生 -権 力 の た わ み ― ― ホ ー ム レ ス の 生 の 視 点 か ら み た 死 生 学 仁平典宏 ( 2005 年 死 生 学 研 究 編 集 委 員 会 『 死 生 学 研 究 』 2005 年 秋 号 pp.111-141.) 1 はじめに 本 稿 は 、福 祉 国 家 再 編 と い う 文 脈 に お け る ホ ー ム レ ス の 生 /死 を 巡 る 状 況 を 分 析 す る こ と を通して、現在の死生学が検討すべき一つの課題を浮かび上がらせることを目的とする。 しかし、なぜホームレスなのだろうか。ホームレスは、既存の死生学においてあまり対象 と さ れ て こ な か っ た 1 。私 見 で は こ れ は 偶 然 で は な く 、多 く の 死 生 学 的 問 題 設 定 が 前 提 と す る現代社会認識と十分に整合しない形象だったからだと考えられる。本稿では、ホームレ スに注目することで、死生学に関する議論に一つの論点を提供していきたい。 それでは、死生学は、どのような現代社会に対する判断を下しているのだろうか。この 点に関して、一つのキーワードは「医療化」であると思われる。徹底した医療化批判を行 な っ た イ リ イ チ ( 1976= 1979) に よ る と 、 医 療 化 と は 、 生 /死 、 身 体 に 関 わ る 事 柄 に 近 代 医療が介入しその範囲を広げていくことで、人々をそれに依存させると同時に、医療が原 因となる問題(医原病)を生み出していくという事態である。この概念は様々な問題と接 続可能で、死をめぐる文化的次元においては「個々人が自己自身で、また家族らの親しい 人たちとともにこそいのちに向き合うべきところに、医療が入り込んで死生の真実から 人 々 を 引 き 離 し て し ま う 」( 島 薗 2003:23) 事 態 を も た ら し 、 ゴ ー ラ ー や ア リ エ ス の 死 の 抑圧という問題とも重なってくる。また、医療家支配と患者の自己決定の抑圧いう、フリ ードソンの問題系とも深く関連する。さらに脳死・臓器移植、出生前診断などといった新 たな問題は、医療化の一つの帰結として生じてきた。つまり、医療技術の進歩によって生 命/身体への医学的介入の欲望が、既存の哲学・倫理学が直接主題としてこなかった諸問 題を「現実的」なものとし、身体の資源化とその需要に応える形で脳死=死という死の定 義の書き換えなど、死や人間の概念自体にも関わる事態を生起させている。 この事態が、いかなる社会の、権力作用のもとに生起しているのかより広い視座から考 えるためには、やはりフーコーの研究が重要であろう。彼は医学について次のように述べ る。 「 社 会 に よ る 個 人 の 管 理 は … … 身 体 の 内 部 で 、身 体 と と も に 行 な わ れ る も の で も あ り ま す 。資 本 主 義 社 会 に と っ て 何 よ り も 重 要 な の は 生 = 政 治 的 な も の で あ り 、生 物 学 的 な も の 、 身 体 的 な も の 、肉 体 的 な も の で す 。身 体 と は 生 =政 治 的 な 現 実 で あ り 、医 学 と は 生 =政 治 的 な 戦 略 に ほ か な り ま せ ん ( Foucault 1979=2001:280)」。 生 =政 治 と は 、 種 で あ る 身 体 、 生 物学的な身体を対象とし「繁殖や誕生、死亡率、健康の水準、寿命、長寿」の条件を変化 さ せ る た め に 介 入 ・調 整 を 行 な う も の で あ り( Foucault 1976=1986:176)、「 生 命 を 経 営 ・ 管 理 し 、 増 大 さ せ 、 増 殖 さ せ 、 生 命 に 対 し て 厳 密 な 管 理 統 制 と 全 体 的 な 調 整 ( Foucault 1976=1986:173)」 を 企 て る 生 -権 力 の 一 つ の 極 を 構 成 す る 。 こ れ は 、 人 口 の 増 大 が 労 働 力 を介して生産力の増大につながる資本主 義ル メ ムカ ニ ズ ム の 中 で 要 請 さ れ て き た も の で 、 人 々 ノ を 生 を 専 門 的 に 配 置 ・ 分 類 ・管 理 し 、 常 態 /規 格 を 参 照 点 と し な が ら 、 生 の 形 式 を 押 し 付 け ていく。福祉国家制度や公教育なども同じメカニズムとして捉えることができるが、近年 の 臓 器 移 植 や 遺 伝 技 術 が 提 起 す る 問 題 は 、生 -権 力 と 同 じ 力 学 系 の 中 に あ り な が ら 、そ の 新 し い 局 面 を 示 し て い る と い う 指 摘 も あ る 2。 い ず れ に せ よ 、死 生 学 の 多 く で は 、基 本 的 に は 、こ の 近 代 的 な 生 -権 力 の 侵 攻 に 対 し 、ど の よ う に そ れ と は 異 な る 生 /死 の 領 域 を 開 示 し て い け る か と い う 問 題 設 定 が 、潜 在 的 に 伏 在 していると考えられる。以下では、これに対する代表的な議論/実践を検討したい。 ビ オ = ポ リ テ ィ ッ ク 2 超越的戦略 ―スピリチュアリティの射程 ま ず 、 そ の 最 も 基 本 的 な 戦 略 は 、 近 代 医 療 ・ 生 -権 力 に 捕 捉 さ れ な い 生 /死 の 〈 自 然 な 〉 関 係 性 を 救 い 出 す こ と で あ る と 考 え ら れ る 。例 え ば 島 薗 は 、近 代 医 療 が 対 象 化 す る の は「 個 体的、身体的、生物学的な次元」の生命であるとし、それが生死を巡る自然な関係性に照 準 を 合 わ せ て い な い と 指 摘 す る ( 島 薗 2003)。 問題はその次元をどのように捉えていくかであるが、その方向性の一つは、近代医療的 生の〈外部〉を、超越的なものとして基礎づけるというものである。例えば島薗は、それ を「 い の ち 」と 呼 び 、そ れ を 個 体 的 、身 体 的 、生 物 学 的 な「 生 命 」の 次 元 と 区 別 す る 。「 い の ち 」 と は 、「 五 感 で 直 ち に 確 認 で き る 領 域 を 越 え て い る と い う 意 味 で 『 超 越 的 』 で あ り 、 宗 教 的 な も の 、ス ピ リ チ ュ ア ル な も の に 関 わ り が 深 い 。 『 い の ち 』は 人 と の 交 わ り や 、宇 宙 的 な 秩 序 や 神 仏 や 先 祖 や 霊 的 存 在 と の 関 わ り の 中 に あ る 。こ の『 い の ち 』は『 心 』や『 魂 』 や『 つ な が り 』 ( 関 係 、絆 )に つ い て の 文 化 と 切 り 離 し て 理 解 す る こ と は で き な い だ ろ う( 島 薗 2003: 25)」。 こ の 観 点 は 、 社 会 学 に お い て も 見 ら れ る 。 例 え ば 、 広 井 良 典 は 、 日 本 人 に と っ て 生 /死 が 自 然 の 中 に あ っ た の は 、仏 教 的 世 界 観 導 入 以 前 の「 原 ・神 道 的 」な 段 階 で あ っ た と し 、近 代 化 、特 に 高 度 成 長 期 に 至 っ て 生 /死 は「 唯 物 論 的 」に 捉 え ら れ る よ う に な り 、 そ れ と と も に 生 /死 の 意 味 が 奪 わ れ た と い う ( 広 井 2005)。 よ っ て 、 今 後 死 を 扱 う 領 域―例えばターミナルケア―は、 「 唯 物 論 的 」で な く「 た ま し い の 帰 っ て い く 場 所 」と し て 構 想 す る 必 要 が あ る と 主 張 す る ( 広 井 1997)。 こ の よ う な 方 向 性 は 、 近 代 科 学 の 〈 外 部 〉 を捉えようとする試みにおいて広くみられるものであり、ここでは超越的戦略と名づけた い。 