ハノイ便り- NO.2 「ディエンビエンフー戦勝50周年記念式典」 1954年5月7日、ベトミン軍がディエンビエンフー でフランス軍との激戦の末、フランス軍を降伏させました。 今年は世界の歴史に残る、その戦勝50周年に当たるため、 ベトナム全国で祝賀行事が行われました。また、4月21 日から5月7日までは、各家庭で国旗を掲げるよう決めた そうです。 各地ではさまざまな記念集 会が行われました。また、古都フエからディエンビエンフー まで1400 Km の記念自転車競争も若者のチームによりど も行われ、各種行事はテレビで報道されています。 テレビで「ディエンビエン フーの勝利」が大々的に伝え られました。 5月7日には、諸行事の総 仕上げとして、ディ エンビエ ンフーで「ディエンビエンフ ーの歴史的戦勝50周年記念 式典」が行われました。 < TV ハノイでの記念集会> TV写真前列左から3人目は、ボーグェンザップ将軍です。 93才でなお元気にハノイ在住です、ときどきテレビに登場されます。 私は、5月7日の式典を参観するため、5月5日から2泊3日で、デェンビエンフーに 行きました。もちろん、ベトナム人のガイドと一緒です。 始めは1泊2日の予定でしたが、飛行機が満席のため、一日早く出かけることになりま した。 デ ィエンビエンフー は 、ハノ イから 西へ4 0 0Km 、飛行 機で4 0 分のラ オス国 境に近 い 山岳地 帯の街 です。 京都を思わせる盆地で、 周囲の山々は緑に包まれ、郊外には田んぼが広がってい ます。通常は静かな街ということですが、この地が50年前に世界の歴史に残る大激戦地 だったとは思われません。 ディエンビエンフーでの第一番の見どころは、山中にあるボーグェンザップ将軍の地下 トンネルです。次に、街の中の戦史博物館、フランス軍ドカストリ将軍の壕、最大の激戦 A1の丘、戦没烈士の墓地、戦勝記念塔などです。 -1- <ボーグェンザップ将軍の地下トンネル> ディエンビエンフー市街から車で2時間くらいの、ムン ファン県の山の中にありました。途中の道は幅員が一車線 程度でS字カーブが続きます。ムンファン県の駐車場で車 を降りそこから約1Km歩きます。 最近は観光客が増えたので、沿道には、土産物を売る露 店も増えたそうです。多くはタイ族の人たちの店です。私 のガイドも名前を知らない薬草や、タイ刺繍を売っていま した。 写真の家から、地下トンネルに入ります。 ガイドは、地下トンネル に入るために懐 中電灯を用 意していました が、内部は 整備され、電灯がついてい ました。 ボーグェンザップ将軍地下トンネル付近には、作戦用通信施設のトンネルなどがありま した。戦争中、これらの施設はフランス軍に見つかることはなかったそうです。 トンネルからの帰りに、ガイドはタイ族の集落を案内 してくれました。ガイドも始めての家を訪ねましたが、 お茶を振る舞ってくれました。民族衣装に着替えた奥さ んが2人の子供と一緒に写真に収まってくれました。 お茶代は無料です。ガイドは「タイ族の人は、始めて 来た人でも大切にもてなす」と言いました。 ディエンビェンフーからトンネル往復、待ち時間も入れて4時間半のタクシー代金は 60万ドンでした。(4300円程度) <ドカストリ将軍の壕> ディエンビエンフー市内で、空港から1Kmくらいの 所にあります。上の写真は外側で、下は内部です。 外側は、戦争当時のま まのようですが、内部は 整備され観光客が沢山訪 れています。ボーグェン ザップトンネルよりも内 部は広く、無線放送設備などもありました。 フランス軍は、補給のためパラシュートで物資を投下 -2- しましたが、その多くはベトミン軍に捕獲されたそうです。