JNK000405

天理大学人権問題研究室紀要
く
第 4 号 :59 一 68,
2001
年 表)
日本人と黒人との 接触。交流砂忠
一一戦前篇一一
古川博 己 Ⅰ古川哲史
FURUK
㏍WAHiromi/FURUK
㏍WATetsushi
はじめに
本稿は主としてブラック・アフリカ
ラ
[サハラ以南の
地域 ] の 人 びと,およびそのディアスポ
[故郷離散 コの アフリカ系アメリカ 人と日本人との 接触・交流・ 文化影響の歴史を
式により簡便に 提示しようと 試みたものであ
る。 第二次世界大戦後の
,年表形
半世紀余は項目が
るので,今回は 16世紀より同大戦終結までの 期間に限定した。 人種問題について
急増す
日本の政治家
の舌禍が報じられるたびに ,表面的な繕いがなされたが ,一過性の取り 組みでは本質的理解と
は言い難い。 この年表が,まだ 不十分とはいえ ,日本一アフリカ
関係,日米関係において 見過
ごされがちであ った史実につき ,相互の理解と 認識に資することができれば 幸いであ
る。
本稿作成に際して ,アフリカとの関連は日本一アフリカ 交渉更 に取り組んできた 古川哲史が,
アフリカ系アメリカ 人との関連 頃 はアメリ
ヵ 研究,黒人文学紹介を 手がけてきた 古川博己 が 担
当し,両者の間で調整をおこなった。 なお,紙幅の関係上,出典・ 参照資料等は 多くの項で 略
記したことをお 断 わりする。
]548 (天文l7) 1546 年に来日のポルトガル
がフランシスコ・ザビエルに
ファ ヤ 人を見ることを
入船長ジョル
ジ ・アルヴァレスは
orge 杣 varez)
送った書簡に「日本人は 黒人,特にモザンビークから
悦び,彼等を見る為に 15
レグ ワ
[ R.6 キロ ]
糸り
とせずして来る」と 記す。 倖田 成文Ⅱ日欧通交 史 団地)
l581 (天正09) イエズス会巡察部アレシャンドロ・ヴァリニャーノ
来た カ
乃至 20 レグ ワ を遠し
(苗 ex ㎝ dro Vali 糾 ㎝ 0)
一行が入京の 際にモザンビーク 出身の黒人を 随伴。 この黒人の存在が
都で評判となり
,
織
田信長とも会い ,庇護を受けて「 禰介」と称される。 ㎝信長公言引地 ) なお,来栖良夫Ⅸ
ろ助由 (岩崎書店, 1968), 遠藤周作『黒ん 坊』 (毎日新聞社・ 1971) など,この史実にも
とづく小説。
天理大学非常勤講師(元・天理大学国際文化学部英米学科
)Ⅰ同志仕女子大学嘱託講師
№ternationalCuItureStudies,TenriUnivers
比 y/
血 ts
Par ㌃ timeLec ぬrer,Dosh shaWomen,sCollege0fLibera
㎏ tiredFacultyMenlber,Facultyof
を
Ⅰ
日本人と黒人との接触・交流砂 史
l586
(天正 l4)
天正道欧使節のポルトガル 船が帰路,季節風待ちのためモザンビークで
月半停船を余儀なくされる。 少年使節は
れる現地のアフリカ
l590 年代
約6 ヵ
[ カプリ ] 火やエチオピア 人 と呼称さ
カ フィー ル
人を見聞。 (デ ・サンデ『天正遣欧使節 記醸
この頃 より狩野派画家による 南蛮風絵図に ,渡来白人の従者として「悪人」や 褐色
の肌色の人々の
姿が描がれる。
1593 (文禄 02) アジアより本国に 向かうポルトガル 帆船サント・アルベルト 号が, 3 月に南ア
フリカのトランスカイ
近辺で座礁。 岸に辿り着いた 奴隷160 人中に日本人奴隷ひとり。 (若
生 哲夫「アフリカに 渡った日本人
(-ド )」『毎日新聞コダ 刊 , 1983 年 4 月 27
ロ
)
1596 (慶長 0l) イスパニア 船 サン・フェリ ペ 号が離破し,土佐澗声 神 に漂着。 生存者中に「里
坊」
250 人とあ る。 け太閤記』 巻 16)
文 06) 南アフリカ・ケープタウンの 国立古文書館資料に ,同年および1670 年, 73年の
住民登録 簿に 「アントニー・ファン ,ヤパン」 ( 日本から来たアントニ 一) の記録 0 (伊藤
正孝「アフリカーナに 日本人の血身」『朝日新聞』夕刊, 1991 年 11月
6
日
)
1788 (天明 08) 洋風画家の司馬江漢が 長崎に旅し,出島のオランダ 商館の接待で「悪功」を 見