さて、現在の死生学をめぐる議論において注目したいのは、この方向が、さらに日本的 な伝統・文化の再発見・構築という方向と重なることがあるという点である。つまり近代 /近代批判の軸に、西洋/東洋(日本)の軸が交錯する。この文脈は生命倫理をめぐる議 論 を 考 え る こ と で 理 解 で き る 。先 述 の 通 り 、臓 器 移 植 は 、身 体 / 生 命 の 資 源 化 と 生 -権 力 の 一帰結として捉えることも可能で、真摯な議論を必要とするわけだが、英米系の生命倫理 はその流れを肯定するケースが多い。例えば、いのちのスピリチュアルな次元を説いてい た は ず の 死 生 学 者 の デ ー ケ ン も 臓 器 移 植 は 肯 定 す る( 島 薗 2003)。こ れ に 対 抗 す る た め に 、 近代医療と欧米的生命倫理/死生学が共に持つ共通の前提を―例えば「心身二元論」など として―浮かび上がらせ相対化していくべく、この方向が推し進められていった。これに 対 し て は 、そ れ が ナ シ ョ ナ リ ズ ム と 結 託 し 抑 圧 へ と つ な が り う る と い う 批 判 が あ る 3 。し か しここでは、この戦略がはらむ、別の困難について検討していきたい。 3 超越的戦略の困難 ―再帰的近代とネオリベラリズム 以下では、超越的戦略の困難を、再帰的近代とネオリベラリズムという二つの側面から 考えていく。 (1)再帰的近代という困難 森岡正博は、スピリチュアリティという点から死を捉えようとする広井らの議論に対し て 、率 直 に 、 「 理 屈 と し て は 分 か る 」が「 実 感 と し て は 分 か ら な い 」と 述 べ る( 東 京 大 学 大 学 院 人 文 社 会 系 2005: 45)。 こ れ は 、 社 会 を 超 越 し た 水 準 に 死 / 生 の 意 味 を 求 め る 議 論 一 般に対する違和感にもつながっている。 森岡「たとえば『最終的に融けこんでいく自然』という、そういう自然が手の届くところ にはなくて、大都市東京で生まれ都会で成長していく。そういう人がいる。都市は人工度 がますます上がっている。そこでは、帰っていくべき自然というリアリティがない人も多 いのではないかという気がします。 つ ま り 、現 在 で は 、 『 自 然 に 帰 る 』と 言 わ れ て 違 和 感 を 持 つ 方 も 多 く い る か と 思 う の で す が、日本の文化ではそう言いたてるのはすごく勇気がいるので、黙っているのかもしれな いですね。ですから、あえてもう一度言いますと、自然ないし大自然というものに自己同 一 化 で き な い 人 が い る の で は な い か 、と い う こ と は 考 え て み て い い の で は な い で し ょ う か 」 ( 東 京 大 学 大 学 院 人 文 社 会 系 2005: 76)。 これは、単に大都市の問題のように聞こえるが、より大きな問題が語られている。つま り現代日本では、かつての都市/地方のような質的な差異は喪失し、空間的に自然の多い 場所に行っても、 「 た ま し い が 帰 っ て い く べ き 自 然 」と い う 感 覚 が 多 く の 人 に 蓋 然 的 に 生 じ るとは考えにくい。近代化が空間的にあまねく進んだ中で、我々はどこに住んでいても、 そ の 外 部 を 喪 失 し 自 己 展 開 し て い る〈 都 市 的 な も の 〉の 中 に 捕 捉 さ れ 、 「スピリチュアルな 自然」すらも「バーチャル」なものとしか認識できないという感覚は、稀ではない。 このように、自然や伝統と社会の差異が重要であった前近代や近代初期とは異なり、近 代的論理が隅々まで浸透した現在は、社会が社会自身に再帰的に自己準拠していく再帰的 近 代 と し て 捉 え ら れ る ( Beck, Giddens & Lash 1994=1997)。 こ の 中 で 、 自 然 や ス ピ リ チ ュアルなものは、その近代社会の彼岸にあるものではなく、その内部に偶有的な構築物と してしか構想できなくなる。逆に言えば、その世界観を獲得できた人はいいとして、そう で な い 人 は 、森 岡 の 言 葉 を 借 り れ ば「 私 は そ の よ う な 死 生 観 を も っ て 死 ん で い け な い 」 (東 京 大 学 大 学 院 人 文 社 会 系 2005:45) と い う こ と に な る の で あ る 。 超 越 的 戦 略 は 、 ま ず 社 会 的なリアリティのレベルで困難を抱えることになるように思われる。 (2)ネオリベラリズムという困難 二点目は、理論的にも実践的にも、より重要である。 1970 年 代 後 半 以 降 に 、政 治 及 び 政 治 思 想 の 領 域 で 、極 め て 重 要 な 転 機 が 訪 れ た 。米 英 を 中心にネオリベラリズムが登場したことある。ネオリベラリズムとは「市場の合理性や、 それが提示する分析のスキーム、および決定の基準を、必ずしもまた一義的にも経済的と はいえないような領域にまで拡大することをめざす」 ( Foucault 1979=2001: 141)も の で 、 具体的には、コストのかかる福祉国家的統治への批判、つまり福祉、公教育、公的医療な どから国家が「退陣」することを要請する。この動きがもたらす負の帰結として指摘され ているものは様々であるが、その代表的なものは、再配分・社会保障支出の縮小、健康・ 保健の自己責任化・自己負担化、経済的格差の拡大等である。本稿において重要なのは、 このネオリベラリズムが、死生学と同じく、生に介入し規格を押し付ける福祉国家制度や 公的医療制度を批判の対象にしている点である。 こ の 動 き が 一 般 化 す る 中 で 、 生 -権 力 概 念 の 強 調 点 も シ フ ト し て い っ た よ う に 思 わ れ る 。 つまり、生かすのみならず「死に廃棄する」メカニズムへの注目である。例えば、周知の よ う に ア ガ ン ベ ン ( Agamben1995=2003) は 、 生 -権 力 が ( フ ー コ ー と 異 な り ) 主 権 に 内 在すると捉え、それが政治的生を剥奪され生物学的生のみを持つ存在を、法の〈例外〉地 帯に絶えず生み出し死へと廃棄してきたこと、そのメカニズムが近代になって亢進してい る こ と を 分 析 し た 。 一 方 で 、 英 米 系 フ ー コ デ ィ ア ン の ラ ビ ノ ウ や ロ ー ズ ( Rabinow&Rose 2003) ら は 、 ナ チ ズ ム を 生 -権 力 の 範 例 と す る ア ガ ン ベ ン の 議 論 を 現 在 政 治 の 分 析 に 不 適 切 だ と 批 判 す る が 、彼 ら に し て も 生 の 可 能 性 を 剥 奪 す る と い う 観 点 か ら の 生 -権 力 の 分 析 は 中心課題である。また、フーコーを重要な参照点としながら、現在の生/死に関する権力 の 分 析 を 進 め る 日 本 の 社 会 学 者 た ち も( 市 野 川 2000,2004;酒 井 2001;渋 谷 2003 な ど )、生 -権 力 の 死 へ の 廃 棄 と い う メ カ ニ ズ ム の 分 析 か ら 多 く の 重 要 な 知 見 を 引 き 出 し て い る 。 酒井によると、現在生じているのは、権力が「行為と主体をバインドするために、個人 をずっとまなざしながら規格化のために介入するなどといったコストのかかる作業から手 を ひ き は じ め た 」( 酒 井 2001:193) と い う 事 態 で あ る 。 こ の 背 景 を 考 え る 上 で 注 目 し た い の が 、フ ー コ ー が 権 力 論 を 練 り あ げ る 上 で 有 し て い た「 唯 物 論 的 」と も い え る 前 提 で あ る 。 つ ま り 『 狂 気 の 歴 史 』『 監 獄 の 誕 生 』『 知 へ の 意 志 』 に お け る 特 異 な 諸 テ ク ノ ロ ジ ー の 導 入 は、人口=労働力の増大が経済生産性の増大とが一致することの発見が重要な契機をなし ている。