7号(2009年度後期) [PDF:4191KB]

日本 語 日本 文 イヒ研 修 留 学 生 ・協 定 草 生
研 修」
成 果 幸臥告 昔
a
ロ
第 7号
(
2009年.
度後 朔)
はじめに
日本語日本文化研修留学生・協定学生研修成果報告書は、本書をもって7号となります。
この6~7年間の留学生の受け入れを振り返りますと、海外の姉妹校が増え、交換留学生
が増加するのに平行して、短期留学生のホームルーム、短期留学生の研究発表会、日本語
プレテストの年2回の実施などが進められてきましたが、概ね軌道に乗っていると思われ
ます。教職員向けの留学生受け入れ・指導ガイドブック、最初の「はじめの一歩」という
新入生向けガイドブック、そして本報告書も毎年発行し、メールを使った指導教員と留学
生担当教員との連絡、連携もここ数年続いており、概ね形が出来てきたと思います。
この報告書は、学部生、大学院生、研究生など色々な形態の留学生がいる中でも短期の
留学生(つまり日本語日本文化研修留学生、協定学生、教員研究留学生、国費研究生)の
日本での研究と体験の報告を目的としています。本報告書は
http://www.fukuoka-edu.ac.jp/lifelongstudy/04.html
のページで、世界にむけて発信されています。
本報告書では前半に、学内外の方を多数お呼びして 2 月 21 日に行われた平成 21 年度後
期「福岡教育大学日本語日本文化研修留学生・協定留学生研究発表会」の発表内容を掲
載します。今回発表したのは、上記のうちコース修了を迎えた協定学生 7 名と教員研修留
学生 2 名でした。後輩の留学生も司会、時計係などで仕事をこなし、1年間ともに研修し
てきた仲間達で作り上げたものでした。この発表会のあとに、指導教員と留学生担当教員
による、協定学生の「コース修了認定会議」も行われましたが、協定学生の発表者 7 名は
無事に認定されました。そして、このあとランチパーディーが開催されました。
本報告書の後半では、「日本理解特別プログラム」の活動を通して、留学生達がどのよう
な体験をしていったかを振り返ります。学内の多彩な教員を講師として日本を多面的に学
ぶとともに、後期では、大宰府政庁跡、九州国立博物館、赤間宿など福岡県内の見学の他、
一泊で沖縄研修旅行を行いましたので、ここにご報告します。これらには、短期留学生に
限らず学部生、研究生も参加しております。感想文とレポートの一部を引用して、留学生
が体験をしたことを共有したいと思います。
本年度も留学生達が地域で多くの方々と関わることができて、留学生たちの成長にとっ
て大きな体験となったと思います。指導教員、各種授業ご担当の先生方、事務職員の皆さ
ん、各種ボランティア団体をはじめとする地域の皆様方のご支援に、心より御礼申し上げ
ます。
日本語日本事情担当教員
留学生専門教育教員
坪内佐智世
飯田史也
中村俊哉
日本語日本文化研修留学生・協定学生研修成果報告書第7号(2009 年度後期)
A
目次
2月27日の発表会の記録
以下、発表者、題名、指導教員、国名(協定学生の場合は原籍大学)
、分類の順で記載
1 セニロシ・ロゴヤワ・サブイ Sabui,Senirosi,Rogoyawa 「現代アート
と民族的なフィジーアートの融合についての研究--日本の美術教育と
フィジーの美術教育の統合」
2
金銀珠(キム・ウンジュ)
阿部 守
フィジー 教員研修生
「日本のコミュニティスクール体験」
ハヤシザキカズヒコ
3
金永恩(キム
1-3
韓国
ヨンウン)「<私たちの幸せな時間>
協定学生
4-7
‐大切な出会い、
新しい未来をくれた読谷での暖かい冬-」
船津
4
ラスティコ
ロルダン
マグナイ
建
バネズ
韓国
協定学生
8-11
「日本とフィリピンにおける
情報通信技術(ICT)を利用した教育に関する研究」
天野真二 フィリピン 教員研修生
12-15
5 李 京恩(イギョンウン) 「宝 塚 を 知 っ て い ま す か ? 」
小林知子
6
鄭
韓国
金
志勳(キムジフン)
キム
ソヒ
協定学生
20-23
理江
韓国
協定学生
24-27
「科学イベント体験」
秋永
B
韓国
「日本の平和教育」
江頭
8
16-19
載喜(ジョンジェヒ)「平和の島、沖縄」
天野真二
7
協定学生
正廣
韓国
協定学生
28-31
日本理解特別プログラム09後期および写真
09年10月~10年3月
33-38
C
沖縄研修旅行の感想とレポートの一部
39-48
D
授業内容
49
E
コース内容
50
「現代アートと民族的なフィジーアートの融合についての研究--日本の美術教育とフィジー
の美術教育の統合」
Sabui,Senirosi,Rogoyawa
こくめい
国名: フィジー
し ど う きょういん
あ
べ
まもる
指導教員: 阿部 守
はじめに
フィジーの学 校 教 育 において美 術 の授 業 は存 在 しない。また、大 学 や教 員 養 成 所 で
も適 切 な美 術 教 育 の指 導 はなかった。私 は美 術 を専 門 に学 んだ教 員 ではないが、美 術
教 育 に強 い関 心 がある。何 故 なら、美 術 は子 供 の創 造 力 ・想 像 力 ・自 ら考 える力 とその
ことから発 生 する自 信 を育 てることができるからである。このことは、子 供 たちが美 術 によっ
てフィジーの文 化 ・自 然 ・社 会 を理 解 することにつながり、よりよいフィジーをつくる次 世 代
を養 成 することの手 助 けとなる可 能 性 を秘 めているからである。しかし、フィジーではほと
んどの教 師 が本 来 美 術 で教 えるべき表 現 に関 する指 導 をせず、技 術 だけを教 えてい
る。
来 日 後 、日 本 の美 術 教 育 を学 びまた、学 校 訪 問 などを通 して、美 術 教 育 に必 要 なこ
とは「何 を作 るか」「それをどのように表 現 するか」「イメージに基 づき、どのような方 法 で作
り上 げるか」等 を考 えることが重 要 であることを学 んだ。日 本 の美 術 教 育 の素 晴 らしい点
は子 供 たちが自 らの考 えに基 づいて、作 品 制 作 ができるように教 師 は作 品 の作 り方 の
大 まかな流 れだけを子 供 たちに説 明 する点 である。しかし、フィジーでは、教 師 が一 方 的
にどう作 るべきか教 え込 む。日 本 の美 術 教 育 の在 り方 は、子 供 たちが主 体 となり、自 ら
が気 づく機 会 や制 作 プロセスを考 える機 会 、さらに教 師 から作 品 を褒 められたりする機
会 を充 分 に行 うことで、子 供 たちの育 つ能 力 を高 めるよう指 導 している。以 上 のような子
供 主 体 の美 術 教 育 有 効 性 とその培 ってきた伝 統 に感 銘 を受 けた。
「立 体 として造 る」
この授 業 体 験 では、宗 像 沖 の大
島 に行 き、海 岸 の漂 着 物 を拾 い集
めることから、与 えらたテーマに沿 っ
て制 作 を進 めるという制 作 である。
その場 のモノを素 材 とし、その場 の
印 象 からオブジェを造 る。これと同
様 、フィジーは流 木 や美 しい貝 殻 、
岩 、砂 がある。これを応 用 して、子
供 たちに授 業 ができると考 えた。日
常 生 活 で使 うハンガー、木 の枕 、椅
子 やテーブルなどを作 る課 題 をさせ
たい。この授 業 の目 的 は、自 分 たちの環 境 を気 づかせること・養 うことにある。子 供 たちの
創 造 性 やイメージする力 、環 境 を正 しく理 解 する能 力 、そこから子 供 たちとその家 族 が
作 品 を通 して自 然 から得 た創 造 物 を共 有 できる、ということを気 づかせる点 に魅 力 がある
題 材 である。
「版 として造 る」
この授 業 体 験 から版 による制 作 を知 った。木 彫 はフィジーで唯 一 広 く実 践 されている
技 術 であるが、板 を彫 り、それにインクをつけて紙 に押 し当 て、絵 を写 し出 す“木 版 画 ”の
技 法 は存 在 しない。彫 刻 刀 、板 、ローラー、水 彩 絵 の具 、紙 等 を用 いて制 作 する。最 初
に板 に何 を描 くかをイメージする。次 に板 の上 を丁 寧 に彫 り進 める。板 の上 に水 彩 絵 の
具 をローラーでつけ、これを紙 の上 に刷 った。今 回 は彫 り進 めつつ、色 を変 えて同 じ紙 の
上 に刷 ることで複 数 の色 が出 る版 画 を制 作 した。これを「彫 り進 み版 画 」という。この内
容 をフィジーの学 校 で応 用 する場 合 、木 製 の箱 やフィジーの紙 等 をモチーフに、フィジ
ーの伝 統 的 な模 様 を版 画 としたい。
題 材 としてはフィジーの海 、浜 辺 、村 、夕 焼 けをイメージして版 画 とする。この授 業 の目
的 は、伝 統 的 な模 様 のデザインの意 味 を気 づかせることであり、後 世 に伝 えていくこと、
次 に、美 しい環 境 を正 しく理 解 させること、最 後 に、環 境 問 題 を考 えるきっかけをつくるこ
とにある。日 常 生 活 の中 で鑑 賞 することができるので、子 供 たち以 外 の人 にもフィジーデ
ザインの意 識 を広 めることができる。
「リサイクルとして造 る」
この授 業 体 験 は、段 ボール紙 、古 新 聞 、水 彩 絵 の具 、トイレットペーパーを用 いて展
開 するものである。廃 品 となった紙 と段 ボール紙 を素 材 として作 品 化 するという題 材 であ
る。フィジーで授 業 として取 り入 れるならば、空 のペットボトルを使 い、花 やランプシェイド、
傘 や花 瓶 を子 供 たちにつくらせたい。授 業 の主 眼 は美 しい美 術 作 品 をつくることにより、
子 供 たちにリサイクルを考 えさせることである。フィジーでのゴミのポイ捨 てを見 直 させ、創
造 力 をつけさせるだけでなく、子 供 たちに環 境 を大 切 にする点 に目 を向 けさせることを目
的 とする。
結び
日 本 における1年 間 の研 修 により、私 は美 術 教 育 の技 術 習 得 だけでなく、より広 い意
味 で美 術 を考 察 することを学 んだ。ただ技 法 を学 んだり教 えたりするだけではない美 術
教 育 は、「創 造 力 」「自 らで創 造 する自 信 」「環 境 や場 を理 解 する力 」「手 先 のみならず、
体 を使 った表 現 の開 発 」等 の子 どもの成 長 にとって重 要 な要 素 を伸 ばす領 域 であること
を学 んだ。さらに自 国 の文 化 ・習 慣 ・社 会 を子 供 たちに理 解 させることもできる。
フィジーの恵 まれた自 然 を活 かした教 材 作 りを通 じて創 造 力 豊 かな子 どもたちを育 てる
実 践 を帰 国 して行 いたいと考 える。
参考文献
・美 術 資 料
秀学社
編 集 :筑 後 地 区 美 術 教 育 研 究 会
日本のコミュニティスクール体験
金銀珠
韓国
指導教員 ハヤシザキカズヒコ
Ⅰ.はじめに
コミュニティ・スクールは、保護者や地域住民の声を学校運営に直接反映させ、保護者・
図1.コミュニティスクールのイメージ(文部科学省,2004)
地域・学校・教育委員会が
一体となってより良い学
校を作り上げていくこと
を目指すものである(文部
科学省、2004)。これは地
域社会と学校は無関係で
はなく、地域住民たちが学
校を“私たちの学校”と思
い、学校をよりよくしよう
とし、学校も地域住民は一
緒に子育てをしてくれる
パートナーと認識し、学校
単体ではなく地域に開かれた学校という事である。この時、地域社会学校はこれらの有機
的な協力を可能にする重点となる。地域社会学校は学生と地域の住民, ひいては地域社会全
体の欲求を満足させ、その地域社会の問題を解決するために中心的な役割を担うという意
義がある。ここでは日本の代表的なコミュニティスクールである金川小学校の事例を見な
がら、これからの課題について考えていく。
Ⅱ.コミュニティスクールの事例(金川小学校)
1.金川小学校の状況
福岡県にある 金川所小学校は明治7年から始まった。現在は教職員32名、児童数362名がい
る小規模な学校である。金川校区では、小学校、中学校、1小、1中だ。両方にまたがっ
て子どものいる家庭も多い。小学校から中学校へ上がった段階でのギャップや、成績が急
激に落ちるといった事態を回避するために、先生たちが小中で連携を取り合い、子どもた
ちの育ちを6歳から15歳までと長い期間で継続して見ている。この小学校は校内研究主題
として「生きる力を育む、学校・家庭・地域
写真1.午前発表の中で小・中連携発表
の協働による教育の総合化」 を追い求めてい
る。金川小学校では この目標を果たすために
学校・家庭・地域の協働体制を作って活動を
行っている。ここで 「協働」とは、学校・家
庭・地域が共に取り組む教育活動のことであ
る。学校内外の人々がともに集い、共通の課
題に力を合わせて取り組む活動のことを指す。
具体的に金川小学校では学校と保護者や地域
の人々の力で協同教育活動が展開され始めて
現在に至るまでに、さまざまな形態で協同が
成り立っている。これはPTA 活動だけにとどまらず,「学習応援団」と言う形態で学習や教
室に入って, 学校教育に関わっていくものもある. また, 金川のPTAは地域社会の公民館,
そして中学校PTAとの提携も活発である。他にも地域住民たちを1日教師として招待して学
校の一員として接する機会をたくさん提供している。地域との持続的な提携を通じて子ど