て驚く。 江漢は「北里坊 と云ハ おらんたけランダ
]
/
方の者ニ あ らず,天竺の 方おらん
たの出張, ヤハ嶋 [ジャワ 島] の 者 , 或ハ アフリカ大洲の 中モノ, モ ウタ アパと 五姓の 熱
国の産れなり ,故に色黒く 髪 チリチリと雲珠
[@l
朋巻 になり……」と 記す。 (司馬江@
『
西
瀞 日記J)
179l (寛政03)米船グレース 号は穣 (r 珂 。め ,レイディ・ワシントン 号げ heL 砒靭 Waos 脇れ,gto め
の 2 隻が紀州の串本近くで 補給。 後者の乗組員は「紅毛人 50 人,黒人20人,中国人 5 人 は
ど」とある。 Ⅷ外国通覧 肋
1797 (寛政09) 一 1807 (文化0%
欧州におけるナポレオン 戦争のため,この時期,オランダ東
。
"
ス
インド会社の 傭船として米船が ,長崎へ入港。乗員に「黒奴」,「黒坊」の記録。 ㏍阿蘭陀
風説書 コ他 )
1841 (天保12) 中浜万次郎 (JohnMung)
員に救出され
,アメリカで初
が 14.歳のとき漂流,鳥島で米捕鯨船の黒・ 自乗組
・中等教育を 受ける。 1843 年,北部 Fa
人 席 へと指示され 人種差別を体験。 操船術を修得後,米船に
ア
廿h 卸 en の教会で異
乗り組みアフリカ 沿岸 や パ フ
・ニューギニアの 住民を見聞。 (宮永孝 『ジョン,マンと 呼ばれた %,J
l845 (弘化02) 米 捕鯨船マンハッタン 号 (The
江戸湾へ来航。 船上で操舵手
ピ
他)
肱 a れわ nt ねめが W2 名の日本人遭難者を
ラス・コンサー
(P 打。usConcer)
ら
救助し
8 名の異人を含め
日
米船員のあ い だで交歓。 (虹 thurP. Davis, B ぬckD 脇佛ond. … 他 )
1846 (弘化03) 米国東インド 艦隊の 2 隻が通商を求め 浦賀に来航したが ,その 1 雙に「クロン
ホ 9 式 拾 入棺」とあ
る。
1850 (嘉永03) 浜田彦蔵 (Joseph Heco)
が米船に救出される。 51 年 2 月, 13 歳のとき サ ン フ
ランシスコに 上陸,はじめて黒人を見て驚く。 54 ギ-に南部の学校に 入学,異人奴隷が働く
農園生活を見聞し
洗礼を受ける。 58 年に帰化し日系米人
年にはリンカン 大統領と面会。 (浜風 彦蔵 『漂流記d,
60
第 1 号 となる。 南北戦争中の 62
Ⅰ 旋 Ⅳ0r/.0t;ue7%
荻申Q れ esc ィぬ )
]853 (嘉永06) ペリー提督の「黒船」が 来日し,開国を迫る。 乗組員に黒人や
再来日時には ,応接所に向う
日本人。 54 年の
提督の両側に 立派な体格の 黒人護衛兵がつく。 江戸 湾と 函館
湾 での覚書交換後,役人を招き宴会をひら き ,エチオピアン・ミンストレル (minstrel
show) を旗艦上で披露。 函館では日本人が 描いた黒人水夫の 絵に「 d 見 乱暴そうに見え
たが,一番礼儀正しかった」とあ る。 ㎝ペリー艦隊日本遠征記 コ他)
バイオリンと 歌舞に秀でた 短躯の里人役者トマス・ディルワード
ホ
n llward) が白人ミンストレル 団 Geo
王
曙 eChr
Ⅰ
(Thomas
sSty に初出演するが ,以降60 年代にかけ
Tommy"
の芸名で知られるようになる。 (Robe 「
t C. Tall, Biacki
お, 1860 年の第 1 回造木使節に 通訳見習いとして 同行した 17 歳の陽気な少年・
"Japanese
れどひ,p)
な
立石斧次郎
が滞米中 "...,wittyTommy,
YellowTommy,
たが,その下地をつくったのが
黒。 大 役者トマスだった。 (三原文「第一回造木使節
㎡と歌になるほど 人気を博し
什omJapa
とアメ
リカの舞台」『英語青年 J 2000 年 8 月号 )
1860 (万延01) 幕府派遣・訪米使節 団 877 名が訪米。 正使ら高官は ,首都ワシントンの ポ テル
で黒人の盲人ピアニストの 演奏に招待される。 米国内では奴隷制を 見聞し,帰路,西 アフ
リカのポルトガル 領 ルアンダに寄港のおり ,奴隷貿易の実態を見る。 げ万延元年造木使節
