On Seeing the Elgin Marbles for the First Time

奈良教育大学紀要 第51巻 第1号(人文・社会)平成14年
On Seeing the Elgin Marbles for the First Time
Bull. Nara Univ. Educ., Vol. 51, No.1(Cult. & Soc.),2002
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詩人John Keats作 "On Seeing the Elgin Marbles
for the First Time" について
奥 田 喜八郎
奈良教育大学英語教育講座(英米文学)
(平成14年4月1日受理)
The Original Sonneteer John Keats :
"On Seeing the Elgin Marbles for the First Time"
OKUDA Kihachiro
(Department of English and American Literature, Nara University of Education, Nara 630-8528, Japan)
(Received April 1, 2002)
Abstract
This paper states the romantic painter Haydon's great influence on the original poet
Keats's sonnet entitled "On Seeing the Elgin Marbles for the First Time." This paper stresses
Keats's weakness, his lack of ability to do justice to the subject, and his own insufficiency,
"Like a sick eagle looking at the sky",
"Yet 'tis a gentle luxury to weep "
which the author thinks the finest image on a poet (=John Keats himself) that has ever been
written. So Keats is called an original sonneteer.
This paper explains the Petrarchan sonnet that Keats uses, which is a sonnet containing an
octave with the rhyme pattern (= abba / abba) and a sestet of the rhyme pattern (cdc / dcd).
This is called the Italian sonnet. In this paper the author examines the exquisite contrast
between "a sick eagle" and "a sick poet (= Keats himself)" on the basis of the imagery and
symbols of "an eagle" spoken in the European countries and in the Holy Bible. An eagle is a
large bird of prey (= one that attacks and eats other birds, small animals) of family Accipitridate,
with keen vision and powerful flight. An eagle symbolizes pride, power, strength, speed, and
youth in English and American Literature.
This paper investigates Keats's poetical world of "Such dim-conceived glories of the brain /
Bring round the heart an undescribable feud" in the sestet. The word of feud means lasting
mutual hostility, especially between two tribes, families with murderous assaults in revenge for
previous injury. The author examines a bitter quarrel between the brain (= the Elgin marbles)
and the heart (= the English poet Keats) in the sonnet. The Elgin marbles symbolizes
polytheism (= Graecism), and the English poet Keats symbolizes monotheism (=Christianism).
Key Words: Graecism, Christianism, eagle.
キーワード: ギリシャ精神,キリスト精神,鷲
イギリスのロマン主義を代表する詩人John Keats(1795
Seeing the Elgin Marbles for the First Time")と題して
−1821)は「初めてエルギン大理石彫刻群を観て」("On
こう歌い上げるのである.
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奥 田 喜八郎
My spir/-it is too weak−mor/-tal/-i/-ty
た時の,何ともいえない感動を歌い上げたsonnetである.
Weighs heav/-i/-ly on me like un/-will/-ing sleep,
Allott は,この辺の事情を,−Written shortly before 3
And each i/-mag/-ined pin/-na/-cle and steep
March 1817 with the following poem after visiting the
Of god/-like hard/-ship tells me I must die
Elgin Marbles at the British Museum in Haydon's
Like a sick ea/-gle look/-ing at the sky.
company... − と,語 る.ア メ リ カ の 女 流 詩 人 Amy
Yet 'tis a gen/-tle lux/-u/-ry to weep
Lawrence Lowell(1874−1925)は,
『評伝 ジョン・キー
That I have not the cloud/-y winds to keep
ツ』(John Keats, 1929)の中に,−On a day early in
Fresh for the o/-pen/-ing of the morn/-ing's eye.
March − probably, indeed, March first − Haydon took
Such dim/-con/-ceiv/-Fd glo/-ries of the brain
Keats to see the Elgin Marbles, already housed in the
Bring round the heart an un/-de/-scrib/-a/-ble feud;
British Museum.−と指摘する.青年詩人キーツは先輩画
So do these won/-ders a most diz/-zy pain,
家Benjamin Robert Haydon(1786−1846)のお供をして,
That min/-gles Gre/-cian gran/-deur with the rude
ギリシャから「大英博物館」に移された,古代ギリシャ
Wast/-ing of old Time, with a bil/-low/-y main,
大理石彫刻群を見学したのが,1817年の3月1日か,2
A sun, a shad/-ow of a mag/-ni/-tude.
日であったようである.当時,キーツは22歳であった.
これは,イギリスの女流批評家Miriam Allott(1918−)
両者の言う,the Elgin Marblesというのは,「エルギ
が編集した『ジョン・キーツ全詩集』
(John Keats: The
ンの大理石彫刻群」といって,元来AthensのParthenon
Complete Poems, 1986)から引用したsonnetである.念の
にあったものである.それを19世紀初めに,Elginという
た め に,イ ギ リ ス の 学 者 で あ り,批 評 家 で も あ る
人が買い取って,アテネから大英博物館に移した「古代
Christopher Bruce Ricks(1933−)が編集した『ジョン
ギリシャ大理石彫刻群」のことである.これらの彫刻群
・ キ ー ツ 全 詩 集』(John Keats: The Complete Poems,
は,紀元前5世紀におそらくギリシャの彫刻家Phidias
1988)と比べてみると,幾つかの些細な相違が目に付く.
(c500−432? B.C.)の指導下に彫刻されたものと考えら
たとえば,Ricks版の4行目は,
れる.また,アテネから大英博物館に移す手配をしたの
Of godlike hardship, tells me I must die
は,第7代Elgin伯,つまり,Thomas Bruce(1766−1841)
と,歌われているのだ.Commaが使われていることに,注
そ の 人 で あ る.Elgin の 名 に ち な み,後 に the Elgin
意しよう.また,最後の2行は,
Marblesと言われるようになったという.
Wasting of old Time−with a billowy main−
Elginという地は,スコットランド北東部のMorayshire
A sun−a shadow of a magnitude.
の旧名である.別に,Elginshireともいう.Morayshire
というふうにcommaがそれぞれdashになっていることに,
は1975年からGrampian州とHighland州の一部となる.
注目しよう.これらは単なる句読点の相違ではないかと
そのために,現在では,ElginのほとんどがGrampian州
いう,お叱りを受けるかも知れないが,commaはcomma
の一部となっている.地名Elginの読み方は,エルギンで
の働きがあり,また,dashはdashの役目がある.更に,よ
あるが,男性名Elginの読み方は,エルジンでも,エルギ
く比べてみると,Ricks版の5行目の,"eagle" が,大文
ンでも良いようである.筆者はその地名の読み方を活か
字の "Eagle" と歌われるのも,面白い.Ricksは「鷲」を
して,the Elgin Marblesを「エルギンの大理石彫刻群」
人間のように見立てているからである.また,それぞれ
と読むことにする.「エルギン式文化財盗み出し」のこ
のdashに託して,詩人キーツが「熟考」している,とい
とを,英語でElginismというらしい.
うRicksの味読もまた,感動的である.また,Commaに
この古代ギリシャ大理石彫刻群をキリスト教国イング
託して,三つ以上連続した項目を並べる,というAllott
ランドの大英博物館に移す運びとなった時,国内は賛成・
の読みも面白い.念のために,イギリスの文学者Ernest
反対の意見が対立して,白熱化し,大騒動となったこと
De Selincourt(1870−1943)が編集した『ジョン・キー
はすでに本誌の拙文「文学少年キーツの見た歴史画家ヘ
ツ詩集』
(The Poems of John Keats)を紐解くと,1行
イドン」(平成13年10月15日発行)に紹介しておいたの
目は,−"My spirit is too weak; mortality"−というふう
で,参照していただきたい.あわせて,画家Haydonにつ
に,semicolonが付いている.Semicolonは,colonに似て
いても上記の拙文を参照していただきたい.
いる.Semicolonは一応分離する.これは,periodに近
なにはともあれ,上記に紹介した14行詩を精読し,味
い.しかし,分離しながら,つながっている,という読
読したい.御覧の通り,「音節」(syllable)を踏まえて,
み方も面白い.
そのverse rhythmを示したものである.Sonnetの各行は
それはそれとして,この14行詩は,詩人キーツが22歳
「弱強調5歩律」
(iambic pentameter)である.見ると,
の時に,初めて「大英博物館」
(the British Museum)に
2行目は,−"Weighs heav/-i/-ly on me like un/-will/-
展示された,あの古代ギリシャ大理石彫刻群を初めて観
ing sleep"−というふうに,11音節から成る.1音節多い
On Seeing the Elgin Marbles for the First Time
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のだ.また,8行目は,−Fresh for the o/-pen/-ing of
main"−というふうに10音節に成る.これも,後者の母
the morn/-ing's eye−というふうに,これも11音節であ
音融合である.
る.1音節多い.更に,10行目は,−"Bring round the
以上で,問題の11音節が10音節と成り,sonnetの「弱
heart an un/-de/-scrib/-a/-ble feud"−もまた,11音節で
強調5歩律」が完成する.しかし,やや不安なのが,9
あ る.そ し て,13行 目 は,− "Wast/-ing of old Time,
行目の−"Such dim/-con/-ceiv/-Fd glo/-ries of the brain"
with a bil/-low/-y main"−というふうに,これも11音節
−の形容詞 "dim/-con/-ceiv/-Fd"の4音節である.これ
である.つまり,字余りである.
は,詩人キーツの苦心の工夫である.これは,普通,4
このような場合には,格調を引き締める意図をもって,
音節ではなく,正しくは,"dim/-con/-ceived" の3音節
2音節を1音節のように,微かに原音を留めながら,
「縮
であるからだ.たとえば,3行目の "i/-mag/-ined" と同
約」
(contract)して「走読」
(slur)する,という工夫が
じように,"con/-ceived" の "-ed" を,共に,
[d]と發音
試みられる.これを「音節縮読」(elision)という.この
するからである.詩人キーツはそれをわざわざ,"-Fd" の
ルールには2種類ある.(1)「母音融合」(synaeresis)
"F" の上に,アクセントのマークを添えるのである.これ
と(2)
「子音にはさまれる母音の縮読」
(syncope)がこ
は,読者の見た目にも分かるように,1個の音節がある
れである.前者は「隣接している2個の母音を1個の母
ように工夫した詩人キーツの苦心の賜物である,といい
音のように縮約して,ときにはまた,二重母音に転化さ
たい.飽くまでも,全体の10音節を整えるための詩人キー
せて律読する」方法である.後者は「語中の母音を縮約
ツの詩的工夫である,と見たい.
して,1音あるいは1音節を省約する」方法である.と
次に,この14行詩の「脚韻」
(end rhyme)を調べてみ
くに,「鼻音・流動音([m]
[n]
[l]
[r])を含む音節では,
たい.各行の最後の単語を見ると,詩人キーツは以下の
前の音節が弱化して1音節のよう律読される」のである.
ように押韻するのである.つまり,−"mor/-tal/-i/-ty,
たとえば,2行目の−"Weighs heav/-i/-ly on me like
sleep, steep, die, sky, weep, eye, brain, feud, pain, rude,
un/-will/-ing sleep"−の11音節を思う時,考えられるのは
main, mag/-ni/-tude"−というふうに,である.問題なの
"un/-will/-ing" の3音節を,"un/-will'ng" と縮約すること
は,1行目の脚韻である.これは4音節から成る語であ
である.すると,2行目は−"Weighs heav/-i/-ly on me
るが,最後の音節 "-ty" の發音は[-ti]であるからだ.思
like un/-will'ng sleep"−と成る.これは,後者の「子音
うに,詩人キーツはこの脚韻を[-ti]と読むのではなく,
にはさまれる母音の縮読」である.
[-tai]と読むように,工夫しているようだ.すると,全
ま た,8行 目 の − "Fresh for the o/-pen/-ing of the
体の脚韻は,發音記号でしめすと−
[-tai][sli:p][sti:p]
morn/-ing's eye"−の11音節を思う時,考えられるのは2
[dai]
[skai]
[ki:p]
[ai]
[brein]
[fu:d]
[pein]
[ru:d]
つある."o/-pen/-ing" の3音節を,(1)"o/-p'ning" と縮
[mein]
[-tu:d]−というふうに完璧な押韻となるからで
読するのと,(2)"o/-pen'ng" と縮読するのと,である.
ある.即ち,詩人キーツは−abba/abba/cdc/dcd−とい
両方とも良いのであるが,筆者は前者の "o/-p'ning" の
う押韻を使用するのである.これはイタリア風ソネット
方を選びたい."open" は,[oupn, -pm]と1音節で発音
で あ る.別 に,ペ ト ラ ル カ 風 ソ ネ ッ ト(Petrarchan
するからである.これで,8行目は−"Fresh for the o/-
sonnet)という.これは古いヨーロッパの伝統的な,且
p'ning of the morn/-ing's eye"−というふうに,10音節に
つ歴史的な詩型である.