逆に言えば、オートメーション化やサービス経済化が進み、労働力が余剰になり 出した現在では、国民全ての健康を増進し労働者として主体化させることは、単に「コス トのかかる」作業に過ぎなくなる。 以 上 の 流 れ は 、各 学 問 領 域 に お け る 社 会 認 識 と 規 範 的 前 提 の 問 い 直 し に も 繋 が っ た 。平 井 ( 2004) が 明 快 に 整 理 し て い る よ う に 、 医 療 化 論 に お い て も そ の 転 換 は 明 確 に 見 ら れ る 。 既存の医療化批判では、個人の自律性の拡大と医療による社会的コントロールからの脱却 を目指していたため、自己決定医療の称揚・コンシューマリズムと私事化の拡大・脱専門 職化とオルタナティブ医療の興隆などの現代的医療の状況が「脱医療化の達成」として好 意的に受け止められた面があったが、それが医療費の抑制・健康維持の自己責任化といっ た 政 策 的 趨 勢 と 共 振 し て し ま う と い う 問 題 が 反 省 さ れ る よ う に な っ た( 進 藤 2004)。ま た 日本の福祉領域では、もともと、ボランティアや家族による自助的・共助的な努力が、社 会 福 祉 費 の 抑 制 の た め に 称 揚 さ れ て い る と い う 批 判 が 行 な わ れ て き た が ( 武 川 1999;仁 平 2005)、 近 年 は 、 介 護 保 険 に 代 表 さ れ る 応 益 原 則 や 生 活 保 護 制 度 の 厳 格 的 運 用 化 に 伴 う 選 別 主 義 の 強 化 が 進 行 し て い る 中 で ( 宮 本 他 2003)、 福 祉 国 家 を 抑 圧 性 を 批 判 す れ ば 済 む わ けではなく、それと市民社会の関係をどう構築するかが重要な論点となっている(武川 1999)。 以上の流れの中で、超越的死生学が、ネオリベラリズム、具体的には選別主義の強化と いう事態に対して、どのようなオルタナティブを出すのか必ずしも明確ではない。 4 内在的戦略 ―「べてる」という実践 前節までの議論をまとめよう。人の生/死には、近代医療的・福祉国家的秩序にとどま りきらない〈外部〉があり、それと正当に向き合う必要があるという死生学の問題設定は 重要である。しかし超越的戦略には、第一に、その〈外部〉を基礎づけるべく導入された 超越的な存在をリアルなものと経験される保証がないという問題と、第二に、医療・福祉 制度から自助努力の圏への放逐という動きと共振しうるという問題が存在した。 第一の問題に対しては、超越的に基礎づけられない偶有的な関係からスタートするとい う 選 択 肢 が 検 討 さ れ る 。森 岡 は 、 「 … …『 永 遠 の い の ち 』と か『 あ の 世 』と い っ た も の に リ アリティをもてない人が、有限な生を死ぬときにどうするのかということを、お互い考え た り 支 え 合 っ た り 看 取 り あ っ た り す る 場 所 が で き れ ば い い 」( 大 学 院 人 文 社 会 系 2005:80) と述べている。その上で、この場所を、いかにして第二の問題を踏まえる形で、つまりネ オリベラリズムに抗するものとして構築していくかという問いが、極めて重要になる。 これを考える上で意義深い実践が、浦河べてるの家(以下、べてると表記)で行なわれ ていると考えられる。べてるとは、北海道浦河にある精神障害をかかえた人たちの社会福 祉法人であり、共同作業所・共同住宅・通所授産施設なども運営している。べてるの豊穣 な実践に関しては、すでにいくつもの書物が筆致豊かに報告しているのでそちらに譲りた い ( 浦 河 べ て る の 家 2002;四 宮 2002 な ど )。 家 庭 、 学 校 、 仕 事 な ど で 生 き づ ら さ を 抱 え 、 「精神病」と認定された後も、養護施設や精神病院における管理や医薬治療によって困難 を強いられた人々が、べてるでの生活に関わっている。べてるの実践の大きな特徴は、自 立 の た め の 共 同 事 業 だ け に と ど ま ら ず 、そ の 文 化 的 な 次 元 に あ る 。つ ま り 、 「昆布も売りま す 、病 気 も 売 り ま す 」 「安心してサボれる会社づくり」 「精神病でまちおこし」 「幻覚&妄想 大 会 」 な ど の キ ャ ッ チ フ レ ー ズ に 見 ら れ る よ う に ( 浦 河 べ て る の 家 , 2002)、 精 神 病 、 怠 惰、幻覚、妄想など、ネガティブに意味づけられ克服の対象とされるものに、全く異なっ た 意 味 が 備 給 さ れ 、病 気 や 幻 覚・幻 聴(「 幻 聴 さ ん 」と 呼 ば れ る )と う ま く や っ て い く こ と 、 その症状を隠さずに表現することが大切にされる。 さ て 、こ こ で 重 要 な の は 、こ れ が 医 療 の 拒 否 を 意 味 す る わ け で は な い と い う こ と で あ る 。 べてるの家では、開放病棟を持つ病院に所属している医師が「ホームドクター」として 頻繁に訪れ、スタッフの病状を診ているし、看護婦やソーシャルワーカーもいる。その医 師は薬も処方するし、病状が悪化した時は病院に入院することもある。しかし、治癒は絶 対的な価値ではなく、薬の量や飲む飲まないという選択は当事者と相談した上で、最終的 に本人に委ねられる。よって「幻聴さん」をなくさないために薬の量を抑制することもあ る。ここで生じていることは(凡庸な表現だが)通常の医者−患者関係の変容である。近 代 医 療 の 担 い 手 の は ず の 医 師 は 、単 に「 患 者 の 自 己 決 定 を 支 え る 」に と ど ま ら ず 、 「治せな い医者、治さない医者をめざす」にスローガンに示されるように、治癒という職業役割が 相対化され、当事者にとって生きやすく豊かな関係性を作るための、一つの選択肢程度に 抑えられる。べてるの文化的実践に、近代医療が従属しているとも言えるかもしれない。 この文化実践を捉える上で、 〈 流 用 〉と い う 概 念 を 導 入 し た い 。 〈流用〉 ( appropriation) とは、 「 支 配 的 な 文 化 要 素 を 取 り 込 み 、自 分 に と っ て 都 合 の よ い よ う に 配 列 し 直 し 、自 己 の 生 活 空 間 を 複 数 化 し て い く 」こ と で あ る (太 田 1998:48)。こ れ は 、特 定 の 言 葉( 例 え ば「 精 神 病 」や「 妄 想 」)や 表 象 が 、い つ も 同 一 の 行 為 遂 行 性 を 有 す る( 例 え ば 、劣 位 者 や 被 管 理 者としての主体を構築する)ことに成功するわけではなく、反復と再意味づけの中で、新 エージェンシー し い 文 脈 に 位 置 付 け 直 さ れ う る と い う 言 語 や 表 象 の 「 行 為 体 」( Butler 1997=2004) と し ての性格によって可能となる動きである。この〈流用〉の戦略は、支配的コードが強大な 時、マイノリティ側が相手の力を逆手にとりポテンシャルを高めていく戦略として注目さ れてきたが、これはネオリベラリズムとの関係において特に重要になる。つまり、そこで 必要とされていたのは、近代医療的な管理を拒む一方で、医療制度・資源からの排除をも 拒否する別様の方向性であった。べてるにおける〈流用〉の戦略が、当事者論や医療化論 を始め多くの領域で注目されるのは、近代医療かイリイチ的な脱医療か、という二者択一 を超えた方向性を示せたからで、この可能性を様々な文脈へと広げていく意義は十分ある だろう。 しかし、ここで一つ考えなくてはならないのは、内在的な〈流用〉戦略による成功が、 実際には――「べてる」の事例を繰り返し語らざるを得ないほどに――困難なように思え るという点である。例えば、べてるが賞賛される一方、現在べてるにいる人たちを排除し てきたような精神医療施設の多くでは、依然、先進国の中で顕著なほどの収容・隔離とい う 性 格 が 残 っ て い る 4 。