文化的景観に関する日独比較調査

国際私法演習
国際私法演習 2005 年度 ゼミ論文集
ゼミ論文集
文化的景観に
文化的景観に関する日独比較調査
する日独比較調査
The Comparison of the Cultural Landscape
between Japan and Germany
九州大学法学部 河野俊行ゼミ
河野俊行ゼミ
はじめに
はじめに
九州大学法学部国際私法ゼミ 5 名は、河野俊行教授のご指導のもと、「世界文化遺産、特
に文化的景観に関する日独比較調査」を行った。
人間の営為というものが評価基準のひとつである文化的景観において、日本とドイツに
ついてその共通点と相違点を発見し、歴史的にそれらがそれぞれの文化にいかなる影響を
与え、その結果どのような共通点、相違点が現代にまで至るかを検討する目的である。
1972 年「世界文化遺産、自然遺産の保護に関する条約」に始まるユネスコの世界遺産は、
今日、世界中で広く知られ、条約の加盟国は、2006 年 1 月現在 182 カ国を数えている。こ
の条約は、普遍的な価値を持つ文化遺産、自然遺産を保全し、次世代に受け継ぐことを目
的としたものであり、日本は 1992 年に加盟している。
世界遺産は、文化遺産(顕著な普遍的価値を有する記念物、建造物群、遺跡、文化的景
観など)、自然遺産(顕著な普遍的価値を有する地形や地質、生態系、景観、絶滅のおそれ
のある動植物の生息・生息地などを含む地域)、複合遺産(文化遺産と自然遺産の両方の価
値を兼ね備えている遺産)の 3 つに分類される。
1992 年、加盟国の増加と世界遺産への申請の増加に伴い、文化遺産のひとつとして、新
たに「文化的景観」の概念が創設された。文化的景観は、人類とその周囲の自然環境との
間の相互作用の顕現の多様性を包括する。
ユネスコ世界遺産センターの公式サイト(http://whc.unesco.org/en/culturallandscape/)にお
いて、文化的景観については、以下のような記述が見られる。
“There exist a great variety of Landscapes that are representative of the different regions of the
world. Combined works of nature and humankind, they express a long and intimate relationship
between peoples and their natural environment.
Certain sites reflect specific techniques of land use that guarantee and sustain biological diversity.
Others, associated in the minds of the communities with powerful beliefs and artistic and traditional
customs, embody an exceptional spiritual relationship of people with nature.
To reveal and sustain the great diversity of the interactions between humans and their
environment, to protect living traditional cultures and preserve the traces of those which have
disappeared, these sites, called cultural landscapes, have been inscribed on the World Heritage List.
Cultural landscapes — cultivated terraces on lofty mountains, gardens, sacred places… — testify
to the creative genius, social development and the imaginative and spiritual vitality of humanity.
They are part of our collective identity.”
今回、プログラム参加者はそれぞれ、日本およびドイツにおいて、実地調査を行なった。
1
はじめに
日本における文化的景観として、2004 年にユネスコ世界文化遺産として登録された紀伊
山地の霊場と参詣道を対象として選択した。2 班に分かれた上で、それぞれ 8 月(21 日~
25 日、3 名)、11 月(3 日~5 日、2 名)に実際に紀伊山地に赴いて、実地調査を行った。
ドイツにおける調査では、3 月 10 日から 24 日にかけ、ベルリン、ポツダム、リューベッ
ク、ドレスデン、マイセン、エアフルト、ワイマール、バンベルク、ニュルンベルク、ミ
ュンヘンの各都市を訪問、各都市において世界遺産、文化施設等を見学し、ミュンヘン大
学において各自のテーマに基づくプレゼンテーション、およびミュンヘン大学との学生と
の意見交換を行なった。
今回の調査を実施するにあたり、九州大学法学部・ミュンヘン大学法学部間の交流プロ
グラムにより、多くの援助をいただいた。ミュンヘン大学における学生間交流は、今回の
調査における各参加者のテーマを深める上で、大いに役立つものであった。
また、日本・ドイツでは、多くの方々のご協力を得ることができ、調査をより実り多い
ものとすることができた。この場を借りてお礼の言葉を申し上げたい。
なお、このプログラムは、ユネスコ・アジア文化センター(ACCU)青年交流信託基金事
業の一環として実施されたものであり、本ゼミ論集に添付された英語による報告書は、ユ
ネスコに提出されたものである。
2
ゼミ論集によせて
指導教員:河野 俊行
ゼミ論集
ゼミ論集によせて
論集によせて
平成 17 年度の河野ゼミは、ユニークな内容のゼミとなった。私(河野)は国際私法
の教師・研究者であるが、それと並んで文化にかかわる国際法制度を研究してきた。こ
れを自分では国際文化関係法と名付けているが、この分野に関わる研究を進めてはいる
が、本格的な授業はまだ展開していない。しかし教育活動の中に取り込む試みは行って
きた。平成 17 年度のゼミは、これをかなり本格的に取り入れた最初の試みとなった。
すなわち、世界遺産条約の実務から生まれてきた「文化的景観」という新たな概念―こ
れはわが国の文化財保護法にも継受された―を、日独両国における「文化的景観」を比
較して理解を深めるという企画を立てた。具体的には、文化的景観として世界文化遺産
になった熊野古道を歩き、文化庁担当調査官の講演をお願いし、テーマを自分で設定し
てドイツへ赴き、文化的景観であるドレスデンを訪れ、ドイツの専門家の講演を聞き、
日独両国の文化的景観の比較を行って、最後はミュンヘン大学の学生との合同ゼミをし
て発表し、ゼミ論を執筆する、という半年がかりのプロジェクトである。これはユネス
コアジア文化センター(ACCU)の「ユネスコ信託基金青年交流プログラム」に選ばれ
た。その報告書としてのゼミ論集は英語で執筆しユネスコ本部へも送られる。国際機関
へ送付されるゼミ論集は、日本の中でも稀有な例であろう。この英語版をベースにして
作成された日本語版を含んだものが本冊子である。この企画が実現するにあたっては各
方面のお世話になった。心からお礼申し上げる次第である。
2006 年 5 月
河野俊行
3
目次
目次
○ はじめに.........................................................................................................................................1
○ ゼミ論集によせて.........................................................................................................................3
○ 目次.................................................................................................................................................4
○ ドイツ調査旅行概要報告...…......................................................................................................5
○ 調査旅行日程報告.........................................................................................................................8
熊野調査:先行班
後発班
ドイツ調査
○ 報告書...........................................................................................................................................21
前田 かおり 「土地と人間の相互関係の歴史~熊野の自然信仰とドレスデンの栄華~」
藤井 映理子 「紀伊山地とドレスデン 文化的景観の持つ価値と真正性について」
羽賀 由利子 「文化財保護と所有権の抵触」
東山 尚子 「世界遺産の管理、保存に携わってきた人々」
橋本 京子 「世界遺産登録とツーリズム」
○ 編集後記.......................................................................................................................................50
○ 添付資料
4
ドイツ調査旅行概要報告
ドイツ調査旅行概要報告
ドイツ調査旅行概要報告
3 月 11 日、ベルリンの博物館島でペルガモン博物館と旧国立美術館を訪問した。博物館
にて、重要な遺産の数々について学び、美術館で絵画を鑑賞することを通じて、西洋の歴
史や文化、そして芸術に対する理解を深めた。
3 月 12 日、ポツダムにて、世界遺産登録されているサンスーシ宮殿と 290 ヘクタールに
及ぶ公園を見学した。プロイセンのフリードリヒ大王が夏の離宮として建造したサンスー
シ宮殿は、優美なロココ様式が用いられており、公園内に併設された温室や絵画館などの
美しい建造物群や、周囲の自然環境と見事に調和した全体としての芸術性が評価されてい
る。
3 月 13 日、ベルリンでチェックポイント・チャーリー、旧博物館、ベルリン大聖堂、カ
イザー・ヴィルヘルム記念教会を訪れた。ベルリンの壁についての博物館であるチェック
ポイント・チャーリーで、冷戦によって東西に分断された戦後のドイツの歴史について学
び、カイザー・ヴィルヘルム記念教会では 1943 年に空爆を受けたままの外観を留める姿を
目にした。ベルリンは、このような歴史的な建造物と現代的な街並みが併存している。
3 月 14 日、リューベック訪問。リューベックは北欧との貿易において、12 世紀から 16
世紀まで繁栄したハンザ同盟の盟主で、
「ハンザの女王」と呼ばれた都市である。黒レンガ
の壁が独特な市庁舎や水色の尖塔を持つ教会などを見学し、当時の雰囲気を味わうことが
できた。
3 月 15 日、ドレスデンへ移動し、エルベ川沿いのゼンパー・オペラでバレエ「じゃじゃ
馬慣らし」を鑑賞。豪華な内装や優雅な演奏、軽やかな舞から西洋芸術を感じ取ることが
できた。
3 月 16 日、聖母教会再建についてのインタヴューのため、著名なトランペット奏者で、
再建の中心となったルートヴィヒ・ギュットラー氏を訪ねた。ギュットラー氏は再建の過
程、意義、困難だった点について語ってくださった。1945 年に破壊された教会の再建は、
1989 年のベルリンの壁崩壊を契機にドレスデン市民が主導となって始まり、専門家や行政
の援助を求めながら、世界中から贈られた寄付金によって活動が進められた。ベルリンの
カイザー・ヴィルヘルム記念教会が爆撃されたままの状態を残すのに対し、聖母教会は戦
争による傷跡を治す道のりを選んでいる。このインタヴューを通して、非常に多くの人々
の協力が存在したこと、教会再建が戦後のドレスデンで重要な役割を果たしたことを実感
した。
5
ドイツ調査旅行概要報告
3 月 17 日、エアフルトのテューリンゲン文化庁においてゼミナールが設けられ、トゥル
ッチュラー博士とヴィングハルト博士によって、ドイツにおける文化財保護法制とその実
務をテーマとする講義が行われた。
はじめに、トゥルッチュラー博士から文化財保護に関連するドイツ法制度についての講
義があり、文化財保護法の概要とこの法を実際にどのように運用しているか説明を聞いて、
日本のものとは異なるドイツ法制や、ドイツ政府がどのように文化財保護に従事している
のかについて学んだ。
次に、ヴィングハルト博士から、この事務所の実務に焦点を当てた説明がなされた。日々
の実務の中でも特に、遺産に関する様々な手続きや遺産所有者との間で生じる諸問題、ま
たそのような問題に関する解決策などを中心とした講義により、文化財保護の実務、およ
び技術的側面について知識を深めることができた。
その後、エアフルトの街をめぐり、ヨーロッパの伝統的な街についての歴史を学んだ。
3 月 18 日、ドレスデンの聖母教会、緑の丸天井、ツヴィンガー宮殿内のアルテマイスタ
ー絵画館を見学。教会には非常に多くの礼拝者がいて、洗礼の儀式も行われていた。宝石
コレクションを展示する緑の丸天井と、ルーベンスやラファエロなどの絵画を所蔵するア
ルテマイスターは、ともに美術品収集に熱心であった君主、アウグスト強王の芸術を愛好
する一面を感じさせるのに十分な展示物の質と量であった。
3 月 19 日、マイセンでアルブレヒト城とマイセン磁器工場内の工房と展示場を見学し、
磁器工場でエルベ川沿いにおける工業発達の歴史を学んだ。ドレスデンへ戻った後、第二
次世界大戦後に建設された聖十字架教会を訪れた。塔の頂上からはギュットラー氏の言葉
通り、エルベ川が「方向を変える」姿を確認することができる。その後再び聖母教会とツ
ヴィンガー宮殿を訪ね、これまでに学んだ事を再確認した。
3 月 20 日、ドレスデンのザクセン州立学術文化庁で講義を受ける。グラーザー博士がド
レスデンの建築に関する歴史、文化的景観を保護するための実務と法、エルベ川地域が世
界遺産として登録される過程などについて話してくださった。川沿いに多くの宮殿が建設
され、たくさんの船が航行しているエルベ川は、ドレスデンにおける景観、さらに商業的
な面で重要な役割を果たしており、都市景観と自然地域、そして多くの宮殿を合わせ持つ
景観は非常に独特なものである。この自然と建造物がうまく調和した景観を保護するため、
バッファゾーンで新たに建設をする場合は建築物の高さや幅に規制がかかっている。この
ような説明からも、ドレスデンは市内にたくさんの自然を残し、文化的景観の保護は都市
開発の中で常に危険にさらされていることがわかる。
講義の後、グラーザー博士とリーデル博士に現在再建中のドレスデン城と、新設される
6
ドイツ調査旅行概要報告
緑の丸天井へ連れて行っていただき、実際に建物を目の前にしながら建築様式の説明をし
ていただいた。多くの説明を聞き、非常に貴重な経験ができた。
3 月 21 日、ニュルンベルクとバンベルクを訪問。ニュルンベルクは大戦で街の 7 割が破
壊された後に再建された歴史を持つ一方、中世の街並みを今も残すバンベルクは世界遺産
登録されている。バンベルクは、10 世紀以降、スラブ人、特にポーランド人やポーランド
北西部のポメラニア人と関連があり、12 世紀以降の建築様式は北ドイツとハンガリーに影
響を与えた。ニュルンベルクではカイザーブルク、聖母教会、デューラーの家、旧市街を
見学し、バンベルクでは旧市庁舎、小ヴェニス地区、新宮殿、旧宮殿、カイザー広場と聖
ミヒャエル教会を訪れて、当時の建築を見学した。
3 月 22 日、ミュンヘン大学でミュンヘン大学法学部のリース教授、ミュンヘン大学日本
語講師の成冨教授、九州大学法学部のフォーグル教授同席の下、プログラム参加者が各自
のレポートのテーマについてプレゼンテーションと議論を行った。九州大学からは 5 人の
学生、ミュンヘン大学からは 12 人の学生が参加した。
まず、九州大学の学生が写真等の資料を示しながら、各自のレポートを要約した内容を
発表した。各テーマは、前田かおり「土地と人間の相互関係の歴史」
、羽賀由利子「文化財
保護と所有権の調整をいかに図るか」、藤井映理子「文化的景観の真正性について」、東山
尚子「世界遺産の管理、維持を行ってきた人々」
、橋本京子「世界遺産登録後の変化―観光
と開発の観点から―」である。
その後、参加者は日本の自然信仰、ドイツ国内の建築に関する実務と法、世界遺産地域
で生じた問題について討論し、この議論の中で、改めて日本とドイツの制度や考え方にお
ける類似点と相違点を認識することができた。
3 月 23 日、アルテ・ピナコテークとノイエ・ピナコテークの 2 つの美術館を訪問し、様々
な素晴らしい絵画の数々を目にして、西洋文化史についての知識を深めた。その後、ミュ
ンヘン市街を散策し、趣ある古い建造物を見学することでドイツにおける文化財保護の実
務について深く考えることができた。
7
調査旅行日程報告(熊野)
先行班(羽賀、藤井、前田)
調査旅行日程報告
調査旅行日程報告
熊野フィールドワーク
熊野フィールドワーク 紀伊山地の
紀伊山地の巡礼道
先行班:羽賀 由利子、藤井 映理子、前田 かおり
(2005 年 8 月 21 日~8 月 25 日)
8 月 22 日
8 月 22 日、紀伊田辺を訪問した。紀伊田
辺は中辺路の入り口となる地である。中辺
路とは、紀伊山地にある参詣道の一つであ
る。この参詣道は熊野本宮大社へと向かっ
ている。 古くより、多くの参拝者が熊野
本宮大社を目指してこの道を歩いた。
私達は、中辺路の一部、近露王子の周辺
を数時間歩いた。中辺路を行くのは簡単な
事ではない。この道はなかなかに険しい道
だ。それゆえ、地元の人々は参詣者の為に
熊野古道・近露王子
善意から杖を設置している。中辺路を歩くのはとても興味深い経験であった。易しい道で
はないからこそ、熊野の自然の偉大さとその地を信仰する人々の思いを理解することが出
来る。
その後、熊野本宮大社を参詣。熊野本宮大社
は熊野にある三大神社の一つである。本宮大社
はとても立派な建物ではあるが、その写真を撮
ることはできなかった。神聖な地であるため、
写真を撮ることは禁じられているのである。熊
野本宮大社を訪れて、とても神聖な思いを抱い
た。
熊野本宮大社
(藤井 映理子)
8 月 23 日
8 月 23 日、補陀落山寺、那智大社、青岸渡寺参詣。
明治元(1868)年、神仏分離令が出される以前、
神仏が未だに混合していたころの名残りをとどめる
古物を蔵する補陀落山寺を訪ねた。ご本尊は年に 3
回しか開帳されないが、古仏具などを見学させてい
補陀落山寺
8
調査旅行日程報告(熊野)
先行班(羽賀、藤井、前田)
ただいた。平安時代から、那智浜から小舟に乗り、さらに南の補陀落山へと旅立つ補陀落
渡海が盛んになり、この寺はその拠点とされた、とご住
職から説明していただいた。
次いで、那智大社までの参詣道である大門坂を歩いた。
大門坂は杉の大樹にはさまれた長い石の階段で、熊野古
道の中でも最も有名な場所のひとつである。緑の静謐な
光景は、ここが古くからの信仰の場であることを実感さ
せる。大門坂では、わたしたちは平安時代の貴族の衣裳
を着て、徒歩で那智大社まで参詣した。着慣れていない
こともあるが、平安衣裳は非常に動きづらく、それでも
熊野へ参詣していた 1000 年も以前の人々の思いをわず
かながら共感することができた。
平安衣裳で大門坂を歩く
那智大社は落差 133 メートルの直瀑、那智の
大滝を祀る。那智大社は、神社とはいっても本