成る.これはまた,後者のルールによるものである.
このように,初めて「エレギン大理石彫刻群を観て」
更に,10行目の−"Bring round the heart an un/-de/-
と題するこのsonnetの「詩型美」即ち詩人キーツの苦心
scrib/-a/-ble feud"−の11音節を思う時,考えられること
の詩的な足跡を一歩一歩辿って見た.Lowellはこの作品
は,この場合,"the" という定冠詞を,"th'" と縮読し,"th'
について,−The sonnet On Seeing the Elgin Marbles
heart" として1個に走読したい.これは英詩において,
for the First Time is much better.−と称えるのである.
読者にまぎれもなく縮読を指示したく思うならば,theを
これは,おそらくは,詩人キーツ作「エルギン大理石彫
th'と記しておく工夫もあるからである.これで,10行目
刻群を観て,というソネットを携えて,ヘイドンに」
("To
は − "Bring round th' heart an un/-de/-scrib/-a/-ble
B. R. Haydon, with a Sonnet Written on Seeing the
feud"−というふうに10音節に成る.これは,前者の母音
Elgin Marbles")という作品と比較してのLowellの讃美
融合である.
であろうか,と思う.
そして,13行目の−"Wast/-ing of old Time, with a bil/-
それと比べて,"much better" と,Lowellの褒めるこの
low/-y main"−の11音節を思う時,これもまた,2行目の
14行詩のテーマは,ご存知の,ヨーロッパ全土に語り継
それと同じように,"wast/-ing" の2音節を,"wast'ng"
がれている,あの「芸術は長く,人生は短し.」
(Ars longa,
というふうに,1音節に縮読したい.すると,これで,
vita brevis.)であろうか,と思う.この "Art is long, life
13行 目 は − "Wast'ng of old Time, with a bil/-low/-y
is short." という諺を下敷きにして,詩人キーツは,彼自
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奥 田 喜八郎
身の運命的な「生命の果敢なさ」を切実に歌い上げた傑
生命の息吹は余りにも弱すぎる.」と歌うのだろう.出
作である.そして,詩人キーツは,
「北海文明」と「地
口保夫訳をみると,「わたしの心はあまりにも弱すぎる.」
中海文明」の生々しい歴史的な,且つ個人的な葛藤を明
と読むのである.「心は弱い」というのは,漠然として
示した白眉である,というのが筆者の解釈である.
いて,分かるようで分かり難い.キーツは結核患者であ
それでは,Lowellのいうこの白眉「初めてエレギン大
ることを思い合わせてみると,ここは矢張り,神が吹き
理石彫刻群を観て」と題する14行詩の1語1句に立ち留
込んだ「僕の生命の息吹は弱い」と読む方がより具体的
まり,その意味を調べ,その味をあじわい,じっくりと
であり,感動深い.というのは,weakは「体力が弱い」
精読して見ることにしよう.重複するが,詩人キーツは
を意味する一般語でもあるからだ.これが詩人キーツの
最初の「4行連句」を,実際は5行を用いて,こう歌い
宿命である.この宿命に項垂れる詩人キーツを眺めると,
起こすのである.−My spirit is too weak-mortality /
彼はまるで,The weakest goes to the wall. (
「優勝劣敗」
Weighs heavily on me like unwilling sleep, / And each
「弱肉強食」
)という諺の示す,一方の「弱者が衰え滅
imagined pinnacle and steep / Of godlike hardship tells
び」ゆくその人自身であるのもまた,哀れ深い限りであ
me I must die / Like a sick eagle looking at the sky. −
る.
御覧の通り,詩人キーツは先ず,5行連句を使用する.こ
し か も,詩 人 キ ー ツ は そ れ に 続 け て,− "Mortality
れは詩人キーツ独自の,キーツらしい斬新な着想である.
weighs heavily on me like unwilling sleep."−と歌い定め
と い う の は,上 記 に 指 摘 し た よ う に,脚 韻 は −
るのだ.Mortalityという名詞は「死すべき運命」という
[abba/abba...]−というふうに押韻される,「8行連句」
意味である.これは,元,ラテン語の mortalis (mors
(octave)であるからである.これはいわゆる,最初の「4
「死」より)派生した語である.詩人キーツは死すべき
行連句」(the first quatrain)と2番目の「4行連句」
自分の運命を切実に歌うのだ.それも,−"Mortality
(the second quatrain)という,イタリア風ソネットの
weighs on me."−と.これは,恐らくは,
「死すべき運命
古い伝統的な詩型を意味するからである.詩型のルール
が重く僕に圧しかかる.」という意味であろうか.のし
はそうであるが,しかし詩人キーツはその伝統的詩型を
かかるその重荷の重さを強調して,詩人キーツは,−
踏まえながら,内容を重視して,型破りな「5行連句」
"Mortality weighs heavily on me."−と定める.「死すべ
を用いて「一つのテーマ」を高らかに歌い上げるのであ
き運命が僕に重く重くのしかかる.
」と歌うのだろう.
る.斬新で,面白い.
Heavilyを用いることにより,キーツにのしかかる,比喩
詩人キーツはまず,最初の1行をこう歌うのだ.−"My
的な重さが暗示され,それが,−"like unwilling sleep"−
spirit is too weak."−と.Spiritという語は,類義語soulが
である,と詩人キーツが歌うのだ.「眠りたくも無いの
あるので,厄介である.前者のspiritは,元,ラテン語の
に睡魔が襲うように」とでも比喩するのか.Sleepは,通
spiritus から派生した語である.「息」(spirare 「息をす
常の定期的な眠り,をいう.−"like sleep"(「通常の定期
る」)という原義を有するという.つまり,「神によって
的な眠りのように」)−ではなく,−"like unwilling sleep"
吹き込まれる生命の息吹」というイメージを持つ語であ
−と歌うのは,病身のキーツであることを思うに,一層,
る.後者のsoulは,古英語でsawl, sawol といい,おそら
哀れである.このように,"heavily" と "like unwilling
くは元,ゲルマン語で*saiwalo といい,*saiwiz から派生
sleep" との「重さの比喩」が呼応し合うのも,絶妙であ
した語であるという.
「湖または海に関わるもの」で,
る.悲嘆に暮れる詩人キーツ.落胆する詩人キーツ,で
当時,「魂は湖[海]でうまれ,湖[海]に帰ると考え
ある.
られた」という.Soulがseaと関連のあるのも,これで肯
そ し て,詩 人 キ ー ツ は,− "And each imagined
けるだろう.Soulはbodyの対語である.Bodyに生命と力
pinnacle and steep / Of godlike hardship tells me I
を付与するのがsoulである.それが人間の本質な部分で
must die / Like a sick eagle looking at the sky."−と3行
「永遠不滅」のものである.Spiritは肉体を越えた次元で
にわけて,一気に歌うのだ.ながい一文である.分かり
の活動力としての精神である.また,元来肉体を備えて
やすく,解きほぐしてみよう.まず,詩人キーツは,−
い な い 存 在 も 指 す.た と え ば,"the Holy Spirit(or
"I must die."−と歌う.
「僕は死ななければならない.」と.
Ghost)
"(
「聖 霊」)で あ る と か,ま た,"an evil spirit"
それも,−"I must die like a sick eagle."−と歌う.「僕は
(「悪霊」)であるとか,さらに,"The spirit is willing but
一羽の病める鷲のように死ななければならない.」と.し
the flesh is weak."(
「心ははやっても体がついてこない.」)
かも,−"I must die like a sick eagle looking at the sky."
であるという諺などを思い出す.
−と歌う.「僕は大空を見詰めている一羽の鷲のように死
詩人キーツは上記の諺を下敷きにして,−"My spirit is
ななければならない.」と表曰するのだろうか.これは
weak."−"My spirit is too weak."−と歌うのではあるまい
何という悲しい落胆であろうか.哀れ深いかぎりである.
か.これは,思うに,「神によって吹き込まれた,僕の
それにしても,なぜ詩人キーツはここに「鷲」を歌い
On Seeing the Elgin Marbles for the First Time
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上げるのか.何故詩人キーツは「病める鷲」を明示する
使者ともされる.前者のSt. John the Evangelistはいつも
のか.Eagleは,百鳥の王である.その力・その視力・
ワシのように,"the sun of glory" を眺めていたからだと
その飛ぶ姿などを称えて言う.中でも,褐色で肩が白色
いう.「エゼキエル書」の中に,−8 ...and they four had
のimperial eagle(カタジロワシ)は,堂々たる帝相の持
their faces and their wings. / 9 Their wings were
ち主である.鷲は高処に巣(eyrie)を営み,四方を見渡
joined one to another; they turned not when they went;
して,急転直下(swoop down)して獲物を拉し去る猛
they went every one straight forward. / 10 As for the
禽である.イングランド産の鷲は,golden-eagle(イヌ
likeness of their faces, they four had the face of a man,
ワシ)である.この他にsea-eagle(ウミワシ)がいる.
and the face of a lion on the right side; and they four
オジロワシ属Haliaeetus の数種の大形ワシの総称である.
had the face of an ox on the left side; they four also had
魚を常食とする.「イヌワシ」はタカ科のイヌワシ属の
the face of an eagle.−
代表的な鷲である.北半球に生息し,頭・首の後ろ羽が
「彼らはおのおのその顔の向かうところへまっすぐに行
黄金色である.
き,霊の行くところへ彼らも行き,その行く時は回らな
詩人キーツの歌う「鷲」は,このイヌワシであろう.
い」という神の言葉がある.これは第一章第8節以降の
イヌワシについて,−Golden eagles hunt well in pairs.
神の言葉である.Eagleのごとく,St. John the Evangelist
When very hungry, they may attack foxes or even
も,また 詩人キーツも,「それぞれの顔の向かうとこ
medium-sized dogs. −であるという.また,このイヌワ
ろへ,回らずに,まっすぐに進む」人である,と歌うの
シ に つ い て,イ ン グ ラ ン ド で は,− You have heard
かもしれない.両者は共に「正義の猪武者」の感が大で
stories about small children being carried off to eagles'
ある.さらに,戦場では,ワシが飛ぶのは勝利の吉兆と
nests by these large birds.−と語り継がれているのだ.
されている.イギリスの詩人John Milton(1608−74)
「小さな子供達をさらっていく」のは,イヌワシである,
は,作品Areopagitica の中に,
というのは面白い.まるでこれは「神隠し的」である.
Methinks I see her as an Eagle moulting her mighty し か し,こ れ は あ く ま で も,such stories have been
youth, and kindling her undazl'd eyes at the full midday
proved to be untrue.である.さらに,
beam; purging and unscaling her long abused sight at
Close at hand the golden eagle's brown plumage is seen
the fountain itself of heav'nly radiance. と語っているの
to be of a warmer shade. The plumage brightens on the
は,興味深い.ここに言うherというのは,Englandを指
back of its neck to the golden brown from which the
す.ワシのように羽換えして,そのたくましい若さを取
bird takes its name. Its eyes and bill are dark. Its legs
り戻し,あふれるばかりの真昼の陽光にらんらんたる目
and feet are feathered to the toes, whereas a bald
を燃やし,その長く使い古した視力を天上の光輝の源泉
eagle's feet above the toes are bare. Its tails feathers
そのもので清め,みがいているイングランドの姿が,即
are blackish toward the ends and more or less whitish
ち若き詩人John Keats自身の姿であるかのように見えるか
toward the body. というのはイヌワシの特徴である.し
らである.これは,ワシは10年ごとに地球よりもっとも
かし,イングランドにはgolden eagleがいるだけで,
遠い火炎圏(fiery region, empyrean)へ舞い上がり,そ
ScotlandやIrelandのそれぞれの山中と海浜にも住んでい
こからまっしぐらに海中へ降下して,羽換えする(to
るが,数はきわめて少ないらしい.
moult)と,イングランドで語り継がれているのも,興
鷲はまた,高貴と寛容の象徴ともされ,古代ローマ人
味深い限りである.思うに,詩人キーツは「鷲」に託し
はワシを "Bird of Jove"(ジョウヴ神の鳥)と呼ぶ.Jove
て,自分は先輩詩人ミルトンの生まれ代わりの後輩詩人
というのは「ローマ神話」に登場する,ユーピテル,
キーツであることを,明示するのかもしれない.
ジュピター(Jupiter)のことである.彼は神々の王であ
しかも,詩人キーツは,Eagles fly alone.(「ワシはひ
り,天の支配者である最高の神であるという.雷電を武
とり飛ぶ.
」)という諺の示すように,
「詩人は弧独」で
器とするという.