も達の情緒的な安定のみでなく学力向上という結果も表れた。今回は地域との協働の一つ
のシンボルとして祭り金川を詳しく述べた。
2.まつり金川体験
金川小学校は 1年に一回、子どもたちが地域の住民たちとともにする祭りがある。この祭
りは世代間・域間を越えて地域の人々が誰でも住みよいふるさと金川を目指して取り組ん
でいる。私が実際に参観したのは平成 21年11月8日(日)だった。午前には発表の授業参観が
あり,午後から本格的な祭りが始まる。学生たちが発表の授業参観をしているうちに, 地域
住民は校庭で地域ごとに多くのコーナーを準備する。金川祭りの特徴は,子どもたちが主導
的に祭りを作る主体性を持っているという点である。祭りのガイドの役目をする‘金川マッ
プ’は子どもたちが直接コンピューターを使って製作し, 祭り当日配付された。地域の産業
を広報する PR 指導を中心に,産業を担当する地域住民の姿と作物たちを広報している。こ
の過程で子どもたちは地域の住民たちと交流し、情報を収集して, 地域の地理を把握するこ
とができるようになる。これはすなわち金川住民たちと子どもたちの人的ネットワークを
構成する基盤となる。午前中に体育館で進行されるプログラムには, 中学生たちの発表も含
まれている。小学生たちと中学生たちの交流を通じて教育の連繋性・連繋性を追い求めて
いる。また,子どもたちの交流を通じてお互いに顔が分かるようになると, 親しさを感じる
などの情緒的な側面においても役立つ。この日小学校高学年の児童たちが一緒に合唱をし
て,後に中学校 1,2年生の生徒たちが合唱をした。
午後に進行される2部では,運動場がステージとして活用される。さまざまな食べ物を売る
店があり、児童・生徒たちと住民たちが自由に利用することができる。 各店の前に付いて
いる広報物は全部子どもたちの作品である。大人たちが店を準備する比重が多いが, 子ども
写真2.午後のお店の姿。学生たちが作った値段表と,
たちも直接参加することができる機会を
参加団体の説明が見える。
作ったのだ。価格は単純に 50円, 100円な
どきりが良い金額ではなく 140円, 270円
等端数が出るような金額にしている。これ
は子どもたちの社会経済観念の学習のた
めの思いやりだ。子どもたちは品物を買い
ながらお釣りと品物の価格を計算して、数
字概念を得ることができる。そして店で品
物の価格を決める時には最小限の利潤の
みが出る程度に設定する。各ブースごとに
高学年の児童たちが直接住民たちととも
に店の運営をすることも特徴だ。一緒に仕事をしながら対話を通じて親しみを高めること
ができ, 交流が生まれる。一方これを通じて低学年の子どもたちは、主にしたいことを自由
にしながら楽しむように気配りしている。特別支援教育を受けている児童たちも物作りブ
ースを運営していた。児童たちが直接に物を売るのに, このために一度に一つだけ暮すこと
ができるというルールがある。各ブースの前には地域のどんな団体がどんな店を運営して
いるかについての情報が掲示されている。だから参加者たちは地域にどんな団体があるか
についても知ることができる。
運動場には立って食べ物を食べることができるテーブルが用意されていて, 横にはゴミ
箱がある。その結果、祭りが終わった後にはきれいな姿だった。子どもたちがきれいな祭
りを作ろうと宣伝している手作りの車を両手でひきながら校庭を歩き回った效果もあると
考えられる。店が運営と並行して舞台では住民たちと子どもたちによって多様な公演が進
行され, 住民たちが自由に見られるようになっていた。通常の学校の祭りとは違い、自ら祭
りを楽しむようにと構成された点が珍しかった。同時に体育館では総合的学習時間に勉強
した内容, 中学生たちの職業体験ポスター, 近く幼稚園児たちの作品が展示されていた。地
域団体の住民たちから伝統的なおもちゃを作る方法を学んだり, 本を読むこともできる。中
央舞台ではバナナを食べてソーダを飲む早食いゲームが進行されたが, 進行者が即席して
参加する人々の名前を正確に名を呼んで, 話し合ったりした。一時的, 短期的に地域のネッ
トワークが形成されたのではなく持続的に日常の中で形成されているということをよく感
じることができる光景だった。舞台行事の終わりは中学生たちの伝統楽器の公演で終わっ
た。祭りが終わって掃除及び整理が終わるまで地域住民たちが自発的にお互いに助ける姿
を見られた。
Ⅲ.コミュニティスクールの意義と課題
上で見てきたように, 地域社会学校の意義は現代社会のコミュニケーション不足と閉鎖
的な傾向を解消することができるピントの役目が大きいと言える。このようなコミュニテ
ィスクールの発展のためには, 二つの課題がある。一つは地域との協力が持続的に成り立た
なければならない。一回きりの連結型ではない協力型のネットワークが必要な理由もこの
ためである。そして、その実践を評価してフィードバックすることで学力向上の土壌(ベー
ス)を作るという点がポイントである。志水宏吉は学力を「学力の樹」に比喩した。それに
よれば学力は知識である葉,思考力と判断力である幹,関心と態度である根で構成されてい
る(志水宏吉、2005)。ここで土壌は学校だけではなく地域コミュニティと家庭など子どもを
取り囲んでいる教育生活環境を含む。土壌の貧弱な根は水と養分(知識)を吸収しにくい。
次の課題は地域だけでなく、根本的な単位である家庭との親密な関係の維持である。だ
から地域社会学校は基本単位である家庭や保護者にも目を向けるのが大事である。地域で
疏外された家庭に対しては教師らが家庭訪問を持続的に実施して学校を親しみに感じるよ
うにしなければならない。金川では就学前の調査を根拠して、その結果を保護者に報告す
る席を用意している。 そして家庭で子どもたちを育てられるように情報提供の役割も大切
である。これらを通じてコミュニティスクールが‘力がある学校’として移行することがで
きるようになる。
■参考資料■
高田一宏 編著(2008)、『コミュニティ教育学への招待』、解放出版社
志水宏吉(2005)、『学力を育てる』、岩波新書
志水宏吉、2007、「金川小学校が力のある学校となったのはなぜか」教育研究開発センター(http://benesse.jp/berd/center/open/b
erd/backnumber/2007_08/fea_kanekawa_04.html 2010/2/14)
志水宏吉、2006、「学力を育てる:学校・家庭・地域の役割」愛知県教員組合(http://www.atu.ne.jp/c3/10.html 2010/2/14)
金川小学校、年度不明、(http://kyouiku.joho.tagawa.fukuoka.jp/HPKNGS01/index.html
2010/2/14)
金子・鈴木・渋谷、2005、「コミュニティ・スクール構想」VCOM(http://www.cmr.sfc.keio.ac.jp/cs/cs-top.htm 2010/2/14)
文部科学省、2004、「生涯学習・学校教育」(http://www.mext.go.jp/ 2010/2/14)
<私 たちの幸 せな時 間 > ‐大 切 な出 会 い、新 しい未 来 をくれた読 谷 での暖 かい冬 -
金永恩(キム
ヨンウン)
韓国
指 導 教 員 :船 津 建
沖 縄 は日 本 で一 番 海 がきれいな所 、もしかすると世 界 でも何 番 目 か に 入 る く ら い の き れ い
な海に囲まれているところである。過去には‘苦しい歴史を秘めている南国の島’と
して知られていた沖縄が、今は「暖かくて気持ち良く泳げる海洋スポーツの天国」と
し て 注 目 さ れ て い る 。最 近 の 沖 縄 は 旅 行 ス ポ ッ ト と し て 日 本 の 若 者 た ち に は 人 気 だ が 、
まだまだ外国人特に韓国人にはそんなに人気が高くないようだ。私も普通に韓国で過
ごしていたら沖縄に行こうとは思わなかったかもしれない。でも偶然に(必然だった
か も し れ な い 。) 西 山 監 督 の 沖 縄 の 映 画 を 見 て 「 と に か く 行 こ う 。 ど ん な こ と が あ っ た
かを直接に自分の目で見て感じよう」と思って行くことにした。
沖縄は第二次世界大戦の時、米軍の上陸地点として焦土化された辛い歴史を持って
いる。過去の歴史は今も沖縄の住民たちを苦しめている。まだたくさんの米軍基地が
残っているとともにたくさんのひとたちがそれに反対していろんな活動をしている。
しかし私が皆に伝えたいのはその話だけではない。そういう辛さを胸に畳んでむしろ
誰よりも明るい笑顔で生きている沖縄の人、その人たちの思い出と幸せだった一ヶ月
間の時間について話したいのだ。沖縄にいる間私は、今まで全く知らなかったことに
ついて話してくれる人と出会った。そして今まで知っていたことと考えてきた自分の
価値観も変化させた気がする。長いと言えば長く、短いと言えばすごく短かった一ヶ
月 間 の 読 谷 で の 生 活 が 、今 ま で の 私 の 人 生 を 変 え た と も 言 え る 。 沖 縄 に 足 を 運 ん だ こ
とのない人に、出来れば小さなきっかけになれば思いながら読谷の紹介をしたいと思
う。
1.読谷のお気に入りスポット
読谷村は沖縄本島の南部にある。北には恩納村、東には沖縄市、南には嘉手納町が
位置している。読谷村から恩納村までの区間は地元の人達からも「沖縄本島で一番海
がきれいなところだよ。いい所に住んでいるね」とよく言われるほど町も海もきれい
である。読谷にある有名な陶芸村「やちむんの里」では、おおぜいの陶芸家たちが毎
日作品を作っている。それを見ると伝統を守ろうとしている意志が感じられるととも
に、沖縄の伝統楽器の三線を弾く公演などのイベントなどをしながら自分たちの伝統
を知らせるために頑張っている若い人達の努力にもあらためて感動させられる。それ
だけでなく、読谷には景色が美しく、ただ見るだけでも元気になる場所と、見るだけ
ではなく自分が参加して楽しめる体験施設もかなりある。
(1)残波岬(ざんぱみさき)
読谷で一番景色が良い所だと言われている残波
岬 。1945年 米 軍 が 残 波 岬 を 目 印 に 読 谷 海 岸 に 上 陸
した歴史もある。 磯釣りやダイビングのポイン
ト と し て も 有 名 な ス ポ ッ ト で 、晴 れ た 日 は 慶 良 間
列 島 な ど を 眺 望 で き る 。青 空 に 映 え る 白 い 灯 台 が
印象的だったが岸壁に波が砕ける荒々しい景観
も 素 晴 ら し い 。読 谷 に 着 い た 日 に 自 転 車 で 走 っ て
行ってみた。大きい灯台が真っ直ぐに見える絶壁に座って洋子さん(一ヶ月間お世話
になった知花昌一さんの奥さん)からもらったお菓子とみかんを食べながら、初めて
見た沖縄の海に感動した。
(2)万座毛(まんざもう)
隆起サンゴ礁の岩壁を、風雨が長い歳月をかけて浸食し造り上げた絶景の断崖。岬に
は芝生が敷かれた遊歩道があり、そこから東シナ海を一望できる。琉球国王.尚敬が
「万人を座らせるに足りる毛(毛とは草原のこと)」と讃えたのがこの名の由来だと
いう。万座毛には読谷に来て2週間くらいの時間が経って、正月の前に、ボランティ
アをしていた所から休みをもらって三日間、今帰仁までの自転車旅行をした時行って
見た。坂道を頑張って登って駐車場に着くと周りにはお土産屋がずらり。アロハシャ
ツから三線まで・・・潮風にさらされた三線を
買うのはどうかと思いつつ、駐車場から歩いて
すぐの遊歩道へ向かうと、草原が広がり、その
先 に は 東 シ ナ 海 の 水 平 線 が 見 え た 。2,3分 歩 く と 、
象に似た岩が見えるポイントに到着。遊歩道は
20分あれば十分見学できる。しかし時間に余
裕がある時に一人で来て何かを夢想したり本を
読んだりするには最高な場所だと思う。夕日のスポットとしてもおすすめだそうなの
でいつか夕日を見にもう一回来たいと思った(その時は一人じゃ寂しいな..!)。
( 3 ) 恨 之 碑 (ハ ン の ひ )
私が泊まった所のすぐ近くに西山監督の沖縄映画で初めて見た恨之碑があった。日本
の侵略戦争末期、沖縄に強制連行され、虐殺された元朝鮮人軍夫を追悼するために刻
まれたものである。
「恨」は、日本で言う「うらみ」とは異なる。相手に同じ苦しみを与える復讐によっ
て晴らされるものではない。心の底に刻まれた耐え難い苦痛の思いは、相手を諭し悔
い 改 め さ せ る こ と で自 らの名 誉 を回 復 し解 かれていく。レリ
ーフの製 作 者 、金 城 実 さんは「連 行 する日 本 兵 のゆがんだ顔
に恐 怖 心 を、連 行 される青 年 には、なにものにも動 じない人
間 の 尊 厳 を 表 現 し た」 と 語 っ て い る 。 碑 の 奥 の 方 に は 朝 鮮 人
達 の故 郷 の住 所 が書 き込 まれてある石 とその故 郷 から持 って
きた石 が置 いてあった。石 の中 で祖 父 の町 (父 の故 郷 )が書
いてある 石 を発 見 して祖 父 の 町 の人 の 中 でも 強 制 連 行 され 、
虐 殺 され た人 が いるか も しれ な いと 思 っ て悲 し くな っ た。「 さば
に くらぶ」の皆 と 一 緒 に恨 之 碑 の 横 に花 壇 を 作 った。今 ご ろの 沖 縄 は大 分 暖 か く なって きたので、
もしかすると私 達 が植 えた花 が咲 き始 めたかもしれない。悲 しい島 沖 縄 、そしてまだ終 わっていな
い戦 争 、それでも花 は美 しく咲 くと思 う。皆 の心 にも…
2.さばにくらぶ
(1)「さばにくらぶ」はどんなところ?
