Untitled - 21世紀新社会システム研究所

第14章 19世紀の世界(1801~1900年) 目次
第 14 章 19世紀の世界(1801~1900 年) 1767 【14-1】19 世紀の科学と思想 【14-1―1】19 世紀の科学 【14-1―2】19 世紀の社会科学と哲学 【14-1―3】社会主義とマルクス主義 【14-2】19 世紀の欧米列強 【14-2―1】ナポレオン戦争(第0次世界大戦)とウィーン体制 【14-2―2】フランス 【14-2―3】イギリス 【14-2―4】ロシア 【14-2―5】アメリカ 【14-2―6】ドイツ 【14-2―7】イタリア 【14-2―8】日本 【14-2―9】オランダ 【14-2―10】スペイン 【14-2―11】ポルトガル 【14-2―12】ベルギー 【14-2―13】スウェーデン 【14-2―14】デンマーク 【14-2―15】その他のヨーロッパ 【14-3】第2次産業革命 【14-4】植民地から独立したアメリカ諸国 【14-4-1】カナダ 【14-4-2】南アメリカ諸国 【14-4-3】メキシコ 【14-4-4】中央アメリカとカリブ海諸国 【14-4-5】ブラジル 【14-5】植民地化されるアジア・アフリカ・オセアニア 【14-5-1】オスマン帝国 【14-5-2】エジプト 【14-5-3】イラン(カージャール朝) 【14-5-4】アフガニスタン(ドゥッラーニー朝) 目次
【14-5-5】ロシア、中国に征服されたイスラム国家 【14-5-6】インド及びその周辺国 【14-5-7】中国 【14-5-8】朝鮮 【14-5-9】東南アジア諸国 【14-5-10】アフリカ諸国 【14-5-11】オセアニア諸国 第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 2277 【15-1】20 世紀前半の科学と思想 【15-1-1】自然科学 【15-1-2】社会科学 【15-1-3】哲学・思想 【15-2】新産業の発展(第 2 次産業革命の続き) 【15-2-1】自動車産業 【15-2-2】航空機産業 【15-2-3】合成化学産業 【15-3】帝国主義下の列強 【15-3-1】覇権の交代期 【15-3-2】イギリス 【15-3-3】ドイツ 【15-3-4】フランス 【15-3-5】ロシア 【15-3-6】オーストリア・ハンガリー(ハプスブルク)帝国 【15-3-7】オスマン帝国とバルカン諸国 【15-3-8】イタリア 【15-3-9】オランダ・その他 【15-3-10】アメリカ 【15-3-11】日本 【15-4】第 1 次世界大戦 (1914~1918 年) 【15-4-1】第1次世界大戦の勃発 【15-4-2】アメリカの参戦 【15-4-3】ロシア革命と東部戦線 目次
【15-4-4】第 1 次世界大戦の現実 【15-4-5】オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊と諸民族の独立 【15-4-6】第1次世界大戦の終結 【15-5】戦間期(1919~1939 年) 【15-5-1】国際連盟 【15-5-2】アメリカ 【15-5-3】ソ連邦 【15-5-4】ドイツ 【15-5-5】イギリスと中東・インド植民地 【15-5-6】フランス 【15-5-7】イタリア 【15-5-8】スペイン 【15-5-9】オスマン帝国からトルコ共和国へ 【15-5-10】北欧・東欧の独立諸国 【15-5-11】日本と中国(日本の大陸進出) 【15-5-12】日本と中国(満州事変から日中戦争へ) 【15-6】第 2 次世界大戦 (1939~1945 年) ①1939年 【15-6-1】ドイツのポーランド侵攻 【15-6-2】ソ連のポーランド・バルト 3 国・フィンランド侵攻 ②1940年 【15-6-3】ドイツの北欧・ベルギー・オランダ・フランス征服 【15-6-4】イギリスの戦い(バトル・オブ・ブリテン) 【15-6-5】イタリアの戦い(北アフリカ戦線、ギリシャ戦線) 【15-6-6】日独伊三国同盟と日本の南進 【15-6-7】民主主義の兵器廠アメリカ ③1941年 【15-6-8】北アフリカ戦線 【15-6-9】バルカン半島の戦い(ユーゴスラビア、ギリシャ、クレタ征服) 【15-6-10】バルバロッサ作戦(独ソ戦) 【15-6-11】大西洋憲章 【15-6-12】太平洋戦争の開始 ④1942年 目次
【15-6-13】東部戦線(独ソ戦) 【15-6-14】北アフリカ戦線 【15-6-15】大西洋の戦い―技術の戦い 【15-6-16】ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト) 【15-6-17】太平洋戦争 ⑤1943年 【15-6-18】東部戦線(独ソ戦) 【15-6-19】イタリア戦線 【15-6-20】自由フランスの戦い 【15-6-21】太平洋戦争 ⑥1944年 【15-6-22】東部戦線(独ソ戦) 【15-6-23】ノルマンディー上陸作戦と西部戦線 【15-6-24】大戦末期のドイツと新兵器の開発 【15-6-25】イタリアの解放 【15-6-26】太平洋戦争 ⑦1945年 【15-6-27】ヨーロッパ戦線とドイツの降伏 【15-6-28】原子爆弾開発計画(マンハッタン計画) 【15-6-29】太平洋戦争と日本の降伏 【15-6-30】総力戦としての第 2 次世界大戦 第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年) 《はじめに》 【13-10】近世と 19 世紀の境目で述べたように近世のヨーロッパ諸国は 300 年間、
多くの戦争を行ない、その結果、近世末から 19 世紀にかけて、絶対王政国家から国民(民
族)国家への転換がはかられるようになったことは述べた。その転換点となったのが 19 世
紀の最初に行なわれたヨーロッパ中を巻き込んだナポレオン戦争であった。これは最後の
絶対王政国家間の戦争ともみられるし、最初の国民国家間の戦争ともみられる。あるいは
100 年後に起きる第 1 次世界大戦と対比して,第0次世界大戦であったとみてもよい(現実
にヨーロッパだけでなく、アメリカ、アジア、アフリカの植民地でも戦闘があった)。
その結果できたのがウィーン体制であったが、ほとんどのヨーロッパ諸国では政治及び
軍事の中央集権化が進み、ふつうは君主(イギリスのように立憲君主国もあったが)のも
とにこうした権力が集中し、税制が整備され、徴税能力が高まり、国民に(民族)国家意
識を持たせ、戦争する国民(民族)国家となった。 ところが、19 世紀を通してヨーロッパでは戦争がほとんどなかった。なぜ、ヨーロッパ
で戦争がなかったか。 近世が終ってみたら、外の世界(東洋やイスラムの世界)より、はるかにヨーロッパ国
民国家の軍事力は(産業革命後は経済力も)、高いことがわかった。それでは、まず、外
のほうから征服できるところは征服しようと打って出たのが 19 世紀の植民地獲得競争とな
ったのである。 したがって、19 世紀の歴史で述べることではあるが、ヨーロッパ列強はとりあえず、ヨ
ーロッパでの決着は棚上げにしておき、世界中で植民地獲得競争を行ない、あらかた獲得
するところがなくなって、再びヨーロッパに帰って、はじめたのが第 1 次、第 2 次世界大
戦であった(これは 20 世紀の歴史で述べることではあるが)。 そこで【14-2】19 世紀の欧米列強では、ヨーロッパの列強といわれ、海外に植民地
をもった諸国(フランス、イギリス、ロシア、ドイツ、イタリア、スペイン、ポルトガル、
オランダ、ベルギー、スウェーデン、デンマーク)とヨーロッパ以外の国で植民地をもっ
たアメリカと日本を加えて,
「19 世紀の欧米列強」とした。題名には入っていないが、日本
についてもここにいれた。 イギリスからはじまった産業革命については、近世の歴史で記したが、19 世紀後半から
20 世紀初めにかけてドイツ、アメリカを中心にして新しい科学技術をもとに起こった化学、
電気、内燃機関(自動車)、鉄鋼、石油などを【14-3】第 2 次産業革命としてまとめ
ている。いわば第 1 次産業革命で飛躍したイギリス、フランスなどを凌駕する産業力をド
イツ、アメリカが持つようになった源泉がこの第 2 次産業革命であったといえる。 1768
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
15 世紀末の大航海時代にいちはやく乗りだしたポルトガル、スペインは 16~17 世紀にア
メリカ新大陸やアジア、アフリカに広大な植民地を獲得していたが、やがて、後続のオラ
ンダ、イギリス、フランスにその植民地が浸食されていった。そして 19 世紀のはじめ、ナ
ポレオン戦争でスペイン、ポルトガルが大混乱におちいるとアメリカ新大陸の植民地では
独立運動がおき、【14-4】に記したように 1820 年代にほとんどの中南米諸国が独立し
た。 スペイン、ポルトガルの衰退で 19 世紀前半に中南米諸国の植民地は独立したが、前述し
たように、欧米列強が新たに植民地活動に進出してきたので、【14-5】植民地化され
るアジア・アフリカ・オセアニアの災難は 19 世紀後半に本格化し、19 世紀末には帝国主義
時代に突入することになり、列強以外はほとんど植民地化(84%)されるという人類史上
最大の異常事態になった。 【14-1】19 世紀の科学と思想 【14-1-1】19 世紀の科学 19 世紀に入ると、科学のすべての分野に大きな発展がみられた。そして、科学の実用的
な成果が日常生活で明らかになるにつれ、科学は比較的大衆的なものになっていった。 19 世紀の科学の業績としては、化学での原子説、有機化学の興隆、静電気から始まった
動電気利用の技術、物理学でのエネルギー保存と電磁気学の理論といった普遍的な自然法
則の発見、熱力学の成立を促した蒸気機関の研究、生物学での細胞説、実験生物学の確立、
世界観にまで影響を及ばした進化論などがあげられる。 また、18 世紀の科学を色どった「自然哲学者」は消滅して、19 世紀中頃には「科学者」
という語がつくられたように、専門家としての科学者が興隆し、実際、19 世紀も半ば過ぎ
るとアマチュアとして科学の世界に籍をおくことは少数の例外は別としてむずかしくなっ
てきた。 しかし、科学技術の進歩は、単に新しい産業を誕生させるようになったという意味でと
らえるだけでなく、人類の考え方、社会のとらえ方、思想・哲学にも重大な影響を与え始
めたという意味で、この 19 世紀の歴史において、科学技術史を概観しておく必要がある。 【①化学の分野】 偉大な化学者ラボアジエ(1743~1794 年)はフランス革命中の 1794 年に断頭台の露と消
えたが、19 世紀の化学もラボアジエの研究の続きからはじまった。以下、19 世紀の化学の
詳細は省略し、項目のみにとどめる。 1769
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○プルーストが定比例の法則を発見(1799 年)―「ある化合物を構成している成分元素の質
量比は、つねに一定である」という定比例の法則を発見。 ○ドルトンの原子説(1803 年)―『化学理論の新体系』(1808 年)で原子論を説き近代化
学の古典的基礎を樹立。 ○ゲイ・リュサックの気体反応の法則(1808 年)―「ある反応に 2 種以上の気体が関与す
る場合、反応で消費あるいは生成した各気体の体積には同じ圧力、同じ温度のもとで簡単
な整数比が成り立つ」という気体反応の法則の発見。 ○アヴォガドロの法則(1811 年)―「同温同圧のもとでは、すべての気体は同じ体積中に
同数の分子を含む」というアボガドロの法則を発表。 ○リービッヒの化学教育法(1825 年から)―ドイツのギーセン大学のリービッヒは世界で
最初となる学生実験室を大学内に設立し、初学生向けの練習実験室と経験を積んだ学生向
けの研究実験室に分け、大勢の学生に一度に実験させて薬学や化学を教えるという新しい
教育方式を始めた。ここでは学生は定性分析と定量分析、化学理論を系統立てて教えられ、
最後に自ら研究論文を書くことを求められた。 また、リービッヒは、リービッヒの炭水素定量法の創始、リービッヒ冷却器の発明など、
新しい化学の実験方法、新しい実験器具の開発にも力を入れた(実験の方法、道具を開発
することが重要であることは述べた)。さらに 1832 年に化学の論文誌である『薬学年報』
を創刊し、自ら編集を行った。これはその後 1840 年に『薬学および化学年報』と名を変え、
さらにリービッヒの死後には彼を記念して名を『ユストゥス・リービッヒ化学年報』と改
められた。この雑誌は現在も『ヨーロッパ有機化学ジャーナル』の名で発行が続けられて
いる(科学では研究成果は公共財であると考え、情報交流することが重要であることは述
べた)。 このようにリービッヒは化学研究の方法論を確立し、体系だったカリキュラムに基づい
た化学教育法を作り上げ、従来の徒弟的段階から、一桁も二桁も多い化学者を育成した。 実験から化学を学びたい学生がイギリス、フランス、ベルギー、ロシアなど各国から集ま
り、ギーセン大学は化学教育のメッカとなった。ホフマン、ケクレ、ヴュルツ、ジェラー
ル、フランクランド、ウィリアムソンといった著名な有機化学者もここで学び、リービッ
ヒの教育手法が創造と模倣・伝播の原理によって、ヨーロッパ各国に広がっていった。こ
れはドイツが有機化学の中心地となる礎となった。このように大学などの基礎研究から新
しい産業が誕生する道がはじめて開かれた。 ○異性体の発見(1826 年、リービッヒ、ヴェーラー) ○尿素の合成(ヴェーラー、1828 年) ○基の説(1832 年、リービッヒ、ヴェーラー) 1770
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○リービッヒの応用化学―リービッヒの最小律(1841 年)、化学肥料の開発、「農芸化学の
父」 ○置換の説(1838 年、アンドレ・デュマ) ○分子構造(「炭素原子は互いに結合して炭素鎖をつくることができる」)の理論(1858
クーパー、ケクレ) ○周期律―1869 年、マイヤーとメンデレエフとは独立に、周期系に関する論文を完成し、
1870 年ドイツの化学雑誌に発表した。マイヤーやメンデレエフが論文を発表した当時は、
化学学会からあまり注目されなかったが、メンデレエフが予言していた元素が発見された
ことで、メンデレエフの周期系への信頼性は高まった。 そしてこれが元素を分類し、体系化するのに有効なものとして広く認められるようにな
った。ここではじめて周期系の基礎が確立されたのである。 それまでに発見されていた元素はアトランダムではなく,自然には規則があることがわ
かった。多数の元素、自然の仕組みを解き明かす周期律表という自然の扉の鍵の発見は、
まさに人類の叡智であった(それから 100 年後の 20 世紀後半には遺伝子が読みとかれ、自
然のなかの生物界の扉の鍵が発見された)。 1894 年から 1898 年にかけて化学的に不活発な元素(ヘリウム、ネオン、アルゴン、クリ
プトン、キセノン)が発見され、これらの元素の原子価がゼロであることから、周期表の
ハロゲン元素とアルカリ金属の間に、新たなゼロ族をおくことが提案され認められた。こ
れにより周期表はより完全なものとなった。 このようにして 20 世紀のはじめまでには元素の周期系の地位は確固たるものになったが、 なぜ、そうなるか、なぜ、原子量の順に配列すると周期性があらわれるのか、それは、誰
にもわからなかった。これについては原子そのものの構造の解明を待たなければならなっ
た。それが 20 世紀のはじめにまったく新しい世界(量子の世界)を開くことになるのだが、
自然はアトランダム(でたらめ)ではなく、あるルールがあることがわかったことの意義
は大きかった。 【②電磁気学の分野】 17,18 世紀は電気といえば、静電気の時代であった。18 世紀の最後の年にボルタが電流
をとり出して以来、動電気の時代が始まり、化学反応への電気の利用の研究が開始された。 ボルタの電池の報告はロンドンの王立協会に届き,1800 年に公刊された。1800 年にはアン
ソニー・カーライルとウィリアム・ニコルソンが初めて水の電気分解に成功した。 以下、この分野の詳細も省略し、項目のみ掲げる。 1771
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○電気分解―ハンフリー・デービーが電気分解でカリウム(1807 年)、ナトリウム、カルシ
ウム、ストロンチウム、バリウム、マグネシウムを次々と発見。 ○エルステッドが電流の磁気作用を発見(1820 年)。 ○アンペールが、アンペールの法則を発見(1820 年)。また、電流を流すと、電流の方向を
右ネジの進む方向として、右ネジの回る向きに磁場が生じることを発見(右ねじの法則)。 ○オームが、「オームの法則」を発表(1826,1827 年)。 ○ファラデーは,1831 年、電磁誘導の現象を発見し、1832 年にさらに電磁誘導の法則、1833
年に電気分解の法則を発見するなど、超人的な科学者として活躍した。 ファラデーは電磁誘導の現象をコイルが磁力線を切るときに起電力が誘起されるという、
力線の概念を使って説明した。クローンや彼と同時代の人々(アンペール等)たちが電磁
気現象をニュートン力学における遠隔力と考えていたのに対してファラデーは空間におけ
る電気力線・磁力線という近接作用的概念から研究していた。さらにこの理論は場の概念
への第一歩ともなった。 電気と力線の概念を検討してファラデーは、空間はそのような力線で満ちているかもし
れない、そして光や放射熱はたぶん力線に沿って振動しているのだろうと考えていた。こ
れは重要な考え方であり、これに挑戦したのが後述するマクスウェルであった。 ファラデーの電気分解の法則は電気分解において、流れた電気量と生成物質の質量に関
する法則で、第 1 法則と第 2 法則がある。第 1 法則は、析出(電気分解)された物質の量
は、流れた電気量に比例する。第 2 法則は、電気化学当量(1 モル当量の酸化もしくは還元
反応を引き起こす電子の移動量を電荷量であらわしたものである)は化学当量に等しく、
同じものである。これは、1 グラム当りの等量の物質を析出させるのに必要な電気量は、物
質の種類によらず一定であることを示している。この一定の値は、ファラデー定数(9.65
×104 [C/mol])と呼ばれる。電気分解の法則の発見は、原子説からの推論により、電気の
基本粒子(電子)の存在を強く示唆することとなった。 ○電気通信の実用化―アメリカの物理学者ジョセフ・ヘンリーは、1829 年、強力な電磁石 を開発、1830 年、ファラデーより先に電磁誘導を発見したが、発表が遅れたため、発見の
功はファラデーに譲ることとなった。電磁石を組みこんだ電信機を考案して、1.6 キロメー
トルの距離に符号信号を送った(1831 年)。 ヘンリーは更に実験を推し進め、1832 年に自己誘導を発見した。さらにこれらの研究を
基に、電磁石を用いたモーターを発明した。ヘンリーは多くの発明をしたが、一切特許化
はせず、これらの成果をもとに他の人間が製品化することを大いに援助した。1835 年には
ヘンリーが継電器(リレー)を発明し、長導線上の弱電流でも強力な電磁石を制御できる
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ようになり、電信機の発明(1837 年)の基礎となった。このように電磁気学も基礎的研究
から即新しい産業を生み出すことになった。 ○電信の最初の商業化―イギリスのウィリアム・クックは、ヘンリーの考案を利用してチ
ャールズ・ホイートストンとともに磁針式電信機をつくり(1837 年)、警報機としての電信
機の特許を取得。そのシステムは 1839 年 4 月 9 日にイギリスのパディントン駅からウェス
ト・ドレイトンまでの間、約 21 キロメートルにわたってグレート・ウェスタン鉄道の線路
を利用して敷設。このように電気通信システムは、当時、急速に発展する鉄道網に設置さ
れ、鉄道網と通信網の複合システムとして普及していった。 ○モールス信号の完成―サミュエル・モールスは、信号方式としてトン・ツー(・-)式の
モールス信号を完成。1844 年ワシントン~ボルチモア間 64 キロメートルを結ぶ電信が架設
された。このモールスの発明に対し、ヘンリーは多くの支援を行った(自然の物理量の変
化を人間が考えたソフトでコントロールすることによって、通信という人間にとって有用
な産業を作り出すことになった)。 ○マクスウェルの電磁理論―ジェームズ・クラーク・マクスウェルに重大な示唆を与えた
ものは、ファラデーの場の理論とウィリアム・トムソンの 1845 年の論文であった。1845 年
の熱の分布と静電気力の分布の比較研究による論文は、電磁場と非圧縮性弾性体の間の類
似点を指摘していた。電磁誘導を何らかの媒体(現在「場」と呼ばれているもの)による
というファラデーの考えに数学的な表現を与えていた。彼の研究は連続的な媒質により行
われる電気作用を数学的に表現したものであった。 マクスウェルは、1865 年の『電磁場の動力学的理論』の中で、電場の変化によって磁場
の生ずる仕方と、逆に磁場の変化によって電場が生ずる仕方とを規定する方程式を示し、
電磁場の存在すべきことを理論的に明らかにした。それらの方程式は、電磁気学の基本法
則を数学的に表現しており,電流の磁気作用から電磁誘導まで、一つの統一した理論での
表現がここに確立された。そして、また電磁波の存在が予言され、電磁波の速度は光速に
等しいことが示された。このことは、光は電磁波にちがいないという明白な演繹につなが
り、光学と電磁気学の統一をもたらした。 ここにマクスウェルは、ファラデーによる電磁場理論をもとに、マクスウェルの方程式
を導いて古典電磁気学を確立し、電磁気学の最も偉大な学者の一人とされるようになった。 そして人類の叡智は、次の人類の叡智を生み出すことになる。50 年後のアインシュタイン
の相対性理論(1915 年)にもっとも大きな示唆を与えたのは、マクスウェルの電磁方程式
だった。 1773
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アインシュタインは 1920 年代にケンブリッジ大学を訪問した際、自分の業績はニュート
ンよりもマクスウェルに支えられた所が大きいと述べている。ファラデー~ウィリアム・
トムソン~マクスウェル~アインシュタインを見ても科学は積み重ねであることがわかる。 ○マイケルソン・モーレーの実験―エーテル(力や光が空間を伝わるための媒質としてエ
ーテルの存在が仮定されていた)の存在が否定された(1887 年)。 ○電磁波の発見―ハインリヒ・ルドルフ・ヘルツは、電磁波を生成する機械を構築し実験
室内で長い電磁波を発生させ、実証した(1888 年)。この実験を通して、マクスウェルとフ
ァラデーが予言した通り、信号が空間を伝播することが証明され、無線の発明の基礎とな
った。これにより、ラジオ放送の基礎も準備されたのである。また、1887 年、陰極に紫外
線を照射することにより、電極間の放電現象が起こって電圧が下がる現象として、光電効
果を発見した。 【③熱力学】 18 世紀後半から 19 世紀にかけて蒸気機関が発明・改良されたが、これらは学問的成果を
応用したものでなく専ら経験的に進められたものであった。 以下、この分野の詳細も省略し、項目のみ掲げる。 ○カルノーの定理―カルノーが熱機関の科学的研究を目的として仮想熱機関(カルノーサ
イクル)による研究を行い、ここに本格的な熱力学の研究(1820 年代)が開始された。 ○ジュールの法則―ジュールは 1840 年、ジュールの法則(電流によって発生する熱量 Q は、
流した電流 I の 2 乗と、導体の電気抵抗 R に比例する)を発見。熱の仕事当量を測定した。 ○「ジェール・トムソン効果」の実験―トムソンとジュールは、共同で研究を行い、1852 年、
2 人は細いノズルから気体を噴出させる実験を行い、ジュール=トムソン効果を発見した。
ヘイケ・カメルリング・オネスは、この効果をつかいヘリウムを液化して、低温物理学を
切り開いた。 ○絶対温度の概念(ケルビン(K))の導入―ウィリアム・トムソンは、1848 年に、
「温度が
物体中のエネルギー総量を表す」という絶対温度の概念(ケルビン(K))を導入した。 ○エネルギー保存則の発見―マイヤー(1842 年)、ジュール、ウィリアム・トムソン(ケル
ビン卿)、ルドルフ・クラウジウス、ヘルムホルツなどによって、それぞれエネルギー保存
則が確立されていった。 ○熱力学第 1 法則(エネルギー保存則)と「熱力学第 2 法則」の定式化―クラウジウスも
熱力学第 1 法則(1850 年)・第 2 法則の定式化(1854 年)など、熱力学の重要な基礎を築
いた。1854 年クラウジウスにより、第 1 の「エネルギー保存則」は熱力学第 1 法則、第 2
の法則は熱力学第 2 法則と呼ばれることになった。クラウジウスは、第 2 法則を「熱はつ
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ねに温度差をなくする傾向を示し、したがってつねに高温物体から低温物体へと移動する」
と表現している。第 2 の法則は,「エントロピー増大則」とも呼ばれるが、クラウジウスが
エントロピーと命名したのは 1865 年のことであった。 クラウジウスは 1885 年の論文『自然界のエネルギー貯蔵とそれを人類の利益のために利
用すること』で、蒸気機関が発明されて以降の人類のエネルギー利用の歴史に触れた後で、
論文執筆当時の主なエネルギー資源であった石炭はいずれ枯渇すると述べている。そして、
将来的には滝の落下による水力発電など、太陽によって得られる自然エネルギーに移行し
なければならないと、クラウジウスのエネルギー問題に対する先見性を示している。 ○トムソンと熱力学第 2 法則―トムソンは、1851 年独立に「周囲の中で最も低い温度より
さらに低温に熱源を冷やすことによって仕事をなしうる自動機械は不可能である」という
原理を提起した。これは後にトムソンにより「エネルギー散逸の普遍的傾向」と名づけら
れるが、クラウジウスの第 2 の法則と本質的に同じものであった。こうして、トムソンと
クラウジウスを中心にして熱力学体系の土台がつり上げられた。 ○統計力学の祖ボルツマン―ジェームズ・マクスウェルらに続いて気体分子運動論を研究
し、さらに分子の力学的解析から熱力学的な性質を説明する統計力学を創始した。 【④生物学】 19 世紀に、生物学はその対象が複雑であること、また、実地に役立つ部分も少なかった
ため、物理学や化学にみたような目ざましい発展はみられなかったが、細胞説と生命の自
然発生説の否定、実験生物学の確立など重要な進展をみている。しかし、世間の想像力を
もっとも強烈にゆさぶったのは進化の理論であった。 以下、この分野の詳細も省略し、項目のみ掲げる。 《細胞説》 細胞説とは、あらゆる生物は細胞から成り立っているとする学説で、さらに細胞が生物
の構造および機能的な単位であり、生命を持つ最小単位であるとする現在の認識の基礎と
なった。細胞説は近代的な生物学の始まりであった。 17 世紀にフックやレーウェンフックたちが、植物細胞を顕微鏡で観察していたことは述
べたが,生物学はまさに顕微鏡の発明と共にはじまり、その性能向上と共に発展した。 ○イエナの植物学教授シュライデン(1804~81 年)が、1838 年に植物について「生体の基
本的単位は細胞であり、これは独立の生命を営む微小生物である」と唱え、細胞を不可欠
な基礎的存在としてとらえた。シュライデンの友人でルーバンの解剖学教授テオドール・
シュワン(1810~1882 年)は動物組織を研究して、動物組織も植物組織と同じく細胞から
成り立っており、動物も細胞形成により、発生、生長するとした。 1775
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
○細胞分裂はデュモルティエ(1797~1878 年)が藻類で最初に発見(1832 年)、細胞分裂や核
分裂に関する研究が進んだ。
○ドイツの病理学者であったウィルヒョー(1821~1902 年)は病理学を細胞説に基づいて
見直し、細胞を中心とした組織の構造の研究へと病理学を方向づけた。そういった中から
彼は細胞分裂こそが細胞の増殖の普遍的な方法であるとの確信を得た。
「すべての細胞は細
胞から生じる」と提案し(『細胞病理学説』1858 年),細胞概念の確立に貢献するとともに、
細胞説を病理学に導入し,病理学を近代化した。 ○細胞分裂時の核分裂については、植物についてシュトラスバーガーが観察し(1875 年)、
動物ではヘルトヴィヒやW・フレミングが詳細を示し(1875 年、1879 年)、現在の細胞説
の概念がほぼ成立したのは、1870 年代とも言われる。 ○生命の自然発生説の否定―紀元前 4 世紀にアリストテレスが提唱した自然発生説(「現在
においても生物が親無しで無生物から自然に発生しうる」とする説)は、19 世紀までの、
2000 年以上にわたり支持されてきた。 顕微鏡の発明のところで記したオランダのレーウェンフックは顕微鏡で 1674 年に微生物
を発見したが、これによって、微生物の分野での自然発生説が論争となった。レーウェン
フックはムラサキガイが砂から発生するという考えを打破する実験を顕微鏡で行い、それ
は卵から生じるとした。 この生物の自然発生説は、第 3 章 太古代(40 億年前~25 億年前)の【3-1】生物
誕生の謎で述べたように、パスツールの「白鳥の首フラスコ」実験(図 3-2 参照)によっ
て、完全に否定された(1862 年)。 ○パスツールと細菌学―ルイ・パスツール(1822~1895 年)の業績は非常に幅広い。初期
には化学、その後、生物学と医学の分野へと変遷しており、それぞれにおいて大きな発見
を成し遂げた。とくに、化学における分子の立体構造の予測や、ウィルスの培養とワクチ
ン開発など、いずれも科学の進歩を数十年先取りしている面がある。ロベルト・コッホと
ともに、「近代細菌学の開祖」とされている。 ○コッホと細菌学―パスツールとともに「近代細菌学の開祖」とされるロベルト・コッホ
(1843~1910 年)は、1876 年に炭疽菌(たんそきん)の純粋培養に成功し、炭疽の病原体
であることを証明した。このことによって細菌が動物の病原体であることを証明し、感染
症の病原体を特定する際の指針であるコッホの原則を提唱した。その後も結核菌、コレラ
菌の発見者であるとともに、純粋培養や染色の方法を改善し、細菌培養法の基礎を確立し
た。寒天培地やペトリ皿(シャーレ)は彼の研究室で発明され、その後今日に至るまで使
い続けられている。感染症研究の開祖として医学の発展に貢献した。彼の多くの弟子は各
国で近代医学の普及伝達者となった。 1776
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
《進化論》 18 世紀の比較解剖学、地質学、古生物学、さらには啓蒙主義、唯物論という思想を背景
に進化論があらわれた。 ○ビュフォンの『博物誌』―1749 年から 1778 年までに 36 巻刊行した『一般と個別の博物
誌』(ビュフォン没後に 8 巻が追加された)は、ベストセラーとなり、博物学や科学思想の
発展に大きな影響を及ばした。 ○ラマルクの進化論―最初に体系化した進化論をとなえたのはシュヴァリエ・ドウ・ラマル
ク(1744~1829 年)であった。しかし、目的論的・前進的発達説、用不用説、獲得形質の
遺伝など、ラマルクの進化論は、のちにダーウィンの進化論が出てそのほとんどが否定さ
れた。 ○キュヴィエの天変地異説―キュヴィエ(1769~1832 年)は古生物が時代によって異なる
ものから構成されることを明らかにしたが、これは複数回にわたる天変地異による絶滅と、
その後の入れ替わりによるものであるという、いわゆる「天変地異説」を唱え、進化によ
って生物が変化することを認めなかった。 ○ハットン、ライエルの斉一説―ハットンの斉一説に興味をもったチャールズ・ライエル
(1797~1875 年)は、1830 年~1833 年、『地質学原理』を出版した。この中で、地殻は地
球の歴史を通じて緩慢で漸進的に変化するという学説を発表した。この考えは,自然界の
動力がつねに現在と同じであったという仮定に立っていたので、この学説は「斉一説」と
よばれるようになった。ライエル自身は晩年まで進化論者ではなかったが、彼の地質学は
進化論の下準備をすることになった。 ○ダーウィンの進化論―ダーウィンの進化論、『種の起源』(1859 年 11 月出版)について
は、第 3 章 太古代(40 億年前~25 億年前)の【3-2】生物進化の原理:ダーウィン
の進化論で述べたので省略する。ダーウィンは『種の起源』では直接人類については触れ
なかったが、大きな論争を巻き起こしたので、1871 年の『人の由来と性に関連した選択』
で多数の証拠を提示して人間と動物の精神的、肉体的連続性を示し、ヒトは動物であると
論じた。絵や図を多用した研究は拡張され、翌 1872 年には『人と動物の感情の表現』を出
版した。 そしてダーウィンは「人類とその高貴な特性、困窮している人への同情、人間にとどま
らずささやかな生命さえも慈しむ心、神のような知性、太陽系の運動と法則への理解、あ
るいはそのような全ての高尚な力、[とともに]人間はその体の中に未だつつましい祖先の
痕跡を残している」、それが人類であると結論している。 しかし、チャールズ・ダーウィンの進化論は、イギリス産業革命の絶好調期にあり、産
業資本主義のもとに自由競争の風潮のまっただなかで生まれたので、まことしやかにダー
1777
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ウィンの進化論の名をかたって普及した思想があった。それが社会進化論(社会ダーウィ
ニズム)と優生学思想であった。これらはダーウィンの思想ともダーウィンが書いた『種
の起源』の趣旨とも異なるものであった。 ダーウィンは人種間の生物学的な差異は非常に小さいので、人種を異なる生物種と考え
るべきではないと主張していた。ダーウィンは、ビーグル号での航海途中で(1832 年)、ブ
ラジルで見聞した奴隷制度に反対し、艦長のフィッツロイと衝突した。帰国後には奴隷解
放運動を支援した。 ダーウィンは「ある動物が他の動物よりも高等だと言うのは不合理だ」と考え、進化は
進歩ではなく目的もないと見なしていた。また「いわゆる人種を異なる種としてランクづ
けする」ことに反対し、被支配国の人々を虐待することに反対した。 社会進化論(社会ダーウィニズム)の著者たちは、自然選択を自由放任主義の弱肉強食
の資本主義、人種差別、戦争、植民地主義と帝国主義など様々なイデオロギーに利用した。
そしてダーウィンが亡くなった 19 世紀末から 20 世紀にかけて、その誤った社会ダーウィ
ニズムは世界中で植民地主義、帝国主義を正当化する理論に悪用された(一見科学的にみ
えたので(そのように説明したので)人々は信じやすかった)。それは戦争技術の進歩とあ
いまって、ついに第 1 次、第 2 次の世界大戦まで生み出すことになった。 しかしダーウィンの自然に対する全体論的な視点は「一つの存在の上に他が依存して存
在する」であって、ダーウィン自身は社会政策が単純に自然の中の選択と闘争の概念から
(その部分だけを取り出して)導かれてはならないと主張した(自然は一見「闘争」して
いるようにみえる部分もあるが,全体ははるかに「依存」しあっているのである。たとえ
ば、他の動物を食べるライオンもライオンだけになればたちまち、滅びてしまう。自然の
原理は「依存」である。人間社会の原理も「依存」である)。 本書の前半部のいわば地球編でくどいほど述べた自然(環境)と生物の進化の関係(自
然の叡智)は、現在も未来も続いていて、進化論の本当の意味は地球の進化論(環境論)
とあわせて知らなければ、人類の未来はないことを多分ダーウィンはわかっていたのだろ
う。やはり、自然の叡智と人類の叡智はあいたずさえて(自然の叡智をくみ取るという人
類の叡智があって)、はじめて人類の未来があるといえる。自然の叡智にそって生きるよう
に人類の叡智を発揮しなければならない。ダーウィンはそう示唆している。 【14-1-2】19 世紀の社会科学と哲学 学問も時代の風潮を反映しながら発展した。ロマン主義の高揚はドイツ観念論哲学を生
み、また国民主義と結びついて歴史学の発達をみた。現実主義に即しては、実証主義・功
1778
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
利主義の哲学と唯物論哲学が発達し、資本主義の発達はその反発としてマルクス経済学を
うんだ。 【①歴史学】 歴史学とは、過去の史料を評価・検証する過程を通して歴史的事実、及びそれらの関連
を追究する学問である。 人間にとって、何かしらの物事の成り立ちや経緯・来歴を知ろうとするのは半ば本能的
な行為である。そこで過去に関する記述を残し、過去を知るための技術は、人類が文字(と
くにアルファベット)を発明したすぐあとぐらいから、つまり、図 10-2 でいえば、(赤印
の)古代のギリシャ、古代の中国の時代から現れたことは述べた(古代ギリシャのヘロド
トス、トゥキディデス、中国の司馬遷)。 ○近代歴史学以前の歴史学 キリスト教がヨーロッパで支配的となると、学問分野においてもキリスト教の世界観が
支配的となった。ここに神の意図を実現する過程として歴史をとらえる見方が現れ、個別
の国家・民族・個人を超えた歴史の根本法則を見出す観点、普遍史の観点が成立した。 中世の歴史記述の特徴の一つとして「二国史観」という観点がある。アウグスティヌス
(354~430 年)の代表的な著作『神の国』では、
「神の国」と「地の国」の二元的な世界観
を示し、歴史は「地の国」に「神の国」が実現する過程であると理解され、以後のキリス
ト教神学・政治思想・歴史観などに決定的な影響を与えた(アウグスティヌスについては
キリスト教の歴史で述べた)。 キリスト教の権威が弱まり、普遍史的意識が希薄化すると、歴史記述は再び同時代史を
中心になされるようになった。ルネサンス時代の代表的政治思想家で歴史家でもあるマキ
ャヴェリ(1469~1527 年)の『フィレンツェ史』は、民族移動から 1492 年のロレンツォ・
デ・メディチの死にいたるまでのフィレンツェとイタリア半島の歴史である(マキャヴェ
リについてはイタリア・ルネサンスの歴史参照)。 マキャヴェリの友人で『フィレンツェ史』、『イタリア史』を著したグイッチャルディー
ニ(1483~1540 年)に至っては、同時代史の比重がより大きくなり、この点で古代ギリシ
ャの歴史記述と同じ傾向を持つものとなった。 理性の不変と普遍を主張し、あらゆる物事を理性によって体系づけようとする啓蒙思想
がヨーロッパで支配的になると、歴史記述にも大きな影響を与えた。啓蒙思想は懐疑と批
判によって、歴史記述に事実尊重・方法論重視の傾向をもたらし、さらに歴史研究を実践
に結びつけようという風潮につながった。 1779
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
啓蒙主義の歴史家の典型を示し、かつ評価が高いのはモンテスキュー(1689~1755 年)
である。彼は代表的著作『ローマ人盛衰原因論』および『法の精神』において、歴史事実
から理論的なモデルを抽出し、それを現在の社会に適用して問題解決の手段に利用しよう
とした(モンテスキューについては啓蒙思想の歴史参照)。 一方でボーフォールは『ローマ史最初の 5 世紀の不確実さに関する論文』を著し、ロー
マ史冒頭のロムルスとレムスに始まる王政の歴史が神話と伝説に過ぎないことを論じた。
ボーフォールの研究は近代歴史学に直接つながるものであった。 スコットランド啓蒙主義は事実をそのまま記述しようという叙述的歴史を重視する態度
に進み、ロバートソンの『スコットランド史』、『カール 5 世時代史』につながり、さらに
イングランドのギボンによる『ローマ帝国衰亡史』などの歴史叙述を生んだ。 一方で歴史記述とは別個に、史料の批判的研究が着実な発展を遂げていた。それはいわ
ゆる「古文書学」で、ベネディクト派の学僧マビヨンによって確立された。彼は 1681 年に
『古文書論』を著し、さまざまな文書を分類し定義づけた上で、インクや書体などを考察
した。さらに言語がラテン語やギリシャ語などの古典語で書かれているが、それがどの程
度まで古典的かなどの度合いで、その文書の時代性を明らかにできると述べた。このこと
により、さまざまな文書相互間の関係から客観的に文書の真偽を識別できる方法が確立さ
れ、古文書学が成立した。 ○近代歴史学の誕生 19 世紀は「歴史の世紀」といわれるほど歴史学が発達した。ロマン主義は中世へのあこが
れをよび、国民主義は民族の歴史的発展を考えさせる傾向をうながした。 とくにドイツが歴史学研究の中心となり、ニーブールのあと、ランケによって、厳密な
史料批判にもとづく近代歴史学が確立された。そのあと、ドロイゼン、トライチュケ、モ
ムゼンら優秀な歴史学者が輩出した。 《ニーブール》 バルトホルト・ゲオルク・ニーブール(1776~1831 年)は、ボーフォールの伝承批判の
精神を受け継いで、複数の文献相互の整合性を検討し、ローマ史の神話、伝承などの史料
を徹底的に批判し、客観的に叙述した『ローマ史』を著した。このなかでニーブールは「海
が流れをとりいれるように、ローマの歴史は、それ以前に地中海周辺の世界で名をあげて
いた他の全ての諸民族の歴史を取り入れる」と述べ、世界史のなかにローマ史を位置づけ
ようとする試みが見られた(図 11-2 のように、ヨーロッパの歴史の流れはローマ帝国に
流れ込んでいる)。近代歴史学の祖の一人と言われるニーブールの手法は同時代人であり、
近代歴史学を確立したランケにも多大な影響を与えたといわれている。 《ランケ》 1780
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
レオポルト・フォン・ランケ(1795~1886 年)は、ニーブールの『ローマ史』の方法論
を近代史の分野にも活かし、史料批判を通じて 15、16 世紀のヨーロッパ外交の構造から国
家を個別的に把握する方法を考えついた。ランケは国家を一般化して考える啓蒙主義を批
判して、国家を個別的に把握すべきと論じ、このような個別的歴史事実の相互関係から世
界史を把握すべきことを提唱した。ランケはニーブールとともに実証主義に基づき、史料
批判による科学的な歴史学を確立し、「近代歴史学の祖」といわれる。 ランケ史学は、従来の啓蒙主義から派生した教訓的、実用的歴史学に対する批判に特徴
があった。ランケは、あくまでも実際の事物がどのようなものであったかを発見しようと
つとめた。ランケの処女作である『ラテン及びゲルマン諸民族の歴史』
(1824 年)には、既
に以上のような歴史的思考法によって、ラテン、ゲルマン諸民族の西ヨーロッパにおける
共同体の形成や、キリスト教と人文主義の文化価値の統合、キリスト教的神の世界史にお
ける影響などが余すことなく記述されている。この処女論文は彼の以後の歴史学を規定す
ると共に、ベルリン大学での 50 年間の教育活動への道を切り開いたものであった。 ベルリン大学では、演習(ゼミナール)形式を重視し、史料を方法的に分析し、経験的
に解釈・判断するという方法を採った。
「それは事実いかにあったのか」を探究する実証主
義的な研究法と教育方法は、ドイツ国内のみならずイギリス・アメリカの歴史学に大きな
影響を与え、多くの後継者が生まれた。 《近代歴史学の展開》 だが、ランケ以後の歴史学の性格はドイツとイギリス・フランスでは異なる方向へ進ん
だ。ドイツでは政治色の強いプロイセン学派が台頭し、ランケの禁欲的な客観主義が批判
され、ダールマン、ドロイゼン、ジーベルが民族主義や自由主義の風潮が高まった現実政
治の影響を濃厚に受けた歴史叙述を著した。 ドイツ以外では、それぞれ功利主義や進化論、実証主義に影響されて、より科学的な方
法論を追求する姿勢が現れた。フランスではギゾー(『フランス文明史』など)、イギリス
ではトーマス・カーライル(『英雄崇拝論』など)、スイスには文化史で有名なブルクハル
ト(『イタリア・ルネサンスの文化』など)、オランダにはホイジンガ(『中世の秋』、
『ホモ・
ルーデンス』など)の歴史学者がでた。 《「歴史の法則性」を巡って》 だがランケの手法は史実探求に厳正さを付加した一方で文献資料偏重ともいえる風潮を
生み出すことになり、これでは何も見えてこないという批判も出てきた。その一つとして、
ドイツ国内では、歴史学の客観性を巡って歴史過程における法則性を研究の中心に据えよ
うとする主張が現れた。すなわちライプチヒ大学のランプレヒト(1856~1915 年)は、文
化や社会などの類型的把握が可能なものこそ歴史考察において重要なものなのであると主
1781
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
張した。彼はランケ的史学を批判し,人間の心理の発達によって歴史の発展を段階的にと
らえようとした。ランプレヒトの著作としては、『中世ドイツの経済生活』(1886 年)、『ド
イツ史』(1891~1909 年)などがある。 近代において主流となっていた啓蒙主義や唯物史観においては、歴史はある法則に基づ
き一定の方向へ進んで行くものと考えられ、歴史法則の発見が主要な研究目標として掲げ
られた。 その典型が唯物論的歴史学である。これは後述する 19 世紀の哲学や社会主義の歴史を述
べてから記したほうがよいが、ランケの打ち立てた近代歴史学を痛烈に批判したのはヘー
ゲルで、
『歴史哲学』において理論的関心に乏しい近代歴史学の風潮を批判し、普遍と特殊
の総合に向かう理性的法則として歴史を認識すべきと説いた。しかし、ヘーゲルの哲学は
客観的な裏づけに乏しく、歴史学的要求に応えることはできないが(ヘーゲルの理論は弁
証法以外はあまり客観的でない)、ランケがまたヘーゲルの歴史哲学をつねに批判の対象と
しながら、それに変わる体系性を用意することができなかったのも事実であった。 このヘーゲルの歴史哲学を批判的に継承したマルクスは、ヘーゲルが重視した精神(世
界精神)に代わり、生産様式に注目した体系的な歴史哲学を打ち立てた。マルクスはイギ
リス古典経済学、ドイツ観念論哲学、フランス実証主義などを批判的に総合して唯物論歴
史学を打ち立てた。ヘーゲルの歴史哲学が極めて思弁的・精神的だったのに対し、マルク
スは実証主義の外的要因を重視する姿勢を継承して、生産様式が人間の精神活動をも規定
すると述べて、物質性を重視する唯物論歴史学を唱えた。 彼は古典経済学の理論を批判的に継承し、労働を重視したが、労働の疎外によって支配
者階級による収奪が行われるとして、独自の階級理論を設定した。この階級理論をもとに
発展段階的に歴史理論を構築し、時代ごとの生産様式の性格からその時代の文化様式にい
たるまでの性格把握が可能であるとし、さらには未来史として階級が消滅した来るべき共
産社会を予言した。 このようなマルクス主義歴史学は従来の歴史学になかった体系性を持つとともに、その
理論的な堅牢性が高く評価された。しかし、ソ連、中国の社会主義が崩壊した現在だから
言えることではあるが、マルクス理論には大きな仮説(下部構造(生産様式)が上部構造
(人間の精神活動)を規定する)がもぐりこまされていて、これは歴史的には実証されて
いない、むしろ、有史以来の人類の歴史をみると、支配者階級と被支配者階級の支配・被
支配の関係で述べたように、欲望にかたまっているのが人間であるから、いったん、支配
者階級になれば、それを固定しようとする上部構造(人間の精神活動)が下部構造(生産
様式)を規定するのが現実で、新たな支配者階級が生まれるから、階級の消滅などありえ
ないのが人類の歴史ではなかったのか(少なくとも近代的民主主義が実現するまでは。マ
1782
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ルクスもエンゲルスもこのことをもっとも気にしており、多くの時間をさいて研究したが、
当時の古代史はまだ、未発達であやまった情報を得ていた)。 余談になってしまったが、歴史学に返そう。 実証主義を基幹とする今日の歴史学では、基本的に一回性の連続であり、こうした普遍
的・絶対的な歴史法則が存在するとする意見は否定されている。 また仮に何らかの法則性が存在したとしても、歴史は人類文明に存在する全ての要素か
ら構成されている極めて複雑な概念であり、その要素が全て解明されでもしない限り、普
遍的法則を構築することは困難であると考えられている(現在、地球上には 70 億人存在す
る。たとえば、70 億個(もっと桁違いに多くてもよい)の気体分子がどう動くか、これは
ほぼ正確に予測できる。これが自然科学だ。しかし、70 億人がどう動くか予測はできない。
ここに社会科学の難しさがある。今のところ歴史に普遍的法則はない)。 ただ論者によっては緩やかな法則(傾向法則)であれば解明は可能とする論者も存在す
る。とはいえ法則のように見えるものは概ね一つの仮説に過ぎず、正しいか、そうでない
かということではなく、それが歴史的事象を的確に説明できる限りにおいて正しいものと
考えられる(あるいは正しくないものと考えられる)。 ランケの手法は史実探求に厳正さを付加した一方で文献資料偏重ともいえる風潮を生み
出し、後にアナール学派などから批判を受けた。そのため、現在の歴史学では実証史学を
基調としつつも、文献研究以外の方法(絵画、伝承、壁画、フィールドワーク、地理学、
考古学など)も歴史を探求する上で重要な知見として尊重されており、次第に人類学的な
性格を持ちつつある。 【②地理学】 近代的な学問としての地理学が成立したのは 19 世紀であるが、地理学の根本的な発想で
ある「よその土地はどうなっているのか?」という要求は、既に人類がものごころがついた
ときから必然的に生じたものといえる。 文献的に確認できる地理学発祥の地は古代ギリシャである(ヘロドトスの『歴史』は、
多くの国、地域について語られていて、歴史学の最初ともとれるし、地理学(地誌学)の
最初とも考えられることは述べた)。 地理学の名称である geo(土地)graphia(記述)は、エラトステネス(紀元前 275~194
年)など当時のアレキサンドリア学派によってつけられたと考えられているが、これもそ
のような他の土地を研究するという意味合いでつけられたものであった。地理学は、学問
としては哲学に並ぶ人類最古の学問であったといえる。また、地理学はこの世界はどうな
1783
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
っているか、その時代の人類の世界観を示すものであるともいえる。以下、この分野の詳
細も省略し、項目のみ掲げる。 ○近代地理学誕生以前の地理学 《古代ギリシャ》 地理学(地誌学)―ホメロス(詩人)、ヘカタイオス、ヘロドトス(歴史家) 一般地理学(地球科学)―イオニアの自然哲学者、アリストテレス、エラトステネス 《古代ローマ時代》 地理学(地誌学)―ストラボン 一般地理学(地球科学―プトレマイオス 《中世》 中世ヨーロッパ―地理学にとっては多くの学問と同じく暗黒の時代であり、ギリシャ 人が考えていたような球体の地球は否定され、キリスト教発祥の地・イスラエルを中心 にした世界観の地図が描かれたりした。 旅行家マルコ・ポーロ(1254~1324 年)旅行記『世界の記述(東方見聞録)』 イスラムのイブン・バットゥータ(1304~1368 年)旅行記『諸都市の新奇さと旅の驚異
に関する観察者たちへの贈り物』(1355 年) 《ルネサンス、大航海時代》 地図学者ゲルハルト・クレーマー(メルカトル)の世界地図、セバスチャン・ミュン スターの『コスモグラフィア』(宇宙誌)など世界地図については大航海時代の歴史に
記した。しかし、「地理上の大発見」といわれたこの時代の地理学も、地理的視野の拡
大と緯度経度の有効性、さらには気候や地形の把握といったことが行われたが、しかし
現代の科学的な地理学からすれば単なる地域の記載に終わっていて、地理学の学問的発
展にはあまり寄与できなかった。 《17 世紀以降》 科学が発展してきた 17 世紀以降、地表で展開される気象や地形などの多様な自然現象は
決して個々の独立した現象ではなく体系的に解明・理解されうるものであり地理学はこう
した科学的な解明を行う学問を目指すべきだというふうに考えられるようになった。 その人物の代表格は、オランダ人のワレニウス(1622~50 年)であった。彼の著作『一
般地理学』は、地理学は一般地理学と特殊地理学(地誌)に,前者はさらに絶対(地球自体と
諸地域を扱う),相対(天体としての地球を扱う),比較(地球上相異なる諸地域を比較考察
する)の 3 部門に分けられていた。こうした理念の下、地理学の下に海洋学、気候学などが
来ることを構想していた。こうして古代より停滞していた一般地理学の理論構築が再び模
1784
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
索されるようになった。しかし、ワレニウスの没後彼の考えを継ぐものが現れず、地理学
は一時停滞した。 ○近代地理学の誕生 《フンボルト》 このような状況に対して、それまで自然も含めて単なる地誌の記述が目的であった地理
学に多くの課題と見方を提示した人物がドイツ人のアレクサンダー・フォン・フンボルト
(1769~1859 年)であった。しかし、彼は第一に博物学者であり、探検家であり、地理学
者としての顔が決して第一位ではなかったが、現在世界中の地理学界から「近代地理学の
父」としてその業績が称えられている(彼の兄ヴィルヘルム・フォン・フンボルトもプロイ
センの教育相、内相であり著名な言語学者であったので注意が必要である)。 フンボルトは、地表に関する様々な自然現象を、決して単一な現象ではなく、様々な相
互関係としてみることが何より重要だとした。つまり地理学者の目的は、植物を植物学者
として見るのではなく、また地質を地質学者として見るのではなく、これらの現象の内的
連関を見ることだとした。 フンボルトは、地理学のみならず自然科学の観察方法に革新的な影響を与え、気候と地
形、植生、さらには民族や歴史までもがその内的連関によって結びついており、その因果
性の追求を的確に表現しようとした。この因果性の追求こそが、他の地域との差を見るこ
とが可能になるとし、その追求方法でもある観察方法に、地形断面図や、等温線図、気圧
の測定方法など当時の先端の技術を駆使した方法を普及させた。これにより、各地の違い
を比較考察することが客観的にできるようになったのである。 こうした基本精神、つまり事象の内的連関の追求というスタンスは現在の地理学にも受
け継がれているといえる。例えば、地形を見るのにも、単に地形を見るにとどまらず、気
候や地質などにも目を向け地形を成立させている因果性を探るというのが地理学のスタン
スで、従って地形以外にも気候や地質などへの理解が要求されるのである。 地形のその物理的な営力(地質学的現象を起こす自然の力)に着目として専らそのメカ
ニズムを探る地球科学のスタンスとはこの点で異なるといえる(しかし、現在の高度に発
達した自然科学の世界では実際的に学術成果を挙げるには、差異はあまり見られなくなっ
た。例えば地形の分野では地理学者も地質学の領域への関心・理解は必然的に求められて
いるからである)。 しかし、フンボルトは博物学者で探検家であり、自身に地理学者という自覚は比較的希
薄だったと言われている。フンボルトを「近代地理学の父」に仕立てたのは後年の地理学
史家たちであるが、いずれにせよ、地理学の歴史の上でフンボルトほど評価されている人
物は他にいない。 1785
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
《カール・リッター》 カール・リッター(1779~1859 年)は、世界で初めて設立されたベルリン大学の地理学
講座(講義としてではなく、専門人としての地理学者を養成するコース)を担当し、世界で
初めて設立された地理学の学術団体「ベルリン地理学協会」の初代会長を没するまで務め
たので、地理学者としての自覚が大きかった。彼は、フンボルトに影響されつつも、彼の
自然地理学に対してとくに人文地理学方面の確立に務めた。各地の地誌を比較考察し、徹
底的な資料の収集と吟味により、単なる表面的な地誌の寄せ集めであった地誌学の分野を
科学的な地理学の一分野として高めたのはリッターの功績である。 《19 世紀後半の地理学》 1859 年、近代地理学の確立につとめたフンボルトとリッターの二人の巨匠が相次いで他
界した。19 世紀後半はドイツで興った近代地理学の波がヨーロッパをはじめ世界各国へ移
入された。 リッターは根っからの地理学者であり、地理学の制度作りにも熱心であったので、19 世
紀後半以降の地理学はこのリッターから直接的・間接的に影響を受けた人物が作り上げる
ことになり、彼らはリッター学派とも呼ばれている。 まずドイツでは、リヒトホーフェン(1833~1905 年)であり、彼は近代的地形学の分野
の創設者であり、中国の研究を通じて、シルクロードの研究でも著名である。 オットー・シュリューターは、人文地理学の目標、人文地理学のあり方を説き、
「景観学」
を打ち立て、景観を感覚的、特に視覚的に捉えられるものに限定した。 フリードリッヒ・ラッツェル(1844~1904 年)は、地理学とは地球や大地と人間との間
の関係を見るのを主な課題としていて、環境が人間のあり方を規定するという環境決定論
をといた。ラッツェルは、人類地理学と政治地理学の祖と考えられている。 フランスのヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュ(1845~1918 年)は、ラッツェルの環境決
定論を修正し、人間は環境によって法則的に決定されるのではなく、影響されつつも、そ
れに対して能動的に活動することができると考えた。各地域での環境と人間との関係も、
歴史的な流れの中にあることを指摘、そうした流れの中で、各地の地域における地的統一
と名づけた力と、そこにみられる生活様式とを追求して地域研究を行う立場を表明した。
この環境は人間の活動を規定するのではなく、単に可能性を与えるに過ぎないという考え
は、現代地理学の主流となっていった。 ブラーシュ亡き後のフランス地理学界のリーダーでもあったエマニュエル・ドゥ・マル
トンヌ(1873~1955 年)は、気候学や地形学など多岐に及び、とくに年降水量から乾燥度
合いを数値化し、気候の把握を試みた乾燥指数はよく知られている(このような方法は、
他に幾人もの気候学者が試みている)。 1786
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
このように 19 世紀後半の地理学はいずれも、人類の地域と環境と生活の関係についての
新しい観点を現代の地理学にもちこみ、地理学を豊かで実り多いものにしていった。 《植民地主義・軍事に利用された地理学》 しかし、この 19 世紀後半に、アジア・アフリカ大陸の内陸部までも探検され、現在持た
れている地理的な認識とほぼ同じになった (つまり、地球上のすべての範囲が把握される
ようになった) 背景には、欧米列強の植民地主義の野心があったことは認めざるを得ない。
この時期植民地という名の下でヨーロッパの列強諸国がアジア・アフリカへ進出したのは、
地理学の影響も少なからずあった。 既にリッターがベルリン大学で地理学を講じていた頃から軍人を相手に士官学校での地
理学の講義も行われ、軍事学の一分野としても関心が持たれていたのである。観点よって
は、地図の読図や、地理学的知識の修得は敵国の様子を把握する軍事的な重要な手段でも
あったからである。 このスタンスは、第 2 次世界大戦期まで世界各国で見られたことであり、日本も例外で
はなかった。とくに政治地理学ないしは地政学という分野にこの軍事侵略的な色合いが強
かった。第 2 次世界大戦時のドイツにおいて、ナチスの理論の正当化にこの分野が利用さ
れ、戦後しばらくこの両分野は一種のタブーになっていたことも事実である。 【③社会学】 コントは 1826~29 年に自宅に少数の聴衆を集めて講義を行い、これを『実証哲学講義』
として出版し、実証主義・社会学の創始者となった。 ○コントの実証主義 オーギュスト・コント(1798~1857 年)は、近代社会の構成原理として実証主義を提示
し、観察と実験によって実証された事実(実証主義)を基礎として、社会にも科学同様の
法則を求め、そのなかで社会学が成立するとした。 観察と実験によって実証された事実を基礎として、社会にも科学同様の法則を求め、そ
の法則に則って、この世の中を運営していこうという考え方である。経験論が懐疑論の傾
向を持つのに対して、実証主義は、科学に基づいた知識は確実であり、科学的に導き出し
た法則に基づいて将来を予測できると考えたのである。 コントは社会の改造をかかげ、それにより各人が勤めを果たす限り十分に生計が維持さ
れ、ヨーロッパ諸国に平和が保たれ、あらゆる方面に学問と文化の進化がなされることを
めざした。そして社会改革は実証主義によって実現可能になると考えた。 ○社会学の成立 1787
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
コントはすべての学問の組織的解釈と分類を行い、社会科学の語に新しい内容をもたせ
て「社会学」とした。 彼によれば、基礎科学とは数学・天文学・物理学・化学・生物学・社会学の 6 つである。これ
らのうち、論理的に単純で適用において普遍的なものほど、早く実証的段階に達している。
もっとも単純で普遍的なのは数学であり、次に天文学、そして最後が社会学であるとした。 社会学はもっとも具体的で特殊的な学問であり、もっとも困難なものであるとした。こ
の社会学に実証的精神を確立することは、社会学を他の科学のような実証科学にするだけ
でなく、人類を進歩の最後で最高の段階である実証的段階へ高めることにもつながるもの
であるとした。 コントは、社会学を実証哲学の全体系を集約する学的領域と位置づけ、これからの社会
の姿を予見し、これを予知し、市民社会の危機を克服する政治を含む実証する社会動学と、
現在の社会を解析し予知するための社会静学との双方からのアプローチを実証哲学とし、
これを社会学の基礎に置いた。教育学にも重要性をおき、実証主義教育及び教育組織を社
会的再構成のための有力な手段として重視したのである。 ○その後の社会学 コントらの発想は、ジョン・スチュアート・ミル、ハーバート・スペンサーなどに受け
継がれ、実証主義の体系化がはかられていった。このようにして始まった社会学であるが、
19 世紀末から 20 世紀にかけて、カール・マルクス、マックス・ウェーバー、エミール・デ
ュルケーム、ゲオルク・ジンメル、ヴィルフレド・パレートらが、さまざまな立場から相
次いで研究著作を発表した。その方法論、キー概念などは、かたちをかえながらその後の
社会学に引き継がれており、この時期は、社会学の古典的理論の形成期にあたると考えら
れている。 ○スペンサーの社会進化論 コントの実証主義的な考え方の影響のもとに、イギリスのハーバート・スペンサー(1820
~1903 年)は、進化の観念を借用して、これを宇宙から人間社会までのあらゆる分野・領
域にまでわたる万物を貫く法則(進化の法則)と捉え、社会進化論を提唱した。ここでの
「進化」は、同質なものから異質なものへの変化、単純なものから複雑なものへの変化と
捉えている(「進化」をこのようにとらえることには、ダーウィンのいう「進化論」を誤っ
てとらえており、ダーウィンは反対であったことは述べた)。 進化論といえばダーウィンの『種の起源』で一躍有名になったが、年代的には、スペン
サーの社会進化論が先であり、すでに発表していた。スペンサーのもっとも早い著作『発
達仮説』は、1852 年に出され、1855 年に『心理学原理』が出版され、1859 年までに総合哲
学を発展させていた。ダーウィンの『種の起源』の初版は 1859 年であった。つまり、スペ
1788
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ンサーの社会進化論は、「進化論」からヒントを得ているとすれば、ダーウィンの前のラ
マルクの進化論からであった。 第 3 章の生物の誕生のところで述べたように、ダーウィンの進化論の前に、ラマルクの
進化論が出ていたが、この進化論の用不用の説、目的論的進化論など現在ではすべて否定
されている。つまり、スペンサーは、この(誤った)進化論に基づいて、彼の社会進化論
を構築し発表していた。その後、ダーウィンが『種の起原』を発表し、それがヨーロッパ
のみならず、世界中で評判になり、(スペンサーには悪いが)スペンサーの社会進化論が
ガゼン、科学的な社会進化論と思われ、これも世界的になったというわけである。 それはそれとして、それではスペンサーは人間の社会はどのように進化していくと考え
たのであろうか。スペンサーは、社会を生物の有機体との類似においてとらえる社会有機
体説をとった。社会有機体説では、社会を生物に類比し、社会における個人を生物体にお
ける細胞として考えた。つまり、社会も一つの有機体として進化するとした。 社会の進化は、個人が環境にいかに順応し、個性をどう生かしているかによって判断さ
れる。だから、完全な社会、いいかえれば最終の社会とは、各個人が個性を生かし、個人
の自由と幸福とが社会の安定と調和するような社会である。このように、スペンサーは社
会進化の過程を弱肉強食の過程としてとらえずに、社会内部の分業と協力関係の進展の過
程としてとらえ、社会は個人の夢や個性を実現するための手段と考えた。 また、彼は社会の進化を軍事型社会から産業型社会への移行としてとらえた。したがっ
て完全な社会とは産業型社会のことで、そこでは自由競争のもとで「適者生存」(この言
葉はダーウィンは一度も使っていない。スペンサーがはじめて使った。それが一人歩きし
た)の法則がつらぬき、社会の均衡が保持される。この進化は、個人が社会的権威から解
放されてゆく過程であり、個人は社会が進化すればするほど、より自由を獲得する。スペ
ンサーは、社会は適者生存によって進化するとの考えから、国家の個人への干渉を排除す
る立場(自由放任主義)に立った。 ○さまざまに利用された社会進化論 このスペンサーの社会進化論は、その後、さまざまに解釈されて利用されていった。ド
イツの生物学者エルンスト・ヘッケル(1834~1919 年)は国家間の競争により、社会が発
達していくという内容の社会進化論を唱えた。社会進化論はスペンサーの自由主義的なも
のから変質し、適者生存・優勝劣敗という発想から強者の論理となり(「適者生存 (survival of the fittest) 」という言葉はダーウィンではなく、スペンサーの造語であることは述
べた)、帝国主義国による侵略や植民地化を正当化する論理になったとされた。 その一方で、共産主義もまた社会進化論のパラダイムに則っていた。カール・マルクス
はダーウィンに進化論が唯物史観(目的論的史観)の着想に寄与したとして資本論の第 1
1789
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
巻を献本しているが(資本論第 1 部がはじめて出版されたのは 1867 年であるから、これは
ダーウィンの進化論 1859 年を参考にしている)、受け取ったダーウィンは、マルクスも自
分の進化論の真の意味をわかってくれないと悲しんだだろう(ダーウィンは進化には目的
などない、ただ、長い時間のうちに、自然(環境)に適したものだけが選択されるといっ
ただけである。ダーウィンが歴史についてどのような考えをもっていたかはわからないが、
目的論的進化論はもっとも彼の説に反するものである)。マルクスは、スペンサーの社会
進化論があくまで資本主義の存続を唱うのとは反対に、資本主義自体が淘汰されると説い
ていた。 その社会観によれば、自然が一定の仕方で変化するように社会はある理想的な状態へと
進化していくものであり、現在の社会はその途上にあるして自らを正当化するものであっ
た。社会ダーウィニズムとも呼ばれるが、その目的論的自然観から、理論的関連性の点で
はむしろラマルキズム(ラマルクの進化論)と合致している。ラマルクの進化論は現在で
はまったく科学的な根拠がないとされている。社会進化論や唯物史観が同じ運命をたどっ
たのは当然であったともいえる(科学のよいところは(科学的手法の良い点は)、その検
証、再現性、公開性などによって、たとえ、捏造・偽造があっても、いずれは分かるとい
う点は述べた)。 ダーウィンのいとこの ゴルトンは、人為選択(人為淘汰)によって民族の退化を防ぐた
めに劣った遺伝子を持つものを減らし、優れた遺伝子を持つものを増やそうという優生学
を提唱した(これもダーウィンの進化論を曲解したものである)。これは、人種差別・障
害者差別の正当化に使われた。日本においては明治時代に加藤弘之らによって社会進化論
が紹介され、優勝劣敗を説く論理として社会思想に大きな影響を与えた(この典型がヒト
ラーのユダヤ人迫害、障害者国民絶滅政策であった)。 ○デュルケームの社会学 エミール・デュルケーム(1858~1917 年)は、実証主義の科学としてコントによって創
始された社会学が、未だに学問として確立されていない状況を見て、他の学問にはない独
自の対象を扱う独立した科学としての地位を築くために尽力した。 その事例の一つであるが、19 世紀後半にヨーロッパの自殺率の急上昇が話題になる中、
デュルケームが 39 歳の 1897 年に公刊した『自殺論』には「社会学研究」というサブタイ
トルがあり、
「社会的事実」を客観的かつ実証的に分析し、その実態を具体的な事例によっ
て明らかにしようとしたデュルケームの意欲作であった。 当時のヨーロッパ各国での自殺率が短期間ではほぼ一定値を示した統計資料などから、
各社会は一定の社会自殺率を持っているとし、社会の特徴によって自殺がどのように異な
るかを明らかにしようとした。デュルケームは、この研究において自殺を個々の人間の心
1790
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
理から説明するのではなく、社会的要因(社会的事実)から 4 つに類型化した。公刊の 2
年前に著書『社会学的方法の基準』においてデュルケームは、「社会的事実の決定要因は、
個人の意識ではなく先行した社会的事実にもとめねばならない」という説明の公準をたて
ており、その適用を本書で試みたのである。 日本においても、ここ 10 数年、3 万人を超える自殺者を出しているので、細部になるが、
以下にその概要を記すことにする。 デュルケームは自殺を次の 4 つに分類している。 ◇[利他的自殺(集団本位的自殺)]…… 集団の価値体系に絶対的な服従を強いられる社会、
あるいは諸個人が価値体系・規範へ自発的かつ積極的に服従しようとする社会に見られる
自殺の形態である。 献身や自己犠牲が強調される伝統的な道徳構造を持つ未開社会、さら
にその延長線上にある軍隊組織に見られる自殺・殉死などが該当する(一般人よりも軍人
のほうが自殺率が高く、軍隊内では工兵や後方支援部隊の兵士よりも戦闘部隊の兵士のほ
うが自殺率が高い)。 ◇[利己的自殺(自己本位的自殺)]……過度の孤独感や焦燥感などにより個人が集団との
結びつきが弱まることによって起こる自殺の形態である。個人主義の拡大に伴って増大し
てきたものとしている。 デュルケームによればユダヤ教徒よりもカトリック教徒、カトリ
ック教徒よりもプロテスタント教徒のほうが自殺率が高く、農村よりも都市、既婚者より
も未婚者の自殺率が高いなどといったように個人の孤立を招きやすい環境において自殺率
が高まるとしている。 ただし、宗教別の自殺率の比較は、その後の研究によって統計上の
誤りが証明され、デュルケームが指摘するほどに大きな違いがないことが明らかになって
いる。したがって、宗教上の教義の違いが自殺率へ影響を与えるものではなく、近代化に
よって集団・社会の結束度が弱まってきた結果として起こってきたものと考えられる。 ◇[アノミー的自殺]……社会的規則・規制がない(もしくは少ない)状態において起こる
自殺の形態である。集団・社会の規範が緩み、より多くの自由が獲得された結果、膨れ上
がる自分の欲望を果てしなく追求し続け、実現できないことに幻滅し虚無感を抱き自殺へ
至るものである。つまり、無規制状態の下で自らの欲望に歯止めが効かなくなり、自殺し
てしまうもので、不況期よりも好景気のほうが欲望が過度に膨張するので自殺率が高まる。
アノミーは、社会秩序が乱れ、混乱した状態にあることを指す「アノモス」を語源とし、
宗教学において使用されていたが、デュルケームが初めて社会学にこの言葉を用いたこと
により一般化した。デュルケームはこれを近代社会の病理とみなした。社会の規制や規則
が緩んだ状態においては、個人が必ずしも自由になるとは限らず、かえって不安定な状況
に陥ることを指す。規制や規則が緩むことは、必ずしも社会にとってよいことではないと
言えることを示した。 1791
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
◇[宿命的自殺]…… 集団・社会の規範による拘束力が非常に強く、個人の欲求を過度に抑
圧することで起こる自殺の形態である。デュルケーム自身は、この自殺類型に関して具体
的な事例を挙げていないが、たとえば身分の違いによって道ならぬ恋を成就できずに自殺
へ至る「心中」がこれに該当するものと考えられる。 それにしても 120 年近く前に社会学的アプローチで自殺を生み出す社会の病理にメスを
入れていたとは驚きであるが、日本おいても、もっと社会の仕組み、社会システムの問題
として取り組む必要がある。 デュルケームの社会学に返るが、彼は当時としては斬新な独自の視点から社会現象を分
析し、経験科学としての社会学の立場(社会学主義)を鮮明に打ち出した。デュルケーム
は、実証主義の伝統を継承し、自然科学の方法を社会科学へと拡大することを主張し、
『社
会学的方法の規準』において、社会学の分析対象は「社会的事実」であることを明示した。 彼が社会学独自の対象とした「社会的事実」とは、個人の外にあって個人の行動や考え
方を拘束する、集団あるいは全体社会に共有された行動・思考の様式のことであり、
「集合
表象」(直訳だと集合意識)とも呼ばれている。つまり人間の行動や思考は、個人を超越し
た集団や社会のしきたり、慣習などによって支配されるということである。 彼は、個人の意識が社会を動かしているのではなく、個人の意識を源としながら、それ
とはまったく独立した「社会の意識が諸個人を束縛し続けている」のだと主張し、個人の
意識を扱う心理学的な視点から社会現象を分析することはできないとして、同時代の心理
学的社会学の立場をとっていたガブリエル・タルド(1845~1904 年)を強く批判した。 このように、デュルケームは当時としては斬新な独自の視点から社会現象を分析し、経
験科学としての社会学の立場(社会学主義)を鮮明に打ち出した人物である。実証主義の
科学としてコントによって創始された社会学が、未だに学問として確立されていない状況
を見たデュルケームは、他の学問にはない独自の対象を扱う独立した科学としての地位を
築くために尽力したのである。 彼の理論は 20 世紀初頭に活躍した多くの社会学者、民族学者、人類学者などに多大な影
響を与えた。また、フランスにおいて初めて社会学の機関紙として、『社会学年報』(1898
年発刊)を創刊し、この機関紙の執筆者や協力者たちによってデュルケーム学派という研
究グループが形成された。この学派は、彼の死後、フランスにおける有力な社会学派へと
成長するに至っている。 ○マックス・ウェーバーの社会学 マックス・ヴェーバー(1864~1920 年)は、社会学という学問の黎明期にあって、さま
ざまな社会学の方法論の創出・整備に大きな業績を残した。社会科学を科学にするといっ
1792
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ても、どのような方法を使って科学にするか、どのようにして誰でものちに検証できるよ
うにするか、ウェーバーは社会科学をいかに科学的にするかに骨折ったのである。 《どうやって社会学を科学にするか―理念型の提案》 まず、ウェーバーは、純理論的にある類型的なモデルを設定し、現実のものとそれとの
差異を比較するという「理念型」も提唱した。また、政治的価値判断を含む、あらゆる価
値判断を学問的研究から分離しようとする「価値自由」の提唱、つまり、学問的には価値
判断を含まず、中立を守るべきであるとすることを提唱した。 まず、理念型(また理想型ともいう、独語でイデアルタイプス)とは社会学における方
法概念で、特定の社会現象の論理的な典型をあらわす概念で、単なる類型概念ではない。
とはいえ理念型を用いての類型的把握は可能で、歴史的には啓蒙主義時代の社会契約説の
(ボッブスが設定した)国家観もこの範疇に含めることが出来る。自然科学的定理が実験
で確認される経験事象からの飛躍を含んでいるように、理念型もある社会現象の目的と動
機から飛躍を伴って導き出そうとするものである。 これをウェーバー自身は、
「意味適合的」方法と呼んでいる。この理念型を定規のように
社会現象の断面に添えて眺めることによって、側面的に社会現象を性格づけることが出来
るとしている。方法的には分析的に社会現象の要素を一定程度まで分解し、その主要な部
分を使って性格が明確に観察できる段階まで構築した概念が理念型であり、理念型はそれ
自体で理論的に完結した存在で時系列も含んでいると考えられる。これにより具体的事象
の発展過程や将来的な見通しをある程度までこの理念型に沿って性格づけ、予測すること
が出来る。 一度理念型を設定すると、それを使って作業仮説や理論構築に必要な要素を抽出するこ
とが可能である。たとえば、一般的な社会現象は単一の理念型に基づくのではなく、もろ
もろの理念型の影響が考えられ、理念型からの逸脱度合いによってその性格把握ができる
のである。しかし、理念型は方法概念であり、本質概念の把握のために仮設された仮象的
な概念であるため、理念型そのものが社会現象の本質をとらえているということは保証さ
れていない(現在では、コンピュータ社会になり、モデルの結果と現実社会のデータが比
較的容易にできるようになった)。 《比較宗教社会学》 ヴェーバーは、具体的に社会学を広げる面では、とくに人間の内面から人間の社会的行
為を理解しようとする「理解社会学」を提唱した。そして、ウェーバーが一貫して研究し
た分野として比較宗教社会学がある。西欧近代の文明を他の文明から区別する根本的な原
理を、「合理性」と仮定し、その発展の系譜を「現世の呪術からの解放」ととらえ、比較宗
教社会学の手法で明らかにしようとした。 1793
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
その代表的な著作が『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1904~1905 年)
であり(その内容はカルヴァンの宗教改革のところで述べた)、その後、この比較宗教社会
学は、
『世界宗教の経済倫理』という形で一般化され、古代ユダヤ教、ヒンドゥー教、仏教、
儒教、道教などの研究へと進んだが、原始キリスト教、カトリック、イスラム教へと続き、
プロテスタンティズムへ再度戻っていくという壮大な研究は未完に終わった。この分野の
著作として、『儒教と道教』、『ヒンドゥー教と仏教』、『古代ユダヤ教』などがある。 《ヴェーバーの官僚制と政治家》 ヴェーバーには、一連の宗教社会学の論文と並んで、もう一つの大きな研究の流れは、
『遺稿集 経済と社会』という形で論文集としてまとめられているが(『経済と社会』は遺
稿なので、ヴェーバーの意図がどうだったか、本来あるべき全体構成については、わから
ない)、この中には、『経済行為の社会学的基礎範疇』、『経済と社会集団』、『法社会
学』、『支配の社会学』、『都市の類型学』、『国家社会学』、『音楽社会学』など多く
の著作がある。たとえば『支配の社会学』における、支配の三類型、すなわち「合法的支
配」、「伝統的支配」および「カリスマ的支配」は有名である。 日本においても,政治と官僚制との関係はいつの時代にも問題となってきたことである
が(ウェーバー社会学の終着点は「政治社会学」だったかもしれない)、ウェーバーはどう考
えていたか。 『支配の社会学』は、1922 年に発表された官僚制を主題とした研究である。ウェーバー
の官僚制の理論では、古代エジプトや古代中国の前近代的な官僚制と、近代において出現
した官僚制が区別され、後者には客観性(即対象性、没主観性)という性質が持たされて
いる。即ち、ウェーバーは、近代的官僚制は、中立的に適用される規則や明確化された職
務権限、更に階層性の組織構造という形式合理性という特徴を持っているとしている。 このような官僚制においては、他の組織の形態と比して、一方で、優れた業務の正確性
と継続性や、曖昧性と恣意性を排除する性質などの積極的側面が認められるが、他方、官
僚化が進むと形式合理性の論理によって組織は閉鎖化し、単一支配的な傾向が生じるとも
している。この閉鎖性をウェーバーは「鉄の檻(おり)」という比喩で表現している。 こ
のように、ウェーバーは近代官僚制の、消極的な側面をも指摘している。 そもそも社会全体に影響を与える行政活動から政治性を排除することはできない。しか
し官僚制は政治性を排除し、非政治的なものへと変容させ、合理化を進めることができる。
これは官僚制の有効性であると同時に官僚政治の原因にもなり、そのことは「政治の貧困」
をもたらし、価値観の対立や討議という政治の意義が失われることにもつながると、ウェ
ーバーは指摘している(戦後の日本の官僚制と保守政治の関係をみると心当たりがある)。 1794
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
では、政治(政治家)はどうあるべきか。ウェーバーは、第 1 次世界大戦後の混乱の時
期、1919 年 1 月 28 日、ミュンヘン大学に招聘され、そこで大学生に向かって『職業として
の政治』を講演した(出版 1919 年)。その講演の後半で、政治家と官僚はどうあるべきか
を論じている。 職業政治家と異なる傾向を持つものとして官僚があるが(ドイツは官僚国家といわれた)、
これは専門教育によって養われた知識と高い誇りを持っていて、国家機構の純粋な技術的
能率性をつかさどっている。官僚は専門家でありかつ非党派的であるべきであり、政治的
闘争に巻き込まれてはならない。官僚はもしも上部の命令が自分の意見と相容れないもの
であったとしても、それが信念であるかのように執行すべきであると述べている。これに
対し政治家は官僚とは異なる。党派性や闘争は政治家の本領であり、官僚とは全く異なる
責任があるという。 では政治家はどうあるべきか。職業政治家になるための資質の一つとしてヴェーバーは
「権力感情」を挙げている。つまり他者を指導しているという意識や歴史的事件の一部を
担っているという感情によって非日常的な気分を味わうことができる。しかし政治には特
有の倫理的問題の領域がある。政治家にとって情熱、責任感、判断力の資質が特に重要で
ある。問題となるのは情熱と判断力をどのように 1 人の人格に内面化するかというもので
ある。政治は情熱が必要であるが、対象から適度な距離を保って観察する判断力も求めら
れる。片方だけでは良い政治家でありえない。 「政治とは、情熱と判断力の 2 つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと
穴をくり貫(ぬ)いていく作業である。もし、この世の中で不可能事を目指して粘り強く
アタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正し
く、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。・・・・(中略)・・・人はどんな希望の
挫折にもめげない堅い意志でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能な
ことの貫徹もできないであろう。自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実
の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない
人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!(デンノッホ)」と言い切る自信の
ある人間。そういう人間だけが政治への「天職(ベルーフ)」を持つ。」という。 この講演の翌年、1920 年にウェーバーは肺炎になりミュンヘンで亡くなった。その 3 年
後、皮肉なことに、(自称、職業政治家)ヒトラーがミュンヘン一揆を起こし、政治家とし
て名をあげ、その 10 年後、(選挙で選ばれて)ドイツの政権を掌握した(情熱だけではだ
めで判断力も、政治家がもつ虚栄心という致命的な気質、政治倫理が大変な悪行をもたら
すことなどウェーバーの忠告をドイツ国民は見抜けなかった)。 いずれにしてもウェーバーが社会学を科学にする試みは、まだ、達成されていない。 1795
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
○ジンメルの特殊科学としての社会学 ゲオルク・ジンメル(1858~1918 年)も、 社会学の黎明期の主要人物として、社会学を
どのようにして確立するか模索した。ジンメルは、複数の人間の関わりあう様式(形式)
を研究する形式社会学を提唱した。彼が形式社会学を提唱することになった背景は、コン
ト以来の総合社会学が、学問としての独自性を確立することなく、すべての学問を包み込
む総合科学としての立場を強調していたことに対して、社会学以外の専門分野からの批判
を強く受けていたことが挙げられる。つまり、社会学は他の学問分野をつなぎ合わせただ
けで実体がないという批判を受けていたのである。 このような背景にあってジンメルは、他の学問にはない社会学独自の研究対象を模索す
る中で、人間相互の関係の形式(社会化の形式あるいは心的相互作用)に注目し、これを
社会学が扱うべき対象であると考えるようになった。社会化の形式あるいは心的相互作用
とは、人間が目的や意図をもって他者と関わる行為のあり方のことであり、具体的には、
愛情による親密な関係、憎悪に基づく敵対関係、社会的地位によって結ばれる上下関係な
どが挙げられる。これに対して、政治、法律、経済、宗教、芸術などは「内容」から分類
された学問分野だとして、「形式」の観点からそれらに横断線を引く学問として社会学を
位置づけたのである。 そこで、ジンメルによる対象の分類をすると、 ◇社会化の形式(社会学独自の対象):上位と下位、競争(闘争)、支配と服従、模倣、
分業、協同、党派形成、秘密など ◇内容からの分類(そのほかの学問の対象):政治・法律・経済・宗教・芸術・言語な
ど ジンメルは、諸個人間の相互作用によって集団や社会が生成される過程、すなわち社会
化に関して、その形式における純粋型を想定し、それを社交として概念化している。それ
は、ジンメルの表現を使えば、「社会化の遊戯的形式」である。つまり、社交の本質は「具
体的な目的も内容ももたない」自己目的性にある。したがって、社交の外部にある現実的
世界を持ちこむことも、社交の外部に何かをもたらすために社交を営むことも、社交を破
壊させるものとして考えられる。また、ジンメルは、社会化の形式における純粋型を想定
し、それに社交なる概念を当てた。 しかし、当初ジンメルは、特殊科学としての社会学の確立を目的として形式社会学を提
唱したが、これでもうまくいかなかったようで、晩年に著した『社会学の根本問題』(1917
年)において、一般社会学、特殊社会学(形式社会学)、哲学的社会学という 3 つ分野か
ら成る、より大きな社会学の体系を構想するようになった。しかし、その中心となる分野
はあくまで形式社会学であり、彼が残した研究実績は形式社会学の方法論に基づいたもの
1796
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
であった。形式社会学に含まれるその考え方はアメリカにわたり、社会学のシカゴ学派に
大きな影響を与え、定性的研究の源流のひとつとも言われるようになった。 現在においても、社会学は多様化によって、裾野を広げているが、他方でかかる研究の
よって立つべき思想・視点、つまりは社会学の独自性とは何なのかという問題が今も問わ
れてもいる。 【④経済学】 イギリスのアダム・スミスの確立した自由主義経済学は、マルサス、リカードによって
継承されて古典派経済学として大成され、さらにジョン・スチュアート・ミルに受けつが
れた。さらに,その国の歴史的発展の事情に応じた経済政策が必要であるとする歴史学派経
済学がドイツに生まれ、後進的な資本主義国では、国内産業の保護・育成のために保護関
税論が説かれたのである。ドイツのリストが代表的な経済学者で保護貿易主義を展開し、
ドイツ関税同盟の結成に努力した。 ○マルサスの『人口論』 イギリス産業革命のさなかで、しかもナポレオン戦争中に経済学者トマス・ロバート・
マルサス(1766~1834 年)が発表した『人口論』
(1798 年)は、大きな反響を呼び起こし、
当時のピット内閣の政策にも影響を与えた。 マルサスの『人口論』では、食糧の供給と人口の関係を問題とした。マルサスによれば、
土壌の豊かさは自然的条件によって限界づけられているから、食糧の供給は、2,3,4,5,
・・・
というように算術級数的にしか増加しえないが、他方、人間の性欲には大きな変化がない
であろうから、人口は 2,4,8,・・・というように幾何級数的に増加する。その結果とし
て、食糧不足が生じる。したがって、貧困・食糧不足という問題を解決するためには、人口
の抑制が必要であるとマルサスは主張した。 当時のイギリスの状況は省略するが、マルサスはイギリスの貧困問題は社会制度の改革
によっては解決できないといっていた。貧困問題は、食糧と人口のバランスの問題であり、
それは一方における土地と他方における人間の性欲という二つの自然力のバランスの問題
に帰着する。したがって、土地に限りがあり食糧の増加には限界があるとすれば、人口を
抑制すること以外には解決策はない。これがマルサスの解答であった。 このようなマルサスの考え方は、社会改革を嫌う保守主義者を喜ばせたが、人間理性の
啓蒙による理想社会の実現を主張したウィリアム・ゴドウィンやコンドルセなどの社会改
革をはかる人々を怒らせることになった。結局、このときは、イギリスは産業革命で得た
工業生産力で世界中に工業製品を輸出し、それによる外貨で世界中から食糧を輸入するこ
とによってその場しのぎをやった。 1797
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
イギリスのように豊かになった国は食料輸入も可能であろうが、そうでない貧しい国は
どうするかという問題は残った。その後も貧困問題が大きな社会問題になるたびに、マル
サスの考え方が復活した。20 世紀前半の帝国主義時代、20 世紀後半の南北問題、そして 21
世紀の世界、マルサスの『人口論』は蘇ってくるのである。ダーウィンがマルサスの人口
論から自然淘汰説(自然選択説)を思いついたことは述べたが、これはまさに自然の本質
を突いているからであろう。 ○マルサスの経済学―内需振興 マルサスは『人口論』で有名であるが、経済学者としても、アダム・スミスの支配労働
価値説を引き継いで、1820 年には『経済学原理』を著わし、次に述べるアダム・スミスの
投下労働価値説を受け継いだデヴィッド・リカードの経済説に反論した。これはのちの経
済学の流れを変えるだけの大きな意味をもっていた。 その前にさかのぼって述べると、イギリスでは、名誉革命によって自由な社会(民主主
義)が実現し、大まかにいえば、社会契約論の役割は終わった。次の課題は資本主義の発
展、産業革命であり、それを支えるのは経済学であった。そこで、啓蒙思想のところで述
べたケネー(重農主義学者)やアダム・スミスは、国家の富とは国王の財宝ではなく、年々
の労働の生産物であると位置づけた。こうして経済学は労働価値説を原理として形成され
た。彼らは経済学を支配者の個人的な関心事から国民全体に基づいた関心事へと転化させ
た。 スミスは、
『諸国民の富』で、富は農地や資本設備に投下された労働によって生み出され、
その国富は労働者、地主、資本家の間で、賃金、地代、利潤という形でそれぞれに分配さ
れるとしたことは述べた。さて、そこでマルサスとリカードであるが、イギリスが陥った
「1815 年以来の労働者階級の困窮」、つまり大不況に対処する方策について、マルサスは国
内での内需振興、リカードは海外市場に目をむけ自由貿易を主張した。 マルサスは、国内の有効需要の不足ゆえに生じた当時のイギリスの経済不振を救うため
に何をすべきかを説いた。マルサスによれば、
「道路および公共事業に貧民を使用すること、
地主および財産家たちが建築をなし彼らの土地を改良し美化しかつ労働者や召使を使用し
ようとする傾向とは、我々がもっとも容易になしうる手段である」と、直接には供給を増
加させることなく消費を増加させることが出来るから、イギリスは再び年々の生産と収入
を着実に増加させることになるだろう。このような状態に達したならば、
「われわれの失わ
れた資本を、われわれの増大した収入の一部をそれに追加するために貯蓄するという普通
の過程によって回復しうるであろう」と述べている。 この経済学上の論争は、その後のイギリスのひいては世界の経済政策、ひいては政治を
も左右するものをはらんでいた。結局、リカードの後述する比較生産費説が勝利をおさめ、
1798
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
穀物法は廃止され、イギリスは自由貿易体制に移り、世界中にある植民地を活用して繁栄
することになった(二人はイギリスの穀物法の是非をめぐっても論争を繰り返し、マルサ
スは穀物法に賛成、リカードは反対していた)。 マルサスの経済学は不況の克服をはかろうとする短期の理論であるとか、地主の利益を
代弁する反動的な俗流経済学者であると非難されたが、マルサスは、一国の総生産の変動
に関する有効需要の理論を提起したという点で、ケインズの理論を 100 年以上も前に先取
りしていたといえる。 マルサスは安易に貿易だけに頼る経済ではなく国内産業を興す、現在の言葉で言えば内
需振興のしくみを考えていたのである。ケインズはマルサスをケンブリッジ経済学の始祖
として高く評価し「もしかりに 19 世紀の経済学がリカードではなくマルサスから出発して
いたならば、今日世界はなんとはるかに賢明な、富裕な場所になっていたことであろうか」
といっている。この自由貿易論と内需振興経済は,その後も絶えず論争されてきたところ
である。 ○リカード、古典派経済学の成立 デヴィッド・リカード(1772~1823 年)は、スミスから投下労働価値説を受け継ぎ、支
配労働価値説を斥けた。彼によれば、商品の生産に必要な労働量と商品と交換される労働
量は等しくない。例えば、ある労働者が同じ時間に以前の 2 倍の量を生産できるようにな
ったとしても、賃銀は以前の 2 倍にはならない。したがって支配労働価値説は正しくない
とした。 資本蓄積が始まると投下労働価値説は妥当しなくなる、という説に対しては、資本すな
わち道具や機械に間接的に投下された労働量と直接的に投下された労働量の合計によって
商品の価値が決まるという見解を示した。 また、国際貿易で比較優位を持つ財の生産に特化し、他の財は輸入する(自由貿易で)
ことで、それぞれより多くの財を消費できるという国際分業の利益を説明する理論を唱え、
すべての国が自由貿易から利益を得ることができるということを示す「比較生産費説」を展
開した。 このスミスを祖とし、投下労働価値説を引き継いだリカードにおいて完成した経済学を
「古典経済学」といい、それにマルサス(支配労働価値説)、後述するジョン・スチュアー
ト・ミル(生産費説)を含めて「古典派経済学」と総称するようになった。古典派経済学
は貿易や交換の利得を強調し、商品の自然価格をめぐる分析、構成価値論あるいは投下労
働価値論についても議論が行われた。 産業革命を終えたイギリスは、圧倒的な産業力で自由貿易を展開することになったが、
その理論として、この「比較生産費説」ひいては「古典派経済学」が活用された。 1799
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
やがて、マルクスはこの古典派経済学から労働価値説を受け継いでマルクス経済学を樹
立していったが、マルクスは古典派経済学をブルジョア経済学であるとし自らの資本論は
古典派に属さないとした。 このようにリカードは経済学を体系化することに貢献し、古典派経済学の経済学者の中
で最も影響力のあった一人であり、経済学のなかではアダム・スミスと並んで評される。 ○ジョン・スチュアート・ミル このリカードの親しい友人にジェームズ・ミル(1773~1836 年)と功利主義のベンサム
がいた。ミルは東インド会社の社員であり、歴史家として『インド史』などがあるが、こ
のジェームズ・ミルの長男がジョン・スチュアート・ミル(1806~1873 年)であった。し
たがって、ジョン・スチュアート・ミルは経済学、功利主義などを先輩から継承し発展さ
せた。 《ミルの経済学…経済格差を是正する分配論》 ミルの経済学は、おおまかに言えばリカード以来の古典派経済学モデルのフレームワー
クに従っている。19 世紀のイギリスは、産業革命や植民地獲得競争の勝利で、急激に物質
的な豊かさを獲得した。しかし、そうした史上空前の繁栄にもかかわらず、貧富の格差や
植民地の増加などの社会変化の中で、古典派元来の自由放任政策は行き詰まりを見せてい
た(同時代のディケンズの描く貧困層のスケッチ、エンゲルスの調査報告などにその悲惨
さがわかる)。 経済学もこうした環境下にあって進化しなければならない。経済学者ミルの課題は、そ
うした当時の「豊かな先進国」イギリスの社会問題に対して、具体的で実現可能な処方箋
を書くことにあった。 具体的には、生産論と分配論を区別することである。すなわち、生産論においてはリカ
ード経済学の主柱であった土地収穫逓減法則を物理的な法則で人為ではどうにもならない
ものとみなすことでリカード派としての立場を保持しながら、時代の要求(貧困の問題、
労使の対抗)に応えるために、当時最良の諸思想を分配論のなかに吸収し、経済学に柔軟
性と応用性をもたせようとしたのである。ミルは、生産が自然の法則によって与えられる
(農地からの収益や人口の増大など)のに対して分配は人為的に変更可能であることに着
目し、政府の再分配機能によって、漸進的な社会改革を行うことによって問題は解決でき
るという叡智にいたった。 同じ問題でもミルの解決方法とマルクスの解決方法は異なっていた(同じ頃、マルクス
もロンドンの大英博物館で資本論を書いていた)。 産業革命→社会問題(貧困の問題、労使の対抗)→ミル→経済学の分配方法の変更 →マルクス→共産革命 1800
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ミルは具体的には、リカード経済学が絶対視していた私有財産制度を当時の最良の思想
であった社会主義思想や歴史主義思想をとり入れながら修正していく作業も行なった。そ
の意味では「大きな政府」によるセーフティ・ネットの構築に、激化する階級対立の処方
箋を見出したと言える。 ミルはリカード後の古典派経済学の代表的な経済学者になり、1848 年に『経済学原理』
を著した。この長大な著作は古典派経済学の代表的な教科書(政治経済学)として、マー
シャルの『経済学原理』の登場(1890 年)まで君臨した。 長い時間はかかったが、おおよそイギリス社会はマルクスの激越な革命の予言ではなく、
ミルの書いた穏健な処方箋の方向へ徐々に進んでいった(マルクスが予言し期待していた
革命はイギリスやドイツなど先進国では起きなかった)。 ○ミルの政治哲学…自由論 人が一生をかけてもなし得ないような偉業を様々な分野でやり遂げたミルだが、その中
でもとりわけ彼の名が刻まれているのは政治哲学での貢献であろう。ミルの著わした『自
由論』(1859 年)は自由とは何かと問いかけるものに力強い議論を与える。 ミルは、自由とは個人の発展に必要不可欠なものという前提から議論を進める。ミルに
よれば、我々の精神的、道徳的な機能・能力は筋肉のようなもので、使わなければ衰えて
しまう。しかし、もし、政府や世論によっていつも「これはできる。あれはできない。」と
言われていたら、人々は自らの心や心の中に持っている判断する力をなくしてしまうだろ
う。よって、本当に人間らしくあるためには、個人は彼、彼女自身が自由に考え、話せる
状態(=自由)が必要なのである。 ミルの『自由論』は個人にとって自由とは何か、また社会(国家)が個人に対して行使
する権力の道徳的に正当な限界について述べている。彼はそこで、政府や世論が言論活動
を統制するために強制力を行使する権利を否定し、思想と討論の自由の重要性を強調して
いる。ミルは、権威や多数者の意見とは異なる意見が正しい真理の一部を含んでいること
があるし、権威や多数者の意見が全部真理であるとしても、自由な討論なしに他の意見を
抑圧すれば、権威や多数者はいつも自分が正しいと考える偏見におちいり、生きた真理で
はなく死んだドグマ(独断的教義)を信奉することになるとしている。 さらにミルは、自由を擁護する論拠として個性の発展の必要なことを論じ、個性の育成
こそ人間性の発展を可能にし、社会全体に生き生きした生命をみなぎらせるとしている。
ミルのこのような自由論は、イギリス市民社会における自由の概念を整理し、個人の自由
の擁護に明確な根拠を与えたものといえよう。 1801
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
『自由論』の中でもとりわけ有名なものに、彼の提案した「危害の原理」がある。「危害
の原理」とは、人々は彼らの望む行為が他者に危害を加えない限りにおいて、好きなだけ
従事できるように自由であるべきだという原理である。 この思想の支持者はしばしば リバタリアン、その思想はリバタリアニズム(自由意志主
義)と呼ばれる。リバタリアニズムは、政治学・経済学等では、他者の権利を侵害しない
限り、各個人の自由を最大限尊重すべきだとする政治思想のことである。リバタリアンと
いう言葉が定義するものは広いが、通常は危害を加えない行為は合法化されるべきだとい
う考え(=「危害の原理」)を含んでいる。 ドイツのヴィルヘルム・フォン・フンボルトの『国家活動の限界を決定するための試論』
はミルの『自由論』にも大きな影響を与えた。政府がどの程度まで国民の自由を制限でき
るか、国民は自らの自由な注意によってどの程度まで政府に干渉されずに、自由な意思決
定をなすべきなのかについて自由論において考察を行った。 例として毒薬の薬品の注意書きは政府によって命令されるべきか、自らの自由な意思に
よって注意すべきかを挙げて考察している。もし自らの意思によって注意すべきであるな
らば、政府は注意書きをつけるように強制すべきではないが、それが不可能ならば政府は
注意書きを強制すべきであるというのである。ここに国民の能力の問題をも取り上げるこ
ととなった。 これは酒や、タバコの注意書きや、それと類似に経済学的に意味がある酒税
や、タバコ税の意味についても同じことがいえることになる。もし注意すべきではないと
いうことになれば警察国家(小さな政府)となるであろうし、一方リバタリアンのように
経済的なことのみに注意すべきであるということも可能であろう。ミルは、他者に危害を
加えない行為をするために、
(個人の自由な行いを邪魔する)法などの障害を取り除くこと
ができるのは政府の役目であると説いている。 このミルの『自由論』は、明治時代の日本においても『自由之理』として中村正直によ
って翻訳され、自由民権運動や大隈重信の立憲改進党の思想に大きな影響を与えた。 ○ミルの質的功利主義の展開 さて、ミルによれば、幸福こそ人間の行為の唯一の目的であり、幸福の増進はあらゆる
人間行動を判断する判定基準であるとした。しかも功利主義が判定基準とするのは、行為
者個人の幸福ではなく、関係者全部の幸福、すなわち「最大多数の最大幸福」である。こ
のような考えは、啓蒙思想で述べたベンサムの主張と同じである。 ミルは、人間は快楽を追求するという一面とともに、苦痛を引き受ける一面を持ってい
る、と主張した。また、人間は自己の快楽を追求するという利己心を持つと同時に、他人
のために尽くす利他心も持っているとも主張し、この利他心を重視した。 1802
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
そして、快楽には肉体的・物質的なもののほかに内面的・精神的なものがある。物質的
な快楽は量的に計算可能であるが、精神的な快楽は質的に異なるものであり、計算するこ
とができない。ミルはこの点でベンサムとは異なる見解を示し、精神的快楽を物質的快楽
より質の高いものとした。ここから、ミルの功利主義は質的功利主義といわれる。 ミルは真の快楽(幸福)は精神的な快楽にある。肉体的快楽と精神的快楽の両方を知る
と、人間は質の高い快楽である精神的な快楽を選ぶようになる。
「満足した豚であるよりは
不満足な人間であるほうがよく、満足した愚か者であるよりは不満足なソクラテスのほう
がよい」というミルの言葉がこの考えを言い表している。豚や愚者がこれに反対する意見
をもつとしても、それは彼らがこの問題を自分の側だけから見ているからである。この比
較の相手は両方の側を知っているのであるとしている。 ミルによると、
(質的に異なる)二つの快楽を経験した人々の全部あるいは大部分が、道
徳的義務感と関係なく、決然と選ぶ快楽がより高級な快楽である。また高級な能力をもっ
た人は劣等者よりも多くの点で苦しみをもつが、だからといって、下劣な人になることを
望まないとしている。 また、ベンサムが外的な制裁により「最大多数の最大幸福」に一致した行為をとらせよ
うとしたのに対して、ミルは、外的制裁に加えて内的制裁(道徳を破ったときに感じる良
心の苦痛)により、人々に義務に反した行為をやめるようになると主張した。 こうして、ミルはすべての快楽を量的に計算できると考えていたベンサムの功利主義を
修正して質的功利主義の立場をとった。しかし、ミルが快楽の質的区別を認めたことは、
快楽以外のものを善の基準としていることを意味し、一般にはミルは功利主義の立場を逸
脱したものとみなされる。また、快楽計算でベンサムが量だけを問題にしたのは、彼が立
法者を対象にしていたからであり、それに対してミルが質的区別を考慮するのは快苦と功
利の原理を倫理的問題として考えていたからであるということもできよう。 ミルの説く功利主義が正しい行為の基準とするのは、行為者個人の幸福ではなく、他者
や人類の幸福である。
「己の欲するところを人に施し、己のごとく隣人を愛せよ」というイ
エスの言葉(イエスの黄金律)は、功利主義道徳における最高の理想である。 ミルは『ミル自伝』の中で幸福について「幸福を手に入れるただ一つの方法は、幸福そ
れ自体を人生の目的とは考えず、それ以外の目的物を人生の目的とすることである」と述
べている。 ○ドイツの歴史学派経済学 19 世紀前半になると、古典派経済学(およびそれに基づく経済政策)が果たしてドイツ
の国情に合致するのか疑問が投げかけられるようになった。すなわち、古典派経済学の自
由貿易主義(および国際分業論)は結局のところ工業先進国のエゴイズムを体現した理論
1803
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
であり、ドイツのような後進国においては自由貿易が国力を減退させる結果を生むことが
判明するにつれ、出来あいの経済政策ではなく、自国の実情に即した独自の政策体系を求
める声が高まっていった。 《フリードリッヒ・リストの保護貿易論》 フリードリッヒ・リスト(1789~1846 年)は、ドイツにおける歴史学派経済学の先駆者
もしくは創始者として位置づけられている。彼が生きた当時のドイツでは産業革命による
工業化がようやく波及してきた反面、政治的には国内が多くの領邦国家に分裂し、近代化
の妨げとなる封建的束縛がいたるところに存在していた。リストはこのような状況に対し、
具体的政策としては農業における小農主義、交通網・関税制度など国内流通機構の整備を
提唱し、国内的には市場の早急な統合、対外的には自国産業育成のための保護貿易を主張
した。 リストの晩年(1834 年)、彼の悲願であったドイツ関税同盟(図 14-15 参照)が成立し
て以降、官僚層による上からの資本主義化が進められ、三月革命後にブルジョアジーが台
頭するようになった。またこれと並行して、プロイセンを中心とするドイツの政治的統一
が進展した。こうした状況下、リストによって構築された歴史主義的な経済学は急速に支
持者を獲得していくことになり、次世代のヒルデブラント、ロッシャー、クニースらを中
心に経済学における「歴史学派」(歴史学派経済学)が形成されることとなった。 《新歴史学派―社会政策》 ビスマルクを事実上の指導者としてドイツの国内統一とドイツ帝国が発足し、歴史学派
の一応の目標が達成されると、旧歴史学派の次世代であるシュモラー、ヴァーグナー、ブ
レンターノ、クナップ、ビュヒャーらは、「新歴史学派」と称されるようになった。 新歴史学派は、ドイツ統一前後の工業化と資本主義の興隆にともない発生した労資対立
の激化や社会主義勢力の拡大に直面して「社会問題」への関心を強めた。そして社会問題
の解決には国家による所得再分配が不可欠と考え、資本主義の弊害を社会政策によって解
決し社会主義への道を封じる社会改良的政策を主張した。 1873 年に社会政策学会が設立されて以降、社会政策学会に結集した新歴史学派の学者た
ちは、自由放任主義や社会主義を批判し、社会政策による経済への介入を主張する点では
共通していたものの、社会政策の主体については見解の相違があり、大まかに分けて国家
による上からの社会政策を主張するヴァーグナーらの右派、労働組合による下からの社会
政策を主張するブレンターノら左派、両者の折衷的立場に立ち社会政策学会で主流派の位
置を占めたシュモラーらの中間派が存在した。 19 世紀末、ドイツが工業大国へと発展を遂げるとともに帝国主義的な膨脹政策を推進す
るようになると、後進国としての地位を前提としてきた従来の歴史学派的「国民経済学」
1804
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
は、その学問的枠組みの見直しが必要とされるようになり、それを支えてきたシュモラー
流の歴史的方法に対しても再び再検討が迫られることになった。 【⑤ドイツ観念論哲学】 18 世紀から 19 世紀前半にかけてのドイツの思想の特質は、同じ時期のイギリス、フラン
スの哲学や啓蒙主義思想にくらべて、はるかに抽象的・内面的な点にあった。 イギリス、フランスなどの啓蒙主義思想が、現実の社会や政治と密接な関連をもち、具
体的に展開・機能したのに対して、ドイツではもっぱら人間精神の自由・自立・尊厳の問
題を中心に、内面的・観念的な方向に関心が向けられた。このようにドイツの思想は,主
として現実的な外界の事物よりも人間の精神や理性、つまり観念や理念を重視したことに
より「ドイツ観念論」と呼ばれる。 こうしたドイツ観念論(ドイツ理想主義)は、ある面ではドイツ人の理論好きな性格や
論理的思考癖(へき)に根ざしていると考えられるが、他面、ドイツが西欧諸国にくらべ
て政治的・経済的な後進性と閉鎖性をもち、近代化を精神的な領域にしか求めることがで
きかったという事情にもよると思われる。 一般にドイツ観念論(ドイツ理想主義)は、カントにはじまり、フィヒテやシェリング
を経て、ヘーゲルによって完成されたといわれる。 カントについては、18 世紀の啓蒙思想のところで述べたが、カントは、人間を理性的存
在者であるとともに感性的存在者であるとし、理性の感性に対する優位・支配のうちに人
格の尊厳をみた。しかし、こうしたカントの人格主義では、理性と感性との統一がうまく
なされているとはいいがたく、むしろ二元論的対立の要素を残すものとなった。このこと
はカントの哲学全体にいえることで、カントの批判哲学のもたらした「経験的世界と超経験
的世界」「自然と道徳」の二元論的峻別をいかに克服するかが、カント以後の哲学の課題とな
った。 カントの立場に立って、実践理性の優位を徹底化し、これを実践的自我としてとらえな
おし、同時にこれを絶対的なものとすることによって二元論を克服しようとしたのがフィ
ヒテとシェリングであった。二人の思想はカントの欠陥を克服しようとする反面、カント
にくらべて一層内面的・観念的・神秘的方向に進んだ。 ○フィヒテの絶対的自我 フィヒテ(1762~1814 年)は、カントの実践理性批判を元に宗教概念を論じた処女作『あ
らゆる啓示批判の試み』をカントの仲介で出版し、一躍、著名になった。翌年にはイエナ
大学教授に就任した。 1805
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
フィヒテは、カントの「実践理性の優位」をいっそう徹底することで二元論を克服しよ
うとした。フィヒテはいっさいの認識に基礎づけを与えるのは実践的なわれ(自我)の働
きによるものと考え、この個人的な自我の根底に超個人的精神としての絶対的自我を置い
た。そして、この実践的な「絶対我」を万物の根本原理とすることによって一元論的世界
観をうちたてた。つまり、彼は精神的絶対我から出発して、個人的自我も外的対象=自然
(フィヒテはこれを自分でないもの=非我と呼んだ)も、すべてこの活動的絶対我が自己
の実現をめざしてつくりあげたものとして説明した。 個人的自我は完全な自己を実現す
るために、すなわち絶対我をめざして活動するが、この自我の活動は非我=自然によって
阻害される。しかし自我はこの対象の阻害にも屈せず、あくまで阻害を克服してゆこうと
する。これらはすべて、絶対我が自己を実現する過程なのであるとした。 フィヒテの道徳思想もここから出てくる。 彼の道徳思想の核心は「独立的であれ、自律
的に行為せよ、自由であれ、良心に逆らって行為するな」というカント的命題に現れてい
る。絶対我をめざす我々の自我の活動は、現実には実現不可能である。絶対我とは、不可
能であっても我々の当然到達すべき目標、永遠の当為、いわば理想的道徳的自我である。
我々はこの道徳的絶対我に到達するためには、つねに自我の活動を阻害する自然や非道徳
的な我(非我)と戦い、これを克服していかねばならない。このような非我の克服を目指
す道徳的努力そのものが、最大の価値を有する道徳的善なのであるとした。このようなフ
ィヒテの自我論は、自我の独立と尊厳を自覚した「主観的観念論」あるいは「倫理的観念
論」といわれている。 1807 年、ナポレオン軍はイエナ・アウエルシュテットの戦いにプロイセン軍を破ってベ
ルリンに入城したが、このときプロイセンは亡国の危機に立たされた。フィヒテは、この
占領下で一般大衆に向けて『ドイツ国民に告ぐ』の連続講演を行い、国民の志気を鼓舞し
た。 プロイセンの改革の一つの側面をなすベルリン大学がフンボルトらによって創立さ
れると、フィヒテはその初代総長となった。彼の妻はナポレオンに対する解放戦争に看護
婦として従軍し、チフスになり、フィヒテもそれに感染して、1814 年、52 歳で死去した。 ○シェリングの絶対者 シェリング(1775~1854 年)は、23 歳で大学教授になるほどの早熟の天才だった。ライ
プツィヒ大学の講義を聴講し、当時はまだ「自然学」「自然哲学」などと呼ばれていた当時
の自然科学に接した。ここでシェリングの自然哲学の中心概念となるのが有機体であった。
当時急速に増しつつあった生化学上の知見は、デカルト以来の機械論的自然観に対抗する
有機体的自然の観念に注目が集まっていた。 シェリングは有機体を自然の最高の形態とみなし、それをモデルとして、力学等を含め
た自然の全現象を動的な過程として把握する図式を提起しようとした。ここでシェリング
1806
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
の有機体理解に大きく寄与したと思われるのはライプニッツで、シェリングの著作『イデ
ーン』(1797 年)には『単子論』への言及が多くなされている。 1800 年、シェリングは、フィヒテの立場をさらに徹底し「同一哲学」を提唱した。彼は
自我(主観)と非我(客観)との差異を否定して、両者を同一のものとして把握し、この
根本の同一性を絶対者と呼んだ。つまり、シェリングにとって絶対者とは、フィヒテの絶
対我のように単に自我の根底にあるだけでなく、同時に非我の根底にもある対立をこえた
無制限者なのであった。そこでシェリングにとっては、この絶対者を直観的に把握する美
的な働き(絶対者は理論的にはとらえられない)が最高の徳であるとされたのである。こ
のようなシェリングのいわば「美的観念論」は、当時のロマン主義の思潮と深く結びつい
ていた。 デカルトやヒュームは、自我と“もの”そのものの現実のあいだにくっきりと線を引い
た。カントも、認識する「わたし」自我と自然そのものをきびしく区別した。ところがここ
へきて、自然はたった一つの大きな「わたし」だ、ということになった。シェリングは、分
裂してしまった精神と物質をもう一度一つにしようとした。そして、人間の魂も物理的な
現実も含めた全自然は、一人の絶対者、世界精神の現れだ、と考えた。 自然は目に見える精神で、精神は目に見えない自然だ、とシェリングは考えた。なぜな
ら自然のいたるところには、秩序をつくりだそうとする精神が感じられるからだ。シェリ
ングは、物質はまどろんでいる知性だ、と言った。シェリングは自然のなかに世界精神を
見たけれど、この同じ世界精神を人間の意識のなかにも見た。そうすると、自然も人間の
意識も同じ一つのものの現れということになる。そこでシェリングの哲学は「同一哲学」と
呼ばれている。 世界精神は自然のなかにも、自分の心のなかにも見出せることになる。だからノヴァー
リス(1772~1801 年。詩人・小説家。初期ロマン主義の中心人物)は、「神秘の道が内面に
つうじ」ている、と言った。ノヴァーリスは、人間は宇宙をそっくり自分のなかにもってい
る、だから自分自身のなかに降りていけば、世界の謎に近づける、と考えた。 シェリングも、自然は石から人間の意識まで、ひとつながりの発展と考えた。命をもた
ない自然から複雑な生命の形態へと、なだらかに移行している、と考えた。ドイツ観念論
哲学やロマン主義の自然観では、自然は一つの有機体、つまりもともとの可能性をだんだ
んと実現させていくひとまとまりのものである、と考えた(本書で宇宙から現代の人類ま
でをひとつながりで述べているのも、ある原理のもとにつなかっているという発想による
ものである。「自然の叡智」と「人類の叡智」は根底でひとつであると)。 1807
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
1807 年、シェリングの友人であったヘーゲルは『精神現象学』序言で、痛烈にシェリン
グの絶対者把握を批判し、二人の学生時代からの友情は断絶し、互いの哲学を真っ向から
批判しあう教壇上の言説の対立となっていった。 このようにドイツ観念論は、徐々に思弁化(経験によらない純理論的な考え)・神秘化・
宗教化していったが、これはヘーゲルにいたって最高潮に達した。 ○ヘーゲルの哲学(思想) ヘーゲル(1770~1831 年)は、南ドイツのヴュルテンブルク公国の首都シュツットガル
トに生まれ、チュービンゲン大学で平凡な学生として青春を謳歌していたが、在学中に経
験したフランス革命には、他の学生と同様、大きな感動と関心をもって注目した。このフ
ランス革命に対するヘーゲルの関心は、生涯を通じて大きなウェイトをしめた。 《ヘーゲルの弁証法》 ヘーゲルの哲学の説明の前に、まず、彼が発明(発見)した弁証法を説明する。弁証法
(ディアロゴス)はもとは対話や問答を意味する語であったが、ヘーゲルはこれを哲学的
論理として確立した。ヘーゲルの説いた弁証法とは、物事(世界)を運動、発展するもの
と捉える発展の論理である。ヘーゲルは、歴史そのものからこれから述べる弁証法のパタ
ーンが浮かび上がってくると考えた。 ヘーゲルによれば、すべてのものは運動し、より低次なものから高次なものへと発展し
ているととらえた(認識した)。こうした運動の論理、「正」「反」「合」の 3 段階を経
て生じる発展の論理が弁証法であるとした。認識のこの 3 段階を「定立(テーゼ)」「反定立
(アンチテーゼ)」「総合(ジンテーゼ)」とも言い表している。 図 14-1 のように、第 1 の段階では、あるゆるものは一応安定の状態を保っているが、内
部にはかならず矛盾を含んでいる。しかし、この矛盾はまだ表面化せず、矛盾を含みなが
らも安定している段階、これが第 1 の段階、「正」(肯定、テーゼ)の段階である。 次にこの劣勢にあった矛盾が増大し、表面化する段階、つまり「正」の段階が維持され
得ず否定される段階、これが第 2 の段階、「反」(否定、アンチテーゼ)の段階である。 第 3 の段階とは、正と反の段階がともに否定されながらも、双方とも全面的に否定され
るのではなく、双方の契機を保有し生かしながら新しい段階へと乗り超えて行く段階のこ
とである。つまり、否定を媒介として、前の 2 段階を保有しながら乗り超える(ヘーゲル
はこれを止揚(しよう)=アウフヘーベンという)ことにより質的に新しい段階に移る「合」
(総合、否定の否定、ジンテーゼ)の段階のことである。ヘーゲルは「止揚」されるという
言葉を使ったが、止揚されるというのは、発展的に解消される、ということである。 1808
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
つまり、ヘーゲルは、すべてのものは自己と反するもの(矛盾・対立するもの)と出会
い、それを自己の中に拾い上げる(止揚、アウフヘーベン)ことによって、より高次のも
のになると考えた。 図 14-1 ヘーゲルの弁証法 学研『よくわかる倫理』 ドイツ語のアウフヘーベンは、「拾い上げる」と「破棄する」という反対の意味を同時
に持つ言葉である。簡単にいえば「よいところを拾い上げ」「よくないところを捨てる」。
それによって、あるものがよりよいもの、高次のものに発展することをいう(これは人間
の行為、つまり、歴史において認められるだけではなく、生物の進化論なども本書で述べ
てきたように、自然(環境)に適応するように反の特性(実際には突然変異による変化)
をもつようになり、それと従来からの良い特質も生かされて、次の段階に進む(進化する)
のであるが(これを自然は飛躍はしないと縷々述べてきた)、これも長い時間でみれば、
正-反-合を繰り返しているともいえる。つまり、生物も人類も同じ原理で変化(進化)
しているともいえる。諸行無常のなかで、自然(地球)も生物も人類も動的平衡状態にあ
り(福岡伸一氏の言葉)、その一瞬一瞬が歴史であるともいえる)。 このヘーゲルの弁証法の理論は、人類の歴史のそれぞれの局面では経験的に認められる
ことである。筆者は本書において、人類の有史以来の歴史を動かす原動力は支配者階級と
被支配者階級の支配・被支配の関係であると述べたが(人間の統治欲に基づくもの)、あ
る時代をとりあげると(ヨーロッパでもイスラムでも、あるいは中国のある王朝を考えて
みても)、Aという王朝が成立し支配体制をかため、最初期は隆盛であるが、だんだん、
支配者階級の奢侈あるいは暴政、財政難による増税などにより、A社会に矛盾が増大し、
これに反発する勢力Bが生まれ、反乱や外敵などの侵入などによって倒され、結局、Cと
1809
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
いう新しい政権がうまれる。これはBの主張した革新的な面を持つと同時にAの残すべき
点も取り入れて,新しいCという体制で出発するようになることの繰り返しであると述べ
たが、そのように考えれば、人類の歴史はヘーゲルの弁証法的な繰り返しであったともい
える。 《ヘーゲルの思想(哲学)―カント批判》 ヘーゲル(1770~1831 年)は、カントの自由は内面的・観念的な自由であって、現実の
世界で実現されたものではない(=真の自由ではない)と批判した。 カントは「自由」を自ら立てた道徳法則に自ら従うことだと考えた。カントは、理性的
存在者は普遍妥当な法則を自ら立てることができる。この自ら立てた法則に自ら従うこと
が、カントのいう自律である。そして、自由とはこの自律があっての自由のこと、すなわ
ち自ら道徳法則を立て、自らそれに従うがゆえに自由なのである。そしてカントは道徳法
則に自発的に従う理性的存在者を人格とよび、人間は何かができるがゆえに尊厳を持つの
ではなく、それ自体が人格を持つがゆえに尊厳を持つのであるとした。 ヘーゲルはこれでは内面的・観念的な自由である、自由は現実の世界において実現され
なければ本当の自由ではない、というのがヘーゲルの主張であった。ヘーゲルは、自由は
法社会制度という具体的・客観的な姿をとって歴史や社会の中で実現されなければならな
い、つまり、理念は現実の世界で実現されなければならないということである。 ヘーゲルは、このことを「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」
つまり、理性的(理念的)なものは現実の世界で実現するということである。また「現実
的なものは理性的である」とは、いま現実の世界にあるものであっても、それが歴史の必
然性を担っていなければ、いずれ滅びることを意味している。言い換えれば、真に現実的
なものは、歴史の風雪に耐え、歴史の必然性(理性の法則)を実現するものとして残ると
した。 《自由と歴史―絶対精神》 その上で、ヘーゲルは人間や社会や歴史の本質は何かと考えた。それは精神であると考
えた。すなわち、彼は現実の社会や歴史の背後にあって、これらを生みだし支配するもの
を絶対精神としたのである。ヘーゲルにとっては、社会や歴史は、この絶対精神が自己を
実現する弁証法的発展の過程にほかならないとした。一方、精神の本質は自由である。そ
こで精神の自己実現の過程としての歴史の発展とは、自由の実現の過程ということになる。 一見したところ、世界史は諸民族・諸国家の闘争と興亡のくりかえし、覇権の交代の歴史
のようにように見える。しかし、これらは、世界史の本質であり真の実体・主体である世界
精神が、自己の本来の姿を実現していくために、歴史上の民族や英雄を、道具として手段
として利用したにすぎないのである。歴史上の英雄や民族が自己の欲求や関心にかられて
1810
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
なす活動は、歴史の背後で歴史を支配している世界精神にあやつられた行動にすぎないと
した。彼らは一定の時代の担い手としての役割を終えれば、世界史の舞台からしりぞいて
ゆくのである(善悪の 2 神がこの世に送り込まれ戦い、善神が最後に勝利する、その舞台
がこの地球でその過程が人間の歴史であるとするゾロアスター教などの宗教の論法に似て
いる)。 ヘーゲルにおいては絶対精神は自由を本質とし、神、理念、理性と同じものである。絶
対精神が歴史上(世界)に現れたものが世界精神である。歴史とはこの絶対精神が自己展
開したもの、すなわち、絶対精神が己(おのれ)の理念を実現する過程、「自由を実現す
る過程」であると考えた。絶対精神の本質が自由であるから、歴史は自由を実現していく
過程となる。ヘーゲルは「世界史は自由の意識の進歩である」と述べた。 ヘーゲルは、これは歴史が示す事実で、ただの予言などではない、と言っている。誰で
も歴史を学べば、人類が自分を知り、発展させることをずっと目指してきたことがわかる
としている。人類の歴史ははっきりと、合理性と自由が増える方向に進んでいる。歴史は
さんざん脱線もするけるど、全体として見ればたゆみなく前へ前へと進んでいる。ヘーゲ
ルは歴史を目的をもったもの(自由の実現の過程)としてとらえていた。 歴史をよく観察すれば、新しい思考はそれより前の思考を踏まえて立ちあがっているこ
とに気づく。けれども新しい思考が立ちあがると、かならずもう一つ別の新しい思考の反
論を受ける。すると対立する思考が張りあうことになる。でもこの緊張は、二つの思考の
いいところをとって第 3 の思考ができあがることによって解かれる。つまり、ヘーゲルの
言う弁証法的発展である。これが理性の発展の法則である、つまり歴史をつうじて世界精
神が発展する法則だと考えたのである。ヘーゲルは、歴史を一本の長い思考の鎖としてと
らえていた。この鎖、つまり歴史はきちんとした法則でつながっているとして、その法則、
つまり、ヘーゲルの弁証法を明らかにしたと考えていた。 こうした世界精神の個々人を超えた運命のような働き、歴史を操って発展させる賢明な
る摂理(せつり)としての働きを「理性の狡智(こうち)」とヘーゲルは呼んだ。この理性
の狡智によって、歴史の発展のなかで人間の自由はひとり(皇帝ナポレオン)の自由から
万人の自由へと発展すると考えたのである。 《ヘーゲルの人倫》 このようにヘーゲルの哲学は、すべてを理性・精神の発展としてとらえ、徹底した理性
の哲学あるいは精神の哲学を展開した。ヘーゲルは、人間の人間たるゆえんは精神にあり、
精神の本質は自由にあると考えた。彼はカントのように精神や自由を主観的に考える立場
を否定し、真の精神や自由は人間の社会や歴史と結びつけて考えなければならないとした
(カントの自由は主観的自由であり、ヘーゲルは客観的な自由を求めたとしている)。 1811
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
道徳についても、彼は,カントのように人間の理性にもとづく良心をよりどころとする
主観的道徳に対し、人間の内面において考えるのではなく、それが歴史の現実の中で社会
的・客観的なものとして具体化されたものを真の倫理として、それを「人倫」として考える
立場をとった。 まず、その人倫とは何か。ヘーゲルは、人間が生活する上で行為の規範となる法と道徳
とを弁証法的に総合した人倫という道徳的秩序を持つ共同体を想定し、社会全体と個人の
自由は人倫において具体的に実現すると説いたのである。ヘーゲルによれば、法と道徳に
はそれぞれ次のような特徴があるという。 ◇法……客観的・外面的であり、社会秩序を維持し自由を保障するが、個人の内面を軽視
する。また法的権利を保障するが、これのみでは、人間関係は形式的に法にかなって
いればよいということになる。 ◇道徳……人間に対し、良心(内面)に従って生きることを求める。その一方で、主観的・
個人的な要素が強く、ときに個人の内面にとどまり、全体への働きかけにとぼしい。 そして、その人倫はいかにして実現できるか。ヘーゲルによれば、人間の人倫の形態は、
図 14-2 のように、「家族(正)」→「市民社会(反)」(→「国家(合)」という 3 段階を通っ
て弁証法的に発展・具体化するという。 図 14-2 ヘーゲルの家族・市民社会・国家 学研『よくわかる倫理』 1812
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
◇家族……人倫形態の最初の段階である家族は、夫婦・親子の愛情によって結びついた自
然的な共同体である。しかし、この正の段階は、子供が成長し、親から独立し、市民社会
の一員となるにしたがってくずれ、市民社会(「反」の段階)へと進む。 ◇市民社会……市民社会の段階では、各成員は 1 個の自由で平等な独立した人格としてあ
らわれる。しかし、市民社会の各成員は、結局、個人個人の私的な利益を追求するので、
自他の対立・争いや不平などはまぬがれず、不自由に陥る。家族におけるような安定した
統一は失われて、「欲望の体系」(ヘーゲルは市民社会をこう呼んだ)という社会になって
しまう。そこでは、産業の発展や人口の増加は、一方では富の集積・集中をもたらすが、
他方では貧困や不自由を増大させる(「人倫の喪失態」(あるべき人間関係が失われた状
態)といわれる)。こうした矛盾を克服するより高次の共同体が国家(「合」の段階)であ
る。 ◇国家……国家は家族と市民社会の矛盾を克服し止揚した発展段階の最高のものである。
ここにおいてはじめて、個人の利益と全体の利益が自覚的に一致・調和させられ、各人 の真の自由が保障されるという。このようにヘーゲルは、国家こそ倫理的精神の自覚的・ 具体的な自己実現を可能とし、人間の道徳・自由を本質的に実現する人倫の完成された姿 であるとしたのである。だから、個人は国家の成員であることによってのみ倫理的・道徳 的でありえるのである。 このように、ヘーゲルは、この人倫を弁証法的に発展するものとしてとらえ、この人倫
の最高の発展形態を国家であるとした。ロックやルソーとは対照的に、国家は個人より高
い有機体全体として考えていたといえよう。このようにヘーゲルは自由からはじまって、
その最高理想形態が国家であるという結論に達する論理には、きわめて多くの矛盾が含ま
れているが、とくに、一貫して人間というものが存在しない論理だけの、つまり、観念論
の議論であったということに注意しなければならない。 このヘーゲル哲学の出発点となった『精神現象学』は、1806 年ナポレオン軍のイエナ侵
入のなかで書き上げられたもので、ナポレオンの進軍を馬上に見たヘーゲルは、「世界精
神が行く!」と感動して叫んだといわれている(現実の歴史は、ヘーゲルが予言ではなく
歴史的事実だとした「歴史は自由を実現していく過程」とは正反対になった。独裁者ナポ
レオンにプロイセンは国土の 49%とすべての自由を奪われ、このような発想の延長線上に
ナポレオンを何倍、何十倍にもしたヒトラー、(マルクス)、レーニン、スターリン、毛
沢東という独裁者がでてきた。その前の歴史を見ても、図 11-2(古代)、図 12-3(中世)、
図 13-10(近世)のように、人類の古代、中世、近世のヘーゲルまでの歴史はすべて専制
国家、絶対王政国家などであって、個人の自由などどこにもなかった(君主の自由以外に
は)。これが観念哲学である)。 1813
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ヘーゲルは、1818 年、ベルリン大学の正教授を務め、プロイセン王フリードリヒ・ヴィ
ルヘルム 3 世は、彼の政治体制への貢献に対して叙勲し(「最高理想形態が国家であるとい
う結論」は軍国国家プロイセンにとってありがたいことであったろう)、1830 年には、彼
を総長に指名した。 ヘーゲルの文体は難解なものとして知られ、また、内容は矛盾にみちており、バートラ
ンド・ラッセルは『西洋哲学史』
(1945 年)の中で、ヘーゲルのことを、最も理解が困難な
哲学者であると書いている。彼によれば、ヘーゲルは現在誤っているとされている当時の
論理学に基づき、壮大な論理体系を作り上げたのであって、そのことがかえって多くの人
に多大な興味を持たせる結果になったのであるといっている(なぜ、当時、これほど評価
されたのか。人間は有名なもの、いったん出来上った権威には無批判に盲従するが、ヘー
ゲルはその典型であった。もっとも、古代ギリシャからプラトン、アリストテレスもその
誤った内容が古代、中世と 1000 何百年も盲従されてきたことは述べたが)。 ○ヘーゲル以後 《ヘーゲル批判と唯物論哲学》 ヘーゲルが 1831 年に急逝した後も、ヘーゲル哲学は受け継がれていった。一時期ドイツ
の大学の哲学教授のポストはヘーゲルの弟子(ヘーゲル学派)ですべて占められた。1830
年代から 1840 年代にはヘーゲル学派の中でもヘーゲル左派が興隆したが、やがてまさに弁
証法的にヘーゲル批判が生まれ、唯物論的哲学が生まれることになった。 そのような中で、ヘーゲル学派の神学者 ダーフィト・シュトラウスが自身のヘーゲル研
究を基に、1835 年に『イエスの生涯』を著したことにより、直接的な分裂が始まった。シ
ュトラウスは、この著作の中で、福音書の中の歴史の史実性を否定し、すべて神話であっ
たとする見解を示した。この著作は、ヘーゲル学派の内部からのみならず、当時の神学界
からも批判を受け、シュトラウスも答弁を余儀なくされた。 その答弁の中で、福音書の中の全歴史を史実として受け入れるべきであるとしたのが右
派、部分的には受け入れられるとしたのが中央派、まったく受け入れるべきではないとし
たのが左派 と、シュトラウスがヘーゲル学派の区分を示した。また、当時右派に比べて、
青年の学者が多かったので、左派は青年ヘーゲル派とも呼ばれるようになった。 さらに青年ヘーゲル派は自身らの手により、ヘーゲルの哲学原理を批判的に発展させ、
やがて唯物論的・実践的な立場となり、国家批判への道を進み始めた。その中心となったの
がフォイエルバッハ(1804~1872 年)だった。 フォイエルバッハは、1823 年にハイデルベルク大学、1824 年にベルリン大学にて神学を
学び、ベルリン大学でヘーゲルの講義を聴き、影響を受けた。しかし、1830 年に伝統的な
1814
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
キリスト教の批判をした『死および不死についての考察』が問題となり、それが原因で失
職し、以後は著述家として生計を立てた。 フォイエルバッハはかねてから、かつての師ヘーゲルの抽象的な精神・理念を主体とし
てとらえて、その自己展開の過程によって歴史や自然・世界を見るという考え方に疑問を
抱いていた。これら抽象的な精神はもともと人間の働きであるものであるのに、ヘーゲル
哲学では独立して考えられていると考え「人間の自己疎外」という表現で批判した。 こうしてフォイエルバッハは、当時、ドイツ哲学の権威となってしまっていたヘーゲル
哲学の批判を開始した。1839 年には青年ヘーゲル派の機関誌『ハレ年報』において、
『ヘー
ゲル哲学批判のために』を発表した。1841 年には主著『キリスト教の本質』を刊行した。
たちまち、青年ヘーゲル派の人をはじめ、多くの若年の学者に歓迎される一方で、保守的
な学者や神学者から激しい非難を受けた。 また 1843 年には、
『哲学改革のための暫定的テーゼ』
『将来の哲学の根本命題』を刊行し、
人間主義的唯物論の代表的な存在になった。ただ、1860 年に妻の経営する工場が破綻し、
経済事情が一気に悪化した。その後 1866 年には『唯心論と唯物論』を発表したが、以後は
病床に就き、貧困のうちに死去した。 フォイエルバッハはヘーゲル哲学から出発し、のちにそれと決別し、存在が認識を規定
するという唯物論を主張した。とくに当時のキリスト教に対して激しい批判を行った。こ
れを批判・継承したマルクスは、のちに弁証法的唯物論を唱え、歴史の発展法則を弁証法
的唯物論の立場から解明する唯物史観を樹立した(後述)。また現世的な幸福を説くその
思想は、マルクスやエンゲルスらに多大な影響を与えた。 やがて、プロイセン皇帝フリードリヒ・ヴィルヘルム 4 世と溝が深まったことも相まっ
て、青年ヘーゲル派とプロイセン政府との対立が起こった。青年ヘーゲル派独自の機関紙
『ハレ年報』も、さらに政治的主張として 1842 年から出した『ライン新聞』も、政府によ
り共に 1843 年に発禁された。 また、急進的な考えに好意を持たない旧勢力はヘーゲル左
派の学者の大学からの追放を実施した。この頃から、青年ヘーゲル派は、政治的・歴史的
に分裂し、社会主義、立憲君主主義、無政府主義などに分かれ、統一を失い、事実上消滅
した。 《青年ヘーゲル派から実存主義哲学、マルクス主義哲学へ》 哲学思想からは離れたが、なぜ哲学者が政治的な色合いを強めていったかといえば、そ
れは当時のドイツの知識人階層の風潮が、封建制社会を認めるヘーゲル哲学、そしてヘー
ゲル哲学から出発した思弁的唯物論(青年ヘーゲル派)を元にした理論を求めなくなり、
さらに実践的で革命的な理論を求めていったからであろう。 1815
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
このことは、ドイツ=後進国(当時、フランスやイギリスがヨーロッパの主導的な立場で
あった)という観念が普及し、何とかしてこれを打破したいと考えていたからに他ならない。
それを追求するには、「観念」ではなく「現実」という性質のものでなくてはならなかっ
た。 歴史は、後述するように、1814 年に成立したウィーン体制(王政復古)から、1848 年革
命に到り、旧勢力(封建制社会)から新勢力(自由主義・社会主義)へと転換した時期で
もあった。 このように、青年ヘーゲル派の足跡は、この後にマルクス主義の哲学と実存主
義の哲学に受け継がれていくことになった。 【⑥実存主義の哲学】 ドイツの哲学者ショーペンハウエル(1788~1860 年)も、ヘーゲルらの理性中心の哲学
に反対し、非合理的な生存意志を中心とする「生の哲学」を説いた。彼によれば、世界と
は自己の表象に過ぎず、その根底には盲目的な「生存への意志」がある。この意志は,絶え
ず満たされない欲望を追うため、人生は苦になるという悲観的厭世(えんせい)哲学を展
開した。 デンマークのキェルケゴール(1813~1855 年)は実存主義哲学の先駆となった(広い意
味では、17 世紀フランスのパスカルを実存主義の最初の先駆者とみなすこともできる)。 ドイツのニーチェ(1844~1900 年)は、ショーペンハウエルの影響をうけ、ヨーロッパ
文化の退廃はキリスト教支配によるとしたが、厭世主義には満足せず、人間の本質は、よ
り強くより旺盛に生きて不断に自己を発展・成長させようとする生命力にあると考えた。こ
のように大胆に人間の生を肯定するニーチェは、生命力のもつ激しくたくましく生きよう
とする意志を徹底させることによって、現代社会の落ち込んだニヒリズムを克服しようと
したので、生の哲学者ともいわれる。 ○実存主義とは ここで英語の実存 existence の語源は、ラテン語の existentia(現実存在)に由来する。
これは、ex(out of)と stare(stand)とからなる合成語で、
「外に出て立つ」ということをあ
らわす。実存主義は、物とは本質的に異なる人間の存在のあり方を、この「実存」という
言葉で表す。人間はつねに、今ここでの自己あるいは非本来的自己から「外に出て立ち」、
本来的自己を創造していく存在である。「実存」は「現実存在」の意味で、何ものかが実際
にこの世に存在することをいう。 実存に対する言葉が「本質」である。本質とは、「それは…である」と一般的な定義で示
されるような、そのものが持つ基本的性質のことである。たとえば、
「人間は社会的動物で
ある」とか「人間は本来、善なるものである」などは、人間の「本質」を表現しようとし
1816
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
た文である。これに対して実存とは、そうした人間一般の性質ではなく、この文を書いて
いる私、これを読んでいるあなたなど、個々の具体的・現実的な存在を示す言葉である。 ヨーロッパの伝統的な神学や哲学では、一般に「本質」を「実存」に対して優位に置き、
たとえば人間について考えるときは、
「人間とは何か?」という問いの立て方をするのが常
であった。キリスト教の考え方では、神が世界を創造したのであり、あらかじめ神のうち
に事物の本質に関する設計図のようなものがあって、それに従い個々の現実存在(実存)
が作られたと考えていた。 しかし、実存主義では、人間について考えるとき、「本質」よりもまず「実存」を問題と
する。人間の本質は、誰についても当てはまるような、あらかじめ規定できるものではな
い。現実の人間の生き方を考えるには、抽象的・普遍的な人間一般ではなく、「この私」の
具体的・個別的な実存というものをまず考えなければならない。そして、「この私」がいか
に本来の自己のあり方を取り戻し、人間疎外を克服するかを、自己の主体的な決断による
生き方の問題として探求するのである。 この実存主義には、大きく分けて 2 つの流れがある。1つはキルケゴール(1813~1855
年)に始まる宗教的実存主義であり、神のような絶対的存在と人間との(主体的な)関わ
りを重視する。もう 1 つが、ニーチェ(1844~1900 年)に始まる無神論的実存主義で、神
への信仰を否定する。 ○キルケゴールの宗教的実存主義 さて、そこでキルケゴールは「わたしにとって真に必要なことは、何を認識すべきかで
はなく、何をなすべきかを知ることである。・・・大事なことは、わたしにとっての真理を
見出すこと、わたしが喜んでそのために生きかつ死ぬことのできる理念を見出すことであ
る。」と彼の『日記』には彼の目指す真の生き方が述べられている。キルケゴールは、ヘー
ゲルのいうような客観的真理・普遍的真理を拒否し、自分にとっての真理(主体的真理)を
本来の真理と考えた。彼は個人を普遍的真理のための単なる手段とみなし、人間の主体性
を抹殺するようなヘーゲル流の考え方に強く反発したのである。 キルケゴールにとって重要なのは、たった一度しかない自分の人生を納得のいくように
生きること、自分を見失わず独力でおのが人生を切り開くこと、自由な主体として生きる
ことである。このように個性的・主体的に生きる人間・真に実存する人間を、彼は「単独者」
あるいは「例外者」と呼んだ。 単独者・例外者としての生き方こそ、キルケゴールの選ん
だ道であった。 そこでキルケゴールは、本来的自己をめざす人間の自覚的生き方=実存を、「美的段階」
「倫理的段階」
「宗教的段階」の 3 段階に分けて考えた。これは真の実存へと目指していく
過程ともいえる。 1817
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
最初の「美的実存」とは、人間が自分の欲求を追い求めて享楽的に生きていく段階のこ
とである。ひたすら現実の官能的享楽におぼれ(たとえばドン・ファンなどのように)、夢
を追い求める生き方は、現実の苦しみや悩みから解放された自由な生き方のように思える
が、けっして永遠の幸福をもたらす生き方ではない。欲望は結局満たされることがなく、
人間は逆に享楽のなかで自己を失い、倦怠感・虚無感にとらわれ、不安と絶望を避けるこ
とができない。キルケゴールによれば、絶望とは精神の病であり、自己を存在させた根拠
である神との関係を逃れて本来の自己を見失った、『死にいたる病』(1849 年)だという。 そこで真実の自己の人生を求めて真剣に生きぬこうとする者は、享楽生活を棄て、良心
に従った道徳的な生き方へと進む。これが「倫理的実存」の段階である。惰性にながされ
ることなく、つねに新しい決意によって真摯に道徳的な善・悪の判断を下し、「あれか、こ
れか」
(善か悪か)の二者択一の生き方をすることのなかに真の自分の生き方を見出そうと
する。しかし、この生き方も、結局壁につきあたらざるをえない。というのも、彼が良心
的であろうとすればするほど、真剣に生きようとすればするほど、彼は自己の有限性・無力
さ・罪深さを痛感し、絶望を感じざるをえないからである。もし絶望を感じることなく、
自分は道徳的に完全だと感じている人間がいるとしたら、その人は自己の有限性に気づか
ない傲慢な人である。 こうした有限な人間が、不安と絶望のうちでキリストの前にただ一人で立ち(このあり
方が単独者)、信仰へと飛躍することによって本来の自己をとりもどすのが第 3 の「宗教的
実存」である。単独者としての人間が、神の前での「あれか、これか」の選択に直面して、 神と人間との間には、越えがたい本質的な断絶や矛盾があるが、単独者は自らの全存在を
賭けた決断によってその矛盾を乗り越え、信仰へと飛躍する。真の人間の主体性は、自己
の自由な決断によって(理性ではなくして信仰の情熱によって)、絶対者としての神に自分
のいっさいをまかせきって生きることのなかで実現されるものなのである。このようにキ
ルケゴールの実存思想は、有限な人間がいかにして無限で永遠な神とのつながりを確保で
きるかという問題をめぐって展開されている。 やがて彼の目は社会に向けて開かれ、近代社会の病根を摘出し人間の疎外状況を批判し
ていく。さらに矛先は現存のキリスト教会に向けられ、真のキリスト教の再建を意図して、
教会との激しい論争のさなか、1855 年 10 月、突然、路上で卒倒し、翌月この哲学者は 42
歳の若さでこの世を去った。 ○ニーチェの哲学 ニーチェはニヒリズムの時代を予言していた。ニヒリズム、あるいは虚無主義とは、こ
の世界、とくに過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真
理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場である。名称はラテン語の Nihil 1818
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
(無)に由来する。ニヒリストは、上位の支配者、創造主の存在を示す理にかなう証拠は
ない、「真なる道徳」というものは存在しない、世俗的な倫理は実現不可能である。よっ
て我々の存在には結局真理はなく、好まれる行動など存在しないと説く(ニヒリストは、
19 世紀後半ロシアのツルゲーネフが『父と子』で、伝統的な道徳や信仰などをすべて否定
する青年を描き、ニヒリストとよんだことから広まった)。 このようにニヒリズムを招来させた最大の原因は何であるか、ニーチェはそれをキリス
ト教道徳のルサンチマン(怨恨・復讐の感情を表わすフランス語)にほかならないとした。 このルサンチマンとは、キルケゴールにより確立された哲学上の概念で、主に、強者に対
して、それをなしえない弱い者の憤りや怨恨(えんこん)、憎悪、非難の感情を持ち、無
力感からする歯ぎしり、嫉妬(しっと)、恨み、繰り言、相手が悪い、社会が悪いとして
しまう人間である。 ニーチェによれば、同情・博愛・謙遜・服従や禁欲などキリスト教の説く道徳は、すべ
て弱者の強者に対する怨恨(ルサンチマン)から生じた奴隷道徳であるという。キリスト
教は、もともとローマ帝国の奴隷や下層の民衆の間に広まった。現世的な力を持たない彼
らのため神の前の平等が説かれ、この世ならぬ彼岸の世界を虚構し、その世界で弱者が救
われるとして、現世を支配する強者に対し精神的に復讐しようとしたのだという。ニーチ
ェにとって、ヨーロッパでのニヒリズムの到来は、こうした虚構の価値観に 2000 年ものあ
いだ信頼を置いてきたことに対する報いであり、このようなものに無条件の信頼を置いて
きたこと自体が、すでにニヒリズムだったとしている。 ニーチェによればルサンチマンの人とは「本来の『反動』、すなわち行動によって反応
することが禁じられているので、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるよ
うな徒輩(とはい)」である。よって、ルサンチマンの人は非常に受け身的であり、無力
な状態で、フラストレーションを起こしている。行動を禁じられて、その結果自身の無力
を痛感している人なら誰でもルサンチマンに陥る。すなわち感情を表に出すことができな
くなってしまうのである。 なぜ人間がルサンチマンになるのか。ニーチェによれば、キリスト教の道徳が、力強く
生きようとする強者の足を引っ張り、ああしてはいけない、こうしてはいけないと命令し、
強者を引きずり落とし平均化してしまうからであると考えた。 《神は死んだ、超人たれ》 そこでニーチェは、「神は死んだ」、神の死によって、人間は支えとすべきいっさいの
価値を失った。キリスト教の価値観、信じていたものがすべてなくなってしまった。無(ニ
ヒリズム)へと陥った。これから 20 世紀、21 世紀はニヒリズムの時代である。このニヒリ
ズムにおいて、人間の取りうる態度は大きく分けて 2 つある。①すべてが無価値・偽り・
1819
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
仮象ということを前向きに考える生き方で、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬
を一所懸命生きるという態度(強さのニヒリズム、能動的ニヒリズム)、②何も信じられ
ない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きると
いう態度(弱さのニヒリズム、受動的ニヒリズム)である。 ニーチェは前者の①を肯定し、永遠回帰(後述)の思想の下、自らを創造的に展開して
いこうといった。我々は、神に代わって何を目標とし、何を支えとすべきか。それは、「力
への意志」をもち、大地に足をふまえ、ラクダのような忍耐力と獅子の強さと「おさな子」
の無心な魂(創造力)をもって、たくましく生きる「超人」になろう。②のノミのような
人間・末人(まつじん)ではなく、超人(ポジティブな人間)になろうというのがニーチ
ェの哲学である。 我々の理想とする超人とは、神のように彼岸(ひがん)にあるものでなく、現実を肯定
して、すべての事象は永遠に繰り返されるという永劫回帰(えいごうかいき)を認識し、
おのれの生命を充実させ、力あふれる自己を生きぬく自由人、力への意志の体現者なので
ある。 神から一挙手一投足まで善だ悪だといわれるルサンチマンではなく、自分で良い・悪い
を判断し、楽しんだり悲しんだりできる生に変える新しい価値観をもたなければならない。 「すべての神は死んだ。今や我々は超人が生きることを欲す」これはニーチェの本心からの
叫びである。この「超人」を人間に説くためにニーチェは長年籠もっていた山奥から人間界
に降りてきた。 ニーチェは、預言者キリストではなく、預言者ツァラトウストラとなって、以下のように
語ったのである(『ツァラトウストラはかく語った』(1885 年刊)。ツァラトウストラは古
代イランのゾロアスター教の開祖ゾロアスターのドイツ語読み。ゾロアスターについては、
【11-12-4】世界宗教の成立で述べた)。
「私は、あなたがたに超人を教える。人間とは乗り超えられるべきものである。あなた
がたは、人間を乗り超えるために何をしたか。およそ生あるものはこれまで、おのれを乗
り超えて、より高い何ものかを創ってきた。ところがあなたがたは、この大きい潮の引き
潮になろうとするのか。人間を乗り超えるより、むしろ獣類に帰ろうとするのか。」と語
った。 《永劫回帰》 永劫回帰もニーチェの哲学の根本思想の一つである。現実の世界は永劫回帰、つまり目
的もなく意味もない永遠の繰り返し、同一の姿・順序での生々流転の世界であるとする考え
方である。しかし、無意味で苦悩にみちた永劫回帰の世界の中で、我々は唯一のものであ
1820
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
る現在の瞬間をとらえ、その充実に努力することでニヒリズムを突破し、永遠に触れるこ
とができる。 永劫回帰は、古代インドの輪廻の思想と似たところがあるが、輪廻は迷いの状態であり、
そこから解放される解脱が求められた。これに対し、永劫回帰の思想では、生の肯定とい
う立場から、これを積極的に見つめ、引き受けていくべきものとする。「人生とはそうい
うものなのか、よし、それならばもう一度」と叫んで、同じ形のまま無限回に回帰する。
このニヒリズムの世界を直視し肯定し愛し(これを運命愛という)、自分の人生が最悪で
あっても、それを受け入れて生きよう、これによって無意味な人生の悲惨さをのりこえ、
ニヒリズムを克服しようというのが、神なき世界を生きぬく超人の姿なのである。 あらゆる価値が動揺し崩壊しつつある現代は、まさにニヒリズムの時代である。ニーチ
ェはこの現象をいち早く予言し、すべての価値基準を改変し、新しい価値秩序を確立し、
これによってニヒリズムを克服すべきだと提言したのである。 ニヒリズムを直視し、ニヒリズムに徹底し、これを積極的に生きることによってニヒリ
ズムを克服しようとするのが、ニーチェの「能動的ニヒリズム」の思想である。 《ゆがめられた『力への意志』》 ニーチェは、長らく計画中の大作『力への意志』について精力的に加筆や推敲を重ねて
いたが、結局これを完成させられないままニーチェの執筆歴は突如として終わりを告げた。 1889 年 1 月にニーチェの精神は崩壊した。ニーチェは 45 歳のとき発狂、その後、母と妹に
看病されて暮らした。1900 年ワイマールの地で天才と孤独と狂気の悲劇的な生涯を閉じた。 彼は『力への意志』のための膨大な草稿を残していた。妹のエリーザベトはニーチェの
死後、遺稿を編纂して『権力への意志』を刊行した。彼は、天才のつねとして生存中には
それほど世に受け入れられず、皮肉にも発狂後に注目されはじめた。彼が予言したニヒリ
ズムの時代、20 世紀の幕開け前後の時代であった。のちに「ニーチェの思想はナチズムに
通じるものだ」との誤解を生む原因となったのは、妹のエリーザベトがニーチェの意図に
反して恣意的に『権力への意志』を編集したためであることは広く知られている。 ニーチェ自身にもニーチェの思想にも反ユダヤ主義思想はなく、それどころか、ニーチ
ェは、すでに現れつつあったドイツ全体主義に対して強い嫌悪感を示していた。にもかか
わらずナチスに悪用されたことには、ナチスへ取り入ろうとした妹エリーザベトが、自分
に都合のよい兄の虚像を広めるために非事実に基づいた伝記の執筆や書簡の偽造をしたり、
遺稿『力への意志』が(ニーチェが標題に用いた超人「力」とは違う「権力」という意味で)
政治権力志向を肯定する著書であるかのような改竄(かいざん)をおこなって刊行したり
したことなどが大きく影響しているといわれている(ヒトラーはニーチェを賞賛した)。 ○マルクス主義の哲学 1821
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
前述したように、青年ヘーゲル派からは実存主義の哲学のほかにマルクス主義の哲学も
誕生することになった。マルクス主義については、項をあらためて、次の社会主義とマル
クス主義のところで述べる。 【14-1-3】社会主義とマルクス主義 ○社会主義の出現 18 世紀の半ばにイギリスにはじまった産業革命は 1 世紀あまりのうちにヨーロッパ諸 国に波及した。市民革命と産業革命をへて成立した、人間の自由と平等を理想とする近代
市民社会は、同時に資本主義社会の成立でもあった。この近代市民社会=資本主義社会の
成立・発展は、人間を封建的束縛から解放して個人の自由や平等を実現し、また生産力を飛
躍的に高めるという、歴史上極めて大きな役割を果たした。 しかし、資本主義の発展は、この社会制度が無条件で人間の自由や平等を、そして永続 的な社会の発展をもたらすものでないことを明らかにしてきた。資本主義の発展自体が、
よりいっそう資本家と労働者の階級対立を浮きぼりにし、また多くの社会問題を生み出し
ていった。 かつてヘーゲルは,「欲望の体系」としての市民社会が生み出す矛盾や不平等は、国家に
おいて克服され、人間の自由が実現されると考えた。また、イギリスの功利主義者たちは、
「最大多数の最大幸福」という原理を用いて、少数者だけの幸福を否定し、個人の幸福と
社会全体の幸福とを調和させることができると考えた。 しかし、資本主義の弊害は、そんなに単純なものではなく、資本主義という社会制度そ
のもののメカニズムから必然的に生み出されるものであるだけに、問題は深刻であった。
こうして、かつて楽天的に期待されていた近代市民社会の理想、すなわち個人と社会の調
和、自由・平等な社会の実現という理想は崩壊し、本質的な反省が要求されるようになった。 《社会主義とは》 こうした状況を前にして、近代社会のもつ矛盾や人間疎外の克服の要件を単なる個々人
の自覚や心構えや善意にのみ求めるのではなく、むしろそうした個人が生まれ生活し思索
している場である社会全体のあり方を根本的に変革するべきであるとし、この方向を重視
する一連の思想と運動があらわれてきた。これが社会主義の思想であった。 多くの社会主義に共通する点は、現代社会の矛盾やそれがもたらす人間疎外を、単に技
術的な問題として部分的な改良や改善だけで解決しようとするのではなく、これを資本主
義制度そのものに内在する原則すなわち私有財産制度や商品生産のあり方の根本的変革に
よって解決しようとする点であった。 1822
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
社会主義の思想では,資本主義の欠陥とされている失業や社会的・経済的な格差、資本家
と労働者との階級対立といった問題は、資本主義体制そのものの改革・変革によってしか
克服されないと考える。そのため、土地・工場・機械など生産手段の一部や全部を、私有
制から社会の共有制に移し(公有化)、計画的な生産や平等な分配を行なうことによって、
自由で平等な理想の社会を実現しようとした。 《空想的社会主義》 これに対して、イギリスのオーウェンおよびフランスのサン・シモンやフーリエに代表
される人道主義的立場からの社会主義思想は、のちにマルクス、エンゲルスらにより「空
想的」と批判されたが、資本主義のもつ矛盾を鋭く批判し、搾取のない平等な労働者中心
の理想社会を構想し、限界はあったにせよ、その後の社会思想の先駆的役割を果たした。
はじめて経験した資本主義社会の矛盾を直視して、これを生み出す私有財産制にもとづく
資本主義社会の制度そのものを批判し、それに代わる新しい理想の社会の建設を試み、ま
がりなりにも社会主義を理論的に基礎づけようとしたのである。 イギリスのロバート・オーウェン(1771~1858 年)は経営者の立場から労働者の幼児教
育や協同組合を実践した。オーウェンが具体的にニュー・ラナークの工場で行ったこと、
アメリカに渡って行ったニューハーモニー村のことは、19 世紀のイギリスの改革の時代の
歴史に記している。 フランスのサン・シモンは産業階級(経営者および労働者)による富の生産を重視し、
キリスト教の人道主義による貧者の救済を説いた。シャルル・フーリエは国家の暴力と革
命の暴力の双方を疑問視し、国家の支配を受けない自給自足で効率的な協同社会を提唱し
た。これらフランスのサン・シモン、ビュシェ、エチエンヌ・カベ、フーリエ、ルイ・ブ
ラン、プルードンについては、19 世紀のフランスの産業革命のところに記している。 確かにオーウェン、サン・シモン、フーリエらの社会主義的な理想社会の構想は、社会
の科学的分析と実現手段を欠いていたため失敗に終わり、エンゲルスに「空想的」とその
限界を批判されたが、しかし、その構想はのちに資本主義の改善に役立ち、オーウェンの
思想は、現代イギリスのフェビアン社会主義に大きく影響を与えた。 《共産主義》 その他にも、フランス革命期には、多くの革命思想が登場した。 バブーフ(1760~1797 年)は「土地は万人のもの」として、国家による物品の共同管理
と平等な配給や、前衛分子による武装決起と階級独裁を計画したが(「バブーフの陰謀」)、
総裁政府の総裁の一人カルノーに阻まれ、処刑された。バブーフは後に「共産主義の先駆」
とも呼ばれた。 1823
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
バブーフを尊敬したルイ・オーギュスト・ブランキ(1805~1881 年)は、武装した少数
精鋭の秘密結社による権力の奪取と人民武装による独裁の必要を主張した。彼の理論はバ
ブーフから学んだものであり、ブランキ主義と呼ばれ、ドイツのヴィルヘルム・ヴァイト
リングや、ロシアのウラジーミル・レーニン(後述)へと受け継がれることになった。 ドイツのヴァイトリング(1808~1871 年)は、19 世紀前半ヨーロッパ諸都市でドイツ手
工業職人の結社運動を指導し、後半ニューヨークで移民労働者の社会建設を唱えた。彼は
『貧しき罪人の福音』
(1843 年)を著わしたが、その中ではトーマス・ミュンツァー的な千
年王国論・メシア共産主義を説き、実践面では社会的匪族による徹底的な所有権攻撃を提
起した。 一方、社会主義者のうち、全ての権威を否定する立場は無政府主義(アナーキズム)と
も呼ばれた。フランスのプルードン(1809~1865 年)は「財産とは盗奪である」として、
あらゆる中央集権的組織に反対して「連合主義」を唱え、更にロシアのバクーニンやクロ
ポトキンに受け継がれた。バクーニンの革命家の組織論は、ヴァイトリング経由でブラン
キの影響があるともいわれている。カール・マルクスはブランキを革命的共産主義者とし
て称揚した。 ○マルクス主義 カール・ハインリヒ・マルクス(1818~1883 年)は、ボン大学とベルリン大学で法学を
学ぶ一方、歴史や哲学に熱中し、青年ヘーゲル派のクラブに入って多感な青年時代を過ご
した。さらに、1841 年にはイエナ大学へ入学し、哲学博士の学位を取得し大学を卒業した
後、大学の教職を志したが政府の反動政策のため成功せず、ケルンの「ライン新聞」の編集
主任となった。この時代にマルクスは現実問題への眼を開かされ、社会主義運動に傾斜し
ていくことになった。 マルクスは 1840 年代から 1883 年に亡くなるまでに『資本論』などの膨大な著作を執筆
したので、当時の主として、①ドイツ古典哲学(ヘーゲルの歴史哲学など)、②イギリスの
古典経済学(スミス、リカードなどの古典派経済学など)、③フランスの革命的社会主義や
空想的社会主義の各思想、④進化論などの各思想を批判的に継承して、これを包括的に体
系化したといわれている。彼の思想は、いわば近代思想の総決算であり、近代思想を批判
的に総括したものといえる。 その特質および意義として、①社会や人間を歴史的な変化のなかでとらえ、歴史や社会
の運動や発展法則を総体的に把握したこと、および歴史や社会に対する人間の結びつきや
それへの主体的な参加や関わり方の要件を明らかにしたこと、②資本主義社会の運動法則
の究明とその歴史的位置づけ、③資本主義社会の矛盾および人間疎外の科学的分析、④科
学的社会主義の理論づけと展望であるとされている。 1824
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
そのマルクス主義の主な理論と論点を以下に述べる。 《労働の意義》 マルクスは人間の本質を労働と考えた。 労働とは人間が自己の生命・肉体・精神を実現
し発展させるための活動・実践のことである。人間は労働によって自然や環境に働きかけ、
自己の肉体や精神を維持し、これをより高度なものへと発展させるのである。人間は労働
によって自己を実現するのである。 ところで、このような人間の労働は、単に個人が孤立して行うのではない。人間が人間
として生きていくためには、必然的に他の人間との社会的な関係を結んで、この社会的関
係のなかで労働することになる。つまり、人間は本質的に社会的動物あるいは他の人間と
結びついた「類的存在」なのである。人間の意識や精神、そして言語もそれ自体、人間の社
会的関係のなかで生まれたものであり、人間が動物から進化してきたのはこうした社会的
関係を形成することによってであった。 労働は本来、単に生活手段を得るためだけにするものではなく、自然や環境に働きかけ
てこれらをつくり変え、生産物の中に自己を反映させ、自己の存在を確認する、創造的で
喜ばしい活動であった。労働を通じ、類的存在として他者と連帯しながら自己を実現して
いくところに人間の本質があるとマルクスは考えた(本書の人類の歴史で述べてきたよう
にマルクスのこの分析は正しいといえよう)。 《マルクスの人間疎外論》 マルクスは人間の本質が労働であるとしたが、しかも社会関係のなかでの労働であると
したが、その時代その時代の特定の社会関係のなかで労働によってつくりだしたものが、
総体として、人間の自由や幸福を実現する方向に向かわず、逆に人間性を圧迫し、人間か
ら人間らしさを奪いとってしまうものへと転化してしまうことがあると指摘した。これを
マルクスは「人間疎外」と呼んだ。人間疎外という言葉を今日の意味で最初に使ったのはマ
ルクスであった。 資本主義社会においては、原材料・工場・機械など生産手段を私有する資本家(ブルジ
ョワ)と、生産手段を持たない労働者(プロレタリア)が存在する。ものを生産するのに
必要な労働対象(原材料)と、労働手段(道具・土地・工場・機械など)を合わせて生産
手段という。労働者は、工場などに雇われ、自分の労働力を資本家に売り、賃金を得て生
活するしかない。そこでは労働力まで商品となり、労働の成果としての生産物は、労働者
ではなく資本家のものとなる。それにより労働から創造の誇りや喜びが失われ、自発的な
労働ではなく、非人間的な、強制された労働にならざるを得ない。こうした状況を労働の
疎外(疎外された労働)とよぶ。 1825
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
労働の疎外は、生産手段の私有を認める資本主義の制度に原因がある。このようにマル
クスは資本主義制度そのものが本質的・必然的に人間疎外を生み出すものだとした。そこ
で、こうした状況から労働者を解放するには、生産手段の私有を廃止し、労働者全体の共
有とする社会主義社会を建設する以外にない、とマルクスは考えた(労働の疎外の問題は、
主として生産システムの技術的な問題であって、私有を廃止すれば、人間疎外の状況から
解放されるとしたのにはマルクスの飛躍があり、問題がある)。 《マルクスの弁証法的唯物論》 ヘーゲルは前述したように世界や人間の根源・本質を精神とし、この絶対的な精神が正、
反、合の弁証法的に自己を展開することによって現実の自然や人間を生みだしていくと考
えた。マルクスは具体的な現実の人間や自然から出発し、精神は現実の人間が自然や社会
のなかで生きていく過程で歴史的に弁証法的に形成していったものと考え、精神が人間を
つくる(という観念的、科学的根拠のない)ヘーゲル流の考えを批判した。ただ、ヘーゲ
ルの弁証法的方法論は取り入れた。 また、フォイエルバッハ(1804~72 年)は、ドイツ観念論哲学のところで述べたように、
ヘーゲルやキリスト教を唯物論の立場で批判し、神が人間をつくったのではなく人間が神
をつくったと主張した。マルクスは、世界を動かしているのは精神的なものではなく物質
的なものであるとする唯物論の立場をとり、このフォイエルバッハの議論に賛同した。 こうしてマルクスは、ヘーゲルから弁証法を、フォイエルバッハから唯物論を継承し、
これをもとに彼独自の弁証法的唯物論をつくりあげていった。マルクスは、それまでの唯
物論が物質を世界の根拠と考え、精神は物質が感覚を通して人間の頭脳に反映したものと
みなす機械的唯物論であったのを、弁証法を取り入れて弁証法的唯物論として確立した。 《マルクスの唯物史観》 こうした弁証法的唯物論の世界観から、マルクスは資本主義の運動法則を究明するため
経済学の研究に没頭したが、その過程で唯物史観といわれる歴史観に到達した。 歴史的に形成され展開されていく人間の社会はさまざまな要因から成立しているが、マ
ルクスは、そのなかで、歴史上つねに社会の形成と存続に基礎を規定してきたものは生産
様式という経済的要因であったと考えた。マルクスによれば、世界の歴史を動かす原動力
は、経済的な生産力の発展であるとした。生産力は、労働力と、道具や機械といった労働
手段とによって決まり、技能の習熟や技術の発達などによって絶えず増大・発展する傾向
をもつ。こうした生産力の発展とともに、それに見合う生産関係が歴史的に形成されてき
た。 生産関係とは、領主と農奴、資本家と労働者といった、生産のために結ばれた一定の社
会関係であり、
「誰が生産手段を所有するか」という所有関係がその基礎となる。生産力と
1826
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
生産関係をまとめて生産様式といい、歴史的に、原始共同体的・古代奴隷制的・中世封建
制的・近代資本主義的といったタイプの生産様式が形成されてきた。 マルクスは、図 14-3 のように、こうした生産様式を経済的な土台(下部構造)として、
各時代に固有な政治・社会制度や、学問・宗教などの文化(上部構造)がつくられるとし、
「人間の意識がその存在を規定するのではなく、逆に人間の社会的存在がその意識を規定
する」と述べている(『経済学批判』序言)。つまり、人間の物質的・経済的な生活のあり
方が土台となって、人間の社会的・精神的な意識のあり方(イデオロギー)が決まるとマ
ルクスは考えた。生産様式が下部構造として、その社会の全体的なあり方や社会制度、つ
まり、上部構造を規定している、とマルクスは考えた。 図 14-3 マルクスの下部構造・上部構造の仕組み 学研『よくわかる倫理』 法律や政治や芸術のいわゆる上部構造は、もちろんそれ自体独立して発展し、また下部
構造に作用するが、しかし、これらのものは、客観的には、経済的下部構造に規定されて
いる社会のなかで生まれ機能しているものであって、それ自体が独立して形成され機能す
ることは不可能である。この意味で、上部構造は基本的には、本質的に下部構造にそのあ
り方を規定される。つねに時代とともに変化する下部構造のありようが、その時代におけ
る上部構造の変化を必然的にもたらすものとされた。 もちろん、現実の社会はさまざまな要因の複合体であり、社会の動きの主要な要因はそ
のときどきで違っているであろうし、偶然的な要因も大きな役割を果たしているといえよ
う。しかし、社会をその根底において規定している本質的要因は、その社会の経済的下部
構造すなわち生産様式であるとした。 ところで、経済的下部構造の基本的要因である生産力は、科学や技術の発達にともなっ
て、つねに発展していくが、しかし、それに対応して形成される生産関係のほうは、むし
1827
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ろ一度できあがると固定化する傾向をもち、かならずしも柔軟に生産力の発展に対応して
いかない。生産手段の所有者である支配者階級(封建社会では領主、資本主義社会では資
本家など)が、現状の維持につとめるからである。そのため、ある一定以上の生産力の発
展は、固定化された生産関係に抑えつけられ、生産力と生産関係との間に矛盾が生じる。 この矛盾は,具体的には、生産手段を所有する支配者階級と、生産手段をもたず労働の成
果を搾取される被支配者階級との階級闘争となってあらわれる。この矛盾はやがて現状の
生産関係(社会関係)のもとでは生産力の発展がもうこれ以上、不可能という事態にまで
発展する。このとき社会的生産関係の改良ではなく、根本的変革が不可避となる。その結
果、生産力に応じた新たな生産関係の形成をめざす社会革命が起こり、生産関係は新しい
形態に移行する。 以上のように、マルクスは歴史を常に階級闘争の歴史として捉えた。こうした、物質的
な生産力と生産関係とに基礎を置き、それらの間の矛盾を歴史的発展の原動力とみなす見
方を唯物史観(史的唯物論)というのである。 マルクスの唯物史観によれば、図 14-4 のように、人類における社会は、生産力がきわめ
て低く,階級の分化もまだない原始共同体(共産制)の社会に始まるとした。その後、生産
力の発展とともに階級が分化し、生産手段を独占する支配者階級が他の階級を搾取するよ
うになった。古代奴隷制型から中世封建制型に移り、生産力の発展にともない貨幣経済が
発展し、やがてこれと矛盾・敵対する封建的社会関係は打破され、新しい生産力に見合っ
た新しい資本主義的社会関係が市民革命をへて確立された。同時にそれに対応して、封建
的な政治・法律制度や道徳・宗教がその内容と形態を一新し、こうして新しい下部構造は
新しい上部構造を発展させたとした。 図 14-4 マルクスによる社会主義、社会現実までの過程 学研『よくわかる倫理』 1828
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
《搾取の源泉……剰余価値》 ところで生産手段を独占する支配者階級が他の階級をどのようにして搾取していくので
あろうか。それは支配者階級は、生産手段を保持して、その時代その時代の生産力とそこ
から生まれる剰余価値を何らかの形で支配するのである。このように経済的支配のメカニ
ズムを分析して示したことはマルクスの人類の叡智である。 この剰余価値説はマルクスの『資本論』のなかで「労働価値説」とともに中核をなすも
のである。資本家は賃金を支払って、労働者から労働力をその価値どおり購入する。 労働
力の価値とは、他の商品と同じように、労働力の再生産に要する費用、すなわち労働者と
その家族がその社会の平均的生活水準を維持するのに必要な経費を意味する(図 14-5 参照)。 ところで、労働者の 1 日の労働は、高度の生産様式においては労働者とその家族の 1 日
の生活に必要とする価値以上の価値(剰余価値)を生み出すことが可能である。剰余価値
は、1 日の労働者の生活を維持するのに必要な価値を生み出す必要労働以外のすべての剰余
労働によって生み出される。しかし、生産物自体が資本家のものである以上、剰余価値は
労働者に属さず資本家のものである。こうして必要労働時間をこえて継続される剰余労働
時間は、地代・利子・企業利潤の源泉となり、しかもこれらはすべて資本家のものとして
不労所得となり、労働者の剰余労働は文字どおりの不払い労働となる(図 14-5 参照)。こ
れが、マルクスがいうところの搾取の仕組みである。 図 14-5 マルクスによる搾取の仕組み 学研『よくわかる倫理』 マルクスはスミスやリカードの労働価値説を発展させて剰余価値説をうちたて、これに
よって資本家による労働者の搾取を解明した。彼によれば、資本家は労働者が提供する労
働力に対して賃金を支払い、支払った分を超える価値を生み出すよう労働させることによ
って、超過分を剰余価値として取得する。この剰余価値が資本の利潤となる。土地所有者
が土地に対して得る地代、銀行が貸し付けた資金に対して得る利子は、この剰余価値また
は利潤の一部である。 1829
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
《社会主義革命(プロレタリア革命)》 この剰余価値理論は資本主義社会の階級性、つまり合法的姿をとって隠蔽された階級的
性格を明らかにしたものである。この剰余価値説に基づく資本主義経済の運動法則の解明
は、労働者階級の解放、階級の廃止という共産主義に理論的根拠を与えることになった。 結局、生産力と剰余価値を支配したのは、封建時代は諸侯や僧侶や騎士などの支配者階
級であり、資本主義においては資本家階級が支配者階級である。社会革命とは結局、生産
力と剰余価値を支配する階級がとって代わることであり、この意味で歴史は階級闘争の歴
史であったとマルクスはいう。 そして、マルクスは、図 14-4 のように、近代資本主義社会は、こうした階級分化と搾取
のある社会の最後の形態で、資本家階級(ブルジョワジー)は生産手段を独占し、労働者
階級(プロレタリアート)は搾取され、疎外された惨めな状況に置かれているとした。 そして、ここにおいて、労働者階級は団結して社会主義革命(プロレタリア革命)をお
こし、資本主義社会を打倒するのが歴史の必然的な流れであるとマルクスらは説いた。そ
して、生産手段は労働者全体の共有となり(共産化)、搾取も階級闘争もない社会主義が実
現し、人間性が回復されるとした。そこで『共産党宣言』の中で、「万国の労働者よ、団結
せよ」とマルクスらは呼びかけた。 (実はここでマルクスの理論には最初から矛盾があった。図 14-4 のように、古代、中
世、近代と短期間に区切って考えると、一見、下部構造が上部構造を規定するようにもみ
える。しかし、図 11-2(古代 5000 年前~西暦 500 年)、図 12-3(中世 500 年~1500 年)、
図 13-10(近世 1500~1800 年)でも示したように、一貫して専制国家、絶対王政であって
(18 世紀の後半にやっと民主国家が 1,2 現れたが)、上部構造が下部構造を規定している
とも見える。つまり、古代、中世、近世を通して人類の歴史の大部分は、一部の人類が武
力を背景に支配者階級となり、大部分の被支配者階級を支配するという構造であったとい
うことである。 つまり、マルクスの唯物史観は、次に(武力によって)資本家階級(支配者階級)を倒
し、労働者階級が支配者階級にとってかわることを述べているにすぎず、マルクスがいう
ように歴史の必然的な流れとして階級が解消されるとか人間疎外が解消されるという保証
は何もないのである。支配者階級を被支配者階級が武力で倒し、支配者階級になる。それ
は本書で述べた来たように人類がずっとやってきたことである。そしてソ連共産党は 70 年
間、支配者階級を占めていたのである)。 厳密にいえば、マルクス主義思想で最終的に実現されるべき人類史の最後の段階の社会
を、共産主義社会という。そこでは、階級は消滅し、生産力は高度に発達して、人々は「能
力に応じて働き、必要に応じて分配を受ける」ことができる。その理想へ向かう過渡的な
1830
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
段階が社会主義社会であり、人々は「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」ことに
なるとしていたが、きわめてあいまいだった(しかし、マルクスもこの点がもっとも気が
かりで晩年いろいろ模索していたようであるが、共産主義へ至る過程がイメージできなか
ったようである。歴史は人類のあいまいなアキレス腱をついてくる。そこにスターリンが
忍び込み、一部の共産党エリートが支配者階級を形成し、ソ連は崩壊したのである。しか
し、この件は、【16-9-4】ソ連崩壊で述べることである)。 以上、マルクスの思想(マルクス主義、マルクス哲学)のアウトラインを述べた。現実
にはマルクスは以下のように政治活動と並行して著作活動をしていた。 《マルクスの出発点となった『共産党宣言』》 マルクスは、「ライン新聞」時代に現実問題への眼を開かされた。この頃に生涯の友人に
なるフリードリヒ・エンゲルスとの出会いを果たしている。ほどなく対ロシア政府批判の
ために受けた同新聞社への弾圧により、1843 年 3 月に失職した。幼友達のトリアーの名門
貴族出身のイエニーと結婚したが、やがてドイツを追われパリ、さらにブリュッセルへの追
放・弾圧・亡命の苦しい生活を余儀なくされた。 1846 年、マルクス 28 歳のとき、ブリュッセルにてエンゲルスとともに「共産主義国際通
信委員会」を設立した。このとき「共産主義者同盟」のために、綱領文書の執筆を依頼さ
れた。この秘密結社は、1836 年にパリで生まれた亡命ドイツ人を中心とした組織で、フラ
ンスの革命家であるバブーフ以来の共産主義の伝統をひくもので、秘密結社としての色合
いが濃かった。マルクスは、1848 年 1 月に綱領案を脱稿し、ロンドンへ発送し、ロンドン
で印刷・発行されたのが、『共産党宣言』であった。 エンゲルスは、のちに(1883 年のドイツ語版序文のなかで)『共産党宣言』を貫く根本
思想として以下の諸点を上げている(ということは、当時のマルクスの考えであった)。
①経済が社会の土台であること 、②歴史は階級闘争の歴史であること 、③プロレタリア
革命は一階級の解放でなく人類全体の解放であることの 3 点である。しかし、このときは、
まだ、マルクスは経済的土台の下部構造を上部構造決定の唯一の契機とする考え方はなか
ったようである。 こうして「プロレタリアはこの革命において鉄鎖のほかに失う何ものをも持たない。彼
らが獲得するものは世界である。万国の労働者、団結せよ」という有名な章句で閉じられ
る『共産党宣言』は出来上がったのである。しかし、このときには「共産党」という政党
は、まだ、この世の中に存在してもいなかった。この時代には、様々な思想的傾向の人々
で構成される労働者党は存在したが、共産主義者だけで構成されるいわゆる“共産党”と
いう政党は存在しなかった。 1831
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
この『共産党宣言』は短いものであったが、マルクスはこれに 3 ヶ月間という時間をか
けた。彼はこのとき、共産主義の全体構想のアウトラインをつかんだのではなかろうか、
それを結局、生涯をかけて理論構成して『資本論』にまとめていったのではなかろうか、
そのような意味で、この『共産党宣言』はマルクスの出発点になったと考えられる。 《ロンドンでの苦しい亡命生活》 マルクスは 1848 年 2 月のフランス二月革命のため、3 月 3 日に警察に夫婦とも抑留され、
翌年にはエンゲルスの招きに応じ、1849 年 8 月末、ロンドンに亡命した。 マルクス夫妻のロンドンにおける貧困生活はすさまじく、家賃滞納で住居を転々とした
ばかりでなく、息子の死においては棺(ひつぎ)を買う金もなく、また出かけるにも上着
や靴もないありさまで、娘のおもちゃまで執達吏(しったつり)に押収された。これが上
流階級に属し、生き方によっては裕福な生活もできたマルクス夫妻のきびしい現実であっ
た。しかし、マルクスはつねに目標をめざして、妻の暖かい愛と献身そして友人エンゲル
スの物心両面にわたっての援助によって、昼夜研究に没頭し、生活苦と闘い、世界の社会
主義運動を指導していった。 マルクスの親友であり支持者であったエンゲルスは、ロンドンで実父が所有する会社に
勤めており、資金面においてロンドンに滞在するマルクスを支えた。1851 年からマルクス
は「ニューヨーク・トリビューン」紙の特派員になり、1862 年まで 500 回以上寄稿した。 ロンドンでは以後、経済学の研究に集中したが、その成果は 1859 年発行の『経済学批判』
であった。ここであの下部構造、上部構造があらわれる。
1862 年にはヨーロッパの労働者と社会主義者の国際組織である第一インターナショナル
(または国際労働者協会)が設立され、労働組合の奨励や労働時間の短縮、更には土地私
有の撤廃などを決議した。この第一インターナショナルの創立宣言は、ドイツ担当書記で
あったカール・マルクスが起草していた。しかし権威となったマルクスと、無政府主義者
のバクーニンなどの反対派は相互に批判と除名を行い、1872 年に第一インターナショナル
は崩壊した。 《『資本論』の執筆》 1867 年、マルクスの長年の経済学研究は『資本論』として結実し、第 1 巻が出版され、
1873 年に第 1 巻第 2 版が出版された。しかし、その後については、時間がかかり、マルク
スの死後(1884 年)、エンゲルスが草稿を編集して第二巻(1889 年)と第三巻(1894 年)
を出版した。 1871 年 3 月 26 日、マルクス 53 歳のときにパリ・コミューンが発生した(パリ・コミュ
ーンについては、19 世紀のフランスの歴史に記している)。わずか 72 日間の短期間ながら
も、パリにおいて民衆蜂起による世界初の労働者階級の自治による革命政権が誕生した。
1832
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
マルクスは、
「本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級にたいする生産者階級の闘争
の所産であり、労働の経済的解放をなしとげるための、ついに発見された政治形態であっ
た」と称賛したが、このときマルクスは革命後社会のイメージとして大いに影響されたよ
うである。 《『ゴータ綱領批判』》 1875 年、マルクスは、ドイツの労働者政党の綱領草案に対する批判として『ゴータ綱領
批判』を書いた。このときは、マルクスの文書は公表されなかったが(1891 年にエンゲル
スが公開し出版した)、ここで共産革命後、どうするか、2 段階発展論やプロレタリア独裁
などマルクスの考えがわかるので重要である。 資本主義からの移行の直後の共産主義社会の低い段階では「各人は能力に応じて働き、
労働に応じて受け取る」、そして将来の共産主義社会の高い段階では「各人は能力に応じて
働き、必要に応じて受け取る」などの、のちにスターリンが定式化した〈原則〉である 2
段階発展論を明示していた。低い段階での記述では「個人は社会から、与えただけ正確に
受け取る」と述べている。また、資本主義社会から社会主義社会への過渡期における国家
をプロレタリア独裁とした。 《『資本論』第 2 巻、第 3 巻の完成》 1871 年のパリ・コミューンの蜂起鎮圧以降は『資本論』の執筆に専念していたが、1881
年 12 月、妻イエニーが死亡、マルクスも、
『資本論』第 2 巻、第 3 巻の完成をまたず、1883
年 3 月 14 日、愛する妻を追うように肘掛け椅子に座したまま、苦闘と貧困の生涯を終えた
(享年 65 歳)。マルクスは、亡命地ロンドンにいながら、自らの理論体系の構築を行うと
ともに、ドイツ、フランスの共産主義運動の精神的支柱であり続けたが、道半ばにして逝
去した。 マルクスは主著『資本論』を第 1 巻しか完成できなかった。彼の元には膨大な草稿が遺
されていた。遺された草稿に基づき、彼の意思を受け継いだエンゲルスが 1889 年に『資本
論』第 2 巻を編集・出版、さらに 1894 年には、第 3 巻の編集・出版した。 ○マルクス主義の展開 《エンゲルス》 フリードリヒ・エンゲルス(1820~1895 年)は、マンチェスターにいた約 20 年間、その
間に得た報酬の少なくない部分をマルクスに仕送り、生活を支援した。亡命者として政府
の監視下にあり貧困の極みにあったロンドンのマルクスとその家族の生活を何度となく救
ったのはエンゲルスの財政的支援であった。マルクスの死後、エンゲルスは『資本論』の
編集に全力をつくすため、自分の著作をすべて断念し、『資本論』第 2 巻は 1885 年に、第
3 巻は 1894 年に刊行、マルクスの「遺産」を世に送り出した。 1833
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
マルクス没後にエンゲルスが、唯一、自分の著作として仕上げたのが 1884 年に出版され
た『家族・私有財産・国家の起源』であった。これはマルクスが書いたルイス・ヘンリー・
モーガン(1818~1881 年)の『古代社会』(1877 年)の摘要(ノート)を使って、エンゲ
ルスが独自に仕上げたものである。マルクスが、当時発表されたばかりの古代社会に興味
をもったのは、彼の論理(唯物史観)を人類の遠い過去にまでさかのぼり、一般性をもた
せたかったからであろう。エンゲルスはマルクスの死後、1884 年 2 月にこのノートを発見
し、これはこれで貴重な人類の歴史として世界に公表することは意義があると考えて、5 月
には脱稿するという異例の早さで執筆した。 モーガンは、1818 年ニューヨーク州オーロラ近郊に生まれ、ロチェスターで弁護士業を
開始したが、郷里の近くに住むイロクォイ先住民の生活と文化に関心をもち、彼等の保護
を目的とする運動を開始した。それとともに、モーガンは、フィールド調査を拡大し、民
族学者、宣教師、商人、領事、開拓者たちに質問状を送り、諸民族の親族名称体系に関す
るデータを収集し、先住民に関して民族学的な調査を行ない、1877 年、主著『古代社会』
を刊行したのである。これは文化人類学上、最初期の著作物であるとともに、その文化人
類学の科学的な調査研究手法としても高く評価された。人類の古代を知りたがっていたマ
ルクスやエンゲルスに大きな影響を与えたものである。ただし、その後の研究でモーガン
の学説自体は現代ではほぼ否定されている。 マルクスとエンゲルスがこれほど人類の古代史に関心をもったのはなぜか。それは『共
産党宣言』において「これまでのすべての歴史は階級闘争の歴史である」と書いたのち、
これに注をくわえ、原始状態を別とした。つまり、いろいろ研究してみると、「すべての歴
史は階級闘争の歴史である」とは、とても言えないことがわかってきたからであろう。む
しろ、戦争の歴史をみると、(支配者階級内での)支配者同士の権力争奪戦が多かった。こ
のようにマルクス・エンゲルスの著作には独断が多く(下部構造が上部構造を規定するな
どもその一つ)、とても科学的(現代的な意味で)とはいえなかった。当時は研究資料が少
なくやむをえなかったという事情もあったとは思うが、他の社会主義者を「空想的」と言い、
自分たちを「科学的」と決めつけたので、
「科学的」ということを意識しすぎたきらいはある。 マルクスが 1859 年に『経済学批判』を書いた時点で、すべての民族の歴史の入り口に原
始共産制社会があったと考えた。こうした理論を豊富にするために、マルクスもエンゲル
スも古代史の研究を熱心におこなった。ゲオルグ・ルートヴィヒ・フォン・マウラーの『ド
イツ村落制度の歴史』や、マクシム・マクシモーヴィッチ・コヴァレフスキーの『共同体
的土地所有 その解体の原因、経過および結果』、サー・ヘンリー・ジェームズ・サムナ・
メーンの『初期制度史講義』、サー・ジョン・ラボックの『文明の起源と人類の原始状態』
1834
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
などのノートがつくられた。また、J・J・バッハオーフェンの『母権論』からも大きな影
響を受けている。 このようにマルクスとエンゲルスは古代社会について、よく研究し、議論もしていたと
みえて、そのノートを発見して、これは彼らの論拠を示す重要なことと考え、エンゲルス
は急遽『家族・私有財産・国家の起源』としてまとめたのであった。その内容を略述する
と、以下のようになる(これも前述のような理由で現在では明らかに誤りであるところを
含んでいる。筆者は本書で主に第 8 章(新生代第四紀)から第 11 章(古代)に記している)。 第 1 章は、人間が動物界から分離したばかりの「過渡的な状態」である「野蛮」から、
「未
開」をへて、「文明」にいたる、人類社会の発展図を略述した章である。生活技術によって
「野蛮」と「未開」に区分し、さらにそのなかを「上位・中位・下位」段階に分ける方法
を用いている。 第 2 章は、内容的に(1)原始的な家族形態を復原し、今日の一夫一婦制の起源を明らか
にする部分、(2)階級社会における一夫一婦制の批判、(3)では、どうやったら婦人は解
放されるかという社会主義社会での家族と結婚という 3 つの部分が書かれている。イロク
ォイ族(イロコイ族)などアメリカ・インディアン、インドの部族において現存する家族
制度と、血族呼称制度が矛盾している例をとりあげている。エンゲルスはここで「乱婚(無
規律性交)→血族婚(親子間の婚姻)→プナルア婚(きょうだい間の婚姻)→氏族婚(女
系の一族間)→対偶婚」という発展図式を考え、私有財産制度の成立とともに、母権制氏
族社会が転覆され、「女性の世界史的敗北」(エンゲルス)がおきたとした。私有財産は家
父長制から一夫一婦制へ移行し、それらは姦通と娼婦制度によって補完されるとした。そ
して社会主義=財産の主要部分である生産手段の私的所有の廃止によって、財産の相続を
目的にした一夫一婦制の基礎は消滅すると主張した。この前述の婚姻の歴史については、
一部の地域でそのような例はあったかもしれないが、エンゲルスは誤っている。近親相姦
は動物の段階でも(たとえば、チンパンジー)、忌避されており、人類は初期の段階から(一
部の例外は別として)、一夫一婦制をはじめ、近親相姦をさけるいろいろな社会の仕組みを
つくってきたのは、この歴史で述べてきたとおりである。 第 3 章は、アメリカ先住民であるイロクォイ族の氏族制度を復元しようとしている。氏
族は国家以前の社会組織であるとして、そこでは原始的な民主制度が存在していたのでは
ないかということをイロクォイ族を観察したモーガンの記録をもとに主張していく。 以後、第 4 から 8 章はギリシャ、ローマ、ドイツの氏族制度と国家の成立についての考
察になっている。いずれも氏族は国家に先行する社会組織であり、史書や現行制度の痕跡
からそれを証明しようとしている。ただし、一様なものではなく、民族ごとに豊かな形態
があることをエンゲルスは叙述している。 1835
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
第 9 章は全体を理論的に結論づけてまとめた章である。第 1 章の貧困な生活技術史は 9
章にいたってこれまでの叙述をとりいれた豊富な内容となって再現される。ついで国家の
発生についての理論的総括がおこなわれ、この部分はマルクス主義国家論の基礎の一つと
なった。最後に、エンゲルスは「文明批判」をおこない、文明が金属貨幣と利子、商人、
私的土地所有と抵当、奴隷労働を「発明」し、その結果、どのような惨禍がもたらされた
のかを告発する。そして、氏族がつくりだした民主的な社会が共産主義になって高次の形
で復元されると主張した。 エンゲルスは、この『家族・私有財産・国家の起源』で、国家や一夫一婦制、私有財産
を自明のものとする歴史観にたいして、それらが歴史的なもの、すなわちある条件のなか
で生成し、またその条件の解消にともなって消滅(変化)するにすぎないと主張したかっ
たようである(マルクス・エンゲルスが共産主義社会の完成をどのようにイメージしてい
たかは、古来、論争になっているところであるが、彼らは前述の誤った原始共産制社会を
イメージしていたようである)。 最晩年のエンゲルスは、減退する視力、そして困難な病で声を出しての会話が困難にな
り、石板を使って対話をせざるを得なくなった。そのような状態で、エンゲルスは、諸国
で拡大する労働運動に指導的役割を担いながら、『資本論』第 3 巻をようやく仕上げた 1
年後の 1895 年 8 月 5 日、ロンドンで死去した。その遺灰は、エンゲルスの遺言により、イ
ギリス南部のドーバー海峡に散骨された。 《レーニン》 マルクス主義の実践者としてレーニンと毛沢東の二人があげられるが、この 2 人が主と
して活動したのは 20 世紀であり、レーニンはロシアの歴史、毛沢東は中国の歴史で述べる。
ここでは、2 人はマルクス・エンゲルスの理論をとりこんで、いかにして新しい世界情勢に
おける各国の特殊性を考慮し、ロシアや中国の状況に即してマルクス主義を適用し、革命
実践にもっていったかを述べる。 マルクスは『資本論』の中で、資本主義に内在するさまざまな矛盾点や問題点を考察す
る一方、資本主義そのものは、社会の生産性を高めるための必要な段階と捉えており、資
本主義の成熟を契機として、やがて共産主義へと移行すると考えていた。したがって、マ
ルクスが共産主義革命を展開するうえで前提としていたのは、当時の英独仏などに代表さ
れる西欧の成熟した資本主義国家であった。つまり、マルクスの理論からは、共産主義革
命が資本主義の成熟段階を迎えていない当時のロシアでは、社会資本の充実や経済機構の
整備がまだまだ未成熟であり、人間疎外といった社会矛盾が顕在化する段階にはなく革命
が勃発することはあり得ないと考えられていた。 1836
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
これに対して、レーニンは、マルクスの思想を絶対化して公式的に現実に当てはめるこ
とを避け、19 世紀末から 20 世紀にかけて新しい状況を生みだしてきた資本主義の現実的状
況にマルクス主義の原理を適用していった。彼は著書『帝国主義論』(1916 年)のなかで、
新しい資本主義を帝国主義段階の資本主義と規定し、これは資本主義の最高かつ最後の段
階であるとして、その特質を①生産と資本の集中、独占化、②金融資本の寡頭支配、③資
本の輸出、④国際的独占化体制、⑤世界の領土分割(植民地支配の完成)とした。 こうした特質をもつ帝国主義段階の独占資本主義は、各国の不均等な発展のもとでは国
際的な帝国主義戦争を不可避とし、また、大規模な階級闘争を激化させるとした。レーニ
ンは、こうした状況において労働者階級は戦争に向かうエネルギーを国内的革命運動に転
化し、世界革命によらない 1 国だけの社会主義革命を達成することができると考えた。 レーニンは帝国主義段階の資本主義の本質を解明し、これを死滅しつつある社会主義前
夜の段階の資本主義であると規定する一方、ロシアの特殊な状況にマルクス主義を適用し
ていった。彼は国際的に劣勢なロシアの資本主義、少数の労働者と圧倒的多数の立ち遅れ
た農民、民主主義以前のロシアの専制政治、こういったロシアの特殊性にマルクス主義を
適用し、厳密な現状分析によってロシア独特の革命の道を見出していこうとした。 彼は後進ロシアの革命の第 1 段階として、労働者・農民の同盟と前衛としての共産党の
指導によって、ブルジョワ的民主主義革命を遂行し、ついでただちにこれを社会主義革命
へと転化させていく道を明らかにした。こうして実現した社会主義革命を内外の反革命的
干渉から擁護し前進させていくため、レーニンは、共産主義社会への移行の過渡期として、
共産党の一党独裁によるプロレタリアート独裁の必要性を強調した。 しかし、ロシア革命が成功した第 1 の理由は、レーニンが予言していた国際的な帝国主
義戦争、つまり、第 1 次世界大戦が起きて、世界中、ことにロシアが混乱・疲弊し、ここ
に革命の最適な環境が出現したことであったろう。この混乱に乗じて、臨機応変にふるま
い革命を成功させたかに見えたが、やはり、レーニンの弱点は革命後の社会の具体的なビ
ジョンをもっていなかったことである。つまり、社会批判・社会破壊の論理、手練手管に
は長けていたが、社会構築・新社会システムの構築がより困難であることに(人間性・人
間集団の研究が必要)思いをいたさなかったのである(これは教祖のマルクス自身も同じ
で、資本主義の問題点を緻密に分析したが、革命後の社会についてはきわめて観念的・抽
象的なイメージしかもっていなかった)。その結果がどうなったかは、歴史が証明している
が、それはロシア史で述べる。 《毛沢東》 毛沢東は、中国の伝統的な思想や歴史や風土のうえにマルクス・レーニン主義の思想を
適用しようとした。彼は、中国のおかれた特殊な事情、すなわち半封建的で半植民地とい
1837
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
う二重の重圧に苦しむ「後進的農業国」中国の現状を的確に把握し、ここから中国独自の
社会主義革命の道を模索し、これを実践していった。この毛沢東の革命理論は「新民主主
義」といわれる。毛沢東はまず、労働者・農民を中心とする革命的階級によって反帝・反
封建の新民主主義政権を建て、民族の独立と民主社会の確立が達成されたときに、革命の
第 2 段階としての社会主義革命を実現させるとした。 つまり、毛沢東の前半生を占める日中戦争・第 2 次世界大戦の時期の抗日戦の期間は、
一般的な民族独立の戦争だったと考えられる。これは毛沢東のあみだしたゲリラ戦法がき
わめて現実的であったこともあって成功した(しかし日中戦争、太平洋戦争のところでも
記しているように、日本軍を敗北に追い込んだのは、主としてアメリカ軍であり、中国で
の戦場はサブ的な意味しか(しかも蒋介石軍が主力であった)持っていなかったが)。 したがって、毛沢東の社会主義革命は、彼の後半生となる戦後の中華人民共和国成立後
からはじまったのであるが、これも歴史が証明している。大躍進にしても文化大革命にし
ても、最初から惨憺たる結果の連続であった。やはり、破壊先行で、毛沢東のいだいてい
た社会主義から共産主義にいたる筋道はきわめてあいまいで非現実的なものであったとい
えよう。 ○資本主義の修正・改良 《労働者の地位向上と社会民主主義の登場》 皮肉的な言い方をするわけではないが、弁証法の論理のとおり、悪名高き資本主義も座
して死を待つのではなく、必ず、反の動きが強くなり、改革・改良が進んでいったという
のが、人類の歴史が示すところであった。 19 世紀末から 20 世紀にかけての資本主義の発展は、マルクスが分析・予測したものとは
異なった要素を展開させてきた。金融資本による独占資本主義化の傾向や植民地主義の展
開、労働組合の成長や労働運動の発達は、かならずしもマルクスの予想したような労働者
の窮乏化、中間層の没落をまねかず、資本主義の自然的崩壊を期待させるものではなくな
った。とくに先進西欧諸国では、資本主義自体が適応と調整の能力を発揮し、経済的には
むしろ労働者の生活は向上し、政治的にも参政権の獲得や民主主義の拡大・強化(大衆民
主主義化)によって労働者の発言権や社会的地位は向上してきた。 《修正主義(ベルンシュタイン主義)》 ベルンシュタイン(1850~1932 年)は、ベルリンでユダヤ人の貧しい鉄道機関士の子と
して生まれ、資本主義の矛盾を感じて 1872 年ドイツ社会民主党に入ったが、ビスマルクの
社会主義者鎮圧法のためスイスに逃れ、後にイギリスに亡命した。 この時期、マルクス主
義者として活躍する一方、フェビアン社会主義者(後述)とも交際しその感化を受けた。
1838
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
エンゲルスの死後、マルクス主義者としてマルクス主義の修正をはかり、またドイツ社会
民主党の指導者としても活躍した。 彼は 1899 年の著書『社会主義の諸前提と社会民主党の任務』でその見解をまとめた。彼
は、マルクスの唯物論や唯物史観のなかのいくつかの原則に疑問をいだき、これに修正を
加えた。その内容は権力獲得の問題にとどまらず、哲学や経済学の領域にまでわたる全面
的なマルクス主義批判となった。 もちろん、彼は社会主義の実現を労働者階級の目標とするが、その実現の方法としては
暴力革命やプロレタリアート独裁を排し、カント的人格尊重の立場に立って、労働者階級
の知性や道徳の向上および倫理的努力を重視し、民主主義的実践による議会政治を中心と
した平和的・漸進的な社会主義の実現を説いたのである。 これに対して、ローザ・ルクセンブルク(1871~1919 年)は 1900 年、「社会改良か革命
か」を発表し、ベルンシュタインに激しく反論した。ベルンシュタインはベーベルやリー
プクネヒト、カール・カウツキーらとも鋭く対立した。1901 年、社会主義者鎮圧法の廃止
により、ベルンシュタインはドイツに帰国し、1903 年、ドイツ社会民主党のドレスデン党
