座談会 日本音楽史研究の現在 出席者 ︵司会磯 ︶ 水絵 岩佐美代子 福島 和夫 飯島 一彦 どうぞよろしくお願いいたします。 さて、ここにお集まりいただきました、私も含めての四人 てまいりましたが、こうしてお集まりいただきますと、福島 磯 昨日まで、この座談会に向けていろいろと計画を練っ ご存じよりの仲ということになりますが、よく考えてみまし 筆メンバーですから、いわば福島先生を間に置いて、皆さん より上梓されました福島和夫先生編﹃中世音楽史論叢﹄の執 はじめに ︱︱﹃中世音楽史論叢﹄まで ︱︱ 先生は音楽史学ということで、ただいま歴史の方面に傾いて たらきちんと伺ったことがございませんので、初めに皆さん は、いずれもここにございます二〇〇一年十一月に和泉書院 おいでになるかと思いますが、三人はむしろ文学畑の人間で、 の福島先生との出会いをお話しいただきたいと思います。 まず岩佐美代子先生からお願いいたします。 そういう意味合いでは、今日の﹃日本音楽史研究の現在﹄と いうのも、どちらかというと﹁文学研究に資する音楽史﹂と ︿文学研究と日本音楽史の出会い﹀ 岩佐 そもそも私は雅楽なんて、何にも考えておりません いうところに傾いていくかと思いますが、そのあたりのこと は、ある意味、文学研究の方法論の一つとして、これから音 で、たまたま﹃秦箏相承血脈﹄が京極派歌人の伝記研究に役 に立つということに気がついて昭和五十一年に和歌文学会で 楽史研究がどのようにあるべきかということに向けてのお話 になってもよろしいのではないかと思っております。 1 座談会 日本音楽史研究の現在 ました。でもほんとにいろいろなことを教えていただきまし 岩佐 そうですよね。そういうふうな形でね。 ではないか、というあたりだったと存じますが。 ですが、その後ずっと先生からは、何にも知らない人間を知 活字にしたいと言って、ずいぶん福島先生をお困らせしたん とかしたいとわがままを言いましたり、 ﹃文机談﹄も 何 と か ざいますから、こんな面白いものかと思いまして、それを何 磯 先生がわれわれに、 ﹁このことにつ い て は、す で に ご 座談会 日本音楽史研究の現在 2 の⋮⋮﹂ 、 ﹁ご承知の⋮⋮﹂ 、とお っ し ゃ る の で す が、こ ち ら はちっともご承知ではないんです。でも﹁それは何 で す か﹂ と伺う暇もなく、お話がどんどん進んでしまうものですから、 うちを出るときには、今日は﹃文机談﹄のこのわからない所 を何としても伺おうと思っているのですが、お話が面白くて 夢中になっていろいろお伺いして、しまいにおやつまでいた だいて、そして帰ってきて、 ﹁ああ、面 白 か っ た。で も 一 体 発表いたしましたときに、磯さんが、 ﹁そういうこと を 言 う て、面白くて面白くてしようがなかったんですね。 今日は何を伺ってきたんだろう﹂と、そういう有様でござい のなら﹃文机談﹄を読まなければだめだ﹂と教えてくださっ その中でも面白かったのが、例の﹃箏相承系図﹄で、こち らでお持ちの本と京大図書館の菊亭本とを比較して、それが 磯 ほんとに言いっ放しで⋮⋮。ただそのあと、私よりも っている者として扱っていただいて、背伸びしてついていく ほんとに﹁血脈﹂などというものをしみじみと見る初めでご むしろ岩佐先生のほうが足しげく資料室にお伺いになってい て面白くて、また先生がとっても博識でいらっしゃるもので 存じでしょうが⋮⋮﹂という形でお話にな る こ と を、 ﹁実 は のに必死という状態で現在まで至っております。 すから、こちらも知っているとお思いになるのね。だから ﹁例 岩佐 それで伺いましたら、ほんとにお話が何しろ面白く らした、というのが実のところでございますね。 磯 ご紹介したというより、お伺いしなければいけないの 思っていましたが、そうでしょう? ほかにないもの。 さんがご紹介くださったのではないんですか。そうだと私は ︿岩佐旋風・福島旋風﹀ 昭和元年(1 9 2 6)生 現在 鶴見大学名誉教授 専攻 中世和歌文学・日記文学 著書 『校注 文机談』 (1 9 8 8年 笠間 書院)『文机談全 注 釈』 (2 0 0 7年 笠間書院)「 「菊亭本文机談」構成 推 考」 (『中 世 音 楽 史 論 叢』2 0 0 1年 和 泉 書 院)『京 極 派 和 歌 の 研 究』 (1 9 8 7年 笠間書院)『京極派歌人の 研究』 (1 9 2 4年 笠間書院) たんですね。それで福島先生のところへ伺ったんですが、磯 岩佐 美代子(いわさ みよこ) それで仕方がないので、話をとにかく頭の中に突っ込ん で、 知りません﹂とはなかなか恥ずかしくて言えないんです ね。 られたのだから、これはもう研究者冥利に尽きるよ﹂といわ て、論を立て、それを発表したあとに、確実な史料で裏づけ 佐旋風に福島旋風だ﹂と︵笑︶ 。橋本先生は、 ﹁自分で推論し 福島 それから、岩佐先生は、 ﹃文 机 談﹄を あ あ い う 非 常 ざいましたね。 岩佐 ほんとにそうでございますね。ありがたいことでご れた。 後ろを向いたときにメモして、あとで、という具合で。 福島 お互いさまですよ︵笑︶ 。私のほうこそ⋮⋮。 岩佐 そんなことないですわ。 磯 たぶんそういう形でお互いに知らなかったことをコラ ボレーションしていったというか、お互いに相歩み寄ってい かくにも自分でも調べますし、それが当たっているかどうか 岩佐 でもそうおっしゃられれば、必死になって、とにも 安・鎌倉音楽史﹂です。これに﹃教訓抄﹄と﹁春日楽書﹂等 著聞集﹄と二つ合わせると、鎌倉中期の人が書いた、正に ﹁平 とってはたいへんありがたいこと で す。 ﹃文 机 談﹄と﹃古 今 に使いやすい形にしてくださった。これは音楽史の研究者に は別といたしまして、そういう形で、いかに知らないことが の、私が言う 狛系楽書群 他を合せますと、この時代は史 ったということなんでしょうね。 多いかということも、ずいぶん教えていただきましたね。 して、うちだけではなく、書陵部や国文学研究資料館、それ で、 ﹁これもある。あれもある﹂というようなこ と に な り ま そういう史料の生かし方があるのかと気がつきました。それ 人の系譜としても大変示唆に富むものだ﹂とおっしゃるので、 らだけ見ていたわけです。ところが岩佐先生が、 ﹁こ れ は 歌 福島 ﹃箏相承系図﹄を、私は箏の相承系図 と い う 方 面 か かねて、みんなで回読したものです。 のです。公刊される前は、鶴見大学の紀要の新しい号を待ち も使いやすいかたちで提供してくださったので可能になった それというのも、岩佐先生が﹃文机談﹄の良い本文を、しか 集中させ、研究の拠点・橋頭堡をつくろうと提唱しましたが、 を、研究者が少数だからこそ戦略的に、意図してこの時代に 料的にも大変豊かになります。かつて、私は日本音楽史研究 きに、昭和五十六年六月にまったく思いもよらず、池田利夫 岩佐 どうしても発表の機会がないと思っておりましたと 岩佐 はい、お供いたしましたね。 先生から鶴見に専任で来ないかというお話がございまして、 ました。私もよくご一緒に方々に伺っていました。 から史料編纂所などで、先生は次から次へと史料を発掘され " 福島 書陵部に伺ったときですか、橋本不美男先生に、﹁岩 3 座談会 日本音楽史研究の現在 ! まして、鶴見の紀要を見たらこんなに厚いんです。しめたと 翌日図書館でいちばん先に大学の紀要の入っている棚へ行き そのとき私は国会図書館に非常勤職員で勤めておりましたが、 のかと考えてみると、そこには恐らく先生方の行脚の跡が出 から、それがどうしてあのようにたくさん重ねられていった とを考えたときに、最初からそれがあったわけではないです ます。やはりどういうものが音楽史料として必要かというこ ︱琵琶・箏伝授系譜による考察︱﹂が、 ﹃和歌文学研究﹄ ︵第 九七九年のことです。その五月の日本歌謡学会に発表しろと 飯島 私が福島先生とお会いしたのは、大学院に入った一 座談会 日本音楽史研究の現在 4 岩佐 そんなにおっしゃっていただいて、穴があったら入 りたいです。孝道論は石田百合子さんの﹁藤原孝道略伝﹂ ︵上 智大学国文学論集十五、一九八二年一月︶の方がずっと早く て、しかもとても面白うございます。私はあれを読んで勉強 しました。 磯 たぶんそういう形で、岩佐先生と福島先生が書陵部と か編纂所とかにお出でになっている間に、いま研究所にあり いうことで、ほんとに浅ましい話でございますが、まさかそ ているんだろうと考えます。それはまた、研究の軌跡といっ ます紙焼の史料類も、数を重ねていったのではないかと思い れで鶴見へ行ったというわけでもございま せ ん が⋮⋮︵笑︶ 。 てよいようなもので、次代の研究者はそれに囲まれるだけで ︿歌謡と日本音楽資料室﹀ 三十七号 一九七七年九月︶に掲載されました。あれが大き 言われて発表したんですが、そのときに﹁上野学園の福島和 ところで、飯島一彦先生はどういうふうに⋮⋮。 なショックでした。例えば孝道という人物の面白さ、個性と それ以前に福島和夫という名前が入っておりまして、私の中 夫先生﹂とご紹介いただきました。ですが、私の頭の中には かった。 いうのは岩佐先生が明示してくださらなければ、気がつかな 福島 それから先生のご論文﹁音楽史の中の京極派歌人達 ままの形でテキスト版にしました。 そのときからとにかくこれだけは全部しなければならないと ! ! も意義があるというものです。 昭和5年(1 9 3 0)生 現在 上野学園大学日本音楽史研究 所長、教授 専攻 日本音楽史学〔中世〕 著書・論文 『日本音楽史叢』 (2 0 0 7年 和泉書院)「 〔古楽図〕 考」 (2 0 0 6年 『日 本音楽史研究』 第6号)「西域伝来の 」2 0 0 4、 6年 古楽器楷鼓の研究 一 ・ 二 ( 『日本音楽史研究』第5・6号)『中 世音楽史論叢』 (編、 2 0 0 1年 和泉書院) 思いましてね。赴任から六年、紀要に翻刻を連載して、その 福島 和夫(ふくしま かずお) れて、 ﹁上野学園大学? 福島和夫? 間違 い な く あ の 人 に 現代音楽の作曲家として記憶されていたんです。で、紹介さ ではヨーロッパのさる音楽祭でゴールドプライズをもらった した。そのようなことで二十何年もご縁がつながっていると いて、私自身がとても感激しましたし、居心地のいい場所で などを相手にして一時間も二時間もいろいろなお話をいただ らないのですが、福島先生は差別なさらずに、駆け出しの私 福島 いまでもはっきり覚えています。うちはあまり人手 いうことでございます。 また、その年の秋の東洋音楽学会の大会が福島先生のとこ がないものですから、大会を引き受けたのはいいんですが困 違いないんだけど、何で日本歌謡学会で会うん だ ろ う﹂と、 ろで開かれるということで、そのときに、私の大学院の恩師 っていたときに、飯島さんが中心になっていろいろとやって そのときとても不思議に思いました。 ︵故臼田甚五郎︶に﹁誰か生きのいいのはい な い か﹂と 福 島 くれました。何しろ安心して何でも頼めるという感じが第一 飯島 国学院というのはいろいろな大会を引き受けるもの 先生がおっしゃったと私は伺っていますが、恩師から﹁飯島、 ら雅楽などをやっていたせいでもあると思いますし、神楽歌 ですから、学部の時代から下働きで動くので段取り等は鍛え 印象でしたが、いまだに変わっていません。 の研究会などもやっておりましたので、指名があったかと思 られていましたから、お手伝いすることができたということ やりたまえ﹂と言われまして⋮⋮。それは、私が高校時代か いますが、その打ち合わせに初めて日本音楽資料室に伺いま です。 磯 飯島先生が福島先生と足繁くお会いになっていたころ した。そのときに日本音楽資料室というのがあるのを初めて には、もしかしたら私のほうは子育てをしていたのかもしれ 知ったんです。ですからちょっとびっくりしまして、岩佐先 生がおっしゃったように伺うと、 ﹁飯島君、こんなも の が あ ませんね。 飯島 そうです、そうです。です か ら 磯 先 生 と 私 が⋮⋮。 るよ。こんなものもあるよ﹂と、こちらが話す暇もないくら い、いろいろな資料をご紹介いただきまして、これは面白い 私は説話とかをやっておりませんでしたので、その頃は中世 文学会も入ってなかったんです。磯先生とお会いしたのはし ところだと。 それからときどきお伺いするようになって、さらに東洋音 ばらくあとですよ。昭和五十年代の終わりか、もしかしたら 六十年ぐらいだったかもしれません。 楽学会のお手伝いをするようになりまして、それで足繁く通 うようになったのです。まだ院生になったばかりで何もわか 5 座談会 日本音楽史研究の現在 昭和2 5年(1 9 5 0)生 現在 二松學舍大学文学部教授 専攻 説話文学・日本音楽史学 〔中世〕 著 書 『説 話 と 音 楽 伝 承』 (2 0 0 0年 和泉書院)『院政期 音 楽 説 話 の 研 究』 (2 0 0 3年 和泉書院)『續古事談』 (共著、2 0 0 2年 おうふう)「 「大曲」 考―『源氏物語』 「若菜下」より―」 ( 『源氏物語の展望 第四輯』20 0 8年 三弥井書店) が、これはきちんと記録にありますのではっきりしています 私が実は福島先生とお会いしたのは、ほかにも書きました 志 先 生 が、 ﹁こ れ か ら 何 を や る ん だ﹂と 質 問 さ れ た と き に、 のきっかけは、修士に入ったときに、まず最初にそれこそ貴 トに日を決めて伺うようにはしましたが、結局、それの一つ 座談会 日本音楽史研究の現在 6 その中から知らず知らずのうちに音楽説話を問題にしていた わけです。 ︿下関での出会い ︱︱説話・歌謡合同学会にて︱︱﹀ たまたまそれの﹃中右記﹄の中に出てきた説話を問題にし たところが先生のお耳にとまって、その次の日の文学散歩で、 赤間神宮の付近だったと思いますが、先生からバスの中で声 をかけていただきまして⋮⋮。 ﹁うちにたくさん史料 が あ る よ。何だったら来ないかい?﹂というお誘いでしたが、古い 時代でしたから、そのお誘いを受けていいかどうかは、まず が、一九七五年十月に下関で説話文学会と歌謡学会の合同大 私は本当に向う見ずな人間で、 ﹁先生があまり音楽のほう を 師の貴志先生に伺ってお許しを得て、という形でしたが、そ 会がありまして、福島先生は歌謡学会側で、私は説話文学会 やっていらっしゃらないみたいに見えるので音楽説話をやり 私などにとっては子育て後の理想像で、それを考えて少し我 側であちらに伺っていたわけですが、私がたまたま説話の学 ます﹂と申し上げたんですね。そうしたら一カ月もしないう れでお伺いするようになって、最初はとりあえずコンスタン 会のほうで学会デビューだったんですね。徳田和夫さんが二 しかも、それは私の後輩の女子学生が全部翻刻済みで、そ ちに、 ﹁じゃ、これをやりなさい﹂と持ってきて く だ さ っ た これは二松学舎大学の、貴志正造ゼミナールを中心とした共 こに原稿用紙になっていたんです。そうして﹁これに注釈を のが、珍書同好会本の﹃文机談﹄だったんです。 同研究における成果の発表だったのですが、たまたまそうい つけなさい﹂ときたんです。ですから貴志先生は当時御自分 番で私が一番目だったと思いますが、そのとき に﹁ ﹃続 古 事 うわけでかなり資料が分厚いものだったんですね。そし て、 談﹄の編纂意識について﹂という口頭発表をいたし ま し た。 慢していても大丈夫なんだと思っていましたが⋮⋮。 磯 そうですね。ですからそういう意味でも、岩佐先生が、 磯 水絵(いそ みずえ) ら二年間、いままでの説話研究の手法でずっと注釈をつけて がなさる準備をしていらしたわけです。