第 1 章 生物の特徴と分類

第 1 章 生物の特徴と分類
私たちのような人間から、犬や猫、庭の草木、さらには地中や私たちの体の中にいる無数の微生
物まで、地球上にはさまざまな生き物がいる。私たちはこれらを共通して「生物」と呼び、他のも
のと区別している。18 世紀のスウェーデンの科学者カール・フォン・リンネは、
「自然の体系」
(Systema
Naturae)という本を書いて、自然界の万物を体系的に分類しようとした。リンネが提唱した分類法
では、万物をまず動物と植物と鉱物の 3 つのグループに分けている。現代の科学では、生物は生物
学者が、鉱物は地質学者が専門的に研究するようになり、両方を総合して研究する科学者はほとん
どいない。しかし自然科学が細分化する前の時代に生きていたリンネにとっては、生物も鉱物も「地
球上に自然に存在するもの」という点では同じだったのである。そうはいっても、リンネも「鉱物
は生物の一種である」と考えていたわけではもちろんない。では生物は、鉱物などの無生物とはど
こが違うのだろうか?また様々な生物は、どのように分類したらすっきりと理解できるのだろう
か?
1−1 地球上の生物に共通する特徴
私たちが生物と呼ぶものには、共通の特徴があるはずである。生物の詳しい仕組みを調べる前に、
まず生物と無生物を区別する大きな特徴を見てみよう。
A: 生物は外界からの刺激に対して反応する。
ぬいぐるみは、外見は生物に似ているが、私たちはそれを「生きている」とは感じない。しか
しぬいぐるみにセンサーを組み込んで、なでるとしっぽを振ったり、話しかけると答えたりする
ようにすると、ぬいぐるみも「まるで生きているように」感じられる。つまり、生きていること
の大きな特徴のひとつは、外界から何らかの刺激を受けると、それに対して反応するということ
である。
動物は、「なでると尻尾を振る」というような素早い反応をするので分かりやすい。しかし植
物も、「暖かくなると花が咲く」「種に水をやると芽が出る」というように、ゆっくりした速度
ではあるが、やはり刺激に対して反応している。
B: 生物は自己を複製して増殖する。
生物の大きな特徴は、「増える」ということである。ぬいぐるみを何匹かペアにして置いてお
いても、いつのまにか数が増えることはない。しかしペットのハムスターはつがいにしておくと
数が増える。数が増えるだけではない。トンビがタカを産むことがないように、産まれてくる子
どもは親とだいたい似ている。増えるというのは、「自分と同じような子孫を複製して作る」と
言い換えることができる。
ロボットがもう少し進歩して、ロボット工場でロボット自身が自分と同じ仲間を組み立てて生
産するようになれば、ロボットも「自分と同じような子孫を複製して作る」といえるかも知れな
い。しかしこの場合、ロボットは自分自身で子孫を作れるわけではなく、工場の機械を使わない
と子孫を作れない。それに対し生物は、他の助けを借りずに子孫を作ることができる。「子孫を
作るための機械」を自分自身の体に内蔵しているのが生物の特徴である。
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C: 生物は自己の体の構造が崩れないように、エネルギーを使って秩序を維持する。
寝たきりで動けない人でも、生きている限りは体の構造はきちんと維持されている。しかし亡
くなってしまうと、その瞬間からご遺体はいたみ始め、ドライアイスなどで冷やしても数日しか
持たせることはできない。放置すれば、数週間もしないうちに体は腐ってばらばらになってしま
う。「生きている」ということは、「腐ってばらばらにならないように体の秩序を維持している」
ということでもある。
自動車などの機械は、人間が定期的に部品を交換したり油を補充したりしてやらないと、壊れ
て駄目になってしまう。生物も、体の秩序を維持するためには壊れた部品を廃棄したり、新しい
部品を作ったり、作った部品を適切な場所に運んだりする必要がある。生物は体の中に、このよ
うな「体の秩序を維持する機能」を備えている。このようなメンテナンス作業をするには、エネ
ルギーが必要である。歩いたり、ものを持ち上げたりするときだけでなく、全く動き回らない状
態でも体の秩序を維持するためにエネルギーを使っているのが、生物のもうひとつの特徴である。
D: 生物は「細胞」から成り立っている。
単純な微生物から私たちのような複雑な体まで、いま地球上にいる全ての生物は「細胞」と呼
ばれる基本ユニットからできている。細胞は膜で囲まれて外界と仕切られた小さな袋で、その中
にはさまざまな分子が詰まっていて、複雑な化学反応を可能にしている。細胞の数は、単純な生
物のように1つの細胞しかないものもいればし、私たちのように数十兆個の細胞からなる生物も
いる。
飛行機や宇宙船、あるいは近い将来実現するであろうアトムのようなロボットは、たくさんの
部品からなり、複雑な動きをするという点では私たちに匹敵する。しかしこれらの機械の外皮や
骨組み、モーターや制御コンピューターは、それぞれ材質や構造がまったく異なる部品で作られ
ている。これに対し私たちの体の皮膚や骨格、筋肉や神経は、すべて基本的には同じ構造を持つ
細胞が、わずかずつ形や機能を変えることによって作られている。
E: 生物は、機能を実現するのに特定の物質を共通して使っている。
生物が自分を複製して増殖するためには、体の部品を作るための設計情報を何らかの形で保存
し、子孫に伝える必要がある。また、刺激に反応して動いたり、体の秩序を維持したりするため
には、エネルギーをうまく受け渡すシステムが必要である。地球にいるすべての生物は、このよ
うな機能を実現するのに同じ分子を使っている。たとえば体を作る設計情報は、どの生物も DNA
や RNA と呼ばれる分子を使って記録している。またエネルギーを受け渡すのには、ATP という分
子を利用している。このように生物の機能を特徴付けるカギになる機能を実現するのにすべての
生物が共通して同じ分子を使っているのが、いま地球にいる生物の大きな特徴である。
1-2 地球の生物と宇宙の生物
将来私たちは、宇宙人や他の星の生物と遭遇することがあるかも知れない。これらの生物は、地
球の生物とどのような違いを持っているだろうか?
前節に挙げた生物のさまざまな特徴の中で、「刺激に対して反応する」「増殖する」「エネルギ
ーを使って体の秩序を維持する」というのは、生物そのものの特徴として欠かせない要素である。
宇宙人であっても、生物である以上これらの特徴は普遍的であることだろう。いっぽう、宇宙人の
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体が細胞から作られているかどうかは分からない。外界と仕切られた空間で複雑な化学反応を行う
には何らかの仕組みが絶対に必要なのだが、私たち地球上の生物が発明した「細胞」という仕組み
とは違う方法で、これを実現している可能性はあるかもしれない。
宇宙人も、増殖の際に体の設計情報を伝えたり、エネルギーを受け渡す媒体にするために、何ら
かの化学物質を使っているはずである。ただしそのために地球の生物と同じ DNA や RNA、ATP を
使う可能性は、かなり低いかもしれない。DNA や ATP と似たような性質を持つ化学物質は他にも
あるので、宇宙人はそうした物質を使って、同じ機能を実現しているかも知れない。逆に言えば、
DNA や ATP のような特定の分子を共通して使っているということが、地球型の生物を特徴付けて
いる。
人間は地球上のその他の生物よりはるかに高度に進化しているから、最近になって宇宙からやっ
てきたに違いないというような SF 的な考えを唱える人もたまにいる。しかし、その人間の細胞の中
で働いているさまざまな分子が、地球上にいるどんなに単純な生物と比べてもすべて基本的に共通
であるという事実が、私たちも他のすべての地球上の生物と同様に、数十億年前に生まれた祖先生
物から進化を繰り返して作られてきたものだということの証拠になっている。
1-3 生物の大分類の変遷
様々な生物を分類し、整理して理解しようとする試みは、ギリシャ時代から行われてきた。アリ
ストテレスはすでに体系だった分類法を著書に書き残している。特にルネサンス紀以降の近代科学
では、生物を体系的に理解する作業に大きなエネルギーが投じられてきた。この過程ではさまざま
な技術的革新や新しい生物種の発見があり、その影響を受けるたびに生物のグループ分けは大きく
変遷してきている。この節ではその過程をたどってみよう。
A: 動物植物の 2 種類の分類から、5 界説まで
むかしは生物のグループ分けは単純だった。植物と動物の 2 つである。このような最上位の分類
階層を、「界」(kingdom)という。植物界は草や樹木、キノコやカビなど動かない生物すべて、動
物界は獣や鳥、昆虫など動き回る生物すべてである。
ところが 17 世紀半ばに顕微鏡が発明され、それを使って肉眼では見えないごく小さな微生物が
続々と発見されるようになった。最初はこれらの生物も、動物か植物のどちらかに分類されていた。
しかし研究が進んでくると、その中には動物にも植物にも分類しがたい「その他のタイプ」の生物
種がいろいろ存在することが分かってきた。19 世紀になって、ドイツの科学者ヘッケルはこれら小
さな生物をまとめて「原生生物」という新たな界を作ることを提唱した。これで生物の種類は、動
物界・植物界・原生生物界の 3 つになった。
顕微鏡の性能が上がり、微生物の研究がさらに進むと、その中には私たちの細胞 1 つと同じぐら
いの大きさで、中に複雑な構造を持つ生物だけでなく、細菌(Bacteria)のように核を持たず、細胞
の構造も単純で、大きさも他よりはるかに小さな生物がいることが明らかになった。そこで後者を
原生生物から分けて、原核生物と呼ぶようになった。これで生物の種類は 4 つに増えた。原核生物
に比べると、原生生物・動物・植物の 3 つはどれも細胞が大きく、その中に核やさまざまな複雑な
細胞器官を持つこという特徴が共通している。これらをまとめて真核生物と呼ぶようになった。
一方、生物がどのように栄養を得るかの研究が進むと、従来植物とひとまとめにされていたもの
に、実は 2 種類あることが分かってきた。草や木は光を受けて、土と空気だけから自分の体の部品
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を作ることができる。しかしカビやキノコは、他の生物やその死骸から栄養を摂取しないと生きら
れない。他の生物から栄養を摂取する必要があるという点では、カビやキノコはむしろ動物に近い
と言える。そこで、真に独立して栄養を得ることができるものだけを「植物」と呼び、カビやキノ
コ、さらに微生物の酵母などは、動物とまとめて 1 つのグループにするのもおかしいだろうという
ことで、「菌界」という新しいグループにまとめられた。こうして、従来の植物界が、植物界と菌
界の 2 つに分けられるようになった。
このようにして、生物を原核生物界、真核生物の中で単純な単細胞構造を持つ原生生物界、真核
生物の中で複雑な構造を持つ植物界・菌界・動物界の、合計 5 つの界に分ける方法が確立した。こ
れを 5 界説という。
B: 生物の分類法の大激変
1969 年にアメリカのホイタッカーによって 5 界説が提唱されて以降、この考え方は 20 世紀の後
半を通じて広く支持されてきた。しかし 2 つの出来事によって、この従来の枠組みは、今ではまっ
たく崩れてしまった。
1 つの出来事は、19 世紀の終わりから 1970 年代にかけて、100 度近い高温の場所や塩分濃度が非
常に高い場所など従来生物には適さないと思われてきた環境に生息したり、酸素や二酸化炭素のか
わりにメタンガスを吐き出したりする、変わった細菌が続々と見つかってきたことである。これら
の細菌には、細胞膜の性質などに従来から知られていた細菌とは大きく異なる特徴を共通して持っ
ていることが分かってきた。これらの生物が生息する環境は、高温で過酷だった太古の地球を連想
させる。そこでこれらは古代地球の環境に適した、より古いタイプの生物だろうということで、古
細菌と名付けられた。また、従来から知られていた細菌は、古細菌と区別するために真性細菌と呼
ぶようになった。従来 1 つのグループだった原核生物が、真性細菌と古細菌の 2 つに分けられたわ
けである。
もう 1 つの出来事は、生物の DNA に書かれた遺伝子の配列構造を調べる技術が 1970 年代に開発
され、急速に進歩したことである。これによって、DNA の配列がさまざまな種の間でどのように違
うかを調べられるようになった。ある遺伝子を作る DNA の配列を 2 つの種で比較して、DNA の配
列が非常に近ければ両者は近い関係にあると言えるし、配列がかなり違えば両者の関係は遠いと言
える。鳥とコウモリ、サメとイルカなどのように、全然違う生物でも同じような環境に適応した結
果似たような外見になることがある。これを収斂進化というが、体の形態的特徴だけを比較する従
来の分類法だと収斂進化に惑わされて、生物間の近縁関係を見誤ることがある。遺伝子配列の変化
ではこのような現象が起こりにくいので、より中立に近縁関係を比較することができる。
当初は技術的な制約から、一部の生物の一部の遺伝子しか比較することができなかったが、遺伝
子配列の読み取り技術や、読み取った配列を比較するコンピューターソフトの性能が向上すると、
多くの遺伝子の構造を系統的に比較できるようになった。ところがこれによって、従来の 5 界説の
大分類は、大きく変化を迫られることになってしまった。
まず、従来は生物をまず単純な原核生物と真核生物に分け、原核生物の中を古細菌と真性細菌に
分けていたのだが、真性細菌と古細菌の間の遺伝子配列の違いが実は非常に大きく、その違いに比
べればすべての真核生物はひとくくりに考えられることが分かってきた。つまり、原核生物の中に
古細菌と真性細菌があると考えるより、古細菌・真性細菌・真核生物という 3 つの大きなグループ
があると考えるべきだということである。この新しいグループ分けは、「界」よりも上位の分類階
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層ということで、ドメイン(domain)と名付けられた。
さらに、古細菌は古代の地球っぽい特殊な環境に住んでいるのに対し、真性細菌と真核生物は現
代地球の環境に適応しているから比較的近縁だろうと考えられていたのが、遺伝子の配列を調べる
と、真核生物は真性細菌よりもむしろ古細菌に近いことが分かってきた。進化の過程では、われわ
れ真核生物は古細菌の直系の子孫で、真性細菌はそれと分かれて別個に進化してきたということで
ある。
真核生物の中の分類も大きく変わってきた。まず、従来は形態や動き方に重きをおいて、植物と
菌類は近いものだと考えられてきたのが、遺伝子配列を見ると菌類はむしろ動物といっしょの仲間
にした方がよいことが分かってきた。さらに、「単純な構造の真核生物」ということでひとくくり
にされていた原生生物という界が、遺伝子配列を調べると実に多様であることも分かってきた。一
部の生物は植物に近いもの、菌類に近いもの、動物に近いものに分類し直されたが、それらのどれ
にも属さないものも多数出てきた。このため、原生生物界という枠組み自体が崩壊してしまった。
このようにして、従来は生物を原核生物界・原生生物界・植物界・菌界・動物界の 5 つの界にわ
けていたのが、古細菌ドメイン・真性細菌ドメイン・真核生物ドメインという 3 つのドメインに分
けるように変わったのである。
真核生物ドメインの中はいくつかの界に分けられているが、その分け方は従来とまったく変わっ
てしまった。2005 年に国際原生動物学会によって提唱された分類では、真核生物の中にアーケプラ
スティダ(従来の植物や藻類)、オピストコンタ(従来の動物や菌類など)、アメーボゾア(アメ
ーバや粘菌など)、リザリア(放散虫など)、エクスカヴァータ(ミドリムシや鞭毛虫など)、ク
ロマルベオラータ(繊毛虫など)の 6 つの界が置かれている。しかしこの分類案もまだ過渡的なも
のであり、いくつの界を設け、それらをどのように区分するかは、まだ議論が続いている。
5 界説は学問の世界では完全に廃れてしまったが、高校までの生物教育では今でも中心的に用い
られている。その理由の 1 つには、現行の学習指導要領が作られたのは 3 ドメイン説が提唱されて
主流になるより前のことで、それ以後抜本的な改訂がされていないという現実的な事情がある。新
しい 3 ドメイン説における界のグループ分けは現時点ではまだ流動的であり、教科書に安心して載
せられるほど確定したものになっていないという理由もある。もう 1 つ大事な理由として、3 ドメ
イン説は遺伝子の配列という目に見えにくく、高校レベルでは実験が難しいデータに基づいており、
「知識」として丸暗記するしかないということがある。5 界説の分類は、高校生でも観察できるよ
うな生物の形や細胞の構造などの情報だけにもとづいているので、ものごとを体系的に分類すると
いう「考え方」を学ぶ教材として、優れている点がそれなりにある。
1-4 生物の分類の基本単位
前節では生物をドメインや界という大きなグループに分けたが、それぞれの中では生物をどのよ
うに細かく分類できるのだろうか?そのためには、まずグループ分けの基本単位を明確にする必要
がある。
A: 種と属と学名
人類は昔から、目にするさまざまな生物に名前をつけて区別してきた。その名前付けをなるべく
システマティックに行うためにリンネが考案したのが、「学名」(英語では「ラテン名 latin name」)
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と呼ばれる方法である。学名の大きな特徴は、名字と名前のように必ず 2 つの単語から構成されて
いることである。たとえば「ヒト」にはホモ・サピエンス(Homo sapiens)という名前がついている
(Homo はラテン語で「人間」、sapiens はラテン語で「知性」という意味)。このような 2 つの単
語で表される分類上の最小単位が、「種」(species)である。
では、種の定義とは何であろうか?それを考えるために、イノシシ、ブタ、ウマ、ロバの学名を
比べてみよう。
イノシシとブタを掛け合わせると雑種のイノブタができる。イノブタは自分自身の子孫を作るこ
とができる。野生のイノシシと、それを飼い慣らして家畜にしたブタは、外見こそ多少違うものの
相互に交配してちゃんとした子供を作れるので、本質的には同じ仲間である。そのため、イノシシ
とブタの学名はどちらも同じ Sus scrofa である(Sus は豚、scrofa は猪の意味)。
ウマとロバも掛け合わせると雑種を産ませることができる。この雑種はラバと呼ばれるが、イノ
ブタと違ってラバは、自分の子供を作ることができない一代限りの生き物である。ウマとロバを掛
け合わせても永続的な子孫はできないので、この 2 つは別の種だといえる。ウマの学名は Equus
caballus、ロバの学名は Equus asinus である(Equus と caballus はどちらもラテン語で馬、asinus はロ
バの意味)。
一方、ラバには学名がない。ラバは一代限りの生き物なので、「種」ではないのである。つまり
種とは、「交配して子孫を残せるような動物のグループ」ということで定義された概念である。
別の種ではあっても、ウマとロバはさまざまな特徴を共有している。そこで、学名の 2 単語のう
ち 1 つめの単語を共通にして、仲間であることが分かるようにしている。このような近縁の種から
なるグループを、「属」genus という。人間の名前では、1 つめの単語が家族という仲間を、2 つめ
の単語が家族の中の特定の個人を特定するのに使われている。同様に学名では、1 つめの単語が属
という仲間を、2 つめの単語が属の中の特定の種を特定するために使われている。
B: 近縁種、亜種、品種、人種
ウマとロバは「ウマ属」中の別の種である。このようにひとつの属に分類される様々な種を、「近
縁種」と呼ぶ。ヤマネコとそれを飼い慣らしたイエネコは、どちらも同じ学名で Felis silvestris、砂
漠に住むスナネコには Felis margarita という学名がついている(Felis はラテン語で猫、silvestris は
森の意味、margarita はスナネコが始めて発見されたときの探検隊長の名前からつけられた)。これ
は、イエネコとヤマネコは同じ種であり、スナネコはその近縁種であることを示している。近縁種
の中には、ウマとロバのように一代限りの雑種を作れるほど似ているものもあれば、そこまでは似
ていなくて雑種を作れないものもある。
同じ種だと言っても、イエネコをヤマネコと区別したいこともある。このように、同じ種だがそ
の中に明確に異なるサブグループがあるとき、それらを「亜種」とよぶ。亜種を区別するには 3 つ
めの単語を補って、たとえばイエネコを Felis silvestris catus、ブタを Sus scrofa domestica と呼ぶ(catus
は猫、domestica は「家の」という意味)。
日本語に限らず英語や他の言語でも、一般の生物名では全く異なる種に同じような名前がつけら
れていることがよくある。これに対し学名では、属や種の違いが明確に分かるように注意して名前
がつけられている。たとえばイリオモテヤマネコは、和名を見るとヤマネコの近縁種に見えるが、
実際は全く別のグループである。イリオモテヤマネコの学名を見ると Prionailurus bengalensis
iriomotensis で、属を表す 1 つめの単語がヤマネコとは全く違う。ベンガルヤマネコ Prionailurus
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bengalensis の亜種とされている。
コシヒカリやササニシキのような作物や、コリーやチワワのような家畜・ペット動物に見られる
「品種」は、亜種よりもはるかに小さな違いに着目したグループである。遺伝的な差はごくわずか
で、厳重に隔離して交配しないかぎり、すぐに入り混じってしまう。
また、日本人、ユダヤ人といった「人種」は、生物的特徴よりも歴史・宗教・社会習慣によるグ
ループ分けの比重が大きい。人種差別の際によく使われる分類を生物の立場から科学的に定義する
ことはできない。
★ 学名は基本的にはラテン語だが、もともとラテン語で名前がついていなかった生物には他の言葉が
使われることもある。私が自分の専門の研究に使っているのは主にキイロショウジョウバエと呼ばれる
昆虫だが、これの学名は Drosophila melanogaster という。Dros は「露」、-ophila は「○○が好きな」と
いうギリシャ語である。ショウジョウバエに学名をつけたのはドイツ人の研究者だが、ショウジョウバ
エは朝早く草に露が降りているときに活動する習性があるためにドイツ語では「ツユバエ(Taufliegen)」
と呼ばれている。それを訳したのが Drosophila である。melanogaster の melano はメラニンと同じ語源で
「黒」を意味する。gaster は「ガスター10」という胃薬と同じ語源で、「お腹」という意味である。シ
ョウジョウバエの中でもキイロショウジョウバエはお腹の先が黒いため、このように名付けられた。
キイロショウジョウバエに近い別の種で、Drosophila moriwakii や Drosophila suzukii というのもある。
これは日本の森脇大五郎や鈴木元次郎という研究者が詳しく研究したので、その名前を取って命名され
た。北海道で見つかった Drosophila ezoana や筑波で見つかった Drosophila tsukubaensis といった、地名
をつけた種も少なくない。
1-5 生物種の階層的な分類法
似た特徴を持つ種をまとめて属というグループを作ったように、一定の特徴を共有する属をさら
にまとめて、さらに階層的に分類してゆくことができる。リンネが始めたこのような階層分類法は、
現在は種・属・科・目・綱・門・界・ドメインというレベルに分けられている。
たとえば、イエネコやスナネコの種は、すべてネコ属 Felis の仲間である。これに対してライオン
Panthera leo やヒョウ Panthera pardus、トラ Panthera tigris などの種は、ヒョウ属 Panthera の仲間で
ある。ネコ属やヒョウ属をまとめて、ネコ科 Felinae とよぶ。
ネコ科とハイエナ科、イヌ科、クマ科、アシカ科、アザラシ科などは、肉食だという点や体の様々
な部分の構造の点で類似度が高いので、総称して食肉目というグループにまとめられている。これ
に私たちが属するサルの仲間の霊長目や、ネズミやリスの仲間の齧歯目、ウマやサイの仲間の奇蹄
目、ウシやカバ、クジラの仲間の鯨偶蹄目などを加えると、「乳を分泌して子どもを育てる」とい
う点で共通する、哺乳綱というグループができる。
哺乳綱に加えて鳥綱、爬虫綱、両生綱、硬骨魚綱、軟骨魚綱などに属する生物は、背骨を持ち、
その中に脊髄が通っているという点で共通しているので、これらをまとめて脊椎動物亜門というグ
ループにまとめられている。ホヤの仲間の尾索動物亜門やナメクジウオの仲間の頭索動物亜門は、
脊髄のかわりに脊索と呼ばれる構造があり、これら脊索を持つ動物の亜門と脊椎を持つ動物の亜門
をまとめたグループが、脊索動物門である。
脊索動物門に加えて、動物の仲間には昆虫や甲殻類などの節足動物門や、貝、イカ、タコなどの
軟体動物門、ミミズやヒルなどの環形動物門、線虫や回虫などの線形動物門、クラゲなどの刺胞動
物門など、さまざまな種類がある。これら動物に属する全ての生物種をまとめたグループが、動物
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界(新しい分類法ではオピストコンタ界)である。
このように多数の階層を作って生物を段階的に分類することにより、原理的には地球にいるすべ
ての生物を、統一した枠組みの中で理解できることになる。
和名
ドメイン
界
門
亜門
綱
目
科
属
種
亜種
英名
domain
kingdom
phylum
subphylum
class
order
family
genus
species
subspecies
真核生物ドメイン
動物界
脊索動物門
脊椎動物亜門
哺乳綱
食肉目
ネコ科
ネコ属
ネコ
イエネコ
Eukaryota
Animalia
Chordata
Vertebrata
Mammalia
Felinae
Felis
Felis silvestris
Felis silvestris catus
表 1:生物の階層的な分類
★ 界より下の分類階層は 19 世紀から確立していたので、明治の先人は 1 つ 1 つの用語について巧妙な
漢字訳を作ってきた。しかし 21 世紀の科学者は悲しいことに漢文の素養がなくなってしまった。学問
の国際化が進んでほとんどの研究が英語で行われるようになり、どんどん生まれる新しい用語について
いちいち漢字訳を作っても記憶力が追いつかないし、せっかく作った訳語も使われる機会が少ないとい
う実情もあって、ドメインや新しい界の名前など新たに出てきた分類用語には、漢字訳が作られず、そ
のまま音訳されることが多い。
ひとつの「種」に属する生物をきちんと判断するのは、案外と難しい。イノブタやラバのように、
人為的に飼育・交配させてみて子孫ができるかを確かめられる生物はよいのだが、そういう掛け合
わせ実験ができない野生の生物では、外見の違いや生息している場所の違いで種を判断するしかな
い。遠く離れた異なる環境に住んでいて違う種だと思われていたものが、同じ場所に住まわせてみ
たら子孫を作ることができて同じ種であると分かったり、魚類や節足動物など成長の過程で姿かた
ちを大きく変える生物では、形が全然違うので違う種だと思われていた生物が、同じ種の子どもと
大人だと分かったりすることがある。
また、微生物のようにオスメスが交配するのでなく分裂して増える生物では、「掛け合わせて子
孫が作れるか?」という定義自体が使えない。このような場合は、従来は形態の微妙な特徴の違い
などで種を識別していた。最近では DNA の配列を比較することが容易になり、これを利用して遺伝
子の類似度から種を判断することが可能になった。
DNA 配列の比較が可能になったことによって、従来は遠いと思われていたグループが近縁である
ことが分かったり、近いと思われていたものが区別されるようになったりという現象があちこちで
起きている。たとえばクジラとウシは、以前はクジラ目と偶蹄目として別の目だったのだが、共通
性が高いということで鯨偶蹄目に統合された。従来の分類体系を大幅に見直す作業は生物のすべて
の分野において現在活発に進行しており、21 世紀半ばの生物分類表は、20 世紀の終わりごろとはず
いぶん異なったものになることだろう。
1-6 分類と進化
19 世紀のなかばまで、生物の分類というのは「身の回りのものを整理して考えてみよう」という
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人類の知的興味のあらわれに過ぎなかった。しかし進化論が提唱され、受け入れられるようになる
と、分類には全く新しい意味が生まれてきた。2 つの生物が似ているということは、それらは進化
上も近い関係にあり、大きく異なるということは、2 つの生物につらなる進化の道筋がはるか昔に
分かれたことを意味する。つまり生物を分類するということは、現在見られる多様な生物が祖先か
らどのように進化してきたの道筋を理解することと、同義なのである。ウシとウマよりも、ウシと
クジラの方が分類上近い関係にあるということは、進化の過程でウマの祖先とウシの祖先が別れて
から、後者の子孫の一部が海にもぐってクジラに進化したということである。こうして分類学には、
進化の過程を理解するという新しい意義が付加されるようになった。
第○章で見るように、遺伝子を構成する DNA の配列にはさまざまな理由で変異が起こる。このよ
うな変異が起こる確率はだいたい時間的に一定だと見積もられている。従って遺伝子の配列の違い
から、それらの生物の祖先が何万年(
何億年)ぐらい前に分かれたかを見積もることができる。
このようにして遺伝子配列の比較から導かれた進化の道筋と、形態などから従来推定されてきた進
化の道筋には、あちこちで大きな違いがみられた。初期の遺伝子解析法は精度が低かったこともあ
り、20 世紀の最後の 10 年ぐらいには、新しい考えを信用する人と懐疑的な人の間で大きな議論が
あった。しかし膨大な生物種の遺伝子を精度よく調べる技術が進むにつれ、遺伝子レベルの比較を
重視するやり方が今では主流になり、これまで見てきたように従来の枠組みの大幅な見直しが現在
進んでいる。
1-7 付録:生物と無生物の境界にあるもの
リンネが提唱した分類法では、万物をまず動物と植物と鉱物の 3 つのグループに分けていた。1-1
節では生物の基本的特徴を整理したが、これら生物の基本的条件を満たしてはいないものの、「そ
うはいっても鉱物と呼ぶわけにはいかないだろう」というようなものも、自然界にはいろいろある。
A: 生物の一部:精子、卵子、花粉
よく聞かれる質問に、精子や卵子は生物か、というのがある。精子や卵子も 1 つの細胞であり、
その中に DNA を納めた核などの構造が整然と配置され、ATP のエネルギーを使って動くことがで
きる。顕微鏡で見ても、単細胞の真核生物とほとんど見た目に変わりはない。しかし、単細胞の
真核生物は自分自身で子孫を作ることができるのに対し、精子や卵子は自分自身が増殖すること
はない。従ってこれらは、「生物の体の一部」ではあるが、単体では生物とは呼べない。
花粉は、見た目は粉末のようなものだが、相手の花のめしべにたどり着くと細い管を伸ばして、
内部に納められた DNA を注入して種を作るというダイナミックな動きを示す。この点で、花粉は
精子と実質的に同じものである。精子同様、花粉は単体で増殖することはできないという点であ
くまでも生物の体の一部であり、生物そのものとは呼べない。
B: DNA, RNA とタンパクの固まり:ウィルス
精子や卵子や花粉は、それぞれが特定の種の生物の一部分であり、それらの生物を作るのにに
必要な遺伝子のセットひとそろいを持っている。これらと異なり、特定の生物の一部だとは全く
呼べない独自の存在として、ウィルスがある。
ウィルスは、タンパクでできたケースの中に DNA や RNA が収められた、非常に小さな粒子で
ある。ウィルスは生物の細胞の表面に取り付き、ケースの中に納められた DNA や RNA を相手に
9
注入して、その細胞に自分の DNA や RNA のコピーを作らせる。同時にそこに記録された遺伝子
の情報を使って、自分のケースを作るのに必要なタンパクを相手に作らせる。これらを組みあわ
せて自分と同じウィルス粒子を合成し、細胞から放出させて、子孫を増やすのである。
ウィルスは、遺伝情報を持っていることや、DNA やタンパクといった部品からできていること、
子孫を作って増えることなど、生物と非常によく似た面がある。しかしウィルスは、自分自身だ
けで子孫を作る能力は持っておらず、ATP などのエネルギーを使って自分の体の秩序を動的に維
持したりする仕組みも持たない。そのため、ウィルスはそれ自体が生物だということはできない。
C: 単独のタンパク分子:プリオン
ウィルスよりもっと単純な構造を持つが、同じく感染によって生物に面倒な症状を引き起こさ
せるものに、狂牛病やクロイツフェルト・ヤコブ病の原因となっているプリオンがある。プリオ
ンは、元来は多くの哺乳類生物の神経細胞などに存在するありふれたタンパクである。2 章 2-7 節
で述べるように、タンパクはアミノ酸が多数つながった細い鎖が複雑な形に折れ曲がって形成さ
れるが、プリオンタンパクでは、本来と違う形に折れ曲がった形の分子がまれに形成されること
がある。こうなった変化型プリオンは熱に強く非常に安定で、しかも他のプリオンを自分と同じ
形に変形させてしまう力がある。普通のタンパクは口に入ると胃や腸で消化されてアミノ酸に分
解されるが、変化型プリオンは丈夫なのでこれをくぐり抜け、生物の中に入ってしまうことがあ
る。いちどこのような変化型プリオンが細胞に取り込まれると、細胞内にある他のプリオンも変
化型に変えられてしまい、細胞を壊してさらに周囲の細胞に広がってしまう。結果としてプリオ
ンは、生物であるどころか単なるタンパク分子に過ぎないにもかかわらず、「自分と同じ形の仲
間を増やす」という点において、生物にちょっと似た性質を持っているのである。
10
2 章 生物をかたち作る部品
では、いま地球に見られる多様な私たち生物の体は、どのような物質からできているのだろうか?
