文部科学省科学研究費基盤研究(B) 「コンテンポラリーダンスの美学と制度の分析」 (課題番号 22320029) 研究成果報告書 研究代表者 貫 成人(専修大学・教授) 目次 文字資料 はじめに (B) 研究論文 1、美学的研究 5 14 25 32 2、制度的研究 41 44 ―― 46 3 57 ヒアリング報告(実施日程順) 65 66 68 70 John Ashford 71 Kwong Wai-lap 73 75 76 77 Gaby Aldor 79 80 研究集会報告 83 84 85 88 91 Julie Ann Stanzak 舞踊公演数調査 101 映像資料テロップ 104 映像資料 2 94 2 はじめに:文部科学省科学研究費基盤研究(B) 「コンテンポラリーダンスの美学と制度の分析」について 本研究報告書は、平成 22 年度(2010 年度) から 24 年度(12 年度)までの三年間にわたっ ておこなわれた、文部科学省科学研究費基盤研 究(B)「 コンテンポラリーダンスの美学と制度の 分析」(課題番号:22320029)の報告である。 劇場や助成金、文化政策など、国内外のコン テンポラリーダンスをとりまく諸制度と、その なかで登場するコンテンポラリーダンス作品が もつ美学的特徴をあきらかにすることを目的と した本研究においては、 ①各地の制度整備を反映した舞踊公演数調査、 ②舞踊公演に関わる、国内外の国、助成団体、 劇場などの制度当事者へのヒアリング、 ③各地の舞踊の歴史的展開、舞踊以外の諸ジャ ンルとの比較、美学や芸術論、哲学、心理学な どの諸理論、さらにまた、ダンサーや音楽家、 照明家などの実演家との対話などをふまえた、 コンテンポラリーダンスの美学的研究、 を各研究分担者が個人、また、共同で、おこな った。 その成果は、初年度から最終年度にいたる三 年間に六回にわたる、国内・国際研究集会、HP、 ならびにその間、発表された諸論文によって公 表された。本報告書は、各研究分担者の論文、 ヒアリングやシンポジウムの記録、舞踊公演数 調査結果報告のほか、コンテンポラリーダンス というジャンルを研究する上では必須のツール である映像資料によるシンポジウム記録を収録 するものである。 ズ近藤良平氏、BATIK 主宰黒田育世氏、音楽家 松本じろ氏、照明家坂本明浩氏、ダンサー田上 和佳奈氏、ヴッパタール舞踊団ジュリー・アン・ スタンザック(Julie Ann Stanzak)氏、アルド ール氏をご紹介下さったイスラエル大使館の内 田由紀氏、スペイン語の通訳をしてくださった お茶の水女子大学助教中野裕孝氏には、こころ からお礼を申し上げます。その都度のシンポジ ウムで会場設営、受付などの補助をしてくださ り、とりわけ、一年 3 万件にもおよぶ気の遠く なるような数のドイツ語データを入力するとい うシジュフォスのような労苦をお引き受け下さ ったアルバイトの方々にもお礼の言葉がありま せん。ありがとうございました。 本共同研究の成果が公にされることによっ て、コンテンポラリーダンスに関する理解が深 まって、より広く享受されるものとなり、また、 その実演者や制作者の方々の環境がすこしでも 改善されることを祈ります。 なお、本研究について、ひろくご批判、ご叱 正をいただければ幸いです。 平成 25 年 3 月 貫 成人 本共同研究の研究組織は以下の通りである。 研究代表者:貫 成人 研究分担者:尼ヶ崎 彬 副島博彦 石渕 聡 丹羽晴美 島津 京 荒谷大輔 研究協力者:岡見さえ 調査にご協力いただき、また、お力添えをい ただいたすべての方々に、この場を借りてお礼 を申し上げます。とりわけ、横浜ダンスコレク ションに来日した海外ディレクターへのヒアリ ングの機会を設けて下さった石川洵氏、前回の 科研費調査以来、当方で欠損した号のコピーを 快く承諾して下さった『週刊オン☆ステージ新 聞』編集長の谷孝子氏、ヒアリングやシンポジ ウムなど、度重なるお願いに快く応じて下さり、 数々の貴重なお話をしていただいた元文化庁長 官植木浩氏、セゾン財団の片山正夫氏、九州大 学教授河野俊行氏、アン・クリエイティブ盛裕 花氏、コンドルズプロデューサーの勝山康晴氏、 元日本文化財団柴田明氏、多くの国内外のディ レクターの方々、また、研究集会においてさま ざまな実演をお引き受けいただいた、コンドル http://www.cdr-net.com/index.html 1 研究論文1 美学的研究 隠喩としての身体 ――コンテンポラリーダンスと情 動 ―― 尼ヶ崎 序 彬 を借りれば「人間の経験を深めること」 (deepening human experience)である(注 1)。 後者の代表的作家として、 「暗黒舞踏」を創 造した土方巽と「タンツテアター」を再創造 したピナ・バウシュとをあげることができる。 この二人が 20 世紀後半においてとりわけ独 創的な舞踊家であったことは多くの人が認め るだろう。それも新しさを追いかけていたら たまたま風変わりなものができたということ ではなく、二人とも自分が「やりたいこと」 を明確に把握しており、意識的にそれを達成 しようと努力し、そのために新しい身体利用 の方法を発明し、その方法を反復して使用し た結果、それらはクラシック・バレエやモダ ンダンスに並ぶダンスの新しい様式(スタイ ル)として世界から認められたのである。 暗黒舞踏とピナ・バウシュの作品は、外見 上の大きな違いにもかかわらず、観客にとっ ていくつかの共通点がある。第一に、従来の 演劇や舞踊を見馴れた者にとって、いずれも 理解が困難だということである。いったい何 をやっているのか、何を表現しているのか、 何を伝えたいのか、既知の舞台芸術の見方で はわからず、途方にくれてしまうのだ。第二 に、にもかかわらず、それらの舞台はしばし ば観客の心に深く突き刺さり、ときには感動 と言ってよいような経験を与えることである。 それも「これは芸術でしか得られない」と思 わせるような経験を。これはいったいどうい うことだろうか。 芸術作品に対して、とりわけ 20 世紀の芸 術に対して、 「わからない」という言葉が発せ られることは珍しくない。ではこの「わから ない」とは何を意味しているのだろうか。た とえば暗号が「わからない」と言う場合、二 つの意味がある。ひとつは暗号の意味すると ころが「わからない」という場合であり、こ れは発信者が伝えようとしている内容が理解 できないということである。もうひとつは暗 号解読の方法が「わからない」と言う場合で あり、これは理解に至る方法を持っていない ということである。多くの場合観客は内容が 理解できない、ひらたく言えば「言いたいこ ダンス概念の革新――舞踏とピ ナ・バウシュ 20 世紀の前半、モダンダンスは西洋のダン スを革新しただけでなく、ダンスについての 新しい概念を創造して世界に影響を与えた。 その代表者はマーサ・グラハムであり、彼女 がダンス界に提出した新しい概念は「表現」 である。20 世紀後半にもまたポスト・モダン ダンスをはじめさまざまなダンスが「創造」 され、新しい概念が提示された。それらは一 括りにできないほど多用であるけれども、二 つに大別できるように思われる。一つはダン ス史という文脈(バレエなどの前近代からモ ダンダンスなどの近代へ)を踏まえ、それ以 前のダンスを否定する形で構想されたもの。 言い換えれば 20 世紀芸術の各分野で行われ た芸術ジャンルの自己批評(反省)としての 様式革新(前衛芸術)をダンス分野で行った ものである。もう一つは舞踊家が自分のやり たいことが従来のダンス形式ではできないた め、結果的に新しいやり方を発明してしまっ たもの。言い換えれば作家の内的必然性から 生れた創造である。 両者の作家はともに過去の様式を無視して いるわけではない。前者は否定するために過 去の様式を参照するし、後者は過去の資産が 自分の目的に利用できるかどうか一通り調べ てみるからだ。しかし両者の観客は大きく違 う。前者の観客はダンスの(あるいは美術で も音楽でも)歴史を知らなければ、新しい作 品のどこが面白いのかわからない。芸術ジャ ンルの自己批評としての新様式はその芸術ジ ャンルの歴史(あるいは系譜)を文脈として 成立しているからである。一方、後者の観客 にそのような知識は求められない。むしろ「芸 術とはこういうものだ」という先入観を持た ず、白紙で対面するほうがよい。前者が観客 に与えるものが「新しい芸術」の面白さであ るとすれば、後者が与えるのは人生について の特異な経験である。ヴッパタール舞踊団員 であるジュリー・アン・スタンザックの言葉 5 と」がわからないという意味で「わからない」 というのだが、じつはそれ以前に理解のため の方法を持っていないのである。硬く言えば 新しい芸術様式に適用可能な認識枠組を習得 していないのであり、ひらたく言えば「見方」 がわからないのである。 ではダンスの場合「わかる」とはどういう ことだろうか。それは既知のダンスから学ん だ認識の枠組(見方)を新しい舞台にあては めて、そこにさまざまな意味や価値を見出す ことである。それではダンスを見るさいの認 識の枠組とはどのようなものだろうか。 まずダンスのジャンルの判別がある。これ はバレエであるとか、盆踊りであるとか。次 にジャンルに応じた認識の枠組がある。たと えばバレエであれば物語を踏まえた役柄とか 筋書きとか。盆踊りであれば踊っているのが 知り合いかそうでないかとか。さらにダンス そのもの、つまり動き(ムーブメント)にも ジャンルごとに認識の枠組(注目すべき要素) が違う。バレエであれば回転とかジャンプと かの大技が抜きんでているか、バランスや安 定性はどうかといった技術面があり、しぐさ やポーズが優雅かかわいいかといった相貌的 印象がある。この相貌には生得的な身体特徴 (容姿)も影響する。ヒップホップであれば アクロバット的な身体操作や動きの切れのよ さが注目されるだろうし、タップダンスなら 観客を引き込むようなリズム感が期待される かもしれない。さらにバレエや日本舞踊のよ うに特定の役名が与えられている場合には、 どのような人格を演じているか、またそれに ふさわしい雰囲気をかもしだしているかとい ったことも見られるだろう。私たちはこのよ うな何重もの認識の枠組をあてはめてダンス を見、そして理解し、評価するのである。 暗黒舞踏もピナ・バウシュの作品も(とり わけ前期のものは)これらの認識の枠組がう まく適用できない。まず人々の見馴れたダン スらしい動きがないか、あるいは少ない。し かもアクロバット的な回転とかジャンプとい ったわかりやすい技巧もない。舞踏家もヴッ パタール舞踊団のメンバーも日々身体的訓練 を重ねており、決してアマチュアの素朴な身 体ではないのだが、従来の見方ではうまく認 識・評価できないのである。けれどもそこに は身体の相貌と演技はある。暗黒舞踏の場合 は異形と言ってもいい身体の相貌があり、ピ ナ・バウシュのダンサーには逆に見馴れた現 代人の相貌がある。さらにピナ・バウシュの 場合は演技さえある。コントのような短い演 技ピースが次々と展開されていくのだ。ただ し、それがどんな物語なのかはわからない。 あるいはそれが何を再現しているシーンなの かさえわからない。むしろ夢の中の光景のよ うに、現実にはありえないほど奇妙な、それ でいてなつかしいような振舞いがコラージュ されていくだけだ。これはいったいダンスな のか演技なのか。だがそもそも舞台上のある 振舞いを「演技」と呼ぶための条件は何なの か。 「ダンス」と「演技」とは両立不可能なも のなのか。それとも両者は根底において一致 するのか。ひょっとしたら暗黒舞踏とピナ・ バウシュ作品の身体パフォーマンスは、新し いダンスであると同時に新しい演技なのかも しれない。とすれば、これらを「ダンス」と いう認識枠組だけで語ろうとしてきたこれま での研究には見落としがあるかもしれない。 私たちは新しい「ダンス」について語るため にも、 「演技」というものについてもう一度考 察をしなければならないと思われる。 コンテンポラリー・ダンスを分析するため の視点はいくつもあるだろう。しかしここで は「演技」を再考するところから暗黒舞踏と ピナ・バウシュにアプローチしてみよう。 1 演技術とレトリック まず演劇において演技とは一般的にどうい うものかという基本の反省から始めよう。演 技というのは、役者Aが戯曲の登場人物Bと 見えるように振る舞うことである。ただしそ れは常に、設定された状況に対してあるキャ ラクターがいかに反応しているのかという形 で行われる。演ずべきことがらは多岐にわた るが、観客に伝えるべき演技内容は主に三つ ある。第一に B が何者であるのか。つまりそ のキャラクターは男なのか女なのか、老人か 若者か、王子か農民かといった人物設定であ る(このキャラクターは古典劇においては類 型であり、近代劇においては個性をもつ個人 となるが、ここでは立ち入らない)。これは台 詞や衣装などでも示される。 第二にBが何をしているのか。これは設定 された状況に対してどう反応しているのかで あり、行為の意味と言ってもよい。たとえば、 ただ落ち着きなくうろうろしているとしても、 戦場で戦闘準備をしているのか、裏庭で恋人 を待っているのかでは様子が違うだろう。こ れも筋書きを説明する台詞やセットなどが支 援する。第三にBの内面である。心理や性格 と言ってもよい。役者は状況に対してどのよ うに反応しているかによって心理や感情を示 6 し、さらにその反応の傾向によって人物の性 格を表現する。これは台詞で示される部分も あるが、演技に頼る部分がもっとも大きい。 役者Aが自分とはまったく異なる人生を歩 む人物Bの人格、状況、心理などを演じるに あたっては、いくつかの方法がある。 第一に定型的演技。これは記号的演技と言 ってもよい。老人ならば腰を曲げてよたよた と歩き、驚いたときには身をのけぞらせて大 口を開けるといった、定型の動作によって観 客に誰が何をしているかを説明するものであ る。このためにあらかじめ身体による特徴的 表現のリストを用意し、単語を並べて文章を 綴るように、舞台でこれらの身体語彙を次々 と並べていく。吉本新喜劇などが採用してい るもので、一般に素人の「学芸会」と言われ る演技もこのパターンが多い。これは「型」 による演技のもっとも初歩的なものである。 ただ、役者にとっては演じやすく、観客にと ってもわかりやすい。 第二に「リアリズム」と呼ばれる再現的演 技。これは舞台上の出来事や登場人物が虚構 ではなく現実であるかのように見えることを めざすものである。初心者の段階では演ずべ き登場人物に近い実際の人物、つまり年齢、 職業、性格、状況などが近い人を観察してそ の特徴を記憶し、またさまざまな状況での 人々の喜怒哀楽の表情や動作を観察し、それ らのしぐさや表情を模倣再現するというやり 方が採られる。しかしこのような観察結果の 組合せだけでは、まだ演技は他人の身体のさ まざまな外見的特徴を抽出提示しただけの記 号的再現であって、一人の統合された人格の 表現ではないため、なかなか登場人物がほん とうに眼前に居るというリアリティが得られ ない。そこでスタニスラフスキー・システム をはじめ、リアリズムの演技術では、最終的 に役者Aが登場人物Bに成りきることを求め る。AはBの人生を想像し、置かれた状況を 想像し、Bに成りきって舞台の上に立てと言 うのである。日本ではいわゆる「新劇」の演 技術がこれである。また映画やテレビドラマ で採用されているのも、基本的にこれである。 しかしこのようなリアリズムの演技とは異な る第三の演技術の伝統が日本に存在する。 六代目菊五郎は闇の中で蛍を追う演技に苦 労していたとき、ある人から「指先を目玉に したら」とアドバイスを受け、その通りにし てうまくいったという。また十七代目勘三郎 が『忠臣蔵』の判官切腹のシーンで力弥を演 じたとき、主君が最後の対面を望む由良助が なかなか到着せず、花道のつけ際に座って気 を揉みながら父由良助を待つ演技がうまくい かなかった。すると六代目菊五郎から「揚げ 幕に仮に丸い穴をこしらえて、そこから向う を見てみな」と教えられた。そこで揚げ幕に 丸い穴を想像し、そこから遠くをじっと透か して見るようにしてみたところ「形と心がい っぺんにわかりました」という(注2)。 これらはAがBになりきるというリアリズ ム演技ではない。指先を目玉にする身体を実 現したら、観客にはそれが蛍を追う身体に見 えたということである。また、想像の揚げ幕 の穴から向うを透かし見たら、それが父を待 つ力弥の身体に見えたということである。 このような演技する身体(表現する身体) と観客の目に映る身体(表現された身体)と の関係は、言語におけるメタファーの関係に 相当する。メタファー(隠喩)とは、ある語 が文字通りの意味ではなく、別の意味を、類 似を根拠に表すというレトリックである。 メタファーの仕組みは、新たなカテゴリー の提案である。もう少し詳しく言おう。私た ちの認識の単位は命題、すなわち「xはpで ある」という形をとる。これは x の別名が p であるという同一性を語っているか、さもな ければxという存在(個物、特殊)がpとい うカテゴリー(類概念、普遍)含まれるとい うことである。たとえば「今年のゴルフコン ペ優勝者は田中さんだ」と言うのは「田中さ ん」と「コンペ優勝者」が同一だということ であり、「田中さんは日本人だ」と言うのは、 「田中さん」は「日本人」のカテゴリーに含 まれるという意味である。ところが「田中さ んはドン・キホーテだ」という命題では、両 者は別人であり、しかもともに個物であって 一方が他方に含まれるという関係にはないか ら、この文章を文字通りに解釈すると虚偽と いうことになる。こういう場合ふつう「ドン・ キホーテ」という単語は「ドン・キホーテ」 その人を指すのではなく、 「ドン・キホーテの ような人」という意味である。つまりこの文 章は「ドン・キホーテのような人々」という 新しいカテゴリーを提案し、田中さんはその カテゴリーに属すると言っているのだ。この カテゴリーを定義しようとして「無謀で、理 想主義的で、夢想家で、云々」といくら言葉 を重ねても正確に定義することは難しい。た だその典型的な事例として「ドン・キホーテ」 をあげることができるだけなのである。こう して隠喩とは、主題(主語)が属する新しい カテゴリーを提案し、その説明に概念的定義 ではなく典型的な一事例(プロトタイプ)を 用いる手法なのだと言える。ここで「典型的」 7 とは、誰にでもわかる、ないし一番わかりや すいということである(注3)。 これを言語ではなく身体に適用すると、 「指 先が目玉の身体」は「蛍を追う身体」と同じ カテゴリーに属するものであり、ただ演者に とっては前者のほうが身近で実現しやすい身 体だということになる。つまりここでは、唯 一無二のキャラクターとか特殊な心理とかで はなく、同じカテゴリーに属する別の身体の あり方を実現するという、隠喩的手法をとっ ているわけである。これはリアリズムの演技 理論とは異なる考え方だ。日本芸道における 「型」の演技術は、ここから来ていると考え られる。 このような「型」の演技術は、第一の記号 的提示としての型とどこが違うのだろうか。 「老人」を表すのに「曲がった腰」を提示す るのは、身体の外形的記号である。観客は演 者の「曲がった腰」を見て、彼が「老人」だ と解釈する。しかし「指先が目玉」というの は、演ずる側の内面の意識である。観客には わからない。観客に見えるのはただ「蛍を追 う身体」なのだ。演者の側からすれば、第一 の演技術は、修辞学用語を使えば、 「リテラル (文字通り)」な表現であり、第三の演技術は 「メタフォリカル(隠喩的)」な表現である。 観客の側からすれば、第一の表現は記号的で あり、常識的なコード(記号解読規則)によ ってただちにその指示内容を解釈できる。一 方第三の演技術にはあらかじめ決まったコー ドはない。だから観客の作業は頭で解釈する ことではなく、その場で即興的に行われる身 体的同調によって「何が起きているのか」を 理解することである。たとえば正座しつつも 背伸びするようにして遠くを見る力弥の身体 に共感することによって、観客はその切羽詰 まった心情を理解するのである。ではこの演 技術があてにしている身体的同調とか共感と いった観客側のプロセスはどういうものだろ うか。 2 に描けば困った顔になり、それを上下逆にす れば怒った顔になる。このような記号化され た表現が可能なのは、私たちがそのようなパ ターンを解読できてしまうからである。けれ どもそれは、認識されたパターンを過去の同 種の表情データと突き合わせて行われる解釈 なのだろうか。いや、これはおそらく生得的 なものである。 認知心理学で「心の理論」と呼ばれるもの がある。さまざまな実験から幼児や猿にも他 人の認識内容や行動の意図を解釈する能力が あることがわかっている。人は世界を認識し 状況を解釈するにあたって、目に見えるもの だけを材料にするのではなく、他人の内部に 心があることを前提に、思考し、判断を行う 傾向があるのだ。つまり人間は子供のころか ら自分の環境を解釈するにあたって「他者の 心」という目に見えない仕組みがあることを 想定し、そのブラックボックスの内容を推測 するという作業を行っている。この対象を人 間のみならず、犬であれ無生物であれ、なん なら天とか海とかまで拡大すれば、それは擬 人化という現象になる。これは世界の状況を 解釈する一つの方法であって、幼児や古代人 にはよくみられる。たとえば幼児が降る雨を 見て「空が泣いている」と言う。あるいは古 代人が目に見える空の背後に目に見えない空 の神という人格を設定し、その悲しみの現れ として雨を理解するなら、いわゆるアニミズ ムとなる。日本の八百万の神々も擬人化の産 物と言い得る。 私たちには他者の心を理解しようとする傾 向があるとして、次になぜある種の表情が特 定の心理を表しているものとして解読される のかが問題となる。これについては近年のミ ラーニューロンの発見が、新しい説明を生み 出している(注4)。ミラーニューロンとは脳 内にある細胞の一種で、他人の身体の動きを 見たとき、自分自身の身体が動いた場合と同 じパターンで発火する(電位上昇)という特 徴を持つ。他人の筋肉活動や情動の変化に対 応するその他人の脳内ニューロンの発火パタ ーンが、まるで鏡のように自分の脳内ニュー ロンにも生じるという意味で、ミラーニュー ロンと名付けられた。これは他人から自分へ の脳内反応の伝染であるだけでなく、しばし ば筋肉反応の伝染をもたらし、その結果身体 的模倣を生む。たとえば生後 2 カ月の幼児は、 まだ他人の表情の解釈ができるかどうか疑わ しい。しかし彼は眼前の他人の表情を模倣す るのである。たとえば相手が舌を出せば、幼 児も舌を出す。幼児には相手の顔面の筋肉が 共感と感情移入 人は誰でも他人の表情からその気持ちを推 量できる。この能力はどのようにして身につ いたものだろうか。相手の顔の目や口の形状 や配置パターン、たとえば眉や目尻が垂れて おり口角が上がっていれば、ふつう私たちは この人は喜んでいると解釈する。マンガ家が 簡単な線描で登場人物の心理を表現するとき、 このようなパターンを利用する。眉を八の字 8 こう動いているから、自分のどの筋肉をどう 動かせば同じ顔になるだろうかといった計算 があるはずもない。だからこれは意識的な反 応ではない。無意識の反応である。少なくと も、筋肉や表情や心理についての知識も、模 倣しようという意図もなく行われる自動反応 である。従来の知覚−判断−行為という図式 ではこれを説明できないが、ミラーニューロ ンの存在はこれを説明できる。 もちろん私たち大人はこのような自動的物 まねをいつもやっているわけではない。しか し相手の動作や表情にたいし、その筋肉の動 きに対応する反応が脳内のミラーニューロン に起こっている。それは、実際に自分の筋肉 を動かしても動かさなくても生じるのである。 これにより、たとえ動かさずとも、私たちは 自分の筋肉が動いているかのような気になる ことはできるし、そして何より、そのような 筋肉の動きに伴う情動を知覚することができ るのである。その知覚をもとに「彼は怒って いる」とか、 「悲しんでいる」とか判断するの だ。 この反応は無意識のものであって、感覚器 官で知覚し、脳で反省するというプロセスを 経ない。そのような反省と筋肉への指令など なくとも、私たちは相手の動きを正確に捉え、 反応することができる。このことはボクシン グの研究から証明されている。相手のパンチ を見てからそれを避けようとすれば、知覚と 反応のプロセス、つまり視覚から脳への情報 伝達と脳から筋肉への運動指令にかかる時間 が、少なくとも 180 ミリ秒必要とされている。 ダニエル・スターンはムハマド・アリとミル デンベルガーの試合のフィルムを調べ、アリ のパンチの半数がこれより速いことを発見し た。これは知覚と反応に頼ってはアリのパン チは防げないということである。しかし実際 にはその試合で彼のパンチはほとんどブロッ クされるか、避けられていた。スターンはこ の事実を次のように解釈した。ミルデンベル ガーはアリのパンチ行動を見てから反応した のではなく、 「 アリのプログラム化された一連 の行動を時間的空間的に予測し」たのだと。 しかしいったいそんな短い時間にどうやって 相手の行動を予測し、それへの対応を実行に 移すことができるのか。スターンによれば、 二人は「同じプログラムに共に従って」いた という。ちょうど社交ダンスのワルツを踊る 二人が、同じプログラムにもとづいて動くと き、ステップは即興的に決められていくにも かかわらず、あたかも事前に決められた動き をしているかのように動きのタイミングも方 向も正確に一致する。まるでふたつの身体が 一体化しているように(注5)。つまり、ミル デンベルガーはアリの動きのパターンに自分 の動きのパターンを合わせていた、ウィリア ム・コンドンの言い方を借りれば「引き込み entrainment」を行っていたのであり、より 一般的な認知科学の言い方を使えば「同期(シ ンクロ)」させていたのである。 しかし動きを相手にシンクロさせるプロセ スの場合も知覚反応プロセスと同じ時間が必 要ではないかと疑うこともできる。ところが シンクロはきわめて素早く行われる。アリに 閃光を見てからパンチを放つように求めた実 験では、閃光の感知に190ミリ秒、そして パンチを繰り出すのに40ミリ秒、計230 ミリ秒を要した。しかし「ある研究によれば、 大学生たちが無意識に動作をシンクロさせる のにはたった21ミリ秒しかかからなかった」 という(注6)。動作のシンクロには意識的判 断という経路が省略される( 桃体を経由す るショートカットがあるらしい)ため、極め て高速なのだ。 ここから、私たちは他人の表情を見たとき、 無意識のうちに高速でその顔の内側の筋肉の 動きに自分の筋肉をシンクロさせていると想 定することができる。むろんそれは外見から わかるほどの表情模倣ではないとしても、そ れに準ずる活動がミラーニューロンの活性化 という形で実現しているはずである。そして おそらく、その活動がある種の情動を生起さ せる。つまり筋肉のシンクロだけでなく、情 動のシンクロが起こる。これが共感である。 筋肉の活動パターンが特定の情動を呼び起 こすということが、ほんとうにあるのだろう か。どうやらあるらしい。というのも、モダ ンダンスの母ともいうべきマーサ・グラハム はそのような指導を行っていたからである。 グラハムは身体が内面を表現できるという信 念に従い、新しいダンス技法を開発し、今日 なお世界のダンス・レッスンの基本の一つと なっている。そして驚くべきことに、彼女の もとへレッスンに来たのはダンサーだけでは なく、映画・演劇界の俳優たちも少なくなか った。彼らが学ぼうとしたのは、他者になり きるという第二の演技術に必要な技法、つま り自分の身体の内部に登場人物の感情をいか にして実際に生起させるかというテクニック だった。感情を想像するだけでは、自分の内 部にその感情をほんとうに生起させることは 難しいからである。しかしグラハムはこう教 えた。まず身体を動かせば、情動はそれにつ いてくる、と。グラハム・テクニックで最も 9 有名なのはコントラクションという骨盤のあ たりを激しく突くような動きである。映画女 優アン・ジャクソンは泣き崩れる演技が必要 だったときコントラクションを用いると、そ れが感情に影響を及ぼし、リアルな演技がで きたと証言している(注7)。 ここで、先に引用した勘三郎の言葉を思い 起こそう。 つつ、登場人物の心境を想像し、眉を寄せる とか唇をかみしめるといった悲しみに特有の 表情を模倣するとき、強い情動は悲しみの感 情へと水路づけられ、俳優は涙を流すことが できる。そしてそれを見た観客は共感して悲 哀を感じるのである。 3 「心の中で揚げ幕に丸い穴をこさえて、そ こから遠くをじっと透かして見るようにして みな、って言われて、形と心が一ぺんにわか りました」(注8) 感情移入と型 前章末のような観客の反応に関しては、古 典的な感情移入論があてはまる。テオドー ル・リップスの説く「感情移入 Einfuelung」 (共感 empathy)とは、自分の感情を対象側 に移し入れる作用のことである。単純化して 言い換えれば、自分の内部に起こった感情を 他者の内部にある感情だと思い込むことであ る。当然ながら、一方的錯覚に終わることも 珍しくない。演劇はこれを利用する。役者の 演技する身体の外見を見るだけで観客の内側 には身体的模倣が生じ、これが情動を生む。 さらに芝居の筋や台詞や表情から、その情動 を特定の感情、たとえば悲哀などに水路づけ する。これによって観客の内部に悲哀と自覚 される感情が起こる。すると観客は、自分の 内部に生じた感情を、舞台上の人物の感情と して解釈してしまう。これが共感と呼ばれる 現象のいきさつである。直接にふたつの心が 共鳴しているわけではなく、身体的模倣を介 して生起した感情をあたかも直接感じ取った かのように思い込んでいるだけである。 しかし、そうであるとすれば、俳優は必ず しも自分の内部に実際の感情を生じさせる必 要はない。それどころか、情動を生じさせる 必要さえない。観客が模倣できる身体を形成 するだけで、あとは観客が勝手に錯覚してく れるだろう。ここに身体的レトリックを用い た演技術が可能となる。先に述べた第三の演 技術である。 絵画のような二次元の物体は身体をもたな い。しかしよくできた人物絵画は見る者の内 部に模倣反応を生じさせ、感情さえ生じさせ るだろう。そして感情移入によって、人はこ の絵画はかくかくの感情を表現していると言 うだろう。これは描かれた人物像があまりに リアルであって、実物とまがうほどの場合の み起こる錯覚ではない。抽象化されたマンガ のような図像ですら起こりうる。それどころ か、私たちはペットの表情や動作さえ、そこ に感情を感じる場合がある。つまり非人間的 存在に対してさえ、私たちは擬人化によって、 それに対応するミラーニューロンを活性化さ 菊五郎が教えたのは形だが、勘三郎はその 形を演ずることで、心もわかったというので ある。これはまさに、身体的隠喩が演ずる役 者自身の内面にある種の心理状態を呼び起こ したということを意味している。第三の演技 術は観客に共感をよび起こすだけでなく、同 時に役者自身にも同じ共感を生じさせるので ある。身体に感情を呼び起こすには、意識的 想像だけでなく、肉体的運動もまた有効なの である。 ここで人間の有り様を深く揺り動かし行動 へとかりたてる「情動」と、意識に自覚され、 喜怒哀楽といった形で意味づけされる「感情」 とを区別しておく必要があるだろう。シャク ターとシンガーは交感神経の興奮を引き起こ すアドレナリン(エピネフリン)を被験者に 投与し、自分の感情を説明させる実験を行い、 次のような結論を得た。 人は自分の生理的興奮状態に対して直ちに 説明ができないとき、もち合わせの認知情報 によってこの状態に〈ラベル〉を貼り、自分 の感情が何であるかを言葉に表すものだ。 (注 9) つまり自覚されている感情とは自分の身体 に生起している情動を後付けで説明したもの だというわけである。これに似た事例はその 後いくつも報告されている(注 10)。たぶん 肉体の動きは何かの情動を起こすだけであり、 それを悲哀という感情として自覚するには想 像という意識による水路づけの作業が必要な のだ。言い換えれば、私たちは無意識の情動 を意識によって解釈し、意味づけているので ある(いわゆる「吊り橋効果」)(注 11)。そ してそのような感情が今度は涙を流すといっ た次の肉体的反応を呼び起こすのである。コ ントラクションなどによって情動を生起させ 10 せていると考えられる。おそらくミラーニュ ーロンは認知対象の筋肉と一対一に対応して いるのではなく、ある種のパターンに対して 対応しているのである。とすれば、演技者は 観客の感情を誘発するのに、自分でその感情 を生起させる必要がないばかりか、身体レベ ルでも正確にその感情を表す活動をする必要 はない。同じ反応を引き起こすに足るパター ンさえ実現すればよいことになる。ここに隠 喩としての演技が可能となる。 日本の伝統芸能における「型」とは、ある 種の身体反応を引き起こすための単純化され た、それゆえ明確な、共感を喚起しやすい身 体演技である。この意味で、記号と化したお おげさな表現も一種の型と言うことができる。 それはリアルな身体パターンの極端な、見方 によってはカリカチュア化された再現である。 カリカチュアとは、不要な情報を全て捨て去 りながら見る者の感情を特定の方向に誘導す るための条件だけは拡大して見せるような、 特徴的パターンの選択的表現のことであるか ら。 第三の演技術として取り上げた隠喩として 使用される「型」は、現実世界ではけっして 採用されない動きや姿勢であるにもかかわら ず、観客にとってはその身体的模倣から思い もかけない感情を、強い情動を伴って呼び起 こすような刺激である。そして観客は感情移 入によって俳優の身体に強い感情を読み取り、 それに自分も共感したと思う。 こうして花道の端に座って揚げ幕の仮想の 穴を見る力弥の身体は、観客にとって父由良 助の到着を待ちわびる悲痛な力弥の心情を観 客に呼び起こし、共感の魔術を生じるのであ る。 る」とうなずいたりするだろう。そしてさら に感動に及ぶことがあり、涙を流すといった 身体反応さえ生ずる。このとき観客は、自分 の「泣く」という反応の理由を、 「登場人物の 状況や行動に対して感動したからだ」と解釈 する。その結果、登場人物の状況や行動に対 してある種の価値付与を行う。「かわいそう」 とか「なんて崇高な行為だ」とか。劇場を出 た観客は、人に感想を聞かれるとこう答える だろう。「主人公の哀しい運命に泣きました」 とか「崇高な行動に感動しました」とか。こ のとき役者は演技に成功したと言えるのであ る。 4 ピナ・バウシュの情動表現 観客の情動に影響するのはもちろん役者・ ダンサーの身体だけではない。筋書きや音楽、 舞台美術や衣装、そして何より演出が影響す る。たとえばピナ・バウシュの初期の傑作で ある『春の祭典』ではストラビンスキーの音 楽や舞台一面を覆う本物の土が、観客の身体 に作用している。しかし本稿ではダンサーと 観客の身体間の関係のみに焦点を絞っている。 ここで問題にしたいのは、暗黒舞踏やピ ナ・バウシュの作品を見た観客が衝撃を受け たり感動したりするのは事実であるとしても、 それらは前章のような感情移入論ですべて説 明できるであろうか、ということである。感 情移入は、観客の内側に生じた情動を、意識 が感情の一種として解釈し、過去に体験した 情動の記憶と、喜怒哀楽についての既存の概 念を利用して「これはしかじかに対する〈怒 り〉」 「これはしかじかによる〈悲しみ〉」など のラベリング(名札貼り)を行うことである。 とすれば観客が報告する感動とは、このラベ リングに基づいて自分の内部の情動を「悲哀 への同情」とか「崇高なものへの感動」とか 説明しているわけである。 多くの演劇や舞踊ではこの説明があてはま るかもしれないが、暗黒舞踏とピナ・バウシ ュ作品の場合にはいささか疑問がある。とい うのも、これらの舞台に際しては、観客は自 分の感情に適切なラベリングが行えないから である。あまりにも複雑であるためか、未体 験の情動であるためか、それともラベリング の手がかりになるような情報(筋書きとか音 楽とか)が乏しいためか、あるいは多すぎる ためか。たぶんその全部である。 たとえば暗黒舞踏において未知の身体が目 の前に立ち現れるとき、観客は一種の戦慄を われわれは演技術に三つの種類があること を見てきた。第一にリテラルな記号としての 型。第二にリアリズムの再現的演技。第三に 隠喩としての型。これらの演技はどのような メカニズムによって観客に共感や称賛をもた らすのだろうか。 この三つの演技術はいずれも観客に対して ミラーニューロンの発火を促すものである。 つまり観客はその演技する身体に対して鏡像 のような運動感覚をおぼえ、それに対応する 情動を生起させる。さらにコンテクスト情報 によって特定の感情へと水路づけされ、観客 は自分がある感情を抱いたことを自覚する。 しかもその感情を対象へ投射(移入)し、登 場人物の感情を理解したと思いこむ。共感と 呼ばれる現象である。観客は「わかる、わか 11 覚えるのだが、それは既知の感情に分類する ことはできない。そもそも自身の内部の戦慄 を感情とみなしてよいのかどうかさえよくわ からない。たしかなことは、自分が新しい身 体の可能性をかいま見たということだけであ り、それがダンサーの身体だけでなく自分の 身体の可能性でもあるという自覚であり、た ぶんそのこと(自分が自分の知らない身体を 内部に宿していたこと)に戦慄するのである。 ピナ・バウシュの場合にはさらに複雑にな る。舞台上のダンサーたちは観客を刺激して 強い情動を生じさせる。しかし観客は多くの 場合その情動を意識によってラベリングでき ない。というのも、眼前の情報が互いに矛盾 するため、意識はうまく既知の感情へと水路 づけすることができないのだ。たとえば純白 のウェディングドレスを着た女性がその長い トレーン(引き裾)を男二人に持たせて歩ん でいる。私たちの既知の情報では、これは多 くの物語のラストシーンであり、人生のハイ ライトを迎える花嫁は喜びに輝き、裾を持つ 従者は厳粛な表情で儀式の荘厳さを示すもの である。ところが女性は悲しげであり、男た ちは下品に笑いながら煙草を吸っている。観 客はうまく状況を理解できない。そこでもっ と手がかりを求めるのだが、何も与えられな い。ピナ・バウシュはこのシーンを唐突に提 示し、そしてすぐに次のシーンに移る。前後 には何の脈絡もない。観客は自分の情動を持 て余してしまう。つまり明確な感情として意 識化されないまま、内部に蓄積していくので ある。ピナ・バウシュは一見無関係なシーン をコラージュしてゆくのだが、その一つ一つ は観客にさまざまな情動を与えて過ぎて行く。 はっきりと「滑稽」なシーンでは観客は緊張 から解放されて大笑いするし、優雅なユニゾ ンの群舞では期待通りのダンスの快感を得る。 けれども、そういう息抜きを挟みながら、ほ とんどのシーンでは不可解な情動に翻弄され ることになる。それは目隠しして川下りする とき予想もつかぬ運動に内蔵が飛び跳ねるよ うな、一種の身体的経験である。意識の整理 は追いつかない。けれども、そのうちに不意 に何かが思い当たることがある。記憶のデー タの中に、これに似た情動があったような気 がするのだ。舞台を見ながら積み重ねてきた 情動の破片が集まって一つの形を得るのだ。 そこから先は人さまざまである。泣く人は多 い。解放されたという人もいる。たとえば映 画監督ヴィム・ヴェンダースはこんな風に報 告している。 いやいや、嵐が舞台を横切ったわけで はありません。ただ・・・人間たちがそ こで何かを演じていただけでした。その 動きはいままで見たこともないもので した。それが次に、いままで経験したこ とのないやり方で私を動かしたのです。 わずか数秒で私の喉に何かが詰まり、 当惑の数分を経て、私はただ感情に身を まかせました。すると一切の抑圧から解 放され、私は泣き始めたのです。こんな ことは生れて初めてでした。(注 12) これはピナ・バウシュの舞台を見るという 経験の典型である。なんだかわからないうち にある情動に捉えられてしまう。何が起こっ たのかを解釈しようとしても、たいていの場 合、その情動を名付けること(ラベリング) はできない。ただ、何かがわかった、という 気がするだけなのだ。そしていつの間にか自 分が解放されているのを知り、涙を流すので ある。 人間は強すぎるトラウマを忘れてしまうこ とが知られている。戦争や強姦などの被害者 はその記憶をまったく失っていることがある という。フロイト風に言えば、受け入れがた い記憶は防衛規制によって抑圧され、意識に 上らないようにされてしまうのである。だが 意識的な情報としては消されていても、無意 識の情動の形だけは記憶しているのかもしれ ない。私たちは「これはいつどんな風に起こ ったものかわからないが、この経験は知って いる」という情動の形を意識下に持っている のだろう。ピナ・バウシュはそれを再現して しまうのである。だから、ピナ・バウシュを 見るときの衝撃的な経験は、未知の経験であ るにもかかわらず、 「これは知っている」とい うなつかしさを覚えるのだろう。それは言わ ば、ないことにしてきた自分の再発見である。 ちょうど土方巽が無いことにしてきた自分の 身体(「はぐれてしまった」身体)の再発見を 目指したように、ピナ・バウシュは無いこと にしてきた自分の心を観客に再発見させよう としたのかもしれない。 演劇や舞踊は身体を隠喩表現の媒体として 使用することがある。尤もその隠喩は解読で きるとは限らない。少なくとも、自覚的にそ の隠喩の表す情動を対象化し、言語化できる とは限らない。しかしその場合でも観客の身 体はその隠喩を把握し、自らの情動として再 現できることがある。いわば、身体的隠喩を 身体的に解読し、再現するのである。このと き観客はまさに「わけがわからない」まま、 12 ただ感動し、涙を流している自分の身体に驚 くかもしれない。ピナ・バウシュがなしとげ たのは、そのような身体芸術の新しい方式の 完成である。そしてもし人々が芸術に期待し ているものが「感動」であるなら、身体を媒 体とするダンスこそがそのためにもっとも強 力で直接的な手段であることを実証したので ある。なぜなら「感動」とは情動の激流によ って理性が押し流され、ただ身体が打ち震え 続ける経験であるから。 賞した時のヴェンダースのスピーチ。 注 1.コンテンポラリー・ダンス研究会主催シンポジ ウム「『ダンサーに聞く』におけるスタンザックの発 言。2013 年 3 月 20 日。 2.生田久美子『「わざ」から知る』東京大学出版会 1987、94∼95 頁 3.詳しくは尼ヶ崎彬『ことばと身体』(勁草書房 1990)の 1・2 章を参照されたい。 4.ジャコモ・リゾラッティ&コラド・ジニガリア 『ミラーニューロン』柴田裕之訳、紀伊国屋書店、 2009。マルコ・イアコボーニ『ミラーニューロンの 発見』塩原通緒訳、ハヤカワ新書、2009 5.ジェレミー・キャンベル『チャーチルの昼寝』 中島健訳、青土社、1988、307 頁 6.マイケル・S・ガザニカ『人間らしさとはなに か?』柴田裕之訳、インターシフト、2010、236 頁。 言及された「ある研究」とは Hatfield, E., Cacioppo, J.T., and Rapson, R.L., Emotional contagion, Current Directions in Psychological Science 2, 1993, pp.96-99 7.キャサリン・タッジのドキュメンタリー・ビデ オ『マーサ・グラハムの生涯』 ( Martha Graham: The Dancer Revealed)1994 8.関容子『中村勘三郎楽屋ばなし』文芸春秋社、 1985、46 頁(注2より再引用) 9. Schachter, S. and Singer, J., Social, and Physiological Emotional State, Cognitive, Determinants of Psychological Review, Vol. 69, 1962. p.398 10. たとえば、アントニオ・R・ダマシオ『感じる 脳』田中三彦訳、ダイヤモンド社、2005.99-102 頁、109 頁。 11. 無意識の情動が意識化されるメカニズムについ ては次の本が詳しい。ジョセフ・ルドゥー『エモー ショナル・ブレイン――情動の脳科学』松本元・川 村光毅訳、東京大学出版会、2003。 12. 「 Wim Wenders on Pina Bausch 」( 英 訳 Roger W. Benner)。ヴィム・ヴェンダースの映画 『 Pina 』の英語版BDディスク付属パンフレット2 8頁。元は 2008 年ピナ・バウシュがゲーテ賞を受 13 照明と音楽とコンテンポラリーダンス 貫 成人 「ダンスを見ると疲れるね」 休憩中の観客の会話から 言うまでもなくダンスは身体のアートだが、ダ ンサーや観客の身体だけで成り立っているわけ でもない。衣装や上演場所、装置、映像、空間な ども舞踊公演において重要な役割を果たしてお り、なかでも照明と音楽は、ダンス作品が成立す る上で、多くの場合、不可欠だ。しかも、そのあ り方は、1980 年代以降、ますます洗練の度合い を増している。 本稿では、照明ならびに音楽のあり方を歴史的、 理論的に検討し、それがダンス、とりわけ現在の コンテンポラリーダンスにおいてどのように用 いられ、あるいは作品の本質的な要素となってい るか、身体が照明や音楽とどのように共振してい るかを考えたい。 Ⅰ 歴史的背景 照明と音楽は、映像など、他の要素と比べても 舞踊との関連が深い。夜間、あるいは屋内で上演 される舞台は、適切な照明がなければそもそも見 えず、また、音楽は、舞踊が誕生した時点から「同 根」的存在であった(ローゼン 13)。それゆえ、 日本舞踊や歌舞伎、バレエやモダンダンスなど、 あらゆるジャンルの舞踊において両者は当然、問 題になる。 ダンスと音楽、照明との関係について、より立 ち入った考察が加えられるようになったのは、 1960 年代アメリカにおける「ポスト・モダンダ ンス」、ならびに、それをうける形で 80 年代の 欧州を中心に湧き起こったヌーヴェル・ダンス、 もしくはコンテンポラリーダンスの作家たちに よってのことである。 すなわち、トリシャ・ブラウン(1936-)やロ ーラ・ディーン(1945-)、ルシンダ・チャイル ド、イヴォンヌ・レイナー、メレディス・モンク、 アルヴィン・ニコライ、スティーヴ・パクストン、 ロバート・ウィルソン、トワイラ・サープなどと いったひとびとは、ダンスの訓練をまったく受け ていない「素人」に一定の「タスク」を与えるな どして、路上など、劇場外での公演をおこない、 当然、ダンス公演用に設計された照明や衣装、音 楽などは用いなかった。それは、一聴すると実験 性に偏った、近づきがたい「前衛」に聞こえるが、 残された映像などを見ると、むしろそれなりに 14 「楽しい」ものであったようだ。それは、自己批 判と「進歩」というオブセッションに駆られて、 媒体の純化を追求し、舞踊においてはバランシン やマース・カニングハムに結実した、意味を排し た形式主義的近代主義の裏面をなす「外向きのモ ダニズム」(外山)であった。 ポスト・モダンダンスをふまえて、80 年代の フランスで、文化大臣ジャック・ラングが主導し た文化政策の帰結として「爆発」した「ヌーヴェ ル・ダンス」においては、 (アルバニア系の両親を もつアンジョラン・プレルジョカージ、セルビア 出身のジョゼフ・ナジなど)さまざまな出自、 (哲 学を学んだカリーヌ・サポルタ、サーカス学校出 身のフィリップ・ドゥクフレ、演劇出身のジャ ン・クロード・ガロッタ、能や舞踏を紹介した矢 野英征、カニングハムメソードをベースにしたド ミニク・バグエなど)さまざまな背景をもった作 家によって、意味や感情を排したアメリカのポス ト・モダンダンスに対して、感情や伝統、(マギ ー・マラン《May B》における老い、など)生活 の負荷をおい、さまざまな手法、美学が混淆した 舞台空間が実現し、同時に、カナダケベック州に おけるエドアール・ロック、ベルギーのフラマン 地域におけるアンナ・テレサ・ケースマイケル、 ヴィム・ヴァンデケイビュス、ヤン・ファーブル らがあらわれた。 ポスト・モダンダンスにおいて、後に示すよう に、音楽とダンスの関係などについて多くの「実 験」がおこなわれ、ヌーヴェル・ダンスでは、そ の成果を活用した新たな試みがさまざまな形で なされ、コンテンポラリーダンスに引き継がれた のであった。 Ⅱ 照明とダンス 勅使川原三郎やピナ・バウシュの舞台にみら れるとおり、コンテンポラリーダンスにおける照 明は、「光による造形」や「図と地の交代」など さまざまな機能をもつが、その本来の機能は、舞 台とそこに登場する人物、装置などを見えるよう にすることであり、20 世紀におけるガス灯や電 気照明登場以前は、これこそが最大の難問だった。 (1)舞台における照明の歴史 日本においても欧州においても、19 世紀まで は蝋燭が照明の主な手段であり、舞台でもその事 情はかわらない。その後、19 世紀に「ガス灯」 が登場し(シヴェルブシュ 1988、32、46)、1870 年代には「アーク灯」が普及する(56)。1879 年にはエジソンが白熱電球の実験をおこなった が(62)、電気が都市に浸透したのは 1880∼1920 年代であった(76)。 照明の手段の「改良」は劇場や舞台にも反映す る。 ツア・リッペによれば、バロックの舞台は、劇 場中央に座った支配者の視点からの一点透視画 法によって構成され、他の観客はその支配者の視 点を介して観劇した(シヴェルブシュ 198)。そ の結果、バロックの劇場では、シャンデリアが観 客席と舞台を等しく照らしていた(212)。