大会で修正主義否認が決議され、ベルンシュタインは公式に敗北したが、運動面では根強
い支持を得続け、1902 年から 1918 年まで帝国議会議員を務めた。 ベルンシュタインの修正主義の特質は、マルクスの革命論を修正し、革命要素を放棄し、
社会改良主義の立場をとるところにあった。この修正主義はやがて社会民主主義として西
欧諸国の社会主義運動に大きな影響を与えた。しかしこの社会民主主義は、正統派マルク
ス主義や後述の民主社会主義の左右両翼からの批判を浴び、その中間的性格もわざわいし
て、第 2 次世界大戦後は急速に影響力を失い、民主社会主義の潮流に合流していった。 《教条主義(カウツキー主義)》
1903 年のドイツ社会民主党のドレスデン大会は「階級闘争に基づくわれわれの戦術を、
敵に打ち勝って政治権力を獲得するかわりに既存秩序に迎合する政策を採用するという意
味で変更しようとする修正主義的企てには断固として反対する」と決議したが、その急先
鋒がドイツ社会民主党理論家カール・カウツキー(1854~1938 年)らだった。 しかし、カウツキーもその戦略を具体的に提示することはなく、好機の到来を待つ姿勢
にとどまった。そのため、マルクス主義を教条としてのみ擁護し、実践的に生かさなかっ
たという意味で、カウツキーの見解は教条主義と呼ばれることが多い。 《第二インターナショナル》 1889 年にはマルクス主義者を中心に第二インターナショナルが結成され、その中心的な
存在となったドイツ社会民主党の内部から前述のように「修正主義論争」が発生した。ベル
ンシュタインらは議会制民主主義による平和革命を認めて「修正主義」と呼ばれ、暴力革
1839
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
命やプロレタリア独裁を堅持すべきとするカウツキーらは「教条主義」と呼ばれたが、後
にはカウツキーも合流して社会民主主義を体系化した。 しかし 1914 年には第 1 次世界大戦が勃発し、各国の社会主義者が自国の戦争を支持した
ため、第二インターナショナルは崩壊した。ドイツ社会民主党は第 1 次世界大戦まではマ
ルクス主義運動の国際的な中心だったが、戦争勃発の際にそれまでの反戦主義を捨てて祖
国防衛の立場をとったため権威を失い、ロシアのボリシェヴィキに地位を明け渡した。 ドイツ社会民主党は第 2 次世界大戦後の 1959 年に採択したバート・ゴーデスベルク綱領
では公式にマルクス主義を放棄した。これにより、ドイツ社会民主党は階級政党から議会
制度に基礎を置く社会民主主義の立場を明確にし、階級政党から国民政党に転換した。1969
年のブラントによる政権獲得へとつながり、その後、何度も政権を担っている(その後、
ドイツ再統一直前の 1989 年の党大会ではベルリン綱領が採択されている)。 ○イギリスのフェビアン社会主義 1884 年にイギリスで設立されたフェビアン協会は、忍耐強い社会改良を積み重ねること
によって資本主義の欠陥を除去し、公共の福利厚生の完備した道徳的で自由な民主主義社
会を実現することを目標とした。フェビアンという名称は、紀元前 3 世紀のローマ時代、
ポエニ戦争において名将ハンニバルの率いるカルタゴ軍を持久戦法・ゲリラ戦法によって
破ったローマの将軍ファビウスに由来している。「忍耐強く時期の到来を待ち、好機いたら
ば果敢に攻撃せよ」のモットーを最後までつらぬき、ついに勝利をおさめた。このモット
ーこそ漸進的なフェビアン協会の性格にふさわしいと考えられた。 このフェビアン社会主義の思想はジョン・スチュアート・ミルらのイギリス功利主義や
ロバート・オーウェンの空想的社会主義の伝統をうけつぐものであり、ウェップ夫妻(夫
シドニー・ウェップ(1859~1947 年)、妻ベアトリス・ウェップ(1858~1943 年))やバー
ナード・ショウ(1856~1950 年)などがその発展に努力した。その後、バートランド・ラ
ッセルもメンバーになった。多くのフェビアン(フェビアン協会のメンバー)が、1900 年
の労働党の前身となる労働代表委員会結成に参加した。 ウェップ夫妻は、イギリス経験論の伝統を受け継ぎ、あらゆる仮説や先入見を排し、す
べての要因を総合的に分析・解明することで社会の変化を究明すべきだとして、経済的要因
を強調するマルクス主義を批判し、フェビアン社会主義の基礎を打ち立てた。 バーナード・ショウは、当初マルクスから大きな感銘と影響を受けたが、のちに階級闘
争や暴力革命を否定し、マルクスから離れた。扇動的言動だけでは社会は改善されないと
して、現実的社会改良の実践による社会主義の実現を強調した。ウェップ夫妻と行動をと
もにし、夫妻の理論の普及につとめた。バーナード・ショウは、イギリス近代劇を確立し、
1840
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
『人と超人』などの劇作・評論でも活躍し、1925 年にノーベル文学賞を受けている。著書に
『資本主義・社会主義・全体主義・共産主義』などがある。 彼らの目標とする社会主義は、資本主義の弊害の漸進的改良による真の民主主義の実現
をいうのであって、その実現方法も、議会を通じての労働者の経済状況の改善、社会保障
制度の完備、産業資本の社会的管理(土地と資本の公有化)の実現、人格的自由の確立と
いう現実的・合法的・理想主義的なものであった。 また、社会主義社会の担い手を、マルクス主義のように労働者階級という特定の階級に
求めるのではなく、資本家も含めて国民全体に求め、階級闘争は生産を阻害し社会主義の
の実現をおくらせるものとして否定した。 このようなフェビアン社会主義の思想は、資本主義が急速に発展し変貌していった先進
諸国の社会主義運動に大きな影響を及ぼし、やがて第 2 次大戦後に民主社会主義を成立さ
せた。民主社会主義は社会民主主義と違って、マルクス主義とは別の立場の社会主義であ
り、マルクス主義的社会主義の階級国家論や階級闘争あるいは暴力革命論やプロレタリア
ート独裁論を否定する。そればかりではなく、マルクス主義の基礎理論である弁証法的唯
物論や史的唯物論を単なる仮説であるとし、さらにこれを一面的でありヒューマニズムに
反すると批判する。 フェビアン協会は、イギリス労働党の創設(1900 年)に大きな役割を果たした。また、
その後のイギリスの福祉政策にも影響を与え、第 2 次世界大戦後のイギリスでは、労働党
政権のもとで、「ゆりかごから墓場まで」とよばれる総合的な社会保障政策が導入された。 フェビアン協会は、20 世紀を通して、イギリス労働党に常に影響力をもっていた。労働党
の党首およびイギリスの首相となったマクドナルド、アトリー、クロスランド、クロスマ
ン、トニー・ベン、ハロルド・ウィルソン、トニー・ブレアらがフェビアン協会のメンバ
ーであった。最近では、前首相のゴードン・ブラウンもその一員である。 【14-2】19 世紀の欧米列強 【14-2-1】ナポレオン戦争(第0次世界大戦)とウィーン体制 ○ナポレオン、皇帝への道
ナポレオン・ボナパルト(1769~1821 年)は、コルシカ島に生まれたが、1784 年にパリ
の陸軍士官学校の砲兵科に入学、1785 年に砲兵士官として任官した。 1789 年、フランス革命が勃発し、1793 年、ナポレオンはフランス軍のなかでも王党派蜂
起の鎮圧を行っていたカルトー将軍の南方軍に所属し、トゥーロン攻囲戦に参加した。近
代的城郭を備えた港湾都市トゥーロンは、フランスの地中海艦隊の母港で、イギリス・ス
ペイン艦隊の支援を受けた反革命側が鉄壁の防御を敷いていた。フランス側は、要塞都市
1841
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
への無謀ともいえる突撃を繰り返して自ら大損害をこうむっているような状況であった。 ここでナポレオンは、まずは港を見下ろすふたつの高地を奪取して、次にそこから敵艦
隊を大砲で狙い撃ちにする、という作戦を進言し、豪雨をついて作戦は決行され成功、外
国艦隊を追い払い反革命軍を降伏に追い込んだ。この功績により、当時 24 歳のナポレオン
は一挙に准将(旅団長)へと昇進し、一躍フランス軍を代表する若き英雄へと祭り上げら
れた。 1795 年、パリにおいて王党派の蜂起ヴァンデミエールの反乱が起こった。この時に国民
公会軍司令官となったポール・バラスは、トゥーロン攻囲戦のときの派遣議員であったた
め、知り合いのナポレオンを副官として登用し、実際の鎮圧作戦をナポレオンに一任した。
ナポレオンは、首都パリの市街地で市民に対して大砲(しかも広範囲に被害が及ぶ散弾)
を撃つという大胆な戦法をとって鎮圧に成功した。これによってナポレオンは将軍に昇進
し、国内軍副司令官、ついで国内軍司令官の役職を手に入れ、「ヴァンデミエール将軍」の
異名をとった。 1796 年には、総裁政府の総裁となっていたバラスによってナポレオンはイタリア方面軍
の司令官に抜擢された。ナポレオン軍はオーストリア軍に連戦連勝、1797 年 4 月にはウィ
ーンへと迫り、ナポレオンは総裁政府に断ることなく、10 月にはオーストリアとカンポ・
フォルミオ条約を結んだ。これによって第 1 次対仏大同盟は崩壊、フランスはイタリア北
部に広大な領土を獲得して、いくつもの衛星国を建設し、膨大な戦利品を得た。12 月、パ
リへと帰還したナポレオンは熱狂的な歓迎をもって迎えられた。 《ナポレオンのエジプト遠征》 オーストリアに対する陸での戦勝とは裏腹に、対仏大同盟の雄であり強力な海軍を有し
制海権を握っているイギリスに対しては、フランスは決定的な打撃を与えられなかった。
そこでナポレオンは、イギリスにとって最も重要な植民地であるインドとの連携を絶つこ
とを企図し、英印交易の中継地点でありオスマン帝国の支配下にあったエジプトを押さえ
ること(エジプト遠征)を総裁政府に進言し、これを認められた。
1798 年 7 月、ナポレオン軍はエジプトに上陸し、ピラミッドの戦いで勝利してカイロに
入城した。しかし、その直後、アブキール湾の海戦でネルソン率いるイギリス艦隊にフラ
ンス艦隊が大敗し、ナポレオン軍はエジプトに孤立してしまった。12 月にはイギリスの呼
びかけにより再び対仏大同盟が結成され(第 2 次対仏大同盟)、フランス本国も危機に陥っ
た。1799 年にはオーストリアにイタリアを奪還され、フランスの民衆からは総裁政府を糾
弾する声が高まっていた。これを知ったナポレオンは、自軍はエジプトに残したまま側近
のみをつれ単身フランス本土へ舞い戻った。 《統領政府の第 1 統領》 1842
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
フランスの民衆はナポレオンの到着を、歓喜をもって迎えた。1799 年 11 月、ナポレオン
はブルジョワジーの意向をうけたエマニュエル=ジョゼフ・シエイエスらとブリュメール
のクーデターを起こし、統領政府を樹立し、自ら第 1 統領(第 1 執政)となり、実質的に
独裁権を握った。 統領政府の第 1 統領(第 1 執政)となり、政権の座に着いたナポレオンは、第 2 次対仏
大同盟に包囲されたフランスの窮状を打破することが急務であった。1800 年 12 月には、ド
イツ方面のホーエンリンデンの戦いでオーストリア軍に大勝し、オーストリアと和約し(リ
ュネヴィルの和約)、ライン川の左岸を獲得、北イタリアなどをフランスの保護国とした。
この和約をもって第 2 次対仏大同盟は崩壊した。フランスとなおも交戦するのはイギリス
のみとなったが、1802 年 3 月にはアミアンの和約で講和が成立した。 《ナポレオンの内政》 ナポレオンは内政面でも諸改革を行った。全国的な税制度、行政制度の整備を進めると
同時に、革命期に壊滅的な打撃をうけた工業生産力の回復をはじめ産業全般の振興に力を
そそいだ。1800 年にはフランス銀行を設立し通貨と経済の安定を図った。さらには国内の
法整備にも取り組み、1804 年には「フランス民法典」、いわゆるナポレオン法典を公布した。
これは各地に残っていた種々の慣習法、封建法を統一した初の本格的な民法典で、
「万人の
法の前の平等」「国家の世俗性」「信教の自由」「経済活動の自由」等の近代的な価値観を取
り入れた画期的なものであった。 教育改革にも尽力し「公共教育法」を制定している。 ま
た、交通網の整備を精力的に推進した。 ナポレオンが統領政府の第 1 統領となった時から彼を狙った暗殺未遂事件は激化し、1800
年 12 月には王党派による爆弾テロも起きていた。そして、それらの事件の果てに起こった
1804 年 3 月のフランス王族アンギャン公ルイ・アントワーヌの処刑は、王を戴く欧州諸国
の反ナポレオンの感情を呼び覚ますのに十分であった。ナポレオン陣営は相次ぐ暗殺未遂
への対抗から独裁色を強め、帝政への道を突き進んで行くことになった。 1802 年 8 月 2 日には 1791 年憲法を改定して自らを終身統領(終身執政)と規定した。そ
して、1804 年には、議会の議決と国民投票を経て世襲でナポレオンの子孫にその位を継が
せる皇帝の地位についた。 ○ナポレオン皇帝とフランス帝国
1804 年 12 月 2 日、パリのノートルダム大聖堂を埋め尽くした政治家、外交官、市民たち
のまえで、教皇ピウス 7 世立ち会いのもとに戴冠式が行われた。しかし、西暦 800 年のカ
ール大帝はローマ教皇によって戴冠されたが、ナポレオンは教皇の手によってではなく、
ナポレオン自身の手によってなされた。政治の支配のもとに教会をおくという意志のあら
われであったと理解されている。ついでナポレオンは、やはり自分の手で妻ジョゼフィー
1843
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ヌの頭上に冠をおいた。ナポレオンはやはり、宗教も自国の王権のもとにおいた絶対王政
の最後の王様だったかもしれない。 このようにしてフランス第 1 執政ナポレオン・ボナパルトは、反革命を恐れ、フランス
革命の継続を願うという名目のもとに(自らすでに革命は終わったとも言っていたが)、国
民投票での圧倒的な支持を受けてフランス皇帝に就任した(ただし棄権は 70%以上)。ここ
にフランス皇帝ナポレオン 1 世とフランス帝国が出現した(図 14-6 参照)。 図 14-6 ナポレオン時代のヨーロッパ(1810 年ごろ) イギリス、オーストリア、プロイセン、ロシア等のヨーロッパ列強から見ればフランス
帝国の成立は、ナポレオンの絶対化と権力強化以外の何ものでもなく、革命が自国へ及ぶ
恐怖に加えて、軍事面での脅威も加わることになった。イギリスでは再びピット(小ピッ
ト)内閣が成立し、フランスの強大化をおそれて、1805 年 8 月、ロシア、オーストリア、
スウェーデンと第 3 回対仏大同盟を結成した(プロイセンは同盟に対して中立的な立場を
取った)。 一方でフランス国内においては、ナポレオン皇帝の誕生によるフランス帝国の出現は、
1844
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
フランス革命によって国王ルイ 16 世を処刑し共和制を打ち建てた過程から逆行しており、
国内の親ジャコバン派の反発を招いた。 《トラファルガーの海戦》
1805 年、ナポレオンはイギリス上陸を目指してドーバー海峡に面したブローニュに大軍
を集結させた。陸に上がればナポレオンは絶対的な自信を持っていた。フランス陸軍はイ
ギリス陸軍の少なくとも 3 倍の規模があり、経験も豊かであった。しかし、海を制するこ
とができなければイングランド上陸は不可能だった。 フランス海軍については、数の上ではかなりの勢力を誇り(70 隻の戦列艦を擁する)、か
つ、当時、ナポレオンの支配下にあったスペイン海軍の応援も得ることができた(20 隻以
上の戦列艦を持つ)。ついにナポレオンは海上からイギリス海軍を一掃することを決断し、
フランスとスペインの連合艦隊を編成し、イギリスの海上封鎖を突破し、イギリス本土上
陸を敢行するためにブローニュの港に 35 万人の侵攻軍を集結させた。イギリスはそれを阻
止すべくネルソン提督の艦隊を送った。 トラファルガーの海戦は、1805 年 10 月 21 日に、スペインのトラファルガー岬の沖で行
なわれた(図 14-6 参照)。ネルソン提督のイギリス艦隊は「ヴィクトリー」を旗艦とする
27 隻、ヴィルヌーヴ率いるフランス・スペイン連合艦隊は「ビューサントル」を旗艦とす
る 33 隻であった。 戦闘の経過は、ネルソン提督は敵の隊列を分断するため、図 14-7 のように、2 列の縦隊
で突っ込むネルソン・タッチという戦法を使った。ヴィルヌーヴも多縦列による分断作戦
を予測しており、マストに多数の狙撃兵を配置していた。連合艦隊は数で勝っていたが、
スペイン海軍も混じっていたため指揮系統も複雑であった。 図 14-7 トラファルガーの戦い 1845
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
戦闘の決め手は大砲だった。フランス・スペイン連合艦隊の大砲は、旧式の火縄式点火
を採用していたので、点火から発射までに時間がかかり、艦載砲の射速も 3 分に 1 発と劣
っていた。艦が横揺れしている時には照準を定めることが出来ず、発射した砲弾の多くは
敵艦のマストの上を飛び越していった。
一方イギリス海軍は、火打ち石を使った撃発式点火を採用していたので照準を決めると
すぐに発射することができた。その射速も 1 分 30 秒に 1 発と優れていた。このためイギリ
ス艦隊の砲撃は水平射撃で敵艦の船体を狙ったが、命中精度はフランス艦よりもはるかに
高かった。攻撃を受けた連合艦隊の木造の船体は著しく損傷し、 砕け散った木片は砲弾以
上の恐るべき殺傷効果をもたらした。
こうして図 14-7 のように、フランス・スペイン連合艦隊(青)の脇腹をイギリス艦隊
(赤)が突き破っていった。 激戦の末、連合艦隊は撃沈 1 隻、捕獲破壊 18 隻、戦死 4,000 人、捕虜 7,000 人という被
害を受け、ヴィルヌーヴ提督も捕虜となった。一方、イギリス艦隊は喪失艦 0、戦死 400 人、
戦傷 1,200 人という被害で済んだが、ネルソン提督はフランス狙撃兵の銃弾に倒れた。 勝利の報を聞いた時、ネルソンは「神に感謝する。私は義務を果たした」と言い残して
戦死した。この戦勝を記念して造られたのがロンドンのトラファルガー広場である。広場
中央にはネルソン提督の記念碑が建てられている。 ナポレオンは、結局、イギリス本土侵攻作戦を放棄せざるをえないことになった。これ
でイギリスを打ち負かす決め手はないと思ったのか、ナポレオンは大陸での勝利に専念す
るようになった。 イギリスもこの劇的な勝利によってイギリス本土が安泰になったとはいえ、ナポレオン
の大陸における優勢をくつがえす決め手はもっていなかった。だからこそイギリス首相ピ
ット(小ピット)は、大陸の諸国に軍資金を与えて第 3 次対仏大同盟を組織して、ナポレ
オンを消耗させることしかできないとわかっていた。ピットは、ロシアとオーストリアと
の第 3 次対仏大同盟では、対仏戦争に投入する兵士 10 万人ごとに 175 万ポンドを支払うと
申し出ていたのである。 《アウステルリッツの戦いと第 3 次対仏大同盟の崩壊》 しかし、やはり陸の王者はナポレオンだった。海ではイギリスに敗れたフランス軍だが、
陸上では 1805 年 10 月のウルムの戦いでオーストリア軍を破り、ウィーンを占領した。オ
ーストリアのフランツ 1 世の軍は北に逃れ、救援に来たロシアのアレクサンドル 1 世の軍
と合流した。 フランス軍とオーストリア・ロシア軍は、奇しくもナポレオン 1 世の即位一周年の 1805
年 12 月 2 日にアウステルリッツ(図 14-6 参照。現在のチェコ領モラヴィアのブルノ近郊
1846
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
の町)郊外のプラツェン高地で激突した。このアウステルリッツの戦いは 3 人の皇帝が一
つの戦場に会したことから三帝会戦とも呼ばれている。 オーストリア・ロシア連合軍 8 万 7000 は、アウステルリッツ西方のプラツェン高地へ進
出し、優勢な兵力をもってフランス軍への攻撃を開始した。フランス軍は 7 万 3000 と劣勢
であった。とくに後方との連絡線確保のうえで重要な右翼(南側)が手薄であった。アレ
クサンドル 1 世はこれを好機とみて、主力をプラツェン高地からフランス軍右翼へ殺到さ
せた。これこそがナポレオンの罠であった。 ナポレオンは、手薄になった露オ連合軍の中央部突破に成功し、フランス軍右翼へ殺到
していた連合軍部隊を挟撃した。退路をたたれた連合軍は氷結した湖を通って退却しよう
としたが、フランス軍の大砲が湖の氷を割ったため、将兵の多数が溺死した。夕刻までに、
連合軍は 3 万以上の死傷者を出し、散り散りになって敗走した。湖の氷結もよみこんだナ
ポレオンの指揮はもはや芸術とも評された見事な勝利であり、ナポレオン戦争の中で最も
輝かしいものであった。 12 月 4 日、フランツ 2 世はフランス軍へ降伏した。アレクサンドル 1 世は無残な姿でロ
シアへ逃げ帰った。 ここはナポレオンの巧妙な作戦で完勝し、12 月にフランスとオーストリアの間でプレス
ブルク条約が結ばれ、フランスへの多額の賠償金支払いとヴェネツィアの割譲等が取り決
められた。ここに第 3 次対仏大同盟は崩壊した。ちなみにパリの凱旋門はアウステルリッ
ツの戦いでの勝利を祝してナポレオン 1 世が 1806 年に建築を命じたものである。 イギリスのピット首相は、この敗戦に衝撃を受けて、金を失ったことに落胆したのでは
なかろうが、1806 年初めに世を去った。いずれにしても海のイギリス、陸のフランスの形
勢は、この時点では変わりそうにないことがはっきりした。 なお、1805 年、ナポレオンは神聖ローマ帝国を解体し、西南ドイツ諸邦の連合体で、オ
ーストリア、プロイセンに対抗する親仏勢力の結集する組織として、図 14-6 のように、
ライン同盟を成立させ、みずからその保護者となった。これはライン連邦ともいう。ナポ
レオン法典の採用などの改革を行ったため、この地方の近代化が進んだ。 これによってドイツはオーストリア、プロイセン、ライン同盟に分裂した結果、神聖ロ
ーマ帝国は名実ともに滅亡した。フランツ 2 世は、神聖ローマ皇帝の位から退位し、オー
ストリア帝国皇帝フランツ 1 世となった。 《第 4 次対仏大同盟》 戦場から逃れたロシアのアレクサンドル 1 世はイギリス、プロイセンと手を組み、1806
年 10 月には今度はプロイセンが中心となって第 4 次対仏大同盟を結成した。これに対しナ
ポレオンは、1806 年 10 月のイエナの戦い、アウエルシュタットの戦い(図 14-6 参照)で
1847
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
プロイセン軍に大勝してベルリンを占領し、7 週間でプロイセン全土を征服した。プロイセ
ン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム 3 世は東プロイセンへと逃亡した。 こうして図 14-6 のように、ロシア、イギリス、スウェーデン、オスマン帝国以外のヨ
ーロッパ中央をほぼ制圧したナポレオンは兄ジョゼフをナポリ王、弟ルイをオランダ王に
就け、西南ドイツ一帯をライン同盟としてこれを保護国化することで以後のドイツにおい
ても強い影響力を持った。 《大陸封鎖令》 並行して 1806 年 11 月にはイギリスへの対抗策として、大陸封鎖令を出して、ロシア、
プロイセンを含めたヨーロッパ大陸諸国とイギリスとの貿易を禁止してイギリスを経済的
な困窮に落とし、フランスの市場を広げようと目論んだが、これは産業革命後のイギリス
の製品を輸入していたヨーロッパ大陸諸国やフランス民衆の不満を買うこととなった。 ナポレオンは残る強敵ロシアへの足がかりとして、プロイセン王を追ってポーランドで
プロイセン・ロシアの連合軍に戦いを挑んだ。1807 年 2 月アイラウの戦いと 6 月のハイル
スベルクの戦いは、猛雪や情報漏れにより苦戦し、ナポレオン側が勝ったとはいうものの
失った兵は多く実際は痛みわけのような状況であった。しかし同 6 月のフリートラントの
戦いでナポレオン軍は大勝した(図 14-6 参照)。 ティルジット条約において、フランスから地理的に遠く善戦してきたロシアとは大陸封
鎖令に参加させるのみで講和したが、プロイセンに対しては 49%の領土を削って小国として
しまい、さらに多額の賠償金を支払わせることにした。これはプロイセンにとって、あま
りにも過酷な仕打ちであり、ティルジットの屈辱としてプロイセンに国民意識を強くよみ
がえらせることになった。 そしてプロイセンから削り取ったライン・エルベ両川間にウェストファリア王国、旧ポ
ーランド領にはワルシャワ大公国というフランスの傀儡国家をつくり、しかもウェストフ
ァリア王には弟ジェロームを就けた。スウェーデンに対してもフランス陸軍元帥ベルナド
ットを王位継承者として送り込んだ(ベルナドット個人はナポレオンに対し好意を持って
はおらず強固な関係とはいえない状態であった。やがて、反ナポレオンに転ずる)。またデ
ンマークはフランスと同盟関係を結び、ナポレオン戦争の終結まで同盟関係を破棄するこ
とはなかった。 《ナポレオンの絶頂期》
1807 年夏、ヨーロッパの平和再建者(実は平和破壊者)としてパリに凱旋したナポレオ
ンには、もはや残された対戦相手はイギリスのみであるかのようにみえた。 ナポレオンによる支配は、まさにヨーロッパを席巻した形になった。彼が率いるフラン
ス帝国は、オランダ、北西イタリアなどを併合して 130 県にふくれあがったばかりでなく、
1848
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
西ドイツ、イタリアには従属的な傀儡国家をおき、プロイセン、オーストリア、スペイン
を(強制的)同盟国とした。完全な独立状態を維持していたのは、スウェーデンなどの北
ヨーロッパを除けばロシアとオスマン・トルコの両帝国、そしてイギリスのみであった(図
14-6 参照)。この頃がナポレオンの絶頂期といわれている。
《ナポレオンの凋落―略奪経済国家フランス》 だが、このナポレオンの大帝国はもろい、みせかけだけののものだった。みせかけには
金がかかるものである。フランス革命軍が強くなったことは、国民徴兵制による大量の兵
士であったことは述べたが、ナポレオン時代になると、毎年 15 万人の兵士を新たに徴募し
て 50 万人以上の規模をもつ軍隊を長期にわたって養わなければならなかった。 軍事支出は 1807 年にはすでに 4 億 6200 万フランに達していたが、1813 年には 8 億 1700
万フランにはね上がった。ナポレオンはタバコ税とか塩税とかアンシャン・レジーム時代
の間接税など考えられるものをすべて復活して増税をはかったが、とても足りる額ではな
かった(もともとブルボン王朝の増税からフランス革命は起こったのであるが、ナポレオ
ンはそれを越える増税をした)。 結局、ナポレオンの帝国主義のかなりの部分が略奪によって支えられていた。略奪は、
まず、フランス国内で始まった。いわゆる「革命の敵」の資産を没収したり、売却したり
したのである。やがて、革命を守るためという名目の軍事作戦が拡大し、フランス軍が近
隣諸国に侵入すると、外国人にこの費用を払わせるのが理の当然ということになった。
敗戦国の王室や封建領主から資産を没収し、敵の軍隊や守備隊、博物館、宝物庫などか
ら戦利品を略奪し、戦闘をしかけないかわりに賠償金や実物賠償を取り立て、フランス軍
を衛星国に駐留させて相手国に費用を払わせるというやり方で、ナポレオンは膨大な軍事
支出を賄った上に、フランスに(そして自分自身のふところに)相当な利益までもたらし
た。 フランスが絶頂期にあったころに、この「特別支配地域」の行政官が手に入れた利益は
膨大なもので、ある意味ではナチス・ドイツが第 2 次世界大戦当時に衛星国や征服した敵
国で行った略奪を思わせる。もちろん、130 年後のナチスのほうがナポレオンを見習ったと
いえる。 たとえば、プロイセンはイエナの敗北の後、3 億 1100 万フランの賠償金を支払わされた
が、これはフランス政府の通常の歳入の半額に当たっていた。ハプスブルク帝国も敗戦の
たびに領土を削り取られ、そのうえ多額の賠償金を支払わなければならなかった。イタリ
アでは 1805 年から 12 年までの間、税収の半分をフランスにもっていかれてしまった。 《人的消耗戦の始まり》 「余の力を支えるのは栄光であり、余の栄光は勝利に支えられている。征服こそ、余の
1849
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
現在をあらしめたものであり、征服によってのみ、余はこの地位を維持することができる」
とナポレオンは勝ち続けることによってのみ、自国・自分が維持できること、略奪経済で
フランス帝国が維持できることを認めていたのである。 しかもフランス憲法にナポレオン・ボナパルトという名の個人(一族)が永久に国家を
支配するというシステム(ナポレオン一族の世襲)を書き込ませていたのである。絶対王
政とは政治・軍事的にも宗教的にも国家が王権に属するものであるとされた時代であった
が、まさにナポレオン一族はその絶対王政の完成であったといえる。130 年後に現れたヒト
ラーも千年帝国と称していたが、さすがにそれを支配するのはアドルフ・ヒトラー一族と
はいわず、ゲルマン民族といっていた。 余談は別として、まさにナポレオン体制は不滅とみえたそのとき、このシステムの最大
の問題点が露呈してきた。ナポレオンの本音では兵士は消耗品であっただろうが、その消
耗品にも限界があった。ナポレオン後半のアイラウの会戦では1万 5000 人、フリートラン
トでは 1 万 2000 人が死亡し、バイレンでは 2 万 3000 人が戦死するか降伏し、アスペルン
では 4 万 4000 人、ヴァグラムでは 3 万人の死傷者が・・・・・・。 歴戦の部隊が少なくなり、1809 年には(近衛兵を除く)ドイツ遠征軍 14 万 8000 人兵士
のうち、4 万 7000 人は徴兵年齢に達していなかった。ナポレオン軍には後になるほど、ヒ
トラー軍と同じく被征服国や衛星国の兵士が多く含まれるようになった。フランス側の人
的資源が枯渇しかけていたから、そうしたのだろうが、その行き着く先がどうなるかは明
らかであった。ロシア遠征では 67 万 5000 人のうち、フランス兵は 30 万人に過ぎなかった。
もちろん、大敗北でその多くがロシアの土になってしまった。まったく消耗品としか考え
られていなかった。 ナポレオン戦争の犠牲者は 200 万人といわれている。戦争の形態と武器は時代によって
変化しているが、軍事的天才といわれたナポレオンの戦術はアレクサンダー大王以来の古
典的戦術の最後で一部銃砲を取り入れた近代戦争のちょうど境目にあたっていたと考えら
れる。したがって、大まかにいえば、アレクサンダー時代の犠牲者が 20 万であれば、ナポ
レオン時代の犠牲者が 200 万であり、130 年後のヒトラー時代の犠牲者が 2000 万であり、
来るべき核戦争時代の犠牲者は 2 億人となるのは・・・あまり、先走るのはやめる(この
ように戦争の犠牲者は戦争技術によってエスカレートしていくといいたいのである)。 余談はこれぐらいにして、ただ、ナポレオンが軍事的天才だったかどうかは別として、
もっとも多くの兵士を消耗品として使った人物であったことは確かであった。人間を駒の
ように使う、消耗品のように使う、それが英雄である。だからナポレオンは強かった。だ
からナポレオンは英雄になれた。今でもナポレオンを英雄だと思っている人がフランスだ
けでなく世界中にいる。我々は、その人間の本質をもっと見るべきだ。 1850
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
《ナポレオンの矛盾と私欲―敵愾心から国家意識が生まれた》 ヨーロッパにおけるナポレオン体制は矛盾をはらんでいた。フランス国内の革命がどん
な長所や欠点をもっていたかはともかく、自由と博愛と平等をうたう国が、いまでは、皇
帝の命令のもと、フランス人以外の人民を征服して、軍隊を駐留させ、物資を没収し、貿
易を妨害し、多額の賠償金や税金を取り立て、若者を戦いにかりたてていたのである。
自由と博愛の旗をかかげて進軍して、虐殺して略奪して、自由と博愛を説教する。これ
で、はたして自由と博愛をもたらすナポレオン軍として歓迎する国民がいただろうか。ナ
ポレオン戦争はドイツをはじめヨーロッパ諸国に国民国家意識をはじめて持たせることに
なったといわれている。それは他国民(フランス)に征服された民族がいかに惨めである
かをはじめて知った(フランスに対する)敵愾心から生まれたものであった(どんなこと
があっても国家は強くならなければならないという意識だった。愛国心がこのような敵愾
心から生まれたことは不幸なことだった)。フランス革命の自由・平等・博愛の正反対のも
のであったのである(歴史書はフランス革命とナポレオン戦争を一緒くたにして、ナポレ
オン戦争は自由・平等・博愛の精神の輸出であったと評価しているものが多い)。
ナポレオンは、すでに従属国の元首に自分の家族をあて、身びいきをはじめていた。そ
れは革命の原則などまったく関係ない、人間誰もがもつ身びいきという欲望がなせるワザ
で、大義名分のない逸脱であった。しかも身内は権力におぼれ、政治を理解せずにナポレ
オンをいらつかせた。占領され、あるいは従属下におかれた地域では、占領軍の横暴は許
せないという気持ちは強くなっていった。
旧体制のくびきからの解放というのがフランス革命の革命輸出戦争ではなかったのか、
それがいまやナポレオンは愚劣な親族を元首として押しつけてはくるし、フランス占領軍
は略奪ばかりしている、このような革命という大義名分からも逸脱しているようなフラン
ス占領軍からの自国の解放が緊急に必要になっていると各国民は感ずるようになっていっ
た。 《歴史は繰り返す》 有名なフィヒテの講演「ドイツ国民に告ぐ」はその典型的な表現であった。プロイセン
は、重大な行政改革や軍制改革を内部から起こしていった。とくに重要なことは、軍制改
革であったが、その模範となったのが、皮肉なことに、軍事的天才ナポレオンそのもので
あった。軍事的にもナポレオンが生み出した(実際はカルノーが生み出した)国民軍の創
設、砲兵・騎兵・歩兵の連携(三兵戦術)、輜重兵(しちょうへい。兵站を主に担当する陸
軍の後方支援兵科)の重視、指揮官の養成などは、その後の近代戦争・近代的軍隊の基礎
となり、プロイセンにおいてクラウゼヴィッツによって『戦争論』に理論化されていった。 ナポレオンに徹底的にいためつけられたプロイセンが、ナポレオンを徹底的に学び、理
1851
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
論化し組織化し装備化して、やがて、強くなって、ナポレオンの甥のナポレオン 3 世を降
伏させることになるがそれは 60 年ばかり先のことである。 そのプロイセンから、今度はヒトラーが出てくるのは 130 年先のことである(そのヒト
ラーが手にしたのは砲兵・騎兵・歩兵・輜重兵なんかではなかった。ハインツ・グデーリ
アンが考え出した電撃機械化部隊だった。技術進歩によって戦争強度は 10 倍、100 倍にな
っていた。歴史は繰り返すという。それは欲望をもった人間は同じであるからだ。野心を
もった男(英雄といわれる)という点ではナポレオンもヒトラーも同じである。キチガイ
に刃物といわれるが、英雄に軍隊を持たせてはならない)。 《スペインのゲリラ戦》
一方で、東への征服を成功させたナポレオンの目は続いて西側のイベリア半島へと向け
られた。当時スペイン王室で起こっていた宮廷内の対立を利用して、王位を奪い取り、兄
のジョゼフをスペイン国王に任命した。図 14-6 のように、1808 年フランス軍はスペイン、
そしてポルトガルへ侵攻、スペイン王、ポルトガル王は国外へ逃亡し、フランスは両王国
を支配したかのように見えたが、しかし、これに対するスペインの反発は激しく、半島戦
争(1808 年~14 年)が起こり、蜂起した民衆の伏兵による抵抗にフランス軍は苦戦した(「ゲ
リラ」という語はこのとき生まれた)。スペインの背後には当然のことながらイギリスもつ
いた。 1808 年 7 月、スペイン軍・ゲリラ連合軍の前にデュポン将軍率いるフランス軍が降伏し
た。皇帝に即位して以来ヨーロッパ全土を支配下にしてきたナポレオンの陸上での最初の
敗北だった。11 月、16 万人の大軍を率いたナポレオンは、自らスペインに侵攻したが、ゲ
リラ戦はやむことがなく、スペイン情勢は泥沼化した。このスペインでの戦役は、ナポレ
オンの栄光のターニング・ポイントであった。 《第 5 次対仏大同盟》 ナポレオンがスペインで苦戦しているのを見たオーストリアは、1809 年、ナポレオンに
対して再び起ち上がり、プロイセンは参加しなかったもののイギリスと組んで第 5 次対仏
大同盟を結成した。4 月のエックミュールの戦いではナポレオンが勝利し、5 月には 2 度目
のウィーン進攻を果たしたがアスペルン・エスリンクの戦いでナポレオンはオーストリア
軍に敗れた。しかし続く 7 月のウィーン北東 15 キロメートルのヴァグラムの戦いでは双方
合わせて 33 万人以上の兵が激突(フランス軍 18 万、オーストリア軍 15 万)、両軍あわせ
て 7 万人にのぼる死傷者をだしながら辛くもナポレオンが勝利した(オーストリア 4 万人、
フランス軍 3 万人。図 14-6 参照)。そのままシェーンブルンの和約を結んでオーストリア
の領土を削り、第 5 次対仏大同盟は消滅した。 《ナポレオン 2 世の誕生》 1852
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
このオーストリアの態度に対して憎悪に燃えたナポレオンは、オーストリア皇帝フラン
ツに、フランスに対して 2 度と背かないことを保障するために、娘マリー・ルイーズを実
質的な人質として、自分と結婚させることを強引に迫った。 当時、フランス帝国の内政における目下の問題点は、ナポレオンと皇后ジョセフィーヌ
との間に継嗣(けいし)が存在しないことであり、世襲ということでのみ連続性が維持で
きるナポレオン皇帝にとって最も重要な問題であった。また確固たる継嗣の確保は、反革
命の防止(具体的にはルイ王朝の復活阻止)のためナポレオンの皇帝即位を支持した国民
に対する責務でもあると考えた。 ナポレオンはオーストリア占領直後にジョセフィーヌを離縁し、1810 年に名門ハプスブ
ルク家のオーストリア皇女マリー・ルイーズと結婚し、ボナパルト家の家名を高めたが、
同時に、ナポレオンから革命精神が完全になくなったことを示した。翌 11 年には次期帝位
継承者となり、フランス帝国の存続を保障する存在と期待されたナポレオン 2 世が誕生し
た。ナポレオンは、さっそく、その赤ん坊ナポレオン 2 世をローマ王の地位に就けた。 《大陸封鎖令の弛緩》
イギリスを屈服させるために、1806 年 11 月にベルリンで大陸封鎖令を出していたが、こ
れは、いっさいのイギリス商品をヨーロッパ大陸市場から締め出すことを目標としていた。
そしてイギリスにかわってフランスがヨーロッパ市場を独占しようという作戦であった。 しかし、これは当時、既に産業革命が勃興し、資本主義経済の世界的中心地となりつつ
あったイギリスを大陸から切り離したことを意味しており、イギリスを経済的に孤立に追
い込むどころか、逆にイギリスという交易相手を喪失した大陸各国の方が、経済的に疲弊
するという結果になった。 確かに初期の段階では、イギリスの倉庫には大量の工業製品が積まれ、ロンドンの波止
場は植民地からの産品であふれたし、町では失業が増大した。イギリスの物産を受け取れ
なくなったヨーロッパ諸国も経済的に困窮し、しかも世界の工場と呼ばれたイギリスの代
わりを重農主義のフランスが務めるのは無理があったので、フランス産業も苦境に陥った。
しかし、やがてイギリスの工業製品や植民地産品の再輸出品が大量にヨーロッパ大陸に密
輸されていった。結局、イギリス製品の総輸出額は大陸封鎖令の前の 3750 万ポンド(1804
~6 年)から封鎖令後の 4440 万ポンド(1814~16 年)に増加した。 大陸閉鎖はフランス経済の停滞に拍車をかけた。サント・ドミンゴをイギリスに奪われ
たことは、フランスの大西洋貿易にとっては大きな打撃だった。他の海外植民地や投資先
もまたイギリスの手にわたり、1806 年以降、中立国経由の貿易すら停滞してしまった。外
の世界から切り離されて孤立したフランス経済は、農民と小規模な商業、そして競争力の
ない地域的な、あまり規模の大きくない工業にいっそう頼るようになったのである(経済
1853
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
封鎖したつもりが、結果的にフランスが経済封鎖の状態になった)。 1810 年にはロシアが大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開した。これに対しナポ
レオンは封鎖令の継続を求めたが、ロシアはこれを拒否した。 《ロシア遠征》 ナポレオン政権のこれ以上の存続を危惧したロシアは早々にフランスに対しての抗戦を
再開し、1812 年にはフランス陸軍の元・元帥ベルナドットを摂政とするスウェーデンと連
絡して、対フランス戦の準備を進めた。 ナポレオンの方も、1811 年の経済危機は、大陸封鎖が完全に実行されていないからだ、
と考えて、イギリスへの穀物輸出をやめようとしないロシアに、制裁の実力行動をかけよ
うと作戦を練った。 1812 年 6 月、図 14-6 のように、ナポレオン指揮下のロシア遠征軍 67 万 5000 人(うち
フランス兵は 30 万人)が、バルト方面からネマン川を渡河してロシアへの侵攻を開始した
(130 年後の 1942 年 6 月、ヒトラーもソ連侵攻を開始した。まさにヨーロッパ大戦ともい
うべきナポレオン戦争と第 2 次世界大戦はいろいろな点で類似性がある)。 ロシア軍は直接の戦闘を避け、食糧をわたさないように大地(家や町)を焼き払って退
却する焦土作戦をとった。ロシア軍はひたすら退却した。ナポレオン軍は追った。焦土化
した大地を進むナポレオン軍に、赤痢が広まり、食糧の補給は困難をきわめた(現地略奪
を常としていたナポレオン軍はこれにはまいった)。ナポレオン軍の半分以上は、オースト
リア、プロイセンをはじめとした同盟国や従属国からの寄せ集めで、士気はあがらなかっ
た。脱走兵も出た。戦闘もないのに、すでに 15 万人の兵力が手元から落ちていた。 モスクワ手前のボルディノの戦いで、はじめて将軍クトゥーゾフ率いるロシア軍と会戦
した。ナポレオンは 3 万人の兵を失いながらも、これを突破して、9 月 14 日、ついにモス
クワに入城したたが、そこに待っていたのは火が放たれ、もぬけの殻となった町だった。
町の 4 分の 3 は焦土と化した(当時のモスクワの建物はほとんど木造だった)。 ナポレオンは敵の首都を(当時のロシアの実際の首都はサンクトペテルブルクであった
が)攻略すれば、ツァーリ・アレクサンドル 1 世がポクロンナヤゴラ(額ずきの丘)で降
伏を受諾すると期待していた。3 度に及ぶ和議提案も空しく、フランス軍は灰燼に帰したモ
スクワ市街で無為な時間を過ごした。思惑が外れたナポレオンは、明確な次の軍事目標を
持てないまま、いたずらにモスクワ滞在が伸びてしまい、撤退のタイミングを完全に逸し
てしまうことになった。 10 月 19 日、冬将軍の到来を前に、ナポレオンはやっと退却を指令した。飢えに加えて、
ひどい寒さが襲い、敵軍と農民ゲリラの奇襲におびえながら雪原を撤退するフランス軍に
は、もはや士気もなにもあったものではなかった。 1854
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
祖国を蹂躙されたことに怒れるロシア人は、対仏ゲリラ戦を開始していった。クトゥー
ゾフはフランス軍をモスクワ遠征の往路に使用し両軍の戦いで焦土化したスモレンスク街
道経由の退却へと追い詰めることに成功した。このためスモレンスク街道は食糧補給は望
めない状態であった。クトゥーゾフは南の脇道を塞いでフランス軍が別の経路を取れない
ようにし続けながら、再びパルチザン部隊を配置してフランス軍の輜重隊(しちょうたい。
兵站部隊)の弱い部分を絶えず攻撃した。 コサック騎馬兵を含むロシア軽騎兵隊は、フランス部隊を襲撃し、阻み、孤立させた。
兵站は滞り、飼い葉が欠乏して馬の維持が難しくなり、馬のほとんどが餓死するか食料と
して飢えた兵士に殺された。馬がなくなったことでフランス騎兵は存続できなくなり、騎
兵たちは徒歩で進軍することを余儀なくされた。 さらに馬の激減はカノン砲と車両の廃棄
につながり、それは砲兵隊・支援部隊の喪失を意味した。ロシアに多数の車両を置き去り
にしたフランス軍はもはや、軍隊とはいえなかった。 それに加え、パリではクーデター未遂が起こされ、ナポレオンは撤退する軍勢をおいて、
先にパリへ帰ってしまった。残された軍で生きているものはその年の 12 月なかば、ネマン
川をわたってロシア領を脱出した。死者、捕虜、脱走兵あわせ、実に 38 万人の兵力損失が
見積もられているので、50%以上が失われたことになる。ロシア側ではこの戦争は祖国戦
争と呼ばれている(ヒトラーのときの戦争はソ連では大祖国戦争と呼ばれている)。 《第 6 次対仏大同盟》 この大敗を見た各国は一斉に反ナポレオンの行動を取った。初めに動いたのがプロイセ
ンであり、諸国に呼びかけて第 6 次対仏大同盟を結成した。この第 6 次対仏大同盟による
ナポレオン体制打倒戦争を解放戦争とも言う。この同盟には元フランス陸軍将軍でありナ
ポレオンの意向によってスウェーデン王太子についていたベルナドット(のちのスウェー
デン王カール 14 世ヨハン)のスウェーデンも参加していた。 1813 年春、それでもナポレオンはプロイセン、オーストリア、ロシア、スウェーデン等
の同盟軍と、リュッツェンの戦い、バウツェンの戦いに勝って休戦にもちこんだ。オース
トリアの首相メッテルニヒとの和平交渉が不調に終わった後、停戦明けの 1813 年 10 月、
ライプツィヒの戦いが起こった(図 14-6 参照)。 このライプツィヒの戦いは、ナポレオン戦争における最大規模の戦闘で、諸国民の戦い
とも言われる。ナポレオン 1 世麾下のフランス軍 19 万人と、プロイセン・ロシア帝国・オ
ーストリア帝国・スウェーデンの連合軍 36 万人の間で戦いが行われ、フランス軍は 4 万人
以上の死傷者を出し、連合軍も 5 万人以上の死傷者を出した。皮肉にも連合軍の総司令官
は、元フランス軍元帥のベルナドットだった。フランス軍はフランス本土に向けての撤退
を余儀なくされた。 1855
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
《フランス帝国の終焉》
1813 年末にライン川を越えた同盟軍は、年が変わると一気にフランス領内に攻め込んだ。 フランスの北東にはオーストリア・プロイセン軍 25 万人、北西にはスウェーデン軍 16 万
人、南方にはイギリス軍 10 万人の大軍がフランス国境を固め、大包囲網が完成しつつあっ
た。一方ナポレオンはわずか 7 万人の手勢しかなく絶望的な戦いを強いられた。装備も糧
食も不十分にしか残されていなかった。1814 年 3 月末、ついに同盟軍は、ロシア皇帝とプ
ロイセン王を先頭に、パリに入城した。 パリが陥落したとき、ナポレオンは軍勢とともに、パリ南郊のフォンテーヌブロー宮に
いた。変わり身のはやい政治家たちは、すでにナポレオンを切り捨てに入っていた。その
筆頭は、策謀の士タレーランであった。4 月 2 日、元老院は皇帝の廃位を宣言し、6 日には
ルイ 18 世の即位を決定した。ナポレオンは抵抗をあきらめ、4 月 4 日退位文書に署名し、
イタリア・トスカーナ州沖のエルバ島へと配流された(図 14-6 参照)。 ナポレオンは、ローマ王だった実子ナポレオン 2 世を後継者として望んだが、同盟国側
に認められず、また元フランス軍人であり次期スウェーデン王に推戴されていたカール 14
世ヨハンもフランス王位を望んだが、フランス側の反発で砕かれ、紆余曲折の末、ブルボ
ン家が後継に選ばれ、ルイ 18 世がフランス王に即位した。 フランスにおける王政復古を成しとげた王党派にとっては 1792 年に国民公会によって王
権が停止されて以来の念願の復権であったが、長年の外国暮らしを送ってきたルイ 18 世は、
革命を進展させたフランスの現状を全く理解できず、アンシャン・レジームの復活を企て
たため、国民からはまったく支持されなかった。 ○ウィーン会議とウィーン議定書 ウィーン会議は、フランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土
分割を目的として、オーストリアのウィーンで 1814 年 9 月 1 日から 1815 年にかけて、開
催され、オーストリアのメッテルニヒ首相兼外相が議長を務めた。イギリスからはカッス
ルレー、ウェリントン、プロイセンからハイデルベルク、ロシアからアレクサンドル 1 世、
フランスからタレーランが出席した。 フランスの外相タレーランが正統主義を提唱し、フランス革命前の主権と領土を正統と
し、革命前に戻ることを説いた。革命前のブルボン家のフランス、スペイン、ナポリ、シ
チリアでの復位を意味していた。フランスは敗戦国でありながら会議に出席を許され、タ
レーランは列強の対立を利用した巧みな外交手腕をもってフランスの利益を守った。 しかし各国の利害が衝突して数ヶ月を経ても遅々として進行せず、
「会議は踊る、されど
進まず」と揶揄された。 1815 年 3 月にナポレオンがエルバ島を脱出したとの報が入ると、驚愕した列強各国は、
1856
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ひとまず各国の間で妥協を成立させ、1815 年 6 月 9 日にウィーン議定書(後述)を締結し
た。そして再びナポレオンを法の外におくことを宣言して、ナポレオンの押さえ込みにと
りかかった。 《エルバ島脱出と百日天下》 1815 年 2 月 26 日、1000 人たらずの手勢を引き連れたナポレオンは、エルバ島を脱出し、
3 月 1 日にカンヌ近くに上陸した。ナポレオンの下には、かつての子飼いの将軍たちの多く
が参集した。また時代遅れのルイ 18 世に愛想をつかしたパリ市民、兵士もこれを歓迎し、
瞬く間にナポレオンはパリへ入城を果たした。 ナポレオンは自由主義的な新憲法を発布し、自身に批判的な勢力との妥協を試みた。そ
して、連合国に講和を提案したが拒否され、結局、戦争へと進んでいった。 各国の連合軍は、ベルギー地方にイギリス軍とプロイセン軍が、ライン方面と北イタリ
アにオーストリア軍が展開して、広範囲なナポレオン包囲網を形成した。 全ヨーロッパを敵にまわしてのナポレオンの最後の賭は 1815 年 6 月 18 日、ワーテルロ
ーで行われた(図 14-6 参照)。12 万 5000 人の軍勢を率いてベルギーに攻め込んだナポレ
オンは、オーストリアとロシアの援軍がこないまえにウェリントン率いるイギリス軍 9 万
人と、ブリュッヒャー率いるプロイセン軍 12 万人を別個にたたこうとして、まずイギリス
軍に狙いを定めた。しかしイギリス軍はよくもちこたえた。ナポレオンは味方のグルーシ
ー将軍率いる援軍を待った。しかし姿をみせたのは、プロイセン軍だった。ナポレオンの
運はつきた。戦線の混乱と壊滅から、ナポレオンはかろうじて脱出し、6 月 21 日、パリに
帰還した。 抗戦を主張するナポレオンをしりぞけ、議会は退位をせまった。街頭には「皇帝万歳」
とパリの民衆がナポレオンを待っていた。しかしナポレオンは「一揆の王になることは、
余の望むところにあらず」と。すべては終わりだった。翌 22 日、ナポレオンは退位に同意
した。 豹変する無節操な策士フーシェとタレーランが暗躍して、またもや王政復古となった。
ナポレオンの復帰は「百日天下」(実際は 95 日間)で終わった。 今度は赤道直下の大西洋の孤島セントヘレナ島へと配流され、このナポレオンの完全な
失脚により第 1 帝政(第 1 帝国)は崩壊した。監視下におかれたナポレオンがこの地で息
を引きとったのは、1821 年 5 月 5 日であった。その遺骸は 1840 年にフランスに返還され、
現在はパリのオテル・デ・ザンヴァリッド(廃兵院)に葬られている。 《200 万人の血を流したナポレオン戦争》 ナポレオンとは何だっただろうか。ナポレオンの帝政は、フランス革命で土地を所有し
た農民の保守性をたくみに利用しつつ、革命で勝利を担ったブルジョワジーの支配体制を
1857
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
軍事力で保障することによって成立・維持されたものであった。つまり、ナポレオンの卓
越した才能も、フランス革命の成果のうえにたってはじめて生かされたのであるが、時代
に逆行して専制君主化したナポレオンは、その個人的欲望のためにフランスを私物化し、
多く(200 万人)の人民の血を犠牲にした。 しかし、ナポレオンの波乱に富んだ生涯は、時を経るにつれて神秘のヴェールにつつま
れてナポレオン伝説を生み、やがてフランス国民のあいだにナポレオン崇拝熱を高めてい
った。そして、
(一世代後に)その伝説の背光のうちにナポレオンの甥がフランスに君臨し、
第 2 帝政を開くのである。 ○ウィーン議定書 1815 年 6 月 9 日に調印されたウィーン議定書において、主要国は以下のようになった(図
14-8 参照)。 図 14-8 ウィーン会議後のヨーロッパ 《フランス》
ブルボン家の王が復位し、フランス革命前の状態を回復した(フランス復古王政)。
《オーストリア》 ロンバルディアとヴェネツィアを獲得し、オーストリア皇帝が王を兼ねるロンバルド・
ヴェネト王国とした。ライン同盟を廃止した。35 の君主国と 4 自由市でドイツ連邦を構成
し、オーストリアが盟主となった(ドイツ連邦は 1866 年まで存続した)。 《プロイセン》 ザクセン王国の北半分、ワルシャワ大公国の一部、ラインラント、旧ルクセンブルク公
領の一部、オラニエ・ナッサウ家のドイツ内の所領を獲得した。スウェーデンから西ポン
1858
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
メルンを獲得した。 《ロシア》 ロシア皇帝が大公を兼ねるフィンランド大公国が承認された。オスマン帝国からベッサ
ラビアを獲得した。ワルシャワ大公国の大部分をポーランド立憲王国とし、ロシア皇帝が
王を兼ねる事実上のロシア領とした(第 4 次ポーランド分割といわれる)。 《イギリス》 フランスからマルタ島を獲得した。オランダからセイロン島(スリランカ)とケープ植
民地を獲得した。 ○ウィーン体制 ウィーン会議の結果成立したヨーロッパにおける国際秩序はウィーン体制と呼ばれた。
ウィーン体制は、正統主義・保守主義に加えて、イギリスの主張する勢力均衡も原則の一つ
であった。このウィーン体制によって、19 世紀末から 20 世紀はじめの過去 20 年のほとん
どを戦争に明け暮れていたヨーロッパ諸国はやっと、どうにか勢力の均衡状態をとりもど
す形に編成し直された。 いずれの国も、かつてのナポレオンとは違ってヨーロッパに自国の意志を押しつけるほ
どの力をもってはいなかった。「封じ込めと相互補償」の二つが原則とされ、1 国によるヨ
ーロッパ支配がありえないことを示していた。そして、わずかばかりの領土のやりとりさ
え、会議のメンバー多数の承認をとりつけなければ実現しなかったのである。 一方で、ウィーン体制の基本理念はヨーロッパの協調にあり、国家間の諸問題の解決に
外交努力を惜しまなかったことから歴史的にみても比較的長期(大きな戦争がなかったと
いう意味では第 1 次世界大戦まで 100 年間)の安定をヨーロッパにもたらした。 このウィーン体制は、フランス革命以前の状態を復活させ、大国の勢力均衡をはかり、
神聖同盟、四国同盟の列強を中心に、1820 年代までは自由主義・国民主義運動を押さえ込
んだ。その意味ではヨーロッパ絶対王政がそのまま延長されていた。 しかし、産業革命による市民生活の発展や大国間の利害関係の複雑化、あるいは 1830 年
前後のギリシャ独立戦争、フランス 7 月革命などの動揺などから次第に枠組みが揺らぎ始
め、1848 年革命後に大国の被支配地域を中心にナショナリズムが先鋭化すると、体制を支
えていた同盟国同士が自国の利益のみを追求するようになり、結局クリミア戦争(1853~
1856 年)を回避することができず崩壊することになった。 《植民地、海外市場で一人勝ちしたイギリス》 一方、海上では海軍力にまさるイギリスがほとんど他にならぶもののない覇権を確立し
ており、他の大国よりはるかに進んだ経済力を支えとして、ますます力を伸ばしていた。
ナポレオンによる戦争でヨーロッパ大陸地域は 20 年間、混乱し続け、大陸の諸国はこれに
1859
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
専念しなければならなかったが、この間に島国であるイギリス一人、世界の植民地、海外
市場を独占することができた。皮肉なことをいえば、イギリスを倒そうとしたナポレオン
が、大陸で暴れまわってくれたことが、19 世紀のイギリスの世界市場征服に貢献したとも
いえよう。しかも、ウィーン会議の正統主義も勢力均衡論も海外市場については、誰もふ
れることはなかった。 イギリスは 1815 年にはヨーロッパの植民地のほとんどを支配し、海上ルートを抑え、利
益の大きい輸出貿易を一手に引き受けて、工業化でも他の国を大きく引き離し(産業革命
は 18 世紀半ばからはじまっていた)、1 人当たり国民所得ではすでに世界最高の地位を占め
ていた。次の半世紀の間に、イギリスはさらに豊かな国へと成長し、世界の貿易に絶対的
な支配力をもつ国として君臨することになるが、そのもとは、このナポレオン時代にあっ
た。 【14-2-2】フランス 【①1815 年、ブルボン朝】 1815 年の王政復古により王位に就いたルイ 18 世は、フランス革命による成果を全く無視
して、時代錯誤も甚だしい反動的な政治を行った。この復古王政による政権は、アンシャ
ン・レジーム(旧体制)よろしく、貴族や聖職者を優遇する政策をとり、市民たるブルジ
ョワジーの不満は当然高まることになった。 フランスはあたかも革命以前の状態に逆行してしまったようであり、ルイの後を継いだ
弟シャルル 10 世も、言論の弾圧、旧亡命貴族の保護の強化などを始めた。とりわけ、旧貴
族がフランス革命の際に被害を受けた城館(シャトー)の代償のために 10 億フランの資金
を、国庫負担にする法律の制定は、市民階級の不満を高めた。 シャルル 10 世は国内の不満を逸らす目的で、1830 年 7 月にアルジェリア侵略を始めた。
その口実は(口実は何でもよかったが)、1827 年にオスマン帝国のアルジェ太守フサイン・
イブン・パシャが、自分を愚弄した駐フランス領事に腹を立て彼の頬を扇で叩くという「扇
の一打事件」があったが、これが蒸し返されて使われた。この事件を口実に、フランスは
アルジェリア侵略を決行した。 1830 年 6 月、ブルモン将軍率いる 3 万 7000 人のフランス軍はアルジェリアに上陸し、ア
ルジェのカスバでフサイン・イブン・パシャの軍と交戦し、これを破った。7 月初め、フサ
イン・イブン・パシャは降伏した。このあと、フランスでは 7 月 29 日には七月革命が起こ
り、シャルル 10 世は退位したが、アルジェリア侵略という彼の「業績」(?)は次の政権
にも引き継がれた。 1860
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
フランスからの移民がアルジェリアに送り込まれるなどフランス支配の既成事実が作ら
れ、1834 年には早々とフランスに併合された。このアルジェリアの植民地化は、再び(ア
メリカ新大陸の植民地をほとんどイギリスに奪われてしまっていたが)フランスの植民地
時代のはじまりとなった。これ以後、このささいなことからアルジェリアを侵略して 132
年間、アルジェリアはフランス本国ともっとも密接な植民地としてその圧制下におかれた
(アルジェリアの独立は 1962 年となった)。 このアルジェリアの植民地化でヨーロッパ以外の国が容易に植民地化できることがわか
った。つまり、ヨーロッパ諸国とヨーロッパ以外の国との間にが軍事的に大きな格差があ
ることがわかったフランスは、ここを起点として図 14-55 のように、19 世紀を通してアフ
リカの植民地化を進めていくことになる(創造と模倣・伝播の原理で、他の欧米列強も植
民地獲得に奔走するようになる)。 話は少し返るが、シャルル 10 世は、アルジェリア侵略に成功しても、国内の不満は治ま
らなかったので、ついに議会を強制的に解散させ、大幅な選挙権の縮小を命ずる勅令を発
したところ(七月勅令)、火に油を注ぐ結果となった。 1830 年 7 月 27 日、学生、労働者を中心にしたパリ民衆が立ち、パリで市街戦が始まると、
鎮圧軍はじりじりと後退してテュイルリー宮殿、市庁舎を相次いで占領され、29 日にはル
ーブル宮殿が民衆の襲撃によって陥落し、国王は驚き、七月勅令の破棄と内閣総辞職を決
めたが、時すでに遅かった。1830 年 8 月 2 日、ギロチンを怖れた国王シャルル 10 世は退位
し、ランブイエ城からオーストリアに亡命した。これが七月革命であった。 【②1830 年、七月革命と七月王政(立憲君主政)】 この七月革命でブルボン朝の復古王政が倒れ、ルイ・フィリップがかつぎだされた。ル
イ・フィリップの父は、フランス革命でギロチン台に消えたオルレアン公ルイ・フィリッ
プ 2 世で、父の処刑後、海外へ亡命し、ナポレオン失脚後の 1814 年に帰国していたので、
ルイ・フィリップは自由主義者とみなされていた。そこでラ・ファイエットら自由主義者
や大資本家、銀行家をはじめとするブルジョワジーに擁立されて国王となり、七月王政が
成立したのである。 ルイ・フィリップ 1 世(1773 年~1850 年。在位:1830~48 年)は、責任内閣制を導入し
てティエールやギゾーらを首相に登用した。 まず、対外政策においては、前述の 1830 年に始まるアルジェリア出兵を引き継ぎ、1834
年にはアルジェリアを併合し、これに味をおぼえたフランスは以後、植民地獲得政策を積
極的に進めるようになった。 1861
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
極東では、イギリスにアヘン戦争で敗れた清に対して 1844 年に黄埔条約を自国に有利な
形で締結し、海禁政策を採るインドシナの阮朝大南国に対しては 1847 年にダナン港を砲撃
して圧力をかけた。一方、2 度のエジプト・トルコ戦争ではいずれもエジプトを支持して地
中海地域への影響力の強化を狙ったが、1840 年のロンドン条約で列強にこれを阻止される
など、ヨーロッパでは東方問題をめぐって国際的に孤立した。 ○フランスの産業革命 18 世紀半ばからイギリスではじまった産業革命は、創造と模倣・伝播の原理により、ド
ーバー海峡をこえて、ナポレオン時代にフランスにも入ってきていたが、フランスの産業
革命は七月王政の時代にもっとも進行した。その産業革命は、絹織物工業から開始され、
その中心はリヨンであり、最初の鉄道開通区間も、1832 年にリヨン~サン・テティエンヌ
間であった(図 14-9 参照)。 図 14-9 フランス鉄道網の発達 山川出版『フランス史』 フランスの産業革命はイギリスに比して緩慢に進行したが、それでも繊維産業を中心と
する一部の工業都市での労働者の状態は惨憺たるものであった。たとえば、北仏フランド
ルの中心都市リール(図 14-9 参照)では人口の半数が労働貧民であり、不衛生きわまり
ない紡績工場で 15 時間も働いたのち、さらに環境劣悪なスラム街で寝泊まりする生活を強
いられていた。あの産業革命期のイギリスの労働者街(後述)と同じ状況がフランスでも
発生していたのである。 リールのサン・ソヴール地区を調査した経済学者ブランキは「この都市の工業人口のか
なりの部分は、地下 2,3 メートルの穴倉住居に住んでいる。この穴倉には、表通りから登
り降りする階段を通じてしか空気も日光も入らない。・・・その路地は下水溝であると同時
にゴミ捨て場として用いられ、年中じめじめしている。・・・蒼白く土気色したひ弱な子供
1862
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
たち、くる病を患った子供たちの一群が訪問者を取り囲み、施しをせがむ。そこにはやせ
こけて透いて見えんばかりの身体をした女たちがいる。そこには長く苦しんで死ぬために
のみ生まれてくる数千の子供たちがいる」と義憤をこめて記している。あの産業革命期の
イギリスの労働者街と同じ状況がフランスでも発生していたのである。 程度の差はあれ、リヨンのクロワ・ルス地区やパリの木賃宿でもスラム街の事情はリー
ルと似たようなものであった。当時の労働問題は都市問題としても現れていた。とりわけ
パリでは農村からの人口流入が激しく、都市機能が麻痺しかかっていた。彼らの生活するス
ラムは肺結核やくる病、コレラやチフスの巣窟であった。1832 年のコレラ大流行のときに
は、パリでは 1 万人以上が死亡、ときの首相カジミール・ペリエの命をも奪った。 脅威にさらされたのは底辺労働者だけではなかった。機械の導入は旧来の小親方や職人
層、競争力の弱い中小企業家層の没落を意味していた。 対岸のイギリスで進行しつつあっ
た事態はフランスにも誇張して伝えられ、恐怖を感じさせていた。このように、七月王政
下のフランス社会は、未完に終わったフランス革命の残渣(ざんさ)とイギリス産業革命
の波及という二つの革命の余波に翻弄されていた。この危機をのりこえるための新しい処
方箋が求められるとともに、さまざまの社会運動が試みられねばならなかった。 1830 年から 40 年代のフランスでは、この新しい社会問題に対する処方箋を競い合うかの
ように、さまざまな「社会主義」的改革プランが提起された。いわゆるフランス初期社会
主義といわれる諸潮流である。 ◇サン・シモン フランスでもっとも早かった社会主義思想家はサン・シモン(1760~1825 年)であろう。 彼は社会における経済の役割を重視して、合理的に経済が統制された搾取のない理想社会
を構想した。それは旧社会とは違って、資本家や科学者や労働者など産業者が自主的に管
理・支配する産業社会であり、このような社会が人類の解放を実現すると考えた。 彼の諸説は後代の社会主義学説の発想をほとんど含んでいた。彼の影響を受けたサン・
シモン派は、「一般銀行制度」によって敵対と競争をやめさせ、人と人を信用体系で結ぶ
「普遍的アソシアシオン」の輪を全ヨーロッパに広げていくことを主張した。彼らの協同
社会は「科学者、産業家、芸術家」などの有能者(エリート)によって指導される、産業
発展に適合的な国家形成の核となるものであった。 サン・シモンは生前にはあまり注目されなかったが(彼は晩年には貧困に苦しみ、1823
年自殺を企てている)、弟子のアンファンタンとバザールなどによって、「サン・シモン
主義」と称する半ば宗教的な教説として、世界の社会思想に影響を与えた。サン・シモン
の社会研究の態度は、高弟コントに受け継がれ、実証主義社会学として結実していった。 1863
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
産業主義と有能者支配にもとづいたサン・シモン派のアソシアシオン論は、イギリスの脅
威におびえ資金不足に悩んでいた企業家たちから、社会問題に関心を寄せる学生・知識人層
に至るまで幅広い支持をあつめた。 サン・シモン主義を信奉する実業界のサン・シモニアンたちは、後の第 2 帝政期を中心
に産業界、政界で大きくはばたくことになった。彼らの主張は社会主義というより、むしろ
国民経済の合理的再編という時代の課題に適合していたのである。サン・シモン主義はカ
トリックの国フランスにおける資本主義に適合していたかもしれない。 ◇ビュシェ ビュシェはサン・シモン派からでて、カトリック的社会主義の祖といわれている。彼は労
働者生産協同組合の形成を主張し、国家よりも労働者自身のイニシアティヴを重視するも
のであった。七月王政を富の不平等を拡大、放置する「レッセ・フェール」の体制だと批判
し、「社会的共和国」のもと自主管理的な労働者アソシアシオンによって搾取のない社会を
実現しようと呼びかけた。もちろん、カトリック的献身と友愛のモラルがこのアソシアシ
オンの紐帯とされていた。 ◇エチエンヌ・カベ エチエンヌ・カベはユートピア的共同体の建設によって搾取のない平等な社会「イカリ
ア共同体」を提唱した。カベ派の共産主義は、秘密結社ではなく普通選挙権運動を通じた民
主的共和国の実現という合法手段によって「友愛と平等の全国的アソシアシオン」を展望
する点に特色があった。彼の主張は 1840 年代には都市の職人的労働者の間に浸透した。 ◇フーリエ フーリエ(1772~1837 年)は裕福な商人の家に生まれたが、9 歳の時に父を亡くし、彼
は家業を継ぐためにヨーロッパを移り歩く徒弟修業を強いられた。雇われ店員や行商人を
続けながら、1808 年に代表的な著作である『四運動の理論』を執筆・刊行した。この中で
フーリエは、宇宙には物質的、有機的、動物的、社会的運動の 4 つの運動があるとし、彼
は社会的運動において物質的世界におけるニュートンの万有引力の法則に匹敵する「情念
引力の理論」を発見したと宣言した。 フーリエはこの情念引力論に依拠した 1620 人から成る農業アソシアシオン(共同体)の
建設を提唱した。その協同体は国家の支配を受けず、土地や生産手段は共有とした上で、
1620 人程度を単位として数百家族がひとつの協同体で共同生活をする。基本的に生活に必
要なものは自給自足とする。また、労働活動を集約することで労働時間を短縮する、とい
った提案であった。 1864
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
フーリエ派やカベ派はイエスと原始キリスト教を高く評価し、二月革命後にはともにア
メリカに新天地を求め、フーリエ派はテキサス、カベ派はイリノイ州ノーヴーへと旅立っ
た。 ◇ルイ・ブラン 二月革命で史上初の社会主義閣僚となったルイ・ブラン(1811~82 年)は、その著書『労
働組織論』(1840 年)において、競争=無秩序な生産に諸悪の根源をもとめ、民主的国家
による労働の組織化の必要性を説いた。 要は普通選挙によって成立した民衆の政府が「社
会作業場」を組織し、職域ごとに漸次、単一のアソシアシオン(共同体)に統合していく
ことによって生産の制御をはかろうというものであった。 しかし、現実は理論通りにはいかないもので、彼の理論で政府が設立した国立作業場に
は、何万もの失業者がおしかけ、国家予算が膨大となり、それでなくても増税で評判が悪
かった政府をますます窮地に追い込まれた。彼も 1849 年 4 月の選挙で落選し、政府は国立
作業所の廃止を決定したが、パリ民衆が 6 月に武装蜂起を起こして鎮圧されたことは後述
する。 彼の「各人がその才能に応じて生産し、その必要に応じて消費する」という言葉は、言
葉ざわりがよくて、のちの共産主義者にも影響を与えたが、これを実現することは容易な
ことではないことを彼ら共産主義者も後に思い知らされることになった。 ○有権者率は国民の 0.2% このように産業革命により多くの競争力の弱い中小企業家層や悲惨な労働者層が発生し、
大ブルジョワの利益を代表する七月王政に対して不満をもつものが増大していった。とく
に上層ブルジョワジーだけの制限選挙に対する不満が強かった。1831 年 4 月の選挙法は、
有権者資格を直接税納入額 200 フランに、被選挙権を 500 フランに切り下げたが、これは
当時の人口約 3200 万人中 16 万 7000 人、つまり全人口の 0.5%を「法定人口」と認定したに
過ぎなかった。これではフランス革命前と同じだった。 民衆の不満が高まる中で、1847 年に首相になった歴史家ギゾー(1787 年~1874 年。『フ
ランス文明史』などの優れた歴史書を著わした)は、国民の間から選挙権を求めるデモが
発生したら、
「選挙権が欲しければ金持ちになればいいのだ」と言って、反政府派議員によ
って再三、提起された選挙権拡大の動議も、むなしく否決し続けた。 【③1848 年、二月革命と第 2 共和政】 1848 年 2 月 22 日開催予定の改革宴会(宴会名目の政治集会)が政府によって開催禁止処
分を受けると、2 月 23 日、一夜があけたパリの要所はバリケードで埋まっていた。ルイ・
フィルップはあわててギゾーを解任したが遅かった。同夜、国民衛兵の合流を得て意気あ
1865
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
がるデモ隊に対して、正規軍が一斉射撃をあびせ、数十人の死者を出したとき、デモ隊は
血まみれの若い女性の死体にたいまつの火をかざしながら葬送行進をつづけた。 翌 24 日朝には、150 ものバリケードがパリをおおい、戦場だった。市庁舎やテュイルリ
ー宮が相次いで民衆の手に落ちた。 王宮になだれ込んだ民衆はルイ・フィリップの玉座を
窓から放り出し、バスティーユ広場まで担いで行って焼き払った。その日、ルイ・フィリ
ップは退位してイギリスに亡命した。これが二月革命だった。 1848 年、二月革命によりルイ・フィリップが亡命したことで、七月王政は終焉し、第 2
共和政へと移行した(第 1 共和制とは、フランス革命の 8 月 10 日事件でブルボン王政を打
倒して成立した国民公会によって出された共和国宣言の 1792 年 9 月 21 日から 1804 年 5 月
18 日まで)。 自由主義者だけでなく社会主義者を含む 11 人によって臨時政府が樹立されると、臨時政
府は、生存権・労働権・結社権などの諸権利を承認したほか、パリ民衆と社会主義者の強
い要求を踏まえて「国立作業場(国立工場)」の設立が定められた。また、言論・出版の
自由が保障され、200 以上の新聞が発刊されることになった。ヴィクトル・シュルシェール
の働きによって 4 月 27 日に奴隷制度の廃止の政令が発せられた。 ○ヨーロッパ最初の普通選挙 1848 年 3 月初旬、憲法制定国民議会の開催にむけて、選挙に関する法令が示され、その
内容は男子普通選挙を定めており、21 歳以上かつ同じ市町村に 6 ヶ月以上居住している者
が参政権を認められた。これにより、有権者は七月王政下の 25 万人からいっきょに 900 万
人増加した。女子が除かれた選挙制度を「普通選挙」と呼ぶのは問題であるが(フランスで
女子の参政権が認められたのは第 2 次世界大戦後)、成人男子が差別なく政治参加すると
いう近代社会の原則が他に先駆けて確認されたことの意味は大きかった。 この 1848 年 4 月の選挙が、ヨーロッパ史上最初の普通選挙となった(フランス革命時の
ジャコバン憲法でも普通選挙が採用されたが、これは実施されなかった)。投票率 84%で、
880 人の議員によって議会が発足した。社会的共和派の悲願とも言うべき男子普通選挙制の
導入は、皮肉にも彼らを権力から遠ざける結果をもたらした。彼らが確保したのはおよそ
100 人に過ぎなかった。 急進的パリの独走に、地方の農村的フランスがブレーキをかけたのである。そもそも社
会主義に共感を抱く層は地方には少なかったうえ、パリでもかつてのフランス革命のよう
な急進的・ジャコバン的な展開への恐怖感があったことから、社会主義者は議会に進出す
ることができなかった。また、そもそも全国で選挙を行い各地の総意に基づいて政治を運
営するということが、今まで直接行動に訴えて革命の担い手となってきたパリ市民の地位
1866
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
を相対的に低下させることにもなった。こうしてブルジョワ共和派が大勝、社会主義派は
敗北し、ブルジョワ的共和政府が樹立された。 ○六月蜂起(六月暴動)―市民革命の時代の終焉 自らの政治的主張を実現できないと考えた左翼陣営は、徐々に直接行動を激化させてい
った。そして、国立作業場が閉鎖されたことを契機に、パリの労働者が大規模な武装蜂起
を起こした。これがいわゆる六月蜂起(六月暴動)である。4 日間の流血戦を経て蜂起は鎮
圧され、政府・労働者の両陣営あわせて 5000 人以上の死者を出した。 この事件により、それまで共闘してきたブルジョワと労働者の関係が決裂した。政府側
を支持するブルジョワは、反政府的な労働者による社会主義革命を警戒するようになり、
これまでのように革命の担い手にはならなくなった。むしろ、社会の安穏を求めて保守化
した政府を支持するようになった。こうして、市民革命の時代は終焉へと向かった。 《第 2 共和国憲法の制定と大統領選挙》 六月蜂起の鎮圧後、暫定的に政治を担ったのが軍人カヴェニャックであった。この間、
憲法制定国民議会は憲法の草案を完成させ、1848 年 11 月 4 日に議会で採択され、12 日に
公布された。その第 2 共和国憲法(大統領制などを規定)に従って大統領選挙が 12 月 10
日に行われた。 大統領選挙は、ルイ・ナポレオン(1808~73 年)553 万票(74.3%)、カヴェニャック
145 万票(19.5%)とルイ・ナポレオンがナポレオン 1 世の甥という出自を生かし、各層の
幅広い支持を得て当選を果たした。 1849 年 1 月 29 日、ルイ=ナポレオン大統領は憲法制定議会を軍事力で解散し、これより
右傾化していった。翌 1850 年、新しい選挙法が制定され、内容は 3 年以上同一地区にいる
ものにのみ選挙権を与えるもので、急進的労働者の封じ込めが目的であった。同年 6 月 9
日、集会結社が禁止され、7 月 11 日には新出版法により検閲が復活した。 さらに 1851 年 12 月 2 日、ルイ=ナポレオン大統領は自らクーデターを起こし、国民議
会を解散して議会メンバーを拘束した。普通選挙と憲法改正を提案し、国民投票の結果、
大統領提案が可決され、クーデターは合法化された。さらに 1852 年 11 月 22 日、国民投票
でルイ=ナポレオンの皇帝即位が可決された。同年 12 月 2 日、皇帝ナポレオン 3 世として
即位し、第 2 帝政の始まりとなった。結局、第 2 共和政はナポレオン 3 世をつくりだす役
割しか果たさなかった。 【④ナポレオン 3 世の第 2 帝政】 ナポレオン 3 世の政治は、民主政治のかたちをとった独裁政治で、ブルジョワとプロレ
タリア勢力との均衡のうえにたち、保守的な多数の農民を基礎としながら、有産階級の政
1867
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
治支配体制を確保しようとするものであった。このような政治形態をボナパルティズムと
いう。 ナポレオン 3 世の統治の前半は、クリミア戦争、アロー戦争などあいつぐ外征の成功を
通じて自らの威光を高め、その一方で、言論・出版の自由を制限するなど権威主義的な統
治体制であったが、労働立法を通じて労働者の支持も勝ち取りつつ、工業化を推進させる
ことで新興のブルジョワジーの期待にも応えた。また、大規模なパリ市の改造計画を推進
させ、図 14-9 のように、フランス各地を結ぶ鉄道網を整備するなど、大規模なインフラ
整備を通じて工業化を推進した。この際に創出された雇用は失業者の救済にもつながった。 ○クリミア戦争に参戦 ナポレオン 3 世の政治の特徴がよく出ているのは内政より外交であった。ナポレオン 3
世は 1853 年に勃発していたクリミア戦争に翌年より介入し、かつてモスクワ遠征でナポレ
オン 1 世を返り討ちにしたロシアに対して勝利をおさめた。1856 年にはパリで講和会議を
開催するなど中心的な役割を果たし、帝国内外に彼の威光を知らしめた(クリミア戦争に
ついては、ロシアの歴史で述べる)。 ○中国・アロー号戦争に参戦 1856 年、アロー号事件を口実にイギリス首相パーマストンは中国に出兵したが(アロー
号事件については、イギリスの歴史で述べる。事件は中国の合法的措置であったことがわ
かっている)、イギリス首相はフランスのナポレオン 3 世に共同出兵を求め(フランスは
まったく関係なかったが)、フランスはこれに応じ、英仏連合軍は、広州、天津を制圧し、
1860 年に北京に迫り、壮麗な円明園を廃墟と化した(図 14-49 参照)。 北京条約で一方的な通商上の利権を獲得するとともに、英仏は 800 万両の賠償金の獲得、
天津の開港など多くの利権を獲得した。さらにイギリスは九竜半島の一部の香港島も獲得
した。中国の弱みをついて講和を仲介したロシアも沿海州を獲得する始末だった。いずれ
にしても、アヘン戦争についで、ヨーロッパ列強の中国侵略が開始された。 フランスは、七年戦争やナポレオン戦争でインドやアメリカなどでイギリスに敗れて植
民地経営からいったん手を引いていたが、再び積極的にアフリカやアジアを侵略して植民
地帝国の基礎をかためていったのはほかならぬこのナポレオン 3 世のときであった。ナポ
レオン 3 世は、ヨーロッパ以外のいわば近代軍事技術がおよばない(軍事的に弱い)アジ
ア・アフリカ諸国への進出を積極的に行い、帝政への国民的支持をとりつけるのに成果を上
げた。 ○チュニジア、モロッコ、セネガルを植民地に まず、1850 年代のアルジェリアでは民族反乱が続いたが、ナポレオン 3 世はこれに乗じて
サハラ、カリビアを占領し、フランス人入植者(コロン)がつぎつぎと原住民の土地を奪
1868
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
って行った。チュニジアやモロッコ、セネガルに対しても財政借款などをてこに手をのば
した。このようにアルジェリアからはじまったアフリカ植民地を確実に伸していったが(図
14-55 参照)、もうひとつの侵略の柱をインドシナ半島に立てた。 ○コーチシナ(南ベトナム)を植民地、カンボジアを保護国に ナポレオン 3 世はフランス宣教師団の保護を目的に 1858 年に遠征軍を派遣し、まずベト
ナム中部のダナンに上陸、ついでサイゴンに転じ、1862 年にコーチシナ(南ベトナム)を
植民地とし、海軍植民地省の管轄下にコーチシナ総督を設置した。1863 年、ベトナムとタ
イに侵略されつつあったカンボジアがフランスに援助を求め、フランスの保護国になった。
第 2 帝政下で、フランスの植民地面積は 3 倍にも拡大した(図 14-53 参照)。ナポレオン 3
世は後述するように 1870 年の普仏戦争に敗れて失脚するが、フランスのインドシナ侵略は
その後も続いた。 フランスは、幕末期の日本にも進出し、駐日大使レオン・ロッシュを通して江戸幕府を
支援した。このときは、イギリスが薩長につき、日本も危なかったが、ナポレオン 3 世の関
心はまだインドシナにあったようだ。とりあえずは、1858 年に鎖国日本から強引に開港を
引き出して日仏修好通商条約を結んだ。 ○イタリア統一戦争に介入 かつてのナポレオンがそうであったようにヨーロッパにおけるナショナリズムの擁護者
であろうとし、1859 年のイタリア統一戦争にもサルデーニャ王国を支援して参戦した(た
だし、途中でサルデーニャの意向に反しオーストリアと単独講和を行なった。イタリアの
歴史で述べる)。 ○メキシコ帝国を樹立 ナポレオン 3 世は次にメキシコに食指を伸した。メキシコでは 1861 年、アメリカの支援
を受け内乱をおさめたフアレスが大統領に選ばれた。1861 年 10 月にロンドンにおいてメキ
シコの主要債権国であるイギリス、スペイン、フランスが会議を行い、フランスはアメリ
カが南北戦争のさなかで手出しできなかったことを幸いに、イギリス、スペインを誘って
メキシコに出兵した。イギリス、スペインはフアレスの債務返済に関する提案を了承し撤
退したが、フランスは 3 万人の増援部隊を送り込み、翌 63 年 6 月にメキシコシティを占領
した。 1864 年 4 月、ナポレオン 3 世の要請で、オーストリア皇帝の弟マクシミリアンを傀儡皇
帝にすえてメキシコ帝国が成立したが、フアレスを支持するメキシコ民衆の執拗なゲリラ
戦にあって立ち往生した。フアレスは、南北戦争を終えたアメリカの援助のもとで徹底抗
戦を続け、アメリカもフランスに強硬に撤兵を申し入れてきた。 1869
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
利あらずとみたナポレオン 3 世は撤兵を決定し、1867 年 3 月、メキシコ撤退を完了した
が、引き揚げを拒否したマクシミリアン 1 世は逮捕され銃殺された。フアレスは 7 月に共
和制の復活を宣言し、12 月に行われた選挙では大統領に再選された(フアレスはメキシコ
先住民最初の大統領で、現在でも「建国の父」として尊敬されている)。一方、フランスは、
まったくナポレオン 3 世の個人的野心によるメキシコ遠征で、3 億 3600 万フランの戦費と
6000 人以上の兵士を失い、ナポレオン皇帝の外交的栄光は地に墜ちた。 ○命取りとなった普仏戦争 ナポレオン 3 世はメキシコ出兵失敗の名誉挽回のために仕掛けたのが普仏戦争だったが (仕掛けたつもりが、実はプロイセンのビスマルクに仕掛けられていたが)、これがナポレ
オン 3 世の命取りとなった。これは、まったくナポレオン 3 世の外交的稚拙性をビスマル
クに読まれた結果起きた戦争であった。ビスマルクのしかけたエムス電報事件は、省略す
るが(プロイセンの歴史で述べる)、この罠にはまったパリ民衆の「プロイセンをたおせ!」
という強い世論に流されるまま、ナポレオン 3 世は 7 月 14 日に開戦を閣議決定し、1870 年
7 月 19 日にプロイセンに宣戦布告をした。ベトナムなどアジアだけを相手にしていたナポ
レオン 3 世は独仏の戦力も考慮せず、まんまと引っ掛かったのである。こんなことで普仏
戦争が始まってしまった。 52 万の兵力、質量とも優勢な火器、円滑な輸送・兵站など準備万端整えられていたドイツ
軍に対して、大砲を半分以下しか持たぬ 30 万のフランス軍は、兵站部の準備が遅れたまま
戦争に突入した。ヨーロッパ最強というフランス軍の自負が虚構であったことを露呈する
のに時間はかからなかった。早くも 8 月、アルザス・ロレーヌに侵攻したドイツ軍は連戦
連勝、月末にはフランス主力軍をメッスとスダンに分断して追い詰め、包囲の態勢を整え
た。 1870 年 9 月 1 日スダンで総攻撃を受けたフランス軍は 1 万 7000 人の死傷者を出し、翌 2
日にはナポレオン 3 世は 8 万 3000 人の将兵とともに降伏し、捕虜となった。フランス自身
が宣戦布告してから 45 日後だった。 9 月 4 日、この報を受けたパリでは蜂起が起こり、第 2 帝政はあえなく瓦解、穏健共和派
を中心とした臨時国防政府が成立した。フランス第 2 帝政は幕を閉じ、一時期を除き 900
年もの長きにわたって続いた(フランス革命でも生き残った)フランスの君主支配が終わ
った。 【⑤第 3 共和政】 1870
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ナポレオン 3 世がセダンで捕虜になったとの報を受けて、9 月 4 日にトロシュ将軍を首班
として国防政府(臨時政府)が成立した。臨時政府は 1871 年 1 月 26 日ついに降伏し、正規
軍は全員捕虜となり、28 日にパリは開城された。 国民議会選挙が 1871 年 2 月に行われ、ボルドーで国民議会が開催されると、ティエール
が行政長官に選ばれた。ティエールがドイツと交渉にあたり、2 月 26 日に仮講和条約が締
結された。フランスは 50 億フランの賠償金を向こう 3 年間で支払い、アルザスの大半とロ
レーヌの 3 分の 1 をプロイセンに割譲するという条件をのまざるをえなかった。 ○独仏報復の連鎖 3 月 1 日、勝ち誇ったプロイセン軍がパリに入城しシャンゼリゼを行進し、凱旋門を通っ
た。この凱旋門は 60 数年前、ナポレオン 1 世がプロイセンに課したあの苛酷な賠償金でつ
くったものだった。プロイセンはその屈辱と怨念をここに晴らしたわけである。 報復と言えば、プロイセンのパリ入城より 1 ヶ月以上も前に、フランス人はこれ以上な
いと思われる屈辱感を味わっていた。1871 年 1 月 18 日、まだパリ市民が砲撃を浴び続けて
いるさなかに、占領されたヴェルサイユ宮殿「鏡の間」で、プロイセン王ヴェルヘルム 1
世のドイツ皇帝戴冠式が執り行われたのである(よその国の宮殿で戴冠式を行った理由は
なにか)。 ナポレオン 3 世が降伏した段階で、プロイセン王家の名誉を守る防衛戦争という大義名
分(あるとしたら)は果たされていた。ドイツ統一というもう一つの目的もスダンの勝利
で十分であった。国境線を越えて奥深く攻め入り、アルザス・ロレーヌの割譲を要求して
首都を陥落させ、さらにドイツ国民国家の成立というまさに国内事項を外国のフランスで
宣言し、皇帝が戴冠したことは、スダン以降の戦いが侵略戦争に転化していたとみられる。 いずれにしても、これはビスマルクのやりすぎで、フランス人の屈辱感はこれによって
屈折し、1914 年の第 1 次世界大戦とそのあとのヴェルサイユ講和条約でのドイツに対する苛
酷な賠償金、それはヒトラーの台頭と第 2 次世界大戦でのヒトラーの凱旋門における凱旋
パレードへと独仏の報復の連鎖を生み出すことになった。 ○パリ・コミューン このような中にあって首都パリは二重権力状態のままであった。新たにできたドイツ帝
国との講和条約を正式に締結し、国家再建に取りかかるには、まず、これを解決する必要が
あった。 1871 年 3 月 18 日未明、ティエールは残された政府軍を動員しパリ国民衛兵の武装解除に
あたらせた。モンマルトルやベルヴィルに陣取っていた国民衛兵の大砲 200 門あまりを、
薄明かりにまぎれて奪取する作戦であったが、住民に発覚し、かけつけた国民衛兵に奪還
されただけでなく、指揮官が捕縛されるという事態が発生した。 作戦に参加した政府軍の
1871
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
一部が国民衛兵に合流し、例によって各所でバリケードが築かれた。こうして首都には国家
権力の空白が生じた。 しかし、まったく防衛的に「蜂起」を余儀なくされた民衆の側にも、明確な目的意識を
もった司令塔が不在だった。政治的にはほとんど無名の集団である国民衛兵中央委員会が、
市庁舎に入り、コミューン議会(パリ市議会)選挙の即時実施を呼びかけるにとどまった。
一週間後の 3 月 26 日に選挙が行われた。 3 月 28 日、市庁舎前広場でパリの急進的市民は、国民衛兵を中心に自治政府―パリ・コ
ミューンを宣言した。赤旗のなびく広場を埋め尽くした数万のパリ市民と国民衛兵のうね
りがあった。「共和国万歳!コミューン万歳!」と叫ぶ群衆があった。コンミューンは人
民に選ばれた 90 人の議員からなり、社会主義者ブランキらがパリ市政を指導した(ブラン
キは、フランスの社会主義者、革命家。武装した少数精鋭の秘密結社による権力の奪取と
人民武装による独裁の必要を主張した)。執行権と行政権を兼ねた史上初の労働者政権と
も呼ばれた自治体=政府の誕生であった。 このコンミューン組織にはいろいろな組織、活動家が集まってきていた。ブランキ派は
もとより、ヴァルランら第一インター・パリ支部のプルードン左派と呼ばれる活動家もコミ
ューン議員を構成していた。 彼らはコミューンの政策綱領として、「労働者生産協同組織
(アソシアシオン)の組織化、累進課税、常備軍と警視庁の廃止、国民衛兵の自治、官吏
や裁判官のリコール制、女性参政権の実現、児童夜間労働の禁止、世俗化された無償・義
務教育、政教分離」などの項目をあげていた。 ただ、それらは中央集権的な国家権力や「首都の独裁」によってでなく、自治都市パリ
を起点に全国の地方自治体によびかけ、コミューン連合を構成していくことによって果た
そうとするものであった。国家がなくてもコミューン連合でやっていけると考えていたよ
うである。のちに、集権国家の解体をめざすアナーキストたちが、パリ・コミューンを理想
視したのはこのためである。 アナーキストだけでなく、コミューンの政策には労働条件の改善など社会政策的な要素
が含まれており、晩年のカール・マルクスなどがこれを高く評価したといわれているが(マ
ルクスには革命後の社会構築の具体的イメージがなかった)、フランス全体からは孤立し
た運動だった。また、パリ・コミューンは短命ながらも民衆によって打ち立てられた歴史
上初の革命政権として、社会主義者に具体的なイメージを与えたともいわれている。 《コンミューンの鎮圧》 ヴェルサイユで態勢を立て直したティエールの政府は、捕虜となっていた正規軍兵士を
ビスマルクと交渉して釈放させ、13 万人の政府軍を再編して、パリの制圧にとりかかった。
1872
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
およそ 20 万人といわれたコミューン派であったが、内紛や指揮系統の混乱で劣勢は免れな
かった。 5 月 21 日からの総攻撃を受けて、28 日ついに力尽きて、「72 日間の夢」は消えた。最後
の「血の一週間」と呼ばれる戦闘でのコミューン派の死者はおよそ 3 万人、投獄された者 4
万 3500 人だった。ヴェルサイユ側の死者は 1000 人と言われている。 パリ・コミューンの政権は 72 日間という短命で終わったが、教会と国家の政教分離、無
償の義務教育に関してはコミューン崩壊後の第 3 共和政に受けつがれた。世界に先がけて
実現した女性参政権が、国家レベルで実現するのは 1893 年のニュージーランドを待たなけ
ればならなかった。 ○第 3 共和共和国憲法の制定 ティエールは 1871 年 5 月にフランクフルトで正式に講和条約を結び、パリ・コミューン
を制圧したあと、1871 年 8 月に初代大統領に就任した。 1875 年 1 月、第 3 共和政憲法が成立した。上院(元老院)と下院(代議院、普通選挙に
よる)による 2 院制がとられた。また、7 年任期の共和国大統領が両院による多数決で選出
されることが定められた。 1876 年 1 月に第 3 共和国憲法に従い選挙が行われると、上院では王党派、下院では共和
派が優勢になった。 《共和主義的自由、反教権主義の政策》 1880 年代、この議会共和政の実質的基礎を固めたのは、ジュール・フェリーを中心とす
る穏健共和派であった。この時期、共和主義的自由、反教権主義(ローマ・カトリック教
会または教皇の権威・権力(=教権)を否定する考え)、植民地拡張を三つの柱とする諸
政策が次々と導入された。 このなかで反教権主義政策の教育の世俗化であるが、当時、フランスではカトリックの
力がいかに根強いものであったかを示している。 ○「世俗化」教育のむずかしさ 中世を通して、初等教育はカトリック教会にゆだねられていた。人間のその後の人生にと
って初等教育ほど大事なものはないと、ルソーのころから言われていたことであったが、
そのルソーを生んだフランスも決してこの面で進んでいたわけではない。 確かにフランス革命のときには「無償・義務・世俗化」教育も上げられていたが、ナポレ
オンの帝政、王政復古、第 2 帝政などの巻き返しで進展しなかった。第 1 帝政、復古王政
ともに初等教育を教会に委ねたために、19 世紀のなかばにおいてもなお、フランスの子供
たちの多くは教区司祭や教育修道僧の手の内にあった。農村の教師は司祭の助手、教会の
1873
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
堂守を兼ねているのが通例であり、ほとんど独立的な職業と見られていなかった。定収は
わずかで、生徒の親の現物給付に頼らざるをえなかった。 そのようなとき、1881~82 年にかけて初等教育に「無償・義務・世俗化」原則を導入した
フェリー法が成立した。やっと第 3 共和政はフランス革命原理の制度的定着をもたらした。
そのなかでもっとも困難な課題は「新しい人間をつくる」こと、すなわち共和主義世界観
をもった公民を育成することであった。青少年の教育からキリスト教的世界観にもとづく
生活習慣を排除することを実現することと言い換えてもよかった。 フェリー法では教員免状をもたない聖職者を公立校の教壇から駆逐した。宗教教育が禁
止されたのはもちろん、教室の壁からキリスト像が撤去された。教師たちはまず、国語(フ
ランス語)を普及し「単一にして不可分な共和国」のための前提条件を満たすこと、つい
で聖史にかわる国史(フランス史)や地理の授業をとおして祖国の観念を養い、共和主義
的公民の教化をはかること、そして理科や算数の学習によって迷信を払拭し、科学的世界
観にみちびくことがもとめられた。 しかし、よく考えてみるとフランス革命からフェリーまで 100 年かかっている。いかに
保守反動勢力の力が強く、社会の仕組みを変えることが困難であるかがわかる。このフェ
リー法に対するカトリックの反撃は激しく、フランス政府はこれを定着させるために、さ
らに多くの年月と多大な犠牲を払わなければならなかった。彼らは公立校を追われても、私
立校を拠点に粘り強く生き残りをはかり続けた。政府の攻撃は私立を支える修道会のほう
にも向かわざるをえなかった。 フェリーは 1880 年の組閣直後、ただちに無認可修道会に解散命令を発し、全国で約 2 万
人の修道士・修道女を追い立て、多くの修道会系私立校を閉鎖に追い込んだ。抵抗の激しい
地域ではしばしば流血事件に発展した。あたかもミニ宗教戦争のような観を呈した。 1900 年代に入って、この闘争は再燃した。というのは、無認可修道会の解散令を含む結
社法が成立していたが、「寛容な運用」がはかられていた。これに対して、1902 年 6 月に
組閣したエミール・コンブは、内務相と宗教相をも兼任して、この法律の厳格な適用に踏
み切った。この年の 6 月から 7 月にかけて、無認可修道会系学校約 3000 を閉鎖に追い込み、
10 月には約 300 の無認可修道会そのものにも解散を命じた。これらの措置によって、またし
ても 2 万人ほどの修道士・修道女がおわれることになった。強制閉鎖に対する抵抗には軍隊
を動員して武力制圧した。 1904 年 7 月、認可修道会を含めたすべての修道会士を教壇から排除する修道会教育禁止
令を成立させた。これにより、私立であっても修道僧は教育にかかわることがいっさい禁
じられた。2400 近い教育施設が閉鎖され、いくつかはベルギー、イタリアなどに移転した。
約 4000 人があらたに教壇から追われ、多くの修道士が亡命の道を選んだ。もちろんバチカ
1874
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ンとの国交も断絶した。ここにおいて、やっと教育の世俗化は法律的に完結した(キリス
ト教国でも、歴史をひもとけば、このように教育の世俗化には時間がかかっている。イス
ラムについても、時間をかけて見守らなければならないであろう)。 ○政教分離法の成立 これらの総仕上げが政教分離法であった。1904 年 11 月に上程されたこの法案は、コンブ
内閣の後任のルーヴィエ内閣の手で 1905 年 12 月に成立した。この政教分離法によって、
国家および地方公共団体の宗教予算はいっさい廃止され、信仰は私的領域に限定された。聖
職者の政治活動は禁止され、宗教的祭儀の公的性格も剥奪された。そして教会財産の管理と
組織の運営が信徒会に委ねられることになった。これによって、16 世紀以来のガリカニス
ム(国家教会体制)も最終的に解体されたのである。 しかし、これをカトリック教会がすんなりと受け容れたわけではない。政府は軍隊を投
入して、バリケードはなんとか排除したが、これ以上の強硬策を回避せざるをえなくなり、
いつしか無認可修道会の活動再開が黙認されるようになった。フランスのカトリック教会
の恐るべき潜在力であった。 フランス革命以後めざされた「単一にして不可分な共和国」は、いっさいの中間権力の
介在を排し、万民法のもとに個人を公民として直接国家に統合しようという社会システム
であった。共和派にとってカトリック教会のヒエラルキーは、まさに国家内国家以外のな
にものでもなかった。個々の信仰を私的な領域に追いやり、公的な場から宗教団体の介在を
排除すること、これが彼らのめざした目標だった。「議会制とライシテ(非宗教性)の共
和国」それがフランス的国民国家のかたちであり、目標だった。大革命から実に 100 年以上
の曲がりくねった星霜をへて、ようやくたどりついた国民統合の到達点であった。 ○植民地拡大政策をとった第 3 共和政 対独復讐を唱える右翼王党派やクレマンソーら急進共和派は、海外遠征に巨費を投じる
よりも国内軍事力の増強を訴えてフェリーの「日和見主義」を批判した。しかしフェリー
らは、ドイツとの摩擦を避け、国内外の平和をそこなわないためには、ヨーロッパの外に、
とりわけアフリカと東南アジアに植民地をもとめることによって、普仏戦争で傷ついたフ
ランスの威信回復をはかるという路線から、植民地拡張政策を積極的に推進した。 民主国家になっても、国内不満分子の目をそらすために海外侵略を進めるという、人類
古来の政策が相も変わらず取られることになった(つまり、絶対王政から民主的な国民国
家になっても、対外侵略戦争は相変わらず進められることになったのである)。 彼らの植民地拡充政策は、やがて産業革命を完了した資本・商品輸出市場と原料供給地の
確保という経済目的にも合致するようになった。のみならず、(イギリスはもちろんのこ
1875
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
と)ドイツの海外進出が本格化するに及んで、植民地争奪戦そのものが対独報復という政
治的目的にかなうものとなった。 これ以後、フランスは、アルジェリアやタヒチ、ニューカレドニアなど従来からの植民地
に加え、フランス領西アフリカ、赤道アフリカ、インドシナ連邦、ラオス、シリアなどを
次々に支配下におさめていった。こうして第 1 次世界大戦前には、フランスは、イギリス
に次ぐ一大植民地帝国にのし上がっていたが、その基礎はナポレオン 3 世についで、「日
和見主義」共和派の政治路線によって確立されたのである。 【14-2-3】イギリス 【①産業革命期後半のイギリス】 ○改革の時代(1830~50 年) イギリスの産業革命は、1760 年代から 1840 年代にかけて起こり、その経過については、
すでに近世の歴史で述べたので、ここではその後半の産業革命の影響を中心に記すことに
する。 18 世紀末から 19 世紀前半にかけて、大陸ではフランス革命とナポレオン戦争が起きて大
混乱となっていたが、この間にも、イギリスでは産業革命は進展し、鉄道建設など輸送産
業の革新でイギリスの産業革命は最高潮に達したが、それは 19 世紀の半ばであった。 イギリスの産業革命は、人類社会にはじめて工業をもちこんだことで史上画期的な意義
をもっているといえるが、いいことずくめであったわけではない。それどころか、はじめ
ての工業化社会に突入し、人類社会がはじめて経験する多くの問題が発生し、その克服の
ために追われていった。 1830~1840 年代はイギリスでは「改革の時代」といわれ、産業革命の負の影響を減ずる
さまざまな改革、新しい社会の仕組み(社会システム)の導入が行なわれた。 ○ラッダイト運動(機械破壊運動)から労働運動へ 産業革命の初期には、工業化による大量生産によって既存の職人の立場が脅かされ、1811
年から 1817 年頃、イギリス中・北部の織物工業地帯に機械や工場の打ちこわしを伴う機械
破壊運動(ラッダイト運動)が起こった。ノッティンガムのネッド・ラダムまたはネッド・
ラッドなる者が靴下製作機を破壊したのが最初といわれている。彼の行為はランカシャー
でも模倣され、やがて機械破壊者はラッダイトとして知られるようになった。 機械破壊を死罪にする法案は、1769 年に制定されていたが、1812 年 3 月に改めて法律と
なり、1813 年 1 月、ヨークの裁判所で指導者ジョージ・メラーをふくむ 3 人への死刑宣告
があった。しかし、やはり機械破壊を止めることはできなかった。 1876
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ラッダイト運動は、最初は衝動にまかせた望みのない破壊に終始したが、1818 年のラン
カシャーではより高い賃金のためだけでなく工場法と婦人少年労働の規制のために戦い、
1819 年のマンチェスターでは普通選挙権と社会政策を求める政治行為となり、結局、ラッ
ダイト運動は農民一揆から労働運動への過渡期を担った形となった。 ○社会改革の先駆者―ロバート・オーエンの運動 イギリスの産業革命は上流階級や中流階級とは質的に異なる労働者階級を世界に先駆け
て生み出した。この労働者階級の生活は悲惨であり、それが労働組合運動を引き起こすこ
とにもなった。 この産業革命後の労働者の悲惨な生活をみて、資本家、経営者の立場から人道的に労働
者の待遇改善や生産の社会的管理を主張したのが、ロバート・オーウェン(1771~1858 年)
であった。 オーウェンは、1799 年、スコットランドの都市ラナーク近郊に綿紡績工場ニュー・ラナ
ークを経営していたデイヴィッド・デイルの娘カロラインと結婚、のちニュー・ラナーク
の共同経営者となった。オーウェンの時代にはおよそ 2500 人がニュー・ラナークに住んで
いたが、その多くはグラスゴーやエジンバラの救貧院の出身者だった。 当時のニュー・ラナークには 500 人ほどの子供が暮らしていた。オーウェンは、低所得
の労働者階層の実情を目の当たりにし、幼少の子どもの工場労働を止めさせ、1816 年、性
格改良のための幼児の学校を工場に併設し、性格形成学院と名づけた。幼児教育の最初の
試みで、幼稚園の生みの親といわれるフリードリヒ・フレーベルよりも先んじて、就学前
の子どものための学校を実践した。教室での掛け軸の利用など、教育方法にも工夫を凝ら
した。 彼はこの経験から人間は環境によって変えられるとする環境決定論を主張した。彼は実
際に労働者を劣悪な境遇に置かずとも、やり方しだいで企業は利益をあげられることを示
したのである。 彼は、また協同組合などの事業も手がけた。後、アメリカに渡って私財を投じてインデ
ィアナ州において共産主義的な生活と労働の共同体(ニューハーモニー村)の実現を目指
したが、これは結局成功せず全資産を失ったが、その後もオーウェンはイギリスにおいて
労働組合運動や共同組合を指導し、労働者の生活向上や婦人・児童の保護に尽力した(現
在はニュー・ラナーク保全トラストの管理下で世界遺産となっている)。 このオーエンなどの思想は、理想主義的で現実の認識にとぼしい空想的社会主義などと
いわれたが(エンゲルスの『空想から科学へ』という著書から生まれた言葉)、マルクス・
エンゲルスらが「科学的社会主義」であると主張した共産主義が、結局、「空想的」であった
ことがわかった現代においては、オーウェンの実践的、経験的試みは、(初期資本主義を
1877
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
改良したという意味で)大きな意味があったことがわかる。自然選択と同じように、現実
社会のシステムで飛躍はあり得ないことがわかる。 ○新しい階級社会の成立 イギリスでは 18 世紀に農業革命が起き、第 2 次の大規模な囲い込み運動が進行し、19 世
紀の初頭には、3 分制といわれる近代的な農業が確立したことも述べた。3 分制というのは、
まずイギリス全耕地の圧倒的な部分を所有する地主が、その耕地をまとめて借地農(農業
資本家)に貸与し、つぎにその借地農が農業労働者を雇い入れてその借りた土地で生産を
行うという農業生産体制のことで、3 分制とは農業資本主義のことであった。 つまり、イギリスでは産業革命の前から、農業の分野では、地主~農業資本家~農業労
働者の 3 階級が発生して、イギリスは農業においてもヨーロッパでもっとも早く農業資本
主義が確立した国だった。そしてこの 3 分制が確立していく過程で同時に大土地所有制も
確立され、その経済的基盤のうえに地主階級という 19 世紀イギリスの政治支配者階級が形
成されることになった。イギリスでは産業革命によって、階級ができたのではなく、それ
以前から階級は存在していたのである。 さて、それが産業革命によってどうなったか。 工業化社会の成立は、資本主義の生産様式がしだいに社会全体に拡大した結果として、
それを担うブルジョワ階級(資本家、工場主、商人、銀行家など)と労働者階級が形成さ
れ、この二つの階級が、従来からの政治の支配者階級である地主階級とならんで、いわゆ
る「社会の 3 大階級」(カール・マルクスの言)を構成するようになった(地主階級、資本
家階級、労働者階級)。 着実な経済成長に支えられた国民所得は、彼らの間で地代(地主)、利潤(資本家)、
賃金(労働者)の形で配分されたが、その配分は、数は多くても土地や資本などを持たな
い最下層の労働者階級に圧倒的に不利であった。また、資本主義の拡大とともに、好況と
不況という景気循環が経済界に現れ、そのためにとくに不況時には、そのしわ寄せが労働
者階級に押しつけられ、前記 3 者の階級対立がきわだった。 しかし 19 世紀のイギリス社会は、この 3 階級の階級関係だけで成り立っているわけでは
なかった。そこには、たとえば聖職者、医者、公務員、芸術家、学校の先生、学生生徒、
主婦、子供などを含めたより包括的な社会の分け方は、社会全体を上流、中流、下層の 3
階級に分けるやり方があった。このような分け方で見ると、上流階級には地主階級、高位
聖職者、法廷弁護士(裁判官)、内科医、陸海軍士官などが属していた。中流階級にはブ
ルジョワ階級、借地農、農民、技術者、事務員、上流以外の各種専門家の人々が属してい
た。下層階級は労働者階級であった。 1878
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
歴史的に有史以来の人類の歴史は,政治的に支配者階級と被支配者階級の支配・被支配
の関係であると述べてきたが、この産業革命によって、組み替えが行なわれ、豊かさによ
って支配者階級=地主階級、資本家階級、被支配者階級=労働者階級(農業労働者も含む)
という構図になった。そして、今後のイギリスでの政治的課題はこの労働者階級の地位の
向上、政治的権利の拡大という問題になっていったのである。 ○労働者階級の形成 1824 年に団結禁止法が撤廃されると,都市域では各産業部門において、労働組合がいっ
せいに姿を現し、労働者階級が形成された。 鉄道ブームに沸いた 1830~40 年代は、けっして平穏な時代ではなかった。この時期は,
産業革命以来の工業化と都市化のもたらす歪みと矛盾が階級間の軋轢を高め、それが激し
い階級闘争となって噴出した時代でもあったからである。経済的に力をつけた中流階級、
わけてもブルジョワ階級は、議会改革と穀物法をめぐって、支配者階級の貴族・ジェント
リーと正面から渡り合い、かくして 1832 年の第 1 次選挙法改正と 1846 年の穀物法廃止は、
この「改革の時代」の最大のハイライトとなった。 しかし、この「改革の時代」を緊迫させ,支配者階級に脅威を感じさせはじめたのは、む
しろ労働者階級の出現であった。たぶん、この 1830~40 年代の時期は資本主義の過渡期で
あり、現象面では初期資本主義のもっとも悪い点が集中的にあらわれていた時期であろう。 イギリスに亡命したマルクスは毎日、大英博物館にこもって、この当時のイギリスの資料
にもとづき『資本論』を書いていたし、エンゲルスからも悲惨な労働者街で生の情報を得
ていたのであろう。 フリードリヒ・エンゲルスは、ロンドンをはじめとするイギリス主要都市のスラムを調
査して『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845 年)を出版したが、その記述からは、
労働者の悲惨な生活状態が伝わってくる。また、衛生改革を推進したエドウィン・チャド
ウィックは、1842 年に『イギリス労働人口の衛生状態に関する報告書』を公刊したが、そ
れによると、ジェントルマンや中流階級の家族の平均死亡年齢は 40 歳代から 50 歳代であ
るのに対し、大都市に住む労働者の家族のそれは、15~20 歳でしかない。この異常なまで
に低い都市労働者の平均死亡年齢は、乳幼児(0~4 歳)の生存率が 50%ほどと極端に低く、
その死亡者をそのなかに含んでいるからであるが、それにしても当時の大都市に住む労働
者の生活状態がよかったとはとても思えない。 たぶん、この時期も長期的にマクロ的にみると全体の水準は多少上がっていたかもしれ
ないが、ミクロ的、地域的にみると生活が苦しくなっていたのではないかと思われる。い
ずれにしても、この時期の激しい労働者の運動は、そういう労働者階級の生活状況の反映
であった。マルクスが亡くなって、そのあとエンゲルスが『資本論』を仕上げた 1880 年代
1879
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
には、明らかにイギリスの労働者階級の生活は向上していたが、マルクスによって 1840 年
代に骨格がつくられた『資本論』はひとり歩きをはじめたようである。 ○イギリスの奴隷制度の廃止 1807 年に奴隷貿易廃止の法律が成立して、イギリス帝国の中で売買は禁止されたが、依
然として所有は認められていた。そこで 1833 年、奴隷制度廃止法が成立し、イギリスの植
民地における奴隷制度を違法とした。これらのできごとは、基本的にはイギリス帝国、と
りわけ西インド諸島のプランテーションにおいて、奴隷制度の採算が合わなくなったとい
う経済的な理由もあった。 1839 年からイギリスと海外反奴隷制度協会は他の国でも奴隷制度を違法とするよう働き
かけ、奴隷貿易業者を海賊と宣言し罰することで奴隷貿易を抑え込むよう政府に圧力を掛
けた(しかし、アメリカ、ブラジルなどではその後も奴隷制はますます盛んになったこと
は後述する)。この組織は今日でも反奴隷制度インターナショナルとして継続している。 ○都市化と第 1 次選挙法改正 1830~50 年という時期は,工業化と都市化が進んでイギリスが農業国から工業国に転換
しはじめたとき、といわれている。この時期の工業化と都市化との関連でみると、鉄道の
発達があった。イギリスの産業革命は鉄道によって完成された。鉄道はレール、駅舎、鉄
橋、機関車、車両などに大量の鉄材を必要としただけでなく、建設にあたっては他にも大
量の資材と膨大な労力を必要とした。鉄と石炭にもとづくイギリス重工業の発展は,鉄道
建設事業によって本格化したと言っても過言ではない(その後の先進国はすべて、この鉄
道の敷設の時期に第 1 次の高度成長期をむかえている。第 2 次は高速道路網の建設時期で
ある)。 鉄道網の発達によって、人口 200 万人の首都ロンドンを追って商工業都市のリバプール、
マンチャスター、バーミンガム、グラスゴーが 20 万人ないし 30 万人都市に、またブリス
トル、ブラッドフォード、リーズ、シェフィールドなどの商工業都市とスコットランドの
首都エジンバラが 10 万人都市へとそれぞれ躍進し(図 13-39、図 14-10 参照),1851 年
の国勢調査において初めて都市人口が農村人口を凌駕した。 しかし、このイギリスの急激な都市化は多くの腐敗選挙区を生み出した。産業革命によ
る人口移動のために、人口数と議員定数とが不釣りあいになっている選挙区を腐敗選挙区
といった。農民の離村や人口の都市集中が顕著にもかかわらず、議員定数はそのまますえ
おかれた。1830 年ごろまでに、腐敗選挙区は 200 以上となり、その 200 のうち 137 は有権
者が 600 人に満たず、うち 56 は 50 人にも満たなかった。有権者 50 人で議員 2 人を選出す
る区もあった。 1880
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
図 14-10 ヨーロッパの産業革命(1870 年ごろ) これに対し、工業化を主導した北部・中部には都市選挙区が少なく、いまや人口 10 万~
30 万人工業都市のマンチェスター、バーミンガム、リーズ、シェフィールドなどは都市選
挙区にさえ指定されていなかった。 いまでこそ、イギリスは 2 大政党が機能している政党本位の民主主義国のようになって
いるが、この当時のイギリスは腐敗選挙区、買収による腐敗選挙が横行した。どこでも最
初から理想の社会システムはつくれない。つかってみて改良、手直しをしていくしかない。 この具体的な選挙法改正の紆余曲折は省略するが、1832 年の第 1 回選挙法改正で腐敗選
挙区が減ったが、有権者数は 43 万人から 65 万人に増加しただけだった。剥奪された議席
数は全議席数の 2 割にすぎず、しかも新興の都市に配分されたのは、そのうちの 65 にとど
まった(いつの時代も選挙区改正は、既存政治家が抵抗するので思ったほど改正されない)。 つまり、この第 1 次選挙法改正は,新興中流階級に参政権を与えることで彼らを体制内
に取り込み,伝統的な貴族・ジェントリーの政治支配をむしろより一層強化したのがその
実際であった(中流階級のガス抜きにすぎなかった)。参政権を得た中流階級も、それ以
上の革命的変革を望まなかった。まさにイギリス流の保守的改革であった。 この第 1 次選挙法改正では、都市小市民や労働者にはまだ選挙権がなく、彼らが選挙権
を得るには、さらに第 2 回、第 3 回の改正をまたなければならなかった。 ○救貧法改正 1881
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
イギリスには 16 世紀のエリザベス朝以来、最下層の貧民を救済する国家的な救貧制度が
あり、20 世紀の初頭に至るまで、いうなれば、最低限の社会保障制度としてそれなりの役
割を果たした(現在の日本でいえば、生活保護費に相当する)。時代とともに変遷をとげ
て運用されてきたが、その状況は省略する。 この貧民法のこの時点での改正は,むしろ立場により改悪ともみなされるかもしれない。 改正に先立ちホイッグ政府は、1832 年に調査委員会を設立して救貧制度の現状をつぶさ
に調べあげ、その報告書にもとづいて改正法案を作成した。この報告書をまとめたのは、
官僚のエドウィン・チャドウィックであった。 改正の最大の要点は、健康な労働能力者が怠惰のゆえに救貧院に頼ろうとする性向をい
かに防止するかということで、この点でこの改正は、後に「劣等処遇の原則」と呼ばれるよ
うになる苛酷な救貧院の処遇原則を打ち出した。それは「救貧院で救済される労働能力者の
状態は、救済を受けていない最下級の独立労働者の状態を上まわってはならない」というも
ので(現在、日本の生活保護費についても議論されていることと同じ論理)、救貧院内の
状態をできるかぎり劣悪なものとして怠惰な労働能力者を寄せつけないようにし、彼らを
低廉な労働力として自由な労働市場に放り出すことが狙いであった。 その意味でこの救貧法改正は、まさに産業革命をなしとげたブルジョワ自由主義者の意
向にそったものであった。この救貧法の改正によって、院外救済は廃止され(院外給付は
廃止され、救貧院だけが対象となった)、年々の救貧税は、さしあたって減少へと向かっ
た。 しかし、救貧法改正の結果(改正の狙い通り)、救貧院の状況は、概して以前にも増し
てひどいものとなった。それに対する世間の反発は強く、チャールズ・ディケンズは小説
『オリヴァー・トウイスト』(1837~39 年)の中で、牢獄のような、そして人間に貧民と
いう差別の烙印を捺(お)す救貧院の現実を告発した。 ○自由主義経済の改革 産業革命によって経済的に優位になったイギリスは、アダム・スミスら古典派経済学者
の唱えた自由貿易・自由主義経済政策がとられた。全輸出額の 40~50%を占めるほどに成
長したイギリスの綿業界は、抜本的な貿易自由化を求めて立ち上がった。産業資本家の自
由貿易の要求によって、1813 年に東インド会社の対インド貿易独占権が廃止されたのに続
いて、1833 年には対中国貿易独占権が廃止された。 産業資本家の次の目標は、1815 年に制定された穀物法の廃止であった。ナポレオンの大
陸封鎖により大陸からの穀物輸入が途絶えていたが、1815 年、封鎖の解除によって穀物の
1882
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
大量輸入で穀物価格が下落する恐れがあり、穀物法を制定し、輸入穀物に高関税を課し、
輸入を制限した。 当時、産業資本家が穀物法に反対した背景としては、工場労働者の賃金は最低限の生活
費が基準になっており、穀物価格の高騰は賃金水準の上昇を意味していたのである。とく
に当時のイギリスにおいては長期にわたる保護貿易の結果として大陸に比べ穀物価格が高
くなっており、安価な穀物の供給により賃金の引き下げを狙う産業資本家と単純に安価な
パンを求める労働者は、穀物法廃止という点について利害の一致をみていた。 彼らは最大の保護関税である穀物法の廃止に目標を絞り,マンチェスターの綿業家が中
心となって 1839 年に反穀物法同盟と呼ばれる圧力団体を結成した。そして自由党議員であ
った急進的自由貿易論者のリチャード・コブデンとジョン・ブライトがその運動の先頭に
立った。このグループはマンチェスター派と呼ばれた。一方の地主階級にしてみれば、彼
らは自由貿易にけっして反対ではなかったが、穀物法は彼ら自身の経済的基盤の支えと見
なされていたのでその廃止には同意できなかった。 1841 年の総選挙に勝利して政権についた保守党の党首ロバート・ピールは、大綿業家の
息子で,経済に関しては党内きっての自由派であった。彼は、穀物法がなくなってもイギ
リスの農業は酪農に力を入れ、経営を合理化すれば,外国との競争に太刀打ちできると考
えていた。 1845 年にアイルランドのジャガイモ大飢饉が発生すると(1845 年から 4 年間飢饉が発生
し、100 万人が死亡、200 万人がアメリカなどに移住した)、情勢は大きく転換した。まず
野党の自由党が穀物廃止の意志を明確にしたのに続いて、ピールはついにコブデン、ブラ
イトのマンチェスター派の立場に同調した。こうして与党保守党は、党首の裏切りによっ
て分裂し、翌年、1846 年、穀物法廃止法案が議会を通過した。これは伝統的な支配者階級
で農業に経済的基盤をもつ地主階級に対し工業化を主導する新興ブルジョワ階級である産
業資本家階級の利害が勝利し、工業の利害が凱歌を上げた自由貿易運動のクライマックス
であった。 このとき政治家ピールの下した判断は正しく,穀物法が廃止されても、イギリスには安
価な外国産の穀物がにわかに入ることもなく,また、イギリス農業は,この廃止が刺激と
なって経営の改良と集約化が進んで,衰退どころか繁栄期を迎えることになった。 保守党は保護貿易派(保守党)とピール派に分裂し、グラッドストンを含むピール派は
その後自由党に移った。穀物法廃止のあと 1849 年には航海法も廃止された。自由貿易は確
立され、歴史は,自由党が主導するヴィクトリア中期の繁栄期を迎えることになった。 《自由主義という名の労働・環境悪化》 1883
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
しかしこの自由主義は、営業の自由さらには自由放任の風潮が広がり、この風潮は新し
いいろいろな不都合を生み出すようになった。大量生産により物価が下がった反面、単純
な労働が増えることによって非熟練工でも可能な労働環境が生み出され、劣悪な環境での
労働といった労働問題、都市のスラム化による衛生面の悪化などの社会問題の発生が生じ
た。 たとえば綿工業の資本家たちは、この自由な風潮のおかげで雇い入れた労働者を朝から
晩まで好きなだけ働かすことができたし、賃金の高い成人男子労働者を割安な女性や子供
にきりかえて酷使することもできた。また、彼ら資本家は,都市に集まってきた労働者用
に不衛生で劣悪きわまりない住宅を建設し、生産コストの軽減をはかった。産業革命期の
自由なイギリスには、今日ある労働基準法も児童福祉法も建築基準法も、要するに国民の
ナショナル・ミニマムを保障する法律はいまだ存在しなかったのである。 ○工場法・鉱山法の制定 19 世紀の前半に工場制度が普及したのは、綿工業などの繊維工業部門だけであったが、
その工場での労働条件はきわめて苛酷なものであった。労働者の就業時間は,1 日 12~14
時間にも及び、それが普通であった。また、より深刻な問題は、女性と若年者、とりわけ
10 歳にも満たない児童が大勢工場で働いていたという状況で,彼らもまた成人労働者と同
様の長時間労働に従っていた。 1826 年から下院議員となったアシュリー卿(1801~1885 年)は、人道主義の立場から、
労働階級の状態の改善に努め、1833 年の工場法や 1847 年の 10 時間労働法の成立に貢献し、
貧民学校の成立や福音活動に尽力し、「工場法の父」と言われている。 まず、1833 年の工場法は,9 歳未満の児童労働の禁止、9 歳以上 18 歳未満の若年者の労
働時間を週 69 時間以内に制限することなどをその骨子としたが、あわせて工場立ち入り検
査権をもつ工場監督官を任命し,彼らに法の運用を託した。この中央集権的な監督制度が
導入されたことで、工場法ははじめて国家干渉政策としてその実効を保証された。 ついで 1844 年に成立した工場法が,初めて女性労働者を対象にしてその労働時間を 18
歳未満の若年労働者なみに制限し、さらに 1847 年の工場法が若年労働者と女性労働者の労
働時間を 1 日最高 10 時間に制限した。1867 年にいたって、この工場法の適用範囲は繊維工
場以外の全工場と家内工業の作業場にも拡大され、また成人男子労働者をもその対象とす
るようになった。そして 1874 年には、週 56 時間(月曜から金曜までは 10 時間、土曜 6 時
間)が実現された。 だが 19 世紀の前半、繊維工場以上に劣悪であったのは、炭鉱の労働事情であった。1842
年に議会調査委員会の報告書によると、ここでは炭塵の爆発や落盤の危険のなかで、10 歳
にもならない児童が換気戸の開閉とか巻き揚げ機の操作を行い、女たちが地下の天井の低
1884
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
い坑道で、150 キロを超える重い石炭運搬車にベルトでつながれ、四つん這(ば)いになっ
てそれを引いていた。炭鉱主の反対にもかかわらず、アシュリー卿の提案になる鉱山法が
直ちに議会で可決され、女性と 10 歳未満の児童の鉱山・炭鉱における雇用は禁止されるこ
とになった。 ○公衆衛生法の制定 19 世紀イギリスの大都市は,世紀前半の 50 年間に軒並みに人口が 3 倍から 5 倍も増加し
た。増加した人口の大部分は、いうまでもなく産業革命にともなう労働者階級であった。
このため、上下水道の建設とか都市域の河川管理とかの社会資本の十分な投下が、急増す
る人口にとても追いつかなかった。 イギリスの労働者たちは窓もろくにない安普請の長屋住宅あるいは地下室に詰め込まれ
るようにして暮らしていた。水道は引かれていなかったので指定時に街の共同水栓に並ば
ねばならず、下水も不備で家の内外に汚物やゴミが堆積し、いたるところに悪臭が満ちて
いた。ロンドンでは、2 百数十万人の人口が排出する屎尿や汚物によってテムズ川が汚染さ
れ、両側の川べりに厚くヘドロが堆積して 1840~50 年代には完全に死の川となった。前に
述べたように都市労働者の死亡率が非常に高くなっていた。 彼らの居住区は例外なくスラム化し、その全体が伝染病の温床であった。19 世紀には外
来の伝染病としてコレラが登場し、イギリスでは 1831~32 年、1848~49 年、1853~54 年、
1866 年と 4 回の大流行があったが、その際決まって最多の死者と罹患者を出したのが、こ
ういった大都会のスラム街であった。 19 世紀の前半、この運動を終始リードしたのが、エドウィン・チャドウィック(1800~
1890 年)であった。彼はベンサムのアシスタントとなったことから、ベンサム主義の有能
な改革者となった。1832 年、彼は救貧法王立委員会に抜擢され、1833 年に有名な旧救貧法
の改革へとつながる報告を起草し、1834 年の救貧法改正となったことは前に述べた。 彼は救貧法委員会において疾病の原因は貧困であり、それは生活環境の改善によって予
防できるという旨を建議しことから、その後はその持ち前の情熱を生活環境の衛生改革に
むけ、1842 年に前述した『イギリス労働人口の衛生状態に関する報告書』を公刊して都市
労働者の窮状を広く世間に知らしめ、改革運動の先頭に立った。 彼は都市労働者階級の衛生状態を改善するためには、①各戸への上水の供給、②各戸に
おける排水設備(水洗トイレを含む)の完備、③公共下水道の拡充の 3 目標を達成する必
要があると主張し、あわせてこの改革を国家干渉政策として実効あらしめるために、衛生
に関する地方行政を統轄するための中央集権機関の設立を訴えた。彼のこの訴えは 1840 年
代の後半に支持を集め、1848 年に最初の公衆衛生法を成立させることに成功した。その結
1885
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
果、地方の衛生問題を監督する中央衛生委員会が設立され、チャドウィックもその委員と
なった。 しかしチャドウィックの 3 目標を達成するためには長期にわたる莫大な税金の投入が必
要であり、都市行政の実権を握る中流階級やジェントリーたちは、中央行政機関の不必要
な介入をおそれ、彼の意向に素直に同意しようとはしなかったために、衛生改革がそれな
りの実を上げるためには、幾多の歳月がさらに必要であった。 ○人民憲章とチャーティスト運動 第 1 回選挙法改正でも選挙権が得られなかった労働者は、1837 年からロンドンやバーミ
ンガムを中心に地位の向上を求める政治運動を展開した。彼らは「イギリスには 21 歳以上
の男子が 602 万にいるうち、84 万人にしか選挙権が与えられていない」と指摘していた。 そこで、1837 年 5 月~6 月に労働者連盟代表と急進派議員が協議をし、人民憲章(ピー
プルズ・チャーター)を起草し、議会にデモ行進して請願することを誓約した(この運動
をチャーティスト運動という)。 1838 年に彼らは全国代表者会議を設立し、1838 年 5 月 8 日「人民憲章~下院における大
ブリテンおよびアイルランドの人々の正しい代表を規定する法案」を発表した。憲章の 6
ヶ条は、①成年男子普通選挙、②秘密投票、③毎年選ばれる一年任期の議会 、④議員に対
する財産資格の廃止、⑤議員への歳費支給(イギリスの国会議員は 1911 年に至るまで無給
であった)、⑥10 年ごとの国勢調査により調整される平等選挙区という内容であった。そ
して運動は、全国の労働者から署名を集め、人民憲章実現のための議会への請願運動を組
織する形で展開された。 しかし、1842 年以降は景気の回復と訪れた鉄道建設の大ブームの中で急速に運動は衰退
へ向かうことになった。 ヨーロッパ史上、1848 年は革命の年と言われ、フランスでは 2 月革命、ドイツ諸邦では
3 月革命が起こったが、これに触発されてイギリスのチャーティストたちも 4 月 10 日、ロ
ンドンで第 3 次請願の大デモンストレーションに結集した。オコンナーはこのとき下院議
員を務めており、請願運動の指揮をとった。しかし、200 万人近い署名簿のなかに、インチ
キ署名が多数発見されたため、オコンナー以下の運動指導者の面目は丸つぶれとなり、つ
いに請願書の提出は断念され、チャーティスト運動は結局失敗に終わった。 こうしてイギリス労働者階級の史上最初の大規模な政治闘争は、所期の目的を達成しな
いまま、工業化による繁栄の大波のなかに呑み込まれていってしまった。イギリスにおい
ては、産業革命の威力は大きく、その効果が 19 世紀の後半に急激に現れるようになり、未
曾有の繁栄がもたらされることになった(その後、1867 年の第 2 回選挙法改正で労働者に
も選挙権が与えられることとなった)。 1886
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
【②繁栄の時代(1851~73 年)】 ○豊かになった労働者階級 イギリスの紅茶は 17 世紀には、王室をはじめとする上流階級、とくに貴婦人のあいだの
ステイタス・シンボルとして広まった。産業革命の効果を象徴的に言い表すなら、産業革
命によって砂糖入り紅茶が労働者階級にまで普及したといえよう。 1850 年代以降、イギリスの茶と砂糖の 1 人当りの消費量は急増しており、産業革命で豊
かになったイギリスでは世界産業ネットワークによって、17 世紀には王侯貴族しか口にし
なかったものが、一般下層民衆にまで普及していったのである。 このイギリス労働者の朝食は、インドの農民がつくったアヘンで、中国の農民がつくっ
た茶を買い取り、カリブ海やブラジルで黒人奴隷やアジア系移民がつくった砂糖をあわせ
て,成立していた(インド―中国―イギリスの三角貿易。アフリカ―中南米―イギリスの
三角貿易)。そして、朝食をとったイギリス労働者は、アメリカの黒人奴隷やインドの農民
がつくった棉花を工場の機械で紡いだり織ったりして製品にしていたが(アフリカ―アメ
リカ―イギリスの三角貿易)、それらは世界各地に輸出されたのである。 このような世界の産業ネットワークが出来上がったのがイギリス産業革命(+イギリス
植民地主義)であり、イギリス労働者階級の豊かさもその産業ネットワークによって実現
されたのである(もちろん、このような豊かな労働者階級は、まだ、イギリスだけであっ
たが)。 このように経済成長著しいこの「繁栄の時代」には、人口の 4 分の 3 を占めるようになっ
た労働者階級の生活も向上した。といっても彼らの富裕化の度合いは、中流のそれと比ぶ
べくもなく、労働者階級の最低辺には救貧法の適用を受ける貧民層が相変わらず存在した。
しかし、労働者階級が全体として豊になり、1830~40 年代の議会改革運動やチャーティス
ト運動に見られた急進性と闘争性を失い、穏やかな存在となってしまったことは疑いよう
がなかった。 ○第 2 次選挙法改正 この時期の労働界の最大の特色は、機械工、大工指物師、石工、ボイラー工といった熟
練職人労働者が台頭し、労働運動の指導権を握るようになったことである。彼らはこの頃
から「労働貴族」と呼ばれるようになる最も富裕な労働者たちで、中流階級同様、自助、節
約の倫理観をもち、その収入は下層中流階級と大差がなかった(現在、日本で使われてい
る「労働貴族」(労働組合幹部)と意味が異なることに注意)。 1887
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
1850 年代以降、自由党も保守党も、工業化の進展とともに着実に増大・成長していく労
働者階級を、いつまでも議会政治の外側にとどめておくわけにはいかず、何らかの選挙権
拡大が不可避だと考えるようになった。 わけても「労働貴族」がリードする上層の熟練労働者層は、いまでは完全にジェントルマ
ンと中流階級の支配を認める体制内的存在となっていた。こうして 1866~67 年に、この「繁
栄の時代」最大の政治改革である第 2 次選挙法改正の機が熟した。 その際、最も問題となったのは、いままでジェントルマンと中流階級の「財産と教養」を
もった人々によって担われてきたイギリス議会制度を、「財産も教養もともなわない」一般
大衆を加えた民主主義という妖怪に委ねると一体どうなるかという問題であった。具体的
にいえば、自助と節約の倫理観をもち、それなりに教養もある体制化した熟練労働者と、
それより下層の、いまだ教養もなく体制化したとは思えない労働者をどこでどう線引きす
るかということにあった。 1866 年に多数派政権である自由党の第 2 次ラッセル内閣(下院指導者は蔵相グラッドス
トン)が、それまで行われてきた 10 ポンド戸主の都市選挙区資格を 7 ポンドに切り下げる
法案を上程した。しかし、なぜ 7 ポンドでなければならなかを論理的に説明することがで
きず、やがて 5 ポンドでも、3 ポンドでも、更に 1 ポンドへと順次切り下げられていき、つ
いには無知蒙昧な不熟練労働者や貧民を含む全大衆が有権者になるにちがいないという危
惧が残ってしまった。 とりわけ、与党自由党内の 40 人の懐疑派議員は、この裸の民主主義がもたらすであろう
「数による専制」の不安をどうしても払拭することができず、党内反乱を起こして反対を貫
いたために法案はあえなく潰(つい)え去り、内閣も総辞職のやむなきに至った。 ついで少数党ながら代って成立した保守党の第 3 次ダービー内閣(下院指導者は蔵相デ
ィズレーリ)が、翌 1867 年にまた、別の法案を上程した。この法案は都市選挙区資格を一
挙に戸主選挙権に切り下げることを主要な骨子としていた。前の自由党案の難点は克服し
ていたが、戸主すべてでは「裾切り」が必要ということで、有権者の居住期間を 1 年から 2
年に延ばすとか、間借り人には選挙権を与えないとか、学位保有者と年 1 ポンド以上の直
接税納入者には 2 票与えるとかといった各種の付帯条件をつけ、戸主選挙権がもたらすで
あろう大幅な民主的効果を削減するというものであった。 この作為的法案に野党になった自由党は、猛反発し付帯条件の撤去を求める自由党の修
正動議が次々と出され、与党保守党のディズレーリは言われるままに次々と譲歩していっ
た。結局、1867 年に残ったのは裸の戸主選挙権(ただし地方税の納入を要件とする)で、
当初、多くの議員が予想も望みもしなかった民主的な結果が(付帯条件をすべて否定して
1888
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
しまったので)生み落とされることになった。この第 2 次選挙法改正で、都市労働者・中
産農民に選挙権が拡大された。なお、この第 2 次選挙法改正によって州選挙区の財産選挙
資格も切り下げられ、イギリスの全有権者は改正前の 135 万人から 247 万人へと増大した。 ディズレーリの議会戦略の完勝だった。政権を追求してやまない二大政党制の政治力学
のなかで、自由党の懐疑派議員も結局、未来の大衆民主主義へむかって踏み出してしまっ
ていたのである。これを当時のジェーナリズムは、未来へ向かっての「暗闇の跳躍」と揶揄
(やゆ)した。 「今や我々は、我々の主人である大衆を教育しなければならなくなった」と、この保守党
内閣の後を襲った自由党の第 1 次グラッドストン内閣は、1870 年に初等教育法(普通教育
法)を成立させ、大衆の義務教育への道を開いた。 こうしてイギリスは第 2 次選挙法改正を契機に、官吏採用制度の改正(1870 年)、労働組
合の承認(1871 年)、秘密投票制(1872 年)など、とにもかくにも大衆民主主義の時代に
むかって、その第一歩を踏み出すことになった。それにはとにもかくにも教育の充実であ
った。それが民主主義のなによりの基礎となるものと考えられた。 ○義務教育制度の始まり イギリスは 1870 年の初等教育法をもって義務教育制への第一歩を踏み出すことになった
(徴兵制との関連で初等教育はドイツ、フランスの方が早かった)。1870 年代にいたるまで
のイギリスには、国民の税金によって運営される公立の学校は、1、2 の例外をのぞき存在
しなかった(日本においても 1872 年の学制発布によって、近代教育制度による初等教育が
はじまった。イギリスと日本はほとんど同時期だった)。 たとえば、イギリスでは、ナポレオン戦争中に国防上の必要から国によって設置された
陸軍士官学校は、1832 年から入学者の授業料によって運営される事実上の私立学校になっ
てしまった。この事実は、19 世紀のイギリスが産業革命を自生的に遂行した経済最先進国
で、その本質において自由放任を旨とする自由主義国家であったことを端的に物語ってい
る。 イギリスでは、教育とは本来基本的に国がおこなうものではなく、社会がその社会の必
要に応じてその社会の成員に対して行う自発的な活動を意味し、それ以上に出るものでは
なかったのである。読み・書き・算術の習得をめざす民衆教育も例外ではなかった。それで
19 世紀になっても、この国では 1698 年に設立されたキリスト教知識普及協会という国教会
系の篤志団体が行っていた教育活動と教会が任意に開く日曜学校を別にすれば、組織だっ
た民衆のための教育はまったく行われていなかった。 キリスト教関係以外にも学校はあった。それは町でも村でも私塾的な各種の私立学校が
あちこちにあり、その総数はイギリス全体で数千の規模に達していた。しかしその半数は
1889
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
「おばさん学校」と呼ばれる半保育的な私塾で、労働者の子供たちが多くこの手の学校を
利用した。この学校の先生を務めたのは労働者やそのおかみさんたちで、読み・書き・算術
がどれだけ教えられたかは疑わしい。当時の民衆の識字率(自分の名前が書けるかどうか
で判定される)は低く、男で 30~40%、女で 20~30%程度であった。 19 世紀の初頭にキリスト教の学校でモニター制と呼ばれる新しい教授法が行われるよう
になった。この教授法は先生がまず優秀な子供数人(すなわちモニター)に教え、そのモ
ニターがその教えられたことを今度はそれぞれ数十人の子供たちに教えるという一種のマ
スプロ教育方式であった。数がこなせるこの能率的なマスプロ教育方式を行うために 1811
年に国教会系の国民協会が、ついで 1814 年に非国教会系の内外学校協会が設立されて、以
後、この二つの協会が低額の授業料を徴収する学校を全国にわたって建設していき、モニ
ター制による新しい組織的民衆教育を推進していった。 このころ前に述べたように中流階級の「ジェントルマン化」がジェントルマン教育の需
要を高め、1840 年代からパブリック・スクールの増設が相次ぎ、その目的は達せられた。 だが被支配者階級が対象の民衆教育の分野では、事態はこうは進まなかった。そこで 1833
年にホイッグ・グレイ内閣は、国民協会と内外学校協会が経営する学校に対し補助金の交
付を決定し、以後、補助金の額を年々増やしていき、1839 年には文部省の前身ともいえる
政府の教育局が誕生した。 またこのころから教育の質がともなわないモニター制への批判が高まり、前記二つの協
会が中心となって各地に教員養成のための師範学校が設立されるようになり、1846 年から
はこれらの師範学校に対しても国庫助成が開始された。 1858 年の調査によるとイングランドとウェールズには国民協会の学校が 2 万校、内外学
校協会の学校が 2700 校あって、それぞれ 120 万人と 36 万人の児童を教育していた。師範
学校出身の免許を持った教員の数は 1859 年には 6878 人となり、専門の教師による授業が
しだいに民衆教育の大勢となった。識字率も上昇し、1851 年には男は 70%、女は 55%とな
った。 これらの状況を受けて、1870 年の初等教育法の成立となった。1880 年に 5 歳から 10 歳
の全児童の就学が義務づけられて、ここに義務教育の法制がほぼ確立された。義務教育校
への就学率も急上昇して 1990 年代には都市域では 9 割を超え、民衆の識字率は、1900 年に
は男女とも 95%を超えた。 こうしてイギリスでは世紀末までに字の読めない人はほとんどいなくなり、大衆文化が
全面的に開花する基盤が準備された。わずか半ペニーの最初の大衆日刊紙『デイリー・メ
ール』が発行されたのは、1896 年のことだった。 ○第 3 次選挙法改正 1890
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
さて、その後、選挙法はどうなったかといえば、1884 年自由党のもとで第 3 次選挙法改
正が行われ、農業・鉱山労働者に選挙権を拡大した。有権者は(第 2 次選挙法改正後の 247
万人から)440 万人になった。これにともなって、議会も地主・貴族的な性格から市民的・
民主的な議会へと発展し、上院に対する下院の優位が確立された。 その後のイギリスの選挙法改正は、1918 年には,婦人参政権運動を背景に,人民代表法
が制定され,21 歳以上の成年男子と 30 歳以上の婦人に選挙権資格が付与され,さらに 1928
年の人民代表法によって 21 歳以上の婦人にも選挙権が拡大された。 そして 1948 年の人民代表法の制定によって、最終的に「男女平等普通選挙制度」が成立
することになった。参考までに日本における選挙法のその後をみると、1925 年に成年男子
すべてによる普通選挙を規定する衆議院議員選挙法の改正があり、1945 年 12 月に戦後の
GHQ による民主化により改正衆議院議員選挙法が公布され、全ての成人男女による完全普通
選挙がようやく行われるようになった。イギリスと日本では男女平等の選挙制度について
は 17 年日本が遅かったことがわかる。 ○産業革命の影響―イギリス、富と人口の増大 この蒸気機関に代表される産業革命は、旧石器時代の狩猟民から新石器時代の定住農耕
民への変化にまさるとも劣らないほどの大きな意味をもつものであったが、その本質は「生
物に頼っていた動力を無生物によって代替」したことにあった。つまり、人類は「仕事が速
く、むらがなく、正確で、疲れを知らない」機械を使って石炭の熱を力に変えることを覚え、
莫大なエネルギー源を手に入れた。 この新しい機械が出現したことは、驚異的な結果をもたらした。1820 年代には、1 人が
数台の動力織機を操作して、手織機の 20 倍の織物を生産できたし、動力紡績機(ミュール)
を使えば、糸車の 200 倍も能率があがった。1 台の機関車があれば、駄馬数百頭分の荷をず
っと早く運べる。 産業革命には工場制度や分業など多くの重要な面があるが、なによりも重要なことは生
産力の飛躍的な増大で、とりわけ繊維産業の生産性が向上し、それが刺激となって機械や
原材料(綿花など)、鉄、船舶への需要が増え、運輸通信手段が発達したことであった。
多くの関連産業が生み出され、それに必要な多くの雇用が生み出されたことであった。 このたびの産業革命では投資さえすれば「飛躍的」な、つまり、人口増加(人口も増えた
が)を超える生産性、富が生み出されるようになったのである。 イギリスの人口は、すでに 18 世紀の中葉以来、顕著な増加傾向を示していたが(図 13
-37 参照。主として 18 世紀の農業革命による食糧の増産がもたらしたと考えられている)、
この傾向は 19 世紀になるとさらに加速され、1801 年の 1050 万人から 1911 年には 4180 万
人(年率 1.26%で)と約 4 倍増加しているが、国民総生産の伸びはもっと大きく、19 世紀
1891
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
のあいだに 14 倍に達していた。国民総生産の伸び率は年率 2~2.5%であったと思われる。
ヴィクトリア女王時代(1837~1901 年)だけで、1 人当り国民総生産は 2.5 倍に増えていた。 人口が増えても、機械によって生産性がさらに高く持続的に向上したので、人口増に食
いつぶされることなく、イギリスの平均実質賃金は 1815 年から 50 年までに 15 ないし 25%
上昇した。そして次の 19 世紀後半の 50 年間になんと 80%も上がったのである。 ○イギリス工業の全盛期 この 1851 年のロンドン万博から 1873 年の大不況の到来に至るヴィクトリア女王治世(在
位:1837~1901 年)の中期は、イギリス史上「繁栄の時代」として知られる。この時期は最
先進国イギリスが、まさに国際経済の覇者として世界史に君臨したイギリスの黄金時代で
あった。 図 14-11 に世界の工業生産に占める相対的なシェア、図 14-12 に 1 人当りの工業化水準
を示す。1750 年の時点ではイギリスもヨーロッパもアジアも大きな違いはないが、1750 年
から 1830 年にかけてイギリスの世界の工業生産高に占める割合は、1.9%から 9.5%に上昇
し、次の 30 年間には、19.9%に達した。このころになると、産業革命の新技術がヨーロッ
パの他の諸国に広がっていったが、イギリスの優位はゆるがなかった。 図 14-11 世界の工業生産に占める相対的シュア(1750~1900 年) これが図 14-12 のように 1 人当りの工業化水準になるとさらに大きな差となって現れる
ようになった。それは、たとえばイギリスの紡績業をとれば、1750 年から 1830 年代までの
間に、生産性は 300 倍から 400 倍というオーダーで向上していたからである。 そして、工業では一つがよくなると関連する他の部門(たとえば鉄工業、輸送の鉄道、
機械をつくる工作機械や機械部品など)にも波及効果があり、連鎖的によくなるので、イ
ギリスの工業は上昇していった。 1892
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
図 14-12 1 人当たりの工業化水準(1750~1900 年) (1900年のイギリスを100とする) 図 14-13 は当時の工業経済力を測る三つの指標、すなわち石炭採掘高、銑鉄生産高、綿
花消費高について 19 世紀後半の主要列国を比較したものであるが、この時期のイギリスは、
そのいずれにおいても他の諸列強を圧倒していた。 図 14-13 おもな国の産業の成長 1860 年は、イギリスの相対的な意味での絶頂期にあった年で、世界の鉄の 53%、石炭と
亜炭の 50%を産出し、全世界の原綿のほぼ 50%を消費していた。また、1860 年には近代的
なエネルギー源(石炭、亜炭、石油)から生まれるエネルギーの消費量は、アメリカやプロ
イセン(ドイツ)の 5 倍、フランスの 6 倍、そしてロシアの 155 倍に達していた。 イギリスだけで世界の貿易の 5 分の 1 を占め、工業製品の貿易に限ればイギリスが 5 分
の 2 を扱っていた。世界の商船の 3 分の 1 はイギリスのものであり、しかもイギリス船籍
をもつ船の数はますます増えていた。イギリスは世界の貿易の中心だったのである。 そして、世界の人口の 2%、ヨーロッパの人口の 10%を占めるに過ぎないイギリスが、」
近代産業において世界の生産能力の 40~45%、ヨーロッパのそれの 55~60%を所有してい
たとみられる。まさに、イギリスこそが「世界の工場」となったのである。 1893
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
イギリス自体は、国内の就業構造を大きく第 2 次産業、すなわち、工業に移した。1851
年でその比率は、42.9%であった。逆に、かつて人口の大半を占めた農業や漁業などの第 1
次産業の従事者は,1851 年には 21.7%、更に 1871 年には 15.1%にまで低下した。その後
も下がり続け、一時は 3%程度まで低下した。 イギリスの古典派経済学者リカードによる「比較生産費説」と呼ばれる学説が(19 世紀
の社会科学・経済学に記した)、自由貿易主義を広めて,世界の周辺諸国から基本的な食
糧を輸入し、イギリスは工業生産に専門特化するほうが世界全体の生産性を高め、万人が
幸せになる方法であると説いていた。 ○他の欧米諸国 産業革命によるイギリスの威力が飛躍的に高まったことは述べたが、やがてイギリスの
成長は緩やかになったということは、創造と模倣・伝播の原理どおり、周辺の国々が産業
革命(工業化)を取り入れ、工業化を進めていったということである。もともと他の国々
も絶対王政のもとに重商主義的に産業の振興をはかってきており、マニュファクチュア(工
場制手工業)のレベルまでに達していたことは述べた。あとは機械工業を取り入れればよ
かったので、伝播は比較的速かった。 他のヨーロッパの諸国やアメリカ(合衆国)は、イギリスの技術を取入れて、そのあと
を追って工業化(産業革命)の道を歩み始め、これらの国々の工業生産が全体に占める割
合も着実に上昇し、1 人当りの工業化水準も上がり、国富も増えていった。その様子は図
14-11、14-12 をみればわかる。 《壊滅状態になったインド、中国の産業》 ところが、アジアやアフリカやイスラム国家はそうはいかなかった。インドや中国は図
14-11 や図 14-12 のように工業生産に占めるシェアも 1 人当りの工業化水準も縮小してしま
った(中国、インドの 1 人当りの工業化水準はあまり低くて明示できない)。その原因は
こうした国の昔ながらの市場にイギリス・ランカシャーの工場の安くて上等な繊維製品が
なだれこんだことにあった。 1813 年(貿易面で東インド会社の独占が崩れた年)以降、インドの綿製品輸入量は 100
万ヤード(1814 年)から 5100 万ヤード(1830 年)、そして 9 億 9500 万ヤード(1870 年)
と大幅に増加し、この過程でインドの伝統的な国内製造業の多くは駆逐されていった。中
国も同じで 1900 年ごろには見る影もなく衰退してしまった。 インドや中国およびその他の途上国では、人口ばかりは増加して、1 人当りの所得が時代
とともに限りなくゼロに近く低下していった。そこには恐るべき貧困が待ち受けていた。
つまり、1750 年にはヨーロッパと第 3 世界(途上国)では 1 人当り工業化水準にほとんど
1894
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
差がなかったが、1900 年には第 3 世界の工業化水準はヨーロッパの 18 分の 1 に過ぎず、イ
ギリスだけをとれば 50 分の 1 になってしまった。 ○恐るべき植民地化 16 世紀にヨーロッパが新大陸、アジア、アフリカに進出したときから、たとえば、コル
テスの昔から、ヨーロッパは植民地支配をしてきた。しかし、それは 1800 年にヨーロッパ
が占領し、あるいは支配していた地域は世界の陸地の 35%であったが、1878 年にはそれが
67%に増え、第 1 次世界大戦の直前の 1914 年には 84%を超えてしまった。産業革命以前の
世界の植民地は特産品を対象にした点と線の植民地であったが、産業革命後の植民地支配
は全面的な面支配に変ったのである(植民地全体の産業を支配することになった)。 ○恐るべき軍事兵器 それがなぜ可能であったか。産業革命には下記のように 2 つの面があった。 産業革命→機械化→大量生産→大量輸出→発展途上国の産業衰退→植民地化 ” ” →高度兵器の量産化→軍事力による威嚇・戦争→植民地化 つまり、産業革命技術による武器の「飛躍的」な進歩であった。再三述べるように、技術
はよくも悪くも使われる。高度な工作機械や繊維機械が安く速く作れるようになるならば、
武器のほうも当然安く速く大量に作れるようになる。産業革命は武器革命でもあったのだ。
ヨーロッパは経済的にも軍事的にもアジア・アフリカに対して圧倒的な優位をかちえたの
である。 先込め式の銃を改善した元込め式の銃(撃発雷管、銃身の旋条など)が出現して発射速
度が大幅に高まった。そして、ガトリング機関銃、マキシム機関銃、軽量の野砲などの「火
器革命」が完成し、旧式の兵器に頼っている原住民は抵抗しようにも、まったくそのすべが
なくなってしまった。そのうえ、風があってもなくても動き、川をさかのぼって進む蒸気
機関を搭載した砲艦が登場し、すでに公海を支配していたヨーロッパの海軍は、アフリカ
のニジェール川やインドのインダス川、ガンジス川や中国の長江などを内陸部の奥深くま
で上ってくるようになった。 こうして、移動性と火力にすぐれたイギリスの甲鉄艦「ネメシス」は 1841~42 年のアヘン
戦争で、清国防衛軍の艦船を完膚無きほどに撃破してしまった。1898 年 9 月 2 日、イギリ
スのキッチナー将軍はスーダン征服戦のオムダーマンの戦いにおいて、マキシム機関銃と
ライフル銃で、夜が明けてわずか数時間のうちに 1 万 1000 人の死体の山を築いてマフディ
ー軍を撃滅し、味方はわずか 48 人の損害しか出さなかった。このような実戦の例は少なく
ても、その威圧によって、アジア・アフリカ諸国は沈黙させられた(現代でいえば、核兵
器所有国と非核兵器国が対峙するようなものであった)。 1895
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
この戦力の差と産業の生産性の格差とがあいまって(このように必ず産業力と軍事力は
あい携えて進んだ。それは工業技術の根っこは同じであるから)、ヨーロッパ先進国は最も
遅れた国々にくらべて 50 倍から 100 倍の力を手に入れたことになる。西洋諸国の世界支配
は、ヴァスコ・ダ・ガマの時代以来の趨勢ではあったが、産業革命を経ることによって、
その前に立ちふさがるものはほとんどなくなったのである。世界の 84%を征服したのも、
その圧倒的な武力(の威圧)であった。ヨーロッパ列強は先物勝ちでアジア・アフリカ征
服に乗り出したのである。その先陣をきったのがイギリスだった。 【③産業革命後のイギリス植民地帝国】 ○イギリス植民地帝国の完成 イギリスは 1815 年当時、すでにかなりのところまで世界支配を達成していた。すぐれた
海軍力と金融信用の力、卓抜した商業、そして同盟外交を巧妙に組み合わせた成果だった。
イギリスは 18 世紀に、つまり産業革命以前の重商主義国家同士の争いにおいて勝利を得て
いたのであり、産業革命はすでに優位に立っていた国の支配力をいっそう強化し、別のか
たちの大国に育て上げることになった。 19 世紀後半のイギリスの対外政策を見ていく場合、とりわけ次の 3 つの事情が大きな意
味をもってくる。 その第 1 は、産業革命をなしとげ、工業化の最先進国であり、圧倒的な工業生産力をほ
こり、その国際競争力はあらゆる分野におよび、この事情に支えられて自由貿易政策を広
く世界に向かって遂行していくことが、イギリス対外政策の国策となった。 イギリスも 18 世紀までは、自由貿易をかかげるオランダなどに、露骨な重商主義政策で
挑戦していったが、工業化の発展に即して一つずつ重商主義政策を廃止していった。たと
えば東インド会社の貿易特権は 1813 年、1833 年の法律によって剥奪され、会社はインド統
治のための完全な行政機関に転化した。 また西インド諸島を舞台に 17 世紀以来行われてきた奴隷貿易は、1807 年に廃止され、1833
年にはイギリス帝国の全域にわたって奴隷制度が禁止された。また 1820 年代にウィーン体
制に抗して中南米諸国の独立を承認する政策がとられ、そして 1840 年代に穀物法と航海法
が廃止されて、この 19 世紀後半の「繁栄の時代」には自由貿易の体制が確立され、世界に
対しても自由貿易政策を主張していった。 第 2 の事情は、この国が世界中に植民地をもつ帝国であったということである。植民地
獲得は 200~300 年間に徐々に増えてきているし、その形態も統治のしかたも変わってきて
いるが、ラテンアメリカの独立によるスペイン、ポルトガルの衰退、ナポレオン戦争時の
1896
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
フランス植民地の獲得などを考えると、世界の植民地獲得競争ではイギリスに完全に凱歌
が上がり、ほぼ独占する勢いをみせていた。 しかし、現実の 19 世紀のイギリスの外交政策を見ると、この自由貿易体制の確立期に事
実としてイギリスの植民地が放棄されたことは一度もなかった。逆にこの時期にも後述す
るように、アジアのインドとその周辺では、東インド会社が自らの軍隊を用いてシンド、
アウド、ビルマ低地などを次々に併合していた。つまり自由主義はたてまえで(アメリカ、
ドイツなどの保護主義国を牽制するためで)、実際のところ、1870 年代以降の帝国主義時代
におけると同様、その植民地を手放すどころか着々と増加させており、この時期にも帝国
の拡大を志向していたといわざるをえない。 第 3 の事情は、イギリスの自由貿易政策は、実際は自由貿易帝国主義であったというこ
とである。国際経済の覇者イギリスは自国の植民地だけでなく、当然、世界各地の有望な
発展途上国、たとえばアジアの中国、日本、新大陸の中南米諸国なども重要な通商相手で
あった。中南米諸国は、1820 年代にスペインから独立したばかりであったが、1830~40 年
代にはイギリス綿製品輸出の 3 割を引き受ける最有力市場となった。そしてイギリスは、
武力の点ではなお弱体なこれらの発展途上国に対し、必要とあらば武力に訴えて自由貿易
を強要する砲艦外交を辞さなかった。自由主義時代におけるイギリスのこの政策は「自由
貿易帝国主義」と呼ばれている。 「自由貿易」と「帝国主義」は矛盾するようにみえるが、「自由貿易」を受け入れるか、
しからずんば「武力」を受けよという論理だったのである(イスラムのコーランか(税か)
剣かの論理。共通するのは圧倒的な武力)。 この時期を代表する自由主義外交の旗手パーマストン卿(1784~1865 年)は、まさに典
型的な「自由貿易帝国主義者」であった。 ○自由貿易帝国主義者パーマストン パーマストン(1784~1865 年)は、1822 年からホイッグ党カニング派になり、グレイ内
閣・メルボルン両内閣の 1830 年から 1841 年にかけて外相を務めた。このとき 1840 年から
1841 年にはアヘン戦争を指導した。 ジョン・ラッセル卿内閣のとき 1846 年から 1851 年まで再び外相に就任し、アバディー
ン伯内閣の連立政権が成立すると 1852 年から 1855 年の間内相を務めた。内相時代の 1853 年に新たな工場法を成立させ青少年労働者の工場における労働条件の改善に尽くした。こ
の内閣のとき、クリミア戦争が起こりセバストポリの攻囲戦をめぐって戦線が膠着状態に
なると、軍事の諸問題に明るく、抜群の外交手腕を持つパーマストンに戦争指導者として
の期待がたかまった。 1897
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
そこでパーマストンが正式に首相に就任したのはセバストポリの攻囲戦の最中の 1855 年
2 月であり、翌年のパリ条約に同意して戦争は終結した(1856 年)。パーマストンは首相就
任と同時に時代遅れになっていた陸軍の機構改革にも着手した。1856 年には太平天国の乱
に苦しむ清王朝に対してアロー号事件をきっかけに開戦を決意したが下院でコブデンらが
反対の決議をしたのでパーマストン首相は下院を解散し、選挙で勝利して国民の支持を得
た後にフランスのナポレオン 3 世を誘って再度清国を攻撃した(第 2 次アヘン戦争)。1858
年に天津条約、1860 年北京条約を締結した。1857 から 58 年セポイの反乱を鎮圧してイン
ドを直轄地した。 このパーマストンの自由貿易帝国主義の政策の例として、中国に対してなされた 2 回に
わたるアヘン戦争(1840~42 年、56~60 年)を取り上げてみよう。 喫茶の国イギリスは前世紀来、大量の茶を中国から買いつけていたが、貿易はつねに入
超で銀の流出に悩まされていた。この貿易赤字を逆転させるために利用されたのが、東イ
ンド会社がインドのベンガルで独占的に生産していたアヘンで、イギリスはときの清朝政
府の禁令に反して、私商人の密貿易という形にはしていたが、このアヘンを中国に売り込
んだ。こうしてイギリス(綿織物)→インド(アヘン)→中国(茶)→イギリスという三
角貿易を完成させ、イギリスは貿易赤字(銀の流出)を抑えることができた。しかし、こ
れではアヘンを大量に持ち込まれる中国はたまったものではない。つまりこのころの自由
貿易帝国主義者には自国民以外はどうなってもかまわないという意識があったところに
(現在の麻薬暴力団と同じ)、パーマストンの政策は問われているのである。 1840 年に清朝政府が外国商人のアヘン商品の没収とその焼却を命ずると、イギリスは、
自由貿易を旗印に中国に宣戦し、圧倒的な武力で中国を打ち破った。当時の中国は、日本
と同じように鎖国状態にあり、外国貿易を広州一港に限定していたが,1842 年に結ばれた
南京条約によって香港をイギリスに割譲し、広州、上海、寧波、廈門(あもい)、福州の 5
港の開港を余儀なくされた。 アロー戦争とも呼ばれる第 2 次アヘン戦争は、香港船籍のアロー号におけるイギリス国
旗侮辱事件というささいなできごとを口実にイギリスは戦争を引き起こし、南京、天津な
どを占領してしまった。イギリスの戦争目的はこの場合も中国市場のよりいっそうの開放
にあり、戦争に敗北した中国は、1860 年の北京条約によって、九竜半島(香港島の対岸)
のイギリスへの割譲と天津以下 11 港の開港に同意させられた。それ以後、中国は西欧列強
による半植民地化への道を歩むことになった。 自由貿易帝国主義者パーマストンのやり口のみで終えるが、インドにおける執拗な植民
地化戦争の繰り返しによってインド全土を植民地化したことはすでにインドの歴史で述べ
た。このような積み重ねによって出来上った 19 世紀末のイギリスの植民地帝国の完成図を
1898
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
まとめてみると、以下のようになり、その帝国はまさに 16 世紀のスペインの「太陽の沈ま
ぬ植民地帝国」の再来であった。 ○アメリカ・カリブ海進出 アメリカ 13 州の植民地は、課税問題からアメリカ独立戦争が起き、イギリスの手から離
れていったことは述べた。 しかし、カリブ海のイギリス植民地は残った。これはカリブ海植民地では黒人奴隷が人
口の多数を占めていたからである。カリブ海の黒人奴隷はプランテーション用労働力とし
てアフリカから連れてこられていたが、支配者の白人人口は非常に少なかった。アメリカ
植民地の独立に際し、カリブ海植民地が同様の路線を採らず、イギリス帝国に留まったの
は、カリブ海植民地は治安維持と奴隷の反乱防止にイギリス帝国の軍事力を必要としてお
り、帝国の保護下を離れることは不可能であったからである。 また、この時期のカリブ海植民地は砂糖を中心とした保護貿易による豊富な資金を背景
に、本国議会に一定の勢力を保っていた。この点でも「代表なくして課税なし」ととなえ
たアメリカ植民地とはやはり事情が異なっていた。いずれにしてもイギリスのカリブ海植
民地は残った。 ○インドの完全支配 1857 年に起こったインド大反乱(「セポイの乱」ともいう)を契機に名目的な存在になっ
ていたムガル帝国を 1858 年に廃し、ヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国を成立させ
た。ムガル皇帝バハードウル・シャー2 世は、デリー陥落の時に降伏していた。1858 年 1
月、皇帝は、国家に対して反逆をくわだて、自分がインドの王であると宣言したかどで裁
判にかけられ、有罪を宣告された(3 月)。これが 300 年あまり続いたムガル帝国の最期で
あった。 イギリスの勝利は、勝利といっても薄氷を踏むようにして得た勝利であり、そのことが
かえって、インド人を激しく蔑視する態度を生むことになった。こうした感情は、19 世紀
後半のヨーロッパで盛んだった人種理論と結びついて、インド人は本来「劣等人種」であ
り、ヨーロッパに学んで自己統治能力を身につけることなど期待できない、イギリス人が
インドを統治しなければならない、というイギリス帝国主義を正当化する「理論」になっ
ていった。 イギリスは大反乱が復古主義的な反乱だったことから教訓をくみ取り、インドの旧支配
層および大地主層を抱き込み、植民地支配の手先として組織することに力を注ぐようにな
った。保守主義とインド人に対する懐疑的な態度、これが大反乱以降の植民地行政の特色
となった。 1899
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
一般に,近代国家システムは、1648 年のウェストファリア条約以来できあがったと言われ
ているが、それは西欧の、それも一部の国での話にすぎない。アジア・アフリカにおいて
西欧諸国は、主権国家間においてのみ対等、植民地に対しては上下関係という二重のシス
テムを作り出した。19 世紀後半という時代は、ヨーロッパの強力な武力を背景に、このシ
ステムがそれまでの中華帝国、ムガル帝国、オスマン帝国という帝国支配にかわってアジ
ア,アフリカ世界に作り出されていく過程であった(図 13-10 において、中世から専制政
治を行なっていた大国が植民地として狙われた。植民地化されて図のように黄色になった)。 インド東部の国境が画定したのは、2 回のビルマ戦争(1824~26 年、52~53 年)につづ
き、フランスの影響が強まることに懸念をいだいたイギリスが、1885 年にビルマをインド
帝国に併合したことによる。 インドの北西では、英露の角逐のなかで、イギリス、アフガニスタン関係がつくられた。
イギリスは、アフガニスタンの頑強な抵抗にもかかわらず、第 2 次アフガン戦争(1878~
80 年)によってその外交権を奪い、(領土を大きく縮小させて)英露の緩衝国とした。 《イギリス本国は民主国家、インド植民地では絶対君主国》 こうして現在のインド・パキスタン・バングラデッシュの領土が安定的に確保され、「旧
英領インド」となった(これは、現在の「南アジア」を特徴づける要素の一つとなった)。 このようにしてイギリスはムガル皇帝を廃し(ムガル帝国の滅亡)、東インド会社を解散
させ、イギリス国王(当時はヴィクトリア女王)がインド皇帝を兼任することでイギリス
領インド帝国(植民地)を成立させた。イギリス本国は立憲君主制ではあったが、実質、
民主制の国家でありながら、インド植民地では絶対君主国のシステムをとっていた。 図 14-47 のように、本国イギリスにはインド大臣(インド相)が、インドには「インド副
王」の称号を持つイギリス人総督が置かれた。命令系統をみると、インド大臣―総督―州
知事―県知事―インド人下級官僚となっていた。 基本的にはムガルの地方行政制を受け継いだといわれるが、大きな違いは、最高位にイギ
リス本国のインド大臣がいること、および県知事までのポストは、ほぼイギリス人が占め
たことである。この下にインド人下級官僚がピラミッド的な階層性をもって続いていた。
下級官吏にインド人を採用する制度は 1833 年以来であるが、インドの官僚制は、完全な上
意下達的な制度であり、下級のインド人官僚には決定権がほとんどなかった。 イギリス統治の鍵を握っていた人物が県知事であった。彼はイギリス人支配者とインド
人下級官僚の接点におり、徴税官でもあり、治安も担当し、裁判権も一部持つという、絶対
君主のような存在であった。 知事以上の高級官僚はケンブリッジやオックスフォード大学の文系の卒業生で高等文官
試験を通ったエリートがなった。日本の明治時代の高等文官試験はイギリスをモデルにし
1900
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ているといわれるので、よく似ていた。「最善で最優秀、もっともリベラルで最高の教育を
受けた人物」でなければならない、とされた。その昇進の基準が、9 割が年功序列、1 割が
能力主義であったというのも、日本の官僚制度とよく似ていた。 ○東南アジア進出 19 世紀初頭のナポレオン戦争はイギリスの覇権を樹立する契機となった。オランダが革
命フランスの勢力下に置かれたため、イギリスは南アフリカのケープ植民地やセイロン、
東インド(インドネシア)などオランダ植民地を続々占領した。 ウィーン条約によって東インド(インドネシア)はオランダに返還されたが、セイロン
やケープ植民地は返還されず、イギリスは 1815 年セイロン内陸部のカンディー王国を征服
してセイロン植民地を成立させた。 オランダの影響力が弱体化した東南アジアにも再び進出し、1819 年にシンガポール港を
創設し、1826 年にはペナン、マラッカを含む海峡植民地を成立させた。イギリスはさらに
マレー半島のスルタン諸国を保護領化して 19 世紀末には英領マラヤを成立させた。 ○オセアニア進出 アメリカが独立したため、イギリスは流刑植民地をオーストラリアのニューサウスウェ
ールズに移すことを決め、1788 年最初の流刑植民団が送り込まれ、シドニーが創設された
ところまで近世の歴史で述べた。 1801 年にはオーストラリア大陸一周航海によって大陸の全貌が明らかになり、1828 年大
陸全土がイギリス領と宣言された。内陸部への植民が進むなかで原住民アボリジニの大量
虐殺がしばしば発生した。1851 年金が発見されてゴールドラッシュが起きたため、一般の
移民も増え流刑はやがて廃止された。1901 年にはオーストラリア連邦が成立、自治領とな
った。 ニュージーランドは 1642 年にオランダ人タスマンが「発見」し、1840 年イギリスが原住
民マオリ族とワイタンギ条約を締結して植民地とした。イギリスはこのほかサモア、トン
ガ、フィジー、ソロモン諸島など南太平洋の島々を領有した。 ○中国の半植民地化 イギリスは中国(清朝)の広東開港によって 1711 年には広州に商館を設立し、中国茶を
輸入する広東貿易に従事したが、本国での紅茶ブームにより貿易赤字が急増したためイン
ドのアヘンを清朝に売り込み、清朝とアヘン戦争(1840~42 年)を引き起こしたことは、
パーマストンのところで述べたとおりである。 1840 年に清朝政府が外国商人のアヘン商品の没収とその焼却を命ずると、イギリスは、
(これも自由貿易であるとして)自由貿易を旗印に中国に宣戦し、圧倒的な武力で中国を
打ち破った。当時の中国は、日本と同じように鎖国状態にあり、外国貿易を広州一港に限
1901
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
定していたが,1842 年に結ばれた南京条約によって香港をイギリスに割譲し、広州、上海、
寧波(にんぽー)、廈門(あもい)、福州の 5 港の開港を余儀なくされた。 その後もパーマストンは(このときは首相になっていたが)、1856 年には太平天国の乱に
苦しむ清王朝に対して、アロー戦争(56~60 年)とも呼ばれる第 2 次アヘン戦争を引き起
こした。香港船籍のアロー号におけるイギリス国旗侮辱事件というささいなできごとを口
実に(フランスの「扇の一打ち」と同じ)イギリスは戦争を引き起こしたのである。さす
がに、このようなことでの戦争に国内でも反対が起き、下院でコブデンらが反対の決議を
したのでパーマストン首相は下院を解散し、選挙で勝利して国民の支持を得た後にフラン
スのナポレオン 3 世を誘って再度清国を攻撃し、南京、天津などを占領してしまった。 イギリスの戦争目的はこの場合も中国市場のよりいっそうの開放にあり、戦争に敗北し
た中国は、1860 年の北京条約によって、九竜半島(香港島の対岸)のイギリスへの割譲と
天津以下 11 港の開港に同意させられた。それ以後、中国は西欧列強による半植民地化への
道を歩むことになった。 とにかく、産業革命後のイギリスは自由貿易を掲げ、やっていることは武力で威嚇して、
イギリス商品の市場を求めて世界に積極的に進出していたのである。軍事力に絶対的自信
をもった覇権国家になると簡単に戦争によって決着をつけようとするのは、昔も(古代の
アッシリアから)今も(第 2 次世界大戦後のアメリカまで)同じであるようで、19 世紀の
パーマストンの時代のイギリスがまさにそれだった。 1895 年に日清戦争によって、清朝が敗退すると、イギリスだけでなくヨーロッパ列強が
こぞって清朝に圧力をかけて進出するようになった。日本に三国干渉を加えたロシア・フ
ランス・ドイツ、および中国貿易の先進国イギリスの 5 ヶ国がとくに積極的に中国進出を
試みた。 日清戦争中から清朝は列強から多額の借款を受けていたが、戦後にも露仏銀行や英独銀
行などから多額の借款をし、その担保に関税・塩税をあてた。また、列強は下関条約第 6
条が規定する企業営業権を最恵国待遇で同じように受けて中国企業への投資を激増させた。
また、列強は借款を通じて鉄道敷設権と沿線地域における鉱山採掘権を獲得した。たとえ
ば、図 14-51 のように、ロシアは露清秘密同盟条約(1896 年 6 月)に基づいて東清鉄道の
敷設権と経営権を得た。ドイツは膠済線(こうさいせん)、イギリスはコ寧線(こねいせん)、
広九線など、フランスはテン越線(てんえつせん)、アメリカはエツ漢線(えつかんせん)、
ベルギー銀行団は京漢線と、それぞれ敷設権を獲得した。 さらに,列強は租借地の名目で軍事上、経済上の根拠地を次々に獲得していった。まず
1898 年 3 月にドイツは,ドイツ人宣教師殺害事件を契機に結んだ膠州湾租借に関する条約
1902
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
によって膠州湾を 99 年の期限付きで租借した。また、ロシアが旅順、大連を 25 年の期限
付きで租借すると、それに対抗してイギリスも威海衛を租借した。 フランスは広州湾を租借したが、それに対抗してイギリスは 1898 年 6 月、香港地域拡張
に関する条約を結び、九龍半島(新界)と周辺諸島を 99 年の期限付きで租借した。すでに
みたようにイギリスはアヘン戦争で香港島を、ついで第 2 次アヘン戦争で九龍を割譲させ
ていたが、ここに九龍半島(新界)と周辺諸島を租借することにより、イギリス領香港植
民地は完成した。 列強は図 14-51、表 14-4 のように鉄道と租借地を中心に自国の勢力圏を設定した。 ◇ロシア―東三省(盛京・吉林・黒龍江の三省)・旅順と大連の租借地・モンゴル・トルキ
スタン(旅順・大連は三国干渉後ロシアが租借、日露戦争の結果再び日本の租借地となっ
た) ◇ドイツ―山東省・青島(膠州湾租借地) ◇イギリス―香港の九龍半島と威海衛と長江流域 ◇日本―台湾の対岸である福建省 ◇フランス―ベトナムに隣接する広西省・広州湾 という具合に勢力圏を設定していった。その上で、列強は自国の勢力圏内では他国に権益
を譲渡しないことを清朝に承認させた(つまり、この時点で点から線でなく、面になりつ
つあった)。 こうした列強の動きに対してアメリカは、1898 年の米西戦争に勝ってスペインからフィ
リピンの領有権を獲得すると、1899 年 9 月に国務長官ジョン・ヘイがいわゆる門戸開放宣
言を発して「機会均等」を唱え、中国侵略の遅れを取り戻そうとした。アメリカはモンロ
ー宣言でアメリカ大陸にとどまると言ったこともあったが、今はそうではなく、中国にも
出ていくので、その機会は均等に開放されるべきであるとヨーロッパ諸国や日本を牽制し
たのである(けっして中国に同情したわけではなかった)。 まさに世紀の変わり目に帝国主義列強の中国分割が始まったのである(ポーランドは「大
洪水」から 3 匹のハイエナに襲われ、3 つに引き裂かれたが、中国もその一歩手前にあった
ようだ)。 ○イギリスのアフリカ植民地 イギリスのアフリカ植民地は,ナポレオン戦争の時、1806 年、オランダのケープ植民地
を奪ったことからはじまった。以後、イギリスはこのアフリカ最南端のケープ植民地から
その支配地を北に拡大し始めた。 1903
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
その後、1875 年にはスエズ運河を確保し 1882 年にエジプトを事実上の保護国化した後(ス
エズ運河の獲得とエジプトの保護国化についてはエジプトの歴史で述べる)、ナイル川に沿
って南下し始めた。 1885 年、エジプト統治下のスーダンでマフディー教徒が蜂起し、スーダンを完全に支配
下に置いたため 10 年間ほどイギリスの南下政策は停滞した(図 14-54 参照。マフディー
戦争)。しかしその後、イギリスはキッチナー率いる 2 万 5000 の大軍を動員し、鉄道を敷
きながら南下し、マフディー国家を破ってスーダンを支配下に置いた。 このとき、イギリス軍の先遣隊が、さらに南のファショダ村にフランス国旗が掲げられ
ているのを発見し、急遽、ファショダに軍を派遣した(図 14-55 参照)。 フランス側のアフリカ植民地化をみると、フランスは、1830 年にアルジェリアに進出し
て以来、1881 年にはチュニジアを、次いでサハラ砂漠一帯を領有した。フランスがアフリ
カ横断政策について真剣に考え始めたのは、1883 年前後であった。フランスは、イギリス
の 3C 政策を阻むためと同時に、フランスがアフリカ大陸を横断するためにも、スーダン南
部のファショダ占領を視野に入れていた。フランスのマルシャン大尉率いる 200 人の武装
探検隊が、各地を探検しながら東進し、ナイル河畔のファショダ村に到着し、フランス国
旗を掲揚したのは 1898 年 7 月 12 日のことだった。フランスは、ファショダからエチオピ
アを通ってジブチに繋ぐ構想を持っていた。 こうして 1898 年 9 月 19 日には、キッチナーとマルシャンの歴史的会見がもたれた。こ
れをファショダ事件といっている。アフリカ大陸の植民地化(アフリカ分割)を競うイギ
リスの大陸縦貫政策とフランスの大陸横貫政策が衝突した事件であった。ファショダに急
行したイギリス軍とフランス軍はあわや衝突かと思われた(イギリス軍は 2 万数千、フラ
ンス軍は 200 人、もともと衝突が起こるはずななかった)。しかし、この会見で、両軍の司
令官は、事態の処理を本国にゆだねることにした。 結局、フランス軍が譲歩し、翌年ファショダを撤退した。この事件を契機として、英仏
は接近することとなった。急速に力を伸してきたドイツ帝国に対処するためだった。1904
年、両国は英仏協商を結び、フランスはエジプト・スーダンでのイギリスの優越権を、イ
ギリスはモロッコにおけるフランスの優越権をそれぞれ認めることで決着をみたのである。 一方、イギリスのケープからの北上政策は続いていた。ケープ植民地を奪われたオラン
ダ人(ボーア人)は、北上してトランスヴァール共和国をつくり、海を求めてズールー王
国方面へ進出しようとした。しかしこの動きを警戒したイギリスは、1877 年、トランスヴ
ァール共和国の併合を宣言した。 ボーア人はこれに抵抗して 1880 年 12 月 16 日、大英帝国に宣戦を布告し、両国は戦争状
態へ突入した。1881 年 2 月 27 日、マジュバ・ヒルの戦いでイギリス軍はボーア人に惨敗し
1904
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
た。これを第 1 次ボーア戦争またはトランスヴァール戦争という。これにより 1881 年 3 月、
プレトリア協定が結ばれ、イギリスはトランスヴァール共和国の独立を再度承認すること
となり、戦争は終結したものの大英帝国の面目は丸つぶれとなった。 1886 年、トランスヴァール共和国は、ヨハネスブルグの近郊で豊富な金の鉱脈を発見し、
その開発のために、1894 年にはポルトガル領東アフリカ(現在のモザンビーク)の港湾都
市ロレンソ・マルケス(図 14-56 参照。現在のマプート)に至る鉄道を開通させた。しか
し、こうした急速な繁栄は、当初よりトランスヴァール進出を企図していたイギリスの帝
国主義的野心をますます強めさせることになった。 ときに、イギリス本国の植民地相であったジョセフ・チェンバレンは、典型的な帝国主
義者でもあった。イギリス帝国の団結を強化し、国内の社会改革をすすめるという主張か
ら、「社会帝国主義者」とみなされることもあった。このような人物であっただけに、1899
年、本格的な戦争をしかけた。これが第 2 次ボーア戦争(1899~1902 年)であった(図 14
-56 参照)。 第 2 次ボーア戦争は、イギリスの圧勝に終わるはずであったが、ボーア人は執拗なゲリ
ラ戦をとり、イギリスは大苦戦を強いられ、戦闘は 1902 年まで続いた。イギリス軍司令官
キッチナーが実施したのは、ゲリラと住民を分けるため、焦土作戦と強制収容所に女性や
老人、子供を送り込むことであった。そのうち 2 万 5000 人が死亡したこと、死亡率が 35%
という数字が示すように、この戦争には 20 世紀の 2 つの世界戦争(そしてベトナム戦争な
ど)の悲惨な様相を先取りする要素がいろいろみられた。 ゲリラ協力者と非協力者との区別がつかないときの対応は焦土作戦しかなった。焦土作
戦により焼かれた農場は 3 万ヶ所におよび、屠殺されたヒツジは 360 万頭といわれている。
この作戦に従軍記者として参加したウィンストン・チャーチル(のちの首相)でさえ、こ
の作戦を「卑しむべき暴挙」と非難した。最後のボーア人が 1902 年 5 月に降伏し、ボーア戦
争は終戦を迎えたが、これによりイギリスはトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を
併合した(図 14-56 参照)。 これによって南アフリカ連邦成立のための 2 つの障害ズールー王国とトランスヴァール
共和国はいずれもイギリスの帝国主義的武力(戦争)によって取り除かれ、1910 年 5 月 31
日、ここに晴れてイギリスの自治領南アフリカ連邦が成立した(図 14-55 参照)。人口の
ごく少数を占める白人が黒人を強権的に支配する政治体制を敷き、1911 年には白人労働者
の保護を目的とした最初の人種差別法が制定された。 その後、第 1 次世界大戦でイギリスが、敗北したドイツからドイツ領東アフリカ(タン
ガニーカ)を獲得したため、イギリスの大陸縦貫政策は完成した。ファショダ事件でスー
ダンから撤退したため、フランスの横貫政策は成らなかったが、フランスはアフリカ大陸
1905
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
の西半分の広大な地とマダガスカルを領有し、事実上アフリカ大陸をイギリスと 2 分割し
たも同然でしあった。 ○アフリカの全分割 1880 年代の初め、ヨーロッパ各国が帝国主義の時代に入るころは、アフリカ大陸のうち
ヨーロッパ各国の支配下に組み込まれた地域は、図 14-54 のように、大陸全体のわずか 10%
程度であった。 イギリスではゴールド・コースト、シエラレオネ、ガンビア、ラゴス、ケープなど、フ
ランスではセネガル、ガボン、ソマリアなど、ポルトガルではアンゴラ、モザンビークな
どがその代表的な地域であったが、ヨーロッパ諸国のアフリカ大陸における領土は,海岸沿
いの狭い地域に限られていた。オスマン帝国は広範な領土をまだ「保有」していたが、支配
の実態はほとんどなかった。しかし、こののち 10 年あまりのあいだに、アフリカ大陸の大
部分が図 14-55 のようにヨーロッパの植民地になっていった。 1880 年代に入るとイギリス、フランス、ポルトガルに加えベルギーやドイツ、スペイン、
イタリアなどが参入して激しいアフリカ大陸の争奪競争が始まることになった。この大争
奪戦のきっかけをつくったのは、広大なコンゴの大地を狙ったベルギーの当時国王レオポ
ルド 2 世であるといわれている。レオポルド 2 世は 1870 年代末にコンゴ国際協会を設立し、
コンゴ川近辺の各地の現地民と 400 を超える保護条約を締結、コンゴ国際協会の支配下に
組み込んだ(レオポルド 2 世のコンゴ支配の実態はベルギーの歴史に記した)。 これに対しポルトガルがコンゴ河口周辺の主権を宣言、イギリスがこれを承認した。こ
れらの動きに刺激されたフランスはコンゴ川北方の現地民と保護条約を締結し、後のフラ
ンス領赤道アフリカの礎を築いた。 一方、時を同じくしてドイツも 1884 年にカメルーンの保護領化を宣言するなど、植民地
化・アフリカの分割が加速度的に進んだ。 事態を収拾するために、ドイツのビスマルクが招集したのが 1884 年 11 月のベルリン(西
アフリカ)会議であり、そこで取り決められた一般議定書は、「アフリカ分割」の原則を定
めていた。これによって無秩序なアフリカ争奪戦に一定のルールを課すことが決定され、
以降アフリカ大陸において領土併合を行う場合の通告手法や利害調整の義務づけがなされ
た。 しかし、その後、他の列強を大きくリードしてきたイギリスの勢力が相対的に低下した
こと、対ドイツ報復を優先させていたフランスが植民地争奪戦に本腰をいれたこと、とり
わけベルリン(西アフリカ)会議でのホスト役だったビスマルクが失脚し、「新航路政策」
を推進したヴィルヘルム 2 世がドイツの舵取りになり、積極的に植民地獲得に乗りだした
1906
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ことなどから、世紀転換期においてアフリカ争奪戦はより熾烈をきわめるようになり、「む
き出しの帝国主義」がここにみられたのである。 遅れて国家統一をなしたドイツは、瀕死の病人オスマン帝国を看護しつつ(弱みにつけ
いり)、3B 政策をかかげ、バグダード鉄道などによって、ベルリン、ビザンティウム(イ
スタンブル)、バグダードを結ぼうとして、先輩であるイギリスと対立したが、後輩ドイ
ツはアフリカでも、一気にトーゴランド、カメルーンなど、4 つの地域の領有権を主張した
(図 14-55 参照)。 ドイツと同じく国内の統一のためアフリカ領土争奪戦に遅れて参戦したイタリアはソマ
リアやエリトリアなどを獲得したが、エチオピアの地域獲得を目論んだ戦争(1896 年アド
ワの戦い)でエチオピア軍に敗北し、撤退した(のちに再びエチオピア侵略を行い、支配
下においた)。その後 1912 年にはリビアを植民地にした(図 14-55 参照)。 このほか、スペイン、ポルトガルなども多少の植民地・侵略領地が残っていたから、第 1
次大戦以前には、アフリカのすべての土地が、ヨーロッパ諸国に分割されてしまったので
ある(図 14-55 でアメリカの黒人奴隷を帰還させて、つくらせたリベリア以外はすべて植
民地化された。エチオピアも最後にはイタリアの植民地となった)。 ○太平洋の分割 もう、残っているのは太平洋の島々だけとなった。太平洋諸地域への進出もイギリスが
最初であった。まず、イギリスは,オセアニアの歴史で述べているように、オーストラリア・
ニュージーランドとその周辺の諸島を領有した。1901 年にはオーストラリア連邦が形成さ
れ、イギリス帝国内の自治領となった。 しかしこの間、先住民のアボリジニは開拓ととも
に奥地に追われ、タスマニア島の先住民は 1876 年に絶滅した。 ニュージーランドは、1840 年に原住民のマオリ族との条約によってイギリスの直轄植民
地となった。 以後植民が進められ、1907 年にはイギリス帝国内の自治領となった。 イギリスはオーストラリア、ニュージーランドの他に北ボルネオ(1888 年)、ニューギ
ニア島をドイツと分割して東北部(パプア、1884 年)やフィジー諸島(1874 年)、トンガ
諸島(1900 年)を領有した。 イギリスについで太平洋に進出したのはフランスだった。フランスは、オーストラリア、
ニュージーランドの植民地経営を進めるイギリスに対抗してメラネシア、ポリネシアへの
進出をはかり、ニューカレドニア島(1853 年)やタヒチ島を含むソシエテ諸島など南太平
洋西部の諸島などを領有した。 以上のように、1880 年以前は、太平洋地域における植民地の支配は限られたものだった。 しかし、遅れてきたドイツが 1880 年代に太平洋に出現するようになってから(ビスマル
ク時代だった)、状況は一変した。図 15-16 のように、その後、列強がこぞって進出し、
1907
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
20 世紀初めまでに太平洋諸地域はイギリス・フランス・ドイツ・オランダ・アメリカ・ロ
シアによって主な島はすべて分割領有された。 ドイツは 1857 年にサモアに交易の拠点をおいていたが、1884 年にニューギニア東部を分
割する協定をイギリスと結んだ。そして 1886 年にはその境界線は西太平洋地域の分割へと
広がった。分割線の北側はドイツ領、南側はイギリス領となった。ドイツは具体的に、1884
年にはニューギニア島東北部、同年ビスマルク諸島、1886 年には赤道以北のマーシャル諸
島を領有し、(ヴィルヘルム 2 世時代の)1899 年には米西戦争に乗じてカロリン諸島・マ
リアナ諸島・パラオ諸島をスペインから買収した。 アメリカは、米西戦争(1898)でフィリピン、グァムを獲得し、また同年ハワイを併合
した。 米西戦争当時、フィリピンでは、アギナルドの率いる独立軍がスペインと戦ってお
り、アメリカは最初この独立軍を支援した。アギナルドは 1898 年、革命政府を立てて大統
領となったが、独立を認めないアメリカは、今度は逆にフィリピンの 1899 年から 3 年半に
わたる抵抗運動ををおさえて植民地にしてしまった。 さらに 1899 年にはドイツ、イギリス、アメリカが協約を結び、イギリスはドイツのサモ
アの西側を領有することを黙認し、その代償としてそれまでドイツの勢力下であった西部
ソロモン諸島(ブーゲンヴィル島を除く)を入手した。最後の協定は、1906 年、ニューヘブ
リデス諸島について、イギリスとフランスによる共同統治の協定が正式に締結された。こ
れによって太平洋の主な島々も欧米列強によって、すべて分割されてしまった。 オランダは 1904 年、以前から植民地にしていたジャワ、スマトラ、ボルネオ南部、ニュ
ーギニア西部をあわせてオランダ領東インドをつくった。 なお日本は第 1 次世界大戦中に赤道以北のドイツ領諸島(南洋諸島)を占領し、戦後マ
ーシャル諸島、カロリン諸島、マリアナ諸島、パラオ諸島を委任統治領(国際連盟から統
治を委任される)として、実質的には植民地として 1945 年まで支配してきた(太平洋戦争
中、これらの諸島では日米両軍の間で激闘が行われた)。 以上、19 世紀末までにイギリスが地球上でつくりあげた「太陽の沈むことのない植民地帝
国」の全貌である(19 世紀後半に争奪戦を行なった中国、アフリカ、太平洋地域については、
イギリス以外の国の植民地についても記した)。 【14-2-4】ロシア 《ロシアの植民地的拡大》 19 世紀は英仏などのヨーロッパ列強が産業革命後の強力な軍事力と産業力を背景に世界
中で植民地獲得競争を行い始めたことはすでに述べたが、ヨーロッパ東部から発展したロ
シア帝国も、早くからバルカン方面への南下政策や中央アジア、南アジア、シベリア、東
1908
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
アジア方面へ積極的な征服政策を進めていった。陸続きであったので、征服した土地は植
民地という目立った形ではなかったが、征服された住民は実質、植民地(侵略領地)と同
じ取り扱いであった。 19 世紀は欧米列強によるアジア・アフリカの植民地化時代と位置づけられるが、その面
ではロシアも同じであったといえる。アメリカ合衆国もロシアほどではないが、19 世紀中
にメキシコ、スペイン、カナダ(イギリス)などから領土を獲得してアメリカ大陸最大の
国家となった(このことは次のアメリカの歴史で述べる)。 【①ロマノフ 11 代皇帝ニコライ 1 世】 ロマノフ朝第 10 代ロシア皇帝・アレクサンドル 1 世(在位:1801~1825 年)は、ナポレ
オン戦争を経て、ナポレオン 1 世失脚後開かれたウィーン会議で主導的な役割を演じ、以
後のヨーロッパにおける正統主義的反動体制の確立に尽力したが、1825 年に亡くなり、弟
のニコライ 1 世(在位:1825~55 年)があとを継いだ。 ニコライ 1 世は、対外的には汎スラヴ主義の土台を築き上げ、強力に南下政策を推進し
た。バルカン半島では、ギリシャやセルビアのオスマン帝国からの独立運動を支援した。 ○ギリシャ独立戦争、1821~29 年 オスマン帝国は 14 世紀から 15 世紀にかけて東ローマ帝国を征服し、イオニア諸島を除
いたギリシャ全土をその支配下においていた。18 世紀に入るとヨーロッパにおいてナショ
ナリズムが高揚し、同時にオスマン帝国の勢力に陰りが目立ち始めた。 1821 年 3 月 6 日にロシア帝国の軍人イプシランディスに率いられたギリシャ独立の反乱
軍がルーマニア国境のプルト川を越え蜂起した。同月 23 日にはペロポネソス半島南部の都
市カラマータを反乱軍が掌握した他、パトラ、マケドニア、クレタ島、キプロスなどでも
反乱の火の手があがった。 オスマン帝国は直ちに反乱の鎮圧を目指したが、反乱軍とオスマン帝国との争いは決着
がつかず、1825 年になり、オスマン帝国のスルタン・マフムト 2 世はエジプト太守(パシ
ャ)のムハンマド・アリーに助けを求めた。アリーはシリア地方の割譲を条件に参戦し、
近代化された海軍を用いてエーゲ海の諸島を直ちに占領した。 オスマン帝国の過度の弱体化を好まないヨーロッパ諸国の政府間では(急速なオスマン
の弱体化はロシアに有利になるから)、ギリシャの自治国化を軸に問題を解決しようとし
ていた(このようにヨーロッパ列強が介入することを東方問題ということは述べた)。示
威行為のために英仏露は艦隊を派遣していたが、1827 年 10 月 20 日、ペロポネソス半島西
南にあるナヴァリノ湾でエジプト・オスマン帝国艦隊との間に偶発的な争いが生じた(ナ
ヴァリノの海戦。図 14-14 参照)。この海戦において、数的には劣勢であった英仏露合同
1909
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
艦隊が、オスマン帝国艦隊を壊滅させることとなった。これはギリシャ独立戦争の転換点
となった。 図 14-14 1830 年のバルカン 北方からは、正式にオスマン帝国に宣戦布告したロシア軍が南下し、苦戦の末イスタン
ブル北西の都市アドリアノープルを占領した。ロシア軍の独走を嫌うイギリス・オースト
リアの仲裁によって 1829 年、露土間にアドリアノープル条約が結ばれた。 このアドリアノープル条約で、ギリシャについては自治国としての独立が保証されたが、
ギリシャにおけるロシアの影響力が増大することを懸念したイギリス、フランスは、その
影響力を弱めるためにもギリシャの完全独立を主張し、1832 年年 7 月にオスマン帝国およ
びヨーロッパ列強の間で調印されたコンスタンティノープル条約で、ギリシャの独立が正
式に認められた。 列強は、英・仏・露の 3 国とのつながりが薄いヴィッテルスバッハ家のバイエルン王子
オットーを、ギリシャ王オソン 1 世として即位させた。独立した領土もペロポネソス半島
周辺に限定されていたため(図 14-14 参照)、ギリシャ人の対オスマン帝国への闘争はそ
れ以後も継続されることになった。 ○イラン・ロシア戦争、1805~13 年、1827~28 年 サファヴィー朝滅亡後のイランを統一したのはガージャール朝(1796~1925 年)であっ
たが、ガージャール朝の権力基盤は弱体であった。ガージャール朝はその軍事力を部族勢
力の提供する兵力に依存していたため、各部族の勢力をおさえきれなかった。 そこにつけいって、ロシアの南下政策は続いていた。すでに第 1 次イラン・ロシア戦争
(1805~13 年)が起き、イギリスの仲介によりゴレスターン条約(1813 年)が締結され、
ガージャール朝はグルジアやバクーなどアゼルバイジャン北半を失っていたが、第 2 次イ
ラン・ロシア戦争(1827~28 年)において、ロシア軍がタブリーズを陥落させた。これを契
1910
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
機としてタブリーズに近いトルコマンチャーイでトルコマンチャーイ条約が結ばれた(図
14-15 参照)。 図 14-15 ロシアの東方進出(19~20 世紀初頭) このなかで、①アルメニアをロシアに割譲すること、②ロシアの領事裁判権を認めるこ
と、③カスピ海におけるロシア軍艦の独占通行権を認めること、④500 万トゥーマーンの賠
償金を支払うことなどが定められた。この条約を皮切りとして、ガージャール朝は他の西
欧列強とも不平等条約を締結していった。 ○エジプト・トルコ戦争に干渉、1831~33 年、1839~40 年 1789 年にナポレオンの遠征フランス軍によりエジプトが占領されたが、イギリスとオス
マン帝国の連合軍により撃退され、オスマン帝国の主権が回復した。しかし、この混乱に
乗じてオスマン帝国軍アルバニア人傭兵のムハンマド・アリーが実力によりエジプトを支
配し、翌 1806 年にオスマン帝国よりエジプト太守(パシャ)の地位を獲得した。彼はフラ
ンスの援助の下に「上からの改革」によってエジプトの近代化を強力に推し進めた。 彼はオスマン帝国からの要請に基づいてアラビア半島へ遠征し、図 14-38 のように、ワ
ッハーブ王国を滅ぼした(1818 年)ほか、前述のようにギリシャ独立戦争(1821 年~1829
年)ではオスマン帝国海軍とともにヨーロッパ連合軍と戦ったが敗北した。しかし彼は、
このギリシャ独立戦争の際の出兵支援の代償として、約束であったシリア領有権を宗主国
であるオスマン帝国に要求したが、拒否されたので、シリアに侵攻しこれをを占領した。
これが第 1 次エジプト・トルコ戦争(1831~33 年)であった。 1911
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
しかし、このときはムハンマド・アリー1 代の統治権でエジプト領になったわけではなか
った。そこで、ムハンマド・アリーが、エジプト・シリアの世襲統治権を求めて、オスマ
ン帝国に再挑戦した。これが第 2 次エジプト・トルコ戦争(1839~40 年)であった。今度
もムハンマド・アリーのエジプト軍はオスマン帝国の軍隊を圧倒してしまった。しかし、
このときも、南下政策を進めるニコライ 1 世支配下のロシア帝国と、それに対抗するイギ
リスなど当時のヨーロッパ列強諸国がこの第 2 次エジプト・トルコ戦争に介入した。 これは典型的な東方問題で、オスマン帝国がエジプトに独占されることを防ぐためにヨ
ーロッパ列強は介入したもので、1840 年に列強間で妥協が成立し、ロンドン条約が締結さ
れた。イギリス、ロシア帝国、オーストリア帝国、プロイセン王国の 4 国が締結国(翌年
フランスが加わって 5 国)で、戦争の講和条約の当事者であるエジプトとオスマン帝国は
入っていないという奇妙な条約であった。 内容は、第 1 次エジプト・トルコ戦争で認められたムハンマド・アリーのシリア領有を
放棄することと、その代償としてエジプト・スーダンにおけるムハマンド・アリーの世襲
支配権(ムハンマド・アリー朝)が認められた。しかし、エジプトは名目的にはオスマン
帝国の宗属関係にとどめおかれた。つまり、エジプトはオスマン帝国の宗主下におかれた
ままであった。また、ロシアの艦隊がボスポラス・ダーダネルス海峡の自由通航などをも
りこんだ条約(ウンキャル・スケレッシ条約)を破棄し、外国船の通航を全面禁止にした
(当然のことだが、自国のオスマン帝国は通航できる)。 この条約の最大の受益者は会議を開催したイギリスであった(とりわけ外相のパーマス
トンの手腕によるところが大きい)。というのもこの条約でムハンマド・アリーを支援した
フランスは、この地域の影響力をそがれ、ロシアも二つの海峡の通航を阻止されたことに
より南下政策に歯止めがかかったのである。 ○東方問題 東方問題とは、17 世紀後半に最大版図に達したオスマン帝国が 1683 年の第 2 次ウィーン
包囲に敗れて以降、図 13-47 のように縮小に転じオスマン帝国の解体過程に伴って生じ、
19 世紀に顕著となったオスマン帝国領内での紛争に関連するヨーロッパ諸国間の国際問題
を意味している。 とくに 19 世紀以降、バルカン半島への勢力拡大を目指すロシアとオーストリア、勢力均
衡を狙うイギリスとフランスの思惑が重なり合い、オスマン帝国を巡る国際関係は紆余曲
折を経ていった。このオスマン帝国をめぐる国際問題の諸局面を一括して東方問題という
ようになったのである。 オスマン帝国治下のバルカン半島の民族分布は複雑に錯綜しており、これらの民族が国
民国家を形成しようとする場合、その領域の決定には民族問題が不可避に関わる状況であ
1912
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
った。このような状況に際し、ヨーロッパ列強はバルカン半島の紛争に介入して、一国が
オスマン帝国との外交関係において「一人勝ち」する構造を排除することで、各国の利害
を調整しパワーバランスの維持に努めた。 またオスマン帝国側もヨーロッパの国際関係を利用して自国の領土と利益を守るために
(長らえるために)主体的に外交紛争に関わった。これら「東方」の状況は、同時に、ヨ
ーロッパ諸国自体の政策に影響する側面も持ち、とくに後述するクリミア戦争は各国の政
治・経済状況に顕著な影響を及ぼした。 つまり、東方問題といわれる国際対立は、①オスマン帝国の支配力が弱まったこと、②
自由主義・国民主義の影響をうけて、オスマン帝国の支配下にある諸民族が独立運動・解
放運動をおこしたこと、③ヨーロッパ列強の利害やその調整の問題がからんだこと(この
問題にからむ列強とは、ロシア、イギリス、フランス、オーストリアでああった)の三つ
の要素がからまって起こったものである。このように、一連の東方問題は、主として、オ
スマン帝国にとっては「領土(喪失)問題」、バルカン諸民族にとっては「民族(独立)問
題」、ヨーロッパ諸国にとっては「外交問題」(自国の勢力下におきたい)の側面を持って
いた。 今後、オスマン帝国領から次々と多くの国々が自治、独立を獲得し、あるいはヨーロッ
パ列強の勢力下に入り、最終的には 20 世紀初頭、オスマン帝国の勢力範囲はバルカンのご
く一部とアナトリア、アラブ地域だけになった。オスマン帝国はこのような帝国内外から
の挑戦に対して防戦にまわるしかなく、ヨーロッパから「瀕死の病人」と呼ばれる状態に
なっていった。 ○クリミア戦争、1854~56 年 クリミア戦争は地中海進出をねらうロシアが起こした戦争であったが、その発端は聖地
管理権問題であった。聖地エルサレムの管理権は、16 世紀以来ローマ教皇の保護者として
のフランス王にあったが、フランス革命後はロシアの支持を得たギリシャ正教徒の手に移