殿も拝殿もなく、滝を直接拝む形をとる。社殿
がないことからも、大滝が御神体であることが
わかり、熊野のかつての自然信仰を肌で感じる
ことができた。
(羽賀 由利子)
那智大社から那智の大滝を望む
8 月 24 日
8 月 24 日、新宮にある速玉大社を参詣した。こ
の速玉大社は、熊野三大神社の一つであり、2 千年
程前に旧宮である神倉神社からこの地に移され、
「新宮」と呼ばれてい
る所である。この神社
は自然信仰を表す神社
であるが、平地にあり、
熊野速玉大社
参詣しやすい場所にあ
った。境内にはナギの大木があり、この木は神木として扱われ、
自然信仰を顕著に表している。
その後、速玉大社から歩いて 20 分程の所にある神倉神社を参
詣した。神倉神社には御神体である「ゴトビキ岩」と呼ばれる
巨大な岩が祀られている。このゴトビキ岩までは 538 段もの険
神倉神社にいたる石段
9
調査旅行日程報告(熊野)
先行班(羽賀、藤井、前田)
しい石段を上って参詣しなければならない。途
中、振り返って下を見るのも恐ろしくなるよう
な切り立った急斜面の石段を四肢で這うよう
によじ登り、やっとの思いで頂上の御神体まで
行き着くことができた。頂上からは新宮市の町
並みが一望でき、昔の人々が苦難の末に参詣を
成し遂げ、感じていたであろう達成感を我々も
味わうことができた。
(前田 かおり)
神倉神社とご神体“ごとびき岩”
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調査旅行日程報告(熊野)
後発班(橋本、東山)
後発班:橋本 京子、東山 尚子
(2005 年 11 月 3 日~11 月 5 日)
私たちは、11 月 4 日に熊野を訪ねた。
語り部と中辺路歩き
中辺路歩き
まず、本宮に至る参詣道である中
辺路、熊野古道館から近露王子まで
のおよそ 1.6kmを、語り部とともに
約 1 時間半の間歩いた。本来なら 40
分くらいで歩けるなだらかな山道だ
が、町石、王子、住居跡など途中で
立ち止まり、語り部の説明を聞きな
がら歩いたので1時間半かかった。
山中はうす暗く、狭い道を歩くのは
やや歩きにくく感じたところもある。
熊野参詣道、中辺路
語り部からは、様々な話を聞くこ
とができた。歴史に関する事柄に限らず、山に生息する木々や草花について、世界遺産と
地元住民の生活との関係についての説明もなされた。語り部の話によると、太古の昔より、
この熊野古道は人々の信仰の土地として、貴族、庶民といった身分を問うことなく多くの
人々によって歩かれてきたという。どんなにこの熊野信仰が人々の中で強いものであった
のか、ということを改めて深く感
じることができた。また語り部は、
「目の前に残っているものだけで
なく、生活の痕跡から当時の様子
を思い描く想像力を働かせてほし
い」という。過去と現在をつなぐ
ものとしての世界遺産を理解する
うえで、大変重要な視点である。
このように語り部は、古来より
続く霊場としての熊野、そして世
界遺産としての熊野の双方を人々
に紹介、説明する一端をしっかり
熊野古道の語り部
と担っていると感じた。
11
調査旅行日程報告(熊野)
後発班(橋本、東山)
熊野本宮大社
次に熊野本宮大社を訪ねた。そこには長い石段があり、端には多くの旗がはためいてい
る。その光景は圧巻であった。多くの人々が長い列を
作り、この石段を登っていくのである。登り終え、本
宮に着くと、大変心が落ち着くように感じた。
瀞峡
最後に、志古という場所からボートに乗り、熊野川
から北山川へと、熊野古道のうち川の古道でもある部
分の一部を遊覧した。川は広く、その水は大変澄んで
いて、両側に聳える巨岩の壁は、自然の雄大さそのも
のである。この風景もまた太古の昔から人々を魅了し
続けてきたのだろう。途中、様々な形をした数々の岩
が点在しており、それぞれその形に応じた名前
(亀岩、
松茸岩など)が付けられている。船内ではそれら両岸
熊野本宮大社の石段
の岩や滝の名前や、それらにまつわる物
語が放送された。昔から人々に親しまれ
ていたことがよく分かった。
今回熊野を訪ねてみて、一番強く感じ
たことは、やはり熊野の自然の美しさと
厳しさである。参詣道は美しいが、同時
に大変険しい。流れる川も同様である。
人々は美しいものを愛でるものだが、そ
船上から瀞峡を見る
れに加えて、この険しい自然に耐えるこ
とによって、神の場所に近づこうとした
のかもしれない。このような熊野の自然に対して、人知を超えた神々の存在を感じ、人々
はここを信仰の地としたのであろう、と感じた。
12
調査旅行日程報告(ドイツ)
2006 年 3 月 10 日~3 月 24 日
ドイツ・
ドイツ・世界遺産調査旅行
羽賀由利子、橋本京子、東山尚子、藤井映理子、前田かおり
(2006 年 3 月 10 日~24 日)
3 月 10 日
ベルリンに到着。ベルリンはすでに夕方だったため、その日はどこにも行けなかったが、
カイザー・ヴィルヘルム記念教会を外側から眺めることが出来た。
3 月 11 日 ベルリン
終日、ベルリンの博物館島を見学した。博
物館島はベルリン中心部、シュプレー川の中
洲に位置する。どの建物も荘厳な外観を有し
ており、全体として調和の取れた街並みを形
成している。1830 年の旧博物館設立から、新
博物館、旧国立美術館、ボーデ博物館と続き、
そして 1930 年にはペルガモン博物館が設立
ベルリン博物館島、ペルガモン博物館
された。プロイセン王国、ドイツ帝国の威信
をかけた大事業であった。
ヒトラーによる美術品の没収・売却や、第二次世界大戦による破壊、東西ドイツ分断な
どを経験した。1989 年のベルリンの壁崩壊、翌年の東西ドイツ統合をうけ、分散されてい
たコレクションの統合が始められた。博物館
島には先史時代から 19 世紀までの多くの作
品が集結している。1999 年、ユネスコ世界
文化遺産に登録された。
わたしたちはペルガモン博物館、旧国立美
術館を訪れた。ペルガモン博物館では、たく
さんの考古学的遺産を鑑賞した。そのような
貴重な遺産を目の当たりにし、連綿と続く歴
史を肌で感じることができた。また、旧国立
美術館では西洋絵画・彫刻を鑑賞し、西洋史
ベルリン、旧国立美術館
や西洋文化史についての理解を深めた。
3 月 12 日 ポツダム
ポツダム、サンスーシ宮殿群を見学。
サンスーシ宮殿は 1748 年、プロイセン王フリードリヒ 2 世が自ら夏の居城として設計し
13
調査旅行日程報告(ドイツ)
2006 年 3 月 10 日~3 月 24 日
た。フリードリヒ 2 世は 74 歳で亡くなるまで、
フランス語で「憂いのない sans souci」と名づ
けられたこの宮殿で暮らした。外観、内装とも
に大変美しいロココ調のこの宮殿は、主要な部
屋が 12 とさほど広くはないが、絢爛な内装や
飾られている絵画など、当時の面影と華やかさ
をとどめている。サンスーシ宮殿の庭園も非常
に有名である。わたしたちの訪問時には雪が深
く、残念ながら見ることができなかったが、そ
ポツダム、サンスーシ宮殿
の広大さはよく分かった。
午後、ベルリンに戻り、文化フォーラムの絵画館を訪問。西洋文化の背景にあるギリシ
ャ・ローマ文化、あるいはキリスト教文化を、絵画や彫刻を通して学んだ。
3 月 13 日 ベルリン
ベルリン
午前中はベルリンの壁についての博
物館であるチェックポイント・チャーリ
ーを訪れた。検問所で見つからずに西ド
イツへ逃げようとする人々の手段や、支
援した人々の様子が写真と文章による
パネルや復元模型によって説明されて
おり、小型車からエンジンを取り外した
部分やスーツケース、カヌーの間に隠れ
ベルリン、チェックポイント・チャーリー
た人のモデルを見ていると、当時の恐怖
が伝わってきた。
午後は博物館島の一つで、エジプト彫刻が展示されている旧博物館と、ホーエンツォレ
ルン家の墓があるベルリン大聖堂を訪れた後、第二次世界大戦中の
1943 年に爆撃されたままの姿を残すカイザー・ヴィルヘルム記念
教会を見学した。完全に取り壊して再建する案もあったが、戦争の
悲惨さを伝えるために保存を望む人も多かったため、そのままの状
態で保存されている。現存している部分は非常に狭かったが、復元
模型による元の姿はその何倍もの大きさで、
教会を中心としていく
つかの建物が周りを囲んでいた。向かいには一面を青いステンドグ
ラスで覆われた現代的な内装の新教会堂が建設されており、
現在で
はこちらで礼拝が行われている。
14
ネフェルティティ胸像、
ベルリン旧博物館
調査旅行日程報告(ドイツ)
2006 年 3 月 10 日~3 月 24 日
3 月 14 日 リューベック
1987 年に旧市街の街並が世界文化遺産に登
録されたリューベックを訪れた。リューベック
はドイツ北部に位置し、中世ではバルト海沿岸
の北欧諸国との貿易におけるハンザ同盟の盟主
として繁栄した都市である。駅から街の中心部
へ歩いていくと、川沿いの道路に面する建物が
高さ、様式とも揃っていて、きちんと整備され
リューベック市庁舎
ている印象を受けた。街の西側の入り口である
ホルス テン
門は改装中でカバーに覆われており、残念ながら見るこ
とができなかった。市庁舎には様々な紋章が描かれてお
り、かつての貿易が広い範囲で行われていたことが伝わ
ってきた。市庁舎の壁に黒レンガが使用されているのも
独特であった。リューベックの教会はどれも茶褐色のレ
ンガ造りで、屋根の部分は水色の高い尖塔でできたゴシ
工事中のホルステン門、リューベック
ック様式であり、「ハンザの女王」としての威厳と壮麗さが感じられた。中でもマリエン教
会は中に巨大なオルガンがあり、周囲の教会のさきがけとなったにふさわしい荘厳な雰囲
気を持っていた。
3 月 15 日 ドレスデン
ベルリンを離れ、ザクセン州の州都、ドレス
デンに移動。
ドレスデン国立歌劇場を見学。ドレスデン国
立歌劇場、通称ゼンパーオーパーは、現在は州
立で、世界で最も美しい劇場のひとつである。
この劇場を設計した新古典主義の建築家ゴット
フリート・ゼンパーと、息子のマンフレッド・
ドレスデン州立歌劇場(ゼンパーオーパー)
ゼンパーの名にちなんでゼンパーオーパーと呼
ばれる。この劇場は 1869 年にいったん火災で焼
失しているが、この 2 人によって 1878 年に再建されている。1945 年、英米軍の爆撃により
破壊されたが、1977 年から復興が始まり、1985 年に再び完成した。また、ゼンパーオーパ
ー専属オーケストラ(シュターツカペレ・ドレスデン)は世界で最も古いオーケストラの
ひとつであり、特徴的な美しさを持つ音色は世界中で有名である。
外見もさることながら、内装も非常に絢爛豪華である。わたしたちは、残念ながらオペ
ラを見ることはできなかったが、世界最高峰の音楽とともにバレエ「じゃじゃ馬ならし」
15
調査旅行日程報告(ドイツ)
2006 年 3 月 10 日~3 月 24 日
を鑑賞した。素晴らしい芸術に触れるよい機会となった。
3 月 16 日
午前、ギュットラー氏にインタビューを行う。
ギュットラー氏は聖母教会再建の中心人物であ
り、再建に尽力された高名なトランペット奏者
である。聖母教会は、ドレスデン市内に位置す
る教会であり、第二次世界大戦に破壊された歴
史を持つ。構成する石のレンガを一つ一つ集め
なおして果たされた完璧な再建は、ドレスデン
の文化的景観の中でも大きな意味を持つもので
ルートヴィヒ・ギュットラー氏
あり、インタビューは日独文化的景観の比較に関して非常に貴重な話を伺う機会であった。
インタビューの内容は、聖母教会の再建の経緯から、聖母教会の持つ意味、そこに関わ
った人々の思いにわたり、特に聖母教会再建が様々な困難の元、いかに強い意志をもって
行われたのか、そしてそれが人々にどのような影響を与えたのかについて、議論がなされ
た。ギュットラー氏と人々の意志と熱意にグ
ループ全員が深い感銘を受け、聖母教会を訪
れる前に、すばらしい経験が出来た。
午後はドレスデンからエアフルトへと向
かった。夕方にはエアフルトに到着し、美し
い市街と大聖堂広場を歩き、大聖堂を見学し
た。大聖堂は、残念ながら内部は一部しか見
学できなかったが、その姿は荘厳で美しかっ
大聖堂広場から、大聖堂とゼヴェリ教会(エアフルト)
た。
3 月 17 日 エアフルト・
エアフルト・ワイマール
午前中、エアフルトにあるテューリンゲン記念
物庁にて、ドイツの文化財保護法制についてのセ
ミナーを受けた。始め、文化財保護法や建築法に
ついての説明を受け、これらの法における文化財
の定義や、それらの保護の詳細、また法の執行な
どについて話を聞くことができた。そして、建物
改修についての所有者の権利や、そのような改修
講義風景、テューリンゲン記念物庁にて
の申請手続きなどといった、文化財を保護する上
で生じてくる事柄についても話を伺うことができた。その後、興味深い例を示してもらい
ながら、記念物庁の業務内容などについても説明を受けた。ゼミナールを 2 時間受け、そ
16
調査旅行日程報告(ドイツ)
2006 年 3 月 10 日~3 月 24 日
の後、施設内を案内していただいた。建物は伝統的、歴史的な造りであるが、どこも大変
管理が行き届いており、現代的な事務所として活用されている。
その後、午後はガイドの方にエアフルト市街を案内していた
だいた。この街の町並みや、個々の建造
物などについて、街の歴史を交えながら
説明していただいた。
その後、1996 年にバウハウス博物館、
クレーマー橋、エアフルト 1998 年に旧市街が世界遺産に登録され
たワイマールを訪れた。パステルカラーの家々が並ぶ街並は可愛ら
しく、18~20 世紀のヨーロッパ文芸を代表するゲーテとシラーが居
住し、活躍した芸術都市としての雰囲気が感じられる街であった。 ゲーテとシラーの銅像
(ワイマール)
3 月 18 日 ドレスデン
ドレスデン市内を散策した。第二次世界大戦で破壊された
後、焼け跡の石を利用して市民の力で再建された聖母教会は、
思っていたよりも大きな建物で圧倒された。土曜日で洗礼の
儀式があるらしく教会の周りにはたくさんの人が並んでい
たため、先に 12 の部門で構成されているドレスデン国立美
術博物館のうち、宝物を展示している緑の丸天井とツヴィン
ガー宮殿内にあるアルテマイスター絵画館を見学した。両者
ともに芸術に造詣の深いアウグスト強王のコレクションで
あるが、どちらも膨大な量の展示物で全て見てしまうことは
できなかった。その後、聖母教会の塔に上ると、頂上からエ
ドレスデン聖母教会
ルベ河と市内の景観を一望できた。洗礼の儀式や音楽コンサ
ートなどの催しに使われることが多く、教会の中に入るには並んで待たなければならなか
った。ドレスデン聖母教会は 18 世紀にも一度再建されているが、現在の教会内部は、第二
次世界大戦の戦火で破壊される以前の内装(18 世紀
に再建された当時の内装)ではなく、11 世紀に初め
て建てられた当時のオリジナルの状態、ピンクや水
色といった淡い色調で復元されていた。ほとんどの
信徒のための席の前には再建費用を寄付した人の
ネームプレートが貼られており、満員の信徒の存在
からもこの教会の再建に非常に多くの人々が協力
し、期待していたことが伝わってきた。
ツヴィンガー宮殿(ドレスデン)
17
調査旅行日程報告(ドイツ)
2006 年 3 月 10 日~3 月 24 日
3 月 19 日 マイセン
午前中にマイセンを訪れた。マイセンはエルベ渓谷の終点地
であり、ザクセン選帝侯、アウグスト強王によって 18 世紀、
西洋で初めて「白い黄金」と呼
ばれていた白色磁器が生み出
エルベ河畔のアルブレヒト城
された地である。その後もこの
(マイセン)
地は現在に至るまでその技術
を受け継ぎ、エルベ川の産業の発展に深く関わってきた。
マイセン磁器工場では見学用工房と磁器博物館を訪れた。
見学工房ではマイセン磁器が完成されるまでの工程を一室
“白い黄金”マイセン磁器
ごとに実演で見学し、磁器博物館では 18 世紀から現代に至る
までの作品をマイセンの歴史に沿って鑑賞した。古くよりエ
ルベを支え、受け継がれてきた技術の素晴らしさに感動した。
午後、ドレスデンに戻り、聖十字架教会を訪れた。聖十字
架教会もまた、フラウエン教会と同じく第二次世界大戦以降
に再建された建造物である。聖十字架教会の塔の上からは、
エルベ川とドレスデンの歴史的な街並みが見渡された。その
後、再び聖母教会とツヴィンガー宮殿を訪れた。ツヴィンガ
ー宮殿は雪が溶け、前日は伺われなかった庭の様子を見学す
聖十字架教会(ドレスデン)
ることが出来た。
3 月 20 日 ドレスデン
今日はドレスデン学術文化庁を訪問し、ドレスデ
ンについての講義を受けた。この講義では、ドレス
デンの歴史やエルベ渓谷の世界遺産登録への経緯等
について詳細に説明をしていただいた。特に、この
街が文化的景観として登録されるに至った経緯やそ
の価値に関しての話と、州や市民の歴史的町並み保
全の意思、及びそ
ドレスデン学術文化庁、グラーザー先生
のための取り組
みに関しての話が大変印象的であり、我々のレポートに
ドレスデン城再建現場にて
とっても大いに参考になるものであった。庁での講義の
後、かつてのザクセン王達の居城であったドレスデン城
の再建現場を案内していただいた。ここでは、実際に城
の各部を案内していただきながら建物の建築様式に関
してや、修復箇所の復元方法について、さらには建物の
18
ドレスデン学術文化庁、リーデル先生
再建現場における講義風景
調査旅行日程報告(ドイツ)
2006 年 3 月 10 日~3 月 24 日
使用目的に関しての話までしていただくことができた。ここでも歴史的なものを保存して
いくことの意味について深く考えさせられた。
午後からは次の日の日程にそなえてバンベルグへ移動した。
3 月 21 日 ニュルンベルク・
ニュルンベルク・バンベルク
午前中は中世都市として繁栄したニュルンベ
ルクを訪れた。円形の壁で囲まれた旧市街の北に
位置するカイザーブルクは、王の居所であると同
時に城塞であった。坂の頂上で周囲は深い堀に囲
まれており、中の博物館に展示された鎧や武器か
らも城塞としての凄みが感じられた。
続いて午後、1993 年に旧市街が世界遺産に登
録されたバンベルクを訪れた。橋の上に旧市庁舎
カーザーブルク城(ニュルンベルク)
が建っていたが、かつてはこのレグニッツ川を境
に街が市民地区と司教地区に分かれていたという。確かに駅から歩いてきた近代的な街並
とは異なり、旧市街に入ると石畳と坂が続いて
建物も統一された街並が広がっていた。11 世
紀に皇帝ハインリヒ 2 世によって造られた状
態に 17、18 世紀のバロック建築が調和したバ
ンベルクは、戦火を免れたため、オリジナルの
状態を保持する建造物群としてはドイツ最大
である。街の大部分が第二次世界大戦で破壊さ
れ、復元されたニュルンベルクとは異なり、バ
ンベルクは 1000 年の歴史がそのまま残されて
いた。
バンベルク市街、新宮殿・薔薇園より望む
3 月 22 日 ミュンヘン
バンベルクからの移動後、午後から今回
の論文テーマについて我々5 人のメンバー
が発表をし、討論を行った。リース先生、
成富先生、フォーグル先生、通訳のラプシ
ュさん同席の元、12 人のミュンヘン大学の
学生が集まり、ミュンヘン大学の法学部図
書室で行われた。始めに私たちが 10 分程度
各自のテーマについて話し、それに対する
討論風景、ミュンヘン大学にて
質問を受け、彼らと意見交換を行った。発
19
調査旅行日程報告(ドイツ)
2006 年 3 月 10 日~3 月 24 日
表の内容に関連したドイツの制度や歴史、自然信仰についての日本人の意識、ミュンヘン
大学生の専門分野に関する話題など、たくさんの意見が出たため 3 時間に及ぶ議論となっ
た。その後交流をかねて皆で夕食に行き、その席でも発表についての感想を聞いたり更な
る意見交換をすることができ、論文の内容を深める貴重な機会となった。
3 月 23 日
終日ミュンヘン観光。午前中、アルテ・ピナコテーク、ノ
イエ・ピナコテークを訪問した。世界有数の美術品を鑑賞し、
大変貴重な経験であった。午後、ミュンヘン大学の学生 3 名
にミュンヘン市街を案内してもらい、散策した。フラウエン
教会や聖ミヒャエル教会、新市庁舎といった伝統的な建造物
を見た。ミュンヘンの街を歩いていると、そのような伝統的
な建造物と、現代的な建物とが、調和の取れた街並みを形成
していると感じられた。
市庁舎(ミュンヘン)
3 月 24 日
最終日、ドイツでの素晴らしい経験を胸に、ミュンヘンを発った。