まずは元素レベルで、生物の組成を見てみよう。
2-1 生物の組成:元素レベル
生物を構成する元素で原子の数で見て圧倒的に多いのは、まず酸素と水素である。これは、次節
で見るように生物の体の約 70%が水であることに由来する。酸素と水素は水を作る以外に、炭素と
結合してさまざまな生体高分子を形づくる。
元素
O
C
H
N
Ca
P
K
S
Na
Cl
Mg
酸素
炭素
水素
窒素
カルシウム
リン
カリウム
硫黄
ナトリウム
塩素
マグネシウム
原子番号
8
6
1
7
20
15
19
16
11
17
12
平均原子量
16
12
1
14
40
31
39
32
23
35.5
24.3
人体中の重量%
65
18.5
9.5
3.3
1.5
1
0.4
0.3
0.2
0.2
0.1
原子の数の比(リンを 1 とする)
126
48
295
7.3
1.2
1.0
0.3
0.3
0.3
0.2
0.1
酸素と水素の次に多いのが炭素である。100 以上ある元素の中で、炭素は同時に他の 4 つの原子
と結合することができる数少ない元素の 1 つである。炭素どうしも一重結合、二重結合、三重結合
の 3 通りの方法で結合することが可能である。このため、炭素は多数が鎖状や環状に連なったさま
ざまな構造を作ることができる。このような多彩な結合ができるのは炭素だけに見られる特徴で、
これが糖・タンパク・脂質・核酸など生物を構成する高分子のほとんどで、炭素のつながった鎖が
構造の中核になっている大きな理由である。
★ 炭素と同じく 4 つの他の原子と結合できる元素に、ケイ素(シリコン)がある。ケイ素もさまざま
な構造を作ることができるのだが、そのバラエティーは炭素には遠く及ばない。このためケイ素では、
生物に必要な多彩な構造を作ることは難しい。
生体内で炭素の次に多いのが窒素で、タンパクの基本骨格や、核酸の中の塩基部分に含まれてい
る。続くカルシウムは、リン酸カルシウムの沈殿物として骨を構成するとともに、カルシウムイオ
ンとして、細胞内の酵素の働きの制御や情報の伝達に欠かせない調節因子として働く。リンは酸素
と結合してリン酸を作り、DNA や ATP、細胞膜のリン脂質などさまざまな生体部品に欠かせない元
素である。硫黄は、タンパクを構成するアミノ酸の一部に含まれている。
カリウム、ナトリウム、塩素、マグネシウムは主にイオンとして存在し、カルシウムと同様に酵
素の働きや情報の伝達に欠かせない。細胞の内と外ではこれらのイオンの濃度が大きく異なってお
り、細胞は特定のイオンの出入りをコントロールすることで、さまざまな制御を行っている。
★ 生物が成長し、その体を維持するには、ここに挙げたさまざまな元素の補給が欠かせない。これら
の元素を、動物は植物を食べることによって(あるいは植物を食べた動物をさらに食べることによって)
摂取する。一方植物は、酸素・水素・炭素は空気や水から得るが、その他の元素は土に溶け込んだもの
を吸収する。多くの元素は植物が必要とするのに十分な量が土の中に含まれているが、窒素・リン・カ
11
リウムの 3 つは土に含まれる量が比較的少なく、農業や園芸でたくさんの植物を効率よく育てたいとき
には不足しがちになる。そこで化学肥料では、この 3 つが主な成分になっているわけである。
生物には、その他さまざまな物質がごく微量ながら含まれており、生体の機能に重要な役割を果
たしている。ホウ素・クロム・コバルト・銅・フッ素・ヨウ素・鉄・マンガン・モリブデン・セレ
ン・ケイ素・スズ・バナジウム・亜鉛などである。
これらの原子の多くは、タンパクの中に取り込まれてその機能を補佐するのに使われている。た
とえば鉄は、酸素と化合しやすい性質を利用して、血液の赤血球細胞にあるヘモグロビンや筋肉細
胞にあるミオグロビンという分子の中心に 1 原子ずつ含まれている。これらの分子は酸素を胚から
各細胞に運搬し、貯蔵するために不可欠なので、鉄分が不足すると酸素が十分に運ばれない貧血症
状になってしまう。
亜鉛は、DNA や RNA の合成やタンパクの合成の反応を行う、さまざまな酵素タンパクの中心に
含まれている。亜鉛が足りないと、このようなタンパクがきちんと機能できない。そのため RNA が
十分に合成できなかったり、DNA を複製して細胞が分裂できなくなったりする。たとえば、人体の
中で舌にある味覚細胞は寿命が非常に短く、10 日程度で死んでしまって新しい細胞に入れ替わる。
亜鉛が足りないと、死んだ細胞を補うだけの十分な数の新しい味覚細胞を作ることができなくなっ
てしまう。そのため、味を感じにくくなる味覚障害の症状が起こる。
タンパクでなく、特定の分子の一部に組み込まれているものもある。たとえばコバルトはビタミ
ン B12 と呼ばれる分子の中に含まれている。脂肪の分解や DNA の合成に使われる酵素は、ビタミ
ン B12 の中の銅の部分を化学反応の際に活用している。またヨウ素は、甲状腺で作られる甲状腺ホ
ルモンという分子の中含まれている。甲状腺ホルモンは炭素が 15 個ほどつながった分子で、その中
にヨウ素原子が 4 つ組み込まれている。甲状腺はホルモンを作るために血液からヨウ素を取り込み、
甲状腺ホルモンを合成して甲状腺内に貯蔵する。甲状腺は体の状況に応じて微量の恒常性ホルモン
を血液の中に放出する。体中のさまざまな細胞の表面には特殊なタンパク分子があり、そこに甲状
腺ホルモンの分子が結合するとその細胞の機能を活性化させる。
★ 放射性物質のひとつであるヨウ素 131(131I)という原子が人体に入ると、それが普通のヨウ素(127I)
のかわりに甲状腺に取り込まれ、甲状腺ホルモンに合成されて貯蔵されてしまう。その結果、取り込ん
だ放射性物質の量がそれほど多くなくても、甲状腺だけは放射性ヨウ素が蓄積されて濃度が非常に高く
なり、そこから出る放射線が甲状腺の細胞の DNA を破壊して、将来甲状腺ガンを惹き起こすことがあ
る。放射性ヨウ素を浴びたときに普通の非放射性のヨウ素を一時的に大量に服用しておくと、相対的に
見て血液中のヨウ素原子の大部分は非放射性のヨウ素になるので、放射性のヨウ素が甲状腺に取り込ま
れる確率が下がる。その結果、放射性ヨウ素のほとんどは甲状腺には取り込まれず、不要物として尿に
排出されるようになる。このようにして甲状腺への放射性ヨウ素の取り込みを防ぐのが、ヨウ素剤と呼
ばれる薬の原理である。放射性ヨウ素がいちど甲状腺に取り込まれてしまうと、その後血液中に非放射
性のヨウ素がいくらたくさんあっても甲状腺から放射性ヨウ素が排出されることはない。そのため、ヨ
ウ素剤は放射性ヨウ素を浴びたらすぐに服用しないと効果がない。
2-2 生物の組成:分子レベル
次に元素レベルで、生物の組成を見てみよう。たとえばもっともシンプルな生物の 1 つである大
腸菌の細胞では、水が全体の 70%を占める。次に多いのがタンパクで 16%。糖や核酸などその他の
高分子が 10%、ここまでで全体の 94%になる。残りの中では脂質が比較的多く、大腸菌では全体の
12
1%しかないものの、脂肪細胞など細胞の種類によってはもっと多い。ばらばらの状態のアミノ酸や
糖、核酸などの低分子は全部で 2%程度。残りが無機イオンなどである。以後の節では、これら生体
を作る基本的な分子の構造を見てゆこう。
2-3 水
水は単純な構造の分子だが、生物の体の大部分を占める重要な構成物である。これは決して、地
球には水がいっぱいあるからという単純な理由ではない。水分子には、他の分子には見られない特
殊な特徴があり、それが生物の機能に水が重要な役割を果たす大きな理由になっている。
水は酸素 1 つと水素 2 つからなるが、この 3 つの原子は一直線に並んでいるのではなく、酸素を
中心にして V 字型に曲がっている。酸素は電子を引き寄せる力(電気陰性度)が非常に強い原子で、
一方水素はその力が比較的弱い。そのため、水分子の中では水素原子に含まれる電子が酸素原子の
方に引き寄せられていて、電子の分布が大きく偏っている。電子はマイナスの電荷を持っているの
で、V 字の頂点にある酸素の部分は電子が集まってマイナスの電荷を帯びており、両端の水素の部
分は電子が薄くなってプラスの電荷を帯びている。このように、ひとつの分子の中で電子の分布が
偏り、プラスやマイナスの電荷を帯びている部分がある分子を、極性分子という。水は大きさのわ
りに極性が非常に強い分子のひとつである。
ある水分子の水素の部分と、他の水分子の酸素の部分は、それぞれがプラスとマイナスの電荷を
帯びているため、互いに引き合う。この引き合う力は水分子内の水素と酸素の結合に比べれば 20 分
の 1 程度の力だが、それでも分子同士を引き寄せるには十分な力がある。このような 2 つの分子間
の水素と酸素のあいだに生じるゆるやかな結合を、水素結合という。(タンパクの説明のところで
出てくるが、水素結合は酸素同様に電子を引き寄せる力が非常に強い窒素原子と水素原子のあいだ
にも形成される。)
A: 水は比熱が高く温度を安定化させる
水はいくつもの水分子が水素結合によって引き合って、鎖状のかたまりになって行動している。
温度が低いときは多数の分子がひとまとまりになり、温度が高くなると 1 つの集団を構成する分
子の数は少なくなる。一般に、ある物質に熱を加えると、そのエネルギーは内部の分子の運動を
激しくするのに使われる。ところが水に熱エネルギーを加えると、加えたエネルギーは水分子の
運動を激しくするだけでなく、水素結合を切断して分子集団のサイズを大きくすることに使われ
てしまう。そのため、水は同じ重さの他の液体に比べ、熱を加えても温度がなかなか上がらない。
つまり比熱が大きい。逆に水から周囲に熱を供給する場合も、水分子の固まりが大きくなるとき
に新たに水素結合が形成されるたびにエネルギーを発するため、これが温度低下を妨げる作用を
発揮し、温度が下がりにくい。
このように、水には熱しにくく、冷めにくいという性質がある。これは水を大量に含んでいる
生物の内部の温度変化を安定化させるとともに、生物が住む温度環境を安定に保つのに大きく貢
献している。
B: 水はものをよく溶かす
多くの原子は、その一番外側にある電子 1 つか 2 つを失いやすかったり、逆に 1 つか 2 つの電
子を取り込みやすかったりする性質がある。このように電子が標準より少なくなったり多くなっ
13
たりした状態の原子をイオンというが、水のように極性の強い分子は、このようなイオンとよく
結合する。このため、水はイオンを非常に溶かしやすい。ナトリウム、カリウム、カルシウムな
どは電子を失った陽イオンとして、また塩素などは電子を引き寄せた陰イオンとして、水によく
溶ける。
電子を引き寄せる力が強い窒素や酸素などの原子と、引き寄せる力が比較的弱い水素やリンの
原子がひとつの分子の中に混じっていると、水分子の場合と同じように内部で電子の分布に偏り
が生じる。このような極性分子も、水分子と引き合うので水によく溶ける。
このようにして、水は非常にさまざまな物質を内部に溶かし込むことができる。これは生物の
活動に不可欠な複雑な化学反応を行うためには、非常に重要な性質である。
C: 水は疎水性と親水性の区別を生じさせる
一方、炭素と水素だけの化合物では電子を引き寄せる力が似通っているので、分子内部での電
子の分布の偏りがあまりない。このような分子を非極性の分子という。非極性の分子は極性の強
い分子と引き合うような要素を持たないため、水にほとんど溶けない。水と油が混じり合わない
のはこのためである。
ひとつの分子の中に極性が非常に強い部分と、極性がほとんどない部分を含んでいるような分
子も少なくない。このような分子では、極性が強い部分は水となじみやすいので親水性、極性の
低い部分は水になじみにくいので疎水性という。次に述べる脂質の中のリン脂質や、親水性と疎
水性のアミノ酸が複雑につながってできたタンパク、親水性の鎖から疎水性の塩基部分が飛び出
した DNA などの核酸では、分子は水の中で親水性の部分を水に接する外側に、疎水性の部分を水
に接しない内側に抱え込んだ形をとって安定する。細胞膜やタンパク、DNA の複雑な構造は、水
の中にあることによって始めてその形を保つことができる。
以上のように、水は生命現象の基本となる複雑な化学反応を成り立たせるために不可欠の成分
である。炭素のつながった構造が中核になっている地球に似たタイプの生命が機能するには、液
体の水が存在することが必ず必要である。他の星での生命の可能性を探査するときに水の有無が
大きな科学的関心の対象になっているのは、このためである。
2-4 脂質
つぎに、生物を構成するもっと複雑な分子の中では比較的単純な構造を持つ、脂質(lipid)につ
いてみてみよう。脂質とは「炭素と水素がほとんどを占める分子」である。この分類に属する分子
にはたくさんの種類があるが、生物で特に重要なのは、中性脂肪、リン脂質、ステロイドの 3 つで
ある。
A: 中性脂肪
中性脂肪は、グリセリン(グリセロール)に脂肪酸が 3 個くっついた構造をした分子である。7
章で述べるように脂肪を分解すると高いエネルギーを得ることができるので、中性脂肪は主にエ
ネルギーの貯蔵に使われている。
グリセリンは、炭素 3 つがつながった鎖に、水素と酸素がつながった水酸基(OH 基)がそれぞ
れ 1 つずつついた分子である。脂肪酸は、炭素が十数個つながった長い分子の端に、カルボキシ
ル基(COOH 基)が 1 つついた構造をしている。炭素が 1 つしかない CH3COOH は酢酸で、脂肪
14
酸はこの炭素の部分がずっと長くなった構造である。グリセリンの OH 基と脂肪酸の COOH 基が
近づいて反応すると、OH の H と COOH の OH がくっついて水分子として外れ、残りの部分が結
合する(こういう反応を脱水縮合という)。こうしてグリセリンと 3 つの脂肪酸がつながって、1
つの分子になるわけである。
脂肪酸を構成する長い炭素の鎖は、ほとんどが一重結合でつながっている。その中の 1 箇所な
いし数箇所が二重結合になったものもある。一重結合だけでできたものを、全ての結合が一重結
合で飽和しているという意味で飽和脂肪酸といい、二重結合を含むものを不飽和脂肪酸という。
一重結合だけでできた飽和脂肪酸は鎖が直線状になるので、これで作られた脂肪は多数の分子が
密に接触する。一方、不飽和脂肪酸は二重結合の部分が折れ曲がった形になってしまう。このた
め不飽和脂肪酸を含む脂肪は分子と分子のあいだに隙間ができ、強固に固まることが難しくなる
ので、融点が低い。たとえば、バターの脂肪に多く含まれるステアリン酸と、オリーブ油の脂肪
に多く含まれるオレイン酸は、どちらも炭素が 18 個つながったほぼ同じ大きさの分子なのだが、
前者は飽和脂肪酸なのに対し、後者は二重結合を 1 つ持つ不飽和脂肪酸である。このため、バタ
ーは常温で固体だが、オリーブ油は液体である。同じ炭素 18 個でもリノール酸は二重結合を 2 つ
持っており、さらに不飽和度が高い。
★ 1 つの分子の中で特徴的な構造や機能を持つ一部分のことを「基(group)」という。生体の分子に
よく出てくるものには、水酸基(−OH)やカルボキシル基(−COOH)、アミノ基(−NH2)、メチル基
(CH3-)アセチル基(CH3CO−)、リン酸基(H2PO4−)、硫酸基(HS-O4−)などがある。
B: リン脂質
リン脂質は、細胞の表面を包んだり、内部に多数の仕切り構造を作ったりする、細胞膜の中核
をなす分子である。中性脂肪ではグリセリンに 3 つの脂肪酸がついていたのに対し、リン脂質の
分子では、グリセリンに脂肪酸が 2 個とリン酸が 1 つくっついている。このリン酸に、さらに小
さな分子がくっついていることも多い。リン酸はリン原子のまわりに 4 つの酸素原子がつながっ
た形をしており、酸素が電子を大きく引きよせるためにこの部分で電子の分布の偏りが大きい。
このためリン酸は極性で、水となじみやすい(親水性)。このようにリン脂質には、リン酸から
なる親水性の部分と脂肪酸からなる疎水性の部分が、1 つの分子の中に共存しているのが重要な特
徴である。
リン脂質の分子が水の中にあると、疎水性の部分をなるべく周囲の水から隔離使用とする力が
働く。リン脂質の分子の数が少ないときは、集まった分子が親水性のリン酸の部分を外側に、疎
水性の脂肪酸の部分を内側にして球状に凝集する。さらに分子の数が多くなると、リン脂質分子
が 2 層の膜状に集まり、膜の両面には親水性のリン酸、内側には疎水性の脂肪酸が集まるように
なる。このような脂質の二重膜は非常に安定な構造で、他の分子をほとんど通さない丈夫な膜に
なる。6 章で詳しく見るように、このような膜が細胞の表面や内部を仕切る細胞膜構造の基本にな
っている。
中性脂肪と同様にリン脂質でも、不飽和脂肪酸が多いと分子のあいだに隙間ができ、柔軟性が
増す。細胞膜では不飽和脂肪酸をもつリン脂質が多数含まれていることによって、柔軟な構造を
作っている。
15
C: ステロイド
ステロイドは中性脂肪やリン脂質とまったく異なる構造で、炭素が六角形と五角形にならんだ
環状構造が 4 つ連なったものが基本骨格になっている。この骨格の炭素のところどころに、OH 基
やメチル基、さらに炭素がいくつか連なった構造などがくっついている。
ステロイドの代表的なものはコレステロールである。コレステロールも疎水性の分子で、細胞
膜の脂質二重膜の脂肪酸の間にはさまって構造を安定化する働きをしている。コレステロールの
量によって細胞膜の柔らかさや流動性が調節されており、コレステロールは細胞の機能に欠かせ
ない重要な分子である。しかし一方で、コレステロールには血液を通って細胞に運ばれる際に血
管の内壁に沈着してしまう性質もあり、この結果動脈が硬くなって内径が狭くなってしまう動脈
硬化を惹き起こす、やっかいな物質でもある。
★ コレステロールや中性脂肪は非極性の分子なので、そのままでは水が主成分である血液にはほとん
ど溶けない。体の各細胞が必要とする大量の脂質分子を血液を通じて運ぶために、多数のコレステロー
ルや中性脂肪の分子を集めて周囲を水になじみやすいタンパク分子のカバーで覆った構造を作り、それ
が血液中を運ばれている。このような脂質(lipid)とタンパクの集合体を、リポタンパクという。
コレステロールを運ぶリポタンパクには大きく 2 つの種類がある。肝臓などから体中の各細胞へとコ
レステロールを運ぶのに使われる比較的低比重のリポタンパク(LDL; low density lipoprotein)と、余剰
のコレステロールを各細胞から肝臓などに戻すのに使われる比較的高比重のリポタンパク(HDL; high
density lipoprotein)である。前者が多くなりすぎると余剰なコレステロールの血管への沈着が増えてし
まうため、これを俗に悪玉コレステロールと呼ぶ。後者は逆に余剰なコレステロールを除去するので、
俗に善玉コレステロールと呼ぶ。
悪玉も善玉も「積み荷」であるコレステロールは同じものであり、コレステロール自体は細胞の機能
に不可欠な極めて重要な分子である。また、悪玉コレステロールも、もしこれがなければ細胞へのコレ
ステロール運搬が途絶してしまい、生命を保てない。ちょうど必要十分な量だけのコレステロールを運
ぶというバランスが大切であり、バランスが崩れて過剰になった場合に「悪玉」と呼ばれてしまうわけ
である。すべての細胞に不可欠なコレステロールの配送を担う重要な粒子が「悪玉」などと言われてし
まうのは、全国の工場やお店に商品を配送するトラックが交通の邪魔扱いされているのと同じようで、
ちょっとかわいそうである。
ステロイドの仲間には、遠く離れた細胞と細胞の間で情報を伝えるホルモンに使われている分
子もある。たとえば、エストラジオールとテストステロンはどちらもよく似た構造のステロイド
で、前者は女性の卵巣、後者は男性の精巣で多く分泌され、体のさまざまな組織の男女特異的な
細胞機能に大きな影響を与える。このため女性ホルモン、男性ホルモンと呼ばれている。テスト
ステロンには筋肉の発達を促す作用があるので、運動選手が筋肉増強を図るドーピングに使われ
るステロイド剤は、テストステロンが主成分になっている。
また、腎臓の上にある副腎の皮質から分泌されるステロイド分子に、コルチゾールというホル
モンがある。コルチゾールは体のさまざまな細胞の機能調節に関わっているが、その 1 つに炎症
を抑える作用がある。皮膚炎などの薬に使われるステロイド剤はこのコルチゾールが主成分で、
同じステロイド剤でも筋肉増強につかうステロイド剤とは全く違う分子である。コルチゾールは
炎症を強力に抑えるので大変便利な薬だが、量が多すぎるとコルチゾールの制御を受けている他
のさまざまな細胞の機能にも影響が出てしまう。これが、ステロイド剤がときおり副作用を起こ
す原因である。
16
2-5 糖
糖(sugar)は、エネルギーの貯蔵に使われるとともに、細胞の構造を支える骨格にもなる多才な
物質である。糖は炭水化物とも呼ばれる。炭水化物の「炭」は炭素(C)、「水化物」はそれに OH
基がついたものという意味で、糖の基本的な分子は(CH2O)n という式で表すことができる。たとえば
n=3 のグリセルアルデヒドは C3H6O3 の分子式で表現でき、炭素の数から三炭糖と呼ばれる。n=5 の
リボースやリブロースは C5H10O5 の分子式で五炭糖、n=6 のグルコース(ブドウ糖)やフルクトース、
ガラクトースは C6H12O6 の分子式で六炭糖と呼ばれる。(これらの構造の一部に他の原子が加わっ
て、 (CH2O)n の分子式では表せないものもある。)原理的には七炭糖や八炭糖など無数の分子構造
がありうるが、生物で特に重要なのは三炭糖、五炭糖と六炭糖である。このうち三炭糖は第○章の光
合成、五炭糖は次章の核酸のところで詳しく触れるので、ここでは六炭糖の仲間について説明する。
A: 六炭糖の基本形
六炭糖は、水中ではほとんどが環状の分子として存在する。グルコースとガラクトースでは炭
素 5 つと酸素 1 つが六角形の環を作り、そこに炭素 1 つがはみ出してくっついた形をしている。
フルクトースでは炭素 4 つと酸と 1 つが五角形の環を作り、その 2 箇所に炭素が 1 つずつくっつ
いた形をしている。これらの炭素 1 つ 1 つに、OH 基と H 原子がついている。
2 つの糖分子が近づいて反応すると、近接した 2 つの OH 基から H2O が外れて脱水縮合し、2 つ
の糖が酸素原子を介してつながった形になる。グルコースが 2 つつながったのがマルトース(麦
芽糖)、グルコースとフルクトースがつながったのがショ糖(砂糖)、グルコースとガラクトー
スがつながったのがラクトース(乳糖)である。
B: 六炭糖がつながった、エネルギーを蓄えるのに使われる高分子
六炭糖は、さらにたくさんつながることもできる。多数のグルコースが六角形の両端の部分を
介して直線状につながると、アミロース(デンプン)になる。グルコースには両端以外にもたく
さんの OH 基があるので、1 つのグルコースに 2 つ以上の他のグルコースがつながることもできる。
とはいえグルコースは大きな分子なので、1 つの分子にあまりたくさんの分子が集中してくっつく
ことは、スペース的に干渉してしまってできない。そこで多くのグルコースが両端 2 カ所で結合
し、ところどころで 3 つの分子がつながって枝分かれした構造を取ることが多い。このようにし
てグルコースが沢山枝分かれしてつながった分子が、グリコーゲンである。
グルコースは呼吸反応の原料となる重要なエネルギー源で、これを多数つなげたデンプンやグ
リコーゲンはエネルギーの貯蔵に好都合な分子である。植物では主にデンプンを、動物ではグリ
コーゲンをこの目的に利用している。
前節で、脂肪もエネルギー貯蔵に使われることを説明した。植物では、脂肪よりもデンプンを
主なエネルギー貯蔵場所にしており、たとえば発芽のために多くのエネルギーを貯蔵しているイ