っていた。ナポレオン 3 世は、カトリック教徒の支持をえるために、オスマン帝国に、こ
の管理権を要求し獲得した。これに正教会を国教とするロシア皇帝ニコライ 1 世が反発し、
ロシアは正教徒の保護を口実にしてオスマン帝国全土に政治干渉し、1853 年 7 月、オスマ
ン帝国の宗主権の下で自治を認められていたモルドバ、ワラキア(現在のモルドバとルー
マニアの一部)に出兵した(図 14-14 参照)。 オスマン帝国側は再三にわたって撤退勧告を繰り返し、1953 年 9 月に最後通牒も無視さ
れたことからオスマン帝国軍は 10 月に宣戦布告なしにドナウを渡河してブカレスト郊外の
数ヶ所の前哨拠点を攻撃した。これがクリミア戦争の勃発であった。 1913
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
装備の上で勝っていたロシア軍はドナウを越えて南下し、さらにギリシャの義勇兵が北
上(ギリシャは前回の独立戦争では不満でさらに領土の拡大を狙っていた)、オスマン帝国
領内のマケドニアやブルガリアでロシアの援助を受けた反オスマン組織が反乱を起こした
ため、オスマン帝国軍はバルカン半島で挟撃されるかたちに追い込まれた。 1853 年 11 月、黒海南岸の港湾都市・シノープ(シノッペ。図 14-14 参照)で停泊中だ
ったオスマン帝国艦隊が少数のロシア黒海艦隊に奇襲され、艦船のみならず港湾施設まで
徹底的に破壊されるというシノープの海戦が起きたため状況は一変した。これによりイギ
リスでは世論が急速に対ロシア強硬論へと傾き、フランスとともにオスマン帝国と同盟を
結んで 1854 年 3 月 28 日、ロシアに宣戦布告した。イギリス、フランス艦隊が出動すると
戦局は逆転し、ロシア黒海艦隊は劣勢に追い込まれた。 陸上戦はもっと悲惨な戦いになった。英仏連合軍の攻撃目標はロシア黒海艦隊の基地が
あるクリミア半島の要衝・セヴァストポリであった(図 14-14 参照)。ロシア軍は英仏艦隊
から直接セヴァストポリを砲撃されないよう湾内に黒海艦隊を自沈させ、陸上でも防塁を
設けて街全体を要塞化したため、同盟軍は塹壕を掘って包囲戦を展開する以外に手がなく、
イギリス軍は化学兵器(一説では亜硫酸ガスではないかといわれている)まで使用したが、
予想外の長期化により戦死者よりも病死者の方が上回り、戦争を主導したイギリス国内で
も厭戦ムードが漂っていった。 1854 年 9 月 28 日から始まったセヴァストポリの攻囲戦は最終的に、サルデーニャ王国が
ピエモンテに駐屯する精鋭 1 万 5000 人を派遣して英仏軍に与したことにより街は 3 日に及
ぶ総攻撃の末に 1855 年 9 月 11 日に陥落を見て決着した(突如、サルデーニャ王国が出て
きたが、これはのちのイタリア統一に英仏の支持を得るために英仏に加勢して参戦したの
である)。ロシアではニコライ 1 世が死去し、新たに即位したアレクサンドル 2 世は英仏側
と和平交渉を進めた。 1856 年 3 月 30 日にオーストリア帝国とプロイセン王国の立会いのもとでパリ条約が成立
した。パリ条約の締結国はイギリス、フランス、オーストリア、プロイセン、サルデーニ
ャ、オスマン帝国、ロシアの 8 ヶ国であった。内容はオスマン帝国の保全など領土に関す
る問題は戦前の状態に戻すことで各国が合意しただけで、厳密には戦争継続を不利益とみ
なした欧州諸国の妥協案であった。 《英仏に格段の差がついたロシアの軍事技術》 この戦争で産業革命を経験したイギリスとフランス、産業革命を経験してないロシアの
国力の差が歴然と証明された。ロシアの軍事技術は同じく産業革命を経験していないオス
マン帝国や今後進めるシベリア、イラン、東アジアへの侵略には通用したが、英仏などに
は太刀打ちできなくなった。 1914
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ロシア兵の旧式の火打ち石銃の射程距離は 200 ヤード(約 180 メートル)、これに対して
連合軍の小銃の弾丸は 1000 ヤード(約 900 メートル)の目標にたいしても有効だったので
ある。これではロシア軍がはるかに多くの犠牲者を出したのも当然だった。死者 48 万人と
いう損失はロシアの国力と威信に大きな打撃を与えた。 海上でも同じだった。ロシアの船の多くはモミ材でつくられていて海戦には向かず、火
力も貧弱で、乗員は訓練不足だった。英仏連合軍の戦艦は蒸気機関を搭載し、一部には榴散
弾(りゅうさんだん。散弾をばら撒いて目標を破壊する)やコングリーヴ砲(初期のロケ
ットランチャー。ウィリアム・コングリーヴが発明したためこの名がある)が装備されて
いた。 建艦技術、武器弾薬、輸送手段のどれをとってもロシアはイギリスとフランスよりもは
るかに遅れをとっていたことがわかった。オスマン帝国に一方的に勝利してきたロシアの
南下政策は、クリミア戦争での英仏の参戦により一頓挫することになった。 【②アレクサンドル 2 世】 クリミア戦争のさなか、ニコライ 1 世は、1855 年、インフルエンザにかかり死去した。
後継皇帝には、ニコライ 1 世の第 1 皇子のアレクサンドル 2 世(1818~81 年、在位:1855
~81 年)がなった。 クリミア戦争の敗北はロシア支配階級に大きな危機感を抱かせ、ロシア弱体化の責任は
既存の国家体制が抱く「立ち遅れ」にあるとされ、資本主義化・工業化のような経済発展、
自由主義的な社会改革こそがロシアを救うと考えられた。 ○農奴解放とロシアの近代化 農奴制は、一般的に封建制のもとで行われる統治制度で、農民は自身が耕す土地に拘束
され、賦役、貢納といった義務を果たした。人間としての彼らの人格が尊重されることは
稀で、時には土地と共に売買、譲渡の対象となった。ロシアでは、19 世紀になっても農村
共同体ミールを母体とした農奴制が行われ、ツァーリズムによる専制支配が続いていた。 そこで、アレクサンドル 2 世は 1861 年、農奴に人格的自由と土地所有を認める農奴解放
令を発布し、農民を貴族領主の人身支配から解放した。しかし、それまでの領主の土地は、
そのまま彼らの所有地とされた。農民には、領主に都合のよいような一定面積の土地が分
与され、それを利用する権利が地代つきで認められたが、農民は、その地代を支払わなけ
れば、完全な土地所有者にはなれなかった。 地代の支払いのために、農民は、政府から多額の貸付金を受け取り、その返済は、49 年
間の年払いとして義務づけられた。加えて、農村共同体が残され、上記の手続きはすべて、
農民個人によってではなく、共同体の連帯責任によってなされると決められた。このよう
1915
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
にロシアの農奴解放は、約 4700 万人の農民の管理が地主から政府の手に移ったことを意味
するだけで、実質はあまり変わらなかった。 軍事面での改革は、1867 年に軍規を大幅に整備し、1874 年には男子に対する徴兵制がし
かれた。ただし装備などは西欧列強と較べると、いまだ格段に質が悪かった。 ○極東への進出 クリミア戦争の敗北でバルカンへの進出に失敗したロシアは、アジア進出により積極的
に帝国の拡大をはかろうとした。ロシアは、アロー号戦争(1856~1860 年。清国と英仏の
戦争)に忙殺される中国清朝とは、1858 年のアイグン条約および天津条約(アロー号戦争
の結果、英仏露米と清国の条約)、1860 年の北京条約を次々に結んだ。 ○アイグン条約 アイグン(璦琿)条約は、太平天国の乱やアロー戦争(第 2 次アヘン戦争)による清国
内の混乱に乗じてロシア帝国が清国に認めさせた不平等条約の一つであった。ロシア帝国
と清国が、1858 年 5 月に中国北東部、アムール川中流のアイグン(現黒竜江省黒河市。図
14-15 参照)において結んだ条約で、1689 年のネルチンスク条約以来、清国領とされてき
たアムール川左岸をロシアが獲得し、ウスリー川以東の外満州(現在の沿海州)は両国の
共同管理地とされた。また、清はロシアにアムール川の航行権を認めた。 ○北京条約 その 2 年後の 1860 年の北京条約は天津条約の批准交換と追加条約であるが、それを仲介
したロシアはそれを口実に清国と新たな条約を結んだ。この条約でロシアに対しては外満
州の一部であるウスリー川以東アムール川以南の地域を割譲し、アイグン条約では清とロ
シアの共同管理地となった地域(現在の沿海州)をロシア領と確定した(図 14-15 参照)。 ロシアはこの後すぐにウスリー川以東に沿海州を置き、念願の不凍港ウラジオストクを
建設した。また、ロシアはカシュガルやウランバートル、張家口での商取引の自由を得た。 ロシア帝国東部地域の開発が進むなか、多くの解放農民がシベリアへと移住した。 ○アラスカ売却 また極東における領土の整理も行われ、1867 年に開発の困難なアラスカをアメリカに 720
万ドルで売却した。 ○日本との樺太・千島交換条約 日本とロシアとの国境は 1855 年(安政元年)の日露和親条約において千島列島(クリル
列島)の択捉島(エトロフ島)と得撫島(ウルップ島)との間に定められたが、樺太につ
いては国境を定めることが出来ず、日露混住の地とされた(図 14-15 参照)。 1856 年にクリミア戦争が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発
するようになった。箱館奉行小出秀実は、樺太での国境画定が急務と考え、北緯 48 度を国
1916
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
境とすること、あるいは、ウルップ島からオネコタン島までの千島列島と交換に樺太をロ
シア領とすることを建言した。幕府は小出の建言等により、ほぼ北緯 48 度にある久春内
(現:イリンスキー)で国境を確定することとし、1867 年石川利政・小出秀実をペテルブ
ルグに派遣し、樺太国境確定交渉を行った。しかし、樺太国境画定は不調に終り、樺太は
これまで通りとされた(日露間樺太島仮規則)。 1874 年 3 月、樺太全島をロシア領とし、その代わりにウルップ島以北の諸島を日本が領
有することなど、樺太放棄論に基づく訓令を携えて、特命全権大使榎本武揚はサンクトペ
テルブルクに赴いた。榎本とスツレモーホフ・ロシア外務省アジア局長、アレクサンドル・
ゴルチャコフ・ロシア外相との間で交渉が進められ、1875 年には樺太・千島交換条約が結
ばれ、日本との国境が確定した。それによって、樺太での日本の権益を放棄する代わりに、
得撫島(ウルップ島)以北の千島 18 島をロシアが日本に譲渡すること、および、両国資産
の買取、漁業権承認などを取り決められた。 ○中央アジアへの進出 アレクサンドル 2 世の治世には図 14-15 のように、中央アジアへの本格的な進出や開発
も始まった。黒海とカスピ海の間のカフカス山脈周辺のカフカス地方は、16 世紀以降、南
カフカスはサファヴィー朝などのイラン勢力とオスマン帝国の争奪の場となった。北カフ
カスでは 15 世紀にキプチャク・ハン国の勢力を継承したクリミア・ハン国やオスマン帝国
が進出して支配を広げたが、17 世紀以降、大カフカス山脈北麓のステップ地帯からコサッ
クを尖兵とするロシア帝国の影響力が浸透し始めた。 19 世紀に入ると北カフカスの併合を完了したロシアは大カフカス山脈の南にまで勢力を
伸ばし、南カフカスを支配するカージャール朝イランとオスマン帝国からこの地方を奪い、
1806 年のゴレスターン条約でロシア帝国に併合した(図 14-15 参照)。 このカフカスのカスピ海沿岸のバクー油田は、1872 年にロシアが石油産業の国家独占を
廃止すると、欧米諸国から石油資本が流入して急速に発展を遂げた。未だペルシア湾の油
田が開発されていなかったのでロシア帝政末期には世界の石油生産の過半を占めるほどに
なった。 この時代のバクーは石油産業から近代的工業都市へと発展を遂げ、流入してきたアゼル
バイジャン人やアルメニア人の様々な経済・政治・文化活動の中心となった。スウェーデ
ン出身のアルフレッド・ノーベルは、二人の兄と 1878 年にノーベル兄弟石油会社を設立し
て油田開発、ナフサ精製、輸送などを受けもって巨万の富を築いた。 トルキスタンとは、今日トルコ系民族が居住する中央アジアの地域を指し、原義はペル
シア語でトルコ人の土地(-istan)であるが、ロシア帝国は、このトルキスタン地方では
1917
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国を次々に保護下におき、1876 年にコーカンド・ハン国を
滅した(図 14-15 参照)。 ブハラ・ハン国は、モンゴル帝国ジョチ・ウルスの王統の流れを汲むトルコ系イスラム
王朝で、16 世紀、サマルカンドからブハラに首都が移転してから、ブハラ・ハン国と呼ば
れるようになった。1868 年、ロシアの権力を認め、軍の保有権と外交権を手放した。現在
のウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタンの領土の一部にわたる。 ヒヴァ・ハン国は、シャイバーニー朝、シビル・ハン国と同じくジョチ・ウルスのシバ
ン家に属す王朝で、17 世紀後半から 19 世紀後半にかけて、アムダリア川の下流及び中流地
域に栄えたトルコ系イスラム王朝であった。1873 年 5 月、ヒヴァ・ハン国は、ロシア帝国
の保護国となった。 コーカンド・ハン国は、ウズベクと称されるジョチ・ウルス系の遊牧民が中心となって
建設され、18 世紀後半から 19 世紀前半にかけて、フェルガナ盆地を中心に中央アジアに栄
えたトルコ系イスラム王朝であった。現ウズベキスタン領フェルガナ州西部のコーカンド
(ホーカンド)を都としてカザフスタン、キルギス、タジキスタンの一部に及ぶ西トルキ
スタンの東南部に君臨する強国に成長し、一時は清朝の支配する東トルキスタン(チベッ
ト)にまで勢力を伸ばしたが、内紛と周辺諸国の圧力から急速に衰えた。ロシア軍は 1876
年 2 月にコーカンドに入城、コーカンド・ハン国を滅ぼし、フェルガナ盆地の全域を支配
下に収めた。 コーカンド・ハン国の旧領は完全に植民地化され、タシュケントにはロシアの中央アジ
ア支配の拠点となるトルキスタン総督府が置かれ、その支配下にコーカンド・ハン国の旧
領にヒヴァ・ハン国およびブハラ・アミール国から奪った領土を加えてシルダリア州およ
びフェルガナ州が設けられた。この地域でもロシア化政策と経済開発が推し進められた。
この地域は綿花栽培および綿工業の中心地となり、モノカルチャー化が進んでいった。 このようにアレクサンドル 2 世の治世に中央アジアの征服は完了して、ロシア化が進め
られた。 ○再び南下政策―露土戦争、1877~78 年 アレクサンドル 2 世は、東アジア、中央アジアへの進出が一段落すると,再びバルカン
半島の南下政策を考えるようになった。クリミア戦争後のロシアの孤立状態を危ぶみ、ま
ず、統一をなしたドイツとの友好が考えられ、1873 年、バルカン半島をめぐってライバル
関係にあるオーストリアを含めた三帝同盟が結ばれた。 1875 年に発生したボスニア蜂起を支援するため、1876 年にセルビアとモンテネグロはオ
スマン帝国に宣戦を布告した。しかし両国はオスマン軍によって大きな打撃を受けて休戦
を余儀なくされた上、同時期にブルガリアで起こった反オスマン反乱である 4 月蜂起も鎮
1918
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
圧される結果となった。これらバルカン半島における諸紛争を収拾するための国際会議が
失敗したため、ロシアはブルガリアへの介入を決意した。 1877 年 4 月、ロシアは、ブルガリア保護の名目で再びオスマン帝国に宣戦し露土戦争(1877
~78 年)を開始した。バルカン半島とアナトリア半島東部が戦場となり、ロシア軍はバル
カン半島ではプレヴェン(ブルガリア北部)要塞を陥落させてイスタンブルに向かって進
撃し、イスタンブルの近郊のアヤ・ステファノス(サン・ステファノ)にまで到達した。
この間にアナトリア東部ではロシア軍がカルス(トルコ東部の都市)を陥落させ、1878 年
3 月、ロシアの勝利で戦争は終わり、サン・ステファノ条約が結ばれた。 サン・ステファノ条約によって、オスマン帝国は多額の賠償金とともに、①アルメニア、
ドブロジャ、ベッサラビア、およびアナトリア東部バトゥミ、カルス、アルダハン、バヤ
ジト地方のロシアへの割譲 、②ルーマニア、セルビア、モンテネグロ(ツルナゴーラ)の
独立の承認 、③ブルガリアへの自治権の付与(マケドニアを含む大ブルガリア公国が成立)、 ④ボスニア・ヘルツェゴヴィナへの自治権付与などを課せられた(図 14-14 参照)。 ○ベルリン会議(1878 年)と東方問題 しかし、例のように英仏などの列強はこれに猛反発し(東方問題の発生である)、1878
年 6 月~7 月にかけてドイツのビスマルク首相が呼びかけて開催されたベルリン会議ではロ
シアの影響力を殺ぐ方向で条約内容が大幅に修正された。 サン・ステファノ条約で定められたセルビア、モンテネグロ、ルーマニアの 3 国の独立
は、ベルリン条約でも認められた(図 14-40 参照)。セルビアとモンテネグロの領土は戦
争前と比べて拡大したものの、サン・ステファノ条約で得た領土の大部分はオスマン帝国
に返還することになった。 サン・ステファノ条約で成立した広汎な自治権を持つ大ブルガリア公国は 3 分割された。
図 14-40 のように、マケドニアはオスマン帝国に返還し、残る地域のうち、バルカン山脈
以北がオスマン帝国主権下の自治国であるブルガリア自治公国となり、バルカン山脈以南
はオスマン帝国の自治州である東ルメリ自治州となった。ブルガリア自治公国はオスマン
帝国に貢納の義務を負い、東ルメリ自治州に関してはキリスト教徒の総督をスルタンが任
命することとなった。また、サン・ステファノ条約で定められていたロシア軍の駐留期間
は短縮された。 サン・ステファノ条約では自治権が付与されることになっていたボスニアとヘルツェゴ
ヴィナは、オーストリア・ハンガリー帝国が占領することとなった。これは露土戦争時の
オーストリアとロシアの間の密約に基づくもので、ロシアはオーストリアがボスニア・ヘ
ルツェゴヴィナを占領するのを容認し、引き替えにオーストリアは中立を維持するという
ものであった。最終的にはオスマン帝国の名目上の主権は残されたが、現実にはオースト
1919
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
リアが施政権を行使するという体制が 1908 年まで続いた(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併
合)。 ロシア側はブルガリア公に皇后の甥アレクサンダーを推すことには成功したものの、ベ
ルリン会議を主催したドイツとの同盟(三帝同盟)関係に疑念を呈する声がスラヴ主義者
の間で上がることになった(ビスマルクは中立なる仲介者と称していたが、ロシアに厳し
く、イギリスに有利にはからったとみなされた)。 ベルリン会議後、ロシアでは皇帝アレクサンドル 2 世への失望と不満が広がっていった。
この戦争を戦ったルーマニアはロシアと同盟した際に戦争終了後自国に対する領土要求を
行なわないと取り決めていたが、ベルリン会議によりベッサラビア南部をロシアに併合さ
れてしまった。 ○現代まで尾を引く東方問題 すでに述べたギリシャ独立戦争などから始まった東方問題の推移を図 14-39 に図示した
が、オスマン帝国(トルコ)をめぐる国際的な利害関係は変化し、オスマン帝国(トルコ)
の友好(同盟)関係、対立抗争関係はたえず変化した。 そして 1877 年の露土戦争後のサン・ステファノ条約を見直すために開催されたベルリン
会議(1878 年)で列強間の東方に関する外交問題は一応の決着を見た。 それ以降、列強の
利害は「東方」地域だけでなく、エジプト以南のアフリカ・極東を含めて、ドイツなどの
新興勢力も参入してきて全世界規模で調整される(争われる)帝国主義の時代になったの
で、列強にとって「東方問題」という言葉はあまり使われなくなった。しかし、このバル
カンは列強の国益(欲望)のぶつかるところであることには変わりはなく、その思惑はそ
れぞれ違っていた。 ◇ロシア……ロシアの最終目的は地中海に出ることであった。そのためには、黒海から
ボスポラス・ダーダネルス両海峡およびコンスタンティノープルの港を確保して、地中海
進出の足がかりを得ることであり、オスマン帝国海域での商船や軍艦の航行権を列強に先
んじて確保し優位に立つことを望んでいた。 ◇オーストリア……このようなロシアの立場に対して、オーストリアが最も直接的に対
立した。オーストリアにとって、もはやオスマン帝国より、ドナウ川沿いに進出しようと
するロシアの脅威のほうがはるかに重大であった。さらにバルカン諸民族が活発になるこ
とは、オーストリア自身の抱える民族問題に飛び火し、自国内で民族の独立運動が激化に
つながると危惧されたため、むしろオスマン帝国の保全を考えるようになった。 ◇イギリス……イギリスは、インドへの交通路を確保するために、ロシアがボスポラス
海峡を支配して東地中海に進出するのを警戒し、さらにオスマン帝国の崩壊によってヨー
ロッパの勢力均衡が崩れる懸念をもっていたために、オーストリアに近い立場にあった。 1920
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
◇フランス……かつてのナポレオンのエジプト遠征の目的と同じように、エジプトをう
まく取りこんで、イギリスのインドへの道を中断させたかった。 以後、東方問題という言葉は使われなくなったが、これは東方問題が解決したのではな
く、より多角的、複雑な問題となっていったのである。つまり、「東方問題」は列強の帝国
主義政策・膨張政策に吸収されてしまい、主として ◇ドイツ・オーストリアの「汎ゲルマン主義」とロシアの「汎スラヴ主義」の対立。 ◇エジプトとオスマン帝国の紛争およびそれに関わる英仏の中近東政策の対立。 ◇ロシアの南下政策とイギリスの帝国主義政策の対立。 ◇イギリスの 3C 政策とドイツの 3B 政策の対立。 などを軸として語られるようになっていった。 「東方問題」という言葉はなくなっても、これはあくまで列強間の外交上のことであり、
バルカンの民族問題は全く解決されていなかった。むしろ帝国主義時代のことの本質です
らあった。 後にそのことは 2 度のバルカン戦争によって明らかになり、この民族問題は第
1 次世界大戦を引き起こす要因のひとつとなった。それどころか、ヒトラーの第 2 次世界大
戦、そして、20 世紀後半のコソボ紛争やユーゴスラヴィア解体にいたるまでこの民族問題
は未だ解決されておらず、今日まで持ち越されている問題である。 【③アレクサンドル 3 世】 ○シベリア鉄道の建設 1881 年、ロシア初の革命グループ「人民の意志」党員の投じた爆弾により、アレクサン
ドル 2 世は暗殺された。アレクサンドル 2 世のあとを継いだのは第 2 皇子のアレクサンド
ル 3 世だった。 アレクサンドル 3 世(在位:1881~1894 年)の治世では、ヴィッテ財務大臣によるフラ
ンス外資の導入による、重工業化が行われた。また、1891 年にフランスと同盟を結ぶと、
フランス資本を活用してシベリア鉄道を起工し、極東への進出を企てた(図 14-15 参照)。 【④ニコライ 2 世】 1894 年 11 月父アレクサンドル 3 世の死去にともない、ニコライ 2 世(1868~1918 年、
在位:1894~1917 年)は 26 歳でロシア皇帝に即位した。 1895 年 4 月の日清戦争後の三国干渉ではドイツ、フランスをさそって「清国の秩序維持」
を名目に、下関条約によって日本が得た遼東半島を賠償金 3,000 万両と引き替えに清に返
還させた。ロシアは、その見返りとして清国の李鴻章より満州北部の鉄道敷設権を得るこ
とに成功していた(露清密約)。 1921
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
そのため 1897 年、ロシアは、鉄道建設が困難なアムール川沿いの路線ではなく、短絡線
としてチタから満州(現在の中国東北部)の北部を横断し、ハルビン(哈爾浜)などを経
由する東清鉄道の敷設権を得た(図 14-15 参照)。1903 年には東清鉄道が完成し、当初は
これがシベリア鉄道のルートであった(その後アムール川北岸(左岸)を迂回してハバロ
フスクを経由する国内線を 1916 年に完成させ、現在のルートが完成した。モスクワ~ウラ
ジオストク間で 9,297 キロメートルになる)。 さらに 1898 年 3 月、旅順大連租借条約が結ばれると、ハルピンから大連、旅順に至る南
満州支線の敷設権も獲得し、満州支配を進めた(図 14-15 参照)。 ニコライ 2 世は、ヨーロッパにおいては友好政策をとり、1891 年にフランスと結んだ協
力関係を 1894 年露仏同盟として発展させるとともに、オーストリア・ハンガリー帝国のフ
ランツ・ヨーゼフ 1 世や従兄のドイツ皇帝ヴィルヘルム 2 世とも友好関係を保ち、万国平
和会議の開催をみずから提唱して 1899 年の会議ではハーグ陸戦条約の締結に成功した。 ○日露戦争とポーツマス条約 ロシア帝国は、1898 年には旅順・大連を租借し、旅順にいたる鉄道敷設権も獲得して旅
順艦隊(第 1 太平洋艦隊)を配置、さらに 1900 年の北清事変にも派兵して、事変の混乱収
拾を名目に満州を占領、日英米の抗議による撤兵を約束したにかかわらず履行期限を過ぎ
ても撤退せずに駐留軍の増強をはかり、さらに権益を拡大するなど極東への進出を強力に
推し進めていた。このため同じころ朝鮮半島を勢力下に置こうとした日本と利害が対立す
るようになった。 1904 年 2 月、日本側の攻撃をもって日露戦争が勃発した。しかし、ロシアは小国と侮っ
ていた日本に旅順攻略や日本海海戦など敗戦を重ねた。1905 年 1 月 9 日、莫大な戦費や戦
役に苦しんだロシア民衆が皇帝への嘆願書をたずさえてサンクトペテルブルクの冬宮殿前
広場に近づくと、ロシア軍兵士は丸腰の 10 万人もの群衆に発砲し、2,000~3,000 人の死者
と 1,000~2,000 人の負傷者を出した。この「血の日曜日事件」をきっかけに労働者のゼネ
ストが頻発し(ロシア第 1 革命)、ロシア帝国の体制の根幹をなしてきた「皇帝専制主義(ツ
ァーリズム)」も著しく動揺した。この事件により、ニコライ 2 世はヴィッテを再登用して
戦争の早期終結に当たらせた。 また、日露戦争において終始優勢を保っていた日本は、これ以上の戦争継続が国力の面
で限界であったことから、当時英仏列強に肩を並べるまでに成長し国際的権威を高めよう
としていたアメリカに仲介を依頼し交渉を行った。 1905 年 6 月に、アメリカ合衆国のセオドア・ルーズベルト大統領の呼びかけで、日露両
国はアメリカのポーツマスで講和会議を行った。当初ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか
小さな戦闘において敗れただけであり、ロシアは負けてはいない。まだまだ継戦も辞さな
1922
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
い」という主張を行っていたため、交渉は暗礁に乗り上げていたが、これ以上の戦争の継
続は不可能である日本が譲歩し、この調停を成功させたいアメリカがロシアを説得すると
いう形で事態を収拾し、戦争賠償金には一切応じないという最低条件で交渉は妥結した。
日本は困難な外交的取引を通じて辛うじて勝利を勝ち取った。 このポーツマス条約において、日本は、北緯 50 度以南の樺太(南樺太)、関東州(旅順・
大連を含む遼東半島南端部)の租借権、旅順~長春間の南満洲支線と付属地の炭鉱の租借
権、大韓帝国に対する排他的指導権、沿海州沿岸の漁業権などを獲得したものの、戦争中
に軍事費として投じてきた国家予算の約 4 倍にあたる 20 億円を埋め合わせるはずの戦争賠
償金は取得することができなかったため、日本政府と戦時中に増税による耐乏生活を強い
られてきた日本国民との間には講和に対して大きなギャップがあり、講和内容に不満な国
民は日比谷焼打事件などの暴動を起こした。 この日露戦争の敗北により、ロシアの極東での「南下政策」は事実上、失敗した。 ○軍事大国ロシア ロシアは過去 4 世紀にわたってユーラシア大陸を西と南に征服を続け、フィンランドか
らウラジオストクにいたる広大な領土と表 15-2 のように列強のなかでは最大の人口を保
っていた。ドイツの 3 倍、イギリスの 4 倍に近い人口がなおも急増していた。ロシアの常
備軍は 19 世紀を通じてヨーロッパ最大の規模だったし、第 1 次世界大戦が近づいていたこ
ろでさえ、どこの国よりずっと大きかった。第 1 線部隊が 130 万人、そのほかに 500 万人の
予備役兵がいると言われていた。 ロシアの軍事費もまた莫大で、ドイツの軍事費に匹敵したと考えられていた。軍事費、
軍事力のもとは、経済力、ましても工業力であった。ロシアでも遅ればせながら、産業革
命がはじまり、ロシアの工業力はクリミア戦争のころにくらべてはるかに大きくなってい
た。1860 年から 1913 年まで、ロシアの工業生産高は年率 5%という高率で伸びており、1890
年代には 8%近くになっていた。第 1 次世界大戦直前の鉄鋼生産高はフランスやオーストリ
ア・ハンガリーを追い越し、イタリアや日本よりはるかに大きかった。 鉄道の敷設も 1914 年まで激しい勢いで進められて、短期間にドイツの計画(後述するシ
ュリーフェン作戦。鉄道で移動して速攻する計画)の裏をかくほどになり、ドイツをあわ
てさせていた。さらに日露戦争後、艦隊建造にも大量の資金が投入された。 古くからさかんな繊維産業も成長し、化学産業や電気産業も発展していた。兵器産業の
成長もいうまでもなかった。何千人もの労働者を雇う工場がペテルブルクやモスクワなど
大都市の周辺にぞくぞくと建設された。ロシアの事業の将来性が買われ、大量の資金が流
れ込んで経済の近代化に重要な役割をはたしていた(とくに同盟を結んでいたフランスか
1923
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
らの資金が多かった)。1914 年にはロシアは世界第 4 位の工業国になっていたのである(図
15-7 のようにアメリカ、ドイツ、イギリスに次ぐ)。 ○悲惨なロシア労働者階級 しかし、(英仏独などが克復した)産業革命の悲惨な状況はこのころのロシアに及んで
いた。人口が急増していた都市部では、労働者は下水もない不健康で劣悪な住環境に耐え
なければならず、しかも家賃は高かった。飲酒率がきわめて高かったのは、人々がいっと
きなりとも残酷な現実からのがれたかったからだろう。死亡率はヨーロッパで最高だった。
こうした環境に暮らして、工場では厳しい規律を強いられ、生活水準の向上もほとんど望め
ないとなれば、社会の仕組み、社会システムに対する不満はつのるばかりで、人民主義者、
ボリシェヴィキ、アナーキスト、過激派などが活動する温床となるのは当然のことだった
といえよう。革命の足音は確実に近づいてきていた。 ○農業国家ロシア ロシアでも産業革命がはじまったといえども、ロシアはまだ基本的には農民国家であっ
た。人口の 80%は農業で生活し、残りの大半もまだ農村と強く結びついていた。ロシアの
急激な人口増加が、地方農村の最も遅れた(非ロシア)地域においてみられた(1890 年か
ら 1914 年の間だけでも養うべき人間の数が 6100 万人も増えた)。こうした地域は土壌が
やせていて、肥料もほとんど使われず、まだ木製の鋤で耕作しているところが大半だった。 当時のロシアの農業は全体としてきわめて効率が悪かった。小麦の収穫率はイギリスや
ドイツの 3 分の 1 にも満たないし、ジャガイモは 2 分の 1 でしかなかった。当時の農業生
産高が着実に(年率 2%で)増加していたのもかかわらず、人口の増大(年率 1.5%)によ
って食われてしまって、この膨大な農業部門の生産の 1 人当り成長率はわずか 0.5%でしか
なく、工業で 5~8%を達成しても、ロシアの実質国民生産の伸びは 1 人当り 1%で、ドイツ、
アメリカ、日本、カナダ、スウェーデンよりもはるかに小さかった。 軍事大国ロシアは、ロシア軍の近代化を強引に推進したので、1913 年のロシア政府の軍
事支出は 9 億 7000 万ルーブルだったが、保健や教育政策にあてられた予算は 1 億 5400 万
ルーブルでしかなかった。この不十分な予算では、農村部はまったく放置されていたとし
かいいようがない。人が育っていなかった。 軍備の近代化だけでは戦えない。ロシアは 1913 年になっても(表面では近代戦を戦うと
豪語していたが)、識字率はわずか 30%であった。徴兵された農民は、そのままでは、工業
化にもとづく近代戦での人材とはいいがたかった(言葉も通じなかった)。近代戦を遂行
するためには、重砲、機関銃、多数の歩兵の扱い、技術訓練、通信、航空隊など訓練を受
ける必要があったが、ロシアには訓練をほどこす指導者も育っていなかった。 1924
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
要するにロシアでは兵の頭数や軍備の数量だけに重きをおいて、広い意味での国力(一
般的な教育水準、専門的な技術力、効率的な官僚機構など)を養うことを怠ったため、ロ
シアは個人的なレベルでは恐ろしいほど遅れていた。これが第 1 次世界大戦でロシア軍を
悩ますことになる。 【14-2-5】アメリカ アメリカが独立して憲法を制定してワシントンが大統領を 2 期つとめて,1796 年に引退
したところまでを近世の歴史で述べた。そのときのアメリカ合衆国は図 14-16 の 13 州と
1783 年の独立時にパリ条約でイギリスより割譲されたミシシッピ以東の土地(橙色の部分)
しかなかった(アメリカ合衆国がこのままの領土の国であったら、現在のアメリカのよう
な大国は生まれず、20 世紀の世界の歴史も異なっていただろう)。 それが、19 世紀が終ってみると、図 14-16 のように、現在のアメリカ合衆国のように大
西洋から太平洋に横断する大国になった経緯はどうかという点と、19 世紀に奴隷制度をめ
ぐって南北に分れて争った南北戦争はなぜ,起きたかという点が、19 世紀のアメリカ史を
つらぬくものであるが、実はこの 2 点は複雑にからみあっていた。 図 14-16 アメリカ合衆国の発展 1925
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
【①米英戦争】 現在のアメリカとイギリスを知っている者には信じられないことではあるが、米英は一
度戦争をやったことがある(もちろん、アメリカ独立戦争とは別にである)。まず、それに
ついて述べる。 1796 年、ジョージ・ワシントンが 3 期目の出馬を辞退したので、現職の副大統領ジョン・
アダムズがフェデラリスト(連邦派)の大統領候補となり、知事の経験があるトマス・ピ
ンクニーが次に人気のある連邦党員として副大統領候補となった。 対抗馬はリパブリカン(民主共和党)のトマス・ジェファーソンであり、副大統領候補
にはアーロン・バー上院議員を指名した。過去 2 回の大統領選挙がワシントンでほぼ既定
事実化していたのとは異なり、今回は情勢が伯仲していたので、事実上初めての大統領選
挙となった。 しかし、この時の大統領選挙のやり方は、現在のものとは異なっていた。当時の選挙の
仕組みでは、選挙人が 2 票を持っており、どちらも大統領候補に投じられた。大統領選で 2
位になったものが副大統領に選ばれた(これはアメリカ合衆国憲法修正第 12 条が成立する
までの方法であり、憲法修正第 12 条では副大統領候補を指名する方法に変わった)。各党
は、選挙人が 1 票を大統領候補と目される者に投じ、もう 1 票を副大統領候補と考えられ
る別の者に投じさせ、副大統領候補が大統領候補より少し少なく票を獲得するように工夫
した(この仕組みは幾つかの要因で問題が多く、のちに現在のように改められた)。 このときのリパブリカン(民主共和党)は、アメリカ合衆国の初期の政党で、1790 年代
の結成当初はジェファーソンとマジソンの指導により、連邦派のフェデラリスト党やアレ
クサンダー・ハミルトンの政治的な主張に対抗した。実質的には現在の民主党の先駆けと
いえる。民主共和党は強力な中央政府よりも州政府の権利を重視した。農業的利益をはか
ること、王制を廃し共和制を樹立したフランス革命の正当性を支持することを基本理念と
した。この政党はまた、イギリスと密接に手を結ぶことに反対した。
大統領選挙は、ジョン・アダムズのフェデラリスト(連邦党)とジェファーソンのリパ
ブリカンとの激しい非難の応酬となった。フェデラリストは、リパブリカンをフランスの
過激な革命派と結びつけ(このときはフランス革命中であった)、リパブリカンは、フェ
デラリストを君主主義や貴族政治に賛成していると非難した。外交政策では、リパブリカ
ンがジェイ条約はあまりにイギリスの肩を持ちすぎていると言ってフェデラリストを非難
した。 ジェイ条約は、初代大統領のジョージ・ワシントンのところで述べたように、1794 年、
イギリスとの間に結ばれた米英間の条約でイギリスの敵国(事実上フランス)の私掠船に
対する補給の禁止などが決められていた。イギリスはフランス革命に際して、対仏大同盟
1926
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
を結成して革命へ干渉する姿勢を鮮明にし、アメリカはフランス革命に対して中立の立場
をとり(アメリカ独立戦争のときの恩義もあり)、フランスとの貿易を継続しようとした。
そこで結ばれたジェイ条約であったが、アメリカにとって屈辱的な条約であるとも言われ
ていた。 ○第 2 代アダムズ大統領(1797 年~1801 年) 選挙結果は、第 1 位のジョン・アダムズ(1735~1826 年)が大統領に選ばれ、第 2 位だ
った対抗馬のジェファーソンが副大統領に選ばれた。これは、異なる政党から大統領と副
大統領がでた数少ない例であった。 アダムズ大統領は新首都ワシントン D.C.とホワイトハウスで政務を行なった最初の大統
領でもあった。後で述べるように国防力増強を目的に海軍省を設けた。 アダムズは就任前からハミルトンと喧嘩しており、袂を分かったフェデラリストという
重荷を背負うことになった。国内政局の難しさに加えて、国際関係も複雑になった。イギ
リスと結んだジェイ条約がフランスを怒らせ、フランスは、敵の港に向けた食料や陸海軍
用品は押収の対象となるというイギリスの論法を用いてアメリカ船から押収をはじめた。 フランス王国はアメリカ独立戦争のときにアメリカの主要な同盟国であったが、フラン
ス革命でできた新しい政府は、1794 年にアメリカとイギリスの間で合意されたジェイ条約
を、1778 年にフランスがアメリカと結んだ同盟条約(このときにも有効だった)に対する
侵犯と見なした。また、アメリカ側はアメリカ独立戦争時の負債はフランス王国に対する
ものであるとして、フランス第 1 共和政政府に対する返済を停止したこともフランスを激
怒させた。 ジョン・アダムズ大統領が 1797 年暮れに議会に提出した年間教書では、フランスが交渉
を拒否したことを報告し、「わが国を然るべき防衛体制におく」必要性について語ってい
た。1797 年 6 月、国務長官ティモシー・ピカリングが議会に報告したところでは、フラン
スが過去 11 ヶ月間にアメリカ商船 316 隻を捕獲したとされていた。 アメリカ政府はフランス船と戦える軍艦を持っていなかった。独立戦争時の最後の艦船
は 1785 年に売却されていた。アメリカ合衆国にはささやかな密輸監視用カッターの船隊と
放置された海岸の砦がいくつかあるだけだった。 この革命フランスの私掠船による略奪行為の増加からアメリカ合衆国の拡大する通商を
守る必要が生じ、合衆国海軍が創設されることとなった。アメリカ合衆国議会は大統領が
砲 22 門以下の軍艦 12 隻以下に限定して整備し、武装要員を配置することを承認した。 この法の条件に添って、数隻の艦船が購入され軍艦に転換された。1798 年 7 月、議会が
フランスとの条約を破棄した。このときから、実質、米仏間は戦争状態になったが、宣戦
布告なき戦いであったので、疑似戦争またはフランスとの宣戦布告なき戦(1798 年~1800
1927
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
年)といわれている。アメリカ海軍はおよそ 25 隻の艦船で戦隊を作って活動した。合衆国
南部の海岸およびカリブ海をパトロールしてフランスの私掠船を追求した。 アメリカ海軍は総計 85 隻のフランス船を捕獲した。アメリカ側の損失については資料に
より異なる。一連の擬似戦争の結果、本格的な戦争は避けられないように思われた。 この危機にあって、アダムズは新たに 3 人の代表をフランスに送った。新たに権力を得
たばかりのナポレオン(第一執政)は代表団を丁重に迎え、交渉によって紛争の危険性は
回避された。公式には 1778 年のフランスとの軍事同盟から解放されることにもなった。し
かし、フランスはアメリカの弱みにつけ込んで、フランス海軍が捕獲したアメリカ船に対
する代償 2000 万ドルの支払を拒否した。1800 年 9 月の調印で、疑似戦争は終わった。 ○第 3 代ジェファーソン大統領(1801~1809 年) 1800 年、リパブリカンは、国際緊張の緩和を追い風として大統領選挙でアダムズ政府の
弾圧的な政策を批判し、従来にない広いキャンペーン工作によって、アダムズを破り、ジ
ェファーソンを当選させた。 トーマス・ジェファーソン(1743~1826 年)は、1775 年、大陸会議に参加し独立宣言起
草委員としてアメリカ独立宣言を起草し、初代大統領ジョージ・ワシントンのもとで初代
国務長官をつとめ、次の大統領ジョン・アダムズの代には副大統領をつとめた。ジェファ
ソニアン・リパブリカン党を創立したことは、すでに述べた。第 3 代アメリカ合衆国大統
領として、首都ワシントン D.C.で就任演説をおこなった最初の大統領であった。この就任
演説では、住民の間の秩序を保つために「賢く質素な政府」を約束した。 ジェファーソンの在任中にフランスからのルイジアナ買収問題が起きたが、この件はの
ちに領土問題としてまとめて述べることにして、結論的に言えば、1500 万ドルという破格
の価格でルイジアナ全土の購入が 1803 年 4 月、パリで合意されたのである。 このルイジアナ買収により、西部の農夫達はミシシッピ川を重要な水路として使うこと
が可能となり、アメリカの西部辺境から徐々にフランス人を追い出すことで開拓者は広大
な農地の拡張が可能となった。 ルイジアナの購入はアメリカにとって巨大な富の獲得であったが、ナポレオンがルイジ
アナを手放した直接の原因(再び英仏戦争になったら、海軍力に弱いフランスはルイジア
ナを維持できないだろうからアメリカに売ったのである)であったフランスとイギリスの
関係悪化は、国際関係の緊張を再びもたらすことになった。アミアンの和約は 1803 年 5 月
に破れ、第 3 次対仏大同盟がイギリス、ロシア、オーストリアで結ばれ、フランスとの戦
争へと発展していった。 1928
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
1805 年のトラファルガーの海戦でフランス海軍が敗れると、イギリスはフランスの海洋
貿易の締めつけを実施した。またアメリカのフランス向け貿易に対する報復措置として、
海上封鎖を実施した。 ジェファーソン大統領は新しい国家の威信をかけて、イギリスの海上妨害に強く抗議し
た。しかし、イギリス海軍はアメリカ商船に乗船し旧イギリス人船員を再び投獄するという
行動を続けた。1794 年以降ナポレオン戦争が終わる 1815 年までの間に、イギリスが拘留・投
獄したアメリカ人船員は 1 万人にものぼったのである。 ◇出航禁止法 1807 年、ジェファーソン大統領の政府と議会は、交戦国が中立国に及ぼす通商上の妨害に
抗議する姿勢を、すべての交戦国に明示するという理由で、アメリカ商船の外国に向けた
出航を禁じる出航禁止法を発し、対ヨーロッパ貿易断絶の命令を出した。本意はアメリカか
ら食糧を輸入しているイギリスをねらったもので、イギリスとの輸出入を禁止することで、
イギリスに対して通商政策の再考を迫るのがねらいであった。 しかし、イギリスは食糧輸入をアメリカ以外の国へ切り替えてしまい、問題はなかった。
むしろ、その出航禁止に耐えられなかったのは、貿易においてイギリスにより大きく依存
していたアメリカのほうであった。 ここでジェファーソン大統領も 2 期目の任期もきてしまった。ジェファーソンの最初の
大統領選であった 1800 年アメリカ合衆国大統領選挙は接戦であったが、1804 年に行われた
2 期目の選挙は、ルイジアナ買収の業績などもあってジェファーソンは圧倒的な勝利を得て
いた。 1808 年の大統領選にはジェファーソンは引退し、リパブリカンはヴァージニア州出身の
国務長官ジェームズ・マジソン(1751~1836 年)をその後継者に指名した。この選挙はジ
ェファーソンによる 1807 年の通商禁止法に対する反対が焦点になった。この法はヨーロッ
パとの貿易を停止するものであり、ニューイングランドの商人にとくに悪影響を及ぼし、
イギリスよりもフランスの肩を持つものと考えられた。それにもかかわらずジェファーソ
ンのアメリカにおける人気は絶大であり、その後継候補マジソンはフェディラリストの候
補ピンクニーを大差で破った(ピンクニーは 1804 年アメリカ合衆国大統領選挙でもジェフ
ァーソンに敗れた候補者だった)。 ○第 4 代マジソン大統領(1809~1817 年) ナポレオン戦争の波及効果はジェームズ・マジソンの 1 期目を通じて着実に悪い方向に
向かっていた。イギリスもフランスも海上でのアメリカの中立権を無視し、アメリカ船を
捕獲していた。イギリスはアメリカの水夫を強制徴用し、アメリカの北西部領土の中で砦
1929
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
を維持し続け、また北西部でも南西部でもアメリカと戦争をするアメリカ・インディアン
を支援しつづけることで、挑発を加えていた。 1809 年ジェファーソンを引き継いだマジソンが、対英貿易禁止措置を実質的に継承する
政策を続けたとき、アメリカで最大の商船利益を代表していたニューイングランドの商人
層からは、連邦政府命令への不服従を公然と語る動きが生まれた。マサチューセッツでは、
連邦からの離脱を主張する議論さえ起こった。アメリカではここでも再び分裂という不安
を抱えたのである。 ◇米英戦争 1810 年以後、マジソン大統領に選択の余地がなくなっていった。ニューイングランドの
分離的傾向を抑えるためにも、そしてアメリカの名誉を挽回するにも、最後の手段は、イギ
リスへの宣戦布告しかなかった。 1812 年 6 月、連邦議会はマジソン大統領の要請を受け、対英宣戦布告を決定した。こう
して第 2 次米英戦争と呼ばれた 1812 年戦争が始まっていった。実は、1812 年 6 月は、マジ
ソン大統領の任期がきており、マジソンがリパブリカンから 2 期目の大統領候補者に指名
されており、その後の選挙で再選された。 アメリカが宣戦布告したのもかかわらず、戦闘は新大陸でのみ行われ、アメリカはイギリ
スの海上支配によって自国の港に釘づけとなったままであった。このためアメリカが攻撃
を仕掛けえたのは、カナダに駐屯したイギリス軍のみであった。1812 年から 13 年にかけて、
主たる戦闘は、東はセントローレンス川流域から、その西のオンタリオ湖、そしてエリー
湖畔に展開した。他方、イギリスもナポレオンと戦っていたことから、アメリカと徹底的
に戦う余力はなかった。 1814 年になると、ナポレオンの没落がはっきりしてきて、イギリス軍は余裕ができ、チ
ェサピーク湾に上陸し、首都ワシントンに進軍、夏には連邦議事堂およびホワイトハウス
を焼き払った。さらに海軍は南からニューオーリンズを襲い、占領した。 この戦争のさなか、アメリカの西進に抵抗して北西部にインディアン独立国家の建設を
目指したテカムセ率いるインディアン軍との戦闘があわせて行われていた。戦いはエリー
湖畔とその西方で行われ、テカムセは健闘したが 1813 年 10 月ついに敗れた。このアメリ
カ軍が北西部先住民との戦いで決定的に勝利したことは、戦後の北西部への進出という点
ではきわめて重要な意味をもっていたが、こと対英戦争に限っていえば、戦争はアメリカ
にとってとくに利のある戦いではなかった。 互いに決定打を欠いたまま戦争が長引くと、米英共に経済的にも軍事的にも疲弊し、講
和の動きが出始めた。1814 年 12 月 26 日、ベルギーにてガン条約が結ばれて米英は講和、
1930
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
米英戦争は終結した。このガン条約により、基本的に戦争前の状態に戻されることとなっ
たが、これでイギリスのインディアンとの同盟は消滅した。 この条約締結後、アンドリュー・ジャクソン率いる民兵軍がニューオーリンズでイギリ
ス軍を撃破した(ニューオーリンズの戦い)。これは当時、新旧大陸間の連絡には船で数週
間かかり、講和成立の知らせがすぐには届かず、停戦が遅れたためにおこった。この勝利
でアンドリュー・ジャクソンは国民的な英雄となり、後にアメリカ合衆国大統領となった。 この戦争の結果として、戦争中にイギリス商品の輸入がストップしたため、アメリカの
経済的な自立が促され、アメリカ国内で多くの産業、工業が発展した。このため米英戦争
は、政治的な独立を果たした「独立戦争」に対して、イギリスへの経済的従属を断ち切っ
て国内産業が発展、産業革命の気運が高まって、経済的な独立を果たしたという意味で「第
2 次独立戦争」とも呼ばれている。 【②西方への領土の拡大】 ○ルイジアナの買収 第 3 代大統領ジェファーソンの在任中(任期:1801~1809 年)にフランスからのルイジ
アナ買収問題が起きた。フランス革命戦争は、1802 年 3 月、英仏間に結ばれたアミアンの
和約で休止し、ヨーロッパの戦乱はひとまず収まったかにみえた。ただその平和の回復のな
かで、アメリカにとって再び大きな脅威が持ち上がっていた。 イギリスとの講和を得たフランス、ナポレオンは、いまや国内では終身統領となり皇帝
への道を進みはじめるとともに、対外的にはヨーロッパでの平和を利してアメリカ新大陸
でのフランス領土の開発に野心を示した。ナポレオンは密かに、ミシシッピ川以西の南はニ
ューオーリンズから北はイギリス領カナダにまで達するルイジアナの旧フランス領をスペ
インから譲り受けることに合意していた(図 14-17 参照)。これは 1800 年 10 月のサン・
インデフォンソ条約においてであった(この土地は 1761 年までフランスが領土権を主張し
ていた)。 ルイジアナをフランスが獲得したとする噂は 1801 年 3 月ごろからアメリカの政界に伝わ
りはじめた。ナポレオンのルイジアナ再取得という動きはミシシッピ川東岸の人々ばかり
かアメリカ連邦指導者に大きな衝撃を与えた。1802 年のアメリカの州はまだ独立時の 13 州
に新たに 3 州が加わったのみの 16 州であった。 ジェファーソン大統領は、できれば外交的な手段でこれを解決したいと希望し、動いた。
1803 年に入り、英仏間の緊張が再び高まりつつあった。ジェファーソンの期待は、英仏対
立がもし深まればナポレオンも新大陸には手がまわらなくなり、ニューオーリンズを手放
1931
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
すかもしれないという一点にあった(ジェファーソンは物流の拠点であるミシシッピ河口
のニューオーリンズだけでも手に入れたかった)。 図 14-17 アメリカ合衆国の領土拡大 ジェファーソンが求めたナポレオンとの接触は、幸運にも彼の当初の期待をはるかに上
回る成果をもたらした。1803 年 4 月、ナポレオンは、パリにあったアメリカ側の交渉者ロ
バート・リビングストンに対し、フランスはニューオーリンズばかりかスペインから手に入
れたルイジアナの全地域を売却してもよいと切り出した。ナポレオンは、英仏が戦争にな
りイギリスがカナダからルイジアナに侵攻した場合、これを防衛することはそもそも無理
と結論し(フランスの海軍力が弱体で大西洋の制海権はイギリスにあった)、むしろこれを
売却してこれで得た利益をヨーロッパ大陸での戦費にあて、さらにアメリカのヨーロッパ
政策をフランス寄りにすることができることも期待して、全ルイジアナを破格の価格で売
却することを決定したといわれている(実際、アミアンの和約は 1803 年 5 月に破れ、フラ
ンスは、第 3 次対仏大同盟国(イギリス、ロシア、オーストリア)との戦争へに入ってい
った)。 かくして 1500 万ドルという価格でルイジアナ全土の購入が 1803 年 4 月、パリで合意さ
れたのである。1803 年、ミシシッピ川の西方に向けて 214 万平方キロメートル(日本の約
6 倍)というアメリカの既存の領土 230 万平方キロメートルにほぼ匹敵する地域を、アメリ
カはこうしてナポレオンの幾分気まぐれな新大陸構想の結果として、首尾よく手に入れる
ことができた。 ○フロリダとルイジアナ以西の獲得 しかし、スペインとの国境線を確定するときになって問題が生じてきた。スペインは、
「フ
ランスにはルイジアナを販売する権利はなく、さらに合衆国がフランスから購入した領域
の範囲について多くの議論がある」と述べて、スペインはルイジアナ売買の正当性に異議
1932
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
を申し立てていた。そしてスペインは、ルイジアナを、ミシシッピ川西岸とニューオーリ
ンズ市を包括するだけととらえていた。 一方でアメリカ合衆国は、彼らが購入した土地は、リオグランデ川(現在のテキサス州
とメキシコを分けている線)とロッキー山脈にまで達し、スペインの北の領地であるコア
ウイラ・イ・テハス州の大部分を取り囲むと主張していた。このようにルイジアナの領域
そのものに両者間に大きな見解の相違があった。 このようなとき、アンドリュー・ジャクソンは、ジョージアにおいてインディアンと戦っ
ている間に、スペイン領フロリダまで彼らを追跡し、フロリダのスペイン軍の要塞を攻撃
して占領し、国際的な問題を引き起こした。スペインの新大陸における力は、長い間減少
し続けていたが、ジャクソンの攻撃は、アメリカ、ラテンアメリカの革命家、および他の
ヨーロッパ列強に対して、新大陸でスペインがいかに弱いかを露呈してしまった。また、
1810 年代後半からスペインは中南米各地で勃発した独立運動に忙殺されていた。 そこで、1819 年、第 5 代大統領モンロー政権の国務長官ジョン・クインシー・アダムズ(第
2 代大統領ジョン・アダムズの息子)は、スペインに対して攻撃的な姿勢を取ることで、非
常に好ましい条件で交渉することができるようになると考えた。彼がスペインに何度とな
く強い外交的圧力をかけた結果、スペインは、図 14-17 のように、東のフロリダをアメリ
カに譲渡することにした。 条約は国務長官のジョン・クインシー・アダムズと、スペインの外務大臣ルイス・デ・オ
ニスによって交渉されたのでアダムズ・オニス条約といわれている。合意によると、アメ
リカは、居住者の主張する合計 500 万ドルの補償金をスペイン政府に対して支払うことと、
テキサスのサビーヌ川以西の地域と他のスペイン領地の主張を放棄することと引き換えに、
スペイン領フロリダの領土権を受け取った。 アダムズ・オニス条約は、大まかにフロリダとルイジアナをアメリカに与えて、スペイ
ンにルイジアナの西のテキサスからカリフォルニアまですべてを与えて、はっきりとした
境界を描くことで境界論争を解決した(つまり、これ以上、アメリカは西へ手を出さない
ということが約束されていた)。 正確な境界は、図 14-17 のように、メキシコ湾の北緯 32 度線から北にレッド川沿いに
北へ向かい、レッド川からアーカンザス川までに西経 100 度線、本流を西へ行き、北緯 42
度の地点で北へ向かい、最終的に太平洋まで西へ伸びた(この時点では、図 14-17 におい
て、テキサス、カリフォルニアはスペイン領となることは確定したが、オレゴンのところ
は未確定でこれはイギリスと交渉すべきことであった)。 アメリカ合衆国にとっては、この条約は、主張する領土が今やミシシッピから、太平洋
まで広がる極西部地方まで広がったことを意味した。スペインにとっては、テキサスの居
1933
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
留地を維持できたこと、また、アメリカ合衆国の領土の間にカリフォルニアとニューメキ
シコの領地という緩衝地域を置くことができたことを意味していた。アダムズは、オレゴ
ンの取得が東洋との貿易と太平洋の経済大国を可能とするという見通しができ、より大き
な達成を果たしたと考えた。条約は 1820 年にスペイン、および 1821 年に合衆国によって
批准された。 ところが、それ以後もアメリカは力にまかせて、西へ西へと拡張する政策をとっていっ
た。それはこれから述べることである。メキシコの独立(1821 年)は、テキサスとの境界
に関わる論争の再開を許すことになり、アメリカ合衆国はサビーヌ川とネチェズ川が地図
上で切り換えられたと主張し、その結果、より多くの土地の要求を試みることができた。
結果として、テキサスの東の境界は、1836 年にテキサス共和国(後述)の独立までしっか
り確立されないまま残り、また米墨戦争(後述)を結論づけた 1848 年のグアダルーペ・イ
ダルゴ条約まで同意されなかった。独立したメキシコは、1831 年にカリフォルニアの北境
界を北緯 42 度線に設定することを含む条約の残りに批准した。 ○モンロー宣言 モンローは、アメリカの孤立主義政策を象徴するモンロー主義を掲げたことでよく知ら
れている。1823 年 12 月 2 日、議会における教書演説で、南北アメリカは将来ヨーロッパ諸
国に植民地化されず、主権国家としてヨーロッパの干渉があるべからざることを宣言した。 当時、ラテンアメリカ各地で独立運動が高揚しており、これに対するヨーロッパのウィー
ン体制諸国の干渉を牽制する意図もあった。 しかし、当時、モンローの頭の中には、将来、モンロー主義といわれる遠大なことより、
ルイジアナ獲得から太平洋岸までのより現実的なことがあったといわれている。北アメリ
カ大陸での合衆国の優位の確保、とくに、それまで未確定な国境部分が多かった太平洋岸
北部地域への領土的関心であった。 おりしも 1810 年代、ロシアがベーリング海峡からアラスカに支配権を拡大し、北アメリ
カ大陸を太平洋に沿って南下する政策を進めていた。これに対し、合衆国は 1818 年に、イ
ギリスとの間に 5 大湖以西については北緯 49 度線をイギリス領カナダとの国境とする協定
を結んだが、太平洋岸については、依然、紛争を抱えていた。 オレゴン(図 14-17 参照)と呼ばれたその地については、アメリカは可能な限り北に進
出することを目指す願望があったことが、紛争の原因であった。1818 年以降、オレゴンは
米英共同占領地域とされたが、その内実は、双方の領土に対する主張の対立が激しく、国
境を確定できない結果であった(結局、のちに 49 度線の延長で決着したが)。 23 年のモンロー宣言は、以上のような事実を背景に、かねてから最大限のオレゴン地域
確保を目指した合衆国が、イギリス、フランスはもとより、ロシアの南下に対しても敏感
1934
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
に反応し、その動きを牽制した宣言であった。これらの地域にも先住民(インディアン)
は居住していて、その地域を誰が先に征服して植民地にしてしまうか、モンローの宣言は
ヨーロッパの列強の進出を牽制したものにすぎなかった。 これはその後 100 年近く続くアメリカの孤立主義という外交方針となったといわれてい
るが、当初のモンローの意図とは異なって時代時代の情勢をみて、解釈が変えられていっ
たものと思われる。モンロー主義はヨーロッパへの相互不干渉と同時に、アメリカがラテ
ンアメリカへの政治的・軍事的介入を行うことの理論的根拠ともなったともいわれている
が、これも後の拡張解釈であろう。当時の合衆国は中南米に介入する力はなかった(すべ
て 20 世紀になってからである。このように国家というものは国力が強大になるにしたがっ
て言い分を変えるものである)。 1802 年から 03 年にかけて、メキシコ湾のニューオーリンズに関心を寄せていた合衆国が、
20 年後にはミシシッピ川どころか、それから 2400 キロも西に進んだ太平洋岸オレゴン地域
にまで、領土的関心を広げていったのである。このモンロー時代のオレゴンまでの領土の
拡大は、19 世紀前半ロシアが目指した東方進出(侵略)、あるいはイギリスがインド洋周
りでたどったアジア進出(植民地化)と並ぶほどに、大きな領土的拡大であり、新国家ア
メリカも膨張主義のヨーロッパ型国家の本質をそなえていたことがわかる(アメリカの場
合は陸続きの大陸があり、当面、これを開拓(植民化)すればよかった。当初のほぼ 3 倍
はあった)。 【③アメリカの奴隷制度】 ○世界的な奴隷貿易廃止の動き 奴隷制や奴隷貿易に対する反対は啓蒙思想の普及が進み、17 世紀、まだイギリスの植民
地であったアメリカのいくつかの州で奴隷制度が禁止された。それにはクウェーカー教徒
の力があずかって大であり、奴隷貿易廃止論につながっていった。 1787 年、イギリスに奴隷貿易廃止委員会が設立されたのをきっかけに人道的見地からく
る奴隷制度の反対運動はますます激しくなった。議員でもあるウィリアム・ウィルバーフ
ォースは代表的な活動家であったが、1786 年に設立された奴隷貿易廃止促進協会は議会へ
の請願や市民への精力的なキャンペーンを実施した。カリブ海に農園を所有する砂糖王の
奴隷貿易廃止反対にもかかわらず、こうした努力が実り、1806 年、奴隷貿易廃止の法案が
イギリス議会を通過した。 1807 年にはアメリカで奴隷貿易禁止令が成立し、これにデンマーク、スウェーデンなど
が続き、1814 年にはオランダ、1815 年にはフランスでそれぞれ奴隷貿易が禁止とされた。
ところが、アメリカ南部では 19 世紀になると奴隷使用拡大が起きたところに問題があった。 1935
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
《世界の動きに逆行したアメリカ南部の奴隷制問題》 1776 年、独立宣言をした時点での北アメリカ大陸イギリス領 13 植民地には、すべての植
民地に奴隷制が存在していた。1776 年以降、独立から合衆国建国に至るおよそ 10 年間に、
北部から中部の諸州は、1780 年のペンシルベニアを最初に、奴隷制を廃止する動きを示し
た。加えてその間、1787 年に制定された北西部条例では、オハイオ川の北に組織する北西
部テリトリー(図 13-63 参照。のちのオハイオ、インディアナ、イリノイ州などとなった
地域)でも、奴隷制の禁止が明記された。このようにして、独立革命に連動して奴隷制廃
止の動きは、13 州のアメリカ北部から中部、及び北西部では 18 世紀末から 19 世紀初めに
かけて定着した。 しかし、南部の諸州はその趨勢から結局はずれ、奴隷制は独立革命の衝撃を越えてこの
地域にのみ存続したばかりでなく、拡大していくようになった。1820 年前後から南部は独
自の発展をみせつつあったが、それは黒人奴隷制度を基盤とした綿花プランテーションと
いう独特の農業経営の拡大によるものであった。イギリスの綿紡績業は、やがてインド綿
産業の崩壊をもたらすことになるが、アメリカ南部はその綿花供給地として発展していっ
た。南部の暑く湿った空気が綿花の最適の生育環境を提供した。南部における綿花の生産
は、1800 年代から急増し、1800 年の 7 万 3000 ベール(梱。こり)であったその生産は、
図 14-18 のように、半世紀後の 1858 年には約 60 倍、450 万 8000 ベールにも達したのであ
る(1 ベールは 500 ポンド)。 図 14-18 アメリカ合衆国の綿花生産 綿花需要の増加とともに、1790 年代以降南部の多くのプランテーションが、主要品をか
つてのタバコから綿花に切り替えていった。そればかりではない。若い世代から新興のプ
ランター(大農場経営者)が次々と生まれ、アパラチア山脈の西へ膨張をはじめたのであ
る。 1936
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
西方の新しい土地に移り、暑い気候のもとで厳しい労働の伴う綿花の生産を収益が上が
るまで大規模に行う、そうした綿花農場経営には、奴隷制は決定的に有利な労働システム
であった。加えて、終日強制的に働かせることのできた奴隷の労働は、プランテーション
における綿花生産を支える上に、奴隷自身の食糧をも彼らが作るというものであり、プラ
ンテーション経営の高い収益性は、この奴隷労働の徹底した搾取に負っていた。 このようなことで、表 14-1 に示すように、南部は(世界的には奴隷制廃止に向かって
いた)19 世紀初めから黒人人口が急増していったことがわかる(黒人人口比率も高まって
いた。この表で不明は、事実上この地域が未開拓であったことを意味している)。 表 14-1 15 奴隷州における黒人人口と州人口に占める割合 (単位1000人) ○非人道的な奴隷法 反乱するかもしれない黒人、あるいは不服従である奴隷を労働させるシステムは、基本
的に強制的で暴力的で非人道的であることを本質とする社会を、時代に逆行して、南部に
広く生み出すことになった。あの高尚なアメリカ独立宣言を発して世界ではじめての民主
的な憲法をつくった(世界でただ一つの民主的な避難地をつくろうというトマス・ペイン
の『コモン・センス』に感動した)合衆国国民が、まだ、1 世代もたたないうちに、いくら
経済的とはいえ、明らかに人道にもとるとわかっていて、しかも奴隷制度廃止という世界
の趨勢にさからって、奴隷制を正当化するための社会システムをつくりはじめたことは、
現在では信じがたいことであるが、19 世紀前半、南部各州において、より人権を無視した
厳しい奴隷法という州法の体系をつくっていった(憲法との関連は後述する)。 たとえば、1824 年のルイジアナ州の奴隷法は、奴隷は契約を結ぶことができない、彼そ
のものが財産である以上、奴隷は財産を所有することもありえない、法廷でいかなる意味
の権利も主張できないし、証言に立つこともできない、民事上の訴訟を起こすこともでき
ない、奴隷主の同意なくしては結婚することもできない、というような内容を含んでいた。 1937
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
言い換えれば、家族を作ることも、また家族を破壊することも、奴隷主の意のままであ
った。まったく奴隷には人権が認められていなかった(人類は歴史上、長い間、奴隷制度
をもっていたが、たとえば、イスラムなどでは、もっと,緩やかな制度であった。アメリ
カの州法はもっとも厳しい制度であった。それが(古来の慣習なんかではなく)19 世紀に
なって新たにつくられたところに、時と場合によっては、どんな人間でも、どんな民族で
も、人類は欲望のためには(時代に逆行して)何でもすることがありうるということをよ
く示している)。 南部社会は、プランターという奴隷所有白人ばかりで構成されていたわけではなかった。 19 世紀初めの時点では南部社会にも奴隷制への批判もなかったわけではない。しかし、驚
くべきことに、短期間に人間は変わるもので、奴隷主とその家族がこのような形で、特定
の人間を全人格的にまた肉体的に所有したとき、彼らは日々の立ち居振る舞いまで黒人を
蔑視し、支配することを規範として生きるようになったばかりか、そのような規範を奴隷
非所有の白人にも守らせるようになった。独立戦争を戦った 18 世紀のアメリカ人には(当
時も黒人奴隷はいたが)正義に富み、自由を求める人間だった。ということは(悪い)社
会制度(経済制度)が短期間に人間を変える(悪くする)という典型例であろう。 ○猛烈に西方に拡大した奴隷制度 奴隷制を擁護するための議論と制度が、1820 年代から 30 年代、急速に強まっていった。 奴隷制がいかに非人間的であったとしても、人間(白人)の経済的欲望はそれを超えてい
たとみえて、その制度を抱えた南部が縮小するどころか、19 世紀の前半、猛烈な勢いで地
理的には西に、大きく膨張していった。ジョージア、さらにその西方のアラバマ(1819 年、
6 万人以上の州昇格)、ミシシッピ(1817 年)、ルイジアナ(1812 年)という新しい深南
部諸州(ディープ・サウス)における黒人人口の増加は、この地域が奴隷制綿花プランテ
ーションの中心地として、いかに爆発的な勢いで開拓され、拡大したかを示している。 この深南部地域に入った白人野心家たちの勢いは、はやくも 1830 年代には国境をはみ出
して、メキシコ領テキサス地域にまで奴隷を連れ進出していったのである。結局、陸続き
であったので植民地経営と同じ論法で国境など考えずにアメリカ人は領土を拡大し、潜在
的な植民地主義がめばえていたといえる。 1823 年の「モンロー宣言」のことは述べたが、この宣言は欧州に対するアメリカ合衆国に
よる「アメリカ大陸縄張り宣言」であったにすぎない。モンロー主義の時代は「アメリカ
先住民掃討」の時代であり、テキサス州もなく、米墨戦争での領土獲得もまったく想像で
きない時期であり、ただ、あるのは植民地主義的な領土拡大の意識とヨーロッパ諸国から
の介入を排除したい意識がはたらいていたのである。 1938
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
その当時、図 14-17 のように、テキサスはまだアメリカ合衆国ではなかった。1821 年、
ミズーリ州から入植を希望したモーゼス・オースティンの請願に対し、スペイン総督現地
官憲が 300 家族の入植を認めたことからアメリカ人の移住がはじまった。 300 家族のための公有地払い下げをスペインに申請し土地を受け取ったが、それは入植を
希望する家族の家長に 640 エーカー (259 ヘクタール)、その妻に 320 エーカー (129 ヘク
タール)、子供にそれぞれ 160 エーカー (65 ヘクタール)、奴隷にそれぞれ 80 エーカー (32 ヘクタール) を与えるというものだった。オースティンがニューオーリンズでこの条件を
公表すると、アメリカ合衆国における経済的な困窮から、払い下げを希望する 300 家族が
わけなく集まってきた。 こうして、東部テキサス渓谷地域の豊かな農地の多くは、たちまち黒人によって支えら
れた奴隷制綿花プランテーションでうめられた。1831 年のテキサス人口は 2 万人であった
が、1836 年には 5 万 2000 人へと増加した。テキサスの黒人人口は 1850 年には 5 万 8000 人
に増加したのである(その年の白人人口は 15 万 4000 人)。 ○テキサスの独立宣言 1829 年、メキシコ政府はアメリカ移民の増加を懸念し、アメリカからの移民を禁止し、
あわせてテキサスにおける奴隷制の廃止を宣言した(メキシコはもともと奴隷制禁止だっ
た)。しかし、アメリカ移民はその移民禁止も奴隷廃止令も無視した。テキサスの動きは、
やがて政治問題となり、1835 年、ジャクソン大統領は、メキシコ政府にテキサスの買収を
申し出た。前大統領アダムズ以来、アメリカ大統領としての再三の申し出であり、メキシ
コ政府は重ねてそれを拒否した。 ところが、1835 年、メキシコ政府の拒否を機に起こったのが、テキサス在住アメリカ系
住民による武装蜂起であった。蜂起から 1 年後の 1836 年 3 月、テキサスはついに一方的に
メキシコからの独立を宣言したのである。 しかし、アメリカは、すぐテキサスを併合できない事情があった。それはミズーリ協定
だった。ミズーリ協定とは、1820 年にアメリカ合衆国議会において、奴隷制擁護と反奴隷
制の党派の間で成立した取り決めであり、この協定によって奴隷制を認める州は南北バラ
ンスするようにすることになっていたが、(奴隷制を認める)テキサスを併合すると、連
邦政治における南部勢力のきわだった拡大をもたらすように思われたのである。ここにア
メリカはテキサスを併合するのか否かという難問に直面したのである。 アメリカは、1830 年にインディアン移住法を定め国家として先住民掃討を進め、アメリ
カ大陸内での勢力拡大を進めたのであるが、これから述べるようにアメリカの奴隷制度問
題はアメリカ合衆国の領土獲得問題(それに憲法問題)がからんだ複雑な問題であった。
1939
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
当時、人類が到達した最も民主的な憲法であったはずのアメリカ憲法は、一体、奴隷制に
ついてどう考えていたのか、どう規定していたのかをみることにする。 ○アメリカ憲法と奴隷制 1788 年に採択されたアメリカ合衆国憲法は、その制定時点で 13 州のうち 6 州にあった奴
隷制を、連邦のうちに含まれる法制度として暗黙に容認している。しかし、「奴隷」とい
う言葉は一度も使っていない。憲法第 1 条は、下院の創設にかかわり、議席の各州割り当
て算出基準となる人口数について規定しているが、そこでは「自由な人間」と「その他の
人間」という表現を用い、「その他の人間」つまり黒人奴隷は人口にして「自由な人間」
の 5 分の 3 で計算するとしていた(このことについては憲法制定のところで述べた)。 憲法制定から 3 年後の 1791 年、合衆国憲法には最初の憲法修正条項として、修正第 1 条
から第 10 条までの、10 ヶ条が一括して承認されたことは述べた。この合衆国憲法の権利章
典は具体的な「人権」を規定しているのであるから、「その他の人間」の「人権」をどう
扱っているのであろうか。その中で、たとえば、「いかなる人間も(No persons)」、「法
の適正手続きなしに生命・自由または財産を奪われることはない」という規定を取り上げ
よう。合衆国国民である「いかなる人間も」、法の適正手続きなくして「自由」を奪われ
ることがないのであれば、そこに居住する黒人が「自由」を奪われ、財産として扱われて
いる事実をどのように説明するか(たとえば、前述した 1824 年のヴァージニア州の奴隷法
など、憲法違反ではないか。それとも黒人奴隷はアメリカ人ではないのか。憲法では黒人
奴隷もアメリカ人であることを認めている)。 実は 1791 年の合衆国憲法の権利章典は重大な欠陥を含んだまま、制定され、その後はそ
の解釈でその場しのぎをやっていたのである(どこかの国の憲法解釈と同じように)。い
ずれは、その解釈は破綻する運命にあったのである(憲法解釈をあいまいにするというこ
とは、たとえば、二つの解釈を許せばダブルスタンダードとなる。奴隷問題と憲法の問題
はアメリカが直面した最初のダブルスタンダード問題であった。歴史はこのような社会シ
ステムのアキレス腱をついてくる。なぜなら、欲望に満ちた人間にとってシステムの欠陥
をつくのは古来やってきたことであるから。ヒトラーももっとも当時、民主的と言われた
ワイマール憲法のアキレス腱をついて合法的に政権をとったのである。これについては後
述する)。 19 世紀の早い時期から合衆国社会は、その点をつぎのような論理で説明した。憲法がいう
「いかなる人間も」とは、合衆国「市民(citizen)」を意味する表現である。しかしなが
ら、憲法制定者は黒人奴隷を「通常の人間より劣る人間」とみなし(どのような科学的根
拠をもって劣る人間といえるか)、彼らを「市民」とは想定しなかった。つまり憲法は、
「いかなる人間も」という表現を使ったとしても合衆国に住むすべての人間を「市民」と
1940
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
は位置づけていなかったのであり、したがって黒人奴隷は権利章典が保障する権利を持た
ないのであると説明した(やがて、アメリカ南部は地域ぐるみで、前述したように教育そ
の他で黒人を差別して,逆に憲法解釈にあうように黒人を「通常の人間より劣る人間」に
見えるように実際にしたというのが実態であった。 つまり、憲法解釈に合うように実態(黒人という人間)を変えていった。実際のところ
は、黒人を変えたのではなく、白人の意識を変えさせた。驚くべきことに短期間で人間は
(悪く)変わるのである)。よくいわれる靴に足を合わせるようにしたのである。これは、
いずれは破綻する(実際のところは、政治家は奴隷制に関することはできるだけ議論しな
いようにして先送りをしていた。結局、この先送りが南北戦争をもたらすことになったの
である)。 《欲深き動物-人間に歯止めをかける社会システム》 いつの時代も人間は欲深き動物であることには変わりはない。だから適切な社会システ
ムで人間の欲望に歯止めをする必要があるのだ。 前述したように 1808 年 1 月から奴隷貿易を禁止した連邦法が発効したが、海外からの奴
隷の連行は密貿易によって続いていた。それでも奴隷人口は以後、南部で絶対的に不足が
ちとなった。このため奴隷主たちは黒人男女の性生活にまで目を及ぼして未成年奴隷の増
加をはかるようになった(つまり、奴隷貿易は禁止されても、すでにアメリカ国内にいる
黒人を「生めよ増やせよ」すれば、奴隷はつきることはない、増殖させることができるとい
う論法だった。まったく家畜と同じに考えていたようだ)。 また、頭蓋骨の容量まで取り上げて黒人を本来的に劣等な異種の人間であると科学的に
説明する黒人奴隷論が構想された(しかし、すべて失敗した。そのような科学的データは
出なかった。それはそのはず、我々は今では 8 万 5000 年前までは、つまり,ホモ・サピエ
ンスの出アフリカまでアフリカ人は我々72 億人のご先祖だったことを知っている)。 このような南部における奴隷制擁護論の中で、奴隷人口は 1800 年の 89 万人から 1860 年、
南北戦争前夜の時点までに、15 の奴隷州全体で実に 395 万人に増加した(4.4 倍)。うち
男性人口が 198 万人、女性は 197 万人とほぼ同じであった。 人間とは、いかに欲深いか、いかに利益のためには、経済のためには主義、主張もあっ
たものではない、それが人間であることを示していた。たった 50 年前には正義のために、
民主主義のために力を合わせて本国イギリスと戦い独立を勝ちとった誇り高きアメリカ人
が 50 年後には利益のためには人間(黒人)を動物レベルに貶(おとし)めて恥ずかしいと
も思わないのである(トマス・ペインの『コモン・センス』に感激し、ともに銃をとった
アメリカ人が、孫の代には利益のためなら奴隷制度廃止という世界のコモン・センスを破
っても恥ずかしいとは思わなくなっていたのである)。 1941
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
○ミズーリ協定 1819 年、ミズーリ・テリトリーが州に昇格し、連邦に参加するという問題が議会に上程さ
れた。その年、奴隷州と自由州は、双方が 11 ずつと拮抗していた。ということは、奴隷が
存在したミズーリが奴隷制を保持したまま州に昇格した場合、12 の奴隷州となり、連邦上
院における奴隷州議員が多数派になることが予想された(連邦上院議員は各州 2 人ずつで
ある)。 そこでミズーリ協定と呼ばれた妥協が成立した。ミズーリ州を奴隷州として連邦に加え
る。ただし、ミシシッピ川以西のミズーリを除く地域については今後、図 14-19、図 14-
20 のように、ミズーリ州の南の州境である北緯 36 度 30 分線を区切りと考え、その北にあ
るテリトリーが州に昇格する場合には、奴隷制は認めない。あわせて当面の奴隷州と自由
州の数的バランスを維持するべく、マサチューセッツ州領域の一部をメイン州として切り
離し、メイン州の州昇格を認めたのが妥協の内容であった(自由州を割って 2 つにして、
つじつまをあわせたのである)。 図 14-19 アメリカ・メキシコ戦争における合衆国の進行 この内容をもとに、1820 年、北緯 36 度 30 分線の北に将来作られる州では、奴隷制を禁
止するとした法が成立した。 ○オレゴン熱とテキサス併合 テキサス併合問題は残っていたが、ことさら緊急性をもって起こってきたのが北方のオ
レゴン領土紛争に関するものであった。 オレゴンは 1818 年以来、イギリス領カナダとの国境を確定しないままで残っていた。と
ころが 1839 年ごろから、オレゴンへの移住がイリノイ、さらにはインディアナといった中
1942
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
西部諸州において急に熱をおびた関心として登場しはじめたのである。それには理由があ
った。 イリノイの西方アイオワの州昇格が 1846 年で、中西部がほぼ終り、さらに西に移動しは
じめた時期が、この 1840 年代であったが、アイオワの西には、それまでとは異なる大草原
(グレート・プレーンズ)と呼ばれた乾燥した草原地帯が、緩やかに海抜高度を上げなが
らロッキー山脈東麓まで続いていた。年間降雨量が 500 ミリ程度のため(日本の年間降雨
量は 1800 ミリ)、短い草丈にしか育たないステップ地域がどこまでも続き、森林は川沿い
のみに限られたこの地域は、当時の技術では不毛の土地とみなされていた(現在はピボッ
ト方式の大型灌漑施設を使って地下水をくみ出すことによて広大な穀倉地帯になってい
る)。 そこで、このステップ地域をスキップして、次はオレゴンだとなったのである。いった
ん、土地に限りがあることが喧伝されると、人間心理としてどうなるかは、いまも昔も変
わらなかったとみえて、オレゴン熱が中西部の人々の心を駆り立てた。 それ以降、オレゴンには、大陸横断をものともせずに毎年仕立てられた幌馬車隊によっ
て、1850 年までに 8 万人にものぼる人々が移住していったのである(とっくに州昇格の 6
万人を超えた)。 中西部には突如ミシシッピ川を越えてオレゴン熱が吹き荒れて、イギリスとの国境問題
をはやく決着させよという政治圧力が高まった。北部中西部が求めるものと、南部が求め
るものは違っていたが、この時期に膨張したいという点では一致していた。 1844 年 12 月の大統領選挙が迫っていた。民主党候補のポークは「合衆国の領土膨張は、
南西部テキサスに向けても、また北方のオレゴンにおいても、神がわれわれに命じたもう
た使命である(マニフェスト・デスティニー論)」と演説した(マニフェスト・デスティ
ニーとは、「明白なる使命」や「明白なる運命」と訳されるが、白人種の西部開拓を正当化
する標語となり、19 世紀末に「フロンティア」が事実上消滅すると、合衆国の帝国主義的
な領土拡大(米西戦争やハワイ併合など)や覇権主義を正当化するための言葉となった)。 テキサスの併合に対してはイギリスが反対していた。オレゴン領土紛争の相手国もイギ
リスであった。反英キャンペーンはテキサス問題とオレゴン問題を一体化させるうえで、
きわめて有効な戦略であった。これをうまく結びつけたポークが大統領選を勝ち取った。 1845 年 3 月にテキサス併合は連邦議会両院協同決議という形で成立した。オレゴン問題
も、翌 1846 年 6 月イギリスとのオレゴン領土条約によって、その問題も決着した。オレゴ
ン全域を合衆国が得るという要求は満たされなかったが、それでも図 14-17 のように、北
緯 49 度線以南のすべての地が合衆国領土として確定した(そのときイギリスの譲歩で獲得
した領土が今日のワシントン州である)。 1943
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
○米墨戦争 テキサスの次はその先のカルフォニアであった。ポーク大統領は、メキシコと戦争を始
める前に、カリフォルニアまでの領土買収をメキシコ政府に申し出ており、そのことが拒
否されれば、1846 年 6 月には、戦争にいつでも入れる態勢をとっていたという事実が確認
されている。 1846 年 5 月、ポーク大統領が議会に「メキシコ政府はわが国がメキシコの正当な領土を
奪取したと信じこみ、・・・テキサスの再征服のためにわれわれに戦争を仕掛けようとし
てきた。4 月 24 日、メキシコ軍は、リオグランデ川の東岸に位置したわが軍に攻撃を仕掛
け、16 人のわが軍兵士を殺傷した。われわれの権利と、さらにはわが領土の防衛のために、
私は、議会が迅速に、わが国が戦争状態にあることを宣言することを要請するものである。」
と対メキシコ戦争はやむをえない防衛戦争であるとして要請した。このメキシコ戦争(米
墨戦争という)は、以後 2 年にわたった。 戦争開始とともに、アメリカがいうようなリオグランデ川の越境問題とは全く関係なく、
合衆国軍は図 14-19 のように、メキシコ領内奥深くカリフォルニアにまず進攻し、さらに
47 年 9 月には首都メキシコ・シティを占領し、メキシコを完膚無きまでに打ち負かし、計画
的な侵略戦争であったことは明らかであった。メキシコ軍はアメリカ軍の大砲による攻撃
に耐えられず、物資も枯渇し、また指揮系統の分裂によって混乱し、全くアメリカ軍の敵
でなかった。 そのメキシコ首都占領という事実のもとで、1848 年 2 月に締結されたグアダルーペ・イ
グルダ条約によって、メキシコはリオグランデ川国境の承認を強制されたばかりか、図 14
-19 のように、かつてテキサスが領有権を主張した領土のさらに倍にもあたる、太平洋岸
カリフォルニアにいたるメキシコ領を、わずかな金額で合衆国が買収することを認めさせ
られたのである。 このグアダルーペ・イダルゴ条約により、合衆国はリオグランデ川を境界とするテキサ
ス(テキサスも図 14-19 のように倍増された)とカリフォルニア、ニューメキシコ、アリ
ゾナ、ネバダ、ユタ、コロラドの一部分およびワイオミングという広大な領域を獲得した
(これでアメリカ合衆国の骨格が出来上った。広大な潜在的な植民地を獲得したと同じだ
った。この 19 世紀はヨーロッパの列強も産業革命後の軍事力を背景に植民地獲得競争をや
っていたが、ある意味では陸続きのアメリカもロシアも植民地獲得競争に奔走していたと
いう点では同じであった。つまり、ナポレオン戦争のあと、100 年近く大きな戦争はなかっ
たが(南北戦争とクルミア戦争以外に)、列強はアジア、アフリカ、アメリカ、オースト
リアの後進国の植民地化に狂奔していたのである。クルミア戦争はその植民地獲得競争で
1944
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
オスマン帝国の地でヨーロッパとロシアがぶつかった戦争だった。南北戦争はこれから述
べるアメリカ奴隷問題の決着のための戦争だった)。 ○カリフォルニアの州昇格問題 米墨戦争に続く 13 年間は、メキシコから獲得した広大な領土について、北部と南部の奴
隷制度の拡張を巡る政争の焦点となっていった。 この条約によってメキシコ戦争は終わったが、その条約締結の 1 ヶ月前、サンフランシ
スコの東方サクラメント渓谷で、偶然、金が発見された。1848 年末から 49 年からの一攫千
金をねらう人々の「ゴールド・ラッシュ」で、カリフォルニアの人口は、この 2,3 年の間
に 47 年の 2000 人から 10 万人に膨れ上がった。 カリフォルニアは人口増加の中で一気に州に昇格する条件は整った。問題はまたしても
奴隷州として昇格するのか、それとも奴隷制を否定する自由州となるのか、当初の情勢は
混沌とした。だが、殺到する新住民は、奴隷を引き連れる奴隷王とこの新天地で競争する
ようなことを、ましてや黒人奴隷が奴隷王のために金鉱を掘り当てるということをすさま
じく嫌悪した。やがて、州昇格に当って、奴隷制反対の気運がカリフォルニアを席巻した。 1850 年 9 月カリフォルニアを自由州として連邦に加える法が成立した。南部は見返りに、
自由州における逃亡奴隷の取り締まり強化を連邦政府の役割として明記した逃亡奴隷法を
成立させた。さらに中間地帯になるニューメキシコ・テリトリーやユタ・テリトリーについ
ては、将来、地域が州に編入する段階で、その地に住む住民が、自らの判断で州憲法によ
って決定することがのぞましいという内容の法が成立した(これは連邦議会が奴隷制の是
非を決定しないということで連邦政府権限の後退という重大な問題を含んでいた)。 ○カンザス・ネブラスカ法と国内の分裂 1853 年、イリノイ選出上院議員の民主党ダグラスは大陸横断鉄道建設構想の中心的な推
進者であったが、鉄道を早期に通すためには南部の議員の協力をえることが必要であると
考え、ネブラスカ準州組織法案を提案した(大陸横断鉄道の敷設想定地域であった)。こ
れは 1854 年 5 月、カンザス・ネブラスカ法として成立した。図 14-20 のように、ミズーリ
協定の 36 度 30 分線より北にあるカンザスとネブラスカについても将来、州昇格の時、ニ
ューメキシコやユタと同じようにそれぞれの住民の意思で決めるという規定を含んでいた
(本来のミズーリ協定からいえば、自由州と決まっていたはずあるが、横断鉄道で南部議
員の協力を得るために、あえてミズーリ協定を無視したのである)。 こうなるとミズーリ協定が無視され、奴隷制が 36 度 30 分線の北に大きく拡大していく
可能性が出てきた。1854 年 2 月、ダグラスが南部民主党の要求に屈してミズーリ協定の事
実上の破棄を認めたとき、ホイッグ党に長年所属した南部の政治家・政治集団の多くが、ホ
イッグ党を捨て民主党に転じた。全国政党としてのホイッグ党の解体はこれによって決定
1945
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
した。このカンザス・ネブラスカ法をめぐる 1854 年の対立は、従来の政治体制の決定的な
破綻を象徴した。 カンザス・ネブラスカ法が目指した大陸横断鉄道建設(1 州や 2 州でできるものではない
ことは明らかだった)の構想の根底には、連邦政府がその膨大な事業にいかなる援助を与
えうるかという、従来おりおりに問われながら回避してきた新しい問題が潜んでいた。つ
まり、より強力な連邦政府の力が必要であり、それを可能にする政治体制への移行が必要
であるという段階に至っていたのである。しかし、連邦政府の強化については、奴隷制度
の維持にかける南部(奴隷制に反対な連邦政府を弱体なままにして奴隷制を末永く維持し
たい)が徹底的に反対することは確実であった。ここに至ってアメリカ国内の利害の対立
が明らかになってきた。 アメリカは西部の開発と資本主義の発達により、国内は商工業者を中心とする北部、奴
隷を使用するプランテーション農園主を中心とする南部、独立自営農民を中心とする西部、
の 3 つに分れるようになった。とくに北部と南部とは、貿易政策・奴隷問題などでことご
とく対立した。 まず、中心となる産業は、北部は資本主義商工業であるのに対し、南部は綿花栽培の大
農業であった。 貿易政策は、北部は商工業を保護育成しイギリス工業に対抗するため高関税の保護貿易
を主張したのに対し、南部は棉花の大量輸出と工業製品の輸入のため、自由貿易を主張し
た(19 世紀のアメリカは現在とまるっきり反対であることに注意。工業者は保護貿易、農
業者は自由貿易を主張。現在は原則すべて自由、しかし、EUなどに対しては農業者は保
護)。 奴隷制度については、北部は自由労働者や進歩的市民階級が多く、自由労働を必要とし
奴隷制度に反対したのに対し、南部は大農場経営のために多くの黒人奴隷を使用し、奴隷
制度の存続を主張した。 政体・政党は、北部は連邦主義・共和党(新設)であるのに対し、南部は反連邦主義・
民主党であった。 ○共和党の成立とリンカンの登場 ミズーリ南境線以北の地は将来自由州に編入することを定めたミズーリ協定によって妥
協がなっていたが、1854 年にカンザス・ネブラスカの両准州の加入をめぐって、再び対立
し、準州政府を組織することさえできない、ゆき詰まり状況を作りだした。 奴隷制反対派
と支持派住民が対立し、1855 年から 56 年にかけて、一方は中西部から、他方は南部から移
り住んだ住人がそれぞれに準州を樹立したと主張し、相手方への襲撃、虐殺にもいたる武
力抗争が発生した。 1946
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
1854 年 7 月ミシガン州においてホイッグ党系反奴隷制グループが独自の党大会を開き、
初めて共和党なる党名をもちいた。それから 1 週間後には、オハイオ、インディアナでも
自由土地党、ホイッグ党系反奴隷制グループが、それぞれの州で共和党結成を目指した。11
月の議会選挙で共和党として当選した下院議員は、中西部を中心に 7 州に及び、とくにオ
ハイオでは 21 選挙区で全員が当選する勢いとなった。 1855 年、新しい議会が開会された時点で、下院における共和党支持グループは 108 議席
をかぞえるまでに躍進した。上院の 15 議席と合わせて、55 年時点で、共和党は全国政党と
しての一応の形態を整えていたといえる。 1856 年の大統領選挙に際して、共和党は最初の全国党大会を開き、共和党候補としてジ
ョン・フリーモント(最初のカリフォルニア州選出上院議員)を擁立したが、民主党候補
のジェームズ・ブキャナン(ポーク政権の国務長官)に敗れた。フリーモントの得票は、
全体投票の 22%におよんだ(アメリカ党のミラード・フィルモアよりは上回った)。 この 1856 年は、イリノイの一地方政治家エイブラハム・リンカンがホイッグ党を離れ、
共和党への参加を決意した年でもあった。2 年後の 58 年、リンカンは、イリノイ州におい
て共和党連邦上院議員候補に指名された。彼はすでに 49 歳に達していたが、全国的にはい
まだ無名であった。 ところが、その選挙戦で彼が挑んだ相手が、大陸横断鉄道建設構想の中心的な推進者で
カンザス・ネブラスカ法の提案者であった前イリノイ州選出上院議員の民主党有力政治家
のあのダグラスであった。選挙自体はダグラスが接戦を制したが、リンカンとダグラスの
間で 7 回にわたって行われた「リンカン・ダグラス論争」の討論は地方政治家に過ぎなか
ったリンカンを全国的な政治家に押し上げた。 リンカンは「奴隷制に対するわれわれの態度は、根本的には人間の自由を求める精神の
あり方、道徳上の問題である」と、ダグラスに対し、奴隷制との妥協はもはや許されない
と詰め寄った。しかしその一方で、彼はダグラスとの論争でも、いま共和党が問題とする
のは既存南部諸州の奴隷制ではなく、テリトリーへの奴隷制の拡大の問題であると言った。
奴隷制の悪を指摘しながら、また同時に、問題を明確にテリトリーに限定する態度をとっ
たのであり、そこにはリンカンの現実主義的姿勢が現れていた。テリトリーへの奴隷制拡
大に反対すること、それこそ、新しい共和党が合意した確実な一点にほかならなかったの
である(その先、南部の奴隷制をどうするかなどをいうと共和党員にもいろいろな議論が
あり、分裂してしまうという考えだった)。 ○1860 年大統領選挙に向けて 共和党はいかにして支持基盤を拡大し、きたるべき 1860 年の大統領選挙において、南部
の支持を見込まずとも、勝利しうる政党に拡大するか(北部と南部の人口比が半々であれ
1947
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ば、北部だけで過半を制することは不可能であったが、そのころの人口比は北部(中西部
も含む)と南部は 2 対 1 ぐらいであったので、中西部を取り込めば南部がゼロでも勝てる
見込みはあった)。その道は、北部から中西部の自由州において、多様な要求を取り込み支
持層を積極的に広げていくことでしかなかった。 こうして共和党が掲げた主張は、連邦政府が援助すべき、内陸交通手段の改善や大陸横
断鉄道の建設(中西部にうける)、またその財源となる関税の引き上げ(これは北部の工業
をヨーロッパから守ることにもなる)。さらに中西部農民に支持の大きかった自営農地法案
の推進であった。 とくに 3 番目の自営農地法案の提案(従来、自由土地党が掲げた主張であった)で、中
西部から支持を獲得するつもりであった。連邦公有地を公売に当てるのではなく(大金持
ちが買い占めるのではなく)、実際に開墾した小農民に無償で授与するという内容を盛り込
んだこの法ほど、農民あるいは農業に人生をかけようとした人々が長く求めたものはなか
った。自由な土地での自由な労働にこそ、人間が本来的価値とする生の基盤がある。また
それは人間の独立を支える基礎でもあるという考えであった。 こうして共和党が掲げるスローガンは明確で力強く、北部から中西部に浸透していった。
60 年 5 月、共和党はいち早くリンカンを大統領候補に指名した。 戦線を整えた共和党に対し、民主党は分裂してしまった。民主党の多数派が、奴隷制の
是非についてはテリトリー住民が決めるとするカンザス・ネブラスカ法方式、つまり「住民
主権」論を引き続き主張するダグラスを大統領候補としたのに対し、南部民主党急進派は、
もはや全テリトリーに奴隷制が認められるべきとする徹底した奴隷制の拡大を要求した。
彼らは独自の大統領候補としてジョン・ブレキンリッジを選出した。 しかし、ブレキンリッジをかついだ南部の急進派にとっては、1860 年の大統領選挙はあ
るいはもう、はじめから最後の儀式にすぎなかったかもしれなかった。彼らにすればな南
部の支持をまったく得られない大統領候補が当選を目指す連邦に、なぜ残るべき大義があ
るのか。南部のみで奴隷制を基盤とした新国家を建設しようという強い議論が起こってき
た。 奴隷制地帯であるキューバなどを併合し、北アメリカ大陸南部からカリブ海において、
奴隷制を社会基盤においた、より純化した新しい国家を構想することが、いまこそとるべ
き南部の積極的な選択であるというふうに語られ、それがまたたく間に表面化したのであ
る(確かに南部の奴隷制論者からみれば、それは現実的な選択であったかもしれないが、
いったん、人類の歴史からみると、19 世紀後半の世界において、アメリカ南部からカリブ
海にかけて奴隷制でなりたつ古代ローマ帝国のような国家をつくることは、時代錯誤もい
1948
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
いところである。ときどき、人類は思い詰めると集団的時代錯誤を引き起こすことがある
から歴史を知ることはあらためて重要であることがわかる)。 【④南北戦争(1861~65 年)】 ○共和党リンカン大統領 1860 年 11 月の大統領選で共和党候補リンカンは勝利した。ダグラス、ブレキンリッジ両
民主党候補の得票は、あわせれば全体投票の 48%におよび、リンカンの得た 40%を上回っ
た。 選挙が終わって 1 ヶ月後の 1860 年 12 月、南部分離派のなかでも最急進派であったサウ
スカロライナが連邦離脱を宣言した。サウスカロライナは、主権国家である諸州は契約に
もとづいて連邦を形成しており、州にとって良くない場合は契約の無効を宣言して独立す
ることができると無効宣言理論をかかげて離脱宣言をした。 サウスカロライナの後を追って、図 14-20 のように、1861 年 2 月 1 日までにジョージア、
アラバマ、ミシシッピ、ルイジアナ、テキサス、フロリダの 6 州が連邦を離脱していった。 図 14-20 南北戦争 2 月初旬、離脱した 7 州は、アラバマ州モンゴメリーに会し、奴隷制を承認し保護すると
した独自の連邦結成のための憲法を採択し、自らがアメリカ連合国(以下、南部連合とい
1949
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
う)という独立国家であることを宣言し、ジェファーソン・デイヴィスを暫定大統領に指
名した(同年 11 月に行われた選挙で正式に当選している)。まだ、リンカンは大統領にも
就任していないし、ましてや奴隷制廃止の宣言をしたわけでもないが、南部は早々に一方
的に離脱・独立宣言をしてしまった。 さらに 1861 年 5 月までに(このときは南北間に戦争が始まっていた)、ヴァージニア、
ノースカロライナ、テネシー、アーカンソーが離脱し、南部連合に加わり、11 州の新連邦
国家として体制を整えようとしていた。ヴァージニアの離脱とともに南部連合はリッチモ
ンドを首都としたが、リッチモンドとワシントンは 150 キロしか離れていなかった。 なお、南部連合が最終的に 11 州で構成されたのに対し、連邦に残ったのは 23 州であっ
た。そこにはミズーリ、ケンタッキー、デラウェア、メリーランドという境界地域にあっ
た奴隷州が含まれていた。ヴァージニア州から分れたウェストヴァージニアも連邦に残っ
た。 1861 年 3 月 4 日、リンカンは大統領就任にあたって、わが国家は、アメリカ合衆国人民
を主権者とし、連邦政府は『人民』を代表する(州の連合体ではない)。合衆国連邦政府は
州によって組織された連合体ではなく、州は連邦から離脱する権利を持たない。連邦を離
脱する行為は国家に対する反乱である。連邦はそれ自体が独立した国家組織であり、主権
として完全なるものである。リンカンはこう言って、連邦離脱諸州が根拠とした主権国家
である諸州の「契約」としての連邦という合衆国政体、つまり、この時期まで根強く生き
続けた州権論的連邦政体論を明確に否定する立場を明示した(彼は弁護士から政治家にな
ったので法律的論理が明快であった)。しかし、南部の離反を防ぐため奴隷解放には言及し
なかった。 サウスカロライナにあった連邦海軍基地サムター要塞(図 14-20 参照)を明け渡すよう
南部連合が言ってってきたが、リンカンは強い姿勢で拒否した。南部連合軍は要塞の武力
奪取を決定した。4 月 12 日、最初の銃声は南部連合の方から発せられた。これで明らかに反
乱は起きた。要塞守備隊はまもなく降伏した。 これが南北戦争の開始であったが、この南部側の要塞攻撃という事実は北部諸州に激し
い憤激を呼び起こしていった。反乱を起こし、連邦軍に銃をむけた反逆者に対し、リンカ
ンはいまや、連邦防衛のための徹底した戦争をまさに「国民」に呼びかけた。「連邦は断固
として護られなければならない」が、リンカンが以後南北戦争の最大の目的としてつねに
語った言葉であった(リンカンは、まだ「奴隷を解放する」とは一言も言っていない)。 ○戦争の拡大 南北戦争が勃発した時点では、北部も南部も戦争の準備は全くできていなかった。あわ
ただしい訓練を経て両軍が最初に激突したのは、7 月 21 日、連邦軍が首都ワシントンから
1950
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
リッチモンドを一気に占領すべく南下し南軍と衝突したブルランの戦いであった。しかし、
戦闘は予期せざる結果に終わった。連邦軍はこの戦闘に 3 万以人上の兵力を投入しながら、
敗走した。当初リンカン大統領が動員した戦力は 7 万 5000 人、兵役期間は 3 ヶ月と短期間
で、早期に決着がつくと考えていたと言われているが、この敗戦で戦争の長期化は避けら
れない情勢となった。 南部の各有力部隊は、基本的には防衛線を張り襲来する北軍を阻止する戦術をとってい
た。この作戦は、ライフル銃と塹壕を主に、攻めるよりも護ることが強力であった戦闘の
性格もあり(つまり、劣勢の南軍は基本的に塹壕にこもって、攻撃してくる北軍を撃つと
いう戦術に徹した)、ワシントン~リッチモンド間という南北戦争の主力戦場、東部戦線
において、南軍側が劣勢であったにもかかわらず、よく健闘した(戦争全体の死傷者も少
なかった)。北軍はこの東部戦線でたびたび敗北を喫し、結局、連邦政府が南部の独立を
承認する事態もありうるのではないかと思わせるところまでいった。 リー将軍の南軍は、一度、戦勝の勢いでメリーランドへの侵攻を試みたが、1862 年 9 月
17 日のアンティタムの戦いの結果、後退を強いられた(図 14-20 参照)。北軍が 7 万、南
軍が 4 万の兵力を投入したこの戦闘で、1 日のうちに北軍には 2108 人の死者と、9000 人を
超える負傷者が出た。一方、南軍の死者も 2700 人、負傷者はやはり 9000 人を超えた(や
はり守る方が有利であったようだ)。耳をつんざく砲声、またライフル銃から発せられる
鋭い銃弾が渓谷を累々たる屍、さらには負傷者の群れで埋めたて、生き地獄になってしま
った。近代兵器による近代戦争がいかにすざまじいものであるかをはじめて現出した 1 日
であった。 ○リンカンの新しい政策 リンカン政府は、長期戦を乗り切るために、まず自らの足場を固める必要があった。南
部諸州の離脱のため、1861 年 12 月に召集された議会は上院において共和党が 31 議席、民
主党は 10,また下院でも共和党 105 議席、民主党が 43 と事実上共和党が望むことはすべて
なしうる状態にあった。 《自営農地法(ホームステッド法)》 まず、1862 年 5 月自営農地法(ホームステッド法)が、あっさり成立した。5 年間、未
開の公有地開拓に従事したものに対して、160 エーカー(約 64 ヘクタール)の土地を無償
で与えるという内容をもち、63 年 1 月から有効となった。戦時中の 63 年 1 月から 65 年末
までに、およそ 2 万 6500 件の自営農地無償取得の申請があり、それらのおおかたが認めら
れた。 さらに 62 年 5 月、リンカン政府は農務省を新設し、また議会は各州農業カレッジの設置
を奨励する目的で、州政府に連邦公有地を無償で提供する法律、モリス土地付加法を可決
1951
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
した(アメリカ各州に設立された州立大学によって農業技術レベルが格段に高まった)。
農業経営に関わる行政施策も連邦政府の取り組む政治の役割として認識されはじめたとこ
ろに意義があった。 《保護関税政策》 次に、62 年 7 月、関税が引き上げられ、保護関税政策への転換が進められた。南北戦争
期全体をとおして関税は段階的に引き上げられ、最終的に 1869 年、平均関税率は 47%と、
産業保護のための明確な高関税政策へと転換したのである(19 世紀のアメリカはこのよう
な保護貿易を行なっていた)。 《大陸横断鉄道建設法》 1862 年 7 月には太平洋鉄道法、いわゆる大陸横断鉄道建設法が成立した。この法は、建
設主体であるユニオン・パシフィック鉄道会社などに、建設のための膨大な援助を与えた。
最大の援助は、最終的に 3000 万エーカーにおよんだ連邦公有地無償供与であった。路線周
辺の土地をも供与し、鉄道会社がその販売によって建設費を捻出することを念頭において
いた。さらに 64 年には、連邦政府は、数億ドルにものぼる連邦公債を鉄道会社に貸与して、
直接的な資金援助にまで踏み込んだ。大陸横断鉄道の建設は、まぎれもなく連邦政府の役
割として位置づけられたのである。 ○戦争の行方 基本的には開戦時から北部が優位であることは、明らかであったが、その理由は、 ◇北部は南部に対しおよそ 2.4 倍にあたる 2200 万人の総人口をもっていた。南部人口は 900
万人、しかもそのうち 360 万人は奴隷であった。 ◇この大きな人口差があり、そのため兵役適齢(当初は 18 歳から 35 歳)とされる男性の
人口も大きな差があり、北部は約 400 万人前後に対して、南部は 100 万人強だった。南部
では後にこの枠が 17 歳から 45 歳までに拡大され、最終的に上限は 50 歳まで引き上げられ
た。しかしそれでも兵のなり手が足りず、敗戦間際には奴隷から志願者を募ろうという案
まで提出された。 ◇さらに工業生産力においては、北部が 10 倍以上にもおよぶ力をもっていた。1860 年には、
北部に製造業の事業者が 11 万もあったのに、南部には 1 万 8000 しかなかった。南部同盟
の鋳物用銑鉄の生産高は 3 万 6700 トン、これに対してペンシルベニアだけでも 58 万トン
の銑鉄を生産していた。たとえば、南部の小銃生産はごくわずかで、ほとんど輸入にたよっ
ていたが、北部は小銃の国内生産を拡大し、170 万挺近くを製造していた。ことごとく北部
の工業力指標が南部を凌駕していた。ただし、工業生産能力が北軍の力に反映してくるに
は、かなりの時間を必要とした。 1952
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
◇開戦の時点で北部には既存の政府組織が存在していたのに対して、南部は一から政府組
織を作り上げねばならなかった。また、北部は中央集権的な政治体制であったため、連邦
政府の意思決定がスムーズであった。南部はそれぞれの所属州の発言力が強かったため、
南部連合の方針を決める際にデイヴィス大統領は非常に苦慮することとなった。 ◇北部の鉄道の長さは南部の 2 倍以上あった。この鉄道を利用し、北部は食料や武器を兵
たちに受け渡すことができた。 このように圧倒的に北部が有利で短期に勝負がつくと思われていたが、4 年も続き、 最終的な動員兵力は北軍が 156 万人、南軍が 90 万人に達し、両軍合わせて 62 万人の死者
を出し(北軍 35 万人、南軍 27 万人)、19 世紀、世界において起こったいかなる戦争をも
上回るもっとも悲惨で大規模な戦争になったのはなぜであろうか。 一つの理由は、最新鋭の連発式ライフル銃の導入など、とくに新兵器の開発にあった。
遠距離からの正確な銃撃が可能であったライフル銃は、犠牲者を増やし、そのため連邦軍
は従来からの直線的攻撃重視の戦闘方式を戦争が進むにしたがって、塹壕を掘ったり、土
塁を積み上げたりするなど、戦場の構築に時間をかけ、そのうえで戦闘におよぶという新
しい方式は、戦争を大規模化し、事実上双方に人力ばかりか物資の激しい消耗をもたらし
た。つまり、史上はじめての総力戦になったということである。 その点、総力で弱体な南部連合は徹底して交通手段、工業生産、さらには労働力供給の
統制管理が行われ、また食糧その他の日用品の徴発が行われた。18 歳から 35 歳(最終的に
は 17 歳から 50 歳まで)までの白人男子を対象とした徴兵制を導入した。南部連合は文字
通りの軍事統制国家の様相を呈して戦ったので、従来、考えられるより、はるかに悲惨な
戦争となったようである。 ○奴隷解放宣言 戦局が持ち直したのを見た大統領リンカンは 1862 年 9 月 22 日、ここではじめて奴隷解
放宣言を発した。リンカンは、4 ヶ月後の 63 年 1 月時点でもなお反乱状態にある地域の奴
隷制については、合衆国大統領の権威において黒人はすべて解放され自由になると奴隷解
放予備宣言を発表した。 この頃からリンカンは、奴隷制に対する戦いを大義名分として前面に押し出すようにな
り(それまでは国家分裂阻止、反乱鎮圧が大義名分)、その成果もあって南部連合がイギ
リスやフランスから援助を受けようとする努力は失敗に終わった(諸外国からも南部の行
為は正義にもとるものとみなされた)。 リンカン大統領は、いろいろなことを考えてのことであったであろうが、いずれにして
も、62 年初めケンタッキー・テネシー地域での西部戦線でユリシーズ・グラント将軍が連
続的に勝利をおさめ、東部戦線でもアンティタムでの勝利(62 年 9 月 17 日)で、リンカン
1953
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
は戦争への自信と深め、いまや奴隷制問題への判断を固めるべきときがきたと考えたよう
であった。この内戦の規模と犠牲からみて、単にテリトリー問題の解決だけで終わるので
はなく、奴隷制の問題に基本的に決着をつけなければ収拾できないであろうとリンカンは
判断したようである。 1863 年元旦、リンカンはその予備宣言に基づいて、この時点で反逆状態にあった南部連
合諸州すべての奴隷制が廃止となり、かつての奴隷は永久に自由となった旨を宣言したの
である。 この奴隷解放宣言はすぐに目立ったような効果はあらわれなかったが、解放宣言のこと
が奴隷たちの間で広まり、その結果、彼らは希望を持つことが出来たし、混乱も起きたし、
たくさんの奴隷たちが主人のもとを後にするきっかけともなった。この奴隷解放宣言は、
解放された元奴隷たちが、連邦軍隊に入ることを許可した。これによって、北軍は、新た
な 20 万人近くの黒人兵士たちを獲得し、南軍との戦いでは、さらに有利になっていった。 奴隷解放宣言によって、海外諸国は、奴隷制を廃止しようというアメリカの新しい取り
組みを賞賛した。これにより、南部連合が、イギリスやアイルランドなどの海外諸国から
一つの国として認められる可能性は完全に消えた。 しかし黒人奴隷の解放は宣言だけで終わらない性格の問題であった。400 万人にも近い解
放された黒人を合衆国社会は、どのような新しい社会成員として迎えるのか。この数十年の
間に南部奴隷州が黒人を徹底的に劣等民族として扱ったため、北部から中西部自由州の
人々まで黒人に対して強い差別意識を持つようになっていた。この宣言によって、アメリ
カ社会に大きく根づいていた奴隷制という政治社会システムが崩壊したが、どうやって解
放黒人を受け入れていくのかという重大な問題が生じてきた。 ○戦争の終結 しかし、戦争はまだ終わっていなかった。奴隷解放宣言から 10 ヶ月後、1863 年 7 月 1~
3 日、アンティタムからさらに北のペンシルベニア州ゲティスバーク(図 14-20 参照)で
行われた南北戦争最大の戦闘では、3 日間をとおして南北両軍の死傷者は 4 万 6000 人にも
およんだ。 この戦いにおける戦没者のための国立墓地献納式典においてリンカン大統領が行ったゲ
ティスバーグ演説は、その一節にある「人民の人民による人民のための政治」(government of the people, by the people, for the people)できわめて有名である。 ワシントンとリッチモンドを両端とした南北戦争の主力戦場である東部戦線は、ペンシ
ルベニア、メリーランド、ヴァージニアの平地や渓谷で繰り返し激戦が行われたが、3 年半
にわたって膠着したままであった。 1954
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
しかし、これに対し南北戦争には別に二つの戦場があった。リンカン政府は開戦ととも
に、南部の港湾を海上から封鎖し、海外からの南部に対する物資補給を断つ戦術をとった。
これは、効果があって、月日をへるにしたがい南部は食糧調達にも支障をきたす状況に直
面した。62 年後半から、南部社会はほとんどの物資が統制状態に入り、きわめて逼迫した
事態に陥った。 他方、今ひとつの戦線は、西部の西部戦線にあった。図 14-20 のように、ケンタッキー、
テネシーからニューオーリンズ(62 年 5 月陥落)までのミシシッピ川流域を南下・制圧し
南部連合の一翼テキサスを切り離した後、テネシーからジョージア全体に進軍するという
長い行程の戦いがそれであった。この方面の北軍の指揮はグラント将軍がとった。 この西部戦線は日がたつにしたがって北軍の圧勝となった。南部の内懐(うちぶところ)
をえぐるようにつぶしたあと、64 年 9 月、ジョージア州のアトランタを陥落させ(『風と
ともに去りぬ』の舞台)、南部連合の本拠地ヴァージニアへと向かった。連邦軍が南北から
南部連合の首都リッチモンドに迫り、1865 年 4 月 3 日にリッチモンドが陥落した。9 日に
はリー将軍が降伏し、南北戦争は終結した。 西部戦線は食糧は現地で確保することが原則となり、進攻を受けた地域はほとんど根こ
そぎの食糧・物品の徴発を受け、また鉄道、橋脚など多くの施設が破壊された。南部の代表
的な都市アトランタやリッチモンドは灰燼に帰した。こうして南北戦争は、南部の広範な
破壊を伴い、以後南部は、その破壊から立ちなおるために半世紀を要したともいわれてい
る。 ○史上最初の近代戦 南北戦争の 4 年にわたる戦いの消耗は激しく、おびただしい血が流された。北軍の犠牲
者は 36 万人、南軍の犠牲者は 25 万 8000 人だった。犠牲者数でいえば、南北戦争は現在で
もアメリカ史上最大の戦争(内戦)であった(第 2 次世界大戦でもこれほどの犠牲者は出
ていない)。同時にこの戦争を契機としてアメリカの潜在的な力が表面に現れ、1865 年以
降に動員が解除されるまでのアメリカは(少なくとも短期間)世界最大の軍事大国に変身
した。 開戦当初には素人の集団でしかなかった両軍は、やがて大規模な軍隊に成長し、近代的
な施条をほどこした大砲や小銃を駆使し、北部ヴァージニアで包囲戦を展開したかと思え
ば鉄道で西部戦線に移動し、司令部との連絡には電信を使うなど、戦時経済体制をとって
資源の動員をはかったのである。 海軍の作戦でも初めて装甲艦が使われ、回転砲塔、魚雷、機雷が登場し、蒸気機関つき
で高速の襲撃艇が商船の攻撃に活躍した。南北戦争は、産業革命後の工業力を基盤とした
最初の「全面戦争」の性格が強く、20 世紀の戦争の原点という点では、ほぼ同時期に行われ
1955
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
たクリミア戦争(1853~56 年)やドイツ統一戦争(普仏戦争。1870~71 年)よりも特徴が
はっきりしているといわれている(南北戦争を深く分析すれば、来るべき戦争がいかに大
規模で悲惨になるかが予測できたはずだといわれている)。 ○リンカンの暗殺 1865 年 4 月 5 日、大統領リンカンは廃墟となったリッチモンドを訪れていた。リッチモ
ンドを退いたリー将軍は、4 月 9 日、降伏した。その 6 日後の 4 月 15 日、リンカンは、忽
然(こつぜん)とこの世を去った。その前日の夜 10 時過ぎ、フォード劇場で妻メアリー・
トッドらと観劇中、俳優ジョン・ウィルクス・ブースに 1.2 メートルの至近距離から拳銃
で後頭部を撃たれたのだ。 南北戦争は、リンカンの大統領就任とともに始まったが、彼は結局、真の戦後をみるこ
とができなかった。彼はきわめて慎重で現実的で、しかし、決断したことは断固としてや
る男だった。彼の頭には戦後の構想、とくに奴隷制廃止後の見取り図が明確に描かれてい
たはずである。彼は奴隷制の扱いについては長期間、熟慮して慎重であったし、口に出し
たときは極めて現実的であったことを考えると、未だ、誰にも言っていなかったが、奴隷
制廃止の現実的な方法論をねりあげていたと思われる。 その頭脳が失われてしまった。それを明かすことなく、実行することなく、この世を去
ってしまった。これはアメリカにとって大きな損失であった。リンカン暗殺が戦後の、そ
の後、100 年も続くことになる解放奴隷問題をこじらせることになったのではないかと考え
ると返す返すも残念なことであった(普通の歴史書では奴隷制・黒人問題は南北戦争の終
了をもって終っているが、人間のもつサガはこれから 100 年続くことになる。それが人間
だという意味で,その後の歴史も記す)。 それから、さかのぼること 5 ヶ月、1864 年 11 月、戦争のただ中で再選され、再度大統領
に就任した時点で、リンカンは、南北戦争の重い意味をあらためてかみしめていたように
みえる。再当選したリンカンは、第 39 回目の議会が始まるのを待たず、前期から残ってい
た第 38 回目の議会に、米国内の全ての奴隷制を禁止する米国憲法第 13 条修正を提出し承
認させた(65 年 1 月。「奴隷制もしくは自発的でない隷属は、アメリカ合衆国内およびそ
の法が及ぶ如何なる場所でも、存在してはならない」)。これはその後、65 年 12 月 6 日ま
でには、修正条項が採択される条件を満たす数の州から承認された。 しかし、その時にはリンカンはもういなかった。彼の突然の死は、以後の政治過程を複
雑にした。急遽、大統領に就任したのは、南部テネシー州出身で、解放黒人問題には、最
も保守的な考えを抱いていた副大統領アンドルー・ジョンソンであった。彼は 1861 年、南
部の連邦離脱の際、自ら奴隷を有し奴隷制の賛同者であったが、ただ 1 人離脱に反対し連
邦に残った南部民主党上院議員であった。 1956
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
まさにその立場のゆえに、1864 年の大統領選挙で民主党票の取り込みという配慮で副大
統領に擁立されていた(リンカン大統領は共和党、副大統領が反対党の民主党という希有
な例だった。普段はこれでもすんでいただろうが、まさに、政治は、一寸先は闇である。
それを考慮してことを起こさなければならない。歴史はすべて、その「まさか」をついて
大事件を起こしている)。 その奴隷制に賛同する人物がいま大統領にに就任したのである。リンカン大統領が文字
通り命をかけて,成し遂げた 4 年間の成果がまさにこれから出されるというときに、何と
皮肉なことに、奴隷制の賛同者である大統領の手に委ねられてしまった。これもその後の
奴隷問題をこじらせた原因であった。 【⑤南北戦争後の黒人差別問題】 ○南北戦争後の黒人の市民権獲得 1865 年 5 月 29 日、ジョンソン大統領(在位:1865~69 年)は内戦終結を宣言した。そし
て南部に連邦復帰を呼びかける布告は、きわめて穏和なものであった。彼は、連邦に忠誠
を誓い奴隷解放を受け入れるのであれば、奴隷を除いた財産権の復活を保障すること、ま
た南部の大半の人々に恩赦を与える旨の指示を大統領権限で発した。さらに彼は、離脱南
部州が連邦に復帰する条件は、奴隷制規定を廃した州憲法であれば、基本的に戦前の州憲
法を採択することで、復帰を認めるという内容であった。そのような州憲法には解放黒人
への特別の政策も、また選挙権授与も含まれるはずはなかった。解放黒人は弱い立場のま
ま放り出されてしまった。 このジョンソン大統領は、北部出身で奴隷制反対論者の共和党急進派と黒人解放・奴隷制
廃止のやり方でことごとく意見が対立し、頑固さと傲慢さから任期中に 29 回もの拒否権を
行使したといわれている。共和党急進派は、このジョンソン大統領の南部再建政策に激し
く反発し、1865 年 12 月に開催された議会で、大統領の再建政策をことごとく批判し、あら
ためて南部再建政策のやり直しを決定した。 奴隷制廃止を謳った憲法修正第 13 条は前述のようにリンカン大統領生存中の 65 年 2 月
議会で可決され、(リンカンがいなくなった)12 月、憲法条文に加えられたが、急進派は
そこにとどまることなく、1866 年 6 月、「合衆国に生まれた人間はすべて完全なる合衆国
市民であり、市民は人種、肌の色にかかわりなく、生命、自由、財産を不当に奪われるこ
とがない。合衆国の管理権のおよぶいかなる地においても、法の前に平等の保護が保障さ
れる」と謳った憲法修正第 14 条を通過させた。これは合衆国憲法史上もっとも輝かしいこ
とで特筆されるべきことであった。ここに合衆国憲法は制定以来 80 年にして、内在してい
た奴隷制を排除したのである。 1957
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
急進派は、この新しい憲法修正を南部再建の最大の武器に使うことを目指した。66 年 3 月
議会は、ジョンソン大統領がすでに連邦復帰を認めていた南部諸州をあらためて連邦軍の
軍政下に戻し、再建のやり直しともいうべき強行策に合意した。復活した軍政という事態の
もとで、各州は解放黒人への参政権を認める新しい州憲法を成立させ、また、憲法修正第
14 条を批准した。その二点を条件にして、連邦への復帰を認めるとした厳しい再建法が、
議会を通過した。 こうして 1867 年夏以降、軍政のもとで、南部各州では州憲法の改正が行われ、21 歳以上
の黒人男子の参政権は保障された(黒人女性がはずされていたのは、当時は白人も同じ)。
彼らの支持もあって、共和党の政権が州単位で相次いで成立した。66 年 7 月、7 州は一括し
て連邦への復帰を認められた。いずれの州も共和党政権であり、州議会には多数の黒人が
席を占めていた。たとえばもっとも大きな変化を示したサウスカロライナでは、白人議員
40 人に対し、黒人議員が 87 人を数えるという有様であった(表 14-1 のように、1860 年
にはサウスカロライナでは黒人が 58.5%を占めていた)。 67 年 3 月、かの再建法を機に進められた急進的な南部再建政策は、まさに新しい南部の
到来をもたらすかにみえたのである。ところが・・・・。 ○再建の時代 1865 年 4 月以後、南部連合の州は連邦軍が占領という形で治安維持にあたり、徐々に削
減され、最後に残ったサウスカロライナとルイジアナかもら撤退したのは 1877 年 4 月であ
った。 南北戦争後からこの間は合衆国政治史において再建時代と呼ばれている。この間に南部
は経済的にどうなったかといえば、奴隷制は間違いなく廃止となったが、なお、大土地所
有制を大幅に残した農業地帯であり続けた。戦争終了後、南部綿花に対する需要は世界的
に復活し、かつてのプランテーションを 50 エーカー(約 20 ヘクタール)程度の細かい農
地に区分し、それらを家族単位の農家に小作地として貸し出すという方式に転換された。
小作農が収穫物の通常半分程度を土地所有者に地代として物納するもので、「シェアクロ
ッピング(収穫物分割)制度」と言われるようになった。 南北戦争をとおして共和党は圧倒的な支配政党となり、1861 年以降、大統領、連邦議会
を支配し続けてきた。しかし、南北戦争が終わって 5 年ほどたった 1870 年ごろには、すで
にさまざまな立場の違いが生まれていた。 連邦政府の度を越した負担が北部で次第に不人気になり、一刻も早く軍隊の縮小を求め、
税の軽減を求める声が高まっていった。勢い急進的再建派は、共和党内でしだいに孤立し
ていった。連邦軍負担を軽減すること、さらには政治・社会改革よりも南部における綿花生
1958
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
産の早期回復を求める声が、共和党内保守派を中心に連邦議会で強まっていった。共和党
再建州政府が各地で次々と潰れはじめた。 1877 年の大統領選挙は、共和党ラザフォード・ヘイズと民主党サミュエル・ティルデン
が争ったが、185 対 184 でヘイズがからくも勝利した。1877 年 3 月に大統領に就任したラ
ザフォード・ヘイズ(任期:1877~81 年)は、最後まで軍を駐留させていたサウスカロラ
イナおよびルイジアナから、連邦軍を撤収させた。 以後、南部諸州に起こるであろう問題は、連邦の基本的方向にかかわらない限り、ことさ
ら干渉しないということであった。南北戦争と再建はこうして、南部を合衆国に政治的にも
経済的にも確実に再統合したが、他方で南部を、この社会のなかできわめて特殊な一地域と
して残して終わった。連邦議会選挙から、州知事選挙、そして他のほとんどの州単位選挙に
おいても、民主党が絶対的に優位を占める南部独特の民主党一党支配の政治形態が形成さ
れた(これは現在の政治状況と正反対である。現在は東部・西部が民主党で中央部・南部
が共和党が強い。それは後述するように,都市部に労働組合ができて、再び政治の大転換
がおきたからである)。 ○黒人差別の復活 1870 年代から、解放黒人に対するいやがらせや暴力ざたは、南部白人が結成したクー・
クラックス・クランなどによって行われていたが、連邦軍がいる間は、抑えられていた。
それが軍の撤退とともに活動を開始しはじめた。 クー・クラックス・クラン(英:Ku Klux Klan)は、白人至上主義の秘密結社で KKK と略
される。名前の由来はギリシャ語の“kuklos”(円環、集まりの意)と英語の“clan”(氏
族、一族)を変形させたものと言われる。 次第に過激化し始めた彼らは白装束で街を巡回し、彼らが独断で決めた時刻以外に外出
する黒人を鞭で叩いたり、夜中に「ナイトライダー」と呼ばれる馬に乗った団員が現れ、
脅迫、暴行を加えたりするようになった。更にこれに批判的な白人までもが敵として暴力
を振るわれ、投票権を行使しようとした黒人が殺害される事件まで発生するようになった。
1871 年には遂に政府から非合法のテロリスト集団と認定され、摘発が開始された。 ○黒人差別のジム・クロウ法(南部の州法) しかし南部が復興する中で奴隷制こそは廃止されたが、変わって白人と黒人の「分離」
という形式をとった実質的な差別法制、いわゆるジム・クロウ法が南部各州の州法という
形で制定され始めじめた。このジム・クロウとは、白人が黒人に扮して歌うコメディのキ
ャラクターであり、1837 年までに、ジム・クロウは黒人隔離を指す言葉としても使われる
ようになっていた。 1959
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
具体的には、1881 年テネシー州で採択された鉄道客車の区分を命じる法から始まり、ホ
テル、レストラン、さらには学校施設といった重要な公共施設やサービスにおいて、人種
によって施設を分ける法制度が次々と州議会で制定されていった。そして、1890 年以降、
ジム・クロウ制度は、南部各州における黒人選挙権の剥奪にも及ぶようになり(人頭税の納
付や読み書きを投票条件とすることで剥奪は行われた)、さまざまな州法規定によって黒
人を、社会生活上可能なあらゆる領域で身体的に分離し差別することを目指していた。そ
の事例を示すと、 ◇アラバマ州法 病院……白人女性の看護師がいる病院には、黒人男性は患者として立ち入れない。 バス……バス停留所には白人用と有色人種用の 2 つの待合場が存在し、バス・チケット
売り場も白人専用窓口と有色人種専用窓口があった。 電車……人種ごとに車両が選別されるか、同車両内でも人種ごとに席が分けられた。 レストラン……白人と有色人種が同じ部屋で食事ができるようなレストランは違法にな
りさえもした。 ◇フロリダ州法 結婚……白人と黒人の結婚は禁止された。なお先祖 4 世代前までに黒人の血が 1 人でも
含まれれば、純粋な黒人と同様「黒人」として扱われた。 交際……結婚していない黒人と白人(結婚自体既に禁止されているが)は一緒に住んで
はならないし、ひとつ部屋で夜を過ごしてもならない。この犯罪には 12 ヶ月以上の禁固刑、
もしくは 500 ドル(当時)の罰金が科せられた。 学校……白人学校と黒人学校は厳密に分けられた。 ◇ミシシッピ州法 平等扇動罪……パンフレット・出版・公共場での演説などで社会的平等・異人種間結婚
を奨励すれば、6 ヶ月以下の懲役、もしくは 500 ドル以下の罰金を課す。 上記州以外に、ジョージア州、ルイジアナ州、ノースカロライナ州、ワイオミング州が
似たような法律を持っていた。 今から思うととても信じられないようなことばかりであり、明らかに憲法(修正第 13 条、
第 14 条)違反であると思われるが、このようなジム・クロウ制度が 1880 年代から 90 年代
に成立したとき、連邦政府はそれらにまったく介入する意図を示さなかった。 奴隷制度が健在のころからの延長でこのような制度があったというのではなくて、奴隷
制度が廃止されたあとから(憲法で禁止されてから)、わざわざこのような制度をつくっ
たということには驚かされる。のちのナチスのユダヤ法と同じように男女の結婚・性関係
1960
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
にまでおよんでいる項目もある。この場合、明らかに経済的な理由でもなく、単なる人間
がもつ怨念、差別意識としか思えない。 1877 年の後ろめたい連邦軍の撤退のいきさつがあるのか、連邦政府は(この憲法違反を)
まったく見て見ぬふりをし続けた。憲法をもっとも大事にし、もっとも司法にきびしいは
ずのアメリカ国民が、これを見過ごしするどころか加担したとはなかなか信じがたいこと
である。 1896 年には、このように人種によって施設を分ける法制度は「分離すれども平等」であ
って憲法違反ではないという南部にとっては「画期的な連邦最高裁判決」(プエッシー対
ファーガソン事件判決)があって、ジム・クロウ制度はますます、広がっていったのであ
る。 ○憲法までねじ曲げる―プエッシー対ファーガソン事件判決 南北戦争の多大な犠牲をはらって得た人類の知恵として、合衆国議会は 3 つの憲法修正
条項を追加したことは前に述べた。それは、修正第 13 条では奴隷制度を廃止した。修正第
14 条では、合衆国で生まれた(または帰化した)すべての者に公民権を与えるとし、「法
の平等保護条項」(イコール・プロテクション)を保障した。さらに修正第 15 条では、黒
人(男性のみ)に投票権を与えた。 この憲法からどうしてジム・クロウ制度が合憲であるという論理が生まれてくるのか、 プエッシー対ファーガソン事件判決をみてみよう。 1890 年、ルイジアナ州は、黒人と白人で鉄道車両を分離する法案を可決した。この州法
やほかの人種差別法に反対するニューオーリンズの数名のアフリカ系アメリカ人と白人は
小さな団体を設立し、8 分の 1 黒人のホーマー・プレッシーを説得し、彼を立てて戦うこと
を決めた。 1892 年 6 月 7 日、プレッシーは東ルイジアナ鉄道の白人専用と指定された車両に乗車し
た。プレッシーは 8 分の 1 黒人の血で、8 分の 7 は白人の血だったため、見た目は白人と変
わりがなかったが、ルイジアナ州法の下ではアフリカ系アメリカ人として分類され、「有
色」車両に座らなければならなかった。彼は車両を移動することを拒否し、捕らえられ投
獄された。 彼はルイジアナ州の法廷で、東ルイジアナ鉄道は修正第 13 条と第 14 条の下での彼の憲
法上の権利を拒否したと主張した。しかしながら、この事件を統括するマサチューセッツ
州のジョン・ハワード・ファーガソン裁判官は、州境内で運営されている限りは、ルイジ
アナ州には鉄道会社を規制する権限があると裁決した。そしてプレッシーは、人種分離法
への違反のために、300 ドルの罰金を課せられたのである。 1961
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
判決に不満を持ち、プレッシーはルイジアナ州最高裁に持ちこんだ。しかし、彼はここ
での判決も再び有罪となり、州最高裁はファーガソンの判決を支持した。1896 年、プレッ
シーはアメリカ合衆国最高裁にまで上告した。 ブリュワー判事が参加しなかった 7 対 1 の判決により、裁判所は修正第 13 条に基づくプ
レッシーの主張を拒絶し、ルイジアナ州の法令がそれに違反しているとは全く考えなかっ
た。さらに、裁判所の多数意見は、ルイジアナの法には、修正第 14 条に違反するような黒
人を劣後させる性質を含んでいるという見解を拒絶した。 最高裁は、二つの人種の分離の強化が、白人より劣っているという刻印を有色人種に押
すという仮定の上で行われているとする原告の主張は根本的に誤っている、と宣言した。
「仮にそうだとするならば、それは法令の中に理由があるのではなく、有色人種がそのよ
うに解釈しているからにすぎない」という最高裁の判断だった。つまり、黒人が「自分た
ちの施設は劣っていて差別されている」と思っているだけである(勝手にそう思うほうが
悪い)という論法である。こんなヘリクツが通るようでは憲法も法律もあったものではな
い。それが 100 年ばかり前のアメリカでは通ったのである。 各州法で定められる公共施設での人種の分離は合憲であり、問題があるとすればその施
設の品質である、という最高裁の判断だった。裁判所は、白人専用と有色専用の鉄道車両
の品質に相違を見出さなかったが、しかしこれははっきりと間違っていた。なぜなら、公
衆便所やカフェといった他のほとんどの場合では、有色専用と指定された施設が白人専用
のものより粗末であったからである。 1896 年 1 月、ホーマー・プレッシーは違反の罪を認めて罰金を支払った。プレッシー判
決は、より早くに南部で始められていた人種分離の慣習への移行を合法化した。続く 10 年
間に、人種分離の条例はさらに増殖していった。 以後、20 世紀中頃まで、南部 11 州では白人と黒人が雇用などのやむをえぬ経済的なこと
を別とすれば、あらゆる社会分野で互いに分れて生きようとする分離差別の社会形態が法
体系として拡大し、継続していった。人類の叡智を悪用すれば(狡智(こうち)という言
葉が適切か)、どんな屁理屈でもまかりとおり、ダブルスタンダードも可能となり、社会
のシステムまでねじ曲げてしまうことが可能であることを世界一の民主主義を自任する 20
世紀のアメリカがやってのけたのである。 ○ジム・クロウ制度の撤廃 ジム・クロウ制度が撤廃に向かうのは、第 2 次世界大戦後であった。 1945 年以降、公民権運動が高まるとジム・クロウ法に対して裁判闘争が行われ、1954 年
から 1955 年にかけて、連邦最高裁判所は、プレッシー対ファーガソン裁判で確立された 「分
1962
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
離すれども平等」という判例法理を覆し、公立学校における人種別学制度は違憲とする判
決を下した(ブラウン対教育委員会裁判)。 1964 年 7 月 2 日、リンドン・ジョンソン政権は(再び)画期的な(しかし、100 年前か
ら当然だった)公民権法を制定し、やっと南部各州のジム・クロウ法は即時廃止となった。 1865 年、リンカン大統領が暗殺され、副大統領のアンドルー・ジョンソンが大統領にな
って奴隷解放が混迷し始め,ねじ曲げられて、それを正そうと 100 年後、公民権法を上程
したケネディ大統領が暗殺され、副大統領のリンドン・ジョンソンが大統領になって、そ
れを引き継ぎ、やっと公民権法を通した。 単なる偶然であったが(大統領暗殺後の副大統領がどちらもジョンソンであったこと)、
100 年の歳月がかかったのである。今度はさすがに公民権に対する揺り戻しはなかったこと
は、オバマ大統領の出現が保証していることを記して、長いアメリカ奴隷問題の歴史を終え
ることにする(オバマ大統領の出現は個人の努力もあるが、長い人類の奴隷制という社会
システムを実態として葬り去った証拠であり、人類の叡智である。もう一つの人類の悪弊、
武力(戦争)で決着をつける社会システム〔戦争=奴隷にされる、どちなも武力でおどす
など奴隷制と戦争は同根である〕を誰が、いつ、葬り去るか、それが問題だ)。 【⑥南北戦争後のアメリカの発展】 19 世紀のアメリカについては、奴隷制、南北戦争とその後の黒人差別問題にいたるまで
の歴史を主に述べたが、南北戦争後、アメリカの発展は著しかった。以下のその状況を述
べる。 ○西部開拓時代 西部開拓時代は、19 世紀、とくに 1860 年代に始まり 1890 年代のフロンティアの消滅ま
でにおける、北アメリカの時代区分の一つで、オールド・ウェスト、ワイルド・ウェスト
とも呼ばれる。植民地時代から発展していた大西洋岸から太平洋岸まで漸進的に未開拓地
域(フロンティア)が開拓されていった。 1848 年にカリフォルニア州で金鉱が発見されるとゴールド・ラッシュ(図 14-16 参照)
の到来が開拓を後押しした。また、1869 年にはアメリカ合衆国で最初の大陸横断鉄道が開
通した。いっぽう先住民(インディアン)にとっては、突然やって来たよそ者の白人に自
分達の土地を蹂躙されたうえに殺戮された時代でもあった。ガンマンやカウボーイ、アウ
トローなどがこの時代の特徴として小説や映画(西部劇)などで描かれた時代でもあった。 ○大陸横断鉄道の建設 少しさかのぼって、アメリカの鉄道建設の状況を述べる。 1963
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
アメリカ合衆国最初の鉄道であるボルティモア~オハイオ鉄道の鍬入れがなされたのは
1828 年のことであり、その最初の区間であるボルティモア~エリコッツミルズ間の 21 キロ
が開通して、蒸気機関車トム・サム号(一寸法師)が走ったのは 1830 年のことであった。
アメリカの鉄道総距離数はその年の末でわずか 117 キロであったが、1840 年には全ヨーロ
ッパの鉄道總距離数のほぼ 2 倍にあたる 5300 キロを記録した。 1840 年代半ばにはニューヨークとフィラデルフィアが結ばれ、フィラデルフィアからは
ピッツバーグまで路線がのびた。他方中西部からの線路は、シカゴを新しい起点として東に
向けてクリーブランド、またピッツバーグを目指し、またシカゴの西方にも広がろうとし
ていた。 1850 年には 1 万 4289 キロ、南北戦争直前の 1860 年には、主として東部であるが図 14-
21 のように 4 万 9000 キロに達していた。 鉄道のレールは、最初は木製のレールのうえに鉄の帯を貼りつけたものが使用されてい
たが、1850 年代には鉄製のT型レールが普及するようになり、鉄製レールの普及は鉄工業
の発展にも大きな刺激を与えるようになった。 図 14-21 1860 年の鉄道網 次は大陸横断鉄道だった。しかしこのアメリカ大陸横断鉄道建設にはロッキー山脈横断
という予想もつかない工事が待ち受けており、従来の手法では達成できないことは容易に
想像できた。 今日「大陸横断鉄道の父」と呼ばれているのはセオドア・ジュダである。ジュダは 1852
年に設立されたサクラメントバレー鉄道において主任技術者を務め、鉄道建設を監督して
1964
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
いた。この過程で、ジュダはサクラメントからシエラネバダ山脈を越えて鉄道を建設でき
ると確信し、自らこの仕事を推進したいと考えるようになった。 1861 年 1 月から 7 月にかけて、ジュダら 10 人のチームはシエラネバダ山脈の横断経路を
調査し、リーランド・スタンフォード(食料雑貨商)はワシントンでリンカン大統領と面
会した。スタンフォードらは、このような大プロジェクトは民間だけでは不可能で国家と
して遂行するよう説得した(南北戦争の最中であった)。 1862 年、太平洋鉄道法案は 5 月 6 日に下院を、6 月 20 日に上院を通過し、7 月 1 日にリ
ンカン大統領が署名した。同法の制定はリンカン大統領の業績の一つでもある。彼は大陸
横断鉄道の建設には、当時南北戦争など分離主義の動きが高まる中、広大なアメリカ合衆
国の連邦としての統合を維持するためにも必要であると考えたのである。 1859 年、アメリカ合衆国では、東部の鉄道網がミズーリ川を越えてネブラスカ州オマハ
まで到達していた(図 14-16 参照)。同法によって、国策会社としてユニオンパシフィッ
ク鉄道とセントラルパシフィック鉄道が設立され、ユニオンパシフィック鉄道がオマハか
ら西向きへ、セントラルパシフィック鉄道がカリフォルニア州サクラメントから東向きへ、
鉄道を建設していくことになった。 連邦政府による支援策としては、用地の使用許可に加えて、各社に平地においては鉄道
の建設 1 マイルあたり 1 万 6,000 ドル(1 メートルあたり 9.94 ドル)、丘陵地においては
同 3 万 2,000 ドル(同 19.88 ドル)、山地においては同 4 万 8,000 ドル(同 29.83 ドル)
の補助金が給付されることが定められた。 1862 年 7 月、太平洋鉄道法を受けてにユニオンパシフィック鉄道が設立され、主要出資
者であるトーマス・クラーク・デュラントの指導のもとでオマハに最初のレールが敷かれ
た。1863 年 1 月 8 日、カリフォルニア州知事となっていたリーランド・スタンフォードの
出席のもと、サクラメントで着工記念式典が開催された。どちらの会社がより長い線路を
敷設できるか競争が始まった。 結果として、東から建設していったユニオンパシフィック鉄道は 1,749 キロメートルの
鉄道を建設した。ユニオンパシフィック鉄道の経路はグレートプレーンズの平地であった
ため建設は順調に進んだが、インディアンの居住地にさしかかると問題が発生した。イン
ディアンは「鉄の馬」の建設を白人による新たな攻撃と考えた。また、設備を壊してしま
うアメリカバイソンが駆除されたが、これはインディアンにとって重要な食料源でもあっ
た。インディアンはしばしば建設労働者を攻撃し、ユニオンパシフィック鉄道は治安維持
のために狙撃手を配置せねばならなかった。 西から建設しはじめたセントラルパシフィック鉄道は 、1,110 キロメートルの鉄道を建
設した。シエラネバダ山脈にさしかかると難航した。セントラルパシフィック鉄道は中国
1965
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
人を中心とする移民を建設労働者として大量に雇い入れ、移民たちは冬のシエラネバダ山
脈に降る雪にも耐えて工事を進めた。山脈を貫くトンネルの建設のために、セントラルパ
シフィック鉄道は当時発明されたばかりで安全性の低かったニトログリセリン爆発物を使
用した(このころノーベルが発明した)。これにより建設のスピードは上昇したが、事故に
よる労働者の死亡率も上昇した。 リンカンの死から 4 年後の 1869 年 5 月 10 日、ユタ準州(当時)のプロモントリーサミ
ットで開通記念式典が開催され、最初の大陸横断鉄道が完成した。横断鉄道完成の 3 年後、
明治新政府が送った岩倉具視使節団 100 余人は、1872 年、サンフランシスコからワシント
ンまで約 5143 キロを 1 日およそ 620 キロという速度で移動したのである。この年、新橋~
横浜間で日本最初の鉄道が営業を開始したが、そのときにアメリカは総距離数 8 万 5000 キ
ロにも及ぶ、世界最長の鉄道網を敷いていた。 なお、セントラルパシフィック鉄道の設立者であり、カリフォルニア州知事を務め、の
ちに上院議員にもなったリーランド・スタンフォード(1824~93 年)は、スタンフォード
大学の創設者でもあった。32 歳の時にカリフォルニア州サクラメントに移住し、ゴールド
ラッシュに乗って、カリフォルニアに移住した多数の鉱夫相手に雑貨商を営み、財を成し、
セントラルパシフィック鉄道を設立し、社長に就任した。 一人息子のスタンフォード・ジュニアが 16 歳のときにヨーロッパ旅行中にチフスで死去
し、それにショックを受けたスタンフォードは、一人息子の名前を永遠に残すために、ス
タンフォード大学を、競走馬を育てるために所有していたパロアルトの牧場に設立したの
である。現在では世界有数の大学になり、その周辺がハイテク産業のシリコンバレーにな
っているていることはご存じのとおりである。 大陸横断鉄道の開通によって、東海岸と西海岸との間の移動は、それまで陸上であれば
数ヶ月、パナマ経由の船(当時はまだパナマ運河も無かったため、パナマ地峡を陸路で横断
し、船を乗り換えていた)でも数週間を要していたものが、1 週間に短縮された。1876 年 6
月から運行された大陸横断超特急は、ニューヨークを出発してからサンフランシスコに到
着するまで 83 時間 39 分という記録を作った。 その後、1890 年までに図 14-16 のように、合計 5 ルートの大陸横断鉄道が作られた(図
の北太平洋鉄道の北にノースダコタ、モンタナを通るグレート・ノーザン鉄道があった)。
大陸横断鉄道はそれまでの遅く危険な駅馬車の時代を終わらせ、経済の大動脈として機能
した。横断鉄道の完成によって西部との物流・交流が活発になり、西部開拓時代が到来し
た。 ○大草原のわが家-ホームステッド法 1966
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
合衆国の西方への拡張を促進させるのに、大きく役立ったのは、鉄道の他にホームステ
ッド法があった。前述したように 1862 年 5 月、リンカン大統領のときに制定された法律で
あり、アメリカ西部の未開発の土地、1 区画 160 エーカー(約 65 ヘクタール)を無償で
払い下げるものであり、自営農地法とも呼ばれた。払い下げを受けようとする者は申請時
に 21 歳以上で、当該区画を確立し、12 フィート x 14 フィート(3.6 x 4.3 メートル)
以上の大きさを持つ住居を建てた上で最低 5 年間は農業を行ったという実績が必要であ
った。 かつては極度に乾燥し不毛の地とされた大草原地域は大陸横断鉄道とホームステッド法
の効果もあって、定住地に変っていった。南北戦争が始まった時点(1860 年)でのアメリ
カのフロンティア・ラインは、およそ西経 95 度のミズーリ川沿いにあった。以後わずか 30
年ほどの間に、ミズーリ川からロッキーに至る大草原地域が次々と定住地化されていった
(図 14-16 参照)。狭義の意味ではこの時代が西部活躍物語の時代であった。 南北戦争後最初に州に昇格したのは、1867 年のネブラスカ州であった。以後、コロラド
(76 年)、またノースダコタ、サウスダコタ、モンタナ、ワシントンの 4 州が 1889 年に昇
格した。1890 年にはワイオミング、アイダホが、1896 年ににはユタが州となったのである。 この南北戦争が終わった直後から 1870 年代後半まで、およそ 15 年程度のわずかな時期
に、広大な西部では放牧が盛んに行われるようになると、草原を奔放に移動したロングド
ライヴと呼ばれたカウボーイ(牛追い)の群れが出現した。 牧場のあるテキサスの地で育った牛を、初めは鉄道の駅があったミズーリ州のセダリア
まで、のちには鉄道線路の延長にそってカンザス州のアビリーンあるいはダッジシティへ
と、大草原を 2 ヶ月弱にわたって、牛を追いながら北に移動し、そこから鉄道でシカゴや
セントルイスに出荷していったのである(西部劇『ローハイド』は、テキサス州のサンア
ントニオからミズーリ州のセダリアまで 3000 頭の牛を運ぶロングドライヴを描くドラマで
あった)。 しかし鉄道が敷設されるにしたがって、カンザス、ネブラスカといった地は農民の定住
する地へと変わった。農民の定住とともに、牛追いは締め出され、またテキサスへの鉄道
敷設とともに、ロングドライヴそのものも不要となっていった。 定住が始まったとはいえ、カンザス、ネブラスカの西部、そして南北ダコタ、モンタナ
といった大草原地域は、極端な内陸乾燥地であることに変わりはなかった。厳しい冬の寒さ
もあり、入植した農民たちの労働は厳しかった。ただ、この時期から風車ポンプという地下
水を汲み上げる有力な技術が開発されたこと、また乾燥地に適した小麦品種の導入などに
よって、大草原は白人が定住する農地に変わっていった。しかし 19 世紀末までこの大草原
1967
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
の農民の生活は決して安定したものにはならなかった(そして 1930 年代にはいると、自然
の巻き返しともいうべき大砂塵の事態が起きた)。 テレビ劇『大草原の小さな家』(ワイルダーの半自叙伝的小説)は、インガルス一家が移
り住んだ 1870 年代から 1880 年代のウィスコンシン、カンザス、ミネソタ、サウスダコタ
などの西部開拓時代を舞台にしていた。 西部開拓は、スー、シャイアン、ボーニ、コマンチ、アパッチといった平原インディア
ンの掃討によって、推し進められたことも忘れることはできない(図 14-16 参照)。 白人の進出で、急速に生活圏を奪われたインディアンは、1860 年代にから 1870 年代にか
けて、各部族による一斉蜂起を行った。これがインディアン戦争であり、米軍との間で 20
年以上争い続けた。結局、蜂起は次々に鎮圧されていき、ほとんどはインディアン居住区
へ移されて部族のコミュニティも壊滅、人口も減少していった。1890 年、第 7 騎兵連隊に
よる襲撃で、150 人のスー族が死亡した「ウンデット・ニーの虐殺」を最後に、掃討作戦は
終り、1890 年にフロンティアの消滅が宣言された。 ○アメリカ農業の発展 1862 年に成立したホームステッド法(自営農地法)は、南北戦争時、中西部に住んだ農
民にとってもなお魅力があり、この地から、さらにネブラスカあるいはカンザスの西へと
人々は移動した。しかし、その一方、オハイオからアイオワまで、また北はミネソタまで、
恵まれた中西部地域にすでに耕地をもち、定着した農民は、南北戦争以後、彼らの農業経
営をいっそう改善する方向を目指した。その過程で、この地域の農業は、比較的早く、高い生
産性を誇る安定した地位を築き上げていった。 1880 年のアメリカの輸出産品をみると、図 14-22 のように、圧倒的に農作物中心の輸出
であり、工業製品輸出はきわめて少なかったことがわかる。そのなかでも最大の輸出額を
誇ったのが、原綿、小麦、トウモロコシ、食肉などであった。 図 14-22 アメリカ合衆国の輸出産業とその価値額(1880 年) 1968
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
うち原綿の生産地は南部であったが、小麦、トウモロコシそして食肉の主産地は、カンザ
ス東部、ネブラスカ東部を含めた中西部にほかならなかった。アメリカ中西部に開かれた
農業地域は、ヨーロッパの膨張する人口にまで食糧を供給する国際的穀倉庫として機能し
はじめ、19 世紀後半には世界経済に大きな地位を占めていたのである。 《農民団体グレンジャー》 このようにオハイオからアイオワに至る中西部農業地域は、生産規模を拡大しつつあっ
た。そうした中西部地域に、グレンジャー運動と呼ばれる農民相互扶助運動が広がりはじ
めたのは 1870 年代初めからであった。各地域に組織された支部農民団体グレンジャーは、
地域農村を単位とした共済組合運動推進体であり、共同の購入組織を作り、農機具などにつ
いて購入コストの削減をはかる一方、共同穀物倉庫あるいは家畜販売事業などの出荷事業
も手がけた。作物や家畜の品種改良を共同出資で行うなどの活動も、彼らが関心を寄せた事
業であった。 このように中西部農民は、共済活動を通して、個々に機械化を進めることで生産性を高め、
また農業運営の多角化を進めることで経営を安定化しようとした。小麦も作付けするが、
それ以上にトウモロコシを重点に輪作を行い、養豚などの畜産にも力を注ぐ農業のあり方
であった。トウモロコシは、畜産の飼料として利用され、ほかに都市消費市場を目指した大
豆や野菜の栽培も彼らの経営に組み入れられた。さらにウィスコンシンなどの北の地域で
は、酪農が取り入れられ、新しい酪農生産地帯へと変化していった。こうした農業の多角化
は、農業収入を特定一作物の販売に過度に依存しないことを可能にし、それまで不況にお
いて小麦やトウモロコシ価格の下降に悩んだ彼らの経営を安定させていった。 《州際通商法》 農産物は鉄道をフルに利用していた。南北戦争後の連邦政府の産業政策は、大陸横断鉄道
の建設に対する支援など大いに役立った。しかし、産業が育った時期においては、政府の
役割は、特定産業に対する援助ではなく、より公平な規制者、とくに対立しあう複数産業
の利害調整者の役割を果たすべきとする主張が生まれていった。グレンジャーは 1870 年代
に鉄道規制要求の運動を進めた。鉄道は旅客であるばかりか、農業経営者としてより安価
な輸送を期待する彼らの運動は、当初の州単位の規制運動から、連邦レベルの規制にまで強
い影響を与えたのである。 このようにして、1887 年、「州際通商法」の成立となった。州際規模で事業を行う鉄道
会社に対し、鉄道料金、その他のサービスの社会的妥当性を求め、料金設定などに不正、あ
るいは不当な料金差別などを行政的に監視する目的で、州際通商委員会という規制機関を
設置したのがこの法であった。 《シャーマン反トラスト法》 1969
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
中西部農民が成立に大きな影響を及ぼしたいまひとつの重要な法律は、1890 年の「シャー
マン反トラスト法」(略称シャーマン法)であった。これは 20 世紀に入ると工業分野でき
わめて重要な法律となるが、最初、問題を提起したのは、中西部農民であったのである。
彼らは起こりうる市場の制限や独占という行為に敏感であった。彼らは、競争はアメリカ
社会の原理であり、いかなる分野であれ参入や活動の自由が可能な限り開かれていること
が、あるべき「公正」であるとする声が政治を動かしたのである。 しかし、実際に成立したシャーマン法は「州際通商を独占によって抑制する行為を禁止
する」ときわめて曖昧な法であったので、実際には 20 世紀になって、工業の分野で独占的
巨大企業が出現したときに大きな問題となった。ここで興味深いことは、このような規制
に関わる連邦政府の活動は、20 世紀に入ると、鉄道以外の領域にも確実に広がっていったが、
いち早く農業を産業として確立した中西部の農業分野からの要求であったところが注目さ
れる。アメリカでもっとも早く視野の広い産業となったのがアメリカ農業だったのである。 1880 年代後半になると、全国グレンジャーという団体は衰えていった。この時期までに
この地域の自作農は安定した中産農民として資産を確立して、家族単位で経営が安定した
こと、さらには農学部を持つ州立大学などの新設によって、農業を取りまく周辺の環境が
各地域で整備されていったことによるものであった。 現在、アメリカの農業は世界トップであるが、単に土地が広くめぐまれたいたからとい
うわけでなく、絶えず産業としての経営革新、技術革新という精神をこの時代に取り入れ
たから今のアメリカ農業があるということに注目する必要がある。 ○農業の機械化(第 2 次農業革命) 西部開拓時代にアメリカがやった農業の機械化は,歴史的にみても画期的なことであっ
た。たとえ 100 ヘクタールとか 200 ヘクタールの農地をもっていても、家族労働の肉体労
働でやれるのは 1 ヘクタールから数ヘクタールが限度であろう。それが当時の日本も含め
て世界中の農業も似たり寄ったりで、規模を大きくすることは、すなわち、労働力を多く
投入することであった。 歴史的には古代の奴隷制まで持ち出さなくても、現に 1865 年の奴隷制禁止まで、アメリ
カの南部はまさに黒人奴隷によって農業プランテーションが維持されていたのであるが、
これは人類が国家をつくり、戦争をはじめ,奴隷制を開始したときから、つまり、古代の
時代から奴隷を使っての農業でも、中世の農奴による農業、あるいは荘園経営も、近世に
おける植民地経営でも、すべて人海戦術で奴隷や農奴、農民の労働の搾取(ピンハネ)で
成り立ってきていた。この当時、アメリカ以上に広大な土地をもつロシア帝国も農奴制の
農業をやっていたが、世界でもっとも惨めな状態だった。それを機械力に変えて近代的産
1970
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
業にしたのが、当時のアメリカ農業であった(奴隷制が廃止されたので機械化をはじめた
ともいえる。やはり「必要は発明の母」である)。 イギリスの産業革命がはじまる前の 18 世紀前半に農業革命があったことは述べたが、あ
れは従来の三圃農法をノーフォーク農法に変えることによって、土地の高効率利用をはか
ったものであった。これによってヨーロッパの食糧増産がはかられ、人口が増大し、のち
の産業革命に労働力を供給するようになったことは述べた。その 100 年後、19 世紀のアメ
リカの中西部ではじまった農業の機械化はいわば第 2 次農業革命で、アメリカ農民の省力
化をはかり、のちのアメリカの産業革命・工業化の人材を供給することになった(もし、
機械化がなければ、アメリカ移民のもっと多くが中西部に張り付けられて農業をやってい
たことであろう)。 農業機械のはしりとなったのは、サイラス・マッコーミック(1809~1884 年)の自動刈
り取り機であった(これは、いわば産業革命のはしりとなったジョン・ケイの飛び杼だっ
た)。マッコーミックの自動刈り取り機が発明される前には、小麦の刈り取りは大ガマに
よる手作業であった。この自動刈り取り機は、まだ馬で引かせるものだったが、5 人分の仕
事が 1 人ででき、疲労度も軽かったので南北戦争の人手不足のとき、北部において大いに
威力を発揮した。 続いて、刈り取り機に付属する自動結束機、双頭式刈り取り結束機、脱穀機、刈り取り
と脱穀の両機能を備えたコンバイン、トウモロコシの播種機、刈り取り機、皮むき機、穂
軸から穀粒をこぎ落とす機械、乳脂分離機、ジャガイモ植え付け機、干草乾燥機といった
農業機械が、矢継ぎ早に発明された。ひとつができれば、それではこれはどうだ、あれは
どうだというのが、創造と模倣・伝播の原理である。 《農業の機械化を可能にしたのは石油産業だった》 次に、これらの機械を動かす石油だが、石油時代の端緒を開いたのもアメリカであった。
1859 年 8 月、鉄道員だったエドウィン・ドレイクが、ペンシルベニア州タイタスビル南方
のオイル・クリーク川岸で、世界で初めて機械掘りで(蒸気ドリスを使って)縦坑掘りを
行い石油を採掘し、これが近代石油産業の始まりとなった。 当時、石油は照明用に使う程度しか用途はないと考えられていたが、これを精製するこ
とによって暖房用、蒸気船用、潤滑油、動力用(やがて自動車用)の油としても役立つと
考え、これを石油産業に仕上げたのがロックフェラー(1835~1937 年)であった。彼は 1882
年にスタンダード・オイル・カンパニーを創立し、主な精製所と鉄道を独占した(このた
め前述したシャーマン法により分割されることになるのだが)。ここに、アメリカ石油産
業が成立して、スタンダード・オイル・カンパニーが、最大の石油メジャーに発展してい
ったが、その様子は石油産業のところに述べている。 1971
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
大量の安い石油が得られるとなると、それを利用した発明があり、自動車産業も航空機
産業も生み出されることにことになったが、その前に、まず、アメリカの農業機械も、こ
の石油を動力源に使うことによって、大発展をとげたのである。 実はアメリカの博物館(たとえばデトロイトのフォード博物館)にいくと、蒸気機関で
動く小山のような農業用トラックターなどがたくさん展示されている。彼らは石油の前に、
石炭で動く機関車のような農業機械を開発して使っていたようである。安価な石油が出は
じめると内燃機関の農業機械に転換するのに時間はかからなかった。 《人間を重労働から解放したアメリカ産業》 農業機械は、人間を農作業という重労働から解放した(農作業だけでなく、のちには鉱
工業分野のほとんどすべての重労働の分野で同じ)。ここに「RMR」(relative metabolic rate )という労働の強さを表す単位がある。RMRとは、エネルギー代謝率のことで、活
動に要したエネルギーが基礎代謝の何倍に当るかを示す数値である。1.0 以下は軽労働、1.0
~2.0 が中労働、2.0~4.0 が強労働、4.0~7.0 が重労働、7.0 以上が激労働といわれてい
る。普通の速度で歩いている場合はRMR2.1、工場での旋盤作業は 1.7~2.0 である。 さて、農作業はどうかといえば、深さ 8 センチメートルの耕起作業はRMR6.2、15 セン
チメートルの耕起作業の場合は 10.3 となる(耕うん機がなかった 1960 年代までの日本の
農業ではこれが普通の作業だった)。まさに農作業は、重労働、激労働であることがこの数
値で表される。これに対し乗用トラクターによる耕起作業(つまり、トラクターの操縦作
業)は 2.0、砕土作業は 2.1、中耕作業は 1.7 で、工場における機械作業と同じ程度の労働
となる。この農業の機械化によって、農民の労働強度は機械工と同じといったことも、う
なずけるであろう。 ここでは農業機械のことだけを述べているが、同じように鉱山での作業、建設現場での
作業など農業機械化と同じように機械化され、アメリカでは古来の重労働から人間が解放
されるようになった。もちろん、創造と模倣・伝播の原理によって(産業革命とは逆行し
て)ヨーロッパへ広がっていったのはもちろんである(ソ連、日本へはさらにその後に伝
播したが)。 アメリカの農業機械は最初は小さなもので、
(馬で動かした)マッコーミックの自動刈り
取り機のようにせいぜい 5 人分の労働を代替する農業機械であった。それが現在では 200
~300 馬力のものが多く使用されていて、なかには 500 馬力近くのものもある。この馬力と
いう単位も機械とともに生まれた言葉で、仕事の量を表す。産業革命のところで述べたジ
ェームズ・ワットが初めて仕事の量を測定し、それを馬力と定義したのである。彼は、実
際に水くみ機の腕木にウマを結び、軸の周りをぐるぐる回らせ、ウマ 1 頭がする仕事の率
(毎分 3 万 3000 フィート・ポンド)を 1 馬力と名づけた。この単位で測れば、人間は 0.1
1972
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
馬力程度であるといわれている。つまり、昔の農業は(現在も農業機械化が進んでいない
途上国の農業は)人間そのものが働くことが基本であり、畜力を入れたとしても、せいぜ
い人力の 10 倍の広さの土地を耕作するにすぎなかったといえる。しかし、前述のように 500
馬力の農業機械が動くようになるとウマ 500 頭分、人間なら 5000 人分の仕事を 1 台でやっ
ていることになり、さながら工場が畑の中で動いているようである。このようにしてアメ
リカの農業は一家で数百ヘクタールも耕作するのが可能となったのである。 《農業を総合産業化したアメリカ》 しかし、農業には機械と石油だけでなく、肥料も農薬も必要である。19 世紀の科学で述
べたように 1830 年代にはドイツのリービッヒが肥料の 3 要素を発見し、化学肥料を発明し、
農業化学の分野を切り開いてから、化学肥料や薬剤が次々と発明され、石油を原材料とし
て大量生産され農業分野に供給されるようになった。 大量に生産された穀物は加工されなければならない。ここでも、各種の製粉機械や飼料
加工機械が開発され、食料加工工場が出現した。これらの大量の穀物や食料品は運搬され
なければならない。食糧産業は、石油産業と同じように輸送がポイントである。アメリカ
中西部の農民が鉄道にこだわったことも述べた。現代ではカーギル、コンチネンタルなど
の巨大穀物会社(穀物メジャー)が出現し、製粉業、倉庫業とともに鉄道などの輸送手段
も手にするようになっている。 最初の穀物ルートはシカゴから 5 大湖、ハドソン川を通ってニューヨークへ至るルート
であったが、現在ではアメリカの食糧産業の需要先は全世界に及んで、シカゴ、ミルウォ
ーキー、ボストン、ボルチモア、フィラデルフィア、ニューオーリンズ、ガルベストン、
ポートランド、シアトルなど、つまり、アメリカを取り巻く港が穀物輸出の大基地となっ
て世界の港と結ばれている。 このようにアメリカは農業を古来の生業という範疇ではなく総合産業としてとらえるよ
うになったので、生産性が飛躍的に高まり、イギリス産業革命がインドその他の綿織物産
業をつぶしてしまったようなことが、世界の農業で起きるようになった。 ○鉄道と通信による合衆国社会の完成~巡回販売と全国的流通システムの出現 1869 年に最初の大陸横断鉄道が開通し、1893 年までに 5 本の大陸横断鉄道が平行的に相
次いで建設されたことは述べた。このような横断鉄道の幹線には多くの支線も敷設され、東
部から中西部まで、鉄道網の拡充が進んだ。鉄道の拡大は、路線に沿って敷設された電信と
いう通信網の拡張をも意味した。 さらに 1876 年に電話が発明されて以後は、電話回線も拡大した。1880 年代後半までには、
10 日程度をかければ、アメリカのどこにでも行くことができるほどに、鉄道と、さらに電
信(いずれは電話)によって緊密に結びついた統合的、有機的社会へと変貌したのである。
1973
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
つまり、鉄道と通信による近代合衆国社会の第 1 次の基礎的インフラストラクチャーの完
成であった(その後、高速道路と自動車による第 2 次インフラの時代がくる)。 この第 1 次インフラ完成以前のアメリカは、西部、中西部にできた農村共同体が往来の
厳しい小島のように西に散らばった大草原のアイランド・コミュニティ(島共同体)であ
った。19 世紀のアメリカの大陸的膨張とは、そのような島のように浮かぶ農村が無数に点
在した社会だった。南北戦争とその再建期までのアメリカ社会はそのようなものであった。 ところが、前述の鉄道・通信の第 1 次インフラで無数の小島が相互に結ばれ、アイランド・
コミュニティは 1880 年代末には過去のものとなってしまった。東部から中西部が結ばれた
ばかりではない。ミズーリ川を越えた大草原の田舎の村に、セールスマンという新しいタイ
プの人が頻繁に訪れははじめた。 東部ではニューヨーク、中西部ではシンシナティ、シカゴ、セントルイスといった大都
市から来る卸売り業者の巡回販売員は、南北戦争以後、40 年ほどの間、アメリカ社会の農
村地域にはなくてはならない役割を果たした人々であった。彼らは鉄道を使い、必要であれ
ば鉄道沿線駅から馬車を利用して担当の町や農村を回り、それぞれの小売店にカタログを
配り、注文を集めて本社に連絡を送った。こうしてアメリカの広大な大陸は一体のシステム
と社会となった(いくら国土が広くても有効に活用されなければ無と同じであるのは、今
も昔も同じである)。 ○フロンティアの消滅 西部開拓の最前線フロンティア・ラインは、図 14-16 のように、インディアンに対する
征服が進むとともに、1830 年頃がデトロイト、セントルイスの線、1860 年頃がミズーリ、
カンザスの境界の線と、西部に漸次移動していき、1890 年の国勢調査局長が、フロンティ
ア・ラインと呼べるものがなくなったことを国勢調査報告書に記載した。これがいわゆる
「フロンティアの消滅」宣言であった。 このフロンティアの消滅を受けて、1893 年、歴史家フレデリック・ターナー(1861~1932
年)は、論文「アメリカ史におけるフロンティアの意義」を発表し、フロンティアと合衆
国の民主主義・国民性を関連づけて述べた(いわゆるフロンティア学説)。 この論文でターナーは、アメリカ社会がヨーロッパ社会と異なるものとなったもっとも
大きな要因は、フロンティアの存在にあり、フロンティアこそ、アメリカ民主主義を育んだ
基盤にほかならないと論じた。ターナーは、そうした処女地の開拓こそが、アメリカ人を
独立的な自由な人間とした決定的要因であったと説明したのである。 今日のアメリカ民主主義についてまで、ターナーのフロンティア・スピリットが通用する
かどうかは別として、少なくとも 19 世紀のアメリカの人々の心のあり方にとって、フロン
1974
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ティアとは特別な意味をもったであろうということは、ターナーの議論を通して知ること
ができる。 しかし、ターナーの議論で欠けていることは、そのフロンティアは無人の大地ではなか
ったことに目をむけていないことである。そこには先住民(インディアン)がいて、その
生活を奪って、植民地的に最後には不毛の大地に閉じ込めて自分たちの生活圏を築いたの
であり、19 世紀の世界を覆った植民地主義に通ずるものであったことには言及していない。 その 19 世紀のアメリカ社会の西部は、法的な支配が確立していない社会でもあり、無法
者やインディアンから自分で我が身を護らなければならないという現実があった。銃は危
険な獣や暴漢、更には紛争調停手段として用いられたが、それは当時は必要なことであっ
ただろうし、アメリカ憲法制定時には、修正第 2 条(人民の武装権)で「規律ある民兵は、
自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有し、また携帯する権利は、
これを侵してはならない」と規定する必要があったであろう。そして、これもフロンティ
ア・スピリット(開拓者精神ともいわれる)の大きな部分を構成していたのであろう。 しかし、21 世紀の今日におけるアメリカの銃禍は大量に出まわった拳銃やライフルが、
今日に至るまで野放しになっている部分に負う所が大きいことは明らかで、それが今日ま
で「国民の銃を持つ権利」がフロンティア・スピリットのごとく語られているのは、歴史
をはき違えた議論であろう。ターナーも法が支配する今日のアメリカにおいては(アメリ
カでは今日でも法が支配していないというのであればやむをえないが)、銃をもつ必要はな
いことに同意するであろう(新渡戸稲造は日本人のサムライ精神を強調したが、刀を持っ
てもよいとは言わなかった)。 余談はおくとして、このターナーのフロンティア論が発表された 1893 年には、急速に発
展した中西部の都市シカゴ(イリノイ州)で、コロンブスのアメリカ大陸発見 400 周年を
記念してシカゴ万国博覧会が開催された。この 19 世紀最大の万博は、アメリカの工業化を
誇示し、19 ヶ国、2750 万人が来場した。イギリス産業革命を誇示した 1851 年のロンドン
における第 1 回万博から約 40 年後のことだった。アメリカが農業国家から工業国家へ前進
した出来事であった。 【⑦アメリカの工業化】 ○模倣からはじまったアメリカ産業 今日の世界でもっとも創造的な国家はアメリカであることは誰も異論はないであろうが、
19 世紀のアメリカはそうではなかった。創造と模倣・伝播の原理の通り、アメリカの産業
技術はもっぱらヨーロッパの模倣からはじまった。 当時は国際的な特許制度による技術公開がなかった時代であった(工業所有権の保護に
1975
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
関するパリ条約(パリ条約)が締結されたの 1883 年だった)。18 世紀後半、イギリスは、
産業革命によって築いた技術的な優位を保つため(産業技術が国力の源泉になることがわ
かり)、設計図の持ち出しや生産機械の輪出や、技術者の移民を禁止し、国内の技術情報が
海外に出ていかないように厳しく統制した。 いっぽう、イギリスから独立したばかりのアメリカは、産業を発展させるために、最新
の技術情報を手に入れる必要に迫(せま)られていた。18 世紀後半のアメリカ北東部の農
村工業の間には、当時イギリスでおこっていた産業革命期の繊維産業の様子を聞いて、た
とえ小規模でもいいから機械を導入して毛糸や毛織物の生産量を増やそうとする気運が高
かった。当時、アメリカ北部は労働力不足で(南部は奴隷労働が行なわれていた)、機械導
入の必要性が高まっていた。 ここでも創造と模倣・伝播の原理がはたらいて、イギリスの厳しい情報管理制度をくぐ
りぬけて、イギリスの繊維産業技術の情報を持ち出したのがサミュエル・スレーター(1768
年~1835 年)であった。情報を持ち出すと行っても書類や設計図はすべて出国時に没収さ
れるので、彼は、国外持ち出し禁止の設計図の詳細を頭の中にたたき込んで、決死の覚悟
でアメリカに渡り、技術を流出させたのである。彼はイギリスからすれば重犯罪人(現在
の言葉で言えば産業スパイ)であったが、アメリカではのちに「アメリカ産業革命の父」
と呼ばれるようになった。 サミュエル・スレーターは、第 1 次技術移民団の中にいた。スレーターが移民したのは、
1789 年の初秋であった。彼はアメリカのロールアイランドのポータケットに移り住み、1790
年にアークライト水車式紡績機を再製し、アメリカで最初の紡績工場を創業した。1793 年、
ポータケット中心街の側にあるブラックストーン川のポータケット滝にスレーターが建設
したスレーター工場は、アメリカ合衆国でも初めて水力を使って完全に機械化した綿糸紡
績工場となり経営的に成功したものとなった。 しかし、紡績工程だけではだめである。織布工程の機械化も必要で、一貫したシステム
になってはじめて効果が高まるものである。続いてニューイングランドではフランシス・
ロウエルによる紡績・織布一貫工場が建設され、1820 年代にはニューイングランド、マサ
チューセッツ、ペンシルベニア 3 州を中心に農村工業が一斉に機械制生産を開始した。 そのフランシス・ロウエルもスレーターと同じようにイギリスの産業技術を模倣するこ
とで(人聞きが悪いが盗み出して)、達成することが出来た。彼はハーバード大学出のイン
テリで、友人の紹介でイギリス産業革命の中心地であったグラスゴーとマンチェスターを
訪れ、さまざまな繊維機械を見る機会を得、加えて、ラドクリフ・ジョンソン型ドレス縫
製機の図面まで手に入れた(この旅行目的が産業スパイだったのではないかとイギリスで
とりざたされたが、真偽は定かでない)。 1976
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
これらの図面と製造知識を持って 1812 年、ロウエルはボストンへ帰国し、別途、イギリ
ス型力織機の技術も習得しており、直ちにボストンの西方のウォルサムに綿布製造工場を
建設した。この会社はボストン製造会社と名づけられ、有能な現地技師ポール・ムーディ
の援助を得て、ウォルサム・ドレス機械、スレーター式紡績機の改良モデルなどを次々に
発表した。その後、彼の後継者たちはこの会社を発展させ、ボストンの郊外イースト・チ
ェムズフォームズに一大工業団地を建設した。この地は後に創業者の名前に変えられ、現
在ロウエル市と呼ばれている。 ボストン製造会社はやがてアメリカ一の綿布織物会社として急成長したが、
ロ ウ エ ル 自 身 は 42 歳 で 病 没 し て し ま っ た 。 そ の 後 、 彼 の 後 継 者 た ち は こ の 会 社
を発展させ、ボストンの北方の郊外イースト・チェルムズフォームズに一大工
業団地を建設した。この地は後に創業者の名前に変えられ、現在ロウエル市と
呼 ば れ て い る 。 ○アメリカでも産業革命がはじまった こ の 時 期 は ナ ポ レ オ ン 戦 争 の 時 期 で 、イ ギ リ ス か ら の 経 済 制 裁 を も ろ に 受 け 、
これがその後の米英戦争の遠因となったことは述べた。イギリスの経済封鎖の
ために綿布が入らなくなり、アメリカはイギリス製力織機と同じものを急いで
開 発 し 、 辛 う じ て 輸 入 代 替 製 品 が で き る よ う に な っ た 。 続いて米英戦争が起こり、アメリカは関税収入で戦争経費を補う必要に迫ら
れ 、 輸 入 綿 布 に 25% の 高 関 税 を か け た の で あ る 。 こ う し て 、 米 英 戦 争 中 に ヨ ー
ロッパ先進国から完璧に保護されたアメリカ繊維産業は、独自の発展をするよ
うになった。ロウエルは、イギリスのようなさまざまな多様性のある製品を作
れる繊維機械は避け、まず均一で標準化された廉価な製品が作れる大量生産型
の力織機製造に力を注いだ。いうなれば、繊維技術においてもアメリカは後述
するアメリカン・システム(アメリカ型の大量生産システム)を採用したので
あ る 。 ロウエルの話からスレーターのロールアイランド・ポータケットに返るが、ポータケッ
トでも他にも製造業者が続き、繊維産業、鉄工などの工業の中心地に変わっていった。こ
れによって 19 世紀のロードアイランドは多数の繊維工場を擁し、アメリカでも有数の工業
化された州となった。産業革命は多数の労働者を都市部に呼び込んだ。つまり恒久的に土
地を所有しておらず、選挙権のない階層が増えた。1829 年までにロードアイランドの自由
白人男性の 60%は選挙権を持たなかった。 イ ギ リ ス の 産 業 革 命 に よ っ て 綿 糸 、綿 織 物 の 生 産 性 が 飛 躍 的 に 上 昇 し 、そ れ に
よって、アメリカ南部のプランテーションの奴隷制綿花栽培はさらに一層強く
1977
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
拍車がかけられていたが、アメリカ国内でウールと綿花が自給生産され、その
う え 機 械 制 工 場 生 産 の 導 入 に よ っ て 北 東 部 の 農 村 工 業 は 1830 年 代 毛 織 物 あ る い
は綿織物工業として他産業とともにアメリカ独自の産業革命による近代化の道
を 走 り だ す こ と に な っ た 。 農 村 工 業 の 人 々 は ボ ス ト ン 、 ニ ュ ー ヨ ー ク 、 フ ィ ラ デ ル フ ィ ア の よ う な 都 市
に住む織物仕上げ業者や衣料縫製仕立て業者と連携して衣料の工業生産にまで
製造領域を広げていった。したがってこれらの 3 都市を中核にしてニューイン
グランド、マサチューセッツ、ペンシルベニア 3 州はアメリカ合衆国の 3 大繊
維 衣 料 産 地 を 形 成 し て 産 業 資 本 活 動 の 発 進 地 と な っ た 。 現 在 、世 界 の 最 先 端 工 業 を 生 み 出 し 続 け て き た ア メ リ カ と 思 わ れ て い る が( 現
に そ う だ っ た 。後 述 す る よ う に 20 世 紀 の 新 規 産 業 は す べ て ア メ リ カ で 生 み 出 さ
れてといっても過言ではない)、そのアメリカも創造と模倣・伝播の原理の例
外ではなく、まず、はじめはイギリスなどのヨーロッパからの技術移転(模倣)
に よ っ て 、 そ の 発 展 の き っ か け を つ か ん だ の で あ る 。 ○産業は移転していく ひ と つ の 産 業 の 寿 命 は せ い ぜ い 30 年 で あ る 。 い ろ い ろ な 理 由 が あ る が 、 主 と
して人件費が高くなってその製品では(他の地域が同じようなものをさらに安
く 出 す の で ) 引 き 合 わ な く な る の で あ る 。 た と え ば 、 ニューイングランドの繊維産
業も 1920 年代末の世界恐慌のときに衰退し、多くの製造業者はその設備を閉鎖するか、よ
り安い労働賃金のアメリカ南部諸州に移転していった(このように国土が大きいと、一国
の中で産業は賃金の低い地域に流れていく。現在の中国のように)。これによってアメリカ
南部諸州の工業化が進んだ(南北戦争後の南部諸州は奴隷制が廃止され新しい産業を必要
としていた)。 このように工業は創造と模倣・伝播の原理のよって労働賃金の安い地域に移っていくの
である。しかし、ロールアイランドが衰退してしまうことはなかった。いったん工業の能
力をつけるとつぎは、これまた創造と模倣・伝播の原理で、より付加価値の高い工業を創
造するか、(他から)模倣・伝播によって新分野をひらいていくのである。具体的にロール
アイランドでは地域内の多くの古い工業町とは異なり、ポータケットはその工業基盤の多
くを保持している。今日ポータケットで生産される製品は、レース、不織布と弾性職布、
宝石、銀器、金属と繊維製品が挙げられる。玩具やゲームでは世界最大級のメーカーであ
るハズブロがポータケットに本社を置いている。 ○移民の増加 1978
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
図 14-23 に工業化を支えたアメリカの労働者数を、図 14-24 にアメリカへの移民数を
示す。労働者数の増加は、その時期の人口増加、それも移民の増加と一部対応していること
がわかる。フロンティアが消滅した 1890 年以降も移民は増加し続けているが、これはもっ
ぱらアメリカの工業化を推し進めた工場労働者になっていったのである。20 世紀にはいる
と東欧、ロシア、イタリア系の移民が増えた。 図 14-23 アメリカの工業化の概要(1849~99 年) 図 14-24 アメリカの移民の流入(1821~1920 年) 19 世紀後半に胎動したアメリカの産業社会がホワイトカラーという新中産階級という独
特の社会階層を作り出しはじめたのは、一つにはこの時期に台頭した産業が専門化した人
材を必要としたからであった。高度の機械を操作する生産部門のエンジニアだけが専門職
業人ではなかった。企業組織の拡大は、企業の法的業務(シャーマン法など)を担当する
人員、また財務担当者、販売・マーケティング戦略を考える人など、法や財務や統計の知識
をもつ専門的人員を必要とした。知識の専門化という点では医師、教師、あるいはジャー
ナリストも加えてよかった。 1979
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
この 19 世紀末のホワイトカラーがすべて高度の専門家とは言いがたしいし、彼らがはじ
めから経済的に安定した人々とも言いがたかった。しかし、そうであれば、彼らがより自
身や家族の教育にきわだって熱心であったことも、うなずけることである。彼らは来るべ
き時代は教育を必須とすることを身にしみて経験し始めた最初の世代であった。 新中産階級の台頭を背景に、1870 年代から 1900 年代の間に、北部から中西部における中
等・高等教育も大きく変化したのである。このアメリカにおける初等教育制度の改革、高
等教育の普及の状況については、省略するが、高等教育の普及に画期的な役割を果たした
のは、リンカン大統領のところで述べた 1862 年に制定されたいわゆるモリル法であろう。 これにより、連邦政府が州に土地を与え、農業と機械技術の教育を主眼とする州立大学
が多数設立されたことが、アメリカの科学技術の底上げに大いに貢献した(州はその土地
を売って大学の設立や運営の費用にあてることもできた)。イリノイ大学、パデュー大学
など、とくに中西部や西部で、有力な大学が生まれることになった。やがて教育内容も、
当初の農業や機械技術を越えて広がっていった。 19 世紀後半になると、古い伝統をもつ大学は、ようやく高度な専門教育を推進するよう
になった。イエール大学やハーバード大学では、1870 年頃に大学院が組織された。つまり、
アメリカは学問を高める技術を考え生み出す仕組みそのものを作り出すようになっていっ
た。そして 1876 年には、ジョーンズ・ホプキンズ大学がはじめての大学院大学として発足
した。新渡戸稲造は、この大学の歴史・政治学科で 1884 年から 3 年間学んでいる。 19 世紀後半から世紀転換期に向かってアメリカは人材供給という面においても世界のト
ップクラスに仲間入りをしていたのである。 ○公務員制度の改革 政治と官僚制の関係もどの国でも、いつの時代でも問題になることは今も変わらない。
建国 250 年のアメリカも同じである。 アメリカの公務員制度はジャクソン流民主主義を推進したといわれている第 7 代アンド
リュー・ジャクソン大統領(1829~37 年)によって導入されたスポイル制(猟官制)に特徴
がある。ジャクソン大統領は、官職を任期制にして、官吏の多くを入れ替えて自らの支持
者を官吏とする猟官制(スポイルズ・システム)を導入したのである。当時においてはこ
の政策が汚職構造の打破と考えられ、慣例化したのである。これは古くから官僚制に科挙
という難しい試験を課していた中国およびその影響を受けた日本などでは、なかなか理解
できないことであるので、説明する。 ヨーロッパの絶対王政下においては、国家の最高責任者である国王は膨大な官僚制度を
もつようになったが、その側近を重要な公職に任じて行政を担当させることによって自己
の思い通りの政治を行って国民に圧政を敷くことが当然視されていた。 1980
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
そこで市民革命を経て政党政治を獲得した政党の指導者たちは、官僚が国民の直接的な
監督下に置かれていないことを危険視し、国民の意思を反映した選挙で勝利して政権を獲
得した政党(与党)が認めた官僚以外は排除して、自党支持者に広く公職を開放すること
によって、選挙によって示された国民の意思に沿った行政が実行されると考えたのである。 また、政権政党側にしてもこうした仕組の方が政権発足後の政権運営においても、また
次期選挙に向けての支持者対策としても有利であったことは言うまでもない。また、当時
の行政は複雑な専門的知識を必要とする分野は限られており、職務に対する専門性よりも
特定人物の公職在任が長期化することによって行政が硬直化することの方が問題視されて
いたという事情もあった。 アメリカ独立当初から、第 3 代大統領ジェファーソンが唱えた「政府は小さければよい」
という主義を背景として、開拓者が築いた西部諸州では農民を中心とした比較的単純な州
政府ができあがり、そこでは専門の知識を問われず誰でも郡治安官・郡書記・道路監視人・
州会計検査官・知事などの職に就くことができた。公職に伴う収入は大きかったので、西
部定住者は短期在任制と公職交代制という方式を熱心に唱えるようになった。 そこで 1828 年に「人民の権利」の擁護者としてアンドリュー・ジャクソンが大統領に就
任した際、西部に根強くあった「東部の金融や合衆国政府の重要な公職は、一部の貴族に
独占されている」という疑いに応える形で、政府の人員を入れ替え、そのあとに自分の支
持者や友人を据えるということをやった。このやり方を初めとして、政治と行政を官僚や
専門家から一般大衆の手に取り戻すべきであるという信念がジャクソンの時代に定着した
のである。 ジャクソンにすれば、一部の特権階級に独占させることは、絶対王政の官僚制と同じで、
これをみんなに開放するのがより民主的で自分の後援者をそれにすえたとしても何ら問題
はないと公言していたのである。アメリカ上院議員のウィリアム・マーシーがそのやり方、
つまり、公職をあたかも狩猟の獲物(スポイルズ)のようにしてやっていると皮肉ったこ
とから、猟官制(spoils system)と言われるようになった。 のちのリンカン大統領の時代に「猟官制」は政権党の交代と結びつくようになった。大
統領選挙戦が激化して大がかりになり、政党がマシーンと呼ばれるような厳格な組織とな
るにしたがって、党員の忠誠に報いるために公職を提供するというシステムが不可欠にな
ったためと考えられる。リンカンはこの制度を利用して 1639 の公職中 1457 の交代を行っ
たと言われている。 アメリカの猟官制(スポイルズ・システム)の説明は以上であるが、政党のマシーンが
台頭した背景には、政党が選挙に勝った際には、行政機構をことごとく党員で入れ替えると
いうジャクソン期以来続いてきたスポイル制(猟官制)が強力な基盤となっていた。しか
1981
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
し、その制度は、行政の量と質が連邦レベル、また州、市政レベルまで拡大するにしたがっ
て、非能率や制度的混乱が指摘された。 イギリスではすでに 1870 年、専門試験をとおして採用する公務員制度が採用された(ヨ
ーロッパではイギリスがこれでも、もっとも早かった)。 その後、この制度にも多くも問題があって、資格または試験による成績に基づいた公職
任命を行おうとするメリット・システム(資格任用制)の導入を求める動きが高まった。 1881 年にはアメリカでも公務員制度改革連盟が結成されて運動が行われた結果、1883 年に
連邦議会で成立したペンドルトン法は、連邦職員のおよそ 11%におよぶ 1 万 3000 人の任用
について、今後、連邦官吏任命院を設け、ワシントンを中心として行われる年 2 回の試験に
よって公務員を採用するという公務員制度を定めたものであった(ただ「公職交代制」は、
とくに州政府で民主的な慣行として行われ続けている)。 政治党派の情実によるのではなく、定められた能力によって採用するという点で、その制
度はメリット制ともとも呼ばれた。この時点では、メリット制の対象は少なかったが、以
後の歴代大統領は、それぞれの政党的立場をもちながらも、連邦官吏任命院採用の公務員
を拡大する方向を目指した。連邦官僚機構はこの時点から緩やかであっても、組織的な専
門的職員の機構へと変貌しはじめたのである。いずれにしても、民主国家の官僚制はどの
ようなものがよいか、まだ、模索の段階にあるといえるようである。 ○創意と工夫の国アメリカ アメリカはヨーロッパの模倣から産業を興したといったが、アメリカはいつまでも産業
の模倣・伝播に頼っていたわけではない。経験から学び、「創意と工夫」する人材を育て、
やがて新しい産業を生み出していくことになった。 アメリカ憲法を起草したジェファーソンは、特許権(および著作権)のことを憲法条文
に「連邦議会は次の権限を有する。著作者および発明者に、一定期間それぞれの著作および
発明に対し排他的権利を保障することにより、学術および技芸の進歩を促進すること」(ア
メリカ憲法第 1 章第 8 条第 8 項)と書き込んでいる。どこの国でも(日本も)、特許法の
第 1 条でその目的を述べているが、憲法本文に書き込まれいるのはアメリカ憲法だけであ
る。ジェファーソンは、彼自身もいくつかの特許をとっていたこともあり、「創意と工夫」
が人類社会の発展にいかに重要なことであるかが、わかっていたのであろう。 とにかく、アメリカ人は建国当初から自分で創意・工夫をして何とか生活を便利にしたい
という気風に満ちていた(お互い創意と工夫する人間に敬意を表する風潮があった)。 アメリカ発足の頃、10 家族のうち 9 家族までが農業に従事していた。「なにがない」「あ
れがない」とぼやいていてもはじまらない。とにかく自分でやる。この国ではそれぞれの
家族が、妻や子供も協力して、畑を耕すだけでなく、衣服や履物や道具など、生活に必要
1982
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
な物はほとんどみな自分で作っていた。改善への努力は、生活に密着した発見や発明を生
み、やがて「アメリカ的」とされる文明の素地を作ることになった。 オリバー・エヴァンズ(1755~1819 年)は 1785 年、製粉水車に関するさまざまな発明の
特許をとった。それはベルト・コンベアまで含んでいて、後の大量生産の土台となるもの
だった。1804 年には、彼は蒸気機関による浚渫機(しゅんせつき)も作った。 産業革命のところで綿繰り機を発明したと記したイーライ・ホイットニー(1765~1825
年)は生涯で 3 つの大きな発明をした。マサチューセッツ州生まれ、1792 年にイエール大
学を卒業し、サウスカロライナ州の教師に赴く途中に滞在したジョージア州で木綿栽培を
見たことがきっかけで、綿花の種とり作業の工夫に熱中しはじめた。そして、針を打ちつ
けた 2 つのローラーの間に綿花をはさみ、それにより種をとりのぞく、という着想を得て、
1793 年に綿繰り機を発明した。これにより、作業能率が従来の 50 倍も向上することになっ
た。この発明は綿花産業に革命をもたらし、アメリカ南部の綿花産業が有利になるきっか
けをつくったといわれている。 しかし、発明した機械の模倣品が出回るようになり、彼自身は経済的に得られたものは
少なかった。だが、発明家としての声望は高まり、1795 年に、銃の国産化を目指すアメリ
カ軍から 1 万 5000 丁あまりのマスケット銃製造の依頼を受けた。そこで、ホイットニーは、
部品ごとに専門化された単能工作機械を作るとともに、フランスのルブランが考案した限
界ゲージを実用化し、公差が均一な製品を作れるように、加工の標準化をはかった。これ
により、互換性部品の大量生産を可能にした。 当時の生産体系は、加工技術者の腕に頼る、一品一様の現合作業によるもので、部品の
互換性は殆どない状態であり、この部品の互換性という発想は画期的なことであった。後
にホイットニーは軍関係者の前で、完成した複数の銃をばらし、その中から任意に取り出
した部品により、再び銃をくみ上げるデモンストレーションを行い、みなを驚かせた。1818
年には銃器生産の過程で横フライス盤も発明した。 1807 年に蒸気船を発明したロバート・フルトンのことは、すでにイギリスの産業革命のと
ころで述べた。 1830 年、発明家ピーター・クーパーの手になる蒸気機関車「一寸法師(トム・サム)」
号のことも述べた。 アメリカにも産業革命ともいうべき、工業化の波が押し寄せてきた。ニューイングラン
ドの繊維産業はイギリス繊維産業の模倣からはじまったことはすでに述べた。後述するよ
うにペンシルベニアの製鉄も急成長した。このへんは、すべて最初はヨーロッパの模倣だ
った。靴、農具、家具など、いろいろな分野で小工場が姿を現してきた。大量の移民が、
そのための労働力になった。 1983
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
1834 年、サイラス・マコーミックによる刈り取り機の発明は、アメリカの大草原を農場
に変えるきっかけになったことはすでに述べた。これは独創だった。 1844 年のサミュエル・モールス(1791~1872 年)によるワシントン~ボルチモア間の電
信の成功は、巨大な大陸であるアメリカを結びつける力となった。これにはアメリカの偉
大なる科学者ジョセフ・ヘンリー(1797~1878 年)がこれを手助けしたことも述べた。1856
年にウエスタンユニオン社を創設した実業家のシブレーはモールスを招聘し、1861 年にニ
ューヨーク-サンフランシスコ間の大陸横断電信線を完成させ、アメリカ中に電信網がは
りめぐらされることになった(鉄道とともにその沿線に設置されていった)。 1844 年、チャールズ・グッドイヤーがゴムの硫化法(生ゴムに硫黄を化合させて硬化ゴ
ムを作る操作)の特許を得、ゴム産業に革命をもたらし、後の自転車産業、自動車産業の
発展の準備を進めた。 1850 年、シンガーは現在とほぼ同じ構造のミシンを発明し特許をとり、 シンガー社をつ
くった。これは衣服の製造を、家庭や仕立屋の中から工場へと拡大することになった。シ
ンガー社はアメリカでもっとも早く世界的な企業となった。 鉄道の発達で、テキサスの牧畜地帯の牛は、貨車でシカゴやセントルイスの屠殺場に送
られ、ビーフに変身し、塩漬けや香料漬けにして各地に送られたが、やがてそれを缶詰に
する技術が発達した。また 1881 年には冷蔵庫(まだ、電気ではなかった)が発明されて、
新鮮な精肉のままで東部の肉屋に達するようになった。同様にして、果物や野菜も新鮮な状
態で全国を走りまわり、おかげでアメリカ人は年中、生野菜サラダを味わえるようになっ
た。 生活を簡便で機能的にする発明は、この時代に続々となされた。タイプライター(1873
年)、アレグザンダー・グレハム・ベルによる電話(76 年)、ルイス・ウォーターマンに
よる万年筆(84 年)、キーを押して操作する計算機(87 年)、ジョージ・イーストマンに
よる大衆(コダック)カメラ(88 年)、電気ミシン(89 年)などがその例である。 まだまだ、あげれば切りがないが、このような発明家のきわめつけが、「発明王」トマ
ス・エジソン(1847~1931 年)だった。 エジソンは逸話に事欠かない。「なぜ?なぜ?」を連発し、大人を困らせ、学校だけで
はなく、父親からも見放されたエジソンは、正規の教育は 3 ヶ月しか受けておらず、勉強
は小学校の教師であった母親に教わった。母親は教育熱心だったらしく、エジソンは家の
地下室に様々な化学薬品を揃えてもらっていた。12 歳で実社会に出、鉄道の車内新聞売り
子、電信技師などを経て、発明事業に没頭するようにようになった。 その主要な発明品を記すと、電気投票記録機(1868 年)、電話機・蓄音機(1877 年)、
白熱電球(1879 年)、発電機(1880 年)、改良型蓄音機(1888 年)、覗き眼鏡式映写機キ
1984
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ネトスコープ(1889 年)、改良映写機ヴァイタスコープ(1896 年)、トースター(1910 年)
などがある(失敗した電気椅子などもあるが)。 エジソンは、1878 年にはニュージャージー州のメンロパークに研究所を開き、研究者を
集めて、研究開発を進めた。世界で初めての研究開発専門の会社で、集まった人材を発明
集団として機能させるべく、マネジメント面で辣腕を振るったといわれる。研究所で電話、
レコードプレーヤー、電気鉄道、鉱石分離符、電灯照明等を矢継ぎ早に商品化した。 一般にはエジソンが白熱電球の発明者であるという話が広まっているが、白熱電球を発
明したのはイギリスの物理学者ジョセフ・スワン(1828~1914 年)で 1878 年にイギリスの
特許をとっていた。エジソンはフィラメントに竹を使った功績だけを主張しており、結局
はタングステンに取って代わられた。 エジソンは「電球の発明者」ではなく、電球を改良して「電灯の事業化に成功した人」
と言うべきだろう。エジソンは配電システムを構築し、トースターや電気アイロンなどの
電気製品を発明した。このために広く家庭に電気が普及したのである。いわば「発明王兼
家電の父」といってよいであろう。 映画についてはフランスのリュミエール兄弟と並んで映画の父とも言われている。発明
の中には、エジソンがゼロから思いついたものなのか、他人のアイデアを改良したもので
あるのかが、既に分からなくなってしまっているものもある。 1878 年にはエジソン電気照明会社を設立し、1889 年にはそれを吸収しエジソン総合電気
を設立し、さらに、1892 年 にトムソン・ヒューストン・カンパニーと合併し、ゼネラル・
エレクトリック・カンパニー(GE)を設立し社長となった。直流発電とテスラの関係は,
第 2 次産業革命のところで述べたので省略するが、エジソンにも多くの失敗があった。 エジソンの話はこれぐらいにして、アメリカの発明は機械的な発明ばかりではない。今
日のアメリカの代表的な食べ物も、多くがこの時代に出現した。ハンバーグ・ステーキは、
1880 年頃、ドイツからの移民によってもたらされた。ひき肉にしたのは、アメリカに来て
からかもしれない(それをパンにはさんで、ハンバーガーと呼ぶようになたのは、1910 年
代である)。フランクフルト・ソーセージやウインナ・ソーセージをパンにはさむホット・ド
ッグも、1860 年代から 80 年代にかけて、ドイツ系移民が持ち込み、広く普及した。 コカ・コーラは、1886 年、アトランタの薬剤師ジョン・ペンバートンによって創製された。
最初は強壮剤のつもりだったが、手違いでソーダ水で割ったことにより、独特の味が発見
されたという。その後、いろいろな手が加えられ、清涼飲料水として世界を支配するもの
になった。強烈な宣伝法がアメリカ的であるといえるものかもしれない。 このように発明された生活文化用品を、いかにして大衆に売るか、その売り方もアメリ
カで発明されるようになった。 1985
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
イギリスでビッグ・ストアと呼んでいたものが、アメリカの大都市では、更に大きな規模
をもって出現した。それは経営上のさまざまな部門(デパートメント)を効果的に組織し
ていて、アメリカではデパートメント・ストアと呼ばれた。1862 年頃、ニューヨークで、ア
イルランド系移民アレグザンダー・T・スチュアートの店がデパート組織にしたのが最初
だといわれている。続いて、ニューヨークのR・H・メーシー、ボストンのジョーダン・
マーシュが、それぞれの店を拡大再編した。これらも創造と模倣・伝播の原理そのものだ
った。シカゴのマーシャル・フィールドは、1870 年頃、衣料品店をデパートに改編した。 「デパート王」と呼ばれたフィラデルフィアのジョン・ワナメーカーも 1877 年、デパー
トを開き、現金販売、定価販売、品質保証、返品の自由の 4 原則を立て、信用の確保に努
めた。また有効な宣伝にも意を用い、エジソンの電灯(アーク灯)が成功すると、さっそ
くエジソンに頼んで店の明かりを電化した。 デパートはエジソンの電灯のように、高層建築、エレベーター、エスカレーター、電話、
計算機、その他のさまざまな最先端の発明を取り入れていった。当時のデパートは先端技
術の展示場でもあった。 1878 年、田舎町の雑貨店員から身を起こしたフランク・ウールワースは、ニューヨーク
州ユティカ、ペンシルベニア州ランカスターに「5 セント・10 セント・ストア」を開き、薄
利多売、均一価格に徹し、大成功し、たちまち全国に店を広げた。デパートの進出できな
い地方の小都市が舞台となった(現在の 100 円均一のご先祖である)。 1893 年には、カタログによる通信販売を専門とするシアーズ・ローバック社が発足した。
すでにアメリカでは農村を相手にセールスマンの活躍する国であったが、通信販売はもっ
と簡便でスピーディに、豊富な商品をそろえて、セールスマンの役を果たすことになった
(インターネットはなくてもアメリカでは通販は 120 年前から繁盛していた)。 アメリカ映画は 1889 年、エジソンが箱に仕掛けたロール・フィルムの回転を接眼レンズ
から覗いて見る「キネトスコープ」を発明した時にはじまった。彼はやがて、硬貨を入れ
るとこれが作動する装置を工夫し、1894 年、ニューヨークで公開した。1 セントで 1 分間
ほど見られるものだったが、爆発的な人気を得、たちまち全国に広まった。 次は、この活動写真を箱の中ではなくて、大きなスクリーンの上で大勢の人が見られる
ものにすることだった。アメリカだけではなくヨーロッパ諸国の発明家たちが競ってこの
発明に取り組み、1894 年から 95 年にかけて、フランス、イギリス、ドイツ、アメリカで、
ほとんど同時にその発明がなされた。アメリカでは素人写真家トマス・アーマットが発明
し、エジソンの名で売り出した「ヴァイタスコープ」は、1896 年、ニューヨークで初公開
された。最初は演劇などの幕間などに上映されたが、やがてそれ専門の劇場が出現した。
20 世紀に入るとこの映画は一つの大きな産業に発展していった。 1986
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
自動車の発明も 19 世紀末に種がまかれ、20 世紀に大発展した産業だった。自動車は、も
ともとヨーロッパで発明されたものだった。すでに 1769 年、フランスの軍事技術者N・J・
キュニョーが三輪の蒸気自動車を作った。実用的な自動車は、第 2 次産業革命のところで
述べるように、1885 年、ドイツ人のベンツとダイムラーとが、それぞれ独自にガソリン・