ま た そ の 一 方 で 、十 分 な 医 療・福 祉 制 度 へ の ア ク セ ス が 困 難 な 人 々 も増加しつつある。この中で、流用、散種、攪乱といった概念や、それで捉えようとする 現象・実践のみに、解放への多大な期待を寄せることには躊躇を覚えざるをえない。ブル デューは、言語の行為遂行性を巡る議論において、デリダとは異なり言語自体がもつ文脈 断絶力や散種の運動といった言語の自律性を重視せず、あくまでも言語を社会的権力の代 理/表象程度の位置づけにとどめている。ここから取り出される学問的含意は、言語とそ の行為遂行性の成否を「規定」する社会的・制度的権力の分析である。もちろん、この種 の「社会学主義」には、行為遂行性の社会的次元を強調するあまり、社会変容や新しい文 脈 創 出 の 可 能 性 を 十 分 に 捉 え き れ な い と い う 問 題 は あ る ( Butler 1997=2004: 199-252)。 しかし、潜在的に言語の文脈断絶力が存在していながら、そのポテンシャルが不発であり 続 け た り 、あ る い は 右 派 に 収 奪 さ れ る 場 面 に ば か り 遭 遇 す る 中 で( 渋 谷 2003:8-17)、 〈流 用〉の戦略がどのような社会的条件のもとで可能/困難となるのかについて検討する余地 はまだ大きいと思われる。 以下では、彼/女らが置かれた制度的文脈によって〈流用〉可能性が限定されている典 型的なケースとして、ホームレスの生/死をめぐる環境を分析した上で、そこから引き出 せる死生学にとっての含意について試論的に考えていきたい。 5 ホームレスの命/いのち (1)新宿ダンボール村 ホ ー ム レ ス の 増 加 と そ の 社 会 的 排 除 と い う 問 題 は 、 1990 年 代 を 通 じ て 深 刻 化 し 、 2003 年 に は 、大 阪 や 東 京 等 の 大 都 市 を 中 心 に 2 万 5 千 人 以 上 確 認 さ れ て い る( 厚 生 労 働 省 2003)。 は じ め は 、 1980 年 代 後 半 か ら 山 谷 な ど の 寄 せ 場 で 増 加 が 指 摘 さ れ て い た が 、 1990 年 代 の 前半、新宿駅周辺に野宿者が増加することで、一気に世間の注目を集めるようになった。 マ ス コ ミ を 通 じ て「 ホ ー ム レ ス 」と い う 名 称 が 流 通 す る よ う に な っ た の も こ の 時 期 で あ る 。 量 的 に も 「 山 谷 圏 以 上 の 驚 異 的 な 伸 び と 集 中 度 」( 笠 井 1999: 22) を 見 せ 、 同 時 に 、 彼 / 女らの命を支えるダンボールハウスという新しい居住形態が、新宿の中心に増殖していっ た。これに対し、新宿区及び東京都を中心とした行政は一貫して撤去の姿勢で臨み、特に 青 島 都 政 下 に お け る 1996 年 の 強 制 排 除 は 極 め て 強 い 抵 抗 を 呼 び 、 様 々 な 問 題 を 残 し た 5 。 この「ダンボール村」は、単に集住しているだけではなく、炊出し、排除や強制撤去に 対する抗議行動、都や区に対する団体交渉、さらには祭りの企画・実施等の活動を生み出 す場でもある。 「 コ ミ ュ ニ テ ィ 」と も 呼 ば れ た そ れ は 、第 一 に「 命 」を 守 る た め の も の で あ るが、同時に、家族との関係を失った者たちが相互にその存在と死を記憶し続けるという 関 係 性 の 母 体 で も あ っ た 。と 同 時 に 、 「 ホ ー ム レ ス 状 態 」と い う 命 / い の ち の あ り 方 を 強 い る社会構造や制度的不備への異議申し立ての場でもある。何より、新宿駅及びそこから都 庁へと至る公道に築かれた巨大なダンボール村の存在自体が、支配的な象徴秩序の組み換 えという行為遂行性を伴う実践でもあった。この方向性は、ダンボールハウスに絵を描い ていくというユニークな「支援」活動などにおいて、より明確な形で追求されている(笠 ヘイトスピーチ 井 1999:296-297)。 「浮浪者」 「怠け者」 「 落 伍 者 」等 と い っ た 一 般 社 会 や 行 政 か ら の 憎 悪 発 話 としての呼びかけに対し身を潜めていくのではなく、あえて「通常」の社会秩序の中にそ の生を顕わに挿入していくことで、結果として「秩序」を撹乱していく。これは、べてる の実践とも同じ地平にあったと思われる。 し か し 現 在 、わ れ わ れ は こ の「 ダ ン ボ ー ル 村 」を 見 る こ と が で き な い 。1998 年 2 月 に 起 こった火災を機に自主退去し、その後は新宿中央公園の植木の中に移動したり、駅周辺で も、終電から始発に至るだけ一時的にダンボールを敷いて眠るという生活を強いられてい る。その中で新宿連絡会は、従来の支援・共助活動を続ける一方、行政と連携して政策策 定過程に深く関わり、後述する自立支援政策や地域生活移行支援事業など路上からの脱出 を通した「命」を守るための制度実現に尽力する。これに対して批判者から、排除を生み 出 す 構 造 自 体 へ の ラ デ ィ カ ル な 変 革 可 能 性 が 含 ま れ て お ら ず 、一 部 の( 能 力・意 志 の あ る ) 人のみを個人レベルで社会統合を強いるものだという批判がある。 し か し 、問 題 は「 コ ミ ュ ニ テ ィ 」と い う 自 助・共 助 関 係 だ け で は 命 を 守 り き れ な い ほ ど 、 ホームレスの命/いのちを守る制度的・社会的資源が限られているということである。だ か ら こ そ 、新 宿 連 絡 会 は「 命 」を 守 る 制 度 作 り に 関 わ ら ざ る を 得 な か っ た 6 。以 下 で は 、ホ ームレスが置かれている命/いのちの制度的・社会的な状況を、具体的に見ていきたい。 (2) ホームレスの命/いのちの場所①―「単身男性」としてのホームレス 以下では、 「 ホ ー ム レ ス 」が 、空 虚 な カ テ ゴ リ ー と し て 存 立 し て い る た め に 、福 祉 制 度 を 始 め と し た 法・制 度 の 外 部 に 置 か れ て い る こ と 、そ し て そ の 特 殊 な 位 置 は 、 「能力はあるが 意志がない者」という「主体」の呼び名を生み出し、その呼び名こそが「命」だけではな く 、「 い の ち 」 を 支 え る 関 係 性 の 成 立 す ら も 困 難 に し て き た こ と を 示 す 。 ま ず 日 本 の 特 徴 と し て 、 ホ ー ム レ ス に は 、 男 性 が 圧 倒 的 に 多 く ( 9 割 以 上 )、 年 齢 は 50 ∼ 64 歳 の 間 に 集 中 し て お り 、建 設 業 の 日 雇 労 働 者 経 験 者 の し め る 割 合 が 大 き い と い う 点 を 確認したい。逆にいえば、女性や若年層や世帯単位のホームレスが少ないということであ る。この背景を、以下ではカテゴリーの喪失と〈例外〉をキー概念に、考えていきたい。 まず、女性が少ない一つの理由として、経済的な困難に陥った時、相対的に法的に包絡 されやすいということがあげられる。男性に比べ生活保護を取得しやすく、そこから漏れ た場合でも、 「 売 春 防 止 法 な ど と 関 連 し た『 要 保 護 女 子 』や『 要 保 護 児 童 の 母 』と い っ た カ テ ゴ リ ー 」 を 通 じ て 把 握 ・ 対 応 さ れ 、「 野 宿 と い う よ う な 形 で 可 視 化 」 し に く い 7 ( 岩 田 ・ 川 原 2001:9; 北 川 2005: 226)。こ れ は 女 性 を 労 働 市 場 か ら 強 く 排 除 し て き た 日 本 の ジ ェ ンダー構造と表裏となっている。