20
前田 かおり
「土地と人間の相互関係の歴史~熊野の自然信仰とドレスデンの栄華~」
報告書
土地と
土地と人間の
人間の相互関係の
相互関係の歴史
~熊野の自然信仰とドレスデンの栄華~
前田 かおり
<はじめに>
今回課題となっている「紀伊山地の霊場と参詣道」及び「ドレスデンのエルベ渓谷」は、
いずれも「文化的景観」という概念に当てはめられ、世界遺産に登録された。この「文化
的景観」という概念は、平成 4 年から採り入れられた新しい概念である。これにより、従
来では「文化遺産」・「自然遺産」というわずか二つしかない区分では分類しきれず、世界遺
産として登録されえなかった価値ある遺産が、その価値を認められるようになった。
では、「文化的景観」とはいかなる概念であるか。これには様々な定義があるが、一言で
言えば、「人間の営為と自然の結合の所産」としての価値を有するものを指す。つまり、人
間の創造物(記念工作物・建造物群・遺跡等)としての価値と、自然地域(生態系的特徴・
地質、地形学的特徴を有する地域)としての価値、双方を有するものがこの区分に当ては
められる。
両要素を有するとして、
「文化遺産」、
「自然遺産」のそれぞれに登録されている「複合遺
産」というものも存在するが、
「文化的景観」はそれらとは性質を異にする。それは、従来
の「自然遺産」として登録されたものはあくまで、人間の影響力から最も遠い距離にある
自然地域であって、人間の所産、あるいは何らかの人間の影響から生まれたものがこの区
分に入り込む余地はなかったからである。しかし、自然地域の中には、人間が積極的に介
入、管理することによって豊かな生態系や景観を維持してきたという地域も存在した。こ
うした人間の営為と自然の結合の所産である自然地域を、広く遺産の範囲として取り込も
うとしたのが「文化的景観」という概念なのである。
では、紀伊山地及びドレスデンはそれぞれ、いかなる側面がこの「人間の営為と自然の
結合の所産」としての価値を持つものとして評価されたのか。この点について、両遺産の
歴史的背景や自然環境、登録の経緯についての資料での調査と、実際に現地を訪問し、見
聞きし体感したことを通じて自分なりに評価・分析してみたいと思う。
<紀伊山地の霊場と参詣道について>
この遺産は、三重・和歌山・奈良の 3 県と 29 市町村にまたがる森林の自然環境の中で生
まれた自然信仰のために、形成された霊場とその参詣道に、文化的景観としての価値が認
められるとして世界遺産に登録されたものである。
この遺産には大きく 2 つの特徴がある。
一つはこの紀伊山地には起源や内容を異にする 3 つの山岳霊場が存在することである。修
験道を主とする吉野・大峯と、神仏習合を主とする熊野と、密教を主とする高野山の 3 つ
21
報告書
である。これらは全体として一つの
遺産に登録されたわけであるが、そ
れぞれの信仰の性質は全く異なるも
のである。二つめの特徴は「道」が
遺産として登録されたことである。
それぞれの霊場を結ぶ参詣道は大き
く 3 つに分類される。それは大峯奥
駆道と熊野参詣道、高野山町石道の 3
つである。
このようにこの遺産は広大な範囲
にわたるものであり、しかもその内容も多様な要素を含んでいる特殊な遺産と言える。本
論文では、これらの中で特に我々が実際に足を運んで体験してきた熊野について、その信
仰の歴史的背景を辿り、価値が形成されてきた経緯を分析していきたいと思う。
紀伊山地には、標高 1000~2000m の山脈が走り、年間 3000mm を超える豊富な降水量と
温暖な気候に育まれた深い森林が存在する。熊野とは、この紀伊山地のある紀伊半島の南
部に位置する地域であり、その地形と気候のために、はるか昔から霊域と捉えられてきた。
また、古来よりこの地域は紀伊山脈によって奈良や京都といった都との関係を絶たれ、熊
野とは「隈」、つまり辺境の地という意味があるとされている。近代になってからも、交通
の不便さゆえに開発を免れてきた熊野は今なお、古代からの荒々しい自然と直面できる場
であり続けている。
このような地形ゆえに、この地域では
太古から山や岩、樹木や滝といった自然
の造形物を神格化する自然信仰が崇拝さ
れてきた。その最たる例が「那智の滝」
である。落差 133m の日本一の直爆を誇る
この滝は、その生産力が崇拝され、この
滝壷の近くにあった熊野那智大社の信仰
の原点とされている。那智大社は熊野三
大大社の一つであり、我々は実際にそこ
を訪れた。那智では現在、平安時代の人々
が着用していたような平安装束を借り、その衣装を身にまとったまま那智大滝や那智大社
を参詣することが出来る。我々も実際にその衣装を着て参詣した。
那智大滝のほかにも、明治時代以前には岩や木を御神体として祀っているところがこの
地域には当たり前のように見られたという。熊野本宮大社の成り立ちもイチイの巨木であ
り、熊野速玉大社の成り立ちもゴトビキ岩と呼ばれる巨大な岩である。
こうした自然信仰は古代から現代に至るまで、熊野の人々に多大な影響を与え続けてき
22
前田 かおり
「土地と人間の相互関係の歴史~熊野の自然信仰とドレスデンの栄華~」
た。熊野の人々は古くから林業を生業としてきたが、山に入って仕事を始める前には山の
神を祭るという。特徴のある木を御神木として、仕事を始める前には酒や米を供えて作業
の無事を祈り、仕事の後には酒盛りをし、神木に塩を捧げてから引き上げる。自然信仰は
今なお伝承されているのである。
自然信仰の歴史から、さらに熊野の歴史を進化させ、価値付けてきたものは「修験道」
の歴史である。修験道とは自然信仰の一形態である山岳信仰に密教や中国伝来の道教など
の思想が加わって生まれたものであり、厳しい修行によって超自然的な能力を獲得するこ
とを目的とする宗教である。修行者たちにとって、熊野の厳しい自然環境は格好の修行場
であった。そのため、熊野には奈良時代から多くの修行者が集まり、熊野三山の発達にも
大きな影響を与えた。平安時代(10 世紀~11 世紀)に修験道の修行道が形成されることで、
もともとは別々の神を祀っていた三社が結びつきを強め、それぞれが御神体を祀り合うよ
うになり、
「熊野三所権現」を誕生させた。これ以降、三社は熊野を代表する三大大社とし
て、広く人々の信仰を集める霊場として発展していくこととなる。
平安時代になると、熊野に向う修行者は増加した。そのような流れの中で、天皇や上皇
が熊野に参詣する「熊野御幸」が行われるようになった。平安末期に神仏習合の思想が広
まり、熊野全体が浄土の地として崇められ、現世利益を目的として参詣する風習が生まれ
た。現世利益とは、病気平癒や出世祈願、極楽浄土の思想なども含む。この熊野御幸は院
世紀(11 世紀~12 世紀)にかけて最も盛んに行われ、院世紀 100 年の間に 100 回以上も行
われた。院世紀の末からは、上皇の権威失墜に伴い御幸は次第に衰退し、かわって地方武
士による参詣が行われるようになる。そして、次第に参詣の中心は一般の民衆に移行して
いく。民衆による参詣は「蟻の熊野詣で」と呼ばれ、15 世紀後半の室町時代末期に最盛期
を迎える。その後 16 世紀末には熊野詣は衰退していく。
このように、熊野は平安時代から室町時代にかけて人々の厚い信仰を集めた。その信仰
のために、人々は深い山々に分け入り、苦難の末にある者は参詣を成し遂げ、またある者
はその過程で力尽きた。この人々の営みゆえに霊場としての社殿が形成され、そこへ至る
道が長年に渡り形成されてきたのである。そして、
参詣の風習が途絶えた今でもこれらの人々による営
みの痕跡はしっかりと残され、保存・維持され続け
てきている。この地には深い山々という自然環境以
上に、その自然と共に生き、あるいは自然の中に何
らかの希望を見出した何代にも渡る人々の思いが集
積されているものと感じる。そこに大いなる遺産と
しての価値が認められるのではないかと私は評価し
たい。
<ドレスデンのエルベ渓谷について>
23
報告書
この遺産は、ザクセン州の州都ドレスデンを中心とする 18km のエルベ川流域に、18~19
世紀の文化的景観が残るとして世界遺産に登録されたものである。ドレスデンはかつての
ザクセン王国の首都であり、その時代に花開いた華麗な宮廷文化が輝くバロックの町であ
る。その美しい景観は「エルベのフィレンツェ」と称えられるほどである。このように、
この遺産はエルベ川河畔という自然地域にザクセン王国の繁栄という人間の営為が組み込
まれた結果、その価値が形成されてきた遺産と言える。そこで、このザクセン王国の繁栄
という側面に焦点を当て、その繁栄の歴史を辿ることで、その価値を形成してきた経緯を
分析していきたいと思う。
このドレスデン地域は、近郊にあるエルツ山地で産出された鉱物資源を背景に古くから
栄華を誇っていた。特に、銀の産出によりエルベ川の水運を生かした銀取引がさかんに行
われ、12 世紀末~近代までザクセン州の繁栄を支え続けた。この経緯により、ツビッカウ
からドレスデンまでの約 140km の地域は銀街道と呼ばれているほどである。
このような地域にザクセン朝が侵出してきたのは 1089 年のことである。東方への領土拡
大を行っていたザクセン朝は、この年にマイセン辺境地をヴィッテン家に封土として与え
た。そして現在のドレスデン地域も 1143 年にザクセンの領土となった。これ以降、ヴィッ
テン家はこの地方で勢力を拡大し、800 年にわたりザクセンを支配し続けた。こうしてこの
土地にザクセン朝が繁栄していくこととなった。
その後、15 世紀末にヴィッテン家で兄弟間の内紛が起こり、弟のアルプレヒトがドレス
デンに居城を置き、以降 100 年に渡って繁栄した。1543 年にはモーリッツ公が辺境伯の称
号を与えられ、このモーリッツ公が城砦を改修・拡張し、ルネッサンス風の豪華な宮殿を
構築、工芸や文化も栄えるに至った。これがドレスデンの繁栄の始まりである。
その後、アウグスト強王の時代にドレ
スデンは最も栄華を極めた。1618 年~
1648 年に起こった 30 年戦争により、ド
レスデンの繁栄は一時中断した。しかし、
1694 年アウグスト強王が即位すると、強
王は生産活動を奨励、その結果経済・産
業が発展し、国に大きな歳入がもたらさ
れることとなった。この歳入を利用して、
強王はルネッサンス様式であったドレス
デンの町並みをバロック様式へと転換し
た。その最重要事業は王の離宮であるツヴィンガー宮殿の建設であった。さらに強王は工
芸と文化に格別の関心を持った人物であり、数多くの絵画を集め、絵画アカデミーを創設
した。こうした強王の政策により、この地に現在、遺産の価値の重要な側面として評価さ
れている華麗なバロック文化が形成されてきたのである。我々は実際にドレスデンを訪れ、
バロックの町並みを目にした。ほとんどの建物は再建されたものであったが、その外観は
24
前田 かおり
「土地と人間の相互関係の歴史~熊野の自然信仰とドレスデンの栄華~」
とても荘厳で華美なものであった。最も私の目を
ひいたものは王の莫大なコレクションの数々で
あった。それらのコレクションには、どれも色鮮
やかな石や貝や真珠といった素材で作られた豪
華な装飾が施されており、王が当時いかに強大な
権力を持っていたかをはかり知ることができた。
しかしこれらの壮大な事業には膨大な資金が
必要となり、その調達のために次第に市民へ重税
を課すようになっていった。さらに、ポーランド
王との戦争にかかる戦費が必要となったこととも相まって、市民の貧困が問題となってき
た。
そのような最中の 1708 年に、強王が密かに開発を進めさせていた東洋の磁器技術に関し
て、マイセン磁器が発明され、これ以降の財政に大きく寄与した。こうして国政は再び立
て直されていった。
その後王朝は衰退を迎える。1756 年~1763 年に起こった 7 年戦争により、60 年間続いた
アウグスト時代は終焉を迎えた。その後もザクセン朝は続いていたが、1815 年のウィーン
会議でザクセンは領土の半分を失うと共に、政治的権力も喪失した。このころからドレス
デンは鉄道、機械工業の急速な発展、褐炭採掘、化学工業生産等が発展し、産業の中心地
としても発展し始める。そして 1918 年アウグスト 3 世が退位したことをもって、ザクセン
王制は終焉を迎えた。
その後、第二次世界大戦時にドレスデンは工業都市であったことから米英軍による激し
い空爆を受けた。これにより、18~19 世紀に建てられたバロックの町並みは壊滅的な被害
を受けることとなってしまった。その後の復興活動によって町の姿には大きな変更が加え
られた。歴史的市の姿とは一変した、自動車時代の社会主義的大都市としての姿が見られ
るようになった。そのような中、一方ではバロック時代の歴史的姿を取り戻そうという市
民の活動も存在した。それにより、フラウエン教会を始めとしたいくつかの建造物が再建
への道のりを辿っている。このような、
歴史的意義を証明している建物や景観を
復元し、残して行こうとする取り組みは、
世界遺産としてその価値が認められたも
のを保存して行く上で重要な役割を果た
している。そしてさらにはそうした人々
の営みが、過去に存在した歴史的意義を
持つという遺産の特質のみならず、将来
に渡ってその価値が進化・発展し続ける
といった意味での特質をもった遺産へと
25
報告書
さらに価値を高めるものとなっていくのではないかと思う。
このようにドレスデンにはその土地に根ざした王朝の発展・衰退の歴史があり、その過
程の中で形成されてきた、さらには今後形成されていく景観が価値を証明している遺産と
言えるのではないだろうか。
<参考文献>
・ 世界遺産登録推進三県協議会(三重県・奈良県・和歌山県) 「世界遺産 紀伊山地の
霊場と参詣道」
・ 奈良国立文化財研究所学報第 58 冊 「文化と自然のはざまにあるもの~世界遺産条約
と文化的景観~」 本中眞
・ シンクタンクせとうち総合研究機構 「世界遺産ガイド-日本編-2004 改訂版」
・ 学習研究社 「神秘と静謐の地」
・ 岩波新書 「熊野古道」 小山靖憲
・ 岩波新書 「熊野修験の森-大峯奥駆記」 宇江敏勝
・ 新評論 「熊野古道みちくさひとりある記」 細谷昌子
・ 有斐閣アルマ 「ドイツの歴史-新ヨーロッパ中心国の軌跡」
・ シンクタンクせとうち総合研究機構 「世界遺産ガイド-ドイツ編-」
・ ミネルヴァ書房 「ドイツの歴史と文化の旅-歴史家の手作りツアー体験記-」 望田
幸男
・ 三修社 「ドイツ 18 世紀の文化と社会」 マックス・フォン・ベーン
・ 朝日選書 「ドイツ歴史の旅」 坂井栄八郎
・ 日本放送出版協会 「ドイツ-その魅力と背景」 早川東三
・ 講談社版 「世界の文化地理第 10 巻ドイツ・オーストリア」
<参考ホームページ>
・ http://www.sekaiisan-wakayama.jp
・ http://www.pref.wakayama.lg.jp/sekaiisan
・ http://www.tbs.co.jp/heritage
・ http://ja.wikipedia.org/wiki/
・ http://www.visit-germany.jp/Default.asp
・ http://pws.prserv.net/elbe/
・ http://homepage1.nifty.com/uraisan/yakata2/j0406.html
・ http://www.wha.or.jp/travel/dresden.html
・ http://www.unesco.jp/contents/isan
・ http://whc.unesco.org/
26
「紀伊山地とドレスデン
藤井 映理子
文化的景観の持つ価値と真正性について」
紀伊山地と
紀伊山地とドレスデン 文化的景観の
文化的景観の持つ価値と
価値と真正性について
真正性について
藤井 映理子
はじめに
2005 年 7 月、私は初めて紀伊山地を訪れ、熊野三社・青岸渡寺・補陀洛山寺などの霊場
に参った。紀伊山地は自然崇拝に根ざした神道と中国伝来の仏教・その融合から生まれた
修験道など、多様な信仰の形態を示すものであり、自然環境と信仰が一体となった大霊場
である。しかしながら雄大な那智の滝や、立派な社寺など多くの名所を訪れる中で最も私
の印象に残ったのはその参詣道の存在であった。熊野は、標高 1000~2000 メートルの山脈
が走り深い森林を育む山岳地帯ではあるが1、私が歩いた参詣道の自然は、世界自然遺産の
ごとき、人類未踏の原生自然としての価値を持つものとは異なり、むしろ当初、その姿は
私には何の変哲も無いごく普通の山道のように映ったのである。
通常、世界遺産、とりわけ文化遺産といえば、古くから残る壮麗な教会や宮殿、古代の
遺跡といったものを思い浮かべる。そのような遺産が価値あるものだということは、誰の
目にも一見して納得のいくものであろう。一方、上記参詣道の様な遺産はこういった記念
的工作物とは異なり、一見するだけでは明らかな価値を見出すことはできない。しかし、
だからこそ、この素朴な山道は、文化的景観という新たな文化遺産の持つ価値を象徴して
いるように私には思われた。
紀伊山地の
紀伊山地の参詣道、
参詣道、中辺路
1
「世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道」
、世界遺産登録推進三県協議会(三重県、奈良県、和歌山県)
、
2005 年、43 頁。
27
報告書
文化的景観という遺産と価値
「作業指針」によると、世界文化遺産はその登録において、遺産が「顕著な普遍的価値」
を持つ本物の遺産であるということを、6 つの登録基準と遺産の真実性に関する評価によっ
て明らかにする必要がある2。つまり、遺産の「顕著な普遍的価値」は、登録基準により具
体化され、真実性の基準によって確かにその価値を持つものか否かを明らかにしていくわ
けである。そこで、この真実性の計測の指標として「意匠」、「材料」、「技術」、「環境」と
いう要素が挙げられるのだが3、この基準からは、遺産の真実性というものが主に物質的な
側面から審査されるということが伺われる。
しかしながら、世界に存在する遺産は、いわゆる石の文化の如く当時の姿から手を加え
られずに証拠が残るものばかりでは無いのは当然のことである。上記の 4 点が示す物質的
な側面から証明される価値では補われない、ノンモニュメンタルな遺産の文化的価値も存
在するのである。そこで、広がりゆく文化遺産の価値について、遺産の真実性とは何かと
いうことをめぐり話し合われた奈良会議では、文化の多様性と遺産の多様性が広く認めら
れ、また、奈良ドキュメントにおいては 4 つの評価基準に加えて「用途や機能」
・「精神や
感性」といった基準を加えるなど、他の内的外的要因を含めた真実性の評価基準の必要が
唱えられた4。遺産の物質的な側面に加えてその背景にある文化的な文脈、精神にも注目す
ることが、総合的に遺産の真実性を評価するうえで必要となるということが示されたわけ
である。
文化的景観も、上のような遺産の価値の拡大とともに生まれてきた概念であるといえよ
う。文化的景観は、人間の営為と自然の結合の所産、「自然と人間の共同作品」といわれ5、
その価値には人間の自然に対する働きかけというものが評価される。人間の生活や産業・
自然環境や地理などを反映して形成されるため、景観の持つ有形の側面によって人間の信
仰などの無形の価値が反映される遺産なのである。このため、文化的景観の真実性の証明
に関しては、通常の 4 つの指標に加えて、「文化的景観の真実性の証明の基準」として、新
たに「特徴・特性」と「構成要素」という基準が設けられた。特に、文化的景観の 3 つの
カテゴリーの中でも、「関連する景観」は、形ある文化的証拠が乏しい場合に、自然の要素
と文化的要素との強烈な結びつきを大きく評価するものであり6、紀伊山地もこの関連する
景観に区分される。
2
本中 眞/ 文化と自然のはざまにあるもの~世界遺産条約と文化的景観~,奈良国立文化財研究所学報
第 58 冊, 1999 年 12 月,241 頁。
3
本中 眞/ 文化と自然のはざまにあるもの~世界遺産条約と文化的景観~,奈良国立文化財研究所学報
第 58 冊, 1999 年 12 月,238 頁。
4
THE NARA DOCUMENT ON AUTHENTICIY, Nara Conference on Authenticity in Relation to the World
Heritage Convention,Nara,Japan,November,1994.