やがて、 フランチェスコ・アルガロッティ、ノヴェールが 登場した 18 世紀になると、絵画をモデルとした 自然の模倣(199)が図られ、屋外においてと同 様、舞台の特定部分のみが明るく輝き、あるいは 光をおさえ、残りの部分は影に隠れるというグラ デーションが求められるという美学上の展開は あったが、蝋燭による照明では所詮、光力が足り ず、バロック的舞台照明は 19 世紀後期まで続く。 そこでは、側面照明とフットライト、また、蝋燭 の上に反射鏡を仕込んだ上部照明という三方向 からの照明が試みられたが、唯一効果的だったの は足元のフットライトだけで(200)、その結果、 下から照らされた俳優の顔はおぞましい仮面に なったのだった(201)。 18 世紀末になると、石油ランプが登場し、徐々 に、舞台が明るく、客席は暗くなる(214)。と はいえ、劇場を訪れる人々が、互いに自分を見せ びらかす自己顕示的存在であることは 19 世紀に なっても変わらず、客席照明は完全には消えなか った(217)。客席が完全に暗くなったのは、映 画の影響とされ(222)、このとき、社会とのつ ながりを断ち、知覚力を高めた観客が登場したの だった(231)。 1800 年頃になると、ガスや電気が普及する (206)。ガスライトによる照明がコヴェントガ ーデン(ロンドン)に登場したのは 1817 年だっ た。1840 年代には、ストックホルム王立劇場で 562 基のしかもカラー照明が用いられたという (副島氏の教示による)。自然に近い光が登場し たおかげで、それまでは目立たなかった舞台装置 のあらが観客の目に露わとなり(207)、絵を描 いた舞台装置に代わって舞台建造物が登場した り、俳優の化粧法が工夫されたりしたほか、衣装 の色彩も照明の補助の役目から解放され、それま での(レフ板の役目を果たしていた)ロマンティ ックチュチュに代わる衣装があらわれた。 1878 年 に は 、 ス ワ ン ( Joseph Swan, 1829-1914)によって白熱電灯が発明され、1881 15 にはロンドンのサヴォイ劇場に電気照明が登場 する(また、シヴェルブシュ 82)。ちなみに、そ のときの出し物はオペラ「The Mikado」(1885 年、672 回のロングラン)であった(副島氏の教 示による)。 電気照明が普及した 1890 年代には、光のスペ クタクルやパノラマ、ジオラマなどが登場したが (222)、照明と衣装を巧みに用いたロイ・フラ ーもその一人である。 20 世紀になると、光量を増したライトを駆使 して、「生きた光」による造形を実現したアドル フ・アッピア(18621928、シヴェルブシュ、 1997、29、211)や、自ら造形し意味を作り出 す光のエドワード・ゴードン・クレイグ(223、 25)などが登場し、舞踊公演にも応用された一 方、間接照明によって舞台全体を光が満たすフォ ルトゥニ照明などがあらわれる(30)。フォルト ゥニによるバレエ演出がおこなわれたのは 1906 年においてのことであり(34)、1912 年には、 ヘレラウにおいて、アッピアとダルクローズのコ ラボレーションが実現した(345)。その後、映 画のカット割りやモンタージュを、照明による暗 闇という形で取り入れたマックス・ラインハルト (194)、照明広告の没落とネオンサインの復権 (226)、など、多くの工夫がなされ、やがて、 現実の照明が演劇の照明を模倣する「かっこつき の現実」(スーザン・ソンタグ)のような事態も あらわれた(234)。 (2)照明とコンテンポラリーダンス 19 世紀までの照明を見れば明らかなように、 照明の最大の課題は、舞台やそこに登場する人物、 装置などを見えるようにする点にあった。だが、 すでにアッピアやクラーク、またフォルトゥニな どの仕事から見えるとおり、照明の機能はそれだ けではなく、また、「明るくし、見えるようにす る」という当初の機能とはまったく逆の作用すら、 現代の照明はもつ。 舞台照明は、単に、(たいていは)直方体の舞 台空間を「均質に」照らし出すのではない。近世 における蝋燭の場合でも、20 世紀の電気照明で も、舞台の特定部分を強く照明し、それ以外は弱 い光、もしくは暗闇とすることによってコントラ ストをつくり、観客の「視線を誘導する」(バラ ージュ 35)。バレエにおけるプリマバレリーナな ど、主要人物のみを照らし出すスポットライトは その典型だ。 コンドルズメンバーによる《暁∼桜の森の満開 の下でキスして》では、上手隅で数々の名文句を 朗読する石渕に当てられていたスポットが消え ると、舞台中央での格闘シーンに照明があたる。 ここでは、照明による視線誘導が、映画における モンタージュ、もしくはカット割りとおなじ機能 を果たす。《暁》の場合には、全体を通じて擬似 的な筋があるが、ピナ・バウシュの多くの作品で は、純然たるダンスシーン同士で、こうした「カ ット割り」がなされる。 また、そのバウシュ《パレルモ・パレルモ》に おいては、舞台下手で(自分の読んでいる新聞に 火がついて慌てる、など)奇妙な行為をつづける 男性と、やがて上手にあらわれるアンサンブルダ ンスとのあいだで、きわめて巧妙な視線誘導、も しくはカット割りがなされる。当初、観客は、お かしなことをする下手の人物に目を奪われ、上手 に登場したアンサンブルは意識の背景におかれ、 もしくは気づきさえしない。しかし、途中で、わ ずかにダンス音楽の音量があがり、照明の強度が 上手と下手とで切り替わる。それによって観客に とっては、知らず知らずのうちにアンサンブルダ ンスが中心となり、下手の人物は意識の背景にお かれてしまう。照明強度と音楽によって、舞台上 の図/地転換がさり気なくおこなわれるのであ る(しかも、その間も、シリアスなダンスとコミ カルな動作は観客の意識に共存するため、観客は 二つの矛盾した気分と感情に引き裂かれる)。 一方、舞台空間全体を均質に照らすことは、単 純な電気ライトによるかぎり、かえって困難であ り、フォルトゥニによってはじめて可能になった。 それによって、さらに、舞台上の特定対象ではな く、空間そのものを光で満たす「雰囲気光」が可 能となり、青や赤などの色をつけ、あるいは、明 度を変える光によって、 「悲しみ」 「情熱」などの 感情価、 「夜」 「宇宙」といった自然環境的意味を 舞台に与えることもできるようになる。たとえば、 ローザス《ビッチズ・ブリュー/タコマ・ナロウ ズ》においては、スモークとオレンジ色の光によ って、静かな熱気に満たされた異次元空間が実現 した。 光や照明は、対象物を「見えるようにする」ば かりではない。テレビ等でも用いられる「女優照 明」は、強い白光によって、こまかな染みや皺を 消してしまう。また、照明を消したり、舞台の一 部に限定したりすれば、光の傍らに闇が出現する。 ナセラ・ベセラの作品では、中央のダンサーにの み弱い照明が当てられたため、それ以外の空間は 宇宙にまで溶けて拡がる闇となった。山崎広太 《トラフィック》では、舞台中央のダンサーの足 元から頭のすぐ上までしか包まない照明によっ て、舞台上方に、ダンサーを押しつぶそうとする 巨大な闇が出現した。 アッピアやクレイグが試みたような、光による 造形も、現代ではより繊細なものとなった。勅使 川原三郎《ミロク》は、ダンサーを包んで絶え間 16 なく流れる流体や、限りなく昇っていく空間など を、照明だけで生み出した。同じ作家の《サブロ・ フラグメンツ》で登場した、舞台奥の床面だけを 徐々に覆っていく淡い光は、地上を満たす,畏怖 すべき水の存在を示す、光による彫刻だった。 強いスポットライトが作る影もまた造形素材 となる。ローザス《ファーズ》の「ピアノ・ファ ーズ」では、正確このうえないデュオを踊るアン ナ・テレサ・ケースマイケルとティエリー・メイに 左右からあたる光が、白いホリゾントに影を作り、 ふたりの影が、ときに重なり、ときに離れながら、 第三のダンサーとなった。本科研費シンポジウム 「照明とダンス」の試技で、田上和佳奈と坂本明 浩によって試みられた、舞台上に見えないダンサ ーの影のみによるダンスも、この系列に属する (DVD 映像参照)。 こうした目につきやすい造形性や彫塑性では なく、一見、単に演者を照らしているにすぎない かに見える照明も、密かな作用を観者に及ぼして いる。KENTARO!!のソロ作品《雨がふれば晴れ る!!》などでは、舞台の上手(あるいは下手)奥 など、ダンサーがいるごく一部の床にのみ光が当 たり、あたかも、そこだけ他と隔絶された特別な 場所、世界、空間であるかに見える。なにか自分 だけの親密な空間でくりひろげられる、自分との 対話、ダンサーと(たとえば)曲との対話を、遠 くから覗き込み、窃視しているかのような感覚を、 観客はおぼえ、逆にそれによって、ダンサーがい るその場所だけが世界から分断される。舞台空間 に新たな次元が生まれ、劇場空間が造形されるの である。 森下真樹《コシツ》シリーズでは、舞台につく られた半畳ほどの光のなかにダンサーがはいっ て、さまざまな行為をおこなうことによって、そ の光内部があたかもひとつの「結界」のような特 殊な意味を帯びる。 ピナ・バウシュ《ヴィクトール》中頃の「大洪 水」シーンでは、けたたましいオーケストラ曲の なか、木片や布きれなどを床に投げては、そこに 跳び移り、あるいは、助けを求める、ダンサー達 による狂騒のなか、舞台を縦三つの空間に切り分 け、奥の空間を照らすときには、中間と前空間が 暗くなり、中空間に照明が当たれば、奥と手前が 暗くなり、などといった照明の切り替えによって、 さきほどのカット割効果が生まれるともに、観客 の視線の焦点が強制的に切り替えられるため、尋 常ならざる幻惑感を観客は覚える。 一方、KENTARO!!やバウシュ、勅使川原三郎 などのこうしたシーンに引き続き、舞台全体を均 質に照らす素明かりに切り替わって素の舞台に もどり、あるいは、さきほどまで別世界だったダ ンサーの場所と観客席との間に光が当たると、と つぜん、それまで異次元だった空間が「現実化」 される。ダンサーとその場所が、観客のいる場所 と地続きとなり、現実の一部に戻るのである。 照明は、このような空間と世界の操作を可能と する。観客は、舞台においてダンサー、もしくは その都度(密かに注意を誘導される)オブジェに のみ目を向け、意識を集中しているため、照明の 変化は意識の対象とはならない。照明は、背景に のみ止まった、 (図ではなく)地であり、意識化、 対象化されることなく、観客が住む世界や視線を 変えていくのである。 「照明とダンス」のシンポジウムで坂本明浩が 述べたように、照明家がある作品のプランを決め るとき、個々のシーンにおいて理由のない照明は ない。たとえば、薄闇の中にうずくまるダンサー の全身のみを見せたいと振付家が考えておれば、 上や背後からのライトのみを用い、その姿勢から 立ち上がるダンサーの「表情」を見せたければ、 真横から顔の高さであたる「サイド・スポット (SS)」をもちいる(DVD 実演映像参照)、など、 わずかな動作の中にも多くの「キュー(照明切替 の指示)」が含まれる。作品によって、キューは 一分間に 10 以上にもおよび、2時間の作品全体 では何百にも何千にもなるだろう。 その各場面、局面において、照明がもつ意味や 機能もさまざまである。それは、そのシーンの感 情価や(白い光によって白昼を、オレンジ色の光 によって夕方を暗示するなど)時刻を示すなど、 ナラティブ、あるいはドラマティックな機能をも つかもしれず、なんらかの形や異次元空間を作る 造形的機能をもつかもしれず、あるいは、観客の 視線に働きかけるピナの《ヴィクトール》や《パ レルモ・パレルモ》のように、コミュニカティブ なものであるかもしれない。 通常は「地」として機能する照明も、ホリゾン トから観客席を照らし出すカクテル光線のよう に「図」となることがある。《暁》冒頭、舞台上 方奥の暗闇にあらわれた北村明子をよく見よう として目を凝らしたとたん、ホリゾントから客席 を照らす照明、それから一拍遅れてはじまる強力 な曲と三組によるダンスに襲われる場面などは、 その一例である。 こうして、照明は、観客には気づかれることも ないままに、その視線を誘導し、劇場内での身体 の位置を操作し、引き込む、コンテンポラリーダ ンスの装置となる。 Ⅲ 音楽の役割 なるほど、音楽は「音楽以外なにも表現しない」 (ストラヴィンスキ、アラン、伊福部 45)。いか 17 に精密に作られた曲であろうが、「明日四時にグ ランドセントラル駅であおう」と伝えることはで きない(ローゼン 5)。また、音楽研究の側から 見ると、少なくとも欧州においては、 「ガボット」 「サラバンド」など「リズミックなモチーフ」と (各地の土着)舞踊とが相互に密接に関わってい た近世に対して(ザックス、田村 109)、近代以 降は「踊り離れ」がおこった(田村 114)。 だが、音楽とダンスはほとんど「同根」(ロー ゼン 13)であるため、コンテンポラリーダンス において音楽が果たす役割には照明以上のもの がある。 通常、音楽には、旋律(メロディ)、律動(リ ズム)、そして和声という「三大要素」があると される(伊福部 18)。この考えをもとに、音楽と 舞踊との関係がとらえられた結果、リズムは、ダ ンサーのタイミング、動きのキューとなり、メロ ディは、ダンサーのエネルギーの流れと感情を調 整するものと、伝統的には考えられていた。 しかし、まず、音楽の要素はこの三つだけでは なく、まして「楽曲」となれば、さらに多くの側 面、要素をもっている。それにともなって、音楽 と舞踊との関係もまた、より多次元的、立体的で ある。さらにまた、(映画と音楽との関係を考え ればわかるように)、舞台やスクリーンのような 視覚的所与と音(音楽)との関係、そして、音楽 と身体との関係も錯綜を極めている。 (1)音楽の諸要素 通常、音楽の構成要素としてあげられるのは、 リズム、メロディ、和音の三つであり、そのうち、 とりわけ舞踊と関係づけられるのはリズムとメ ロディだけだった。だが、音楽を構成するのは、 それだけではない。(同一曲内の、あるいはスピ ーカー上の音の)大きさ、響き、音色(ローゼン 126)、また、音の長さや高さ(シオン 1993、75)、 さらに音型(金子 53)などである。 また、以上は、西洋音楽にみられる諸要素だが、 それ以外の地域においては「倍音」が重要な役割 を果たす(中村 9)。倍音には、整数次倍音と非 整数次倍音があり、熱帯雨林における高複雑性変 容性(中村 34)は後者の例であり、また、クラ スターサウンドのように人工的な非整数次倍音 もある(中村 132)。邦楽における尺八などは、 非整数次倍音を変化させることによって音の反 響空間そのものを操る点にその眼目はあり、倍音 の少ない声楽曲(中村 46)などとは鋭く対照を なす。 さらに、個々の楽曲については、その和声やリ ズム、メロディ(旋律線)だけではなく、調性や 形式、動機(金子 5861)、拍子、テンポ、(硬 い/柔らかいなどの)音質、速さ、構造(金子 155)などが問題となり、さらにまた、それぞれ を綜合した結果、 「空間的構造」 (岡田 2009、108) や「意味論」(岡田 2009、109)が浮上する。 こうした音楽、楽曲がもつ諸要素は、それぞれ が、あるいは、そのいくつかが組みあわされるこ とによって、同時進行する舞踊と対応し、共振し、 構造的同型性をもつ。 たとえば、メロディは、全体がその部分の和を 超えた意味をもち、移調しても変化しない「ゲシ ュタルト」(メルロ=ポンティ)だが、それに対 して、瞬間ごとの身体部位の位置やポーズの総和 には還元されず、全体として統合されたものが、 ダンスにおける「フレーズ」 (グレアム)である。 コンテンポラリーダンスにおいては、倍音も大 きな役割を果たす。ピナ・バウシュ《アグア》や 《天地》、また北村明子《To Belong》などにお いては、熱帯雨林や虫の音が用いられ、ある時期 のフォーサイス作品では、トム・ウィレムスのク ラスターサウンドが常に登場した。逆に、ピナ・ バウシュ《カフェ・ミュラー》では、倍音の少な い声楽曲が用いられることによって、他から隔絶 された崇高性が実現される。 そのほか、ポール・テイラーの群舞では、各ユ ニットが和音の各パートに対応し、川村美紀子 《ヘビの心臓》では、ショパン《軍隊ポロネーズ》 の各打鍵音に動きが対応した。 (2)音楽の自己推進性・自己展開性 音楽には、上に挙げたような諸要素、諸側面が あるが、だからといって、音楽そのものが諸要素 の寄せ集めであるわけではない。メロディやリズ ム、拍子は、要素としての音の総和以上のゲシュ タルトであるといっても、それは静的なゲシュタ ルトではない。 たとえば、エネルギーが安定した和音と不安定 な和音があるように(金子 15)、和声自体の中に 時間性がある(椎名 501)。五度の音階に独特 の「緊張感」があるように(チェルビダッケ 32)、 音程にはじめから時間が含まれている(チェルビ ダッケ 46)。あるいはまた、二つのリズムによっ て大きなリズム的エネルギー(チェルビダッケ 33)、緊張(チェルビダッケ 43)がうまれるこ ともある。さらにまた、たとえばハイドンの曲の 内に、諧謔とリリシズムが同居する(ローゼン 72)など、一つの曲やメロディが対立感情を提 示し(ローゼン 75)、音にはアンビバレントな感 情(中村 195)が伴われる。 このように、各要素は、それ自体のうちに対立、 すなわち、瞬時の緊張と弛緩、衝撃と減衰、爆発 と消滅(シオン 76)を内包している。そして、 18 たとえば、不協和音による緊張が協和音によって 解決される 18 世紀の手法にみられるように、各 要素は自己展開し(ブリュレ 101、メロディの可 能性 104)、各瞬間がそれ以外の各瞬間によって 推力を持ち、他のすべての瞬間を含む、ベルクソ ン的「持続」である(山下 104)。拍子ですらも、 たとえば、三拍子が「起点からはじまり、一拍を 刻んで、次のユニットへと移行する」(田村 97) 運動であり、シンコペーションが「あえぎ」であ る(田村 100)であるように、動的なエネルギー である。旋律もまた、一音一音が分離しているよ うなもの(椎名 49)ではなく、音が動き、もし くは動く一つの音である(田村 136)。響きとは 波動であり(チェルビダッケ 19)、音の慣性には、 すべてを巻き込む膨張する活動力がある(チェル ビダッケ 27)。総じて、音楽は、その各要素にお いても、また、それが組み合わさった全体として も、 「自己による自己の絶えざる創造」 (山下 23) であり、その点、ダンスと変わらない(山下 30)。 このように、それ自体のうちに推進力を持って 自己展開、自己創造していく音楽は、さまざまな 仕方で、それ以外のものを巻き込んでいく。 第一に、リズム自体、単に音楽だけではなく、 一般に(詩などの)韻律や絵画、呼吸、労働に内 包され、経済的、文化的リズムという言い方すら 可能である(山下 109)。第二に、たとえば曲の 進行にあらわれる「ため」が跳躍への身振り(田 村 1378)であり、音に触覚的ありよう(吉見 1011)があり、あるいは「間」(中村 135)に みられるように、音楽とそれを弾き、聞く身体と の間には共振関係がある。 このように考えることによって、メルロ=ポン ティの次の発言も理解しうるものとなる。「音楽 は可視的空間のなかにあるのではなく、その下を うがち、それを包み込み、それを移動させる。美々 しく着飾り、地面がかれらの足下でぐらついてい るのにも気づかずに、批評家気取りで音楽や微笑 を交わしあっている聴衆にしても、あっという間 に嵐の海面でもまれる船の乗組員のようになる」 (Ⅱ35)。コンサート開始前のロビーで談笑して いるひとびとも、いざ演奏がはじまってみれば、 音楽の波に巻き込まれ、翻弄されてしまう、とい うのである。なぜなら音楽は、通常、われわれが 空間という名のもとで理解している、目に見える 拡がり、嵩の中にあるものではなく、それを取り 囲むものであり、可視的空間自体が、音楽が切り 開く空間の中にあるからだ。実際、メルロ=ポン ティによれば、「音楽会場で、閉じていた目を開 くとき、空間はいままで音楽が繰り広げられてい たあの別の空間とくらべてせまく感じる」のであ る(Ⅱ30、また『ピアノの森』2013 年 4 月 10 日号参照)。 演奏されている舞台を超えて、客席にまで及ぶ 音楽の影響の回路となるのは、聴者の心身である。 伊福部によれば、律動と観客の筋肉的反応は相互 に作用を及ぼしあい、その結果、観客の情緒に力 をふるう叙情性をもつ(伊福部 25)。その結果、 音楽は強力に魂に語りかけ(ローゼン 13)、逆に、 音と心は相互に影響しあう(チェルビダッケ 22 23)。パフォーマンスとは、なにか目に見えな い者の表現、表出や単なる造形なのではなく、観 客に力をおよぼす「演出力」である(サイード 212)。すなわち、なかなか安定しない音型は、 「じれったさ」の表現ではなく、観客をじれった くさせる(ローゼン 130)。なるほど、悲しい曲 において観客は、悲しむのではなく、むしろ、そ のようにわきおこる悲しみを楽しむことができ る(ローゼン 6)。だが、音楽は、感情に働きか け、悦びややる気をひきおこす効果を持ち(ロー ゼン 146)、その効果は、アウシュビッツにおい てすらも活用されたという(岡田、2009、133)。 音楽が、畢竟、楽器演奏によって生まれるもの である以上、ここには、演奏者の身体が、音楽の 時間を介して、聴者の身体の中で曲を再創造させ る、というサイクルが生まれているとも言える (山下 ii、74)。音楽は、(「よいとまけ」のよう な)集団労働や、全員が揃って同じ動作をつづけ る儀式、あるいは茶道、性行為と同様の「同期型 コミュニケーション」であり、その点、舞踊も変 わらない。また、楽器演奏や舞踊においては、先 生の体が生徒に乗り移る(中村 1801)模倣が、 その習得における基本的なツールである。「同期 の伝導」(中村 184)は、こうして、共時的に演 奏者と聴者との間にも、通時的に教師と生徒の間 にも生じている。 同期の伝導は、リズム(中村 185)においても っとも容易に見て取ることができるが、これまで 見たように、メロディや和音、調性などにも回帰 性やフレーズ性が見て取られるのだから、音楽に おいては、美術や文学作品などと比べてきわめて 多くの階層における多層的同期が可能となり(中 村 186)、それは、日本舞踊においても変わらな い(中村 233)。だが、音楽とダンスとの関わり 方は、さらに複雑な形を取ることができる。 (3)ダンスと音楽 音楽は、リズム、メロディ、和音、調性など、 それ自体のうちに、自己展開する推進力をもって おり、しかも、その作用は聴衆の身体や精神をも 巻き込む。それゆえ、舞踊公演におけるダンサー は、音楽の諸相がもつ推進力に、いわばわが身を あずけ、あるいはそれに牽引され、「のる」こと によって、それがない場合よりもはるかに容易に 19 身体をコントロールすることができる。そして一 方、観客もまた、ダンサーが「のって」いるのと 同じ曲に浸された空間に居合わせることによっ て、推進力や律動をダンサーと共有し、それどこ ろか、ダンサーとおなじ身体的反応をみずから体 験する。しかも、こうした多層的動機、共振は、 先にみたように、リズムやメロディだけでなく、 音型や音色、音の大きさなど、音楽がもつさまざ まな局面のすべてにおいて、原理的には、可能で あり、実際、多くのコンテンポラリーダンス作家 は、こうした音楽とダンスの関係を、意識的/無 意識的に利用し、その結果、ダンスと音楽との関 係もまた錯綜を極めることになる。 たとえば、ピナ・バウシュの《コンタクトホー フ》の幕切れ近くに、一人の女性に多くの男性が 近づき、彼女の頬を軽く叩いたり、鼻を軽くつま んだり、などするシーンがある。いちいちの動作 は、親愛の情を示し、相手を慰めたり、勇気づけ たりする動作だが、それが、大勢の男性によって、 しかも執拗に繰り返されるとき、もはやそれは愛 情ではなく、残酷な虐めに転化している。それは、 とりわけ女性観客にとっては、わが身を陵辱され るような痛みをおぼえるシーンだろう。バウシュ 得意の、反復による意味の反転がおこっているわ けだが、ここで問題は、このシーンに流れる曲が、 いかにも甘美なドイツ 1930 年代のキャバレー 音楽であることだ。曲の甘さとシーンの残酷さは、 明らかに齟齬を来している。この演出をどのよう に理解すればいいのだろうか。 《コンタクトホーフ》の例に見られるとおり、 ダンスと音楽とのあいだには多様な関係が可能 であり、これを、サリー・ベインズは「音楽[を ともなった/にのった/のなかでの/について の/以前の/にしたがった/に反した/に立ち 向かう/から逃れる/なしの]ダンス」と言いあ ら わ し た ( Dancing [with/on/in/over/before /after/against/to/away from/without] music)。 たとえば、『魔女の踊り』におけるマリー・ウィ グマンのように、激しいパーカッションに拮抗す るようなやり方が、「音楽に立ち向かうダンス」 であり、メロディがダンスの意味を決めてしまう やりかたが「音楽にのったダンス」、また、カニ ングハムとケージの場合のように、両者がほとん どまったく無関係であるようなケースが「音楽の 中でのダンス」、スコアなど形式的構成を中心に して組み立てられるのが「音楽についてのダン ス」、ダンサー自身が歌い、話し、読み、叫びな がら進められるのが「音楽をともなったダンス」、 舞台の上で作曲家がダンスを観ながら作曲する 試みが「音楽以前のダンス」、そして、 (はじめか ら、途中で、最後に)無音でおこなわれるのが「音 楽なしのダンス」と言えるだろう。 だが、どうしてこのようなさまざまな関係が、 ダンスと音楽との間に可能なのだろうか。ここで 一般に、耳に聞こえる音と目に見えるもの、視覚 的与件との関係を検討してみよう。そこには単純 な共振、同期以上のさまざまな関係があり、しか もそれをコンテンポラリーダンスは巧みに活用 していることがわかる。 耳に聞こえる音と目に見えるものとの多様な 関係を取り出すためには、ダンスとおなじく、視 覚と聴覚の綜合芸術である映画についての検討 が助けになる。実際、映画においては、視覚と聴 覚に関する多くの試みがなされ、また、それにつ いての研究も蓄積されているからだ。しかも、映 画創生期において、バレエの手法を映画に導入し たり、バレリーナが主役となったりなど、映画と ダンス、そして音楽は「縁続き」とさえ言われる (シオン、1993、146、シオン、2002、22)。 もちろん映画とダンスには違いもある。バラー ジュは、映画と演劇との違いとして、映画では自 由に操作・変更しうる空間分割、観客の視点や距 離、そして編集が、演劇においては固定されてい ると述べ(バラージュ 334)、そのことは、通 常の舞踊作品にも当てはまる。とはいえ、先にみ た《パレルモ・パレルモ》がそうであったように、 とりわけバウシュ的タンツテアターにおいては、 異なるシーンが同時進行するなどして、同一舞台 空間が自由に分割される。また、コンドルズ公演 に登場する「お千代ちゃん」人形、珍しいキノコ 舞踊団などに観られる客席でのダンスなどにみ られるように、観客と対象物との距離や視点も、 映画ほど自由ではないものの、操作可能である。 距離や視点の操作のためには、人体をきわめて近 距離から映した映像を大スクリーンに投影する ラ・ラ・ラ・ヒューマンステップス《ソルト》や キリアン作品など、90 年代以降のコンテンポラ リーダンスにしばしば登場する映像、また、鏡も 有効である。たとえば、シャルロワ・カンパニー の 1996 年の作品では、ラインダンスをおどるダ ンサーたちの頭上に、斜めの鏡を仕掛けることに よって、同一対象を正面と上方という二つの視角 から見せ、ダンスそのものを異化した。また、照 明の検討の際にも触れたとおり、同一舞台におけ る、無関係な二つの対象物のあいだの照明を切り 替えたり、同一シーンを繰り返したり、あるいは、 時間を逆行することによって、モンタージュと同 じ効果を生むことは可能である(シヴェルブシュ、 1997、194、バラージュ 164)。実際、バウシュ は、きわめて早い時期からモンタージュなど映画 的手法を作品に導入していた。映画初期とは異な る意味においてであるにしても、コンテンポラリ ーダンスにおいては、ふたたび、映画とダンスと の距離が接近している。 20 だが、それでは映画において音と視覚的与件は どのように関係し、どのような効果を上げている のだろうか。 第一に、音によって、映像/舞台のシーンや対 象物のリアリティを操作しうる。 音によってリアリティが与えられる効果(シオ ン、1993、4)の、もっともわかりやすい例は、 《スター・ウォーズ》シリーズに登場する「ライ トサーベル」である(シオン 69)。CG 演出であ ることがわかっていても、波動音がそれと同期す ることによって、光の剣が物理的実質をもつもの に見える。 「物体に音が生命を吹き込む」 (シオン 70)のである。舞踊において、曲と動きがあま りにも同期した演出は「ミッキーマウシング」 (シ オン 1993、142、2002、79、105)とよばれ、 侮蔑の対象となる。ただ、 『ラインの黄金』 『ダフ ニスとクロエ』 『中国の不思議な役人』 『ベレアス とメリザンド』『魔笛』など、多くのオペラや古 典的バレエ作品において、音と曲の同期がポジテ ィブな効果を生んでいることは確かであり(シオ ン、2002、79、105)、さらに、コンテンポラリ ーダンスにおいては、この効果がさらに捻りを加 えて用いられる。川村美紀子(《ヘビの心臓》)が、 僧侶の読経にあわせたダンスのあと、鳴り響く 子とともに、ボクシングのパンチを繰り出したシ ーンは、音の響きを利用して、動作に「生命」を 得ながら、音とモノとの関係をまったく予想を超 えた仕方で読み替えた例である。 一方、映画における騒音(バラージュ 285)の ように、音によって現実感を奪うこともできる (シオン 11)。たとえば、《天地》など、バウシ ュのいくつかの作品に登場する虫の音は、前後の 文脈を超えた非現実の空間を生む効果がある。 あるいは、外界の状況とは無関係になる曲が、 登場人物の心理を描写するなど、「主観的な音」 「夢想される音」 (シオン 36)が活用されること も多い。中村蓉《別れの詩》(2013)で、小津作品 の台詞を利用して、父娘の関係を描く叙事的シー クエンスの後、照明を赤く変え、前後と無関係な 叙情的曲とともに展開したダンスは、前後と切り 離された心理描写であった。 最後に、ディズニー映画における唾の大音響 (バラージュ 333)のように、「ありえない音」 が効果を生むこともある。たとえばジョナサン・ バロウズの 90 年代の作品では、飴をつつむセル ロイドの擦過音が劇場中に響くことによって、ま るで、劇場がだれかのポケットのなかにあるかの ような錯覚が生まれた。 第二に、映画においては、フレームと音との関 係が問題となる。スクリーンに映っている人物の 声と、映ってはいないがすぐ横にいる人物の声の ような「外/内(off/on)」の区別(シオン 8)、 また、映っている人物にも聞こえている音と、観 客には聞こえるが人物には聞こえていない音と のあいだの「オン/オフ」 (シオン 30)の区別で ある。後者は、場面内で響き、登場人物にも聞こ える音と、登場人物には聞こえない注釈的音の区 別ともされる(シオン 214)。ダンスの場合、先 のベインズの分類における、音楽にのったダンス と、カニングハムとケージにおける、音楽の中で のダンスが「オン/オフ」の区別に対応する。と はいえ、カニングハム/ケージにみられるとおり、 それは「場面内/注釈」の区別にはあたらない。 一方、フレームの「外/内」にあたる、場面の「外 /内」は、舞踊の場合、逆に、同じ曲が続く中で、 ダンサーやアンサンブルが目に見えるステージ の内外を自由に行き来し、それによってダイナミ ズムを生み出す、ポール・テイラーやクランコの 振付のような、逆転された形を取る。 注釈的音は、映画の場合、ひとつの場面の中で 音楽を変えないことによってシーンの統一を生 み(バラージュ 68)、あるいは逆に、曲の切替に よって場面や心理の変化を示し、映像が変わって も同じ曲が続くことによって状況や空間の連続 性を示す「ナレーティブ・キュレーティング」 (シ オン、2002、103)として重要な役割を果たす。 舞踊においてもまた、一作品に一曲しか用いられ ないことが多かったモダンダンス作品とは異な り、一作品に複数の曲が用いられるのが普通であ るコンテンポラリーダンスにおいては、一場面一 曲という原則すら守られないことがある。バウシ ュ《スウィート・マンボ》や KENTARO!!作品に おいては、一つの同じ曲が続く中で、ダンサーや シーンが変わり、あるいは照明や動きの質が変化 するのである。もちろん、モーツァルトにみられ るように、序奏部から展開部へと進む中で、神経 質だった曲調が表現的となり、活気をもち、やが て勝利のファンファーレにいたるといった情動 の結合が見られるのは事実であり(ローゼン 58)、 一作品一曲のマーサ・グレアム《迷宮への使者》 においても、シーンの進行とともに曲の表情は、 深刻な曲調から軽い曲調へ、激しい曲調から安堵 へと変化する。だが、バウシュや KENTARO!! の場合には、同じ曲の同じようなフレーズの繰り 返しの中で、同じ曲調の音が、それに相伴う動き によって異なる表情を帯びるのである。 第三に、音や音楽は、画面や舞台の全体だけで なく、むしろ、その中に登場する特定の対象物と の間に強い関係をもち、ここに、音と目に見える ものとの関係の大きな特徴がある。先に述べたと おり、《スター・ウォーズ》における戦闘シーン で、振動音は、主人公達がもつライトサーベルの 音と聞こえ、シーン全体、あるいは、そこに見え る他の対象物の音には聞こえない。音が、画面や 21 舞台の特定対象物に位置づけられる(シオン 27)、 Lokalisierung(局在化、Husserl)のメカニズム が働くのである。舞台でも映写会場でも、音源は スピーカーだが、音の知覚と音源の特定は別物で ある(バラージュ 305)。 舞踊において、ダンサーの身体とその動きと音 楽が共振するのは、このメカニズムのおかげであ る。観客からみて、音楽がダンスに「生命を吹き 込み」、あるいは動きが音楽の表情を変えるのは、 舞台上で動くものであるダンサーに音が局在化 されるからだ。KENTARO!!や珍しいキノコ舞踊 団の作品では、これと擬音効果が組み合わさるこ とによって、コミカルな効果がうまれる。バウシ ュの《ヴィクトール》において繰り返される、床 に腰を下ろしたソロの後、「私はヴィクトール… …」という男声の台詞(ヤン・ミナリク)が、顔 を上げたエレーナ・ピコンの口から出ているよう に聞こえるのもおなじメカニズムによる。 一方、画面や舞台上の対象物や動きとあえて無 関係にすることによって、 「場所がわからない音」 (シオン 39)が可能となる。カリーヌ・サポル タや伊藤郁女の作品では、それぞれ、舞台には存 在しない汽車の車輪音や汽笛音が響くことによ って、「旅」「遠い場所」「異国」といった世界が 立ち上がる。このメカニズムを用いることによっ て、さらに、別の次元からの呼びかけ(シオン 41、51)であるかのような効果も生まれる。先 にも触れたナセラ・ベセラ、リア・ロドリゲス作 品、バウシュの《ネフェス》などにおいては、広 大な舞台空間あるいは真の闇が支配する舞台に 現実離れした音や、スケールの大きな曲が流れる ことによって、「宇宙の深奥を聞く」(中村 iii) 効果が生まれた。 特定の対象物と音を関係づけることができる ということは、逆に、分離することもできる、と いうことである。道を歩く人物の心臓音だけを流 す(シオン 66)、画面には群衆が映っていながら、 そのなかの特定の二人の会話だけを聞かせる、な どといった仕方で、視覚的対象と聴取点の分離が 図られる(シオン 63∼)。コンテンポラリーダン スにおいても、先に挙げたジョナサン・バロウズ の舞台における飴の包み紙の擦過音、また、バウ シュの作品にしばしば登場する、激しく身体を動 かしたり、だれかを大声で怒鳴りつけたりしたダ ンサーの胸に、別のダンサーがマイクをあてて心 臓音を拾う、などの例がある。 先にも引用したように、メルロ=ポンティは、 「音楽会場で、閉じていた目を開くとき、空間は いままで音楽が繰り広げられていたあの別の空 間とくらべてせまく感じる」 (Ⅱ30)と述べてい た。映画でも、たとえば登山のシーンで、ハーケ ンをうつハンマー音によって空間を縮め、あるい は、同じ場面にクラシック曲を流すことによって 壮大感をだすなど、音によって空間を膨張、圧縮、 凝固することができる(シオン 209)。バウシュ 《コンタクトホーフ》のラストシーンでは、女性 を虐めていた男性達が、横からあらわれた「美人」 (アンヌ・マルタン)の後をついていくうちに、 男女入り交じってのサークルダンスになり、曲が 消えて足音が聞こえた後、暗転し、最後は暗い劇 場に足音だけが響く。ここでは、特定の対象物へ の帰属を失った音が、舞台を超えて劇場空間全体 に拡がり、無限の広さを感じさせるとともに、な にをしていても最後はダンスに戻るダンサー達 の決意が観客の胸に響くのである。 第四に、当然のことながら音楽は、作品のナラ ティブな内容と関係をもつ。適切な曲調によって、 「クライマックス」「カタストロフ」「荘厳」「不 安」「切迫感」「緊張」「追跡」「格闘」「熱情」な どの「意味」を音楽はもつことができる(シオン 165)。グレアム《迷宮への使者》にみられると おり、「物語化された音」(シオン 104)、人物や シーンを性格づける効果音(シオン 115)は「図 像性」をもち、動作や動きの性質との協働によっ て、言葉なしでストーリーを編む。最低限、分散 や不連続と、煽りの効いた曲によるクライマック スのコントラスト(シオン?179∼180)は、比 較的シンプルな構成のコンテンポラリーダンス でもしばしばみることができる。 とはいえ、コンテンポラリーダンスにおいて特 徴的なのは、こうしたシーンや動きの意味に合致 した曲使いではなく、むしろ、「非感情移入的」 (シオン 169)用法だ。本節はじめに触れたバウ シュ《コンタクトホーフ》の「虐め」シーンで甘 美な歌が流れているのは、その典型的な例である。 主人公を悲劇が襲っているまさにその瞬間に、ま ったく無関係なラジオから幸福そうな音声や音 楽が流れることによって、ひとびとの思いには頓 着せずに進む、巨大な世界の無慈悲さが強調され、 かえって感情は強化される(シオン 170∼)。こ の用法は、多くの映画で用いられ、また、「音楽 は生活を無視する」とのべた伊福部(140)にな らえば、むしろリアルですらある。 最後に、音楽は、作品中で繰り返し使われるこ とによって「デジャビュ」感を生み(バラージュ 123)、作品時間を複雑化させることに貢献する。 バウシュ《ヴィクトール》においては、地中海民 謡によるエレーナ・ピコンのダンスが何度も繰り 返されることによって、相互に無関係な無数のシ ーンがつぎつぎに現れては消える作品進行にひ とつの拠り所をつくり、それが、最後に、今度は 別な曲にかわり、ダンサー全員がそれに参加する ダンスになることによって、長い時間がたったと いう実感が一気に迫ってくる。トマス・マン『ブ 22 ッデンブローク家のひとびと』において、一族の アイドル的存在であるトーニは、娘の頃、海水浴 にいき、ヒトデを見て興奮する。この小さな挿話 は、一族を襲う波乱の連続の中ではすぐに忘れ去 れてしまうだろう。だが、結婚と離婚、一族の没 落をへてすっかり落魄の老女となったトーニが 家を出ようとする馬車のなかでふとヒトデを見 つけるとき、読者は、トーニとブッデンブローク 家のひとびと(そして読者)が辿ってきた時の長 さを一気に実感する。それと同じ効果を、《ヴィ クトール》のラストシーンは生むのである。 Ⅳ コンテンポラリーダンスを味わう コンテンポラリーダンスにおいては、本稿であ つかった照明と音楽のほか、冒頭でも述べたよう に、多くの要素が複雑に絡み合って、作品となっ ている。その他の要素について瞥見しておこう。 (1)映像・衣装・装置・身体 90 年代以降、ニブロールやレニ・バッソ、nest の作品などでしばしば用いられた映像は、えてし て空白になる舞台の垂直平面を埋め、空間に速度 や密度を生む造形性をもつだけではない。ピナ・ バウシュは、「映像によっていろんな所に自由に 行ける」と言った(インタビュー、また、三浦 7) が、実際、北村明子《To Belong》においては、 インドネシアの人物、風景の映像が、鳥の声など の効果音、ダンサー達の身体とあいまって、熱帯 雨林の空気をシアタートラムに導いた。さらに、 バウシュ《アクア》においては、沖の荒波に揉ま れる漁船に固定されたカメラの映像が、空を映し たかと思うと、一気に波の谷間を映し、それによ って、劇場空間そのものを上下に翻弄した。「バ ーチャル」と言われる映像の身体だが、皮膚の肌 理まで映す大スクリーンの身体は、遠い舞台上の 「現実の」身体より、はるかに「リアル」であり、 その効果は、ラ・ラ・ラ・ヒューマンステップス やキリアンなどによってしばしば用いられた。 古典的舞踊作品では、身分や役割、 (「宮殿」 「山 村」などの)状況を示すための記号として用いら れた衣装や装置だが、すでにロイ・フラーは、さ まざまに色を変える照明光のスクリーンとして 用い、また、カニングハムは、あえてレオタード を用いることによって、各ダンサーの身体以外の 特性を奪い去った。バウシュにおいて装置は、ダ ンサーの足場をあえて悪くして、危険を生み、あ るいは、ホンコンフラワーの「山」が「スキー場」 や「隠れ家」など、さまざまに変化する《フェン スタープッツァー》のように、空間に変化を生む ツールとなる。また、やはりバウシュ作品の女性 ダンサーが身に纏う、色とりどりのドレスは、鮮 やかな色の美しさや、風で舞う、その独特の動き で、女性のアンサンブルシーンに彩りをそえ、ま た、華やかなドレスでおかしなことをするギャッ プで、おのずとユーモアを生む。 コンテンポラリーダンスにおいては、身体もま た、バレエやモダンダンスのように、超人的技法 を備えた強く、美しい身体であるばかりではない。 バレエを基本とするフォーサイスであってすら、 (ダナ・カスパーセンのように)そこに登場する 身体は黙示録的で奇怪な非人間的身体である。ヴ ィム・ヴァンデケイビュスやラ・ラ・ラ・ヒュー マンステップスらの作品においては、身体を床に 水平にしてジャンプし、そのまま床に落下する、 など、暴力性が登場し、グザヴィエ・ルロワやジ ェローム・ベルの舞台には、臓器売買や人体売買、 裸体、ジェンダーやセクシャリティ、さらに、背 中しか見えない奇怪身体など、ありとあらゆる身 体が登場する。すでに 70 年代のバウシュ作品に おいては、先に述べた心臓音シーンのように、身 体の内部を可視化し、あるいは《カーネーション》 に登場する、人間としてのもっとも内的なもので ある感情表現を他人に操作される人物(ドミニ ク・マーシー)や、《ヴィクトール》における結 婚シーンのように、受動的に操作される人物など が登場する。これは、操作の対象となるチャプリ ン(三浦 80)とも遠く共鳴する。 こうした諸要素が組みあわされることによっ て、さらに作品全体の時間や空間にもまた、さま ざまなヴァリエーションが生まれる。古典的舞踊 作品においては、ストーリーや音楽の直線的時間 (「起承転結」)が支配的であったのに対して、経 過 し た 時 間 が 巻 き 戻 さ れ る 白 井 剛 《 Living Room》や、先に触れた、通過した時間が重みを 持って実感される《ヴィクトール》など、時間構 造もさまざまな仕方で操作される。全体構成の原 理としても、一見、無秩序に見えながら、各シー ンの各要素が、思いがけない仕方でつながり合う 「薔薇の花冠(Rosenkranz)」(バウシュ)のよう な手法が生まれ、あるいは、《市民ケーン》でメ ディアの枠組を操作したヒッチコック(三浦 140-2)のように、観客席を舞台にしたり、映像 を用いたり、あるいは、ダンスについてのダンス (「メタ・ダンス」)を仕掛けるなどの手法が、珍 しいキノコ舞踊団、山田うん《季節のない街》な どによってとられている。 (2)コンテンポラリーダンスの観客であること 音楽においては、リズムやメロディ、和音、音 色などの諸要素が、それ自体のうちに、また、相 互のあいだで不均衡、不安定をはらむことによっ 23 て推進力がうまれ、諸要素同士のあいだに同期、 共振、同調がおこる。音楽とその諸要素は、観客 とダンサーの身体とも同期し、さらに、ダンサー の動きの方向や強さ、リズムが音楽と同期するこ とによって、さらに大きな力を観客におよぼす。 そこには、同期による共振、同調が生じ、さらに それが裏切られることによって、引き込みの力が、 多層的・多重的に生じている。 近代的な作者性、作品の自己完結性を前提とす る立場からすれば、こうした観客への効果はいか がわしいものにすぎず、それをフリードは「劇場 性」とよんで批判した。だが、バウシュのタンツ テアター以来のコンテンポラリーダンスの美学 とは、まさに劇場性にある。 そもそも、劇場性は音楽や映画などにも共通し た特性である。音は、ある媒質における圧力変化 が聴覚によってとらえられたもの(中村 7)であ り、それは、音量、音高、時間的位置(中村 18) などによって構造化される。音楽は、観客をも巻 き込むものである(シオン 20)。映画もまた、観 客の身体感覚を刺激し(三浦 9、194)、その身 体に働きかける(塚田 v、北野圭介「映画は身体 を巻き込む」『日本経済新聞』平成 24 年5月3 1日)。そもそも、古来の芸能もまた、参加者に 効果をもたらす演算装置だった(諏訪 212、25)。 西洋においても、古来の修辞学は、裁判官などの 読者の心をいかに動かすかを問題にした。エドガ ー・アラン・ポーによれば、詩をはじめとする芸 術作品の存立意味は効果にしかない(三浦 134 5)。タンツテアターは、当初考えられたように、 演劇的主張を伴う(クルト・ヨース《緑のテーブ ル》のような)ダンスでも、(台詞など)演劇的手 法を伴うダンスでもなく、観客席を含む劇場(「テ アター」)そのものをダンスに巻き込む手法なの である。 劇場全体をダンスに巻き込むために、コンテン ポラリーダンスにおいては、さまざまな引き込み のフックが仕掛けられる。しかも、それは、通常、 ダンス作品を見るものが期待するダンサーやそ の身体、動きだけではなく、照明や音楽、映像、 衣装など、さまざまな場所に仕掛けられ、通常、 観客はそれに気づくことすらない。メルロ=ポン ティが述べたように、照明は、通常の知覚の対象 になることなく、視線を導くが、同様のことは音 楽や衣装などについても言えるからだ。照明や音 楽、動きの効果を観客は非分析的に味わうだけで あり、そしてそれで十分である。 ジョン・アシュフォードは、演劇はまだるっこ しく(slow)、ダンスは手っ取り早い(fast)と 述べた(ヒアリング報告参照)。ジュネットが述 べたように、長々とした『失われた時を求めて』 も「マルセルは作家になった」という一文に要約 しうる。極論すれば、演劇作品とは、一つの文に 要約される内容を 2 時間かけて観客に伝える試 みなのだ。それに対して、バウシュ作品に典型的 に見られるように、コンテンポラリーダンス作品 を一文に要約することは不可能であり、すべては、 メッセージをつたえるべき媒体のレベルでおこ っている。それゆえ、観客は、その作品を要約し、 消化、消費しつくすことができない。 オリバー・サックスは、道を歩きながらすれち がう人々の表情にいちいち反応し、顔の表情がめ まぐるしく変わってしまう老婆について報告し ている。その都度のフックに知らず知らずのうち に反応するダンス観客は、この老婆よりははるか に小規模な形ではあっても、原理的には同じ状況 に置かれている。ダンスを見て「疲れる」と言わ れるのは当然なのである。もちろん、コンテンポ ラリーダンスは、その疲れをはるかに凌駕する悦 びを、観客に贈る。照明や音楽などとダンスの関 係をあきらかにした本稿は、この悦びの内実を少 しでもあきらかにするための試みである。 引用文献 伊福部昭『音楽入門』全音楽譜出版社、2003. 岡田暁生『音楽の聴き方:聴く型と趣味を語る言葉』中 公新書、2009. 金子一朗『挑戦するピアニスト:独学の流儀』(春秋社) 2009. E.W.サイード『音楽のエラボレーション』大橋洋一、み すず書房、1995. 椎名亮輔『音楽的時間の変容』現代思潮新社、2005. ヴォルフガング・シヴェルブシュ『闇をひらく光:19 世 紀における照明の歴史』小川さくえ、法政大学出版局、 1988. シヴェルブシュ『光と影のドラマトゥルギー:20 世紀に おける電気照明の登場』小川さくえ、法政大学出版局、 1997. ミシェル・シオン『映画にとって音とはなにか』河竹英 克、J.ピノン訳、勁草書房、1993. ミシェル・シオン『映画の音楽』小沼純一、北村眞澄監 訳、みすず書房、2002. 諏訪淳一郎『パフォーマンスの音楽人類学』勁草書房、 2012. 田村和紀夫『音楽とは何か:ミューズの扉を開く七つの 鍵』(講談社選書メチエ)、2012. チェルビダッケ『音楽の現象学』石原良也、鬼頭容子、 アルファベータ、2006. 塚田幸光編著『映画の身体論』ミネルヴァ書房. 外山紀久子『帰宅しない放蕩娘』勁草書房、1999. 中村明一『倍音:音・ことば・身体の文化誌』春秋社、 2010. ベラ・バラージュ『映画の理論』佐々木基一、學藝書林、 1992/2008. 三浦哲哉『サスペンス映画史』みすず書房、2012. メルロ=ポンティ『知覚の現象学』竹内ほか訳、みすず 書房、1974. 山下尚一『ジゼール・ブルレ研究:音楽的時間・身体・リ 24 ズム』ナカニシヤ出版、2012. 