1 - 松井久子監督 講演会 - 東京インテリアプランナー協会

東京インテリアプランナー協会 国際委員会
サロン・ド・IP 2010
松井久子監督 講演会 「巨匠
イサム・ノグチ
魂の原点」
日時:2010 年 7 月 16 日(金)18 時 30 分-20 時 30 分
場所:建築家会館ホール 東京都渋谷区神宮前 2-3-16 建築家会館1階
第一部
松井久子監督 講演
司会
みなさま、本日はサロン・ド・IP 講演会にようこそおいでくださいました。それでは、
始めさせていただきます。私、本日の司会を務めさせていただきますヒジュン・カスヤ
と申します。どうぞ宜しくお願いいたします。
まず始めに、開催にあたりまして本企画を主催いたします国際委員会を代表し、佐藤委員長
よりご挨拶を申し上げます。
佐藤
皆様、東京インテリアプランナー協会、国際委員会委員長の佐藤勉と申します。本日は、
暑い中、サロン・ド・IP にお越しいただき、誠にありがとうございました。松井監督には、
大変ご多忙な中,こういった形でご講演をいただく事になりまして会員一同,大変感謝して
おります。ありがとうございます。東京インテリアプランナー協会は、関東近県で主にイン
テリア設計に携わる 500 名程の集まりです。様々な会の活動を通して会員相互の情報を交換
し、一般の方々に向けてインテリアの設計を中心とした情報を提供し、広くインテリアデザ
インの魅力をアピールしていくという事が協会の目的の一つとなっています。その中でも
我々国際委員会は、海外及び在日の各国大使館、関連機関,関連団体等を通じて協会の活動
を海外に紹介し、国際的な交流や情報の交換等を通じて会の発展を図るという事を主な目的
としています。国際委員会では,今回のサロン・ド・IP(IP=INTERIOR PLANNER)という会を、
不定期ですが開催しておりまして、様々な海外で活躍されている方々にお話を伺い、日々の
活動のヒントや仕事を、よりクリエイティブにするための勇気を与えていただいております。
今回は、11 月に公開される映画、イサム・ノグチの母、「レオニー」にまつわる興味深い
お話をいろいろと伺える事を楽しみにしております。短い時間ではありますが、最後まで
どうぞ宜しくお願いいたします。
司会
それでは、松井監督どうぞ。
ここで、松井監督の略歴をご紹介させていただきます。
1946 年岐阜県飛騨生まれ。東京深川育ち。早稲田大学第一文学部演劇科卒業後、雑誌の編集
者及びライターとして活躍。1979 年、俳優のプロダクション会社を設立し、複数の俳優の
マネージャーを勤められました。1985 年に株式会社エッセン・コミュニケーションズを
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設立し、数多くの TV ドラマやドキュメンタリー番組のプロデューサーとして活躍されました。
映画については、1998 年の企画から公開まで5年の歳月をかけて制作した「ユキエ」から
始まり、二作目の「折り梅」も 100 万人を動員するという大変な評判の映画で成功をされ、
さらに 2004 年には初めての著作となる『ターニングポイント「折り梅」100 万人をつむいだ
出会い』を発表されました。これは「生きる事は出会う事」と銘打ちライター時代から映画
監督になるまでの数々の出会いのエピソードを赤裸々に綴り、話題を呼びました。そして第
三作目が本日のテーマであります、彫刻家イサム・ノグチの母親レオニー・ギルモアの生涯
を描いた日米合作映画「レオニー」です。
7年に渡る企画、資金集めの後、2009 年春から夏にかけてアメリカと日本で撮影を行い、2010
年、春に完成されました。国内では 2010 年 11 月より、角川映画配給にて公開されます。
では、松井監督、どうぞ宜しくお願いいたします。
― シナリオ作り、資金集め、キャスティング ―
松井
皆さん、今晩は。松井でございます。やっぱりインテリアデザイナーの方々、インテリア
プランナーの方々、素敵な方ばかりで
緊張しますね。宜しくお願いします。
私の事をご存じない方ばかりだと思
いますけれども、50 歳になってから
映画監督というものに挑戦いたしま
した。一本ずつ5年くらいかけてお金
を集めて作るというやりかたで、今年
になって 3 本目の映画ができたばか
りです。皆さんにも大変、関心を持っ
ていただいているイサム・ノグチさん。
皆さん大変よくご存知だと思うので
すけれども、イサム・ノグチの母は
どういう人であったかは、ほとんどまだ知られていないと思うんですね。私は、今から7年
前の 2003 年の春に、高松にありますイサム・ノグチさんが晩年アトリエをお持ちになって
活動していた、牟礼のイサム・ノグチ庭園美術館に見学に行きました。そこのショップで、
ドウス昌代さんというノンフィクション作家がお書きになった「イサム・ノグチ -宿命の
越境者-」という本を買いました。読んでみましたら、イサム・ノグチの華麗な芸術家とし
ての生涯というのも大変興味深いものでしたが、私にとっては、彼の出生の秘密と子供の頃
の生い立ちの中に出てくる彼のお母さん、母親のレオニー・ギルモアという女性に心をうた
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れて、こんなすばらしい人がこれだけ誰にも知られていない、この人こそ映画の主人公に
相応しい人生だなと思って、この人を主人公にして映画を作りたいと思ったのです。今日は、
イサム・ノグチのアートだとかそういうことだけでなく、映画って一体どんな風につくられ
るのか、という話は、あまり皆さんお聞きになることはないと思うので、その「レオニー」
という映画が、7年間でどういう風にできたのかというお話をさせていただきます。私は
レオニー・ギルモアという、そのドウスさんの本を読んだ時に彼女の人生の生き方、女性と
しての生き方、母としての強さ、そういう事に興味があった事は勿論ですけれども、映画を
作る人間として、ちょっとチャレンジしてみたい事があったんですね。今まで、二本の映画
を撮りました。一本目は「ユキエ」という映画です。倍賞美津子さんが主人公を演じました。
戦争花嫁と呼ばれて、アメリカに嫁いでいった日本人妻が、50 年くらい向こうで夫婦ふたり
でしっかり生きてきて、子供達も育ち上がって、やっとこれからは夫と二人で穏やかな老後
の生活が始まると思っていた矢先に、ユキエにアルツハイマーの兆候が始まってしまいます。
50 年連れ添っていたアメリカ人の夫が、妻の記憶が失われていく寂寥感の中で介護をはじめ
るという、老いた夫婦のラブストーリーです。この映画を企画した当時は、アルツハイマー
や認知症は、まだ皆さんの中でそんなに切実な問題ではなかったんですけれども、公開され
た頃は、だんだんそういう病気が知られるようになってきて、次は日本の家族の中で認知症
の病気とどう向き合うかを、もう 1 回映画にしたいと思って、二本目は「折り梅」という
映画を撮りました。愛知県に住む 40 代の女性の方が、自分のお姑さんが認知症になってい
って、介護の中でものすごく葛藤しながら彼女自身が成長していって、夫と子供達の家族の
絆が深まっていくという実話の本に出逢ったのがきっかけです。お嫁さん役に原田美枝子
さん、お姑さん役に吉行和子さんに出演していただきました。私自身は 50 歳になってから、
ひょんな事から映画を作る事になって、毎回毎回、これ 1 本だけ作れたらラッキーと思った
ら 1 本目も作れて、1 本目がまぁそこそこうまくいって、2 本目ができるようになって、2 本
目を作っているときも、これが最後だという思いで作っていたんですけれども。その「折り
梅」が大変たくさんの方に受け入れられ 100 万人の方が見て下さったこともあって、ちょっ
と気が大きくなって(笑)
、もう 1 回だけ作りたいって思っていた時に、そのドウスさんの
本を読んだわけですね。「ユキエ」の時には、ルイジアナの老夫婦の住む家の小さなダイニ
ングキッチンまわりが、撮影の舞台となって、そこで俳優さんに演技をしてもらった。二本
目は、愛知県の建売住宅のお家の中が中心。そうすると、自分の中で何か監督としてのスト
レスもたまってきて、それはそれで私達と等身大の人間を描く時に大切なんだけど、もっと
ちょっと映画らしい大きな世界を撮ることができたらな、と思っていました。レオニーの物
語に出会った時、100 年以上前の日本を映画の中で描くことができるという事が、私にとっ
て大変魅力で、そういう映画らしい映画をとってみたいという想いがあったわけです。例え
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ば、ちょっと前の話ですが、「ラストサムライ」や「サユリ」といった、アメリカの監督が