で、ともかくそれか ったか知れません。 がないものでね。ご紹介いただいた事がどんなにありがたか 磯 いえ、そんな⋮⋮でも、たまたま私の場合はそうやっ ったわけで、ですからそのあと伺っても、見るのは系図、そ いきましたが、岩佐先生には、歌人としてよくおわかりだっ 生しました。自分ではわりと考証的なことをやってきていた れこそ先生が出してくださるものを見せていただくんですが、 はいけないよ、ということで福島先生がお声をかけてくださ はずなのにわからない人がたくさんいる。それだけではなく 最初はそれを見なければならない、その目的が自分の中でわ て、やはり系図資料等を使いましたか ら、 ﹃群 書 類 従﹄本 で て、音楽用語がわからない、というので、修士の二年間続け からないんです。福島先生には﹁こういうつもり﹂というも た登場人物についても、実は説話側からいくと﹃尊 卑 分 脈﹄ ましたし、これはそういうわけでもう出版社も決まっている のがあってお出しになられたものも、実はまだ 猫 に 小 判 に載ってはいても、何だかよくわからない人ばかりがいて往 仕事でしたが、私が手を挙げてしまったんです。 ﹁で き ま せ 納 得 で き な く て⋮⋮。そ の 矢 先 の 岩 佐 先 生 の ご 発 表 で し 生がそれの編集作業を始められた段階で、どうしてもやはり ました。実は全部﹁注﹂をつけていました。そうして一応先 と私には手に負えないということが、そこまでやってわかり ん﹂というか、 ﹁待ってください﹂と。もう 少 し 理 解 し な い ころにコンスタントに伺えるようになったのは五十歳を手前 ずいぶんと励ましになりました。現在のように福島先生のと とが、その後十年間ぐらい子育ての潜伏期間があったわけで、 同時に、やはり図々しく岩佐先生とお近づきになれましたこ とにかく史料を調べるということに関して意識しましたのと 状態というのがしばらく続いたんですね。しかし、その間に ら、藁をもつかむような思いで先生の御発表に伺いましたが、 磯 ですから、私にとっては自分がだめだったものですか 先生方が取れないというので、せっかくできた制度を生かそ 学舎の第一回目のサバティカルは半年だったんですが、男の 二〇〇〇年の手前でサバティカルを半年とりました。二松 にしたころからのことです。 やはり岩佐先生も福島先生のところに通わなければいけない に伺って、机を貸していただいて⋮⋮、すると、そこの机だ うと取らせてもらったサバティカルでした。日本音楽資料室 岩佐 ああ、そうでしたか。 た。⋮⋮ " と⋮⋮、そのときには思われたのです。 岩佐 そうですわね。ほんとに知らないというのはしよう 7 座談会 日本音楽史研究の現在 ! 話がほんとにヒントになって、それがまとめあげられていっ す﹂ということに対して、先生がいくつも返してくださるお 蔭だと得心がいくんですね。 ﹁いまこんなことを考えてい ま かと考えてみると、先生とのランチの時間のおしゃべりのお ろうと思っていました。ところが、音楽学の研究者はほとん すから、学外の研究者に公開すれば喜んで活用してくれるだ 所蔵者が閉鎖的で非公開が多いという声を聞いていたもので が、案に相違して利用者が少ないのです。日本の音楽文献は そのころ、資料室にはある程度史料が集まっていたのです ︿宝の持ち腐れ状態であった音楽史料﹀ たという状況の中にあったわけです。当時はそれから先、こ ど関心を持たない。例外は岸辺成雄・平野健次のお二人ぐら と面白いように論文が書けるんですね。それはなぜ書けるの れからもずっと書いていけそうな気がしたものです。いまに 積極的に関心を示すのは歴史学と国文学の研究者で、なか いなもので、それから私共の客員教授でした野村良雄先生。 には非常 な 理 解 を 示 さ れ て 陰 に 陽 に 支 援 し て 下 さ っ た 方 も して思うと、それまで世事にかまけていた時間のうっぷんが とそれからあととの間に私は少し時間があるわけです。そう 二・三に止まらなかったのです。市古貞次先生もそのお一人 そこで吐き出されていたわけですが、そんなことで、出会い であるからこそ、先生から伺ったことが形になっていればい でした。 音楽学の研究者からは、古文献を収集したり研究するのは いなあというのは、たぶん私がいちばん感じていたのではな いかと図々しくいえば思います。ですから、この﹃日本音楽 林謙三先生がいわれたと人づてに聞いて、こちらがびっくり 骨董趣味か、余程偏屈な奇人と思われたようで、私の﹁五重 したものです。文献を史料としないで、何によって研究する 史叢﹄がまとまったときには、私のような幸せをほかの方も 福島 最初は一九七五年の下関の大会のときですね。歌謡 のだろうと? 不思議に思って調べてみますと、昭和に入っ 十操記校異並びに伝本考﹂を見て、 ﹁世の中には変わ っ た こ 学会では乾克己先生と新間進一先生と三人ウマが合うのか、 みなさん、これを読ませていただくことによって味わえるの ご一緒のことが多かったのですが、その時は乾先生とでした。 てからは、日本音楽史の研究はほとんどない。あるのは民族 とをする人がいるものだ、古写本を集めて校合するとは﹂と まず発表資料の字をみて、これは只事ではない、というのが 学か民俗学ばかりで、 ﹃日本音楽史﹄という名前の書 物 は あ ではないかと思ったことです。 二人の一致した意見でした。 っても、方法論的に歴史学ではない。いま現在演奏されてい 座談会 日本音楽史研究の現在 8 だという提案が、ほぼ全面的に受け入れられた結果です。不 れた﹂ので、これ以上発展の余地はない。これからは民族学 提唱いたしました﹁文献による日本音楽史はすでに論じ尽さ 昭和四年︵一九二九︶ 、田辺尚 雄 が﹃日 本 音 楽 史﹄冒 頭 で る音楽そのものについて研究するのが音楽学だというのです。 一応私も国文学に関わっておりましたから、 ﹁い や、私 は 国 なはずなのに、どうして国文の人たちは来ないんだろう﹂と。 本音楽の研究者もそうだけれども、国文の人にとっても大事 て国文の人たちはもっとこの資料を使わないんだろうか。日 ときどき福島先生はこぼしていらっしゃいました。 ﹁どう し 楽文献を、日本音楽の研究者は見向きもしない。大学でも教 なったようなのです。その結果、このように豊富な日本の音 先達がいわれるのだから文献をやっても無駄だということに 何かということを、確かめた人がいない点です。素直に、大 思議なことは、本当にそうなのか、論じ尽したという研究は ます。 てるということだけでも大変な隔世の感があるのではと思い ら、そのころのことを考えますと、いまこういう座談会が持 いを抱いて研究なさっていたのだろうと感じました。ですか られてもなぁ﹂と思いながら、福島先生はずっとそういう思 文を代表しているわけではないんで、そんなことをおっしゃ 法も知らないし、第一、字が読めないという状態でした。 雄先生の﹃唐代音楽の歴 史 的 研 究 学 制 ﹄ ︵一 九 六 〇・六 ですから、磯さんとは、 ﹁うちにこういうのがありますから、 まいりまして、これは誘惑しようということになったのです。 と合同大会になりまして、乾さんと二人で磯さんのご発表に おうと考えていました。そういうときにちょうど説話文学会 るのに、誰も問題にしないんですね。楽譜︵近代五線譜︶が 六〇年 岩波書店︶も。私はあれこそが音楽史だと思ってい た。それから林屋辰三郎先生の﹃中世芸能 史 の 研 究﹄ ︵一 九 一年刊 二〇〇五年覆刻︶は音楽学ではないと言っていまし 飯島 その後しばらくしてからですが、昔は福島先生はよ 歴史を考えるときに何がいちばんいい参考書かといって、林 飯島 そうですね。日本の古代音楽、平安朝までの音楽の 音楽だけを問題にするのは音楽史ではないといったのですが。 くお酒をお飲みになりましたから、私を誘って下さって、上 屋辰三郎さんの﹃中世芸能史の研究﹄がいちばんいいよとい います。 ないからです。あれは歴史学か社会学だというんです。私は そんな訳で、まずは国文学や歴史学の方々に活用してもら 福島 ちなみにそのころの東洋音楽学会などでは、岸辺成 えないから、文献を扱える研究者が育たない。史料批判の方 ! ! ! ! ぜひ見にいらっしゃいませんか﹂といったのが初めてでござ g ! ! ! ! ! 野あたりでよくご一緒させていただいたことがありましたが、 9 座談会 日本音楽史研究の現在 ! ! 昭和3 0年(1 9 5 5)生 現在 獨協大学国際教養学部教授 専攻 日本文学・日本歌謡史・日本 音楽史 著 書 『古 代 歌 謡 の 終 焉 と 変 容』 (2 0 0 7年 おうふう)『日本書紀「歌」 注釈』 (共著、2 0 0 8年 笠間書院)『歌 のちから―岩手県旧江刺郡の民俗歌 謡資料と研究』 (共著、國學院大學日 本文化研究所編、2 0 0 3年 瑞木書房) ところで、こういう形で文学畑の人間が金魚すくいのよう いとされてしまったのです。日本で受け入れられないという を発表したんですが、日本の学会からは、音楽の研究ではな 六九︶なども、 ﹃音楽史料としての古今著聞集﹄ ︵一九五六年︶ 福島 ドイツの日本学のハンス・エッカルト︵一九〇五︱ 磯 みんな高山︵古書店︶へ行って買ってくるんです。 飯島 そうですよね。 いますね。古谷先生、飯島先生がこの﹃音楽史論叢﹄にお書 わたる研究の一端を皆さんが担っていると言っていいかと思 ということを示しているのではないかと思いますが、多岐に ローバルな問題というか、内包しているものがいかに多いか か、それが結局先生の人脈というか、それが音楽史の実はグ すが。どうしてこういう方々が一堂に会することになったの て、先生からできればご紹介いただけるとよろしいと思いま 座談会 日本音楽史研究の現在 10 すが、その時代は岸辺先生ですら﹃著聞集﹄の史料価値を認 識しておられなかったのです。 磯 ですから逆輸入ですね。私などが最初のサバティカル を取ったときには、日本音楽資料室にそのときにいらしたド イツ語のできる内地留学中だった地土井志保さん︵当時エリ ザベート音楽大学大学院生︶に訳してもらうことを計画しま して、まだ全部ではないんですが、それを少し見せてもらっ たりしていました。 と平野健次先生と、あとスティーヴン・G・ネルソンと吉田 にすくわれたことはわかりましたが、この﹃中世音楽史論叢﹄ ︿ ﹃中世音楽史論叢﹄の執筆者たち﹀ ︵旧姓工藤︶真由美だけなんですよ。ほかの人に言っても ﹁?﹂ の中には国文畑ではないメンバーが、ここで申しますと相馬 万里子先生、笠原潔先生、永村眞先生、古谷稔先生という形 のでドイツでも受け入れられず、彼の仕事は失敗であったと きになったころは、ちょうど例の﹃梁塵秘抄﹄のご紹介があ でお集まりいただけたわけですが、そういう方々につきまし されました。その後われわれは非常に高く評価しているんで なもので、周囲はみんな持っていました。 磯 説話をやっているわれわれは、あれはバイブルのよう がつく。そういう時代でしたね、昭和五十年代の後半は。 う、そのことを共有できたというのは、当時本当に福島先生 飯島 一彦(いいじま かずひこ) ったころだったかと思いますが、そのあたりの各分野の先生 永村眞氏。東大の史料編纂所の助手をしていらした 時 に、 からだと思います。橋本不美男先生のもとで、最初から伏見 とは、私が宮内庁書陵部に通い始めた一九六〇年代の終り頃 福島 ではちょっとながくなりますが、まず相馬万里子氏 た。永村氏のお弟子の高橋ひな子・八嶌さわ子さん、私共は 私共の資料室で一九八七・八八両年にわたり指導して下さっ その後も古文書の輪読会東大寺文書研究会︵楽人・舞人︶を 私にとっては非常に重要な経験で、重大な転機となりました。 私を音楽史から最初の非常勤講師として三期よんで下さった。 宮の楽書を担当されていましたから、正に伏見宮本の 生き 新井・ネルソン・松本宏司・私の四人が参加しました。また との出会いについて、一言いただけますでしょうか。 字引 でいらっしゃる。伏見宮本は雅楽文献の 正倉院 の そんな時に頼りにするのは相馬さんで、橋本先生のお許しを など生きているうちには見られないのかと思っていました。 ような存在ですが、当時は未整理で見ることができない。私 て所謂別働隊として十年間にわたり調査を実施できましたの 研究室とで合同調査団を結成させ、史料編纂所の本隊に対し 醍醐寺の史料調査を計画していた我々と、東大工学部建築史 今後、日本音楽史の研究が歴史学として成立し存在するた めに、歴史学として音楽研究の重要性を説き、自ら実践され れはもう有難い存在でした。 ﹃箏相 承 系 図﹄や﹁藤 原 季 通 箏譜序・跋﹂等々です。今後の御発表を待望しております。 た黒田俊雄先生亡きあとは、永村氏に期待するところは極め 一九七九年四月以来の日本音楽史研究所︵旧日本音楽資料 て大であります。現在は、日本女子大学の教授でいらっしゃ は、私共の資料室で放送大学の授業を聞いたり、私にも特別 室︶研究員でいらっしゃる新井弘順氏とは、一九七三年夏の 笠原潔氏。名古屋芸術大学の研究紀要に、六回にわたり ﹃楽 講義﹁音楽文献研究法入門﹂を委嘱されたり等のことがあり 大般若輪読会ヨーロッパ公演の際のボンが初対面です。翌年 記﹄の注解を連載した人がいる。しかも専門はヨーロッパの まして、以来親しくお付き合い戴いておりました。近年は音 の青木融光大僧正による﹁四座講式﹂伝授を機に、私が企画 います。 楽考古学にも関心を示しておられました。古代中国の音楽思 しまして、新井氏に私と一緒に全体の構成に当って戴きまし いたしました全曲省略なしのレコード化︵コロムビア︶に際 音楽史・音楽美学だという。その後放送大学に移られてから Ç も永村氏のお力によるものです。 " ! 得て、転写本などの複写をお渡しして校合して戴いたり、そ ! 想の研究者として貴重な存在でしたのに、最近亡くなられて、 非常に残念です。 11 座談会 日本音楽史研究の現在 " 当時は﹃中原芦声抄﹄に興味を持っていたようです。来日し ト博士が、シドニー大学に帰って最初に教えた学生でし た。 日本音楽資料室特別研究員︵客員︶であったアラン・マレッ スティーヴン・G・ネルソン氏は、一九七六・七七両年の 派声明のみならず、 日本声明を代表する声明家でもあります。 歴史的に声明を捉え、考究を進めておられます。真言宗豊山 た。声明の研究者としては、現在の宗派の別に拘束されずに、 と音楽と﹄ ︵二〇〇四年二月 上野学園日本 音 楽 資 料 室︶が でも余りある痛恨事であります。遺稿集﹃鼎論 文学と歴史 ある、優れた、しかも最も若い学究を失ったことは、くやん 不可欠の存在だった。唯でさえ少ない日本音楽史の研究者で 行力と、黙って支えてくれる暖かい人柄は、我々の研究室に したし、彼の地味ではあるが、着実な研究態度と粘り強い実 直なところつらいですね。 ﹃論叢﹄編集の担当者でも あ り ま 若い彼が、只一人故人となってしまったことを話すのは、正 の研究者で、源信義等の音楽文献の筆跡に関心を持っておら 美術課長︵現在、東京国立博物館名誉館員︶をされた古筆学 古谷稔 大東文化大学教授は、東京国立博物館の書跡室長・ 歴史・史料・理論・実際に最も通じている日本音楽史家です。 して、今も研究所に通い続けてくれています。雅楽を中心に、 は法政大学教授となりましたが、同時に資料室特別研究員と ま せ ん﹂ 、 ﹁私 も こ の 字 は 読 め ま せ ん﹂と い わ れ、 ﹃字 鏡 抄﹄ ﹁鎌倉時代の字を読むには、鎌倉時代の辞書を使わねばな り したから、 恐る恐る伺ってみました。﹁辞書は何をお使いか?﹂ 、 どうしても一字読めない。