2009 東京工業大学自動車部 OB 会・自動車部 -1- 水野俊彦先生米寿祝賀会報告 OB 会顧問 大島 巖(昭和 33 年化工卒) 監督、部長としてまた OB 会長として半世紀以上に亘り自動車部をご指導下さった OB 会名誉会 長の水野先生が平成 21 年 12 月 19 日に米寿を迎えられました。 OB 会では藤本正夫副会長(昭 28 旧機)代表の下に発起人を糾合し、10 月 11 日(日)13 時よ り、如水会館オリオンルームにおいて祝賀会を約 90 人の参加で行いました。関西中京地区からも 参加され、ご都合で出席されない約 60 人からは記念品へ参加されました。沼田務代表幹事(昭 45 繊)采配の下、松永崇義幹事(平 12 機知)武山理恵幹事(平 14 経)の絶妙な司会で会が進みまし た。岩崎光彦 OB 会長(昭 37 化工)の開会の辞、稲生武元主将(昭 37 機)の祝辞、神本武征 OB 会副会長(昭 38 機)の記念品目録贈呈、平井啓太主将(現役)から花束贈呈。先生のお話をはさ んで疋田巧 OB 会名誉会長(昭 37 化)による乾杯の音頭。歓談の中で司会者による各種アーカイ ブスの福引進呈。先生から履歴を顧みてお話を頂きました。 「自動車が好きで、免許証を早く取り、是が戦時下の学内消防隊結成に役立ち和田学長に愛され 学生諸君とも長くお付き合いするようになり幸せな人生を送っている」 先生の自動車運転歴は 70 年を超えています。 先生と参加者の旧交を温めるには時間が足りないうちにお開きになりました。大島巖(昭 33 化 工)の閉会の辞に続き全員の集合写真、秋山智紀(昭 63 電電)音頭による万歳三唱で惜しみつつ 散会になりました。会場出口で、アーカイブス代としてもご寄付を頂きました。 本件詳細は自動車部ホームページをご覧下さい。http://www014.upp.so-net.ne.jp/titac/titacob/ 記念品 -2- 加藤哲郎様(昭 56 博窯)作「天目馬上盃」 お礼のことば OB 会名誉会長 水野 俊彦 10 月 11 日(日)OB 会の多数の皆様が、遠くは関西から、名古屋地区から、また関東一円から お集まり頂き、私の「米寿の祝」をして戴き身に余るご厚志と心より感謝しております。当日は立 派な会場で、時間が足りないくらいの、暖かい楽しい雰囲気でした。私は、皆さんが卒業後それぞ れの分野で活躍された積もる話を伺うのを楽しみにしておりました。これは物理的に無理な話でし た。OB 総会等の機会に譲りたいと思います。 でも、むかし懐かしい皆さんの元気なお顔に接し大きなエネルギーを戴きました。 私とモー研との付き合いは、Ford34 式 V8 エンジンを搭載した「柏」 「桜」「松」号を入手してく ださった永廻先生も所属する物理化学教室に勤務、既に運転免許を取得していた関係もあって、先 生のお供をする事から始まりました。 新制大学に移行した直後、私は昭和 26 年に物理化学実験の授業を化学、化学工学、無機、高分 子化学の学生を対象に担当する事となりプールサイドの木造 2 階建ての建物を使っていて、当時は トンネルを抜け、桜並木の坂を登るのが部車の一般的なルートで、坂を登れずエンコすると、この 建物が「関所」のような存在で、修理を応援したものです。 昭和 28 年頃、大学はサークル活動を教育活動の一環と位置づけ、部長、監督の制度に移行し、 「自動車部」の名称となり、初代監督を委嘱されたのが、立馬君が主将の時だと思います。 当時は、戦後の自動車時代の幕開けで、全日本学生自動車連盟も発足、学生が時代の牽引役でし た。しかし各大学も車は古物で、レースに熱中、道幅は江戸時代、悪路、事故や故障が続出し「交 通戦争」と言った新語が誕生したのみこの頃でした。 一方、著名校での死亡事故も多くなり、これらの対策を検討するため、部長、監督会議を市ヶ谷の 「私学会館」で 2 回も開かれ出席しました。 監督の初仕事は、死亡事故ゼロとするシステムに取り組みました。 (1)学内ライセンス制度、 (2) 整備工場を完備、車の構造、機能、整備を勉学し、機能に応じた運転法の確立。この 2 点は現在も 引き継がれ、死亡事故ゼロの歴史を延長していることが、私の誇りです。当時、現岩崎 OB 会会長 の提案による「全車任意保険」に加入して大学に迷惑をかけることもなく、また失われた練習コー スを復活する運動を沼田幹事が在学中企画、約 10 年後事務局長のお骨折りで、私の退官した年に 完成、部活の安全運転に連動していることと信じています。 また、歴代の部長の先生方は、学内における自動車部のポ テンシャルの向上に大いに貢献され只々感謝あるのみで す。また、3 代目の部長をお願いした建設の清家清先生に は長い間懸案だった、部室や工場の建築、工場前のコンク リートの作業広場の建設を気安く引き受けて下さり、完成 させて頂いたことは特筆すべき歴史でした。 私は定年後 20 年、民間企業でシール技術の研究を手掛 け、友人も多く、安い費用で、リフトや工作機械を入手、 部に寄贈することが、楽しみでした。 現在の希望として、多くの部員を育成する為に貢献した 「柏」号の保存、富士重工から寄贈された「スバル 450」 の処遇です。柏は金井氏が、スバルは五味氏が担当して下 さっております。OB 諸氏も暇を作って部に顔を出して下 さい。 そこで、私が車から学んだ健康法を一つ。 動かさないとダメになる(歩行や運動) 適度に充電しないとバッテリーがあがる。 (休養+栄養) ハンドル操作。大きく外れないように、小まめに操作す る。(体温、血圧、脈拍を絶えず細かく定期的にチェック し病気の早期発見) これからはお互いに諸事、無理をしないで、健康第一で 頑張りましょう。 -3- 水野俊彦先生 米寿祝賀会 会計報告 如水会館 平成 21 年 10 月 11 日 オリオンル−ム 13 時∼15 時 注:部室新設基金につきましては、同封されています別紙をご覧下さい。 -4- 目次 ・ 2 水野俊彦先生米寿祝賀会報告・・・・・・・・・・・・・OB 顧問 大島 巖(昭和 33 年化工卒) お礼のことば・・・・・・・・・・・・・・・・・ OB 会名誉会長 水野俊彦・・・・・・・・・・ 3 水野先生米寿祝賀会 会計報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4 目次・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5 ・ 5 平成 22 年度 OB 会ドライブ詳細・・・・・・・・・・OB 会顧問 大島 巖(昭和 33 年化工卒) 水野俊彦先生米寿のお祝いに寄せて(投稿集) ・・・・OB 会副会長 藤本正夫(昭和 28 年旧機械卒)6 ・11 平成 21 年度 OB 会ドライブ報告・・・・・・・・・・・・・・・・・金井 悟(平成 13 年化工卒) 平成 21 年度現役活動報告(GT 班)・・・・・・・・・・・・・ 主将 平井啓太・・・・・・・・・・12 自由投稿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ [雑感・自動車の将来と人類]・・・・・・・・・・・・・・・・・ 加治屋貞夫(昭和 32 年機械卒) 12 ・15 「東工大ベンチャー・キャピタル・ファンド」構想の提言・・・・・秋山智紀(昭和 63 年電電卒) 連絡事項・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・25 名簿の整理について御願い OB 会顧問 大島 巖(昭和 33 年化工卒) OB 会会計・25 自動車部 OB 会費納入の御願い ・25 プロトスへの寄稿のお願い OB 会プロトス担当幹事 松永崇義(平成 12 年機知卒) 訃報・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・26 故津村利宏氏を偲んで・・・・・・・・・・・・・・OB 会副会長 藤本正夫(昭和 28 年旧機械卒) 故熊田禎宜君を偲んで・・・・・・・・・・・・・・OB 会副会長 疋田 巧(昭和 37 年化学卒) 会計報告(平成 20 年度) OB 会会計担当幹事 沼田 務(昭和 47 年繊維卒)27 活動案内(裏表紙) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28 OB 会総会 OB 会ドライブ OB 会ホームページ開設 名簿改訂のご案内 平成 22 年度 OB 会ドライブ詳細(例年と日程が違います) OB 会顧問 大島 巖(昭和 33 年化工卒) 日時:平成 22 年 8 月 28 日(土)17:00 現地集合∼(30 名予約済み) 29 日(日)10 時解散 場所:休暇村日光湯本 321-1662 栃木県日光市湯元温泉 TEL:0288-62-2421 FAX:0288-62-2423 http://www.qkamura.or.jp/nikko 交通:日光宇都宮道路日光 IC 約 37km 東照宮∼華厳滝∼いろは坂 清滝 IC 約 30km 華厳滝∼いろは坂 関越自動車道沼田 IC 約 70km 日本ロマンチック街道(吹割ノ滝)∼金精峠 会費:(予定金額:部員招待費用の一部を含む)¥16,000 行事:8 月 28 日(土)17:00 集合、18:00∼懇親会他 29 日(日)10:00 解散、グループ毎の周辺ドライブ 情報:学生時代にはナイトドライブでしばしば経験したルートですが OB 会ドライブには 実績がありません。 紅葉には早く、中京地区からは距離がありますが蔵王よりは近いので、有料道路の 走り方を競いながら集まりましょう。 総会「6 月 5 日(土)」までに下見の結果を HP に掲載します。 http://www014.upp.so-net.jp/titac/titacob/ 参加:平成 22 年 7 月 31 日(土)までに申し込んで下さい。 申込先:□ E-mail: □ ハガキ: 担当:OB会顧問・大島巖、自動車部・佐藤直 -5- 水野俊彦先生米寿のお祝いに寄せて(投稿集) 水野先生米寿祝に寄せて OB 会副会長 藤本正夫(昭和 28 年旧機械卒) 水野先生の米寿を心からお祝申し上げます。 これからも体に気をつけてお元気でお過ごしください。 