知 的 障 害 を持 っている読 谷 の仲 間 のために作 られた作 業 所 。20代 半 ばの7名 が集 まって生 活 し
ながら社 会 での自 立 のために生 活 訓 練 、作 業 訓 練 をする。知 花 さんは「日 本 で一 番 のんびりして
いる作 業 所 」を目 標 としてこの作 業 所 を作 った。
(2)さばにの友 達
○知 花 昌 一 さん…さばにくらぶの隊 長 。沖 縄 で一 番 有 名 な反 戦 平 和 運 動 家 であり皆 に尊 敬 さ
れている 。昌 一 さんの所 で暮 らした時 にはよ く分 か らなかったが 、インターネッ ト上 では 彼 の こと
が大 きく取 り上 げられておりとても驚 いた。それは、彼 にとっても意 外 なことであり、「お前 、素 晴
ら し い と こ ろ に 泊 っ て る ん だ ぞ ! 」と 言 われ たり も し た。 し か し 、 私 に と っ て は や は り い た ず ら と お
酒 が大 好 きな面 白 いおじさんである。
○スタッフのナベさんとクミさん…十 年 くらいアジアを回 り、現 在 は沖 縄 で暮 らしている 。地 元 の人
よ り沖 縄 の 人 のよ うに 見 える ナ ベさん の 夢 は 自 給 自 足 の 漁 師 に なる ことで ある 。今 も 自 分 の 畑
で栽 培 している パパイヤとしまらっき ょうで作 った料 理 を 自 画 自 賛 している 。また海 の 汚 染 を誰
よりも悲 しみ、海 の美 しさを教 えてくれた人 で、ダイビングの話 をしているときには目 がキラキラし
ている純 粋 なひとだ。寒 いところに行 きたく て北 海 道 を訪 れたが 、寒 さのあまり沖 縄 に逃 げ てき
てそのまま沖 縄 で暮 らしているクミさん。おおざっぱなナベさんの代 わりにてきぱきしている。
○デイビ ッ ド…ア メリ カ 人 の お父 さん と日 本 人 の お母 さん を 持 つ天 才 的 な 絵 の 才 能 をも つ人 。 最
近 の3年 間 で600枚 以 上 の作 品 を描 き、今 度 那 覇 で展 示 会 をする。
○未 来 世 (みきよ )… 人 との 出 会 い が 好 き で、動 物 に も 愛 情 を も って 接 する 人 。また朝 にな るとい
つも明 るい顔 で私 を起 こしてくれた昌 一 さんの天 使 。
○つばさ…握 手 が大 好 きで、初 対 面 の人 とは握 手 と通 じてコミュニケーションを図 ろうとする人 。
○ ノブ … 「さば に 」の 整 理 担 当 。 食 事 の 際 に は箸 の 数 が 合 わ な い とい らい ら し て し まう 。 車 の 鍵 の
管 理 にも厳 しく、場 所 にきちんと置 いておかないと怒 る。おかげで「さばに」はいつもきれい。
○さつき…レミオロメンのファン。でもそれ以 上 にナベさんの大 ファン。会 話 の中 でナベさんの話 題
になると楽 しそうに興 奮 する。
○ひろき …私 が 遅 刻 をする と遅 い!といっ て怒 る が、雨 が 降 ったときには 傘 をさしてくれ たり、ドア
の最 後 の確 認 をしたりするお兄 ちゃんみたいな人 。
○まさゆき…CMを覚 えるのが得 意 でひとりでそれをつぶやいている。その姿 を見 てみんなその日
のセール商 品 を知 ることができる。(例 :「今 日 は○○のすき焼 きセットがチョー安 い!」)
(3)さばにくらぶの一 日 のスケジュール
①日 記 のチェック…さばにであったことと家 であったことを記 入 して、スタッフと親 とがお互 いにコ
ミュニケーションを取 ることで、ひとりひとりの生 活 を把 握 する。例 えばデイビッドの場 合 には、
「今 日 はきちんと信 号 が青 の時 に渡 りました。」など。
②体 温 と体 重 を測 る…自 分 自 身 の体 の 状 態 を自 ら説 明 できな いので、毎 日 体 の 変 化 を 確 実
に記 録 して風 邪 などを予 防 する。
③朝 の会 …ホワイトボートに曜 日 と天 気 を記 入 して読 む。また1日 の自 分 の予 定 を発 表 する。
④掃 除 …すっきりした気 分 で1日 を始 めるために机 の回 りを片 付 ける。
⑤自 由 時 間 …朝 の ミーテ ィ ン グで発 表 し た自 分 が や りたい こ とを する 。だ い たいの 友 達 は 絵 を
描 くことが好 きだが、本 を読 んだり音 楽 を聞 いたりする人 もいる。
⑥昼 食 …時 間 になると給 食 を取 りに行 き、皆 で配 り後 の片 付 けももちろん自 分 でする。
⑦作 業 …木 材 を使 って引 き出 しあるいは椅 子 を作 る。完 成 したものはフリーマーケットで売 った
り も す る が 、や は り お 金 よ りは 自 分 が 何 か を 作 れ る と い う達 成 感 を 得 る こ と が 重 要 。草 刈 り の
草 を近 所 のヤギにやり、週 一 回 さばにの畑 に行 ってジャガイモとサトウキビなどを栽 培 する。
⑧帰 りの会 …4時 になると一 日 の反 省 をする。朝 に決 めた予 定 について振 り返 って発 表 する。
⑨その他 の活 動 …金 曜 日 には給 食 を取 らずに、皆 で話 し合 って作 りたい料 理 を作 って食 べた
り、お弁 当 を買 って外 に出 かけたりする。
沖 縄 病 という言 葉 がある。一 回 来 てみた人 が沖 縄 のことを忘 れられなくて、二 回 も三 回 も来 るよ
うになる。それで新 しい人 生 を生 きるために引 っ越 ししてくる人 も多 いが、夢 が現 実 になるとやはり
現 実 は 現 実 、が っ か り す る こ と も あ る。 青 色 の 海 だ けが 沖 縄 の 全 て で は な い 。 見 た目 は 平 和 であ
るように見 え るが中 には深 い悲 しさを持 っている島 である。歴 史 的 にも 今 もずっと差 別 され冷 遇 さ
れ ている 島 。沖 縄 は 日 本 だけど日 本 ではない所 である。でも 私 は そん な沖 縄 が好 き だ 。今 までど
こでも会 ったことがない、私 自 身 を反 省 させてくれる純 粋 なさばにの友 達 がいる沖 縄 。過 去 の苦 し
かった歴 史 の話 をしながら一 緒 に泣 いた一 方 で、お酒 を飲 みながら思 い切 り笑 って楽 しんだ友
達 がいる沖 縄 。何 年 か後 いつかまた会 っても、ずっと一 緒 にいたと感 じさせる沖 縄 。東 洋 のハワイ
と呼 ばれる沖 縄 の 海 の色 彩 は 豊 かで魅 力 的 である。その美 しさと温 か さによ って沖 縄 の悲 しさが
いっそう濃 く、いっそう深 く感 じられるのかもしれない。
日本とフィリピンにおける情報通信技術(ICT)を利用した教育に関する研究
ラスティコ
ロルダン
マグナイ
バネズ
(フィリピン)
指導教員:
天野真二
はじめに
教育機関はスキルの発展と育成における情報通信技術(ICT)カリキュラムの役割を認
識している。情報通信技術(ICT)とは,情報を収集したり,記憶したり,編集する等,さ
まざまな形で情報を動かしている技術を指す総称的な用語である。この情報通信技術(ICT)
は学生の学習経験を増幅させるため,教育の質向上につながる。
本研究は,フィリピン・日本の両国間の比較をとおして,学校における ICT 活用と教師
の ICT 活用能力について,研究するものである。
問題提起
1.
回答者である教師は,年齢,性別,ICT セミナーや研修への参加の点から
どのように捉えられるか
2.
ICT 機器の利用可能性はどの程度であるか
3. スキル,経験,ICT 機器の使用の点における教師の ICT 使用頻度はどれくらいか
研究の枠組み
関連研究を調査し,次のように方法論を概念化した。
独立変数
教師の特性
年齢
従属変数
機 器 の利 用 における教 師
のスキル,経験,ICT
性別
ICT セミナー参加率
教育での ICT の利用
IICT 機器の利用可能性
上に説明されている研究の枠組みが示すのは,スキル,経験,ICT 機器の利用の観点によ
る教育における教師の特性と ICT 機器活用能力の効果である。
仮説
教師の人物像と ICT 機器活用能力は,教師が教育においてどのように情報通信技術(ICT)
を運用するかをはっきりと予測する。
研究の対象
=100
=69
フィリピン人教師 100 人と日本人教師69人からの回答をもとに調査を行った。
データの提示
・フィリピン人教師は日本人教師の回答者に比べ,年齢層が高い。
・回答者である日本人教師の 71%は男性であったのに対し,フィリピン人教師の 86%は
女性であった。
・フィリピン・日本人教師の両回答者それぞれ ICT セミナーや研修へ参加したことのない
割合が 47%,49%と高く ICT セミナーや研修に 5 回は参加したことのある教師回答者は
一番低く 4%のみであった。
・ICT のスキルに関する指標である5つの質問において ,フィリピンでは A2 が 47%と最
も高い割合であったのに対し,日本では A1 が最も高い 37%であった。
・ICT の経験に関する指標である 10 の質問においてフィリピンでは B9 が 76%と最も高い割
合であったのに対し,日本では B8 が最も高い 78%であった。
・ICT の運用に関する指標である 5 つの質問において,日本では C1 が 97%と最も高い割合
であったのに対し,フィリピンでは C4 が最も高い 75%であった。
結論
1.性別とICTセミナー参加の関係
フィリピンでは女性教師より男性教師のほうがより多くICTセミナーに参加している
のに対し,日本では逆に女性教師のほうが男性教師と比較してより多く参加している。
2.年齢と ICTセミナー参加の関係
日本では若い教師ほどICTセミナーに参加することが少ない傾向を示しているが,
フィリピンでは年齢とセミナー参加との関連はほとんどない。
3.ICT設備を利用した指導能力と国の違い
国別に質問A1(ICT設備を利用した指導能力)の回答を集計した結果をカイ自乗検
定(Chi square test)にかけたところ,回答分布に5%水準で優位な違いがみられた
(カイ自乗=9.5768df=4)。
4.セミナー参加回数とICT能力
質問A1(ICT設備を利用した指導能力)と質問A2(ICT設備を利用した児童・
生徒の成績評価能力)との2つの質問項目と,ICTセミナー参加回数との関連を調べた
ところ,下の表のようにいずれの能力についても,能力の高い者ほどセミナーに多く参加
している傾向が見られた。
ICT セミナーや研修への参加頻度
教師の能力
A1
A2
極めて良い
3.0
2.4
とても良い
1.3
1.39
良い
1.13
0.79
普通
1.02
1.06
良くない
0.6
0.64
統計的な結論に基づき,フィリピンと日本において,教師の人物像が彼ら教師の教育へ
の ICT 運用における大きな影響が示された。したがって,教師の人物像と ICT 機器の利用
可能性が教師の教育においてどのように情報通信技術(ICT)運用するかをはっきりと予測
するものであるという仮説は部分的に立証された。
見学
右から西先生(教育経営部長),今村芳晴所長,バネズ,天野先生
福岡県教育センターにて
2009 年8月4日
左から木原博義校長,バネズ,天野先生
北九州市立菅生中学校にて
2009 年9月25日
前列右から柴田晴夫校長,バネズ,天野先生,
後列右から藤本直樹先生、丸木さん(チューター)
福岡県立宗像高等学校にて
2009 年11月5日
宝塚を知っていますか?
