2014日本自動車殿堂 殿堂者

2014日本自動車殿堂 殿堂者(殿堂入り)
Japan Automotive Hall of Fame, Awarded Inductees of 2014
選考主題 自動車社会構築の功労者
Theme of selection : Person of merit who has furthered the cause of motoring.
国産二輪車第一号生みの親
Ingenious developer of the first Japanese make motorcycle
島津 楢蔵 氏
Mr. Narazo Shimazu
●
自動車用ディーゼルエンジンの育ての親
Father of technological developments of automotive Diesel engine
伊藤 正男 氏
Mr. Masao Ito
●
“郷に従う”
自動車販売の王道を拓く
Successful establishment of market share of foreign motorcycle / car in U.S. / Japan
濱脇 洋二 氏
Mr. Yoji Hamawaki
●
本邦自動車史黎明期の解明と考証
Elaborate investigation of historical facts in early stage of Japan’s motorization
佐々木 烈 氏
Mr. Isao Sasaki
日本自動車殿堂者の表彰原本は殿堂に登記され国立科学博物館において紹介される
The original copies of testimonials awarded to the inductees of Japan Automotive Hall of Fame are registered at the Hall of Fame,
and are presented at The National Science Museum.
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国産二輪車第一号生みの親
島津 楢蔵
島津モーター研究所/日本モータース製作所代表 島津 楢蔵( しまづ ならぞう)略歴
1888年(明治21年)
4 月 大阪生まれ
1 9 0 0 年(明治3 3 年)
1 1月 父の常次郎から自転車を与えられ、大阪湾の桜島遊園
地での自転車レースに出場
1 9 0 1 年(明治3 4 年)
1 1月 東京・上野の不忍池まで自転車競争会余興、日本初と
されるモーターサイクル走行の見学に出かける
1 9 0 8 年(明治4 1 年)
3月 奈良県立工業学校(現御所実業高等学校)紡織科卒業
4 月 愛知県名古屋市島崎町の豊田式織機入社、名古屋在住
7 月 愛知県名古屋市東区高丘町の棚橋謙太郎医院訪問、米
エール号に乗車、初めてモーターサイク ル を運転
8 月 豊田式織機退社 島津モーター研究所を設立
1 2 月 2 サ イ ク ル 4 0 0 ㏄第一号エ ン ジ ン 完成、ピ ア ス 号
中古自転車に搭載、試験走行に成功
1 9 0 9 年(明治4 2 年)
9月 4 サ イ ク ル 4 0 0 ㏄エ ン ジ ン 完成、自社設計製作の車
体に搭載、NS号と命名、国産二輪車第一号となる
1 9 1 2 年(明治4 5 年)
NMC( NipponMotorCycle )試作型2 5 0 cc 、国産初
の量産二輪車として20 台あまり製造、
ベ ル ギ ー製航
空機エ ン ジ ン の調整役を務め航空機エ ン ジ ン 分野
に進出
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1 9 1 6 年( 大正5 年)
1 9 1 8 年( 大正 7 年)
1 9 2 5 年( 大正1 4 年)
1 9 2 6 年( 大正1 5 年)
1 9 3 6 年( 昭和1 1 年)
1 9 5 0 年( 昭和2 5 年)
1953年( 昭和 28年)
1 9 5 9 年( 昭和 3 4 年)
1 9 6 6 年( 昭和4 1 年)
1973年( 昭和 48年)
9 月 帝
国飛行協会発動機製作競技にて9気筒星形エ ン ジ
ン一等賞、賞金2万円獲得。日本初の飛行機関民間
製作者として公認され、飛行機製作会社設立を計画
1 月 飛行機製作会社計画変更、箕面有馬電気軌道( 阪急
電鉄)豊中グ ラ ウ ン ドに大阪島津自動車学校設立
2月 エ ーロ フ ァース ト 号 6 3 3 cc で鹿児島−東京間キ ャ
ラバン遂行、モーターサイクルのPRに努め成功する。
2月 日本モ ータ ース 製造所設立、エ ーロ フ ァース ト 号
2 5 0 ccを量産開始、3 年間で 7 0 0 台を生産
広島の東洋工業( 現マ ツ ダ )に入社、三輪車販売キ
ャラ バ ン 遂行および設計に関与
三輪車用三角フ レ ーム 考案など実用新案、特許総数
2 0 0 件を超える。サ ン ヨ ー号二輪車設計にも関与
戦前の著述に続いて大阪のモ ータ ーエ イ ジ 、交通
タ イ ム ス各社の雑誌書籍に執筆。座談会にも参加
大
阪朝日放送に国産二輪車第一号製作者として TV
出演
4月 勲 5等双光旭日章を授与さる
6月 逝去、享年 85歳
島津楢蔵は 1888 年(明治 21 年)4 月、大阪市東区
丹金」となり、大阪造幣局などが得意先となる。
の御堂筋、
現在の平野町3丁目交差点そばで生まれた。
楢蔵は、自転車曲乗りで知られた桜島の遊園地での
父親は堂島の米屋に今井常次郎として生まれたが、島
自転車レースに出場するなど、そのスピードに魅せられ
津家の養子となって島津姓となる。その後、丹波出身の
ていった。
山口金助が創業し、その名から採られた貴金属金銀細
そして楢蔵は、大阪で自転車の曲乗りを披露してい
工商「丹金」の番頭として働く。
た横浜アンドリュース・ジョージ商会のイギリス人ボーン
母親は東京の深川で生まれた宮浦松五郎の娘かね
が、明治 34 年 11 月に東京・上野の不忍池で行われた
で、松五郎は鋳物や金属炉など手広く手がけ、広島の
自転車レースの余興で、
日本で初めて自動自転車=モー
浅野藩に大砲や鉄砲を納めていた。しかし幕府の役人
ターサイクルで走行することを知る。楢蔵は父に嘆願し
とのつまらない争いがあり広島で相手を射殺。よって幕
て、遠路見学に出かける。初めて観たモーターサイクル
府より切腹を命じられ、家族全員が東京から広島にゆ
に 13 歳の少年が感激したのは、いうまでもなかった。
き、その場に立会うこととなった。
父親の常次郎は楢蔵を商人にするため商業学校に
東京へ帰路の途中、当時の交通機関であった船に
入れたが、楢蔵はソロバンが嫌で退学。それならば機
乗っていたが海が荒れ、大阪に着岸。いまさら東京に
械モノが良かろうと、奈良県立工業学校染色科本科紡
戻っても仕方ないと大阪に住み着くことになる。かねが
織科に入学させた。それが功を奏して明治 41 年卒業
7歳の時であった。後にかねは縁あって島津常次郎と
時には校長推薦で名古屋市西区島崎町(現中村区名
結婚する。
駅)の豊田織機に入社することとなった。
島津家に長女が生まれたが幼くして他界、次に生ま
まだ豊田佐吉が技師長の頃で従業員 100 名程、当
れる子供は丈夫に育って欲しいと、子授けの神様として
時最新のイギリス製のクロスレー式ガスエンジンで動
信仰がある奈良県天理市の楢神社に祈願し、その名を
力を得ていた頃で、製品の織機のフレームが木製から
もらい長男に楢蔵と命名。さらに二男も授かって銀三
金属製に変わる時代だった。
郎と命名した。
だが楢蔵にとって幸運だったのは豊田織機の先輩か
1900 年(明治 33 年)島津楢蔵は当時の最新流行
ら聞いた、名古屋にモーターサイクルマニアで知られた
自転車を与えられた。石川商会(後の丸石)がアメリカ