米寿祝の発起人代表を勤めさせていただきましたが、盛大に祝賀会を開催できましたことを喜んでおり ます。 水野先生は年をとられないかのごとく、いつもお元気でさわやかに接していただいておりますが、ここ では先生の知られざる一面をご紹介して、祝辞に代えさせて頂きます。 1.部員の安全運転には格別の注意を払われたこと。 長い自動車部の歴史の中で、事故による死者「ゼロ」で過ごしてきたことをわれわれは誇りに思いま す。おそらく、死者「ゼロ」の大学は他に無いのではないでしょうか。 水野先生は、ドライブの前に「安全第一」を説諭されました。事故は「緩んだ心が原因だと」。今後も 部員は心を引き締めて運転しましょう。 2.整備工場の整備主任者として、長年にわたり整備主任者講習会への出席を果たされ、車の整備安全に は辛抱強く尽力なさいました。心から感謝申し上げます。 3.約 30年前でしたか雪の朝、近所の坂道の除雪をジープに除雪板をつけて、自らなさっていました。 誰でも出来るようで出来ないものです。若い人達は、市の仕事と割り切っていますが、水野先生は違い ます。「市がすぐ全部除雪できるわけがない。市民で、出来ることは奉仕の精神で率先してやろうよ。」 の精神でしょう。心から敬服します。 4.約5年くらい前のことですが、宮前平駅のバス停留所に長椅子が出来ていました。 水野先生いわく、バスを待つ人が、腰掛を欲しがっている。市がやるべきだとは思うがツーレートだか ら、材料を買ってきて、勤労奉仕で数個作りました。「お年寄りが喜んでいる顔を見るのが嬉しい」と の事でした。 以上はほんの一断面ですが、先生の奉仕の精神を引きついで行きたいものです。(なかなか真似できま せんが。)(H22.2.3 記)以上 -6- 物理化学実験の思い出「ガラスは割れる」 OB 会顧問 大島 巖(昭和 33 年化工卒) 学部2年次になると化学系学生には物理化学実験が必須科目になります。水力実験室の下のプール横 にあった木造二階建ての実験室です(今は学生食堂)。伝統的に、実験器具は自分で作ることから始ま ります。技術系学生の基本である:右回しでネジを締めること・金属板を曲げること・配線を半田付け すること・・・これらは入学前に工場勤務の経験がある私にしては造作のないことでした。 有機液体の蒸気圧を測定する実験で、厚みの薄いガラス球を作る作業がありました。ガラス管をバーナ ーで軟化して細く引き伸ばし一端を溶かして封止する、ここまでは大して難しくありません。封止端を 加熱して軟化し、息を吹き込んで球を作ります。これが難しい。 厚いと実験装置の中でうまく割れません。薄いと作業中に割れて作り直しです。失敗も数をこなすとな んとかなります。そうこうしているうちに割れては困る本体のガラス器具が割れてしまいます。 水野先生が丹精こめて用意して下さった装置です。単位を頂く面接の席の「器用に実験をこなしたが、 ガラス器具をよくこわしたね」とのお言葉は半世紀を経た今も忘れない思い出です。 水野先生とモー研のおもいで 矢野幸三(昭和 35 年金属卒) 先月 70 歳以上の高齢者対象の自動車運転講習を近くの自動車学校で免許更新のために受講しました。 実技では指導員がサイドにすわり言われるままに右や左、S時や車庫入れ等と 10 分近くもたいして広 くもない教習場の中をグルグル走ったのですが、これは正に 50 年ぶりの体験でした。自分の番が終わ り後ろの席に座って目を閉じると実に懐かしい思い出が甦ってきました。サイドに居るのは水野先生か 先輩、場所はモー研内のコースか水戸での夏季練習合宿、はたまた夜の銀座 4 丁目右折ライン(モー研 ライセンス試験)。 先生や先輩諸氏の厳しくも楽しいご指導のお陰で、今日まで約半世紀にわたり無事故で充実したカー ライフを送る事ができ感謝の念で一杯です。それにしても私の知る先生は監督、部長、更にOB会長、 顧問として 50 年以上の長きにわたりモー研の為に御尽力なされました。この度はお元気で米寿をお迎 えになられ、心よりお慶び申し上げます。 -7- 水野先生米寿のお祝いに寄せて 五味 隆(昭和 37 年機械卒) 水野先生からは学生時代の 5 年間及び卒業後 OB 会などを通じて色々とご指導いただいた。 その中で特に、「基本に忠実であれ」と「変化に柔軟に対応できる決断力と技を持て」を教えられた。 これらに係る出来事は今でも鮮明に覚えている。今回はそのうちの一つを紹介したい。 昭和 34 年の秋、学連の東京∼大阪間耐久レースに参加して東京に帰ってくる途中の出来事であった。 夜、京都を過ぎたところでレース車「梓」のオルタネーターの発電不良が分り、スモールランプを点灯 して低速走行しているうちに、脱輪して道路わきの畑に突っ込み、フロントサスペンションのロアアー ムを大破してしまった。その時、水野先生も「梓」に乗っておられた。 その夜は近くの安宿に泊って、翌日「梓」を近くの修理工場に運び、破損した部品を京都で探したが、 ロアアームをサスペンションメンバーに取り付けるシャフトは調達したものの、ロアアームは調達出来 なかった。そこで水野先生は学生を指揮しながら、自ら借用したガスバーナーで板金物のロアアームの 変形部分を赤めて大体の格好に復元し、シャフトに取り付ける中空部分のねじ山の変形は、そこをガス バーナーで赤めながら、正規のシャフトを使い、外側にもねじの切ってある袋ナット(グリス溜め)を無 理やりねじ込んでねじ山を加工し、ロアアームをサスペンションメンバーに取り付けた。それは修理工 場でも考え付かないすごい技であった。 先生はいざという時にどう対処したら良いかを率先垂範された。この時学んだ臨機応変の行動力は、 私が社会に出てから特に 10 年間のメキシコ駐在中に大いに役立った。 水野先生へのお祝いの言葉 波間哲郎(昭和 37 年電気B卒) 水野先生には米寿おめでとうございます。祝賀会の記録映像でお元気な様子を拝見致しました。何よ りのこととお慶び申し上げます。本来なら直接ご挨拶致すべきところ、都合によりこの紙面をお借りす る結果となりましたことをお許し下さい。 自動車部在籍の4年間、先生には事象の本質を的確に見定め、率先して取組む姿を通じて、我々を導 いて頂きました。こうした教訓を体で学べたことが、後に人生の下地となり、まがりなりにも今日まで やってこれたものと、深謝し厚くお礼申しあげます。 どうぞ先生には、ますますご健康で過ごされますよう心からお祈り申し上げます。 私も、今回ご紹介頂いた健康法を肝に銘じて、先生のように心身の調和を保ちながら年を重ねることが できればと願っております。 -8- 水野先生米寿のお祝いに寄せて OB 会副会長 疋田 巧(昭和 37 年化学卒) 水野俊彦先生、米寿を迎えられ本当におめでとうご ざいます。 覚えていらっしゃいますか、昭和51年、先生のリ ードの元、優秀な部員にも恵まれ、久々に柏の車検合 格、道々、多くの賞賛とトラブルに見舞われながら九 州一周を強行したことを。残念ながら、これが柏最後 の長距離になりましたね。 先生は、我が生涯の師です。生きて行くために必要 な多くの事柄を教えていただきましたが、完全には消 化し切れていない不肖の弟子です。これからもご指導 の程よろしくお願い申し上げます。 「知恵を出して、決して諦めない」 金丸允昭(昭和 38 年機械卒) 私は昭和 34 年全国的に有名だった東工大の自動車部に入るため九州の高校から入学した。 当時は自 動車に触れることが憧れであり、初めて部室に行くと、柏、フォア、ビュイック、梓、それに先輩のフ ライングフェザー等が博物館のように並んでおりわくわくした覚えがある。 2年生の時の四国遠征で、車が砂利道で崖に激突する事故が起きた。 フェンダーがつぶれ、ラジエ ータがエンジンに喰いこみ、フレームが曲がるほどだった。 あの手この手で走行可能にし、前輪の最 終調整に入った。 私が「しまったトーインゲージを持って来ませんでした」と云うと、水野先生はニ ッコリして「向こうの竹藪から枝っぷりのいいのを取ってきたら」と云われた。 偶然にあった細めの 竹の小薮から真直ぐのものを選んで手ごろな長さにし、チョーク代わりに石でタイヤに傷をつけ、見事 にアライメント調整を完了した。 これは 50 年たった今も鮮やかに記憶している。 また柏のファンが飛んでラジエータを傷付け、応急修理しても水がジャジャ漏れの時、またあるとき は燃料ポンプのダイヤフラムが破れスペアを持ってなかった時、いずれも4L 缶のサイフォン作用でな んとか目的地に到達することができた。 オープン状態で助手席に立ち、フロントガラス越しに微妙に 缶を上げ下げするのもおつなものだった。 これらは水野流のほんの一部である。 私は自動車部時代にたくさんの失敗をした。 耐久レースでダッジのオイルパンを割ったり、全学祭 りで浮かないエアカー作ったり、真冬に先生のモーリスのシリンダブロックを凍らせて割ってしまった り(改めてご免なさい)など。 しかし先生から励まされることはあっても叱られることはなかった。 先生から教わったことは「知恵を出して、決して諦めない」ということ。 私は卒業後、航空機の製 造関係に進み、ニッチな分野ではあるが、日本初、日本一に挑戦し明快な答えの無い問題に遭遇するこ とが多かった。 しかし、今までなんとかやれて来たのは水野流いや水野魂のお蔭である。 このような モー研 OB は数多くいるのではなかろうか。 水野先生の教えに深く感謝し、今後ますますご健康で、さらに人生を楽しまれるよう心からお祈りし ます。 -9- 水野先生米寿のお祝いに寄せて OB 会副会長 神本武征(昭和 38 年機械卒) 大学に残った関係で水野先生には学生時代から 1999 年の定年まで実に 40 年間指導していただきまし た.監督時代には毎夏,遠征に出発する際に本館前に整列して学生とともに先生から訓示を受けました. 安全に車を運行するだけでなく体調を管理して楽しく旅を続けるよう適切かつ教育的なお話を聞き,緊 張して早朝の大岡山を出発したものです. 部においては常に率先垂範で学生を指導され,私もその姿勢を見習い教育・研究指導では常に現場主 義を貫いています.先生の行動を拝見しますと先生のモットーは積極的であることと敢闘精神にあると 思います.部で先生の薫陶を得た我々は当然のことのようにこの精神を受け継いでいるのではないでし ょうか. 