5
本中 眞/ 文化と自然のはざまにあるもの~世界遺産条約と文化的景観~,奈良国立文化財研究所学報
第 58 冊, 1999 年 12 月,241 頁。
6
本中 眞/文化と自然のはざまあるもの~世界遺産条約と文化的景観~,奈良国立文化財研究所学報 第 58
冊,1999 年 12 月。
28
「紀伊山地とドレスデン
藤井 映理子
文化的景観の持つ価値と真正性について」
紀伊山地の価値と真実性
紀伊山地の遺産に含まれる建造物の中には創建以来、老朽化や災害などによる被害をう
け、近代以降に修理・再建されたものも多くあり7、必ずしも古くより創建のままの姿を完
全に残してきたものばかりとはいえない。もちろん、意匠・材料・技術・環境の点におい
てもその真実性の保持はなされていると考えられているが、それと共に、奈良ドキュメン
トによって定義された「真実性」はこの信仰の山にも適用されると考えられ、この紀伊山
地の真実性は建造物等の物質的要素のみによって証明されているものではなく、その文化
的背景や精神にも大きなスポットが当てられていると言える。
実際、紀伊山地の真実性の証明においては、信仰の山という文化的景観の構成要素は、
歴史的建造物などの遺構や遺跡、深遠な緑や巨大な滝といった自然物・自然の地域のよう
な歴史的に神聖性が高いとされてきた多様な「場所」からなるとされている。そして、こ
のような物質的構成要素に加えて、神聖性の高い「場所」を構成する要素として、神道、
仏教、修験道などに関する各種の宗教的儀礼等や行業、祝祭に関する行為が今なお継続的
に行われていることが挙げられ、有形的な要素に限らず、無形の諸要素とその性質に関す
る真実性もきわめて高いと評価されている8。
上で述べた参詣道も、資産の価値証明においては「参詣に際しては、口にする食物や行
為を自ら制限し、心身を清浄に保つことが求められた。したがって、これらの参詣道は人々
が下界から神仏の宿る浄域に近づくための修行の場に他ならず、他の地域における一般の
街道とは明らかに性質を異にしていた。
」とされ、紀伊山地に育まれた信仰の精神とその歴
史の価値を証明するものとして、挙げられている。位置・環境に関する真実性の証明にお
いても、「遺跡の構成要素である参詣道は、神聖性を醸成する上で極めて良好に保たれてい
る9」とあるように、
「信仰の場」としての参詣道の価値が重要視されていると言える。
この参詣道は、確かにそれ自体は有形のものとして、物質的な側面で遺産の価値を明ら
かにするものかもしれない。しかし、一見するかぎりでは素朴な山道が世界遺産として登
録されているということは、この山道を過去から現在に至るまで数え切れない人間が歩き、
この険しい参詣道を歩くことで驚異的な自然への畏敬の念を深め、多様な信仰の形が育ま
れる中で、次第に参詣道が修行の場として霊場という空間を形成したという自然と人々の
営みが無形の価値として参詣道に反映されているということであろう。
ドレスデンの価値と真実性
それでは、今回のドイツ研修で訪れた、同じ文化的景観であるドレスデンはどうだろう
か?ドレスデンは、かつてはザクセン王国の中心として栄え、ヨーロッパ文化や交通、技
7
「世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道」
、世界遺産登録推進三県協議会(三重県、奈良県、和歌山県)
、
2005 年、45 頁。
8
「世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道」
、世界遺産登録推進三県協議会(三重県、奈良県、和歌山県)
、
2005 年、46 頁。
9
「世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道」
、世界遺産登録推進三県協議会(三重県、奈良県、和歌山県)
、
2005 年、46 頁。
29
報告書
術などの交流点としてヨーロッパの発展に関係してきた歴史を持ち、特に、華やかに栄え
た 18~19 世紀の文化を象徴する街である。エルベ川流域に文化的景観が広がり、そこには、
牧草地や宮殿、バロック様式の建造物が立ち並び、19~20 世紀の庭園や別荘地なども見る
ことができる10。一見すると建造物群として登録がなされていてもおかしくないような華や
かで美しい町並みである。私も最初のうちは、この壮麗な街が紀伊山地と同じ文化的景観
として登録されていることが不思議に感じられた。
しかし実はこの街は、かつての第二次世界大戦の際の米英軍による攻撃で町の中心部が
大きな爆撃を受けており、その際、当時大きな歴史的価値を持っていた建築群などは壊滅
状態に陥り美しい町並みが崩壊したという苦い過去をも持つのである。郊外部分は爆撃を
免れたが、今現在この街の中心部にある建造物の多くは、古くより存在してきたものでは
なく、戦後に再建された建造物なのである。
つまり、ドレスデンという遺産もまた、その華やかな外見とは裏腹に、その価値を証明
する記念的工作物といった物質的な証拠によって真実性を証明することは困難な遺産だっ
たといえるかもしれない。この街が、文化的景観、特に「継続する文化的景観」であると
定義されたのは、むしろ、戦後この街並みがかつての姿に復元されていくという過程にお
ける人々の営みが評価されたからではないだろうか。
そんな中、ドレスデンにはこの街の再建のシンボルともいうべき建築物が存在した。そ
れが聖母教会である。この聖母教会は大戦で跡形なく破壊されたのだが、大戦によって聖
母教会を失ったことを悲しみ、ドレスデンの再興を願う人々が再建の為に資金を出し合い、
ばらばらになった教会を構成していたレンガを集めなおして当時の資料を基に忠実に教会
を再建しているのである。このとき集められたレンガは驚くべきことに、全体の 40%にも
上るという11。
10
11
30
http://whc.unesco.org/
http://whc.unesco.org/
「紀伊山地とドレスデン
藤井 映理子
文化的景観の持つ価値と真正性について」
復元された
復元されたフラウエン
されたフラウエン教会
フラウエン教会:
教会:黒い部分には
部分にはオリジナル
にはオリジナルの
オリジナルの石が使われている
今回の滞在で、この聖母教会の再建を呼びかけ、尽力したギュットラー氏に話を聞く機
会があった。彼の話の中ではフラウエン教会再建の経緯や、再建がいかに困難なものであ
ったかなどについて聞くことが出来た。再建には多くの課題があり、当初は設計図どおり
の再建が可能であるかどうかも不明だったという。しかし、再建に尽力した人々は強い意
志を持ってそれらの困難に立ち向かい、費用の問題や政治的な圧力、東西分裂という時代
の問題にも屈することなく再建を果たした。そして、そこにはドレスデンの人々に限らず、
かつては敵国民であった人々も含めた世界中の協力もあった。フラウエン教会は再建にか
けるドレスデンの人々の情熱と、世界中の人々の平和への願いによって甦ったのである。
彼の話はとても興味深く、また感動的であり、胸を打たれる経験であった。
この教会は、重要な価値を持つ文化的景観の一部として、世界遺産に登録され、真実性
の証明においてもその復元について言及されている。聖母教会は一度は破壊されたが、そ
の再建は、その地に暮らす人々の街並みや街づくりといったものへの働きかけを何よりも
よく反映しているものと言えるのではないだろうか。
31
報告書
ギュットラー氏
ギュットラー氏のインタビュー
今回、紀伊山地とドレスデンという二つの文化的景観を比較し、考えてみて一つ分かった
ことがある。両者の遺産は、一方は「信仰の山」もう一方は「歴史と産業の都市」とその
特徴も外観もかなり異なっている。しかし両者は遺産の真実性を示す物的証拠が乏しい状
態にあるにもかかわらず、その遺産の価値を認められた文化遺産であり、同じ「文化的景
観」である。では、この両者を同じ区分の遺産たらしめたものは何だったのだろうか?そ
れこそが、この文章の初めから述べ続けている人間の営みなのであろう。
紀伊を訪ねた際、紀伊の人々は那智の滝のことを「お滝さん」と呼んでいた。それは紀
伊の人々にとってこの滝が単なる滝ではなく、その地の人間に親しみ、敬うべき存在とし
て根付いていることを示すものであろう。この地では出会う人出会う人が、熊野を訪ねる
人間に話しかけ、案内をしてくれる。参詣道には参拝者用に地元の人々が善意で置いてい
る杖が備えられ、補陀洛山寺では、ご住職が私たちに浄土思想や南方渡海という昔の風習
について説明をしてくれた。紀伊の霊場は、決して過去の遺物などではなく、そこには今
も紀伊の神仏への信仰が息づいていたのである。
那智の
那智の大滝
32
補陀洛渡船の
補陀洛渡船の模型
「紀伊山地とドレスデン
藤井 映理子
文化的景観の持つ価値と真正性について」
一方、ドレスデンでは、大戦によって失われた街を愛する人々が、街のシンボルである
聖母教会の再建に力を尽くしていた。そこにはかつて華やかに花開いた街を何とかしたい
という人々の気持ちがあり、また、新たな平和のシンボルとしてもこの聖母教会を復活さ
せたいという意思も感じられた。また、ドレスデンに発達した産業は、今もケーブルカー
などの形を残し、そこに暮らす人々に愛され、利用されている。
紀伊山地もドレスデンも、古くからの遺物を形だけ守っているだけの遺産ではない。そ
こには今も遺産の用途が生きており、遺産は社会的な関わりの中で息をしている。そして
何より、この両者には、常に遺産とともにそこに関わる人間がついているのである。紀伊
にもドレスデンにも、その景観を守る、生きた人間の顔がそこにはあった。文化的景観と
いう遺産は、これまでの文化的な価値を守りつつ、生きている遺産なのである。
<参考文献>
・ 「世界遺産
県
紀伊山地の霊場と参詣道」、世界遺産登録推進三件協議会(三重県
奈良
和歌山県)
、2005 年 3 月
・ 本中 眞 「文化と自然のはざまあるもの~世界遺産条約と文化的景観~」,奈良国立文
化財研究所学報 第 58 冊,1999 年 12 月
・ THE NARA DOCUMENT ON AUTHENTICIY, Nara Conference on Authenticity in Relation
to the World Heritage Convention,Nara,Japan,November,1994
・ http://whc.unesco.org/
33
報告書
文化遺産保護と
文化遺産保護と所有権の
所有権の抵触
羽賀 由利子
はじめに
1.世界遺産への登録と国内法による保護
2.日本における文化財の保護
3.保護対象の変化と問題の顕在化
4.日本における所有権制限と補償の議論
5.ドイツにおける所有権との議論――期待可能性原則
6.日本における文化財保護と所有権の尊重(再論)
はじめに
紀伊山地では古くから林業が盛んであり、いまでも
吉野杉や檜などが栽培されている。良質の樹木を育て
るには枝打ちや伐採など多くの作業が必要であり、紀
伊山地の森林は林業従事者のこのような努力によって
維持されてきた。
2004 年、三重、奈良、和歌山の三県にわたる熊野古
道がユネスコの世界文化遺産として登録された。その
ため、熊野古道は道それ自体の保護と周辺の緩衝地帯
の確保がはかられることになった。
紀伊山地の森林の多くは私有地であり、それぞれに
所有者が存在する。登録にあたり、文化庁と地権者と
の間で話し合いが持たれた。多くの地権者とは合意に
至ったものの、合意に達しなかった一部の地権者が自
らの権利主張のために古道の木や石に抗議文を書くと
熊野古道の一部(和歌山県)
いう問題が、三重県八鬼山道で発生した。
ひるがえって、ドイツのケルン大聖堂は 1996
年に世界遺産に登録されたが、周辺の開発が進
み、大聖堂周辺のライン河岸にも高層建築物の
建築構想が持ち上がった。世界遺産登録申請時
のケル ン大聖堂の周 辺の都市 景観の完全 性
(Integrity)が損なわれることが危惧され、2004
年には危機遺産のリストに登録された。
これらの問題は、世界遺産、あるいはその周
八鬼山道の一部(三重県)
34
羽賀 由利子
「文化財保護と所有権の抵触」
辺の所有権との抵触に帰結する。所有者は
そもそもは、自らの所有権の客体を自由に
処分できる。しかし、世界遺産に限らず、
文化財を保護するためには所有権が制限さ
れる場合がある。
以下では、世界遺産条約においてどのよ
うな保護が求められているのかを概観した
後、日本での文化財保護行政はどのように
行なわれているか、所有権とのバランスは
ライン河対岸より大聖堂を望む
いかにはかられているかを、ドイツの法制
を参考にしつつ検討する。
1.世界遺産への登録と国内法による保護
世界遺産への登録にあたっては、世界遺産としての価値を将来にわたって継承していく
ための恒久的な保護・管理措置が講じられている必要がある。遺産の保護は各国の責任の
もと行なわれることになっており、各国は国内法のもと、厳正な保護体制をとらなくては
ならない(世界遺産条約 4 条、5 条、および「世界遺産条約履行のための作業指針」(以下
「作業指針」)24 項 b(ii)
、44 項 b(iv))。
さらに、
「作業指針」17 項、24 項 b(ii)、44 項 b(iv)では、遺産の普遍的価値を保護す
るために、法的保護の措置の元に、遺産の周辺に遺産本体と一体的な価値や環境を構成す
る適切な広さの緩衝地帯(バッファ・ゾーン)を確保することが求められている1。
2.日本における文化財の保護
日本の文化財保護法制は、1897(明治 30)年の古社寺保存法にさかのぼる。さらに、1919
(大正 8)年には史蹟名勝天然紀念物法、1933(昭和 8)年には重要美術品等の保存に関す
る法律が制定された。戦後、1950(昭和 25)年、法隆寺金堂壁画が焼失したことから文化
財保護の機運が再び高まり、同年、これらの法をまとめた文化財保護法が制定されている2。
日本の文化財保護法の特色3として、日本における文化財の大半をこの一法で保護すると
いう包括的法律であることが挙げられる。この法は、有形文化財、史跡、名勝、天然記念
物、無形文化財、民俗文化財、伝統的建造物群といった多様なものを対象とするものであ
1
本中眞「文化と自然のはざまにあるもの」奈良国立文化財研究所学報 58 冊(1999)
、239 頁。
文化財保護法の変遷については、椎名慎太郎「日本における文化財の保護」山梨学院大学社会科学研究 6
巻、196-198 頁参照。
3
文化財保護法の 3 つの特色については、椎名慎太郎『精説文化財保護法』
(新日本法規出版、1977)
、6-11
頁の分類にならった。
2
35
報告書
り、世界的にもめずらしいと言われる4。
次に、この法律の特色として挙げられるのは、この法は文化財の私的所有を前提とし、
私的財産に対する公用制限と、所有権とのバランスをはかることを基本目的に掲げている
ことである。これは、終戦直後、国家の財政も国民の生活も困窮を極めていた時期にこの
立法が行なわれたことも背景にあるが、この点は今回最も注目する点であり、後ほど詳述
する。
最後に、重点保護主義が挙げられる。これは、この法によって保護すべき対象をあらか
じめ指定することで、実態を把握し、保護施策をたてる目的から採用されたものである。
しかしながら、いったん指定の対象からはずれたものについては、保護が及ばないという
デメリットがある。
3.保護対象の変化と問題の顕在化
そもそも、文化財保護法が保護対象
としてきたのは城郭や寺社といったモ
ニュメンタルなものであり、一般市民
が所有し、居住するといった直接的な
関わりを持つものではなかった。しか
し、明治以降の近代的建造物をも保護
の対象に含むべきであるとする議論の
高まりから、1996(平成 8)年、登録
文化財制度が導入された。
登録文化財制度は、指定外の文化財
のうち保存活用措置が必要なものを対
ゼミの風景
象とし、これらを補完的に保護する目的で設立された。登録された対象については、管理・
修理・公開に関しては緩やかな規制が加えられる一方、税制上の優遇が認められる制度で
ある。
この制度は、従来に比べて規制の程度が緩やかである。それは、対象が近代以降の建造
物など比較的新しいものを対象とするため、文化財としての重要性が比較的低いというこ
とがまず理由として挙げられる。それに加えて、近代以降の建造物はいまなお使用されて
いるものが多いため、所有権との抵触が予想されるからである。
4.日本における所有権制限と補償の議論
それでは、日本において文化財を保護する際、所有権とのバランスをいかにはかってい
くかについて概観する。
4
他国においては、有形文化財と史跡を中心に保護が行なわれており、自然的名勝や天然記念物に相当す
るものまで有形文化財等と同一の法律で保護している例は稀である。前掲脚注 3、7 頁。
36
羽賀 由利子
「文化財保護と所有権の抵触」
日本国憲法 29 条 3 項においては、私有財産が公共の福祉のために用いられることが認め
られており、その際には正当な補償がなされなければならないとされている。また、民法
206 条において、所有者は「法令ノ制限内ニ於テ」所有物を自由に処分することができると
定められている。文化財保護法における所有権の制限は、民法 206 条における「法令ノ制
限」にあたるものである。
文化財保護法は、4 条 3 項において所有権その他の財産権の尊重を、45 条 2 項では文化
財保護に際して損失を受けた者に対する補償を定めている。しかしながら、文化財の保護
のために権利を制限された所有者による訴訟例も多く存在している。
では、どのような理由によって文化財の所有者はその権利を制限されるのであろうか。
憲法 29 条 3 項の「公共の福祉」は抽象概念であるが、文化財保護に際しては具体的にどの
ような理由付けがなされているのか。
文化財が貴重な国民的財産であることがその理由とされる(文化財保護法 4 条 2 項)。文
化財は歴史や文化を体現するものであり、したがって「その所有者が、公共のために大切
に保存することは、所有者に課せられた社会的責務であり、したがって、その現状を維持
すべきことは、当該財産権に内在する社会的拘束」であり、
「現状変更の制限に伴う損失は
受任可能な消極的損失に過ぎない」ものであるとされる5。
こうして、文化財に指定されることは所有権者にとっては大きな損失になることが多く、
重要文化財として指定されることを免れるために現状をあえて変更するという事例が見ら
れ、かえって文化財の滅失を早めてしまう現実も存在する6。