モや穀物には、多数のデンプンが含まれている。一方動物では、グリコーゲンよりも脂肪を主な
エネルギー貯蔵場所にしている。たとえば人間では、絶食すると体内に貯蔵しているグリコーゲ
ンだけでは一日ぐらいしか持たない。これに対し脂肪のエネルギー量ははるかに多く、数日から 1
週間程度は持つ。家庭科で「デンプンは 1 グラム 4 キロカロリー、脂肪は 1 グラム 9 キロカロリ
ー」と教わるように、脂肪の方が同じ重さでも倍以上のエネルギーを蓄えることができる。そこ
で、動き回る必要があるため体をコンパクトに保ちたい動物では、かさばらない脂肪を主なエネ
17
ルギー貯蔵材料に用いているのである。(皮下脂肪がもしデンプンだったとしたら、ダイエット
で気になるお腹のお肉が今の 2 倍の量になってしまう。)
C: 六炭糖がつながった、構造を作るのに使われる高分子
グルコースが直鎖状につながるとき、六角形の環と OH 基の位置関係に応じて、2 つのつながり
方が可能である。六角形の環から同じ方向に出た OH 基がつながるのがデンプンだが、六角形の環
から互い違いの方向に出た OH 基がつながると、セルロースになる。デンプンの分子はらせん状に
丸まった構造になるが、セルロースの分子はまっすぐな直線状になる。このような直線のセルロ
ース分子が束になると、強固な構造を作ることができる。これが植物やそれから作った木材や紙
の、基本構造になっている。
セルロースとデンプンは同じ分子から作られているが、つながり方が異なるので形状が全く違
う。このため、デンプンを分解する消化酵素は、セルロースを分解することができない。セルロ
ースを分解できる生物は限られており、自力でセルロースを消化できるものは非常に少ない。た
とえばウシやシロアリは、どちらもセルロース分解酵素を作る特殊な細菌を消化管の中で飼って
おり、その助けを借りてセルロースを分解している。
セルロースと似た分子で同じく強固な構造を作るものに、キチンがある。キチンはグルコース
の OH 基の 1 つがアセチル化されたアミノ基(アセトアミド基)に置き換わった形の分子で、この
分子がセルロース同様に互い違いに連なると丈夫な構造になる。昆虫や甲殻類などの節足動物の
表面の骨格が、キチンで作られた構造の代表格である。純粋なキチンはしなやかで柔らかいが、
炭酸カルシウムが混じると硬くなる。カニの脚や甲羅の硬い部分がカルシウム入りのキチン、脚
の関節を膜のように覆う柔らかい部分がカルシウムなしのキチンである。
コンニャクの主成分であるマンナンや寒天の主成分であるアガロースも、セルロースに似た構
造を持つ。マンナンは、グルコースと同じく六炭糖であるマンノースが、入り交じって直線状に
並んだ分子である。アガロースは、ガラクトースとその派生体であるアンヒドロガラクトースが、
交互につながった形をしている。セルロース同様、キチンやマンノース、アガロースも、人間は
これらを消化する酵素を持っていない。
D: その他の原子を含む六炭糖から成るムコ多糖
糖が連なった分子には、もうひとつムコ多糖と呼ばれる重要なグループがある。ムコ(muco)
は粘液状という意味で、細胞と細胞の間を埋める結合組織や、関節の摺り合わせ部、眼球、粘膜、
粘液などに大量に存在する。ムコ多糖はグリコサミノグリカン(glycosaminoglylan=糖+アミノ+
糖鎖)とも呼ばれ、六炭糖の一部にアミノ基やカルボキシル基、硫酸基が付加した基本構造が、
たくさん直線状につらなった構造をしている。
基本になる六炭糖の違いによってムコ多糖にはさまざまな種類があり、アミノ基とカルボキシ
ル基を持つヒアルロン酸や、それに加えて硫酸基を持つコンドロイチン硫酸やケラタン硫酸、ヘ
パリンがある。ヒアルロン酸以外は、タンパク分子のまわりに多数の糖分子が結合したプロテオ
グリカン(proteoglylan=タンパク+糖鎖)というかたちで生体に存在している。ムコ多糖に付加
されたアミノ基やカルボキシル基、硫酸基は極性が高く、そこに多数の水分子が吸着するため、
ムコ多糖は水分を非常に多く含んだ柔らかい構造を作ることができる。
18
★ ムコ多糖は保水力が高く粘りけのある弾性を持つ。そのため医薬品としても重要で、ヒアルロン酸
やコンドロイチン硫酸は、角膜移植手術などのあとに眼球の保水力を維持する目薬や、関節内に注射し
て骨の滑りをよくする関節痛の薬として、またヘパリンは血中に投与して血液凝固を防ぐ薬として使わ
れている。
E: 糖鎖
糖が作るもうひとつの興味深い構造に、糖鎖と呼ばれるものがある。これまで紹介した等の構
造のほとんどは 6 単糖が数百から数千以上つながった大きな構造だが、糖鎖はさまざまな種類の 6
単糖が数個から数十個つながった短い構造である。このような糖鎖がタンパクや脂質に結合した
のが、糖タンパクや糖脂質である。
糖タンパクでは、タンパクの中のセリン、トレオニン、アスパラギンなどのアミノ酸に糖鎖が
結合している。1 つのタンパクに数個から数十個の糖鎖がついていることが多い。細胞膜の表面に
露出したタンパクや細胞外に分泌されるタンパクは、ほとんどに糖鎖がついている。
糖脂質は、2 本の長い脂肪酸がつながった脂質分子の付け根から糖鎖が伸びている。この脂肪酸
部分が細胞膜に埋め込まれ、細胞の外側に糖鎖が伸びる形になっている。
細胞の表面には、細胞膜に埋め込まれた糖タンパクや糖脂質から無数の糖鎖が伸びて、糖鎖の
林のようになっている。細胞のタイプごとに持っている糖鎖の種類も違うので、糖鎖はさまざま
な分子が特定の細胞に結合するときに細胞を見分けるための目印になっている。自分自身が持つ
特有の糖鎖を認識することで、その糖鎖を持たない外部からの異物を見分けて排除するのにも使
われる。ウィルスや細菌の中には、糖鎖を見分けることで特定の細胞に感染するものは少なくな
い。薬の中にも、特定の糖鎖を認識して作用するものがたくさんある。
糖鎖の中で最も身近に知られているものは、血液型を決める糖鎖であろう。赤血球の細胞の表
面には、アセチルガラクトサミンとガラクトースという糖が数個づつつながった先に先端にフコ
ースという糖がついた糖鎖が多数生えている。この構造の先にさらにもうひとつ糖を追加する働
きを持つタンパクがあるのだが、そのタンパクがガラクトースを追加するタイプのものを持って
いる人が A 型、アセチルガラクトサミンを追加するタイプのタンパクを持っている人が B 型、両
方のタイプのタンパクを持っているために、ガラクトースがついた糖鎖とアセチルガラクトサミ
ンがついた糖鎖の両方を持っている人が AB 型、このタンパクが壊れていて機能しないために、ガ
ラクトースもアセチルガラクトサミンもついていない糖鎖を持っている人が O 型である。(この
ような糖鎖の違いが性格に影響するのかどうかは、少なくとも科学的には実証されていない。)
2-6 タンパク
タンパクは、アミノ酸と呼ばれるさまざまな種類の分子が多数つながって作られる分子である。
タンパクは英語で protein と呼ばれるが、これは「第一(proto)のもの」という意味である。名前の
通りタンパクは、生体内の高分子の半分強を占める非常に重要な分子群で、人間では 2 万以上の種
類があり、その種類や役割も非常に多彩である。
アミノ酸は、1 つの炭素分子のまわりにアミノ基(NH2)、カルボキシル基(COOH)、水素原子
(H)と、側鎖(残基 residue とも呼ばれ、R と略される)と呼ばれる分子鎖が結合した構造をして
いる。ほとんどの生物には、側鎖が異なる 20 種類のアミノ酸がある。2 つのアミノ酸が近づいて反
応すると、一方のアミノ酸のアミノ基の H と他方のアミノ酸のカルボキシル基の OH がくっついて
19
水分子として外れ、残りの部分が脱水縮合する。こうしてできた結合をペプチド結合という。タン
パクは、多数の炭素原子がペプチド結合でつながった骨格から、多数の側鎖が横に飛び出した形を
している。
A: アミノ酸と側鎖
アミノ酸の側鎖にはさまざまな種類があり、その形によって異なった化学的性質を持つ。ちょ
っと面倒だがこの 20 種類を順番に見てみよう。
一番簡単な形のアミノ酸はグリシンで、側鎖として水素原子が 1 つだけついている。セリンや
トレオニン(スレオニン)の側鎖は、炭素がいくつかと水酸基(OH)がついている。アスパラギ
ン酸やグルタミン酸は、水酸基のかわりにカルボキシル基(COOH)がついている。そのカルボキ
シル基にアミノ基が結合したのが、アスパラギンやグルタミンである。リシン、アルギニン、ヒ
スチジンは、長めの炭素鎖の終端や中間にアミノ基がついた形をしている。水酸基やカルボキシ
ル基、アミノ基は電子の分布が偏った極性を持っているので、これらのアミノ酸は水となじみや
すい親水性を示す。特にアスパラギン酸、グルタミン酸、リシン、アルギニンは、電子が 1 つ完
全に取れたり増えたりしたイオンになっている。
アラニンやバリン、ロイシン、イソロイシン、プロリンは、炭素と水素だけが連なった炭化水
素の構造を持つ。フェニルアラニン、チロシン、トリプトファンは、ベンゼン環のような六角形
の構造(芳香環)を持つ。これらのアミノ酸は非極性で、水となじみにくい疎水性を示す。(チ
ロシンとトリプトファンには水酸基やアミノ基がついているが、それ以外の非極性の部分が非常
に大きいので全体としては極性が小さい。)
メチオニンとシステインは、硫黄原子を 1 つ持っている。硫黄はわずかに電子を引き寄せる性
質があるので、他に炭素が 1 個ついただけのシステインは極性があり親水性である。一方メチオ
ニンは、他に炭素が 3 個もあり、全体としては極性がほとんどなく疎水性である。
側鎖(残基 residue)の性質
水素原子(H)のみ
水酸基(OH)を持っている
カルボキシル基(COOH)を持っている
カルボキシル基にアミノ基が付いている
アミノ基(NH2, NH3)を持っている
炭化水素(C と H)だけを持っている
タイプ
親水性
親水性
親水性
親水性
親水性
疎水性
芳香環(六角形)を持っている
疎水性
硫黄を持っていて、炭化水素少し
硫黄を持っていて、炭化水素たくさん
親水性
疎水性
例
グリシン(Gly, Q)
セリン(Ser, S)、トレオニン(Thr, T)
—
—
アスパラギン酸 (Asp, D)、グルタミン酸 (Gln, E)
アスパラギン(Asn, N)、グルタミン(Glu, E)
リシン+(Lys, K)、アルギニン+(Arg, R)、ヒスチジン(His, H)
アラニン(Ala, A)、バリン(Val, V)、
ロイシン(Leu, L)、イソロイシン(Ile, I)、
プロリン(Pro, P)
フェニルアラニン(Phe, F)、チロシン(Tyr, Y)、
トリプトファン(Trp, W)
システイン (Cys, C)
メチオニン (Met, M))
アミノ酸は 1 つの炭素原子のまわりにアミノ基、カルボキシル基、水素原子、側鎖の 4 つの違っ
た構造がつながっている。炭素原子の上に水素原子、下に側鎖が来るようにアミノ酸を置いてみる
と、アミノ基とカルボキシル基が左と右に並ぶような配置と、右と左に並ぶような配置の、2 種類
の構造が考えられる。両者は、ちょうど鏡に映したように対象な関係にあり、これを鏡像対称とい
う。アミノ基が左に来るタイプを L 型(ギリシャ語の左 levo から)、右に来るタイプを D 型(ギリ
シャ語の右 dextro から)という。生物が使うほとんど全てのアミノ酸は L 型である。
20
★ 鏡像対称になる分子は、アミノ酸だけでなく糖やその他さまざまな分子でも、4 つの異なる構造
が 1 つの炭素原子につながるような部分があれば生じうる。両者は化学的には同一の物質で、化学合成
で分子を生成すると両者が半分ずつ生成される。しかし形は正反対である。生体内では多くのタンパク
が分子の形を認識して機能するため、両者は全く別の物質として認識され、一方だけしか機能を持たな
いことが多い。
アミノ酸のほとんどは炭素・水素・酸素・窒素で構成されているが、一部のアミノ酸に硫黄が含
まれている。そのため、ほとんどのタンパク分子には微量の硫黄が含まれている。タンパクが腐っ
て分解すると、この硫黄が硫化水素などになって嫌な臭いを発する。これが俗に言う腐卵臭である。
同じ生体高分子でも、デンプンや中性脂肪は炭素・水素・酸素だけで構成されており、リン脂質に
だけリンが入っている。また次節で述べる核酸は、炭素・水素・酸素・リンから成る。これらの高
分子には硫黄が入っていないため、分解してもタンパクのような腐卵臭は出さない。
★ タンパクの検出によく使われる反応にキサントプロテイン反応がある。タンパクに濃硝酸を加える
と淡い黄色になるが、これはいくつかのアミノ酸に含まれるベンゼン環がニトロ化されて生じる色であ
る。糖や脂質や核酸は、ベンゼン環を含まないので黄色くならない。アミノ酸の中でもコラーゲンなど
は、ベンゼン環を持つアミノ酸をほとんど含まないので、キサントプロテイン反応が起こらない。
B: ポリペプチドと高次構造
このようなアミノ酸がペプチド結合で数個から数十個程度つながったものをオリゴペプチド
(または単にペプチド)と呼び、たくさんつながったものをポリペプチドと呼ぶ。タンパクはア
ミノ酸が 100 個以上つながったものばかりなので、すべてポリペプチドである。
タンパクは、どれも基本的には 1 本のアミノ酸の鎖(ペプチド鎖)である。この鎖から複雑な
タンパクの構造が作られる過程は、4 つの段階に分けて考えることができる。これをタンパクの高
次構造という。
一次構造は、アミノ酸が連なった 1 本の鎖の配列のことを指す。たとえば赤血球にあるヘモグ
ロビンを作るタンパクの 1 つは、141 個のアミノ酸が先頭からバリン・ヒスチジン・ロイシン・ト
レオニン・プロリン・グルタミン酸・グルタミン酸・リシン・・・のようにつながっている。この並
びが一次構造で、各アミノ酸の 3 文字略号を使って Val-His-Leu-Thr-Pro-Glu-Glu-Lys-のように書い
たり、1 文字略号を使って VHLTPEEK…のように書いたりする。すべてのタンパクは、DNA に書
かれた設計図をもとにアミノ酸から合成された直後の状態では、単純な 1 本鎖の状態になってい
る。
二次構造は、数十個程度のアミノ酸鎖が作る局所的な構造のことを指す。二次構造の代表的な
ものに、α ヘリックスと β シートの 2 つがある。α ヘリックスは、アミノ酸鎖の骨格(炭素原子と
ペプチド結合が連なった部分)が細いらせん状に巻いた構造で、アミノ酸 4 つ分で 1 周期を描く。
それぞれのアミノ酸の側鎖は、らせんのまわりに放射状に広がる。β シートはペプチド鎖が折れ曲
がって平行に並んだ構造で、このような鎖が何本も並ぶとシート状になる。それぞれのアミノ酸
の側鎖は、シートのそれぞれの面から飛ぶ出すように並ぶ。
髪の毛などに含まれるケラチンは、分子のほとんどが α ヘリックスでできた細長いタンパクで
ある。また絹やクモの糸を作るフィブロインは、アミノ酸鎖が何重にも折れ曲がってできた β シ
ートが連なった構造をしている。
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三次構造は、このような二次構造が複雑に組み合わさってできたタンパク全体の構造のことを
指す。たとえば短い α ヘリックスが折れ曲がるようにつながったり、β シートが幾重にも重なった
りして、球状やカゴ状のタンパクを作る。単純なタンパクでは、アミノ酸鎖全体がひとかたまり
にまとまった構造を作る。もっと複雑なタンパクでは、アミノ酸鎖の最初の一部分がひとかたま
りの構造を作り、その先の一部分が別の固まりを作り、その先がさらに別の固まりを、、、とい
うように、1 本のアミノ酸鎖がいくつかの固まりに分かれることもある。このようなひとかたまり
の構造を、ドメインと呼ぶ。多くのタンパクは、いくつかのドメインが連なった構造になってい
る。
1 本のアミノ酸鎖が二次構造や三次構造を形成して複雑に折りたたまれてゆく過程を、フォール
ディングと呼ぶ。アミノ酸鎖は長いので、タンパクが作られる際にはアミノ酸鎖の先の方がまだ
合成されている最中に、最初に合成された部分ではすでにフォールディングが始まっている。全
てのアミノ酸鎖の合成が完了して細胞質の中に放出されてからもフォールディングは続き、全体
が複雑に折りたたまれた最終的な形態が完成する。複雑なタンパクでは、フォールディングが完
成するのに数時間以上かかることもある。
四次構造は、こうして作られたタンパクがいくつも組み合わさって、さらに複雑な複合体を作
ることを指す。たとえばヘモグロビンは、α サブユニットと β サブユニットが 2 つずつ、合計 4
つのタンパク分子が組み合わさってできている。免疫に重要な役割を果たす抗体も、4 つのタンパ
ク分子が組み合わさっている。このように複数のタンパクが集まって 1 つの大きな複合体を作る
例は非常に多く、数十個のタンパクが複合体を作るケースもある。
★ 複雑な機械を作るとき、全体を一気に作ろうとすると途中でどこか 1 ケ所でもミスが起きたら全体
を作り直さないとならなくなる。それよりは全体をいくつかの部品に分け、きちんと出来た部品どうし
を組み合わせた方がミスが起きにくい。複雑なタンパクが複合体になっているのも、この理由からであ
る。また、複合体の中には構成要素が必要に応じてダイナミックに分割合体して機能を発揮するものも
のある。
C: 高次構造を作る力
アミノ酸鎖が複雑に折れ曲がった構造を保ったり、複合体を作る複数のタンパクが互いにくっ
つき合うためには、いくつかの力が重要な役割を果たす。
まず重要なのは水素結合である。窒素や酸素原子は電子を引き寄せる力が強く、それにくっつ
いた水素原子は電子が窒素や酸素に引き寄せられるので、わずかにプラスに帯電する。一方、窒
素や酸素原子は電子を引き寄せた結果、わずかにマイナスに帯電する。ある分子の中でプラスに
帯電した水素原子と、他の分子の中でマイナスに帯電している窒素や酸素原子が近接すると、両
者が電気的に引きつけあって水素結合を形成する。
二次構造は、アミノ酸鎖の骨格の原子の間に水素結合が形成されることで安定化している。α ヘ
リックスでは、ペプチド結合の窒素原子から伸びた水素原子と、4 つ先のペプチド結合の炭素原子
から伸びた酸素原子の間で、水素結合が形成される。β シートでは、互いに並行したアミノ酸鎖骨
格の水素原子と酸素原子の間で水素結合が形成される。多数の水素結合が形成されることで、α ヘ
リックスや β シートは強固な構造を保っている。
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また、極性のあるアミノ酸側鎖には「窒素や酸素から伸びた水素原子」がたくさんあるので、
これらと他のアミノ酸側鎖にある窒素や酸素原子のあいだに、水素結合が形成される。これによ
って、三次構造が安定化している。
もうひとつの力はイオン結合である。アミノ酸の側鎖の中には、リシンやアルギニンのように
プラスイオンになったものや、アスパラギン酸、グルタミン酸のようにマイナスイオンになった
ものがある。これらの側鎖が引っ張り合って、構造を安定化させる。
水素結合やイオン結合よりは弱いが大事な役割を果たすものに、ファン・デル・ワールス力が
ある。オランダの物理学者の名前からつけられたこの力は、極性を持たない分子、あるいは分子
の一部分どうしが近づくと、電子の分布にわずかな偏りが生じて引きつけあうことで生じる力で
ある。
生物の体のほとんどは水なので、タンパク分子は水中に浮かんで存在している。親水性のアミ
ノ酸側鎖が多い部分は水になじみやすく、疎水性のアミノ酸側鎖が多い部分は水になじみにくい。
そのためアミノ酸の鎖は、なるべく疎水性の部分を内側に、親水性の部分を外側にして丸まった
形を取ろうとする。この力も、タンパク全体の形を作るのに重要な役割を果たす。
あるタンパクのアミノ酸鎖がどのような形に折れ曲がれば一番安定した形になるかは、アミノ
酸がどのように並んでいるかによって一義的に決まる。高次構造を作っていない 1 本のアミノ酸
鎖は、上記のさまざまな力が重なり合って、いつも一定の形に折れ曲がる。このおかげで、DNA
にはアミノ酸をつなぐ順番しか記録されていないにも関わらず、複雑に折りたたまれたタンパク
分子を作ることができるのである。とはいえ、合成された全てのタンパクがきちんとした形に折
りたたまれるわけではない。時として、うまく折りたたまれずに変な形に絡まった状態でフォー
ルディングが止まってしまうタンパク分子もある。このような失敗作品のタンパクは、やがて分
解されてしまう。
このような失敗をなるべく避けるため、合成されたばかりのアミノ酸鎖に寄り添って正確で効
率のよいフォールディング形成を補助する役目のタンパク分子もいろいろ知られている。このよ
うな分子を総称してシャペロンという。シャペロンとはもともとは社交界の用語で、社交界にデ
ビューしたばかりの若い女性に寄り添って、あれこれ教えながら一人前になってゆくのを助ける
年輩の介添え女性のことを指す。出来たばかりのタンパクに寄り添って一人前になるのを助ける
さまを擬人化した名称である。
D: タンパクの修飾と糖鎖
アミノ酸がつながって合成されたタンパクには、そのあとさまざまな修飾が加えられることが
ある。たとえば、高次構造を作って折りたたまれたタンパクの途中同士を共有結合(原子どうし
がしっかり結ぶついた結合)で結ぶと、構造を安定化させることができる。システインというア
ミノ酸には側鎖に硫黄と水素が結ぶついた SH という部分があるが、2 つのシステインの SH がタ
ンパクの中で近くにあるとき、両者の間から H2 が外れて硫黄原子どうしが共有結合し、SS 結合と
いう構造を作る。これによってタンパクの形が頑丈に保たれるようになる。SS 結合を作るには等
別な酵素が必要で、この反応は小胞体と呼ばれる場所で起こる。
23
★ タンパク分子の SS 結合をうまく利用したのが、美容院で行われるパーマネント(パーマ)である。
髪の毛を作るケラチンというタンパクは、隣り合う分子の間でたくさんの SS 結合を作っている。まず
SS 結合を壊す薬品で髪の毛を処理し、つぎに髪の毛を一定の形に固定しながら別の薬品で処理すると、
ケラチン分子間ではじめとは違った場所の間に SS 結合が形成され、その状態の髪の毛の形が長く保て
るようになる。
もうひとつ重要な修飾が、2-5-E 節で説明したようにセリン、トレオニン、アスパラギンなどの
アミノ酸に糖鎖を結合させる反応である。これによって、タンパクの表面構造を多様に変化させ、
タンパクを安定化させたり、複雑な機能を与えたりすることができる。糖鎖が付加されたタンパ
クを糖タンパクという。タンパクに糖鎖を付加する反応は、細胞内のゴルジ体と呼ばれる器官で
さまざまな酵素によって行われる。
細胞の構造を説明する 節で詳しく述べるが、小胞体やゴルジ体は、細胞の表面にあるタン
パクや細胞外に分泌されるタンパクだけが通過する道筋である。そのため、SS 結合や糖鎖の付加
されたタンパクは、細胞の外側には非常にたくさん見られるが、細胞内にはほとんどない。
タンパクの中のアミノ酸を、微妙に異なる他の種類のアミノ酸に変えるような修飾もある。た
とえば皮膚や粘膜に大量に含まれているコラーゲンには、この節の最初で説明した 20 種類のアミ
ノ酸とは異なるヒドロキシプロリンやヒドロキシリシンという特殊なアミノ酸がたくさん含まれ
ている。これは、普通のプロリンやリシンを使って合成されたコラーゲン分子に、あとからプロ
リンやリシンの部分に OH 基が付加されて、異なる種類のアミノ酸に変わったものである。
★ プロリンやリシンに OH 基を付加するのは酵素の働きによるが、この酵素が働くにはアスコルビン
酸という小さな別の分子が不可欠である。アスコルビン酸は人体では合成できないため、ビタミン C と