棚橋謙太郎が名古屋市東区高岳町で医院を営んでお
から輸入したばかりの頃で、自転車1台が月給 20 倍と
り、名古屋駅前の会社から3km 程しかなく徒歩でゆけ
される上流階級の乗物であった。
たことだった。謙太郎は名医でも知られ、楢蔵も必然的
兄弟に1台ずつの購入であったから、相当の金額にな
に患者として面会したが
「モーターサイクルを造りたい」
るが父親の常次郎は、山口金助が没したため丹金の
という意思を伝え、謙太郎の認めるところとなる。
経営者となっていた。二男の銀三郎は山口家の養女と
病院の前には数台の自動車があったが、それも謙太
結婚したため山口姓を名乗り丹金の屋号は後に「山口
郎が修理するというから驚かされた。そして謙太郎の愛
車エール号に乗せてくれたのである。当時の始動方式
であるエンジンを押し掛けでかけて乗ってみると、エン
ジンと自分の心臓の鼓動が共鳴して、感激と恐怖が交
錯したという。一刻も早くエンジンを造ってみたいという
ことで謙太郎の助言を種々あおいだ。
楢蔵は豊田式織機を半年で退社、大阪の実家に戻
る。謙太郎から貴重なエンジン修理帳をプレゼントさ
れ、さらには父親からの多大なる資金全額援助があっ
た。外国から「英モーターサイクリングマニュアル」
「米
サイエンティフイックアメリカン」の文献を取り寄せ基礎
ピアス号にまたがる少年時代の島津楢蔵。
(12 歳)
研究を開始。また丹金工場の隅を借り、旋盤工や仕上
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工など職人もあてがってもらう。
数人の構成であったが、
エンジンを載せる車体は豊田式織機の倉庫にあった
まさに「島津モーター研究所」設立の瞬間であった。
中古のピアス自転車を 20 円で買って用いた。車体にエ
謙太郎の意見を聞き最初は部品の少ない2サイクル
ンジンが載ったのは夜のことで、石油ランプを点けて試
に着手する。そして「国産エンジン」をめざし当時はすべ
運転をし、近所の警察官も見学するなどしたが、残念
ての部品を製作しなければならなかった。
なのは新聞社などに知られずに終わったことだ。
エンジン排気量はボア・ストローク 76×87.5mm、
棚橋謙太郎にも見てもらったが、結局、次は 4 サイク
396cc、しかしエンジンの格好はできても部品がないと
ルがいいのではということになり、試作 2 号機を製作し
動かすことはできない。点火に必要な乾電池、コイル、
た。世界的に普及しつつあった吸入を自然吸気 OHV、
プラグ類はすべて手造りで、
材料類は京都の五条にあっ
排気をカム駆動 SV 方式にしたフランスのド・ディオン
た山中陶器店に依頼するなど、かけずりまわって調達、
ブートン式を模した直立単気筒、通称Fヘッドと呼ばれ
点火コイルも手で巻いて木箱に入れた。乾電池もマン
る形式だった。
ガン、黒鉛、塩化アンモニアなどで自作した。
車体も自転車のままでは強度面で不安があったため
1908 年8月に設計開始して4 ヵ月、12 月に組み上が
太めの自転車フレームで補強したり、鉄板を丸めてロー
るが、当初は始動しなかった。2 サイクル必須のクラン
付けして製作、タイヤやリムもモーターサイクル用は少な
クケース内圧を高めるようになっていなかったのが要因
かったが、どうにか入手して組み上げた。車名は自分の
だった。吸入はキャブの変わりにガソリンを霧状にする
名前 NarazoShimazu から NS 号とした。丹金工場の
アトマイザーも自作して、クランクケース前部にマウント。
人達と 20 餞でたくさんのやき芋を買って祝った。
時節柄 12 月ということで気温が低く、気化がうまくゆ
棚橋謙太郎も大阪から駆けつけ、試運転に成功し
かなかったが、外周を暖めてようやくエンジンの始動に
て「これなら売れるぞ」といった。これが契機となって
成功したのである。
本格的な量産車の設計に着手、車名も新たにNMC
喜んだ楢蔵は「狂奮」
という詩を作り、感激を表した。
(NipponMotorCycle)号とし、20 台あまりを製作し
たが、当時は輸入車全盛期ゆえに無名の国産車を販売
希望に燃え希望に悩んだ半疑の試し するには骨が折れたという。
青い焔を吐きつゝ とぎれとぎれの爆音たてゝ そうした間にもエンジン関係の仕事を何でもこなして
処女作のエンヂンが産声を挙げた一瞬
いたが、航空機整備をしたことで航空機エンジンの研
全身の血潮は過熱して沸騰したのか
究を開始。所沢飛行場にあったアンザニー型 3 気筒を
常態を失して、
もう大地に足が着かない
範として製作、日本初の航空機エンジンとなる。
廻った廻ったと独言を繰り返しつゝ 自身が廻転す
その後フランスのルノー型 V8を手がけたが試運転
るように 門外へ飛出し、飛出しては戻るのであった
時にベアリング破損でスクラップ化、楢蔵は落胆してエ
嬉しいのではない、初めて味わう驚愕だ
ンジン研究をあきらめかけた。しかし父親に励まされ船
狂奮が 90%で 欣びが 10%位
外機とモーターボートを製作、道頓堀で遊覧船を走ら
不可能の境地から可能の世界へ飛び込んだ気持
せ、また映画用発電機、さらにはコンクリートミキサー車
これを為した者のみ味う大自然の賜であろう
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国産初の二輪車を製作、3年後に量産化。
(21歳)
帝国飛行協会発動機競技1等賞の
エンジン、国産最長時間耐久性を
誇る。
(28歳)
日本初の免許取得、大阪島津自動車学校開校。
(29歳)
自動車学校時代に「逆三輪」
パイオニア号製作。
(30歳)
など開発するなど、資金造りに努めた。
工場閉鎖するに至った。
そして帝国飛行協会発動機製作競技(田中館愛橘、
その後の楢蔵は神戸電気で集魚灯、鉱山帽用ランプ
大熊重信)による航空機エンジンの無制限耐久試験競
などを開発したが、エーロファーストのキャラバン隊の
技があり、星形 9 気筒を製作して出品したところ、見事
時に世話になった松田重次郎(東洋工業初代社長)の
に一等になり 2 万円(現在の 2 億円ほど)の賞金を獲
招きで東洋工業に入社。三輪トラックのキャラバン隊を
得した。この資金により飛行機エンジン会社設立の話
組み拡販に努めた後、大阪出張所所長就任兼新技術
があったが、援助を申し出た事業家達から「時期が早
開発を遂行、販売のかたわら図面を引く日々が続く。
い、自動車学校ではどうか」との進言を得て大阪の豊
戦後、
マツダ三輪トラック用のトラス型フレームを開発
中に島津自動車学校を設立した。
して実用新案を取得。また戦前から研究してきた燃焼
ヤナセから自動車 3 台を購入して整備から運転免許
室形状において、スキッシュエリアを持ちスワール=渦
取得までを教えた。生徒を 300 名ほど送りだしたが、
流効果のある「カマボコ型ヘッド」を考案して特許申請
まだ大阪にすら自動車は 200 台程度で、これも時代に
したが、役所が意味を理解できず却下された。
早過ぎた、という結論に至り廃校する。
この技術は実際には 1950 年代に姫路のサンヨー号
そして大衆の足としては「モーターサイクル」のほうが
に実用化されたが、この技術は GM の技術者も「ロー
いいのでは、ということで 4 サイクル SV 側弁式 600cc
オクタンガソリンで高圧縮が可能。当時から認めてい
エンジンの二輪車を製作、
車名もエーロ
(AERO)
ファー
た」
もので、
今日の自動車エンジンに不可欠のものとなっ
スト(FIRST)号とし、
「航空機エンジンで1等賞」とい
ている。
う意味合いを持たせていた。
島津楢蔵は没する直前まで燃焼室の研究を続けて
試作車を 6 台分製作して内 4 台を企業化の賛同者
自動車用 1500-2000ccV8エンジンを提唱していたが
を得る目的でキャラバン隊を組み鹿児島−東京間を19