史料集成』 他 )
1868 (明治 01) 神戸開港し, 11 月 ,神戸ユニオン・クラブ
( ドイッ人 クラブ ) でのマーシュ 一
座の英語公演に , 米艦モノカシ一号の 黒人楽団が音楽の 伴奏。 (堀 ,小出石訳 『神戸覚国
入居留地 醸
1869 (明治02) 会津若松から 米本土へ渡った 最初の移民団のひとり ,増水国之助がミズーリ 出
身の黒人女性と 結婚し, 3 女 1 男をもうける。 長女は日系 2 世第 1 号となる。 (B Ⅲ
Hosokawa, 僻ん QuietAmericans 他 )
1872 (明治 05)一73 岩倉使節団が 米欧訪問。 米国では奴隷制廃止後の 黒人状況に言及したり
首都滞在中に「大学部もあ
木
る」解放氏学校を 訪問。 ㎝米欧回覧実記肋
最初の女子留学生として 使節回 に同行した津田梅子 8
人歌手たちの 集いに招かれ 驚く。 (山崎孝子
ア
5
名は,サンフランシスコで 黒
津田梅子 コ他)
]878 (明治Ⅱ ) 米国テネシー 州の「黒人大学」フィスク 大学の合唱団
(F skJub leeS ngers)
王
が欧州公演旅行よりの 帰路,日本では長崎,神戸,横浜に
寄港して公演。
・神戸女学院 ) では無料の奉仕演奏会。 (J.B. T. Marsh,
何%Sfo
り
王
ミ
神戸女学校 (現
off わ e ゴは も EzeeS;
㎎㏄ s
他)
Ⅰ
880 (明治 l3) 南アフリカにおけるイギリス
人とズ一ル 一人の間のアンバロ・
ズ 一ル一戦争を
報じた 蘇拉戦時報告 B (陸軍文庫 ) が刊行される。
]881 (明治]4) 九州唐津出身の 山中 Koto が黒人学生用に 設けられた AveryScholarshipFund
を 得て,オーバリン 大学 (Oberln College) に学んだ最初の 日本人となる。 次いで188 ㌻
旺
王
84 年の間,福澤諭 吉の子息一太郎 ど捨次郎が在籍。 同大学は 1830 年代に北米最初の 男女共
学・人種共学を 実施。 (桜 美称大 堤 稔子作成資料 )
1884 (明治]7) 英国の文豪サミュエル ,ジョンソン (SamuelJ0hnson)によるアビシニア (1
・
6Ⅰ
日本人と黒人との接触・交流砂 史
竹 Rfrz.n.z.&
が 東京帝国大学文
チオピア ) の王子の物語Ⅰ 旋 Hiis;tnウサ月 asselas,PrinceofA
以後,原書や 翻訳本『王子羅 四粒斯博記朕 1886)
連載小説下侍等が
学部 よ り英語の教科書として 刊行される。
等が,何度も出る。
1885 (明治
,何度も出る。
18) マダガスカルのフランスによる 植民地化などを 描いた東海散士の
人之 奇遇』の執筆が 開始される。
ホ
新島襄が米国の 首都ワシントンの「黒人大学」であ
るハワード大学
(Howard
University) を訪問。
1888 (明治 2]) 片山潜がテネシー
鍾 oXv
州1
Ⅲe
南方の黒人杖メアリービル 大学 (MarW
Ⅲe
College) に学ぶ。 (片山潜 自伝助
は
(HamptonNormalandA
穿 iculturaIInsttute)
の白人女性教師アリス・ べ一 コン (A Ⅱ ceBac0n) が来日し,華族女学校で 教える。
1890 (明治 23) アフリカ探検家ヘンリー・スタンレー
(Henry Stanley) の探検討 が 翻訳・ 紹
ホ
黒人杖ハンプトン 師範・農業学院
,
。 ,レ
エ
一
介され始める。 ㎝蘇弛今ロなど )
ボ
- 時期黒人と結婚していたラフカデイオ・ハーン
(La 托adioHearn)
が,マルチニ
ク島に約 2 年滞在後に来日。 fチータ J (C 脇柘 , 1889), 『ユーマロ(YOoは碑 0 , 90) などで黒
人を描き, 田肪 Kobe Chronic ね紙論説 (94) などで同地やカリブへの 日本人移民の 可否
につき言及。 1895年, 日本に帰化。
本
斎藤清次郎, べ一 コンの養女・ 渡辺光子がハンプトン 学院に学ぶ。 ブリン・ モ 一%一
大学 (Bryn Mauer
CoIlege) 留学中の津田梅子が 夏休み,ハンプトンに べ一 コンを訪問。
(ム㏄hives, HamptonUniv.)