では、文化財そのものではない緩衝地帯についてはどうか。文化財保護法において一律
に緩衝地帯の確保を求める明確な条文はない。しかし、公の文化財の環境保全のため、そ
の周辺の一定地域内における行為に対
して制限もしくは禁止を課すことので
きる規定がある(文化財保護法 45 条、
81 条)
。これは、世界遺産条約における
バッファ・ゾーンの概念と類似の性格
のものであるといえる。しかしながら、
この文化財の周辺環境の保全について
の条文はいまだ適用されたことがなく、
実質上死文化していると指摘されてい
る 7。
テューリンゲン記念物庁での講義風景
5
今村成和「文化財保護と補償問題」ジュリスト 544 号(1973)
、34 頁。
前掲脚注 5、34 頁。
7
大西国太郎「文化遺産と都市――建築物保存の新しい動き」ジュリスト 710 号(1980)
、81 頁、また、前
掲脚注 1、307 頁など。
6
37
報告書
5.ドイツにおける所有権との議論――期待可能性原則8
ドイツにおいては、文化財保護の領域はラントの担当となっている。各ラントによって
詳細は異なるが、おおむね、状態維持の規制、利用態様の規制、現状変更に関する規定が
おかれている。
これらの措置に関しては、「期待可能性原則」のもとに規定がおかれている。措置が所有
者にとって期待可能(zumutbar)である限りにおいて所有者は規制を受けるものであり、こ
の枠を超えたときには法的義務はないとされ、当局の規制権限も根拠を失うとされている。
期待可能性原則による留保がない場合には、当局は、裁量の行使に際しては所有権の保
障を考慮しなくてはならず、基本法 14 条 1 項の比例原則等を満たしたものでなくてはなら
ない。あるいは、経済的に期待可能な利用が不可能になる場合には、相当補償請求権を認
めるとするラントもある。こうして、期待可能性原則の留保がない場合にも、所有権との
バランスがはかられている。
期待可能性原則は実定法上の原則であるが、抽象的な文言であり、どのような場合が具
体的に期待可能であるか否かについては判例によって補完され、一般的な法理論として形
成されつつある9。
6.日本における文化財保護と所有権の尊重(再論)
くり返しになるが、私有財産権は公共の福祉によって制限される可能性を有しており、
制限の態様、程度、内容が公共の福祉に合致するものであれば、所有権の制限は正当なも
のとされる10。しかしながら、制限が行われる以上は正当な補償がなされなくてはならない。
文化財が現代に存在するのは、周辺の人々の営みの中受け継がれてきたためにほかなら
ない。これは、世界遺産保護の現場における、「Dead Monument から Living Monument へ」
という議論と共通するものがあるのではないだろうか。文化遺産、あるいは文化的景観の
承継には、人間の営為が不可欠の要素として存在する。そして、今後もこれらを後世へと
受け継ぐためには、ひとの営みを途絶えさせてはならない。そこで生じてくるのが、現地
の人々との軋轢であろう。この問題と、所有権との抵触の問題は、その根幹は同じである
ように思われる。
かつてモニュメンタルなものを対象としてきた文化財保護が、ノンモニュメンタルなも
のをもその射程に入れるようになった現代、所有権との軋轢は避けられない問題であると
考える。今後、このような問題を扱う裁判例や議論の蓄積を待った上で、現状に見合った
柔軟な文化財保護制度の確立が求められる。
【参考文献】
8
この段落については、南川和宣「文化財保護と所有権補償――ドイツ記念物保護法制における期待可能
性原則」修道法学 25 巻 2 号(2003)を大いに参照した。
9
前掲脚注 8、437 頁。
10
仁平先麿「文化財保護と土地所有権の制限」国士舘法学 6 号、188 頁。
38
羽賀 由利子
「文化財保護と所有権の抵触」
脚注にあげたもののほか、
○ 浅野裕司「世界遺産条約と各国内における法規制」比較法 40 号(2003)
○ 石井昭「世界遺産とは何か――推薦・審査・登録の実態――」都市問題 96 巻 6 号(2005)
○ 香西茂「文化遺産法」国際法外交雑誌 96 巻 1 号(1997)
○ 河野敏行・日置雅晴「風景計画とその法的根拠」西村幸夫+町並み研究会『日本の風景
計画/都市の景観コントロール 到達点と将来展望』(学芸出版社、2003)
○ 坂本英之「ドイツ/環境施策と融合した面的規制による都市風景の形成」西村幸夫+町
並み研究会『都市の風景計画/欧米の景観コントロール手法と実際』
(学芸出版社、2000)
○ 椎名慎太郎「法は美とどうかかわってきたか――文化財保護と法律」学術の動向 4 巻 9
号(1999)
○ 関野克「諸外国の文化財保護の実情」児玉幸多・仲野浩(編)
『文化財保護の実務』
(柏
書房、1979)
○ 西村幸夫「欧米における風景法」西村幸夫+町並み研究会『日本の風景計画/都市の景
観コントロール 到達点と将来展望』(学芸出版社、2003)
39
報告書
世界遺産の
世界遺産の管理、
管理、保存に
保存に携わってきた人
わってきた人々
東山 尚子
はじめに
私は昨年の 11 月に紀伊山地を訪れ、熊野参詣道の一
つである中辺路を歩いた。杉木の木漏れ日が射す中、
語り部の解説を聞きながら美しい小道を歩いた。所々
石が敷いてあり、脇に生えている草木は邪魔にならな
いように刈られているところもある。山道というのは、
人や獣が継続して歩いていれば道としては残る。しか
しながら、ただ歩いているだけでは道の保存には十分
ではない。生えてくる雑草や折れた木の枝、転がって
くる岩や石などによって、道はすぐに汚くなってしまう。そして、その状態が続けば道は
道でなくなってしまうだろう。また、大雨や嵐などで道が荒れてしまえば、元通りに直す
必要もある。ただ道が残っているといっても、そこには人による作業が必要不可欠なのは
明らかである。誰かがこの古道を美しく保ってきたということは間違いないのだ。
そこで、どのような人々の手によって維持、管理がなされてきたのか、と考えた。そし
て、その保存活動に関わってきた人々は、どういう意識を持って活動してきたのだろうか、
ということに興味をもつようになったのである。したがって本稿では、私が実際に訪れた
二つの世界遺産、「紀伊山地の霊場と参詣道」(ここでは特に参詣道に注目する)と「ドレ
スデンのエルベ川流域」について、まずその起源について触れた後、歴史上保存に関わっ
てきた人々について概略を示す。両者に共通する点を指摘し、そして特に一般の市民に焦
点を当てる。人々が生活空間の一部として遺産を保存してきたという点に注目し、そのよ
うな保存活動に伴う問題点を指摘する。このようにして、現代における世界遺産の保存活
動について考察を加えたいと考えている。
「紀伊山地の
紀伊山地の霊場と
霊場と参詣道」
参詣道」
紀伊山地は太平洋に張り出した紀伊半島の大部
分を指す。この山地には、標高 1,000~2,000m級の
山脈が東西あるいは南北に走っている。年間 3,000
㎜を超える豊かな雨水が深い森林を育む山岳地帯
である。豊かな自然を有していることから、この
土地は、古代より神々が鎮まる特別な地域と考え
られていた。このように、神々が宿る所として崇
拝されてきた山々が、新しく渡来した仏教の影響
40
東山 尚子
「世界遺産の管理、保存に携わってきた人々」
のもと、宇宙や自然の中にひそむ神秘的な力を身につけるための山岳修行の場となったも
のである。吉野・大峰、高野山、熊野三山の三大霊場は、都のおかれた奈良、京都から比
較的近かったため、早くから皇族や貴族の信仰の対象となった。都からこれらの霊場へ向
かう参詣道は、多くの参詣者の列が延々と続き、多くの人々により利用されたという。そ
の後武士や一般の人々に信仰が広がり、また、街道としても利用されていた。多くの参詣
道が時代をおって整備され、現在まで良好な形で遺存している。
このように古代より皇族、貴族により多くの寄進がなされ、彼らの庇護の下、整備がな
されていた熊野参詣道であった。本格的に整備されたのは江戸時代、17 世紀前半のことで
ある。元和五年(西暦 1619 年)、徳川頼宣が初代紀州藩主となると、藩の諸政策を進める
中で街道の整備を重視した。頼宣は、政治的な交通路として、「紀伊路」に「伊勢路」を加
えて、熊野街道として整備したのである。
この熊野参詣道について特筆すべきことは、やはりこの地が古来より特別な地であり、
参詣道を徒歩で進み自然との接触を重ねること自体が修行であったということである。し
たがって、参詣道それ自体が聖域とされたので、この聖域を神聖な状態に保つということ
が、周辺に住む住民または外から訪れる訪問者といった多くの人々にとって彼らの信仰心
の表れだったのである。この土地は、これまで人々の厚い信仰心を集め、時代をおって、
継続して人々の参詣があった。また、周辺に参詣者を接待する施設も整備された結果、こ
の土地がこれまで残ってきたといえるだろう。今でも地道や石畳の道が多数残存していて、
長い距離を歩くことが可能であり、長年にわたって歩ける良好な古道があることが、日本
随一の歴史の道といわれる所以である。
このように、日常の保全活動と、時代ごとの大規模整備により、現在まで保存状態が良
好な道が多数残っているのである。
生活環境の
生活環境の一部として
一部として管理
として管理されてきた
管理されてきた
しかし、熊野参詣道がどんな人々によって、どのように維持されてきたか、といっても、
やはり地域住民の果たした役割に注目すべきである。この参詣道も山道なのであり、地域
の住民が自分たちの生活空間の一部として管理、維持してきたという点では、今も昔も、
他の一般的な山道と同様であると思われる。人々は、自分たちの日々の活動として生活道
の手入れを続けてきたはずであり、これは、人々の生活に身近な遺産であれば、ごく自然
なことである。
30 年間道脇の草刈りを続け、日本観光協会より表彰された男性は、草刈りを始めたのは、
自分が毎日使う道を美しく保ちたかったのが始まりだ、と語っている。このように、現在
まで残っている様々な遺産で、人々の生活と身近であったものの中には、自分たちの生活
の一部として保存されてきたものも多いだろう。その結果として良好な状態で残っている
といえるだろう。
41
報告書
したがって、遺産の種類によっては、人々の生活の一部であるということが、その場所
が滅びないための重要な一要素であると考えられる。
「ドレスデンの
ドレスデンのエルベ川流域
エルベ川流域」
川流域」
では次に、
「ドレスデンのエルベ川流域」について
である。ドレスデンはドイツの東の端、エルベ川沿
いの平地に開けた町である。ドレスデンは、時を遡
ること 800 年前、町として始めて文書に記載された。
16 世紀から文化芸術の都として発展した。
かつて「強王」と呼ばれたフリードリヒ・アウグ
スト一世は、このエルベ川を街と景観の中心にしよ
うと努めた。アウグスト強王は生産活動を奨励し、
手工業や商業を優遇する政策を実施した。その結果、経済・産業は繁栄し、国には大きな
歳入ができたのである。この歳入をもとにドレスデンをルネッサンス様式の町からバロッ
ク様式中心の町へと変えていく施策をとった。フラウエン教会、ツヴィンガー宮殿、そし
てゼンパーオペラはドレスデンの街の特筆すべきシンボルである。
このような起源を持つドレスデンであるが、多くの建造物が、長い月日をかけて維持さ
れ、現在に至っている。このドレスデンも、人と自然の関わりの中で形成された文化的景
観として価値がある遺産である。したがって、そこには一般の人々が果たした役割も重要
である。人々は、自分達の生活の一部として、建物や道路や周囲の自然環境を管理してき
たということが、紀伊と同様に言えるであろう。
復旧、
復旧、復元の
復元の取り組み
ここで、言及せねばならないのは、保存活動には、維持だけでなく、再建や復興活動も
必要であるということである。というのも、各遺産はそれぞれ長い歴史を持つため、長い
年月を経て、様々な困難に直面し、存続の危機に遭遇してきた。したがって、復興という
取り組みも必要なのである。
上記のように、参詣道は人々の日常的な手入れ、または信仰心による維持、管理がなさ
れ、また時の権力者による整備がなされてきた。しかしながら、現在に至るまで完璧な保
存がなされてきたわけではなかった。明治になって熊野街道の路線変更や新道の開通、昭
和に入り、鉄道や新国道の開通などで、江戸期以前の熊野街道の峠道は次第に衰退したと
いう。このように長い月日を経て、廃道となり埋もれてしまった道もあったのである。そ
こで、埋もれた道が発掘されたり整備されたりして、道の保存が図られたのである。
熊野参詣道の中辺路については 1978 年から 1982 年、並びに 1997 年及び 1998 年に、そ
して、小辺路については 2001 年及び 2002 年に、それぞれ道の復旧・復元がなされ、また
42
東山 尚子
「世界遺産の管理、保存に携わってきた人々」
休憩施設、便益施設等の設置事業が実施された。
この点において、紀伊とドレスデンには共通点が見られる。ドレスデンも悲劇を経験し
ている。1945 年の空襲による街の破壊である。何百年にも渡って作り上げられた美しい町
は、わずか 2 日間で焼け落ちてしまった。人々はフラウエン教会やその他重要な建造物の
再建,修復を望んだが、それからほぼ半世紀の間、手つかずの状態でさ
らされた。しかし、東西ドイツが統一された後からようやく再建が開
始された。そして、再建工事資金は市民、また世界中の人々からの寄
付金で賄われている。彼らの資金と情熱によって実現したのである。
さらに、古い建物を取り壊そうという計画の多くが、市民の声により
中止された。
このように、無くなりかけていたものを復興、復活させようという
試みが大きな役割を果たしたという点で、紀伊とドレスデンには共通点が見られるのであ
る。
現在の
現在の保存活動
また、人々は、復興活動だけでなく、管理や維持活動に関しても尽力している。紀伊山
地では、現在では、行政による管理とともに、ボランティアによる熊野参詣道やその他の
参詣道の保存活動が大きな成果を挙げている。
管理活動に携わっている多くのボランティアグループが存在し、その中の一つが、語り
部グループである。そのメンバーは紀伊の歴史、自然、その他興味深い情報について説明
することができる。彼らは、熊野を訪れる参詣者や観光客に対して、熊野の歴史や、古道
歩きの楽しみ方、世界遺産としての霊場や参詣道を紹介、説明する役割を担っている。私
自身、熊野古道を歩いたときに、語り部に色々と質問をし、疑問に答えてもらった。その
結果、訪問前よりも熊野古道についての理解を深めることができたと感じている。この語
り部の存在は、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」について、観光客や参詣者に広く知
らしめ、この世界遺産に対する興味関心を高めるために大変重要である。そしてその他に
も、山の清掃やパトロールを行ったり、訪問者のために杖を準備したりするグループもあ
る。
以上のように、これら二つの遺産の保存において、人々はこれまで大きな役割を果たし
てきたし、また現在でも、保全活動に尽力している。
現代における
現代における保存活動
における保存活動に
保存活動に伴う問題
最後に、今日の保存活動における問題について言及したい。地域の一般の人々の働きが
不可欠であるということは既に述べた通りである。前に、道の清掃を続けてきた男性の例
を挙げて述べたように、遺産にとっては人々の生活空間の一部であることは、存続のため
43
報告書
に重要である。我々の生活様式が近代化すると、プラスティックのような新素材や、エア
ーコンディショナーといった新機器など、近代化以前では利用されなかったものが登場し
てきた。これらは、現代に生きる私たちの生活を、大変快適で便利なものにしている。し
かし、もし私が文化遺産を所有していて、その伝統的外観を維持しなければならないとす
れば、そのような新素材を使うことはできない。
例えば、誰かが古い建物に住んでいて、彼がその窓をモダンな様式に変えたいと思った
とする。しかし、それは景観を損なうとして許されないであろう。このようなものととも
に快適な生活を送ることができないならば、この家に住み続け、家を保存していくことは
困難である。悪い場合には、この家を世話する者はいなくなってしまうであろうし、もし、
遺産に誰もいなくなってしまったら、これらの遺産は無くなってしまうであろう。
しかしながら、一方では、遺産を後世に守り伝えようとするならば、利便性を少し犠牲
にしても、保存していこうという確固たる意思がなければならないだろう。このように、
生活が現代的になった今、生活の一環として世界遺産を保存しようとすることは大変難し
い面も有している。
最後に
最後に
世界遺産の最大の保全方法は、活用することである。その過程で、観光と遺産の保護の
衝突という難しい課題も出てくるが、遺産と、それを保存していく人々の双方にとって何
が最も有益な道かを模索していかなければならない。
44
橋本 京子
「世界遺産登録とツーリズム」
世界遺産登録と
世界遺産登録とツーリズム
橋本 京子
序、
2005年、北海道の知床が世界自然遺産として登録されたことに伴い、旅行会社の広告で
「世界遺産登録記念」と銘打った知床へのツアーを多数目にした。これまでも知床へのツ
アーはあったが、世界遺産として注目されることで観光客は増加したであろう。しかし旅
行者の増加が急激なものであれば、地元の受け入れ態勢が整っていなかったり、整備を目
的とした開発が本来の景観を損ねることはないかと考えた。そこで2004年に世界文化遺産
として登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」及び「ドレスデンのエルベ渓谷」について、
登録後の一年半の間でどのような変化が起きたかを調査する。
一、紀伊山地の
紀伊山地の観光客の
観光客の増加
紀伊山地は和歌山・奈良・三重の3県にまたがり、バッファゾーンを除いた登録地域が
495.3haという広大な範囲に及ぶ。その中でも主な観光地が多い和歌山県の観光振興課発表
の数値により、世界遺産登録後の観光客数の推移を検討する。
世界遺産登録された2004年7月、登録地域11市町村のうち5町(高野、九度山、本宮、
中辺路、那智勝浦)の観光客は41万8400人で、前年同月比の26.8%にあたる8万8400人増加
し、そのうち宿泊客が12万9100人(9.5%増)、日帰り客が28万9300人(36.4%増)である。