日本の文化に大変興味をもってハリウッド映画として作られました。侍や芸者の世界を描く
映画を私たちが見るときに、何かいつも「日本人はこうじゃない」とか、芸者の着るものか
ら髪型から全て「なんか違うよ」という思いが皆さんにもたぶんおありだったと思うんです。
また、「どうしてあの日本の映画監督は、世界に向けて映画を見せようとしないんだろう。
どうして日本のお客様だけに見せて、そこで完結してしまうのだろう」とも、感じていまし
た。例えば中国とか韓国では、たくさんの監督がハリウッドに出て仕事をしているし、韓国
映画や中国映画は、世界中に当たり前のように観られています。でも、日本映画は見られて
いない。北野武監督の映画が、カンヌやヴェネチアの映画祭で賞をとっても、世界のマーケ
ットで見られる映画というのとはちょっと違う。日本映画というのはなかなか観にくいって
いうか、外に向かっていないなという印象があったんですね。そういう意味でも、レオニー・
ギルモアという人の、母の、女性としての人生を描くことによって、日本の文化を世界に伝
えられると思ったのです。「主人公はアメリカ人で、舞台は日本とアメリカが半々だから、
映画ができたら世界のマーケットに売って歩ける」と。そんな試みは私の能力とか自分の実
績とかとは全然合わないけれど、とにかくこれにチャレンジしてみたいと突っ走っていって
しまうわけです。その後に地獄のような苦労が待っているんですけれど…(笑)。映画を作
るのは何といってもお金がかかります。現在の多くの映画の作り方は、映画会社のプロデュ
ーサーや、TV 局の映画部のプロデューサーが企画を考えて、それで TV 局と商社、代理店な
どが、例えば3億の映画を5千万ずつ、お金を出し合って映画が作られて、TV 局でバンバン
とスポットを流して宣伝して、それで誰もが「今、これが流行りの映画なんだ、これを見に
行かなくちゃ」っていう風になって観に行くっていう…。今の映画は私からすると、いわゆ
る「商品」なんですね。消耗品として消えていく、そういう作り方が大半なんじゃないかと
思います。勿論、映画は、作る時にお金がかかるので、儲けが出なければいけないんですけ
れども。日本の映画は海外では見られないものなので、一番安全なのは、TV でヒットした視
聴率をたくさんとったドラマを映画化すること。で、もう半年後にはそんな映画があったの
も忘れられてしまう、それが大半だと思うんですね。だいたい日本映画の大きい映画で、そ
うですね…3億から大きくかけて5億。そのくらいのお金でつくらないと、マーケットが狭
いから回収しきれないわけです。それで、私の過去の2作の「ユキエ」とか「折り梅」は2
億で、2億くらいかけて、地道にコツコツと丹念に見せて歩けば何とか取り戻せる。だけど
「レオニー」は、100 年前の時代劇であり、日米両国での撮影でもあることから、今までの
レベルではないお金がかかるっていうことはわかっていました。勿論、映画会社にも行った
し、代理店にもお願いに行ったし、TV 局にも行ったけれども、こんなものは絶対にお客さん
が入らないと、けんもほろろに全部断られて。でも…絶対にこういう社会はおかしいと。
「こ
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ういう昨今の映画の作られ方も含めて、今の日本はどこかおかしいんじゃないか」という私
の思いがあって、「とにかく社会が少しでも変わったらいいな、変わるきっかけになったら
いいな。」と。「何でこんな事実現したの?」って、人によくいわれるんです。「あなたのよ
うな、キャリアもない人がよく実現したわね」って。それは、私は実現するまで諦めないで
やり続けるから。例えばこれが、どうでしょう…7年かかって出来上がったんですけれども、
10 年粘って出来上がらなかったら、諦めたかもしれないんですけれども…とにかく志を諦め
ずにいるとやっぱり思いが叶う、人に伝わって通じるんですね。「レオニー」は「ユキエ」
、
「折り梅」の7本分くらいのお金をかけてできたんですけれども、それはアメリカの人に「日
本人が撮ったこんなのは本当のアメリカじゃない」って言われたくないという気持ちがあっ
て、アメリカはアメリカのスタッフ、日本を描く分は日本のスタッフを使いました。だから、
スタッフは普通の映画の2本分です。映画の最後に流れるエンドロールを見ると、そこに 450
人のこの映画に携わったスタッフがいます。それでとにかく何とかお金は集まった。さて、
シナリオは、まず自分で書いて、書いたシナリオをアメリカ人の英語の優れた人に直訳して
もらって、それをアメリカ人のシナリオライターが読んで、アメリカの観客に通用するシナ
リオにするという方法で進めました。その作業を最初、ニューヨークのシナリオライターと
始めたんですが、ある時点で、「この人とどうしても感性が合わないな、自分の書いたシナ
リオが彼にかかると全然違うものになっていくな」と思ってしまって。1 年くらいで、その
方とやっていた作業を全部ストップしました。「男性だったからいけないのかな。女性だっ
たらもっと私の思いを解ってくれるのかな」と、今度はロスへ行って新しいシナリオライタ
ーとまた半年以上、一緒にシナリオを作って。でも、その女性のシナリオライターは、どう
も私が思っているよりこの映画をフェニミズム色の強い映画にしていくような気がして。で、
またその方とお別れをして、3人目は、またニューヨークに戻って、ニューヨークのオフブ
ロードウェイの舞台の脚本を書いている方と出会いました。その人とは、ほんとに喧嘩もい
っぱいしましたが、ものすごく私の感性をよく理解してくれて、3人目でやっと出会えた感
じで。そういう風に、シナリオひとつつくるにも、ものすごく長い道のりがあるわけですね。
それで最終的に6年。映画を作りたいって思ってから、お金を集めて歩いていると、どんど
ん自分の気持ちが沈んできちゃって、「やっぱり無理か」っていう風に思ってきてしまうの
で、なんかやっぱりクリエイディブな事をやっていないともたないんですね。それで、お金
集めを始めると同時に自分でシナリオを書いて、アメリカ人とのやり取りも始まったので、
シナリオは結局 14 稿重ねました。ところで、映画が成立する大きな要素として、出演者、
主演は誰がやるのかが決まると、お金も集まりやすいんですね。けど一方で、主演で口説か
れる俳優さんは、お金も集まってない、できるかどうかわからない映画に「出演する」とは
言えないわけですね。だからまず、シナリオがないとその出演者を口説くことができないん
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です。出演者はシナリオを読んで、シナリオが良ければ、「これをやりたい」と思うから。
だけど、たとえば、日本でいえば吉永小百合さんのようなビッグな女優さんとか、大人気の
俳優やアイドルタレントが主演の映画は、その人がこの映画に出るというだけで、まだ
きちんとしたシナリオができていない時点でもお金が集まるんです。必ず見て下さる方が
いるから。
「でも、逆にアメリカのビッグな女優さん達は、もうお金は有り余る程あるから、
シナリオが良ければ、シナリオに惚れ込んで、小さな規模の映画でもでることがあるよ」と
言われました。アメリカに行ってキャスティングディレクターを雇って、キャスティングデ
ィレクターを仲立ちにして交渉してもらいました。で、私が最初に「この人だったら絶対に
お金が集まる」と狙いを定めたのが、日本でも有名な、ある大女優さん。私が雇ったキャス
ティングディレクターが彼女のエージェントにシナリオを送るわけですね。彼女のオフィス
には、常に山のように世界中から「貴女にやってもらいたい」というシナリオが来ているわ
けですから、多分、有名な監督から来たシナリオから読むものですよね。だから返事がなか
なか来ない。たまたまエージェントのマネージャーが読んでくれて、それで本人に渡っても、
また本人のところには山のように積まれているわけで、いつまでたっても答えが来ない。そ
ういう状態がずっと続いて。結局、いちばん最初にオファーした方のお返事を 2 年近く待つ
ことになりました。長い道のりだったのですが、最終的に決まったのが、エミリー・モーテ
ィマーという、イギリス人
の若手で、演技派で注目さ
れていて、ハリウッドでも
かなり活躍されている女優
さんです。ウッディ・アレ
ンの「マッチポイント」や、
最近では、
「ラースとその彼
女」
。見た方いませんか?ち
ょっとコメディーっぽいの
でしたら「ピンクパンサー」
。
最新作は、マーティン・ス
コセッシ監督のレオナルド・ディカプリオ主演の「シャッターアイランド」で、精神病院に
入院している患者の役で出ています。とにかく実力があって割と大きな監督さんに「この人、