エンジン車を開発したのがはじまりであった。 アメリカで最初の蒸気自動車は、1867 年、リチャード・ダッジョンによって作られた。
しかし 4 つの車輪は木製で、ボイラーが大きいため運転席は後方にあって、取り扱いが厄
介だった。電気自動車も開発されたが、充電を繰り返さなければならず、スピードも遅か
った。結局、ガソリン自動車が熱効率の良さや整備の簡便さによって、自動車産業の中心
になった。1893 年、自転車製造をしていたチャールズ・デュアリエーが作った 1 気筒の幌
付き車がアメリカでは最初だといわれている。 エジソン電気会社で主任技師をしていたヘンリー・フォードは 1890 年代のなかばに、自
宅の裏庭の道具小屋で、ごみ捨て場から集めてきた自転車の車輪なども使い、2 気筒の幌付
きガソリン車を組み立てた。200 ドルで売れたという。1903 年、彼は独立してミシガン州
ランシングにフォード・モーター社を設立し、何度かの失敗の後、1908 年、歴史的な大衆車
「モデルT」の開発に成功した。ここから 20 世紀最大の産業、自動車産業が発展していっ
た。 以上、20 世紀初めのフォードまで、アメリカ人の創意・工夫の「ものづくり」の実例を
羅列した。日本人は「ものづくり」の天分があるとかなんとか、いわれることが多いが、
うぬぼれもいいところである。日本人は歴史をもう少し広げてみることが必要である。こ
のアメリカの 19 世紀の発明の歴史に入れてもおかしくない日本の発明品は豊田佐吉の自動
織機ぐらいである(戦後は本田宗一郎、井深大ぐらいである)。 とにかくアメリカは創意・工夫の国民であった。根っから「ものづくり」が好きだった。
これが 20 世紀の産業を創っていくことになった。この新産業の創造で世界の雇用は拡大さ
れていったのである。 ○そして世界一の工業国家へ このアメリカ人の「創意と工夫」の精神は、アメリカを世界一の工業国へ押し上げること
になった。いやそうではなく、アメリカは大きくて資源に富んでいたから世界一の工業国
になったのだといわれるかもしれないが、大きくて資源に富んでいる国は当時、ほかにも
いくつかあった。当時のアメリカはそれらと同じでまったくの農業国であったにすぎなか
った(農業国はレベルが低いといっているわけではない。その後のアメリカは農業におい
ても世界のトップになった。前述したように新技術を取り入れて農業の機械化、総合産業
化することによってトップになったのである。土地が広いだけなら、世界には他にもある)。 1987
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
アメリカの西部のフロンティア、中西部の農業の状況は前述したが、このころ、つまり、
1870 年頃から 1900 年までをとって、東部をみると、工業が急速に発展していた。この間の
アメリカの発展は、基礎産業として急成長した鉄鋼業から、機械工業の発展、大量消費産業
としての食肉産業、タバコ産業の拡大、またジョン・ロックフェラーが起こした石油産業の
台頭、そしてやや遅れて電機、さらには化学産業の発展へと、次々に新しい産業部門が拡
大していく、きわめてダイナミックな発展の時期を迎えていた。 なかでも基幹であった鉄鋼産業において最大の実業家にのし上がったのが、アンドル
ー・カーネギー(1835~1919 年)であった。1835 年、スコットランドで手織り職人の長男
として生まれたが、当時のイギリスの織物産業は蒸気機関を使用した工場に移りつつあり
手織り職人の仕事がなくなってしまったため、彼の一家は、1848 年、彼が 13 歳の時、アメ
リカへ移住したのである。 アメリカでは学校に行かず、ペンシルベニア州の木綿工場で糸巻き工として人生のスタ
ートをきり、その後、いろいろな仕事に就いたが、南北戦争後、当時の鉄道の橋は木製が
多かった。彼は耐久性に優れた鉄製の需要増加を予測し、キーストン鉄橋会社を設立し成
功した。さらに技術革新により鋳鉄よりも強靭な鋼鉄の大量製造が可能になり、鉄道のレ
ールや建築へ使用されることを予見し、ピッツバーグにレールを生産する工場を起こした。 その後、間もなく彼は、大型ルーシイ溶鉱炉を備えた製鉄部門にも手をのばしていった。
その製鉄部門と製鋼、さらにはレールなどを生産する圧延部門を一体化させ、当時世界最
新鋭とされたエドガー・トムソン製鋼工場を彼が建設したのは、1875 年であった。ちなみに
75 年は 73 年から始まった不況のただ中にあり、アメリカ鉄鋼業のうち、溶鉱炉の 3 分の 1
とレール工場の半分が操業停止か、部分操業状態という惨憺たる状況にあった。しかし、カ
ーネギーは、そうしたなかでも彼の企業を統合し、また最新鋭に一新することで不況を乗
り切り、鉄鋼業界の覇者にのし上がった。 カーネギーがその後、スペリオル湖の西、メサビ鉱山を買収し、鉄鉱石をピッツバーグま
で運ぶ船舶、さらには鉄道まで買収したのは 90 年代に入ってからであった。かくしてカー
ネギーが 1892 年、彼のすべての事業部門をひとつに統合したとき、そのカーネギー製鋼株
式会社は、鉄鉱石の採掘から完成品の生産までを一つの組織体系のなかで行ういわゆる垂
直的統合を果たした企業となっていた。 1900 年、カーネギー製鋼会社が上げた年間利益、約 4000 万ドルは、その年の合衆国政府
歳入額の 7%にもおよんだのである。1901 年にカーネギーは引退を決意し、彼の会社の全
財産を投資銀行家J・ピアボント・モルガンのモルガン商会に 4 億 8000 万ドルで売却し、
彼は以後、慈善活動を行った。モルガン商会が、この年、買収したカーネギー製鋼会社と
1988
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
他の買収した小鉄鋼会社などを合併して設立したUSスティール社は、資本金 14 億ドルと
いう世界最大の企業となった。 カーネギーは、「富を持って死ぬことは不名誉である」と主張し生存中にスタンフォー
ド大学の創設者となった鉄道王スタンフォードのような例を模範として、自らそれを実践
した。1902 年 1 月にワシントン D.C.で 1 億ドル以上を投じてカーネギー財団を設立した。
また、オランダに平和宮殿を設立し、後に国際司法裁判所として使用されている。引退前
にも 1891 年に設立したニューヨークのカーネギー・ホールや 1900 年に設立したカーネギ
ー技術学校(後のカーネギーメロン大学)などの慈善活動を行っていた。 アメリカ生まれのジョン・ロックフェラー(1839~1937 年)が、石油産業を作り上げて
いったことは、第 2 次産業革命のところで述べるので省略するが、彼も 1910 年、事業から
引退し、スタンフォードやカーネギーと同じように、慈善活動に没頭した。 彼はその死までに約 5 億ドルを慈善に投じ、1890 年にシカゴ大学を創立し、1901 年には
ニューヨークにロックフェラー医学研究所(現在のロックフェラー大学)を創立した。1913
年にはロックフェラー財団、1918 年にローラ・スピールマン・ロックフェラー記念研究所
を設立するとともに他の機関にも多くの寄贈を行った。 鉄鋼と石油の分野の事例にとどめるが、19 世紀後半に成長した多くの有力企業が、生産
を材料管理から製造部門、販売部門まで可能な限り一貫したものとするべく、内部組織を複
数部門化していた。農業機械、ミシン、タイプライターといった耐久消費財にかかわる産
業部門がそうであったし、またデュポン社が代表した化学企業、あるいは 1890 年代発電機
などを開発したゼネラル・エレクトリック社、ウェスティングハウス社という電機企業も、
その垂直的統合の方向をたどった。 このような有力企業では、ヨーロッパあるいはアジアを目指した海外販売戦術が、すでに
1890 年代には始まっていた。ミシンの代表メーカー、シンガー社は、19 世紀末に海外進出
に踏み出した代表的アメリカ企業の一つで、ヨーロッパばかりか日本にもおよび、ミシン
市場はシンガー社の独壇場であった。電機産業のゼネラル・エレクトリック社、石油産業
のスタンダード・オイル社にも同様であった。 1890 年代、アメリカの工業製品輸出は輸出全体において過半を占める規模となった。た
だ、それでもアメリカ産業は実際のところ、豊かで広い国内市場が高い成長を続けており、
対外輸出が国民総生産に占める割合は、1900 年時点でも 7%前後であった。しかし、大量生
産方式へと向かったその全生産規模の拡大は、単に輸出の量ばかりか、生産の様式において
も 1900 年代には世界経済に大きな影響を与え始めていた。 そのアメリカ国民の本質は「創意と工夫」であったと述べた。それが現代のアメリカをつ
くった。国土が大きいからアメリカではなく(大きいだけなら、まだ、ほかにもある)、
1989
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
創意・工夫がなくなれば、いわゆるアメリカではなくなるのである(20 世紀後半から 21 世
紀のアメリカには、ゲイツやジョブズなども出たが、一般的には硬直化が目立つ)。 【14-2-6】ドイツ 【①ナポレオン戦争中のプロイセンの改革】 フリードリヒ 2 世(大王)の後を継いだ甥のフリードリヒ・ヴィルヘルム 2 世(在位:
1786~1797 年)の時代もプロイセン王国は成長を続け、1792 年と 1795 年の 2 度のポーラ
ンド分割によって、東プロイセンと南プロイセンもその版図に加えられた。 しかし、続くフリードリヒ・ヴィルヘルム 3 世(在位:1797~1840 年)の時代は、ナポ
レオンの時代で、プロイセンにとって危機の時代だった。消極的で優柔不断な国王で軍隊
は旧態依然、意気揚がるナポレオン軍にかなうはずもなく、1807 年のティルジット条約に
よってエルベ川以西の領土は全て失われ、領土と人口は約半分になった。 危機は改革を呼び、シャルンホルストやグナイゼナウ、クラウゼヴィッツが軍制改革を、
シュタインに続いてハルデンベルクが自由主義的改革によって農奴解放、行政機構の刷新
を行った。 ○内政改革 屈辱的講和で領土が半減し、歳入の 3 倍もの賠償金を課せられたプロイセンは、文字通
り国家存亡の危機に直面していた。なんとしても国政を立て直し、フランスに対抗し得る
国家の近代化を自力でやりとげなければならない。深刻な危機意識がプロイセンの開明的
官僚層や知識人エリートに浸透していた。シュタインとハルデンベルクに率いられたいわ
ゆるプロイセン改革の始まりであった。 シュタイン(1757~1831 年)は、ティルジットの和約以後、プロイセン王国の首相(在
位:1807 年~08 年)となり、徹底的改革なしに救国の途はないとして、1807 年 10 月、農
奴制(世襲隷農制)を廃止して農民を領主への人格的隷属から解放し、土地売買の自由、
職業選択の自由を認める勅令(10 月勅令)を発表した。翌 1808 年、都市条例による市民自
治の導入、営業の自由、行政機構の改革、傭兵制からの脱却・国民軍創出のための軍制改革、
フンボルトの教育改革など「上からの近代化」を断行し、国土の復興と近代化に努めたが、
ナポレオンににらまれて 1808 年 11 月に失脚した。シュタインの方針は、こののちハルデ
ンベルクに引き継がれることとなった。 ハルデンベルク(1750~1822 年)は、1810 年 6 月、プロイセン首相に就任し、行政機構
改革、財政整理、農業改革、営業の自由化、軍備の充実などを引き続き行い、1812 年 7 月
には、一連の内政改革の締めくくりとして治安警察令を発布し、警察機構の再編を断行し
1990
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
た。1814 年 9 月から翌 1815 年まで開催されたウィーン会議ではプロイセンの全権を務め、
領土の拡張に成功した。 農奴解放については、地主の抵抗により後退を余儀なくされた。地主は中小規模の農民
の保有地を奪い、経営規模を拡大していった。1816 年、ハルデンベルクは農民関係の調整
令(1811 年制定)を布告し、農民は保有地の 3 分の 1 を領主に返還する条件で農奴身分を
解放されることとした。これは、地主(ユンカー)には農奴解放にともなう経済補償とな
った。これによって、土地所有者となれたのは一部の上層農民だけで、土地を失った農民
を農業労働者として雇用する資本主義的なユンカー経営が成立した。 ハルデンベルクは実際的政治家であったので、地方特権と妥協し、貴族的身分制社会を
温存した。彼の農奴解放政策も、独立自営農の育成という方向より、ユンカー(土地貴族)
による大規模農業経営を促進する方向で行われた。つまり、領主的特権を温存したまま、
より効率的な資本主義的農業の発展にドライヴをかけたわけである。 ○軍制改革 プロイセン改革において、土地改革とならんで重要な軍制改革は、シャルンホルストら
によって行われた。 シャルンホルスト(1755~1813 年)は、はじめはハノーファーの軍人であったが、1795
年のバーゼルの和約の後、フランス革命軍の勝利の要因を考察し、軍事ジャーナルに『フ
ランス革命軍の成功の原因』と題する論文を載せ、シャルンホルストはフランス軍の強さ
は第一に優れた組織にあり、その背景には国民国家というフランス独自の社会体制がある
と看破し、有名となり、各国から招聘の声が寄せられたが、1801 年、プロイセン軍へ勤務
することにした(ハノーファー軍では貴族出身ではないシャルンホルストは多くの差別を
受け、軍制改革の提言も退けられていた)。 まず、ベルリン士官研修所の教官になり、研修所の講義内容を大きく改め、戦争を科学
的に分析し、若手の士官の教育に熱心に取り組んだ。彼の講義を受けた士官の中からは、
クラウゼヴィッツら、後のプロイセン軍改革に力を発揮するものが多数輩出した。1804 年、
シャルンホルストは研修所の組織を再編し、基礎的な将校教育を担当する研修所の他に、
高度な教育を専門とするベルリン陸軍士官用学校(後のベルリン陸軍大学)を設立した。 次にプロイセン軍の改革に取り組み、1808 年 8 月、プロイセンは義務兵役制度を導入し
た。また、1809 年、プロイセン軍の編成は諸兵科連合の師団(旅団)を中心としたものに変
更された。シャルンホルストは各師団に参謀将校を配属し、中央からの指令の徹底と、作
戦行動時の独自性の向上につとめた。また、シャルンホルストは平民(主にブルジョワジー)
から積極的に将校を採用した。 1991
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
シャルンホルストを引き継いだグナイゼナウ(1760~1831 年)は、各師団に配属された
参謀将校が直接参謀総長に意見上申できると定めた。また、命令伝達に命令を成文化した
訓令を用いた。これによって命令の迅速な伝達と確実な理解を期待することができた。訓
令を解釈するのは参謀将校の役割であるため、プロイセン軍は参謀を介して、統一した指
揮系統を発揮することができるようになった。 このようにシャルンホルストとグナイゼナウは、参謀本部制度の生みの親となり、実地
にナポレオン戦争の最後の戦いを指導した。1814 年 10 月半ば、連合軍はライプツィヒ付近
で 40 万人を超える兵力の集中に成功し、ライプツィヒの戦いでナポレオン軍を撃破した。 1815 年、ナポレオンがエルバ島から脱出、いわゆる百日天下が始まると、グナイゼナウ
は再び参謀総長となり、6 月 18 日、英仏軍が激戦を繰り広げているワーテルローの戦いに
プロイセン軍は突進、これによってフランス軍は完全に崩壊した。20 年以上も続いたナポ
レオン戦争は終結した。ナポレオンとフランス陸軍を徹底的に分析し、それを具体的な仕
組み、システムにしたドイツ参謀本部はナポレオンとフランス軍を越えたのである。 ○クラウゼヴィッツの『戦争論』 クラウゼヴィッツ(1780~1831 年)は、1818 年に少将に昇進して陸軍大学校校長として
勤務しながら軍事研究を続けた。クラウゼヴィッツは、対ナポレオン戦争の経験をもとに、
1832 年に刊行された戦略・戦術に関する『戦争論』を著したことでよく知られている。『戦
争論』において、それまでの単に「戦争にはいかにして勝利すべきか」という軍事学では
なく、「戦争とはなにか」という点から理論を展開し、定義・本質・性質・現象など戦争に
関する幅広い事項を論じ、
「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」という記述
はこの著作の戦争観を端的に表したものである。 クラウゼヴィッツにとって戦争とは政治的行為の連続体であり、この政治との関係によ
って戦争はその大きさや激しさが左右されると論じている。この研究は国民国家が成立す
る近代において(国民国家を生み出したのは戦争であったことは述べた)、戦争の形態がそ
れまでの戦争とは異なる総力戦の形態への移行期に進められたものである。 後述するようにクラウゼヴィッツは戦争を国民、軍隊、政府の三位一体の総力戦ととら
えている。その思想は、大モルトケを始めとする軍人達やレーニンを始めとする革命家達
にも影響を与えたといわれている。 【②ドイツ連邦の時代(1815 年~1871 年)】 ナポレオンの敗北後、オーストリア帝国の宰相であるメッテルニヒ(1773~1859 年)の
主導でウィーン会議が開催され、ウィーン体制と呼ばれるヨーロッパの国際秩序が形成さ
れた。ウィーン体制は,革命の方向に逆行する保守反動的な国際政治体制であった。 1992
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ウィーン議定書により、ドイツではプロイセンがラインラントなどを獲得したほか、ナ
ポレオンがつくったライン同盟は廃止され、オーストリアを盟主とするドイツ連邦が結成
された(図 14-8)。 このドイツ連邦は、1815 年 6 月のドイツ連邦規約に基づいて成立した。オーストリア帝
国(連邦議会議長)、プロイセン王国、4 つの帝国自由都市(リューベック、フランクフル
ト・アム・マイン、ブレーメン、ハンブルク)など 39 の領邦が同盟を構成した。なお、旧
神聖ローマ帝国の領域を範囲としたため、図 14-8 のように、オーストリアおよびプロイ
センの領土は連邦の内と外にまたがっていた。 それまで神聖ローマ皇帝が司ってきたドイツ全体に関わる懸案の審議と議決を目的に、
フランクフルトに連邦議会が常設された。連邦元首や中央行政機関は置かなかった。軍隊、
警察、関税はその 39 の構成国の主権に属した。連邦議会の議員は諸邦の普通選挙で選ばれ
た官吏、大学教員等の市民階級の代表が務めた。プロイセンのビスマルクもその一人であ
った。 ウィーン体制下のドイツでは保守的な政治体制が続き、19 世紀のヨーロッパを席巻した
民族主義、自由主義の波及が食い止められていた。 ○ウィーン体制下のプロイセン さて、前述のように、イギリスとプロイセンはワーテルローの戦いでナポレオンを破り、
プロイセンは再び大国となった。1815 年のウィーン会議でプロイセンは、ポーランド分割
で獲得した領土の一部を事実上ロシアに譲ることになったものの、ティルジット条約以前
の領土に加えてザクセン王国の北半分、ヴェストファーレン、ラインラントを獲得し、人
口は 1,000 万人に達した。同年にはドイツ連邦にも加盟し、盟主であるオーストリア帝国
とその勢力を二分した。 しかしこの時代はプロイセンにとって精神的な停滞を招く反動の時代だった。ロシア・
オーストリアと結んだ神聖同盟によって、自由主義的潮流は弾圧された。これ以後ドイツ
の自由主義運動は、合唱協会や体操協会のような非政治結社のかたちをとって存続したが、
1830 年以後も、中・東欧ではメッテルニヒ体制が健在で、1848 年までおおむね沈黙を余儀
なくされた。 ○ドイツ関税同盟とプロイセンの産業革命 プロイセンは 1815 年のウィーン議定書において、地下資源が豊富で物流の要所でもある
ラインラント(ドイツ西部、ライン川沿岸)の一帯の獲得に成功した。しかし、図 14-25
のように、これまでのプロイセンの領土から離れた位置にあり(「飛び地国家」)、プロイセ
ン内の物流にも支障が生じていた。そのため、プロイセンは諸邦国と関税協定を結ぶ必要
にせまられていた。 1993
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
そこで、プロイセンは、図 14-25 のように、1834 年よりドイツ関税同盟を発足させた。
この関税同盟は、ドイツ諸邦国の国家主権を否定するものではなかったが、政治的統一に
先立ってドイツの経済的統一を促したため、ドイツ統一の下地となった。 図 14-25 ドイツ関税同盟 また、ほぼドイツ関税同盟の 2 倍弱の人口をかかえていたオーストリアは、ラインラン
トより工業力が弱かったが、この関税同盟に加わっていなかった。この関税同盟は、のち
の小ドイツ主義に基づくドイツ統一の基盤にもなったといえる。 ドイツ関税同盟は、保護貿易政策(自由貿易の規制)に固執したわけではなく、むしろ
関税同盟の経済的意義は、域内関税撤廃による物流の促進と、19 世紀後半に統一を果たし
たドイツ帝国の工業発展を導く素地となった。 ドイツ関税同盟(1834 年)による市場の統一などを背景に、経済的な領域を確立したプ
ロイセンでも産業革命がはじまった。重工業から開始しされ、西南ドイツやプロイセンで
展開された。最初の鉄道開通年と区間は、1835 年でニュルンベルク~フュルト間であった。
1837 年にベルリンにはボルジヒ鉄工所が建設され、1838 年 9 月にはポツダム~ツェーレン
ドルフ間に鉄道が開通した。 プロイセンの産業革命の開始時期は、1840~50 年代であった。領邦制のなかでのユンカ
ー・ブルジョワが担い手であった。銀行資本の出資による積極的な拡張投資が行われ、ハ
イペースで事業が拡大した。やがて、独占企業が発生し、シェアと利潤を確保した。 科学者との協力で技術を生み出す研究に基づく技術革新が進展し、化学・電気や軍事の
分野で成果を挙げ(第 2 次産業革命として後述)、イギリスと伍する大国になり覇権を争
うこととなった。 1994
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
○1848 年ベルリンの三月革命 1848 年のフランスの二月革命が、翌月には中欧にまで伝播した。プロイセン王国ではフ
ランスに近接するライン州で早くから火の手があがっていた。首都ベルリンでは 1848 年 3
月 15 日メッテルニヒ失脚のニュースが伝わると緊張が高まった。3 月 18 日群衆と守備隊の
こぜりあいから、バリケード市街戦となったが、国王フリードリヒ・ウィルヘルム 4 世(在
位:1840~1861 年)が軍隊の首都からの撤退と内閣更迭という王令を発して終結させた。 5 月 22 日、憲法制定のための国民議会が普通選挙によって発足し、精力的に制憲論議が
展開されていたが、プロイセン憲法制定にあたっては国王の同意を得ることが条件づけら
れており、これが足かせとなって議会は国王との綱引きを強いられていた。11 月、軍を投
入した政府の干渉に対して、民主派はウィーンのように蜂起でもって応戦しなかった。 12 月 5 日、国王は議会を解散すると同時に欽定憲法を発布した。そこには、普通選挙に
もとづく下院の設立というリベラルな側面と、国王の非常大権が同居していた。 ○フランクフルト国民議会…大ドイツ主義と小ドイツ主義 こうした中で、神聖ローマ帝国崩壊後のドイツ統一を目指した国民議会がフランクフル
トに召集された。このフランクフルト国民議会ではドイツ統一にオーストリア帝国も含め
た大ドイツ主義(つまり、図 14-8 のドイツ連邦からはみ出したオーストリア帝国部分も
含めた案)とプロイセンを中心とした枠組みでドイツの統一をはかろうとする小ドイツ主
義が激しく対立した。ドイツ帝国の領域、つまり国境線をどう引くかという問題であった。 1848 年 10 月 27 日、フランクフルト国民議会はまず、オーストリア帝国を旧ドイツ連邦
に加盟していたドイツ人中心地域と、マジャール(ハンガリー)、スラヴ、イタリア人らが
多数をしめる非ドイツ人地域に分け、前者、つまりオーストリアのドイツ人中心地域を含
めた大ドイツ主義的統合をもとめる決議を行った。 ところが、反革命が勝利したウィーンで、オーストリアの新首相シュヴァルツェンは 1848
年 11 月、オーストリア帝国議会においてオーストリア・ハプスブルク帝国の不可分一体性
を宣言し(図 14-8 のようにオーストリア帝国はハンガリーの部分などがドイツ連邦の外
にはみだしていたが、これをあくまで一体として扱うとした)、フランクフルト国民議会(ド
イツ連邦)と袂を分かつことを明らかにした。彼は翌 1849 年 3 月オーストリア帝国議会を
解散するとともに、中央集権的な単一国家をめざす欽定憲法を発布させた。 このように、オーストリア帝国議会で首相シュヴァルツェンはあくまでハンガリーなど
を含めたオーストリア帝国の一体性を強調するに至って、大ドイツ主義的統合は現実性を
失ってしまい、この案はなくなった。 こうして国民議会はプロイセン中心の小ドイツ主義路線をとらざるをえなくなってしま
った。1849 年 3 月 27 日には、連邦制、二院制議会(下院は普通選挙)、議員内閣制、外交・
1995
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
軍事権の帝国中央政府への帰属という民主的骨格に、元首の世襲皇帝制という妥協案を継
ぎ足したドイツ帝国憲法を採択した。そして、プロイセン王フリードリヒ・ウィルヘルム 4
世をドイツ皇帝に推した。 しかし、プロイセン王はこれを革命派からの帝冠だとして拒否した。フリードリヒ・ヴ
ィルヘルム 4 世は王権神授説を信奉する保守主義者で、自由主義による下からの統一を嫌
って、ドイツ帝国皇帝の戴冠を拒否したのである。彼は 1849 年の 4 月から 6 月にかけて、
プロイセンはもとよりザクセンやバイエルン領まで軍を派遣し、帝国憲法の承認をもとめ
る民主活動家たちの抵抗を容赦なく粉砕した。こうしてフランクフルト国民議会もあえな
く解体されてしまった。 とわいえ、三月革命はそれなりの前進はあった。欽定ではあれプロイセンに憲法がつく
られて、まがりなりにも立憲国家の体裁が整えられた。ドイツに限っていえば、多民族複
合帝国オーストリアの地盤沈下を白日のもとにさらし、国民国家形成へのヘゲモニーを掌
握するのはプロイセンであることを予感させるものだった。 ○鉄血宰相ビスマルクの登場 兄王フリードリヒ・ヴェルヘルム 4 世の死去した 1861 年、ヴィルヘルム 1 世(在位:1861
~1888 年)は既に 63 歳であったが、皇帝を継いだ。軍制改革の予算を巡って国会で追い詰
められたヴィルヘルム 1 世はこの窮状を打開するため、パリ駐在大使ビスマルクを召還し
た。 ビスマルク(1815~1898 年)は、ベルリン北西のシェーンハウゼンの大地主の貴族(ユ
ンカー)の子として生まれ、1833 年からベルリン大学で法律を学んだ。1836 年から国家の
法律行政、1838 年から軍隊、1845 年から家督を継ぎ、1849 年からプロイセン国会の下院議
員、1851 年からフランクフルトのドイツ連邦議会のプロイセン代表、ロシア公使、フラン
ス大使を歴任した。こうした経験から、ユンカーの偏狭な精神を脱却して国際的な視野を
身につけるに至ったようである。 1862 年、国王ヴィルヘルム 1 世によってプロイセン王国の首相兼外相(プロイセン首相
在位:1862~90 年、ドイツ帝国宰相在位:1871~90 年)に任命された。この時、ヴィルヘル
ム 1 世と議会は兵役期間を 2 年にするか 3 年にするかで対立し、ドイツ統一を目標とする
ヴィルヘルム 1 世は議会を説得するためにビスマルクを起用したのである。 期待に応え、ビスマルクは軍事費の追加予算を議会に認めさせた。この時にビスマルク
は、
「今や大問題は演説や多数決ではなく鉄(武器)と血(兵士)によってのみ解決される」
という鉄血演説を行い、以後「鉄血宰相」の異名をとるようになり、その強引な政策は鉄
血政策と呼ばれた。 ○1860 年代の軍事革命―短期徴兵制度とドイツ参謀本部 1996
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
このとき国王ヴィルヘルム 1 世とその軍事大臣が自由主義者の反対を押しきって実行し
たのが独特の短期徴兵制度であった(これは 1860 年代の「軍事革命」といわれるものの一つ
であった)。これはすべての成人男子が正規軍で 3 年の兵役をつとめ、その後 4 年間の予備
兵役ののち、国土防衛軍(後備軍)に移るというもので、これでプロイセンにはつねに 7
年にわたって動員できる兵員が確保されることになった。 後備軍が国内の守備と後方地域の軍務を引き受けたから、この制度をとったプロイセン
は、人口のわりにはどの大国にも負けないほどの大規模な実戦部隊を擁することができた。
この制度が可能だったのは、国民のあいだに少なくとも初等教育がいきわたっていたから
であった。急激に規模を拡大した短期徴兵制度を維持することは、教育水準の低い農民が
対象では困難であるといわれていた。 また、このように膨大な人数を統御できるすぐれた機構―ドイツ参謀本部があったこと
もみのがせない。50 万人ないし 100 万人の兵士を集めても、必要な訓練をほどこすことが
できず、衣料品や武器、食糧が不足し、しかも重要な戦場に移動させることができないと
したら、なんの意味もない。ドイツにはそれがすべて可能になっていた。この軍隊を統御
するのがプロイセンの参謀本部で、1860 年代初め以来、大モルトケの天才的な指導のもと
で「軍の頭脳」にまで成長していた。 プロイセンの参謀本部では、モルトケが士官学校から優秀な人材を選抜し、教育をほど
こして、将来の戦闘に備えた。実際の戦闘がはじまるずっと以前から、彼らは作戦計画をつ
くり、何度もそれを練り直した。戦闘や作戦について周到な研究が行われ、他の大国の戦
史も研究対象となった。特別の部局が創設されて、プロイセンの鉄道制度を管理し、部隊
や補給品が遅滞なく目的地に運ばれるよう目を光らせた。なによりも、モルトケが採用し
た参謀制度では、将校たちに大量の兵士集団を実戦で指揮することを教えようとした。 プロイセンの制度の重要な点は、それが失敗しないということではなく、将校たちが慎
重に過去の過ちを検討し、訓練方法や組織、武器を改善していったということだった。1866
年に野砲の弱点が明らかになると、プロイセン軍はたちまちクルップに新しい後装砲をつ
くらせ、1870 年にはそれが威力を発揮することになった。 モルトケは数個の軍を配備して、それぞれが独立して動けると同時に、たがいに支援し
あう体制をつくりあげたため、たとえ一つの軍がたたきのめされても、
(事実、普墺戦争で
も普仏戦争でもよく起こったことだった)作戦全体が失敗することにはならなかった。 ○第 2 次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争 ビスマルクはそれから鉄血政策を大きく進め、その一方で国際的に良好な関係を作るこ
とに腐心し、イタリア・ロシアに接近し、オーストリアと同盟を結び、同盟関係を背景に
1864 年にデンマークとのシュレースヴィヒ・ホルシュタイン問題を蒸し返しさせた。 1997
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
シュレースヴィヒ・ホルシュタイン両公国は、ユトランド半島のつけ根にあり(図 14-26
参照)、中世以来デンマークの影響下にあった。住民の大部分はドイツ系で、ドイツとデン
マークの係争地となっていた。デンマークとの 1848 年から 1852 年の第 1 次シュレースヴ
ィヒ・ホルシュタイン戦争は、決着しておらず、ロンドン議定書で結ばれた内容は現状維
持であった。その後、デンマーク王フレデリク 7 世が亡くなり、生前に布告した「継承令」
には、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン両公国の継承も含まれていた。しかし、この両
公国の継承という条目は、その前に結ばれたロンドン議定書には含まれていなかった。 図 14-26 ドイツの統一(1871 年) ビスマルクは、この盲点を突いて(ロンドン議定書にないものを「継承」することは)
条約違反であると主張し、
「継承令」及び「11 月憲法」の撤回を要求した。しかもビスマル
クは、オーストリア帝国も誘ってデンマークに圧力をかけた。ビスマルクは、列強を中立
化させたうえで、デンマークに対し 48 時間の猶予しか与えなかった。 1864 年 2 月、プロイセン・オーストリア連合軍は、デンマークに宣戦布告し、シュレー
スヴィヒに侵攻した。デンマークは、プロイセン軍の圧倒的な軍事力の前になす術がなか
った。結局、デンマークは完敗し、屈服を余儀なくされた。10 月 30 日にウィーンにおいて
条約が結ばれ、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン両公国は、プロイセンとオーストリア
1998
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
の共同管理下に置かれ、後にプロイセンの州となった。これが第 2 次シュレースヴィヒ・
ホルシュタイン戦争、あるいはデンマーク戦争であった。 この時の陸軍参謀総長は(大)モルトケ(1800~1891 年)であり、これ以降も政治・外
交のビスマルクと参謀総長のモルトケのコンビは活躍することになる。このモルトケは、
後述するように、陸軍参謀総長として手腕を見せ、対デンマーク戦争・普墺戦争・普仏戦
争に勝利してドイツ統一に貢献した。後述するようにビスマルクは、はなばなしい外交を
展開することになるが、その背後には絶大なる信頼をよせていた武力―モルトケがあった
のである。 ○普墺戦争 対デンマーク戦争に勝利して国民の支持も取り付けたビスマルクは、更に手腕を振るう
ようになった。 ドイツ民族の統一を求める民族主義が各地で高まったが、具体的な統一方法では、前述
したように①非ドイツ人地域を独立させてドイツ人地域オーストリアを入れる大ドイツ主
義と、②それを容認しない小ドイツ主義に、③非ドイツ人地域もふくめた統一国家を目指
す中欧帝国構想の 3 つの意見が分れていた。 大ドイツ主義は多数派の理想ではあったものの、前述したように当然オーストリアが拒
否した。オーストリアは、当然、中欧帝国構想(つまり、現在のハンガリー、チェコ、ス
ロヴァキアなどの非ドイツ人地域を含む構想)を掲げていたが、これを拒否しての小ドイ
ツ主義は、精強な軍隊を持ち、ドイツでも一目置かれていたプロイセン王国が旗手となっ
た。ビスマルクは、いずれはこの決着をつけなければならないと思っていた。それは武力
しかないと思っていた。 ビスマルクはデンマークから奪ったシュレースヴィヒ・ホルシュタイン公国をいったん
はプロイセン・オーストリア両国の共同管理とした。しかし、これはビスマルクの策略で
あった。プロイセンはやがてオーストリア管理地域に介入し、オーストリアを激怒させた。
ここに普墺戦争が開始されることになった。 1866 年 6 月 15 日プロイセンは宣戦布告を行って、ホルシュタインのオーストリア管理地
域を占領した。プロイセンの行為を侵略的と見たハノーファー王国、バイエルン王国、ザ
クセン王国、ヴュルテンベルク王国、ヘッセン選帝侯国などはオーストリア側についたが、
北ドイツの小邦はプロイセンにつき、オーストリアのヴェネツィア領有を不満とするイタ
リア王国もプロイセンと同盟した。 外部の勝敗予想は五分五分であったが、当時のプロイセンには軍事的天才がいた。プロ
イセン参謀本部は軍隊の迅速な移動のために元々道路整備に熱心だったが、参謀総長モル
トケは、当時の最新技術である鉄道線と電信設備を重視し、オーストリア国境までこの 2
1999
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
つをあらかじめ整備させていた。そのため、開戦してからのプロイセン軍は、オーストリ
ア側の予想を超えて迅速かつ整然とした進撃を行い、オーストリア軍を 7 月 3 日ケーニヒ
グレーツの戦い(サドワの戦い。図 14-26 参照)で包囲し、殲滅してしまった。 モルトケのその戦略的思考はクラウゼヴィッツの影響を強く受け、1866 年の普墺戦争で
は入念な研究準備の下に、わずか 7 週間の戦争でオーストリアを屈服させた。モルトケの
戦史上の功績の一つは、当時の新技術である鉄道と電信を積極的に利用したことであった。
電信により迅速に命令伝達し、大部隊を鉄道で主戦場に輸送して、敵主力を包囲殲滅する
戦術を確立したことにある。第 2 次世界大戦におけるヒトラー・ドイツの無線を利用した
戦車間の命令伝達、戦車部隊と航空機との直接交信による陸空の混合攻撃電撃戦も、モル
トケのこの影響の一つであった。 プロイセン軍は、丈夫で装填時間が短い鋼鉄製の後部装填式大砲や世界初の金属薬莢式
(やっきょうしき)軍用ライフルを装備し、装備の面でもオーストリア軍を遥かに凌駕し
ていた。プロイセン軍の新兵器の圧倒的な火力と速射力の前に、従来通り銃剣突撃を繰り
返すオーストリア兵は次々になぎ倒された。 オーストリアの大敗を見たフランスのナポレオン 3 世が戦争に介入し、ビスマルクもそ
れ以上の深入りをするつもりはなく、休戦が成立した。1866 年 8 月 23 日にプラハ条約が締
結され、プロイセンはシュレースヴィヒ・ホルシュタイン公国全域とハノーファー王国、
ヘッセン選帝侯国、ナッサウ公国、フランクフルト自由市を領有し、ドイツ東西のプロイ
セン領は統合され(図 14-25 と図 14-26 とを比較参照)、オーストリアは統一ドイツか
ら排除されることが決まった。 オーストリアは同年 10 月 12 日、イタリア王国と個別に講和条約(ウィーン条約)を結
び、ヴェネツィア地方をイタリアに割譲した。 オーストリア主導のドイツ連邦が解体されて、マイン川以北にプロイセンが 22 の邦国を
統轄する北ドイツ連邦が誕生した(図 14-26 参照)。以後、「ドイツ」の圏外に去ったオ
ーストリアは 1867 年、国制を改革し、マジャール人(ハンガリー人)の自立をみとめてオ
ーストリア・ハンガリー二重帝国として再出発することを余儀なくされ、ドナウ川流域の統
治に邁進することになった。 ○普仏戦争 図 14-26 のように、「ドイツにおける主導権をめぐる戦い」はほぼ終わりかけていた。し
かし、ドイツ統一を目指すプロイセンにとって、南ドイツにおけるフランスの影響力が邪
魔であった。そして、西ヨーロッパではどの国が優位に立つのだろうか?プロイセンか、
それともますます疑い深く神経質になっていたフランスか?雌雄を決するときはいよいよ
近づき、1860 年代末には双方とも機会をうかがっていた。 2000
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
表面的にはフランスの人口がプロイセンよりずっと多かったし(ヨーロッパのドイツ語
人口の総数はフランスより多かったが)、フランス軍はクリミア(クルミア戦争)とイタ
リア(イタリア統一戦争に加担)、それに海外で経験を積んでいたので(インドシナや中
国・メキシコ出兵)、フランスのほうが強いようにみえた。 しかも世界最高の性能といわれ、プロイセンの撃針銃よりも射程の長いシャスポー・ラ
イフルを装備しているうえに、新しい秘密兵器ミトライユーズ機関銃まであった。この機
関銃は 1 分間に 150 発の弾丸を発射することができる画期的なものだった。フランス海軍
も非常に優秀だったし、オーストリア・ハンガリーやイタリアからの援助も期待できたの
で、フランスの勝利を疑うフランス人はほとんどいなかった。 フランス皇帝ナポレオン 3 世は、フランスの歴史で述べたように(ビルマルクは駐仏大
使のときから、ナポレオン 3 世と知り合っており、お人好しとみていた。そして、近く起
きる普墺戦争に中立を保ってくれるならライン左岸を与えるようなことを匂わせていた)、
この普墺戦争に中立を守った対価として、プロイセンにライン左岸の割譲を求めたが、ビ
スマルクはこれを無視した(ビスマルクはこれが次の普仏戦争の引き金になることを見越
していた)。ナポレオン 3 世は面目をつぶされた(ナポレオン 3 世はイタリア統一戦争でも、
カヴール首相に対して似たような手法をとって成功していた)。 《エムス電報事件》 そうした状況にナポレオン 3 世は危機感を覚え、プロイセン王家につながるレオポルト
公のスペイン王位継承問題について、ナポレオン 3 世は世論を上げて反対してきた。プロ
イセンのヴィルヘルム 1 世は身内のスペイン王位継承の辞退を表明したが、仏外相がさら
に永続性のある保証(プロイセン王家が今後ともスペイン王位を継承しないこと)を要求
してきた。 フランス大使は、1870 年 7 月 13 日朝、ドイツ西部の温泉地バート・エムスで静養中のヴ
ィルヘルム 1 世を訪ね、前述の保証のために会見を求めた。しかし既に王位辞退という形
で譲歩を行っていた国王は、未来永劫にわたって保証することは不可能であり、自分にそ
の権限はないとして、さらなる要求を拒否し、ベルリンのビスマルクにことの経緯を打電
した。 モルトケ、ローンとの食事の席で、国王からの電文を受け取ったビスマルクは鉛筆を片
手に電文に手を入れた。電報を意図的に短縮して、非礼なフランス大使が将来にわたる立
候補辞退を脅迫し、それに立腹した国王が大使を強く追い返したように改竄(かいざん)
した上で、新聞や各国に公表した。文章の省略によって大使の非礼、国王の大使への拒絶
が強調されたようである。これが有名なエムス電報事件である。 《罠にはまったナポレオン 3 世》 2001
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
これをみたドイツの世論は沸き立ち、反フランスをバネにした国民意識がいっきに盛り
上がった。他方、大使が侮辱されたとみたフランスの世論も猛反発し、「プロイセンを倒
せ!」という声がパリ民衆のあいだで飛び交った。戦争を求める強い世論に流されるまま、
はやくも、フランスは翌 7 月 14 日に開戦を閣議決定し、7 月 19 日にプロイセンに宣戦布告
をした。ビスマルクのしかけた罠に、ナポレオン 3 世はまんまと引っ掛かったのである。こ
んなことで普仏戦争が始まってしまった。 あとはモルトケのおきまりのコースで決着がついた。宣戦布告後わずか 15 日でドイツ 3
個軍(30 万人以上)がザールラントとアルザスに進軍した。フランスの砲兵中隊は全土に
散らばっていて、容易なことでは集結できなかった。すぐれたシャスポー・ライフルがあ
まり効果をあがられなかったのは、プロイセンが巧みな戦術を駆使し、移動式速射砲を押
し立てて攻撃したからだった。ミトライユーズ機関銃は後方に置かれたままで、一度も効
果的に使われることはなかった。 フランスの歴史で述べたように、52 万人の兵力、質量とも優勢な火器、円滑な輸送・兵站
など準備万端整えられていたドイツ軍に対して、大砲を半分以下しかもたない 30 万人のフ
ランス軍は、1 ヵ月半後、セダンの戦い(図 14-26 参照)でナポレオン 3 世は降伏し捕虜と
なってしまい、フランス第 2 帝政は崩壊した。 ○突然浮上してきた軍事大国 プロイセン・ドイツの勝利は明らかに軍事制度の勝利だった。イギリスの歴史学者・軍
事史家マイケル・ハワードは「国家の軍事制度は社会制度と切り離して存在するものではな
く、社会全体の一側面」であると述べている。 ドイツ軍部隊の勝利の背景には、ヨーロッパのどの国よりも近代戦に向けた国づくりを
進めていたプロイセンという国家があったからだった。いままでは統一していなかったか
ら目立たなかったが、ここに突然軍事大国が浮上してきた。ドイツ諸邦を合わせた人口は
すでにフランスのそれを上回っていた。鉄道の長さでもフランスをしのぎ、しかも軍事目
的に利用する体制ができあがっていた。 ドイツの国民総生産や鉄鋼の生産高はフランスを追い抜こうとしていた。石炭生産高は
フランスの 2 倍半に達し、近代的なエネルギーの消費量は 50%も多かった。ドイツの産業
革命は、鉄鋼と兵器生産の両方を手がけるクルップのような大企業を多く生み出し、プロイ
セン・ドイツの軍事力と工業力は格段に向上していた。 短期徴兵制度は国の内外の自由主義者の攻撃の的であり、このころ「プロイセンの軍国主
義」に対する批判が広がっていた。しかし、これが国の人的資源を軍事目的に動員する効果
的な方法であることは確かで、自由放任主義をとる西の国(イギリス)や、東の遅れた農
業国(ロシア)に差をつけることにことになる。そして、そのすべてを支えていたのが、
2002
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
初等教育と技術教育の水準が高い国民と、他に類のない大学や科学機関、すぐれた科学研
究所、調査組織などの存在だった(これらについては、第 2 次産業革命のところで述べる。
その後、このプロイセン・ドイツシステムを忠実に模倣したのが日本だったことは言うま
でもない)。 【③ドイツ帝国の時代】 ○ドイツ帝国の成立 1871 年の年明けにはパリが包囲され、いまだパリ砲撃が続く中の 1871 年 1 月 18 日、プ
ロイセン王ヴィルヘルム 1 世はヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位し、ここにドイツ帝
国の成立が宣言された。 1871 年 1 月末、パリは陥落した。ドイツはフランスの臨時政府と講和を結び、アルザス・
ロレーヌ(図 14-26 参照)の 2 州と賠償金 50 億フランをを獲得した。アルザス・ロレー
ヌはドイツ・フランスの国境にあり、鉄・石炭が豊富で、両国の歴史的紛争地である。ビ
スマルクは、ナポレオン 3 世降伏後もこの地を獲得するため戦争を継続したが、それはフ
ランスの対独復讐心を高める原因ともなった。 普仏戦争の目的は、北ドイツ連邦に属さないバイエルン王国をはじめとする南部諸邦に
北との連帯感を持たせ、ドイツ統一を実現することにあった。ビスマルクの目論みは当た
り、かつてのドイツ連邦からオーストリアとルクセンブルクを除いたすべての諸侯を、プ
ロイセンを盟主とする新国家のもとに集結させることに成功したのである(図 14-26 参照)。 ドイツ統一はビスマルクの目論見通りになり、ビスマルクはドイツ帝国の初代宰相兼プ
ロイセン首相となり、1890 年に引退するまで 19 年にわたって務めた。 ○ビスマルク時代の国際関係 ビスマルクが 1870~80 年代のヨーロッパに作り上げた複雑なビスマルク体制をまとめる
と以下のようになる。 1873 年に、図 15-12 の左図のように、ドイツ、ロシア、オーストリアの 3 帝国で三帝同
盟という軍事同盟を結んだ。この三帝同盟の背景には、ドイツは、共和政のフランスの孤
立をはかる、バルカン半島で対立するロシアとオーストリアが両国ともドイツに支持を求
めていた、3 帝国とも革命をおそれ、その防波堤にしようとしたという背景があった。 ところが、ベルリン会議でビスマルクに不満をもったロシア(ビスマルクがイギリスに
有利に計らった)が事実上、三帝同盟を解消した。これに代わる保障を求めたビスマルク
は、オーストリアと 1879 年に独墺同盟(ロシアへの対抗を意味する軍事同盟)を締結した。
1882 年、ドイツは、フランスのチュニジア保護国化に反対するイタリアを引き込み、オー
ストリアと三国同盟を成立させた。 2003
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
しかし、ロシアを野放しにしておくと、フランスと接近するおそれがあり、ビスマルク
は,1887 年、独墺同盟を継続したまま、オーストリアにも秘密のうちに、ドイツ・ロシア
間でたがいに第 3 国との開戦時の中立を約束した独露再保障条約(秘密条約)を結んだ。 そこで図 15-12 の左図のように、「光栄ある孤立」を誇るイギリスは、世界政策でフラン
スと対立していたため、ビスマルクはイギリスとの友好関係の維持につとめた。いずれに
してもビスマルクはきめ細かく配慮して複雑な国際関係を作り上げて、フランスの孤立化
に成功していた(ビスマルクは普仏戦争の報復を考えているフランスをもっとも警戒して
いた)。 しかし、1888 年、ビスマルクが長年仕えたヴィルヘルム 1 世が死去した。息子のフリー
ドリヒ 3 世が跡を継ぐが 3 ヶ月で死去してしまい、その息子のヴィルヘルム 2 世(在位:
1888~1918 年)、つまりヴィルヘルム 1 世の孫が跡を継いだ。 この若き皇帝は植民地拡大を望み、また社会主義者鎮圧法の更新に反対してビスマルク
とたびたび衝突、ついには 1890 年にビスマルクを解任してしまった。ビスマルクが長年、
ヨーロッパ中に築いてきた人脈も精巧に作り上げた苦心の作・ビスマルク体制もこの若き
皇帝は簡単に反故にしてしまった(ビスマルクは領地のハンブルク近郊のフリードリヒス
ルーに引退し、1898 年 7 月に没した)。 遅れてきた(国家統一をなした)植民地主義国ドイツは、ビスマルクによって衣の下に
鎧を隠す知恵(狡智)を持っていたが、若き皇帝ヴィルヘルム 2 世は鎧むき出しで闊歩し
はじめたので、列強はガゼン身構え、世界は弱肉強食の帝国主義時代に突入していった。 ○ヴィルヘルム 2 世の帝国主義的膨張政策 ビスマルクが 1890 年に辞任すると、ヴィルヘルム 2 世は「老いた水先案内人に代わって
私がドイツという新しい船の当直将校になった」と述べた。親政を開始したヴィルヘルム 2
世は、それまでの平和外交をやめて、「新航路」といわれる積極的な対外膨張政策(世界政
策と呼ばれた)に転換した。 これは、ビスマルクとの個人的な性格のちがいというより、ドイツという国家がそれを
要求するようになったともいわれている。第 2 次産業革命期をむかえ、独占資本主義の発
達の結果、植民地が必要になった(ビスマルクも植民地獲得に奔走していた)、国力が充実
し他国との対立をおそれなくなったということであろう。ヴィルヘルム 2 世は、ロシアの
更新要求にもかかわらず、満期終了と同時に独露再保障条約を破棄してしまった。 ○対独包囲網の形成 この独露再保障条約の更新を拒否されたロシアが、孤立をおそれてフランスに接近し、
図 15-12 の右図のように、1894 年に露仏同盟(軍事同盟)を成立させた(露仏同盟は 1891
2004
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
年の政治協定と 1894 年の軍事協定からなる)。これによりビスマルク体制の中核が崩壊し
た。 20 世紀はじめになると、帝国主義競争の激化、米・独の台頭によるイギリスの相対的地
位の低下などにより、イギリスは単独でその国際的地位を維持することが困難となった。
そこで「光栄ある孤立」政策を放棄して、図 15-12 の右図のように、1902 年に日英同盟を締
結した。また、ドイツの中近東進出に脅威を感じてフランスとの対立関係を解消して、1904
年英仏協商を結んだ。このころドイツは「ロシアは極東へ、ドイツは近東へ」の政策をとっ
た。つまり、ロシアをバルカンではなく極東(日本、イギリス)に向けさせ(事実、三国
干渉、日露戦争となった)、その間にドイツがバルカンから近東に進出しようという考えで
あった。 日露戦争後は、イギリスはロシアとの対立を解き、1907 年に英露協商を結び、ドイツを
主要敵国とした。イギリスとロシアの対立解消は、ロシアはイラン北部、イギリスはイラ
ン南部での優越権を画定し、その結果、イギリスはペルシア湾を確保し、ロシアのダーダ
ネルス・ボスフォラス海峡への進出を黙認するということで折り合いがついた。 この英露協商の成立によって、イギリス、フランス、ロシア(+日本)3 国間の提携・協
商関係が成立した。この三国協商は、3 国の植民地支配体制を維持するための協定であると
ともに、三国同盟に対抗し、ドイツを包囲する外交関係となった。ヴィルヘルム 2 世時代
になって、ビスマルク体制は完全に崩壊し、対仏包囲網もいつの間にか対独包囲網に変わ
っていった(図 15-12 参照)。 ヴィルヘルム 2 世は、植民地再分配を念頭において「ドイツの将来は海上にあり」と言っ
て、1898 年以降、大艦隊の建造にのりだした。そのために 1898 年、海軍大臣ティルピッツ
はヴィルヘルム 2 世の指示に基いて艦隊増強の指針を定めた「艦隊法」を制定したため、
イギリスとドイツの建艦競争は激化し、対英関係は悪化した。 ドイツに対抗して、イギリスも新型戦艦(ドレッドノートという。日本語で「超ド級(超
弩級)」といわれるもので、長距離戦に有利)を建造して、海軍力の伝統的優位の維持につ
とめた。1896 年、イギリスの支援を受けた勢力が南アフリカのトランスヴァール共和国に
侵入した時、ヴィルヘルム 2 世はトランスヴァール首相クリューガーに激励の電報を送り、
イギリスとの関係を悪化させた。 ○ドイツの 3 B 政策 ドイツはオスマン帝国を保護化し、1903 年バグダード鉄道敷設権を得て、いわゆる 3 B 政
策を進め、イギリスの 3 C 政策と対立することとなった(図 15-13 参照)。 3 B 政策とはドイツの世界政策の代名詞で、アジア進出も視野に入れ、ドイツから同盟
国のオーストリアを経てバルカン半島にいたり、オスマン帝国領の小アジア、メソポタミ
2005
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
アを通過してペルシア湾に出て、インドに進出しようとするものであった。ベルリン・ビ
ザンティウム(コンスタンティノープルの古名)・バグダードの頭文字をとってこの名があ
る。 これは、ドイツが鉄道建設と、それに付属する沿線の港湾整備や殖産興業を通じて近東
に資本を投下し、自国の経済圏に組み込むことを目的とした政策であった。これは、スエ
ズ運河を側面からおびやかし、イギリスのインドへの通商路を断つものであったから、イ
ギリスはこれに反対した。 当時のドイツ国内を見ると、ヴィルヘルム 2 世親政下のドイツは、経済的には大きな発
展をとげたが、ドイツ帝国の専制的な性格は変らなかった。ヴィルヘルム 2 世は、世界政
策で国民の不満を外にそらす一方、大資本家やユンカーの利益をはかりながら支配体制を
強化した。 1890 年、ビスマルクの辞職と同時に社会主義者鎮圧法が廃止され、社会民主党が成立し
た。社会民主党は、1891 年にエルフルト綱領(カウツキー起草の党綱領で現存秩序内での
漸進的改革などを述べていた)を採択して党勢をのばし、1912 年に第 1 党となった。そし
て、労働者の生活の向上、中産階級の支持の増大などの結果、社会民主党の体質変化が起
き、議会主義による社会主義実現をとなえるベルンシュタインらの修正主義の傾向が強ま
った(第 1 次世界大戦では戦争に協力し、その批判から反対派が分裂した)。 ○モロッコ事件 19 世紀末のモロッコは、イギリスやフランス、スペインにとって、帝国主義的膨張政策
の格好の標的となっていた。スペインは 1859 年以降モロッコ北部の侵略を行い(図 14-55
参照)、フランスも東隣のアルジェリアから侵攻した。わけてもタンジールは、ジブラルタ
ル海峡を挟む位置にあるため、地中海地域における制海権の行方を左右する重要な戦略拠
点であり、古代から激しい争奪戦が繰り広げられ、近代においては長いアフリカ航路を行
くために必要な途中寄港地として繁栄したため、列強の関心を集めた。 モロッコに対してとくに関心を寄せていたフランスは、1901 年にイタリアとの間で同地
におけるフランスの優先権を確認する協定を締結するなど、着実にモロッコへの影響力を
強めていった。ドイツの進出に対抗して 1904 年に成立した英仏協商では、フランスはイギ
リスのエジプトにおける優越権と引き換えに、モロッコにおける優越権をイギリスからも
獲得した。 一方、セウタやメリリャ(いずれもモロッコ内のスペイン地域)など一部地域は、スペ
インの勢力圏内に収まりつつあり、モロッコの領土はフランス、スペイン両国に帰するこ
とがほぼ確実な情勢となっていた。 2006
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
フランスは最終仕上げの段階で、モロッコの財政危機に乗じて借款を供与し、その代償
としてモロッコの関税収入の 6 割を得ることとし、また 1905 年 1 月には、フランス将校の
主導する国軍の創設、フランス資本による国立銀行の設置などの内政改革を要求した。こ
うした一連の動きにドイツが反応した。 1905 年 3 月 31 日、ドイツのヴィルヘルム 2 世は、突如タンジールを大艦隊で訪問し、
埠頭で歓迎を受けたのち、続いて向かったドイツ領事館でモロッコの領土保全と門戸開放
を主張する演説を行い、同席していたフランス代表シャラサの度肝を抜いた。ここに第 1
次モロッコ事件が起こった。 モロッコはドイツの支持を頼みに、フランスが突き付けた内政改革の要求を断固拒否し
た。また、ドイツ首相ビューローはフランスに対し、問題解決のため国際会議を開催する
よう要求し、独仏間に緊張が走った。このような中にあって、12 月にドイツ軍は部分動員
を開始、フランスも翌 1906 年 1 月、国境に騎兵部隊を配置するなど、開戦に備えた動きも
見られ、事は決して平和裏に収拾されていた訳ではなかった。 しかし、イギリスやロシア(日露戦争に忙殺されていた)の軍事的援助が見込めないこ
とから、フランスは強硬策を取り下げ、問題の解決を会議に委ねることを受諾し、1906 年
1 月、スペインのアルヘシラスでドイツの要求通り国際会議が開催された。参加 13 ヶ国の
うち、イギリスやイタリア、アメリカ、ロシアがフランスを支持したのに対し、ドイツを
支持したのはオーストリア・ハンガリー帝国のみで、最終的にはドイツが譲歩し、モロッ
コは事実上フランス(及びスペイン)の勢力圏に組み込まれることとなった。 ドイツは、さらに 1911 年にも、モロッコのアガディール(図 14-55 参照。モロッコ南
西部の都市)に艦隊を派遣してモロッコの領土保全と門戸開放を訴え、フランスの権益を
侵そうとした第 2 次モロッコ事件を起こした。1911 年、ベルベル人が大規模な反乱を起こ
し、同年 4 月、フランスは鎮圧のためモロッコに出兵したが、これに対してドイツは、同
地に在住する自国民の生命・財産の保護を口実として(実際にはアガディールにはドイツ
人は居住していなかった)、7 月 1 日、にわかに艦隊を派遣したのである。 イギリスは積極的にフランスを支持し、直ちにフランスと軍事協定を締結した。事態は
全面戦争にまで至るかに見えたが、これと並行して独仏は交渉を重ね、10 月 11 日にモロッ
コ協定、11 月 3 日にコンゴ協定がそれぞれ成立した。ドイツはモロッコに対する要求を放
棄し、その代償としてフランス領コンゴの一部を獲得した。この事件は独仏間に大きな遺
恨を生み出し、英仏関係を強化する結果となった。 遅れてきた帝国主義者ドイツは、先行する帝国主義者の英仏の護りが固くなかなか獲物
にありつけなかった。しかし、ドイツはアフリカ、中国、太平洋に遅ればせながら植民地
や権益を獲得していったことは、すでに述べた(イギリスのところで)ので省略する。 2007
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
【14-2-7】イタリア 19 世紀のドイツが、「遅れてきた植民地主義国その 1」であれば、イタリアも 19 世紀後半
に国家統一をなしとげて、すぐさま、植民地獲得競争に参入した「遅れてきた植民地主義者
その 2」となった。
【14-2-8】で述べる日本が「遅れてきた植民地主義者その 3」である。 中世以降、イタリアは小国に分裂し、各国家はオーストリア(神聖ローマ帝国)、スペイ
ン、フランスの後ろ楯で権力争いが行われていた。ナポレオン時代のイタリアは、図 14-6
のように、大きくフランス帝国領、イタリア王国、ナポリ王国の三つの国家に編成されて
いたが、結局、ナポレオン一色になってしまった。 ○ウィーン体制下のイタリア ナポレオン体制の崩壊によってイタリアはまた変化した。それがウィーン体制のもとで、
図 14-27 のように、再び大小さまざまの 10 の国家に分れた。 ウィーン体制初期のイタリアで、変革の運動を担ったのはカルボナリ(炭焼党)という
秘密結社の運動であった。カルボナリは急進的な立憲主義を奉じ、瞬く間に勢力を拡大さ
せた。1820 年にナポリ近郊の都市ノーラで蜂起したカルボナリは、両シチリア王フェルデ
ィナンド 1 世に対して憲法の制定を要求し、これを実現させた。翌 1821 年、サルデーニャ
王国の首都トリノでも反乱を起こし、革命政府を樹立した。しかし、オーストリア軍の介
入によりいずれも虚しく瓦解した。 ○マッツィーニと青年イタリア カルボナリの党員だったマッツィーニ(1805~72 年)は、カルボナリに代わる青年イタ
リアという組織を結成した。青年イタリアの政治目標は明瞭で、イタリアに単一の共和制
国家を樹立すること、つまり共和主義と統一主義の立場を鮮明に掲げた。自由・独立・統一
を求める運動の形態として、イタリアではゲリラ方式が最適であるという判断に立って、
小部隊による蜂起の方法を青年イタリアの運動論に組み込んだ。 マッツィーニの簡素化された組織論と行動的な運動論は青年層を引きつけ、新結社はイ
タリア内にも急速に浸透した。1833 年前半にピエモント(図 14-27 参照)での蜂起計画を
立てたが、警察に事前に察知され、大弾圧をこうむり、マッツィーニもジュネーヴに亡命
した。 マッツィーニはこれに屈することなく、すぐに次の蜂起計画に取りかかった。今度の計
画は、サヴォイア朝の発祥の地サヴォイアにスイスから攻め入って蜂起すると同時にジェ
ノヴァでも蜂起するというものであった。ジェノヴァ蜂起の実行はガリバルディに託した。 2008
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ガリバルディ(1807~82 年)は、ニースの生まれで、船員だったが、この頃、青年イタ
リアに加入した。ジェノヴァ蜂起への参加を決意した彼は、蜂起に軍隊を引き込むために、
同年末にサルデーニャ王国の海軍に入隊した。 図 14-27 イタリア統一戦争(1859 年~61 年) しかし、このサヴォイア遠征計画とジェノヴァ蜂起計画は、1834 年 2 月、ともに失敗し
て終わった。ガリバルディはかろうじてジェノヴァを脱出してマルセイユにたどり着いた
が、欠席裁判による死刑判決を知り、南アメリカへの長い亡命の旅にたった。 《第 1 次独立戦争=オーストリア帝国との戦い》 1848 年 2 月にフランスで勃発した 2 月革命は、翌月以降にはヨーロッパ各地に伝播し 3
月革命となった。1848 年の春に起こったこの 2 つの革命を総称して「諸国民の春」、あるい
は 1848 年革命という。ウィーン体制の事実上の崩壊へと突き進んだ。これはイタリア各地
にも波及した。 サルデーニャ王国(図 14-27 参照)の第 7 代国王カルロ・アルベルト(在位:1831~49
年)は、1848 年 3 月 23 日、イタリア各地で反オーストリア・反王政の暴動が発生すると、
これに乗ずる形でオーストリア帝国に宣戦布告を行った。初めはサルデーニャ王国軍が優
勢のようにみえたが、オーストリアのラデツキー将軍がヴェローナからマントヴァにかけ
て堅固な要塞を築いて堪え忍び、本国からの援軍を待ち、6 月に入って攻勢に転じると形勢
2009
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
は逆転し、オーストリア軍はサルデーニャ軍を破った。サルデーニャ王アルベルトは、8000
人の損害を出してトリノに引き返してしまった。 独立戦争のさなかの 1848 年 6 月下旬、南アメリカに亡命していたガリバルディが、14 年
ぶりにイタリアに戻り、義勇軍を組織して、8 月いっぱいオーストリア軍への抵抗を続けた
が、情勢を好転させるにはいたらなかった。 イギリスに亡命していたマッツィーニは、これより早く 4 月初めに、これも 17 年ぶりに
イタリアに戻ってミラノで活動していた。 ○1848 年革命とローマ共和国・ヴェネツィア共和国 教皇領の教会国家では、1848 年 5 月に新政府ができ、議会選挙が実施された。9 月に教
皇ピウス 9 世の任命になる穏健な政府が発足した。11 月 15 日、登院してきた政府の実力者
ベッレグリーノ・ロッシが民衆に取り囲まれて刺殺された。教会国家の状況はここから急
展開しはじめ、翌 16 日、大規模な民衆デモがローマ市内を行進し、教皇への請願のためク
イリナーレ宮に押しかけた。身の危険を感じた教皇は、24 日、ナポリ王国領の要塞港ガエ
タに避難した。 この事態を受けて、ガリバルディをはじめ民主派の面々がイタリア各地からローマに集
まってきて、1849 年 1 月 21 日、21 歳以上の男子普通選挙による制憲議会選挙が実施され、
2 月 5 日に開会した議会は、9 日にローマ共和国の成立を宣言し、憲法制定の作業に着手し
た。 教皇ピウス 9 世は、共和制に加担した者の破門を宣告し、オーストリアに軍事介入を要
請した。オーストリアの軍事介入の気配が濃厚になってきた事態に直面して、サルデーニ
ャ王国のカルロ・アルベルトは、ふたたびオーストリアと戦う決断を下し、1849 年 3 月 12
日に戦闘再開を宣言したが、軍事力の劣勢は最初から明らかで、23 日に自国領のノヴァー
ラで大敗を喫し、10 日足らずで戦争は終わった。完全に立場を失ったアルベルトは退位し
てポルトガルに亡命、同年死去した。ヴィットーリオ・エマヌエーレ 2 世(サルデーニャ
国王在位:1849~1861 年。イタリア国王在位:1861~1878 年)が父王を継いで即位した。 ローマ共和国では、補充選挙で議員に選出されたマッツィーニが、議会活動に加わり、
教皇の世俗権を無効としたほか、聖職者財産の国有化、司法・教育制度の改革、出版の自由、
税制の改革など種々の措置をとって変革を進めた(その後、マッツィーニは、ガリバルデ
ィ、カヴールと並ぶ「イタリア統一の三傑」の 1 人といわれている)。 ところが、フランス大統領に就任したばかりのルイ・ナポレオンが、オーストリアの介
入を制する形でフランス軍の派遣を決め、1849 年 6 月初めまでに 3 万 5000 人の兵を派遣し
た。ローマ共和国はガリバルディらの軍事指導のもとに正規軍と義勇兵を合わせた約 2 万
2010
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
人の兵でフランス軍を迎え撃ったが、1 ヶ月におよぶローマ市内での攻防の後、7 月初め、
ついにフランス軍が勝利を収め、ローマ共和国は崩壊した。 この間、4 月から 5 月にかけて、オーストリア軍がトスカーナを制圧して大公の支配権を
回復させ、また 48 年革命の口火を切って独立を宣言していたシチリアにはナポリ軍が攻め
入って両シチリア王国も復活させた。 残っているのはヴェネツィア共和国だけとなった。ローマを脱出したガリバルディらは、
イタリアにおける革命の最後の砦であるヴェネツィア共和国に結集する方針を立て、アペ
ニン山脈越えの強行軍によってヴェネツィアへと向かった。 ヴェネツィア共和国は、マニンを指導者として、1 年以上にわたってよく持ちこたえてい
たが、1849 年 5 月下旬からオーストリア軍の砲撃にさらされた。孤立したヴェネツィアは、
食料の欠乏に加えてコレラの発生に悩まされ、8 月下旬、とうとう力尽きて降伏した。イタ
リア各地における 1 年半におよぶめまぐるしい情勢の推移ののち、ヴェネツィア共和国の
崩壊を最後に 1848 年革命は終息した。 ○自由主義の拠点サルデーニャ王国のピエモント サルデーニャ王国を除くイタリアの諸国家は、すべて憲法を破棄して 1848 年以前の旧体
制に戻った。ただサルデーニャ王国だけが、前国王カルロ・アルベルトの発布した憲章を
存続させ、議会制に基づく自由主義的政治を継続した。 諸国政府が革命の加担者に対する弾圧を強めるなかで、サルデーニャ王国は、追及の手を
逃れた活動家たちの受け入れ策をとり、多いときにはイタリア各地からの亡命者が 5 万人
を超えてピエモントに滞在した。同王国の首都トリノと海港都市ジェノヴァは、各地から
集まった活動家たちの政治的交わりの場となった。ピエモンテの近代化を進めるうえで、
指導的な役割を演じたのはカヴールであった。 カヴール(1810~61 年)は、青年期に広大な農場を経営するかたわら、好んでフランス
とイギリスに旅に出かけ、両国の行政組織、議会制度、金融機関、通商政策、鉄道敷設な
どを間近に観察して、知識の吸収に情熱を傾けた。1848 年、新たに開設されたサルデーニャ
王国議会の議員に選出され、1850 年に農商務相、次いで財務相となり、1852 年には首相の
座に就き、1861 年に死去するまでその職にあった。 カヴールは徹底した現実主義者で、無秩序と反動を招く革命は非生産的であると主張し
た。そのため、革命主義者で、妥協を許さない共和派であるマッツィーニとは馬が合わな
かったといわれている。 カヴールはサルデーニャ王国近代化のための政策を積極的に推し進め、近代産業の育
成・軍隊の近代化を進めた。彼が最初に手がけたのは保護主義から自由貿易への通商政策
の転換で、関税を引き下げてヨーロッパ諸国にピエモントの市場を開放する措置をとった。 2011
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ピエモント経済の基盤は農業で、農産物が主要な輸出品であるが、自由貿易への転換に合
わせて、農業生産のいっそうの拡大とともにインフラストラクチャーの充実が課題となり、
彼は鉄道、海運、灌漑、銀行などの諸事業に財政上の優遇措置を与えて、公的資金を積極
的に投入した。それに伴う財政支出の増大は、直接税の引き上げやパリとロンドンの金融界
からの資金調達によって対処したが、この時期の財政運営で生じたサルデーニャ王国の累
積赤字は、他のイタリア諸国のそれをはるかに上回り、次世代に重い負担を残すことになっ
た。 カヴールは内政と同様、国際関係においても巧みな外交手腕を発揮した。イタリア統一
のためには、当時オーストリア帝国によって支配されていたロンバルディア、ヴェネツィ
アを奪回することが必要不可欠であった。しかし、カヴールは、サルデーニャ単独でオー
ストリアとの戦いに勝利することは難しいと考え、1855 年、クリミア戦争(1853~56 年)
へフランス・イギリス側で参戦し、1 万 5000 人の将兵を送り、まず統一に有利な国際関係
を形成した(ロシア史のクリミア戦争のところで述べた)。 その上でフランスのナポレオン 3 世へ援軍を要請した。ナポレオン 3 世は軍事援助の見
返りにサヴォワ、ニース両州(図 14-27 参照)の割譲を迫り、カヴールもこれを渋々約束
した。この取り決めがプロンビエールの密約と称されるものであった。併せて、サルデー
ニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ 2 世の娘マリア・クロチルデとナポレオン 3 世の
従弟ナポレオン公との結婚準備なども約束された。 ○第 2 次イタリア独立戦争 サルデーニャ王国は、1859 年 4 月 29 日にオーストリアに宣戦布告した。ナポレオン 3 世
みずからが率いるフランス軍もただちに参戦した。これが第 2 次イタリア独立戦争だった
(イタリア統一戦争ともいう)。それぞれの兵力は、フランス軍 12 万 8000 人、サルデーニ
ャ王国軍 7 万人、オーストリア軍 22 万人でほかにガリバルディの率いる義勇部隊「アルプ
ス猟歩兵旅団」の 3200 人がいた。戦闘はフランスとサルデーニャ王国の同盟軍が優勢のう
ちに展開したが、オーストリア側でも皇帝フランツ・ヨーゼフが陣頭指揮に立ち、6 月 24
日、ソルフェリーノとサン・マルティーノの 2 カ所(図 14-27 参照)で両軍とも総力を投
入しての決戦となった。双方に多数の死傷者が出る戦闘の後、かろうじて同盟軍が勝利を
おさめた。 このうち、6 月 24 日のソルフェリーノの戦いはフランス・サルデーニャ連合軍、兵力 11
万 8600 人、 大砲約 400 門 、オーストリア軍は兵力約 10 万人(デュナンによれば 17 万人)、
大砲約 500 門 で激突、まれにみる激しい戦闘となった。フランス軍は新式の旋条砲(ライ
フル砲)を装備していた。これは従来の滑腔砲(砲身内にライフリング(旋条)がない砲)
に比べて射程と命中率に優れていた。この戦闘で連合軍は約 1 万 7000 人を失い、オースト
2012
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
リア軍は約 2 万 2000 人を失った(この悲惨な戦場を目撃した実業家アンリ・デュナンは『ソ
ルフェリーノの思い出』を著したが、それが契機となって世界最初の国際機関・赤十字国
際委員会の創設(1864 年)となった)。 この戦いの後まもなく、ナポレオン 3 世とフランツ・ヨーゼフ 1 世は和平交渉を開始し、
一方の当事者であるヴィットーリオ・エマヌエーレ 2 世を排除して、講和を結んでしまっ
た。ナポレオン 3 世は統一イタリアの誕生によってフランスの対抗勢力が増えることを警
戒して、適当なところで講和を結んでしまったのである。 7 月 11 日、ヴィッラフランカの和約が締結され、オーストリア帝国はロンバルディアと、
ヴェネツィアをのぞいたヴェネトをサルデーニャに割譲、同時にイタリアへの不干渉を約
束した。サルデーニャ首相カヴールは条約の内容に不満であったが、フランスの軍事援助
を失わないためには同意するしかなかった。ヴィットーリオ・エマヌエーレ 2 世は和約を
受け入れ、カヴールは首相を辞任した。ひとまず第 2 次イタリア独立戦争は終結した。 ○イタリア中部の統一 独立戦争が進行している間に、中部イタリアのパルマ公国、モデナ公国、トスカーナ大公
国、それに教会国家のエミリア地方で反乱が生じ、それぞれ臨時政府が樹立された(図 14
-27 参照)。いずれの政府もヴィットーリオ・エマヌエーレを国王に戴く方針を示していた。
民主派の活動が活発化し、再びローマが民主派の目標になってきた気配に、ナポレオン 3
世とカヴールはそれぞれの立場から危機感を抱き、ふたたび両者の接近がはかられた。二
人は、サルデーニャ王国が中部イタリア諸国を併合するかわりに、サヴォイアとニースをフ
ランスに譲渡することで再び合意に達し、カヴールは 1860 年 1 月、首相に復帰して自由主
義派の主導権の回復に動き始めた。 3 月中旬、臨時政府の形成されていた中部イタリア諸国においてサルデーニャ王国との併
合の賛否を問う住民投票が実施され、圧倒的な賛成票で併合が決まった。これでイタリア中
部までは統一される見込みはついた。あとは南イタリアとシシリー島だった。 次いで 4 月中旬、サヴォイアとニースで住民投票が行われ、両地のフランスへの帰属が
決まった。ニースはガリバルディの生地で、彼は住民投票を阻止するための実力行使の計
画まで練ったが、自制した。ガリバルディは「革命を外交化する」カヴールへの批判を強
めた。しかし、彼は、イタリア独立のためにシチリアに行動を転じることで、イタリア全
体の状況を一気に転換することを考え始めた。 ○ガリバルディのシチリア・ナポリ遠征 遠征はあわただしく準備され、5 月 6 日未明、図 14-27 のように、ジェノヴァ近くの港ク
ァルトから 2 隻の船で出航し、11 日、シチリア島西部の港町マルサーラに上陸した。上陸
したのは 1089 人と数えられており、ここから千人隊(赤シャツ隊)の名が生まれた。ガリ
2013
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
バルディの赤シャツ姿はなじみになっていたが、このときは赤シャツは 50 着ほどしか用意
されておらず、ほとんどの隊員は普段着のままの参加であった。遠征隊は急遽決まったの
で、参加できたのは遠征の報せを受けて出航に間に合った志願者たちだけであった。 遠征隊は上陸後、シチリアの首都パレルモを目指して進軍を始め、ガリバルディは 13 日、
「イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレの名において、シチリアの独裁権を掌握する」
という宣言を発した。ブルボン側の第 1 陣は 50 キロのところに約 3000 人の兵が小高い丘
に陣取り、遠征隊を迎え撃つ態勢を整えていた。5 月 15 日、暑い陽射しの照りつけるなか
で戦闘は始まり、遠征隊は一時は力つきて退却を考えざるを得ない戦況になった。
「ここで
イタリアが生まれるか、滅びるかだ」とガリバルディが叫んで奮起を促したとされ、つい
に 6 時間余の死闘を制したのはガリバルディ軍だった。遠征隊は死者 30 数人、負傷者 180
人だった。 5 月 27 日、パレルモ市内へ突入。市民の蜂起と合流して 3 日間の市街戦を制した。ブル
ボン軍はメッシーナに撤退した(図 14-27 参照)。ガリバルディは内閣を組織し、行政の
執行を遠征隊の政治参謀役であるクリピスに委ねた(クリピスはのちにイタリア王国の首
相となった)。 6 月下旬、3 軍団に分れて全島の掌握と南イタリア半島への進攻を目指して東海岸に向か
った。このころには、北イタリアからの後続隊が、性能のいい武器を携えて続々とシチリ
アに到着しており、遠征隊は 1 万人を超える規模になっていた。7 月下旬、メッシーナ近く
でブルボン軍を破って、シチリア島からのブルボン軍の追放に成功した。 メッシーナ海峡の対岸の防衛が堅く、遠征隊の第 1 陣が海峡を渡ってイタリア半島に上
陸したのは 8 月 18 日だった。ブルボン軍の正規兵 5 万人がナポリ北方のヴォルトウルノ川
に陣を敷いた。ガリバルディ軍も 5 万人を数えるにいたった。10 月 1 日、両軍は決戦に臨
んだが、勝負は互角で、ブルボン軍はナポリ奪回ができず、ガリバルディ軍はローマへの
進路を断たれた。こうしたなかで、10 月 21 日に住民投票が実施され、両地域ともサルデー
ニャ王国との併合が圧倒的多数の賛成票を得た。こうしてサルデーニャ王国はシチリアと
南イタリアを併合することになった。 サルデーニャ王国はこれより前、ガリバルディのローマ進攻の計画に圧力をかけるため、
国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ 2 世本人が率いる正規軍を、ナポリに向けて出動させ
た。10 月 10 日、サルデーニャ王国軍は両シチリア王国内に入った。ブルボン軍は挟み撃ち
にあうのを恐れて、ガエタの方向に移動した。ガリバルディは 10 月 26 日、ナポリ北方の
テアーノまで国王を出迎えに赴いた。 両者の会見はよそよそしく、冷ややかなものだった。短い会話の中で、国王はガリバル
ディ軍の正規軍への従属を求めた。 2014
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
11 月 8 日、ガリバルディは住民投票の最終結果をヴィットーリオ・エマヌエーレに提出
したうえで、今後 1 年間のシチリアと南イタリアの施政権を自分に与えてくれるよう申し
出たが、冷たく却下された。 翌日、ガリバルディは失意のまま、ナポリを去り、カプレラ島(サルデーニャ島の北西
部、マッダレーナ島の東にある島)に戻った。ガリバルディがナポリを離れるとすぐに、
ガリバルディ軍に解散命令が出され、5 万人にのぼる義勇兵は冷たいあつかいを受けた。こ
のあと、サルデーニャ王国正規軍によるガエタ攻略でブルボン軍も解体された。 ○イタリア王国の時代 2 年間の激動を通じて、ヴェネトとローマを除くイタリアの大部分はサルデーニャ王国に
併合された。せいぜいのところ北イタリア王国の形成しか構想していなかったサルデーニ
ャ王国が、ガリバルティなどの諸力に押されて、図 14-27 のように、地中海にのびるイタ
リア半島からシチリアまでを一挙に組み込むことになった。イタリアの統一は、つまると
ころイタリアのサルデーニャ王国化として実現したのである。 1861 年初めに総選挙が実施され、イタリア各地から選出された 443 議員がトリノに集ま
った。この時点での王国の人口は 2200 万人で、制限選挙制による有権者は人口の 2%弱の
42 万人、投票者は 24 万人だった。議会は 3 月に、ヴィットーリオ・エマヌエーレをイタリ
ア王とすることを決め、イタリア王国が成立した。 カヴールは、イタリア王国首相(閣僚評議会議長・初代)、外務大臣(初代)となったが
(3 月 23 日)、6 月 6 日、マラリアにより 50 歳で死亡した。卓越した外交術を駆使してイ
タリア統一を成し遂げた功績から後世「神がイタリア統一のため地上に使わした男」の呼
び名がついた。 イタリア王国はアルベルト憲章をはじめとして、行政、財政、軍事、教育など主要な諸
制度をすべてサルデーニャ王国から継承し、首都の座もトリノが占めた。1865 年、首都は
トリノからフィレンツェに遷都された。 1866 年の普墺戦争(第 3 次イタリア独立戦争)ではプロイセン側として参戦し、オース
トリア領土のうちトレンティーノとトリエステを残してヴェネト(ヴェネツィア)を併合
した(図 14-27 参照)。
1870 年に起こった普仏戦争によりローマ教皇領を守護していたフランス軍が撤退すると
これを占領し、翌年ローマへ遷都した。このようにしてイタリア統一はなった(日本の明
治元年は 1868 年である)。この遅れてきた植民地主義国イタリアは、さっそく、欧米列強
と同じように植民地獲得を模索し、帝国主義政策を展開しはじめた。
○第 1 次エチオピア戦争の敗北 2015
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
国内統一が遅れて、列強のなかで植民地獲得競争に遅れをとったイタリアは、アフリカ
の中で、まだ、どこも手を出していなかったエチオピアに目をつけた。 エチオピア帝国は 13 世紀以来、ソロモン朝が続いていてアフリカで唯一独立を保ってい
るといわれたが、実際はソロモン朝の勢力は 16 世紀以降衰え、諸侯が抗争する群雄割拠の
時代となっていた。戦国時代さながらのエチオピアを再統一したのがテオドロス 2 世(在
位:1855~1868 年)であり、ソロモン朝中興の主とされたが、1868 年、イギリスの派遣し
た大規模な遠征隊と戦争(マグダラの戦い)になり惨敗し、この結果にショックを受け自
殺した。 このとき、エチオピア帝国内の自治王国ショアの王メネリク 2 世は、自国内に干渉を強
めるイギリスへの対抗から、イタリアの支援を受けてエチオピア北部のティグレ地方・ア
ムハラ地方を征服し、1889 年 3 月エチオピア皇帝への即位を宣言した(皇帝在位:1889~
1913 年)。同年 5 月、メネリク 2 世はイタリアとの友好条約(ウッチャリ条約)を締結した。
その内容は、イタリアにエチオピアにとって紅海沿岸への玄関口となるエリトリア(図 14
-55 参照)の支配を認めるかわりに、メネリク 2 世がエチオピアを独立国家として統治す
ることをイタリアに認めさせるというものであった。 しかし、実際は条約のイタリア語の内容とエチオピアのアムハラ語の内容が異なってお
り(おそらくエチオピアの植民地化をうかがっていたイタリアが記したものであろうが)、
イタリア語では、エチオピア全土をイタリアの保護領とする、という内容になっていた。
1893 年、メネリク 2 世はウッチャリ条約を破棄したが、イタリアはエチオピアへの圧力を
強め、1895 年エリトリアに接するティグレ地方に侵攻を開始し、
(第 1 次)エチオピア戦争
を開始した。 これを迎え撃つメネリク 2 世は、皇帝への即位以来、多額の資金を投じて、フランスの
支援でフランス式の大砲や機関銃で武装した陸軍を育成していた。1896 年 3 月、アドワの
戦い(図 14-55 参照)でエチオピア軍 15 万人とイタリア軍 1 万人が激突、エチオピア軍 1
万人、イタリア軍 8000 人の兵士を失って、イタリア軍の決定的敗北に終わった。1896 年
10 月アディスアベバ条約が締結され、イタリア領のエリトリアとの国境線が厳密に確定さ
れ、またイタリアがエチオピアの独立を承認することが確認された。
○伊土戦争 第 1 次エチオピア戦争の敗北でアフリカ進出に失敗したイタリアは、1908 年から始まっ
た青年トルコ人革命によりオスマン帝国内が混乱すると、これをチャンスと見て、イタリ
アはオスマン帝国下のアフリカ・リビア(図 14-55 参照)に目をつけた。 1911 年 9 月、オスマン帝国下のリビア領内のイタリア人に対するトルコ官憲の圧迫があ
ったことを理由に小さな衝突事件が発生した。ドイツがオスマン帝国支援を明確に表明し
2016
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
たが、イタリア首相のジョリッティは世論に押される格好で衝突事件を理由にオスマン帝
国にリビアを割譲するよう最後通牒を提示した。期限の 24 時間を過ぎても帝国からの回答
がなかったため、翌日にイタリアはオスマン帝国に正式に宣戦布告し、伊土戦争(1911 年
9 月~1912 年 10 月)が勃発した。 まずイタリア海軍がオスマン海軍を破って 10 月には地中海の制海権を獲得してアナトリ
アからの増援を遮断した。イタリア海軍は月末までに約 2 万人の陸軍部隊をトリポリ、ベ
ンガジなどの主要都市に上陸させた。オスマン軍を内陸の砂漠地帯に追いやり主要都市を
占領した。 一方、増援が困難となったオスマン軍は脆弱なリビア駐屯軍を補強するために、勇猛で
知られた現地のベドウィン兵を組織化することに着手した。このためイタリア陸軍は、オ
スマン軍のゲリラ戦に苦しめられた。イタリア陸軍は本国から増援を得て戦力を 8 万人と
したが、オスマン軍は勝ち目の薄いイタリア陸軍との正面決戦を避け、ゲリラ戦に徹した。 イタリア海軍は、1912 年 2 月にはベイルート、夏にはイスタンブルを砲撃して圧力を加
えた。この攻撃はオスマン海軍によって退けられたが、それまで静観していた列強各国は
戦火が拡がりバルカン半島情勢に悪影響を与えることを危惧して戦争の調停に乗り出した。
列強国は自らが多くの植民地を保有していることからイタリアの植民地政策に理解を示す
立場にあり、イタリア側に有利な形で調停を進めていった。 オスマン政府はこれを不服とし戦争を継続する意思を見せたが、オスマン帝国がイタリ
アの進出に忙殺されている状況を、チャンスととらえたバルカン同盟(後述)がオスマン
帝国領内に侵攻を開始した(第 1 次バルカン戦争)。イタリアとの戦争に戦力の殆どを投入
していたオスマン帝国はバルカン方面に十分な兵力を送れず、首都陥落、ひいては国家存
亡の危機に立たされた。 かくしてイタリアとの継戦が不可能と判断したオスマン政府は 1912 年 10 月にローザン
ヌ条約を締結し、トリポリタニア(現在のリビアの首都トリポリを含む地域)、キレナイカ
(リビアの 1 地域)の領有権をイタリアに割譲した(図 14-55 参照)。このようにして、
遅れてきた植民地主義国イタリアは、はじめて念願の植民地を獲得し、併合地をリビアと
改めた。両国間の講和が成立した後も、イタリアというキリスト教徒による統治に対して
リビア人の抵抗は続いた。特にキレナイカの内陸部では現地を本拠とするスーフィー教団
である、サヌースィー教団を軸とした強力な抵抗運動が起こり、イタリア陸軍の駐屯軍は
この鎮圧に大きな労力を割くことになった。遅れてきた帝国主義者もやっとアフリカ北部
に植民地を獲得し、ヨーロッパ列強の末席につらなることになった。 【14-2-8】日本 2017
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
東洋の島国日本も 19 世紀後半、開国すると創造と模倣・伝播の原理で欧米列強から近代
的統治システムと富国強兵・殖産興業のシステムを導入して、早くも 19 世紀末から 20 世
紀初めには日清・日露の戦争に勝利し、「遅れてきた植民地主義者その 3」となった。 ○ペリー来航と日本開国 1853 年 7 月、浦賀沖に 4 隻の黒船が現れた。そのうち 2 隻は巨大な汽走(蒸気)軍艦の
ミシシッピ号(1692 トン)とサスケハナ号(2450 トン)で、当時の世界最大・最先端の艦
船であった。黒煙をあげ、風もないのに自在に動いていた。 浦賀の砲台は沈黙し、ペルー艦隊の大砲も火を噴かなかった。浦賀奉行所の 1 隻の小舟
が近づいて、「I can speak Dutch!」(「私はオランダ語が話せる」)と大声で言った。甲
板上の水兵が手を振った。ペリーの副官コンチとの話し合いが始まった。国交のない両国
の初対面であった。最初の出会いが大事である。意思疎通ができるかどうかはきわめて大
切である。このときの最初の出会いは,話し合いであった。日米双方は,事前に可能なか
ぎりの情報を収集・分析し、政策に生かそうとしていた。 19 世紀はヨーロッパが進出した南北アメリカも、アフリカも、アジアも戦争の時代であ
った。ぼやぼやしていると、難癖をつけられて、砲艦外交に訴えられる。戦争に敗北する
と「城下の盟い(ちかい)」としての条約を結び、賠償金を払わされ、領土を割譲させら
れた。これが当然と考えられていた。アヘン戦争(1839~42 年)の南京条約がその典型で
あった。さらに厳しい場合には、条約さえ結ぶことなく、国家の主権の三権(立法・司法・
行政)をすべて失い、植民地とされた。アフリカ、中東、インド、東南アジア、植民地化
はそこまでやってきていた。 幕末開国については、徳川幕府が無能無策であったこと、ペルーの強力な軍事的圧力が
かかったこと、したがって日米和親条約は極端に不平等な条約になったことなどが、いわ
れているが、これは幕府を倒して成立した明治政権下でこいに強調されたことで(勝てば
官軍である)、実際のところ、幕府は国際経験がないわりには(清国の外交などと比べる
と)最大限の努力をしていたと考えられている。 アメリカは米墨戦争に勝利して西海岸を領有し(カルフォニアのゴールドラッシュの直
後だった),太平洋の彼方を展望できる時代に入った。いずれは太平洋を結ぶ航路も必要
になってくる、自由貿易も盛んになる、こうした名目を主張し、アメリカの東インド艦隊
に最先端の蒸気船を配備する必要があるとしてきたのである。そこで、具体的に、フィル
モア大統領がペルーに与えた日本派遣の目的は,①日本国沿岸で遭難したアメリカ船舶・乗
員・財産の救助と保護、②日米両国の自由貿易、③カリフォルニア―中国間の定期汽船航路
の石炭貯蔵地の確保などであった。 2018
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
よくペルーは砲艦外交を行ったといわれるが、もともとアメリカ憲法では交戦権(宣戦
布告権)は大統領にはなく、上院に属するため、ペリーは出港前に、大統領による「発砲
厳禁」の至上命令を受けていた。イギリスのように内閣が交戦権を持つ国とは違って,ア
メリカはもともと「砲艦外交」を行うことはできなかったのである。 ペルーが旗艦ミシシッピ号に乗ってアメリカ東海岸のノーフォーク軍港を出港したのは
1852 年 11 月 24 日で、大西洋を南下し,アフリカ南端の喜望峰をまわってインド洋を北上
し、東南アジア・中国を通って、浦賀沖に姿を現したのは、1853 年 7 月 8 日であった。ペル
ーは太平洋を横断してきたのではなく、8 ヶ月近い月日をかけて、地球の 4 分の 3 を航海し
て来たのであった。 幕府は来航から 6 日目に久里浜の仮設応接場にペルー一行を上陸させ、アメリカ大統領
国書を受理した。ペルーは、来航の目的を簡単に述べただけで、大統領国書への即答を幕
府には要求せず、わずか 9 日間で去っていった。あとでペルーの日記でわかったことであ
るが、1 ヶ月以上の食糧を有していないため(この艦隊の弱点は補給にあることをペルーは
よく知っていた)、交渉が長引けば自ら墓穴を掘ることであり、ペルーはこれを恐れて早々
に出直したのであった。砲艦外交など考えてもいなかったのである。 《日米和親条約と日米修好通商条約》 ペルーは 7 ヶ月後の 1854 年 2 月の厳冬期に 2 度目の来日をした。前年,離日以降、ペル
ーは中国沿海の各港や琉球、小笠原などにいて、補給をはたした(アメリカへは帰ってい
ない)。 今度の交渉の場は横浜村に建てられた仮設の応接場であった。ペルーはアメリカ条約草
案と清国と結んだ望厦条約を参考に提出した。望厦条約は、イギリスが清朝とアヘン戦争
の結果として結んだ南京条約を参考としてアメリカが最恵国待遇を主張して得た条約であ
った。したがって平和・親睦・通商の三つを含んでいたが、清国がイギリスに南京条約で認
めた内容とほぼ同じで、関税自主権の喪失、治外法権などを定めた不平等条約であった。 ペルーは,日本との条約を一挙に完成することは困難と考えて、2 段階に分ける方針でい
た。第 1 段階は国交樹立の一般的な内容とし、第 2 段階として通商にかかわる詳細な条約
を結ぶという案であった。そして、ペルーは第 1 段階の平和・親睦(これを合わせて「和親」
と呼ぶ)に限定し、通商は後に別の外交官によって実現するつもりでいた。 交渉の合間に、ペルー側は土産の蒸気機関車の 4 分の 1 モデルを荷揚げして 2 キロメー
トルのレールをしき、石炭を焚いて走らせて幕府の役人を喜ばせた。また彼が持ち込んだ
通信機には、日本人は見えない距離での交信に目を丸くした。ほかにも作物の貴重な種子
見本などを土産にしていた(ペルーは植物学を趣味にしていた)。いずれも当時の最先端
2019
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
技術の結晶であった。ペルーは、黒船を軍事力の象徴としてではなく、文明の象徴として
活用し、幕府にそれとなく圧力をかけた。 1854 年 3 月に日米和親条約がまとまった。全 12 条の条約のうち、主な内容は①下田・箱
館の開港、②海難事故の救助経費を双方が負担、③漂流民と渡米人民の(人道的)取り扱
い、④アメリカ人は日本の「正直な法度には服従する」、⑤18 ヶ月以降、アメリカの領事
または代理人の駐在を許可する、というものであった。 貿易やそのための「居留」など、望厦条約にある通商問題は和親条約から姿を消し、新 たな交渉事項となった。代わりに、交渉のためのアメリカ人外交官の下田駐在(⑤)が明
記された。この条項に従って、1856 年、ハリス総領事が来日、交渉のすえ 1858 年に日米修
好通商条約が締結され,横浜など 5 港の開港を取り決めた。 《交渉条約と敗戦条約》 日本開国は、戦争などによる条約ではなく交渉条約の日米和親条約の結果であった。そ
れに基づく日米修好通商条約も、同様に交渉条約であった。この 2 種類の条約以外には,
開国・開港に関する条約はない。両条約は明治維新政府でもそのまま継承され、条約改正
まで続いた。 国際法の最恵国待遇により、他の列強とも条約を結んだが、その内容は「同等以下」で
ある。日米和親条約に対してはオランダとロシアが要求、日米修好通商条約に対してはオ
ランダ、ロシア、イギリス、フランスが要求し、幕府は計 5 ヶ国と通商条約を締結した。 19 世紀に日本と同じような立場にあって開国した清国について参考までに述べると、清
国は交渉条約でなく、すべて敗戦条約であった。まず、アヘン戦争の敗戦による南京条約
(1842 年)、第 2 次アヘン戦争(アロー戦争)の天津条約(1858 年)と北京条約(1860 年)、
清仏戦争の天津条約(1885 年),日清戦争の下関条約(1895 年)、そして北清事変の義和
団議定書(1901 年)と続いた。そのつど、懲罰としての賠償金と領土割譲がともなった。 これは 1 ヶ国との条約だけではなかった。以下、右ならえと欧米列強との条約が結ばれ
た。最恵国待遇は、列強のうち一番乗りを果たした条約締結国が優位に立つが、後続の列
強も「同等以下」の条約権益を確保できるという列強のみに有利なルールであった。これ
に基づき、中英南京条約(1842 年)に対して清米望厦条約および清仏黄埔(こうほ)条約
(いずれも 1844 年)が結ばれた。以下、天津条約、北京条約なども同様に,複数の列強が
最恵国待遇を主張し,清国と条約を結んだ。 交渉条約は,双方の議論の結果であるのに対して、敗戦条約は勝者が敗者に力ずくで押
しつけるものであり、可能なかぎりの権益を敗戦国から引き出そうとするものである。 具体的に条約交渉の日米修好通商条約(1858 年)と戦争条約の天津条約(1858 年)・北
京条約(1860 年)を比較すると、関税自主権を喪失する点は両者に共通しているが、これ
2020
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
はドイツなど欧米の後発資本主義国が「保護関税」を設けて,先進資本主義に対抗できた
のと比べると、あきらかに不利であった。 しかし、もっとも大きな違いは、敗戦条約には「懲罰」として賠償金支払い義務と領土
割譲がともなうと同時に、有形無形の要求の圧迫がともなった。敗戦条約は、賠償金支払
いで富が流出し、財政赤字を招来するものである。領土割譲は政治的な怨念を生むもので、
必ず後世での報復が待ち受けているものである。 《比較的順調に船出した日本》 それに対して日本の開国を決めた日米和親条約(1854 年)と、その 4 年後の日米修好通
商条約(1858 年)は、いずれも一門の砲火も交えず、戦争をともなっていなかった。幕府
はアヘン戦争後の清国の状況を調べ、慎重にことを進め、国内の攘夷論や倒幕派の扇動に
乗らないで、最良の形で国際社会に日本を軟着陸させたのである。これは 19 世紀の世界で、
清国、朝鮮(あるいはオスマントルコ、エジプトなど)と異なって、日本が比較的順調に
船出できた。その理由の一つとして、このペルー来航時の開国が平和裡に進んだこと、つ
まり、幕府の当局者がきわめて順当な対応をしたことは、もっと評価されてもよいと考え
られる(出だしにつまずくと、以後、悪循環におわれ、結局、植民地になってしまうとい
うのが,当時の世界の歴史であった)。 しかし、その後、これらの条約は不平等条約であると長く批判された。確かに初発の条
約が、後代を厳しく拘束した。日本の結んだ条約が持つ「不平等性」の最大のポイントは、
条約の有効期限が明記されていなかったことである。これは経験不足からきたことだった。
そのため、条約改正を要求しても、ほとんどの国が取り合わず、また取り上げようとする
国はあったが、列強の足並みが揃わず、不発に終わった。最恵国待遇が、条約改正のとき
にも、右ならえであり、足かせになったのである。 ○明治政府の改革 前述したように幕府はアメリカと日米和親条約を締結し、その後アメリカの例にならっ
てヨーロッパ諸国とも同様の条約を締結し、事実上「開国」した。下級武士や知識人階級
を中心に、「鎖国は日本開闢(かいびゃく)以来の祖法」に反したと、その外交政策に猛
烈に反発する世論が沸き起こり、「攘夷」(対外排除)運動として朝野を圧した(この攘
夷論は前述した清朝でも起こったことで、結局、清朝は攘夷論でつぶれてしまった)。 この「世論」の精神的支柱として、京都の天皇の存在がクローズアップされた。 このた
め永い間、幕府の方針もあり、政治的には静かな都として過ごしてきた京都がにわかに騒
然となっていき、「幕末の騒乱」が巻き起こっていった。日本が欧米列強の介入の危機を
のりきり、うまく明治政府をスタートさせたのはこの「攘夷」運動をうまく克服したから
である。 2021
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
幕末の騒乱、大政奉還、王政復古の大号令、戊辰戦争を経て、明治維新となった。 明治政府は、1868 年 3 月に五箇条の御誓文によって新しい政治方針を示し、同年 9 月に
は年号を明治と改めた。 新政府は欧米列強の軍事的・経済的圧力に対抗するために、天皇を中心とした中央集権
国家の構築を目指した。新政府は、1869 年には各藩に版籍奉還を命令し、1871 年には、廃
藩置県を行った。地租改正によって従来の米年貢を廃止し、金納地租に代えて財政基盤と
した。国民には、江戸時代の自由の制限をなくし、身分の撤廃を行い四民平等とし、日本
全国の行き来の自由を認め、職業の選択の自由など様々なことを改革していった。 また、富国強兵を国の重要政策とし、郵便制度の整備、鉄道の敷設、輸出産業の育成(一
例が富岡製糸場)を行い(殖産興業)、1873 年、徴兵制を実施した(戸主は徴兵を免除され、
主に戸主以外の次男・三男層や貧農層の子弟が兵役を担った)。 《お雇い外国人、留学生、海外使節団》 各種の技術指導のため、政府や民間が雇った外国人、「お雇い外国人」が、日本の近代
化に大きく貢献した。清国のような中華思想・大国意識が日本にはなく、優れたもの、役
に立つものはすなおに取り入れようとする日本人の性格が中国と日本のその後に差をつけ
たようである。 お雇い外国人の分野は,政治、法制,産業、財政、教育、文化、技術、医学など多岐に
わたった。明治初年から 22 年までの統計によると,総数が 2299 人、国籍別ではイギリス
が筆頭で 928 人、ついでアメリカ、フランス、中国、ドイツの順であった。分野別では、
工部省(明治 3~18 年)が 749 人と最多であった。都市インフラ関連の事業が多かった。
鉄道、船舶,工作技術、電信、灯台などの設計、建設、運用などに就いた。いずれのお雇
い外国人に対しても、日本の方も、当時としては最高の俸給を出したが、彼ら外国人は「ヤ
ング・ジャパン」を支援する意志に燃えた一流人であった。 留学生は、すでに幕末期から薩摩・長州などの下級武士がイギリス、オランダ、アメリカ
などへ密航していた。伊藤博文、井上聞多(もんた)、新島襄などであった。攘夷の動き
は,1863 年の薩英戦争と 64 年の下関攻撃で終りをつげた。ここで欧米との戦争に発展しな
かったことは日本にとって幸運だった(攘夷思想をうまく転換させた。そのような意味で
幕府もうまく振る舞った)。幕府も薩長も相手を倒すために外国勢力(英仏)を利用しよ
うとしなかったことも、日本にとって幸いだった(欧米、アジアの歴史では勝つためには外
国勢力を利用することもよくあった)。 政府の海外使節団も、知識を世界に求め、外国での見聞を有効に使った。幕府の最初の
海外使節の派遣は、1860 年、日米修好通商条約の批准書を交換するために、太平洋をわた
った遣米使節(咸臨丸)であった。62 年には遣欧使節も出された。この二つの使節団に同
2022
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
行した一人が福沢諭吉であった。彼は中津藩出身の旧幕臣であったため、明治政府には参
画しなかったが、はじめてのジャーナリスト、教育者として活躍し、外国経験を生かした
『西洋事情』『文明論之概略』などは明治の日本人に強い影響力を与えた(もちろん、『学
問のすすめ』も大きな影響力を与えた)。 明治になってからの最大の海外使節は、岩倉使節団で、1871 年(明治 4 年)11 月に出発
し、1873 年(明治 6 年)9 月まで、アメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国を視察した。岩倉具
視を正使とし、政府のトップや留学生を含む総勢 107 人で構成されていた。その成果は『米
欧回覧実記』に事細かく記されているとおり、これには大久保利通など、発足したばかり
の明治政府の要人がほとんど参加しており、百聞は一見にしかずのとおり、当時の欧米の
実態を見聞し、その後の明治政府の方向づけをすることになった。 ○台湾出兵と琉球帰属問題 台湾出兵は、琉球の帰属がはっきりしたことで重要であった。 征韓論派が下野したことによって、政権を掌握した大久保は、征韓論はしりぞけたが、
不平士族の不満を抑えることは困難であることを悟り、懸案となっていた琉球漁民が台湾
の地元民に殺害された問題を理由に、1874 年(明治 7 年)、台湾出兵を行った。 この問題は、その 3 年前に起こっていた。琉球王国は江戸時代には日本(薩摩藩)と中
国大陸の清の間で両属関係にあり、日本で明治政府が成立すると、帰属を巡る政治問題が
起こっていた。1871 年 10 月、宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が
台風による暴風で遭難・漂流し、台湾南部に漂着したが、54 人が殺害された。 明治政府は清国に対して事件の賠償などを求めたが、清国政府は管轄外として拒否した。
当時の明治政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論などで対立があり、樺山資紀(かばやますけ
のり)などの薩摩閥は台湾出兵を建言していた。これらの強硬意見の背景には、廃藩置県
によって失業した 40 万~50 万人に上る士族の不満のはけ口を探していたことがあった。 西郷従道(隆盛の弟)率いる征討軍 3000 人(薩摩藩士を編成をした政府軍)は、1874 年
5 月 6 日に台湾南部に上陸し、6 月には事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。 大久保利通が北京に赴いて、清国の実力者李鴻章と交渉した結果、清が日本軍の出兵を
義挙と認め賠償金 50 万両(テール)を日本に支払うことと引き換えに、征討軍の撤兵が行
われることとなった。日本と清国との間で帰属がはっきりしなかった琉球だったが、この
事件の処理を通じて日本に有利に働き、明治政府は翌 1875 年琉球に対し、清との冊封・朝
貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令した。しかし琉球は清との関係存続を嘆願し、
清も琉球の朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。このため、帰属問題が
解決したのは日清戦争で日本が勝利した後のことであった。 ○江華島事件と日朝修好条規 2023
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
明治政府は朝鮮との近代的な国交を開こうと交渉したが、朝鮮は宗主国清朝との冊封体
制を盾に応じようとしなかった。そこで 1870 年、朝鮮との国交交渉を有利にするため、冊
封体制の頂点にたつ清朝と対等の条約、日清修好条規を締結した。これにより冊封体制の
維持を理由に国交交渉を忌避する朝鮮を、交渉のテーブルに着くように促したのである。 しかし、朝鮮との国交交渉はらちがあかなかったので、日本政府内で測量や航路研究の
ためとし朝鮮近海に軍艦を派遣して軍事的威圧を加える案が出て、それが実行された。 1875 年 9 月 20 日に朝鮮の首府漢城の北西岸、漢江の河口に位置する江華島付近(図 14
-28 参照)で、朝鮮西岸海域を測量中(示威運動)の日本の軍艦雲揚号が、江華島、永宗
島砲台から砲撃を受けた。軍船が他国の河川を無断で遡航することは国際法違反であり、
この場合さらに首都方面に行こうとしたことから、日本軍の行動は明らかに挑発だったと
考えられている。朝鮮からの砲撃の翌日、今度は日本側が艦砲射撃を行ったうえで、陸戦
隊と海兵隊を上陸させて第 2 砲台に放火し、3 日目には第 1 砲台にも放火し、朝鮮側の 35
人を殺害した。一方日本側の死傷者は雲揚の 2 人であった。これが江華島事件であった。 この事件が朝鮮政府に与えた衝撃は大きく、変革を拒否する鎖国攘夷勢力の反対をおさ
えて日本との国交回復を検討することになり、翌 1876 年に日朝修好条規(江華島条約)が
締結された。この条約では朝鮮が清朝の冊封から独立した国家主権を持つ独立国であるこ
とを明記したが、片務的領事裁判権の設定や関税自主権の喪失といった不平等条約的条項
を内容とすることなどが、その特徴であった。その後朝鮮は似たような内容の条約を他の
西洋諸国(アメリカ、イギリス、ドイツ、帝政ロシア、フランス)とも同様の条約を締結
することとなった。 日朝修好条規は、日本が日米間の条約をよく研究して結ばれたものであるから、日米修
好通商条約などと似ているが、日朝修好条規は、日本が欧米と結んだ諸条約と比較してよ
り過酷な内容を持った朝鮮にとって不平等な条約となっていた。やはり、武力で威嚇して
条約を結ばせた(朝鮮にとって)敗戦条約の第 1 号だったといえる。 ○大日本帝国憲法の制定 1885 年には太政官制を廃止し、内閣制を導入し、初代総理大臣には伊藤博文が就任した。 伊藤博文は、井上毅(いのうえこわし)、伊東巳代治、金子堅太郎、ロエスレルらと憲法
制定の準備を開始し、1888 年、枢密院を設置した。ヘルマン・ロエスレル(1834 年~1894
年)はドイツの法学者で 1878 年、外務省の公法顧問として来日した明治のお雇い外国人の
一人であったが、一顧問にとどまらず、後に内閣顧問となり伊藤博文の信任を得て、大日
本帝国憲法作成や商法草案作成の中心メンバーとして活躍した。 1881 年、明治政府が(イギリス流立憲主義から)プロシア流立憲主義に転換し(明治 14
年の政変)、井上毅が憲法の草案を作成したが、その草案は多くロエスレルとの討議、指導
2024
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
によるものだったとされる。彼の思想は保守的で国家の権限を強化する方向にある一方で、
法治国家と立憲主義の原則を重んじるものであった。 そして、1889 年(明治 22 年)、黒田清隆内閣の時、君主権が強いプロイセン憲法を模倣
した大日本帝国憲法が明治天皇から臣下に授ける形で制定された(欽定憲法)。 同憲法は、天皇は、第 3 条で神聖不可侵と規定され、第 4 条で統治権を総攬する元首と
規定された。 三権に関しては以下の通りである。 第一に、立法権であるが天皇は第 5 条において帝国議会の協賛を以って行使すると規定
された。しかしその職務は概ね、法律を裁可することのみであり、またその裁可には国務
大臣の副署が必要とされた。つまり、大臣副署がなければその法律は無効であり、さらに
天皇が裁可を拒むことは形式上可能であっても、事実上は不可能であった。この点は現在
のイギリス国王も同じといえる。また、帝国議会は選挙で選ばれる国会議員から成る衆議
院と華族から成る貴族院の二院で構成された。 第二に、行政権であるが、後の日本国憲法と異なり連帯責任ではなく、第 55 条で各国務
大臣は天皇を輔弼(ほひつ)し、個別に責任を負うものであった。 第三に司法権であるが、第 57 条で天皇の名において法律により裁判所が司法権を行うも
のであった。 同憲法の問題は、主なものに以下の二つが挙げられる。 第一は、第 11 条に規定されている天皇は陸海軍を統帥するという規定であった。内閣や
帝国議会は軍部に対し直接関与できなかった(これが、後の統帥権干犯問題を引き起こす
こととなった)。 第二は、第 21 条で規定された法律の範囲内において自由であるという臣民の権利であっ
た(後に治安維持法などで権利の制限が行われるようになった)。 大日本帝国憲法公布にともない、衆議院議員選挙法が公布され、直接国税 15 円以上を納
税した 25 歳以上の男子のみ(当時の全人口の 1.1%)に選挙権を与えた制限選挙を実施し、
1890 年に最初の帝国議会(第一議会)が開会された。 ○明治政府の富国強兵策と殖産興業 明治政府によって前述のようにプロイセン・ドイツにならって新憲法が制定され、法律
制度の改革も行われた。教育制度の大幅な拡充によって、日本の識字率は比類のない高さ
になった。暦も変更された。衣服の習慣も改められた。近代的な銀行制度も発達した。イ
ギリス海軍から専門家を招いて助言を求め、近代的な艦隊の創設がはじまり、プロイセン
の参謀将校が陸軍の近代化を手助けした。 2025
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
日本の軍人は西欧の陸軍士官学校、海軍士官学校に留学した。近代的な兵器が輸入され
ると同時に、国内の軍需産業の育成も行われた。国が先に立って鉄道網、電信、海運業の
創設に努力し、台頭しつつあった企業家と力を合わせて鉄、鋼鉄、造船などの重工業を育て、
繊維産業の近代化の後押しをした。これを殖産興業といった。 政府の補助金は、輸出を奨励し、海運業を振興し、新たな工業をつくりあげるために使わ
れた。日本の輸出、とくに絹および繊維製品の輸出は急激に伸びた。こうした殖産興業と
いう政策には、富国強兵という目標を達成しようとする強い日本政府の政治的意志があっ
た。日本人にとっては、経済力と陸海軍力は手を携えて伸びていくものだったのである。 このように日本は、官営工場の経営など政府の強力な後押しによって、19 世紀末までに
軽工業部門の産業革命が達成され、資本主義が発達した。しかし、日本の資本主義には、
次のような問題点があった。 ①市民層の成長や資本の蓄積が不十分で、政府が指導した。 ②官営工場の民間払い下げは、政府と大商人との結合をまねき、早くから財閥が形成され
た。 ③農村から徴収した地租を工業の育成にのみ投資したため、農村の近代化は遅れ、多くの
人口を抱える農村の貧困は、国内市場をせまくした。さらに発展するためには海外市場を
求めなければならなかった。 第 1 次世界大戦の直前でさえ、日本人の 6 割は農林漁業に従事しており、農業技術にか
ずかずの改良が加えられたにもかかわらず、山地の多い地形や小規模土地所有のために、
たとえばイギリスのような「農業革命」は進まなかった。このような近代化が進まない農業
が日本の産業構造の基盤になっていたので、日本の潜在的な工業力や 1 人当りの工業化水
準は列強の最下位かそれに近かった(図 14-11、14-12 参照)。19 世紀末から 20 世紀初め
にかけて、経済的にはアジアでは唯一、帝国主義のさかんな時代に産業革命(工業化)を
行なったが、イギリス、アメリカ、ドイツとくらべれば工業面でも財政面でも見劣りは免
れなかった。 《東洋という地形(地政学)も有利にはたらいた日本》 しかし、この時代に日本が列強の仲間入りをはたし、たとえばイタリアをしのぐほどに
なったのには(イタリアの統一と明治維新はほぼ同じ時期)、日本が地理的に孤立していた
ことが有利に働いたと考えられいる。すぐ近くの大陸には清国があったが、近代化にはほ
ど遠く、ほとんど脅威にはならなかった。逆にやがて帝国主義国になった日本が他の欧米
の帝国主義国家よりも、中国や満州、それに朝鮮などの地域に近かった。 ロシアは後述するように 1904 年から 5 年にかけての戦い(日露戦争)で、6000 マイルに
わたる鉄道(シベリア鉄道)を利用し、苦心して軍隊に補給品を送ったが、とても物量が
2026
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ものをいう近代戦を戦うような状況にはなかった。日本海で大敗したバルチック艦隊も半
年にもおよぶヨーロッパからの回航で消耗しきっていたことも日本に有利に働いた(この
ように当時の軍事力は軍事技術・輸送技術などと関連しているだけでなく、地形(地政学)
も大きく影響したが、現代の航空機・ミサイル時代になると状況は変わってくる)。 それから数十年後に、イギリスとアメリカの海軍も、フィリピン、香港、マラヤに救援
軍を送ったとき、兵站問題に苦労することになる。東アジアで日本が唯一着実な成長をと
げられたのには、この地理的な理由が働いていたことも確かで、他の大国が日本の進出を
阻止することは至難のわざで、やがて日本はこの地域で支配力をふるうようになっていっ
た。 ○日清戦争 1890 年代の朝鮮では、日本の経済進出がすすむ中(輸出の 90%以上、輸入の 50%を占めた)、
米・大豆価格の高騰と地方官の搾取などが農村経済を疲弊させた。1894 年春、朝鮮で民生
改善を求める農民反乱甲午農民戦争(東学党の乱)が起きた(図 14-28 参照)。5 月 31 日、
農民軍が全羅道首都全州を占領する事態になった。朝鮮政府は、清への援兵を決める一方、
農民軍の宣撫(せんぶ)にあたった。 1894 年 6 月 5 日、清の巡洋艦 2 隻が仁川(図 14-28 参照)沖に到着した。その日、日本
は大本営を設置した。日清両国は、天津条約にもとづき、6 日に清が日本に対し、翌 7 日に
日本が清に対し、朝鮮出兵を通告した(天津条約は、1884 年 12 月に朝鮮において発生した
甲申政変(親日派が倒されたクーデター)によって緊張状態にあった日清両国が締結した
条約で、以後出兵する時は相互に照会することを義務づけていた)。 日本は 16 日、混成第 9 旅団の半数、約 4,000 人を仁川に上陸させた。しかし、すでに朝
鮮政府と東学農民軍が停戦しており、天津条約上も日本の派兵理由がなくなった。軍を増
派していた清も、漢城に入ることを控え、牙山県を動かなかった。 朝鮮は、日清両軍の撤兵を要請したものの、両軍とも受け入れなかった。 6 月 15 日に伊藤内閣は、①朝鮮の内政改革(清の属国からの離脱)を日清共同で進める、
②それを清が拒否すれば日本単独で指導する方針を閣議決定した。つまり出兵の目的は、
当初の「公使館と居留民保護」から「朝鮮の国政改革」のための圧力に変更された。当時、
解散総選挙に追い込まれていた伊藤内閣は、国内の対外強硬論を無視できず、成果のない
まま朝鮮から撤兵させることが難しい状況にあった。 日清両国がお互いに兵を引かないまま、7 月 25 日に豊島沖海戦が、29 日に成歓の戦いが
行われた後、8 月 1 日に日清両国が宣戦布告をした。 平壌の戦い,黄海の海戦と日本側の勝利が続いた。日本軍は 10 月 24 日に鴨緑江を渡っ
て清朝領内へ軍を進め、11 月 21 日には旅順を占領した。翌年 1 月に山東半島に上陸した日
2027
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
本軍は威海衛の諸砲台を占領した。1895 年 2 月 11 日、威海衛に集結していた北洋艦隊の司
令長官丁汝昌(ていじょしょう)は自決し,翌日、北洋艦隊は降伏した。 図 14-28 甲午農民戦争と朝鮮の植民地化 ○下関条約 その前の 1894 年 10 月、日本政府はイギリス政府から勧告めいた講和の打診を受けた。
それを受けて陸奥宗光外相は伊藤博文首相と協議して、講和の条件について甲・乙・丙の 3
案を作成した。このうち甲・乙の両案が,朝鮮の独立のほかに、賠償金と領土割譲に言及
していた。甲案が旅順及び大連湾を含む遼東半島(陸軍案)、乙案が台湾全島(海軍案)
であった。戦争に勝利した側が敗戦国に対して苛酷な条約を提示し、それをもって休戦と
する前例は、これまで列強間でも多くあった(つまり、敗戦条約を押しつけることである)。
日本がそれと同じ発想に立ったのは、当時としては自然の流れであったかもしれない。 2028
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
このとき日本が直接に参照したのは普仏戦争(1870~71 年)の事例であったとされる。
普仏戦争で戦勝国のプロイセンは、敗戦国フランスからアルザス・ロレーヌの 2 州を割譲
させ、賠償金として 50 億フランを獲得した。この条件はフランス側にとって極めて苛酷で、
これは第 1 次世界大戦、やがてヒトラーの第 2 次世界大戦まで両国の怨念のもとになった
といわれているが、日清戦争時にはまだ、その影響はわかっていなかったであろう。 さて、そこで北洋艦隊は降伏した後の 1895 年 3 月 19 日、清の全権大使李鴻章が門司に
到着した。下関での交渉の席上、日本側の台湾割譲要求に対して李は、台湾本土に日本軍
が上陸すらしておらず、筋が通らないと大いに反論したが、日本の威圧に屈して、4 月 17
日、 日清講和条約(下関条約)を調印されられた。 その主な内容は、①朝鮮の独立の承認、②遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本へ割譲する
(図 14-29 参照)、③賠償金 3 億テール(3 億 1000 万円)を日本へ支払う、④重慶・長沙・
蘇州・杭州の 4 港を開港する、というものであった。 図 14-29 日本の植民地 日本政府内の条約案の段階では、考え方として「軍費賠償金の代わりとして清国は台湾
全島及び遼東半島、澎湖諸島を日本国に割譲する」とあり、賠償金で不足する分を、領土
を割譲させる案であったが、締結した条約では、賠償金は 3 億テールとなった上に領土の
割譲も行わせている。この賠償金額は、明治政府の歳入の 4 年分を上回る莫大なものであ
った。清朝の財政規模もほぼ同じであったから、清朝は 4 年分以上の税収を失ったことを
意味していた。 しかも、この莫大な賠償金に加えて、甲案、乙案をまとめて、台湾及び澎湖諸島、遼東
半島も割譲させようとしたのである。つまり、日本は考えられる最大限の案を清国にのま
2029
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
せたようである。しかし、これでは多すぎると、ロシア、ドイツ、フランスが介入(「三
国干渉」)して、遼東半島は返還させられた(代償として 3000 万両を獲得)結果、日本は
一歩後退した。 《欧米列強の仲間入りを果たした日本》 日本はこの巨額の賠償金をロンドンの銀行に預けて運用し,超大国イギリスと国際金融
資本の歓心を買い、また金本位制への移行を果たすことができた。また、この賠償金によ
り、八幡製鉄所の造営(1901 年開設)や綿工業を中心とする産業革命の立ち上げに使用し
た。とくに増強される陸軍の装備に大量の綿布を使ったからである。そればかりではなく、
小学校の用地・校舎建設費の補助、その後の教育の普及に使った。このとき日本には戦争
は勝てば大もうけになるという意識が芽生えたのであろう。 いずれにしても、遅れてきた植民地主義国・日本も、幕末の条約締結から 40 年後に、清
国に対する戦争条約によって、はじめての植民地を獲得し、欧米列強の仲間入りを果たし
た。 これによって、清国が弱体であることが明白になり、ある種の空白が生じた東アジアへ、
列強は次の手を打つべく動き出した。アフリカやアジアは、すでに植民地分割が終わりか
けていた。1 ヶ国による植民地支配ではなく、競争しつつ共同で管理できる国として列強が
注目したのが、大国の中国にほかならなかった。その先導役をはたしたのが日本だったの
である。 ○ロシアの極東の南下政策 近代国家の建設を急ぐ日本では、ロシアに対する安全保障上朝鮮半島を自国の勢力下に
おく必要があるとの意見が大勢を占めていた。朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝
利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア、フランス、
ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還させられた。 世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出たが、当時の日本には列
強諸国と戦えるだけの力は無く、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めた。とこ
ろがロシアは露清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を 1898
年に租借し、旅順に太平洋艦隊の基地を造るなど、満洲への進出を押し進めていった。 1900 年にロシアは清で発生した義和団の乱(義和団事件)の混乱収拾のため満洲へ侵攻
し、全土を占領下に置いた。ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英
米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束した。ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を
行わず駐留軍の増強をはかった。 当時、イギリスはアフリカでのボーア戦争(1899~1902 年)に手こずって国力を低下さ
せ、アジアに大きな国力を注げない状況にあり、ロシアの極東での南下が自国の権益と衝
2030
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
突すると危機感を募らせていた。そこでイギリスは、1902 年に長年墨守していた孤立政策
(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切った(日英同盟)。 《日本の対露主戦論と戦争回避論》 このころ満洲を勢力下においたロシアは、朝鮮半島に持つ利権を手がかりに朝鮮半島で
も南下政策を取りつつあった。ロシアは朝鮮の高宗を通じ売り払われた鍾城・鏡源の鉱山
採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増
しつつあり、日本はロシアの進める南下政策に危機感をつのらせていた。 日本政府内では小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋らの対露主戦派と、伊藤博文、井上馨ら
戦争回避派との論争が続き、民間においても日露開戦を唱えた戸水寛人ら7博士の意見書
(7 博士建白事件)や、万朝報紙上での幸徳秋水の非戦論といった議論が発生していた。 1903 年 4 月 21 日に京都にあった山縣の別荘・無鄰庵(むりんあん)で伊藤・山縣・桂・
小村による「無鄰菴会議」が行われた。 桂首相は、
「満洲問題に対しては、我に於て露國の優越権を認め、之を機として朝鮮問題
を根本的に解決すること」、「此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟無かる
可からず」という対露交渉方針について伊藤と山縣の同意を得て、この会談で日露開戦の
覚悟が定まったと書いているが、実際の記録類ではむしろ伊藤の慎重論が優勢であったよ
うで、後の日露交渉に反映されることになった。 《ロシアの主戦論と日本の満韓交換論》 1903 年 8 月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下
に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかし、積極的な主戦
論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半
島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示さなかった。 さらにニコライ 2 世やアレクセイ・クロパトキン陸軍大臣も主戦論に同調した。当時、常
識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何もなかった。当時のロシ
アは常備兵力で日本の約 15 倍、国家予算規模で日本の約 8 倍という当時世界的な超大国で
あり、日本側にとって圧倒的不利な状況であった。 ロシアの重臣の中でもセルゲイ・ヴィッテ財務大臣は、戦争によって負けることはない
にせよロシアが疲弊することを恐れ、戦争回避論を展開したが、この当時何の実権もなか
った大臣会議議長に左遷された。ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯 39 度以
北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行ってきた。 日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、
日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。またシベリア鉄道が全線開通する
と(東清鉄道を使ったシベリア鉄道の開通は 1903 年)、ヨーロッパに配備されているロシ
2031
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ア軍の極東方面への派遣が容易となるので、その前の対露開戦へと国論が傾いた。そして
1904 年 2 月 6 日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼
び、国交断絶を言い渡した。 南アジア(インド)および清に権益を持つイギリスは、日英同盟に基づき日本への軍事、
経済的支援を行った。露仏同盟を結びロシアへ資本を投下していたフランスと、ヴィルヘ
ルム 2 世とニコライ 2 世とが縁戚関係にあるドイツは心情的にはロシア側であったが具体
的な支援は行わなかった。 ○日露戦争の開始 日露戦争の戦闘は、1904 年 2 月 8 日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆
逐艦の奇襲攻撃に始まった。 2 月 10 日には日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされた。2 月 23 日には日本と大
韓帝国の間で日本軍の補給線の確保を目的とした日韓議定書が締結された。ロシア旅順艦
隊は増援を頼みとし日本の連合艦隊との正面決戦を避けて旅順港に待機した。連合艦隊は 2
月から 5 月にかけて、旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖しようとしたが、失敗に
終わった(旅順港閉塞作戦)。 《203 高地の攻防戦》 旅順艦隊攻撃はうまくいかなかったため、日本海軍は陸軍に旅順要塞攻略を要請、これ
を受け乃木希典大将率いる第 3 軍が旅順攻略に当たることになった。 第 3 軍は 203 高地の要塞に対し第 1 回総攻撃を 8 月 19 日に開始したが、ロシアの近代的
要塞(堅固なトーチカと機関銃)の前に死傷者 1 万 5,000 人という大損害を受け失敗に終
わった。10 月 26 日からの 203 高地第 2 回総攻撃も失敗、11 月 26 日からの第 3 回総攻撃も
苦戦に陥った。 このとき、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』によると、満州軍総参謀長・児玉源太郎は、
1904 年 12 月 4 日、第 3 軍の戦線におもむくと、発想の転換・作戦の転換を命じ、203 高地
に対し火力の集中という要塞攻撃の常道を行うため、もともと海岸防衛用の恒久据え付け
砲で移動が困難な 28 センチ榴弾砲を、敵陣に接近した場所まで 1 日で配置転換を行わせ、
その重砲の援護射撃の下、
(日本兵を撃つ危険をおかしながら)歩兵による突撃を同時に行
い半日で 203 高地を陥落させた。ただちに 203 高地に弾着観測所を設置し、砲兵の専門家
の助言を無視して 203 高地越えに旅順湾内のロシア旅順艦隊に 28 センチ砲で砲撃を加え、
旅順湾内のロシア艦隊を壊滅させてしまった。 なお、児玉は国際情勢や各国の力関係を考慮に入れて戦略を立てることの出来る広い視
野の持ち主であった(西南戦争など明治初頭の実戦派だった)。日露戦争全体の戦略の立案、
満州での実際の戦闘指揮、戦費の調達、アメリカへの講和依頼、欧州での帝政ロシアへの
2032
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
革命工作、といったあらゆる局面で彼が登場する。日露戦の前に児玉ケーブルと言われる
海底ケーブルを日本周辺に張り巡らし、現代戦で最も重要と言われる情報のやり取りを迅
速に行えるようにしたのも児玉だった。このことで日本の連合艦隊は、大本営と電信通信
が可能となって、大本営が自在に移動命令を出せたため、日本海海戦のために全軍が集結
することが可能になった。 アメリカ国防総省を中心に唱えられている最新の軍事ドクトリンの一つネットワーク中
心の戦いを 100 年も前に実現させて、日本海海戦の勝利をもたらした功績もきわめて大き
い(しかし、その後の日本軍には国家予算 8 倍のロシアに勝ったという結果だけが神話と
なり、児玉が細心の注意をはらった情報取得、科学的な考えかたは顧みられることはなか
った)。 日露戦争に返る。日本軍は、ロシア軍の拠点・奉天へ向けた大作戦を開始し(図 14-28
参照。奉天会戦)、3 月 10 日に奉天を占領したが、日本軍は 7 万の死傷者を出しロシア軍を
追撃する余力はまったく残されてはいなかった。この結果を受けて日本側の依頼を受けた
アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトが和平交渉を開始したが、間もなく日本近
海に到着するバルチック艦隊に期待していたロシア側はこれを拒否した。 《日本海海戦の勝利》 バルチック艦隊は 7 ヶ月に及んだ航海の末日本近海に到達、5 月 27 日に連合艦隊と激突
した(図 14-28 参照。日本海海戦)。5 月 29 日までにわたるこの海戦でバルチック艦隊は
その艦艇のほとんどを失い司令長官が捕虜になるなど壊滅的な打撃を受け、連合艦隊は喪
失艦が水雷艇 3 隻という連合艦隊の一方的な圧勝に終わった。世界のマスコミの予想に反
する結果は列強諸国を驚愕させ、ロシアの脅威に怯える国々を熱狂させた。この結果、日
本側の制海権が確定し、ロシア側も和平に向けて動き出した。 日本軍は和平交渉の進むなか 7 月に樺太攻略作戦を実施し、全島を占領した。この占領
が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなった。 日本は 19 ヶ月の戦争期間中に戦費 17 億円を投入した。戦費のほとんどは戦時国債によ
って調達された。当時の日本軍の常備兵力 20 万人に対して、総動員兵力は 109 万人に達し
た。日本も、当時の乏しい国力を戦争でギリギリ使い果たしていた。これまで終始優勢を
保っていたが、これ以上の戦争継続が国力の面で限界であったので、当時英仏列強に肩を
並べるまでに成長し国際的権威を高めようとしていたアメリカに仲介を依頼し交渉を行っ
た。 ○ポーツマス条約 2033
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ポーツマス条約は、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、 ニ
ューハンプシャー州ポーツマス近郊のポーツマス海軍造船所において、1905 年 9 月 5 日、
日本全権小村寿太郎(外務大臣)とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印された。 その内容は、 ◇日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。 ◇日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。 ◇ロシアは樺太の北緯 50 度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。 ◇ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ
譲渡する。 ◇ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。 ◇ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。
当初ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロシア
は負けてはいない。まだまだ継戦も辞さない。」という主張を行っていたため、交渉は暗礁
に乗り上げていたが、これ以上の戦争の継続は不可能である日本が譲歩し、また、この調
停を成功させたいアメリカがロシアを説得するという形で事態を収拾し、戦争賠償金には
一切応じないという最低条件で交渉は締結された。日本が困難な外交的取引を通じて辛う
じて勝利を勝ち取ったというところであった。
しかし、戦争中に軍事費として投じてきた国家予算の約 4 倍にあたる 20 億円を埋め合わ
せるはずの戦争賠償金は取得することができなかったため(日清戦争後の多額の賠償金の
味をしめていたため)、戦時中に増税による耐乏生活を強いられてきた日本国民には大いに
不満な結果であり、日比谷焼打事件をはじめとして各地で暴動が起きた。その結果、戒厳
令が敷かれるにまでになり、戦争を指導してきた桂内閣は退陣した。 これはロシア側へ弱みとなることを秘密にしようとした日本政府の政策によって、国民
の多くは戦争の実情を知らされずにきたこと、新聞以下マスコミ各社が日清戦争を引き合
いに出して戦争に対する国民の期待を煽ったために修正がきかなくなっていたこともあり、
目先の勝利によってロシアが簡単に屈服させられたように錯覚した反動から来ているもの
であった。 この日露戦争の勝利によって、日本の植民地は、図 14-29 のように、台湾、南樺太、朝
鮮(1910 年の日韓併合以降)、満州の南満州鉄道会社周辺の権益となった。 日露戦争は世界史的にみて、世界の注目するところとなった。 日本はロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したこと
で、相互の勢力圏を確定することができた。こうして日本はロシアの脅威から逃れ安全保
障を達成した。さらに朝鮮半島の権益を確保できた上、新たに東清鉄道の一部である南満
2034
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
洲鉄道の獲得など満洲における権益を得ることとなった。またロシアに勝利したことは、
欧米列強諸国の日本に対する評価を高め、明治維新以来の課題であった不平等条約改正の
達成に大きく寄与した。 不凍港を求め、伝統的な南下政策がこの戦争の動機の一つであったロシア帝国は、この
敗北を期に極東への南下を断念した。南下の矛先は再びバルカンに向かい、ロシアは汎ス
ラヴ主義を全面に唱えることになった。このことが汎ゲルマン主義を唱えるドイツや、同
じくバルカンへの侵略を企むオーストリアとの対立を招き、第 1 次世界大戦の引き金とな
った。また、戦争による民衆の生活苦から血の日曜日事件や戦艦ポチョムキンの叛乱等よ
り始まるロシア第 1 革命が誘発され、ロシア革命の原因となった。 日露戦争をきっかけに日露関係、英露関係が急速に改善し、それぞれ日露協約、英露協
商が締結された。既に締結されていた英仏協商と併せて、ヨーロッパ情勢は日露戦争以前
の英、露仏、独墺伊の三勢力が鼎立していた状況から、英仏露の三国協商と独墺伊の三国
同盟の対立へと向かった(図 15-12 参照)。こうしてイギリスは仮想敵国をロシアからド
イツに切り替え、ドイツはイギリスとの建艦競争を拡大していくことになり、帝国主義時
代は第 1 次世界大戦を準備するようになった。 ○韓国併合 その後、日本は、1909 年 7 月、第 2 次桂内閣が韓国併合を閣議決定した。1909 年 10 月
26 日、伊藤博文はロシアとの会談を行うため渡満し、ハルピンに到着した際、大韓帝国の
独立運動家・安重根(アン・ジュングン)に暗殺された。日本は 1910 年には日韓併合条約
を結び、大韓帝国を併合し、ここに「遅れてきた植民地主義国その 3」日本はヨーロッパ列強
と並ぶ植民地主義国・帝国主義国家にのし上がった。当時の日本の軍事力を背景とした露
骨な帝国主義的手法を少し細部になるが以下に記す。 《第 1 次日韓協約》 まず、日露戦争が勃発する前に、1904 年(明治 37 年)1 月 21 日、韓国政府は日露交戦
の折には戦時局外中立をとると宣言し、清をはじめイギリス、フランス、ドイツなどがこ
れを承認した。しかし、2 月 8 日に日本政府は韓国の戦時局外中立宣言を無視する形で、日
本軍を仁川へ上陸させ、その後漢城へ進駐し、1904 年 8 月 22 日、(第 1 次)日韓協約を締
結した。 《第 1 次日韓協約》 その内容は①施政忠告権(韓国は、施政の改善に関し、日本政府の忠告を容れること)、
②韓国皇室の安全康寧の保障(日本政府は、韓国の皇室を安全康寧ならしめること)、③韓
国の独立保障(日本政府は、韓国の独立及び領土保全を確実に保証すること)、④日本によ
る韓国防衛義務(第三国の侵害により、もしくは内乱のため、韓国の皇室の安寧或いは領
2035
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
土の保全に危険ある場合は、日本政府は、速やに臨機必要の措置を取らなければならない。
そして、韓国政府は、その日本の行動を容易ならしめるため、十分便宜を与えること。日
本政府は、その目的を達するため、軍略上必要な地点を臨検収用することができること)、
⑤条約遵守義務(両国政府は、相互の承認を経ずして本協約の趣意に違反する協約を第三
国との間に訂立することができない)などであった。 これにより大韓帝国は、日本政府の推薦者を大韓帝国の財政・外交の顧問に任命しなけ
ればならなくなった。この時は日露戦争中ではあったが、この条約が結ばれた時期には朝
鮮半島での戦闘は終了し、大韓は事実上日本の占領下に入っていた。 しかし、高宗はこれを良しとせず、ロシアに密使を送っていた。1905 年(明治 38 年)3
月 26 日、大韓皇帝のロシア皇帝宛の密書が発覚した。その後も 7 月にロシア、フランスへ、
10 月にアメリカ、イギリスに密使を送った。これらの行動を受けて、日本政府は大韓帝国
が外交案件について日本政府と協議のうえ決定・処理しなければならないとしていた同条
約を遵守する意志がないと考えるようになった。 《第 2 次日韓協約》 日露戦争が日本側の勝利に終わり、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約(1905 年
9 月 5 日)により韓国に対する優越権をロシアから承認され、また高宗が他の国に第 1 次日
韓協約への不満を表す密使を送っていたことが問題となったこともあり、日本からの信頼
を無くしていた大韓帝国に対し、より信頼できる行動をとることを求めるため、1905 年 11
月、第 2 次日韓協約を結んだ。
その内容は、 ① 日本国政府は今後外務省により韓国の外交を監理指揮するため、日本の外交代表者と領
事は外国にいる韓国人とその利益を保護しなくてはならない。 ② 日本国政府は韓国が他国と結んでいる条約を実行する立場となるため、韓国は今後日本
の仲介無しに他国と条約や約束を交わしてはならない。 ③ 日本国政府は代表者として韓国皇帝の下に統監を置く。統監は外交を管理するために京
城に駐在し韓国皇帝と親しく内謁することができる。また日本は韓国の開港場などに理
事官を置くことができる。理事官は統監の指揮の下で、従来韓国にある日本領事が持っ
ていた職権の全てを執行し、また本協約を完全に実行するための一切の事務を担当しな
くてはならない。 ④ 日本と韓国との間にある条約や約束は本協約に抵触しないかぎり効力を継続する。 ⑤ 日本国政府は韓国皇室の安寧と尊厳の維持を保証する。 というものであった。 《韓国統監府の設置、朝鮮の保護国化》 2036
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
この第 2 次日韓協約に基づいて大韓帝国の外交権を掌握した日本は、1906 年、漢城(現・
ソウル特別市)に韓国統監府を設置し、日本は朝鮮の外交権を接収し、内政・財政に関し
ても強い影響力を得て朝鮮の保護国化を推し進めていった。これら一連の主権接収の責任
者となったのは初代韓国統監伊藤博文であった。 なお、この第 2 次日韓協約について、国家(大韓帝国)と個人(皇帝・高宗)の両方に
強制と脅迫が加えられたために、この協約およびその後の日韓併合条約も含めて無効であ
るという説がある(現在の韓国、北朝鮮はこの立場をとっている)。 一方、国家への強制に基づく条約調印を無効とする国際慣習法上の規範もしくは規則が
1905 年にはなかったと考える立場からの主張もある。当時、国際法の規範的影響力におい
て、武力による国際問題解決が問題視されるのは 1919 年のヴェルサイユ条約からであり、
国家への脅迫が禁止されたのは 1945 年の国際連合憲章からである。これらの実態から、当
時、朝鮮半島を実効支配していた日本との協約を無効だとする解釈は「事後法」的解釈で
あるとする考え方が日本や有効・合法論においての考え方である(つまり、当時は欧米列
強もやっていたのだから、日本がやったとしても問題ないという考えである)。 第 2 次日韓協約締結後の 1907 年に、協約の無効を主張する高宗の親書をたずさえた密使
が万国平和会議に派遣された。密使団はハーグのデ・ヨング ホテルに投宿し活動を始めた
が、会議に出席していた列強は大韓帝国の外交権が日本にあること、大韓帝国の利益は条
約によって日本政府が代表していることなどを理由に 3 人の密使の会議出席を拒絶した。 また、アメリカ、イギリスともに日本の保護国化政策を認めていたため、この主張は認
められなかった。出席を拒まれた密使らはやむなく抗議行動として現地でビラ撒きや講演
会を行うことしかできなかった(ハーグ密使事件)。 これらの動きに対し李完用などの親日派勢力、及びその後ろ盾である韓国統監伊藤博文
は日本の軍事力を背景に高宗に譲位するよう迫り、同年退位することとなった。代わりに
最後の朝鮮王、大韓帝国皇帝である純宗が即位した。 《第 3 次日韓協約》 1907 年 7 月 24 日に韓国統監の権限強化をうたった第 3 次日韓協約が締結された。この協
約によって、韓国は外交権に加えて内政権も日本に接収されることとなった。 第 2 次日韓協約によって日本の保護国となりすでに外交権を失っていた大韓帝国(朝鮮
王朝)は、この条約により、韓国政府は施政改善に関して統監の指導を受けること(第 1
条)、法令の制定及び重要なる行政上の処分は予め統監の承認を経ること(第 2 条)、高級
官吏の任免権を韓国統監が掌握すること(第 4 条)、韓国政府の官吏に日本人を登用できる
こと(第 5 条)などが定められた。これによって、朝鮮の内政は完全に日本の管轄下に入
った。また非公開の取り決めで、韓国軍の解散、司法権と警察権の委任が定められた。 2037
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
○日韓併合 これに続き日本政府内では最終的な併合の時期をめぐって話し合いがもたれた。元老で
もあり日本政界に発言力を持っていた韓国統監の伊藤博文は早期併合派に対して異論を唱
え、当初は早期併合には反対の姿勢をとった。彼が早期併合に反対する理由として述べた
のは、現在の保護国化状態でも実質的には併合した場合と同じく朝鮮を支配でき、又韓国
進出の口実として用いてきた「韓国の独立富強」という建前を捨てることは却って益なし
である、 また、財政支出の増大を招くことからも早期併合は勧められず、今は国内の産業
育成に力を注ぐべきである、ということであった。 しかしその後、韓国国内での義兵闘争はますます苛烈となり、1909 年 10 月 26 日に伊藤
博文が安重根(アン・ジュングン)によって暗殺されたこともあり、既に韓国併合の流れ
は決定的なものとなった。 日本政府は韓日合邦を掲げる韓国一進会や日韓併合派の李完用とともに交渉をすすめ、
1910 年 8 月 22 日、日本の軍隊が王宮を取り囲み、反対派を威圧するという厳戒状態のなか
で寺内正毅統監と李完用首相が日韓併合条約(正式名:韓国併合に関する条約)を調印し、
29 日に裁可公布して発効した。 その第 1 条では、「 韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を完全かつ永久に日
本国皇帝陛下に譲与す」とあり、第 2 条で、「 日本国皇帝陛下は前条に掲げたる譲与を受
諾し且全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す」と受けている。日本はこの条約に基
づき韓国を併合した(韓国併合)。ここに韓国は日本の植民地になったというより、韓国と
いう国は消滅し、日本国の一部となった(図 14-29 参照)。これにより、518 年に及ぶ朝鮮
王朝は滅亡した。大韓帝国の皇帝は、日本において 1910 年(明治 43 年)の詔勅 により、
昌徳宮李王に遇された。 《日本史最大の汚点》 (欧米列強が植民地主義をとっていた時代だとはいえ、近代になって、これほど露骨に
独立国を消滅させ(部分的割譲はあったが)、のちに行なったように改名、日本語教育を含
めて朝鮮人消滅まではかった例は歴史上、前例がない。日本の歴史に大きな汚点を残すこ
とになった。これが逆の立場であったならと考えれば(たとえば、日本人が日本語を禁止
され、名前を改めさせられ、日本皇室が廃止されるなど)、いかに、その意味が人類として
重大であるか、わかるというもので、そこに日本の弁明の余地はない。国家というものは、
このような非人道的なことを平気で行い、そして、誰も責任をとらない。ときと場合によ
ると、人間というやつは、このようなことをするということを我々は歴史からよく学んで
おく必要がある。これは「歴史認識」という問題ではない。歴史的事実である)。 2038
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
朝鮮総督府は、1910 年、日韓併合によって日本領となった旧大韓帝国領土を統治するた
めに,日本政府が設置した官庁となった。庁舎は京畿道京城府(現在の大韓民国ソウル特
別市)の景福宮敷地内に設置された。韓国統監府を前身とし、大韓帝国政府の組織を改組・
統合したため朝鮮人の役人は多かったが、重要なポストはほぼ日本人で占められていた。
初代総督は寺内正毅で、その後の総督も大日本帝国陸海軍の現役大将が歴任した。 日本において朝鮮総督は天皇によって勅任され、委任の範囲内における朝鮮防備のため
の軍事権を行使し、内閣総理大臣を経由して立法権、行政権、司法権や王公族及び朝鮮貴
族に関する多岐な権限を持っていた。 朝鮮総督府には政務総監、総督官房と 5 部(総務、内務、度支、農商工、司法)が設置
され、中枢院、警務総監部、裁判所、鉄道局(朝鮮総督府鉄道)、専売局、地方行政区画で
ある道、府、郡などの朝鮮の統治機構全体を包含していた。 1945 年、太平洋戦争における日本の敗戦にともない、朝鮮総督府は、連合軍の指示によ
り業務を停止し、その権限はアメリカ軍政庁に引き継がれた。 【14-2-9】オランダ ○フランス革命、ナポレオン時代のオランダ フランス革命が起こると、フランス革命軍は、1793 年にネーデルラント連邦共和国を占
領し、連邦共和国は崩壊、ウィレム 5 世は総督の座を追われた。フランスへ亡命していた
革命派やその同調者がバタヴィア共和国を樹立させた。 1798 年 3 月に憲法が採択され、5 月に発効した。それまでのネーデルラント 7 州におけ
る自治は大きく制限され、8 県に再編された。立法府は二院制をとり、行政府は 5 人の長官
によって運営された。 ナポレオンが皇帝に即位すると、オランダをイギリス侵攻のための基地と位置づけ、自
らの意思に即応できる体制を整えるため、弟のルイを国王としてオランダに送った。ルイ
は 1806 年 6 月にハーグに入り、バタヴィア共和国はホラント王国と名を改めて、ルイはホ
ラント王ローデウェイク 1 世となった。 しかし、ルイはナポレオンの傀儡(かいらい)ではなかった。オランダ人の利益にも配
慮し、オランダの王としての責務を良心的に果たした。ルイは内政や経済復興にも関心を
示し、ナポレオン法典の導入やカトリック教会の復権などを実現し、一方で徴兵制の導入
を拒否した。ナポレオンの大陸封鎖令にも反対したが、このことと密貿易の横行、さらに
1809 年にイギリス軍がゼーランド州に上陸したことなどもあって、ナポレオンは 1810 年に
2 万人の軍隊をオランダへ派遣する一方、ルイを退位させた。ナポレオンはホラント王国を
廃止してフランス帝国の直轄領とし、総督ルブランがアムステルダムに駐在した。 2039
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
この混乱のなかでオランダ東インド会社は解散し、東インド植民地(オランダ領東イン
ド。インドネシアのこと)はフランスと敵対するイギリスが一時占領(1811 年~1816 年)
した。 ○ネーデルラント王国(オランダ王国)の復活 1813 年にナポレオン帝国が崩壊すると、ウィーン会議によって南ネーデルラントを併せ
たオランダ王国(ネーデルラント連合王国)が復活することになった。イギリスに亡命し
ていたオラニエ・ナッサウ家の一族が帰国し、ウィレム 1 世(在位:1815~1840 年)が即
位して南ネーデルラント(ベルギー、ルクセンブルク)を含むネーデルラント連合王国が
樹立された。これが現在まで続くネーデルラント王国(オランダ王国)の始まりである。 1830 年、南ネーデルラントが、ネーデルラント国王ウィレム 1 世の支配に対して独立革
命を起こし、同年にベルギーの独立を宣言し、1831 年にはドイツの領邦君主のザクセン・
コーブルク・ゴータ家からレオポルドを初代国王として迎えた。1839 年、オランダはベル
ギー王国の独立を承認した。 ○植民地オランダ東インドの状況 オランダの植民地はどうなったかであるが、さかのぼって述べる。オランダ東インド会
社は、当初、港と商館を中心とする香料交易の独占によって利益をあげていたが、17 世紀
後半からジャワ島内陸部へと進出し、領土獲得に熱意をみせるようになったことは述べた。
すなわち、獲得した領土で当時の有力商品であるコーヒーなどを栽培し、これを輸出する
ことで利益をあげるためであった。いわゆる「点と線」の支配から「面」の支配への転換
をはかろうとしたのである。 オランダ東インド会社は、ジャワ島内部の王朝間での戦争や、各王家内での後継者争い
などに介入することで、17 世紀後半にはマタラム王国を衰退させ、そして 1752 年にはバン
テン王国を属国とすることに成功した。しかし、領土獲得のために要した莫大な戦費と、
会社自体の放漫経営のために、オランダ東インド会社の経営は悪化し、1798 年、オランダ
東インド会社は解散することになった。その後を引き継いで植民地経営にあたったのは、
本国オランダ政府であった。 東インド(現在のインドネシア)の領土、財産、負債などの一切をオランダ東インド会
社から受け継いだオランダ政府であったが、19 世紀初頭、フランス革命以降のヨーロッパ
政局の混乱の波に襲われた。前述したようにオランダ本国はフランスに併合され、また、
オランダの海外領土はイギリスに占領され、その統治をうけることになった。 1811 年から 1816 年まで、ジャワ島の植民地経営にあたったのは、東南アジアにおけるイ
ギリスの植民地経営に中心的な役割を果たしていたラッフルズであった。そのラッフルズ
2040
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
のジャワ島経営は短期間に終わったが、彼のもとで開始された土地測量や税制改革は、そ
の後のオランダによる植民地経営にも引き継がれた。 1824 年、オランダとイギリスのあいだで締結されたロンドン条約(英蘭協約)では、オ
ランダがスマトラ島を、イギリスがマレー半島を、それぞれ影響圏におくことを相互に承
認した(図 14-52 参照)。今日のインドネシア・マレーシア間のマラッカ海峡に大きな国
境線が引かれることになったのは、この条約に端を発するものである。 ○強制栽培制度の採用 1820 年代から 1830 年代にかけて、オランダは深刻な財政危機に直面し、オランダ本国の
財政状態を改善するため、東インドに導入されたのが「強制栽培制度」であった。これは、
現地住民に指定の農作物を強制的に栽培させ、植民地政府が独占的に買い上げるというも
のであった。指定栽培されたのは、コーヒー、サトウキビ、藍(アイ。インディゴ)、茶、
タバコなど、国際市場で有望な農産物であった。東インド植民地政府は、農産物をヨーロ
ッパなどへ転売して莫大な利益をあげた。 この制度はオランダ本国の財政赤字を解消しただけでなく、産業革命期に入りつつあっ
たオランダのインフラ整備にも大きく貢献した。しかし、同時に、オランダ経済の東イン
ドへの依存度を高めることにもなった。 この制度は、栽培を強制された住民には大きな負担となった。収穫された農作物は、植
民地政府の指定する安い価格で強制的に買い上げられた。さらに、従来稲作をおこなって
きた水田で、アイやサトウキビなどの商業作物の栽培が強制されたため、凶作が重なると
深刻な飢饉を招くこともあり、餓死者も出た。この強制栽培制度を非難する声が高まった
ため、1860 年代以降、同制度は国際競争力のなくなった品目から順に、廃止されていった。 また、農作物に代わる新たな産物として、産業革命による石油資源の国際市場における
重要度の高まりを受け、油田の開発が始められた。1883 年、スマトラ島東岸での試掘が許
可され、1885 年に採掘に成功したロイヤル・ダッチ社(今日のロイヤル・ダッチ・シェル
の前身)は発展していった。 【14-2-10】スペイン かつて「太陽の沈まぬ帝国」ともいわれた植民地帝国スペインも、この 19 世紀には中南
米の植民地がほとんど独立し、19 世紀末にはわずかな植民地を残すだけとなった。ここで
は縮小するスペインの植民地の状況を述べることになる。 ○縮小する植民地帝国 18 世紀に入るとスペイン・ハプスブルク家が断絶し、フランスのルイ 14 世は自らの孫、
ブルボン家のフィリップをスペイン王にしようとした。ところが、それに各国が異議を唱
2041
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
えスペイン継承戦争が始まったことは述べた。この戦争は 12 年に及び、1713 年のユトレヒ
ト条約でフィリップがフェリペ 5 世として即位することは承認されたが(スペイン・ブルボ
ン朝をボルボーン朝という)、イギリスにジブラルタルを割譲し、さらに新大陸における
アシエント(奴隷供給契約)を譲り、海外での影響力は著しく低下した。その後、スペイ
ンはオーストリア継承戦争、七年戦争に参加したがイギリス、フランス、オランダなどの
新興勢力の後塵を拝することとなった。 このように対外的には衰えを見せたスペインで、国内では産業の成長が進み、また、1759
年に即位したカルロス 3 世のときには、ある程度の中興を果たしていたが、18 世紀末に起
こったフランス革命とその後のナポレオン戦争はイベリア半島のスペインとポルトガルを
激動のなかに投げ入れた。 ○ナポレオンのスペイン支配 1793 年、スペインは革命を起こしたフランス共和国との戦争(フランス革命戦争)に参
戦したが、戦場で敗れてフランスと和平を結んだ。その後、スペインはフランスの衛星国
となってしまい、イギリス、ポルトガルに宣戦布告し、フランス海軍とともにトラファル
ガー海戦を戦ったがイギリスに惨敗した。 1806 年にナポレオン 1 世は、大陸諸国からイギリスへの輸出を禁じる大陸封鎖令をベル
リンで宣言した。中立を維持する 2 つの国(スウェーデンとポルトガル)は、ナポレオン
の通達を拒否した。1807 年のティルジット条約の後、フランスの同盟国となったロシアは
スウェーデンと戦うことになり、その時には東方に憂いはなくなり、ナポレオンはイベリ
ア半島のポルトガルの攻略を決定した。 フランス・スペイン軍のポルトガル占領を補強する口実として、ナポレオンは軍をスペイ
ンの要衝にも派兵し、1808 年 2 月にパンプローナとバルセロナを占領した。スペインでは
貴族が政変でカルロス 4 世を退位させ、代わってフェルナンド王子がフェルナンド 7 世と
して即位した。このどさくさにまぎれて、ナポレオンはスペイン王家を追放して、5 月 5 日
に 2 人に退位を強制し、スペイン王位を自分の兄ジョゼフに与えた。 ナポレオンは露骨にスペイン王位を乗っ取ったが、ナポレオンの傀儡のスペイン議会は
この新王を承認した。しかし、1808 年 5 月 2 日、マドリードの市民は、フランスの占領に
対して、暴動を起こした。この蜂起はナポレオンの妹婿のミュラ将軍によって粉砕された。
しかし、反乱は全土へ広がり、いわゆるスペイン独立戦争(半島戦争ともいう。1808~1814
年)に突入した。 ○スペイン独立戦争(半島戦争) ヨーロッパ大陸を席巻したナポレオン戦争のうち、とくにイベリア半島で激しく戦われ
た戦争を半島戦争といっている。半島戦争はナポレオン戦争中イベリア半島でスペイン軍、
2042
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ポルトガル軍、イギリス軍がともにナポレオンのフランス帝国軍に対して戦った大戦争で、
スペイン独立戦争として知られている(図 14-6 参照)。 1808 年 8 月にイギリス軍はウェリントン指揮のもと、ポルトガルに上陸しフランス軍と
その同盟軍をはねのけた。イギリス・ポルトガル軍とスペイン軍が勝利したことで、ナポレ
オン自身がイベリア半島に 20 万人の兵を率いてやってきた。僅か 2 ヶ月余りスペインにい
て、ナポレオンはスールト元帥に指揮権を戻し、自身はフランスに帰国した。 スペイン軍のゲリラ戦術とウェリントン率いるイギリス・ポルトガル軍を相手にフラン
ス軍は泥沼にはまり込んでしまい、詳細は省略するが、いずれにしても、ナポレオンのロ
シア遠征の破滅的な失敗により、1814 年にフランス勢力はスペインから駆逐された。 ○スペイン・ブルボン朝(ボルボーン朝)のフェルナンド 7 世の復位 話は少し戻るが、1808 年 5 月 5 日にナポレオンによってスペイン王として擁立されたナ
ポレオンの兄ジョゼフは、ホセ 1 世として即位したが、政治面ではその前のカルロス 4 世
のブルボン王朝より近代化政策をとり、1812 年にはカディスの議会で民主的な「1812 年憲
法」を制定した。 その 2 年後、ナポレオン失脚後の 1814 年にホセ 1 世は退位し、ブルボン家のフェルナン
ド 7 世(1808 年。1813~1833 年)が復位した。しかし、フェルナンド 7 世はホセ 1 世の支
配下で行われた民主的近代改革をことごとく放棄し、絶対君主制を布いた。これに自由主
義者たちは反発し、「1812 年憲法復活」を叫んだ。 一方、ナポレオン戦争で、スペイン植民地のラテンアメリカ地域ではクリオール(ラテ
ンアメリカ生まれの白人)たちによる独立運動が活発となり、パラグアイ、ベネズエラ、
ラプラタ連合州(現在のアルゼンチン)、チリ、ヌエバグラナダ(現在のコロンビア)は
独立を宣言した。 ○スペイン立憲革命の失敗 1819 年の終わり、フェルナンド 7 世はラテンアメリカにおける独立運動を鎮圧させるた
めに国軍をセビリア県のカベーセス・デ・サン・フアンに召集した。ところが 1820 年の 1
月 1 日にリエゴ・ヌニェス大佐が率いる部隊が「1812 年憲法復活」を求め、反乱を起こし
た。 この反乱は当初は兵士の支持が得られないこともあり、失敗するかに見えたが、スペイ
ン各地で同様の反乱や暴動が勃発し、首都マドリードにも反乱の火の手が及んだ。国王フ
ェルナンド 7 世は事態を収拾するために「1812 年憲法」の復活を承認し、この年の 3 月 7
日には、憲法復活を宣誓した。 2043
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
この結果、ウィーン体制は動揺し、ラテンアメリカの独立運動はさらに進みメキシコ、
エクアドルなどが独立した。また反乱は革命となり 1822 年 6 月 30 日にはフェルナンド 7
世はヌニェス率いる革命軍に捕らえられ、廃位させられ、革命政府が樹立された。 このような急進的な自由主義革命は神聖同盟加盟諸国と隣国で同じブルボン王朝のフラ
ンスを刺激した。1822 年にイタリアのヴェローナで神聖同盟諸国による会議が行われ、ス
ペインへの干渉、出兵が決定された。1823 年 4 月 7 日に「聖ルイの息子」と称するフラン
ス軍 10 万人がピレネー山脈を越えて、進軍し、革命政府の打倒をはかった。 この年の 8 月 31 日のトロカデロの戦いでフランス軍がスペイン革命軍を破り、9 月 23 日
にはフェルナンド 7 世がスペイン国王に復位した。11 月 7 日にはリエゴ・ヌニェス大佐は
処刑され、革命は終わった。これがスペイン立憲革命である。「スペイン第 1 内戦」とも
「自由の 3 年間」とも言われる。フェルナンド 7 世の旧態依然とした支配体制は 1833 年 9
月 29 日に彼が死ぬまで続いた。 ○中南米植民地の独立 18 世紀後半のアメリカ合衆国の独立の後、ヨーロッパでフランス革命とこれに続くナポ
レオン戦争が起こると中南米でも独立の動きが活発になった。スペイン本国が、ナポレオ
ン戦争から 1820 年のスペイン立憲革命の混乱で中南米植民地の運動をあまり抑えることが
できず、相次いで実質的な独立を達成するのを許すことになった。その経過は、以下の通
りであるが、詳細は【14-4】植民地から独立したアメリカ諸国で述べている。 ◇1809 年……ラプラタ (現在のアルゼンチン)で独立の動きが起きた。 ナポレオンがたて
たスペインの傀儡王朝に対して、ラプラタの議会は退位させられたフェルナンド王を支持
し、1810 年 5 月にスペインの総督を倒し、自治に移行した。 ◇1810 年 9 月……メキシコでミゲル・イダルゴらが反乱を起こし、メキシコで独立戦争が
はじまった。この反乱は 1811 年にスペイン軍に鎮圧され、イダルゴは処刑されたが、その
後もメキシコの独立の動きが続いた。 ◇1811 年 7 月……ベネズエラの議会がスペインから独立を宣言した。 フランシスコ・デ・
ミランダに率いられて独立戦争が始まり、後にシモン・ボリバルらが独立運動に加わった。 ◇1811 年 8 月……パラグアイがスペインから独立を宣言した。 ラプラタ連合 (アルゼンチ
ン) とは同調せず、5 月にブエノスアイレスに対して自治を求める蜂起を起こし、8 月にス
ペインに対して独立宣言を行い、独自の道を歩んだ。 ◇1816 年 7 月……ラプラタ連合(現在のアルゼンチン)がスペインから独立を宣言した。 ◇1818 年……1817 年にサン・マルティン、オイギンスらがアルゼンチンからアンデス超え
を行ってチリに進軍し、チリを解放した。1818 年にオイギンスを総裁としてチリは独立を
宣言した。サン・マルティンはこの後、ペルーへと向かった。 2044
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
◇1819 年 12 月……ボリバルがベネズエラ、コロンビア、パナマ、エクアドルを併せた地域
をコロンビア共和国(大コロンビア共和国)として独立宣言した。エクアドル、ベネズエ
ラの要地は、まだスペインの支配下にあり、ボリバル軍が解放に向かった。 ◇1820 年 1 月……前述したスペイン立憲革命が起き、 自由主義勢力がスペインの王朝を倒
し、一時革命政府を樹立した。メキシコ、コロンビアなどで独立運動を鎮圧中のスペイン
軍も一時休戦した。これを機にメキシコ、大コロンビアなどが相次いで独立を達成し、ス
ペインの中南米における植民地の多くが解体することになった。 ◇1821 年 2 月……メキシコがスペインから独立宣言した。 アグスティン・デ・イトゥルビ
デがイグアラ宣言を発布し、9 月には戦争に終止符を打った。 ◇1821 年 6 月……ベネズエラがスペインから独立した。 ボリバル軍がベネズエラを解放し、
大コロンビアに合流した。 ◇1821 年 6 月……ペルーがスペインからほぼ独立した。 サン・マルティンがリマを奪取し、
ペルー共和国を宣言した。その後、ペルーの運営をボリバル軍に引き継ぎ、1824 年までに
スペイン軍を降伏させた。 ◇1821 年 9 月……中米グアテマラのスペイン総督府が独立を宣言した。 グアテマラ、エル
サルバドル、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラスを併せた地域が独立し、北部は一時
メキシコ帝国に併合された後、すぐに分離し、1823 年に中米連邦を結成した。 ◇1822 年 5 月……エクアドルがスペインから独立した。 ボリバルの部下アントニオ・ホセ・
デ・スクレがエクアドルを解放し、エクアドルは大コロンビアに合流した。 ◇1823 年 7 月……中米連邦を結成した。 (1823 年 12 月……アメリカ合衆国がモンロー宣言) ◇1825 年 8 月……アントニオ・ホセ・デ・スクレがスペイン軍を降伏させ、ボリビアが独
立を達成した。ボリビアの国名はボリバルの名にちなむ。スクレは 1826 年にボリビアの初
代大統領に就任した。 ◇1825 年 11 月……ラプラタ連合がアルゼンチンに名称を変更した。 ○残されたスペイン植民地 前述したように 1810 年から 1825 年までの間に、スペインの中南米の大部分の植民地は
独立してしまったので、スペインの国際的地位は著しく低下した(図 13-10 の最下段の黄
色い部分が独立)。19 世紀後半までには、スペインには太平洋、アフリカおよび西インド
諸島でのほんの少数の散在した植民地しか残らなくなっていた(キューバ、プエリトリコ、
グアム、フィリピンなど)。 2045
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
そのフィリピンとキューバでも独立運動が発生していた。フィリピンではエミリオ・ア
ギナルドにより、キューバではアントニオ・マセオやマクシモ・ゴメス、ホセ・マルティ
などにより既に数十年にわたるゲリラ戦争が展開されていた。 ○キューバの独立運動 キューバにおいてスペイン軍はキャンプを構築し住民と独立軍を分断し支援を止めさせ
る作戦を展開した。スペインは、さらに反逆者と疑わしい人々の多くを処刑し、村々に残
酷なしうちを行った。しかし、1898 年にはキューバ島の約半分がマクシモ・ゴメス将軍の
率いる独立軍に支配され、スペインの立場は回復しそうにもなかった。アメリカの新聞各
紙は、これらのスペインのキューバ人に対する残虐行為を報道し、アメリカ国民の人道的
感情を刺激し、キューバへの介入を求める勢力が増大した。 一方、アメリカ合衆国は、19 世紀末をもって、西部開拓は終了し、フロンティアは消滅
したといわれていた。西部への拡張およびアメリカ・インディアンとの大規模交戦の終了
は陸軍の任務を減少させ、軍の指導陣は新しい任務を望んでいた。 また、キューバはスペインの植民地ではあったが、キューバの経済の多くは既にアメリ
カの手にあり、ほとんどの貿易は(その多くは闇市場だった)、アメリカとの間のものであ
ったので、早期からアメリカ人の多数はキューバが彼らのものであると考えるようになっ
た。 そのようなとき、1898 年 2 月 15 日にハバナ湾で米海軍の戦艦メインが爆発、沈没し、260 人の乗員を失う事故が発生した。当時のアメリカのメディアは、スペイン人による卑劣な
サボタージュが原因であったと主張した。爆発の原因に関する証拠とされたものは矛盾が
多く決定的なものが無く、爆発原因に関する専門家の見解は現在も定まっていないが、ス
ペインが戦争に消極的であっただろうという点では一致している。 メイン号の爆発は、世論を戦争へとかりたて、1898 年 4 月 19 日に「アメリカ議会はキュ
ーバの自由と独立を求める共同宣言を承認し」て、マッキンレー大統領はスペインに宣戦布
告した。これを受けて、スペインはアメリカとの外交関係を停止した。 ○米西戦争の敗北と植民地の喪失 最初の戦闘は、意外なところから始まった。1898 年 5 月 1 日、香港を出港したジョージ・
デューイ提督率いるアメリカ太平洋艦隊が、マニラ湾でパトリコ・モントージョ将軍率い
る 7 隻のスペイン艦隊を攻撃した。6 時間でスペイン艦隊は旗艦を含む 3 隻が沈没、4 隻
が炎上するなど壊滅状態に陥ったが、アメリカ艦隊の被害は負傷者 7 人のみとほぼ無傷で
あった 。 5 月 19 日、スペイン大西洋艦隊がキューバのサンティアゴ湾に入港したが、アメリカ大
西洋艦隊はサンティアゴ湾を封鎖し、陸海軍共同でスペイン艦隊を攻撃した。7 月 3 日にス
2046
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ペイン艦隊が湾外に脱出したところ、アメリカ海軍に捕捉され攻撃を受け沈没、座礁、降
伏などで全滅した。これによって、スペイン軍の再補給は妨げられ、アメリカ軍はキュー
バに兵力を安全に上陸させることができた。 アメリカの陸上兵力は義勇騎兵隊であるラフ・ライダーズ(荒馬乗り隊)連隊を含む約 1
万 7000 人であった。陸上での大きな戦いはサン・ホアン高地が 1 日で陥落し決着がついた。
この時ラフ・ライダーズ連隊の中佐として指揮したセオドア・ルーズベルトは戦争の英雄
となった(のちにアメリカ大統領となった)。1 ヶ月以内に米軍はキューバ島を入手した。
7 月 25 日に、米軍はプエルトリコにも上陸し占領した(図 14-34 参照)。 これでキューバもプエリトリコも決着がついたのだから、米西戦争は終るはずだった。
ところが、アメリカはそうではなく、キューバとまったく関係ないところも攻撃していた。
1898 年 6 月 20 日、アメリカ海軍の巡洋艦チャールストンおよび輸送船 3 隻の艦隊が当時ス
ペインの植民地だったグアム島をカノン砲で砲撃し占領した(図 15-16 参照)。アメリカ
海軍は開戦の 1 年以上前にスペイン軍を攻撃するための計画を作成していた。 スペインは、太平洋艦隊、大西洋艦隊を失い戦争を継続する能力を失った。交戦状態は 8
月 12 日に停止した。スペインが交戦状態を停止してから、1898 年 8 月 14 日に、1 万 1000
人のアメリカ地上部隊がフィリピンを占領するために送られた。エミリオ・アギナルド率
いるフィリピンの国家主義者はアメリカ艦隊とともに独立運動を再開し、フィリピンのス
ペイン軍の多くは降伏した。 スペインとアメリカの形式上の和平条約は 1898 年 12 月 10 日にパリで調印され(パリ条
約)、1899 年 2 月 6 日にアメリカ上院によって批准された。 ○米比戦争の開始 ところが、フィリピンの革命軍は多くの戦闘においてアメリカ軍と共闘したが、マニラ
に入城する際にアメリカ軍がフィリピン兵の入城を妨害する事件が起こり、このあとから
起こった米比戦争の原因の一つとなった。 アメリカはフィリピンを独立させる気など全くなかった。アメリカがスペインに代わっ
てフィリピンの統治を始めると同時に、今度はアメリカとフィリピンの戦争が始まった(米
比戦争)。戦争はフィリピン国家主義者の独立に対する望みを絶つために行われ、何千もの
軍人、民間人の死傷者が生じた。つまり、アメリカはフィリピンの独立を横取りしてしま
ったが、これはアメリカ・フィリピンの歴史で述べることにする。 ○アメリカ帝国主義のはじまり 以上のように、1898 年 4 月 19 日にアメリカは「キューバの自由と独立を求める共同宣言」
を承認して、スペインに宣戦布告したはずだったのに、キューバだけではなく、まったく
関係ないフィリピン、グアムおよびプエルトリコを含むスペイン植民地のほとんどすべて
2047
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
を一斉に獲得し、キューバを保護国として事実上の支配下に置いた。以降、アメリカの国
力は飛躍的に拡大していき、南北アメリカ大陸と太平洋からスペインの影響力を一掃し、
ヨーロッパ列強と同じように植民地を求める帝国主義時代へと入っていった。 スペインは植民地を失ったために国力が低下し、新興国家アメリカにあっけなく敗れた
ことから、米西戦争後、ヨーロッパでの国際的地位も発言力もさらに大きく失った。大航
海時代(あるいはルネサンス)から始まったスペインの帝国主義が破綻し、産業革命に支
えられた新しい帝国主義の時代への幕開けをつげたのが米西戦争であった。その先鞭をつ
けたのがアメリカであった。 【14-2-11】ポルトガル ○ナポレオンの侵略とブラジル遷都 フランス革命でルイ 16 世と王妃マリー・アントワネットが処刑されたことが大きなショ
ックとなり、1791 年にポルトガル女王マリア 1 世(1734~1816 年、在位:1777~1816 年)
は精神に異常をきたし、1792 年以降、三男ジョアン王子が摂政となった。 1801 年、第 1 執政に就任したナポレオンはスペインと同盟を結んでポルトガル攻略を開
始し、越境したスペイン軍がアレンテージョ(ポルトガル中南部)全域を占領した。 1806 年、ナポレオンの大陸封鎖令が発令されたが、ポルトガルはこれに従わなかった。
ナポレオンはスペインと密約を結び、ポルトガルを 3 分割して、1 つをスペイン宰相ゴドイ
の王国とすることに同意し、1807 年 11 月、フランス将軍ジュノーがポルトガルに侵攻した。 摂政ジョアンはイギリス国王ジョージ 3 世と密約を結んで、王家の乗ったポルトガル艦
隊はイギリス艦隊に護られてブラジルへ避難した。多数の貴族や裕福な商人たちも加わり、
合計 1 万 5000 人以上が王室とともに脱出した。リオデジャネイロへの宮廷の移転は、その
後独立することになるブラジルの国家建設の始まりであった。 王室不在のポルトガルでは、激しい半島戦争が戦われ、フランスの侵略とイギリスの占
領の中で、ポルトガル戦争大臣のミゲル・ペレイラ・フォルハスは、ポルトガル軍の参謀
と 5 万 5000 人の常備軍、5 万人以上の国民防衛隊「ミリシアス」と様々な数の郷土防衛隊
「オルデナンサス」(全体で 10 万人を越えると目される兵力)を指揮して戦った。 1814 年、ナポレオンは敗北し、フランス軍はイベリア半島から撤退した。ポルトガルで
は、フランス軍を駆逐したのちイギリスのベレスフォード将軍が軍政をしいた。 1816 年、マリア 1 世がブラジルで死去し、摂政であった三男ジョアが即位してジョアン
6 世(1767 年~1826 年、在位:1816~26 年)となった。 ポルトガルの半島戦争に参加したポルトガル軍将校は、イギリス軍人を追放し、1820 年
8 月 24 日にポルトで自由主義革命を開始した。事実上イギリスの保護国となっていた母国
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
を苦々しく思っていたジョアン 6 世は、1820 年にポルトで起きた 1820 年革命により帰国を
革命政府から請願された。ベレスフォード将軍はイギリスへ帰国し、イギリス政府はポル
トガル不介入を決定した。 ○ポルトガル王室の本国復帰 1822 年、ポルトガル王室は、王位継承者ドン・ペドロ王子をブラジルの摂政王として残
し、リスボンへ帰国した。ジョアン 6 世は、普通議会の作成した 1822 年憲法の遵守を宣誓
した。1822 年憲法は、王の最高権力に代わり、三権分立を規定した内容で、事実上絶対王
政から立憲王政に変貌をとげた。 ジョアン 6 世は、ブラジルにいる摂政ドン・ペドロを本国に召還すべく、何度も命令を
出していた。しかし、ブラジル摂政として残留したペドロは独立を望むブラジルの人々に
擁立されて翌 1822 年に独立を宣言し、皇帝ペドロ 1 世(在位:1822~1831 年)となった。
ポルトガルは最大の植民地を喪失した。ポルトガルがこの独立を認めたのは、1825 年にな
ってからだった。病を患ったジョアン 6 世は摂政審議会を設立し、「王家の正統な後継者
が政権を掌握できるまでの間」政務を執るよう命じ、1826 年に没した。 ○ポルトガル内戦(1828 年~1834 年) ポルトガル王ジョアン 6 世が没した後、ブラジル皇帝となったペドロ 1 世(ポルトガル
王としてはペドロ 4 世)は自身のポルトガル王位継承を辞退し、娘マリア 2 世を正統なポ
ルトガル王位継承者とした。しかしマリア 2 世は幼少(7 歳)のため在ブラジルのままであ
り、ペドロ 1 世は娘の即位にあたって、弟ミゲルをその婚約者とし、未成年の間の摂政を
命じた。 1828 年、ミゲルは国王への忠誠を誓い、摂政職を拝命したが、すぐに彼の支持者らによ
って国王に推挙され、再び絶対王政への回帰を宣言した。ミゲルによって上下両院は解散
させられ、5 月には伝統的身分制議会コルテスが招集された。かくしてこの 1828 年のコル
テスにおける議決によって、ミゲルは国王ミゲル 1 世(在位:1828~1834 年)となり、立憲
政府を無効化させた。 このような王位の僭称に自由主義者らは黙っておらず、1828 年 5 月 18 日に自由主義勢力
の砦ポルトにおいて、ペドロ 4 世(ペドロ 1 世)とマリア 2 世、さらに立憲政府への忠誠
を宣言し、戦闘にはいった。これをポルトガル内戦(1828 年~1834 年)という。 自由主義の立場にたつブラジルのペドロ 1 世はミゲルが許せず、1831 年、ついにブラジ
ル皇帝位を 5 歳の長男ペドロ 2 世に譲り、ペドロ(1 世)自らポルトガルでの内乱を決着さ
せるべく、イギリスへ渡って遠征軍を組織し、すぐに自由主義者の亡命政権のあるアゾレ
ス諸島で友軍と合流し、ミゲル派鎮圧にあたった。 2049
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ペドロ派は 1833 年 7 月リスボンに入城、1833 年末、マリア 2 世(在位:1826~1853 年)
は女王に戴冠され、父ペドロが摂政となった。ミゲル派や教会の財産は没収され、これに
よってローマとの関係は冷え込んだ。自由主義派はリスボン、ポルトなどの都市部を押さ
えることに成功したが、ミゲル派(絶対王政派)の多くは地方に逃れ、残党狩りは 1834 年
から再開され、ポルトガル内戦は最終的に 1834 年 5 月 14 日のアセイセイラの戦いで決着
した。 ペドロは立憲政府を復活させたが、その年の 9 月 24 日に亡くなった。以降は女王マリア
2 世の治世となった。マリア 2 世によってポルトガルの権威は回復された。 ○ポルトガルのアフリカ植民地 その後、自由主義者と保守主義者の主導権争いが続いた後、農村における大土地所有制
と零細農民の併存という土地所有制度が維持された。大土地所有制の強化による余剰労働
力の受け皿となるべき工業化が進まなかったこともあって、19 世紀後半から 20 世紀後半ま
で多くのポルトガル人がブラジルやポルトガル領アフリカ、西ヨーロッパ先進国に移住す
ることとなった。 それまでにもブラジル喪失の直後からアフリカへの進出は進められていたが、19 世紀末
のアフリカ分割の文脈の中でポルトガルのアフリカ政策も再び活発化した。列強によるア
フリカ分割が協議されたベルリン会議後の 1886 年には、図 14-55 の大西洋側のポルトガ
ル領アンゴラとインド洋側のポルトガル領モザンビークを結ぶ「バラ色地図」構想が打ち
出されたが、1890 年にアフリカ縦断政策を掲げていたイギリスと、アンゴラ=モザンビー
ク間に存在した現在のザンビア、マラウイ、ジンバブエに相当する地域を巡って対立した。
しかし、ポルトガル政府がイギリスの圧力に屈する形でこれらの地域を失うと(もはや、
イギリスとポルトガルでは雲泥の差があった)、アフリカにおけるポルトガル領の拡張は頓
挫した(その他にも 1887 年にマカオの統治権を清より獲得している)。 結局、ポルトガルの植民地は前述のアンゴラとモザンビークそしてマカオだけになって
しまった。
19 世紀後半の産業革命によって台頭したブルジョアジーの間に共和主義が台頭し、1910
年 10 月 3 日に共和主義者が反乱を起こすと、反乱は共和主義に共鳴する民衆蜂起となり、
国王マヌエル 2 世が早期にイギリスに亡命したこともあって 1910 年 10 月 5 日革命が成功
し、ブラガンサ朝は倒れ、ポルトガルは共和政に移行した。 一方、ブラジルは 1822 年に独立してブラジル帝国が成立し、ペドロ 1 世、ペドロ 2 世の
2 代の皇帝が続いたが、1889 年にクーデターによって帝政が廃止された(ブラジル帝国に
ついては【14-4-5】ブラジルに記している)。 2050
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
【14-2-12】ベルギー ○ベルギーの独立 前述のように 1830 年に南ネーデルラントが独立してベルギー王国となったが、そもそも
南ネーデルラントは、オランダ独立時から別の道を歩んでいた。オランダは 1648 年のウェ
ストファリア条約によってネーデルラント連邦共和国として正式に独立を承認されたが、
南部諸州は切り離されスペインの支配下に留まり、18 世紀のスペイン継承戦争の後にオー
ストリア領となった(オランダは新教、南ネーデルラントはカソリック)。この南ネーデル
ラントが現在のベルギー王国の起源である。 ナポレオン戦争の終結後、1815 年のウィーン議定書によってベルギーは現在のオランダ
と共にネーデルラント連合王国として再編された。また、ウィーン議定書にもとづき、ル
クセンブルグ大公国はドイツ連邦に加盟した。 ドイツ人とフランス人からなるカトリックのベルギーは、ドイツ人からなる新教徒のオ
ランダの国王ウィレム 1 世に対して、1830 年、独立宣言し、1831 年ベルギー憲法を制定し
た。主たる納税者であるブルジョワジー男子による二院制で、国王の行政行為は首相の承
認(副署)を要するというものであった。 1839 年オランダとベルギーとの平和条約(ロンドン条約)が締結された。そこにはオラ
ンダがベルギーの独立を認める見返りに、ベルギーは永世中立国の宣言をせよということ
になっていた。これは新教国オランダにとって、旧教国フランスとベルギーの同盟による
軍事的脅威をなくすものであった。ベルギーの永世中立国化はオランダの安全保障が関わ
っていたのである。 ○国王の私領地コンゴ自由国 ベルギー2 代目国王レオポルド 2 世(在位:1865~1909 年)は、父レオポルド 1 世の後
を継いで 30 歳で国王となると海外植民地の物色を続けていた。イギリスの探検家キャメロ
ンがコンゴ川流域について報告をするといち早く反応し、1876 年に「アフリカ探検・文明
化国際協会」を組織し、1878 年、ヘンリー・スタンリーにザイール川(コンゴ川)流域を
探検させた。国王の支援のもとでの探検だったので、その成果は国王に帰属し、国王は 1882
年に「コンゴ国際協会」に委託支配させた。1884 年、アフリカ分割を前提としたベルリン
会議に出席し、翌 1885 年に欧州列強の承認のもと、広大なコンゴ自由国を国王の私領地と
した建設した(図 14-55 参照)。 国王の私領となったコンゴ自由国では耕作地も全てが国王の所有となり、住民は象牙や
ゴムの採集を強制された。そのために原住民に過酷なゴム原料の採取労働を課し、ノルマ
を達成できなければ手を切り落とすなど暴虐的な統治を行ない、前代未聞の圧制と搾取が
行われていた。数百万人の原住民が死に追いやられ(コンゴ大虐殺)、レオポルド王支配下
2051
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
の 20 年間に、コンゴの人口は 2500 万人から 1500 万人に激減したと推定されている。コン
ゴ自由国の自由国とは、「住民が自由な国」という意味ではなく、自由貿易の国という意
味であった。 同地で取れる原料ゴムの需要が急増したことにより、レオポルド 2 世は巨額の収入を得
て首都とその周辺に豪華な王室宮廷建築を次々と造営した。しかし、このコンゴの状況は
外部からは隠されていたためアメリカやヨーロッパからは先住民の福祉を向上させている
慈悲深い君主と思われていた。 アフリカ関係を扱うジャーナリストの仕事も行っていた海運会社の主任連絡員エドモン
ド・モレルは、リバプールからベルギーを往復する間にコンゴ自由国から輸入されるゴム
の圧倒的な多さに対して、ベルギーからコンゴへ輸出される商品が武器弾薬に限られてい
ることに気付いて調査に乗り出し、1900 年からコンゴ自由国の内情とベルギー国王レオポ
ルド 2 世の圧制を暴露して糾弾した。1906 年には代表作『赤いゴム』を発表して国際世論
を味方につけレオポルド 2 世を追い詰めた。 ○ベルギー領コンゴ ここに来て国際社会の非難の声は益々高まり、国王の恣意的な暴政にベルギー政府も黙
っていられなくなった。1908 年 10 月、ベルギー政府は植民地憲章を制定し、国王はベルギ
ー政府からの補償金との引き換えにコンゴ自由国を手放すことになった。同年 11 月、コン
ゴ自由国はベルギー政府の直轄植民地ベルギー領コンゴになった。 コンゴはボマに駐在する総督と何人かの副総督によって統治されることになった。ブリ
ュッセルには植民地大臣を議長とする植民地評議会がおかれコンゴに対する支配を監督し
た。ベルギー領コンゴの成立によりコンゴの状況は画期的に改善された。教会の勢力拡大
にともなって、いくつかの民族言語をまぜあわせた共通語が広められ、それが今日のリン
ガラ語となった。植民地政府は鉄道、港湾、道路、鉱山、農園、工業団地などの建設を伴
う経済再編成を推進した。コンゴの教育はカトリック教会やプロテスタント等により担わ
れた。 【14-2-13】スウェーデン ○スウェーデンの植民地 スウェーデンもかつては植民地活動を行なっていた。スウェーデンは 1638 年、北アメリ
カのニュースウェーデン(現在のデラウェア州)に植民し、後、オランダに奪われた。1650
年にはアフリカの黄金海岸にも進出したが、デンマーク、イングランドに奪われて海上帝
国を形成出来なかった。 2052
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
その後は植民よりも貿易に力を入れていた。スウェーデン東インド会社が、1731 年に民
間会社によって設立され、主に清国の広東との貿易を行なった。スウェーデンの東インド
会社は、イギリス東インド会社、オランダ東インド会社、フランス東インド会社などと比
べると取るに足らない存在であったし、また軍事力も備わっていなかった。しかし、スウ
ェーデン東インド会社は、スウェーデンに大きな利益をもたらした。とくにイギリス・フ
ランスが戦争をしている間には、中立国としてスウェーデンの経済発展を促した。 アメリカ独立戦争では、巨額の利益をもたらしたが、戦争の終結によってスウェーデン
東インド会社の斜陽の時代がはじまった。独立国家となったアメリカ合衆国も清との貿易
を開始し、スウェーデン東インド会社は衰退していった。 また、1784 年には、フランスから西インド諸島のサン・バルテルミー島を買取り、西イ
ンド会社を設立したが、1805 年に閉鎖し、島も 1878 年にフランスに返還された。 ○ナポレオン戦争下のスウェーデン フランス革命が起こり、ナポレオン 1 世が登場すると、スウェーデンは第 3 次(1805~
1806 年)、第 4 次対仏大同盟(1806~1807 年)に参加したが、敗北した。1809 年にはフラ
ンス帝国の強制でフィンランドをロシアに譲渡することになった。 1809 年、スウェーデンで軍事クーデターが起き、対仏強硬派(反ナポレオン)で、ロシ
ア帝国にフィンランドを奪われたグスタフ 4 世アドルフが廃され、代わってグスタフの叔
父のカール 13 世が王位についた。しかし、カール 13 世はこのとき既に老人であり、王子
も 1810 年に急死してしまい、スウェーデンは次の後継者を定める必要性に迫られることと
なった。 フランス軍のベルナドット将軍を後継者候補にしてはどうかという意見が出た。ベルナ
ドットはかつてスウェーデン軍の捕虜に対して寛大な処置をとったことがあり、スウェー
デン国民の間でも人気があった。カール 13 世は「要するに悪い奴ではあるまい」の一言で、
ベルナドットを後継者に認めた。ナポレオンもまた北方に頼りになる同盟国が欲しいとい
う思惑から、ベルナドットがスウェーデン国王の後継者となることを認めた。 このような事情からベルナドットは、1810 年から摂政としてスウェーデンの政務を執る
ようになったが、次第に反フランスの政策をとるようになり、1812 年にはロシアと同盟を
結んでフランスに対抗した。ロシア遠征の失敗によって反ナポレオンの機運が高まると、
ベルナドットは反ナポレオン連合軍に率先して参加し、連合軍の勝利に貢献した(解放戦
争、第 6 次対仏大同盟)。スウェーデンに戻ったベルナドットは、ノルウェーに侵攻し併合
に成功するなど(1814 年、キール条約)、外交的にも功績を上げた。 ○カール 14 世ヨハンの「中立主義」(武装中立) 2053
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ベルナドットは、1818 年にカール 14 世ヨハン(在位:1818~1844 年)として正式に国
王となった(現スウェーデン王室)。スウェーデンとノルウェーはモス条約を結び、ノルウ
ェーの自治を認めた上での同君連合王国となった。 カール 14 世ヨハンは、対外的に中立を保って国内の平和の維持につとめ、領土の拡大よ
り産業の振興によってスウェーデンの国力を強化しようとした。カール 14 世ヨハンはウィ
ーン体制を忠実に履行し、1830 年以降は穏健な立憲君主となり、現在のスウェーデンの骨
格を築いた中立政策はスウェーデン国民の支持を得て、現代にまで継続する「中立主義」
(武
装中立)を創成した。 このようにナポレオン戦争後のスウェーデンは、カール 14 世の政策により今日の中立の
芽が蒔かれたが、19 世紀半ばになると、北欧全土が列強の脅威にさらされることになり、
スウェーデンを中心に汎スカンディナヴィア主義(ノルマン主義)と呼ばれる運動が、北
欧諸国民の間で盛んになった。この運動を利用して、オスカル 1 世(在位:1844~1859 年)
の大国復興を巡る駆け引きが行われたが、王権の低下と共に挫折した。 さらに 1872 年に即位したオスカル 2 世(在位:1872~1905 年)は、汎スカンディナヴィ
ア主義の幻想をドイツ帝国の汎ゲルマン主義と重ね合わせたが、もはや国王の統治権は形
骸化しつつあり、国王による国家牽引は時代遅れであった。 その後スウェーデンでは民主化が進められ、1866 年には二院制議会が置かれ、さらに 1908
年には成人男子による普通選挙制度が導入され、1920 年には労働者を支持基盤とする社会
民主労働党が政権を獲得した。 ナポレオン戦争以後は戦争に直接参加しなかったため、スウェーデンには平和が到来し
た。学芸と科学技術が大いに発展し、探検家ヘディン、作家ストリンドベリ、経済学者ヴ
ィクセル、ダイナマイトの発明者でノーベル賞の設立者ノーベルなどの偉人が現れた。 1905 年には平和裏にノルウェーの独立を認めた。 【14-2-14】デンマーク ○植民地をもっていたデンマーク デンマークは、ヴァイキング時代から北極周辺に植民地を保有し、グリーンランド、フ
ェロー諸島を領有していたが、現在は両国とも自治領となっている。アイスランドもかつ
てはデンマーク領であった。これらは植民地といっても、大航海時代以降、ヨーロッパ列
強がもった植民地とは性格を異にするものであろう。 しかし、デンマークも大航海時代には、デンマーク領西インド諸島、アフリカの黄金海
岸の一部、インドのベンガル湾岸の諸都市、ニコバル諸島に植民地を保有していた。 2054
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
17 世紀初頭のクリスチャン 4 世(在位:1588~1648 年)の時代に、デンマークは本格的
に植民地獲得競争に参入し、1616 年にデンマーク東インド会社を設立し重商主義を推し進
めて、インドへ進出した。しかし、デンマークは、イギリス、オランダ、スペインなどの
海軍強国の狭間では、その海軍力を誇示することが出来ず、北欧最大の海洋国家も、大航
海時代においては、覇権を得ることはできなかった。 しかし、デンマークはトランケバール(現・インド・タミルナドゥ州)とカリブ海の植
民地を約 200 年支配し続けた。デンマーク東インド会社は最盛期にはスウェーデン東イン
ド会社とともにイギリス東インド会社以上に茶の輸入を行い、かなりの利益をあげた。ま
た、デンマークは、1733 年にはフランスよりカリブ海のセント・クロイ島を買収し領有権
を得た。その後、デンマーク領西インド諸島と称し、デンマーク国王に任命された総督に
よって統治される体制となり、デンマークも三角貿易を推進した。また、西アフリカにも
植民地や要塞を経営し、奴隷貿易にも参画していた。 このようにデンマークの植民地活動は小規模だったが、一貫して海運活動は活発に行な
った。17 世紀から 18 世紀にかけてのデンマークは、海運の隆盛期であり、黄金時代であっ
た。バルト海の覇権を失っても、外洋との連係を保ち続けたことが、デンマークの国力を
維持させた原動力であったとも言える。18 世紀末に入るとノルウェー人も海運業に参加し
てきた。ノルウェーの商船隊は、このクラスの先進国であるデンマーク、オランダを凌ぐ
ほどになった。こうしたことは、19 世紀の海運立国としてのノルウェーの下地を築くこと
となった。 ○ナポレオン戦争時代のデンマーク しかし、フランス革命、ナポレオン時代になり、武装中立同盟に参加したことは、デン
マークの海運帝国に斜陽の時代をもたらした。イギリスは、1794 年にデンマーク、スウェ
ーデン、プロイセン、ロシアが締結した武装中立同盟に脅威を感じていた。 そもそも、この武装中立同盟は、アメリカ独立戦争中の 1780 年から 1783 年にかけて、
ロシア帝国のエカテリーナ 2 世主導で結成されたヨーロッパ各国の同盟で、中立国船舶の
航行の自由と禁制品以外の物資輸送の自由を宣言したものであった。これによってイギリ
スは孤立する結果となり、アメリカの独立を間接的に支援する結果となった。 フランス革命戦争時の 1800 年から 1801 年にかけても、二度目の武装中立同盟が結成さ
れた。イギリスとデンマークは、これが元で対立し、コペンハーゲンの海戦に至った。こ
の時、デンマークの海軍は壊滅し、艦砲射撃によりコペンハーゲンは炎上した。 デンマークは 1807 年までナポレオン戦争に巻き込まれないよう中立を維持していたもの
の、1807 年にイギリス海軍が再びコペンハーゲンを攻撃、デンマーク海軍がフランスを支
2055
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
援することができないようにデンマークの艦船を拿捕したことから、デンマークはイギリ
スとの戦いに突入した。 その後デンマークはフランス帝国と同盟を結び、ナポレオン戦争の敗戦国となった。そ
の結果ノルウェーを失い、デンマークの海外領土はイギリスに占領された。艦隊も没収さ
れ、海上貿易も失った。以後デンマークの海運は、以前の輝きを失った。 海外植民地は、アフリカの黄金海岸、ベンガル湾岸の諸都市及びニコバル諸島(ベンガ
ル湾にある)は 19 世紀半ばにイギリスへ、西インド諸島は第 1 次世界大戦中にアメリカ合
衆国へ売却し(アメリカ領ヴァージン諸島)、デンマークは植民地経営からは足を洗った。 ○第 2 次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争の敗北 デンマークは、①シェラン島、フュン島といった島嶼部、②ユトランド半島北部、③シ
ュレースヴィヒ公国及びホルシュタイン公国で構成されていたが、③のシュレースヴィヒ
及びホルシュタインの両公国(図 14-26 参照)はドイツ連邦を構成する領邦であり、君主
をデンマーク国王とする同君連合にすぎなかった。 18 世紀の早い時期からデンマーク人は両公国をデンマークと不可分の領土と考えていた
が、その考えは両公国の多数派であるドイツ人の考えであるシュレースヴィヒ=ホルシュ
タイン主義と真っ向から対立するものであった。シュレースヴィヒ=ホルシュタイン主義
者はデンマークからの独立を企図し、独立戦争を引き起こし(1848 年~1851 年)、イギリ
スやロシアなどの圧力により現状維持が確認された(ロンドン議定書)。 しかし、1864 年、デンマークを取り巻く国際環境の変化により、プロイセンの歴史で述
べたように、プロイセン、オーストリアとの第 2 次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦
争が勃発し、デンマークは敗北し、両公国を放棄せざるを得なかった。 ○産業開発によるデンマークの復興 1863 年の第 2 次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争の敗北によりデンマークは国家
として深刻な危機に当面した。17 世紀中葉のスカンジナヴィア半島対岸の喪失と同様に、
両公国の肥沃な土地を失ったデンマークには、島嶼部と荒涼としたユトランド半島北部が
残されることとなった。 軍人のエンリコ・ダルガスの「外に失いしものを内にて取り戻さん」の言葉に象徴され
るように、1868 年にデンマーク・ヒース協会を設立しヒースに覆われたユトランド半島北
部に植林を開始し、開拓に乗り出した。 1870 年代にはアメリカ合衆国の安価な穀物の流入に打撃を受けたが、イギリスの酪農製
品の需要の高まりに応じ産業構造を転換し、デンマークの復興をはかった。また、19 世紀
後半からの第 2 次産業革命にも対応し、1850 年代にはデンマーク初の鉄道が敷設されたこ
2056
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
とで、輸送手段や海外との交易の改善がはかられるようになった。以後のデンマークは産
業開発で発展するようになっていった。 【14-2-15】その他のヨーロッパ 19 世紀のヨーロッパの独立国でギリシャとスイスがあるが、両国とも植民地活動は行な
わなかった。 ○ギリシャの独立 1821 年 3 月にギリシャ各地の都市で蜂起が起こり、オスマン帝国に対する独立戦争が始
まったことは述べた。1825 年にロシアがオスマン帝国と戦い、イギリス、フランスもギリ
シャを援助した。1827 年、ロシア、イギリス、フランスの 3 国艦隊は、ナヴァリノの海戦
でオスマン帝国・エジプト連合軍を撃破した(各国はまだオスマン帝国と正式には開戦し
ていなかった)。 ロシアは 1828 年に単独でオスマン帝国と開戦し、翌 1829 年にアドリアノープル条約を
受け入れさせた。英仏はロシアの影響力が強まりすぎないようにギリシャの完全独立を主
張し、翌年のロンドン会議で、ギリシャの独立が正式に承認された。バイエルン王国の王子
オットーをオソン 1 世として国王に据え、ギリシャ王国として独立させた。 初期においてはオソン 1 世が未成年であったことから摂政らが政治を司ったが、バイエ
ルン出身であることからギリシャ人よりもバイエルン人らが重用された。また、財政も不
安定であり、列強 3 国から 60 億フランの借款を保証されたうえで活動していたが、これで
も足りない状態であった。 結局、ギリシャ王国の整備にギリシャ人はほとんど排除されている状態はオソン 1 世が
成人して親政を行う状態になっても変わることはなかった。そこで 1843 年 9 月、ギリシャ
独立戦争で活躍した軍人、政治家数人らによりクーデターが起こされ、1844 年 3 月には憲
法が制定され、バイエルン人が排除されることとなった。立憲制を拒もうとするオソン 1
世の態度に対し、1862 年 10 月、アテネで再度、クーデターが発生し、さらに列強 3 国も自
国の利益からこれを支持した。オソン 1 世は退位せざるを得なくなり、故郷バイエルンへ
返された。 オソン 1 世退位後、イギリス・フランス・ロシアの 3 国は次の王にデンマーク王クリス
チャン 9 世の次男ゲオルグを選定した。1863 年、ゲオルグはギリシャにおいてゲオルギオ
ス 1 世として即位した。イギリスからイオニア諸島の割譲を受けた。1864 年に新憲法が制
定されたが、これには国民に主権があることとなり、王権は著しい制限を受けた上で政治
改革が行われた。 2057
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
この頃、クレタ島は以前、オスマン帝国の領土であったが、ギリシャへの統合を求める
蜂起が発生した。とくに 1866 年の大規模な蜂起は 1869 年まで続き、オスマン帝国、ギリ
シャ、そして列強 3 国まで巻き込む騒動にまで発展した。 1908 年、オスマン帝国で青年トルコ人革命が発生したことにより、クレタ島はギリシャ
への併合を宣言したが、これは列強 3 国の圧力のために、断念された。しかし、ギリシャ
は、第 1 次世界大戦直前の 1912 年から 1913 年にはバルカン戦争に参戦し、クレタ島をト
ルコから奪取した。 ○スイス 1789 年にフランス革命が起こると、その影響はスイスへも波及した。フランスの革命軍
はオーストリア帝国との戦いを通じてスイスを脅かした。1798 年 3 月 5 日、フランス共和
国軍はスイスへ侵攻した。スイスの盟約者団は崩壊し、4 月 12 日にヘルヴェティア共和国
の建国が宣言され、フランス革命の諸原理を取り入れた中央集権的な政府が樹立された。 1803 年 2 月 19 日、第 1 統領のナポレオン・ボナパルトが調停者となり、スイス各州の指
導者がパリに集まって協定を結び、スイスは地方自治の体制に戻った。ナポレオンは調停
条約を与えた代償にスイスに「軍事協定」の締結を強制した。スイスは 4 連隊 1 万 6000 人の
兵隊の提供を義務づけられた。 しかしスイス盟約者団会議は第 3 次対仏大同盟が結成されたときにも、武装中立を宣言
した。この 1805 年 9 月の宣言はナポレオンによっても容認された。なぜなら、彼にとって
スイスの武装中立はオーストリアからの防壁になってくれるという点で大きな意味をもっ