吉見俊哉『「声」の資本主義:電話・ラジオ・蓄音機の社会 史』講談社選書メチエ、1995/2002. チャールズ・ローゼン『音楽と感情』朝倉和子、みすず 書房、2011. Banes, Sally, Writing Dancing in the Age of Postmodernism, Wesleyan UP., 1994. Husserl, E., Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie, Zweites Buch, hrsg. von W. Biemel, Nijhoff/Kluwer Academic Publishers, 1952. インプロヴィゼーションにおけるダンスと音楽の産出システム 石渕 聡 インプロヴィゼーション(注 1)については、 ダンスにせよ音楽にせよ謎に包まれている部分 が多い。その理由の一つは、インプロヴィゼーシ ョンが「創作」の領域に踏み込んでいるからであ ろう。振付けや演技等、与えられたタスクをうま くこなすということに対して、我々はその成果に 驚きや賞賛を与えるが、それは「つくりだす」こ ととは明らかに別次元のものである。ここでは感 性やひらめき等の領域で語られる事の多い「つく りだす」ことについて、インプロヴィゼーション という場で何が起こっているかを分析し、ダンス と音楽の産出のモデルシステムを構築する。 Ⅰ 楽譜にみる作曲のシステム 即興演奏は、ジャズやブルース、民族音楽等で 行われている演奏技術である(注 2)。また、明 らかに即興形式を含むジャズでなくても、バンド 形態の音楽であれば、ソロパート(リード旋律部 分)をとる場合や、フレーズの変わり目のリズム のフィルインの部分など、ライブでは即興的に行 われているものが多い。また、オーケストラなど のように、楽器の数やパートが多く、指揮者のも とにつくられるような音楽は、和声、旋律の縛り が強く、即興に向かう自由度は極めて低いといえ る(注 3)。即興とそうでないものを分ける基準 としては、単純に語の意味のごとく「その場でつ くりながらの演奏(即興)」と「過去に作られた 音楽の演奏(即興ではない)」を挙げることがで きる。 過去に作られた音楽を演奏する場合、もっとも 単純な例として、「楽譜演奏」がある。演奏者が 楽譜(注 4)を演奏するということは、どのよう な事態なのか。そもそも、楽譜とは何が書かれて おり、どのような機能をもっているのか。まず、 楽譜は「過去に誰かが書いた」ものである。ベー トーベンのピアノソナタを弾くということは、二 百余年前に、ベートーベンが作った曲を一音符の 狂いなく、「再現」するということになる。時間 空間を越えて、ベートーベンの作品が現出する わけである。その場合、楽譜演奏における楽譜と 演奏者は、文章作品と読者の関係と似ている。た だ、「文章を読む」ことが、作品享受の最終段階 である事に対して、楽譜演奏は「譜を読む」演奏 者の演奏を、 「観客が享受する」ことになるから、 演奏者が「作曲者と観客の仲介者」となっている。 25 つまり、楽譜の第一の機能とは、音楽の伝達シス テムの中途段階にあらわれる、「演奏再現性」で ある。また、文章を読む場合は、文章自体が享受 対象に含まれる(読者が目にする)が、楽譜は観 客の享受する対象外にある。 また、文字が「音声無き言葉」であるように、 楽譜が「音の無い音楽」として機能している点は、 留意されるべきである。楽譜を読む能力のあるも のであれば、演奏をしなくても、楽譜を見るだけ で、頭の中で音楽が流れる。この音は物理的に空 気が振動して、聴覚可能なものではない。つまり 心の中で音を思い浮かべる様相が「一度聞いた音 楽を思い出すレベル」のものとは一線を画してい るということだ。誰かが「五線紙に四分音符でド レミソミド」と書き付けて、読譜能力のある者に 手渡したとするならば、「まだ一度も発音されて いないドレミソミド」が聴覚表象されるはずであ る。楽譜を読むものは、読書と同じような作品享 受者となる。この「イメージにおける再現性」は 楽譜の第二の機能として捉えられる。 ここで言葉と楽譜を記号の視点から比較して おくことは、有意義な事であろう。書き言葉が発 生的に「音声言語が視覚記号化したもの」と捉え るならば、それは「音が視覚記号化した」楽譜と 軌を一にすると言える。しかしながら、決定的な 違いは、楽譜が示す音声が音楽それ自体である事 に対して、言語の場合は書き言葉が示すことは、 例え発生的にはそうだとしても、文字に対応した 音声が主要目的なのではなく、文字言語に対応し た「言語の指示対象」である。例えば、文章を黙 読する場合、心の中に音声が流れない場合がある。 すなわち、言語は音声(聴覚)と文字(視覚)の 2つの媒体を持っており、それぞれに伝達の経路 を持っているのである(注 5)。この記号構造の 違いは楽譜の特徴としてはもっとも留意すべき 点である。 では具体的に、楽譜は、どのような情報を伝達 するのか。まず、1オクターブ12音に区切られ た音階における音の高さ、それと、音の長さ、あ と、拍子という時間列に沿っての、発音する場所 である。(注6)フォルテ、ピアノなどの強弱記 号や、ラレンタンド、クレシェンドなどの表情記 号は説明的言語記号に近いものなので、楽譜記号 に本質的でないものとして、ここでは除外しても よい。この単純な、音の高さ/音の長さ/発音場 所という、たった3つの異なる情報のみを伝える 「楽譜のシステム」に、実際に演奏された音を聞 かなくても、例えば、リズム、旋律、和音構成、 カウンターメロディ、部分転調などような、作曲 家が工夫し構築した細かな部分を見て取る事が できる。楽譜は、第一の機能で実際の音を再現し、 第二の機能で現実に演奏される音から独立して、 実現される事のない心象の中の音楽として作曲 家の意図を伝える。楽譜自体が一つの作品である とも捉えることが可能である。 一方で、楽譜が伝えない情報とは何であろうか。 確実に言える事は、個々人の演奏のニュアンスや、 タッチと呼ばれるような個性が出てくるような 部分には、3つの情報からなる楽譜システムは触 れていない。書き言葉も「話し言葉」の記号と見 るならば、声色や態度、表情などを再現できない が、一字一句を厳密に伝えるという点は楽譜と似 ている。この「楽譜システム」は「作曲」と「演 奏」を切り離し、作曲を「楽譜で伝える情報」と し、演奏を「楽譜で伝えられない情報」に分別し ていると捉えられる(注 7)。つまり、作曲領域 を示す楽譜システムは、個性表現ともいえる演奏 のレベルを放置しているのである。このように、 楽譜は抽象的な記号表現となる事で、音符を並べ 作る作業を演奏家の領域から遠ざけ、また、楽典 のような楽譜内理論を発達させ、それが逆に作曲 家のやるべき事を限定している構造を見出せる。 したがって、楽譜は作曲家の作業領域を限定し、 「作るという意味における」音楽産出の一つのシ ステムを表しているものと捉えることができる。 Ⅱ 振付けが示す「作りのシステム」の曖 昧性 ダンスにおいても、即興は様々なジャンルのダ ンスに見られ、コンテンポラリーダンスおいても、 それ以前既に70年代スティーブ・パクストンら のコンタクトインプロヴィゼーション(相互に体 重をまかせ合い、そこで偶発的に生まれる動きの 流れに沿っていくようなダンス)の実践などを経 ていたので(注 8)、成立当初から、インプロヴ ィゼーションに対する技術的な消化は存在して いたと見てよいであろう。コンテンポラリーダン スの多くの作品が、程度の差はあれ、「即興の部 分」を含んでいる事実も「即興」が一般的な技術 となっていることを示している。また、我々はダ ンサーが実際「即興で踊っているかどうか」は明 確には分からなくても、「即興っぽい振り」とい うのは、見て取る事が出来る。そのことは見る側 においても「即興振り」という一つのモデルが形 成されていることになる。音楽の場合と同じよう に、即興かそうでないかを分ける基準としては、 「過去に作られたものを踊る」のではなく「その 26 場で作っているかどうか」を設けておく。 まず、過去のダンスを再現させるものとして、 「ダンサーがそれを踊る」という役割をもって、 楽譜に相当するものを振付けに求める事は可能 である。ただ、振付けは「物的に残るものではな い」という問題は楽譜や言語と大きく異なってい る。この特質は、楽譜のような「一音違わず」と いうような精密な伝達システムを持たないこと に通じるものである。ダンスの再現は、誰かが振 付けを覚えていて、 「振り渡し」をするか、VTR などで、「振り起こし」をすることによって、よ うやくこぎ着けることになる。 また、厳密な意味で舞踊譜という場合、ラバノ ーテーション等の記譜法(身体の運動を記号を使 って紙の上に記録していく方法)を挙げる事がで きる。ただ、音楽に対する楽譜の再現性と比べる と、その精度には限界がある。もっとも、精度云々 の比較をするのも無理な事で、楽譜が、音程、音 長、発音のタイミングのたった3点のみ(BPM =速度記号を加えると4点だが、BPM も表情記 号同様、楽譜本来の記号システムではなく、言語 的な説明領域となる)で、その任務をほぼ果たし 終えているのに対し、振付けの場合は、同じ発想 では、記号変換をするのに何十、何百の項目をた てればよいのか見当すらつかない。つまり、身体 の運動を記号化するため、可動に関係する全ての 関節の角度を表したり、重心を入力したり、それ は、二足歩行ロボットの動作プログラミングにも 匹敵するような煩雑なことになってしまうので ある。結局現実的には、作品の再現/保管という 役割におけるダンスにとっての譜面は、VTR か 記憶ということに帰着する。 情報量の違いによって譜面が一枚の紙となる か、記憶の中の情報になるかの違いは少なからず あるにせよ、楽譜の示す「音なき音楽の再現」の 機能(第二の機能)は、ダンスの場合、いかなる ものであろうか。通常、ダンサーは、記憶の中に 振付けとして保持しているものが再現され、踊ら なくてもそれを「イメージトレーニング」のよう なものとして想起しうる。なので、「音なき音楽 表象」と「身体なきダンス表象」は役割的にも相 当するものとして捉えることはできる。しかし、 楽譜は聴覚情報が視覚的記号に「変換」されてい たことに対して、振付けは、そもそもそれ自体が、 ダンサーの記憶の中にある「身体なきダンス」で ある。つまり、楽譜が変換データであったことに たいして、振付けは「ロー(Raw)データ」なの である。(触覚的体験を視覚的情報に変換すると いう捉え方も不可能ではないが、時間軸にそって 空間的な形象を変化させていく振付け情報は、も とから視覚的情報として捉えておく方がよいで あろう)。この事実は、演奏主体を完全に排除し た記号である譜面が「誰も聞いた事の無い音楽を 聴覚表象させる」ことと比べると、ダンスの振付 けは「誰かが踊っている振付けを想起する」とい うレベルにとどまらせてしまうということであ る。ダンサーが作品の再演の際に振付けを思い出 す作業も、 「誰かが踊っている」、その誰かは自分 であったり、想起する振付けのイメージは、舞台 に立った側の視線や、振付家から振りつけられた 際の振りのイメージなどから逃れる事はできな い。つまり、ダンスの振付けの記録は「現実から 逃れる事」ができないのだ。音楽の場合は、楽譜 が完全な記号となっている事で、そこに演奏を離 れた堅固な(あるいは空虚なといっても符合する かもしれない)作曲のシステムを見出す事が出来 た。しかしながら、ダンスの場合、ローデータ(= 現実)が強すぎて、音楽のような作曲システムを 切り離して見出す事は困難であることがわかる。 このように楽譜の示す「作りのシステム」は明 確であったことに対して、振付けの示す「作りの システム」は、振付けの記号的性質から不明瞭で あることがわかる。また、振付家にとって楽譜や ドラマの脚本や建築の設計図などのような、作者 の意図を示す「紙」が存在しない事実も、「ダン スを作る」という事自体のノウハウや領域(どこ からどこまでが振付家の仕事かということ)を不 明瞭にすることを促しているのである。 これまで「楽譜」と「振付け」を音楽とダンス がそれぞれ「即興でない」ものの中で拠り所とす るものとして、「あらかじめするべき事を指示し ているもの」として分析してきた。両者は「作り のシステムの明瞭性」という点では大きく異なっ ている。しかし一方では、ある酷似した共通項を 見て取る事が出来る。例えば、松本じろが既成曲 を弾いても即興で演奏しても、彼自身の音色や雰 囲気はぶれなくあり続け、同様に、振付けを踊ろ うが即興をしようが、近藤良平は近藤良平であり、 黒田育世は彼女自身であることに抵触すること はない。つまり、雰囲気や踊り方のシャープさ、 しなやかさなどの個性に落とし込まれる要因は 不変なものとして捉えておくことが妥当である。 つまり、楽譜演奏者と即興演奏者は「演奏部分」 には本質的な差はなく、振付されたダンスと即興 ダンスの「踊る部分」も同様である。したがって、 即興は一見つかみ所が無く、パフォーマーの個性 や「人間的なオーラ」も全て含んでいるような、 議論しがたい領域であるかのような印象とは裏 腹に、ダンスや音楽の本質的な部分の一つを回避 して議論できるのである。つまり、即興の議論で 問題化されるべきは「演のレベル」ではなく、徹 頭徹尾「作るレベル」であり、音楽においてはシ ステムの明瞭な「楽譜相当部分」、ダンスにおい てはシステムの曖昧な「振付け相当部分」を舞台 27 上で「作る作業」を問題化することが重要なので ある。 Ⅲ 音楽理論の否定的肯定 ここではインプロヴィゼーションの中で、音楽 にせよダンスにせよ「過去に作られたもの」に代 わるものを、「その場で作っていく」メカニズム を分析する。音楽では、インプロヴィゼーション、 即興、あるいはアドリブと称される方法は、その 理論が確立している。例えば、ブルースを例にと ると、コード理論とスケール理論を学ぶ事で、1 時間もあれば、ピアノの未経験者でも、人差し指 一本で、鍵盤のアドリブが出来るようになる(も ちろん、善し悪しではなく、出来るか出来ないか の問題である)。ジャズ理論におけるコード進行 理論、アボイドノート(出してはいけない音)な ども同様で、音楽においては、ピアノの初学者が バイエル教則本から譜面の弾き方を学ぶがごと く、即興を学ぶカリキュラムも確立しているので ある。この音楽のもつ明晰さは、先ほど述べた、 「楽譜システムの明晰さ(音程、音長、発音のタ イミングのみを指示する)」に通ずるものであろ う。なので、シンプルで明晰な分、「間違いが明 らかに露呈する」のである。この「踏み外し」に 対する網の目こそが、理論の堅固さであって、次 に述べるダンスの即興には、その堅固さは明らか に欠如しているのである。 ダンスの即興は音楽とは異なり、明らかな方法 論が確立されている訳ではない。ウィリアム・フ ォーサイスのインプロヴィゼーションテクノロ ジー(注 9)も、分類的で理論的ではあり、また、 演劇などからも様々な即興の方法論が提唱され ている(注 10)。しかし、音楽と比べて、それら が堅固な理論として受け入れる事が難しいのは、 ダンスにおいて、即興が出来ないという事実はあ っても間違えたという事態が成立し難いことが 指摘できる。極端な例では、5歳児が音楽に合わ せて「めちゃくちゃ」に踊っていても、それはあ る意味ダンスの即興なのであって、「間違い」で はない。おそらくは、ダンスを作り出す事に関す る理論を、音楽のように、分数的調和的数学的な 分析理論で捉えようとすることは適切ではない のであろう。 ここで発動される別の視点は、音楽と舞踊に共 通した即興の一つの理論的枠組みとして吟味す る価値があると思われる。それは、 「組み合わせ」 という捉え方である。 まず、「組み合わせ」については、そのパーツ の細分化をどの程度まで分けていくかが問題で ある。例えば、短いギターのソロとダンスのソロ を考えてみよう。BPM120として、4拍子1 小節が 2 秒、12小節ブルースであれば、ひと 回し24秒、2回しするとして、24小節48秒 は、曲中でギターのソロメロディを構築するのに 可能な時間幅である。一方で、ダンスのソロも、 シーン中での48秒間は、客にひとまとまりのソ ロの時間幅として認知されるであろう。さて、 「組 み合わせ」という方法でここで両者が即興をする 方法として、普段から演者がよく行う「得意技」 とも呼んでもよいような短いフレーズを立て続 けに行う方法である。それは、ジャンルが持って いるような、例えば、リックとかイデオムと呼ば れたり、ダンスでは、バレエのピルエットやアラ ベスクなどの名のある技術等が分かりやすい例 である。また、そのような「共有財産」であるば かりではなく、個人的な「くせ」とも言うべきも のでも成立している。音楽では、よく「指癖」と いう言葉を耳にするのも事実である。この個人的 な短いフレーズはダンスでも音楽でも「ボキャブ ラリー」とか、 「引き出し」と呼ばれる事がある。 このような既に「出来合い」のパーツを時間系列 に従って、順序立てて、組みあげていくことを「組 み合わせ」のアプローチとする。「組み合わせ」 は、決してマイナスの意味ではなく、熟練者の条 件ともいってよいような、経験者の「資格」を作 っているとも言える。 先ほどの48秒のソロについて、例えば、ある ギター教則本に、アドリブソロの構成についての 説明が、以下のようにされている。「冒頭は、ハ イポジションで印象的な定番速弾きラン奏法(短 いフレーズを速く繰り返す弾き方)で、これから ソロが始まることを示す。その後、ローポジショ ンで、スローハンドのメロディアスな旋律を。後 半は、次第にハイポジションに移行して、速弾き で高まりを作って、ラストはハイポジションでチ ョーキング&ビブラートでソロをまとめる(注 11)」。このような説明は、即興演奏での「組み 合わせ」的思考が、方法論として一般化している ことを示している。仮にこれをダンスに読み替え るならば、「冒頭は、舞台手前で印象的なポーズ で、これからソロが始まることを示す。その後、 舞台下手後方から、スローな動きの叙情的なフレ ーズを。後半は、次第に上手手前に移行して、速 い動きで高まりを作って、ラストはセンターでポ ージングでソロをまとめる」、となる。この読み 替えた文章は無理なくダンスのソロを示したも のとして成立しているだろう(ダンサーが、この ような事を考えながら即興をしているというこ とでは決してない)。この当てはまり具合からも、 両者の作る方法としての「組み合わせ」の構造が 通底している事がわかる。 次に、「出来合い」のパーツでない部分がどの ようにして即興の中に組み込まれるかという問 28 題である。ここでも「組み込まれる」という構造 ではあるが、これは既に「その場で作られている」 パーツという即興の本質部分に踏み込んでいる。 実は先ほど示した例文に、「スローハンドのメロ ディアスな旋律」あるいは「スローな動きの叙情 的なフレーズ」のように、「出来合い」の組み合 わせというよりは、その場で作ることを示唆して いる表記もまぎれている。 音楽の場合、コードやスケールといった、踏み 外してはならない制約の存在に留意すべきであ る。この制約が逆に否定的肯定となって、その結 果、プレイヤーの自由になる音が指名されるので ある。つまり、制約によって12音より間引かれ た残りの一群の音達が、しかも一音一音が調性 (例えばイ長調等)の中で、根音(ルート)、2 度(不協和音)、短3度(短調を決定)、3度(長 調を決定)、減5度(ブルーノート)、5度(ルー トに対して短調/長調を留保できるパワーコー ド構成音)など、全てが異なる性質を持っている ものとして、プレイヤーの前に弾かれる可能性と して待機していることになる。もちろん、プレイ ヤーがこのような数学的把握を持って、それぞれ の音を位置づけているかどうかは、程度の差はあ るであろう。例えば、それが数字的な把握ではな く、長3度の音が明るいというイメージ、短3度 が暗いというイメージ、増5度が不安というイメ ージ等、音に対する感覚的なイメージの把握であ る。また、スケールの感覚的なイメージも重要な 要因であろう。マイナーペンタトニックスケール、 ハーモニックマイナースケールなど、スケールが 持つ印象は即興演奏では強力な構築要因となっ ているはずである。 このような音楽理論からくる制約が強ければ 強い程、プレイヤーの自由度は逆にあがる事にな る。弾いてはいけない音が決められているのであ るから、積極的に「弾くべき音」が手に入る事に なるからである。つまり、音楽の即興演奏の場合 は、楽器やジャンルを選択することから、既に、 演奏の方向性を決められているので、即興演奏は 予定調和的な目標(狙うか狙わないかは別とし て)が前提されていることになる。しかし、この ように述べるからといって、音楽の即興が、制約 を遵守して、つまらないものなっていることには ならない。アウトノート、アウトスケール、不協 和音など、制約から逃れる制約も用意されており、 新たな制約が成立した瞬間に、そこから逃れる方 法が詮索されるのが常だからである。 一方で、ダンスの即興は、先ほど述べたように、 理論的な規制が曖昧である。つまり、音楽と異な るのは、 「制約」を欠いているということである。 つまり、積極的になすべきフレーズや動作を得る 事が困難であるという事である。このことは「何 でもあり」という言葉のもとの不自由な状況であ るといってよい。では一体、ダンスの即興の中で は、何が起こっているのであろうか。 Ⅳ ダンスの即興の推進システムとしての トリガー 音楽の即興は、理論的な制約によって「禁じ手」 が共通了解事項となり、「この音を弾いてよい」 理由が与えられる(否定的肯定)。この考え方は、 ソロのパフォーマンスだけではなく、他者との共 演の分析にも、一つの指針となりうる。つまり、 楽器同士であれば、お互いがこの共通了解にのっ ているかぎり、形式的にはつつがなく即興演奏は 進行する。一方、ダンスは、「禁じ手」をダンス の振付け構築理論が提示してくれないので、複数 のダンサー間にあらかじめの共通了解は音楽に 比べては少ないのではないかという仮説はたて られる。 ところが、それにも拘らず、初対面のダンサー が、即興ダンスを抵抗なく行う。この事実はどの ように説明されるのか。「禁じ手」を示す堅固な 音楽理論のように、まだ、我々が気づいていない 別の方法で、即興ダンスの「禁じ手」がダンサー 間に示されているのであろうか(注 12)。振付け システムが曖昧な状況で、それに相当する要因を 見出す事は困難である。ただ、ダンサーの即興を 見るたびに、「禁じ手」で進行しているというよ りは、幾つかの「GO サイン」や「方針転換サイ ン」でダンスが進行している風を見て取れる場合 がある。つまり、音楽の場合の推進力が「禁じ手」 であった事に対して、ダンスの場合は「選び出す」 という積極的な提示が、次のアクション(ここで は既に、振付けというよりもアクションという語 の方が、即興ダンスにそぐうであろう)を導出す るという捉え方である。ここで重要なことは、ダ ンサーが一つのアクションを選ぶ事に理由や根 拠があるのではない。 この「恣意の推進力」とでも名付けられるよう な、ダンサーが無根拠に選んだ一つのアクション が「トリガー」となって、続く「根拠あるアクシ ョン(続くアクションの根拠はトリガーである直 前のアクション)」が成立するのである。つまり、 即興ダンスは進行すればする程、それをしなけれ ばならない理由やそのように進行していく根拠 が堅固なものに形成してくるというシステムで ある。例えばそれは、右手を差し伸べられれば、 右手を差し出して握手をするというような、社会 的な行動原理に基づく場合もあるだろうし、ある 動きを真似たり、腕や肩などの部分へのこだわり を示したり、トリガー提示のサインの受け渡しが 29 潤滑に果たされていれば、ダンサー同士の即興ダ ンスは十分に根拠と推進力を得るのである。 その際に、選ばれた「トリガーの強さ」によっ て、それがすぐに終わってしまうか、しばらく続 けられるかが影響してくるという側面も挙げて おいてよいであろう。すなわち、優秀なトリガー であれば、それがワンシーンの間中続くような、 多くの「問いに対する答え」を連鎖させる働きを 持つ。反対に、貧弱なトリガーは、すぐに終わっ てしまう。中には、発信しておきながらトリガー になり損なうことになる場合もあるであろう。そ して、留意すべき点は、このトリガーの影響持続 の長さ(=トリガーの強度)、1つのトリガーの 影響の終了から二人が結びつきを失っている期 間、次のトリガーを出す役割の交代(するにせよ、 そうでないにせよ)、次のトリガーの強度、、、と いうように、即興ダンスの流れの一つのリズムを 作っている要因をこのトリガーの点滅に求める ことも可能である。 ここで複数ダンサーの間にやり取りされるサ インを伴った「ネタ」のようなものとして、「ト リガー」という語(注 13)を用いたが、この機 能は、殊更、ダンサー間のコミュニケーションツ ールだけではない。つまり、一人のダンサーによ る即興ダンスにも当てはまる。つまり、始まりに おいては、何の設定も状況も無い状態から始めて、 自分の「恣意的な選択」がトリガーになる事で、 自分の後のアクションに連鎖していく構造であ る。 このように捉えるならば、始めに決めごとがあ って、それを踏み外さないようにすることで流れ が始まる音楽と、無状況無設定の中から、流れる 中で決めごとが決まって来るダンスは、「産出の 進行と規制との関係」をめぐっては、そのあり方 がちょうど逆になっているということができる。 しかしながら、このように捉えるからといって、 音楽の即興においても、トリガー的進行が無い訳 ではない。むしろ、即興アンサンブルにおいては、 展開のサインを見逃さないように、アンテナを張 りつつ演奏している事も事実である。しかし、よ り詳細に述べるならば、音楽において、トリガー として出すサインが、既に取り決めを含んでいる という事なのである。「Cmaj7」の和音を提示す ると、同時発音的縦と旋律的展開の時系列的横に グリッドが広がってしまうという事である。それ は、リズムの問題でも同様で、8ビート、16ビ ート、変拍子、アクセントの位置の変化等、過去 に積まれた楽典的理論を導入してしまうのであ る。音楽における構成進行上の拠り所としてのト リガー的信号は、その存在を確認する事は出来て も、ダンスの場合とはやはり様相を別にするので ある。 V 不変のダンスシステム これまで音楽やダンスの各々の内側における 即興システムを分析してきた。一つは両者に共通 する方法で「出来合いの技術の組み合わせ」であ り、一つは「構成理論に関する制約(音楽の場合 は和声や旋律に関する理論、ダンスの場合はトリ ガーという恣意的選択からの動機付け的役割を 果たす制約)」であった。ここでは、ダンスと音 楽という、各々の内ジャンル的産出システムが、 両者が同時に即興する場合、どのように機能する かを分析する。 そもそも、音楽とダンスは共にある場合が多く、 その結びつきは、リズムやテンポなどの物理的要 因だけでなく、明るい、暗い、激しい、悲しい、 無機的、黄昏っぽいなど、様々な雰囲気を共有し ている場合も珍しい事ではない。また、振付けの 際に、音楽からのインスピレーションを得る場合 があるということも、改めて確認するまでもない ぐらい一般的な事柄である。ここではそのインス ピレーションを得ることが即興という特殊な形 で問題化している訳であるが。また、アイドルが 歌いながら踊るということも、別の系列となるが、 音楽とダンスが共在している一例である。祭りで の盆踊りや教会でのゴスペルなども両者の結び つきの深さを示している。このように両者の結び つきの強さの例はきりがない程である。 ここで重要な事は、この結びつきの強い音楽と ダンスが、即興という場になると、現在の自律し た状態から、幾分変様しているらしいということ である。それは結びつきが強くなるとか、弱くな るとかいう事ではなく、明らかに、「作り出す現 場」を共有する事で、産出のシステムの軸にぶれ が生じているということである。 ぶれが生じる、ということが明確に分かるのが、 特に音楽側の始まりからあった制約を作り出す 堅固な楽譜的理論であろう。これまでもっぱら、 聴覚的芸術として積み上げられて来た音楽産出 システムは、自分以外の主役の登場によって、自 己の置き場を変えるのであろうか。テンポに始ま り、ダンサーがどこへ向かうか、何を求めている のかを、汲み取ろうとし、それまで奏でていた曲 調を、時として、全く無視をして、突然止めたり、 不協和音をもろともせず、旋律も飽き飽きするよ うな過度の反復をしたりすることも珍しくはな い。それはまるでブルースやジャズのもっていた 音楽的な要因が活躍するよりは、これまで分析し て来た、「ダンスの性質」に犯されてしまったか のようである。あれほど厳格な産出に関する理論 武装をしていた音楽が、「何でもあり」の不確定 領域に追い出されたような変容を見て取る事が 30 出来るのである。つまり、音楽とダンスの即興に おいては、音楽は完全に、ダンスにやられてしま うのである。音楽とダンスの即興の際に演奏され た音楽は、「ダンスあっての音楽」であって、そ れだけを切り離して聞く事は出来ないもの、つま り、その演奏内容を音楽の文脈に戻して聞くなら ば、おそらくは「とんでもないもの」になってい るはずである。 この音楽がやられやすいのにも両者の性質の 違いから理由を見出す事が可能である。それは、 「始まりにおいて自己産出的に堅固な音楽」と 「始まりにおいて無規定で早速トリガーを求め るダンス」が同居する場合、ダンスはまず、第一 のトリガーを音楽に求めやすいということであ る。つまり、「これまでのダンス内ダンスのシス テムが、外側に向かって容易に機能する」という ことである。このことは、音楽が先行してダンス の雰囲気を決めやすいという傾向にも適合する 構造である。 一方、ダンスはどうであろうか。これは実際、 変様しているかどうかの判断は難しい。というよ りも、ダンスに関しては、「ダンスのみの即興」 と「ダンスと音楽の即興」の違いが、明確に分け て考えられないのも事実である。つまり、先ほど 述べたように、ダンスがあまりにも音楽と一緒に ある事が多いため、例えば、無音の中のダンス即 興のような「ダンスの純粋即興の例」を想定しよ うとすると、音楽と共在しない例の方が特殊にな ってしまうからである。しいてその比較をするな らば「CD をかけてのダンス即興」と「ミュージ シャンとの音楽とダンスの即興」ということにな る。ダンサーにとっては、CD のような録音音源 の「もはや変えようの無い状況」だったものが「ミ ュージシャンをダンス的手法で巻き込む」ことに よって、ダンス側に要請できることになる。ただ、 この場合は、働きかけ可能/不可能という面では 大いなる違いであるが、ダンス自体が即興で作ら れるシステムは、実は影響を受けていないのでは ないか(意気投合という言葉に近い、ダンサーと ミュージシャンの心理的な盛り上がりはこの場 合は別の事柄である)。つまり、ダンスがもとも と作り出されるシステムが、無状況無設定のとこ ろに「トリガーを見出す」ことであるので、ミュ ージシャンの出現は、トリガーの内容こそは変え ても、そのシステム自体を変えることではないと いうことである。 結語 インプロヴィゼーションにおいて一体何が行 われているのかを分析するために、まず、音楽の 即興演奏と楽譜演奏についての考察から始めた。 即興かそうでないかは、「その場でつくりながら の演奏(即興)」と「過去に作られた音楽の演奏 (即興ではない)」との相違であることから、既 に作曲された音楽を「楽譜の存在」というところ から分析した。楽譜が伝える情報の意味を考える ことで、それが逆に作曲家の作業領域を示すもの である事、楽譜は音楽産出の一つのシステムを表 しているものである事が明確になった。 次に、同じようにダンスの即興において、即興 かどうかを分けるものとしての基準である振付 けの存在を検討した。楽譜との相違を分析する事 で、つくるシステムそのものの明晰なシステムの 有無が異なる事が明らかになった。これは、後に 続く「つくるシステム」の性質の違いに帰せられ る重要な問題である。 また、即興の問題の議論の固有の領域としては、 音楽でもダンスでも「演のレベル」ではなく、徹 頭徹尾「作るレベル」であることが明らかになっ た。 次に、即興におけるそれぞれの「作り出すシス テム」を検討した。音楽にもダンスにも「組み合 わせ」という、出来合いの短いひとまとまりのフ レーズを時系列に並べていくというシステムは 認められた。そして、より本質的な問題としては 「その場で作るシステム」をどのように構築する かであった。 このシステムは、音楽とダンスでは様相が異な っていた。音楽は産出の理論的システムが堅固な ため「踏み外してはならない」という否定的な指 示が、積極的に自由になる音を与えてくれ、それ が即興を推進する。一方、ダンスは、始まりにお いて「禁じ手」を欠いており「何でもありの不自 由」であるが、 「トリガー」を見つけていく事で、 次第にそのように進む根拠が形成されてくる。つ まり、即興における産出システムは、音楽は始め にグリッドがあって、ダンスは後からグリッドが 出来るのである。 最後に、音楽とダンスが同時に即興をした場合、 その産出システムはどのような影響を被るのか を分析した。特に音楽は、「ダンスのトリガーシ ステム」を模す、あるいは巻き込まれることで、 本来の自律的産出システムの機能は下火になる。 一方、ダンスの産出システムは本質的には不変で ある。なぜならば、そもそもダンスは始まりにお いて「壊されるグリッド」を持っていないからで ある。 注 1. インプロヴィゼーション、即興、アドリブの3つの用 語は同じものとして扱う。 2. デレク・ベイリー『インプロヴィゼーション 即興演 奏の彼方へ』竹田賢一他訳、工作舎、1981、8 頁 「今日ほとんどどんな音楽分野でもおこなわれているに 31 もかかわらず、即興演奏についての知識はまったく存在 しないといっていいほどだ。」 3. デレク・ベイリーはクラシック音楽にインプロヴィゼ ーションが少ない理由を次のように挙げている。 前掲書、56頁「クラシック音楽の世界は、形式張って、 気取っていて、自分の事しか眼中になく、もったいぶり、 硬直した因習に身をひそめ、上下関係の区別を大事に保 存する。また、天才や時代を超えた名作に固執するあま り、偶然的なものや予期しないものの存在を忌み嫌う。 この世界はインプロヴィゼーションのあらわれにくい状 況をそなえている。」 4. 楽譜には五線譜の他にギターや三味線、箏 などのタ ブラチュア譜など数多くの種類がある。ここでは西洋音 楽で生まれ現在もっとも広く用いられている五線譜を想 定している。というのは、楽譜によっては、音楽そのも のが書かれたものでなく、該当楽器の指のポジション等、 演奏方法が介在してくる場合があり、楽譜の伝える情報 に、もう一つ別の次元が加わり、議論が煩雑になるから である。 5. この場合、例えば、母親からの手紙文字は、母親の声 色を表象させるであろうし、逆に、メールアドレスを言 葉で伝えたりする場合は、音声から文字表象が立ち現れ るので、文字言語と音声言語が完全に伝達経路を分割し ているわけではない。 6. 池内友次郎編『新音楽辞典』音楽之友社、1977、163 頁 「ヨーロッパ、非ヨーロッパ圏を通じて、もろもろの記 譜法を分類してみると、音楽の諸要素のうち、ア個々の 音の絶対的あるいは相対的な高さ、イ旋律型ないしモテ ィーフ、ウ音の持続の長さ、エ楽器の奏法、オ和弦、カ 音の強弱あるいはその他の表情、キ装飾法、のいずれか 一つ、あるいはその幾つかの組み合わせを、記号、文字、 数字、図表などによって表示するのが普通である。」 7. 細川周平『レコードの美学』勁草書房、1990、55-56 頁「エクリチュールといって音楽の場合まず思い浮かぶ のが、作品を存在させる根拠としての楽譜の事である。 (中略)音楽のエクリチュールは作曲主体と演奏主体の 差異を体現する」 8. シンシア・ノヴァック『コンタクト・インプロヴィゼ ーション 交感する身体』立木燁子、菊池順子訳、フィ ルムアート社、2000、64-75 頁 9. Forsythe, William, Improvisation Technologies: a Tool for the Analytical Dance Eye, Hatje Cantz Verlag, 2012. 10. 例えば、キース・ジョンストン『インプロ 自由自 在な行動表現』三輪えり花訳、而立書房、2102 など。 11. 宮脇俊郎『ギター・ソロ練習帳』リットーミュージ ック・ムック、2001、140 頁 12. 若干異なるが、ダンサーにとって「自分にはそれは 出来ない」という個々人の「禁じ手」は実際は存在する。 センスや、羞恥心、見せ方のノウハウの違いに由来した り等、理由は諸々である。 13. トリガー この語と語を中心としたダンスの産出理 論は、2013 年 3 月、北村明子氏とのダンスリハーサル で彼女がコンタクト振りを作っていた際、 「ああ、今はそ ちらがトリガーね」と言ったことに触発されている。後 日、この語について北村氏に問い合わせたところ、 「90 年代のテクノロジー系で、NEST の石山さん(石山雄三 氏)がよくいってた気がする、、、。私もたまに使ってしま うけど、ダンスの中では、あまり一般的には使われてな いかもしれない」とのコメントをいただいた。 コンテンポラリーダンスと映像 島津 京 はじめに Ⅰ ダンスと映像の影響関係 現在インターネットを通じて、私たちはたくさ んのダンス映像を見る事ができる。とりわけ 2005 年頃、youtube や Dailymotion といった動 画共有サーヴィスが次々と設立されてからは、新 旧を問わず各国のダンスを手軽に眼にすること が出来るようになった。これらによって、今日私 たちは容易にコンテンポラリーダンスの映像に 接することが出来る。実際に舞台を見た事がなく ても、とりあえず検索し、関連映像を見つけ、そ れを通じてその作品についての具体的イメージ を得る。それどころか「映像でしか見た事がない」 という経験の在り方はむしろ一般的なものだろ う。 困った事に、しばしばそうした映像は不十分で ある。あきらかに公演の途中から始まったり、ま た唐突に終わったりしている。つまり、従来の作 品概念からすれば、ひとつの作品を見たとは言え ない。また、一言にダンスの映像といっても、公 演記録から、舞台裏にまで迫るドキュメンタリー、 映像用に振付けられたいわゆるヴィデオダンス など、そのヴァリエーションはさまざまである。 あるいは解像度が悪い、音が悪い、等々、実際に ダンスを見るよりはるかに情報量に劣る経験に 甘んじなければならない。そもそも映像は、空間、 時間、そして生身の身体という3つのレイヤーが 現実に交錯するダンスを十全に再現できるとは 言い難い。記録再現という点からみて、現実に比 すれば情報量が劣るのは、YouTube も高精細動 画も同じである。それでもなお、映像を見る行為 には、現実に鑑賞することの代替以上の積極的な 意味があるように思われる。 映像はまた、振付家やダンサーら作品の作り手 側によっても使用されている。記録としての映像 はむろんのこと、例えばコンテンポラリーダンス に限らず、ダンスヴィデオをつくる振付家は数多 くいる。舞台作品に映像を使用するコンテンポラ リーダンスの振付家も多い。 人は記録としてのみダンス映像を撮る/見る のではない。映像にはダンスを照射する創造的な 契機があるように思われる。こうした視点から本 稿では、ダンスと映像の歴史を概観し、次に映像 理論を参照しつつダンス映像の特徴について考 察したい。 映像の技術的な革新は、ダンスにとっても振付 の可能性を拡げる刺激となった。映像はダンスに どのような変化をもたらしただろうか。 映画やヴィデオそのものは瞬間写真の連なり である。動く映像はファイ現象によってその連な りに「動き」を知覚することで成立する。ドゥル ーズは、近代技術革命により運動は「特権的な諸 瞬間に連関したもの」ではなく、「任意の瞬間か らなるもの」 (ドゥルーズ 9)として把握される ことになったという。したがって「ある瞬間が特 権的な瞬間であるのは、それが、運動に属する特 別な点つまり特異点という意味でのことであっ て、超越的な形相が現働化する瞬間という意味で のことではない」(12)。例えばマイブリッジが 撮影した馬のギャロップは、その一枚一枚を取り 出しても、古典的な形式としてギャロップを特徴 づける一般的なポーズは見出せない。馬のギャロ ップは、古典絵画に見られるような特権的なポー ズを頂点とした運動ではなく、任意の諸瞬間の連 なりとして理解されるようになったのである。ド ゥルーズは、ベルクソンを引きながら、このよう な近代的な運動把握の系統に連なるものとして 映画を定義付ける。その定義は、「運動を任意の 瞬間に連関させることによって再現するシステ ム」 (ドゥルーズ 13)というものである。こうし た映画のあり方は、諸芸術における運動のあり方 を変化させた(ドゥルーズ 13)。映画が発明され たのと同時期に、ダンス、バレエ、パントマイム は、 「フィギュアとポーズを放棄し」、これらはま た、「環境の偶発事に対応できる行動になった」 のである(ドゥルーズ 13)。このような観点で見 れば、例えば「白鳥の湖」におけるパ・ド・ドゥ の振付は、いくつかの「きめ」のポーズに規則的 に移行する一連の動きと見なすことが出来るが、 コンテンポラリーダンスにおいてはしばしば、そ うしたポーズによっては動きを区切ることが出 来ない。例えばインプロヴィゼーションを使った 今日のコンテンポラリーダンスなどは、形相を期 待する観客を宙づりにしたまま、その目前に運動 そのものを現前させている点で、きわめて「映像 的」なダンスなのである。コンテンポラリーダン スにおいて特権的な瞬間とは、超越的なポーズが 抽出される時ではなく、動きの生成に関係づけら 32 れるような一瞬であるといえよう。 映像に撮影されたダンスとしては、早くも 1890 年代にリュミエールやエジソンによってロ イ・フラーのダンスが撮影されている。1910 年 代には、バレエダンサー達が役者として映画に出 演して劇場の外で踊りはじめた(Garafola 5)。 映像はまずこのように、劇場から任意の場にダ ンスを解放した。映画においてダンスやパントマ イムはポーズの芸術であることをやめ、「いたる ところで繰り広げられる」ようになった(ドゥル ーズ 14)。ドゥルーズが示すチャップリンやアス テアの映画において、確かにパフォーマンスは劇 場ではなく、あちこちで展開されている。 ダンスは早くから映画理論にも影響を与えた。 例えばクレショフは多くの映画監督と同様、デル サルトシステムやダルクローズのリトミックに 深い関心を持っていた(Garafola 11)。彼らのグ ループは、現代映画においてダンスの論点は重要 な意義を持つと考えた。例えばトゥルキンは、ス クリーン上での役者の動きの計算された構成や、 リズミカルなモンタージュの探求において、映画 をある種の現代的で現実的なダンス、もしくは分 析的、バイオメカニカルなバレエとして考察して いるのである(Garafola 12)。 1930 年代に入ると、ハリウッドのミュージカ ルはダンスの映画化に2つのモデルを提供した (サラザン 89)。ひとつはバスビー・バークレー の映画に代表されるような、ダンサーを集団とし て扱い「全体として視覚的な契機を構成する」 (サ ラザン 89)ものである。確かに「フットライト・ パレード」(1933)や「ゴールド・ディガーズ」 (1933)は、俯瞰のワイドショットにより全体 を捉え、ショーガールたちの動きの変化は「動く タブロー」のようである。映像の主眼は個々のダ ンサーやダンスというよりカメラの構図にある。 もうひとつはフレッド・アステアの映画のように、 ダンスやダンサーを尊重して記録しようとする 配慮が見られるものである。例えば「スウィング タイム」 (1936)では、都市を舞台に様々な場面 で踊るアステアと共にカメラも動いていくが、殆 ど常にアステアがフレーム内に収まるような画 角が選択されている。アングルもあまり変化せず、 カメラはダンスの流れを忠実に保存しているの である。 一方、実験映画作家による初期のダンス映像と してマヤ・デレンの「カメラの振付のための研究」 (1945)が挙げられる。ここではダンスと映像 に新たな関係が生じている。ひとりのダンサーが 森や室内でダンスを踊るさまが撮影されるが、一 般的な映画のようになんらかの「物語」はなく、 ダンスの動きを契機としてショットの切り替え 33 が行われている。また、ダンサーの身体やダンス の一部分だけをフレームにおさめたショットが 注目される。ダンスは、編集のリズムに従って「身 体」や「動き」に分解されているのである。「カ メラの振付のための研究」というタイトルが示す ように、ここでは撮影方法や編集といった映画技 法が振付けの役割を担うような試みがなされて いるようなのである。映像が振付けに関与するこ のような試みは、ヴィデオの特性を駆使した 70 年代以降のダンス映像の方向性を先取りしてい るように思われる。 ここでマス・メディアとしてのテレビとダンス の関わりにも若干触れておきたい。というのも振 付への関与は、放送のための再構成という面でも 行われたからである。BBC の映像アーカイヴを 調査したペンマンによると、イギリスでは 1960 年代にカラーテレビが登場してから、観客はテレ ビで劇場経験に近いものを共有できるようにな った(Penman 64)。また、劇場から生中継がで きるようになり、1968 年にはロイヤルオペラハ ウスから「クルミ割り人形」が生放送されたとい う。60 年代後半にはダンスをテレビで見せるた めの技術が確立し、舞台作品がテレビ用に再構成 されるようになった(Penman 64-65)。振付と 映像技術の関係の新たな局面である。しかし時間 と費用が掛かり、これはあまり成功しなかった。 このようなプログラムの初期の有名な例として アンソニー・テュードアによる「4台のカメラの ためのフィギュア」が挙げられる。1937 年から、 そうしたサーヴィスがなくなる 1939 年の間に 14 作品がテレビのために作られた。1980 年代に は、ドラマがテレビ用に作られるのに比して、テ レビ用に作られるダンスは殆どなくなった。トワ イラ・サープとロバート・コーハンの「マス・フ ォー・マン」がその例外的事例である。ペンマン は、テレビはダンスの普及に多大な貢献をしたが、 音楽やドラマに比べると、ダンスとの関係が薄か ったと述べる。しかし、後述するように、70 年 代には美術の分野においてヴィデオを使った作 品が制作され、テレビを意識した作品も試みられ ている。その中にはパイクとカニンガムのテレビ 向けの作品「グッド・モーニング・ミスター・オ ーウェル」(1984)などのダンス映像も含まれるの である。 70 年代になると、ヴィデオを使用したダンス 映像は新たな様相を呈した。例えばマース・カニ ングハムとナム・ジュン・パイクの「パイクによ るマースによるマース」(1975-76/1978)のよ うな作品において、踊るカニングハムの身体は、 クローズ・アップや多重化、色彩の変化等、様々 なヴィデオのエフェクトにより視覚的に変化す る。また、その背景映像も刻々と変化し、1点透 視図的な遠近法的空間は失われている。かつてオ スカー・シュレンマーは、ダンスを舞台空間と身 体の関係において捉えたが、ここでは、ヴィデオ との関係においてダンスが捉え直されている。ヴ ィデオの関与によって、舞台で見るダンスとは本 質的に異なる空間が成立しているのである。カニ ングハムはジョン・ケージと共にチャンス・オペ レーションにより作品を振付け、ダンサーの空間 配置は正面性を前提に構成されるのではなく、ラ ンダムなものになった。それを反映してか、 「Versions Ⅴ」(1966)の映像においては、カ メラもダンサーに対して斜めの方向に位置され ている。70 年代以降の映像になると、こうした ダンスの位置の「非中心性」はさらにラディカル に押し進められている。一方で、カニングハムが 踊り続けていることにより、ダンスの時間的持続 は保存されている。 70 年代以降は、 「驚くべき数の」 (サラザン 90) ダンスヴィデオあるいはダンス映画が制作され ている(注 1)。サラザンによれば、 「ダンス=ヴ ィデオ」は「ポストプロダクションの導入により 様相を変えつつ 80 年代末頃まで成功を収めてい た」が、その後はダムタイプやフォーサイスに見 られるように実際の舞台に映像技術が使われは じめ、「ダンスと映像技術との対話は舞台上で行 なわれる」ようになり、「ヴィデオは再びスペク タルの記録という役割に追いやられた」(サラザ ン 94)という。とはいえ 2013 年現在、依然と してダンスヴィデオは作られ続け、各国で開催さ れるダンス映像フェスティヴァル等の催し、ある いはインターネット上の動画共有サイトがその 受け皿のひとつとなっている。量のみならず質と いう点でも探求はなされており、ヴェンダースに よる「ピナ」 (2011)やペーター・ヴェルツによ るフォーサイスのダンスの映像インスタレーシ ョン(2005)はそうした試みの例である。 Ⅱ 映像としての作品 ところで 1960-70 年代には、ミニマリズム、 コンセプチュアル・アートやポストミニマリズム などの美術動向が展開した。同時期に活動を開始 したジャドソン教会派のダンサー達は、マース・ カニングハムによる「形式の自律」に影響を受け ながら、一方でこうした美術動向と関連しつつ活 動を開始した(Burt、外山)。彼らは日常の身振 りや等身大の表現を好むという点でミニマルの 絵画や彫刻に比較された(外山 37)。イヴォン ヌ・レイナーのように、ダンサー自身がミニマリ 34 ズムと実験的な彼らのダンスとの共通点を主張 し、造形芸術とダンスやパフォーマンス等の時間 芸術間の平行関係を論じてもいる。例えば「タス ク」と呼ばれた日常の単純な身体の動きから新た なダンスをつくるレイナーらの姿勢は、ミニマリ ズム彫刻における、意味するものと意味されるも のとの同一性という「リテラルネス」に対応する と説明される(ブグロー220)。