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第一章 卒業制作の動機
1.ジェンダーとセクシュアリティ
2.女装と性的指向
じ ょ そ こ
第二章
私小説『僕の彼氏はヤンデレで女装子でドS』について
1.作品概要
2.作品背景
2.1女装とジェンダー
――――(1)私と女装
――――(2)「私は『男の子』になりたかった」と思っていた
――――(3)先行作品から読む女装と性的指向の扱われ方
――――(4)成海俊之は何者なのか?
2.2緊縛
――――(1)作中で緊縛を扱う理由
――――(2)私と緊縛
――――(3)愛と拘束を可視化した緊縛
3 登場人物の行く末
3.1現代社会における同性愛
3.2「男性の性的指向は女性である」という偏見
3.3ヤンデレ
参考文献
参考資料
注
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<第一章> 卒業制作の動機
1.ジェンダーとセクシュアリティ
ジェンダーには大まかに分けて4通りの意味があるという。
(加藤 2006 p.23-24)
① 性別そのもの
② 自分の性別が何かという意識(ジェンダー・アイデンティティ、性自認)
③ 社会的に作られた男女差(ジェンダー差、性差)
④ 社会的に作られた男女別の役割(ジェンダー役割、性役割)
どの意味をとってしても、ジェンダーには「社会的」または「文化的」という意味が含
まれている。
ジェンダーという言葉を「社会的に作りだされた男女差、男女別の役割」を言い変えて
私は「社会的・文化的に作られた男女性の様相」
「見た目や言動など、社会的・文化的に表
された性別」という意味で用いる。
人は他者を見た目や言動で「男」か「女」を判断しがちだ。例えば「スカートをはく」
「長
い髪をゆるく巻いている」「ガーターベルトを身につける」
「マニキュアを塗る」
「化粧をす
る」「可愛いを連発する」「口を押さえて笑う」……というような人がいる場合、多くの人
はその人を「女性」だと思うだろう。女性ファッション誌で取り上げられるような女性は、
上記の項目を満たしていることが多い。しかし実際の生物学的な性別は違うかもしれない。
道ですれ違う美女が、実は男であることもあり得ない話ではない。本当の性別は、脱がし
て見ないと分からないのに、人は見かけで人を判断する。
「~~であるなら、男/女だ」とい
う文化的・社会的に作られた固定観念で、人は人の性別を決定する。
セクシュアリティには「性に関する事柄」と「性行動の対象の選択や、性に関連する行
動・傾向」という意味があり、多くの場合「性的欲望」の意味で用いられる。
「性」の用語
には、大きく分けて二通りの意味があると加藤秀一は述べる。
生殖機能の違いにもとづく男女の区別とそれに関連する事象はジェンダー、あ
る種の肉体的な感覚、快楽、欲望といったものはセクシュアリティというように、
明確に表せます。
(加藤 2006 p.146)
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ジェンダーとは別にセクシュアリティが存在するという考え方だ。
ジェフリー・ウィークスはセクシュアリティが帰属すべき場は、社会や社会関係にある
と主張する。
セクシュアリティとは、社会生活における最も自然な要素、すなわち文化的鋳
型に最も抵抗するものであるどころか、おそらく社会編成に最も左右されやすい
もののひとつである。セクシュアリティは社会形態と社会編成を通してのみ存在
するとさえ言ってもよい。(Weeks 1996 p.36)
セクシュアリティは人間の本能的なものだと考えられがちであるが、実際はジェンダー
と同じく、自分の所属する文化や社会によって形成されているのだ。
人はジェンダーに欲情しているように思うが、実は違うかもしれない。
例えば、異性愛者の男が可愛い女の子を夜の繁華街で引っ掛けて、ホテルに連れ込むこ
とに成功した。そして部屋で女の子の服を脱がしてみると、身体は骨ばっていて胸もなく、
男にとって非常に残念な姿だった。男は立つものも立たず「こんなはずじゃなかった」と
嘆く。仮に「可愛い女の子」だと思って引っ掛けたのが「可愛い男の子」だったら、話は
どうだろう。男は先ほどの女の子と同じ反応になるのではないか。また「この際、可愛け
れば男でも良いや」と性的行為をするかもしれない。
個人のセクシュアリティを考える際、セクシュアリティを形成する、それぞれの要素に
ついて見ていく必要がある。人は何に欲情を感じるのだろうか。見た目の性別(ジェンダ
ー)なのか、生物学的性別(セックス)なのか。その欲情はどのような背景をもって作り
出されたのか。人のセクシュアリティは多様であり、人によってセクシュアリティとジェ
ンダーの関係性は様々である。私はセクシュアリティとジェンダーの関係性について、詳
しく研究してみたいと思った。しかしその関係性に触れた先行研究は少ないというのが現
状である。
それならばいっそ、小説という形を取ることで、自分なりにジェンダーとセクシュアリ
ティの関係性を明らかにしたいと思った。それが卒業制作を行なう動機である。
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2.女装と性的指向i
女装とは元々「女性の服装」を指す言葉だったが、今では殆ど「男性が女性の服装をす
る行為」の意味で用いられている。(井上 2004 p.121)
それでは女装をした男性を好きになる男性の性的指向は、何になるのか。女装を含む異
性装は性的嗜好iiに分類される。異性装に性的な興味をもつというのは、性的倒錯、服装フ
ェティシズムとも言える。
女装は性的嗜好であるから、上記の女装をした男性を好きになる男性の場合、性的指向
は男性となるはずだ。果たして本当にそう言い切れるだろうか?