ていて、スイス連隊に自分の「大陸軍」の一翼を担わせることができたのである。 1815 年、ナポレオンの後のヨーロッパについて協議したウィーン会議で、スイスの独立
が改めて確認されると共に、永世中立国として国際的に認められた。このとき、ヴァレー
州、ヌーシャテル州、ジュネーヴ州(フランスの占領下に置かれていたため)が連邦に加
わった。同盟構成州の増加はこれが最後となった。 新生時代のスイスのカントン・半カントンの数は 25 となったが、その政治形態はさまざ
まであった。1840 年代における政治制度の内訳を図示すれば、図 14-30-①のようになる。
立憲君主制 1,直接民主制 8,半直接民主制 5,代議制 11 であった。たとえば、半直接民主
制のザンクト・ガレンでは新しい法律に対し、任意的に有権者に拒否投票権を認め、1838
年には 1 万人の有権者の署名で憲法改正の発議権も認めていた。 1847 年、カトリック諸州とプロテスタント諸州の緊張状態が紛争に発展した。自由主義
の気運の高まりと進展に危機感を抱いたカトリック諸州が独自の同盟(分離同盟)を結び、
盟約者団が同盟の解散を命じたため、争いになったのである(図 14-30-②参照)。 2058
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
図 14-30 スイスの統治形態の変遷 分離同盟は解散の決定には従わず、隣国のフランス、オーストリア、サルディニアに援
助を求めた。このスイスを 2 分した内乱は 26 日間で終わり、双方の死者はあわせてもわず
か 104 人であった。分離同盟への諸外国の武器・弾薬の供給は国境でおさえられ、兵力・
経済力の相違は大きかったからである。これがスイス領内で起こった最後の大規模紛争で
あった(「分離同盟戦争」)。 この内戦で、スイスの永世中立は危機にさらされた。近隣諸国は、スイスでの自由主義
陣営の勝利が他国へ影響することを恐れ、軍事介入をしようとしたが、失敗した。結果と
して、スイスでの自由主義者による国家の成立は、ヨーロッパ諸国へ飛び火して「1848 年
革命」へと発展し、ウィーン体制は事実上崩壊した。スイスの紛争は、その序曲となった。 内戦の結果、1848 年憲法によってカントンは主権を大幅に連邦にゆずり、カントンの憲
法も枠をはめられた。連邦制度をとり、連邦憲法第 6 条によれば、カントン憲法は連邦憲
2059
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
法の規定に違反してはならないばかりでなく、共和政(代議ないし民主)による政治的諸
権利の行使と有権者による憲法改正提案を保障するものでなければならない。各州の代表
からなる連邦議会が防衛、通商、憲法に関する事項を扱い、それ以外は全て各カントンに
委ねられた。このとき出来たスイス連邦の基本的な枠組みは、現代まで維持されている。 【14-3】第 2 次産業革命 【①第 2 次産業革命とは】 イギリスで起きた産業革命は、フランス、ドイツ(プロイセン)などヨーロッパ諸国に
波及し、アメリカ合衆国が 19 世紀中葉から後半にかけて、日本はもっと遅れて 19 世紀末
から 20 世紀初めにかけて、ロシアは 20 世紀初めに、それぞれ産業革命を経験して工業化
の段階へと移行した。 そのイギリスの産業革命は、主として経験に基づく発明から生み出されていたが、19 世
紀になると、前述したように新しい「19 世紀の科学」が起こり、19 世紀後半から、その科学
的学問を基礎に化学・電気・自動車・石油などの新しい産業が興ってきた。その中心はド
イツであったが、急速に伸びてきたアメリカ合衆国でも、トマス・エジソン、ニコラ・テ
スラおよびジョージ・ウェスティングハウスを先駆けとする電気の利用は世界に先行する
ものであった。石油産業の発展もアメリカが著しかった。 したがって、科学的な発見とその産業的応用(産業化)の期間がきわめて短縮され、同
一人物による科学的発見(発明)即産業化ということもあった。これを「第 2 次産業革命」
と名づけ、当初のイギリスで起きた産業革命を「第 1 次産業革命」と呼ぶことがある(また、
20 世紀後半になると、主としてアメリカで起きた電子・情報・航空宇宙・原子力などの産
業革命を「第 3 次産業革命」と呼ぶことがある。これについては 20 世紀後半の歴史で述べる)。 このように、その後にも、次々と「画期的な科学的な革命」が起きると、従来はイギリス
以外の国々で起きた産業革命も含めて産業革命と言っていたが、現在では産業の変化とそ
れに伴う社会の変化については、「革命」というほど急激な変化ではないという観点から、
「工業化」という言葉で表されることが多くなった。ただし、イギリスの事例については
依然として「産業革命」という言葉が使われている。 その時期を特定すると、いわゆる産業革命(第 1 次産業革命)はイギリスを中心に 1760
年頃から 1830 年頃までであり、この第 2 次産業革命は、通常、年代は 1865 年から 1900 年
までと考えられている。しかし第 2 次産業革命は、技術や社会的な見地から見てイギリス
に始まった産業革命とここで区切られると言うようなはっきりしたものがある訳ではない。 この第 2 次産業革命の特徴は、電気や化学など新しい科学をもとに産業がつくられたと
いうことである。科学の基礎研究を中心にして発展する産業においては、リービッヒのと
2060
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ころでも記したように、基礎研究の成果が即産業化される傾向が生まれてきた。具体的に
述べると、ドイツでは大学での基礎研究から新原理の発見・応用・企業化が行われ、その
過程での新科学による教科書の作成、それによる高度な科学技術人材の育成、中堅技術者
の大量育成が組織的に行われるようになり、科学技術による新産業の拡大育成手法が確立
されていった。 この時代には、鉄鋼、化学、電気、内燃機関による機械(自動車など)、石油の分野で技
術革新が進んだ。消費財の大量生産という仕組みの発展もあり、食料や飲料、衣類などの
製造の機械化、輸送手段の革新、さらに娯楽の面では映画、ラジオおよび蓄音機が開発さ
れ、大衆のニーズに反応しただけでなく、雇用の面でも大きく貢献した。 【②鉄鋼業】 産業革命期にイギリスで,コークス製鉄―パドル炉―圧延という製鉄技術システムが確
立され、産業革命の展開を支えた。しかし、鉄道や造船によって急速に増大した鋼鉄の需
要に応えるには、人間労働に頼る鋼鉄生産法のパドル法では、生産性が低く根本的な変革
が必要であった(錬鉄は、人手で炉をかき混ぜて炭素分を燃焼させるパドル法でつくられ
た炭素分の少ない鉄であり、鋳鉄よりも信頼性が高いが値段が高かった)。 たとえば、このころは多くの鉄橋は鋼鉄不足のために、鋳鉄製の桁が突然壊れる事故が
多く発生した。1847 年 5 月のディー橋事故の場合、鋳鉄の桁で建設され、各桁は錬鉄の棒
により全長にわたり補強されていたが(ロバート・スチーブンソンの設計であった)、橋
を通行していた普通列車が落下した(5 人死亡と多数の怪我人がでた)。 鉄道検査会の報告では、繰り返す曲げにより桁が実質的に弱体化し、下縁のつばの角か
ら疲労により破壊したと考えられた。ディー橋事故は、鋼鉄を用いるように技術者を促し
た(この金属疲労事故のように、新システム採用の初期にはどうしても、従来の発想では
思いもつかないような事故が起きるものである。ジェット旅客機のときにもコメット機の
低周波金属疲労事故が連続して起こった。これらは学問的・原理的な原因の究明が行なわ
れ、それが解明されて、それを防ぐ設計・新材料の開発・採用などが行なわれて、はじめ
て安心・安全の機械システムが実用化されるようになる)。 その後も 1860 年のブル橋事故、1861 年のウートン橋崩壊、1879 年にもテイ橋崩壊とい
う悲劇が繰り返され、全ての鋳鉄製鉄橋が鋼鉄製に置き換わるまで類似の事故は続いた。 このようなことで安価で大量の鋼鉄の製造方法が強く求められていた。 そこでベッセマー製鋼法(1858 年)、ジーメンス・マルタン法(1866 年)、トーマス法
(1879 年)のような高効率な製鋼法が開発された。 2061
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
一般的なベッセマー転炉は、25 トンの銑鉄をたったの 30 分で鋼鉄に転換できた。これは、
それまでの何十倍の効率で鋼鉄が生産できることを意味していた。ベッセマー転炉によっ
て安価な鋼鉄が大量生産できるようになり、鋼鉄の橋(それは 1890 年完成のフォース鉄道
橋で実現した)、鋼鉄の建築物(高層ビル)、高性能の鉄道レール、大型船、大規模工場な
どが現実的なものとなっていき、世界は「鉄の時代」から「鋼の時代」へと変わっていっ
たのである(都市も高層ビル時代になっていった)。 しかし、ベッセマー転炉には欠点があった。炉壁の耐火煉瓦は、酸性酸化物である珪石
でできていたため不純物であるリンがどうしても除去できなかった。そのため、ベッセマ
ー転炉はリンを含む鉄鉱石(燐鉱石)が使えなかった。ヨーロッパで得られる鉄鉱石のう
ち、燐鉱石が 9 割だったため、ベッセマー転炉が使用できる鉄鉱石は 1 割だけだった。ア
メリカで産出される鉄鉱石はリンをあまり含まない鉄鉱石だったため、アメリカではベッ
セマー法が積極的に採用されて他に先行して鉄鋼業が飛躍的に発展していった。 それにイギリスではパドル法へ巨額の固定資本がすでに行われていたことがあって、ベ
ッセマー転炉は普及しなかった。そして、イギリスより冶金の遅れていた国、ドイツやア
メリカでベッセマー転炉は急テンポで普及していった(この先行する国が既存設備にこだ
わって、結局、後塵を拝するようになる現象は、その後、どの産業、どの国でも起きた現
象である。後進企業は、最新技術を大規模に利用できるからコストが下がり、(たとえ特
許料を払っても)先進企業を圧倒するという皮肉な現象がおきるのである。つまり、産業
は創造と模倣・伝播の原理で、あとからやる方が有利であるという現象が起きる。したが
って、産業はイギリス、ドイツ、アメリカ、日本、韓国、中国へと移っていったのである。
それは最初の産業革命のイギリスのときから起こっていたことである)。 ジーメンス・マルタン法は、脱リンが容易であり、良質な鋼を得ることができたことか
ら、長い間製鋼法の主流であったが、転炉や電気炉の発展により、現在では東欧などで生
産が見られるだけである。 ベッセマー転炉の欠点をおぎなうものとして、1879 年に開発されたのがトーマス法だっ
た。燐鉱石も使用できるトーマス転炉が発明されたことにより、世界中でトーマス転炉が
広まった。トーマス転炉の発明は、鉄鉱石の産出地図を塗り替えるほど影響があった。特
に、独仏国境地帯にあるロレーヌやルクセンブルクに大量に埋蔵されていたミネット鉱の
高燐鉱石が使用可能になったことより、フランスのロレーヌ地域やドイツのルール地域の
製鉄業は発展した。そして、燐鉱石も使用できるトーマス転炉により、完全に時代遅れと
なったパドル法は消滅した。 1889 年に完成した有名なエッフェル塔の主材料として鋼鉄を採用できたのも、これら新
しい製鋼法の発明に大きく依っている(このように資源というものの概念を固定的に考え
2062
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
てはならない。ある技術開発ひとつで資源地図が変わってしまうのである。現在、新材料
研究のナノ化が進んでおり、新材料の新しい合成法がぞくぞく開発されつつある。レアメ
タル問題もその延長上で考えられるべきものである。人類の新材料開発の歴史は、この間
までは単なる土であったものが金(新材料)になり、金(資源)が単なる土になる歴史で
あった)。 ベッセマー法、ジーメンス・マルタン法、トーマス法の 3 大発明により、交通輸送設備
とくに鉄道を中心とした鉄鋼の生産量は着実に増大して行った。製鋼の主要な革新はすべ
てイギリスで生まれたが,イギリスではそれらの新しい方法の採用は緩慢で、1890 年代の
初めイギリスの鉄鋼生産量はドイツやアメリカに遅れをとるようになり、1910 年までにア
メリカの塩基性鋼だけでもイギリスの鋼全生産量の 2 倍を生産した。 アメリカでは、19 世紀末頃から急速に鉄鋼業が発展し、最大の実業家にのし上がったの
が、アンドルー・カーネギー(1835~1919 年)であったことはアメリカの歴史で述べた。 カーネギーは、スペリオル湖の西、メサビ鉱山を買収し、鉄鉱石をピッツバーグまで運ぶ船
舶、さらには鉄道まで買収し、1892 年、すべての事業部門をひとつに統合したカーネギー
製鋼株式会社をつくりあげた。1900 年、カーネギー製鋼会社が上げた年間利益、約 4000 万
ドルは、その年の合衆国政府歳入額の 7%にもおよんだ。1901 年にカーネギーはこの会社の
全財産をモルガン商会に 4 億 8000 万ドルで売却し、彼は、以後は慈善活動に専念した。モ
ルガン商会は他の小鉄鋼会社も買収して資本金 14 億ドルの US スティール社を設立したが、
これは当時、世界最大の企業であった。 戦後の日本は、世界に先駆けて LD 転炉(純酸素上吹転炉)を全面的に採用し、これを発
展させることによって、US スティールを凌駕し、 世界一の製鋼技術の座を占めるようにな
った(このころには US スティールもイギリスの製鉄業と同じように既存施設のために新規
投資を怠り、日本の後塵を拝するようになったといわれていた)。初期の LD 転炉は約 30 ト
ン程度の溶銑を入れたが、現在の純酸素上底吹転炉は約 200~300 トンの溶銑処理能力を持
っている。これらの転炉の 1 プロセスに要する時間は約 30 分である。原理は基本的に同じ
である。このように原理が同じで(技術革新がなくなり)、ただ、規模だけを大きくする
プロセス革新の段階にはいると、のちほど参入するものが有利になるのである。 【③化学工業】 19 世紀の前半にはドイツでリービッヒ、ヴェーラー、ブンゼンといった化学者たちが化
学工業の基礎を固め、多数の学生を育成するようになったことは述べたが、これが 19 世紀
後半に合成有機化学工学がドイツを中心に発展することにつながった。まず、有機化学工
業の染料工業が勃興することになった。 2063
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
○パーキンと染料合成工業の成立 多くの染料はアニリンから始まった。コールタール蒸留のときにアニリンが出現するこ
とを発見したのは、タール工業の創始者F・ルンゲであった(1834 年)。 一方、1840 年ドイツの薬学者フリッチェが、インジゴ(青藍を呈する染料)をカセイカ
リとともに蒸留分解して生じた塩基について調べ、これをアニリン(アニルはアラビア語
の藍の意)と呼んだ。 当時まだギーセンのリービッヒの学生であったオーガスト・ホフマン(1818~92 年)が、
ニトロベンゼンを還元して得られる物質がフリッチェのいうアニリンと同じものであるこ
とを確認した(1843 年)。ホフマンは,1845 年ロンドンに創設された王立化学専門学校の
校長として招かれ、多くのすぐれた化学者を教育したが新しい染料の発見にいたる指示を
与えたことからも、染料工業の父といわれている。 1853 年、ウィリアム・パーキン(1838~1907 年)は、15 歳にして早くも、ロンドンの王
立化学専門学校(今日のインペリアル・カレッジ・ロンドンの一部)に入り、高名なホフ
マンの下で学んだ。1856 年のイースター休暇で、ホフマンが故郷のドイツに帰郷している
間にも、パーキンはロンドンのアパート最上階の自宅にある粗末な実験室でさらなる実験
を試みていた(シリコンバレーの IT ベンチャーがガレージでパソコンをつくったのと時代
は変われども同じことである)。 ここで彼は混合物中のアニリン(ベンゼンの水素原子の一つをアミノ基で置換した構造
を持つ芳香族化合物の一つ)の一部が化学変換されてアルコールが濃い紫色を呈したのを
発見した。そして、彼の友人とともに更なる実験を試みた。この実験はホフマンには秘密
にされた。パーキンは 1856 年 8 月に特許を取得したが、そのときはまだ 18 歳であった。
パーキンはこれにモーブと名づけた(フランス語のアオイを意味する語)。パーキンとチャ
ーチ兄弟はこの発見は商業的成功をもたらすと見抜いて、翌年これを工業的に生産し始め
た。これが、染料合成工業の開始であった。 人工染料の発見は、染料を大量かつ安価に製造することを可能とし、綿織物に適用され、
商業染色会社に歓迎され、何よりも大衆の需要を創出した。パーキンは多方面において活
動的であった。彼は木綿の媒染剤を発明し、その技術・サービスを操作できる第一人者と
なり、それを市場に公開した。無数のアニリン染料が生まれ、数多くの色調の染料が生ま
れた(それらのうちのいくつかがパーキン自身によるものであった)。一連の活動のさな
かで、彼は大量の資本を得、チャーチ兄弟は工場を建てた。彼らに関連のある工場は、広
くヨーロッパ中に広がった。 ここに述べたモーブは一例だった。これから織物と染料による国家間の商業競争が勃発
した。パーキンは 1869 年には赤色の染料アリザリンの商業生産方法を確立したが、それは
2064
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
アントラセンから得られるもので植物のアカネ染料よりも鮮やかな赤の染料で、やはり、
コールタールから得られた。しかし、1868 年にドイツの化学会社 BASF 社の化学者カール・
グラーベとカール・リーバーマンがアリザニンをアントラセンから合成する方法を開発し、
パーキンよりもわずか 1 日早く同じ製法の特許を取得していた。 2~3 年後パーキンは彼の研究と開発の成果が、ドイツの化学産業に侵食されるのを目の
当たりにした。そして、1874 年、すでに大富豪になっていた彼は工場を売却してビジネス
より手を引いた。合成染料化学の主導権はドイツに移っていった。 ○合成染料工業の成立 パーキンはいきなり化学的に安価で大量に染料を生み出した。この染料工業の成功が刺
激となって、いっせいに化学者、製造業者により化学染料研究が進められ、マゼンタ(1856
年)、アニリンブルー(1861 年)、ホフマン・バイオレット(1862 年)等が発見された。 ドイツの有機化学者ペーター・グリース(1829~1888 年)は、ドイツの大学や工場を転々
としたが、アミノ基を含む芳香族化合物に対する亜硝酸の作用を発見、これが端緒となっ
てホフマンの助手となりロンドンに渡り、王立化学専門学校でアゾ化合物(アゾ基 R−N=N−
R' で 2 つの有機基が連結されている有機化合物で色素になるものが多い)の研究を行い、
アニリンイエローという色素を発見(1859 年)、また 1864 年にはカップリング反応を発見、
こうして染料の新合成法を開発した。ジアゾ反応は染料のみならず製薬の面でも、純粋の
有機合成においても重要な地位を占めるようになった。 これまでの発見は、もちろん化学的な知識がなければできないが、偶然によるところも
あった。しかし、1870 年頃から、半経験的な方法による新染料の発見から科学的研究に基
づく染料合成への転換がみられた。この時期に,色素と分子の構造との関係を探求する研
究が行われたからである。ウィットの法則は、発色因、助色因という因子の必要性を述べ
ていた(1876 年)。キノイド型が発色の原因として重要なことが、アームストロングによ
って示された(1887 年)。 最初に合成された天然染料は(天然染料を人工的につくったのは)、アカネの色素・ア
リザリンであったが、前述のように、1 日ちがいで、これの工業化はドイツの BASF 社のカ
ロ(1834~1910 年)のもとで実施され、軌道に乗ったのは 1872 年以降のことであり、その
後、天然アリザリンの原料アカネ草は工業製品にとってかえられ、姿を消した。 藍の青色色素インジゴはアドルフ・フォン・バイヤー(1835~1917 年)によって、1865
年頃から純化学的研究が始められ、BASF 社で工業化され、ドイツは巨大な富を築くことに
なった。こうして染料の化学工業の中心はドイツに移ってしまった。 余談であるが、カップリング反応は、2 つの化学物質を選択的に結合させる反応のことで、
とくに、それぞれの物質が比較的大きな構造(ユニット)を持っているときに用いられる
2065
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ことが多い。2010 年のノーベル化学賞はこのカップリング反応のうち、ヘック反応・根岸
カップリング、鈴木・宮浦カップリングの合成方法を確立した 3 者(リチャード・ヘック
米デラウェア大学名誉教授、根岸英一米パデュー大学特別教授、鈴木 章北海道大学名誉教
授)に授与されたように、現代の化学においても多くの有用な新化学物質を生み出してい
る。 ○合成染料工業から確立されたドイツの化学工業 合成染料工業の成功はドイツ特有の科学と技術の相互作用による勝利であった。第 1 次
世界大戦前にドイツ染料は世界市場を独占することになった。このように合成染料が工業
化されると天然色素は値段が高いので駆逐されて、現在利用されている染料のほとんどは
合成染料である。 BASF、バイエル、ヘキストのドイツ 3 大化学メーカー(いずれも初期には合成染料から
発足)は世界の化学工業で圧倒的な強さをほこるようになった。そして 1925 年 、BASF は
バイエルやヘキストなどの化学工業会社とともに合同し、IG・ファルベン が成立した。 1952 年、連合国はナチス・ドイツによるいくつかの戦争犯罪に関係した IG・ファルベン
を解体し、もとの 3 社で再発足させた。現在の BASF 社は、プラスチック、合成繊維、染料、
仕上剤、化学品(農薬を含む)、栄養食品材料、石油製品、ガスと多岐にわたっており、2007
年度の売上高は 580 億ユーロ(約 9.2 兆円)で世界最大の化学メーカーであり、合成染料
工業で世界の化学工業のトップを占めたドイツの強さの伝統は続いている。 このように現代の巨大企業も、150 年前の化学という当時の「先端」学問にもとずいた発
見・発明から起こされたベンチャー企業が種となっているのである(最初はみんな小さい
ところから出発するのである。それを「わが国は自動車、鉄鋼、家電・電気の巨大産業で
成り立つ、いまさらベンチャーでもあるまい、いまさら屋根の上の太陽光発電でやってい
けるかね」という奢りが(かつての)産業国家没落の歴史であった。巨大なときに、十分
な資金と組織で次の種・シーズを育てないからであった)。 【④電気・電機産業】 電気技術は,19 世紀になって初めて登場してくる「先端」技術であった。そしてとくに、
この分野では科学者と発明家の間の区別はほとんど不鮮明になってきた。 ヴォルタ、エルステッド,ファラデー、ケルビンといった科学者の発見を基礎に、電気
を実用化することにかかわった発明家たちは、電気・電機産業を興すことになった。この
電気の分野でも化学の分野と同じように、150 年前の当時の「最先端」科学技術からベンチャ
ー企業が生み出され、それがもととなって現代の電気通信・電力・電機産業が出現したの
である。 2066
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
○電信機の発明 19 世紀の科学のところで、アメリカのジョセフ・ヘンリー(1797~1878 年)のことは述
べた。1830 年、ファラデーより先に電磁誘導を発見していた。また、すでに電気を使った
信号の実験にも成功していた。1832 年に自己誘導を発見し、電磁石を用いたモーターを発
明した。ヘンリーは多くの発明をしたが、一切特許化はせず、これらの成果をもとに他の
人間が製品化することを大いに援助した。モールスの電信機の発明(1837 年)もその一つ
であった。 サミュエル・モールス(1791~1872 年)はヘンリーの技術指導を得て、1837 年に電磁石
応用の電信機を発明し、電信機及び電信符号のアイデアを特許出願した。1844 年モールス
はワシントン~ボルチモア間の電信通信に成功し、巨大な大陸であるアメリカを結びつけ
る力となった。1856 年にウェスタン・ユニオン社を創設した実業家のシブレーはモールス
を招聘し、1861 年にニューヨーク~サンフランシスコ間の大陸横断電信線を完成させ、ア
メリカ中に電信網がはりめぐらされることになった(鉄道とともにその沿線に設置されて
いった)。 一方、ヘンリーは、その後もいろいろな研究を行ったが、晩年は、スミソニアン協会の
初代会長、全米科学アカデミー初代会長となったので、ヘンリーのもとには多くの科学者
や発明家が助言を求めて集まってきた。彼はそれに親切に応え、アメリカの科学技術の振
興と後進の育成に尽くした。このようなこともあって、電気通信の分野はヨーロッパより
もアメリカが先んじるようになった。 ○電話の発明 アレクサンダー・グラハム・ベル(1847~1922 年)は、当時、猩紅熱(しょうこうねつ)
の後遺症で深刻な問題であった聾者(ろうしゃ)教育のためにアメリカ東海岸の複数の学
校で視話法を教え、1873 年、ボストン大学で発声生理学を教えていた。マサチューセッツ
工科大学で音声自動記録装置をみてヒントを得、音波の波動が電流の強さを変え得ること
に気づき、考案した装置が電話であった(1876 年)。 1876 年 3 月、ベルは、ワシントン特許局に「電信の改良」の特許を出願し、特許を取得
した。1876 年 3 月 10 日、2 階で実験していたベルが 1 階のワトソンに「ワトソン君、用事
がある、ちょっと来てくれたまえ」これが完成した試作電話で話した最初の言葉だった。
この年のフィラデルフィアの万国博覧会に出展し、金賞を受賞した。ベルは個人的な教え
子の聾者(ろうしゃ)マーベル・ハバートと結婚していたが、彼女の父はベルの発明活動
を支え、1877 年に、ベルのボストンの友人とこの義父によって、ベル電話会社の設立をみ
た。 2067
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
このベルの特許申請より少し遅れて(同日の 2,3 時間遅れといわれている)、イライシ
ャ・グレイ(1835~1901 年)がベルのとほぼ同じ電話の特許申請をしたが、ベルに特許を
取得されてしまった。しかし、このグレイという男も大変なもので、1890 年にファクシミ
リの原型であるテレオートグラフを発明し、文字を遠くに電送することに成功した。グレ
イはウェスタン・エレクトリック社を興し、タイプライター、警報器、照明といった電気
機器を製造し、モールスのところで述べた電信事業会社ウェスタン・ユニオンとは密接な
関係を持ち、継電器などの機器を供給していった。 1875 年、グレイは持ち株を電信会社のウェスタン・ユニオンに売却し、同時にグレハム・
ベルの電話に関する特許に対する差し止め請求権も売却した。これによって、ウェスタン・
ユニオンとベル電話会社の特許紛争が起きた。 さらにトーマス・エジソン(1847~1931 年)はベルの発明に刺激されて、その改良に手
を広げ、1877 年 4 月 27 日、研究員に開発させた炭素式マイクロフォンを特許申請した。ま
た、ベルの会社はエジソンの炭素式のマイクロフォンに似たものの特許を 2 週間前に取得
していた技術者のエミール・ベルリナーを雇い入れた。 こうしてダウド裁判と呼ばれる非常に込み入った特許紛争が起こり、その詳細は省くが、
結果は、①ウェスタン・ユニオンが所有するエジソンの炭素式マイクロフォン、グレイの
液体抵抗型マイクロフォンのアメリカ特許と電話事業とをベル電話会社(現在の AT&T)に
譲渡し、ウェスタン・ユニオンは電話事業に進出しないこと、②ベル電話会社は電信事業
に進出しないことと、③ベル電話会社は電話事業の利益の 20%を 17 年間ウェスタン・ユニ
オンに支払うこと、ということで和解が成立した。つまり、新しく起こった通信産業と電
話産業を別々の会社で行なうことにしたのである。 ○巨大化した電信・電話産業 1879 年に特許紛争が決着すると、ウェスタン・ユニオンは電話市場から撤退し、子会社
の電気器具製造会社のウェスタン・エレクトリックを、1881 年にベルに売却した。その後、
ウェスタン・ユニオンはアメリカにおける電報通信会社として有名になったが、現在では、
個人間の国際送金、為替、貿易などの各種事業を行っており、世界 200 ヶ国以上に約 27 万
の代理店を有している。 アメリカの電話事業はベル電話会社、俗にいう「ベル・システム」の独占時代が始まっ
ていくことになった。世界初の商業化された電話サービスは 1878 年から 1879 年に、大西
洋を挟んだニューヘイブンとロンドンでほぼ同時に開始された。日本では 1890 年東京・横
浜で電話サービスが開始された。 ベルが興したベル電話会社を前身として、AT&T(エイ ティ アンド テー)が 1885 年に
世界初の長距離電話会社として発足し、社長となったセエドア・ニュートン・ヴェイルは
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
「垂直統合」と「水平統合」と呼ばれる研究開発(ベル研究所)から機材製造(ウェスタ
ン・エレクトリック)、市内交換から長距離交換までの独占を展開し、20 世紀初頭には政府
との折衝の結果キングズベリー協定により事業の独占権「規制下の独占」を認められるよ
うになった。 独立系電話会社は 1,300 ほど存在したが、AT&T は 1881 年から 1984 年のグループ分割ま
でアメリカにおける長距離電話サービスをほぼ独占していたし、アメリカにおける多くの
地域でも地域電話会社によって市場を独占していた。AT&T は、20 世紀初めにはアメリカの
ほとんどの都市部を抑えていた。独立系電話会社はあまり利益の望めない地域や田舎で生
き残った。AT&T の収入の大部分は地域ベル電話会社によるものであった。 ベル研究所からは半導体技術の開発など多くのノーベル賞学者が輩出した。傘下の機器
製造会社ウェスタン・エレクトリックは、海外資本として日本で初の合弁事業を立ち上げ
た会社でもあった。1899 年、日本電気の設立当時、ウェスタン・エレクトリックは NEC の
株式の 54%を保有していた。この規制された独占の状態は 1970 年代に始まる反独占訴訟の
結果解体されることになるまで続いた(1982 年)。 いずれにしても現代では電話産業は(その後の携帯電話も含めると)、はかりしれない利
便と雇用を人類にもたらしているが、それもこれも、130 年ばかり前の 1876 年 3 月 10 日の
ベルの「ワトソン君、用事がある、ちょっと来てくれたまえ」からはじまったのである。
発明がいかに偉大なことであるかがわかる。 【⑤電力生産の事業化】 《発電機と電動機》 発電機の原理の起点はファラデーの電磁誘導にあるが(1831 年)、本格的な開発は自己励
磁の原理により電気をおこす発電機が,強い電流を発生することをドイツのエルンスト・
ヴェルナー・フォン・ジーメンス(1816~1892 年)が見出して、自励式発電機を製作して
から始まった(1867 年)。 最初の実用的発電機は、ジーメンスとチャールズ・ホイートストン(1802~1875 年)が
ほぼ同時期にそれぞれ独自に発表した。1867 年 1 月 17 日、ジーメンスはベルリンアカデミ
ーで "dynamo-electric machine"(ダイナモという用語はこのときが初出)を発表した。
これは、自励式電磁電機子を使っていた。この発明がイギリスの王立協会に伝えられた日
に、チャールズ・ホイートストンは同様の設計の発電機についての論文を発表した。永久
磁石ではなく電磁石を使うことでダイナモの発生する電力は大幅に増大し、これによって
史上初の大電力発電が可能となった。 2069
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
これら初期の設計には問題があった。これらのダイナモが出力する電流には脈動があり、
供給する電力を平均すると低出力になるという問題であった。イタリアの物理学教授アン
トニオ・パチノッティは 1860 年ごろ、2 極の回転コイルを多極のトーラス形コイルに置き
換えることで問題を解決した。これは、ドーナツ形の鉄の輪に連続的に導線を巻きつけ、
その周囲の各所に整流子との接点を設けたもので、整流子の接点が多数存在することにな
り、コイルの各部分が連続的に磁石のそばを通ることで平滑な電流を生じさせることがで
きるようになった。 これらを結合してパリのゼノブ・グラム(1826~1901 年)は今日の直流発電機の原型と
もいうべき発電機(ダイナモ)を具体化した。この発電機の効率上の弱点はアルテネック
のドラム電機子で解決され(1872 年)、その発電所はパリで 1870 年代に運用された。グラ
ムのダイナモは産業向けに販売できる量の電力を生成した世界初の発電機であった。この
ジーメンスやグラムの発電機はアーク灯へ電流を送ることがそのきっかけになっていた。 その後も改良は行われたが、ダイナモの基本的な構造(回転する無限ループの導線)は
その後も変わっていない。これらの多くの発明の積み上げによって産業的に電力が使われ
るようになった。例えば 1870 年代、ジーメンスはダイナモを電力源として電気炉を運用し、
金属精製などに使った。 ダイナモは本来発電機だが、電池や別のダイナモから直流を供給してやると電動機とし
ても機能することが発見された。1873 年のウィーン万博で、グラムは彼のダイナモに偶然
別のダイナモを接続して発電したところ、そのダイナモの軸が回転し始めたのに気づいた。
これが実用的な電動機としては世界最初だった。隙間をなるべくなくし、多数のコイルと
多数の整流子を使うグラムの設計は、実用的な直流電動機の設計の基本にもなった。 1847 年に、ヴェルナー・フォン・ジーメンスは J・G・ハルスケとともにベルリンに電信
機製造会社ジーメンス・ハルスケ電機会社を創立し、後にジーメンス・ハルスケ電車会社
に発展し、世界で最初の電車を製造し、1881 年に営業運転を開始した。このドイツのミュ
ンヘンに本社をおく会社は、電車、電信、重電機、電子機器の製造会社から発展し、1966
年に現在のジーメンス社に改名した。現在では情報通信、電力関連、交通、医療、防衛、
生産設備、家電製品等の分野で製造、およびシステム・ソリューション事業を幅広く手が
ける多国籍企業になっている。 ○直流か交流か…「電流戦争」 発電機にその源となる動力を与える原動機は、最初は蒸気機関であった。ニュージャー
ジー州の研究所の場所の名からメンロパークの魔術師といわれたトーマス・エジソン(1847
~1931 年)が炭素フィラメントを用いて,自然電灯を発明し(1878 年)、その企業化のた
めに、1881 年にはニューヨーク 5 番街に「エジソン電灯会社」をつくった。自然電灯の普
2070
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及とともに中央発電所計画も構想され、1882 年にニューヨークパーク街にアメリカ最初の
中央火力発電所を建設した。 しかし、これらの電流は直流が使われ,送電中に弱ってしまうものだった。ここで発明
王エジソンもテスラの件では大失敗をすることになった。エジソンはご存じのように正規
の電気理論を学ばず、彼の天才的な感と昼夜をわかたぬ実験(努力)ですべてを押し通す
手法をとっていた。ところが、とくに先端技術の分野では原理・理論の究明が重要であっ
た。テスラとの紛争はそれを示していた。エジソンはあくまで発明家でテスラのライバル
となってしまった。彼には発明の才(それも器用貧乏という)はあったが、発明家を使い
こなす経営者の才(度量)はなかったようである。 ニコラ・テスラ(1856~1943 年)は、ハンガリー王国(現在のクロアチア西部)の村に
セルビア正教会司祭を父として生まれ、とくに数学において突出した才能を発揮したとい
われている。1880 年、オーストリア帝国グラーツのポリテクニック・スクール在学中に交
流電磁誘導の原理を発見した。1881 年に同校を中退し、ハンガリー王国ブダペストの国営
電信局に就職した。 テスラは 1884 年にアメリカに渡り、エジソンの会社・エジソン電灯に採用された。当時、
直流電流による電力事業を展開していた社内にあって、テスラは交流電流による電力事業
を提案した。 エジソンは工場の(エジソン好みの直流用に設計された)システムをテスラの交流電源
で動かすことが出来たなら、褒賞 5 万ドルを払うと提案した。直流の優位性・安全性また
交流の難しさなどを考慮したうえでの発言だったが、テスラは直ちにシステム全体の交流
化に成功し、交流の効率の良さを見せつけた。しかし、エジソンは 5 万ドルが惜しかった
のか、交流を認めたくなかったのか、とにかくエジソンは褒賞の件を「冗談」で済ませた
ため、テスラは激怒し、その後退社することになった。 ○テスラとウェスティングハウス 1887 年 4 月、独立したテスラは、テスラ電灯社を設立し、独自に交流電流による電力事
業を推進し、同年 10 月には交流電源の特許をとった。1888 年 5 月 16 日、アメリカ電子工
学学会でデモンストレーションを行った。それに感銘を受けたジョージ・ウェスティング
ハウスから 100 万ドルの研究費と、特許の使用料を提供されることになった(契約には、
特許の将来買取権が含まれていた)。 ジョージ・ウェスティングハウス(1846~1914 年)は、機械工場所有者の息子に生まれ、
機械関連のビジネスに関して才能があった。1869 年、彼が 22 歳の時に、圧縮空気を用いた
鉄道のブレーキシステムを発明し、特許をとった。その後ウェスティングハウスの発明品
を製造・販売するため、ウェスティングハウス・エア・ブレーキ・カンパニーを設立した。
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
間もなく彼の発明はほとんどの鉄道車両で採用された(この時代はアメリカの産業革命期
で大鉄道時代であった)。現代の車両でも、この設計を基本とする様々な形のブレーキが用
いられている。 また、ウェスティングハウスは、その当時オイルランプを用いていた鉄道信号機の改善
を追求し、1881 年に彼の信号システムに関する発明品を製造するためにユニオン・スイッ
チ・アンド・シグナルを設立し、電気分野へ進出した。 ウェスティングハウスはガスの供給や電話の回線交換への関心を持っており(電力・ガ
スのエネルギー供給システム、電話などの通信システムは社会の基礎システムとなる、つ
まり、社会システムとなると考えていた)、そこから必然的に電力供給システムへの関心を
持つに至った。彼は当時、喧伝されていたエジソンの直流電力システムを検討したが(当
時、エジソンは白熱電球を発明し、前述したように 1881 年にはニューヨーク 5 番街に「エ
ジソン電灯会社」をつくり、ロウワー・マンハッタンにある 59 の利用者に対して直流 110 V
の電気を供給する世界初の送配電システムの運用を開始していた)、このまま大規模に発展
させていくにはあまりに非効率であると結論づけた(ウェスティングハウスには社会シス
テムの本質がわかっていた。社会システムは将来それが普及すればするほど、コスト低減
になる技術でなければならない。規模が大きくなれば割高になるようなシステムには未来
はない)。そのエジソンの電力供給システムは低い電圧の直流を用いており、大きな電流が
流れて多大な損失を引き起こしていることをウェスティングハウスは見抜いていたのであ
る。 ウェスティングハウスは、多数のヨーロッパの変圧器とシーメンス製交流発電機を輸入
し、技師のウィリアム・スタンリーの助けを得ながら、変圧器などの設計を改良すること
に取り組み、実用的な交流送電システムの研究を続けていた。彼は、自宅のあるマサチュ
ーセッツ州グレート・バーリントンの目抜き通りで、オフィスや商店に電灯を点けるため
にこのシステムを設置した。スタンリーの変圧器の設計がこの後の全ての変圧器の原形と
なり、また彼の交流送電システムが現代の電力伝送システムの基礎となったが、しかし効
果的な交流発電機が欠けているという弱みがあった。 そのようなとき、幸運にも前述のテスラとの出会いがあったのである。エジソンと手を
切ったテスラが、1888 年 5 月 16 日、アメリカ電子工学学会でデモンストレーションを行い、
それを見たウェスティングハウスはいたく感銘を受けたのである。ニコラ・テスラが多極
式交流発電機の原理を既に考案していたのである。そこで前述のようテスラとウェスティ
ングハウスの提携となった(テスラは、さらに同年には循環磁界を発見し、超高周波発生
器も開発した。だがウェスティングハウス社技術陣の中でも孤立し、ここも 1 年で離れる
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ことになった。しかし、前述したように、契約には、特許の将来買取権が含まれていたの
で、特許権はウェスティングハウス社(WH)のものとなった)。 ○GE と WH 1893 年の重要な業績として、ウェスティングハウスはシカゴの万国博覧会に対してテス
ラの発明した交流発電機を含む交流送電システムを建設する契約を交わし、ウェスティン
グハウス・エレクトリック社と交流送電技術に対する大きな宣伝となった。ウェスティン
グハウスはまた、ナイヤガラの滝に交流発電機を設置して発電した電力を 40 キロメートル
離れたニューヨーク州バッファローへ送電する最初の長距離送電網を建設する契約を引き
受けた。 もう、勝負はあった。交流発電―交流送電の時代になったのである。このときはもうエ
ジソン・ゼネラル・エレクトリックを 1892 年に吸収合併したゼネラル・エレクトリックで
さえ、交流用の設備の生産を開始することを決定していた。なお、エジソンは 1878 年にエ
ジソン電気照明会社を設立し、1889 年にこれを吸収してエジソン総合電気を設立したが、
1892 年にトムソン・ヒューストン・カンパニーと合併し、ゼネラル・エレクトリック・カンパ
ニー(GE)となった(エジソンはあくまで発明家であり、企業経営者ではなかった)。GE は、
ウェスティングハウス・エレクトリック(WH)とともにアメリカの 2 大総合電機メーカー
として発展していった。 テスラは、エジソンの名言「天才は 1%のひらめきと 99%の汗(努力)」を報道で知って、
これを皮肉って「天才とは、99%の努力を無にする、1%のひらめきのことである」(「天才
とは、1%の直観と 99%の徒労である」とも)と言ったといわれている。「天才は 1%のひら
めきと 99%の汗」といったエジソンの真意は「1%のひらめきがなければ 99%の努力は無駄で
ある」であり、テスラの皮肉はエジソンの真意と、はからずも類似していることになる(つ
まり、エジソンもテスラも基本的な考えは同じであったが、お互いの意地で真から話し合
えなかったのであろう)。 なお、多くの発明家やノーベル賞学者の経験話を聞くと「夜も昼もそれこそ 99%そのこと
を考えていると、フーッと一瞬(1%)のひらめきが浮かんでくる」ものである、これを後
世の人が結果論として「天才」といっている、最初から「天才」などどこにもいないというの
が真であるようだ。 テスラは交流電流、ラジオやラジコン(無線トランスミッター)、蛍光灯、空中放電実
験で有名なテスラコイルなどの多数の発明、また無線送電システムを提唱したことでも知
られている。馬(テスラ=天才)をうまく使いこなす名伯楽(企業家)がいなかったこと
はまことに残念なことだった。 ○タービンの発明 2073
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
発電機の動力源として水力を利用したものが水力発電で、まず、電力は水力発電から実
用化されていった。昔からある水平型水車は水力タービンの起源であるが、これは水の反
動を利用するので反動タービンと呼ばれていた。アメリカのジェームズ・フランシス(1815
~92 年)らは反動タービンを改良して,発電機の動力源とした。彼は,半径流と軸流の両
方を組み合わせて、羽根をもつタービン(フランシス・タービン)を設計した。彼の死後 11
年後に、例のナイヤガラ瀑布の発電所には彼のタービンが据えつけられた。 近代的な電力技術で重要なのは、蒸気タービンであり、1884 年にイギリスのチャールズ・
パーソンズ(1854~1931 年)が蒸気の反動を利用したタービンを発明した。チャールズ・パ
ーソンズはまた、蒸気タービンを動力にした最初の船「タービニア号」を建造し、1897 年の
観艦式で供覧航行(34 ノット)をし、提督を初めとして見物人を驚かせた。この後、蒸気
タービンは軍艦や商船に急速に導入されていくことになった。 陸上でのレシプロ式蒸気エンジンと水上での蒸気タービンは、それぞれが動力機関とし
ての主要な位置を占めるに至った。一方では、電力消費の増大に応じて水力発電所に加え
て火力発電所の建設が進むと、コストが安く入手の容易な石炭を燃料とする蒸気ボイラー
と蒸気タービンの組合せによる発電が主流となった。 以上、電気技術は、
「発電―送電―配電」という体系で発展した一連の中央集中的技術で
あり、19 世紀末には大工場や都市・社会を支える技術として根づくことになった。 【⑥内燃機関と自動車の発明】 自力で路上を走る車は人類の夢であった。蒸気機関の進歩によって、これが可能と思わ
れるようになった。はじめは蒸気自動車(1769 年)、電気機関車(1835 年)、電気自動車
(1830 年代)、ルノアールの内燃機関(ガスエンジン。1860 年)などが発明されたが、こ
こでは省略する。本格的な自動車の発明は、オットーの内燃機関が実用化されてからであ
った。 ○オットー・エンジンの発明 ニコラウス・アウグスト・オットー(1832~1891 年)は、ナッサウ公国の小都市ホルツ
ハウゼン(現在のドイツのラインラント=プファルツ州)で生まれ、そこで初等教育を受
け、1848 年、家が貧しく 16 歳の時に学校を離れて食料品店で働き始め、食料品の配達をし
ながら、いつか自動車を手に入れたいと夢見ていた。1859 年に初めてルノワールの石炭ガ
ス燃焼機関を見た後で内燃機関の実験を始めた。 1861 年、オットーはルノワールの設計を基にした内燃機関を初めて試作した(図 14-31
参照)。そして、1864 年にケルンで内燃機関製造会社 N.A.オットーを共同経営者のオイゲ
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ン・ランゲンと共に立ち上げた。この会社は今日でもドイツ AG として存続しており、150
年以上の歴史を誇る世界でも最古の内燃機関製造会社となっている。 図 14-31 2 ストローク機関 1867 年、オットーの会社は当初 2 サイクルの内燃機関を生産した。この機械はパリ万国
博覧会で、小企業による経済的な推進機械として金賞を受賞した。しかし、オットーは自
分が開発した内燃機関が、ルノアール機関と同じように効率の悪さと、衝撃の強さに悩ん
でいた。彼はもともとセールスマンで、機械工としの基礎はなにもなく、独学だけでやって
きた。機関がなめらかに効率よく動くためには、ガスと空気の混合比を制御することが重
要であると考えたが、どうしたらよいかと悩んでいた。 彼は寝ても覚めてもそのことだけを何日も考えていた。そして 1875 年のある日、オット
ーは研究で疲れて帰るとき、玄関を出て、ふと向かいの工場の煙突から(毎日、毎日なに
げなく見ていたものであったが)、もくもくと出る煙が目にとまり、その拡散の様子を眺
めていた。まず濃い煙が出て、それから徐々に空中に拡散する様子から彼の頭に閃きがは
しった。 彼は同じようにすれば、点火時には濃い混合ガスを与えながら、不活性な空気が広がっ
た希薄な層によってピストンの衝撃をやわらげられると考えた。当時はもちろん原動機の
中の燃焼の様子を見る手段はなかったが、彼は工場の煙が空に拡散する状況からヒントを
得たのであった。まさに 1%のひらめきだった。彼は研究所にとって返した。 それを製作するために、オットーは吸入、圧縮、燃焼・膨張、排気の 4 工程サイクル(以
後「オットー・サイクル」と呼ばれる)を発明し、1876 年に「靜かなオットー」が実現した
(図 14-32 参照)。 1877 年、オットーは「オットー・サイクル」で特許を取得した。このオットー・サイク
ルの内燃機関は当初固定式で設計されており、①吸気ストローク、石炭ガスと空気がピス
トン室に入る、②圧縮ストローク、ピストンが混合気を圧縮する、③出力ストローク、燃
料混合気を電気点火器で発火させる、④排気ストローク、排気ガスをピストン室から輩出
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
する、の 4 サイクルから成っていた。これはすばらしい成功をおさめ、毎分 180 回転 3 馬
力を出した。 図 14-32 4 サイクル機関(吸入、圧縮、燃焼・膨張、排気) しかし、まだ危険な火(ルノアールはスパークを使った)と灯用ガスを使っていた。こ
れでは、まだ、安全な内燃機関とはいえなかった。彼は、オーストリアの発明家ジークフ
リート・マルクスが、1867 年に液体の石油を可燃性ガスに変換する気化器を発明しているこ
とをまだ知らなかったのである。 《世界初の自動車「第 1 マルクスカー」》 ジークフリート・サミュエル・マルクス(1831~1898 年)はドイツ生まれのオーストリ
ア人発明家で、1856 年から 1898 年まで、ウィーンで科学装置を製作する独立製造業者とし
て働いていた。電気に興味を持ち、照明技師としても成功した。主なイノベーションとし
ては、電信システムと点火装置の改良があった。 マルクスは、自動車の分野では、1870 年ごろ、内燃機関を単純な荷車に搭載した。液体
の燃料を使うよう設計されており、ガソリンを使って駆動する世界初の自動車を作った人
物とされている。この最初の自動車を「第 1 マルクスカー」と呼んでいる。 さらにマルクスは、1883 年、ドイツでマグネト型の低電圧点火装置の特許を取得した。
これを 1888 年の「第 2 マルクスカー」やその後のエンジンに使った。第 2 マルクスカーは、
この点火装置と「回転ブラシキャブレータ(気化器)」の組み合わせが斬新だった。 2076
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
結局、マルクスは 16 ヶ国で 131 の特許を取得したが、自動車に関して特許を申請したこ
とはないし、取得もしていない。また、自動車を自分が発明したと主張したこともない。
しかし、まちがいなく彼が実質的な自動車の発明者だった。マルクスはユダヤ人の血を引
いていたため、その後ナチスによってその記録が全て抹消された。それでも 1870 年に世界
初のガソリンを使った乗り物を製作したことは間違いない。 ○オットー内燃機関の完成 いずれにしても、1877 年に 4 サイクルの「オットー・サイクル」で特許をとったオット
ーは、1884 年、このマルクスの成果を取り入れて、低圧電磁点火装置を導入し、液体燃料
が使える内燃機関に設計を革新させた。 この時点まで、内燃機関(ルノアールの内燃機関)は燃料に石炭ガスを使っていたため、
建物内に固定してしか使えなかった。また、ガスを点火し、始動するためには種火を必要
とした。これが低圧電磁点火装置の導入で、液体燃料が使えるようになり、移動する物体
に搭載することが可能になった。これで自動車実現の基本技術は出そろった。このように
技術は多くの知恵(人)の積み重ねである。 オットーの会社には、ゴットリープ・ダイムラーとヴィルヘルム・マイバッハがいた。
ダイムラー(1834~1900 年)と彼の生涯のパートナー、マイバッハの夢はあらゆる種類の
移動機関に内蔵することができる小さな内燃機関を作り上げることであった。 ○ダイムラーの四輪自動車 彼らは 1885 年に二輪車に取り付けたガソリンエンジンの特許を取得し、それは現代の内
燃機関の先駆けと言えるものであった。その二輪車は世界初のオートバイと見なされ、翌
年の 1886 年(ベンツが三輪自動車の特許ととった年)には駅馬車とボートにそのエンジン
が取り付けられた。このうち駅馬車にエンジンをつけたものは世界初の四輪自動車とされ、
この車はダイムラー・モトールキャリッジと呼ばれた。 しかしオットーは成功したばかりの定置内燃機関を軌道に乗せることに固執したので、
ダイムラーとマイバッハはオットーと袂(たもと)を分かつことにした。彼らは 1890 年に
オットーのドイツ AG を退社し、ダイムラー自動車会社(DMG)を設立した。その会社の目
的は、オットーの会社で発明したのと同じ技術を使って、小型で高速の内燃機関を作るこ
とであった。 オットー・サイクルの内燃機関は今日でも自動車、オートバイおよびモーターボートに
最もよく使われるものとなっている。 ○ベンツ自動車の開発 さて、次はいよいよ自動車の開発である。カール・フリードリヒ・ベンツ(1844~1929
年)は、ドイツのカールスルーエ工科大学で機械工学や内燃機関について学び、大学卒業
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
後は、様々な機械工場を転々としてエンジンの開発を目指していた。1879 年、ベンツは、
高信頼の 2 ストロークガスエンジンの特許を取得した。これはオットーの 4 ストローク機
関の設計に着想を得たものであったが、オットーの特許をさけるために、2 ストロークにし
ていた。 1883 年、ベンツはマンハイムでのちのダイムラー・ベンツの母体となるガス動力車両製
作会社を設立した。 後にベンツは独自の 4 ストローク機関を製作し、自動車に搭載した。その開発は 1885 年
に行われ、1886 年には、4 サイクルのガソリンエンジンを搭載した三輪の自動車の開発に
成功した。この三輪車はパテント・モトールヴァーゲンと名付けられ、1886 年 1 月 29 日、
この発明に対してドイツ帝国特許局から特許登録証が交付された。これは世界で最初の「ガ
ソリンを動力とする車両」に対する特許であり、この日ははじめて乗用車が誕生した記念
日とも言われている。奇しくも同じ年、前述したようにオットー社のダイムラーもガソリ
ン動力車両を発明していた。 ベンツ社は、当初は三輪自動車を中心に開発していたが、しばらくして四輪車の研究に
着手し、1890 年代には実用的な四輪自動車を生産するようになった。 ○ダイムラー・ベンツ社の誕生 一方、ダイムラーとマイバッハ(1846~1929 年)の方であるが、1890 年にオットーのドイ
ツ AG を退社し、ダイムラー自動車会社(DMG)を設立し、オットーの会社で発明したのと
同じ技術を使って、小型で高速の内燃機関を作ることに専念した。 ダイムラー自動車会社(DMG)が初めて自動車を販売したのは 1892 年のことであった。
1890 年代にベンツ社とダイムラー社はライバル関係となって、激しくあらそった。ダイム
ラーは 1900 年に死去し、マイバッハは 1907 年にダイムラー自動車会社を退職した(その
後、ツェッペリン飛行船のためのエンジンを製造するための会社を設立した)。 1924 年にダイムラー自動車会社(DMG)の経営陣はカール・ベンツの会社との長期協力協
定に署名し、1926 年に両者は合併しダイムラー・ベンツ社となった。カール・ベンツは、
合併成立のしばらく後、1929 年に死去したが、ダイムラー・ベンツ社はヨーロッパを代表
する自動車会社となった(同社は 1998 年、アメリカのクライスラーと合併しダイムラー・
クライスラー・グループとなったが、2007 年 5 月 14 日、また、クライスラーと分離し同年
10 月 4 日ダイムラーへと社名を変更し現在に至っている)。 ○ディーゼル・エンジンの開発 ルドルフ・クリスチアン・カール・ディーゼル(1858~1913 年)は、1878 年ミュンヘン
工科大学の学生の時、教授が「蒸気機関は燃料潜熱のわずか 6~12%しか動力に変換しない
低熱効率である。カルノーによって 1830 年頃、ほぼすべての潜在エネルギーを動力に変換
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
できる理想的な熱機関の理論像が描かれ、燃料がシリンダー内で燃焼する内燃機関のみが、
その理想機関に近づきうるものである」と述べたことが焼き付き、寝ても覚めても「あの
ヒントが私から離れなかった」。彼は「熱力学の知識を活用するため、あらんかぎりの時間
を使った」。 1893 年『合理的熱機関の理論および構造』という論文でディーゼル機関の原理を発表、
1893 年、特許を取得した。その理論は、ピストンによって空気を圧縮し、シリンダー内の
高温空気に燃料を噴射することで自然着火させるしくみであった。実用的な内燃機関の中
ではもっとも熱効率の優れたエンジンであり、また軽油・重油などの一般的燃料の他にも、
様々な種類の液体燃料が使用可能であった。 ただし圧縮によって吸気を高温にする必要があり、高い圧縮比が要求され、高い圧縮比
は機械的強度を要求し、丈夫な部品は重くかさばりコストもかかり、可動部重量による機
械的損失も大きくなるという問題点もあった。 1893 年、クルップ社などの助けを得て、彼の最初のモデルが製作された。こうして当時
の内燃機関の最高熱効率 28%に対して、ディーゼル機関は燃料の潜在エネルギーの 35%を
動力に変換することができた。その欠点は、機関が重くやかましいことと、重油の排気ガ
スが迷惑を与えることであった。 その後、ディーゼルは実用的プロトタイプの開発に取り組み、1897 年、オースバーグの
マン社(MAN AG)の工場で働いているときにディーゼルエンジンを完成させた(現在も MAN AG は、ドイツの自動車・機械メーカーであり、現在のドイツのトラック市場ではダイムラ
ーに次いで 2 位の 24%のシェアを誇っている)。この安価な石油や重油を燃料とした効率の
よいこのディーゼル機関は、たちまち世界中で利用されるところとなった。 ディーゼル自身は 1913 年 9 月 29 日、イギリスへ向かう航海中にイギリス海峡において
行方不明となり(一説では自殺ともいわれている)、結局、ディーゼルは自分の機関のすば
らしい成功のほんの出だしを見ただけだったが、今日、ディーゼル機関はトラック、バス、
小船舶、発電所、機関車等に利用され、彼が生み出した技術は人類に多大の貢献をしてい
る。 ○初期の自動車産業 19 世紀末の自動車の産業界における地位は微々たるものだった。ドイツとフランスでい
まだ小規模ではあったが確立されており、アメリカとイギリスではちょうど始まったばか
りであった。自動車の急激な発展は路上交通の技術的先行者である自転車のおかげを多く
受けていた。 自転車のアイデアと試作は 17 世紀末からあったが、自転車用のチェーンと空気入りタイ
ヤが出て本当に使える自転車が出現するには時間がかかった。1885 年(ベンツの自動車発
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明の前年)、イギリス、コンベントリーの J・K・スターリーが発明した「安全」自転車(初
期の高い車輪の足踏式自転車に代わって、低い車輪と歯車とを持った現代的自転車)は、
二つの車輪をつないで、強くて、操縦性や機械効率がよかった。1888 年にはイギリス医師
ジョン・B ・ダンロップが空気入りタイヤを発明したので、乗り心地は格段によくなった。 この自転車は簡便で評判がよく、早く普及したので、まず、自転車製造用の部品が量産
された。この量産によって安くなった部品を生まれたての自動車産業は利用することがで
きた(このように自転車も自動車も誕生したのはほとんど同じ時期だった)。自転車の鋼管
製車体、ボール・ベアリングやローラー・ベアリング、差動歯車、空気タイヤ等は自動車に
そのまま役立った。 そのうえ、初期の自動車企業の多くは自転車企業の中から出発した。ドイツのオペル、
イギリスのハンパー、ライリー、ローバー(スターリーの会社)、モーリス、アメリカのウ
ィントン、ウィリーズ、ポープ、ピアレス、ランブラー等はその例である(自転車も自動
車も最初は雨後の筍のように何十、何百も芽を出した。産業の最初はみな同じである)。 自動車産業はその発足後急速に生長した。自動車は他の会社によってつくられた部品が
小さな工場で組み立てられた。ここに部品メーカーと組み立て工場という生産形態が出現
した。製造業者は自分自身で資金を調達するか、または信用借りで部品を購入し現金で販
売店に売り渡すことによって、とにかく自動車を作ろうとした。アメリカだけでも約 1500
の独立会社が 3000 種類以上の車をつくったという記録がある。 そのような世界を一変させることになったのが、1908 年のフォード社の T 型フォードの
発売だった。これをきっかけに 20 世紀の前半に自動車産業はアメリカで新たな発展をたど
ることになった。 ○大量生産方式のアメリカ自動車産業の誕生 20 世紀の産業の特徴を一言でいいあらわすと大量生産ということになるであろう。そし
てそれを生み出したのは、アメリカの自動車産業である。イギリスの産業革命は産業の機
械化、つまり工業を導入した。ドイツの第 2 次産業革命は科学の成果を取りいれて、イギ
リスの産業革命でできた工業をさらに深化させ、鉄鋼業・内燃機関・化学工業を付加させ
た。それらの成果を取り入れた 20 世紀のアメリカ産業は大量生産方式を生み出し、高価だ
った工業製品を庶民誰にでも手に入るようにした。 アメリカの自動車産業が大量生産方式を生み出したといっても、その源はすでにヨーロ
ッパにすべてあった。シーズ(種)が、創造と模倣・伝播の原理でアメリカにもたらされ、
それをアメリカで統合・システム化したときに大量生産方式(アメリカン・システム)が
生まれたのである。 2080
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
エジソン電気会社で主任技師をしていたヘンリー・フォードも 1890 年代のなかばに、自
宅の裏庭の道具小屋で、ごみ捨て場から集めてきた自転車の車輪なども使い、二気筒の幌
付きガソリン車を組み立てた。1903 年、フォードは独立してミシガン州ランシングにフォ
ード・モーター社を設立し、何度かの失敗の後、1908 年、歴史的な大衆車「モデル T」の開
発に成功した。 ここから 20 世紀最大の産業となる自動車産業が発展していったといわれるが、そこには
画期的な生産方式、フォード方式があった。しかし、これは一朝一夕でできたものではな
かった。そこには互換性と標準化という発想と科学的管理法という概念が必要不可欠だっ
た。 ○互換性と標準化 互換性と標準化の起源は、フランスにあるといわれている。フランス王室兵器廠の監督で
あったオノーレ・ブランは 1785 年までに、機械製作された互換性部品を組み立てることに
よってマスケット銃をつくるための技術を開発し、互換性部品によるマスケット銃を実現
した。ここで互換性とは、組み合わせるべき複数の部品の間で、どの部品をとりあげても、
お互いに置き換えることができる性質のことである。 これをアメリカで実現したのはイーライ・ホイットニー(1765~1825 年)であった。彼
については、農業の機械化のところで、1793 年に綿繰り機を発明したことを述べた。これ
により、作業能率が従来の 50 倍も向上することになり、綿花産業に革命をもたらした。発
明家としての声望は高まり、1795 年に、銃の国産化を目指すアメリカ軍から 1 万 5000 丁あ
まりのマスケット銃製造の依頼を受けた。 そこで、ホイットニーは、部品ごとに専門化された単能工作機械を作るとともに、フラ
ンスのルブランが考案した限界ゲージを実用化し、公差が均一な製品を作れるように、加
工の標準化をはかった。 限界ゲージとは、機械部品の寸法が許容される寸法公差の範囲内にあるかどうかを検査
するためのゲージで、最大許容寸法のゲージ(通りゲージ)と、最小許容寸法のゲージ(止
まりゲージ)とからなり、それぞれで部品を測って簡単に合格、不合格を判定することが
できる(最大と最小のゲージを通ったものは機械的に合格とした。簡単に合否が決められ
る)。これにより、互換性部品の大量生産を可能にした。 後にホイットニーは軍関係者の前で、完成した複数の銃をばらし、その中から任意に取
り出した部品により、再び銃をくみ上げるデモンストレーションを行い、ピシャリとすべ
てを組立てて、みなを驚かせた。ホイットニーは 1818 年には銃器生産の過程で横フライス
盤も発明したことは前述した。 2081
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
この互換性と標準化という考え方は、アメリカ陸軍軍人が民間企業に天下りすることに
よって産業界へ波及した。当時のアメリカの一般企業の技術レベルは低く、それと比べれ
ば、まだ、アメリカの軍や大学の研究所の方がレベルが高かったので(ヨーロッパと比較
すれば低かった)、この技術をもったアメリカ陸軍軍人の天下りはアメリカ産業界の技術レ
ベルの向上に役立った。
とくに鉄道産業であったが、工作機械メーカーもその例外ではなかった(このように技
術のレベルがどちらが高いかによって、天下りが歓迎されることもあった。当時のアメリ
カでは国・軍の研究所のレベルが高かった。日本においても、明治以降、戦後も 1960~70
年代までは国立研究所・大学・国鉄・電電公社などのレベルが高く民間企業から天下りを
歓迎された。民間の技術が高くなっている現代にも、なぜか天下りするから問題にされる
のである)。 このように、アメリカン・システムという生産・経営システムは、フランス流の武器製
造管理技術をそのルーツに持ち、それをアメリカ陸軍がマスターし、そこから民間に天下
りした陸軍エンジニアが開発したシステムであった。アメリカン・システムも、模倣した
ものに独自の技術革新部分を付け足していくという創造と模倣・伝播の原理に沿っていた
といえよう。 ○テーラーの科学的管理法 フレデリック・テーラー(1856~1915 年)の科学的管理法も大量生産の作業についてい
る人間の動作に適用され、大きなインパクトを与えることになった。彼は科学的管理法の
発案者で、現代においては「科学的管理法の父」と称されているが、当時はとくに労働組
合運動にかかわる人々からは「人間を別種の機械にした」と非難された。 分業の原理はアダム・スミスの時代からわかっていて、工場全体あるいは産業全体に適
用されてきたが、この分業の原理と同じ原理を、テーラーは直接的な仕事のレベルに適用
した。労働者の作業には、不適当な道具や設備によって多くの時間がむだにされていること
をテーラーは発見した。 たとえば、もし切削を行っている労働者が自分の切削工具の刃をとぐ時間を必要とすれ
ば、それによる遅れはむだな「休業時間」となる。そこでテーラーは、そうした仕事はだれ
か専門の人がやればいいとした。注意深く検討してみるとたくさんの要素が排除でき、だ
れか他の人に任せることのできるものであることが明らかになった。 テーラーの「作業研究」は、「時間研究」と「動作研究」の 2 つからなり、「時間研究」
とは、生産工程における標準的作業時間を設定し、これに基づいて 1 日の課業を決定する
ための研究であった。テーラーは、生産工程における作業を「要素動作」と呼ばれる細か
い動作に分解し、その各動作にかかる時間をストップウオッチを用いて計測して標準的作
2082
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
業時間を算出したのである。 また、個々の動作を観察・分析し、作業目的に照らして無駄な動作を排除して最適な動
作を追求する「動作研究」を行い、これによって最適化された動作に基づいて作業管理のた
めに最適な組織形態をとることとし、これを現場から分離し、計画立案と管理の専任部署
を作った。つまり「計画と執行(実行)の分離」を行った。また、そのための組織形態と
して、現代で言う「ファンクショナル組織(職能別組織)」の原型を作った。また、テーラ
ー門下のエマーソンは、これを進める形で「ライン・アンド・スタッフ組織」を提唱した。 テーラーの業績は、科学的管理法の手法を考案し実践したことで、生産現場に近代化を
もたらすとともに、マネジメントの概念を確立したといわれるが、労働者側からみれば、労
働者の感情と動機を無視しているということで非難された。 テーラー自身はこの批判に対して、①人間は自分の利益という明白な論理に都合よく反
応するものであると確信している、②労働者は無駄にして非生産的な動作の除去を評価し、
単純化された課業(タスク)を持つことを喜ばしく思い、そして、その課業を遂行するた
めの「最善の方法」を指導してくれることを歓迎するものである、③労働者はその努力に対
して公正に支払われるべきであり、標準以上の努力については特別賃金が支払われるよう
に、出来高払い制度も提案していた。しかし、実際には経営者は労働生産性が上がっても
労働賃金を上げることはしなかった。ただし、最初にそれを実戦したフォードは賃金を倍
増したが。 以上のようにアメリカには大量生産が始まる前に、それを可能とするような技術やシス
テムが準備されていたことを述べて、自動車産業に返る。 ○大量生産システムを生み出したフォード ヘンリー・フォード(1863~1947 年)は、1896 年 7 月、はじめての自作 4 輪自動車の製
作に成功し、試運転を行った。この自作 4 輪自動車の成功の後、フォードはエジソン照明
会社を退社し、2 回の会社設立に失敗したのち、1903 年 6 月、フォード・モーター・カン
パニーを創設した。 彼が自動車について多くの経験をして会社を設立したのは、「大衆のための自動車」を実
現することであった。そしてその開発は 2 段構えであるということを認識していた。まず、
第一に、耐久性に富み、機構的に単純で、かつ操縦と維持に費用のかからない適当な自動
車を設計すること、第二に、そうした自動車を大量かつ低廉な原価でもって製造する手段
を発見すること、であった。 まず、外国車を購入して、徹底的なリバース・エンジニアリング(分解して技術を真似
る(盗む)こと)を数台行なって、フォード・モーターは「A 型」と名付けた車から製造販
売をおこない、1908 年から製造販売した「T 型フォード」によって、第 1 段階は達成され
2083
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
た。 この T 型フォードは「ブリキ自動車」とか「安物」とか呼ばれたものの大量生産時代の自動
車製造スタイルおよびそれに付随する全米規模でのアフターサービス体制にかなうもので
あった。 問題は第二の段階であり、この方がより長い時間がかかった。フォードは、自分の自動
車が 600 ドルを超えない価格となれば(最初の T 型フォードは 850 ドルだった)大量市場
を達成できると確信していた。フォード開業当時のモデルは、部品を自動車へ組み上げる
作業を 1 台当たり 2~3 人の工員が数日かけて行っていたが、フォードではそれまでバラツ
キのあった部品をマイクロゲージを基準とした規格化によって均質化し、部品互換性を確
保することに成功していた。T 型フォードは 1909 年には 1 年間で 1 万 8000 台もの台数を生
産した。廉価な T 型への需要が急増すると、工場を次々と建設して 1911 年の稼働時には年
7 万台の生産を可能とした。 そして 1 台 600 ドルの数字は 1912 年に達成したものの、その生産は需要に追いつけなか
ったのである。フォード自身はまだ何がなされなければならないかを知っていた。問題は
それをどのように行うかの方法だった。 ○ベルト・コンベアによる移動式組立ライン方式の採用 自動車産業は部品組立産業である。その部品は互換性を持ち、かつ標準規格部品でなけ
ればならない。このような互換標準部品技術は、フランスを経てアメリカに伝播し、武器
から繊維機械、ミシン、自転車へと波及していったことはすでに述べた。 これらの部品を組み立てる段階になると、アメリカのこれまでのやり方は非効率であっ
た。その組立方式を変えるヒントになる前例はいろいろあった。農業分野で、1787 年に、
フィラデルフィアの発明家オリバー・エバンス(1755~1819 年)がベルト・コンベアなど
を利用した昇降式製粉工場を発明し、上から小麦を入れると、下から粉になった加工品が
出てくる装置を実現していた。 このあと、19 世紀の後半に、シンシナティの食肉業者が、解体した肉を移動式ハンガー
に吊して運び、ベルトコンベヤの上を更に細かく解体して流す方式を開発していた(現在
もこの方式が続いている)。このシンシナティ方式を真似たのが、ウェスチングハウス社で
(フォードもそこに勤めていた)1880 年に、すでにエンドレス・チェーンで鋳物の型砂を
落とす鋳物工場を建設した(現在もこの方式が使われている)。 一方、テーラーが鉄鋼工場での流れ作業方式を研究し、前述したように「科学的管理方式」
といって方々で講演していた。デトロイトにも 1909 年から 2 回訪れ、自動車会社の役員に
流れ作業方式を説いていた。したがって、どの会社も流れ作業方式について知らなかった
わけではなかった。ただ、実施についてもう一つ踏ん切りがつかなかっただけである。 2084
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
しかし、1913 年の初め、フォードは果敢にこの流れ作業方式を大々的に採用した。まず、
実験的にマグネット部門にベルト・コンベアによる移動式組立ライン方式を採用した。そ
れ以前マグネットは完全に 1 人の作業員によって組み立てられており、最高の操業でもっ
て 18 分あたり 1 個の組立であった。この新しいラインは 29 人の作業員を持ち、各個の作
業員は単一の作業にあたった。そして採用直後の結果で 13 分に 1 個のマグネットが組み立
てられた。その後の改善によってこの時間は何と 5 分にまで短縮された(約 4 分の 1)。 この成功は人々を納得させるものであり、1 年足らずして、このシステムは自動車全体の
組立に拡張されていった。これによってシャシーは固定式組立方式での 20 時間 30 分に対
して、1 時間 33 分で完成することが可能となった(約 13 分の 1)。同様に、エンジンの組
立時間は 20 時間から 6 時間へ短縮されたのである(約 3 分の 1)。この過程でエンジン、シ
ャシーおよびその他の部品の組立に必要とされる時間がすべて違っていたことから、いく
つかのの組み立て工程が調整され、かつ時間的に同調されなければならないなど、多くの
困難があったが(まさにこれはシステム設計の問題だった)、ともかく、1914 年の初め T 型
が組立ラインから流れ出るようになり、フォード自動車会社は、世界で初めての完全な大
量生産システムを誇示したのである。 結果は驚くべきものであった。T 型乗用自動車の生産は、1912 年の 17 万台から 1914 年
には 30 万台、さらに 1 年後には 50 万台を超え、1923 年および 1924 年にはそれぞれ年産
200 万台の大台に達した。そして、そのころまでに、世界全体の自動車のうちの半分は T 型
フォードとなったのである。一方、価格は時々変動したものの、着実に低下していって、
1924 年にはフォード・ツーリング車は 290 ドルで買えたのである(この自動車産業の大量
生産方式が民間企業で確立していたアメリカは、第 1 次、第 2 次世界大戦の車両はもちろ
ん、武器、戦車、戦闘機などの生産にも適用したのである。他国より数倍から数十倍の生
産効率だった。大量生産方式を持たなかった日本などは工業力ではアメリカの足もとにも
及ばなかった。日本が家電や自動車でこれを獲得したのは戦後 1960 年代からであった)。 流れ作業方式自体は新しくないが、それを廉価車の生産方式に利用したフォードの卓越
した判断力は偉大であった。これによって当時もっとも複雑で高価な工業製品の自動車の
製造において大量生産の方式を開発して、自動車を大衆に普及させるのに多大な貢献をな
した。カール・ベンツやダイムラーが自動車の産みの親であるなら、自動車の育ての親は
ヘンリー・フォードとなる。 ○高賃金・8 時間・週 5 日労働を実現 T 型フォードは、世界で累計 1,500 万台以上も生産された。この生産台数を可能にしたの
は流れ作業による大量生産技術であり、これにより、販売価格を低く抑えながらも販売数
量を拡大することにより、企業利益を確保するという考え方を実現できるシステムであっ
2085
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
た。1908 年の発売当時、富裕層相手の手作りの自動車が 3,000 ドルから 4,000 ドル、同ク
ラスの他メーカーの自動車でも 1000 ドル近い価格であったのに対し、T 型フォードはのち
には 300 ドル前後を実現したのである。 なお、フォードは労働力確保を迫られ、1914 年には 1 日当たりの給料を 2 倍の 5 ドル(2006
年の価値では 103 ドルに相当する)へと引き上げ、勤務シフトを 1 日 9 時間から 1 日 8 時
間・週 5 日労働へと短縮する宣言を発し、その結果、応募者が退職者を上回り続けること
になった。アメリカ政府が最低賃金や週 40 時間労働の基準を決める以前にこれを達成して
いた。一方でヘンリー・フォードは労働組合の結成には反対し続けた。 このフォード生産方式は、創造と模倣・伝播の原理で、他の工業生産にも応用され、20
世紀の工業社会を出現させた。 【⑦石油産業の勃興】 機械掘りの油井の出現が、石油生産の一大画期をなしたことはアメリカの歴史で述べた。
鉄道員だったエドウィン・ドレークが 1859 年 8 月にアメリカのペンシルベニア州イタスビ
ル南方のオイル・クリーク川岸で、世界で初めて機械掘りで石油を採掘し、これが近代石
油産業の始まりとなった。19 世紀後半には、アメリカ合衆国、ルーマニア、ロシアのコー
カサス地方が石油の産地であった。 ジョン・デイヴィソン・ロックフェラー(1839~1937 年)は、1855 年、オハイオ州クリ
ーブランドで記帳係として働き始めたが、石油の将来生に目をつけて、1858 年に彼はモー
リス・B・クラークと共にクラーク・アンド・ロックフェラー社を設立し、1862 年に製油会
社に投資を行った。 1865 年に持ち株をクラークに売り払ってパートナーシップを解散し、精油事業を 7 万
2,500 ドルで買収した。ロックフェラーは、その買い取った権利を基にロックフェラー・ア
ンド・アンドリュース社を設立し、オハイオ州クリーブランドで石油精製業に乗り出した。
ロックフェラーは事業の拡大を行いフラグラーが所有した石油精製所を含む 5 つの精製所
を所有する会社(パートナーシップ)、ロックフェラー・アンドリュース・アンド・フラグ
ラー社を経営し、1868 年までに世界最大の製油所を所有した。 さらに規模を拡大するために、1870 年にロックフェラー兄弟とフラグラー、アンドリュ
ース、スティーヴン・ハークネスがスタンダード・オイル社(オハイオ)を創設し、ジョ
ン・D・ロックフェラーが社長に就任した。 1879 年に、エジソンが白熱電球を発明し、アルコールランプの需要が激減したので灯油
としての石油の需要は激減し倒産の危機にあったが、1877 年にドイツのオットーがガソリ
ンで動作する内燃機関(ガソリンエンジン)を発明し、1886 年、ドイツのカール・ベンツ
2086
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
とダイムラーは自動車を開発し、運良く、次世代の石油需要(ガソリン)が掘り起こされ
つつあった。 石油産業の将来を確信していたロックフェラーは、徐々にアメリカ国内で石油生産の支
配権を獲得していった。巨大な利益を消費者に還元せず高価格で販売し、そのビジネス手
法は広く厳しく批判された。しかし、その後も着々と同業者の買収を進めていき、原油生
産から石油精製、小売に至る石油に関する全部門を支配した。 州法によって会社の規模を制限する動きに対応して、1882 年に同社は、信託(ビジネス・
トラスト)を企業形態とするスタンダード・オイル・トラストが、傘下の企業を支配する
体制に再編成することによって、規制を切り抜け、その後も同業者の買収を進めていった。
その結果、スタンダード・オイル社は石油市場の 90%を支配するに至った。 あまりに巨大化したスタンダード石油に対し、世論の反発が起き、政府も世論と同じ態
度を取るようになり、「反独占」「反トラスト」へと向かい、1890 年にシャーマン反トラ
スト法が成立した(シャーマン法はアメリカで最初に制定された独占禁止法)。スタンダ
ード・オイルに対して反トラスト訴訟が起こされ、1892 年にオハイオ最高裁判所からトラ
スト協定を破棄すべしとの判決を受けた。 しかし、1889 年にニュージャージー州で州内の法人が他の法人の株式の所有を認める法
律が成立したため、この法律を使い再編成が可能となった。それはトラストを解体し、ニ
ュージャージー・スタンダード・オイル社に全米にある系列会社の株式の全部又は大部分
を所有させ、合法的な持ち株会社にすることであった。この再編成の結果、全国規模の事
業展開が可能になる上、トラストに対する攻撃に対しての緊急避難口となった。 しかし、その後もスタンダード・オイルに対する批判や訴訟は依然として多く、ついに
1911 年 5 月 15 日にアメリカ合衆国最高裁判所は、スタンダード・オイル(64%の市場占有率
を保持した)が市場を独占していることで解体命令を下し、同社はおよそ 37 の新会社に分
割された。現在あるエクソンモービル、シェブロンなどの旧 7 大メジャーは旧スタンダー
ド・オイルが前身になっている。なお、ロックフェラーは、1911 年以降は事業から引退し
慈善活動に没頭した。 ○20 世紀最大の産業となった石油産業 石油産業そのものは,その後も発展し、19 世紀から 20 世紀半ばにかけて、生産だけでな
く、消費側にも石油普及をうながす技術革新が続いた。石油産業は石油でなければ、でき
ない産業をこの世にたくさん生み出した。19 世紀末の自動車の商業実用化、20 世紀初めの
飛行機の発明は、ガソリンエンジンと切り離しては考えられない。多くの化学材料や薬品
類が生み出され日常生活が便利になった。船舶も重油を汽缶(ボイラー)の燃料にするよ
2087
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
うになった。しかし、戦車、軍用機、軍艦などの燃料でもあったことから、20 世紀から、
石油は死活的な戦略資源となった。 大量生産できる油田は少なく、石油産地は地理的にも偏っていた。20 世紀前半には、ベ
ネズエラやインドネシアが石油の輸出地に加わった(中東の石油が出現するのは、20 世紀
後半からである)。いずれにしても,石油産業は 20 世紀最大の産業となった。これに転機
がおとずれるのは 1973 年の第 1 次石油危機の勃発である。 このように第 2 次産業革命は地球社会に多くの産業、雇用の場を生み出したが、それが
欧米列強の植民地獲得競争、資源獲得競争、帝国主義的争いに拍車をかけるようになった。 【14-4】植民地から独立したアメリカ諸国 19 世紀の南北アメリカのうち、アメリカ合衆国については、【14-2-5】で述べた
ので、ここでは、カナダ、ラテンアメリカについて記す。 カナダは、1931 年のウェストミンスター憲章により、実質的には独立を達成した。また、
中南米のラテンアメリカも 1810 年代から 20 年代にかけて、スペイン、ポルトガルから独
立した。したがって、アメリカ合衆国は 18 世紀にイギリスから独立し、19 世紀には、カナ
ダが実質イギリスから独立、中南米諸国がスペインから、ブラジルがポルトガルから独立
し、南北アメリカの大部分は独立国となった。 【14-4-1】カナダ ○イギリス領カナダの時代 1793 年にはアレキサンダー・マッケンジーがロッキー山脈を越えてフレーザー川流域に
達する大陸横断に成功し、イギリス領カナダの領域は西方にも拡大していった。 1812 年に米英戦争が勃発するとカナダは再びアメリカ軍の占領の脅威を受けたが、上カ
ナダにおけるアメリカ軍の侵攻は撃退された。1840 年には合同法が制定されて分離してい
た上・下カナダが中央政府の管理下に置かれ、これ以後はカナダ・ウエストとカナダ・イ
ーストと呼ばれるようになった。 《自治領カナダ》 南北戦争後のアメリカが産業革命によって急速に発展を始めると、再びアメリカによる
カナダ併合の危機が高まったため、イギリス議会はカナダを統一するため、1867 年イギリ
ス領北アメリカ法(BNA 法)を制定した。この法律は、北アメリカ大陸にあったイギリスの
3 つの植民地を併せて、連邦制をとる 1 つの自治領とすることを定めたイギリスの法律であ
った。 2088
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
新たな自治領の名はカナダで、図 14-33 のように、オンタリオ州、ケベック州、ノバス
コシア州、ニューブランズウィック州(カナダ東部、大西洋に面している)の 4 つの州で
構成された自治領カナダ政府を成立させた。この立法によってカナダはイギリス連邦の下
で自治権を有する連邦となり、オタワに連邦首都が置かれた。ただ外交権はまだ付与され
なかった。 1982 年のカナダ法により、BNA 法は、
「1867 年憲法法」と改称され、カナダ法と共に制定
された「1982 年憲法法」が、主に人権保障に関して規定するのに対し、「1867 年憲法法」
は統治機構に関する定めであり、両法は車の両輪の関係にある。 1867 年、ジョン・A・マクドナルドが初代連邦首相に就任し、通算 19 年間在任した。こ
の時代のカナダは新興の意気に燃える発展期であった。 1871 年にはブリティッシュ・コロンビア州も自治領政府に参加し、1885 年カナダ太平洋
鉄道が完成、大西洋岸と太平洋岸が結ばれた(それまではアメリカの大陸横断鉄道を利用
するか、海運に頼るしかなかった)。1905 年までには西部地域の発展により、ノースウェ
スト準州からマニトバ州とサスカチュワン州が成立した(図 14-33 参照)。 図 14-33 カナダ連邦結成後の領土 山川出版社『カナダ史』 この時期のカナダを代表する職業のひとつに傭兵があった。1853 年からのクリミア戦争
で活躍した将兵の多くはカナダの出身者であり、またイタリア統一戦争ではバチカンを防
衛してサルディニア軍と戦ったのもカナダの義勇兵であり、南北戦争に参加した者も少な
くはなく、メキシコ内乱では反乱軍と皇帝軍の両陣営にカナダからの傭兵がいたとさえい
われている。 2089
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
そして、第 1 次世界大戦が勃発すると、カナダは英連邦の一員として参戦し、6 万人のカ
ナダ軍兵士が戦死した。戦後、カナダは 1919 年のヴェルサイユ講和会議にも代表を送り、
国際連盟にも参加した。これらの実績のうえに、1926 年イギリスはカナダに外交権を付与
し、イギリス議会は 1931 年、英連邦諸国はイギリスと対等であり、共通の国家元首(英国
君主)に対する忠誠心で結びついているだけであると決議した。このウェストミンスター憲
章によってカナダは実質的には独立を達成したとされる。 ウェストミンスター憲章は 1931 年、英国議会が制定した法律としての形式を有する。こ
れは 1926 年に出されたバルフォア報告書に基づいて成立していたイギリス連邦体系に法的
根拠を与えたものであった。 この憲章よりイギリスの海外自治領に外交権も与えられ、イ
ギリス本国とは王冠への忠誠で団結(言い換えれば同君連合)した平等な共同体と規定さ
れることになった。つまり、 英国国王━英国首相━英国政府 ┃ ┣カナダ総督━カナダ首相━カナダ政府 ┃ ┣オーストラリア総督━オーストラリア首相━オーストラリア政府 となり、イギリス政府の干渉を全く受けない形でカナダやオーストラリア、ニュージーラ
ンドや南アフリカ連邦、また当時はカナダとは別の自治領だったニューファンドランドが、
内政や外交、軍事などを行うことができるようになった(オーストラリアやニュージーラ
ンド、またニューファンドランドはこの憲章を当初は認めなかった。また、ニューファン
ドランドは 1949 年にカナダに併合された)。また、これにより正式にカナダ国籍やオース
トラリア国籍などが認められることになった。 この憲章の発表の背景には第 1 次世界大戦で自治領が発言権の強化を求めてきたことに
あった。そこで、自治領にある程度の独立性を付与することで、イギリスは支配権を確保
しようと結論したのである。しかし、この憲章が出た以後もアイルランド自由国など分離
独立の動きはやまず、大英帝国の解体は進んでいった。 【14-4-2】南アメリカ諸国 ハイチはカリブ海諸国の一つであるが、ラテンアメリカでもっとも早く独立したので、
ハイチ革命から述べる。 【①ハイチ革命(1791~1804 年)とハイチの独立(1804 年)】 18 世紀になるとヨーロッパでは、紅茶やコーヒーに砂糖を溶かして飲む習慣が中流以下
の階層にまで広まったので、砂糖の需要は急増するようになった。すでに奴隷労働の組織
2090
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
的・効率的利用形態を完成していた英仏領カリブ海植民地のプランテーションは、猛烈な砂
糖の増産でこの需要に応えていた。 18 世紀後半、フランス領サント・ドミンゴ(図 13-66 参照)は、世界の砂糖の 40%を生
産しており、世界最大の砂糖生産地として繁栄の絶頂にあった(もちろん、一部の支配者
階級のフランス人だけで大部分の奴隷はみじめな生活を強いられていたが)。奴隷は生産
に必要なだけドンドン輸入されたが、その反面フランス人は総じて海外移住に不熱心なの
で、サント・ドミンゴの人口構成は白人 4 万人に対して黒人奴隷 50 万人という極端な少数
者支配の様相を呈していた(古代ギリシャ時代のスパルタのようだった)。このころカリ
ブ海地域にいた奴隷 100 万人のおよそ半分であった。 彼らはほとんどがアフリカ生まれであり、奴隷制度の厳しさ故に出生率よりも死亡率の
方が高かった。重労働と不適切な食糧、住まい、衣類、医療、および男女間の構成差のた
めに、奴隷人口は毎年 2%から 5%で減少した。 フランス革命の 2 年後、1791 年 8 月、ついに砂糖プランテーションが集中するサント・
ドミンゴ北部一帯で黒人奴隷の一斉蜂起が起こり、国中が内戦状態となった。肥沃な北部
平原地域の何千という奴隷がその主人に対する報復とその自由を戦い取るために立ち上が
った。奴隷たちは労働を強制されていたプランテーションを焼き、主人、監督者および他
の白人を殺した。10 日間のうちに、白人の支配地域は幾つかの孤立した砦のみとなり、北
部地域全体を前例のない奴隷の反乱が支配することとなった。次の 2 ヶ月間暴動は拡大し、
2,000 人の白人を殺し、280 ヶ所の砂糖プランテーションを焼いて破壊した。 黒人の指揮官トゥーサン・ルーヴェルチュール(生年不詳~1803 年)は、独学で思想な
どを修めた元家事奴隷であったが、とくに軍事的才能がすぐれて尊敬されていた。1 年以内
に島は革命の渦に巻き込まれ、トゥーサンの軍事的指導の下で反乱を起こした奴隷たちは
フランスに対して優位に立ち、サント・ドミンゴの大半を手に入れることができた。 フランス革命戦争が起きると 1793 年にはフランスはイギリス、スペインとも戦争状態と
なり、この年の後半にイギリス軍はサンドマングの沿岸部の大半を占領した。 サンドマングの北部でトゥーサンが勝利し、南部ではムラートがこれに続き、沿岸部を
イギリス軍が占領した。1793 年パリの革命政府の代表部は黒人に反革命軍と外国部隊(イ
ギリス)に勝利すれば自由を与えると約束した。1794 年 2 月ジャコバン派の国民公会はこ
の命令を確認しフランス全領土での奴隷廃止を決めた。 そこで 1794 年 5 月にはトゥーサンは共和主義者となりフランスに寝返った。このときイ
ギリスとスペインが奴隷廃止を認めなかったためだった。トゥーサンの影響力のもとで黒
人及びムラート(白人と黒人の混血)、白人の連合軍はイギリス軍とスペイン軍を破った。 2091
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
フランスと交戦中であるイギリスは損失が大きかったためトゥーサンとの秘密交渉に及
んだ。1798 年及び 1799 年の条約でイギリス軍は完全撤退を約束し、サンドマングは利益の
出る貿易をイギリス及びアメリカ合衆国と始めることができた。武器や商品と引換えに砂
糖を売ったのである。トゥーサンはイギリス領であったジャマイカおよびアメリカ南部を
侵さないと約束した。イギリス軍は 1798 年に撤退した。 1799 年 5 月 22 日トゥーサンはイギリス及びアメリカと貿易協定を結んだ。アレクサンダ
ー・ハミルトンはアメリカにおける強力な支援者であったが、1801 年にジェファーソンが
アメリカ大統領に就くとハイチとの友好政策は覆された(ジェファーソンは奴隷制大農園
経営者だった)。 フランス本国は、逆にトゥーサンを副総督兼軍総司令官に任命して懐柔をはかった。トゥ
ーサンはその職権を利して 1799 年 10 月、南部に残っていたムラートの半独立国を滅ぼし
て、奴隷のかわりに賃金労働による砂糖生産の復興をはかった。 ○トゥーサンの全島掌握・奴隷解放 トゥーサンは、サンドマング全土を掌握すると、奴隷制を維持していた東部のスペイン
領サント・ドミンゴに兵を進めた。そしてフランスの第一執政となったナポレオンの命令
も無視し、1801 年 1 月に侵攻し全島を掌握し奴隷を解放した。そして7月に植民地独自の
憲法を起草、公布し「フランス帝国の一部をなすが独自の法をもつ植民地」とし、全イス
パニョーラ島に自治政府を作ることとトゥーサン自身が終身総督になることを定めた。 トゥーサンはフランスの自治植民地としてナポレオンに忠誠を示した。ナポレオンはト
ゥーサンの地位を認めたが、しかし、収益の上がる植民地としてサンドマングを回復させ
るにはトゥーサンが障害であるとみなした。 1802 年、ナポレオンははアミアン和約でイギリスと講和すると、イギリス軍のいなくなっ
た大西洋を押し渡って、5 万 8000 人の遠征軍をサンドマングに送った。ナポレオンの義弟の
シャルル・ルクレール率いる遠征軍が上陸し、トゥーサンの軍と戦った。月を追う毎にト
ゥーサンの軍からデサリーヌやクリストフなど主だった将校たちがルクレールの側へ離脱
した。 1802 年 5 月、トゥーサンはフランスと奴隷廃止を条件にアンネリの農園に引退する協定
を結んだ。しかし 3 週間後ルクレールの部隊は反乱を企てているとの嫌疑をかけてトゥー
サンを襲って家族共々捕え、戦艦でフランスへ送った。トゥーサンはジュラ山脈のジュー
要塞へ送られ、監禁されて繰り返し拷問を受け、最後は肺炎で亡くなった。 ところが 1803 年にアミアン和約が破れ、再び大西洋がイギリス軍によって閉ざされ、黄
熱病が流行するにいたってフランス遠征軍の命運も尽きた。 2092
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
もとトゥーサンの部下であった黒人指導者デサリーヌは、1802 年 10 月、フランスが奴隷
制の再建をはかっていたことが明らかになったために再びフランスから寝返った。1803 年
11 月、デサリーヌとペションの率いる黒人及びムラートの部隊は北部のカプフランソワ近
くのヴェルティエルの砦に籠るフランス軍を攻撃し降伏させた。12 月にはナポレオンのフ
ランス植民地軍の残存兵のすべてがデサリーヌの軍に降伏し、世界で唯一の成功した黒人
反乱が公式に終結した。 ○ハイチの独立、1804 年 そして、デサリーヌは、1804 年 1 月 1 日に独立を宣言し、ハイチ革命が成功した(図 14
-34 参照)。デサリーヌは国名を先住民のつけた名であったハイチに変更し、ナポレオン
にならって皇帝として即位し、残った白人を追い出した。彼は 1805 年に憲法を制定したが、
北部のアンリ・クリストフと南部のペションらの勢力に圧迫され、1806 年に暗殺された(ジ
ャン・ジャック・デサリーヌは今日もハイチ建国の父として敬愛されている)。 その後、南北の共和国(北部のハイチ国と南部のハイチ共和国)に分かれて争い、南部
の共和国の事実上の支配者ペションは農地改革でプランテーションを解体し、独立闘争の
兵士たちに土地を分け与えた。その結果、たくさんの小農が出現した。 一方、北部の共和国ではクリストフが王政を宣言(ハイチ王国)し、圧政を敷いた。1820
年クリストフの自殺に伴い南部のペションの後継者、大統領ジャン・ピエール・ボワイエ
がハイチを再統一した。 1821 年、イスパニョーラ島の東 3 分の 2(現在のドミニカ共和国)を支配していたスペ
イン人のクリオージョたちがスペイン人ハイチ共和国の独立を宣言し、コロンビア共和国
への編入を求めて内戦に陥ると、ハイチは軍を進めてこれを併合し、以後 1844 年まで全島
に独裁体制を築いた。 かくしてハイチはアメリカ合衆国に続き、西半球で 2 番目の独立国となり、世界の歴史
でも唯一の奴隷の反乱を成功させた。サント・ドミンゴを失ったことはフランスとその植
民地帝国にとって大きな打撃となった。しかし、ハイチの犠牲も大きかった。革命の直前
の島の人口は、およそ 55 万人であり、1804 年には 30 万人となっていた。この国は何年に
もわたる戦争で痛めつけられており、農業は疲弊し、正式な商業というものは存在せず、
大衆は教育も無くほとんど技術もなかった。 独立後のハイチは、前述したようにイスパニョーラ島東部のスペイン領サント・ドミン
ゴを征服して奴隷制を廃止したが、独立を承認されるためにフランスに莫大な賠償金を課
されたことや(賠償金の完済は、実に 97 年後の 1922 年となった)、奴隷制を存続する白
人国家による自由黒人国家への敵視政策により、経済は衰退し、植民地時代の水準にも及
ばなかった。 2093
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
スペイン領サント・ドミンゴは賠償金支払いのために圧政を続けるハイチからの独立を
望み、1844 年にドミニカ共和国として独立した(図 14-34 参照)。 図 14-34 ラテンアメリカ諸国の独立 【②ラテンアメリカ独立の誘因】 図 13-10 のように、スペインのラテンアメリカ植民地統治はほぼ 300 年間続いていた。
1800 年の時点でスペイン本国の人口は約 1150 万人、ラテンアメリカ植民地の人口は約 1500
万人であった。アメリカ合衆国が独立したときと比較すると、1775 年時点で大ブリテン島
だけで 900 万人の人口を擁するイギリスに、総人口 250 万人の 13 植民地が勝ち抜いたので
あるから、ラテンアメリカ植民地は優に本国の鎮圧を撃退しうるほどになっていたことは
確かであった。 2094
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
他方において大西洋の海上覇権をめぐる長い戦いは、七年戦争(1756~63 年)を境にイ
ギリスの優位、フランス・スペイン同盟(仏西ブルボン同盟側)の頽勢(たいせい)が歴然
としてきた。そしてイギリスは、スペイン領アメリカ植民地との合法的貿易を熱望してい
たが、スペインが決してそれを許そうとしないので、イギリスには植民地の独立に手を貸
す動機が十分あった。また、ラテンアメリカ植民地支配層はイギリスと自由貿易をしたい
と思っていた。そうでないまでも、スペイン本国がイギリスと戦争をするたびに大西洋貿
易が途絶するのは迷惑だと考えていた。 16 世紀のスペイン領植民地の中枢はメキシコとペルーであり、いわばそれに中米とヌエ
バグラナダ(現コロンビア)とチリがくっついていた。ところが 18 世紀になって、大西洋
側から見て表にあたる三つの地域、つまりキューバ、ベネズエラ、アルゼンチンがめざま
しい発展を始めた。これらの植民地はそれぞれ砂糖(キューバ)、カカオ(ベネズエラ)、
皮革(アルゼンチン)など農牧産品の輸出を基幹産業として発達したもので、従来からの
メキシコとペルーが貴金属を頼みにしているのと対照的であった。 これらの新興植民地は、社会の蓄積が浅いために経済の輸出依存度が高く、また農牧産
品は保存がきかないから戦時の通商途絶はとくにこたえた。農牧産品はまた貴金属よりず
っとかさばるので、イギリスの大きな商船団への憧れはとくに強かった。南米大陸の独立
戦争がベネズエラとアルゼンチンでとくに尖鋭だったのは、このこともその理由のひとつ
であった。 《クレオール(定着スペイン人)の不満》 しかし、ラテンアメリカ植民地支配層が独立運動に走りたくなるような、目に見える敵
となる社会層、あるいは差別はあったか、という点になると疑問が生じる。ハイチ革命は
大多数を占める黒人層が革命を起こしたが、これは奴隷として虐待されていたのでその理
由は明白であった。 しかし、スペイン植民地支配層の中核部分をなすのはクレオールと呼ばれる 2 世以降の
定着スペイン人であるが、彼らと本国生まれのスペイン人との間には、社会的・文化的な摩
擦と反目が確かにあった。図 14-35 にラテンアメリカの社会構造を示すが、国家や教会の
官僚制内でのクレオールの出世には限りがあり、副王・総督や大司教になる者はごくまれだ
った。 その下になると、つまり、二流、三流になると、聖俗の官職で飯を食っているクレオー
ルはメキシコやペルーにはたくさんいたのである。しかし、その多くは自分の職位に不満
を抱き、もっとクレオールを優遇せよと要求していたが、この種の不平は現体制の維持を
暗黙の前提としており、なかなか独立というような大きな問題に直接むすびつくことでは
なかったと思われる。 2095
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
図 14-35 ラテンアメリカの社会構造 このようにラテンアメリカ諸国の独立の条件はいろいろ熟してきてはいたが、なにより
大きかったのは、やはり、フランス革命に続くナポレオンの台頭と戦争、それによる本国
スペイン、ポルトガルの混乱、弱体化が直接、ラテンアメリカの独立運動に火をつけたこ
とは確かであった。 《ナポレオン戦争とスペインの混乱》 1806 年 11 月にナポレオンは大陸封鎖令を出して、イギリスを経済制裁で締め上げようと
していたが、伝統的にイギリスの同盟国であるポルトガルはいうことを聞かなかった。そ
こでナポレオンはスペインのカルロス 4 世と話をつけて領内通過を認めさせると、10 万の
大軍でリスボンに迫った。1807 年 11 月、ポルトガル王室・政府要員 1 万 5000 人は、イギ
リス海軍に護衛されてブラジルへ遷都したことは述べた。 1808 年 5 月、ナポレオンはスペインの国王父子をフランス領内バイヨンヌに誘い出して
両者とも退位させ、かわりに実兄ジョセフ・ボナパルトをスペイン王位につけた。これに
対してスペイン人は決起し、フェルナンド親王の復位を求めて各地に自治評議会を結成し
て、ジョゼフの掌握する国王政府を否認し、スペインは激しい内戦に突入した。イギリス
は、ウェルズリー軍団を急遽行き先を変更してポルトガルに上陸させ、本格的にスペイン
支援に動き出した。 この事態に、ラテンアメリカ諸国は混乱に陥った。スペイン内戦のために、ラテンアメ
リカ植民地ではどこでも当局が困った立場に陥った。本国のどちらの政府のいうことを聞
くか。ジョゼフ政府につくといえば被治者のクレオール(現地生まれの白人)から売国奴
だといわれる。内乱を起こした自治評議会につくといえば、それなら具体的に何をするの
かとつっこまれる。 《クレオールの自治評議会の樹立(1809~1810 年)》 2096
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ラテンアメリカの諸地域では、18 世紀末のアメリカ合衆国の独立およびフランス革命や
ハイチ革命の影響を受け、自由主義思想が流入し、折からスペインによる貿易の統制を嫌
い、自由貿易を求めていたクレオールの間で独立の気運が高まっていた。 そこで独立を企図するクレオール支配層はこの機に乗じ、カラカス、ブエノスアイレス、
サンティアゴ(チリ)、ボゴタにおいて、当局がスペイン親王支持の旗幟(きし)を鮮明
にしない手ぬるさを糾弾して一気にこれを打ち倒し、それぞれに本国同様の自治評議会を
樹立していった。1809 年から 1810 年にかけてクレオールの大地主と貿易商人が主導権を握
ってナポレオンに服属したスペイン政府からの自治を宣言した。 【③ボリバルとベネズエラ連邦共和国の樹立(1811 年)】 ベネズエラ地域は 1777 年から昇格したベネズエラ総監領となっていて、ベネズエラ経済
はプランテーション制農業からのカカオ輸出に依存しており、クレオール支配層は更なる
自由貿易を望むようになった。ベネズエラはアルゼンチンと共にスペイン植民地体制の辺
境だったために(中心は太平洋岸のペルー副王府であった)独立に有利な状況が整い、や
がて後のラテンアメリカ独立運動の主導的立場を担うことになった。 1808 年のスペイン半島戦争の勃発により、ホセ 1 世(ナポレオンの実兄ジョセフ・ボナ
パルト)がスペイン王に即位すると、ラテンアメリカ植民地は偽王への忠誠を拒否し、独
立の気運は抑えがたいものになって行った。1810 年にはカラカス市参事会がベネズエラ総
督を追放し、カラカス自治評議会を設立した。 このカラカス自治評議会が起用したのがシモン・ボリバル(1783~1830 年)であった。
シモン・ボリバルは 1783 年にカラカスの大地主の家に生まれた。初等教育段階からカラカ
ス随一の若手知識人を家庭教師に雇って教育を受け、1799 年から 1807 年までヨーロッパ各
地へ旅行して見聞を広めていた。これほどヨーロッパ経験が豊富な人材はいないから、カ
ラカス自治評議会はボリバルを外交使節としてイギリスに送った。 支援を求める交渉は不調に終わったが、ロンドンでボリバルはフランシスコ・デ・ミラ
ンダ(1750~1816 年。1806 年にベネズエラ独立のために侵攻したが失敗していた)に出会
い、たちまち心酔してカラカスに連れ戻った。 カラカスに戻った 2 人は強力な指導力を発揮して、これまで表向きフェルナンド親王復
辟(ふくへき)をめざす臨時政府であった自治評議会を解散し、1811 年中に議会開催、独
立宣言、憲法制定と一気にことを運んだ。こうしてスペイン領アメリカ最初の独立国家、
ベネズエラ連邦共和国を樹立した(図 14-34 参照)。 だがこの段階での共和制樹立はあまりにも短兵急に過ぎ、自治評議会体制なら支持した
はずの層を敵にまわしてしまった。西部のコロで王党軍が編成され、折悪しくカラカスを
2097
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
襲った大地震に乗じて攻め寄せてきた。この時の地震でカラカス市の 3 分の 2 が崩壊した
といわれる大惨事だった。ベネズエラ連邦共和国は崩壊し、敗戦の混乱の中でミランダの
身柄は王党軍の手に落ち、ミランダは本国に送られて 4 年後に獄死してしまった。 【④大コロンビアの成立(1819 年)】 スペインは、コロンビア地域などのアンデス北部をベネスエラなどと共にヌエバグラナ
ダ副王領として支配し、ボゴタ(現在のコロンビアの首都)に首都を置いていた。 ベネズエラで王党軍に敗れて海上に逃れたボリバルはほどなくヌエバグラナダ(現コロ
ンビア)のカルタヘナに現れた(図 14-34 参照)。ヌエバグラナダ(現コロンビア)では
このとき、ボゴタ地方と、それ以外の地方を結集した連邦政府とが、別々に独立を宣言し
て混乱のうちに張り合っていた。 ボリバルは連邦政府の支援をとりつけ、1813 年にククタからベネズエラに侵攻、マラカ
イボ湖の南を抜けて猛烈な勢いで勝ち進み、8 月にカラカスを奪還して共和国を再興、当面
憲法は棚上げにして臨時独裁体制を布いた。しかし王党派は南方のリャノス地方を拠点に
盛り返し、1814 年 7 月、カラカスに迫ったのでボリバルは再びヌエバグラナダに難を避け
た。 再びヨーロッパの情勢に変化が起きた。1814 年 3 月、ナポレオンはスペインから撃退さ
れ、フェルナンド 7 世は王位に復し、絶対王政のもとスペインの政情は正常化された。1815
年 2 月、フェルナンド 7 世は、対仏戦争を戦い抜いた将軍たちの中からP・モリリョを選
び、兵力 1 万の遠征軍をつけてカリブ海に送った。 モリリョのスペイン軍はカラカス、カルタヘナ、ボゴタを占領して、今やスペインはア
メリカ植民地を、ブエノスアイレスとラプラタ地方だけを残してすべて回復したのである。 ボリバルはイギリス領ジャマイカに逃れ、1816 年には亡命先のジャマイカから何度かベ
ネズエラ潜入を試みたが失敗した。その後もボリバルはベネズエラとコロンビア国境地帯
でモリリョ軍と戦っていたが、1819 年 5 月、兵力 2100 の部隊で海抜 4000 メートルのアン
デス山脈を越え、裏手からボゴタを攻め、ヌエバグラナダ副王軍主力を撃ち破った。8 月、
ボゴタが解放され、ヌエバグラナダも最終的に解放された。 アンゴンストウラに召集されていたベネズエラ議会は、1819 年 12 月にベネズエラとヌエ
バグラナダを合併した「コロンビア」共和国の樹立を宣言し、コロンビアの首都をボゴタ
に定めた。コロンビアという国名はコロンブスの名にちなんでこの時新しくつけた名であ
った。現コロンビア共和国と区別するために、歴史上「大コロンビア」と呼ぶ。 2098
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ボリバルは、後事を部下のサンタンデルに託して再びベネズエラ奥地に戻った。ヌエバ
グラナダという後ろ盾を得たボリバルは、1813 年と同じくククタに陣取り、西からベネズ
エラ海岸部を脅かした。 【⑤スペイン立憲革命(1820 年)】 ところが、再びスペインに一大事が起こって、情勢はまた変わった。フェルナンド 7 世は
復位するとすぐさま 1812 年憲法(ジョセフ・ボナパルトの時代に成立したある程度民主的
な憲法)を廃止して絶対王政を復活していたが、1820 年 1 月に「スペイン立憲革命」が起
こった。ブエノスアイレスを独立派から奪還するための遠征軍の編成が進んでいたカディ
ス港で、その一部が反乱を起こし、各地の自由主義者がたちまち呼応して、ウィーン体制を
揺るがすスペイン 1820 年革命が始まった。3 月、1812 年憲法はメキシコやペルーなど植民
地を含めて再施行された。 カラカスのスペイン軍は後詰めを失った。モリリョは本国の指示によりボリバルと停戦
協定を結び、ほどなく転属になった。満を持していたボリバルとパエスは翌 1821 年 6 月つ
いに北上して、カラボボの戦いで敵主力を打ち破ってカラカスを占領した。ベネスエラも
最終的に解放され、両国は改めて正式にコロンビア共和国を形成した。これより先 1821 年
5 月にククタに召集されていた大コロンビア憲法制定会議は、7 月に憲法を採択してボゴタ
を首都と定め、9 月にはボリバルを大統領、サンタンデルを副大統領にに任命した。 1820 年には解放されたグアヤキル(現エクワドルの最大都市)が、1822 年にはキト(現
エクワドルの首都)が併合され、この大コロンビア共和国は現在のコロンビア、ベネスエ
ラ、エクアドル、パナマの全て及びペルー、ガイアナ、ブラジルの一部を含む北部南米一
帯を占める大国家となった(図 14-34 参照)。 《ペルーの状況》 しかし、ただの政治家ではなく革命家であるボリバルには、大コロンビアという機関を
使って、まだ、ペルーに陣取っているペルー副王政府という巨大な権力装置の転覆という課
題が残っていた。ペルーの副王の任にあったアバスカル(在位:1806~16 年)はきわめて有
能だった。北のヌエバグラナダ、南のチリ、東のアルゼンチンと、三方を独立派に囲まれな
がら、膝元のリマにいっさい動揺を起こさせなかった。 リマ支配層から軍資金を借り上げ、1500 人の正規軍と 4 万人の民兵を駆使して、クスコと
アレキッパの反乱を鎮圧、イトとサンティアグの自治評議会を打倒、三度のブエノスアイ
レスからの攻撃も撃退していた。 ボリバルはカラカスをパエスにまかせてボゴタに赴き、ここでも内政はサンタンデルに
まかせきり、自分は南方のペルー対策に専念しようとした。ところがすでにこの時、ラプ
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ラタからやってきた一人の男が、ペルー副王府と四つに組んで悪戦苦闘していた。ボリバル
の話はここまでにして、ラプラタ方面の独立運動の動きをみることにする。 【⑥ラプラタ地域の独立と挫折】 ラプラタというのは現在のアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ 3 国を合わせた地域
である(図 14-34 のブエノスアイレスを中心とした地域)。パラナ川とウルグアイ川、パ
ラグアイ川はいずれもラプラタ川に合流して大西洋に注ぐ河川であり、これらの国々はこ
のラプラス水系によって繋がっているのでこう呼ばれる。ところが歴史的には、この地域
は大西洋側からでからでなく、反対のアンデス山脈側から開発が進んだのである。 18 世紀になるとブラジル方面から攻撃を続けるポルトガルとの小競り合いが続き、スペ
イン当局がバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)を防衛するために、1776 年にペル
ー副王領からラプラタ副王領が分離されると、ブエノスアイレスは副王領の首府となって
正式に開港され、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国との密貿易により空前の繁栄を
遂げた。 ○ブエノスアイレスでの五月革命(1810 年) もう一度、少しさかのぼるが、アメリカ独立革命、ハイチ革命の影響を受けていたクリ
オールたちは、スペイン半島戦争によるフェルナンド 7 世の退位によって生まれた政治的
空白を埋めるために、カビルド・アビエルト(開かれた市会)を開いて表面的にはフェル
ナンド 7 世への支持を標榜しながらも、1810 年 5 月、本国スペインの情勢を知ると、ブエ
ノスアイレス市民は副王を追放し、実質的にペニンスラール(スペイン本国出身者)から
植民地行政権を奪取し自治評議会体制を樹立した。ベネズエラとちがってラプラタには強
力な王党派もなく、また本国から強力な遠征軍が来ることもなかった。だがそれだけボリ
バルのような強力な指導者もいなかった。 自治評議会体制は弱体で、ウルグアイや内陸諸地方はブエノスアイレスの主導権をなか
なか認めず、ラプラタ副王領のパラグアイ、バンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)、
アルト・ペルー(現在のパラグアイ)、コルドバ(現在のアルゼンチン中部)はブエノス
アイレス主導の自治に賛成しなかった。 しかしそれでも、ラプラタが独立国家として生き延びるためには、絶対にやっておかな
ければならないことがあった。アルト・ペルー(上ペルー、現在のボリビア地域)を合併
するか、それが無理なら少なくともペルー副王府から独立させることであった。そのまま
であるとペルー副王府が強力で将来、ラプラタがつぶされるおそれがあったからである。 このためブエノスアイレス政府は各地に軍を送り、コルドバを併合することには成功し
たが、1811 年のマヌエル・ベルグラーノ将軍のパラグアイ攻略は失敗し、アルト・ペルー
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
攻略も失敗した。ブエノスアイレスは 1815 年を含めて 3 度にわたって遠征軍を送り出し、
北上してボリビア方面からアンデスの斜面を攻め上ったが、そのたびにペルー副王アバス
カルの武将たちに撃退された。 ○パルグアイの独立(1811 年)と分裂 1811 年 1 月からベルグラーノ将軍率いるブエノスアイレス軍がパラグアイに侵攻したが、
3 月に敗北を喫した。パラグアイはブエノスアイレスとは別個にスペイン植民地当局を倒し、
フランシアという指導者のもと、同年 5 月 15 日にスペインとブエノスアイレスからの独立
を宣言した(パルグアイの独立の決定。図 14-34 参照)。 ブエノスアイレスはパラナ川水運を閉鎖して圧力をかけたがパラグアイは屈せず、外国
貿易を犠牲にしてもブエノスアイレス(アルゼンチン)から分離する道を選んだ。 ○ラプラタ連合州(アルゼンチン)の独立(1816 年) 1816 年 7 月 9 日、トゥクマン議会でラプラタ連合州が正式にスペインからの独立を宣言
し、プエイレドンが最高執政官に選出された(図 14-34 参照)。アルト・ペルー(現ボリ
ビア)からも代表者が参加し、ベルグラーノ、マルティン・ミゲル・デ・グエメスらが起
草した独立宣言でインカ帝国の復興が決議された。しかし、連邦同盟のアルティーガス派
はこの議会に呼ばれず、8 月にポルトガル軍がバンダ・オリエンタル(現ウルグアイ地域)
に侵攻した際にブエノスアイレスはこれを黙認したため、ますます内戦が深刻になった。 とりあえず、ラプラタ諸州連邦という国号のもとアルゼンチンは独立を宣言したが、こ
の時点では独立の方向も定まっておらず、インカ皇帝を復活させて立憲君主制を導入しよ
うとしていたベルグラーノ将軍のような人物から、ホセ・アルティーガスのようにアメリ
カ合衆国のような連邦共和制国家を求める勢力もあり、ブエノスアイレスは自由貿易、貿
易独占を求めるなど意見が全く一致しなかった。 ベルグラーノ将軍が三度目のアルト・ペルー(現パルグアイ)攻撃に失敗し、北部軍司
令官を辞任すると、後を継いだアンデス軍司令官のサン・マルティン将軍が発想を変えて
アンデスを越えて王党派の牙城ペルーのリマを攻略しようと言い出した。最高執政官のプ
エイレドンはサン・マルティンのその戦略案を採用した。 以下、サン・マルティンの遠征軍にしたがって話を進めるが(そして、のちほどラプラ
タ連合州(アルゼンチン)に返るが)、ラプラタ連合州は、1819 年、トゥクマンの議会が
ブエノスアイレスに移転し、5 月に中央集権的なラプラタ連合州の憲法が採択された。 しかし、ブエノスアイレスの強大化を望まない諸州は連邦同盟のアルティーガスの下に
結集し、内乱が起こった。内乱の中で 6 月に最高執政官のプエイレドンは辞任した。プエ
イレドンが失脚すると、翌年にかけてラプラタは大混乱に陥り、あらゆる州が独自のカウ
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ディリョ(統領、軍閥)を推戴してラプラタ(ブエノスアイレス)から自立してしまった。
つまり、ラプラタの独立は白紙にもどったような状態になってしまった。 【⑦サン・マルティンとチリ、ペルーへの遠征軍】 サン・マルティンは 1778 年にスペイン軍人の子としてラプラタの辺境駐屯地に生まれた
が、8 歳の時に父の転任でスペインに戻り、スペイン陸軍で普通の職業軍人のキャリアを積
んだ。スペインで 1808 年以来大佐の階級でナポレオン侵攻軍と戦っていたが、1811 年に何
を思ったかいきなり戦線を離脱して南米のラプラタに旅立ち、ブエノスアイレスの自治評
議会に軍人として採用してもらった。 サン・マルティンはペルー副王府のアルト・ペルー守備体制はまさに万全で、ボリビア
方面から攻めても無理で、むしろブエノスアイレスから真西に進みアンデス山脈を越えて
チリに攻め込み、チリを基地として海上からペルーを攻めたらどうかと提案したのである。
チリのサンティアゴでは 1810 年に樹立された自治評議会体制が、ペルー副王府の遠征軍に
より 1814 年につぶされてしまっていた。サン・マルティンはペルナルド・オイギンスらチ
リ亡命者と連絡を取り、独断で 5000 人の遠征軍を編成、プエイレドン政権ができると着想
を明かして採用を求めた。プエイレドンは認可を与えた。サン・マルティンらはチリをめ
ざして進軍した(図 14-34 参照)。 ○チリの独立、1818 年 チリでも 1810 年にブエノスアイレスで勃発した五月革命の影響により、同年 9 月 18 日
にフアン・マルティネス・ロサスがサンティアゴ・デ・チレに自治政府を創設し、国民議
会を招集して奴隷の輸入禁止、奴隷の子の自由を保障する決議などを行った。 しかし 1813 年にこの自治政府はペルー副王アバスカルの派遣した王党軍によって崩壊し、
再びスペインの支配を受けたが、独立指導者オイギンスはラプラタ連合州(アルゼンチン)
に亡命した。そこで前述のようにオイギンスはサン・マルティンの率いるアンデス軍と共
にチリに侵攻することになったのである。 1817 年 1 月、サン・マルティンはアンデス山脈を越え、山麓でペルー副王府の駐屯軍に
チャカブコの戦いで勝利し、サンティアゴに入った。サン・マルティンはチリ議会からチリ
総督になることを要請されたが、サン・マルティンの目標はあくまでペルーにあったので、
これを断ったため、1818 年 2 月にオイギンスがチリの独立を宣言し、初代大統領となった
(図 14-34 参照)。同 4 月には逆襲してきたペルー副王軍を辛くも撃退しチリのスペイン
から独立が確定した。 オイギンスはチリ海軍の編成に政治生命を賭した。7隻の中古軍艦を買い入れ、艦隊司
令長官にはイギリスのトマス・コクラン提督を引き抜いた。 2102
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ところが、1819 年にラプラタでプエイレドン政権が倒れ、後継政権がサン・マルティン
に帰国命令をよこした。サン・マルティンと部下たちは思案のすえ辞職して、これ以後は
チリ共和国の客分としてあくまでペルー遠征を続行することにした。その後サン・マルテ
ィンは、チリ海軍の助勢を得て海路ペルーに向かいペルーを解放した。 1818 年から 1823 年までチリにおけるオイギンスは自由主義的改革を進めたが、まもなく
保守主義者と自由主義者の対立が繰り広げられた。しかし、同時期のラテンアメリカの多
くの国で起きたような自由党と保守党の果てしない内戦には至らず、1830 年のリルカイの
戦いで保守派が勝利すると、保守派の指導者だったディエゴ・ポルターレスは 1833 年憲法
を制定した。 以降強力な保守支配による政治的安定を実現した「ポルターレス体制」時代にチリは国
力を蓄えることになったが、既にこの時期には他のラテンアメリカ諸国と同様にイギリス
による経済進出が進み、チリ経済もイギリスへの従属が始まった。 ○ペルーの独立(1821 年) ペルー地域は、インカ帝国の中心であり、スペインはこれを征服して南米支配を広げて
いったので、1542 年にペルー副王領(最初期は南アメリカ全体を統括していた)が首都リ
マに設立された。リマはスペインの南アメリカ支配の本拠地として栄え、1550 年にはサン・
マルコス大学が建設された。金銀などの鉱物の搾取が宗主国スペインによって行われたこ
とは述べた。 19 世紀初めのナポレオン戦争によるヨーロッパでの政変により 1808 年にスペイン半島戦
争が始まり、ラテンアメリカ植民地は、ナポレオンの兄ジョゼフを偽王としてこれへの忠
誠を拒否したが、ペルーではそのようなことはいっさい起こらなかった。他の地域で繰り
広げられたクリオールによる独立運動は、ペルーのクリオールが 30 年前に起きたトゥパ
ク・アマル 2 世(インカ帝国最後の「皇帝」となり、1571~72 年に反乱を起こしたが、鎮
圧された)の反乱の恐怖を忘れることが出来なかったために進展しなかったとも考えられ
ている。 この情勢を幸いとしてペルー副王フェルナンド・アバスカルは、アルト・ペルー(ボリ
ビア地域)のラパス、エクアドルのキト、チリのサンティアゴに遠征軍を送り、それぞれ
の地のクリオールの自治政府を鎮圧した。 1810 年、自治政府を樹立したブエノスアイレスがマヌエル・ベルグラーノ将軍を差し向
けてアルト・ペルーを解放しようとしたが、アバスカルはこの解放軍による攻撃を打ち破
った。 さて、そこでチリを解放したサン・マルティン軍は、チリから海路でリマを攻略するこ
とにしたのであるが、どうなったか。1820 年 8 月、チリ艦隊は兵員輸送船 16 隻を伴って出
2103
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
港、9 月に兵員 4500 人をリマの南 160 キロに上陸させた。アバスカルからかわったラセル
ナ副王は全軍を率いてクスコに撤退し、代わってサン・マルティン軍が市民の歓呼に迎え
られてリマ市に入り、1821 年 7 月にペルーはサン・マルティンの指導の下で独立を宣言し、
自身はペルー護国卿になった。 しかし、サン・マルティンにできるのは、そこまでだった。副王府による多年の軍資金徴
発でリマの財力は底をついていて、チリ海軍も兵隊の給料が払えずに引き揚げてしまった。
スペイン副王政府は植民地支配に固執し、シエラに逃れて抵抗を続け、首都周辺を自在に
横行し、ついに 1822 年 4 月、イカの戦いでサン・マルティン軍は敗れてしまった。 大コロンビアから南下したボリバルは部下のアントニオ・ホセ・デ・スクレとともにペ
ルー副王軍のもとにあったグアヤキルとキト(ともに現エクワドルの都市)を苦心のすえ
解放した。そして北からボリバルがやって来たとき、ペルー護国卿サン・マルティンの力
不足は誰の目にも明らかだった。 1822 年 7 月、ペルー護国卿サン・マルティンはグアヤキルに赴いて、ここでボリバルと
会談し、ペルー副王軍撃破のためボリバルの協力を懇請し、自分の全兵力を率いてあなた
の指揮下に入ろうとまで申し出たが、ボリバルは謝絶した(会談の内容は明らかになってい
ない)。 リマに戻ったサンマル・ティンは打つ手なしで護国卿の職を辞し、ラプラタに戻っても、
もはや占めるべき席がないと考え、パリに亡命して 1850 年に失意のうちに亡くなった。 【⑧ボリバルによるペルー、ボリビアの独立】 ○ボリバルによるペルー解放(1824 年) 1823 年 6 月に短期間ながらペルー副王軍にリマを占領されるにいたって、ペルー議会は
ボリバルに全権を委ねるから出馬してくれと申し出てきたので、ボリバルはリマに入った。
1824 年 1 月、大コロンビアからの援軍を待つうちに、ボリバルは大患に倒れ、2 月にはペ
ルー副王軍が再びリマを占領し、共和国政府がそっくり副王側に寝返ってしまい、ボリバル
は絶体絶命に追い込まれた。 しかし、ボリバルはしぶとく病床から立ち上がり、ペリー軍、チリ・ラプラタ人部隊、
大コロンビアからの援軍を併せて兵力 1 万人の解放軍を編成し、6 月、全軍をアンデス山脈
に上げ、山間の道を南に向かって進軍を開始した。1824 年 8 月にフニンの戦いでボリバル
はスペイン軍に勝利すると、ボリバルはリマを再々解放した。9 月にボリバルはリマに入っ
て独裁権を掌握した。 2104
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
1824 年 12 月、スクレが指揮する兵力 5700 人は副王ラセルナの兵力 9300 人とアヤクーチ
ョの野で激突した。戦闘は 2 時間で決着し、副王は負傷して捕虜となり、司令部は正式に
無条件降伏した。スペイン領南アメリカ植民地の独立は、この日をもって確保された。 1826 年 1 月にはカヤオ要塞に籠ったスペイン軍の残党も降伏し、ペルーからスペイン勢
力は一掃された。こうしてペルーは長く続いたスペインの支配からようやく独立を果たし
たのである。 ○ボリビアの独立(1825 年) 1776 年 、アルト・ペルー(ボリビア地域)がペルー副王領からラプラタ副王領に転入さ
れ、以降、経済や司法が副王首府のブエノスアイレスに従属することになっていた。 ここでも、1809 年、 ラパスとチュキサカでクリオールによる独立運動が起こった。 1810
年、ラパスで起きた独立運動は、ペルー副王アバスカルの指導によりすぐに王党派に鎮圧
され、革命評議会のペドロ・ドミンゴ・ムリーリョは処刑された。その後、ラプラタ連合
州(アルゼンチン)が独立派に支援軍を送ったがことごとく王党派軍に打ち破られた。 そして、1823 年、 ボリバルとスクレの率いる解放軍により、再び戦争が始まった。しか
し副王ラセルナの率いる王党派軍がアヤクーチョの戦いで壊滅し、ペルーの最終的な独立
が確定したが、1824 年 12 月、スクレはサンタ・クルスらとともにアルト・ペルーに進み、
1825 年 4 月にペルー副王軍最後の残党を破った。 アルト・ペルーの支配層はそれまで同一の行政単位を構成していたペルーやアルゼンチ
ンとの連合を望まなかったため、1825 年、チュキサカでアルト・ペルー共和国の独立が宣
言された(図 14-34 参照)。1826 年 8 月 アルト・ペルーはボリバルの名に因んで、「ボ
リビア」という国名になり正式に独立した。同時に首都も憲法上はチャルカスが改名され
てスクレとなった。スクレが大統領に就任した。 《カウディーリョ(軍閥)政治によるペルー地域の混乱》 独立後のペルーの政治はやはり多くのラテンアメリカ諸国と同じくカウディーリョ(軍
閥。軍事的な階層、一般的には統領などと訳される)の政治となり、1846 年まで各地でカ
ウディージョ間の私闘が続いた。その中でも特に有力だったのはアヤクーチョの戦いでス
クレと共に戦ったラ・マール、ガマーラ、サンタ・クルスの 3 人であり、1828 年にはペル
ー議会でラ・マールがペルー大統領に選ばれた。 ボリビアのスクレは自由主義的な改革をしたが、保守派の恨みを買い、ガマーラと結ん
だ国内保守派の陰謀によりスクレは追放され、エクアドルに帰って大統領になった。1829
年、サンタ・クルスがボリビアの大統領に就任した。ペルーのラ・マールは、かつてのペ
ルー総督府の支配下にあったボリビア、エクアドルを自国領の一部だと考え、周辺国との
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
戦争に明け暮れた。1829 年から、ペルーのラ・マールは追放されて、ガマーラが大統領に
就任した。 いずれにしても、ペルー、ボリビア、エクアドルは相互に併合をめざして、争いをくり
かえしたが、その詳細は省略する。 1845 年にラモン・カスティーリャがペルー政権に就くと、この 1845 年から 1867 年まで
ペルーの政治は安定した。この時代にはイギリスやアメリカ合衆国をはじめとする外国資
本によって経済開発が進み、肥料に適していた海岸部のグアノ(海鳥の糞からなる鉱石資
源)や、コスタでの綿花やサトウキビ、タラパカ(現在はチリ北部の州)での硝石が主要
輸出品となってペルー経済を支えた。 《コロンビア・エクアドル・ベネズエラの分裂》 ペルー、ボリビアが完全独立し、1826 年の時点で、ボリバルは旧スペイン領全体を包括
する統一国家樹立を考えていた。ということは、図 14-34 において、ボリバルは現エクア
ドルを含む大コロンビアの大統領であるとともに、ペルーとボリビアの解放者であった。
北・中部アンデスのこの連合体に、あとメキシコと中米とチリとラプラタ(アルゼンチン)
を加盟させさえすれば(つまり、ブラジルを除く中南米)、それは現実のものとなると思
っていた。ボリバルはパナマ市(この時まだ大コロンビアの一部)で旧スペイン領諸国の
国際会議を開くことを決めて、1824 年末、各国に招請状を送った。 1826 年 6~7 月、大コロンビア、ペルー、メキシコ、中米連邦の 4 ヶ国の代表が会して、
いわゆるパナマ会議が開催された。この会議で調印された同盟条約は象徴的なものにとど
まった。 しかしこの時、ラテンアメリカの現実政治の場で実際にはたらいていた力は、統合に向か
う求心力ではなく遠心力であった。ペルーからボリビアが分離したこと自体がその兆候で
あった。 ボリバルは大コロンビア実現のために、その後も東奔西走したが、無駄だった。1830 年
3 月ボリバルは大統領の職を辞し、5 月 8 日にボゴタを去って亡命の旅にのぼった。1830 年
6 月 4 日には、コロンビア南部にいたスクレが、暗殺された。ホセ・アントニオ・パエスの
指導するベネズエラはコロンビアから脱退し、完全に独立した。 ボリバルはコロンビア北海岸に出たところで肺結核が重くなり、結局、ヨーロッパ行きの
船に乗ることもなく、1830 年 12 月 17 日にサンタマルタ(現コロンビア北部の都市)で死ん
だ。 【⑨赤道共和国(エクワドル)の独立(1830 年)】 2106
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
現在のエクアドル地域は、ボリバルの采配により、「南部地区」として大コロンビアの
一部に組み込まれていたが、大コロンビア内での内乱や混乱によりベネスエラが独立を宣
言すると、南部地区も独立を画策し、1830 年 5 月 13 日にコロンビアから独立し赤道共和国
を宣言した。しかし、初代大統領になる予定だったスクレは暗殺され、同年 8 月 10 日にフ
アン・ホセ・フローレスが初代大統領に就任した。 この赤道共和国(エクアドル)は独立後しばらくはヌエバグラナダ共和国(コロンビア)
との戦争や、保守派と自由派との間での内戦など混乱が続いたが、1861 年にガブリエル・
ガルシア・モレノが政権を掌握すると、モレノは以降 15 年にわたる独裁政治を行った。モ
レノ時代にはカトリック教会を軸にした保守政治が進み、この時期に学校、軍隊、鉄道が
整備された。また、インディオ共有地の保護などがなされた。 【⑩ヌエバグラナダ共和国(コロンビア)の独立(1832 年)】 1831 年にラファエル・ウルダネータ政権が崩壊すると同時に大コロンビア共和国も崩壊
し、以降この地域を統一しようとする動きはなくなり、残存部がヌエバグラナダ共和国と
して独立した。1832 年に亡命先からサンタンデルが帰国し、ヌエバグラナダ共和国、つま
り縮小されたコロンビア共和国の初代大統領に就任した。 この縮小されたコロンビア共和国は保護貿易により産業が発展し、奴隷貿易が廃止され、
公教育が拡充するなど連邦的な政治が進んだ。1840 年代にはコーヒーが栽培され始めた。
この時代にコロンビア時代から続く中央集権派と連邦派が、保守党と自由党に組織し直さ
れた。 1849 年には商人や職人、新興ブルジョワジー、小農などの連邦派が自由党を結成し、こ
れに対抗して貴族や大地主、教会などを支持基盤に保守党が結成された。これによりコロ
ンビアは現在まで続く二大政党制が確立されたが、寡頭支配体制の維持という点で両党は
共通していた。 【⑪再びラプラタ連合州(アルゼンチン)地域】 話はサン・マルティンの遠征軍が発ったあとのラプラタ連合州(アルゼンチン)にまで
返るが、ラプラタ連合州は、1819 年、トゥクマンの議会がブエノスアイレスに移転し、5
月に中央集権的なラプラタ連合州の憲法が採択された。 しかし、ブエノスアイレスの強大化を望まない諸州は連邦同盟のアルティーガスの下に
結集し、内乱が起こった。内乱の中で 1819 年 6 月に最高執政官のプエイレドンは辞任した。
プエイレドンが失脚すると、翌年にかけてラプラタは大混乱に陥り、あらゆる州が独自の
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
カウディーリョ(統領、軍閥)を推戴してラプラタ(ブエノスアイレス)から自立してし
まった。つまり、ラプラタの独立は白紙にもどったような状態になってしまった。 ○ラプラタの分裂、内戦(1820 年~) ラプラタではブエノスアイレスの貿易独占に反対する東方州(現在のウルグアイ)やリ
トラル三州(アルゼンチン東部の 3 州)のアルティーガス派(連邦同盟)とブエノスアイ
レス(トゥクマン議会派)の対立が激しさを増し、1820 年、内戦となってしまった。ブエ
ノスアイレスの中央政府は崩壊し、憲法は失効し、ラプラタ連合州は無政府状態に陥った。 《ブラジル戦争(1825 年~1828 年)》 この間にブエノスイアレスと敵対していた東方州(バンダ・オリエンタル)がポルトガ
ル・ブラジル連合王国(まだ、ポルトガルの亡命政府があった)に併合されたことから、
東方州を巡って 1825 年にアルゼンチン諸州とブラジルとの間にブラジル戦争が勃発した。 アルゼンチン諸州の間に団結して敵に当らねばならないという機運が起こり、リバダビ
アは憲法制定会議を召集し、1826 年に連邦国家「リオデラプラタ連合諸州」を建国、その
大統領に選出された。 1827 年 2 月、アルゼンチン軍がイツサンゴの戦いでブラジルに大勝した。しかし、5 月
にリバダビアは東方州の帰属をブラジルに認める講和条約を結び、国内の猛反対にあって 6
月に失脚した。8 月には大統領制と 1826 年憲法も停止され、以降は連邦派のブエノスアイ
レス州知事マヌエル・ドレゴが戦争を継続した。 《ウルグアイの独立(1828 年)》 戦局はアルゼンチン有利に進んだが内政の混乱が災いしたため、1828 年イギリスの仲介
と圧力により、4 月 28 日に東方州(バンダ・オリエンタル)がウルグアイ東方共和国とし
て独立することをモンテビデオ条約で認めさせられた。ここにアルゼンチンとブラジルの
緩衝地帯として、ウルグアイが最終的に独立した(図 14-34 参照)。 《アルゼンチンのカウディーリョ政治の時代(1828~1852 年)》 アルゼンチンの混乱はその後も続いた。この講和条件に対して帰還兵の不満が強まり、
1828 年 12 月に戦争を指導していたブエノスアイレス州知事ドレゴは統一派の帰還将校フア
ン・ラバージェに銃殺され、ラバージェが州知事となった。連邦派のドレゴが殺害された
ことにより、連邦派と統一派の対立がますます強まった。 連邦派の頼みはパンパスの牧場主たちであった。そもそもラプラスに存在する最強の暴
力装置は正規軍でも警察でもなくパンパスのガウチョたちであり、ガウチョたちは牧場主
のいうことなら従うのである。この農村部からの圧力に屈して 1827 年にリバダビアは大統
領を辞任したのであるが、後任者ドレゴは連邦憲法を廃止してブエノスアイレス州知事の
地位に引き下がった。 2108
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
《ブエノスアイレス州知事ロサスの独裁》 1828 年、ウルグアイから引き揚げてきた派遣軍を頼みに、統一派は巻き返しをはかった
が、翌年、牧場主の中の最強者であるロサスがブエノスアイレス州知事の地位について、
この企てを打ち破った。ロサスは 1831 年まで在任し、いったん自発的に下野したのち 1835
年に復職し、その後は 1852 年まで長期政権を維持した。 この時代の政治は、カウディーリョと総称される型の政治指導者によって特徴づけられ
ている。カウディーリョとは、前述したように、「頭目」「首魁」という意味であり、統
領、軍閥と訳されることもあるが、カウディーリョの政治とは、憲法の規定や公職の選挙
など、制度に対する尊重に基づく普通の政治、つまり民主主義とは正反対のもので、暴力
への畏怖と指導者個人への忠誠に基づく政治であった。カウディーリョは国軍か、民兵か、
私兵かを問わず、何らかの暴力の仕組みを超法規的、恣意的に動員する力を持ち、それが
彼の第一の権力基盤であった。 アルゼンチンのこの混迷状態のなかで、カウディーリョの政治の典型はロサスであった
が、メキシコの歴史で述べるサンタアナもそうであった。 ブエノスアイレス州知事ロサスは、大都市の毛並みの良い支配層に対立する土臭い専制
者という意味では最も典型的なカウディーリョであった。彼はパンパスのガウチョたちを
率い、開明的な港市ブエノスアイレスから群がり出てくる自由主義知識人たちに大弾圧を
加えて、時代錯誤もはなはだしい保守反動独裁を布いたのである。 連邦主義は普通は自由党側の主張であるが、このアルゼンチンの連邦派は保守党であり、
更に連邦派は連邦国家を作ろうと唱えているのではなかった(連邦を主張して国家権力を
空席にした。空席のほうが自分たちに都合がよかったのである)。現にリバダビア大統領
を辞任させたドレゴは連邦憲法を廃止して自らブエノスアイレス州知事に引き下がったの
である。その地位を継いだロサスもブエノスアイレス州知事で 1852 年まで通した。つまり、
この期間、連邦は存在しなかったのである。 このときの連邦派は、せいぜい外交権をブエノスアイレス州に代行させるだけで、あと
は各州ばらばらのままやっていこうというのであった。内陸諸州はブエノスアイレス州に
頭を押さえられたくなかったし、ブエノスアイレス州民の多くもまた、ブエノスアイレス
市が得る潤沢な関税収入を連邦に取られたくないので、ブエノスアイレス市を連邦区に差
し出したくなかったのである。 1832 年に州知事を辞すると、ロサスは「荒野の征服作戦」で敵対していたパンパのイン
ディヘナ(先住民。インディオのこと)を、今日のブエノスアイレス州の領域からほぼ追
い出して部下に分け与え、大土地所有制を強化した。この時に約 6,000 人のインディオが
殺害されたといわれている。 2109
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
1835 年に再びブエノスアイレス州知事に返り咲いたロサスは、以後、恐怖政治を実行、
統一派だと見られた多くの自由主義者や知識人が弾圧、追放され、2 万 5000 人にも及ぶ市
民が粛清され、ロサスの独裁は 1852 年まで続いた。 ロサスの独裁はいっさいの粉飾を排した赤裸々な支配を実行したので、いたるところで
トラブルが起こった。ロサスはパラグアイをアルゼンチンの領土だと考えて軍を送ったほ
か、1836 年にクルスの建国したペルー・ボリビア連合とも敵対し、ペルー・ボリビア連合
はロサス軍とチリ軍の攻撃により崩壊した。1828 年に独立したウルグアイをも自国の領土
だと考え、ウルグアイの内乱においてブランコ党に肩入れした。このことは、同じくウル
グアイを自国の領土と考えていたブラジルとの間に軋轢を生み、ウルグアイをめぐっての
大戦争が勃発した。 アルゼンチン在住のフランス商人がこうむったさまざまな損害に対する賠償を求めて、
フランス海軍は 1838 年から 2 年間にわたりブエノスアイレス港を封鎖した。この機に乗じ
て、統一派はモンテビデオから侵攻し、ウルグアイはアルゼンチンに宣戦し、ブエノスア
イレス州内にも反乱が起こったが、しかし、ロサスは剛腕をふるってこの危機を乗り切っ
た。 さらにロサスはパラナ川水系を遡航するすべての輸入品にブエノスアイレスで関税を納
めさせようとして関所を設けたので、イギリスとフランスは 1845 年に再びブエノスアイレ
ス港を封鎖した。2 年後両国は封鎖を解いて去ったが、パラナ川水運を断たれてはマットグ
ロッソ州に連絡出来ないブラジルと、アルゼンチン沿岸諸州の怒りはおさまらなかった。 エントレリオス州のカウディーリョであり、ロサスの腹心だったウルキサを中心に、ウ
ルグアイ在住の亡命知識人を含む反ロサス勢力が結集し、ついに 1852 年にカセロスの戦い
でロサスを破った。ロサスはイギリス船に乗り込み、娘と共に亡命した。後の為政者とは
違ってロサスは海外に資産を残さなかったため、サウサンプトンで困窮の内に死去した。 ○ウルキサとアルゼンチン共和国の成立、1853 年 ウルキサはロサスと同じ連邦派だったが、ロサスとは違って中央政府を作って連邦主義
を法制化することによりブエノスアイレス以外の諸州の利益を確保しようとした。この時
に自由主義者で欧化主義者のアルベルディが起草した 1853 年憲法は、極めて自由主義的な
憲法であった。形式的には連邦主義でありながらも、実質的には中央政府の州政府への干
渉権を認めた中央集権的憲法だった。 ウルキサはサンタフェ州サンタフェで憲法制定会議を開催し、1853 年憲法を発布して連
邦制を採択、次いで自ら初代大統領に選出された。ウルキサがこの自由主義貿易によって
自由貿易を導入すると、安い外国製品との競争に耐えられなかった国内産業はほとんど壊
滅してしまった。 2110
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ところがブエノスアイレス州はこの連邦国家に加入しなかった。この場に及んでも、ブ
エノスアイレス市が連邦区になりブエノスアイレス市の関税収入が連邦財源になるのがい
やだったのである。数年間にわたりブエノスアイレス州とウルキサの連邦派はにらみあっ
ていたが、連邦側がブエノスアイレスからの輸入品に関税をかけたことからまたもや内戦
となり、州知事ミトレが率いるブエノスアイレス側が勝った。 だが、ブエノスアイレス州知事ミトレは 1862 年に連邦議会をブエノスアイレスで開催し、
憲法を若干改正したうえで、1863 年、ブエノスアイレスを連邦に加入させ、ウルキサに代
わって大統領に選出され(在任:1862~68 年)、半世紀間の曲折ののち、ようやくアルゼン
チン共和国は国としての体裁を整えることができた。 《アルゼンチンの輸出主導の経済成長》 ロサス後の政治的安定のもとで最初に起こったのは、1860 年代の牧羊ブームであり、羊
毛の輸出はたちまち皮革・塩漬け牛肉を追い抜いて、1900 年頃まで首位の座を保った。次い
で、新発明の有刺鉄線の柵で囲った畑で、小麦やトウモロコシの作付けが始まった。イギリ
スの資本で建設された鉄道が内陸へのびていくのを追って、耕地面積も拡大した。鉄道の
延長キロ数は 1880 年に 2500 キロであったが、1890 年には 9400 キロと飛躍的にのび、1914
年には 3 万 3700 キロに達した。 20 世紀になると、牛肉が主役の座を奪還した。新発明の冷凍技術による肉の保存と船舶輸
送はすでに 1870 年代に実用化されていたが、当初はそれはもっぱらアメリカの牛肉をイギ
リスに運ぶために用いられた。ところがアメリカが都市化に伴う国内消費増で輸出余力を
失ったので、1900 年以降、英米双方の食肉加工業が相競ってアルゼンチンに進出した。柵
も何もなく茫々(ぼうぼう)と広がるパンパスでガウチョが牛の群れを追っていた時代は
過ぎ去って、今や有刺鉄線で囲い込まれた空間で穀物とアルファルファを輪作し、イギリス
から導入された新品種の牛を育てるのが主流となった。ブエノスアイレスには冷凍加工プ
ラントが建ち並んだ。 アルゼンチンは豊かになった。その 1 人あたり国民所得はアメリカ、イギリス、イタリ
アについで、世界第 4 位となり、南欧・東欧諸国を上回り、日本などアジア諸国は足元にも
及ばなかった。 イタリア・スペインその他南欧諸国からアルゼンチンに向けて大きな移住の波が起こり、
1880 年以降毎年の純入国者数(入国者数マイナス出国者数)は 5 万人から 10 万人を数えた。
1871 年から 1914 年の間に定着移民数は 310 万人を数え、1914 年の人口調査では総人口 780
万人のうち 3 分の 1 が外国生まれだった。 もともとアルゼンチンの民族構成は、半分以上がアフリカ系やグアラニー系の血を引い
た浅黒い肌の人だったが、この時期に都市部は全くの白人国になってしまった。 2111
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
【⑫独立後のウルグアイ】 人口 7 万 40000 人の緩衝国家として独立したウルグアイは、その後もアルゼンチン、ブ
ラジル両国の狭間で揺れ続けた。 1830 年 7 月 18 日に制定された 1830 年憲法では大統領の非常大権が認められ、実質的な
初代大統領にフルクトゥオソ・リベラが選出された。その後、1835 年 3 月にマヌエル・オ
リベが大統領に就任したが、1836 年 1 月にリベラはオリベ政権に反旗を翻した。両者は 1836
年 9 月、カルピンテリアの戦いでオリベが白、リベラが赤の徽章を身につけて戦った。こ
れ以後、両者はことごとく対立し、大戦争、三国同盟戦争の遠因となった。 ○オリベ=白・保守党・ブランコ党=大土地所有者=親アルゼンチン、親アルゼンチン連
邦派 ●リベラ=赤・自由党・コロラド党=都市中産階級=親ブラジル、親アルゼンチン統一派
=フランス、イギリス 当時フランスはラプラタ地域への進出を試み、そのためにコロラド党を支援していたが、
1838 年 3 月にフランスがアルゼンチンのロサスに対してブエノスアイレス港を艦隊で封鎖
したことは、ロサスやラバジェハといった連邦派と親しかったオリベ政権にそのままダメ
ージとなり、結局このようなフランスの干渉政策によって 1838 年 10 月にオリベ政権はリ
ベラに敗れ、崩壊した。 ○大戦争(1839~52 年) 新たに成立した自由主義的なリベラ・コロラド党政権はアルゼンチン統一派の亡命者や
フランスの支持が大きな成立の要素となったが、同時にアルゼンチン統一派の亡命政府も
モンテビデオに樹立された。アルゼンチンのロサスは連邦派の立場からこれらを承認しな
かったために、1839 年 2 月にリベラ政権はアルゼンチン連合に宣戦布告し、大戦争が勃発
した。 アルゼンチン統一派を主体とするリベラ軍はアルゼンチン北部のコリエンテス州、エン
トレ・リオス州に攻撃を加え、1842 年 6 月にはロサスの政治に対してコリエンテス州、サ
ンタフェ州がアルゼンチンからの独立を宣言したが、1842 年 10 月にオリベとフスト・ホセ・
デ・ウルキサに指揮されたアルゼンチン軍が、エントレ・リオス州のアロヨ・グランデの
戦いでウルグアイ軍(リベラ軍、ガリバルディも参加)を破ると、以降の戦線はウルグア
イ領内に移行した。1843 年にはオリベ軍がモンテビデオを包囲し、1845 年 3 月にインディ
ア・ムエルタの戦いでオリベ軍が勝利するとリベラはブラジルに亡命した。 ロサスと敵対するイギリス、フランスは、この事態を憂慮して 1845 年 8 月にアルゼンチ
ンの港湾を封鎖することでコロラド党とアルゼンチン統一派を支援したが、ロサスの頑強
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
な抵抗の前に 1849 年にイギリスが、1850 年にフランスが撤退すると、後ろ盾を失ったコロ
ラド党政権は風前の灯火となり、ウルグアイのアルゼンチンへの再併合も時間の問題かと
思われた。 しかし、再度ラプラタ地域への進出を画策していたブラジルのペドロ 2 世はこの状況を
快く思わず、エントレ・リオス州知事だったウルキサを支援してロサスへの蜂起を手助け
した。1851 年 5 月にロサス体制によって窮乏するリトラル諸州の利害を代表したウルキサ
は蜂起し、ウルグアイのモンテビデオを包囲していたブランコ党軍を攻撃してコロラド党
政権を立て直すと、1852 年 2 月にブエノスアイレス郊外のカセーロスの戦いでロサス軍を
破り、アルゼンチン、ウルグアイ両国での自由主義者の勝利という形で戦争は幕を閉じた。 この戦いでブラジルに大きな借りを負ったために、ウルグアイはウルグアジャーナをは
じめとする、ウルグアイ北部のクアイレイム川流域の 18 万平方キロメートルをブラジルに
割譲した。 ○三国同盟戦争(1864~70 年) ウルグアイでは、大戦争後も両党の抗争は続き、1854 年にはコロラド党のベナンシオ・
フローレスが大統領に就任したものの、翌 1855 年にフローレスはクーデターにより失脚し、
1860 年にはブランコ党のベルナルド・プルデンシオ・ベロが大統領に就任した。しかし、
アルゼンチンに亡命していたフローレスは、かつてブランコ党がロサスと同盟を結び、自
由主義者を弾圧していたことを快く思わなかったアルゼンチンのバルトロメ・ミトレ大統
領の支援を受けてウルグアイに侵攻し、伝統的にコロラド党と友好関係を築いていたブラ
ジルもフローレスの侵攻を支援した。 ベロ大統領はパラグアイのフランシスコ・ソラーノ・ロペス大統領に内政干渉からの助
けを求め、ロペスは、一度はこれを断ったものの、翌 1864 年 3 月にブランコ党のアタナシ
オ・アギーレが再度援助を要請し、さらに同年 10 月にロペスの警告を無視してブラジル軍
が直接ウルグアイに侵攻すると、1864 年年 12 月にロペスはこれを受け入れてブラジルに宣
戦布告し、三国同盟戦争(このときは三国同盟はできていなかった)が勃発した。 緒戦においてパラグアイ軍はコリエンテス(アルゼンチン東部の州)を攻略し、さらに
ウルグアジャーナ(ウルグアイの都市)までに至る破竹の進撃を続けたが、アルゼンチン
連邦派をまとめていたウルキサがロペスとの間に結んだ反乱の密約(反乱を起こすという
密約)を反古にしたためアルゼンチンに宣戦布告せざるをえなくなり、さらにウルグアイ
でも 1865 年に 2 月にブランコ党政権がコロラド党と講和したために、再びフローレス政権
が誕生した。ウルグアイ支援の意味はなくなったので、パラグアイのロペスは手を引くべ
きだったが、ブラジルとアルゼンチンとの戦争をはじめてしまっていた。1865 年 5 月 1 日
にブラジル、アルゼンチン、ウルグアイによって三国同盟が結ばれると、(助勢のつもり
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ではじめたが、助勢の相手がいなくなり、すべて敵になってしまい)ロペスに勝機はなく
なった。 戦争は 5 年間続き、1870 年 1 月にロペスがセロ・コラの戦いで戦死したことによって終
結した。悲惨だったのは敗戦国パラグアイだった。戦勝国となったアルゼンチンとブラジ
ルはパラグアイから領土、労働力(奴隷制の続いていたブラジルはパラグアイ人の捕虜を
奴隷にした)、政治的権利を分配・獲得した。 三国同盟戦争が終わると、緩衝国家の必要性を痛感したアルゼンチン、ブラジル両国の
政策転換により、ウルグアイへの内政干渉が和らいだ。こうしてウルグアイへは、スペイ
ン人、イタリア人をはじめとする多くの移民がヨーロッパから渡来すると、有刺鉄線の普
及による 19 世紀後半の畜産業の発展と、鉄道網の拡大により経済は繁栄した。ウルグアイ
経済の基盤となった大農園(エスタンシア)の多くはイギリスなどヨーロッパに住む不在
地主によって経営されていた。 政治的にはコロラド党・ブランコ党の二大政党制が定着したかに見えたが、安定には程
遠く、しばしば両党が軍を率いての内戦となり、幾度か軍事政権が成立した。 【⑬独立後のパラグアイ】 三国同盟戦争に敗戦したパラグアイは悲惨であったが、その前から述べる。 パラグアイはフランシア(1766~1840 年)の指導によって独立した。フランシアは、ブ
ラジルから渡ってきたポルトガル人を父に持ち、聖職者になるためにラプラタ副王領のコ
ルドバのコルドバ大学に入学して神学(カトリック)の学位を得た。パラグアイが独立を
宣言すると、パラグアイにおける数少ない高等教育修了者の一人として独立運動に参加し、
その後指導者としての地位を固めた。 ○フランシアの独裁政治 1811 年にスペインのインテンデンテ(県レベルの統治者)を追っ払って自治評議会を樹
立したとき、ブエノスアイレスからの統合の呼びかけを謝絶し、フランシアがクレオール
支配層を抑えて農村部居住者たちの支持をかちとり、1816 年に終身独裁官となった。議会
をおかず、大臣も任命せず、裁判所もなしに 26 年間、3 人の重臣を従えてパラグアイに君
臨した。 フランシアは、パラグアイの権力を一手に集めて独裁を行う一方、保護貿易を行い経済
発展に力を注いだ。さらに、混血を奨励し国民のメスティーソ化を進めることで無理やり
人種別の階級社会を破壊するなど、現在にまでつながるパラグアイの体制の先鞭をつけた。 ブエノスアイレスはパラナ水系の出口を押さえている利点を盾にとって、パラグアイの
輸出品に関税を課して圧力をかけてきたが、フランシアはそれをものとせず、逆にパラグ
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
アイの側から無期限に外国貿易を停止した。以後、密偵制度と、出入国を厳重に管理する
鎖国政策とで、1840 年に死ぬまで独裁者の地位を保った。スペイン人の商人はもとより、
主に牧場主から成っていたアスンシオンのクレオール支配層も大多数はこの国を見捨てて
去った。 ○ロペスの近代化・保護貿易政策 1840 年にフランシアが死亡すると政治的混乱が発生したが、1844 年にフランシアの甥の
カルロス・アントニオ・ロペスが初代パラグアイ大統領に就任することで、国内情勢は再
び安定した。カルロス・ロペスは前任者から続いた鎖国政策を解き、国家の保護の下の開
放政策に転じて一躍パラグアイの近代化に取り掛かった。 前任者の公有地化政策によりカルロス・ロペスの時代には国土の 98%が公有地となってい
た。この土地制度を利用してマテ茶やタバコなどを栽培し、アルゼンチンでロサスが失脚
するとパラナ川の自由通航は回復され、パラグアイの特産物であるマテ茶とタバコの輸出
が始まった。マテ茶がとれる木はモチノキ科(普通のお茶の木はツバキ科)で葉にカフェ
インを含み、ガウチョ風俗の不可欠なもので南米一帯に需要があった。新独裁者ロペスは、
マテ茶の栽培・流通・輸出を国営とし、保護貿易によって莫大な外貨収入を上げた。 ロペスはこの貿易黒字を元手に鋳鉄や火砲を生産する工場を建設し、ヨーロッパに留学
生を送り、1861 年にはアスンシオンに鉄道が開通した。開放政策の下で南米初の義務教育
を導入し、パラグアイはラテン・アメリカで最も近代化された国家となった。同時に豊富
な財源で人口 50 万人のこの国で兵力 7 万の陸軍を編成した。 ○三国同盟戦争(1864~70 年) 1862 年にロペスが死ぬと、息子のソラノ・ロペスがあとを継いで大統領になった。そして、
1864 年に前述したようなことで、三国同盟戦争(1864~70 年)を起こしてしまった。ウル
グアイを含めた三国同盟を敵にまわして戦うはめになった。普通ならここで戦争をやめる
はずであるが、パラグアイ陸軍の兵力 7 万人は三国同盟の総兵力を上回り、しかも将兵は
精強だったから、戦争を継続してしまった。ブラジル軍が、1869 年に首都アスンシオンを
占領し、1870 年にロペスがセロ・コラの戦いで戦死して、ようやく戦争は終結した。 パラグアイはブラジルとアルゼンチンに国土の 4 分の 1 にあたる 14 万平方キロメートル を割譲し、開戦前の 52 万人の人口は 21 万人にまで減少した。成人男性に至っては 3 分の 2
以上(9 割とも言われる)を失った。 さらに敗戦とともににイギリスから借款が押し付けられ、パラグアイが誇った公有地を
中心とした土地制度はアルゼンチン人などによって買い取られ、この国でも他のラテンア
メリカ諸国と同じように大土地所有制にかわってしまった。南米一の先進国で自立的発展
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
を遂げていた工業は崩壊し、国家経済は破綻し、これ以後 50 年にわたり国勢は停滞し、現
在に至るまで傷跡は残っているといわれている。 その後、軍事独裁政権の下で人口を補うために移民が導入され、スイス、ドイツ、イタ
リアなどから農業移民がやってきたが、その数は周辺国と比べると遥かに少なかった。 ○チャコ戦争(1932~38 年) ところが、そのパラグアイが 60 年後の 20 世紀であるが、ボリビアと戦争をはじめた。
1932 年、グラン・チャコ地方を巡って(20 世紀の歴史で述べるが、チャコ地方に石油があ
るという噂から。しかし、現在も石油は出ていない)ボリビアがパラグアイに宣戦布告し、
チャコ戦争が始まった。パラグアイ軍は貧弱な装備ながらも辛うじてこの戦いに勝利した
が、この戦争による経済的な打撃と 4 万人にも及ぶ死者は再び社会を疲弊させ、その後社
会改革を求めて社会主義や国家社会主義を掲げた軍人が政治を動かしていくことになった。 【14-4-3】メキシコの独立 ○18 世紀のメキシコ社会 17 世紀になると人口減少によってインディオ共同体の多くが崩壊し、クリオール(メキ
シコ生まれの白人)の地主とメスティーソ(混血)、インディオの小作人からなるアシエ
ンダ(大土地所有制)がメキシコ各地に誕生したことは述べた。 また、官職はガチュピン(ペニンスラール。スペイン出身者)によって独占され、クリ
オールによる政治参加は絶望的な状況になっていた。当時はイベリア半島生まれのスペイ
ン人であるペニンスラール(「半島人」、イベリア半島で生まれた白人)が支配階級で、土
着の白人であるクリオールは被支配階級だった。 18 世紀にメキシコ中・南部の先住民人口が回復すると、その村落の土地の多くがアシエン
ダの手にわたっていたために過剰人口が生じ、それが北部へ流れ出した。ところがメキシ
コ北部は征服以前には狩猟採集民の生活圏であったから、征服後 300 年を経ても村落共同
体はあまり発達していなかった。そのため中・南部から流出してきた過剰人口は、豊作や
好景気の時こそアシエンダの臨時雇いで暮らしがたったが、ひとたび凶作や不景気になっ
た場合、共同体の相互扶助のメカニズムにすがって命をつなぐわけにはいかなかった。 このためにメキシコ北部の農村住民は一触即発の火薬庫のような性格を帯びた社会だっ
た。基幹部分は半失業の臨時雇い農業労働者だが、職があれば鉱山でも都市でもはたらい
た。一方、一家を構えるに至らぬまま年が寄って路傍、街頭、タコ部屋に窮死する者も数
知れない社会であった。中・南部の村落共同体成員を農民と呼ぶとすれば、北部では農民
とは呼べない「北部下層大衆」の社会になっていた。その最初の激発は独立戦争の時に起
こった。 2116
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
○メキシコ独立戦争(1810~1821 年) 人口 14 万人のメキシコ市都市社会のクレオールの間には、アメリカ独立戦争やフランス
革命に影響されて独立の気運が高まった。前述したように、1808 年にフランス帝国がスペ
インに侵攻し、ナポレオンの兄ジョゼフがホセ 1 世としてスペイン王位に就くと、ラテン
アメリカ植民地は偽王への忠誠を拒否し、1809 年から 1810 年にかけて、自治を求めるクリ
オールがフェルナンド 7 世への忠誠を唱えて植民地政府から行政権を奪取しようと反乱を
起こした。 だがメキシコ副王府は、機敏にクリオールの動きを押さえ込み、1810 年の危機をペルー
副王府同様無傷で切り抜けるかに見えた。ところが、この社会上層の内輪もめに乗じて北部
下層大衆が蜂起するとは思ってもいなかった。 《イダルゴの独立宣言》 現グアナファアト州の小村ドロレスの教区司祭であったミゲル・イダルゴ(1753~1811
年)はメキシコ生まれの土着白人(クリオール)であったが、先住民(インディオ)や混
血(メスティーソ)の農民や労働者達の生活改善に力を入れる一方、インディオの言葉を
覚え、農民の厳しい暮らしに心を痛めていた。この生活から彼らを救うには、グアナフア
トの銀山が唯一の産業であるこの地方の経済を変え、産業の多様化が是非必要だと考えて
いた。 イダルゴは自宅を自由な議論の場とし、先住民、メスティーソ、クリオール、ペニンス
ラールら多様な人々を迎え入れては討論を行っていた。こうした議論の中から、スペイン
の支配する植民地政府に対して直接蜂起し、ヌエバ・エスパーニャの社会や経済をスペイ
ン人の強権支配から解放するしかないと考えるようになった。仲間のクリオールたちとと
もに、先住民とメスティーソの農民が富裕なペニンスラールの地主や貴族に対して蜂起す
るという計画を企てた。 1810 年 9 月 16 日の早朝、イダルゴはドロレスの教会の鐘を鳴らし会衆を集め、スペイン
植民地政府やペニンスラール(半島人のスペイン人)に対する抵抗を呼びかけ、「我らが
グアダルペの聖母万歳!悪辣な政府と植民者たちに死を!メキシコ人よ、メキシコ万歳!」
と叫んだ(この有名な『ドロレスの叫び』は、今でも 9 月 16 日の独立記念日の前夜、9 月
15 日の午後 11 時に、イダルゴの鳴らした鐘が鳴らされ、メキシコ大統領がドロレスの叫び
を読み上げている)。 イダルゴの演説を聞いた群衆は熱狂した。やがて怒れる群衆がこの地方の拠点都市であ
ったグアナフアトに向かって行進した。グアナフアトの鉱山夫たちもドロレスから来た先
住民やメスティーソの農民や労働者に加わった。役人や富裕な人々など、彼らに抵抗した
ペニンスラールは残らず虐殺・略奪された。その勢いでメキシコ市へと迫った。 2117
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
副王府とクレオール支配層はたちまち協力体制を組んでイダルゴ軍を撃退、追撃した。 最終的には 1811 年 3 月、独立軍は政府軍の待ち伏せにあい大敗し、イダルゴは逮捕された。
1811 年 7 月 31 日、彼は銃殺刑に処され、首はグアナフアト市街に住民への反乱の戒めのた
めさらされた。 《司祭モレーロスのアパチンガン憲法》 イダルゴは処刑されたものの、メキシコ各地で反乱は相次いでいた。とくに大きな反乱
は、イダルゴの部下だったメスティーソの司祭ホセ・マリア・モレーロスがイダルゴの蜂
起の直後に南部で起こしたものだった。彼は 1812 年には南部の広い一帯を支配し、1812 年
にはオアハカ、1813 年にはアカプルコと主要都市を次々に陥落させた。 農民運動色の濃いイダルゴらの運動とは異なり、モレーロスの運動ははっきりと独立共
和国建設を掲げていた。1813 年、南部のほとんどを支配したモレーロスはチルパンシンゴ
(現在のゲレーロ州)に各地の代表を集め議会を開催し、主権在民、三権分立、奴隷制廃
止などを決議し、これに基づいてアパチンガン憲法を起草し独立を宣言した。 これに対し政府軍は各地で攻勢に転じ、ナポレオン戦争の終結でスペイン本国ではフェ
ルナンド 7 世が国王に返り咲いたこともあり反乱に対する弾圧が激しくなった。モレーロ
ス軍は敗走し、1815 年暮れにはモレーロスが逮捕され、サン・クリストバル・エカテペク
の村で反逆者として銃殺刑になった(メキシコのモレーロス州の名は、モレーロスを記念
して付けられている)。 モレーロス処刑後、1815 年から 1821 年にかけて、スペインからの独立を求める戦闘は孤
立したゲリラ組織によって散発的に行われる程度にまでなっていた。これらの組織の中で、 元モレーロスの部下で、彼の後を継ぎ現在のプエブラ州地域で戦っていたグアダルーペ・
ビクトリア(後に初代メキシコ大統領となる)と、現在のオアハカ州地域で戦っていたビ
センテ・ゲレロがいた。彼らは人望が厚く、ゲリラ達や支持者達から尊敬されていた。 1820 年 12 月、弱体化した反乱軍に対する最後の作戦としてゲレロ軍に対する掃討が開始
された。副王ホアン・ルイス・デ・アポダカはこの掃討軍司令官として王党派のクリオー
ルであるアグスティン・デ・イトゥルビデをオアハカへと派遣した。イトゥルビデは土着
の白人で、独立革命の初期にミゲル・イダルゴやモレーロスらの独立軍を手ひどく痛めつ
けて輝かしい戦果を収め、メキシコ植民地政府やその支持者からは熱狂的な名声を集めて
いた。しかし、クリオールの彼は出世や富への道を閉ざされていたことに強い不満を持っ
ており、独立派ゲリラへ共感を覚えていた。 《スペイン立憲革命》 このとき(1820 年)、本国スペインで政変が起きた。フェルナンド 7 世の独裁政治に対
する軍事クーデターが起き、クーデターの指導者ラファエル・デル・リエゴ大佐も南アメ
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
リカの独立運動鎮圧のため国王が編成した遠征軍の指揮を任され、まさに出航する港で反
旗を翻したことは述べた。彼は反動的な国王に対して、リベラルな「1812 年憲法」復活に
同意するよう強いたのである。これがスペインに自由主義が蘇ったスペイン立憲革命であ
った。 自由主義運動の成功のニュースがメキシコに届くと、イトゥルビデはこれを、メキシコ
を支配する王党派に対する脅威であるとともに、クリオールがメキシコの支配権を握る機
会でもあるとみた。 《イトゥルビデの『イグアラ綱領』》 イトゥルビデはビセンテ・ゲレロ軍との最初の衝突の後、植民地政府への忠誠を捨て、
反乱軍リーダーのゲレロと会談し、新しい独立闘争の原則について論議した。イグアラの
町での駐留の間、1821 年 2 月、イトゥルビデはメキシコのスペインからの独立のための三
原則(もしくは『保証』)『イグアラ綱領』を発表した。 ① メキシコは、スペインから迎え入れるフェルナンド 7 世国王か、保守的なヨーロッパ
諸国から迎え入れる王子が支配する独立君主国となる。 ② 土着のクリオールと、スペイン生まれのペニンスラールは平等な権利と特権を有する。 ③ カトリック教会はメキシコにおける特権と宗教的独占を保証される。 イトゥルビデは彼の率いる軍隊がイグアラ綱領を受け入れたと確信した後、ゲレロに対
し自分の軍隊と合流し、政治的に保守的な新しい独立計画を実現するのを手助けしてほし
いと説得した。こうして新しい軍隊、「三つの保証軍」がイグアラ綱領実現のためイトゥ
ルビデの指揮下で動き出した。この計画案は広い基盤に基づいていたため、王党派も愛国
派も満足するものとなった。スペインからの独立という目標と、カトリック教会の保護は、
メキシコの全党派を一体化させたのである。 ○メキシコの独立(1821 年) イトゥルビデはグアダルーペ・ビクトリアなど各地にいたゲリラ的反乱軍を合流して進
軍し、スペイン人王党派と本国の自由主義政府とのつながりを断ち切ることに成功した。
1821 年 8 月にベラクルス州コルドバで、イトゥルビデは新しく赴任したメキシコ軍事総督
(副王)オドノフと会見し、イグアラ綱領を確認するコルドバ条約が結ばれ、メキシコの
独立は決まった。こうして 1821 年 9 月、イトゥルビデは軍を率い、メキシコシ市に抵抗な
く入ることに成功し、一方スペイン軍は撤退して戦争は終わった。 《イトゥルビデの第 1 次メキシコ帝国の成立》 この後、イトゥルビデのもと新憲法を決める議会が開催されたが、君主のなり手につい
てはヨーロッパのどこからも良い返事がなかった。フェルナンド 7 世はメキシコのスペイ
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ン植民地復帰を望んでおり、他国の王室もスペインの立場を考えメキシコ王になってほし
いという申し出を断った。 1822 年 7 月、イトゥルビデが議会において 77 対 15 で皇帝に指名され、1822 年 7 月 21
日、メキシコ立憲皇帝アグスティン 1 世として戴冠し、第 1 次メキシコ帝国が成立した。 こうして、イトゥルビデはメキシコ皇帝に即位して短期間帝政を布いたが、1823 年、もう
一人の旧副王軍軍人サンタアナ将軍が共和制を支持して反乱を起こすと、アグスティン 1
世は失脚して退位した。 《メキシコ連邦共和国の成立》 1824 年 10 月にはメキシコ合衆国憲法が制定されてメキシコは連邦共和国となった。なお、
ヌエバ・エスパニャの傘下にあった中央アメリカは、アグスティン 1 世(イトゥルビデ)
の強要のもとに、メキシコ帝国の一部として独立したが、翌年彼の失脚とともに、メキシ
コから分離して、中央アメリカ連合となり、更に 1838 年、5 つの共和国に分裂した(これ
については後述する)。 初代大統領としてモレーロス反乱軍残党の一人ビクトリアが選ばれ、この政権では自由
党が優位を占めた。独立戦争による産業の疲弊は激しく経済は壊滅状態だった上に、カウ
ディージョと呼ばれる土着の軍閥政治家たちが権力闘争を展開し、国政は混乱を続けた。 1827 年にスペインによる再侵略の可能性に備えてスペイン人を追放したため(第 1 次ス
ペイン人追放)、流通業を担っていたスペイン人がいなくなるとメキシコの経済は大混乱
し、1827 年には最初の債務不履行に追い込まれた。 1829 年にもう一人のモレーロス残党の自由主義者のゲレロがクーデターによって大統領
になり、スペイン人の完全追放(第 2 次スペイン人追放)、黒人奴隷制廃止、教会財産の
接収、キューバの独立の支援などを行ったため、メキシコの再植民地化を目指したスペイ
ン軍による再征服が行われたが、サンタアナ将軍の活躍によりスペイン軍は撃退された。 《カウディージョ(軍閥)とサンタアナの時代(1833~55 年)》 1833 年にサンタアナが選挙によって大統領に就任し、その後、1834 年から 55 年までの
22 年間、保守派と提携したサンタアナがメキシコを支配し続けた。サンタアナは旧副王軍
軍人であったがベラクルス出身のクレオールであり、彼が一声かければ地元のベラクルス
で反乱が起き、ベラクルス港の関税収入は連邦予算の主要財源であり、それが断たれれば
軍隊に給料が払えなくなるから、サンタアナは中央政府の実権を握っていた。 サンタアナの治世に、サンタアナは何度も国家的災厄の責任を問われて失脚したが、次
の災厄が起こるとそのたびにまた推戴された(生涯に 11 回大統領職に就いた)。 2120
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
このサンタアナ大統領のとき、テキサス独立と米墨戦争によって、北辺の領土テキサス、
ニューメキシコ、カリフォルニアなど、現在のメキシコの面積に匹敵するほどの土地をアメ
リカ合衆国に奪われたことはアメリカの歴史で述べたので省略する。 ○レフォルマ(大改革)と大内乱の勃発 1855 年にサンタアナが追放され、アルバレスらが臨時政府を樹立し、自由主義に基づい
た「レフォルマ(大改革)」と呼ばれる改革を実施した。保守勢力の後ろ盾となっていた
カトリック教会と国家の政教分離、フアレス法(1855 年)により司法制度の近代化がはか
られ、全てのメキシコ人の法の下での平等を実現した。さらにレルド法(1856 年)により
教会財産の没収、さらに自由主義的な 1857 年憲法の制定などが行われた。 このレフォルマはメキシコ社会に大きな影響を与え、近代的な価値観がメキシコにもた
らされたことは事実だが、反面レフォルマは先住民共同体の解体やカトリック的価値観の
喪失をも伴ったため、既存の保守派の猛反発とともにインディオ農民の保守派への合流を
も引き起こし、1856 年には全国各地で農民と保守派による大反乱が起きた。 このような情勢の中で 1857 年 12 月 1 日に新憲法下、初の大統領選挙によって自由主義
穏健派のコモンフォルトが就任したが、12 月 17 日にスロアガ将軍がクーデターを起こすと
コモンフォルトは失脚した。 《フアレスとレフォルマ戦争(内戦)》 しかし、大統領が捕らわれて辞任を強いられると、首都脱出に成功した最高裁長官フア
レスは 1857 年憲法の規定を根拠に大統領昇任を宣言した。フアレスはオアハカ地方の先住
民サポテカ族の出身で、司祭に才能を見いだされて神学校に進み、のちに志望を変えて法律
家になり、自由党に与して政界に入りオアハカ州知事を一期つとめた。 彼は保守派への徹底抗戦を誓ってアメリカ合衆国に亡命した後、ベラクルスに上陸して
臨時政府を樹立し、首都の保守党政府に戦いを挑んだ。ここにレフォルマ戦争(内戦)が
勃発した。 1861 年 5 月にフアレスは選挙によって正式にメキシコの大統領に就任したが、地方では
保守派軍がゲリラ化して抵抗を続け、さらに財政状況も長年の混乱のため絶望的になって
いた。英仏は莫大な債務支払いを要求したが、メキシコにはもはや支払い能力がなかった
ためにフアレスがこれを拒否し、7 月 17 日に債務不履行を宣言すると、イギリス、フラン
ス、スペインは 10 月 31 日にメキシコ武力介入を決定し、ベラクルスが 3 国の軍隊によっ
て占領された。 《ナポレオン 3 世の介入、第 2 次メキシコ帝国の樹立》 1862 年 4 月にイギリスとスペインは撤退したが、フランスは撤退しなかった。フランス
の歴史で述べたように、フランスのナポレオン 3 世には別の思惑があった。ナポレオン 3
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
世は折からアメリカ合衆国は南北戦争の最中とあって動けないから、アメリカ大陸にフラ
ンス勢力圏を切り開くのにメキシコ内戦は絶好のチャンスであると考えていたのである。 ナポレオン 3 世はメキシコ全土の占領を計画していたために英西軍の撤退には応じず、
フランス外人部隊を含むフランス軍の精鋭をベラクルスから中央高原に送った。1862 年 5
月 5 日にプエブラの会戦でメキシコ軍はこのフランス軍を撃退したが、しかし、メキシコ
における「カトリック帝国」樹立という野心を持つナポレオン 3 世は更に増援部隊を派遣
し、1863 年 5 月 17 日にプエブラが、6 月 10 日にはメキシコ市がフランス軍によって攻略
された。 首都が陥落するとナポレオン 3 世はオーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨー
ゼフ 1 世の弟マクシミリアンをメキシコ皇帝として送り込み、第 2 次メキシコ帝国を樹立
させた。この措置は保守派のメキシコ人によって支持されたが、マクシミリアンの信教の
自由の容認、教会財産国有化などの措置により保守派メキシコ人が離反した。更に、1865
年に南北戦争を終結させたアメリカ合衆国がフアレス軍に物資の供与を始めると事態は流
動的になった。 南北戦争が終わってアメリカ合衆国からの圧力も増してナポレオン 3 世が 1866 年にフラ
ンス軍を引き揚げると後ろ盾を失った皇帝マクシミリアンは自由派軍に敗れて 1867 年 6 月
に銃殺され、メキシコ帝国は崩壊した。7 月 13 日にディアス将軍の率いる自由派がメキシ
コ市に入城し、7 月 15 日にフアレスが帰還してメキシコに共和制が復活した。 ○復興共和制(1867 年~1910 年) マクシミリアン処刑後、フアレス政権は戦争によって膨張した軍備の削減に努め、大軍
縮を実践した。経済面ではメキシコにおける資本主義の発展が目指され、外国資本の導入
による国内開発が進み、1873 年にはベラクルス~メキシコ市間を結ぶ鉄道が完成し、メキ
シコの経済に大きな影響を与えることになった。 1871 年の大統領選挙では現職のフアレスと共に、フアレスの後輩であったセバスティア
ン・レルド・デ・テハーダとポルフィリオ・ディアス将軍が立候補し、フアレスが勝利し
たものの、1872 年 7 月にフアレスが急死した。フアレスは、先住民族から選出された初の
メキシコ大統領で、困難な時期に 2 度(1861 年 ~1863 年および 1867 年~1872 年)大統領
を務めた。フアレスは最も偉大で敬愛されるメキシコの指導者であり、今も「建国の父」と
たたえられている。 《ディアスの軍事独裁体制(1876~1910 年)》 フアレスのあとは、レルドが大統領に就任した。しかし、1876 年にはフランス干渉戦争
の英雄ポルフィリオ・ディアス将軍がレルドの再選に反対して反乱を起こし、11 月に反乱
軍は首都を攻略した。ディアス将軍は 1877 年に選挙を行い、大統領に就任した。 2122
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ディアスは議会のレルド派や地方のカウディージョに特権を与えて体制に組み込むこと
によって軍事独裁体制を樹立した。かつての僚友である各州の自由党系カウディーリョた
ちのうち、従順な者には州知事の地位を保証してやり、逆らう者はその政敵に肩入れして
失墜させる手法で、一人また一人とてなずけていった。こうして軍事力を背景にした「デ
ィアスの平和」とも呼ばれることになるメキシコ史上初の長期安定を実現した。 【14-4-4】中央アメリカとカリブ海諸国 【①中央アメリカ連邦共和国(1823~40 年)】 スペイン植民地時代には、ヌエバ・エスパーニャ副王領の下位行政組織だったグアテマ
ラ総監領は、現在のグアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリ
カなどから構成されていた。 メキシコで、1821 年にアグスティン・デ・イトゥルビデを首班として独立を達成したこ
とは述べたが、これを受けて中米でも保守派のクリオールによって独立運動が進み、同年
グアテマラ総監のガビノ・ガインサが独立を宣言した(図 14-36 参照)。1822 年にイトゥ
ルビデはこうして独立した中央アメリカをメキシコに併合し、皇帝に即位してメキシコ帝
国の成立を宣言した。 しかし、1823 年にイトゥルビデが失脚すると、中央アメリカのチアパスを除いた旧グア
テマラ総監領だった地域は改めて独立を宣言し、中央アメリカ連合州が成立した。1824 年
1 月には憲法が制定され、5 州からなる中央アメリカ連邦が成立した。 1825 年にエルサルバドルの自由主義者マヌエル・ホセ・アルセが初代大統領に選出され
たが、このために保守主義のグアテマラと自由主義のエルサルバドル、ホンジュラスとの
対立が強まり、内戦が勃発した。内戦は 1829 年に自由主義派の勝利で終結したため、1830
年にホンジュラス出身の自由主義者、フランシスコ・モラサン将軍が大統領に就任した。 モラサンはグアテマラ大司教の追放や教会財産の没収など自由主義的な政策を行い、
1834 年に首都も保守主義派の牙城だったグアテマラ市から自由主義派の牙城だったサン・
サルバドル(エルサルバドル中部の都市)に遷都したが、1837 年にグアテマラで発生した
コレラが流行すると、保守主義者はコレラが自由主義者による陰謀だという噂を流し、こ
れに共鳴したインディオやメスティーソを動員したグアテマラ出身の保守派のメスティー
ソのカウディージョ、ホセ・ラファエル・カレーラが自由主義政府に対して反乱を起こし
た。 この内戦によって、1838 年 11 月 5 日にホンジュラスが連邦から分離したことで,連邦の
崩壊が始まった。1839 年 2 月にモラサンが大統領を辞任すると、後継大統領は選出されず、
2123
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
残った構成国 5 つのうち 4 つが 1840 年までに独立を宣言した。中米連邦の公式の終焉は、
1841 年 2 月にエルサルバドルが独立を宣言したときであった。 図 14-36 19 世紀の中央アメリカ・カリブ海地域 山川出版社『ラテン・アメリカ史』 2124
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
《再統合の動き》 その後、19 世紀を通じ、1842 年、1852 年、1880 年代、1893 年、1896 年~1898 年と 5 回
の再統合が試みられたが、その詳細は省略する。さまざまな再統合の努力がなされたがど
れもみな持続しなかった。 最後の試みは 20 世紀初頭、1921 年から 1922 年にかけて行われた。これはエルサルバド
ル、グアテマラ、ホンジュラスによる、中米連邦の結成であった。このときは再統合の試
みのなかで、唯一、各構成国からの代表による連邦大統領の選挙が行われるまでにいたっ
た。 しかし、崩壊後もこの地域の一体感は強く、1960 年には他の域内統合の動きに先駆けて
中米共同市場が発足するなど現在も統合の動きは強い。 《コーヒーとバナナの生産拡大》 19 世紀中頃の中央アメリカとカリブ海諸国の人口は、図 14-36-②のようになっていた。
中央アメリカの植民地の独立は、ペニンスラール層(ヨーロッパ出身のスペイン人)のも
っていた政治権力をクリオーヨ層(スペイン人を親として現地で生まれた人々)が継承し
た以外は、社会構造に大きな変化をもたらさなかった。しかし、その後 1 世紀のあいだに
輸出向け農業作物としてコーヒー、そしてバナナの栽培が広まっていくなかで、中央アメ
リカの社会経済構造は変化していった。 植民地時代以来の自給用作物の栽培が続けられる一方で、輸出向け作物が重要な役割を
はたすようになり、さらに 19 世紀末までには、アメリカの大資本が経済の一定の部分を支
配するようになった。 《コーヒー》 中央アメリカでコーヒー栽培が本格的に始まったのは、1830 年代のコスタリカにおいて
であった。南アメリカやヨーロッパの市場向けの輸出作物として、コーヒーの栽培は、19
世紀後半までに中央アメリカ各国に広がっていった。 コーヒーの木の栽培は山間部の斜面でおこなわれるため、コーヒー農園はサトウキビ栽
培やバナナ栽培の農園に比べて一般に規模が小さかった。19 世紀後半にはグアテマラのコ
ーヒー栽培にドイツ人が進出するといった例もみられたが、一般には地元出身者が経営し
た。先住民やラディーノ(スペイン人とインディヘナの混血でメスティーソのこと)たち
が労働力として使われ、ある者は農園内に居住して農業労働に従事するかたわらで自給作
物の栽培をおこなうコローノとなり、またある者は、零細農業を営みながら日雇い労働者
として農園に雇われた。こうして中央アメリカにおけるコーヒー生産地域およびその周辺
では、中小農園主層とコーヒー農園に生活を依存した零細農民層が形成されていった。こ
の地域のコーヒー生産は増加し、この地域の生計をたてる産業となっていった。 2125
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
《バナナ》 一方、中央アメリカおよびカリブ海地域で栽培されたバナナが、アメリカへ向けて輸出
されるようになったのは、1850 年代に高速帆船が用いられるようになってからのことだっ
た。その後 1860 年代に蒸気船が導入され、傷み(いたみ)が早いこの農産物の輸送がより
迅速におこなえるようになって、この地域からアメリカやヨーロッパの市場への輸出が拡
大し、20 世紀に入ると、ジャマイカ、ホンジュラス、グアテマラ、ニカラグアで生産が拡
大した。とくにホンジュラスは、世界でも有数のバナナ生産国となった。 このほか、キューバ、ドミニカ共和国、プエルトリコでタバコが、また、ドミニカ共和
国とトリニダッドでカカオ豆が重要な輸出向け熱帯農業産品となった。 これらの産品のうち、コーヒーの生産と流通においては、一般に地元資本が支配的で、
輸出市場としてはドイツやイギリスなどヨーロッパ地域の比重が高かった。 これに対して、バナナの生産と輸出では、アメリカ資本による独占の度合いが高く、ア
メリカが最大の市場となった。19 世紀末に中央アメリカでバナナの生産とアメリカへの輸
出を拡大し始めたユナイテッド・フルーツ、クヤメル・フルーツ、スタンダード・フルー
ツの各社は、20 世紀初頭、各種の権益獲得を巡って熾烈な競争を繰り広げた。バナナ生産
は、しばしば、それぞれの国のほかの産業とは関連性の低い「飛び地経済」を形成した。 各地でバナナの積み出しを目的に鉄道の建設が進められたが、それぞれの国の国内市場
の形成には、直接には寄与しなかった。しかし、各国の経済に占める重要度は高く、とく
にホンジュラスではそれがとびぬけており、国政にアメリカのバナナ資本が介入したため
「バナナ共和国」と呼ばれた。 《砂糖》 同じように、19 世紀を通じてカリブ海地域における砂糖生産量も飛躍的に拡大したが、
これはおもにキューバにおける生産の拡大におうものだった。砂糖生産においても 19 世紀
後期からアメリカ人が投資を拡大していたが、これについては、また、キューバの独立に
ついては 20 世紀の歴史で述べることにする。 【②グアテマラ】 中央アメリカ連邦共和国のときから、ラファエル・カレーラの率いる保守主義のグアテ
マラ派と、フランシスコ・モラサンの率いる自由主義のエル・サルバドル派の内戦に陥り、
結局カレーラが勝利して連邦は解体に至り、1839 年グアテマラは独立国となった。 内戦に勝利し、連邦派を駆逐したカレーラはそのままグアテマラの政治を支配し、以後
グアテマラは 1865 年にカレーラが死ぬまで強力な保守統治が行われた。カレーラは保守政
治家だったが、その一方でインディヘナ(インディオ)に対しては共有地の保護などの優
2126
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
れた政策を行った。また、1856 年のウィリアム・ウォーカーとの国民戦争(後述)の際に
はグアテマラも中米連合軍の一員に加わった。 1871 年には自由党が内戦に勝利して政権に就き、1873 年にはフスト・ルフィーノ・バリ
オスが大統領になった。以降 1885 年までバリオスの統治が続き、自由主義的な様々な政策
が行われ、1879 年には憲法が制定された(起草者はキューバ独立の父、ホセ・マルティで
ある)。一方で、ホンジュラスやエル・サルバドルなど近隣諸国との戦争を続け、またこの
時期にインディヘナの共有地は解体されて奪われ、大土地所有制が強化された。 ◇コーヒーのモノカルチャー化 また、この時期から経済がコーヒーのモノカルチャー化し、1880 年代には実に輸出の 9
割近くをコーヒーが占めるほどであった。こうしたコーヒー農園を目指して移民が導入さ
れ、1893 年には日本初のラテンアメリカ移民が行われた。 ◇カブレーラが大統領の 22 年間の独裁政治 1898 年にマヌエル・エストラーダ・カブレーラが大統領に就任し、22 年間の独裁政治を
行ったが 1920 年にカブレーラは失脚した。カブレーラが失脚すると、政治的空白状況が生
まれ、クーデターが繰り返される不安定な状況が続いた。 ◇ウビコの独裁 1931 年にホルヘ・ウビコ将軍が隙を突いて権力を握ると、ウビコ以外は全て不自由であ
るといわれるほど苛烈な統治の下でグアテマラ社会の荒廃は一層進んだ。こうした状態を
憂いた愛国者によりウビコは 1944 年に追放され、僅かながらも民主主義の時代がグアテマ
ラにも訪れた。 【③ホンジュラス】 ホンジュラス出身のフランシスコ・モラサン将軍は自由主義のエル・サルバドル派とし
て、中央アメリカ連邦維持を目的に、ラファエル・カレーラ将軍の率いる保守主義のグア
テマラ派との戦いを続けたが、1838 年に中米連邦が瓦解するとホンジュラス共和国として
独立した。現在もモラサン将軍はホンジュラスで特別の地位を占めている。 ◇国民戦争 1855 年、ニカラグアでアメリカ合衆国南部人の海賊ウィリアム・ウォーカーが大統領に
なる事件があり、中米諸国は団結してウォーカーを排除することに決めた。この国民戦争
でウォーカーは敗北したが、その後ウォーカーは再び中米の主人となるためにホンジュラ
スに上陸し、イギリス海軍に捕らえられ、トルヒージョで処刑された。 ◇「バナナ共和国」とユナイテッド・フルーツ社 2127
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
1870 年代からコスタリカを筆頭に中米各国でコーヒー・プランテーションが発達したが、
ニカラグアとホンジュラスでは人口が少なく、労働力が足りなかったためにコーヒーは根
づかなかった。そのためホンジュラスでは代わりにマイナー・キースによってバナナ・プ
ランテーションが形成され、最初に「バナナ共和国」と呼ばれる国になった。キースは 1899
年にアンドリュー・プレストンのボストン・フルーツ社と自分の事業を合同してユナイテ
ッド・フルーツ社を立ち上げ、中米全体に君臨することになった。 独立後のラテンアメリカ諸国はどこも自由党と保守党の争いが続いたが、マルコ・アウ
レリオ・ソト大統領は 1880 年に自由主義憲法を制定し、直接選挙の実施を保証した。また、
ポリカルボ・ポニージャ大統領が 1894 年に制定した憲法では中米諸国との連合の可能性が
条文内に規定された。 1893 年にニカラグア大統領となったホセ・サントス・セラヤの中米大共和国構想により、
ホンジュラスはエルサルバドルと共にニカラグアと連合したが、グアテマラの干渉によっ
てこの構想は水泡に帰した。 【④エルサルバドル】 前述したようにエルサルバドル出身のホセ・アルセが、中央アメリカ連邦共和国の初代
大統領となったが、独立後の自由主義者のフランシスコ・モラサンをはじめとするエルサ
ルバドル派と保守主義者のラファエル・カレーラをはじめとするグアテマラ派の内戦のな
かで 1838 年に中米連邦は崩壊し、1841 年には中米連邦の瓦解にともない、エルサルバドル
として暫定的に独立を果たした。この時にアメリカ合衆国への併合を求めたが断られてい
る。 その後すぐに連邦再建を求めての内乱やグアテマラとの戦争が発生したが、1857 年には
中米連合軍の一員として、ウィリアム・ウォーカー率いるニカラグア軍と戦った。軍事独
裁政権が相次いで成立し、その間に対外戦争や独裁打倒運動が行われた。また、この時期
にコーヒーをはじめとする換金作物のプランテーションが多数設立された。 1872 年から 1898 年の間エルサルバドルは連邦再結成派の旗手となり、1896 年にはエル
サルバドルを中心にしてホンジュラス、ニカラグアと共に大中米共和国が設立されたが、
1898 年には崩壊した。 【⑤ニカラグア】 中央アメリカ連邦崩壊後は自由主義派のレオンと保守主義派のグラナダの主導権争いが
続き、両者が独自に大統領を擁立する中で中央政府はしばらく存在しなかったが、1853 年
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
にグラナダ出身の保守主義者フルート・チャモロが選挙によって大統領に就任すると、混
乱はようやく収束したかに見えた。 ◇ウィリアム・ウォーカー大統領と国民戦争 しかし混乱は続き、1854 年 12 月にアメリカ合衆国南部人で傭兵出身のウィリアム・ウォ
ーカーがニカラグア自由党の傭兵として上陸し、レオンの自由党とグラナダの保守党の内
紛を利用して支配権を掌握した。ウォーカーは翌 1856 年 6 月、自らニカラグア大統領に就
任した。アメリカ南部のテネシー州出身で環カリブ海帝国を建設しようとしていたウォー
カーは、英語を公用語として強制し、既にニカラグアでは廃止されていた黒人奴隷制の復
活を布告し、さらにはアメリカ合衆国人の土地取得を有利にする法律を制定した。 中米諸国はこの挙に対し一致団結して当たり、国民戦争が始まった。イギリスやバンダ
ービルド財閥の支援を受けたコスタリカを主体とした中央アメリカ連合軍は、リバスの戦
いでウォーカー軍を破り、1857 年にウォーカーは打倒された。また、先の国民戦争でウォ
ーカーを招き入れてしまったことが仇になり、以後の自由党は暫く勢力を失い、その後し
ばらく保守党政権が続いた。 1893 年、自由党のホセ・サントス・セラヤが政権を握り進出を始めたアメリカ資本の援
助を受けて鉄道建設などを実行した。 1894 年、セラヤはイギリス領だった大西洋側のミス
キート王国をアメリカの支持の下に併合し、ニカラグアは太平洋と大西洋の両方に面した
国家となった。またセラヤはニカラグアをグアテマラに代わって中米の指導的な国家にす
るために手を尽くし、エルサルバドル、ホンジュラスと共に 1896 年には大中米共和国を樹
立したが、1898 年にはこの国家は崩壊してしまった。 【⑥コスタリカ】 1838 年に諸州が独立を宣言して中米連邦は崩壊し、この地もコスタリカ共和国として独
立を果たした。その後 1842 年にホンジュラス出身の元中米連邦大統領、フランシスコ・モ
ラサンが大統領となり、中米連邦再興のためにニカラグア侵攻を企てたが、同年モラサン
は暗殺された。 1856 年、隣国ニカラグアで アメリカ合衆国南部人の傭兵隊長、ウィリアム・ウォーカー
が大統領となった。中米 4 国はウォーカー排除を決意し、このウォーカーの率いるニカラ
グア軍との国民戦争において、コスタリカ軍は反ウォーカーだったイギリス、アメリカ合
衆国のヴァンダービルト財閥などの支援を得て中米連合軍の中で主要な役割を果たした。
同年 4 月にはリバスの戦いでウォーカー軍を打ち破った。 国民戦争後、1870 年に自由主義者のトマス・グアルディア将軍がクーデターで政権を握
った。グアルディアの主導により、1 院制議会と強い大統領権が認められた 1871 年憲法が
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
制定された。以降 1948 年までのコスタリカは基本的にこの路線に沿って発展することにな
り、ラテンアメリカ全体でも特異なコスタリカの民主的な社会が成立する素地となった。 ◇コーヒー 1870 年代から始まった自由主義の時代に、それまでと同様に主産業だったコーヒー・プ
ランテーションが拡大され、コーヒーを基盤に経済が発展し、1890 年には輸出の 80%がコ
ーヒーとなっていた。ただし、コスタリカの土地所有形態は植民地時代からの中小独立自
営農民による中規模土地所有が主体であったため、他の中米諸国やブラジルのような大プ
ランテーションは発達しなかった。また、コスタリカは中米で最も早くコーヒー栽培が開
始されたため、コスタリカを通してグアテマラ、エルサルバドルにコーヒーの生産技術が
伝播することとなった。 ◇バナナとユナイテッド・フルーツ また、内陸部からのコーヒー輸送のためにアメリカ人のマイナー・キースによって鉄道
が建設され、積出し港としてカリブ海側のリモンが発展した。鉄道建設の負債を補うため
に 1871 年にパナマ地峡からバナナが導入され、キースはその後、熱帯雨林を切り開いた跡
地でのバナナのプランテーション栽培に力を入れた。バナナはそれまでの主産業だったコ
ーヒーを抜いて 1905 年頃には輸出の 60%を占めるに至り、1899 年にキースにより設立され
たユナイテッド・フルーツは中央アメリカの事実上の支配者となった。 20 世紀に入ってもコスタリカはバナナとコーヒーのモノカルチャー経済の下で発展が続
いたが、第 1 次世界大戦による輸出収入減により、1916 年に所得税が導入されると、1917
年にフェデリコ・ティノコ・グラナードス将軍がクーデターを起したが、合衆国の圧力に
より 1919 年に独裁制は崩壊した。 【⑦パナマ】 1821 年 11 月 28 日、パナマはボリバルの主催する大コロンビアの一部としてスペインか
ら独立した。1826 年にはボリバルの呼びかけで米州の相互防衛と将来的な統一を訴えるパ
ナマ会議がパナマ市で開催されたが、この会議は失敗に終わったことは述べた。コロンビ
アによる支配への不満から反乱が発生するようになった。 1830 年にボリバルが失脚し、大コロンビアは,その後、分裂をはじめ、ベネズエラ、エ
クアドルが独立し、最後に残ったヌエバ・グラナダもラファエル・ウルダネータ将軍が 1831
年に失脚したために、大コロンビアからヌエバ・グラナダ共和国(現在のコロンビア)の
独立を宣言し、パナマもヌエバ・グラナダの一部として独立した。 1846 年、アメリカ合衆国は、パナマにおけるヌエバ・グラナダ共和国(ほぼ現在のコロ
ンビア共和国に相当)の主権を承認することでパナマ地峡の通行権を獲得した。アメリカ
2130
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
合衆国が米墨戦争でメキシコから北半分の領土を奪い、1848 年にカリフォルニアでゴール
ド・ラッシュが始まった 1840 年代以降、アメリカ合衆国東部の人々はオレゴン、カリフォ
ルニア等のアメリカ合衆国西岸への移住にパナマ地峡を利用するようになり、交通の要衝
としてのパナマの重要性は高まった。 1848 年、アメリカ合衆国の会社が、パナマ・コロン地峡横断鉄道の敷設権を獲得した。
1850 年に着工したパナマ・コロン鉄道敷設工事は、1855 年に完了した。 1863 年、8 州が独自の外交権を持つ分権的な連邦国家コロンビア合衆国が成立すると、
パナマも連邦の一州として実質的な独立を達成したが、1866 年に再びコロンビアによる直
接支配が復活した。パナマではコロンビアに対する反乱が頻発したが、いずれも失敗に終
わった。 《パナマ運河建設》 スエズ運河建設に携わったフランス人技師レセップスは、コロンビアから運河建設権を
買い取り、1881 年から 1889 年までパナマ運河建設を進めたが、技術的な問題と伝染病の蔓
延、さらに資金調達に失敗したこと等により建設は中止された。 アメリカ合衆国では、1890 年に海軍大学の教官であったマハンが『海上覇権論』におい
てカリブ海と地中海を比較し、アメリカ合衆国の国防的観点から、地中海にスエズ運河が
あるようにカリブ海にも運河が必要であるとの議論を展開した。1898 年の米西戦争を契機
にアメリカ合衆国では、太平洋と大西洋をつなぐ運河が中米に必要であるとの考えが浸透
した。また、1901 年にマハンの教えを受けたセオドア・ルーズベルトがアメリカ合衆国大
統領に就任し、アメリカ合衆国は太平洋と大西洋をつなぐ運河を中米に建設することにな
った。 アメリカ合衆国では、中米における運河建設計画としてニカラグア案とパナマ案が提示
され、1902 年、レセップスが設立した新パナマ運河会社から運河建設等の権利を買い取る
パナマ案が議会で採用された(スプーナー法)。ただし、新パナマ運河会社がコロンビア
から運河建設権を付与された際に、運河建設権を外国政府に譲渡してはならないとの条項
があった。そこで、アメリカ合衆国とコロンビアは、コロンビアが新パナマ運河会社の運
河建設権をアメリカ合衆国に売却することを認めること、運河地域の排他的管理権等をア
メリカ合衆国に付与すること、また、アメリカ合衆国は一時金 1,000 万ドル及び運河地域
の年間使用料として 25 万ドルをコロンビアに支払うこと等を規定したヘイ・エラン条約に
署名した。 《パナマ共和国の独立宣言(1903 年)》 アメリカ合衆国のセオドア・ルーズヴェルト政権はコロンビア政府にヘイ・エラン条約
の批准を要求したが、コロンビア上院はこの屈辱的な条約の批准を拒否したため、新パナ
2131
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
マ会社のフィリップ・ビュノー・バリーヤはマヌエル・アマドール・ゲレーロらの分離独
立派とニュー・ヨークで会談し、これを支援することが決定された。これにより 1903 年 11
月 3 日、アメリカ海軍の後ろ盾のもとにパナマ共和国はコロンビアからの独立を宣言した。
アメリカ合衆国は 11 月 13 日にパナマ共和国を承認した。 11 月 18 日、アメリカ合衆国はパナマと運河建設に関する条約(ヘイ・ビュノー・バリリ
ャ条約)に署名し、一時金 1,000 万ドル及び運河地域(パナマ運河地帯)の年間使用料と
して 25 万ドルをパナマに支払うことと引き換えに、運河建設権、運河地域の永久租借権及
び排他的管理権を獲得した。また、アメリカ合衆国はパナマの独立を保障しパナマ国内に
混乱が生じた際には混乱を解決するために介入する権利も得た。この権利によりアメリカ
合衆国は、パナマ運河建設中だけではなく、運河完成後もパナマ内政へ介入するようにな
った。 1904 年、制憲議会において採択されたパナマ憲法では大統領及び副大統領 2 人、1 院制
議会、最高裁判所等に関する条項が規定され、アマドールが初代大統領に選出された。 1914 年、パナマ運河が完成したが、アメリカ合衆国は運河地域だけではなくパナマ全域
で直接的な介入を行った。パナマは、アメリカ合衆国の影響力の下におかれ、1925 年の海
兵隊の上陸などの軍事介入をたびたび経験した。1920 年代になっても国内の政情不安は解
決されなかった。 【⑧ドミニカ】 カリブ海の島々では、1804 年にハイチが独立したことは述べたが、1844 年 2 月、革命軍
がハイチ人を一掃し、翌 1845 年ハイチより独立してドミニカ共和国となった。その後も混
乱が続き、1906 年にドミニカ共和国は、ウーロー大統領後の混乱収拾と列強に対する債務
返済のため、アメリカ合衆国が 50 年にわたりドミニカ共和国の関税徴収を行う代わりに債
務返済の保証をするという提案を受け入れ、事実上の保護国となった。 【14-4-5】ブラジル 《18 世紀までのブラジル》 1693 年にミナスジェライスで最初の金鉱が発見された。これは 18 世紀に黄金ブームを現
出した。この地域の川の川底や岸から続々と砂金が発見され、金の生産高は 18 世紀末近く
まで衰えなかった。ブラジルの黄金はポルトガル本国を経て、密接な経済関係にあったイ
ギリスに流れ、ヨーロッパ国際金融の中心の座がアムステルダムを去ってロンドンのシテ
ィに移った主要原因の一つとなった。 2132
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ブラジルはこの黄金ブームで面目を一新した。このとき初めてポルトガル人の移住が本
格的に始まったといってよい。先住民を除いたブラジル人の人口は 17 世紀末の 30 万人(う
ち白人は 10 万人)であったが、1798 年には 330 万人(白人は 100 万人)と 10 倍になった。 発展の中心は北東部のバイアやペルナンブコから、南東部のミナスやリオデジャネイロ、
サンパウロに移った。1763 年には総督府がサルヴァドルからリオに移され、リオの人口は
18 世紀末には 5 万人とサルヴァドルに追いついた。しかしそれでも都市社会の成熟度の度
合いではブラジルはスペイン領植民地の足元にも及ばなかった。植民地時代を通じてブラ
ジルには大学も印刷所さえも存在しなかった。 ○ポルトガルのブラジル遷都(1808 年~1822 年) 1807 年にフランス帝国の皇帝ナポレオン・ボナパルトによる大陸封鎖令にポルトガルが
反抗したことをきっかけに、ジュノー元帥に率いられたフランス軍がポルトガルに侵攻し
た。このため、イギリス海軍によりリスボン陥落の 2 日前にマリア 1 世をはじめとするポ
ルトガル宮廷の 1 万 5000 人が脱出し、1808 年 3 月にリオ・デ・ジャネイロに遷都したこと
は述べた。 1 万 5000 人の消費階級が付け加わったことにより、リオデジャネイロ市は未曾有の好景
気に恵まれ、人口が倍増して 10 万人となった。王室の移転により、首都と定められたリオ
デジャネイロは急速に開発が進み、劇場、宮廷、学校、図書館などが整備され、この頃よ
うやくブラジル初の新聞が創刊された。 ブラジルにたどり着くと直ちにイギリスとポルトガル亡命王室との間で自由貿易協定が
結ばれ、ブラジル国内でイギリス人は領事裁判権を含む特権的な立場を認められた。この
