unrefined rice[ii]
Miso[iii] and a small portion of vegetables each day
He does not consider his own interest
In whatever occurs...his understanding
Comes from observation and experience
And he never loses sight of things
He lives in a little thatched-roof hut
In a field in the shadows of a pine tree grove
If there is a sick child in the east
He goes there to nurse the child
If there’s a tired mother in the west
He goes to her and carries her sheaves
If someone is near death in the south
He goes and says, “Don’t be afraid”
If there’s strife and lawsuits in the north
He demands that the people put an end to their pettiness
He weeps at the time of drought
He plods about at a loss during the cold summer
Everyone calls him “Blockhead”
No one sings his praises
Or takes him to heart
He is the sort of person
I want to be
[i]The Japanese measurement translated here is “go”, about 0.04 liters of rice.
[ii]Unrefined, or unpolished rice, was considered to be fit only for the poorest people in Japan.
[iii]Miso is a common soup base in Japan made from fermented soybean paste and salt.
坪井栄孝(元世界医師会会長)氏がダボス会議で使った英訳です。
この日本医師会による英訳は、澤 倫太郎(日本医師会総合政策研究機構部長)氏にご紹介いただきました。
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宮沢賢治の五つの作品について
『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』
『貝の火』『よだかの星』『虔十公園林』
『銀河鉄道の夜』 1924(大正13年)(賢治28歳)初期稿から晩年まで
『銀河鉄道の夜』は、少年ジョバンニが心の通じあうカムパネルラと銀河鉄道に乗って旅をする物語
です。ジョバンニの孤独さの影には、母親の病、父親の不在、同級生からのいじめがあり、だからこそ
本当の心の絆と幸せを求めようとするせつなさがあります。銀河鉄道のなかで、ジョバンニとカムパネ
ルラは、鳥捕りや沈没したタイタニック号の乗客たちと出あい、やがてサウザンクロスで降りていく乗
客たちを見送ります。銀河鉄道は二人を乗せてさらに走ります。「きっとみんなのほんたうのさいはい
をさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んでいこう」というジョバンニの決意には、死
をこえてつづく愛情と、すべての本当の幸いのために尽くしたいという志願が伝わってきます。
『風の又三郎』 1931年(昭和6)年(賢治35歳)推定。
『風の又三郎』は、
「どっどど どどうど どどうど どどう 青いくるみも吹きとばせ すっぱいくゎ
りんもふきとばせ どっどど どどうど どどうど どどう」という風の音から始まります。それは、
赤い髪をした風の又三郎が山の小さな分教場に突然転校してきてから、二百二十日の嵐とともに去って
いくまでの物語です。又三郎と村の子どもたちとの不可思議な交流のなかで、子どもたちの夢やあこが
れ、ぶるぶるふるえるような怖さが表れています。風の又三郎のように、自分たちの知らない転校生が
村の子どもたちの学校に入ってくると、好奇心や噂が広がります。しかし、村の子どもたちは、風の又
三郎とけんかしたりしながらも、やがてうちとけて、一緒に遊びます。そこに子ども同志がぶつかりあ
いながら、仲良くなっていく平等観が表れています。偏見がなくなったとき、そこに平等に心のつなが
る世界が開けてくるのです。そして物語の舞台となった岩手県の豊かな自然には、いのちの煌きを感じ
ることができます。
『貝の火』 1920年(大正9)年(賢治24歳)。
『貝の火』は、子兎のホモイの物語です。川でおぼれていたひばりの子を助けた子兎のホモイは、ひ
ばりの親子からお礼に「貝の火」を贈られます。「貝の火」とは、オパールでできたまるい玉で、その
中に赤い美しい火がちらちらと燃えているという不思議な宝珠です。持っている者の行い次第で、火の
燃えかたがより美しくなったり、勢いがなくなったりするといわれます。それから動物たちはホモイを
尊敬してもてはやし、狐までもホモイに仕えます。しかしホモイはモグラをはじめとしていろんな動物
たちに命令するうちにやがて有頂天になっていきます。傲慢なふるまいをするようになったホモイを
知って、兎のお父さんはホモイを叱り、
「お前はもうだめだ。貝の火を見てごらん。きっと曇ってしまってゐるから。」
92
というのですが、火はいよいよ赤くに燃えています。やがて、ホモイは狐が網でつかまえたかけすと鴬
と紅雀とひはの四ひきが入れられた硝子箱を狐に見せられます。鴬は硝子ごしに、「ホモイさん、どう
かあなたのお力で助けてやってください」と頼みました。しかし、狐に「その箱に手でもかけて見ろ。
食ひ殺すぞ。」とおどされ、ホモイは怖くなって逃げてきてしまいます。その日から、「貝の火」に、小
さな針でついたような白い曇りが見えはじめ、夜中には、赤い火が見えなくなってしまいました。大声
で泣くホモイの話を聞いたお父さんは、ホモイといっしょに出かけていき、狐にとらえられていたたく
さんの鳥たちを解放しました。お父さんが「私共は面目次第もございません。あなた方の王さまからい
たゞいた玉をたうとう曇らしてしまったのです」と鳥たちに話しました。ホモイのお父さんは、鳥たち
を自分の家に案内しました。「貝の火」は、もうただの白い石になってしまっていました。そのとき、
「貝
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の火」はカチカチとなって二つに鋭くわれ、はげしい音がして煙のように砕けちってしまいました。そ
の「貝の火」の粉が目に入ったホモイは失明してしまいます。この物語は、ひとが脚光をあびるうちに、
知らず知らず慢心に陥り、大切なものを見失ってしまうことを教えてくれるものでしょう。それでもホ
モイのお父さんはこう言っています。
「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、一番さいはひなのだ。目
はきっと又よくなる。お父さんがよくしてやるからな。な。泣くな。」
この父の言葉に、人として生きる意味が込められています。
『よだかの星』 1921(大正10)年。(賢治25歳)推定。
『よだかの星』は、姿が醜いよだかが虫を食べてしか生きられない自分に気づいて、ついに永遠の星
になるために宇宙へ飛んでいくという宗教的な美しい作品です。よだかは、顔にまだらにみそをつけた
ような、みにくい鳥で、みんなから嫌われています。よだか自身はよい鳥だと思っていましたが、口を
大きく開いて、矢のように雲すれすれによこぎるとき、小さな羽虫やカブトムシがのどにはいりました。
よだかは、自分自身の恐ろしい姿にはっと気づきます。他のいのちをとらなければ生きていけないとい
う、宿業への深いめざめです。ついによだかは、お日さまや星たちをめざして飛びあがります。しかし、
どの星も相手にしてくれません。よだかはすっかり力を落して、地に落ちていきました。それでも、最
後にはどこまでも、星の輝く空に向かって昇っていきました。
なみだぐんだ目をあげてもう一ぺんそらを見ました。さうです。これがよだかの最後でした。も
うよだかは落ちてゐるのか、のぼってゐるのか、さかさになってゐるのか、上を向いてゐるのかも、
わかりませんでした。たゞこゝろもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっ
ては居ましたが、たしかに少しわらって居りました。
りん
それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだ燐がいま
の火のやうな青い美しい光になって、しづかに燃えてゐるのを見ました。
すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになってゐました。
そしてよだかの星は燃えつゞけました。いつまでもいつまでも燃えつゞけました。
今でもまだ燃えてゐます。
物語はここで終わっています。涙ぐみ、微笑みながらひたむきに飛びつづけたよだかの姿が目に浮か
ぶようです。この物語の最後の主題は、生きる悲しさを知り、それがゆえに、他のいのちを慈しむよだ
かが、ひたすら星をめざして飛翔するところにあります。
93
人はここまで徹底して自らの生を見つめ、醜い部分もごまかさずに知ったうえで、清らかに生きるこ
とをめざしているでしょうか。宮沢賢治は、仏の願いを聞き、
「すべての幸いを願って、強く生きていこう」
と、私たちに呼びかけています。
けんじゅうこうえんりん
『虔十公園林』
『虔十公園林』は、いじめの虚しさと人間の尊さを考えさせてくれる物語です。虔十はいつも縄の帯
をしめて、笑って森の中や畑の間をゆっくり歩くのが好きな子どもでした。風がどうと吹いて、ブナの
葉がチラチラ光るときには、虔十はうれしくて、はあはあ息をついて笑うのでした。そんな虔十を見て、
村の子どもらはばかにして笑いました。この物語のなかで、虔十が抵抗せずにいじめられ殴られる場面
には、胸が痛みます。やがて年月が経ち、虔十も平二も亡くなった後のことです。その村からでてアメ
リカで大学教授になった博士が、久しぶりに故郷に帰ってきました。村には鉄道が通り、工場や家がで
きてすっかり町になっていました。ただ、虔十の植えた杉林だけは、そのまま変わらずに子どもたちの
遊び場となっていました。博士は、虔十の林の方に行き、こう話します。
「その虔十という人はすこしたりないと、わたしらは思っていたのです。いつでも、はあはあわらっ
ている人でした。・・・・この杉もみんな、その人が植えたのだそうです。ああ、まったくたれが
じゅうりき
かしこく、たれがかしこくないかわかりません。たゞどこまでも十力の作用は不思議です。」
こうして、その杉林は「虔十公園林」と名づけられ、いつまでも子どもたちの美しい公園地となりま
した。
この世は、勝ち組や負け犬という二つに色分けできません。長い年月で見れば、ある時代に勝ち誇っ
ていた人が、社会ではその傲慢さのゆえに孤立したり、学校時代にいじめられていた人が、ひとの繊細
な気持ちのわかる人になったりすることもあるでしょう。尊卑賢愚は誰にもわからないことです。虔十
は、優しくて、大切なものを守りつづけた聖なる人です。また虔十は、お父さんや家族の深い愛情に育
てられています。虔十が病死した後も、その杉林を守ったのは、年老いたお父さんでした。
これらの物語は、人の尊さが周りの人々や自然によって育まれてくることを教えてくれます。支えあっ
て生かされているから、一つひとつのいのちが尊く輝いてきます。宮沢賢治の童話を通して、自分と誰
かとのいのちの絆、自分と宇宙とのいのちの一体感が心強さをうみだすことを学びたいと思います。
94
(鍋島直樹)
宮澤和樹氏による
「宮沢賢治の銀河世界」の特別対談を聞いて
宮沢賢治の童話に関する学生の感想文
『雨ニモマケズ』
心に響くものがあると思いました。今、イジメを受けてい
る子がいたら、
『セロ弾きのゴーシュ』のような世界を体
法学部3回生 小堤晶子
験させてあげたいと思いました。最後に、
「一人は全体の
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』での「ジブンヲカンジョ
為に、全体は一人の為に」
、これは、私のバイト先でも英
ウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ・・・ミンナニデク
語で書かれていて壁に貼ってあります。
ノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウ
イフモノニワタシハナリタイ」という文章を読んで、賢
法学部3回生 白波瀬未海
治の詩は自分自身を客観視し、他者のために行動する精
『雨ニモマケズ』の中で一番大切にしていた言葉、そ
神を如実に表現していると思いました。自分を勘定に入
れは私も先生と同じように「ジブンヲカンジョウニイレ
れないで、いかに物事を大局的に見ることができるかと
ズ.