主要観光地7市町村(和歌山市、高野、白浜、串本、那智勝浦、本宮各町、龍神村)の観光
客は123万5000人で5.5%増加し、宿泊客が41万800人(5.3%増)
、日帰り客は82万4200人(5.6%
増)であった。
本宮町観光協会事務局によると、7月に
古道のボランティアガイドである「語り
部」89人が51件、3890人の利用者を案内
している。2003年7月は6件300人と、例年
夏場の利用者は少なかったにも関わらず、
一気に13倍に急増した。2004年5月は137
人の語り部が89件2180人の利用者を、6月
は103人の語り部が63件1590人の利用者
を案内した。7月の依頼件数は前の二ヶ月
と比較すると減少しているものの、登録
語り部とガイドツアー参加者
記念の大型ツアーにより週末は団体客が
相次ぐなど観光客が急増したため、全体の利用者数は大きく増加した。1本宮町の日帰り客
は6割、宿泊客を含めても48%増加した他、中辺路町でも観光客が2倍に、語り部利用者は
1
http:// www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/000200/ren/web/ren10/news.html
45
報告書
10倍となっている。 最も人気のある中辺路-本宮間の語り部利用は、8月も昨年の10倍を
記録し2、9月18から20日の連休は1日800人の利用者がいた。3
2004年12月30日から2005年1月3日の主要7観光地への観光客は、100万1900人で1万1700人
(1.2%)減少した。天候不順によるツアーキャンセルを主な理由として宿泊客が3600人
(2.9%)減少の11万9900人となったが、熊野三山への初詣日帰り客は伸びた。4
2004年一年間の観光客は、前年より153万5千人(5.2%)増えた3090万4千人で過去最高と
なった。世界遺産登録前半年間の宿泊客は前年より減り、日帰り客を合わせても2%の増加
であったのに対して、登録後半年間は宿泊客、日帰り客ともに増えて全体で8%の増加とな
った。本宮町が2倍に近い91%、中辺路町が89%、九度山町が42%、高野町が26%増加とな
った一方、新宮市は7%、那智勝浦町は4%増加にとどまった他、登録地域以外では増減に
差がついた。外国人宿泊客は80%増の11万人と大幅に増加しており、4万7千人で最多の台湾
に次いで、香港が3万1千人、韓国が1万5千人であった。5
2005年に入り、4月29日から5月8日までのゴールデンウィークは前年より1日短いこともあ
り、観光客は1.7%減の93万4200人となり、宿泊客は21万8500人で前年とほぼ同数、日帰り
客は71万5700人で1万6400人減少した。最も増加した那智勝浦は宿泊、日帰りともに伸びた
4%増の9万5600人で、古道の大門坂を訪れる人は3倍となった。6
7、8月は305万4200人で、ツアー・団体客が愛知万博に流れたためか7市町全てで昨年を下
回り、8%減少し、宿泊客は6.5%減の89万9100人、日帰りは8.6%減の215万5100人であった。
本宮町の語り部利用は85件で、昨年より22件減少した。7
12月30日から2006年1月3日までの観光客は102万7600人で、2万6千人(2.6%)増加した。
天候に恵まれ、初詣客増加が全体の増加につながったが、地域別では減少傾向にあり、宿
泊客が減少して日帰り客が増加した。8
以上の傾向から、世界遺産登録に伴って紀伊山地を訪れる観光客は増加したことがわか
る。特に日帰りツアーが人気で、語り部の利用件数が大きく伸びるなど、登録地域の中で
も特に本宮や中辺路に観光客が集中しており、歩きやすい古道が人気となっている。
二、観光地化の
観光地化の功罪
このような観光客の流入に対して、和歌山市の民間調査機関が、2004年7月から半年の観
光客増加は78億円の経済効果と1000人の雇用効果、県内総生産(GDP)を0.23%押し上げる
効果があったと分析した。観光客が県内で使った金額は50億円増の1533億円にあたり、雇
用などの1次・2次的影響を含めた経済波及効果は、約1.55倍の2380億円に上るため、従来
2
3
4
5
6
7
8
http://www.wbs.co.jp/news/archives/2004/08/16/index.html#005191
http://www.agara.co.jp/i-mode/news/2004/09/20040924_001.html
http://www.agara.co.jp/DAILY/20050118/20050118_006.html
http://www.wbs.co.jp/news/archives/2005/02/22/index.html#002393
http://www.agara.co.jp/DAILY20050518/20050518_008.html
http://www.agara.co.jp/DAILY/20050923/20050923_006.html
http://www.wbs.co.jp/news/archives/2006/01/19/index.html#003601
46
橋本 京子
「世界遺産登録とツーリズム」
の企業誘致や公共事業よりも少ない投資で県外から資本流入を生む理想的な経済効果であ
ったという。9その他、和歌山県内への中国人客が2003年の1800泊から、2004年の2900泊へ
増加するなど、海外からの注目も集めていることがわかる。
観光地化は地域社会に経済的利益をもたらしたといえるが、訪問者の増加は同時に地域
社会の生活に変化を与える側面も有している。一般道路に停車した大型観光バスから乗客
が乗降することで見通しが悪くなり、町道を横切る客と一般車が衝突しそうになることが
あるという。そのため大型バスに対応できる駐車場が必要となるが、過度な開発は本来の
自然景観を壊す恐れにつながる。また情報提供のため便利な看板を設置する傾向もあるが、
あまり大きなものになると周囲の景観に調和せず、同じく景観破壊を起こしかねない。
このような懸念に対し、紀伊山地では住民の生活と文化的景観を保護するための取り組
みが行われている。和歌山県は世界遺産条例を2005年7月に全国で初めて施行し、来訪者に
対してルールを守り、魅力と価値を多くの人々に伝える努力を求めている。2004年7月に奈
良、三重と3県合同で策定した「紀伊山地の参詣道ルール」は、動植物の乱獲禁止、ゴミ
やタバコのポイ捨て禁止、十分な準備や事前の計画づくりなど古道を歩く際の8つの約束を
含んでおり、観光客向けに携帯カードを作成して語り部から配布・啓発してもらう他、啓
発ビデオを作ってツアー旅行のバス内で見てもらうよう働きかけた。
また、遺産登録後の観光客増加に伴う古道や観光施設でのゴミのポイ捨て増加に対して
は、観光地からゴミ箱を撤去する動きがある。4年前に高野山の金剛峰寺が施設内のゴミ箱
50個全てを撤去したことに始まり、熊野本宮大社は2004年11月から境内の3個全てのゴミ箱
を撤去し、効果を挙げている。
このように、世界遺産登録による観光客の増加は経済効果を挙げる一方、文化的景観を
破壊する恐れもあるが、後者について顕著な例は未だなかった。
三、交通アクセス
交通アクセス
紀伊山地は地理的に観光地へのアクセスが容易ではなく、ツアー客でない個人や小グル
ープの観光客が各自で移動するための公共交通機関はあるものの、本数が多くない。JR線
は紀伊半島の縁に沿っていて、古道や寺社のある内部は整備されていない。そのため一般
客が自力で旅行する場合はバスかタクシー、マイカーに頼ることになる。バス利用客や宿
泊客、観光協会など2062人へ行われたアンケートでは、列車とバスの時間的接続が悪い、
バスの時刻表が会社別で乗り継ぎがわかりづらいので全てのバス運行をまとめた時刻表が
必要であるなど、交通機関の連携の悪さ、交通アクセス情報不足が指摘されている。この
反省を踏まえ、自治体とバス会社は自家用車で訪れた個人旅行客を駐車場から古道まで送
るサービス、「パーク&バスライド」などアクセス改善の具体的検討を始めたが、駐車場が
少ないことが今後の課題となっている。新しい交通サービスのうち、古道を歩く人の車を
ゴール地点に搬送するサービスやJR切符とレンタカーを組み合わせたプランが好評な一方、
9
http://www.agara.co.jp/DAILY/20050508/20050508_001.html
47
報告書
タクシーで古道を巡る割引プランはPR不足などで利用が伸びなかったという。
「パーク&バ
スライド」に関しては、観光シーズンの交通渋滞が激しい奈良市など他の世界遺産地域で
も行われている。
四、ドレスデンの
ドレスデンの立地と
立地と交通
ドレスデンはツヴィンガー宮殿、マイセンのタイ
ルで作られた「君主の行進」の壁画、聖母教会、エ
ルベ川を一望できるブリュールのテラスといった
主な観光名所が、旧市街に集中しているため徒歩で
観光ができる。観光局で18ユーロで手に入るドレス
デンカードは48時間、市内のバス・路面電車が乗り
放題になり、12の博物館や美術館が入場無料となる
他、エルベ川遊覧に割引があるなど非常に便利であ
ドレスデンを走るトラム
る。都市と山地の違いがあるが、ドレスデンは見所
が比較的近い範囲に集中し、交通の利便性も良く、
非常に観光に適している点が紀伊山地と対照的であった。滞在時に広場でたくさんの観光
バスを見たし、ドイツ人のツアー客が多かった印象を受けた。市内をバス、トラムが走り、
交通アクセスがよく連携がとれていた。聖母教会再建の中心となったギュットラー氏のイ
ンタヴューで、聖母教会が他の教会とともに巡礼道の一つとなったことで1日120から150件
のガイドツアーの申し込みや問い合わせがあり、2007年まで利用予約ずみだと言うように、
ドレスデンも世界遺産登録で観光に人気が出たようだ。
五、検討
世界遺産として登録されたことで脚光を
浴び、地域が活性化するのはよいが、先に世
界遺産登録された地のように1、2年で観光地
ブームが過ぎ去る現状が懸念される。熊野に
ついて、入山客が増え、罰則や監視体制がな
いことでマナー違反をする者が増えて環境
悪化が起きることを懸念していたが、語り部
の話によると地元ボランティアの活動もあ
って、紀伊山地では今のところ目立った環境
聖母教会への入場を待つ人々
被害はないそうだ。世界自然遺産である白神
山地では、巨木の周りが多くの観光客によっ
て踏み固められて吸水状態が悪化し、歩道のぬかるみを避けようと歩くことで70cmの歩道
が1.5~2mに広がったり、歩道以外に立ち入る入山者がブナの稚樹を踏み潰してブナ林形成
48
橋本 京子
「世界遺産登録とツーリズム」
が困難となり、歩道沿いにロープを張る例が報告されていると聞いていた。登録後一年半
の紀伊ではここまでの例は報告されていないが、危険な可能性として認識しておく必要が
ある。熊野の世界遺産としての価値は、道の険しさゆえ残された古い自然景観と宗教的要
因が融合した点にあると思われる。現在は地元教育委員会やボランティアが保存と整備を
行っているが、歩きやすさや利便性を求めて開発の手を加えるよりも信仰の山としての景
観を保存することが世界遺産としての本来の趣旨に合っていると思う。1960年のエジプ
ト・ナイル川でのアスワン・ハイダム建設工事から遺跡の保護が始まったように、「顕著な
普遍的価値」を有する遺産を世界的に保護することが世界遺産の精神であった。また世界
遺産条約5条は、過去の異物としてではなく、未来へ引き継ぐものとして「文化遺産および
自然遺産に対し、社会生活における役割を与え並びにこれらの遺産の保護を総合的な計画
の中に組み入れるための一般的な政策をとること」と規定している。よって単に観光客を
締め出せばよいというのではなく、日々の中で遺産の価値を認識できるよう生かしていく
ことが求められている。観光がもたらすものは、経済の視点から考えると利益と地域格差、
地域社会の視点では活性化と平穏の侵害、環境面では整備と開発があり、どうしても文化
より経済を重視しがちであるが、悪い面とよい面をうまく組み合わせて地域と観光客の両
者を満足させる取り組みが重要となる。
49
編集後記
編集後記
2005 年度の河野ゼミは、年度の前半は国際私法について、後半は世界文化遺産、特に文
化的景観についての研究を行ないました。本ゼミ論集は、年度後半に行なわれた文化的景
観の日独比較調査の成果です。すでに本ゼミ論集の中で述べた通り、2005 年度の河野ゼミ
生は、実地調査として、紀伊山地(熊野)、およびドレスデンはじめドイツ各都市を訪れて
おります。この調査はユネスコ・アジア文化センター(ACCU)青年交流信託基金事業の一
環として行なわれたものであり、その成果として、ユネスコ本部に英文での報告書を提出
いたしました。
本ゼミ論集を発行するにあたり、ユネスコに提出された英文報告書そのままの形での発
行も検討いたしました。しかしながら、世界遺産というものが日本でも脚光を浴び、マス
コミでも大きく取り上げられる今日、わたしたちの研究の成果が世界遺産に関する興味・
関心を深める一助となればと思い、英文と日本語の報告書をあわせた形での発行にいたり
ました。
ドイツ調査旅行から戻ったのが 2006 年 3 月 25 日とすでに年度末でした。また、ゼミ生
全員が卒業してしまったことも、日本語・英語双方での発行という事情に加えて、編集作
業の難航を招きました。結果、年度も変わったこの時期の発行となってしまいましたが、
無事にここにいたりましたことをうれしく思っております。
最後になってしまいましたが、このような研究の機会を与えてくださいました指導教員
の河野俊行先生、ドイツ調査旅行の引率をしてくださいましたステファン・フォーグル先
生に、厚くお礼申し上げます。
また、調査・研究の実施にあたり、本中眞博士(文化庁)
、稲葉信子博士(東京文化財研
究所)
、ルートヴィヒ・ギュットラー氏(ドレスデン聖母教会再建団体代表)、ヴェルナー・
フォン・トゥルッチュラー博士およびステファン・ヴィングハルト博士(テューリンゲン
記念物庁)
、クラウス・リーデル博士およびゲルハルト・グラーザー博士(ザクセン州立学
術文化庁)
、ゲルハルト・リース先生および成冨亜紀先生(ミュンヘン大学)の諸先生がた
に大変お世話になりました。この場を借りまして、お礼申し上げます。
加えて、ドイツ調査旅行において通訳を務めてくださったラプシュ麻衣さん、発表・討
論に参加してくださったミュンヘン大学の学生のみなさん、英訳を校正してくださった修
猷館高校の先生がたにもお礼申し上げます。どうもありがとうございました。
国際私法演習ではありますが、このテーマに関してはそれぞれ、多様な側面からの調査・
研究を行ないました。本ゼミ論集が、世界遺産、あるいは文化的景観に対する興味・関心
のきっかけになることを祈っております。
2006 年 5 月
九州大学法学部河野ゼミ
50
羽賀 由利子
添付資料
○ 調査日程一覧
○ 文化庁ヒアリング
文化庁ヒアリング調査
ヒアリング調査(
調査(2005 年 12 月 2 日)
「世界遺産に関する審議経過と「紀伊山地の霊場と参詣道」の登録に際する問題点」
講師:本中 眞 博士
○ 東京文化財研究所ヒアリング
東京文化財研究所ヒアリング調査
ヒアリング調査(
調査(2005 年 12 月 5 日)
「日本における世界遺産の実務」
講師:稲葉 信子 博士
○ ギュットラー氏
ギュットラー氏インタビュー(
インタビュー(2006 年 3 月 16 日)
「ドレスデン聖母教会の再建に関して」
講師:ルートヴィヒ・ギュットラー 氏
○ テューリンゲン記念物庁講義
テューリンゲン記念物庁講義(
記念物庁講義(2006 年 3 月 17 日)
「文化財保護に関するドイツ法制と実務」
講師:ヴェルナー・フォン・トゥルッチュラー 博士
ステファン・ヴィングハルト 博士
○ ドレスデン学術文化庁講義
ドレスデン学術文化庁講義(
学術文化庁講義(2006 年 3 月 20 日)
「ドレスデンの世界遺産登録に関して」
講師:クラウス・リーデル 博士
ゲルハルト・グラーザー 博士
○ 一覧
調査日程一覧
調査日程一覧
熊野
〔先行班〕
8 月 22 日
中辺路(近露王子、滝尻王子、牛馬童子)
熊野本宮大社
大斎原
8 月 23 日
補陀落山寺
那智大社
那智の大滝
青岸渡寺
8 月 24 日
速玉大社
神倉神社
〔後発班〕
11 月 4 日
中辺路
熊野本宮大社
瀞峡
東京
12 月 2 日 文化庁
世界遺産について講義
講師:本中 眞 博士
12 月 5 日 東京文化財研究所
日本における世界遺産実務に関する講義
講師:稲葉 信子 博士
ドイツ
3 月 10 日 ドイツ着
3 月 11 日 ベルリン
博物館島
ペルガモン博物館
旧国立美術館
i
添付資料
3 月 12 日 ポツダム
サンスーシ宮殿群
ベルリン
文化フォーラム絵画館
3 月 13 日 ベルリン
チェックポイントチャーリー
壁博物館
旧博物館
ベルリン大聖堂
カイザー・ヴィルヘルム記念教会
3 月 14 日 リューベック
ホルステン門
市庁舎
マリエン教会
3 月 15 日 ドレスデン
ドレスデン国立歌劇場にてバレエ鑑賞
3 月 16 日 ドレスデン
ルートヴィヒ・ギュットラー氏インタビュー
エアフルト
市街見学
大聖堂広場
大聖堂
3 月 17 日 エアフルト
テューリンゲン記念物庁にて講義
エアフルト市街見学
ワイマール
ゲーテ、シラー生家
バウハウス博物館
3 月 18 日 ドレスデン
聖母教会
緑の丸天井
アルテマイスター絵画館
3 月 19 日 マイセン
マイセン磁器工場
ドレスデン
聖十字架教会
聖母教会
ii
調査日程一覧
ツヴィンガー宮殿
3 月 20 日 ドレスデン
ドレスデン学術文化庁にて講義
ドレスデン城再建現場見学
3 月 21 日 ニュルンベルク
カイザーブルク
デューラーハウス
バンベルク
旧市庁舎
旧宮殿
新宮殿
司教座
聖ミヒャエル教会
小ヴェネツィア地区
3 月 22 日 ミュンヘン
ミュンヘン大学にてゼミナール
3 月 23 日 ミュンヘン
アルテ・ピナコテーク
ノイエ・ピナコテーク
ミュンヘン市街
3 月 24 日 帰国
iii
添付資料
最近の世界遺産における審議経過と
『紀伊山地の霊場と参詣道』の世界遺産登録の課題
文化庁(2005 年 12 月 2 日)、文化庁記念物課 本中 眞 博士
○ 文化財部…記念物課(名勝などの調査を行なう)
、伝統工芸課、美術課など
○ 世界遺産とのかかわり:文化的景観の概念を日本にどう取り込んでいくか?