米寿のお祝いでは最後に健康について話されました.「具合が悪いと思ったら早めに,積極的に診断 を受け,納得の行く治療を受けるように.そうすれば必ず直るよ」.病に対しても積極果敢に立ち向か う姿勢はロートルの我々を大いに勇気付けるものでした. 水野先生有難うございました 篠田勝郎(昭和 38 年化工卒) 水野先生には自動車部員として又先生の物理化学実験第一の授業を受ける学生として、技術者として の基礎を叩き込んで頂きました。二年生で最初に参加した 1960 年の四国遠征での自損事故時、大破し た車に生き生きした表情で潜り込まれ、部員を叱咤激励しながら動けるようにされたことを指導者のあ るべき姿として憧れを持って見つめたものです。その後自分達が部を運営するようになってからも整備 や計測実験、全学祭の展示などで直接多くの指導を受けました。今にして思えば、先生のご指導は常に 技術の背景、本質を考えながら実践させるもので最高の技術者教育でした。卒業後私は、化学メーカー に勤務し開発、生産に携わりましたが、自動車部の経験は分野を超えて技術屋としてのバックボーンで した。退役生活に入った今、人生を振り返り水野先生のような指導者に恵まれたことはつくづく幸せで あったと思います。今後は先生のように若々しい米寿を目指します。 水野先生米寿のお祝い 福井正夫(昭和 40 年化工卒) 水野先生、米寿のお祝いを申し上げます。 入学時に迷ったすえ自動車部を選んだことが、私の人生を方向づけました。在学中は毎日を部室で過 ごし学業成績は低空飛行、希望者が少ない米系石油会社に就職。会社では仕事にも恵まれ、充実した毎 日を過ごすことができました。水野先生ご指導のもとモー研生活で得られた経験が直接、間接に役立っ たからだとたいへん感謝しております。 先生は当時モーリスで通勤され、長身で気さくなお人柄、お話し中にはユニークなアイデアがポンポ ン飛び出しました。真冬の寒風吹きすさぶ中、我々が部車の整備で油まみれの時、先生は夜遅くまで指 導して下さいました。また、運転技術向上のための徹夜ドライブにも気安くつき合ってくださり、本職 の方はこれで大丈夫かなと心配したりしたものです! これからもますますお元気で長生きされますよう、心からお祈りいたします。 - 10 - 水野先生へのお祝いの言葉 小笠原勝夫(昭和 40 年機械卒) 先生、米寿を健康で迎えられ、お目出度ございます。我々生徒の方が頭が白くなったり、はげたりし ているのに先生の頭は黒髪が房々しておりなによりも健康で元気なご様子に安心しました。祝賀会で先 生が思い出のお話をされましたが、その中で和田小六先生のお話をされたときは、「ドキリ」としまし た。実は私が東工大を受験しようと決める切っ掛けになったのが、蛍雪時代に載っていた和田先生の「東 京工業大学に志される学生諸君へ」という記事でした。当時まだ中学生でしたが自分の将来について漠 然と模索している時でした。ちょうど兄が大学受験で蛍雪時代を取っていたので見せてもらった中に記 事が載っていました。先日の祝賀会で和田先生のお話を聞いてもう一度蛍雪時代の記事を読んでみたく なり国会図書館に行って調べて来ました。和田先生の記事は昭和 25 年の 10 月号に載っていました。特 に印象に残る言葉として次のような文章がありました。『技術者が自分の専門の技術を駆使して真に人 間に幸福をもたらし、その政治的、文化的発展の推進力となるためには、技術者はもっと深いヒューマ ニズムの基礎の上に立って物ごとを考え、深い視野をもち、高い教養を身につけて行動するようになら なければ、到底その重き責任を正しく果たすことは出来ない。』この文章は 60 年前の文章ですが 21 世 紀の現代においても生きている言葉であると思いました。 先生、健康に留意され、長生きをして下さい。 平成 21 年度 OB 会ドライブ報告 金井 悟(平成 13 年化工卒) 今年度の OB 会ドライブは静岡県浜松市、浜名湖のほとりの「かんぽの宿 浜名湖三ケ日」において 平成 21 年 8 月 29・30 日に行われました。 今年度は現地の宿において現役部員の夏合宿と合流する形としたため、午後になると現役部員の到着 に前後し、参加者が三々五々集い始め、最終的には学内 14 名、OB 参加者 19 名の総勢 33 名となりま した。宿泊先の「かんぽの宿 浜名湖三ケ日」は、浜名湖を見下ろせる別荘地の中心部にあり、当日は 天気もよく、浜名湖も背後の山々も見渡すことができました。 夕刻の懇親会では、現役部員による部の活動報告、参加者同士の近況報告、水野先生の講話など、懇 親会場の時間内では収まらず、その後も宿泊室に集まって遅くまで談義が続きました。 翌日は朝食後、宿の入り口において集合写真の撮影、愛車の乗り比べ、歓談などの後、参加OBは合 宿を続ける現役部員と別れ、それぞれの帰途につきました。 OB 会ドライブは、夏の後半に行く自動車ならではの旅という形式で、長い間続けられてきました。 しかし、時代の移ろいに伴い、この形式は必ずしも好適とはいえなくなってきたとも感じられるように なりました。時期、目的地、実施方法など、より多くの方々が参加できるよう議論していきたいと思い ます。 - 11 - 平成 21 年度現役活動報告(GT 班) 主将 平井 啓太 本年度は工場移転問題に伴う整理片付けに活動時間が多く割かれ、報告できる活動内容は少ないです が、活動内容では昨年度までを上回る成績を残せました。 安全運転教習・免許取得活動 夏休み中までに1年生全員が免許を取得(10 年ぶりの快挙)し、全員が夏合宿・遠征に参加し ました。一般道の安全運転から、モータースポーツの基礎までを実習しました。 耐久レース・モータースポーツ練習活動 「エビスサーキット スーパー耐久レース(6h)」に参戦し、40 台中 22 位の成績でした。出 場チームのほとんどが社会人である厳しい戦いですが、順調に順位を伸ばしています。次年度 は上位に食い込むことを目標とします。 また、全員がモータースポーツライセンスを取得し、最来年度は公式チーム化およびJAF 公式レースに参戦することを目標に邁進していきます。 工場・練習コース移転問題 ※ 別紙にてお届けいたします。 部車バス「ローザ」の復活 ※ 別紙にてお届けいたします。 今年度もOBの皆様に多大なご支援を戴きました。この場を借りて御礼申し上げます。 [雑感・自動車の将来と人類] 加治屋貞夫(トヨタ社友)(昭和 32 年機械卒) 1888 年ベンツが最初にカタログを作って市販 車を売り出した時、ドイツ国内では売れずに最初 の一台目を買ってくれたのはベンツから定置式 エンジンを買ってくれていたパリの Emile Roger だったと言う。(1) それから 20 年、1908 年は米国の自動車産業夜 明けの年と言われているそうだ。この頃米国では 自動車会社が乱立していたが 1908 年にデュラン トがGMを設立、ビュイック、オールズ、オーク ランド、キャディラックなどを次々と傘下に収め て年産百万台の時代の到来を予見、突拍子もない ことを思いつく人物だと言われたとのこと。一方 でフォードがT型車を発表し、その予見の手段を 見出した年である。そしてその通りになった。(2) 以来、米国の自動車が世界を席巻して 100 年、 ご承知の通りGMは凋落しハイブリッド車の時 代となった。 - 12 - 自動車は石油と二人三脚で人々に安価で快適な 移動手段を提供する努力を続けることで発展し てきたのは衆目の一致するところであろう。しか るに、万年 30 年と言われてきた石油資源の将来 は、近年の石油掘削技術の長足の進歩、油田探索 技術の革新的進展にも拘わらず地球地下に大規 模 油 田 は 無く な っ て 来て い る と のA S P O 、 Colin Campbell らの予測が現実になってくると 考えられる。(3) 石油だけでなく人類が快適な生活をおくって いる生活品すべてが地下資源に頼っていると言 っても過言ではない。食糧問題を含め、増えすぎ て、更にまだ増加すると予測される世界人口、ま た、今後さらに増加すると考えられる世界の貧困 層の都市集中とその自然増を今後どうやって賄 って行くのか大きすぎる人類の課題である。(4) 18 世紀の産業革命によって急速に増加し始め た人口は 1950 年 25 億人に達した。飢餓問題を解 決するために、第二次大戦後、のちに「緑の革命 」と呼ばれるようになった大食糧増産計画は肥料 と灌漑、農業技術で耕地単位面積当たりの収穫を 飛躍的に増大することに成功する。 そして、その立役者 Norman Ernest Borlaug ら は 1970 年のノーベル平和賞を受賞してマルサス の人口論は誤っていたともいわれた。 「緑の革命」は米国の「食糧を制するものは世 界を制す」に始まるとも、西側諸国が多くの飢餓 人口の共産化を恐れたために始まったともいわ れている。 「緑の革命」は大成功を収めたが、現実を見る と皮肉にも増産された食糧は貧困層の自然増と なって途上国の貧困層の人口を増大させること になってしまった。(5) 2008 年には 67 億人になり、2050 年には 92 億人 になると予想されている。(6) 現在、再度の「緑の革命」が必要だといわれて いるがこれは大変困難であり、異常といえる人口 増加(図 1)で、近い将来の食糧危機が心配されて いる。 東京工大の世界的に著名な地球惑星科学者、丸 山茂徳教授の「地球温暖化対策が日本を滅ぼす」 も、その主張に頷けるところがある。 ご承知の通り現在の地球は物質的には孤立系 である。地球外から入って来る物質はごくたまに 落下してくる隕石程度であり、出て行くものはす でに地球の引力に打ち勝ってほぼ出て行ってし まった軽量分子と人工の宇宙探査衛星程度であ る。地球の物質資源は何億年もかかって蓄積され たものであり、近代文明と称して蓄積された地下 資源を現在のように異常な早さで人類が消費す ればいずれ底をつくのは自明の理であろう。 地下資源に頼らなければどうするのか。地球は エネルギー的には開放系であり、太陽エネルギー を得てCO2とH2Oから植物を得、これを動物 が食し寿命が来ればCO2に戻って行くという 地球システムのCO2循環の中に人類もある。い わゆるバイオマスを人類のために有効に利用す る革新的技術が具現されることを望むものであ る。