.
.
」
の箇所だと思っていました。
「行ッテ」
という言葉、
いうことは大切です。自分の感情に流されず冷静に物事
自らが一歩近づくことで相手も少し歩み寄ってくれる。
を判断し、どうすればみんなにとってその困難を解決で
「行ッテ」とは、相手の痛みを自分のことのように思い、
きるかを考えられるような視野の広い人間になりたいと
相手に寄り添うことだと思いました。そこに行くことの
私は思いました。
大切さを忘れてはいけないと思いました。
『虔十公園林』
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
は、20年後、改めて杉の木を見た時の思い、
「だれがか
法学部3回生 烏野佳織里
しこく、だれがかしこくないのかわかりません」という
宮沢賢治が『雨ニモマケズ』の詩の中で、「行ッテ」
言葉はすごく考えさせられました。
をいちばん大切に思っていたということにとても納得し
ました。
どんなに誰かを心配しても、憐れんでも、励まそうと
法学部2回生 賀潔
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』という詩は、日本に来て
思っても、自分の足を実際に運んでその人のもとへ行か
から知りました。その詩にいろいろなことを感じていま
なければその人の本当の苦しみは感じ取れないし、自分
す。
「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニ
の愛情も相手に届くことはないのだと思います。人は、
モマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 欲ハナク 決シテイカ
お互いに実際に向き合ったとき、お互いの想いを汲み取
ラズ イツモシズカニワラツテイル・・・」という言葉
ることができるのでしょう。Eメールでのやりとりが主
は最初からずっと覚えています。留学生の私たちにとっ
流になっている世の中ですが、時間をみつけて人と会う
て、異国の文化や、生活など、様々な新しい環境の中で、
ことが大切ですね。
苦労、辛さはもちろんありますが、
「雨ニモマケズ、風
ニモマケズ」のように、何かあっても心が落ち着いてい
法学部3回生 沖田詩歩
るのは大事だと思っています。本当に宮沢賢治の「雨ニ
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』ですが、私は最初の冒頭
モマケズ」の精神はありがたいです。
文しか知りませんでした。全体を通して、大事なところ
は、私も最後の部分「ミンナニ デクノボートヨバレ.
.
.
」
文学部4回生 深川有香
だと思いました。しかし大切なところは、「行ッテ」の
「行ッテ」ということを宮沢賢治さんが大切にしてい
部分でした。しかも、「行ッテ」とは、他人の為に自分
たということを聞いて、
私も大切なことだと思いました。
を犠牲にして...という「自己犠牲」ではなく、相手と
友だちがあることで悩んでいた時、私はとりあえず行く
自分との愛情のつながりを育むことであることをまなび
しかないと思ってその子に会いに行きました。
そしたら、
ました。21年間生きてきて、「雨ニモマケズ」を何度も
「来てくれただけでもすごく嬉しい」と泣いていました。
聞いたことがありましたが、本当の意味を今日知った
先輩が仕事でストレスがたまっていると落ち込んでへこ
気がします。もちろんEメールでも確かに元気付けられ
んでいた時、とりあえず行こうと思って会いに行きまし
ます。しかし行くこと、そばにいてあげることでもっと
た。
「今日会えただけでもだいぶん嬉しい」と言ってく
元気がでるのだというのにすごく納得できました。前に
れました。
も講義でありましたが、相手を分析したりして余計に傷
逆に考えてみても、私が落ち込んでいる時、好きな人
つけるよりも、ただそばにいるだけでよい。“Not doing
や大切な友だちが来てくれるだけで元気になれる、勇気
but being”の姿勢をこの講義全体を通して学びました。
が湧いてくると思いました。大切なことって、ちょっと
また、イジメの問題については、私たちが小学生だった頃
のことでいいんですね。
よりも、さらにイジメが凶悪化し、増加していると思いま
す。現在、週に一回ぐらいの割合でテレビに報道されてい
文学部2回生 前田玲奈
るので、いつか講義でもイジメ問題を扱うのではないかと
宮沢賢治さん、彼の作品や言葉の背後に、仏教の思想
思っていたら今日でした。宮沢賢治さんの童話を、今の学
がみえてきて、本当に彼が幼い頃から、仏教に親しみ、
生にもっと読んでもらうべきだと思います。この人の作品
しかも家族が信仰しているからとかという理由だけでな
を通じてイジメの問題を考えたら、わかりやすく、かつ、
く、彼自身が彼の想いで仏教を大切に求めていったのだ
95
なあということが分かりました。今日の授業でとても心
が、全部読んでみるとこのように生きることができたら
に残った言葉がたくさんありました。その中でも、
『雨ニ
いいのになあと思いました。宮沢賢治が一番大切にして
モマケズ』の「行ッテ」という言葉。誰かのために誰か
いた言葉が「行ッテ」だったというのを聞いて、更に感
を想って、その誰かに会いに行く。これって言葉がなく
じるところがありました。今の時代は、わざわざ行かな
ても、何もなくても、それだけで気持ちがあたたかくな
くても他人と連絡は取れるし、そのせいであえて会うと
る。すごいことだなあと思いました。私もそういう人に
か行くということが少なくなってきているような気がし
なりたい。それから、
『どんぐりと山猫』の童話に、
「こ
ます。でもやはり行くということは、すごく大切だし、
のなかでいちばんえらくなくて、
ばかで、
めちゃくちゃで、
相手と本当の意味での交わりができると思います。自分
てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、
が辛いときやしんどい時にそばにいてくれるだけで安心
いちばんえらいのだ」というメッセージにはっとしまし
するし、癒されるような気分になると思います。私の大
た。
「それぞれがそのままで尊い」ということですよね。
切な人がそのような状態にある時、私も賢治のように
この言葉を心にずっと保ち、私はありのまま素直に、自
分らしくいたいと思いました。生きとし生けるものすべ
行ってあげたいです。
ては、他の命に支えられて、あたためられて生きている。
それを忘れがちになってしまいますが、忘れてはならな
『セロ弾きのゴーシュ』
い一番の大切な真実であると思います。そのことを思い
法学部2回生 掛川沙千子
出させてもらったので、忘れずに日々を過ごしたいです。
『セロ弾きのゴーシュ』は映画でも見たことがありま
した。人は誰かと触れ合うことではじめて気づき、学ぶ
文学部2回生 橋本真澄
ことができるんですね。
傷つけたり傷つけられたりして、
私は『雨ニモマケズ』の中で一番大切な言葉が「行ッテ」
悲しいこともあるし、自分の殻に閉じこもっていれば楽
であると知り、とても元気がでました。友達が悩んでい
だと思うこともあるけれど、それでも相互に支えあって
てつらそうにしているとき、メールや電話でその悩みを
いかないと生きてはいけないと思いました。他人がいる
聞いてあげたりすることもあるけれど、私はその子のと
からこそ自分があり、ともに幸せになることができるの
ころに行って会うことが一番いいと思っていました。そ
だと思います。自分でも気づかないうちに支えてくれて
の考えが宮沢賢治さんの持っていた考え方と同じだった
いた人たちに感謝して、さまざまな縁を大切にしていか
んだと知り、とても嬉しくなりました。電話など顔が見
なければいけないと思いました。
えないまま話をするより、その人と会うだけで、何か力
をもらえるのではないだろうかとも思います。私は人と
会うことで、その人とのつながりを大切にしていきたい
『虔十公園林』
と考えました。そして、人は誰かと支えあって生きてい
法学部4回生 川本愛
るのですね。今まで宮沢賢治さんを作家さんとしか知り
今回、初めて『虔十公園林』の童話を聞きました。自
ませんでしたがとても素敵な人ですね。
分の想いを見つめ、人に何を言われても左右されず、一
心に杉林を育てた虔十はとても強い人だと思いました。
文学部2回生 肥田典子
いじめっ子の平二の仕打ちに対しても、杉林を守るため
1回生の時に、仏教の思想の授業に関連して、人間・
ならば虔十は強くなります。それだけで虔十にとって杉
科学・宗教オープンリサーチセンター主催の宮沢賢治
展に行きました。私はその時に、初めて宮沢賢治が仏教
林は大切なものであったのでしょう。
最近は自分というものをもたず、
人に言われるがまま、
を深く信仰していたと知ったのですが、今回の授業でそ
ただ空気を読んで、人と同じようにしていれば安心する
のことを更に深く学ぶ事ができました。『雨ニモマケズ』
というような考え方が増えていると思います。この世界
の一節にある「ジブンヲカンジョウニ入レズ」という部
で、自分を強く持ち、曲げられない信念をもっている人
分に仏教の思想を感じました。しかし、先生もお話しさ
は少ないと思います。虔十のように弱くみえて中身が強
れたように「行ッテ」の部分が重要なのだということに
い人は素晴らしいなと思いました。
自分が親になったら、
驚きました。何気なく読み流してしまっていたけれど、
きっと子供に宮沢賢治の本を読ませたいと思いました。
相手の立場に立つことの大切さ、相手の事を自分の事の
ように思いやれる心が「行ッテ」の三文字に表されてい
法学部4回生 山口香織
ると感じました。そして、それは決して自己犠牲ではな