「ギリシャ神話」ではZeusに当たる.皇
あることを高らかに表曰するのかもしれない.「君子の
帝の葬儀ではワシを放ち飛ばす儀式があったという.こ
弧高」を「鷲」に託して歌い上げるのではないか.それ
の儀式を踏まえて,イギリスの詩人John Dryden(1631
も,イギリスの詩人Lord Alfred Tennyson(1st baron,
−1700)は,イギリスの将軍で清教徒の政治家のOliver
1809−92)は,−Hope, a posing eagle.−と歌うのを記憶
Cromwell(1599−1658)の葬儀の後で,Officious haste
しているのだが,これも出典は不明である.誰か,ご教
did let too soon the sacred eagle fly. と歌っていたのを想
示下さい.なにはともあれ,テニソンの歌う「ワシのご
起するのだが,出典は不明である.御教示を賜りたい.ま
と,たゆたわぬ希望」の詩人キーツその人であると読み
た,キリスト教美術では,ワシは瞑想の象徴である.St.
たい.
John the EvangelistやSt. Augustine(354−430)などの
このように,鷲は,行動の人,高位の人,高潔の人,
114
奥 田 喜八郎
知恵のある人などをイメージする.それを夢見る詩人キー
eagle" に託して,詩人キーツは「明日知れぬわが身と思
ツは,残念なことに,"a sick eagle" と歌うのである.こ
えど...」と切実に歌い上げるのも,労しい限りである.そ
れは,たとえ「帝王のワシ」であっても,病気には勝て
んな気の毒な詩人John Keatsは,いつも暗誦するのは,
ないと歌うのではないか.
「誇り」,「能力」
,「力」,「速
−3 Who forgiveth all thine iniquities; who healeth all
さ」,「若さ」のイメージを持つ鷲であるが,たとえ「百
thy diseases; / 4 Who redeemeth thy life from
鳥の王」であり「猛禽」であっても,病気には勝てない,
destruction; who crowneth thee with loving-kindness
と詩人キーツは嘆くのだと思う.Sickという語は,元,
and tender mercies; / 5 Who satisfieth thy mouth with
古代ゲルマン語*seukaz から派生した語である.これは,
good things; so that thy youth is renewed like the
インド・ヨーロッパ語族の*seu- から発達したゲルマン
eagle's.−という神の言葉である.これは,
「詩篇」第百
語であるという.原義は'to suck'という.
「悪魔に吸い込
三篇第3節以降の神の言葉である.「あなたのすべての病
まれると病気になると古代ゲルマン民族が信じていたこ
をいやし」と口ずさみ,「こうして,あなたは若返って,
とから」のようである.思い出すのは,−32 And at even,
ワシのように新たになる」と祈るのだ.奇跡を願う詩人
when the sun did set, they brought unto him all that
キーツである.重複するが,ワシは10年ごとに地球より
were diseased, and them that were possessed with
もっとも遠い火炎圏("fiery region, empyrean")へ舞い
devils. / 33 And all the city was gathered together at
上がり,そこからまっしぐらに海中へ降下して,羽換え
the door. / 34 And he healed many that were sick of
する−every ten years the eagle soars into the "fiery
divers diseases, and cast out many devils; and suffered
region," and plunges thence into the sea, where,
not the devils to speak, because they knew him.−
moulting its feathers, it acquires new life.−というイメー
という神の言葉である.これは「マルコによる福音書」
ジを先輩詩人John Miltonの作品を通して紹介しておい
の第一章第32節から第34節までの神の言葉である.
「病人
た.イギリスの詩人Edmund Spenser(c1552−99)もま
や悪霊」というふうに同列に取り扱う.「さまざまの病
た,傑作『神仙女王』
(The Faerie Queene 1590−96)
をわずらっている多くの人々をいやし,また多くの悪霊
の中に,−She saw where he upstarted brave / Out of
を追い出された」と明示するのだ.
the well.../ As eagle fresh out of the ocean wave,/
また,
「ルカによる福音書」の中にも,−40 Now when
Where he hath lefte his plumes all hory gray, / And
the sun was setting, all they that had any sick with
decks himself with feathers youthly gay.−と歌うのだ.
divers diseases brought them unto him; and he laid his
これは詩人スペンサーの「若さが,ワシのそれのように,
hands on every one of them, and healed them. / 41 And
新たになる」ことを願うのだ.詩人ミルトンもまた,ワ
devils also came out of many, crying out, and saying,
シのように新たになる若きイングランドに託して,自分
Thou art Christ, the Son of God. And he, rebuking
の「若さがワシのように新たになる」ことを告白するの
them, suffered them not to speak: for they knew that
だ.詩人キーツも,スペンサーやミルトンのそれと同じ
he was Christ.− という神の言葉が明示される.これは第
ように,自分の「若さがワシのように新たになる」こと
四章第40節から第41節までの神の言葉である.
「病気に悩
を祈願するのである.健康な先輩詩人スペンサーであっ
む者」に,イエスが「ひとりびとりに手を置いて,お癒
ても,また,ミルトンであっても,その願は変わらない.
しになった」というのだ.更に,
「ピリピ人への手紙」
ましてや,病弱な詩人キーツにとって,その願望はいか
に,−27 For indeed he was sick nigh unto death: but
ばかりであったことか.
God had mercy on him; and not on him only, but on me
松浦暢は,
『キーツのソネット集』
(Keats' Sonnets)
also, lest I should have sorrow upon sorrow.−という神
の中で,この "a sick eagle" について,"a sick Eagle...=a
の言葉がある.これは第二章第27節の神の言葉ある.
「ひ
poet, Keats" という注をそえる.つまり,
「病めるワシ」
ん死の病人」を神は哀れむのである.
は「詩人キーツ」である,というのだ.そして,
『キー
思うに,鷲は詩人キーツの理想である.ZeusやJupiter
ツは,こうしたものと自己との関係を,「天空」と「病
などの「王者の弧独」という系列に並び立つ詩人キーツ
気の鷲」のそれになぞらえて両者の合一の困難さ を
で あ る.ま た,同 時 に,St. John the Evangelist や St.
Godlike hardshipと形容し悲しんでいる.しかし,こう
Augustineなどの「太陽を見詰める」という系列に並び
した悩みは詩魂を練磨するのに貴重な体験であった.
立つ詩人キーツであるが,しかし,それも,詩人キーツ
キーツは自己の芸術の卓越性をエルギン大理石像のそれ
の,束の間の夢である.結核患者という呪われた,運命
に引き上げようと希んだのである.』と指摘する.松浦
の人キーツであるからだ.母はそれで亡くなった.弟も
はそれに続けて,イギリスの 文学・美術批評家Sir Sidney
そうであった.自分も明日知らぬ身の上である,と詩人
Colvin(1845−1927)の作品『キーツ』
(Keats )よりこ
キーツは切々と歌うのも,哀れ深い.それも,"a sick
う引用する.
On Seeing the Elgin Marbles for the First Time
115
I know not a finer image than the comparison of a poet
葉である.詩人キーツは,大空を舞う鷲を仰ぎ見て,こ
unable to express his high feelings to a sick eagle
の "A sound mind in a sound body." という諺を想起し,
looking at the sky, where he must have remembered
宿命のわが身を慈しむのだ,と思う.
his former towerings amid the blaze of dazzlings
作品に戻ろう.詩人キーツは−"Each pinnacle tells
sunbeams, in the pure expanse of glittering clouds; now
me I must die like a sick eagle looking at the sky."−と規
and then passing angels, on heavenly errands, lying at
定するのである.Pinnacleというのは,
[建築]用語で,
the will of the wind with moveless wings, or pitching
イングランドの各地方にある,教会の屋根に突き出た,
downward with a fiery rush, eager and intent on
小尖塔を意味する名詞である.教会は教会でも,イギリ
objects of their seeking.
ス人好みのゴシック様式の教会(Gothic church)の尖塔
こ れ は,Haydon の 手 紙 で あ る.Allott も ま た,こ の
である.このゴシック様式は,フランス北部に発達し,
Haydonの手紙を引用する.重複するが,
12−16世紀にヨーロッパに広く行われたルネサンス直前
I know not a finer image than the comparison of a Poet
の建築・彫刻・装飾などの様式である.小尖塔や,尖頭
unable to express his high feelings to a sick Eagle
アーチなどが特徴である.
looking at the Sky!
Pinnacleは,元,ラテン語pinnaから発達した語である.
と.ヘイドンの言うのは,松浦の指摘する「詩人キーツ
'feather, wing, pinna' という語源を有するという.鵞鳥の
=病める鷲」という対比が妥当であるかどうか,疑念を
羽で作った「鵞ペン」(a goose pen)をイメージする小
呈するのである.しかし,だからといって,ギリシャ大
尖塔であるかも知れない.鵞鳥はカモ科の鳥である.野
理石彫刻群を見たときの,その高潔な思想感情を表現す
生のガンを家畜化したもので,ヨーロッパ系はハイイロ
ることの出来ないでいる一人の詩人と,大空を見詰めて
ガン(gray goose)が原種である.鵞鳥はガン(duck)
いる一羽の病んだ鷲と比較すること自体,適切であるか,
より大形で首が長い.「鵞鳥のペン」で,思い出すのは,
どうかということになると,ヘイドン自身もよく分から
イギリスの劇作家であり詩人であるWilliam Shakespeare
ないという.ましてや,両者を比較する以外に,他によ
(1564−1616)の『十二夜』
(Twelfth Night: or What You
り優れたイメージがあるかというと,これもよく分から
Will )のSir Toby Belchの台詞である.−Let there be
ない,というのがヘイドンの正直な感想であるようだ.
gall enough in thy ink; though thou write with a goose-
筆者には別の解釈がある.というのは,健康なワシは
pen, no matter.−これは,第三幕第二場のトビイの台詞
他の小鳥達よりも,もっと高い天空へ舞い上がることが
である.
出来るからである.そして,ワシは高空を舞いながら,
鵞鳥は,ヨーロッパでは「母性」(maternity)
,「創造」
「四方を睨ん」で,「急転直下」して,獲物を拉し去る
(creation),「豊 饒」(fertility),「太 陽」
(sun)を 象 徴
猛禽であることをすでに上記に紹介しておいた.これが
する鳥である.また,死者の魂は,霊魂導師として,鳴
ワシの実像である.しかし,不幸にして,猛禽ワシであっ
くガチョウに伴われる,といわれる.このような一連の
ても,病に勝てぬと歌い,「病んだ鷲が高空を見詰めて
イメージをもつ鵞鳥の羽の紋様を彫刻した小尖塔即ち
いる」と歌うのである.
「過去の栄光」を夢見ながら,
"pinnacle" を明示し,さらに,"imagined pinnacle"(「羽
一羽の病んだ鷲が自分の棲家である高空を見詰める,と
紋様のある小尖塔」
)と形容する.それがgothic church
詩人キーツは声高らかに歌い上げるのである.
の屋根に取り付けられているのを,詩人キーツは見上げ
一方,詩人キーツは生まれながらの肺結核患者である.
る の だ と 思 う.そ の 時 の 感 動 を,− "Each imagined
これが詩人キーツの宿命である.この宿命を踏まえて,
pinnacle tells me I must die like a sick eagle looking at
詩人キーツは「本物の詩人」になろうと夢見るのである.
the sky."−と詩人キーツは厳粛に歌い上げるのだと思う.
それも,歴史画家ヘイドンと遭遇したことにより,物ま
これは,ゴシック様式の教会の屋根に聳える「其々の
ねの詩人キーツを脱皮して,「本物の詩人キーツになる
羽紋様のある小尖塔を仰ぎ見ると,大空を見詰めてい
栄光」を目指すのだ.これは本誌の拙文「文学少年キー
る一羽の病んだ鷲のように自分も死ななければならな
ツの見た歴史画家ヘイドン」を参照して下さい.他方,
い と 悟 る .」 と 厳 格 に 歌 う の で は あ る ま い か . こ の
病んだ鷲は「過去の栄光」を想起しながら,昔の古巣
"each imagined pinnacle" について,松浦は,−"each
(大空)を見上げるのだ.この絶妙な「対」がこのソ
imagined pinnacle=pinnacle of poetry"−であると読む.
ネットの妙味である,というのは筆者の解釈である.
そして,松浦は,『「架空のあららぎ」とは,キーツの標
ここに思い出すのは,
「健全な体に健全な精神(が宿
榜した永遠の美をもつ「詩歌・芸術の高塔」のことであ
らんことを)」(Orandum set ut sit mens sana in corpore
ろう.』と解釈するのだ.出口訳を見ると,−「詩歌の高
sano. )という諺である.これは,ご存知のように,ロー
塔」−と読む.両者は共に同じ解釈であるが,筆者は
マの風刺詩人Decimus Junius Juvenalis(c60−140)の言
「其々の羽紋様のある小尖塔」と読む.これが筆者の解
116
奥 田 喜八郎
釈である.