実らずに終わった。しかし70 年余の自動車、飛行機、
日で走った。大林組の賛同を得て新会社「日本モーター
船舶エンジンの研究は日本におけるパイオニアそのも
ス製造所」を設立、大阪でエーロファースト号 250cc を
のであるのは、まぎれもない事実なのである。
3 年間で約 500 台あまりを生産したが、赤字が続き、
AERO FIRST
( エーロファースト)
号製作、自宅前にて。
(38歳)
エーロファースト鹿児島−東京完走。ライダーは島津楢蔵、弟の山口銀
三郎、甥の加藤重蔵、丹金工員の千葉秀夫、丹金運転手の戸吹藤二。
(自動車史研究家 小関和夫)
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自動車用ディーゼルエンジンの育ての親
いすゞ自動車株式会社 元専務取締役 伊藤 正男
伊藤 正男( いとう まさお)略歴
1 9 1 1( 明治 4 4 )
年6月 1 5 日生誕
1 9 3 2( 昭和 7)年 3 月 明治専門学校( 現九州工業大学)工学部
機械工学科卒業
1 9 3 2( 昭和7)年 8 月 陸軍運輸部( 広島県宇品)入部
1 9 3 3( 昭和8)年 1 2 月 自動車工業㈱( 1 9 4 9 年いすゞ自動車㈱に社
名変更)入社、研究部に勤務
1 9 4 4( 昭和 1 9 )年 1 月 同社技術部設計第一課長
1 9 5 0( 昭和 2 5 )年 4 月 同社研究部部長
1 9 5 6( 昭和 3 1 )年 6 月 同社取締役
1 9 6 2( 昭和 3 7 )年 6 月 同社常務取締役
1 9 7 0( 昭和 4 5 )年 6 月 同社専務取締役
1 9 7 6( 昭和 5 1 )年 2 月 車体工業㈱取締役会長
1 9 7 9( 昭和 5 4 )年 5 月 同社取締役社長
1 9 8 2( 昭和 5 7 )年 1 月 自動車部品製造㈱取締役社長
1 9 8 4( 昭和 5 9 )年 1 月 同社取締役会長
1 9 8 6( 昭和 6 1 )年 3 月 いすゞ自動車㈱理事
2 0 0 2( 平成 1 4 )年逝去 享年 9 0 歳
22
■事績
1 9 3 6( 昭和 1 1 )年
1 9 3 9( 昭和 1 4 )年
1 9 3 9( 昭和 1 4 )年
1 9 5 2( 昭和 2 7 )年
1 9 5 4( 昭和 2 9 )年
1 9 6 0( 昭和 3 5 )年
1 9 6 1( 昭和 3 6 )年
1 9 6 3( 昭和 3 8 )年
1 9 7 2( 昭和 4 7 )年
1 9 8 2( 昭和 5 7 )年
予燃焼室式 空冷 DA6 型完成
DA1 0 型、DA2 0 型デ ィーゼ ル エ ン ジ ン 完成
予燃焼室式 水冷 DA4 0 型デ ィーゼ ル エ ン ジ ン
完成統制型エ ン ジ ン 指定
日本初の出力向上対策過給機実用化
自動車技術会賞受賞( 自動車用過給デ ィーゼ ル
機関)
日本初のディーゼルエンジン小型商業車エ ル フ
発表
デ ィーゼ ル エ ン ジ ン 乗用車ベ レ ル 発表
日本機械学会賞受賞( デ ィーゼ ル 乗用車量産化
技術)
11 月 「ディーゼル自動車の製造技術の指導育成」
などに対する事績により藍綬褒章受章
4 月 「自動車用ディーゼルエンジンの開発普及、
科学技術の振興」などに関する功績により勲三等
瑞宝章受章
ルドルフ・ディーゼルが1893年に発明したディーゼ
2.いすゞディーゼルエンジンの始まり
ルエンジンは、
1923年にはドイツでトラックに搭載され実
世界レベルに近づくための基 礎 研究は1939年迄
用化した。その10年後から日本国内で伊藤正男氏が
であり、その直後から製品生産のための開発が始まっ
手がけた研究開発は世界のレベルを押し上げ、今に
た。厳しい使用条件を重要視して予燃焼室式を決定
至る迄リードしたと言っても過言ではない。後発の日本
し、統制型への採用競争に勝ち、採用された。
で鋭意改良・開発された予燃焼室式ディーゼルエン
2.1 基礎的な技術の研究から開発へ
ジンは戦前にはすでに世界に知られるレベルにあり、戦
国防上の見地から軍がディーゼルエンジンの研究
後には日本経済復興に大いに寄与した。
開発を促進した時代である。短期間での開発が必須
統 制型 機関として共有化された技 術は、日本の
で、先行していたドイツとイギリスのエンジンの中から参
ディーゼルエンジンの技術を一挙に高め、基盤技術と
考になるタイプを選定、調査するところが最初の一歩で
なった。その先見性、卓見はエンジンのみならず車両
あった。熱負荷の小さい構造で、
「何でも燃やして走ら
開発にも発揮されている。
トラック、バスで実績のあるタ
せる」
といわれた予燃焼室式との組み合わせを選定し
フで経済的なエンジンはキャブオーバー型小型トラック
た。緊急な開発であったにもかかわらず、日本のディー
にも日本で初めて搭載され、流通革命の引き金となっ
ゼルエンジンは第2次世界大戦以前の1941年には既
た。その後も新技術を大胆に適用した直噴式エンジン
に世界の水準に達していた。これをベースにして民需
で排気ガス浄化・低燃費に大きい効果を発揮し、
日本
用にも国が商工省統制型のディーゼルエンジンを制
の商業車の主流となっている。
定して、競争相手である競合メーカーとの協調と競争
伊藤正男氏は1934年から戦後の復興期にかけて
で切磋琢磨させた結果であった。
世界に通じる技術者として、優れたエンジンおよび車
2.2 実用性能を重要視したエンジン開発
両の研究開発に心血を注ぎ、育てたエンジニヤと共に
開発目標は明確だった。燃料消費は少なく、低品質
現在に至る迄のたゆまぬ開発と高品質製品の生産を
燃料でも走れ、寒地での始動ができ、故障が少なく、
主導するリーダーとして自動車技術を高め、
日本の発展
整備し易く、量産、品質確保、などに関しての配慮は不
に大いに貢献した。
可欠だった。これらの要件を考慮して研究開発した結
果、耐久信頼性、実用性に優れ、燃料性状に対して
1.発足直後の自動車会社の自動車技術者に
対応でき、かつ取り扱いやすい予燃焼室式を選び、結
昭和初期の社会情勢下、1932年に得た仕事先
果として、戦後の燃料事情の悪い時にも力を発揮でき
の陸軍運輸部から推薦され、設立されたばかりの自
るエンジンとして高いレベルに完成させた。
動車工業㈱
(後のいすゞ自動車 ㈱)に入社。直 後か
2.3 いすゞディーゼルエンジンの礎 DA40 型
ら社長方針で組織された
「ディーゼル機関研究委員
空冷式から始まったが、次いで、DA40型 5.1リッター
会」に担当者として参画し、獅子奮迅の働きで期待
直列6気筒予燃焼室式水冷エンジンが完成した。予
に応えた。これがまさに日本の自動車用ディーゼルエ
燃焼室を直立させたエンジンは、優れた性能から民需
ンジン発展の起点だった。当時の世界の自動車事情
向けの商工省統制型エンジン指定を勝ち得て、戦後
と、石油の乏しい日本の資源事情を考慮して打ち出し
までわが国の自動車用ディーゼルエンジンの設計標準
た会 社方 針は
「先 進国でも緒についたば
かりのディーゼル車を開発生産する」
と、明
確であった。これを機に、立ち遅れていた
技 術に追いつき追い越 せの熾 烈な開発
競 争が国を挙げて始まった。限られたリ
ソースで、高い目標に向かって着実に新し
い技 術にチャレンジするいすゞの風土はこ
の時に育まれ、今も受け継がれている。
DA4 0型水冷6気筒予燃焼室式エンジン
23
となっていた。固有技術も全面オープンしたので技術
5.2 静かな停止とガソリンに近い瞬間始動
は共有され、その後のエンジンの範、競争相手ともなっ
実験室でエンジンが暴走しだしたとき、伊藤正男氏
た。この技術レベルは、戦後の T Xトラックにも継承さ
が自ら吸入口を素手で遮り止めた事実から静かでス
れる程に完成度は高く、量産型の DA45型以降、使
ムーズな吸気シャッター式のエンジン停止装置が生ま
