財団法人関西生産性本部 KPC ニュース 2004 年9月号 フロントグラス原稿 なぜ情報の共有は難しく、情報の共有は進まないのか? 兵庫県立大学大学院 応用情報科学研究科 教授 有馬昌宏 大学でもっぱら経営情報論に関連する講義を担当しているが、毎年、 「情報」という言葉の意味をきちんと理解 できていない学生がほとんどであることに驚愕する。きちんと定義しないままに言葉を使用し、漠然としたイメ ージで理解されている言葉を使用していると必ずミスコミュニケーションが発生する。 「情報」という言葉については、通信理論の分野でのシャノンの「不確実性の量を減少させてくれるもの」と いう定義がよく使われるが、私が好むのは、マクドノーによる定義である。マクドノーは、我々が五感を通じて 外界から取り入れるメッセージを「データ」 、特定の状況において評価されたデータの意味内容を「情報」 、役立 つであろうと判断されて蓄積・貯蔵された情報を「知識」と定義している。我々は、五感を通じて入手するメッ セージを、蓄積してきた知識に照らし合わせて、特定の状況のもとで評価して情報へと変換し、読書のように情 報を直接的に消費して満足を得たり、企業での経営管理のように情報に基づく意思決定を行って利益獲得活動に 貢献させることで情報を間接的に消費している。情報の一部は知識として蓄積され、拡大した知識はその後のデ ータから情報への変換プロセスで役立てられる。このようにマクドノーの定義を借用して情報の概念を整理して みると、 企業の情報化を取り巻くさまざまな課題や取り組みの中から情報共有に関わる問題の本質が見えてくる。 生まれてから日本語で語り掛けられ、学校で仮名や漢字を覚えて日本語の読み書きのための知識を蓄積してき たからこそ、今の私は日本語で書かれた本を読んで内容を理解することができる。しかし、興味・関心のない内 容の本は途中で放り出され、今の私では「C#によるプログラミング入門」は机の上に積まれたままで終わって しまう。一方、興味・関心はあっても、イラクの人から届いたアラビア語で日常生活を綴った手紙は、アラビア 語の知識がないために読めず、結局は手紙が届かなかったことと同じことになる。データが得られても、それを 解釈するための前提となる知識が欠けているか、 情報変換へと向かわせる興味・関心や問題意識が欠けていれば、 データはデータのままに終わり、情報の共有はありえないし、企業活動には何の貢献ももたらさない。企業のト ップから現場まで、ビジョンやミッションの明示を通じて問題意識が共有され、異なる部門間でも業務内容や業 務プロセスの知識が共有されていなければ、情報の共有、ひいては経営課題の問題の解決はあり得ない。企業内 での情報共有ができなければ、SCMやCPFRの前提となる企業をまたがる情報共有への道は程遠い。 ICT(情報通信技術)の革新・進展には著しいものがあるが、これらの技術が可能にしてくれるのは POS デー タの活用に代表されるデータの獲得・伝送・蓄積に関わる活動である。データを意味づけして情報へと変換する 活動は、今昔を問わず、人間だけが担える活動である。地球規模で張り巡らされた情報通信ネットワークを通じ て時々刻々と膨大なデータが入ってくる。巨額の投資で最先端の情報システムを構築しても、最終的にデータを 情報に変換し、その情報を意思決定に使うか使わないかの判断をするのは人間である。情報の価値は、その量や 内容ではなく、その情報に基づく意思決定によって企業にどれだけの利益がもたらされたかによって決まる。ド ッグイヤーあるいはマウスイヤーで ICT が進化しても、人間は犬でもネズミでもないので、情報システムのパフ ォーマンスは人間の情報処理能力とその進化のスピードの限界というボトルネックによって制約されてしまう。 巨大なデータベースとデータマイニング技術によって情報を引き出すことも可能かもしれないが、データが獲 得される現場で変換された情報の共有を考えてもよいのではないだろうか。データから情報への変換結果として の情報の共有を目指すのではなく、データから情報へと変換するプロセスそのものの共有を目指すという視点が 必要であるといえよう。そのためにこそ、新たな創造をもたらす従業員の多様性に加えて、トップの強力なリー ダーシップや社内教育やジョブローテーションなどによるビジョンや企業文化や知識の共有が必要になるのであ る。
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