近い将来、バイオマスからのエネルギー資源 、物質資源を安価に大量に創生出来るような、現 在の知見では知られていない超革新的技術が現 われることを心から期待する。 現在は金属、非金属、有機化学、無機化学など と細分化されているがこれらは 18 世紀∼19 世紀 - 13 - の古典物理学により便宜的に分類された感があ る。20 世紀に発展した近代物理学を超えて、21 世紀においてはこれらが混然一体となって金属 より強靭な物質資源、石油のように密度の高いエ ネルギー・化学物質資源などが創生出来るような 超近代物理学が現われてくることを期待する。 現在、IPCCの報告書に端を発して人為起源 のCO2削減が叫ばれているが、私にはこれはナ ンセンスと思える。100 年はおろか数 10 年もす れば人類は現在の延長線上での生活と決別しな ければならない時がいずれやってくるであろう。 人類がCO2を排出しようとしても元になる化 石資源が底をついてくる。IPCCは石油、ター ルサンドなどの重質油は勿論、大量にある石炭も 今後 100 年間使い続けるシナリオでの予測のよう だ。石炭の使用を制限すればCO2はIPCCの 報告書のようにはならないとの米国 NASA・ゴッ ダード研究所のペーパーが指摘している。(7) また、IPCC の GCM 計算予測結果による人為 起源 CO2 温暖化説には大きな誤りがあるとの赤 祖父教授の論文(8)なども説得力があり、ご承知の 通り 21 世紀に入って地球気温は上昇していない ので何が本当か今後数年間の研究者の議論に注 目したい。 そこで自動車はどうなるのか。地球上に人類が 存在する限り door to door の利便性が高い移動手 段としての自動車は必要とされよう。WBCSD の 予測では 2050 年の世界の LDV 保有台数は 20 億 台となっている。(図 2) そのためには、エネルギー資源、物質資源を現 状のように地下に頼って浪費するのではなく、脱 浪費、超節約するとともに将来を見据えたバイオ マスをもとにしたエネルギー資源、物質資源で自 動車を構成する超革新的技術の開発が求められ てくるものと考える。 私のような古い世代の人間は、「安くて良いも のを大量に作ることは良いことだ」「利用出来る ものは徹底的に利用する」と、がむしゃらに働い てきて今日の日本があるが、果たしてそれは正解 だったのか。人類とは何か。何をしてきたのか。 現在の人類は、イースター島の住人が島の財産物 質であった樹木を切りつくし、利用してしまって 生活できなくなり滅んでしまった歴史を笑える 資格があるのか。(9) 宇宙の中のイースター島とも言える地球上で、 人類が出来るだけ長期間に亘って繁栄すること を願うこの頃である。 <参考> (1) 「ベンツ社史」The Annals of Mercedes-Benz Motor Vehicles and Engines, Second Edition 1961, P.38 (2) 「GMとともに」,A.P.スローン,Jr. ダイヤモンド社 1967, P.5∼ (3) http://www.peakoil.net/ → http://www.oilcrisis.com/campbell/ → http://www.netl.doe.gov/energy-analyses/pubs/Peaking%20of%20World%20Oil%20Production%20-%20Recent%20Fore casts%20-%20NETL%20Re.pdf (4) UNFPA 「世界人口白書」 2007 (5) 「限界を超えて」,メドウズほか、ダイヤモンド社、1992 年, P.49 (6) http://www.un.org/esa/population/publications/wpp2008/pressrelease.pdf (7) http://pubs.giss.nasa.gov/docs/2008/2008_Kharecha_Hansen.pdf (8) http://www.iarc.uaf.edu/highlights/2007/akasofu_3_07/Earth_recovering_from_LIA.pdf (9) 「海の環境100の危機」、東京大学海洋研究所、東京書籍、2006 年、P.172 図1 世界人口 (東京工大・丸山茂徳教授作成のスライドを借用) 図2 WBCSD の予測 http://www.wbcsd.org/web/publications/mobility/2030overview-jap.pdf - 14 - P.11 「東工大グローバル・ベンチャー・キャピタル・ファンド」構想の提言 (今がチャンスだ!東工大発世界的ベンチャーを育てよう) 東工大発ベンチャー企業を支援するベンチャ ー・キャピタル・ファンドの設置についての考察: 現在私はベンチャー・キャピタル・ファームであ る HVC グローバル・インベストメント株式会社 の CFO(チーフ・フィナンシャル・オフィサー兼、 チーフ・ファンド・オフィサー)として、ベンチ ャー企業の発掘、目利き、投資活動、投資先ベン チャー企業への経営支援などをしつつ、それらに 投資する新規ベンチャー・ファンドの設立準備も しているベンチャー・キャピタリストである。 日本は当たり前だが、天然資源がほとんどなく、 国土の面積も小さく、人口もほどほどの国である。 そのような国が戦後、奇跡の復興を経て、世界で 第 2 位の GDP の国(今年度、中国に抜かれるが) になったのは、ひとえに国民一人ひとりが、他国 を凌駕するだけの絶え間ない努力と新しいもの に対して挑戦をし続けてきたからである。 しかし、現在 2010 年の状況はどうであろうか? リーマンショック(実はリーマンショックは 1 つ の引き金であり、他にさまざまな理由がある)を 経て日本は、各種経済指標ランキングで主要先進 国の中で、下から数えた方が早いような状況とな っている。 科学技術立国といわれていた日本も、いつの間に か、分野によっては他国にお株を奪われつつあり、 金融、経済、サービス業、物作りなどさまざまな 分野において、暗闇の状態にある。 日本だけでなく、全世界が 2008 年から 2009 年 にかけて、大損害をこうむった。「リーマンショ ック」と言われているが、いわゆる不況の全世界 連鎖反応である。このように社会全体が不況に陥 った時はマーケット参加者全員が思い切り縮こ まって、何事に対してもチャレンジングな新しい 活動をしなくなるのが世の常である。また今回運 悪く失敗した人達はいわゆる「羹に懲りて膾を吹 く」状況に陥ってチャレ ンジ精神を失いかけてい る。 ただ、私はこの状況を「夜 明け前が一番暗い。」と見 れば良いと思っている。 要は、参加者みんなが「暗 い暗い」、と思っている時 - 15 - 秋山智紀(昭和 63 年電電卒) にこそ、行動し前に進むと日の出を一番に見るこ とができるのである。 今こそ日本が再度、トップランナーに返り咲くチ ャンスなのである。逆にここで行動を起こさなけ れば、一時期世界の海を席巻したのにもかかわら ず、現在は経済も非常に縮小してしまったスペイ ンのような国になって行くと容易に予想される。 まず科学技術立国日本へ再浮上するための現状 確認をしてみたい。新しい開発や研究にはなかな か予算がおりず、そのお金の流れを担当している 金融機関においてはリスクマネー(ベンチャー企 業など)への投資が抑制され、「みんなが投資し ないから、我が社も投資しない」という状況にな ってしまっている。 また、「ファンド」と名前を聞いただけで、法律 すれすれの行動をする一部の買収ファンドや、す でに司法の手に捕まってしまった一部日本人の ファンド、その他アングロサクソンなど一部の外 国人の行き過ぎたアクティビスト・ファンドと全 て一緒くたにしていわゆる「十把一絡げ」扱いを する風潮もある。 今の閉塞状況の日本に不可欠な、ベンチャー企業 や新興企業への支援をする我々ベンチャー・キャ ピタル・ファンドまでも同じような目で見る人も (六本木ヒルズ族がニュースでよく報道された 後は)非常に多い。 もともと日本は戦後、高度成長期のもと、企業内 でも、いろいろな新規ビジネスに十分挑戦できた し、頑張れば頑張っただけ努力が報われた。マー ケット全体が急激に発展・拡大していったので、 起業家精神を発揮できたし、いわゆるベンチャー 企業や、大企業をスピンアウトして何か新しいこ とに迅速に対応する必要性はあまり大きくなか った。 しかし、現在は大手企業も各種コストを削り、な かには、必要と思われる分野などへの投資までも 控えている状況になっている。もともと資金の出 し手である金融機関も元気があるところは非常 に少なく、企業にもそれら金融機関から資金が入 ってこないため、研究開発もマーケティング活動 もできず、結果的に新しい技術が発展せず、金融 機関へもリターンが戻ってこないという、いわゆ る悪循環に陥っている。 ただ、私はこのような時こそ、チャレンジ魂を鼓 舞して、新しい分野に踏み出すべきだと思ってい る。歴史的にみても、戦争のような何か動乱期の 時に新しく何かを始めた人間が将来的には、大成 功する確率が高いのである。そういう時こそ、小 回りの効く、大胆な意思決定ができ、経営判断の スピードが速いベンチャー企業が必要とされて いるのである。 太平洋の向こう側のアメリカではここ 10 年間を 見ても、Google, YouTube,アマゾン、などなど、 世界的に大成功しているベンチャー企業が多数 出ている。 私は 30 才の頃、マサチューセッツ工科大学(MIT) のビジネススクール(MBA)の修士課程に 2 年 間留学した。 東工大、MIT の両方の内部で生活 した上での正直な感想は、学生や教授の質が全体 的にそんなに違っているわけではないというこ とである。 では MIT やスタンフォード大学などに比較して、 なぜこのように大学発で、世界に通用するベンチ ャ ー 企 業 が東 工 大 か ら出 て こ な いの で あ ろ う か? 日本人のコンサバティブなマインドもあるだろ うし、いわゆる日本社会全体の「村」社会的な文 化背景もあるかもしれない。