ようにしてブラジル市場のイギリスへの開放が進むと、競争力のあるイギリス製品にブラ
ジル市場は席巻され、植民地時代以来の綿工業や製鉄産業は壊滅し、イギリスへの経済的
従属がこの時期に完成した。 しかし、ポルトガル人とクリオールの人種的、政治的な対立が深まり、また共和制を求
めるクリオールも多かったため、次第に両者の関係は険悪なものとなっていった。 《ジョアン 6 世の時代》 1816 年にマリア 1 世が死去すると、ジョアン 6 世(1816~1826 年)が王位に就いた。外
交面ではジョアン 6 世はイギリスと同盟してフランスに宣戦布告し、仏領ギアナを占領し
た。さらには植民地時代から続くラプラタ川方面への侵攻をはかり、ウルグアイ地域のア
ルティーガスを破ってバンダ・オリエンタル(ウルグアイ)を 1821 年 7 月にシスプラチナ
州としてブラジルに編入した。 ナポレオンが倒れ、ポルトガル本国が解放されても、国王は帰国しようとしなかったので、
この大西洋を隔てたポルトガル・ブラジル連合王国体制は、あるいは円満に運営されてい
2133
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
くかに思われた。ところが、その矢先の 1820 年、ポルトガルのポルトで自由主義革命(ポ
ルトガル 1820 年自由主義革命)が勃発し、ジョアン 6 世が革命委員会の要求によって新憲
法を承認し、ポルトガルに帰国し、王子のペドロがポルトガル・ブラジル連合王国の摂政と
してブラジルに残った。 しかし、1821 年に開催されたポルトガル議会において、対等な立場であるはずのポルト
ガル代表の議員が 130 人に対し、ブラジル代表の議員は 70 人に過ぎず、さらにポルトガル
政府はブラジルを再び植民地にする方向で動き始めた。そのための最大の障害は、リオに残
ったペドロ王子であった。本国は軍艦を送って王子を連れ戻そうとし、他方でジョゼ・ボ
ニファシオらクレオール支配層は、帰国してくれるなと猛烈な陳情を重ねた。ここにいた
って 1822 年 1 月にペドロ王子は帰国しない意向を表明、9 月にはブラジルの独立宣言を発
し、12 月にはブラジル帝国皇帝ペドロ1世として即位した(図 14-34 参照)。 ○ブラジル帝国―ペドロ 1 世の時代(1822 年~1831 年) 即位したペドロ 1 世は立憲君主制を受け入れたが、1823 年に開かれた憲法制定会議の草案
を不服とし、会議を解散して翌 1824 年に欽定憲法を発布した。この憲法の規定では、議会は
皇帝がほしいままに召集解散でき、二院のうち下院議員は公選だが、上院議員は皇帝親任の
終身制であった。首相も閣僚も、議会と関係なく皇帝が親任するというものであった。地方
制度は県知事が勅任、県会議員は公選であった。 このような形でブラジルの独立はなったので、ブラジルにおいては植民地時代の権力構
造と大地主の支配がそのまま継続することにもなった。既に 1808 年のリオデジャネイロ遷
都と共にイギリス資本に国内市場が解放され、イギリスから莫大な投資が流入し、植民地
時代から本国ポルトガルがそうであったように、ブラジルにおいてもイギリスへの経済的
従属が始まっていた。リオデジャネイロ中央の支配層は、最初だからまあこんなものかと
納得したが、地方は承服しなかった。 《「赤道連邦」などの反乱》 まず北東部ペルナンブコは反乱の火の手を上げ、1824 年 7 月に周辺諸県を糾合して連邦
国家「赤道連邦」の独立を宣言した(図 14-37 参照)。ペルナンブコ州に加え、マラニョ
ン州、バイーア州、アラゴアス州、パライーバ州、リオ・グランデ・ド・ノルテ州、セア
ラー州がこの赤道連盟に参加し、アメリカ合衆国をモデルにした代議制の共和制国家の樹
立が目指されたが、ペドロ 1 世はイギリスからの数百万ポンドの借款と傭兵の導入によっ
て同年 11 月にこの反乱を鎮圧した。 ところがこの機に乗じて、1825 年末にラプラタ連合州のフアン・アントニオ・ラバジェ
ハ将軍率いる 33 人の東方人がこの地域に潜入して、ブラジルからの独立戦争と連合州との
2134
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
合併を求めて、ゲリラ戦を展開し始めた。ラプラタ連合州は内部の内乱を終結させてこれ
を本格的に支援し始めた。 図 14-37 ブラジル帝国各地の反乱 《ブラジル戦争とウルグアイの独立》 このため、激怒したペドロ 1 世はラプラタ連合州に宣戦布告し、ブラジル戦争(シスプ
ラチナ戦争)が勃発したが、アルゼンチン(ラプラタ連合州から改名)軍はイツサンゴの
戦いで勝利すると、以降は優れた戦術でブラジル軍を破り続け、結局 1828 年にアルゼンチ
ンの勢力が伸張することを恐れたイギリスの仲介によりモンテビデオ条約が結ばれ、イギ
リスの意向によって東方州(シスプラチナ州)が緩衝地帯のウルグアイ東方共和国として
独立することが認められた。結局、ウルグアイはどちらにも属さない独立国家となり、そ
のかわりブラジルはラプラタ川航行権を保障された。 独立前夜のブラジルの人口は約 380 万人で、うち白人が約 104 万人、約 276 万人が有色
人(パルド、黒人、インディオ)であったが、独立後ペドロ 1 世は 380 万の人口のうち、
約 7 割を占める有色人や、クリオール(植民地生まれの白人)を遠ざけ、ブラジル党より
もポルトガル党を優先してポルトガル人を重用する姿勢を採ったため、次第にブラジル人
とペドロ 1 世の関係は険悪なものになっていった。 さらに、1826 年にポルトガルのジョアン 6 世が崩じてからは、ペドロ 1 世は縁を切った
はずの旧本国の王位継承問題に気を揉んで、足元のブラジルをおろそかにしはじめた。1830
年にフランス七月革命がウィーン体制の正統主義原則を揺るがすと、1831 年 3 月、大衆の
2135
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
示威行動でリオは騒然とした。事態が収拾つかなくなる前に、リオの支配層は動いてペドロ
1 世の退位をとりつけた。 ペドロはポルトガルに帰国し、ペドロ 4 世としてポルトガル王に即位した(あとのペド
ロ 4 世の行動はポルトガル史に記している)。 ○ペドロ 2 世の摂政期(1831~40 年年) 1831 年 4 月にペドロ 1 世が退位したとき、跡継ぎのペドロ王子は 5 歳に過ぎなかった。 そこで皇帝不在のまま摂政による統治が行われたので、1831 年から 1840 年までを摂政期と
呼んでいる。 3 人の摂政から成る摂政政府が統治を代行したが、中央政府の統制のゆるみと威信の低下
に乗じて、1831 年から 10 年以上にわたって、全国各地で図 14-37 のように反乱や分離運
動が続発した。こうした難局が続いていたので、もう摂政府では間がもたなくなり、予定
を 4 年繰り上げて、1840 年 7 月に 14 歳のペドロ王子は皇帝ペドロ 2 世として即位した。 ○ペドロ 2 世の時代(1831~89 年) 絶え間なく地方の反乱に揺さぶられながらも、ブラジル国内はゆるやかに安定化へ向か
って動き出した。 ペドロ 2 世時代の外交においては、基本的にイギリス資本への従属(これは当時ごく僅
かな例外を除いてラテンアメリカ全土に共通していた)と、領土拡張政策によって特徴づ
けられていた。 イギリスとの関係は 1840 年代には奴隷貿易の問題により大きく悪化したが、1845 年のア
バディーン法制定により 1850 年から奴隷貿易が廃止されると改善に向かった(奴隷貿易は
廃止されてイギリスとの関係は改善されても、ブラジル国内の奴隷制はそのまま残ってい
た)。奴隷制は 1860 年代に北米の南北戦争の影響を受けて大きく動揺したが、基本的に大
地主は奴隷制の存続を望み、この問題はブラジルの大きな政治的課題となっていった。 《アルゼンチンとの大戦争(1851~52 年)》 領土拡張の当初の目標はかつてシスプラチナ州としてブラジルが領有していたウルグア
イであった。ここは結局、ブラジルとアルゼンチンの緩衝地帯としてウルグアイの独立
(1828 年)ということになったが、その後も絶えず問題が起きて、ブラジルとアルゼンチ
ンは大戦争(1851~52 年)を戦ったが、これについてはアルゼンチンの歴史で述べたので
ここでは省略する。 《パラグアイ戦争(三国同盟戦争。1864~70 年)》 つぎに問題が勃発したのはパラグアイであり、ブラジルはパラグアイ戦争(三国同盟戦
争。1864~70 年)を戦ったが、これはパラグアイの歴史で述べたのでここでは省略する。 2136
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ブラジル帝国が主体となったアルゼンチン、ウルグアイとの三国同盟とパラグアイのロ
ペス政権との間で戦われたこのパラグアイ戦争(三国同盟戦争)では激戦が続いたが、ブ
ラジル軍カシアス公の指揮により、1870 年にパラグアイのロペスがセロ・コラの戦いで戦
死し、ラテンアメリカで最も凄惨な戦争となったこの戦争は終わった。 敗戦により南米一の先進国だったパラグアイの人口は半減し、アルゼンチンとブラジル
に領土の一部が割譲され、自立的発展を遂げていた工業は崩壊し、国家は壊滅した。勝者
となったブラジルも 10 万人の死傷者を出し、30 万ドルに及ぶ戦費をイギリスからの債務で
賄ったために戦争終結後に財政崩壊を起こした。さらに前線でアルゼンチン兵と行動を共
にした帰還兵や、戦場で黒人と共に戦った軍人により、共和制思想や奴隷制廃止が大きく
喧伝されるようになった。 《奴隷制廃止問題》 独立当初のブラジルに、奴隷貿易を廃止するよう猛烈な外圧をかけてきたのはイギリス
だった。すでに 1808 年に自国の奴隷貿易を廃止していたイギリスは、自国の(植民地で経
営している)砂糖プランターが国際競争で不利にならないように、全世界で奴隷貿易をや
めさせたかった。そして、フランスを破って今や絶対の海上強国であるイギリスには、そ
れを実現する能力があった。 1840 年頃からイギリスの姿勢は一段と強硬の度を加えた。奴隷売買は海賊行為同様に人
類一般に対する犯罪であるから、相手が外国船であっても取り締まることができるとする
法理論に依拠して、イギリスは西アフリカ海域に艦隊を派遣し、疑義ある船舶の拿捕や積出
港の封鎖を活発に行った。 ところが同じ時期にブラジルでは砂糖やコーヒーの増産で奴隷輸入がむしろ増加してい
た。ブラジル向け奴隷船の(イギリスによる)拿捕が頻発し、両国間の関係が緊張した。
ついにブラジル沿岸にイギリス艦隊が展開するにおよんで、1850 年にブラジルは再び立法
により奴隷輸入を禁止し、今回はこの立法を厳正に適用した。 まさにこの 1850 年頃からリオデジャネイロではコーヒーのブームが始まった。そこでリ
オのコーヒー農園主は、奴隷を北東部の砂糖生産地域から買いつけた。このために南東部
の奴隷人口は 1860 年代に北東部を上回るにいたり、リオの人口に黒人の占める比率は大き
く高まった。北東部から買われてきた黒人たちは、北東部で古くから発達したアフロ・ブラ
ジル系文化をリオデジャネイロに伝えた。アフロ・ブラジル色の濃い風俗文化はこの時以
降の発祥であり、リオのカーニヴァルはその代表例である。 《奴隷制と帝政に批判的なブラジル軍部》 パラグアイ戦争後、陸軍士官学校の数学教官だったベンジャミン・コンスタンによって
1850 年代にブラジルに導入されたオーギュスト・コントの実証主義と共和主義が融合し、
2137
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
実証主義は次第に奴隷制と帝政に対する批判を帯びた運動になっていった。コンスタン大
佐は陸軍の青年将校に実証主義教育を行い、次第に軍全体が実証主義を信奉するようにな
っていった。 また、ブラジル軍部はこの戦争体験を通じて、パラグアイ人の奮戦にひきくらべて、奴隷
制社会の軍事的な弱体さをつくづく思い知らされた。ブラジルの人口 700 万人のうち 300
万人、すなわち下層民の過半数が奴隷であったが、奴隷というものは、国家社会が戦争を通
じて共同防衛しようと志す価値や権利にもともと与っていないのだから、基本的には兵隊
にはならないのである。このようなことからブラジル軍部は奴隷制を否定するような考え
をもつようになっていった。 そして、1865 年に南北戦争の結果としてアメリカ合衆国で奴隷制が廃止され、1870 年に
スペイン領キューバで奴隷の暫定的解放を達成するモレ法が可決されると、ブラジルのみ
が西半球で唯一奴隷制に固執する国家となったために、実証主義者により帝政廃止と奴隷
制廃止を求める共和党が結成された。 ペドロ 2 世はこうした声に対処するために、1871 年 9 月にはモレ法にならった出生自由
法であるリオブランコ法を制定した。これによって、これ以降奴隷の母親が産み落とす新
生児すべてを生まれながら自由身分とすることを定めた。ただし解放は有償であって、旧
所有者は新生児の代価を国から長期国債で受けとるか、さもなくば当人を 21 歳までただ働
きさせるか、いずれかを選べることになっていた。 これとほぼ時を同じくして、サンパウロ県でもコーヒー・ブームが始まり、やがてリオデ
ジャネイロにならぶ産地となった。サンパウロ県の中でもコーヒー栽培に適する赤土の土
壌のある地域は、海岸からずっと内陸にあるため開発が遅れていたが、1867 年にサントス港
への鉄道が開通して障害は除かれた。 最初はサンパウロ県でも奴隷が使用されたが、奴隷制はもう先が見えていたし、またサン
パウロ県内陸の気候はかなり冷涼で、十分にヨーロッパ人移民労働力を招致しうるものだ
った。1884 年のサンパウロ県移民条例で、渡航費用を県が負担する契約移民制度が始まり、
イタリア、ポルトガル、スペインから移民が大挙して入ってきた。彼らは家族連れで移民
してきて、コーヒー農園の一区画を請け負ってその面倒をみる形式(コロノと呼ばれる)の
賃金労働者となって働いた。 《奴隷制廃止法の可決》 リオブランコ法発布後しばらく奴隷制問題は鎮静化していたが、1878 年に自由党政権が
成立するとジョアキン・ナブーコや詩人のカストロ・アルヴェスに代表される知識人は奴
隷制廃止を猛烈に要求するようになった。1885 年にはいわゆる 60 歳解放法が議会を通過し
たが、今度はそんなものでは鎮静化しなかった。白人社会のこの動きを敏感に感じとった
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
奴隷たちは続々と農園から逃亡し始め、農園側では逃亡されるよりはと、自分のところの
奴隷に所有者の権利で自由身分を授け始めた。1888 年、ついに議会は即時かつ無補償の奴
隷制廃止法案を可決し、折からヨーロッパで病気療養中のペドロ 2 世に代わって留守を守っ
ていた皇女イサベルはこれに署名した。 ついに奴隷は解放されたものの、解放に際して経済的な裏づけとなる土地や財産の分配
はなされなかったため、結局、黒人の社会的立場に大きな変化は見られなかった(植民地
時代から奴隷制廃止までにブラジルに連行された黒人奴隷の数は 350 万人から 1000 万人に
上ると推測されいる。図 13-73 のように,ブラジルの奴隷輸入がもっとも多かったようで
ある)。 ○共和革命、ブラジル共和国の成立(1889 年) 中間層の利害を代表し、国家の近代化を求める軍部の青年将校は、1889 年 11 月 15 日に
ベンジャミン・コンスタンの計画により、デオドロ・ダ・フォンセカ元帥によって率いら
れた軍部が宮殿を包囲した。ペドロ 2 世は退位してイギリスに亡命し、ブラジルは共和制
に移行した。 フォンセカは大統領に選ばれ、ルイ・バルボーザの発案によってアメリカ合衆国憲法と
アルゼンチン憲法を参考にして貴族制度の廃止などを盛り込んだ 1891 年憲法が公布され、
正・副大統領の直接選挙、三権分立が定められ、国名はブラジル合衆国と定められた。各
州は独自の州憲法と州軍を保有し、ブラジルは中央集権的な帝制国家から、地方分権的な
連邦共和制国家に移行した。 だが軍部による強権的近代主義はいわば一刀両断の革新を志向するもので、帝政のもと
で育った各州の支配層を代表する地方政治家のよしとする協調政治とはうまく合うはずが
なかった。地方政治家たちの利益代表である議会は海軍と結び、海軍は反乱を起こした。
フォンセカは事態収拾のため辞職し、副大統領ペイショトが事態を掌握した。 ここに、ペイショトが肩入れする軍部系候補と、各州支配層の応援するサンパウロ共和
党のモライス候補との間で 1894 年 3 月の大統領選挙が争われた。その結果はモライスが勝
った。革新軍部をおさえて、文民地方政治家たちが、ブラジルのいわゆる旧共和制(1889
~1930 年)の舵取りをすることとなったのである。 このように無血革命により帝政を倒し、共和制に移行させた軍部は大統領選挙でいった
ん身をひいたが、軍が果した大きな役割はその後ブラジルの政界における軍部の発言力を
強めることにもなった。 《カフェオレ政治安定期》 共和革命後、革新軍部を封じこめるため、ブラジルの支配層はそれぞれの州で共和党を
結成したが、全国的主導権を握ったのは、コーヒー景気に沸く経済的繁栄を背景として他
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
の諸州から頭一つぬきんでたサンパウロの共和党であった。しかしサンパウロ共和党はあ
えて独走を避け、他州の中で支配層がよく発達し優秀な政治家を輩出しているミナスジェ
ライスの共和党を提携相手に選んで、両州間で政権をたらい回しにすることにした。暗黙の
了解で両州出身者が一期ずつ交互に大統領になるのである。鉱山ブームが去ったミナスは
畜産や酪農を主産業としていたので、このサンパウロとミナスの連携は「ミルク入りコー
ヒー」と呼ばれた。 このカフェオレ体制の中央政府は各州の内部自治への介入を極力避け、それぞれの州知
事を頭に戴く各州支配層の自律性を尊重した。この政治体制のもと旧共和制の 40 年を通じ
て、ブラジルは 13 人の大統領が 4 年の任期をほぼ守って規則的に交代した。 ブラジル経済もアルゼンチンと同じように、欧米諸国の第 2 次産業革命の経済成長によ
り、一次産品や工業原料の需要が急速に増加した。この時期に急成長した輸出向け農産物
には、コーヒーがあった。1906 年の大豊作の時には、サンパウロ州だけで世界の生産の 3 分
の 2 を占めたといわれる。 【14-5】植民地化されるアジア・アフリカ・オセアニア諸国 一般に、近代国家システムは 1648 年のウエストファリア講和以来できあがったと言われ
るが、それは西欧の、それも一部の国での話にすぎない。西欧諸国は、主権国家間におい
てのみ対等、アジア・アフリカ・オセアニアの植民地に対しては上下関係という二重のシ
ステム(ダブル・スタンダード)を作り出した。19 世紀後半という時代は、ヨーロッパの
強力な武力を背景に、このシステムがそれまでのオスマン帝国、ムガル帝国、中華帝国と
いう帝国支配にかわってアジア・アフリカ・オセアニア世界に作り出されていく過程であ
った。 19 世紀末から第 1 次世界大戦がはじまる 1914 年までに、アジア・アフリカ・オセアニア
の大部分の地域が、欧米列強の植民地主義の餌食となり、それを免れたのは日本、タイ、
リベリア(これはアメリカが解放奴隷につくらせた国)など、ごくわずかであった。 【14-5-1】オスマン帝国 【①衰退するオスマン帝国】 17 世紀後半に最大版図に達したオスマン帝国が 1683 年の第 2 次ウィーン包囲に敗れて以
降、図 13-47 のように縮小に転じ、18 世紀を通してオスマン帝国の解体過程が進んで行っ
たことは述べてきたが、19 世紀になってもその趨勢に変わりはなかった。 ○1787~92 年の露土戦争 ロシアの南下政策による露土戦争は何度も起きたが、1787~92 年の露土戦争のときには、 2140
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ドニエストル川やクリミア半島の帰属をめぐる紛争に端を発し、黒海の制海権にからんで
おり双方ともに譲れぬ争いであった。ロシアとオスマン帝国の間で戦端が開かれると、ロ
シアとの同盟に基づいてオーストリアのヨーゼフ 2 世も参戦し、オスマン帝国は苦しい戦
いを強いられた。そのようなときに、1789 年、フランス革命が勃発した。フランス革命は
敵を背後から脅かす要因として、オスマン帝国にとって歓迎すべきことであった。 オーストリアはマリーアントワネットを嫁がせていることもあって、直ちに停戦してフ
ランスに当ったが、ロシアも、オスマン帝国とヤシ条約で講和を結んで西方に目を転じざ
るをえなかった。1792 年のヤシ条約では、ロシアにドニエストル河口まで領土を広げるこ
とを許し、クリミアとグルジアにおける領土を割譲せざるを得なかった(図 13-47 参照)。 ○セリム 3 世の軍事改革 この露土戦争中にスルタンとなったセリム 3 世(在位:1789~1807 年)は、帝国の歴代
スルタンの中では優秀な人物で、王朝の勢力を盛り返すために国家体制の刷新事業に着手
した。 彼は 1793 年にはじめて洋式軍隊をつくり、これをニザム・ジェディト(西洋式新軍隊)
と名づけた。近代の軍事技術の習得には高等教育が必要で、兵制改革は教育改革とも連動
する関係にあった。この点でセリム 3 世が信頼できる国はフランスであった。スルタンは、
兵制改革のためにつくった陸軍工兵学校に、フランス人の砲兵・工兵将校を教官として招
聘した。海軍技術学校にも、造船科を設置し、フランス人技師を招いた。 ところが、300 年来オスマン帝国の統治下にあったエジプトに、1798 年 7 月、突然、ナ
ポレオンのフランス軍が上陸して、エジプトを占領してしまった。このフランスのエジプ
ト占領は、短期間に終わったが、オスマン帝国の軍事改革は破綻してしまった。 ○1806 年 ~12 年の露土戦争 トラファルガーの海戦でイギリスに敗れたナポレオンは、イギリス侵攻はあきらめ、ヨ
ーロッパ大陸における覇権を確立するため,1807 年 7 月、ティルジット条約を結んでロシ
アと同盟関係を形成し、「ロシアはオスマン帝国からモルダヴィアとワラキアを獲得する、
もしオスマン帝国がこれを拒絶したならば、両国は協力してオスマン帝国と戦争する」こ
とを約束した。こうしてロシアは再びオスマン帝国の方向に向いてきて、1806 年にロシア
とオスマン帝国は戦争を開始することとなってしまった。この 1806 年 ~12 年の露土戦争
はナポレオンのロシア遠征が勃発したため、両国はブカレスト条約で講和した。 《アーヤーン(地方名士)の軍事力に頼るオスマン帝国》
オスマン帝国の力を弱めたのは、軍事力の弱体化だった。かつては帝国発展の原動力だ
った常備歩兵軍団のイェニチェリも 18 世紀には縁故によって入り込んだ没落農民や商工民
などの雑多な構成部隊になりさがっていた。また、スィパーヒー(騎兵軍団)への授与地
2141
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
の多くが,出征する意欲も能力もない宮廷の文官や、高級官僚の家来にわたり、軍役を提供
できない状態になっていた。 そこで、ロシアなど外敵との戦いに際して頼りになったのは、アーヤーンであった。ア
ーヤーンとは、地方の名望家層であった。彼らは、従来の香料や奢侈品の中継などの伝統
的貿易にかわって、穀物、織物、棉花、絹、タバコといった新しい産物をヨーロッパ市場
の需要に応えて輸出しながら、その力を蓄えた。アーヤーンは、在地の権力者として租税
徴収、治安維持、国境対外からの穀物密輸入の監視、物価の安定にあたっていた。中央に
対して地方王朝ともいうべき自立の天地をつくりあげて、官職と徴税請負権をも独占して
いた。 このようにアーヤーンはオスマン帝国にとって両刃の剣であった。腐敗した正規軍にか
わる志願兵集団の召集に応じ指揮官に任じられたのも、アーヤーンであった。オスマン帝
国は、アーヤーンと協調しなければ、外圧の危機に対処できず、いたずらに醜態をさらす
ことになった。しかし、アーヤーンは,協調と離反という二つの性格をもっていた。 ○ギリシャ独立戦争 ギリシャは、15 世紀末以来オスマン帝国の支配下にあったが、貿易活動で経済力を高め
る一方、ヨーロッパの自由主義・国民主義運動の影響をうけて、1821 年、ギリシャ独立戦
争(1821~29 年)が勃発した(図 13-47 参照)。ギリシャ独立戦争(1821~29 年)につい
ては,ロシア、ギリシャの歴史で述べたので省略するが、エジプトの臣下ムハンマド・ア
リーの助けを借りて、これを鎮圧しようとしたオスマン帝国に対し、英・仏・露が介入、
1829 年、アドリアノープル条約によってギリシャ独立が承認された。 ○アラビア半島の反乱 オスマン帝国のアラビア半島でイスラム復興運動の先駆者ともいうべきワッハーブ派の
反乱が起きた。オスマン帝国はこれまた自力で鎮圧できず、エジプトの助けを借りて鎮圧
した(図 13-47 参照)。 いずれにせよ、ワッハーブ派運動は,アラブ民族がオスマン帝国から分離しようとした
最初の試みだったといえる。そして、このワッハーブ派運動は、オスマン帝国の無能力ぶ
りを白日のもとにさらしただけでなく、エジプトのムハンマド・アリーの力量を世界に知
らせることにもなった。 ○第 1 次~第 2 次シリア戦争(エジプト・トルコ戦争) 今度はオスマン帝国傘下のエジプトのムハンマド・アリー(1769~1849 年)がゴテ始め
た。アリーは、1798 年のナポレオンのエジプト遠征をきっかけにエジプトの実権を掌握し
ていたが、シリア地方の割譲を条件にギリシャ独立戦争にオスマン帝国側で参戦した。前
述のようにギリシャ独立阻止はできなかったが、アリーは宗主国であるオスマン帝国に、約
2142
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
束通りシリアの割譲を要求したところ、オスマン帝国のマフムト 2 世は独立戦争鎮定が失
敗したことを理由にシリア譲渡を反故にしてしまった。 そのため、アリーは反乱を起こしてシリアに侵攻した。1831 年から 33 年まで続いた第 1
次シリア戦争(エジプト・トルコ戦争)、1839 年から 40 年の第 2 次シリア戦争(エジプト・
トルコ戦争)であるが、いずれもムハンマド・アリーはシリア全域をただちに席巻した(図
14-38 参照)。これもロシアの歴史に記したので省略するが、ヨーロッパ列強が介入した東
方問題となり、オスマン帝国の宗主権のもとにムハンマド・アリー家のエジプトおよびス
ーダンにおける総督職の世襲が認められただけだった。 図 14-38 19 世紀前半におけるムハマンド・アリー王朝の版図拡大 【②オスマン帝国・マフムト 2 世の近代化の努力】 衰退の一途をたどっているオスマン帝国も、ただ手をこまねいていたわけではなかった。
1807 年にイェニチェリによって廃位された改革派のスルタン、セリム 3 世のあと、1808 年
に即位したマフムト 2 世(1785~1839 年.在位:1808~39 年)は、以下のような改革を実
施した。 ○アーヤーン(地方名士)抑圧と中央集権化 マフムト 2 世は改革を進める一方で、地方において半独立君主のように振舞うアーヤー
ン(地方名士)たちに圧力を加えて政府の統制下に置く努力をはらった。マフムト 2 世に
よる同盟関係の切り崩し、財産の没収、軍隊による討伐などを受けたアーヤーンの力は瞬
く間にそがれ、帝国の中枢であるバルカン、アナトリアでは 10 年ほどの間にほどんどのア
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ーヤーンが中央政府に屈した。このようにして 18 年をかけ、マフムト 2 世は徐々に皇帝専
制・中央集権化に向けて実力を蓄えていった。 ○イェニチェリ廃止と新式軍隊の設立 1826 年 5 月、マフマト 2 世は新式軍の編制を勅した。スルタンの予想通り、イェニチェ
リは反乱を起こした。新式の装備を整えられた砲兵隊は反乱軍に対して猛攻を加えると反
乱軍は瞬く間に壊滅させられ、反乱は翌日に鎮圧された。マフムト 2 世はこれを機会にイ
ェニチェリを廃止することを布告した。 イェニチェリ廃止の布告とともに、「ムハンマド常勝軍」と名づけた新式軍隊の設立を
宣言した。ヨーロッパの兵制にならって陸軍総司令官(陸軍大臣)職が新設され、オスマ
ン帝国において初めて陸軍が一元的な指揮系統に統合された。1834 年になると広く国民各
層から人材を集める意図から陸軍士官学校がつくられた。 ○官僚制の近代化 政治の面では、君主の代理人として絶大な権力をふるってきた大宰相の権限縮小をはか
り、外務大臣、内務大臣、財務大臣、司法大臣などの大臣職を置いた。そしてこれまで大
宰相が主催してきた帝国の最高意志決定機関である御前会議は閣議に改められ、西洋式の
内閣制度に近づけられ、大宰相の官名も総理大臣(首相)に変更された。 翻訳局が設立され、オスマン帝国の若手官僚の中から、西洋の言語に通じ、通訳官・外
交官として活躍できる人材が育成されていった。 ○教育改革 広く人材を求めるために、首都ではモスクのメクテブ(付属初級学校)で代行されてき
た初等教育を義務化する試みも行われた。さらに、中等教育のために西洋式の中学校も開
かれた。また、一般官吏の養成と活用をはかるマフマト 2 世学校も開かれた。軍医学校、
音楽学校、士官学校などの近代的教育機関も創設された。彼らのうちの優秀なものたちは
ヨーロッパへの留学に派遣され、次世代を担うエリート改革官僚層を形成していくことに
なった。 ○洋装の採用 軍と文官の意識や行動様式を切り換えるために、まずムハンマド常勝軍ではイェニチェ
リを思わせるターバンが禁止され、かわりにや西洋式の制服とトルコ帽が導入されたが、
1829 年に宗教関係の分野を司ってきたウラマーを除く全ての文官にも採用され、オスマン
帝国の服制に洋装が取り入れられた。 ○宗教関係の改革 保守派の牙城であった宗教勢力に対しては、イェニチェリの廃止と前後してイスラム神
秘主義のベクターシー教団を閉鎖させたり、宗教関係者の経済的基盤であるワクフ(寄進
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
財産)を政府の管理下に入れたりすることで、宗教勢力の力を削いでいった。オスマン帝
国の宗務行政において最高の地位にあったシェイヒュルイスラムも、これまでの超然とし
た地位を改められ、「長老府」と呼ばれる宗務行政の最高官庁の長官とされ、閣議のメン
バーに加わえられるなど、政府機構の中に取り込まれていった。 これらのほかにもマフムト 2 世期の重要な改革として、常設大使館の設置、官報の創刊、
納税者の全国調査実施、郵便制度の創設などがあげられる。 このようにマフムト 2 世は様々な改革を専制的に実施し、オスマン帝国近代化の歴史に
大きな足跡を残した。しかしその急速な西洋化改革は多くのムスリム(イスラム教徒)国
民の反感を招き、マフムト 2 世は「異教徒の皇帝」とあだ名された。 ○マフマト 2 世の現実の政治 マフムト 2 世の進めた様々な改革は当時のイスラムの世界からすれば、画期的なことで
あり、また、一定の成果を納めたが、ヨーロッパの世界からすれば、何ら改革といえるほ
どのことでもなかったかもしれない。また、この時代にオスマン帝国が抱えていた深刻な
内憂外患は、とてもこの程度の改革で解決できるものでもなかったかもしれない。彼の晩
年の対外関係はきわめて苦しいものになった。 1831 年、ギリシャ独立戦争への参戦で大きな犠牲を払ったムハンマド・アリーが、参戦
にあたってマフムト 2 世から約束されていたシリア総督職が与えられないことに抗議して
エジプト軍をシリアに武力侵攻させる事件が起きたことは述べた(第 1 次シリア戦争)。
このとき、単独でムハンマド・アリーを倒すことのできないマフムト 2 世は、一転、ギリ
シャ・セルビアの問題で圧迫を受けてきた相手である宿敵ロシアとウンキャル・スケレッ
シ条約を結んでこれに頼り、エジプト問題に列強が介入するようになってしまった。 この第 1 次シリア戦争はムハンマド・アリーへのシリア総督職授与で決着したが、報復
を期すマフムト 2 世と、オスマン帝国政府からの自立とシリア方面における権益の拡大を
狙うムハンマド・アリーとの間の対立関係はおさまったわけではなかった。 《不平等条約のはじまり》 オスマン帝国・エジプトの再衝突の緊張が高まった 1838 年、マフムト 2 世はエジプト問
題におけるイギリスの支持を取り付けるため、イギリスの利益に大幅に譲歩して、専売制
の廃止、低率の固定関税、オスマン帝国の関税自主権の喪失などの不平等条約を結ぶ道を
選んだ。これが 1838 年に結ばれたイギリス・オスマン通商条約であった。 これは、これから欧米諸国とイスラムやアジアの各王朝とで結ばれる不平等条約の走り
をなすものであった(アヘン戦争の南京条約の 4 年前)。以後、イギリス・オスマン通商
条約に右ならえをさせられることになる。イギリスに弱みをもつムハンマド・アリー朝の
エジプトも 1840 年のロンドン協定によって、宗主国たるオスマン帝国の後を追い、カージ
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ャール朝のイランも 1841 年のイギリス・イラン通商条約で開国に応じている。これらの流
れは 1842 年の南京条約などアジアでの一連の通商条約にも反映され、日本の日米和親・日
米修好通商条約などにも連なっているのである。 これらの不平等条約に共通するのは、開港と開国を迫った協定で欧米各国がその領事裁
判権を認めさせ、イスラム側の関税自主権を排除した点である。外国人が自分たちの国で
犯罪を犯しても自国の法で裁けないのが領事裁判権であり、輸出入の品目に自由に関税を
かけられないのが関税自主権の排除である。イスラム諸王朝が英仏などに片務的最恵国待
遇を与えたことも大きな問題であった。 これによりイギリスの支持は得られたが、マフムト 2 世の没後、オスマン帝国が半植民
地化に向かう直接的な契機はこの時点に求められる。 《第 2 次エジプト・トルコ戦争(シリア戦争)》 不平等条約をあえて結んでイギリスの支持を得たと考えたマフムト 2 世は、1839 年 4 月、
重病の身をおして第 2 次エジプト・トルコ戦争(第 2 次シリア戦争。1839~40 年)の開戦
の勅を下した。しかし、オスマン帝国は開戦から数週間もたたないうちに、崩壊の危機に
瀕した。6 月になると、オスマン軍は北シリアのネジブでアリーの息子イブラーヒーム・パ
シャのエジプト軍から壊滅的な打撃を被った。この悲報が首都に届く前にマフムト 2 世は
結核で逝去していた。長男アブデュルメジト 1 世(在位:1839~1861 年)が後を継いだ。 同じ頃、オスマン海軍がエジプトに投降したために、オスマン帝国は東地中海において
軍事輸送の能力を失うという醜態をさらした。新たにスルタンとなったアブデュルメジト 1
世は、エジプト州の世襲支配権を承認する条件を提示して、事態の収拾をはかろうとした。
しかし、足元を見すかしたムハンマド・アリーは,シリアとアダナ(トルコ中南部の都市)
についても世襲支配の権限を要求する挙にでた。これを認めると,オスマン帝国は、広大
なアラブ諸州に臣下による世襲王朝の成立を許すことになる。それは、形式的でも一体性
を堅持してきたオスマン帝国の領土保全に致命傷を与えかねなかった。 もはやアブデュルメジト 1 世には、ムハンマド・アリーの要求を受諾するしか方法がな
かった。ところが、ここで「待った」がかかった。典型的な東方問題である。アリーの要
求が通ると、オスマン帝国の現状維持を名目にしながら中東で維持していた各国の利益配
分に大きな変化をもたらすからであった。 1839 年 7 月になると,東方問題に関係する 5 大国、英露仏にオーストリアとプロイセン
を加えたイスタンブル駐在の大使団は、共同覚書をオスマン政府に送付した。そこには、5
大国を無視してエジプトと取り決めを結ばないこと、5 大国が目下協議中の解決策に成案が
出るまで待つことと明記されていた。戦争の当事者はエジプトとオスマン帝国である。し
かし、戦争の帰結とその処理は、今、こちらで議論しているからその結論が出るまで待て
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
というのである。ヨーロッパ外交の枠による解決に委ねろということであった。これこそ
東方問題の典型的なパターンであった。 このように例によって、イギリス・フランス・ロシアはオスマン帝国の解体を防ぐため
に一斉に介入したが、それぞれの基本姿勢は異なり、フランスはいまだにムハンマド・ア
リーを支持する立場にいた。1840 年に列強間で妥協が合意され、エジプトは名目的にはオ
スマン帝国の宗属関係(つまり、オスマン帝国がエジプトの宗主国である)にとどめおか
れたが、エジプト支配をムハマンド・アリーの世襲(ムハンマド・アリー朝)とすること
が認められた。このときイギリスの反対でロシアのボスポラス・ダーダネルス両海峡の自
由航行権の特権は破棄され、1841 年の国際海峡協定(ボスポラス・ダーダネルス両海峡の
中立化をはかった。外国軍艦の航行禁止などを内容とした海峡協定)でロシアの地中海進
出は阻止された。 この戦争は最終的にイギリスの介入によりオスマン帝国側の優位で決着したが、これに
より関税自主権のない不平等条約がエジプトにも適用されることになり(イギリスがオス
マン帝国と不平等条約を結べば、それはオスマン帝国の宗主権下にあるエジプトにも適用
される)、エジプトにとってもこの一連の事件は半植民地化の契機となっていった。 オスマン帝国とエジプトは 2 度にわたって,シリア戦争を戦ったが、戦闘においては、
いずれもエジプトが圧勝した。ということは、オスマン帝国のマフムト 2 世が軍制を中心
に行ってきた改革は、同時代のエジプトにおけるムハンマド・アリーによる改革に比べれ
ば十分な結果を残すことができなかったことを意味している。マフマト 2 世は個人として
様々な努力を行ったにもかかわらず、その治世における帝国の軍事的な退潮を押しとどめ
ることはできなかったのである。 【③「瀕死の病人」オスマン帝国と東方問題】 ここで東方問題について、まとめておこう。とくに 19 世紀以降、バルカン半島への勢力
拡大を目指すロシアとオーストリア、勢力均衡を狙うイギリスとフランスの思惑が重なり
合い、オスマン帝国を巡る国際関係は紆余曲折を経ていった。このオスマン帝国をめぐる
国際問題の諸局面を一括して東方問題というようになった。 この東方問題は、ヨーロッパから見て東方に位置するオスマン帝国を中心とした地域に
おける一連のヨーロッパの外交問題を指し、ヨーロッパ諸国間の勢力均衡をオスマン帝国
領の分配によって調整しようとしたものであり、主にヨーロッパ側の呼称であった。 オスマン帝国治下のバルカン半島の民族分布は複雑に錯綜しており、これらの民族が国
民国家を形成しようとする場合、その領域の決定には民族問題が不可避に関わる状況であ
った。このような状況に際し、ヨーロッパ列強はバルカン半島の紛争に介入して、1 国がオ
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
スマン帝国との外交関係において「一人勝ち」する構造を排除することで、各国の利害を
調整しパワーバランスの維持に努めた。 またオスマン帝国側もヨーロッパの国際関係を利用して自国の領土と利益を守るために
(長らえるために)主体的に外交紛争に関わった。これら「東方」の状況は、同時に、ヨ
ーロッパ諸国自体の政策に影響する側面も持ち、とくに後述するクリミア戦争は各国の政
治・経済状況に顕著な影響を及ぼした。 オスマン帝国領から次々と多くの国々が自治、独立を獲得し、あるいはヨーロッパ列強
の勢力下に入り、最終的には 20 世紀初頭、オスマン帝国の勢力範囲はバルカンのごく一部
とアナトリア、アラブ地域だけになった。オスマン帝国はこのような帝国内外からの挑戦
に対して防戦にまわるしかなく、ヨーロッパから「瀕死の病人」と呼ばれる状態になって
いった。 この一連の問題は、主として、オスマン帝国にとっては「領土(喪失)問題」、バルカン
諸民族にとっては「民族(独立)問題」、ヨーロッパ諸国にとっては「外交問題」の側面を
持っていた。そして 19 世紀の後半、産業革命を終えてアジア・アフリカに勢力を拡大しよ
うとするヨーロッパ勢力とユーラシア大陸に膨張しようとするロシア帝国の南下政策と、
それを押しとどめようとする縮小しつつあるイスラム勢力が、オスマン帝国領地域におい
て、衝突し,東方問題を生み出したのである。つまり、東方問題といわれる国際対立は次
の三つの要素がからまって起こったものである。 ① オスマン帝国の支配力が弱まったこと。 ② 自由主義・国民主義の影響をうけて、オスマン帝国の支配下にある諸民族が独立運動・
解放運動をおこしたこと。オスマン帝国領内のギリシャ、ルーマニア、ブルガリアなどの
諸民族が独立運動を起こすが、まだ単独で独立を達成するだけの力がなかった。そのため、
その地域に利害関係をもつ列強の干渉をまねくことになった。 ③列強の利害やその調整の問題がからんだこと。この問題にからむ列強とは、ロシア、イ
ギリス、フランス、オーストリアであり、その意図は以下のようであった。 ◇ロシア……ロシアの最終目的は地中海に出ることであった。そのためには、黒海からボ
スポラス・ダーダネルス両海峡およびコンスタンティノープルの港を確保して、地中海進
出の足がかりを得ることであり、オスマン帝国海域での商船や軍艦の航行権を列強に先ん
じて確保し優位に立つことを望んでいた。また相対的に重要性は落ちるものの、オスマン
帝国内の正教徒をロシアの管理下に置きたいと望んでいた。 ◇オーストリア……このようなロシアの立場に対して、オーストリアが最も直接的に対立
した。オーストリアにとって、弱体化したオスマン帝国に比べると、ドナウ川沿いに進出
しようとするロシアの脅威のほうがはるかに重大であった。さらにバルカン諸民族が活発
2148
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
になることは、オーストリア自身の抱える民族問題に飛び火し、自国内で民族の独立運動
が激化につながると危惧されたため、オスマン帝国の保全を考えるようになった。 ◇イギリス……イギリスは、インドへの交通路を確保するために、ロシアがボスポラス海
峡を支配して東地中海に進出するのを警戒し、さらにオスマン帝国の崩壊によってヨーロ
ッパの勢力均衡が崩れる懸念をもっていたために、オーストリアに近い立場にあった。 ◇フランス……かつてのナポレオンのエジプト遠征の目的と同じように、エジプトをうま
く取りこんで、イギリスのインドへの道を中断させたかった。 すでに述べたギリシャ独立戦争などから始まって、これから述べる第 2 次エジプト・ト
ルコ戦争、クルミア戦争、1877 年の露土戦争と次々と多くの東方問題が生じたが、その都
度、オスマン帝国(トルコ)をめぐる国際的な利害関係は変化し、オスマン帝国(トルコ)
の友好(同盟)関係、対立抗争関係は、図 14-39 に図示したように変化していった。 図 14-39 東方問題における国際関係 そして 1877 年の露土戦争後のサン・ステファノ条約を見直すために開催されたベルリン
会議(1878 年)で列強間の東方に関する外交問題は一応の決着を見た。 それ以降、列強の
利害は「東方」地域だけでなく、エジプト以南のアフリカ・極東を含めて、ドイツなどの
新興勢力も参入してきて全世界規模で調整される(争われる)帝国主義の時代になったの
で、列強にとって「東方問題」という言葉はあまり使われなくなった。 しかし、これは東方問題が解決したのではなく、より多角的、複雑な問題となっていっ
たのである。つまり、「東方問題」は列強の帝国主義政策・膨張政策に吸収されてしまい、
主として ◇ドイツ・オーストリアの「汎ゲルマン主義」とロシアの「汎スラヴ主義」の対立。 ◇エジプトとオスマン帝国の紛争およびそれに関わる英仏の中近東政策の対立。 ◇ロシアの南下政策とイギリスの帝国主義政策の対立。 ◇イギリスの 3C 政策とドイツの 3B 政策の対立。 2149
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
などを軸として語られるようになっていった。 「東方問題」という言葉はなくなっても、これはあくまで列強間の外交上のことであり、
バルカンの民族問題は全く解決されていなかった。むしろ帝国主義時代のことの本質です
らあった。 後にそのことは二度のバルカン戦争によって明らかになり、この民族問題は第
1 次世界大戦を引き起こす要因のひとつとなった。それどころか、ヒトラーの第 2 次世界大
戦、そして、20 世紀後半のコソボ紛争やユーゴスラヴィア解体にいたるまでこの民族問題
は未だ解決されておらず、今日まで持ち越されている問題である。 【④アブデュルメジト 1 世のタンジマート(改革。1839 年~76 年)】 マフマト 2 世の子で後を継いだアブデュルメジト 1 世(在位:1839~61 年)は、改革の
志半ばで病に斃(たお)れた先帝の改革をさらに押し進めようと決意した。1839 年 11 月、
ボスポラス海峡を見下ろすトプカプ宮殿の外庭に、ギュルハネ(バラ宮を意味する)と呼
ばれる一角があるが、そこに大宰相ムスタファ・レント・パシャが,スルタンのアブデュ
ルメジト 1 世臨席のもとに、各国外交団、文武の高官、ウラマー,キリスト教聖職者、市
民の有力者などを前に一つの詔勅を呼び上げた。これがギュルハネ勅令であった。 この勅令は、改革派官僚ムスタファ・レシト・パシャが起草したもので、全面的な改革
政治を開始することを宣言し、行政から軍事、文化に至るまで西欧的体制への転向をはか
るタンジマート(改革)の基本方針を示した。タンジマートとは、「再編成」や「組織化」
を意味する言葉であり、1839 年から 76 年まで続く改革運動を指した。 アブデュルメジト 1 世は、タンジマートのもとでオスマン帝国は中央集権的な官僚機構
と近代的な軍隊を確立し、ヨーロッパ型国家への転換を進めていこうとした。この改革は、
アジア、アフリカなど(ヨーロッパや北米以外の地域)における最初の体系的な近代化の
試みでもあった(日本の明治維新より約 30 年早かった)。タンジマートは、清の洋務運動、
タイのチャクリー運動、日本の明治維新など、アジアの「欧化」の先駆でもあった。 アブデュルメジト 1 世は、首都のイスタンブル郊外に 150 ほどの官営工場をつくった。
また、没落したギルドを会社経営や協同組合に変える努力をして、7 組合が生まれた。しか
し、莫大な国庫金を投入するわりには、欧米人の投機家と国内のユダヤ人やアルメニア人
など少数民族の業者だけがもうけるという結果になった。キリスト教徒やユダヤ教徒が利
益を得る反面、ムスリムが「民族ブルジョワ」に成長することはなかった。しかも、改革
や産業化に必要となる膨大な費用は、すべて民衆の税負担によってまかなわれていた。 結局、オスマン帝国のタンジマートは、欧化した支配エリートとイスラムにこだわる民
衆との断絶も生んだ。守旧派と開明派との伝統的な政争も、改革の実現を阻んだ。全体と
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
してオスマン帝国の近代化の努力の成果は上がらず、帝国の解体は着実に進んでいったと
いえる。 ○クリミア戦争 クリミア戦争は、ロシアのニコライ 1 世が、聖地管理権問題にからんでオスマン帝国領
内のギリシャ正教徒の保護を口実に、1853 年 7 月、モルダヴィア(現在のモルドバ共和国)
とワラキア(現在のルーマニア南部でルーマニアの首都ブカレストがある地域)に宣戦布
告なしに進軍したことから起きたことはのべた(図 13-47 参照)。クルミア戦争はロシア
とオスマン帝国の戦争に英仏がオスマン帝国側にたって参戦したが、ロシアの歴史で述べ
たので省略する。 1855 年、ニコライ 1 世が死去すると、後継したアレクサンドル 2 世は和平交渉を開始し
1856 年 3 月にパリ条約が成立した。パリ条約では、ドナウ川沿岸の公国に対するロシアの
特権は列強に譲渡され、黒海沿岸にはオスマン帝国もロシアも一切の海軍施設および海事
に関わる軍需工場を設けないことが約束された。これにより、オスマン帝国に対するロシ
アの脅威は大きく減じた。さらに列強により、オスマン帝国の独立および領土保全を尊重
することが約束された。 この戦争で産業革命を経験したイギリスとフランス、産業革命を経験してないロシア(も
ちろんオスマン帝国も)の国力の差が歴然と証明された。建艦技術、武器弾薬、輸送手段
のどれをとってもロシア(もちろんオスマン帝国も)はイギリスとフランスよりもはるか
に遅れをとっていたのである。 ○欧化と外債依存 トルコの最初の借款は 1854 年であり、まもなくイズミルとアイドウン間の鉄道敷設も外
国人に認められた。イギリス資本によるオスマン銀行も 56 年につくられた。エジプトでも、
レセップスにスエズ運河の開削権が与えられたのも同じ年であった。エジプトで最初の外
債が起債されるまで、それから 10 年もかかっていない。チュニジアも外債の重圧に苦しみ、
英仏伊 3 国の財産管理を受けることになった。 このようにイスラム世界の国々はやすやすと外国に多額の借金をした。これは同時代(明
治時代)の日本とくらべてみるとわかる。その理由として、オスマン帝国やエジプトのエ
リートに経済通が少なかったことであるといわれている。日本もオスマン帝国も富国強兵
には意を用いたが、勧業政策に取り組んだ日本の政治家(たとえば大久保利通、松方正義、
渋沢栄一、学では福沢諭吉など)とはちがい、殖産興業に地道に取り組むパシャたちは少
なかった。 欧化を目指す改革に必要な財政支出を、自国の経済発展からではなく、西欧列強からの
外債導入に安易に頼ると、結果は目に見えている。クリミア戦争の戦費も外債から調達さ
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れた。その後も、打ち続く戦争の膨大な戦費が外債への依存を強めた。事態はエジプトも
同じであった。オスマン帝国の財政が破産したのは 1875 年であり、エジプトが英仏に債券
管理という名の破産宣告を受けるのはその翌年の 1876 年であった。 ○新オスマン人 近代ヨーロッパの新しい理念を受けいれて、言論と結社の自由、民衆の政治参加、立憲
君主制などを主張する人々が現れてきた。彼らはみずから「新オスマン人」と名乗り、新
オスマン人協会という結社をつくって、政治の舞台に乗り出したが、その目標は立憲制の
実現にあった。ヨーロッパの 1848 年の革命が失敗した後、トルコに亡命していたハンガリ
ー人やドイツ人から急進思想を受けた者も多かった。まもなく陰謀は発覚して,主要メン
バーは国外に亡命した。彼らはパリやロンドンを舞台に新聞・雑誌を発行して,活動を続
けた。1870 年代に入ると、帰国した新オスマン人の努力で,立憲主義運動が帝国に広がっ
た。 【⑤オスマン帝国憲法(ミドハト憲法)】 ○ミドハト・パシャの改革 オスマン帝国の立憲主義者たちの期待は、開明派のタンジマート官僚として頭角を現し
ていたミドハト・パシャ(1822~1884 年)に注がれた。もともと、ブルガリアのルスチュ
ク生まれの下級イスラム法官を父としたミドハトも、実務官僚の出身者であった。有能な
行政官であるばかりではなく、進歩的思想の持ち主としても注目され、新オスマン人たち
の期待を一身に集めた。 中央で要職を歴任したミドハトは、1872 年に大宰相に昇りつめた。1876 年、失政と浪費
癖が目にあまるようになったアブデュルメジト 1 世を断固として廃位させた。かわってス
ルタンになったのは、甥の開明派のムラト 5 世であったが、間もなく先帝が自殺すると精
神に変調をきたしたムラト 5 世も廃された。そのあとには性格も経綸も未知なムラト 5 世
の弟アブデュルハミト 2 世(1876~1909 年)を即位させた。そして、自らは新帝の勅令に
基づいて設立された制憲委員会の委員長に就任した。 こうして制憲委員会が起草したオスマン帝国憲法の草案は、心中では専制君主になりた
いと考えていたアブデュルハミト 2 世の手による修正を組み入れて 1876 年 12 月 23 日に公
布された。その直前の 12 月 17 日に大宰相に就任していたミドハト・パシャは第 1 次立憲
制最初の大宰相となった。 これが「アジア最初の成文憲法」と言われるオスマン帝国憲法(通称ミドハト憲法)で
あった(明治憲法より 13 年早かった)。憲法はオスマン帝国がヨーロッパ型の法治国家で
あることを宣言し、帝国議会の設置、ムスリムと非ムスリムのオスマン臣民としての完全
2152
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
な平等を定めていた。そして、この憲法の内容は主にそれまでのタンジマートによる諸成
果を踏まえたものであった。 ところが憲法に対して保守派の間で激しい抵抗があり、また、アブデュルハミト 2 世は
憲法によって自らの権力が制限されることを警戒し、憲法に対して否定的であった。アブ
デュルハミト 2 世は、皇帝が国家にとって危険人物を国外追放できるという君主大権条項
を加えることを主張した。憲法公布を急ぐあまりミドハト・パシャもそれを呑んだ。これ
でアブデュルハミト 2 世と妥協し、なんとか発布にこぎ着けたのであった。 ○命取りとなった憲法の君主大権 ところが、憲法制定を巡る経過においてミドハトが国内の改革派や外国からの支持を集
めて政治家としての地歩を固めたことに反感をもった反ミドハト派の政治家たちが専制復
活を望むアブデュルハミト 2 世と結託して巻き返しをはかり、憲法公布(1876 年 12 月)か
ら 3 ヶ月後、つまり、1877 年 2 月にミドハト・パシャは憲法に定められた危険人物と断定
され、大宰相を解任されて国外退去を命ぜられた(後に逮捕され処刑された。ミドハト・
パシャにとって、憲法に君主大権を認めたことが一生の不覚だった)。 そればかりかアブデュルハミト 2 世は、翌 1878 年 2 月には同じく憲法の定めた君主大権
による非常事態宣言に基づいて憲法を停止し、議会(下院)も閉鎖しまった。こうしてミ
ドハト・パシャの樹立した第 1 次立憲制はわずか 1 年 2 ヶ月で終焉をむかえ、以後 30 年に
及ぶアブデュルハミト 2 世の専制体制が始まることになった。 【⑥30 年にわたるアブデュルハミト 2 世の専制政治】 ○東方問題の再発 クリミア戦争後、ロシアの黒海方面への南下政策はにぶり、いわゆる東方問題もしばら
く起きなかった(この時期、ロシアはイラン・アフガニスタン方面で南下政策を進めていた
ことは述べた)。 バルカン半島では、自由主義運動の波及にともない、共通の文化をもつ全スラヴ民族の
団結をはかろうとする「パン・スラヴ主義」がおこり、オスマン帝国の支配に対抗しようと
し、1875 年にヘルツェゴビナでオスマン帝国に対する反乱が起こった(図 13-47 参照)。
反乱はボスニアとブルガリアに波及した。ヘルツェゴビナ、ボスニア、ブルガリアの反乱
にセルビアとモンテネグロが介入し、オスマン帝国の困窮はここに極まれりという状態に
なった。ロシアはオスマン帝国のこの窮状を最大のチャンスと見て、再びオスマン帝国に
介入しようと南下政策を再開した。 ○露土戦争(1877~78 年)とサン・ステファノ条約 2153
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
1876 年 8 月には反乱はなんとか終息に向かったが、この鎮圧でオスマン帝国領内のギリ
シャ正教徒が多数殺害されると、1877 年、ロシアはこれを口実にオスマン帝国に宣戦した。 ここに再び露土戦争が勃発した(露土戦争はたびたび起こっていることは述べた)。 オーストリア・ハンガリー帝国は、ロシアと秘密協定を結び中立を維持した。そのライ
ヒシュタット協定では、戦争によりロシアがベッサラビア(図 13-47 参照。当時のモルダ
ビア公国の一部、現在はルーマニアとウクライナの間にある「モルドバ共和国」)を、オー
ストリア・ハンガリーがボスニア・ヘルツェゴビナを獲得することを約束していた。つま
り、ロシアとオーストリア・ハンガリーでお互いにオスマン帝国を切り刻むことを約して
いたのである。 イギリスは、南アジア方面(イラン方面。クリミア戦争後、しばらくロシアの南下政策
がにぶったといったが、実際には、この期間、ロシアはイラン・アフガニスタン方面で盛
んに南下政策を進めていた)でのロシアの脅威を危惧して、バルカンでの露土戦争には介
入しなかった。ロシアは、孤立したオスマン帝国に圧勝し、1878 年 2 月、サン・ステファ
ノ条約(図 13-47 参照。サン・ステファノはイスタンブル西方の村)を結んで多額の賠償
金を獲得した。 ○ベルリン会議 しかし、このようなロシアの勢力拡大に対しイギリスをはじめとする列強は反発し、ド
イツの宰相ビスマルクは、列強の利害を調整するため、1878 年 6 月、ベルリン会議を開催
した。ビスマルクは公平な仲介者と自称しながら、イギリス首相ディズレーリと結んで、
ロシアにサン・ステファノ条約を破棄させ、ベルリン条約を結ばせ、ロシアの野望をくじ
いた。 その結果、図 14-40 のように、ルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立はそのまま
承認されたが、その境界は狭められた。さらに、サン・ステファノ条約によってロシアの
影響下にオスマン帝国から独立したブルガリアは、列強の勢力均衡外交のもとにベルリン
会議では分割され(ブルガリアと東ルメリア)、結局はオスマン帝国の宗主権のもとに半独
立国にとどめられた。この決着では民族問題が未解決に残り、後に、2 度にわたるバルカン
戦争や第 1 次世界大戦の要因の一つとなった。 また、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリアの管理下におかれた。しかし,後にオ
スマン帝国で青年トルコ人革命が起きると混乱に乗じてオーストリアに併合された。この
ことが、また第 1 次世界大戦の要因ともなった。 このベルリン会議によって列強間の利害問題としての「東方問題」に一応の決着がつけ
られ、1880 年代のヨーロッパは「ビスマルク体制」のもとで一応の安定がもたらされたか
に思われた。前述したように、これ以降、「東方問題」という言葉はあまり使われなくなっ
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
た。しかし実際にはバルカン諸民族はこのベルリン会議の決着に納得しておらず、バルカ
ン半島は紛争の火種を抱えて「ヨーロッパの火薬庫」であり続けた。 ベルリン会議以降の 19 世紀後半、オスマン帝国をめぐる列強の関係は変化した。ロシア
皇帝はベルリン会議でのサン・ステファノ条約の修正(破棄)を不服として三帝同盟を脱
退し、ビスマルクの巧みな外交によって孤立させられていたフランスと徐々に接近する姿
勢を見せた。 図 14-40 ベルリン会議後のバルカン半島 ドイツはオスマン帝国に友好的であり、オスマン帝国の軍事と財政の制度改革に協力し、
そのかわりにバグダード鉄道の敷設権と商業上の特権を認められ、オスマン帝国内の重要
な経済市場に参入しはじめた(3B政策〔ベルリンービザンツーバグダード〕の開始)。ビ
スマルクは公平なる仲介人といいながら、役得から弱体化したオスマン帝国に侵入する余
地を見出した。 このような傾向は以前のオスマン帝国にとって重要な同盟国であったイギリスとドイツ
を、オスマン帝国領内のさまざまな利権を巡って対立させることとなった。つまり、ロシ
アの南下政策とイギリスのインドへのルートとしてオスマン帝国を維持する政策がぶつか
っていたが、今後はその上に、イギリスの政策といわゆるドイツの 3B政策が、ぶつかるよ
うになっていったのである。 2155
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
一方でイギリスはとくにエジプト以南のアフリカ分割問題を巡って対立していたフラン
スとは徐々に和解し、両者は 1904 年に英仏協商を結んで協調関係に入った。(ドイツに恨
みを持つ)ロシアもイギリスに接近し、1907 年に両国は英露協商を結び、英仏露の三国は
三国協商と呼ばれる協調体制を形成した。ここに英仏露と独の対立の萌芽が見え、帝国主
義時代へと移っていったのである。 ○アブデュルハミト 2 世の専制政治 アブデュルハミト 2 世(1876~1909 年)は、ロシアとはサン・ステファノ条約を結んで
講和し、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアの独立とブルガリアへの自治権付与を認め
ざるを得なかったが、前述のようにベルリン会議の結果、マケドニアはオスマン帝国に返
還されることになったものの、オスマン帝国がバルカン半島における領土の多くを失った
ことに変わりはなく、帝国の重心は徐々にアナトリアに移ることになった。 イスタンブルのユルドゥズ宮殿に引き籠もったアブデュルハミト 2 世は皇帝による専制
政治の強化を行ない、秘密警察を結成して密告を奨励した。さらに国民の不満を抑えるた
めに軍部を利用して厳しい弾圧を行なった。以後 30 年にわたる彼の治世中における弾圧で
殺された者は数知れなかった。 このような閉鎖的な専制政治に籠もっている間に、欧米列強の帝国主義とバルカン諸国
の独立運動の足音が確実に近づいてきていることに専制独裁者はまったく無頓着だった。 【14-5-2】エジプト 【①ムハンマド・アリーのエジプト】 エジプトは、オスマン帝国のスルタンのセリム 1 世が 16 世紀初めにマムルーク朝を滅ぼ
して以来、オスマン帝国の一州であった。オスマン帝国は,新たに征服したファラオの故
地を支配するために、ヴァーリーと呼ばれる総督を派遣した。これは、スルタンの権力に
等しい絶対的な主権を任地で行使する代理者であった。エジプト州では、1805 年にムハン
マド・アリー(1769~1849 年)が叙任されるまでに 120 人の総督が任免されていた。 その約 300 年続いていたオスマン帝国のエジプト州に 1798 年、突然、ナポレオンのフラ
ンス軍が上陸してきたことは述べた。このナポレオンのエジプト遠征は、エジプトにムハ
ンマド・アリーという傑物を生み出した。ムハンマド・アリーは、マケドニア地方の東部
の港町カヴァラ(現ギリシャ領テッサロニキ近郊)で 3 代続いた下級軍人の家庭に生まれ、
父親は不正規部隊の指揮官を務めていた。 オスマン帝国は、ナポレオン軍との戦いのためにバルカン半島方面から不正規軍隊を派
遣したが、その一部としてアルバニア人不正規軍 300 人のカヴァラの副隊長としてムハン
マド・アリーはエジプトに派遣された。ムハンマド・アリーは、優れた軍才と政治能力を
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
発揮してたちまちオスマン帝国軍の間で頭角を現していった。フランス軍が撤退した 1801
年には、アリーは全アルバニア人不正規軍の副司令官にのぼっていた。 イギリス軍が 1803 年にエジプトを撤収すると、エジプトで権力の空白が起こり、エジプ
トに集結したオスマン帝国軍の内部で新たなエジプトの支配者の座を巡る対立が起こった。
その中心は,徴税請負などで財力と兵力を蓄えたマムルークたちであり、その徴税請負人
が農村の末端にまで支配をおよぼしていた。 たちまちオスマン帝国軍はエジプトの主導権を巡る内紛を起こした。アリーはエジプト
総督、マムルークを次々に破って混乱を収拾し、1805 年にカイロのウラマー(宗教指導者)、
市民による推挙という手続きをとって自らパシャ(文武高官の称号)に就任することを宣
言した。異国の地で権力の座に昇りつめたのは、この男の非凡さを物語っているといえよ
う。 オスマン帝国のセリム 3 世も既成事実をつきつけられて、やむなく前任のエジプト総督
の罷免、ムハンマド・アリーの総督就任とパシャの称号授与を許した。これにより、ムハ
ンマド・アリーは名実ともにエジプトの支配者としての第一歩を踏み出した。 アミアンの和約を破棄しエジプトを対仏戦の拠点として確保しようとするイギリスは、
1807 年 4 月、親英派マムルークと結びついてエジプト上陸を敢行しが、ムハンマド・アリ
ーのエジプト軍に大敗を喫した。この戦いの結果、ムハンマド・アリーに抵抗していたマ
ムルークたちはその軍事力に威圧されることになり、1809 年までに全てのマムルークがム
ハンマド・アリーに屈服した。 1811 年 3 月 11 日、ムハンマド・アリーは出征壮行式典を名目として 500 人のマムルーク
たちをカイロのシタデル(城塞。現在のムハンマド・アリー・モスクのある城塞)に招き、
その帰路にシタデルからカイロの町に降りる途中の隘路で挟撃・虐殺し、降服したものも
斬首するという強硬手段を行ってマムルークを一掃した。これにより過去 300 年間にわた
って存在しなかったエジプト全域に対する総督の支配が実現した。ムハンマド・アリーに
は目的のためには手段を選ばぬ一面があった。 ○ムハンマド・アリーの富国強兵策 ムハンマド・アリーの関心は、いかにすれば国富を豊かにし,エジプトがヨーロッパに
太刀打ちできるか、つまり、富国強兵という一点にあった。 《農産物の専売制と直接徴税》 彼は,全国検地による徴税強化、政府が自ら最大の商人として最大の生産管理者となる
独占(専売)に解答を得た。彼は戦乱で荒廃したデルタ地方の灌漑水路を復興させ、とく
に作付け指定をした棉花栽培をアメリカと肩をならべるまでに成長させる基礎をつくりだ
した。それとともに、通年の溜池式の灌漑体系も整備し、小麦、大麦、亜麻、エジプト・
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
クローバー、タバコ、アヘン、米、棉花、インディゴ、サトウキビ、桑・繭などを生産さ
せた。 ムハンマド・アリーは税制改革を断行し、農地の直接徴税制を導入して、イスラム法(シ
ャリーア)に定められたイスラム国家の原則である土地の国有制を再確認させた。そのた
めに徴税請負人からの請負権の没収、免税地への課税が段階的に進められ、1814 年までに
徴税請負制が全面的に廃止された。ムハンマド・アリーの税制改革により、全ての農地は
国税台帳に記載されて政府からの直接徴税を受けることになり、わずか十数年の間に税収
の総額は額面にして約 10 倍に激増した。 農業生産を国家の収入とするためのもうひとつの方策は、莫大な利益をもたらす外国向
けの輸出を独占することであり、政府が公定価格で農民から収穫物を購入して高価格で外
国商人に販売する専売制をとった。エジプト小麦は主にイギリス軍に供給され、エジプト
財政に莫大な利益をもたらした。この成功により、専売制の利を悟ったムハンマド・アリ
ーは、ナポレオン戦争の終結した 1816 年以降は商品作物に専売を拡大した。 こうして綿花、サトウキビ、亜麻、絹、胡麻、蜂蜜などが専売制で取引されるようにな
ると、専売制による収入は政府歳入の 4 分の 1 強に及んだ。国外からの需要がとくに多か
ったのは綿花であり、ムハンマド・アリーの治世後期には綿花栽培が隆盛を迎えた。 しかし、この農産物の専売制は、国内の食糧危機と消費用穀物の不足を招いただけでな
く、農民の労働意欲を奪うことにもなった。 《強制労役》 オスマン帝国やマムルーク以上に苛酷であったのは、賦役つまり強制労役であった。ム
ハンマド・アリーの時代になると、堤の維持補修といった伝統的な公共奉仕からはずれて、
灌漑や飲料用の淡水や物品輸送のための運河掘削、ダム建設など賦役の範囲が大きく広が
った。ムハンマド・アリー時代の運河掘削による土仕事の総量は約 7188 万から 7912 万立
方メートルと推定され、一人の農民が平均 60 日、年に 40 万人の農民が働いたと考えられ
ている。 《徴兵制度》 さらに、国内外の戦争を支えるための徴兵も新しい制度であった。そのやり方は、兵士
の一団が、農村を急襲し、男を捕らえ、男たちを縛った鎖にロープを通して数珠つなぎにし
て、県庁所在地に引っ立てた。男たちの母、妻、子供たちが泣き叫び、嘆き悲しみながら、
その後を追った。でも仕方がなかった。県庁所在地に着くと、医者が男たちから軍役に適し
ている者を選び出した。まったくアフリカ(エジプトもアフリカであるが)の奴隷狩りと
同じだった。 2158
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
しかし、このようなエジプトの徴兵制は残酷な制度であることには違いがなく、エジプ
トでは、徴兵拒否のために、砂漠に逃げるだけでなく、すすんで体の一部を傷つける者(指
や腕を切り落としたり、目をつぶしたりして)が多かったことである。1848 年の上エジプト
のある村の例では、成年男子の 1466 人のうち、1273 人が自ら体を損ねて兵役不適格者にな
っていた。 《洋式兵器・設備・技術の導入》 ムハンマド・アリーは改革で得た豊かな収入を財源として、西洋式の新式軍を整備し、
西洋式の兵器を国内で生産するための軍需工場を建設した。また、軍需工場以外にも近代
的な工場を国営で設立し、重要な輸出品である織物の工場生産を目指した。 最大の事業はヨーロッパの最新技術を導入した工場制工業の建設にあった。1830 年代初
頭には、1400 のミュール精紡機、1700 の織機をもつ 30 工場が稼働していた。それから 10
年たつと、工場は 47 に増えて,毛織物や絹織物なども工場生産できるようになった。また、
造兵廠や造艦廠をつくって、兵器の一部を自前でつくるようになったのもムハンマド・ア
リーの功績であった。 また、これらを支える人材を確保するためにフランスをはじめヨーロッパ諸国から軍人
や技術者、教師を招いた。エジプト人に近代的な知識を身につけさせるためヨーロッパ出
版物の翻訳・出版を行う翻訳局が設立され、優秀な若者はパリに留学生として送られた。 1822 年にはムスリム(イスラム教徒)を対象とする徴兵制が実施されたが、翌年その対
象はエジプト社会の少数派であるコプト教会のキリスト教徒にまで拡大された。 またヨーロッパ人を教師とする近代的な高等学校が設立され、伝統的なイスラム教育に
かわって実用的な学問を教える中等・初等学校が設立された。 このように、ムハンマド・アリーは税制や教育、兵役など民衆の義務については、あら
ゆる面で全エジプト人が宗教の帰属にかかわりなく平等に扱われる新時代の道を開いた。
その結果、伝統的なイスラム共同体の枠組みを越えた近代的なエジプト国民の意識が創出
されていくことになった。 ムハンマド・アリーは、このように、のちに日本の明治政府が行なう富国強兵策と同じ
ような政策を数十年前に実施し、ある程度成功していた。 ○ムハンマド・アリーの軍事的拡大 ムハンマド・アリーがエジプトで着々と改革を進めていた頃、アラビア半島の内陸部ナ
ジュド地方(アラビア半島の中央部にある高原地帯で、サウジアラビア王国の首都リヤド
の所在地)では第 1 次サウード王国がイスラム教の改革思想であるワッハーブ主義を掲げ
て勢力を拡大しつつあった。オスマン帝国は、ワッハーブ運動の拡大を防ぐためサウード
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
王国と戦う必要に迫られたが、軍事力が弱体化していたので、ムハンマド・アリーに応援
を要請した。 1818 年、ムハンマド・アリーの長男イブラーヒーム率いるエジプト軍はアラビア半島に
進軍した。ワッハーブ派は、ヨーロッパ式火器で武装したエジプト軍の敵ではなかった。 ワッハーブ軍を打ち破って第 1 次サウード王国(ワッハーブ王国)を滅亡に追いやった(図
14-38 参照。その後、10 年足らずのうちに再建された第 2 次サウード王国(ワッハーブ王
国)もエジプト軍の攻撃を受けると再び解体したが、ワッハーブ派は三たび権力を掌握し
てアラビア半島統一に成功した。この指導者イブン・サウードが、現在のサウジアラビア
王国の祖である)。 このワッハーブ派鎮圧で自信を得たムハンマド・アリーは 1820 年から積極的な拡大政策
を取り、ナイル川上流のスーダンに進出してその北部を版図に加えた(図 14-38 参照)。 これと同じ頃、1821 年に勃発したギリシャ独立戦争でもギリシャ軍を独力で鎮圧できな
いオスマン帝国の求めに応じ、ギリシャに派兵した。しかしこの戦いではイギリス、フラ
ンス、ロシアがギリシャ側について参戦し、1827 年のナヴァリノの海戦でオスマン・エジ
プト連合艦隊が大敗を喫するなど大きな犠牲を払った末に失敗(敗戦)したことは述べた。 《エジプト独立の野望》 ムハンマド・アリーはだんだん軍事的に実力をつけていきたが、「成り上がり」ゆえの
悩みもあった。それは、彼が依然として公式にはスルタンの臣下(エジプト総督)のまま
であり、エジプトが主権独立国ではなかった点であった。ヨーロッパ列強もその力量を認
めながら、カイロに大使を置くことはできず、アレクサンドリアに総領事を派遣すること
しかできなかった。 鋭敏鋭利なムハンマド・アリーには、先が見えていた。オスマン帝国が「ヨーロッパの
病人」としてヨーロッパ列強の間で分割される危険を察知していた。ということは、その
混乱にまぎれて、イギリスやフランスがエジプトを獲得する危険性があるということであ
った。この運命から逃れる道はなにか。その前に独立しておくことだった。 そこで、彼は、オスマン帝国とヨーロッパ諸国が受容できる範囲内で野心を徐々に実現
しようとした。まずは、自分の家系によるエジプト世襲支配の確立を狙った。この構想を
実現するために、外交努力や産業基盤の整備だけでなく、フランス人軍事顧問に頼って強
力な陸海軍の建設と徴兵制の実施に乗り出した。 しかし、彼は、軍事的近代化に熱心なあまり外国から債権や借款を導入した他のイスラ
ム君主たちとちがって、財源を外債に頼ろうとはしなかった。少なくとも彼の時代には、
のちの日本の明治維新政府と同じように殖産(とくに農業であったが)興業による富国強
兵に徹し、健全経営を試みようとしていた。ムハンマド・アリーは、外債、つまり、外国
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
からの借金をかたに保護国や植民地にされてしまう事例をよく知っていたのである。それ
がヨーロッパの強国がアジア・アフリカでやってきた常套手段であることを認識していた。 つまり、健全財政を守りながら実力を貯えていった点においても、ムハンマド・アリーは
やはり傑物であったことは確かである(しかし、親の心、子知らずで(彼の場合、孫が継
いだが)、外債依存がムハンマド・アリーの孫たちの常套手段となり、英仏に財政管理権
を握られ、結局、エジプトを半植民地の状態におとしめてしまうことになる)。 ムハンマド・アリーは具体的に独立への布石をいろいろ試みた。第 1 次エジプト・トル
コ戦争(シリア戦争)において、イギリス、フランス、オーストリアがオスマン帝国に干
渉し、1833 年、オスマン帝国がムハンマド・アリーにエジプト・シリアの終身統治権を譲
ることで和解させた(アリーの目的は世襲統治権だったが、アリー1 代の終身統治権に値切
られてしまった)。 しかし、第 1 次エジプト・トルコ戦争は結果としてムハンマド・アリーの政治的勝利に
終わり、エジプトは先に手に入れていたスーダンと、新たに支配下におさめたシリアに加
え、アラビア半島中央部のナジュド地方やイエメンも勢力圏内に置き、オスマン帝国宗主
権下のアラブ圏に広大な支配地域を確立した(図 14-38 参照)。 しかし、この戦争は宗主国であるオスマン帝国のムハンマド・アリーに対する敵意をあ
おり、またペルシア湾やアデンでムハンマド・アリーと勢力圏を接するようになったイギ
リスとの対立関係を深めることになった。そもそもイギリスは、親フランスであるムハン
マド・アリーが勢力を拡大することで、軍事的な要衝である西アジアに対する自国の影響
力が失われることを恐れていた。 《通商条約の仕掛け》 イギリスが 1838 年 8 月にオスマン帝国と結んだ通商条約には巧妙な仕掛けが施されてい
た。 もともとの話は、オスマン帝国が 1535 年にフランス商人に与えたキャピチュレーション
(貿易特権)にまでさかのぼる。これは、かつてはオスマン帝国自らの優越性の象徴とし
て、弱者たるヨーロッパのカーフィル(不信者)に与えた(恵んだ)特権であったが(こ
のころ神聖ローマ帝国カール 5 世に対抗するため、フランスはオスマン帝国と結んでいた)、
めぐりめぐって近代に入ると不平等条約の代名詞となってしまった(中国が中華意識で朝
貢貿易を続けたのと似ている)。ヨーロッパ諸国は既得権として横並びで要求してきたの
である。 1838 年にオスマン帝国がイギリスと結んだ通商条約になると、政治と経済両面での弱者
のオスマン帝国が強者のイギリスを保護する片務的な不平等条約に転化してしまった。こ
れほど馬鹿げた制度の変質も世界史では珍しいが、オスマンでこのような前例ができたた
2161
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め、これに味をしめた欧米列強は、その後、アジア、アフリカ諸国にも強要し、幕末の日
米修好通商条約にも見られたことは、オスマン帝国の歴史のところで述べた。 このオスマン帝国が 1838 年にイギリスと結んだ通商条約は、ムハンマド・アリーに打撃
を与えた。これは、オスマン帝国全土におけるイギリス人の通商貿易権、イギリスの既成
特権の確認、帝国からの輸出入税と通過税の一律賦課を定めていたからである。国際法上、
エジプトはまだオスマン帝国の主権下にあったので(アリーは第 1 次エジプト・トルコ戦
争(シリア戦争)のとき、独立を強くもとめていたが、認められなかった)、オスマン帝
国が結んだ条約などには従わざるをえなかったのである。 輸出品に 12%もの関税をかけられると、オスマン帝国でも、エジプトでも、外国人とく
らべて不利な立場におかれてしまった。これでムハンマド・アリーが築いてきたエジプト
の重要生産物の国家専売体制も大打撃を受けてしまうことになった。イギリスの動きは露
骨なエジプト排斥であった。 ちなみに、1836 年頃には、輸入の 40%、輸出の 95%がエジプト政府による貿易取引であ
った。1821 年の例では、小麦の政府直売価格は、買い上げ価格の 1.6 倍になっていた。こ
の政府指定価格による需給の操作が膨大な差益を生み、1821 年には財政収入の 28%、1833
年には 22%を占めていた。このように 20 年代から 30 年代のエジプトの国家財政はすこぶ
る健全であり、収入が支出を上回っていたのである。 ○第 2 次エジプト・トルコ戦争(シリア戦争) 1830 年代の後半に入ると、老境に入ったムハンマド・アリーは自身の死後のことも考え
ると、エジプトとシリアの自立と近代化を進めるためには、エジプト支配圏をオスマン帝
国の宗主権から完全に独立させる必要性をより強く感じるようになっていた。 そのようなとき、この通商条約が結ばれた。この通商条約の仕掛けは、鋭敏鋭利のムハ
ンマド・アリーにはすぐにわかり、このままの状態ではエジプトがどうなるかも予測でき
たであろう。彼は、自分に強制された束縛の性格を知ると、すぐさま独立する決意をした。 ムハンマド・アリーはフランスなどの支持を得てエジプトの独立をオスマン政府に認め
させようとしたが、イギリスをはじめ列強の強い反対にあって失敗した。 逆に、この要求を知ったマフムト 2 世はムハンマド・アリーに対する敵意をより募らせ、 ムハンマド・アリーを懲らしめる決意をした。マフマト 2 世がムハンマド・アリーを打ち
負かすには、イギリスとの同盟が不可欠であった。イギリスはオスマン帝国支持ではあっ
たが、オスマン帝国の領土の保全が脅かされたときならいざしらず、シリアの再征服など
軍事的な冒険にまで、つきあうつもりはなかった。マフマト 2 世は 1839 年 4 月に軍事同盟
の発動についてイギリスから否定的な回答を受けていたにもかかわらず、先がないことで
2162
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あせっていたのだろう、重病の身をおして第 2 次エジプト・トルコ戦争(シリア戦争)の
開戦の勅を下した。 オスマン帝国軍は、エジプトのシリア司令官イブラーヒームが駐留するアレッポに向け
て進撃したが、数週間もたたないうちに、崩壊の危機に瀕した。1839 年 6 月になると、エ
ジプト軍から壊滅的な打撃を被った。この悲報が首都に届く前にマフマト 2 世は逝去した。 新たに即位したアブデュルメジト 1 世は若くマフムト 2 世ほどの指導力に欠け、オスマ
ン政府はムハンマド・アリーの子孫にエジプトの総督職を世襲させるという妥協案を提示
して和解をはかろうとした(ここでもオスマン帝国はエジプトだけに値切ろうとした)。 ムハンマド・アリーはこれを聞いて自らイスタンブルに赴き、シリアとアダナ(トルコ
中南部の都市)についても世襲の権限を要求した。オスマン帝国がムハンマド・アリーの
要求を受諾しそうになったときヨーロッパ列強はただちにこれに介入した。フランスはム
ハンマド・アリーに同情的であったが、イギリスは列強の協調により圧力をかけようとし、
1840 年 7 月にロシア、オーストリア、プロイセンとロンドンで 4 ヶ国協定を結んでムハン
マド・アリーに撤兵を迫った。 イギリスはオスマン帝国と共同でシリアへの上陸作戦を敢行し、またこれに呼応してシ
リアの各地でオスマン帝国に扇動された反乱がおこった。1840 年 11 月、イギリス艦隊がエ
ジプトの目前に迫るとムハンマド・アリーはついに屈服した。長い交渉の末、翌 1841 年 6
月に、(エジプトは名目的にはオスマン帝国の宗属関係にとどめおかれたが)ムハンマド・
アリーの子孫にエジプト(スーダンを含む)総督職の世襲を認める代償としてシリアおよ
びアラビア半島の全領土の放棄、陸軍兵数の制限、軍艦新造の禁止などムハンマド・アリ
ーにとって厳しい条件で和平が結ばれた。 第 2 次エジプト・トルコ戦争はムハンマド・アリーの政治的敗北に終わったが、エジプ
トはイスタンブルのオスマン政府からの政治的自立とムハンマド・アリー朝による世襲支
配を承認され、近代の独立エジプト国家の礎が開かれることになった。 《ムハンマド・アリーの死とエジプトの衰退》 しかし、前述したように 1838 年にイギリスはオスマン帝国と通商条約を結び、オスマン
帝国全土におけるイギリス人の自由貿易を認められ、関税を帝国全土で一律にかけること
も認められていた。これが条文通りに適用され、オスマン帝国の一部であるエジプトはイ
スタンブルが列強に押し付けられて認めた低い関税率を適用せざるを得なくなり、専売貿
易制は大打撃を受けることになった。ロンドン 4 ヶ国協定はエジプトの独立を否定したう
えに、エジプトが通商条約を遵守することを求めたので、屈服したムハンマド・アリーも
これを飲まざるを得なかった。 2163
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
こうしてエジプトに自由貿易が適用され、専売制に基づく貿易の国家独占は否定され、
専売制は崩壊した。また工業の分野でも、生産技術が未熟で高コストな製品しかつくれな
い国営工場を辛うじて守っていた高い関税が撤廃された結果、多くの工場が閉鎖を余儀な
くされた。 1820 年代から 30 年代のアラブ地域におけるヨーロッパとエジプトとの貿易支配のバラン
スは、1840 年代以降には大きく変わった。40 年代以降の自由貿易の強制によって、イギリ
ス製品やインドの物産が大量にエジプトに流入したので、ムハンマド・アリーがつくった
官営工場の綿布や綿糸生産は大きな打撃を受けた。染料に用いる藍のインディゴも大きく
生産を減らした。 経済発展の資本を農業収入に頼る脆弱なエジプトの近代化は、ムハンマド・アリーのよ
うな専制君主の支配する強力な中央集権国家が外国の干渉を退けつつ進めなければ実現不
可能な大事業であった。しかし、エジプトはあくまでオスマン帝国の属州に過ぎないとい
う前提条件と、政治的・軍事的に重要なエジプトが独力で近代化することを望まない列強
の干渉というふたつの大きな政治的限界を、ムハンマド・アリーは乗り越えることができ
なかった。こうしてムハンマド・アリー晩年のエジプトでは、近代国家建設の夢が挫折す
ることになった。もっとも、戦争終結後はオスマン政府や列強との関係が修復されたので、
エジプトは形の上では政治的には安定をみたようにみえた。 1847 年、ムハンマド・アリーは高齢を理由に政治の実権を長男のイブラーヒーム・パシ
ャに譲った。しかし翌 1848 年、イブラーヒームの総督即位がオスマン帝国政府の承認を得
た矢先に彼は父に先立って病没してしまった。かわって孫のアッバース・パシャが即位し
た。失意と老衰によって衰弱したムハンマド・アリーは、翌年 8 月に没し、ムハンマド・
アリー・モスクに葬られた。 【②アリー以後のエジプト】 ムハンマド・アリーの没後のエジプトは孫のアッバース 1 世(在位:1848 年~1854 年)
が継いだ。 ○スエズ運河 アッバース 1 世を継いだサイード・パシャの友人レセップス(1805~94 年)は、フラン
スの外交官を親として本人も外交官になり、1834 年から 37 年までカイロ領事となった。そ
の際にレセップスはエジプト総督家から厚遇され少年時代のサイード・パシャの家庭教師
を務めて、とても慕われた。1854 年、レセップスは、教え子のサイードがパシャに即位し
たので訪問したら大歓迎された。 2164
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
このときにスエズ運河の開発を提案して同意を取りつけた。オスマン帝国は、運河がト
ルコとエジプトの国境になるのをおそれ反対であった。 1854 年 11 月に開削権を与えられ
たが、元々、運河に反対で自国の通商への脅威とみなしているイギリスもオスマン帝国皇
帝に圧力をかけ、たびたび妨害した。 サイード・パシャは、建設にあたっては、エジプト農民を無償の強制労役つまり賦役に
動員することにも同意した。1856 年から 63 年にかけて、いつも 2 万 5000 人から 4 万人が
賦役によって働かされた。これは、エジプト農民の間にますます外国人への嫌悪をつのら
せた。 スエズ運河の掘削地域では、自前で飲食をとりながら運河の底から砂を土手に運び上げ
るために、日の出から日没まで水に浸かったまま労働した。そこでは廃止されたはずの鞭
も使われていた。かたときも休まず、空腹のまま死と生の境で働くというのが実情であっ
た。しかも、畑を耕さずに賦役に駆りだされたために収穫もままならず、食糧もすべても
ちだしたせいで家族が飢える悲劇もありふれた光景だった。 スエズ運河建設に異議を唱えたのは、イギリスであった。もちろん、人道的な配慮やエ
ジプトの主権尊重という殊勝な動機からではなかった。イギリスからすれば、運河計画は
フランスがスエズ地峡に保護植民地をつくるに等しかった。イギリスは、イスラム世界戦
略におけるフランスとの利害対立と調整の一環として運河に反対したのである。 サイード・パシャは、イギリスの主張も受けいれ、レセップスとの紆余曲折の交渉の末、
一部の運河地域をエジプトに返還させ、賦役も廃止させることに成功した。ただし、8400
万フランという膨大な違約金の支払いに同意させられた。 1863 年 1 月、サイード・パシャが 40 歳で急死し、後継にはイスマーイール・パシャ(在
位:1863~79 年)が就いた。 イギリスはさらにトルコ皇帝とイスマーイールに圧力をかけたが、フランス皇帝・ナポ
レオン 3 世が仲裁に入り、難工事と疫病の蔓延を克服してスエズ運河は 1869 年に完成した。
開通式にはナポレオン 3 世の皇后ウージェーヌをはじめ 7000 人の各国の王族や名士が参列
した。イスマーイール・パシャの得意絶頂の時だった。 イスマーイールは「エジプトは既にしてヨーロッパの一部なり」と豪語したが、国家財
政は借金の山で、国家を外国に売り渡すことになることがそこまできているのも知らなか
った。 全長 163 キロメートル、幅 34 メートル、深さ 15 メートルのスエズ運河はついに完成し
た。150 万人のエジプト人が動員され、うち 12 万 5000 人が主にコレラによって亡くなった
と推定されるなど、建設には多大な犠牲が払われた。この運河の開通により、アジアから
ヨーロッパ・アメリカへの海運においてアフリカの喜望峰を周回する必要がなくなった。 2165
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
イスマーイールは、鉄道敷設やオペラ座建設などで文明開化の実をあげ、ヨーロッパ人
に負けまいと意地を張った。迷路と袋小路でおおわれたイスラム都市カイロが改造されて、
ナイル川とラムセス駅を結ぶ線などを中心に、建築家オスマンのパリ改造計画をモデルに
した広場と放射状の道路を石造建築で美化する豪壮な都市景観も出現した。日本の鹿鳴館
時代と同じように欧化主義を徹底させ、宮廷の内外ではヨーロッパの夜会を思わせる光景
が現れた。カイロやアレクサンドリアには、経済投機に血眼になる企業家や山師たちが中
東各地やヨーロッパから集まってきた。 ○エジプトの財政破綻と国際管理 極端な欧化主義、計画性のない近代化、経済事情にうとい支配エリートの無能力などは、
さしも豊かなエジプトの農業資源を食いつぶした。農民たちは賦役で苛酷なしうちを受け
たうえに、異常なまでの増税となってかえってきた。椰子の木、家屋、塩、家畜、市場で
売却される商品その他多方面にわたって課税された。農民たちは、税を支払えないことも
あって収穫物を実る前に売ったものである。政府は外国の銀行から借り入れをするために、
将来の税金を担保にした。こうして、農民からの徴税権は外国銀行の手に入ることになっ
た。外国銀行は、地方の当局やギリシャ人やコプト教徒とつるんで定額以上の税金を農民
から徴収するという悪循環に陥った。 1862 年にはじめて出した外債は雪だるまのように累積していった。オスマン帝国の外債
の利子率が平均 5.6%だったのに、エジプトの場合には 23.4%という高利だったことに象
徴されるようにオスマン帝国よりも悲惨だったことがわかる。エジプトは早くも 1876 年に
債務の元利返済不能に陥った。 エジプトが財政危機に陥った根本理由は、スエズ運河の開削にあたり予想外の費用を要
し、ヨーロッパ市場で資金の長期借り入れをしなくてはならなかったからである。また、
イスマーイールの欧化主義に象徴される国家の放漫経営にも原因があった。たとえば、1873
年の政府歳入は 990 万~1060 万英ポンドだったのに、外債利子支払額は 3700 万ポンドにも
のぼった。 国家財政は、ヨーロッパの大国の国際管理に委ねられることになった。こうして成立し
たのが、イギリス人やフランス人の大臣も抱えた「ヨーロッパ内閣」であった。 《スエズ運河の株売却と英仏の国家財政管理》 その後、スエズ運河会社は莫大な利益をあげ、さながら 1 つの国家の様相を呈したが、
エジプトは、1875 年に、スエズ運河の株を売却せざるをえなくなった。このとき株式購入
に真っ先に手を上げたのは(スエズ運河建設にもっとも反対した)イギリス首相のディズ
レーリで、購入資金を融通したのはロスチャイルド銀行であった。以後、実質的にイギリ
スがスエズ運河を支配することになった。このときのイギリスの持ち株は 48%であり、フラ
2166
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ンスの持ち株は 52%であった。フランスとイギリスによって、エジプトの財政が管理される
状況になってしまった。 イギリスとフランスは、イスマーイールを退位させると同時に、従順なタウフィーク・
パシャ(在位:1879~92 年)をヘディーヴ(ペルシア語で「統治者」を意味する。ヘディー
ヴは、総督(ワーリー)とスルタンの間の称号)に据えた。 ○ウラービー革命 エジプトの上流社会、陸軍、ビジネスの世界は、徐々に、ヨーロッパ人に支配された。
また、ヨーロッパ式の法理体系が導入されたことによって、高等教育を受けたエジプト人
の公務員や軍人は憤慨した。彼らは、ヨーロッパ人がエジプト社会を牛耳ることによって、
自らの出世の道が閉ざされることを不安視した。 エジプト生まれのアラブ人将校アフマド・ウラービー大佐を指導者とし、ウラービー運
動(あるいはウラービー革命)と呼ばれた革命運動が起こった。この運動は「エジプト人
のためのエジプト」をうたい、オスマン帝国やトルコ人などの外来者を中心とするムハン
マド・アリー朝の高官による政治支配や、ヨーロッパ列強諸国による経済支配・外国支配
を排除して立憲制と議会開設を要求し、将校のみならず宗教指導者(ウラマー)、農村や都
市の有力者たちを広く巻き込んだ国民運動に発展した。 1881 年の夏には、ウラービーが指導するエジプト人の指導者層とヘディーヴの間での緊
張が高まった。9 月には、ヘディーヴは、ウラービーに対して、職を辞し、カイロを立ち去
ることを命令したが、ウラービーは、ヘディーヴの命令に背き、トルコ系の内閣の総辞職
と選挙によって代表された人による政権の樹立を要求した。ヘディーヴのタウフィークは、
ウラービーの要求を斥けることができず、ウラービーと彼の支持者による政権が成立した。 1882 年 1 月 8 日、フランスとイギリスは、共同で、ヘディーヴが政府の代表であること
を宣言した。この共同宣言は、ウラービーを首班とする政権を怒らせた。ウラービー政権
は、今まで、政権を支配してきたヨーロッパ人を追放すると同時に、多くのトルコ系の公
務員を解雇した。これらのウラービーの改革はヨーロッパ人、大土地所有者、トルコ系の
エリート層、高位のウラマー、シリア系のキリスト教徒などの反発を招いた。これに対し
て、ウラービーの支持層は、低位のウラマー、エジプト系の公務員層、地方出身の指導者
たちであった。コプト教徒は、両方の立場に分断された。 1882 年 6 月、アレクサンドリアの通りで、暴力事件が発生した。暴動を起こした人々は、
ギリシャ人、マルタ人、イタリア人のビジネスマンを襲撃し、約 50 人のヨーロッパ人と 250
人のエジプト人が殺害された。この暴動が発生した理由はよく分かっておらず、ヘディー
ヴ、ウラービーともに、互いを非難しあった。しかし、両方ともその非難する根拠を持っ
ていたわけではなかった。 2167
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
革命がエジプト全体に広がるとイギリス政府は、エジプトへの介入を本格化した。イギ
リス海軍は、アレクサンドリア砲台に砲撃を開始した。フランス海軍もまた、砲撃に参加
した。イギリス海軍は、エジプト軍の抵抗にあったもののアレクサンドリアの占領に成功
した。 1882 年 9 月になるとイギリス陸軍は、運河地帯に上陸し、運河地帯を占領した。この進
出はアレクサンドリア及びカイロの占領に先駆けて実施された。イギリスの最大の懸念は、
イギリスがエジプトに供与してきた多くの借款をウラービーが破棄することとスエズ運河
の占拠であった。1882 年 9 月 13 日、テル・エル・ケビルの戦いにおいて、イギリス陸軍は
エジプト陸軍を圧倒した。イギリスはウラービーをセイロン島に流し、エジプトを軍事占
領下に置いた。このようにしてエジプトも列強の定石通り(ムハンマド・アリーが懸念し
ていたとおり)、イギリスに植民地化(保護国化)されて終った。 【③イギリスのエジプト保護国化】 1882 年以降、スエズ運河を保護することを理由にイギリス軍が運河の両岸に駐留しはじ
めた。これに対しヨーロッパ列強諸国が運河の自由通航の保障を求めたため、1888 年に列
強間によって「スエズ運河の自由航行に関する条約」が結ばれた。この条約は運河の自由
航行を定めているが、戦時にはしばしば航行の阻害が行われた。 イギリスがエジプトを占領したのは、何としても「金の卵を生むガチョウ」としてその
富を吸い尽くそうとしたからであった。事実、イギリスの対中東政策の重点はオスマン帝
国からエジプトに移りつつあった。イギリスは、チュニジアを 1881 年にエジプト占領と交
換するようにしてフランスに譲っている。フランスはモロッコも獲得することになったが、
チュニジアのほうは 1869 年に破産し、英仏伊による国際財政委員会の共同管理下に入って
いた(図 14-55 参照)。 スエズ運河を通じて繋がったインドを植民地とするイギリスは、大英帝国の生命線であ
るエジプトの掌握に時間をかけて細心の注意を払い、オスマン帝国の宗主権とムハンマ
ド・アリー朝の政府を温存する一方で、イギリス領事やイギリス人顧問によって実質上の
エジプト政府支配を実現した。 これ以後、エジプトはイギリス帝国における拠点のひとつとして重視され、19 世紀後半
から 20 世紀前半にかけて 3 C 政策(カイロ~ケープタウン~カルカッタ)という世界政策
が推進されるもととなった。これは、ドイツの進める 3B 政策(ベルリン~ビザンツ~バグ
ダード)と対立し、第 1 次世界大戦の原因のひとつとなった。 1914 年、第 1 次世界大戦が勃発し、オスマン帝国がイギリスと敵対するドイツ・オース
トリアら同盟国の側にたって参戦すると、イギリスはエジプトにおける権益を守るために
2168
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
エジプトの保護国化を宣言、オスマン帝国の名目的主権からエジプトを離脱させた。これ
によりエジプトは正式にイギリスの植民地となった。 【14-5-3】イラン(カージャール朝) ○カージャール朝 サファヴィー朝滅亡後、イランは、めまぐるしく移り変わる群雄割拠の時代になったが、
この混乱は、カスピ海南岸からイラン中央部に覇をとなえたカージャール部族連合の力で
収拾された。これが 1779 年に成立したカージャール朝である(図 14-41 参照)。 図 14-41 19 世紀の西アジア(列強の進出と抵抗運動) この始祖アーガー・モハンマド・シャー(在位:1779~1797 年)は、遊牧諸部族長の中
の第 1 人者として、サファヴィー朝流のわずらわしい宮廷儀式を嫌って、各地を移動する
ほうを好んだ。第 3 代までのシャーは、いずれも部隊を親率し、幕舎で移動生活を送るこ
ともめずらしくなかった。 シャーは、全臣民に対する生殺与奪と兵役・兵馬の権、利権や特権を与える力、宗教寄進
地をのぞく最大の土地所有者として類を見ない独裁者であった。 しかし、始祖が死ぬと、国力は振るわず、徴税制度の改革も進まなかった。また、官僚
機構も首都テヘランの近辺を除くと名目的にすぎず、グルジア人奴隷などの近衛兵を除く
と、強力な常備軍さえもたなかった。カージャール朝もイランの伝統を受け継いで、部族の
有力者に地方の統治権を与え、シャーは首都テヘラン、皇太子は副都ダブリーズに本拠を
もち、主要都市には皇族や有力貴族が封じられていた。 2169
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
しかし、地方太守に任じたガージャール一族も独立傾向を露わにして恣意的な統治を行
うことが多く、テヘランへの税納は滞りがちとなった。したがって、必ずしも統一的安定
的統治がおこなわれたとは言えない状態だった。 このように、ガージャール朝の権力基盤はきわめて弱体であった。ガージャール朝はそ
の軍事力を部族勢力の提供する兵力に依存していたため、各部族の勢力をおさえきれなか
った。イランで近代的な意味で軍隊らしきものは、1870 年代の兵制改革で生まれたオース
トリア人軍事顧問の指導する 2000 人ほどの歩兵・砲兵・工兵部隊、ロシア人が指導した 650
人ほどのカザーク(コサック)騎兵連隊の編制を待たなくてはならない。いずれも外国人
の指導、しかも片方は最大の仮想敵国ロシアの援助でつくられるというありさまであった。 ○第 1 次イラン・ロシア戦争(1805~13 年) かつてのサファヴィー朝とオスマン帝国は角逐を繰り返し、両者の国境はおおむねカフ
カスをイラン(サファヴィー朝)、イラクをオスマン帝国が領有してきた。しかし、19 世
紀になると、イランに強敵が現れた。それは、インドの植民地化を進めるイギリスとカフ
カスを狙って南下してきたロシアであった(図 14-41 参照)。 インドの植民地化を進めていたイギリスは、アフガニスタンの南下をインド防衛の観点
から警戒していたが、イランとの間にはさほどの軋轢(あつれき)はなかった。しかし、
フランス革命・ナポレオン戦争の時代には、フランスのインド遠征への抑止力として、イ
ギリスは 1801 年にイランと条約をむすんだ(ナポレオンのエジプト遠征と同じように、フ
ランスがロシアと組んでイラン攻略の計画があった)。これはイランとヨーロッパ諸国と
の間で締結された最初の同盟関係であった。 ロシアのバルカン方面での南下政策は東方問題を発生させたが、イラン方面も南下政策
が始まった。1804 年、イラン・カージャール朝とロシアの間でグルジアをめぐって第 1 次
イラン・ロシア戦争(1805~13 年)が起こった。1804 年以降、断続的に発生したロシア帝
国とカージャール朝の戦争は、結局、ロシア帝国の勝利で終わったが、その間、ヨーロッ
パではナポレオン戦争が吹き荒れていた。 1813 年 9 月、イギリスの調停でアゼルバイジャンのゴレスターンにてロシア帝国とカー
ジャール朝はゴレスターン条約を結んだ。カージャール朝はこの条約でグルジアだけでな
く、シルヴァーン、デルベント、カラバフ、ダゲスタン、ターレシュの一部といった豊か
なカスピ海西岸地域(図 14-41 参照。いずれも現在はロシア内の共和国となっている)を
失った。また、カスピ海における軍艦航行権、ロシア商品への特恵関税率を 5%とすること
も認めざるをえなかった。 この対ロシア戦争はイギリスがイランに影響を強めるきっかけにもなった。しかしイギ
リスは決してイランにとって味方ではなかった。イギリスは、イランとインドとの中間にあ
2170
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ったバルチスタン、歴史的古都ヘラートの帰属などをめぐって、いずれもイランに不利な
境界を呑ませようとした。これを不服としたイランの第 3 代モハンマド・シャー(在位:
1834~1848 年)は、ヘラートの領有権を主張してアフガニスタンに進駐したが、ロシアとの
緩衝国としてアフガニスタンを重視するイギリスの圧力にはかなわなかった。 《第 2 次イラン・ロシア戦争》 1827 年、ロシア兵がムスリムの女性を陵辱するという事件が発端となって、第 2 次イラ
ン・ロシア戦争が起こった。ロシア側は戦争を回避しようとしたが、イラン側では宗教界
の憤りが激しく非戦論がしりぞけられた。イランの陸軍などはロシアを相手に戦争できる
能力も気力もなかったのにシーア派の大義名分論がカージャール朝の外交と軍事を押しき
ったのである。しかし、給与は支払われない、日々の糧食も乏しいでは、戦場でのイラン
の将兵に勝利を期待することは無理であった。 1828 年にロシア軍がタブリーズを陥落させた。これを契機としてタブリーズに近いトル
コマンチャーイ(図 14-41 参照)で講和条約が結ばれた。このトルコマンチャーイ条約の
なかで、アルメニア(カスピ海と黒海の間に広がる高原地帯)をロシアに割譲すること、
ロシアの領事裁判権(治外法権)を認めること、カスピ海におけるロシア軍艦の独占通行
権を認めること、500 万トゥーマーンの賠償金を支払うことなどが定められた。この条約を
皮切りとして、イラン・ガージャール朝は他のヨーロッパ列強とも不平等条約を締結して
いった。 ○イランをめぐる英露の利権獲得競争 イランに対するイギリスとロシアの圧迫は、以後、19 世紀から第 2 次大戦まで続いた。
ロシアは、カスピ海東岸の中央アジアやブハラを占領して、やがて 1881 年に現在の北方国
境を画定することになった。ロシアはカスピ海の東西両岸を確保し、イギリスはインド防
衛と通商ルートを守るために、ロシアをインド国境とペルシア湾から遠ざけようと努めた。 イランのホラーサーンのヘラート遠征(1836 年、56 年)もイギリスとの確執と戦争を引
き起こして失敗に終わり、図 14-41 のように、今日のアフガニスタンの領域が確立(パリ
条約 。1857 年)した。現在のイランの国境線はおおむねガージャール朝の時代に成立した
ものであるといえる。イギリスとロシアは英露協商(1907 年)を機に、それぞれイランの
北部と東南部に勢力圏を画定した。 ○外国資本のイラン経済支配 開国以来、イランには織物、金物類、ガラス、砂糖、茶、スパイスなどヨーロッパ製品が
大量に流入し、なかでも安価なマンチェスター綿布はイランの輸入総額の約半分を占める
ようになった。平均すると、イラン製品の 3 分の 1 か 4 分の 1 という安価な製品の流入で
イランの繊維産業は大きな打撃を受けた。とくに繊維産業の中心イスファハーンでは、 2171
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
伝統的な織物業に従事した繊維業者や職工が失業して不況が世をおおった。イスファハー
ンでは 19 世紀半ばには 240 もあった綿布工場が、20 年後には 12 まで減ってしまった。そ
の分だけイギリスの綿織商品への反感も強まっていった。 蚕菌病が蔓延し、日本と中国に拮抗していた養蚕業も壊滅的な打撃を受けた。それまで、
カスピ海南岸でつくられてきた生糸は、イランの輸出品の花形であり、シリアのアレッポ
を通じてリヨンやミラノにも送られてきていた。 これらに代わって、わずかにイラン経済を潤したのは、アヘン、棉花、米、乾果などで
あった。とくに、蚕菌病の後、桑畑はケシ畑に変わった。麦作の 3 倍から 6 倍もの収益が
得られるので、麦畑をケシ畑に変える農民も増えた。アヘン栽培は、1820 年代からここで
もイギリス商人が南イランで熱心に集荷にあたったが、やがてインドからアヘン製造器を
輸入するなどイラン人も熱心になった。しかも悪いことに経済が悪化した 19 世紀半ば以降、
イラン政府がケシ栽培を奨励した。 このようにイランはますますイギリスやロシアの商品市場となり、輸出といえば農産物
など原料を供給するだけの国になりさがった。自家用の消費に供されてきたペルシア絨毯
(じゅうたん)を輸出商品に仕立て上げたのは、綿布を売り込むために代替品を探したマ
ンチェスター商人であった。彼らは、綿布の売り上げ金で古絨毯を買い、ヨーロッパに運ん
で高価格で売りさばいた。そのうち、マンチャスターのジーグラー商会のように、イランに
大工場をつくり、自前で染めた糸を使い、大量かつ安価な絨毯を生産させるようになった。
これは地場産業の基礎をつき崩した。こうした状態は、1929 年の世界大恐慌によって欧米の
絨毯商がイランから撤退するまで続いた。 ○英露利権の草刈り場となったイラン イランは、トルコやエジプトに比べると、近代化のために借款や外債に頼ろうとしなかっ
た。借款が少なかったのは、健全財政をめざしたからというのではなく、むしろ、カージ
ャール朝が社会開発に無関心であり、ヨーロッパに接していなかった分だけ危機感が薄く、
社会全体として世界史の流れに立ち遅れていたといえよう。同じ時期のオスマン帝国では
アナトリア鉄道を軸に鉄道網がはりめぐらされつつあったのに、イランではわずかに二輪
馬車輸送用の道路建設や、軽便鉄道、鉄道馬車ぐらいが目立つに過ぎなかった。 それでも、19 世紀後半になると、ヨーロッパ諸国による利権獲得競争が始まった。 たとえば、イギリスについては、「インド・ヨーロッパ通信」に与えられた電信線敷設利
権(1862 年,65 年,72 年)、ロイター通信社への開発利権(1872 年、翌年廃棄)、リンチ
兄弟商会のユーフラテス・チグリス川蒸気船航行会社によるカールーン川航行権(1888 年)、
タバコ利権(1890 年、93 年廃棄)、石油採掘権(1901 年)が上げられる。 2172
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ロシアも手をこまねいていなかった。電信線敷設利権(1879 年)、カスピ海漁業権(1888
年)、道路建設利権(1890 年)などは、イギリスへの対抗措置であった。 このなかで、ロイター利権は、経済開発に関わる雑多な利権を一括して享受するものであ
った。カスピ海からペルシア湾までの鉄道建設、銀行の設立、森林地下資源の開発、道路
と灌漑の工事、さらに租税と関税の徴収権も認められていた。それは、エジプトのスエズ
運河会社のように、「国家内部の国家」にもなりかねない性格をもっていた。しかし契約
では署名後 15 ヶ月以内に鉄道建設に着工しないと、保証金 4 万英ポンドが没収されること
になっていた。イラン側はここに目をつけて、1 マイル分の枕木だけでは敷設作業に着手し
たことにはならないと、契約を破棄して保証金を没収した。 これはいうまくいったが、イギリスが保証金をとられて黙っているはずがなかった。1889
年に、ロイターにペルシア帝国銀行設立の利権を認めさせたのはその代償であった。しか
もイランは通貨発行権をもつ中央銀行をイギリスに委ねるということをしたのである。 ロシアもまけずに、2 年後にサンクトペテルブルクの大蔵省の出先ともいえるペルシア手
形割引銀行の権利を認めさせた。ここに英露両国が銀行をとおしてイランを金融的に支配
する体制がつくられたのである。これは、1880 年代までに英仏両国がオスマン帝国とエジ
プトを共同歩調をとりながら支配していた構図と似ていた。 ○タバコ利権とタバコ・ボイコット運動 政府は鉄道や電信などの利権を、イギリスを初めとするヨーロッパの商社などに売るこ
とでこれをしのごうとしたが、このような政府の動きは売国的・反イスラム的との印象を
与えた。やがて、イラン国民の政府に対する異議申し立ての活動が活発化し、1891 年には
タバコ利権の売り渡しに端を発するタバコ・ボイコット運動が起こった。 それは、1890 年 3 月、ヨーロッパ歴訪中だった第 4 代ナーセロッディーン・シャー(在
位:1848~1896 年)によって、イギリス人の投機家タルボット少佐に期限 50 年のタバコ利
権が与えられたことに端を発した。シャーは、独占供与の見返りとして、年額 1 万 5000 英
ポンドと純益の 4 分の 1 を受け取る定めになっていた。 ところが、アルコールを嗜(たしな)まないムスリムにとって、タバコはこよなき憩い
を与えていた。イランでは、紙巻きやキセル用の葉タバコと、タンバークーという水キセル
用のきざみタバコの 2 種類が栽培されていたが、イラン人たちはタンバークーをとくに好
んだ。いずれにしても、タバコは国民生活に欠かせない嗜好品になっていたこともあり、
鉄道や鉱山の利権とは違って、イラン人たちの疑惑を深める原因になった。 シャーの利権供与から 1 年後、1891 年 2 月にタブリーズで専売公社の支店開設が阻止さ
れたのを皮切りに、イラン全国にタバコ利権の廃止を求める運動が広がった。シャーに利
権破棄を余儀なくさせたのは、シーア派ウラマーの発した喫煙禁止のファトワー(宗教命
2173
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
令)であった。教令が公布された後、公共の場はいうまでもなく個人の家屋でも、水キセ
ルと吸口は見あたらなくなくなった。宮廷もその例外ではなかった。 この問題は、最終的には、イラン政府の利権買戻しということで決着したが、イラン人
のナショナリズムが高揚する契機となった。これは、シーア派ウラマーの間に驚くべき結束
力を生んだ。これは、イランがあたかもヨーロッパの植民地になろうという状況で危機感
を深めたシーア派による防衛と抵抗の姿でもあった。そして、これは 1905 年以降の立憲革
命、ひいては 1979 年以後のホメイニー革命を先取りするものであった。 ○イラン立憲革命 イラン立憲革命は 1906 年から 1911 年にかけてイランで発生した革命で、ガージャール
朝専制に反対し、憲法と議会の獲得と維持を主要な目標とし、国内の広範な集団を糾合し
た運動と、これを巡る一連の政治変動を指している(1979 年に起きたイラン革命はイラン・
イスラム革命といわれ、区別されている)。 1900 年以降、商人らは厳しい関税の取立に反対を表明し街頭での抗議を繰り返していた。 イランにとって、1904 年は悪夢の年として記録された。全国的な不作やコレラの流行、
日露戦争を起因とするインフレーションの発生が挙げられる。 1904~5 年の日露戦争とロシアの血の日曜日事件は二つの意味でイラン国民に強い衝撃
を与えた。イランに圧力をかけ続ける北方の大国ロシアは戦争、革命に翻弄され、非ヨー
ロッパの日本がロシアに勝利した。イラン人はこれを「アジアの唯一の立憲議会勢力」が
ヨーロッパ唯一の「専制勢力」に勝利したと象徴的にとらえたのである。
「立憲主義」は「強
さ」への鍵となった。 もう一つは、この日露戦争は物質面でもイランに大きな影響を与えたことである。1904
年に日露戦争が起こると商人らの状況はロシアからの輸入量激減により著しく悪化し、同
時にテヘランの物価は高騰していた。そのような中でも、とくに砂糖の値段が高騰した。
ロシアからの輸入砂糖の供給が止まったからだった。砂糖は、何によらず紅茶好きのイラン
人に欠かせない甘味料であったのである。 1905 年 12 月、テヘラン市長アラーオッドウレは強権的手法による砂糖価格引き下げを狙
い、退蔵疑いの砂糖商人 2 人を杖刑に処した。この冤罪(えんざい)に怒った商人たちは、
シーア派のウラマーとともに抗議に立ち上がった。これが立憲革命の直接の発端であった。 テヘランの商人たちがとった戦術は、1979 年のイラン・イスラム革命の時と同じく同盟罷
業(ゼネスト)であった。もう一つは、イラン独特の抵抗法であるが、バストがあった。
これは、もともと犯罪者や負債者や不当な扱いを受けた人々が公権力のおよばない聖域に
逃げ込んで抵抗することを意味した。人がモスク、聖者やイマームの霊廟、王家の厩舎(き
ゅうしゃ)、兵器廠などに入ると、追手はたやすく侵犯することはできなかった。 2174
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
1905 年 12 月、テヘランのモスクに、聖職者とバーザール商人が集合し、「公正の家」の
設立を要求することを契機に、イラン立憲革命が始まった(「公正の家」の意味ははっきり
しないが、「公平なシャリーアの実施」を担保し、政府・太守の恣意性を抑制するための機
関と考えられている)。翌年の 7 月には 1 万 4000 人あまりがイギリス公使館に避難(バス
ト)する事態へと発展した。その結果、シャーは、議会の開設要求に応じざるを得なくな
った。 1906 年 8 月 5 日、第 5 代モザッファロッディーン(在位:1896~1907 年)は人々の要求
を受け入れ、議会開設の詔勅を発布した。その後、革命は憲法制定の準備に入り、12 月 30
日、死の床にいたモザッファロッディーン・シャーが全 51 条からなるイラン憲法第 1 部に
署名した。このことにより、国民議会の構成と上院の設置が決定された。憲法が制定され
た翌年早々に、モザッファロッディーンは死亡した。 ○イラン憲法と第 1 議会 1907 年 10 月 7 日には、イラン憲法第 2 部(憲法補則)も合わせて、国会を通過した。 イラン憲法は、1789 年に制定されたフランス人権宣言の精神を盛り込み、立憲主義的憲
法における古典的表現と呼ばれる 1830 年のベルギー憲法を範に置いていた。 その後、開会された議会では財政面の取り組みが活発に行われた。政府による借款案の
否決、王族等に支給されていた年金の削減あるいは廃止、地方知事による課税権の規制な
ど土地保有・地税行政に関する 4 つの重要な提言が行われた。 しかし、1907 年、モザッファロッディーンのあと、シャーに即位したモハンマド・アリ
ー(在位:1907~1909 年)は、皇太子時代から立憲革命に対しては強硬に反対の立場を採
っていた。1908 年になると、モハンマド・アリーは、ロシアとイギリスの支援を受けて議
会を砲撃し、6 月 23 日には議会の解散に追い込むことに成功した。モハンマド・アリーは、
戒厳令を発布し、各地のアンジョマン(集会)の弾圧に着手した。 このシャーによるクーデターの成功によって、一時的に立憲派の勢力は減退したが、当
時のイランで最も西洋の最新の政治的思想に親しんできたタブリーズが立憲派の拠点とな
った。タブリーズのアンジョマン(集会)は、カフカス地方の社会民主党や社会主義者と
密接な関係を持っており、社会民主党の指導の下、商人、職人、中・下級ウラマー、任侠・
無頼の徒など、約 2 万人の義勇兵組織が結成され、シャーが派遣した部隊が敢行したタブ
リーズ攻囲戦に、この集団は 11 ヵ月耐え抜き、落ちなかった。 これはイラン全土に潜伏していた立憲派を勇気づけ、イラン全域で立憲派の蜂起が敢行
されるようになり、その動きはラシュト、イスファハーンへ拡がり、立憲派の組織した軍
隊は首都テヘランへと向かい、1909 年 7 月、テヘランに入城した。モハンマド・アリーは
2175
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ロシア大使館に逃げ込み、その後ロシア(現ウクライナ)のオデッサに亡命した(彼は 1911
年には軍隊を率いてアルタラーバードに上陸したが、打ち破られた)。 モハンマド・アリーが亡命すると、息子のアフマド・シャー(在位:1909~1925 年。最
後のシャーとなった)が即位した。 《第 2 議会》 1909 年 8 月 5 日、第 2 議会の再開が宣言されたが、第 1 議会の際に鮮明となった穏健派
と革命派の対立はそのまま残り、その対立は、議会外の武装衝突、暗殺の応酬にまで拡大
した。政争に翻弄された第 2 議会であるが、成果が上がった分野も存在した。その一つが
教育改革であり、1911 年 11 月、イランでも無償の初等教育を実施する教育基本法が施行さ
れた。 また、年間 40%にも達する財政赤字を解消し、現状に見合った租税制度を導入する財政改
革を行なうために、議会の承認を得て、アメリカ人財政顧問モルガン・シャスターが招聘
され、円滑な徴税業務を遂行するための機関の設立、一部、王族の土地の接収などを実施
したが、シャスターによる改革はロシアとの対立を深めていった。 ○英露の植民地化 そのため、1911 年 11 月には、ロシアは、シャスターの罷免を要求し、12 月、ロシア軍
が越境して立憲革命に干渉して、第 2 議会は解散され、憲法は部分的に機能が停止させら
れた。一般にイラン立憲革命はここまでの過程を指している。 その後のイランは、1907 年にイギリスとロシアの間で締結された英露協商に基づき、そ
れぞれの勢力範囲へと転落させられ、アフマドのシャーの威厳はほとんど消滅し、イラン
全土が事実上、英露の勢力下におかれた。 ここに立憲派は勢力を失い、ロシア、イギリスの強い影響下におかれたガージャール朝
政府を中心とした政権運営が再開されることになった。このようにイラン立憲革命は革命
の目的を達することはできず、結果的に見れば敗北した革命であった。 1901 年、イギリスによって石油が発見されると、イラン経済は、ますますイギリスの従
属下へと転落していった。アングロ・ペルシャン石油会社が創設され、また、1907 年の英
露協商により両国間でイランの勢力範囲が定められ、ガージャール朝は、もはや緩衝国と
しての役割を担うに過ぎない状態となった。 第 1 次世界大戦の勃発により、ガージャール朝の混乱はオスマン帝国軍の侵攻により拍
車がかかった(第 1 次世界大戦中、イランはイギリス軍およびロシア軍に占領されたが、
基本的には中立を維持していた)。その結果、王朝の権威は失墜し、無政府状態へと転落
していった。 2176
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
【14-5-4】アフガニスタン(ドゥッラーニー朝) ○バーラグザイ朝 1747 年に現在のアフガニスタン国家の原型となったドゥッラーニー朝を築いたパシュト
ゥーン人のサドザイ部族の王家が 1818 年に統一を失った後、ドゥッラーニー部族連合バー
ラグザイ部族の長ムハメッド・アジムの弟、ドースト・ムハンマド・ハーン(在位:1835
~1863 年)がドゥッラーニー朝から独立してハン国を建国した。これをバーラグザイ朝と
いう。1835 年には国王の称号をアミールに変え、アフガニスタン首長国となった。 1830 年代、当時のアフガニスタンは、中央アジアへの南下政策を推進するロシアと植民
地インドの防衛を至上とするイギリスの対立(グレート・ゲーム)に巻き込まれていた(図
12-41 参照)。その状況は前述したイランと同じであった。 ○第 1 次アフガン戦争 バーラグザイ朝に対し、イギリスのインド総督である第 2 代オークランドはドースト・
ムハンマドの権力掌握を嫌い、旧王家サドザイのシュジャー・シャーを支援して 1838 年に
アフガニスタンに対し宣戦を布告した。これはグレート・ゲームの一環として、中央アジ
アに進出したロシア帝国がインドへと野心を伸ばしてくることを警戒したイギリスが、先
手を打ってアフガニスタンを勢力圏に収めるために行った軍事行動であった。これが第 1
次英ア戦争(アフガン戦争)の始まりであった。 イギリス軍は、カンダハール、ガズナ、カブールを次々に占領した。アミールのドース
ト・ムハンマドはイギリスに敗れて投降した。東インド会社軍は一旦アフガニスタンを平
定し、ドゥッラーニー朝のシュジャー・シャー国王を復位させたが、バーミヤーンでバー
ラクザイ朝の勢力が抵抗を続け、またアフガニスタンの各地で侵入軍に対する反乱が勃発
し、1842 年 1 月、カブールに駐留していたイギリス軍は撤退を開始した。このカブール撤
退時の冬季の峠越えのとき、アフガン兵の襲撃により、イギリス軍兵士・人夫計 1 万 6000
人が全滅した(医師 1 人だけが救助された)。これによりイギリスの立てたシュジャー・シ
ャー国王も殺害された。 1842 年秋、イギリスは、報復のために再び派兵し、カブールと周辺の村落で破壊を行っ
たが、この作戦を最後に戦争の継続を断念し、英領インドに捕らえられていたドースト・
ムハンマドの帰国と復位を認めて、第 1 次アフガン戦争は終結した。ドースト・ムハンマ
ドは復位後、1855 年にイギリスとの間でペシャーワル条約を結んで領土の相互保全を約し
た。 ○イラン―アフガン国境の確定 英露だけでなく、イランのガージャール朝もアフガニスタンへの影響力強化をはかって
いて、1856 年にガージャール朝のナーセロッディーン・シャーがヘラートへ遠征すると、
2177
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
イギリスはヘラートを奪回しつつイランを攻撃し、1857 年にパリ条約を認めさせてガージ
ャール朝のアフガン進出を挫いた。これにより、アフガニスタン国家の領域が明確になっ
ていった(図 14-41、図 14-42 参照。ヘラートはアフガン領になった)。 図 14-42 英領インド・アフガニスタン国境地帯 北と西で現在のアフガニスタンの領域へと支配を広げたドースト・ムハンマドの死後、
兄弟たちを倒して後継者となった息子シール・アリー・ハーン(在位:1863~1866 年。1868
~1878 年)はイギリスとの関係を軽視した。またロシアが 1868 年にブハラ・アミール国、
1873 年にヒヴァ・ハン国を保護国とし、1876 年にはコーカンド・ハン国を併合して中央ア
ジアへと直接進出した(図 14-41 参照)。 ○第 2 次アフガン戦争の敗北と保護国化 この情勢はイギリスを大いに刺激していた。1878 年 7 月、ロシアがアフガニスタンに使
節を送ると、シール・アリーは拒絶しようとしたがカブールへの到着を許してしまった。
これに対してイギリスのインド副王リットンの送った使節が国境で拒絶される事件が起こ
った。ロシアのアフガニスタン進出を恐れるイギリスのディズレーリ内閣は強硬姿勢をと
ることに決し、再びアフガニスタンに宣戦を布告した。これが第 2 次アフガン戦争(1878
~80 年)である。 2178
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
1878 年 11 月、イギリス軍(英印軍)は、ペシャワール方面(ブラウン将軍指揮下の 1 万
6000 人、火砲 48 門)、クラム方面(ロバーツ将軍指揮下の 6000 人、火砲 18 門)、カンダハ
ール方面(スチュアート将軍指揮下の 1 万 3000 人、火砲 32 門)の 3 手に分かれてアフガ
ニスタンへと侵攻した。戦闘は、イギリス軍の優勢のうちに進み、カブールなどの要地を
占領した。 やがてシール・アリーは北部のマザーリシャリーフに逃れて同地で死去し、後継者ヤア
クーブ・ハーンはイギリスに屈して 1879 年 5 月 15 日にガンダマク条約を結んで、東南部
の割譲(図 14-41 参照)とイギリスに外交権を委譲して保護国となることを認めたた。し
かし、依然としてアフガニスタン側の反抗が強くイギリス軍は苦戦を強いられ、ヤアクー
ブ・ハーンも退位してインドへと亡命した。 イギリス軍は 1880 年にカンダハール郊外のマイワンドの戦いでヤアクーブの兄弟アイユ
ーブ・ハーンに大敗を喫するなど、大きな損害を受けながらも、1881 年までアフガニスタ
ンへの駐留を続けた。結局イギリスは、混乱の中で亡命先の中央アジアから帰還していた
王族の一員アブドゥッラフマーン・ハーン(在位:1880~1901 年)が台頭してくると彼を
交渉相手として妥協することにし、外交権をイギリスに委ねて保護国となることを認めさ
せ、イギリスの面目と当初の戦闘目的を果たす見返りに彼に庇護を与え、自立支配を許す
条件で撤退することとなった。 国境は結局ガンダマク条約のものが踏襲され、東南国境は現在のアフガニスタン・パキ
スタン国境線に確定することになったが、これによってパシュトゥーン人(アフガン人)
の居住地がふたつの国家に分断された(図 14-42 のバルーチスターンが当時インドである
パキスタン領となった)。 イギリスの後ろ盾を得たアブドゥッラフマーンは従兄弟にあたるアイユーブ・ハーンを
追い出して統一を回復すると、アフガニスタンの近代化に乗り出し、その子ハビブッラー・
ハーンもその政策を継承した。 1919 年、ハビブッラーが暗殺されると、その 3 男アマーヌッラー・ハーン(在位:1919
~1929 年)が即位した。 ○第 3 次アフガン戦争と完全独立 アマーヌッラーは第 1 次世界大戦によってイギリスが疲弊した好機ととらえ、イギリス
に対するジハードを唱えて 1919 年 5 月 3 日、ハイバル峠(図 14-42 参照)の国境に軍を
進めた。イギリス領インドのパンジャブ州のパシュトゥーン人に蜂起を煽動した。領内の
パシュトゥーン人が呼応して反乱を起こすことを恐れたイギリスのインド帝国当局もやむ
なくこの挑発に乗ってイギリス軍を動員、第 3 次アフガン戦争が始まった。 2179
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
この戦争ではアフガン軍がイギリス領に攻め込む形で始まったが思うように戦果が上が
らず、またイギリスが空爆を行ったことやインド帝国側のパシュトゥーン人の支援が満足
に得られなかったことから開戦早々に戦線は膠着した。5 月末にアフガニスタン側は停戦を
申し入れ、戦争の長期化を嫌うイギリスもこれに応じて 6 月 3 日に休戦した。 第 3 次アフガン戦争の結果、アフガニスタンは 1919 年 8 月 8 日に結ばれたラワルピンデ
ィー条約で外交権を回復し、完全独立を達成した。イギリス軍を退けたアマーヌッラー・
ハーンは、急進的な改革を進め、1926 年には国王の称号(アミール)をシャーに変え、ア
フガニスタン王国となった。同年、ソヴィエト連邦と中立及び相互不可侵条約を締結した。 結局、アフガニスタンは、第 2 次アフガン戦争後の 1881 年からイギリスの保護国になっ
ていたが、第 3 次アフガン戦争ののち、1919 年に外交権を回復し、
(第 1 次世界大戦後であ
るが)独立を達成し、アジア・アフリカの中ではめずらしい例となった。 【14-5-5】ロシア、中国に征服されたイスラム国家 ロシアはヨーロッパに発祥したが、ユーラシア大陸が一体であったので目立たなかった
が、早くからアジアへ植民地的に進攻していたことは述べた。 ○ヴォルガ流域の征服と強制的改宗政策 1552 年、モスクワ大公国のイワン 4 世は、3 世紀にわたってロシアを支配したモンゴルの
末裔のカザン・ハン国(図 13-28 参照)を滅ぼした。このとき、イワン 4 世は、多数のヴ
ォルガ・タタール人を虐殺した後、イスラム圏ではじめてロシア正教の教会を建立した。 ロシア人は、スペイン人やバルカン諸民族と同じく、ヨーロッパでイスラムの支配を直接
経験したキリスト教徒である。しかし、ロシア人も、スペイン人が 1492 年にアンダルシア
のレコンキスタ(国土回復運動)に成功してから半世紀後に、ムスリムへの報復に成功した。 ロシア帝国は、カザン・ハン国に続いて、アストラハン・ハン国(図 13-28 参照)を 2
年後に、シベリア・ハン国も 16 世紀の終りに征服して、東方の異教徒地域への領土拡大に
乗り出した。 ムスリムたちは、「不浄な信仰」を奉じるブスルマーン(ムスルマン(回教徒)のなまっ
たもの。古代ギリシャのバルバロイと同じような蔑称)とみなされた。イワン 4 世は信仰
の名において、カザン征服に着手したのであった。従って、ムスリムには、ロシア人の臣民
と同等の権利は認められなかった。ロシア正教徒に改宗してはじめて、劣悪な環境から脱
することができた。 ロシアの支配は、ムスリムのキリスト教化政策と不可分に進められた。征服されたカザ
ンを中心とするヴォルガ中流域では、占領後、むかしの首都の回りに住むことを禁じられ
2180
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
たタタール人は、ヴォルガとその支流沿岸の肥沃な土地からも追放された。かわって、や
ってきたのはロシア人の地主であった。 強制的改宗政策がとられた。改宗すると徴兵猶予の特典に浴した。その反面、ムスリム
からキリスト教徒になった者をイスラムに再改宗させようとした者には死刑が科せられた。
ロシアではムスリムをキリスト教徒に改宗させるために新規改宗者取扱局という役所をつ
くって、いろいろなことをやった。1742 年には、カザン市内外で 536 もあったモスクのう
ち、418 が破壊されたというから、迫害のすさまじさがわかる。しかし、これほど厳しくや
っても、取扱局はあまり成果を収めることは出来なかった。自発的に改宗したものはほとん
どいなかった。ほとんどは信仰は、うわべだけの「かくれムスリム」というのが実体でで
あった。 1762 年に即位したエカテリーナ 2 世は、取扱局を廃止して、新たに併合したクリミア(図
13-28 参照)における信仰の自由、ヴォルガ流域での正教化の緩和、カザフ・ステップにお
けるモスクの建立許可、タタール人のカザン市内居住を許可した。タタール人のイスラム
信仰を抑圧しないほうが多民族帝国の利益にかなうと判断したと考えられている。また、
寛容政策は、タタール商人を介してロシアの東方貿易を発展させることも狙っていた。 しかし、エカテリーナの死後、寛容政策は否定され、1849 年の布告は、棄教者を犯罪者と
みなしていた。最終的にはシベリア流刑か禁固刑であったが、事あるごとに、集団棄教が発
生したように、イスラムへの執着を断ち切らせることはむずかしかった。 ○中央アジアのイスラム諸国の征服 19 世紀末にはロシア帝国内のムスリムは 1400 万人に達していた。この数には中央アジア
のブハラとヒヴァの両保護国の住民は含まれていない。ロシア・ムスリムの人口は、当時の
オスマン帝国のムスリム人口に匹敵した。 中央アジアへのイスラムの浸透は、19 世紀にロシア帝国に支配されるはるか以前、8 世
紀初頭のアラブの征服にさかのぼった。製紙法の伝播などで知られるタラス河畔の戦い
(751 年)の前である。その後も、モンゴル帝国に由来するイル・ハン国やキプチャク・ハ
ン国の君主たちは、進んでイスラムに改宗した。 ロシア帝国の東方進出は、17 世紀にはひとまず中断していたが、18 世紀に再開された。
しかし、ピョートル大帝が砂金採取を目的に送った探検隊や威力偵察は、ヒヴァ・ハン国
などの抵抗にあって挫折した。そこでウラルから天山シベリアからトルキスタンの砂漠に
およぶ広大なカザフ草原の北縁に沿って要塞線を築いた(図 14-43 参照)。オムスクやセ
ミパラチンスクは、ステップ征服のために、いずれも 18 世紀初頭につくられた町である。 ロシアの勢力がステップの北縁に姿を現したころ、カザフ遊牧民は大オルダ、中オルダ、
小オルダの三つの部族連合体に分れて割拠していた(図 12-43 のカザフ草原)。三つのオ
2181
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ルダは、最上の遊牧地を求めて抗争していた。彼らは、外に向かっては、西モンゴリアの精
強な仏教徒の遊牧民ジュンガルとの戦いにあけくれていた。 ジュンガルの攻撃にたえられなかったカザフの小オルダは、ロシア帝国に救援を求めて
きた。ロシアにとって、これは「飛んで火に入る夏の虫」で、この好機を逃さず、ステッ
プへ宗主権を拡大していった。ロシアは、1731 年に、小オルダを征服した。次いでおよそ
10 年後に中オルダと大オルダの保護権も獲得した。19 世紀に入ると弱体化したハンたちの
権力を奪ってステップにロシアの統治権を確立した。 図 14-43 19 世紀初頭の中央アジア これらの地域には、帝国膨張の尖兵(せんぺい)であるカザーク(コサック)の後を追っ
て、おびただしいロシア人とウクライナ人が肥沃な土地に入植し始めると、カザフ先住民
の不満が増大し、双方の軋轢(あつれき)も絶えなかった。20 世紀に入ると、現在のカザフ
スタン東北部では、すでに人口の 40%がロシア人になっていた。 ヴォルガ・タタールの地域で征服と統治の経験を積んだロシアは、ステップに波風を立て
ないように、カザフ人の強制的な同化は行わず、彼らを軍役から免除して異族人の地位に
とどめることに満足した。 異族人とは、とくに帝国の東方領土に住む民族とユダヤ人を呼んだ公式名称である。こ
のかいもあって、カザフ人の間では、イスラムや部族の慣習による制度や意識がロシア革命
後まで忠実に保存されることになった。カザフ人たちは、ロシア帝国の国境を越えて中国側
にも住んでいた。 2182
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
○トルキスタンの 3 ハン国の征服 19 世紀が開幕したころ、トルキスタンを支配していたのは図 14-43 のように、三つの王
朝であった。豊かなザラフシャン流域を押さえたブハラ・ハーン国、フェルガナ盆地に拠
るコーカンド・ハーン国、アム川下流域に君臨するヒヴァ・ハーン国がそうだった。 トルキスタンは、ロシアにとって、(インドから北上してくる)イギリスとのグレートゲ
ームの前進拠点でもあり、その北進を阻止すべき戦略上の要衝でもあった。ロシアは、折
から(黒海方面の南下政策を進める)クリミア戦争での敗北を取り戻す意味でも、トルキス
タンに食指を動かす必要があった。その地の棉花はロシア資本主義を支える木綿工業の原
料として欠かせなかった事情もあった。 ロシアの本格的な軍事行動は、1864 年に始まった。まずコーカンド・ハーン国は、近代
兵器で武装したロシア軍の敵ではなかった。オスマン帝国のカリフにも急使を送って援軍
を求めたが、タンジマート(改革)に多忙なオスマン帝国に介入する意志も力もなかった。
期待した援兵は来ず、コーカンドは背後から襲ってきた宿敵ブハラの攻撃によってとどめ
を刺された。肥沃なフェルガナ地方はロシアの領有に帰した。 1867 年、ロシアはタシュケントにトルキスタン総督府を設けて、陸続きの植民地の経営に
新しく乗り出した。翌年 1868 年、ロシアは圧倒的な軍事力でサマルカンド(1868 年)やヒ
ヴァ(1873 年)を占領すると、コーカンドを突いたブハラもロシアの軍門に下り、まもな
くヒヴァも同じ運命だった。ヒヴァでの奴隷売買は禁止され、4 万人のイラン人の捕囚を釈
放した。ロシアはムスリムの不安を和らげ、直接統治の負担を避けるために、ブハラとヒ
ヴァについては保護国とするだけにとどめた。 ロシアがザラフシャン川上流で開墾を進めて、棉花や米の生産を上げると、ブハラへの水
供給が減少し、経営にゆきづまった農民たちは、住み慣れた土地を離れてブハラ領内から
立ち去った。 トルキスタンで最後まで頑強な抵抗を繰り広げたのは、トルクメンであった。トルクメ
ン諸部族は奴隷貿易で悪名を馳せていた。彼らはシーア派のイラン人やカスピ海のロシア
人漁師を捕らえて奴隷し、ブハラやヒヴァの奴隷市場で売っていた。ロシアは何度もトル
クメン人を制圧する部隊を繰り出したが、1879 年のギョクテペの戦いでロシア軍を大いに
破った。 しかし 1881 年、近代装備のロシア遠征軍がトルクメンの抵抗をギョクデペの戦いで粉砕
し、1 万 5000 人にものぼるトルクメン人を虐殺して、雪辱を果たした。ここにロシア領ト
ルキスタンは事実上その完成をみた。このときにイラン、アフガニスタンそして清朝との
あいだに確定された国境線は、ほぼそのままのちのソ連邦に継承されることになった。 2183
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ここにトルキスタンの征服はひとまず完了したのである。19 世紀末、ロシア領トルキス
タンは、セミレチエ州、シルダリア州、フェルガナ州、サマルカンド州、ザカスピ州の 5
州とアム川流域右岸のアムダリア管区から構成されていた。トルキスタンは,ロシア人総督
の威令がおよぶという意味でこのときはじめて明確な境界線をもつことになった。 ○放置政策がとられたロシア・トルキスタン ロシアは、中央アジア植民地の開発は棉花栽培を軸に進めたが、遊牧民のカザフ人やキル
ギスの占めるセミレチエ地方を除いて、人口稠密(ちゅうみつ)なトルキスタンの農耕地
域に新たなロシア人移民を送り込む余地はなかった。ムスリム住民には、いわゆる「放置
政策」を取り、ロシア正教会の宣教活動も許さなかった。 過去の経験から性急な行動は、ムスリム住民の反感を買うのみであり、また、初代総督の
カウフマンが信じたように、イスラムは遠からず自然に朽ちはてる宗教だと考えられたか
らであった。軍制下ムスリムは、帝国臣民としての公民権を制限される一方、兵役も課さ
れなかった。こうした放置政策は、伝統的なイスラム信仰と慣習を温存させることになっ
た。 トルキスタンとヴォルガ中流域との相異は、ロシア人とムスリムの人口比のちがいにあ
った。1897 年を例にとると、カザン県では人口 217 万のうち、ロシア人が 38.4%を占めて
おり、タタール人は 31.1%にすぎなかった。しかし、新たに従ったトルキスタンでは、ロ
シア人は人口のわずか 3.7%にすぎず、ムスリムが 95%も占めていた。この圧倒的なムスリ
ムの存在感を前にして放置政策がとられたのである。 19 世紀の最後の 10 年、トルキスタンとりわけフェルガナ地方は、深刻な経済危機に見舞わ
れた。これは、ロシアがトルキスタンの灌漑事業の推進と棉花生産の拡大、そしてロシア
の内地諸県からの農業移民の入植に熱心だったことに関連していた。ブームに乗った棉花
プランテーションの無秩序な拡大は、麦畑などをつぶす結果となり、各地方の食糧自給度を
弱めた。これが度重なる飢饉の大きな原因であり、現在の民族問題の多発につながってい
る。 ○カフカスの征服 ユーラシア大陸の二つの海、黒海とカスピ海をへだてる大きな地峡はカフカスというが、
これはアジアとヨーロッパを結ぶ地域であり、近代においてはロシアとオスマン帝国とカ
ージャール朝イランの抗争の舞台であった。20 世紀になってもチェチェン紛争や南オセチ
ア紛争として再燃している。 1762 年に女帝エカテリーナ 2 世が即位して以来、黒海からカフカス方面に南下・侵出をは
じめた。カフカス山系に到達したロシア人は、まずカザーク(コサック)を尖兵として豊
かな平地を征服した。敗れたムスリム先住民のアディゲ(現在のロシアのアディゲ共和国。
2184
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
以下同じ)、カバルダ(カバルダ・バルカル共和国)、チェチェン(チェチェン共和国)、イ
ングーン(イングーシェチア共和国)などの各民族は、「山の土地」を意味するダゲスタン
に難を避けた。 ここでもロシア帝国は、入植民を保護するために、カザフ・ステップの征服時さながらに
黒海からカスピ海に連なる要塞線を建設して、平地部を山地部から隔離した。そのうえで、
森林を伐採しながら征服を進め、あれこれの民族や部族にロシアの保護権を認めさせる条
約を強制していった。こうした手法は、騎兵隊の駐屯とネイティヴ・アメリカン(インデ
ィアン)との条約締結を組み合わせたアメリカ合衆国の「西部開拓」ともよく似ている(人
類がやることはどこでも同じである)。 ○熾烈をきわめたチェチェン人の抵抗 18 世紀末にはじめて抵抗に立ち上がったのは、イスラム神秘主義教団のチェチェン人指
導者シャイフ・マンスールであった。このナクシュバンディー教団の指導者は、カフカスの
抵抗運動史で伝説的に語り継がれている。 実際、エカテリーナ 2 世以来、4 人のロシア皇帝による征服戦争でチェチェン人の数は激
減した。それでも、チェチェン人たちは抵抗をやめなかった。ニコライ 1 世はチェチェン人
をはじめカフカスの諸民族を流血のるつぼに入れた。しかも大事なことは、ロマノフ朝に
よるエスニック・クレンジング(民族浄化)の試みが、かえって激しい反発を招いたこと
である。イマーム・シャーミルの反乱がそうであった。 トルストイなどのロシア文学者のなかには、「聖なるルーシ」や「正義のツァーリ」の神
話に疑問を抱く者さえ現れた。
「巨大軍事力をもつ国家の召使いたちが、弱い民族に対して
ありとあらゆる悪事をおかす」と、トルストイは強国こそ自己防衛や「野蛮な民族の文明
化」を口実に、「平和な暮らし」をする人々に攻撃をしかけると批判した。その好例がロシ
アのカフカス征服であるといった。 1785 年のマンスールの抵抗から 1859 年のシャーミルの降伏にいたるまで、チェチェン人
などカフカス諸民族の抵抗は、ロシア社会にスラヴ的道徳や倫理をめぐる深刻な危機感を
もたらした。確かなことは、カフカス戦争が、ロシアのリベラルな知識人と専制との亀裂
を深めたことであった。 ロシア帝国がダゲスタンの征服を完了するのは 1877 年であったが、ロシア人は山地部に
は入植できないままだった。ロシア革命にいたるまで、ダゲスタンやチェチェンの地では、
父祖の殉教と強固な宗教信条への誇りが、イスラム神秘主義教団の活力とともに温存され
たからである。 ○アゼルバイジャンの征服 2185
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
アゼルバイジャンのトルコ系ムスリムの多くは、サファヴィー朝の支配下でシーア派の
教義を受けいれ、ペルシア語をはじめイラン文化の強い影響を受けいれていた。彼らは、
アゼリー(アゼルバイジャン)とかアーザルバイジャーニーとか呼ばれた人々である。サ
ファヴィー朝の支配は、アゼリー人たちにオスマン帝国や中央アジアのトルコ系の同族と
はちがった文化や風俗を刻印した。サファヴィー朝が滅亡すると、トルコ系のハンたちは
自立して、バクー、ナヒチェヴァン、カラバク(ナゴルノ・カラバフ)といった小さなハ
ン国に分裂割拠した。 これらの国に住む人々は、都市民から農民さらに遊牧民に分れて多彩な生活を営んでい
た。その宗派もさまざまであり、シーア派の小さな分派もあちらこちらに点在した。とく
に中心地のバクーは、キリスト教徒のグルジア人やアルメニア人、ユダヤ教徒などもいる
多民族・多宗教社会でもあった。 18 世紀末に新興のカージャール朝イランが旧領土の回復に意欲を見せたとき、ロシアは
第 1 次イラン・ロシア戦争によって、ムスリムの小ハン国はロシア軍に席巻され、アゼルバ
イジャンの北半分もゴレスターン条約でロシア帝国に帰属することになったことは、イラ
ンの歴史で述べたところである。 カフカスは、ヨーロッパの国際関係を左右した中東の東方問題と、中央アジアをめぐる
英露間の覇権競争、つまりグレートゲーム(大勝負)が交叉する戦略的な要衝であった。
そこでアゼルバイジャンを征服したロシアはここに軍政をしいて、カフカスの植民地につ
いて「その地の住民をしてロシア人のように話し、考え、感じさせる」ようにしようとし
た。 こうしてロシア正教会による布教活動は、帝政の時代をとおして続けられたが、成果は
なきに等しかった。わずかに成功したのは、「ロシア原住民学校」の教育であった。この官
立学校は、ロシア語を学ぶムスリムの生徒に数学・地理・歴史・ロシア法を教えて、ムスリム
の官吏や軍人を養成した。ここでの経験は、やがてトルキスタンでも活かされるようにな
った。 アゼルバイジャンの軍政は、1840 年代から民政に移されたが、ムスリムへの差別的な行
政は変わらず、改宗や同化の脅威とあいまって、アゼリー人のロシア統治に対する不信感
や敵愾心を消すことにはならなかった。 19 世紀も後半になると、バクーの石油産業が本格的な発展をはじめた。それはアゼルバ
イジャンの社会経済構造を大きく変えた。バクーの油田は、内外から多数の資本家・企業家・
労働者を惹きつけた。アゼリー人など地元のムスリム以外にも、おひただしいロシア人、
アルメニア人、タタール人、それにイランからの移住者や出稼ぎ労働者をかかえこんだか
らである。 2186
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
しかし、アゼルバイジャンのムスリムたちは、ロシア人やアルメニア人さらにグルジア
人など、いずれも劣らぬ個性的なキリスト教徒たちにかこまれて、自らの民族的なアイデ
ンティティを確立しはじめていた。彼らは、ロシア経由のヨーロッパ文化、議会制や立憲主
義を吸収したオスマン帝国のトルコ文化に影響された点で、世俗的なアゼルバイジャン・ナ
ショナリズムの先駆者であった。アゼルバイジャンこそ第 1 次世界大戦を機にイスラム世
界で最初の共和国をつくったのである。 ○クリミア半島の征服 クリミア半島は、14 世紀以来、イスラム王朝のクリミア(クリム)
・ハン国に支配されて
いた。この国は、16 世紀のデヴレト・ギレイ・ハンのときにはロシア(モスクワ大公国)や
ポーランドに脅威をあたえる強国に成長した。しかし、18 世紀に入ると宗主国であったオ
スマン帝国がロシアとの露土戦争に敗れ、1774 年のキュチュク・カイナルジャ条約によっ
て、黒海の支配権を奪われ、クリミア・ハン国の支配権を放棄してしまった(図 13-47 参
照)。さらに、オスマン帝国は、帝国内に住む正教会信徒の保護権をロシアに与えたため、
以後これがオスマン帝国に対する内政干渉の口実、南下政策の口実となった。 クリミアを併合したロシアの啓蒙専制君主エカテリーナ 2 世は、ムスリムに信仰の自由
を認めた。旧都バフチェサライのイスラム共同体と宗教指導者も、そのまま存続を認めら
れた。しかし、黒海沿岸のロシアのコート・ダジュールと謳われる風光明媚な土地の大部
分はロシアの貴族に与えられ、例のごとくスラヴ系移民のラッシュが始まった。この点は
カザフ草原とよく似ているが、クリミアでは土地が狭かったために、新しい安住の地を見
出せなかった点が異なっていた。 土地を奪われて各種の迫害に耐えかねたクリミア・タタール人の大多数は、救いをオス
マン帝国への脱出に求めた。ロシアによる併合からクリミア戦争を経て 19 世紀末にいたる
まで、クリミア・タタール人の歴史は疾病や飢えによる犠牲者を多く出した民族移住の悲
劇で彩られている。 この結果、クリミア・タタール人の共同体は、クリミア半島では正常な発展を阻害され
た少数民族の地位に転落し、ツアーリの威光を背負ったロシア人社会のなかに埋没すること
になった。1897 年には人口の 36%を占めるだけとなり、住民の数はヴォルガ・タタール人
とくらべても極端に減少したわけである。 ○中国に組み込まれた東トルキスタン 地理的にユーラシアの中心部は中央アジアといわれるが、トルキスタンともいわれてい
る(図 14-43 のカザフ草原の南)。ペルシア語でトルキスタンは「トルコ人の地」を指す
が、ほとんど中央アジアと同じ意味合いで使われている。それだけ中央アジアはトルコ系
民族が多く住む土地だったために、トルキスタンと呼ばれるのである。 2187
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
そのトルキスタンは、近代に入ってロシアのロマノフ朝と中国の清朝に分割支配される
悲運を味わった(清朝による征服については 18 世紀の清朝の歴史に記した)。それがロシ
アの西トルキスタン、中国の東トルキスタンという呼称に現れている(図 14-43 参照)。
ロシアの支配下に入った西トルキスタンについては、前述したとおりである。 中国内の東トルキスタンは、おおむね現在の新疆ウイグル自治区に当るが、1759 年(乾
隆帝の時代)以来、回部として清朝の統治下に入った。しかし、やがてウイグルと呼ばれ
るムスリム住民の異教徒支配に対する反感は、西トルキスタンの同胞によるロシア人への
反発にもまして鋭かった。 イェリク(土地の者)と自称した東トルキスタンのウイグル人をはじめとするムスリム
は、西のコーカンドに亡命した旧支配者の名門カシュガル・ホージャ家とひそかに連絡し
て、1826 年に清朝権力に対して蜂起した。その指導者ジハーンギール・ホージャは 6 ヶ月に
わたってイスラム支配を維持することに成功したが、清朝の圧倒的な武力の前に聖戦(ジ
ハード)は失敗した。しかし、カシュガル・ホージャ家はこれにこりず、その後、幾度と
なく聖戦を繰り返している。 主なものだけでも、1830 年から 4 度ほど「ハフト・ホージャガーン(7人のホージャたち)
の聖戦」が繰り広げられている。このジハードは、1863 年になると東トルキスタン全域に広
がり、ウイグル人だけでなく、ドンガンと呼ばれる中国西北部のムスリムも参加した。こ
こに出現した指導者がヤークーヴ・ベクであった。 ヤークーヴ・ベク(1820~1877 年。中国語では阿古柏)の生まれは西トルキスタンのコ
ーカンドの近くであり、若い頃は茶館で歌手として人気を博した。まもなくコーカンド・
ハン国の政治舞台で頭角を現し、西トルキスタンの動揺に乗じてカシュガルに派遣された
ヤークーヴ・ベクは、軍事的才能と外交手腕を発揮して東トルキスタンの7つの代表的な
オアシスを征服し「イェッティ・シャフル(七城市)」と呼ばれる領国をつくり上げた。オ
スマン帝国、イギリス、ロシアとも誼み(よしみ)を通じて、貨幣の鋳造、運河の開削、
モスクの修復などに努めた。 イスラム国家の支配者となったヤークーヴ・ベクは、シャリーアの厳格な適用をはかり、
遠くオスマン帝国の宗主権を認めた。その片時の成功は、内憂外患をかかえた清朝の弱さ、
ロシアの西トルキスタン経営の多忙さなどの幸運に支えられていた。しかし、同じムスリ
ムであるドンガンとの不和、軍事力の弱さのために、1877 年(光緒帝時代)に左 宗棠(さ
そうとう)の率いる清朝軍にトウルファン(吐魯番)が占領されて、謎の死をとげた。それ以
来、東トルキスタンの地は、清朝、中華民国、中華人民共和国と代が変わっても、ずっと中
国と漢民族の支配の下にある。 2188
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
【14-5-6】インド及びその周辺国 【①イギリスの植民地支配のメカニズム】 ○東インド会社による支配 東インド会社は、イギリス国王の特許状によってアジア貿易の独占を認められた特許貿
易会社であり、株式会社として組織されていた。この会社が 18 世紀の半ばからインドの国
内政治に介入して(否応なく巻き込まれたこともあったが)、200 年近く膨大な時間と人命
と資金を費やして、ついにインド亜大陸全体を征服し、図 14-44 に示すような植民地帝国
を作り上げたことは述べた。 図 14-44 インドの植民地化(19 世紀のインド) 貿易会社として出発した東インド会社は、征服戦争を進めるにつれ、商人としての顔と、
帝国の統治者としての顔を併せ持つようになった。商業は利潤を最大にするために行うも
のである。統治行為は、少なくとも建前の上では、住民の安寧の実現を目指さなければな
らないであろう。この 2 つの行為の間の落差は大きかった。 東インド会社がインドで領土支配をするようになった 1765 年から、事実上、会社廃止に
なる 1858 年まで、100 年近くの間にイギリスで何度も論争が巻き起こり、改革が行われた
が、それは、この両立しがたい問題を、その時代の要請に応じて、何とか調整しようとす
る試みであったといえる。 そして 1793 年からは、20 年ごとにくる特許状の更新のときに東インド会社問題を集中的
に審議する慣例になった。1793 年、1813 年、1833 年、1853 年の特許状法改正のときの審
2189
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
議がそれであり、そのつど自由貿易論者の圧力の下で、独占の範囲が段階的に狭められて
いった。そして、1853 年特許状法でわずかに残されていた商業的機能もすべて停止される
ことになったのである。このようにして東インド会社は次第に純粋の植民地統治機関へと
変わっていった。 植民地インドの統治機構で一番重要な官職は、総督と収税官・司法官であった。前者は
インド現地における統治の最高責任者であり、後者は地方行政の責任者であった。1833 年
にはベンガル総督が格上げされて、インド総督となった。総督は、数人のメンバーからな
る参事会に補佐されて行政を行ったが、この参事会は徐々に拡大され、19 世紀後半になる
と内閣や議会に相当する役割を果たすようになった。他方、イギリス本国政府には「監督
局」が置かれ(ピットのインド法。1784 年)、東インド会社の活動を監督した。 イギリス領インドには県が 250 以上あったが(20 世紀初頭の数字)、一つ一つに「収税官」
とか「司法官」とか呼ばれるヨーロッパ人の長官がいて、インド人と直接接触しながら行
政を行っていた。収税官は税務行政(地租の査定・徴収、財政一般、農民問題など)の長で
あり、司法官は司法行政(刑事裁判、治安維持)の長であった。しかし 1859 年以降、イン
ド全体の県行政は同一人物が兼任するようになった。 ○植民地の税収と送金問題 1765 年、東インド会社がベンガル、ビハール、オリッサのディーワーニー(徴税権)を
獲得したとき、イギリス本国政府は年額 40 万ポンドの国庫納付金を出す約束を東インド会
社から取り付けた。この送金の仕方が問題となった。 東インド会社が財務大臣として徴収した銀を現物で毎年、インドからイギリスに送ると、
銀が大量に流出して、インド経済が混乱してしまう。そこで 40 万ポンドに相当するインド・
ルピーをインドで支出して、イギリスで需要のあるインド産品、たとえば綿布を購入する、
それをイギリスまで運んで売却し、その売上金(=40 万ポンド)を国庫に納付すればよい、
という方法をとることにした。 ところが、この送金方法が成り立つ前提は、インドとイギリスの間の貿易がインドの輸
出超過になっているということであるが、この前提を満たすのはだんだん難しくなってい
った。というのは、イギリスで機械制の綿業が勃興したら、インド綿業は競争に敗れ、輸
出が激減したからである。とくに 1800 年以降 10 年間の減少ぶりは激しかった。 この問題に対処する方法として、東インド会社が試行錯誤の末にたどり着いたのは、三
角貿易を利用して第三国経由で送金するという方法であった。図 14-45 のように、インド
が中国にアヘンを輸出し、その結果、輸出超過、中国がイギリスに茶を輸出して、その結
果、輸出超過という関係が成り立っていれば(実際そうだった)、結局、イギリスに茶が入
2190
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ってきてこれを売却した金(=40 万ポンド)がイギリス国庫に納付されるということにな
る。 さらにイギリスに続いてアメリカがアジア貿易で有力になってくると、中国、アメリカ、
イギリスを結ぶ三角貿易も利用されるようになり、多角的な貿易決済網に載せて送金がさ
れるようになっていった。 図 14-45 19 世紀のアジア三角貿易 アヘン問題は中国の歴史で述べるが、実際、インドから中国へアヘンを輸出する仕組み
は、イギリスによってつくられ、図 14-46 のようにアヘンの輸出が増加していった。中国
にとってはたまったものではなく、1839~42 年のアヘン戦争の原因になったが、これに勝
ったイギリスはアヘン輸出を継続し、その後は驚くべき勢いで伸びていったことがわかる。 1909 年に上海で「国際アヘン会議」が開かれ,アヘン貿易の禁止に国際世論が動き始め、
やっと国際アヘン会議で禁止され終焉する 1917 年までイギリスは 140 年近くもアヘン輸出
を国策としてやっていたということになる。 図 14-46 インド産アヘンの輸出額(140 年間) 2191
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
三角貿易に返る。このように送金の方法はいろいろであるが、結局、毎年、インドで徴
税された富(40 万ポンド)がインドのために使われるのではなく、インド(世界で最も貧
しい国)から一方的に輸出品(=送金手段)が出ていき、イギリス(世界で最も豊かな国)
のために使われる構造になっているところに問題があったといえよう。このように輸出と
輸入がバランスしない貿易が成り立ったのは、植民地支配という政治的事実に基づいて、
イギリスがインドに対して経済的請求権(強制力)をもっていたからにほかならない。そ
れが植民地支配ということであった(これは経済的側面だけを言っているが)。 ○植民地支配=世界で最も貧しい国から最も豊かな国が富を吸い上げる仕組み この例では請求権を毎年 40 万ポンドとしたが、実際には、これほど単純ではなく、本国
費およびインド負債もかかった。本国費はインド統治のためにイギリスでかかる費用、た
とえば東インド会社本社の維持費(東インド会社の本社はロンドンにあった)、イギリスは
当然これをインド財政の負担としたのである。インド負債の方も、たとえば征服戦争の費
用を賄うためにロンドンで起債した債券の元利の支払いと一応考えておいてよい。いずれ
にしてもインド支配にかかるいっさいがっさいの費用を請求されたのである(これが普通
の通商関係であれば、相互の負担となる)。 インドは自己の負担でイギリスに植民地支配をしてもらう(一度も頼んだことはないが)、
という構造が出来上がっていたわけである。これが植民地支配というものであった(新し
い意味での帝国主義支配である)。本国費とインド負債にかかわる支払いは、19 世紀の初め
で、もうすでに年額 250 万ポンドという巨額に上がっていた。 このような経済的なことだけを取り上げても、その植民地支配の不合理性が理解できる
ようになると、インド知識人の不満は大きく、19 世紀末になると、インドからの「富の流
出」理論(後述)というものに定式化されて、民族運動に経済的な根拠を与えることにな
った。 このころのインドはすでにイギリスはもちろん、ヨーロッパ全体と比較しても膨大な人
口をもつ大国であったが、そのイギリスが自らの数十倍の大国から富を吸い上げる仕組み
をこのようにして作ったのである。 このように世界で最も貧しい国から最も豊かな国が富を吸い上げる仕組みができていっ
たが、これは他のすべての植民地支配についても同じであって、小が大を支配する仕組み
の基本は武力による支配体制の確立であった。新しい帝国主義といわれてもしかたがない
支配体制を欧米列強はアジア・アフリカなどに拡張していったのである。 インドで人口調査が行われたのは、1871~72 年の国勢調査がはじめてであるが、信頼性
が劣るので、この点を補正して推定したものでみると、1871 年でおよそ 2 億 3000 万人から
2 億 6000 万人となった。これに対して 1997 年時点のインド、パキスタン、バングラデシュ
2192
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
3 国の人口は、合計 12 億 2000 万人となっているので、19 世紀後半のインドは現在のおよ
そ 5 分の 1 であったことがわかる。 その前については 1600 年のころ、インドの人口はおよそ 1 億人だったという点で、多く
の研究者は一致している。その後、人口はゆるやかに増えてゆき、200 年後の 1800 年には、
1 億 7000 万人前後もしくは 2 億人前後になっていたといわれている。 ○植民地支配とインド中間層の形成 植民地支配にとって、インド中間層の形成はきわめて重要であったが、19 世紀前半まで
は、そのリーダーシップは社会的に成功した富裕な人たちの手中にあり、中間層は「貴族
的」といってもよいほどの社会層であった。このようなインドの中間層は、一応バラモン
をはじめとするヒンドウー高カーストが有力であったが、そうとう多様な社会集団を含み込
んだ階層だった。 彼らを結びつけていたのは、第一に、英語教育と、それを通じて獲得した植民地最高権
力者としてのイギリスの権威へ直接連なる社会的ステータスであり、第二に、英語を通じ
て受容した西欧文化であった。 したがって英語教育は新興中間層にとって死活的な重要性を持っていた。彼らの間では
英語教育への関心が高く、カルカッタでは 1816 年に「ヒンドウー・カレッジ」の設立(1817
年開校)となって実を結んだ。これは子弟に西欧の学問を学ばせるために、カルカッタの
中間層の指導者たちが寄付金を集め、結束して創立した私立の教育機関であった。この学
校では、歴史学、地理学、年代学、天文学、数学、科学などが教えられた。ボンベイでは 1825
年、
「エルフィンストン学校」が設立され、カルカッタの「ヒンドウー・カレッジ」と同じよ
うな役割を果たした。 1835 年、総督参事会のメンバーの職にあったマコーリ(『英国史』などを書いた歴史家・
文筆家として著名)は、「教育に関する覚書」を起草し、インドにおける教育は英語で行わ
れるべきだと結論づけた。彼はサンスクリットやアラビア語の価値を認めず、インドにお
ける教育は外国語でしか行えないとし、その外国語とは、英語でなければならないと主張
した。また教育の目的は、肌の色はインド人、しかし、ものの感じ方や考え方はイギリス
人であるようなインド人を養成することであるとした。この覚書は、支配者と被支配者との
間をつなぐ中・下級官僚層の人材プールとして中間層を組織的に養成し、インド統治のコス
トを下げることを狙ったものだった。インド人の人件費は、イギリス人と比べものにならな
いくらい安かった。 マコーリの覚書はこれ以後、植民地インドの教育の基本方針として定着することになっ
た。これはインドにとって不幸なことだった。このような教育方針の下では初等教育は必
然的に軽視されるようになったからである。 2193
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
東インド会社は、マコーリの覚書に先立ち、司法関係の下級職員の採用に当って、英語力
のある者を優先する方針を打ち出していた(1826 年)。そして覚書が出ると、裁判所の公用
語をペルシア語から英語に切り替えた。これを機会に英語の本格的な普及が始まったもの
と考えられる。 このような英語化に向かう社会の流れに総仕上げをしたのが、大学の設立であった。1857
年にカルカッタ、ボンベイ、マドラスに大学が設立され、それと同時に、私立のカレッジに
政府補助金を出す制度が導入された。ここに、大学と大学に提携するカレッジとにおける
英語による高等教育を柱とした植民地的な教育制度が完成され、中間層として社会的に上
昇していく経路が制度化されたのである。 ところが植民地支配が始まったとき、ムスリムのエリート層はイギリスと協調し、英語
を学んで、中間層に転進していくことができなかった。その原因は、イギリスの側、ムスリ
ムの側、それぞれにあったと思われる。イギリスはムスリムのムガル帝国から支配権を奪
い取ったので、長い間ムスリムに対して警戒心を解かなかった。ヨーロッパにおけるキリ
スト教とイスラム教の対立の長い歴史も影を落としていたからである。 他方ムスリムの側は、旧支配層として、植民地政府に仕えるのをいさぎよしとしなかった
とされる。ムスリムの側はイギリスの政策に対する反発を強め、英語教育への対応が遅れ
たと考えられている。 イギリスの植民地支配が本格化し、植民地統治機構が拡大すると、ヨーロッパ人とイン
ド社会の仲立ちをしていたインド人たちは、イギリス人高級官僚の下で働く官吏や、法律
家などの専門職を占めるようになった。また富裕な者は、商人や地主としての活動を続け
ながら、さまざまなチャンネルを通じて、植民地政府と密接な関係を保った。 彼らは発展する植民地都市でともに暮らすうちに、共通の価値観やライフ・スタイルを発
達させ、それを通じてお互いの結びつきを強め、一つのまとまった社会層をなすようにな
ってきた。こういう階層をインド近代史では、中間層と呼んでいる。彼らはインドの植民
地社会のエリートであって、経済・社会・文化・政治の各分野で重要な役割を果たすようにな
った。 19 世紀後半に入ると、行政機構の飛躍的な拡大や、各種ビジネスの発達に伴って、下級
官吏・事務員などのいわゆる下層中間層の比率が高くなった。19 世紀末から民族運動を発展
させる原動力となったのは、この下層中間層であった。 【②インド大反乱】 19 世紀中葉は、インドにおけるイギリス植民地支配を前期と後期に分ける大きな分れ目
になっている。これは 1857~59 年に「セポイの乱」(「大反乱」ともいう)が起こり、東イ
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ンド会社が廃止され、イギリスによるインドの直接統治が始まった時期であり、イギリス
植民地支配の重要な分岐点になっているからである。 「セポイ」とはインド傭兵を意味するヒンドスターニー語「スィパーヒー」がなまった
ものである。かつては「セポイ(スィパーヒー)の乱」と呼ばれたが、最近では、反乱参加
者の出身がインド傭兵だけでなく広くインド社会全体に広がっていたことから「インド大
反乱」と呼ばれるようになった。インド側からは第 1 次インド独立戦争という呼ばれ方を
されることもある。 ○頻発していたインド反乱 前述したようなイギリスの植民地支配をインド住民がよいとして受け入れていたわけで
はなく、植民地化がはじまった 18 世紀半ばからインド大反乱までのおよそ 1 世紀の間にも
多くの反乱が起こっていた。それらは、反乱・蜂起・宗教運動・農民運動・群盗・都市暴動など、
さまざまなかたちをとって行われ、主なものだけでも数十は下らないだろうといわれてい
る。 発生した時期や地域を見てみると、イギリスがウェルズリ総督の下で征服戦争を盛んに
行った 19 世紀初めと 1830 年代とに多発し、植民地支配がもっとも浸透したベンガルを中
心とする東インド、およびアーンドラ・プラデーシュの部族民地域(現在はインド南東部
のアーンドラ・プラデーシュ州)、ケーララ(現在はインド南部のケーララ州)で頻度が高
かったことがわかる。 一例として、ベンガル藍一揆(1859~62 年)について述べよう。イギリスが綿布に代わ
る輸出商品として藍を持ち込んで以来、ベンガルは世界の藍生産の中心となっていた。そ
のやり方は、ヨーロッパ人を主体とする藍プランターが、一般農民に前貸金を渡して藍草
を栽培させ、それを買い取って、自分の工場で染料に加工するというシステムで行われて
いたが、藍草の買い取り価格が低く抑えられ、藍作農民がまったく儲からないという問題
が生じていた。 ついには、買い取り価格が前貸金の額を下回り、苦労して藍を栽培しても、負債だけが
残るようになってしまった。藍作農民の不満は 1859 年に爆発し、ベンガルの中央部から東
部一帯をおおう大一揆となった。何十ヵ村もの住民が一緒になってヨーロッパ人の製藍所
へ押しかけ藍プランターが発砲して、暴動になることがあった。植民地政府が調査し、藍
プランターの非を認める結論を出し、農民の側が勝利する形で一揆は終息した。 ○インド大反乱(セポイの乱) 大反乱は 1 世紀の間の反乱の集大成ともいうべきものであり、規模が極めて大きかった
が、その他にも他の反乱には見られない独自の点が一つあった。それはこの大反乱はイギ
リスに対抗する権力の軸心を、ムガル皇帝の擁立というかたちで打ち立てたことである。
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
この思い切った戦略によって獲得した正統性と全国性が、大反乱がそれまでの数々の反乱
とは異なるところであった。 大反乱は 1857 年 5 月に勃発したが、その切っ掛けは新たに採用されたライフル銃(それ
までの銃と異なり正確な命中精度と強力な威力を持つ)の薬包(先込め銃に装填する 1 発分
の火薬と弾丸を紙で包んだもの)だった。この薬包には防湿油として脂が塗られていた。こ
の薬包を使ってエンフィールド銃を装填する際には、まず口で薬包の端を食いちぎって火
薬を銃口から流し込み、弾丸と弾押さえ(薬包を口中で噛んで柔らかくしたもの)を押しこ
まなければならなかった。これは戦闘時に宗教的禁忌(牛または豚を口にすること)を犯
すことになってしまうので、宗教的侮辱と受け取って弾薬の受領を拒否するなどした。 スィパーヒーは薬包問題を、彼らのカーストや宗教を失わせるための陰謀だと受け取り
不安が瞬く間に広がった。それを見てとった軍当局は、油脂を塗ってない薬包を配布し、
兵が自分で選んだ油脂を塗れるようにする措置をとったが、不穏な動きは北インド一帯に
広がっていった。 大反乱の狼煙(のろし)があがったのは、デリーの北東 60 キロにあるメーラトの町だっ
た。この町に駐屯する連隊でも、薬包にさわることを拒否して軍法会議にかけられるスィ
パーヒーが現れた。1857 年 5 月 10 日、連隊のスィパーヒーが決起し、監獄を襲い、収監さ
れていた友人たちを救い出し、イギリス人将校を射殺した。その夜、近くの村で協議した
彼らは、デリーに向かうことを決定した。 翌 11 日には彼らは早くもデリーに到達し、この古都を占領した。スィパーヒーは、名目
だけのムガル皇帝としてデリーで年金生活をしていたバハードウル・シャー2 世(当時 82
歳)を擁立し、行政会議を組織し、デリー政権を発足させた。 この報が伝わると、北インドに駐屯していたスィパーヒーが続々と反乱に立ち上がり始
めた。その状況は図 14-44 に示す。軍隊が立ち上がると、町では職人や労働者からなる群
衆が呼応し、さらに農村部に反乱支持のうねりが広がっていった。大反乱は初めから、ス
ィパーヒーだけでなく都市民や農民も加わった反乱であり、両者が共鳴しあいながら加速
度的に拡大していった。 スィパーヒーは役所の建物や監獄を襲い、イギリス人を殺し、多くの場合デリーへ向か
った。6 月には、イギリスは反乱地域のいくつかの点を押さえているにすぎない状況になっ
た。アワドのラクナウでは政務官官邸に少数の将兵とイギリス人家族が立てこもり、戦っ
ていた。カーンプルでは降伏して退却するイギリス人が虐殺される事件が起こった。 イギリス軍はパンジャーブとベンガルを支配下に確保し、反乱軍の支配地域を北西と南
東から挟み込む形勢となった。スク戦争直後のパンジャーブを保持できたことが、イギリ
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ス勝利の大きな要因となった。スク教徒はヒンドウー中心の反乱とみて呼応して立たなかっ
たのである。パンジャーブとベンガルからは援軍と補給物資が次々に送り出された。 反乱の中枢はデリーとアワド(図 14-44 参照。現在の北インド・ウッタル・プラデーシ
ュの州都ラクナウ)にあった。デリーには反乱軍が集結し、有力者が続々集まってきた。
デリー政権はムガル皇帝の側近グループとスィパーヒーの指導者から成り立っていた。ア
ワドはナーナー・サーヒブ(マラーター同盟の宰相)とモウルビ・アフマドウッラー(キリ
スト教に対する聖戦を説いた托鉢僧)とが指導者であった。 しかし、内紛もあり反乱軍はまとまりを欠き、支配地域の拡大にも陰りが見え始めた。
イギリスは、周辺民族や旧支配階級を懐柔するなど政治的工作を行いつつ、装備で勝る東
インド会社の軍隊の反攻が始まった。イギリスは反乱の原因となったエンフィールド銃を
大量に配備し、不正確な命中精度で短い射程でしか射撃できない旧式の滑腔銃を持った反
乱軍(18 世紀的な密集銃隊で運用された)を射程外の距離から正確に射撃することで圧倒し
た。 1857 年 9 月、1 週間にわたる激しい市街戦の末、イギリス軍がデリーを奪還したが司令
官と 4 分の 1 の兵を失っていた。翌年 3 月、イギリス軍はアワドのラクナウを攻め落とし
た。 このインド大反乱のとき、インド中部ではジャーンスィーの王妃ラクシュミーが難攻不
落といわれたグワーリヤル城を乗っ取り、イギリス軍と戦ったという話が残っている。王
妃ラクシュミーはグワーリヤル郊外に陣を張り、男装して勇敢に戦ったが敗れ、敗走の途
中、討たれて死んだ。このラクシュミーは「インドのジャンヌ・ダルク」と称されている。 彼女はジャーンスィーというインド中部の小国の王妃であったが、1854 年に王が病没す
ると、領国はインド総督の「(養子を認めない)失権ドクトリン(失権の原理)」政策に
よって、イギリスに併合されてしまった。大反乱が起こると、王妃だった彼女は、私財を
投じて集めた傭兵と民衆より募った義勇軍を率いて、イギリスと結ぶことで利権を得てい
た近隣の領主の攻撃を自ら陣頭に立って撃退し、一躍反英闘争の旗手となったのである。
インド初代首相ネルーがその著書の中で「名声は群を抜き、今もって人々の敬愛をあつめ
ている人物」と記している通り、彼女は今でもインドの英雄として崇敬を集めている(ネ
ルーは獄中で名著『父が子に語る世界歴史』(1934 年)を残している)。 ラクシュミーとともに戦ったターティヤー・トーペーはイギリス軍の包囲を突破し、な
お 1 年近くゲリラ戦を展開した。イギリス軍は農村地帯では 1859 年の夏まで掃討作戦を続
けたが、農民の激しい抵抗にあい、多大の損害を出し続けた。 1858 年 7 月、インド総督キャニングが、インドが平時にもどったことを宣言した。ムガ
ル皇帝バハードウル・シャー2 世は、デリー陥落の時に降伏していた。58 年 1 月、皇帝は、
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
国家に対して反逆をくわだて、自分がインドの王であると宣言したかどで裁判にかけられ、
有罪を宣告された(3 月)。これが 300 年あまり続いたムガル帝国の最期であった。10 月、
皇帝はデリーを離れ、流刑地のビルマのラングーンで 62 年に亡くなった。 ○ 大反乱の原因はいろいろなことが考えられているが、総合的にみると、イギリス植民地
支配がもたらした社会変動に求めるのが妥当と考えられている。手工業の崩壊、新しい土
地制度の導入等々の新しい問題が折り重なるようにして起こり、イギリスがインドの人々
が長年にわたって生きてきた世界を変えてしまったことにあった。ムガル皇帝を担ぎ出し
たスィパーヒーの蜂起は、長年にわたって蓄積されてきたそういう全般的な不満が政治的
な抗議として焦点を結ぶ絶好の契機となった。反乱が文字通り野火のように広がったのは、
そのためであると考えられている。 イギリスの支配は、インドの人々が長年、生きてきた地域共同体を急速に変えてしまっ
た。このことが、もっとも劇的なかたちで現れたのはアワドであった。反乱に先立つ 10 年
の間、ダルハウジー総督(在任:1848~56 年)は、前述した「失権ドクトリン」による藩
王国の併合を強力に推進していた。
「失権ドクトリン」というのは、もし藩王国に血族相続
人などの相続人がいない場合は(それまでは養子が相続した)、その領土は失効し最高権力
者たる植民地政府の手に回収される、つまり、養子による相続は認めない、という政策の
ことであった(日本でも江戸時代初期に末期養子の禁があった)。 この政策の結果、多くの藩王国が次々に取りつぶされていった。また、すでに領土を失
って年金生活をしている旧支配者に対しても、その年金を受け取る権利について同様の政
策がとられた。反乱の中心地の一つアワドも前の年に「失権ドクトリン」を適用されて併
合されてしまった地域だった。 また、イギリスの地租の査定が在地領主の力を殺ぐことに置かれて行われたことである。
これもアワドの例でいうと、在地領主のタールクダールの力は、わずか 1,2 年のうちに半
分にそぎ落とされてしまった。このタールクダール(領主層)が反乱に立ち上がったのは
当然として、その下にいる農民も反乱に加わっていた。 タールクダールが農民にとって良き領主様だったわけではない、実態はむしろ正反対だ
ったであろう。しかし、それにもかかわらず農民が支持を与えたのは、タールクダールが
体現している在地の社会関係や価値観を守ろうとしたからにほかならない。イギリスの地
租査定は在地社会の伝統に対する挑戦であり、それゆえに反乱は、在地社会の共同性を回
復するための戦いであると考えられたのである。農民は在地有力者を担いで、自分たちの
伝統社会を守ろうとした。 2198
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ムガル皇帝を擁するデリー政権(そして、マラーター同盟の宰相も)、雪崩を打って反乱
へと向かう農民へのひな形を示し、無数の農村の反乱をつなぐ傘の役割を果たしていた。
こういう構造のなかで反乱は思いもよらぬ広がりと深さを示すようになったと考えられて
いる。 ダルハウジー総督は、政務に精励するタイプの総督として有名で、第 2 次スク戦争と第 2
次ビルマ戦争に勝利し、藩王国併合、鉄道や電信線の建設、公共事業省の創設などの政策
を推進し、インド統治で辣腕を振るったが、そのやり方が過激すぎて大反乱が起きてしま
い、帰国後、大反乱の責任を問われ、失意のうちに 1860 年、病死した。 【③イギリス領インド帝国の時代】 インド大反乱はイギリスのインド支配に決定的な影響を及ぼした。大反乱は両軍ともに
残酷な報復行為に走った。その血なまぐさい体験にによってインド人とイギリス人の間に
は深い溝ができてしまった。イギリス人の側では大反乱の生々しい傷は徐々に人種主義に
固まっていった。イギリスの勝利は、勝利といっても薄氷を踏むようにして得た勝利であ
り、そのことがかえって、インド人を激しく蔑視する態度を生むことになった。 こうした感情は、19 世紀後半のヨーロッパで盛んだった人種理論と結びついて、インド
人は本来「劣等人種」であり、ヨーロッパに学んで自己統治能力を身につけることなど期
待できない、イギリス人がインドを統治しなければならない、というイギリス帝国主義を
正当化する「理論」に結晶化していった(同じ時期、南北戦争後のアメリカ南部で黒人は
本来「劣等人種」であるとした論理と同じ、人類は同じようなことをするものだ)。 それまでのイギリス人は西欧化がインドの進歩であると単純に信じ、啓蒙主義的な信念
に基づいて自信を持ってインド統治に当っていた。藩王国の併合にしても、藩王という伝
統的な支配者の統治よりも、イギリスの統治のほうが優れているという確信が根底にあっ
たことは確かであった。しかし大反乱はこのようなインド統治の基本理念を根底から覆し
てしまった。大反乱の嵐を辛うじてくぐり抜けたイギリスは、インドにおける「啓蒙」の
可能性に懐疑的となり、「人種」という不合理なものへの傾斜を強め、保守・反動化してい
った。 イギリスは大反乱が復古主義的な反乱だったことから教訓をくみ取り、インドの旧支配
層および大地主層を抱き込み、植民地支配の手先として組織することに力を注ぐようにな
った。保守主義とインド人に対する蔑視的な態度、これが大反乱以降の植民地行政の特色
となった。 ○イギリスのインド直接統治の開始 2199
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
具体的には、まずインドをイギリス政府の直接支配の下に置くことであった。それまで
インド統治を行ってきたイギリス東インド会社は、インド統治改善法(1858 年 8 月成立)
によってインド統治の任を解かれた(会社が正式に解散したのは 1874 年 4 月 1 日であった)。
インドはイギリス女王の名においてイギリス政府が直接統治することになった。 1858 年 11 月、インドの諸侯、族長および人民に向けたヴィクトリア女王の宣言という形
をとって、大反乱後のインド統治の基本方針が公表された。この宣言でイギリスは、イギ
リス臣民の殺人に直接関わった者を除き、反乱に参加した者に大赦を約束し、和解を呼び
かけた。 それと同時に、もうこれ以上領土を拡大する意図のないこと、インド人の信仰に干渉し
ないこと(キリスト教の宣教活動の抑制)、能力あるインド人を官職に登用すること(イギ
リスを支持した中間層への報奨)、先祖伝来の土地に対する権利を尊重すること(地主・在
地領主層の懐柔)、インド古来の慣習を尊重すること(女性問題などの社会改革からの撤退)
を今後の基本方針として宣言した。 またこれとあわせて、インドに産業を興し、公共事業を行い、人民の幸福をはかる意図
のあることも表明した。 この宣言でイギリスはインドの旧支配層・大地主と、インドの伝統社会へ譲歩した。この
宣言に続いてイギリスは、反乱の中心地のアワドで、反乱を起こしたタールクダール(領
主層)を復権させ、農民の権利を抑え込むという露骨なタールクダール優遇策をとった。
この政策によって、タールクダールは反乱者からイギリスの支配の忠実な手先に変わった。 彼らは在地社会の代表というよりも、イギリスが整備した警察と裁判所を後ろ盾に農民
から厳しく地代を徴収する地主としての性格を強めていった。これによって 1920 年代の初
め、アワドは激しい農民運動の舞台として再び登場してくる。確かにイギリスは伝統的な
支配層を抱き込んで植民地支配体制の再構築を行ったが、それはインド農民の求めた伝統
の復活とは似ても似つかぬ別のものだったのである。 このようにして、インド帝国は、1877 年に正式に発足したのであるが、イギリス国王(当
時はヴィクトリア女王)がインド皇帝を兼ねているという形態をとった。のちには国際連
盟、国際連合ともに原加盟国であった。実際には、イギリスがインドに成立させた従属国
であり、イギリス領インド帝国(または、英領インド、英印)と呼ばれた。 ○直接統治の仕組み 図 14-47 のように、本国イギリスにはインド省が、インドには「インド副王」の称号を
持つイギリス人総督が置かれた。命令系統をみると、インド大臣―総督―州知事―県知事
―インド人下級官僚となっていた。基本的にはムガルの地方行政制を受け継いだといわれ
るが、大きな違いは、最高位にイギリス本国のインド大臣がいること、および県知事までの
2200
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ポストは、ほぼイギリス人が占めたことである。この下にインド人下級官僚がピラミッド
的な階層性をもって続いていた。下級官吏にインド人を採用する制度は 1833 年以来である
が、インドの官僚制は、完全な上意下達的な制度であり、下級のインド人官僚には決定権が
ほとんどなかった。 図 14-47 インドに対する官僚命令系統図 インド東部の国境が画定したのは、2 回のビルマ戦争(1824~26 年、52~53 年)につづ
き、フランスの影響が強まることに懸念をいだいたイギリスが、1885 年にビルマをインド
帝国に併合したことによる。インドの北西では、英露の角逐のなかで,イギリス・アフガニ
スタン関係がつくられた。イギリスは、アフガニスタンの頑強な抵抗にもかかわらず、第 2
次アフガン戦争(1878~80 年)によってその外交権を奪い、
(領土を大きく縮小させて)英
露の緩衝国とした(第 3 次アフガン戦争によって、1919 年にアフガニスタンは外交権をと
りもどし独立したことは述べた)。 こうして現在のインド・パキスタン・バングラデッシュの領土が安定的に確保され、「旧
英領インド」という歴史的事実が現在の「南アジア」を特徴づける要素の一つとなった。 インドは国内は直轄州と大小 552 の藩王国にわかれていた。 インド帝国の直轄領は、州知事あるいは州準知事が統治する 8 つの州から構成されてい
た。8 州とは、ベンガル州(7500 万人)、マドラス州(3800 万人)、ボンベイ州(1900 万人)、
連合州(4800 万人)中央州(1300 万人)、パンジャーブ州(2000 万人)、アッサム州(600
万人)、ビルマ(900 万人)であり、この 8 州以外にも、政務長官が統治する複数の州が存
在した。1905 年のベンガル分割令において、ベンガル州は、東ベンガル及びアッサムと西
ベンガルの 2 つに分割されたが、1911 年に、東西ベンガルは再統一され、さらに、ビハー
ル州、オリッサ州が新設された。 藩王国の取潰しは、大反乱後は中止された。交戦権・軍事権を剥奪された大小 552 もの藩
王国は温存され、インドの人口の約 3 分の 1 が藩王のもとにあり、イギリス人の駐在官を
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通じて間接統治が行われることになった。その規模は大小さまざまであり、ニザーム藩王
国(デカン高原)、マイソール王国(南インド)、トラヴァンコール藩王国(現在のケララ
州)、カシミール・ジャンムー藩王国(北インド、)がその代表として挙げられる。 藩王国の内政に関して、イギリスは駐在官を通じて、日常的な業務に干渉するのみなら
ず、大臣の罷免、任命権にまで及んだ。イギリスの干渉の理由は、第一に、藩王国と帝国
の一体化をイギリスが望んだこと、第二に、多くの藩王国内において、民主的、民族主義
的な運動が高揚したこと(それをおさえるため)、第三に、イギリスは、藩王国内において
分割支配を試みたことなどであった。 同様の政策は、1886 年から帝国の一州に組み込まれたビルマにも適用され、コンバウン
朝より自立していたシャン族、カヤー族、カチン族の有力者に、イギリスの主権を承認す
ることと引き換えに、藩内の行政権を認めた。 藩王にはイギリスへの協力者の役割が期待され、イギリス領インド内に反英運動が起こ
っても、イギリス領インドの間にモザイクのように配置された藩王国が反乱の伝播を防ぐ
安全弁として機能するように目論まれていた。 ○インド軍の再建(再編) その後のインド人部隊には、「分割統治」原則が採用された。部隊は、種々の言語、民
族、カースト、宗教の異なる人々が入り組んで構成され、団結した反英活動を行いにくい
仕組みになった。そこで軍の再建に当っては分割支配の手法を徹底的に用いるなど、軍隊
が二度と反乱を起こさないよう周到な配慮がめぐらされた。 ○費用持ちで海外派兵役を負わされたインド植民地軍 英印軍に起こったもう一つの変化は、海外派兵という重要な任務が加わったことである。 インド軍の役割は植民地インドの治安維持とともに、イギリスの勢力圏における周辺諸国
への出兵であった。 たとえば、インド軍は南下するロシアとの戦争にも、中国でのアヘン戦争のイギリス派
遣軍にも,エジプト出兵(1882 年)も、中国における義和団の乱の鎮圧にも、イラン、中
東、東アフリカ、南アフリカなどにも、人口の多いインド兵が派遣され,最前線に立たさ
れた。 1840 年 6 月に(アヘン戦争のとき)中国に到着したイギリス派遣軍の主力は、このイン
ド人兵士が約 8 割を占めていた。つまり、インドは安価な兵隊貯蔵庫とみなされ、イギリ
ス軍事力の一部としてパックス・ブリタニカの軍事・外交を支える任務を与えられたので
ある。それが植民地の現実であった。 しかも費用はすべてインドもちであった。植民地インドに本国が要求したのは、大英帝
国が必要と認めるならインド軍は世界中どこへでも出動し、その費用の大半をインド政庁
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
が負担することであった。このため、インドの財政は膨張して「高価な政府」に悩まされ、
インドはつねに対英負債をかかえて第 2 次世界大戦のときまで、イギリスに負債を払い続
けたのである。逆にイギリスは列強に比べて世界の軍事的戦略配置図において圧倒的な有
利さを誇るようになった。 ○地方分権と教育制度 代表政府(選挙)制は、1861 年のインド参事会法にさかのぼる。このときはじめてイン
ド総督の立法参事会にインド人メンバーが任命された。これもインド大反乱に衝撃を受け
たイギリスが作り始めた制度といわれるが、まだ代表制には程遠かった。選挙の原則は、
1892 年の参事会法により、部分的な選挙権と、州立法参事会における予算審議権、質問権
(議決権はない)が認められたことが始まりであった。 1870 年から地方分権化が顕著となった。具体的には教育、とりわけ初等教育、道路、警
察、刑務所、公衆衛生、住民の健康管理など、金のかかる業務の責任を州政府・都市自治
体などに移管する結果になった。地方自治体には、わずかな地方税の徴収権が移管され、
「選挙」の要素も導入されたが、教育、公衆衛生など社会資本の充実は、地方のインド人
政治家に任された。このように「地方分権」は中央政府の責任回避となることが多かった。 イギリス領時代の教育政策は 1854 年に出された監督局総裁ウッドの通達に基本的にした
がっている。その特徴は、初等教育を軽視し、中等学校教育以上は、私立学校に依存し、
それに補助金を交付するものであった。高等教育は重視されており、1857 年にはカルカッ
タ、ボンベイ、マドラスで英語を教授用語としてヨーロッパの文芸・科学を中心とする大
学が発足した。大反乱後には、大衆の教育を考えるより、上流階級の教育を優先して考え
るべきであるという通達が出された。 1882 年には教育諮問会議(ハンター委員会)が任命されたが、その報告書の基本は、初
等教育の管轄権(管理・拡張・教育費などを含む)をあまり財政力のない地方自治体に委
ねたことである。結局、イギリス領時代に初等教育は義務教育にならなかった。 むしろ、一般的には反動的とされる藩王国で、バローダ(インド西部のバローダ藩王国
の首都)のように初めての義務教育制度が実施され成功し、1906 年からは藩王国全体に施
行された。これは民族運動に大きな反応を呼び起こし、義務教育の要求が澎湃(ほうはい)
として巻き起こった。 しかし、1911 年、ボンベイ立法参事会に義務教育法案が提出されたが、州政府などの反
対にあい、法案はほうむりさられた。これを見て民族運動の側から国民教育運動が登場し
た。しかし、結局、イギリス領時代の教育制度の結果は、1947 年の独立時に識字率 35%と
いう驚くべき低い数字を残すことになった。 2203
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
近代国家には、交通、通信などのインフラとならんで、初等教育が不可欠である。この
点から考えると、植民地インドは近代国家としての要件をまったく備えていなかった。 教育関係の高級官僚はイギリス人の手に独占されており、ナショナリズムの影響を恐れ
た彼らは大学教育を強化する「教育改革」を行い、インド固有の文化・言語を軽視した。
このようにして、英語で高等教育を受けた教師、弁護士、官吏など、ヨーロッパの知識・
学問への接近が容易に可能な知識人・エリート層が出現した。 確かに彼らは全体としてはイギリス統治の「協力者」であった。しかし、その中からは
皮肉にもインド国民会議(派)の指導者たちが輩出し、彼らはその知識を使ってイギリス
支配に対抗していったのである。 ○インド国民会議 19 世紀末になると、イギリス資本による近代工業が発達し、民族資本が成長した。しか
し、一般のインド人の窮乏は激化、農民は地主への土地集中で貧困化した。そのため、労
働者や農民の暴動が続発した。都市では英語による教育が普及し、知識人もふえた。近代
思想の普及によってインド国内に改革の動きがあらわれた。イギリスはインド人の不満を
和らげるため、商人・地主・知識人らで構成するインド国民会議を創設し、ボンベイで(現、
ムンバイ)で開催することにした。 1885 年、72 人の代表を集めて第 1 回の会議が開催された。この会議は、イギリス人官僚、
アラン・オクタヴィアン・ヒューム(インドでは、鳥類の研究や教育行政の研究で名高い)が、
インド総督の承認をとって進めたといわれている。その創立大会ではインド政府の行政制
度の改革、軍事費の削減、輸入綿花関税の再実施が決議された。この会議の特徴は、暴力
を排し、支配者への決議や請願のかたちをとって大英帝国の枠内での要求を出す、議会主
義的な方法を採用したことであった。 これは大反乱に惨敗したことによって、武力による闘いを断念したインド人の知恵だっ
た。イギリス側から見ても、大反乱に結びつかないよう、ガス抜きとしての役割をそれに
期待した。国民会議派の中心を占めたのはヒンドゥー教徒の知識人・官吏・地主など比較
的めぐまれた階層の人びとが多く、その主張や活動は穏健なものであった。 初期の国民会議の要求は二つに要約された。一つは選挙で選ばれたインド人が立法参事
会や行政に参加すること、他の一つは高等文官職をインド人にも開放することだった。ま
たときにはインド財政の半分近くの額にのぼる軍事費を節約して税負担額を軽減すること
をもとめた。 ○植民地インドからイギリスへの「富の流出」の仕組み 初期国民会議の指導者には、ナオロージーらがいた。ナオロージー(1825~1917 年)は、
インド国民会議創設者のひとりで、アジア人として初めてのイギリス下院議員となった。
2204
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
彼は『インドの貧困と非イギリス統治』を著し、インドの貧困の原因は、前述したように、
インドからイギリスへの「富の流出」にあると主張した。 それによると、インドの貿易や手工業は 17~18 世紀には非常に活発であり、インドの綿
製品などは世界中から垂涎(すいぜん)の的であった。1670、80 年代には、イギリスでキ
ャラコ熱と呼ばれる、インド産綿布のブームが起こった。それとともに、インド産綿布の
輸入規制を求める声も大きくなり、1700 年には「キャラコ輸入禁止法」が、1720 年には「キ
ャラコ使用禁止法」がイギリス下院を通過した(このことはイギリスの産業革命のところで
述べた)。しかし、これらの法律には多くの抜け道があり、実際には、イギリスのインド綿
布輸入は減少しなかったといわれている。 このような状況を一変させたのは 18 世紀後半におけるイギリスの「産業革命」であり、こ
の進展によって綿布の流れはイギリスからインドの方向へと転換し、インドからは原料綿
花がイギリスに輸出されるようになった。その転換点はイギリス議会に提出された報告書
などから、表 14-2 のように、1820 年頃と考えられている(綿布という輸出商品を失った
イギリス東インド会社は、そのかわりとして、中国向けアヘンを奨励したことが、1840~
42 年のアヘン戦争の遠因となった)。 表 14-2 綿布輸出入の方向転換 また、イギリス商品をインドに輸入するのはほぼ無税で、逆にインド商品をイギリスに
輸出するには種々の税が課せられた。こうしてイギリス綿製品は手工業製の上質インド綿
製品市場を崩壊させた。インドでは統計上、工業に依存する人口は、19 世紀に明らかに減
少した。これがいわゆるイギリスに「強制された自由貿易」の実態であった。 しかもインドからは富の流出が起こっている。そのメカニズムとは、貿易収支ではイン
ドは黒字であるのに、イギリスへの利子払いや本国費(前述したイギリスにおけるインド
政庁の行政的・軍事的費用)などサービスへの支払いをするためにその黒字が消えてしま
うというものである。この支払いが基本的に富の流出である。ナオロージーは「インドから
の富の流出が資本の蓄積を阻み」、工業化が阻害されたと述べていた。 ○国民会議派の理論的基礎となった「富の流出」理論 2205
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
表 14-3 にインドの人口成長を示す。19 世紀後半のインドでは 50 年間に 9 回のもの飢饉
が発生し、中でも大きかったのは、1876~78 年(南北にまたがる被害)、1899~1900 年、
1896~97 年の三つであった。前 2 件は、いずれも死者は 500 万人を超えたという。表 14-
3 のように、1871 年から 1921 年のインドの人口成長率は、平均すると年 0.37%にしかなっ
ていない。1895 年から 1905 年には人口が減少したという説があるほどであった。いずれに
せよ、インドの人口がゼロ成長に近かったことは否めない。 表 14-3 インドの人口成長 しかし、図 14-48 のように、インドの地税は一貫して上昇していた。これは「本国費」と
称せられるインド統治のために、イギリス本国で使われる費用が着実に増大していたから
である。鉄道利子や反乱鎮圧費、イギリス人退役官僚の年金など種々の名目でのインド側
の負債が膨大にふくらみ、1892 年までに、インド政庁の歳出の 25%が毎年イギリス本国の
インド省に支払われていたのである。ルピー価格の下落は,本国への支払い負担を一層重
くした。 図 14-48 19 世紀イギリス領インドの地税 2206
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ナオロジーはこれをインドからの富の流出と呼び、このためにインドが資本を蓄積する
ことができないのだといった。この議論は,イギリスの統治よりもインド人による統治の
方がよい、という主張の根拠となり、その後、インド国民会議が民族運動を展開していく
際に、有力な理論的基礎となった。 ほかにも R・C・ダットの『インド経済史』など、第 1 世代の人々は水準の高い研究によ
ってイギリス統治の搾取的性格を明らかにした。これらを読んだ次の世代は、非イギリス
統治、すなわちインドの独立を当然求めるようになったと思われる。 国民会議派(国民会議参加者から成る政治結社)はヒンドウー教徒が中心で、穏健な知識
人が多く、最初は親英的であったが、19 世紀の終わりごろから、若い世代、いわゆる過激
派が登場してきた。 彼らの新しさは自治・独立(スワラージ)を公然と運動の目標にしたことだった。その
中心がティラク、オロビンド・ゴーシュ、ラージパト・ライらであった。 ティラクらは、
従来の穏健な指導層と分裂しても、急進的な運動を伝統的・土着的な大衆と結びついたも
のに組み替えて、大衆化しようとした(その状況は 20 世紀の歴史に記す)。 【14-5-7】中国 ○清国の衰退 清朝は乾隆帝の最後、18 世紀末から、徐々に衰退に向かっていた。大きな人口圧、農業
生産の停滞、官僚の腐敗、そしてアヘン流入による経済的・社会的な後退が主因であった。
当時の中国は、官僚が重税を課して私腹をこやすなど、政治の腐敗がひどくなり、社会不
安の増大から各地に反乱がおこったが、その最大のものが宗教的秘密結社の白蓮教(びゃ
くれんきょう)の乱で、1796 年から 1804 年まで、湖北・河南・陝西・四川の各省に広がる
大規模なものとなった(図 13-56 参照)。 しかし、白蓮教徒たちも組織的な行動がなく、各地でバラバラな行動を取っていたため
に次第に各個撃破され、1802 年頃にはほぼ鎮圧された。しかし、政府がこの反乱に費やし
た巨額の費用は国庫を空にしてまだ足りず、増税へと繋がり、さらに社会不安を醸成して
いった。 清朝は新たな時代の変化への対応は後手にまわり、中華思想に基づく対外意識が目立っ
た。世界の新思想への関心はきわめて薄く,工業などが生みだす西欧の新生なハードウェ
ア「装置」には全く無理解であったし、さらに通商・議会制度・軍事組織などの新「制度」、
仕組みへの学習意欲も著しく欠けていた。過去の栄光が未来への展望を鈍らせていた。 巨大な清帝国は、すべて伝統的手段を用いて自己防衛に徹した。たとえば中英間の書簡
の使用言語については、英文を許さず、漢文のみとすることに固執した。これまで周辺諸
2207
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
国との関係がすべて漢文であったため、英語に通じた官僚がいなかった。育てようともし
なかった。清朝官僚のなかから外国語および外国事情を学習する者はついに出なかった。
官僚は昔から科挙の合格者に限られていて、科挙試験に合格するためには 6000 以上の膨大
な漢字と、「八股文(はつこぶん)」という特殊な文章形式を習得していなければならな
かった。 英語・外国文化の学習は、特許商人(公行)や一部の華僑によって行われただけであっ
た。迫り来る国際政治の波を敏感に感じとり、これを官僚の耳に入れるチャネルができる
のは、アヘン戦争の敗戦後であった。 ○西欧の進出 一方、産業革命を終えた、あるいはその途上のイギリスをはじめ欧米列強は、海軍力で
シーレーンを樹立し、自ら商船を有して世界のどこにでも到達できた。その最大の武器が, 第 1 に新生工業により製造される軍艦・大砲などの強力・巨大ハードウェア「装置」であ
り、それを支える経済成長であった。 第 2 が民主・平等の思想、議会制度、軍隊組織、国際法、会社組織などのソフトウェア、
新「制度」、社会の仕組みであった。 第 3 が情報の把握であった。情報はあらゆる面で重要になったが、古来からの儒教・儒
学の暗記に固まってしまった中国は新しいものを受けつけなくなっていた。「彼(敵)を
知り己を知れば、百戦殆(あや)うからず」(2500 年前の孫子)という格言は、もともと
中国生まれであったが、知識(学問)のうえだけになっており、実行がともなわなかった。 《中国開港のための使節団》 中国茶は 17 世紀中頃にイギリスに伝えられると、まず上流階級のあいだで、カリブ海の
植民地からもたらされた砂糖を入れて飲まれるようになった。ついで茶(紅茶)は、しだ
いに庶民のあいだにも普及し、とくに 1785 年に実施された減税法で茶の値段が安くなると、
ポピュラーな飲み物としてイギリス人の生活に定着した。こうして、イギリスは毎年、大
量の茶を中国から輸入するようになった。 このように、イギリスにとって中国は茶貿易の相手国としてたいへん重要な存在となっ
たが、その中国とは何らの条約も締結していないことにイギリス政府は不安を感じていた。
というのは、ヨーロッパでは三十年戦争を終結させたウェストファリア条約(1648 年)以
来、2 国間あるいは多国間の関係、つまり国際関係は条約に基づくというのが常識になって
いたからである。 そこでイギリス政府は 1792 年、ジョージ・マカートニー(1737~1806 年)を首席全権と
するイギリス最初の中国使節団を送ることにした。この使節団は通訳、機械係、医師、測
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
量士、画家など総勢 95 人(艦船の乗組員を除く)から成り、こうした「条約体制」を整え
ようとヨーロッパの常識に基づいて決定された。 彼らは軍艦ライオン号ほか 3 隻に搭乗、豪華な礼物を大量に用意した。大型の使節団を
組み,大量の贈り物を携えた理由は,巨大な帝国・清朝に相手にされないことを危惧する
一方、これを機会に多くの情報を得ようとしたからである。人口では中国の約 4 億人に対
してイギリスはわずか 1600 万人で約 20 対 1,国土面積では約 40 対 1 であった。 1793 年 9 月 14 日、ようやく熱河(ねっか)の離宮で乾隆帝に謁見することはできたが、
イギリス商人が中国で活動する場の拡大をもとめるという要望は何一つ実現しなかった。
清朝繁栄の頂点にあった乾隆帝は、「わが天朝の物産は豊かであって無いものはなく、も
ともと外国産のものに頼って不足するものを補う必要などまったくない」という勅諭を、
マカートニーに託してイギリス国王に与えた。 ヨーロッパの常識は中国ではとんでもない非常識だった。中国を中心とする東アジアに
は、ヨーロッパの条約体制とは異なる「朝貢体制」が古くから存続していたからである。 中国では古くから中華思想があり、中国が世界の中心で,世界の第 1 等国であると考え
ていた。したがって中国は国土が広く物資も豊富であるが、他国は国土がせまく物も少な
く、文明もおくれており、諸外国が中国と貿易をしたがるのもそのためであると考えてい
た。そのため、他国に対して対等の交易は許さず,皇帝に対する朝貢のかたちをとらせた。
マカートニーに対しても、清朝がとった態度はこれであった。マカートニーが主目的とし
た条約締結についてはまったく相手にされず拒絶されてしまった。 イギリスは 1816 年に第 2 回目のアマースト使節団を派遣したが、これも三跪九叩頭礼(さ
んききゅうこうとうのれい。額を地面に打ちつけておこなう礼)を要求され、当時の嘉慶
帝があくまで三跪九叩頭礼の実行を要求した結果、アマースト使節団は皇帝謁見も果たせ
ず帰国した。 三度目は 1834 年のネーピア(のちに初代イギリス貿易監督官)が任命されたが、北京訪
問もならず、会見にはいたらなかった。清英間の国交関係への模索は、このあと、官僚レ
ベルのわずかな接触にとどまり、書簡による意見交換も一方的で実質的には進まなかった。 ○イギリスのアヘン貿易の仕組み イギリスの中国貿易は中国茶輸入を中心に発展したが、その他にも絹・陶磁器なども輸