王 族 の 出 で,ロ ー マ 皇 帝 Caius Aurelius Valerius
そ し て,更 に,詩 人 キ ー ツ は,− "Each imagined
Diocletian(245−313)の時代に殉教した伝説的勇士であ
pinnacle and steep tells me I must die like a sick eagle
る.Cappadociaで竜を退治し,同国をキリスト教に改宗
looking at the sky."−と歌い定める.Steepというのは,
させたとの伝説から,騎馬で竜と戦う姿が描かれるよう
急勾配の場所や,(丘などの)傾斜面を意味する名詞で
になったという.祝日は4月23日である.
ある.たとえば,the rugged steeps of the mountain(「山
Saint Andrewは十二使徒の一人で,Peterの弟である.
の急な崖」)というふうに使用される名詞である.教会
ギリシャで殉教したといわれる.スコットランドの守護
の急勾配の屋根を意味するsteepであると読むことが出来
聖人で,七守護聖人(Seven Champions of Christendom)
る.がしかし,筆者はこれをsteepleと精読したい.これ
の一人である.祝日は11月30日である.Saint Patrick
が筆者の解釈である.詩人キーツはわざわざその前に,
(389?−?461)はイギリスの伝道師で,アイルランドの
pinnacleを声高らかに歌い上げるのを思い合わせて見る
司教である.アイルランドの守護聖人で,七守護聖人
と,このsteepはsteepleを明示するのだと思われるから
(Seven Champions of Christendom)の一人である.ま
である.Steepleというのは,元,古代ゲルマン語の*staup
た,「アイルランドの使徒(Apostle of Ireland)」ともよ
から発達した語であるという.これは,steepという原義
ばれる.祝日は3月17日である.七守護聖人の中に,
を有するからである.即ち,steepleは,steep+-leから成
ウェールズのSt. Davidも含まれているのだ.このSaint
る語であるからである.接尾辞-leは,たとえば,beadle,
David(?−?601)はウェールズの司教で,同地方の教化
girdle, handleというふうに用いられる,-leである.これ
に尽くし多数の会堂を建てたウェールズの守護聖人であ
は行為者や道具を表す接尾辞であるからである.Steeple
る.祝日は3月1日である.このように四人の守護聖人
というのは,教会・寺院などの高塔とか,尖塔という意
を眺めて見ると,英国そのものは正しくキリスト教国で
味を持つ名詞である.ご存知のように,その尖塔の中に,
ある.
鐘があり,上部は尖り屋根(spire)になっている装飾部
そ し て,キ リ ス ト 教 徒 詩 人 キ ー ツ は,− And each
分である.これはまるで,両手の指先を合わせた尖塔形
imagined pinnacle and steep of godlike hardship tells
である.たとえば,steeple one's handsというと,祈る
me I must die like a sick eagle looking at the sky.−と歌
時に両手を合わせる,合掌する,というふうに使われる
う.ここに言う "godlike hardship" というのは,教会そ
フレーズである.
の物を明示するのだと思う.これは筆者の解釈である.
思うに,詩人キーツは,ここに"each imagined pinnacle"
出口訳を見ると,これを−「神のような辛苦」−であると
(「其々 の 羽 紋 様 の あ る 小 尖 塔」
)や,ま た,"each
読む.もちろん,字面だけを追うと,これはそのような
imagined steeple"(「其々の合掌する高塔」
)などを歌い
意味である.Hardshipというのは「辛苦」
「苦難」とい
上げることにより,イングランドはキリスト教国である
う 意 味 で あ る が,'hardness of fate or circumstance;
ことを強調するのではあるまいか.ロンドンは教会の都
severe suffering or privation'という英語感覚をもつ名詞
市である.宗派の異なる教会が立ち並ぶ.其々の教会の
である.筆者はこの英語感覚を踏まえて,詩人キーツの
屋根に聳える「其々の羽紋様のある小尖塔や其々の合掌
歌うこの'godlike hardship'というのは「殉教者の一生」
する高塔などを仰ぎ見ると,大空を見詰めている一羽の
をイメージするのだ,と思う.
病んだ鷲のように自分も死ななければならないと悟る.」
というのは,「教会は殉教者の血の犠牲の上に立つ」
と歌うのは,感動深い限りである.
(Church stands on the blood of the martyrs.)と語り継
大聖堂の屋根に聳えるのは,
「合掌する高塔」
("steeple")
がれているからである.これは「清浄」
(purity),「無
である.ゴシック様式の教会の屋根に立つのは,「羽紋
垢」
(innocence)を表す「ハト」
(dove)に纏わる,ヨー
様のある小尖塔」
("pinnacle")である.これらの塔は宗
ロッパの中世的なsymbolismを語る見方である.一般的
派の異なる教会を明示し,イングランドは正しく大キリ
に,「ハト」は「ワシ」とともに,「大空―天国」(sky-
スト教国であることを,詩人キーツは称えるのだと思う.
heaven)を表すもっとも基本的な象徴の一つである,と
それはthe Union Jackを見ると,明らかだろう.別に,
いう.面白い.
the Union Flagともいう.これは1801年以来の英国の連
このように,詩人キーツは "godlike hardship" に託し
合国旗のことである.イングランドのSt. George's cross
て,「キリスト教殉教者」たちを明示し,其々の殉教者
と,スコットランドのSt. Andrew's crossと,アイルラン
たちの「血」の上に立つ「教会」を間接的に,且つ,厳
ドのSt. Patrick's cross の三つの十字を結合して3国の連
粛に歌いあげるのだ,と思う.また,「ハト」と,「ワシ」
合を表す.ご存知のように,Saint George(270?−?303)
との関係も巧みである.
は イ ン グ ラ ン ド の 守 護 聖 人 で,七 守 護 聖 人(Seven
キリスト教徒キーツは,厳格に,−「僕の生命の息吹
Champions of Christendom)の一人である.小アジアの
は余りにも弱すぎる- 死すべき運命は/睡魔が襲うように
On Seeing the Elgin Marbles for the First Time
117
ずっしりと重く僕にのしかかる./ 教会の屋根に立つ其々
適の美しい国である.
の羽紋様の小尖塔や合掌する高塔を / 仰ぎ見ると,大空
しかし,たとえ美しい国イングランドの肥沃をもたら
を見詰める一羽の病んだ鷲のように / 僕もまた死ななけ
す雨であっても,「雨を降らす風」は,肺結核患者キー
ればならないことを悟るのだ.」−と高らかに歌い上げ
ツにとって,「無常の風」である.それは,風が花を散
るのかもしれない.そして,詩人キーツは,−"Yet 'tis
らし,灯火を消すように,宇宙無常の大法が肺結核患者
a gentle luxury to weep / That I have not the cloudy
キーツの生命の息吹を奪うことに,詩人キーツはなす術
winds to keep / Fresh for the opening of the morning's
もないからである.それを思うと,詩人キーツはただ涙
eye."−と歌うのだ.これは「起承転結」の「承」の世界
を流すだけである.自然に,涙が流れ出る,という.こ
である.普通,sonnetの「承」は4行で歌うのだが,御
れも,贅沢なことである,というのは痛ましい.それも,
覧の通り,3行である.これも,詩人キーツはキーツら
優しい贅沢なことである,と歌うのは絶句するばかりで
しい独自なsonnetを工夫したものである.新しい着想で
ある.そして,詩人キーツはなお,−"I have not to keep
ある.
the cloudy winds fresh for the opening of the morning's
'tisというのは,it is のことである.つまり,詩人キー
eye."−と歌うのだ."the opening of the morning's eye"
ツはまず,"It is a luxury to weep." と歌うのだと思う.
というのは,詩人キーツ自身の「朝の目覚め」を意味す
これは,It is ...to do. という構文である.「泣くことは贅
るのだろうか.それとも,
「夜明け」を意味するのか.「朝
沢なことである.
」と言うのか.このように,luxuryに不
明け」を歌うのか.松浦はthe morning's eye=the sun,
定冠詞が付いて,普通名詞として使われているのが,味
であると説明する.面白いが,しかし,松浦のいう,the
噌である.たとえば,Taking a taxi is a luxury for me.
opening of the sunというのは,一体,どういう意味なの
(「タクシーに乗るのは僕にはぜいたくだ.」)というふ
か.ただ「朝の目」即ち「太陽」というイメージだけで
うに使用されるものである.それも,詩人キーツは "It
あれば,分からぬでもないが,しかし,the opening of
is a gentle luxury to weep." と定める.これは,「泣くこ
the sunとなると,どうもシックリしない.
「太陽が目を
とは優しい贅沢なことである.
」と歌うのか.しかも,
開く」とでも読むのか.太陽のことを「詩語」で,The
詩人キーツは "It is a gentle luxury to weep that I have
eye of day[heaven]という.また,星のことをthe eyes
not to keep the winds fresh." と歌うのだ.まず,that節
of heaven[night]ということを承知している.出口訳
を見てみることにしよう.これは,動詞weepの目的語で
は「瞼をひらこうとする朝明け」であると読む.成る程.
ある.ここに言う "have not to (=do not have to)
"は
出口訳の方が分かりやすい.
「...する必要がない」とか,「...するには及ばない」(need
イギリス人は,普通,「夜明け」を,−the opening of
not)という意味を表す.たとえば,You don't have to
the day−という.詩人キーツは,この言い方を踏まえ
attend the meeting.(「君は会合に出る必要はない.
」)と
て,−"the opening of the morning's eye"−と詩人キーツ
いうふうに用いられる,"have not to " である.詩人キー
独自の表現を試みたのではあるまいか.もちろん,詩人
ツの歌うのは,「風を爽やかに保つ必要はない」という
キーツは,このmorningに託して,
「曙」(dawn)を明示
のか.
するのだと思う.Mが大文字で,Morningとなると,擬
こ れ を 詩 人 キ ー ツ は,− "I have not to keep the
人化されて「曙の女神」という意味となる.それは,無
cloudy winds fresh."−と規定する.風は風でも,"the
論,『ギリシャ神話』のErosを指す.また,
『ローマ神話』
cloudy winds" と歌う.これは,
「雨を降らす風」である
のAuroraを指す.Erosは「恋愛の神」
(god of love)で
というのか.というのは,「雲は肥沃をもたらす雨を降
ある.エロスは古代ギリシャの愛と美の女神アフロディ
らせる」(Cloud brings fertilizing rain)というイメージ
テ(Aphrodite)と,ZeusとHeraとの息子で軍神のアレ
が 語 り 継 が れ て い る か ら で あ る.「天 の 水」(Upper
ス(Ares)と,の子である.
Waters)を明示する「雲」
(cloud)であるからである.
想起するのは,
「イザヤ書」の神の言葉である.−12 ...O
このような「湿った風」は,肺結核患者キーツにとって,
Lucifer, son of the morning!...−である.これは,第十四
なによりも危険な外敵であるからである.激しく咳き込
章第12節の神の言葉である.
「黎明の子,明けの明星よ」
むのも,そんな日である.要注意であることを患者キー
という神の言葉を下敷きにして,詩人キーツは−"the
ツはよく自覚している.だから,晴れた日であって欲し
opening of the morning's eye"−と歌うのではないか.上
い,とキーツは願う.せめて,今日,吹く風は爽やかで
記の出口訳を参考にして,筆者はこれを,「眼を開く曙
あって欲しい.否,せめて,夜が明けた早朝の風だけで
の女神」と読みたい.もちろん,これは,「夜明け」「朝
も,爽やかであって欲しい,と詩人キーツは切実に祈る
明け」に託して,詩人キーツ自身の「朝の目覚め」を明
のだが,皮肉なことに,イングランドの気候は厳しい.
示するものである.
厳しいが,健康な人にとって,イングランドは住むに最
思うに,詩人キーツはこの3行を,
「だがしかし,せ
118
奥 田 喜八郎
めて眼を見開く曙の女神のために / 雨を降らす風を爽や
共鳴する者である.「泣いて悲しむ」詩人キーツの詩境
かにしておく必要のないことを / 涙して嘆くことは優し
に同感する者である.病弱な詩人キーツを思うとき,若
い贅沢なことである.」と歌うのだろうか.