189] (明治24) 小谷部会
おやべぜ /L,@,
- 郎 @ サ カモト・ゲン タ がハンプトン 学院に学ぶ。 日本政府の高官 2
ちろう
名が学院を視察。 (Je㎡chirooyabe, A よapaneseRobinsonCruso め
1894 (明治27) 小谷部が首都のハワード 大学に進学し ,学長公舎に寄宿。 当時,医学部歯学科
に 2 名,法学部に 1 名の日本人が 学ぶ。 (Catalogues,HowardUniv.)
l898 (明治31) 古谷脚下が南アフリカのケープタウンにわたり
日本雑貨や美術品を 扱う「ミカ
ド商会」を開設。 当時,東アフリカのモンバサ ,ザンジバル,マダガスカルなどには「
らゆきさん」が在住。 ケープタウンにも
2
人の日本人女性がいたとのこと。
か
(青木澄夫Ⅰア
フリカに渡った 日本人山地 )
ホ
ハワード大学
よ
り小谷部が M.A.
の honorary
de 群 ee を, Tomotso
(ママ ) Fuwa
が
MasterofLaw を 授ぢ,され卒業。(Catal㎎ wes,Howard
Univ,)
1899(明治32) 東京帝国大学教授・ 月水寛人に よ る『地井 利加 / 前途』 (有 斐閣書房 ) が刊行
される。 西欧のアフリ
ヵ
分割を論じ,日本も 乗り遅れてはならないと
]900 (明治33) 日本人移民の 急増に よ り,米国西海岸地域で
説く。
排日の気運が 強まり始める。 米国
内部では 黒 ・白の人種別反応に 差異。
ホ
ハンプトン学院のべ 一 コンが津田梅子の 私塾開設にあ たり再来日し ,無償の援助。
(山
1902 (明治35) 外務省が南アフリカに 在 シンガポール 領事・欠氷三郎,農商務省嘱託・
勝部 國
古川・古川l
臣を経済調査のため
派遣。
1903 (明治36) 5 大洲探検家」の 中村直音 が 南東アフリカを 旅行。 南アフリカでは
現地の
人種差別の実情を 見聞・体験する。 1910 年に,押川春浪の協力を得て,中村直青・
押川春
「
浪共編『 亜弗利加 一周 j (博文館) を刊行。 在留邦人についても 記述あ り。 (青木, 他)
1904 (明治37) 天草出身の赤崎仁姉郎夫妻がマダガスカルのディエゴ・スアレスに
到着。 後に
ホテルや映画館を 経営。 なお,同地に 停泊中のロシア・バルチック 艦隊の存在をボンベイ
の日本領事館に 打電したのが 赤崎で,日露戦争秘話として 知られる。 (岡倉登志・北川勝
彦Ⅱ日本一アフリカ 交流里コ 他 )
日露戦争に際し ,ハーバード大学最初の黒人卒業生で 初代ウラジオストック 米領事 兼
ボ
(RichardT.Greener) が同地在住の
通商代表リチャード・バリーナー
尽力。 (A. BlakeIy,
月は㏄
朽 ant は廿ん e Ⅳegro
日本人保護のため
他)
]905 W明治38) 日露戦争での 日本の勝利は ,アフリカ系アメリカ 人やアジア・アフリカなどヨ
ーロッパ植民地支配下の 有色人種に強いインパクトを 与える。
ボ
アメリカでは 保守派ブ一 カー・ワシントン (BookerT. Washin 軒on) [以下 BTW と
略引 ,革新派デュボイス (W. E. B. DuBois), 中庸派アーチボールド ,グリムケ
(血 chibald Grmik<e), メアリー・チャーチ ,テレル (Mary Church Terre 田など里人
指導者の多くが 親日的見解を 表明。 シアトルの黒人週刊誌 Searchlig肋は,ともに 差別に
苦しむ黒人と 日本人との連帯を 主張。
1906 (明治39) カワハラ ・イワ ネ唯賀 市出身) が BTW
(TuskegeeNormalandIndust
TuskegeeDniv.)