入し,その輸入量は年々増加した。その見返りとして輸出しようとした毛織物などはあま
り売れなかったから、多額の銀が中国に流出した。このように 18 世紀後半までのイギリス
の中国貿易はイギリス側が一方的に中国茶を輸入する片貿易の状態にあった。 ところが、18 世紀後半にイギリスで産業革命が始まり国内で資金需要が高まると、毎年、
輸入茶の支払いのため大量の銀を持ち出している東インド会社の中国貿易のあり方に対し
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
て、産業資本家や彼らの利益を代弁する議会の一部から強い批判が巻き起こった。こうし
て、東インド会社は銀に代わる決済手段を見いださねばならなくなった。窮地に立った東
インド会社が目につけたのが、インド産のアヘンであった。 中国にアヘンを輸出したのはイギリス人が最初ではなく、ポルトガル人であったが、その
量は、過去 1 世紀の間、毎年、約 200 箱ぐらいだったとみられている。アヘンの一箱(約
60 キロ)はアヘン中毒者 100 人が一年間に吸飲する量に相当すると言われるから、200 箱
は 2 万人分に当る。おそらくそれくらいのアヘン中毒者が福建省や広東省の中国東南沿海
地方にいたのだろう。 東インド会社は、アヘンを専売下に置き、1780 年代から組織的に中国への販売に着手し
た。当時、清朝中国はアヘン貿易を禁止していたので、東インド会社は、カルカッタにお
けるアヘン競売までを行い、あとは民間商人にゆだねた。つまり、東インド会社が禁制品
アヘンを販売した結果、茶を売ってもらえなくなることを恐れ、中国市場で売るのはあく
まで民間商人で東インド会社に責任はないようにしたのである。 具体的には、東インド会社は、東インド会社~コントラクター(請負人)~耕作者の構
造をつくりあげて、アヘンを専売制とし、インドのベナーレスとビハールの 2 州に限定し
てアヘン耕作をさせ、各州に 1 ヶ所のアヘン精製工場を設置した。 まず認可したケシ栽培農家に前払い金として半額払い、収穫後に残金を支払う。精製工
場へ納品されたアヘンは,混ぜ物がないかの検査などをしてから、64 キログラム入りの箱
に梱包し、東インド会社の印を押す。それをガンジス川経由でカルカッタまで運び、そこ
で競売に付した。農民に支払った金や精製工場の経費などのコストの 4~5 倍が、東インド
会社の利益になった。 19 世紀の約 100 年間、専売制によるアヘン収入は、植民地インドの財政収入の首位を占
めていた。それほどアヘンは利益の大きい、うまみのある事業であった。植民地財政は宗
主国イギリスの財政を補完するよう宗主国イギリスが決定した。つまり、黒字の植民地財
政を本国送金し,本国財政の赤字を埋めた。インド植民地財政の黒字化の第 1 貢献者がア
ヘン収入であった。 競売のあと、アヘンを実際に中国に輸送して販売した民間商人は地方貿易商人と呼ばれ、
東インド会社から特許を得て、アジア域内に限って貿易を認められていたイギリス人やイ
ンド人の商人であった。この間、アヘンの害は認識されていたので、インドでは横流し、
密売できないよう厳重に管理されていた。 彼ら地方貿易商人はインド産のアヘンや棉花をカントンで販売して銀を入手したが、本
国貿易である茶貿易は認められていなかったから、手元に残った大量の銀は東インド会社
カントン財務局に払い込んで、東インド会社の為替手形を購入した。地方貿易商人にとって
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
為替送金のほうが銀をそのまま送金するよりも有利なるように為替率が操作されていたの
で、すべてそうした。 《人類史に残るの汚点》 東インド会社は地方貿易商人が払い込んだ銀で中国で輸入茶の代金を支払った。結果的
に、図 14-45 のように、インド(アヘン)→中国カントン(茶)→イギリス(綿製品)→
インドという三角貿易が完成し、それまで片貿易だった中英貿易も 1780 年代以降、解消さ
れ銀の一方的、流出という事態も解消された。端的にいえば、イギリスの中国貿易は、ア
ヘンの輸出と茶の輸入であった。 このように宗主国イギリス、東インド会社、特許商人たちが作り上げたアヘン密売シス
テムはきわめて緻密にできていて、アヘンは単なる貿易上の 1 商品にとどまらず、宗主国
イギリスの財政収入に大きく寄与した。これだけ多様な機能をもった商品は歴史的にみて
ほかに見あたらない(また、中国にとっては、これほど莫大で邪悪な商品はなかっただろ
うし、人類の歴史で世界一文明国と自認していた国でこれほど露骨に国家をあげて作った
仕組みで相手国のことを考えずに輸出していた例はない。自分(自国)さえよければ、相
手(相手国)はどうなってもよいという人間の欲望のなせるワザである。奴隷貿易に匹敵
する人類史の汚点である)。イギリスにとって、それほど重要のものであったから、戦争
に訴えてでも守らねばならなかったのである。 《清朝のアヘン禁止政策》 清朝はアヘンを禁止する政策を取っていた。その禁止政策は大きく二つに分けることが
できた。一つは、アヘン貿易を禁止するもので、アヘンの流入を水際で防ごうとする「外禁」
政策であった。もう一つは、国内におけるアヘンの製造・販売・吸飲、アヘン窟経営、アヘン
吸飲用キセルの製造・販売、ケシの栽培などを禁止する政策で、「内禁」政策であった。 18 世紀以来、清朝は「外禁」と「内禁」の両政策でアヘンを禁止しようとしたが、その
実効はなかなか上がらなかった。それは官僚の腐敗によるものだった。もっとも問題だっ
たのは、「外禁」実施の最前線であるカントンの官僚・兵隊の腐敗であった。カントン官僚
は口ではアヘン貿易の禁止を唱えながら、実際には賄賂を得てアヘンの密輸を黙認してい
た。アヘン 1 箱につき 40 ドルの黙認料が支払われていたという証言もある。 中国ではアヘン吸飲の風潮が急速に広まり,1830 年代にはアヘンの密輸入が激増した。
その結果、中国各地に大量のアヘン中毒患者が出て国民の健康などに大きな悪影響をおよ
ぼすようになった。マカートニーが中国に行った 18 世紀末当時、ベンガル・アヘンの中国
への年間流入量は約 4000 箱(40 万人分)であったが、アヘン戦争勃発の直前、1838 年の
流入量は約 4 万箱(400 万人分)まで増大していた。400 万人分ともなると、ちょっとした
1 国分の人口であり、清朝もほっておけなくなった(図 14-46 参照)。 2211
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
道光帝(在位:1821~50 年)は、改革派官僚のリーダー格だった湖広総督(湖北・湖南 2
省の行政長官)の林則徐(1785~1850 年)を欽差大臣(特命全権大臣)としてカントンに
赴きアヘン貿易を禁絶せよと命じた。 1839 年 3 月にカントンに着任した林則徐は「外禁」を断行するために、アヘン商人に対
して、現在持っているアヘンをすべて提出すること、将来、永遠にアヘンを中国に持ち込ま
ないという誓約書を提出することを要求した。林則徐が外国人居留区域を封鎖して圧力を
加えると、アヘン証人もついに屈して 2 万余箱のアヘンを提出した。林則徐は珠江河口近
くの高台で衆人監視のもとで 2 万余箱のアヘンを 20 日かけて焼却処分した。イギリス商人
は第 2 の要求事項である誓約書の提出については、かたくなに拒否し続けた。 当時のイギリスの貿易監督官チャールズ・エリオットはアヘン商人が 2 万余箱の提出し
た際、その代価をイギリス政府が支払うと約束したが、これは彼の越権行為であった。そ
こで、彼は外相パーマストンに対して、自分の行動を正当化するためにも、林則徐が取った
一連の措置はイギリス人の生命と財産を危険にさらした不法なものであり、アヘンはいわ
ば身代金として、やむをえず引き渡したと報告すると同時に、中国に対する砲艦政策の実
施を進言した。 ○アヘン戦争 エリオットの書簡を受け取ったのは、膨張論者のパーマストン外相だった。彼はすぐに
閣議を開いた。このままアヘン市場を失えば植民地インドの収入を脅かし、イギリスに収
入の大きな穴があく。パーマストン主導で閣議は進行し、カントン体制の打破を大義名分
として、遠征軍の中国派遣を決定した。 そのため、イギリス政府(首相はメルボーン)は、遠征軍の中国派遣にともなう特別財
政支出の議案を議会に提出した。この議案が審議された下院で、あの自由主義政治家で後
に 4 回首相となったグラッドストンは反対演説の中で「その原因がこれほど不正義で、ま
た、わが国にこれほど永遠の不名誉を残すことになる戦争を、私はこれまで聞いたことがな
いし、また、読んだこともない。・・・イギリス国旗は悪名高いアヘン密貿易を保護する
ために掲げられている。」と述べており、反アヘン世論もかなりあったが、1840 年 4 月、
政府案は下院でわずか 9 票差で可決された。 議会での審議に先立って、遠征軍はすでに中国に向けて出発し、6 月に中国海域に集結し
た。その陣容は、軍艦 16 隻、輸送船 27 隻、東インド会社の武装汽船 4 隻、陸軍 4000 人で
あった。 遠征軍はカントンの海上封鎖を宣言してから、図 14-49 のように中国沿岸を北上し、7 月
5 日には舟山島を占領、さらに北上して 8 月には渤海湾の白河口(はくがこう)沖に到着し
た。そして、パーマストン外相の中国宰相あての書簡を清朝官憲に手渡して回答を求めた。
2212
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
この書簡の中でパーマストンは、引き渡したアヘン代価の賠償、中英両国の対等交易、海島
の割譲、公行(こうこう)制度の廃止などを要求すると同時に、カントンにおける林則徐
の行動を強く非難していた。 図 14-49 アヘン戦争・アロー戦争・太平天国の乱(清の衰退と危機) 清朝政府はイギリス遠征軍が北京に近い渤海湾に出現したことに驚愕し、書簡で強く非
難されている林則徐を罷免した。そして、新たに任命した欽差大臣とカントンで交渉する
ことをイギリス側に提案して同意を得た。 しかし、カントンで行われた交渉も、香港島の割譲をめぐって決裂し、イギリス軍による
虎門砲台の占領が知らされると、道光帝は 1841 年 1 月にイギリスに対して宣戦布告した。
次いで、イギリス軍による香港島占領の報に接すると、新たに任命された欽差大臣もその
責任を問われて罷免された。その後の戦局は圧倒的な軍事力を誇るイギリス軍の優勢のう
ちに推移した。とくに、ネメシス号をはじめとする東インド会社の武装汽船の活躍は、目を
みはるものがあった。その経験から戦後、イギリス海軍は軍艦の汽走化に本格的に着手す
ることになった。 1842 年 7 月、長江を遡航したイギリス軍が中国経済の大動脈とも言うべき大運河を、図
14-49 のように長江との合流点である鎮江で封鎖し、ついで、やや上流の南京に対する攻
撃を最後通告すると、清朝は敗北を認めてイギリスとの和平交渉に入った。8 月 29 日、南
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
京沖の長江に碇泊するイギリス軍艦コーンウォーリス号上でいわゆる南京条約が調印され、
アヘン戦争は終結した。 ○南京条約―東洋の不平等条約体制の始まり 南京条約全 3 条の主な内容は、①カントンに加えて廈門(あもい)、福州、寧波(にんぽ
ー)、上海の計 5 港の開港とそこでの領事駐在、②香港島の割譲、③公行制度の廃止、④
賠償金の支払い(引き渡したアヘンの賠償金 600 万ドルの支払い、イギリスの戦費 1200 万
ドルの支払い)⑤イギリス軍に協力して逮捕されている清朝臣民の釈放、⑥中英両国官憲
の対等交渉、などであった。さらに、上海など 5 港の開港に関して、補足協定として 1843
年 5 港通商章程がさだめられたが、これによって清朝は関税自主権を失い治外法権を認め
させられた。 イギリスと同じように、1844 年には、アメリカ合衆国と望廈条約(ぼうかじょうやく)、
フランスとの黄埔条約(こうほじょうやく)が結ばれたが、いずれも関税自主権の喪失、領
事裁判(治外法権)、片務的最恵国待遇を規定する、いわゆる不平等条約であり、これに
よって清朝中国の主権は著しく侵害された。こうしてアヘン戦争に敗北した清朝中国は、イ
ギリスを中心とする資本主義的な世界経済構造のなかに国家主権を侵害された不平等な条
件で組み込まれはじめた。そうした過程の出発点であったという意味で、アヘン戦争は中国
近代史の起点とみなされている。 アヘン戦争はまた、東アジア世界にとっても近代の幕開けを告げるできごとであった。
アヘン戦争敗北の結果、清朝中国は欧米諸国との関係を、朝貢体制から(不平等)条約体制
に転換させられた。同時に、アヘン戦争の影響が朝鮮、日本、琉球など、広く東アジア世
界に及んだ結果、伝統的な東アジア国際秩序としての朝貢体制も動揺し始めた。 《上海開港》 南京条約後、開港場に設置された外国人居留地を租界(そかい)といった。行政権・司
法権を外国に握られている地域であった。開港場にはこうした租界が多く置かれ、列国の
中国に対する政治・経済・軍事活動の基地となった。 南京条約で開港した 5 港のうちで最北の上海は、その後、中国最大の都市に発展した。
ここは長江という天然の交通路と、首都北京にいたる大運河の交差するデルタ地帯で、全
国的な流通の拠点であり、また黄浦(こうほ)江の川沿いに、40 数キロメートルにおよぶ
長い港をもつ。 1843 年、イギリス側は上海に領事バルフォアを着任させた。戦争に勝利したイギリスは、
上海を貿易港とし、香港植民地を軍事拠点とする方針を立てた。今後、両者は東アジア支
配のための車の両輪のように重要な意味をもつようになった。 2214
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
中英貿易の主要商品はアヘンであったため、上海の輸出入も初期においては、圧倒的な
比重でアヘンが首位を占めた。 ○第 2 次アヘン戦争(アロー戦争) 清朝はアヘン戦争後、中国へのアヘンの流入量は新たに開港した上海を中心に増え、1840
年代に約 4 万箱、50 年代に 5~7 万箱と加速度的に伸びていった(図 14-46 参照)。そし
て、イギリスの輸入は茶が 80%以上を占めており、イギリスの中国貿易は全体として茶を輸
入してアヘンを輸出するというアヘン戦争前の体質をそのまま引き継いでいた。また、イ
ギリスはその後も綿製品の中国への輸出が増えないことやアヘン輸出が公認されないこと
などに不満を持っていた。 1856 年 10 月、カントンの珠江に碇泊中のアロー号という船が海賊容疑で清朝官憲の臨検
を受け、船員 12 人が逮捕されるというアロー号事件が発生した。イギリスのカントン領事
ハリー・パークスは両広総督・欽差大臣である葉名琛(ようめいちん)に対して、アロー
号は香港籍の船、つまりイギリス船であり、臨検の際にイギリス国旗が引きずり降ろされ
たのはイギリスに対する侮辱であると抗議した。実際にイギリス国旗がひきずり降ろされ
たかどうかははっきりしていないし、しかも、イギリス側は最後まで隠し通したが、アロ
ー号の香港船籍登録はすでに期限切れになっていた。いずれにしてもささいなことであっ
た。 しかし、イギリス政府にとっては、事件の真相など、どうでもよかったのである。アヘ
ン戦争を主導した当時外相だったパーマストンが、今度は首相になっていた。イギリス政府
は、何か戦争の口実になりさえすれば、再び遠征軍を派遣して(砲艦外交で)対中関係の
懸案を一挙に解決するつもりで、その機会を待っていたのである。 パーマストンはアロー号事件という国旗侮辱問題を理由に中国に対する武力行使を決定
した。その議案は上院は通過したが、下院では否決されてしまった。そこで、パーマストン
は下院を解散して総選挙を行い、ようやく議案を通過させることに成功した。 イギリス政府はナポレオン 3 世治下のフランスに共同出兵を持ちかけた。この機会にイ
ンドシナへの進出を企図したナポレオン 3 世は、1856 年に広西省でフランス人宣教師が殺害
された事件を理由に、イギリス政府の出兵要請を受け入れた。なお、ロシアとアメリカ合衆
国もイギリス政府から共同出兵を要請されたが、両国は出兵には同意せず、戦後に予定され
た条約交渉にだけ参加することを決定した。 1857 年 12 月末、英仏連合軍のカントン占領で、第 2 次アヘン戦争(「アロー戦争」とも
呼ばれる)は開始された。カントン占領の際、両広総督・葉名琛(ようめいちん)は捕虜
となり、護送先のカルカッタで客死した。カントンに占領行政をしいた連合軍は、図 14-
49 のように中国沿岸を北上し、渤海湾から白河をさかのぼって天津に迫ると、当時、後述す
2215
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
る太平天国の内乱にも苦しんでいた清朝は連合軍との和平交渉に入った。こうして 1858 年
6 月に、清朝は英仏米露との間に 4 つの天津条約を締結して、外国側の諸要求を認めた。 諸外国が天津条約を締結して退却すると、北京政府内では主戦派が台頭した。その結果、
翌 1859 年 6 月に天津条約の批准書交換のために訪中した各国全権に対して、清朝の対応は
かなり強硬なものとなっていた。陸路で北京に行くよう清朝側が要求したにもかかわらず、
英仏全権は白河遡航を強行しようとした。そこで清朝側は、強化していたタークーの砲台か
ら攻撃し英仏全権を撃退してしまった。 翌 1860 年夏、増強された英仏連合軍が再び中国に姿を現し、8 月、タークーの砲台を攻め
落とした後、連合軍は一路、北京に向けて進軍した。途中、天津、通州での交渉も決裂した。
10 月、連合軍は康煕帝・乾隆帝が建設した北京の名園「円明園」に侵入し、史上悪名高い略
奪・破壊を行い焼き払った。 ○天津条約・北京条約 英仏全権と清朝側全権との交渉の結果、1860 年 10 月にイギリス、フランスと北京条約が
締結されて戦争は終結した。天津・北京両条約は全体として一つの条約とみなすことができ、 その主な内容は、①英仏両国への賠償金の支払い、②開港場を追加して合計 11 ヶ所、③内
地旅行権(商品売買のために内地に入れることになった)、④子口半税の規定(輸入品は
2.5%の子口半税を払えば、内地通過税を免除される)、⑤外交使節の北京常駐権(北京政
府と直接交渉できる)、⑥キリスト教布教権、⑦中国人の海外渡航公認、⑧外国人税務司
制度を全開港場に適用、⑩公文書に「夷」の字を用いない。以上は各国共通であるが、北
京条約では、イギリスに九龍を割譲(イギリスは香港島の対岸を獲得した)、ロシアに沿
海州を割譲することが定められた。 《アヘン貿易を合法化させたイギリス》 そして、イギリスがもっとも狙っていたアヘン貿易がついに合法化された。1858 年 11 月
に調印された付属税則で、アヘンは名を「アヘン」から「洋薬」と改めて輸入が合法化さ
れ、100 斤(アヘン 1 箱の重さ、約 60 キロ)につき銀 30 両の輸入税が課されることになっ
た。アヘンが西洋の薬であるようによそおい、天津条約そのものではなく、世界があまり
注目していない実務的な税則会議でアヘンの合法化が決定されたのは、アヘン・アロー両戦
争を後ろめたいと感じていたイギリスが世界の目からこれを隠すために考え出したもので、
当時のイギリス外交の狡猾さを示している。 他方、当時の清朝は太平天国の反乱に苦しんでおり、その鎮圧に要する軍事費をアヘン
課税で補うために、ついに合法化に踏み切ったのである。アヘン貿易の合法化にともなっ
て、官僚、宦官、兵隊を除き、一般民間人のアヘン吸飲は原則として解禁されてしまった
2216
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
(つまり、アヘンから税金がとれるからという理由で、国民を売り渡してしまったのであ
る)。 このように、第 2 次アヘン戦争の結果として締結された天津・北京両条約は欧米列強に多
大の権益を与え、イギリス人も両条約を対中国関係の「マグナ・カルタ(大憲章)」と呼ん
で、その成果に満足した。 ○清朝末期の西太后の治世 1850 年、道光帝が死亡し、道光帝の子の咸豊帝(かんぽうてい、1831~61 年、在位:1850
~61 年)が年若くして清朝第 9 代皇帝となった。清朝は創業当初は有能な皇帝が続いてい
たが、後半期になると事情が変わってきた。咸豊帝、同治帝、光緒帝、宣統帝という 4 代
の清末の皇帝たちは、いずれも少年または幼児のときに皇帝の位についた。このような現
象は、清朝は王朝の末期的な状況に陥ったことを示すものといえるであろう。 このような状況の中で、咸豊帝の皇后は子供を産まず、側室であった西太后にただ一人
帝位を継ぐべき男子が生まれた。これが同治帝(どうちてい。1856~75 年。在位:1861~
75 年)となったが、そのとき 5 歳であった。そして皇帝の生母として宮廷政治の実権を握
った西太后が、朝廷の前例を無視して光緒帝、宣統帝という清朝最末期の皇帝を決めて、
19 世紀後半から 20 世紀前半の清朝末期の(40~50 年間の)政治を動かした。まさに末期
的症状であった。 ○太平天国の乱 アヘン戦争後の中国社会は、安価なヨーロッパ製品が大量に流入し、中国の家内工業を
破壊し、失業者が増大した。この傾向は、綿工業地帯であった華中から華南の地方に強く
あらわれた。アヘン戦争による多額の出費と賠償金支払いは、銀価の高騰と増税をまねき、
農民の生活は困窮した。このため地主・高利貸による土地兼併がすすみ、流民化する農民
も多くなった。このような状態のなかで社会不安が増大し、各地で反乱が多発した。 アヘン戦争から 10 年を経て、清は半世紀前の白蓮教徒の反乱をうわまわる太平天国の反
乱が起き、中国南端の広西省から北上して、図 14-49 のように、長江下流の南京に都をつ
くり、ほぼ 15 年にわたって北京の清に対抗する政権を維持した。 江西省から始まった太平天国の乱は、洪秀全(こう しゅうぜん、1814~64 年)が、キリ
スト教の宣教師から渡されたパンフレットから、自らの解釈によるキリスト教の教義とし
て拝上帝教(上帝会)を説き始めたところから始まった。この拝上帝教は入信すれば男女
問わず平等であり、男性は兄弟、女性は姉妹とし、ヤハウェを天父(上帝)、キリストを
天兄と称し、洪秀全をキリストの弟、ヤハウェの次子とし、人間界に至って神の意思を実
行する者としていた。 2217
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
洪秀全は、故郷の人々に上帝への帰依を説いて回るうちに、キリスト教と中国古来の民間
信仰を調和させ、人々の平等や悪習撤廃を主張した。当時の広西省は土地はやせ、民は貧
しく、連年の災害で飢民があふれていた。拝上帝会はそれらの民衆を吸収し、1851 年 1 月、
金田村(きんでんそん)で蜂起し(図 14-49 参照)、地上に天国を実現するとして「太平
天国」と命名し、辮髪を切り衣服を改めた。さらに命令に従う、略奪をしないなどの軍紀 5
ヵ条を定めた。参加した信者は約 1 万人であった。 太平天国の乱は、「滅満興漢(めつまんこうかん)」をスローガンとして漢人による中国
の復興をはかり、満州民族の清朝の支配に反抗した。男女平等を主張し、天朝田畝(てん
ちょうでんぽ)制度により、農民に均等に土地を分与し、25 家を単位として共同体を組織
させるというものであった。また、アヘン吸飲や纏足(てんそく)などの悪習の排除、私
有財産を認めず、貧富の差のない理想社会を目標とする共産主義的発想からでていた。 太平軍は広西の各地で清軍との戦いを続けながら、しだいに組織をかためていった。1851
年 3 月、洪秀全は「天王」に即位した。天国は別の世界にあるものではなく、現実の世界
に実現しうるものと考えるようになっていった。9 月には広西の東北地域にある永安州を占
領し、包囲する清軍と戦いながら、天王を中心に東王、西王、南王、北王、翼王をそれぞれ
配置し体制を固めた。なかでも天父のことばを伝える東王・楊秀清は、軍事的な戦略家と
しても有能で、諸王を指揮する全軍の最高司令官としての地位についた。 1953 年 3 月には清朝の両江総督の駐在地であった南京を占領した。南京を天京(てんけ
い)と改称して首都とした。広西を出て 1 年足らずのうちに清朝の北京に対抗する拠点を
獲得したのである。さらに長江流域を確保するための作戦が行われ、南京の下流、上流に
軍が展開された。同時に、北京の清朝を倒して全中国を統一するために、精鋭を集めた北伐
軍が組織された。北伐軍は黄河を渡って、図 14-49 のように、天津の近くまで迫った。北
京は恐慌に陥り、荷物をまとめて避難する者もあらわれたが、北伐軍の力も限界に達してい
た。南京からは援軍が派遣されたが、結局、北伐軍は 1855 年に壊滅した。 《「地上の天国」の実相》 洪秀全も欲望に満ちた人間であることには変わりなく、為政者になるとたちまちその欲
望にとりつかれてしまった。天王になった洪秀全は、南京の清朝の両江総督が使っていた
官署に入り、そこを改築して「天王府」とした。その他の諸王もそれぞれ壮麗な王府を築
いた。天王府には、「金竜城」という内城と「太陽城」という外城がつくられ、「金竜城」
には「金竜殿」という金色に輝く宮殿が造営された。この宮殿の奥深くに住んだ洪秀全は、
もはや社会の動きに直接触れることはなかった。複雑な儀式を経て天王に会えるのはごく
少数の指導者だけとなった。 2218
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
天王府がもっとも壮麗な宮殿であったばかりではなく、東王はそれに匹敵するほどの東
王府を造営した。それどころか、すでに戦死した王を含めて北王、西王など、すべての諸
王の王府も造営され(王位の世襲のためにつくられた)、天京のなかにあたかもいくつかの
独立国があるかのようであった。 洪秀全はその奥深いところに鎮座し、政務ばかりか民衆の前からも遠ざかったため、政
務は東王・楊秀清が取り仕切ることが慣例となった。初期に天京において立案・実行され
た政策は楊秀清の強力な統率の下に行われたが、太平天国の理想と現実がかくも異なった
ものであることを示すことになった。 決起直後から男女は夫婦といえど別々の集団に分けられていたが、天京においてもそれ
は継続された。庶民には一夫一婦制を求めながら、ただ天王以下首脳部は例外で、旧約聖
書における一夫多妻を理由に多数の妻女をもっていた。実際には中国皇帝の後宮制度に影
響を受けたものであろうが、こうした王と庶民との間には大きな格差があった。 天京の市内には拝上帝会以来の軍事共産主義的なきわめて人工的な社会が作り出された。 住民の財産をすべて没収して天朝の聖庫に収めるとともに、住民を男館と女館に分けて収
容した。男館も女館も軍隊の編制にならって組織され、両司馬という指揮官が統率した。
成年男子はおおむね兵士として徴用され、労働の強度に応じて食糧が支給された。女子には
纏足(てんそく)の禁止が布告され、さまざまな作業や物資の運搬に動員された。 このような社会の体制を、さらに広く農村部にも及ぼそうとして、「天朝田畝(でんぽ)
制度」が発布された。そこでは、たてまえとしては天下の男女を「上帝」の一大家族の成
員とし、画一的に土地を分け与えて生存を保証しようとする考えが強調されていた。しか
し、財産の私有は禁じられ、生産された財物はすべて国庫に納められた。人々は 25 戸を最
小単位とする軍事行政組織に組み込まれ、これを「郷官(きょうかん)」が管理した。原始
共産主義的発想であるが、その制度は現実にはほとんど施行されずに、実際には占領地域
での土地税の徴収は清朝の場合と違わなかったと考えられている。 《太平天国の滅亡》 1853 年 9 月 2 日、天京に事件が起きた。北王・韋昌輝(いしょうき。1826~1856 年)の
部隊が東王府を襲撃し、楊秀清を殺害するとともに、その配下の兵士や関連ある者を皆殺
しにしたのである。今度は東王に代わって北王の恐怖政治が始まった。ついで、天王は北
王に反感をもつ翼王・石達開(せきたつかい。1831~1863 年)らを動かして、北王を捕ら
えて処刑し、その部隊も壊滅させた。9 月から 11 月までの間に東王、北王の配下の老若男女、
約 4 万人が命を失ったといわれている。こうして太平天国は内部崩壊を起こして弱体化し
ていった。 2219
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
中国古来の道徳と秩序を破壊する太平軍の革命的行動は、漢人の地主・官僚の社会的・
経済的基盤をおびやかした。しかし、太平軍の鎮圧にあたった清の政府軍は弱体であった。
もともと清朝の軍事は八旗と緑営を基本としていたが、時代が下るにつれて退廃して使い
物にならなくなっていた。 結局、太平天国は内部崩壊で弱体化したが、この討伐は清朝では手におえなかった。そ
こで漢人の地主・官僚は郷勇(ごうゆう)とよばれる義勇軍を編成して、これに対抗する
しかなかった。その郷勇としては、曽国藩の湘軍(しょうぐん。湘勇)や李鴻章(りこう
しょう)の淮軍(わいぐん。淮勇)が有名である。また、はじめ中立の態度をとった欧米
列強も、天津条約・北京条約で利権を獲得したあとは、清朝の安定を得策と考えて清朝を
支援するようになった。イギリス軍人ゴードンのひきいる西洋式軍隊の常勝軍は太平軍鎮
圧に活躍した。 1860 年 10 月に締結された北京条約以後になると、欧米諸国は明確に太平天国に敵対した。
上海や寧波の戦いでは英仏軍が積極的に参加し、太平天国軍は苦戦を強いられるようにな
った。 こうして、太平軍はしだいに占領地を奪い返され、1863 年以降、太平天国は太倉州・無錫・
蘇州・杭州を次々と失い、天京(南京)のみが孤立する情勢となった。侍王・李世賢ら諸
王はすでに洪秀全を見捨てていたが、忠王・李秀成だけは清朝の囲みを破り天京に舞い戻
った。李秀成は天京を放棄して再起をはかることを進言したが、洪秀全は頑として受け入
れず、逆に李秀成に防衛にあたるよう命じた。 孤立した天京(南京)は食糧事情がすでに逼迫しており、雑草を「甜露(かんろ。非常
においしいもの)」と呼んで食べていたほどであった。やがて天京には餓死者、逃亡者が続
出した。そして、ついに 1864 年 6 月 1 日、洪秀全は栄養失調により病死した。 1864 年 7 月 19 日、湘軍の攻撃により天京が陥落し太平天国の乱は終結した。城外からト
ンネルを掘り進め兵士を突入させたという。城内にはすでに厭戦ムードが満ちていたが、
蘇州陥落の際、太平天国の兵士 8000 人が皆殺しにあったことを知っていたため、最後まで
投降できず戦い続けていたのである。また占領後多くの老人や女子供もいたが 20 万人が虐
殺されたという。忠王・李秀成は洪秀全の子を伴って天京を脱出したが、程なくして捕ら
えられ、処刑された。 ○洋務運動 洋務運動(ようむうんどう)とは、1860 年年代前半~1890 年代前半に起こった、ヨーロ
ッパ近代文明の科学技術を導入することで中国の富国強兵をはかろうとした動きで、清朝
の高級官僚であった曽国藩・李鴻章・左宗棠(さそうとう)・劉銘伝(りゅうめいでん)・
張之洞(ちょうしどう)らがこの運動の推進者となった。 2220
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
洋務運動のスローガンは、「中体西用」という言葉で表された。つまり、伝統中国の文化
や制度を本体として、西洋の機械文明を枝葉として利用するのだということが表明されて
いる。日本の明治維新期の文明開化における「和魂洋才」と同趣旨の言葉であった。 曽国藩や李鴻章は、太平軍との戦争で西洋人のもたらす近代的な兵器が重要な役割を果
たすことを実感していた。そこで彼らを中心に、1860 年代より西洋技術、とりわけ軍事技
術を導入した近代化が推進され、清朝の国力増強がはかられた。次いで、運輸・通信・鉱
業や繊維工業の発展など富国策がとられた。これらの諸事業の経営は官営のものが多く、
民間における資本主義的な発展はあまりみられなかった(日本の富国強兵・殖産興業も初
期は官営であったが、のちに民間に払い下げられ民営中心に転換された)。さらに外国語学
校の設置や留学生の派遣など、新しい知識の吸収につとめた。 ヨーロッパの近代軍備を自前でまかなうために、図 14-50 のように、武器製造廠や造船
廠を各地に設置した。他にも、電報局・製紙廠・製鉄廠・輪船局や、陸海軍学校・西洋書
籍翻訳局などが新設された。また、洋務派は 1879 年に、天津と大沽の間に中国最初の電信
路線を敷設し、電報事業を始めた。さらに、洋務派は中国各地に 30 ヵ所あまりの近代新式
学校を建設し、科学・軍事・翻訳などの人材を育成した。著名な翻訳機関には京師同文館
(1862 年設立)があった。こうした教育機関・研究機関が西洋の書物を翻訳・出版し、
「西
学」の普及に努めた。 このように中国の洋務派の改革は、時期の早さでも規模の大きさでも日本の明治維新に
まさっていたが、日本の場合と異なって、なぜ成果が上がらなかったかについては、いろ
いろな理由が議論されているが、その一つは、生産管理方式は清朝の官僚主義に基づく旧
式の管理方法で、加えて生産された品は政府だけが使用するため採算は度外視されていた。 こうした軍事工場から利潤はほとんど得られず、施設を維持・拡大し生産を継続するため
の資本を蓄積することができなかった。つまり、経済・経営がわかる人材・官僚がいなかっ
たのである。 また、西太后を中心とする清朝政府の洋務派官僚と日本の明治維新政府の官僚とでは、
モラルの点でも大きな差があったと指摘されている。 近代化されたはずの清朝の軍隊であったが、清仏戦争(1884~85 年)と日清戦争(1894
~95 年)に敗れて、その弱体ぶりを暴露し、洋務運動の失敗が証明された。この結果、列
強の中国進出がふたたび活発化していった。 2221
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
図 14-50 洋務運動・清仏戦争・日清戦争(中国の近代化とその挫折)
2222
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
○中国の半植民地化 《ロシアの南下政策》 中国が 1857 年に勃発した第 2 次アヘン戦争で英仏両国と戦い、また、国内でも太平天国
の乱に苦しんでいる状況に乗じて、ロシアはアムール川方面への南下政策を推進し,1858
年に清朝と愛琿(あいぐん)条約を結んだ。これは、1858 年 5 月に中国北東部、アムール 川中流のアイグン(現黒竜江省黒河市)において結んだ条約で、この条約によって、図 14
-15 のように、ネルチンスク条約以来の国境(外興安嶺)は南へ大きく下げられ、アムー
ル川が国境とされた。つまり、ロシアはアムール川以北の広大な土地を圧力によって獲得
したのであった。 ついで、ロシアは、1860 年の北京条約で、愛琿(あいぐん)条約では両国の共同管理地
とされていたウスリー江以東の土地を清国から獲得した。その土地をロシアは沿海州とし、
1861 年にウラジオストック軍港という不凍港の建設に着手した(図 14-15 参照)。 現在のロシア連邦と中国の極東部での国境線は、このアイグン(璦琿)条約と 1860 年の
北京条約で確定されたものが基本となっている(その後の河川の流路の変化により、中ソ
国境紛争など両国の対立の原因の一つとなっていたが、2004 年にようやく国境全部の画定
が完了した)。 ロシアはさらに中央アジアへの南下を強化し、1860 年代から 70 年代にかけてコーカンド、
ブハラ、ヒヴァのウズベク 3 ハン国を征服したことは述べた。さらにロシアの勢力圏に近
い天山北路でイスラム教徒の反乱が起こり、ロシアの通商路が脅かされたため、1871 年ロ
シアは軍隊を出動させ、天山北路の中心地イリ(図 14-15 参照)を占領した。そして清朝
に対して,イリ地方の秩序を回復すればロシアは撤退すると声明した。イリ(占領)事件
の発生であった。 この問題は、1879 年、黒海北岸の避暑地リヴァディアにおいてイリ返還に関する条約が
調印されたが、その後、1880 年 7 月からペテルブルクで条約交渉がやり直しとなり、1881
年 2 月、ペテルブルク条約が調印された。この条約によって,ロシアはイリを返還し,賠
償金 900 万ルーブルを獲得した。清朝側はロシアに対する領土の割譲範囲と貿易上の特権
をリヴァディア条約より縮小された。現在、中国はこの方面で失われた土地を「西北大地」
と呼んで、喪失領土とみなしている。なお、イリ事件の解決後に清朝は新疆に対する支配
強化の必要性を認め、1884 年に新疆省を設置した。 《イギリスの内陸部進出》 イギリスはビルマと中国の雲南を結ぶ通商路を開くために探検隊を派遣したが、1875 年
2 月、通訳を務めていた北京のイギリス公使館書記官のカーガリーが正体不明の武装集団に
よって殺害された。これが、いわゆるマーガリー事件である。事件の真相は闇の中である
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が、中国駐在イギリス公使トーマス・ウエードはこの事件をとらえて中国との懸案を一挙
に解決しようとし、かなり強硬な姿勢で清朝の李鴻章との交渉に臨んだ。 その結果、1876 年 9 月、煙台(チーフー)協定が調印された。この協定で、雲南省の都
市に通商状況観察のための官吏を駐在させること、長江沿いの 4 港を新たに開港させるこ
と、イギリスは四川省の重慶に通商状況観察のための官吏を駐在させることができ、重慶
も汽船が就航した時点で開港することなど、通商上の権益が与えられた。このように、イ
ギリスは雲南や長江など中国内陸部の権益獲得に乗り出していった。 《清仏戦争と天津条約》 ベトナムを植民地化しようとしていたフランスは、ベトナム南部のあと(第 1 次サイゴ
ン条約)、1873 年 11 月にベトナム北部、トンキン地方の紅河下流域を制圧し、ハノイを占
領し、翌 74 年 3 月に第 2 次サイゴン条約を締結した。コーチシナに対するフランスの主権
を認め、ベトナムを実質的にフランスの保護領にする内容であった。 1875 年 5 月、フランスが第 2 次サイゴン条約締結を清朝の総理衙門(外務省に相当)に
通告すると、総理衙門はベトナムに対する宗主権を主張し、ベトナムの阮朝(げんちょう)
も 1876 年、80 年に清朝に対して朝貢を行った。ついで、1880 年にフランスがハノイなど
ベトナム北部に守備兵を置くと,駐仏公使はフランス外務省に抗議した。 1882 年 4 月、劉永福(太平天国の乱に参加した天地会の残党)の率いる黒旗軍が紅河流
域の鉱山を調査していたフランス隊を妨害したとの理由で、フランスはハノイを占領した。 フランスによるハノイ占領の報に接した清朝は雲南・広西の軍隊をベトナム領内に出動さ
せると同時に、軍艦 20 隻をベトナム海域へ移動させた。また、劉永福とも接触をはかって
協力を要請した。 1884 年 6 月、ベトナム北部で両軍の武力衝突が発生し、清仏戦争が始まった。両国は図
14-50 のように、ベトナム北部で戦うと同時に,フランス艦隊は 1884 年 8 月、台湾の基隆
を攻撃し、ついで馬尾の福建艦隊を壊滅させた。同年 10 月に再び基隆を攻撃し、台湾の封
鎖を宣言、翌 3 月に澎湖島(ほうことう)を占領した。1885 年 6 月、天津でフランス公使
パトノートルと李鴻章との交渉が行われ、天津条約が締結されて清仏戦争は終結した。 この天津条約第 1 条で,清朝中国はフランスがベトナムと結んだ現行(そのユエ条約で
は、フランスのベトナムに対する保護権が明示されている)及び将来の条約を尊重すると
規定されていた。従って、清朝は間接的な言い回しで,ベトナムに対する宗主権を放棄さ
せられたことになった。 1887 年 10 月、フランスはベトナムにカンボジアを加えたフランス領インドシナ連邦を結
成した。 《ポルトガルのマカオ領有》 2224
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
なお、ポルトガルは 16 世紀なかば以来、特別居住権を得ていたマカオを,1887 年 3 月に
締結されたリスボン議定書によって正式に領有した(図 14-50 参照)。 《朝貢体制の崩壊》 二度のアヘン戦争に敗北し、欧米諸国との関係を条約体制のもとに改編させられた清朝
は、そうした朝貢体制の危機をなんとか華夷思想・朝貢体制のあいまいさで乗り切ってき
た。しかし、1860 年代以降、中国周辺の朝貢国に対して欧米諸国や日本の勢力が及ぶよう
になると、朝貢体制はしだいに崩壊を余儀なくされていった。コーカンド・ハン国(1876
年→ロシア)、琉球(1879 年→日本)、ベトナム(1885 年→フランス)、ビルマ(1886 年→
イギリス)と、朝貢国が相次いで他国に併合されていった。 このように朝貢関係が諸外国によって否定されたとき、清朝は、朝貢国に勢力を及ぼそ
うとする諸外国に対して、朝貢国との宗属関係を主張して抗議した。また、朝貢国の方も、
1860 年代の朝鮮、1870 年代の琉球、1880 年代のベトナムのように、中国との宗属関係を理
由に外国の侵略を防ごうとした。しかし,ベトナムのように最終的には武力で決着をつけ
られてしまうのが現実であり、清朝は海防力の不備を痛感して海防論が起こるとともに、
清朝は朝貢体制的外交の限界も学んだ。台湾事件後、李鴻章らによって台湾の実効支配が
進められ、清仏戦争後に台湾省が建設されたことはすでに述べた。同様のことは内陸辺境
でも進行し,ロシアによるイリ占領事件後に新疆省が建設されたことも述べた。 《日清戦争と下関条約》 日清戦争にいたる過程については、【14-2-8】日本の歴史で記した。 1894 年 3 月、朝鮮の全羅道で東学党の乱が発生すると、6 月、日清両国は朝鮮に出兵し 対峙を続けた。7 月 23 日未明に日本軍は王宮を占領して閔氏政権を倒し、その上で大院君
をかつぎだして親日的な金弘集政権を誕生させた。金政権は甲午改革(内政改革)を進め、
日本はこの新政権から牙山の清軍掃討を依頼させることに成功した。そして 7 月 25 日、豊
島沖海戦(図 14-50 参照)が行われた。 結局、1894 年 8 月 1 日、日清両国は宣戦を布告し、ここに日清戦争が勃発した。その後
の戦いは、9 月 16 日の平壌の戦い,翌 17 日の黄海の海戦と日本側の勝利が続いた。日本軍
は 10 月 24 日に鴨緑江を渡って清朝領内へ軍を進め、11 月 21 日には旅順を占領した。翌年
1 月に山東半島に上陸した日本軍は威海衛の諸砲台を占領した。2 月 11 日、威海衛に集結
していた北洋艦隊の司令長官丁汝昌(ていじょしょう)は自決し,翌日、北洋艦隊は降伏
した。 すでに訪日した李鴻章らと下関で講和会議が開始されていたが、それを有利に運ぶため、
また台湾の獲得をにらんで、日本軍は 3 月 26 日澎湖島(ほうことう)を占領した。 2225
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
1895 年 4 月 17 日、下関の春帆楼において日清講和条約、いわゆる下関条約が調印された。
その主な内容は、①朝鮮の独立の確認(清朝との宗属関係の破棄)、②遼東半島、台湾、澎
湖島の割譲、③賠償金(銀 2 億両)の支払い、④片務的最恵国待遇の付与、⑤重慶、蘇州、
杭州などの開港、⑥開港場、開市場における日本人の企業経営権の承認、などであった。
なお、翌 1896 年に、下関条約に基づいて締結された日清通商航海条約によって、日本は領
事裁判権、協定関税、片務的最恵国待遇の点で欧米列強と同等の地位を中国において獲得
することになった。 講和条約調印後の 1895 年 4 月 23 日、ロシア、ドイツ、フランス 3 国の公使は日本政府
に対して、旅順・大連のある遼東半島の領有は中国の安全、朝鮮の独立、極東の平和にと
って障害となるという申し入れを行い、同時に下関条約批准書交換の予定地である煙台(え
んたい。山東半島東部の威海衛の西隣りの港湾都市)に軍艦を集結して武力示威を行った。
いわゆる三国干渉である。 日本政府は結局、これを受け入れざるをえず、あらためて同年 11 月 8 日に北京で還付条
約を結び、銀 3000 万両の報償金と引き換えに遼東半島を返還した。その結果、日本が海外
に領有した最初の植民地は台湾と澎湖島となった。その台湾においては「台湾民主国」の
成立など、住民が日本の支配に激しく抵抗し,その後も長期にわたって抵抗運動はくりひ
ろげられた。 《列強による中国利権獲得競争》 日清戦争の敗北によって、朝貢体制にとっての最後の砦として李鴻章がその維持に努め
てきた朝鮮との宗族関係も完全に否定されてしまった。しかも、日清戦争の場合、敗北し
た相手はこれまでのようなヨーロッパ諸国ではなく、同じ東アジアの小国日本であった。
この敗戦によって,中華体制の中心である清王朝の弱体ぶりを世界にさらすことになって
しまった。 その結果、アヘン戦争以来、動揺し続けていた中華・朝貢体制は決定的に崩壊した。そ
れまで周辺の朝貢国を標的としていた列強の矛先は、再び中国そのものに向けられ、列強
による熾烈な利権獲得競争が展開されることになった。 帝国主義列強の中国分割競争は、①租借地(中国の主権のおよばない外国の領土)の獲
得や勢力範囲の設定、②鉄道敷設権・鉱山資源採掘権・関税特権など各種の利権の獲得、
③各種の資本投下などのかたちをとって進められた。列強はこれらの手段を総合化して、
租借地を根拠地にして、鉄道を敷き、鉱山資源を開発して、この地域の不割譲を中国に約
束させるかたちで勢力範囲を拡大した。 日清戦争後の日本、日本に三国干渉を加えたロシア・フランス・ドイツ、および中国貿
易の先進国イギリスの 5 ヶ国がとくに積極的に中国進出を試みた。日清戦争中から清朝は
2226
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
列強から多額の借款を受けていたが、戦後にも露仏銀行や英独銀行などから多額の借款を
し、その担保に関税・塩税をあてた。また、列強は下関条約第 6 条が規定する企業営業権
を最恵国待遇で同じように受けて中国企業への投資を激増させた。また、列強は借款を通
じて鉄道敷設権と沿線地域における鉱山採掘権を獲得した。 たとえば、ロシアは露清秘密同盟条約(1896 年 6 月)に基づいて東清鉄道の敷設権と経
営権を得た。1898 年 3 月にドイツは,ドイツ人宣教師殺害事件を契機に結んだ膠州湾租借
に関する条約によって膠州湾を 99 年の期限付きで租借した。また、ロシアが旅順、大連を
25 年の期限付きで租借すると、それに対抗してイギリスも威海衛を租借した。このように
欧米列強は競うように中国から図 4-51、表 14-4 のように利権を獲得していった。 図 14-51 列強の中国侵略(1900 年前後) 2227
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
表 14-4 列強の租借地 フランスは広州湾を租借したが、それに対抗してイギリスは 1898 年 6 月、香港地域拡張
に関する条約を結び、九龍半島(新界)と周辺諸島を 99 年の期限付きで租借した。すでに
みたようにイギリスはアヘン戦争で香港島を、ついで第 2 次アヘン戦争で九龍を割譲させ
ていたが、ここに九龍半島(新界)と周辺諸島を租借することにより、イギリス領香港植
民地は完成した。 こうした列強の動きに対してアメリカは、1898 年の米西戦争に勝ってスペインからフィ
リピンの領有権を獲得すると、1899 年 9 月に国務長官ジョン・ヘイがいわゆる門戸開放宣
言を発して「機会均等」を唱え、中国侵略の遅れを取り戻そうとした。アメリカはモンロ
ー宣言でアメリカ大陸にとどまると言ったこともあったが、今はそうではなく、中国にも
出ていくので、その機会は均等に開放されるべきであるとヨーロッパ諸国や日本を牽制し
たのである。まさに世紀の変わり目に帝国主義列強の中国分割が始まり、半植民地化が進
んでいった。 鉄道については、ドイツは膠済線(こうさいせん)、イギリスは滬寧線(こねいせん)、
広九線など、フランスは滇越線(てんえつせん)、アメリカは粤漢線(えつかんせん)、ベ
ルギー銀行団は京漢線と、それぞれの敷設権を獲得した。 以上をまとめると、列強は鉄道と租借地を中心に以下のように自国の勢力圏を設定した。 ◇ロシア―東三省(盛京・吉林・黒龍江の 3 省)・旅順と大連の租借地・モンゴル・トルキ
スタン(旅順・大連は三国干渉後ロシアが租借、日露戦争の結果、日本の租借地となった) ◇ドイツ―山東省・青島(膠州湾租借地) ◇イギリス―香港の九龍半島と威海衛と長江流域 ◇日本―台湾の対岸である福建省 2228
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
◇フランス―ベトナムに隣接する広西省・広州湾 という具合に勢力圏を設定していった。その上で、列強は自国の勢力圏内では他国に権益
を譲渡しないことを清朝に承認させた。 ○光諸帝と戊戌(ぼじゅつ)の変法 日清戦争に敗れた清朝中国では,敗戦を契機に李鴻章や西太后に対する批判が強まった。
清仏・日清両戦争での敗北は、洋務運動でのヨーロッパ技術の導入という表面的改革が無
力であったことを示した。そこで、明治維新を行った日本にならって立憲君主制を樹立し、
清朝の伝統的体制を根本から変革しようとする変法運動が康有為(こうゆうい)が中心と
なって説かれた。 1898 年 6 月、光諸帝(在位:1874~1908 年)は康有為、梁啓超、譚嗣同(たんしどう)
らを登用し、「国是の詔」によって、清朝中央の変法を正式に開始した。これを戊戌の変
法(ぼじゅつのへんぽう)という。変法の法とは、単に法律を意味するのではなく、政治
制度も含めたシステム全体を意味していた。すなわち、変法とは、それまでの伝統的な政
治外交礼制などを大きく変えることを含意した言葉であった。 具体的には、科挙の改革とそれに代わるべく計画された近代的な学制の整備、新式陸軍
の創設、訳書局・制度局の設置、議会制度の導入など、主に明治日本に範をとった改革案
が上奏された。これらの康有為らからアイデアを得て,光緒帝は、つぎからつぎへと改革
の上諭を下した。制度局の設置、科挙の八股文(はつこぶん。科挙独特の文)の廃止、京
師大学堂の設置、宗室・王公への外国視察の命令、上海『時務報』の官報化、中央各部の
行政改革、変法派少壮官僚の抜擢、変法派の批判の的だった李鴻章の総理衙門大臣免…。 このような上諭が毎日のように連発されて、清朝の官界は中央・地方ともに一種のパニ
ックに陥った。若い皇帝は、皇帝の指示さえあれば新しい試みはおのずから緒につくかの
ように考えていた。しかし中央と、地方の大官たちは皇帝と西太后の力関係のなかで状況
がどのように変化するかのか観望しており、変法の上諭はほとんど実践されることがなか
った。こうした変法の上諭でもたらされる混乱は,西太后にとっても座視できないものと
なっていった。 このような改革のゆきづまりに皇帝はいらだち、光緒帝は譚嗣同の発案により北京周辺
でもっとも強大な北洋軍の指揮権をにぎっている袁世凱を抱き込んで、力によって反対派
を抑える道を探ろうとした。しかし、袁世凱は皇帝に従わないで、西太后に密告した。 ○西太后の戊戌の政変 1898 年 9 月、西太后は、ただちに袁世凱を使ってクーデター(戊戌の政変という)を起
こして、皇帝側の動きを封じ込め、光緒帝を監禁し譚嗣同や康有為の実弟を含む 6 人を逮
捕し処刑してしまった。そして皇帝から政権を奪って再び垂簾聴政を開始し、光緒帝は、
2229
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
以後死ぬまで親政の機会を与えられなかった(形式的に皇帝ではあった)。康有為は日本
へ亡命した。変法は 100 日で失敗し、以後西太后が摂政となり保守的・排外的な政治が進
められた。 その後の光緒帝であるが、1900 年に義和団事件が勃発し 8 ヶ国連合軍が北京に迫ると、
西太后は光緒帝を連れて西安まで落ち延びた。 ○義和団事件(北清事変) 中国の植民地化が進み、生活が破壊された民衆の中に排外運動が広がった。北京条約で
キリスト教の布教が公認されたため、各地でキリスト教徒とのあいだに紛争が続発して、
反キリスト教運動(仇教運動。きゅうきょううんどう)が起こった。そして、列国の中国
分割の進展とともに、中国民衆の排外感情はいよいよ高まった。1898 年、こうした情勢下
に山東省で義和団が蜂起し、ドイツ人宣教師を襲撃した。この義和団とは、白蓮教系の宗
教的秘密結社で反キリスト教団体であり、義和拳という武術も修練していた。 1899 年、反西洋・反キリスト教を掲げる義和団が蜂起し、「扶清滅洋」(清を扶〔たす〕
け洋を滅すべし)をスローガンにかかげて外国人を攻撃しつつ、山東省から押し出し、直
隷省(現在の河北省と北京)へと展開し、北京と天津のあいだの地帯は義和団であふれか
える事態に至った。直隷省は山東省以上に、失業者や天災難民が多くおりそれらを吸収す
ることによって義和団は急速に膨張した。そして外国人や中国人キリスト教信者はもとよ
り、舶来物を扱う商店、はては鉄道・電線にいたるまで攻撃対象とし、次々と襲っていっ
た。そのため北京と天津の間は寸断されたのも同然となった。これが義和団事件である(北
清事変ともいう)。 列強は中国に軍隊を派遣し義和団掃討作戦を実施していたが、6 月 17 日、天津にある大
沽砲台の攻撃について、清朝は「無礼横行」と非難し、西太后は、ついにこの反乱を支持
し、欧米列国に宣戦布告した。義和団鎮圧のために軍を派遣した列強はイギリス・アメリ
カ・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリア、日本の 8 ヶ国であった。丁度
この時、アメリカはフィリピンで(米比戦争)、イギリスは南ア戦争(ボーア戦争)で兵力
に余裕がなく、結局、日本、ロシアが中心であった。 総司令官にはドイツ人のガスリーが就任した。総勢約 2 万人弱の混成軍であった。日本
軍は陸軍大臣桂太郎の命の下、第 5 師団 8000 人を派兵した。結局、義和団の乱は列国軍に
よって鎮圧され、西太后に動員された北京周辺の清朝の軍隊はほとんど壊滅した。こうし
て、宣戦布告後 2 ヶ月も経たないうちに欧米列強国軍は首都北京及び紫禁城を制圧した。 《北京議定書の締結》 2230
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
その結果、清朝側が敗れ、1901 年、清朝にとって屈辱的な北京議定書がが結ばれ、中国
の半植民地化が決定的となった。北京議定書では、①4 億 5000 万両の賠償金の支払い、②
首謀者の処罰、③外国軍隊の北京駐在、④北京周辺の防備撤廃などが取決められた。 この北京議定書で定められた賠償金 4 億 5000 万両(利払いを含めると 8 億 5000 万両に
なる)という額は、年間予算 1 億両足らずであった当時の清朝にはまさに天文学的な要求
であった。さらにその賠償金の支払い源も関税など確実な収入を得られるものを差し押さ
える形で規定されていた。その後清朝はこの支払いを履行したが、莫大な拠出はその後、
民衆へは税の増額という形で負担がのしかかり、さらに困窮にあえぐこととなり、清朝へ
の不満が高まった。 賠償金は 1912 年に清朝が滅亡した後も、清朝を引き継いだ国家とみなされた中華民国に
そのまま負わされ、中央政権が軟弱な基盤しか持ちえなかった理由の一つとなった。結局
1938 年までに 6 億 5000 万両が各列国に支払われ、ようやく賠償は終了した。 さらに北京議定書では、「清国は、列国の海岸から北京までの自由交通を阻害しないため
に、列国が同間の各地点を占領する権利を認めた。その地点は、黄村・楊村・郎房・天津・
軍糧城・塘沽・盧台・唐山・濼州・昌黎・秦皇島及び山海関とする」という規定があり、公
使館周辺区域の警察権を列国に引き渡したり、海岸から北京までの諸拠点に列国の駐兵権
を認めるといったものは、清朝領域内でその国権が否定され、列国が統治する地域が生ず
ることに他ならなかった。 たとえば、日中戦争の端緒となった盧溝橋事件において「なぜ日本が中国の領域深くま
で当然のように兵を置いていたのか」というと、北京議定書に基づく権利の行使により、
日本を含む 8 ヶ国の列強が各地に駐兵していたのである。 この義和団事件の結果、中国の半植民地化は決定的となった。 ○日露戦争 ロシアは、義和団事件に際して中国東北地区(満州)に大軍を送ったが、事件終了後も
撤兵せず、かえって旅順などの防備を強化し、朝鮮に迫った。日清戦争以来、朝鮮に進出
していた日本は、ロシアの行動に直接の脅威を感じ、三国干渉によるロシアへの反感はま
すます高まっていた。 1902 年、ロシアを仮想敵国として日本はイギリスと日英同盟を結んだ。イギリスは、東
アジアにおけるロシアの進出をおそれて、この同盟を結んだが、これによりイギリスの「光
栄ある孤立」政策はすてられた。イギリスは、19 世紀、圧倒的な工業力と海軍力を背景に外
国とは直接の同盟関係を結ばないという外交方針をとっていたが、それが放棄されたので
ある。 2231
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
1904 年、日露戦争が勃発した(日露戦争のの詳細は、【14-2-8】日本の歴史で記
した)。日本は中国豊北地区でロシア陸軍を敗走させ、日本海海戦ではロシアのバルチッ
ク艦隊を破って戦いを優位に進めた。ロシアの背後にはドイツ・フランス(露仏同盟)、日
本の背後にはイギリス・アメリカがあり、日露戦争はこれらの列強の代理戦争としての側
面をもっていた。ドイツはバルカン進出をねらっており(3B 政策)、そのバルカンの対立を
緩和するため、ロシアの極東進出を支持していた。アメリカは、門戸開放政策の立場から
も、ロシアの中国東北地区における独占に反対し、日英同盟を支持した。日露戦争でも経
済的に日本を支援した。 日本は兵力や財政面で戦争継続が困難となり、ロシアも第 1 次ロシア革命により、アメ
リカ大統領セオドル・ルーズベルトの仲介を受け入れ、講和した。1905 年に日本全権・小
村寿太郎とロシア全権・ヴィッテによってポーツマス条約が結ばれ、①日本は朝鮮におけ
る優位を認められ、②ロシアから関東州(遼東半島南部)と南満州鉄道の利権を受けつぎ、
③樺太の南半分と沿海州での漁業権を獲得した。 日露戦争に勝利した日本は朝鮮(1897 年に国号を大韓帝国と改めていた)に強制的に日
韓協約をおしつけ、支配を強化した。1905 年、日本は韓国を保護国とし、京城(ソウル)
に統監府をおき、外交・軍事権を握った。1907 年、韓国皇帝の高宗が第 2 回ハーグ平和会
議に密使をおくり、日本の侵略を訴えたが失敗した。1909 年、伊藤博文がハルピンで安重
根(アン・ジュングン)によって暗殺された。韓国では、日本の干渉に対して、各地で反
日武装闘争(義兵闘争・義兵運動)が起ったが、日本はこれを鎮圧した。そして、1910 年、
軍事力を背景に日本は韓国併合を行い、完全に日本の支配下においた(朝鮮の植民地化に
ついては、【14-2―8】日本に記した)。 この日露戦争における日本の勝利は国際関係に大きな影響を与えることになった。日本
の大陸進出はイギリス、アメリカの警戒心をまねき、とくに東アジアにおける日・米の対
立を深めた。そのため、アメリカでは日本人移民の排斥運動が起こった。 ロシアの脅威が減少し、1907 年に日露協商、英露協商が成立した。国際対立の中心が、
バルカン・西アジアに進出するドイツとイギリスの対立に移った。また、アジアの新興国
日本が、世界の大国ロシアを破ったことが、列強に抑圧されていたアジア諸民族に勇気と
自覚をあたえ、その民族独立運動を力づけた。 【14-5-8】朝鮮 李氏朝鮮は、第 22 代国王・正祖(イ・サン。在位:1776~1800 年)の死後、1800 年、
その次男が純祖として即位したが、まだ、11 歳だったので、第 21 代国王・英祖の妃であっ
た貞純王后が死去するまでの 5 年間、摂政になり、政治を主導した。 2232
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
○安東金氏の 60 年の勢道政治 金祖淳の娘が純祖の后(純元王后)となったが、貞純王后の死去以降、純祖の摂政を務
めていた安東金氏は第 24 代・憲宗・第 25 代・哲宗に王妃を送り、およそ 60 年間にわたり
外戚として勢威を振るい(勢道政治)、王権の弱体化と王朝の混乱を生じさせた。 王族は直接政治へ関与できなくなっていたが、その中から安東金氏より権力を取り戻そ
うという動きが出てきた。憲宗の母である神貞王后(趙氏)と李昰応(り・かおう。イ・
ハウン。興宣君)は、この権力構造を打ち破り、王権を取り戻そうと策を巡らせていた。 李昰応は、1863 年、第 25 代国王・哲宗(在位:1849~63 年)が亡くなると神貞王后と
謀り、自分の次男を孝明世子(翼宗)の養子とし、そのまま第 26 代高宗(1852~1919 年。
国王在位:1863~1897 年。大韓帝国初代皇帝在位:1897~1907 年)として即位させた。神
貞王后が高宗の後見人となり、李昰応は大院君に封ぜられ(興宣大院君。こうせんだいい
んくん。1820~1898 年。高宗の実父)、摂政の地位に就いた。このとき高宗は 11 歳であっ
た。 ○大院君と閔氏の勢力争い 興宣大院君が摂政になるとまず行ったのは、安東金氏の勢道政治の打破であった。安東
金氏の要人を追放し、党派門閥を問わず人材を登用し、汚職官僚を厳しく処罰するなどし
て、朝廷の風紀の乱れをただすことに力を入れた。また税制を改革し、両班にも税を課す
こととし、平民の税負担を軽くした。一方で、迫り来る西洋列強に対しては強硬な鎖国・
攘夷策を取った。この極端な攘夷策が、後の朝鮮朝廷の混乱の遠因となってしまった。 まずカトリックへの弾圧を強化し、1866 年から 1872 年までの間に 8000 人あまりの信徒
を殺害した。この折のフランス人神父殺害の報復としてフランス政府は、1866 年、フラン
ス軍・極東艦隊司令官のローズ提督は戦力のほぼ全てを投入して(軍艦 7 隻、兵約 1300 人)
して江華島の一部を占領し、再度の侵攻で江華城を占領した。しかし首都漢城へ進軍中に
発生した 2 つの戦闘で立て続けに敗北したフランス軍は漢城への到達を諦め 1 ヶ月ほどで
江華島からの撤退を余儀なくされた。 一方、この事件の 2 ヶ月前にはアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号が通商を求めて
きたが、地元の軍と衝突し、商船は沈没させられてしまった(ジェネラル・シャーマン号
事件)。アメリカは同事件を機に朝鮮へ通商と損害賠償を求め、1871 年には軍船 5 隻を率い
て交渉に赴いた。この交渉が朝鮮側の奇襲攻撃によって拒絶されるとアメリカ軍は江華島
を占領し、通商を迫った。しかし大院君の強硬な開国拒絶により、アメリカ軍は 1 ヶ月で
交渉を諦め撤退した。 大院君はこれらの成功をもって、さらに攘夷政策を強化したが、1866 年になると王宮に
入った閔妃(ミンび)の一族や大臣達が、大院君の下野運動を始めた。 2233
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
閔妃は閔致禄の娘であるが、高宗の妃・明成皇后となった。15 歳の時(1866 年)に王の
実父である大院君の夫人閔氏の推挙で王宮に入った。明成皇后が王妃に選ばれた理由は、
それ以前の 60 年間に及ぶ外戚安東金氏の勢道政治による壟断からの脱却をはかるため、外
戚としての影響力の少ない人物を選んだと言われる。しかしながら、その方策は裏目に出
た。 高宗が政治と妻に全く関心を持たず、関心が深いのは漁色と酒といった放蕩三昧のみと
いう人物であった。明成皇后は王室に嫁いでから数年もしないうちに王朝の政治に深く介
入するようになった。そして、大院君と王太子冊立に絡む対立が深まると 1873 年大院君追
放の指揮を裏で執り行い、閔妃一派による宮中クーデターが成功し、高宗の親政が宣言さ
れ、大院君は追放された。一方で政治体制は閔妃の一族である閔氏が政治の要職を占める
勢道政治へと逆戻りしていった。これ以後大院君は、政治復帰のためにあらゆる運動を行
うことになり、朝廷の混乱の原因の一つとなった。 閔氏一族は、大院君の攘夷政策から一転し開国政策に切り替えた。1875 年には日本軍が
開国を求めて江華島に侵入して、江華島事件を起こした。この事件を機に開国派が主流を
なした閔氏政権は、1876 年に日朝修好条規(江華島条約。図 14-28 参照。)を締結した。
それに引き続いて、アメリカ(朝米修好通商条約)、フランス、ロシアなどとも通商条約を
結んだ。 《壬午事変》 一方で、開国・近代化を推し進める開化派と鎖国・攘夷を訴える斥邪派の対立は深刻に
なっていった。また、日本から顧問を呼び近代式の新式軍隊の編成を試みていたが、従来
の旧式軍隊の扱いがなおざりになり、給与不払いや差別待遇などが行われていた。これら
に不満を持った旧式軍隊は、大院君・斥邪派の煽動もあって、1882 年閔妃暗殺を狙い、ク
ーデターに動いた(図 14-28 参照。壬午軍乱。じんごぐんらん。壬午事変ともいう)。こ
の軍乱で一時的に大院君が政権を掌握したが、閔妃は清の袁世凱に頼みこれらの軍を排除
し、大院君は清に連行された。壬午軍乱により閔氏政権は、親日政策から親清政策へ大き
く転換することになった。 《甲申政変》 この政策は親日開化派の不満を招き、1884 年 12 月、金玉均、朴泳孝ら開化派(独立党)
がクーデターを起こし、閔氏を排した新政府を樹立したが、袁世凱率いる清軍の介入によ
り 3 日間で頓挫、金玉均らは日本に亡命した(甲申政変。こうしんせいへん)。なお東学党
の乱に先立つ 1894 年 3 月 28 日、金玉均は上海で閔氏勢力の差し向けた刺客により暗殺さ
れた。 《東学党の乱、日清戦争》
2234
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
1894 年、東学党の乱(甲午農民戦争。図 14-28 参照)が勃発すると、親清派の閔氏勢力
は鎮圧に清に援軍を要請し、それに対抗して日本が朝鮮に出兵を行ったことから日清戦争
が勃発し(1894 年~95 年)日本軍の勝利に終わったことは中国と日本の歴史で述べた。 下関条約により、日本は清に朝鮮が自主独立国であることを認めさせ、朝鮮国から清国
に対する貢・献上・典礼等を廃止させた。この戦争の勝利により半島における清朝の影響
を排して日本の権益伸張を確立しようとした。 《乙未事変》 日清戦争後、勝者である日本側の推す大院君派の勢力が強くなり、閔妃・明成皇后の勢
力は力を失っていった。そのため閔妃・明成皇后は、親露政策を推し進めていき、1895 年
7 月 6 日にロシア軍の力を借りて権力の奪回に成功した。閔妃・明成皇后は、この一件後の
反明成皇后派の不穏な動きを察し、反対派の武装解除等を行った。これらの動きは明成皇
后に不満を持つ大院君や開化派勢力、日本などの諸外国に警戒され、1895 年 10 月 8 日、閔
妃は武装組織によって景福宮で暗殺され、その遺体は武装組織により焼却された(乙未事
変。いつびじへん)。 朝鮮が親露に傾くことに危機感を持った日本の公使・三浦梧楼も暗殺事件への嫌疑がか
けれられ、日本は国際的に非難された。そこで三浦を含む容疑者が召還され裁判にかけら
れたが、首謀と殺害に関しては証拠不十分で免訴となり釈放された。 このようにして、日本は閔氏勢力を追放し、大院君に政権を担当させて日本の意に沿っ
た内政改革を進めさせた。しかし、攘夷派であった大院君はもはや傀儡に過ぎず、実際の
政治は金弘集(きんこうしゅう)が執り行っていた。 自分の后が暗殺されるという事態に直面した高宗は恐怖を感じ、1896 年、ロシア領事館
に退避した。1 年後高宗は慶雲宮へ戻ったが、これにより王権は失墜し、日本とロシアとの
勢力争いは朝鮮に持ち込まれる結果となった。 ○光武改革 高宗は、1897 年(明治 30 年)にもはや清の藩属国でなくなった以上、国王号を使用する
ことは望ましくないという儒者の建言に従い、国号を大韓と改め、元号も前年のグレゴリ
オ暦への改暦にともなって定めた「建陽」から「光武」に改元し、10 月に皇帝に即位した。 1899 年(明治 32 年)には清と韓清通商条約を結び、立法機関である校正所において国家
基本法である 9 ヶ条の「大韓国国制」を制定、近代化を目指す光武改革を推進し土地調査
や鉱山開発など殖産興業政策を実施したが、財源不足や諸外国の外圧により利権を奪われ
るなどして挫折した。 ○日露戦争、日本の保護国へ 2235
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
日本は、朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除し
たものの、中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉によって、下
関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還されられた。ところがロシアは露清密約を結び、
日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を 1898 年に租借し、旅順に太平洋艦
隊の基地を造るなど、満洲への進出を押し進めていった。 1900 年にロシアは清で発生した義和団の乱(義和団事件)の混乱収拾のため満洲へ侵攻
し、全土を占領下に置いた。ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英
米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束した。ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を
行わず駐留軍の増強をはかった。当時、イギリスはアフリカでのボーア戦争(1899~1902
年)に手こずって国力を低下させ、アジアに大きな国力を注げない状況にあり、ロシアの
極東での南下が自国の権益と衝突すると危機感を募らせていた。そこで 1902 年に長年墨守
していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切った(日英同盟)。 日露戦争の戦闘は、宣戦布告前に日本の方から行なわれた。1904 年 2 月 8 日、旅順港に
いたロシア旅順艦隊に対して日本海軍駆逐艦が奇襲攻撃した。また、同日、日本陸軍先遣
部隊の第 12 師団が日本海軍の第 2 艦隊の護衛を受けながら朝鮮の仁川に上陸した。翌 2 月
9 日、仁川港外にて同地に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを
攻撃し自沈に追い込んだ(仁川沖海戦)。 2 月 10 日には日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされた。 その前、1904 年(明治 37 年)1 月 21 日、大韓帝国は日露交戦の折には戦時局外中立を
とると宣言し、清をはじめイギリス、フランス、ドイツなどがこれを承認していた。しか
し、2 月 8 日に日本政府は大韓帝国の戦時局外中立宣言を無視する形で、日本軍を前述のよ
うに仁川へ上陸させ、その後漢城へ進駐した。 8 月 22 日、日韓両国は第 1 次日韓協約を結んだ。これにより大韓帝国は、日本政府の推
薦者を大韓帝国の財政・外交の顧問に任命しなければならなくなった。この時は日露戦争
中ではあったが、この条約が結ばれた時期には朝鮮半島での戦闘は終了し、大韓は事実上
日本の占領下に入っていた。 ○日韓併合 日露戦争が日本側の勝利に終わり、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約(1905 年
9 月 5 日)により韓国に対する優越権をロシアから承認され、日本が 1905 年 11 月の第 2 次
日韓協約、1907 年 7 月 24 日の第 3 次日韓協約、1910 年 8 月 22 日の日韓併合条約を経て、 韓国を完全な植民地にしてしまった経過は【14-2-8】日本の歴史に記した。 2236
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
【14-5-9】東南アジア諸国 【①タイ王国】 ○チャクリー王朝 タイは、図 13-10(黄色の部分)のように、東南アジアで欧米の植民地化から免れた唯
一の国であるが(領土はかなり英仏に削られたが)、便宜上、ここに記す。1782 年、チャク
リー王朝を開いたラーマ 1 世はトンブリーからチャオプラヤー川を渡った河口の平原バン
コクに新しい首都を建設した。 ラーマ 1 世の後継者達は、1826 年に第 1 次英麺戦争で隣国ビルマにイギリスが勝利した
後、次第にヨーロッパ諸国の植民地主義の脅威にさらされるようになった。それをタイが
認識し始めたのは、1826 年のイギリスとの友好通商条約であった。1833 年には、アメリカ
もタイ王国と外交上の交流を始めた(タイが欧米と通商条約を結んだのは日本より、30 年
も早かった)。 しかし、タイが西欧勢力との間に堅固な国交を確立したのは、その後のラーマ 4 世と彼
の息子ラーマ 5 世の統治中のことであった。この 2 人の君主の外交手腕がタイ政府の近代
化改革(チャクリー改革)と結びついたことによって、タイ王国は、図 14-52 のように、
ヨーロッパによるアジアの植民地支配が進む中で、南・東南アジアで唯一、植民地化を免
れた国になった、と言われている。 図 14-52 急変する東南アジア(18 世紀~19 世紀初) 2237
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
○チャクリー改革 ラーマ 4 世(在位:1851 ~68 年)は、即位後、ヨーロッパと自由貿易を開始し、米を輸
出するようになった。このためタイの中央平原部に運河が多く建設され、米の増産がはか
られた。今でも米はタイの大きな輸出品目である。外国人の便宜をはかるため、ニューロ
ードを建設したりもした。また、西洋との関係を重視し、イギリスからアンナ・レオノー
ウェンズ女史(1834~1915 年)を家庭教師に招き入れ、西洋の教育を子弟に行った。 ラーマ 5 世(在位:1868~1910 年)は、即位するとすぐに欧米に視察旅行をし、タイの
立ち後れを実感し、チャクリー改革と呼ばれる数々の改革を行った。その内容は、 ①奴隷・人民解放……タイにはタートと呼ばれる一種の奴隷がいた。これは当時の王侯
貴族の主要な財産であった。ラーマ 5 世は人道的意義を理由にこれらの奴隷を解放し平民
に加えた。また地方では入れ墨と戸籍により知事の監督と労役の下に縛り付けられていた
プライと呼ばれる人民がいたが、これも解放した。結果的に、欧米での評価が上がり、も
はや「野蛮な国」ではないといわれるようになった。これは後にスムーズな不平等条約改
正を助けた一要因にもなった。 ②教育制度の拡充……近代国家にふさわしい人材を育成するために、王室専用の学校の
拡充、義務教育の導入を行った。また、王室師弟の留学を促進した。 ③軍事……ラーマ 5 世は陸軍を中心に軍隊を近代化した。これによりイギリス、フラン
ス勢力が地方の不統制につけ込んで侵略してくるのを防ぐことができた。しかし、エリー
ト化した軍隊が後に軍事政権の台頭を生み、民主化の後も国が停滞する原因にもなったと
もいわれている。 ④交通・通信……ラーマ 5 世は鉄道や道路を整備し、内政の統一化をはかった。これを
補うものとして、電話、電信、郵便、水道を整備した。 ⑤地方行政……まず、地方の権力者による委任政治を廃止し、中央集権国家とした。モ
ントンと呼ばれる州制を導入し、その下にムアン(県)、アンプー(郡)、タンボン(町)、
ムーバーン(村)を置き、中央集権国家に仕立て上げた。これは後にフランス、イギリス
と国境の取り決めを行うときに有効に作用した。 ⑥領土割譲……一連の改革の中でも最も大きな痛手だったのが、6 回にも及ぶ領土割譲で
あった。現在のカンボジア・ラオスの一部をフランスに取られた(仏領インドシナ)。また、
マレー半島の一部をイギリスに取られた。しかし、ある程度近代化していたことから、あ
からさまな侵略ができなかったこと、イギリスとフランスの緩衝地帯としてタイを置いて
おくことが英仏の暗黙の了解になったことなどから、植民地化は避けることができた。し
かし、失った領土は非常に大きく 30 万平方キロにも及んだという。 2238
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
⑦その他……官僚制を導入し行政を効率化し、議会制度の前身となる国政協議会と枢密
院を設置した。 ラーマ 5 世のチャクリー改革はほぼ成功したといわれている。インドシナ諸国が次々と
侵略される中、近代化を成し遂げ、欧米の勢力を進入させなかったことは大きな進歩であ
るといえる。ラーマ 5 世自体が、明治天皇と同時期の王であり、明治天皇と同じく近代化
を成し遂げたといわれ、チャクリー改革は明治維新と比較される。ラーマ 5 世は、タイ 3
大王のうちの一人で今でも国民から人気が高い。 【②オランダ領インドネシア植民地】 ○欧米列強による東南アジアの植民地化 19 世紀、東南アジア諸国では欧米列強による植民地化が進められた。以下に見るように
各地によって、さまざまな支配体制がとられたが、共通点として、近代資本主義経済と伝
統的農業経済の「二重経済」の併存、民族的多様性に基づく「複合社会」構成、旧支配層
による秩序温存とそれを利用した「分割・間接支配」の 3 点であった。 ○オランダ領インドネシア植民地 オランダ東インド会社は、当初、港と商館を中心とする交易独占によって利益をあげて
いたが、17 世紀後半からジャワ島内陸部へと進出し、領土獲得に熱意をみせるようになっ
たことは前述した。すなわち、獲得した領土で当時の有力商品であるコーヒーなどを栽培
し、これを輸出することで利益をあげるためであった。いわゆる「点と線」の支配から「面」
の支配への転換をはかろうとしたのである。 オランダ東インド会社は、ジャワ島内部の王朝間での戦争や、各王家内での後継者争い
などに介入することで、17 世紀後半にはマタラム王国を衰退させ、そして 1752 年にはバン
テン王国を属国とすることに成功した(図 14-52 参照)。しかし、領土獲得のために要し
た莫大な戦費と、会社自体の放漫経営のために、オランダ東インド会社の経営は悪化し、
1798 年、オランダ東インド会社は解散することになった。 その後を引き継いで植民地経営にあたったのは、東インドの領土、財産、負債などの一
切をオランダ東インド会社から受け継いだオランダ政府であったが、19 世紀初頭、フラン
ス革命以降のヨーロッパ政局の混乱の波に襲われた。 オランダ本国はナポレオンのフランスに併合され、また、オランダの海外領土はイギリ
スの統治をうけることになった。1811 年から 1816 年まで、ジャワ島の植民地経営にあたっ
たのは、東南アジアにおけるイギリスの植民地経営に中心的な役割を果たしていたラッフ
ルズであった。そのラッフルズのジャワ島経営は短期間に終わったが、彼のもとで開始さ
れた土地測量や税制改革は、その後のオランダによる植民地経営にも一部引き継がれた。 2239
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
1814 年、オランダとイギリスのあいだで締結されたロンドン条約では、図 14-52 のよう
に、オランダがスマトラ島を、イギリスがマレー半島を、それぞれ影響圏におくことを相
互に承認した。今日のインドネシア・マレーシア間のマラッカ海峡に大きな国境線が引か
れることになったのは、この条約に端を発するものである。 ○ジャワ戦争とパドリ戦争 1820 年代から 1830 年代にかけて、オランダは深刻な財政危機に直面した。1830 年にベ
ルギーが分離独立したため、オランダ本国は有力な工業地帯を失った。また、東インドで
は、1825 年にジャワ島のマタラム王家のディポヌゴロをリーダーとする反乱(ジャワ戦争。
図 14-53 参照)が起こり、同時期にスマトラ島でも、イスラム改革派(パドリ派)と反パ
ドリ派の対立に端を発するパドリ戦争(1821~37 年)が起こった。 図 14-53 植民地化の時代(19 世紀中~20 世紀初) パドリ派は、西スマトラのミナンカバウ社会に古くから伝わる慣習、例えば博打、闘鶏、
アヘン、飲酒、噛みタバコ、噛みキンマ、母系制親族制度などを反イスラム的であるとみ
なし、それらの非ムスリム的行為の廃止を掲げて宗教改革運動を推進した。 ついにミナンカバウ地域では(西スマトラ州の高地に住んでいる民族集団)、パドリ派(改
革派)と反パドリ派(慣習派)に分かれて衝突し、内戦状態となった。オランダ軍はパド
2240
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
リ派に攻勢をかけ、1838 年、ミナンカバウ地方全土を掌握し戦争は終結した。オランダは、
ここを西スマトラ州として強固な植民地支配体制に組み込むとともに、コーヒーの強制栽
培制度を導入するなど、植民地経済経営にも着手した。 ○強制栽培制度 オランダは、このようなジャワ戦争やパドリ戦争のため、軍事費が増大した。こうした
オランダ本国の財政状態を改善するため、東インドに導入されたのが「強制栽培制度」で
あった。これは、現地住民に指定の農作物を強制的に栽培させ、植民地政府が独占的に買
い上げるというものであった。指定栽培されたのは、コーヒー、サトウキビ、藍(インデ
ィゴ)、茶、タバコなど、国際市場で有望な農産物であった。たとえば、優れた技術を持つ
インドネシアの砂糖生産量はハワイ、キューバを抜いて世界一になった。 東インド植民地政府は、農産物をヨーロッパなどへ転売して莫大な利益をあげた。この
制度はオランダ本国の財政赤字を解消させただけでなく、産業革命期に入りつつあったオ
ランダのインフラ整備にも大きく貢献した。しかし、同時に、オランダ経済の東インドへ
の依存度を高めることにもなった。 この制度は、栽培を強制された住民には大きな負担となった。収穫された農作物は、植
民地政府の指定する安い価格で強制的に買い上げられた。さらに、従来稲作をおこなって
きた水田で、アイやサトウキビなどの商業作物の栽培が強制されたため、凶作が重なると
深刻な飢饉を招くこともあり、餓死者も出た。そこで強制栽培制度を非難する声が高まり、
1860 年代以降、同制度は国際競争力のなくなった品目から順に、廃止されていった。 ○石油開発 また、農作物に代わる新たな産物として、産業革命による石油資源の国際市場における
重要度の高まりを受け、油田の開発が始められた。1883 年、スマトラ島東岸での試掘が許
可され、ロイヤル・ダッチ社は 1885 年に採掘に成功した。 ロンドンのシェルは貝殻細工の製造販売で財をなし、石油事業に進出し、ボルネオ島の
油田開発に成功した。世界各地でアメリカのロックフェラー系のスタンダード・オイル
(現:エクソンモービル)との競争が熾烈になったため、 シェルとロイヤル・ダッチは石
油の利権を確保するため業務提携し、1907 年に事業提携して「ロイヤル・ダッチ/シェルグ
ループ」を形成した。 【③フィリピン】 スペインの植民地として支配されていたフィリピンでは、1834 年のマニラ開港以降の社
会変容によりフィリピン人の新興有産層が急速に台頭した。留学などを通じて高等教育を
2241
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
受け学識を身につけた彼らは、支配者たるスペイン人と被支配者である自分たちフィリピ
ン人の間に存在する地位の不平等を認識するようになった。 ○フィリピン人神父差別撤廃運動 このような新興ナショナリズムの流れの中で、最初にスペイン支配への異議申し立てを
行ったのはフィリピン人神父たちであった。彼らはスペイン人修道士が頂点に立つフィリ
ピンのカトリック教会において、フィリピン人であるがゆえに教区司祭への昇進を阻まれ
ている状況に不満を持ち、差別を撤廃すべくゴンザレス、ブルゴス、サモラの 3 神父を指
導者に教会改革運動を起こした。 しかしスペインの植民地政庁は、1872 年 1 月 20 日軍港カビテで労働者による暴動が起こ
ると、その黒幕であったという濡れぎぬを前述の 3 神父に着せ、同年 2 月 7 日 3 人全員を
処刑して教会改革運動を圧殺した(ゴンブルサ事件)。 ○フィリピン人政治参加のプロパガンダ運動 続いて 1880 年代になって民族主義的知識人は、スペインに対してフィリピン人の政治参
加を求めるプロパガンダ運動を展開した。1882 年、マルセロ・デル・ピラールは最初のタ
ガログ語日刊紙『タガログ新聞』
(スペイン語とタガログ語の併用紙)を創刊して修道会に
よる地方政治支配を批判した。 1887 年、ホセ・リサール(1861 年~96 年)は、ルソン島中部のラグナ州で生まれ、マド
リードの大学で医師となり、さらにハイデルベルク大学、パリ大学で医学の研鑽を積んで
いた。このホセ・リサールは語学の天才で 10 数ヵ国語を自在に操ったといわれ、支配者た
ちの腐敗と堕落を厳しく糾弾した長編小説『ノリ・メ・タンヘレ』
(『我に触れるな』の意)
をベルリンで出版して国際的注目を集めた。この『ノリ・メ・タンヘレ』とともに『エル・
フィリブステリスモ』(『反対者』の意)という著作も有名であり、両方ともスペイン語
で書かれているが、スペイン圧政下に苦しむ植民地フィリピンの現状が克明に描き出され
ており、フィリピン人の間に独立への機運を高めた。 リサールは、亡命から帰国してフィリピン民族同盟(ラ・リガ・フィリピナ)を結成し
たが、1892 年 7 月 3 日、逮捕されミンダナオ島のダピタン(現在のサンボアンガ・デル・
ノルテ州にある)へ流刑にされた。リサールは同地で病院と学校をつくって住民の啓蒙に
つとめた。 1896 年、秘密結社カティプナンが独立を目指す反乱(フィリピン革命)を起こすと、以
前からリサールに目をつけていたスペイン官憲はリサールを逮捕し、マニラで裁判にかけ、
暴動の扇動容疑で銃殺刑を宣告した。リサールの人物を惜しんだスペイン人官吏が国を出
て、キューバで医療奉仕するなら処刑は取り消せると提案したが、リサールは断り、故国
2242
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
のために死ぬことを選び、1896 年 12 月 30 日、マニラで銃殺された。その意志は人々に受
け継がれ、フィリピン独立の英雄として今も愛されつづけている。 ○1896 年の独立革命 リサール逮捕によりフィリピン民族同盟に参加していたアンドレス・ボニファシオ(1863
年 ~ 97 年)は改革運動に見切りをつけ、リサール流刑の日の 1892 年 7 月 6 日、フィリピ
ン独立を求める秘密結社カティプナンをマニラ市内トンド地区で結成した。彼らは 1896 年
3 月、会の機関誌である『独立』を創刊した。 しかしカティプナンの存在はまもなくスペイン当局の知るところになり、同年 8 月 19 日
には官憲による弾圧が開始された。進退窮まったボニファシオらは 8 月 30 日に武装蜂起を
開始し(サン・ファン・デル・モンテの戦い)、これにより独立革命が始まった。 当初はスペイン軍に対して苦戦したものの、カティプナンの地方組織の幹部となってい
たプリンシパリーア層(スペイン統治以前のフィリピン人首長層が植民地支配のなかで村
の下級官吏として再編していたもの)が影響力を持つタガログ地方(ルソン島中南部)で
は勢いを盛り返し、スペイン人支配からの解放を実現した。 しかし、この過程で独立勢力内部で対立が生じた。貧困層出身のボニファシオは独立後
のフィリピンで社会的平等を実現する革命を志向していたが、独立派内部で次第に力を強
めつつあったエミリオ・アギナルドらプリンシパリーアはフィリピン人の中では高い家柄
を誇っている伝統的な有力者・名望家であると同時に、19 世紀前半のマニラ開港以降の社
会変容の中で所有地を拡大し資産家に上昇した人々が多かった。 ボニファシオとアギナルドは革命の方針をめぐって対立した。1897 年 3 月 22 日カティプ
ナン指導部によるテヘロス会議で両者は対決したが、アギナルドが革命政府大統領に選出
された。敗れたボニファシオ兄弟は議場から退出しアギナルドと袂を分かって独自の革命
を目指すことになった。しかしボニファシオ派の離反を恐れたアギナルドは彼らを捕らえ
て 1897 年 5 月 10 日兄弟ともに処刑、独立派の全権を掌握した。 その一方で、スペイン本国から兵力を補給され、態勢を立て直したスペイン植民地軍は
反撃を始め、一時はルソン島中南部を掌握していた独立派は、ボニファシオ処刑の翌日に
は根拠地のカビテを放棄し、山岳部のブラカン州ビアク・ナ・バトーに追いつめられた。 ここでアギナルドらは、1897 年 11 月 18 日から 12 月 15 日にかけて、スペイン総督との
和平協定を結び、スペインによる改革実行の確約と引き替えに、いったん香港に退去、こ
こに亡命指導部を設けた(12 月 25 日)。しかしその一方でボニファシオらの流れを汲む人々
はなお独立をめざす戦いを各地で継続していた。 ○1898 年革命 2243
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
翌 1898 年 4 月 25 日、キューバ独立革命をきっかけとした米西戦争が勃発した。その直
前、香港でアメリカ合衆国との間に独立援助の密約を取りつけていたアギナルドら亡命指
導部は、マニラ沖海戦(4 月 30 日~5 月 1 日)での米艦隊大勝を経て、5 月 19 日、米軍を
後盾にフィリピンへの帰還を果たした。 1898 年 5 月 24 日、アギナルドは本拠地であるカビテで「独裁政権」の樹立を宣言、6 月
12 日には独立宣言を発し「独裁政府」大統領に就任した(現在のフィリピン「独立記念日」)。
その後まもなく 6 月中に独裁政府は「革命政府」に改組され地方政府の組織化が始まり、7
月 15 日アポリナリオ・マビニを首相とする革命政府の内閣が発足した。 独立派はアメリカ軍と提携して各地に侵攻し、8 月末までにルソン中央部・南タガログ地
域をスペイン支配から解放して革命政府の支配下に置いた。ところがこの前後から米軍と
の協力関係は次第に微妙なものとなり、8 月 13 日、植民地支配の中心地であるマニラを占
領しスペイン軍を降伏させた米軍は、それまで軍事的に貢献してきた独立派の入市を許可
しなかった。 ○フィリピン(第 1 次)共和国(マロロス共和国)の独立 1898 年 9 月 10 日、マニラ近郊のブラカン州マロロスが臨時の首都となり、9 月 15 日に
はフィリピン人の代表よりなる議会をこの地で発足させた。さらに翌 1899 年 1 月にはマビ
ニを首班とする内閣が発足し、1 月 21 日に独自の憲法(マロロス憲法)を制定し、1899 年
1 月 23 日に「フィリピン(第 1 次)共和国」(マロロス共和国)の樹立を宣言した(図 14
-53 参照)。この時点で共和国政府はミンダナオを除くフィリピンのほぼ全土を掌握してい
た。 ○フィリピン独立を横取りしたアメリカ―米比戦争の勃発 しかし前年、1898 年 12 月 10 日にアメリカとスペインの間に結ばれたパリ講和条約によ
って、スペインはアメリカにフィリピンの領有権を約 2000 万ドルで譲渡してしまった(ア
メリカはキューバ問題から米西戦争を起こし、フィリピンとは関係なかったことは述べた)。
つまり、スペインからの独立間際のフィリピン独立派から、アメリカはフィリピンを横取
りしてしまったのである(キューバの歴史で述べたように、アメリカは 19 世紀末にフロン
ティアがなくなり、植民地主義(帝国主義)に転換しはじめたことは述べた)。 時のアメリカ大統領ウィリアム・マッキンリーは「フィリピン群諸島は合衆国の自由な
る旗のもとに置かれなければならない」とする声明を発表したが、アギナルドをはじめフ
ィリピン国民は一斉に激しく抗議し、1899 年 2 月 4 日、アメリカ合衆国との間に新たな戦
争が勃発することになった(米比戦争)。アメリカ合衆国からは 8 月 14 日に 1 万 1,000 人
の地上部隊がフィリピンを占領するために送られてきた。 2244
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
マッキンリー政権は、アギナルド率いる政府を犯罪者集団と呼んだため、議会を通じた
正式な開戦通告は行われなかった。フィリピン側を国と認知しないことで、国家間の戦争
ではなく、政府に対する反乱であるとするためであった。しかし、この時点でアメリカ側
が支配していたのはマニラのみであった。もう 1 つは、米西戦争により逼迫していた財政
を念頭に、アメリカ兵の戦争手当てを最小限にするため、戦争ではなく警察活動であると
宣言したのである。 しかし、次の 10 年では、アメリカ軍はフィリピン軍に対抗するため,12 万 6000 人にも
及ぶ大規模な軍事力を必要とした。1899 年 3 月 31 日には早くも首都マロロスが陥落し、以
後共和国政府は中部ルソン地方のタルラク州、ヌエバ・エシハ州を転々と移動することを
余儀なくされた。そして 11 月 12 日アギナルド大統領はパンガシナン州バヤンパンで正規
軍の解体と遊撃隊によるゲリラ戦を布告し、ルソン北部の山岳地帯に撤退した。 1901 年 3 月 23 日、イサベラ州で米軍に捕らわれたアギナルドは 4 月 1 日アメリカ支配へ
の忠誠を誓うとともに同じ独立派の諸部隊にも停戦と降伏を命じ(同じく捕虜となったマ
ビニやリカルテらが断固として服従を拒否した態度に比して、このアギナルドの態度は彼
の人気を著しく凋落させる結果となった)、こののち各地で独立派幹部の投降が相次いだこ
とから、同年 7 月にアメリカは軍政より民政へ移行し、早々とアメリカに忠誠を誓ってい
た親米派フィリピン人(かつてプロパガンダ運動を支持していた新興有産層が多かった)
を行政機構に登用、有力者を取り込むことでアメリカ統治体制の安定をはかった。 ところがアギナルドに従わず「革命軍最高司令官」を称したミゲル・マルバール将軍な
ど抵抗を継続する勢力もあった。マルバール投降(1902 年 4 月)後の、1902 年 7 月 4 日に
なってセオドア・ルーズヴェルト米大統領はようやく独立勢力の「平定」を宣言した。 ○アメリカの植民地となったフィリピン しかしその後も、農民など下層民の支持を受け「タガログ共和国」を称したマカリオ・
サカイ率いるゲリラ部隊(1904 年~06 年)など反米ゲリラはやまず、米軍が投降勧奨政策
と徹底弾圧政策を併用しつつこれらの独立派勢力を完全に鎮圧し、植民地支配体制を確立
したのは 1910 年頃のことであった(この時米軍がゲリラと農民の結びつきを絶つために採
用した「戦略村」は、ベトナム戦争にいたるまで米軍の対ゲリラ戦争の主要な戦術となっ
た)。結局、米比戦争は 1899~1913 年という長期の侵略戦争となり、60 万人のフィリピン
人が殺害されたと言われている。アメリカもまぎれもない帝国主義国であることを証明し
た。 かくしてフィリピン最初の独立革命は挫折に終わり、フィリピンはアメリカの植民地と
なってしまった。 2245
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
【④ビルマ】 ○コンバウン王朝(アラウンパヤー朝) ビルマは第 2 次タウングー王朝が衰退すると下ビルマのモン族は上ビルマに侵入し、1752
年、タウングー王朝を滅亡させた。しかし、モーソーボ(現在のシュエボ。図 14-52 参照))
の首長アウンゼーヤがこれを撃退してアラウンパヤー(菩薩)と名乗り、1752 年、コンバ
ウン王朝(アラウンパヤー朝。1752 年~1886 年)を建てた。アラウンパヤーは 1754 年、
モン族に占領されていたアワを取り戻し、翌年、タゴンを陥落させ、ラングーン(宿敵全
滅)と改称した。1756 年にはモン族の中心地ペグーを陥落させた。
アラウンパヤーの第 3 代シンビューシン王は 1767 年タイのアユタヤ王朝を下した。この
ときアユタヤの町は徹底的に破壊されたため、ビルマ軍が退却した後、新たにタイの王と
なったタークシンはアユタヤ再興をあきらめトンブリーへと遷都した。 さらに、1782 年、前王を殺害して即位したボードーパヤー王はアラカン王国を征服し、
マニプール王国やアッサム王国を支配下に治め、ビルマ史上最大の版図を実現した(図 14
-52 参照)。 調子に乗ったボードーパヤー王は、つぎに西隣のインドをイギリスが駆逐する様子を見
て、領土を西方へ伸張させようと試み、1818 年にベンガル地方の東半分までの割譲をイギ
リスに要求した。イギリスが応じなかったので、1822 年にビルマ軍は越境してベンガルに
侵入したが、これは非常に無謀な行為だった。 ○第 1 次英緬戦争 1824 年にイギリスがビルマ攻撃を開始し、ビルマはベンガルばかりか自国の最南部アラ
カンとテナセリムをイギリスに占領され、1826 年にヤンダボ条約を結んで終戦した。これ
が、第 1 次英緬戦争(えいめんせんそう。1824~26 年)であった(図 14-53 参照) イギリスの貿易政策・拡張政策はさらに進み、アヘン戦争(1840 年~1842 年)の勝利に
よって清を開国させ、シク戦争(1845 年~1848 年)の勝利でインドのほぼ全域を掌握した。
このためイギリスの目は再び隣国ビルマに及ぶことになった。 ○第 2 次英緬戦争 今度はイギリスの挑発で引き起こされた 1852 年の第 2 次英緬戦争では、イギリスは再び
ビルマに侵攻してペグーを占領し、海に面した下ビルマを自国領に併合した。ビルマは国
土の半分を失い、1858 年~1861 年に新首都マンダレーを建設して遷都した(図 14-53 参
照)。 イギリスはビルマ南部を手にすることで、より一層東アジアへの進出を目指し、アロー
戦争(1856 年~1860 年)でフランスと共に清をさらに圧迫、有利な交易を展開した。 2246
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
1857 年にはインドのセポイの反乱を鎮圧してムガル帝国が滅亡、1858 年に東インド会社
を解散させて植民地経営と東方交易をイギリス政府の直轄とし、1867 年にはマレー海峡植
民地を直轄領として制海権を手にした。フランスも同時期にベトナムへの侵略をはじめ、
清仏戦争(1884 年~1885 年)でインドシナの支配権を確立した。オランダはジャワ島から
スマトラ島を攻略して一大植民地を建設した。 ○第 3 次英緬戦争 1885 年 11 月、イギリスはビルマの完全支配を目指して 3 度目の侵攻を開始し、翌 1886
年にはビルマ王がイギリスに降伏し、上ビルマもイギリス領に併合され、イギリス領イン
ドに組み込まれ、その 1 州となった。一部の将兵がイギリスの占領に反攻して戦闘を続け
たが、1890 年に完全に鎮圧され、戦争が終結した。 ビルマ王朝は滅亡し、ティーボー・ミン国王と王の家族はインドのゴアに近いラトナギ
リに配流され、その地で死亡した。こうしてビルマもイギリスの植民地(イギリス領イン
ド)となった。 【⑤シンガポールと海峡植民地】 イギリスは、1623 年にモルッカ諸島のアンボン島で起きたアンボイナ虐殺事件を契機と
して、東インド諸島から全面的に撤退を余儀なくされ、インド経営に専念したが、18 世紀
後半以降、中国との広東貿易が隆盛し、また 19 世紀初めのナポレオン戦争の結果、東イン
ドを支配していたオランダの勢力が後退したので、再び東南アジアに進出するようになっ
た。その橋頭堡となったのがマレー半島であった。 ○ペナン植民地 1786 年、イギリス東インド会社のフランシス・ライトは、マレー半島西海岸のクダ王国
のスルタンと条約を結び、イギリス東インド会社領としてペナン島を獲得した(図 14-52
参照)。インド亜大陸と中国を結ぶ中継港、マラッカ海峡地域の産品の集積基地、ベンガル
湾以東の海域における海軍基地が必要とされたために、イギリス東インド会社は同島を確
保することになった。クダ王国はタイのアユタヤ王朝やブギス族などのマレー人勢力から
国を守るために、強力な後ろ盾を必要としていた。 ペナン島は、プリンス・オブ・ウェールズ島と命名され、ジョージタウンが建設された。
また、1800 年には、クダ王国よりペナン島対岸の土地が獲得され、ウェルズリー州と命名
された。 ペナンは、フランシス・ライトが自由貿易港と宣言したため、周辺海域より商人を多く
集め、急速な発展を遂げた。1805 年に英領インドの第 4 番目の管区とされ、以降、ペナン
2247
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
島にはイギリス人の知事が派遣され、ベンガル総督の管轄下に置かれた。管区の地位は、
1826 年に成立した海峡植民地に引き継がれることになった。 ○シンガポール マラッカ王国は 1511 年にポルトガルの侵攻を受け滅亡し、マラッカ王国の一部の商人や
王族はシンガプラ(現在のシンガポール島)へと移っていった。しかしシンガプラ自体も
1613 年にポルトガルの徹底的な侵略を受け、マラッカ王国からの移住者を含む現地住人の
多くが虐殺され、町は壊滅状態となった。その後 300 年以上もの間歴史の表舞台から姿を
消し、再び漁民と海賊の住む寂れたマングローブの生い茂る漁村となった。 この漁村をシンガポールにしたてあげたのは、ラッフルズだった。 イギリス人のトマス・スタンフォード・ラッフルズ(1781~1826 年)は、14 歳の時から
ロンドンの東インド会社で職員として働き始め、1811 年、ナポレオン戦争当時フランスの
勢力下にあったジャワ島へ英領インドから派遣された遠征軍に参加し、ジャワ準知事に任
命され、統治に当った。このとき、ジャワ島の密林に眠るボロブドゥール遺跡を発見した
(これはこれで大変なことだった)。 ナポレオン戦争が終わり、1815 年にジャワ島がオランダに返還された。ラッフルズはイ
ングランドに帰国し、1817 年に『ジャワの歴史』を著し、同年ナイトの称号を授与された。 ラフルズは再び 1818 年、スマトラにあったイギリス東インド会社の植民地ベンクレーン
にベンクーレン準知事として赴任した。当地において、ラッフルズはマレー半島南端の島
シンガプラの地政学上の重要性に着目した。ラッフルズは 1819 年 1 月、人口わずか 150 人
のこの島に上陸を果し、1819 年 2 月 6 日、当時島を支配していたジョホール王国より商館
建設の許可を取り付けた。 ラッフルズは 1822 年から 1823 年までシンガプラに留まり、自由貿易港を宣して植民地
の建設にたずさわった。名称をイギリス風のシンガポールと改め、都市化計画を推し進め
た。1824 年には植民地としてジョホール王国から正式に割譲がなされるとともに、オラン
ダもイギリスによる植民地支配を認めることとなった。 ラッフルズが開いたシンガポールは、無関税の自由港政策を推し進めたこともあり、5 年
の間にシンガポールの人口は 1 万人を突破し、急速に発展していった。以後、イギリスは
このシンガポールを自由貿易港に指定して東南アジア貿易の拠点とした。 ○マラッカ植民地 マラッカ海峡を臨むマラッカの町は、1645 年以来、オランダの支配下にあったが、フラ
ンス革命の余波を受けてオランダ本国がフランスの勢力下に入ると、イギリスは 1795 年に
マラッカをはじめとするオランダ領東インドの各地を占領した。 2248
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ナポレオン戦争終結後の 1818 年、イギリスは同地をオランダに返還したが、その後、1824
年の英蘭協約によって、イギリスはスマトラ島西海岸にあった英領ベンクーレン植民地と
引き換えにオランダからマラッカを獲得した(図 14-52 参照)。それまでイギリスとオラ
ンダの植民地がマレー半島とスマトラの各地に混在していたが、この協定で両国の植民地
の境界がおおまかにひかれた(今日のマレーシアとインドネシアの国境線はこれに由来す
る)。 ○海峡植民地の成立 1826 年、イギリス東インド会社はこれら 3 植民地を統合して海峡植民地とし、インドの
ベンガル総督府の管轄下でペナンに海峡植民地知事を駐在させることにした。行政府とな
ったペナンの人口は 1860 年には 12 万 5,000 人を数え、海峡植民地中、首位であった。た
だし、19 世紀のシンガポールの経済的成長はめざましく、1832 年以降はシンガポールが行
政府となった。 しかし、シンガポールの経済的発展とはうらはらに、東インド会社にとって海峡植民地
はあまり利益をあげない「お荷物」であることが明らかになっていった。1826 年の成立以
来、海峡植民地は自由港だったために関税収入が見込めなかったうえ、当初期待された香
料取引による利益も、香料自体の価格の暴落によって、期待できないものとなったからで
ある。 しかし、シンガポール港は、中国をはじめとする各地との貿易が急増したことで、次第
に経済的に台頭した。中国で起きたアヘン戦争後の 1845 年、香港とシンガポールを結ぶ定
期航路も開設された。ヨーロッパとの関係では 1869 年に開通したスエズ運河が遠洋航路の
所要時間を短縮した。 ○イギリス領マラヤの成立 シンガポール在住イギリス商人たちは海峡植民地のインドへの従属に反対し、インドか
らの分離と議会の設立を訴えた。その要請に応えるとともに、海峡植民地の財政が印紙法
の成立によってバランスが取れるようになったため、1867 年、海峡植民地はイギリス植民
地省の管轄に移された。東インド会社の所管を離れても海峡植民地の名前はそのまま使わ
れ、ロンドンから直接派遣される新知事はシンガポールに駐在した。 1873 年に着任した知事アンドルー・クラークは、積極的にマレー半島に介入していくよ
うになった。マレー半島西海岸のスルタン諸国が産出するスズの利権を確保するという、
実質的な利害関心もこの動きの背後にあったとされる。 19 世紀末には、ペラ、スランゴール、ヌグリ・スンビラン及び後背地パハンのマレー系
スルタン国に次第に介入していった。これらの 4 ヵ国は、1896 年にマレー連合州とされ、
統監がクアラルンプールに置かれた。ここにおいて、イギリスの直轄領域である海峡植民
2249
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
地と、間接統治をうける保護国からなるイギリス領マラヤが成立した。また、クランタン、
トレンガヌ、ジョホールなどの東海岸のスルタン国は、20 世紀に入ってからイギリスの保
護下に置かれることになった。 この時期に、スズ鉱山、天然ゴムなどのプランテーションにおける労働力、港湾荷役労
働者、貿易商、行政官吏として、中国(主に福建省や広東省、海南島などの中国南部)、イ
ンド(主に南インドのタミル語圏)、現在のインドネシアなどから多くの移民がマレー半島、
シンガポールへ渡来し、現在の多民族国家の起源となった。 シンガポールを含むマレー半島では、イギリスの植民地支配下において、これらのイン
ドや中国からの労働力を背景に経済的には発展が進んだものの、マレー人を中心とした在
来住民や移民労働者による自治が認められない隷属状況が続き、20 世紀に入った後には、
一部知識層の間において独立の機運が高まることとなった。しかし統治者であるイギリス
は、独立運動を行おうとする在来住民に対して投獄、拷問を行うなど徹底的にこれを取り
締まり、自治や言論の権利を奪われた悲惨な隷属状態が続くこととなった。 ○イギリス領ボルネオの形成 19 世紀の後半には、ボルネオにおいてもイギリスの影響力が拡大した。フランス、オラ
ンダ、スペイン、アメリカなどの欧米列強もこの地域の重要性に注目し始めていた。 1878 年、イギリス人デントは、オーストリア人のオーフェルベックとともに北ボルネオ
会社を設立し、ブルネイおよびスールーから北ボルネオの土地を賃借した。1881 年、その
北ボルネオ会社は,イギリスより特許状を下付され、北ボルネオ特許会社となった。1885 年
には,イギリス、ドイツ、スペインのあいだで協定が成立し、スペインのスールー諸島にお
ける宗主権を認めるかわりにスペインはイギリスの北ボルネオ領有を認めることが確認さ
れた(図 14-53 参照)。 サワラクでは、ブルック王国が、年金支給を見返りに衰退したブルネイ王国に領土の割
譲を迫り、支配地域を北東方向へ拡大させていた。1888 年、イギリスは、ブルック王国、
ブルネイ王国、北ボルネオ特許会社の支配下にあった北ボルネオの 3 つの地域をイギリス
の保護領とした(図 14-53 参照)。 【⑥フランス領インドシナ植民地】 ○コーチシナ(南ベトナム)の植民地化 フランス領インドシナ植民地の起源はナポレオン 3 世がフランス宣教師団の保護を目的
に 1858 年に遠征軍を派遣したのに始まったことは述べた。遠征軍はまずベトナム中部のダ
ナン(ツーラン)に上陸、ついでサイゴンに転じ、コーチシナを植民地とし、海軍植民地
省の管轄下にコーチシナ総督を設置した。 2250
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
1863 年、ベトナムとタイに侵略されつつあったカンボジアがフランスに援助を求め、フ
ランスの保護国になった。 ○フランス領インドシナの成立 1882 年にフランス軍がトンキン地方を占領すると、ベトナムの宗主国である清国の介入
を招き、清仏戦争(1884 年~1885 年。図 14-50 参照)が勃発したことは述べた。フラン
ス軍はトンキン各地で清朝軍と戦う一方、海軍が中国沿岸部を攻撃したため、清国は 1885
年の天津条約によってベトナムに対する宗主権を放棄した。 1886 年フエに阮朝宮廷を置いたままアンナン、トンキンはフランスの保護国とされ、フ
ランス外務省の管轄下でそれぞれ理事官が駐在した。1887 年 10 月、海軍植民地省の一元的
管轄下にアンナン・トンキン保護国とコーチシナ植民地およびカンボジア保護国を統括す
るインドシナ総督が設置され、インドシナ連邦としてフランス領インドシナが成立した(図
14-53 参照)。 その後、1893 年にはラオス王国を保護国とし、1900 年からは中国南部の広州湾租借地を
加えた。 1907 年にはタイ(シャム)からカンボジア北西部のバッタンバン、シエムリアップ、シ
ソポンの 3 州を得た。こうして、フランス領インドシナは、コーチシナ直轄植民地・直轄
都市(ハノイ・ハイフォン・ダナン)、タイから獲得した 3 州による直轄植民地と、アンナ
ン・カンボジア・ラオスの 3 保護国、保護領のトンキン、租借地の広州湾によって構成さ
れることになった(図 14-53 参照)。 インドシナ植民地に対するフランスの投資は当初、ホンゲイ炭鉱を中心とする鉱山業に
集中した。メコンデルタや紅河デルタではヨーロッパ人大地主による米作プランテーショ
ンも広く行われ、ハイフォンから輸出される石炭や米が植民地経済を潤した。 一方、フランスからは主として繊維製品が輸入された。 インフラ建設としてはハノイと昆明を結ぶ雲南鉄道やハノイとサイゴンを結ぶ南北縦貫
鉄道(海運と競合したため、さほど役にたたなかったが)さらに道路建設が積極的に推進
された。 【14-5-10】アフリカ諸国 【①アフリカ植民地の時代】 15 世紀後半からヨーロッパの大航海時代がはじまり、ヨーロッパ人のアフリカ進出は奴
隷貿易の時代を経て、19 世紀にはアフリカの植民地化の時代となり、19 世紀末にはアフリ
カ分割の時代へと変化していった。 ○奴隷貿易の廃止 2251
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
近世においては、奴隷貿易をやっていたヨーロッパ諸国はは、19 世紀に入ると手のひら
を返したようにアフリカに対する接触の仕方を変化させた。産業革命を迎え、人格を拘束
する奴隷制は次第に時代遅れになり(人道主義的観点からの廃止運動もあったが基本的に
は奴隷が経済的にあわなくなり)、自らの意思で労働力を切り売りする労働者が求められ
る時代へと変革していったからであった。ヨーロッパの都合で激化した奴隷貿易はヨーロ
ッパの都合により次第に終息し、アフリカ人不在のまま、植民地化の時代へと突入してい
った。 18 世紀後半の 1787 年、イギリスに奴隷貿易廃止委員会が設立されたのをきっかけに、人
道的見地からくる奴隷制度の反対運動はますます激しくなり、1807 年にはイギリス、アメ
リカで奴隷貿易禁止令が成立し、各国も後を追うように 1814 年にはオランダ、1815 年には
フランスでそれぞれ奴隷貿易が禁止とされた。 イギリスやアメリカは自国の海軍力を背景として奴隷貿易の実力阻止を試みたが、奴隷
制そのものはその後も継続し(前述したようにアメリカ合衆国南部やブラジルでは 19 世紀
以降より盛んになった)、完全に終止符が打たれたのは 1880 年代に入ってからのことであ
った。 ○アフリカ進出の理由 1830 年代にキニーネが大量に生産できるようになるまで、マラリアの恐怖があって、ア
フリカは文字通り、ヨーロッパ人にとって「暗黒大陸」であった。イギリスのリヴィング
ストンがこの「暗黒大陸」の奥地を探検して、ヴィクトリア瀑布を発見、センセーション
を巻き起こしたのは、イギリスで「大不況」のはじまった 1873 年のことであった。いずれ
にせよ、マラリアや黄熱病のような熱帯特有の病気の研究(熱帯医学)は、ヨーロッパ人
のアジアやアフリカ、ラテンアメリカへの進出の大前提であった。 さらに、産業革命に伴い、
(奴隷ではなく機械化が進められ)奴隷に取って代わってアフ
リカの産物人気に火がついた。象牙の価格は 1822 年から 1872 年までの半世紀で 4 倍以上
に跳ね上がり、列車の機械油の原料としてニジェール川のアブラヤシやセネガンビアの落
花生が、石鹸やロウソクの原料としてヤシ油やピーナツ油の需要が急増した。こうした探
検家によってもたらされるアフリカ内陸部の情報やアフリカ大陸が産出する資源の「可能
性」はヨーロッパ各国の領土的な野心を大きく刺激した。 さらに当時のアフリカの植民地化は軍事費を含む多大な費用を必要とするだけでなんの
利益にもならないような土地でも、新しい領土を獲得するだけで民衆の不満をやわらげる
ことができると考えた政治家もいた。また、利益の追求や不満の解消だけではなく、一部
の帝国主義者たちが信奉していた理想主義では、ヨーロッパ文明こそが真の文明であると
2252
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
信じて、他の民族を教化して彼らに「幸福をもたらす」ことを、自分たちの義務であると考
えていたのである。 以上のような要素が複雑にからみあって、その国際関係に大きな影響をあたえていたの
である。 【②列強によるアフリカの植民地化】 1880 年代の初め、ヨーロッパ各国が帝国主義の時代に入るころは、アフリカ大陸のうち
ヨーロッパ各国の支配下に組み込まれた地域は、図 14-54 のように、大陸全体のわずか 10%
程度であった。 図 14-54 分割される前のアフリカの植民地(1880 年ごろ) イギリスではゴールド・コースト、シエラレオネ、ガンビア、ラゴス、ケープなど、フ
ランスではセネガル、ガボン、ソマリアなど、ポルトガルではアンゴラ、モザンビークな
どがその代表的な地域であったが、ヨーロッパ諸国のアフリカ大陸における領土は,海岸沿
いの狭い地域に限られていた。オスマン帝国は広範な領土をまだ「保有」していたが、支配
の実態はほとんどなかった。しかし、こののち 10 年あまりのあいだに、アフリカ大陸の大
部分が図 14-55 のようにヨーロッパの植民地になっていった。 2253
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
図 14-55 アフリカの分割(1914 年) 1880 年代に入るとイギリス、フランス、ポルトガルに加えベルギーやドイツ、スペイン、
イタリアなどが参入して激しいアフリカ大陸の争奪競争が始まることになった。この大争
奪戦のきっかけをつくったのは、コンゴの大地を狙ったベルギーの当時国王レオポルド 2
世であるといわれている(レオポルド 2 世については、ベルギーの歴史でも述べた)。 レオポルド 2 世は 1870 年代末にコンゴ国際協会を設立し、ヘンリー・スタンリーと共に
コンゴの植民地化を進め始めた。同時にコンゴ川近辺の各地の現地民と 400 を超える保護
条約を締結、コンゴ国際協会の支配下に組み込んだ。 これに対しポルトガルがコンゴ河口周辺の主権を宣言、イギリスがこれを承認した。こ
れらの動きに刺激されたフランスはコンゴ川北方の現地民と保護条約を締結し、後のフラ
2254
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ンス領赤道アフリカの礎を築いた。一方、時を同じくしてドイツも 1884 年にカメルーンの
保護領化を宣言するなど、植民地化・アフリカの分割が加速度的に進んだ。 ○1884 年ベルリン(西アフリカ)会議―「アフリカ分割」の原則 事態を収拾するために、ドイツのビスマルクが招集したのが 1884 年 11 月のベルリン(西
アフリカ)会議であり、そこで取り決められた一般議定書は、「アフリカ分割」の原則を定
めていた。これでは無秩序なアフリカ争奪戦に一定のルールを課すことが決定され、以降
アフリカ大陸において領土併合を行う場合の通告手法や利害調整の義務づけがなされた。 しかし、その後、他の列強を大きくリードしてきたイギリスの勢力が相対的に低下した
こと、対ドイツ報復を優先させていたフランスが植民地争奪戦に本腰をいれたこと、とり
わけベルリン(西アフリカ)会議でのホスト役だったビスマルクが失脚し、「新航路政策」
を推進したヴィルヘルム 2 世がドイツの舵取りになり、本格的に植民地獲得に乗りだした
ことなどから、世紀転換期においてアフリカ争奪戦はより熾烈をきわめるようになった。 そして、ついにヨーロッパ列強同士の領土を巡る衝突もしばしば発生するようになった。 【③イギリスのアフリカ植民地化】 ○イギリスのスーダン・マフディー国家の征服 スーダンは、1819 年のムハンマド・アリーの侵略以降、エジプトによって支配されてい
た。その後、エジプトの財政事情が悪化し、エジプトはイギリスの実質的な保護国になっ
てしまったことは述べた。エジプト財務省はほとんど完全にイギリス人「財政顧問」の支
配下に置かれるようになり、イギリスの財政顧問はエジプトの財政に関して最大限の節減
を行うよう指導していた。 このような中でエジプト支配下のスーダンで、1881 年 6 月、ムハマンド・アフマドは自
らを「マフディー」(イスラム世界での「約束された救世主」)であると宣言した。当時
のエジプトのスーダン総督ムハンマド・ラウーフ・パシャは彼を逮捕するために 2 個部隊
を機関銃 1 丁とともに派遣した。8 月 17 日夜、二つの部隊は同時に到着したが、闇夜の中
で誤って同士討ちを始めてしまい、そこを棒と槍のみで武装したマフディー軍が攻撃をか
けて夜陰に乗じて完勝した。 その後、スーダン行政府は、4000 人の兵士をマフディー軍の集結地に送ったが、1882 年
6 月、マフディー軍に殲滅されてしまった。反乱軍は大量の武器と弾薬、軍服その他の補給
品を手に入れた。 1883 年夏、エジプト軍は歩兵 7000 人、騎兵 1000 人、機関銃 20 と大砲数門を送り出した
が、マフディー軍はエル・オベイドの戦いで 7500 人以上を戦死させた。その結果、スーダ
2255
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ンの商業の中心地であり、首都であるハルツーム(図 14-45 参照)では大勢のエジプト人
が「陸の孤島」で孤立状態になった。 エジプト政府はイギリス人士官をスーダンに派遣して駐留軍の撤退を調整させるよう要
請した。マフディー軍はイギリス市民を攻撃することは大きなリスクとなると判断してい
たので、撤退は無事に済むであろうという期待があった。そのような事情で、チャールズ・
ゴードンの派遣が提案された。ゴードンは極東での幾つかの戦役、とくに中国でのアロー
号戦争で活躍した非常に才能のある軍人で、約 20 年前に太平天国の乱の鎮圧では、常勝軍
を率いて名声の高い将軍であった(中国の歴史で述べた)。 ゴードンは 1884 年 2 月 18 日にハルツームに到着すると,前述のように誇り高き男で撤
退などする気はなく、命令に反して戦うことを決めた。1884 年 3 月 15 日にハルツームとカ
イロの間の電信線が切られ、外界との連絡が断ち切られた。ゴードンが籠城したハルツー
ムは非常に堅固だった。ゴードンには 6 ヶ月分の食糧があり、数百万発の弾薬の備蓄と週
に 5 万発の自製ができ、7000 人のエジプト兵を有していた。しかしながら、市外にはマフ
ディー軍約 5 万人が集結しており、時が経つにつれて突破できるチャンスはわずかとなっ
ていった。結局、イギリス軍の救援なしにゴードンが助かる見込みはなくなり、イギリス
は世論に押されてウルズリー将軍指揮の遠征軍が派遣された。 ウルズリーの救援軍はアブクレアの戦いでマフディー軍を撃破したが、町は 2 日前の 1885
年 1 月 25 日、313 日の包囲戦の末に陥落し、ゴードンと守備隊は虐殺されてしまっていた。 この出来事によって、イギリスとエジプトのスーダンへの関与は一時的に終わり、スーダ
ンは完全にマフディーが支配するものとなった。 それから 13 年後、露仏協商勢力がエチオピアでの足場を固めようとするようになり、イ
ギリスは、早急にその対策が必要となり、マフディー国家を直接支配することが緊急に必
要となったので、強力なイギリス・エジプト軍司令官キッチナー隊の派遣を決定した。 1896 年 3 月、マキシム機関銃、最新の火砲を含む当時最新の兵器を装備したキッチナー
隊 1 万 1000 人は、河川砲艦の小艦隊に支援され、ワジハルファからスーダン領内に補給の
ための鉄道を敷設して万全の体勢で進み、マフディー軍を撃破しつつ、マフディーの首都
オムドゥルマンに達し、最終的にアフマドの後継者アブドゥラヒを捕捉して殺害し、実質
的にマフディー体制を終焉させた。 ここまでのイギリスのアフリカにおける動きを振り返ると、イギリスは 1815 年、早くも
アフリカ最南端の後述するケープ植民地を領有して、その支配地を北に拡大し始めた。そ
の後、1875 年にはスエズ運河を確保し 1882 年にエジプトを事実上の保護国化した後、ナイ
ル川に沿って南下し始め、1885 年、前述したように、スーダンでマフディー教徒の蜂起に
合い、10 年間ほどイギリスの南下政策は停滞したが、キッチナー率いる 2 万 5000 の大軍を
2256
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
動員し、鉄道を敷きながら南下し、マフディー国家を破ってスーダンを支配下に置いた。
このとき、イギリス軍の先遣隊が、さらに南のファショダ村にフランス国旗が掲げられて
いることを発見し、急遽、軍を南下させた。ここまでがイギリス側の動きである。 【④フランスのアフリカ植民地化】 ○ファショダ事件とフランスのアフリカ植民地 フランス側についても少しさかのぼって見ることにする。 フランスは、図 14-55 のように、1830 年にアルジェリアに進出して以来、1881 年には
チュニジアを、次いでサハラ砂漠一帯を領有した。フランスがアフリカ横断政策について
真剣に考え始めたのは、1883 年前後であった。83 年に再度フランス首相になったフェリー
は、イギリスの 3C 政策を阻むためと同時に、フランスがアフリカ大陸を横断するためにも、
スーダン南部のファショダ占領を視野に入れていた。 フランスは、まずマルシャン大尉率いる 200 人の武装探検隊を送った。一行は 2 年間に
わたって各地を探検しながら東進し、1898 年、ナイル河畔のファショダ村に到着し、フラ
ンス国旗を掲揚したのは 1898 年 7 月 12 日のことだった。 後述するように 1889 年にエチオピアがイタリアと締結したウチェリ条約をめぐる対立が
表面化すると、フランスはエチオピアに急接近した(武器なども売却した)。そのための足
場を提供したのは、すでにフランスの保護国になっていた紅海に面し、エチオピアと国境
を接していたジプチであった。フランスとしては、ファショダ・ルートが図 14-55 のよう
に構想されていて、ファショダからエチオピアを通ってジブチに繋ぎたかったようである。 こうして 1898 年 9 月 19 日には、キッチナーとマルシャンの歴史的会見がもたれた。こ
れをファショダ事件といっている。アフリカ大陸の植民地化(アフリカ分割)を競うイギ
リスの大陸縦断政策とフランスの大陸横断政策が衝突した事件であった。ファショダに急
行したイギリス軍とフランス軍はあわや衝突かと思われた(このとき、イギリス軍は 2 万
数千、フランス軍は 200 人、もともと衝突が起こるはずななかった)。しかし、この会見で、
両軍の司令官は、事態の処理を本国にゆだねることにした。結局、フランス軍が譲歩し、
翌年ファショダを撤退した。 この事件を契機として、英仏は接近することとなった。本国交渉はもつれたが、ドイツ
帝国の急速な進出に直面した 1904 年、両国は英仏協商を結んだ。その協商で、フランスは
エジプト・スーダンでのイギリスの優越権を、イギリスはモロッコにおけるフランスの優
越権をそれぞれ認めることで決着をみたのである。 その後、第 1 次世界大戦でイギリスが、
敗北したドイツからドイツ領東アフリカ(タンガニーカ。図 14-55 参照)を獲得したため、
イギリスの大陸縦断政策は完遂した。ファショダ事件でスーダンから撤退したため、フラ
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ンスの横断政策は成らなかったが、フランスはアフリカ大陸の西半分の広大な地とマダガ
スカルを領有し(図 14-55 参照)、事実上アフリカ大陸をイギリスと 2 分割したも同然で
しあった。 【⑤イギリスのアフリカ南端からの植民地化】 ○イギリス領ケープ植民地 19 世紀のはじめのナポレオン戦争の時代に、オランダ(ネーデルランド連邦共和国)は、
1795 年から 1806 年までバタヴィア共和国と言っていたが、1806 年にルイ・ボナパルト(ナ
ポレオンの弟)を国王とするホラント王国へと移行した。 1806 年 1 月 8 日、イギリスの大艦隊がオランダのアフリカ植民地ケープを襲った。イギ
リスは、ナポレオンをケープ植民地から閉め出すことと、極東への交易路を手中に置くこ
とを目的に、ケープ植民地を占領した。そこにはオランダ出身の白人(ボーア人、ブーア
人といった)が約 2 万 5000 人住んでいたが、しだいにイギリスからの植民者、交易人、商
人などが到着するようになった。イギリス政府は、本国で多数の失業者をかかえていたの
で、イギリス人を入植させてケープ植民地に農耕社会をつくりたかったのである。 1814 年のパリ条約によって、ケープ植民地は正式にイギリス領になった。イギリスは本
国からの移民を推し進め、ボーア人たちは 2 級国民的な扱いを受けた。さらに、イギリス
はボーア人の内陸への進出を好まず、近隣のアフリカ人諸民族を(ボーア人に比べれば)
尊重する政策をとった。そのため、ボーア人の農園拡大は頭打ちとなった。また、フィッ
シュ川以北には軍事力を持つバントゥー系諸民族が居住しており、1 植民者が簡単に勢力を
拡大することなどできるものではなかった。 ○ボーア人のグレート・トレック さらに 1833 年には大英帝国全土において奴隷制が廃止され、不満は頂点に達した。点在
する大農園が経済の中心となっている東ケープにおいては奴隷制廃止は死活問題となって
いた。そこで、1834 年、東ケープのボーア人の代表たちがフィッシュ川南岸に近いグラハ
ムズタウンに集結し、イギリスからの独立と移住を決定した。移住先はズールー王国の国
王ディンガネとの交渉の結果ポート・ナタール(現在のダーバン。図 14-56 参照)近辺に
決定したが、フィッシュ川北岸には強大なコーサ人が存在していたため、いったん北上し
てオレンジ川を越え、西からドラケンスバーグ山脈を越えてナタールへと向かうルートが
選択された。 その移住の旅をグレート・トレックというが、1830 年代から 40 年代にかけて、英領ケー
プ植民地からボーア人たちが大移住を行い、現在の南アフリカ共和国北部に定住した。1835
年、先発隊がグラハムズタウンを出発し、その翌年本隊が出立し、最終的にはケープ植民
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
地のボーア人の 10 分の 1、東ケープのボーア人の 5 分の 1 にあたる 1 万 2000 人のボーア人
がケープ植民地を離れ、北へと向かった。 図 14-56 南ア戦争(1899~1902 年) 本隊はやがて現在のオレンジ自由州にあるウィンバーグにいったん集結し、これからの
行動を相談しあった。この地でボーア人は 3 方向に分岐した。さらに北上してトランスヴ
ァールに向かったもの、東のナタールに向かったもの、とどまってオレンジ自由国となっ
たものの 3 つであった。 ○ナタール共和国の建国と滅亡 本隊はドラケンスバーグ山脈を越え、1838 年 1 月 28 日にナタールへと到着した。ズール
ー王ディンガネはボーア人を歓迎し、1838 年 2 月 6 日に彼らを宴席へと招いた。しかし宴
席の途中でディンガネは奇襲を行い、ボーア人を全滅させた。死者の中にはグレート・ト
レックの指導者であったピーター・レティーフもいた。さらにディンガネは残りの植民者
にも攻撃を加え、2 月 17 日のウィーネンの虐殺によって 250 人近くのボーア人が殺された。 しかし、プレトリウスらの指導によってボーア人はズールーを攻撃し、1838 年 12 月 18
日、血の河(ブラッド・リヴァー)の戦いにおいて 464 人のボーア軍が 1 万から 2 万人の
ズールー軍に大勝し、ズールーの首都を占領した。 結局ズールーとボーア人は和平を結び、
ズールーはトゥゲラ川以南をボーア人に割譲した。ボーア人は首都ピーターマリッツバー
グを建設し、1839 年 10 月 12 日にナタール共和国を建国した(図 14-56 参照)。 こうしてナタール共和国が建国されたものの、広大な土地を得たボーア人たちは土地の
分配を巡って対立を繰り返した。この混乱は隣接するポートナタールを領有するイギリス
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
に絶好の介入の口実を与え、イギリスはナタールに宣戦した。1843 年 5 月 12 日、ナタール
政府は降伏し、英領ケープ植民地に併合され、ナタール共和国は 4 年余りで消滅した。 ナタールのボーア人は一部はこの地にとどまり続けたものの、大半はイギリスの影響力
の及ばないドラケンスバーグ山脈の向こう側に再び移動していった。 ○トランスヴァール共和国とオレンジ自由国 ドラケンスバーグ山脈の北側では、オレンジ川以北にとどまったボーア人たちが政府を
結成し、またそのさらに北、ヴァール川以北に植民したボーア人たちも別個の政府を成立
させ、グレート・トレックは終結した。 1852 年 1 月 17 日、サンドリバー協定がイギリスとヴァール川以北のボーア人の代表であ
るプレトリウスとの間で結ばれ、トランスヴァール共和国(「ヴァール川の向こう」を意
味する)が成立した。次いで 1854 年 2 月 23 日、イギリスとオレンジ川以北の政府との間
でブルームフォンテーン協定が結ばれ、オレンジ自由国が成立した(図 14-56 参照)。 なお、グレート・トレックはアメリカの西部開拓にもなぞらえられているが、大きな違
いは南アフリカの新規入植地域においては黒人が圧倒的多数を占め続けたことである。圧
倒的な黒人の中で白人支配社会を維持する中で、白人入植者は自らの選民思想を先鋭化さ
せ、後のアパルトヘイトの一因となった。 これでイギリスとボーア人問題は一件落着したように思われたが、その後に両国内で鉱
物が発見されたことによって、イギリスが再びボーア人の両国に注目するようになった。 1867 年には、オレンジ自由国内のキンバリーで、ボーアの一農民によってダイヤモンド
が発見された。そこは西グリクアランドで、グリクアと 100 人余りのボーア人が住んでい
るにすぎなかった。1871 年に、イギリスは武力にものをいわせてイギリスの主権を宣言し、
ここをイギリス領に編入した。このことは、1880 年代のトランスヴァール共和国内での金
鉱の発見とともに、この地域の経済構造を農業から鉱業に変化させることになった(現在、
トランスヴァール州にあるグリクアランド鉱山は、鉱山が丸ごとタイガーアイの豊富な産
地である。また、トランスヴァール州は、世界一のダイヤモンドの産地で、南アフリカの
鉱山生産高の 8 割を占めている)。 ○ズールー王国とズールー戦争 ここで、少しさかのぼって、ズールー王国について述べる。ズールー族は南部アフリカ
の一部族に過ぎなかったが(図 14-57 参照)、1816 年にシャカ(在位:1816~1828 年)が
ズールー王に即位し、王国が成立した。シャカ王は、軍制改革を行い、一種の連隊制度を
導入した。また、武装をそれ以前の投槍から、手持ちの長槍に変え、突く戦法を採用した。
盾も長く大きなものを導入した。これらを用いて、兵力を集中して敵を撃破する戦術(「雄
牛の突撃」と呼ばれた)を採用し、他の部族を制圧していった。シャカはムテトワ帝国、
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ンドワンドウェ王国に侵攻し、戦場では、破った敵に対して自軍に加わるよう提案し、承
諾したものを自軍に加えズールー族に同化させていった。支配下に置いたズールー族は図
14-57 のように勢力を拡大していった。 図 14-57 ズールー王国の拡大(破線の囲みはシャカが建てたズールー王国) しかし国内では恐怖政治を行い、1827 年に彼の母のナンディが死去したときは約 7,000
人を殉死を目的に処刑した。王族内からもシャカに対する反発が高まり、翌 1828 年、北方
遠征の途中で、王太子でもある異母弟ディンガネと、もう一人の異母弟によって殺された。 新しく王になったディンガネは、前述したようにグレート・トレックのボーア人と各地
で戦いを行なった。その中でもっとも悲劇的な戦いが 1838 年 12 月 18 日のブラッドリバー
(血の川)の戦いで、ズールーの王ディンガネの大軍が破られ、戦死した死体で川が血の
色に変わったといわれている。ズールー王国は分裂し、ディンガネの弟のムパンデがボー
ア側に転身し、王位を継承した。 ムパンデは、1840 年にズールー王になってから、その後 32 年間にわたって王国を統治し
た。1840 年代中頃に確立したイギリス植民地ナタールや北西部のトランスヴァールとの境
界を明確にして、中心となる地域の統治を確立した。 2261
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
1872 年にムパンデが亡くなると、息子のセテワヨが王位を継承した。そのころ、南部アフ
リカではイギリスの植民地化が進んでおり、ズールー王国の存在は、その障害になってい
た。 1874 年、成功裏にカナダ連邦を成立させたイギリスのカーナーボン植民相は同様の枠組
みを南アフリカにおいても実施しようとしていた。この計画のためにバートル・フレアが
高等弁務官として南アフリカへ送られた。この計画の障害の一つが独立した国家であるト
ランスヴァール共和国とズールー王国の存在だった。 まず、南アフリカの高等弁務官フレアは南アフリカを連邦化するための障害は独立した
国家であるズールー王国あると確信し、まず、これを破壊することを決意した。 1878 年、フレアは 2 人のズールー戦士が 2 人のナタール女性と駆け落ちして連れ出した
些細な国境侵犯を口実として、ズールーに対し賠償として 500 頭の牛を要求した。ズール
ー国王セテワヨは 50 ポンド相当の金を送っただけだった。 つぎに 2 人の測量技師がズールーに捕らえられる事件が起き、フレアはより一層の賠償
を要求したが、セテワヨは再び拒否した。フレアは 12 月 11 日にズールー側代理人に対し
ズールー軍の解散、ズールー王国の保護国化など受け入れ不可能な最後通牒を(本国政府
には内緒に)発して 31 日までに返答することを求めた。 セテワヨは損害賠償以外の要求を拒否した。1879 年、イギリスはズールー王国に侵攻し
ズールー戦争が勃発した。イギリス軍は緒戦のイサンドルワナの戦いで槍と盾が主兵装で
火器をほとんど持たないズールー軍に大敗を喫して思わぬ苦戦を強いられた。 その後、大英帝国各地から大規模な増援部隊が送り込まれ、近代兵器を用いたイギリス
軍は、1879 年 7 月にはズールー王国の首都ウルンディに侵攻し、市内を焼き払い、王宮を
攻めたてた。こうして、ズールー族の独立は失われ、ズールー王国は完全に消滅してしま
った。イギリスは、ズールー王国を消滅させ、まず、南アフリカ連邦への第一段階を達成
した。 ○第 1 次ボーア戦争 一方、トランスヴァール共和国は、内陸にあって海を求めてズールー王国方面へ進出し
ようとした。しかしこの動きを警戒したイギリスは、1877 年、トランスヴァール共和国の
併合を宣言した。ボーア人はこれに抵抗して 1880 年 12 月 16 日、ポール・クルーガーを司
令官として大英帝国に宣戦を布告し、両国は戦争状態へ突入した。 1881 年 2 月 27 日、マジュバ・ヒルの戦いでイギリス軍はボーア人に惨敗した。これを第
1 次ボーア戦争またはトランスヴァール戦争という。これにより 1881 年 3 月 23 日、プレト
リア協定が結ばれ、イギリスはトランスヴァール共和国の独立を再度承認することとなり、
戦争は終結したものの大英帝国の面目は丸つぶれとなった。 2262
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
《金鉱の発見とトランスヴァール共和国の発展》 1886 年、豊富な金の鉱脈がヨハネスブルグの近郊で発見されたことが、トランスヴァー
ル共和国にとって大きな転機となった。財政難に陥っていたため国家による大規模な開発
は困難だったが、多くの企業を誘致し地代を負担させることで大きな利益を上げることが
できた。 これに伴って交通網の整備も進み、1894 年にはポルトガル領東アフリカ(現在のモザン
ビーク)の港湾都市ロレンソ・マルケス(図 14-56 参照。現在のマプート)に至る鉄道が
開通した。また、翌年にはナタールのダーバンとも鉄道で結ばれた。 しかし、こうした急速な繁栄は、当初よりトランスヴァール進出を企図していたイギリ
スの帝国主義的野心をますます強めさせることになった。このころの南アフリカ経済は金
鉱業を基軸として急速な経済成長をとげつつあり、大規模な国内市場が形成され、インフ
ラの整備が進み、それとともに労働力の需要が高まった。こうして経済的な利権をめぐる
イギリス植民地とトランスヴァールとの対立が激化した。 《イギリス植民地の首相セシル・ローズ》 この時、イギリス植民地の首相はセシル・ローズ(1853~1902 年。首相在任:1890~96
年)がなっていた。ローズは、南アフリカのキンバリーで坑夫としてつるはしを振ってい
たが、ダイアモンドを掘り当てて作った資金で、ダイアモンドの採掘権への投機を行った
り、採掘場への揚水ポンプの貸し出しで儲け、ロンドンのユダヤ人財閥ロスチャイルドの
融資もとりつけて、1880 年、デ・ビアス鉱業会社を設立した。この会社は、ほぼ全キンバ
リーのダイアモンド鉱山をその支配下に置き、全世界のダイアモンド産額の 9 割を独占す
るに至った。彼はデ・ビアス鉱業会社を通じてトランスヴァール共和国の産金業にも進出
して、世界最大の産金王にのし上がるとともに、南アフリカの鉄道・電信・新聞業をもそ
の支配下に入れるまでになった。 ローズはこの経済力をバックに政界へも進出し、1880 年、ケープ植民地議会の議員、84
年にケープ植民地政府の財務相になり、90 年には遂に首相にまで上り詰めた。この間彼は、
マタベリ人の首長に武器弾薬を提供し、それと引き換えに鉱山の利権を獲得したり、1889
年、イギリス本国政府の要人を買収して、征服地に対する警察権・統治権をもつイギリス
南アフリカ会社設立の特許を獲得したりした。 1894 年、ローズはこの会社を盾に、遠征軍をトランスヴァールのさらに北のマタベリ人
やマショナ人の居住区に派遣して、イギリス本国の 4 倍半にも相当する広大な土地を奪っ
て南アフリカ会社の統治下に置いた。会社はこの地を、征服者ローズの名にちなんでロー
デシア(図 14-55 参照。現在のザンビア・ジンバブエの地域)と命名した。 2263
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ローズは首相として数々の政策を行ったが、それらはすべて、大英帝国のもとに南アフ
リカに広大な統一された植民地、南アフリカ連邦を建設することを意図して行われたもの
であった。彼はまた、ケープとカイロ間を電信と鉄道で結ぶ計画(いわゆる 3 C 政策の一
環)を推進した。ローズはまさに南アフリカの政治・経済の実権を一手に握り、その威風
は帝王を思わせ「アフリカのナポレオン」と呼ばれた。 その得意の絶頂が、1 つの事件で一挙に崩れることになった。彼は勢いに乗じて、トラン
スヴァール共和国を一気に征服、併合する計画を立てた。トランスヴァール内のイギリス
人に密かに武器弾薬を送り込み、反乱を起こさせ、その支援を口実にジェームソンの指揮
する会社軍を派遣して、一挙に併合してしまおうというものであった。しかし、1895 年、
反乱を起こすことに失敗し、ジェームソン率いる南アフリカ会社の軍隊が国境を越えたと
の知らせに、ボーア人は直ちに反撃を開始して会社軍を包囲し、全軍を捕虜にしてしまっ
た。 この事件は、ボーア人の怒りを買うとともに、広く世界中の世論の非難を浴びることと
なった。この世論に押されてイギリス政府もローズを助けなかったため、ローズは 1896 年、
首相と南アフリカ会社を辞めざるをえなくなり、完全に失脚した(1902 年に 49 歳の若さで
死んだローズは、600 万ポンドに及ぶ膨大な遺産の大半をオックスフォード大学に寄贈した
ので大学ではローズ奨励基金として、現在も毎年多くの学生に奨学金を提供し続けている)。 ○第 2 次ボーア戦争(南ア戦争) 1898 年の秋にマフディー国家の壊滅、ファショダ事件の解決によりイギリスのスーダン
支配が国際的にも承認された時点で、イギリス政府はトランスヴァールの内政に干渉する
余裕ができ、トランスヴァール併合宣言から 20 年以上の歳月をへて、第 1 次ボーア戦争で
達成できなかった野望の実現に向けて動き出した。 ときに、イギリス本国の植民地相であったジョセフ・チェンバレン(ナチス・ドイツへ
の融和政策で知られるネヴィル・チェンバレン首相は子息である)は、もともと自由党員
であったが、伝統的な自由貿易主義を批判し、「ドイツの脅威」に対抗するために帝国特
恵関税を設定しようとした典型的な帝国主義者でもあった。イギリス帝国の団結を強化し、
国内の社会改革をすすめるという主張から、「社会帝国主義者」とみなされることもあっ
た。このような人物であっただけに、彼は第 2 次ボーア戦争をしかけることにした。 1899 年 9 月、チェンバレンはトランスヴァール共和国に対し、大英帝国臣民への完全に
同等な権利を付与することを要求する最後通告を送った。だがトランスヴァール共和国の
クルーガー大統領もまた、チェンバレンからの最後通告を受信する前に、彼の方からも最
後通告を出していた。これは、48 時間以内にトランスバール共和国およびオレンジ自由国
の全域から全て英国軍を退去するように求めるものであった。こうして 1899 年 10 月 12 日
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
に宣戦が布告され、ボーア軍はそれ以降、1900 年 1 月の間にケープ植民地とナタール植民
地に最初の攻撃を開始した。 これが第 2 次ボーア戦争(1899~1902 年)であった(図 14-56 参照)。中立であったオ
レンジ自由国のボーア人も、トランスヴァール側につき、戦うことになった。 戦争は、イギリス軍が正規軍 25 万 6000 人、インドなど帝国各地からの兵隊 19 万人を投
入、ボーア人側は 7 万 3000 人にすぎなかったから、予想では、イギリスの圧勝に終わるは
ずであった。しかし、ボーア人は執拗なゲリラ戦をとり、イギリスは大苦戦を強いられ、
戦闘は 1902 年まで続いた。 戦争には、3 つの段階があった。第 1 段階は、多数のイギリス軍が到着する前にボーア人
が各地で勝利をおさめた。第 2 段階は、イギリスが多数の兵士を結集させて、有利になっ
たが、ボーアは敗北を認めなかった。ボーアが各地に分散してゲリラ的抵抗を続けイギリ
スを苦しめた。 ○卑劣な戦争―トランスヴァール共和国とオレンジ自由国の消滅 ゲリラ戦法が成功するのは民衆(農民)の協力があればこそである。そのためにゲリラ
対策としてイギリス軍司令官キッチナーが実施したのは、焦土作戦と強制収容所に女性や
老人、子供を送り込むことであった。そのうちの 2 万 5000 人が死亡したこと、死亡率が 35%
という数字が示すように、この戦争には 20 世紀の 2 つの世界戦争の悲惨な様相を先取りす
る要素がいろいろみられた。 ゲリラ協力者と非協力者との区別がつかないときの対応は焦土作戦しかなった。焦土作
戦により焼かれた農場は 3 万ヶ所におよび、屠殺されたヒツジは 360 万頭といわれている。
この作戦に従軍記者として参加したウィンストン・チャーチル(のちの首相)でさえ、こ
の作戦を「卑しむべき暴挙」と非難した。 以上のような卑劣な作戦と 2 億ポンド以上の戦費や 40 万人以上の兵力を使用したが、
1902 年になってもイギリスの勝利は確信されなかった。また、国内の世論は休戦に傾き、
下院では自由党がチェンバレンと軍需産業の関係を追究していた。他方、ボーア側はゲリ
ラ戦法によってよくもちこたえていたが、武器、弾薬や衣服、食糧が枯渇してまったく勝
目はなかった。最後のボーア人が 1902 年 5 月に降伏し、ボーア戦争は終戦を迎えたが、こ
れによりイギリスはトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を併合した。 イギリスの少数資本家の南アフリカにおける利潤追求のために、2 年 7 ヶ月の歳月と多大
な犠牲がはらわれた。 これによって南アフリカ連邦成立のための 2 つの障害ズールー王国とトランスヴァール
共和国はいずれもイギリスの帝国主義的武力(戦争)によって取り除かれ、1910 年 5 月 31
日、ここに晴れてイギリスの自治領南アフリカ連邦が成立した(図 14-55 参照)。人口の
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第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
ごく少数を占める白人が黒人を強権的に支配する政治体制を敷き、1911 年には白人労働者
の保護を目的とした最初の人種差別法が制定された。 【⑥イタリアのエチオピア侵略】 ○エチオピアからエリトリアを獲得 1860 年にイタリア統一をなしたイタリア王国は、ヨーロッパ列強の中で植民地獲得競争
に出遅れた。イタリア王国は、列強の植民地化を逃れていたエチオピア帝国に目をつけ、
既に開削されたスエズ運河やエジプトとの関連からエチオピアの紅海沿岸部を欲し、イタ
リアは民間会社(後に国営化された)を通じて大規模な土地購入を行い、入植を開始して
いた。 1885 年 2 月、エチオピア皇帝ヨハンネス 4 世はこれに反発して軍の動員を開始し、イタ
リア王国もマッサワなど幾つかの都市に陸軍を上陸させた。ここに 1885 年 2 月から 1888
年にかけて、イタリア王国とエチオピア帝国でエリトリア戦争が戦われた。ドガリの戦い
などの数年の紛争や小競り合いを経て最終的にイタリアはエチオピアを軍事的に屈服させ、
沿岸部の実効支配を開始した。 1890 年、エチオピアでヨハンネス 4 世のあと、帝位を巡る内戦が発生したが、イタリア
が武器供給をしたメネリクが内戦に勝利をおさめて新たな王となり、正式に講和条約(ウ
ッチャリ条約)に署名し、紅海沿岸部をイタリア領エリトリアとして割譲した(図 14-55
参照)。 このエリトリア獲得で調子づいたイタリアは、さらにエチオピア侵略を進めて行った。
きっかけは、メネリクを皇位につけた講和条約(ウッチャリ条約)であった。条約のイタ
リア語の内容とアムハラ語(エチオピア語)の言い回しは大分異なっており、アムハラ語
の文章では「エチオピアは他国との外交をイタリアに必ず通告せねばならない」と書かれ
ているに留まっていたが、イタリア語の文章では外交権を含めて多くの当地権限を喪失す
るいわば保護国化に近い内容になっていた。1895 年、メネリク 2 世の抗議に対してイタリ
ア政府はアムハラ語の文章も言い回しの違いだけで内容は同じであると返答したが、メネ
リク 2 世は条約を破棄すると宣言した。 ○第 1 次エチオピア戦争 これに対して、イタリア政府はオレステ・バラティエリ将軍のエリトリア駐屯軍にエチ
オピア侵攻を命じた。1896 年 3 月 1 日に発生したアドワの戦い(図 14-55 参照)で 1 万
5000 人前後のイタリア陸軍とエリトリア軍を加えたイタリア軍は、10 万を越すエチオピア
軍と対戦したが、最終的にイタリア陸軍の 9500 人から 1 万 2000 人が戦死・負傷し、エリ
トリア民兵隊も 2000 人が死ぬか捕らえられた。エチオピア側も死者・負傷者合わせて 1 万
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人前後の損害を出したが、エチオピアの勝利だった。イタリアにとって最大の誤算は、イ
タリアの進出を危惧したフランスがメネリク 2 世に膨大な銃火器や大砲を売却していたこ
とだった。 このアドワの戦いは、第 1 次エチオピア戦争におけるイタリアの敗北を決定づけた。2 週
間後、イタリアのフランチェスコ・クリスピ政権は民衆の罵声の中で崩壊することになっ
た。その後、エチオピアを訪問したイタリアの新政権の外交団とメネリク 2 世の間でアデ
ィスアベバ条約が締結され、「本来の」ウッチャリ条約と同じ内容(エチオピア独立承認、
エリトリアの割譲)が確約された。 この決戦における勝利により、エチオピアは欧州列強による植民地化を当面、回避する
ことができたが、1935~36 年の第 2 次エチオピア戦争で(ムッソリーニによる侵略戦争)、
結局、イタリアに併合されてしまうことになる。 【⑦その他ヨーロッパ列強のアフリカ分割】 前述のように、ベルギーも、レオポルド 2 世のもとで、1885 年にコンゴ川流域をおさえ
た(図 14-55 参照)。そのコンゴ自由国の悲惨な状況はベルギーの歴史に記した。 遅れて国家統一をなしたドイツは、瀕死の病人オスマン帝国を看護しつつ(弱みにつけ
いり)、3B 政策をかかげ、バグダード鉄道などによって、ベルリン、ビザンティウム(イ
スタンブル)、バグダードを結ぼうとして、先輩であるイギリスと対立したが、後輩ドイ
ツはアフリカでも、トーゴランド、カメルーン、南西アフリカ、東アフリカなど、4 つの地
域の領有権を主張した(図 14-55 参照)。 ドイツと同じく国内の統一のためアフリカ領土争奪戦に遅れて参戦したイタリアはソマ
リアやエリトリアなどを獲得したが、前述したように、エチオピアの地域獲得を目論んだ
戦争(1896 年アドワの戦い)でエチオピア軍に敗北し、撤退した(のちに再びエチオピア
侵略を行い、支配下においた)。その後 1912 年にはリビアを植民地にした(図 14-55 参照)。 このほか、スペイン(西アフリカ)、ポルトガル(アンゴラ、モザンビーク)なども多
少の植民地・侵略領地をかかえていたから、第 1 次大戦以前には、アフリカのすべての土
地が、ヨーロッパ諸国に分割されてしまった(後述するリベリアだけが独立国だった)。 アフリカ分割の過程では、もはやかつてのヨーロッパ人が植民地獲得で使った宗教家な
どを動員した「優秀な白人」に天が与えた「明白な使命」とか「文明化の使命」などの形
式的な理屈はふっとび、露骨な資本主義的利害と人種的な支配のみが前面に浮き出る「む
き出しの帝国主義」がここにみられたのである。
一連の分割競争の結果、領土的に広大な土地を獲得したのはフランスであったが、植民
地から産出される鉱物などの質的な面で言えばイギリスに軍配が上げられた。また、植民
2267
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
地化を逃れたのはアメリカの解放奴隷が 1847 年に建国したリベリア共和国、峻険な高地に
拠り強固な軍事力をもってイタリアを排除したエチオピアの 2 ヶ国のみであった(その後、
エチオピアもイタリアに併合された)。 ヨーロッパ各国はこれらの植民地政策に対し、必要に応じて白人優越主義やダーウィニ
ズムの論理を唱え、
「自己発展の能力に欠けるアフリカの文明を開化させることは先進国の
責務である」などといった自己中心的な正当性を主張した。このように欧米列強に植民地
化されたアフリカ諸国が、その植民地政策の手から解放されるのは、一部の国を除き、第 2
次世界大戦後の 20 世紀半ば以降であった。 【14-5-11】オセアニア諸国 【①オーストラリア】 この【14-5】では、19 世紀に起きた「植民地化されるアジア・アフリカ・オセアニ
ア諸国」を、まとめて記しているが、オセアニアでは第 13 章までに述べたように、農業の
開始も国家の形成もなったので、前述したアジア・アフリカとは少し事情が異なっている。 オーストリアの先住民はアボリジニである。まず、大航海時代が始まって、ヨーロッパ
人がオーストラリアを(再)発見してから、アボリジニはどうなったかから述べよう。 ○アボリジニの悲劇 近世のオーストラリアの歴史で述べたように、オーストラリアへの植民は順調にスター
トできたようであったが、先住民のアボリジニには大変なことが起きた。これまで旧大陸
の伝染病と接触したことがなかったアボリジニは、入植者がもたらした天然痘に類似した
病気、梅毒、インフルエンザ、麻疹(はしか)などによって人口の崩壊をきたした。しか
も、生活基盤である土地を入植者に暴力的に奪われ、オーストラリア東南部の多くの言語
集団は消滅してしまった。 また、初期イギリス移民の多くを占めた流刑囚はスポーツハンティングの延長としてア
ボリジニを殺害したり、若い女性を捕らえて強引に妻(髪を切り男装させたためボーイと
呼ばれた)としたケースがあったという。 また、1828 年には開拓地に入り込むアボリジニを、イギリス人兵士が自由に捕獲・殺害
する権利を与える法律が施行された。捕らえられたアボリジニ達は、ブルーニー島のキャ
ンプに収容されたが、食糧事情が悪かったことや、免疫の無い病気が流行したことから、
多くの死者が出た。 これによりアボリジニ人口は 90%以上減少し、1876 年には、多い時期で 3 万 7000 人ほど
いた純血のタスマニアン・アボリジニが絶滅した。ヴィクトリアとニューサウスウェール
ズのアボリジニの人口は、10 分の 1 以下になった。19 世紀の末には、アボリジニは死にゆ
2268
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
く人種のレッテルを貼られるようになった。入植が始まった当初、約 50 万人から 100 万人
いた人口は、1920 年ころには約 7 万人にまで減少した。しかし、先住民は滅亡しなかった。
その後、人口は徐々に回復し、1996 年には総人口の約 2%、約 35 万人になった。 その後のアボリジニとアボリジニの現状については,20 世紀の歴史に記すことにする。
以下は近世のオーストラリアの歴史の続きとして、19 世紀のオーストラリアについて記
す。
○羊毛産業の発展
オーストラリアの初期の植民地には大規模に輸出する産物がなかった。19 世紀の初期の
アザラシ猟、これに続いて発展した捕鯨は、植民地に重要な輸出品である油などを提供し、
1820 年代半ばまでは、海産物がもっとも重要な輸出品となった。 ナポレオン戦争は入植地の発展をおくらせたが、その間、国土が戦場になったスペイン
から、良質の羊毛を生産するメリノ種の羊が大量に全世界に流れた。この一部を手に入れ
たジョン・マッカーサーなどの入植者たちは、これをほかの品種とかけあわせ改良し、オ
ーストラリアの羊毛産業の基礎とした。 イギリス政府は、無秩序な入植地の拡大を望んではおらず、公有地を無許可で占拠する
人間を社会秩序の破壊者であるとし、1829 年、総督ダーリングは、シドニーから約 150 マ
イル以内にある 19 県(カウンティ)を入植地と定め、それ以遠の土地での放牧を禁止した
(図 14―58 参照)。しかし、このような人工的な境界は、羊や牛の群れをつれ、あらたな
草地を求める入植者にはなんの意味もなかった。 図 14―58 オーストラリアの植民 2269
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
羊毛はオーストラリアの主要換金商品として確立していった。1830 年、オーストラリア
がイギリスの羊毛輸入に占めるシェアは、8%にすぎなかったが、1850 年には 47%に達し
た。また 1840 年代の後半には、ニューサウスウェールズの輸出の 90%以上を畜産品が占め
るようになった。 ○組織的植民 1820 年代後半からイギリスは改革の時代に入り、改革は植民地政策にも及んだ。植民を
組織的に展開すべきだと主張するグループが形成され、植民地改革運動が展開された。エ
ドワード・ギボン・ウェークフィールドは、そのもっとも重要な理論家の一人であった。 彼の理論では、富裕な人間(資本家)だけが土地を購入できるように、植民地の公有地
売却価格を十分に高く設定すれば、労働者がすぐに独立した農民になることはなく、資本
家はこの労働力を利用することができる。他方、土地売却で得た資本を補助移民の導入に
用いれば、より多くの労働力を植民地へ移動させることができる。労働者が資金を貯めて
土地を購入すれば、さらに移民が入ってくるので、労働力は枯渇することはない。また、
高い土地価格は移民の分散を防ぎ、文明の水準を維持することができる、というものであ
った。 イギリス政府は、この理論を 1831 年にオーストラリアとニュージーランドの植民地に適
用することを決定した。1831 年から 50 年の間に、囚人にかわって補助移民が移民の最大の
集団になり、オーストラリアは囚人植民地から普通の植民地に転換した。 ウェークフィールドのもう一つの貢献は、補助移民における男女数の均衡を要求したこ
とである。女性囚の多くは普通の労働者として植民地社会の発展に貢献したにもかかわら
ず、19 世紀の前半には、彼女たちは売春婦であり、植民地社会を堕落させている原因だと
いう意識が中産階級の間に流布していた。ウェークフィールドは、女性移民の増大に力を
入れ、女性の数が約 15%であった囚人移民に対し、補助移民ではその約半数を女性移民が
占めるようになった。 1840 年、イギリス政府は、国内における監獄改革の進展、オーストラリアの発展を考慮
して、ニューサウスウェールズへの流刑制度を廃止した。 《ゴールドラッシュ》 19 世紀後半のオーストラリアの歴史は、莫大な量の金の発見によって幕が開いた。1848
年のアメリカのカリフォルニアに続き、1851 年にニューサウスウェールズで金が発見され
ると、オーストラリアでもゴールドラッシュが始まった。しかし、それが本格化したのは、
続いてヴィクトリアでも金が発見されてからであった。 1850 年代、ヴィクトリアは、オーストラリアの金の 90%近くを産出し、文字どおり世界
の黄金郷となった。1850 年代にオーストラリアが産出した金は、19 世紀前半に全世界で産
2270
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
出した金の量に匹敵した。金は羊毛をしのぎ、最大の輸出品目となり、その地位は 1870 年
代までゆるがなかった。 1850 年代、ヴィクトリアの人口は約 8 万人から 50 万人に増加し(その中心都市がメルボ
ルンだった。図 14-58 参照)、ニューサウスウェールズの人口も、約 19 万人から 35 万人
になった。その多くは、従来と変わらずイギリス諸島からの移民であったが、アメリカや
ヨーロッパ大陸からの移民も増加し、約 4 万人の中国人移民も加わった。囚人と元囚人の
労働力に依存した経済は過去のものになり、自由移民が完全にこれにとってかわった。 オーストラリアでの金の発見は、イギリスの経済を直接刺激し、不況からの回復に貢献
した。1851 年のイギリスからオーストラリアへの輸出は、300 万ポンドに満たなかったが、
1853 年には、イギリスの総輸出額の 7 分の 1、1450 万ポンドに増加した。ヴィクトリアは、
莫大な金を輸出するだけではなく、それを上回る輸入を続けた。造船業、海運業などが活
況を呈しただけでなく、イギリスのほとんどの産業を潤した。 金の発見後、ヴィクトリア以外の植民地では(ヴィクトリアでの金鉱山開発と投資のた
めに人材と資金が流失したので)、人口と富の急激な流出が起こったが、やがて、ヴィク
トリアにおける食料消費の拡大、ヴィクトリアから戻った鉱夫たちがもたらす資本の流入
などにより、経済は順調に成長した。 ○自治政府の成立 ゴールドラッシュは、政治上の変化をもたらした。1852 年、イギリス政府はオーストラ
リアの東部諸植民地に自治権を与えることを決定し、植民地の議会に憲法を作成すること
を命じた。各植民地の憲法草案はほとんど修正なく承認され、1856 年末までには、すべて
の東部植民地で二院制の議会をもつ自治政府が成立した。 当初は、内閣を構成する下院は制限選挙であったが、1850 年の末までに、下院はほぼ男
子普通選挙になり、「オーストラリア式投票」と呼ばれる秘密投票制も世界ではじめて導
入された。また、議員の財産資格の撤廃も進み、議席の配分も人口分布をより忠実に反映
するように改善された。 1859 年にニューサウスウェールズから分離したクィーンズランド(図 14-59 参照)にも、
同様の制度が導入された。オーストラリアの植民地は、囚人植民地から、世界でもっとも
民主的な政治制度をもつ自治植民地に変わったのである。外交・軍事などの権限はイギリ
ス政府に残ったが、そのほかの面では事実上完全な自立性を獲得したといってもよい。 ○労働者の天国 1850 年代は、労働運動が活発になった時期でもあった。ゴールドラッシュにより、高い
賃金を獲得した職人たちは、その賃金を維持しつつ、労働時間の短縮を求めるようになっ
た。 2271
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
図 14-59 オーストラリアの州の変遷 1855 年、シドニーの石工が 8 時間労働を獲得したのに続き、1856 年、メルボルンでは 1
日 8 時間労働を求める建設関係の労働組合の活動が活発化し、労働者たちは 8 時間労働を
実現した。8 時間労働は、政府が雇用する肉体労働者などにも広がった。「8 時間労働、8
時間余暇、8 時間睡眠」というスローガンは、8 時間労働実現を祝う祭りとともに労働運動
に受け継がれていった。 1860 年代から 80 年代は、順調な経済発展の時代であった。労働者の賃金は長期的に上昇
した。1880 年代、白人オーストラリア人の 1 人当たりの名目収入は、カナダの 3 倍、イギ
リスの 2 倍以上、アメリカの 1.5 倍に達した。実質的な収入における優位は、高価なサー
ビスや家賃のために、これよりも低かったと思われる。しかし、オーストラリアの生活水
準が世界で最も高かったと考えられる。労働者にとって、食料品が安価であったことを考
慮すれば、オーストラリアの労働者が当時の水準からすれば、豊かな生活を送っていたこ
とはまちがいない。 ○高度経済成長期 19 世紀後半の経済発展を象徴するのが鉄道であった。1860 年に総延長 500 キロ程度であ
った鉄道は、世紀の末までに 1 万 7000 キロに達した。オーストラリアへの投資の 4 割は公
的部門が占めており、その 3 分の 2 は鉄道を中心とする交通整備への投資であった。また、
2272
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
1854 年のメルボルンに始まる電信線の設置が、地域の時間の統一を可能にした。1870 年代
から、無償の初等義務教育が導入されはじめた。 民間部門の投資は、ニューサウスウェールズではおもに農牧業に向かい、ヴィクトリア
ではその 4 分の 3 が都市建設に使われた。現在、オーストラリアの主要都市にあるタウン
ホール、郵便局、公立図書館、教会、大学、博物館などの多くもこの時代に建てられた。
個人の住宅建設も進み、レンガや石造の住宅が一般化した。 《初めての金融恐慌》 高度経済成長のあと、1890 年代、オーストラリアははじめての金融恐慌を経験すること
になった。約 15 年間、移民の流入はストップし、資本も海外へ流出した。 1888 年、当時オーストラリアの金融の中心であったメルボルンの株式市場には、259 も
の会社が上場されていたが、そのうちの 95 は投資会社、161 は鉱山会社であった。ブーム
の絶頂期、投機は都市の土地と鉱山に向かい、広く一般の投機家が投機に手をそめた。1888
年 10 月、土地価格が急落した。のちに人々はこれがバブルの終焉の始まりであったことに
気づいた。 1890 年 11 月、アルゼンチン革命に端を発するイギリスのベアリング商会の破綻は、新興
国への投資家の信頼を大きく揺るがせた。1891 年の前半に、南オーストラリア、ヴィクト
リア、クィーンズランドの各植民地政府が、ロンドン市場での起債に続けて失敗し、オース
トラリアの金融市場は動揺した。1891 年 7 月から翌年 3 月にかけて最大のものを含めて土
地投資会社の多くが倒産し、消滅した。土地投機会社の破綻は、新興の銀行にもおよび、1893
年のはじめに 18 あった発券銀行うち 12 が営業を停止した。 1893 年の金融恐慌は、世界的にみても、歴史上もっとも深刻な金融恐慌の一つであった。
国民総生産は 1891 年から 95 年にかけて 30%減少した。オーストラリア全体では熟練労働
者の 6 人に 1 人が失業し、非熟練労働者では失業率は更に高かったといわれている。 最も大きな打撃を受けたヴィクトリアでは、1893 年には失業率が 30%を超えた。メルボ
ルンでは 1880 年に約 5 万戸の住宅が建築されたが、その後の 20 年間には約 1 万 5000 戸し
か建築されなかった。5 万人をこえる人間がヴィクトリアを去り、その多くはゴールドラッ
シュにわく西オーストラリアへ向かった。メルボルンはオーストラリア最大の都市として
の地位をシドニーにゆずり、二度とこれを凌駕することはなかった。 ○オーストラリア連邦の結成 西オーストラリアを含めて 6 植民地が承認した新しい憲法は、1900 年イギリスの上下院
を通過した。連邦は外交、防衛、海上交通、移民、郵便電信、課税、通貨、婚姻、年金、2
州以上にわたる労働仲裁などを管轄下におき、州と呼ばれることになった旧各植民地には、
その他のすべて、公共事業、教育、衛生、警察などの権限が与えられた。 2273
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
議会は二院制をとり、保守的で人口の少ない州の権利を守るために、上院は各州同数の
議員から構成されることになった。下院は、人口比に基づいて選出され、下院で多数を制
した政党が内閣を構成し、女王とその代理である総督の名のもとに統治することになった。 オーストラリアの植民地時代は、19 世紀とともに幕を閉じた。19 世紀は、他の諸国と比
較すれば、表面的には順調で、平和的な進歩と発展の時代であった。 【②ニュージーランド】 1769 年、イギリス人ジェームズ・クックが、ニュージーランド島全体および周辺の調査
を行った。この調査の結果、ヨーロッパ人の捕鯨遠征が始まった。ラッセルは捕鯨船の良
好な寄港地として知られるようになり、イギリスだけでなくアメリカ、フランスなど様々
な国籍の船舶が停泊する港町へと変貌を遂げた。海産物ではクジラの他にアザラシやオッ
トセイなども取引がなされ、南島の各地に次々と拠点が作られた。しかしこうした乱獲に
よりクジラやアザラシ、オットセイは 19 世紀初めにはその数を急激に減らしていき、捕鯨
や海獣漁は 1850 年代までに衰退していった。 19 世紀になると、交易・捕鯨・宣教などを目的としたヨーロッパ人が現れるようになり、
交易品目としてはカウリ(材木)やニュージーランド麻がマストやロープの材料として人
気を博した。 1807 年以降、舶来のマスケット銃が持ち込まれるようになり、先住民同士の戦争形態に
も大きな変革が起こった。殺傷力の高い武器を手にしたことによる抗争激化はヨーロッパ
人が持ち込んだインフルエンザ、赤痢、百日咳、はしか、チフスといった病気とともに 19
世紀のマオリの人口減少を招いた。 キリスト教は 1814 年、英国国教会を基盤とするチャーチ・ミッショナリー協会のサミュ
エル・マースデンによってもたらされた。馬などの家畜もこのとき持ち込まれた。 ○土地問題 ヨーロッパの投資家たちは、ニュージーランドが遠くない未来にイギリスに併合される
だろうという予測の下、植民地化のための活動を 1820 年代より徐々にすすめていた。1825
年には最初の植民地会社がロンドンに設立され、ニュージーランドへの移民斡旋をはじめ
るようになった。エドワード・ギボン・ウェークフィールドが 1838 年にニュージーランド
会社を設立するとその流れは加速した。マオリたちは戦争のためのマスケット銃獲得のた
め、土地取引に応じ、ニュージーランド国土の約 1/3 にあたる 2000 万エーカー以上の土地
がニュージーランド会社の手に渡ったとされている。 イギリス政府の依頼を受けて 1837 年から実地調査をしていたウィリアム・ホブソンはこ
うした状況を政府に報告した。民間会社による組織的な植民活動、マオリ部族間での激化
2274
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
する争いのほか、イギリスの他にニュージーランドの併合を狙うフランスの動きなどを背
景として、イギリス政府はマオリ首長らから彼らの土地をイギリスに譲渡するよう交渉す
る必要があると考えるようになった。 1840 年 1 月 29 日、再度政府から命を受けてニュージーランドを再訪したホブソンは、同
年 2 月 5 日、ワイタンギのバズビー邸宅にマオリを呼び集め、
「イギリス女王はこの地を侵
略せんとする外国勢力からマオリを保護する用意があるが、イギリス領土以外ではその権
威が及ばない。そのため、一同がこの条約に署名することを希望している」と前置いて持
参した条約 3 条(ワイタンギ条約)を読み上げた。マオリ首長たちはこれに対して賛成派、
反対派に分かれて大いに議論したが、当日の結論は出なかった。 ホブソンはその後南北両島の 512 人の署名を集めることに成功し、1840 年 5 月 12 日、ス
チュアート島を含むニュージーランド全土がイギリス領となったことを宣言した。これに
伴いオーストラリアのニューサウスウェールズ植民地政府に付随する一地方であったニュ
ージーランドはイギリス直轄の植民地となり、初代総督はそのまま代理総督だったホブソ
ンが引き継いだ。 ○マリオ戦争 ニュージーランドでの農牧業を推進していくため、ヨーロッパ人はマオリから次々と土
地を買い上げていった。特に人口密度の低かった南島ではほとんど抵抗無く土地を手に入
れることに成功し、1864 年の時点で南島におけるマオリの所有する土地は全面積の 1%と
なった(図 14-60 参照)。こうした状況からヨーロッパへの隷属化を危惧したマオリたち
によって土地不買運動が持ち上がり始めた。特にワイカトではこれをさらに推し進めたマ
オリ王擁立運動へと発展し、激しい抵抗を見せるようになった。 1859 年 3 月、土地売買賛成派のマオリ首長テイラが、共同所有権を持つ土地を独断でイ
ギリス政府へ売却する動きを見せたため、反対派のマオリ首長ワイレム・キンギとの間に
争いが勃発した。これが 1872 年まで続くマオリ戦争の発端となった。ジョージ・グレイは
12,000 人のイギリス・植民地政府連合軍と、イギリス側についた 1,000 人のマオリ軍を率
いて反対派のマリオ軍の鎮圧にあたった。 戦争の勃発を受けて政府は 1863 年に反乱鎮圧法を制定し、マオリの権利を一時的に停止、
さらに翌年にはニュージーランド入植地法を制定して戦争関係者のマオリの土地を没収し
た。マオリにとって政府軍との戦争は自らの土地を守る自衛的なものであったが、反乱民
のレッテルを貼られ、先祖伝来の土地を没収される結果に終わった。キンギが降伏する 1872
年まで戦争は続き、1881 年の正式な和平交渉をもってマオリ戦争は終結した。死者数は政
府側が 1,000 人、マオリ側が 2,000 人を数えた。 2275
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
図 14-60 1860 年までにヨーロッパ人によって購入された南北両島のマリオの土地 このころマオリは麻疹(はしか)、流行性感冒、流行性耳下腺炎、百日咳、結核といっ
たヨーロッパ人の持ち込んできた病気に感染し、死亡者数が出生者数を上回るほどであっ
た。1840 年のマオリ人口は 8 万人と推定されているが、マオリ人口は毎年減りつづけ、50
年後の 1891 年には約半分の 4 万 2000 人にまで減少してしまった。移住者たちが彼らをい
ずれは絶滅する民族と眺めていたのも無理がないほどの激減ぶりであった。 ○ニュージーランド植民地から自治領へ 1852 年に基本法が制定されるとニュージーランドは内政に関する自治が認められるよう
になり、直轄植民地から自治領へと移行を果たした。基本法により 2 州制から 6 州制へと
改められ、オークランド州、ニュープリマス州、ウェリントン州、ネルソン州、カンタベ
リー州、オタゴ州が置かれた。各州には州長官と州議会が設置され、測量、土地登記、移
民、公共事業、教育行政に関する権限が与えられた。州の数はヨーロッパ人入植者の増加
に伴って分離独立が行われ、新たに新設された。 2276
第 14 章 19 世紀の世界(1801~1900 年)
政治形態としては二院制が採用され、立法院が上院としての役割を果たしたが、1951 年
に一院制へと移行している。1853 年には最初の下院議員選挙が実施され、1856 年にその結
果を受けた内閣が組閣された。 1850 年代は金脈の発見などによるゴールドラッシュ景気が続いたがやがて金の枯渇によ
る失業者の増加に伴ってニューヨーク経済は不況に陥り、1860 年代から 1870 年代にかけて
はこの建て直しが急務となった。ジュリウス・ヴォーゲルはこの対策として公共事業の推
進を提案し、ロンドン資本市場から 2,000 万ポンドの借款を行い、鉄道・電信網の整備な
ど大々的なインフラ整備が実施された。 1891 年、ジョン・バランスが首相に就任するとニュージーランドで最初の政党である自
由党が結成された。一部の大農園による土地の寡占化解消を謳って当選を果たした自由党
は、1891 年に「土地・所得税評価法」、1892 年に「入植用地法」、
「永続借地法」、1894 年に
「入植者融資法」を制定し、土地相に就任したトーマス・マッケンジー主導のもとに大々
的な土地改革を実施した。これらの一連の改革によって 1912 年までに 52 万ヘクタールの
農園が 7,000 家族へと再分配された。 2277
第15章 20世紀前半(1900~1945年) 第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 【15-1】19 世紀末から 20 世紀前半の科学と思想 【15-1-1】自然科学 【①量子力学】 ○構造のある原子 1801 年にドルトンが化学原子論を導入したが、彼にとっての原子は固体の、容量のある、
硬く、突き通せない不可分の粒子であった。しかしこの原子概念は 19 世紀後半からの電気
現象の研究などによって覆されることになった。 ドイツの物理学者プリュッカーは彼の友人のガラス細工師ガイスラーの考案した放電管
(ガイスラー管。低圧のガスを封入したガラス管の両端に電極を設け、高電圧を加えるこ
とで放電させるもの、ネオン管や蛍光灯の先駆けになった)を用いて放電を行うと、陰極
から特異な放射線が出てきた。この放射線は、陰極と反対側のガラス管の壁に輝き(グロ
ー)を発生させた。1876 年にドイツの物理学者ゴルトシュタインはこれに陰極線と名づけた。
しかしこの陰極線の本性については、まだ不明のままであった。 イギリスの物理学者クルックス(1832~1919 年)は巧妙に設計した真空度の高い放電管
(クルックス管)を発明し、この中に羽根車をおいて、陰極線をあてると回転することが
わかった。この実験により、陰極線は帯電した微粒子からなることを明らかにした。この
ようにクルックスはクルックス管を用いて、陰極線の研究を行い、その知識を拡大してい
った。 クルックスはクルックス管で実験を行うと、周囲の写真乾板を露光させる現象があるこ
とも認識していたが、それをそれ以上深く追求はしなかったため、X 線発見の機会を逸して
しまった(15 年後、同様の現象を見出したレントゲンにより、X 線が発見された)。クル
ックスは陰極線の性質をいろいろ研究したが、それが波であるのか、粒子であるのかにつ
いての二つの説のうち、いずれが正しいかの論争に決着をつけることはできなかった。 ○電子の発見 ケンブリッジ大学のジョーゼフ・ジョン・トムソン(1856~1940 年。J・J・トムソン
といわれる)はさらにこの研究を進めた。J・J・トムソンは 1884 年にケンブリッジ大学
キャヴェンディッシュ研究所の 3 代目の所長に就任し、陰極線管を改良し、非常に高度の
真空を得ることによって、陰極線の研究をおこない、陰極線の磁場、および静電場中の屈
曲実験を行い、比電荷(電子の電荷と質量の比 e/m。トムソンの実験:1897 年)、電子の電
荷(1899 年)を測定するなど、電子の存在を示した(トムソンは質量電荷比による質量分
析器の発明者となった)。 2278
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) その結果、陰極線は負の電荷を帯びた微粒子、つまり電子の流れであることが 1897 年に
確認された。陰極線が電子の流れであるということは、それが物質を構成する単位である
ということを意味することは明らかであった。そのためそれまでは不可分の粒子であると
考えられていた原子は、電子から構成されているということになった。この意味でトムソ
ンの電子の発見は原子構造論への糸口を与えたものといえる。 1904 年、またあとで述べるようにトムソン自身も原子核をもたない一つの原子模型を提
出している。1906 年にJ・J・トムソンはノーベル物理学賞を受賞した(息子のジョージ・
パジェット・トムソンも、電子の波動性を証明して 1937 年にノーベル物理学賞を受賞した。
父親が粒子としての電子を発見し、息子が電子が波の性質を持っていることを示すことに
なった。J・J・トムソンは教育者としても科学に貢献しており、息子や 7 人の教え子が
ノーベル賞を受賞している)。 ○X 線の発見 1895 年 11 月 8 日、ヴュルツブルク大学の物理学の教授レントゲン(1845~1923 年)は、
クルックス管を用いて陰極線の研究をしていた。彼は、机の上の蛍光紙の上に暗い線が表
れたのに気づいた。この発光は光照射によって起こるが、クルックス管は黒いボール紙で
覆われており、光は遮蔽されていた。状況的に作用の元は外部ではなく装置だとレントゲ
ンは考え、管から 2 メートルまで離しても発光が起きることを確認した。これにより、目
には見えないが光のようなものが装置から出ていることを発見した。実験によって 1000 ペ
ージ以上の分厚い本や金属も透過するが鉛には遮蔽されることがわかり、また検出に蛍光
板ではなく写真乾板を用いることで鮮明な撮影が可能になった。 光のようなものは電磁波であり、この電磁波は陰極線(電子)のように磁気を受けても
曲がらないことからレントゲンは何かの放射線の存在を確信し、数学の未知の数をあらわ
す「X」の文字を使い仮の名前として X 線と名づけた。 7 週間の昼夜を通じた実験の末、同年 12 月 28 日には論文「新種の放射線について」をヴ
ュルツブルグ物理医学会会長に送った。さらに翌 1896 年 1 月には、妻の薬指に指輪をはめ
て撮影したものや金属ケース入りの方位磁針など、数枚の X 線写真を論文に添付して著名
な物理学者に送付した。(妻の薬指の)X 線写真という直観的にも非常にわかりやすい結果
を伴っていたこと、またそれまでの研究でレントゲンが物理学の世界で一定の名声を得て
いたことから発表は急速に受け入れられた。1896 年 1 月には早くもネイチャー誌などに掲
載され、1 月 13 日にはドイツ皇帝ヴィルヘルム 2 世の前で X 線写真撮影の実演をした。 X 線に関する論文をさらに 2 報発表した後、1900 年にレントゲンはミュンヘン大学に移
った。線の正体はまだ謎であったが、透過性の高いことの発見はただちに X 線写真として
2279
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 医学に応用されたため、レントゲンは X 線発見の功績で 1901 年最初の(第 1 回)ノーベル
物理学賞が贈られた。 ミュンヘン大学の物理教室での同僚にマックス・フォン・ラウエ(1879~1960 年)がい
て、1912 年に結晶による X 線の回折現象を発見し、X 線が電磁波であることをはじめて示
した。その業績によりラウエも 1914 年のノーベル物理学賞を受賞した。 ○放射能の発見 フランスの物理学者アンリ・ベクレル(1852~1908 年)は、1896 年ウラン化合物が黒い
紙で包んだ写真乾板を感光させる作用のあることを偶然に発見した。最初のきっかけは
1895 年 11 月にドイツのレントゲンが発見した X 線であった。 彼は X 線と蛍光の関係を調べていた。ベクレルの同僚であったポアンカレはレントゲン
の X 線発見から 1 ヶ月後に入手したレントゲンの論文をベクレルに手渡した。ベクレルは
実験を始めると、太陽光に当てたウランの硫酸カリウム塩が燐光を生じることをすぐに確
認できた。さらに、太陽光にさらしたウラン塩を黒い紙で包んでも写真乾板が感光するこ
とを、1896 年 2 月に発見した。そして、曇天が続き実験ができないので、実験再開に備え、
ベクレルはウラン塩と乾板を一緒にしまっておいた。ところが実験を再開する前に確認す
ると、乾板が既に感光していることに気づいたのだった。このように彼はウラン塩の蛍光
を研究中に、ウランが放出した放射線(アルファ線)が写真乾板を露光させることに気づ
いたのである。 彼はこれによってウラン化合物は X 線と同様に、写真乾板を感光させる放射線を出して
いること、つまり放射能をもっていることを発見したのである。 《マリ・キュリーとピエール・キュリー》 フランスのマリ・キュリー(1867~1934 年)は、1896 年のベクレルによる放射能の発見
を受け、まず放射能を測定する機器を開発した。ピエール・キュリー(1859~1906 年)の
考案したピエゾ電気計を改良し、ウランを中心に放射能を測定した。ウラン鉱石(ピッチブ
レンド。瀝青ウラン鉱)を測定したところ、ピッチブレンドに含まれるウランの濃度から計
算した放射線より少なくとも 4 倍の線量を検出した。このため、ウランとは異なる未知の
放射性元素が含まれているのではないかと推論した。 1898 年 7 月、ピエール・キュリーとマリ・キュリーは数ヶ月かかってウラン鉱石からポ
ロニウムを発見した。このポロニウムは、マリ・キュリーの祖国ポーランドのラテン語形
「Polonia」が語源であった。12 月にはラジウムも発見した。 1903 年、ベクレルは放射能の研究でノーベル物理学賞をピエール・キュリー、マリ・キ
ュリーと共に受賞した。しかしベクレルは 1908 年、55 歳の若さで急死した。放射線障害が
2280
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 原因だと考えられている。放射能の SI 単位のベクレル(Bq)はアンリ・ベクレルに因んで
いる。 ピエールもマリとともにラジウムやポロニウム発見のために文字通り心身を削った。す
でにラジウム発見の頃には放射線障害が体を蝕んでおり、夜な夜な激痛に襲われて悲鳴を
上げたが、それでも研究をやめることはなかったといわれている。ピエールは 1906 年の雨
の日、馬車にはねられ命を落とした。
マリ・キュリーはキュリー夫人としてあまりにも有名であるが、彼女の生涯は次女エー
ヴ・キュリーが 1937 年に書いた母の伝記『キュリー夫人伝』に詳しい。ピエールが亡くな
ったあとも、マリ・キュリーは研究を続け、1911 年にラジウムおよびポロニウムの発見と
ラジウムの性質およびその化合物の研究でノーベル化学賞を受賞した。彼女は女性として
は最初のノーベル賞受賞者であり、物理学賞(1903 年)と化学賞(1911 年)を受けた最初
の人物である。彼女の功績を称え放射能の単位「キュリー」に名が残っている。 しかし、マリも 1934 年 5 月、体調不良で療養所に入院し、同年 7 月、放射線研究の影響
による白血病で死去した。後に娘のイレーヌ・ジョリオ=キュリーとその夫で研究所の助
手だったフレデリック・ジョリオ=キュリーも、アルファ線をアルミニウムへ照射するこ
とによって世界初の放射性同位元素の製造に成功し、1935 年にノーベル化学賞を受賞した。
こうしてキュリー一家は合計 5 個のノーベル賞を授賞した。 ○原子物理学の父ラザフォード しかし、放射線の本性についてはまだ不明のままであったが、ニュージーランド生まれ
のイギリスの物理学者ラザフォードなどの研究(磁場中での放射線のふるまい)から間も
なくその正体が明らかになった。 アーネスト・ラザフォード(1871~1937 年)は、1871 年ニュージーランドのネルソン近
くのブライトウォーターの農家に生まれた。1889 年、クライストチャーチのカンタベリー・
カレッジ(現在のカンタベリー大学)の在学中に電波検知器を作った。また、鉄の磁化に
関する論文で理学の学士号を取り、1895 年、ニュージーランドの奨学金を得てイギリスの
ケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所の研究員となった。J・J・トムソンの指
導のもと気体の電気伝導の研究を始めた。1898 年、ウランから 2 種類の放射線(アルファ
線とベータ線)が出ていることを発見した。 《ヴィラールのガンマ線の発見》 パリの高等師範学校のポール・ヴィラール(1860~1934 年)が放射線の飛跡の写真から、
電荷を持たず、透過力の高い 3 番目の種類の放射線の存在を発見し、1900 年に発表した。
当時はアルファ線、ベータ線の正体が物理学者たちのもっとも興味のある対象であったた
め、ヴィラールの発見は注目されなかった。ヴィラール自身もガンマ線の研究を続けなか
2281
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) った。1903 年ラザフォードはこの放射線をガンマ線と名づけ、ガンマ線が電磁波であるこ
とを示した。 ラザフォードはイギリスの化学者フレデリック・ソディ(1877~1956 年)と共同でラジ
ウム、トリウム、アクチニウムの研究を始め、放射性元素が互いに移り変わると考えるよ
うになり、「半減期」の概念を作った。これは後に岩石の年代測定に用いられるようにな
った。 《ソディのアイソトープ(同位体元素)の発見》 ここでソディについて述べると、1904 年から 1914 年までソディはグラスゴー大学で講師
を務め、この間にウランがラジウムへと崩壊することを示した。ソディはまた、放射性元
素が化学的性質が同一にもかかわらず複数の原子量を持つ可能性を示した。ソディはこの
概念を、「同じ場所」を意味する「アイソトープ」と名付けた。のちにJ・J・トムソンが
非放射性元素も複数の原子量を持ちうることを示した。ソディはアルファ崩壊では原子番
号が 2 つ小さい方へ、ベータ崩壊では 1 つ大きい方へと原子が遷移することを示した。こ
れは放射性元素群の関係を理解する上で基礎となるステップだった(ソディは 1921 年に放
射性崩壊の研究と同位体元素理論の公式化への貢献により、ノーベル化学賞を受賞した)。 《アルファ線はヘリウム原子核、ベータ線は電子の流れ》 ラザフォードに返る。1907 年、ラザフォードはマンチェスター大学教授となった。この
年、ガイガーと共同でアルファ粒子の計数に成功した。これは後にガイガー・ミュラー計
数管として実用化された。 ラザフォードは 1908 年、ボルトウッドと共同で放射性元素の変換系列を調べて変換が鉛
で終わることを発見し、またその速度を求めた。この年、アルファ線をガラス管に集め、
放電スペクトルを調べることでアルファ線がヘリウム原子核であることを発見した。 このように、ラザフォードらの一連の研究で、放射線は均一で一種類のものからなるの
ではなく、これには三つの種類があることがわかった。その一つはベータ線と名づけられ、
陰極線と同じく負の電気をもった電子の流れであることが突きとめられた。 もう一つの放射線のアルファ線は、アルファ粒子の流れである。このアルファ線は、高
い運動エネルギーを持つヘリウム 4 原子核で、陽子 2 個と中性子 2 個からなる。アルファ
粒子は不安定核のアルファ崩壊にともなって放出される。+2 の電荷を帯びており、ローレ
ンツ力によって電場や磁場で屈曲される。また原子がアルファ線やベータ線を出すと、そ
の原子は他の原子や微粒子にかわることも明らかになった。 《ガンマ線は 10 ピコメートルよりも短い電磁波》 2282
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) もう一つの放射線は、エックス線と同じように、磁場に感応しない透過力の大きいもの
で、ガンマ線とよばれるようになった(ガンマ線(γ線)は、波長がおよそ 10 ピコメート
ル(1pm=10-12 メートル)よりも短い電磁波である)。 このように原子がアルファ線やベータ線などの放射線を出し、しかもその原子が崩壊す
るということは、原子がこれらの粒子を含んでいることを意味するもので、原子は構造を
もった粒子であるという結論を出さざるを得なくなった。 1907 年、ラザフォードは「元素の崩壊および放射性物質の性質に関する研究」によりノ
ーベル化学賞を受賞した。 《原子核の発見、原子核の人工変換》 ラザフォードは、その後も 1911 年、ガイガー、マースデンとともにアルファ線の散乱実
験を行い、原子核を発見した。この実験結果に基づいてラザフォードは原子模型を発表し
たが、それについては後述する。 ラザフォードは 1917 年、ケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所の所長となった。 さらに。ラザフォードは 1919 年、アルファ線を窒素原子に衝突させ、原子核の人工変換
に成功した。1920 年、中性子の存在を予言した。中性子は教え子のチャドウィックが 1932
年に発見し、それによりノーベル物理学賞を受賞した。 また、ラザフォードは重水素の存在も予言し、研究を行なった。 1925 年にはロンドン王
立協会会長となり、1931 年、男爵に叙せられ、ネルソン卿となった。 1937 年、ロンドン
で死去した(享年 66 歳)。 このようにラザフォードは、マイケル・ファラデーと並び称される実験物理学の大家で
あり、アルファ(α線)とベーター線(β線)の発見、ラザフォード散乱による原子核の
発見、原子核の人工変換などの業績により「原子物理学(核物理学)の父」と呼ばれてい
る。多くの人材を育てたが、ラザフォードの指導のもとにチャドウィックが中性子の発見
で、コッククロフトとウォルトンが加速器を使った元素変換の研究で、アップルトンが電
離層の研究で、それぞれノーベル賞を受賞している。 ○原子の構造 放射能や気体中の放電による現象の研究から、それまで不可分な粒子と考えられていた
原子は、複雑な構造をもった粒子であることが明らかになってきた。前述したように、負
の電気をもった電子が発見され、しかもそれが、原子の一成分であるということが明らか
にされるにおよんで、電気的には原子全体として中性であることから、原子内には電子の
全電荷に等しい量の正電気がなくてはならないという考えが引き出されるようになり、そ
れをもとに原子模型を組み立てた科学者があらわれた。 《J・J・トムソンの原子模型》 2283
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) J・J・トムソンもその一人であった。彼は電子を構成要素とする原子模型(無核原子
模型)をつくりあげた。彼の模型は一様に正に帯電した球のなかに、この球と共心の円周
上を等間隔にならんでいる電子が、一様な速さで回転しているというものである。この模
型の一つの特徴は、元素の化学的性質(周期律)を電子の配置の仕方によって、説明しよ
うと試みたことにある。そして共心円周上に電子を配列するという考えは、ボーアによっ
て引き継がれることになった。 《ラザフォードの原子模型》 原子模型についての次の発展は、放射能の研究を行っていたラザフォードによってなさ
れた。1909 年に、アルファ線がヘリウムイオンであることを確認した彼はガイガーなどの
協力を得て、アルファ線(粒子)の散乱の実験を行っていた。そして 1911 年の気体および
金属箔によるアルファ線の散乱の実験の結果、ほとんどのアルファ線は、その方向をかえ
ることなく通りぬけることが観測されたが、一部のアルファ線は、大きな角度(90 度以上)
で散乱されることが確認された。このアルファ線が鋭く曲げられるという事実は、原子の
どこかに正電荷をもち、アルファ線の進路を曲げさせる質量の大きい領域があることを意
味した。 そして 1914 年にかけての研究で彼はJ・J・トムソンの無核原子模型では、この散乱現
象を説明することはできないという考えにいたった。そこで、それにかかわる原子の有核
模型を提唱した。それによれば原子には正電気を帯びた原子核があり、その原子核の引力
によって引きつけられている一群の電子がそのまわりをまわっている。これらの電子のも
っている負電荷の総量は、原子核の正電荷のそれに等しい。さらに原子核は原子全体の大
きさに比較して非常に小さいが、そこには原子の質量の大部分が集まっていると仮定した。
この仮定によると、原子はほとんど空(から)の空間のようにみえ、この点でアルファ線
の貫通もうまく説明できた。このようにアルファ線の散乱の実験から原子核が発見され、
その原子核とそれをとりまく空虚な空間を運動する電子より成るという原子の構造が明ら
かになってきた。 《モーズリーの法則》 1911 年、ラザフォードが原子にも核があることを発見したことは前述したが、なぜ一つ
の元素の核をもった原子が他の元素のそれと異なるのかは説明できなかった。ラザフォー
ドのもとで放射能の研究をしていたイギリスの若い物理学者ヘンリー・モーズリー(1887
~1915 年)は、1913 年種々の金属を標的(対陰極)として陰極線をあてると、標的の金属
固有の振動数をもったエックス線(特性エックス線)が発生することを観察した。 そして周期表上(周期律表については図 1-6 参照)のある元素から次の元素に移るとき
の X 線の波長の変化は、特性 X 線の波長の逆数の平方根が原子核の電荷(原子番号)と直
2284
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 線関係にあることを発見した。これを式であらわすと、√1/λ=a(z-b)で示され、これを
モーズリーの法則という。この式でλは X 線の波長、a,b は定数である。z は元素に特有の
整数であるが、彼はこれが原子核の正電荷の数(原子番号)を表すものと解釈して、原子
番号が実験的に決定できることを示した。 モーズリーのこの法則の発見によって元素が原子番号にしたがって、周期表のうえには
っきりとならべることができるようになり、未発見の元素の数とその原子番号がわかるよ
うになった。1913 年モーズリーが原子番号の決定法を発表したときに、未発見の元素は原
子番号 92 番のウランまでで 7 元素あった。 《プランクのエネルギー量子》 20 世紀前半の科学で量子力学が生まれるまでの過程を述べているのであるが、単なる発
見や実験的事実の積み上げだけでなく、いくつかの思考の「飛躍」があった。実はプラン
クはのちの量子論の最大の飛躍・量子仮説のヒントを一見量子論とはほど遠いようにみえ
る熱力学の黒体放射の研究から得ているので、彼がどうしてそれを得たかを少々込み入っ
ているが述べることにする(偉大な研究者、天才もけっして宙をにらんでヒントを得てい
るのではない。なぜ、彼らがそう考えるに至ったかを知ると研究の内容が変わっても(時
代が変わって内容が変わっても)、それを応用できることがある)。 マックス・プランク(1858~1947 年)は、1858 年、キールに生まれ、17 歳でミュンヘン
大学に進学した。専攻分野は数学であったが、次第に熱力学に傾倒していった。しかし当
時の指導教官は、熱力学は既に確立した「終わった分野」であるとみなしており、プラン
クが熱力学分野に進むことに反対した(科学の各分野に大きな業績を残したケルヴィン卿
(ウィリアム・トムソン)も、19 世紀末の講演でもはや科学に新しい分野はないという趣
旨のことを述べている。しかし、その後、前述の X 線の発見に端を発して量子論という 19
世紀までの人類がまったく思いもしなかった世界が開かれ、20 世紀、21 世紀の科学と産業
が生まれてきたのである(電子・原子にかかわるものはすべてそうである)。まだ、この自
然(地球・宇宙)にはどんな仕組みが隠されているかわかったものではない。それを引き
出すのは人類の叡智しだいであることをつくづく感ずる。「もはや科学なし」などととても
言えるものではない。前述した「ダークエネルギー」「ダークマター」などは 21 世紀の隠
し球かもしれない)。 このため、ベルリン大学に転校し、この分野の大家であるヘルムホルツ、キルヒホッフ
に師事し、1879 年学位を取得した。その後、ミュンヘン大学講師(1880 年)、キール大学教
授(1885 年)、ベルリン大学教授(1892 年)などを歴任し、熱力学の黒体放射の問題に取組ん
だ。物体を熱していくと、はじめはもっぱら赤外線を放射しているが、摂氏 500 度ぐらい
から赤い光を出しはじめ、さらに温度を上げていくと青白く輝く。このように高温物体の
2285
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 発する電磁放射は熱放射とよばれる。熱放射の色(ということは波長は)は物体の温度と
ともに変化する。この変化の仕方は、物体の種類というより表面の形状に依存するのだが、
そういったものに依存しない最も理想的な放射体が黒体である。 黒体放射のエネルギー分布とその温度依存性の測定は、19 世紀終わり頃、急激に発展を
はじめた製鉄・製鋼業からの要求が動機となって、とくにドイツの国立物理工学研究所に
おいて盛んに行われ、その精度も高められた(ドイツを中心とした第 2 次産業革命の最中
で、鉄鋼業などにおいては、炉内の温度などをどうやって計測するかなど多くの研究ニー
ズがあった。このように科学研究と新規産業は密接に関係している)。 当時、黒体から放射されるエネルギー(黒体放射)に関して、熱力学の理論シュテファ
ン=ボルツマンの法則(または、ヴィーンの変位則)から導かれる予測と実験的に求めら
れた結果(レイリー・ジーンズの法則)との間に矛盾があることが知られていた(このさ
さいな矛盾を何かの間違いであろうと凡人は見過ごすが、矛盾にこだわった者が天才とい
われているようである)。この矛盾をうまく説明するものとしてプランクは量子仮説を提
唱したのである。 《ささいな矛盾(誤差)の中に偉大な発見がある》 ウィーン大学の物理学教授ヨーゼフ・ステファン(1835~1893 年)は、黒体からの放射
量に関する法則を 1879 年に発表した。 黒体からの放射量 j* が温度の 4 乗に比例すること
を明らかにした。これは弟子のルートヴィッヒ・ボルツマン(1844~1906 年)が理論的な
解析を行ったため(1884 年)ステファン・ボルツマンの法則と呼ばれる。 この時の比例係数 σ が、シュテファン=ボルツマン定数である。この関係から太陽の表
面温度を初めて測定し 5430℃の値が得られた。 ドイツの物理学者ヴィルヘルム・ヴィーン(1864~1928 年)は、熱力学、特に黒体放射
に関する研究で知られ、1896 年に黒体の熱輻射のスペクトルを説明する以下のヴィーンの
放射法則を導いた。 ここで、I(λ,T) は波長λで放射されるエネルギーの量(単位時間、表面積、立体角、
波長)あたり, T は黒体の温度,、h はプランク定数, c は光速, k はボルツマン定数である。 このヴィーンの放射法則は短波長(高周波数)においては物体の熱輻射のスペクトルを正し
く記述するが、長波長(低周波数)の輻射では実験データとの間にずれが生じ、正確に記述で
きない(のちに、マックス・プランクの量子論に直接結びつくもので、ヴィーンは 1911 年、
「熱
放射の諸法則に関する発見」によりノーベル物理学賞を受賞した)。 2286
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 一方、これらドイツにおける一連の研究とは独立に、イギリスの物理学者レイリー卿
(1842~1919 年)は、1900 年にレイリー・ジーンズの法則を発見した(1905 年にジーンズ
が係数を修正したのでレイリー・ジーンズの法則という)。黒体から放射される電磁波のう
ち、波長が λ から λ+dλの間にある電磁波のエネルギー密度を f(λ)dλ とすると、レ
イリー・ジーンズの法則は、 と表される。ここで、T は温度(K)、k は ボルツマン定数である。しかし、上式は波長が長
い領域では実験と良く一致するが、波長が短くなればなるほど実験結果とズレが大きくな
る。 レイリー・ジーンズの法則は、波長が短いときに実験結果と合わない。逆に、ヴィーン
の公式は波長が短いときに実験と一致するが長波長領域では実験と合わない。 古典統計力学からしてこの式以外の式は導かれないことからして、ここに古典理論は熱
輻射に関して新しい手がかりを与えることができず、破綻の状態に落ち込んでしまった。 プランクはこの問題で頭を悩まし続けていたとき、たまたまプランクの助手から、ヴィ
ーンの式をプランクの式のように少し手直しすると実験データと非常によく一致するとい
う提案があった。このときプランクには、なぜ 1 を引けばよいかは分からなかったが、と
にかく以下のプランクの公式(法則)において、hを適当に選ぶと非常によく一致すると
してこの実験式を報告した(1900 年 10 月 19 日の講演会)。 プランクの公式 である。ここで h は プランク定数、c は光速度である。λ=c/νは波長である。このプラ
ンクの公式は物理学における黒体放射の公式であり、図 15-1 のように、温度 T における
黒体からの電磁輻射の分光放射輝度を全波長領域において正しく説明することができる。
この式は、波長の長い時、または高温の時レイリー・ジーンズの式に近づく。 科学では事実が生命であることは述べた。どんな仮説でもたてることはできる、しかし、
それが事実と合わなければ意味はない。プランクは、はじめ意味はわからなかったが、事
実に合うように仮説をたてて、その意味をあらためて考えた。プランクはこの法則の導出
を考える中で、空洞の壁の振動子のエネルギーがエネルギー素量(現在はエネルギー量子
とよばれる)ε = hν の整数倍(とびとびの値)になっていると仮定した。そうしたらう
まく事実とあうことがわかった(事実は小説より奇なりというが、どんな天才でも自然界
2287
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) で「とびとび」という発想は出せない)。このエネルギーの量子仮説(量子化)はその後の量
子力学の幕開けに大きな影響を与えることになった。 図 15-1 黒体放射スペクトル つまり、プランクは光のエネルギーが、ある最小単位の整数倍の値しか取ることが出来
ないと仮定すると、黒体放射に関して、熱力学の理論シュテファン=ボルツマンの法則(ま
たは、ヴィーンの変位則)から導かれる予測と実験的に求められた結果(レイリー・ジー
ンズの法則)との間に矛盾は解消されることを発見し、放射に関するプランクの法則(1900
年)を導出した。またこの過程で得られた光の最小単位に関する定数(1899 年)はプラン
ク定数と名づけられ、物理学における基礎定数の一つとなった(hはプランク定数で6.