頭の中はそれでいっぱいの状態で かで追いかけている史料の、貞保親王の横笛譜の序文ですが、 こに居られる方がどうも大変な方のようで、その頃何年ごし 探しに行ったからだと思います。例えば尊経閣文庫では、そ 結局いろいろな方とお近づきになれたのは、方々に史料を あります。 て東京芸大に在籍し、日本音楽資料室通いが始まる。一九八 れ、私共にも尊信筆の﹃維摩会表白﹄等を見に来られました。 を出されて見事に読み解いてくださった。太田晶二郎先生で 三年四月から資料室研究員となりました。二〇〇一年京都市 一九九七年四月に私共の﹁梁塵秘抄断簡﹂を持って飯島さん ︿一字の御恩﹀ と一緒に東博の書跡室に伺い、以降三人で三井文庫、西本願 した。 一字の御恩 を頂戴した訳です。 立芸術大学日本伝統音楽研究センター助教授、二〇〇四年に 寺、妙法院等の調査を行いました。後白河院自筆説をとる古 谷氏は、古筆学界に一石を投じる結果となりました。 ひろ ゆき 最後は、青木洋志氏。 ﹃論叢﹄執筆 十 一 人 の な か で、一 番 " 二年位まで、その後は、作曲も含めて独学です。アカデミッ もともと、私は無学な人間で、組織的な教育は中学の一・ ! 座談会 日本音楽史研究の現在 12 い。学んだ大学も、師事した先生もないのですから、恥は私 けで、何もわからないのですが、何しろ面白くてしょうがな をそれも独学で始めたのが四十四歳の時からです。そんなわ イラになってしまった訳で。ですから研究ではなくて、勉強 た史料を調べたりするうちに、面白くなり、ミイラ採りがミ する史料の収集を提案いたしました。実際に収集したり集め 大学に参画することになり、その一環として、文献を中心と クな世界とはもっとも遠い処におりました。それが上野学園 に中絶しました。そのような 研究 と、これから目指す学 ですが、寿夫さんと私が一九六一年に相ついで渡欧したため 能の具体的な技法等について討論する有意義な集りだったの 万作。作曲は湯浅譲二、鈴木博義、武 満 徹、松 平 頼 暁 等 で、 会館でいたしました。観世栄夫・静夫、狂言の野村万之亟・ あった観世寿夫さんと私が世話人になって能の研究会を草月 究をしておりました。当時、義兄であり、仕事の協力者でも たのは作曲ですが、その時も、自分なりに調査をしたり、研 る処におられる。書陵部では橋本先生、平林盛得先生、飯倉 一人。こんな気楽な話はありません。そうなると先生はいた といけないと考えたのです。 問としての研究とはどこがどう違うのか、はっきりさせない 結局、作曲・演奏等の場合﹁終り 良 け れ ば 全 て 良 し﹂で、 結果即ち作品が良ければよいので、そこにいたる過程や、方 晴武先生。陽明文庫は名和修先生、平安博物館の角田文衞先 生。史料編纂所は御名を挙げきれません。静嘉堂文庫でご一 法 は 問 題 に な ら な い。反 対 に 科 学 と し て の 学 術 研 究 は、過 西甚一、大久保正、田中 久 夫、井 上 宗 雄、桃 裕 行、林 幹 弥、 すと、大勢の方が来館されました。岡見正雄、多賀宗隼、小 一九七五年から毎年のように資料展観をするようになりま ます。以前の私の 研究 は誤解・誤認の 集 積 で あ っ て も、 程に問題があれば駄目だ、という至極当たり前の結論であり 能でなければならない。いくら結論・結果が面白くても、過 程・方法が客観的に呈示され、証明されて、第三者が検討可 あんざこ 緒した庵逧巌先生、等々。 山中裕、築島裕、志田延義、黒田俊雄⋮⋮きりがありません のでこの辺りで止めますが、居ながらにして素晴らしい方々 その結果である良い作品を生むのであれば目的を達していた、 ないという、常識的な結論となりました。 程・方法が的確であり、第三者の検証が可能でなければなら 学 問 と し て の 研 究 は 客 観 的 な も の で、そ の た め に は、過 主観的なものであり、他に適用不能なものでした。 ︿ ﹁日本音楽史学﹂の提唱﹀ もうひとつ勉強をはじめると同時に念頭にあったことは、 研究の方法論であります。それまで私の仕事としておりまし 13 座談会 日本音楽史研究の現在 ! " " にお遭いできるのですから、 こんな有り難い話はありません。 ! その結果、行きついたところは、歴史学の実証 的 方 法 で、 一 九 六 〇 年 代 の 中 頃 か ら、 ﹁日 本 音 楽 史﹂ 、 ﹁日 本 音 楽 史 学﹂ と称しはじめました。 になるというふうには、いまのお話を伺っていますと、あま り思っていらっしゃらなかったんですよね。 福 島 い や、何 し ろ 研 究 者 と し て は 駆 け 出 し で し た か 楽史を教えるときに、国立劇場でつくったこんな薄いパンフ 料室にあれだけの文献があって、 もうこれは福島先生の⋮⋮。 飯島 でも、われわれとすれば、何しろ当時の日本音楽資 ら⋮⋮。 レットがあるんですが、あれを教科書に使ったんですね。最 福島 岸辺先生や平野さんをはじめ皆さん先学が大勢学会 飯島 音楽学のほうではちょっと前まで、大学で日本の音 近はいろいろな本が出てきましたが、私もかつてそれを聞い にいらっしゃるし、こちらは始めたばかりですから責任がな 上げておりまして、 ﹁先生、日本の音楽史というのは よ く わ いんです。それは福島先生とお会いしたころにもすでに申し 本の音楽史の中で説明が欲しいのですが、よくわかる本がな 緒なさっていました。平野健次という先生は国文ですが、ど 私が福島先生のところに初めてお邪魔したころにはよくご一 先生、平成四年︵一九九二︶にお亡くなりになられましたが、 飯島 先ほどから何回かお名前が出ていますが、平野健次 い、たいへん気楽な状態だったんですね。 てびっくりしたことがあるんです。またあとで話が出るかも からないし、おかしなことが書いてある本が多いので、何か ちらかというと文献を扱って音楽の歴史を組み立てるのは、 しれませんが、私はどちらかというと国文よりも雅楽のほう そ う い う 良 い 本 は な い で す か﹂と 伺 っ た ら、 ﹁な い ん だ よ﹂ 先ほどもちょっと先生はおっしゃっていましたが、あのころ ︿平野健次の仕事﹀ とおっしゃられていました。先程お話にでた編纂所の講義に は﹁平野君に任せた﹂みたいなところがおありになったと思 から入ったものですから、そうすると雅楽を勉強するのに日 行かれたあともやはりお会いしていて、 ﹁所員がみんなそ ろ います。 史というものが、読んできちんとわかるものがない。それは 音楽史の通史的なことが、かなりの分量で書かれてはいるん を仕上げて直後にお亡くなりになられて、そこには多少日本 ところが平野健次先生が平凡社から出た﹃日本音楽大事典﹄ って座っているんだよ﹂と歴史学の方からの日本音楽史への 日本音楽史といういわば学問分野が未成熟だったということ ですが、まだとても一冊の本にするには足りない。本来はあ 高い関心に驚かれていらっしゃって。つまりいい日本の音楽 のもちろん反映なんですが、それを福島先生が担っておやり 座談会 日本音楽史研究の現在 14 れをもとにして﹃日本音楽史﹄といういわば教科書を作って 音楽史学のまねごとをさせていただくような状況を、あえて でやらなければしようがないんだという思いで、自分も日本 本古典音楽文献解題﹄をお手伝いしているときにはまだまだ くださいと私たちもお願いしていたのですが、それができな わからなかったのですが、平凡社の﹃日本 音 楽 大 事 典﹄ ︵一 つくっている部分がありますが、それは言って み れ ば、 ﹃日 そうすると、われわれ若い者の期待としては一心に福島先 くなってしまった。 生にかかるわけでありまして、そのころ先生がまたその史料 わかってくれない音楽史の学会というか、東洋音楽学会では、 九八九 年 平 凡 社︶に い た っ て、 ﹁管 絃﹂の﹁ゲ ン﹂の 字 を 私はここにいても仕方がないのではないかという状況になっ 編纂所の影響か何かわかりませんが、 ﹁音楽史学﹂と い う こ 福島 いま考えると平野さんの仕事は音楽史といっておか て⋮⋮。古典文学のほうではこれが﹁ほんのちょっとのこと 弓偏で統一されたときにものすごく衝撃だったんですよ。何 しくないのですが、ご自分は国文の出身であるということで、 だ﹂では済まされなくて、弓偏と糸偏はやはり問題で、糸偏 とを堂々とおっしゃられるようになられてきて、当然と言え 遠慮されていたと思います。それで﹁音楽史﹂と言うときに でなかったら﹁絃管﹂から﹁糸竹﹂という語が生まれないん でこんなことをわかってくれないんだろうと。糸偏にしなか はちょっとはにかんで言われたんですね。私が東洋音楽学会 だから困るんだということを理解してくれない、そこのとこ ば当然の流れなのかなあと私はいま感じております。なにし に入った頃は、文献といえば雅楽でも、声明でも、平曲も能 ったら絹の絃にならないではないかと思ったときに、それを 楽も、近世は勿論、何でも平野さんでした。同時に文学出身 ろが、いちばんある意味、東洋音楽学会との決別と い う か、 15 座談会 日本音楽史研究の現在 ろ昔は﹁日本音楽資料室﹂でしたからね。 で音楽ではないから、文献にこだわるともいわれていました。 もう入っていって教えてもらおうという姿勢はやめたという、 んが、この﹃文机談﹄の全注釈を初めとする先生のご活躍等 幸いこのごろ、それこそこれは岩佐説になるかもしれませ たわけですよ。 い方があるけれども、一字の考え方がちょっとショックだっ そのきっかけにもなったんですね。 ﹁一事が万事﹂と い う 言 やがて雅楽・声明は私にくるようになり、やっと専門の近世 に集中できたようです。 岩佐先生の功績 磯 考えてみると、四半世紀経って、私ももうこれは自分 ! ! ! ! 生にお伺いいたします。 楽史と古典文学との出会いという部分を、改めまして岩佐先 したように、日本の音楽史にくくられるわけですが、この音 ど申しました﹃音楽史論叢﹄が日本史研究叢刊に収められま ますが、そこのところで福島先生のご研究というのは、先ほ なってきましたね。あきらかにこれは多くなってきたと思い で、いまは﹁管絃﹂の﹁ゲン﹂の字も糸偏であることが多く どを見るのがとても好きで、それで﹃田中本帝系図﹄という が、私は系図を見るのが好きなんですね。人と人との関係な こない。何で﹃秦箏相承血脈﹄にたどりついたか忘れました からないんですね。どこを探しても小さな女房達なんか出て まして、そういう中で、ほんとに登場人物がみんな伝記がわ ころ﹃花園院宸記﹄を昭和三十年ころからずっと読んでおり ﹃田中本帝系図﹄を中心に︱﹂というのを 書 き ま し た。そ の すから、そんなことでいろいろ見ているうちに気がついたの のを見つけまして、ずいぶん役に立ってうれしかったもので 私が先生に初めてお目にかかりましたのは、先ほどお話が ︿歌人研究と音楽研究 ︱︱詩歌管絃︱︱﹀ だろうと思います。もう忘れてしまいましたけどね。 そうしましたら具顕という人は、琵琶西流師範家の藤原孝 ありましたように、先生が﹁音楽史の中の京極派歌人たち︱ 琵琶・箏伝授系譜による考察﹂ ︵一 九 七 七 年 九 月︶を﹃和 歌 時の長女、琵琶の名手の孝孫前︵よみ は 推 測 で す︶ 、あ の 人 はまだダイレクトには伝わらなかったのですが、そういう歌 ときに、歌人研究でこれというのが、説話をやっていた私に 席上のことでありましたが、先生のご発表を伺いに参上した 兼季をもうけている。西園寺家は先祖の大宮実宗の時から琵 おまけに孝時の孫娘、少納言孝子との間に菊亭家の祖になる 孝時のお姉さんで箏の名人の讃岐局の次女、八十前の子供で、 の孫になる。それから京極派の大パトロンの西園寺実兼 は、 こうひこごぜ 文学研究﹄ 号に掲載されます以前のことで、和歌文学会の 人研究に音楽研究が役に立つんだということに、一体どうし 琶の家なんですが、この時代になるとそういう血縁関係がで 京極派揺籃期一歌人の考察︱﹂という論文を﹃国語国文﹄に いちばん初めのころに、昭和四十三年に﹁源具顕について︱ テージパパになってしまいまして、その記事がいっぱい出て ですが、それに箏を習わせて、もうたいへん入れ込んで、ス 位実子という人がおりまして、これはのち宣光門院になる人 また﹃花園院宸記﹄の元亨年代に、花園院がご寵愛の従三 や そ ご ぜ て気づかれたのでしょうか、と言うのも失礼なのですが、そ きて来るという事をはじめて知りました。 書きまして、それから四十六年に﹁風雅集女流歌人伝記考︱ 岩佐 それはほんとにたまたまの話でござ い ま す が、私、 このあたりを⋮⋮。 3 7 座談会 日本音楽史研究の現在 16 くるところがあるんですね。そこにしょっちゅう尼六条とい そこにも時代を問わず、今まで知ってた歌人たちがいっぱい いうことに気がつきまして、それから﹃文机談﹄を見ますと のは歌だけ詠んでいたのではない、音楽もやっていたんだと 小兵衛督という人なんですね。そういうことで、歌人という うのが出てきまして、これも孝孫前の娘、孝七前、今出河院 んなことをやってと、皆さんあきれてはいらっしゃるでしょ ごく雑学なんですが、それが幸せした面もございますし、そ 大学で勉強したわけでも何でもないし、そういう意味ではす 岩佐 その点で申しますと、私は何もこれが専門といって 福島 音楽なら音楽だけをやっている訳ではない。 岩佐 できないんですよね。 人物を見ようとしない。 出てくるわけですね。そうするととてもうれしいのね。知り うけれど、叱る人は誰もいないわけですから、そういう意味 こうしちごぜ 合いが増えて、あっ、こんなところにこの人いるじゃないと で何にでも手を出して面白がってやっているというのは、私 としてもたいへん幸せだったと思っておりますね。 思ってね︵笑︶ 。そういうことで夢中になってしまいました。 歌人研究と言うけれど、彼らはもっと広く社会人で、官僚 して、これはとても面白いことでございました。そういう世 て歌人というのを考えないといけないのではないかと思いま にいたといえば最初からいたんですよね。音楽のところを知 むしろそういうわけで、実は詩歌管絃にいちばん近いところ をやってもいいんですよね。いろいろな話が入っているので、 磯 そういう意味で言ったら、私は説話育ちですから、何 ︿祝﹃文机談全注釈﹄完成﹀ 界がこちらに伺いまして、いろいろ資料を見せていただきま でもあり音楽家でもあったわけですし、そういうことも含め すとまた広がりまして、人と人とがつながって来る、という ているわけですが、反面、音楽説話の人間だと言わ れ る と、 る人があまりいないから、それにいま少し深い付き合いをし 磯 それはわれわれには専門分野があるんですが、結局眺 内心ちょっと違うんだけどというところはあって、いつも酔 ことでございますね。 め回さなければいけないのは、あの当時の宮廷生活を考えれ っぱらうと、やはり、最後は鴨長明の研究に帰るんだと言っ んだろうかとかは、やはりその時代史とか、琵琶・箏という だろうかとか、それに﹃秘曲尽くし﹄を敢行したのはなぜな ているんですが、彼は琵琶を弾いているわけで、それはなぜ ば詩歌管絃なんですよね。 岩佐 そうなんですよね。ですからやはりそういういろい ろなことを知ってないとだめだということですね。 福島 現代の研究者が自分の専門のところだけを見てその 17 座談会 日本音楽史研究の現在 は、実は今回改めましてその全注釈の後ろの扉のところ で、 続いてと言っても、その間に先生のなさったお仕事というの ても、岩佐先生が今回大きな、 ﹃校 注 文 机 談﹄に 続 い て⋮⋮ かもしれないという思いでいるわけですが、それにつきまし らないままで、読者は﹃方丈記﹄をわかったと言っているの こに置いてみないと結局わからないんですよね。