l9]0( 明治43) アルゼンチ
ン
設立のタスキ ギ一 師範,産業学院
「
iaIInstitute)の 穿 aduatecourse
に学ぶ。 (血 chives,
独立100年祭参加のため 志賀重昂 ,大庭何分,
か@
-ぅ 鈴木天眼らを 乗せ
しけたか
た軍艦・生駒がケープタウンに 寄港。 後日,彼らは同地の情景や 印象を記す。
1912 (大正01) フランスのリヨン 領事・木島孝蔵 が,現地の経済調査と 日本人の移民地として
の可能性調査のためマダガスカルに
派遣される。
の正岡猶一が執筆申の自著 (未刊のまま ) に BTW の序文依頼の 手紙
を送る。 ヨ TW からの返信あ り。 (B 卸
Ⅴ Papers,Vol.12)
1914 (大正03) 第一次世界大戦 (一 1918), ロシア革命 (1917) により,日本人および黒人知
ネジャーナリス
ト
なお いち
誠人の国際的知見が 増大。
19]6 (大正05) 農商務省嘱託・ 布川藤一を団長とする 市場調査団が 南アフリカに 派遣される。
1918 (大正07) 南アフリカのケープタウンに 日本領事館開設。
19]9 (大正08) 日本綿花 (現 ・ニチメン) がケニアのモンバサに 事務所を開設。
本
Tro
パリ平和会議への
枕er),
Wells Ba
日本代表を,知名の里人指導者モンロー・トロッタ
フィリップ・ランドルフ ,
㎝ e 比),
ウォーカー
(A. Phi Ⅰや Randolph),
(C, J, Walker)
人種平等への 支持を求める。 (R. Ke
酊 ney,
一
アイーダ・バーネ
女史らがニューヨークのホテルに
A 斤icanA
佛㏄ic㎝Ⅵ。
の softhe
(Monroe
トく
Ida
訪ね,
よ知㎝ e,Sめ
会議では牧野伸顕による 人種平等条項の 提案が否決され ,黒人知識人の期待がし ぼむ 。
日本人と黒人との接触・交流砂 史
品川の御殿山でジャズの 初演奏。 この頃 から太平洋航路の 日本船」- でも演奏される。
ホ
ひきだやすい
ち
1920 (大正09) 米国の黒人コミュニティで 知られることになる 疋田 保一が留学を志し 渡米。
黒人ミュージシヤン The
ホ
Trlo が来日し,神戸,東京などで公演。 22 年に
Louisiana
レ
も
再来日。 (津川主一調 編ア ジ ュ ビリー・シンガーズ 物語と黒人霊歌集 胎
1922 (大正 11) マルチニク出身ルネ
,マラン
(Ren Maran)
. 高瀬毅 調丁バツァラ
る
$ (改造
社 ) が 刊行され,多くの版を重ねる。 周書 は 中央アフリカでのフランス 植民地政府の 搾取
を 描き, 21 年に 4ム文学賞のゴンクール 賞を受けた。
ホ
京都大学の教育学者・ 小西重直博士が 米国首都の黒人学校とハンプトン
向学院を参観。 (沢柳政太郎
,
タス ギギ一
現代欧米教育大観 団他)
ト
ホ
アメリカやメキシコの 共産党結成に 参与し,「里人の 解放を党綱領に 入れさせた」 片
山階 が, ソ連の党大会で 米国の白人党員の 態度を非難。 取柄に来たジャマ 4 ヵ出身で米国
に帰化の詩人・
伝d, McKay,
(ClaudeMcKay)
作家クロード・マッケイ
A ム ontgWo
のため便宜を 計る。 (片山『 自
の, 月,・ o 佛 Hoo 仇め
1923 (大正 12) 関東大震災に 際し,有力黒人紙 C 肋。㎎ o Z)e ルnder, 黒人民族運動指導者マ
カス・ ガ一 ヴェイ
求
(MarcusGawey),
一
黒人実業家らが 救援募金活動を 展開。 侭 earney,
自伝の佐々木秀一抄訳『 黒 偉人 ブ一 カー,ワシントンコ (泰光社 ) が刊行され
BTW
る 。
1924 (大正l3) ポートサイド 領事・ 里木特太郎がエチオピアに 派遣される。 エチオピアは 国際
連盟加盟の独立国で ,
セラシエ (HayIa-SeIlaseI) とも会見。 (外務省外交史料館資料,
イ
率
医学博士・野口英世がジヤマイカのキンバストンヘ
オン・
申
日本との外交・ 通商関係樹立の 可能性などをさぐる。 のちの皇帝 ハ
ド
調査旅行。 フランス政府よりレジ
・ヌール勲章を 受ける。
米国で theImmi
艶 ationActof1924
(俗に「排日 法 ) が通過。 日本人識者の
間に人
」
種 問題への関心が 高まる。
ネ
明治大学野球部が 渡米,首都でハワード大 チームと対戦し
HowardUniv.)