呼ばれている。ビタミン C は野菜や果物に大量に含まれているが、それが不足するとプロリンやリシン
への OH 基の付加が十分に行われず、きちんとしたコラーゲン分子を作ることができなくなる。そのた
め皮膚や粘膜の組織が劣化し、唇などの粘膜がカサカサになったり、さらにひどくなると出血したり壊
死したりして死に至る。これが壊血病で、野菜や果物を長期保存できる方法が見つかるまでは、遠洋航
海の船員が死亡する大きな問題になっていた。
★ ついでに脱線すると、アスコルビン酸には非常に酸化されやすいという性質もある。そのため食品
に添加しておくと、まずアスコルビン酸が酸化されるため、他の成分の酸化を遅らせることができる。
この性質を利用して、アスコルビン酸は酸化防止剤として重宝されている。緑茶飲料などには必ずとい
ってよいほどビタミン C が添加されているが、これは壊血病を防ぐためではなく、緑茶成分の酸化によ
る風味の劣化を防止するためである。「酸化防止剤添加」と書いてあると何となく危険な気がするが、
「ビタミン C 添加」と書いてあると何となく健康に良さそうな印象になるのは、おかしなものである。
2-7 タンパクのさまざまな種類
生物の体には数千
数万種類のタンパクがあり、極めて多彩な機能を持っている。これを簡単に
整理してみよう。
A: 生体の構造を作るタンパク
糖の一種であるセルロースやキチンが丈夫な構造を作ることができるのと同じように、タンパ
クも構成によっては複雑で強固な構造を作ることができる。細胞の中ではアクチンやチューブリ
ン、ケラチンなどのタンパクが細胞骨格を作って細胞の構造を支えている。アクチンやチューブ
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リンは単体では球状の分子だが、直線状にたくさん並ぶことで丈夫な骨格構造を作っている。ケ
ラチンは繊維状のタンパクで、特に皮膚の細胞では密な固まりになって、角質層や髪の毛、爪を
作っている。
細胞の外に分泌され、力学的な強度維持の役割を果たす細胞外マトリクスを形成するタンパク
もある。代表的なのがコラーゲンで、人間の全タンパクの 3 割を占め、皮膚の真皮や、軟骨、骨、
腱などに豊富に含まれている。皮膚ではコラーゲンの繊維にエラスチンタンパクが絡んで、弾力
のある構造を作っている。前節で述べた糖とタンパクが結合したプロテオグリカンも、細胞外マ
トリクスの重要な成分になっている。繭の絹糸やクモの糸を作るフィブロインも、細胞から分泌
されて強固な構造を作るタンパクである。
B: 運動を起こすタンパク
アクチンやチューブリンで作られた細胞骨格の表面を、滑るように動くタンパクもある。アク
チンに沿って動くのがミオシンとキネシン、チューブリンに沿って動くのがダイニンで、細胞内
の異なる場所へさまざまな物質を運んだり、筋肉や鞭毛の運動の原動力になったりしている。
C: 化学反応を惹き起こす酵素タンパク
タンパクの中でもっとも種類が多く、重要な役割をするのが、酵素である。酵素は特定の化学
反応を促進させる触媒の働きをする分子で、食物の消化、老廃物の分解、DNA や RNA の翻訳や
転写、タンパクや糖など生体に必要な各種物質の合成など、細胞内のさまざまな反応の主役であ
る。
D: 物質の移動に関わるタンパク
特定の物質と結合して、体内の物質の輸送を助けるタンパクもある。ヘモグロビンは水に溶け
にくい酸素と結合して、大量の酸素を肺から体中の細胞に運ぶ。リポタンパクは水に溶けにくい
コレステロールや中性脂肪の分子と結合し、血液に溶かして運ぶ。
また、細胞の表面をおおう細胞膜は、ごく限られた物質しか透過しない。多くの物質は、膜に
埋め込まれたさまざまなタンパクによって膜を横切って輸送される。たとえば水は細胞膜をほと
んど透過しないが、細胞膜にはアクアポリンという小さな穴を持った分子が埋め込まれており、m
水分子を選択的に透過する。ナトリウムやカリウムなどのイオンを通すチャンネルと呼ばれる分
子や、より大きな特定の分子を通すトランスポーターと呼ばれる分子もいろいろある。
E: 信号を検知するタンパク
タンパクの中には、さまざまな刺激や信号を検知する受容体と呼ばれるものもある。目、鼻、
舌の細胞には、光やさまざまな化学物質を検知するタンパクが並んでいる。耳や、皮膚の触覚細
胞には、微細な動きに反応するタンパクがある。神経細胞には、他の神経細胞から放出された神
経伝達物質を検知するタンパクがある。また内臓などの細胞には、さまざまなホルモン(ある臓
器から血液中に放出され、他の臓器に信号を伝えるための分子)を検知するタンパクがある。
F: 自らが信号になるタンパク
細胞から分泌されて、周囲の細胞の受容体によって検知されることによって細胞間で信号を伝
えるタンパクもある。生物の発生の過程では、このようなタンパクによって細胞がお互いに情報
をやりとりし、体の構造を間違いなく作るのに役立っている。
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また、さまざまなホルモンの中の半分近くは、アミノ酸数個から数十個で構成された非常に小
さいタンパクの一種である。(一般のタンパクよりずっと小さいので、タンパクでなくペプチド
と呼ばれている。)
G: 生体を防御するタンパク
抗体は、異物を撃退する生体防御に使われるタンパクである。抗体は白血球の一種であるリン
パ細胞から血液や体液中に分泌され、細菌などの異物に出会うとそれに結合する。白血球の別の
一種であるマクロファージと呼ばれる細胞が、抗体が結合している物質を取り込んで分解する。
H: アミノ酸を貯蔵するタンパク
ほとんどのタンパクは何らかの機能を持っているが、各種のアミノ酸を貯蔵するためだけのタ
ンパクもある。これが母乳に含まれるカゼインや、卵白に含まれるオボアルブミンで、赤ん坊や
胚がさまざまなタンパクを作るのに必要なアミノ酸をバランスよく供給する役割がある。
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3 章 生物に必要な物質の吸収と利用
この章ではちょっと脱線して、これまで見てきたさまざまな分子を生物がどのようにして体外か
ら取り込み、利用しているかを調べてみよう。
3-1 生体分子の消化と吸収
植物は自分の体を作るのに必要な物質のほとんどを自分自身で合成できる。しかし私たち動物は、
植物や他の動物を食べることで必要な物質を補給している。家庭科で習った食事の三大栄養素は、
脂肪・炭水化物・蛋白質である。これらはそれぞれ脂質・糖・タンパクの原料になるが、生物は口
から食べたこれらの分子を、そのまま体内に吸収して利用するわけではない。さまざまな消化酵素
が、食物に含まれる分子を細かく分解する。
まず脂肪は、膵臓から分泌される膵液に含まれるリパーゼという酵素によって、グリセリンと脂
肪酸に分解される。リン脂質も、膵液に含まれるホスホリパーゼでグリセリンと脂肪酸に分解され
る。
糖は、デンプンは唾液に含まれるアミラーゼによってグルコース 2 つぶん程度にまで切断された
のち、腸から分布されるマルターゼによって個々のグルコースに分解される。ショ糖や乳糖などの
二糖類も、腸から出るスクラーゼやラクターゼなどの酵素で、単糖にまで分解される。
タンパクは、pH1 という強い酸性の胃液に溶けたペプシンによって、アミノ酸鎖の間のペプチド
結合が加水分解され、短いアミノ酸鎖に分解される。さらに膵液に含まれるトリプシン、キモトリ
プシン、エラスターゼなどの酵素が、それぞれ特定の種類のアミノ酸の隣のペプチド結合を加水分
解し、最終的にアミノ酸 1 つか 2 つ程度にまでほぐされる。
次章で述べる DNA や RNA などの核酸も、膵臓や鳥から分泌される核酸分解酵素によって一つ一
つの単位に分解される。
小腸の細胞膜には、こうして分解されたそれぞれの分子を専門に取り込むさまざまな輸送タンパ
クが並んでおり、必要な物質を細胞内に取り込む。取り込んだ物質は細胞の反対側から血液に送り
込み、必要な内臓へと送る。このように、ごく一部の例外を除いてほとんどの生体高分子は、胃や
腸の中で基本単位にまで分解されてから体内に取り込まれる。
3-2 必須アミノ酸
生物は、こうして取り込んださまざまな分子を組み合わせて、自分の体に必要な分子を組み立て
直すことができる。これは、単に取り込んだアミノ酸などを違う順番に並べ直すだけでなく、複雑
な化学反応によって別の分子を作ることもできる。たとえば生物は 20 種類のアミノ酸の多くを、糖
や他のアミノ酸を材料にして生体内で合成することができる。
しかし動物の多くでは、20 種類のうち一部のアミノ酸を合成する能力を失ってしまったり、必要
な量を十分に合成できなかったりする。人間はその一例で、トリプトファン、リシン、メチオニン、
フェニルアラニン、トレオニン、バリン、ロイシン、イソロイシン、ヒスチジンと、9 種類ものア
ミノ酸を自分では十分に合成できず、外部から摂取しないとならない。これらを必須アミノ酸と呼
ぶ。どのアミノ酸が必須アミノ酸かは、動物の種類によって異なる。
タンパクを作るときに、部品となるアミノ酸がどれか 1 つでも足りないと、タンパクを作ること
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ができなくなってしまう。食物によって含まれるアミノ酸の比率が異なるので、特定のものばかり
を食べているとアミノ酸が足りなくなることがある。たとえば穀類ばかりを食べていると、リシン
やイソロイシンが足りなくなる。豆や肉類にはこれらのアミノ酸が十分に含まれているので、これ
らを同時に食べれば不足が生じることがない。家畜の飼料では、化学合成したアミノ酸を添加して
不足を補うこともある。数十年前のことだが、学校給食のパンにリシンを添加する計画が発表され
たときに、合成物の添加は危険だという反対運動が起き、計画が中止されたことがあった。しかし
今日では、これらの合成アミノ酸がサプリメントの健康食品として盛んに販売されている。皮肉な
ものである。
しかし、特定のアミノ酸ばかりを食べても他のアミノ酸の量とバランスが取れていなければ意味
がない。添加物に頼らず、バランスのよい食事から摂取するのに越したことはない。
3-3 ビタミン
生物は細胞で使う小さな分子の多くを自分自身で合成できるが、ごく一部、自分ではまったく合
成できなかったり、必要な量を十分に合成できないものがある。これらの小分子を、ビタミンと呼
ぶ。2-6-D 節で触れた、コラーゲンのアミノ酸に OH 基を付加する酵素の反応に必要なアスコルビン
酸は、ビタミンの例である。またレチノイン酸(ビタミン A)は、目の中にある光を検知するタン
パクと結合して光の受容を担う分子であり、欠乏すると光が少ない夜間に目が見えなくなる夜盲症
になる。レチノイン酸はムコ多糖の合成にも使われている。また胎児から手や足が伸びてくるとき
に手足の前後方向を決める信号分子としても使われている。
ビタミンは、最初に水溶性のものが 2 種類と油溶性のものが 1 種類見つかった。そこで水溶性の
ものがビタミン A と B、油溶性のものがビタミン C と名付けられた。ところがその後、他にもビタ
ミンと呼ぶべき分子が続々と見つかってきた。油溶性のものはそのままアルファベットを続けてビ
タミン E、F、、と命名されたが、水溶性のものは C 以降のアルファベットをすでに使ってしまった
ので、やむなく B のあとに数字をつけて、ビタミン B1、B2、B3、、、と名付けられた。ビタミン B
だけ細かい数字のついたものがたくさんあるのは、このためである。これらの中には細胞内でエネ
ルギーを生み出す代謝反応に重要なものがいろいろあり、○章で説明する呼吸のところで詳しく解
説する。
3-4 サプリメントと健康食品
なぜ生物は食品に含まれるさまざまな分子をいちいち分解してから取り込み、ふたたび組み立て
直すのだろうか?理由は大きくふたつある。実際的な理由は、食べたものが腸から体内に入って体
の各部の細胞に達するには、腸の表面の細胞や血管のまわりの細胞など、さまざまな細胞の膜を通
過してゆく必要があるためである。細胞膜には特定の分子を通すためにさまざまな輸送タンパクが
埋め込まれているが、これらのタンパクは小さな分子しか通すことができないため、大きな分子は
小さく分解しないと膜を通れない。
もうひとつ、もっと本質的な理由は、生物は食物を自分の体に必要なさまざまな生体部品を作る
ための「原料」として取り込むのであって、食べたものによって生物の機能自身が左右されては困
るためである。食べ物はすべて基本的には生物の細胞だが、食べた生物の皮膚や筋肉や内臓や神経
の細胞では、それぞれの細胞の機能に必要なタンパクが特異的に作られて働いている。それらがそ
28
のまま私たちの腸の細胞に入ってきて機能してしまったら、私たちの腸は腸としての働きを維持で
きない。私たちの筋肉が、牛肉を食べたら牛肉っぽく、豚肉を食べたら豚肉っぽくなったりしては
困る。また、食べ物に含まれる無数の細胞には DNA があり、そこに遺伝情報が書き込まれている。
それがそのまま体の中に入ってきて、私たち自身の DNA と混じってしまったら大変である。私たち
の体のそれぞれの細胞が独自の機能をきちんと維持するためには、食べたものはすべて分解されな
くてはならないのである。
この原則は、ちまたにあふれる健康食品にとっては、ちょっと目の上のたんこぶ的な問題である。
この節では、この観点から健康食品をいくつかに分けて考えてみよう。
A: 体にそのまま取り込まれる物質を含む健康食品
健康食品の代表選手のひとつに、ビタミン剤や必須アミノ酸のサプリメント(サプリ)がある。
ビタミンもアミノ酸もバランスのよい食事をしていればまず十分な量を摂取できるので、普通はサ
プリの必要はない。しかし食生活が偏っていたり、病気などで十分な量の食事が取れないときは、
これらのサプリで補充することに意義がある。
もうひとつのサプリに、鉄や亜鉛などのミネラルサプリがある。鉄は酸素を運ぶヘモグロビンに
必須な元素なので、足りなくなると貧血になる。肉を十分に食べていない人にとって、鉄サプリは
手っ取り早く鉄を補充する効果がある。
亜鉛は DNA、RNA やタンパクの合成に使われるさまざまな酵素の中心に位置し、反応を媒介し
ている。亜鉛が足りなくなるとこれらの合成がうまく行かず、頻繁に分裂する細胞の新生がうまく
行かなくなる。亜鉛が欠乏すると味覚細胞の新生がうまく行かなくなり、味覚がおかしくなる例は
前に説明した。これから類推して、大量に細胞分裂する精子の作成に亜鉛が効くのではないかとい
うことで亜鉛サプリが強精剤として利用されたり、髪の毛や皮膚のタンパク合成に効くだろうとい
うことで薄毛やアトピーの対策に利用されたりしている。これらは何となく今の科学の知識で説明
ができそうな効果ではあるが、ふつうの食事で亜鉛が十分に摂取できている人がさらにたくさんの
亜鉛を摂取したからといって、強精剤や薄毛予防の効果が本当にあるのかはちょっと分からない。
ビタミンやミネラルは、適量を摂取する分には問題はないが、あまり過剰に摂取すると副作用が
出ることがある。普通の食事では過剰摂取はほとんど起こらないが、これらの物質が濃縮されてい
るサプリでは簡単に大量服用ができてしまうため、過剰摂取で悪影響が生じることがある。たとえ
ばビタミン A は胎児の発生の際にさまざまな細胞の分化を制御する信号分子として使われているた
め、妊婦がビタミン A を摂取しすぎると奇形が生じやすくなる。
B: 分解されないと取り込まれないが、取り込まれたあと少しは効果がありそうな健康食品
プロテインサプリというのも売られている。これは要するにタンパクを固めたもので、食べると
分解されてアミノ酸になって吸収される。タンパクは普通に肉や豆を食べていれば十分な量を摂取
できるが、肉や豆には脂肪も多く含まれているため、ボディビルなどの目的で脂肪を摂らずにタン
パクだけをたくさん摂りたいといった特殊な目的には、プロテイン製剤が便利である。ただし、私
たちの体は余ったアミノ酸から脂肪を合成する仕組みを持っているので、プロテインを食べ過ぎる
と結局脂肪がついて太ってしまうこともある。
核酸サプリは、DNA や RNA を多く含むサプリで、摂取すればこれらの分子の合成に利用される。
植物の種から細胞部分である胚芽を除いてしまった白米や白い小麦は、DNA や RNA をほとんど含
29
まない。従ってもしこれだけを食べていると、核酸の摂取が不足することもあり得る。そのときは
核酸サプリも効果があるかも知れない。
しかし肉や魚、野菜、漬け物などを同時に食べていれば、それらには大量の細胞が含まれ、その
一つ一つに核酸が含まれているので、核酸が不足することはほとんどない。白米だけを食べていた
のでは核酸だけでなくビタミンやタンパクも摂取できないから、ビタミン剤やプロテイン剤も併用
して飲まないとならない。サプリに頼らず核酸・ビタミン・プロテインを同時に補給する簡単な方
法がある。バランスのよい食事を摂ることである。
C: 分解されないと取り込まれないうえ、期待通りの効果は上げにくそうな健康食品
以上のような健康食品は、本当に効果があるかどうかは別として、少なくとも摂取したあとどの
ように働くかを科学的に説明しうるものであった。しかし、「今の科学の知識を越えた何か」がな
い限り効果を説明できないような健康食品もある。
最近増えてきた健康食品のひとつに、「酵素」と称するものがある。体に効きそうなさまざまな
酵素を持つ酵母などを精製して固めたものである。しかし 6 章で述べるように、酵素をはじめとす
るタンパクは、特定の細胞で、特定の時期に、適当な量だけ作られることで、体の機能をコントロ
ールしている。外来の酵素が直接体の中に入って機能したのでは、大変なことになる。このような
ことが起こらないよう、生物は基本的に食べたタンパクはすべてアミノ酸に分解している。従って
酵素サプリを食べても、普通の肉と同じようにアミノ酸に分解されてしまうだけであり、効能は期
待できない。
コラーゲンやヒアルロン酸も効能が微妙な健康食品である。前述のようにコラーゲンは皮膚に大
量に含まれるタンパクなので「お肌の張りを保つ成分」として、またヒアルロン酸は水分を多く含
むムコ多糖なので「お肌の潤いを保つ成分」として、大きく宣伝されている。しかしコラーゲンも
ヒアルロン酸も大きな分子なので、そのままでは腸の細胞膜を通り抜けることはできず、体内に吸
収されない。
コラーゲンはタンパクなので、食べたら他のタンパクと同じようにアミノ酸に分解されて吸収さ
れる。こうして摂取されたアミノ酸は、もしかしたらコラーゲンタンパクの合成に使われるかも知
れないが、他のさまざまなタンパクの合成に使われるかも知れない。何の合成に使われるかは体ま
かせである。コラーゲンには 2-6-D 節で述べたようにプロリンやリシンが変化した特殊なアミノ酸
が多数含まれているが、体内でコラーゲンを作るときはこれらの特殊なアミノ酸は使われず、普通
のアミノ酸でコラーゲン分子を合成したあとで化学変化を起こさせている。このため、コラーゲン
を分解して取り込まれたこれらの特殊アミノ酸は、コラーゲンの作成には用いられない。要するに
コラーゲンは、普通の肉や豆よりもアミノ酸組成が偏っていて無駄が多いタンパク源だということ
になる。
ヒアルロン酸は糖が 1000 個以上つながった巨大な分子で、そのままではもちろん腸の細胞膜を通
ることはできない。ヒアルロン酸の糖鎖を短くした低分子化ヒアルロン酸というのも売られている
が、それでも細胞膜を通り抜けるには巨大すぎる。体内に吸収されるためにはヒアルロン酸が 1 つ
1 つの糖にまで分解される必要があるが、こうして分解された糖は、皮膚の細胞で再びヒアルロン
酸に合成し直して、細胞外に分泌してやらなくてはならない。
皮膚の張りや潤いが衰えている人は、皮膚の細胞でコラーゲンやヒアルロン酸を合成・分泌する
機能自体が衰えてしまっている。こういう人がサプリをいくら飲んでも、口から入れたコラーゲン
30
やヒアルロン酸が皮膚に届くことはほとんど期待できない。ヒアルロン酸は関節痛の治療薬に用い
られているが、この場合も口から飲んだのでは関節には届かないので、ヒアルロン酸を関節に直接
注射する方法が取られている。
コラーゲンやヒアルロン酸は化粧品にも配合されている。皮膚は鎮痛薬や毒物などの小さな分子
ならある程度吸収する能力を持つが、コラーゲンやヒアルロン酸は巨大な分子なので、皮膚の外側
から塗っても内部深くには浸透しない。食べても効果がないのなら注射をすればよい、ということ
で、コラーゲンやヒアルロン酸を皮下に注入する美容法も行われている。しかし外部から注入した
ものはじきに分解吸収されてしまうので、効果を保つには繰り返し注射をし続ける必要がある。長
期にわたって異物を繰り返し注射し続けることによる皮膚へのダメージは決して無視できない。
結局本当に効果がある方法は、コラーゲンやヒアルロン酸そのものを摂取したり注入したりする
のではなく、皮膚の細胞にコラーゲンやヒアルロン酸をより多く分泌させるように指令するような
効果を持つ小さな分子を見つけ、それを薬として飲むことだろう。しかし残念ながら、今のところ
そのような便利な分子はまだ見つかっていない。
3-5 食物と味覚
三大栄養素である脂肪、炭水化物、蛋白質は生物に必須だから、これらを積極的に摂取する必要
がある。動物は食べるべきものとそうでないものを見分けるために、味覚を発達させてきた。味覚
には、一般に酸味・苦み・塩味・甘みの 4 種類があるとされている。このうち酸味は腐敗物や発酵
物、苦みは毒物の検知に重要で、食べるべきでないものを見分けるのが主な役割である。塩味は、
微量で十分だが生体には不可欠なナトリウムの検知に重要であり、甘みは、簡単に分解して糖とし
て利用できる物質の検知に重要である。
一方、脂肪やデンプン、タンパクは、それ自身では「味覚」としての感覚は起こさない。味覚は、
水に溶けた分子を味覚細胞の表面にある受容器で検知することによって生じる。ところが脂肪はほ
とんど水に溶けないし、デンプンやタンパクのような高分子もそのままではあまり水に溶けないの
で、味覚受容器とは反応できないのである。
しかし脂肪の脂っこさは、口の中での触覚や急速な満腹感などを総合した、味ではない感覚とし
て知覚することができる。また、デンプンは唾液で分解されて麦芽糖になり、わずかな甘みを惹き
起こす。タンパクもそのままでは味がしないが、分解してアミノ酸になると、その中のグルタミン
酸などが「旨み」の感覚を惹き起こす。甘みや旨みがするということは、体に必要なデンプンやタ
ンパクが存在するということなので、積極的に摂取しようという「おいしさの感覚」を体に起こさ
せるわけである。
牛肉や豚肉が、動物を殺した直後よりも何日か寝かせた方がおいしくなるのは、タンパクが分解
してアミノ酸が蓄積してくるためである。分解が進むほど旨みは増すが、同時に腐敗も始まるので
頃合いの加減が難しい。「肉は腐りかけが旨い」と言われるゆえんである。核酸の一種であるイノ
シンも、旨味を惹き起こす。このように、生体に重要な栄養素は、何らかの形で食べた人に快感を
惹き起こすようになっている。
★ タンパクが分解したアミノ酸がどれも旨味を持つわけではない。私は 20 種類のアミノ酸全部を舐め
てみたことがあるが、ほとんどはあまり味がせず、おいしいと感じられたのはごく数種類だった。しか
31
し栄養になるタンパクの存在を検知するという目的には、タンパクが分解して生じるアミノ酸のうちの
どれか 1 つでも味がすれば十分なわけである。
不足する成分を補うと喧伝されるサプリメント剤がはやる一方で、現代の食生活では塩分や糖分、
脂肪などの摂りすぎが問題になっている。私たちはどうしてこれらのものを食べすぎてしまうのだ
ろう?