それをわか のはどういうものだったのかということを知った上で彼をそ だったら、やはりちょっと遠慮して悪いほうをとるというふ しょうが、ほんとに物が二つあれば、いいほうと悪いほうと のでしょうか、それはよろしくない生まれつきの本性なんで まして、そんなことを言うと、いまこんな図々しいのは何な ものなんです。それが自分の第二の性格みたいになっており お身分がら、奉仕する者の心構えとしては常にそうあるべき 張っていらっしゃるとか、そういう意味ではないんです よ。 そうしたら、これを見たら爽快じゃございませんか。相手 うに習い性となっておりましたのね。 したが、そうした間にも中世歌謡研究会をずっとお続けにな が天皇だろうと、師長だろうと、身分の低い琵琶弾きが、も ﹁ああ、これだけのお仕事をなさったのだ﹂と頭が下 が り ま って、この﹃文机談﹄の全注釈をとうとうおまとめになった う言いたいことはずけずけ言うわけですね。それがほかの方 ずいぶんあくどいいたずらもするけれども、いろいろな面白 というわけですが、そこでこの全注釈をおまとめになっての い形で自分を表現できる。それも私、自分のうちが父から兄 からご覧になったらどうか知りませんが、私にしては実にう 岩佐 本当に我ながらふしぎですわね。どうしてこんなに からはじめ、みんなたいへん口が悪くて、洒落が好きで、と ある意味集大成というか、一つ終えられたところでの感慨と 私は﹃文机談﹄が好きなんだろうと思って考えましたら、私、 いううちに育ってきましたものですから、ただ真面目一方の らやましくて、痛快で、ほんとに楽しいのね。それからとっ 小さいときから現天皇のお姉さまの照宮さま︵昭和天皇第一 方というのは想像できないのね。口が悪くて、ちょっとひね いうか、ご感想をお伺いしたいと思うのですが、いかがでし 皇 女、成 子 内 親 王︿一 九 二 五∼六 一﹀ 。東 久 邇 宮 盛 厚 王 妃、 ても面白いことには、この人たちは、洒落がわかるというか、 一九四七年皇籍離脱。戦後の窮乏生活の中で五子を育て、社 った形でからかう。こちらもそれで傷ついたりしないで平気 ょうか。 会的にも活躍した︶のお相手をしておりまして、その中で言 でやり返すとか、そういうことに慣れていたものですか ら、 もり ひろ わず語らずしつけられましたのは、常に人さまを先にして一 もうほんとに自分と同じ種類の人がいると思いましてね。 しげ こ 歩下がる。それは宮さまがわがままでいらっしゃるとか、威 座談会 日本音楽史研究の現在 18 岩佐 師長が孝道を叱るのに、麦飯に鰯を食べさせる。配 ろが意図的かもしれませんがね。 だって後鳥羽院と孝道なんかのああいう関係、最終伝授の 流中の粗食で、とてもいやだったから、閉口するかと思うと、 ︿後鳥羽院と藤原孝道﹀ 啄木だけ西流じゃなく桂流で受けたそういう定輔を師範にし 孝道にとってはとてもおいしい御馳走で、ぜんぜん叱った効 磯 実はそういうところを意識して、一度管絃歌舞篇のと 果がなかったなんて⋮⋮。 羽と定家ではあり得ないことですね。 ﹁道のべの野原の柳 下 ころを、亡くなった青木洋志とスティーヴン・G・ネルソン たから、あなたの琵琶は束帯に烏帽子を着た琵琶だなんて言 もえぬあはれ嘆きの煙くらべに﹂なんて言ったらたちまち勅 さんと三人で輪読会をやったのですが、管絃歌舞篇をやって って、後鳥羽もそれを笑って許すという、それは恐らく後鳥 勘でしょう。そういうところが面白い。和歌だったらば練習 いるうちには何にも面白いことがない。 岩佐 面白くないのね。興言利口とか飲食とか、そういう すればある程度のものはできるし、あとで直す、また事前に 見てもらうということがあるわけですが、音楽では、音痴だ い話はいっぱいありますよ。孝道・孝時一族というのは口が ね。それがとても爽快で⋮⋮。 ﹃古今著 聞 集﹄な ど で も 面 白 う一発勝負、腕で来いという面白さ、それがまさにあります でも、ほんとの晴れの場所でしくじったらだめだし、そうい それからぶきっちょだったらだめだし、いくらよくできる人 なのですが、それについてはいろいろ多数欠脱があると か、 ﹃文机談﹄のわかりにくさということをおっしゃっておい で ﹃文机談全注釈﹄ ︵二〇〇七年 笠間書院︶の終わりに先生が が 改 め て ち ょ っ と 面 白 い と こ ろ な ん で す が、続 き ま し て、 したが、あれは一体どういう編纂意図なんだろうかというの 磯 はい。あの面白くないことにはほんとにびっくりしま ところのほうがよっぽど面白い。 悪くて面白くて、と言うとこちらの性格を疑われますが、そ 齟齬があるとか、挿話が混乱しているとか、あるわけですが、 ったらば天皇だろうと摂関だろうとしょうがないわけです。 れがいちばん﹃文机談﹄をやっている魅力でございましたね。 そのほかに、やはり私たちには耳慣れない音楽用語がたくさ ん出てくるということがあって、もちろん先生がご指摘のよ 磯 そういう意味では﹃古今著聞集﹄は変 わ っ た も の で、 いわゆる管絃歌舞篇のところには面白い話があまり出てこな う な、国 語 学 的 に ま だ 解 明 さ れ な い 用 語 が た く さ ん あ っ て⋮⋮。実は私も近くにいる国語学の人間 に は﹁面 白 い よ﹂ いんですね。またあそこはちょっと裃を着たようなもの で、 孝道関係はほかのところに、宿執篇や何かにあるというとこ 19 座談会 日本音楽史研究の現在 面において、特に音楽用語がいまだに、 ﹁調 子﹂と い う 言 葉 やり玉に挙げておりますが、進んでおりませんよね。音楽方 ととしても、読みや意味に関して、実は先ほどからちょっと ってくれないかと思っているのですが、それは仕方がないこ されてしまうんですね。だからほんとは専門になって誰か育 と言うんですが、用例がなかなかなくて研究するには足踏み は、福島先生は貴族や殿上人までも含めておいでなわけです それのみならず、 ﹁王朝の楽人︵が く に ん︶た ち﹂の ほ う に ったのかというようなことで、結局困ってしまうわけですが、 けないところで、また、それが何でいまは﹁がくじん﹂にな それが全部の例なのかどうかは、これは調べてみなければい が お そ ら く 漢 字 で、 ﹁に ん﹂が 平 仮 名 だ っ た の で し ょ う が、 と読まれていたのかということになります と、 ﹁楽﹂の 部 分 磯 それは仲間うちではそろそろわかってきた問題であり 福島 はい、そうです。 よね。 一つにしてみてもわかっていないという⋮⋮。 岩佐 わかっていないですね。 磯 ですから﹃音楽事典﹄に出ていることを援用しても解 ますが、一般的には ﹁がくにん﹂ と申しますと、いわゆる ﹁地下 ︿ ﹁楽人﹂談義﹀ 釈はできないんですよね。とても困ってしまって。実は今日 の楽人﹂を言うのではないかと思います。その辺の用語につ が出ているんですが、ちなみに﹃源氏﹄の最近の新大系の索 に同じ﹂とあります。そ こ に は﹃源 氏 物 語﹄ ﹁竹 河﹂の 用 例 けですね。 ﹁がくにん﹂のほうを引いてみますと﹁ ﹁がくじん﹂ する人。雅楽を奏する人。楽師。伶人。がくにん﹂とあるわ 辞苑﹄を引いてみますと、 ﹁がくじん﹂のほうに、 ﹁音楽を奏 思われる一編があるわけですが、これも卑近なところで﹃広 朝の楽人︵がくにん︶たち﹂というふうに読めばよろしいと ています。だいたい﹃楽家録﹄は十七世紀後半のいわゆる﹁近 時代には広く知られていましたから﹃楽家録﹄にも明記され 断絶し、近世に入ってから復興したもので、そのことは江戸 ら変らないとされていますが、雅楽の伝承は室町時代にほぼ 断の伝統だと思われていることです。楽曲の名称にして昔か にむずかしくしているのは、雅楽伝承は千年不変であり、不 使われているものも、この五十年でだいぶ動いています。特 福島 問題になっているのは雅楽関係の用語ですが、いま げ も私、司会と言われて、最初に言葉に出して言うときにどう いて、先生、いかがでしょうか。 引を引いてみますと、そこには﹁がくにん﹂として五、六例、 世雅楽﹂に関する知識の集大成ですから、平安・鎌倉の典拠 じ しようかと思いました。例えば﹃音楽史叢﹄のほうでも、 ﹁王 例は出ているんですが、それがほんとに当時から﹁がくにん﹂ 座談会 日本音楽史研究の現在 20 ﹃教訓抄﹄は﹁こいむじゅ﹂と明記して い ま す。こ の 名 称 の 家録﹄で、鎌倉 時 代 の﹃雑 秘 別 録﹄は﹁こ い む ず﹂ 、同 じ く にはなりません。 ﹁胡 飲 酒﹂を﹁コ ン ジ ュ﹂と す る の は﹃楽 たが、その中でも何回もそういうことがあって、さらにその 飯島 それだけ長いこと﹃文机談﹄の輪講をやっていまし 岩佐 足掛け十七年です。 飯島 先ほど磯先生が﹁がくにん﹂か﹁がくじん﹂か、と すよ。音楽用語がいっぱい出てきて。それを﹁君は少しわか 伝集﹄の巻第十一なんですね。これがまたわからないわけで 前に中世歌謡研究会というのは、新間進一先生が始めた研究 いう話をなさいましたが、実は﹁伶人﹂は﹁れいじん﹂とお るんだから説明しろ﹂と言われて説明してもやはりわからな 会ですが、いちばん初めに輪講を始めたのは、 ﹃梁塵 秘 抄 口 っしゃっているんですね。 ﹁れいにん﹂とは言わない わ け で いんですね。そうするとどうしても、もっと昔の文献で、も ひとつをみても、現在の雅楽は近世に復興した﹁近 世 雅 楽﹂ す。幕末から近代初期の楽師の日記がいくつかありまし て、 っといろいろ考えなければいけないという要求が出てくるの であることがわかります。 ﹃芝 鎮日記﹄とか有名なのですが、そこでは自 分 た ち の こ とかという言い方が出てくる。現在は宮内庁式部職楽師です っていないんです。ところが宮内省に式部職ができて、楽師 とを﹁伶人﹂と言っているんですよ。決して﹁楽人﹂とは言 ︿揺れる音楽用語の読みと解釈﹀ いでしょうか。 できない。ということは、結局これからだということではな はよくわかっているのですが、それがなかなかむずかしくて ないんですね。先ほど磯先生がおっしゃっていましたが、 ﹃文 ところが、じゃ、その時代はどうだったかというのはわから そうですが、それをそのまま当てはめるのは無理だろう と。 たところで、皆さん、楽書は初心者ですから、やはり読み方 の研究会を始めたわけです。ところがこの﹃教訓抄﹄を始め 学 科 の 教 員 を 語 ら っ て﹃教 訓 抄﹄ ︵一 二 三 三 年 狛 近 真 著︶ 漢文班ということになっているのですが、うちの若手の国文 磯 いまうちの大学のCOEのプロジェクトで、私は中世 が、たぶんその時代時代の言い方とか、かなり変化してきて、 机談﹄を読むという作業は、私たちが知っている、いわば日 一つにも困るわけです。そうしますと、皆さんは従来の辞書 それもそのまま昔に持っていくと、いまの福島先生のお話は 本音楽用語の再検討から始まっていますね。私たちが知って を 使 っ て や っ て き ま す か ら、 ﹁だ め∼﹂と 言 う と、 ﹁ど う し て?﹂という話になるんです。が、やはり﹃教訓抄﹄をやる いるとお り だ と 思 っ て 読 ん で い く と そ の う ち わ か ら な く な る。中世歌謡研究会のところで十七年でしたか。 21 座談会 日本音楽史研究の現在 [ いるわけですから、本当ならば音楽用語にだって時代別音楽 変わってくるという、その﹃時代別国語辞典﹄だってできて わけで、いま飯島先生がおっしゃったように、時代によって 時代的にはかなっているのではないかという話になってくる るほうが、江戸時代の﹃楽家録﹄の読みを尊重 す る よ り も、 あるんですから、例えば﹃竜鳴抄﹄の中にある読みを尊重す ためには、その前に﹃竜鳴抄﹄ ︵一一三三年 大神基政著︶が で す よ﹂と 言 う の は 簡 単 で す が、 ﹁じ ゃ、ど う し て﹁こ じ﹂ ﹁おんしょうし﹂とお読みになるん で す ね。 ﹁そ れ は﹁こ じ﹂ だと思って読んでいたんですが、若い方に読んでいただくと ったと書いてあるんですね。私はもう何でもなく﹁おんこじ﹂ が、師長が二条院のご師範になったと き に、 ﹁御 小 師﹂に な が問題になりまして、小さなことですが、第一冊の中に孝定 いるけれど、人前で口に出して言わなければならないと読み だ一人で読んでいる分には、目で読んでわかった気になって えられるのは。だからその辺のところでいうと、ほんとにも 山田耕筰とか、そのあたりからなんですよ。たぶん誰もが答 と言われたら﹁いるの?﹂というところ で、滝 廉 太 郎 と か、 ときに、確かに西洋の作曲家なら書けるんですが、﹁日本の﹂ 、 生が﹁日本の作曲家を試験問題に出す﹂とかとおっしゃった 特に音楽の場合は、西洋音楽史は少し話せても、よく福島先 のが忘れ去られているような形で存在するのではないかと。 とがそれこそあまたあるわけで、そうした中に文化史という 非常に短い間に凝縮して教えられますから、教えられないこ そこのところでご勘弁を願ったんですが、そのようなことが ら、それに対して師範代が﹁こじ﹂なのではないかと、私は 理屈をつけると、たぶん内教坊の主任の教師を大師と言うか れども、音楽のほうでそれを当てていいのかどうかと思って ことを何となく知っていたんだろうと思うんですね。ですけ と仮名がふってあるので、それで﹁こじ﹂と読むんだという んが、たいへん別れを惜しんだ、と、そこのところに﹁こじ﹂ 昔、童形でお仕えしていたときに、 ﹁小師で お わ せ し﹂坊 さ 経正の都落ちのところに、仁和寺にお暇乞いに行くと、その それで私、つくづく考えてみると、たぶん﹃平家物語﹄の なんですか﹂と言われたときに困ってしまうのね。 っと注意深く教えられなければならない部分なんだろうなと いっぱいございますが、いちばん困ったのは﹁撥合わせ﹂と いま現在の日本の歴史教育というのは、悲観的にい う と、 用語辞典がなくてはいけないわけですよね。 思いますが、先生、特に﹃文机談﹄の中では何かございまし いうことです。 手偏に﹁發﹂という字が書いてありまして、それから別に おお し たか。 岩佐 いろいろありましたが、やはり輪講してみると、た 座談会 日本音楽史研究の現在 22 ﹁ き合わせ﹂というのもあるんですね。初めはも う こ れ は 何ともわかりません。 ﹁ き合わせ﹂というのは﹃源氏﹄にいっ ぱ い 出 て き ま し て、注釈類で見ますと、 ﹁調子を合わせるための簡単 な 小 曲 別のものだと思っていたわけです。ところがいろいろ読み合 わせてみますとどうもおかしい。 ﹃胡琴教録﹄とか、 ﹃新夜鶴 だ﹂と書いてあります。辞典でもみんなそうなって い ま す。 ﹁ き合はせばかり弾きて、さしやりたまへれば⋮⋮﹂ ︵紅葉 抄﹄とか、いろいろなものを見ますと、同じ文章の流れの中 に、 ﹁かきあはせ﹂と平仮名で書いてあるのもあれば、 ﹁ く﹂ とは何だ。 ﹁かき合わせ﹂は﹁手﹂とどう違 う ん だ と い う 事 ﹁手﹂と﹁かき合わせ﹂がたいへん大事だと書いてある。 ﹁手﹂ ろうということになるんですね。そこまではいいんです が、 っても﹁ばち合わせ﹂ではなくて﹁かき合わせ﹂と読むのだ 書いてあるのもある。だからこれはやはり﹁撥﹂が書いてあ という字が書いてあるのもあれば、 ﹁撥︵ばち︶ ﹂という字が もの、いろいろあったようで、少くともこれは絶対に調子合 とかいうのが﹃文机談﹄にもありますから、長いもの、短い さそうなんですね。 ﹁大 き合わせ﹂とか﹁次の き合わせ﹂ ず上手めきたり﹂とあるから、調子合わせの小曲程度ではな 教えるところでは、 ﹁ き合はせまだ若けれど、拍 子 た が は るのだと思いますが、紫の上と合奏するところ、笛を吹いて 賀︶というようなのがあるから、その程度のものとされてい Ò になります。