1925 (大正14) 浦川亀太郎Ⅱ黒人問題 コが刊行される。
ネ
4 対 3 で敗退。 (血 chiveS,
1W.8 年には 黒人問題大観 $
丁
大学選抜の野球チーム 大阪毎日がハワード 大 チームと対戦 10 対
Howard@Univ
も
刊行。
3 で勝利。 (血 chjves,
,)
1926 (大正15) 日本の対東アフリカ 貿易を促進するため 大阪商船 (OSK) による東アフリカ
定期航路が神戸
二 ダーバン間に 開設される。 (大阪商船会社Ⅱ河井 利加 航路史上仙 )
タスキ ギ一 学院長モ 一トン博士 (Dr. RobertRussaMoton)
旅行の途中, 12 月中旬に来日。
ネ
1927(昭和02) ルーマニア公使・
武者小路公共がエチオピアに
が夫人同伴で 世界一周
派遣される。 修好通商条約に 調
色目。
ホ
64
外務省嘱託,大山卯 次郎を団長とする 東アフリカ経済視察団が
派遣される。 ケニア,
古川・古川
タンザニア,タンガニーカ ,ザンジバル,ポルトガル領 東アフリカ
[モザンビーク ], 仁、
領マダガスカル ,エチオピアを 約 5 ;月にわたり 調査。 大山は報告書のほかに 一般向けに
も『奇談一束 阿弟利和土産 J 0萬里閣書房・ 1930) などを刊行。
木
野口英世が黄熱病研究のためアメリカから
西 アフリカのゴールド・コーストのアクラ
に渡る。 翌 2W 年 ,黄熱病で死去。
本
アメリカン・ニバロ・リーバ 編成の PhiladelphiaRoyalGiieants
が来日。 各地で親善
試合をし, 23勝 1 分け。 (J. Bruce, T 施は ansasC 砲肱onarchs:C № 免卍0 几 sofBloc
Baseball 1世 )
P奴隷上りの偉人 新文明の建設者 ブ一 カー・ワシントⅡ (京都・単純
ゐ
生活社) が出る。
1928 (昭和03) 大阪朝日新聞の
白川城海によるⅡ実地踏査東アフリカの
旅』㈹ 文館) が刊
付 される。
1929 (昭和04) ウエルドン・ジョンソン (JamesWeldonJohnson)
が 10月に京都での 第 3 回
太平洋会議㏄ he 3rdCon 偽renceoftheIns 五加teofPaci66CRelations)
に出席のため 来
日。会議後,東京で天皇主催の園遊会に 招待される。 (Johnson, Alon啄 ℡ ね W 鋤 )
ホ
別府の野口病院長・ 野口雄三郎博士が 10 月,米国の首都で,分泌線などの制御にょり
黒人や日本人を 白人に変えることが 可能などと述べた 旨,黒人紙 が報道。 げ穣 PitAsr
砺撰ゎ
Cour 。 ier,Nov.2)
1930 (昭和05) エチオピアのハイ ン ・セラシエ皇帝の 戴冠式に,政府はトルコ 大使・吉田伊豆
郎を派遣。
大阪府立貿易 館で
ボ
横浜正金銀行の 大内臓一 らが西 アフリカを視察。
ホ
蜂須賀琵珪がべル ギ一の探検隊に 加わり,コンゴに動物調査に赴く。 大阪毎日新聞は
「阿
弟利加国情展覧会」が 開催される。 (岡倉
11)
ボ
Ⅱ
二
[
Ⅰ
社員の三好武二を 同行・取材させる。 (青木澄夫『日本人のアフリカ「発見」Ⅲ
ネ
アメリカ尖端文学叢書
ゥーマー
(新潮社) に「黒人文学 集 」として,デュボイス ,ジーン・ト@
(JeanToomer),ウォルター・ホワイト (WalterWhite)の作品の一部が 訊杖
される。
親日化を意図した 異人工作のため 中根中がデトロイトに 姿を見せる。 (出井康博「
ぃ
ブ
ラック・ニッポン (上 ) 」『フォーサイト』 2000 年 3 月号 )
1931 (昭和06) エチオピア覚相ヘルイ・ ゥォ ルデ・セラシエ (HeruyWalda 一 Sellasse) を 団
長 とするエチオピア 外交使節 団 が訪日。 約 2 ヵ月の滞在中,天皇を 始め皇室や政財界,社
木
い
で
交界の要人と 交流し各地を 視察。日本 - エチオピア関係の 発展に大きな 影響を与える。 (ヘ
ルイⅢ大日本 d, FurukawaTetsushi, "JapanandEthiopiainthelg20s-30s",
他)
ホ
河村・ 只雄がスコット・ニアリンバ
(Scott Nearjn 國 の Bfack A 佛erica (1929) を白
井勉 三の訳者名で『黒人迫害虫
一
ンチ初 剖 (先進社 ) として刊行。
言
(GeorgeS.Schuyler) が前記の野口
雄三郎の発言を 引用し,その発案に よ る風刺小説 Blac ⅣoMoo ㎎を出す。
ホ
ジャーナリスト ,作家のジョージ・スカイラー
ゐ
65
日本人と黒人との接触・交流砂 史
(B召 07) イギリス領ケニアのモンバサに 領事館開設。
1932
呑口
ロサンゼルス
水
,オリンピック短距離走者のヒーロ 一で優勝者エディ・ト
一ラン
(Edd eeToIan) が来日。
土
が 2 度目の来日で , 2m 勝 l 敗の成績。 雌山和夫『黒人野
PhiladelphiaRoyaIGiants
ネ
球の ヒーローたち 山地)
中根 ( 名 SatohataTakahashi) がデトロイトで 黒人団体 Developmentofourown
ネ
月
Ⅱ
(E 面ah Muhammad)
の異人回教団 Nation of Islam
に影響を与えたとされる。 (KarlEvanzz, ヂ 肋材 esse れ ger)
1933 (昭和08) 詩人・作家ランバストン・ヒューズ
(LangstonHughes) がソ連経由で 6 月
来日。日本の作家や 劇団員と交流後,「好ましからぬ 人物」として国外追放になる。 (Hughes,
を結成。 エライジ ャ ・ムハマッド
Ⅰ
WonderA6%W&
れ der
他)
しょうぜん
ネ
天理教 2 代真柱・中山正善が 8 月,首都でハワード大学を訪問,ニューヨークでは
黒人用集団住宅を 見学。 (中山正善『アメリカ 百日記j)
1934 (昭 09) エチオピア覚相ヘルイのアムハラ 語による訪日体験記が ヴァ カーリ夫妻によっ
ネロ
て邦訳され, p大日本.