使いたい」っていう風に注目されている人。エミリー・モーティマーはもう脚本を読むなり
「私、絶対この役やりたい」といって下さって、私、この方がロンドンにいたので、すぐに
飛んでいって会ったらすっかり意気投合して、今では彼女以外は考えられないほどです。私
も彼女にほんとに惚れ込んで、彼女自身も惚れ込んでくれた役なので、レオニー・ギルモア
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がのり移ったような演技をしてくれました。
― 「レオニー」のストーリー、集まった素晴らしいスタッフ ―
松井
映画の舞台は、半分はアメリカなんですけれども、レオニー・ギルモアという女性は、100
年以上前に、大変頭のいい、非常に勉強のできる子供だったわけですね。で、彼女のお母さ
んが「これからの時代は、女性も職業を持って生きていく時代になる。頭のいいこの子に、
いい教育を受けさせ、職業を持つような人間に、女性になってもらいたい」と思って、お母
さんがしっかり教育をして、彼女は、ブリンマー大学という、アメリカで当時2校しかなか
ったスーパーエリート女子大学にスカラシップで入ったのです。で、ちょうどその頃、日本
から「日本に英語を中心とした女子大学を作りたい」と思っていた津田梅子さんが留学して
いた。いわゆる津田塾大学の母体となったような、お姉さん大学みたいなのがブリンマー大
学です。そこを卒業して、彼女は非常に文学少女で「物書きか編集者になりたい。」という
夢を持っていた。けれどブリンマーを卒業した女性のレオニーが出版社に就職することはや
っぱりまだできなかった時代なわけです。それで仕方がなく鬱々と「私はこんなはずではな
いのに…」と思いながらも高校の教師をやっていた。そんな時に、ある日見た新聞の3行広
告みたいないわゆる求人欄で「僕は日本から来た詩人です。英語で詩を書いています。僕の
編集者を捜しています」という広告を見たのです。「あ、これだったら先生をやりながら、
アルバイトで手伝えるかもしれない」と会いにいったその人が野口米次郎。アメリカではヨ
ネ・ノグチと呼ばれ、後にイサムの父親となる日本人男性です。彼は慶応大学で勉強してい
たのですが、途中で退学しアメリカに渡って、向こうで一旗あげようと。そういう「洋行帰
りで一旗揚げる」という風潮が真っ盛りの明治の後期です。非常に才覚のある男性で、文学
的才能もあったんでしょう。「アメリカで、英語で詩を書いて有名になろう」と。それで、
求人広告を出したらレオニーが応募してくれ、出会った二人は詩作を始めます。ヨネの発想
で書いた詩をレオニーが美しい英語に整えて、それを出版社にレオニーが営業して歩いてい
るうちに、ヨネ・ノグチがあっという間に文壇の寵児といわれるくらいに、日本で最初にア
メリカで認められた文学者になったのです。それで、若い二人は一緒に仕事をしているうち
に恋愛関係にもなっていって、やがてレオニーは身ごもった。レオニーがヨネに喜んで「私、
赤ちゃんができた」と打ち明けると、もうヨネにしてみれば、その頃 30 歳の頃でしたけれ
ども、まさか自分が異国に来て、異国の女性と結婚をして、しかも父親に今すぐなるなんて、
そこまでの覚悟はないという気持ちだったのでしょう。試写を観た皆さんはヨネを「ひどい
男、ひどい男。」って言うんですけど、私、若い男だったら、みんなだいたいそんな感じじ
ゃないかって思うんですけれども(笑)。レオニーから妊娠を聞かされヨネはびっくりして、
日本に帰ってしまったんですね。レオニーは失恋して、男に捨てられて、子供ができて、当
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時は堕胎という事も宗教上あり得ないし、そういうお医者さんもいない。とにかく産むしか
ないわけですね。で、それ以降の彼女のその生き方が、私は「この人を映画にしたい」って
思った理由なんですけれど、彼女は普通の失恋した女のように、苦しんで嘆いて「なんで私
はこんな目に遭うのかしら。ヨネは私を騙しただけだったのかしら。裏切られたのかしら」
と、そんな事、悶々と考えていても仕方ないと。それよりも「私が彼を愛したっていうのは
真実である。私はヨネを愛した。それだけは間違いない動かない事実である。その事実の証
として自分のお腹の中に命が宿ったのだから、この子を産み、育てる事で、私は明日からを
前向きに生きてゆこう」という人生の選択をレオニーはして、それでカリフォルニアに移り
住みます。その頃は、まだニューヨークでも、シングルマザーで子供を産むなんていう事は
世間的にもできなくって、お母さんが「新天地でその子を産みましょう」とカリフォルニア
に誘って、そこで産んだんですね。長い前置きでしたが、撮影風景の写真を観ていただきな
がらご説明しますね。この写真は、ニューヨークのレオニーとイサムが暮らしていたニュー
ヨークの町を再現したシーンです。ルイジアナ州のニューオリンズ、ジャズの発祥の地で有
名なニューオリンズのダウンタウンにはほんの少しだけ、ほんとうに短かなストリートなん
ですけれども、れんが造りで、比較的この時代のニューヨークを再現できる街並と通りがあ
ったので、そこでアメリカロケの基地をつくって撮影をしました。それでこれがヨネ。中村
獅童さんです。聞けば聞く程「この人しかいない」って思うでしょ(笑)。私も、もうもう
ほんとにシナリオを書いている時から「レオニーは、誰がなるにせよ、ヨネは中村獅童だ」
と思い込んで、追いかけて、追いかけて、3年くらいかけて OK をいただきました。ちょう
どこれが新聞広告を持ってレオニーが初めてヨネに会いに来るシーンのリハーサル風景で
すね。先程も話しましたように、何せ日米あわせて 450 人のスタッフが働いて、アメリカに
行ったらほとんどのスタッフ、キャストがアメリカ人なわけです。私は恥ずかしい事に英語
が堪能という人間じゃないんですね。もう、ほとんどしゃべれないといってもいいくらい
(笑)。いわゆる旅行に行って物を買うとか、日常に挨拶するとかいうことはできますけれ
ども、映画監督の仕事っていうのは、そんな英語力ではできない。そういう時に普通たいて
いの方は「私は英語ができないからアメリカで映画は撮れない」ってあきらめますよね。だ
けど私はとても図々しい人間で(笑)
、
「英語は通訳を使えば何とかなる」と思う。この白髪
の男性、この方はアメリカ人なんだけども、めちゃくちゃ流暢な日本語を話す助監督さん。
この彼とそれから通訳を介して、私はほとんど日本語で話して、それを通訳と助監督が皆に
伝えるわけです。映画監督というのはあの皆さんもだいたいご想像がつくと思いますけれど
も、大変なリーダーシップのいる仕事で、とにかく私の事を信頼してくれないと、誰も言う
事を聞いてくれないというか、ついてきてくれないわけです。だから、自分の中に不安感が
いっぱいで「ここはこういう風に撮りたいんだけど皆さんこれでいいかしら」なんていう事
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だったら、スタッフ達は私の下で働く気がしなくなって、「適当にやるぞ」と思われてしま
うんですね。作品を良くするには、監督の私が、自分のビジョンを明確に打ち出すしかない。
それが明確だと、一人一人のビジョンが違っていても、これは監督の映画なんだから、監督
のビジョンに沿おうっ
て思ってみんな信じて
一生懸命にやってくれ
るんですね。そういう
意味で、私はなんだか
んだいっても日本で生
まれ育ってきたので、
なかなか女性で男性の
上に立つっていう事に、
そういう訓練をされて
いないので非常に怖かったんです。
でもそういうことがなぜ克服出来たのかというと、
「ここに集まった皆さんは、この映画に
ついて考えはじめて、まだ 2 ヶ月か 3 ヶ月。だけど私は 6 年この事を考えてきて、私は自分
で十数億のお金を集めてここに来たんだから、私のやりたい事をやっていいんだ」というこ
とで、割と胸をはって皆さんに指示することができました。そうすると彼らはほんとによく
私のビジョンを、それぞれのパートで形にしてくれます。この写真は、ブリンマー大学、
レオニーの若い頃。映画の冒頭です。ブリンマー大学に通っていた頃、津田梅子との出会い
のシーンですが、津田梅子役は「折り梅」の時に主演をやって下さった原田美枝子さんです。
この映画にでてくる日本人の俳優の皆さんがほんとに素晴らしいんです。原田さん、吉行和
子さん、中村雅俊さん、竹下景子さん、柏原崇さん。勿論、中村獅童さんもそうですが、皆
さん素晴らしい英語力を発揮して、英語の台詞で演じてくれています。皆さんほんとうに、
私の挑戦に対して皆さんが意気に感じて下さって、一生懸命、英語のレッスンを受けて下さ
って、英語のお芝居をしてくれて、原田さんは、アメリカの若い女優さん達にも本当に尊敬