また別に﹁調子﹂というのもありましてね。 Ò 技巧的なカデンツァのような部分、それに対して き合わせ び﹂である︵ ﹃新夜鶴抄﹄ ︶というから、単一楽器の曲の中の 今のところ、 ﹁琵琶の手、箏の調子は、器の 私 の も て あ そ るときは、単に﹁合奏﹂の意味かもしれないし。 ところがわからないんですね。それに動詞として使われてい わせの小曲ではないということはわかりますが、それ以上の Ò Ò Ò は、西園寺公相が禁じられた琵琶の古い譜を弾いた時、箏で とを言い出したらとてもやっていかれないから、その辺は適 いまいちばん悩んでいるのはその辺です。でもそういうこ 語としても昔と今とは違いましょうし、どういうふうにした 磯 でもいまのお話はほんとに⋮⋮、実は﹃源氏﹄の音楽 私も琵琶の役だったら、大恥をかいたじゃありませんか﹂と ら、多くの楽器の合奏曲の中での一種類の楽器だけによる間 に挑戦し出したんですが、ときに、いままでの注釈の曖昧さ らいいんでしょうか。 らなかったのですか、箏だったからいいようなものの、もし 当に かぶりをしておきましたが、ほんとにその辺、雅楽用 合奏していた刑部 博子が、 ﹁何であれを教えておい て 下 さ Ò 父の孝時に文句を言った︵ ﹃文机談﹄第五冊︶と あ り ま す か t h 奏部分かな、と思っておりますが、これはもう想像 だ け で、 23 座談会 日本音楽史研究の現在 Ò Ò ころに、現代のたぶん﹃源氏﹄の注釈の私は生きる道がある ですが、いまのわれわれの段階でどう解釈できるかというと 磯 はい。ですからそれをあげつらってもしようがないん 岩佐 非常に曖昧ですね。 ろはそうで、そうじゃないところでは違うのか、とか、考え くにん﹂に対して言う語であるならば、地下の職能的なとこ にん﹂を当てはめた と き に は、じ ゃ あ、 ﹁ま い に ん﹂は﹁が がなければ、 ﹁まひうど﹂はないは ず で す し、そ れ に﹁ま い 代によりましょうけれど、変わってまいります。 ﹁まひびと﹂ 部ないまぜに、みんなわれわれの耳によいように、それも時 のだろうと思って、これから見ていきたいと思っているんで なければならないところがあって、これを言い出すとたぶん というか⋮⋮。 すが、最初の問題に戻ると、たとえば﹁がくにん﹂にしてみ くそ︵楽所︶ ﹂の問題が出てくることになり ま す。こ の あ た 福島先生のお口が止まらなくなると思いますが、そこに﹁が かというときに、よく私は一つ話にするんですが、 ﹃方丈記﹄ りでちょっとひと休みいたしましょうか。これからまた長く ましても、そのあと、じゃ、それに対して﹁まいにん﹂なの の諸本の問題で、いわゆる﹁安元 の 大 火﹂の 記 述 中 に、 ﹁火 なりそうです。 福島 音楽用語についてはいろいろな使い方があって、そ これまでの日本音楽史から ﹃日本音楽史叢﹄誕生まで ︿休憩時間にも会話は続く﹀ ・・・・・・・・・・・・・ 元は樋口富の小路とかや。舞人を宿せる仮屋より﹂云々とあ やまひ びと る、これが古本系で、その﹁舞人﹂のところが流布本系では ﹁ 病 人﹂となっ て い る。そ の、 ﹁や ま ひ び と﹂な の か﹁ま ひ びと﹂なのかというところが、実は鴨の川原にいる者として は、芸能者である﹁まいびと﹂の可能性も、隔離された﹁や ま い び と﹂の 可 能 性 も あ る こ と か ら 判 定 し が た く て、そ の 人間関係とか地域とか、いろいろあると思いますが、その中 飯島 やはりどちらかといえば、文机房隆円が属していた れによって違うこともあるでしょうし⋮⋮。 人﹂は本来、 ﹁まひびと﹂では な く て﹁ま ひ に ん﹂と 言 う ん ﹁や﹂が脱落したのか、そうではないのかと考えるときに、﹁舞 だということであれば、片方の説はなくなりますから、注釈 あったに違いないと思います。それがどれだけ一般的な使い での使い方というのは、たぶん偏りというか、そういうのが でもいまのままでは落ちつかないし、岩佐先生の﹁おんこ 方とずれていたか、ずれていないか、ということがはかれな は落ちつくんです。 じ︵御小師︶ ﹂と同じように、日本語というのは 音 も 訓 も 全 座談会 日本音楽史研究の現在 24 いということが一 合の﹁楽人﹂というのは狭い意味の、楽器を演奏する舞を舞 は﹁楽人﹂と﹁舞人﹂と、出てくる場合があります。その場 飯島 ﹁調子﹂という言葉もそうですよ ね。曲 名 と し て の つ。それから時代的 調子と、それから音階とか、そういう意味の調子と、ここに わない人、舞わない職掌の人に使ったんです。 し、どうもこれは一 なものもあります 筋縄ではいかないな 福島 だから﹁楽人﹂と﹁舞人﹂が出てくる場合には双方 両義性の意味範囲がたくさんあって、ここではこれだという 福島 東大寺文書 とも﹁にん﹂と読んだのではないかと思いますが、確証がな あというのが私自身 の﹁花厳会楽人次第﹂ い。ただ、室町期の﹁女房奉書﹂に﹁かく人﹂と、 ﹁まい人﹂ ことはなかなか言いにくいですね。 に、法会に参勤した とあり ま す か ら、 ﹁舞﹂は﹁ま い﹂と よ み﹁ぶ﹂で は な い と の思いです。 楽 人・舞 人 の 名 簿 言えるでしょう。 きよう みよう け ごん え がくにん し だい ﹁ 交 名﹂ があるの で 飯島 でもどうでしょう ね。例 え ば﹁女 房 奉 書﹂を 書 く、 要するに堂上の人たちの言葉と、南都なり、石清水なり、あ すが、 ﹁楽人次第﹂と るいは四天王寺などの楽人が使っている用語と一緒だったの 岩佐 それは違うというのもありますよね。 あってその中に舞を い意味で﹁楽人﹂と 飯島 そうなんですよ。 する人も入っている いう場合は、舞人も 福島 おそらく四天王寺が違う。大内、南都と⋮⋮。 でしょうか。 入っている。それで 飯島 それは予想がつきますよね。 んですね。だから広 ﹁花 厳 会 可 参 舞 人 楽 福島 意識して変える可能性もありますね。あるいは禁じ られたりということもあるでしょう。 人等事﹂のように同 じ文章の中に、今度 25 座談会 日本音楽史研究の現在 くろうどどころ つくもどころ と言ったほうがハイカラだとか、そんな価値観がついていた 可能性もあるのではないか。そうすると同じ時代に二通りの 言い方があったというのは理解できるのではないか、という 気がしますね。官僚風に言う と﹁が く し ょ﹂に な っ て⋮⋮。 逆かなあ。官僚風に言うと﹁がくどころ﹂ですか。どちらか わかりませんが⋮⋮。 岩佐 ﹁所﹂の草体かもしれないし、それを あ と で 読 む 人 が、平仮名の﹁そ﹂と理解したのかもわからないしね。 以来﹁がくそ﹂一本槍です。歴史学では﹁がくしょ﹂でした ︵一八五七年︶に﹁源氏宿木巻がく そ﹂と あ り ま す が、こ れ 草書連綿体で記したことによるものと考えています。 令外の官の所々のなかで、楽所だけを﹁がくそ﹂と読ませ るのは、これだけの例証では無理だと思います。 座談会 日本音楽史研究の現在 26 飯島 そうすると一本線で理解できる音楽史なり音楽用語 を表現したりする、そういうものはどうも⋮⋮。 岩佐 それはできないでしょうね。 ︿ ﹁楽所﹂をどう読むか﹀ 福 島 で す か ら、 ﹁楽 所﹂な ど は﹁が く ど こ ろ﹂と﹁が く しょ﹂ の両方が併用されていたのではないかと考えています。 し どころ 福島 ﹁そ﹂は呉音・漢音の両説が あ る よ う で す が、漢 音 ず ﹁楽所﹂はまず﹁令外の官﹂である 諸 所・所 々 の ひ と つ で み でよむことに特権的な意味があるとしても、 ﹁所 々﹂の う ち ところどころ ない し で楽所だけを漢音でよんでもはじまらないでしょう。 ある訳で、その所 々は、御厨子 所・蔵人 所・作物所のよう に﹁なになにどころ﹂と読む場合が多いのは確かです。 しんもつ 岩佐 お役所の意味とすれば当然のことですね。 ご しよ わ 福島 御書所・進物所・内侍所も﹁ところ﹂で﹁しょ﹂と りつぶんしよ 福島 そう思います。 ﹁がくそ﹂と す る も と は、源 氏 の 古 き ろくしよ よむのは記録所と率分所の二例のようです。従いまして、和 註釈にあるようですね。音楽関係では小川守中の﹃歌 品目﹄ と考えています。同時に﹁カクシ ヨ﹂ ︵片 仮 名 書 き︶の 用 例 が、近年の辞典等で﹁がくそとも﹂とするもの も あ り ま す。 えどころ も東大寺文書︵正応三年︿一二九〇﹀十二月三十日﹁右近将 国文学は、岩波の新大系本の﹃源氏物語﹄では﹁楽所﹂に統 か どころ 歌 所・画所 等 と と も に﹁が く ど こ ろ﹂の 方 が な じ み が 良 い 曹狛近成起請文﹂ ︶にありますし、 ﹁仏所﹂のように場処︵宮 一しています。古写本で﹁かくそ﹂と記すとすることによる ぶつしよ 廷外︶や使う人達によっては﹁がくしょ﹂も使用され、両方 ものでしょうが、これは漢字二字連続 を さ け、 ﹁か く 所﹂と あれはたぶん﹁がくしょ﹂と発音は同じだったと思いますが、 ただ、その﹁がくどころ﹂と﹁がくしょ﹂というふうに言っ たときに、先ほどの話と関わりますが、例 え ば﹁が く し ょ﹂ がくそ 飯島 ﹃源氏﹄でしたか、 ﹁かくそ﹂というのがありますが、 併 用 さ れ て い た と 考 え る の が 、無 理 が な い と 思 っ て い ま す 。 ! 磯 いずれにしましても、どの音楽用語も改めて使うとき しょうか。そのギャップについて少々ご解説いただければと ね。いまとなって、COEのほうではどうも書陵部本が古い が収められたということが、非常にありがたかったわけです 波の﹃古代中世芸術論﹄の中に植木行宣さん校注の﹃教訓抄﹄ 代にとっては、岩佐先生の﹃文机談﹄の御仕事と同様に、岩 っていますが、いずれにしてみましても、私どものいまの時 いうものが作れればなあということは遠い将来を見据えて思 ですから言ってみれば﹃中古中世音楽用語辞典﹄とか、そう つくらないといけないんだろうと思いますね。将来的に は、 集﹄に入っている一連の﹁楽書類﹂などの使い方がこれから 本のことを少々問題にいたしましたが、ほかに特に﹃古典全 直しが進んできたように思うわけです。いま﹃教訓抄﹄の底 て古典研究者が範としていた文献類も、ここに来てかなり見 てしまいますから、それは一旦棚上げにして、音楽史、そし 儀鉄笛が存在したという話になりますと、ずいぶん間があい たというのは少し語弊があるかもしれませんが、その前に東 史と、こうして歴史研究として新たに始まった⋮⋮、始まっ 言ってみれば、日本音楽研究者がこれまで築いてきた音楽 思います。 ようだということで、それの翻刻を始めてみましたが、結局 気になるところで、その辺についてもお聞かせいただければ には注意深く、ある程度その場で決定していくという状況を そういう底本に目が向くまでの間は、あの思想大系の﹃教訓 と思います。この二点についてお願いします。 雅楽との出会いが先にあって、歌謡研究に端を発した歴史文 先生の場合は、先ほどの自己紹介の中にもございました が、 さて、ここでちょっと方向が変わるかと思いますが、飯島 代は日本の楽器とか日本の伝統音楽から想をとってきて新た 会いがあって、日本の現代音楽の作曲の潮流に、昭和四十年 た。何で雅楽をやったかというと、その前に西洋音楽との出 楽の実際の演奏を始めておりまして、篳篥と琵琶を習いまし に入る前に雅楽との出会いがありました。高校一年生から雅 飯島 私はご指摘にありましたように、国文学研究の世界 抄﹄が孤軍奮闘だったわけです。ですからいま批判すること はいくらでもできますが、その存在意義は非常に大きかった 化に関わる研究に向かわれている現在なわけですが、どちら につくっていくというか、日本人だったら日本の音楽という と私は思います。 にいたしましても、最も音楽史研究に近いところにおいでに ものに目を向けて新しくつくっていこうと、たぶんそういう 動きがあったのだと思います。 なる存在だろうと思います。そこで、いわゆる日本音楽史と 従来の文学研究の一端にある音楽史の狭間と言えばいいので 27 座談会 日本音楽史研究の現在 生に尋ねても、 ﹁いやあ、僕はこういうふうにやれと 教 わ っ てきただけだから﹂とおっしゃる。要するに伝承が目の前に 福島先生が先ほどおっしゃられた⋮⋮コラボレー シ ョ ン、 そういう形で新しい音楽がどんどんつくられていって、そち ある。だけど何で伝承がこうなったかわからない。そういう う らのほうが、私は初めて出会って面白いなあと思いまし た。 本 を 見 ま す と、例 え ば﹁ 宮・ 商・角・徴・羽﹂は こ う な っ ち その中で福島先生の作曲なさった曲とも出会っているんです ている。ところが実際に私が演奏していると音階が違うわけ かく が。それらの中に雅楽の楽器を使った現代音楽というのがた ですね。何で音階が違ってくるんだろうか。そういうことに しよう くさんあって、雅楽って面白いなあと、そうしたらたまたま 対する答えが得られませんでした。 きゆう ツテがあって練習できる。じゃ、私もやりたいと言って始め ごくごく単純な話、私自身は演奏していて面白いと思って うですが、増本喜久子さんの﹃雅楽、伝統音楽への新しいア 三郎の﹃中世芸能史の研究﹄ 、それからこれは音楽理 論 の ほ 当時、平凡社から﹃日本の古典芸能﹄シリーズとか、林屋辰 と雅楽のことを勉強したいからと思って本を探すわけですね。 ですが、その頃教わる中でとても面白いと思った。で、もっ 最近はほとんどやっておりませんのでまったく下手くそなん 抄﹄を渡してくださって、この﹃梁塵秘抄﹄の巻第十一から 歳になられたばかりの芝祐靖先生が私に岩波文庫の﹃梁塵秘 ろう、何でだろう、と思いながらいると、あるとき当時三十 うことが、どこにもその当時指摘がなかったんです。何でだ ん思うわけですが、 ﹁昔はこうだった。今は こ う だ よ﹂と い んだろうか。昔もこんなことをやっていたのかしら﹂とたぶ なゆったり、のんびりした眠くなるようなことをやっている いましたが、おそらく雅楽を初めて聞いた人は、 ﹁何 で こ ん プローチ﹄ ︵一九六八年 音楽之友 社︶な ど、い く つ か ま と こんなことが書いてあるとお示しになられた。祐靖先生のお 篳篥は東儀良夫先生、琵琶は芝祐靖先生に教わりま し た。 たわけです。 まって出た時代があって、そういうものを一生懸命読んだん 父さんの芝祐泰さんが雅楽の解説書をお書きになられていま を高校二年生の私にお示しになられて、一生懸命読んだけれ したが、 ﹁僕が読んでもわからないんだ﹂という﹃梁塵秘抄﹄ ところがそれを読んでもわからないんですね。実際に習っ ども、やはり私にもわからない。それをずっと抱えて大学生 です。生意気な高校生と言えばいえる、そういう高校生だっ て、演奏すること自体は楽しいわけですが、それをやってい になって、歌謡研究という分野に足を踏み入れて、ほんとは たんです。 て、何でこうなるんだろうかというとわからない。楽部の先 座談会 日本音楽史研究の現在 28 う﹂と言われ、また、 ﹁おまえは雅楽が わ か る ん だ か ら、神 をわかる た め に は 平 安 時 代 を や ら な け れ ば わ か ら な い だ ろ 私は中世をやりたかったのですが、中世をやる 前 に、 ﹁中 世 館に行ってみたら、実は﹃教訓抄﹄のもしかしたらいちばん ろに行くようになってわかってくる。別の用事で彦根の史料 が実はさほどいい写本ではないということが福島先生のとこ る本はあれしかないわけですが、古典全集本の﹃続 教 訓 抄﹄ 極端な話、 ﹃続教訓抄﹄がその典型ですが、とに か く 手 に 入 古いかもしれない零本が、一部ですが、残欠で残っていたり 楽歌の勉強をしなさい﹂と言われて、それで学部から神楽歌 話が冗長になって申しわけありませんが、そうすると平安 する。