『戦後日本女装・同性愛研究 (中央大学社会科学研究所研究叢書 16)』には、1955 年に滋
賀雄二氏を中心に 10 数名の会員で発足した、日本最初のアマチュア女装グループ「演劇研
究会」
(三橋 2012 年最終閲覧 Web サイト)会員名簿(1957 年版)についての記載がある。
(矢島 2006 p.472)
「その会員名簿には、ただ単に住所が記載されているというだけのものではなく、さまざ
まな質問への回答という形で、当時の会員 47 名のかなり詳しいセクシュアル・プロフィー
ルが記載」(矢島 2006 p.472)されており、55 年前の女装者の実態が伺える資料である。
会員名簿には 「自分では女装しない M 型(女装男子愛好家型)か」という質問項目があ
る。その回答の中で「同性愛の傾向は皆無だが、女装した男性と交際してみたい」
「同性愛
傾向(M 型だから自分では女装しない)にプラス、サド性あり」(矢島 2006 p.475-476)
というものがあった。前者は同性愛者の傾向はないが、女装した男性を愛好する。後者は
同性愛者の傾向があり、女装した男性を愛好する、ということである。
女装をしてジェンダー的には女性である相手を好きになるということは、擬似的だがヘ
テロセクシュアルiii的であると言えないのか。また何をもって異性愛者と言えるのだろうか。
考え方、定義は人それぞれだろう。私小説『僕の彼氏はヤンデレで女装子ivでド S』にお
いて、女装をする男性に惚れてしまう主人公のセクシュアリティ観の変遷について描き、
自分なりの考えを表そうと考えている。
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<第二章>『僕の彼氏はヤンデレで女装子でド S』について
1.作品概要
大学生の上林亮司は、学園祭でユキと呼ばれる緊縛師vに出会う。誘われるままユキに縛
られ、連れ出された先の人気のない場所でキスをされる。
一週間経ってもユキのことが忘れられない亮司の元に、成海俊之と名乗る一人の男が現
れる。そして「あの時」の二人しか知らないことを口にする俊之。ユキとは、目の前にい
る俊之が女装した姿だった。その事実を受け入れたくない亮司は、その場から逃げだす。
その後、ユキに請われるままに縛られ、亮司は普段の俊之との交流を通して、次第に心
を許すようになる。ある時、ユキの姿をした俊之に「好きだ」と告白され、戸惑う。亮司
はユキに対しては好意(恋愛感情)を持っていたが、俊之には友情以外の感情を抱けなか
ったのだ。どちらの姿を好きでいて欲しいかと問う亮司に、俊之は「どちらでも、好きな
方を。俺は俺であることには変わりませんから」と返す。
亮司は迷いながらも、今までと近い「友人以上、恋人未満」の関係で、俊之(ユキ)と
付き合い続ける。デートを重ね、順調だと思われた交際だが、ある出来事をきっかけに、
二人の関係は一変する。
バレンタインデーの 2 月 14 日。俊之は同じサークルの女学生に告白されたことを亮司に
告げる。亮司は激しく動揺し「やっぱりお前は女の方が良いんだよな。それなら、そいつ
と付き合えば良いよ」と、心にもないことを口にする。その言葉を契機として、二人の友
情も恋愛感情も破綻していく。
一年後の 2 月 14 日。亮司はある少女から「付き合って欲しい」と告白される。昨年の出
来事を思い出し、未だに成海に対しての気持ちが残っている自分に気付く。亮司は告白を
断るが、少女はそれを聞き入れず自分の思い通りにしようと、カッターを取り出し亮司に
迫る。それを救ったのは、亮司の隣の部屋に引っ越していた成海だった。
成海の部屋で介抱される亮司。成海は今でも亮司のことが好きだと告げる。そして互い
に裸の身体を晒し、亮司は成海がユキではなく俊之であっても、自分の気持ちが変わらな
いことを悟る。そして二人は一年間の空白の時間を埋めるかのように、互いの身体を探り
合う。
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3.制作の背景
2.1女装とジェンダー
(1)私と女装
女装をするのは、その日の気分次第だ。目覚めが良かった朝、時間に余裕のある日。そ
んな時に「あぁ、今日は女装をしよう」と思う。
2012 年 5 月 22 日の女装はこのような感じだ。顔を洗い、コンタクトを入れる。先に木
成りの薄ベージュ色で、首元にリボンタイが付いたブラウスを着てしまう。そしてプリー
ツスカートをはく。それから鏡を見ながら眉を整える。化粧水をコットンに染み込ませて、
顔をぬらす。乾くまで時間がかかるので、アイメイクをしてしまう。ビューラーでまつげ
をカールさせ、つけまつげを付け、アイライナーで目を囲む。まぶたにアイシャドウで色
を入れる。アイメイクが終わったら、BB クリームを塗り下地を作った後、リキッドファン
デーションを塗り、フェイスブラシでおしろいをつけたら、頬上にチークを入れる。
この工程までに 30 分以上かかる。だから私は女装をあまりしない。
ジム・シャーマン監督の映画『ロッキー・ホラー・ショー』
(1975 年)の Rose Tint My World
という曲を、Youtube でリピートしながら聞くともなしに聞いている。コルセットを着け、
ガーターベルトをはいた登場人物たちが、 フランクン・フルター博士に操られたかの如く
一心不乱にフロアショーを行なう。『ロッキー・ホラー・ショー』は私の大好きな映画の一
つだ。作品全身体から漂う「奇妙でエロティックな雰囲気」と「良く分からなさ」がたま
らなく面白い。
ガーターベルトを着け、ストッキングを留める。パンストをはくよりも時間がかかり、
しかもガーターベルトストッキング自身体高価だ。そして伝染しやすい。しかし、私はガ
ーターベルトを身に着けるのだ。ガーターベルトは私の女装に欠かせないアイテムの一つ
だ。
コルセットを着け、ブラウスのリボンを結んで整える。髪をブローし、バラのピン留めを
挿せば「女装した自分」の完成だ。姿見で自分の姿を見ると、いつもの自分がそこには居
ない。そしてヒールの高さが 10cm もあるピンヒールを履いて、大学へと向かう。
私の上記の女装はすなわち「ドラァグ・クイーン」のそれに近い。女性である私がドラ
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ァグ・クイーンというのは奇妙に感じるかもしれないが、ドラァグ・クイーンには女装す
る男性同性愛者だけではなく、男性異性愛者や女性も含まれる。
Drag queen(ドラァグ・クイーン)女性を誇張して演じてみせる人びとを指す
言葉である。キャンプviとのかかわりが深く、女性として『パスする(本物と見な
される)』ということをかならずしも意図していないという点で異性装のほかの形
態とは一線を画すと考えられる(Eadie 2006 p.90)。
女性の性を過剰に装飾したドラァグ・クイーンは「女性のパロディ」
「女性の性を遊ぶ」
を目的としている。私は女性でありながら、自分をジェンダー的に女性として割り切れて
いない部分がある。だから普段の薄化粧をしてスカートをはく女装も、ドラァグ・クイー
ンをする行為も、どちらも同じく「女性のコスプレをしている」という感覚に近い。
(2)
「私は『男の子』になりたかった」と思っていた
私が「女装」をするようになったのは、大学に入ってからだ。それ以前の私は「男の子」
になりたかった。そう思うようになった理由は幾つかある。
小学校低中学年の頃、スカートをはいていた時期があった。私はスカートをはいている
という特別な意識はなく、ある時ズボンをはいているのと同じように立膝をしていた。す
