「喪主の挨拶」 某会報誌に I・O 様が投稿された文章です 「この公式な場で、皆さんの弔問に対するお礼を申し上げる前に私的な思いを述べさせ て頂く非礼をお許し下さい」と喪主の私は始めた。 (中略) 「皆様へのお礼の前に妻への 感謝を述べさせて頂きます」そして私は喪主の挨拶を続ける。「妻は実の子の我々が及 びも付かない優しさで母親に寄り添ってくれました。母親の人格を尊重し最後まで母親 を頼ってくれました。どんなに弱くて動けなくても最後の決済者は母親でした。12 月、 弱くなった母親に寄り添い、寝たりしましたが疲れが見える私に『母ちゃんは一人で寝 れる。お父さんは仕事があるから自分の部屋で寝ろっ』と気丈に振る舞っていました。 ウォシュレットのトイレに連れて行って、股間や尻を洗おうとする私に『そんな汚いこ とをするな。大丈夫だ』『汚くなんかあるか。ちゃんと洗わないと爛れたりするんだ』 と私。暫くすると『もう自分で洗った。きれいだ。大丈夫だ』と強がる母でした。 下着一切の着替えを手伝った私がいなくなると母は妻を呼んで着替えを直してもら っていました。そんな親孝行の真似事を妻は優しく見守っていてくれて足らないところ を言葉でなく補ってくれていました。」 喪主であるわたしはひたすら横に小さくなって立っている妻に感謝の言葉を続ける。 「ありがとう、お母さん。おばあちゃんのあの安らかな死に顔に我々はどんなに救われ たか分かりません。そしてそれを作ってくれたのはお母さんです。ありがとうお母さん。 」 と万感の思いを込めた。 母は年が明けた 1 月 2 日に旅立った。95 歳の誕生日でもあった。前々日の大晦日に は孫たちに囲まれ、せかされながらもご馳走に舌鼓を打っていた。終わって紅白を見て 寝るからとすこぶる元気だった。容態が急変したのは明けた元日の早朝 4 時頃。息子が 「おばあちゃんがごしたい(注)って言っている」と部屋に飛び込んできた。 母親の部屋に行ってみるとベッドから這い出して二間続きの手前の部屋まで来てい た。手には万が一の時には鳴らすようにと昨年ロシアから買ってきた鈴が握られている。 「救急車を呼んでくれ、朝になると世間がうるさいから今行く」と母。救急車より俺の 方が早いよと車に乗せて病院へ一目散。 元旦の早朝は若い医者の持ち場らしい。「おばあちゃん、どこがごしたい(注)?」 と見るからに辛そうな母に話しかける。気丈に答える母。治療は始まらない。結局肺炎 でしょうと入院することになる。一旦家に帰って再び訪れた我々夫婦に今度はベテラン の医者が話がありますと別室に招き入れる。肺炎も酷いですが、それより心臓の弁が硬 くなっていて何時止まってもおかしくない状態です。遠くの人には声を掛けて、会って 頂いた方がいいでしょうと医師が言う。 え!と半信半疑ながら兄弟に連絡をする。正月の元旦に親族は直ぐに集まった。兄弟 3 人、孫 11 人、曾孫は 4 人。病室で次々に来る孫たちに何時もの正月のように、母が 訓戒を垂れる。一通りの訓戒が終わると母は「長生きした、長生きした」と一人で何回 も頷いていた。 後になって医者が「最後はおばあちゃんが未だ生きようとする意志なんだよね。もう これでいいやと思うと終わっちゃう」と言ったのを思い出した。母は自らの人生に満足 して幕を引いたのかと今になって思う。容態も普通になり皆安心して帰って行った。 電話がけたたましく鳴ったのは 2 日の早朝 4 時。泊まり込んだ姉から「呼吸が止りそ うだと」悲痛な呼び出しが来た。駆けつけた時には温かかったが既に旅立った後だった。 苦しみもせず静かに終焉を迎えたとか。おばあちゃんと呼びかけても返事はない。思い を遂げ自ら旅立って行ったのかとも思える。 数日後葬儀になり母に対する思いを明確にした。会社を起業し辛酸をなめ尽くした父 親に寄り添い、すべてを飲み込んで最後まで気丈に振る舞いきった母親に「破顔一笑(一 生)」と彼女の人生を讃えたい。弔問客を迎える母親は底抜けの笑顔である。 (注)ごしたい:疲れた、しんどい(長野県の方言) 寄稿の掲載をご快諾いただきました I 様に心より感謝申し上げます。
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