イ ギョン ウン
李京恩
韓国
指導教員
小林知子
歌舞伎は日 本の代表的な古典芸能 として外国人にもよく知られているが、宝塚について知って
いる外国人はそれほど多くない。私が宝塚と初めて出会ったのは高校生の時で、テレビのチャンネ
ルを回しながら偶然に目にとまった。当時は日本語が全くわからなかったので、劇の内容は理解で
きなかったのにもかかわらず、30分ほど画面にくぎづけになった記憶がある。華麗な舞台で、性別が
わからないほどメークアップをした演技者たちが歌をうたいながら踊る姿が、今でもいきいきと思い出
されるほど、宝塚は印象深いものだった。
いつか公演を直接観たいと思っていた。このたび交換留学生として日本に来る機会を得て、つい
に宝塚を目の前でみることができた。
宝 塚 とは、今 は女 性 歌 劇 団 の名 称 としてよく知 られているが、実 際は日 本 の兵 庫 県 にある小 都
市の地名である。宝塚は歌劇団ができる前には小さな温泉街にすぎなかった。宝塚歌劇団の創立
者の小林一三は、慶應義塾大学に入学し、西欧文物を知るとともに新文化に接し、自由な大学生
活を送った。大学在学当時、新聞に小説を掲載して、演劇評論を連載するなどの芸術的才能を発
揮しながら、小説家としての夢を抱いた。しかし、大学を卒業すると銀行に就職して14年間勤務し、
その後、民間の鉄道会社(現在の阪急電鉄)で働くようになった。その会社では「箕面有馬電気軌
道」という新しい路線の開発を推進していた。しかし、この路線の周辺には、特別な観光地はもちろ
ん、住宅地もほとんどなかった。終着駅の「箕面」と「宝塚」は、幾軒かの農家があるだけの、寂しい
田舎町だった。電鉄が開通すると、どうしたら乗客を増やすことができるかと、あれこれ考えた末に、
宝塚に劇場をつくって16名の少女たちを集め、1913年に「宝塚唱歌隊」を結成した。つづいて同年、
名 称 を「宝 塚 少 女 歌 劇 養 成 会 」と改 名 し、少 女 たちは実 力 ある指 導 者 の下で、器 楽 、声 楽 、西 洋
舞踊、日本舞踊、歌劇などの教育をうけるようになった。その後、1914年に最初の公演である「ドン
ブラコ」を盛況に終え、全国各地から招請されて慈善公演をするようになった。その後、公演を観る
ために宝塚までやってくる観客たちが増え、歌劇団は1年に4回公演を披露するようになった。
1940年に「宝塚歌 劇団 」と名称を変 えた後、今日まで100年 近くの歴史 をもち、今もなお活発に
活動をしている。宝 塚 歌 劇 団 は 女 性 だ け で 構 成 さ れ 、 花 組 、 月 組 、 雪 組 、 星 組 、 宙 組 の
5つの組 と、専 科 という特 別 な組 がある。舞 台 は2部 構 成 で、1部 は演 劇 が中 心 のミュー
ジカルで、2部 は音 楽 とダンスが組 み合 わされたショー形 式 となっている。「ベルサイユの
ばら」や「エリザベート」のように、2部 全 体 が1つになった大 作 もあるが、そのような公 演 で
も、ラストは必 ず宝 塚 の象 徴 であるラインダンスとフィナーレパレードが演 じられる。そのパ
レードで欠 かせられないのは階 段 で、演 技 者 は歌 をうたいながら階 段 を降 りる。視 線 は
観 客 に向 けなければならず、足 下 を見 ることはできないために、時 々、幅 が狭 い階 段 を
降 りながら滑 ってころんでしまう場 合 もある。階 段 がトラウマとなる俳 優 もいるという。
宝 塚 唱 歌 隊 は、1937年 に宝 塚 音 楽 学 校 と宝 塚 歌 劇 団 とに分 かれて運 営 されるよ
うになった。宝 塚 歌 劇 団 に入 るためには宝 塚 音 楽 学 校 を卒 業 しなければならない。宝
塚 音 楽 学 校 もやはり宝 塚 市 に位 置 していて、歌 劇 団 員 養 成 のため設 立 された。受 験
資 格 は15歳 から18歳 までの女 性 に限 られていて、入 学 定 員 は1学 年 50名 。毎 年 、激 し
い競 争 率 を誇 る。宝 塚 音 楽 学 校 は2年 のカリキュラムで、生 徒 は2年 間 舞 台 演 技 者 が
備 えるべき西 洋 舞 踊 、日 本 舞 踊 、声 楽 、演 技 、楽 器 演 奏 、礼 節 等 の専 門 教 育 をうけ
る。
宝 塚 音 楽 学 校 は礼 節 を大 切 にするので、先 輩 と後 輩 の上 下 関 係 がきびしいことで
有 名 である。宝 塚 のモットーは「清 く、正 しく、美 しく」であるが、それを守 るために宝 塚 歌
劇 団 の団 員 は結 婚 ができず、1度 劇 団 を退 団 したら再 入 団 はできない。退 団 した後 に
は芸 能 界 に進 出 する場 合 も多 く、舞 台 でみせたカリスマのためか政 治 家 になる人 もいる。
芸 能 界 に進 出 し、大 成 功 をおさめた例 として天 海 祐 希 があげられるが、彼 女 は宝 塚 歌
劇 団 時 代 にも無 数 の話 題 をうんだ。宝 塚 では、男 役 のトップになるためには10年 はかか
るという暗 黙 のルールを破 って、彼 女 は音 楽 学 校 卒 業 後 、新 人 公 演 で主 役 に抜 擢 さ
れ、7年 ぶりに最 年 少 月 組 のトップとして、多 く愛 された。
▶天 海 祐 希 の宝 塚 歌 劇 時 代
ドラマ「BOSS」の天 海 祐 希 ▶
宝 塚 は女 性 だけの公 演 なので、「娘 役 」という女 性 の役 割 と、「男 役 」という男 性 の役
割 に、演 技 者 は分 かれている。これは演 技 者 が宝 塚 音 楽 学 校 在 学 時 に、身 長 と声 調
を考 えて自 分 がなりたい役 割 をきめる。また、宝 塚 に入 団 する前 に、各 自 芸 名 をつける
のだが、例 えば星 組 トップの安 蘭 けいは、在 日 韓 国 人 3世 なので、アリラン伝 説 (아 리
랑 전 설 )の主 人 公 名 前 のアラン(아 랑 )から「安 蘭 」、故 郷 の慶 尚 南 道 (경 상 남 도 )か
ら「慶 (경 )」を使 って芸 名 を作 った。彼 女 は2005年 の 宝 塚 韓 国 公 演 で 、 韓 国 の 歌 手
の 「 会 い た い 」 ( ‘보 고
싶 다 ’) と い う 曲 を 韓 国 語 で 歌 い 、 多 く の 声 援 を 受
けた。
◆安 蘭 けいの 宝 塚 時 代 と 退 団 後 ◆
100年 の 歴 史 を も つ 宝 塚 も 、 テ レ ビ の 普 及 で 沈 滞 期 を 迎 え る と い う 危 機 に
直面した。しかし、今も宝塚で最も多く愛されている「ベルサイユのばら」
公演が大成功し、それを克服することができた。
韓国と同様に、日本の舞台芸術は、国家の公的支援なしで、すべての収益
をチケット販売だけに依存しなければならない。やはり演劇公演で黒字を出
すのは本当に大変である。さらに、宝塚歌劇は芸術を楽しみやすくするため
に、安い入場料でたくさんの観客に開放するという創立当時の方針によって、
ほかの劇団の公演と比べて低い入場料を維持している。特に華麗な舞台を誇
る宝塚の制作費用は、1作品あたり3億円かかるほど、制作費用負担が多い
ので、このような状況で収益を出すのは普通大変なことである。このような
状況でも興業収益を出していることをみても、宝塚が日本でどれほど愛され
ているかがわかる。
宝塚の公演は、宝塚市と東京にある宝塚専用劇場で、1年中楽しむことが
出来る。そして地方のファンのため、全国ツアーも平行して行われている。
また、宝塚の専用テレビチャンネルもあり、日本では観たければいつでも宝
塚を観ることができる。宝塚を初めて観る場合は、強烈な化粧と誇張された
演技に違和感をおぼえるかもしれないが、目の前でくりひろげられる華麗な
舞台と衣装、演技者の歌と身振りを直接みれば、いつの間にか、拍手をしな
がら演技者たちと息をあわせている自身を見いだすようになると思う。
参考文献
http://kageki.hankyu.co.jp/90th/
http://blog.daum.net/seramyu/11579277
平和の島、沖縄
発表者:鄭
載喜
国名:韓国
指導教員:天野真二
去年の夏、自転車旅行で行ってきた沖縄は私にものすごく深い印象を残した。今まで見てきた海
の中で最も綺麗であると言えるほどきわめて清い海、独特な沖縄語や文化、今までも強くもっている
琉球王国の誇り、そして活発でやさしいウチナンチュ。でも本当に私の興味を引き起こしたのはその
明るい面に隠れている、深くて痛む歴史そして過去のことだけではない辛い現実のであった。太平洋
戦争の当時、日本で行われた唯一の地上戦である沖縄戦で、戦闘や集団自決などで3分の1の住民が犠
牲になった。戦争が終って米国の占領下におり、日本に返還された1972年からも米軍基地はなくなら
ず今まであらゆるひどい目にあってきた。にもかかわらず、特有の活気を失っていない気強い所だな
と思った。
ということで興味をもったようになり、去年12月また訪れた沖縄。1ヶ月間読谷村議会議員である
知花昌一さんの所でお世話になることにした。沖縄に着いた時、たまたま知花さんはハンガーストラ
イクを始め二日目を迎えていた。11月7日、読谷村では米兵によるひき逃げ死亡事件が発生、容疑者
である米陸軍トリイステーション所属の2等軍曹の起訴前の身柄引き渡しと事情聴取を要求したが、
米軍側はそれを拒否したため、それに憤怒した読谷村民らが集まって座り込みをやっているのであっ
た。
今回の事件は米軍による沖縄住民の被害や苦しみがよく現れる一断面である。駐日米軍の75%の基
地が入り半世紀にわたって駐留しているため、基地の島とも呼ばれている沖縄のことなので、沖縄の
住民らは米軍の影響から逃れることはできない。ここではなぜ沖縄の人は米軍に怒りをもっているの
か、そして同様な状況に置かれている韓国はどうなのか、最後に沖縄を「基地の島」でなく本当の意
味の「平和の島」にするために辺野古に集まっている人々について考えることにした。
1.なぜ彼らは米軍基地に怒りをもっているのか
1)米軍による事故、米兵犯罪の恐怖
1959年6月30日、アメリカ空軍F100Dジェット戦闘機が操縦不能となり、パイロットは空中で脱出、
機体は沖縄島中部石川市の宮森小学校に墜落炎上した事故が起きた。事故による火災は死者17人(小
学生11人を含む)、重軽傷者210人を出した大惨事となった。沖縄ではこのような米軍機の墜落事故が
毎年一度以上起こっている。空を飛んでいるのはヘリだけでなく、いつ誰に落ちるか知らない「恐
怖」も住民らの頭の上空を常に飛んでいるのである。事件‧事故は空から降ってくるだけではない。
戦車におばあさんがひき殺された事件、イノシシや鳥と「間違えて」住民を射殺した事件、演習中の
砲弾の破片や流れ弾が民家に飛び込んだ事件など、数限りなく起こっている。
さて、このような事故以上に大きな問題は、米兵による犯罪である。米軍基地の周辺では殺人、
強盗、障害、窃盗などありとあらゆる犯罪が発生している。特に女性への凶悪犯罪は、終戦後沖縄が
米国の占領下にあった時から日本に返還された後今までも絶えず起こっている。1995年9月には米兵3
人が女子小学生を拉致し、暴行する事件が起きた。この事件は沖縄県民の怒りを沸騰させ、翌10月に
は全県で9万2千人が参加する県民大会が開かれ、県民は集まって米兵犯罪の根絶、日米地位協定の改
定、基地の整理•縮小を要求した。この事件で当時ビル‧クリントン米大統領は日本の国民に直接謝り、
米軍再編問題が取り上げられるきっかけにもなった。しかし、米軍による性犯罪はなくならず続いて
いる。
2)環境破壊の主犯
沖縄では米軍基地による様々な環境破壊が幅広く発生している。環境問題の被害は放置する場合、
数年間•数百年間にかけて拡散する可能性がある深刻な問題であるが、米軍は責任を回避しようとす
るし、日本政府も消極的に対応し対策も立っていないため、解決はまだまだ遠い話である。返還され
た恩納通信所の跡地のPCBと水銀汚染、米軍基地内での山林火災と赤土流出など様々な環境破壊の被
害があるが、その中で最も深刻で近く感じる問題がやはり航空機の騒音である。住宅地域に近い駐機
場でエンジン調整などが行われており、周辺地域住民の日常生活への影響はもとより、学校における
授業の中断、聴力の異常や睡眠障害などの健康面への悪影響も与えている。
3)奪われた居場所と平和への祈り
沖縄戦から1945年終戦後始った米軍との闘い、1972年日本に返還されたにもかかわらず自分らの
ものでなかったウチナンチュのふるさと、沖縄。戦争が終って収容所に入れられている間に、その多
くのが農民であった沖縄の人々は土地を奪われ、働く場も失ってしまったのである。したがって、米
軍基地で働くか軍用地料をもらって暮らさなければいけなくなった。米軍は住民らが経済的に基地に
頼らざるをえない社会の仕組みをつくったのである。確かに米軍基地が返還されると働く場の減少や
米軍移動に従う経済沈滞など経済に及ぶ影響のため、返還を拒否している住民も多い。そういうこと
で住民らの間にも意見が対立しているのが現実である。
私が沖縄でお世話になった知花昌一さんは自分が住んでいた土地が米軍基地に強制収用されてそ
れから10年間の返還運動を通して、2007年6月、米軍から自分の土地の完全な返還を達成した。知花
さんは「基地賃貸による賃貸料だけでも3億5千万円をもらえたが、返還がよほど大事だった。すでに、
基地賃貸料をもらわなくても返還成功事例が多いし、返還以後の経済的な損失は開発による付加価値
で充分補うことができる。」と言った。返還後すぐは色々大変かもしれないが、結局いつかは基地に
頼らず自分らの力で生命の脅威もなく戦争の恐怖もない、平和な島で暮らしたいという願いは、きっ
と沖縄の皆が祈っている一つの心であるのだろう。
2.駐韓米軍の過去と現在
沖縄に駐留する米軍による様々な事件‧事故‧被害を調べながら驚いたのは、今米軍が駐留してい
る韓国もやはり同じような苦痛に虐げられているということである。米軍は韓国戦争以後、韓米相互
保護条約を結び、「北朝鮮の南侵脅威」から韓国を保護するという名分で、すでにして55年以上の間を
駐留してきた。駐韓米軍は韓国人の衣食住生活に大きな影響を与え、事件•事故、基地村や従軍慰安
婦などで多くの韓国人の心に深く傷を負わせた。1992年基地村の女性のユンクミ氏殺害事件、2000年
メヒャン二の誤爆事件、2002年ヒョスニ•ミスニという女中性が米軍のハマーにひき殺された事件な
ど、このような短い文書では一々並べるだけでも厳しいほど数多くの事件らは、韓国人に大きな衝撃
と反米感情を引き起こした。過去韓国に存在した、あるいは今も存在しこれから先にもしばらく存在
するはずである米軍基地の2ヶ所を取り上げた。
1)メヒャン二射撃場
メヒャン二は1954年米軍の射撃場が建立された以来、誤爆による生命の脅威、爆発の余波による
住宅破壊、騒音による難聴現象、環境破壊などに虐げられた。それに住民らのしつこい抵抗してきた
結果、2005年米空軍の爆撃場は完全になくなったが、もはやメヒャン二は人間が住めないほど汚染し
ている死んだ土地になって戻ってきた。最近は歴史を覚え治癒するための平和公園を造成し、地理的
な利点を生かす干潟•海洋生態体験施設などを揃えたリゾートの造成など再誕生の準備に力を入れて
いる。
2)ピョンテク米軍基地
ピョンテクは日本の植民地のときから駐留している外国の軍隊があったため、「軍師都市」•「基
地村」という汚名をそそげない地域で、駐韓米軍再編の作業により2013年までほとんどの米軍基地が
ピョンテクへ移設され、ピョンテク市の全体面積の5.9%に至る米軍基地が造成される予定である。住