『虔十公園林』の物語を聞いて、とてもあたたかい気
いということ。自分自身を見つめ直す上で、とても大切
持ちになりました。
なことだと思いました。『虔十公園林』の物語では、主
人は何か使命をもって生まれてくるといいます。外見
人公の虔十がチフスの病で亡くなってしまい悲しかった
でその人はバカだとかダメな奴だとか決め付けてしまう
けれど、その虔十の意志を後世に守り伝えていくことの
のは本当に悲しいことです。もしかしたら、誰よりも素
大切さを感じました。その他の作品においても現代に通
晴らしい力をもっているかもしれないのに・・・。それ
じる部分が多くありました。自分も含め、多くの人々が
に気づかない人は、
最も可哀想な人間なのかもしれません。
宮沢賢治の作品を通じて、何かを感じていくことが大事
なのだと感じました。
法学部3回生 村田春奈
『虔十公園林』の物語には涙が出てきました。みんな
96
経営学部2回生 川上双葉
にバカにされるから、はあはあ笑いたいのに笑いを必死
『雨ニモマケズ』の最初部分しか知らなかったのです
にこらえる姿を思い浮かべると本当につらい思いになり
ます。ありのままの自分を認めてもらえないということ
法学部2回生 垣尾芳弘
は悲しいです。それでも、卑下することなく、真っすぐ
『虔十公園林』の話がとても心に響きました。
に生きた虔十さんは、とても心のきれいな方だと思いま
人は長い目で見なければ誰が本当に優れているかわか
した。また、虔十の植えた杉の公園を残し続けたお父さ
らない。いやむしろ、人に優劣なんて存在しない。みん
んの愛にも感動しました。虔十は他の人には亡くなった
なこの世に生を受けた尊い存在なのだ。理屈ではなくそ
後にしか認められなかったけれど、家族にははじめから
う感じました。いじめや自殺についてはいろいろな原
わかってもらっていて幸せだったと思います。それから、
因や議論があるけど、今の小学生にはまずこのことを学
虔十にやさしくできない大人に育ってしまった平二さん
び、すべての存在がかけがえない重みをもっていること
もかわいそうでした。
を知ってほしい。
法学部3回生 宮本弥生
法学部4回生 中根綾子
『虔十公園林』の話を聞いて、一人一人が尊い存在だ
ということを実感しました。虔十が、大切に育てた杉の
私は今日初めて『虔十公園林』という話を聞きました。
始めて聞いたのに初めてじゃないような気がしました。
林は、彼が亡くなった後も、お父さんによってそのまま
一番心に残ったのは「誰がかしこくて誰がかしこくない
の状態で守りつづけられたことを知り、お父さんには虔
かわかりません」という言葉です。今、私たちが生きて
十の想いがちゃんと伝わっていたのだと感じました。ま
いる社会にも当てはまることで、とても考えさせられ
わりの人がばかにしても、お父さんにとっては、虔十は
る言葉だと思います。本当に賢いとは何なのか、すばら
尊い子供であり、みんな、尊い人間だと思いました。
しい人間とはどういう人なのか・・・。私は心が優しい
「行ッテ」が大切であるという話を聞いて、私もすごく
ことだと思います。人を思いやったり、いたわりあった
勇気をもらえました。
り・・・。そういう自我をつきぬけて世界を慈しむ心の
友達が、悩んでいる時、声をかける言葉とか思いつか
あることが大切だと思います。
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
ないけど、とりあえず友達のところに行きたい!って
思っていました。けれど、行っただけで何かの力になれ
文学部2回生 曽羽まいこ
るのか、自信がなく、行くことにいつも戸惑っていまし
虔十はまわりの人達からバカにされ平二から杉のこと
た。しかし困っている相手の所に「行く」ということに
でいじめられたり、殴られたりしたのに、最後まで自分
大きな力があると知りました。私自身も、悩んでいる時、
の意志を通して杉を守りました。最近いじめで自殺する
駆け寄ってきてくれた友達と会えただけで、パワーをも
生徒が増えていることがすごく問題になっています。も
らえることがあります。
ちろんいじめる人間は悪いけど、何があっても自分の命
を大切にしてほしいと思います。今は辛いかもしれない
経営学部2回生 島田晋弥
けれど、今を乗り越えた先にはきっといいことがありま
今日初めて『虔十公園林』という話を聞かせていただ
す。そして自分を認めてくれる人間がきっといると思い
きました。笑いたいのにバカにされて笑えない。すごく
ます。
悲しくて切なくなりました。ここ最近、「いじめ」が騒
がれています。とても悲しいことです。でも今日の話を
文学部2回生 西本麻耶
聞いて少し元気を貰いました。どんな中でも歯を食いし
虔十は真っすぐな子供だと思います。真っすぐで素直
ばり、地面に足をつけて必死に生きていくことが大切な
んだと感じました。この世は自分が自分になるところだ
だったから木を見て笑ったり、空を舞う鳥を見ては楽し
くなったりしたのだと思います。
そんな虔十をバカにし、
と思います。自分の人生を自分だけのものにするために、
いじめる平二に対してとても腹が立ちました。人間の素
どんな苦しいときも、辛いときも耐えて、耐えてがんばっ
直な喜びを表情に出して何が悪いのでしょうか。木が風
たのならば、その時、自分の命が深く根付いていくと思
に吹かれてザワザワ音を立てているのに気づいて感動で
いました。
きる人の方が素晴らしいはずです。
僕もそんな強い人間になれるようにがんばりたいです。
最近いじめの問題がニュースなどで多く取り上げられ
ていますが、いじめた人はいじめられている人の気持ち
経営学部3回生 服部壮悟
に気付いて早くくだらないいじめなんかをやめるべきで
『虔十公園林』の話を聞いて何だか心が温かくなりま
す。虔十のような素直でピュアな心を持った子供に育っ
した。もし家にいて一人でこの物語を読んでいたら、
きっ
てほしいです。
と泣いていたと思います。いま二十歳だからこそ宮沢賢
治の一つ一つの真っすぐで素直な言葉が胸に響いてくる
文学部4回生 中尾琴美
のでしょう。虔十は杉を植えたことをみんなからバカに
『虔十公園林』を自分でもう一度読んでみようと思い
されていましたが、その虔十の行動がおかしいことだと
ました。
『セロ弾きのゴーシュ』も読んでみたくなりま
決め付けることがどうしてできたのでしょうか。自分の
した。賢治さんの優しい心に自分自身も穏やかな気持ち
信念をもって行い、他の人の意見に負けず、毎日はあは
になりました。虔十のたった一人の想いが、お父さんを
あと笑っていた虔十の生き方の方がよっぽど立派に感じ
はじめとする家族や子どもたちによって支えられ、ゴー
ました。この物語と出会えて本当によかったです。私も
シュの一人だけの練習が、猫やカッコーやたぬきやネズ
虔十のように辛いことが起ってもはあはあと笑って生き
ミの母子に支えられ、ついにはみんなの心を感動させる
たいです。
というのは、
「一人は全体のために、全体は一人のため
に」そのままのことだと思いました。大きなことは全て
97
小さな種から始まるのだとよくわかりました。自分の周
ようなことを述べていました。それを読んで私は、そん
りの人が困っていたら、行って声をかけたり、そばにい
な友達がいるなんて幸せだなぁと思いました。
「行って」
たり、そういうあたりまえのことを大切にしたいです。
が大切であるというのはこういうことなのかなぁと思い
一人一人が、「自分のできることを一生懸命に」するこ
ました。
“行く”ということに自己犠牲というような気
とが、世界全体を変えていくのでしょう。私もぼんやり
持ちは感じないし、その相手のことをただ想っているだ
してないで、何十年かかってでも、生きているうちに形
けです。やはり鍋島先生がおっしゃったとおり、相互の
にならなくても、大切なものを見つけてがんばります。
愛情の重なりがあると感じました。
文学部2回生 伊藤佳央理
文学部3回生 真鍋陽子
『虔十公園林』の童話を聞くのは初めてだったのです
宮沢賢治さんの作品について、私は小学生の時に『注
が、すごくいい話でした。
文の多い料理店』を国語で習いました。でもその時は、
本当に誰がかしこくて、誰がかしこくないかは、なか
なかすぐに分かるものではないと思います。人を計るの
まだ私が本を読むことに慣れていないこともあって、長
いお話だなぁ、猫に食べられるなんて、と意味や内容に
は決して人ではないし、人は同じものさしで計れるよう
ついての理解はまったくできていませんでした。
しかし、
な簡単なものではないと思います。「みんな同じ」がい
今日の授業で、今の人間たちが必要以上に他の生物の命
い事のように思われがちで、それから外れた人は、ちょっ
をとって食料とし、余ったら平気で捨ててしまったり、
と変わっているのだとレッテルを貼られることがある
動物たちの命を命とも思わず、快楽のために殺したりし
が、「みんな同じ」なんてありえないのだから自分と違
ていることに大きく関係しているんだなとわかることが
うということを認め合えることが本当に大切なのだと思
できました。本当に今の世の中は、人間を含めた全ての
いました。
命について考えられなくなってきていると思いました。
『虔十公園林』のお話しは、とても感動して、あたたか
法学部3回生 高橋光生
い気持ちになりました。虔十の杉を植えようとしたこと
今日の授業の感想を一言で表すならば「衝撃」です。
もいいと思ったが、何より虔十の両親が彼を理解してそ
『雨ニモマケズ』や『虔十公園林』などの作品にも衝
の気持ちを受け止め、そうさせてあげたことがいいなと
撃を受けて、それぞれの作品ごとに、今の我々が考えて
思いました。子供を受け入れてくれる大人や周囲の人が
いかなければならない課題を改めて考えさせられまし
いないと、いじめはなくならないと思いました。