されていました。この方は撮影監督の永田鉄男さん。この方と私だけが日米両方を通してや
ったんですけれども、この人は、皆さん、ご覧になった方もいらっしゃるでしょうか。フラ
ンス映画で「エディット・ピアフ 愛の讃歌」という映画。アカデミー賞の外国語映画賞を
獲って、主演のマリオン・コティヤールが主演女優賞を獲った映画。そのカメラマンが、こ
の日本人の永田鉄男さんという撮影監督です。日本のマスコミというのは、世界で活躍して
いる素晴らしい人を全然日本で紹介しないですよね。この方は、50 代半ばですけれども、若
い頃は映画のカメラマンになりたいと思って日本のカメラの撮影の助手さんについていた。
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だけれども、
「どうもこの日本映画界の封建的な感じは、自分には合わないな」と思われて、
その頃彼はフランス映画が大好きだったので、「どうせ苦労するんだったらフランスに行っ
て勉強しよう」と、単身、何のつてもなくフランスに行って、もうほんとに何でもそこに転
がっている仕事は何でも受けて、なんでもやって、だんだんそのうちに彼は認められるよう
になって、彼が世の中に知れ渡ったのは、コマーシャルでものすごく素晴らしい絵を撮ると
いうことで、有名になったんですね。シャネルやディオールといった、世界でも一流企業の
コマーシャルです。シャネルのコマーシャルを撮った人と聞けば、フランスでもどれだけ優
れた、美的に評価されているかが解ると思うんですけれども、その彼がもうフランスでいう
アカデミー賞に当たる、セザール賞の撮影監督賞をもう二回もとって。けれどそれは全然日
本では知られていないですね。私もエディット・ピアフを見た時に「あぁ、こういう絵を撮
る人がいないかな。」と思って、最後にエンドロールを見ていたら日本人の名前だった。ナ
ガタ・テツオ。家に帰ってホームページを検索して、ホームページからたどってお手紙書い
て、お電話して、口説きに口説いて。彼が「自分ももう一回日本人に返るっていう気分にな
りたいと思い始めていた頃だったので是非やらせて下さい。イサム・ノグチは大好きだし。
」
ということで。彼がやって下さったので、監督とカメラマンが引っ張っていく撮影現場での、
コミュニケーションの面でも、本当に日本人であった事が助かりました。
― 主なシーンのエピソード ―
この写真が、レオニーがお母さんとともに移り住んだカリフォルニアの開拓村。あの時代
いろいろな場所から、新しく大地にオレンジを植えたり、ぶどうを植えたりして農園を作っ
て、ここで新しい世界を作ろうと思って開拓村にいろんな人たちが移り住んできた時代です。
西部劇のような。ロサンゼルスの少し北側にある、サンタバーバラという美しい港町の奥の
方の牧場を借りて、セットを作って撮影しました。これは日本。愛知県の犬山市の明治村と
いうところに、明
治 の建物 がい ろ
い ろ移築 され て
いて、そこは単な
る テーマ パー ク
なので、緑の公園
の 中に建 築物 が
ポ ツポツ とあ る
だ けの場 所な ん
です。レオニーは、イサムが 3 歳の時にヨネに呼ばれて日本に来るんですけれども、ヨネが
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お家を一つ与えてくれるんですね。その与えられたお家というのは、文京区の小石川に、当
時あった夏目漱石が住んでいた家、その後、森鴎外が住んだ家が明治村に移築されていて、
そこをロケセットして使わせていただきました。普段は「漱石邸」が一戸ポツンとあるだけ
の場所なのですが、それでは映画にならないので、この塀もこちら側の石垣も、向こう側の
土塀も、全部映画用に美術さんがセットで作ってくれたものです。次の写真も明治村の中。
竹下景子さん演じる小泉セツが出てくるシーンです。セツは皆さんご存知の通りラフカディ
オ・ハーンの未亡人です。子供達が 15 歳を頭に 4 人、とっても小さいのにラフカディオ・ハ
ーン(小泉八雲)は亡くなってしまうわけですね。で、奥様のセツさんが一生懸命子供を育
てていた。 生前のハーンは子供達をなるべく早く海外に留学させたいと思っていたので英
語を学ばせたかった。ハーンがこの世を去ってすぐ小泉セツさんとヨネ・ノグチが知りあい
になり、ヨネ・ノグチの紹介で小泉家の子供たちに英語を教える先生としてレオニーが雇わ
れました。その小泉邸に出かけていくというシーンを撮る前ですね。ちょうど去年の 6 月の
暑い頃に撮影しました。これはまた場所が変わって…レオニーはイサムが 3 歳の頃に日本に
来て、「日本でこの子を育てよう」と思った。「この子の半分の血は日本の血が入っているん
だから、日本の文化の中でこの子を育ててあげたい」と思って、3 歳の時に連れてくるわけ
ですけれども、最初にレオニーが見た日本の風景としてこの様なセットを作りました。茨城
県つくばみらい市にある、皆さんが最近よく見ていらっしゃる「坂の上の雲」や「龍馬伝」
で使われている NHK のオープンセットです。レオニーが日本に来た時は 1907 年ですから、ち
ょうど日露戦争で大勝して、日本が軍国主義にどんどんどんどん突き進んでいく頃。この奥
には「凱旋門」って書いてあるんですよ。レオニーがアメリカから太平洋を渡っていきなり
この風景の中で、着物を着た女性達の中で歩いているっていうのは、かなりショッキングな
事だったと思うんですね。もうこれだけ細かく話したら映画を見なくていいんじゃないかっ
て(笑)。いや、「観たい」と思っていただけるために話しているつもりなんですが…(笑)
イサムさんは子供の頃に、お母さんと一緒に、茅ヶ崎に住んでいた事があるんですね。で、
茅ヶ崎に住んでいた頃っていうのは、彼が 10 歳になって以降。イサムは日本の学校に行って
も差別されて、なかなか学校にもなじめない。今でいう登校拒否気味だったわけです。当時
母親のレオニーは、
「この子は、勉強よりも物を作るとか手先で何かをすることに優れた資質
をもっている」と気付いていたんです。だからレオニーは「あなたはもう学校へなんか行か
なくていいから家を建てよう。自分たちが住む家を。あなたは住む家をデザインしてちょう
だい。大工さんを雇うから、その大工さん達が作ってもらうのを、さぼらないよう監視して
いる役をしなさい」とイサムに言います。彼も「学校へ行くよりその方が絶対面白い」とい
う事で、大工さんの手仕事をずっと見ているわけです。ドウスさんの本の中にもあったエピ
ソ-ドですが、私の映画を作る上での解釈の中では、
「その出来事が、彼がアーティストにな
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る上での大きなきっかけになった」と描いています。三角形の、狭い茅ヶ崎のあの土地に、
イサムのいわゆる考え方が入ったお家ができたという、そういうシーンで…もっといい話が
あるんだけど止めとこう(笑)
。この写真は、明治村のそばにある愛知県犬山市のホテルのお
庭にある、
「如庵」という国宝の茶室。お隣のお庭のところなんですけれども、ここも撮影の
舞台に使いました。中村獅童さんとエミリー・モーティマーさんが、ほんとうにこの映画を
楽しみながら演じて下さって、すばらしい日本の現場でした。この写真は横浜港。さきほど
の日章旗が飾られた日本橋の商店街の前に、レオニーは横浜港に船でたどり着き、それで船
にヨネが迎えに来るんですけれども、今は本物の横浜港では撮影できないので、日本中いろ
いろ探して、これは、香川県の高松の近くにある善通寺というところに、自衛隊の駐屯地が
あるんですね。自衛隊の中にあるこの建物がちょうどその時代に建ったレンガの建物で。こ
こは陸地ですし船を全部セットで作る事は予算的にもできないわけです。それで、タラップ
から降りてくる部分だけをセットで作って、写真で緑色に見えているところは、CG 合成をす
るためのものです。その部分に全部大きな船体の黒い壁がのびるわけです。突き当たりに見
えている山も、横浜の風景としてはおかしいので、そこも CG で合成しています。最後に…こ
れが、イサムさんの遺志を継いでお作りになったモエレ沼公園。札幌のモエレ沼公園をお作
りになった川村純一さんが今日はいらっしゃいますけれども、映画のエンディングは、現代
のモエレ沼公園で撮影をしました。イサム・ノグチのほんとうに世界に誇る、最後の彼の作
品。札幌市が「この広大なゴミの埋め立て地に、あなたのアートをつくって下さい」とイサ
ムさんにお願いし、イサムさんはグランドデザインを描かれ、それが今無料で札幌の市民に
開放されています。自治体のやる事としてはものすごく素晴らしい事だと思うし、
「この作品
は絶対にもっともっと世界の人に見ていただきたいな」と思いました。映画っていうのは、6