民らと多くの国民の激しい抵抗にもかかわらず、2007年には米軍基地拡張のための起工式が開いた。
その以後にも多くの人々は、集会•一人デモ•トラクター巡礼•ロウソクデモなどの辛い闘いを続けて
いる。生業である農事と牧畜の仕事以外に、デモはもう日常になってしまったが、自分らの居場所を
守ろうとする一念で耐え忍んで闘っているのである。
3.辺野古を守る人々
国道329号線を沿っていく途中にキャンプ•シュワブという米軍基地の隣にある下り道を下りてい
くと、エメラルド色の綺麗な海が目の前に広がる。辺野古と呼ばれるこの小さい漁村には、ウミガメ
やアオサンゴなど貴重な生物が生息している。特に絶滅危惧種ジュゴンが棲んでいる豊かな海である。
だが、1996年米軍は、絶えず問題が起きている米軍普天間飛行場を返還する代わりに、キャンプ‧シ
ュワブの水域への移設を条件としてつけた。キャンプ‧シュワブの水域というのはすなわち辺野古沖
を示すのである。この辺野古への海上基地建設の計画が事実上決まった1997年から辺野古の住民らは
「命を守る会」を結成し、今までもテント村で座り込みをしながら米軍と闘っている。
辺野古のテント村であった人々は皆が優しくて和やかな人であった。私は1月1日、初日の出を見
ながら辺野古の平和を祈ったり、旅行の途中立ち寄ったり何回かテントを訪れた。ある日は偶然出初
式が行われていてご馳走になったこともあった。出初式には、地元のおじいさん、おばあさんも来て
テントの人たちと交流をしていた。ここで疑問ができるのは「地元の人=テント村の人」ではないの
かということ。先1.3)でも少し言及したと思うが、すべての住民が心合わせて基地反対運動をやって
いるわけではない。特にその町を導いている人々は経済的•政治的な理由などで思い切り反対の声を
あげられない場合が多い。辺野古もそうであり、生業を続けなければならない地元の人はテントに来
て座り込みをするのも簡単なことではない。今座り込みに参加している人は近隣の住民らや沖縄の人
として辺野古を守りたい人々、そして日本全国各地や世界から平和を、自然を守るために集まった
人々である。だが、地元の人も、そういう事情があって直接来て一緒に行動はできないけれども、心
ではいつも自分たちの見方であると、たまに差し入れなどを持ってきて応援してくれたりする地元人
に支えられているとテントの人々は言った。
ご飯を食べてから小さい船に乗せられてテントの前に広がっている海に出た。海はすごく綺麗で
海の中の魚まで見えるほど清かった。しかし、陸地の方を振り向いてみると、広い面積の基地と緑地
を削って山肌があらわになっているところが見えた。そこが何かと聞いてみたら、「今は辺野古の住
民や市民たちが反対運動をしているから作れないけれども、デモが終ったとたんいつでも作れるよう
にちびちびと用意しているようだ」と答えられた。皆の努力で基地移設の範囲から少し逸れるように
なったが、今でも彼らの座り込みが終るときっと米軍はまた辺野古に来るはずである。それは、彼ら
が座り込みを終えるわけにはいかない重要な理由の一つである。なら普天間基地はとこへ運べば良い
のかと聞いた私に、基地はもう要らないと、辺野古だけでなく世界どこにも米軍基地なんか要らない
と答えてくれた。
彼らがやっている運動は単に自分らの町を守るため、その地域の人だけ安全に暮らせるための運
動ではない。日本の、さらに全世界の平和のために闘っている深い心の集まりである。そしてかけが
えのない地球、生物多様性に満ち溢れた地球の保全のために愚直な愚直な闘いをやっているのである。
15年の近くの間、彼らは完全非暴力の闘いを目指している。今の辺野古沖は東アジアの反戦平和運動
を象徴する聖地になっている。このような辺野古の闘いは米国の政策に抵抗することは現実的に不可
能であると思っている多くの人々に大きな刺激を与えている。小さい弱い力であるかもしれないが、
その力を一つの心に合わせると、いくら巨大な権力や圧力にも立ち向かうことができるという大事な
教えを与えている。一日でも早くこの長くて辛い闘いが終ってテント村の人々が不安のない生活、家
に帰って家族と一緒に住める日が来ることを祈る。
参考文献
新崎盛輝『沖縄のこれから』ポプラ社、1999
石川真生『沖縄海上ヘリ基地』高文研、1998
ピョンテク米軍基地拡張低地汎国民対策委員会
辺野古座り込み活動記録
http://antigizi.or.kr
http://blog.livedoor.jp/kitihantai555
米軍基地の日陰、その向こうの希望
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日
本
の
平
和
教
育
>
名前
国籍
指導教員
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-
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金 志勳
韓国
江頭 理江
21世紀を迎えた今、日本における平和教育は岐路に立っていると言えよう。それは主には二つの理
由からである。
一つは、敗戦後、60年を経過し、戦争の記憶が薄れつつあることである。当時の戦争経験者は、
80歳を越え、既に亡くなられた方も多く戦争を肌で感じ伝える語り部がいなくなってきている状況が
ある。そのような中で事実をどう伝えていくか、また平和に対する思いや願いをどう伝えていくか、
あらためて問われている。
もう一つは、21世紀に入ってからの「新たな戦争」(対テロリズム戦争、民族間対立、宗教対立)
をどのように捉え、どう教えていくかが大きな問題として浮かび上がっている。この二つの理由は一
見、何の関係もないように見える。しかし、第二次大戦後の冷戦構造下における従来の平和教育のパ
ラダイムは変革を余儀なくされているのが現在である。
本論では、まず平和の意味について考察した後、私が直接に日本で経験したことを踏まえ、日本の
平和教育の現状にたいする私の考えを述べたい。それから現在、日本の平和教育が抱えている課題に
ついて問題の所在を明らかにすることと共に、その課題について日本の生徒、そして世界の色んな国
の人と考えてみたい。
「平和」とは?
平和は全ての民族と国家が求めてきた人類の永遠の理想である。しかし平和は全ての人類が求めて
いる様々な価値を包容しなければならないため、一言で定義しかねる概念でもある。このような前提
の下に西洋と東洋の‘平和’の意味の語源を尋ねておきたい。
まず東洋の‘平和’の概念を表す代表的な言葉としてインド語のサンティ(Santi)、中国語のホピン(平
和)がある。インド語のサンティは‘精神的満足’あるいは‘人間の内面世界の深奥な統合’を意味し、中
国語のホピンは狭義の解釈では‘戦争のない状態’を示すが,広義の解釈では‘人々がお互いむつまじく
過ごしつつ、個人と社会、自然が調和をとれること’を意味する。従って東洋での平和の概念は①精神
的満足②戦争のない状態③人間、国家、天地の間調和のとれた状態で大別される。
次に西洋の平和の概念を表す言葉を見てみると、ラテン語のパックス(Pax)、ギリシャ語のエイ
レネ(Eirene)及びヘブライ語からのシャロム(Shalom)等がある。ローマの平和「Pax Romana」で
の平和とは‘征服’としての平和,‘武力’の平和つまり力の平和(Friede der Marcht) を表す一方、ギリ
シャの愛「Pax Christi」での平和は‘愛’の平和(Friede der Liebe)を意味する。基本的に‘休戦’を意味
するエイレネは‘休戦あるいは双方協定によっての現状固着’としての平和である。
そしてシャロム
は‘完全’、‘全体性’、‘統一’を意味する。従って西洋での平和の概念は①力の平和②現状固着の平和③
正義と愛の平和などの意味を含んでいる。
今の平和の意味に対しては、ガルトゥング、ヨハンの与えた影響が大きい。彼は、戦争や紛争の背
後にある第三世代における貧困や飢餓、抑圧と差別などの「構造的暴力(間接的暴力)」としてとら
えて、それらの克服、すなわち地球的な規模での社会正義の実現の重要性を強調した。そして、従来
の「平和」概念を戦争という「直接的暴力」の除去を意味する「消極的平和」であるとし、「構造的
暴力の除去された状態」を「積極的平和」とする新たな視点を提起し、平和にまつわる周辺理論や従
属理論に大きな影響を与えた。平和教育においても彼は平和教育がただたんに反戦教育としてだけで
はなく、反「構造的暴力」教育として再定義し、それは教室の外の問題だけではなく、教室の中の民
主主義の問題、差別やいじめの問題(人権問題)も含んでいる。
便宜上、「平和教育」とはこのような平和、特にガルトゥング、ヨハンの積極的平和の実現のため
の教育と称しておきたい。
日常化する平和教育
日本における平和教育は特別な時間として設置されている、というよりは授業の中で扱われ、また
修学旅行等の行事の中に入れ込まれている。カリキュラムの中、学生生活の中に組み込まれており、
日常化している。平和教育が特別な意識や時間を必要としているのではなく普段の中で当たり前のよ
うに行われている、と言ってよい。
1.教科書記述
現在もっともよく使われている主要な平和教育教材は社会科•国語科の教科書である。読本などの
副教材もあるが、やはり汎用性の高い教科書がもっとも代表的なものである。敗戦後60年を経過し、
直接の教材や語り部が高齢化する現在、教科書にかかる比重は大きくなってきている。
社会科では、地理歴史•公民では過去の戦争や日本国憲法を取り上げている。中学社会では、アウ
シュビッツ収容所や「アンネの日記」と絡ませ、ナチのユダヤ人迫害を大きく取り上げる。また地理
分野ではイスラエルとパレスチナ解放機構の闘争を取り上げ、世界平和に目を向ける。公民では憲法
と自衛隊•米軍とのかかわりや軍縮の取り組みを学ぶようになっている。しかし歴史教科書の場合、
所定の期間中に近現代史学習まで教科書が終わらない、という問題は依然として残っている。国語科
では、時代によって主要な読み物教材が変わってきてはいるが、その時代時代に定番の教材が存在す
る。学校5日制による教材削減のために減少傾向があるが、国語の教材として「平和教材」が盛り込
まれている。保護者の世代が学んだ「かわいそうなぞう」や「最後の授業」は昭和末期に別の作品に
差し替えられており、「一つのはな」や「ちいちゃんのかげおくり」などが平成期のロングセラーに
なっている。
2.修学旅行
授業以外の平和教育として盛んなのが、広島、長崎、また沖縄への修学旅行である。西日本の小中
学校では、広島•長崎が目的地として選ばれることが多い。広島では、原爆資料館に行き、原爆の語
り部の話を聞き、折り鶴を準備したりする。
また特に高等学校で活発なのが、韓国、中国、台湾への修学旅行である。日本統治時代の支配につ
いて学習を深めることが主体となる。ただし、対日関係の悪化による自粛ムードもあり、流動的な外
交関係の影響を強く受けやすい。
3.大学における平和学の設置
大学においては、平和学が設置される大学が多くなってきている。大学の共通教養の一つの科目と
して平和学が設置されているところもあれば、講座として平和学を設けている大学もある。国際基督
教大学では平和研究を法学、政治学、国際関係学などからは独立した一つの専修分野(メジャー)と
して専攻し学ぶことができる。明治学院大学、東京学芸大学、独協大学、立命館大学、鹿児島国際大
学などの大学では、政治学や国際関係論の枠内で平和学の講義を設けている。13大学で平和学を講
義科目として設けており、11の研究機関が存在している。
平和教育の課題
平和教育の課題として次の3点を挙げておきたいと思う。1.戦争の記憶の風化(語り部の高齢化)
2.加害の視点の弱さ(被害の視点の強さ) 3.心情主義の相克
1.戦争の記憶の風化
… 広島から
広島は言うまでもなく、日本における平和•平和教育の拠点である。その広島でも、記憶の風化が
進んでいる。被爆者の高齢化が進み、語り部を介した原爆の伝承は困難になってきている。そのため
「事実を語り継いでいく」ことへの努力が行われ始めている。例えば、2007年より広島の小中学校で
は、8月6日を登校日として平和を考える日にすることにした。また証言者(語り部)の組織も進め
ている。こうした努力が必要となってきているのである。
しかし、広島ではこれまでの語りに対して単純化への疑義も出されてきている。「日本の平和主義
は被害への記憶が原点。これが壁にぶつかっている」と水木和美は述べる。彼は原爆投下を出発点に
した「平和主義」を「素朴すぎる」と批判する。原爆が投下された背景、さらにさかのぼって日本が
戦争にひた走った理由などを全体的にとらえるよう促す。真意は「現状では反核を素朴に訴えること
はできても、世界平和をかたれない」靖国神社参拝など今日取りざたされている問題への思考力を教
育で培うには最低でも、近現代史の知識と検証が不可欠であるというのである。平和を訴える「広島
の心」が世界に届くためには、原爆の被害を訴えるだけ(被害を訴えることも大切だが)ではだめな
のである。
2.加害の視点の弱さ
これまで述べてきたように、加害の視点については日本でもその必要性が自覚されてきたのは、19
80年代である。それは戦後の平和教育が被害の伝承を原点にして始まったことと無縁ではない。また、
戦争責任論において、日本の一般国民は、戦前の政治体制(あるいはそのトップにあった人たち=A
級戦犯)への責任の全転嫁とともに免責されたことも理由であろう。
一般の日本人は戦前の日本の政治体制に騙された存在であることに安穏としてしまったのだ。自ら
の自覚がないところに1980年代の中国•韓国からの教科書記述の指摘問題が発生した。内在的な問題
として自覚すべきだと考えていた人々はいたが、こうした外交ルートからの外在的な問題の指摘によ
って気づいた人も多かった。日本は近隣国条項を作って対応したが、このことは内政不干渉という外
交上の問題と微妙に絡む問題としても浮上せざるを得なかった。またこのことが一つのきっかけとな
って「自尊史観」が登場し、教科書記述を舞台にして論争や政治的な争いになっていた。
3.心情に傾斜する傾向の強い日本の平和教育
広島からの疑義にも紹介したが、日本における平和の主張は被害体験が原点にある。それだけに狭
い視野に陥りがちなのである。しかもそのことへの自覚があまりない。平和教育がなぜ心情主義に陥
るか、その答えの一つは、日本の平和教育が平和の主体形成と密接にかかわっているからである。平
和の主体形成を目標とすること自体はきわめて重要なことである。ただ単に知識を得たり、解決策を
模索してみる、というのではなく、まさにこれからの時代、平和を創造していく主体を形成すること
こそが重要なのである。
ユネスコ憲章にある「戦争は心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築か
なければならない」のである。しかし、その方法論としては、心情を揺さぶるだけの平和教育から脱
却できないでいる。つまり、戦争の生生しい被害の事実を提示して、戦争はこんな惨劇をもたらすも
のだからしてはいけない。との決意を引き出すという方法論である。子どもたちは論理的に考えるこ
となく、心情から主体形成へと一挙に飛ばされてしまうのである。このことは視野の狭窄、論理の欠
如をもたらす危険性がある。このことを見逃してはいけない。
参考文献
『菊と刀』- ルース・ベネディクト
『日本と韓国•朝鮮の歴史』 - 中塚 明
Violence, Peace and Peace Research – Galtung,J.