いろいろ事例を分析 して発見した 1 つの答えは、東工大の研究や技術、 東工大発のベンチャーに投資し、具体的な経済・ 経営支援をするベンチャー・キャピタル・ファン ド(VC ファンド)が我々東工大には存在してい ないことである。もちろん TLO や産学連携推進 本部はすでに存在し、かなり有意義に動いている。 ここでさらに①個別具体的な資金援助や、②経営 者の派遣、③他大学あるいは他国の技術やベンチ ャーとのマッチングなどを行うことのできる東 工大 VC ファンドがあれば具体的、かつグローバ ルな活動・発展ができる。 一般的に大学は、大企業ではあまり手が出しづら い基礎研究を携わっている場合が多く、結果的に 比較的足の長い研究になってしまうことが多い と言われる。もちろん、そのような研究のみにば かり投資しては、ファンド自体が立ち行かなくな ってもともこもないが、VC ファンド全体のある 一定額か、一定割合を東工大関連の技術、大学発 ベンチャーに投資できれば、私のもう 1 つの母校 である MIT や、シリコンバレーのベンチャーの - 16 - 中心になっているスタンフォード大学のように 世界に通用するベンチャー企業の育成ができる はずである。 足の長い研究と言っても、資金を投入し、経営を 内部から手伝い、外の技術と組み合わせることに よって、日の目を見るタイミングを早めることも アメリカのシリコンバレーの状況を観察すると 十分可能である。 そうした成功事例がいくつか出てくれば、それに よって、世界から高い評価がなされ、大学そのも のに活気が出てくる。結果的に更にレベルの高い 教員、学生が集まる。その中でよりお互いが切磋 琢磨し、更なる高みに上っていく、という好循環 が生まれる。 提案:東工大グローバル・ベンチャー・キャピタ ル(VC)ファンドの設立 では具体的にはどのようにすればいいのであろ うか。 1 つの解決策が例えば、 「東工大ベンチャー・キャ ピタル・ファンド」であろう。 このような「東工大(Tokyo Tech)」の名前がつい たベンチャー・ビジネスに投資できるベンチャ ー・キャピタル・ファンドが実現できれば、それ なりの資金をファンドに集めることができるは ずである。 東大の事例 この不況下においても、東京大学エッジキャピタ ルという東大公認の VC ファンドが 2 号ファンド の資金調達に乗り出し、2010 年 1 月現在で約 70 億の資金が集まり、6 月までに 100 億円を目指し て募集を続けていくとの発表をしている。 日本の他大学の事例 実はこの分野では日本でも他大学では、すでにい くつか実例があり、上述した東大に加え、京大、 東北大、阪大、早稲田大、同志社、北海道大など、 それぞれ、設立形態の相違や、ファンドの規模の 大小、実際にうまくいっているところといってい ないところもあるものの、それぞれ、大学と密接 に関係したベンチャー・キャピタル・ファンドが 存在している。 海外の事例 海外に目を向けるとかなり活発な事例がある。 先進国はもちろん、新興国ですぐ隣国の中国の精 華大学や、北京大学においても、それぞれの大学 にベンチャー・キャピタル・ファンドが設立され、 そこから大学内や、大学発ベンチャー企業などに 資金やノウハウなどを供給するシステムができ ている。 ものが望ましい。このような「東工大グローバ ル・ベンチャー・キャピタル」というものの構想 が許されるのであれば、東工大 OB のベンチャ ー・キャピタリストとして、是非力になりたいも のである。 電気自動車(EV)の将来に関しての考察: 国内だけでなくグローバル展開へ 私は、前述したように、ここは千載一遇のチャン スだと思っているので、東工大の名前をつけた、 例えば「東工大グローバル・ベンチャー・キャピ タル」というような VC ファンドを設立すべきで はないかと思っている。また、これは日本国内の 大学ファンドでは前例がほとんどないが、ベンチ ャー・キャピタル・ファンドを設立するにあたり、 国内だけでなく海外の投資家などからも資金出 資を募る努力もしてみるべきだと思う。 ノウハウから VC ファンド設立への具体的方策 もちろん、そのような VC ファンドの設立、運営、 投資先ベンチャー企業の目利き、経営支援など、 ノウハウは現在の東工大の内部には現在存在し ないであろう。もし本格的に具現化出来るのであ れば私は東工大の卒業生の 1 人として、私のベン チャー・キャピタル会社から自分自身やその他の 人材の派遣も含めて、お手伝いする事が出来ると 思われるし、むしろ、積極的に東工大の発展に貢 献出来ればと思っている。 最近感じること 最近、国内外のいろいろな大学や、研究所を回っ て感じるのであるが、非常に将来性のある、興味 深い技術やアイディアを持っているところが多 い。ただ、日本国内においては資金不足や経営人 材の不足、など、かならず何かが不足していると の声を聞くことも多い。研究内容についても、他 大学や、どこかの企業の技術と組めば、補完的か つ相乗効果が見込まれる場合があるにもかかわ らず、せっかくのチャンスを見つけられないケー スも多々見かける。 VC ファンド設立に OB としての支援 理想的な「東工大グローバル・ベンチャー・キャ ピタル」は資金調達や、共同研究の相手先、経営 マネジメントなどの人材を含めて、日本国内だけ でなく、海外の投資家、海外の研究機関とも連携 しつつ東工大発ベンチャーを応援できるような - 17 - このところ、ベンチャー・キャピタリストとして 活動をしている中で全世界的に注目を浴びてい る電気自動車(EV)の話題を多く耳にする。 電気自動車(EV)については、次世代エネルギ ーのあり方、環境問題、社会インフラ全体の再構 築も含めて、移動手段としての車だけの話にとど まらないのであるが、ここは、我々東工大自動車 部の最大の関心事である自動車の将来像につい てベンチャー・キャピタリストからの分析を少々 行ってみたい。(私は自動車設計のプロではない ので、細かい技術論の間違いはご容赦下さい。 ) 私も、自動車部員として、山奥のダート路で練習 し、サーキットを走って、内燃機関自動車、いわ ゆるガソリンエンジンの車をキャブの時代から いじってきたので、個人的にガソリンエンジンの 自動車に非常に強い思い入れがある。ただし、冷 静に移動手段、環境問題、社会全体に対する影響 などから観察すると電気自動車は移動手段の範 疇を越える、かなり有望なプロダクトである。 まずエネルギー源の問題から。太陽と地球の直径 の比率は約 109 倍。つまり体積比に直すと、約 130 万倍。太陽ネネルギーの元は、乱暴な言い方 をすれば、地球の 130 万倍ある、ということにな る。 一方、内燃機関の燃料は太陽の 130 万分の 1 の体積しかない地球の地下にある原油である。 試算によれば、地球に降り注ぐ太陽エネルギーの 1 時間分で、現在の全世界のすべてのエネルギー を賄えるとのこと。また、わざわざ地下に貯蔵さ れている、CO2 を地球の表面に人為的に放出する こともなくなる。 ところで、私は、ベンチャー・キャピタリストに なる前は、長期にわたり外資系の投資銀行で働い てきたのであるが、そのころから仲が良くなり、 付き合っている中東のビジネスマン達とまさに 意気投合する考え方を紹介したい。 「馬車の時代から鉄道輸送時代に変わったのは、 馬が枯渇したわけではない。」 よく原油は後数十年で枯渇するといろいろなと ころで言われている。ただ、石油が枯渇しなくと も、何らかのテクノロジーの革新、いわゆるイノ ベーションの発見があれば、内燃機関で走る車か ら何らかの違う「移動手段」ができるのではない か、ということである。 時刻が不正確で、よく壊れ、数年に一度はわざわ ざ高いお金を払ってメンテナンスをしなければ ならない、というどこをとっても、時計本来の機 能からすると、良い点は1つもないスイス製の腕 時計を趣味として保有するのと同じようなイメ ージであろう。 確かに、石器時代が終わったのも、別に「石」が 枯渇したわけではない。「鉄」の製造方法が発明 されたからである。 ただし、一部のガソリン車が生き残るということ も法律で規制が入らない、という前提条件である。 鳩山首相が昨年 2009 年 9 月にニューヨークで開 催された国連の気候変動サミットで、2020 年ま でに 1990 年対比で CO2 を 25%削減を目指す、 ということが物議をかもしている。 今回も原油が枯渇しようがしまいが、なんらかの 技術革新があれば、100 年続いてきた内燃機関を 使った、「燃やす文明」は次のステージに移る可 能性が高い。 次に車の設計そのものに対する考察である。 私はいまだに、車にロールゲージ、バケットシー ト、4 点式シートベルトを入れ、その他、エンジ ン、デフ、トランスミッション、足回り、ボディ 補強などをした車に乗っている。そのフル改造し た車で、つい最近までサーキットで走り回ってい たので、ものすごく、内燃機関エンジンを基盤と した現在のガソリン車には魅力と思い入れを感 じている。 しかし、ひとたび冷静になり、電気自動車とガソ リンエンジンを比較してみると、コストと充電の インフラの問題を除いて、電気自動車にアドバン テージが上がると分析せざるを得ない。 CO2 排出がない、設計のシンプルさ、部品点数の 少なさ、軽量化、低騒音。モーターが回り始める 瞬間、つまりゼロ回転から最大値が出るトルク特 性、ギア、トランスミッションが不要、etc. また、内燃機関の場合、エンジン内部で常に爆発 を起こしているので、莫大な熱が発生する。この 熱を再度冷却して、熱エネルギーを大気中に発散 させる、という無駄なこともモーターの場合なく なる。 つまり、現在は電池のコストが下がらず、また電 池そのものの性能がまだ発展途上なので、まだ一 気には変わることはないとは思うが、将来的には 電気自動車(EV)はガソリンエンジン車に取っ て代わることが予想される。 我々、自動車 OB のように一種、マニアックな気 持ちで内燃機関である車を趣味の対象として保 有し続けることは十分ありえる。腕時計の世界で、 - 18 - 実は、その前の 2009 年 7 月にイタリアの都市ラ クイラで開催された G8 サミットで、2050 年まで に先進国全体で温暖化ガスを 80%削減する、とい うすさまじい合意事項がなされていることを忘 れてはいけない。