1 (英文法通論発行 所) として刊行される。
ボ
エチオピア使節 団 に随行していた ブ ラヤ・ アババ (血 aya Abbaba) と黒田雅子の 婚
約 話が誌紙の話題となる。 (結婚は実現せず。 )
ホ
中根が「タヵ
ハシ 少佐」 M 蜀orTak(ahashl
人女性と結婚するが , FBI
本
Federal
石垣栄太郎が 連邦政府の芸術家救済措置の
BTW
の
い 黒人工作。
デトロイトで 黒
に逮捕され日本へ 強制送還。 地井, 他 )
所にアメリカ 独立と奴隷解放の
ボ
の偽名を用
2
血t, Pr 田 ect,
によりハーレム 裁 ,判
枚の壁画を作成。 (石垣綾子『さらばわがアメリカコ 地)
晦斤 。碑 Sfove り (神戸・川瀬日進重書店 ) が英語教科書として 出版される。
1938 年までに 4.版が出る。
ネ
PhiladelphiaRoyaIGiants3 度目の来日。
10) イタリアのエチオピア 侵略 (第 2 次イタリアー
1935 (昭ネロ
の国粋主義団体などが 中心となり抗議運動をおこす。
をはじめ,各地でエチオピア 支援団体の結成。
ェ チオピア戦争 ) に際し,日本
異能 会の 「エチオピア問題懇談会」
日本の新聞は 号外をだすなど 戦況を詳しく
報じる。 (岡倉・北川, Furukawa, 他 )
ホ
疋田 保一がホワイトの プYie
打ち石の火口 0凡人社)
ホ
と
乃花 施
亡ん
e
Ezm 弓
(1924) を平山水三の 名で訳出し,『火
題し刊行。
東京で開催された Pan 一 PacifiCNewE
教師アリス,マックギ一 (AIice McGee),
ル・エム・ターナー①・ M.Turner)
れる。 (同紙 Sept.7)
己
ucationalConference
イザベル・ディクソン
に,アメリカ
(Isabel Dickson),
が参加。 印象が劫初㎝ 卯 ofisReco
ネ
イサム・ / グチ がニューヨーク 市での「リンチ
ス昌代『イサム・ / グチ 他 )
里人女性
エ
㎡ び 紙に掲載さ
展 」に彫刻作品「 死 」を出品。 ( ド ウ
』
ホ
ジョセフイン・
べ一 カー
(Josephine Baker) がニューヨーク 市内のホテルで
宿泊 拒
古川,古川
否 にあ った 際 ,彼女とパリ 在住中に知り
(Jean
合っていた澤田美喜が
自分のスタジオに 泊める。
ClaudeBaker, et. al. , よ0s 竿 nin ㏄ T 穣 H 卯喝り Hearf 他 )
]936 (昭和71) イタリアと戦争中のエチオピアの 首都アディス・アベバに 日本公使館開設。
一
ホ
賀川豊彦がフィスク 大学など「黒人大学」を 訪問し講演。
ボ
デュボイスがシベリア ,満州国,中国経由で
12 月に来日し,約2 週間滞在し大学や ぺ
・クラブでの 講演も含め要人と 会合。
]937 (昭和12) 南アフリカのケープタウンに 公使館開設。
ン
大阪商船が神戸
宰
率平山水玉
= ダカール間に 西アフリカ定期航路開設。
(T 国保一) が前記ホワイトの 作品を『小説私刑Ⅰと 改題し,日本公論社
より刊行。 さらに,ウェンデル・フィリップス
述 『ハイチ独立運動の 闘将テュサント・ル
ー ヴァチュア』を 訳し,長文の訳者序を付して 散文 館 より刊行。
博士 (Dr, Charles
ハワード大学のチャールズ・トンプソン
本
同伴で教育問題の 会議に出席のため 訪日。 (Robe れ ⅡⅢ,TheFB
黒人 YMCA
ボ
H.