ると当然、パンツが見える。そして周囲の大人、特に同居していた父方の祖母からは「恥
ずかしい」「女の子が、みっともない」と何度も言われた。そして「女の子だから家事をし
なさい」
「女の子は胡坐をかくな」と言うのである。二歳年上の兄や父には許されているこ
とが「女の子」を理由にして許されていないことに、子供心にひどく理不尽に感じた。私
は「女の子」と繰り返し言われる度、次第にスカートをはかなくなり「女の子」である自
分と祖母を嫌悪した。
学校では、どうしてもクラスの女の子に馴染めなかった。一緒にトイレに行ったり、可
愛い手紙を交換したりするよりも、男の子たちと走り回ったり行動したりした方が、ずっ
と面白かったのだ。しかし仲の良かった男の子たちは、小学校四年生頃に私から次第に離
れていき、私は一人孤立してしまった。詳しくは分からないが、自分が「女の子」である
のが理由ではないかと、今でも思っている。
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そのような経緯で、また第二次性徴期もあり、今まで意識しなかった自分の性別を意識
し始め、そして「男の子」になりたいと思うようになった。男の子であれば、女の子であ
ることを理由にした制限はないし、男の子と変わらずに遊べる、女の子という性別を理由
に嫌われないと思ったからだ。
私が性同一性障害viiや、トランスジェンダーviii、インターセックスixという言葉を知った
のは高校生の時だ。人の性別や性自認が「男」や「女」だけではなく、もっと多様で複雑
なものなのだと知った時、衝撃を受けた。
「男の子になりたい」と思う自分は、性同一性障
害ではないかと疑問に思ったことも度々ある。しかし自分の性別や身体に違和感はあまり
覚えなかった。「当事者の日常生活に支障が出る」
「物事の特徴が極端である」とされれば
障害と名前が付く。自分が身身体的に女性であること、例えば胸が大きくなったり、生理
を迎えたりすることを面倒だとは思ったが、それが厭で厭で仕方ない訳でもなかったのだ。
私は「男の子になりたい」と思っていたが、カウンセリングを受け、ホルモン注射を打ち、
性別適合手術を受けて、男性の身体を手に入れたいとまでは思っていなかったのである。
私が卒業制作ポートフォリオと、自身の男の子になりたかった理由について書いていく
うちに、ようやく分かったことがある。
自分が女性であることを理由に、社会、世間的に「女の子だから~~すべきだ」という
性的役割を強制される。自分がしたくないことを、自分の性別を理由に強制される。規則
だからセーラー服を着ろ、スカートをはけ。戸籍上女だから女性らしく振る舞え。ステレ
オタイプの押しつけが、私はとても厭だったのだ。私が「男の子」であれば、女性の性的
役割を強制されずに済む。だから私は男の子になりたかった。それで男の子のような服装
を始めたのだ。一人称を「僕」と言っていた時期もある。
「自分が男の子であると認識され
れば、女の子としての性的役割を強制されることもないだろう」と考えたのだろう。
それがいつの間にか、自分の中で「男の子になりたい」だけが独り歩きを始めていた。
自分が性同一性障害ではないか? と疑問に思ったのも、その為である。
「自分は女の子で
はあるが、男の子になりたい」という部分だけ抜き出せば、性同一性障害のようにも見え
る。しかし自分の場合、性同一性障害で言われるような「自分の身体的性別と、性自認に
違和感がある」とは、また異なっていたのだ。
女装を始めるようになったのは、大学一回生の時、恋人(ジェンダー男性)ができたこ
とが大きく影響している。「ショートカット、シャツ、ズボン、すっぴん」という「男の子
になりたい」というよりも「女を捨てている」とも言える私の姿を見かねてか、その相手
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に「スカートも似合うんじゃないかな。化粧もしてみたら?」と言われたのを切っ掛けと
して、抵抗を感じながらもスカートやワンピースを購入して着るようになった。実際に化
粧をしたり女性的な服を身に付けてみたりすると、案外それらが似合った。
「これはこれで
アリだな」と思ったのである。
女性のファッションは幅が広い。ストリート、裏原、カジュアル、パンク、ギャル、お
姉さま、OL、モードなど、そのスタイルは多岐に渡る。その中で私はカジュアルと、レト
ロモダン、制服的な恰好の女装に落ち着いた。私の女性であることを象徴するような、丸
顔で童顔、むっちりとした太股や、大きくなってしまった胸、155cm しかない身長という
「男の子になりたかった」私のコンプレックスも、女装をすればそれらが寧ろ優位に働く。
「良いよ。似合うね」と他者(恋人)から認められることで、コンプレックスが解消し、
自分で自分を認められる自己肯定の手段として女装は大変有効に働いた。「男の子になりた
い」と思っていた時期、私は学校の制服を除いて、シャツとズボン以外の服装をほとんど
してこなかった。男性とも女性とも見て取れる中性的な容姿の人物に憧れていた。しかし
容姿や胸の関係で、髪の毛をショートカットにしても「ボーイッシュな女の子」が限度だ
った。男装をしてもパス度xが低ければ社会からは男の子として扱われないし、認められな
いのとは対照的だ。
フリルの付いたブラウスを着る、スカートをはく、化粧をする。これらは社会から「女
性が行なうこと」と見なされている事柄である。女装またはドラァグ・クイーンというジ
ェンダー女性の様相をとることで「社会的に作られた女性の姿」に沿った恰好をすること
になる。だからこそ私は女性でありながら女装という言葉を使う。「自分の性別が女性だか
ら、女性の恰好をする」のではなく「自分が似合うと思うから、自分が自分を肯定できる
から、女性の恰好をする」という理由で女装を選択しているのである。
女装は原義的には「女性の服飾」を指すが、現在、女装は「男性が女性の服装を身に付
けること」という意味で用いられることが多い。しかしまた新たな女装の意味が加わろう
としている。
社会・文化史研究家の三橋順子は女装について、このように述べている。
ところで、最近、女装という言葉に新たな第三の意味が加わりつつある。普段
はあまり女性的なファッションや化粧をしない女性が、しっかり化粧して女性的
なドレスや着物を着た状態を、彼女たちは「女装」と呼んでいる。例えば、日常
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はノーメイクでジーンズしか穿かない女性が、メイクアップして華麗な振袖を着
てパーティ会場に現れた時、
「今日は女装してきちゃいました」という挨拶がされ
ている。マニッシュxi化が進む現実の女性ファッションと女性的(フェミニン)で
あるとイメージされるファッションとのギャップを利用した「女性がより女性的
な服装をする」という意味での女装である。
こうした自己表現の「女の女装」には、成りたい自分に成る方法、在りたい自
分を自己演出するテクニックという点で、従来の「男の女装」と共通する要素が
ある。私はそこに新しい「女装」の可能性が潜んでいるように思う(井上章一 2004
p.119)。
私の行なっている女装は、三橋のいう第三の「女の女装」に近い。男女の線引きがより
あやふやになっていく現代社会において、第三の女装の意味も浸透していくのではないだ
ろうか。
(3)先行作品から読みとく女装と性的指向の扱われ方
ジェンダーの揺れ動きに関して論述された先行研究は多くあるが、ジェンダーと性的指
向の関係性に関する研究は決して多くない。それらの関係性はむしろ漫画や小説などのフ
ィクションの世界で良く描かれている。
江口寿史『ストップ!!