いったいどうやってこの数字を 実現化するのであろうか? 現在、車から排出される温暖化ガスは社会全体の 約 20%を占めている。この事実と、2050 年まで に温暖化ガスを 80%削減するということを真剣 に考えると、法律で内燃機関エンジンの車が完全 に禁止される可能性もある。 これらのことを総合的に考えると、私を始めとす る内燃機関車のマニアでも、EV の到来というの は認めざるを得ないと予想する他なさそうであ る。 次にこれらの電気自動車(EV)の供給元であ るメーカーについての考察である。自動車王国の アメリカではハリウッドの映画スターであるレ オナルド・ディカプリオやジョージ・クルーニー、 その他、マット・デイモン、ブラッド・ピットな ど映画スターや、元映画スターのアーノルド・シ ュワルツェネッガー・カリフォルニア州知事、ま た Google 共同創業者のセルゲイ・ブリン氏、ラ リー・ペイジ氏など著名人達がすでに購入し、運 転しているテスラ・モーターズ社をはじめとして、 フィスカー・オートモーティブ社、アプテラ・モ ーターズ社など、電気自動車のベンチャー企業が 数多く存在する。 また中国では携帯用のバッテリーメーカーが 破綻した中国の国営自動車メーカーを買収して、 創立した BYD オート社がある。また、インドの タタ自動車はインディカ EV を発売予定であるし、 ノルウェーのシンク社などベンチャー企業が電 気自動車に次々と電機自動車を売り出し始めて いる。 少ない。ミッションオイル、冷却水の交換も不要 である。 結局、アメリカを始めとして、多くの国で EV に 関してベンチャー企業がその開発を担っている。 これらの技術を使い、ロータスカーズ社がロータ ス・エリーゼの車体をもとにした車体設計でノル ウェーの会社によって設計され、組み立てはロー タス社で行われている。 ところで、これらの海外の車のベンチャー企業は どれもものすごく若い。例えばテスラ・モーター ズ社の創業はなんと 2003 年である。創立後 5 年 後の 2008 年にはスーパースポーツ電気自動車 「ロードスター」の発売にこぎつけている。 テスラ・モーターズの名前は交流発電機(オルタ ネータ)を発明したニコラ・テスラに由来してい る。この交流発電機はその後、ウェスティングハ ウス・エレクトリック社に採用され、直流発電を 提唱していたエジソン社に競い勝った歴史があ る。というわけでテスラ・モーターズ社は他に例 のあまりない、三相交流誘導モーターを採用して いる。(現在のほとんどの電気自動車は永久磁石 同期型モーターを採用。 ) そもそもこのテスラ・モーターズ社の実質創業者 の 1 人であるイーロン・マスク氏は、ペイパル (PayPal)社の共同設立者であり、自動車会社経営 としてはほぼ素人と見なされていた。 ちなみに PayPal 社はオンライン決済サービス会 社であり、eBay 社は(日本ではヤフーが独占状 態になっているが)、世界最大のネットオークシ ョンサイトを提供しているもともとアメリカの ベンチャー企業である。 イーロン・マスク氏は自ら創業した PayPal 社で 社長をしていたが、そのペイパル社をイーベイ (eBay)社に売却した。その個人資金のうち 7000 万ドル(1 ドル 100 円換算で、約 70 億円)を創 業時のテスラ・モーターズ社に投資したのである。 しかし、素人ならではの斬新でフレキシブルな発 想で、ものすごい研究・開発スピード感で同社の スーパースポーツ EV,「ロードスター」の発売に こぎつけた。 テスラ・モーターズ社のスーパースポーツ電気自 動車「ロードスター」の特徴としては、ガソリン エンジン車に比較してメンテナンスが極めて少 ないことが上げられる。当然であるが、エンジン のオイル交換は不要。また現在トヨタ自動車が北 米で問題になってはいるが、回生ブレーキを採用 しているため、ブレーキのメンテナンスも非常に - 19 - バッテリーは日本製で、もともとパソコン用のも のを流用している。ここは賛否両論あるところだ が、日本のように車専用のバッテリーを開発した のではない。確かに初期のころ、車専用に開発し た電池ではないため、いろいろと問題が発生した が、結果的に車専用に開発したリチウム電池に比 べ、非常に低価格な電池を実現している。 日本でも、2009 年 10 月にパナソニックが PC 用 に使用されている 18650 型リチウム電池(直径 18mm、長さ 65mm の 3.7V の電池)を 140 個使 って構成される、1.5kWh タイプの電池モジュー ルを発表したことを見ても、テスラモーターの考 え方は、そんなに外れていたとも思えない。 結局、テスラモーターの EV「ロードスター」は 自動車業界の専門家からすると、いろいろなパー ツを寄せ集めてきて組み立てた実物大のプラモ デルでしかないが、一方で世界中から一番優れて いるものを自由な発想で調達してきて非常に最 高性能な車を作り上げたともいえる。 航続距離を稼ぐため、ものすごく重いリチウム電 池を積んでいるが、0−時速 60 マイルの加速は初 期型でも 3.9 秒と、ポルシェを凌駕している。車 体価格は確かに 1,000 万円と高いが、その航続距 離はなんと 390kmとなっている。 見た目もスーパースポーツカーの風貌になって おり、現在のところ、注文が殺到してこの価格は 北米の中では、受け入れられている。そのため値 段も含め強気の販売戦略をとっていることから も、1 台あたりかなりの利益率になっていると予 想できる。 アメリカでは税制優遇措置はあるものの日本の ように、電気自動車に対する直接的な政府の補助 金制度は存在せず、1 台当たり 1,000 万円という 決して安くない値段でもここまで売れるという のは、見事な販売・マーケティング戦略も無視で きない。このあたりは、自動車作りは素人集団で あると揶揄されていたテスラモーターズである が、マーケティング戦略は超一流である。 顧問をされていたのが、現在一橋 大学のビジネススクールの大学 院の学長をされている竹内広高 教授であった。(今年の 3 月で一 橋大学を退官、4 月からはハーバ ード・ビジネス・スクールに復帰 して、教職につくとのことであ る。) 結局そのアルバイトがきっか けになり、その後、修士課程を卒 業するまで、約 2 年間にわたり、 マッキンゼーでアルバイトをす ることになるのであるが、同じ時 期に東工大と一橋大学の交換授 業が実験的な試みとして始まっ た。 単純に比較するのは少々乱暴ではあるが、以上が 自動車王国アメリカで注文が殺到しているテス ラ・モーターズ社の「ロードスター」の評価であ る。 テスラ・モーターズはパラレル型ハイブリッド車 も、シリーズ型ハイブリッド車などの、どちらの ハイブリッド車も採用せず、いきなり電気自動車 そのものに参入してきた。やはりしばらくはハイ ブリッド車が優勢かもしれないが、いずれ技術革 新によって、コストが落とせるようになれば、こ のような電気自動車が徐々に優勢になっていく のであろう。 東工大卒業後、投資銀行マンを経て、ベンチャ ー・キャピタリストに至るまでの軌跡: ここで、私の東工大卒業後のキャリアを簡単に 述べたい。私は第 5 類の電気電子工学科卒業後、 同じ研究室で修士課程に進んだ。その修士の 1 年 時に偶然、マッキンゼーという世界的に有名な経 営コンサルタント会社でアルバイトをした。今、 振り返ればこの偶然出会い、非常に高い倍率を運 よくパスしたこのアルバイトが私のキャリアを 変えたと言える。 日本国内より、海外で有名である大前研一氏 (彼もまた、東工大の原子力の修士の卒業である。 その後、MIT で原子力の博士号を取得。)がまだ マッキンゼーの東京の責任者をしていた時期で、 経営コンサルタントという職業が特に文系の大 学生に非常に人気があった時期である。 その私のアルバイト先であるマッキンゼーで、 - 20 - 私はマッキンゼーのアルバイトで、いわゆる経 営、とか経済というものに初めて触れて、強く興 味を持っていたこともあり、その第 1 期の交換授 業を受講した。当時、一橋大学の経営学科での花 形の教授達の話を聞くことができた。初回コース ということもあり、東工大、一橋大学ともに、か なり気合が入っていたらしく、一橋大学の名物教 授のエッセンスを凝縮して受講できたのは、非常 に幸運だったといえる。 その当時の教授陣として、今井教授、榊原教授 などそうそうたるメンバーが揃っていたが、竹内 教授もその教授陣の一人として、東工大キャンパ スに教えに来られていた。 竹内教授に授業後に押しかけ、私がマッキンゼ ーでアルバイトをしているということをきっか けにして、ランチや夕食をご一緒させていただけ るようになった。 その大岡山駅前でのランチの席で竹内先生か ら言われたコメントがきっかけになり、私は技術 者のキャリアでなく、金融の世界に脚を踏み込ん だのである。 「今、アメリカでは、理系から NASA のロケッ トサイエンティストになり、MBA(経営学の大学 院)を経て、ウォールストリートの投資銀行に勤 めるのがゴールデンロードだ。」 実際にはここまで単純なコメントではなかっ たのではないかと思うが、当時まだ車と電気マニ アだった私の頭に、なぜか強く記憶された一言で あった。 個人的にベンチャー企業への投資をしていた こともあり、私が約 20 年にわたって在籍してい た投資銀行業界から、ベンチャーキャピタル業界 に足を踏み入れた時、すでに竹内先生は一ツ橋大 学の経営大学院の学長をされていた。その竹内先 生に挨拶に行った時にその話をしたところ、先生 は笑っていたが、思い返せば、ちょうどそのコメ ントをくださった当時の竹内教授の年齢に現在 私も追いついた。 東工大の電気電子の修士課程を修了後、1990 年山一證券株式会社入社。引受部門にて上場企業 の株式・債券による資金調達全般を担当。日本国 内の株価は低迷を始めていたが、まだまだ、ジャ パンマネーがヨーロッパを席巻していた時代で、 日本の大手 4 証券会社がリーグテーブル(投資銀 行、証券会社の世界での順位表)で上位 4 社を独 占していた時期である。