몬테소리의 교육과 평화(モンテッソーリの教育と平和)― Montessori,M.
科学イベント体験
キム
ソヒ
韓国
指導教員
秋永
正廣
1.はじめに
私が韓国の学校で専門で学んでいるのは中等理科の物理教育で、日本に来て留学し
ている理由も日本の理科教育について知りたかったのである。私の指導教員の秋永先
生が子供達のための実験を大事にして小学校や色んなところで科学イベントとして実
験を行っていた。日本での実験はどんな感じか知りたいし、子供達の反応もどうか知
りたかったので、
① 6月27日
山田小学校
②10月24~25日
韓国
③11月14日
アクロス福岡
④12月16日
天拝小学校
「山田小アカデミックフェスタ」
オリンピック平和の広場
「과학 싹 큰 잔치」
「科学の公園」
などに秋永先生と日本の学生たちと一緒に参加した。これから参加した科学イベント
での話したいと思う。
2.科学イベントで行った実験の紹介
電磁気、波動、光、力等、物理全般にわたっている色んな実験を行ってきたが、小
学生を対象とするので、内容が易しくて興味を持てる実験を主とした。特に、鏡に反
射され、掴めるように見えるが掴めない像、強い磁石で作られて空中に浮く磁気浮上
コマなどは内容と関係なく子供達に興味を引き起こした。今から実験の内容と原理を
説明する。
①超伝導の世界
秋永研究室の代表
的な実験であり超
伝導実験。-19
6℃の液体窒素の
中に風船を入れた
ら風船の中の空気
が液体化し、風船
は小さくなりながら中に液体が見えるようになる。風船の代わりにバラを入れたら、
バラの中の水分の温度が下がって凍ってしまう。このバラは硬くなっているからフロ
アに投げるとばらばらになる。このとき使えるバラが造花であれば水分がないから凍
らない。この実験は原理が子供達にも分かりやすいし、空気が液体になったりバラが
凍って陶磁器みたいに割れたり視覚的な効果があって子供達だけではなく先生や保護
者も一番興味を見せた実験だった。
②掴めそうで掴めないマジックミラー
鏡で作られた器具
の中に物質を入れ
たら、鏡に光が2
回反射され、器具
の上の焦点に像が
現れ、そこに物質
が有るように見え
る。それで触ってみようと思っても実は中に有るから触れない。子供達の興味を引け
る小さいすし模様とかビーズを入れたら子供達が掴めたくてずっと像を触ってみるが
どうやっても触れないからなぜこんな現象が起こるのかすごい知りたがった。その原
理が周りにいつもある鏡だと知ってからは不思議だなと思いながら喜んでた。
③噴水銅盆
銅盆に水を入れ、その取っ手を手でこすると振動が起きて水面に波ができる。それを
うまくするとちょうどいい振動が起き、波を強くして、決まった場所にしぶきが上が
る。それがまるで噴水みたいに見える。これは中国の明時代から伝われている共鳴に
関する実験である。ただ手で触れるだけで噴水が起こるから、子供達がすごい不思議
だと思った。自分が直接噴水を起こしてみるのが出来たから原理とかも詳しく聞いた
し、友達と一緒に誰がもっとうまく振動を起こすか試合もやりながら楽しめた実験だ
った。
④磁気浮上コマ
浮上コマの土台とコマは、非常に強い磁石の一種であるフェライト磁石で作られて、
土 台 の 上 の 方 と コ マ の 下 の 方 が N極 で こ の 二 つ の N極 が 反 発 し あ っ て コ マ を 浮 遊 さ せ る
のである。コマを早く回すと、ジャイロ効果によりその姿勢を乱されにくくなるので
もっと長い時間浮遊させるのが出来る。このコマの実験は、日常の中よく会えるコマ
と言う器具がどうやって空中に浮上できるかの疑問を持てるようなので有り、実際子
供達が一番興味を持ちながら直接実験できたのだった。磁石で同じ極同士には反発す
るのは皆知っているから原理も簡単に説明できたし、普通地面で動くコマを浮遊させ
てみるのが出来たから子供達に見せるのとしてすごいいい実験だったと思う。
3.感想
①思い出がたくさん作られた機会
日本に来て、日本の小学生たちと会う機会が多くなかったので、この4回の科学イ
ベントでたくさんの小学生たちと出会えてうれしかった。一緒に遊ぶのだけではなく、
実験を見せて一緒にやりながら楽しそうな顔をしてた子供達を見て、こんな機会が今
からどんどん増えたら科学が嫌いになる子たちもどんどん少なくなれるのではないか
なと思った。それに私が担当した実験にすごい興味を見せた子供達や一緒に遊んでた
子達は一生忘れられない記憶になった。去年は秋永研究室で韓国の科学イベントにも
行って日本の学生たちと一緒に実験をした。韓国の子供や学生たちの反応も良かった
し、日本から来たので驚きながら親切に対してくれて本当にいい経験になった。
②子供達に科学に興味を持たせるための科学イベント
留学する間に4回の実験イベントに秋永研究室の一員として参加した。参加したイ
ベントは、子供と保護者の前で実験を行って原理の説明とかもして、子供や保護者た
ちが科学を楽しめるようにするのだった。アクロス福岡とか韓国のオリンピック公園
みたいな会場でイベントを開いたときはたくさんの人が来てくれたし、小学校で出前
実験を行ったときは小学生皆良く反応してくれて、全世界で理科回避現象が起こって
いる今の時期、子供達にずいぶんいい経験を作らせたイベントだったと思う。
③私に変化を起こした子供達
実は私は中等理科が専門なので子供を対するのは元元苦手だったけど、日本に来て
科学イベントに参加し、たくさんの子供達と出会ってからちょっとはうまくなった。
そして、子供達を対しながら子供達がどんなことに興味を持つのか、どうやって説明
したらよく分かるかなどを考え始めて、今までも考え続けて答えを探している。この
実験は私にとって、子供達に科学への興味を持たせたら今の時期みたいに科学が難し
いとか面白くないと思う現象はどんどん減って行くと考えられた機会だった。
4.おわりに
日本に来て色んなところに遊びに行ったし、日本の大学生やおばさんたちとの交流も
あったけど、中等理科の学生として留学したのであるからこんな科学イベントは非常
にいい経験だった。こんな機会は留学生としてよくある機械でもないし、自分のくに
である韓国に留学生として日本の大学の先生や学生たちと一緒に参加できる人は始め
てかも知れない位珍しい機会だった。もうすぐ韓国に帰るが、こんないい経験は後自
分が先生になったときに生徒たちに話してあげれると思う。私の発表内容は難しくて
専門的なものではないが、留学生活の中一番いい体験を話できて自分にとってとても
いいテーマだと思う。
日本理解特別プログラム
2009 年度後期の記録
日本理解特別プログラムおよび短期留学生コースの行事を次のとおり実施し、充実させた。
見学の前に「事前授業」で予備知識を習得、見学では自分の設定したテーマに沿って実見・
調査し、「事後授業」で留学生各自がパワーポイントなどを使って発表した。このことによ
って飛躍的に留学生の日本理解は深まったと言えよう。
【1
10 月 13 日(火)
黒木貴一教授
宗像の地理について
】
9 名参加
宗像市と太宰府の地理、地図の見方、記号の説明、宗像の人口や土地利用の動き等を学習
した。教育大の現在の地形と昔の写真を3D で比べ、福岡教育大学の現共通講義棟、自然
科学教棟が旧唐津街道址の上に建てられていること、黒木教授自身の「沖ノ島」渡航の折
のエピソードなどを聞いた。
【2
ーツ
10 月 27 日(火) 保健体育講座
】
榊原浩晃教授
日本のスポーツ
日本の伝統スポ
13 名参加
相撲部屋見学に参加するための事後授業である。日本の伝統である相撲(角力)と明治以
降に入った野球の説明から、日本文化の特性が理解できた。相撲が祈願と関連していたこ
とや、素手で戦うという意味のすまうという語源があることなど、いろいろな知識を教わ
った。野球では、「打つ、走る、守る」のトータルな技能で評価されるのが日本野球で、
球団設置、高校野球大会主催などにおける新聞社の役割についても、留学生たちは興味を
喚起されていた。質問も多数あった。
【3
事前授業
】
11 月 4 日(水)
出席者
12 名参加
大宰府政庁跡、大宰府展示館、学校院跡、観世音寺、観世音寺宝蔵館、太宰府天満宮につ
いて事前に学んだ。
【4
11 月 7 日(土) 大宰府政庁跡、太宰府天満宮、九州国立博物館見学
】 10 名参
加+引率 2 名
大宰府政庁跡、大宰府展示館、学校院跡、観世音寺、観世音寺宝蔵館、太宰府天満宮を見
学し、アジアの中での日本の外交・防衛における福岡の位置、アジアとの文化交流等につ
いて学んだ。
【5
11 月 11 日(水)
大相撲・武蔵川部屋見学
】 12 名参加+引率 2 名
宗像市光岡にある武蔵川部屋を見学した。ぶつかり稽古を中心に見学した。先輩が稽古を
つけるという日本的な重層的な役割を理解した。白いまわしの上位関取も、自ら進んで稽
古をやっていた。稽古量の多さ、厳しさに、日本的特質を見ることができた。
【7
11 月 18 日(水)
大宰府政庁跡見学および武蔵川部屋見学
発表会
】
見学して調べたことをパワーポイントで発表し合った。
【8
11 月 17 日(火)
沖縄研修旅行
事前授業
】
15 名参加
前任校が沖縄の大学である、国際共生講座の小森雅子准教授による講義。「沖縄の抱える問
題」と題する2回の講義のうち、
「(1)国際法と憲法から見る沖縄」の講義。国際法では、
A ハーグ条約による手段規制の時代、B 不戦条約と国連憲章による、戦争禁止の時代、C ジ
ュネーブ条約による犠牲者保護の流れがあることを習得した。沖縄戦における、これら国
際法の関わりについて、講義を受けた。以上により、沖縄に在日米軍基地の 75%が設置さ
れている理由を考察した。
【9
11 月 24 日(火) 沖縄研修旅行 事前授業2 】14 名参加
日本国憲法の前文および9条を読み、第 9 条において平和がいかに重視されているかを学
んだ。次に9条の解釈において分かれる点、さらに普天間基地についての議論の経緯、日
米安全保障条約などを学んだ。嘉手納基地の騒音問題と民事裁判についても教わった。な
お、沖縄が 1972 年まで米国の直接統治だったことなども習得した。
【10
12 月 2 日
沖縄研修旅行の直前のオリエンテーション
】14 名参加
当日の日程確認、アメラジアンスクールについて学び、平和祈念資料館と斎場御嶽の映像
を見て、琉球王国の歴史について学んだ。沖縄の歌の歌詞から、言葉の違いを勉強した。
4つの班に分かれてそれぞれ4つのテーマについての発表を行うことを決めた。
【11
12 月 8 日火曜-9 日水曜
沖縄研修旅行
】
14 名参加+3 名引率
12 月 8 日火曜日、8:05 福岡空港-9:45 那覇空港-貸切バスで、ひめゆりの塔、昼食-県立
平和記念公園・平和の礎-斉場御嶽-那覇セントラルホテル
12 月 9 日水曜日、ホテル-普天間基地の見える丘-アメラジアン・スクール・イン沖縄-嘉手納基地-
琉球村(昼食)-首里城-19:25 那覇空港 21:00 福岡空港
【12
12 月 22 日
火曜日
沖縄研修旅行
A 班と B 班がパワーポイントをつかって
発表会
】
約 20 名+3 名参加
などについて発表した。
写真
上は、10 月の開講式、オリエンテーション。
左は、オリエンテーションの時の協定学生。
左下は、黒木教授の宗像の地理についての講義。地
図の見方を習っているところ。
右下は、榊原教授の日本のスポーツについての講義。
左
大宰府政庁跡で記念撮影。太宰
府天満宮、国立博物館へと歩いてい
った。
左下は、観光ボランティアの方と。
5)相撲部屋見学。
武蔵川部屋の前で。
「沖縄の抱える問題
国際法
と憲法から見る沖縄」。
小森准教授(左)と記念写真。
上は、平和の礎の前、摩文
仁の丘での記念撮影。
左は、斎場(セイファー)
御嶽(うたき)にて。
左上は、「道の駅嘉手納」から望む嘉手納基地。
右上は、アメラジアンスクールのポスター。
首里城の守礼の門前で記念撮
影。
首里城の中。御鎖之間(おさす
のま)のカフェ。
2 月 22 日
平成 21 年度「福岡教
育大学日本語日本文化研修留学
生・協定留学生研究発表会」、平
成 21 年度「福岡教育大学教員研
修留学生研究発表会」
地域の方もお呼びし、100 名近い
参加者を得て、8名の発表を行な
った。司会、計時、印刷などの準
は、後輩の留学生が担当した。
アメラジアンスクール ・イ ン ・オキナ ワ
マクパ /レ
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「
なぜ人々は最初の印象で判断 しがちのか ?まず判断 されている人の靴 をはいて
た くさん歩いて、その人の感 じることがわか らない といけない」
マイケル ・ティ ・ファッ ド
私は沖縄研修旅行 を楽 しみに していた。沖縄は幸せな人だけ住 んでいる ところだ
と思っていた。太平洋 と按 していて、一年 中緑 に囲まれていて、 どんな種類 の果物 もある
すぼ らしい島 とい うイ メージを持 っていた。沖縄 に米軍 と関す る問題があるのを知 らなか
った。
沖縄 に行 ってす ごく悲 しく感 じた。普天間基地 と嘉手納基地の広い敷地 を見て、
ものす ごい騒音 を実際 に聞いて、沖縄の住民 をかわいそ うに思った。 日本の外務省 の何 も
できない状態 もわかったD特 に気になったのはアメラジアンスクールだった。
アメラジアンスクール について前 に聞いたことがなかったので、何 で問題 になっ
てい るのかわか らなかった。事前授業 を受 けて、実際 にアメラジアンスクール に も行 って
●
●
●
みた ら以下の
なぜ差別が起 こるのか ?