用条件の厳しい市場では耐久信頼性等で高い評判
れた。また、ガソリン車同等の瞬時始動装置も専門外
を勝ち得て、輸出先でも市場を席巻した。
の研究者のアイデア採り入れを決断した。
5.3 燃焼改善で排気浄化
4.戦後の自動車用ディーゼルエンジン
良い燃焼状態でクリーンな排気、燃費、出力を得る
戦後間もなくの生産再開は困難を極めた。設計図
ために開発した四角い燃焼室は、洗濯機がオリジナル
面はすべて焼却しており、疎開していた生産設備は整
かと言われるほど、常識を覆す発想から生まれた。若い
備が必要で、材料や外注部品の供給もままならなかっ
研究者を後押しして生まれた結果である。
たが、何とか生産再開にこぎつけた後は、日本復興の
5.4 振動騒音押さえ込み 動きとともにディーゼルエンジン搭載のトラック、バスは
特に始動直後のエンジン音、車内での騒音・振動な
急激に需要が伸び、増産、品質確保、性能向上、合
ど、ガソリン車と比較してユーザーからの不満があった。
理化などが急務となった。いすゞのディーゼルエンジン
燃焼の改善、遮音、振動伝達遮断、車体の特性改良
は経済的、耐久信頼性が高いという評価実績をベー
など、新手法を積極的に採り入れて改良し対応した。
スとして、
「ディーゼルエンジン搭載の商業車ではトップ
5.5 その他の基本性能向上
を保ち続ける」ための積極的な商品開発、性能向上を
電子制御、過給、燃料噴射装置改良での出力向上、
切れ目なく続けることの重要性を認識し新技術開発重
燃費改良、振動騒音低減、排気浄化等、多くの実用的
視の姿勢が保たれた。
な改良のために新技術を次々と採用しユーザーの要求
に応えている。その間、生産部門では工作精度、製造技
術を向上させ、著しい品質、信頼性の進歩を得た。
6.進化した技術でトップを維持する
伊藤正男氏が築き上げた技術の伝統は後輩に受
け継がれた。以来、ディーゼルエンジン技術の発展は
著しく、我が国初の本格的量産小型ディーゼルエンジ
ンを生み出すなど、大きな足跡を残している。
6.1 大型商業車用
24
戦後の復興を担ったTX 型5トン積トラック
実績のある予燃焼室式を離れて、1967年頃から直
5.エンジン技術の難題解決
噴式に移行してからも、タフで経済的で強力なエンジ
5.1 耐久信頼性 長寿命化が大命題
ンの伝統を守った。パワーアップには、日本初の出力向
ユーザーが安心して使い続けることができるようにす
上対応過給装置を実用化し、軽量化、耐久性向上、
るための研究は、先ずユーザーの使用状況を調査し、
長寿命化等など、絶えず改良が進められた。
試験方法の開発から始まった。シリンダーの摩耗を小
6.2 小型商業車用高速ディーゼルエンジン
さくしてオイル消費、出力の低下を防ぐために、実際の
伊藤正男氏の決断によるキャブオーバー小型トラッ
使用条件に近い道路 条件に合った砂を選定し輸入
クを全ディーラーの猛反対を押し切り、説得して他社に
しようとしたこともある。想定した使用条件から逸脱した
先駆けて投入し、ロングセラー
「エルフ」が誕生した。そ
ユーザーの使い方や運転方法などについても、実際の
れまでは、ディーゼルエンジン搭載のキャブオーバー小
不具合を検分調査し、試験方法設定、現実的な過回
型トラックは日本には存在しなかった。
転対策などを着実に行っている。
更に、若い技術者の発想を支持した結果、前輪駆
を発揮できる。南極観測隊の発電機動力源は極低温
でも信頼を得て活躍し、冷凍装置用
(サーモキング社
C201)、産業用
(建設機械、農業機械)、船舶用
(救
命艇、
消防艇、小型漁船など)
でも高く評価されている。
初代エルフ(1960年)と
第2代エルフ低床
(1974 年)
7.ディーゼルは経営の柱
「ディーゼルエンジン車でトップを保ち続ける」
という
方針のもと、
「耐久信頼性のいすゞディーゼル」、
「ユー
動の画期的超低床トラックから後輪小径タイヤでフラッ
ザーが儲かる自動車」を旗印として掲げ、世界の市場
ト低荷台が生まれ、
配送車に革命的な変化を起こした。
のニーズに合うクルマ作りを継続して、いすゞ経営の柱
「エルフ死してエンジン残す」
という伝説どおり、今もタイ
となっている。
ではエルフから取り外したクロマードライナーエンジンが
渡し舟などで長生きしており、エンジンの信頼性・長寿
あとがき
命を証明している。その後、燃焼室は渦流室式から、
伊藤正男氏の信条は、
「基本を疎かにしない」、
「周
更に直噴式に驚異的な進化を続けており、長年の連
辺技術を尊重する」、
「 企業内研究は対人関係が重
続トップシェアを継続している。
要」などであった。外部との交流や文献で勉強し、ギリ
ギリまで研究し、研究成果を発表し、より良い外部の知
恵導入も決断するという姿勢は、Ricardo社のエンジ
ン技術、Bosch社の燃料噴射ポンプ、Raystall社の
Chromardliner、Mahle社のピストンなどの採用に
端的に現れている。
鬼より怖い、または心優しい紳士と正反対の評判が
あったが、筋を通し、課題があれば考え抜いて決断し、
ターボ D-CORE(3リッター)
エンジンと第6代エルフ
部下を親身に教育し大切にしたことによる故であろう。
6.3 乗用車用ディーゼ ルエンジン
エンジン品質の要である鋳造工場は熟練の専門技術
ベレル、ベレット、1
1
7、FRジェミニ、FFジェミニと連
を要する厳しい現場である。
「鋳物を制するものはエン
続して搭載したが、1.8リッタージェミニディーゼルは
ジンを制し、エンジンを制するものは車両を制す」
との現
5000r pmまで伸びのある加速感で、当時世界を席
場担当者を激励する書をしたため、碑を残した。
巻していたゴルフディーゼルをしのぐ評価を得た。時
家では家族との時間のあとで勉強し、仕事を片付け、
代のニーズに合ったFFジェミニでは、燃費が良く、ガ
就寝は時には午前4時頃にもなったとご家族から伺っ
ソリン車と差のない使い勝手が大好評だった。電子制
た。明治生まれらしい、自分に厳格で気骨あふれるまじ
御とセラミックス技術を活用した瞬間始動システムは、
めな生き方を貫いた熱血漢で、
まさに「技術に堪能なる
ディーゼル車をより使い易い車にする画期的な開発とし
士君子」
(九州工業大学嘉村記念賞受賞時顕彰文のまま)であった。
て注目され、科学技術長官賞を受賞している。
6.4 ピックアップ(SUV)車用のエンジン
この原稿は、共に開発に携わった方々からの情報を
D-MAXピックアップは、特にタイ国では2.5リッター
基にして編成しました。感謝します。
の直噴ディーゼル車として耐久信頼性、燃費で大好
評であり、洪水時にも使える多目的車として親しまれて
いる。
6.5 その他の多用途向けエンジン
自動車で技術を蓄積したエンジンは多用途に能力
(元
東京工業大学特任教授 北原 孝)
参考資料
・自動車技術会 自動車技術史委員会 1995年、
「自動車技術の歴史に関する調査研究報告書」
・坂上茂樹
「伊藤正男 トップエンジニアと仲間たち」
・いすゞ自動車 いすゞディーゼル技術 50年史
25
“郷に従う”自動車販売の王道を拓く
濱脇 洋二
元 カワサキ・モーターズ・コーポレーション・USA 社長 元 BMW ジャパン初代社長・会長
濱脇洋二( はまわき ようじ)略歴
1 9 2 9( 昭和 4 )年
1 9 5 3( 昭和 2 8 )年
1 9 6 5( 昭和 4 0 )年
1 9 6 6( 昭和 4 1 )年
1 9 7 0( 昭和 4 5 )年
1 9 7 8( 昭和 5 3 )年
1 9 7 9( 昭和 5 4 )年
1 9 8 1( 昭和 5 6 )年
1 9 8 7( 昭和 6 2 )年
26
9 月 2 6 日東京府北多摩郡砧村に生
まれる
東京大学法学部( 旧制)卒業
川崎航空機工業( 株)入社
同社輸出課長
AmericanKawasakiMotors
副社長