ひばりくん!』は、女装と性的指向について描かれた作品の一つ
だ。主人公の坂本耕作は母親を亡くし、母の古い友人である大空いばりの家に身を寄せる
ことになる。大空家で最初に出会った女の子に、耕作は一目惚れする。しかし耕作が女の
子だと思った大空ひばりは、実は女装した男の子だった。耕作を気に入ったひばりは、耕
作に対して猛烈(時にはエロティック)なアタックをするようになる。耕作はひばりの行
動に戸惑いつつ、
「性倒錯だ」と苦悩する。
ひばりは常に女の子の恰好をして、大空一家関係者以外には男であることを隠して「女」
として生活を送っている。父親には「この変態が」と唾をとばされるが「ぼく変態じゃな
いもん」と、色っぽいしなを作って抗議する。作中では明言されていないが、ひばりはト
ランスジェンダーか性同一性障害であるように思われる。ひばりは女の子として振る舞う
が、耕作にとっては「女装した男の子」であることに変わりない。耕作の夢の中に出てく
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るひばりは女性の身体つきをしており、
「もしひばりが女の子であったら良いのに」という
旨の発言から思うに、相手の見た目がどうであれ耕作の性的指向は「女」であることは変
わらなかった。
しかしひばりの二歳年上の姉、つばめはヘアスタイル以外ひばりと瓜二つであるが、耕
作はつばめに対して、はっきりとした好意は見せていない。それはひばりと性別を感じさ
せないプラトニックな関係を築いているからこそなのか疑問が残る。
また元々男性だと分かっていた相手の女装姿を見て、性的指向が揺らぐものもある。
宇野亜由美『オコジョさん』では、主人公の槌谷揺の姉である閑と出会った高校生、長
谷川は揺が女装した姿だと勘違いし、そして惚れてしまうエピソードがある。
両作品ともに共通して言えるのは、女装をしている男性に惚れる男性のエピソードをギ
ャグテイストで描いていることだ。これは「男性が男性にドキッとする」
「性的指向が揺ら
ぐ」ことが、異性愛主義の社会では、好奇の視線で見られたり、可笑しみのあることだと
捉えられたりしているからだろう。それらはややもすると、同性愛への嘲笑や偏見、差別
にもつながってしまう。セクシュアリティ観の揺らぎは、誰にでも起こり得ることである。
だから私は作中で「男性が男性にドキッとする」
「性的指向が揺らぐ」ことをギャグとして
扱いたくなかった。そしてそれらに真正面から取り組もうと思った。
もう一つの共通点は、女装している人物の「裸姿」を見ていないことだ。女を装った服
を脱ぎ、身体を晒すことで、生物学的な男性としての身身体特徴が露わになる。そこで本
当に「自分は女が好きだ」と思っていた性的指向が揺らぐかどうかが分かるのだが、少年・
少女漫画という制約もあり、その部分は描かれていない。いうなれば、あくまで男と「見
た目は」女という危うげな「疑似異性愛者」の関係を楽しむ作品であるといえる。それは
同性愛の様相とも異なるだろう。
私は『僕の彼氏は~~』では、先だって二人の関係が「疑似異性愛者」に基づくものだ
とした上で、互いに身体を晒した際、主人公の性的指向が揺らぐかどうか探りたい。
(4)成海俊之は何者なのか?
成海俊之には、モデルとなる人物が二人いる。
一人は私の大学時代に知り合った人物で、自称「半 MtFxii」の S である。嘘ともつかな
いような口調で「女の子になりたい」と言い、女の子のグループに一人男性である S が交
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じっている光景は、傍目から見れば異様だったかもしれないが、私たちにとっては、とて
も違和感がなかった。S は髪を長く伸ばし、痩せ形で中性的な容姿をしていたので、パーカ
ーとズボンというユニセックスxiiiな恰好をしていると、男か女か判断がつかなくなる。S は
大学のイベント、例えば学園祭があると度々女装を行なったが、喋らなければ容姿や振る
舞いも含めて女の子にしか見えなかった。
「男の子だとは意識できない」というのが、私を
含めた女の子たちの共通認識だった。私は S を女の子と一緒に楽しく過ごすのが好きな(一
応)男の子で、女の子になりたいということは、女の子に興味はないのだと思っていた。
しかしその認識は誤りであった。
「女の子に興味があるからこそ、女の子になりたい」とは S の言い分である。
「女の子にな
りたい男の子の性的指向は男である」と、私は性自認と性的指向を結びつけて考えていた
のだ。性自認と性的指向は、また別次元の概念であり「女の子になりたい」という男の性
的指向が、男である必要性はない。私は S が女の子と付き合っている姿、そして何に対し
て欲情するのか想像できなかったのだろう。だからこそ S の性的指向は女性であり、彼女
がいたことを知った時、にわかに信じられなかった。
私と S は戯れで何度か手を繋いで繁華街を歩いたことがある。おそらく周囲には、S の
言葉を用いるならば「百合xivカップル」として見られただろう。しかし性的指向から考えて
みれば、二人はヘテロセクシュアルカップルである。ジェンダーとセクシュアリティ、見
た目の性別と、性自認、性的指向は必ずしも一致しないことを実感した。
『僕の彼氏はヤンデレで女装子でド S』を私小説と題しているのは、私が S との関わりを
通して、ジェンダーやセクシュアリティについて考えを改めたこと、自身のセクシュアリ
ティ観が揺らいだ経験を基にして、小説が書かれているからである。私は自分の言葉をも
って、自分を語るのが苦手で苦痛すら感じる。特にセクシュアルな部分を赤裸々に衆目へ
晒してしまうのは勇気が要る。フィクションの形式をとり、上林亮司という架空の人物に
なぞらえることで、自身の考えや心の機微の移り変わりを代弁してもらうことにしたのだ。
もう一人のモデルは映画『ロッキー・ホラー・ショー』のフランクン・フルター博士で
ある。トランスセクシャル星から来たというフランクン・フルター博士は、濃い化粧を施
し、真珠の首飾りやコルセット、ガーターベルトを付け、高いヒールのある靴を履き“Don't
get strung out by the way that I look,Don't judge a book by its cover.”(私の格好にビック
リしないで
外見で中身を判断しちゃダメよ)”I'm just a Sweet Transvestite from
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Transexual, Transylvania.”(私はスイートな性倒錯者 生まれはトランスセクシャル星 ト
ランシルバニア星雲にあるの)と高らかに歌い上げる。
そしてフランクン・フルター博士は、ドライブ中に車のタイヤがパンクした為、電話を
借りようとやってきたブラッドとその婚約者ジャネットのカップルとそれぞれ性的関係を
持つ。私は「既存の女性、男性像に縛られない、性別、ジェンダーを超越した人物」であ
るフランクン・フルター博士に圧倒された。フランクン・フルター博士は、トランスセク
シャル星人という人知から離れた人物だからこそ、奇抜な思考や恰好が確立するキャラク
ターであるとも言える。それを現代小説として描くとすれば、どうなるだろうか?