次に、子どもや若年層がいない理由として、山谷など日 雇 労 働 者 街 に お い て 、 日 雇 労 働 者 世 帯 の 再 生 産 が 1970 年 代 以 降 行 な わ れ て い な い こ と が 指 摘 で き る 。こ の 背 景 に は 、 「 解 体 」的 と 観 察 さ れ る 家 庭 や 寄 せ 場 地 域 か ら 子 ど も を「 救 う 」 ために、教育・福祉関係者等からなる「保護複合体」による未就学児童の就学化、及び、 ドヤ等への世帯宿泊者に対する都営住宅の優先的割り当て政策が行なわれてきた背景を指 摘 で き る ( 西 澤 1995)。 つ ま り 、「 女 性 」「 子 供 」「 父 」「 夫 」 の ど れ で も な い 「 単 身 男 性 」 は 、「( 日 雇 ) 労 働 者 」 と し て 都 市 下 層 に 残 さ れ る 形 と な る 。 (3)ホームレスの命/いのちの場所②―日雇労働者/ホームレスの〈例外〉状況 それでは、この「日雇労働者」というカテゴリーとは何だろうか。建設業・運輸業・製 造 業 の 日 雇 労 働 者 は 、 寄 せ 場 ・ ド ヤ 街 8と 飯 場 9、 飯 場 と 飯 場 を 行 き 来 し な が ら 生 活 を 送 る 存在である。彼らは労働者として、極めて〈例外〉的な位置に置かれている。 まず正規雇用でなく、日雇・臨時就労のため、長期の失業(アブレ)が続くと野宿へ至 るリスクがある。日雇労働者用の保険(白手帳)の加入者もいるが、稼働日数が足りない 場合、その給付対象からも外れてしまうために効果は限定的である。これらに加え、労務 条件がひどいところも少なくなく、一般社会と隔絶した飯場では暴力的な労務管理が行な われることもある。特に、悪質な業者(ケタオチ業者)の場合、賃金が支払われなかった り、大きく減額されることがあり、それに対する異議は暴力的に封殺されることも多い。 つまり、私的暴力がルールとして流通しうる、まさに法の〈例外〉地帯としての性格を持 っていた。 また福祉行政においても、十分な介入があったとはいいがたい。山谷や釜ヶ崎のような 寄 せ 場 区 域 で は 一 般 福 祉 体 系 が〈 例 外 〉と し て 適 応 さ れ ず 、 「 特 別 地 区 対 策 」と い う 特 別 枠 で 対 処 さ れ て き た( 岩 田 2000; 北 川 2005)。し か も 、基 本 的 に 世 帯 者 対 象 の も の が 中 心 で 、 単身男性は、生活保護法外での応急的な援護を除いては、ほとんど放置されてきた(北川 2005)。 現在のホームレスの増加は、上記の日雇労働市場の縮小などを背景に、高齢日雇労働者 の多くが長期失業に追い込まれ、ドヤ宿泊を維持できなくなったことに求められる。この 時 期 を 多 く の 人 は 50 歳 代 で 迎 え る が 、 こ れ は 最 後 に 残 さ れ て い た 「( 日 雇 ) 労 働 者 」 と い うカテゴリーの喪失を意味する。ホームレス状態化とは、日雇労働者が置かれている上記 の〈 例 外 〉状 況 か ら 、更 な る〈 例 外 〉地 帯 へ の 移 動 を 意 味 し て い る 。ホ ー ム レ ス に な る と 、 基 本 的 に 、 都 市 雑 業 10や 時 々 の 日 雇 労 働 で 命 を 繋 い で い く が 、 そ の 多 く は す ぐ に で も 野 宿 生 活 を 脱 し た い と 思 っ て い る ( 厚 生 労 働 省 2003)。 し か し 高 齢 、 住 所 が な い 、 身 な り が 汚 い等の理由で、短期就労すら門前払いされることも多く、収入や貯蓄がある場合も、保証 人が調達できずアパートに入れないケースもある。この中で、身体・命を増進すべく介入 ― し か も 過 剰 な 介 入 ― す る は ず の 生 -権 力 は 、 ど ん な 選 択 肢 を 提 供 し て き た の だ ろ う か 。 ( 4 ) ホ ー ム レ ス の 命 / い の ち の 場 所 ③ ― 生 -権 力 の た わ み の 中 で ホームレス状態に置かれた時、はじめに考え付くのが生活保護である。これは憲法上、 生活に困窮する全ての国民に対し、必要な保護を行うはずである。しかし実際には運用レ ベルにおいて、 〈 例 外 〉的 な ダ ブ ル ス タ ン ダ ー ド が 存 在 し て い る 。つ ま り 申 請 者 が 、決 ま っ た 住 所 が な く 、ま だ 働 け る 年 齢 で 、か つ「 稼 働 能 力 」 ( 医 師 の 判 定 し た 身 体 能 力 )も あ る と 判 断 さ れ た 男 性 の 場 合 は 、 生 活 保 護 を 受 け る こ と は 極 め て 難 し い ( 北 川 2005: 224-225)。 や や ア イ ロ ニ カ ル に 言 え ば 、生 活 保 護 を と る た め に は 、 「 高 齢 者 」か「 傷 病 人 」か「 障 害 者 」 に な る し か な い の で あ る( 西 澤 2005)。例 え ば 、65 歳 以 上 に な れ ば「 高 齢 者 」と し て 、生 活 保 護 を 取 る こ と が で き る 。 先 に 、 ホ ー ム レ ス に は 、 50 代 前 半 か ら 65 歳 ま で が 多 い と 述 べ た が 、 そ れ は ホ ー ム レ ス 状 態 が 、「 労 働 者 」 カ テ ゴ リ ー の 喪 失 ( 50 代 前 半 ) か ら 「 高 齢 者 」カ テ ゴ リ ー の 獲 得( 65 歳 )の 間 の 空 隙 地 帯 の 出 来 事 で あ る 事 を 示 し て い る 。ま た「 病 人」でいる間は医療扶助にかかることもできるが、元気になれば(つまり「病人」カテゴ リ ー が 失 わ れ れ ば )再 び 路 上 に 戻 さ れ る ケ ー ス が 多 い 。こ の 意 味 で 、ホ ー ム レ ス の「 レ ス 」 という否定性の記号は、予想以上にその生命が置かれた場所を的確に示している。この存 在 に 対 し て 、 福 祉 行 政 は 、 法 外 援 護 11と い う 形 で ( 文 字 通 り 〈 法 の 外 〉 で 〈 例 外 〉 的 に ) 対 処 す る し か な い 。こ こ で は 生 -権 力 は 作 動 し な い 、と い う よ り 、介 入 し な い と い う 形 で ― つまり生が充満する空間外部への放置という形で―作動している。 東 京 都 で は 、2001 年 8 月 に 、緊 急 一 時 保 護 セ ン タ ー と 自 立 支 援 セ ン タ ー を 中 心 と し た 自 立支援システムを構築した。これは「労働者」カテゴリーの再獲得によって「社会復帰」 を 目 指 さ せ る も の で あ る 。し か し 、厳 し い 労 働 市 場 の 中 で「 就 労 自 立 し て ア パ ー ト に 入 居 」 できるのは約半数だといわれており、その他の多くは、最終的に路上に戻される。また、 就 労 自 立( 常 雇 に 就 職 )と 判 定 さ れ た 中 に は 、 ( 寮 や 飯 場 も 含 む )住 み 込 み や 日 給 月 給 制 な ど、実質的には不安定な賃金・雇用形態で雇われている者が多く、結果的に再び路上に戻 ら ざ る を 得 な く な っ て い る 人 も 少 な く な い と 指 摘 さ れ て い る ( 北 川 2005)。 生 へ の 介 入 に 躊 躇 す る 生 -権 力 の た わ み 、労 働 へ と 接 続 し な い 不 完 全 な 規 律 訓 練 装 置 、 〈例 外 〉 状 態 の ホ ー ム レ ス が 活 用 で き る 制 度 的 「 資 源 」 は 、 極 め て 限 ら れ て い る 12。 (5)ホームレスの命/いのちの場所④―「檻のない牢獄」としての関係性 こ こ ま で 見 て き た の は 、生 -権 力 が 対 象 と す る カ テ ゴ リ ー の 不 在 を 通 し た「 命 」へ の 不 介 入 と い う 事 態 で あ っ た 。 