→昨年、法改正。現在は近江八幡宮を選定するための作業を
行なう。
○ 世界遺産委員会の課題
“文化的景観”の注目度が上がり、28 回委員会では 45%を占める。
構成要素は多岐にわたる…自然・土地に対してどのように関わってきたか。過去~未
来にわたる価値。『記念建造物』とは異なる評価。今生きている我々はどのようにかか
わっていくか? 地域によって価値を持つものが異なると言う点も重要な要素。
○ 国境を越える遺産と連続性のある遺産の推奨
・ 高句麗の墳墓群(中国・北朝鮮)。中国では都市、北朝鮮では墳墓群、これらがひ
とつとして登録されている。
・ ヴァルヴェルイの無線ラジオステーション(スウェーデン)。長波の施設で科学技
術の発展の見本。連続性のあるものとして、一体でとらえていこうとする動き。
・ ストルーヴ測地線(ノルウェーほか 9 カ国)。地球の形態と規模測定のための大三
角測量が行なわれた。一体の遺産としてとらえられている。
・ オスン・オソグボの樹叢(ナイジェリア)
。
『森』を評価するための基準として文化
的景観が用いられた。ここに西洋人のデザインした作品が存在。文化交流が評価。
○ 動産(出土品など)に対する取り扱い → 基本的には世界遺産条約の射程外
日本法では遺構、遺物は一体として扱われる。掘り出されたものについての法的登録
はない。
○ 再建:原則としては世界遺産としての評価はない。ただし、平和的な意義がある場合は
例外。
(例)ボスニア・ヘルツェゴビナ。修復された旧市街が世界遺産に登録された。
『平
和への架け橋』と位置づけられている。
【熊野に関して】
○ 紀伊山地:2004 年に登録。
・ 吉野大峯――修験道
・ 高野山――密教
・ 熊野――海上につながる『浄土』(補陀落渡海)
・ 神社めぐり――中辺路 → 大辺路
○ 道の幅と道の線がよく残っている場所のみ登録されている。日本法においては、史跡・
iv
文化庁(2005 年 12 月 2 日)
本中 眞 博士
名勝・天然記念物のいずれかにそれぞれ登録されている。
○ 法的保護措置
・ 文化財保護法
・ 自然公園法
・ 森林法
・ 河川法
○ 緩衝地帯(バッファ・ゾーン)の保全措置
→ 上記に加え、各市町村の文化的景観保護条例
○ 熊野の道について
→ すべての道の基点と終点に ID ナンバーを付けて整理した
熊野川全体をひとつとして登録したかったが、実際は真ん中 10m のみ登録。
○ 登録の基準
→ 日本固有の山岳霊場と線上に伸びる参詣道が文化的景観として評価。有形と無形の
融合。有形の価値…自然的特性に関する(吉野の桜、熊野川、那智の浜、那智大滝、
仏教ヶ岳(信仰により伐採が禁じられてきた)、天女花(大山れんげ)
)。無形の価値…
おくがけ(修験道)
、神倉神社の後燈祭(和歌山県の無形文化財に指定されている)
○ バッファ・ゾーンをどう保存していくかが問題。
○ 保護管理計画の策定(文化庁/三重・和歌山・奈良 3 県/市町村)
・ 包括的保存管理計画(3 県共同):古道全体を対象とする。
・ 個別的保存管理計画(各県):重要文化財・史跡・名勝・天然記念物について。
○ ケルン大聖堂について
→ 周辺の保存を条件に登録されたが、ショッピングセンターなどが出来た。バッフ
ァ・ゾーン外で行なわれる活動についてはどの程度制限を加えることができるか。国
際的にはどのくらいのレベルが求められるか。=今後の課題。
○ イギリス、ストーンヘンジ:道路を地下道にしようとする計画がある。
○ 国境をまたいだ遺産…各国によって法的保護の違いが現れるのでは?
→ マネジメントは各国連携して行い、お互いに協力してプランを作る。しかし、あく
まで主権の尊重が優先される。
○ 文化遺産と文化的景観
→ 土地と人間の相互関係から評価できるもの=文化的景観
v
添付資料
日本における世界遺産の実務
東京文化財研究所(2005 年 12 月 5 日) 稲葉 信子 博士
○法的保護について
・世界遺産委員会:「しかるべき法的措置」がとられていなければならないとのみ規定。
・日本:何の法律を以ってその保護にあたれるか、という点から議論が必要。
一方、バッファゾーンの範囲の基準は何も提示なし。
日本では、面を規制できる法律を活用し、バッファゾーンを確保。
○日本国内での申請について
・基本の過程:地元住民、政治家など様々な人間による申請が発端。
次いで知事、政治家などの有力者による働きかけがおこる。
例)長崎の教会、富士山、富岡製糸場など
文化庁が登録可能か否かの判断→登録可能でありそうなものが暫定リス
トに組み込まれる。
・暫定リスト:世界には、世界遺産となりうるどのようなものがあるのか、という前提。
暫定リストに遺産を載せることによって、世界遺産登録の要望を抑える
国もある。
・一方、現在世界遺産に登録されているものは、文化庁自らが暫定リストに入れて推し
進めてきたもの。文化庁が暫定リストを作った時点で、ある程度文化的価値は既にま
とめられていた。
それとは異なった発端で登録されたものもある。
例)広島(市民運動)、石見銀山(専門家や県の上層部、文化庁などから)、紀伊山
地・熊野(高野山の働きかけ)など。
○紀伊山地の登録について
・熊野:自然信仰が修験道や仏教に影響を与えており、日本独自の体系、信仰の形態を
持つ。
・登録で苦労した点:密教の価値、信仰の道、修験道という三つの異なったものを、い
かにつなげて一つの遺産にまとめるのか。
・紀伊半島:取り入れることの出来る多くの要素(自然信仰、信仰の山、修験道など)
→遺産がかなりの広範囲にわたることになった。
多くの要素を取り入れて登録されているが、
「修験道」という形の申請としては正し
い申請であったか?→考えるべき点
広範囲に及んだため市町村も法律もバラバラ→遺産を総体として管理できるかとい
う問題。
○世界遺産の方針と紀伊山地の登録
・現在の世界遺産の方針:文化的景観、産業遺産などの今までになかった分野の遺産を
vi
東京文化財研究所(2005 年 12 月 5 日)
稲葉 信子 博士
取り上げること。暫定リストの改訂はこういった点も考慮し
てなされる。
・申請書を提出する段階:文化庁や専門家がユネスコの考えに沿って内容を練り、申請
書を作成する。
石見銀山では、産業の専門家、世界遺産の専門家と分野を分
担。
「普遍的な価値」の証明では、アジアにおける価値との比較
と、世界との比較が必要になる。
例)法隆寺では中国・朝鮮などとの比較。アジア史の中で
の価値を比較。
熊野では日本固有のものであることは明らかな修験道に加え
て、自然信仰について世界との比較が必要。
○文化的景観について
・
「自然との連携」、
「民族的なものとの連携」
:今望まれている文化的景観のキーワード。
・文化的景観とは何か?→未だに定義は不明確。実態的な定義としては「土地の利用形
態」
・文化的景観における無形の価値
「Dead monument から Living monument へ」という考えがある。
Dead monument とは遺跡、城などの今は用途を失った過去の遺物。
Living monument とは街並みなど今も「社会的なコンテクスト」の中で生き、人間が
ついているもの。
このような柔軟な遺産を守るために新たに認められているものが intangible
value 即ち遺産の「無形の価値」と、sustainable environment 「自然との連携」
。
○無形の価値と真実性(authenticity)
・無形の価値の書き込み方
無形のものの価値:何かそれを特定できる実体がなければ規定不可能。
所在地や保持団体といった価値を担保する媒体が必要となる。
例)歌舞伎ならば歌舞伎という芸能を保持する団体、人間国宝
など
紀伊、熊野:信仰の価値を伝える媒体…古道など。
媒体を、何を以って指定するのか、それが正しいかどうかの判断…真実性の証明。
・真実性の確保の要素に何を盛り込むかも問題。
例)祇園祭 発祥当時は山に女性が乗っていたが、江戸時代以降女人禁制に。近年は
この女人禁制が壊れかけている。果たしてこの女人禁制の伝統は説明に盛り込まれ
るべきか否か?→結局盛り込まれなかった。
・外見の良いもの、見るだけで価値が明らかなものは媒体が先行する。
vii
添付資料
例)ピラミッド
しかし、文化的景観は、媒体ではなく価値が先行するため困難。
美術史、建築史、考古学史といった中からその価値を引き出して説明する。
(価値や真
実性の証明にルールやノウハウはない)
○遺産の保護と観光等について
・三重県
どのように保存をするか、何を守るのかなどの統一の考えが不十分。
縦割りの中でそれぞれの委員会や課の分担をつなぎ合わせた弊害。
法律の調整不足、都市景観を守るための法律とノウハウの弱さ。
「文化的な価値を守るデザイン」と「土地計画を守るデザイン」の間で価値観の衝突
が発生。
この価値の衝突をいかに対処するか→世界遺産委員会から与えられた今後の課題
価値を守るもの、stake holder、 sight manager の必要。三重県地域振興課が対策。
・紀伊の遺産と観光
紀伊山地の参詣道の森…原始林ではなく、山林には所有者。
しかし所有者が山林の管理をするのを、山を破壊していると非難する観光客も。ルー
ルを守らない観光客の程度の低さ、低俗な土産や産業の発達。
白川郷などでも観光客による問題がおきている。
・観光の質と遺産の説明
観光の質を保つことは遺産の質を保つこと。観光は訪れた者と受け入れる者の文化の
コミュニケーション。
情報センター(ビジターセンター)や看板など、遺産に関する説明の必要。
例)ストーンヘンジ
その地にたどり着いてから遺跡を見る場所まで、あえて遠回
りしてその間に看板の説明文を読ませるなどの工夫。
三重県…語り部運動
・観光化と文化の問題
大峯山の女人禁制とそこに立ち入る観光客の問題。オーストラリアでは、アボリジニ
ーの聖山に観光客が立ち入ることも。
Public awareness の難しさ。学校教育、マスコミ教育の重要性。Decision maker のトレ
ーニング、Mayors conference の必要。
保護の必要性を講演会の中で説くということはあり得る。観光と文化遺産の保護を考
える委員会は作られている。
viii
ドレスデン聖母教会再建に関して
Ludwig Güttler 氏(2006 年 3 月 16 日)
Ludwig Güttler 氏インタビュー
ドレスデン聖母教会再建に関して(2006 年 3 月 16 日)
■聖母教会の再建の経緯とその時々の思いはどのようなものでしたか?
○ドレスデン教会は様々な意味のシンボル。
・ 建築として:コッポラというフォルム
(コンスタンチノープル、ローマ、ヴェニスなどからきたドーム様建築)
聖母教会の特徴…石(砂岩)だけでコッポラが作られている。
ほかは木と石で。
○聖母教会は形状と建てられた場所にスピリチュアルな意味を持つ。
・聖母教会から見ると、エルベ川が東から流れ、聖母教会で方向を北へ変えている。
・代々その場所(現在の聖母教会の場所)に教会を建てている。
・流れの方向が変わるスピリチュアルな力を持つ場所に教会を建てた。
○18 世紀の建物(バロック様式)
・アルプス以北で最も美しいプロテスタント教会である。
・円形の教会である。
○大戦末期に破壊、広島・長崎と共通
・シュトゥットガルト地方にも核を落とす計画があった(欧州は終戦が早く実現せず)
…谷間という地形が爆発の威力が大きくなるため
○聖母教会はコッポラのおかげで爆撃で破壊はされなかったが、内部から火事で全焼。
○砂岩…700℃以上で崩壊
中の柱が崩れて崩壊。煙が引いたときには教会の形は残っており、人々は安心した。しか
し、その期待にもかかわらず、翌日には倒壊し、人々は失望した。
○一方、6 週間後、自らの意思でツヴィンガー宮の再建を始めた人々がいた。
○1946 年~、活発な人々は聖母教会の再建を始めようとしていた。
当時のポスター:青空の下の崩れ落ちた聖母教会と、
「協力し合いましょう」。
○ソビエトの支配下にあったため、再建は困難であった。
○1989 年 11 月 9 日、壁崩壊。同時に「再建は今」と感じた人々:
「カイロス」
(ギリシャ語)
資金・計画・許可、何もなかった。しかし、再建をすることは決意していた。
集会を許す法律も当時は存在しなかった。
その法律は 1990 年 3 月に制定されたが、その時にはすでに再建申請書は提出されていた。
その団体の代表(スポークスマン)としてギュットラー氏が選出、今まで活動していた。
11 月末に集まり、皆で計画した。政治情勢がどうなるか見当もつかなかった。
最初の建築設計家(ゲオルグ・ベア)の設計図通りにできるか多くの疑問が生じた。
興味深い計画として学者の注目を浴び、各地から学者を集め、調査が行なわれた。
・ 焼け跡の石がどれほど使えるか。
・ どれほどの費用がかかるか。
ix
添付資料
・ そのような組織を作るか…皆ボランティアで自分たちで負担
・ 土地などの権利を持つ教会に再建を認めてもらえるか。
・ 再建を呼びかけて、ザクセン州、ドイツ全土の支持や支援が得られるか。
・ 再建の意思を世界中にどのように広めるか。
・ 敵だった人々も含め、平和のシンボルとして教会を再建するにはどうすればよいか。
・ これらの問題を解決したとして、実際にどのような支援を得られるのか。
○非常に集中的な作業だった。
ギュットラー氏は年に 110 回以上のコンサートをこなしている人。
→どのように時間を作るか?
音楽大学での仕事を休職。当初は 2、3 年で復帰の予定が、多忙のあまり復帰できず。
徐々に教会・市民・国の協力を得て時間ができると思っていたが、そうではなかった。
市民イニシアティブ(法人の一種)を通して呼びかけ、州と教会の協力を得て新たな法人
を設立。
州知事や教会のビショップの集まる場所を作った(ヘッドオフィス)。
1989 年 11 月より、仲間と資金を集め始める(15 年間続いた)
。
市民イニシアティブの力を借り、その後いろいろな作業班や役職を作る。
検査・調査班:石を再建に用いられるか調査…42%が使用可能だった。
何 m かの壁の再建が進み、人々が再建の可能性を信じ始めて、支持が得やすくなった。
ヘッドオフィスの人々にも再建にかかわってくれるように頼んだ。
→首相の協力が得られた。
→教会や州知事の積極的な協力の約束もとりつけた。
1500 以上のコンサートの際、アンコールの時などに人々に協力を呼びかけた。
→目標や内容を話す:寄付を懇願。最終的に成功。
しかし、一度寄付した人に再度求めるほうが新たに求めるより簡単と判明。
作業に実際に携わった人々は心から再建を望み、強いモチベーションがあった。
→作業が早く進む。工事現場自体が名所になり、人々が興味を示した。
ガイドつきの見学まで現れた。
……こんな努力をしていたらいつの間にか完成していました。
■教会を崩壊したまま残そうとの意見があったと聞いていますが?
1990 年 2 月:聖母教会崩壊から x 周年記念にメディアに呼びかけた。
当時…賛成 10%、反対 90%。
何千人もの人と話し合い、話した人すべてを納得させたが、容易な作業ではなかった。
・ 崩れた教会という現状に慣れた人が多かったから。
・ 被害者意識を持つことで自分のした過ちを忘れ、楽になりたいという感情。
ギュットラー氏:忘却は楽だが、元の敵との架け橋を作ることがもっと大切。
過ちを認めた上で、手を差し伸べて協力を求めることが必要。
x
ドレスデン聖母教会再建に関して
Ludwig Güttler 氏(2006 年 3 月 16 日)
広島・ロンドンは焼け跡をそのまま残している。
→but 傷は治さなくてはならないもの。
(by ギュットラー氏)
広島・ロンドンは隣りに新しいものを建てた。
→これに対し、ドレスデンは新旧を融合。
元の敵の人々と協力(例:コッポラ上の十字架…イギリスの寄付)
互いに協力の機会を持った…ドイツの同様の例はない。
旧東でも再建協力を求めたが叶わず:資金・思想・アイデンティティの問題により
■日本ではヨーロッパ各地からの協力があったと報道されましたが、アジア地域からの協
力はありましたか?
日本からの支援もあった。例:カメラマン招聘、トロンボーン楽団来独など。
ちょうど今日本において、聖母教会支援団体設立の動きあり。
ギュットラー氏私見:日本は結束力(共同体意識)が強い。
日本人は再建に関し西洋人と違う感覚を持ったのではないか。
・皆で何かを成し遂げるという感動。
日本人の興味は心からの興味でオープンな感じ。
…西洋人は自分の技術 etc.を秘密にしたがる。
日本の寄進と同じ気持ち:ひとつひとつの石の「親」になるという感覚(adoption)。
最も難しい問題として、無関心な人、どうでもいいという人をいかに取り込むか。
→しかし、幸いにもこの問題は発生しなかった。
どんな問題にも惑わされないという強い意志が必要だった。
・ 「牛のように」
:頭を下げてはいても、角は常に前を向いて。
・ 「泉にたどりつくまでに、川が蛇行しないなんて思わないことだ」
■再建が果たされたときの思いは?