私は成海俊之(ユキ)を性別二元論xvにとらわれない人物として描きたかった。成海はバ
イセクシュアルxviというよりも、パンセクシュアルxviiのニュアンスをもたせている。
成海は女装をするが、彼自身の性自認が女性であることを理由としない。成海は異性装者
の側面を持つが、トランスジェンダーのように性別違和の解消の為に女装を行なう訳では
ない。自分のしたい、似合う恰好を選んで行なう。それが成海の場合、化粧をしてスカー
トを穿くことだった。それが女装という性倒錯とも言われてしまう名前がついただけのこ
とである。自分にとってより快適で満足のいく自身のジェンダーを創造的に行なっていこ
うとする「ジェンダークリエイティブ」の考え方とも結びつく。
私は『僕の彼氏はヤンデレで女装子でドS』において、亮司とユキの出会いのシーンを
このように描写した。
フリルがふんだんに使われた白地のブラウス、胸元にはリボンが留められ、黒
のコルセットを締め、チュールのふわふわとしたスカートを穿いた彼女は、僕と
目が合うと、にこりと微笑んだ。
化粧は濃い目で、少し口は大きいが、それを差し引いても美人だと思った。は
っきりとした二重瞼の整った顔立ちで、長くて真っ直ぐな黒髪を後ろで一つに束
ねている。年齢は僕と同じか、少し下に見えた。
(中略)
身長は僕と同じか、やや高いぐらいだが、十センチメートルはあるピンヒール
を穿いている為、たまにこちらへ振り返る際の視線は、どうしても見下ろされる
形になる。
目線を上に遣ると、膝上で穿かれたスカートの裾から、ストッキングに真っ直
ぐ伸びる紐がチラチラ見えた。
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……ガーターベルトだ。
コルセットとピンヒールとガーターベルト。役人と罪人というより、女王様と
奴隷と呼ぶ方がふさわしいかもしれない。
ユキの学園祭での恰好は、フランクン・フルター博士の衣装、そして自分のドラァグ・
クイーン姿を元にしている。学園祭のユキは初対面では亮司と一言も話さない。それはユ
キを謎めいた妖しげな人物として描きたかったのと、言葉を発してしまうと男性だと分か
ってしまうからである。現代社会において、人は自分の性的指向を言明しない限り、異性
愛者であると考えられがちだ。俊之も亮司に対してそのように考えたのだろう。男性にキ
スをされるよりも、女性にされた方が良いはずだと、俊之はユキとして亮司に迫り、自分
の好意を伝える。フランクン・フルター博士も、ブラッドとジャネットに迫る際、ブラッ
ドにはジャネットの姿、ジャネットにはブラッドの姿で、それぞれの寝台に忍び込む。相
手に与える見た目の第一印象が何よりも重要である、という話である。
2.2緊縛
(1)作中で緊縛を扱う理由
最初『僕の彼氏はヤンデレで女装子でド S』というタイトルを思い付いた時「ヤンデレと
ド S」を視覚的に表そうと考えた結果、緊縛が思い浮かんだ。
そして二人の出会いの場面を考えた時、後述のサークルの先輩と弟子にあたる後輩が、
木野祭で緊縛喫茶をやっていたことを思い出した。緊縛喫茶とは、その名の通り喫茶をや
る傍ら、お客さんを緊縛する喫茶店のことである。
緊縛喫茶とは知らず、ブースを訪れた主人公は縛師のユキと出会う。出会いが学園祭で
あることには、二つの意味がある。男性が女装をしていても違和感がないこと。普段はあ
まり見ることのない緊縛を披露できる場としてふさわしいと思ったからだ。祭は非日常的
な空間を形成し、全ての事象を抱擁してしまうだけのパワーを有している。
作中で明記はしていないが、亮司や俊之が在籍する大学は、京都精華大学がモデルであ
り、学園祭とはすなわち木野祭を指す。以前、幾つか他大学の学園祭に行ったことがある
が、女装をしている男子学生は殆どおらず、奇抜なものを出している屋台も無かった。い
14
うなれば、木野祭がモデルでなければ作品冒頭のような展開になりえないのだ。
二人のファーストコンタクトがユキであるのは、初めから男性の俊之と会ってしまうと、
異性愛者であるはずの亮司が恋愛感情までに至らないと思ったからである。学園祭という
非日常的な空間で出会った女性と再び出会いたいと願い、日常生活の中で男性であること
を知る。すなわちユキは、亮司の非日常で生きる人物であり、普段は俊之と接しているこ
とになる。ユキの行なう緊縛もまた非日常的なものである。亮司にとっての非日常は、ユ
キ、女装、緊縛、サークル、デート、恋愛、学園祭。日常は、俊之、シャツとジーンズ、
友情、大学、講義となる。『僕の彼氏~~』は、亮司が緊縛や俊之を通して、非日常と日常
を行ったり来たりする話であるとも言える。
(2)私と緊縛
私が緊縛の存在を知ったのは、いつのことだったか覚えていない。小学生か中学生の頃
か。第二次性徴の始まる前後だったように思う。
初めて見たのは、猿轡を嵌められて苦悶の表情をした、裸で縛られている女性の写真か
イラストであったように思う。または SM 小説のようなもの
を読んだ時に、そのような緊縛の表現があったのかもしれな
い。
いずれにせよ「良く分からないことをしているなぁ」と思
ったのは確かだ。なぜ人を縛るのか、そして梁に吊るのか。
「M 女」と呼ばれる人は縛られて、何が楽しいのだろうか…
…意味が分からなかったが、見てはいけないものを見ている
ような隠微な背徳感はあった。緊縛は性行為よりも何をやっ
ているか分かりやすく、その目的は全く分からなかった。緊
縛を知った当時の私は、随分とマセた子供だったように思う。
大学一回生の時、サークルの先輩が緊縛サークルを作った
という話を聞き「縛られてみたい」と思った。
「縛ってみたい」
ではなく「縛られてみたい」となるのは、良く考えてみると
不思議な話である。私が嗜虐よりも、被虐的な性格をしてい
▲筆者が緊縛等されている
ることが原因なのだろう。
様子(2012 年 9 月 4 日撮影)
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そして実際に縛られてみると、エロティックなものは何も感じず「何か縛られているな」
「意外と背筋が伸びて、矯正されているみたいだ」などと、全く卑猥でも何でもない感想
を持った。