元来、塩や糖、脂肪は自然界には非常に少ない貴重なもので、生物にとって「ぜひとも摂取しな
くてはいけない」ものだった。武田信玄の国で塩が不足したときに上杉謙信が援助を送った「敵に
塩を送る」の故事は、つい 450 年前のことである。砂糖や脂肪が貴重品でなくなってから、まだ百
年ほどしか経っていない。味覚を受容するタンパクの遺伝子は、6 億年前から別々に進化してきた
哺乳類と昆虫の間で、非常に類似性が高い。つまり今のような味覚は、少なくとも 6 億年前には存
在していたことになる。それ以来ずっと、こうした貴重な物質を「おいしく」感じ、たまに巡り会
ったときに食べられるだけ食べるような行動を起こさせることは、動物の生存にとって重要なこと
であった。こうした生活を 6 億年間続けたあと、最近になって突然、これらの物質が簡単にいくら
でも手に入るようになった。味覚の進化がこの新しい状況に適応できていないのは、仕方ないこと
である。コンビニエンスストアで塩分、糖分、脂肪分がたっぷり入ったジャンクフードをいくらで
も飽食できる生活を人類が今後数万年間以上続ければ、この新しい環境に対応した味覚が進化して
くるかも知れない。
32
4 章 核酸と遺伝子
この章では、細胞内に占める量としてはタンパクなどよりずっと少ないが、生物の機能の中核的
な役割を果たす物質の 1 つである、核酸についてみてゆこう。核酸には、大きく分けてリボ核酸(RNA,
ribonucleic acid)とデオキシリボ核酸(DNA, deoxyribonucleic acid)の 2 種類がある。このうち、ほ
とんどの生物の設計図として特に重要なのが、DNA である。
4-1 生物の設計図
生物は必ず「増える」ことが必要である。増えるためには、1 つの細胞を構成する各種の部品の
量をまず 2 倍近くに増やし、それを 2 つに分けて、子孫である 2 つの細胞に配分しなくてはならな
い。
部品の量を増やすには、2 つのやり方が考えられる。1 つは、それぞれの部品をひな型にして、そ
れと全く同じ部品をコピーする方法である。たとえてみれば、ある機械部品の現物を町工場に持っ
てゆき、「これと同じものをもうひとつ作って下さい」と頼むのに似ている。この方法だと、設計
図がないため、たとえ同じ部品が千個あっても、1 つずつ別々にコピーする必要がある。また、町
工場にパーツを持ち込んでコピーを作ってもらい、それをまた別の工場に持ち込んでさらにコピー
を作ってもらい、ということを何度も繰り返すと、だんだん誤差が溜まって、いつかはオリジナル
とだいぶ異なるものになってしまいかねない。
もうひとつの方法は、設計図を用意しておいて、それをもとに部品を作る方法である。町工場に
設計図を持ってゆき、「こういうものを作って下さい」と頼むのに似ている。これならば、何万個
必要な部品であろうが、1つの図面をもとにいくらでも作ることができる。同じ設計図から作るか
ら、コピーを繰り返すことによる誤差も生じない。
工業製品では、何かの部品を作るときに設計図なしに現物からコピーするなどせず、まずきちん
とした設計図を作るのが当たり前になっている。その方が正確な部品を誤差なく大量に作ることが
でき、メリットが大きいからである。生物も、これとまったく同じ方法を使っている。すべての細
胞には、その細胞で使われるすべての部品を作るのに必要な 1 揃いの設計図があり、細胞が分裂す
るときは、それをコピーして 2 セットにして、子孫の細胞に 1 つずつ受け渡す。子孫細胞は、この
設計図から必要な部品を必要なだけ作ってゆく。
設計図には、2 つの情報が欠かせない。1 つは、「どういう部品を作るのか?」という構造を記し
た情報である。機械部品が 3 次元的の立体的な構造を持っているから、設計図には各部分の縦横高
さの複雑な寸法が、図面に記されている。ところが前の章で見てきたように、タンパクには非常に
便利な性質があった。あるアミノ酸の並びを作ると、それが自然に折りたたまれて丸まって、複雑
な立体的構造を自分で作ってくれるのである。だから設計図には、「アミノ酸をどういう順番に並
べるか?」という情報だけを書いておけばよいのである。
設計図に必要なもうひとつの情報は、どの部品を、どのようなときに、どれくらい作るかという
制御情報である。筋肉の細胞と脳の細胞では、必要な部品はだいぶ違う。設計図に書いてあるすべ
ての部品を片端から作ったのでは、細胞ごとのニーズに応えることができない。
つまり、タンパクを作るためにアミノ酸の並び方を示した設計図と、それをいつ、どれぐらい作
るかの制御情報を組み合わせたものが、細胞の 1 つの部品を作るのに必要な基本データだというこ
33
とになる。
日本語では、このような基本データを「子孫に遺伝して伝わるもの」という意味で「遺伝子」と
呼んでいる。英語では「gene」と呼ぶが、これはもっと意味の広い「元になるもの」という意味あ
いである。遺伝子は単に親の細胞から子孫の細胞に遺伝するだけでなく、それをもとに生物に必要
な全ての部品を作るための、元になっているわけである。
生物にはタンパクだけでなく糖や脂質など他のさまざまな部品もある。面白いことに、生物の設
計図に書かれているのはタンパクの情報だけで、糖や脂質の設計図は含まれていない。そのかわり
に、設計図には糖や脂質を合成するのに必要なタンパクの情報が書かれている。これに従って適切
な種類のタンパクを適切なだけ作ると、それらが各種の糖や脂質を合成してくれるのである。
4-2 設計図を作る DNA とゲノム情報
このような設計図を作るのに使われているのが核酸、とくに DNA である。4-4 節で詳しく述べる
が、DNA はヌクレオチドと呼ばれる小さなユニットがたくさん連なった、非常に細長い分子である。
DNA は 2 本の鎖がよりあわさっているが、この二本鎖の紐の幅は約 20 ナノメートル(nm)、長さは、
ヒトの場合だと全部で 30 億対(60 億個)のヌクレオチドからできており、長さは 1 メートルに達
する。
DNA はこのように非常に細長い分子で、その中に各タンパクの設計図が遺伝子という形で納めら
れている。しかし、端から端まで遺伝子がずらっと並んでいるわけではない。同じようにヌクレオ
チドが並んでいても、DNA の中には遺伝子として利用される部分と、その間をつなぐ部分がある。
ヒトなどでは遺伝子の部分よりも、間をつなぐ部分の方がはるかに長い。長い紐の中のところどこ
ろに、重要な情報が記録されているわけである。カセットテープに納められた数十メートルのテー
プの中の、ところどころに音楽が記録されているのと似ている。
このように DNA の細長い紐には多数の遺伝子の情報が記録されている。この情報全体、あるいは
それを記録した DNA 全体のことを、ゲノムと呼ぶ。遺伝子(Gene)に「全てのもの」を表す ome
の接尾辞を組み合わせた造語である。
DNA は生物の設計図だから、単純な生物ほど DNA は短く、遺伝子の数も少ないのに対し、複雑
な生物では DNA は長く、遺伝子の数も多いと思われる。この考えはある程度合っているが、残念な
がら話はそう単純ではない。
遺伝情報を持つ生物の中でもっとも単純なのは、ウィルスである。1 章で見たようにウィルスは
厳密には生物と呼べないが、他の生物の細胞に自分の遺伝情報を注入し、自分のコピーをたくさん
作らせるという、生物に準ずる性質を持っている。真核生物に感染するものをウィルス、原核生物
に感染するものをファージと呼ぶが、これらは大体数十万
原核生物は 100 万
百万のヌクレオチド対を持つ。
500 万、真核生物だと単細胞の生物でも 1000 万以上のヌクレオチド対を持つ。
多細胞の真核生物では、1 億以上のヌクレオチド対を持つのが普通である。私たちの感覚からする
と、ヒトは生物の中でももっとも複雑で精緻な存在のように思いたいところだが、DNA の量から言
うと必ずしもそうではない。哺乳類の DNA はカモノハシからヒトまでほとんどが 25 億
30 億ヌク
レオチド対で、長さはあまり変わらない。植物の中には、イネやシロイヌナズナのようにヒトより
短い数億ヌクレオチド対程度のものもあるが、小麦では 170 億、ユリでは 1,200 億と、ヒトよりは
るかに複雑なゲノムを持つものも少なくない。
34
生物種
λ ファージ
ミミウイルス
インフルエンザ菌
大腸菌
酵母
線虫 ショウジョウバエ カイコ
ヒト
マウス
フグ
セブラフィッシュ
シロイヌナズナ
イネ
トウモロコシ
コムギ
ユリ
ゲノムサイズ(ヌクレオチド対)
48 万(一般的なウィルス)
120 万(最大のゲノムを持つウィルス)
180 万
460 万
1200 万
9700 万
1.8 億
5億
30 億
26 億
4億
17 億
1.3 億
4.3 億
2.3 億
170 億
1,200 億
遺伝子推定領域
50
911
1700
4400
5800
約 19000
約 14000
約 15000
約 25000
約 25000
約 22000
約 27000
約 60000
約 32000
では遺伝子の数に関してはどうだろうか?遺伝子の数を知るには、DNA に含まれる全てのヌクレ
オチドの配列を解読し、その中から「タンパクを作る情報として利用されそうな部分」を見つけて、
その数を調べる必要がある。DNA の配列を調べる技術は 1970 年代に開発されたが、その効率は 1990
年代に急速に向上し、さまざまな生物の全ゲノムの情報を解読する試みが競って行われるようにな
った。
最初に調べられたのはウィルスで、遺伝子の数は数十のものがほとんどだった。インフルエンザ
菌や大腸菌のような原核生物では、遺伝子の数は 5,000 以下だった。真核生物の中でも単純な単細
胞生物である酵母では、原核生物である大腸菌の約 1.5 倍の 6,000 あまりの遺伝子が見つかった。多
細胞生物で始めてゲノムが解読されたのは、線虫と呼ばれる細胞数が数千の小さな生物である。1998
年に解明された線虫のゲノムは、長さが約 1 億ヌクレオチドと酵母の 10 倍近くあり、遺伝子の数も
19,000 と酵母よりはるかに多かった。このあたりまでは、複雑な生物ほどゲノムも複雑であろうと
いう期待に添った形で話が進む幸せな時代だった。
線虫のゲノムが解読された翌年、はるかに複雑で DNA も 2 倍近くある昆虫のショウジョウバエの
ゲノムが解読された。当然、線虫よりも遺伝子はずっと多く、3 万近くはあるだろうと多くの人が
期待していたのだが、調べた結果は 15,000 と、線虫よりもだいぶ少なかった。前にも書いたように
私はショウジョウバエの研究をしているのだが、当時多くの同僚研究者が「あんな単純な生物であ
る線虫に負けた、悔しい」と妙な感想を持っていたのを覚えている。
さらに翌年、2000 年になって、ヒトのゲノムがついに解読された。米国の大統領が鳴り物入りで
記者会見を開くなど、社会的に大きな反響を起こした出来事だった。当時ヒトの遺伝子は、おそら
く 10 万程度あるのではないかと予想されていた。ところが調べた結果は約 35,000 と、予想よりは
るかに少なかった。さらに 2003 年になって、当初の見積もりは間違いで、実際にはさらに少ない
25,000 程度の遺伝子しかないことが分かった。線虫と比べて、6,000 しか多くない。
その後さらにさまざまな生物のゲノムが解読されたが、遺伝子の数は昆虫で 15,000 程度、脊椎動
物では魚類から哺乳類まで大体 25,000 程度という数で安定している。植物もおおむね 2
3 万遺伝
子である。しかも、昆虫と哺乳類で 1 万の開きがあるのは、その分だけ全く異なる別の遺伝子があ
35
るわけではなく、昆虫では 1 つしかない遺伝子に対して哺乳類では似たような遺伝子が数個あるこ
とが多いためであって、遺伝子の種類の多さという点ではあまり差がないことも分かってきた。人
間にある遺伝子のほとんどは、ハエや線虫にも似たような遺伝子があって、同じような機能を持つ、
似たようなタンパクを作っているのである。人間はとびきり複雑な生物だから、その分だけ遺伝子
という設計図も複雑なはずだという幻想は、もろくも打ち砕かれてしまったわけである。
4-3 遺伝情報のデジタルデータと多重バックアップ
カセットテープやビデオテープは、情報が「磁気の強さ」というアナログ量で記録されている。
このようなアナログデータでは、コピーを繰り返すとだんだん信号の強さに誤差が生じてきて、品
質が劣化してしまう。カセットテープを 10 回も 20 回もダビングしたら、聞くに堪えない音質にな
ってしまう。一方 CD や DVD、コンピューターなどでは、情報は「0 と 1」のデジタル量で記録さ
れている。デジタルデータはコピーしても劣化が生じない。従って何回もコピーしたいデータは、
アナログよりもデジタルで保存した方が正確である。
生物では、卵の 1 個の細胞からヒトの場合で数十兆個にも及ぶ多数の細胞が作られる間に、遺伝
子の設計図は無数にコピーされる。また親から子々孫々へと何代にもわたって情報が伝えられるた
めには、やはり設計図が何回も何回もコピーされる必要がある。このような情報は、アナログでな
くデジタルで記録した方がよいはずだ。実際、DNA に記録される情報はデジタルデータになってい
る。ただし CD やパソコンは0と 1 の 2 種類の符号(1 ビット)で記録するのに対し、DNA では A,T,
G,C の 4 種類の符号(2 ビット)で記録している。この情報を何回コピーしても、A は A、T は T で
変化することがない。遺伝情報はデジタル化されていることによって、安定して何回でもコピーで
きるのである。
ワープロで作った大事な文章のファイルが壊れてしまって困った目に遭う人は少なくない。この
ような失敗を避けるためには、同じデータをコピーしてバックアップしておくのが安心である。し
かもバックアップが1つしかないのは心許ない。大切なデータは、いくつも多重にバックアップし
ておく方がよい。同じことが生物でも行われている。次節で詳しく説明するように、DNA は 2 本の
鎖になっており、2 つのヌクレオチドが対になっている。その中の一方の鎖が壊れても、もう片方
の鎖に残ったヌクレオチドから、データを復元できる。つまり DNA の二本鎖は、それ自体がデータ
本体とそのバックアップコピーになっているのである。
さらにほとんどの生物では、このような DNA を 1 セットでなく、2 セット持っている。たとえば
人間では、30 億対(60 億個)のヌクレオチドがひと揃いの設計図情報になっているが、すべての細
胞は父方からもらった設計図と母方からもらった設計図の 2 組をもっている(つまり 60 億ヌクレオ
チド対、120 億ヌクレオチド)。つまり、バックアップ付きのデータを 2 組持っているわけである。
このおかげで、たとえどちらかの設計図のデータが不良でも、もう一方の設計図から正しい情報を
得られるようになっている。このように、そもそも誤差が起きにくいデジタルデータを多重にバッ
クアップしておくことによって、生物は重要な遺伝情報を確実に保持できるのである。
4-3 DNA の構造
では、このような特徴を実現している DNA とは、どういう構造を持った分子なのだろうか?DNA
や、次章で詳しく調べる RNA は、糖とリン酸、それに「塩基」と呼ばれる成分が合成されてヌクレ
36
オチドを作り、それが連なってできている。これらの要素を詳しく見てみよう。
A: 糖:リボースとデオキシリボース
ヌクレオチドの核になるのが糖の分子である。前の章ではブドウ糖など炭素 6 つからなる六炭
糖について説明したが、DNA や RNA に含まれているのは、炭素 5 つからなる五炭糖である。
五炭糖のひとつであるリボース(ribose)は、酸素原子 1 つと炭素原子 4 つが五角形の輪を作り、
それに炭素原子 1 つがはみ出してくっついた形をしている。ブドウ糖のときと同様に、ほとんど
の炭素には水酸基(OH 基)がついている。これらの炭素には、酸素の隣にある原子から順番に、
1,2,3,4,5 の番号が振られている。リボースでは 1,2,3,5 の 4 ケ所に OH 基がついているが、2 番の炭
素、ちょうど五角形の右下に当たる部分に OH 基がついておらず、H だけがついている分子が、2デオキシリボース(deoxyribose)である。de は何かがないという意味、oxy は酸素の略で、
2-deoxyribose は 2 番目の場所の酸素がないリボースという意味である。
このように、リボースとデオキシリボースはよく似た形の分子で、リボースをもとにして作ら
れる核酸がリボ核酸(ribonucleic acid = RNA)、デオキシリボースをもとにしたのがデオキシリボ
核酸(deoxyribonucleic acid = DNA)である。
B: 4 種類の塩基がついたヌクレオシド
次に大事な部品が、塩基(base)と呼ばれる構造である。アデニン(A)やグアニン(G)は、
炭素と窒素が五角形と六角形の 2 つの輪を作った構造で、このような分子を総称してプリンとい
う。シトシン(C)、チミン(T)、ウラシル(U)は炭素と窒素が六角形の 1 つの輪を作ってい
る構造で、このような分子を総称してピリミジンという。これら 5 種類のどの分子も、輪の部分
にあるいくつかの窒素原子に水素原子がつながって、NH の構造を作っている。またアデニンやシ
トシンには、輪の中の炭素から飛び出した形で、さらに NH2 基がついている。
「塩基」というのは、本来は化学物質の性質を示す一般的な用語で、酸と反応して電子を相手
に与えたり、水素原子を受け取ったりしやすい構造を持つ分子のことを指す。プリンやピリミジ
ンが持つ NH や NH2 の構造は、まさにそういう性質を持っている。そのため、これらの構造を持
つプリンやピリミジンを総称して、塩基というのである。
アデニンやグアニンの五角形の部分にある NH や、シトシンやチミンの六角形の中にある NH は、
リボースやデオキシリボースの五角形の右上にある 1 番の炭素についている OH 基と反応して、脱
水重合する。するとリボースやデオキシリボースの五角形の輪から塩基の構造が伸び出した分子
になる。このように糖と塩基が重合した分子を、ヌクレオシドという。アデニン、グアニン、シ
トシンはリボースとデオキシリボースのどちらにもくっつくが、チミンはデオキシボースと、ま
たウラシルはリボースとくっついたものが生体には多い。このため、DNA では A, T, G, C の 4 種
類の塩基があるのに対し、RNA では T のかわりに U が使われて、A, U, G, C の 4 種類になる。
C: リン酸によるヌクレオチドの結合
核酸を構成するもうひとつの部品が、リン酸である。リン酸は、すでに何回か出てきたように
リンの回りに酸素原子が 4 つつながった構造で、これがリボースやデオキシリボースの左上から
飛び出した 5 番の炭素原子につながった OH 基と反応して、脱水重合する。こうしてリボースやデ
オキシリボースの五炭糖と、塩基、リン酸が結合した分子ができる。これがヌクレオチドである。
37
ヌクレオチドの五炭糖の端にある 5 番の炭素から伸びたリン酸は、他のヌクレオチドの五炭糖
の中の 3 番の炭素から伸びた OH 基と反応し、脱水縮合してひとつの分子になる。この分子にさら
に他のヌクレオチドが重合し、さらに次のヌクレオチドが、、、というように 5 番と 3 番の炭素
のところで重合を繰り返してゆくと、ヌクレオチドが長く連なった鎖ができる。五炭糖とリン酸
が交互につながり、そこから塩基が横に飛び出した形である。この鎖の一方の端には 5 番のリン
酸が残っており、こちらの端を 5’(ファイブ・プライム)側と呼ぶ。反対側の端は 3 番の炭素に
ついた OH 基が残っており、こちらを 3’(スリー・プライム)側と呼ぶ。
★ 「’」という文字は数学の微分でも用いられる記号で、英語ではプライムと読む。なぜか日本語では
これを「ダッシュ」と読む慣習があり、5’、3’をそれぞれ「ごダッシュ、さんダッシュ」と読むことが
多い。しかしダッシュとは英語では「–」という長い横棒(ハイフンよりも長いもの)を指すので、日
本で生物を勉強した人が外国に行って「ファイブ・ダッシュ、スリーダッシュ」と呼んでも、通じなく
て困ることがままある。このような失敗を防ぐために、最近では日本でもなるべくダッシュでなくプラ
イムと読むことが推奨されている。
★ ついでにさらに脱線すると、小数点を表す「.」は、英語では 1.4 を「ワン・ポイント・ファイブ」
のようにポイントと読むが、日本語では「いち・コンマ・よん」のようにコンマと読むことが多い。コ
ンマは本来は「,」という文字だから、これは一見すると間違いに見える。実は、日本では小数点を最
初ドイツ語から導入したのだが、ドイツでは小数点に「.」でなく「,」を用い、文字の通りにコンマと
読むのである。
逆に 3 桁ごとの数字の区切りは、英語では「,」を用いるが、ドイツ語では「.」を用いる。だから 21,944.63
のような数字は、ドイツ語では今でも 21.944,63 と書く。日本では、明治時代に導入したドイツ語式の
小数点の読み方をそのまま続けながら、表記法だけがその後英語式に変わったので、矛盾が生じている
わけである。
D: ヌクレオチド間の結合が生じる仕組み
ヌクレオチドどうしが脱水重合反応を起こすには、エネルギーが必要である。 章で詳しく触れ
るように、生物は化学反応にエネルギーが必要なときに ATP という分子をよく使が、同じ形でア
デニンのかわりにウラシル、グアニン、シトシンがついた UTP, GTP, CTP も存在する。また、デ
オシキリボースにアデニンと 3 つのリン酸がくっついたデオキシ ATP(dATP)や、チミン、グア
ニン、シトシンがついた dTTP, dGTP, dCTP の分子も存在する。
これらの分子からリン酸が 2 つ取れれば、RNA や DNA のヌクレオチドになる。電子の分布が
偏ったリン酸が 3 つも連なった分子は、内部に大きなエネルギーを持っている。このリン酸が取
れると、余ったエネルギーを化学反応に使うことができる。細胞内では、RNA の合成では ATP, UTP,
GTP, CTP、DNA の合成では dATP, dTTP, dGTP, dCTP がヌクレオチド鎖の 3’に近づき、新たに付
け加えるヌクレオチドの 5’端にあるリン酸を 2 つ外すときに生じるエネルギーを利用して、残っ
た 1 つのリン酸とヌクレオチド鎖のあいだに重合反応を起こして、ヌクレオチド鎖を 1 つ延長さ
せている。
このような反応を行うため、ヌクレオチド鎖の延長は、「鎖の 3’の端に、新しいヌクレオチド
の 5’部分が結合する」という形でしか起こらない。そのため DNA や RNA は、5’から 3’の向きに
しか合成ができない。これが惹き起こす問題は、5 章の 5-3 節で詳しく見ることにする。
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E: 塩基と塩基の間の水素結合
このように DNA や RNA は、五炭糖とリン酸が交互につながった長い鎖から塩基が横に飛び出
した、細長い構造を作っている。DNA のこのような鎖が 2 本並んで、アデニンとチミンがちょう
ど向かい合うように並ぶと、アデニンの窒素原子とチミンの NH、チミンの酸素原子とアデニンの
NH2 という 2 ケ所で、「電子を引き寄せる力が強い酸素や窒素原子と、電子を引き寄せる力が弱い
水素原子」のペアができ、その間で 2 ケ所の水素結合が形成される。同じようにグアニンとシト
シンが向かい合うと、3 ケ所で水素結合が形成される。この力によって、向かい合った塩基の対は
互いに引きよせ合い、安定な二本鎖構造を作ることができる。RNA でも、アデニンとウラシル、
グアニンとシトシンが向かい合うと水素結合が形成され、安定した二本鎖構造を作ることができ
る。このようにちょうど噛み合う塩基の組み合わせのことを、「互いに相補的である」という。
以上のように、DNA の鎖を構成するそれぞれのヌクレオチドは、相補的な塩基の対によって反
対側の鎖に結びつけられている。このような 1 対の塩基の構造を、塩基対(base pair, bp)と呼ぶ。
DNA の長さを表現するとき、たとえば 1,000 個のヌクレオチドの対からなる場合に、これを 1,000
塩基対と書くことがよくある。1 本の鎖あたり 30 億のヌクレオチドからなるヒトの DNA は、30
億塩基対あるということになる。
DNA の鎖には 5’から 3’という方向性があるが、2 本の鎖が向かい合うときは互いに逆方向にな
っている。また 2 本の鎖は、まっすぐ平行に並ぶのではなく、よじれ合ったらせん状になる。そ
のため DNA の構造のことを二重らせんと呼ぶ。糖とリン酸が連なった 2 本の鎖は少し偏った位置
で巻いているので、鎖の間にできる溝の一方は狭く、もう片方は広くなっている。広い方の溝に
は、鎖の内側に並んだ塩基対の側面が少し露出している。どの塩基が並んでいるかによって、こ
の露出部には微妙に異なる凹凸ができる。特定の形の凹凸にぴたりとはまるようなタンパクは、
DNA の特定の塩基配列の部分を見つけて、そこに結合することができるわけである。このように
して DNA の特徴的な配列を認識して結合するタンパクが、生物には非常にたくさんある。
4-4 長い DNA 鎖の収納法
前にも説明したように、ヒトの DNA は幅が 2 ナノメートル、長さが全部で 1 メートルある。これ
が 23 本に分かれているので、1 本は平均 4 センチである。ヒトにはこのような DNA が 2 セットあ
るので、全部で 46 本、2 メートルあることになる。感覚的に実感しやすいように全体を 100 万倍に
拡大してみると、幅 2 ミリで長さ平均 40 キロの紐が、23 本あつまって合計で長さ 1,000 キロ、それ
が 2 セットあるので合計 2,000 キロの長さということになる。この倍率だと核は直径数メートルに
なるので、東京から博多までを 1 往復するほどの長さの細い紐が、自動車ぐらいの大きさの袋に詰
め込まれているというイメージになる。テーブルタップに刺したわずか数メートルの電気コードで
も絡まって大変なのだから、長さ 2000 キロの紐を単に丸めて自動車に押し込んだのでは、すぐに絡
まってしまう。
そこで真核生物では、DNA を巻き取る糸巻きのようなタンパクを用意して、この問題を解決して
いる。糸巻きはヒストンというタンパクが集まって作られた直径 10nm のヨーヨーのような構造で、
1 つの糸巻きのまわりを DNA が 2 周している。DNA は外側にリン酸基を持っているのでマイナス
の電気を帯びているが、ヒストンの表面にはプラスの電気を帯びたアミノ酸が並んでいるので、両
者が引きよせ合ってヒストンのまわりに DNA がぴったりとくっついている。
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DNA は数珠のように並んだヒストンに巻き付けられ、それがさらに立体的に撚りあわさって、直
径 30nm ほどの構造を作る。核の中ではこの 30nm 幅の線維構造が折りたたまれて、全体としてゆる
い塊を作っている。これがクロマチン(染色質)である。(染色質や次に出てくる染色体は、核酸
と反応しやすいある種の色素でよく染まるため、この名前がついている。)
人間の DNA は全部で 46 本に分かれているので、クロマチンの塊も全部で 46 個ある。通常の状態
の細胞では、これらの塊が互いに多少ゆるく入り混じりあいながら核の中に分布している。しかし
細胞が分裂するときには、それぞれの塊がさらに密に折りたたまれ、1 本づつ独立した棒状の構造
になる。これがクロモソーム(染色体)である。
4-5 DNA 複製の詳しい仕組み
DNA を複製するには、まず 2 本の鎖を解きほぐして、それぞれの塩基に対して適切な塩基を組み
合わせ、新しい鎖を作ってゆけばよい。だが実際にこれをどのように実現するかを考えるとけっこ
う複雑で、そこには多数のタンパクが互いに協調して働いている。この過程を順番に見てみよう。
A: 二重らせんを解きほぐして、開いた形で保持する
まず、塩基の間の水素結合で安定に保たれている DNA の二本鎖を、2 つの鎖に引きはがす必要
がある。ここではヘリカーゼ(helicase)というタンパクが働いている。らせん(helix)を作るも
の(ase)という意味である。ヘリカーゼは大きな円盤状のタンパクで、ちょうどジッパーの金具
のように中心に二本鎖をくわえ込み、2 つの鎖を引き離す。
引きはがされた鎖にはちょうど相補的な塩基が並んでいるわけだから、糊のついた面を向き合
わせたセロテープと同じで、そのままにしておくとすぐにまた貼り付いてしまう。そうならない
よう一本鎖の状態を保持するのが、一本鎖結合タンパクである。このタンパクが一本鎖に沿って
ずらりと貼り付くことで、鎖どうしが貼り合わさらないように安定化させる。
DNA の二本鎖は強くねじれているので、それをそのまま押し開いてゆくとねじれがどんどん大
きくなってしまう。これを防ぐため、ヘリカーゼのちょっと手前には DNA トポイソメラーゼとい
うタンパクがついている。トポイソメラーゼは二本鎖を一時的に切断し、らせんをくるくると回
転させてねじれを解消し、またつなぎあわせる。これによって、ねじれが溜まらないようになっ
ている。
B: 複製したい DNA の鎖を鋳型にして、まず RNA の短い鎖を合成する
一本鎖になった DNA には、塩基がずらっと並んで露出している。この塩基を一つ一つチェック
して、ちょうどそれに相補的なヌクレオチド(A に対しては T、G に対しては C)を組み合わせて
反対側の鎖を作ってゆくのが、DNA ポリメラーゼ(polymerase)というタンパクである。DNA の
ポリマー(polymer: 重合体)を作るもの(ase)という意味である。
ところがこの DNA ポリメラーゼには後で詳しく述べる事情があり(F 節参照)、すでに数ヌク
レオチド以上の長さの二本鎖がしっかりとできているところにしか、ヌクレオチドを足してゆく
ことができない。このため、ほぐした一本鎖に対して最初に相手側の鎖を作るのには使えないの
である。何らかの方法で、ある程度の長さの二本鎖をまず作らないとならない。
うまいことに、DNA の一本鎖に相補的な形の RNA 鎖を作る RNA ポリメラーゼというタンパク
があり、このタンパクは二本鎖部分が全くなくても相手側の鎖を作り始めることができる。そこ
40
で、引きはがして一本鎖になった DNA の端に、まず RNA ポリメラーゼが取り付き、DNA のそれ
ぞれの塩基にちょうど相補的な RNA 鎖を合成してゆく。RNA ポリメラーゼは DNA の鎖をくわえ
込んで、まず DNA 鎖の塩基のひとつをポリメラーゼの反応部位の中心に持ってくる。細胞内には
リボヌクレオチドに 3 つのリン酸がついた ATP, UTP, GTP, CTP がたくさん浮遊している。(これ
ら 4 種の分子を総称して NTP と呼ぶ。)細胞内に浮遊するさまざまな NTP が RNA ポリメラーゼ
の反応部位に次々にやってくるが、いま反応部位にある DNA の塩基とちょうど相補的な NTP が
来たときだけ、塩基どうしが水素結合を作って安定する。このような形ができあがると、ポリメ
ラーゼは DNA 鎖を塩基 1 つ分だけ次の位置にずらす。こうして反応部位にセットされた次の塩基
に、また NTP がつぎつぎとやってきて、ちょうど相補的な NTP が来ると水素結合を作って安定す
る。
ポリメラーゼは、新しくやってきたリボヌクレオチドの 5’の位置につながっている 3 つのリン
酸から 2 つを取り外し、そのときに得られるエネルギーを使って、ひとつ手前のリボヌクレオチ
ドの 3’の位置と、新しくやってきたリボヌクレオチドに 1 つ残ったリン酸とを重合させる。これ
によって、ヌクレオチド鎖がひとつ伸びる。この作業を何回か繰り返すと、DNA の一本鎖の反対
側に RNA の一本鎖が組み合わさった、数ヌクレオチドの長さの構造が完成する。
C: RNA の短い鎖の先に、DNA の鎖を合成してゆく