天理図書館に﹃梁塵秘抄口伝集﹄の調査に行くと、何 を始めたわけです。 時代の雅楽のことを勉強しなければできないけれど、当時は しゃった日本音楽史のいわば新しい出発というか、日本音楽 かそれにくっついていろいろある。そういうのがだんだんわ 史研究というのは、改めていま申し上げたような、楽書の諸 何しろ、もちろん﹃文机談﹄の注釈などもありませんし、何 私は国学院で育ちましたので、それなりにその文献を見ろ 本研究から始まるのかもしれない。本当にいい本をつくらな かってきまして、そのレベルになってくると、今度は思想大 とか、そういうことはあたりまえのように言われてきて、当 ければいけない、ほんとにいい本を見なければいけない、知 を勉強していいかわからない。結局いま磯先生のお話に出ま 然当時の古典全集本⋮⋮復刻になる前の、古い古典全集本を 系の﹃教訓抄﹄が、もちろんたいへんお世話になったんです 読んで、こっちで言っていることと、そっちで言っているこ られていない本をもっと考えなければいけない、ということ したが、 ﹃教訓抄﹄ ﹃続教訓抄﹄ ﹃體源鈔﹄ ﹃楽家録﹄あたりか とと違うではないか。よくわからない。 ﹃群 書 類 従﹄に も 管 がようやくわかってきた現在が、スタート地点かもしれない が、あれではまずいぞとわかってくる。先ほど磯先生がおっ 絃部があって読むと、意味のわかるものとわからないものと と思います。 らさかのぼっていくしかないわけですね。 あって、何が書いてあるかわからない、どうしよう、という ︿新しい﹃教訓抄﹄研究に向けて ︱︱若手の台頭︱︱﹀ そういう意味では、福島先生の今回の﹃日本音楽史叢﹄と のが正直なところ学部時代の本音でしたね。 大学院に入って、先ほど申しましたが、福島先生のところ いう本は、エポック・メイキングになるかと思いますし、結 局山田孝雄の﹃源氏物語の音 楽﹄ ︵一 九 三 四 年 宝 文 館︶以 に出入りするようになって、いろいろな問題意識が明確にな っていったわけです。そうするといま名前が出た本の中 で、 29 座談会 日本音楽史研究の現在 す。そういうことを視野に入れて、もっともっときちんとし いますが、やはりわからないというのが実情なのだと思いま 究の中でいろいろなことをやっていらっしゃる方が出てきて 雄しかない。それ以後の本を見てもわからない。最近物語研 ですよ。音楽に関する部分がよくわからない。だけど山田孝 もたぶん不自由な感じをずっと持っていらっしゃると思うん 降、物語研究などで⋮⋮。物語研究をやっていらっしゃる方 室町時代の一条兼良も少しやっていますし、江戸時代の国学 の本︵ ﹃古代歌謡の終焉と変容﹄ ︶も、日本の 音 楽 の 研 究 は、 実現できる時期に来たのかなと思います。私自身が出したこ が常日頃おっしゃっていたことなわけです。ようやくそれが んやらなければいけない。これは四半世紀以上前に福島先生 ころでそろえていらっしゃる。ですからそれを使ってどんど ればいけないし、打破できる材料というのは、福島先生のと 典全集﹄ 、そして﹃群書類従﹄ 。この状況をやはり打破しなけ 者もずいぶん研究しているのですが、その結果としての﹃群 た本を、きちっとしたポピュラーな校訂本、そういうものを つくっていかなければいけない時代に来ているのではないか 書類従﹄や﹃古典全集﹄であって、それでは平安朝はわから 記とか記録を見て書いたものがこれになったという状況です。 と思いますね。磯先生の先ほ ど お 話 に な っ たCOEで、 ﹃教 磯 いまつくっているのは、書陵部本の翻刻です。そこで 先ほど申しましたように、これからみんなでやっていかなけ ない。それでしょうがない、自分でこそこそといろいろな日 彦根のものも、曼殊院のものも、零本ですが対校する諸本と ればいけないという義務感みたいなものがひしひしと強くな 訓抄﹄の校訂本ですか、いまつくっていらっしゃるのは。 して、いま視野に入れています。それについては、大学院生 っているのが現状です。 磯 たとえばこ の﹃校 注 文 机 談﹄も﹃文 机 談 全 注 釈﹄も、 の神田邦彦がCOEの最新資料集に諸本解題を載せているよ うに、若い人たちがさかんに問題にしてくれるようになって 索しますと、雅楽の論文とか雅楽のホームページはいっぱい います。例えばインターネットで、 ﹁雅楽﹂と打 ち 込 ん で 検 飯島 そういう作業をいましなければいけないだろうと思 今度は私たちを批判の対象として、そんな底本でやっていけ いるわけですが、そこにいる、私たちの周囲の若者 た ち は、 う仕事の中にあって、たまたま二松学舎のCOEに参画して と思うんですね。私はいま福島先生に教えを受けて、こうい やはり第二世代のために岩佐先生はあえておつくりになった あるんですよね。そこでそれなりに気を遣った人は研究文献 るのかというようになってきたわけです。先ほど触れた、こ きました。 の目録をたくさん書いているわけですが、相も変わらず﹃古 座談会 日本音楽史研究の現在 30 から、こっちを使いましょうといい出したのは、いま福島先 の﹃教訓抄﹄にしても、今回もっと古い写本があるようです そうでなかったりとか、細かいことのようですが、先ほど岩 違っていたり、やはり漢字を当てはめられてしまっていたり、 類従﹄の中にある﹁吉野吉水院楽書﹂ 。これもこ ち ら に あ り 佐先生がおっしゃったような注釈をするときに、また、全体 私どもは、とにかくここにある資料を使おうということし ます﹃日本古典音楽文献解題﹄の中で、福島先生が﹁吉野楽 生のところに通わせていただいている神田で、ほかに、櫻井 か考えていなかったんですが、彼らはそれよりあとの世代で、 書﹂と称するのが適当だとおっしゃっているわけですが、そ がどうであるかと考えるときに、 ﹃群書類従﹄一つと っ て も それをもう一つ批判して、もっといい本でそれをやっていこ うしたことについて文学研究分野にいる私たちも早く気づい 刊本と活字本で違うんです。福島先生から﹁まず刊本をご覧 うということになってきた。着実に私は進展しているように て、一九八七年にこの﹃文献解題﹄は出されているわけです 利佳、岸川佳恵、田中幸江とか、この辺の若い人たちの中で 思いますが、それにつけても福島先生は﹃日本音楽史叢﹄の が、それとか、僣越ながら二松学舎のCOEの刊行物の﹃雅 は、底本の検討から入るのが共通認識になってきて、諸本調 七に、 ﹁ ︹音楽相承系図集︺考﹂等を収めていらっしゃるわけ 楽資料集﹄の中に出てくる解題文だとか、そういうものをこ なさい﹂というご指摘を受けたわけですが、たとえば﹃群書 で、私が音楽資料室にお伺いするようになった の も、結 局、 そこで、福島先生に楽書の使用上のご注意を改めましてお れからはとにかく使っていただきたいと思っているわけです。 査にまず行こうという時代になってきたわけですね。 のまま使っていたということが発端で、それを三十年も前か 願いできればと思いますが⋮⋮。 ﹃続古事談﹄の考証に﹃群書類従﹄の管絃部の相 承 系 図 を そ ら危険だと指摘してくださっていたわけです。 使用しているということが実は問題で、諸本調査を怠った不 音楽学会の例会で口頭発表しました。これは﹃群書類従﹄正 福島 一九七二年七月に﹁雅楽相承系譜の問題点﹂を東洋 ︿ ﹃日本古典音楽文献解題﹄ ﹀ 明がその原因でもあるわけですが、とにかくいま現在、あえ 続所収の系譜は問題が多く、例えば書名と内容が違っている。 それについては、私たちが安直に﹃群書類従﹄の活字本を て私はその﹃群書類従﹄の管絃部を使うときには、管絃部だ 笛血脈の書名で内容の大半は笙の系譜を収めていたり、また 書名と中味を入れ換えていたり、そのまま使うには問題が多 けではないんですが、せめて管絃部を使うときには、刊本と 活字本と両方を比較して使っています。両者で清濁の表記が 31 座談会 日本音楽史研究の現在 その後も折にふれて文章に書いてきましたが、本当は類従本 く便利ではあるのですが、同時に史料価値は下がること 等、 系譜は収載期間が長い程、また収載人物が多い程、使いやす 持った編纂物である点も充分に考慮する必要がありますし、 討する必要がある等のことです。また、系譜は特定の意図を 系譜に記載されているとあれば、笙の間違いではないかと検 すぎることを指摘したのです。たとえば、平安の貴族で笛の 野さんが亡くなって、改訂版が出ていない。これもやらなけ ソフトカバーを改訂書き込み用としてつくったんですが、平 磯さんにも協力して戴きました。あれが出たときに、同時に ら雅楽はできるだけ私自身で担当執筆しました。百項目以上。 何時まで待っても出来ないということになりました。ですか 恥を承知でまず叩き台をつくろう。その上で改訂しなければ めて聞いてびっくりしたのは私で、全然知らなかった。結極、 たのでは、解題はまだ無理だとして延期したのだという。初 いません。 ﹃楽人補任﹄にしても、初め に 言 及 し ま し た﹁箏 訂版をそろそろ書かなければいけない時期なのではないでし 飯島 それからもう二十年経っておりますので、やはり改 ればいけない仕事ですね。 に代るもっと良質の系譜集を提供するほうが良いので、その 相承系図﹂にしても、四半世紀も前に家別や索引等もつくり ょうか。 用意・準備をしながら私の非力のために結果として実現して ながら今もって公にできないでいます。 福島 かなり急いだこともあって、例えば読みなどは、私 磯 いまでしたら歴史方面の方とか、ずいぶんと書き手が それから﹃日本古典音楽文献解題﹄ ︵一 九 八 七 年︶の 話 が 増えてきたのではないかと思います。ただ、その場合に先ほ の担当した﹁がくどころ﹂は、編集段階で﹁がくそ﹂になっ 究者も研究も極めて少ない。今やれといわれても解らない事 ど少し私はやり玉に上げたような部分がありますが、結局は 出ましたが、岸辺成雄先生の古稀の記念事業で、平野健次さ だらけでそれを書かなければならない。ところが、実は十年 てしまうなど、いろいろな問題もあるので、そろそろ改訂し 前の還暦の時にこの企画があったのだが、延期になって今度 音楽学の方たちと、これからはもっと積極的に歩み寄ってい んが主謀者でした。最初の会合で私は、時期尚早として延期 なのだという。平野さんは、その原因は私が発表した﹃三五 かないと、あちらが遅れてしまうのではないかと思います。 なければいけないと思っています。 要録﹄の異本についての報告だという。この日本の楽譜の中 飯島 いや、そういう気配はすでにあると思いますよ。音 を提案しました。文献解題といっても、それを可能とする研 核ともいうべき最重要文献に異本があったことも判らなかっ 座談会 日本音楽史研究の現在 32 方とかをお伝えしたい気持ちでして、そういうことをあちら んとはあちらに出前して、漢文の読み方とか、古文献の読み 磯 ですから基本的にはそれでどうこうというよりか、ほ いくんだという、いわば本当の意味での日本音楽史研究所を う読むんだ、文献はどう扱うんだ、こうやって時代を考えて あれ一緒くたでいいから、そこをメッカとして古い漢文はこ いま国文の学生でも読めませんからね。出身学科がどうで のではないでしょうか。 が真剣に求めてくれないと困るんですね。いまの国語教育で 中心とする日本音楽史学というのをこれからつくりあげられ 楽学のほうで書き手がどんどん減っているのではないですか。 は結局音楽学でどうあろうと文献が読めないという状況が存 磯 いや、それは理想ですけれど、はっきり言って、いま るのではないかと、私はそのように感じております。 して基礎的な授業のところは出席しなかったりとか、よく音 出前でもしなかったら、そんなもの要らないという⋮⋮。た 在しているわけですから、基本的な授業のところで、往々に 楽科の人には聞いたりするんですが、弾ければいいんだ、要 ろで自分の都合をとにかく先に言うという現代人の中にあっ とえば音楽史研究所に、調査に行きたいという史料調査の依 て、私たちはあえて出ていかないと、とてもそれをそういう するに楽器がうまく扱えればいいんだ、ということのほうに 飯島 ただ、どうなんでしょうか。福島先生がこの何十年 頼があったわけです。それは私が電話の応対を横で聞いてい 間おやりになっていることを、私は忖度するんですが、いわ ふうには持っていかれないのでは⋮⋮。出ていって、少しで どうも目が向くようです。が、そのままでは、せっかくあち ゆる音楽学の世界、音楽大学にある楽理学科、そういうとこ もかじってもらうと、おいしいというか、来ようという気に たときのことですが、 ﹁じゃ、四月にお出で く だ さ い﹂と 言 ろでの音楽学の人たちのところに行って、先生がお考えにな なってくれるのではないかと。そこのところで少し押しかけ らに残っている文献資料類が、そのままになってしまうので っていることとか史料を持っていくよりも、日本音楽史研究 ないと無理ではないかと、あえていま申し上げたのです が、 うと、あちらが﹁春休みのうちに﹂と。つまりそういうとこ 所といういわばメッカができたわけで、そこに集まっていた 文献も充実してきて、上野の研究所にお出でになろうという はないかという気がしますね。 だいたほうが実はいいのではないですか。いま磯先生は﹁出 方々も、目録が刊行物として出ましたから、たぶんそれでこ れから増えるんだと思いますが、その点においては、論文も 前﹂とおっしゃいましたが、そうではなくて、来ていただい て、あそこでアラカルトメニューを食していただければいい 33 座談会 日本音楽史研究の現在 かなければいけない時代になってきたと思います。 増えましょうから、これからそちらの関係もきちんと見てい う皆さんがどんどん補っていただかないといけないと思いま から、非常にもう大小さまざまになっております。これはも すよ。ただ、最近にたくさん出てきたことは確かですね。 飯島 福島先生は前から少しずつ集めてファイルなさって 玉石混淆なわけですが、ずいぶんとたくさん出てくるよう になったんですね。それについては岩佐先生の﹃全注釈﹄に いますが、いまのうちに網羅の態勢をつくっておかないとな ん増えてきて、要するに万葉関係の論文と重要な本を見よう 管絃関係の史料や論文が参考文献としてまとめられていて、 もので、一見客観的な書きぶりですが、いわゆる﹁きんの琴﹂ と思ったらあそこに行って全部済むという態勢になっていま らないのではないでしょうか。高岡市に万葉歴史館というの とその他の琴箏類の表現が一緒にされていて、しかもこれま して、日本音楽史研究所もそういうふうになれたら、単に原 それが私どもにはほんとにありがたいと思っていますが、最 での注釈研究で﹁きんの琴﹂ではないことが明白なものまで 典史料を閲覧するだけではなくて、非常に便利なところにな がありますが、あそこは素晴らしいんですよ。開館したとき 配列していますから、途切れたはずの﹁きんの琴﹂の歴史が るのではないかと思います。それを準備するのはいまの時期 近、具体的に言っていいかどうかわか り ま せ ん が、 ﹁琴﹂の あたかも続いているような錯角を起こさせる体裁になってい ではないかという気がいたしますが、とにかくたくさん出始 から、それまでの論文を全部著者ごとに集めていて、どんど て⋮⋮、せっかく進んでいる注釈研究への見渡しの悪さにも めましたから、それを集めないと、ということでしょうね。 文献などが史料集として出てまいりましたが、これがこまり 驚きました。