KawasakiMotorsCorp.USA社長
川崎重工業( 株)海外事業部長
KawasakiHeavyIndustryUSA
社長
BMWAG経営企画部( 4 − 8 月)
BMWJapanCorp. 社長( 9 月−)
同上、会長
1 9 9 3( 平成 5 )年 日本 DigitalEquipmentCorp.社長
1 9 9 5( 平成 7 )年 同上、会長
1 9 9 7( 平成 9 )年( 社)国際経営者協会会長
2 0 0 5( 平成 1 7 )年 同上、名誉会長
2 0 1 0( 平成 2 2 )年 同上、名誉顧問
公職
1 9 8 3( 昭和 5 8 )年 貿易会議専門委員
1 9 8 9( 平成 元)年 電気通信審議会委員
1 9 9 4( 平成 6 )年 対日投資会議専門委員
賞罰
1 9 6 9( 昭和 4 4 )年 川崎重工業、社長表彰
1 9 8 4( 昭和 5 9 )年 通商産業省、大臣表彰
『ゼロから米国でカワサキを立ち上げた人』として、
現地主義の徹底
濱脇氏はその功績を買われBMWの日本進出を託さ
AKMは当初、ロス郊外の日本人町ガーデナで直販
れた。以下、彼がカワサキとBMWに残した経営の
を開始したが、アメリカ人から見れば、無名のカワサ
軌跡をたどる。
キ、日本人町の違和感、日本型経営の不安などのせい
か、人材が集まらなかった。そこで、イメージを一新す
ネバー・ギブアップ
るため、日本人町を脱出しロスから50キロ離れたアー
1965年初頭、川崎航空機工業(川航)の本社調査
バイン産業団地の一角に米国企業と並び本社社屋を
部係長だった当時35歳の濱脇洋二氏(以下濱脇氏)
建設し、マセック氏が米国型経営の方針を宣伝したと
は上司から内示された課長昇進を辞退する。行先が
ころ、著名な米国企業から人材が続々集まった。その
オートバイの事業部で無かったからである。当時カワ
後、社名もAKMから外来企業風のアメリカンを削除
サキのオートバイ事業は赤字続きで、常務会が事業
しKMC(カワサキ・モーターズ・コーポレーション)
に
撤退の方針を内定したと聞いた濱脇氏は、米国市場
改名した。
に挑戦せずに幕を引くのは断乎として反対だった。
KMCの経営スタイルは競争相手の日本メーカー
上司の機嫌を損ねた濱脇氏は、すぐさま副社長に
に較べかなり米国寄りであった。濱脇氏は出向者に
直訴した。「会社はオートバイ事業から撤退するとい
「KMCの資本は川崎重工業
(川重)であるが、経営は
うが、日本で敗けてもアメリカで勝てば良いではあり
米国人である。今後は社内の会議では英語を原則と
ませんか!ネバー・ギブアップですよ」
重ねて「米国開
し、日本人出向者の職位も給与も米国人並みの能力
拓を私にやらせて下さい」
と自ら手を挙げたのである。
主義にする」
と言い渡した。
現地主義の経営方針はとくに販売面で効果を発揮
ディーラー直販
した。商品企画は市場を知るアメリカ人プロの音頭で
その後、新設の輸出課長を拝命し濱脇氏は直ちに
進められ、さらに販売政策は米国流でディーラーに
一人で訪米、シカゴを訪れ、日本商社の仲介で米国
歓迎された。それが先発の日本メーカーを追い抜くパ
の卸商2社から合わせて3,600台のオートバイの受注
ワーの源泉になったのである。
を得た。ところが半年後、想定外の変化が起きる。一
社の受注分1,200台がキャンセルされ、別の1社に出
荷した2,400台は倉庫で睡眠したままで、販売先の
ディーラーから
「小型車
(80cc)
はアヒル」
、
「大型車
(川
航が買収したメグロの500cc)はロバ」など、
「カワサキ
の車はオートバイとは言えないよ」と嘲笑され、濱脇氏
は零下20度のシカゴでお先真っ暗となった。
失敗は最高の教訓と受け止め、原点に戻った濱脇
氏は、今後は自力本願でやるべし、と決意する。彼は
翌年の1966年3月にまず部品販売の現地法人アメリ
カン・カワサキ・モータース(AKM)
を設立、その後、
AKMをシカゴからロスに移しカリフォルニア州で完
1969 年に設立されたカワサキ・モーターズ・コーポレーション
USA(KMC)
成車のディーラー直販を始めた。
ストリート大型車に進出
人材は現地主義の経営を方針に、ネブラスカ州出
濱脇氏はいずれ米国市場が大型化に移行すると予
身、ハーバード大学院卒のアラン・マセックを支配人
想し、まず500ccストリート車の開発を明石工場に要
に起用、資金は東京銀行ロス支店を説得し東銀リスク
請した。そこで生まれたのが、ユニークな2サイクル3
の支援を取り付け、商品はオートバイ・ショウに出品し
気筒 H1・500ccマッハⅢであり、H2・750ccがこれに
たサムライ250ccが好評だったので初陣を託した。
続く。これらの車種は主にマニアたちに歓迎され、大
27
場はKMCと明石工場との連携により操業され、KZ400、Z1-1000をはじめ、ジェットスキー、ATVなどが
生産されている
米国事業が主役に変貌
濱脇氏がリスクを賭けた北米開拓が功を奏し、カ
ワサキはKMC 開業後7年目に米国市場でスズキを
抜き、9 年目にヤマハを抜き業界第2位となる。10
米国で大ヒットしたカワサキ 900Z1
(1972 年型)
年前、国内では最後尾を拝していた時代とは様変わ
りになった。
型車市場を一時席巻、KMCの売上高を大幅に伸ば
1973年には、カワサキは北米での販売台数が総生
し組織の拡大をもたらしたが、その後カリフォルニア
産台数の半数を占め、オートバイ事業はZ1など大型
州の騒音規制などが主因となって生産中止の止む無
車の拡大で黒字に転じ、利益の源泉は大半をKMC
きに至った。
の販売に依存するようになる。その結果、事業の撤退
これに代わって登場したのが、4サイクル直列4気
話はいつしか霧消してしまったのである。
筒 DOHC900ccのZ1である。Z1はH1/H2に引き続
き、大槻幸雄(工博)のリーダーシップの下、KMCと
そしてBMWジャパン時代
密接な連携を取りながら、明石工場で開発され、カワ
BMWジャパン
(株)
が創立されたのは1981年9月、
サキの旗艦車種となった。米国メディアから『オートバ
当時、日本は輸出拡大で貿易黒字が急増し、欧米と
イの帝王』
として賞賛を浴び、世界中で販売を拡大、
の貿易摩擦を避けるため成品輸入の拡大が要請され
1,000ccクラスのバリエーション車種と共に『Zシリー
ていた。しかし乗用車に関しては、外国車を阻むさま
ズ』は、カワサキの主力車種として現在まで40年を超
ざまな輸入障壁があり、どの欧米メーカーも日本進出
えるロング・ランを続けている。
をためらっていた。
一方、その先端を切ったのはBMWである。まずメー
業界初の米国工場進出
カー直販のBMWジャパン
(株)の社長探しから始め
1973年2月、米国が為替の変動相場制に移行し、
た。日本では適材が見当たらず、BMWは、KMC引
濱脇氏は近い将来に100円/ドルに下落すると警告し
退後、米国川重の社長をしていた濱脇氏に白羽の矢を
米国生産を要請、明石工場は反対したが、四本社長
立てた。BMWの中興の祖、クーンハイム社長(当時)
の英断により米国生産が決定され 2,000万ドルの投
は濱脇氏に「ゼロから事業を立ち上げた人を探してい
資でネブラスカの州都リンカーン市に、川重の米国工
た。米国でカワサキを立ち上げた貴方に日本進出を託
場が1974 年11月に完成した。これは二輪車を含む
したい」と口説いた。濱脇氏は
「成功の鍵は、郷に入れ
日本の自動車業界初の米国生産で、ホンダより5 年
ば郷に従え、です。日本では日本流でやるが、それで
先行、MadeinAmericaの嚆矢となった。 米国工
も宜しいか?」と念を押すと、
「ローマに行けばローマ人
に任せよ、と言う」とクーンハイム社長が応じた。この
一言で濱脇氏は転職を決心したのである。
日本の障壁を乗り越える
BMWジャパンでまず 難渋したのが法規制の壁