こ の ( 4 ) で は 、「 い の ち 」 を 支 え る 関 係 性 に つ い て 概 観 す る 。 先 ほ ど 、新 宿 ダ ン ボ ー ル ハ ウ ス の コ ミ ュ ニ テ ィ に つ い て 、 「 い の ち 」を 支 え あ う 関 係 性 の 存在を指摘したが、それは、一面を強調しすぎた部分もある。実際には多くの場合、ホー ムレス同士の関係性を分断するような諸力が強く作用しているのも、また事実である。ホ ー ム レ ス 同 士 の 共 同 性 は 、い の ち の 関 係 性 以 前 に 命 の 保 全 の た め に 、 「生活の安全性と利便 性」 ( 岩 田 2000: 154)の た め に 成 り 立 っ て い る こ と で あ る 。つ ま り「 安 全 な 睡 眠 、食 糧 や 日用品探し、荷物の預けあい、仕事の情報交換」を行なう上での利便性である。よって、 関 係 性 は 、お 互 い に「 過 去 に 触 れ な い 」 「 深 い 付 き 合 い は し な い 」と い っ た 相 互 行 為 上 の 規 範 ( 距 離 の 規 範 ) に 貫 か れ て い る ( 西 澤 2005: 269-270)。 この関係性は、一方で「山谷寄せ場でいやというまでいじめられ、これまで仲間であり 続 け る 山 谷 の 人 い や だ 、 い や だ 、 で も 仲 間 と 一 緒 に 生 き て い く 」( ろ じ ゅ く 編 集 室 編 2004:38) と い う 手 記 に も 見 ら れ る よ う に 、 絶 え ざ る 分 断 化 へ の 圧 力 の 中 に 成 り 立 っ て い る。この点を考える上で重要なのは、多くの人が指摘するように、彼ら自身が「世間」の 価 値 を 共 有 し て い る 点 で あ る ( 山 口 1999;岩 田 2000;西 澤 2005 な ど )。 つ ま り 彼 ら も 「 経 済 的 自 立 を 肯 定 し 依 存 を 否 定 す る 論 理 」を 共 有 し て い る の だ が( 西 澤 2005)、そ れ ら は「 自 己 を 否 定 す る 呪 い 」 や 「 相 互 不 信 」 の 源 泉 と し て 回 帰 し て く る 。 岩 田 ( 2000) は 、 ホ ー ム レ ス の 人 々 が 、俺 を「 あ い つ ら( ホ ー ム レ ス )」と 別 の 存 在 と し て 語 る 点 に 注 目 す る 。つ ま り 、俺 は 何 ら か の 形 で 働 い て い る が 、 「 あ い つ ら 」は そ の 努 力 さ え し な い「 本 当 の ホ ー ム レ ス 」だ と い う わ け で あ る 。そ の 意 味 で 、先 に 見 た「( 野 宿 )労 働 者 」と い う 自 己 規 定 の も と に成り立つ共同性も、この文化的磁場から完全に逃れているとは言いがたい。そして、自 分 自 身 の「 ホ ー ム レ ス に な っ た の は て め え が 悪 い 」と い う 内 省 は 、そ れ に も か か わ ら ず「 酒 を 飲 ん で 絡 ん だ り 、 盗 ん だ り 、『 こ ん な と こ ろ ま で 来 て 虚 勢 を 張 っ て 小 競 り 合 い を し て い る 』」( 岩 田 2000:265)「 あ い つ ら 」 へ の 蔑 視 へ と 転 移 さ れ る 。 西 澤 は 、彼 ら を「 自 己 を 否 定 す べ く 呪 い を か け ら れ 、檻 の な い 牢 獄 へ と 放 擲 さ れ た 人 々 」 と 呼 ぶ 。「 彼 ら は そ こ に お い て 『 平 等 』 と な る が 、 そ れ は 否 定 的 存 在 と し て そ う あ る の だ 。 互いにそうみなし合う人びとに充たされたこの檻のない牢獄においては、根の深い相互不 信 も ま た 充 た さ れ る 」( 西 澤 2005: 274)。 6 なぜ内在的〈流用〉の戦略は困難か? ここまで駆け足でホームレスの置かれた状況を見てきた。ここでの問いは、べてるで見 られた内在的戦略が、この状況では困難なのではないかというものであった。もちろんべ てるの人々も、 「 精 神 障 害 者 」な ど と し て 差 別 的 に 処 遇 さ れ 、社 会 や 医 療 施 設 か ら 様 々 な 抑 圧を受ける経験をしてきた。しかしながら、両者の間には、等閑視できない差異が見られ るように思う。ここでは、二点ほど指摘したい。 一点目は、ホームレスが、福祉的・医療的介入のターゲットとなるカテゴリーから漏れ 落 ち 、そ れ ゆ え に 福 祉・医 療 制 度 の 外 部 に 放 逐 さ れ て い る 点 で あ る 。彼 ら は「 女 性 」 「障害 者 」「 高 齢 者 」「 病 人 」 で は な い た め ― つ ま り 稼 働 能 力 が あ り 、 働 く 意 思 の 問 題 と 見 な さ れ るため―放置される。これは通常の死生学の問題とは異にしている。そこでは、これらの カテゴリーのもとで分類され、特定の生の形式を押し付けられる点こそが問題であった。 つ ま り 抑 圧 ・疎 外 の 源 泉 で あ る 生 -権 力 的 介 入 の 存 在 は 与 件 で あ り 、だ か ら こ そ〈 流 用 〉戦 略 が 有 効 で あ っ た 。ホ ー ム レ ス 状 態 を 巡 っ て は 、生 -権 力 的 介 入 の 不 在 こ そ が 問 題 と な っ て いる。 二点目はより根が深い問題である。前述のように、ホームレスが自己否定し抵抗の拠点 となる共同性を築けない理由には、世間の価値観と同じ勤労倫理や自己責任の論理を保持 している点があった。しかしこの価値観こそが「べてる」の実践では克服対象であった。 日雇労働者やホームレスにおいても、怠けを肯定的に捉え返す実践は行われるし、そこに 抵 抗 の 芽 を 見 出 す こ と も 可 能 で あ る ( 田 巻 1999)。 し か し そ の 多 く は 、 自 己 責 任 や 勤 労 の 論理と並存し、それらのオルタナティブという位置は獲得していないように思われる。 この点に関連して、一般市民からの支持も極めて得にくいということも指摘しておきた い。現在も、ホームレスに対する排除圧力は極めて強い。例えば、首都圏内のあるホーム レス施設建設の反対運動では、端的に「地価が下がるから」という理由が表明されるが、 障害者施設等への反対運動の場合、まだ人権に配慮したレトリック―脱施設という潮流に 反 し て い る 等 ― が 選 択 さ れ る こ と を 考 え る と 、そ の 排 除 の 質 の 特 異 さ が 分 か る 。も ち ろ ん 、 「地域社会」と共生するための取り組みも行なわれつつある。例えば、山谷近くで、元ホ ー ム レ ス の 人 た ち が 働 く リ サ イ ク ル シ ョ ッ プ A の ケ ー ス な ど が あ る 。そ こ に 深 く 関 わ る Q 氏は次のように述べる。 「 … …( 住 民 が )野 宿 し て い る 仲 間 が 働 い て い る 姿 を そ こ で 初 め て 見 た ん で す ね 。で 、恐 る 恐 る 来 た 住 民 の 方 が 、 『やっぱり私達と同じように仕事で苦労して い る ん だ ね 』と い う 声 を か け て く れ た わ け で す 」。し か し 、こ の よ う な 共 感 的 な 発 話 は 、次 の よ う に 新 た な 分 割 線 の 上 に 成 り 立 っ て い る 。「 で も 、 そ れ と 同 時 に 、『 こ こ の 人 は 隅 田 川 で野宿している連中とは違うよね』って言ったわけです。非常に複雑な思いで受け取りま した」 ( 2005/5/28)。つ ま り 、働 く 意 志 の あ る / 意 志 の な い と い う 分 割 線 が 保 持 さ れ 、結 果 的に仕事に就けた人のみが、共感・支持の対象となるということである。もちろんこの区 別を維持したまま、 「 頑 張 る 」だ け で は 、支 配 的 象 徴 秩 序 の 撹 乱 と い う 効 果 は 限 定 的 で あ ろ 1 3 う 。 