年かけてシナリオ書いて、お金集めて準備して、撮影の期間はわずか 3 ヶ月なんですね。1
年間の四季折々を本当は撮っていたいんですけれど、それだったら 30 億くらいかかっちゃう
から、4 ヶ月でも、真冬のシーンを、暑い時にオーバーを着せてハァーハァー白い息をはか
せたりして(笑)。桜のシーンはお金がまだ集まらない頃に、そのシーンの絵コンテを全部決
めておいて、芝居も決めておいて、それで千鳥ヶ淵のところで、桜のシーンをクランクイン
の 2 年前に撮っておきました。スタンドインといって代役の俳優さんを入れてお芝居させて。
その後やっとお金が集まって実現したので、そのシーンができあがりました。見事に合成さ
れているので、観てびっくりしないでくださいね。アメリカで 4~5 月、日本で 6~7 月とい
う短い期間での撮影で、あっという間に終わってしまいました。あんなに長い道のりだった
のに「もうちょっと撮影したいな」って思っているうちに終わっちゃったんですけれど(笑)。
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― 映画の仕上げから劇場公開までのプロセス ―
撮影後は、アメリカのシステムで仕上げ作業を行いました。日本と全然違うんです。日本は、
仕上げ作業っていうのは、だいたい一本の映画で、編集して、音を入れて、音楽を付けて
3 ヶ月くらいで終わってしまう。それを私は 9 ヶ月かけることができました。じっくりと、
あぁでもない、こうでもないと編集して。で、最後に音楽を付けていただいたわけですが、
この人もほんとにいろんな映画音楽を聴いて、「この人がいいな、この人しかいない」って
音楽聴いただけで、その、その音楽に惚れ込んじゃった人がヤン・カチュマレクです。曲を
聴いてその人の事を調べてみたら、ポーランド人の、ハリウッドでも大変有名な作曲家で、
ジョニー・デップの”ネバーランド “でアカデミー・ベストスコア賞もとったという方。
でその人に「やっていただきたい」って言ったら、多分この作品、もう編集して出来上がっ
ていたから、「これを見たらこの人は気に入ると思うけどいくらですか、音楽予算は」と。
で、私が予算を言うと、エージェントがね、「そんな安い予算じゃ、絶対に彼はお受けでき
ないと思いますよ」って。「やっぱりアカデミー賞作曲家には、アカデミー賞をとったレベ
ルの音楽を作り続けなくちゃならないという責務があるから、それは多分断られるでしょ
う」と言われて。でも、ご本人が断ってきたわけじゃないですから、またこの人にお手紙を
書いて(笑)。ラブレターを切々と書いたら、
「これはちょっと僕に考えられるウルトラ C の
アイデアを何か考えてみよう」って言ってくれて、それで通常よりかなり低い予算で作って
くれた音楽を録っている風景がこの写真です。その方がヤン・カチュマレク。いかにもポー
ランド人っていう感じでしょ。私が彼との出会いとか永田さんとの出会いで経験したのは、
映画制作においてのクリエーター同士の共同作業の喜びでした。小説家は一人で書く。画家
も一人で描く。それに対して映画は共同作業であって、互いの才能が呼応し合ってその人が、
私自身が持っている才能を超えて優れた作品ができるっていう事が、映画作りが上手くいっ
た時の喜びなんですね。で、私はヤンに出会って「レオニー」の音楽ができた時、「ネバー
ランド」の音楽よりも、
「ハチ」の音楽よりも、「扉をたたく人」の音楽よりも、俄然「レオ
ニー」の音楽がいいと思ったの(笑)。つまり、アーティストとアーティストの共同作業っ
て、何かうまく呼応し合えた時にお互いの良さを引き出すっていう事があるんだって。そう
いう出会いをした時は、何かすごいいい恋愛より恍惚感がある(笑)。 これはもう、物を
作る人だけの特権だなっていう。そのくらい上手くいったので、11 月 20 日から映画の公開
になりますが、その前の 11 月 15 日にプレイベントとして、彼の映画音楽のコンサートをオ
ペラシティでやる事になりました。皆さんどうぞいらして下さい。私は、子供を産んだ事は
1 回だけあるんですけれども、子供を産む事も大変ですが、この作品を生むことも同じよう
な困難さだと思いました。この難産は、7 年間みごもっていて、それでやっと今産まれたと
いうことで、「私がその自分の志を 7 年間持続できたのは何だろう? 何でだろう?」と思
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うと、やっぱり今、この日本において、経済効率ばかりが優先になって、全てがそっちの方
に流れていって、不況になれば社会全体に元気がなくなっていく。そういう時こそ、私は、
文化やアートこそが人に元気を取り戻させることができるものだと思うんですね。日本の良
い文化を良い形でもっと世界に広め、世界の人々に日本を知ってもらいたい、っていう気持
ちもありますし。アメリカに行って、アメリカのプロデューサーにいわれた事があります。
「ヒサコ、僕たちは日本の黒澤明や小津安二郎や日本の映画監督を尊敬して、そういう日本
の映画を見て自分は映画監督になりたい、映画の仕事に就きたいと思ってこの仕事を始めた。
そういう尊敬すべき日本の映画監督がいつもアメリカの映画監督より先に行っていて、自分
たちはそういう人を尊敬しながら育ってきたと思う。だけど今どうして日本はそういう監督
がいなくなっちゃったの?」って。「宮崎駿のアニメはすごい。それは認める。でも、普通
の実写の映画でそういう物が全然ない。最近の日本の映画人はアニメやホラーのコンテンツ
をアメリカに作ってくれと売りにくる。文化も映画界も他の産業と同じように、何かエコノ
ミックアニマル化して、アメリカに来て金儲けしようっていう風なことばかり感じられて寂
しい」って言われたんですね。そんなことを言われて、日本人として寂しい、と思った。私
のような、こんなに力のないものでも、志をもって「アメリカに行って何か成し遂げよう」
っていう時にすごくアメリカ人の方が応援して下さいました。幸い角川映画さんが配給して
くれる事に決まりましたが、これを作っている時に、大きな映画会社に、「やってくれませ
んか」って頼みに行っても、「やっぱりうちの傾向とは違う」って言われて、制作時には一
緒に作ってはもらえなかった。ひと口に合作映画と言いますが、今まで合作っていうと、例
えば日本から向こうにロケ隊が行って、アメリカのスタッフを使って作る作品を合作映画と
言ったり、それからまた、資金的な合作、「レッドクリフ」のように、日本のお金と中国の
お金とどこどこのお金と、で、獅童さんが俳優として参加したらもう合作。そういう合作は
あるけれども、
「作り手が自分のシナリオを持っていって、アメリカと日本と半々で作って、
それを世界に見せようという合作はなかった」と思うんですね。「ない」と思うから、作ら
なきゃいけないと思った。そして作ってるときをテレビドキュメンタリーに録っておきませ
んかと言っても全然見向きもされなかったですね。で、映画ができたでしょ。できたら「イ
ヤー、自分たちはそれ作ってる時に撮りにいきたかったなぁっていう感じで…。やっぱり相
変わらずマスコミっていうものに、私は非常に高い壁を感じているんですね。
私には地盤がありまして、
「ユキエ」と「折り梅」と 2 本の映画で培った、私の応援してく
れるお客様たちの全国のネットワークがあって、それにまた東京の仕事を持つ女性達とかが
加わって、マイレオニーという私の応援団を作って下さっていて、その方達がずっと励まし
てくれた事で 7 年間思いを持続することができたんですけれども、今その方達が相変わらず
一生懸命前売り券を売り始めてくださっているんですね。やっぱりマスのメディアだけを頼
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って、客側としてただ受け身でいるだけでは何も変らないと思います。マスコミとか雑誌と
か新聞とか TV とかがこういっているからと。日本人は自分で何か選択して、自分で考えて、
自分でこれを選び取るっていう事が全然育っていないから、ついついマスコミの「今はこれ
が見なくちゃ行けない映画よ」「これが話題の映画よ」っていうことに流されすぎていると
思うんですね。私は私を応援して下さっているマイレオニーの皆さんと一緒に、何かこれで
変化を起こしたいと。「今までこんなもの絶対あたらないって思ったのを私たちの力でヒッ
トさせるの」と思ってもらったりとか。そういう意味で、今日のこの講演会も、ネットでマ
イレオニーを知って下さって、マイレオニーのサポーターになって下さった、司会をして下
さっているカスヤさんが「私に何かできないかしら」っていう事で、この皆さんの会に働き
かけて下さって、今日皆さんと出会えたので、こういう事がやっぱりちょっと効率は悪いか