だった。当時、国内では排気量が2リッター以下
(5ナン
28
1974 年に完成したリンカーン工場。日本の企業の中でいち早く現地生
産を実現し、カワサキ Z1系モデルだけでも10 万台近くが生産された
バー)
を税制上、優遇していた。従って国内製乗用車
の大半は5ナンバーで、しかも各社は6気筒エンジン
BMW 車の中で、日本市場に初
めて右ハ ンドル が導入された
BMW32 0 i
で性能のしのぎを削っていた。BMW 車は320がこ
る。それに反対なら転業すれば良い!」濱脇氏が半ば
れに該当するが、左ハンドルで日本では売りにくい。一
強引に推し進めた低利ローンによって、その後 BMW
方、英国圏向けの320は右ハンドルであるが、触媒装
の販売は5割増しに伸びた。低金利化は業界の慣行
置がないため日本の排気公害規制をクリアできない。
破りだったが、今日では自動車業界に定着している。
そこで、濱脇氏は首を賭けて本社のクーンハイム社長
を訪ね強談判に及び、かつ役員会にも出席して日本の
“郷に従う”と “郷を変える” 戦略
実情を訴えた結果、社長の決断で日本向けの320を
BMWジャパン時代の濱脇氏の戦略をまとめて言
右ハンドルとし、かつ触媒装置を付けることに決まり、
えば、 “ 郷に従う” と “郷を変える” 戦略を併用した
日本で、5ナンバー・6気筒エンジン・右ハンドルの小
ことである。5ナンバー右ハンドルで法規制に従い、
型車を販売することに漕ぎつけたのである。
永年雇用に中途採用や女性登用を加えて人材を集
日本向け車種の拡大に次いでの難題は流通の壁で
め、異業種ディーラーで流通網を作り上げ、さらに
あった。既存の自動車ディーラーは何処もメーカーご
は低金利ローンの導入で業界の慣行を破る、などを
とに系列化され割り込む余地が無い。そこで濱脇氏
実践して成功を遂げたのである。
はディーラーの自力開発に乗り出した。事業の成功者
その後、BMWはベンツを抜き高級輸入車のナン
であり、土地と、資金と、人望があることを条件に全国
バーワンとなり、創業10年目の1990年にはディー
を行脚し、異業種から候補者を口説いたのである。立
ラー店舗数は120店を越え、販売は初年度の10倍余
地、店舗、人材に至るまで、BMWジャパンがディー
(36,500台)
を達成している。
ラーの身代わりになり世話をした。手間が掛かった
が、結果としてはBMWのCIが一貫した専業ディーラー
結び
を開発できたばかりか、オーナーとの信頼関係を築く
濱脇氏は自ら手を挙げアメリカ市場に挑戦、米国
ことができた。創業後3年目にはディーラー店舗数は
カワサキの創業社長として12 年にわたり活躍、大型
60店を越え、販売は初期の目標1万台を達成したの
車市場ではトップに登りつめ、川重のオートバイ事業
である。
を撤退の危機から逆転成功をもたらし、かつ業界初
の米国生産に進出した。次いで輸入障壁の多い日本
低利ローンの導入
市場で、BMWジャパンの初代社長/会長として12
数々の前例を覆してきた濱脇氏が残した中でも最も
年間、BMWを輸入車ナンバーワンに押し上げた。彼
偉大な功績は
『業界破りの低利ローン』である。パイゼ
の足跡はサラリーマンでありながら
「社内起業家」
とし
ン専務の協力で、当時、住宅並み
(年利18%)
だった自
ての経歴であり、同時に日本企業の海外進出と外国
動車のローン金利の超低利化に踏み込んだのである。
企業の日本進出の双方を、現地主義経営をベースに
濱脇氏はまずディーラー会議でローン手数料の削
ユニークな戦略を加え、いずれも成功させた、稀有な
除を提案したところ、全員の猛反対に押し返された
が、彼は怯まなかった。
「皆さんは一体、高利貸か?自
動車屋か?私はもっと車を売って儲けよう、と言ってい
「異文化経営者」
のモデルである、と言っても良い。
(日本自動車殿堂・会員 小林謙一)
29
本邦自動車史黎明期の解明と考証
佐々木 烈
自動車歴史考証家 佐々木 烈( ささき いさお)略歴
30
1 9 2 9( 昭和 4)年 3月7 日新潟県佐渡郡佐和田町沢根に生まれる
1 9 3 5( 昭和 1 0)年
父米穀商倒産。東京市向島区吾嬬町に転居
1 9 4 1( 昭和 1 6)年 3月 小学校卒業。府立第七中学校夜間部に入学
1 9 4 5( 昭和 2 0)年 2月 終戦直後父病死。運送店就職
1 9 5 0( 昭和 2 5)年 4月 慶応義塾外国語学校英語科入学
1 9 5 2( 昭和 2 7)年 6月 自動車運転免許取得
1 9 5 3( 昭和 2 8)年 3月 慶応義塾外国語学校英語科卒業
1 9 6 1( 昭和 3 6)年
佐々木梱包興業自営
1 9 6 8( 昭和 4 3)年
運転手事故による賠償で、自営業廃業
1 9 6 8( 昭和 4 3)年
国際自動車(株)入社。有楽町(営)勤務
1 9 7 1( 昭和 4 6)年 6月「 東覚寺」で社内報文芸賞
労働組合中央委員、支部長、中央委員会議長
1 9 7 7( 昭和 5 2)年 7月「 私の東京案内」で社内報特別賞
漫才師・横山やすし暴言問題に強い関心抱く
1 9 8 0( 昭和 5 5)年 1 1 月『 街道筋に生きた男たち』
( 綜合出版センター)
1 9 8 5( 昭和 6 0)年 6月『 ザ・運転士』
( 綜合出版センター)
1 9 8 8( 昭和 6 3)年 8月『 車社会その先駆者たち』
(㈱ 理想社)
「明治村通信」に「タクシー創業史」連載
1989( 平成 元)年 3月 国際ハイヤー(株)定年退職。以降研究本格化
1990(平成 2)年 8月〜1991年03月まで
「明治村通信」に「本邦最初の自動車販売店
モーター商会について」連載
1992(平成 4)年3〜12月
日刊自動車新聞に「抄録明治の輸入車」連載
以降、
「軽自動車情報」、
「月刊佐渡國」、
「トラモンド」などに研究成果を連載
1994(平成 6)年 4月『明治の輸入車』
( 日刊自動車新聞)
自動車文化研究所から「中尾自動車工業史奨
学金」受賞
1999(平成11 )年 1月『 佐渡の自動車』
(㈱郷土出版社)
2004(平成16 )年 3月『 日本自動車史』
( 三樹書房)
2005( 平成17)年 5月『 日本自動車史Ⅱ』
( 三樹書房)
2012(平成24 )年 6月『 日本自動車史写真・史料集』
( 三樹書房)
2013( 平成25)年 2月『 日本自動車史都道府県別乗合自動車の誕生
写真・史料集』
(三樹書房)
佐々木烈氏は、昭和 52 年から今日に至る 37 年間、
すしの暴言は、その土台の上に発したものである。今日
自動車史黎明期における明治・大正・昭和戦前期にお
のハイ・タクのプロドライバーの社会的役割は、極めて
ける全国新聞記事、
内外雑誌記事、
官報、
会社登記簿、
大きいのであるが、果たして、かっての域から脱皮して
自動車関係法令、各種統計等々を主軸とし、更に各地
いるだろうか。
における関係者及び遺族等の取材を併せ、資料・情報
氏は、前者において、同業としてのハイ・タク運転士
の収集と考証に、懸命な努力を継続してこられた。 の視点から、
その担い手の役割と歴史を論じ、後者で、
その結果、
『日本自動車史稿』
を中心とするこれまでの
現在の運転手の生活を『ザ・運転士』にまとめた。ハン
自動車史に、新たな解明・修正補完をなされたことは、
ドルを握って 16 年、その経験・見聞の記述に、自動車
氏のご努力の成果であり、
斯界への大きな貢献である。
史の事績が詳しく織り込まれ、興味溢れる著作である。
ここでは、
これまでにおける氏の調査研究の展開を、
その歩みが集約された氏の著作を追って、ご紹介する
『車社会その先駆者たち』(昭和 63)
ことにする。
〜自動車先駆者の研究に展開〜
今日における自動車王国日本の明治・大正期は、苦
『街道筋に生きた男たち』(昭和 55)
難にみちた草創期であった。
その中にあって懸命の努力