た。しかし、今日の授業で最も衝撃を受けたのは、宮沢
賢治の作品ではなく、宮沢賢治本人の理想や生き方でし
文学部2回生 石川華
た。幼い頃から命の尊さや儚さについて考え、ただ考え
最近、ニュースでいじめによって自殺をした小・中・
るだけではなく作品などを通して、他の人たちに自分の
高の生徒が話題になっています。これは自殺が増えて
考えを訴える。そのような彼の生き方に感動しました。
ニュースになっているのではなくて、今までもいじめに
今まで宮沢賢治に関する知識といえば、教科書で習った
よって自殺という形で人生を終えた人たちはたくさんい
程度の知識しかなく、彼の理想や仏教的な視座について
たけど、それを表沙汰にしなかっただけではないでしょ
は学びませんでした。だからこのような場で、彼の思想
うか。
「いじめはなかった」といじめの現状に目をそら
や生き方について学ばせていただきとても幸せでした。
し続けた今の教育に疑問を感じます。自分が良ければそ
私事ですが、私の身勝手な性格が原因で、大切な人をひ
どく傷つけてしまいました。今までもこの性格を治そう
れでいいわけじゃない。周りの色んな人たちがいて今の
自分がいる。教育者だけじゃなくて、周りにいる私たち
とがんばってきましたが、今ひとつきっかけがありませ
もいじめについて真剣に考え、学んでいくべきだと思い
んでした。しかし、講義を聞いて本当に治したいと思い
ました。
ました。宮沢賢治の話を聞かせていただいて、人は変わ
ることができると感じ、勇気が持てました。
経営学部3回生 高木美緒
人はみんな違う。それぞれに個性があって、それぞれ
経営学部2回生 森岡志乃
に魅力があります。それなのに、少しみんなとり違った
宮沢賢治さんの世界観好きです。私たち現代人はすご
りするとののしります。地道にコツコツと努力をしてい
く欲が大きい生き物であると思います。あれが欲しい、
る人をみるとバカにします。人には、その人にあった行
これが食べたいなど、私も大小さまざまな欲を持ってい
き方、がんばり方、表現の仕方、幸せがあるのです。だ
ます。しかし、ふとしたことで感じる小さな幸せ、ささ
から他と比べてどうあるかではなく、
“自分らしく”で
いな出来事にもっとありがたみを感じたいなと思いまし
いいのです。周りに合わせて、自分らしさを失わせる必
た。道端に咲いている花がきれいだとか、夜の星空がき
要はないのです。
れいだとか・・・。人は一人では生きていけない。他の
人たちとの関わりの中で生きています。そして自然界の
経済学部4回生 伊崎裕太朗
動物や植物に生かされていると思います。
今まで宮沢賢治は、単に、作家や詩人というイメージ
しかなかったのですが、わずか15歳の時から『歎異抄』
98
経営学部2回生 広島美久
を心のよりどころにしていたんですね。
ある雑誌の中で、女優の宮崎あおいさんが、「私の今
『雨ニモマケズ』では、
「行ッテ」というところを一番
の友達は、何かあったらどんな地方でも来てくれるよう
大事にしていたと聞いて、僕も同感でした。この「行ッ
な人たちです。だから一生大切にしていきたい」という
テ」という意味には、僕自身、
「行きたい」という気持
ちだけあっても、実際行動にあらわさなければ力にはな
までは違っていた面も自分と同じ面と感じることがあり
らないことを示しています。「行ッテ」とは気持ちだけ
ます。世界中に、こんなにもたくさんの人々が生きてい
ではなく、自らの足で行動を起こすことに意味があるの
る中で、自分の考え、性格、好みなどが合わない人は、
だと学びました。
五万といます。そしてまた、自分と合う人もいます。そ
『セロ弾きのゴーシュ』では、物語の最後で、ゴーシュ
んな中で、誰が偉い、誰が偉くないなんて、本当に決め
がカッコーにあのときは悪かったなあと謝るところがあ
られるものではないと思う。いじめられても何も反論し
り、自分を支えてくれた動物たちのやさしさを受け止め
なかった虔十がたった一度だけ叫んだ「切らない」は、
ることができて初めて、人にもやさしくできるのかなと
とてもグッときました。
思いました。
虔十と平二のいざこざを全く知らない無邪気な子供た
ち。そんな子供たちが杉の木を愛し、親しみ、遊んでい
法学部2回生 船越亜里沙
る姿にとても感動というか、安心というか、喜びを感じ
本当の幸せとは、その人によって違うのでしょう。ど
のような状況が幸せなのかという基準は誰にもはかれま
ました。そしてその杉の公園で遊んで育ったあの博士の
ように、長い時がたてば、真価を理解できるというのは、
せん。私が幸せを感じる時は、宮沢賢治の描いた虔十さ
他にも色々あるのではないかなと思いました。
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
んのように、日々の生活におけるごく当たり前な状況に
気づくときです。天気が良い、空気がきれい、食事が美
法学部3回生 岡島法子
味しいなど、毎日あるささやかなことを感じることが幸
宮沢賢治大好きです。母が賢治の朗読会に所属してお
せです。また、
「行ッテ」という言葉の真意を感じました。
り、大学進学で生家を離れる際に、
『雨にもマケズ』の
直接行って会ったり、話したり、顔を見たりすると、入
版画版の本を貰ったことを思い出しました。今でも気が
院している祖母はとてもよろこんでくれます。触れ合う
向くと、本を眺めるのですが、毎回自分の欲深さを諭さ
ことの大切さを今日の講義で感じました。
れる思いがします。そう感じるのも、無意識のうちに賢
治のメッセージが伝わってきていたからだと分かりまし
法学部3回生 東佳世
た。すごい人ですね!また講義を受けて、自分の読書の
宮沢賢治の作品を読んでもらえてよかったし、うれし
浅さを痛感しました。
「玄米四合」は粗食であると思っ
かったです。幸せは、人がどのように感じとれるかが大
ていましたが、
考えてみたら四合って結構な量ですよね。
事だと思いました。今は、物欲などばかりが優先してし
自分なりに色々な角度から読み込んでいきたいと思いま
まい、小さな幸せに鈍くなってきていると思うのです。
した。本能はともかく、欲の少ないクリアーな人間にな
もっともっとすごいものが欲しい気持ちが強すぎて当た
りたいと思っています。
り前のことが幸せだと感じられなくなってきています。
今日はそんなことを考え直すことが出来てすっきりした
経営学部2回生 島田晋弥
気持ちです。もっと自分が幸せに生かされていることを
今日初めて『虔十公園林』という話を聞かせていただ
感謝すべきだと思いました。
きました。笑いたいのにバカにされて笑えない。すごく
悲しくて切なくなりました。ここ最近、
「いじめ」が騒
経営学部3回生 岩井彩
がれています。とても悲しいことです。でも今日の話を
今まで、宮沢賢治というと『注文の多い料理店』と『セ
聞いて少し元気を貰いました。どんな中でも歯を食いし
ロ弾きのゴーシュ』などしか知りませんでした。今日の
『虔十公園林』の話も、弱い者の立場と、いじめること
ばり、地面に足をつけて必死に生きていくことが大切な
んだと感じました。この世は自分が自分になるところだ
の虚しさが伝わってきました。宮沢賢治は本当に心の優
と思います。
自分の人生を自分だけのものにするために、
しい純粋な人だったんだなと思いました
どんな苦しいときも、
辛いときも耐えて、
耐えてがんばっ
たのならば、その時、自分の命が深く根付いていくと思
文学部2回生 福岡空泰
いました。
私は宮沢賢治の作品の中で『やまなし』という作品を
僕もそんな強い人間になれるようにがんばりたいです。
とても気に入っていて、小学生の授業で習ったことを、
いまだに詳細に覚えています。何が好きかといえば、彼
文学部2回生 金藤香保里
の自然描写の繊細さが小学生の私にもとてもよく分か
「一人は全体のために、全体は一人のために」力強く
り、まるで本当に自分がカニの兄弟になり、川の中から
関係し合いながら生きていきたい。自己犠牲でも、自己
色々なものや生き物を見ているような気分にさせてくれ
満足ではなく、周りに他人に優しく愛する気持ちを持ち
ました。何故このような作品を彼が生み出すことができ
たい。そう思いました。でも現実は、自分本位に見返り
るのか、今日、少し分かったような気がします。彼の作
を求めて行動をしてしまっていると思います。
“行ッテ”
品には、彼の優しさや繊細さがとても詰まっている気が
を大切にされた宮沢賢治さんや、虔十のようにありたい
します。しかしまた、『雨ニモマケズ』の詩には、優し
とと思います。周りに愛されて支えられて「自分」があ
さとともに強さも感じました。
ることに気づかされました。
経営学部2回生 澁江誠治
文学部3回生 安満忠秀
今も昔もいじめは存在するという事実が本当に悲しい
『宮沢賢治の銀河世界』を聞いて、あっというまに時
です。少し人と違った面を持っている子を仲間外れにし
間がすぎました。
ついこの間、
小学校5年生になる孫娘が、
ていじめます。しかし、また違った人たちから見ると今
学校で習っていて朗読の練習をしていかなければならな
99
いので、「聞いて」と国語の教科書を持って来て、何度
いると、涙が流れました。孫がもう少し大きくなり、物
も何度も『注文の多い料理店』を聞かせてくれました。
事が理解できるようになれば、宮沢賢治の童話を聞かせ
こちらが覚えてしまうくらいでした。何度も聞くうちに、
てあげたいと思います。
賢治が訴えようとしていた、楽しみのために動物のいの
ちを奪うことへの警告が大きく感じられました。孫娘と
法学部3回生 奥井千晶
そのことを話し合ったことでした。そして、金子みすず
『虔十公園林』という話は、今回の授業で初めて聞き
さんの「大漁」の話を一緒に読みました。そんなことを