一方美術家のブ ルース・ナウマンは、メレディス・モンクと出会 った 1968 年から翌年にかけて身体を用いた作 品を多数制作した。これはスタジオでパフォーマ ンスを行ない、映像にとるという形で作品化され た。ナウマンの、定められた行為を反復する手法 は、スティーヴ・ライヒやフィリップ・グラスな どの音型の反復を特徴とする作曲法や、レイナー らのダンスにおける身振りの運用との類似が指 摘される(注 2)。ナウマンやモンク、レイナー、 ロバート・モリスはコラボレーションを行い(ブ クロー 210-211)、またロバート・モリスはジャ ドソン教会派のダンサー達との共同作業を行う など(Burt 56-66)、この時期のダンサーや造形 芸術家、音楽家との間には多くの相互作用があり、 また数多くのコラボレーションが行われていた (ブクロー 210)。70 年代前後から造形美術家 達は、パフォーマンスや行為を問題としたプロセ ス・アートなど、身体が大きく関与する作品を制 作しているが、それはこのような同時代のダンス の動向とも共鳴するものであったのだ。 また 60 年代には、ニューヨークのアンソロジ ー・フィルム・アーカイヴズで一連の実験映画が 繰り返し上映されており、毎晩のようにミニマリ ストやプロセス/コンセプチュアル・アーティス ト、作曲家、ダンサー達が集まっていたという(ク ラウス 155)。このような環境の中から「構造主 義的」映画製作の運動が生まれ、「映画的経験」 を作品の構成要素に還元することを目指した実 験映画が出てきた(クラウス 155)。同じ環境を 共有していたダンサーや造形芸術家の還元的な 手法を、こうした実験映画と比較することも可能 だろう。ロザリンド・クラウスは、ナウマンのヴ ィデオ作品「隅で跳ねるⅡ」 (1969)や、リチャ ード・セラの映画「鉛をつかむ手」 (1968)を挙 げ、運動の反復によって人体の安定したイメージ に対抗するような映像作品を、ポール・シャリッ ツなどの実験映画の動向と関連づけている(クラ ウス 155)。ナウマンやセラに限らず、この 70 年代前後、それまで絵画や彫刻の領域で表現の探 求を行っていたアーティスト達の多くが、ヴィデ オアートと呼ばれるような映像作品を手掛けて いる。ダンスの領域でもレイナーの 8 ミリ映画 「ハンド・ムービー」 (1966)などが制作された。 ここでも日常的な動きが取り上げられているが、 画面は終始指を微妙に動かし続ける右手のクロ ーズ・アップであり、映像としてしか存在し得な い作品となっている。 アーティスト達は、なぜ映像を使用するように なったのだろうか。ひとつには、60 年代後半に ポータブル・ヴィデオカメラが実用化されたこと が挙げられる。しかし、より本質的には、作品制 作において生じた問題を追う中で、映像の持つ可 能性が探求されたからだといえそうだ。すなわち 制作のプロセスや制作という行為自体、あるいは それを行う身体そのものに眼が向いた時、ヴィデ オやフィルムはそうした問題を扱う格好のメデ ィアとなったのである。70 年代の映画理論は、 60 年代の実験的な映画の動きに触発されて、表 象文化と言語を横断する一つのシステムとする 「映画装置論」を提示した(新2 304-305)が、 映画を、芸術の一形式ではなく、「多層な文化や 言語の様相を照射するシステム」 (新2 304)と 見なす視点は、70 年代の美術と映像の状況をも 捉え得るように思われる。クラウスはメディウム の単一性が崩れた状況を「ポスト・メディウム」 として論じる中で、こうした映画理論に触れつつ、 映画というメディウムを、撮影に使用される物理 的装置から観客まで含めた「集合的」なものだと 指摘した(注 3)。グリーンバーグの規定するモ ダニズム芸術においては切り捨てられた芸術の 「非本質的」部分は、ポスト・ミニマリズムにお いて、表現方法を多様化させながら再び浮上した が、映像はそうした多様性をうまく吸収できるメ ディアであったのである。 このように見た時、コンテンポラリーダンスと いうモダニズム以降に現れた複雑な芸術形式も、 身体というメディアに限定されない多様な手法 を試みる過程で、映像との関係において表現の拡 張を追求してきたと考えられる。カニンガムとナ ム・ジュン・パイクの共同作業を始めとして、 70 年代以降「驚くべき数の」ダンスヴィデオが 制作されたことも、そうした面から解釈できよう。 舞台に映像を使用する手法もまた、そうした探求 の一面である。 だが一方で、ダンス映像はやはり基本的にはダ ンスの「記録」であり、そこに映っている「ダン ス」こそを問題にすべきであって、映像固有の問 題は度外視し得るという見方もあろう。しかし本 当にそうだろうか。上演芸術としてのダンスもま た、映像メディアを視野にいれている。今日多く のダンスカンパニーはフェスティヴァルやショ ーケースなどでのプレゼンテーションに映像を 用意する。公演に先行するプロモーション映像も その延長上に位置づけられるだろう。こうした映 35 像は、どういう規模であれ、作品をより魅力的に 見せる編集操作がなされている。そうであれば、 この時映像には、「記録・再現」以上のものが託 されているといえないだろうか。単純な記録映像 においても、過去にさかのぼって上演を見ること が出来ない点では、映像の形式はそのダンスがど のようなものであるかという認識に大きく関与 する。つまり、「記録・再現」としてのダンス映 像においても、映像固有の問題が観者の見え方に 関与しているのである。 では、観者の経験の相において、ダンス映像は 現実のダンスとどのような違いがあるのだろう か。ダンス映像には、それ自体の「美的様態」と いうものがあるだろうか。次節では、映像理論を 手がかりにダンス映像の具体例を検討する。 Ⅲ ダンス映像の形式 現実感 まず映像特有の「現実感」について確認してお きたい。2次元の平面に3次元的なイリュージョ ンを見出すこと、すなわち「映像で運動の見かけ を再現する」ことは「実は運動の実態を再現する ことにほかならない」。再現された運動とは「本 当の」運動である。というのも、「どちらの場合 も視覚的な現出形態は同じだからである」(マル ク・ヴェルネ『映画理論講義』175)。例えばリ ュミエール兄弟による最初期の映画「ラ・シオタ 駅への列車の到着」の上映では、観客が思わず逃 げ出そうとしたという「伝説」がある。観客は、 自分たちが現実の空間にいて映像を見ているこ とは分かっていながら、なお動く列車のイメージ に対して身体的に反応したというのである。 こうした観者の反応は、映像が動くからという だけでは説明できない。モランはサルトルの「心 的映像」に基づき、映像を「体験された現前であ って現実的な不在、つまり不在としての現前」と 定義する(モラン 37)。観客は映像を見る時、 対象が不在にもかかわらず、現前を信じる。実際 の見かけに忠実な「現実的形姿」は観客に現実性 の印象を与える。さらに「現実的形姿」は運動に よって、写真では失われていた「自律性」と「身 体性」、 「時間の次元」を獲得し、ここに「客観的 真実」が生じるのである(モラン 147)。このよ うな映像の現実感によって、観者は映像に「感情 的に」参加する(モラン 141)。「感情的参加」 は、自らを世界に「投射」するとともに、世界を 自らの内に取り込む「同一化」を観客にもたらす。 列車の映像の観者は、その映像に「感情的参加」 をしたことにより映像との間に関係が生じ、身体 的反応が起きたのである。つまり「運動」の再現、 類像的な表象、観者の「感情的な参加」が映像特 有の「現実感」を成立させるのである。 ダンス映像においては、映像の「現実感」によ って、実演を見るのと同様の「引き込み」が生じ るだろう。ダンス映像の観者は、むしろ実演を見 る時に近い構えで映像に接しており、劇場で舞台 に引き込まれるように「引き込み」が起こる。踊 る身体が観者を引きつけている点では実演も映 像も変らないのである。さらに、ダンサーに近接 して撮影した映像は、実際にダンサーが身近に迫 るような感覚を与える。ダンスの空間は「同一化」 により見る者と心理的に地続きになるのである。 これは映像特有の経験であろう。ヴェンダースは、 映画「ピナ」 (2011)で 3D を使用した意図につ いて、「これによってダンサーの空間に入ってい ける(conquer)と考えた」(注 4)と述べている。 「ピナ」では、カメラは傍観するだけではなく、 時には舞台にあがり(「春の祭典」のシーン等)、 目線に近いショットでダンサーに近づく。ここで は観者がダンサーの空間を共有できる「近さ」が 成立している。ヴェンダースは、3D により「現 実感」を増すことによって、観者の「同一化」を 促し、「ダンサーの空間」に入り込むような経験 の実現を目指したのである。一方劇場でダンスを 見る観客は、いかに「引き込」まれても、ダンサ ーが物理的に自分に迫ってくるとは通常感じな い。観客が映像と関係を結ぶことによって生じる 「同一化」は、「引き込み」とは異なる次元で説 明されるものである。 従って、観者の経験の相においてダンスとダン ス映像を隔てるのは、「同一化」の作用や、映像 固有の表現形式に起因する効果であると考えら れる。ベラ・バラージュは、映画の基本形式を「(観 客と対象の)距離の変化」、「細部のショット」、 「クローズ・アップ」、 「変化する視点」、 「編集(モ ンタージュ)」(バラージュ 1992、34-35)とし て、その機能について論じた。次節ではこれに沿 いながらダンス映像を検討したい。 編集 舞台上で視線を誘導するのが照明家の役割 (「ダンスと照明」報告書参照)であるならば、 映像において視線を誘導するのはディレクター の役割である。バラージュは映画において「編集 が真に創造的なものになるのは、どのショットの 中にも存在しないものを、編集によってわれわれ に体験させ、理解させるとき」 (バラージュ 1992、 171)であるという。二つ以上のショットをつな げば、それは編集になるが、このショットを「つ なぐ」編集という技術は、観者にどのような影響 36 を及ぼすのだろうか。 Ⅰにおいて運動を「任意の瞬間の連関」とした が、そうしたものとしてコンテンポラリーダンス を捉えた時、編集とは、それをいくつもの動きの 断片に切断し、つなぎ直すことである。ティエリ ー・ドゥ・メイ監督による「ローザス・ダンス・ ローザス」 (1997)では、動きの切断のタイミン グは主に音である。ドゥ・メイは舞台版「ローザ ス・ダンス・ローザス」 (1983)の作曲のために 作品制作に間近に立ち会っており、作品は振付け の構造と音楽の構造が密接に関係付けられたも のとなっている。映像では、そこに編集が加わり 新たな要素を生み出している。 この映像では、実際には区切りのない一連の動 きは、意図的に切断され、空間がずらされてつな げられる。例えば4人のダンサーが延ばした両腕 を激しく左に振る/戻すフレーズを繰返すシー ンでは、カット毎にカメラの位置が少しずつずら されるため、パーカッションの音が畳み掛けるよ うに鳴るたびに、ダンサーの腕の動きによってダ ンスの空間がずれていくように感じられる。「舞 台にくらべた際の映画の豊かさは、動きやテンポ を表現手段として利用することが出来るという 点にある」(バラージュ 1983、45)とすれば、 ダンス映像においては、動きやテンポが、ある演 劇的なストーリーに従属するのではなく、それそ のものとして現前し得る。このダンス映像では、 学校の教室、ダンサーたちの少女らしいコスチュ ームのような、物語を暗示させる舞台設定とは裏 腹に、ダンサーの動きとカメラの動きが緊密に組 合わさった抽象的な空間が現前しているのであ る。では、こうした映像の空間は、ダンスにどの ように関わるのだろうか。次にこの点を、カメラ の位置や距離の側面から検討する。 変化する距離、視点 現実にダンスを見る場合に、ダンスする身体が 生み出す「ダンス的空間」とでも呼ぶべきものが あるように思われる。それは手足が届く範囲とい ったものではなく、ダンサーの力量あるいは振付 により伸縮するものである。「空間を大きく使っ て」などと言う場合、単に動き回る範囲を拡げる のではなく、ダンスが関与する空間を拡大するこ とが求められると考えられるのである。このよう な「ダンス的空間」は、映像においてはフレーミ ングに左右される。実際にはフレームの形に切り 取られた平面を見ているにもかかわらず、観者は そこに三次元的な空間の一部を見ている錯覚に おちいる。それは映像特有の現実感によるもので あったが、観客はこの時「画面外空間」も想定し ている。 「画面への出入り」や「画面外への視線」など により、観者は「画面外空間」を想像する。「画 面内空間」と「画面外空間」は「均質な想像的空 間」に属していると考えられ、それは「映画的空 間」などと呼ばれる(オーモン『映画理論講義』 27)。ダンス映像において「画面外空間」は、実 際には見ていないダンスを観者に想像させる。部 分的な身体の現前や画面へのダンサーの出入り は、想像的な「ダンス的空間」を拡大する。また その空間は固定的ではなく、カメラの動きにより 動的に変化するものである。ダンス映像は、フレ ームとカメラの動きによって規定された「映画的 空間」特有の「ダンス的空間」を生み出している のである。例えば常にダンサーがフレーム内に捉 えられているような映像と、ダンスが画面内外を 行き来し、フレーミングが様々に変わるような映 像とでは、同じ振付けでも、その「ダンス的空間」 が異なることになるだろう。 カニングハムがテレビ用に振付けを再構成し た「Beach birds for camera」 (1992)において、 ショットの切り替えに合わせて別のスペースが 映し出される際に、同じダンサーが「画面外」に 出て次のショットの「画面内」に入るため、あた かも彼が別の画面から移って来たような効果を 出す。この時振付けで想定されているのは、ダン サーのいる物理的な空間ではなく、観者の想像的 な映像空間である。また、ブルーを背景にしたシ ョットでは、ダンサーたちのコスチュームや振付 けとブルーが喚起する水のイメージによって、海 鳥のイメージが表出されるが、ショットやカメラ の距離が変化すると、そのブルーの背景はスタジ オの一角を占めているスクリーンに過ぎないこ とが明示され、海鳥のイメージも相対化される。 距離や視点の変化によって、この映像の「ダンス 的空間」は、海鳥に象徴される想像的な空間から 撮影スタジオ内の現実的な空間へと自在に変容 する。振付けそのものは舞台版と殆ど変わらない が(注 5)、この映像は舞台とは異なる「ダンス 的空間」の位相を表しているのである。 クローズ・アップ 一方映像の「空間」は消失することもある。顔 がクローズ・アップされる時がそうである。観者 がそこに「形」でなく「表情」を見て取ると、映 像の空間的な意味は失われる(バラージュ 1983、 79)。感情や気分、志向や想念は空間的なものに 属さず、 「ある他の秩序に属する次元」 (ドゥルー ズ 170)が開かれるのである。例えばロマンティ ック・バレエやマーサ・グレアムに代表されるよ うなモダンダンスと異なり、コンテンポラリーダ ンスにおいてダンサーがしばしば無表情で踊る 37 のは、顔の表情が与える心理的効果によって、動 きの意味作用を方向付けてしまうのを避けるた めであるといえる。しかし、いかに無表情であろ うと、映像において顔貌がクローズ・アップされ た時、観者はそこに表情を読み取ってしまうだろ う。その時ダンスの空間的、運動的要素は消失し、 「意味」が立ち上がるのである。 「ローザス・ダンス・ローザス」 (1997)はこ れをポジティヴに利用しているように思われる。 4人のダンサーがそれぞれの椅子に座って新た なダンスシーンに入る前、視線を交わし合う4人 の頭部がクローズ・アップの数ショットで示され る。ここでダンスの流れは切れ、かわりに象徴的 な意味が立ち上がる。その意味ありげな表情を観 者は充分読み取ることが出来るのだが、次に続く ショットのダンスの動きに意味付けをするには 至らない。顔の表情が、一般的な映画のように全 体的なストーリーに位置付かないのである。とい うのもストーリーそのものが存在しないためで ある。では顔のクローズ・アップは映像上の「ダ ンス的空間」を消し去る役割しか果たさないかと いえばそうではない。それは、少女らしいコスチ ュームや学校というシチュエーションと相まっ て、自分の経験と地続きの情動を観者に与えると 思われる。観者は、ダンスの抽象的な意味作用だ けでなく、このような情動の働きによってダンス を見る構えが更新されるのである。他のシーンで は、頭部のクローズ・アップはカメラ目線になる が、このようなダンサーの視線も、観者がダンス 的空間に「参加」するフックとなる。舞台でも浮 かべているであろうその表情は、クローズアップ によって、観者との関係においてよりはっきりと した役割を与えられ、観者のダンス経験をより親 密なものにするのである。また、ラ・ラ・ラ・ヒ ューマン・ステップスの「アメリア」(2002)では、 女性ダンサーがポーズを取ったまましばらく静 止するシーンで、女性ダンサーの顔のクローズ・ アップが差し挟まれる。彼女は基本的に無表情だ が、一瞬横目で後ろを気にする表情を見せる。そ のため、一挙に「(後ろにいるはずの男性ダンサ ーを)待っている」という意味が立ち上がり、二 人のダンサーの関係性についての観者の認識は 更新されるのである。 このように、映像における頭部のクローズ・ア ップは象徴的な意味を強調する。それは一般的な 映画のように、何か物語的な全体に位置付けられ ることなく、しかし、ダンスの新たな意味作用を 生成するように思われる。 おわりに 映像が誕生した時から、ダンスは映像と関係を 結んできた。それは、単に撮影対象であるのみな らず、映像技術を拡げ、また逆に、ダンスの振付 自体の探求に映像も加担するという相互作用の 関係であった。1970 年前後には、絵画や彫刻と いった造形芸術の領域において、映像を使う作家 が多く現れた。彼らは既存の芸術領域を批判的に 再考するために、映像という表現手段の持つ可能 性を探った。また、映像というメディアの持つ「集 合性」は、そうした問題意識に応える包摂力を持 っていたのである。モダニズム芸術の「還元性」 とは異なるこのような芸術の「拡張」は、ダンス と映像の関係にも新たな局面をもたらし、多くの ダンス映像を生み出すことになったのである。ま た、ダンス映像は、映像の形式的な要素によって ダンスの空間を変容させ、ダンスの意味作用にも 変化をもたらすものであった。こうしてみると、 ダンス映像は、記録、再現という側面を持ちなが らも、それはそれで舞台とは独立した異なるダン ス経験をもたらすものなのである。 このようなダンス映像が、DVD やインターネ ットを通じて無数に存在するのが、今日のダンス をめぐる状況である。YouTube のような動画共 有サイトは、ひとつ映像を見ると、次々に「関連 映像」を提示してくる。「関連映像」とは、いく つもの異なるダンスの断片が、「偽のつなぎ」に よって結びつけられていくシステムと考えられ る。むろんそれらは、つなぎ合わさったところで、 ひとつの作品に結実することはない。しかし、そ れはダンスというものについての観者の経験を 変え得る。このようにして人は、幾つものダンス 映像に接しながら、自らのダンス経験を更新して いくことも可能だろう。ダンスは偏在しているの である。 注 注1 それらは、初期にはチャールズ・アトラスやパイク、 後にはエリオット・カプランとコラボレーションをした カニングハム、ベルナール・エベールとラ・ラ・ラ・ヒ ューマン・ステップス、クロード・ムリエラスとジャン =クロード・ガロッタ、ヴィム・バンデケイビュス、テ ィエリー・ドゥ・メイとローザスあるいはウィリアム・ フォーサイス等々、枚挙にいとまがない。 注2 東京国立近代美術館編『ヴィデオを待ちながら : 映像,60 年代から今日へ』、2009、pp. 102-107 参照。 この展覧会は 70 年代のヴィデオアートを中心的に取り 上げ、その様態と潜在的可能性について分析したもので ある。本節のヴィデオアートに関する考察は、この展覧 38 会図録掲載の三輪の論考(「序論 : 不純なる媒体 : 1970 年前後の映像について」)、およびロザリンド・クラウス の 次 の 論 考 に 多 く 示 唆 を 得 た 。 Krauss, Rosalind. A Voyage on the North Sea: Art in the Age of the Post-Medium Condition. London: Thames & Hudson, 2000 注 3 三輪「序論 : 不純なる媒体 : 1970 年前後の映像に ついて」(前掲注 2)、p. 28。 注 4 2011 年8月 18 日、オーストラリアでの映画公開 に合わせたインタビューより。 http://www.youtube.com/watch?v=5QwGPwncGx4 注 5 カニンガム財団 HP 作品解説より。 http://www.mercecunningham.org/film-media/media -detail/params/mediaID/38/ 参考・引用文献 J.オーモン他『映画理論講義』武田潔、勁草書房、2000 北野圭介『映像論序説』人文書院、2009 スティーヴン・サラザン「ラスト・ダンス/テクノロジ ーのスペクタクル」『季刊インターコミュニケーション No.29』第8巻第3号、2009 年 7 月、88-95 頁 [新 2]岩本憲児, 武田潔, 斉藤綾子編『新映画理論集成2 知覚/表象/読解』フィルムアート社、1999 ジル・ドゥルーズ『シネマ1 運動イメージ』財津理、齋 藤範、法政大学出版局、2008. 外山紀久子『帰宅しない放蕩娘 : アメリカ舞踊における モダニズム・ポストモダニズム』勁草書房、1999 ベラ・バラージュ『視覚的人間 : 映画のドラマツルギー』 佐々木基一、創樹社、1983 『映画の理論』佐々木基一、學藝書林、 1992. ベンジャミン・H・D・ブクロー「リチャード・セラの作 品におけるプロセス彫刻とフィルムについて」 『ヴィデオ を待ちながら : 映像,60 年代から今日へ』東京国立近 代美術館編、東京国立近代美術館、2009、206-224 頁 [クラウス]イヴ=アラン・ボワ、ロザリンド・E・クラウ ス『アンフォルム : 無形なものの事典』加治屋健司、近 藤學、高桑和巳、月曜社、2011 エドガール・モラン『映画 : あるいは想像上の人間 人 類学的試論』渡辺淳、法政大学出版局、1983 Burt, Ramsay, Judson Dance Theater : Performative Traces, Taylor & Francis Ebooks, 2006 Garafola, Lynn, Dance, Film, and the Ballets Russes , Dance Research: The Journal of the Society for Dance Research Vol. 16, No. 1, Summer, 1998, pp. 3-25 Penman, Robert, Archives of the Dance: Making History: The BBC Television Film and Videotape Library 1937-1984 , Dance Research: The Journal of the Society for Dance Research Vol. 5, No. 2, Autumn, 1987, pp. 61-68 研究論文2 制度的研究 ドイツの公的なダンス助成とタンツプラン 副島 博彦 1 ドイツの文化財政報告書 2010 年版によれば , ドイツの公的な芸術文化への支出は,2005 年以 降,増加を続け(図表 1),2012 年版の速報値で はその後も 2010∼2012 年での間に 9.7%, 1,3 2 億ユーロ増加している 。ドイツ全体の 2007 年の 芸術文化に関する公的な総支出は約 85 億ユーロ 3 で ,このうち,43%が州(Land)から,44%が市町 村(Gemeinde)から支出され,連邦からの支出は, 4 13%にとどまる 。これは,文化政策の地方分権, 文化連邦主義(Kulturföderalismus)を反映してい 5 る 。文化に関する権限は,国(連邦政府)ではな くもっぱら州に帰属しており,これは, 「州の文化 高権(Kulturhoheit der Länder)」と呼ばれる。 また,州の任務を委託され,同時に行政機関とし て独自の任務を遂行する市町村にも,文化高権は あると考えられている。 ベルでは,芸術文化への支出の少なくとも 3%, 市町村レベルでは,その 1%が支出されている。 州レベルでも市町村レベルでもこのダンスへの支 出総額の 60%は,公的なカンパニーへの助成が占 めており,フリーのカンパニーへの助成は州レベ ルでは,18%,市町村レベルでは,14%となって いる。もちろん,ダンスへの支出には州や市町村 ごとに歴史的背景など様々な要因によって多寡が あり,調査グループは,これを次の 4 つの都市カ テゴリーに分けて,その支出の経年推移を比較し ている。すなわち,1.タンツプラン・フォア・ オルト実施都市(後述),2.人口 20 万人以上の 都市,3.人口 20 万人未満で市立劇場に舞踊カ ンパニーのある都市,4.人口 20 万未満の都市 から抽出した都市の4つである。 図表 2. 都市カテゴリー別の 2004-2009 年の市町 9 村のダンス助成額(平均)の推移 ;単位ユーロ。 6 図表 1. ドイツの公的芸術文化支出の推移 ;単位 ユーロ。 1995 7,467,800,000 2000 8,206,400,000 2005 8,002,800,000 2006 8,113,300,000 2007 8,459,500,000 2008 8,711,900,000 2009 9,186,300,000 2010 9,558,600,000 むろん,ダンスへの支出には州や市町村ごとに 歴史的背景など様々な要因によって多寡があり, 調査グループは,これを次の 4 つの都市カテゴ リーに分けて,その支出の経年推移を比較してい る。すなわち,1.タンツプラン・フォア・オル ト実施都市(後述),2.人口 20 万人以上の都市, 3.人口 20 万人未満で市立劇場に舞踊カンパニー のある都市,4.人口 20 万未満の都市から抽出 した都市の4つである。 図表2は,この都市カテゴリー別の市町村の ダンスに対する平均助成額の推移,図表3は,市 町村のダンスに対する助成総額の推移である。い ずれも,2004∼2009 年つまり,タンツプランの 実施前と実施中の数値である。これをみると,実 質的にタンツプランの始まる 2005 年から,タン ツ・フォア・オルト実施都市では,ダンスに対す る公的な支出が平均 50%以上増加しているばか りではなく,総額でも,それ以外の人口 20 万人 以上の都市の約 1,100 万ユーロに対して,約 この芸術文化への支出のうち,どの位の金額や 割合がダンスに支出されているのか,また,その 支出がどのように推移しているのかを算出するの は,政府統計ではダンスへの支出が舞台芸術とし て合算されているため難しいが,これを算出しよ うとする研究調査が,「タンツプラン」 プラン (ドイツ・ダンス計画;Tanzplan Deutschland) の 7 プロジェクトのひとつとして ,ハイケ・レームケ (Heike Lehmke) と ボ ン の 文 化 研 究 セ ン タ ー (Zentrum für Kulturforschung)のグループによ 8 って行われた 。 この調査報告によると,前述の州と市町村の芸 術文化への支出の各々25%が,パフォーミング・ アーツに支出されている。つまり,州と市町村合 せると全ドイツの芸術文化への総支出の 22%を 占めることになる。このうち,ダンスには,州レ 41 図表 3. 12 よる観客の増加などを挙げている 。 このタンツプランの最も大きな助成プロジェク トが, 「タンツプラン・フォア・オルト(Tanzplan vor Ort;現地のダンス計画)」だった。これは, 「都市 や地域のダンス・シーンで形成されてきた潜在的 な可能性」を改善し,コンテンポラリーダンスを 活性化しようとするものだった。この主旨に沿っ て,連邦諸都市に対して,既存のダンス関連の組 織を整備拡充し,ダンスの利益となるような構想 を立案することが促された。助成の条件は,5 年 間にわたり,必要な予算の半分を市町村または州 が負担することだった。それは,連邦,州,市町 村の役割を明確にしながら,多元的に文化政策を 遂行する近年の文化連邦主義を反映したものだと いえる。これに応じて 14 都市が助成を申請し, ブレーメン,ドレスデン,デュッセルドルフ,フ ランクフルト,エッセン,ハンブルク,ミュンヒ ェン,ポツダムの 8 つの都市が,タンツプラン・ フォア・オルトの実施都市に選定され,助成を受 13 けた 。例えば,デュッセルドルフのタンツプラ ン・フォア・オルトのプロジェクトは,デュッセ ルドルフ市とノルトライン・ヴェストファーレン 州の学校やコミュニティー・センターでダンスの 授業を展開し,子供たちにダンサーや振付家とい う職業選択の可能性を意識させ,それへの道筋を 示すというもので,連邦文化財団とデュッセルド ルフ市+ノルトライン・ヴェストファーレン州か ら各々100 万ユーロ,計 200 万ユーロの助成を受 けた(図表 5)。図表2,3でタンツプラン・フォ ア・オルトの実施各都市でダンスへの支出が大幅 に増加しているのは,この助成プロジェクトによ るものだが,この助成プロジェクト実施都市では 実際は,連邦からの助成と合せてほぼ倍額が助成 の総額となっている。 タンツプランは,図表5の支出一覧をからもわ かるように,個別のカンパニーやプロジェクトに 助成するプロジェクトではなく,舞踊教育や観客 創造,舞踊家のネットワーキング,アーカイヴと インターネット環境の整備など,ダンスの社会的 な基盤を整備して,次世代の舞踊家を養成し観客 を育てることで,ダンスの裾野を広げるいわば未 来志向のプロジェクトだった。しかし,一方では, 既に少なくともコンテンポラリーダンスの盛んな 都市を中心にしたタンツプラン・フォア・オルト 実施都市では,図表4が示すように,タンツプラ ンの対象事業ではない,カンパニーやプロジェク トへの助成も増加傾向にあり,ダンスの公演数の 増加,観客数の増加にも寄与しているように思わ 14 れる 。 2004-2009 年の市町村のダンス助成(総額) 10 の推移 ;単位ユーロ。 図表 4. 2004-2009 年の全市町村とタンツ プラン実施都市のカンパニーとプロジェクトに対 11 する助成(支出総額)の推移 ;単位ユーロ。 (凡例)都市カテゴリー: タンツプラン・フォア・オルト実施 都市 人口 200,000 以上の都市 人口 200,000 以下で市立劇場に舞 踊カン パニーのある都市 人口 200,000 以下の抽出した都市 1,600 万ユーロとなっていることが目立つ。その 他のカテゴリーの都市では,平均は,ほぼ横ばい で推移しており,総額ベースでは,タンツ・フォ ア・オルト実施都市以外の人口 20 万人以上の都 市で減少傾向,人口 20 万人以下で市立劇場に舞 踊カンパニーのある都市の支出が増加傾向である ことが注目される。 ノルトライン・ヴェストファーレン州ダンス・ オフィスのディレクター,カーヨ・ネレス(Kajo Nelles)は,本科研プロジェクトの聞き取り調査で, タンツプランについて, 「5 年のプロジェクトは全 体としてうまくいった。」と評価している。その理 由として,国から州への予算の分配,資金を自由 に使える州からの追加予算,政治家レベルでのダ ンスの認知度の向上,ダンス教育機関相互の相互 交流,若手対象の「テイクオフ・プログラム」に 42 15 図表 5 タンツプランの支出内訳 (2005-2011) ;単位 ユーロ。 1 Statistische Ämter des Bundes und der Länder: Kulturfinazbericht 2010, S. 25. (http://www.statistikportal.de). 2 Statistische Ämter des Bundes und der Länder: Kulturfinazbericht 2012, S. 44. (http://www.statistikportal.de). 3 2007 年のユーロ・円の平均レート 1 ユーロ=約 161 円で換算すると約 1 兆 3,685 億円に相当。 4 Tanzplan Deutschland (Hg.): Tanzplan Deutschland, eine Bilanz. Henschel Verlag, 2011. Statistische Ämter des Bundes und der Länder: Kulturfinazbericht 2010, S. 25. (http://www.statistikportal.de). 5 この文化連邦主義は,ドイツの再統一,EU統合など を背景に変化しつつある。これについては,副島博彦 「ドイツの文化政策と助成プロジェクト「タンツプラ ン」をめぐって」,『文部科学省科学研究費基盤研究(B) 「コンテンポラリーダンスの美学的分析とその社会基 盤」研究成果報告書』,2009., 57-61 頁参照。 6 Statistische Ämter des Bundes und der Länder: Kulturfinazbericht 2010, 25 頁から作製。 7 タンツプランについては,副島, 2009 参照。 8 Öffentliche Tanzausgaben in Deutschland 2004 ‒ 2009. Eine Explorative Analyse von Heike Lehmke / Zentrum für Kulturforschung (ZfKf) im Auftrag von Tanzplan Deutschland, 2010, in: Tanzplan Deutschland ed. Tanzplan Deutschland, eine Bilanz. Henschel Verlag, 2011. S. 88-91. 9 上掲 90 頁より転載。 10 上掲 90 頁より転載。 11 上掲 91 頁より転載。 12 本報告書所載のカーヨ・ネレス氏の聞き取り調査参 タンツ・フォア・オルト(Tanzplan vor Ort) 計 7,099,824 ハンブルク 1,200,000 フランクフルト 1,150,000 ベルリン 1,032,707 デュッセルドルフ 1,000,000 ブレーメン 650,000 ポツダム 630,000 ドレスデン 543,789 エッセン 453,326 ミュンヒェン 440,000 教育プロジェクト 計 1,154,683 人件費・諸経費 421,949 ダンステクニック 2010 238,399 舞踊教育ビエンナーレ 2008,2010 215,753 モジュール ダンス教育 100,191 高等教育機関会議 45,878 フォーサイス・カンパニー 41,679 個別高等教育機関助成 24,545 ダンス/キュレーション会議 23,950 教育者再教育 15,038 その他 27,301 事務局活動 計 808,350 ウェブサイト 182,415 出版 178,826 アーカイヴ事業 154,968 個別事業 146,967 会議費 120,343 調査費 24,831 照。 13 各都市のプロジェクトについては,副島, 2009, 59-60 頁参照。 14 本報告書の所載の舞踊上演数の推移(ドイツ)参照。 15 Öffentliche Tanzausgaben in Deutschland 2004 ‒ 2009, 2011, S. 25.から作製。 個別プロジェクト助成 計 1,403,704 NPN-共同制作助成 900,000 www.dance-germany.org 220,000 ダンスプラットフォルム 2006,2008,2010 90,000 舞踊書籍出版助成 85,278 TANZ 財団 58,425 www.tanznetz.de 50,000 人件費・事務所・事務経費 計 2,033,439 支出 合計 12,500,00 0 43 東京都の文化政策 アートカウンシル東京の課題と有効性 丹羽 アーツカウンシルとは、文化庁のホームページに よると「芸術文化に対する助成を基軸に、政府と 一定の距離を保ちながら、文化政策の執行を担う 専門機関」とされている。2011(平成 23)年に 閣議決定された「文化芸術の振興に関する基本的 な方針(第 3 次基本方針)」によると、「独立行 政法人日本芸術文化振興会における専門家によ る審査,事後評価,調査研究等の機能を大幅に強 化し,諸外国のアーツカウンシルに相当する新た な仕組み」と示されている。実際、文化庁では 2011(平成 23)年度から日本版アーツカウンシ ルが試行的に導入され、本格的発足へ向けた調査 研究などが重ねられている。 このような動きの中で、東京都は文化政策の要 として 2012(平成 24)年 11 月アーツカウンシ ル東京を発足させた。しかしこの事業については、 国と都が類似組織を創設する必要性、活動の骨子 と実施事業の関係性など、発足を疑問視する声が 多い。アーツカウンシル東京は公益財団法人東京 都歴史文化財団の一組織として運営されている が、同財団では、東京都現代美術館、江戸東京博 物館、東京都写真美術館、江戸東京たてもの園、 東京都美術館、庭園美術館、東京文化会館、芸術 文化劇場の 8 施設が、限られた予算内で様々に 工夫、苦労を重ねながら多面的な活動を継続して おり、ここに石原都知事の下 2001(平成 13)年 にトーキョーワンダーサイトが、さらに 2008(平 成 20)年には文化発信プロジェクトが創設され ている。このため、今回のアーツカウンシル東京 の発足について、これら既存の文化事業、とりわ け文化発信プロジェクトとの差別化について説 明を求める意見が多く寄せられた。筆者は同財団 の東京都写真美術館の職員であるため、特に批判 的意見が聞こえてくるようにも思われるが、とは いえ、予算、組織ともに小国家規模の東京都の下 で国に先んじて文化政策を施行する責任は重大 である。拙稿では、アーツカウンシル東京の課題 と有効性について整理していきたい。 アーツカウンシル東京は、知事の附属機関である 東京芸術文化評議会で石原都知事の下 2007(平 成 19)年より検討され、2012(平成 23)年 10 月に決定、猪瀬知事の下 2012(平成 24)年 11 月に公益財団法人東京都歴史文化財団の運営で 発足した。正式に発足したアーツカウンシルとし 44 晴美 ては、国内初の試みである。 東京に続き、大阪アーツカウンシル(府市共同 事業)が 2013(平成 25)年 4 月活動を開始。 また、予算額の大きさから 沖縄版アーツカウン シル とも呼ばれる沖縄文化活性化・創造発信支 援事業(通称:沖縄文化支援事業)が公益財団法 人沖縄件文化振興会によって 2012 年 8 月から開 始されているが、本格的アーツカウンシルとして は課題も多い。 アーツカウンシル東京の設立趣旨は、ホームペー ジに「東京における芸術文化創造のさらなる促進 や東京の魅力向上を図ること」「国際都市東京に ふさわしい個性豊かな文化創造や、地域社会の構 築に貢献」「芸術文化の自主性と創造性を尊重し つつ、専門的かつ長期的な視点にたち、新たな芸 術文化創造の仕組みを整えます」と記されている。 組織体制は、機構長(1 名)の下にプログラム ディレクター(1 名)、プログラムオフィサー(5 名)と管理担当職員を配し、組織外部に有識者(8 名)によるカウンシルボードを設け運営の助言を 得るというものである。 (2013 年 4 月 1 日現在) 事業は「東京芸術文化創造発信助成」を運営す る支援事業、人材育成事業や観光、地域活性化と 連動した「パイロット事業」、海外のアーツカウ ンシルとのネットワークづくりも含めた調査研 究事業の三事業が掲げられている。 アーツカウンシルを運営する公益法人東京都歴 史文化財団には、既に 10 事業の文化活動がある ことは前述したとおりである。文化施設について は各運営方針の下、展覧会や公演運営だけでなく、 教育普及事業など多面的な事業を展開しており、 これらの活動がアーツカウンシルの機能と重複 しないことは明らかである。しかし、文化発信プ ロジェクトについては、事業内容の趣旨と性質が、 アーツカウンシルの「パイロット事業」とどのよ うに差別化しているのか、今後、どのような展開 が考えられるかが不明確である。 また、人材育成についても、既に各分野、団体 で同様のプログラムは存在しており、アーツカウ ンシル東京の独自プログラムを創設する意義が 認められない。特にここ数年来、芸術・文化活動 の現場を目指す若者は増加しており、国内外の大 学や大学院を卒業した後に芸術・文化分野に就職 を求めても、雇用の現場がなく、仕方なく臨時職 員やインターン、ボランティア等を通して現場ス キルを重ねていかざるを得ない状況が続いてい る。文化活動に携わる現場は、公民に関わらず、 少ない予算で他面的な活動に対処しているため、 常に人員を求めているが、予算不足で増員できて いない。活用できる経費があるのならば、独自の 育成プログラムではなく、継続的文化活動を目的 として組織の安定した雇用への支援を最優先す べきである。 アーツカウンシルの設立趣旨にある「地域社会 の構築に貢献」や「新たな芸術文化創造の仕組み」 については、数年来、文化発信プロジェクトが地 域や NPO と共に取り組んできた。これらの活動 を支援しながら継続的自律を促し、仕組みを継 続・拡大させることこそがアーツカウンシルの役 割である。市場効果が不明確なままパイロット事 業に予算をかけて実施する必要性は感じられな い。アーツカウンシル東京の位置づけとして「東 京都への事業提案等も行っていく」(ホームペー ジより)とあるが、自主的に実施する事業を増や すのではなく、仕組み作り、各分野・業界の底上 げに直結するような支援に徹するべきである。 本研究グループの国内外のヒアリングからも、日 本の文化政策の問題点として、欧米に比べ日本の 文化予算に対する助成金率が低いことが指摘さ れている。国より一足先に発足したアーツカウン シル東京は、東京芸術文化創造発信助成を通じて、 この点を是正する絶好の契機であろう。現在、助 成金制度の課題となっている、現場のノウハウを 最大限に生かす柔軟な助成システムを実現する 点においても、単年度決済の都から切り離して、 公益財団法人下での助成を行うアーツカウンシ ル東京は多様な可能性を秘めている。2013(平 成 25)年度後期から始まる複数年助成が良い例 である。 柔軟な助成に欠かせない、PDCA(計画・実行・ 検証・改善)サイクルの確立という点でも、各分 野、団体のノウハウ、工夫、課題が既に都や歴史 文化財団内に蓄積されている。特に文化発信プロ ジェクトが他団体と共に実施した事業の結果や 課題には、アームズ・レングスを保ちながら文化 活動の新たな仕組みを整える上での具体的なヒ ントが山積しているはずである。このような既存 の情報を生かすことも、公的事業として重要な責 務である。新設の組織だからといって、新たな試 みばかりを模索せず、既存の組織との統合も視野 に入れ、無駄を省くこと。そして都や区、NPO 等の垣根を越えて、有機的に結びつけながら、現 場が真に求める新たな仕組みを構築することが、 アーツカウンシル東京に求められていることで 45 ある。 アーツカウンシル東京は、「東京」としての独自 性も追求しなければ、いずれ日本版アーツカウン シルが発足された時点で、必要性は認められなく なるだろう。例えば、東京都教育委員会を巻き込 んだ芸術文化普及プログラム等、都の機構を生か した仕組みである。ここでも重要なことは、アー ツカウンシルの独自事業として立ち上げるので はなく、同財団内の各施設が既に実施している普 及事業を補強する内容として、実施する各施設や 団体での新たな雇用を支援する柔軟な補助金の 運用など、活動の信頼性、自主性、継続性が確保 されることが最も重要である。またこのような活 動が、文化都市東京を支える次世代を育てる目的 であることは言うまでもない。 アーツカウンシル東京の設立意義として「芸術 文化を推進するグローバルスタンダードな仕組 み」(ホームページ)を挙げているが、アーツカ ウンシルのグローバルスタンダードは国際的文 化活動を計画的に支援することである。残念なが ら石原都知事時代に東京都の海外事務所は閉鎖 されてしまったが、都独自の情報網で、国よりも きめ細やかな国際支援ができる仕組み作りを模 索する必要がある。この点においても、「世界的 な文化創造都市・東京」の実現に向けて「新たな 東京文化を世界に発信し、国際ネットワークの重 要拠点」となることを目標に掲げている文化発信 プロジェクトとの統合は、組織内の無駄を省き、 ネットワークを強化するうえでも不可欠だろう。 拙稿で示した課題や類似事項は、既に具体的な取 り組みが始まっていると思いたい。いずれにせよ、 アーツカウンシル東京が短・中・長期的に何をど のように行おうとしているのかを、東京の芸術・ 文化活動に携わる人々、享受しようとしている市 民等にわかりやすく示していくことは急務であ る。そして、将来的にその必要性と継続的な活動 が認められたならば、官民一体のファンドによる 運営を目指し、予算面でも運営面でも政治的・属 人的状況に影響されない性質を保つことが重要 である。そのためには、既にある東京の文化、芸 術、表現の現場を尊重して、各分野が発展するた めに真に必要な支援と仕組みを一刻も早く実現 することが望まれている。 「 経 済 」 と は 何 か ―― コ ン テ ン ポ ラ リ ー ・ ダ ン ス の 政 治 / 経 済的存立の論理を求めて 荒谷 大輔 はじめに̶̶問題設定 2012年12月15日に行われたシンポジ ウム「文化政策・文化助成の論点整理」において、 コンテンポラリー・ダンスがおかれている政治/ 経済的状況があらためて確認された。元文化庁長 官の植木浩氏により、氏自身が主体となって行っ た文化政策を軸に日本の文化に対する助成の歴 史的経緯が確認され、片山正夫セゾン文化財団理 事によってセゾンという私的財団による日本の 現代芸術の育成が果たしてきた役割があらため て取り上げられた後、それらの文化助成を受ける 立場から日本のコンテンポラリー・ダンス界を牽 引してきたアンクリエイティブの盛裕花代表に よってコンテンポラリーダンスの四半世紀が振 り返られると、最後にダンスカンパニー「コンド ルズ」のプロデューサー勝山康晴氏によってダン ス業界における「プロデュース力」の低さが嘆か れ、そのほとんど唯一の「例外」としてのコンド ルズの成功が謳われた(氏によれば、それは音楽 業界のプロデュースでは当たり前のことを当た り前にやっただけだとされた)。そこで展開され た実り深い議論の詳細については、本DVD収録 のシンポジウム要約を参照されたいが、そこで問 題として浮き出されたのは、総じて、チケット収 入など、それ自体では「興行」として成立しにく いコンテンポラリー・ダンスを金銭的に助成する 際、それがどのような「哲学」によって正当化さ れうるかということであるように思われた。例え ば勝山氏のように、後進や業界全体の低迷を鼓舞 するために、おそらくは敢えて、チケット収入だ けでの公演の成立を主張することは、コンテンポ ラリー・ダンスの存立自体を経済原理にのせるこ とを意味するだろうし、コンドルズの成功をあく まで「例外」として捉え「芸術」としての領域を 守ろうとする盛氏の姿勢には、文化として助成さ れるべきものについての信念があったといえる。 国家や行政機関を含めた「他者」から助成を得て 行われる公演が、その存在をポジティブに主張で きる論理はどのようなものなのか。社会に厳しい 経済原理が浸透している現代の状況の中で、ダン ス業界の下部構造を支える論理がまさに必要と されていると思われる。 こうした大きな問題を設定した上で、小稿がそれ に直接的な答えを出せるわけではない。だが、本 稿では、少なくともその準備として、多少なりと 46 も迂遠な試みではあるものの、「経済」と呼ばれ る構造を相対化するところからはじめたいと思 う。今日支配的な「経済原理」の中に芸術を位置 づけることを目的とするのではなく、芸術自体の 価値から「経済」がまわっていくシステムを構築 する可能があるのではないか。本稿では、歴史的 に「経済」と呼ばれてきたシステムが、必ずしも 現代の「経済」と等しいものではないことを明ら かにすることで、コンテンポラリー・ダンスが直 面する政治/経済状況についての原理的な考察 を行う上での土台を作りたいと思う。 1 アリストテレスにおける経済(註 1) 「経済(エコノミー)」という概念は、比較的 よく知られているように、ギリシア語の「家(オ イコス)」に関連している。アリストテレスの『政 治学』において語られるように、エコノミー、す なわちギリシア語でいうオイコノミアとは、家長 による家の遣り繰り(家政)を指したのであった。 「家政術」は、とりわけ「家」の維持に関わるも のであることにおいて、アリストテレスによって、 「ポリティケー(政治術)」から区別されている。 「政治」と「家政」を区別すべきというアリスト テレスの主張は、しかしながら、アリストテレス から下ってそう遠くない時期においてすでに、反 故にされる傾向をもっていた。アリストテレスの 「著作集」に含まれながら、現在ではアリストテ レスから何世代か隔てた弟子の手によると見ら れている『経済学(オイコノミカ)』という著作 においてすでに、オイコノミアという概念は、 「家 政」の枠組みを超えて「政治」の領域にまで拡張 されているからである。