『ザ・運転士』(昭和 60)
を続けた先駆者たちの足跡を調査する為に、佐々木烈
〜江戸明治期における道路交通担い手の研究〜
氏は、新聞・雑誌記事収集、官報、自動車関係企業の
昭和 52 年、タクシー運転手に対する漫才師・横山
登記簿調査及び関係者の訪問取材を、休暇を利用して
やすしの暴言問題が発生した。佐々木氏は、この暴言へ
懸命に続けた。
の怒りと疑問を起点として、江戸・明治期における道路
その調査対象は、実に広域である。明治 31 年、我が
交通の担い手について研究を志した。
その根底に、
ハイ
・
国に自動車初到来以降、自動車の輸入販売、製作、自
タク運転士としてのプライドが強く存在したのである。氏
動車営業取締規則制定、乗合自動車、ハイヤー・タク
は、多忙な勤務の傍ら、国会図書館を拠りどころに、資
シー、貨物自動車の営業、そして、プロ運転士の登場、
料調査・研究を続けた。
自動車学校、運転免許試験等々。自動車の社会的活用
氏は、わが国における交通史の中で、交通労働者を
をめぐる広範な分野における関係者の群像を追い求め、
取り扱った研究が極めて少ないことを嘆じている。
更に、
その業績を解明した。
駕籠かき、御者、馬丁、車夫などが、江戸・明治時代に
この著作は、これまでの研究視点を更に展開し、本
おける道路交通を担う重要な存在であったにも拘わら
邦自動車史黎明期の解明に努めた佐々木氏の、この時
ず、雲助、車夫馬丁の輩などと蔑視されてきた。横山や
期における成果である。
道路交通の担い手の
社会的役割について
まとめた『 街道筋に
生きた男たち』
自動車の社会的活用を
めぐる様々な分野の関
係者に取材をした『車
社会その先駆者たち』
31
『明治の輸入車』(平成 6)
〜退職により、全力挙げての調査研究に発展〜
平成元年、氏は、22 年間勤めた国際ハイヤー ㈱を
退職した。日本自動車輸入組合理事長の梁瀬次郎氏
は、本書への寄稿の中で、
「明日からは毎日、自分の時
間のすべてを使って国会図書館に通える。好きな研究
に没頭できる。
そう思うと、嬉しさの方が大きかった」
と、
佐々木氏の喜びを紹介している。 以後、氏は全力を挙げて、国会図書館を中心に資料
調査収集及び各地の取材に努めた。殊に、官報及び自
動車関係企業の登記簿調査は貴重である。
明治期の自動車史は、輸入車の歴史であり、そして、
輸入業者、購入者に関連する。氏は、明治期に輸入さ
ひたすら、調査に専念する佐々木烈氏
れた 39 車種についての検証を重ねた。
『日本自動車史』(平成 16)、
氏は、
これらの研究を進めながら、
「明治村通信」、
「軽
『日本自動車史Ⅱ』(平成 17)
自動車情報」に発表を続けた。本書は、平成5年、40
〜全国的な資料及び情報収集への展開〜
回にわたり日刊自動車新聞に連載した「抄録明治の輸
前者『日本自動車史』のサブタイトルには「日本の自
入車」をベースに纏めたものである。
動車発展に貢献した先駆者の軌跡」とある。内容は、日
ことに黎明期に関する自動車史では、古老の回顧
本初の自動車技師、自動車販売店主、国産自動車製作
談、それに基づく推測などが多く、改めて調査・修正す
者、乗合自動車、タクシーなど事業者等の事績を中心
べき事項がすこぶる多かった。自動車 100 年という記
に叙述。併せて関税、自動車税についても論述してい
念する日が来る迄に、ぜひ修正しておきたいとの氏の熱
る。これらは、平成元年から14 年にかけて、
「日刊自動
意と努力には、深く敬意を表するものである。
車新聞」、
「明治村通信」、
「軽自動車情報」、
「国立科
学博物館記念誌」に連載、寄稿したものをベースに、更
に稿を新たにしたものである。
後者『日本自動車史Ⅱ』のサブタイトルは「日本の自
動車関連産業の誕生とその展開」である。
先ず、自動車の前史である人動車から木炭自動車ま
でを取り上げた。享保 14 年(1729)に製作された陸船
車なる人動車から、昭和 19 年(1944)考案された「高
32
執筆活動に専念し、日刊自動車新聞の連載をベースに上梓し
た『 明治の輸入車』
国会図書館を中心に資料収集及び各地の取材に努めた氏の集大成
ともいえる『 日本自動車史』
『 日本自動車史Ⅱ』
今後の自動車史研究者の一助になればと、両書で15 0 0点を超える膨大な資料を編纂した『 日本自動車史 写真・史料集』
(左)
『 日本自動車史
都道府県別乗合自動車の誕生 写真・史料集』
(右)
機式B型圧縮瓦斯機」
に至る200年に亘る事績である。
品など、また、自動車関係の発明特許や実用新案公告
その全容は、数々の国産自動車製造に発して、軍用自
も収めている。
動車、
トラック、消防自動車、木炭自動車、瓦斯発生器、
後者は、前記日刊自動車新聞「車笛」欄に連載した
国産タイヤ等々の生産。道路、道路交通、ガソリンスタ
「都道府県最初の乗合自動車」を基礎にしたものであ
ンド、自動車学校。そして、各種法制、特許、保険等々、
る。特に、日本における自動車の全国的発展は、各県で
幅広い観点から叙述したものである。何れも、氏が懸
展開した乗合自動車事業が基礎をなしているので、交
命に収集した広範な資料、そして、各地における親族を
通史研究上すこぶる参考になる。また、
「はじめに」及び
始め関係者を訪ねての事績発掘によるものである。
「まとめ」に、
これまで続けてこられた調査方法、
そして、
この両者によって、草創期における自動車史の事績
もろもろの感想を述べておられ、感銘をうける。
が更に明確になっていることは注目に値する。
この両者は、今後における日本自動車史の研究のた
め、実に貴重な基礎資料として大きく寄与することが期
『日本自動車史 写真・史料集』(平成 24)
待される。
『日本自動車史 都道府県別乗合自動車の誕生
写真・史料集』(平成 25)
研究活動を支えた夫人の功
〜これまで収集した写真・史料の提供〜
本邦自動車史草創期における実態解明に、努めてこ
氏は『日本自動車史Ⅰ・Ⅱ』刊行後、平成 18 年7月か
られた氏の成果は、
殿堂入りに実に相応しいものと考え
ら4年間、日刊自動車新聞連載の「都道府県最初の乗
る。この氏に対する敬意と共に、我々は、氏の研究の土
合自動車」の取材で全国を回り、更なる資料の収集を
台を支えてこられた夫人のご協力を忘れてはならない。
重ねた。併せて、
これまでの著書のなかに収め得なかっ
氏の研究に費やされた時間と経費は、誰からも与え
た写真や史料の数々が、今後の研究者にとって参考
られたものではない。
になることを痛感した氏は、これから日本自動車史を
氏は『ザ・運転士』のなかで、特に一節を割き、夫人
研究される方の一助になればと、本書出版の運びと
への感謝を述べているが、
「・・・私を、今日まで精神的
なった。
にも、経済的にも女房はしっかりと支えてきてくれた」の
その時代範囲は、明治 28 年から昭和3年まで 33
行は、私どもの胸を打つ。
年間に及ぶもので、我が国における自動車産業草創期
表現は、穏やかなものであるが、長い歳月である。
の写真及び史料 1,300 点が収められている。その内容
この夫人があってこそ、氏の研究に華が咲いたものと
は、各種自動車、運転手、自動車学校、自動車専用道
いえよう。
路ガソリンスタンド、石油会社、タイヤ、泥除け器、付属
(自動車史研究会会員 齊藤俊彦)
33
2014日本自動車殿堂 歴史車
2014
Historic Car
of Japan
日本の自動車の歴史に優れた足跡を残した名車を選定し
日本自動車殿堂に登録して永く伝承します
Cars that blazed the trail in the history of Japanese automobiles are selected,
registered at the Hal of Fame and are to be widely conveyed to the next generation.