ました。現在、いじめによる自殺報道が多くなされてい
思い出しながら、今日のご講義を味わい深く拝聴させて
ます。人はそれぞれ別々で、見た目も中身も考え方もお
いただきました。有難うございました。
なじではないのに、違うところを探していじめます。人
と自分、人と人を比べる必要なんてないし、この世に生
経済学部3回生 下岡 翔
まれてきた以上、迷いながら生きていくこと全てに意味
宮沢賢治の詩『雨ニモマケズ』では、他人を思いやり
助け合いながら強く生きていけ、またはそういう強い人
があると私は思います。
間に私はなりたいという思いが感じ取れました。
文学部2回生 松本亜有美
まず、
「本当の幸せ」ですが、宮沢賢治が言うように
文学部1回生 吹田佑樹
裕福な暮らしが出来たとしても、もっと本当の幸せがあ
虔十の家族がとても印象に残りました。何も言わずに
るのかもしれません。でも、私は、本当の幸せが何なの
虔十に杉の苗を買ってくれた両親、虔十と一緒になって
かなんて今は全く分からないし、もしかしたら死ぬまで
よろこんで話しを聞いたお兄さん。本当によい家族だと
分からないかも知れません。でも、
生きるということは、
思います。
幸せを探すということ自体なのかもしれませんね。また
人の話を聞いて、それを「その人自身」だと受け止め
『雨ニモマケズ』の詩で賢治が、一番大切にしていた言
ることはとても難しいことですね。私は人の話を聞いて
葉が、
「行ッテ」ということには驚きでした。確かに自
も、すぐに自分と比べたり、「常識」や「社会」といっ
分からおもむくことこそが、他人への優しさなのかもし
た枠組みにあてはめてしまいます。
れません。とても心に響きました。
でも話をしている人は、そんなこと望んでいない。た
だ「自分」として話を聞いて欲しいだけなのだと分かり
文学部2回生 佐野晋也
ました。今起きている「いじめ」などの問題もあまりに
私は『虔十公園林』の童話を学んで、いじめの虚しさ
人を何かに当てはめようとして、その人を分かったつも
を知りました。
私は以前いじめにあったことがあります。
りでいる「無理解」が根底にあると思います。漠然とし
無視され続けたのです。しかし、まだ数少ない友達が助
た「社会」とか「常識」とかではない「その人自身」を
けてくれました。心の支えになってくれたのです。人は
見つめることができたらと思いました。
支え合って生きてきていると感じました。
私は、宮沢賢治の作品で一番好きな作品は、
『グスコー
法学部4回生 島澤友里
ブドリの伝記』です。ブドリは、みんなのために火山現
私が宮沢賢治の作品を読んだことがあるのは、『銀河
場に残り命を落とし、火山灰という肥料になって大地に
鉄道の夜』です。講義のなかでいくつかの作品を学び、
降り注ぎます。人は、
みんなの幸せを願って生きている、
なんだか素直な気持ちになりました。キラキラと輝いて
すぐにでも空想の世界へと連れて行ってくれる。そんな
そう感じる作品です。
気がしました。一語一句に宮沢賢治の思いが込められて
経済学部3回生 北村庸充
いるのだと思います。『注文の多い料理店』の序文の部
『虔十公園林』の話を聞いて「人の強さ」を感じました。
分が好きです。素直で心優しくて、幸せな気持ちになり
いじめられていた虔十はしっかりと自分の意志を持って
ます。
それを貫いた結果、最終的に皆から認められることにな
りました。何かの歌の歌詞にあったが「いじめてる人よ
経営学部2回生 岩崎奈央
りもいじめられているオマエの方が強いんだ」というこ
本当の幸せというものを考えさせられた気がします。
とを思い出しました。
本当の幸せというのは形とか物ではなく、事柄、体験な
どから得られる幸福こそ本当の幸せだと私は感じまし
文学部2回生 川上由衣
た。現代の世の中では、そんなささいな幸せということ
今回の講義で最も心に残ったのは、
最後のまとめの
「人
を忘れがちだと思います。私も宮沢賢治さんのように、
は一人で生きているのではない。自然に生かされてい
大金を手にすることより、大きな家に住むことより、形
る。
」という言葉です。私は、毎日誰かの支えによって
ではない自然の中にある幸せを本当の幸せと感じなが
生きていることが出来ているのだということを再確認す
ら、過ごしていきたいです。
ることができました。支えてくれているのは人だけでな
く、毎日、食べ物として出されているいのちにも感謝し
文学部3回生 花岡和伸
宮沢賢治の深い精神世界を味わせていただきました。
『注文の多い料理店』の序文、初めて読みました。素晴
らしい序文です。根底に仏教の精神が流れていると感じ
ました。また、『虔十公園林』の童話、お話しを聞いて
100
てありがたく頂かないといけないなと思いました。
※以上は、人間・科学・宗教オープン・リサーチ・センター関連講
義「歎異抄の思想B」(担当:鍋島)において出席カードの裏に
寄せられた感想より抜粋した。日時:2006年11月30日(木)2講
時 場所:龍谷大学深草学舎 3号館 301教室
『貝の火』を読んで
龍谷大学大学院文学研究科博士前期課程真宗学専攻の感想
金児正尊
が分かっていたから助けたのではなく、それまでに、自
「貝の火」の「火」とは何であろうか?
分自身の周りの人にそうしてもらってきたからだと感じ
持つ人の行い次第で燃え方が変化するという。ホモイ
た。しかし、その周りのそういった縁を自分自身の力だ
は「貝の火」を持ったため、周囲の人たちに対して傲慢
という心が起こった時、その優しい心が曇ったのだと感
な振る舞いをする。 そしてその時、火は美しく燃え上
じた。そして「貝の火」が砕け、目が見えなくなったホ
がるのである。ホモイが思い上がった態度をとるたびに
火はさかんに燃えるのである。 しかし、ある日のホモ
モイを、父が見放さずに、また寄り添い続ける。そのこ
とによって、ホモイの心は自分自身の慢心の心から周り
イの身勝手な行動をきっかけに火は次第に曇り始め、最
の人々から頂いた優しい心になり、
「貝の火」のように
後には赤い火は見えなくなってしまう。そしてその火を
美しく輝く心になると感じた。悲しみを経験したから、
包む玉は粉々に砕け散り、その破片はホモイの目に入り、
他者に優しくなることができ、またそれまでやその時に
ホモイは目が見えなくなってしまう。
他者から何を与えられたのかという縁によって、柔和に
「火」とは煩悩のことを指すのではないだろうか。ホ
なれると感じた。
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
モイの慢心という煩悩は、周囲に対する思いやりの心を
失わせ、周りを見えなくする。それが肥大化するにつれ
禿定心
同時に火もより赤く、美しく燃えるのである。そして
「貝の火」の力によって、権威をかざし、その横暴さ
周りが見えなくなったホモイは、最後には自身の煩悩に
がエスカレートした結果、身を滅ぼしてしまううさぎホ
よって本当の目を失ってしまうのである。
モイの話は、私たちに謙虚に生きることの大切さを教え
てくれていると思った。人は、縁によって善行をなし、
田村優介
「貝の火」を赤く美しく燃えさせたホモイも、結局は、
縁によって悪行をもなしうる存在である。自分の功績を
誇るのではなく、私も今までお育ていただいたご縁に深
それを砕いてしまい、さらには目を傷めてしまった。一
く感謝したい。
方で、貝の火を一生満足に持っていられた二人の鳥や、
一人の魚が過去にいたという。彼らは、一生、貝の火を
上本周作
美しく保ちつづけたのだろうか。もしそうなら、どんな
『貝の火』では、ホモイがひばりの子供を助けるとい
一生だったのだろうかと考えてしまう。「貝の火」とは
う良さをもちつつも、皆からの尊敬を手にすると悪・煩
何だったのだろうか。今、ここにもあったりするのかも
悩が助長され、どんどん膨れ上がっていくこと表現され
しれない。
ていると思った。
また出てくる動物どうしの関係にも深い意味があるの
岩田彰亮
ではないかとも思った。ホモイがひばりの命を助ける善
自分が他の者に対する強みや優越感を持ったとき、次
行を行っても、
「貝の火」
の力を手に入れると、
思いあがっ
第に思い上がって傲慢になっていく。それは、いつ誰に
て、まわりの動物を兵隊のように扱い、自らの煩悩を省
でもある。決して他人事ではない。しかし、他を抑圧し
みることがなくなっていった。そこへ、父が戒めとなり
犠牲にしてしか生きることのできない我が身の真実には
注意するが、最後になるまでホモイを省みさせることが
なかなか気づいていくことができない。時には自分はよ
できなかった。また、
母は少しの注意をうながすものの、
いことをしている気になっても、それは偽善ではなかっ
むしろホモイに共感している場面が多かった。そして狐
たのか。いつも自力をたのみにしてしまう人間の愚かさ
は、ホモイをそそのかし、悪を助長する悪友と位置づけ
が「貝の火」には象徴されている気がする。互いに支え
られる。狐によって最大限にまで膨れ上がった悪・煩悩
合わなければ生きていけないこの世界で、人間が生きて
は最終的には、父の戒めによって気付いた。そして今度
いくことの真実の姿を賢治自身が、この「貝の火」の中
は、その父が「貝の火」のわれたかけらが眼にはいって
に見ようとしたのではないだろうか。
失明したホモイを慰め、共に歩んでいこうとしている。
その意味では、ホモイにとって、父は賢治の最終的な拠
藤本智彰
り処とした法華経のような存在であり、母は共に共感し
心の優しい子兎のホモイは、その優しさからひばりの
ながらそばに寄り添う浄土真宗のような存在かもしれな
子を助け、「貝の火」を手にすることになる。それを機
い。また、
狐はダイバダッタであるかもしれないだろう。
にホモイは傲慢になり、仕舞いには「貝の火」を砕くこ