この背景には、一点目の問題とも重なるが、彼らの多くが五体満足であり/と見え、ま た属性に直接起因するものとも見なされないため、意思が介在している(自業自得!)と 見なされやすいということがある。これこそが、ホームレスが「働かない・頑張らない」 という意味を〈流用〉しきれない理由でもあるし、同時に市民社会からの支援が限定され る 理 由 で も あ る 。逆 に 言 え ば 、べ て る の 場 合 は 、 「 障 害 者 」と 分 類 し「 免 責 主 体 」と 一 方 的 に 認 定 し 介 入 し て く る 生 -権 力 の 抑 圧 的 な 一 撃 の 存 在 こ そ が 、そ れ を 収 奪 し 逆 手 に 取 る 豊 か な実践へと接続していたが、ホームレスにはその一撃が訪れず、特定の呼び名(カテゴリ ー)で呼ばないということを通じて「帰責主体」として放置され続ける。 生 -権 力 の 複 数 の リ ズ ム ・ 死 生 学 の 複 数 の 戦 略 ここまでホームレス状態にある人々の生が置かれた状況について検討してきた。彼/女 ら は 、制 度 の 外 に 置 か れ る 存 在 で あ り 、生 -権 力 の 命 へ の 介 入・規 格 化 が 問 題 で あ っ た 死 生 学の既存の戦略では、その命/いのちが抱える困難に十分に迫りきれていなかったように 思われる。ここから指摘したいのは、今後はホームレスについても研究対象とすべしとい うことではなく、人間の生と死の経験が、社会的なポジションによって異なることについ てより明確に主題化し、それに応じて枠組や戦略を複数化していく必要があるのではない かということである。 今 か ら 30 年 以 上 前 、 青 い 芝 の 会 は 、「 働 か ざ る 者 人 に あ ら ず 」 と い う 社 会 風 潮 と 、 そ の 中で彼/女ら脳性マヒ者が「本来あってはならないもの」として「人命迄もおろそかにさ れ 」 う る 事 態 に 対 し て 闘 っ て い た ( 立 岩 2000:98-99)。「 働 か ざ る 者 」 は 、「 働 け な い 」 と 「 働 か な い 」 の 二 つ の 意 味 を 含 む が 、 彼 / 女 ら の 運 動 は 30 年 前 の 間 に 「 働 け な い 者 」 が 社 会 で 生 き て い く 権 利 の 保 障 を 前 進 さ せ て き た と い え る だ ろ う 。も ち ろ ん 、市 野 川( 1992, 2000) が 指 摘 す る よ う に 、 生 -権 力 は 時 に 障 害 者 を 死 へ 「 廃 棄 」 し て き た し 、 そ れ は 今 も 出生前診断等の形をとって、個人的「倫理」に委ねられながら生起している。また、精神 医 療 を め ぐ る 状 況 も 極 め て 多 く の 問 題 が 残 さ れ て い る 14。 し か し 同 時 に 、 彼 / 女 ら が 達 成 してきたものも大きかったということができよう。 そ の 一 方 で 、「 全 部 雇 用 」が 成 立 し て い た 30 年 前 に は 顕 在 化 し な か っ た 失 業 ― 排 除 の 問 題 が 、現 在 は 先 鋭 化 し て い る 。彼 / 女 ら が 排 除 さ れ る の は 、 「 働 け な い 」か ら で は な く 、働 け る の に「 働 か な い 」と 見 な さ れ る か ら で あ る 。特 に 、ネ オ リ ベ ラ リ ズ ム で は 、 「働けない」 人 を「 働 か な い 人( 意 思 の な い 人 )」と 再 定 義 す る こ と で 、彼 / 女 ら の 権 利 保 障 を 放 棄 す る という戦略をとる。逆に言えば、排除する際には、一度「働かない人」という帰責主体を 立 ち 上 げ る と い う 迂 回 路 を と る 必 要 が あ る い う こ と で あ る 15。 こ れ は ホ ー ム レ ス だ け で な く、排除の多くの局面に共通するが、これに抗する言語資源はまだ整っていない。 こ の よ う に 生 -権 力 の 作 用 や 速 度 は 、そ の 人 が 置 か れ た 社 会 的 な 場 所 に お い て 異 な る 。十 分 な 収 入 が あ る 人 は 、自 己 負 担 に よ っ て よ り 高 度 な 医 療 を 受 け ら れ る だ け で は な く 、 「人間 的」なケアすらも獲得できるだろう。より「一般的」な人々の多くは、医療化に伴う「い のち」の疎外問題に直面するだろう。また、障害者に対する過度の医療化や管理に対して 7 は 、引 き 続 き 強 く 問 題 化 し て い か な く て は な ら な い 。そ の 一 方 で 、低 収 入 の 人 に 対 し て は 、 福 祉 ・ 医 療 制 度 と 人 間 的 ケ ア の 両 方 が 不 足 す る 事 態 が 広 が る お そ れ が あ る 16。 死 生 学 は 、 人間一般の命/いのちという水準で問題設定することも多かったが、このような差異に関 する配慮も同時に必要ではないだろうか。それは、脱医療化の称揚とネオリベラリズムと を分節化する作業にもつながっていく。ここで耳を傾けたいのが、フーコーによるイリイ チに対する批判である。 「 … み ず か ら の 植 民 地 的 あ る い は 半 植 民 地 的 な 状 況 ゆ え に 、そ の よ うな医療構造とごく希薄な、あるいは二義的な関係しかもてなかった社会があります。そ ういった社会はいま医療化を要求しており、何百万人というひとが患っている感染症に苦 しんでいるのですから、医療化を求める権利があります。……(彼/女らに対して、ヨー ロッパ的な医療化が新たな問題を生む等といった)反医学的なユートピア主義の名におい て 主 張 す る 議 論 を 認 め る こ と は で き ま せ ん 」( Foucault 1976=2000: 67)。 現在は、ネオリベラリズムと経済のグローバル化の中で、先進国の中でも、恒常的な失 業 者 と 貧 困 者 が 多 く 生 み 出 さ れ る 可 能 性 が 増 大 し て い る 。 生 -権 力 の 動 き を 見 極 め な が ら 、 医療や福祉の介入を拒みつつ求めていく、今後必要となるのはこのようなしたたかさであ るように思われる。 (謝辞)この論文を書くにあたり、東京大学大学院教育学研究科の平井秀幸氏と山口毅氏 から有益なコメントを頂いた。記して感謝したい。 参考文献 青 木 秀 男 編 著 1999『 場 所 を あ け ろ ! ― 寄 せ 場 / ホ ー ム レ ス の 社 会 学 』 松 籟 社 ,47-70. 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の「 非 」援 助 論 ― そ の ま ま で い い と 思 え る た め の 25 章 』 医学書院. 山 口 恵 子 1999「 見 え な い 街 の 可 能 性 ― ― 新 宿 で 野 宿 す る 一 人 の 『 お じ さ ん 』 の 語 り か ら 」 青 木 編 165-195. 1 本稿でいう死生学とは、社会学という学問システムから観察されうる限りの、限定され た 「 死 生 学 」 に 過 ぎ な い 。 そ の 立 場 か ら 見 た と き 島 薗 進 ( 2003) が 整 理 し た 死 生 学 は 、 第 一に、生命倫理を哲学的にのみ問うのではなく、それが暗黙のうちに前提とする社会的・ 文化的文脈を積極的に考察対象にする学問的立場も含まれる点において、第二に、死の観 念のみではなく、生や生命及びそれを取り巻く社会的関係性を広く対象している点におい て 、社 会 学 と 共 通 の 視 座 と 問 題 設 定 を 備 え て い る と 思 わ れ る 。本 稿 の 知 見 は 、こ の〈 社 会 〉 について参照するタイプの「死生学」に対する貢献を、第一の目的とする。 