いすゞ117クーペ
ISUZU 117 COUPÉ
イタリアのカロッツェリア・ギア社により、美しくデザインされたいすゞ117 クーペは、
日伊合作による開発方式の成功例のひとつであり、
この手法は日本の
自動車開発に大きな影響を与えた。その後、
いすゞ117 クーペは基本スタイリングは変わらず 12 年間にわたって生産されたのである。
いすゞ 117クーペ(1968年)主要諸元
全
長 4,280mm
型
全
幅 1,600mm
エ ン ジ ン 型 式 G161
式 PA90
全
高 1,320mm
駆 動 方 式 FR
ホイールベース 2,500mm
エ ン ジ ン 水冷直列4気筒DOHC
ト レ ッ ド 前 1,325mm
ボア×ストローク 82mm×75mm
後 1,310mm
総 排 気 量 1584cc
車 両 重 量 1,050kg
圧
乗 車 定 員 4名
最 高 出 力 120ps/6,400rpm
最 高 速 度
200km/h
縮
比 10.3
最 大 ト ル ク 14.5kg・m/ 5,000rpm
(ファイナルギア比3.727)
最小 回 転半 径 5.2m
50
登 坂 能 力 sinθ0.437
変
タイヤ サ イズ 6.45H-14-4PR
価
速
機 前進4段オールシンクロ
格 1,720,000円
いすゞ117クーペの原型となった写真の「ISUZU117SPORT」は、
1966年3月にジュネーブショーで発表された。
ヨーロッパ車を思わせるインテリアは、当時の日本でも大流行し、欧州
調のデザインの導入は、
その後のいすゞ乗用車の特徴となった。
エンジンは、直列 4 気筒 1584cc の DOHC エンジン搭載し、最高出
力は 120 馬力を発生。0-400m 加速 16.8 秒、最高速度は 200km/h
という高性能を誇り、
レースなどにも転用された。
いすゞ自動車は、我が国の自動車製造においても
■当初はハンドメイドで生産された
最古の歴史を持つ自動車メーカーである。明治以前
いすゞ117クーペ
に設立された石川島造船所など数社をルーツとし、
117 クーペの原型となるプロトタイプは、1966 年
戦後の 1949 年(昭和 24 年)に社名をヂーゼル自
(昭和 41 年)に完成し、すぐにジュネーブ・モーター
動車工業から、いすゞ自動車に変更して、本格的に乗
ショーに出展されてコンクール・デレガンスで見事優
用車事業へ参入、当初は英国のルーツ社と提携を結
勝を果たした。またイタリアの国際自動車デザイン・
び、ヒルマンを国産化して他の乗用車メーカーに対抗
ビエンナーレにおいても名誉大賞を受賞するなど
した。
華々しいデビューとなった。
その後、急速に自動車に関する技術を習得したい
同年 10 月には、東京モーターショーにおいて、フ
すゞ技術陣は、独自で開発したべレルを 1962 年(昭
ローリアンとともに「いすゞ117スポーツ」という名称
和 37 年)に発表、翌年には本格的な小型乗用車の
で展示されたが、ファンからの予想をはるかに超える
ベレットを世に送り出している。このべレルとベレット
人気に押され、開発コード番号そのままのいすゞ 117
の中間クラスのファミリーセダンとして開発が決まっ
クーペと名づけられ、量産することになった。ただし、
たのが、1966 年(昭和 41 年)の東京モーターショー
その美しいデザインを守るため、製造の初期段階は
で「いすゞ117」としてデビューしたフローリアンで
手作業でおこなわれ、1968 年(昭和 43 年)に発売
あった。
されたハンドメイドモデルと呼ばれた初期型は月産で
当時の日本は、クルマのデザインを日産自動車は
50 台ほどであったという。
ピニンファリーナ、東洋工業はベルトーネ、日野自動
1970 年(昭和 45 年)には日本初となる電子制御
車はミケロッティなど、イタリアのデザイナーに依頼す
の燃料噴射装置が装着され、1973 年(昭和 48 年)
る手法が多く取られており、乗用車メーカーとしては
にはオートマチックモデルが投入されるなど、
117クー
後発のいすゞも、
フローリアンのデザインをカロッツェ
ペは時代の要請に応じた改良が施されていった。
リア・ギア社に発注した。このいすゞとカロッツェリア・
1975 年 ( 昭和 50 年 ) の厳しい排ガス規制にも適合
ギア社との提携関係が大きなきっかけとなって、一台
し、1977 年(昭和 52 年)には角型ヘッドライトにマ
のスポーツカーの開発がスタートするのである。この
イナーチェンジされるが、1981 年(昭和 56 年)にい
クルマを担当したのは、ギア社のジョルジェット・ジウ
すゞピアッツァが登場。8 万 6192 台が世に送り出さ
ジアーロであった。ジウジアーロはその後、VW ゴル
れ、約 12 年にわたった117クーペの生産は終了した。
フやフィアットパンダなどの世界の名車を担当し、そ
の名声を高めたデザイナーである。
(日本自動車殿堂会員 小林謙一)
51
2014∼2015
CAR OF THE YEAR
日本自動車殿堂 カーオブザイヤー
スズキ ハスラー
SUZUKI HUSTLER
この年次に発表された国産乗用車のなかで
最も優れた乗用車として
スズキ ハスラーが選定されました
軽自動車の新ジャンル設計思想の創生
新たな制御系による低燃費技術の進化
クラスを超えたスポーツ性と優れた利便性
数々の優れた特徴をそなえた車です
ここに表記の称号を贈り
開発グループの栄誉をたたえ表彰致します
72
2014∼2015
IMPORT CAR OF THE YEAR
日本自動車殿堂 インポートカーオブザイヤー
メルセデス・ベンツ Cクラス
Mercedes-Benz C-Class
この年次に発表された輸入乗用車のなかで
最も優れた乗用車として
メルセデス・ベンツ Cクラス が選定されました
自動車の基本技術の更なる進化
高剛性ボディによる優れた運動性能
高レベルの予防安全技術を標準装備
数々の優れた特徴をそなえた車です
ここに表記の称号を贈り
インポーターの栄誉をたたえ表彰致します
73
2014∼2015
CAR DESIGN OF THE YEAR
日本自動車殿堂 カーデザインオブザイヤー
BMW i8
BMW i8
この年次に発表された国産乗用車・輸入乗用車のなかで
最も優れたデザインの車として
BMW i8 が選定されました
近未来的な進化したスポーツPHVデザイン
サスティナビリティを主張する空力特性ボディ
新素材と機能を融合したインテリア
数々の優れた特徴をそなえた車です
ここに表記の称号を贈り
デザイングループの栄誉をたたえ表彰致します
74
2014∼2015
CAR TECHNOLOGY OF THE YEAR
日本自動車殿堂 カーテクノロジーオブザイヤー
マツダ デミオSKYACTIV-D 1.5
MAZDA DEMIO SKYACTIV-D 1. 5
この年次に発表された国産乗用車・輸入乗用車のなかで
最も優れた技術として
マツダ デミオSKYACTIV-D 1.5が選定されました
革新的なスカイアクティブ テクノロジー 小型ディーゼルターボの卓越した性能と低燃費
進化した危険認知と衝突回避などの予防安全
数々の優れた特徴をそなえています
ここに表記の称号を贈り
開発グループの栄誉をたたえ表彰致します
75