き詩人キーツの,なす術の無い「悲しみ」に,且つ「不
Yetは接続詞である.これは副詞の転用である.Butよ
安」に,且つ「恐怖」にただ脱帽するのみである.肺結
り強い意味のyetである.この6行目即ち−"Yet 'tis a
核という病魔に取り付かれた,若き身の上の詩人キーツ
gentle luxury to weep"−について,Lowellは,
の,やり場のない「涙」である.生命を左右する,貴重
the sixth line comes like a slip into soft mud, with the
な「涙」である.Lowellのいう単なるセンチメタルな涙
splash and subsequent jolt. Keats, who loathed
ではない,と強調したい.涙脆い詩人キーツであるが,
mawkishness a little later, had a hard time to rid
しかし,Lowellの忌み嫌う単なる感傷的な涙ではない.思
himself of it. He had to find out its banefulness all by
うに,これこそが詩人キーツの,キーツらしい,キーツ
himself, the sentimental farcists were unable to help
独自の詩境である,と主張したい.紛い物でない,詩人
him here for the simple reason that they liked the very
キーツの,キーツとしての作風である.筆者は,Lowell
type of expression which he learn to detest. Three lines
の嫌う「キーツの涙」を良しとする者である.という訳
pertaining to the gentle luxury of weeping, I will skip.
は,作品の中に,生の自分を登場させるという試みは,
と指摘する.これは長い引用文であるが,お許しを願い
歴史画家Haydonの画法を踏まえた詩人キーツ独自の,斬
たい.
新な手法であるからだ.
Lowellは前半の5行の世界を−so stern and solemn−
そして,詩人キーツはそれに続けて,−"Such dim-
と解釈する.「非常に厳格で厳粛」であるという.筆者
conceivFd glories of the brain / Bring round the heart
も同感である.それに対して,その後に続く3行の世界
an undescribable feud;"−と歌うのだ.詩人キーツはま
は「柔らかい泥濘に足がとられて,すってんころりんと
ず,−"The brain brings a feud."−と歌う.これは,
「頭
転ぶ」といった感想を抱く,とLowellがいう.その結果,
脳が一つの反目をもたらす.
」という意味か.それも,
「精神的なショック」を受ける,とLowellが非難する.
−"The brain brings a feud round the heart."−と歌うの
Lowellはなによりも−"weep"−という言葉が気に入らな
だ.これは,「頭脳が心臓のまわりに一つの反目をもた
い様子である.センチメタルで,涙もろく,遣り切れな
らす.」というのか.Feudというのは,
「争い」とか,
い,というのがLowellの批判である.この点が詩人キー
「反目」という意味を持つ名詞である.これは,aをuと
ツの唯一の「災い」を招く弱点である,とLowellは忌み
読み違えたための変形であるようだ.Feadという語は,廃
嫌う.感傷的な茶番劇作家達もなす術も無いだろう,と
語であるが,元,古代ゲルマン語* faxipo から発達した語
Lowellはひどく嫌うのである.たとえ詩人キーツは身を
で,enmity(「憎しみ」「敵意」)という原義を有すると
もって,軽蔑を込めて激しく嫌うことを体験した表現で
いう.頭で考えたこと(=知性)を,胸の中の感情が受
あっても,それを好む笑劇作家達さえも,今回の,この
け入れないで,それが心情の辺りでもやもやと燻ってい
sonnetの中の,この3行の世界をどう思うか,疑問であ
る,と詩人キーツは歌うのか.頭脳と心臓がお互いに反
る,とLowellは警告を発するのだ.そして,Lowellは「泣
目しあっていて,まるで,両者は敵対同士だ,と言うの
いて悲しむという彼の優しい贅沢」と関係する,この3
か.それも,−"an undescribable feud"−だと定める.今
行をただ飛ばし読むしかない,とLowellは突き放す.こ
日 の 英 語 で は,形 容 詞 undescribable の 代 わ り に,
れは,
「明日の偉大な詩人John Keats」を思いやる,Lowell
indescribable を 使 用 す る.こ の 接 頭 辞 un- は,形 容 詞
の愛の鞭であろうかと思われる.愛の鞭であると同時に,
describableに付けて「否定」の意味を表す.岩波英和辞
これはまたLowell自身の好みの理想的作風を語っている
典の中には,このundescribable(「名状しがたい」「筆舌
と思われる.しかし,筆者は筆者の解釈がある.それを
に尽くしがたい」
)が紹介されている.接頭辞un- は,形
この拙文の終りに論述したい.
容詞のほかに,副詞や名詞などに付けて「否定」「欠如」
Lowellの批判は批判といて,それを素直に受取るべき
の意味を表す.この意味では,inexpensive, impossible,
である.拝聴すべき,Lowellの警告である.この警告は災
irregularなどのように接頭辞in-(およびその変形)を用
いを蒙ることのないように,また詩人キーツ自身も「明
いる慣用の定まった形の語を除いて,ほとんどあらゆる
日の偉大なロマン主義の詩人」として,精進すべき新し
語 に 用 い る こ と が で き る,と い う.今 日 で は,
い詩境である,と読みたい.Lowellのこの非難は真の詩人
indescribableの方が慣用の定まった形の語である.
キーツになるための一つの指針である.
詩人キーツは,反目は反目でも,また,憎しみは憎し
しかし,筆者はLowellのいう「柔らかい泥沼に足」を
みでも,「筆舌に尽くしがたい反目(憎しみ)」を定める
とられない者である.「転ぶ」どころか,詩人キーツの
のである.しかも,詩人キーツは,−"Such glories of the
歩調に合わせて,一歩一歩歩み,詩人キーツの「涙」に
brain bring an undescribable feud round the heart."−と
On Seeing the Elgin Marbles for the First Time
119
規定する.ここに言う "such glories of the brain" という
(9)Nereid(ネレイド)は,海風にはためく衣装の
のは,恐らく,「頭脳というすばらしい栄光」を意味す
下に,若い肢体がほとんど裸体に近いほどくっきりと形
るのだろう.Suchは,
[形容詞を伴わない名詞の前に置い
を見せている.薄い衣の細かなひだがさざ波のように流
て]「とてもよい」という意味の形容詞である.それも,
れている.やがて,女神たちはこの薄い衣を脱いで,典
詩 人 キ ー ツ は,− "such dim-conceivFd glories of the
雅な裸体を見せることになる.この若い女神ネレイドの
brain"−と歌い上げるのだ.この場合のsuchは,「そんな
肢体を見て,若い詩人キーツは驚嘆した.
に...な」「非常に...な」という意味で,通例形容詞を伴う
これらの「古代ギリシャ大理石彫刻群」が公開される.
名詞の前に置く.これは,副詞のsoに相当する強調用法
キリスト教国イングランド詩人キーツはそれらの彫刻を
で,比較・対照する相手を含意する.たとえば,I have
観て興奮し,感嘆し,時には,ため息をついた.観るも
never seen such big ones.(「こんなに大きいのはみたこ
の,すべては新しい作品であった.それも,「崇高」の
とがない.」)というふうに用いられるsuchであると思う.
芸術作品ばかりであった.ひとつひとつの彫刻の解倍学
比較の相手は現在目の前にある物,である.つまり,詩
的正確さに,詩人キーツは驚いた.しかも,どれも自由
人キーツは,現在目の前にある「古代ギリシャ大理石彫
でのびのびとした印象を受けた.どれも均整のとれた美
刻 群」を 観 て,− "such dim-conceivFd glories of the
しい女神たちだ.女神たちはどれも人間の理想的形姿そ
brain"−と感動的に歌うのだと思う.Conceiveという動
のものであった.どれも人体の骨格や,筋肉組織を解倍
詞は,想像力を用いて何かの考えをまとめる,とか,構
学的正確さをもって表す,当時の彫刻家たちの素晴らし
想する,といった意味を持つ語である.類似語imagine
い技術に,詩人キーツは賛嘆した.それらは正しく「崇
は,何かを心に思い浮かべる,という動詞である.両者
高」にして,且つ,
「優美」その物であった.詩人キー
の語感のユニークな相違を精確に理解しよう.
ツの求める芸術観は正しくこの境地であった.
大英博物館に展示された「古代ギリシャ大理石彫刻群」
その昔,Perikles(クセルクセス1世.B.C.495?−429)
を初めて観て,詩人キーツは非常に感動した.(1)「ラ
は,守護神アテナの聖域アクロポリスの再建計画を立て
ピタイ人とケンタウロス族との戦い」は,パルテノンの
た.その総監督に彫刻家Pheidias(フエイディアス.生
彫刻群のうち,制作年代が最も古いと思われるもののひ
没年不詳)を任命した.そして,この計画実現のために
とつである.これはLapith(ラピタイ)王の婚礼の宴で
多数の建築家や,彫刻家や,画家,それに石工,工芸家
のCentaurs(ケンタウロス)族の無法の鎮圧である.素
などなどが動員された.アテネの町全体は芸術的活気に
晴らしい彫刻である.また,(2)「三女神」は,左の上
満ち満ちた.ここに,ギリシャ美術の絶頂期をむかえた.
体を立てたHestia(ヘスティア)と,その右のDione(ディ
そして,芸術の典型・模範と仰がれる,その調和的・理
オネ)と娘のVenus(ヴィーナス)の群像で,右下がり
想的な形式美を完成した.
のアウトラインになるように構想されている.見ると,
アクロポリスの丘の上に,まず中央南よりの最も高い
頭部と両手がことごとく失われている.痛ましい限りで
場所に,守護神アテナを祀る大神殿パルテノンが完成し
ある.右隣の(3)月の女神Selene(セレーネ)の「馬」
た.これは建築家Ictinus(イクティノス)の設計に基つ
を見送るようなヴィーナスの艶麗な姿態は,詩人キーツ
く,という.この神殿は,正面8柱,側面17柱,
「Doria
には余りにも艶かしい.これらの配置の構想は見事であ
(ドーリア)式の重厚な男性的力強さ」と,「Ionia(イ
る.
オニア)式の軽快な女性的典雅」とを見事に融合した,
ヴィーナスと対応する位置にある男神は(4)Dionysus
ギリシャ建築史上最高の傑作である.明確な数的秩序に
(ディオ二ュソス)である.獣皮の上に半身を起こすポー
基つくその均整のとれた姿は,まさに,
「Pentelicus(ペ
ズをとっている.眠りから覚めたような若々しい姿態で
ンテリコン)の大理石に結晶したギリシャ精神」と呼ば
ある.これは,Hercules(ヘラクレス)である,という
れるにふさわしい.さらに,神殿の東西両破風とmetope
説もある.
(5)「ギリシャ人とアマゾン族との戦い」や,
(メトープ)
,及びfrieze(フリーズ)は,女神アテナと
(6)「騎馬の行列」の一部分,それに,
(7)「ヘルメ
ギリシャ人の栄光を称える彫刻をもって美しく飾られ,
スに導かれるアルケスティス」などを詩人キーツは見学
これが神殿の名声を一層高めた,という.
した.また,(8)「クニドスのデメテル」は,母性と神
上記に紹介した「騎馬の行列」は,パルテノン神殿内
性の入り混じった悲愴な,しかし堂々たる彫刻像である.
装上部の外壁につけられたフリーズの一部である.また,
穀物の女神Demeter(デメテル)はCore or Kore(コレ)
「ラピタイ人とケンタウロス族との戦い」のメトープ浮
の母である.美しいコレを見初めた冥界の王Hades(ハ
き彫りは,パルテノン神殿の本尊アテネ守護神の台座の
デス)は,花を摘んでいた彼女を連れ去ってしまう.デ
上にある.さらに,すでに,上記に紹介しておいた,「三
メテルは悲嘆のあまり,地上のすべての植物を枯れ死さ
女神」はパルテノン神殿の東破風彫刻である.この東破
せてしまう,という悲劇を詩人キーツは思い出す.
風右側のヴィーナスと対応する位置にあるのは,「ディ
120
奥 田 喜八郎
オニュソス男神」である.また,東破風の向かって右端
ありますよ.富,運動場,権力,気持ちの良いお天気,
の先端に首をのぞかせているのは,月の女神「セレーネ
名誉,見世物,先生方,お金,若い人達,姉弟の神様の
の馬」である.
神殿,立派な王様,大学,お酒,女達ときたら,星の数
「ネレイデスの祠堂」に付帯彫刻で,海風にはためく
ほどいて,その姿は昔パリスの審判に美しさを争った女
衣装を纏った「ネレイド」は,紀元前400年頃の物であ
神のような...」−というのがこれである.
る.これは,トルコ南部のクサントスから出土したもの
これは,当時の大都市の生活を語った実景であろう.