オイコノミアに関する論 述が連ねられる『経済学』の第二巻は、 『政治学』 においてアリストテレスが区別した「家政術」と 「政治術」の区別を取り除き、オイコノミア概念 の射程を、「家」から大きく離れて、「王の経済、 州の経済、都市の経済」[Aristotle:1,1345b7]に まで拡張している。 「いかなる貨幣を造るべきか」 ということから、様々な「税の徴収」、その「支 出」に至るまで、そこでは、同じく「オイコノミ ア」という言葉で語られたのである [cf.Aristotle:1,1345b20-1346a20]。注釈者のグ ローニンゲンも認めるように [cf.Groningen,55-6]、オイコノミアの概念は、ア リストテレスからさほど遠くない世代にあって すでに、「家」に対象を限定された管理の術を離 れて、広くその対象を「政治」の領域へと広げて いたのだ。 同様に、 「オイコノミケー(家政術)」を「クレ マティケー(貨殖術)」から区別したアリストテ レスの言説が、古代ギリシアにおいて、当時どれ だけの「権威」をもって流通していたかを知るこ とは、困難だといわなければなるまい。 な点で決定的に異なるのか。アリストテレスによ れば、それは、知性をもって予見する能力を持つ か否かによる、とされる。 知性によって(τη διάνοια)予見する (προοράν)ことのできるものは自然的に 支配者、自然的に主人であり、肉体の労力 によって他人が予見したことを為す能力を もつものは被支配者、自然的に奴隷である。 [Aristote:Politique,1252a30] 商いの術は〔オイコノミアにおける財獲得 術と同様に〕財を作る術ではあるが、その 全き意味においてではなく、ただ財の交換 をつうじて財を作る術である。……一方の 財産使用にはそれ自身とは異なる目的があ るが、他方の財産使用にとっては財を殖や すことそのものが目的である。したがって、 ある人びとの眼にはこの財を殖やすことが 家政術の仕事のように映る。そして彼らは、 動産を守らねばならないとか、際限なく財 産を殖やさなければならないと思ってやま ないのである。 [Aristote:2,1257b20-1258a10] アリストテレスは、このようにして、オイコノミ アにおける財獲得術を、財獲得自体を自己目的化 する貨殖術から区別した。しかし、当時の「オイ コノミア」という概念の使用自体に注意を向けて みるならば、アリストテレスの時代にあってすで に、 「ある人びとの眼には」、財の獲得の自己目的 化した追求が「家政術の仕事のように映」ってい たことが見いだされる。「家」の「経済」に関わ る技術が、その「本性=自然」を逸脱し、財獲得 の自己目的化へと拡張されていく傾向は、当時に あってこの語の用法に付随していたと考えるこ ともできるのである。 しかしながら、「経済」という概念は、この後 順次見ていくように、世俗的な用法によってその 境界を浸食されながらも、なおある種の「権威」 によって、「オイコノミア」と語られるべき事柄 の本性を「倫理的」に規定する方向を強めていく ことになる。「経済」という概念は、ストア派の 哲学を経てキリスト教へと接続していく過程に おいて、世俗的な現象をそのまま記述するものと してではなく、「自然=本性」に即した物事のあ りうべき姿を示すものとして用いられることに なるのである。その詳細をみる前に、もう一点、 アリストテレスの「経済」概念の用法に含まれ、 その後の概念使用の歴史との関係において重要 と思われる要素を抽出しておこう。それは、「オ イコノミア」を管理するものの存在と、その特性 についてである。 「家」の「管理を行う」主人が、 彼の管理を被る立場にある「奴隷」と、どのよう 47 ここでは、「知性」の予見する能力が、管理され るだけの者と管理するものを分かつ基準とされ ている。知性をもって、家の物事を取り仕切る者 が「主人」であり、知性を持たないがゆえに、管 理される側にまわるのが「奴隷」であるのだ。こ のように、知性を「管理」する者の本質とみる考 え方は、その後、ストア派の議論と接続しながら、 新大陸発見時、「理性」を持たないと見なされる 「野蛮人」たちを「我々のオイクメーネー (οικουµένη)」の中で従属的な位置におく理論的 な根拠となった(註2) 。同じ「オイクメーネー」 にあり、同じような外見をもつ人々は、しかし、 「理性」をもたないことにおいて、「理性」をも つ「主人」の「奴隷」として位置づけられるので ある。「家」を管理する術としてのオイコノミア において、物事を予見する能力の有無は、 「主人」 であるか否かの本質的な基準とされることにな るのだ。アリストテレスが示した、こうしたオイ コノミアの構造は、 「家」という枠組みを、 「世界 全体」へと拡張するストア派の議論においても維 持されることになる。 2 ストア派における「オイコノミア」 いま言う家とは、塀に囲まれた我々の家 のことではなく、この世界全体(mundus hic totus)のことだ。この世界は、我々の 住居にして祖国であり、神々がご自身と共 有のものとして、我々に与えてくれたもの だ。[SVF:III,338] 『初期ストア派断片集』の編者アルニムによって クリュシッポスに帰されている、キケロの作中登 場人物の文言には、 「家(domus)」概念の「世界 全体」への拡張が示されている。宇宙全体をひと つの「家」として、その秩序のあり方を「オイコ ノミア」という語で示す考え方は、次のような、 プルタルコスによるクリュシッポスの引用にお いても見出されるだろう。 なぜなら共通の自然があらゆるものにの び広がっているので、宇宙全体の中で、あ るいはそのどの部分においてであれ、何ら かの仕方で起こるものは、すべて、その自 然と自然のロゴスとに基づいて、妨げられ ることなく順序に従って生じているが、そ れは、そのオイコノミアの邪魔になる者が 外にあることもなく、諸部分のどれも共通 の自然にしたがって動いたり制止したりす ることしかできないからである。 [SVF.II.937] 精神ないし理性であり、正不正の基準だか らである。……この法はすべての時代を超 えて、書かれた法のすべてより以前に、そ もそも国家より以前に生まれたものであ る。[SVF:III,315] ひとつの「家」としての「世界全体」は、ストア 派において、共通の「ロゴス」に基づいて「管理」 されるものと考えられたのである。 〔ストア派の創始者〕ゼノンによると……す べてを包括し統一している宇宙の自然本性 は……すべてのものにとっての有益と好機 とを配慮し摂理するものである。…宇宙の精 神とはこのようなものであり、それゆえ、思 慮あるいは摂理と呼ばれて正しい。ギリシア 人はπρόνοια〔予め配慮する知〕と呼んでい るからである。この精神が何よりもまず配慮 し、気にかけているのは、まずは宇宙が、存 続するためにできるかぎり適していること、 次には何ものも欠いていないこと、そして何 よりも最高の美しさと装いのすべてが実現 していることである。(キケロ『神々の本性 について』(2,57-58))[SVF:I,172] こうした、人間が定める実定法を越えて効力をも つ自然本性の法についてのストア派の考え方は、 近代国家論のうちに再発見され、グロティウスを 祖とみなす近代自然法学へと連なっていった。後 の項で確認するように、宇宙精神による「理性の 法」との共感応によって果たされる「オイコノミ ア=世界の調和」の思想が、近代自然法学の基礎 となったのである。だが、こうしたストア派の思 想は、ルネサンス期に再評価されるよりずっと以 前に、人文主義の運動が改革しようとした、キリ スト教的世界観の成立自体に大きな影響を与え たことを見ておく必要がある(註4) 。この世界全 体を「家」と見なし、その「経済」を考える思考 の枠組みは、キリスト教において、神がキリスト を遣わして世界を救済する論理へと結びつくこ とになるのである(註5)。 3 キリスト教神学における救済のエコノ ミー この世界を統べる「宇宙精神」によって「予め配 慮された知=摂理」に基づいて、ひとつの「家」 としての「世界」が管理される。その「オイコノ ミア」の「摂理」を生き、自然本性に従って生活 することが、ストア派の人々にとっての倫理とさ れたのである。クリュシッポスによれば、「一切 の実体は一体になっていて、一種の気息がその実 体全体に行きわたっており、万有はその気息によ って連続性とまとまりを保ち、自己自身と共感応 (συµπάθεια)するものとなっている」 [SVF:II,473]といわれる。宇宙の摂理との「共感 応」を導きとして、人々の自然本性に従った生き 方が成就するとストア派の哲学者たちは考えた のである(註3)。それゆえ、人間が従うべき「法」 もまた、ストア派の人々にとって、世界の「摂理」 に基づくべきものとなるだろう。 彼ら〔ストア派の人々〕は、思慮とは法で あり、正しい行いを命じ、そこから外れる ことを禁じる力があると考えている。…… 法は自然本性の力であり、思慮あるひとの 48 わたしたちはこの御子において、その血 において贖われ、罪を赦されました。これ は、神の豊かな恵みによるものです。神は この恵みをわたしたちの上にあふれさせ、 すべての知恵と理解とを与えて、秘められ た計画をわたしたちに知らせてください ました。これは、前もってキリストにおい てお決めになった神の御心によるもので す。こうして、時が満ちるに及んで、為さ れるべきものが完成し(εις oικoνoµιαν του πληρώµατoς των καιρών)、あらゆるも のが、頭であるキリストのもとに一つにま とめられます。天にあるものも地にあるも のもキリストのもとに一つにまとめられ るのです。[Paul,1.7-10] 紀元八〇から一四〇年代の間に、パウロに擬して 書かれて聖典に数えられた、いわゆるエフェソ書 (註6)は、イエス・キリストの贖罪によって約束 された神によるこの世界の救済を「オイコノミ ア」という語を用いて表現することになる。しば しばストア派の哲学との親和性を指摘される(註 7) パウロ(および偽パウロ)が、こうしてオイ コノミア概念を聖書の世界観に採用するにあた って、その語のストア派的な用法をどれほど意識 していたかという問題は、本論の議論の範囲を超 える。だが、この書の著者が、神がキリストに託 した「世界」の救済を、オイコノミアの秩序に従 って整序することで果たされると考えていたこ とは確かであるといえよう。この世界に「原罪」 を背負って苦しむ我々は、「主」としての神によ るオイコノミアの中で、「救済」へと導かれるこ とになるのである。「神のうちに、世界がはじま るときから隠されていた、神秘のオイコノミア」 [Paul,3.9]に関する議論は、初期の教父たちによ って、キリスト教における三位一体の中核をなす ものと位置づけられるようになっていく。キリス ト教神学の研究成果を丹念に辿りながらアガン ベンが跡づけたように、オイコノミアという概念 は、アテナゴラスを経てリヨンのエイレナイオス によって「正統派キリスト教神学」が構築される 中で、キリスト教神学の核心へと位置づけられる ことになるのである。神のオイコノミアがイエス をして受肉させたと説いたのはグノーシス主義 者たちだったが、現世を否定し救済を認めないグ ノーシス主義者たちを反駁する中でエイレナイ オスは、その考え方の枠組みを継承しつつ、オイ コノミア概念を、 「父-子-聖霊」の一性を示すもの として練り上げていくことになる(註8) 。林立す る様々な教派の中で、激しく他派を批判しつつ 「正統」を確立しようとしたエイレナイオスは、 オイコノミアという概念を多用しながら、「グノ ーシス主義者たち」におけるその語の用法を奪い 取っていったのである。「異端論駁」を続けるエ イレナイオスは、そうして、「救済」を約束され たオイコノミアの枠組みから、グノーシス主義者 たちを排除したのだ。 それゆえ、知識(グノーシス)という口 実のもとにイエスとキリストとひとり子、 さらに御言葉も救い主もそれぞれ別の者 だと考えている人々は皆、オイコノミアの 外にある人々である。[Eirenaios,III.16.8] オイコノミアという概念は、こうして、キリスト 教神学の中枢に取り入れられ、「正統派キリスト 教」に属さない思想を、「オイコノミアの外」へ と排除することになるのである。 4 ルネサンスにおける自然のエコノミー エイレナイオスの教義統一の夢が、ウルガタ聖 書へと結実し、キリスト教神学における動かざる 権威を獲得するに至ると、 dispensatio/dispositio というラテン語へと翻 訳されたオイコノミア概念は、キリスト教神学の 文脈から一旦姿を消すことになる(註9) 。正統派 キリスト教神学を構築する際に重要な機能を果 49 たしたオイコノミア概念は、ラテン語のキリスト 教神学の体系が完成することで、ギリシア語とし て神学の体系を中心で支える役割から退くこと になるのである(註10) 。だが、そうして神学の 舞台の脇役へと退いたオイコノミア概念は、奇し くも、エイレナイオスが「オイコノミアの外」に 排除したはずの「異端文書」の再読を契機とした 「ルネサンス」のうねりの中で、再び歴史のうち に登場することになる(註11) 。メディチ家の支 援を受けてフィチーノが翻訳し、以後の人文主義 の運動の火付け役となった紀元一、二世紀のギリ シア語の文献のうち、当時、プラトンよりも時代 的に先立つと信じられた、偽ヘルメス・トリスメ ギストスの著作群は、プロクロスやプロティノス などの新プラトン主義の文献にもまして、大きな 影響力をもったと考えられるのである(註12)。 コジモ・デ・メディチは、代理人がマケドニア から持ち帰った写本の中に『ヘルメス選集』を見 出すと、すでにフィチーノに命じていたプラトン のギリシア語著作の翻訳の作業を中断させ、フィ チーノの最初の訳業として、『ヘルメス選集』を 刊行することを優先させる。紀元一、二世紀の異 教的グノーシス主義と新プラトン主義との混淆 思想であることが、一六一四年にカゾボンの文献 学的精査によって明らかにされる以前には、モー セの時代に遡る「最古の神学書」と信じられた(註 13) ヘルメス文書は、当時の知識人たちによって、 思想史上の大発見として受け入れられた。神によ る世界の創造と、その「ロゴス=息子」による世 界の「救済」を説くヘルメス文書の世界観は、当 時、キリスト教の思想の成立を遙か昔に準備した だけでなく、「我々の敬愛するあの神にも等しい プラトン」の思想の形成に影響を与えたものと見 なされたのである。この文献学的転倒が、ルネサ ンス期に果たされた、今日まで至る様々な知の変 革を考える上で重要であることは、繰り返し強調 されてよい。今日の科学的認識への転換点として しばしば参照されるコペルニクスの地動説も、例 えば、自然科学的な観察に基づく実証的な知見で あるよりもむしろ、ヘルメス文書に見られる古代 エジプトの「太陽信仰」への目的論的な準拠と見 なされうるのである(註14)。 コペルニクスの同時代において、その知の「転回」 を強く支持したジョルダーノ・ブルーノもまた、 その革新的理論の着想の多くをヘルメス文書の 世界観に負っていたことが知られている(註15)。 当時の知の構造を規定していた「アリストテレス 主義」において、「能産的(生む)自然(natura naturans)」と「所産的(生まれる)自然(natura naturata)」は、領域を異にする二つのものと見 なされていた。 「世界=家」に我々を創造する「神」 が、 「生む自然」であるとするならば、 「主」によ って存在を与えられる「世界=家」の様々な事物 は、「生まれる自然」として区別される。ブルー ノは、こうした伝統的な存在の二分法を捨て去り、 この二つの自然を 同一の自然の異なる側面と みなした(註16)。ブルーノの理論的急進は、こう して、「アリストテレス主義」的な二元論に支配 されていた自然=本性の概念を、世界の事物に内 在する生成の原理として一元化していくことに なるのである[cf.Védrine]。 こうして、世界の事物の「生成」の原理が「世界 =家」そのものに内在するものと捉えられるなら ば、その「オイコノミア」の探求は、天上の秩序 を求めるものから、この世界の「摂理」を明らか にする方向へと向けられることになるだろう。ヘ ルメス文書の魔術的側面を容れながら、世界の生 成の原理を探求したルネサンス期の「自然学者」 たちは、世界に内在する秩序を探求することにお いて、後に「近代科学」と呼ばれる思考の枠組み を準備することになったのである。 何であれ、最も幸せな自然のよきものは、 内的な太陽、ミルラ(Muniae:没薬)とバ ルサム(Balsami)を混ぜることによって 享受される。その恩恵によって、それらは 統合され、唯一のエコノミーの中に調和す る(in unam oeconomiamconspirant)。 そうして、それらの自然が、限定された派 生物を、数多く生み出すことになるのであ る。[Severinus,14] パラケルスス学派の医学者であったセヴェリヌ スは、 「没薬」や「バルサム」と呼ばれる物質を、 そこから我々の生命を含めた様々な「派生物」が 生み出される「自然」の力の源と考えた。ヘルメ ス主義の文脈において、世界を創造する原理と見 なされた「太陽=光」は、ここで「内的」なもの とされ、その調和的な「エコノミー」の探求が目 指されたのだ。 自然の「エコノミー」を通じた、自然学者=医者 =魔術師たちの「治療」は、「共感応」と呼ばれ る原理を参照するものであった。すでにフィチー ノは『天上より導かれるべき生命について』にお いて、様々な護符や図像を用いた宇宙の摂理との 交感の法則を論じていた(註17)が、このような 「世界=家=自然」の捉え方は、「自然魔術師」 たちの試行錯誤の中から、自然科学的な知見が獲 得される時期まで続くことになる。 ケネルム・ディグビーは、例えば、一六五八年、 『共感応の粉による傷の治療について』において、 「迷信」とは異なる新たな「科学的」な知見とし て、 「共感応の粉(Poudre de Sympathie)」の遠 隔作用による治癒を証明しようとしている。 50 では、これから、風を構成し、それを満 たす微粒子について御覧戴くことにしま しょう。それらの〔風を構成する〕微粒子 は、普遍的第一原因が、それらに渡すもの とは全く異なる方法で、しばしば惹き付け られるのです。……流れや自然のエコノミ ーの中に、私たちはたくさんの種類の惹き 付けがあることを認めることができます。 ……サイフォンによる水やワインの惹き 付けは、この風のそれと同様のものという ことができます。[Digby,72] ここでディグビーは、流体中の「粒子」が、「ア リストテレス主義者」が考えるような「普遍的第 一原因」の作用によってではなく、圧力の大小に よって動くことを、「自然のエコノミー」の中の 「共感応」の原理として示している。こうした「自 然学(physique)」の試みが、中世の「迷妄」を 乗り越えるものとして意識されていたことに注 意する必要があるだろう(註18)。同様に、今日の 「自然科学」に直接的に連なる数々の発見を遂げ たロバート・フックもまた、 「自然のエコノミー」 において機能する「共感応」の原理の重要性を主 張している。 あらゆる物体の諸部分は……振動してい るので、 「あらゆる物体はそのうちにある程 度の熱をもっている」ということ……は何 ら証明をする必要はないと思われる。…… それ〔以上のようなことに反対すること〕 は、宇宙の壮大なエコノミーにまったく反 しているからである。こうして、我々は、 共感応(Sympathy)の理(reason)、つま り何らかの物体の相互結合が何かというこ と、と反発(antipathy)の理、つまり他の ものからの相互的に飛び去ることが何かと いうことを理解する。というのは、調和 (Congruity)とは物体の共感応にほかなら ず、不調和というのは諸々の物体の反発に ほかならないと思われるからである。 [Hooke,16:強調はすべてフック] ボイルの助手として「ボイルの法則」を定式化し、 顕微鏡による様々な観察によって毛細管現象を 発見、「フックの法則」を応用したぜんまいの技 術の開発する一方で、ニュートンと重力法則の発 見の先後関係を争ったフックは、「自然」の原理 を、「宇宙の壮大なエコノミー」の調和的秩序の うちに見出していた。ニュートンが「自然学」の 権威としての地位を確立し、その後の「知」の構 造を規定していく時代において、「共感応のエコ ノミー」は、「自然」に対する認識図式のひとつ として、「自然学者」たちに意識されていたので ある。 こうした、「世界=家=自然」に内在する摂理 を明らかにしようとする「自然学」の志向が、今 日における「経済」の用語法にも影響を与えたこ とを見落とすことはできない。人々の商業的な取 引の相関を体系的に記述し、今日における「経済 学」という言葉を最初に用いたとされるケネーは、 自らの学問を、「自然のエコノミー」の探求のひ とつとして定式化しているのである。 5 ケネーにおける経済 ポンパドゥール夫人の侍医であったケネーは、 最初期の著作において、当時の医学的知識を背景 としながら、動物の身体に現れる様々な症状が、 どのような「エコノミー」によって現れるのかを 論じている(註19) 。一七三六年に書かれた『ア ニマル・エコノミーに関する自然学的試論』にお いてケネーが用いている「エコノミー」という用 語は、ルネサンス期以来の「自然学」の枠組みに その根をもっているといえる(註20)。ケネーにお ける「経済(エコノミー)」という概念の用法は、 まずは「自然のエコノミー」の枠組みにおいて捉 えられるのである。ケネーが、自らの学問を自覚 的に「経済(エコノミー)の学」と規定したのは、 体系的経済学の原型として参照される『経済表』 よりも前、「自然法」に基づく社会体制を論じる 場面においてであった。ケネーは、一七六七年の 『中国の専制について』において、はじめて「エ コノミーの科学(la science économique)」 [Quesnay: Œuvre,1018]を唱え、「自然法」によ る統治を論じているのである。 「自然法(les loix natuelles)」とは、ケネーに おいて、「人間の存続、保存およびその生活の便 に必要な財の永続的な再生産に関わる自然=物 理法則そのものであ」[Quesnay: Œuvre,1015] り、人間によって恣意的に定められる「実定法」 を超えて、我々を規定するものと見なされる。こ うしたケネーの自然法の捉え方に、我々は、先に みたストア派の思考の枠組みを再認することが できる。「世界=家」を管理する「エコノミー」 は、ストア派において、神的な位置づけを与えら れた「理性」を法とするものなのであった。「人 間」は、自ら「理性」を持つ限りにおいて、自ら の行為を、世界全体の「エコノミー」の中に調和 させることができるのだ。「理性を自由に行使す ることによってのみ、人間は、ひとつの偉大な科 学であるエコノミーの学(la science économique)の中で、発展することができる」 [Quesnay: Œuvre,1018(強調は引用者)]。ケネ 51 ーが提示する「経済学」は、世界に内在する「理 性」を探求するものとして位置づけられるのであ る。 このような内在的自然=理性の「エコノミー」 が、ケネーによって『経済表』における商的な取 引の体系として示されたと考えることができる。 「理性」に基づくそれぞれの行為の連関とその体 系を明らかにすることが、「経済学」の課題とさ れたのだ。こうしてケネーが率いる重農学派は、 自らを「エコノミスト」と称し、この概念は、そ の後、重農主義に反発する論者によっても採用さ れることになる(註21) 。それまで単に商業論と して語られてきた事柄は、世界=家に内在する摂 理を明らかにする学問として、エコノミーの学へ と成ったのである。「自然のエコノミー」の思考 の枠組みが、「経済学」と呼ばれる学問の基底と なったことは、以下に見るように、 「経済学の父」 と呼ばれるアダム・スミスの議論にも確認するこ とができるだろう。 6 スコットランド学派におけるモラ ル・エコノミー 分業概念を提唱し、しばしば経済学の祖とみな されるアダム・スミスは、『国富論』における叙 述を、道徳と法の哲学の連続に位置づけていた。 第二次世界大戦後発見された『法学講義』Aノー トは、スミスの企図が「共感応(sympathy)」の 原理を基礎とした、道徳=法=経済の構造の解明 にあったことを明らかにしたのである(註22) 。 自然法を基礎とした自然神学をスコットランド にもたらしたとされるカーマイケルが、プフェン ドルフの問題設定を受けて、自然界の様々な事物 の秩序(自然学的エコノミー(physical economy))を道徳哲学へと適用したとき(註23)、 「自然学」の原理としての「共感応」は、神の「摂 理」によって人間に配分された固有の能力として 位置づけられた。「他者の感情を模倣し共感応す る本性的な傾向」(註24) は、そこでは、理性的 存在としての人間が、神の「摂理」に従って生き るための能力と見なされたのである(註25)。 こうした、ストア派の伝統を色濃く受け継いだ、 自然神学と共感応についてのスコットランド学 派の考え方は、ヒュームによる徹底的な経験主義 によって批判を受けながらも、その神学的な枠組 みを維持することになる(註26)。アダム・スミス が、その立論に大きな影響を受けたとされるケイ ムズの議論は、ヒュームの「懐疑論」を批判しな がら、「理性」を中心とした世界のエコノミーの 調和を謳うものであった。 一般的な善は、あまりにも崇高な対象であ り(註27) 、あまりにもかけ離れているので、 行為を突き動かすただ一つの動機となって いる。大抵の場合には、それぞれの個人は、 彼らが簡単に成し遂げることができるよう な、限定された目的を持った方が、 〔全体と して〕よりよく秩序づけられる。各人には 各人の職務(task)が割り与えられている。 そして、各人がその義務(duty)を果たす ならば、一般的善は、それがあらゆる個々 の行為の目的とされる場合より、はるかに うまく増進される。 [Kames,A90f./B66/C64] きだと考えた。人は単に他人の情念に流されるの ではなく、 「適切」なものと「是認(approbation)」 される場合にのみ、これに「共感応」するとされ たのだ。 だとすればしかし、どのような情念が「是認」 されるべきなのか。スミスは、そうした道徳的な 価値判断の枠組みを、まずはスコットランドの思 想家たちの伝統に即して、ストア派の「自然」の 秩序に求めている。 各人が設定する行為の目的は、それぞれの「自由」 に委ねられているとしても、それぞれの行為の動 機は、人間によっては統制できない「欲望 (desire)」と密接に関係しているため、モラル・ エコノミーの必然的連関の中にある(註28)。「自 然のエコノミー」における「自然学的な原因 (physical cause)」と同様の「モラル的な原因 (moral cause)」[Kames,B133/C166]によって 規定された各人は、全体を目的としない各々の 「職務」を遂行することで、エコノミー全体の調 和と発展に組み込まれるのである。 こうした、「神」を第一原因とする(註29)世界の 調和を語るケイムズの論理に、我々は、スミスの 「見えざる手」の議論の原型を見ることができる (註30)。「分業」によって各人が、全体の目的を 見通すことなしにそれぞれの業務を遂行するこ とで、エコノミー全体の発展が促進されるという スミスの論理は、「自然のエコノミー」を基礎と したモラル・エコノミーの議論を基礎としている と考えられるのである。 今日の経済学へと直接的に連なる「経済(エコノ ミー)」概念の内実を明らかにするために、最後 に、アダム・スミスに即して、分離した個々人の 行為が、全体的調和へと至る論理の展開を確認す ることにしよう。 6 アダム・スミスにおける共感応の経済 と自然の欺瞞 スミスにおける「共感応」のエコノミーは、他 者の立場へ身をおいたときに感じられる情念を 意味する以上に、具体的な当事者たちを越えたも のを参照している。ヒュームにおける「共感応」 は「他人の心的傾向や心持を交感伝達 (communication)によって受け取る」 [Hume,2.1.11]ものとされたが、スミスはこうし たヒュームの概念を批判的に受け止め、 「共感応」 には常に「適切さ(propriety)」の判断が伴うべ 52 〔ストア派の〕賢人、すなわち、自らの情 念を、彼の自然=本性の支配の原理へと服 従させている人にとっては、こうした適切 さを正確に観察することが、どんな場合に おいても等しく容易である。……かれは自 分自身を、人間の自然=本性、および世界 の偉大な精神(the great genius of human nature, and of the world)の光のもとに 見る。こういってよければ、彼は、そうし た神的な存在の感情の中へと入り込み、彼 自身を広大で無限なシステムのうちの一 つの原子や分子のようにみなすのである。 その原子や分子は、全体の便宜に応じて配 剤(dispose)されるべきものなのである。 [Smith:TMS,VII.ii.1.20&23:強調は引用 者] 自然のエコノミーの中に調和する「賢人」は、自 らの自然=本性に基づいて、どのような行為が 「適切」であるかどうかを正確に判断することが できるだろう。スミスにおいて、適切さの是認に 基づいてなされる「共感応」の基準は、「人間の 自然=本性、および世界の偉大な精神の光のもと に」明らかにされるのだ。人は、「神」が摂理と して定めたエコノミーに調和するものに対して、 「適切さ」の感覚を抱くとされるのである。 しかしながら、ヒュームの徹底した経験主義の 洗礼を受けているアダム・スミスにとって、「共 感応」の是認の基準は、我々の経験を越えた「形 而上学」的な思考の枠組みに求めるだけで済まさ れる問題ではなかった。神を唯一の原理とした (註31)「人間の自然=本性、および世界」の調和 を語る一方で、アダム・スミスは、我々の内の「道 徳感情」に基づくエコノミーの調和を、経験的事 実に基づけて記述しようとする(註32)。我々が 「自然」のエコノミーのうちに調和することは、 単に独断的な形而上学として主張されるもので はなく、我々の経験に即して記述されうるとスミ スは考えたのである。 例えば人は、雑然と椅子が配置された部屋に帰 ってきたとき、無造作に置かれているひとつの椅 子に座って身体を休める快を得るよりもむしろ、 しばしば、整然と椅子を片づける労をあえて執っ た後、椅子に座って休むという、片づける前の快 とほとんど変わらないものを得ようとする [cf.Smith:TMS,IV.1.4]。こうした具体例によっ て、スミスは、人間がその自然=本性においても つ道徳感情の経験的な基礎を示そうとしたと考 えられる。このときの彼の行為は、スミスによれ ば、片づけ終わった後の部屋の有用性を目指して いるというよりもむしろ、片づけることそれ自体 に向かっていると考えるべきである。秩序が完成 された後の便宜を目的とするのではなく、秩序が 完成されるに至る過程自体に存するある種の効 用が、彼の行為を動機づけているとスミスはいう のである。同様に、「富と名声」への想像力を介 した「共感応」は、人々をして、必ずしも報われ ることはない「立身出世」へと駆り立てるといわ れる[cf.Smith:TMS,IV.1.7]。 スミスによれば、「名声のある人々が置かれて いる立場について、我々の想像力が描きがちな欺 瞞的な色彩(delusive colours)において眺める とき、ほとんどそれは、完全で幸福な状態につい ての抽象化されたイデアのように思われる。そう した状態こそ、我々が、白昼の夢や徒然なる夢想 のうちに、自分たちに対して、我々のあらゆる欲 望の最終的な対象(final object of all our desires)として思い描くものなのである」 [Smith:TMS,I.iii.2.2]。だが、 「富と名声を獲得す ること」によって得られる快楽は、実際のところ、 それを持たない貧しい者にとって、獲得するため の膨大な苦労に本当に見合うものではない、とス ミスはいう。馬で往来を往き来し、暖かな部屋で 安らう快楽は、彼が全人生をかけ、あらゆる種類 の努力を注いで獲得しようとする苦労に比べれ ば、ほとんど取るに足りないものだといえる [cf.Smith:TMS,IV.1.8]。だが、我々は、そうし た獲得に向けた努力の過程、前進すること自体に 伴う「効用」を、「我々の想像のなかで、秩序、 規則的で調和的なシステムの運動、機構あるいは エコノミーと混同する。それ〔前進すること自体 に伴う効用〕が生じるのは、そうしたエコノミー によるのである。このような複合的な観点から見 た場合、富と名声の快楽は我々の想像力を刺激し、 何か偉大で美しく高貴なものとして映し出され、 その達成は、投じられる労苦と懸念のすべてに十 分に値するものであるように思われるのだ」 [Smith:TMS,IV.1.9]。社会から切り離された「哲 学者の視点」から見れば、取るに足りないように 見える(註33)、「共感応」のエコノミーに由来す る「効用」は、しかし、我々を「欺く」ものであ るにも拘わらず、かえって我々の社会の発展の原 理となっているとスミスはいう。社会的存在とし て「世界=家」に生きる我々にとって(註34)、エ 53 コノミーに由来する「欺瞞」は、各人の行為がエ コノミーのうちに調和するための原理として機 能するといわれるのである。 自然=本性が、このような仕方で我々を 欺き、労苦を課すこと(impose)は、よ いことである。こうした欺瞞によって、 人類の勤労=産業(industry)が掻き立 てられ、連続的な運動のうちに保持され るのである。この自然の欺瞞こそが、 人々をして大地を耕すことを促し、家屋 を建設し、都市と公共財を創り出し、人 間の生活を高貴で美しいものとする、あ らゆる科学と技術を発展させたのだ。 ……かれらは見えざる手(invisible hand)に導かれて、大地がそのすべての 住民のあいだで平等な部分に分割され ていた場合になされただろうものとほ ぼ同一の、生活必需品の分配を行い、そ うして、それを意図することなく、それ を知ることなしに、社会の利益をおしす すめ、種の増殖に対する手段を提供する のである。[Smith:TMS,IV.1.10:強調は 引用者] 初期の「天文学史」において、星辰の自然学的な 秩序に対して「ユピテルの見えざる手」というス トア派的な表現を用いていた(註35) スミスは、 ここで、彼が構想する道徳のエコノミーに内在す る「自然的秩序」について、同じく「見えない手」 という言葉をあてて言い表している。こうした、 「自然のエコノミー」に準じる道徳の必然的な秩 序についての考え方が、ケイムズの自然神学を下 敷きにしたものであることは、先に触れた通りで ある。それぞれの目的をもった個々人の行為は、 ケイムズにおいて、 「道徳感情」の基礎となる「欲 望」に基づく限りにおいて、エコノミーの必然的 環の中にあるとみなされた。ケイムズが示した 「欲望」は、ここでアダム・スミスによって、 「富 と名声」を「我々のあらゆる欲望の最終的な対象」 とする「共感応」のエコノミーとして具体化され ているのである。「富と名声」の幻影が、必ずし も報われない「立身出世」の野心を駆り立てるの は、個々人の意識の統制の外において機能する、 我々の「欲望」が、その「見えざる手」によって 我々を導くからだとされている。スミスは、こう して、我々の経験に即した具体例を挙げながら、 ストア派の伝統から引き出されてきた道徳のエ コノミーの内実を示そうとしたのだ。 だが、このスミスの議論においては、我々の「野 心」を駆り立てる「共感応」の適切さが、ある種 の「欺瞞」を含んだかたちで判定されていること に、やはり注意しておく必要があるだろう。「富 と名声」の獲得を「我々のあらゆる欲望の最終的 な対象」とすることは、「自然」の欺瞞的な「共 感応」のエコノミーにおいて「適切」なものとし て「是認」される。しかし、その是認が依拠する 構造は、それが通用する社会を離れ、物事を「抽 象的に観察する哲学者」にとっては、「欺瞞」と 見なされるものであるのだ。アダム・スミスは、 実際、「富と名声」を持つ者が社会の「流行 (fashion)」を扇動し[cf.Smith:TMS,V.1.3and I.iii.3.7]、時間と共に移ろう「流行」をあたかも 普遍的価値であるかのように追い求める人々の 「エコノミー」の構造を示すことになる[cf. Smith:TMS,V.1.4]。 「神」が「摂理」として与え る我々の自然=本性は、スミスの道徳のエコノミ ーにおいて、「共感応」の「適切さ」の基準を、 「流行」の影響下におくことになるのである。 『国富論』における「経済学」的分析へと直接 的に連なっていくこうした論点に対して、スミス 自身は、晩年に至るまで両価的な態度を取り続け た。『道徳感情論』の第六版でなされた大幅な変 更においてスミスは、右の議論をそのままに残し ながらも、他方で「富と名声」を追い求めること の「道徳的腐敗」を強く糾弾するくだりを付け加 えた[cf.Smith:TMS,I.iii.3.1]。ストア派の哲学へ の参照を増やし、「徳」に基づく自然のエコノミ ーを高く称賛することも、第六版において目立っ て多くなっている(註36)。だが、スミス自身の判 定はどうあれ、神によって創造された世界=家の 秩序を示すものとして用いられていたエコノミ ー概念が、こうしてスミスにおいて「経験化」さ れ(註37)、人々の意識の外から行為を動機づける 「欲望」のエコノミーとして、今日の我々の「経 済」の枠組みを規定したことは重要な意味を持っ ているといわなければなるまい。「自然のエコノ ミー」の議論を世俗化し、「経済」の枠組みを独 立した体系へと分離したことによって、スミスは、 まさに「経済学の父」とみなされることになるの である。 * 「経済とは何か」。本稿では、その語が用いられ てきた思想の歴史を辿ることで、今日の我々が参 与している「経済」の構造を明らかにしようとし てきた。 「経済(エコノミー)」とは、思想の歴史 の変遷の中で、世界に内在する摂理を示すものと して用いられ、アダム・スミスにはじまる「経済 学」においても、世俗化されたかたちでその論理 を残すものであったのである。「経済」という概 念は、そのかぎりにおいて、単に偶然的に遣り取 りされる商取引の総体を指し示すものではなく、 54 一定の論理に基づいて形成される社会構造を指 し示すものであるといえるだろう。各人が自らの 意識の外にある「欲望」に導かれることで形成さ れる「エコノミー」が、分業する我々の「調和」 を可能とする。こうしたエコノミーの論理が、ど のようなかたちで今日の我々の社会において作 用しているのか、我々自身の「欲望のエコノミー」 の構造と、その変革のための芸術の機能について の考察は、稿をあらためることにして、本稿では、 まずは「エコノミー」概念の構造を示したところ で、筆を擱くことにしたい。 註 註1 この節の内容は、科研費基盤研究(B) 「エコノミー 概念の倫理思想史的研究」(代表:麻生博之)の成果がも とになっている。古代から今日に至るまで「経済」とい う概念がどのように用いられてきたか、より網羅的には、 そちらを参照いただきたい。[cf.Kaken] 註2 cf.[松森,89f.] 註3 cf.[SVF:II,532] 註4 この点については、例えば、[荻野][土橋]などを参照。 註5 「オイコノミアの概念は、ヘレニズム期の哲学のう ちで豊かに展開され、ストア派の思想と表現が一般的な 言葉遣いで注視され継承された結果、 『新約聖書』の書き 手たちにとっても、また初期の教父たちにとっても、そ れによって世界における神の支配を描き出すことができ るかぎり、親和的なものであった」[Richter,25] 註6 cf.[田川,800ff.] 註7 四世紀末に「発見」された『セネカとパウロの往復 書簡』は、同時代人であった二人の間の架空の対話とし て、後代に創作されたものであったが、荻野弘之がいう ように、そうした創作が成立するということ自体に、 「『ス トア派のモラリスト』としてのセネカに対する教父たち の親近感」[荻野,132]が示されているといえるだろう。 註8 「エイレナイオスは、他のすべての教父と同様に、 「グノーシス」とか「グノーシス的」という言葉を一度 として悪い意味で用いていないという事実である。彼は、 ウァレンティノスやバシレイデスやカルポクラテスや他 の誰に対しても「グノーシス的」であるとして非難した ことはたえてない。非難の的になっているのはむしろ、 彼らが自ら「グノーシス的」であると称しているにもか かわらず、そうではないという点である」[ブイエ,144]。 また[Abamben,2.9]を参照。 註9 cf. [Richter,601f.] 註10 そのことはもちろん、Oeconomia というラテン 語化されたギリシア語の使用自体が消滅することを意味 しない。その語は例えば、弁論術や修辞学の分野で使用 されているのが確認されている[cf.kaken,134]。弁論や修 辞の文脈での「オイコノミア」概念は、ストア派との関 係や近世におけるその読み直しに関わる点で、非常に重 要な論点であるが、本稿では扱えなかった。 註11 「オイコノミアという語が〔ヨーロッパ中世の教義 学を越えて〕再び見いだされるのは、それが人文主義に おける新たな関心と出会ったときである。」[Richter,602] 註12 cf.[Walker],[イエイツ]など。なお、本稿ではとりわ けヘルメス文書の読み直しに焦点を当ててこの時期のオ イコノミア概念の「復活」を論じているが、近代国家論 へと連なるスペインでのストア派の自然法論の読み直し や、宗教改革における「オイコノミア」など、前後する 時代で錯綜し連関し合うこの語の用法を、ひとつの歴史 的出来事に帰して考えることは到底できない。ここでは、 近代の「自然学」に連なる「オイコノミア」概念の用法 を見るために線的な歴史の表象に訴えるが、この時期の オイコノミア概念の複合的な広がりを検討する作業は別 途必要となる。 註13 「彼〔トリスメギストス〕は神学の創始者と呼ばれ ています。その継承者はオルフェウスであり、始源の神 学者たちの間では彼が第二の地位を占めます。オルフェ ウスの聖なる狭義の奥義に達したアグラオフェーモスを 神学の方面で継いだのがピュタゴラスです。そのピュタ ゴラスの弟子がフィロラオス、つまり我々の敬愛するあ の神にも等しいプラトンの師です。」(フィチーノが『ヘ ルメス選集』を訳出した際に付した解題)[cf.イエイ ツ,37] 註14 「そしてあらゆるものの真中に太陽が座している。 ……トリメギストス〔ヘルメス・トリスメギストス cf.[高 橋]、[矢島]〕は、[この宇宙の中心としての太陽を]見える 神、ソフォクレスの『エレクトラ』は万物を見るもの〔と 呼んだ〕。かくして、いわば玉座に座すごとく、本当に太 陽は周りをめぐる星々の一族を統べ治めているのであ る」[コペルニクス,39]。F・イエイツが指摘するように、 プトレマイオスの天動説からコペルニクスの地動説へと 進む、 「近代科学」の革命的な転回の一歩は、太陽を「主 人」とした世界の創造を語るヘルメス文書の世界観に支 えられるものであったと考えられる[cf.イエイツ,241]。 コペルニクスの理論は、経験的な観察と論拠に基づくも のであるというよりもむしろ、異なる世界観を背景に主 張されるものであった。この点については、[コイ レ,154ff.]も参照されたい。 註15 cf.[イエイツ]、[コイレ,168] 註16 cf.[コイレ,164] 註17 cf.[イエイツ,489ff.]。ジョルダーノ・ブルーノもま た、例えば、 『図像、記号、イデアの構成について』にお いて、フィチーノの影響を受けつつ、独自の図像学を発 展させている。 註18 ディグビーは、少なくとも彼の意図としては、こう した現象の説明を「悪魔や天使に助けを求める必要はな い」[Digby,178]と考えており、そうした超越を持ち出す ことなしに「自然」を説明することが、ディグビーの著 作の動機となっている[cf.ibid.]。 註19 これまで何度も刊行されている(一八八八年、一九 五八年、二〇〇五年)ケネーの全集には、 『アニマル・エ コノミーに関する自然科学的試論』の第二版(一七四七) で大幅に付け加えられた第三巻のうち限定された部分か らの抜粋しか収録されておらず、ケネーが医学者として 「前近代」的な遺産を引きずっていたことは、ほぼ意図 的に削除されている。cf.[Quesnay:AE] 註20 cf.[Booth] 註21 たとえば、重農主義を根拠のない「形而上学」とし て批判するフォルボネも、 『商業要論』 (一七五四)と『経 済の原理と考察』 (一七六七)という二つの著書をはさん で、 「経済(OEconomique)」という言葉を自らの著書に 借り受けている。 cf. [米田, 174]。 註22 cf.[田中:1,,3f.] 註23 「我々は、あらゆる種類の被造物すべてに及ぶ神の 自然学的な統治(the physical government of God)を 考察してきた。そして、理性的な被造物とその自由な行 為も、この神の統治を免れていない。しかし、神の自然 学的な統治は、神の道徳的な統治(his moral 55 government)とけっして相反しないということも、我々 が述べたことから同様に明らかである。[Carmichael,280、 強調は引用者]。カーマイケルによる区分が、「フィジカ ル・エコノミー/モラル・エコノミー」に連なることに ついては、[kaken,177f.]を参照。 註24 [Moore&Silverthorn,79] 註25 [cf.Moore&Silverthorne,78] 註26 cf.[田中:1,,57ff.] 註27 第二版以降では、この「あまりにも崇高な対象であ り」という部分が削除されている。 註28 「欲望と行為とは密接に連関している。……だとす れば、我々の行為は、どうしても道徳的必然性から自由 ではないことになる。我々の欲望は、明らかに我々の制 御の下にはなく、我々に依存しないやり方で生起する。 ……道徳的必然に対立する自由とは、もしそれが何らか の意味をもつとすれば、 〔道徳的必然を導く〕欲望と対立 しながら行為する力、いいかえるならば、いかなる見解 も、目的も、デザイン〔すなわち、神による計画〕もな しに行為する力であることになるが、このような力は、 しかし、これまで誰によっても認識されたことはなく、 理性的存在とは両立しがたい、馬鹿げたものであるよう に思われる」[Kames,B130f./C164]。 註29 「神性は、すべての物の第一原因である。」 [Kames,A187/B154/C192] 註30[cf.田中:1,81]。後述のスミスの「自然の欺瞞」の理 論に対して直接的な影響を与えたものとして、ケイムズ のいわゆる「自由の欺瞞的感覚論」があるが、 「欺瞞」と いう用語についてケイムズは第三版において自己批判を 加えている。本論では版による相違の少ない箇所を用い たが、それらの違いについての詳細な研究は、[田 中:2,113ff.]を参照。 註31 「我々の行為の唯一の原理と動機は、神が我々にそ れらを遂行せよと命令したという感覚でなければならな い。」[Smith:TMS,III.6.1] 註32 「道徳感覚原理に基づく自然法の経験主体化とそれ による新しい道徳哲学の展開の努力こそ、……ヒューム、 ケイムズ、スミスらのスコットランド啓蒙思想の共通の 基底をなすものとなったのであった」[田中:1,,53f.]。な お、後の田中氏の展開によれば、スミスにおける「経験 化」という論点は、カルヴァン派の予定説を前提に調和 の作用因の分析へと進んだことと関連して論じられる[cf. 田中:2,119]が、本論では宗教改革の位置づけを含めて詳 しく展開できなかった。この点については今後の課題と したい。 註33 cf.[Smith:TMS,IV,1.8] 註34 「こうして、社会においてのみ生存することができ る人間は、自然によって、自分がその目的として作られ た状況に適合するのである。」[Smith:TMS,II.ii.2.1] 註35 [Smith:EPS,31] 註36 cf.