・まず感謝の気持ち。
・誇る気持ちでなく、困難な課題を達成したという満足感。
■なぜギュットラー氏は再建に対して強い意志を持ったのか。
・再建により、聖母教会がドレスデンという枠を超えた感動をもたらすものになった
のは素晴らしいことだ。
・再建しなければいつかは滅びてしまうから。
■教会側からイニシアティブが起こらなかったことは、パラドクシカルなことでは。
・信じるか切り捨てるか。信念をとるか、金銭をとるか。
・教会の「信じる」意思が弱すぎた(教会もいろいろな問題があったのだろうが…)
xi
添付資料
■聖母教会では今ではどのような活動をしているのですか。
・団体は再建から支援へと変化。
・コンサートや教育を行っている。
・子どもたちや若者に、ゼロからものを作り上げるまたは作り直すことの意味を伝え
たい。
・1 日 120~150 件の教会ツアーの申し込みがある。
・コンサート etc.の企画は 2007 年までつまっている。
・再建団体は 2 年前に名前を変え、
「聖母教会支援の会」
(2000 名)に。
コンサート etc.を行なうのが目標。
■『教会の再建=ドレスデン再建のシンボル』なのでしょうか。
ドレスデンのみならず、東西の平和のシンボル、世界的な平和のシンボルであること
に喜びを感じる。
人々はこの教会を中心として、大きな感情の一部となる。
■今後は聖母教会はどのような存在であってほしいと思いますか。
・現代社会は利己的に過ぎるので、自分が何をしてあげられるか、コミュニティに対し
て何ができるか、という意識を持つことが重要である。聖母教会は、そのような意識を
持つことができるという象徴的な存在。
・教会は多くあるのになぜ資金をかけてわざわざ再建するのか、といったような現実的
rational な尺度では測れない、それを超えた感動や共感を持たせる存在であることに意
味がある。例:訪れた人はまず天井を見上げて唖然と口を開き、次に感動に胸がつまり、
涙がこみ上げる。また、コンサートなどはいつも満員である。このことから、金銭など
の現実的な指摘は的を射ていないことが証明されている。
・支援団体のメンバーは世界的に 1 万 3 千人。彼らは聖母教会の再建を見て、自らの身
の回りでも何かを始めようとする人が多い。
・教会の再建に、周囲の歴史的景観も伴ってきた。
■崩れたままだと、傷跡が残ったまま、時間がとまったままのように思われるのですが、
その場合、周囲の景観も現在とは違っていたと思われますか?
・再建がなされなければ、その場の時間のみならず周囲の人々の意識も止まったままだ
っただろう。人間の幼稚な考えで戦争が起こり、破壊が起こったが、そのような意識か
ら成長できた。
xii
ドイツ文化財保護法制に関して
テューリンゲン記念物庁(2006 年 3 月 17 日)
テューリンゲン記念物庁
ドイツ文化財保護法制に関して(2006 年 3 月 17 日)
【ドイツの文化財保護法制】
テューリンゲン文化庁:本年 1 月から建築・芸術・考古学が一本化
各部に専門家が置かれている。
ドイツ…16 の州(ラント)からなる連邦国家
文化に関する事項…ラントの管轄。∴16 の文化財保護法が存在、内容は似通っている。
文化財保護に際しては他の法律も関係してくる…建築法(連邦法)
建築図(市街の都市計画図のようなもの?):保護すべき文化財も記載してある。建築を
行う際には必ず参照しなくてはならない。
文化財の発見の前に建築が行われてしまう
例もある。文化財の特別な保護地域(修理
地域。状態がひどく修理が必要なところ)
も記載されている。
【ドイツ文化財保護法】
1. 文化財の定義
建造物、動産文化財、歴史的なもの。
特に歴史的なものに重点を置いている。古いものが壊れ、新たに建てると価値は低くみ
なされる。
2. 文化財の価値の判定
本当に文化財として保護すべき価値があるか。学術的な判断が必要になる。
3. 法的保護
(1) 文化庁による指定:法律により文化財が定義されている。所有者は指定に対し
て反論することはできない。現状変更は申請し許可を得なくてはならない。許
可が下りなかった場合は裁判所へ訴えを提起、裁判所は文化財指定の判断を再
度勘案する。法律で文化財が具体的に指定されるので、省庁にも所有者にも有
利で、こちらの手法が多くのラントにおいて用いられている。
(2) 法律によるが行政行為としての指定:法律に前もって文化財が定義されている
わけではなく、行政庁が何が文化財であるかを決める(行政行為)。不服がある
場合、所有者は直ちに裁判所へ訴えを提起しなくてはならない。即時に訴えを
提起しなかった場合には、後からの変更の申請はできない。メリットはあまり
ないので(決定がすぐにおりるので判断が安定するという点はある)
、採用して
いるラントは 3 つほどしかない。
(3) 個々の建造物だけでなく、建造物群や考古学的現場の保存も可能。建物は外観
と内部が一体として保護されるが、建造物群や考古学的現場はひとつのコンテ
クストとみなされるので、外観のみ保護しなくてはならない。また、所有者は、
xiii
添付資料
自らが可能な限りの保護を図らなくてはならない。
(4) 保護すべき文化財の周囲の保護(バッファ・ゾーン?)
:文化財に隣接する部分
に何らかの変更を加えたい場合(何かを建てるなど)には許可が必要。
(5) 国家からの金銭的支援:文化財保護のため余分に必要になる分のみ支援が得ら
れる(例:文化財指定された屋根には特別な瓦を使わなければならない→普通
の瓦と特別な瓦の差額分が支払われる)。また、税制上の優遇措置もある(所有
者が納税者である場合)
。
(6) 文化財保護法…変更許可制の規定。大きな変更を行う際には文化財保護法上の
みならず、建築法上の許可なども必要になる。なお、申請は一括でよい。
(7) 文化財に関して順列はない(⇔日本、フランス)
。∴世界遺産も一般の文化財と
同様の保護が図られる。しかしながら、実際には世界遺産をより重点的に保護
しようとする意図は働いている。
(8) 工事現場などで発見された文化財に関しては、所有者が見つからない限り国の
所有下におかれる。現場で発見された文化財については庁へ届出義務がある。
保護のため、発見現場への立入禁止を命じることのできる規定もある。また、
発掘・工事に対して規制がかかることもある。
「禁止」までいたらなくても、特
別な許可申請が必要になることが多い。
4. 法の執行
■すべての法の執行はラントによる:連邦法であっても、執行権限はラントが持つ。
*一般的なシステム
(1)直接市民に関係する事柄(工事許可など)
:日本で言う市町村レベル。専門的な分
野を扱う。
(2)州庁による行政:一般的な事柄を扱う。
(3)さまざまな省庁が属する:高度に専門的な事柄を扱う。
○ 上記 3 つの省庁は請求に対して決定権をもつ。これに対し、テューリンゲン記念物
庁はこれらに並行して存在する調査機関で、執行はできず、決定権もない。レベルとし
ては上記(2)と同じくらい。
○ 変更を望む市民(所有者)は(1)の組織に許可などを求める。このとき、これらの
組織は調査機関の専門家に調査を依頼する。許可が下りなかった場合、即座に市民に悦
論が伝えられるわけではなく、下部機関、調査機関、市民の 3 者で話し合いが行われ、
代替手段が模索される。調査機関とは、市民に専門知識を伝えることが目的である。
合意の得られない場合には、行政行為に対する不服申し立てとして、
(2)の組織に訴
えが提起される。
5. 質疑
■ 埋蔵文化財があると考えられる場所の保護は可能か?
・考古学的なものが存在することが明白な場合にのみ保護される。
xiv
ドイツ文化財保護法制に関して
テューリンゲン記念物庁(2006 年 3 月 17 日)
■ 建築前に土地の考古学的調査は行われるのか?
・建築の許可が下りた場合、まず調査を行う。そのときに何らかのものが見つかった場
合には、工事の中断もありうる。
■ ドレスデンの聖母教会は再建されたものだが、再建したことにより、歴史的価値は失わ
れていると考えられないか? 文化財といえるのか?
・多くの意見がある。基本的にはオリジナルを保護すべきであるという前提がある。よ
って、頻繁に建て直し or 修復のある日本の寺社のようなものは、ドイツでは文化財と
しては認められないであろう。『立て直した』ということを遺産としているのではとい
う見解もある。フランスのルアーブル、オランダのロッテルダムについても議論あり。
何年経過すれば歴史的なのか、という点も難しい点ではあるが、ちなみにバイエルン州
においては、50 年が 1époque であるという規定がおかれている。
【テューリンゲン記念物庁における実務】
□文化財保護…19 世紀 2 半期から起こる。
主に monumental なものを保護していた。現在のような形態は東西ドイツとも
に 1970 年代から。もともとは市民運動として文化財保護が叫ばれた。鉄筋や
コンクリートによる建物の増加に不安を覚え、自らの歴史や文化、ルーツを
たどろうとする意識(動き)。
→このような動きを受けて法律が制定された。
・公共のために文化財を保護することが、結局は個人のためになる。
・これと個人(所有者)の権利のバランスのためには国の支援が必要。
・この必要性…市民へ専門知識を伝えるパートナー・ガイド的存在である。
・100 人ほどのスタッフ(建築・芸術・考古・歴史・法律家 etc.)がいる。
・金銭的な支援を行うためには専門家だけでなく行政的な仕事も必要。
・所有者は国からの支援が実際に文化財の保護に用いられているかを証明し
なければならない。
□テューリンゲン記念物庁のシステム
○ 建造物保護部門
(1)文化財の定義を行う(学者的。原理主義者)
(2)所有者のコンサルティングを行う(実務的。妥協が多いらしい)
○ 考古学部門
技術的なこと(修復など)を扱う人々と協働。
○ その他
庭園など特別な専門分野の人々が働いている。
・ ほかのラントには修復部があるが、テューリンゲンは(予算の関係上)存在しないの
で、フリーの技術者に協力を仰ぐ。
・ 大学との協力:文化財学をいかに扱っていくかについて話し合う。自分たちの仕事が
xv
添付資料
どのようなものか、出版活動などを通して、活動報告を行う。年に 5 回ワークブック
を出版し、テューリンゲンのさまざまな文化財の詳細を報告している(monography)。
【文化財保護とは】
○ 時代によって変化するものだから、どこかの時代の枠組みを持って決定するこ
とはできない。
○ 歴史をたどり、書かれていないことをたどっていく。
○ 時代の流れをある一定のスケールで見られるように保つのが文化財保護であ
る(『時代のマネージメント』)。
■ バッファ・ゾーンにおける所有権者は補償を受けることができますか?
・原則としては文化財の保護が大切だが、同時に所有者の意思も尊重しなくてはならな
い。景観を保つためには周囲の環境と調和するよう努力しなくてはならないが、文化財
自体も使用されないと崩れていくので、所有権者との調整が必要である。テューリンゲ
ン記念物庁は説得を行い、約 95%の納得を得ている。
■ では、避けがたい変更が必要になった場合にはどうすれば? たとえば、所有者が若け
れば妥協もできるだろうが、所有者が高齢でユニバーサルデザイン(バリアフリー)が
必要になった場合など、そのような相談があったらどうするのですか。
・ 基本的にエレベーターの取り付けや内装の変更など可能である。工事が費用なども含
めて大変困難である場合などは、土地を売ってしまうことも必要になる最悪の場合も
あるが、基本的には大丈夫。
*過去の捏造を防ぎ、事実を事実として受け止めて、保存していくことが重要である。
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ドレスデンの世界遺産登録に関して
ドレスデン学術文化庁(2006 年 3 月 20 日)
ドレスデン学術文化庁
ドレスデンの世界遺産登録に関して(2006 年 3 月 20 日)
■ ドレスデン:史上に初めて現れてから 800 年
・ バロック第 1 期(18 世紀)が特徴として挙げられるが、これは特徴のひとつに過ぎ
ず、同様にルネサンス期も重要。
・ 20km にわたるエルベ川沿いにあり、ひとつの建物でなく文化的景観として登録。
・ 文化的景観の価値:
(1)トポグラフィー(=構造?)
(2)欧州や世界各地から様々
な文化が流入。
・ 代々、様々なものを付け加えながら拡大してきた。
・ 文化的景観と都市景観を等しく保ってきた。
・ 1515 年(ゴシック時代)
:すでにレジデンスとして成立していた。
・ 最盛期:強王アウグストの時代
・ 1945 年 2 月 13 日:第 2 次世界大戦により、南北 3km、東西 5km にわたって破壊さ
れた。
・ ザクセン州の文化財保護:『保つ』こと+『再建する』こと
■ ドレスデン:エルベ川の峡谷に街が発展。
・ 街を高いところから見渡すことができる。
・ 町のあちこちに野原がある(ドイツ・ヨーロッパでは珍しい)。
・ 蘇州会議で世界遺産に登録された。主にアウグスト強王時代(ヴェニスのカナルグ
ランデに感動したアウグスト 2 世が、これを手本に作り上げた景観)
。
・ 最初はエルベ河畔のピレニッツ城。当初は夏のレジデンスだった。
・ アジア的建築様式、背後に自然的景観(ワイン用ぶどう畑など)
。
・ その後、エルベ河畔にいくつもの宮殿が建築された。
・ 城からはエルベ川に直接おりることができた。
・ 日本宮:今は部分的にしか残っていない。
・ ユビガウ城:土台は残っているが、州ではなく個人の所有で管理が行き届いていな
い部分も。世界遺産に登録されたことで補助金が支給され、状況は少し改善された。
・ シャベル輪っか船(?):ドレスデン・チューリッヒ以外では見られない珍しい形
態の船。
・ 19 世紀、産業革命により社会が活発化、発展した。1839 年にはドレスデン-ライプ
ツィヒ間の鉄道が開通。
・ ピレニッツ城や、オスターヴィッツ村(ワイン)
、船乗りの町という文化的景観と、
自然的景観の双方が見られる。
・ ネオゴシックと新古典主義(ネオクラシシズム)…?
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添付資料
■ 1988 年(東ドイツ時代)
、世界遺産登録申請 but ヨーロッパの街の多くがすでに登録さ
れていたため、自然も含む文化的景観としての登録を薦められた(by レバノン代表)
。
・ 19 世紀後半(最後の 4 分の 1)から 20 世紀前半(最初の 10 年)の別荘群が見られ
る。
・ 東西ドイツ統一時、政治的理由から取り壊しの危険が高まった。東ドイツ時代は経
済的に困窮していたため、壊されずにすんだ。統一後の新所有者の変更の企図は、
景観という観点からは好ましいものではなかった。
・ ブラーゼビッツ地域:建築法による保存では不十分だった。そこで、この地域を保
存するため、住民の力でこの地域を保存する法律が作られた。
・ 聖母教会の隣にワールドトレードセンターを建てる計画:高さ、幅ともに教会と同
等にしようとする計画。州文化庁は水平 horizontal な屋根に尖塔が突き出た景観を
重要視していた but 許可は出されてしまった(高さは少し(7.5m)低くはなった)
。
・ このように、文化的景観は常に様々な危険にさらされている。
・ ドレスデン:東ドイツ時代の建物のため、文化的景観として成立するか疑問があっ
た。ブリュールのテラスから景観を見渡すことができなかった。
・ 最近は都市部から郊外への移動傾向がある。ドレスデンはそれほどその傾向は強く
ないが、それでも郊外への移動が進み、都市部の建築物の取り壊しが進んでいるた
め、景観を見渡せるようになりつつある。東ドイツ時代の社会主義的建物 2 つも、
10 年以内には取り壊しが決まっている。
・ ドレスデンではバロック・ルネサンス・*歴史主義が見られる。*歴史主義:1830
年~1890 年。
■ ひとつの建築物ではなく、すべてをまとめたひとつのコンテクストが世界遺産。同時に
バッファ・ゾーンも確保されており、大きな建物の建築は不可。文化的景観内の建物(テ
ラスなど)から見て景観を損なう建物も建築してはならない。
■ 1945 年 7 月 27 日、最初の再建案。
社会主義とは関係はないが、聖堂などをすべて取り壊して高層ビルと考古学的公園(焼
け跡などを残す…記念公園的存在か?)にする計画。
住民の反対:もとの姿に再建することが決定。
ドレスデン人としてのアイデンティティ (1)ツヴィンガー(1945 年 8 月再建開始)
(2)レジデンス城(16 世紀、土台再建)
(3)ゼンパーオーパー(1949 年~60 年)
ドレスデン市民、150 万ユーロ寄付。
(4)聖母教会
1948 年考古学的再建案はあり。使用可
能な石材を新建築物へ再利用する計画
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ドレスデンの世界遺産登録に関して
ドレスデン学術文化庁(2006 年 3 月 20 日)
だったが、なるべくオリジナルのオー
センティシティを残すべく現在の方針
に。
■ 緑の丸天井:観光客のためには新しいものを建築。オリジナルのものは修復中のため現
在は閉鎖中。
■ ドレスデン――歴史・文化・科学の 800 年
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添付資料
一覧
講師の
講師の方々
・ ルートヴィヒ・ギュットラー 氏
(トランペット奏者、ドレスデン聖母教会再建のための市民団体代表)
・ ヴェルナー・フォン・トゥルッチュラー 博士
(テューリンゲン文化庁文化芸術教会問題課長)
・ ステファン・ヴィングハルト 博士
(テューリンゲン文化庁記念物保護考古学課長)
・ クラウス・リーデル 博士
(ザクセン州立学術文化庁美術記念物考古学課主任)
・ ゲルハルト・グラーザー 博士
(ザクセン州立学術文化庁)
・ ゲルハルト・リース 教授
(ミュンヘン大学法学部法制史学教授)
・ 成冨 亜紀 教授
(ミュンヘン大学外国語・専門用語教育プログラム日本語講師)
・ 本中 眞 博士
(文化庁文化財部記念物課主任文化財調査官)
・ 稲葉 信子 博士
(東京文化財研究所国際文化財保存修復研究センター情報企画研究室長)
協力
・ ミュンヘン大学 学生諸氏
・ ラプシュ 麻衣 氏(通訳)
・ ミュンヘン大学法学部
九州大学教員
・ 河野 俊行 教授(法学部)
・ ステファン・フォーグル 助教授(法学部)
プログラム参加者
プログラム参加者(九州大学法学部・国際私法ゼミ)
参加者
・ 羽賀 由利子
・ 橋本 京子
・ 東山 尚子
・ 藤井 映理子
・ 前田 かおり
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