もしれないけれども、私は大事なのだろうと思っています。この映画を今日このご縁で、皆
さんには何としても 11 月 20 日から公開になったら見ていただいて、また、多くの方々に広
めていただきたいと思ってますので、よろしくお願いいたします。
― イサム・ノグチの芸術の原点を発信したい ―
それから、私自身この映画でとってもやりたかった事として、明治、それからアメリカの 100
年前のインテリアを、できるだけ優れたデザイナーを使って、正確な時代考証をして、私の
好みの感性でつくりました。その世界を是非見ていただきたいです。また、「イサム・ノグ
チについて語らなくても、イサム・ノグチの芸術の原点はここにある」と私が思うもの、つ
まり、皆さんがご存知の AKARI にしても、それからテーブルや椅子のカーブにしても、彫刻
にしても、それから世界のいろんなところにあるランドスケープにしても庭園にしても、や
っぱりイサム・ノグチが日本で幼い日々を過ごし、また、障子と畳の文化の中で、幼少期を
過ごした彼の原風景っていうのが、作品の中に生きているという思いがあります。母親が日
本に連れてきて、10 年間日本で育てなかったら、イサム・ノグチのあのアートはなかったん
じゃないかな、という思い
で作りました。
何か、ほとんど映画の宣伝
になっちゃって申し訳あり
ません。今日、川村純一さ
んが来て下さっているので、
これから彼と一緒にお話を
続けたいと思います。あり
- 15 -
がとうございました。
司会
松井監督ありがとうございました。本当に貴重な映画作りのご苦労のお話等々たくさん伺い
まして勉強させていただきました。全く予想外であった点は、松井久子監督の経済のタクテ
ィクスですね。これなくして、物作りはできないんですね。それは私どもの物作りも全く同
じです。また、何よりも映画をつくることも、環境、生活環境をつくることも、空間デザイ
ン、建築、すべて物作りというもののジャンルを問わず、情熱、努力や執念なくして成就し
ないという事を、また改めて学ばせていただきました。一番感じる事は、いつも変わらない
その笑顔とパワー。やはり、そのオーラがどの国に行っても自然に人を引き寄せてしまう。
一番そのときに必要な人を引き寄せてしまうという引力を、お持ちのような印象がいたしま
した。何よりも皆さん、早くこの映画をご覧になってみたいと思いませんでしょうか。
続きましては、川村純一先生とのトークセッションに入ります。
松井
せっかくですから、今日、一方的に話すだけじゃなくて、皆さんともやり取りしたいので
終わりには是非ご質問を考えておいて下さい。お願いします。
第二部
松井久子監督×川村純一氏トークセッション
司会
皆さまお待たせいたしました。それでは第二部を始めさせていただきます。監督のお話にも
登場された本日のスペシャルゲスト、川村純一先生、登壇をお願いいたします。
司会
川村純一氏のプロフィールをご紹介させていただきます。
1948 年東京生まれ。東京芸術大大学院建築専攻専修後、丹下健三都市建築設計研究所入社。
1975 年草月会館の設計監理を
通して勅使河原蒼風、イサム・
ノグチとの親交を得る。主任建
築家として国内外のプロジェ
クトを多数手がける。1985 年
丹下研究所を退社し、EAST エ
ンジニアリング(クエート)勤
務。1986 年丹下研究所の仲間
とアーキテクトファイブ設立。
代表建築家。同年、イサム・ノ
グチの招きでヴェニスからイ
- 16 -
タリア北部を巡る。1988 年
イサム・ノグチを札幌にお連れし、モエレ沼公園基本設計開始。同年暮イサム・ノグチ死去。
その遺志を引き継ぎ、17 年後にモエレ沼公園完成。現在、アーキテクトファイブ主宰。代表
建築家。イサム・ノグチ日本財団理事。モエレファンクラブ理事。東京芸術大学森の会常任
理事。同大学建築科非常勤講師。以上。
早速ですが川村先生に質問です。まず監督との出会いについてですが、一番ここは興味深い
ところでございまして、松井監督の本に「生きる事は出会う事」とありますが、イサム・ノ
グチと川村先生との出会いもやはり大きな影響があったと思うのですけれども、是非、出会
いから亡くなるまでの思い出等を含めながらお話をいただければと思います。
松井
私と川村さんの出会いでなくて、イサム・ノグチと川村さんの出会い?どっち?両方(笑)?
司会
両方です(笑)。
松井
私がこの映画を作りたいと思っていた時に、イサム・ノグチさんのファンは現在もいっぱい
いらっしゃるし、ゆかりの方がたくさんいらっしゃるし、作品や著作を管理されている財団
もある。イサム・ノグチのゆかりの方に嫌われたくない、理解してほしいという思いがあっ
たんですね。イサム・ノグチさんはお子さんを持たなかったので、ご自分の作品の著作権を
全部管理するために財団を日本とアメリカにお作りになって、アメリカの財団が母体で、そ
の下に日本財団があるんですが、映画化にあたり、どちらにご挨拶に行っても、最初は本当
に白い目で見られたんですね、天下のイサム・ノグチをこんなマイナーな、日本の無名なお
ばさんが映画に作るなんてっていう感じで。それで、もう全然誰も協力してくれそうになか
った時に、でもあの方だったら…、というので私のお友達がつないでくださって、川村さん
に会いにいったのが最初ですね。えーっと6年前。はい、バトンタッチしました(笑)。
川村
松井さんとの出会いはそういうことで、今、松井監督の映画の話を聞いて、改めて私は建築
家ですけど映画監督になりゃ良かったなぁ。できれば…(笑)。と思ってずっと見ていまし
た。たった一人で始めてお金を集めて自分の目的に向かっていくという素晴らしい仕事で、
松井監督のそのエネルギーに本当に感激しました。僕の場合を考えるとどうしても仕事が来
てからそれをどうするかしか考えない。それではいけないという事を改めて反省した次第で
す。イサム先生と出会ったのは、僕が丹下事務所に入って1年経った頃です。草月会館を担
当するようにいわれ、模型を作ったりしていた時、草月流の勅使河原蒼風家元がこの建物に
置く彫刻をイサムさんに創ってもらおうと招いたのです。その時、丹下事務所は原宿にあり、
そこにニューヨークから”イサム・ノグチ”がやって来ることになった。その時、丹下先生
の奥様が秘書の女の子に言っていたのを妙に良く覚えています。「イサムさんが来るけれど
も、手が早いから気をつけなさい」(笑)と。僕は、勿論名前は知っていましたけれども、
彫刻家というだけで何もわからなかったのですが、「凄い人がくるんだな」と待っていまし
- 17 -
た。最初の印象は眼光。ブルーがかった灰色のような、それでいて茶色にも見える。やはり
日本とアメリカの混血の感じなのか、凄く鋭い眼が印象的でした。そして、ガッチリした躯
体、骨が太いような感じ。その時は何も話さないで遠くから眺めていただけです。イサム先
生が次にきた時は、模型を持ってきたんです。彫刻とそれが於かれるエントランスプラザを
含めた模型を持って、またニューヨークから来ました。その時にいきなり「どう思うか」と
いわれたんです。彫刻の事ではなくその背景にある展示スペースをどう思うかという事でし
た。何も言えないでいると「あれは良くないと思う。家元に話します」と。その後、イサム
先生は蒼風家元に会って「丹下さんのやっているスペースは良くないから僕にやらせてほし
い、私はどういう風に彫刻が置かれるかという事はすごく気にするし、これは僕がやった方
がいいと思う」という話をされたのです。で、家元から話をきいた丹下先生は「イサムさん
がやるのなら任せますよ。」ということで、それからイサム先生が雛壇状の展示スペースも
デザインすることになりました。設計図面や資料をニューヨークに持ち帰って、今度は新た
な模型を持参してきた。バルサでできたこのくらいの模型ですけれども、雛壇状の骨格はそ
のままでしたが非常に変えられていました。雛壇の下には草月ホールが入っていて、ホール
バルコニーの形になっていた。イサム先生が来た時にはもう工事は始まっていて、工場で鉄
骨を作り始めている状況。その状況で大胆に変えた案を持ってきた。「あれだけの石が乗っ
かります。花の展示場には、石と水が必要、そして光がないと駄目。そうしないと花は生き
ない。石と水となんかそういうものを僕は提案したい」と模型を前に説明したのです。凄い
人だなと思いました。それまで計画にあったガラスの手摺は全部取っ払い、代わりに石を置
いて。建築基準法上大変な問題もいろいろとあったのですが、全部それがクリア出来て、床
柱の様な石彫と花の展示プラザが完成しました。イサム先生はそれに「天国」という名前を
つけたんです。彫刻家っていうよりも建築の事をあまりに良く知っているのです。この仕事
を通して何度も「凄い人だ。」と感じました。
松井
そういうお話は、イサムさんは何語で言うんですか?