[田中:1,,20] 本文中に参照された文献の略号は次の通り [Agamben] G. Agamben, Le régne et la gloire, traduit de l italien par J. Gayraud et M. Rueff, Seuil, Paris, 2007 [Aristotle:1] Aristote, Économique, texte établi par B.A. van Groningen et A. Wartelle, traduit et annoté par A. Wartelle, Les Belles Lettres, Paris, 1968 [Aristotle:2] Aristote, Politique texte établi par Jean Aubonnet, Les Belle lettres, 1960 [Booth] E. Booth, 'A subtle and mysterious machine': the medical world of Walter Charleton (1619-1707), Springer, Netherland, 2005 [Carmichael] G. Carmichael, Natural Rights on Threshold of the Scottish Enlightenment, edited by J. Moore and M. Silverthorne, translated by M. Silverhorne, Liberty Fund, 2002 [Digby] K. Digby, Touchant la guérison des playes par la Poudre de Sympathie,1658 [Eirenaios] Irénée de Lyon, Contreles hérésies Livre 3, t.1-2, édition critique par A.Rousseau et L. Doutreleau, Édition du Cerf, Paris, 1965[Groningen] B.A. van Groningen, Aristote le second livre de l'économique, A.W.Sijthoff,1933 [Hooke] R. Hooke, Micrographia, reprint Original edition 1665, Culture t Civiliation, 1966 [Hume] D. Hume, A Treatise of Human Nature, edited by David Fate Norton and Mary J. Norton, Oxford University Press, 2000 [Kaken]麻生博之、荒谷大輔、佐々木雄大、鈴木康則、三 重野清顕編「「エコノミー」概念 原典資料集」(科学研 究費基盤研究(B) 「エコノミー概念の倫理思想史的研究」 (代表:麻生博之)研究成果報告書・補足論集)二〇一 〇 [Kames] A: Henry Home (Lord Kames), Essays on the principles of morality and natural religion, reprint Original edition in 1751, Garland Pub., 1983/B: Henry Home, Essays on the principles of morality and natural religion(1758), Olms, 1976/C: Henry Home, Essays on the principles of morality and natural religion, third edition, Edinburgh and London, 1779 [Moore&Silverthorne] J. Moore and M. Silverthorne, Gershom Carmichael and the natural jurisprudence tradition in eighteenth-century Scotland in Wealth and Virtue, Cambridge University Press, 1983 [Paul] Προ Eφεσιoυ in Novum Testamentum Graece post Eberhard et Erwin Nestle, Deutsche Bibelgesellschaft, Stuttgart, 1979 [Quesnay:AE] F. Quesnay, Essai phisique sur l'oeconomie animale, Guillaume Cavelier, 1736 [Quesnay: Œuvres] F. Quesnay, Œuvres économiques complètes et Autres textes, edité par C. Théré, L. CHarles et J.-C. Perrot, L institue national d études démographiques,2005 [Richter] G. Richter, Oikonomia, Walter de Gruyter, 2005 [Severinus] P. Severinus, Idea Medicinae Philosophicae, 1571 [Smith:EPS] アダム・スミス著、水田洋ほか訳『哲学論 文集』名古屋大学出版会、一九九三 [Smith:TMS] A. Smith, The Theory of Moral Sentiments, edited by D.D. Raphael and A.L. Macfie, Clarendon Press, Oxford, 1976 [SVF] H. von Arnim, Stoicorum Veterum Fragmenta, Stuttgart, I-IV, 1905-1924 [Védrine] H. Védrine, La conception de la nature chez Giordano Bruno, J.Vrin,1967 [Walker] D.P. Walker, Spiritual and Demonic Magic from Ficino to Campanella, University of Notre Dame Press, 1975 56 [イエイツ] フランセス・イエイツ『ジョルダーノ・ブル ーノとヘルメス教の伝統』工作舎、2010 [荻野] 荻野弘之「ラテン教父におけるストア派倫理学の 受容と変容」 『中世思想研究』第52号、中世哲学会、二 〇一〇 [コペルニクス] コペルニクス著、高橋憲一訳『天体回転 論』みすず書房、一九九三 [コイレ] A・コイレ著、菅谷暁訳『ガリレオ研究』法政 大学出版局、一九八八 [高橋] 高橋憲一訳注『天体回転論』みすず書房、一九九 三 [田川] 田川健三訳著『新約聖書訳と註 4』作品社、二 〇〇九 [田中:1] 田中正司『アダム・スミスの自然法学』第二版、 御茶ノ水書房、二〇〇三 [田中:2] 田中庄司『アダム・スミスの自然神学』、御茶ノ 水書房、一九九三 [土橋] 土橋茂樹「アパテイアの多義性と「慰めの手紙」: 東方教父におけるストア派の両義的影響」『中世思想研 究』第五二号、中世哲学会、二〇一〇 [ブイエ]L・ブイエ著、上智大学中世思想研究所訳『キリ スト教神秘思想史』平凡社、一九九六 [松森] 松森奈津子『野蛮から秩序へ』名古屋大学出版会、 二〇〇九 [矢島] 矢島祐利訳注『天体の回転について』岩波文庫、 一九五三 [米田] 米田昇平『欲求と秩序』、昭和堂、二〇〇 五 コンテンポラリーダンスの場 ―第 3 世代のダンスセンター 岡見 さえ フランス近代の歴史で、文化行政においてダン スは常に音楽と演劇の中間の不安定な位置を占 めていた。制度化されていない舞踊は大衆芸能と して保護されることが無く、国家の保護を得てい たダンス・クラシックもオペラ劇場の一部門とし て専用劇場を持たず、ダンスは「音楽に食べさせ てもらい、演劇に寄宿する」状態が続いていたの である(註 1)。われわれの研究の対象であるコ ンテンポラリーダンスが出現し、この新しいアー トが文化の景色のなかで存在感を増していくに つれ、国の主導でダンスセンター設立の機運が高 まりを見せたのはフランスでは 80 年代のことで ある。その後フランス各地には国や地方、地域の 支援を受けてさまざまなタイプのダンスセンタ ーが誕生し、現在も時代や地域の要請に応えつつ その最適なあり方を模索している。本稿では、コ ンテンポラリーダンスの誕生から現在に至るま でのフランスのダンスセンターの変容を分析し たい。 1.フランスのダンスセンターの歴史的展開 フランスで最初のダンスセンターは、ラ・ロシ ェルに誕生した。パリ・オペラ座バレエ団から出 て新たなダンスの探求を行ったジャック・ガルニ エ(Jacques Garnier)とブリジット・ルフェー ブル(Brigitte Lefèvre)は、1974 年に彼らのカ ンパニー、テアトル・ドゥ・シランス(Théâtre du Silence)の本拠地を大西洋岸の町ラ・ロシェル に定めた。このカンパニーが国からの支援を受け、 国 立 振 付 セ ン タ ー ( Centre Chorégraphique Nationale、略称 CCN)に発展する。その後、社 会党政権下で加速した文化の脱中心化の流れを 受けてフランス各地に CCN が作られ、現在では 19 のセンターがある。CCN は既に国際的にも実 力が認められた振付家をディレクターに据え、質 の高いコンテンポラリーダンス作品の新作を制 作し、このアートの発展に寄与することを目的と している。しかし振付作品/振付家→観客という この一方向のモデルは、コンテンポラリーダンス の普及に常に有効ではなかった。たとえば、保守 的な文化嗜好を持ち、コンテンポラリーダンス受 容の素地を持たなかった南西部の中心都市トゥ ールーズでは、1985 年に振付家ジョゼフ・ルシ ロ(Joseph Russillo)率いる CCN トゥールーズ が設置されたが失敗に終わった。それに代わるコ 57 ンテンポラリーダンスのセンターとして、1995 年に誕生したのがダンスのジャーナリストだっ たアニー・ボジニ(Annie Bozini)をディレクタ ー と す る 振 付 発 展 セ ン タ ー ( Centre de Développement Chorégraphique、略称 CDC) である。CDC は振付家以外のダンス分野のプロ フェッショナルをディレクターとし、CCN の機 能を越えた上演支援を行い、ダンサーの育成、フ ェスティヴァルの企画、コンテンポラリーダンス 普及教育プログラムなど、地域固有の要請への柔 軟な対応が可能なモデルを創り上げ、フランス国 内・国外に数を増やしている(註 2)。助成の面 でも、CCN が主に国に支援されているのに対し、 CDC は地域圏からの支援を主に受けている点で、 両者は異なっている。 CCN 設立による地方分散が進められた国のダン ス政策は、1998 年の国立ダンスセンター(Centre Nationale de Danse、略称 CND)の開設で一つ の転換を見る。文化・コミュニケーション省の主 導でパリ郊外のパンタン市に設立されたこの施 設は、「プロフェッショナルのための教育とサー ビス」 「文化遺産の継承」 「クリエーション」の 3 つの使命を謳い、コンテンポラリーダンスのコン セルヴァトワールとしての性格を持つ。CCN が 振付家のクリエーションを行うのに対し、CND は国家基準に基づく教師や振付家の教育を行い、 国家資格を付与し、資料室を持ち、2013 年から はダンスのフィルムセンター(シネマテーク・ド ゥ・ラ・ダンス)も統合した。CND にはスタジ オもあるが、カンパニーへ貸し出すだけではなく、 ダンス上演(コンテンポラリーダンスに限らな い)や、アマチュア向けのワークショップを行い、 ダンスに関心を持つプロフェッショナルとアマ チュアが広くダンスについて学ぶ機会を提供し、 ダンスの推進と普及を図るセンターとなってい る。 こうして、CCN から CND 開設までの約 20 年間 に国のコンテンポラリーダンス政策が応じられ なかった地域の要望には、地域が支援する CDC が応えるという構図が浮かび上がる。だがこうし た全国レベルのダンスセンターの展開とは別に、 1980 年に既に地域の支援で独自のダンスセンタ ーを創設し、現在も独自のダイナミックな活動を 続けている都市がある。それはフランス第二の規 模を持つリヨンだ。 ゥ・ユイチエム(Théâtre du Huitième、リヨン 8 区劇場)への移転を決める。1968 年に国立演 劇センターとして建てられたこの劇場へのダン スセンターの移転は、ダンスの勢いを強く印象付 けた出来事だった。メゾン・ドゥ・ラ・ダンスは、 客席 1,100、舞台 14 30m、リハーサルやレジ デンスが可能な 300 ㎡のスタジオを持つ劇場と なり、移転翌年の 1993 年にはアボネの数は倍増 し 6,500 人を越え、年間観客数は 93,000 人を数 えた。1998 年シーズンにアボネは 10,000 人を 突破、観客数は 12 万 8000 人となる。リヨン市 は 1999 年に再び 2,200 万フランをかけて施設改 装を行い、国内の若手振付家や、国外の振付家の レジダンス、クリエーションが可能な設備を整え た。開館 20 周年を迎えたこの年のシーズンでは、 10 カ国から 32 カンパニーを受け入れ、公演は 183 回、27 回の子供向けマチネを数え、財政面 では国、リヨン市、地域圏、県からの助成が 40% であるのに対して、自己資金が 60%に上る。 2000 年代に入ってもアボネは 15,000 人、観客 数は 18 万人前後を推移しており、より観客に開 かれた場となるための改装も行われる。2005 年 には、ローヌ・アルプ地域圏、地域文化局から 12 万 7 千ユーロの助成を得てスタジオを 92 席 の公演可能なスペースに改装し、このスタジオで 行われる作品の制作の過程は一般に公開され、ダ ンスのクリエーションに触れる貴重な機会を提 供している。最近の 2010-2011 年シーズンでは アボネ数 15,155 人、観客動員は 180,800 人。こ の間、ダンス・ビエンナーレも着実に回を重ね、 数万人の市民がコンテンポラリーダンスの衣装 を着て参加するビエンナーレのオープニングパ レードはダンスを市民のあいだに定着させると 同時に、国際的にもダンス都市リヨンを強く印象 付けている。リヨンは、地域の要請から実現した ダンスの場の創設が、観客層の拡大、国際フェス ティヴァルの枠組も利用した市の文化産業振興 とリンクして発展を続けた成功例といえるだろ う(註 4)。 2.リヨンのメゾン・ドゥ・ラ・ダンス 1687 年にオペラ座が開場し、バレエ・ダクシ ョンを提唱して古典舞踊を刷新したノヴェール の活動の場でもあったリヨンは古くからダンス と縁のある町だが(註 3)、コンテンポラリーダ ンスの展開にも重要な役を果たしている。リヨン は 1980 年にフランス初、そして今日でもヨーロ ッパ唯一のダンス専門劇場であるメゾン・ドゥ・ ラ・ダンス(Maison de la Danse)を開設し、 1982 年にはコンテンポラリーを主眼に置いたダ ンスフェスティバルのリヨン・ダンス・ビエンナ ーレを創設した。 このリヨンのダンスセンター、メゾン・ドゥ・ラ・ ダンスは国の主導ではなく、地域のダンスのプロ フェッショナルの要請から誕生した。1970 年代 後半、ローヌ・アルプ地域圏のダンス教師と約 10 人の振付家で構成された組織、アクション・ ダンス・ローヌ・アルプ(ADRA)はコンテンポ ラリーダンスの公演場所の少ないことに不満を 抱き、ダンス専用劇場を構想し、リヨン市の文化 担当助役に企画を提出した。フランス初のダンス センターという企画の新しさが地域の政治家た ちを惹きつけ、計画は順調に進展し、1980 年に リヨン市内の既存施設クロワ・ルース (Croix-Rousse)を改装し、750 の客席を備えた メゾン・ドゥ・ラ・ダンスが開館した。ディレク ターには ADRA から要請を受けたギー・ダルメ (Guy Darmet)が就任し、以後約 30 年にわた ってこの職を務める。彼は振付家ではなく、リヨ ンの地方雑誌の販売部門の統括者であり舞踊評 の執筆者だった。杮落としはリヨン市長と文化担 当助役が参加、リヨン・オペラ座バレエ団がマギ ー・マラン(Maguy Marin)、ダニエル・アンバ シ ュ ( Daniel Ambash )、 カ ン タ ン ・ ル イ エ (Quintin Rouiller)の振付作品を踊った。メゾ ン・ドゥ・ラ・ダンスは、創作(création)、作 品上演(distribution)、出会い(rencontres)お よび情報収集(information)の場であることを 目標に掲げ、フランス文化省とコミュニケーショ ン省、ローヌ・アルプ地域圏、民間パートナーの 支援を獲得し、観客やプロフェッショナル、メデ ィアの支持を得た。 開館当時のリヨンのコンテンポラリーダンスの 観客数は 1 万人と推定されていたが、メゾン・ド ゥ・ラ・ダンスの最初のシーズンのアボネ(定期 予約者)は 700 人を数えた。そして 1980 年から の 10 年間に、メゾン・ドゥ・ラ・ダンスのアボ ネは 3,000 人に増え、延べ 60 万人もの観客を受 け入れた。この成功を受け、リヨン市と文化省は 1992 年にさらに設備の充実したテアトル・ド 3.第 3 世代のダンスセンター ―都市への開放、他領域の受容の場 2010 年、リヨン市は第 3 のメゾン・ドゥ・ラ・ ダンスの設立計画を発表した。ダンス専用劇場の クロワ・ルース、劇場に加え新作制作や観客との 交流を可能にするスタジオをもったテアトル・ド ゥ・ユイチエムからリヨン中心部の 2 区に移転す る第 3 のメゾン・ドゥ・ラ・ダンスは、1400 席 と 500 席の 2 つの劇場を持ち、プロフェッショ ナルのための 2 つのスタジオ、アマチュアに貸し 出される 2 つのスタジオ、レストランスペースを 58 備えた、さらに規模の大きな施設になることが予 告されている。2008 年に任命された国立シャイ ヨー劇場のディレクター職を辞し、2010 年から ギー・ダルメの後継者として 2011 年にメゾン・ ドゥ・ラ・ダンスおよびダンス・ビエンナーレの ディレクターとなった振付家ドミニク・エルヴュ は、この新たなダンスセンターに「一種のダンス のアゴラ(集会所)を創り出す」と発言し、リヨ ン市はそれがヨーロッパを代表するダンスセン ターとなることを期待している(註 5)。 このプロジェクトに関連し、2012 年ドミニク・ エルヴュ体制で初の開催となった第 15 回リヨ ン・ダンス・ビエンナーレでは、「第 3 世代のダ ン ス セ ン タ ー 」( Maison de la Danse, 3ème génération)と題するシンポジウムが行われた。 カナダ、ケベック州の文化センター、ジャック・ カルチエ(Centre Jacques Cartier)とビエンナ ーレの共催で行われたこのシンポジウムは、建築 や都市計画にも目配りしつつ、時代の要請に応え たダンスの場のあり方を探るものだった。ダンス センターに関わった建築家、振付家、ダンスセン ターのディレクターらが参加し、既存のモデルと してパンタンの CND、ケベック州モントリオー ルのアゴラ・ドゥ・ラ・ダンス(Agora de la Danse)、振付家アンジュラン・プレルジョカー ジュ(Angelin Preljokaj)率いる CCN エクス・ アン・プロヴァンス、今後のプロジェクトとして CDC ヴィトリ・シュル・セーヌ(Vitry-sur-Seine)、 モントリオールのル・ヴィルダー(le Wilder) プロジェクト、そして新しいリヨンのメゾン・ド ゥ・ラ・ダンスの関係者による発表が行われた。 すでに見たように、リヨンのメゾン・ドゥ・ラ・ ダンスでは、ダンス専用劇場から、振付家のレジ デンスや観客との交流が可能なスタジオを有す るダンスセンターへの変化が確認されたが、フラ ンス国内のダンスセンターの展開を概観しても、 CCN の誕生の約 20 年後に批判発展的に CDC が 登場したことは、コンテンポラリーダンスの普 及・発展において、振付家/振付作品と観客との 双方向的な関係性が必要であったことを示して いる。そして近年、このような地域に開かれたダ ンスセンターたることを志向した CCN が、CCN エクス・アン・プロヴァンスである。2006 年に 完成したパヴィヨン・ノワール(Pavillon Noir) は、CCN で初めて客席 386 席を持つ公演可能な センターであり、さらにこの新センターの完成で、 エクス・アン・プロヴァンスの町の景色に文字通 りコンテンポラリーダンスが融け込むこととな った。それはスタジオがプレルジョカージュから の注文でガラス張りにされたためであり、振付家 にとってダンスが、踊る身体が、町の人々に日常 の風景として受容されることが重要だったとい 59 う。 ダンスセンターの建築において、機能面に留まら ない視覚レベルの開かれと都市の風景への同化 が重視される傾向は、CND のプロジェクトに携 わった建築家からも証言された。1998 年にオー プンした CND は新築ではなく、1972 年に障壁 の不在をコンセプトとした革新的な行政施設と してパンタン市が建設し、警察署などを収容して いたが使い勝手の悪さのために放棄された建物 のリノヴェーションである。建築家は、ダンスセ ンターの用途に限ってほぼ無償の 60 年契約で市 から貸し出されたこの物件のコンクリート剥き 出しの飾り気なさと障壁を持たない特殊性を生 かしつつ、開口部を増やして内部に光を取り入れ、 建物外部にもデザインの要素を加えた。こうして CND はダンスセンターとしての優れた機能を果 たしつつ、パリ郊外の移民が多く住む無機質な新 興地区の洒落たランドマークとなり、人々の関心 をダンスに向けることに成功した。 町に溶け込み、ダンスを媒介に多種多様な人々の 交流を保証するダンスセンターの試みと並び、ダ ンスセンターをダンス外の専門領域との複合的 な交流の場にしようとする試みもある。この都市 計画との一体化と専門多分野とのコラボレーシ ョンを同時に実現するダンスセンターの例には、 アニー・ボジニ率いる CDC トゥールーズのシ テ・ドゥ・ラ・ダンス(Cité de la Danse)プロ ジェクトが挙げられるだろう。2008 年に発表さ れたこの計画は、「国際的かつ専門領域横断的な ダンス教育の場」「ダンス関連オブジェの展示」 「大衆的ダンスの保存」「2 年任期のアソシエイ トアーティストとその他のレジデンス」「新劇場 での作品上演」を行うダンスセンターを、トゥー ルーズ市中心の 18 世紀に建てられた公立病院の 広大な跡地にダンス以外のアート施設と共に設 置する(註 6)。ボジニが指摘する「創作」 「教育」 「上演」「制作」とう 4 つのダンスプロジェクト の主要局面をカバーしつつ、この新たなダンスセ ンターは都市の中心にダンスの場を創成し、他領 域のアートとの出会いによって、現在 3 万から 3 万 5 千人と推定されるトゥールーズのコンテン ポラリーダンスの観客の裾野をさらに広げるだ ろう(註 7)。 4.ダンスセンターと教育施設の結びつき −ケベックの例 さらに、芸術分野に限定されない領域横断的な ダンスの可能性を示すのは、シンポジウムに参加 していたケベックのダンスセンターである。70 年代から北米のコンテンポラリーダンスの中心 を形成するモントリオールでは、フランス的なダ ンスセンターの機能に加え、ダンサー・振付家養 成教育とクリエーションの連携が強く意識され ている。ケベック・ダンスを牽引するダンスセン ターには、1987 年設立のアゴラ・ドゥ・ラ・ダ ンスと 1980 年設立のタンジェント(Tangent) があるが、アゴラはパヴィヨン・ドゥ・ダンスと 呼ばれる建物をケベック大学モントリオール校 ( Université du Québec à Montréal 、 略 称 UQAM)のダンス学部と分かち合っている。1919 年にアマチュア陸上競技協会として建設された 建物に 1987 年 UQAM ダンス学科が移転するこ とになり、その際に実験的な創作の公演の場の組 織と上演スペースの管理を目的として、大学から 独立した団体のアゴラ・ドゥ・ラ・ダンスが作ら れた。そのため 1987 年以来パヴィヨン・ドゥ・ ダンスと呼ばれるこの施設の公演スペースはア ゴラが管理し、大学や実験的なケベック・ダンス の作品上演に貸し出しを行っている。こうしてパ ヴィヨン・ドゥ・ダンスは、コンテンポラリーダ ンスの上演、制作、振付家・ダンサーの養成、研 究を一カ所に集中させた世界でも類を見ないダ ンスセンターとなった。 一方のタンジェントは、個人のイニシアティヴ で、アゴラに先駆けて 1980 年に生まれた。以前 はアゴラ、UQAM を含むパヴィヨン・ドゥ・ラ・ ダンスにエスパス・タンジェントという公演スペ ースを保有していたが、市の中心地にあるモント リオール・コンテンポラリーダンス学校(l Ecole de danse contemporaine de Montréal)の施設 建替えに伴い、この私立学校の本拠地となる新し い建物(通称ヴィルダー、le Wilder)にケベッ クを代表するバレエ団のレ・グラン・バレエ・カ ナディアン・ドゥ・モンレアル(Les Grands Ballets Canadiens de Montréal)と共に 2014 年に移転する予定であり、それによってモントリ オールにはダンス・クラシック(バレエ)カンパ ニー、コンテンポラリーダンス学校、コンテンポ ラリーダンスの上演スペースが集まる独創的な ダンスセンターが誕生することになる。ダンスの 上演、文化遺産としての保存、普及活動というフ ランスのダンスセンターの機能に加え、振付家・ パフォーマーの養成をダンスセンターの使命に 結びつける点で、ケベックのアゴラやタンジェン トの試みは興味深い。その背景には、ケベックの コンテンポラリーダンスの発展に複数の大学や 学校でのダンサー・振付家養成プログラムが大き な役割を担ってきた伝統が存在すると思われる が(註 8)、タンジェントの創立者でありディレ クターを務めるディナ・ダヴィダ(Dena Davida) は、さらに進んで大学マスターレベルのダンスの キュレーター養成を行うプログラムも現在準備 している。これは大衆受けするプログラム(歌や 60 お笑い)を選びがちな地方公立劇場にもダンスの 知識を持った人材を送り込み、コンテンポラリー ダンスの一層の普及を図ることを目的としてい る。 リヨン・ビエンナーレのシンポジウムではフラ ンスおよびケベックの例を検討することで「シェ アする場」「多孔質な受容の場」である第 3 世代 のダンスセンターの未来が素描された。世界でコ ンテンポラリーダンスの地平が地域の固有性を 反映させつつ広がっていくなか、こうしたダンス を受け入れる場にも、既存の常識にとらわれない 柔軟な発想が求められている。 結びに こうしてフランスのダンスセンターの発展を 振り返るとき、二つのことが明らかになる。まず、 国の主導するモデル CCN が存在する一方で、地 方都市では教員や振付家などダンスの現場の 人々の要請に応える形で地域が支援するダンス センターが誕生し、作品の制作と上演に限定され ない活動を展開して住民を巻き込みながら発展 を続けているという事実。次に、CCN 以降に作 られたダンスセンターがしばしばコンセプト先 行型の公共劇場の逆を行くように、地域で使われ なくなった建築物(時には劇場ですらない工場や 警察署など)を本拠地とし、実験精神を失わない 制作と地域の要請を実現し、その柔軟な活動に適 した場を選びながら形体を変えて行ったという 事実である。コンテンポラリーダンスは誕生して まだ歴史の浅いアートだが、70 年代後半からの CCN、1998 年の CND の設立を経て、2008 年 に国立シャイヨー劇場が振付家ジョゼ・モンタル ボとドミニク・エルヴュをディレクターに据えコ ンテンポラリーダンスのプログラムの充実を図 る方針を決めたことは、ようやく国家の文化政策 がコンテンポラリーダンスが自立したアートと 認めた証左とみなされている(註 9)。国からの クリエーションへの助成、作品の制作と上演の支 援に留まらず、観客の育成、ダンサー、振付家の 育成に大きな役割を果たしてきたさまざまなダ ンスセンターの進化がこの新たなアートの社会 的認知と発展に大きく寄与してきたことも、忘れ てはならないだろう。 註 1 Patrick Germain-Thomas, La danse contemporaine, une révolution réussie ? Manifeste pour une danse du présent et de l avenir,éditions de l attribut, 2012, p.9. 2 CDC の詳細、理念に関しては、文部科学省研究費基礎 研究「コンテンポラリーダンスの美学的分析とその社会 基盤」 (平成 18-20 年度、研究代表者尼ヶ崎彬)報告書の アニー・ボジニ講演報告を参照のこと。 3 Cf. Florence Poudru, Un siècle de danse à Lyon, Editions Stéphane Bachès, 2008. ここで引用したメゾン・ドゥ・ラ・ダンスのデータは、 4 メゾン・ドゥ・ラ・ダンス広報担当のジャン=ポール・ ブリュネ氏提供による。 5 2012 年 10 月 23 日付 Lyon Capitale(リヨン日刊紙) 掲載記事による。 6 前掲した「コンテンポラリーダンスの美学的分析とそ の社会基盤」報告書のアニー・ボジニ講演報告を参照の こと。 7 2013 年 3 月 28 日付 Voix du Midi(トゥールーズの 週刊誌)掲載インタビューからの引用。 8 Cf. Iro Tembeck, Danser à Montréal, Germination d une histoire chorégraphique, Presses de l Université du Québec,1991. 9 Patrick Germain-Thomas, ibid.,p.10。 61 ヒアリング報告(実施日程順) 石川 ォーメーションセンター(共同制作事業を展 開)等との連携を図っている。 洵 (横浜赤レンガ倉庫1号館館長) 【横浜赤レンガ倉庫】 2010 年6 月29 日 於 カフェ・ミヤマ渋谷東口駅前店 2002年、改装・開館した横浜赤レンガ倉庫 は「芸術文化の創造」「賑わいの創出」という 一見相反した設立コンセプトであった。このコ ンセプトは、財団設立に当たり提案した芸術と 文化の循環システムの集大成となった。集客型 イベントと芸術の創造との両立がコンセプト に反映され『マーケット』という概念が具現化 された。 参加者 尼ヶ崎、荒谷、副島、貫 1970 年、友人と会社を設立。1988 年、独 立。横浜博覧会・千葉博覧会等イベントプロ デュース。1991 年、横浜市の依頼により横 浜市文化振興財団(現:横浜市芸術振興財団) 立ち上げに参画。 【横浜市文化振興財団設立】 (荒谷大輔) 芸術文化の行政依存型の丸抱え財団からの 脱却を目指し受益者負担の明確化と都市創造 のための行政負担を明確にした芸術文化創造 の循環型システムの構築と横浜の都市創造と 市民ニーズに応えた運営を提案。施設運営・ 事業実施を兼ね備えた総合財団を目指した。 また、都市イメージ創出のためのジャンルを 「 音 楽 」「 演 劇 」「 ダ ン ス 」「 伝 統 芸 能 」「 映 像」の5本の柱を立てた。 【横濱 JAZZ プロムナード(YJP)と横浜フラン ス映画祭】 1993 年、横浜の都市イメージの明確化の ため、日本ジャズ・商業映画発祥の地−横浜 に注目し『横浜 JAZZ プロムナード』『横浜フ ランス映画祭』を事業化。YJP は市民団体と 映画祭はフランス政府外郭団体との協働事業 としたことにより、市民協働・国際交流協働 を創り上げた。 【横濱ダンスコレクション(YDC)】 1996 年には、コンテンポラリーダンスの 新進振付家発掘コンペティション「バニョレ 国際振付賞」を青山劇場より受け継ぎ『横浜 ダンスコレクション』をスタート。これは、 世界における芸術市場の創造と開拓を目指し た「アジアン・マーケットの創造」だった。 2000 年には、バニョレに挑戦するための若 手育成・発掘を目指して『横濱 SOLO DUO』 も立ち上げ、いっそうの充実を目指した。 2004 年には、フェスティバル化したバニ ョレと別れ、フランス CNDD(YDC 受賞者は CNDD アーカイブに保存されている)・スペ イン MASDANZA(YDC 受賞者にコンペティ ション出場授与)・フィンランドダンスインフ 65 ード王立アカデミー(2000∼)はクラシック バレエ中心。そのほか 80 年代から私立の機 関がある。3∼4 年前から大学でのダンス。マ ドリッドにダンスのための私立大学があり、 制作、公演、理論などを教えるコンテンポラ リーダンス学科を持つ(バレエにも同じよう な学科があるかどうかはわからない。クラシ ックはマドリッドが主)。 ナタリア・メディア・サンタナ (グラン・カナリア島 MASDANZA フェスティバル 芸術監督) 2010 年 7 月 31 日 13 時 5 分∼14 時 15 分 於 横浜赤レンガ倉庫一号館楽屋 参加者 通訳 石川洵氏、荒谷、丹羽、貫 中野裕孝氏 【スペインにおけるコンテンポラリーダンスの 状況】 【公的・民間支援の現状】 (バルセロナ、カナリアなど)州政府の支 援としては、プロダクション単位の申請・助 成(申請したからといってすべてが通るわけ ではなく、落ちることもある。実績がある方 が支援は受けやすい)のほか、国内外ツアー への支援、奨学金などがある。カンパニーや ディレクターが学校での教育もおこなうが、 全体を所管しているのは文化担当部署。奨学 金は、教育ではなく文化の問題だから。 危機以来状況は思わしくなく、政府による 助成は減少傾向、消えていく方向にあり、民 間からの援助を探す方向にある。自分のカン パニーはそうでもないが、他のカンパニーは 苦しいところもある。危機は、2008年以 来。教育文化などに波及。2011年まで続 くだろうと言われている。MASDANZA フェ スティバルには、銀行やテレコムからの支援 があり、続いているが、これも減少。銀行か らの支援は、2年前に20%カット、去年は 横ばい。 スペインでは失業率が上昇したりしてい るため、文化予算には厳しくなる。(観光業が 盛んな)カナリア諸島では州政府による援助 がフェスティバルにあり、これは観光客増加、 知名度アップを目指したもの。(驚くべきこ とに)中央政府の文化庁からの MASDANZA への援助額は上昇した。 スペインでは、75年にフランコが亡くな り、それまで文化的「鎖国」状態であった国 境がひらかれた。フランスからの影響で80 年代からマドリッド、バルセロナなどを中心 に、スペイン全土にコンテンポラリーダンス があり、コンテンポラリーダンスカンパニー は、(お金や人数が必要な)クラシックバレエ カンパニーより多い。ただし、経済危機のた め、多くのダンスグループが消滅し、全体と しては減少した。 スペインには、ストリートダンスのための フェスティバルは多数ある。また、国内劇場 ネットワークはあっても、音楽やオペラなど が中心でコンテンポラリーダンスのプログラ ムは一番少ない。高校生への教育などをおこ なっていかなければならない。カナリアでは、 演劇とコンテンポラリーダンスが「90対5」 くらいの割合。 【スペインにおけるアートセンター】 国立センターはあるが、舞台の部門はもう ない。80 年代に助成が始まり、ダンサーによ る発表のプラットフォームなどになっていた。 現在では制作やツアー助成の部署になってい る。 Mercat de la telors はもともと花の市場 だったものが身体藝術のためのスペースにな ったもので、公演やレジデンスをおこなって いる。独英のダンスハウスやフランスのCN Cとは似ているけど違う。Mercat は国内外ダ ンサーの発表の場で、二週間程度のレジデン スで作品をつくり発表し、また交流を深める。 ディレクターの Casdesûs はマスダンサと協 力し、5 人いるソロの審査員のひとり。ソロ 部門の賞の賞金 4000 ユーロも出している。4 年間スポンサーになってくれており、5 月か ら若手作家のためのレジデンスも提供してく れている。 バルセロナ演劇院(90 年代から)、マドリ 【MASDANZA の仕組】 ヒップホップ、フラメンコ、子どものワー クショップ、学生への働きかけなどを通じて コンテンポラリーダンスへと誘導するという やり方をとっている。コンテンポラリーダン スには集客力がないため、学校教育、またブ レークダンスなど若者に好まれるダンスと組 み合わせるというやり方をとらなければなら ないからだ。 観客は7000名。若者などで、ダンス関 係者にかぎられない。はじめた時、観客は少 なかったため、あちらこちらまわってひとび 66 との「教育」をおこなった。観客にとっては 「わからない」ものであったが、ダンスを見 て「なにかを感じてもらうこと」を目指して いる。その結果、この間、観客の質は向上し、 一般客によるコンテスト(=「オーディエン ス賞」)の結果が、最初は審査員賞と乖離して いたものが、最近では接近の傾向にある。また、 ダンス・マラソンという企画をおこなってい る。これは、スペインのフェスティバルでは 普通におこなわれる企画である。土日の朝1 0時くらいからひとびとは順次、フラメンコ、 ヒップホップ、ベリーダンス、サルサなどの クラスに参加する。参加者数は1500人程 度。参加者はフェスティバルの忠実な観客に なる。これはカナリア諸島だけだ。カナリア では気候がダンス向きだったり、お祭りがあ ったりした(フラメンコはなかった)。エリー トのためのダンスではなく、ひとびとのため のダンスを自分としては目指している。 【MASDANZA の成果】 MASDANZA が作られたとき、カナリア諸 島にはコンテンポラリーダンスを発表する場 所がなかった。そこで MASDANZA が生まれ る。当初3年間はカナリア諸島だけをカバー し、違う島のダンサー同士の交流を主眼にし た。次いでスペイン本土との交流をはじめた。 それまでカナリア諸島には、本土への劣等感 があった(「島国根性」)のが変わってきた。 現在では、国際的ひろがりを見せている。カ ナリア諸島は、南米、アフリカ、ヨーロッパ と等距離(…「沖縄」に似た地政学的条件) なので期待が持てる。 フェスティバル参加者は、グラン・カナリ アでの本選の後、他の島に巡回し、また、バ ルセロナ、マドリッド、ビルバオ、さらにオ ランダにまわる。今年の9月には韓国、ソウ ル(横浜で知り合ったキム・・とのコネクシ ョン)でコンクール優勝者が公演する。 【アジアのダンス界との関係】 カナリア諸島政府の賞としてアジアのダ ンサーをマスダンサに連れてきている。文化 的多様性を反映するうえでアジアのダンサー の参加は重要。韓国、中国、ベトナム、日本 から。そのうち、ディレクター(=ナタリア) が足を運んで選定するのは日本のみ。それ以 外はビデオ審査。 (貫 成人) 67 人女性が裁判を受けて国外退去になるまでのフ ィクションを映像で構成した作品でした。フィク ションなのですが、非常に詳しいドキュメンテー ションが行われ、知的分野と外国人の権利に関す る法律の知識に基づいています。本来作品の最終 形は映画になるはずでしたが、結局はパフォーマ ンスになりました。本物の弁護士が、架空の法廷 で、この滞在許可証なしの女性の口頭弁論を行っ たのです。 レベッカ・リー 横浜日仏学院(注・2012 年 9 月よりアンスティチュ・ フランセ横浜に改称)院長 2010 年 9 月 14 日 於 横浜日仏学院 参加者 荒谷、岡見、島津、貫 2009 年より現職、任期は 2 回更新が可能な 2 年 契約。日本に来る前は、アーティストをサポート するポストについていた。これまで 10 年間の経 歴を振りかえると、ダンスカンパニーで働き、そ の後に領域横断的なアートの実験と制作を行う センターで働き、その後に今のアンスティチュ・ フランセ横浜のポストに応募して採用された。 【ラボラトワール・ドーベルヴィリエの助成】 【ダンスカンパニーでの仕事】 エルベ・ロヴェ(Hervé Robbe)、ステファニー・ オーバン(Stephanie Aubint)、ジェローム・ベ ル(Jérôme Bel)のカンパニーで働いていまし た。ジェローム・ベルとは 1998 年から 5 年半活 動を共にして、多岐にわたる業務を担当しました。 PR や助成の応募、制作資金探し、フランス国内 外の公演管理、総務、カンパニーのコーディネー ト、コミュニケーションに同時に従事していまし た。ジェロームは活動を拡大していた時期のこと で、『ショー・マスト・ゴー・オン』では 21 人 のチームで 50 か所のツアーを行いました。この 時代の作品は多くても 3,4 個のスーツケースに すべての装置が収まるようにできていました。そ れは大がかりな装置を必要とするスペクタクル 芸術の批判への含んでいたのです。 【ダンスカンパニーの後の仕事】 ラ ボ ラ ト ワ ー ル ・ ド ー ベ ル ヴ ィ リ エ ( Les Laboratoires d Aubervilliers)というところで 働きました。ラボラトワール・ドーベルヴィリエ とは、パリ郊外のオーベルヴィリエにある製鉄工 場跡地を、オーベルヴィリエの町が指導して領域 横断的なアートの交流と探求の場とした一種の アートセンターです。1993 年に作られました。 このラボは、作品のプロダクションを行うこと、 公衆に対して開いた場であること、レジデンスで 創られた作品を発表することを目的としていま す。助成を受けたアーティストは、たとえばパト リック・ベルニエ(Patrick Bernier)とオリー ヴ・マルタン(Olive Martin)がいます。彼らは ドキュメンタリーとフィクションを混ぜたスタ イルのアーティストで、彼らの『Projet pour une juriprudence』は、フランスに不法滞在する外国 68 国、地域圏、県、町からの助成を受けていました。 これに加えてその他の公的・私的な助成もありま した。すでにエスタブリッシュしているカンパニ ーとの共同制作の場合では、①ラボラトワールが 見つける助成金、②アーティスト自身が見つける 助成金、の 2 つの可能性があり、①の場合には、 カンパニーの規模に応じて、3,000∼10,000 ユ ーロの規模の助成が行われていました。この助成 金を管理するのはカンパニーで、ラボラトワール の立場は判断することとリスクを負うこととい うクラシックなものです。 【ラボラトワール・ドーベルヴィリエの組織】 ラボラトワールは 1993 年に創設されましたが、 組織が現在の形になったのは 2000 年です。現時 点(注・インタビュー実施時)では、ラボラトワ ールには 3 つのディレクション・チームがあり ました。芸術作品に対する基準を合議で定めてい ます。それぞれ異なるアートの領域に属する 2, 3 人で構成されていて、各チームが別々にアート ディレクションを行います。第 1 期(2000-2006 年)は、振付家のロイック・トゥゼ(Loïc Touzé)、 美術史家でパフォーマンスの専門家のイヴァー ヌ・シャピュイ(Yvane Chapuis)、美術批評家 で展覧会キュレーターのフランソワ・ピロン (François Piron)の 3 人がディレクターに任命 されました。第 2 期(2006-2009 年)は、イヴ ァーヌ・シャピュイと演劇の演出家ジョリ・ラコ スト(Joris Lacoste)がディレクターでした。 第 3 期(2010 年∼)は、展覧会やパフォーマン スのキュレーターのグレゴリー・カステラ (Grégory Castéra)、振付家の アリス・ショシ ャ(Alice Chauchat)、現代美術のキュレーター のナタシャ・ペトレシャン=バシュレ(Nataša Petrešin-Bachelez)です。私がいた頃に助成を 受けていて、特に私が興味深いと思っている振付 家は、次の 3 人です。『Up to Date』という作品 を 制 作 し た ク ロ デ ィ ア ・ ト リ オ テ ィ (Claudia Triozzi)、 『Incantus』という作品を創り、演劇、 ダンス、アート作品でできた音響機器をミックス したスタイルの振付家のヴァンサン・デュポン (Vincent Dupont)、そしてベルリンをベースに 活動する仏独ハーフの振付家で映像作家でもあ るアントニア・べアール(Antonia Baehr)です。 (岡見 さえ) 69 トがそれなりに一般から理解されているのに 対して、コンテンポラリーダンスの場合、ま だ普及はしていない。それはひとえに制度(設 備。Institution)の問題である。美術の場合、 美術館があるが、ダンスにそれはない。また、 美術などでは美術館を作ればいいが、ダンスの 場合、ダンサーに金を渡す必要がある。ケル ンのドイツ・ダンス・アーカイヴなどもある が、それではダンサーに金はわたらない。資 金不足にはつねに悩んでいる。タンツプラン では、例えばダンサーが大学の教授になれる 仕組みなどはダンサーへの経済的援助として 有効である。タンツプランは来年(2011 年) で終わりになるが、政府は、形を変えてダン ス振興・助成策を作成するはずである。 トールステン・ブルーメ (Torsten Blume、バウハウス・デッサウ財団研究員) 2010 年 9 月 19 日 於 ルノアール東銀座店 参加者 尼ヶ崎、島津、副島、貫 タンツプランの一環としてバウハウス・デ ッサウでコンテンポラリーダンスのプロジェ クトをおこなっている。 バウハウスの施設は、ベルリンにアルヒー フ、ワイマールに大学とミュージアム、デッ サウに校舎がある。デッサウのバウハウス校 舎は 1976 年にリノベーションされた。 校舎には建設当初から舞台があったが本 格的な劇場設備はなく、劇場の伝統からもか け離れていた。なぜならバウハウスの舞台は 建築とデザインのための学校の一部であり、 バウハウスの舞台工房は空間の創出、あるい は空間と知覚などのリサーチに貢献すること が求められていたからだ。ダンサーや俳優の トレーニングを行うのではなく、舞台作品が 実践的につくられていた。 我々のプロジェクトの内容は、ダンスのリ サーチである。リサーチは、空間と身体の関 係に関するものであり、この場合の空間とは メンタルな空間、都市空間(都市デザイン、 都市計画)も含み、また、身体はロボットな ども含む。 最初のプロジェクトは 2008 年で、ダンサ ーをオーディションで選びワークショップ形 式で行った。バウハウスのダンスには有名な オスカー・シュレンマーの活動がある。その レパートリーの実践や研究 などを期待する向 きもあったが、結果としてそれはおこなわなか った。 実際におこなったのは、建物などの空 間をダンサーが自分の身体で測量し、それを もとに、バウハウス・デッサウの校舎でおこ なったパフォーマンスである。(建物全体を 使って、5 人のダンサー、2 人のパーカッシ ョン、一人の作曲家でおこなったもの。観客 は、一緒に建物内を移動する)。自分(ブルー メ)は、ダンサーではないので、セノグラフ、 演出、コンセプト作りをおこなう。 デッサウの人口は 78000 人。スタジオは 150 人のキャパで、昨年(2009 年)はふた つのプロダクションをおこない、10 公演で各 5 80 人の観客を集めた。観客は、どちらかと いえばデッサウ市内・近郊の人々で年齢はま ちまちである。口コミで集まった。 他の都市 でも公演をおこない、来年はプラハでおこなう。 ほかのジャンルのコンテンポラリーアー (島津 70 京) ェクター(Hofesh shechter……バトシェヴ ァからダンサーとしてロンドンへ。レジデン ス。三年間サドラーズウェルズ)などコンテ ンポラリーダンスしかやらなかった。 2004 年、プレイスプライズを設立。はじ め 20、やがて 16 の作家に一夏スタジオを貸 し、15∼20 分作品を競わせるコンペで、2 0、500ポンドの賞金が作家個人にでる。 もともと、ブルームバーグからあった150. 000ポンドの私的な寄付が資金。 John Ashford(イギリス) 2011 年 2 月 9 日 於 横浜赤レンガ倉庫一号館3階ロビー 参加者 貫 成人 1986 年から 2009 年、ロンドンの「ザ・ プレイス」のディレクター、1997 年に、す べてのヨーロッパ諸国を結ぶダンスのネット ワーク「Aerowaves」を設立し、現在、その ディレクター。 【イギリスのコンテンポラリーダンス事情】 劇場に関わるようになったのは 25 年前、 1985 年に ICA(Institut Culture Art)の劇 場部門のプログラム作成に携わって以来。デ ザイン、テクスト、音楽、パフォーマンスな ど五つのジャンルを均等に融合し、境界横断 的な新しいものを作る仕事だった。 演劇よりもダンスに興味がわいた。という のは、演劇は繰り返しが多く、テクストや台 詞などさまざまなものを関係づけなければな らずまだるっこしい(Slow)のに、ダンスは 多くのことを一緒に見せられるヴィジュアル メッセージで「手っ取り早い(faster)」し、 若者の考えていることは演劇よりもフィジカ ルなダンス向きだから。 現在はコンテンポラリーダンスブームと いっていい。イギリスでは、バーミンガム、 エディンバラ、ニューキャッスル、グリニッ ジ、エーマスなど 6 箇所に、新しい Dance House が作られている。それぞれ4つのスタ ジオ、200 席のダンス用劇場があり、若手を エンカレッジしている。 新しい振付家が、ラバン、プレイス、海外 から様々なスタイルをもちこんでおり、イギ リスダンスの特徴は Diversity にあると言え る。インドからのシェルカウイ、バングラデ シュからのアクラム・カーンなど、カタカリ の手法や出生地の sensibility を導入した。ア フリカダンスも取り込んでいる。その結果、 さまざまな stream がうまれ、その間での対 話がなされるという健康な状態にある。ロン ドンの文化的多様性を反映したものである。 ダンスは言葉がいらないから。ポピュラーダ ンスのテレビやダンス教室などを通じても観 客は増加している。 その結果、サドラーズウェルズなどダンス が増加している。小さいけれども、アーティ ストに養分を与える専門店的な存在であるプ レイスシアター→バンク→サドラーズウェル ズ(1200 席の劇場とスタジオをもち、ピナ、 フォーサイス、ローザスなど国際的カンパニ ーが公演する)というステップができている。 マシュー・ボーンは 1200 席劇場で二ヶ月 公演したが、20 年前はそんなこと考えられな かった。いまや、11%はアーツカウンシルか ら助成されるがそれ以外はチケット収入で、 商業的成功をおさめ、ピーコック(1000 席 のフラメンコなどやる劇場)でポピュラーシ ョーをしている。