で,現在,大英博物館に展示されている.祠堂は復元さ
「あらゆる可能性を内に秘めた,爛熟した」当時の家庭
れたもので,前後両面に4本,側面に6本の列柱をもつ
の様子であろう.これは,もはや,「クラシック期」の
周柱式の神殿風建築である.このように,ギリシャ本土
清澄な世界ではない.ましてや,これは,到底,「キリ
を遠く離れた小アジア,即ち,トルコの南岸にも,とう
スト教」の世界ではない.この「二つの異なる世界」観
とう優美様式が流れ込んだのである.やがて,女神たち
を歌い上げたのが,重複するが,−"Such dim-conceivFd
はこの薄い衣を脱いで,典雅な裸体を見せることになる.
glories of the brain / Bring round the heart an
詩人キーツは,これらの「古代ギリシャ大理石彫刻群」
undescribable feud;"−の2行であると思う.前者のthe
を具に観察した.長年の風雪に晒されて,目鼻立ちの欠
brainに託して,
「古代ギリシャ精神」が明示され,後者
けた女神がいる.片腕のない女神や,両腕のない女神も
のthe heartに託して,
「キリスト精神」を明示するのだ,
いる.首のない女神や,足首のない男神などの彫刻を観
と思う.前者は,別に,「ヘレニズム」(Hellenism)とい
て,詩人キーツはその損失した部分を勝手に補いながら,
う.また後者は,別に,「ヘブライズム」(Hebraism)と
古代ギリシャ人の栄光を心に描く.破損が著しいので,
言い換えても良い.これらは,西欧文明の二大源流であ
個々の女神の意図するポーズは不明である.また,アク
る.この二大文明が,このような形で,真正面から衝突
ロポリスの丘の全体図から見たパルテノン神殿の位置や,
するのだ.両者は長年の「犬猿の仲」である.否,「犬
そこに立ち並ぶ女神たち・男神たちの意図した配置など
猿もタダならず」であると言い換えておこう.お互いに,
も定かではない.ただこれらだけの彫刻を見ただけで,
"an undescribable feud" を抱く両者である,と筆者は読
全体のギリシャ彫刻の栄光を語るのは難しい.困難であ
みたい.念のために,出口訳を見ると,「そのように朦
るが,男性の力強さや,女性の典雅などはよく分かる.こ
朧と想像される栄光は / 内なる心に筆舌に尽くしがたい
んな姿になって,初めて重厚な男性と軽快な女性が納得
不和をもたらす.」と読む.不可解な訳である.「朦朧と
できる.でも,そこまで赤裸々に露出しなくても,とキ
想像される栄光」とは,一体,何をイメージするのか.
リスト教徒詩人キーツは胸を痛める.頭ではよく理解で
詩人キーツはこう歌うのではないか.−「古代ギリシャ
きるが,気持ちの方はシックリしない.鼓動が激しい.素
の栄光を微かに彷彿させる此れ等の時代物は/イギリス人
直に付いていけないものを強く感じる.見てはいけない
の胸に一つの筆舌に尽くしがたい反目を齎す」−と.これ
ものを見た,という罪を負う.そんな自分を厭う若い身
が筆者の解釈である.厄介な,−"dim-conceivFd"−をこ
の上の詩人キーツの葛藤.キリスト教徒としての若き詩
う読みたい.そして,詩人キーツはそれに続けて,−"So
人キーツの心の呵責.見れば見るほど,古代ギリシャ人
do these wonders a most dizzy pain,"−と感動的に歌う
の栄光に引き寄せられていく詩人キーツの罪の重さ.キ
のだ.詩人キーツはまず,−"These wonders do a pain."
リスト教の栄光に生まれ育った詩人キーツである.
−と歌う."These wonders" というのは,もちろん,「此
ギリシャの大哲学者Platon(427?−?347B.C.)の「イデァ」
れ等の時代物」即ち「古代ギリシャ大理石彫刻群」の作
にも似た,均整のとれた美しい人間の理想的形姿を見て,
品を指す.詩人キーツは,「此れ等の彫刻群」を「世界
とくに若い詩人キーツは感銘した.薄い衣に覆われた「3
の7不思議」
(the Seven Wonders of the World)の中に
女神」や,薄い衣の下に若い女体を見せる「ネレイド」
数えているのかも知れない.
を観て,キリスト教徒キーツは真に戸惑い,本当に困惑
パルテノンの本尊「アテナ女神立像」や,オリンピア
し,恥ずかしいほど赤面した.詩人キーツは,時には,
の「ゼウス座像」をはじめ,数多くの崇高にして,且つ,
悪魔の囁きを聞く思いであった.詩人キーツは,時には,
厳粛な神像をつくった,あの彫刻家Pheidiasは正に天才で
悪魔に誘惑されるのを実感した.これは正に,人間が
ある,と詩人キーツは驚嘆するのだと思う.パルテノン
「理想を追う」ことをやめて,人間らしい「現世の充実」
神殿の建築家Ictinusや,Callicratesもまた天才である,
に熱中する者である,と詩人キーツは思った.
と.愛と美の女神「ヴィーナス(アフロディテ)」を初
これらの女神たちの肢体を見ると,想起するのは,紀
めて裸体で表現した作家プラクシテレスもまた然りであ
元前3世紀の劇作家へロンダロスの作品である.その作品
る,という.彫刻の表情や身のこなしに激しい内面的感
の中で,夫の留守中の妻に浮気を勧める「取り持ち婆さ
情の高まりを表すのに成功した大理石加工家スコパスも
ん」の台詞である.−「世の中のありとあらゆるものが
また天才だ,という.各地の墓地から出土した,優れた
On Seeing the Elgin Marbles for the First Time
121
墓碑浮き彫りの石工家ケラメイコスは,故人の生前の姿
の斬新なideaである.
や家族や知人の悲しみの情景を表し,見る者の心を動か
松浦はこれを,
「これらの驚異は,げに,めくるめく
す,という.また,これらの浮き彫りがいずれも無名の
苦しみを与える」と読む.出口訳は,「まことにこれら
石工の作であることを思う時,古代ギリシャの美術がい
の驚異はめくるめく苦しみを与え,」とよむ.両者は全
かに一般の人々の生活のなかに深く浸透し,いかにその
く同じ解釈である.また,Lowellは,−"A most dizzy
水準が高かったかに詩人キーツは驚嘆するのみである.
pain" is perfect realism, it is just what Keats felt, but
そしていつしか,詩人キーツはこれらの彫刻群を驚嘆
good as it is, I think it was an after-thought.−という.こ
の念を抱いて鑑賞するのだ,と思う.眺めれば眺めるほ
れは,筆者のいう,「わが身に代えて...」という解釈と同
ど,其々の彫刻家や,建築家,それに,石工たちの「天
じ見方である.嬉しい限りである.当時の詩人キーツ自
才」にただ脱帽する詩人キーツである.それらすべては
身の「作詩の苦心」を垣間見ることができるのも,楽し
傑作中の傑作である.それはそれなりに,彫刻家として
い.興味深いことは,Lowellが言及する「手直し」(an
の苦心や苦労をわが身に代えて,詩人キーツは思いやる.
after-thought)観である.たとえそれが,Lowellのいう
芸術はこうでなければならない.文学もまた然りだ.詩
ように,
「予定外で最後に生まれた子」即ち "a most dizzy
もまたそうである,と詩人キーツは肯く.
pain" であっても,それが却って詩人キーツの苦心の足
産みの苦しみをわが身に代えて,詩人キーツは切実に,
跡を見る思いがして,心楽しい.見事な手直しである.彼
−"These wonders do a dizzy pain."−と歌うのである.
は,正しく,推敲に推敲を重ねる詩人キーツである.
Painというのは,「産みの苦しみ」を意味する名詞であ
詩人キーツはそれに続けて,−"That mingles Grecian
る.詩人キーツは,No gains without pains(
「骨折りな
grandeur with the rude / Wasting of old Time, with a
ければ利得なし.」)という諺を踏まえて,−"a dizzy pain"
billowy main, / A sun, a shadow of a magnitude."−と高
−と歌うのだと思われる.「産みの苦しみを果たす」と
らかに歌い収めるのである.指示代名詞thatは,前に出
歌うのかもしれない.それも,「目がくらむような産み
た,"a most dizzy pain" を指す.「それは」とでも言うの
の苦しみ」を明示するのだろう.しかも,詩人キーツは,
か.それとも,
「あれは」とでも歌うのか.前者の「そ
−"These wonders do a most dizzy pain."−と定める.こ
れ」は,(心理的または空間的・時間的に)自分から少
のmostというのは,veryという意味で,形容詞や副詞を
し離れたものをさし示す語である,という.後者の「あ
修飾する.Mostはveryの「文語」である.通例,定冠詞
れ」は,(心理的にまたは空間的・時間的に)自分から
theをつけない.これは強意表現なので,比較の意味を持
相手からも遠いものをさし示す語である,という.「それ」
たないことに注意しよう.これは,たとえば,a most
の「そ」はもと接尾語である,という.出口訳を見ると,
beautiful day(
「とても素敵な日」)というふうに使用さ
「その苦しみは」と読む.
れるmostである.つまり,
「主観的判断を表す形容詞・
思うに,詩人キーツはまず,−"That mingles Grecian
副詞しか修飾しない」のだ.決してa most tall girlとは
grandeur with Time."−と歌う.これは,恐らくは,「あ
言わないことに,注意.
の産みの苦しみが古代ギリシャ建築の壮大さを時の神と
詩人キーツは,−「どうやら此れ等の彫刻はとても目
合体させる.
」というのではないか.Mingleというのは,
が眩むような産みの苦しみを経る」−と歌うのだろうか.
インド・ヨーロッパ語族の*mag- から発達した語である
Painというのは,元,インド・ヨーロッパ語族*kwei -tか
らしい."to knead, fit"(「...をこねる,練る」)
(「...に合う」
)
ら発達した語であるという.これは,"to atone(「贖う」)
という原義を有するという.Mingleは,通例,各成分を
という原義を有するという.昔,「罪」,「刑罰」という
まだ識別できるという含みがある.また,ここにいう
意味で,このpainが使われていた,というのは意味深い.
Grecianというのは,特に古代ギリシャに関していう形容
「陣痛」は,あの楽園を追放されたEveの「罪の宿命」
詞である.建築その他有形のものの形容詞で,history,
なのか.思い出すのは,
「創世記」の神の言葉である.
lyrics,church,dialectsなど,学問・文化に関する形容
−16 To the woman he said, "I will greatly increase
詞としては,Greekを用いることに,注目しよう.特に,
your pains in childbearing; with pain you will give birth
イングランドでは,建築や,人の顔形および成句以外は
to children. Your desire will be for your husband, and
あ ま り 使 わ な い こ と に,注 意 し よ う.た と え ば,"a
he will rule over you."−これは第三章第16節の神の言葉
Grecian nose"(「ギリシャ鼻」)というふうにである.こ
である.この神の言葉を踏まえて,詩人キーツは「産み
れは,鼻柱の線が額から一直線になっている鼻,のこと
の苦しみ」をわが身に代えて,古代ギリシャの芸術家た
である.松浦はこの "Grecian grandeur..." について,
ちの「制作の苦しみ」を称えているのだと思う.そして,
Clarence D. Thorpeの説明を引用する.
詩人キーツは,完成した大理石彫刻群がまるで奇跡であ
"There is here in the splendid last lines almost a perfect
るかのように,賞賛するのだと思う.これは詩人キーツ
expression of a momentary glimpse of infinitude, the
122
奥 田 喜八郎
sublime infinitude of eternity − a fluttering, elusive
said Michael Angelo, 'the more the statue grows'.(
「大理
mental grasp of the vast and incomprehensible
石の減るだけ彫像は育つ,とミケランジェロは言った.」)
universe."
という言葉を想起するのではないか.これを思い出しな
というのがこれである.Thorpeはこの3行の世界を「輝
がら,詩人キーツは,時代物である「古代ギリシャ大理
かしいばかりである」と称えるのだ.「そこには,無限
石彫刻群」の栄光を讃嘆し,ミケランジェロの言葉を実
を一瞬に見てとった光景を完璧に表現している」という.
感するのだと思う.Rudeというのは,元,ラテン語rudis
それも,
「崇高にして,且つ,永遠の無限」を,である
から派生した語である.これは,raw(「加工しない」)
という.それは,「広大にして,且つ,不可解な宇宙」
という原義を有するという.「飾りのない」ものとは何
観を詩人キーツは何気なく吐露している,という.松浦
か.そして,「だんだんすり減る物」とは何か,と考え
は,このThorpeの解釈に同感しているのも,肯ける.が
ていると,上記に紹介した「サンダルの紐をとくニケ」
しかし,ただ言葉だけが踊っているのが気になる.筆者
という浮き彫りを見て,思わず,このニケの「サンダル」
はそれをじっくり精読し,味読したい.まず,ここに,
が歌われていると直感した次第である.また,サンダル
詩人キーツは大文字のTを用いて,−"Time"−とうたう
は古代ギリシャ人や,ローマ人が用いた底革を紐で足に
のだ.これは,
「擬人化」
(personification)された修辞
固定する履物であるからである.