ある程度の長さの二本鎖ができると、今度は DNA ポリメラーゼの出番である。RNA ポリメラ
ーゼが鎖から外れ、代わりに DNA ポリメラーゼが同じ位置に取り付く。ポリメラーゼの反応部位
に位置する DNA の塩基の位置に、細胞内に浮遊する dATP, dTTP, dGTP, dCTP(dNTP と総称され
る)分子が次々とやってくるが、ちょうど相補的な dNTP が来たときだけ塩基どうしがしっかりと
水素結合を作って安定化する。そこでポリメラーゼは塩基 1 つぶん DNA をずらして、そこにまた
新しい dNTP が次々とやってきて、ちょうど相補的なものが水素結合で安定する。dNTP からリン
酸が 2 つ外れ、そのエネルギーでひとつ前のヌクレオチドと新しいヌクレオチドかつながって、
鎖がひとつ伸びる。この作業を延々と繰り返してゆくと、DNA の二本鎖が完成するわけである。
D: DNA の一方の鎖では、切れ切れに DNA 鎖合成が行われる
このようにして 2 本の鎖それぞれでヌクレオチドがどんどんつながってゆけば話は簡単なのだ
が、世の中そううまくはできていない。4-3-D 節で述べたように、ヌクレオチドの鎖は鎖の 3’の端
に、新しいヌクレオチドの 5’部分が結合するでしか伸ばすことができない。DNA の二本鎖はたが
いに逆方向になっているので、これを解きほぐすと、鎖の一方は先端が 3’、もう片方は先端が 5’
になっている。先端が 3’になっている鎖に対して相手側の鎖を合成するときは、新しい鎖の先端
(ヘリカーゼに近い側)が 5’側になっている。この鎖では、ヘリカーゼが鎖をどんどんほぐして
いったあとを追って、新しい鎖をどんどん結合して伸ばしてゆくことができる。
ところが DNA の反対側の鎖では先端が 5’になっているので、そこに新しい鎖を作ろうとすると
ヘリカーゼのある側は 3’になってしまい、鎖をつなげてゆくことができない。この鎖では、鎖の
先端でなくヘリカーゼのある側からしかヌクレオチド鎖の合成ができないのである。そこで、ま
ず DNA の反対側の鎖に二本鎖が 100 ヌクレオチドぶんほど合成される間、反対側の鎖はそのまま
にしておいて、ほどけたままの一本鎖を作る。次にヘリカーゼのすぐそばに RNA ポリメラーゼが
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取り付いて、数ヌクレオチドの RNA 鎖合成を行う。これを基点にして、DNA ポリメラーゼがヘ
リカーゼの側から DNA の端の方へとヌクレオチド鎖の合成を行ってゆく。
このあいだにもヘリカーゼはどんどん動き、もう片方の鎖では二本鎖の合成が進んでゆく。し
たがって、また 100 ヌクレオチドのほどけたままの一本鎖ができてくる。これに対しても再び RNA
ポリメラーゼを使って数ヌクレオチドの RNA 鎖合成を行い、そこから DNA ポリメラーゼがヌク
レオチドの合成を行う。
この DNA ポリメラーゼが 100 ヌクレオチドほど合成すると、ひとつ前のステップで合成した
RNA 鎖の部分にぶつかる。ここで、もうひとつ別の種類の DNA ポリメラーゼが出てくる。この
ポリメラーゼは、DNA 鎖に結合した RNA 鎖を分解して、そこに DNA の新しい鎖を置き換えてゆ
く。こうして RNA 鎖の部分が DNA 鎖に置き換えられる。こうして、前に合成してあった DNA
鎖の部分にまで達する。新しく合成した DNA 鎖の先端と、前に合成してあった DNA 鎖の後端を
つなぐには、リガーゼ(ligase)というタンパクが働く。リガーゼは DNA の中でヌクレオチド鎖
がきちんと結合されていない部分を見つけ、そこにリン酸結合を形成して、切れた鎖の「のり付
け」を行う。
このようにして、DNA の複製の際に、一方の鎖では連続的にヌクレオチド鎖の合成が進むのに
対し、もう片方の鎖では、RNA ポリメラーゼと 2 種類の DNA ポリメラーゼによって 100 ヌクレ
オチド程度のヌクレオチド鎖の断片が次々と合成され、それがリガーゼによってのり付けされて
ゆく。これを何回も繰り返すことで、DNA の全長を複製することができる。
★ DNA 複製の際に見られるこの断片構造を、発見者の名前を取って「岡崎フラグメント」と呼ぶ。物
理や化学では日本人科学者の名前を冠した反応や物質名がたくさんあるのだが、生物の分野では一部の
生物の学名を除き、日本人の名前を冠したものは非常に少ない。
E: 合成の速さは原核生物と真核生物で大きく異なる
原核生物では、DNA は全体がひとつの輪になっている。DNA 鎖の複製はその中の 1 ケ所から両
方向に向けて始まり、ちょうど輪の反対側で終わる。複製の早さは 1 秒に 500
1000 塩基対と非
常に早く、DNA 全体の複製は数十分で終了する。
真核生物では、DNA が多数の染色体に分かれているといっても 1 本の長さは原核生物の DNA
全体よりかなり長い。しかも、真核生物では DNA がヒストンタンパクに複雑に巻き取られており、
それをほぐしながら DNA 合成を行うこともあって複製の速度はかなり遅く、1 秒に数十塩基対ぐ
らいしか進まない。これでは 1 本の DNA を複製するのに果てしない時間がかかってしまう。これ
を解決するため、真核生物では 1 本の DNA に数十以上の複製開始点があり、それぞれから両方向
に向かって複製が同時進行してゆく。このためヒトのように長大な DNA を持つ生物でも、10 時間
程度ですべての複製が終了する。
F: 間違った複製を起こさないための工夫
DNA の複製では、DNA ポリメラーゼの反応部位に位置する DNA の塩基の位置に、細胞内に浮
遊する各種の dNTP 分子が次々とやってきて、ちょうど相補的な dNTP が来たときにだけ水素結合
がしっかりと形成されて安定化する。これは、シンデレラの靴を持った召使いのところにさまざ
まな女性がやってきて足をはめてみて、ちょうど靴にはまる足を持った人だけが選ばれるのと似
ている。シンデレラの靴はシンデレラ本人にしかぴったり合わないはずだが、多少サイズが違う
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人でも無理やり靴に足が入ってしまうこともありそうである。同じように、ポリメラーゼに保持
された塩基にも、ある程度の確率で間違った dNTP がつながってしまうこともある。これを放置し
てそのまま次の DNA をつなげていったのでは、誤りが起きて困ったことになる。
そこで DNA ポリメラーゼは、反応部位のひとつ前の位置にある、直前に形成されたばかりの
DNA 二本鎖をチェックして、きちんとした二本鎖が形成されているときにだけ次の反応を進めら
れるようになっている。もし間違ったヌクレオチドがつながっていたときは、塩基のサイズが異
なるために二本鎖の幅が広くなりすぎたり、狭くなりすぎたりするので、間違いをチェックでき
る。間違いがあった場合、DNA ポリメラーゼは「訂正モード」に切り替わり、ひとつ前のヌクレ
オチドを削除して前の位置に戻り、もういちどやり直すようになっている。
このチェック機構によって、DNA ポリメラーゼは 100 万回に 1 回以下のミスしか起こさないよ
うになっているといわれる。言い換えれば 99.9999%の正確さを誇る。しかしこの副作用として、
DNA ポリメラーゼは B 節で述べたように「すでに正確な二本鎖が形成されている場所にしか新し
い鎖を延ばせない」という欠点を持っている。RNA ポリメラーゼは、このようなチェックを行わ
ない。そのため RNA ポリメラーゼは DNA ポリメラーゼよりも誤りを起こしやすく、不正確であ
る。そのかわりに、1 本鎖をベースにしてすぐに 2 本鎖を合成できるのである。
99.9999%の精度を持つ DNA ポリメラーゼは、普通の感覚でいえば極めて正確だという印象があ
る。しかしヒトの細胞のように長さ 30 億塩基対の DNA が 2 組、合計 60 億塩基対を複製するとな
ると、この程度の正確さでは 1 回細胞分裂をするたびに数千カ所ものミスが出てしまう。これで
はとても実用にならない。そこで精度をさらに上げるために、複製の際には別の DNA ポリメラー
ゼが何種類か働き、合成されたばかりの DNA 鎖をチェックしている。複製が正確に行われずにう
まく噛み合っていない塩基対をみつけ、その前後の DNA の二本鎖の一方を分解して、新しい鎖を
再度合成し直すのである。このようなミスマッチの修復機構を何重にも揃えることによって、DNA
複製は最終的には 10-11、つまり 1000 億回に 1 回程度の誤りしかないといわれる。
G: DNA の両端はうまく複製できない。
DNA の複製を始めるときは、最初に RNA ポリメラーゼで短い鎖を作るのだった。岡崎フラグ
メントを作るときに作られた RNA 鎖は、ひとつ先の岡崎フラグメントを作るときに DNA に置き
換えられる。また DNA 全体がひとつの輪になっている原核生物では、最初に作られた RNA 部分
も最後に DNA に置き換えられる。しかし真核生物では、それぞれの染色体 DNA の両端の 5’端に
ある数ヌクレオチドは、RNA のまま残ってしまい、きちんとした DNA 二本鎖を複製することが
できない。つまり細胞が分裂するたびに、DNA は両端から少しずつ短くなってしまうのである。
このように両端が短くなっても実害が生じないように、真核生物では、あらかじめ DNA の両端
部に意味のない長い配列を付け加えておくという対策を取っている。たとえばヒトの DNA の両端
には、GGGGTTA という 7 塩基の単純な繰り返しが延々と付加されている。このような領域は数
百
数千塩基対の長さがあり、終端にあるものという意味でテロメア(telomere)と呼ばれる。
テロメアの DNA はふつうの DNA 複製とは独立に、テロメラーゼというタンパクによって合成
される。テロメラーゼは精巣や卵巣の生殖細胞で活性があり、精子や卵子の各染色体の DNA の両
端に長いテロメアを付加する。このため、次の世代の個体ではテロメアの長さが毎回リセットさ
れるわけである。一方、ふつうの体の細胞ではテロメラーゼは活性を持たないので、分裂を重ね
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るにつれてテロメアが徐々に短くなってゆく。テロメアが極端に短くなってしまうことが、個体
の老化に大きな役割を果たしているのではないかと推理されている。
4-6 DNA の構造と機能の解明の歴史
この章で述べてきたように、DNA は細胞の設計図である遺伝情報を記録した重要な分子である。
しかし実は 20 世紀の前半 50 年ほどまでは、DNA でなくタンパクが遺伝情報の担い手だろうという
考え方が主流だった。前の節で述べたように、核の中では DNA がヒストンというタンパクに巻かれ
ている。そのため核の中にある物質は、DNA とタンパクがほぼ半分ずつになっている。タンパクは
20 種類ものアミノ酸が連なってできているのに対し、DNA を作るユニットは 4 種類しかない。また
タンパクは非常に多様な構造を取るのに比べ、DNA は見た目としては単純な紐状の分子である。0
と 1 の組み合わせで全ての情報を処理するコンピューターが普及した現代でこそ、単純な 4 文字を
組み合わせて多くの情報を伝えうるという発想は誰でも納得できるが、コンピューターなど影も形
もなかった時代には、複雑な情報を伝えるにはアルファベットに近い 20 もの種類ぐらいがあるアミ
ノ酸の方が適しているだろうと考えたくなるのは無理もない。そのため当初は、核の中のタンパク
こそが遺伝情報の担い手で、DNA はそれを束ねる単なる紐なのだろうと思われていた。この章の最
後の節では多少脱線して、当初は脇役だった DNA が遺伝情報の担い手としてクローズアップされ、
その評価が確立するまでに行われたいくつかの重要な研究の歴史を見てみよう。
A: 遺伝子という概念の誕生
生物の中にはその性質を決める特殊な要素があり、それが親から子に伝わって生物の特徴を決
めるということを最初に示したのは、オーストリアの修道士だったメンデルである。ブドウの品
種改良の研究から始まり、エンドウ豆を使ってさまざまな交配実験を行ったメンデルは、遺伝の
法則性に関する研究成果(○章で解説する)を 1866 年に発表した。しかし著名な大学の研究者で
はなく、片田舎の町の小さな研究会で発表されたその成果は、あまり反響を得ることなく埋もれ
てしまった。
★ メンデルはウィーン大学で学んだのだが、その師匠はドップラー効果で有名なドップラーという物
理学者であり、メンデルは生物というよりも物理の勉強をしたといえる。それを反映して、メンデルの
書いた論文は当時の生物学の論文とは大きく異なり、数値データとその統計的な解析を駆使した、抽象
性の高いものだった。そのため、当時の多くの生物学者にとっては理解しにくく、「読んでもピンと来
なかった」ものであったようである。
その後 1900 年になって、ドイツの 3 人の研究者が、メンデルが発見したのと同じような結果を
相次いで再発見した。これによって、親から子へ特定の性質を伝える遺伝という概念が明確にな
った。さらに 1910 年代になると、アメリカのモルガンらが先導したショウジョウバエを使った研
究により、生物の性質を決める情報は、1 つの性質ごとに 1 つの「遺伝子」と呼ぶべきもので表さ
れており、それは核の中にある「染色体」という構造の中に、順に並んで記録されていることが
分かってきた。
この時点では遺伝子とはまだ仮想的な概念であって、それが実際にどのようなものであるかは
分かっていない。染色体の中には DNA とタンパクが含まれていることが分かってくると、そのど
ちらが重要なのかが問題になってきた。20 世紀の前半は、生化学者たちがタンパクというものを
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発見し、それらが複雑な構造を持つ多様な分子であることを続々と見つけていった時期だったの
で、タンパクこそが複雑な遺伝情報を担うのに適した物質だろうという考えが圧倒的に優勢だっ
た。
B: 遺伝情報を伝える物質の発見
イギリスの軍医だったグリフィスは、肺炎を惹き起こす肺炎双球菌という細菌の研究をしてい
た。肺炎双球菌には病原性を持つ菌の種類と持たない種類の 2 種類がある。グリフィスは、病原
性を持つ菌を加熱して滅菌し、それと病原性を持たない菌を混ぜると、一部の菌が病原性を持つ
菌に変化することを見いだした。明らかに、病原性を惹き起こす性質を司る遺伝情報が、菌の死
骸から生きている他の菌に取り込まれたことになる。
この研究を発展させたのがアメリカのアベリーで、加熱滅菌した細菌をタンパク、DNA、脂質
などさまざまなグループに分離精製して病原性のない菌に混ぜ、どのような物質を加えれば病原
性を持つ菌が作られるかを調べた。その結果、DNA を使った場合のみ病原性を持つ菌が作られる
ことが分かってきた。この結果をもとに、アベリーは DNA が遺伝情報を伝える物質であるという
説を 1944 年に発表した。しかし、分離精製が不十分だったのではないかという批判なども出て、
この実験だけではタンパクが遺伝に重要な物質のはずだという根強い観念を完全に否定するには
至らなかった。
C: 遺伝情報の伝搬にタンパクが不要であることの確証
タンパクではなく DNA こそが遺伝情報の伝達に重要だという決定的な証拠は、1952 年になって
ハーシーとチェイスという 2 人の研究者によってやっと得られた。彼らは、細菌よりもっと簡単
な構造であるウィルスを使い、当時のハイテク技術である放射性同位体を利用した実験を行った。
ウィルスは DNA とタンパクでできた小さな粒子で、これが細胞に付着して、遺伝情報を細胞の
中に送り込んで自分と同じウィルス粒子を作らせる。このときに、タンパクと DNA のどちらが細
胞の中に送り込まれるのかが焦点になる。タンパクだけ、あるいは DNA だけをラベルするために、
2 人は放射性同位元素を使った。DNA とタンパクには、DNA はリンを含むが硫黄を含まない、一
方タンパクは硫黄を含むがリンを含まない、という面白い特徴がある。硫黄原子(S)には中性子
の数が異なるいくつかのタイプがあり、それらは同位元素とよばれる。硫黄の同位元素の中で 35S
と呼ばれる原子は不安定で、原子核に含まれる中性子 1 つが陽子と電子に分解しやすい。同じよ
うにリンの同位元素のひとつで 32P と呼ばれる原子も、原子核の中の中性子 1 つが陽子と電子に分
解しやすい。余った電子は原子核から高速で飛び出して、β 線と呼ばれる放射線になる。β 線を検
出すれば、35S や 32P が存在することが分かるわけである。こうした放射性同位元素は、原子炉か
ら出てくる中性子線を照射して作るのが一般的である。原子炉は第二次大戦中に原爆の製造のた
めに実用化され、その後平和利用も始まった。この成果を利用したわけである。
大腸菌と、それに感染する T2 ファージというウィルスを混ぜた培養液に 35S を加えておくと、
タンパクだけに放射性同位元素を含んだファージを作ることができる。同様に、培養液に 32P を加
えておくと、DNA だけに放射性同位元素を含んだファージを作ることができる。こうして作った
2 種類のファージを、放射性同位元素を含まない培養液に入れた大腸菌に混ぜて、しばらく培養す
る。培養液の中では、同位元素を含んだファージが大腸菌に感染して、遺伝物質が細胞の中に送
45
り込まれる。それから培養液を遠心分離すると、大腸菌は重いので底に沈殿し、ファージは軽い
ので上澄みに残る。どちらが放射線を出すかを調べてみと、35S を含んだファージを感染させた場
合には大腸菌は放射線を出さず、放射線を出すのは上澄みだけだった。つまり、タンパクは大腸
菌の中に入ってゆかないことになる。一方 32P を含んだファージを感染させた場合には、大腸菌が
放射線を出すようになった。これは DNA が大腸菌の中に入ったことを示す。
これによって、タンパクでなく DNA だけがウィルスから大腸菌の中に伝わること。つまり「大
腸菌にウィルスを作らせる」という遺伝情報は、タンパクでなく DNA によって伝えられているこ
とがこれで明確になった。
D: 4つの塩基の量の比に関する奇妙な関係
DNA の中には A, T, G, C と呼ばれる 4 種類の塩基があることを前に述べた。この 4 つの量に興
味深い特徴があることを見つけたのが、オーストリア出身でアメリカで研究していたシャルガフ
である。彼は DNA を分解して構成要素の量を調べた結果、4 種類の塩基は同じ量ずつあるわけで
はなく、A と T の量がほぼ等しく、G と C の量もほぼ等しいこと。そして A/T と G/C の量には生
物の種類によって差があることを 1950 年に発見した。たとえばヒトの DNA では、A と T はどち
らも約 30%なのに対し、G と C はどちらも約 20%である。この経験則から、A と T、G と C のあ
いだに何らかの相関があることが考えられるが、それが何を意味するのかはまだ分からなかった。
E: らせん構造の発見
ロザリンド・フランクリンはイギリスの研究者で、X 線結晶解析という実験手法を使って分子
の構造を調べていた。タンパクや DNA などの分子を精製して固めた結晶を作り、それに X 線を当
てると、X 線は分子の中を通るときにわずかに回折する。結晶の向こう側にフィルムを置いて回
折した X 線の像を捉えると、X 線がどのような向きに曲がるかを記録できる。フランクリンはこ
れを利用して DNA の結晶の構造を調べた。現在では X 線結晶解析の技術は高度に発達し、1 つの
分子の全ての構造を詳しく調べることも可能になっているのだが、当時の技術はまだ未熟だった。
それでもフランクリンは当時としては非常に鮮明なデータを得て、DNA がらせん状の構造になっ
ているらしいこと、糖とリン酸からなる鎖状の構造が外側にあり、内側に塩基が並んでいるらし
いこと、幅がだいたい 2 ナノメートルであること、0.34 ナノメートル単位の繰り返し構造がある
こと、などの情報を得た。フランクリンはこれらのデータをもとに、DNA が実際にどのような構
造を取っているかをじっくり研究しようとしていた。
F: 二重らせんの発見
ケンブリッジ大学で研究をしていたイギリス人クリックと、そこに訪ねてきて滞在することに
なったアメリカ人ワトソンも、DNA の構造に深い興味を持っていた。彼らはひょんなことから、
当時未発表だったフランクリンの X 線結晶解析の写真や、内部文書である研究報告書を目にする。
この情報をもとに従来からの情報を組み合わせて、彼らは DNA がどのような構造を取っていれば
フランクリンが得たような X 線結晶解析像になるかを考えた。
細長い分子である DNA は、二重らせん構造を取っているようにも、3 重らせんのようにも、4
重らせんのようにも見える。当時はコラーゲンのタンパクが 3 本の鎖がより合わさってできてい
ることが分かったばかりで、DNA も 3 重らせんではないかという説が有力だった。フランクリン
のデータを見ただけでは、どのようならせん構造が正しいかはすぐには分からない。そこでワト
46
ソンとクリックは、板を切り抜いて A, T, G, C の塩基の模型を作り、それらを針金で組み合わせて、
フランクリンのデータをもっともうまく説明できる構造を考えた。
X 線画像から示唆されるように塩基が内側にあるということは、2 本の鎖から内側に伸びた塩基
が対を作っている可能性があることを示している。ところが 4 つの塩基のうち A と G は比較的大
型で、T と C は小さい。A と A、G と G などが対になって水素結合を作るとすると、2 本の鎖の幅
が 2nm には収まらない。逆に T と T、C と C が対を作ったのでは、幅 2nm よりも狭くなってしま
う。
ここでシャルガフが見つけた経験則を思い出すと、A と T、G と C が DNA にはほぼ同量づつ含
まれているのだった。そこでこれらが対を作っていると考えると、大きな A と小さな T、大きな G
と小さな C が対を作ることになる。計算してみるとこれらの幅は、ちょうど 2nm ぐらいになる。
また、2 本の鎖がまっすぐでなく、うまい角度でらせん状にねじれているとすると、平たい構造を
している塩基の列が、ちょうど 0.34nm の間隔で並ぶようになる。これで、X 線結晶解析から推測
される繰り返し構造を、ちょうどうまく説明できることになる。このような構造を作るには、糖
とリン酸からなる外側の鎖は同じ方向でなく、互い違いに反対方向に並んでいないと、ちょうど
よい形に収まらない。
以上のような考察からワトソンとクリックは、DNA は 2 本の鎖が逆向きに並んだ二重らせんを
作っていること、それぞれの鎖には A, T, G, C の 4 つの塩基がさまざまな順序で並んでいること。
A と T、G と C がそれぞれ対になって水素結合を作っていること、というモデルを立て、1953 年
に発表した。この構造からは、シャルガフの経験則などこれまで分かっていた DNA の全ての特徴
が、うまく説明できる。しかしもっと大切なことは、これによって「タンパクに比べればずっと
単純な構造の DNA が、本当に複雑な遺伝情報を記録して子孫に伝えることができるのか?」とい
う疑問に対して、明確な答えを与えたことにある。
DNA が二重の鎖であり、それが塩基の対を作っているということは、2 本の鎖をちょっと引き
はがして 1 本の鎖に A, T, G, C の塩基が露出した部分を作り、そこに A に対しては T、G に対して
は C というようにちょうど組み合わさるように塩基を貼り付けていくと、それぞれの鎖から同じ
配列を持つ二本鎖を復元できることになる。こうすれば 1 つの二本鎖を、その中の塩基の配列を
正確に保ったままで 2 つの二本鎖に増幅できる。もし生物が実際にこのような作業を行っている
とすれば、遺伝情報という設計図を正確に 2 組コピーすることが、理論的に可能なわけである。
★ ワトソンとクリックの論文は、いろいろな意味で類を見ないものだった。生物学のほとんどの論文
と異なり、この仕事では実験データというものが全くない。それまでに示されていたさまざまな情報を
もとにして、それらを明確に説明できる理論を作った論文だというのが大きな特徴である。このような
理論的論文は、物理や化学の分野ではよく見られるが、生物学では珍しいものだった。
(今でも珍しい。)
しかしひとつ大問題だったのは、この論文は X 線結晶解析の情報が核になっているにもかかわらず、
それは他人のデータで、しかも当時はまだ発表されていないものだった点にある。この論文を書くカギ
になるデータを作ったフランクリンは、この論文の著者に入っていないし、ワトソンとクリックに自分
のデータを提供したという認識もなかったようである。
フランクリンと同じ研究室の研究員仲間に、ウィルキンスという人がいた。彼はフランクリンより若
干年長で、男尊女卑がまだ強い時代だったこともあり、フランクリンを部下のように考えていたらしい。
しかしフランクリンにはウィルキンスの指導下で研究をしているという意識はなく、2 人の仲はかなり
47
険悪だった。ウィルキンスは研究室を訪ねてきたワトソンに、外部には未発表だった同僚フランクリン
のデータを見せてしまう。また、フランクリンが提出した非公開の年次報告書が、本来は入手権限がな
いはずのクリックの指導教官だった教授の手のもとにわたり、クリックはその詳細な報告内容を読むこ
とができた。要するにワトソンとクリックは、実験データを作った本人の許諾を得ずに、そのデータを
勝手に使って論文を書いてしまったわけである。ワトソンとクリックの論文が、生物学における 20 世
紀最大の論文と評価されるとともに 20 世紀最大のデータ盗用事件と称されることもあるのは、このた
めである。
フランクリンはその後数年して、37 歳の若さでガンのため亡くなってしまう。それから数年して、
ワトソン、クリック、ウィルキンスの 3 人に DNA の構造発見の功績でノーベル賞が授与される。ワト
ソンとクリックはともかくとして、フランクリンと一緒に別の論文を書いているとはいえウィルキンス
がどうしてノーベル賞に値するのかという批判は、当時からつきまとった。確かにフランクリンは、貴
重なデータを自ら得ながら、それをワトソンらと同じ素早さで解析して結論を導くことができなかった。
フランクリンが自分のデータを発表するまで待っていたらワトソンらの研究は何年も遅れただろうか
ら、彼女はデータを隠さずもっとオープンにして共同研究をすべきだったという意見もある。しかしだ
からといって、データを勝手に使ってよいということにはならない。ワトソンがその後出版した「二重
らせん」という本の中でフランクリンのことを非常に意地悪く書いていることもあり、フランクリンの
正当な評価とワトソンへの毀誉褒貶は、50 年以上経った今でもさまざまな議論の対象になっている。
G: DNA の複製の原理の証明
ワトソンとクリックは二重らせん構造を解きほぐしてそれぞれの塩基に対して適切な塩基を組
み合われば、新しい 2 本の鎖を作れるはずだという考えを示したが、それはあくまで仮説だった。
生物が実際にこのようにして DNA の複製を行っていることを証明し、二重らせんの仮説の正しさ
を示したのが、1958 年に行われたアメリカのメセルソンとスタールによる実験である。
二本鎖の DNA が複製されて新たに 2 組の二本鎖 DNA が作られるとき、理論的には 3 つの可能
性がある。1 つは、2 本の鎖を解きほぐしてコピーを作ったあと、オリジナルどうしがまた二本鎖
を作り、新たに作られたコピーどうしが別の二本鎖を作る可能性である。もうひとつは、オリジ
ナルとコピーが組み合わさって二本鎖を作り、そのような組が 2 セットできるという可能性であ
る。3 つめの可能性は、もとの二本鎖が場所ごとに切れ切れになり、それそれに対してコピーが作
られることによって、場所によってオリジナルとコピーが入り交じった鎖が作られるというもの
である。
そこでメセルソンとスタールは、まずオリジナルの DNA の鎖を分かりやすくラベルするために、
普通の窒素原子(14N)のかわりに同位元素である 15N を含んだ培養液で、大腸菌を培養した。15N
は前に出てきた 32P や 35S と違って、放射線を出して分解することのない安定な同位元素だが、普
通の窒素よりも中性子を 1 つ多く持つので、7%ほど重たい。このような培養液で長い間増殖を繰
り返した大腸菌の DNA は、普通より重い窒素原子を含むので普通の DNA よりわずかに重たいこ
とになる。
このような重い DNA を持つ大腸菌を、普通の窒素原子を持つ培養液に移し、ちょうど 1 回分裂
するだけの時間待って(約 20 分)、それから大腸菌の DNA を抽出して「密度勾配遠心」にかけ
た。塩化セシウムという重たい分子を溶かした水を高速で遠心分離器にかけると、塩化セシウム
が遠心用試験管の底の方に押しつけられるため、底の方は塩化セシウムの濃度が濃くなって密度
が高く、上の方は塩化セシウムの濃度が薄いので密度が低くなる。このように上から下に向かっ
48
た密度の勾配ができた中に DNA も一緒に混ぜて遠心すると、DNA はその密度に応じて、試験管
の中で自分と同じ密度の部分に層を作って集まってくる。
1 回分裂した大腸菌の DNA をこのような遠心にかけてみると、DNA は 1 カ所に集まってきた。
その高さは、重い窒素で培養しただけの大腸菌の重い DNA と、軽い普通の窒素で培養した大腸菌
の軽い DNA の、ちょうど中間の高さになった。つまり、すべての DNA の鎖は、重い窒素を含む
オリジナルと軽い窒素を含むコピーの、2 本の組み合わせでできたものだということになる。これ
によって、複製の際に 2 本の鎖ともオリジナルのものや、2 本の鎖ともコピーのようなものは作ら
れないことが分かった。
しかしこれだけでは、オリジナルとコピーでできた二本鎖のうち、1 本は端から端まで完全にオ
リジナルなのか、それともオリジナルの部分とコピーの部分が場所によって混じっているのかは
分からない。そこで、大腸菌が 2 回分裂するだけの時間をおいて、そこから同じように DNA を抽
出して遠心分離を行った。1 回分裂した直後の状態では、どの DNA もオリジナルとコピーを同じ
だけ含んでいるはずである。もしこの鎖の片方が全て重いオリジナル、片方が全て軽いコピーな
のであれば、それをさらにもう 1 回複製すると、重い DNA のオリジナルと新たに作られた軽い
DNA のコピーが対になった中間の重さのものと、軽い DNA のコピーとそこからコピーされた軽
い DNA が対になった、2 本の鎖とも軽い DNA のものとができるはずである。一方、もし鎖の中
にオリジナルとコピーが入り交じっているのであれば、それがさらに入り交じって新しい軽い
DNA のコピーが混じってくるので、いろいろな重さの DNA 二本鎖ができてくるはずである。実
際にやってみると、中間の重さの DNA と軽い DNA の 2 種類だけが観察された。さらに 3 回、4
回と大腸菌を分裂させても、中間の重さの DNA が常に観察され、軽い DNA の数がだんだんに増
えていった。
これによって、DNA は常に二本鎖の 1 本がオリジナル、もう 1 本がコピーという形で複製され
ることが、明確に確かめられたわけである。
49
5 章 遺伝情報の発現:DNA から RNA を経てタンパクへ
生物は、適切なときに適切な場所の DNA の情報を読み出して利用する必要がある。DNA に書き
込まれた情報が実際に利用されることを、発現(expression)という。日本では「発現」という特殊
な学術専用用語を使っているが、英語の expression という単語は、「心に思っていることを形に表
して表現する」といったニュアンスの一般的なことばであり、形のない遺伝情報を実際に形として
外に表すという意味合いである。では、発現とは具体的にどういう現象なのだろうか?