私がその後に留学した MIT の経営大学院の教科書にもその日本の証券 大手4社が上位にあるリーグテーブルが掲載さ れていたが、今ではまったく考えられない時代で あった。 今から考えると当時日本全体がお祭り騒ぎの 余韻が残っており、1989 年の年末に 3 万 8 千円 の日経平均株価をつけたのが最高値で、その後、 今日まで日本経済は坂道をゆっくりと降り続け ている。ただ、その頃はまだ日本の企業財務は「行 け行けどんどん」の余韻が残っており、一部はバ ブルの状況が続いていた。 私はそのような状況の下、猫の手も借りたいよ うな社内状況というのもあり、今の日系の会社で は考えられないような、大企業の担当を入社 2、3 年目ぐらいから任され、体力の続く限りといった 感じで朝から晩まで働き続けていた。 当時は体力の限界まで働く、と思いながら 日々生活を送っていたが、のちの、MIT のビジネ ススクールである Sloan 校での殺人的なスケジュ ールでの 2 年間や、アメリカの投資銀行メリルリ ンチ証券に入った時に比べれば私の働き方は、体 力的にはともかく、精神的にはまだまだ甘かった と言える。 その後、会社の収益に大きく貢献したこともあ り、入社以来声を上げ続けていた希望が通り、大 学院留学の社内選考に合格した。大学院を出た社 員がまた大学院に留学するケースはほとんど過 去に例がなく、非常にラッキーだった。 社内選考に通った後は、個別の留学先の大学院 に合格するかどうかは自分次第。英語は、あまり 学生時代に勉強してこなかったため、この時には 正直、東工大の受験時より精神的にはよっぽどハ ードに勉強した。 結果的に念願であった第 1 希望の米国のマサチ ューセッツ工科大学(MIT)に合格し、1995 年 から MIT スローンスクールで丸 2 年間勉強して、 MBA を取得(フィナンシャル・マネジメント専 攻)した。 MIT での 2 年間では「世界」を肌で感じた。そ れまでは、大学、就職先と、自分では一生懸命努 力をしてそれなりに自信も持っていたが、MIT で 会った世界中から集まって いたクラスメート達にはか なりの衝撃を受けた。 それまでの私の持ってい た、いわゆる頭の良い・成績 の良い同級生・同僚の像はい わゆる運動は苦手な秀才タ イプ。ところが、世界から MIT に集まっていたクラス メート達の中には、「パワー エリート」という名前がぴっ たりな、体力的にも、頭脳的 にも、押し出し的にもすさま じくパワフルな連中が何人 もいて、かなりの衝撃とカル チャーショックを受けた。 - 21 - 帰国後、山一證券シンジケート部に復帰。 そ の後、1997 年 11 月 22 日の金曜日の深夜に山一 證券が「自主廃業」と報道された。まだ当時、大 企業は破綻や、倒産などしないという世間の「常 識」があったため、ほとんどの社員が、何の心の 準備もなく、実感もなくニュースを見ていた、と いのが真相である。時々、あの破綻は予期してい た、という人がいるが、後付けの話である。 私も、のん気というか、良く言えば義理堅いと でも言うのであろうか、留学前に山一證券と交わ した、 「10 年は辞めません」、という取り交わしが あったため、山一證券がつぶれる数日前でさえメ リルリンチ証券や他の外資系投資銀行複数社か らのオファーを断っていた。 山一證券の破綻が決まった翌日の 3 連休中にそ のメリルリンチの幹部の人から「もう山一證券自 体がなくなったので、断る理由もなくなっただろ うからメリルリンチに来たら?」との連絡が入っ た。 結局、オファーをもらった外資系投資銀行 複数の中から、メリルリンチ証券会社に入った。 メリルリンチ証券では日本における円シンジ ケート責任者として山一時代に引き続き、居住者 (日本の企業)・非居住者(非日系企業、団体や 国そのもの)双方が絡むクロスボーダーの資金調 達業務・投資銀行業務に従事してきた。 結局山一證券からは 3 人がメリルリンチ証券 に移った。 (よく言われるメリルリンチが山一社員を 2000 人、引き受けたというのは、その後、メリ ルリンチ証券が日本の市場で個人相手のリテー ル専門に作ったメリルリンチ「日本」証券という 別会社であり、いわゆる法人担当をしている投資 銀行としてのメリルリンチ証券は別組織であっ た。) ロッパなど海外投資家やプレーヤーと会話がで きているのは、MIT 留学時にできた海外人脈に加 え、この投資銀行時代に構築した人脈がもとにな っている。 幸いにして、投資銀行でインベストメントバン カーをしていた時には国内外で比較的名前が売 れていたおかげで、ベンチャー・キャピタリスト に転進した時には、日本のメディアに加え、海外 メディアでも私の移籍記事を多数特集していた だき現在の活動にも役立っている。(添付してあ る日本語と英語の私の移籍記事がそれらの一部 である。) 私の自動車部での活動を振り返って: 私は 1984 年自動車部入部、当初ジープの車責と なり、最後は主務を務めた。ちなみに同期の主将 は岩崎克彦君、副将は赤塚満君である。 入部してすぐの頃だったと記憶しているが、練ラ リ(練習ラリー)で先輩達が運転する車のナビを やらされた。当然ながら、暗い助手席のナビラン プの下で、「コマ図」を読み、ドライバーの先輩 に伝えなければならない。 慣れていない、暗い助手席で、高速でワインディ ング・ロードや、ダート路をかっ飛んで行くラリ ー車のなかでのナビゲーションに車に慣れてい ない新入生が長時間耐えられるわけがない。 車酔いになって、どうしようもなくなると、車の 中に用意されてあるナイロン袋か、もしくは車を 急停止され、ドアをあけ、胃の中の物を吐きつつ ナビをやらされた。 また、それでも限界になると、真っ暗な山道の中 で、車から降ろされ、後部座席に乗っている補充 要員の同期の仲間が助手席に移りナビをさせら れた。 またその後、2005 年には UBS 証券にヘッドハ ントされ転社。 (あくまで、転「社」。会社は変わ っても、職業を変えていないので、転「職」では ない。)日本におけるシンジケート責任者として 世界各地のキャピタル・マーケット・チーム及び シンジケート拠点と共同しながら国内外の各種 資金調達、起債業務、プライシング、シンジケー ション、リスクマネジメントなどを担当した。 最後から部車のジープが、真っ暗な山道に捨てら れたそれらの 1 年生を一人ずつ拾いつつ、コース を走ってきた。今、考えるとかなり荒っぽい運営 である。車の運転そのものに慣れてなかった我々 にはその時の先輩達のすごいドライビング・テク ニックにはかなりの衝撃を受けた記憶がある。 現在、ベンチャーキャピタリストとして珍しく、 中東や、マレーシア、シンガポール、北米、ヨー 免許は今、移転問題で揺れているキャンパスの練 習コースと、二子玉川にあった(名前は忘れたが) 自動車教習場でお金を払って先輩達に助手席に 乗ってもらいながら練習した。 - 22 - (今週、大岡山キャンパスの部室に立ち寄ること があった。偶然であるが、工場と練習コース移転 のため、敷地内の木を切り倒すところにちょうど 居合わせた。部室にいた後輩に聞くと、なんと練 習コースは移設してもらえるかどうかわからな い、とのことである。) 東京の鮫洲試験場で仮免許を取り、当時実家が広 島から神戸に変わった関係で神戸で本免許を取 得した。どこの試験場でも同じであると思うが、 神戸の試験場では、「君は東京で、仮免許を取っ たのか。。。神戸は東京の試験のように甘くはない ぞ。。。」というようなことを言われたのが記憶に 残っている。 なんとか 1 年生の夏休み中には免許を取り、当然 ながら、車を買う資金もないので、当時の部車の、 日産 710 バイオレット、いすゞフローリアンなど に先輩に助手席に乗ってもらい、良く練習をしに 行った。 早い段階で、後に主将になる岩崎克彦君が車を購 入。私は彼の入手した TE71 カローラに良く同乗 させてもらい、夜な夜な箱根など山道に走りに行 った。肝心の練習できる山道に着く頃、車のオー ナーである岩崎君は眠くなってしまうので、結果 的に私が運転をかわりよく山道の練習をさせて もらった。 その後、私の車の歴史は、 トヨタ AE86 トレノ → トヨタ ハイラックス サーフ → 日産パルサーGTI-R → GM フ ァイヤーバード・フォーミュラ → スバル イ ンプレッサ STi 2 ドア限定モデル と遍歴した。 AE86 に関しては、雑誌の中古売買のコーナーに 掲載されていたところに連絡して、見に行ったと ころ、前年度の全日本ダートラのチャンピオンで ある大井選手がオーナーであった。 横に乗せてもらって、運転を見せてもらったが、 それまでも自動車部の先輩達のすごい(と思って いた)運転テクニックをかなり経験していた頃で あったが、その前年のダートラの最高峰クラスの 全日本チャンピオンであった大井氏の世界が違 う異次元の走りに、本当に目が点になり、即決で その車の購入を決めてしまった。 その異次元の走りのイメージだけが頭に残って - 23 - おり、実際は腕が全くついていけてない状況で、 大垂水峠から少し山道の入ったワインディング ロードで車ごと回転しながら谷に落ち、途中木に 引っかかり最後は逆さになって止まった経験が ある。 谷に落ちたのは、ちょうど 20 歳の成人式の前日 であり、翌日の世田谷区の成人式に出席できず、 部室の横の通称「ユートピア」スペースで、オー プンカーと化した、私の車のエンジンのシリンダ ーに(逆さになって止まったので、)溜まったエ ンジンオイルをチューブを使い、口で吸い出して いた。 次のハイラックス・サーフについては、一時期、 車からジェットスキー競技に転向し、この荷台付 きのピックアップトラックにジェットスキーを 積み込んで、ジェットスキーの公認戦に出場して いた頃のものである。ジェットスキー運搬用とし て、前述の AE86 を売却し、当時西ドイツのボッ シュ社からもらっていた奨学金を元手に加えて 買ったものである。ディーゼルエンジンであり、 ゆったりと海辺を走る分には非常に気持ちがい いのであるが、あまりに加速が遅いのに、閉口し た。 パルサーGTI-R は昭和 58 年卒業の日立に勤めて いた斉藤博之先輩が渡米するのにあたり、その間 に預かっていた車である。