貝の火が煩悩の火を象徴しているとすると、この作品の
とになる。私がこの物語で一番印象に残ったのは、いつ
根底には、親鸞の思想が少なからずあるのではないだろ
もホモイを導く父と寄り添う母の姿である。そして私は、
うか。
この物語を通して感じたことは、ホモイは初めから「貝
の火」を持つような心ではなく父母のような周りの人物
小笠原聡
に支えられていたからだということである。さらに、ひ
この物語において、ひばりの親からホモイに手渡され
ばりの子を助けたのも、ホモイが心優しく相手の苦しさ
た「貝の火」が、ホモイの内面を表現したものであると
101
同時に、ホモイに暗示をかけているものだととらえるこ
城龍紹
とができると思う。最初のうちは、ホモイがどんな悪い
ホモイが良くない行いを続けながらも、玉が一層輝い
ことをしても、「貝の火」はますます美しくなっていく
ていった点が一番気になった。
ばかりで、ホモイはその美しさにうかれて安心してしま
これは止まることを知らない欲望の姿を表しているの
う。しかし、とうとう「貝の火」が曇りはじめると、ホ
だと思う。ホモイの父が再三に渡り注意をしても玉が輝
モイの心は、一転して焦りへと変わる。
いているのは、欲望の火をなかなか消すことが出来ない
ホモイは、「貝の火」の色を目で見ることによって、
ということを表しているのではないだろうか。最後に鳥
自分の善悪を測っていた。しかし、その「貝の火」によっ
の命が危なくなった時に、いよいよ「貝の火」に気付か
て、ホモイの目は見えなくなってしまった。このことは、
された。父、母に見守られながら、ようやく大切なもの
私たちに、自分の内面は自分のものさしでは測ることが
に出会ったのだと思う。父と母はどんな時でもホモイの
できないということを教えてくれているのだと思う。こ
側に一緒に居てくれていた。その姿に弥陀の慈悲と同様
の物語において「目が見えなくなる」ということは「自
分のはからい」の恐ろしさに気づくことを示しているの
の温もりを感じることができた。
だと思った。
紫雲龍教
何かいいことをしてお礼を言われた時、
誉められた時、
堀川宗峰
誰もが嬉しくなり、自分を好きになると思う。その時の
ひばりの子を助けたホモイがもらった「貝の火」とい
気持ちはまた大きな支えとなり、生活の中で心の糧とも
う玉。その美しさにみせられ、その玉のすごさを知り、
なる。
思い上がり、他の動物達に傲慢な振る舞いをする。
しかし、そこにいつまでも執着し、その時の行いを誇
私がホモイならその気持ちもわかるような気がする。
るだけで、今を蔑ろにするようになれば、その内、心が
そして私がホモイノの父なら、息子が傲慢な振る舞いを
空虚に感じられるようになる。そんな人間の心の有様を
行うと、「おまえはダメだ。「貝の火」はきっと同じよう
宮沢賢治は表現しようとしたのではないだろうか。
に曇ってしまっているだろう。」と同じようにしかるは
仏教で「縁」という思想がある。私一人で生きている
ずである。しかしホモイの父の想いとは、逆に「貝の火」
のではない。いろんなものに支えられて今このようにし
は赤くさかんに燃えているといったことが、何日か繰り
て存在しえているのである。そう考える時、
「私がいい
返される。ここがこの物語のポイントである、なかなか
ことをした」という思いから、
「私にいいことをさせて
理解するのが難しいところなのではないかと思った。
「貝
もらった」
、
「このようにあれた」と感じることができる
の火」を一生満足に持っていることができたものが、今
と思う。そこには「思い上がり」の心ではなく、感謝の
までに鳥二人魚一人だけということとでてくるが、いか
心が生まれるだろう。私はそのように周りのものへの感
にこの玉を持ち続けて生活していくことが難しいか。も
謝の気持ちを忘れずにいたい。
し人間が「貝の火」を持った時、「貝の火」はどうなっ
ていくのか。そのことが問われているような気がした。
多田専宗
ホモイは「貝の火」を得ることによって傲慢になり、
他の人を敬う事も忘れてしまうが、父の言葉や働きかけ
によって、昔と変わらない「心」に気付かされる。
「貝の火」
を持つことによってキツネにだまされたりするが、やは
りホモイの中で一番信用していたのは父だった。父の言
うことは大きな意味をもっているのだと思う。
人は、間違った道へ進んでしまうことは多々あると思
うが、間違っていることに気付く心を養うことが一番大
切ではないか。
善利潤英
ホモイは、我が身を省みず、ひばりを助けた。その行
いに対して宝珠を賜ったのだ。
そして、数々の失敗があったにもかかわらず、珠の炎
は消えなかったのは、その行いが他者を思いやる心の気
付きであったからであろう。ところが、最後はとうとう
炎は消えて曇ってしまう。それは、我が身を守る為にキ
ツネに捕らえられた鳥を見捨ててしまったからだ。他を
思いやる心を持つことが、いかにすばらしいことか。し
かし、それは、いかに見失いやすいものかを伝えている
ように感じた。
102
※以上は、人間・科学・宗教オープン・リサーチ・センター関連講
義「真宗学文献研究B」において寄せられた感想より抜粋した。
日時:2007年10月2日(火)2講時 場所:龍谷大学大宮学舎東
204教室
宮沢賢治の年譜
年
年齢
明治29年
(1896年)
0
明治36年
(1903年)
7
明治38年
(1905年)
9
明治39年
(1906年)
10
明治40年
(1907年)
11
明治41年
(1908年)
12
明治42年
(1909年)
13
明治43年
(1910年)
14
明治44年
(1911年)
15
明治45年
大正元年
(1912年)
16
大正2年
(1913年)
17
賢治の動向
8月27日、父政次郎、母イチの長男として岩手
県稗貫郡里川口村川口町303番地(現花巻市豊沢
町)に生まれる。
当時家業は質・古着商。弟妹は、トシ、シゲ、
清六、クニ。仏教篤信の家庭で幼時より経文を唱
える。
花巻川口尋常高等小学校に入学。
童話を好み、石や虫を採集し、綴り方に長じて
いた。
小学校3年生。
担任の八木英三先生から(五来素川翻案、マー
ロー原作「家なき子」)、「海に塩のあるわけ」な
ど童話や民話を読み聞かされる。
小学校4年生。
父の始めた「我信念講話」に参加。この頃、鉱
物、植物、昆虫採集、標本作りに熱中。
小学校5年生。
担任はクリスチャンの照井真臣乳。鉱物採集に
熱中し、家人から「石っこ賢さん」と呼ばれる。
小学校6年生。
綴り方「遠方の友につかはす」「皇太子殿下を
拝す」を書く。
2月、綴り方「冬季休業の一日。」を書く。
3月、花城尋常高等小学校卒業、成績優等で「高
等小学読本」などを与えられる。
4月、県立盛岡中学校(現県立盛岡第一高等学
校)入学。寄宿舎自彊寮に入る。鉱物採集に熱中。
HELPのあだ名がつく。
中学2年生。
6月、博物教師に引率されて岩手山初登山。そ
の後たびたび登る。
9月、同室の親友藤原健次郎病死。
中学3年生。
哲学書を愛読。短歌の創作開始。教師への反抗
的態度が見られる。
8月、盛岡市北山、願教寺の「仏教夏期講習会」
にて島地大等の法話を初めて聴いたと推定。
中学4年生。
5月、仙台方面へ修学旅行。初めて海を見る。
一人菖蒲田に病気の伯母平賀ヤギを見舞う。歎異
鈔に感動。
中学5年生。
3月、新舎監排訴の動きにより全員退寮させら
れ、賢治は盛岡市北山、清養院(曹洞宗)に下宿。
世間の動き
三陸大津波
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
東北凶作
日露戦争終結
東北凶作
東北凶作
岩手豊作
大演習で皇太子来盛
伊藤博文暗殺
ハレー彗星出現
花巻高等女学校開校
花巻に電灯つく
東北大凶作
石川啄木没
第一次世界大戦勃発
103
104
年
年齢
大正3年
(1914年)
18
大正4年
(1915年)
19
大正5年
(1916年)
20
大正6年
(1917年)
21
大正7年
(1918年)
22
大正8年
(1919年)
23
大正9年
(1920年)
24
賢治の動向
3月、盛岡中学校卒業。
4月、肥厚性鼻炎手術で岩手病院に入院。手術
後発疹チフスの疑いのある高熱のため再入院、看
護婦に片思い。父、看病中に倒れて入院。
5月末退院。島地大等編「漢和対照妙法蓮華経」
に感銘。家業を手伝いながら高等農林学校受験準
備。
1月、盛岡市北山の教浄寺(時宗)に下宿。盛
岡高等農林学校(現岩手大学農学部)農学科第2
部に首席で入学。寄宿舎自啓寮に入る。
土、日は登山、鉱物標本採集。
盛岡高農2年生。
3月、修学旅行で東京、京都、奈良の農事試験
場を見学。特待生に選ばれ授業料免除となる。
7月、関教授の下で盛岡地方の地質の調査。
7月末、上京してドイツ語講習を受ける。
9月、関教授の下で秩父地方の土性地質調査見
学に参加。
1月、家の商用で上京。
3月、再び特待生となり、旗手を命ぜられる。『校
友会会報』に筆名「銀縞」で短歌「雲ひくき峠等」
を発表。
4月、盛岡中学に入学した弟清六と盛岡市内に
下宿。
7月、小菅健吉、保阪嘉内、河本義行と同人誌『ア
ザリア』を創刊。短歌「みふゆのひのき」、短編「『旅
人のはなし』から」などを発表。
9月16日、祖父喜助死亡。
父と卒業後の進路について対立。
2月、『アザリア』に断章「復活の前」を発表。親
友保阪嘉内、退学処分となる。得業論文「腐植質
中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値」提出。
3月、盛岡高等農林学校卒業。4月より研究生と
なる。徴兵検査、第2種乙種、徴兵免除となる。
6月末、肋膜炎となり1カ月静養。童話の制作を
始める。『アザリア』に短編「峯や谷は」を発表。
8月、童話「蜘蛛となめくじと狸」、「双子の星」