川村
日本語です。あぁ、日本語と英語を混ぜていました。でも、日本語で結構しゃべられた。僕
はあまり意識していなかったけど、英語だけでしゃべっていた訳ないですね。それから、日
本に来るとみんながイサム先生に会いに来る。例えば、土門拳さん、亀倉雄策さんなど藝術
家や音楽家などいろんな日本の知識人が、「イサム先生が来るんだったら」とみんな集まる
んです。そういう場に立ち会えたっていうのが、僕にとって非常に幸せな仕事でした。
松井
カスヤさん、すすめていいですか?
川村
もうちょっと続けますと、仕事をしている時はやはり丹下事務所の所員ですが、丹下先生は
イサム先生に任せていましたね。でも僕の上司に取っては気にくわない訳ですよ。工期も問
題だし、もう工事が始まっているのにお金はどうするのだと。何だかんだってありましたけ
- 18 -
ど、僕はあまりに世間知らずだったんでそれは気にしないで…
松井
川村さん、当時はおいくつくらいだったんです?
川村
27 くらい…。
松井
幸せな待遇ですね(笑)。
川村
そうですね。あまりに実務を知らないから、いいとなるとスグ乗ってしまって
松井
草月会館の次は、何か他のところもあるんですか?それともモエレまでは…。
川村
仕 事で 一緒は ないの です けれど も、草 月会 館が終 わって 妻の 京子と 一緒に イサム
先生に会いに行きました。仕事をしている時は、プライベートでイサム先生に会う事はでき
ません。冬休みに車で牟礼のアトリエを訪ねたのです。御礼の挨拶にちょっと寄るつもりが、
歓待していただき、イサム家で食事をいただき、いろんな話をしてくれました。音楽の話に
なって、妻が「イサム先生はどんな音楽がお好きですか」とたずねると、レコードをかけて
くれました。民族音楽もあれば、クラッシックもあれば、サティも…それぞれの思い出を話
しながら。京子が「箏を弾いている」といったら、「これが好きだ」とかけてくれたのが中
能島斤一演奏の“六段の調べ”で、それには京子がびっくり。その先生の演奏をラジオで聴
き芸大に入って習った恩師ですから、そこでいろんな話から盛り上がって、その一夜で急に
親しくなったということです。その後、丹下先生とイサム先生の仕事はボローニャとかあっ
たんですけれども、あまり丹下事務所に来る事はありませんでした。逆に「ニューヨークの
美術館がオープンするから京子にお琴を弾いてほしい」ということで呼んでいただき、個人
的に親しくさせていただくようになりました。エピソードはいろいろあるんですけれど…。
僕がイサム・ノグチに会いにいったのがバレてしまいまして、それが事務所には「調子が悪
いから休みます」っていって(笑)休んでニューヨークに行ったんです。そして歩いていた
らホテルピエールのロビーでばったり丹下先生夫妻と会ってしまいまして(笑)。これはも
うしょうがない。嘘は言えないので「イサム・ノグチに会いに来た」と。そうしたら奥様が、
「あなた今うちの主人とイサムさんとが喧嘩しているのを知っているでしょ」っていわれて
非常に怒られまして、でもその後「主人が行かなくなったからエビータを見に行来ましょ
う。」と一緒に行きましたけど。それから数年後、私は丹下事務所を退社しましたが、86 年
のヴェニスビエンナーレにイサム先生がアメリカ代表で出品することになり、京子と私を呼
んでくれました。そしてヴェニスから先生のアトリエがあるイタリア西海岸のピエトラサン
タまで一緒に車をレンタカーして、イサム先生が自分で運転するんですよ。その時もう 80
を越えていましたけれど。数日間それに同乗して、非常に怖い(笑)。せっかちですから。
途中で運転を変わりながら、ずっと北イタリアの都市をまわってドライブしました。先生の
宗教画や建築の説明付きで…。よく知っているし、記憶力がものすごくいい人です。自分の
作品の制作年代もはっきり記憶している。先生は晩年になってから一冊の本を自ら書いてい
- 19 -
ます。ニューヨークの自分のアトリエをイサム・ノグチ ガーデンミュージアムに作ろうと
して、自分の作品を何処に置いたらよいかと自分で決めて、それぞれの作品の説明カタログ
として全部自分で書かれた本です。高松牟礼で仕事の合間に書いていたり、ニューヨークで
書いていたり…
松井
最後にモエレ。最後にモエレにいくエピソードを。
川村
モエレに行くのはですね…、そのように親しくさせていただいていたんですけれども、イサ
ム先生は日本に子供の遊び場を作りたかった。それで子供の国とかリーダーズダイジェスト
の庭もつくったんですけれども、どれも元の形ではなくなっていた。そこに谷口吉生さんが
酒田に土門拳美術館を設計していて、イサム先生が彫刻をやることになった。お父さんの谷
口吉郎もイサム・ノグチと同じ 1904 年生まれで、勿論、土門拳とも親しく、イサム先生に
とっても楽しい仕事だった様です。その後、谷口さんが葛西臨海水族館の設計を始め、そこ
の庭もイサム先生さんにやってほしいということで先生はすごく喜んで、いろいろとアイデ
アを練っていました。しかしそれが駄目になっちゃたんです。というのは「設計者がもう決
定しているから無理」と発注者の東京都から。無理っておかしいと思うのですが谷口さんで
もどうしようもなかった様です。イサム先生は谷口さんとの仕事を非常に喜んでいましたか
らショックが大きかった。感情の起伏が激しい方ですから、「もう日本には自分の作る庭は
できないんだ。」と非常に落胆されていました。それが 1987 年の事。そのころ毎年、暮れか
ら正月にかけては京子と一緒にニューヨークのイサム先生のところで新年を迎えるように
なっていました。その事を知って、1988 年が明けてから札幌の施主が訪ねて来ました。服部
さんという北大を出たばかりのコンピューター会社の社長です。イサム先生は、閉まってい
る美術館を開けて、我々に自ら作品ひとつひとつを説明をしてくれたのです。その時に子供
の公園や遊具模型を熱心に説明されるので、京子が「服部さん、札幌だったら何か先生の公
園が実現できるんじゃないの?」と話し、それがきっかけで彼は、札幌の助役さんに話をし
てくれたことがモエレの始まりです。京子はどうにかしてイサム先生を元気づけたいとの思
いでした。ただ、初めは芸術の森にという話でしたが、イサム先生は以前、箱根の彫刻の森
を見た後、「彫刻の墓場だ」と言っていたので、他に無いかと聞いてもらったところ「モエ
レ沼という、今はゴミの埋め立て地だが将来は公園にする計画がある」とのこと。早速送っ
てもらった航空写真を先生にお見せし、その年の3月の暮れに札幌の現地にお連れしたとい
うことです。その事は何年か前に新建築に書いて、今日お渡しした資料に書いてあります。
イサム先生は北海道へ行くのも初めてで、まわりの反対もいろいろありました。ニューヨー
クの方に怖い女性がいたり、先生のまわりに女性はたくさんいますから、それをクリアする
のが大変。
松井
私もね、お願いにいっても、とにかく「映画ができたら絶対その映画をみてニューヨークの
- 20 -
イサム・ノグチ庭園美術館にも人が来るように、もっと来るようになるから何とか協力し合
ってやらせていただきたい」って言い続けたんですけれども、ほんとうにどこへ行っても断
られたっていうか、冷たくされたんですね。その中で、川村さんのご夫妻にお会いした時に