法の一種である.これは「事物や抽象的概念を,人間の
そして,詩人キーツはさらに,−"with a billowy main"
姿」で表現すること,である.筆者はこれを「時の神」
−と歌う.The mainというのは,the sea(
「大海」)の
と訳したい.
「詩語」であり,「古語」である.「大海」,「わだつみ」,
紀元前4世紀後半のころ,アテネのアクロポリスは聖
「大海原」という.たとえば,the bounding main(「波
域として整えられたことを,すでに上記に指摘しておい
おどる大海」
)というふうに使用される.しかし,Mが大
た.この丘は,アテネの中央部にある.そこには,パル
文字で,the Mainというと,
「古語」で,=the Spanish
テノン神殿が建立された.そして,その神殿には,多数
Mainをさす.これは,(1)南米北部のカリブ海沿岸地
の 女 神 や 男 神 が 配 置 さ れ た.ま た,そ の 丘 に は,
方を意味する.(2)カリブ海(Caribbean Sea)の南米
Erechtheum(エレクテイオン)神殿や,Artemis(「ア
北東岸に沿う部分を意味する.前者は,パナマ地峡から
ルテミス」
)の祠堂や,Nike(ニケ)神殿などが次々に
Orinoco川までの地域の旧名である.後者はスペイン商船
建 設 さ れ た.ア テ ネ,Erechtheus(エ レ ク テ ウ ス)
,
の航路で海賊の出没が多かった水域の旧名である.誤解
Poseidon(ポセイドン)などの神々を合祀した神殿エレ
されないように,詩人キーツはあえて,小文字でmainと
クテイオンの女人柱は,有名である.また,勝利の女神
歌い,定冠詞を用いないで,不定冠詞を用いて,−"with
アテナ・ニケの祭礼に参加するニケたちなどのフリーズ,
a main"−と定めるのである.ギリシャを取り巻く「海」
たとえば,「サンダルの紐をとくニケ」は神殿の低い胸
といえば,the Mediterranean Sea(
「地中海」)が広が
壁を飾る浮き彫りである.
り,また,the Aegean Sea(
「エーゲ海」
)が広がる.
詩人キーツは,大英博物館に展示されるこれ等の彫刻
Billowyというのは,名詞billowの形容詞である.The
や浮き彫りなどを観て,紀元前4世紀後半の聖域アクロポ
billowというと,
「海」というthe seaの「詩語」である.
リスの丘を心に描き,古代ギリシャ建築や彫刻の顔形の
「大波の立つわだつみ」と歌うのだろう.「わだつみ」
壮大さを讃美するのである.それも,詩人キーツは其々
というのは,綿津見のことである.これは,また,海神
の彫刻が「時の神」と合体している,と歌うのだ.この
とも言う.「海の神」が転じて単に,「海」という意味と
融合する,という一般語mixに対して,mingleは,通例,
なるのだが,「わだつみ」は後世のなまりである.「わた
各成分をまだ識別できる,という含みがあることを上記
つみ」という.出口訳は,「波高き大海原」と読む.
に述べておいた.たとえば,mingle voices(「声を合わ
しかし,詩人キーツは,
「あの陣痛を経て 古代ギリ
せる」
)というふうにである.しかも,詩人キーツは,
シャ彫刻群の偉容さは古びた / サンダルを履く「時」の
この「時の神」を,−"old Time"−と規定する.「太古の
神と,大波の「海」の女神と合体する」
−と歌い上げる
時の神」とでも歌うのか.さらに,詩人キーツはそれを
のではないか.そして,詩人キーツは最終行を,重複
−"the rude wasting of old Time"−と定める.これは,
するが,−"A sun, a shadow of a magnitude."−と歌い
「擦り減らしたサンダルを履く太古の時の神」と言うの
収 め る.も ち ろ ん,こ れ は,− "That mingle Grecian
ではないか.これは筆者の解釈である.出口訳を見ると,
grandeur with a sun,"−のことである.また,無論,−
「太古の時間の自然の流れ」と読む.なぜ「自然の流れ」
"That mingle Grecian grandeur with a shadow of a
なのか.Wasteを,washと読み間違えたのか.そうであ
magnitude."−と詩人キーツは歌うのである.前者の "a
れば,rudeという形容詞をどう読めばよいのか.
sun" の不定冠詞に,注意しよう.これは,「恒星」の中
思うに,詩人キーツは,'The more the marble wastes',
の一つを意味する不定冠詞であるからだ.
On Seeing the Elgin Marbles for the First Time
123
星には,
「恒星」
(fixed star)
「惑星」
,
(primary planets)
,
に規定するのである.「日の神」("a sun")は,多数の中
「衛星」(secondary planets)がある.「恒星」とは,1.
の一人である.
常に見える星であり,2.天球上で相互の位置をほとん
厄介なのは,次の−"a shadow of a magnitude"−であ
ど変えず,自ら光っている天体である.この恒星に対し
る.出口訳を見ると,「偉大なものの影」と読む.「偉大
て,「惑星」とは,天球上の位置の定まっていない星で
なものの影」とは,何か,である.Allottはこれを,−The
ある.太陽の周囲を楕円軌道を描いて運行している天体
conception of something so great that it can only be
のうち,比較的大きい9個の星を指す.太陽に近い順か
dimly apprehended.−と説明する.詩人キーツは「何か
ら「水星」
(Mercury),
「金星」
(Venus),
「地球」
(Earth),
偉大な物を心に抱いていて,それが何であるのかを,ぼ
「火星」(Mars)
,「木星」(Jupiter),「土星」
(Saturn),
んやりと理解することの出来る物」である,とAllottは
それに,
「天王星」
(Uranus),
「海王星」
(Neptune),
「冥
いう.キーツ以外の者には分からない物であるという.出
王星」
(Pluto)などがこれである.これらの「大惑星」
口訳は,このAllottの指摘を踏まえた「偉大なものの影」
にたいして,「小惑星」(Asteroid)がある.これは,「火
であるのか.しかし,具体的にそれは何を明示するのか
星」と「木星」の軌道間を運動する数千の小さな天体で
定かではない.また,Ricksは,Allottのこの説明文を引
ある.がしかし,
「小惑星」は「惑星」と区別して考え
用し,そして,その後に,−Possibly the scientific sense
る場合が多い.この「惑星」を,別に,
「遊星」ともい
of 'magnitude'(a system of classification applied to the
う.「惑星」は太陽の光を反射して輝き,地球と同じ様
stars, ranging them in order of brilliancy)
, current
に太陽の周りを一定の周期で公転する天体である.
from the Renaissance onwards, is relevant.− と指摘す
「太陽」は太陽系の中心である恒星である.その表面
る.「多分,"magnitude" というのは科学上の意味」をも
は6000度の高熱発光体で,その光と熱とは地球に四季・
つ名詞である,とRicksは言う.面白い.それも,
「星座に
昼夜の別を生じさせ,生物の生命の源泉となる.その周
纏わる分類体系」のもので,「輝きの等級に分類」され
りを地球などの惑星が回り,これらに放射による光・熱
るものである,とRicksは言う.成る程.筆者もそう思う.
を供給している.別に,「日輪」「火輪」ともいう.「月」
そ し て,Ricks は,さ ら に,− So used by Milton,
は地球の衛星で,赤道半径1738キロの球体である.自転
Paradise Lost VII, 356-7, 'then formed the Moon /
周期は約27・32日で,常に同じ面を地球にむけている.満
Globose, and everie magnitude of Stars'.−と紹介する.
ち欠けし,自然美の代表である.伝説も多い.
「衛星」
イギリスの詩人John Milton(1608−74)の歌う,この2
(Satellite)とは,「惑星」
,たとえば,地球や土星など
行は,「...ついで円い月を造り,/さらに,さまざまな大
の周囲を回転する天体である.詩人キーツの歌う "a sun"
きさの星星を造り,」というのか.前後を見ると,ミルト
は,遊星=惑星以外の,星である.それは,常に見える
ンは「初めに太陽を造りあげ,ついで円い月を造り,さ
星であり,位置をほとんど変えず,自分のエネルギーで
らにさまざまな大きさの星を造り,そして,野原にばら
輝く星である.すなわち,太陽は「恒星」の中の一つで
蒔くかのように,これらの無数の星を空一面にばら撒か
ある.思うに,詩人キーツはこのような「天文」観を踏
れたからであった.」と歌うのである.つまり,太陽の
まえて,「日の神」を歌うのだ,と強調したい.
次に,月が歌われ,そして,星が歌われているのである.
古代ギリシャは「多神教」(polytheism)である.多数
詩人キーツは,無論,先輩詩人Miltonのこの詩行を思い
の神々の存在を信じ,礼拝する宗教である.これに対し
出しているのだ,と思う.
て,「一神教」(monotheism)がある.ただ一つの神だけ
月は,
「惑星」の衛星であることを,すでに上記に述
を認めて,これを信仰する宗教である.
「キリスト教」
べておいた.重複するが,
「衛星」というのは,惑星(地
「ユダヤ教」
「イスラム教」などはこれに属する.詩人
球・土星など)の周囲を回転する天体である.「月」は,
キーツ自身は「キリスト教徒」である.だから,the Sun
地球の衛星である.古代ギリシャでは,月は3相をもつ
of Righteouseness(「義の太陽」)というと,これは,
「イ
という.すなわち,「満ちていく月」「満月」「欠けてい
エス・キリスト」を明示することをよく心得ているのだ,
く月」をもつ女神をイメージするという.また,ギリ
と思う.「マラキ書」に,−2 But unto you that fear my
シャでは,月は生前善良であった人々の「すみか(とく
name shall the Sun of righteouness arise with healing
に新月)」であるという.彼等は月でこの上ない静穏を
in his wings; ...−という神の言葉が明記される.これは第
享受し,地上の人々に神託を与えるという.しかし,キ
四章第2節前半の神の言葉である.このように,Sが大
リスト教では,月は「天后マリア」を表すのだ.
文字で,定冠詞をつけて,the Sunというと,これは,キ
The old moon in the new moon's armsというのを良く
リスト教では,神の「息子」=「キリスト」を表す.その
聞く.The old moonというのは,the waning moonのこ
誤解を避けるために,詩人キーツはわざわざ,不定冠詞
とである.これは,満月後の欠けていく月(=「下弦の
を用いて,古代ギリシャの「多神教」の中の神々をここ
月」)である.The new moonというのは,the waxing
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奥 田 喜八郎
moonのことである.これは,満月前の満ちていく月(=
の目は太陽を表すという.この「エジプト神話」を踏ま
「上弦の月」)である.つまり,
「地球の反射光のために,
えて,詩人キーツは衛星の「月」即ち「夜」と,衛星を
上弦の月に接して暗黒面の淡く現われたもの」という意
有する恒星の「太陽」即ち「昼」の関係をイメージし,
味のようだ.月はこのように移り変わるために,人間を
「日の神」が庇護する「月の女神」を歌い上げるのでは
表象するともいう.変化は,「死ぬ運命=死」をイメー
あるまいか,というのが筆者の解釈である.というのは,
ジするという.詩人キーツにとって,このように古代ギ
"shadow"には,影は蔭でも,
「庇(かげ)
」という意味を
リシャの「宇宙」観は意義深く,面白いようである.
持つからである.これは「保護」とか,
「庇護」とか,
キリスト教では,「月」は「聖母マリア」を明示する
「加護」という意味である.たとえば,under the shadow
ことを,すでに上記に述べた.誤解を避けるために,キ
of the Almighty(「神の加護のもとに」
)というふうに使
リスト教徒キーツは,あえて,古代ギリシャの「月」に
われるからである.もちろん,動詞としてのshadowは,
「...
纏わる,上記のイメージを下敷きにして,謎めいた「月」
を保護する」という意味をもつからである.これは無論
を高らかに歌い上げるのではあるまいか,というのが筆
「古語」である.