アメラジアンスク-ル に通 ったほ うがいいか、それ とも 日本 の学校 に通った
ほ うがいいか ?
アメラジアンの子供の複雑な問題 が気になった。
こんな疑問の答 えを探 し始めた。色々調べて、次の大事なことに気づいた。
1998年にアメラジアンスクール を 5人の母親たちがつ くった。私は母親 たちによ
って作 られた学校 を初 めて見た。 開校 した理 由は二つ ある。一つ 目は、子供 は 日本 の学校
に通 って も、アメ リカの学校 に通 って も、多 くの難 しい問題 が起 こ りがちであったか ら。
二つ 目は、母親たちは 自分の子供がお父 さん と交流ができて、二つの文化 と言語 を習わせ
たかったか らであるO当時は一重を借 りて、無認可のフ リースクール としてスター トした。
1
999年 にアメラジアンスクールは民間教育施設 として認 められて、公立校 の出席
扱い とす る方針が決定 された。翌年東 門 リッキー君が初めて、沖縄市立美里 中学校 の卒業
認 定を受 けた。
2001年に韓国のアメラジアンクリスチャンアカデ ミーの校長 が沖縄 を訪問 した。
とい うのは、アメラジアンは 日本だけではな くて韓国にもあることを表 している。
2006年にアメラジアンスクールの生徒が公立高校の授業に出席 していない とい う
理 由で、ある公立高校 で低い成績評価 をつけられ ていた問題があった。そのためアメラジ
アンスクールが公立高校 に要請 し、翌年か ら改善 され た。
1年ほ ど存在 しているアメラジア ンスクールは今、民間施設 として沖縄 の宜野湾
1
ヽ■
ー
市にある。ス クール には 日本人の先生 とアメ リカ人の先生 もいて、アメ リカの教育 も、 日
本の教育 もや っているので、 ここで しか学べない学びができる場 として、 「
ダブルの教育」
●
を受け られ る場 として位置づ け られている。
アメラジア ンの子供 に対 してなぜ差別 が起 こるのか について調べ てみた ら、理 由は
色々出てきた。 「日本で生まれ育ち 日本語 も読 めるのに、名前がカタカナ とい う理 由で
い じめ られた子 もい る」 と言 う意見 もあって、 「日本では皆が違 って当た り前 とい う考
え方がなく、一人がい じめ られ ると次は 自分か もしれ ない と批判 もできな くて、沈黙
して しま う」 とい う意見 もある。
私は、 日本 の学校 に通 うアメラジアンの子供 は差別 され る理 由は、アメラジアン
の子達は地域の子供 として、アメラジア ンスクール は地域 を豊かにす るもの として受 け入
れ られていないか らだ と思 う。 もしお互いに とって有益 になれば、差別 も、い じめ られ る
●
こともなくなると思 う。
アメラジア ンスクールにはアメラジアンの子供だけではな くて、タイ とバ ングラデ ッ
シューの子供 も通っていて、授業料は月額 3 万である。その一方 日本の学校 は無料。
とい うことはアメラジアンス クール に子供 を通わせ てい るシングルマザ丁に とって困
●
難だ と思 う
。
アメラジアンスクールに通ったほ うがいいか、 日本の学校 に通 ったほ うがいいか ?
私 はアメラジアンスクール に通 ったほ うがいい と思 う。 なぜな ら、アメラジアン
ス クール に通 うことはお父 さん と交流できる し、 自分のアイデ ンティテ ィ、オ リジナ リテ
ィを守ることもできる とい う意味である。アメラジア ンの子が他 の 日本人 と違 うのは 自分
だけではない とい うこともわかるので、精神的にも良い と思 う。 しか し、アメラジアンス
クール に通 っている間に 日本 の学校 とも交流が多ければ多いほ ど良い と思 う。つま り、 日
●
本の学校の子供 はアメラジアンの子供 と按す る機会 を増や したほ うが良い と思 う。
アメラジアンの抱 える問題 は多様 で複雑だ。言語、文化 の違い、家族 のあ り方、父親
の転勤な ど、 日本社会での偏見や差別 も生まれて くる。
カザフスタンでは 10
3 以上の民族が一緒 に仲良 く暮 らしている。差別 どころか、
みんなそれぞれ違 ってい るとい う考 えもない。昔 はロシア人に、カザフ人がい ろい ろな悪
い ことをされたけど、今、ロシア人の子供をい じめない。昔のことはす でにその遠い昔に
水 に流れて しまったo なぜ 日本では一つだけのアメラジアンの子供 に対 してこ うい う問題
があるのか ?なぜ沖縄 の人々は現在 の ことを大事 に してアメラジアンの子供 を自分 の社会
に受 け入れ よ うとしないのか ?私 に とって非常にわか りに くい。
沖縄の住民はアメラジアンの子供をまった く知 らない と思 う。お父 さんのことで、
最初の印象 で判断 し続 けてい る。昔のことを忘れず に、何 も罪のない子供 を傷つけてい る。
これ をなくすためにはみんな一緒 に努力 しない といけない と思 う。
参考文献
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9981
2008
アメラジアンス クール ・イン ・オキナ ワ 1
名前 :チュオン ・リン ・トウイ
首里城 と沖縄文化
沖縄県は 日本の 47つの都道府県の一つだ と知 られているが、46つの他の都道府県
と違 って、沖縄県は独 自の文化を持 っている。当た り前 、46の 日本の都道府県はいず
れ も文化の特色 な点があるものの、基本的に 日本風 の文化が著 しい特徴 だ と言 えるだろ
う。 しか し、沖縄県に来たばか りの時、そ こは 日本 と比べた、他本 当に別の世界だ と思
った。なぜ な らば、沖縄の中に、欧米人がいっぱいいるアメ リカのにぎやかな通 りか ら
東南アジアスタイルのマーケ ッ トや レス トランまで も見 られたか らである。驚いたこ と
は時々、沖縄 に自分の生まれたか ら見慣れた ところ (
ベ トナム)のイメージも偶然に出
会 った。その時、沖縄文化がアメ リカ ・中国 ・韓国及び東南 アジアの影響 を混ぜて、飛
び交っていて、 「
ハー フ」の文化ではないか と思っていた。 だが、首里城 を一周 に観光
した後、その考 えがす ぐ消 えて しまった。首里城が沖縄の独 自文化 の代表的 なものだか
らである。
Ⅰ
.