を家族に読んで聞かせる。
12月、妹トシ入院との報せで母と上京。翌年3
月まで滞在。
東京で人造宝石の製造販売の職業を計画する
が、父の反対にあう。
萩原朔太郎の詩集「月に吠える」に出会い感銘
を受ける。
3月、退院したトシと共に帰郷。家事に従事。
浮世絵版画の収集を始める。無署名「手紙」を配る。
5月、盛岡高等農林学校研修生修了。関教授か
らの助教授推薦の話を辞退。短編「猫」「ラジュ
ウムの雁」を書く。夏には短編「女」を書く。
11月、
国柱会信行部に入会。父にも改宗をせまる。
世間の動き
岩 手 軽 便 鉄 道( 現JR
釜石線)開通(花巻〜
晴山)
アインシュタイン一般
相対性理論発表
ダゴール来日
ロシア革命
シベリア出兵
第一次世界大戦終結
全国米騒動
ベルサイユ講和条約
日本初メーデー
年
年齢
大正10年
(1921年)
25
大正11年
(1922年)
26
大正12年
(1923年)
27
大正13年
(1924年)
28
大正14年
(1925年)
29
賢治の動向
1月、無断で上京。国柱会本部で高知尾智耀に
会う。本郷菊坂町75稲垣方に下宿。文信社の校正、
筆耕の仕事に就きながら街頭布教や奉仕活動をす
る。
4月、上京した父と関西旅行。
8月、トシの病気の報に帰郷。
9月、『愛国婦人』に童話「あまの川」を掲載。
12月、稗貫郡立稗貫農学校(のち県立花巻農学
校)教諭に就任。『愛国婦人』に童話「雪渡り」
を発表。稿料5円を得る。「龍と詩人」、「かしはば
やしの夜」、「鹿踊りのはじまり」、「どんぐりと山
猫」、「月夜のでんしんばしら」、「注文の多い料理
店」、
「狼森と笊森、盗森」など多くの童話を創作。
花巻農学校教諭。
1月、心象スケッチ「屈折率」、「くらかけの雪」
を書き、「春と修羅」制作開始。「水仙月の四日」
創作。
5月、「小岩井農場」を書く。
8月、「イギリス海岸」を書く。
9月、生徒6名と岩手山登山。農学校の生徒「飢
餓陣営」を上演。
11月27日、妹トシ死去。「永訣の朝」、
「松の針」、
「無声慟哭」を書く。
花巻農学校教諭。
1月、上京し、弟清六に童話の原稿を出版社に
持ち込ませるが断られる。
4〜5月、『岩手毎日新聞』に詩「心象スケッチ
外輪山」、童話「やまなし」、
「氷河鼠の毛皮」、
「シ
グナルとシグナレス」を発表。国柱会機関紙『天
業民報』に詩「青い槍の葉」他を発表。この年、
「土
神と狐」(推定)を書く。
花巻農学校教諭。
2月、童話「風野又三郎」の原稿筆写を教え子
に依頼。「空明と傷痍」を書くことにより詩集「春
と修羅」第二集の作品が始まる。
4月、心象スケッチ『春と修羅』(関根書店)を
自費出版。
5月、生徒と北海道修学旅行。
7月、辻潤が「春と修羅」を賞賛。
8月、農学校生徒と「飢餓陣営」、
「植物医者」、
「ポ
ランの広場」、
「種山ケ原の夜」を上演、一般公開。
12月、イーハトーヴ童話『注文の多い料理店』
を刊行。「銀河鉄道の夜」初稿成立。
花巻農学校教諭。
1月、三陸旅行。
2月から森佐一、7月から草野心平と交わり、森
編集「貌」、草野編集「銅鑼」に詩を発表。
8月、森佐一らと花城小学校で開かれた詩の展
覧会に作品出品。
世間の動き
原敬暗殺
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
ソ連邦成立
アインシュタイン来日
関東大震災
花巻温泉営業開始
レーニン没
JOAKラジオ試験放送
開始
105
106
年
年齢
大正15年
昭和元年
(1926年)
30
昭和2年
(1927年)
31
昭和3年
(1928年)
32
昭和4年
(1929年)
33
昭和5年
(1930年)
34
昭和6年
(1931年)
35
賢治の動向
11月、東北大学の早坂一郎博士をイギリス海岸
に案内してバタグルミ化石を採集。
12月、「冬(幻聴)」を発表。岩手日報に変名に
て「法華堂建立勧進文」発表。
1月から3月にかけて、尾形亀之助編集『月曜』
に「オツベルと象」、「ざしき童子のはなし」、「寓
話猫の事務所」を発表。
3月末まで岩手国民高等学校で農民芸術論を講
義。
3月31日、花巻農学校を依願退職。
4月1日より花巻町下根子桜で独居生活を開始。
5月、開墾や音楽の練習、レコードコンサート
を始める。この頃より町内や近郊に肥料設計事務
所を設け、肥料相談や設計を始める。
8月、土曜日に近所の子供に童話を読み聞かせ
る。妹クニらと八戸旅行。
羅須地人協会を設立し、11月頃から定期的に集
会をもつ。
12月、チェロを持って上京。上野図書館やタイ
ピスト学校で勉強。オルガン、チェロの練習、エ
スペラントを学習。29日、帰郷。
1月、『無名作家』4号に詩「陸中国挿秧之図」
を発表。羅須地人協会で講義。
2月、
『岩手日報』に羅須地人協会の記事が出て、
社会主義運動との関係を疑われ、警察の事情聴取
を受ける。
9月、
『銅鑼』に「イーハトーブの氷霧」を発表。
12月、盛岡中学『校友会雑誌』に詩を発表。花
巻温泉南斜花壇を作る。この頃までに肥料設計図
2千枚を書く。
2月、『銅鑼』に「氷質の冗談」を発表。
3月、『聖燈』に「稲作挿話」(未定稿)を発表。
稗貫郡石鳥谷で肥料相談に応じる。
6月、東京で浮世絵や演劇鑑賞。伊豆大島旅行、
「三原三部」を書く。日照りで稲作指導に奔走。
12月、急性肺炎になる。
病臥続く。
4月、東北砕石工場主の鈴木東蔵が来訪、以後
交際が始まる。病床に中国の詩人で、陸軍士官学
校生が訪問。高等数学を勉強。
病状やや回復し、園芸に熱中。
9月、陸中松川の東北砕石工場を訪問。
10月、「まなづるとダァリア」校訂終わる。
11月、『文芸プランニング』に詩「遠足許可」
等4編を発表。
2月、東北砕石工場技師となり、宣伝販売を受
け持つ。
7月、『児童文学』第1冊に童話「北守将軍と三
人兄弟の医者」を発表。
8月頃、「風の又三郎」の執筆進む。
世間の動き
NHK設立
芥川龍之助自殺
第1回普通選挙
世界経済恐慌
昭和恐慌
軍部勢力強化
年
年齢
昭和7年
(1932年)
36
昭和8年
(1933年)
37
賢治の動向
9月、教え子の沢里武治に「風の又三郎」<どっ
どどどどう>の歌の作曲を依頼。20日、石灰宣伝
で上京中に発熱、遺書を書く。28日、帰郷、自宅
で病臥。
11月3日、手帳に「雨ニモマケズ」を書き留める。
3月、『児童文学』第2冊に「グスコーブドリの
伝記」を発表。挿絵は棟方志功。
4月、仙台在住の民俗学者佐々木喜善が来訪。
8月、
『女性岩手』創刊号に文語詩「民間薬」、
「選
挙」を発表。
11月、
『女性岩手』に「祭日」、
「母」、
『詩人時代』
に「客を停める」を発表。
3月、
『天才人』に童話「朝に就ての童話的構図」
を発表。
4月、
『現代日本詩集』に「郊外」、
「県道」を発表。
7月、『女性岩手』に「花鳥図譜七月」を発表。
8月、病状悪化にもかかわらず農民の肥料相談
に応じる。
9月21日、法華経1千部を印刷して知人に配布す
るよう父に遺言して、午後1時半死去。
9月23日、安浄寺(浄土真宗大谷派)で葬儀。
法名「真金院三不日賢善男子」。
昭和26年7月、身照寺(日蓮宗)に改宗。
世間の動き
満州国建国
5.15事件
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
ドイツ、ヒットラー内
閣成立
日本国際連盟脱退
※岩手県花巻市ホームページ「宮澤賢治のコーナー」より転載。
107
所在地 〒025−0011
花巻市矢沢1−1−36
電 話 0198−31−2319
FAX 0198−31−2320
開館時間 午前8時30分〜午後5時
(御入館は4時30分まで)
休 館 12月28日〜1月1日
ホームページ http://www.city.hanamaki.iwate.jp/main/kenji/kinenkan.html
宮沢賢治記念館は、詩や童話、教育、農業、科学と多彩な活動を繰り広げた賢治の世界に親しんでもらうため
の施設で、昭和57年9月21日(9月21日は賢治の命日)に開催しました。以来賢治を愛好するたくさんの方が記
念館を訪れ、その数は年間20万人を超えます。宮沢賢治記念館では賢治の愛用品、原稿など賢治ゆかりのものの
展示のほか、ビデオやスライド、図書資料などで賢治宇宙にアプローチすることができます。イーハトーブの世
界をぜひ一度、あたな自身で感じ取ってみてはいかがでしょうか。
宮沢賢治学会設立趣意書
私どもは、賢治が生まれ育ち、苦闘し、また、その作品世界の根源でもあった岩手県花巻市に、ひとつの場、
ひとつの有機的な組織体の設立を発起し、これに「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」と命名することにいた
しました。
この名称には、ここを賢治宇宙・賢治精神の探究の最先端をになう場としたい、しかも同時に、単に研究者ば
かりでなく、
賢治の人と作品に関心のあるすべての人が自由に平等に交流でき、また利用できる開かれた《広場》、
かつ《情報センター》にしたいという願いがこめられております。(抜粋)
1990年4月22日
宮沢賢治学会イーハトーブセンター 〒025-0014 岩手県花巻市高松1−1−1
電話 0198−31−2116 FAX 0198−31−2132
開館時間 午前9時〜午後5時(御入館は4時30分まで)
休 館 12月28日〜1月1日
ホームページ http://kenji.gr.jp/
108
イーハトーブから宇宙まで広がる宮沢賢
治の作品の背景については、いつも生まれ
育った花巻の風が吹いています。その風を
感じながら、賢治の世界に旅しませんか?
賢治の好きだったミミズクが道案内で
す。お連れするのは「林風舎」
。入り口に
佇む賢治の後ろ姿が見えませんか?