2 例 え ば 、テ ク ノ ロ ジ ー の 亢 進 に よ っ て 、生 = 権 力 の も う 一 つ の 極 で あ っ た 規 律 =訓 練 を 司 る 身 体 の 解 剖 =政 治 学 が 不 要 に な り 、 生 =政 治 学 が 突 出 し た 事 態 と 記 述 さ れ る 。 3 市 野 川 容 孝 ( 2000) は 、 ビ シ ャ 、 ピ ネ ル 、 グ リ ー ジ ン ガ ー な ど 近 代 医 学 の 嚆 矢 者 の 身 体/生命観の系譜を丹念にたどる中で、それらが精神と身体の不可分性を強く前提にして いたことを明らかにし、梅原猛などに見られるこの「近代西洋医療=心身二元論」という 説を「虚説」と退けている。その上で、日本的次元を強調することが、同性愛否定などの 抑圧につながる点を批判している。 4 日 本 に は 、約 34 万 の 精 神 科 病 床 と 患 者 が 存 在 す る が 、そ れ は 日 本 の 全 入 院 患 者 数 で あ る 約 140 万 人 の 4 分 の 1 を 占 め る 。そ の 一 方 で 、精 神 病 院 の 医 師 の 数 は 少 な く 、患 者 と の 対 話 が 極 め て 不 十 分 で あ り 、 実 質 的 な 閉 鎖 処 遇 が 行 な わ れ て い る と 指 摘 さ れ て い る 。( 芹 沢 2004) 5 こ の 詳 細 な 過 程 に つ い て は 、 新 宿 連 絡 会 ( 1997) 、 笠 井 ( 1999) な ど を 参 照 の こ と 。 6 こ の 点 に つ い て 新 宿 連 絡 会 で 支 援 活 動 を 10 年 以 上 続 け て い る P 氏 は 自 主 退 去 し 運 動 の 方 向 性 を 変 え た 契 機 の 一 つ と し て 4 名 が 亡 く な っ た 1998 年 2 月 の ダ ン ボ ー ル ハ ウ ス の 火 災 を 重 視 す る ( interview data2004/3/6)。そ の 事 件 が 生 み 出 し た も の は 、ダ ン ボ ー ル 村 だ けでは「命」を支える環境としては脆弱であることの気づきと、それを「コミュニティ」 として積極的に肯定してきた自分達は 4 名の死に対する責任があるという自覚であった。 7 もちろんこれは、女性のホームレスが困難が少ないことを全く意味しない。逆に、路上 に残らざるを得ない女性は、就労からの徹底的な排除と男性からの暴力等といった、より 過酷な状況に置かれがちである。 8 高 度 成 長 期 に 、建 設 業・運 輸 業・製 造 業 の 労 働 者 需 要 の 増 大 に 対 し 、農 村 か ら の 出 稼 ぎ 者 や離農者、都市内部の失業者を吸収して膨張してきた。 9 飯 場 と は 、建 設 業 者 や 人 夫 出 し 業 者 が 労 働 力 を プ ー ル し て お く た め の 宿 舎 で あ る 。職 場 が 一定でなく、飯場間の地域移動を伴うため、アパートを借りるよりドヤに住む方が合理的 である。要するに、経済合理性に合理的に「住所不定」になりやすい。 10雑 誌 や 空 き 缶 、 段 ボ ー ル の 回 収 が 中 心 で あ る 。 夜 か ら 朝 に か け て 仕 事 を し 昼 間 睡 眠 を と る生活だが、そのライフスタイルが「市民」の偏見(昼間から寝てやがる!)を強める。 1 1 行 政 ご と に い ろ い ろ で あ る が 、食 糧 ・ パ ン 券 支 給 、下 着 支 給 、交 通 費 貸 付 、医 療 相 談 な どが代表的なものである。これは最低生活保障ではなく「人道的措置」であるというのが 行 政 の 一 般 的 な 判 断 で あ る ( 岩 田 2000:294)。 1 2 昨 年 度 か ら 、都 内 の 五 つ の 公 園( 新 宿 中 央 、戸 山 、代 々 木 、 隅 田 、上 野 公 園 )の 居 住 者 を対象に地域生活移行支援事業が行われ、2年間低家賃で民間のアパートを提供するとい う事業が始まった。これは画期的であるが、期間や対象範囲が限定されている上に、今後 該当公園には新しく寝泊りすることが禁止されるという問題があるほか、それまでの路上 で培われた関係性が分断され「いのち」を支える環境が減少することが懸念されている。 実際すでに数名の孤独死が確認されている。 「 命 」と「 い の ち 」の 両 面 を 支 え る 環 境 を ど う 作るかが、現在も課題となっている。 13例 え ば 、 米 や 物 資 の 支 援 を 市 民 社 会 に 求 め る 場 面 で は 、 ホ ー ム レ ス 状 態 を 作 り 出 す 社 会 秩序への異議申し立てを目的とする運動団体も、撹乱行為を抑制し、代わりに「気の毒な 状況の人への支援」という人道主義的・秩序維持的なレトリックを採用することがみられ る。 「 命 」に 関 わ る 食 糧 確 保 と い う 目 標 が 最 優 先 さ れ る 中 で 、 “「 勤 労 」と い う 価 値 や 既 存 の 資本主義システム自体が排除を生む”といった、ラディカルな異議申し立てが社会的支持 を得ることは実際には極めて難しいためである。よって、文化秩序への挑戦は抑制され、 ささやかな資源動員論的テクニックが駆使される。この戦術を、象徴秩序を撹乱する〈流 用〉と区別して〈転用〉と呼ぶが、この戦術の限定性に、ホームレスの状況の困難が端的 に 表 れ て い る ( 仁 平 2004)。 14 し か も 「 悪 し き 制 度 ・ 慣 習 が 残 存 」 し て い る だ け で な く 、 「悪化」しているとすらいえ る 。2005 年 7 月 15 日 に 施 行 さ れ た「 心 神 喪 失 等 の 状 態 で 重 大 な 他 外 行 為 を 行 っ た 者 の 医 療 と 観 察 に 関 す る 法 律 」は 、再 犯 の リ ス ク を 評 価 し て 予 防 拘 禁 を 行 な う こ と に 道 を 開 い た 。 同時に、現在提出されている「障害者自立支援法」は、それまでの外来医療費の公費負担 を廃止し自己負担を増やすものである。ここには、マジョリティ側の安全と財政を守るた め に 障 害 者 の 権 利 を 縮 減 し よ う と す る 形 で の 生 -権 力 の 作 動 が み ら れ る 。 1 5 こ の 点 に つ い て 、 生 -権 力 は も は や 「 主 体 」 に 関 心 を 持 た な い と い っ た 解 釈 が 近 年 よ く 見られる。規律訓練権力から身体に直接関与する環境管理型権力へという図式はその代表 的なものであるし、文脈は違うが、アガンベンも「人種主義」的な、つまり「生まれ」に 書 き 込 ま れ た 生 -権 力 の 作 動 形 態 を 問 題 に し て い る 。し か し 、身 体 に 直 接 介 入 す る 技 術 が 飛 躍的に高まった点、規律訓練装置の多くが機能不全だという点は認められるとしても、主 体概念が権力にとって不要となったわけではない。権力と主体との関係は、事前に主体を 作るという形ではなく、全ての行為に対して事後的に選択の意思を見出し、帰責〈主体〉 を事後的に構築する(でっちあげる)という形で維持されている。その意味で〈主体〉は かつてなく「量産」されているともいえる。 1 6 本 稿 で は 、ホ ー ム レ ス は 、生 命( 身 体 的 ・ 生 物 学 的 )の レ ベ ル で 脅 か さ れ て い る こ と を 強調してきたが、それは生活保護をとったり、病院に入れば解決する問題ではない。生活 保護取得後のアパートや寮での孤独・無為や病院での管理など、いのち(関係性)のレベ ル で も 深 刻 な 問 題 を 抱 え て い る 。よ っ て 、ホ ー ム レ ス 状 態 の 人 は 、 「 命 」を 支 え る 社 会 的 資 源のみが不足しているのではなく、 「 命 」と「 い の ち 」を 支 え る 両 方 の 配 慮 が 不 足 し て い る のである。
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