琉球王 国 と首里城 の一見
1、紺
ついT
琉球王国は 日本の南西諸島にあ り、1429年 に設立 した王国である。琉球文化がグ
スク (
城)文化 とも知 られ ている。なぜか とい うと、嘩球王国の設 立の前、つま り稀球
先史時代に、琉球諸島でグスクがた くさんあって、その中で、いずれ もグスクの按司 と
呼ばれていた豪族、即 ち、城主があるか らである。彼 らが互いに戦闘を行 って、結局、
1429年 に、尚巴志がほ とん どの重要な按司に勝 って、統一の琉球王国を設立 した。
その後で、首里城 を建造 したO他の城 (
グスク)は 自然的に滅びて しまったO琉球王国
は中国をは じめ、 日本、朝鮮、東南 アジア諸国 と貿易 を進んでいた。 1609年 、琉球
王国は薩摩藩 に侵略 された。それか ら、幕藩体制化の異国 として位置づけ られた。18
79年 に入 って、琉球王国の国王が当時の 日本政府の軍隊に首里城か ら追放 された。琉
球王国が消滅 し、現在 の沖縄県になったO琉球王国の 450年 にわたった歴史の中で、
大 きな政権交代はたった一つだけである。それは 1469年 に伊是名 島の農夫出身の金
丸がクーデ ターで政権を奪 って、新 しい王朝 を設立 した ことである。だが、この ことに
従い、また中国皇帝 との関係 も深 くなっていた。それか ら、 270年 にわた り、琉球王
国が中国 と徳川幕府 の支配下に存在 していた。この ことも琉球王国の政治お よび文化 に
多大な影響 を及ぼ していたd
2,鰍
ついて
首里城 は今までも沖縄県の歴史 ・
文化のシンボル として 日本国内だけでな く海外 にも
1
有名 である。構造 の面では、首里城 は内郭 (
内側の部分) と外郭 (
外側 の部分)の 2つ
に分け られている。内郭は 15世紀初 に、外郭は 16世紀 中期 に完成 した。首里城 は琉
球王国の王族が住んでいる場所 と同時に、王国の行政機 関の本部であった。長い間に中
国文化の影響 を受 けてい るため、城 の建築 には西側 を正面 として した ことをは じめ、
色 々な点が中国 と日本の建築の組み合 わせ か らな り得 るものだ と言われていた。その上、
首里城 も琉球王国の美術 ・芸能セ ンター と信仰上の聖地 とも知 られている。首里城 は 1
4 53年 に王位争 いのため焼失 されたのをは じめ、何度 も損失 を受 けて、再建 された こ
とを経ていた。 1879年 の後、首里城が軍隊 に占拠 された り,戦争時期 の中に、学校
として使用 させた りした01930年代に大きな修理 が行 われたが 194 5年 にアメ リ
カ軍 の攻撃 によ り、首里城 がまた全焼 されて しまった。戦後、首里城 の復元工事が行わ
され 、 2000年 12月に首里城が世界遺産 に登録 されたD
II
.沖縄
柔軟 で微妙な文化
19世紀未 に消滅 されたが琉球王国の文化が沖縄文化に深 い影響 を与 えてい ると言
えるだろ う。さっ と見れば、琉球文化が中国、朝鮮、東南アジア諸国の影響 ばか り受 け
ていると分かったがゆっくりして、よ り詳 しく調べ た ら、そ うい う影響 にもかかわ らず、
琉球文化の各面にいずれ も 日本風 ・日本文化の著 しい表現が気付いた0
1.建築 ・美術
琉球王国の建築特徴 は首里城 をは じめ、中国 と日本の建築 の組み合わせ とい うよ り、
日本 の建築 を基礎 として、中国の建築の優れた ところを取 り入れたか ら独 自の建築 を築
いているものであるD大阪城や熊本城 な どの有名 な 日本 の城 と違 って、首里城 の主な色
は赤 をは じめ、明るい色である。そ して、正殿 の前 に非常に大きな広場が設置 られてい
る。昔、そ こは中国や薩摩藩 か ら賓客の迎接や琉球朝廷の華や かな露宴が行われた とこ
ろである。それ に、首里城 の中に龍 のシンボルが広 く使用 され てい る。上に述べ た通 り
に、西 を正面 とす ることと同様、そ うい うことが中国の影響 を受 けたか らである。 しか
し、首里城 は基本的 に 日本人 に建て られたか ら,どんなに外国の影響 を受 けても、日本
風の建築が保存 されている。明白な証拠は首里城の材料 が他 の 日本 の城 と同 じよ うな木
材 である。囲まれ る壁 も大きな岩か らできた ものである。特別 に、宮殿 の中に、外国か
らの賓客の応接室 を含む、各室 は和室である。応接室か ら見れば、素晴 らしい 日本風 の
庭園が見 える。応接室のそばに茶室 もある。茶室の設置はすべて 日本め伝統的な茶室で
ある。
建築だけでな く、美術 の面でも、日本風 の美術 も色濃 く表現 されているO正殿 を観光
している時、海ぶ どうの模様 を飾 っていた漆塗 りの箱 が見た。漆塗 りのものは中国か ら
入 っていたが海ぶ どうの模様 は琉球 の人々の創造ではないだろ うか。
2.衣服 ・飲食
中国、朝鮮、東南アジア諸国の長 い交流過程 を経て、琉球の人の衣服お よび食べ物 は
少な くない影響 を受 けたわけである。王様 の衣服をは じめ、色か ら形まで、中華の王帝
の衣服を模倣 した ものである。だが、家臣の衣服は東南アジアスタイルの帽子 を除けば、
全体的に、日本風の着物である。特に、帯の結び方が複雑できれいなものである。他 に、
家臣 らの位置は高いか低いか、衣服の色 を見た ら、す ぐ分 る。高いか ら低 いまでの順 に
は紫、赤、黄、青である。普通の人、すなわち、庶民の衣服 も着物であった。
飲食の面では、琉球の飲食は中国 と東南アジアの深い影響 を受 けてい るOほ とん どの
日本の料理 はあっ さりの味を しているものだが、沖縄 の料理 は油をよく使 っていた し、
味 もより濃い。王族が愛用す るお菓子 と薩摩藩や 中国の賓客 をもてなすお菓子 も中国の
お菓子みたい ものである。だが、そのお菓子はまだ和菓子である。 「くんぺん」 とい う
お菓子は中国の鰻頭 の形 を しているが中身はアンコである。特に、沖縄の名産 として知
られているちんす こ う (
きんそ こう)はもともと、菊の形 をしている。それか ら、沖縄、
即ち、琉球王国の飲食は 日本飲食を基盤 とす るものだ と言 えるだろ う0
3.信仰 ・芸能
軍事 .政治セ ンターの他 に、首里城が琉球王国の信仰中心 として も知 られている.首
里城の内郭の中に 10ヶ所の御森がある。琉球王国は神女を通 して、全国の各地の人々
を支配 していた。神女は神様 の考 えを伝 える人だ と信 じられた。神女が言った ことは神
様の考 えに違いない。 しか し、神女たちは-生に御森 に住んでいて、聖地を守って、結
婚できない。そ うい う神女は 日本の神社の盛女 と同 じではないだろ うか.たった一つ違
う点はJ
E女
t さんが結婚 して もいい ことである.
t
uo
ng
」 と同 じよ うな芸術 の種類がある。
芸能 について、中国の京劇 、ベ トナムの 「
琉球村 に行 った時、その芸術 の練習 を見た。基本的に演奏す る芸人の服装 と動作は京劇
と同 じが音楽は朝鮮 の行事 によく使 っている音楽みたい。しか し、主な楽器 は 「さんせ
ん」、 日本 の三味線 の形 と音が大分、同 じとい う琴である。 さんせん と同 じよ うに、琉
球村だけではな く、現在、沖縄県で どこに行 って もさんせんの音が聞 こえる。時間が経
って も、社会が どんなに変わっても、沖縄 (
琉球王国)文化が永遠 に今 のような柔軟で
微妙 な文化だ と強 く信 じている。
Ⅰ
Ⅰ
Ⅰ
.
首里城 忘れ られない印象
沖縄旅行の中で、首里城 は最後の観光場所 であったが、私 に とって、非常にすぼ らし
い ところだ と思った。以前、ほ とん どの観光場所は戦争 に関わ りがあるところだか ら、
雰囲気が重い し、みんなもあま りうれ しくなかった。 しか し、首里城 に行 った時、自分
の悲 しい気持 ちお よび疲れ は完全 に消えて しまった。戦争の悪い影響 を受 けた ことにも
関わ らず、沖縄人は文化遺産 をは じめ、自分の文化 を大切に守 ることができるのは本 当
3
にす ぼ らしかった と思 う。首里城 は何度 も全焼 されて も、現在の よ うにきれいに復元 さ
れ てい るCその上 に、長い間、外国の影響 を受 けて も、沖縄 の人々 も自分の独 自文化 を
大切 してい る。それ はいいでは ないだろ うかO
参考文献
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5.事前授業の資料
4
りゅうがくせいよう
じゅぎょう
留学生用の授業について
ぜ ん き じゅぎょう
(前期 授 業
がつ
がつ
4月~8月)2009 年度前期
月(げつ)
火(か)
1
水(すい)
木(もく)
ひかくきょういく ぶ ん か ろん
にほんごほこう
比 較 教 育 文化 論 A
い い だ なかむら
(飯田・中 村 206)
金(きん)
日本語補講
しょちゅうきゅう
初 中 級
いりょう
(井料)
2
にほんご
い ぶ ん か こうりゅう
しんりがく
にほんごほこう
にほん
日本語
異文化 交 流 の心理学
日本語補講
日本の
かんじ
きょういく せ い ど
なかむら
まつうら
(松浦 108 )
(中 村 206)
漢字
いりょう
(井料)
きょうしつめい
108= 教 室 名
教 育 制度A
いいだ
(飯田 105)
に ほ ん じじょう
日本 事 情 A
つぼうち
きょういく じ っ せ ん
( 坪 内 教育 実践
センター)
昼休
み
にほんご
3
日本語
つぼうち
ホ ー ム ル ー ム
りゅうがくせい た ん と う きょういん
(坪 内 206)
( 留学生 担当 教員
にほんごほこう
きょうえん
日本語補講
にほんご
にほんご
にほんごほこう
日本語
日本語
日本語補講
まつうら
こ く さ い えん
(松浦 国際演)
ふなつ
(船津 208)
しょきゅう
初 級1
わたなべ
(渡 辺 )
共演Ⅱ)
しょきゅう
初 級2
ひらた
(平田)
にほんごほこう
4
日本語補講
こ べ つ し ど う
個別指導
まつうら
(松浦)
にほんご
日本語
いりょう
(井料 201)
1時限目(いちじげん
8:40~
め)
10:10
2時限目(にじげんめ) 10:20~
11:50
3時限目(じげんめ)
12:40~
14:10
4時限目(よじげんめ) 14:20~
15:50
5時限目(じげんめ)
16:00~
17:30
こ う き じゅぎょう
(後期 授 業
月(げつ)
がつ
がつ
10月~2月)2009 年度
火(か)
水(すい)
に ほ ん じじょう
日本 事 情 B
つぼうち
1
(坪 内 call)
木(もく)
金(きん)
にほんごほこう
日本語補講
しょちゅうきゅう
初 中 級
いりょう
(井料 共演Ⅱ)
2
にほんご
いぶんかかん
異文化間
日本語
つぼうち
しんりがく
(坪 内 call )
心理学
ひかくきょういく ぶ ん か ろん
にほんごほこう
にほん
比 較 教 育 文化 論 B
日本語補講
日本の
かんじ
きょういく せ い ど
い い だ なかむら
(飯田・中 村 107)
なかむら
漢字
いりょう
(井料 共演Ⅱ)
(中村 202)
教 育 制度B
( 高 107)
昼
休
み
3
にほんご
ホームルーム
日本語
つぼうち
(坪 内 call )
にほんごほこう
日本語補講
しょきゅう
りゅうがくせい た ん と う
( 留学生 担当
にほんご
にほんご
にほんごほこう
日本語
日本語
日本語補講
(増田 107)
(安永 107)
しょきゅう
初 級1
わたなべ
きょういん
(渡 辺 共演Ⅱ)
教員
きょうえん
共演Ⅱ)
初 級2
ひらた
( 平田
共
演Ⅱ)
4
にほんごほこう
日本語補講
こ べ つ し ど う
日本語
(増田 共演Ⅱ)
(汪 102 )
1時限目(いちじげん
8:40~
め)
10:10
2時限目(にじげんめ) 10:20~
11:50
3時限目(じげんめ)
12:40~
14:10
4時限目(よじげんめ) 14:20~
15:50
5時限目(じげんめ)
にほんご
個別指導
16:00~
17:30
に ほ ん ご
に ほ ん ぶ ん か けんしゅうりゅうがくせい
い
か にっけんせい
ないよう
日本語・日本文化研 修留 学 生(以下日研生)のコース内容
にっけんせい
きょういん
し ど う きょういん
りゅうがくせいたんとうきょういん
1.日研生コースの教 員スタッフは、指導教 員、留 学 生担当教 員とする。
しゅうりょう
へんていしゅつ
みな
2.コースを修 了するためにはレポートを1編提 出する。なお皆のレポートをまと
しゅう
さくせい
めてレポート 集 を作成する。
はっぴょうかい
はちがつ
に が つ ごろ
おこな
きょういん
しゅうりょうにんてい
おこな
3.レポートの発 表会を8月、2月頃に 行 い、教 員スタッフが修 了認定を 行 う。
しゅうりょうにんてい
りゅうがくせいかんけいじゅぎょうひょうか
し ど う きょういんひょうか
そうごう
4.修 了認定は、レポート、留 学 生関係授 業評価、指導教 員評価を総合する。
にっけんせいしゅうりょうしょうしょ
じ ゅ よ
き こ く まえ
おこな
5.日研生修 了証 書の授与を、帰国前に 行 う。
りゅうがくせいよう
ない
けいじばん
かいせつ よ て い
かくにん
6.留 学 生用ホームページ内のブログ掲示板(開設予定)をよく確認すること。
き こ く ご
りゅうがくせいよう
ない
けいじばん
かいせつ よ て い
7.帰国後も、留 学 生用ホームページ内のブログ掲示板(開設予定)にアクセスす
しゅうしょく
てんしょく
じゅうしょへんこう
し ど う きょういん
れんらく
ること。また、就 職、転 職、住 所変更などを指導教 員に連絡すること。
きょうていがくせい
ないよう
協 定学生のコース内容
きょうていがくせい
きょういん
し ど う きょういん
りゅうがくせいたんとうきょういん
1. 協 定学生コースの教 員スタッフは、指導教 員、留 学 生担当教 員とする。
しゅうりょう
へんていしゅつ
みな
2.コースを修 了するためにはレポートを1編提 出する。なお皆のレポートをまと
しゅう
さくせい
めてレポート 集 を作成する。
はっぴょうかい
はちがつ
に が つ ごろ
おこな
きょういん
しゅうりょうにんてい
おこな
3.レポートの発 表会を8月、2月頃に 行 い、教 員スタッフが修 了認定を 行 う。
しゅうりょうにんてい
りゅうがくせいかんけいじゅぎょうひょうか
し ど う きょういんひょうか
そうごう
4.修 了認定は、レポート、留 学 生関係授 業評価、指導教 員評価を総合する。
きょうていがくせいしゅうりょうしょうしょ
じ ゅ よ
き こ く まえ
おこな
5.協 定学生修 了証 書の授与を、帰国前に 行 う。
りゅうがくせいよう
ない
けいじばん
かいせつ よ て い
かくにん
6.留 学 生用ホームページ内のブログ掲示板(開設予定)をよく確認すること。
き こ く ご
りゅうがくせいよう
ない
けいじばん
かいせつ よ て い
7.帰国後も、留 学 生用ホームページ内のブログ掲示板(開設予定)にアクセスす
しゅうしょく
てんしょく
じゅうしょへんこう
し ど う きょういん
れんらく
ること。また、就 職、転 職、住 所変更などを指導教 員に連絡すること。
-1-
編集後記
『日本語日本文化研修留学生・協定学生研修成果報告書第7号(2009 年度後
期)』が完成しました。我々にとっての 1 年間のなつかしい結晶です。
本冊子には2つのコースに所属していた留学生の研究報告と日本理解特別プ
ログラム、研修旅行などの報告を収めています。
帰国した留学生の皆さんも、この報告書を手にとって、日本を思い出してほ
しいです。また、これから福岡教育大学に留学しようと思っている方も、この
報告書でイメージをふくらませて欲しいと思います。
発行
作成
連絡先
2010 年 7 月 22 日
中村俊哉 飯田史也 坪内佐智世
(福岡教育大学留学生担当教員)
福岡県宗像市赤間文教町1-1
0940-35-1247