私も証券会社の激務で ジェットスキーの競技どころでなくなっていた こともあり、ジェットスキー競技から引退を考え ていた時期にちょうど重なったので、それから 2,3 年預かったものである。 その後、アメリカのボストンにある MIT のビジ ネススクールに留学し、アメリカの車、それも一 番アメ車らしいものに乗ってやろうと、シボレー のコルベットと同じ 5.8 リッターのお化けエンジ ンを積む、ファイヤーバードを 2 年間のリース契 約で入手した。 アメリカではデパートや、スーパーで商品を買う ように、ディーラーに展示してある車を買うのが 普通。日本のように、オーダーして納車待ちは普 通しない。 当時、すでにアメリカではほとんどの車がオート マ仕様。マニュアル車を探し、ボストン近郊を「ア メ車らしいマッチョ・スポーツカー」をいろいろ 探したのであるが、結果として、私が入手したの は、T-バータイプのオープンカーで、紫色のド派 この車でジムカーナの練習会や、サーキットのタ イムアタック、また若者達に混じりドリフト走行 会など各地のサーキットに走りに行った。練習会 にはタイヤや、ブレーキパッド、ジャッキ、ウマ、 工具その他諸々を車に満載してサーキットに通 った。 手なファイヤーバードであった。 身をもって経験したのであるが、確かにものすご いトルクで、発進後、フルスロットルにすると、 数十メーターの間、あの太いタイヤで楽にホイー ルスピンをし続けるお化けトルクマシンである。 ただし、なんと雨の日はブレーキが効かない。コ ーナーは車体がきしむような剛性のなさ。ウイン カーなど電装部品はすぐ壊れる、などなど。これ でアメリカの車はトップモデルでもこんなもの か、とアメ車が世界中で売れない理由が非常によ く理解できた。 現在、ベンチャー・キャピタリストとして、日本 の技術を世界に広める、という活動をしているた め、車でサーキットを走ることは 2 年前から封印 している。(というよりもそこまで余裕がない。 ) 現在乗っているインプレッサは、スバルが WRC (世界ラリー選手権)で 3 年間連続優勝をした直 後にリリースした 2 ドアの高性能限定車モデルで、 その後、私の行った改造に次ぐ改造で、もとのオ リジナルパーツはフレームと車の表面を覆うボ ディの鉄板ぐらいになってしまったかなり長い 付き合いの車である。 内張りをはがし、溶接でボディを補強し、9 点式 ロールゲージを天井まで固定し、エンジン、ミッ ション、デフなどすべて積み替え、足回りのダン パー、バネに始まり、ブレーキのローターの大き さまで換えた。 Tesla Roadster - 24 - ただ、街乗りには音がすさまじくうるさく、乗り 心地も良くない私の愛車はいつでもサーキット 走行できる形で保有している。 ベンチャー・キャピタル・ビジネスが軌道に乗っ たところで、もしくはこの原稿の題名である東工 大グローバル・ベンチャー・キャピタル・ファン ド構想などが具体化して、私も東工大キャンパス に頻繁に出入りするようなことになれば、また自 動車部の工場で車のメンテナンスもさせてもら い、サーキット走行を再開したいと思っている。 その時に現在移転問題で宙に浮いている練習コ ースが何らかの形で維持されていることを祈り つつ。 (編集者挿入画像) 名簿の整理について御願い OB 会顧問 巖(昭和 33 年化工卒) 大島 各種情報の伝達に際し、自動車部 OB 会名簿の充実が必須であります。2004 年度版プロトス 21 頁に [「OB 会名簿(2002 年版)改定」のお知らせ]として皆様に移動の情報提供を御願いしました。(2005 年 5 月 10 日期限) 多くの皆様からご連絡を頂き、2005 年 9 月に OB 会会員名簿を発行しています。更に事務局では、 2006/3/24 現在の「確定連絡先」約 500 名を整理しこれらにより平成 18 年 4 月に 2005 年版プロトスと 「東京工業大学自動車部 75 周年記念誌」を発送しました。さらに 9 月には記念誌発行の記念会の案内 を往復ハガキで発送しましたが、残念ながら両者の多数が返送されました。 特に若い方々は、転勤等で移動が多いことでしょう。お手数ですが移動・変更の情報をお知らせ下さ る様に御願いします。封書で「 」宛へご送付下さるか、メール( )でお知らせ下さい。 自動車部 OB 会費納入の御願い OB 会会計 自動車部 OB 会の活動は、OB 会会費で全て行われています。また、多額のご寄附も感謝申し上げま す。これらは、毎年の会誌「プロトス」・会員名簿の発行及び自動車部の活動への助成その他に提供さ れています。(OB 会会則第4条) 年額/3,000 円の OB 会費の納入は 4 月 1 日から 9 月 30 日の間に指定預貯金口座に振り込む様に御願 いしています。(OB 会会則第7条) 21 世紀特例を設けています。20 世紀以前の会費は納入不要ですので、2001 年(平成 13 年度)からの 納入をお願い致します。21 世紀特例に関する未納会費は、随時納入可能です。どうぞご協力をお願いし ます。 ① みずほ銀行 大岡山支店(145)普通 1168726 東京工業大学自動車部 OB 会 代表 沼田 務 ② 郵便預金口座 記号 10130 番号 14586941 東京工業大学自動車部 OB 会 なお、同姓同名の混乱を避けるため、お振込みされる時、卒年度を加えるように御願いいたします。 プロトスへの寄稿のお願い OB 会プロトス担当幹事 松永 崇義(平成 12 年機知卒) プロトスでは皆様の自由寄稿を募集しています。題材の指定はありません。部活の思い出や、自動車 に関わることはもちろん、日々思うことや、趣味についてなど何でも結構です。みなさまのご寄稿をお 待ちしています。 「松永崇義 」 (毎年 12 月 31 日までに送っていただければ幸いです。メール以外の方法はご相談ください) またこの場をお借りして、今プロトスへのご寄稿、ご協力いただいた皆様に お礼申し上げます。ありがとうございました。 - 25 - 訃報 白樫 桑門 津村 熊田 堀尾 侃 主一 利宏 禎宜 泉 8紡 15 機 28 機 37 建 45 機 H21. H22.02.10 H21.06.29 H21.05.13 H20.08.17 ご遺族 高史 様 ご遺族 伸子 様 ご遺族 志津枝 様 ご遺族 真紀子 様 故津村利宏氏を偲んで OB 会副会長 藤本正夫(昭和 28 年旧機械卒) 機械工学コースでもモー研でも同期だった君の訃報を聞き、愕然としました。平成 21 年 6 月 29 日享 年 81 歳でした。 長い闘病生活でしたので、度かさなる手術など本人は勿論、ご家族の方々も大変苦労されたことと拝 察いたします。君は入学時から既に自動車の運転免許証を持ち、自動車には人一倍関心が深く、熱心に 部活動をなさり後輩の指導をなさいました。どちらかというと親分肌で、トラックの運転手がお似合い なタイプでした。 昭和 27 年 11 月の第 1 回東京大阪間の耐久レースには積極的に参加し、優勝杯を手にする快挙を成し 遂げました。 平成 13 年夏の「柏号を乗鞍へ」のイベントでは、留守番役の応援団長を引き受けてくださいました。 平成 21 年 5 月機械の同期会では、病人とは思えない元気な声で司会の役目を自ら進んでつとめていま した。まだまだこれからという時に大変惜しい方をなくしました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。 故熊田禎宜君を偲んで OB 会副会長 疋田 巧(昭和 37 年化学卒) 昭和37年卒熊田禎宣君が、平成 21 年5月 13 日(水)逝去(享年 69 歳)されました。同期生の思 いで話で熊田君の御冥福をお祈り申し上げます。 ・何をしゃべればよいか言葉がでず時が過ぎてます。残念です。 ・熊田の人柄を表すと「意に介せず」でしょう。何年か前、工大でチェッカーフラグの様なズボンを穿 いた熊田が教鞭を執っている姿を垣間見た時に、とっさに「意に介せず」を思い出し、衣は着ても云々 と言う言葉そのものでした。 ・熊田は、同期の中で一番先に助教授、教授となり、非常に 活躍をされました。常に熱い情熱を持ち、同期卒業生の会 を開いて、いろいろの問題に対するリード的な役割をして おられました。まだまだ、社会が必要とする人材で、急な 逝去が大変残念です。 ・現状に対する不満とその解決法について情熱的に語ってい た君を思いだしています。寂しい限りです。先に逝った岩 水や越野と仲良くしているか? ・熊田とは入学後同じクラス、自動車部だったのでいつも一 緒に過ごすことが多かった。2年生の春休みにスクーター ラリーの準備で熊田も含めた数人が黄色いルノーで長崎ま で出かけた思い出がある。いつのことだったか、同期の集 まりに出席し熊田に会ったのが最後になってしまった。 (昭和37年卒同期生一同の寄せ書きと熊田の写真(中央)) - 26 - 自動車部 OB 会 会計報告 平成 21 年 6 月 6 日・午後 3 時開催の OB 会総会に於いて 「平成 20 年度会計決算報告」と「平成 21 年度予算計画」は承認されました。会計監査:川村 隆宏 PROTOS(プロトス) 平成21年度版(2009) 平成22年3月発行(年1回発行) 発行:東京工業大学自動車部OB会 事務局 編集:神本 - 27 - 武征(昭和38年卒)松永 崇義(平成12年卒) 平成 22 年度・OB 会活動案内 (ぜひご出席願います) 1 自動車部 OB 会総会 日時:平成 22 年 6 月 5 日(土)14∼16 時 場所:大岡山構内・蔵前工業会館または生協第一食堂 議題:活動報告、会計、活動計画(ドライブ計画)、予算、名簿改訂、部室移転他 申込:平成 21 年 5 月 24 日(月)まで 1.E-mail: 2.ハガキ: 2 自動車部 OB 会・ドライブ(詳細は P−5) 日時:平成 22 年 8 月 28 日(土)17 時∼ 29 日(日)10 時解散 場所:休暇村日光湯本 申込:平成 22 年 7 月 17 日(土)まで 3 ホームページのご案内 広報としてホームページを開設しましたのでそちらもご覧下さい。 - 28 -
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