自分が縛られている様子を写真で見せて貰った所、肌には縄が食い込み、縄で胸が強調
されて、それは刺激的な様相をしていた。緊縛は視覚的効果が強く、第三者が見て楽しむ
という意味合いも多分にある。しかし第三者的な見方ではなく、縛師と被縛者の関係に焦
点を当ててみるとどうだろう。それは先輩と後輩のような、有る意味希薄な関係からの緊
縛ではなく、もっと近しい間柄、例えば恋人同士での緊縛。所謂 SM プレイで女王様やご
主人様と下僕の間で行なわれる緊縛とは、また異なるはずだ。もし仮に、私が初めて緊縛
された時、その相手が恋人であった場合、その感想もまた違っていただろう。
(3)愛と拘束を可視化した緊縛
作中では「緊縛」が重要なファクターになっている。
緊縛は SM のプレイ要素の一つであると、世間に認知されており、どうしてもエロティ
ックなものを想起させやすい。緊縛に関する映画として、資料の為、緊縛描写のある映画
として、石井隆監督の映画『花と蛇』
(2004 年)
、安原伸監督の映画『縛師 BAKUSHI』
(2008
年)を鑑賞した。上記の作品での緊縛は、女性をいかにエロティックに美しく見せるかに
焦点が当てられており、私の思い描く緊縛とはまた異なっていた。
岩井俊二監督の映画『undo』
(1994 年)では強迫性緊縛症候群という「一種の愛の病」
を患った女性が登場する。彼女は周りにあるもの、それは果物やペットの亀、書籍、そし
て空間や時間という概念まで縄や糸で縛っていく。
「自分が縛られているというような強迫
観念があって、それが他縛/自縛症状となって現れる」
「縛りつけているのではなく、寧ろほ
どけている」という台詞が登場する。
映画『undo』は今まで観た緊縛描写のある作品の中で、自分の緊縛に対するイメージに
一番近いものだった。緊縛はただ性的興奮を呼び起こす為だけのものではなく、手ずから
相手を縛っていく行為や目的に価値がある。作中で表現される「綻んでいくものを何とか
して繋ぎ留めようとする行為が、緊縛である」は、自分の書く小説の緊縛と根底は同じよ
うなものを感じた。
作中の緊縛には「相手に対する愛、独占欲の可視化」の意味をもたせている。相手を自
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分の手ずから縛る行為は、束縛の何物でもない。ユキ(俊之)が初めて亮司を縛った際は、
相手への秘めた感情を間接的に表現する為の手段として、二人が交際した後の緊縛は「愛
情」
「独占」を表すようになる。全身が縛られている様は、縛師の抱擁すら思わせる。
被縛者は縛られることで縛師に対して信頼と依存を示し、大変に特殊で隠匿的な緊縛と
いう行為をもって、自分が相手にとって特別な存在であると感じさせ「縛師は自分のもの
である」と安堵する。
最終章において二人は三度目の再会の後、互いの身体を探り合う。そこに緊縛はない。
彼らにとっての緊縛は性行為の代替でもあり、縄を媒介とせずに相手と触れ合おうとする。
作中で二人はキスをしたり、デートをしたり、抱き合ったり、一緒のベッドで寝たりはす
るが、最終章までフェラチオやペッティングなどの性的な行為をすることも、互いの裸を
見ることもない。
異性愛者だと思っている亮司は、男性の身体や男性と性行為をすることに抵抗がある。
ユキは見た目としては女性であるが、化粧を落として服を脱げば、男性(俊之)だと分か
ってしまう。二人は身身体的な性別を理由に、関係を壊したいと思ってはいないが、セク
シュアルな行為を通して、互いが親密で特別な存在であることを確認し合いたいとは思っ
ている。裸を見せず、ペニスや道具を使わない性的行為として、二人は無意識の内に緊縛
を選んだのだろう。
最終章で互いの気持ちを確認した二人は、初めて自分の裸身体を相手に晒す。亮司は相
手がユキではなく、真っ平らな胸で程良い筋肉があり、自分と同じくペニスを持った俊之
であっても、やはり自分の気持ちが変わらないことを悟る。身体を触り合い、舐め、弄る。
そこに緊縛が介在する必要性はないのである。
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4.登場人物の行く末
3.1現代社会における同性愛
作中では互いの気持ちを知り合い、再び付き合うことになった亮司と俊之だが、正直に
言って二人の関係が長く続くとは思えない。それは現代の日本社会を舞台としていること、
そして二人の関係が、同性愛であることも要因である。
ミシェル・フーコーは『知への意志』
(1986)において、資本主義と性に関して以下のよ
うに述べている。
18 世紀から 19 世紀にかけて起こった産業革命は資本主義経済を生みだした。資本主義経
済は労働力が資本となる。
「十八世紀における権力の技術にとって大きな新しい様相の一つ
は、経済的・政治的問題としての『人口』の問題であった」
(Foucault 1986 p.35)
。資本主
義国家では「富としての人口であり、労働力あるいは労働能力としての人口」(Foucault
1986 p.35)の増加が必要になる。
「このような人口をめぐる経済的・政治的問題の核心とし
て、性の問題があった」(Foucault 1986 p.34)のである。
18、19 世紀において、異性愛に基づく一夫一婦制について語られることは少なくなり、
反対に「少年期の性行動であり、狂人のそれ、犯罪人のそれ」
「異性を愛さない者たちの快
楽」
(Foucault 1986 p.50)を問題とするようになった。
「近代社会は、性行動を夫婦に限定
しようとした――異性愛の、そして可能な限り正当な夫婦に、である」(Foucault 1986
p.58-59)
その後、医師、教育者、後には精神病医によって「神経質な女、冷感症の妻、無関心な
母あるいは殺人の妄想にとりつかれた母、性的不能者にしてサディックであり、かつ倒錯
者である夫、ヒステリー症か神経衰弱の娘、早熟手すでに精力を使い果たした少年、結婚
を拒否しあるいは女を無視する同性愛の若者」
(Foucault 1986 p.141-142)を「逸脱した婚
姻と異常な性的欲望との入りまざった形象である」
(Foucault 1986 p. 142)として、心理
学化、精神病理化を行なった。