者の解釈である.出口訳の「偉大なるものの影」という
あるいは,これは「尾行者」という意味のshadowであ
のは,即ち「夜空に輝く月の女神」を厳粛に明示するの
ろうか.たとえば,put a shadow on him(「彼を尾行さ
だと思われる.仰ぎ見ると,もちろん,
「月」には,あ
せる」
)というふうに使用されるshadowであろうかとも
の古代ギリシャの建築家や,彫刻家や,石工たちが平穏
思う.また,動詞としてのshadowは,
「...に付きまとう」と
に棲んでいる,と詩人キーツは厳格に歌うのである.そ
いう意味を持つからである.「日の神を尾行する月の女
して,詩人キーツは「月の住民たち」が地上のキーツに
神」("a shadow of a magnitude")と味読するのも楽しい
神託を与える,という構図を心に描き,有頂天の気分に
限りである.それとも,
「日の神が庇護する月の女神」
("a
浸るのである.
shadow of a magnitude")と精読するのも,詩人キーツ
Ricksが論述するように,この "magnitude" という名詞
の詩的意図に適うと思うのであるが,いかがなものか.こ
には,「天文学」用語として,「(天体の明るさの)等級」
れを,最終行の前半に既に「日の神」("a sun")が歌わ
を 示 す 意 味 が あ る.た と え ば,a star of the first
れているので,思い切って,
「夜空に輝く月の女神」と
magnitude(
「一 等 星」)と か,a star of the second
読むのは,どんなものか.Lowellは,− "A shadow of a
magnitude(
「二等星」)とか,というふうに用いられる.
magnitude" is one of the finest and most startling
岩波英和辞典を紐解くと,「大きさによる等級」「光度に
expressions in all poetry.−と褒めちぎるのである.見る
よる恒星の等級」に使用される,"magnitude" である,
のも初めて,聞くのも初めてで,
「見事にして,且つ,
と明記されている.素晴らしい.このことを思い併せる
驚嘆すべき表現」である,と最高に称えるのだ.なによ
と,こ こ に 詩 人 キ ー ツ は あ え て,− "a shadow of a
りも,「美しい」と,Lowellは絶賛するのも,肯ける.そ
magnitude"−と不可思議に歌い上げているのも,これで
し て,Lowell は さ ら に − "...the rude / Wasting of old
納得できそうである.すなわち,これは「月の女神」を
Time."−という詩的言葉もまた「美しい」と讃美する.
厳粛にイメージするのだ,と確信する.というのは,「恒
がしかし,Lowellは,−The passage is much injured by
星」というのは,重複するが,天球上で互いの位置がほ
"billowy main"; not because the sea is out of place here,
とんど変わらない天体であって,「太陽」と同じく,自
but because both "billowy" and "main" are poetic words,
分のエネルギーで輝く天体を指すからである.つまり,
jargon words, stock euphemisms of an articial speech
岩波英和辞典によると,"a sun"は衛星を有する「恒星」
much employed by such "elegant" poets as the Swan of
である,ということだ.そして,"a magnitude" は,岩
Lichfield and Keats's early admiration, Mrs. Tighe.−と
波英和辞典によると,「光度による恒星の等級」を意味
いう.手厳しい批判である."billowy main" によって,そ
する名詞であるということ.すなわち,詩人キーツは,
の見事な詩行が大いに損害を受けている,という.しか
「恒 星」即 ち「太 陽」
("a sun")即 ち「偉 大 な 神」
("a
し,Lowellは,ここに「海」は似合わない,というので
magnitude")という一連のイメージを心に描くのだと思
は無い.ただ "billowy" と,"main" の二語がともに「詩語」
うからである.さらに,詩人キーツは,その「偉大な神」
であり,「(ある社会の)通語」であるからだ,という.
("a magnitude")を踏まえて,声高らかに−"a shadow
普通の人には,全く,「訳のわからない言葉」であると
of a magnitude"−と歌い収めるのである.
いう.たとえ業界語であるとしても,それは「陳腐にし
問題は,−"a shadow"−である.これは,出口訳「偉
て婉曲な言い方」であると扱き下ろす.しかも,それは
大なものの影」の示す,「影」で良いのであろうか.古
「数奇をこらした」詩人たち,すなわち,Samuel Johnson
代エジプトでは,Isis(イーシス)とOsiris(オシーリス)
(1709−84)や,キーツの初期の作品を賛美するMary
の息子である,Horus(ホーラス)の左の目は月で,右
Tighe(1772−1810)などによって大いに使用された「不
On Seeing the Elgin Marbles for the First Time
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自然な言葉」の陳腐な婉曲な言い方である,と貶すのだ.
代ギリシャ彫刻群の偉容さは古びた / サンダルをはく太
Lowellはなによりも詩人キーツの,大英博物館に展示
古の「時」の神と,大波の「海」の女神と,/ 「日」の
された「古代ギリシャ大理石彫刻群」を観た時の「生の
神と合体し,夜空に輝く「月」の女神と合体する」
−と
実感」をそのまま素直に自分の言葉で表現していること
歌い収めるのではないか.
を,褒めるのである.誰もが解かる言葉であるという.た
KeatsとShelleyの研究者Miss J. M. Evansはこのsonnet
とえば:−"A most dizzy pain"−である.これは,詩人
について,こう語る.−This is a Miltonic sonnet, a little
キーツが彫刻群を観た時の実感であり,素晴らしい言葉
marred by one or two lines such as the "sick eagle
である,という.また,Lowellは繰り返し,−There are
looking at the sky.Keats increased his love of Greek
signs in this sestet that the first parts of it to be
sculpture by frequent visits to the British Museum
composed were "mingles Grecian grandeur with the
where he spent time in contemplating the Elgin
rude wasting of old Time" and "a shadow of a
marbles, monuments which were brought to England
magnitude." Thus he saw the Marbles, these phrases
from Greece in the early nineteen century by the Earl
were to him absolute description.−と強調するのである.
of Elgin.−これは「ミルトン風のソネット」である,と
「失神するほどの産みの苦しみ」とか,また「古代ギリ
Evansがいう.
「ミルトン風のソネット」というのは,恐
シャ彫刻群の偉容は古びたサンダルを履く太古の時の神
らくは,文体がミルトンの詩のように「荘厳雄大」であ
と合体し,日の神が庇護する月の女神と合体する」とい
る,という意味であろう.筆者もこれに賛成である.そ
う言葉は,詩人キーツ自身の実感であり,完全無欠の彫
して,精読してみると,たとえば,「大空を見詰めてい
刻観である,とLowellは主張するのである.この詩人キー
る病んだ鷲が」という歌い方がこの作品全体の荘厳雄大
ツ自身の実感は正に,女流詩人Lowell自身の実感でもあ
さを少し損なっている,とEvansは言う.Lowellもいう
るのだ.嘘偽りのない詩人キーツの「真に迫った」感動
が,筆者はそう思わない.「病んだ鷲」と「病んだ詩人
であり,それがまた,女流詩人Lowellの感動でもある,
キーツ」との対比の絶妙さを,すでに上記に論述してお
と思う.しかし,
「大波の海の神」は,模倣の,紛い物
いた.前者は「嘗ての栄光」を懐かしみ,また,後者は
の表現である,とLowellは忌み嫌うのだ.これはただ,
「明日の栄光」を夢見る,という「対」の妙は見事であ
上記の先輩詩人たち,すなわち,Samuel Johnsonや,
る,と思うからである.さらに,気になるのは,大英博
Mary Tigheなどのの悪弊の言い回しであり,その実感な
物館に展示されたのは,「古代ギリシャ大理石彫刻群」
くして,詩人キーツはただ「口先だけの言葉」として,
であり,また,詩人キーツが感動したのは,もちろん,
ここに使用している.それは,気に入らない,許せない,
「古代ギリシャ大理石彫刻群」であるから,Evansのい
というのがLowellの批判である.さらに,Lowellはその
うGreek sculptureでは困る.やはり,Grecian sculpture
理由を,−"Dizzy pain" did, I think, come next, and the
と言うべきだろう.というのは,詩人キーツはなにより
rhyme is to blame for "main."−である,と説明する.そ
も,特に「古代ギリシャ」に関心と興味と魅力とを抱い
れは,−"pain / main"−という脚韻を整えるためである,
ているからである.最後に,Evansのいうthe Earl of
という.それは脚韻の咎だ,という説明は面白い.
Elginのことである.これは,正確には,Thomas Bruce
The billowはthe seaの「詩語」である.また,the main
を指し,the 7th Earl of Elgin(1766−1841)であること
もthe main seaの「詩語」である.この「詩語」は,詩
を,すでに上記に指摘しておいた.
人キーツのその時の「実感」では無い,とLowellは言う.
イ ギ リ ス の 批 評 家 で あ り,詩 人 の Robert Victor
これは,詩人キーツらしくない言葉であり,単なる「飾
Gittings(1911−92)がこのsonnetに関して,
り」表現である,というLowellの指摘は適確である.し
He stresses his weakness, his lack of ability to do
かし,ここは,矢張り,「地中海に棲む神々」をイメー
justice to the subject, everywhere his own insufficiency
ジする「海の女神」が配置されるべきである.それは,
Like a sick Eagle looking at the sky
別に,「エーゲ海に棲む神々」でもよい.それが無いと,
Which Haydon, to whom he at once sent the sonnets
このsonnet全体の詩的イメージは途中半ばで終わり,却っ
thought the finest image of a poet that had ever been
て,詩人キーツとしての手腕が問われるのではあるまい
written.
か.たとえそれが紛い物の言い回しであっても,たとえ
と論ずる.誰もが,批判する5行目の「大空を見詰める
それは「押韻」を整えるものであっても,ここに,「地
一羽の病んだ鷲のように」について,先輩画家Benjamin
中海」,あるいは,「エーゲ海」をイメージする,大波の
Robert Haydon(1786−1846)のみが,the finest image
「海の女神」が不可欠である.詩人キーツはそれを高ら
of a poet,であると称えるのである,という.すなわち,
かに歌いあげているのは,絶品である,と筆者は強調し
「詩人キーツは最も美しい描写力の持ち主」である,と
たい.詩人キーツは,−「あの産みの苦しみを経て 古
Haydonは力説するのである.しかも,Gittingsは,画家
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奥 田 喜八郎
Haydonのこの賛美を踏まえて,
「詩人キーツは自分の弱
ことを / 涙を流して嘆くことは優しい贅沢なことなので
点や,彫刻の真価を認めて正当に取り扱う能力に欠けて
ある./ 古代ギリシャの栄光を彷彿させるこれらの時代
いることや,自分自身の力量不足な点を,どの作品の中
物は / イギリス人の胸に一つの筆舌に尽くし難い反目を
にも強調している」,と指摘する.この5行目もまたそ
齎す./ これらの彫刻群は目が眩むような産みの苦しみを
うだ,とGittingsはいう.これは重要な指摘である.
経る,/ あの苦しみを経て,古代ギリシャ彫刻群の偉容
思うに,このように,詩人キーツは,先輩画家Haydon
は古びた / サンダルを履く「時」の神と,大波の「海」
の独自な画法を用いて,作品のどこかに,宿命的な自分
の女神と,/「日」の神と,夜空に輝く「月」の女神と合
を登場させる,という手法を工夫するようになるからで
体する.」−と,繰り返し口ずさみかえしてみると,詩人
ある.これは今までに無い,新しい歌い方であり,斬新
キーツの,あの時の深い感動が甦って来る.素晴らしい
な作風である,と強調したい.詩人キーツはこのように,
詩である.がしかし,Evansの言うミルトン張りの,す
詩人キーツ独自の,キーツらしい新しい「14行詩」の詩
なわち,「荘厳雄大」のソネットであることを思うに,
人に覚醒するのだ.その切っ掛けが,画家Haydonに出会
残念ながら,これは拙い訳である. い,鬼才画家Haydonの芸術に親しみ,Haydonの異様な
画法を見て,初めて,その画法を用いて歌い上げたのは
このsonnetである.
画家Haydonの,あの有名な "Christ' Triumphal Entry
into Jerusalem" を見ると,「ロバに跨るキリスト」が画
布の中央に描かれる.それを取り巻く群衆の顔が皆暗い.
そのなかに,詩人William Wordsworth(1770−1850)が
描かれている.よく見ると,詩人Wordsworthの上に,
詩人キーツの横顔も描かれているのだ.それを知った詩
人キーツはその手法を踏まえて,詩人キーツ自身も自分
の「14行詩」の中に,自分を歌い上げる,という画期的
な試みを考案するのだ.これは筆者の解釈である.この
画期的な試みを良し,というのは先輩画家Haydonである.
De Selincourtも然りである,と思う.それを忌み嫌うの
は,アメリカの女流詩人Lowellである.筆者は斬新な試
みとして評価したい.たとえ詩人キーツの工夫がまだ拙
劣であても,それは若さ故の「拙さ」である,と見たい.
是非,鬼才画家Haydonの画風について,かつて筆者は本
誌に発表した拙文「文学少年キーツの見た歴史画家ヘイ
ドン」(第50号記年号)を参照されたい.
「斬新なソネット詩人キーツ」はこう歌い上げるので
はないか.−「僕の生命の息吹は余りにも弱すぎる−死
すべき運命は / 睡魔が襲うようにずっしりと重く僕にの
しかかる. / 教会の屋根に聳える羽紋様の小尖塔や合掌
する高塔を / 仰ぎ見ると,大空を見詰める一羽の病んだ
鷲のように / 僕もまた必ず死ななければならないことを
さとる./ だがしかし,せめて眼を見開く「曙」の女神
のために / 雨を降らす風を爽やかにしておく必要のない
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