賢いやり方をとった。 【The Place の沿革】 創立者のひとり Robin Howard は貴族で、 戦争で両足を亡くしたが車椅子は拒み、義足 を通した。ニューヨークでグレアムにはまっ て 人 生 が 変 わ り 、 40 年 前 、 Robert Cohan (Bob)と一緒に、ロンドンにグレアムの学 校 を 作 る 。 そ れ が Place 。 二 人 が 作 っ た London Contemporary Dance Theater の レパートリーはコーエンやグレアムなどの作 品をふくんでいた。 20 年後、ボブは引退し、カンパニー閉鎖。 グレアムの影響も去った。教育者や先生はラ バンセンターにうつり、アンブレラがはじま るとともに、ニューヨークから多くの人がロ ンドンに来て、20 年前には独立カンパニーも ふえた。 プレイスシアターは 300 席のブラックボ ックスシアターで、上演機会、スタジオ、資 金を与えることによって若い作家、カンパニ ーをエンカレッジして海外へ送り出すことを 目指している。300 席で成功すれば他の劇場 にいける。 DV8 が最初のレジデンスカンパニーで、そ の後、マシュー・ボーン、アンダーソン、シ 【ヨーロッパの状況】 ベルギー(ヴィム・バンデケイビュスやケ ースマイケル)、スペイン、イスラエル、フラ 71 ン ス 、 モ ン ト リ オ ー ル な ど 、 1987 年 = L anee de la danse 以来、独立カンパニー ラッシュだった。90 年には「西欧」でダンス だったが、0 年代には東欧へ波が及ぶ。 アーティストの交換が盛んになったが、そ れは EU のおかげというより旅費が安くなっ たから。アムステルダム、ベルリン、バルセ ロナ、中南米、韓国、日本、(少しだが)アメ リカ、ヨーロッパの各国のダンサーがロンド ン、ベルリン、アムステルダムに集まってい る。ベルリンには、金はないが人と機会はあ る。ダンサーは都市間を移動し、英語が公用 語になって、豊かな相互影響がなされている。 一方、多国籍でありながら、みんな一緒に見 えるという難も。そのなかで比較的閉鎖的な のがフランス(英語がしゃべれないから。ス ペインもその傾向あり)。 ーだった。賞の時期など修正、環境の変化に 対応はするが基本的には変わらない。 自分は、Aerowave のためにプレイスシア ターをやめた。12 のパートナー、30 のネッ トワークをもつ。応募者は、はじめ 70 から 600 にふえた。プレイスシアターで 10 公演 のあと、22 カンパニーがリュブリアナなど 32 の国から選ばれたところで公演する。 ただ、アーツカウンシルのコンテンポラリ ーダンス関連予算はずっと増えていたのに、 今年初めてダウンした。 (貫 【助成システム】 文化省(Ministry Culture)→アーツカウ ンシル→プレイス→ダンサーという流れ。第 二次大戦以降、政変に左右されないよう、文 化省は直接アーティストにはタッチしないシ ステムが作られた。 とはいえ、フランスでは連立政権になって から 4 年間、年間 7 パーセントずつ減らされ たし、同じことはオランダでもおこった。英 国では、労働党が 2 倍にしたものを保守党が 三分の一にした。ふえたものが減っただけ。 プレイスシアターは、プレイスプライズの 資金を提供したブルームバーグのように、企 業、金持ち、団体など他の資金源からの援助 を tax trade でうけている。 サッチャーは、資金源が多いほど健全だと 言った。労働党は国だけにしろという。国か らだけだと、説明責任が生じ、コントロール されるが簡単。多数の出資者を持つと、退屈 な人とランチを食べなければならない。 【レジデンス作家への対応】 かれらが望むなら意見は言うが、スタジオ には入らない。DV8 のロイドが最初だったが、 議論はした。自分は英語学科卒でジャーナリ ストだったので言葉を持つ。見るところが違 うので、どう見えるかを説明するなど、意見 は言う。 【アシュフォード後】 Eddie Nixon は元ダンサー、副ディレクタ 72 成人) KWONG ていただけだが、2∼3 年前になってようやく 舞踏は中国に浸透した。20 年前の舞踏は痛々 しかったが、いまの舞踏は観客にも近づきや すくなっている。昨年は笠井瑞丈をよび、 1400 席の劇場での公演、ならびにワークシ ョップをおこなった。また、イギリスからは 「New Art Club」を招聘した。これは、「ク ラシックバレエ∼春祭∼グレアム」といった 歴史をとおしてダンスについて語るもの。中 国の観客は、技術は中国でも見られるものと して、好まない。自分のフェスの観客は他の フェスの観客とは違う。医師が、医学とダン スについて語る作品などもあった。 チケットの 80%を捌かなければならない ので、ワークショップは大切である。 Wai-lap(中国) 2011 年 2 月 9 日 於 横浜赤レンガ倉庫一号館3階ロビー 参加者 貫 成人 ザ・シティー・コンテンポラリーダンス・ カンパニーのジェネラル・マネージャー、香港 芸術祭プログラムディレクターなどを経て、 2006 年から上海フリンジフェスティバルの プログラム企画ディレクター、2004 年から 広東モダンダンスフェスティバルのプログラ ムディレクター。 【経歴など】 マカオ文化センターのフェスティバルデ ィレクター、香港 Asian People s theater、 香港国際フェスティバル、香港シティーカン パニーなどで、コンテンポラリーダンスには 20 年以上、関わっている。 1995 年、北京フェスティバルサポートオ フィスで、Contemporary Dance を中国に はじめて紹介(その後、SARS で北京はスト ップ)。 2004 年から広東政府の招待で、モダンダ ンスフェスティバルを企画して、今年で 8 回 目となり、2006 年には上海でアヴァンギャ ルドパフォーミングフェスティバルを担当。 また、2006 年にはフリンジフェスティバル を担当。 そのほか、劇場でコミュニティーアート、 学校や公民館での教育活動、パラリンピック など障害者のサポートや運営をおこなってい る。 このうちでは、モダンダンスフェスティバ ルがもっとも主要なプロジェクトである。国 際的カンパニーを招聘して、中国の観客にい ろいろなものを見せてやることが大切であり、 また、ワークショップなど、若い人にクライ テリアを与え、サポート、エンカレッジする 必要がある。若い人を育てて、資金と技術の サポートで 30 分作品をつくり、国際的なネ ットワークにのせる。 【中国のカンパニー】 【国外カンパニー招聘のコンセプト】 【フェスティバル】 国外カンパニーの招聘に際しては、有名で あるかどうかではなく、中国の文脈で unusual であるかどうかが重要。Unusual な カンパニーの例としては、たとえば、「ブト ー」がある。以前は、わずかな知識人が知っ フェスティバルも政府援助はなく、90%ヴ ォランティアである。オフィスは広東モダン ダンスカンパニーに借り、金を出せないカン パニーにはスタッフを出してもらう。広東モ ダンダンスカンパニーは融資もしてくれる Guangdong モ ダ ン ダ ン ス カ ン パ ニ ー (1994 年設立=最古)、北京モダンダンスカ ンパニー、深 モダンダンスカンパニー、北 京 LDT、上海の Juheniao(組合嬲、2006 年 設立し、ヨーロッパでも成功した)などがあ った。 2007∼8 年に法改正があって、だれでも Art Organization を register できるようにな ると、ベトナム国境付近の Guangxi に、自ら ダンスフェスティバル(入場料 200 円)も企 画するカンパニー「Guwa」があらわれたり、 Li Ning(Shandong)(山東)が登場したり した。80 年代生まれは一人っ子政策で両親の 愛に包まれ生活には不自由がない。 その上の世代には、Wang Yuen Yuen(王 媛媛、北京コンテンポラリーダンス)、上海歌 舞団の黄豆豆(ただし、百%政府の金で運営 されているため、コンテンポラリーダンスは 上演できない。コンテンポラリーダンスを見 せられるのはアメリカ合州国のみ)、コンテン ポラリーダンスのコンセプトだが動きは伝統 的なヤン・リーピン(チケットと寄付でカン パニーを運営)などがある。 政府援助はないと、コントロールがないの で自由だが、しかし将来は不安で転職者も出 る。 73 (テレビショー、広告、セレモニー出演など でギャラを獲得)。フェスティバルは、7 つの スタジオでワークショップをおこなうほか、 5 会場(夜公演 3 会場 1400 席、2 公演午後、 2∼400 席)で公演する。10 年前はもっと難 しかった。 【中国におけるダンス教育】 全 大 学 に ダ ン ス 学 科 が あ り 、 Secondary school もある。ダンス学校は、6∼12 歳、12 ∼14 歳、14∼17 歳児対象に別れ、17 歳以上 は大学となる。コンテンポラリーダンスは選 択科目。 北京ダンスアカデミーは、ダンスに特化し た唯一の大学だが、コンテンポラリーダンス は振付しかない。上海アーツアカデミーにも コンテンポラリーダンスの単位はある。 アートの教育はスポーツ並みで、コンペだ らけで技術を競っている。コンテンポラリー ダンスはむしろ下から起こっている。中国で は、クラシック中心の教育だったので、ワー クショップではオプションを与え、あるいは、 自分の創作、「explosure in mind」が重要に なる。中国のアートは、京劇や書道など古典 で満足していたため進化をやめていた。香港 も北京も上海もコンテンポラリーな町、コン テンポラリーな中国人なのだから、コンテン ポラリーなアートを作るべき。 とはいえ、美術には政府の肩入れやマーケ ットがあり、コレクションもできるのに、コ ンテンポラリーダンスでそれは不可能で、私 的基金もない。 1989 年(天安門事件)後、アーティスト はフランスやアメリカに渡り、そこで活動し、 結構、成功し、自信を深めた。 国 立 劇 場 や 国 立 舞 踊 団 な ど 、 establishment は若者を必要としている(若 い観客を集めるため)。一方、若者のがわでは 不信。その仲介をするのが自分の仕事である。 (貫 成人) 74 スザナ・ハイコヴァ(スロヴァキ 【スロヴァキアにおけるダンスの状況】 ア) 独立のカンパニーもあり、それ用のスペー ス(A for)がある。とはいえ、モダンダンス やバレエは首都のみ。民俗舞踊はみんなやる。 スロヴァキア出身のダンサーとしては、 Les Slvaks(ベルギー)、Milan Tomasik(ス ロバニア)、Eva Klimackovz(フランス)、 Katarina Mojzisova(アメリカ合州国)など がいる。スロヴァキア国内で活動するのは難 しい。 2011 年 2 月 9 日 於 横浜赤レンガ倉庫一号館3階ロビー 参加者 貫 成人 【経歴など】 スロヴァキアのバンスカー・ゼストリツァ で、シュトゥーディオ・タンツァを主催し、 2004 年には青山円形劇場でも上演した。 ハイコヴァは、もともと、子どものときバ レエをならい、コンサルヴァトワールで教育 を受けるあいだ、ドイツやハンガリーでコン テンポラリーダンスを見る。ブラスティバ芸 術大学(Hochschule)には振付や民俗舞踊の 学科があり、ダンス学科はほかに男子学生と 二人だけ。パルッカシューレ(1980=)やチ ューリッヒのダンス関係者と親交があった。 89 年に自分のカンパニーを設立。国内唯一の カンパニーで、ブラスティバにいたときはオ ペラの一部だった。 【国内のフェスティバル】 フェスティバルは二つ。ひとつは国内カン パニー対象(「4(+1)」)。もうひとつのフ ェスティバルは、かつて国外カンパニーを招 待していた。国外カンパニーを招待できるの はフェスのあいだだけで、それ以外の時期で は、できても客入りが不安である。240 席の 劇場で 5∼6 カンパニーが公演する。 【海外への紹介】 自分のカンパニーのツアーは、ヨーロッパ のフェスティバルに年 1∼2 回。先日はイン ド 3 都市のツアーをやった(インド文化省か らの依頼で、スロヴァキアから提案したリス トに載っており、選ばれた。デリー、バンデ ロール、バラナン)。海外ツアーはやりたいけ どプロデューサーがいない。 【カンパニーの概要】 1998 年、ブラスティバからバンスカー・ ゼストリツァ(人口 30 万)に移動。2008 年、 コンテンポラリーアートのための複合施設と して旧市街に建物をくれ、2009∼2010 年再 建。自分の建物に劇場を持って、レパートリ ーを上演している。プロジェクトごとに集ま るダンサーもいるが、2∼3 年契約のダンサー が六人おり、4∼5 人がパート(?)、6 人の アドミニスタラティブと若手振付家がいる。 一年に 60∼80 公演を、ステージや劇場外、 学校(4 歳児以上を対象に、竜が出てくるお とぎ話などの作品。学生の作品)を上演。 (貫 【バンスカー・ゼストリツァのアートセンター】 ここ 2∼3 年、建物を建て替えており、そ の間、スロヴァキア国内のツアー暮らしだっ た。来週、新しい劇場(100∼150 席)のこ けら落としがある。以前は学校だった建物で、 二つの建物があり、一つは自分のカンパニー 用、もうひとつはワークショップやレジデン スに使う。スタジオ三つ。 今はまだダンスのみだが、おいおい他のア ート(演劇、音楽など)にも拡大したい。た だし、助成金額は変わらないので、苦しい。 75 成人) ラム。他の都市でもフェスティバル、プラットフォー カーヨ・ネレス ムなど。 「内輪」のプロジェクトにとどまったものもあ (Kajo Nelles;ドイツ・ノルトライン・ヴェストファーレン州ダ った。また,連邦文化財団が助成する他の文化ジャン ンス・オフィス・ディレクター,デュッセルドルフ・タンツメッ ルのプログラムにダンスが加わることもできた。さら セ・ディレクター) に,アーカイヴやデータバンク構築の成果も。 NRW の若手。 若手のおかれた状況は困難で数も多く 2011 年2 月10 日 於 赤レンガ倉庫 ない。活発なのは 35∼45 歳で,その上や下にはなか 参加者 副島、貫 なか資金が回らない。州はどこに金を出すか考えるべ き。ケルンでは以前はカンパニーが若手を育ててくれ ノルトライン・ヴェストファーレン州(以下 NRW) たが、今はもうない。フォルクヴァングからは、ヘン ダンス・オフィスは,アーティストと行政を繋ぐため リエッタ・ホルンが最後。海外からきても帰ってしま のアートオフィスのひとつとして非営利団体 NRW コ う。エッセン,ヴッパタールには金がない。金がある ンテンポラリーダンス協会によって 1995 年に設立。 はデュッセルドルフとケルンのみ。独立カンパニーの 年間予算は州政府,文化省、ケルン市からの資金約 150, 40∼50%はケルン所在。 000€で,9 人のスタッフで運営。 NRW タンツメッセ。1997 年まではドイツのカンパ オフィスの活動の重点。1.ダンスのためのロビー ニーのみ参加。2000 年に,マルク・ヨンカースが,国 活動。公演やツアーの条件調査。NRW の 100 人の振 際的なメッセとしてエッセンのタンツメッセと共催で 付家アンケート(公演回数、場所、予算、助成など, 展開,この成功によって,より資金が潤沢でダンス公 今回で 5 回目) 。2.学校におけるダンス。教師ではな 演に適した会場がいくつもあり口は出さないデュッセ く芸術家としてのプロダンサーを学校の授業に派遣。 ルドルフ開催にした。応募はプレゼンが条件、23 ヶ国 3.NRW タンツメッセ。3年に一度の国際見本市で次 の代表、旅費はカンパニー持ち。メッセ側では,舞台 回は 2014 年。500,000€の予算のうち, 110,000€ とテクニカルと観客を用意する。200 以上のビデオを は自前,NRW から 160,000、デュッセルドルフから 2人で審査。各地・各国の協力者の意見も参考にする。 140,000€の助成。80 名のスタッフ。 60%は没。多様性という視点から審査,美学ではみな オフィスとアーティストの関係。制作関係,税金, い。新しいものへのブレークスルー、新しいレパート 助成金、アーティストと助成者との調整が仕事で,リ リー、動き,例えば, 「フィラデンコ」 (USA)のよう ハーサルには行く。聞かれれば答えるが助言はしない。 なフラメンコやバレエでもいい。アフリカ,インド, 他の機関との関係。 2 年前にコンテンポラリーダンス バングラディッシュ,韓国などのダンスには,ヨーロ のための全国オフィスが設立され,ベルリン、ミュン ッパではすでに失われた情熱がある。日本は技術重視 ヒェン、ハンブルク、フランクフルト、バーデンヴュ になっている。 ルテンベルクなど 15 州とネットワークを作り、アンケ ート実施,集計など全国規模のレポートの作成などを (副島博彦) 実施。また,NRW の文化局に対して,助成のやり方を アーティスト向きにする提案、ダンス振興策ためのア ジェンダの作成、助成金配分の配分の効率化の提言。 タンツプランについて。 5 年のプロジェクトは全体と してうまくいった。国から州への予算の分配,州から の資金を自由に使える追加予算,政治家レベルでのダ ンスの認知度の向上,10 年前だとダンス教育機関(パ ルッカ、フォルクバンク、クランコ学校など)相互の コミュニケーションはなかったが、シンポジウムなど で新たな雰囲気が生まれた。デュッセルドルフでは, 若手対象の「テイクオフ・プログラム」で観客も育て る。ミュンヒェンでは子どものためのダンス・プログ 76 Information Center for Performing Arts)と の協働をしたりしている。 ピルエッタ・ムラーリ (フィンランド、ダンスインフォメーションセンター国際交流 【フィンランドにおける助成状況】 担当) 2011 年 2 月 17 日 於 文科省、外務省、通商省による輸出品のた めのファンドがあり(本来デザインなどのた めのものだが)、そこから1000ユーロを、 スサンナ・レイノネン、ゾディアック、テロ・ サリネンなどはもらっている(本来国際交流 のための予算だった)。フィンランドに収入を もたらすもののためのものだが、公演は赤字 なので無意味。ただ、政府はそれを理解しな い。 私 的 基 金 と し て は 、 Finish Cultural Fondation があり、2010年にはコンテン ポラリーダンス向け助成が政府のそれを上回 った。 タリンにはノキアが公演会場を用意して いるが、それはこれから。 90年代には、国から法的に支援される制 度があった。これは芸術的質にではなく、カ ンパニーが抱えている芸術、運営スタッフの 数(フルタイム7人以上)で決めるもので、 予算の3%が中央政府、35%が市、残りを ボックスオフィスや他の基金からえる。11 のダンスカンパニーがこの助成をえたが、著 名なのはテロ・サーリネンのみでそれ以外は ローカルな、子ども向けのダンスカンパニー など(彼らも最近ではもう少し野心を持って いるが)。この制度はうまくいかなかったので 廃止された。 横浜、神奈川県民ホールカフェ 参加者 貫 成人 【フィンランドのダンス事情】 フィンランドのコンテンポラリーダンス は1980年に始まった。Doris Laine がバ レエからコンテンポラリーダンスをはじめた のが最初。 【インフォメーションセンターの構成と予算、 役割】 インフォメーションセンターなどのアイ ディアもこのころからあったが、1990年 からプロのスタッフ、95年から政府助成に よる NPO として設立される。ナショナル・バ レエやシアターなど10の傘下団体を持ち、 5人のスタッフ(ディレクター、二人の事務 員,国際コラボ担当、プロジェクトスタッフ など)をもち、政府へのロビー活動、情報に よる透明化など、国内外のフィンランドダン スのプロモートをおこなう。プロのダンスコ ミュニティーを対象とし、観客向けのプロデ ュース活動はおこなわない。観客向けには、 ダンスの見方に関するセミナーやフェスティ バルなどをおこなっている。 政府からの資金は450,000ユーロ+ 20∼50%の私的基金や EU からの助成。 内、300,000ユーロはセンター(運営 費?)、150,000ユーロは国際活動。2 5,000ユーロをカンパニー直接助成(4 0カンパニーが対象)。ただし、国際ツアーの 資金はない。 2年前から EU のプロジェクトで子どもや ダンス教師、作家相手のセミナーを行い、そ の成果を出版してフィンランド中の教師に配 っている。また、統計作成(観客数、資金獲 得状況など、また、フィンランドダンサーの データベースをウェブ上に発表)。セミナー、 ニュースレター、プロジェクト、マーケティ ングなど。国際的なリサーチは、日韓、ヨー ロッパ、北米などでおこない、海外批評家を プラットフォームに招聘したり、レジデンス の交換、また、フィンランドダンスのプロモ ートのためにマーケティング、雑誌、DVD 発 行 、 IETM 、 ENICPA ( European Network 【地域ダンスセンター】 2005年、センターではフリー・ダンサ ーの調査をおこなったが、70%はフリー。 そのため、地域ダンスセンターが有効である という結論に達し、当初5つ、その後ひとつ のダンスセンターが各地に設けられた。文科 省と地方自治体が半々の負担。自前のオフィ スを持ち、ノーザン、ヘルシンキは自前の劇 場を持つ。フルタイムスタッフは、マネジメ ントマネージャーとアーティスティックマネ ジャーの二人。後者は原則、アーティスト。 クオピオなど、地方のカンパニーと協働でプ ロダクションハウス。ノーザンは、4都市に またがっている。6センター間でツアーを行 ったりする。 【フィンランドの観客層】 77 フィンランドの人口は550万人だが、観 客はその10%の 50 万人/年(500,0 00)。フィンランドの人びとは日本のように 働いてばかりはおらず、週日でも公演を見に 行くゆとりを持つ。バレエを含むコンテンポ ラリーダンスの観客(ただしバレエカンパニ ーはひとつだけ)。観客層は若く、ダンス、映 画、マルティメディアなどに関心をもつ。ち なみに演劇人口は250万人、オーケストラ、 オペラはヘルシンキに公立のそれがあるだけ。 民俗舞踊はほとんどアマチュアでプロレベル のカンパニーはひとつだけ(基本ソシアルダ ンス)。【←ちなみに、これは演劇以外の舞台 公演の観客数で、子ども劇場、学校公演も含 む数字なので、東京圏(人口1300万)の 観客数は概算148万人かそれ以上。】 オランダなどに出て行って帰ってこないダン サーがむしろ多い。 コンテンポラリーダンスはフリー・フォー マットでルールはないに等しいから。テクス トもなく、ユニバーサルだ。アートのボーダ ーはなくなりつつあるが、コンテンポラリー ダンスは残ると思う。自分の身体との関係は 大切であり、この情報化の社会においてはま してそうだから。 【日本とのコラボ】 2000年にはいってから、他ジャンルの アートの専門家が日本の諸機関と協働しよう という話があり、2002年初来日し、諸ジ ャンルの六人の専門家と二週間にわたって、 青山(高谷氏)、世田谷(楫屋氏)、セッショ ンハウス、赤レンガ(石川氏)などにあった。 そのうち石川氏とは2005年からダンスコ レクションとのコラボをおこなっている。フ ィンランドと日本とでダンサーの交換、2週 間のレジデンスによる作品制作をおこなった。 日本からは森下真樹、梅田宏明、杏奈などが 参加し、赤レンガとのレジデンス交換は今後 も継続する。 【モダンとコンテンポラリーダンスの区別】 モダンとは、フォームや意味を志向し、ジ ャズやバレエの要素を取り入れる。オールド ファッション。コンテンポラリーは、ブレー クがある。(ちなみにノイズムはモダンで、チ ェルフィッチュはコンテンポラリー)。 ヘルシンキのダンスコミュニティーはコ ンパクト。古川あんずのことは誰もが知って おり、シティーシアターダンスカンパニーに も大作を振り付けた。いまでもその影響は残 っている。 (貫 【ヨーロッパにおけるコンテンポラリーダンス 隆盛の理由】 ユーチューブなど情報の力が大きいと思 う。また、EU 内の、それほど文化的に豊か でない国にもネットワークにより情報を提供 している。各地にパートナーを見つけるアシ ュフォードの努力のように。また、ダンスは、 表現という意味では有利な形式(easy form) で、また古くからあるアートでもある。ヨー ロッパではバレエなどダンスエデュケーショ ンは昔からあった。ひとびとがコミュニケー トし、出会い、移動することができる。 モスクワやポーランドなど、コンテンポラ リーダンスの組織を作ったり、フェスティバ ルを立ち上げたりしている。ダンサーもさま ざまでポーランドでは弁護士出身の作家がい た。カリスマさえ持っていればテクニックは 問題ない。(ただし弁護士出身は例外)。ベル ギーなど、他国でのダンサーとしての経験を 持つ者が帰国して活動することもありうるが、 フィンランドの場合、ベルギーやイギリス、 78 成人) 【イスラエルにおけるコンテンポラリーダン ス】 Gaby Aldor(イスラエル) 2011 年 2 月 18 日 於 横浜赤レンガ倉庫一号館3階ロビー 参加者 貫 成人 【経歴など】 テルアビブのイエファ地区にある Arab-Hebrew Theater の共同芸術監督を務 める傍ら、作品を制作し、各地の大学で教え、 また、新聞などに記事を執筆したり、本を書 い た り し て い ま す 。 Arab-Hebrew Theater はアラブ人とユダヤ人のアーティストと観客 を橋渡しする活動にコミットしています。 【イスラエルにおけるダンスの歴史】 1948 年建国以前、イスラエルには地域の 舞踊(Local dance)はあっても、伝統はな かったので、三つの影響源により発展しまし た。 ひとつは、ドイツの自由舞踊、表現舞踊で、 イスラエル最初のダンス教室は 1921 年に作 られ、その影響は 1954 年までおよびました。 ラバンは、都会のフォークダンスとでもいう べき、工場労働者などアマチュアに踊らせま したが、イスラエルのキブツでも、生を表現 するアートとして、キブツの人々によるアマ チュアのダンス、フォークダンスが盛んにな りました。 もうひとつはエスニックダンスです。イス ラエルのユダヤ人はロシアやポーランド、ル ーマニアなど各地から集まったので、こうし た地域の影響もありましたが、何と言っても 大きかったのは、「デブカ(男性のラインダン ス)」など、アラブのローカルダンスの影響で した。また、19 世紀末に移民してきたイエメ ンの音楽や言葉、水平的な手の動きなどの影 響もあり、収穫祭などにおけるダンスにはア ラブ人観客もいました。アラブ女性ダンスグ ループとしては、オリエンタリズムを体現し た Rina Nikova Studio な ど が あ り 、 The Dalia Festival(1944∼1961)は、フォーク ダンスのフェスティバルでしたが、イエメン ダンスのイディオムがもちいられました。 1964 年、バトシェヴァ・ド・ロトシルド によって設立されたバトシェヴァ舞踊団にグ レアム・メソードが取り入れられ、グレアムの カンパニー以外でそのレパートリーを許され た唯一の舞踊団となります。 79 その後、徐々にグレアムの影響は薄くなり、 90 年にオハド・ナハリンがバトシェバ舞踊団 芸術監督になってコンテンポラリーダンスの 時代となりました。 2002 年の Anat Danielli dance Cie の作 品は、ダンサーは動かないが、体内に多くの 動きがあるというもので、抵抗の場としての 身体が示された。他からは脱け出せるが、身 体からは脱け出せないからだ。 ヤスミン・ゴデールの作品では、スーザ ン・ソンタグの写真論における死者の写真に ついての議論を踏まえたうえで、一度に二つ の動きが生まれ、一方が他方を破壊する。そ のほか、イリス・エレツなど、新人が現れて います。 (貫 成人) かなり埼玉が色濃く出たと思うが…。あれはあれで良 柴田明 い作品だ。 (特例財団法人日本文化財団元職員) 財団解散について。超低金利下で、基本財産の運用 2012 年3 月10 日 於 マイスペースMS&BB 池袋西武横店 がままならず、また、解散前の 2̅3 年は「和歌の披講」 参加者 尼ヶ崎、副島、貫 のほか、年間 1̅2 本の公演しかなく、設立の趣旨にも 沿えず、その役目は終了したものとして、解散を決め 日本文化財団は、戦後初の文化財団として、1967(昭 た。2011 年 3 月末に活動を停止したが、文化庁から解 和 42)年に「日本の文化を大切にするとともに、日本に 散の許可が下りたのは、7 月になってからだった。解散 未紹介の世界の優れた芸術・文化を紹介し、もって日 の際、基本財産は国庫に納めた。 本の文化向上に資する」という趣旨で創設され、初代 理事長は白石(郡)英治、名誉会長は松下幸之助だった。 設立当初は、日本の伝統芸能を海外に紹介したり、海 外のクラシック音楽公演や各種展覧会等を開催してい たが、佐々木修氏(解散時 理事長)が事務局長に就任し た頃から、現代舞踊の招聘公演を始め、マーサ・グラ ハム、アルビン・エイリー、カロリン・カールソン、 ポール・テイラー等を招き、また、中国の伝統演劇の 招聘も行い、特に 1986 年の昆劇と、翌年の川劇公演 は、大きな成功をおさめた。 助成金について。 助成金は受けなかった。協賛企 業を募る程度だった。 ピナ・バウシュ・ヴッパタール舞踊団について。初 来日は柴田氏が財団に入った 1986 年。最初の 2 回(と 来日 20 周年記念公演)は、国立劇場で公演した。ヴッ パタールの劇場は、定員が 600 名程度で、現地では既 に知名度も高かったので、常に満席状態であったが、 佐々木氏が「満席になって、見られない人が出たら、 かわいそう」とのことで、大きな、日本を代表する劇 場を用意したが、蓋を開けてみると、4̅5 割の入りで あった。しかし、只券を配って客席を満席に見せかけ ることはしなかった。さいたま芸術劇場は、定員が 800 名程度なので、ほぼ満席状態だった。新宿文化センタ ーは、昔から付き合いがあり、建物は古かったが使い 勝手はよかった。(観客数は徐々に増え、やっと認知さ れてきたところでピナが急逝したのは、まさに痛恨の 極みだった。) 最初は現代舞踊協会と一緒にワークシ ョップなどを企画して、観客動員に努めた。また、朝 日新聞と共催で事業を展開した。 <天地>共同制作について。当時のさいたま芸術文化 財団の諸井 誠理事長が「ぜひ」とのことで、実現し たが、最初は埼玉をテーマにしたものを、という希望 だった。ピナやカンパニーのメンバーは日本各地を取 材し、埼玉では「秩父夜祭り」など、色々見てもらい、 80 (副島博彦) 研究集会報告 文化財団の役割 日時:平成22 年11 月22 日18:00-19:30 場所:専修大学772 教室 講演者: 片山 正夫(セゾン文化財団理事) セゾン文化財団は堤清二の個人資産によっ て設立した民間助成団体。公的財団(東京都や さいたまなど)とも違うし、社団とも異なる。 社団は人の集まりだが、財団は財産の集まり。 企業メセナ協議会は、社団。ただ、財団制度に ついては、明治以来の大改革の真っ最中。新制 度が5年前(2008年)からはじまり、既存 の公益法人には5年の移行期間がある。 助成財団の設立数は1990年代がピーク でその後は右肩下がり。お金を基金化して運用 益で助成するが、低金利だと立ち行かない。助 成財団はあまり倒産しないので、数としては横 ばい。これに対してヨーロッパでは増加傾向で、 45%が1995年以降の設立になっている。 助成財団の助成の対象は科学分野の研究が一 番。もしくは奨学金で、日本では文化・芸術・ 福祉の財団はメジャーではない。芸術助成財団 は平成6年以降ほとんど増えていない。助成対 象は「一に音楽(オペラ含む)、二に美術、三、 四がなくて五に演劇」。これは企業メセナも同 じ。セゾンは、演劇、舞踊をメインに助成をす る唯一の財団。 【政府や企業メセナとの違い】 アートへの支援額の総量からすれば、助成団 体の支援額はそれほど多くない。助成金の額は、 文化庁200億弱、交流基金、地域創造、芸文 基金が各約10∼20億、地方自治体20億、 またきちんとした統計がないため単純に比較 できないが企業メセナ100億。それに対して、 助成団体は20億弱。 しかし、公的セクターや企業には制約がある。 行政の場合、公平性を原則にしなければならな い。民間助成団体は、不公平といわれようが、 独自の価値観や基準で支援できる。また企業も、 トップが代わると施策自体の方針がかわる可 能性がある。企業メセナは、単に「このアーテ ィストがいい」という理由だけでは助成できず、 企業イメージやコーポレートカルチャーなど、 社内外への説得材料が要求される。 民間助成財団は、設立時に定められたミッシ ョンを達成することだけが目的で、ステークホ 83 ルダーの数も限定されている。あるセゾンの評 議員いわく「民主主義の欠陥を補完するために あるのが財団」。手続きに時間がかかり、多数 決で衆愚政治化するリスクを孕み、 現在主 義 に陥りがちな民主主義の欠点を、克服でき る条件を助成財団は備えている。 低金利で基金の運用益が目減りする中、「チ ャリティー」ではなく、「フィランソロピー」 が目指すことも助成財団に期待される。たとえ ば、干ばつで飢えた人々に直接食料を送る(= チャリティー)のではなく、「緑の革命」のよ うに、過酷な条件でも育てられる品種を開発す ることに投資。問題の根源の部分を変えるため の助成(=フィランソロピー)が財団の役割と いえるかもしれない。 【セゾン文化財団の特徴】 現代演劇、コンテンポラリーダンスに特化し て助成する財団はほかにない。基本的な方針は、 「創造に対する支援」、「長期的な支援」、「複 合的な支援」である。代表的なプログラムであ る「セゾンフェロー」は、公演助成とは異なり、 アーティストのクリエーション自体に対する 支援。創造に関するものならどのような経費に 充ててもらってもいいのが最大の特徴。最低2 ∼3年間にわたり助成する。官民問わず通常は 一回限りの公演助成だが、セゾンの場合には長 い目でアーティストを支援する。1994年につ くった森下スタジオも、創造に対する支援であ り、助成金以外の支援の好例。助成金は、場所 や情報など、他の支援と絡めることで効果が増 幅する。 その他の助成プログラムとしては、人材育成 や情報交流等のプロジェクトに助成する「創造 環境整備」、忙しすぎるアーティストに充電し てもらうための「サバティカル」、準備段階か ら複数年支援する「国際プロジェクト支援」な どがある。自主事業としてアーティストのため の「英会話教室」なども行っている。 (荒谷大輔) 法律と文化 日時:平成 23 年 1 月 28 日(金)18:00-20:00 場所:東京都写真美術館 講演者:河野 俊行 (九州大学大学院法学研究院教授) ユネスコにおける条約策定や、ユネスコ国内委員 会委員でもある河野俊行氏に国際法において文 化がどのように扱われてきたか、無形文化財、文 化多様性条約、国内法と照らし合わせながら、法 律と文化の関係についてお話を伺った。 【法律と文化】 18 世紀半ば Emer de Vattel (1714 1767)が文化 財保護を訴えるが、法の形式を取り始めたのは 19 世紀であった。1863 年のリーバーコード(ア メリカ陸軍)、1874 年ブリュッセル宣言、1880 年ハーグ陸戦法規の提唱などを経て、1935 年レ ーリッヒ条約、1949 年ジュネーヴ条約が締結さ れた。1946 年ユネスコ設立後は、文化保護だけ でなく教育を実施し、文化による平和を実現しよ うとした。 ユネスコの文化関連条約は 6 つあり、 「武力紛争 の際の文化財の保護に関する条約」「文化財の不 法な輸入、輸出及び所有権移転を禁止及び防止す る手段に関する条約」「世界の文化遺産及び自然 遺産の保護に関する条約」「水中文化遺産の保護 に関する条約」「無形文化遺産の保護に関する条 約」「文化的表現の多様性の保護及び促進に関す る条約」である。文化的表現の多様性の保護及び 促進に関する条約は、自由貿易の中で文化的表現、 文化多様性をどのように位置づけるのか、という 問題関心から 2005 年に採択された。 【無形文化の保護と日本】 1950 年に制定された文化財保護法により、無形 文化財保護に法的基盤が与えられた。1954 年の 改正によって「衰亡の危機」という要件が外され、 危機の有無に関わらず、価値を認められた無形文 化財を指定することになった。芸能(能楽、能楽 仕手方、京舞など)に対しては「指定」、技能を 有する人物・団体(日本能楽会、友枝昭世、四世 井上八千代など)に対しては保持者「認定」とい う。工芸については手作業のものに限り、機械化 されたものは指定されない運用である。歌舞伎が 指定されている例からも分かるように、基本的に は営利性のあるものが無形文化財の保護対象で 84 ある。 これ対して 2003 年に採択されたユネスコの 「無形文化遺産の保護に関する条約」は、価値に よる序列はなく、また射程範囲も、芸能、儀式、 知識など範囲が広範であり、機械化されたものも 入るなど規定が不明確である。コミュニティー単 位が基本であるとされているが違和感あるもの も多い。2010 年に登録された「フランスの食文 化」のように、東京や世界中に拡がっているフラ ンス料理についてはどのように位置づけるか、産 業振興や商業化を目的としているものについて はどう対処していくか等、残された問題は多い。 世界遺産にはシリアルノミネーションという考 え方もあり各国を跨いだ登録も検討されている が(例:コルビジェの建築)。無形文化遺産でも 「鷹狩り」が 11 カ国(UAE、韓国、フランス、 シリア等)に跨いで登録されたが、日本が入って いない等、調査から登録までの過程にも問題があ る。 【コンテンポラリーダンス、アートと法】 WTO(世界貿易機関)の視点では、国際的なコ ンテンポラリーダンス公演はサービスの貿易 (GATS)にあたり、 「国境を越える取引」 「海外 における消費」「業務上の拠点を通じての提供」 「自然人の移動による提供(要興業ビザ)」の 4 つの型がある。なお DVD 等の映像資料は物品の 貿易(GATT)となる。 各国は文化政策を通して文化を保護すること も可能となる。第一次大戦後のアメリカの戦略的 な映画産業輸出に敗北したヨーロッパは、その対 抗軸として、文化政策と文化多様性条約を強力に 推進することで、文化産業を通じた発展を目指し ている。 日本の現状は文化政策というより市場至上主 義のため、文化多様性条約を効果的に活用するこ とは難しい。平成 13 年に制定された「文化芸術 振興基本法」があるが、これは単に文化庁のこれ までの実績を明文化したものであり、「指定」や 「認定」などの新たな措置が生じるものではない。 また、コンテンポラリーダンス、アート作品の アイディア、コンテクストは、現在の著作権法で は保護できない。表現されたもののみが保護の対 象であって、表現の背後にある思想、アイディア、 コンテクストは保護対象外であるということも 留意しなければならない。 (丹羽晴美) シンポジウム「ダンスと音楽のインプロヴィゼーション」 日時:平成24年2月26日(日)17:30-20:00 場所:学習院女子大学やわらぎホール パネリスト&パフォーマー:黒田育世、近藤良平、 松本じろ、石渕聡 司会:貫成人 照明:(株)One Drop office 1、【レクチャー】 貫 成人: 音楽とダンスとの関係について バレエにおける音楽の関係は、ダンサーのタイ ミングのためのリズム+エネルギーの流れと感 情を調整するためのメロディと、伝統的にはとら えられていた。チャイコフスキーとプティパはそ の例である。 メルロ=ポンティは、 「音楽会場で、音楽は人々 の足元をうがち、荒波に巻き込んでしまう」とい う意味のことを述べている。音楽は、眼に見える ものと異なり、舞台と観客席とを一緒に覆ってい るため、強固な繋がりが生まれる。目に見える空 間を音楽は包んでいるのである。 そのため、コンテンポラリーダンスにおいて、 例えば「ポケットの中のセルロイドなどの音」が 使用され、客席全体を包み込むと、自分が小さく なったような効果を生む。 サリー・ベインズはダンスと音楽との関係を次 のように表した。 Dancing[with/to/before/on/in/over/after/agai nst/ away from/without] music. クラシックバレエでは、ダンスと音楽が共に (with)ある。表現舞踊のマリー・ヴィグマン「魔 女の踊り」における踊りとパーカッションの関係 (to)、ダンサーの動きに作曲家が音楽をつけて行 くケース(before)など、音楽とダンスの関係はさ まざまである。トワイラ・サープはポップ音楽を 使い、「音楽から身を背けるようにして」(away from)音楽との関係を構築した。また、無音で 踊る(without)ことにより、その後の爆発的効果 を生む珍しいきのこ舞踊団の最近の作品例など がある。 このように音楽とダンスとの関係には様々な 可能性があり得るのであり振付家は色々な効果 を試しているのである。 2、【実演1】 音楽とダンス、ダンサー同士もすべて即興。 黒田:リズムがはっきりしているのでやりやすか 85 った。 近藤:石渕さんと松本さんは初対面で、にもかか わらず問題なくできるひとびと。このまま 30 分 やろうと思えばできた。 石渕:音楽から即興するアプローチとダンスから 即興するアプローチの違い。弾いちゃいけない音。 音楽的な規整があるなかでの即興。ダンスではど うなのか。 松本:コード、リズムなど共通言語。ブルース基 本。コード進行。 石渕:最初の和音で、使えるスケールが決まる。 松本:アドリブ。ABCD。どこに着地するかは決 まっておらず、どちらにゆだねるかはその場次第。 止めてやろうという意地悪、もっときれいにとい う親切心。 近藤:脚でリズムをとる高揚感、次の変化の予想、 など、ダンスと一緒。この音楽ダメと思えば、無 視する。 松本:酒飲んで話するのと変わらない。 黒田:ダンサー同士でも変わらない。一緒にする か、すかしてみるか。踊りを聞いている感じ。 近藤:大人になったので、聞きながら楽しめる。 あがったり、下がったり、すごく自由になったり。 サンバなどではないので自由度が高い。動きも自 由度が高すぎるくらい高い。 3、【実演2】 ひ と り の ダ ン サ ー と ひ と り の 演 奏 家 。ダ ン サ ーと奏者との呼吸、会話。 前半は石渕 黒田、後半は松本 近藤。 黒田:きつかった。 松本:アンプの力で音を持ち上げているので長時 間、三時間でもできる。その点はこちらはずるい。 近藤:人体実験みたい。 松本:こういう場なので、いろいろな可能性を示 すことになった。 司会:黒田と石渕はじめて。 黒田:一楽章の感じでずっといくと思ったら二楽 章が来た。 石渕:要求されたと思った。(黒田が)圧をかけ ていた。スカーンとはまると気持ちいい。 黒田:音楽に寄り添おうと思ったら、合わせて頂 いていた。寄り添ったり、寄り添われたり。即興 の面白いところ。 石渕:流れの中にヒントがあると飛びつく。ダン サーの動きが急に速くなると音楽も追いつくの か、音を出さないのか。きっかけをお互いに出し 合っている。 黒田:やりきっちゃうとつまらないから途中でや めようという時もある。 司会:そうしたいろいろな変化を敏感に察知して 曲調を変えたようだが。 石渕:繰り返しは飽きる。 近藤:楽器はだれでもひけるが、2フレーズくら いですぐ松本さんとわかる。 松本:やっていて手応えがある。近藤さんは止ま っているだけで表情があるから、安心して無茶が できる。スリリング。 うかもしれない。言葉の力はあるだろう。 5、【実演4】 聴 衆 か ら「 お 題 」を い た だ い て 、そ れ に あ わ せ て 動 く 。 楽 器 を 指 定 し て も い い 。 1 、「 ト ロ ピ カ ル 。ジ ャ ン ベ を つ か っ て 」。2 、「 ラ ー メ ン 」。 4、【実演3】 同 じ 曲 、同 じ テ ー マ(「 エ レ ガ ン ト 」)で も 男 女 の ダ ン サ ー で な に が 変 わ る か 。2 回 同 じ 曲 を 行 う 。は じ め は 女 性 主 導 、後 半 は 男 性 主 導 。 曲と動きをあえてずらすこともある。 司会:エレガントな感じの曲になっていた。前半 と後半、かなりテイストが違うようであったがど うか。 黒田:この曲だとゆっくり踊りたくなる。コンタ クトはしづらい。 石渕:滔々と流れる音楽でのバタバタが嫌いでは ない。 松本:昔の8ミリをみているよう。関係のないこ とを感じながら泣きそうになる。 近藤:ひとコマ目がつんときたので始められた。 終わりは決めていなかったけど、そこに戻った。 2回目は1回目を引きずる。 近藤:舞台上に音の返しが来ている。やっていて それは大きい。舞台のだけでなく、中に音が聞こ えないと踊りに乗れない。 近藤:プロレスをみながらクラシックを流す。ヴ ィヴァルディ『春』など。 司会:ベタな曲ではない方が色々な動きが出てく るのでは。 松本:はまっているのも好きだが、すこしずれて いるほうがいい。できるだけ顔を見ないようにし ている。べたべたに寄り添いたいときには顔を見 ている。 司会:ダンサー側としてはどうか。 黒田:はまりすぎちゃうと照れくさい。1回目は 解釈するのに精一杯。2回目は曲を聴いてなかっ た。 司会:具体的な「お題」がある場合はどうか。例 えば音楽との関係、椅子との関係、言葉との関係、 タイトルとの関係などはどうか。 近藤:タイトルなど、言葉のヒントは少なからず ある。例えば先程の実演、「結婚 20 年目」とい うタイトルか、「エルサレム」かで、見え方は違 86 司会:「お題」があってやる場合はそうでない場 合に比べてどうか。 黒田:初めてこういう事をやった。技ものが多か った。お題ってもしかしてそうなるのでは。 近藤:「サズー」という楽器。独特のアラビック な音楽とそこに乗っかって永遠に続く感じがナ ルトを思わせた。 近藤: 「ラー」と言葉を発したが、 「メン」と黒田 さんから出て来た。しゃべると言葉を成立させて しまう。2度目は(黒田さんが「メン」と言うの を)やめるという駆け引きがあった。これもタイ トルが影響したこと。 司会:振付けをするときに、音楽だけでなく、色々 なものから触発されることがあるか。 黒田:モノがあると関係が出来る。関係の中で遊 びやすくなる。 石渕:トロピカルの方が、イメージが決まってく る。ラーメンは音楽的にニュートラルになる。 松本:自分はトロピカル、何だそれは、という感 じでやった。 石渕:タイトルのイメージに乗っかるか、それを 一重に裏切るか、二重に裏切るかと考えさせるあ たり、タイトルの拘束力は強い。 5、【質疑応答】 質 問 1:や り づ ら い 人 、コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン が成立しずらい状況などはあるか。 近藤:自分の演奏だけが好きな人は困る。こちら を見てくれないと成立しない。 石渕:会話でしゃべりづらい人はいるが、近藤さ んの例は会話が出来ない関係。今日のようなこと を毎日やれば、もっと細分化されてくるだろう。 近藤:即興を何時間もやればうまくなる。本来は、 そこには緩やかな関係がある。会話と一緒である。 嫌いな相手であれば、嫌いだということを見せれ ばいいのかもしれない。 黒田:あまり取り組もうと思わないセッションは ノイズ。 松本:自分は誰とでもやりたいタイプではない。 また、好きでも一緒にやる必要がないと思う人も ある。嫌いだからやりたくないのでない。会話が 成立する相手は見ればわかるので、嫌いな人とや ったことはない。 質 問 2:こ れ だ け 自 由 な 中 で 、パ フ ォ ー マ ン スがうまくいったという自身の基準はある か。 近藤:うまく行かなかったら途中で切る。今日は 切らなかった。ワークショップなどで、うまくい った時の空気感を捉えてそれを作品化すること はある。 黒田:気にしないで出来た時、懸案事項を引きず らないで終わった時がうまく行った時ではない か。 松本:今日のように即興でステージに立つ事は殆 どないので、よく分からない。 石渕:やり切った感。達成感がある時。(演奏し ている時は)即興の時の近藤さんの出来がひとつ の基準になる。 質 問 3:振 付 や 音 楽 が 決 ま っ て い る 時 の ス テ ージと何が違うか。 石渕:即興は間違える恐怖がない。即興の方が直 ぐに「表現」にいける。決まっていると、自分の 中にある「完成体」に到達出来るかどうかがスタ ートになる。 近藤:コンドルズの舞台の振付けは決めてある。 時間調整の関係で、自分のソロパートで即興をす る時はある。自分は、即興の時間も振付けの時間 も同等でいたい。 黒田:即興を舞台でやることはあまりない。基本 的には決めた状態で踊ることが多い。だが例えば 腕を延ばす動作ひとつでも、微妙な違いを選ぶこ とは即興。舞台上であまり即興は踊らないが、い ろんな瞬間に即興をしているという気分はある。 松本:子供の頃からクラシックギターをやってい た。即興が偉いとは思わない。決められた曲をや るのは好き。決まり事の、そこから上にあるもの をやるのがいい。黒田さんの微妙な違いの話しに 近い。 6、【実演5】 最 後 の 即 興 セ ッ シ ョ ン 。適 当 に ま わ し て 、近 藤 が 手 を 挙 げ た ら 終 わ り 、と い う こ と だ け を 決めておく。 (島津 京) 87 シンポジウム「文化政策・文化助成の論点整理」 日時:平成 24 年 12 月 15 日(土)17:00-20:00 場所:学習院女子大学 2 号館 3 階 237 教室 パネラー: 植木浩(元文化庁長官、学習院女子大学名誉教授) 片山正夫(セゾン文化財団常務理事) 盛裕花(株式会社アンクリエイティブ代表取締役) 勝山康晴(ロックスター有会社取締役、コンドル ズ制作) 【基調報告】 ◆植 木 氏 : 第 二 次 大 戦 後 の 日 本 に お け る 文 化 政 策の流れ 私が文部省に入った 1950 年代後半には、文化財 保護行政は文部省の外局であった文化財保護委員 会が担当していた。芸術や著作権に関する行政は 社会教育局の一部として、国語、宗務、国際文化 に関しては調査局において、それぞれ担当されて いた。 1959 年にフランスでは、アンドレ・マルローの 下に文化省が設置されたが、その影響もあり、ま た経済の高度成長も経て、1966 年には文部省に文 化局が新設されて、芸術、国語、著作権、宗務、 国際文化に関する行政はここで行われることにな った。文化局と文化財保護委員会の二本立ての組 織により、文化行政が行われることになったので ある。(「文化行政」の時代) 1968 年になると、文化局と文化財保護委員会が 統合され、文化の継承と文化の創造・普及を一体 的に推進するため、 「文化庁」が創設された。こう してこれまでの分立型の文化行政組織が、ようや く一体化されることになったが、 「文化庁」の創設 は、日本における文化政策の歴史の上で画期的な ことであったと思う。(「文化庁」の時代) 1980 年前後になると、所得水準も上がり、自由 時間も増大し、都市化の進展やメディアの発達な ども受けて、人々の文化的欲求が高まり、 「物の豊 かさ」だけでなく「心の豊かさ」が強く求められ るようになっていった。大平総理も施政方針演説 の中で、 「文化の時代」という言葉を使用し、社会 のいろいろな方面で文化に注目するようになり、 私流に言えば、社会全体における「文化化の時代」 に突入していったのである。 1980 年代末から 1990 年初めにかけて、文化庁 は「文化政策」という用語を積極的に使用するよ うになり、「文化政策推進会議」の設置、「文化政 策国際会議」の開催が行われるなど、 「文化行政の 88 立体化」が進められた。1990 年には、政府の出資 と民間の拠出(計 653 億円)による「芸術文化振 興基金」が創設され、 「企業メセナ協議会」が開設 されるなど、官民のパートナーシップによる文化 支援の体制が確立されることになった。(「文化政 策」「文化支援」の時代) さらに 1996 年には文化庁の芸術創造活動への 支援事業が再編・拡充され、「アーツプラン 21」 としてスタートし、2012 年にはさらに再編・統合 が行われ、 「文化芸術創造プラン」となって現在に 至っている。 1997 年には「新国立劇場」が開場し、オペラ、 舞踊、演劇などの拠点施設が発足するとともに、 2001 年には「文化芸術基本法」が制定され、それ に基づいて「文化芸術振興基本方針」が策定され るようになった。2012 年には各地域における文化 拠点の活性化と地域振興を図るため、 「劇場、音楽 堂等の活性化に関する法律」も施行され、それに 関連した国の支援事業も行われることになってい る。 この間、かねてから行政改革が進められてきて いるが、それに基づく新しい制度導入への対応も 文化施設等での課題となっている。また 2011 年 度から、日本版アーツカウンシルの試行的導入も 行われてきているところである。 今後の日本の新たな発展のためには、「経済力」 とともに、 「文化力」が大きな役割を果たすという ことが広く認識されるようになってきており、文 化政策の格段の振興が強く期待されている。 ◆片 山 氏 : セ ゾ ン 文 化 財 団 の 設 立 経 緯 と 運 営 営利ではなく公益目的であり、運用益で運営する。 現代演劇とコンテンポラリーダンスに特化して支 援している唯一の財団。政府や他企業と重ならな い分野、方法での助成を目指している。 アーティスト支援も活動、クリエーションへの 助成であり、公演助成ではない。よって継続支援 (2∼3 年以上)を実施し、稽古場(森下スタジオ) の提供など資金以外の支援も行っている。 ◆盛 氏:国 内 外 の コ ン テ ン ポ ラ リ ー ダ ン ス・マ ネジメント 1986 年市川雅氏発案のアメリカン・ダンス・フェ スティバル・トーキョーの公演制作としてスター ト。1991 年から株式会社を設立し、稽古から公演 まで、ファンドレイジングからマネジメント、広 報までを一手に引き受ける活動を継続している。 海外では各業務を分担して実施するが、日本で は分担できる組織がない、資金の持ち出しも多い 等、ビジネスモデルとして成立していない。公的 助成金から援助を受ける際も、単年度制のため継 続した活動に繋がらない。 ダンスコレクション も 1991 年度より芸術文化振興基金助成の元 16 年 間継続していたが、上記のような理由で現在は休 止している。 盛氏「現行の助成制度は申請、経過報告、結果報 告など各アーティストへの負担が重すぎる。助成 金にもアーティストでないと申請できないもの、 カンパニーの申請が不可(株式会社は可)のもの など制限が多すぎて、継続的な活動に結びつけに くい」 ◆文化政策の新たな方向性 アーツカウンシル 植木氏「文化庁の「第 3 次基本方針」においても、 日本版アーツカウンシルについて、新しい仕組み の導入と、専門家による審査・評価・調査等の機 能の強化、PDCA(計画・実行・検証・改善)サイ クルの確立が提言されており、さらに事業収支が 支援額に影響しない助成方法の導入にも触れてい る」 片山氏「東京都のアーツカウンシルがスタートし たが、プログラム・オフィサーとして専門職を雇 用し、現況やニーズの調査、プログラムの開発や 評価をしている」 ◆ 勝 山 氏:コ ン テ ン ポ ラ リ ー ダ ン ス の カ ン パ ニ ー運営(コンドルズの活動を通して) コンドルズは 1996 年に結成し、徐々に動員数を 伸ばし、ここ 10 年間は毎年各 2 万人を動員できる カンパニーとなった。コンテンポラリーダンス業 界では抜きんでた記録である。他カンパニーも同 実績であれば、コンテンポラリーダンスは盛況に なるはずだが、現実は厳しい。この業界の次世代、 若手も育っているとは言い難い。大きな理由とし てプロデューサーの不足、不在が挙げられる。 コンテンポラリーダンスは、演劇やバレエと異 なり、ストーリーという観客側にとって解りやす い手がかりがない。それゆえ、作り手側の意志だ けで作品を完成させると伝わりにくい表現になる ことが多々ある。観客が自然に作品へ入り込み、 コンセプトを探りあてる工夫をするためにも、プ ロデューサーが不可欠である。コンドルズでは、 自分がプロデューサーとして、また他メンバーも 作品制作時にさまざまな意見を出し、客観的視点 を生かすことを大切にしている。 これからのプロデューサーに求められてること は、アニメやロックなど他分野へも見聞を広め、 それらの手法をコンテンポラリーダンスの場で生 かす、というような新たな展開ができる発想力で ある。プロデューサーの育成はこの分野において は、急務である。 社会的構造の工夫 片山氏「日本は総じて助成に不熱心である。国も 自治体も文化予算全体からみて助成金予算の比率 は大変低い。メセナもガイドラインを開示してい るのは資生堂くらいで、ほとんどの企業が要請に 応じて助成を検討している。限られた予算で各所 が役割分担をしていくしかない。国は個別事業に 助成するより、インフラ作りに向いているように 思われる。市民、団体の力をどう生かすかが問題 になってくる。寄付税制も改正されたが、そもそ も寄付は頼まれないからしない、という側面が大 きい。また、中間組織に資源を投入して、業界を 活性化するだけではなく、一般市民にも理解を深 めるプログラムを実施し、普及を図ることも重要 である」 植木氏「文化予算はその国の文化の振興にとって 極めて重要である。国は公的予算なので制約もい ろいろあるが、民間企業の弾力性や文化支援も生 かしつつ、両者の兼ね合いを取ることが重要であ る」 盛氏「各事業の性格に対して、効果的な助成が成 されるべきである。例えば国際ダンスフェスティ バルの実施は例えば国際交流基金の援助のみでは 開催不可能である。継続的助成も受けられるシス テムにない現在では、場所(劇場など)がある団 体、組織が助成を得て実施していくシステムしか 残されていない」 勝山氏「ジャンルを横断した工夫の可能性がある。 例えば、コンテンポラリーダンスを活用した、地 元企業の CM としてアピール性の高い作品を制作 する等、コンテンポラリーダンス観客の裾野を広 【ディスカッション】 ◆プロデューサー育成について 盛氏「プロデューサーが先か、アーティストが先 かという話がよくあるが、90 年代活躍したカン パニーを見ると、どちらもいて成立している」 植木氏「フランスでは、1960∼70 年代に文化活動 を活気づけるアニメイターという運営の専門的人 材を育成するようになった」 片山氏「財団が長期助成する場合、カンパニー単 位ではアーティストの活動と必ずしも一致してい るわけではないので現実的ではなく、プロデュー サー単位にすると個々のアーティストに助成を受 けているという自覚が薄くなるため、現在のよう なアーティストの活動助成になったという側面も ある」 89 げる活動が考えられる。全国的に認知度の高いサ ッカーを支援している企業等とこういった活動を 実現できれば、コンテンポラリーダンスの普及力 を飛躍的に高め、一般市民の理解を深める仕組み になり得る」 【質疑】 Q「 助 成 事 業 の 評 価 に つ い て 」 片山氏「セゾン文化財団のように、単発助成では なく長期助成だと、アーティスト活動のステップ アップや作品の変化などを評価対象にできるので、 事前事後の評価が適正にできていると思う。他の アーティストに与える影響にも注目している」 盛氏・勝山氏「かつて赤字運営でないと助成され ない制度があったが、事業報告への評価が動員数 であったり、すべて数字で判断するのはおかしい。 価値基準は多くあるべき」 植木氏「定量的評価だけでなく、定性的評価も重 視すべきである」 Q「 長 期 的 助 成 を す る 場 合 、途 中 で ア ー テ ィ ス ト活動が変更になった場合はどうするのか」 片山氏「過去にもアーティスト活動停止や、計画 変更などはあった。活動停止は対処するとして、 計画変更についてはある程容認している」 植木氏「文化審議会でも、長期的支援の方向性と して、新しいものへの助成、挑戦的なものへの助 成も重要だと言われていると聞いている」 勝山氏「コンテスト形式にするなど、審査段階に 工夫をすることも支援を指示するためには必要か もしれない」 Q「 ダ ン ス が 中 学 必 修 化 に な っ た こ と 」 勝山氏「基本的にいいことだと思うが、ダンスの 技術(特にヒップホップ)ばかりが注目されすぎ ている。技術ばかりを強化することは、段階的差 別や虐めにつながる要因を生み出しかねない。コ ンテンポラリーダンスのように、コミュニケーシ ョンを重視し、個性を生かした表現こそ、もっと しっかりと取り組むべきだと思う」 (丹羽晴美) 90 シンポジウム「照明とダンス」 日時:平成25年2月24日(日)17:00-20:00 場所:学習院女子大学「やわらぎホール」 パネリスト:坂本明浩、近藤良平、石渕 聡 司会:貫 成人 ダンス協力:田上和佳奈 参考文献 ヴォルフガング・シヴェルブシュ『闇をひらく光 〈新 装版〉: 19世紀における照明の歴史』小川さくえ訳 法 政大学出版局 2011年 ヴォルフガング・シヴェルブシュ『光と影のドラマトゥ ルギー―20世紀における電気照明の登場』、小川さくえ 訳、法政大学出版局 1997年 内容:コンテンポラリーダンスにとっては決定的 な意味をもつ照明とダンスの関係について、照明 家坂本明浩氏とともに、ダンス実演を交えて掘り 下げる。 1、【基調講演】 ◆貫 成人: 照明の歴史と役割 19世紀までの照明は、ロウソク、あるいは自 然光で行われていた。19世紀にガス灯が登場し、 1870年代になるとアーク灯(電気)が普及す る。1880∼1920年代に、電気が都市に浸 透し、1881年にオペラのミカドには電気照明 が使われた。 18世紀まではシャンデリアが観客席と舞台 を等しく照らしていた。後に、電気が普及して舞 台を上から下へ照らし、舞台を明るくすることが できるようになったが、明るすぎて困ることもあ った。例えば、舞台装置や化粧のあらが見える場 合などである。 照明独自の機能が開発されたのは、大分後にな ってからである。代表として3人が挙げられる。 まず、アドルフ・アッピアは「単に明るくするの ではなく、照明を積極的に用い」、「舞台装置と 照明を統合し」、「照明によって中庭や一日の移 り変わり」などを表現するなど、これまでの照明 の概念を変えた。また、エドワード・ゴードン・ クレイグは、国家社会党のニュルンベルクの党大 会(光の彫刻)やベルリン・オリンピックで「彫 刻のような造形性」を表現した。そして、ロイ・ フラーはセルパン・ダンスに色の照明をあて、ダ ンスの演出の効果として照明を用いた。 舞台照明の役割としては1.明るくする、見え るようにする(隠す)、2.視線の誘導、3.光 による造形、彫刻、結界、世界、図/地、等が挙 げられ、その結果、さまざまな効果が得られる。 例えば、素明かり、スポット、造形、空間光、異 空間(VS.地続き:観客席と舞台を同じ空間で 包む)、結界、スタイリッシュ、光によって自然 の表現(朝日、時間の表現)、影による彫刻(ロ ーザス・ファーズのピアノ・ファーズ)、間接照 明によるクールな空間性(勅使河原)、逆光によ るダンサーの影を表現などである。 91 2、【講演】 ◆坂本明浩:照明技術について 照明は、共同作業である。舞台監督がいて、音 響がいて、演出家がいて、ミーティングの過程で 仕込み図を作っていく。演出的なことに加えて、 技術的なこと(電気的・工学的な制限)を考える 必要がある。これらの連携が潤滑に機能していれ ば、極端な話、たった一個の灯体しかなくても、 ワンシーンが作れるのである。 また、照明一つ一つに、性格があり、実際、こ の場で、フェーダーの一番から順番に、名前と性 格をつけていく(やわらぎホール仕込み図と照ら しながら)。 〈1〉.(斜めのバック)影がほんのりボヤンと している。色もなにも入っていない(オープン・ ホワイト、生:オレンジっぽい色。自然光のよう に七色はいっていないので、衣装の色はこれだけ だとしっかり出ない)、今やわらぎホールだと三 つ同時についたが、もう少し設備があるとひとつ ひとつつけることができる。その場合、ひとつの 灯体にひとつのフェーダーが割り当てられる。 〈2〉. 1番と同じのを異なる角度からひとつ だけ投射、1番と切り替えることで、動きがうま れる。〈3〉.(バックのブルー) 071とい う東京ブルーという色。日本が世界に誇る色で、 世界中どこでも「東京ブルー」は絶賛される。海 外公演のときにはかならず使う、奥行きがある青。 〈4〉.201、白といっているが、ブルー、パ ーライト(透過率が高いので明るく見える)。 〈5〉. 4番と同じ、201だけれど、異なる見え方。入 れるスポットによって異なる。〈6〉.5番と反 対側。〈7〉.生っぽいけれど、202という色 をいれている(前からの照射)。〈8〉.7番の 反対側、7番と同時につけると顔がよく見える。 片側だけだと、背中だけみせて、うつむき加減を 表現したりする。〈9〉.プロファイルという器 材を使用、柄が見える(同じあかりの中に陰影が ある)表現、当たったものに、凹凸がはえる。ダ ンサーがゆっくり動いていても、すごく早く見え る。〈10〉.9番の反対側。〈11〉.トップ、 サスとかいう。柄つき。この方がおしゃれかな、 と。ひとつの明かりの中ですでに世界観が出る。 〈12〉.11番の場所違い。〈13〉.12番 の場所違い、11,12,13と三つつくと全面 が明るくなるように計算。〈14〉.あとで使う ので(これは後で田上和佳奈のソロのときに使っ たと思われる)。 〈15〉.真ん中で踊るひと用。 〈17〉.ステージの仕込み。サイドスポット(略 してSS)、造形的に見える。〈18〉.17番 の逆、サイドスポットがあると、顔が見えないよ うな照明にプラスして使うと、緊張感。振り向く 動作に合わせるだけで絵になる。〈19〉.ネタ 付き(ゴボテンプレート806)、SSよりも下 側から打っているので、不気味な感じに。このプ ロファイルに入れるゴボテンプレートはロスコ というところで買えるが、自作して好きなものが できる。ピントの合わせ方でだいぶ印象が違う。 〈20〉.19番の逆。角度を変えて、照射面積 を確保しようとすると、舞台上に影が生まれてう っとうしい感じになる(狙っていない効果が生じ る)。〈21〉〈22〉.前から照射するシーリ ング(FOH)。しっかり、いろいろ見せられる。 ブルーという色は、観客が見たいものだけ見れる 色である。〈23〉.シーリングの生。講演会な どで顔がよく見えるような場合に使う。 〈24〉. スペシャルなので後で(14番と同様)。 例えば、コンドルズの大きい講演だと、300 個ぐらいの灯体にそれぞれフェーダーを割り当 てて、制御している。色見本、赤だけでも何10 種類。リーという色のメーカーは、浮世絵を研究 して、色を作っている。 3、【実践パフォーマンス1】 ◆色と音の無い中でのソロダンス ダンサー(近藤良平)は黒い衣装、黒幕、音も 色もなし。照明は、薄いブルー(201)など、生 の、白っぽい光だけ。ダンサーは、下手から出て、 ちょっと何かが起き、終わった感じで上手に出る。 即興の動きに、照明家(坂本)は同時進行で照明 をつける。 坂本「今回の照明は親切だった。2 分半で 20 キ ューくらい。オペレーション室にいても、ダンサ ーと照明でアイコンタクトはでき、ダンサーの要 求のままに照明を出せる。光と影のみ。無音だが、 頭の中で音が鳴っていたり、筐体の音が聞こえた り。」 近藤「最初は、音無し、色なし(生だけ)で、ど こまで作れるか、自分も黒の衣装で、 打ち合わせなしで。このあたりに来るとどのよう な光がくるか想像しながら。」 坂本「ダンサーと呼吸を合わせるようにすると、 自然とアイコンタクトのようなものができる。同 92 じものでも、海外でやっていると電圧が高い(2 00V)なので、透過率が高い(抜けるような 色)。」 石渕「無音だと、すごく集中して息をのんでしま うね。無音には魔物がすんでいる。」 近藤「光の音がきこえるのさ」 4、【実践パフォーマンス2】 ◆色と音を加えてのソロダンス 仕込み風景。バトンをおろして照明に色をいれ、 音も入れる。下手と上手にブルーとアンバーを入 れただけ。それだけでどれほど違って見えるか。 劇場の大小にかかわらず、いまやっていることの 組み合わせ。衣装をグレーにかえる。そのほうが 色の案配がよくわかる。音が鳴ると、音の世界に もっていかれてしまうので、耳を押さえてもらう と音の影響力がわかる。ダンサーは、音に影響さ れたり、されなかったりしてみる。 坂本がいい感じで終わりにしようとしたのに、 ダンサーが終わらなかった。音があると持って行 かれてしまう。舞台照明は普段の暮らしの中には 存在しない。間違えてもわからない。坂本は音も はじめて聞き、ダンサーの呼吸をひろいながら照 明を作る。前からの光が入ると急に年齢が出る。 前の光をいれると「現実に戻す」効果。 近藤「グレーの衣装のほうが色が映えるから、衣 装はあえてグレーに変えた。」 あと、音がすると音の世界にもって行かれるから、 たまに、耳を塞いでみるといろいろ分かる」 坂本「音は間違ったらすぐにわかるが、光は間違 いはない」 近藤「うしろから照射されると、年齢がわからな い。独特の空間が生まれる。」 5、【実践パフォーマンス3】 ◆照明家と演出家の共同作業 坂本と近藤が、ダンサーを舞台にあげて指導を しながら、「明かり作り」を普段している模様を 再現する。普段はインカムでオペルームと交信す るが、今回は公開で。田上和佳奈がダンサー役。 どうやってワンシーンを作るか。すべて即興で行 う。通常は、シーンがあり、曲も決まっているが、 今日は、照明がだいたいわかっているとき、そこ にダンサーがたつと何が起こるかをチェックす る。坂本と近藤は、客席中央に座る。照明の色味 を見る為に、明かり合わせのときからダンサーは 本番の衣装で立つ事が多い。 坂本「コンドルズは、なかなか作品ができていな い。」近藤「十分の一くらいの状態のときに坂本 さんがきて「わかった」と叫んで帰っていく。」 稽古場に入った雰囲気で作品の九割はわかると いう。演出家らが何に注意しているか、どうやっ てそこにたどり着いたか。振付家の意図がわかる と照明をどうすればいいかがわかる。一日仕込み、 二日目に照明、三日目にダンサーがたって確認、 四日目夜に通し。…ダンサーがいれば、ダンサー 主体になる。脚本、演出だけなら、それ主体だが、 実際にはダンサーがいるので、きっかけもダンサ ーにあずける。もうちょっと顔を見せたいから 22番、など。すべてに細かい理由がある。振付 家が何をみたいのか、何を感じたいのかを探る。 振付家と心の読み合いをする。やってみて違うと いわれれば、次を出す。腹の探り合いである。逆 に振付家の方も照明家からの働きかけによって、 発見があったりする。一人だけの仕事ではないの である。舞台がカンパニーの名前だけでよいのは、 おたがいに心を読みあい、お互いがつぶし合うの ではなく答えをひきだしあって、一つのものをつ くっているからである。」 6、【映像作品資料からの座談会】 ◆コンドルズ作品をめぐって コンドルズとの関係は? 坂本「98 年アゴラ劇場が最初。」 石渕「始めはとても怖い印象だった。アシスタン トの若い人に「そこにはいるな!」と怒鳴った り。」 坂本「照明は危険なので。あなどっていると死ん でしまうんだよね。」 2012年1月さいたま彩の国芸術劇場『12年の怒 れる男』。近藤ソロからのシークエンスを上映。 坂本「白とオレンジの1.8m正方形のチェス版 のような舞台。白はオフホワイトで、色がのるも の。オレンジは色を当てることで、いろいろな色 になる。光が一カ所にいっぱい集まることでそこ が光っているように見えて、下から照らされる感 じになる効果がある。ムービングを23台使った。 一個のマスに一個のライト、一個のライトに6つ くらいの性格がある。あらかじめすべてのシーン のイメージ3D図を作って、うまくいくかどうか 確かめてから現場へいくようにしている。パソコ ンでのシミュレーションを重ねていくことで、現 場でダメだったと言うことは90%ない。」 坂本「歌ものだと、ムービングは多用されるが、 ダンスだと、動きがあらかじめ読めない部分もあ るので、使われない傾向がある。また、HMIに ついては、コンテンポラリーダンスでは多用され るので逆に使いたくなかったが、この場面ではう まい味がでる。 2012年9月東京グローブ座『Knockin on Heaven s Door』の近藤ソロから人が増えるシー ンを上映。床は白。 近藤「……いい照明だと疲れずにずーっと踊って いられる。」 7、【実践パフォーマンス4】 ◆照明家とダンサーの共同作業 即興ではなく、綿密な打合せの上で作られた坂 本(照明)+田上(振付け)作品。そのためのフ ォーカスなどの仕込み替え。ホリゾントを大黒か ら白に変える。 田上「最初に洋服を上から照射してそこから出た り入ったりするシーン、赤の服を補色の緑と同系 の紫で照射するとどうなるかを試したいという 構想を坂本さんに伝えました。」 坂本「赤い服に緑を入れるとき、うしろから青を プラスして、もっとグレーっぽくみえるようにし てある。」 坂本「冒頭のダンサーの体による影絵は、ダンサ ーがいないけど、ダンスがあるものをやりたかっ た。動きの場所や内容は田上さんが決め、そこに 光をどうあてるか。また、網の目のような模様な どからは、縛られているところから飛び出すよう なイメージにつながると思う。」 8、【実践パフォーマンス5】 ◆坂本、近藤、田上の即興 音楽に、即興で照明、ダンスを合わせる。近藤 が選曲をして、他二人は曲をはじめて聴いたとい う。 坂本「最後、近藤と田上二人が前に出てくればい いなと思ってるとそうなる。最後はここで終わろ うね。という、3人で即興の中で自然と言葉の無 い会話ができている。」 9、【質疑応答】 (質問1)緑を使うのはどんな場合か。 坂本「自分は、ほとんど緑を使わない。理由は、 空間光として緑というものが存在しないから。そ れでもあえて使う場合には、気が狂っていること の表現とか。」 (質問2)照明の仕事をはじめる動機となった作 品、照明の仕事をしていてこれはと思う他の仕事 は、何か。 坂本「動機は特にない。すごいと思ったのは、 クイーン。あれにはかなわない。」 (質問3)舞台上にまだいるダンサーからあえて 照明を外して、見えなくするのはどのように組み 立てているのか 坂本「見た目の判断。さまざまな場所で継起す るダンスの中で、視線を誘導するのは自分の役目。 自分が主体で近藤に提案する。」 (石渕 93 聡) シンポジウム「ダンサーにきく」 日時:平成24 年3月20日(日)16:00-19:00 場所:専修大学神田校舎 7 号館 721 教室 ゲスト:ジュリー・アン・スタンザック (ヴッパタール舞踊団ダンサー) 司会・通訳:貫 成人 通訳:副島博彦 ともありました。 【ピナ・バウシュとの出会い】 スタンザック氏に聞く 「ダンサーになった経緯を教えて下さい」 ニューオリンズで生まれて、7 歳でバレエを始め ました。通っていたバレエ学校はニューヨークシ ティバレエやジョフリーバレエと関係があり、そ れらの学校と同じ教師に教えてもらえる恵まれ た環境でした。14 歳でミネアポリスに転居し、 そこのバレエ学校でモンテカルロで昔踊ってい たロシア人バレエ教師からバレエ・リュスについ て学びました。プリセツカヤの踊る『カルメン』 を観て衝撃を受けたのもその頃です。バレエと並 行してジョン・ドナヒューが主宰していたミネア ポリス・チルドレン・シアターに参加して、演劇 も学びました。そこでは『マッチ売りの少女』や アンデルセンの童話を上演していました。高校を 卒業して、バランシンの妻だった一人、マリア・ トールチーフがディレクターだったシカゴ・オペ ラ・バレエに入団しましたが、バレエ団の休暇中 には友人を頼ってヨーロッパに行き、さまざまな カンパニーのオーディションを受けていました。 そして 1979 年にオランダ国立バレエに入団し ました。その当時、一人でオーディションのため にヨーロッパを旅したことは、その後のアーティ ストとしての表現にも大きな影響を与えている と思います。 オランダ国立バレエでは当時のバレエ団のメイ ン振付家、ハンス・フォン・マーネンの作品を踊 りました。『ポーズ』という9人の女性と1人の 男性の作品、ポワントをはかずにロングスカート で踊ります。 『ピアノ協奏曲』 『5つの短編』も踊 りました。マーネンはとても神秘的で人間味あふ れる人で、各ダンサーのパーソナリティを大事に しながら創作していました。ダンサーに質問し、 語らせたりもしていました。ピナやフォーサイス が使う語りやダンサーとの対話を用いた創作法 を既に彼はおこなっていたと言えます。彼は先鋭 的な振付家でした。80年代のマーネンの作品で は、私がマイクを持って踊り続け、リフトされて いる時の気持ちなどをずっとしゃべり続けるこ 94 オランダ国立バレエに来て数年後、友人とから ピナの『春の祭典』をビデオで見せられました。 そして自分もこれを踊りたいと強く思ったので す。アムステルダムでヴッパタール舞踊団の公演 があり、彼らが滞在中にクリエーションを行った 時には、劇場のバルコニーに隠れて様子を盗み見 ることもしました。劇場の脇にあった書店がヴッ パタールへの観劇バスツアーを主催していて、そ れを利用してヴッパタールに通いました。1985 年、ニューヨークで舞踊団が数週間公演した際に は飛行機で週末ニューヨークに通い、複数の公演 を観ました。そして、『ワルツ』の公演をしてい るときに、一人だけでオーディションを受けるチ ャンスを得たのです。ダンサーと『春の祭典』の デュオを踊り、面接もありました。とても人間的 な雰囲気で、私は幸せな気持ちでした。 「その時のピナの印象は?」 そのときのピナは特に強いことを言うわけでは なく、自然で、非常に感受性の強い人だという印 象を受けました。 「ヴッパタールに来た時の印象はどうでしたか?」 オーディションに合格して、1986 年に契約を結 んでヴッパタールに来ました。当時はオペラハウ スのスタジオと、リヒトブルグと呼ばれる大きな 映画館だった場所で舞踊団は練習をしていたこ とを良く覚えています。 最初に参加したクリエーションは『ヴィクトー ル』でした。この作品は、舞踊団初の、都市との 共同制作でもあります。アルジェンティーナ劇場、 ローマ市文化局、ゲーテインスティチュートの共 同制作だったと思います。3 週間ほどローマに滞 在して取材を行い、ヴッパタールで制作を続け、 完成作品をローマで上演するというプロジェク トでした。 「『ヴィクトール』でとても印象深い ほうれん草を 絞る女」のシーンは、どのようにして生まれたので すか」 私が演じた、「ほうれん草を苦々しげに絞る女」 のシーンは、実際に目にした光景が元になってい ます。昼間はクラスをうけたり、リサーチのため に町を歩いたり、ミュージアムに行ったりしてい たのですが、ある日深夜に洒落たトラットリアに 入った時、厨房が目に入りました。そこでは、目 の下にクマのある疲れた女性が、ほうれん草を 苦々しげに絞り、皿の上に置く仕事を繰り返して いました。その光景がとても衝撃的で、次の日ス タジオにほうれん草を持ち込んであのシーンを 作ったのです。 スのようにして。私は嬉しい気持ちになって喜ぶ けれど、ある瞬間にフェルナンドは綺麗に貼った 紙を吹き飛ばしてしまう、というシチュエーショ ンを作りました。 映像をまじえて 【『パレルモ・パレルモ』の一幕終わりを見ながら】 「こうしたグループのムーヴメントはどのように してつくられるのですか?」 「海外の都市での制作とヴッパタールでの制作に 違いはありますか」 『ヴィクトール』は 1986 年 2 月にクリエーシ ョンが始まって、約 6 カ月後に完成しました。 その間には通常の公演もありました。95 年頃か ら、自然発生的に、ダンサーが 2 グループに分 かれて、各年で都市共同制作を担当することにな りました。たとえば『フルムーン』はヴッパター ルでできた作品ですが、日常の場であるヴッパタ ールで制作する仕事は、海外の都市での制作とは 全く性質が異なります。家にいれば本や資料を参 照しやすいということはありますが、日常生活が、 制作にプラスに働くときもあれば、そうでないと きもあるのです。 「『フルムーン』制作時のピナの質問について教え て下さい。1日目には「Once I loved」という抽 象的な質問ですが、2日目からは「ニューオリンズ について」という具体的な質問になっています」 この映像は恐らくオリジナルメンバーの上演 だと思います。みんな若いし、強いエネルギーを 感じます。作品の舞台デザインは、パレルモでピ ナやダンサーたちが出会った風景、雰囲気に基づ いています。 動きに関しては、ピナは「殺す時にする動き」 「雄 牛の動き」という質問を出し、その答えとピナの 動きを混ぜ合わせたもので、作品は創られていま す。「殺す動き」の答えは、この映像でも見られ る、指で両目を潰す動き、両手で頭をはさみ押し 潰す動き、耳を引っ張る動きです。「雄牛」では 両腕で角を模す動き、四本足で駆け抜ける動き、 牛のベルが揺れる動きなど。これらの動きは行為 の再現が目的ではありません。各自がこれらの動 きを高速で繰り返すことで、場にエネルギーをみ なぎらせることが目的です。 「これらの要素を構成するのはピナですか?」 『フルムーン』の制作時に、ピナはまず「ニュ ーオリンズについて」という質問をしました。ピ ナの質問には一人でもグループでも答えること ができます。当時はハリケーン被害の直後で、昔 住んでいたニューオリンズに対して私は特別な 思いがありましたが、フェルナンドが出したアイ デアに他のダンサーが協力して答えることにな りました。彼が新聞で見た、ショックのあまり一 つの姿勢で固まってしまった女性を再現するこ とになりました。グラスを持ったまま硬直して動 かないダンサーたちに、フェルナンドが水を注い でいき、そのあと私が自分のスカートを上に持ち 上げる、というシークエンスを作りました。 2 つ目の 「動物の(動きで)」というピナの質 問には、食べる動き、噛む動きで答えようと考え ました。私が腕を差し出し、4 人の美しい男たち がやってきて腕を噛むシーンを考えました。反対 の腕は、噛む動きに連動して握りしめます。腕に 歯が当たる感覚が、面白かったです。 3 つ目の 「何も持っていない、でも」という質 問には、フェルナンドがポケットから出した紙を、 私の体に綺麗に貼っていきます。首筋にネックレ 95 このシーンで重要なのはダンサーの出入りで すが、動きの組み合わせに関しては、ピナではな くダンサー自身が決めています。 【『カーネーション』の映像を見ながら】 「この『カーネーション』の冒頭のシーンを引き継 いだ時のことを教えて下さい」 あのアコーディオンを身につけて踊るシーン を作ったダンサーのアンヌ・マルタンは、初演か ら 4 年後にカンパニーを去ったので、私がその シーンを受け継ぐことになりました。春・夏・秋・ 冬、つまり大地からの芽生え、高く伸びる草と高 所で光る太陽、落ちる葉、寒さをあらわす動きは、 ネイティヴ・アメリカンの身振り言語から来てい ます。役を引き継ぐにあたっては、アンヌが伝え ようとしたことをそのまま引き継ぐのではなく、 その本質、真実を理解して自分自身の表現をする ことを心がけました。1989 年には日本で上演し たので、日本語を覚えたんですよ。 【ブルックリン・アカデミー・フェスティバルのポ スターを見ながら】 「さまざまな国で上演することのむずかしさはあ りますか?」 簡単であり難しくもあり、意味があるかもない かもしれない質問ですね。強いて言えば、踊りな がら自分の状態を知ること、その時の最高の能力 を見せることだと思っています。 ダンスと並行して上演国の言葉を練習するこ とが大変です。発音が変で笑われることもあるけ れど、それも人間的で気に入っています。ダンサ ーが観客からある感覚を受け取り、それがまたダ ンサーから観客に送り返される点が、ピナ作品の 特徴だと私は思います。国によって反応は違うけ れども、観客が観客の内に巻き起こした深い感情 は、ダンサーにも伝わります。ピナの作品は誰も がどこかのシーンで共感を得られるために、世界 のどこでも受け入れられるのだと実感していま す。 会場からの質問 質問1 「①今日の話からピナからの質問をシーン化して いくのがこの舞踊団の特徴だと感じたが、ピナ自身 のアイデアとダンサーの創作部分の比率を知りた い。②『フルムーン』は制作に 8 カ月かかってい るようだが、そのうちダンサーが考えていた時間は どれくらいか?③初めてコンテンポラリーダンス を見て「意味が分からない」という人にはどう答え たらよいか?」 「ピナ亡き後の舞踊団の将来をどう考えています か?」 舞踊団はピナの世界を伝え続けることを誇り に思い、その仕事のための十分なエネルギーと希 望を持っています。多くのレパートリーがあり、 オリジナルメンバーも多く残っているので、真正 な形で上演を続けることが可能です。自分自身も 使命感を感じているし、舞踊団の未来はポジティ ヴだと感じています。2013-14 シーズンは舞踊 団創立 40 周年です。ヴッパタールで盛大にお祝 いし、世界ツアーも予定しています。予定はない けれど、舞踊団のメンバーも大好きな日本でまた 公演したいです。 「ヴッパタール舞踊団の外での活動について教え て下さい」 90 年代からフランスの「ロワゾームーシュ」 というカンパニーで、ハンディキャップを持つ子 どもたちと活動し、良い刺激をもらっています。 特にダウン症の子供たちはとてもオリジナルな 方法で自分を表現していて、刺激されます。 またそれとは別に、ワークショップで知り合った 劇場関係者とも仕事をしています。2,3 年に 1 作 品のクリエーションをしています。2012 年には、 イタリアのテアトロ・ラリバータで、スイスの小 説家デュランマットの小説を元にして振付作品 『ミノタウルス』を創りました。2013 年 2 月 7 日には、ローマで最新作の『恐れと欲望』 を初 演しました。ワークショップで知り合ったイタリ ア人のディレクターであり女優であるガイアと いう女性とのコラボレーションです。彼女が演劇、 私がダンスを担当しました。10 人の俳優と 1 人 のダンサーの作品で、俳優たちも踊ります。 「最後に、あなたにとってダンサーであるとはどん なことでしょうか」 ①作品はピナがまとめているのだから、間違いな くピナのもの。でも、ピナはダンサーをとても尊 重していたので、作品はダンサーのものとも言え るでしょう。分けて考えるのは難しいくて、 100%が二つあるという感じです。 ②5 ヶ月間だと思います。この期間のあいだに他 の公演もありますが、ヴッパタールで 6 週間程 度集中して創りました。 ③作者が伝えたいメッセージ、というのもあると 思いますが、観る人が自分が何者なのか、何を感 じているのか、どこから来たのか、自分にとって 何が喜びで何が悲しみなのかをベースに、感じる ことだと思います。私はそう思っています。 質問2 「人間的(ヒューマン)という言葉が今日何度も出 てきたが、ダンスと人間的であることの関係につい て、感じていることを教えて下さい」 私のダンス、さまざまな経験や旅は、自分の一 部になっています。『フェンスタープッツァー』 で小さい頃の写真を見せるシーンは、このことを 象徴しています。あるいは『アーネン』のワンシ ーン。私はサボテンに囲まれて、自分の顔に口紅 で大きなハートを描いています。当時は、ちょう どヴッパタールに来たばかりで、私は恋に落ちた ところでした。恋の喜びと不安を感じていた時期 で、ピナからは「愛とは」という質問をされまし た。その答えとして生まれたのがこのシーンです。 舞台で私は観客に向かって座って、顔に描かれる 口紅の感触を感じていました。そうしたことが人 間としての経験を深めてくれるのです。 質問3 96 「自分が印象に残っているジュリーさんのシーン は、『過去と現在と未来の子供たちへ』で蝙蝠の挿 話が語られるシーン、『二人だけ』でのチアガール のシーン、『スイートマンボ』で都市の名前を連呼 するシーン。これらのシーンが生まれた背景を教え て下さい」 まずチアガールのシーンは、ニューオリンズの 思い出から来ています。そのころ、私はチアリー ダーでした。『二人だけ』はアメリカ西海岸の 4 大学と共同制作で、当時自分は舞踊団で唯一のア メリカ人でした。ピナから「アメリカ」という質 問を受けて、アメリカ的スピリットの表現として 考えたのが、スポーツとの関係、スポーツの熱狂 でした。そこで自分の個人的記憶にあるチアをダ ンスで表現しました。この熱狂と『パレルモ』の 雄牛のダンスシーンは共通したところがあると 自分では感じています。 『過去と現在と…』での、ルーツがアメランディ アンの物語を語るシーン、ネズミが木を上って蝙 蝠になるという話です。ルーツの台詞と私の動き が結び付きますが、別々に作ったものを後から結 び付けました。そのときのピナからの質問は「過 去現在未来の子供たちへ」。 『スイートマンボ』では、世界の都市を自由にめ ぐりたいと思っていて、いろいろな国でいろいろ な人に出会うことが好きな私に、ピナが「好きな 国の名前を呼んでみたら?」と言ってきたのがき っかけです。質問は正確に覚えていませんが、 「幸 せなエネルギーをその空間に作り出す」と言った ことだったと思います。 質問4 「あなたにとって、他者の存在はダンスの必要条件 でしょうか?」 違います。誰も見ていなくても、一人で踊るこ とがあります。他者が存在しなくてもダンスは成 り立つし、他者の存在を前提としないダンスは、 一種の誠実さと共にあると思います。 「その時のダンスは、何かの表現(再現)ではない のですか?」 ダンスはその時の自分自身の真実です。ダンス はパターンを作ったり、何かを見せると言うこと ではなくて、自分自身であることを見せることな のです。準備も振付もあるけれど、私が何かパー フェクトなものを見せるということは、私自身を 見せることです。 (岡見さえ) 97 舞踊公演数調査 舞踊上演数の推移 副島 研究課題「コンテンポラリーダンスの美学と社 会的制度の研究」のうち、 「社会的制度」のあり方 を考察するための一助として、 わが国、 ならびに、 欧米主要国における舞踊公演数を推計するもとと なりうるデータを収集した。 博彦、貫 あらゆる種類の舞踊公演数の推移を、国別に集計 した。 集計結果(首都圏) 前回の科学研究費調査において示されたよう に、わが国の舞踊公演数は、調査対象の初年度で ある 1984 年から、一貫して増加し、とりわけコ ンテンポラリーダンスは、80 年代には年間 20 公 演足らずであったものが、90 年代に入って急増し、 2005 年には、直近のピークとなり、ジャンル別 でも、それまでつねに一位を保っていたクラシッ クバレエ公演数を凌駕した(表 1) 。 今回の調査では、その後の公演数推移を調査し、 次のことがあきらかになった(表 2) 。 第一に、ピークを打ったかに見えた 2005 年以 降、首都圏におけるコンテンポラリーダンス公演 数は、 いったん2007 年には微減したものの、 2008 年以降はふたたび増勢に転じ、2011 年まで一貫 して増加を続け、2005 年の 140%におよぶ。 第二に、コンテンポラリーダンス公演数の、首 都圏におけるその傾向は、全国規模でみてもかわ らない。 第三に、首都圏においても、全国においても、 全ジャンル舞踊公演総数は、2005 年以降、むし ろ一貫して減少している。 以上の三点をあわせみれば、コンテンポラリー ダンスの、首都圏、全国における一貫した公演数 増加は、じゅうぶん、注目に値する現象であると 言える。 基礎資料 現在でもなおコンテンポラリーダンスの主要 な作家たちが活動する欧州の事情については、舞 踊 専 門 の 月 刊 誌 《 TANZ 》( Theaterverlag Friedrich Berlin 刊、2010 年から現行の誌名に変 更)に毎月掲載される、主に欧州の舞踊公演日程 (バレエやモダンダンスなども含む) を基にした。 わが国の事情については、週刊『オン☆ステー ジ新聞』紙に月に一度掲載される「マンスリー・ スケジュール」を基礎データとして用いた。 分析手法 わが国の事情に関しては、コンテンポラリーダ ンス公演だけを取り出した集計と、コンテンポラ リーダンスならびに、バレエや日本舞踊など、あ らゆるジャンルの舞踊公演数に関する集計をおこ なった。また、公演された場所に応じて、首都圏 (東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県、茨城県、 群馬県、 栃木県の一都六県に山梨県を加えた地域) でおこなわれたものと、それ以外とを区別して集 計した。 欧州の事情については、公演のジャンル分類は おこなわず、 バレエやモダンダンスなどをも含む、 (表1:80 年代、90 年代、0 年代のコンテンポラリーダンス、舞踊公演数) 年 首都圏 全国 成人 1984 1991 2000 2005 コンテンポラリーダンス 18 80 370 411 総計 1080 1209 1757 1658 コンテンポラリーダンス 18 94 423 496 総計 1532 1531 2369 2252 101 (表 2、2005 年から 2011 年にいたる公演数推移) 年 首都圏 全国 2005 2007 2008 2009 2010 2011 コンテンポラリーダンス 411 408 433 545 527 578 総計 1658 1636 1531 1580 1597 1534 コンテンポラリーダンス 496 620 604 641 総計 2252 2108 2132 1878 集計結果(欧州) 人口比の舞踊総公演数に関しては大差がないこと がわかる。 ただし、一見して明らかなように、国別の公演 数で見ると、ドイツにおけるそれが他を圧倒し、 バレエやコンテンポラリーダンスが盛んにおこな われていると思われるフランスのそれすらをも凌 駕しているが、これは、 《TANZ》誌がベルリンで 発行されているものであり、ドイツの公演の掲載 情報が網羅的であるのに対して、それ以外の国々 の公演情報に関しては網羅的ではなく、国ごとに 収録範囲にばらつきがあるという事情を考慮しな ければならないだろう。 例えば、コンテンポラリー ダンスの有力なカンパニーが集っているベルギー の情報が充実しているのに対して、イタリアにつ いては、限られた都市の公演情報しか掲載されて いない。これには、ダンスに関する情報が、イタリ ア国内でも十分ネットワーク化されていないとい う事情もあずかっていると思われる。また、2000 年から 2003 年にかけての各国の公演数の飛躍的 な 増 加 に は 、 同 誌 が 、 2002 年 に 、 《 Balett International / Tanz Aktuell》から《Ballettanz》 と誌名を変え、編集方針の変更とともに公演情報 の収録範囲を拡大したことも部分的に起因してい ると思われる。 欧州における、国別の舞踊公演数を、1996 年 から 2005 年までの期間について調査した。以下 は、コンテンポラリーダンスなど、ジャンルごと の集計ではなく、クラシックバレエやモダンダン スなど、あらゆるジャンルの舞踊公演に関する数 字である。 その結果、 次のことがあきらかになった (表 3) 。 第一に、国によってバラツキはあるものの、少 なくとも舞踊公演総計においては、1996 年から 2005 年まで、ほぼ一貫して増加している。また、 その傾向は、ここに挙げた各国のそれぞれについ ても、多少のブレはあってもあてはまる。 第二に、年ごとに登場する国の数をみても、96 年から 2005 年まで、増加傾向にある。 第三に、たとえば 2005 年の首都圏舞踊総公演 数 1658 件と、同じ年のヨーロッパにおける公演 数 3 万 2000 件という数字だけを見ると、東京圏 におけるそれがヨーロッパの 20 分の一(5.1%) と、まったく乏しいものに見える。だが、東京都 市圏 3400 万、ヨーロッパの 7 億 4000 万という 人口比でみると、東京都市圏が 10 万人ごとに 4.8 件、ヨーロッパは、10 万人ごとに 4.3 件であり、 年 1996 1997 1998 1999 2000 2003 2004 2005 ベルギー 110 445 292 454 261 981 1058 1064 ドイツ 2235 6651 5392 5197 2275 7840 8138 7472 174 188 229 142 516 517 637 2580 1619 2038 773 2748 3461 4678 英国 546 1032 880 381 2294 2899 4063 イタリア 108 394 513 149 735 947 940 フィンランド フランス 748 総計 3327 12916 13880 14486 5814 25905 29786 31994 掲載国数 4 25 30 37 34 33 34 39 (表 3:欧州における国別舞踊公演数の推移) 102 映像資料テロップ 映像資料テロップ 研究集会「音楽とダンス」 1 実演 1:音楽もダンスもすべて即興。演奏者 やダンサーのあいだに事前打ち合わせは一切な い。演奏:松本じろ、石渕聡、ダンサー:近藤 良平、黒田育世。なお石渕と松本は初対面。音 楽とダンス、ダンサー同士が寄り添うか、 「すか す」かは自由。サンバなどに比べ、動きも音楽 も自由度が高い。 2 実演 2:ダンサーと演奏者をひとりずつとし、 両者の呼吸、会話をよりていねいにみる。前半 は、石渕の演奏に黒田のダンス、後半は、松本 の演奏と近藤。演奏者とダンサーがおたがいに きっかけをだしあっている。 3 実演 3:同じ曲でも男女のダンサーでなにが 変わるか。はじめは女性主導、後半は男性主導。 曲と動きをあえてずらすこともある。 4 実演 4:聴衆から「お題」「楽器指定」をい ただき、それに沿って即興作品をつくる。前半 のお題は「トロピカル。ジャンベをつかって」、 後半は「ラーメン」。 5 実演 5:最後の即興セッション。近藤が手を 挙げたら終わり、ということだけが決めてある。 から 22 番」など、すべてに細かい理由がある。 振付家と照明家の腹の探り合い。 5 実演 4:打合せの上で作られた作品(ダンサ ー:田上)。ホリゾントは白に。照明でなにか面 白いことができるかに主眼を置いた作品。ダン サーがいないけど、ダンスがある「影絵」シー ンなど。 6 実演 5:坂本、近藤、田上の即興。ダンサー は曲もはじめて聞く。 研究集会「照明とダンス」 1 坂本明浩(照明家)による実演レクチャー 2 実演 1:黒い衣装、黒幕、無音。照明は、薄 いブルー(201)など、「生の」(白っぽい)光 だけ。ダンサー(近藤良平)の即興の動きに、 照明家(坂本)は同時進行で照明をつける。オ ペレーション室にいても、ダンサーと照明家で アイコンタクトはできる」。 3 実演2:照明に色をいれ、音も入れる。下 手と上手にブルーとアンバーを入れただけでど れほど違って見えるか。衣装は、色のあんばい がよくわかるグレーにかえる。 4 実演3:振付家(近藤)と照明家(坂本) による「明かり作り」風景。通常、曲やシーン はすでに決まり、また、照明家はインカムでオ ペレーションルームと交信するが、今回は、す べて即興で、照明家もマイクを使用。ダンサー がいるとなにがおこるかをチェックする。ダン サー:田上和佳奈。 「もうちょっと顔を見せたい 104
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