つまり同性同士の恋愛、セックスは「非生産的」だからこそ、同性愛を病理化して、治
療の対象としたのである。異性愛を「正しい性」
、異性愛カップルが夫婦となり子供を産み
育てる家庭を「正しい家族」とした方が、資本主義国家の労働力確保の為には、都合が良
18
かったのである。
日本は明治維新を契機として近代化を進め、西欧化していく。以前の封建制は崩壊、資
本主義へと移行した。そして明治 31 年に民法で「婚姻法」が制定され、一夫一婦制が成立、
近代の「家」制度や家父長制が誕生することで、日本人の家族意識や性規範に大きな影響
を与えた。現代の日本社会では、家族が優先される異性愛主義が根底にあるのである。
そして同性愛は異常性欲、性的倒錯、性的逸脱であり「同性愛は病気である」という考
え方が長い間続いた。1993 年 WHO(世界保健機構)の国際疾病分類で、同性愛は異常で
はなく治療の対象にはならないと、疾病から除外された。
しかし現在でも同性愛に関して偏見や差別は根強く残っている。私たちが学校などの教
育現場において、同性愛に関して一切習っていない、適切な情報提供がなされていないの
も原因の一つだ。異性愛中心の文化が主流である中で「一切習っていない」
「基本的な知識
もない」同性愛を「異常なもの」と捉えても仕方ない面はあるが、差別撤廃の政策や対策
が取られていないのは、例えば被差別部落に関する一連の国策とは対照的だ。労働力が重
要視される資本主義社会では、経済発展や少子化の抑制に対応する異性愛主義を促進する
教育や政策は行なっても、同性愛など性的少数派への対応は行なわないのである。
亮司は同性愛に関して偏見や差別意識は持っていない。しかし自分が当事者となると、
また別の問題が出てくる。それは異性愛主義が正しいとする世間の視線である。同世代の
若者ならまだしも、自分は同性愛者だとカミングアウトした際「俺は、お前をちゃんと育
てたはずだ」と言う同性愛に関して否定的な親(の世代)は多いだろう。同性愛に対する
周囲の視線が厳しい程、生き辛さを覚えることになる。
「結婚し、妻と子供を養うことこそ
男の甲斐性」というような風潮が今も尚残っており、同性婚やパートナーシップ法xviiiも成
立していない。「恋人が男性であると言えない」
「同性を好きになった自分は異常ではない
か」と思い悩み、自分が原因で精神的に病んでいく亮司を、成海は見ていられず別れを切
り出す可能性だってあるのだ。
3.2「男性の性的指向は女性である」という偏見
亮司は一度目のバレンタインデーで、成海が女学生に告白されたと言った時「成海は男
であるから、結局は自分を選ばずに女性を選ぶのだ」と解釈し「その相手と付き合えば良
い」と言ってしまう。それは「男性は女性を性的指向とするものだ」という異性愛主義社
19
会で育った故の誤った偏見を持っていたからだ。異性愛者がマジョリティxixであるからとい
って、相手がそうであるとは限らない。
そして成海はパンセクシュアルである。実際に成海は亮司と疎遠になった後、告白され
た女の子と一時期付き合っていた。性的指向だけを考えてみれば、成海は男性女性その他
を愛せるのである。成海がどれだけ亮司のことを好きだと言っても、結局成海は女性の方
を好み、選ぶのではないか、という漠然とした不安や恐怖感は拭い切れない。二人は「異
性愛主義」という社会的要因によって別れる可能性が高いのだ。
3.3ヤンデレ
成海は小説のタイトル通り、ヤンデレである。
ヤンデレは「病み」「デレ」の合成語であり、ツンデレの派生用語として生まれた。ツン
デレとは「日常ではツンとしているものの、思いを寄せた人と二人きりになると、デレっ
とすること」
(イミダス編集部 2005 p.958)である。ツンデレはゲーム、アニメ、漫画など
二次元に登場する女性キャラクターの性格を示す、オタク文化の隠語として生まれた。ツ
ンデレ、そしてその派生用語であるヤンデレは通用する範囲が限定されたサブカルチャー
的な用語である。
ヤンデレにも複数の意味、分類があるとされている。成海の場合は「相手に対してこの
上ないくらいに惚れている」
(Chakuwiki 2012 年最終閲覧 Web サイト)という意味での
ヤンデレである。対象となる相手(亮司)への愛情の深さも病的であり、順調な交際であ
る間は良いのだが、相手が他の人物に気を遣ったり、自分に無関心であると感じたりする
と、反動的に途端に不安になって落ち込み、一気に負の感情が噴出する。暴力に訴えたり、
突然相手に対して無関心になったりする。
(あづまやすし 2012 年最終閲覧 Web サイト)
ヤンデレは躁鬱気質xxとも似ている。成海が一時期亮司と疎遠になったのは、上記の理由か
らである。
ヤンデレ気質が短期間で解消するとは思えない。矯正も難しい。ヤンデレと付き合うと、
互いに傷付け合いボロボロに消耗する、というのが私の経験からくる持論である。この二
人も例外なく、衝突を繰り返して再び別れる結果となるだろう。
私は二人の別れまで描くつもりはない。ヤンデレはあくまでもキャラクターの一設定に
過ぎない。そして同性愛者や性的少数派の恋愛における葛藤を主軸とした内容でもない。
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小説では様々な人や出来事との出会いによって変わっていくセクシュアリティ観の遍歴を
描くことで、セクシュアリティとジェンダーの関係性を明らかにすることに重点を置いて
いる。別れの原因はまたそれとは異なるからである。
21
参考文献
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ジョー・イーディー『セクシュアリティ基本用語事典』明石書店、2006 年
ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅰ 知への意志』 新潮社、1986 年
中村美亜『クィアセクソロジー――性の思いこみを解きほぐす』インパクト出版会、2008
年
イミダス編集部『imidas イミダス 2006』集英社、2005 年
風間孝、河口和也『同性愛と異性愛』岩波新書、2010 年
佐伯順子「『女装と男装』の文化史」講談社、2009 年