5-1 1 遺伝子 1 タンパク説とセントラルドグマ
20 世紀の初めの数十年の研究で、生物の中では複雑な一連の化学反応が起こってさまざまな物質
が合成されており、個々の化学反応はそれぞれ特定の酵素によって担われていることが分かってき
た。同時にショウジョウバエやアカパンカビを使った研究で、突然変異でどれかの遺伝子を壊すと、
眼の色の色素や特定のアミノ酸を作るのに必要な一連の化学反応の中の、特定の場所が阻害されて
しまうことが分かってきた。つまり、ある遺伝子が壊れると、ある化学反応を担う特定の酵素が機
能しなくなってしまうということである。これから、1 つの遺伝子は 1 つの酵素を作る情報を担っ
ているという説が出てきた。これを 1 遺伝子 1 酵素説という。
3 章で見たように酵素はタンパクの一種だが、タンパクには酵素以外にもさまざまな機能を持つ
分子がある。これらの物質も遺伝子と対応していることが分かってきた。そこで 1 遺伝子 1 酵素説
は拡張され、1 遺伝子 1 タンパク説になった。3 章で見たさまざまな糖や脂質は、酵素によって作ら
れる。遺伝子はこれらの糖や脂質の情報は記録しておらず、それを作る酵素の情報だけを記録して
いるのである。
4-6 節で見たように、遺伝子の実体が DNA であることが分かったのは 1950 年代に入ってからの
ことである。1 遺伝子 1 タンパク説と組み合わせると、DNA には、タンパクのアミノ酸の並び方が
記録されていることになる。とはいえ、DNA からいきなりタンパクが作られるわけではない。1956
年になると、DNA と同じく核酸の一種である RNA の中に、非常に不安定で素早く作り替えられる
タイプがあることが見つかり、これが DNA からタンパクへの仲立ちをしている可能性が出てきた。
こうした流れを踏まえて、二重らせんを発見したクリックが 1958 年に提唱したのが、「分子の情
報は DNA の塩基の並びとして順番に記録され、その情報が RNA を経てタンパクに移される」とい
う説である。彼はこの説をセントラルドグマ(central dogma)と名付けた。日本語に訳すと「中心教
義」である。ふつうこうした科学の仮説は theory とか hypothesis と呼ぶものだが、クリックはドグ
マという宗教や政治にしか使わない大げさな言葉を使った。遺伝子の本質がやっと説明できたとい
う高揚感と、「並の仮説とは違うんだぞ」というクリックの気負いが感じられる。
多少の修正は加わったものの、セントラルドグマは 50 年以上経った現在でも大筋では正しい。以
後の節では、この過程を詳しく見てみよう。
5-2 転写と翻訳
A: 遺伝情報の発現の 2 ステップ
上に説明したように、DNA に書かれた情報はまず RNA に置き換えられ、RNA の情報をもとに
タンパクが作られる。DNA から RNA が作られるステップは、「転写」(transcription)と呼ばれ
50
ている。Transcription というのは、もともと写本を作るとか複写するという意味である。DNA と
RNA は本質的には似たような分子で、どちらも 4 種類のヌクレオチドで情報を表している。DNA
の情報を RNA に移すのは、書類を一文字一文字そのまま書き移すのと似ているわけである。
これに対し RNA からタンパクが作られるステップは、翻訳(translation)と呼ばれる。RNA が 4
種類の分子が連なったものなのに対し、タンパクは 20 種類のアミノ酸が連なったものである。4
種類の核酸という文字で書かれた RNA の言語を、20 種類のアミノ酸という文字で書かれたタンパ
クという別の言語に置き換えるという意味で、翻訳と呼ばれるわけである。
B:アミノ酸翻訳表とコドン
では、DNA や RNA の 4 文字言語は、どのようにしてタンパクの 20 文字言語に置き換えられる
のだろうか?ヌクレオチド 1 つを 1 文字と考えると、DNA や RNA には 4 種類の文字しかないの
だから、1 文字で 20 種類のアミノ酸を表すことはできない。2 文字を使うと 42 で 16 種類、3 文字
あれば 43 で 64 種類、4 文字なら 44 で 256 種類の情報を表せる。20 種類のアミノ酸を表すには、2
文字では足りないし 4 文字ではさすがに多すぎるので、3 文字使うのが最もありえそうである。し
かし 20 種類しかないアミノ酸に対して 64 文字あるので、ちょっと文字が余るという問題がある。
DNA の情報が RNA を介してタンパクに置き換えられていることが確かになった 1960 年代初頭、
アミノ酸とヌクレオチド配列の関係を調べる研究のデッドヒートが繰り広げられた。ウラシルを
多数つなげた UUUUUU...という配列の RNA を合成し、そこからどのようなアミノ酸が連なったタ
ンパクができるかを調べた結果、この配列からはフェニルアラニンができることが分かった。同
様に AAA, TTT, GGG がどのようなアミノ酸を作るかもすぐに調べられた。2 文字あるいは 3 文字
が組み合わさった場合の解析はもっと複雑になるが、ともあれ 10 年もしないうちに、すべての組
み合わせが明らかになった。
2 文字では足りない、3 文字を使えばちょうどよいが数がちょっと余る、という予想通り、アミ
ノ酸は 3 文字のヌクレオチド配列に対応していた。DNA や RNA は、3 つのヌクレオチドで 1 つの
アミノ酸情報を表していることになる。この 3 文字セットを、コドン(codon)と呼ぶようになっ
た。“Code”は情報をコードすること、 “on”は電子(エレクトロン)や光子(フォトン)など物理
学でも最小の粒子を表すのによく使われるように、ギリシャ語で「最小のもの」という意味で。
遺伝情報をコードする最小の粒子が、コドンである。
コドンの最初の文字が A の場合、2 文字目は AU, AC, AA, AG の 4 通りがある。それぞれに対し
て、3 文字目も U, C, A, G の 4 通りがある。面白いことに、「コドンの 3 文字めの情報はかなりい
いかげん」だった。下の表のようにコドンの 1 文字めと 2 文字めはアミノ酸ごとに必ず違うのだ
が、3 文字めは多くの場合は 2 文字が、場合によっては 4 文字がどの文字になっても、同じアミノ
酸を表していた。ほとんどのアミノ酸は 2 種類または 4 種類のコドンで表されており、セリンや
アルギニンのようにコドンが 6 種類もある場合もあった。1 種類のコドンしかないのは、メチオニ
ンだけである。
また、64 種類のコドンのうち 3 種類は、「タンパクへの翻訳を終了する」という情報を表して
いた。「タンパクへの翻訳を開始する」という情報は 1 種類だけで、しかもこれはメチオニンを
指示する組み合わせと同じだった。つまり、全てのタンパクはメチオニンから合成が始まるわけ
である。(タンパクが合成されたあと先頭部が切り取られるタンパクもあるので、最終的なタン
パクでは必ずしも常にメチオニンが先端にあるわけではない。)
51
1 文字 2 文
目
字目
UU
3文
字目
UUU
UUC
UUA
UUG
UC
U
UA
UG
UCU
UCC
UCA
UCG
UAU
UAC
UAA
UAG
UGU
UGC
UGA
UGC
アミノ酸
1文
字目
2文
字目
フェニル
アラニン
CU
アスパラ
ギン酸
CC
セリン
C
チロシン
CA
終止
終止
システイ
ン
終止
トリプト
ファン
CC
3文
字目
CUU
CUC
CUA
アミノ酸
1文
字目
2文
字目
AU
ロイシン
3文
字目
AUU
AUC
AUA
CUG
AUG
CCU
CCC
CCA
CCG
CAU
CAC
CAA
CAG
CGU
CGC
CGA
ACU
ACC
ACA
ACG
AAU
AAC
AAA
AAG
AGU
AGC
AGA
AC
プロリン
ヒスチジ
ン
A
グルタミ
ン酸
アルギニ
ン
CGC
AA
AG
AGC
アミノ酸
1文
字目
イソロイ
シン
2文
字目
GU
メチオニ
ン、開始
GC
G
GA
リシン
セリン
アルギニ
ン
アミノ酸
バリン
GUG
トレオニ
ン
アスパラ
ギン
3文
字目
GUU
GUC
GUA
GC
GCU
GCC
GCA
GCG
GAU
GAC
GAA
GAG
GGU
GGC
GGA
アラニン
アスパラ
ギン酸
グルタミ
ン
グリシン
GGC
このように同じタンパクや終止記号を複数のコドンが重複して表しているので、コドン 3 文字
で表せる 64 種類のヌクレオチド配列が、20 種類のアミノ酸に対応しているわけである。
5-3 コドンとアミノ酸の仲を取り持つ tRNA
A: トランスファーRNA(tRNA; transfer RNA, 転移 RNA, 運搬 RNA)
コドンとアミノ酸の対応関係を規定する辞書の役割をするのが、tRNA である。tRNA は RNA が
80 ヌクレオチドほどつながった比較的小さな分子で、1 本の鎖として DNA から転写されるが、自
分自身の鎖の内部で二本鎖を形成してクローバー型になり、それがさらに折れ曲がって、全体と
して L 字型の構造を作っている。L 字の一方の端には、3 つの塩基が外側を向いて露出していて、
これがあとで出てくる mRNA の 1 つのコドンと、ちょうど噛み合って結合するようになっている。
この部分はコドンとちょうど反対の組み合わせの配列(たとえばメチオニン AUG に対応する tRNA
では TGU)になっているので、アンチコドンという。
アミノ酸に対応するコドンは終止コドンを除いて 61 種類あるが、tRNA は大腸菌などでは 31 種
類、ヒトの場合も 50 種類ほどしかない。これは、tRNA によってはアンチコドンの一部の塩基が
イノシンという特殊な塩基に置き換わっていて複数の塩基と結合できるため、1 種類の tRNA で何
種類ものコドンと結合できるためである。また、メチオニンだけは 2 種類の tRNA がある。ひとつ
はタンパク合成の開始コドン専用のものであり、もうひとつはタンパクの中間にあるメチオニン
のために使われる。
B: アミノアシル転移酵素
tRNA の反対側の端には、アミノ酸が 1 つくっつくようになっている。20 種類あるアミノ酸は、
外部から摂取されたり、他の分子から合成されたりして、たくさんの分子が細胞の中を浮遊して
いる。アミノアシル転移酵素はタンパクで数多くの種類があり、細胞内に浮遊する特定の種類の
tRNA と特定の種類のアミノ酸を選択的にくわえ込んで保持し、両者を結合させる。これによって、
特定のアミノ酸が付加された tRNA が作られる。
52
5-4 DNA から RNA への転写
A: メッセンジャーRNA(mRNA, messenger RNA, 伝令 RNA)
mRNA は DNA からタンパクへ設計情報を受け渡すのに使われる RNA である。4-2 節で触れた
ように、DNA の長い鎖の中でタンパクの設計図情報が書かれている部分は飛び飛びにしか存在し
ない。この部分の DNA 配列だけが、RNA に転写される。このとき作られるのが mRNA である。
細胞の中では、数千種類以上のタンパクが常に作られている。それぞれのタンパクに対して
mRNA が作られるので、mRNA の種類は非常に多い。また長さもまちまちで、単純なタンパクを
作るものでは 1000 ヌクレオチドくらいの長さしかないが、複雑なものでは数万ヌクレオチド以上
に達する。
mRNA は種類も多く、DNA からタンパクへの仲立ちをする大変重要な RNA だが、その量は案
外少なく、重量にして全 RNA の 5 パーセント程度しかない。そのときそのときの細胞の需要に応
じて、必要な量だけの mRNA が作られてはすぐに壊されてゆくので、あまり多くの量は必要ない
のである。
B: mRNA の転写の開始
DNA の中にはところどころに、「ここから先の部分を RNA に転写せよ」という信号を記録し
た部分がある。このような DNA 領域を、プロモーター領域という。ここには、塩基がいくつかの
特徴的な配列で並んでいる。たとえば原核生物では、転写を開始する点の 10 塩基対ほど手前に
TATATT, さらに 35 塩基対ほど手前に TTGAGA などの配列がある。また真核生物では、転写を開
始する点の 20 塩基対ほど手前に TATA などの配列がある。
原核生物では、RNA ポリメラーゼタンパクが DNA の二本鎖に出会うと、まず弱く結合して、
そこから DNA 鎖に沿って滑ってゆく。そしてプロモーター領域の配列がある部分に出くわすと、
そこに強く結合する。ポリメラーゼは DNA の二本鎖を少し開き、そこから RNA の転写作業を開
始する。
真核生物ではもう少し複雑で、RNA ポリメラーゼタンパクは単独では RNA の転写を開始でき
ない。そのかわりに、転写開始の目印となる TATA 配列を認識して結合するタンパク、その結合
を補助するタンパク、DNA の二重らせんをほどくタンパク、これらのタンパクの複合体に RNA
ポリメラーゼを結合させるタンパク、転写開始後に複合体からポリメラーゼを切り離して送り出
すタンパクなど、多数のタンパクがプロモーターの領域に複合体を形成して、転写の開始を補助
している。このようなタンパク複合体を「基本転写因子」という。RNA ポリメラーゼは基本転写
因子に結合して、そこから転写を開始する。
C: RNA ポリメラーゼによる転写
転写を開始する RNA ポリメラーゼは、まず DNA の二本鎖を少し開き、露出した部分の DNA
の塩基をポリメラーゼタンパクの中心部に保持する。4-3 節の D で見たように、細胞内にはリボヌ
クレオチドに 3 つのリン酸がついた ATP, UTP, GTP, CTP がたくさん浮遊していて、これらが RNA
ポリメラーゼの反応部位に次々にやってくる。いま反応部位にある DNA の塩基とちょうど相補的
な分子が来ると、RNA ポリメラーゼはそれをいま作っている RNA 鎖に結合させ、鎖を伸ばして
ゆく。これと同時に RNA ポリメラーゼは基本転写因子から切り離され、DNA 鎖の上を移動しな
53
がら RNA 転写を進める。この反応は非常に早く、1 秒に数十ヌクレオチドの RNA 鎖が合成され
てゆく。
DNA の先の方には、「ここで転写を終了せよ」という意味を持つ特定の塩基の並びがある。こ
の部分に達すると RNA ポリメラーゼは DNA の鎖から離れ、RNA の合成を終了する。
基本転写因子は RNA ポリメラーゼを次々に呼び込んで RNA 合成を開始させるので、転写が進
行しているときはそこから先の DNA 鎖をいくつもの RNA ポリメラーゼが走り、RNA 合成を同時
進行で進めてゆく。次章で述べるように、プロモーターの周辺には基本転写因子以外にもさまざ
まなタンパクが結合して、転写の活性を制御している。
5-5 RNA からタンパクへの翻訳
A: リボソームとリボソーム RNA(rRNA, ribosomal RNA)
タンパク合成の際は、mRNA の鎖に並んでいる塩基が 3 つずつ読み込まれ、その並びに従って
アミノ酸がつなげられてタンパクを作ってゆく。これを担う RNA からアミノ酸への翻訳を実行す
るタンパク合成工場が、リボソームという巨大な分子複合体である。リボソーム(ribosome)はリ
ボヌクレオチド(ribo)で作られた物体(some)という意味で、その名の通り RNA の塊を中核と
して、そこに多数の小さなタンパクが組み込まれた、大きな構造物である。
リボソームを作る RNA がリボソーム RNA(rRNA)である。rRNA にはいくつかの種類があり、
たとえば大腸菌では 120、1540、2900 個のヌクレオチドからなる 3 種類がある。これらは1本の
長い RNA 鎖として合成され、あとから途中で切断されて 3 本の rRNA になる。これらは沈降係数
という分子の大きさの単位を使って、5S、16S、23S と呼ばれる。
アミノ酸の鎖が複雑に折れ曲がってタンパクの構造を形成するように、rRNA の鎖も折れ曲がっ
て複雑な構造を持つ塊を作る。リボソームは大小 2 つのサブユニットが組み合わさってできてい
る。小さい方のサブユニットは、16S の rRNA が折れ曲がって作る複雑な構造に、20 種類以上の
タンパクが付着している。大きい方のサブユニットは、5S と 23S の rRNA 鎖が絡み合った構造に、
さらに 30 種類以上のタンパクが付着して作られている。
真核生物のリボソームは、原核生物よりさらに複雑で大きい。真核生物の rRNA は 5S、5.8S、
18S、28S の 4 種類があり、18S と 30 種以上のタンパクが複合して小サブユニットを、また 5.8S、
18S、28S の rRNA と 40 種以上のタンパクが複合して大サブユニットを形成する。
★ リボソームのような大きな分子や分子複合体の大きさは、よく沈降係数(S: sedimentation coefficient)
という単位を使って表す。これはその分子を含む液体を高速で遠心分離したときに、どれくらいの早さ
で分子が沈降するかを示す値で、S の値が大きいほど分子が大きいことを示す。
★ このように原核生物と真核生物でリボソームの構造が異なっていることは、薬を作る上で非常に便
利である。体内に侵入してさまざまな感染症を引き起こす細菌は原核生物なので、原核細胞のリボソー
ムの働きを阻害するが真核細胞のリボソームには影響しないような薬を使えば、細菌のタンパク合成だ
けを阻害し、増殖を抑えることができる。ストレプトマイシンやテトラサイクリンという薬が、この例
である。
54
B: 翻訳の開始
転写開始点を先頭にして転写された mRNA は、最初にタンパクには翻訳されない部分があり、
先端から少し進んだ場所にタンパク合成が始まる最初のコドンであるメチオニンコドンがある。
またmRNA 終端の少し手前に、合成終了を示すコドンがある。この 2 つの間の部分がタンパクに
翻訳されるわけである。
メチオニンのついた tRNA には、2 種類あるのだった。開始コドン専用の tRNA は、まずリボソ
ームの小サブユニットに結合する。原核生物では、タンパク合成の開始コドンの数ヌクレオチド
手前に AGGAGGU という特定の配列がある。リボソーム小サブユニットははこの配列のところに
結合し、そこから mRNA の鎖に沿って滑り出す。一方真核生物では、開始コドン専用の tRNA の
ついたリボソーム小サブユニットは mRNA の先端に結合し、そこから mRNA に沿って滑り出す。
開始コドンである AUG のところにくると一旦停止し、ここで大サブユニットが結合する。
大小のサブユニットが結合したリボソームには、mRNA をはさむ溝と、それに沿って tRNA が
ぴたりとはまる 3 つのへこみがある。この 3 つのへこみは、アミノ酸、ペプチド、出口(exit)の
頭文字を取って、A、P、E 部位と呼ばれている。タンパク合成を開始するときは、開始コドンが P
部位の下に位置し、メチオニン tRNA が P 部位にはまった状態になっている。その隣の A 部位に
は、次の 3 ヌクレオチドのコドンが露出している。A 部位にはアミノ酸のついたさまざまな tRNA
がやってきて、シンデレラの靴合わせのようにコドンとうまく合うかどうかを試してゆく。コド
ンにぴったり合う tRNA がはまり込むと、P 部位の tRNA の先についたアミノ酸と A 部位の tRNA
の先についたアミノ酸が隣り合った位置に保持されることになる。ここで P 部位のアミノ酸は
tRNA から切り離され、代わりに A 部位のアミノ酸とペプチド結合を作ってつなぎ合わされる。継
いでリボソーム全体がガチャッと 3 ヌクレオチドぶん移動し、A 部位にあった tRNA が P 部位に、
P 部位にあったアミノ酸を切り離された tRNA は E 部位に移動し、すぐに細胞液の中に放出される。
放出された tRNA はアミノアシル転移酵素によって再び新しいアミノ酸がつけられて、リサイクル
される。
このような動きを繰り返して、A 部位にはどんどん新しい tRNA がやってきて、コドンと上手く
合うものだけがぴったりとはまり、P 部位の tRNA のアミノ酸とペプチド結合を形成して、A 部位
から P 部位に移動してゆく。こうして、リボソームが mRNA に沿って移動するごとに、コドンの
配列に従ってアミノ酸の鎖が少しづつ伸びて、リボソームのすき間から外へ伸びてゆく。
やがて A 部位に終止コドンが来ると、ここにはどの tRNA もぴったりはまることができない。
代わりに終結因子と呼ばれるタンパク分子がはまり込む。するとリボソームは P 部位のアミノ酸
を tRNA から切り離したあとアミノ酸の代わりに水分子を付加し、できあがったアミノ酸の鎖はリ
ボソームから離れてゆく。そしてリボソームは大小のサブユニットに再び分離して mRNA 鎖から
離れ、新しいタンパク合成のために再利用される。
リボソームがこのステップを繰り返す速度は非常に速く、原核生物の場合は 1 秒に 20 個、真核
生物の場合でも 1 秒間に 2 個のアミノ酸をつなげてゆく。リボソームのすき間から外に出たアミ
ノ酸鎖は、すぐにαヘリックスやβシートなどの 2 次構造を形成し、さらに3次構造を作って折
りたたまれてゆく。タンパクの高次構造のところで紹介したシャペロンタンパクは、リボソーム
の出口のところで待ち構えていて、アミノ酸鎖が適切に折りたたまれるのを手助けする。
55
5-6 mRNA のプロセシング
原核生物では、mRNA への転写とタンパクへの翻訳は流れ作業で進行する。原核生物の細胞の構
造は単純で、細胞質の中の一部分に DNA があり、そこで mRNA への転写が行われると、転写が完
了しないうちからすでに転写された RNA 鎖の端にリボソームが取り付き、タンパクの合成を開始す
る。転写が完了した mRNA は DNA 鎖から離れるが、そのままリボソームの取り付きとタンパクの
合成は続行する。しかし mRNA の寿命は短く、転写されてから数分後には分解が始まり、ばらばら
のヌクレオチドに戻されて、新しい mRNA の合成に再利用される。
これに対し真核生物の細胞では、DNA は核という特別な構造の中に納められている。DNA から
mRNA への転写は核の中で行われるが、mRNA からタンパクへの翻訳は核の外で行われる。当然、
できあがった mRNA は、核から外へ出なければならない。このときに、3 つの処理が mRNA に加え
られる。
A: キャップ構造の形成
まず、RNA の 5’側の端に、キャップ構造というのが作られる。メチル化された特殊なグアニン
ヌクレオチドがふつうとは逆向き(5’端と 5’端が向き合う位置)に RNA 鎖の先端に結合する。1
本鎖の mRNA は 2 本鎖の DNA に比べると非常に不安定で分解されやすいが、キャップ構造によ
って先端部が保護され、分解されにくくなる。キャップ構造は、リボソーム小サブユニットが
mRNA 鎖に取り付くときの目印としても使われている。
B: ポリ A テールの形成
次に、3’側の端に A(アデニン)が数十
数百ヌクレオチド付加される。これを、mRNA の尾
端にアデニンがたくさん連なっているということで、ポリ A テールという。これによって、RNA
鎖の後端が分解されにくくなる。
真核生物の mRNA は、キャップ構造とポリ A テールで前端と後端を保護されているため、原核
生物の mRNA よりも安定で、寿命は数十分からばあいによっては数時間に達するものもある。
C: スプライシング
核で合成された多くの mRNA は、核から出る前に長さがどんどん短くなり、最初合成されたの