これが、言わば業績主義の罪で、何でも報告書 究の範囲だけだし、それから歌人にこちらは興味があるから、 岩佐 私も参考文献にはすごく困ったんですが、自分の研 のですから⋮⋮。 ﹃源氏﹄にか か っ て く る と、た と え ば﹁こ てきているみたいなので、ここのところ困っていたりするも ということなのかもしれませんが、かなり不注意なものも出 磯 いいか悪いかは利用する人がとりあえず考えればいい 資料といってもその人の名前がちょこっと出てくるだけの論 と﹂という二語だけなわけですが、あれは﹁そう︵箏︶のこ を、と言われる結果かと思いますが⋮⋮。 文で、探してごらんになると、 ﹁何 だ、こ れ だ け か﹂と い う と﹂なのか、 ﹁わごん︵和琴︶ ﹂なのか、 ﹁きん︵琴︶ ﹂なのか、 ﹁こと﹂と書いてあったら﹁琴﹂ではないだろう と 思 っ て い きん ようなものもいっぱいあるわけですが、とにかくそれがなか ったら調べるのに自分が困るという勝手な了見で集めました 座談会 日本音楽史研究の現在 34 ます。 直しをしておかないといけないところが出てきたかなと思い 飯島先生がおっしゃったように、ここのところで少し仕切り やはり用語の使い方の問題が気になってきたところで、いま すよね。だから、また先ほどのことに戻ってしまい ま す が、 が指し示すものは何なのかという概念規定が違ってくるんで よそみんな入っていて⋮⋮。それ で は、 ﹁こ と﹂と い う 言 葉 たところが、さきほどお話しした﹁琴学史﹂の資料集にはお りますが、藤原氏は﹁中世絵画と歴史学﹂ ︵ ﹃日本の時代史 強く、歴史学としての美術史の意識が希薄だという事情があ 学部門の美学のなかに位置することから、美学的性格が大変 協和音が生じています。明治以来、大学での美術史学は、哲 って歴史学的関心と、美術史的関心との間にズレがあり、不 して積極的に活用する方向が顕著ですが、一方、絵画をめぐ 善彦、黒田日出男といった方々以来、絵画を中世史の史料と 福島 藤原重雄氏です。東大史料編纂所の方で、近年網野 だんだん時間も迫ってまいりまして、このあたりでそろそ 楽図︺考﹂ ︵ ﹃日本音楽史研究﹄第六号 二〇〇六年三月︶に 点を抽出しておられます。私が始めて絵画を主題とした﹁ ︹古 歴史と素材﹄二〇〇四年十一月 吉川弘文館︶で適確に問題 ろここのご馳走でありますところの﹃日本音楽史叢﹄そのも かかっていた時にこの論考に大変恩恵をうけました。 磯 いままで貞保親王とか、敦実親王とか、まず﹁あつみ﹂ お二人などはおよそ文学のほうでも扱われなかった方々なん か﹁あつざね﹂かというところから問題になりますが、この 笛譜︵しんせんようじょうふ︶ ﹂ですか。まずこ の 読 み 方 か ですよね。ましてや歴史のほうではおそらくいままで口の端 あいだ ら。 ﹁よこぶえ﹂ 、 ﹁おうじょう﹂というのがこ の 間 ま で か な 飯島 それは貞保親王が敦実親王に琵琶の伝授をしたとい ですが⋮⋮。 磯 飯島先生は貞保親王より敦実親王びいきだということ 文だといわれました。 福島 角田文衞先生から、貞保親王についての初めての論 にものぼらなかったというところかと思いますが⋮⋮。 いかないわけですが、二番目 の、こ れ は 福 島 先 生、 ﹁新 横 提示された順にといったところで、逐条的にというわけにも のについて、ちょっと話題を転じたいと思いますが、ご本に ︿新しく文化人に仲間入り ︱︱貞保親王・敦実親王︱︱﹀ 3 0 と思いますが、 ﹁ようじょうふ﹂というふうにこのご ろ 先 生 はお読みのようですが⋮⋮。 ﹁並び に 貞 保 親 王 私 考﹂に つ いては、 ﹁文化史的に大きな位置を持つものと感 じ ら れ、史 学、文学の方面ではより注目すべき出来事﹂という ふ う に、 福島先生に感想をお寄せくださった方がおありだということ ですが⋮⋮。 35 座談会 日本音楽史研究の現在 Ç うことは福島先生の論文で明らかですし、別に貞保親王より 気です。 をしたということを体系づけて定義することはできない雰囲 敦実親王にこだわる理由として、歌謡と関係しているんだ 敦実親王のほうが偉いとかと言っているわけではなくて、貞 保親王と敦実親王のいわば音楽史上の位置づけというのはど ろうという推測を持ったのはなぜかというと、一つは先ほど 流とに分かれますが、よく系図を見てみると、源俊 頼 と か、 うも違うのではないかと思っているんです。先ほど角田先生 でも、そうしたら同じレベルで、敦実親王も大事な位置づ 源経信とか、和歌でも音楽でも有名な人たちの名前がそこに から三回ぐらい名前が出ています﹃梁塵秘抄﹄の﹁異本口伝 けをしなくてはいけないのではないかと思ったわけです。ご 出てくる。その嫡流のほうは大納言時中とかいろいろい て、 の事が紹介されましたが、南宮貞保親王という名前が挙られ 論文が出たころに、ちょっと福島先生に申し上げたことがあ 後白河院政期の源資賢、息子の資時までつながっている。よ 集﹂にたくさん名前が出てくること。敦実親王の系統がなぜ って、 ﹁敦実親王も大事ではないでしょうか⋮⋮﹂ 。でもその く物語などを見てみると、 ﹃栄花物語﹄とか﹃大鏡﹄とかに、 て論文が書かれて、日本音楽史上についての位置づけが出て ころ福島先生は、貞保親王に夢中になられていたような気が ところどころ﹁敦実のみこ﹂という名前が出てくる。どうし か宇多源氏と呼ばれていて、やはり一流を成していて、その します。私は歌謡のほうをやっていますし、催馬楽とか神楽 ていままで皆さんはこれをやっていらっしゃらなかったのだ きたというのは、全くこれは福島先生の論文が初めてで、そ 歌のほうが、専門といってはおかしいですが、そちらのほう ろうという気がすごくしまして、どちらかというと貞保親王 筆頭が一条の左大臣雅信で、兄弟の重信、それから嫡流と傍 を歴史的に押さえたいと思っていて、音楽史的に見てみます よりも物語文学に近いのは敦実親王かなという気もいたして ういう意味では私も蒙を開かれたという思いがしました。 と、管絃に関しては確かに貞保親王の力が大きかったみたい おります。 やはりほかの分野からは出ないわけですよ。 飯島 そうですか。いまの先生のようなご発言というのは、 やらなければいけないと思っていました。 福島 まず貞保親王、それから敦実親王、そして源博雅を ですが、歌物に関しては、どうも敦実親王がいろいろ咲かせ た形跡があるんですね。延喜の二十年前後ですね。延喜初年 から延喜末年ぐらいの間に敦実親王が歌物の音階をつくった か、あるいは曲目を制定したか、何かそういうことがかなり あるんだろうと思われます。が、具体的にまだどういうこと 座談会 日本音楽史研究の現在 36 ています。貞保親王はかなり保守的で、音楽も舞楽として捉 ょう。いわば王朝が代っている。これは楽の継承にも反映し りました。貞保親王と仁和寺宮敦実親王とは皇統が違うでし いました。実際に調査に入る前に準備期間が十年ほどもかか にはいかない。ですから、仁和寺を調べないといけないと思 福島 敦実親王の背後に、宇多法皇の存在を意識しない訳 博雅の三位がスターで、痴れ者なんだけれども、だから公 とたび音楽、詩歌管絃のほうに目を向けてみると、そこでは ですが、たとえば堀河天皇だとか、近衛天皇だとか⋮⋮、ひ たらなかった、和歌のほうではもちろん日は当たっているん の文化史のほうに目を向けてみると、だからいままで日の当 歴史というのが、政治史中心に動いていて、こうやって一方 磯 少し話題がずれるかもしれませんが、結局いままでの h を挙げるのならば、その前に院政期においてもっと挙げなけ ですからそういう意味で、つまり中世に入って、一人実朝 けですよね。 が、それと同じような音楽的なサロンみたいなものが、その ればならない人たちがいるんですよね。その実朝の性格がど それぞれいたサロンがあって、それらとは別に大斎院のサロ ときどきにおそらくあったと思うんですよ。そのあるときの うして形づくられたか、その造形をいうためには、実は政治 ︿黒田俊雄、全体史の提唱﹀ 中心的な人物として敦実皇子がいた可能性があるだろう。そ 史ではなくて文化史の流れを持ってこなければ解決しないわ はなくて、文化的に見れば絵画も音楽も漢文も含まれたいろ きた時代、あるいは道長がいた時代に、物語とか和歌だけで も、文学史も、美術史、音楽史、芸能史等々、全体を視野に ましたね。政治史・経済史・法制史だけではだめだ。宗教史 福島 黒田俊雄先生は全体史ということを提唱しておられ けです。 いろな状況があったはずですが、そこに言及がいままでない 入れなければならないと。晩年には音楽史につ い て、 ﹁歴 史 学︵日本史研究︶の側からの発言はまことに寥々た る も の﹂ わけですよね。それをこれからやらなければいけないのでは そういうことは、本来はたとえば同時代、左大臣雅信が生 ないかということを考えてはいます。 れをいわゆるサロンの人たちがどこかで支えていったのでは ンがあったというのは、和歌文学のほうでも想定があります でも取り合えず、それがひとたびこちらでは脚光を浴びるわ の間では馬鹿者というか、ぼんぼんかもしれないけれど も、 白 えている。 ﹃新 横笛譜﹄から半世紀も経たずに﹃新 楽譜﹄ Ç 飯島 まだ証明できませんが、例えば紫式部と清少納言が 進となっている所以でもあると思っています。 Ç ないかという気がいたします。 37 座談会 日本音楽史研究の現在 Ç 書﹃日本中世の社会と宗教﹄ ︵一九 九 〇 年 岩 波 書 店︶に 収 アジアの音楽 第三巻﹄ ︵一九八八︶および先生 の 最 後 の 著 演された内容を中核としたもので、﹃岩波講座 日本の音楽・ 世の音楽﹂で、黒田先生が﹁中世史研究と音楽﹂と題して講 執筆されました。これは一九八六年に私共の公開講演会﹁中 であるとして、自ら﹁中世社会における﹁芸能﹂と音楽﹂を 特に音楽に関わるところを見ると、非常に積極的に音楽に関 うんですが、そのときのたぶん気分が違うんだと思うんです。 と、頼長という人がおそらく、政治状況で変わってくると思 思い返したことがありますが。 ﹃台記﹄などを読んで い ま す 私は文学をやるためにこれをやっているんだろう﹂と自分で くて歴史の論文ですよね﹂と言われたことがあって、 ﹁いや、 ところがあって、何でこんなに書き方が違うんだろうと思い わっているときと、それから﹁音楽なんていうのは宰相の器 て﹁歴史学にもそれを認めさせなければ駄目だ﹂と力説して ます。それはやはり政治状況の中での音楽との関わり、ある められています。その頃上京されると毎回のように私共の資 おられました。私の中世楽人の研究については、 ﹁身 分 の 問 いは個人的な気分の問題もあったかもしれませんが、それは たる者はやってはいけないものだ﹂ということが書いてある 題が重要ではないか﹂といわれましたが、今も課題を戴いた 単に音楽だけを見ていてもわからないし、政治だけ見ていて 料室に来られ、 ﹁歴史学として音楽史をやらなければ﹂ 、そし と思っております。 福島 仁和寺の調査を計画しはじめた頃、まだ研究を始め もわからない。いま福島先生がおっしゃった全体史というか、 たばかりですから何も知らない。知らないから勝手な夢をふ 話が前後しますが、私は﹁貞保親王私考﹂を書いている時 か。確かに、前期摂関時代が成立する時期の王権の中枢です くらませます。 ﹃梁塵秘抄﹄だって見つかる可能性が な い 訳 その中に置いて考えてみるという姿勢が、これからますます から、登場人物も王朝交代の中心的人物ばかりであり当然の ではないだろう、とか。 ﹃楽書要録﹄や貞保親王 の 笛 譜 や 博 に、ひどく悩んだ時期があります。自分では音楽史を研究し ことです。しかし貞保親王の全体像をみないで、音楽だけを 必要になるだろうという気がしますね。 みることは不可能だ。音楽学ではないといわれてもかまわな 雅の﹃新 楽譜﹄の完本だって、探すだけは探そうという気 ているつもりだが、今やっているのはまるで政治史ではない いと腹を決め、迷いはなくなりました。 集まっているときに、 ﹁飯島さんの論文は文学の論文では な 飯島 私も三十歳ごろに、中世歌謡研究会で若い人たちが 駄という訳でもありませんでした。私のあたった 棒 とい 持ちでした。また、それは 犬もあるけば で、まったく無 Ç ! " ! " 座談会 日本音楽史研究の現在 38 が嫡子扱いで先に出世して、どうなのかなと思ったけどちっ いの兄弟で、生れ月から言えば師長が兄さんなのに兼長の方 の時も流れました。そうして、一九九五年の正月﹁梁塵秘抄 とも差別しないで、一緒に引き立てていますね。弟の隆長と うのは﹃新 横笛譜﹄の序文でした。やがて狐もおち、沢山 断簡﹂にめぐり いました。 三人まとめて、両長とか三長とか言って、いつも車に乗せて 内裏へも連れていって⋮⋮。 飯島 政治史のほうからだと頼長はとても評判が悪いんじ ゃないですか。冷酷で⋮⋮。 非常に儒教的な杓子定規な面はありますが、それなりに子供 岩佐 ずいぶん評判が悪いけど、そんなことはないんです。 すが、そのあたり、ご本のことに向けても岩佐先生のほうか 悪左府 頼長の子ですから、師長もしかたがない。 のことをとってもよく考えていますね。 福島 " たらあの頼長という人は面白いのね。漢文日記に、あんなに 長、長﹂という字の所だけ拾って 読 み ま し た︵笑︶ 。そ う し って、﹃台記﹄ なんてむずかしくてとても読めないけれど、﹁長、 して、そんなに全部はできませんから、若い時の事だけと思 たんですけどね。今度はちょっと調べてみようかなと思いま 音楽家とも何とも知らないで、ただむやみに師長びいきだっ け で も う ミ ー ハ ー 的 に 好 き に な っ て し ま っ た ん で す︵笑︶ 。 一面の琵琶を提げて万里の雲路に去らんと欲す﹂と、あれだ 歳で自分は何もしないのに流されて、二十七歳まで配所生活 しろ兼長よりも期待していますね。でもかわいそうに、十九 岩佐 決して凡庸ではなかったと思うんですね。頼長はむ 能の持主である師長では、影が薄いのは仕方ないでしょう。 達がひしめいていた非常の時期ですから、並程度の政治的才 朝、九条兼実、西園寺公経というような超一流の政治の天才 福島 だってあの時期は特別で、後白河院、平清盛、源頼 岩佐 そうですね。 いただき でしょう。それで帰ってきたらば弟たちはみんな死んでしま でも考えたら運が悪いことはたしかです。 ! 子供のことを書いている人はほかにいませんね。ほんとに 戴 ひつさ 十九歳で配流される時の、おじいさん忠実への 手 紙、 ﹁師 長 岩佐 師長は、私は昔﹃保元物語﹄を初めて読んだときに、 らご質問があるようですが⋮⋮。 いのに、何でこれだけ史料がないんだろうということなんで 先生がご注目の師長で、彼については本当にたくさん知りた が出ましたが、その﹃台記﹄を著わした頼長の次男が、岩佐 磯 なるほど。ところで先ほど飯島さんから﹃台記﹄の話 ︿妙音院藤原師長﹀ A っている。家は自分がどうしても背負わなければならな い。 39 座談会 日本音楽史研究の現在 Ç のことから、元服のことから。師長と兼長は同い年の腹違 もちひ y 出そうなんて思わなかったのではないかと思いますね。先生 みにくさは身にしみているし、真面目にそんなに政界で力を けても、現在の学校音楽と文化史とにおいてのいわゆる日本 福島先生に。この﹃日本音楽史叢﹄を読ませていただくにつ 磯 司会の不手際でそろそろ時間がないのですが、最後に ︿日本音楽史の位置 ︱民族音楽考︱﹀ が、師長に同情的におっしゃって下さったからうれしくなっ 音楽史の間のギャップを感じないではいられないわけですが、 ! " 座談会 日本音楽史研究の現在 40 だけど自分は音楽がやりたいわけでしょう。政争のこわ さ、 てしまいましたわ。 