三橋順子「女装と日本人」講談社、2008 年
麻生一枝『科学でわかる男と女になるしくみ――ヒトの性は、染色身体だけでは決まらな
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吉井奈々、鈴木健之『GID 実際 私は どっちなの!? ――性同一性障害とセクシュアルマイ
ノリティを社会学!』恒星社厚生閣、2012 年
遙洋子『結婚しません』講談社、2000 年
北村邦夫『ティーンズ・ボディーブック』扶桑社、2003 年
すぎむらなおみ『エッチのまわりにあるもの 保健室の社会学』解放出版社、2011 年
浅井春夫他『ジェンダーフリー・性教育バッシング ここが知りたい 50 の Q&A』大月書店、
2003 年
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参考資料
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ジム・シャーマン『ロッキー・ホラー・ショー』20 世紀フォックス、1975 年
石井隆『花と蛇』東映ビデオ、2004 年
22
安原伸『縛師 BAKUSHI』GP ミュージアムソフト、2008 年
岩井俊二『undo』ヘラルド・エース、1994 年
上川伸廣『私が私であるために』日本テレビ系、2006 年
ジェーン・アンダーソン、マーサ・クーリッジ、アン・ヘッシュ『ウーマン・ラブ・ウー
マン』HBO、2000 年
ステファン・エリオット『プリシラ』ヘラルド・エース/日本ヘラルド、1995 年
關錦鵬 『情熱の嵐~藍宇~』ケンメディア、2002 年
金田敬『愛の言霊』ビデオプラニング、2007 年
グレン・フィカーラ、ジョン・レクア『フィリップ、きみを愛してる!』アスミック・エ
ース、2010 年
リサ・チョロデンコ『キッズ・オールライト』ショウゲート、2011 年
ジュリアン・シュナーベル『夜になる前に』アスミック・エース、2001 年
中島丈博『おこげ』東京テアトル、1992 年
【漫画】
江口寿史『ストップ!! ひばりくん! 』全 3 巻、集英社、1991 年
宇野亜由美『オコジョさん』全 8 巻白泉社、1998 年
松本トモキ『プラナスガール』既刊 5 巻、スクウェア・エニックス 2009 年
月子『彼女とカメラと彼女の季節』既刊 1 巻、講談社、2012 年
中村珍『羣青』全 3 巻、小学館、2010 年
カレー沢薫『クレムリン』既刊 6 巻、講談社、2010 年
カレー沢薫『アンモラル・カスタマイズZ』既刊 1 巻、太田出版、2012 年
よしながふみ『きのう何食べた?』既刊 7 巻、講談社、2007 年
【Web サイト】
女装家 Mitsuhashi Junko homepage
『日本女装昔話【第 2 回】最初のアマチュア女装集団「演劇研究会」
(1950 年代後半)
』
http://www4.wisnet.ne.jp/~junko/junkoworld3_3_02.htm
(最終閲覧日:2012 年 12 月 14 日)
Chakuwiki『ベタなヤンデレキャラの法則』項目
23
http://wiki.chakuriki.net/index.php/%E3%83%99%E3%82%BF%E3%81%AA%E3%83%
A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AC%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9%E
3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87
(最終閲覧日:2012 年 12 月 14 日)
恋愛カウンセラーあづまやすしの女と男の心のヘルス
癒しの心理学
『3.女と男の心理学用語集 ヤンデレ 【やんでれ】』
http://www.556health.com/archives/2009/09/post_372.html
(最終閲覧日:2012 年 12 月 13 日)
注
i
どの性別を恋愛・性愛の対象にするかという、性的傾向のこと。
性的な興奮や欲望を抱く対象の方向性。性的行動において特定の好みやこだわりをもつも
の。
iii 異性愛者のこと。
iv 「じょそこ」と読む。一般男性が趣味として行なう女装のこと。飲食業や風俗産業、シ
ョービジネスなどで行なわれる商業的な女装とは区別される。サブカルチャー的な意味合
いが強い。
v 縄師ともいう。緊縛術をもって、縄で人を縛る人物のこと。
ii
vi
華やかな美的過剰性と皮肉みのきいたユーモアという側面を併せ持った感性を指す言葉。
生物学的な性別と性自認が異なっている状態のこと。略称は GID。
性同一性障害ではあるが、性別適合手術を望まない、受けていない状態、または人物。
ix 先天的に生物学上の男性と女性の特徴をもつ状態、または人物。
x この場合、男装をして男の子だと思われる確率のこと。
xi 女性の服装などが、男性的である様子。
xii Male to Female の略称。
「男性から女性へ」の意味。生物学的性別が男性で、性自認が
女性。性同一性障害の一種。半 MtF としているのは「MtF っぽい」というニュアンスがあ
るのだろうと思われる。
xiii 男女どちらにも見える服装や髪形のこと。またはそのようなファッションを指す。
xiv 女性同性愛者のこと。レズビアンというよりもサブカルチャー的な意味合いが強い。
xv 性別は女性と男性の二種類であるとする理論。
vii
viii
xvi
xvii
男女両方の性を恋愛の対象にする人。
男性女性、性自認を男女どちらかにすることを良しとしない人などを含めて、恋愛の対
象とする人。
xviii
夫婦に準じる権利を同性カップルにも認めるという法律。
多数派、多数者の意味。対義語はマイノリティ。
xx 気分が高揚して行動が活動的になる躁状態と、気分が憂鬱に沈み込む鬱状態が単独、あ
るいは周期的に交互に現れる感情傾向にあること。
xix
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