その中で、ドカストリ将軍 夫人が将軍に宛てた手紙もあり、これは、戦勝博物館に展示されています。 <A1の丘> ディエンビエンフー市街中心部から少し登ると、激戦 地跡A1の丘です。写真右側前列メガネをかけて茶色の 服を着た 人は、 ベトナム 副主席、 左側の 黒い服を 着た人は ベトナ ム共産党 書記長で す。こ の人たち も5月6 日にA 1の丘を 視察されました。 丘の上には記念碑が建 てられ、戦いの激しさを今に伝えています この丘の下には、戦い烈士の墓地があります。 その向こうの緑地は田んぼで、刈り込み前の稲が実っ ています。この田んぼにもフランス軍の激しい砲撃があ ったそうです。 <戦勝博物館> ディエンビエンフーの戦いの写真、模型などが展示 されています。右写真の 自転車一台で150~3 00Kgもの荷物を運ん だそうです。 <記念式典を迎える街> ディエンビエンフーでは未だ雨期ではありませんが、午前中は連日小雨が降っていまし た。その雨が街を綺麗にしています。街の目抜き通りには「 ベトナム社会主義共和国万歳」 「歴史的ディエンビエンフー戦勝50周年記念式典」などと書かれた横断幕が取り付けら れ、夜にはイルミネーションが点きました。 5月6日の夜には、軍の音楽隊がレストランで演奏しました。市民が好きな勇壮な曲で -3- は、指揮者が観客に向かって手拍子をとると、客席から歌声がわき上がりました。 <戦勝50周年記念式典> 記念式典は、小雨の中で街の陸上競技場で行われました。 14000人を超える人が午前7時45分の開式前に集ま り、会場は超満員となり入場制限が行われました 。 、入場出 来ない人が沢山いて、会場付近は混雑しました。戦い当時 の軍服を着た、元兵士もたくさん 見かけました。 日本人は殆ど見かけませんでし たが、それでも東京の7人の団体に出会いました 。「中学校の 時にディエンビエンフーの戦いが、新聞に大きく報道されたの を今でも良く覚えている」と、その人たちは言っていました。 会場では、陸軍の精鋭、当地区の陸軍、公安部隊、女性兵 士、各種団体が整列し、約1時間の雨の中の式典では、直立 不動の状態で厳粛さを保っていました。 式典は、戦争犠牲者への黙祷から始まり、各代表の式辞が 続きました。 式辞が終わると、フィールドで整列していた集団が、 トラックを一周しました。国旗に続いてホーチミン主席の 肖像、陸軍部隊。民族衣装を着て銃を持った女性部隊、各 種団体、ジャージーを着て旗を持つ体育大学学生などが、 誇らしげに行進していました。 軍関係者は銃を持っているものの、重武装の軍事パレードはありませんでした。 式典の後はアトラクショ ンが行われました。 フィールト一杯に若者達が 走りまわったり踊ったりしな がら、ディエンビエンフーの -4- 戦いの場面、その後の「アメリカ戦争」でB52による激 しい空爆、それを撃破し最後に国の北と南が統一される様 子を、1時間近くかけて見せてくれました。空爆の場面で は発煙筒が焚かれ、煙がフィールドを覆い尽くし迫力があ りました。 <勝利記念塔> A1の丘の近くの小高い山の上に、勝利記念塔があります。こ れは別の場所で作られこの地に設置されました。塔付近は「50周 年を記念して、公園の整備が行われています。 私は5月7日の記念式典の後でここに来ました。各地から多くの 人が来ています。地元の人たちは「明日からまた街が静かになる」 と話しているそうです。 勝利記念塔のある丘から街を見ると、郊外に広がる田 園地帯と連なる山々が、日本の平泉の風景とよく似てお り「夏草や、つわ者たちの夢の跡」の句を想起させられ ました。 2004年5月10日 ハノイから -5- 浅田 旭彦
© Copyright 2024 Paperzz