要するに日本の古典音楽というのは儀礼として考えていかな ければならなくて、きょうも実は仏教関係の音楽について触 れる時間がなかったのですが、現在学校で学ぶ音楽史で は、 か、東洋の音楽史というのは、いわゆる民族学的なものに比 先ほど少し触れましたが、西洋中心で、日本の音楽史という 岩佐 わかるようになりましたね。 重がいっていて、古典音楽にまでなかなかいかないわけ で、 本の、たとえば楽譜が西洋よりも一歩先んじて成立している そういうところでは、要するに西洋音楽偏重なのですが、日 岩佐 ほんとにそうなんですね。だからもっと師長のこと んだとか、そういうことについても、日本の音楽教育の場面 で教えられることはないですよね。 福島 民族音楽は国際音楽に対立する用語である。国際音 楽 は 一 般 に は ヨ ー ロ ッ パ 音 楽 の 同 義 語 と し て 使 わ れ、 普通である。 ︵略︶バッハ の 音 楽 は︵略︶ド イ ツ 民 族 音 ︵略︶アジアやアフリカ等の音楽を民族音楽とい う の が 楽とも呼ばないのは、ドイツの民族音楽のうちの芸術音 岩佐 師長はもう絶対に必要な人ですね。 福島 日記が断片でも残っていたら、たいへんな違いがあ である。 楽が、国際的な音楽、世界の音楽と 見なされた から ということが大きいですね。 りますよ。だから人の評価についても、史料が残るかどうか 磯 そうしたら研究もこれからもっと出てきますよね。 にしておいてはいけない。 磯 でもほんとにそれこそ文化史をもっと⋮⋮、うやむや 燃やしてしまったから⋮⋮。 を何とかしたいと思いますが、でも自分で何もかも死ぬ前に ごとに言い得ていますね。 福島 ﹁日本音楽史の扇の要の位置 に あ る﹂と、こ れ は み 福島 師長のいろいろな面を教えて戴きました。 岩佐 ほんとに丁寧に基礎的研究をしてくださった。 ですね。 福島 それについていちばん功績があったのは 泰純先生 にみちたこの一文は、 ﹃中学校指導書 音楽編﹄ ︵一九七〇 歴史感覚が欠除した、かつての植民地教育を想起させる誤 このように、音楽史研究の状況は整備される方向にありま ある基礎的史料の公開として特に注目されるものであります。 年 文部省︶ ﹁特に留意すべき学習指導﹂の一節なのですが、 も原因でしょう。この点で美術史が美学のなかで存在を明示 みられないことが問題です。大学に音楽研究の場がないこと すが、何故か重野・小中村に続く史学者による音楽史研究が されたのとは、対照的であります。その結果、美術史は美学 やはり、近代からの研究史の問題が大きく尾を引いていると 近世における儒学・国学の双方よりの音楽研究のたかまり に属する美術史となり、歴史学としての美術史の性格が希薄 思います。 の後をうけ、明治十年代前半に、指導的歴史家である重野安 となったことは既にふれた通りです。 大学から閉め出されたかたちの音楽研究は、研究の拠点を 繹による﹁風俗歌舞源流考﹂の発表や、同じく小中村清規の ﹃歌舞音楽略史﹄の執筆が行われる等、近代における 音 楽 史 音楽史は音楽学に包含され、音楽学は﹁芸術諸学﹂に含ま 持つことがむずかしく、この状況には、第二次世界大戦後の れ﹁美術史﹂に準じて﹃美学﹄に所属する扱いとなっていま 研究の端緒が、当時の歴史学の中心人物達によって開かれて の、簡略ながらはじめての通史が、重野と王堂チェンバレン す。黒田俊雄先生が、これでは音楽史研究は進展しないと憂 いわゆる新制大学になっても大きな影響を受けています。 の序文を伴って発表されたのは明治二十一年︵一八八八︶で 慮された状況です。 いることは、改めて注目する必要があると思います。小中村 すが、重野は史学会の創始者・初代会長であり、小中村は ﹃古 だと思っております。 たのは何故でしょうか。この点は、これからの課題のひとつ それにしても、重野・小中村に続く音楽史研究が出なかっ 事類苑﹄編纂委員長であります。この重野と小中村の両先学 による序文を収載する神津専三郎の﹃音楽利害﹄が刊行され たのが二十四年です。 さ ら に、 ﹁礼 楽 志・音 楽﹂を 含 む﹃大 日 本 史﹄の 刊 行︵明 ︿東儀鉄笛﹃日本音楽史考﹄の再評価﹀ しかし、このように公開されはじめた史料を充分に活用し 治三十九年︿一九〇六﹀ ︶や、 ﹃古事類苑﹄の﹁楽舞部一・二﹂ ︵同四十二・四十三年︿一九〇九・一九一〇﹀ ︶が刊行されま た音楽史研究が、在野の研究者、東儀鉄笛︵季治、明治二∼ 大正十四年︿一八六九︱一九二五﹀ ︶によって行 わ れ て い ま すが、これらに先だって明治三十四年︵一九〇一︶から﹃大 日本史料﹄の公刊が開始されたことは、史学研究に不可欠で 41 座談会 日本音楽史研究の現在 _ 一月から雑誌﹃音楽界﹄に、後には﹃音楽と蓄音器﹄にも併 ますが、鉄笛は﹃日本音楽史考﹄を明治四十一年︵一九一〇︶ 鉄笛の家は、天王寺方楽人で篳篥を家業とする楽家であり 分、問題にならないだろうと見もしないで勝手に考えていた ん。正直なところ、私自身も鉄笛に期待しないどころか、多 いや一頁でもみていれば、こんな言及ですむはずはありませ 史﹂ ︶で あ り ま す が、慧 眼 の 彼 の こ と で す か ら、一 号 で も、 しまった﹂という、まことに素っ気ない言 及︵ ﹁日 本 音 楽 学 行して連載発表していましたが、大正十年︵一九二一︶十二 のです。まことに慙愧に堪えない次第であります。ただ鉄笛 した。 月、鉄笛死去によって中絶したことが知られています。前者 創案の用語である﹁楽制改革﹂の号だけは、その確認のため 写して資料室の大テーブルに並べたところ、今度はこれを見 早速、研究員の岸友子君に担当してもらい、掲載全号を複 鉄笛だったとやっと気がついたものです。 にみて、驚いたのです。これは大したものだ、我々の先学は は平安末、後者は鎌倉中途で止まっています。 一号数頁から最大十頁に細分され、七十七号に分載された もので、それに当時の雑誌の発行部数は極めて少数であった こと、および後には伝本が少なかったため、全号を通読した 人は非常に少数であったと推測されます。 いては、私も関心があって、調べておりますが、鉄笛が史料 模をはるかに越えると私はみております。諸楽家の蔵書につ 述とされていますが、楽書だけを見ても、一楽家の蔵書の規 ても、このような見事な、しかも大きな業績が、大正十年 ︵一 いて﹂﹃日本音楽史研究﹄第六 号 二 〇 〇 六 年︶ 。そ れ に し とも判明いたしました︵ ﹁東儀鉄笛著﹃日本 音 楽 史 考﹄に つ 岸君の調査によって、原稿は明治維新まで完成していたこ てびっくりしたのが磯さんという訳です。 とした楽書は大変広い範囲にわたります。しかし﹃史考﹄の 九二三︶から二十一世紀の今日まで専門研究者にもまるで知 内容について、岸辺先生は、東儀家伝来の楽書によった記 注目すべき点は、楽書以外の古記録︵日記︶ ・典 籍 等 を 実 に られていないというのは、どういう事なのでしょうか。 読しておられないと思います。また平野健次さんも見ていな 題にもかかわらず、末尾は鎌倉時代で終っていますが、冒頭 音楽史﹂ ︵雄山閣﹃日本風俗史講座﹄ ︶が発表されました。表 鉄笛没後六年、昭和四年︵一 九 二 九︶ 、田 辺 尚 雄 著﹁日 本 よく調べて活用している点であります。当時の史料公開の状 いと思っています。 に、日本音楽史に三様があることを述べ、さらに後の研究史 況からみて敬服に価します。私は岸辺先生は、少なくとも通 ﹁雑誌に連載し始めたが古代に触れたのみで未完に終って 座談会 日本音楽史研究の現在 42 文明史的音楽史。 民族学 に絶大な影響を与えることになる提案が記されています。 文献による音楽史。 的音楽史 º も進展は期待できない。 は本書﹁日本音楽史﹂である。しかし 民族的音楽史こ º はすでに﹁講じ尽され﹂たので、これ以上文献を調べて ¹ そ今後指向すべき発展性を有する分野である。 智要録﹄や﹃教訓抄﹄ですら、原典を確認していないのです。 鉄笛が創出した﹁楽制改革﹂も、言葉だけ 無 断 借 用 し て、 内容は田辺創作物語にすり換えてしまいました。即ち、 仁明朝に楽制改革があり、楽器編成が改変された。左 方の楽は横笛・篳篥・笙・琵琶・箏・太鼓・鉦鼓・鞨鼓 となり、右方の楽は狛笛・篳篥・太鼓・鉦鼓・三ノ鼓を 用いる。舞楽では絃は用いないようになった。以来現在 には﹃歌舞音楽略史﹄と高野辰之の﹃日本歌謡史﹄を挙げる 多彩な古楽器の存在と、雅楽の伝承は古来不変とする主張と この楽制改革田辺説は、正倉院に伝存する今は使用しない まで変わらない。 のみで、どういう訳か鉄笛は挙げていない。これで﹁講じ尽 の矛盾を一挙に解決する名案ではありますが、史実ではない 文献による音楽史はすでにやり尽したとしながら、具体的 した﹂とするのは、田辺氏が文献史料にも、歴史学にも不案 ことも確かであります。ただし一般的にはいまだに通説とな 族学的﹁音楽史﹂ではなくて﹁音楽誌﹂であります。どうも 行普及されました。同時に前記の提案も田辺大先達の御託宣 田辺﹃日本音楽史﹄は、昭和七年に鎌倉以降も増補され刊 としてほぼ無条件で受けいれられたのです。その結果、昭和 に入ってからは方法論的にも日本音楽史と呼べる研究は跡を と、 ﹃日本音楽史考﹄よりの引用・転載が少なくありません。 なりましたが、同時にヨーロッパ・アメリカでは、音楽史は 第二次世界大戦後は、アメリカからの民族音楽学の興隆と 絶ってしまいました。 その上﹃史考﹄のことは記さず、しかも孫引きであり、さら ヨーロッパ芸術音楽に限定し、それ以外の音楽の音楽史学は 成立し得ないから、全て民族音楽の研究とするという風潮が には細部を変更したことにより誤引となっている等が見受け 用や記述がいたる処にあります。しかし、それらをよくみる しかし田辺氏の﹁日本音楽史﹂の頁を開くと文献からの引 ん。 田辺氏の﹁史﹂は歴史学とは無関係であるという他ありませ っています。 内だということを端的に物語っていると思います。 が何で 文明史的であって、社会史なのか私には判りません。 は民 ¹ º られます。引用されている﹁詠﹂の詞 も 孫 引 き で す し、 ﹃仁 43 座談会 日本音楽史研究の現在 ¸ ¸ ¹ 話です。しかし、これに反論をとなえたのは岸辺先生と前田 九六〇・六一︶も民族音楽学だなどというのですから乱暴な 強くなりました。岸辺先生の﹃唐代音楽の 歴 史 的 研 究﹄ ︵一 いては強大な説得力を発揮したのであります。 明集﹄で、印刷を文化の指針として尊重するヨーロッパにお 現存する世界最古の印刷楽譜、文明四年︵一四七二︶刊﹃声 講演・報告を行いました。一方展観した史料の最たるものは、 一九六〇年の中頃に、私共の大学の教科﹁日本 音 楽 概 論﹂ 別研究の存在とその分布が前提となります。 実であります。通史の必要は当然ですが、ある程度の数の個 埋められません。研究者の絶対数の不足は、かくれもない事 しかし、昭和の始め以来の音楽史研究の空白は、簡単には 昭雄氏ぐらいのものだったようです。 東洋音楽史家である岸辺先生が、自ら史学の筆を折ったの もこの頃でした。 し か し、音 楽 史 成 立 の 条 件 は、 ﹁良 質 な 史 料 が、相 当 量、 相当な期間にわたって存在する﹂ことであるというのですか を﹁日本音楽史﹂としたいと思ったのですが、この分野の研 ら、こちらがその条件を充分に具備することを確実な証拠を あげて証明すれば、反対ができないはずです。 十数年前にはある審議会で、大学の日本音楽史の担当者の 究者は?、となって困ったことを覚えています。 一九八六年、ドイツ・ケルンの東アジア美術館で﹁日本仏 業績の調査がありましたが、音楽史学といえる業績は例外的 ︿日本仏教音楽の楽譜展・国際シンポジウム﹀ 教音楽の楽譜展﹂を開催しました。企画・出品・共催は私共 飯島 まだそれらの影響は非常に大きく続いていて、私の であり、担当教科と業績の整合性を求めることは事実上不可 院生のころに、これはもう福島先生にも平野先生にも質問し 上野学園日本音楽資料室。同時にケルン大学音楽研究所との パの中世音楽資料をめぐって﹂を開催しました。日本側は四 て、 ﹁いや、わからない﹂ということで、し ょ う が な い の で 能だったのです。 名が参加し、次の講演・報告・討議を行いました。平野健次 自分でも少しやったことがありますが、日本の音楽史の中で 共催で、国際シンポジウム﹁音楽と文献学︱日本とヨーロッ 楽資料とその継承﹂ 、S・ネルソン﹁日本の文献 資 料 に み る ﹁音楽とは何か﹂という問いかけすら実はされてないわけ で ﹁日本における文献学と音楽文献資料﹂ 、福島﹁日本の中世音 器楽記譜体系の変遷︱主として琵琶譜につ い て︱﹂ 、新 井 弘 すね。 記録を見ると﹁楽﹂と書いてあるのと﹁音楽﹂と書いてあ 順﹁日本の仏教音楽︱声明︱記譜法の 変 遷﹂ 。シ ン ポ ジ ウ ム には金沢正剛氏他、八カ国二十二名が参加し、うち十一名が 座談会 日本音楽史研究の現在 44 ロッパのムジークの訳語でしか使っていませんが、どうも昔 とか﹁学校音楽﹂と言っている音楽というのは、これはヨー るのとある。これはどう違うのか。いま私 た ち が﹁音 楽 史﹂ ということはこれからできないと思うんですね。 実は﹁音楽史﹂という名前をつけて、日本音楽史を仕立てる 性がある。そこら辺の交通整理を徹底的にしていかない と、 ると今度は逆に宮廷儀礼そのものが音楽になってしまう可能 磯 佳 境 に 入 っ て き た と こ ろ で す が、残 念 な が ら 時 間 を見ると違う。じゃ、日本にとって音楽とは何か。これは全 然答えが出てこない。しばらく答えが出てこないことなのか 界には﹁仏教音楽﹂という言葉は本来なかったわけ で す よ。 て一応﹁仏教音楽﹂とか名前をつけて扱いますが、仏教の世 例えば﹁声明﹂というのは、いま私たちが日本の音楽とし きます。一方、一種の集合学である音楽学の中での音楽史は、 要があると思います。これは方法論的反省とも直接関わって 史学としての音楽史学という基本的姿勢を明確に意識する必 福島 これからは、音楽史の研究者のひとりひとりが、歴 が⋮⋮。福島先生、あと一言だけ伺えませんでしょうか。 スティーヴン・G・ネルソンとちょっと話をしたことがあっ 芸術諸学として美学に属する結果、方法論的に曖昧さが生じ もしれませんが、依然同じ状況なんです。 て、 ﹁スティーヴンね、声明って音楽? 声明 っ て 音 楽 は 仏 ます。 ︵平成二十年三月二十二日 於・二松学舎大学九段キャンパス十三階 来賓室︶ ました。 なることになるかと思いますが、どうも御苦労さまでござい うございました。たくさんの宿題を皆さんは抱えてお帰りに ことにいたします。本日は本当にお忙しいところをありがと 磯 さて、このあとは場所を変えて続きをさせていただく きだと痛感しております。 いまこそ、歴史学としての音楽史学を、明確に意識するべ 教の世界から見たら何と言ったらいいんだろうね﹂と。二人 で結局たどりついた結論が、あれは仏教の世界では荘厳︵し ょうごん︶でしかないんですね。簡単に言ってしまえばお飾 りですね。そういう規定しかない。 磯 でもそう言ったら、雅楽だって荘厳でしかないと思い ますよ。 飯島 そうなんですよ。それを逆に考える材料 と し た ら、 ﹁物召しの譜﹂というのがあって、あれはたしか室町 時 代 く らいのものですね。宮中で人の名前を呼ぶときに、呼び方に 楽譜があるんですね。言葉があって、声で出して、楽譜があ る。それを見て、これは歌謡だ、音楽だと規定する。そうす 45 座談会 日本音楽史研究の現在
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