エⅠ
Thompson)
脇 CO
Ⅰ
Ⅳ)
(Be 可aminMays)
の役員でハワード 大学のべンジャミン・メイズ
ンドでの国際会議に 出席したのち 訪日。 (B.May,Bo 肌 め月eb 援)
1938 W昭和13) 現地での政治経済調査にもとづく 面 々
が夫人
がイ
リカコ功 江 ;
蕾
院 ) が刊行される。
疋田がニューヨーク
ホ
日本総領事館の 嘱託に登用され ,黒人工作を始める。 (外務省外
交史料館資料, 他 )
1939 (昭和14) BTW
自伝の佐々木秀一調『 黒 偉人 ブ一 カー・ワシントン J M小山書店 ) が出
る 。
中根がデトロイトに 戻り,黒人団体OnwardMovementofA
ホ
不法入国などの 罪状で再逮捕,
1940
9
月に禁固
3
皿 fen'ca を結成するが ,
年の刑を受ける。 (出井 )
たけひこ
W昭和 15) 哲学者・小島 威彦の アフリ ヵ 紀行『喜望峰に 立っ J (世界創造社 ) が刊行され
る 。
よ けむ ら
ヒューズの小説Ⅳ otWlitho 尻 Ⅱはざん
tp.「㎝ 930) が,険相マ エ 訳 「笑わぬでもなし j (白
ホ
本社) として刊行される。
リチャード・ライト
ホ
(Richa田 Wright) の小説Ⅳ ative Son
(1940) が,江森盛 摘記
Ⅱ黒人の息子』 (ぎ与凡閣 ) と題して出る。
]941
(昭和 16)
日本軍の真珠湾奇襲により 太平洋戦争はじき る 。 当時,米海軍では 黒人は非戦
闘員の身分であ ったが,米船ウェスト・バージニア
(The Wgest Ⅵ 稽 inia) の食事担当 兵
(mess attendant) だった黒人水兵ドーリー・ミラー
(DoneM Ⅲ er) が奇襲に際し ,軍
視 に反して砲座につき 4 機を撃墜。 その功により 黒人初の Navy Cross 勲章を授けられる。
①・
Hughes,
几れ ousN8 怨 ToHeroesofA
佛erica,NooualHiStoricofCenter)
ネ
1942
南アフリカが 対日宣戦布告。
(昭和17) エチオピアが 対日宣戦布告。
ホ
日本海軍の特殊潜航艇が
5 月マダガスカル 島北部ディエゴ・スアレス
湾に侵入し ,英
67
日本人と恩人との接触・交流砂 史
私軍艦を攻撃。 (石川幸太郎『潜水艦 伊 16 号通信兵の日誌』 他)
1 月,疋田が FBI の家宅捜査をうけ
ホ
船で帰国後,外務省調査課嘱託として
1
ヵ月余りエリス 島に収容される。
8
月に交換
戦時黒人工作の 資料作成に従事。 田BI 資料,外交
史料館資料 り
ホ
ジャ
30 年代初期に NationofIslam
・ムハマッドが 太平洋戦争に
㎝vanzz,
(俗に「ブラック・ムスリム」 ) 教団を設立したエライ
際し 日本への支持と 徴兵忌避を表明し ,逮捕され服役。
他)
1943 (昭和]8) 大 熊眞肝 アフリカとその 問題 ( 日本評論 t) が刊行さ t
ただし
ボ
団
ネ
河村只雄 『末黒人の研究』欄井書店 ) が著者の死去
才
2
る
。
年後に国策的な 意図から出版
される。
]944 (昭和]9) 日本軍のビルマ 戦線からのインパール 作戦への連合国側反撃に ,西アフリカ
東アフリカ英領植民地
ょ
0
3 コ
師団
3
と
コ旅団,約 5 万のアフリカ 入部隊が投入される。 (土
井茂則 「日本・東アフリカ 関係 史 の一考察」『アフリカ 研究 j 2l,1982年 )
ホ
南アフリカの 日本公使館書記官であ った吉田賢首 によ る大著Ⅱ南町聯邦 史 Ⅱ冨山房 )
が刊行される。
ホ
デュボイスの 歴史書冊
e Ⅳ笘 ro(1915)が井上英姉課『里人論』
鱒文館 ) として出る。
1945 (昭和20) 日本の敗戦で 9 月から米軍の 占領行政がはじまり ,一般市民がじかに 黒人を見
聞することになる。 その後,戦争花嫁や 混血児をめぐる 問題が起きることにもなる。