どうぞお越しください。賢治の心を誰よ
りも大切に思うオーナーの揃えた一つひと
つの作品が語りかけます。
「林風舎」の名前をもらった「北守将軍
と三人兄弟の医者」のリンプー医師もニコ
ニコ顔を出すかもしれません。
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
株)林風舎 〒025-0092
岩手県花巻市大通り1丁目3−4
TEL 0198–22–7010 FAX 0198–24–4101
Eメール [email protected]
ホームページ http://www.e-haweb.com/home/
rinpoosha/top.html
Tanaka
109
井 堂 雅 夫 プロフィール
1945 11月11日 中国大陸東北部に生まれる
1946 引き揚げ後 盛岡市に移り15歳まで過ごす
1959 京都市に移る
1961 伝統工芸士(染色家) 吉田光甫に弟子入り
1972 日展評議員(染色家) 大坪重周に師事
第一回個展(京都)
1973 日本版画協会入選 日動版画グランプリ入選
三軌会新人賞 会員推挙
1974 日本版画協会入選
1975 三軌会賞評議員推挙
以降公募展には出品せず独自の活動を展開
1976 井堂雅夫染色・木版画展(京都)
金沢十景刊行記念展(金沢)
1983 京都百景木版画参人展
徳力富三郎・クリフトンカーフ・井堂雅夫
主催・京都新聞社(京都)
井堂雅夫染色・木版画展
主催・IBC岩手放送(盛岡)
1985 井堂雅夫作品展 主催・三越(東京)
雅堂小袖きものショー
(キュイジーヌ資生堂・東京)
東北六大祭展 主催・川徳デパート(盛岡)
1986 創作舞踊 花柳寿美「妖」舞台美術担当
井堂雅夫の世界展(京都)
1987 京都百景版画展 主催・京都府、陜西省(中国・西安市)
歴史都市博覧会異業種交流プラザ「クロス京都」
ブースプロデュース
1988 井堂雅夫・ジョシュアローム木版画展
主催・城陽ロータリークラブ(アメリカ・バンクーバー市)
作品集「木版の詩」出版(京都書院)
1989 井堂雅夫木版画展(ニューヨーク)
1990 井堂雅夫展(シカゴ)
グラーツ美術協会展特別招待作家(オーストリア)
1991 井堂雅夫木版画展(バンコク)
1992 井堂雅夫の世界展(新宿高野ギャラリー)
阪急電鉄ラガールカードデザイン
井堂雅夫の世界展(新宿高野ギャラリー)
井堂雅夫木版画展 「福山四季」発表記念展(福山)
版画工房歡榮堂を開設し主催
1993 福山市で、井堂雅夫中国地方後援会設立
宮沢賢治の世界に取り組むため、岩手県花巻市にアトリエ
を構え、開庵準備をはじめる
NHK大河ドラマ「琉球の風」放送記念井堂雅夫版画展
(日本橋三越・沖縄三越)
営団地下鉄メトロカードデザイン
作品集「日本の四季彩」出版(NHK出版)
1994 岩手県花巻市にアトリエを開設
京都“祇園青雲庵”旗揚げの会
岩手日報に「心象の賢治」と題する作品と文章の連載開始
第12回アジア競技大会(広島1994)記念「福山名勝絵図」
壁かけ制作(福山)
井堂雅夫作品展 花巻市・花巻市教育委員会共催(花巻)
1995 NHK総合テレビ「にんげんマップ」出演
宮沢賢治直筆水彩画「日輪と山」を木版画で制作
井堂雅夫が描く「宮沢賢治の世界」展(新宿・高野ギャラ
リー)
「花巻青雲庵の集い」の会発足する
1996 宮沢賢治生誕百年祭 花巻市公式ポスターデザイン
花巻中学校の玄関校舎のガラスデザイン原画完成
(花巻教育委員会依頼)
広島県福山市にアトリエを開設
井堂雅夫画文集「宮沢賢治・心象の風景」出版(河出書房
新社)
花巻市立宮野目中学校創立50周年記念タブロー制作(岩手)
1998 宮沢賢治「なめとこ山の熊」挿絵制作(サンマーク出版)
1999 特定非営利活動法人(NPO)花巻文化村設立
NPO「花巻文化村」協議会理事長就任
井堂雅夫木版画展(フランス・パリ)
2000 NHK教育テレビ「趣味悠々」
(1月〜3月・13回)出演
宮沢賢治「雪渡り」挿絵制作(サンマーク出版)
宮沢賢治「よだかの星」挿絵制作(サンマーク出版)
2001 井堂雅夫木版画展(日本橋丸善)
2002 画業30年記念作品集
「美に魅せられて」
出版
(河出書房新社)
北野天満宮に「三光門と梅」奉納
2003 日本郵政公社 近畿版ふるさと切手「京の催事」発売
4種原画制作
「京都を見る」井堂雅夫木版画展 (京都清水寺・重要文化
財経堂)
2004 伝統の継承と創生・京都 井堂雅夫の世界展
(新宿伊勢丹)
ロスアンゼルスカウンティ美術館収蔵
総 本山永観堂禅林寺に「救世阿弥陀如来」
「錦秋永観堂」
肉筆画を奉納
2005 井堂雅夫の世界展「京都の秋」
(新宿伊勢丹)
北大路通 N
きぬかけの路
井堂雅夫の画集
金閣寺
京都銀行
ギャラリー
わら天神
雅堂
立命館大学
110
桜木町
バス停
西大路通
至竜安寺
京都中央
信用金庫
わら天神停
堂本印象
美術館
衣笠総門町停
井堂 雅夫
「美に魅せられて
井堂雅夫・画業30年の全仕事」
河出書房新社発行 ¥2,940(税込)
ギャラリー雅堂
〒603-8365京都市北区平野宮敷町27
TEL:075-464-1655 FAX:075-464-0747
Eメール:[email protected]
佐 藤 国 男 プロフィール
絵描きか考古学者になりたかった私は、いろいろな職を転々とした後、大工になりました。
建築現場のあまった木材をピューと鉋がけし、宮沢賢治の童話の世界を、墨で下絵を描き、彫刻し、
版画にする楽しみを発見してから25年以上たちます。 大工の経験が絵描きの夢を進化させ、いまは本
職になったというわけです。
日本は「木と紙の文化」と言われます。木は実に良いもので、柔らかからず、固からず、さわって
いるだけで不思議な安心感があります。 木から生まれる版画の世界をぜひ手にとってご覧いただきた
いと思っています。
1954年北桧山町生まれ。
■主な作品
北桧山高校を卒業後、上京。昼間は工場で製本や家具作りの仕
「銀河鉄道の夜」
(北海道新聞社)
事に携わり、夜間は東洋大学の仏教学科で学ぶ。
「大男ボルス」
(北水)
その後、2年間東京や関東各地で大工仕事に従事。昭和55年に
「しでんとたまご」
(福音館書店)
函館へ戻り大工を生業にしながら、宮沢賢治を題材とした版画を
「もりのさんぽうた」
(福音館書店)
作り続けてきた。
「注文の多い料理店」
(大日本図書)
1984年、絵本「銀河鉄道の夜」を出版。以来数多くの著書を世
「山猫博士のひとりごと」
(北水)
に送り、また函館のほか東京など、全国の百貨店で個展を開催し
「続 山猫博士のひとりごと」
(北水)
ている。7年前より山猫博士を名乗り、北海道新聞に現代社会を
「注文の多い料理店」英訳版絵本(R.I.C出版)
風刺した辛口ながらもユーモアに富むエッセイと木版画の「山猫
「したてやのプンブルばあさん」
(文溪堂)
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
Ryukoku University Research Exhibit hall Padma Center for Humanities, Science and Religion
博士のひとりごと」を連載。
版画家・佐藤国男のサイト
「山猫工房」
所在地
〒041-0835 北海道函館市東山3-23-2
電 話 0138-55-6368
Eメール [email protected]
111
仏教の人間観:Buddhist Perspectives on Human Beings
仏教の人間観は、次の四つの角度から説明され、教理的に展開してきました。
(1)衆生としての人間(sattva)……生きとし生けるもの。人間を生きとし生けるもの
の一員として自覚しました。衆生とは、いのちあるものすべてを指し、迷いをくりか
えしながら生死輪廻している存在です。しかも仏に成ることができる本性を有してい
ます。
(2)人 としての人間(manus
ya)……六道(地獄・餓鬼・畜生・人間・阿修羅・天人)
4
の中にあり輪廻する存在。人は無常・苦・不浄に気づき、真実を求める存在です。
(3)菩薩としての人間(bodhi-sattva)……菩提薩多。覚有情。大乗仏教において菩薩
とは、上に向かっては菩提を求め、下に向かっては衆生を教化しようとする人のこと
です。向上的には、自利の行を修めてさとりを体得し、向下的には、利他の行を修め
て生きとし生けるものすべてに恵みを施すものです。菩薩とは、自己一人の悟りを求
めずに、悟りの真理をたずさえて、現実世界に降り立ち、生きものの苦しみに共感し、
ともに安らぎに至るように願う存在です。
(4)凡夫としての人間(pr4thag-jana)……凡愚・凡下・異生(玄奘訳。独りひとり別々
に生まれたもの)。大乗仏教の中でも、
浄土教の人間像。親鸞は
「愚者になりて往生する」
(末灯鈔第六通)と記し、法然の救済観を尊重しました。救いとは、仏の慈悲にであい、
愛執に翻弄されている自己を知り、愚かな自己があるがままで仏に受けいれられてい
ると自覚することです。したがって、人間の罪悪性に気づいたものは、賢しらに他者
の善し悪しを裁く心が消え、誰もが心の傷をもっていることを知ります。凡夫の人間
観は、皆が同じ弱さや愚かさをもった人間として共感しあい、認め合うような寛容さ
をもたらします。
“There is no way to happiness. Happiness is the way.” Buddhist Proverb
The Head of Buddha
Afghanistan, Hadda, 4-5 century
Tokyo National Museum
112
❖協 力❖
宮沢賢治記念館 宮澤雄造館長。牛崎敏哉副館長。岡本雅子。
宮沢賢治学会イーハトーブセンター 天沢退二郎代表理事。岩田安正。宮澤明裕。
林風舎 宮澤和樹代表取締役。職員様。
斉藤文一 新潟大学名誉教授。理学博士。元宮沢賢治イーハトーブ館館長。
澤倫太郎 日本医師会総合政策研究機構研究部長。医学博士。
井堂雅夫 木版画家。
佐藤国男 木版画家。
❖執筆者❖
宮澤和樹 林風舎代表取締役。宮澤清六の孫。
信楽峻麿 仏教伝道協会理事長。龍谷大学元学長。ユニット4。真宗学。
鍋島直樹 龍谷大学法学部教授。CHSRセンター長。ユニット2代表。仏教の思想。
井上善幸 龍谷大学文学部専任講師。ユニット4副代表。
白石明子 龍谷大学大学院文学研究科博士前期課程真宗学専攻。
❖研究協力者❖
長上深雪 龍谷大学社会学部教授。CHSR副センター長。ユニット3代表。社会福祉学。
武田龍精 龍谷大学文学部教授。CHSR前センター長。ユニット1代表。真宗学。
王木興慈 龍谷大学文学部准教授。ユニット4代表。真宗学。
嵩 満也 龍谷大学国際文化学部教授。総括ファシリテーター。仏教の思想。
矢田了章 龍谷大学文学部教授。ユニット2。真宗学。
友久久雄 龍谷大学文学部教授。ユニット2。臨床心理学。
内藤知康 龍谷大学文学部教授。ユニット2。真宗学。
楠 淳證 龍谷大学文学部教授。ユニット2。仏教学。
若原雄昭 龍谷大学理工学部教授。ユニット2。仏教の思想。インド仏教。
藤丸 要 龍谷大学経済学部准教授。ユニット2副代表。仏教の思想。華厳思想。
田村公江 龍谷大学社会学部教授。ユニット2。倫理学。
津島昌寛 龍谷大学社会学部准教授。ユニット2。社会学。
石塚伸一 龍谷大学法科大学院教授。ユニット2。矯正保護研究AFC副センター長。
生駒孝彰 龍谷大学国際文化学部講師。ユニット2。比較宗教学。
❖展示協力❖
アインシュタインLOVE日本実行委員会。The Hebrew University of Jerusalem
㈱サンマーク出版。㈶国際言語文化振興財団。三光堂(鉄道模型専門店)。山埜道宏(Biscuit Club)。
㈱クリスタル・ワールド。十勝工芸社。イラストレーション&ムービー KAGAYA。前川幸市。
群馬県立ぐんま天文台 大林均。㈱アストロアーツ 大熊正美。ギャラリー雅堂。山猫工房。
❖図書館員/PD/RA❖
青木正範 龍谷大学大宮図書館司書。
PD 本多真 RA 岡崎秀麿 北岑大至 打本未来 入井公昭 巖照正
この出版は、文部科学省オープンリサーチセンター整備事業(平成19〜21年度)の研究成果です。
宮沢賢治の銀河世界─みんなのほんとうのさいわいをさがしに─
The Galactic Realm of Kenji Miyazawa: A Quest for The True Happiness of All Beings and Things
2007年11月20日 初版第一刷発行
編 者 鍋 島 直 樹
発行所 龍谷大学 人間・科学・宗教オープン・リサーチ・センター
製 作 河北印刷株式会社
宮沢賢治自筆スケッチ 菩薩像
非 売 品