初めて…。それまで言われ続けてきた事は、「イサム・ノグチという芸術家は、芸術につい
てだったらいいけれども、プライベートな事っていうのをされるのは、非常にいやがってい
たんです。だから天国のイサムさんがそんな事をさせないっていう気持ちを私たちはわかる
ので、そこで私たちがいるんですから」ということを、あのニューヨーク財団の女性達にも
かなり言われていたんですけれども。で、本当にそういう風に言われているとだんだんだん
だん「やっぱりやっちゃいけないのかな」、
「触っちゃいけないのかな」って思ってきちゃう
んですけれども、川村さんご夫妻と会った時に、日本だけでなく向こうに行っていても、い
つも晩年一番お近くでいらしたお二人が、何かイサムさんから聞いていたお言葉があったん
ですよね。あの母親の伝記を。
川村
あぁ、それは言っていました。いろんな方がイサム・ノグチの伝記を書こうとしていたのを
「それだったら自分で書く」と言って先生はテープに録音し出したのです。そのテープが残っ
ていて、お役に立っていると思いますけれども。とにかく伝記を書きたいと言ってくる人に
「僕の伝記を書くよりも僕の母親の事を書いた方がよっぽど面白い」と話していました。です
から、そこへ目をつけたのはやっぱり松井さん素晴らしい。そういう話を知らなくて…。
松井
それで、最初にお会いした時
「イ サムさん があなた を選ん
だのね。あなただったのね」と
奥様に言われたのがね、すごく
私にとっては「作っていいのか
もしれない」っていう風に支え
になった最初の出会いでした
ね。その前までは何回も、イサ
ムさんのゆかりの方全部、嫌が
られたので。ほんと不思議なくらい…。
川村
イサム・ノグチという人物は、勿論、男からみても魅力があるんだけど、女性からは絶大な
人気があって、人気っていうよりもね、自分のものだと思っちゃうんですよ。みんな(笑)。
あの目で見つめられたり、ちょっと言葉かけられるとね、「私一人だ」って思わせるところ
あるんだね。うちの京子もね、ちょっとそんな気になったんじゃないのかな(笑)
。
松井
何か皆さんからご質問をいただきましょう。是非。
司会
どなたかご質問ございますか。ございましたらどうぞご遠慮なく。
- 21 -
川村
じゃ、あと、僕がイサム先生を素晴らしいと思うのは、彫刻家ですけれども、彫刻も建築も、
同じ事だと言っていたこと。彫刻家は自分の作品がいい美術館に入るとか、作品が評価され
る事を目指していくが、そうじゃない。作品ができ、その作品を置く事によって環境が良く
なっていくこと。その作品から人達が影響を受けて、気持ちもまわりの環境も良くなってい
くっていう作用をする。それは、建築と同じ。「その彫刻や建築からどういう気持ちを与え
られて、希望が持てるとか、穏やかな気持ちになれるかが重要なんだ」とおっしゃっていま
した。インテリアプランナーも勿論同じ事。実はもうひとつ、イサム先生は札幌で公園と同
時に、大通公園にスライドマントラという黒い滑り台を…。あの時のエピソードをちょっと
話しますと、ヴェニスのビエンナーレに白大理石のスライドマントラを発表しているんです。
札幌の大通りを通っている時にここにそれを置いたらという話に「ヴェニスは白いけど、札
幌は雪が降るから黒いので作るといいね」と乗ってくれたのです。札幌市から大通りの候補
地が来て、模型を作って、イサム先生と一緒に行ってみたら、そこには木がたくさんあって、
滑り台で子供達が遊んでいたんですね。
「ここに作ると言ったのは僕の間違い。」と言い模型
を壊してしまった。既に札幌市は、大通りにスライドマントラが来る事を新聞発表していて
もう引き下がれない。そのうちに市の方が「芸術の森に置けませんか」と言ったので、怒り
出しちゃって「もう置きません」って。しかし広場の間の車道を廃止する可能性が出て来て
「止められるのだったらそこへ置きましょう」と図面に置く位置を書き込んだ。それが、車
道の上で。二つの広場が一緒になれば、子供達が自由に安全に行き来できる。「これからの
都市で、重要な都市の価値というのは、その都市の中心にどれだけ子供達が自由に動き回れ
る広場がとれるか。それによって都市の価値が違って来ます。」という話をされました…。
司会
川村先生、恐れいります。大変に…これからもっともっと楽しくなりそうな、3部があれば
もっと盛り上がりそうな勢いなんですが、今、核心に触れる素晴らしいお話を伺ったところ
で、非常に残念ですが、時間の都合上ここで終了とさせていただきます。
川村
彫刻を置くっていう事はそういう意味があるっていう事。だから環境を良くするという事。
司会
そして、子供達のための場所をどれだけとるかですね。
川村
そうそう、それが重要だっていうこと。
司会
それが子供を愛したイサム・ノグチの心だった…。ありがとうございました。本日は、本当
にありがとうございました。お二人に盛大な拍手をお願いします。
司会
それでは最後に、東京インテリアプランナー協会志村会長より皆さまにご挨拶を申し上げま
す。
志村
大変、楽しいお話で締まったところで、私がまた締めるのもなにかと思いますが。松井久子
監督ありがとうございました。川村純一先生ありがとうございます。そして本日お集りの方
達、とても楽しんでいただいた様でございます。暑い中、それで盆前でとても忙しいと思い
- 22 -
ます。その中、ほんとうにありがとうございます。我々、東京インテリアプランナー協会は
ですね、こういう混沌とした
経済の中で集まる、魅力ある
ものをして集まろうという年
にしようという声がけがあっ
て、活動を今始めたところで
ございます。今日も大変、そ
の象徴たるところかなと。川
村先生もおっしゃっていまし
たけれども、やはり、インテリアとか建築というものはハードそのものに意味があるのでは
なくて、そこに集う人たちが何かを起こしたり、そこで人と人から何かをもらう、そういう
事が最終目標かなと思っております。松井さんがおっしゃっておりました、才能と才能があ
った時にとっても反応する。我々もやはり設計者っていうのは、絵を描くだけですから、コ
ンクリートを打つわけでも、プラスターボードを貼るわけでもございません。誰かが貼って
作っていただいているわけですね。で、やっぱりそういうところでは感慨深いお話で、一緒
だ一緒だと思いながら聞いておりました。もうこれは映画見るしかないぞ、という状態に今
陥っておりますので、少なくともこの人数は行きますので。本日はありがとうございました。
川村
僕はちょっと見せていただいたんです。是非、見るべきです。ほんとにね、日本の美しさ。
これは世界の人が見ても感じると思う。100 年前、日本人の心の中にある美しい情景、母と
子供というテーマもあるけれど、映像がすばらしいと思います。
司会
どうもありがとうございました。「今日から真夏が始まるの」というような、まるで松井監
督が夏とともに帰られたようなそんなお天気の中、ありがとうございました。また、本日、
この会場を提供して下さった建築家会館さんに心より感謝申し上げます。ありがとうござい
ました。先程ご案内申し上げました監督の書籍のサインは、是非、皆さまお忘れなくお帰り
くださいませ。本日はほんとうにありがとうございました。
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