よりもはるかに短い mRNA しか核外に放出されない。この現象が 1970 年代に見つかったときは、
何が起きているのか分からなかった。よく調べてみると、原核生物の mRNA は先端近くから後端
近くまでのほぼ全体がタンパクに翻訳されるのに対し、真核生物の mRNA では、タンパクに翻訳
される部分が飛び飛びに分断されていることが分かった。タンパクに翻訳されない中間の部分は、
数十ヌクレオチドから最高1万ヌクレオチド以上に達するものもあった。このような中間部分は、
DNA から転写されたあと、核から出る前に除去されてしまう。そこでタンパクに翻訳される部分
をエクソン(「外に出るもの」の意味)、取り除かれてしまう部分をイントロン(「中にあるも
の」の意味)と呼ぶようになった。映画を作るとき、撮影したフィルムをシーンごとに切り離し
て、透明なテープで貼り合わせて編集を行う。この作業をスプライシングという。mRNA からイ
ントロンのところを切断してエクソンだけを切り貼りする様子もこれに似ているので、スプライ
シングと呼ばれるようになった。
56
スプライシングを行うのがスプライソソームと呼ばれるタンパク複合体である。スプライソソ
ームの中には、snRNA(small nuclear RNA、核内低分子 RNA)と呼ばれる短い RNA がいくつか組
み込まれている。スプライシングすべき場所には特定の配列があり、スプライソソームの中の
snRNA はこれらの配列を認識して結合する。mRNA の鎖のイントロンの部分を輪のようにして前
後のエクソン部分を並べ、途中のイントロン部を切断して前後のエクソン部分をつなぎ合わせる
ことによって、エクソン部分だけが並んだ mRNA 鎖を作り出す。
D: オルタネートスプライシング
真核生物の mRNA は以上の 3 つの処理を経て核外に運ばれるが、このうち特にスプライシング
は、mRNA に原核生物にはない 2 つの重要な機能を加えている。
そのうちの 1 つが、mRNA からエクソン抜き出してつなげる際に、たとえば 1、2、3 番のエク
ソン、1、2、4 番のエクソン、1、3、5 番のエクソンのように異なるエクソン部分を選んでつなぎ
合わせることで、1 つの mRNA から何種類もの mRNA を作り出せることである。10 種類以上の
mRNA が作られることもある。体の異なる組織や、発生の異なる時期によって、異なるスプライ
シングが行われることが多い。異なるエクソンの組み合わせからは異なる配列のタンパクが作ら
れるから、1 つの遺伝子からいくつもの異なったタンパクを作ることができる。これによって、遺
伝子の数よりももっと多様なタンパクが作られるようになっている。
E: エクソンとドメイン構造
タンパクは折れ曲がった高次構造を作るドメインがいくつか連なっていることが多いが、エク
ソンのもうひとつの興味深い特徴は、このドメイン構造がエクソンと対応している場合が多いこ
とである。1 つのエクソンが 1 つのドメインのアミノ酸鎖をコードしている。ドメイン構造はタン
パクの中で特徴的な機能を担うユニットであり、エクソンを切り貼りすることで、異なった機能
ユニットを組み合わせたタンパクを作ることができる。この特徴はオルタネートスプライシング
の際に活用されているだけでない。遺伝子の進化の過程で、異なる遺伝子のエクソンを組み合わ
せて新しい遺伝子が作られることがあり、タンパクを機能ユニットごとに切り貼りして新しい機
能を持つタンパクを作る仕組みの原動力になっている。
57
6 章 遺伝子発現の調節
前章で見たように DNA に書かれた情報はmRNA に転写され、タンパクに翻訳されることで実際
に使われる(発現する)。しかしタンパクはのべつ幕なしに作られるのではなく、必要なときに、
必要なだけの量が作られるように、適切に制御される必要がある。生物はさまざまな仕組みで、こ
の制御を実現している。
6-1 原核生物の転写調節
原核生物では、mRNA への転写とタンパクへの翻訳は流れ作業で進行する。mRNA 全体の転写が
終わらないうちから、すでに転写された RNA 鎖の端にリボソームが取り付き、タンパクの合成を開
始する。転写が終了して mRNA が完成したあとも、リボソームの取り付きとタンパク合成は進行す
る。しかし mRNA の寿命は短く、できてから数分後には分解が始まり、ばらばらのヌクレオチドに
戻されて、別の RNA の合成に再利用される。
このように原核生物では転写と翻訳が直接連動しているので、発現の調節は基本的に転写の調節
によって行われる。RNA ポリメラーゼが取り付くプロモーターの部分には、他のさまざまなタンパ
クも結合し、ポリメラーゼの活動を促進したり阻害したりする。
A: 原核生物特有のオペロン構造
原核生物では、ひとつのプロモーターのうしろにタンパクに翻訳される部分がいくつか連続し
ていることがある。このような構造では、プロモーターによって mRNA が転写されると、その中
間のいくつかの場所から、複数のタンパクが作られるようになる。このように、1つのプロモー
ターとそれによって制御される一連の遺伝子群を、操作(operation)の単位という意味でオペロン
(operon)という。
ある物質の分解や合成にいくつかのタンパクを同時に用いる必要がある場合、それらのタンパ
クを作る過程はひとまとめにして制御するのが便利である。オペロンには、このようにある目的
に用いるタンパクの遺伝子がまとめられていることが多い。
オペロンの働きをはじめて詳しく解析したのは、フランスの科学者ジャコブとモノーである。
かれらは大腸菌がラクトース(乳糖)を分解する酵素の発現制御に注目した。ラクトースは母乳
や牛乳に含まれる糖で、グルコースとガラクトースという 2 つの糖がつながった形をしている。
ラクトースを分解するには、ガラクトシダーゼをはじめとするいくつかの酵素タンパクが必要で
ある。しかし私たちは、いつも牛乳を飲んでいるわけではない。私たちのお腹の中にいる大腸菌
は、私たちが牛乳を飲んだときにはラクトースを分解する酵素を作る必要があるが、そうでない
時はラクトース分解酵素を作っても無駄になってしまう。また、ラクトースを分解するのはグル
コースを得るためであるが、大腸菌の体内にグルコースが十分にあれば、別にラクトースを分解
する必要はない。大腸菌の DNA には、ラクトースの分解に必要な酵素群の遺伝子な並んで、1 つ
のオペロンを作っている。これを lac オペロンという。大腸菌は、ラクトースがあり、グルコース
が足りないときにだけ、lac オペロンの遺伝子群を発現させたいわけである。
58
B: リプレッサーによる転写の抑制
この制御に関与する分子の 1 つが、ラクトースがないときに lac オペロンを抑制するリプレッサ
ーと呼ばれるタンパクである。リプレッサータンパクは常に一定の量が作られており、できたタ
ンパクは lac オペロンの先頭にあるプロモーターのすぐ後ろの DNA に結合する。プロモーターに
RNA ポリメラーゼが取り付いて mRNA を転写しようとしても、リプレッサータンパクが邪魔をし
ているので転写ができない。これによって、ふだんは lac オペロンの遺伝子群が転写されないよう
になっている。
私たちが牛乳を飲んでラクトースが大腸菌に吸収されると、ラクトースは細胞内で変化してア
ロラクトースという分子になる。lac オペロンに結合したリプレッサータンパクには、アロラクト
ースが結合できる部位があり、ここにアロラクトースがくっつくと、タンパクの形が少し変化し
得て、リプレッサータンパクが DNA に結合できなくなる。これによってプロモーターの後ろの邪
魔者が取り除かれるので、RNA ポリメラーゼは lac オペロンの遺伝子群を転写できるようになる。
C: アクチベーターによる転写の促進
lac オペロンの制御に関わるもうひとつのタンパクが、CAP(cyclicAMP activater protein、サイク
リック AMP アクチベータータンパク)である。サイクリック AMP は核酸の AMP に似た小さな
分子で、○章で述べるように細胞内のさまざまな制御に関与している。細胞内にグルコースが十
分にあるときはサイクリック AMP の量は少なく、グルコースが足りないときはサイクリック AMP
の量は多い。サイクリック AMP アクチベータータンパクにはサイクリック AMP が結合する部位
があり、ここにサイクリック AMP が結合すると、CAP は lac オペロンのプロモーターの直前に結
合できるようになる。CAP には RNA ポリメラーゼの DNA への取り付きを促進する作用があり、
これによって lac オペロンの遺伝子群は活発に転写されるようになる。
大腸菌の細胞内にグルコースが十分にあるときは、サイクリック AMP の量は少なく、CAP にも
サイクリック AMP が結合しない。すると CAP は lac オペロンに結合しないので、RNA ポリメラ
ーゼの取り付きはわずかしか起こらず、lac オペロンの遺伝子群は少ししか転写されない。
このようにして、ラクトースがないときに転写を抑制するリプレッサーと、グルコースが少な
いときに転写を促進するアクチベーターの 2 つが働くことで、lac オペロンは必要なときだけ転写
が行われるようになっている。
大腸菌には、lac オペロン以外にもさまざま遺伝子群がオペロンを作っており、それぞれに特異
的なリプレッサーやアクチベーターがあって、必要なときに必要なだけの遺伝子を mRNA に転写
するようになっている。
6-2 真核生物の発現制御
真核生物では、原核生物にくらべ DNA からタンパクに至る過程はより複雑だ。この違いを反映し
て、真核生物では原核生物よりも多様な発現制御の仕組みがある。順を追ってみてゆこう。
A: クロマチンの構造制御による調節
原核生物の DNA はむき出しで細胞質に浮いているので、転写に関わるさまざまなタンパクが自
由に DNA にアクセスすることができる。一方真核生物では、DNA はヒストンに巻き付けられ、
クロマチンという小さな構造に折りたたまれている。もしヒストンが非常にぎっしり巻いている
59
と、転写に関わるタンパクは DNA にアクセスることができない。そのため、クロマチンの中でヒ
ストンがどれくらいぎっしり巻いているかが、発現制御の最初のステップになる。
クロマチンの中で、ヒストンがゆるく巻かれていてタンパクが DNA にアクセスできる状態にな
っている場所を、ユークロマチンという(euchromatin=真のクロマチン、染色すると濃く染まるの
でこう呼ばれている)。これに対し、ヒストンがきっちり巻かれていてタンパクが DNA にアクセ
スできない場所が、ヘテロクロマチンである。1本の DNA の中では、ヒストンにゆるく巻かれて
いる場所ときっちり巻かれている場所が混じっていることが多い。このようなクロマチンの構造
を決めるのには、大きく 2 つの仕組みがある。ヒストンのアセチル化とメチル化である。アセチ
ル化はヒストンの巻きをゆるめ、メチル化は巻きを強める働きがある。
1 つのヒストンは、8 つのタンパクが組み合わせってできている。それぞれのタンパクのアミノ
酸鎖のうち、前半の部分は大きな塊を作ってヒストンの中核部分になるが、尻尾の部分はこの塊
からはみ出して、ヒストンのまわりに尻尾のように細く伸びている。この部分のアミノ酸には、
アセチル基(CH3CO-)やメチル基(CH3)が付加される場所がたくさんある。
DNA の鎖には多数のリン酸があり、リン酸に含まれる酸素はマイナスの電気を帯びている。一
方ヒストンの表面には、プラスの電気を帯びたアミノ酸が多い。そのため DNA とヒストンは電気
的に引き合って、きっちりくっついている。アセチル基にはマイナスの電気を帯びた酸素がある
ため、アセチル化されたヒストンはプラスの電気が弱まってしまう。そのため、ヒストンにアセ
チル基がたくさんつくほど、DNA とヒストンが引き合いにくくなり、巻きがゆるくなる。
また、クロマチンのまわりにはメチル基が付いたヒストンを認識するタンパクがたくさんある。
このタンパクはメチル化されたヒストンとくっつき、他のヒストンとの結合を強化する。このた
め、メチル基が多いヒストンは巻きが強くなる。
ヒストンの尻尾のどこに、どのくらいのアセチル基やメチル基がついているかによって、ヒス
トンがどれくらいきっちり巻かれるかが変わる。このため、DNA の場所ごとにヒストンの巻きの
強さが変わり、どの部分に他のタンパクがアクセスしやすくなるか、つまり mRNA に転写されや
すくなるかが変わる。
B: DNA のメチル化による調節
ヒストンだけでなく、DNA にもメチル化が起きる。DNA が複製されると、新しい DNA はオリ
ジナルの鎖と新しく合成された鎖の 2 本が撚りあわさったものになる。DNA をメチル化する酵素
は、オリジナルの鎖のメチル化された部分を見つけ、それと対応する部分の新しい鎖をメチル化
する。これによって、もとの鎖のどこがメチル化されているかの情報が、新しい鎖にもコピーさ
れる。
核の中には、DNA のメチル化された部分を探して、そこに巻き付いているヒストンをメチル化
するタンパクもある。ヒストンがメチル化されると巻きが強くなる。つまり、DNA のメチル化さ
れた部分はヒストンにきっちり巻かれ、他のタンパクがアクセスしにくくなるのである。
1 つの受精卵からさまざまな種類の細胞が作られてゆく過程で、DNA のメチル化される場所も
さまざまなタンパクの働きで変化する。ある細胞が分裂すると、DNA の中のメチル化されている
場所のパターンは子孫細胞に引き継がれる。これによって DNA の中のどの部分がmRNA に転写
されやすくなるかのパターンも子孫の細胞に引き継がれ、もとの細胞と同じような細胞ができて
くるわけである。
60
C: プロモーターによる調節
ヒストンがゆるくなっている場所には、mRNA を転写するためのタンパクがアクセスすること
ができる。原核生物では、RNA に転写される部分の直前の DNA に RNA ポリメラーゼが直接取り
付いて転写を始めたが、真核生物では転写開始位置の直前にまず基本転写因子という複数のタン
パクの複合体が形成され、そこに RNA ポリメラーゼが呼び込まれて転写を開始するのだった。こ
のような違いはあるものの、転写開始位置の前後に転写を阻害するリプレッサータンパクが結合
したり、転写を促進するアクチベータータンパクが結合して、転写の制御をする仕組みは、原核
生物と本質的には同じである。
DNA の転写開始点の前方には、さまざまなアクチベータータンパクが結合する領域がある。場
合によっては数千ヌクレオチドにおよぶこの一連の領域を総称してプロモーターと呼ぶこともあ
れば、転写開始複合体が形成される小さな領域だけをプロモーターと呼ぶこともある。
原核生物ではオペロンによって 1 つのプロモータが複数のタンパクの遺伝子を同時に制御する
ことがあった。しかし真核生物ではこのような例はほとんどなく、基本的にそれぞれの遺伝子の
前に、固有のオペレータがついている。従って真核生物では、全ての遺伝子の発現は個別に制御
されていることになる。
D: エンハンサーによる調節
プロモーターは転写開始点の直前の数千ヌクレオチドの場所であるが、そこからさらに数万
数十万ヌクレオチド離れた場所に、転写を制御する領域があることもある。このような DNA の領
域をエンハンサーという。エンハンサーは遺伝子の前方にあることもあれば、後方にあることも
ある。またイントロンになる部分の中にあることもある。
エンハンサーには、転写を制御するさまざまなタンパクが結合する。DNA はクロマチンの中で
複雑に折れ曲がっているので、エンハンサーに結合したタンパクは転写開始点にある転写複合体
の近くに来て、その作用を制御することができる。これによって、その遺伝子の転写を促進した
り、抑制したりできるわけである。転写を抑制するようなエンハンサーを、サイレンサーと呼ぶ
こともある。
E: mRNA の寿命による調節
以上のように、クロマチンの構造、プロモーター、エンハンサーの 3 つの働きで、どの遺伝子
のmRNA がどれくらいの量転写されるかが決まる。転写されたmRNA は原核生物では全て数分後
には分解されてしまうが、真核生物ではmRNA が核を出て細胞質に移動してからタンパクに翻訳
される必要があるので、mRNA の寿命はもっと長い。前章に述べたように真核生物のmRNA は先
端のキャップ構造と後端のポリ A テール構造で安定されているのだが、その寿命はものによって
数十分から数時間と大きなばらつきがある。寿命が長いほど、1 本のmRNA からより多くのタン
パクが作られることになる。
スプライシングが済んだあとのmRNA には、翻訳が終了する点からポリAテールが始まる点ま
での間に、かなりの長さのタンパクに翻訳されない部分がある。ここの部分の配列が mRNA の寿
命を決めるのに大切で、これによってmRNA の寿命が決まる。
61
F: マイクロ RNA による翻訳の調節
転写された mRNA は、さらにもう 1 つの仕組みでタンパクへの翻訳効率を制御されている。こ
れに関与するのが、マイクロ RNA(miRNA)と呼ばれる RNA である。
細胞の中では、特殊な短い RNA 鎖が転写されている。このような RNA 鎖は、ある mRNA の配
列の一部と、それと相補的な配列とが、連続した形になっている。この RNA が DNA から転写さ
れると、相補的な部分がヘアピン状の構造を作る。これがダイサーと呼ばれる RNA 分解タンパク
によって、21 塩基対ほどの長さに細かく切断される。この短い二本鎖 RNA 鎖がマイクロ DNA で
ある。
二本鎖のマイクロ RNA は、RISC(RNA 誘導型サイレンシング複合体)と呼ばれるタンパクの
中に取り込まれて、一本鎖になる。RISC は、取り込んだ RNA 鎖とちょうど相補的な配列の mRNA
に結合し、結合した部分のちょうど真ん中で mRNA 鎖を切断したり、mRNA のその場所に結合し
たまま居座ってタンパクの合成を邪魔したりする。こうした働きによって、DNA から転写された
mRNA の機能を失わせてしまうのである。ヒトではこうしたマイクロ RNA が数百種類見つかって
おり、いったん mRNA が作られたあと、タンパクへの翻訳を微調整するのに使われていると推定
されている。
G: RNA 干渉とマイクロ RNA の発見
マイクロ RNA はひょんなことから見つかった。生物の研究では、ある遺伝子の発現を止めると
どのような影響が起きるかを調べたいことが多い。こういうときは、ゲノムの中でその遺伝子だ
けが何らかの原因で壊れてしまった突然変異体を作って調べるのだが、自分が調べたい遺伝子の
突然変異体を得るのは非常に大変な手間がかかる。そこで、自分が調べたい遺伝子のmRNA と相
補的な配列を持つ一本鎖 RNA を細胞に取り込ませれば、取り込ませた RNA がmRNA とくっつい
て機能を失わせることができるのではないかというので、1980 年代にいろいろな実験が行われた。
しかしこれはなかなかうまく行かなかった。
ところが 1990 年代のはじめになって、一本鎖 RNA でなく、ある遺伝子の塩基配列の一部とそ
れに相補的な配列から成る二本鎖の RNA を細胞内に取り込ませると、その遺伝子の発現を簡単に
止めることができるという現象が見つかった。この現象は、RNAi(RNA interference, RNA 干渉)
と名付けられた。RNAi は遺伝子の機能を調べるには非常に便利な技術で、さまざまな遺伝子に対
応する二本鎖 RNA を使ってその遺伝子の発現を止め、どのような影響が生じるかを調べる実験が
活発に行われるようになった。しかし、なぜ二本鎖 RNA が遺伝子発現を止めるかの仕組みは、な
かなか分からなかった。この現象がダイサーや RISC というタンパクの働きで起きることが分かっ
たのは、21 世紀に入ったばかりの頃のことである。
外部から二重鎖 RNA を取り込ませるとこのような現象が起きるならば、きっと細胞内でもこの
仕組みを何らかの形で利用しているに違いないと考えられる。そこで調べてみると、RNA 干渉を
起こせそうな RNA が細胞内で転写されているのが見つかってきた。こうしてマイクロ RNA によ
る翻訳制御の仕組みが見つかったのである。
6-3 セントラルドグマの再考
5 章と 6 章で、DNA に書かれた情報が RNA を経てタンパクとして発現される過程を見てきた。5
章の始めに書いたように、この過程はセントラルドグマと呼ばれ、20 世紀後半以降の生物学の基本
62
概念となってきた。しかし詳しいことが分かるにつれ、DNA からの情報の流れは、当初考えられて
いたよりは複雑であることも分かってきた。
ひとつは、DNA からの流れは全くの一方通行ではなく、一部ではあるが RNA から DNA が作られ
る場合があるのが見つかったことである。ウィルスの多くはタンパクの殻の中に DNA が入った形を
しているが、一部にはタンパクの殻の中に RNA が入ったものもある。このようなウィルスは、RNA
をもとに DNA を合成する酵素を持っており、それを使って自分の情報を感染した相手の DNA に組
み込んでいる。ウィルスでなく生物でも、DNA からいったん RNA を転写し、それをゲノムの他の
場所の DNA にコピーするようなものが見つかった。
もうひとつは、RNA は DNA に書かれた情報をタンパクに伝える情報媒体としてだけでなく、RNA
自体が特定の構造を持ち、特定の化学反応を仲介する分子として働くこともあるのが分かってきた
ことである。DNA や RNA を合成するポリメラーゼはタンパクで出来ているが、mRNA からタンパ
クを合成するリボソームは RNA の塊である。スプライシング反応を行うスプライソソームでは
snRNA が、また mRNA の切断を行う RISC ではマイクロ RNA が、反応の中核を担う分子として機
能している。これらではタンパクでなく RNA が、特定の化学反応を媒介する酵素のような働きをし
ている。そこでこれらの分子は、タンパクで作られた酵素(エンザイム)でなく RNA(リボ核酸)
で作られた酵素ということで、リボザイムと呼ばれるようになった。
3つめは、mRNA と極めてよく似た構造を持つにもかかわらず、タンパクに翻訳されることがな
い RNA が大量に存在することがつい最近になって分かってきたことである。21 世紀に入り DNA の
全配列を解明するゲノムプロジェクトが進んでくると、こんどは細胞の中で作られている mRNA の
配列を片端から解析して、どのような遺伝子が転写されているのかを調べる研究が精力的に進めら
れるようになった。これらの mRNA は、当然ゲノム上に同定されたどれかの遺伝子に対応するだろ
うと思われていた。しかし実際に調べてみると、どの遺伝子にも対応しない、タンパクに翻訳され
るような配列構造を持たない mRNA が大量に見つかってきた。これらは mRNA 型ノンコーディン
グ RNA(mRNA-like ncRNA)と命名され、マウスでは見つかった mRNA のうちの半分以上、2 万を
超える種類が、このタイプに分類されている。これらの RNA の中のいくつかは、ステロイドホルモ
ンの受容や、2 セットある相同な染色体のうちどちらか一方からだけからしか特定の遺伝子を発現
させないようにする現象に関与しているらしいことが分かってきている。しかし残りの大多数につ
いては、機能も、そもそも機能があるのかただのゴミに過ぎないのかどうかも、いまの時点ではよ
く分かっていない。
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