6×10-27乗 erg・sec が与えられた)。 ○プランクからアインシュタインにバトンが渡された しかしこのプランクの量子仮説は発表当初は物理学者の共鳴は得られなかった。この概
念を洞察して科学のなかに真の革命をもたらしたのは、5 年後のアインシュタインの光量子
概念の発表であった(実際はアインシュタインが光量子に飛躍したのは、このプランクの
量子仮説があったからである。アインシュタインも宙から何かを考え出すことはできない。
一般の物理学者はプランクの量子仮説を聞き捨てにしたが、アインシュタインはこれにこ
だわったのである。ここときアインシュタインは、まったくプランクと同じ立場になって
考えたのである。以前、科学のバトンタッチといったが、プランクからアインシュタイン
に思考の上でバトンがわたされたのである。アインシュタインの得意技は思考実験だった)。
2288
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) これを境にして、古典物理を脱した新しい科学が始動し、ぞくぞくと、ボーアの原子構造、
そして連続と非連続、機械論と統計論という新しい自然観にまで発展していくのである。 プランクが導いた量子仮説は、後にアインシュタイン、ボーアなどによって確立された
量子力学の基礎となるものであった。この業績からプランクは「量子論の父」として知られ
ており、ノーベル物理学賞(1918 年)の受賞対象となった。 《アインシュタインの光量子仮説》 プランクの理論のもつ重大な意味をはじめて理解したのは、アインシュタインであった。
アインシュタインは、1905 年の有名な論文「光の発生と変脱に関する一つの発見法的観点
について」において、光量子仮説を提出した。 アインシュタインがこの光量子仮説を提唱する前段階において、以下のような事実が分
かっていた。 1887 年、ドイツの物理学者ヘルツは、陰極に紫外線を照射することにより、電極間の放
電現象が起こって電圧が下がる現象として、光電効果を見出した。翌 1888 年、金属に短波
長の(振動数の大きな)光を照射すると、電子が表面から飛び出す現象がドイツの物理学
者ハルヴァックスによって発見された。 その後、ドイツの物理学者レーナルト(1862~1947 年)は、ある種の金属に光を当てる
と、その金属に電気的な変化が起こり、検電器に負電荷を生ずる現象、また荷電粒子が飛
び出す現象などの(外部)光電効果について、レーナルトはさらに詳細に研究し、J・J・
トムソンの方法にしたがって、その放出粒子の比電荷 e/m を測定した。その結果すべての物
質から同一の値をもつ粒子が飛び出しており、その値はトムソンの測定した陰極線粒子(電
子)と同じであることを確認した。 このことは、熱ばかりでなく、光の照射によっても金属から電子が放出されること、さ
らにすべての金属原子のなかには同一の電子が含まれていることの確認であった(レーナ
ルトはこの陰極線の研究で 1905 年にノーベル物理学賞を受賞した)。 さらにレーナルトは、研究を進めて、第一に「強い光を当てると、飛び出す電子の数が
増える。だが飛び出す電子 1 個のエネルギーは変わらない」。第二に「当てる光の振動数
を大きくすると、電子は勢いよく飛び出す。つまり、飛び出す電子のエネルギーが大きく
なる。ただし飛び出す電子の個数に変化がない」というものになった。 しかし、この結果は光の波動説では説明できない。光を波と考えると、強い光の波を当
てれば飛び出す電子のエネルギーは大きくならなければならないからである。であるのに
実験では、強い光の波を当てても、電子の数は増えるが、電子のエネルギーは同じなので
あった。つまり、強い光であろうが、弱い光であろうが、振動数が同じなら、電子のエネ
ルギーは一定であった。 2289
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) この現象は、19 世紀の物理学では説明することのできない難題であったが、前述したよ
うに 1905 年、アインシュタインが次のような光量子仮説を提出して、これらを説明した。 アインシュタインの光量子仮説は、光のエネルギーはとびとびの値をとると考えるもの
で、従来、考えられていた光の波動説をも大きく揺るがした。「光のエネルギーがとびと
び」ということは、光の波の振幅も、とびとびの値になることを意味する。これは「波の
振幅は連続的な値をとることができる」とする従来の波の理解の仕方に完全に反するもの
だった(物理学の世界では、波の種類や大きさなどを「波長」「振幅」「振動数」などの
要素で表現する。「波長」は波の 1 周期の距離である。「振幅」は波の高さを表し波の強
さを決定する。「振動数」は 1 秒間に波が何回うねるかを表す)。 アインシュタインは「光は波ではなく、プランク定数 h と振動数 ν をかけたエネルギー
を持つ粒として考えればいい」と主張したのである。彼は光の粒を「光量子(こうりょう
し)」と呼んだ。 この考え方に従って、アインシュタインは「光電効果」という現象を説明した。光を波
だと考えると「光電効果」を説明できなかった。これに対してアインシュタインは光を粒
だとみなして、光電効果とは、光の粒が金属中の電子にぶつかって、電子をはじき飛ばす
現象だと考えた。そして、この考え方をレーナルトの研究にあてはめると、すべてがうま
く説明できたのである。 アインシュタインは金属内電子に光粒子が吸収されると考えればこれを説明できること
を示し、アインシュタインの関係式として知られる放出電子の運動エネルギーと照射光の
振動数との関係 を導いた。ここで、プランク定数 h、振動数 ν、光速度 c、波長 λ である。 《20 年間、無視された光量子仮説》 気体の電離に際しては、吸収された光量子 1 個が気体分子 1 個を電離するとして、気体
の電離電圧を推定し、照射光の強度と電離される分子数との関係を予測した。これらはい
ずれも仮説や予測であって、当時これらの現象についての実験データはごく限られていた。 光量子仮説は、提出されてから 20 年近く無視されるか、あるいは積極的に反対され、ご
く少数を除いて支持者はいなかった。光の波動論、マクスウェルの電磁場の理論が多くの
光学現象を説明できたから、いまになって 200 年も前のニュートンの粒子説をとるなど、
光量子仮説はあまりにラディカルにすぎる考えだと思われたのである。また、光量子仮説
には波動論に根拠を与えていた実験に対抗するだけの実験的根拠がなかったということも、
光量子仮説の立場を不利にした。 2290
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 《ミリカンの実験》 アメリカの物理学者ロバート・ミリカン(1868~1953 年)は、1909 年ミリカンの油滴実
験を行い電子の電荷(素電荷・電気素量)を測定した。 電荷には最小単位が存在し、「すべての電荷はその整数倍のとびとびの値になる」という
考えはファラデーの時代からあった。そのことを最初に実験で確かめたのは、アメリカの
ミリカンであった。彼は、図 15-2 のような装置で、電荷の最小単位を測定するのに成功
した。2 枚の平行平板電極に電圧をかけて、その間に一様な電場E(V/m)をつくる。そ
の中に霧吹きで微小な油滴を吹き入れると、空気との摩擦でわずかに静電気を帯びる。油
滴の質量をm〔kg〕、電荷をQ〔C〕とすると、油滴にはたらく力は、重力mg〔N〕と
静電気力QE〔N〕である。電圧を変化させて電場Eの強さを調節し、 mg=QE の条件を満たすと、油滴にはたらく力はつり合い、油滴は上昇も下降もしなくなる。
図 15-2 ミリカンの実験
ミリカンは二枚の金属電極間で帯電させた油滴が静止するように、重力とクーロン力を
釣り合わせて、これを測定した。このときの強さEと油滴の質量mの値から、油滴の電荷
Qの大きさがわかる(このように科学の発見はある問題を解決するための実験方法を考え
出すことがきわめて重要である。いったんこのような方法がわかれば、その条件を満たす
方法で実験すれば、誰がいつやっても、同じ結果が得られるのである)。
電極間の電場の強さEを知ることによって、油滴の電荷を決定することができる。図 15
-2 で、極板間に X 線を照射すると、空気の分子の一部がイオン化し油滴に電荷を与えるた
2291
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) め、油滴の電荷が変化する。ミリカンはX線を照射するごとに、油滴の電荷を測定し、そ
の値が最小の電荷の整数倍となっていることを発見した。その電荷の値を電気素量という。
その値、つまり電子 1 個のもつ電荷は 1.602 × 10−19C(クーロン)であることがわかった。 既に電子の質量と素電荷の比率(比電荷)e/m はJ・J・トムソンにより測定されており、
ミリカンのこの実験により素電荷の値が確定したため、 e 1.602 × 10 −19 〔 C 〕 m = ― ― = ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― = 9.1× 1 0 の - 31 乗 〔 k g 〕 e/m 1.75× 1 0 の 11 乗 〔 C / k g 〕 と電子の質量も確定することが出来た(ミリカンはこの功績によって 1924 年にノーベル物
理学賞を受賞した)。
また、ミリカンは 1916 年に光電効果の定量的実験を行った。光電子のエネルギーと光の
波長からプランク定数を求めた。これにより、アインシュタインの光量子仮説は実証され
たといわれたが、そのことで光量子仮説の正しさを示すものだとすぐに考えられたわけで
はなかった。 《コンプトン効果》 光量子仮説、したがって光の粒子~波動二重性が一般に真剣に考えられるようになった
のは、1923 年アーサー・コンプトン(1892~1962 年)が X 線散乱における異常性(波動論
からみての)、コンプトン効果を発見し、X 線粒子と電子の衝突と考えてその効果を説明し
てからのことといわれる。 物質の原子に X 線を当てると、当たった後の X 線は周囲に散乱する。散乱後の X 線の振
動数を調べてみると、散乱前の振動数より少なくなっていることがある。この現象は、光
を波だと考える電磁気学の立場からは、説明がつかなかった。電磁気学の理論によると、
散乱前と散乱後の X 線の振動数は、同じでなければならなかった。 この現象を説明するためには、光(X 線)はその波長に固有な一定のエネルギーをもつ光
子(光量子、hν)として、光電効果のように電子とエネルギーを授受するだけでなく、
さらに電子との間に運動量の授受もあるとする考え方を必要とした。すなわち光子と電子
との間の相互作用はあたかも弾性体の弾性衝突のように行われ、光子は電子にエネルギー
の一部を奪われ、その結果波長が長くなる(νが小さくなる)とし、光子に粒子としての
振舞いを認め、ニュートンが唱え、アインシュタインが新生させた光の粒子性を、ここに
実証的に復活させるこことなった。 《光は波動と粒子の両方の性質を持つ》 しかし、この時代にあっては光の本性もプランク、アインシュタインの理論によって、
以前よりはるかに複雑なものとされており、もはやその波動性も否定されることなく、結
2292
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 局、光は波動と粒子の両方の性質をもち、その現れ方は検証の方法によって決まるものと
結論づけされていった。 このような実験結果の積み重ねによって、アインシュタインの光量子仮説は認められる
ようになり、この光量子仮説の業績により、1921 年にはれてノーベル物理学賞を受賞した
(アインシュタインが光量子仮説と同じ 1905 年に発表した後述の相対性理論は、きわめて
有名であるが、アインシュタインは相対性理論ではノーベル賞を受賞していない)。 なお、コンプトンは、1927 年、コンプトン効果によりノーベル物理学賞を受賞した。 《アインシュタインの「奇跡の年」》 そこで,もう一度、アインシュタインの振り出しに返って述べる。アルベルト・アイン
シュタイン(1879~1955 年)は、ドイツのウルム市にて、ユダヤ系の長男として生まれ、
1880 年~1894 年にはミュンヘンに居住していた。ミュンヘンのギムナジウムに入学したが、
軍国主義的で重苦しい学校の校風になじめなかった。9 歳の時にピタゴラスの定理の存在を
知り、その定理の美しい証明を寝る間も惜しんで考え、そして自力で定理を証明した。 12
歳のときユークリッド幾何学の本をもらい独習した。微分学と積分学も、この当時に独学
で習得したといわれている。 1896 年、チューリッヒ連邦工科大学への入学を許可された。大学では自由な気風と数人
の学友、そしてミレーバ・マリッチという女学生と出会った。アインシュタインは大学の
講義にはあまり出席せず、自分の興味ある分野だけに熱中していた。 1900 年、チューリッヒ連邦工科大学を卒業したが、大学の物理学部長ハインリッヒ=ウェ
ーバーと不仲であったために、大学の助手になれなかった。臨時の代理教員や家庭教師の
アルバイトで収入を得ていた。1902 年、友人のマルセル・グロスマンの父親の口利きでベ
ルンの、スイス特許庁に 3 級技術専門職(審査官)として就職することができた。1903 年、
1 月 6 日にミレーバと結婚し、翌年には長男ハンスが生まれた。 父親となったアインシュタインは、1905 年、博士号を取得すべく「特殊相対性理論」に
関連する論文を書き上げ、大学に提出した。しかし内容が大学側に受け入れられなかった
ため、急遽代わりに「分子の大きさの新しい決定法」という論文を提出し、受理され、こ
の論文は「ブラウン運動の理論」に発展した。 アインシュタインにとって、1905 年は「奇跡の年」として知られている(前述したよう
に 1665 年がニュートンの「奇跡の年」だった)。この年、アインシュタインは前述の「光
量子仮説」、「ブラウン運動の理論」のほかに、「特殊相対性理論」など 5 つの重要な論文を
立て続けに発表した。以後、一般相対性理論、相対性宇宙論、ブラウン運動の起源を説明
する揺動散逸定理、光子仮説による光の粒子と波動の二重性、アインシュタインの固体比
熱理論、零点エネルギー、半古典型のシュレディンガー方程式、ボーズ=アインシュタイ
2293
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ン凝縮などを提唱した業績により、アインシュタインは 20 世紀最大の物理学者とも、現代
物理学の父とも呼ばれるようになった。とくに彼の特殊相対性理論と一般相対性理論が有
名であるが、それについては後述する。 1909 年、特許局に辞表を提出し、チューリッヒ大学の助教授となり、1912 年、母校、チ
ューリッヒ連邦工科大学の教授に就任した。 ○ボーアの原子構造論 1905 年にアインシュタインが発表した光量子仮説から、1920 年代までアインシュタイン
のことを先に述べたが、ここで量子論へ返ることにする。 原子番号の決定法の発見によって周期表における元素の配列の順序とその数がわかった
ことは述べた。しかし元素を配列した場合に、なぜ周期性があらわれるのかについてはま
だ説明ができなかった。この元素の周期系に対する理論的な説明は、原子構造論の発展を
まってはじめて可能になった。 ラザフォードは弟子のガイガーとマースデンが 1909 年に観測したアルファ線の大角度散
乱現象を説明するために、1911 年に有核の原子構造の模型を明らかにしたということは前
述したが、この模型には致命的な欠陥があった。それは原子核のまわりを加速されながら
(方向を変えながら)回転している電子は、古典電磁気論にしたがうと連続的にエネルギ
ー(電磁波)を放出するはずであったからである。そのようなことが起これば電子はやが
てエネルギーを失って原子核に落ち込んでしまうはずである。 このようなことが起こらないとすれば、この模型か、あるいは古典論のいずれかに誤り
があることになるのである。この問題の解決にとり組み始めた物理学者がいた。それはラ
ザフォードのもとで研究し、その後当時のコペンハーゲン大学にもどっていたボーアであ
る。 ニールス・ボーア(1885~1962 年)はコペンハーゲンに生まれ、1903 年にコペンハーゲ
ン大学に入学し、1911 年、金属電子論の研究で学位をとり、その年のおわりにその論文を
もってイギリス・ケンブリッジのキャヴェンディッシュ研究所のJ・J・トムソンのもと
で研究した後、1912 年にマンチェスター大学のラザフォードのもとに移った。そこで一通
りの放射能研究の訓練を受け、気体によるアルファ線の吸収の研究をはじめた。 他方で、ケンブリッジにいるときから関心をもっていた原子内電子の配置について、自
分の考えをまとめはじめていた。そのときボーアがとくに注目したのは、ラザフォードに
よって見積もられた核の大きさが、原子そのものの大きさにくらべて異常に小さいという
ことであった。
この事実からボーアは、原子の諸性質のうち核に由来するものと、周囲の電子群に由来
するものとは明確に区別されるはずだと確信した。そうだとすると、放射能は核の現象で
2294
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) あり、普通の物理的・化学的性質は核外電子によって生ずるということは自明である、と
ボーアには思われた。しかし当時の物理学者の大部分にとっては、それは少しも自明のこ
とではなかった。当時は、普通の化学変化と放射性変換とが同格に扱われていた。
いずれにしてもラザフォード・モデルからいち早く、核現象と核外現象のあいだに質的
差異をおくべきことを洞察し(これはのちに核外の化学現象を扱う世界から核内の核分裂
の世界へ進むことになる人類にとっても大きな分岐点であった)、核外現象にのみ注意を集
中して原子構造の研究に進んだボーアの着眼は、他にぬきんでていた。 1912 年の春から初夏にかけて、ボーアは原子構造の問題、原子内および分子内の電子の
配置の力学的安定性について考察していた。原子の構造としては、正の核のまわりに数個
の電子が等間隔に並んだリングが回転している系を想像していたことがメモでわかってい
る。 ボーアは、1913 年 2 月ごろ、友人から水素原子スペクトルのバルマー公式に注意を向け
るように示唆されて、この公式をみたとたん、ピーンとくるものがあり、道が開けるのを
感じたという。19 世紀の中頃から様々の元素の原子スペクトルが観測されてきていたが、
それらの結果からスペクトル線の規則性を示す確定的な式がえられていたのは、20 世紀初
頭でも、水素のバルマー公式ν=R(1/m2-1/n2)(ここでνは水素スペクトル線の振
動数、mとnは整数、Rはリュードベリ定数とよばれ、約 1/1096778cm の値である)ぐら
いだったのである。いったんスペクトルに着目してからのボーアの進歩は驚くほどで、1 ヶ
月ほどで論文を書き上げラザフォードに送った。 従来の古典電磁気学の法則としては、
「加速度運動する荷電粒子は電磁波を放射する」と
されていた。原子核の周囲を回る電子は、電荷間に働くクーロン力によって原子核からの
引力を受けて加速度運動をしている。その加速度運動は、電磁気学の法則によれば、
「電子
は自身の運動エネルギーを連続的に電磁波として放射後、失った運動エネルギーの分だけ
急速に原子核に引き寄せられる」ことになっていた。しかし、現実には原子核の周囲を回
る電子は電磁波も放射せず、原子核に落ち込むことなく運動を続けていた。その現実から、
「どのようなメカニズムが電子を安定させているか」が問題であった。 《ボーアの原子模型》 ニールス・ボーアはこの矛盾を解決するため、1913 年、ボーアは「原子および分子の構
成について」という 3 部作の論文を発表し、いくつかの仮説を立て、この電子の運動を説
明する原子模型を提示した(図 15-3 参照)。 ボーアの量子条件により、
「電子は原子核の周囲を回るときには、特定の軌道しかとるこ
とが出来ない」と結論づけた。これを原子軌道という。 2295
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 「最も内側の原子軌道を回る電子はそれ以上原子核に近づけない」そのため、原子核に
それ以上吸い寄せられる・近づくこともなく安定した軌道を回ることが出来る。 また、 軌道に応じて電子のエネルギーの値が決まるとすると、電子は特定の離散的な(と
びとびの)エネルギー準位しか実現出来ないことになると考えた。 図 15-3 ボーアの原子模型 電子が別の軌道に移るときは、エネルギー準位の差と同じエネルギーを与えられるか放
出しなければならない。これは、
「原子はなぜ特定の波長の電磁波だけを放出したり吸収し
たりするのか」という疑問をうまく説明するものであった。 しかし、ボーアの量子条件では説明できないこともあった。水素原子以外の原子では、
原子核の周囲を複数の電子が回っている。長い時間には全ての電子は電磁波を放出して最
も内側の軌道を回るようになるはずであるが、実際には特定の軌道を回る電子の数は限ら
れていた(この問題は後にパウリの排他原理によって解決された)。 ボーアは、図 15-3 のように、ラザフォードと同じように、原子構造の模型として正電
荷をもった原子の中心にある原子核とその核のまわりをまわる電子とを仮定した。そして
電子が固有軌道をまわっている間はエネルギーの放出(吸収)は起こらず、電子がその軌
道を離れて、他の軌道に移ったとき、そのスペクトルに相当する一定のエネルギーの放出
(吸収)が起こると考えた。つまりプランクの作用量子を導入し、放出(吸収)されるエ
ネルギーは、連続的ではなく、エネルギー量子あるいはその整数倍の値をとると仮定した。 たとえば高いエネルギーの軌道(高いエネルギー準位〔E2〕)にある、ある電子が低
いエネルギーの軌道(低いエネルギー準位〔E1〕)に落ちたとき、その差に相当するエ
2296
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ネルギー量子が放出される。このとき放出される放射エネルギー(スペクトル)の振動数
は次の式で与えられると考えたのである。 E2-E1=hν (h プランク定数、ν光の振動数) このボーアの原子構造論における不連続なエネルギーの状態とか、エネルギー量子とい
った概念は、古典物理学の考えとは根本的に異なったものであった。そのためこの理論へ
の反論が起こった。しかしこの理論はスペクトル線のおもな性質についての説明にも成功
した。 ボーアはこの量子条件を水素原子に適用して水素の出すスペクトルをよく説明した。さ
らにこのモデルは化学結合論にも結びついていった。またこの理論によって元素の化学的
性質は、原子核をとりまく核外電子の数とその配置によって決まることが明らかにされ、
元素の周期系に対して論理的根拠を与えられた。またそれによって遷移元素の配列、希土
類元素の存在にも合理的理由が与えられた。 《ボーアもプランクからバトンを受け継いだ》 このボーアの原子模型と理論は、プランクの理論から様々の示唆をえていることがわか
る。ボーアが核による電子の束縛過程の考察から量子条件をえていること、ボーアの理論
の新奇性、つまり放出される光の振動数(振動条件)が古典電磁理論とは無縁なものとな
り、力学的な振動数とは無関係になっていること、これらの考えの萌芽がすでにプランク
理論に現れているのである。 しかしボーアの原子構造論は、多電子原子などへの適用に対しては不満足なものであっ
た。1920 年代にはフランスのドウ・ブロイやシュレーディンガーなどの数学的に原子をあ
つかう理論物理学の観点から、このボーアの理論はより完全な原子構造論へと発展させら
れるようになった。 ○量子力学の形成 ボーアの論文は、アインシュタインの論文とちがって、非常にわかりにくく、概念も不
明確であったが、水素スペクトルを驚くほど見事に説明したことによって、ただちに注目
された。ラザフォード・グループのモーズリーは、すぐに、自分の実験からえられたばか
りの特性 X 線スペクトルの公式も、ボーア理論で扱えることを示した。モーズリーは 1913
年、特性 X 線の波長の逆数の平方根が原子核の電荷(原子番号)と直線関係にあること(モ
ーズリーの法則)を発見し、これはそれまで周期表は、原子量の順に並べられていたが、同
位体の原子番号の物理的意味を明確にさせていた。モーズリーはボーア理論での研究をは
じめると間もなく、第 1 世界大戦でイギリス軍工兵隊として出征し、27 歳で戦死した。量
子力学が生まれようとしていたヨーロッパはときあたかも血で血を洗う第 1 次世界大戦中
であったのだ。 2297
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ボーアの理論が一般に受け入れられるのは、ゾンマーフェルトがボーア理論に注目し、
ボーアの水素原子の理論を拡張し、多自由度系に対して量子条件を一般化して(1915~16
年)からであった。ゾンマーフェルト(1868~1951 年)は、ボーア理論の量子条件を拡張
して多重周期系に対する量子化条件の導入を考えたが、複雑になるので、ここでは省略す
る。 当時の、スペクトル線と原子構造の研究の集大成ともいえるゾンマーフェルトの教科書
『原子構造とスペクトル線』は 1919 年に出版された。ヴェルナー・ハイゼンベルクやヴォ
ルフガング・パウリは彼の弟子である。 ボーアは、スペクトルの実験結果と元素の化学的性質を手がかりにして、原子内電子の
殻状配置に、量子数を正しく割り当てることができた(1921 年)。それらの電子配置に注
目することによって、パウリは排他律(フェルミ粒子(電子など)は、1 つの原子軌道に属
する 2 つの電子は、量子状態を決める 4 つの量子数の全部を共通には持ち得ない)を提出
し(1925 年)、それによってウーレンベックとゴーズミットは、電子が自転しながら原子
核のまわりを回っていると仮定して、この自転運動にスピンと言う名前をつけ、スピン概
念を導入した(1925 年)。 1925 年、
「運動学および力学的諸関係の量子論的再解釈」と題する論文で、ハイゼンベル
クは、分散理論の展開において拡張され精密化された対応論を指導原理として、定常状態
にある電子の軌道運動という古典的描像を棄てることによって、原子スペクトルの振動数
を計算する新しい理論を提出した。この計算法が、ちょうど行列算法と同じであることに
気づいたボルンは、ハイゼンベルクとヨルダンと協力して、1925 年のうちにハイゼンベル
クのもとの理論を行列を用いて表現することに成功した。これは行列力学と呼ばれている。 《ドウ・ブロイの「電子の波動性の発見」》 光の粒子・波動二重性の矛盾はアインシュタインによって執拗に追求され、コンプトン
効果の発見によって無視しえないものとなったことは、前述したが、光の二重性に注目し、
それとのアナロジーから極めて大胆な物質波の理論がルイ・ドウ・ブロイ(1892~1987 年)
によって提出された。 ルイ・ドウ・ブロイは、フランスの名門貴族であるブロイ家の第 7 代ブロイ侯爵であり、
はじめは歴史学を専攻していたが、第 1 次世界大戦時に電波技術者として従軍し、このこ
とで物理学に興味を持ち、戦後、ソルボンヌ大学で物理学を修め、1924 年に物理学の博士
号を得るための論文を書いた。彼は、1923 年にコンプトンが電子による X 線の散乱におい
てコンプトン効果を発見したが、ドウ・ブロイは逆に粒子もまた波動のように振舞えるので
はないかということを 1924 年に自身の博士論文で提案した(ドウ・ブロイ波)。彼は①運
動するすべての物質にはそれに結合した速度に反比例する波長をもつ波(位相波)が存在
2298
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) する、②粒子の運動エネルギーE、運動量pに関してアインシュタインの関係式E=hν、
p=h/λが成立するという、粒子に対して波動性を付与する大胆な仮説を提唱した。この
ドウ・ブロイ波の実在は 1927~1928 年にかけてデヴィッソン、トムソン、菊池正士らによ
り、結晶による電子波の回折実験によって確認された。 ドウ・ブロイは、1926 年からはソルボンヌ大学で教え、1928 年にはアンリ・ポアンカレ
研究所の理論物理学教授となった。そして 1929 年に「電子の波動性の発見」によってノー
ベル物理学賞を受賞したのである。 ○シュレーディンガーの波動力学・量子力学 アインシュタインを通じてドウ・ブロイの学位の学位論文を知ったシュレーディンガーは、
ドウ・ブロイの着想を発展させて、1926 年「固有値問題としての量子化」と題する 4 部か
らなる論文において、波動力学を形成した。シュレーディンガーは、ドウ・ブロイの理論の
要点が電子の定常波を求めることにあることに着目して、これと微分方程式の固有値問題
との類似性にヒントをえて、量子論の問題をいわゆるシュレーディンガー方程式の固有値
問題として定式化したのである。 もともと数学者として弦・膜の振動の固有値問題を研究していたシュレーディンガーは、
光の波動光学に対応すべき力学、すなわち、波動光学とのアナロジー関係に立つべき力学
が存在するはずで、それによって、ボーアの原子模型を修正できると直感した。弦の振動
方程式を出発点にとして、その方程式の中に、原子内電子の運動についてドウ・ブロイの関
係式を導入して、電子の運動に関する波動方程式を導いて、その数学的な解をを求めて、
原子模型に新しい解釈を加えた。波動力学・量子力学と呼ばれている。 シュレーディンガーは続いて 1926 年のうちに、その前年発表されたハイゼンベルグの行
列力学と内容的には全く同等であることを証明した。同じ年ヨルダンとディラックが変換
理論を展開し、この変換理論によって、行列力学と波動力学とは完全に統一され、一つの
量子力学になったのである。ヨルダンとディラックの理論をさらに数学的に厳密にした変
換理論は、1932 年数学者ノイマンの著書『量子力学の数学的基礎』によって与えられた。 ○量子力学の解釈問題 こうして量子力学はできあがったが、その解釈については問題があった。つまり波動関
数はいったいどのような物理的意味をもつかという問題である。シュレーディンガーはは
じめ、電子は文字通り波であって、波動関数はその密度を著わすと考えた。しかしこの解
釈には無理があることが、まもなく明らかになった。 波動関数の確率的解釈は 1926 年マックス・ボルン(1882~1970 年)によって与えられた。 1926 年量子力学の確率解釈(統計的解釈)を発表し、ロバート・オッペンハイマーと共に、
「ボルン-オッペンハイマー近似」(ボルン近似とも)と呼ばれる近似法を編み出した(ボ
2299
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ルンは 1954 年、量子力学、特に波動関数の確率解釈の提唱によりノーベル物理学賞を受賞
した)。 しかしボルンの解釈ですべてが片付いたわけではない。特に問題となったのは、量子力
学では、古典力学におけるような因果律が成り立たないということであった。これを量子
力学の不完全さによるとする立場と、量子力学は完全であるとしてむしろ認識論的態度の
変更を要求する立場とが論争し、いまなお論争はおさまっていない。この当時、前者(量
子力学の不完全さ)の立場をとった人のなかには、プランク、アインシュタイン、ドウ・ブ
ロイ、シュレーディンガーらがいた。後者の立場(量子力学は完全である)は、1927 年春
にハイゼンベルクが見出した不確定性原理と、同じ年ボーアが提出した相補性の考えによ
って、代表され、のちにいわゆるコペンハーゲン解釈となった。 《ハイゼンベルクの不確定性原理》 ハイゼンベルクの不確定性原理とは、ある 2 つの物理量の組み合わせにおいては、測定
値にばらつきを持たせずに 2 つの物理量を測定することはできない、という理論のことで
ある。量子的な粒子の物理量は古典力学的な正確さでは定められない、たとえば電子の座
標x、運動量pの測定値の不確定さをΔx、ΔpとするとΔx・Δp≧h/4πなる関係が
あり、位置と速度(運動量)をこの関係以上の正確さをもって同時に決定することができ
ないとしたものである。 これはもともといくつかの背理をさけるためにつくられた原理であったが、その影響す
るところは物理学のみならず、哲学さらに社会的にもきわめて大きいものがあった。 粒子の運動量と位置を同時に正確には測ることができないという事実に対し、それはも
ともと決まっていないからだと考えるのが、ボーアなどが提唱したコペンハーゲン解釈で
あるが、アインシュタインは決まってはいるが人間にはわからないだけだと考えた。この
考え方は「隠れた変数理論」と呼ばれている。 不確定性原理は 1927 年にハイゼンベルクによって提唱されたが、量子力学の基礎が整備
された現在は、他のより基礎的な原理から導かれる「定理」となっている(「意見」や「仮
説」ではない)。ハイゼンベルクは 1932 年に 31 歳の若さでノーベル物理学賞を受賞したが、
その理由は不確定性原理ではなく、「パラ水素・オルト水素の発見に導いた量子力学の創
始」となっている(水素のスピンの方向で 2 種類の水素がある。核スピン異性体という)。 《ボーアの「コペンハーゲン解釈」》 ボーアは 1921 年にコペンハーゲンに理論物理学研究所を開き、外国から多くの物理学者
を招いてコペンハーゲン学派を形成することになった。原子物理学への貢献により 1922 年
にノーベル物理学賞を受賞した。その後も、ハイゼンベルクらの後進とともに、量子力学
(行列力学)の形成を推進した。シュレーディンガーが波動力学を発表したときには、コ
2300
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ペンハーゲンに招きよせ、討論に疲弊して倒れたシュレーディンガーの病床で議論を続け
たことは有名である。
量子力学の解釈については、ボーアは相補性という概念でハイゼンベルクと同じことを
説明し、「コペンハーゲン解釈」といわれるようになった。「コペンハーゲン解釈」とい
う名称は、デンマークの首都コペンハーゲンにあるボーア研究所から発信されたことに由
来する。 しかし量子力学をともにつくってきたアインシュタインとボーアはその解釈をめぐって
激しく論争をくりかすことになった。 ボーアは相補性の考えを 1927 年 9 月イタリアのコモで開かれたヴォルタ記念国際会議に
おいて提唱した。ハイゼンベルクの不確定性の原理によれば、量子力学で扱われる電子や
原子のような微視的対象は、その状態について何かを知るために観測すると、観測装置と
の相互作用のために必然的に状態が乱されてしまう。この乱れは、量子によってきめられ
る有限の大きさより小さくできない。たとえば、電子の位置を正確にきめようとし測定す
ると電子の運動量(速度)がまったくきめられなくなってしまう。ボーアは、この不確定
さに、微視的対象の確率的ふるまいの根拠があると考えたのである。 対象に対して作用を加えなければそのような不確定は生じないが、それでは対象につい
て何も知り得ず、対象のふるまいを時間空間の関数として記述することはできない。逆に
観測を行えば、不確定が生じ、普通の意味での因果律は破れる。時間的・空間的記述と因
果律とは、経験的内容を記述しようとするとき互いに補完的でありながら、しかも互いに
排除しあう特質なのだとボーアは結論した。 同様に、量子力学的対象は、波動性と粒子性のどちらの性質も潜在的にもっているが、
観測条件のちがいによって、どちらか一方の性質だけが現れる。微視的対象の状態を、巨
視的な通常の観測装置を介して通常のことばをつかって記述するかぎり、位置と運動量、
粒子と波動、時間空間的記述と因果律、といった互いに排除的な概念は同時に互いに補完
的であっても、どちらか一方が欠けてもその記述は不完全なものものとなる、とボーアは
主張した。 《アインシュタインの「神はサイコロを振らない」》 それに対してアインシュタインは、物理理論というものは、観測とか測定とかいう操作
とは無関係に存在する客観的実在を完全に記述できなければならないと考えていた。確率
をもちこまなければならないような理論は不完全だというのである。 1926 年 12 月にアインシュタインからマックス・ボルンに送られた手紙の中で、彼は反論
に「神はサイコロを振らない」という有名な言葉を用いたのである。これを聞いたボーア
2301
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) は「アインシュタインよ、神が何をなさるかなど、注文をつけるべきではない」と反論し
た。現在アインシュタインの考えを支持する人はごく僅かである。
コモの国際会議に出席しなかったアインシュタインは、続いて 1927 年 10 月に「電子と
光子」というテーマのもとに開かれた第 5 回ソルヴェイ会議においてボーアに対面した。
会場の内外で二人のあいだに白熱的討論がくりひろげられた。このときアインシュタイン
は、ユーモアをまじえて、「あなたは本当に、神がサイコロ遊びのようなことに頼ると信
じますか?」とボーアにたずねたという。このときも、そしてその後長年にわたって続く
ボーアとの論争においても、アインシュタインは巧妙な思考実験を示して、正統派の解釈
の内部矛盾をあばくような鋭い疑問を提出したが、そのつどボーアに答えられてしまった。 しかし、アインシュタインは最後までボーアの説得に屈しなかった。アインシュタインは
決して量子力学がわからなかったのではなく、客観的実在を記述するには不完全な理論だ
と考えていたのである。 他方ボーアはアインシュタインの批判に答えながら、自分の相補性の考えにみがきをか
け、量子力学の解釈という枠をこえて、生物学や心理学を含む広範な問題にまで、その考
えを拡張することを試みた。 《さよならの季節、それぞれの旅立ち》 プランクとそのバトンを受け継いだアインシュタインとボーアを中心に、1900 年から
1930 年までに人類の叡智により量子力学という学問がつくり上げられるまでを概観した。
なんと多くの多士済々の科学者がこの学問の形成にその叡智の限りをつくして参加したこ
とであろうか。科学史においても、人類史においても、このようなことははじめてであっ
た(21 世紀初めまでの発展を知っている現在の我々には、これがいかに大きな学問であっ
たことかはわかっているし、それがやっかいな問題を人類社会にもちこんだこともわかっ
ている。後述するように 21 世紀の我々がこの核の問題を人類の叡智で克服できれば、人類
の発展はまだまだ続くと考えられる)。 しかし、その学問の波及効果による産業の誕生はこれからのことであり、当時において
は海のものとも山のものともわからないものであったが、科学の分野で人類はより深い新
しい世界を開き始めていたことは確かであった。しかし、それらを作り上げた人々にさよ
ならの季節がやってきた。偉大なる天才たちのさよならの季節がやってきたのである。政
治が、戦争が、彼らをひきさいたのである(もう少し平和が続いて、歴史がアインシュタ
イン、ボーア、ハイゼンベルクを引き離さなかったら、原子力も別の歩みをはじめたであ
ろうに・・・。あとで歴史を振り返って言えることであるが、だから、日々の出来事、つ
まり、歴史を大事に積み上げる必要があるということだ)。 2302
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 第 1 次世界大戦後のつかの間の世界平和(1914~18 年の第 1 次世界大戦と 1939~45 年の
第 2 次世界大戦の間の「戦間期」)が科学者の自由な交流・討論を許していたが、それを政
治が許さなくなってきた。中央ヨーロッパにナチ・ドイツの暗雲がたちはじめたのである。
人類の叡智はそれぞれの旅にたっていかざるをえなかった。 1933 年、ドイツでヒトラー率いるナチスが政権を獲得し、以後ユダヤ人への迫害が日増
しに激しくなっていった。アインシュタインは、1933 年、ベルギー王女の厚意により、ベ
ルギーの港町ル・コック・シュル・メールに一時身を置いた。しかしこの町はドイツとの
国境に近かったため、ナチスの手が及ぶのを恐れたアインシュタインはイギリス、スイス
への旅行の後、アメリカへと渡り、プリンストン高等学術研究所の教授に就任し、ドイツ
に帰ることはなかった。なお、この年にはアインシュタインの別荘をナチスが強制的に家
宅捜索し、アインシュタインを国家反逆者とした。 ボーアは社交的な人柄だったので、多くの物理学者から慕われ、量子力学の形成に指導
的役割を果たした。第 2 次世界大戦が始まり、ナチス・ドイツがヨーロッパでの侵略を始
めると、ユダヤ人を母に持つボーアはイギリスを経由してアメリカに渡った。 1939 年に発表されたボーアの原子核分裂の予想(ウラン同位元素 235 は分裂しやすい)
は、原子爆弾開発への重要な理論根拠にされた。しかし、ボーアは軍拡競争を憂慮し、西
側諸国にソ連も含めた原爆の管理及び使用に関する国際協定の締結に奔走したが、結局ボ
ーアの願いは叶わなかった。 シュレーディンガーは、1927 年にベルリン大学教授になり、1933 年にノーベル物理学賞
を受賞したが、同年、ナチス・ドイツの台頭とともにドイツを去って、最終的にはアイル
ランドのダブリンへ亡命した。戦時中からさらに広い領域に活動を進め、1944 年『生命と
は何か』によって分子生物学への道を開いた。1958 年には『精神と物質』によって人間の
精神世界の解明にとりくんだ。科学の多くの領域に足跡を残した 20 世紀の巨人だった。 マックス・ボルンは、1933 年にはナチス・ドイツがユダヤ人排斥運動を行ったため、教
職を辞し、イギリスに渡ってケンブリッジ大学講師・エディンバラ大学教授に就任した。
第 2 次世界大戦後の 1953 年にドイツへ帰国した。 ドイツに残った者も悲劇だった。 量子論の父マックス・プランクは第 1 次、第 2 次の世界大戦に巻き込まれた。第 1 次世
界大戦では、長男のカールを失った。1930 年、カイザー・ヴィルヘルム研究所の所長に就
任したが、ヒトラーが政権をとった 1933 年以降、ユダヤ人に対する迫害が始まり、ハーバ
ー、シュレーディンガー、アインシュタインらが迫害、追放の憂き目をみた。これに対し、
プランクはヒトラーに直接抗議を行ったが、事態を改善することは出来なかった。 2303
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) プランクはナチス政権下に於いても亡命はせず、ハイゼンベルクらと共にドイツに留ま
る道を選んだ。第 2 次世界大戦中のプランクは不遇であった。1943 年にはベルリン空襲に
よって家を失い、妻と共にエルベ河畔のローゲッツに疎開した。また、1944 年のヒトラー
暗殺計画に加担した次男のエルヴィンが処刑され、自身も「国賊の父」とされた。 第 2 次世界大戦後、彼を記念してカイザー・ヴィルヘルム研究所は「マックス・プラン
ク研究所」と改名された。マックス・プランク研究所は 21 世紀に入っても物理学研究の一
大中心地として、様々な画期的研究成果を挙げている。 ドイツではナチス・ドイツの台頭で同僚の多くがドイツを去ったが、ハイゼンベルクは
残り、場の量子論や原子核の理論の研究を進めた。 1941 年、ハイゼンベルクは占領下のデンマークのボーア(亡命前の)を訪ね、「科学者
たちが技術的にも財政的にも困難だと言うので、原爆はこの戦争には間に合わない」と伝
え、あるメモを手渡した(この謎の行動をめぐって、解釈がわかれる)。ボーアはそのメ
モをアメリカのハンス・ベーテに渡した。ベーテによると、それは(幼稚な)原子炉の絵
だった。このようなことから、ハイゼンベルクは、原爆開発を意図的に遅延させた、もし
くはアメリカに情報を漏らしたとの疑いもある(しかしボーアは生涯ハイゼンベルクを非
難した)。 結局、ハイゼンベルクはナチ党党員ではなかったものの、第 2 次世界大戦中は原爆開発
に担ぎ出されたが、その事情はドイツの原爆開発のところで述べる。イギリスのベルリン
空爆で、彼は家を失った。戦後は、1946 年から 1970 年までマックス・プランク研究所の所
長を務めたが、戦後、彼は原爆については一言も語らなかった。 【②相対性理論】 ○エーテル問題 17 世紀おわりに形成されたニュートン力学は、形式的にも内容的にも整備され、18 世紀
おわりには解析力学としてラグランジュによって完成されたが、力学と同程度の理論体系
として電磁気学が形成されるのは、19 世紀も後半になってからのことであった。ところが
これらの古典物理学はやっかいな難問をかかえていた。光や電磁波を伝える弾性媒体エー
テルと地球の相対運動に関する問題であった。 このエーテルというのは化学物質のエーテルではなく、光が伝播するための媒質で、当
時はこれが天空を満たしていると考えられて(仮定されて)いたのである。エーテルのも
とは、ギリシャ語「イーサー」で原義は「燃やす」または「輝く」で、ラテン語を経由し
て英語の「エーテル」になった。この語は古代ギリシャでは、天空を満たす物質を表した。 2304
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 空間に何らかの物質が充満しているという考えは古くからあったが、17 世紀以後、力や光
が空間を伝わるための媒質としてエーテルの存在が仮定された。デカルトは、惑星がエー
テルの渦に乗って動いていると考えた。 ニュートンは、光の実体は多数の微粒子であると考えた。これは、光が直進することや
物体表面で反射されるという事実に基づく仮定であった。しかし、光が粒子であると仮定
すると、屈折や回折を説明することが難しいという問題があった。屈折を説明するために、
ニュートンは『光学』
(1704 年)で「エーテル様の媒質」が光よりも「速い」振動を伝えて
おり、追いこされた光は「反射の発作」や「透過の発作」の状態になり、結果として屈折
や回折が生じると述べた。それ以後の物理学者も何らかの形でエーテルが存在する前提で
理論を展開してきていた。 しかし、エーテルに対する地球の運動に関わる問題は、すでに 19 世紀前半、光の波動論
が形成され確立する過程で起こっていた。光の反射、屈折、回折はもとより、偏りや複屈
折の現象を説明するために、光の波を伝える媒体として考えられたエーテルは、高速で横
波だけを伝える弾性体でなければばらなかった。しかも星からの光の観測からは、このエ
ーテルは、宇宙空間いたるところを満たしていて、その中での普通の物体の運動にはまっ
たく無関係に静止していると考えると都合がよかった。つまりエーテルに対して運動して
いる物体は、何の抵抗もなくエーテルをつらぬいて進んでいなければならないことになる。 したがって地球とともに運動している実験装置によって観測される地上での光学現象は、
このエーテルの風の影響を当然受けるはずであった。しかるにその影響は見出されなかっ
たのである。これを弾性エーテル理論がどのように説明するかが難問題であった。 19 世紀後半になってマクスウェルによって電磁場理論が形成され、光の電磁場説が確立
すると、エーテルは光ばかりでなく電磁的作用をもになうものとなった。そこで以前から
のエーテルに対する地球の運動の問題は、電磁気学の解決すべき問題となった。マクスウ
ェルの理論は静止している物体内での電磁現象しか扱っていなかったから、マクスウェル
理論を運動物体に拡張する必要があった。それにこたえたのはローレンツとゼーマンであ
った。 《ガリレイ変換とローレンツ変換の矛盾》 1896 年にオランダの物理学者ピーター・ゼーマン(1865~1943 年)がナトリウム原子を
磁場の中で発光させた時にその D 線のスペクトルが数本に分かれること(ゼーマン効果)
を発見した。このゼーマン効果は原子から放出される電磁波のスペクトルにおいて、磁場
が無いときには単一波長であったスペクトル線が、原子を磁場中においた場合には複数の
スペクトル線に分裂する現象である。発見された 1890 年代は、原子の内部構造の研究が進
2305
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) められていた時代で、原子中に振動する荷電粒子が存在することの証拠の 1 つの現象とさ
れた。 オランダの物理学者ヘンドリック・ローレンツ(1853~1928 年)などによってこの現象
の理論的な検討がなされた。ローレンツの古典電磁気学による理論をもとにゼーマンは光
を放射している荷電粒子は負の電荷を持ち、その比電荷を約 1/1600 と決定した。これはほ
ぼ同時期にJ・J・トムソンらによって測定されていた陰極線の構成粒子のそれとほぼ同
じ値であった。前述のようにローレンツは、1896 年、電子論によってゼーマン効果の理論
的な説明を与え、電子論は最高の評価を受けることになった。 20 世紀初頭の物理学では、力学の理論的な帰結であるニュートン力学と、電磁気学の理
論的な帰結であるマクスウェルの方程式が矛盾することが理論面での大きな障害となって
いた。 ここでは、どのように、物体の振る舞いと電磁波の振る舞いが異なるのかを図 15-4 の
特殊相対性理論的現象で説明する。 図 15-4 特殊相対性理論的現象 ニュートン力学によると、一定速度 V で動いている電車を座標系 R とし、地上を座標
系 S とする。 ①電車内で人が走る…電車の中からみた人の速度は VR 2306
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ②車外から見る…車内の人は電車の速度+人が走る速度で移動することになる。地上から
みた人の速度 VS は V で運動しているように見える。すなわち、 の関係が成り立つ。この関係をガリレイ変換とよぶ。 電車の中の座標系 R でも、地上の座標系 S でも、同じ力学の法則が成り立つことから、
「ニュートン力学から導かれる力学の法則はガリレイ変換に対して不変である」
(ガリレイ
不変)こと、すなわちどのような二つの慣性座標系でもそれらの見かけの速度が違うだけ
で、それ以外の力学法則は不変であることが知られていた。 これに対しマクスウェルの方程式では、真空中の電磁波(光)の速度(光速)が、座標
系の採り方によらず一定であることが示されていた。 前記の人の代わりに電磁波(光)を使うとすると、 ③電車内で光が生じる。 マクスウェルの方程式からは、真空中の乗り物の中からみた光の速度 VR と、真空中の乗
り物外部から見た光の速度 VS は等しい。 ④車外から見ても光の速度は光速のままで電車の速度は加算されない。 つまり、VS = VR でなければならない。 これをもとにヘンドリック・ローレンツは 1900 年に「マクスウェルの方程式から導かれ
る電磁気学の法則はローレンツ変換に対して不変である」
(ローレンツ不変)ことを発見し
た。 このローレンツ変換を説明する。当時の電子論では、世界は荷電粒子からなる物質と、
電磁場の担い手であるエーテルからなり、物質は荷電粒子の電荷を媒介としてマクスウェ
ル方程式に従うエーテルと相互作用をする。そしてエーテルは物体がその中を運動しても
それにひきずられず、静止したままであるという前提がおかれる。だから電子論が成り立
つためには、エーテルと地球の相対運動の影響が地上の電磁現象に現れないという実験結
果をどうしても説明しなければならなかった。 ○マイケルソン・モーリーの実験によって光速度は不変 しかし、エーテルに対する地球の相対速度を検出すべく 1881 年に行われたマイケルソ
ン・モーリーの実験では、そのような相対速度は検出されなかった。つまり、光の速度は
どこでも同じであることがわかった。 したがって、図 15-4 の人の代わりに電磁波(光)を使うとすると、マクスウェルの方
程式からは、真空中の乗り物の中からみた光の速度 VR と、真空中の乗り物外部から見た光
の速度 VS は等しい。つまり、VS = VR でなければならない。 《ローレンツ収縮の仮説を提唱》 2307
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) これに対してローレンツは、 1893 年、運動している物体が運動方向に 1:√(1-(v
/c)2)の割合、つまり で縮むという仮定によってv/c の 2 次の効果が現れないことを説明した。つまり、「大き
な速度で動く座標系では、2 点間の距離(物体の長さ)は縮む」というローレンツ収縮が
起きると結論したのである。 1887 年のマイケルソンとモーレーによる地球の運動と光速に関する実験の結果からエ
ーテルは地球と一緒に動くとされた。 これはエーテルを電磁現象の媒質としたローレンツ
論を一部否定するものであったが、「エーテルに対して動く物体が運動方向に縮み、 その
縮む量は速さによって変化する」としたローレンツ収縮の仮説を提唱したのである。 後に
この仮説を発展させたローレンツ変換を導出した。 こうして 1895 年、ローレンツの電子論が完成した。 ローレンツは荷電粒子の集合体と
考える物質モデル(原子モデル)を考え、電流とは荷電粒子(電子)の流れとみなした。
光の反射、屈折は、平衡点のまわりに束縛されている荷電粒子の振動によると説明し、荷
電粒子はその周りに電界を発生させるので電界中ではクーロン力を受け、 荷電粒子が流れ
るとその周りに磁界を発生させるので、その磁界の中ではローレンツ磁気力を受ける。 光
学的・電磁気学的なさまざまな現象を説明し、ローレンツ変換を加え電子論は完成した。 これをもとにローレンツは 1900 年に「マクスウェルの方程式から導かれる電磁気学の法
則はローレンツ変換に対して不変である」(ローレンツ不変)ことを発見したのである。 このローレンツ変換は、マイケルソン・モーリーの実験結果を矛盾なく説明する手段と
して提案された。ローレンツは、時間の流れや光速度はすべての基準座標系において同一
と考えたため、運動している物体が運動方向に1/√(1-(v/c)2)の割合で縮むとい
う仮定によってv/c の 2 次の効果が現れないことを説明した。つまり、「大きな速度で動
く座標系では、2 点間の距離(物体の長さ)は縮む」というローレンツ収縮が起きると結
論したのである。 ローレンツ変換において、慣性系の動く速度 v が、光速度 c に比べて十分小さい場合
(v/c → 0 と見なせる場合)を考えると、ローレンツ変換はガリレイ変換と同じになる。
したがって、非相対論的な極限でガリレイ不変性が成立しているという事実もローレンツ
変換で説明できる。 1902 年、ローレンツは、「放射に対する磁場の影響の研究」によって、教え子のゼーマ
ンとともにノーベル物理学賞を受賞した。 2308
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) これらローレンツの理論の展開を側面から鼓舞し援助していたポアンカレは、ローレン
ツの理論を形式的にさらにすっきりしたものに仕上げた。アインシュタインの相対論が出
た 1905 年のことであった。これはローレンツ・ポアンカレの理論と呼ばれる。 この理論では、短縮仮説のほかに、運動物体の質量の速度依存性[m=mo/√(1-(v
/c)2]も仮定され、いわゆるローレンツ変換の式も出てくる。数学的構造においてアインシ
ュタインの相対論と同じものが現れる。しかし、物理的には相対論とは異質のものであっ
た。彼らの基本目標は、地球の対エーテル運動の影響が存在するはずなのに、それが実験
的に見出せないわけを説明することにあった。エーテルに対する運動の影響は本来存在し
ているという前提に立っていたのである。 ○アインシュタインの特殊相対性理論 特殊相対性理論は、アインシュタインが 1905 年に発表した物理学の理論で、後述する特
殊相対性原理と光速度不変の原理の二つを指導原理とする理論である。ニュートン力学で
仮定されていなかった光速度不変の原理を導入している。 アインシュタインの特殊相対性理論を提唱した最初の論文は「動いている物体の電気力
学」という題名で、1905 年にドイツの学術誌に掲載された。特殊相対性理論自体は、これ
を含めた数編の論文からなっていた。この理論を「特殊」と呼ぶのは、相対性理論で慣性
系にのみ言及していることによる。また、発表から 10 年後にアインシュタインは、一般座
標系を含む理論である「一般相対性理論」を発表した。 前述したように、当時、エーテルという仮想の物質が空間に充満しており、電磁波はエ
ーテルを媒体にして空間を伝播すると考えられていた。しかし、エーテルに対する地球の
相対速度を検出すべく 1881 年に行われたマイケルソン・モーリーの実験では、そのような
相対速度は検出されなかった。この結果は、地球が宇宙に対して絶対的に静止しているか、
そもそも絶対静止空間という考え自体が間違っていることを意味していた。このような背
景のもと、アインシュタインは、次の二つの仮定(公理)のみをもとに思考実験をすると
どのような結論が得られるかをまとめた。 ①力学法則はどの慣性系においても同じ形で成立する(相対性原理)。 ②真空中の光の速さは光源の運動状態に無関係に一定である(光速不変の原理)。 これらの仮定を満たすためには、それまで暗黙のうちに一様で変化しないとみなされて
いた空間と時間を変えるという方法を用いるのである。 「光の速度に近い、加速していない宇宙船から、光の速度が c に見えるようにするため
には、どうすればよいか。」 アインシュタインの答えは、
「宇宙船の時間が真空の星の上と同じように進むとすると、
宇宙船からは光の速度が遅く見えてしまい、不自然である。宇宙船の中の時間の進み方が
2309
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 遅くなるとすれば、宇宙船の中から見ても光速度(距離÷時間)は変わらないだろう。」 と
いうものだった(静止していない慣性系での光速度不変についてはマイケルソンとモーリ
ーの厳密な光速度測定において実証されていた)。 このように考えると、確かに、宇宙船からも光の速度が真空中の星の上と同じ c に見え
るが、代わりに時間の速さや空間における物体の長さが変化することになる。この考え方
は、それ以前の考え方とまったく相容れなかったので大論争を引き起こすことになる。 こうしてアインシュタインは具体的な議論にはいる。まず同時性の概念を定義し、同時
刻および物体の長さという概念が相対的で、どんな座標系から測るかによって異なる値を
もつことを示した。そして、静止系からそれに対して一様に並進運動をする系(慣性系)
への座標と時間の変換式(ローレンツ変換)を導いた。運動物体が運動方向に1:√(1
-(v/c)2)の割合で縮むこと(ローレンツ短縮)や運動物体の時計の遅れも与えられ
た。論文の後半でアインシュタインは、マクスウェル方程式が慣性系で同じ形をとるとい
う要請から電磁場の量の変換式を求めた。 続いてドップラー効果と光行差(天体を観測する際に観測者が移動していて天体の位置
が移動方向にずれて見えるとき、そのずれのことを指す用語)の相対論的説明を与え、光
のエネルギーと圧力の変換を論じ、電子に対する運動方程式を与え、電子質量の速度依存
を求めて終わった。 《長さや時間は相対的なもの》 特殊相対論が力学の法則を再構成することにより、従来無条件に受け入れられていた基
本的な概念が大きく様変わりすることになる。長さや時間は、もはや絶対的なものではな
く、どのような慣性系から観察するかによって異なる、相対的なものとなる。絶対静止空
間の存在は否定される。この帰結によってマイケルソン・モーリーの実験においてエーテ
ルに対する相対運動が検出されなかった結果をうまく説明することができる。 また、特殊相対論において不変な量は光速 c である。光の速度はどのような慣性系から
観察しても同じ値を示す。また、質量を持った物体は光速を決して超えることができない
ことも示された。 相対論の革新性とくに時空概念の革新は、必ずしもすぐに一般に認識されたわけではな
かった。はじめは、ローレンツの理論を改良し洗練したものと受けとられ、ローレンツ・
アインシュタインの理論というふうに一括されて呼ばれた。 《数学者ミンコフスキーのミンコフスキー空間》 相対論の革新的な意味をはじめて明らかにし、人々に広めたのはゲッティンゲン大学の
数学者ミンコフスキー(1864~1909 年)であった。1905 年にアインシュタインが発表した
特殊相対性理論は、4 次元の幾何学としてはユークリッド幾何学に適合しないことが知られ
2310
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ていた。ミンコフスキーは、空間と時間を別々の量としてではなく、四次元の多様体とし
て統合して記述することを考えついた。1907 年と 8 年に、相対論が 4 次元空間の関係とし
て定式化されることを示し、それによって相対論の物理的意味を明確に把握することを可
能にした。これはミンコフスキー空間と呼ばれ、相対論における現象はミンコフスキー空
間の座標であらわされるようになった。 1908 年ケルンのドイツ自然科学者医師大会でミンコフスキーの行った講演「空間と時間」
は、彼の考えを広める重要なきっかけとなった。相対論が全物理学に原理的革新をせまる
ことを明らかにしたミンコフスキーは、単に電磁気学ばかりではなく力学の相対論的定式
化も試みた。 運動量の保存を要請することによって共変な運動方程式を導く方法は、ルイスとトール
マンによって 1909 年に与えられた。こうして、1910 年頃から相対論の受容が広がり始めた。 《E=mc²の意味すること》 有名な質量とエネルギーの関係式 E=mc2 (その意味はエネルギー(E) = 質量(m)×光速度(c)の 2 乗) は 1907 年の論文『物体の慣性はそのエネルギー量に完成するか?』において、光のエネル
ギーの変換式を用いて導かれた。 前述のように特殊相対性理論は、
「物理法則は、すべての慣性系で同一である」という特
殊相対性原理と「真空中の光の速度は、すべての慣性系で等しい」という光速度一定の原
理を満たすことを出発点として構築され、結果として、空間 3 次元と時間 1 次元を合わ
せて 4 次元時空として捉える力学である。運動量ベクトルは、第 0 成分にエネルギー成 分を持つ 4 元運動量 pμ(または p)として扱われ、 運動方程式は と拡張される。4 元運動量の保存則から、エネルギーは一般的に次のように表される。 物体が運動していない場合、つまり p = 0 の場合のエネルギーを表す式は、 E = mc2 つまり、エネルギー(E) = 質量(m)×光速度(c)の 2 乗 である。 物体が運動している場合、相対論効果によって質量が増える。 したがって、物体が運動している場合にも、 2311
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) E = m'c2 がなりたつ。 いずれにしても、この E=mc²は、アインシュタインの特殊相対性理論の帰結として、この
式が出てきたのである。しかし、この式が意味することは重大であった。この有名な関係
式は質量とエネルギーの等価性とも言われる。質量が消失するならばそれに対応するエネ
ルギーが発生する(エネルギーが発生する時にはそれに対応する質量が消失する)ことを
示す。 たとえば、反応の前後で、全質量が Δm 減るならば,それに相当する Δmc2 のエネルギ
ーが運動、熱、あるいは位置エネルギーに転化されることになる。このとき、はじめて人
類は思ってもいなかった事実を知ることになった(当時、その意味を理解した人は少なか
ったが)。 のちに原子核反応の観測により、この式は実証されたので、これは原子核反応に限った
ものであるという誤解があるが、これは原子核反応に限ったことではない。質量とエネル
ギーが等価であることは、原子核反応に限った話ではなく、全ての場合において成り立つ。
例えば、電磁相互作用の位置エネルギーに由来する化学反応では、反応の前後の質量差は
無視できるほど小さい(全質量の 10-8 % 程度)が、強い相互作用の位置エネルギーに由来
する原子核反応ではその効果が顕著に現れる(全質量の 0.1~1 % 程度)というだけの話
である。水力発電のような重力の位置エネルギーに由来する場合であっても、質量とエネ
ルギーの等価は成り立つ。 《アインシュタインは自然の仕組み(事実)を発見しただけ》 アインシュタインの特殊相対性理論の方程式は自動的にこの式 E=mc²を導き、アインシュ
タインは人類に「質量とエネルギーが等価である」という事実を示した(アインシュタイ
ンは自然(地球、宇宙)の事実を発見しただけであり、これはどこでもいつでも成り立つ)。
アインシュタインとのちの原爆開発との関連はこのことだけである。後述するように、の
ちに頼まれて原爆開発をルーズベルト大統領に進言する手紙に署名したこともあったが、
彼は原爆開発にはいっさいたずさわっていなかった。この原爆開発の経緯は後に詳述する。 この関係式で、質量 1 キログラムをエネルギーに変換すると次のようになる。 ・89,875,517,873,681,764 J と等価(8 京 9875 兆ジュール) ・24,965,421,632 kWh と等価(249 億 kWh の電力) ・21.48076431 Mt の TNT の熱量と等価(2148 万トンの TNT 火薬の熱量) 広島に投下された原子爆弾で核分裂を起こしたのは、爆弾に詰められていたウラン 235
(約 50 キログラム)だが、 実際に消えた質量は 7 グラム程度だったと推測されている。 2312
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) このアインシュタインのエネルギーの式は、本来、地球上の核分裂などを想定するので
はなく、宇宙レベルのことを想定して導かれたものであった(太陽が水素の核融合でエネ
ルギーは発しているように、宇宙の世界は核融合、核分裂の世界である。地球は(自然界
においては)核反応の世界ではなく、化学反応の世界である)。 質量とエネルギーの等価性は「宇宙に始まりがあるのなら、どうやって無から有が生じ
たのか?」という、ある意味哲学的な命題にも、ひとつの解答を与えることとなった。た
とえば、宇宙の全ての重力の位置エネルギーを合計するとマイナスになるため、宇宙に存
在する物質の質量とあわせれば、宇宙の全エネルギーはゼロになるというのが、解答であ
るとホーキングは語っている。 《一般相対性理論に取り組む》 1905 年に特殊相対性理論を発表したアインシュタインは、慣性系(加速度ゼロ)のあい
だにのみ限られていた特殊相対性理論を互いに等加速度運動をしている座標系に一般化す
る理論、一般相対性理論、すなわち重力場の理論は、アインシュタインによって、1907 年
に着手された。特殊相対論は電磁場の理論を完成したけれども、重力はまだ遠隔作用とし
て残されていた。アインシュタインは、電磁場と同様に、重力場を導入し、それによって重
力現象を論ずるような理論をつくり上げることに進んだのである。 一般相対性理論は、次の原理を出発点にした。
①
一般相対性原理……物理法則は、すべての観測者(加速系にいるいないを問わず)
にとって同じでなければならない。
②
一般共変性原理……物理法則は、すべての座標系において同じ形式でなければなら
ない。
(最終的に成立する物理法則はテンソル形式と共変微分で書かれていなければ
ならない)。 ③ 等価原理……重力場と加速度運動をしている系とは同等であるという仮定。 光の進み方と重力に関する論文を 1911 年に出版した後、1912 年からは、重力場を時空の
幾何学として取り扱う方法を模索した。このときにアインシュタインにリーマン幾何学の
存在を教えたのが、彼の友人であったハンガリー出身の数学者マルセル・グロスマン(1878
~1936 年)であった。 《重力場の数学的表式―アインシュタイン方程式を完成》 リーマン幾何学はドイツの数学者ベルンハルト・リーマン(1826~1866 年)によって創
出されたもので、距離の概念を一般化した構造を持つ図形を研究する微分幾何学の分野で
あり、楕円・放物・双曲の各幾何学は、リーマン幾何学では、曲率がそれぞれ正、0、負の
一定値をとる空間(それぞれ球面、ユークリッド空間、双曲空間)上の幾何学と考えられ
る。我々になじみのあるユークリッド幾何学はリーマン幾何学の特殊な場合である。 2313
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) アインシュタインは、グロスマンの協力をえて、リーマン幾何学を数学的土台として、
重力場の数学的表式をえ、さらに 1915 年、質量の分布が与えられたときに重力場を求める
ための方程式、つまり電磁場のマクスウェル方程式に相当する重力場に対する式をえるこ
とができた。 1915 年~16 年には、これらの考えが 1 組の微分方程式(アインシュタイン方程式)とし
てまとめられた。 ○一般相対性原理の完成 アインシュタインは、1915 年~1916 年に一般相対性理論を発表した。 特殊相対性理論では、質量、長さ、同時性といった概念は、観測者のいる慣性系によっ
て異なる相対的なものであり、唯一不変なものは光速度 c のみであるとした。特殊相対性
理論は重力場のない状態での慣性系を取り扱った理論であるが、一般相対性原理では加速
度運動と重力を取り込んでおり、重力場による時空の歪みをリーマン幾何学を用いて記述
している。 一般相対性理論によれば、大質量の物体は周囲の時空を歪ませる。すなわち、重力の正
体は時空の歪みである、と説明される。その理論的な帰結・骨子となるのが、次のように
表されるアインシュタイン方程式である(第 1 章の宇宙のところで引用したものである)。 左辺は、時空がどのように曲がっているのかを表す幾何学量(時空の曲率)であり、右
辺は物質場の分布を表す。 このアインシュタイン方程式は、万有引力・重力場を記述する場の方程式である。ニュ
ートンが導いた万有引力の法則を、強い重力場に対して適用できるように拡張した方程式
である。この理論では、ニュートンが発見した万有引力はもはやニュートン力学的な意味
での力ではなく、時空連続体の歪みとして説明される。ニュートン力学と比較すると、運
動の速度が速い場合や、重力が大きい場合の現象を正しく記述できる。対象とする物理的
現象は中性子星やブラックホールなどの高密度・大質量天体や、宇宙全体の幾何学などに
なる。アインシュタインの重力場の方程式とも呼ばれる。 一般相対性理論では、その時空連続体が均質でなく歪んだものになる。つまり、質量が
時空間を歪ませることによって、重力が生じると考える。そうだとすれば、大質量の周囲
の時空間は歪んでいるために、光は直進せず、また時間の流れも影響を受ける。これが重
2314
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 力レンズや時間の遅れといった現象となって観測されることになる。その他にも、一般相
対性理論では、次のことが予測された(すでにかなりが発見されている)。 ◇重力による赤方偏移…強い重力場をもつ点たとえば太陽表面で、ある原子の発したスペ
クトル線を、重力場の弱い点たとえば地球上で観測すると、地上で発した光を地上で観測
する時に比べて、波長が長くなる、つまりスペクトル線が赤の方へずれてみえるというこ
とである。 ◇重力レンズ効果…強い重力場の中では、光の進路が直線から曲げられるということであ
る。アインシュタインは皆既日食のさいに、太陽のすぐそばを通って来る、星からの光を
調べればこの効果を実証できるだろうと指摘した。イギリスのアーサー・エディントンは、
1919 年の皆既日食で、太陽の近傍を通る星の光の曲がり方がニュートン力学で予想される
ものの 2 倍であることを観測で確かめ、一般相対性理論が正しいことが実証された(後述)。 ◇水星の近日点の移動…ニュートン力学では説明不能だった水星軌道のずれが、太陽の質
量による時空連続体の歪みが原因であることを示した。 ◇重力波…巨大質量をもつ天体が光速に近い速度で運動するときに強く発生する時空のゆ
らぎが光速で伝播する現象である。 ◇膨張宇宙…時空は膨張または収縮し、定常にとどまることがないこと。ビッグバン宇宙
を導く。 ◇ブラックホール…限られた空間に大きな質量が集中すると、光さえ脱出できないブラッ
クホールが形成される。 ◇時間の遅れ…強い重力場中で測る時間の進み(固有時間)が、弱い重力場中で測る時間
の進みより遅いこと。 ○一般相対性理論の発表後
ここでえられた重力場の方程式を一般的に解くことは極めて難しい。アインシュタイン
方程式自身に何ら近似することなく得られる解析解のことを厳密解という。 良く知られて
いる厳密解に次のものがある。
◇シュヴァルツシルト解……カール・シュヴァルツシルト、1916 年、真空で球対称を仮定
した解で、ブラックホールを表す最も単純な解。 ◇ド・ジッター解……ウィレム・ド・ジッター、1917 年、真空で宇宙項がある場合の膨張
宇宙解。ド・ジッター宇宙を表す。 ◇フリードマン・ロバートソン・ウォーカー解……アレクサンドル・フリードマン、ハワ
ード・ロバートソン、アーサー・ウォーカー、1922 年、時空の球対称性を仮定し、物質分
布を一様等方な流体近似した解で、ビッグバン膨張宇宙を表す解。 2315
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ◇カー解……ロイ・カー、1962 年、真空で軸対称時空を仮定した解で、回転するブラック
ホールを表す最も単純な解。 現在でも、新しい解(解析解)を発見すれば、発見者の名前がつくことになっている。 シュヴァルツシルト解の場合、つまり一個の質点のまわりの中心対称な重力場の場合は、
1916 年にシュヴァルツシルトがアインシュタイン方程式を球対称・真空の条件のもとに解
き、厳密な解を求めた。シュヴァルツシルトはこの解にもとづいて、前世紀からの天文学上
の難問の一つであった水星の近日点移動を計算し、観測値とよく合う値をえた。また、今
日ブラックホールと呼ばれる時空を表すシュヴァルツシルト解を発見した。 一般相対論の実験的証明として、非常に高い評判をえたのは、太陽のそばを通過する、
星からの光の屈曲である。アインシュタインはその屈曲が角度にして 1.75 秒(角度の秒)
であると計算していた。これを検証するために 1919 年 5 月 29 日の皆既日食に際して、イ
ギリスは観測隊をブラジルのソブラルとアフリカのプリンシペ島に送った。その観測結果
は理論からの値とほぼ一致していた。これによって一般相対論の評判はいっきょに高まっ
た。同時にアインシュタインの名声も世界的に爆発的に高まった。 ○一般相対性原理と宇宙(天文学)
前述したように、1922 年には、フリードマン・ロバートソンモデルが提案され、一般相
対性理論の解として、宇宙は膨張または収縮をしているという結論が得られた(第 1 章の
宇宙のところで述べた)。アインシュタインは重力による影響を相殺するような宇宙項Λ
(ラムダ)を場の方程式に導入することで、静的な宇宙が得られるようにした。しかし、
1929 年には、エドウィン・ハッブルが、遠方の銀河の赤方偏移より、宇宙が膨張している
ことを発見し、これにより、一般相対性理論の予測する時空の描像が正しいことが判明し
た。 このためアインシュタインは宇宙項を撤回し、後に宇宙項の導入を「生涯最大の失敗」
と述べている。しかし、最近、宇宙望遠鏡による超新星の赤方偏移の観測結果などから、
宇宙の膨張が加速しているという結論が得られており、この加速の要因として、宇宙項の
存在が再び注目されていることも第 1 章で述べた。
アインシュタインは一般相対性原理の発表の後、さらに後半生の 30 年近くを重力と電磁
気力を統合する統一場理論を構築しようと心血を注いだが、死(1955 年)により未完に終
わった。 1931 年、インド出身のアメリカの天文物理学者スブラマニアン・チャンドラセカール
(1910~1995 年)は、白色矮星の質量に上限があることを理論的計算によって示した。今
日、チャンドラセカール限界として知られる式は、万有引力定数 G、プランク定数 h、光速
c の 3 つの基本定数を含み、古典物理・量子物理双方の成果を集大成したものでもある。チ
2316
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ャンドラセカールは、
「星の構造と進化にとって重要な物理的過程の理論的研究」の功績で
ノーベル物理学賞(1983 年)を受賞した(第 1 章で星のライフサイクルで述べたことであ
る)。 1939 年、ロバート・オッペンハイマーとゲオルグ・ヴォルコフは、中性子星形成のメカ
ニズムを考察する過程で、重力崩壊現象が起きることを予測した。 その後、重力波は果たして物理的な実体であるのかどうかという論争や、アインシュタ
イン方程式の厳密解の分類方法などの研究がしばらく続いたが、1960 年代のパルサーの発
見やブラックホール候補天体の発見、そしてロイ・カーによる回転ブラックホール解(カ
ー解)の発見を契機に、一般相対性理論は天文学の表舞台に登場した。 同時期に、スティーヴン・ホーキングとロジャー・ペンローズが特異点定理を発表し、
数学的・物理的に進展を始めると共に、ジョン・ホイーラーらが、古典重力・量子重力双
方に物理的な描像を次々と提出し始めた。ワームホール(1957 年。、時空のある一点から別
の離れた一点へと直結する空間領域でトンネルのような抜け道。ワームホールという名前
は、リンゴの虫喰い穴に由来する)やブラックホール(1967 年)という名前を命名したの
は、ホイーラーである。 1974 年、アメリカの宇宙物理学者ジョゼフ・テイラー(1941 年~)とアメリカの物理学
者ラッセル・ハルス(1950 年~)は、連星パルサー PSR B1913+16 を発見した。連星の自
転周期とパルスの放射周期を精密に観測することによって、重力波により、連星系からエ
ネルギーが徐々に運び去られていることを示し、重力波の存在を間接的に証明した。この
業績により、2 人は「重力研究の新しい可能性を開いた新型連星パルサーの発見」としてノ
ーベル物理学賞(1993 年)を受賞した。 現在は、重力波の直接観測を目指して、世界各地でレーザー干渉計が稼働している。観
測のターゲットとしているのは、中性子星連星やブラックホール連星の合体で生じる重力
波などで、波形の予測のための理論や数値シミュレーションが研究の重要なテーマになっ
ている。 また、宇宙論研究では、ビッグバン宇宙モデル(1947 年)が有力とされているが、さら
にその初期宇宙の膨張則を修正したインフレーション宇宙モデル(1981 年)も正しいこと
が、2006 年の WMAP 衛星による宇宙背景輻射の観測により決定的になったと考えられている
(第 1 章の宇宙の歴史参照)。最近は、高次元宇宙モデルが脚光を浴びているが、これらの
宇宙モデルは、いずれも一般相対性理論を基礎にして議論されている。 アインシュタイン以後、一般相対性理論以外の重力理論も、数多く提案されているが、
現在までにほとんどが観測的に棄却されている。 2317
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 量子論と一般相対論の統一という物理学の試みは未だ進行中であるものの、一般相対性
理論を積極的に否定する観測事実・実験事実はない。他に提案されたどの重力理論よりも
一般相対性理論は単純な形をしていることから、重力は一般相対性理論で記述される、と
考えるのが現代の物理学である。 ○一般相対性理論と他の物理学との関係 一般相対性理論と他の物理学との関係は次の通りである。
アインシュタイン方程式は微分方程式として与えられているため局所的な理論ではある
が、ちょうど電磁気学における局所的なマクスウェル方程式から大域的なクーロンの法則
を導くことができるように、アインシュタイン方程式は静的なニュートンの万有引力の法
則を包含している。万有引力の法則との主な違いは次の 3 点である。
① 重力は瞬時に伝わるのではなく光と同じ速さで伝わる。 ② エネルギーから重力が発生する。 ③ 質量を持つ物体の加速運動により重力波が放射される。 ここで、③は荷電粒子が加速運動することにより電磁波が放射されることと類似してい
る。これは、万有引力の法則やクーロンの法則に、運動する対象の自己の重力や電荷の効
果を取り入れていることに対応している。 特殊相対性理論との関係は、特殊相対性理論が、「加速している場合や重力が加わった場
合を含まない特殊な状態」における時空の性質を述べた法則であるのに対して、一般相対性
理論は、「加速している場合や重力が加わった場合を含めた一般的な状態」における時空の
性質を述べた法則であり、等速直線運動する慣性系のみしか扱えなかった特殊相対性理論
を、加速度系も扱えるように拡張した理論であると言える。アインシュタイン方程式の有
する一般座標変換に対する共変性は重力を小さくする極限のもとでローレンツ変換に対す
る共変性に帰し、一般相対性理論は特殊相対性理論を包含する。当然、古典力学も包含し
ている。 《量子重力理論は出来ていない》 量子力学との関係が問題である。量子論は一般相対性理論と同様に物理学の基本的な理
論の一つであると考えられている。しかし、一般相対性理論と量子論を整合させた理論(量
子重力理論)はいまだに完成していない。現在、人類の知っているあらゆる物理法則は全
て場の量子論と一般相対性理論という二つの理論から導くことができる。そのため、その
二つを導くことのできる量子重力理論は万物の理論とも呼ばれているが、それはできてい
ない。 量子重力理論は、高エネルギーでかつ時空が大きく曲がっている系を適切に記述できる
ため、場の量子論と一般相対性理論では適切に議論することのできない宇宙創世初期の状
2318
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 態についても予測できると考えられる。量子重力理論の有力な候補としては、超弦理論が
ある。 《一般相対性理論の応用―GPS》 一般相対性理論の応用として最近のものでは GPS がある。自動車などの位置をリアルタ
イムに測定表示するカーナビゲーションシステムはグローバル・ポジショニング・システ
ム(GPS)を利用しており、GPS 衛星から発振される時計信号の正確さに依存している。GPS
衛星からの信号を受信する装置では、さまざまな要因による補正を行うが、その中には、
高速で運動する GPS 衛星の運動による発振信号の時間の遅れ(特殊相対論効果)と、地球
の重力場による地上の時間の遅れ=衛星の時間の進み(一般相対論効果)が含まれる。 GPS 衛星の速度は秒速約 4 キロメートルと高速であるため、特殊相対論によって時間の進
み方が遅くなる。一方、衛星の高度は約 2 万キロメートルで地球の重力場の影響が小さい
ことから、一般相対論によって地上よりも時間の進み方が速くなる。このように特殊相対
論と一般相対論で互いに逆の効果をもたらすことになる。 GPS 衛星からの信号には、衛星に搭載された原子時計からの時刻のデータ、衛星の天体暦
(軌道)の情報などが含まれている。GPS 受信機にも正確な時刻を知ることができる時計が
搭載されているならば、GPS 衛星からの電波を受信し、発信-受信の時刻差に電波の伝播速
度(光の速度と同じ 30 万 km/秒)を掛けることによって、その衛星からの距離がわかる。3
個の GPS 衛星からの距離がわかれば、空間上の一点は決定できる。 いずれにしても、衛星には相対性理論によって補正された正確な時計が搭載されていて
GPS は可能となった。 【③物理学の新たな発展】 ○20 世紀までの物理学 16 世紀後半に、ガリレイは物理理論を立証するために実験を用いた。実験は科学的研究
法における重要な概念である。ガリレイは力学に関するいくつかの結果を定式化し、成功
裏に実験した(とくに、慣性の法則について)。 1687 年にニュートンはプリンキピアを出版した。それは二つの包括的かつ成功した理論
を詳述していた。その一つ、ニュートンの運動方程式は古典力学の起こりとなった。もう
一つ、万有引力の法則は基本的な力である万有引力を記述した。両理論は実験と良く一致
した。 ラグランジュ、ハミルトンらは古典力学を徹底的に拡張し、新しい定式化、原理、結果
を導いた。重力の法則によって宇宙物理学の分野が起こされた。宇宙物理学は物理理論を
もちいて天体現象を記述した。 2319
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 18 世紀から、ボイル、ヤングら大勢の学者によって熱力学が発展した。1733 年に、ベル
ヌーイが熱力学的な結果を導くために古典力学とともに統計論を用いた。これが統計力学
の起こりであった。1798 年に、トムソンは力学的仕事が熱に変換されることを示した。1847
年に、ジュールは力学的エネルギーを含めた熱についてのエネルギーの保存則を提示した。 電気と磁気の挙動はファラデー、オーム、その他によって研究された。1855 年にマクス
ウェルはマクスウェル方程式で記述される電磁気学という単一理論で二つの現象を統一的
に説明した。この理論によって光は電磁波であると予言された。 ○19 世紀末から変化が現れた 1895 年に、レントゲンは X 線を発見し、それが高い周波数の電磁波であることを明らか
にした。放射能はベクレルによって 1896 年に発見された。さらに、ピエール・キュリーと
マリ・キュリーほかによって研究された。これが核物理学の起こりとなった。 1897 年に、ジョゼフ・ジョン・トムソンは回路の中の電流を運ぶ素粒子である電子を発
見し、1904 年に、原子の最初のモデルを提案した。それはプラムプリン模型として知られ
ている。 ○20 世紀の物理学を生み出した量子力学と相対性理論 前述したように 1900 年代初頭に、プランク、アインシュタイン、ボーアたちは量子論を
発展させ、離散的なエネルギー準位(とびとびの)の導入によってさまざまな特異な実験
結果を説明した。 1911 年に、ラザフォードは散乱実験から陽子と呼ばれる正の電荷の構成物質でぎっしり
と詰まった原子核の存在を推定した。ボーアはプランクの量子仮説をラザフォードの原子
模型に適用して、1913 年にボーアの原子模型を確立した。 1925 年にハイゼンベルクらが、そして 1926 年にシュレーディンガーとディラックが量子
力学を定式化し、それによって前期量子論は解釈された。量子力学において物理測定の結
果は本質的に確率的であると解釈されている。つまり、理論はそれらの確率の計算法を与
えるもので、量子力学は小さな長さの尺度での物質の振る舞いをうまく記述することがで
きる。 1905 年に、アインシュタインは特殊相対性理論を定式化した。その中では時間と空間は
時空という一つの実体に統一された。相対性理論は古典力学とは異なる慣性座標系間の変
換を定めるものである。それ故、古典力学の置き換えとなる相対論的力学を構築する必要
があった。低(相対)速度領域においては二つの理論は一致する。1915 年に、アインシュ
タインは特殊相対性理論を拡張し、一般相対性理論で重力を説明した。それはニュートン
の万有引力の法則を置き換えるもので、低質量かつ低エネルギーの領域では二つの理論は
一致する。 2320
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 1930 年ぐらいまでに、新しい量子力学と相対性理論は認知され、物理学の分野もそれを
とりいれて、新たな発展をはじめていった。 ○原子核物理学 ラザフォードの実験以来、原子核の問題は物理学者や化学者の心をとらえ、彼らを夢中
にさせる課題の一つとなっていた。そのような状況の中で放射線の研究を続けていたラザ
フォードも、1919 年アルファ線で窒素原子を衝撃することによって元素変換に(原子核の
人工変換に)成功するとともに陽子を発見した。1920 年には中性子の存在を予言していた。 《中性子の発見》 ラザフォードのもとで、放射性物質からのガンマ線の放射、アルファ線照射による元素
の変化、原子核の研究を行っていたチャドウィック(1891~1974 年)は、1932 年に中性子
を発見した。これによりチャドウィックは 1935 年にノーベル賞を受賞した。 中性子の発見によって、帯電したヘリウム原子核であるアルファ線粒子に比べて、電気
的な斥力をうけない中性子はよりウランなどの重い元素の原子核に作用して核分裂をおこ
させることができることになった。そして中性子と陽子は、原子核を構成している重要な
素粒子であることが明らかになり、原子核の研究も急速に進みはじめた。電気的に中性な
この中性子の発見は重い元素の変換を可能にし、さらには、それは原子核分裂の発見へと
つながった。 なお、中性子の発見は、湯川秀樹のノーベル賞受賞のきっかけともなった。中性子が発
見されると、原子核の中で陽子や中性子を相互につなぎ原子核を安定化させる仕組みが必
要になると想定されたが、湯川秀樹は 1934 年、中間子理論を発表、1935 年、「素粒子の相
互作用について」を発表、中間子(現在のπ中間子)の存在を予言した。1947 年にイギリ
スの物理学者セシル・パウエル(19003~1969 年)らが実際にπ中間子を発見したことで、
1949 年に湯川秀樹はノーベル物理学賞を受賞した。セシル・パウエルも、1950 年、写真に
よる原子核崩壊過程の研究方法の開発および諸中間子の発見によりノーベル物理学賞を受
賞した。 帯電したヘリウム原子核であるα線粒子に比べて、電気的な斥力をうけない中性子はよ
りウランなどの重い元素の原子核に作用して核分裂をおこさせることができることがわか
り、これによって、その後、多くの超ウラン元素の合成への道が開かれた。また、その実
験機器であった初期の加速器は粒子の加速に高電圧を利用するものだったが、1930 年代に
高周波の電場を利用した線形加速器や磁場を使った円型の加速器サイクロトロンが誕生し
た(1944 年に位相安定性原理を加速に用いるシンクロトロンが誕生した)。 《核分裂反応の発見》 2321
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 最初の核分裂反応の発見は、1938 年、ドイツのオットー・ハーン(1879~1968 年)によ
ってなされた(歴史の「もし」は、許せないが、この発見はあまりにもタイミングが悪かっ
た。ヒトラーが 1939 年から第 2 次世界大戦をはじめるが、この発見が 2 年遅れていれば原
爆は大戦中には開発されることはなかったであろう)。 核分裂反応とは、不安定核(重い原子核や陽子過剰核、中性子過剰核など)が分裂して
より軽い元素を二つ以上作る反応のことを指す。オットー・ハーンは天然ウランに低速中
性子を照射し、反応生成物にバリウムの同位体を見出したことにより発見され、リーゼ・
マイトナーとオットー・ロベルト・フリッシュらが核分裂反応であると解釈し、fission(核
分裂)と命名した。オットー・ハーンはこの原子核分裂の発見によって 1944 年にノーベル
化学賞を受賞した。 原爆開発のところで後述するように、ハーンとマイトナーは 30 年以上、一緒に研究を行
ってきていた。1938 年、ナチスの迫害を避けるために、ユダヤ人のマイトナーはスウェー
デンに移らざるをえなくなったが、連絡を取り合っていた。同年、ハーンはマイトナーに
「ウランの原子核に中性子を照射しても核が大きくならず、しかもウランより小さい原子
であるラジウムの存在が確認された。何が起きているのか意見を聞きたい」という手紙を送
った。マイトナーは、甥で物理学者であるオットー・ロベルト・フリッシュと共に核分裂
が起きたことを証明して、連名で発表した。 しかし、ハーンはナチスの圧力に負けユダヤ人であるマイトナーを外したため、彼女は
ノーベル化学賞の受賞を逸している。受賞のスピーチでもハーンは、マイトナーの功績に
ついてほとんど触れず、その後も核分裂を発見したのはマイトナーではなく、自分だと主
張し続けた。今日では、ハーンは核分裂の発見者であり、マイトナーは核分裂の概念の確
立者であるとされている。 《原爆の開発》 後述するように、第 2 次世界大戦の間、核爆弾を作るという目的のために、研究は核物
理の各方面に向けられた。ハイゼンベルクが率いたドイツの努力は実らなかったが、連合
国のマンハッタン計画は成功を収めた。アメリカでは、フェルミが率いたチームが 1942 年
に最初の人工的な核連鎖反応を達成し、1945 年にアメリカ合衆国ニューメキシコ州のアラ
モゴードで世界初の核爆弾が爆発した。原子爆弾開発の状況は【15-6-28】原子爆
弾開発計画(マンハッタン計画)に記している。 《超ウラン元素の発見と合成》 ウラン(U)より原子番号の大きい元素、つまり超ウランの領域に第二の希土類ともいう
べき一連の元素があるだろうということは、すでにボーアの原子構造の理論からも予想さ
れていた。1920 年代にはこれに関する理論研究もなされた。しかしウランより原子番号の
2322
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 大きい元素である超ウラン元素を、実際につくり出す仕事がはじめられたのは中性子の発
見以後のことである。 その第 1 号 93 番元素ネプツニウム(Np)は 1940 年、ウランに中性子を照射することに
よってアメリカでつくられた。エドウィン・マクミラン(1907~1991 年)がサイクロトロ
ンを用いてウラン 238 に中性子を当てて、ネプツニウム 239 を作った(人工的に作られた
最初の超ウラン元素)。 以後プルトニウム(Pu)、アメリシウム(Am)、キュリウム(Cm)、バークリウム(B
k)などの元素が、次々に人工的につくられ確認された。グレン・シーボーグ(1912~1999
年)は、アクチニウムに始まる元素を「アクチノイド系列」と命名し、この系列に属する
元素の大半、すなわちプルトニウム(原子番号 94)、アメリシウム(95)、キュリウム(96)、
バークリウム(97)、カリホルニウム(98)、アインスタイニウム(99)、フェルミウム(100)、
メンデレビウム(101)、ノーベリウム(102)の発見に寄与した。 マクミランは 1951 年、超ウラン元素の発見のかどでノーベル化学賞をグレン・シーボー
グとともに得た。 以後の超ウラン元素の詳細は省略する。 《戦後の原子核物理学》 現代の原子核物理学(核物理)は、強い相互作用に従う粒子の多体問題を研究する学問
領域で、主に原子核の核構造、核反応(核分裂反応、核融合反応)などを扱う分野のこと
である。 また、原子核物理学(核物理学)…核構造物理学…核反応論…ハドロン物理学と、核物
質・ハドロン物質の性質を調べるハドロン物理学も、この分野の一部である(ハドロンは
ギリシャ語の「強い」の意に由来し、素粒子物理学において強い相互作用をする粒子の総
称で陽子や中性子などである)。 構成要素が 2 種類(陽子・中性子)であるにもかかわらず、陽子・中性子それぞれの数
や励起のさせ方により、様々な構造をとるのが特徴である。核子の主要な相互作用である
「強い相互作用」が未だ完全に解明されていないこと、物性理論のように構成粒子が無限
であるという近似が許されないこと、表面の効果が重要であること等により、発見から 1
世紀近く経つにもかかわらず、未知の部分が残されており、理論実験ともに盛んに研究が
行われている。対象とするエネルギー領域によって、狭義の原子核物理学、ハドロン物理
学に大別される。 現代の原子核に関する実験には大雑把に言って原子核をくっつけて(核融合反応)自然
に存在しないより大きな原子核を作る実験(超重核の探索など)、ぶつけて壊す(核破砕
反応)ことによって天然に存在しない核を作り性質を調べる実験(中性子過剰核や陽子過
2323
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 剰核の実験)、ハイペロン(超重粒子)を混入してその振る舞いを調べる実験(ハイパー
核)、重い原子核同士を高エネルギーで衝突させて新しい物質状態を探索する実験(相対
論的重イオン衝突)などがある。 《素粒子物理学》 素粒子物理学は、物質を構成している最小の要素である素粒子を研究対象とする物理学
の一分野である。 場の量子論は基本的な力と素粒子を研究する現代の素粒子物理学の枠組みを提供した。 場の量子論は、特殊相対性理論と整合するように量子力学を拡張するために定式化された。
それは、ファインマン、朝永、シュウインガー、ダイソンらの仕事によって 1940 年代後半
に現代的な形に至った。彼らは電磁相互作用を記述する量子電磁力学の理論を定式化した。 1954 年にヤンとミルズはゲージ理論という分野を発展させた。それは標準模型の枠組み
を提供した。1970 年代に完成した標準模型は今日観測される素粒子のほとんどすべてをう
まく記述している。 何をもって素粒子とするのかは時代とともに変化してきたし、立場によっても違い得る
が、第 1 章の宇宙のところで述べたように、標準理論の枠組みにおいては、物質粒子とし
て 6 種類のクォークと 6 種類のレプトン、力を媒介する粒子としてグルーオン、光子、ウ
ィークボソン、重力子(グラビトン)、さらにヒッグス粒子等が素粒子だと考えられている。 超弦理論においては素粒子はすべて弦(ひもともいう)の振動として扱われる。量子力
学と一般相対性理論を量子重力の単一理論に統合するという半世紀以上におよぶ試みはま
だ結実していない。現在の有望な候補は M 理論とループ量子重力理論である。 素粒子物理学は、大別して素粒子論(素粒子理論)と素粒子実験からなる。また実証主
義、還元主義に則って実験的に素粒子を研究する体系を高エネルギー物理学と呼ぶ。 粒子
加速器を用い、高エネルギー粒子の衝突反応を観測することで、主に研究が進められるこ
とから、そう命名された。しかしながら、現在、実験で必要とされる衝突エネルギーはテ
ラ電子ボルトの領域となり、加速器の規模が非常に大きくなってきている。将来的に建設
が検討されている国際リニアコライダーも建設費用は 1 兆円程度になることが予想されて
いる。また、近年においても、伝統的に非加速器による素粒子物理学の実験的研究が模索
されている。 スーパーカミオカンデの実験からニュートリノの質量が 0 でないことが判明した。この
ことを理論の立場から理解しようとするならば、既存の標準理論の枠組みを越えた理解が
必要である。質量のあるニュートリノの物理は現在、理論と実験が影響しあい活発に研究
されている領域である。今後数年で粒子加速器による TeV(テラ電子ボルト)領域のエネル
ギー尺度の探査はさらに活発になるであろう。実験物理学者はそこでヒッグス粒子や超対
2324
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 称性粒子の証拠を見つけられるのではないかと期待している(2013 年、ヒッグス粒子は発
見された)。 以下、量子論や相対論が切り開いた 20 世紀の物理学は,物性物理学(凝縮系物理学)、
超伝導(超電導)、天文物理学、原子物理学、プラズマ物理学と電磁流体力学などに物理
学の範囲を大幅に拡大したが、ここでは省略する。 【④20 世紀の化学】 量子力学や原子構造の発見は、20 世紀の化学反応の理解に大きな影響を与えることにな
った。ラザフォードとボーアが 1912 年に原子構造を発見し、マリ・キュリーとピエール・
キュリーが放射性物質を発見してのち、化学者は物質の性質に関する視点を劇的に変化さ
せる必要に迫られた。化学者が獲得してきた経験は、もはや物質の性質全体の研究とは関
連を失い、原子核を取り巻く電子雲と、電子雲の誘導で発生する電場における原子核の振
る舞いだけが研究対象となった。 化学の守備範囲は常温常圧に近い条件下で我々を取り巻く物質の性質に限定され、電磁
波への曝露は地上における自然条件下のマイクロ波、可視光、紫外線などとあまり変わら
ないものに限られた。化学はそこで、物質の構成・構造・特性・変化を扱う物質科学と再
定義された。しかし、ここで使われる物質の意味は原子と分子がつくる物質とはっきり関
係づけられ、原子核内部の内容物、核反応、イオン化したプラズマ内の物質は対象としな
い。とはいえ人類の尺度からいえば化学の領域は依然広大であり、化学がすべてを包括す
るといってもあながち外れてはいない。 ○量子化学 量子化学とは、量子力学の諸原理を化学の諸問題に適用し、原子と電子の振る舞いから
分子構造や物性あるいは反応性を理論的に説明づける学問分野であり、その誕生をシュレ
ーディンガー方程式の発見とこれを水素原子に応用した 1926 年とする見方がある。 一方、ドイツの物理学者ヴァルター・ハイトラーとドイツの物理学者リッツ・ロンドン
による 1927 年の論文を量子化学の第一歩とする見方もある。1927 年ハイトラーとロンドン
は水素分子の結合力に関するハイトラー・ロンドンの方法(原子価構造理論)を発表した。
これは 2 原子の水素分子の化学結合へ量子力学を応用した初の事例となった。 この理論はその後アメリカの理論物理学者ジョン・スレーター(1900~1976 年)とアメ
リカの量子化学者ライナス・ポーリング(1901~1994 年)らによって原子価結合法(VB 法)
へと発展した。この原子価結合法とは化学結合を各原子の原子価軌道に属する電子の相互
作用によって説明する手法である。 《ノーベル化学賞とノーベル平和賞を受賞したポーリング》 2325
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ポーリングは、オレゴン州ポートランドに生まれ、小学校に通っていた頃、父の友人が
寝室に小さな化学の実験室を持っており、そこで室内実験を学んだポーリングは、化学工
学の道へ進む夢を抱き、ポートランドのワシントン高校に進学し、化学の実験を続けた。
ポーリングは必修のアメリカ史の単位を取ることができず、高校の卒業証書を授与されな
かった(同高校が卒業証書を授与したのは 45 年後の 1962 年、ポーリングが 2 つのノーベ
ル賞を受賞した後のことであった)。 ポーリングは働きながら、オレゴン農業大学(現:オレゴン州立大学)を卒業して、1922
年、カリフォルニア工科大学に進学し、1925 年、物理化学と数理物理学で博士号を最優等
で授与された。ポーリングはその後、グッゲンハイム奨学金を受けてヨーロッパに渡り、
ミュンヘンでゾンマーフェルトに、コペンハーゲンでボーアに、そしてチューリッヒでシ
ュレーディンガーにそれぞれ師事した。これら 3 人の物理学者は、前述したよう量子力学
を創造した人々だった。1927 年、カリフォルニア工科大学で理論化学の助教授に就任した。 ポーリングは量子力学を化学の分野に応用して「化学結合の本性」を究明することだっ
た。彼の化学結合の研究の一部は、軌道の混成という概念の導入だった。原子内の電子は s や p などの型を持つ軌道として記述されるのが普通だが(図 15-3 において、原子を構成
している電子がどのような軌道に配置しているのか示したもので、内側から s 軌道、p 軌道、
d 軌道、f 軌道…となる)、分子内の結合を記述する際には、これら軌道のうちいくつかの
性質を帯びた関数を組み立てると都合がよいことがわかった。 彼が探究した他の領域としては、電子が原子間を移動するイオン結合と、電子が原子間
で対等に共有される共有結合の関係についてのものがあった。ポーリングは、これらは共
に極端な例に過ぎず、実際にはほとんどの結合はこれらの 2 つの中間であることを示した。 「化学結合の本性」の究明に向けてポーリングが着手したさらなる事象に、芳香族炭化
水素、特にその原型であるベンゼンの構造の研究があった。ポーリングは、ベンゼンは 2
つの構造が混ざった中間体構造であるとして量子力学に基づいた厳密な説明を示した。こ
の中間体構造とは、2 つの構造の重ね合わせを意味し、今日、この現象は共鳴として知られ
る。 1930 年代、ポーリングは化学結合の性質に関する論文を発表し始め、1939 年にはこの分
野の有名な教科書を出版した。ポーリングは 1954 年に「化学結合の本性、ならびに複雑な
分子の構造研究」でノーベル化学賞を受賞した。 ポーリングの研究は、
「化学結合の本性」の研究にとどまらなかった。結晶構造決定やタ
ンパク質構造決定に重要な業績を残し、分子生物学の祖の一人とされる。ワトソンとクリ
ックが 1953 年に DNA の超微細構造である「二重らせん」を発見した時に、ポーリングはほ
ぼそれに近い形を発見していた。 2326
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 多方面にわたる研究者としても有名で、量子力学と分子生物学に加え、無機化学、有機
化学、金属学、免疫学、麻酔学、心理学、弁論術、放射性崩壊などを究めた。彼は、カリ
フォルニア工科大学の同僚だったオッペンハイマーにマンハッタン計画に誘われたときも
これを拒絶し、戦後、一貫して科学者として核廃絶運動に取組んできた。 1963 年にはケネディとフルシチョフが部分的核実験禁止条約に署名した。同条約が発効
した日、ノーベル賞委員会は「核兵器実験や、軍備拡大、またはそれらの使用だけに止ま
らない、国際紛争の手段とした全武力衝突に反対した活動を 1946 年から絶え間無く続けて
きたポーリング」と述べ、彼にノーベル平和賞を授与した。 《その後の量子化学》 さて、化学に話を返すことにする。化学結合を取り扱う方法としては、ポーリングらの
原子価結合法のほかに、フリードリッヒ・フントとロバート・マリケンらにより分子軌道
法(MO 法)が生み出された。こ の分子軌道法とは、原子に対する原子軌道の考え方を、そ
のまま分子に対して適用したものである。ロバート・マリケン(1896~1986 年)はアメリ
カの化学者で、「分子軌道法による化学結合および分子の電子構造に関する研究」により、
1966 年ノーベル化学賞を受賞した。 量子化学はその黎明期において、分子構造と化学結合の成り立ちについて理論的解明と
分子構造に起因する分光学的物性の理解に重要な寄与をしている。実際の分子を量子化学
で理解することは、多数の電子と原子核とから構成される N 体問題の波動方程式の解を求
めることに相当する。計算化学が発達していない当時としては、量子化学の学問領域を展
開するために、分子構造モデルを簡素化する多種多様の近似法が模索された。また波動方
程式の解を求める場面においても、近似を利用した。したがって当時の量子化学は定性的
な予測をするのにとどまっていた。 とは言うものの、量子化学によりそれまでは理論的説明づけが困難であった、分子分光
学の電子スペクトル、振動スペクトル、回転スペクトル、核磁気共鳴スペクトルなどの性
質と分子構造と関連付け、共有結合や分子間力の原理の解明、フロンティア軌道理論を代
表とする半定性的な化学反応の理解など、他の化学分野への貢献は大きなものがあった。 フロンティア軌道理論とは、フロンティア軌道と呼ばれる軌道の密度や位相によって分
子の反応性が支配されていることを主張する理論で、1952 年に福井謙一(1918~1998 年)
によって提唱された。この業績に対し、1981 年に福井謙一はロアルド・ホフマンとともに
ノーベル化学賞が与えられた。 1980 年代以降の急速なコンピュータの処理速度の増大と計算機科学の発展とは計算化学
にも波及し、精密な解を求めることを可能にした。近年においては量子化学により化学結
合と分子の微細構造との関連、分子間相互作用や励起状態の解明、反応のポテンシャルエ
2327
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ネルギー面を予測することで化学反応の特性を予測するなど定量的な予測が可能になった。
同時に量子化学の適用対象も簡単なモデル化した分子だけではなく、実際の有機化合物、
錯体化合物、高分子・生体関連物質、固体表面での界面化学の解析など多種多様の化学分
野に及んでいる。 現代の化学では原則的には、全ての物質が原子からできているとの仮説(あるいはフレ
ームワーク)を採用し、また、物質の性質は原子自体の状態や、原子同士の結びつきかた
(化学結合)で決定されると考える。現代の化学は基本的には原子・分子レベルでの物質
の構造や性質を解明し、また新しい物質や反応を構築する学問である。具体的な化学と化
学工業については、省略する。 【⑤生物学】 ルイ・パスツールの実験により、生物は自然に誕生するという自然発生説が完全に否定
され、
「全ての細胞は細胞から生じる」ことが理解された。自然発生説の否定は進化論とも
関連し、生物学に生命の起原という新たな問題を提起した。生物多様性と系統分類につい
て考察したチャールズ・ダーウィンが『種の起源』
(1859 年)で提唱した進化と種分化いう
概念は、現代生物学の前提となっており、生物学以外の多くの分野にも影響を及ぼしてい
ったことは 19 世紀の生物学で述べた。 20 世紀前半の量子力学や原子物理学の創造と伝播は前述した化学の分野にまでおよんで
いたが、それが生物学にまでおよんでくるのは 1953 年の遺伝子 DNA の二重らせん構造の発
見からであって、20 世紀後半からであった。この 20 世紀前半の生物学の進歩はそのつなぎ
の期間であったと考えられる。 その分子生物学の本格的な発展のきっかけとなったのが、1953 年のジェームズ・ワトソ
ンとフランシス・クリックによる遺伝子 DNA の二重らせん構造の発見であった。メンデル
の法則、染色体説の実証、DNA が遺伝子の本体など、遺伝子 DNA の二重らせん構造の発見に
至るまでの 20 世紀前半の生物学については省略する。 ○DNA 二重らせん構造の発見 量子力学の研究が一段落すると、その研究者は新しい分野をめざして移っていった。1938
年アメリカの科学者ウォーレン・ウィーバーは、早々に分子生物学という名称を提唱した
が、これは当時、量子力学の確立や X 線回折の利用等により物質の分子構造が明らかにな
りつつあったことから、まだ謎に満ちていた生命現象(中でも遺伝現象)をも物質の言葉
で記述したいという希望の表明であった。 当時、ドイツを中心とする物理学者たち(アメリカに亡命した人も多い)もこの問題に
深い関心をもち、特にマックス・デルブリュックは物理学から遺伝学に転向した。また物
2328
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 理学者から見た生命観を述べたシュレーディンガーの名著『生命とは何か』
(1944 年)も大
きな影響を与えた。 このようなとき、遺伝子の実体が DNA であることがわかると、次は DNA 分子の構造に焦
点が移り、イギリスとアメリカのグループがこの DNA 分子の構造を明らかにしようとしの
ぎを削った。そして、1953 年にジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックが二重らせ
ん構造を発見した。この歴史的な発見の裏には一人の女性研究者フランクリンの汗と涙の
結晶が(まさに結晶が)隠されていた。 《フランクリンの X 線 DNA 構造写真》 ロザリンド・エルシー・フランクリン(1920~1958 年)は、イギリスの物理化学者・結
晶学者で、石炭やグラファイト、DNA、タバコモザイクウイルスの化学構造の解明に貢献し
た人物であった。 彼女はロンドンのユダヤ人の家庭に生まれ、ケンブリッジ大学のニューナム・カレッジ
で学び、フランス留学後の 1950 年にロンドン大学のキングス・カレッジで DNA の構造研究
に没頭していた。しかし、フランクリンは DNA の研究をめぐり、彼女が来る以前から DNA
を研究していた上司のモーリス・ウィルキンス(1916~2004 年)としばしば衝突していた。
そして、ウィルキンスはケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所に在籍していたジェ
ームズ・ワトソン(1928 年~)とフランシス・クリック(1916~2004 年)に彼女の撮影し
た写真を見せた。このことが、二重らせん構造解明の手がかりとなったことは確かであっ
た。 また、フランクリンは 1952 年に自分の非公開研究データをまとめたレポートを年次報告
書としてイギリス医学研究機構に提出しているが、 その研究レポートは、イギリス医学研
究機構の予算権限を持つメンバーの一人でありクリックの指導教官にあたる立場の研究者
であるマックス・ペルーツが入手し、そこからクリックの手に渡った。この非公開レポー
トには、DNA 結晶の生の解析データだけでなく、フランクリン自身の手による測定数値や解
釈も書き込まれており、DNA の結晶構造を示唆するものであった。 すでに彼女は明瞭な DNA 構造の写真を撮っていた。しかし、それは今の写真のように誰
にでもとれるものではなく、結晶材料の製作など苦心惨憺多くの試行錯誤の末にとれるも
ので、それをやってきたフランクリンにしか撮れないものだった。DNA の構造解析に用いら
れた最も有名な写真はフランクリンの撮影したものであり、彼女はこの結果から、DNA はズ
バリ「2、3 あるいは 4 本の鎖からなるらせん構造」をとっていることをレポートに残して
いる。もうその時はフランクリンも DNA はらせん構造であり、たぶん B 型であると推測し
ていたが、A 型でないことを確かめようとしていた。彼女は B 型以外にも取りうる構造(A
2329
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 型のこと)があることを発見し、その両方を解析したうえで公表しようと考えていたとい
うコメントが残っている(ワトソン、クリックの提案した二重らせんは B 型のみであった)。 そのようなとき、上司のウィルキンスは件の写真をワトソンとクリックに見せたのであ
る。ではワトソンとクリックのことを述べよう。 《ワトソンとクリック》 ジェームズ・デウィー・ワトソン(1928 年~)は、シカゴ大学卒業後、米インディアナ
大学大学院で生物学を専攻した。卒業後、とりあえず、イギリスのケンブリッジ大学のキ
ャベンディッシュ研究所に入った。彼はナポリの学会で発表された DNA の X 線回折像が忘
れられず、DNA の構造を第一番に発見しようと決心したが、DNA の構造解析の有効な手段で
ある X 線回折像の解読法について、ワトソンはまったく無知だった。研究所で知り合った
クリックと共同で DNA 構造解析に取組むことにした。 フランシス・クリックは、イギリス海軍機雷研究所に勤務し、戦争が終結してから、シ
ュレージンガーが著した『生命とは何か』を読んクリックは生物学を学び始めた。研究者
としてはおくてだった。 2 人が共同研究しているあいだにも、DNA の構造解明では、ノーベル化学賞受賞者で化学
の大家ポーリングが遂に DNA 構造をつかんだというニュースが流れた。結局、これはポー
リングの大失敗であったのだが(3 重構造を考えていた)、ワトソンたちに与えられた余裕
はほとんどなかった。 二人は今までに公表されていた研究結果をすべて満たす DNA 構造をすべて考え出して絞
り込んでいく手法をとった。その際、2 人が二重らせん構造にたどり着いたのは、2 つの研
究があってこそのことであった。 その 1 つはエルウィン・シャルガフによる『DNA の塩基存在比の法則』であり、DNA 塩基
存在比の法則は DNA 中に含まれるアデニンとチミン、グアニンとシトシンの量比がそれぞ
れ等しいという至極シンプルな法則である。 もう 1 つがウィルキンスとフランクリンによる例の『X 線結晶構造解析』であるが、これ
はまだ公表されてはいなかった。前述のように、当時、フランクリンは職場の先輩ウィル
キンズと衝突を繰り返しており、その半面、ウィルキンスはワトソン、クリックとは友好
関係にあるという背景の中で、事件が発生したのである。 ウィルキンスがフランクリンの撮影した DNA の 3 次元形態を示す X 線写真を密かに複写
したものを、ワトソンにこっそり見せてしまった。ワトソンは正直に自伝『二重らせん』
で「その写真を見たとたん、私は唖然として胸が早鐘のように高鳴るのを覚えた。・・・写
真のなかでいちばん印象的な黒い十字の反射はらせん構造からしか生じえないものだっ
た」と書いている。 2330
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ワトソン、クリックが X 線結晶構造解析を行ったと誤解されていることが多いが、彼ら
は構造解析を行っていない。上記の 2 つの研究を含めた多くの DNA に関するデータの蓄積
の中から全てを満足させる DNA の構造をモデル構築したのである。 《分子生物学発展の基礎となった DNA 二重らせん構造の発見》 このようにして歴史的な二重らせん構造は発見されたのである。
「われわれは、デオキシ
リボ核酸(DNA )の塩の構造を提案したいと思う。この構造は、生物学的にみてすこぶる興
味をそそる斬新な特質をそなえている」。これは、ワトソンとクリックが連名で『ネイチャ
ア』誌(1953/4 月号)に提出したわずか 2 ページ 900 語の歴史的な論文の書き出しである。 図 3-4 のような二重らせん構造によって、古くからの生物学上の謎――遺伝情報がいか
に蓄えられ、いかに複製されるか――は見事に解明されたのである。アデニンとチミン、
グアニンとシトシンというペアで連結された 2 本のねじれ合った鎖、この塩基の配列がお
互いに相補関係にあること。だから、1 本の鎖の塩基の並び方が決まれば、その相手は自動
的に決まってしまう。1 本の鎖が、それと相補的な塩基配列をもつ鎖の合成鋳型になるのだ。
いきさつはどうあれ、二重らせん構造はみごとに DNA そのものだった。 発見当時、ワトソンは 25 歳、クリックは 37 歳であった。ワトソンは大学卒業後、2 年で、 生物学に転向したクリックは、たった 6 年足らずで世界的な論文の執筆者となった。この
DNA の二重らせん構造を示したこの論文は、古くから知られていた遺伝という現象を、具体
的な物質的基盤をもった科学的現象であると決定づけた。 その意味で、この論文は科学史上の記念碑的論文となった。DNA の構造が決定されたこと
で、遺伝が DNA の複製によって起こることや塩基配列が遺伝情報であることが見事に説明
できるようになり、その後の分子生物学の発展にも大きな影響を与えるパラダイムシフト
となった。 フランクリンは 1958 年に 37 歳の若さで卵巣癌と巣状肺炎により死亡した。実験のため
大量に X 線を浴びたことが癌の原因だと言われている。 1962 年、ワトソン及び、クリック、ウィルキンスは、「核酸の分子構造および生体にお
ける情報伝達に対するその意義の発見」に対して、ノーベル生理学・医学賞を受賞した。 遅ればせながら、モーリス・ヒュー・フレデリック・ウィルキンス(1916~2004 年)は、 ニュージーランドのパンガロアで生まれ、6 歳のときに家族とともにイギリスに引っ越した。
ケンブリッジのセントジョンズ大学で物理学を専攻し、1940 年にバーミンガム大学で博士
号を得た。第 2 次世界大戦中にはカリフォルニア大学バークレー校でマンハッタン計画に
参加し、戦後、核物理学から離れ、ロンドンのキングス・カレッジで同僚のロザリンド・
フランクリンらとともに X 線回折による DNA の構造研究を始めていたのである。 その後の分子生物学の発展は、20 世紀後半の科学に記す。 2331
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 【15-1-2】社会科学 社会科学は、個人と人間集団の社会生活を研究する学問で、20 世紀になると政治学・経
済学・歴史学・人類学・心理学・地理学・社会学などが含まれまれるようになった。 【①政治学】 政治を対象とする学問分野を政治学と言うが、政治学は 19 世紀半ば以降、20 世紀初頭に
かけて独立した学問領域として最終的に確立されたといえる。1880 年には政治学の専門教
育機関として、世界初の政治学部(政治学大学院)がアメリカ・ニューヨークのコロンビ
ア大学に設置された。さらに 1903 年には初の政治学の学術団体としてアメリカ政治学会が
誕生している。この時期に政治学には新たな動きが見られた。実際にどのように政治が作
動しているかという点に関する動学的な研究の登場である。これを以って現代政治学が成
立したとされる。 しかし、人類は政治学という学問には必ずしもなっていなかったが、政治(統治)はも
っとも重要な人類の行為であり、ギリシャ、ローマの時代から政治について考え、論議し
てきた。これまでの政治学の研究は哲学的・歴史学的・法学的(制度的)のいずれのアプ
ローチを取るにせよ、政治の枠組がどのようになっているか、或いはどのような枠組が望
ましいかということを議論してきた。 ○現代政治学以前の政治学 《古代ギリシャ・ローマ》 古代のギリシャやローマにおいては、ポリス(polis)やキウィタス(civitas。ラテン
語で「都市」「国家」)という特異な政治社会が形成されていた。ポリスやキウィタスを当時
のそれ以外の政治社会と区別する特徴としては、スパルタのリュクルゴスやアテナイのソ
ロン、ローマにおける十二表法の成立などに見られる、政治が制度によって問題解決され
るものという意識が存在したことであった。リュクルゴスやソロンは「立法者」と呼ばれ、
今日で言えば憲法に当たる法律を制定し、法制を敷くことで現実の社会構造の変化に政治
社会を対応させ、かつ専制を抑制する機能を果たした。 この時代を代表する哲学者としてはプラトン(前 427~347 年)とアリストテレス(前 384
~322 年)が有名である。 プラトンは、『国家(ポリテイア)』において、国の制度というものが人間を育てるもの
であると述べ、よい国制がよい人間を、悪い国制が悪い人間を育てるとして、よい国制に
ついて論じている。 プラトンは、よい国制は各自の能力によってその階級を決め(階級を認めていた)、適切
な位置に適切な人材を配置することによって実現できると述べており、したがって結果的
2332
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) には個人を不平等に扱うものであった。最適者、気概に富む者、民衆の三種類を想定し、
そのどれが社会において上位を占めるかに応じ、哲人王制、最適者支配制、富者による寡
頭制、民主制、僭主制の 5 つの国家体制を描き、どのようにそのような体制の交代があり
えるかを描写している。 彼は哲人王制を最良の政体とし、この順に劣るものとし、最低のものが僭主制であると
した。民主制もそれについで悪いとしている。ここにはプラトンの経験したアテナイの民
主制とシュラクサイの僭主制からの知見が投影されている。 プラトンの構想では、国家の守護者のうち、優秀な者を選んで哲学や哲学者になるため
の基礎分野の学習をさせ、老年に達した者に国政の運営を任せる。これが哲人王の思想で
あり、そのためにはイデア、ひいては善のイデアの直接な観想が必要であるとしている(善
のイデアについてはギリシャの歴史に記している)。 またプラトンは、軍人や統治者などの支配身分に属する者は私有財産を持ってはならず、
共有しなければいけないと述べた。これは支配身分が公共性を持たなければならないこと
を主張するもので、支配身分の者は 1:1 の結婚生活も許されず、支配身分の者から産まれ
た子供は親子関係も明らかにされずに国家の共有財産とされるべきことを主張した。この
ような政治社会の頂点に立って管理するのは、国家の教育者としての哲学者であるべしと
いう哲人王思想を述べた。 プラトンの弟子のアリストテレスはプラトンの政治論を、きわめて非現実的であり経験
に基づいていないと批判した。アリストテレスは『政治学』を著したが、政治学を倫理学
の延長線上に考えた。彼は「人間は政治的動物である」と定義する。自足して共同の必要
のないものは神であり、共同できないものは野獣である。これらとは異なって人間はあく
までも社会的存在であるとした。 アリストテレスの政治学は人間の本性の考察から出発する。人間は国家(ポリス)的動
物と捉えており、言語によって快苦や利害、善悪を共有することで家族や国家を作り出す
ことが可能な存在である。しかし生まれながら人間は最適な状態にあるわけではない。人
間は国家の形式の下で共同生活を行ないながら法によって指導されつつ作り出されなけれ
ばならない。そこで問題は人間にどのような国家の制度を適応するのかということになる。 人間の知性には限界があるため、正しく定められた法による支配が重要となる。法の支
配は市民の支配よりも優れているとアリストテレスは考えた。この法の正しさとは多くの
人びとに受け入れられていることによって根拠づけられる。正しい法であるかどうかは服
従する人びとによって評価されることが可能であり、またこれは試行錯誤の結果としての
被治者の評価である。つまり慣習によらない法は人を服従させる力を持たず、また長期の
時間を費やして力を得ていくものであるとしている。 2333
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 最善の国家体制とは何かを考えたプラトンによる『国家』の理想政治の議論とは反対に
アリストテレスは現実政治に着目してその国家体制を分類する。その基準は統治者の数と
統治の目的から表 15-1 のように、6 つの分類を提案している。それは単独支配、少数支配、
多数支配と公共のための統治か私事のための統治かという二つの基準を組み合わせたもの
である。公共のための単独支配は王制、私事のための単独支配は僭主制、公共のための少
数支配は貴族制、私事のための少数支配は寡頭制、公共のための多数支配は民主制、私事
のための多数支配は衆愚制である。 表 15-1 アリストテレスによる国制の分類 アリストテレスは政治における中庸の重要性も論じている。国家において富裕層は支配
することだけを知り、また貧困層は服従することだけを知る。このような社会は相互に対
立することになり、国家の成員としての友愛がもたらされない。つまり立法者は富裕層と
貧困層の中間的存在でなければならない。この思想にはアリストテレスの倫理学の道徳思
想が背景にある。 アリストテレス自身はひと目で見渡せる小規模のポリスを理想としたが、時代はすでに
アレクサンドロス大王が登場しポリスを超えた世界国家の形成へと向っていた。 共和政ローマの代表的な文人・政治家であるキケロ(前 106~前 43 年)はストア派の哲
学に影響され、自然法思想を政治研究に取り入れた。自然法とは、事物の自然本性から導
き出される法の総称である。自然法は実在するという前提から出発し、それを何らかの形
で実定法秩序と関連づける法理論は、自然法論と呼ばれる。
自然法には、原則的に以下の特徴が見られる。但しいずれにも例外的な理論が存在する。
①普遍性:自然法は時代と場所に関係なく妥当する。
②不変性:自然法は人為によって変更されえない。 ③合理性:自然法は理性的存在者が自己の理性を用いることによって認識されうる。 自然法の法源は、オーストリアの法学者ケルゼン(1881~1973 年)の分類に従うならば、
神、自然ないし理性である。ギリシャ哲学からストア派までの古代の自然法論においては、
これらの法源が渾然一体となっている。神が人間の自然本性の作り手として想定されると
2334
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) き、自然法の究極の法源は神となる。このことは理性にもあてはまり、神が人間に理性を
与えたことが強調されるときは、合理的な法としての自然法の究極な法源もまた神となる。
この傾向は特にキリスト教の自然法論において顕著である。例えば、アウグスティヌスに
とって、自然法の法源は神の理性ないし意思であった。また、トマス・アクィナス(1225
~1274 年)にとって、自然法とは宇宙を支配する神の理念たる永久法の一部である。 キケロに返ると、
『国家論』のなかでキケロは正義を自然法に基づくものとし、人は正義
のために生まれ、権利は自然に基づくと述べた。キケロはさらに自由と平等を関連づけ、
すべての公民が同時にかつ平等に自由を享受できる国家でなければ、それを自由の国家と
いうことはできないと述べている。キケロは共和政ローマの現実の国制を重視して機構論
を展開し、執政官・元老院・平民会の間に権力分立が成り立っていることは自然法に合致
し、それこそが自由を保障すると述べた。 キケロはカエサルとは異なり、共和政の範囲内でローマ社会の改革を企てており、
『国家
論』『法律』『義務について』の中で、第一人者(プリンケプス)の指導により元老院と平
民との融和をはかった。更にローマ法についてもギリシャ哲学を基に今までの事例中心だ
ったローマ法を体系的に再編成する等の作業を通じ、共和政の中身を改革することを政治
課題としていた。 キケロはこのような立場から、野心家カエサルの独裁を激しく非難した。紀元前 44 年 3
月 15 日にカエサルが暗殺された際、キケロは直接には関らなかったものの暗殺者を支持し
ており、数日後にブルータス等の暗殺者との会談を行っていたため、その後、マケドニア
属州へ逃亡したものの、紀元前 43 年 12 月 7 日、アントニウスの放った刺客により殺害さ
れた。 キケロがこのように政治社会と自然法を同次元に見ていたのに対して、帝政初期のスト
ア派を代表する政治家・思想家であるセネカ(前 1 年~紀元 65 年)は、現実の政治社会と
自然法は乖離していると述べた。自然法に基づく世界共同体・普遍的な世界は精神的なも
のであり、現実の政治社会で自然法に基づく平等を実現することは不可能で、社会はどこ
までも必要悪でしかないと述べた。 それもそのはずである。セネカの時代はローマ帝政のティベリウス、カリグラ、クラウ
ディウス、ネロ皇帝の時代で有能な政治家でもあったセネカは身勝手な皇帝に悩まされ続
け、とくにネロの家庭教師をしていたこともあり、その治世のブレーンであったので、最
後はネロに自殺を強要されたのである。 《初期のキリスト教と政治理論》 イエスの死が神の自己犠牲であり、その前提として人間の原罪を設定することによって
成立したキリスト教は、政治社会に特徴的な関わりをもつことになった。古代のギリシャ・
2335
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ローマの人間観が基本的に能力の調和的発展を理想としていたのに対し、キリスト教の人
間観は調和が失われ、分裂的であり、原罪を背負う矛盾に満ちた存在としてとらえていた
ことである。人間はこのような堕落から自力では逃れようがないのであるが、ただ神の慈
愛を受け入れ、それを信仰する生活に入れば罪から解放されるとされた。 ローマ帝国においてキリスト教が国教とされると、世俗の権力と教会の関係が徐々に大
きな問題となった。これを説明する理論として両剣論(theory of two swords)が現れた。
剣とは権威を意味し、5 世紀末の教皇ゲラシウス 1 世が教義の問題で皇帝と対立したときに
作り出された。この考えによれば、皇帝は物質的な剣を持つが、教皇は精神的な剣を持っ
ており、ともに神から別々に下されたものであり対等である。この 2 つの権力は相補的な
性質を持っており、皇帝は永遠の生命のために司教を必要とし、司教はこの世の秩序を維
持するために皇帝の力を必要とすると述べた。 ここに現実社会は皇帝の支配する世俗の帝国と教皇を頂点とする教会に二分されて把握
され、それぞれ固有の法(ローマ法とカノン法。カノン法(ラテン語)とはキリスト教会
が定めた法のこと)を持ち、それぞれ固有の行政組織・裁判権を持つと主張された。 中世の政治思想に大きく影響を与えたのが、アウグスティヌス(354~430 年)とその著
作『神の国』
(413~426 年)である。この著作は、当時北方からのゲルマン民族の侵入によ
って危機を迎えていたローマ帝国で発生したキリスト教批判に反駁する内容である。彼は
現実世界を「地の国」とし、その世界はいずれ崩壊するもので、永遠の「神の国」とは本
質的には異なるとした。 アウグスティヌスは教会も基本的には「地の国」の政治社会に過ぎないと述べたが、そ
れを通じて「神の国」に入るという意味では教会のほかに救いはないとした。アウグステ
ィヌスはキケロの正義論を引用しつつ、キケロのいう正義は信仰なしには存在せず、現実
のローマ帝国が没落していくのは正義を欠いているためだと結論づけた。 アウグスティヌス自身はプラトン(新プラトン主義)・ストア思想(ことにキケロ)に影
響を受けていた。すでにギリシャ教父はギリシャ思想とキリスト教の統合に進んでいたが、
アウグスティヌスにおいて新プラトン主義とキリスト教思想が統合されたことは、西洋思
想史を語る上で外すことができないほど重要なことである。またラテン教父の間にあった
ストア派、ことにその禁欲主義への共感を促進したことも、キリスト教倫理思想への影響
が大きい。 アウグスティヌスの思想として特に後世に大きな影響を与えたのは人間の意志あるいは
自由意志に関するものである。その思想は後のショーペンハウアーやニーチェにまで影響
を与えている。一言でいえば、アウグスティヌスは人間の意志を非常に無力なものとみな
し、神の恩寵なしには善をなしえないと考えた。しかし、忘れてはならないのはこのよう
2336
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) なアウグスティヌスの思想の背景には、若き日に性的に放縦な生活を送ったアウグスティ
ヌスの悔悟(『告白』(400 年刊)に赤裸々に記されている)と、原罪を否定し人間の意志
の力を強調したペラギウスとの論争があったということである。 アウグスティヌスは人間の原罪を強調し、幼児洗礼の必要性を説き、神たるキリストな
くして罪なき人生はありえないとした。これに対しペラギウスは、非常に博識で、ラテン
語のみならずギリシャ語にも通じ、神学にも非常に通じて、若い頃から道徳的に非常に清
い生涯を送ってきており、人間の意志を強調し人間の原罪を否定した。 結局、418 年、ペラギウスは異端とされた。原罪論には、アウグスティヌスの若き頃の放
蕩体験(性欲の最も強い時期)という個人的体験が強調され、人類一般が生まれつき原罪
を負うことになったとも考えられる。キリスト教会にとっては、人間が生まれたときから
罪多き弱き存在であるとするほうが、みんな頼ってくるから都合がよかったのである。 《中世国家と政治理論》
中世国家の特質としては、地域国家であったことが挙げられる。中世国家を支配する国
王のもとには国境も国土も国民も存在せず、その支配は契約関係に依拠するのであり、な
おかつその契約関係は流動的であった。次に国王だけでなく領主も軍事力を持っており、
ここでは、現代社会において国家の権力を強力ならしめている暴力(武力)の独占が行わ
れていなかった。
したがって、国王の公権力の性質と領主の私権力の性質は、暴力(武力)に関していえ
ば本質的な区別は存在しなかった。さらに法についても、伝統や慣習が重んじられた。そ
こには「古き良き法」としての慣習と支配関係を規定する契約があるのみで、国王の権力
もそれを改変することはできなかった。国王は契約によって支配したが、同時に契約に支
配されていたのである。 最後に、中世社会における教会の絶対的な精神的支配を挙げることができる。教皇は、
場合によっては国王以上の権威を持っていた。皇帝としてのドイツ国王も中世国家の上位
に存在する理念上の帝国(インペリウム)の統治者とされたが、実質に乏しかった上、教
皇の支配する教会のほうがより実質的にヨーロッパ世界を統合していた。中世社会では、
権力は世俗の国家・王権に、権威は教会に二元化されており、このことがのちのヨーロッ
パの政治社会を大きく規定した。
中世西ヨーロッパの政治社会は、その全体を覆う世俗の権力を持たなかったが、キリス
ト教共同体としては教会の精神的な支配のもとに統一されていた。このことは、人々の現
実生活が宗教によって制約されることにつながった。人間の精神的営みとしての文学、絵
画、音楽などの芸術・文化領域は教会に従い、学問も教義の権威に服することになった。
2337
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 学問においてまず優越されるのは神についての学問、神学であり、哲学をはじめとする諸
科学は神学に従属した。
中世に成立し、近代政治原理に影響を与えたものとしては、イギリスにおいて成立した
コモン・ローを挙げることができる。コモン・ローとはイングランド王国の一般慣習法と
いう意味で、11~12 世紀ごろから地方ごとに存在していたゲルマン慣習法を統合して成立
した。このコモン・ローは人為的に変更不可能とされ、13 世紀には法曹院が成立し、裁判
活動や法曹家の養成において支配的な役割を果たすようになり、コモン・ローは法曹院を
通じて整理・体系化された。 ここに君主の権力に対する「コモン・ローの優位」が確立され、コモン・ローは王権神
授説に基づくステュアート朝の絶対王政に対する有力な対抗理論となり、名誉革命後の権
利の宣言・権利の章典により王権神授説は否定され、議会主権の原理に結びついた。裁判
所はコモン・ローに基づくのみならず、議会の制定した法律にも従うべきことが規定され、
「法の支配」が確立された。 以後この思想は、イギリス法体系の基本原則となった。一方で、「コモン・ローの優位」
の思想は独立前後のアメリカにも大きな影響を及ぼし、しかもここではむしろ議会の制定
した法律に対する有力な対抗理論となった。それは議会の立法権に対する司法権の優位の
主張に結びつき、1803 年には違憲立法審査権の確立という形で成果となって現れた。 《近世の政治思想》 古代・中世の政治理論の継承・発展の末、近代的な政治理論と呼ばれうるものがやがて
登場した。近代的政治理論が初めてはっきりと形を現したのは、マキャヴェッリ(1469~
1527 年)とトマス・ホッブズ(1588~1679 年)の著作においてであった。 マキャヴェッリは古代ローマの共和政の伝統に影響を受けつつ、次第に現実主義的な思
想を形成していった。彼は政治においては何よりも現実認識が重要であることを説いた。
すなわち政治的な目的のためには現実に最も適合した手段がとられなければならず、場合
によっては道徳が犠牲にされることもありうるという主張である。これまで政治学は倫理
学と不可分に発展してきたため、政治と道徳もまた不可分であった。政治においては常に
道徳的に正しい手段がとられなければならなかったわけである。マキアヴェッリは政治を
道徳から解放し、政治学と倫理学が峻別される可能性を示したといえる。 一方のホッブズは、自由で自立した個人から如何にして政治的な共同体が成立しうるか、
もしくはこのような個人の集合としての政治的共同体のあり方はどのようなものが相応し
いかを考察した。ホッブズの理論は方法論的にはプラトン以来の哲学的方法を継承し、政
治学と倫理学の密接な関わりに疑問を投げかけたわけではない。彼の理論の斬新さは、個
人に着目しその個人間の契約として社会の成立を捉えたことにある。これがいわゆる社会
2338
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 契約論であり、ホッブズの理論はジョン・ロック(1632~1704 年)の批判的継承を経て近
代政治の背景思想を提供した自由主義に影響を与えることになった(ホッブス、ロックな
どの思想の詳細は啓蒙主義に記している)。 この他 16 世紀以降の概念で後世の政治理論に大きな影響を与えたものとして、グロティ
ウス(1583~1645 年)の自然法に基づく国際法の基礎をつくったことが上げられる。自然
法自体は古代の哲学やキリスト教神学にも存在する概念であるが、グロティウスは古来の
自然法から近代自然法の理論枠組を生み出し「国際法の父」といわれる。 またモンテスキュー(1689~1755 年)は、各国の諸制度をモデル化してそれらを通じて
体制の分類を行った。その上で理想の政治制度についての考察を行い、いわゆる三権分立
論を展開した。これ以降、憲法・法制度・政治制度を中心に政治の制度的側面の研究すな
わち法学的・制度的アプローチが盛んになった。 19 世紀のフランスでは進歩史観に基づき、フランス実証主義が成立した。これは秩序・
進歩・友愛によって人間知性が進化していると述べたオーギュスト・コント(1798~1857
年)を代表とする社会を肯定的に見るものであった。 一方イギリスでは、古典派経済学に影響されて功利主義思想が流行した。この思想の初
期を代表するベンサム(1748~1832 年)の「最大多数の最大幸福」という言葉に代表され
るように、道徳的規範や法規範の根拠を幸福の追求に求めるもので、その根底にはアダム・
スミス(1723~1790 年)が論じたような予定調和的な経済観があった。 続くジョン・スチュアート・ミル(1806~1873 年)はベンサムが幸福を物質的なものと
して捉えていることを批判し、精神的な幸福としての道徳を政治の基礎とした。彼は『自
由論』を著して言論の自由を訴えたが、その背景には人間の能力が本来的には調和的に発
展するものであるという人間性に対する信頼があった。彼の『代議制統治論』は代議政体
が最善の統治形態であることを主張するものであるが、同時に現実にさまざま存在する統
治形態は環境的条件などにより相対的価値を持っているとし、ただ民主主義政体であれば
よいというわけではないと述べた。 ミルは女性の解放には熱心で、婦人参政権運動などにも積極的に関わったが、反面労働
者階級による「階級立法」を警戒し、労働者問題には消極的であった。イギリス功利主義
もフランス実証主義も経済的自由主義、自由貿易を主張するものであった 《国家学と新カント学派(ドイツ)》 近代的な政治学理論はドイツにおいて国家学という形で発達し、そこでは政治社会は国
家として捉えられた。 2339
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 国家学は、主権概念と結びついた近世自然法思想の影響のもとに、国家有機体説とドイ
ツ観念論の国家主義的な傾向を受けて成立した。また国家学においてはヘーゲルに基づい
て社会の道徳的価値は国家に優越性が認められていた。 カール・シュミット(1888~1985 年)は、政治の本質は決断であると述べ、国家におけ
る決断の主体として主権を定義し、主権国家を擁護した。優柔不断な政治的ロマン主義者
が最終的に権威に屈従していく過程を観つつ、思想的状況に「決断」を下す独裁者を要請
した。現実的には優柔不断な政権よりはナチスの独裁の方がよいとして、ナチスとその拡
大政策の支持につながった。彼は『ヴァイマル・ジュネーヴ・ヴェルサイユとの対決』を
著し、ヴァイマル体制を批判していたので、それもナチスの目的と合致するものであった。
また、『政治的なものの概念』等で展開された「友-敵理論」(政治の本質を敵と味方の峻
別と規定)や例外状態理論は名高い。 ヘルマン・ヘラー(1891~1933 年)は国家学を政治学の一分野とし、従来国家学に政治
学が含まれてきたことを批判した。また、
「ワイマール体制は敗戦の結果強要された政治体
制で、ドイツの国民性に適合していない」とする見方があったのに対して、ワイマール体
制はドイツの近代政治思想の正統を継承するものであると擁護した。しかし、新たに台頭
したナチスはワイマール体制の打破を目的としていたので、ワイマール体制を擁護したヘ
ラーは亡命を余儀なくされた。 《マルクス主義政治学》 経済的な研究から階級主義的な歴史観を提唱したマルクスは、社会を階級に基づいて把
握することを提唱し、社会・国家の政治闘争を階級間の利害対立に還元する見方を示した。 《近代社会政策思想(ドイツ自由貿易学派と講壇社会主義)》 19 世紀に入ると社会政策も本格的に学問の対象とされ、主に経済学の影響を受けて社会
政策思想が成立した。
まず 1858 年にイギリスの功利主義・自由貿易主義に影響されて、ドイツの自由主義者が
「ドイツ経済者会議」を結成、それを根拠として「ドイツ・マンチェスター学派」が形成
された。彼らは貿易自由政策を重視するよう主張する一派で「ドイツ自由貿易学派」とも
呼ばれ、その中心人物はプリンス・スミスであった。 当時、ドイツを中心とする中央ヨーロッパ諸国はドイツ関税同盟を形成していたが、こ
の時期北東ドイツの農業地帯及び北海沿岸の港湾都市は経済上イギリスとの結びつきが強
く、彼らはその経済的利害を代表していた。具体的には、ドイツ関税同盟に代表される保
護関税政策を拡大することに反対し、むしろ不必要な高率の保護関税を廃止すべしと論じ
た。 2340
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 一方で、ドイツ国内の急速な工業化・先進化はとくに労働問題を先鋭化させ、労使関係
の調整が必要とされていることは明らかであった。講壇社会主義は主にアカデミックな立
場から、国民経済を、その崩壊を招きかねない労働問題・社会問題の激化から救出するこ
とを第一の目的としていた。この学派は「社会政策学会」という機関を持ち、代表する論
者はシュモラー及びブレンターノ、ワグナーであった。1900 年以降、シュモラーは、 上下
2 巻の『国民経済学概論)』を出版し、経済学界の巨匠としてドイツの支配階層や官界に大
きな影響力を持っていた。 ○現代政治学の成立 《多元的国家論(米英)》
19 世紀のイギリス、アメリカでは、功利主義、フランス実証主義、国家学の影響を受け
て多元的国家論が唱えられ、国家と社会を区別し、両者を包含する形で政治社会を捉えよ
うとする思潮がおこった。 国家学が政治社会を国家とほぼ同義に見ていたのに対して、アメリカやイギリスで興っ
た多元的国家論は、国家の役割をより限定的に見るものであった。コールは、社会を全体
性に基づく柔軟なコミュニティと、その内部に存在する目的性に基づくアソシエイション
に分類すべきと述べた。コミュニティは世界、国民、村落といった柔軟かつ多様な社会で、
その内部に会社、結社、組織などといった目的性を持った社会としてのアソシエイション
が存在しているとした。
これによれば、政治社会は国家学のように国家の利害に基づいて成立するのではなく、
多様なアソシエイションの利害の総合の上に成り立つものであるとされた。つまり政治学
の対象を国家だけでなく、社会のさまざまな集団に向けるものであった。 ハロルド・ジョセフ・ラスキ(1893~1950 年)は、 コールの論に基づいて多元的国家論
を唱えたイギリスの政治学者で、国家はアソシエイションの 1 つに過ぎないのであるから
道徳的優越性を持つものではないとして、政治学が国家中心に語られるのを批判した。 ラスキは、マンチェスターでポーランド系ユダヤ人の家庭に生まれ、オックスフォード
大学で学び、カナダ・マギル大学、ハーバード大学、ロンドン・スクール・オブ・エコノ
ミクス(LSE)などで教鞭をとった。1912 年、フェビアン協会を通じて、労働党に入党し、
労働党の幹部でもあった。1934 年のソ連訪問後、マルクス主義に傾倒した。イギリスでは
戦時中極めて評価が高く、戦後にはロンドン・スクール・オブ・エコノミクス政治科学部
長を務めた。 イギリスでは 19 世紀末から 20 世紀初頭にかけて、工業化と都市への人口集中が進み、
労使の階級対立やマスコミの発展により政治状況が急速に変化した。このような状況を受
けて 1867 年と 84 年の選挙法改正が行われ、労働者階級に広汎な選挙権が与えられたにも
2341
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) かかわらず、労働者の議会進出は緩慢であった。選挙権の拡大に伴って投票率は低下し、
政治腐敗や政治的無関心が蔓延し、候補者の当落は政治的業績や理念よりも容貌や演説の
巧みさ、広報活動や運動のテクニックに影響されるようになった。ウォーラスは、民主主
義が制度として確立されているのにもかかわらず、実際の状況がこのように民主主義の本
質とはかけ離れていることを危惧し、1908 年現代政治学の先駆的著作『政治における人間
性』を発表した。 同年、アメリカの社会学者ベントレーは、当時アメリカで流行していた制度論的政治学
を「死せる政治学」と批判し、『統治の過程』を発表した。彼は、政治とは利益を巡って形
成される党派間対立と、統治機構によるその調整過程であると述べて、制度的研究よりも
党派と政治の過程を重視すべしと述べた。しかし、ベントレーの主張は政治学界では当初
あまり重視されず、むしろ当時個別の学問として発展し始めた社会学に影響を与えるもの
だった。 《政治学の科学化―行動科学政治学》 ウォーラスの研究に依拠しつつ、心理学や政治的多元主義の影響を受け、1920 年代末に
シカゴ大学のメリアムとラスウェルを代表とするシカゴ学派が形成された。メリアムは経
験的研究では成果をほとんど挙げることはなかったが、問題提起と後進の育成に努力し、
彼の周辺では政治学の基本的目標と方法について活発な議論が行われた。メリアムは 1925
年に『政治学の新しい視角』を発表し、政治学の研究方法に心理学と統計学の導入を訴え
た。メリアムを創始者とするシカゴ学派の目的は、政治学の科学化であった。 第 2 次世界大戦後、このシカゴ学派の系譜から社会学や行動科学の影響を受け行動科学
政治学が成立した。この行動科学アプローチは「行動科学革命」と呼ばれるほどの衝撃を
学会に与え、政治学における主流の方法論となった。行動科学政治学の担い手は、デイヴ
ィッド・イーストン、ガブリエル・アーモンド、ロバート・ダールらであった。行動科学
政治学は政治学の科学化の一つの帰結であった。 こうした特徴は価値中立的で、自然科学の方法論に類似したものと考えられた。行動科
学政治学はデータに基づく実証分析を確立し、その後の行動科学的手法以外の手法をとる
政治学にも大きな影響を与えた。一方でこのようなデータに基づく実証は、膨大なデータ
を処理することが可能なコンピュータの出現により可能なものとなった。 行動科学政治学は、政治過程の分析と比較に関してこれまでにない成果を挙げた。代表
的な論者であるイーストンは政治現象を捉える一般的な枠組みとして、政治システム論を
構築した。これは政治現象を政治システムへの入力・政治システムからの出力・フィード
バックの総体と捉えるものである。入力は、具体的には人々の要求と支持であり、出力は
政策である。フィードバックは具体的には、政策とその結果が人々に評価されて、要求・
2342
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 支持に変化を起こしたり補強したりすることである。こうして、入力→政治システム→出
力→フィードバック→入力という循環が描かれる。説明はもっとも簡略なイメージであり、
循環の各節は以後の研究を通じて精緻化されることが予定された。 しかし、行動科学政治学はその後各方面からの批判を受けた。その結果現在でも一定の
影響力を持つものの、かつてのような政治学の中心的パラダイムの座を失っている。 こうした中で現代政治学の展開とともに軽視されてきた伝統的な政治学のあり方も見直
されてきた。その中でも政治哲学は 1970 年代に見事に復権を遂げたといえる。また制度論
的アプローチは、様々な科学的方法が制度を分析対象として採り入れ始めたことによって
新制度論に発展した。また 1950 年代以降にはアンソニー・ダウンズらにより経済学的方法
の政治学への導入が本格化し、合理的選択理論が政治学において台頭し始めた。 合理的選択理論は、ウィリアム・ライカーによるゲーム理論などのフォーマル・セオリ
ー、数理的分析の導入により精緻化され主要な方法論の座を占めるに至った。このように
現代において政治学の方法はさらなる多様化の様相を見せている。 【②経済学】 ○マーシャルの経済学 アルフレッド・マーシャル(1842~1924 年)は、ロンドンに生まれ、数学に対する素質
を現し、数学研究を志し、ケンブリッジ大学へ入学した。彼は 1868 年にモラルサイエンス
担当の講師に任命され、経済学の数学的厳密さについて改善を行い、経済学をより科学的
な職業にすることを望んだ。 1885 年 2 月、ケンブリッジ大学の政治経済学教授に選出され、教授就任講演で「経済学
者は冷静な頭脳と暖かい心を持たねばならない」と述べた。マーシャルの経済学はアダム・
スミス、デヴィッド・リカード、およびジョン・スチュアート・ミルの集大成であった。
彼が 1890 年に出版した『経済学原理』は長い間、イギリスで最も良く使われる経済学の教
科書となった。 彼は、ケンブリッジでは、経済学のための新しい学科の創設に努力し、1903 年にようや
く実現した。彼はケンブリッジ学派と呼ばれる学派を形成し、ケンブリッジでの彼の学生
達は、ジョン・メイナード・ケインズやアーサー・セシル・ピグーを含む、経済学史上の
大物となった。 マーシャル経済学の第一の特徴は総合性である。彼は数学、物理学、哲学、倫理学など
の思想遍歴を経て経済学に入った。この遍歴が彼の経済学に、倫理的要素、物理学的均衡 の概念、生物的成長の概念、数学的方法などの総合的性格を刻印した。 2343
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) マーシャル経済学の第二の特徴は、実践的性格である。貧民窟の散歩からはじまったマ
ーシャルの経済学は、いかにして貧困を取り除くかという問題意識で貫かれていた。経済
学は単なる「富の研究」ではなくて、「日常のビジネスの生活における人間の研究である」 というのが、
『経済学原理』巻頭の言葉であり、彼がケンブリッジ大学の政治経済学教授就
任講演で述べたことであり、彼が生涯をかけて経済学を独立させ、経済学者を育てようと
した目的であった。 貧困は人間性を堕落させるから除去しなければならない。これがマーシャルの出発点に
おける問題意識であった。彼の有機的成長論はこの問題を、
「騎士道」精神を備えた進取的
企業家が主導する経済成長と、それにともなう労働階級の所得増加ならびに意識変革でも
って、つまり一言でいえば「生活水準の向上」でもって解決されると考えたのであった。 リカードは資本と労働を追加的に投入していくと、追加的生産量は低減するという収穫
逓減の法則を前提としていたから、経済成長の未来に対し論理的に悲観的であった。これ
に対してマーシャルは、知的活動力を主要内容とする「組織」を土地・労働・資本に並ぶ
新たな生産要素として導入し、企業組織の改善(内部経済)と産業全体の組織(仕組み)
の改善(外部経済)が相互促進的に作用して収穫逓増がもたらされると考えたのである。 有機的成長の指標として賃金水準の上昇を重視したマーシャルは、労働組合の伸張に希
望をよせた。これは労働者の所得の増大が「生活水準の向上」に結びつくためには、労働
組合の力で教養や技術の向上、節欲や勤勉という価値観の育成がなされる必要があると考
えたからである。 労働階級の分配の改善は貧困を取り除き、生活水準の向上と、それにともなうすぐれた
道徳的性格、合理的能率的経済行動を生み出す。このことが労働生産性の向上を通して内
部経済を促進し、大規模生産とコストダウンをもたらし、長期では生産費が価格を決定す
るという価値・価格論と結びつくのである。 マーシャルはまた、「自由な産業と企業」が「生活水準の向上」に役立つことを確信して
いた。企業家にとっての「生活水準の向上」とは、たえざる技術の進歩と規模の拡大によ
って経済を有機的に成長させる合理的企業心の向上のことである。したがって、彼は企業
心を刺激する経済的自由主義が有機的成長には必要であるとみていたわけであるが、蓄積
した富を公益のために供する「経済的騎士道」を企業家が身につけているかぎりでの自由
主義であって、そうでない場合には企業家の社会的評価をくだす機関として名誉審所(公
正取引委員会のようなもの)の創設を唱えている。 このようにして、マーシャルは貧困除去という実践的課題を経済成長に関するビジョン
のなかで解決しようとしたわけである(このころ同じロンドンで貧困問題解決をはかるた
めの方策としてマルクスが書いた『資本論』に基づき、レーニンたちが階級闘争を画策し
2344
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ていた)。しかしこのことは同時に、国内生産力増大による競争力強化で、アメリカ、ドイ
ツに対抗するという、イギリスにとってのもう一つの実践的課題に答えることでもあった
(世界はまさに帝国主義に突入しようとしていた)。 ○ピグーの厚生経済学 アーサー・セシル・ピグー(1877~1959 年)は、1908 年にアルフレッド・マーシャルの
後任として 31 才の若さで政治経済学教授となり、1943 年まで務めた。 アルフレッド・マーシャルの後継者であり、
「厚生経済学」と呼ばれる分野の確立者とし
て知られる。その名称は、彼の主著『厚生経済学』(初版 1920 年)に由来する。「厚生経済
学」とは Welfare economics の訳であるので「福祉経済学」という感じである。 経済学はその時代の経済的な課題を解決するための方策として提唱される。ピグーの時
代になると自由競争への信頼はゆらいできた。すでにマーシャルの時代の 1875 年に始まる
大不況と労働運動の激化がピグーの時代になると一層暗い見通しをイギリス経済に与える
ようになり、独占の形成も進んだからである。また、アメリカ、ドイツなどの台頭でイギ
リス資本主義の対外競争力は脅かされた。そこで、資本主義の分配上の不公平を改善し、
同時に生産力の増強もはからなければならないというのが、ピグー経済学の課題となった。 彼の『厚生経済学』はこのような時代問題に答えようとする試みであった。そこでは国
民所得の分配の面を重点的に扱うこと、つまり、貧者に帰属する国民分配分の絶対的分け
前を増加させながら、この増大が同時に全体としての国民分配分(国民所得)を減少させ
ることがないようにするにはいかにすべきかが追究された。 生産的資源がある仕方で使用された場合、その資源は市場で売られる生産物のほかに副
産物(生産物購入者とまったく別人に有益または有害なもので、だれもそれに対価を支払
おうとしないもの。外部不経済)を生み出す。この場合、国家はその副産物が有害なもの
ならば、その種の副産物を生み出す産業を課税で規制し、有益なものならば補助金を出し
てそのような産業の規模を拡大し貢献すべきだとピグーは考えたのである。このときの課
税を、「ピグー税・補助金」あるいは単に「ピグー税」という(環境経済学の分野などで現
在も重視されている)。 このような自由放任の修正を行うさい、ピグーはベンサム以来イギリスの経済学の特色
となった功利主義思想にその哲学的基礎を求めた。「最大多数の最大幸福」と限界効用逓
減の法則と結合して、富を富者から貧者に移転することが社会全体の最大幸福の実現には
有効であると主張した。 ピグーの分配論はベンサムの効用理論から出発し、「比較的富裕な人々から、同じよう
な性格の比較的貧しい人々に所得のなんらかの移転が行われるならば、比較的必要度の(富
者の)低い欲望を犠牲にして、一層必要度の高い欲望をみたすことができるわけだから、
2345
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 明らかに満足の総和は増大するにちがいない」という。そして彼はこの結論が「効用逓減
の法則から確実に導かれる」という論理を立てた。彼は、功利主義という社会哲学を用い
て、貧者への所得移転が公共の利益になることを経済学によって証明しようとしたのであ
る。 労働市場における失業の問題に関しては、古典派の立場にたつピグーとこれを批判した
ケインズの対立があった。ピグーは、市場の自動調節機能(価格の伸縮性)を肯定する古
典派の立場から、労働市場における一時的な失業は価格調整(名目賃金の切り下げによる
実質賃金の下落)によって消滅して「完全雇用」が実現されるため非自発的失業は発生し
ないとした。 これに対して、後述するようにケインズは、ピグーら古典派の言う需給調整メカニズム
は労働市場においては機能しない、非自発的失業は総需要の不足に起因するとして、有効
需要の政府による管理を求めた。ピグーは古典派経済学が影響力を失っていくなかで最後
まで古典派の立場に立ち擁護したことから「古典派最後の経済学者」といわれた。 ○ケインズ経済学 ジョン・メイナード・ケインズ(1883~1946 年)は、ケンブリッジ大学ではマーシャル
の弟子であったが、1906 年大学を出るとインド省に入って以来、ケインズが活躍した分野
は極めて多い。キングス・カレッジのフェロー、雑誌「エコノミック・ジャーナル」の編
集長、大蔵省に入りパリ和平会議の大蔵省首席代表(1919 年、パリ講和会議に参加し、あ
まりにも厳しい対独賠償要求に反対して辞任し『平和の経済的帰結』を発表)、キングス・
カレッジの会計官、国民相互生命保険会社の取締役、ついでその会長(1921~38 年)、プ
ロヴィンシャル保険会社の取締役(1923 年以降)などの経営者、第 2 次世界大戦発生時に
は大蔵省の経済顧問となり、戦時対外金融問題について大蔵大臣への意見を具申し、1940
年には男爵を授けられて上院に入り、イングランド銀行理事に任命された。 第 2 次世界大戦末期に戦後の国際通貨体制(いわゆる IMF )について論じられたとき、
イギリスは「ケインズ案」を出し、アメリカの「ホワイト案」とともに、重要な役割を果
たした(結局、ホワイト案が採用された)。サヴァナでの IMF と世界銀行の設立総会から
帰国して間もなく、心臓病の発作に見舞われ、1946 年 4 月死去するまでケインズは驚くほ
ど多彩な活動をしたいた。 しかし、彼の名を不滅のものとしているのは「ケインズ革命」と呼ばれる『雇用・利子
および貨幣の一般理論』(1936 年)をはじめとする多数の著作や論文から生み出されたケ
インズ経済学である(前述の経歴のようにケインズは大学教授のような純経済学者であっ
たことはない)。 《有効需要の原理》 2346
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ケインズ経済学の根幹を成しているのは有効需要の原理である。それは大ざっぱにいえ
ば、一国経済全体の消費需要と投資需要の合計である総需要の大きさが、その産出量、国
民所得および雇用量の水準を決定するというものである。つまり需要が供給の大きさを規
定すると考えるのであるから、セーの法則(「供給はそれ自身の需要を創造する」と要約さ
れる古典派経済学の仮説)とは対照的な考え方を打ち出し、有効需要によって決まる現実
の GDP が、古典派が唯一可能とした完全雇用における均衡 GDP を下回って均衡する不完全
雇用を伴う均衡の可能性を認めたものである。 つまり、生産量が増加すれば、それにしたがって雇用量も増えるわけで、失業者がいる
のは社会全体の生産量、したがって有効需要が不十分であるからだということになる(古
典派が考えたように賃金の引き下げは雇用を増加させないし、現実的にも賃金の引き下げ
はできない)。 そこでケインズは、政府が主導して資本の流出を防ぎ投資機会を創出することで国民経
済の充実をはかることを提唱したのである。もともとケインズは、景気対策として中央銀
行の介入による利子率のコントロール(金融政策)に期待していたが、のちの『一般理論』
においては企業の期待利潤率の変動や流動性選好などの制約で金融政策が奏効しない可能
性を認め、雇用量を制約する生産量の引き上げの方策として公共投資(財政政策)の有効
性を強く主張するようになった。またケインズの提案は、失業手当の代替策としての性格
を持っていた(当時の失業率は 10%を越える状況にあった)。また過剰生産力の問題を伴わ
ない投資として住宅投資などが想定されていた。 《ケインズは乗数の理論》 ケインズは乗数の理論を導入し、完全雇用を実現するために、それをもたらすために不
足した有効需要分だけの投資を増やさなくても一定の投資増加が所得を増加させれば、乗
数効果によって、それがさらに所得を増加させ、それにともなって雇用を増加させるとい
う波及効果を通じて、最終的には当初の投資の何倍かの所得を生むから、当初の有効需要
と完全雇用をもたらす有効需要との差ほどの大きさはなくてもよい。 このケインズ経済は当時のイギリスという社会のなかで生まれた。ケインズの生きた時
代のイギリスでは、経済の成熟化で国内での投資機会が希少になり(高度経済成長を終え
た現在の日本のような状態)、また自由な資本移動の下で資本の国外流出を阻止するための
高金利政策が国内投資を圧迫するというジレンマに悩んでいた(現在の日本は別の理由か
ら低金利政策をとっているが)。 そこでケインズは公共投資(財政政策)などの有効性を強く主張するようになったので
あるが、これはいつまでも長く続けるわけにはいかないことは明らかである。もともとケ
インズ政策の総需要管理政策は、不況時には財政支出の増大・減税・金融緩和などにより
2347
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 有効需要を増やすことにより生産と雇用は拡大するというもので、反面、インフレーショ
ンの加速した際には政府支出の削減・増税・金融引締めによる有効需要の削減を推奨する
もであった。 しかし現実には民主主義的な政治過程の中で、好況時の引締めが政治的に不人気な政策
となることが明らかとなり、先進資本主義国において、長期的に政府の財政赤字が累積的
に増大するという問題が発生した。また公共投資がそれを発注する権限を持つ官僚とそれ
を受注する私企業との間の癒着をもたらし、これらが問題視されるようになった。 ケインズの生きた時代は産業革命が終わり、労働者は豊かになり、国内のインフラも整
い国内には投資先があまり見出せない時代であった。ケインズは、企業者と労働者とから
なる活動階級と資金の供給側である投資者(債権者)からなる非活動階級 の 2 階級観をも
っていた。 ケインズは、インフレーションは金利生活者に損失を、デフレーションは失業によって
労働者に損失をもたらすものと見ていた(『貨幣改革論』)が、ことにストックの価値を高
めるデフレーションは、活動階級の犠牲の下に貨幣愛に囚われた非活動階級に利得を得さ
せるものととらえ、これを緩やかなインフレーションよりも問題の多いものと見ていた。 また、ケインズは、本人の活動によらない富に対する課税として相続税の極端な強化を主
張しており、総じて「金利生活者の安楽死」という表現に象徴されるように、非活動階級
から活動階級への経済上の支配権の交替を求めていたという背景があったと考えられる。 《その後のケインズ経済学》 これらの彼の提唱した理論を基礎とする経済学を「ケインズ経済学」(「ケインズ主義」
という言葉もある)と呼ぶ。このケインズの考え方は経済学を古典派経済学者とケインズ
派経済学者(ケインジアン)に真っ二つに分けることとなった。そのため、ケインズ理論
の提唱は、のちの経済学者によってケインズ革命と呼ばれた。 ケインズの有効需要創出の理論は、大恐慌に苦しむアメリカのフランクリン・ルーズベ
ルト米大統領によるニューディール政策の強力な後ろ盾となった(ニューディール政策は
アメリカの歴史で述べている)。 ケインズが展開した経済学は、後にアメリカでサミュエルソンらにより古典派経済学の
ミクロ理論と総合(新古典派総合)され、戦後の自由主義経済圏の経済政策の基盤となり
ジョン・F・ケネディ政権下での 1960 年代の黄金の時代を実現した。 しかし、その後のオイルショックに端を発するスタグフレーション(インフレと景気後
退の同時進行)、それに続く 1970 年代の高インフレ発生などの諸問題の一因として、ケイ
ンズ経済学は責任を問われることとなった。とりわけ、原油などの原材料価格の急激な高
2348
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 騰により発生した供給側のコスト増大に対して有効な解決策を提示・実現することができ
ないものとして、反ケインズ経済学からの批判を浴びることになった。 この批判の中で、ミルトン・フリードマンが唱えたマネタリズムや供給側の改善を主張
するサプライサイド経済学などの諸学派が台頭し、
「ケインズは死んだ」とまで言われるよ
うになった。 ○シュンペーターのイノベーション論 少しさかのぼって、ケインズと同年代のヨーゼフ・アーロイス・シュムペーター(1883
~1950 年)は、オーストリア出身の経済学者で、企業者の行う不断のイノベーション(革
新)が経済を変動させるという理論を構築した。 シュムペーターは、ウィーン大学で 1906 年に法学博士の学位を取り、1911 年にグラーク
大学教授に任命され、1912 年、29 歳のときに『経済発展の理論』を出版した。シュムペー
ターは、1925 年、ボン大学の教授に就任し 、1927 年、 ハーバード大学の客員教授を引き
受け、後半生はアメリカで過ごした。 マーシャルは「自然は飛躍せず」をモットーにしたが、シュムペーターは「私は彼に、
少なくとも人間の文化の発展、とくに知識の発展は全く飛躍的に起こることをもって反対
したい。力強い跳躍と沈滞の時期と、溢れんばかりの希望と苦々しい幻滅とが交替し、たと
え新しきものは古きものに根ざしていようとも、発展は決して連続的ではない」とのべて
いる。 では、資本主義経済を非連続的に発展させる原動力は何であろうか。それは創造的企業
家の行う新機軸ないし革新(イノベーション)であるとシュムペーターはいう。経済の流
れの慣行化した軌道を破壊して、新しい枠組みをつくり出す革命的な変化が、ここでいう
革新であるが、その破壊的エネルギーの源泉を彼は創造的な企業家のなかに見出すのであ
る。 《イノベーションとは》 イノベーションとは、経済活動において旧方式から飛躍して新方式を導入することであ
る。日本語では技術革新と訳されることがあるが、イノベーションは技術の分野に留まら
ない。シュンペーターはイノベーションとして、①新しい財貨の生産 、②新しい生産方法
の導入 、③新しい販売先の開拓 、④新しい仕入先の獲得 、⑤新しい組織の実現(独占の
形成やその打破) の 5 類型を提示した。 そういう企業家は、新しい商品、新しい生産方法、新しい市場、新しい資源供給源、新
しい組織の開発など、一般に「新しい事柄を新しいやり方でやる」「新結合」を生み出す。
それは費用曲線をたえず下方へ移行させる新生産関数の導入である。 2349
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) イノベーションの実行者を企業者(アントレプレナー)と呼ぶ。この意味における企業
者は、一定のルーチンをこなすだけの経営管理者(土地や労働を結合する)ではなく、生
産要素を「全く新たな組み合わせ」で結合し(新結合)、新たなビジネスを創造する者とし
て重視される。新しい産業の仕組み、ニュービジネス・モデルを創造する者ということに
なる。この点を明確にするため近年は起業者と訳されることがある。 ではそれを実現する革新的企業者(アントレプレナー)はどのようなタイプの人間がな
るだろうか。 《革新的企業者(アントレプレナー)とは》 彼は新結合を創造する存在である。創造は計算づくとは異なる、冒険と無駄を覚悟せね
ばならない人間の営みである以上、彼は「石橋をたたいて渡る」タイプの行動ではなく、
「航
海は荒波はつきものである」というような行動様式をとる。このように新結合を行う企業
家が特殊な意志と能力を備えた者だとすると、新結合は誰にでもできるという種類のもの
ではなくなる。シュムペーターは、それは天才的な少数者によって行われるという。 この新しい可能性を現実のものにする企業者は社会成員の間に平均的に分布しているの
ではない。しかも天才的才能は生涯持続するのではなく、ある期間、たとえば「神聖で多
産の 20 代」に発揮されるだけであるから、革新企業者は次々に生まれては消えていく。シ
ュムペーターは景気循環、企業利潤、私有財産の形成の本質を、こういう天賦の指導者の
形成と交替の過程としてとらえている。 《シュムペーターの『経済発展の理論』》 資本主義経済ではイノベーションの実行は事前に通貨を必要とするが、起業者は既存の
マネーを持たないから、イノベーションを行う起業者が銀行から信用貸出を受け、それに
伴い銀行システムで通貨が創造されるという信用創造の過程が重要であるとシュンペータ
ーは強調した。「銀行家は単に購買力という商品の仲介商人なのではなく・・・彼は新結合
の遂行を可能にし、いわば国民経済の名において新結合を遂行する全権能を与える」とシ
ュンペーターは語っている。 こうして資金を得た革新企業者は新結合にのり出すが、それは新生産方法の採用によっ
て生産物単位当りの総費用を既存企業よりも低下させる。他方、生産物は既存企業と同じ
現行価格で販売されるから、その結果、収入は費用を超過する。この差額が(企業者)利
潤であり、利子はここから支払われる。革新に成功した企業者は新生産関数のもとで利潤
をうるが、この利潤は非凡な才幹を発揮したものに与えられるいわば独占利潤である。 しかしやがて既存企業も競争の圧力のもとに新事態に適応しようとする。この過程はあ
くまでも、(創造と)模倣・伝播の原理に基づく、革新の模倣、事態への適応であって、決
して創造性を必要とするものではない。こうして孤高の革新は既存企業によって集団的に
2350
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 採用されていく。このような新結合の群生的出現は、先駆的企業の利潤を消滅させるとと
もに、社会全体の投資の増加、新しい購買力の大量出現、物価騰貴、賃金・利子率の上昇
などを引き起こし、ここに好景気が出現する。 しかし好況は持続しない。新結合による新生産物の大量的出現はやがて価格の下落にみ
ちびき、利潤はゼロかあるいはマイナスにさえなる過程が続く。銀行信用の返済時もやっ
てくる。次の新結合はリスクの著しい増大のためにまだ起こらない。こうしてデフレーシ
ョンと不景気がやってくる。だが、この景気の反転は新たな均衡に向かう過程でもある。
その後退と整理の過程がおわると、新たな均衡状態が近似的に達成され、再び新結合が可
能となり、新たな景気の高まりが起こる。 このように、起業者が銀行組織の信用供与(銀行からの借入)を受けてイノベーションを
実行すると経済は撹乱されるが、その不均衡の拡大こそが好況の過程であるとシュンペー
ターは考えた。一方で、イノベーションがもたらした新しい状況において独占利潤を手に
した先行企業に後続企業が追従して経済全体が対応し、信用収縮(銀行への返済)により
徐々に均衡化していく過程を不況と考えた。 以上は、シュムペーターの初期の『経済発展の理論』における基本的な見方であるが、
後の大著『景気循環の理論』(1939 年)では景気循環の過程をより緻密に考察した。 ○レオンチェフの産業連関表 ワシリー・レオンチェフ(1905~1995 年)は、ソヴィエト連邦のレニングラード(現ロ
シアのサンクト・ペテルブルグ)に生まれ、15 歳でレニングラード大学に入学し、1925 年
に 19 歳で経済学修士号を得た。ベルリンのフンボルト大学で研究を続け、1929 年に投入産
出分析と経済学の専攻で経済学博士号を得た。 レオンチェフが産業連関表の構想をはじめて打ち出したのは 1925 年の論文「ロシア経済
のバランスについて」であったといわれる。だが彼が本格的にその研究に取組み始めたの
は、1931 年アメリカに渡り、全米経済研究所に関係したからであり、産業連関分析に関す
る最初の本格的業績は 1936 年にアメリカを対象として作成したものが最初であった。 そして産業連関表の分析方法とそれを駆使してアメリカ経済の実証分析を行った成果は
1941 年に、
『アメリカ経済の構造、1919-1929』、ついで 1951 に第 2 版が『アメリカ経済の
構造―産業連関分析の理論と実際』として出版された。 具体的に産業連関表の概略を述べると、産業連関表は、図 15-5 のような行列(マトリ
クス)構造となっている。 2351
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 図 15-5 産業連関表 投入構造……表を縦にみると、ある産業の生産額のうち、どのくらいが原材料で、どの
くらいが従業員の給与や企業の利益になっているかをみることができる。 産出構造……表を横にみると、ある産業の生産額が、他の産業の原材料や個人消費、輸
出などに、どれだけ向けられたかをみることができる。なお、粗付加価値額と最終需要の
間には、粗付加価値額 = 最終需要 - 輸入 という関係がある。 財・サービスといった産業ごとの生産構造(どの産業からどれだけ原料等を入手し、賃
金等を払っているか)、販売構造(どの産業に向けて製品を販売しているか)をみることが
でき、経済構造の把握、生産波及効果の計算などに利用される。 そもそも経済学は 18 世紀のケネーの『経済表』
(1759 年)から始まったことは述べたが、
それを 20 世紀にコンピュータをつかって緻密に仕上げたのが、レオンチェフの産業連関表
であった。複雑化・膨大化した一国の経済を把握するには、それを可能とする手法・計測
法・指標が必要であり、レオンチェフの産業連関表は現代経済学の基本資料となるもので
ある。 産業連関表を使用した分析例としては、例えば公共事業として税金を使いダムを建設す
ると、建設業の売上が増える。さらに、ダムの材料や機械などを消費することによってこ
れらの産業の売上とひいては利益が増える。利益を得た産業の従業員の給与も上がるから、
従業員がお金を使い消費も増えるといったような分析もできる(前述したケインズは乗数
の理論や波及効果も算出できる)。そうした意味で、産業連関表は経済全体像を網羅してい
るものでもある。 《産業連関分析は実証(社会)科学の基礎ツール》 第 2 次世界大戦末期に、アメリカで戦後の景気についての予測が各方面から行われたな
かで、レオンチェフの産業連関分析が最も的確な予測をしたことで注目された。レオンチ
ェフの理論とそれが要請する膨大なデータの作成によって、ここに経済学が実証科学とし
てその有効性と実践性を立証した。以後、資本主義国、社会主義国、先進国、発展途上国
2352
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) を問わず産業連関表が作成されるようになった。日本でも 1955 年に最初の産業連関表が作
成されて以後、5 年おきに作成されている。 産業連関分析は、経済学をあたかも自然科学のように、実証可能な科学に高め、現実の
多くの諸問題への適用可能な分析用具となった。経済計画や経済予測をはじめ、経済開発
の戦略決定、発展途上国援助の問題、資源・公害環境問題、軍縮の効果と測定の問題など、
きわめて広範な問題の科学的な解決に貢献してきた。 レオンチェフは 1948 年にハーバード経済調査事業を立ち上げ、1973 年までその所長にと
どまった。1970 年、アメリカ経済学会会長となり、1973 年にノーベル経済学賞を受賞した。
1975 年から 1999 年までニューヨーク大学の教授を務めた。 ○ロストウの経済発展段階説 ウォルト・ホイットマン・ロストウ(1916~2003 年)は、産業革命後のマクロな経済発
展段階説を組み立てた。その中の用語である「テイク・オフ(離陸)」は広く知れわたっ
た。 ロストウはニューヨーク市生まれ、イエール大学を最年少で卒業し、1940 年同大学院よ
り博士号を取得し、オックスフォード大学に留学した。1940 年、コロンビア大学、1949 年、
ケンブリッジ大学、1950 年、マサチューセッツ工科大学で経済学を教えた。 『経済成長の諸段階』は、1958 年にマサチューセッツ工科大学の休暇年度でケンブリッ
ジ大学に滞在したときに行った一連の講義がもとになっている。当時、ロンドンの『エコ
ノミスト』がこの講義を「戦後経済学者の行った政治経済論のもっとも刺激的な貢献」と
称賛してその要旨を掲載して有名となった。 ロストウは、経済発展には伝統的社会、離陸のための先行条件、離陸、成熟への前進、
高度大衆消費時代の 5 段階に分けられるとした。 《伝統的社会》 伝統的社会とは、基本的には農業社会である。近代科学と技術がまだ規則的組織的に応
用されるにいたっていない。生産性の限界のため、資源の大部分が農業に向けられ労働人
口の 75%が農業に従事している。投資率は国民所得の 5%以下である。縦の人的移動が行
われ比較的少ない階層的社会構造をもち、家族や氏族のつながりが社会組織のなかで大き
な役割を演じる。 《離陸にための先行条件》 中世社会の解体が離陸のための先行条件であり、それは 17 世紀の終わりから 18 世紀の
はじめにかけて西ヨーロッパでおこった。イギリスは、地理的条件、自然的資源、貿易の
可能性、社会的政治構造の点から離陸の先行条件を完全に発展させた最初の国となった(イ
ギリスの産業革命の前段階として記したこと)。 2353
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 伝統的社会から離陸へのこの過渡期の特徴は、次の点にあるとした。 ① 過渡期が成功するための本質的条件は投資の増加である。投資率は 5%を上回る程度と
なる。しかし投資率を引き上げるには、社会のなかで誰かが、近代科学とコスト切り下
げ型の発明をし応用することができなければならない。そこで、基礎科学、応用科学、
生産技術変革の先導、経済的危険の負担、仕事の条件や方法、これらすべてに対する社
会の現実的態度の根本的変化が必要となる。 ② 農業と採掘産業(鉱業)における生産性の増加が重要な意義をもつ。農業と採掘産業の
発展は、第一に都市に居住する工業人口を支え、第二に工業資源を供給し、第三に農業
者の実質所得増加による有効需要を創出し、第四に農民への課税を可能にして政府の経
済的活動の基礎をつくり出す。さらに農業で生まれる余剰所得はそれを贅沢な生活に浪
費する人々から投資家の手に移さなければならない。このように農業生産性の向上と農
業所得の上昇の環境そのものが、離陸に不可欠な新しい近代工業部門の誕生に重要な刺
激を与える(イギリスにおいては、農業革命、それによる人口の増大、ジェントリー・
ヨーマンリー層の資本蓄積など)。 ③ 道路・港湾などの社会的間接資本も過渡期において決定的な役割をはたす。社会的間接
資本は、懐妊期間が長く、巨額で非分割的であり、その利潤が企業家に直接返ってこな
い点で、その建設は政府の役割となる。 《離陸(テイク・オフ)》 離陸期においては、新しい工業が急速に発展し利潤を生み出し、その利潤の大部分が新
しい向上設備に再投資される。これらの新しい工業が今度は工場労働者に対する需要およ
びそれらの労働者の生活に必要な財やサービスへの需要の増大をひきおこし、都市の発展
や近代的工業設備の一層の拡大を刺激する。近代的工業部門の拡大は、高率の貯蓄を可能に
するだけでなく、その貯蓄を近代的部門に従事する人々にゆだねて所得を増加させる。企業
家という新しい階級が中心的地位を占め、彼らは増大する投資の流れを私企業部門に導く。
私企業部門の発展がこれまで利用されなかった資源や生産方法の利用を促進する。農業の
生産性も革命的に増大し、新技術の農業への応用が普及する。経済の基本構造とともに社
会的政治的構造も変革されていく。 この離陸期はイギリスでは 1783 年以後の 20 年間、フランスとアメリカは 1860 年までの
数十年間、ドイツは 19 世紀の第 3・4 半期、日本は 19 世紀の第 4・4 半期、ロシアとカナ
ダは 1914 年以前の 25 年ほどの間、インドと中国は 1950 年代にそれぞれ離陸したとロスト
ウはいう。 2354
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 十分な力をもった一つないしそれ以上の製造業部門が高い成長率で発展した。イギリス
の場合は綿織物工業であったが、アメリカ、フランス、ドイツ、カナダ、ロシアでは鉄道
の敷設が最も強力な始動力となった。 《成熟への前進》 離陸という産業革命がはじまってから約 60 年後(離陸が終わってから 40 年後)に成熟
期の段階に到達する。成熟が達成された概略的日付は、イギリス 1850 年、アメリカ 1910
年、ドイツとフランス 1910 年、日本 1940 年、ロシアとカナダ 1950 年であるという。 成熟期には、国民所得の 10~20%が着実に投資され、産出量は常に人口の増加を上回り、
技術は改良され新しい産業が次々に登場し、経済構造は絶えず変化する。離陸期の間、経
済の焦点は鉄道とその周辺の石炭・鉄・重機械工業であったが、成熟期にはより精巧で複雑
な工程をもつ工作機械・化学製品・電気機械へと移った。成熟期には、経済はその離陸に力
を与えた最初の産業を乗り越えて進みうる能力を誇示する。一国の経済は世界経済の一環
となり、かつて輸入されていた商品が国内で生産され、新たな輸入需要がおこり、それに
見あう新たな輸出品がつくり出される。 《高度大衆消費社会》 成熟がその終結に向かって進むにつれて 3 つのことが起こる。 ① 成熟が進むと都市人口が伸張し、事務労働者、半熟練労働者の数が増加し、さらにこれ
とならんで、高度な技術者と知的職業人の数が増加する。労働者の団結と組織化が進み
高賃金と雇用の保障、福祉の達成が当然のこととして要求されるようになる。イギリス
では 1840 年代の工場法にはじまる数多くの人道的改革を次々に行わせたと同じ政治的・
社会的圧力の基礎が築かれて行く。 ② 指導者の性格が変化する。掠奪型の綿織物成金、鉄道成金、鋼鉄成金、石油成金から、
高度に官僚化された細分化された機構のなかでの有能な職業的経営者が生まれてくる。 ③ 社会が工業化の進歩にいささかあきるはじめる。工業化社会に対するミルやマーシャル
のような穏健な批判者、マルクスのような根本的変革者、フェビアン主義者などがこう
して登場する。 いずれにせよ、成熟の達成期には、実質所得が増え、社会の構造が変化し、社会の見通 しが多面的になる。そこで人々はもっと多くの福祉と余暇か、消費財の増大か、成熟した
社会の英姿を世界の舞台で主張するか、の選択をせまられることになる。したがって、成
熟期は新しい望み多い選択を提供する時期であるとともに、対外膨張主義への道を準備す
る危険な時代でもある。 ロストウは成熟が達成された段階においては、3 つの目標と方向が存在するとしている。
第一は、増大した資源を軍事政策および対外政策に振り向け、対外的勢力と影響力を国家
2355
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 的に追求する道である。第二は、自由市場機構では達成されなかった人間的・社会的目標
に到達するために国家の諸権力を用いる福祉国家の道である。そこは、景気循環の振幅の
緩和・社会保障の拡大・所得の再分配・労働時間の短縮が含まれる。第三は、消費水準を基本
的な衣食住をこえて拡大し、耐久消費財やサービスの大衆消費に向かう道であるが、これ
が高度大衆消費社会である。 そして、ロストウは、アメリカは成熟から高度大衆消費時代へ急激に動いた最初の国で
あった。そしてその転換点はフォードによる組み立て工程の流れ作業の導入(1913~14 年)
であった。1920 年代には安い自動車が普及したおかげで郊外に住宅建設ブームがおこり、
家庭用耐久財と高級食品の大衆市場が生まれ、ここに高度大衆消費社会が登場した。 ロストウは西ヨーロッパと日本が 1950 年代には完全にこの局面に入り、ソ連は技術的に
はいつでもこの段階に入る用意があり、市民もそれに餓えているが、この段階がはじまる
と共産主義指導者は新たな政治的・社会的困難に直面することになるだろうとみている。
いずれにせよ、ロストウ史観では、世界の先進国はすべておそかれ早かれ、高度大衆消費
社会に突入するはずであるとみている。 ロストウのこの『経済成長の諸段階』は、1958 年の講義がもとになっているので、1950
年代時点での世界経済の見通しで終っている。その後については、筆者の私見を 20 世紀後
半の歴史で述べる。 【③歴史学】
○現代歴史学(多様化の時代) 現代歴史学は文化史、唯物論歴史学という全く異なる方向性を追求する歴史学へと発展
したが、一方でそれらとは別個に歴史研究における構想力を重視し、幅広い要求に応える
ダイナミックな歴史学とその方法論の追求がなされ、クローチェ、トレルチ、ピレンヌ、
マックス・ウェーバー、アナール学派、ウォーラステインの世界システム論、ジャレド・
ダイアモンドなどの歴史学者が理論を展開したが、ここでは省略する。 ○歴史観の変遷 歴史観とは上記の方法論によって導き出された様々な歴史的事象の関連性や構造を考察
する上において、どのような要素を重要視しているかの違いを指す用語である。歴史的事
象の間に関連を見出そうとすることは歴史学にとって重要な営みの一つだが、その際、論
者の歴史観によって大きく見方や意見は異なってくる。ここでは時系列順に以下のような
主な歴史観について述べる。 《古代・中世の神話・宗教的普遍史観》 2356
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 古代ヨーロッパでキリスト教の影響力のもと、神話上の出来事を史実として記す普遍史
観が成立した。神学者アウグスティヌスの『神の国』のように、聖書(旧約聖書・新約聖
書)をそのまま事実ととらえ、天地創造 - アダム - ノアの方舟等を経てイエスが誕生し、
現在があり、やがては最後の審判を迎えるという流れが存在するという中世にわたって支
配的な歴史観であった。これは後の啓蒙思想の時代に否定されたが、歴史には一定の目的
があるとする発想は後世にも大きな影響を与えている。 一方で中世における年代記は事象の相互関連を考察せず、ただ事実を列挙していくスタ
イルを取っている。
「歴史観」を持たないこれらの書物を執筆した著者の関心は、戦闘など
の特異な出来事や、華やかな祭典などに向けられていた。 《ルネサンス以降の進歩史観》 ルネサンス以降、自然科学が発達し自然界に多くの法則があることが証明されてくると、
歴史の中にも何らかの法則があるのではないかという思潮が高まり、啓蒙思想の時代にな
ると、歴史は法則に基づいて無知蒙昧な時代から啓蒙の時代へと進歩してゆくという歴史
観(進歩史観)が主流となった。 哲学者ヘーゲルは人類の歴史の世界史的発展過程により理性(絶対精神)が自己を明ら
かにするものとしてとらえた。これも進歩史観の一つである。 《進歩史観のホイッグ史観》 近代イギリスにおいて、歴史上の出来事を「進歩を促した者」と「進歩を阻害した者」 という極端な二元論で解釈するホイッグ史観(現代の進歩をもたらした功労者がホイッ
グ・プロテスタントであり、それに逆らった者がトーリ党・カトリックであるというホイ
ッグ党の史観)が成立した。歴史に法則的進歩が存在することを前提としているため、後
述する唯物史観同様、進歩史観から派生した歴史観の一つとしてとらえられる。 《ランケの実証史学》 前述したように歴史学者ランケは法則性の論証を優先して史実を乱雑に扱う進歩史観に
反発し、その反動として徹底した実証主義的証明に基づく近代的な研究方法を確立し、歴
史学を科学に高めた(実証史学)。ランケはヘーゲルらの歴史法則論を否定し、また法則性
が求められた遠因とも言うべき実用性を至上視する学問の傾向に対して警鐘を鳴らした。 《マルクスの唯物史観》 哲学者マルクスはヘーゲルの進歩史観を継承しつつ、思想や観念を歴史の原動力とした
部分を批判、経済的な関係こそが歴史の原動力であるとした唯物史観を確立した(『共産党
宣言』『資本論』)。また、生産力と生産関係の矛盾が深まると社会変革が起こると考えた。 《ウェーバーの宗教社会学》 2357
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 社会学者・経済学者マックス・ウェーバーは、
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義
の精神』(ウェーバーについては 19 世紀の社会科学参照)において、人間の行動を規定す
るものとして宗教に注目し、宗教倫理と経済活動の関連を研究した。ウェーバーのこうし
た手法は、文化的な差異が歴史の進展にも差異を生じさせていることを明らかにした。ま
た、ウェーバーは学問に価値判断(例えば社会主義が正しい、革命は必然的である等)を
持ち込むことを厳しく批判した。 《アンリ・ピレンヌの経済史的歴史学》 前述のベルギーの歴史学者アンリ・ピレンヌ(1862~1935 年)は経済史の側面から経済
的要素が歴史に重要な影響を与えることを論証した。ピレンヌの研究は同じ経済を重要な
要素として位置づけている点では唯物史観と一致しているものの、図式的な見方を拒否す
るなど一線を画した内容となっている。 ピレンヌはドイツの実証的な歴史学を受けて、「理念」よりも「事実」に重きを置き、
歴史一般を動かす動因は経済上の力、つまり商業と工業であると仮定した。論文「資本主
義発達の初段階」では、12 世紀に中世資本主義の初期の段階があることを立証した。ベル
ギー国家の起源について、それを「民族の本質」から説明せず、マース川とシェルデ川に
よってロマンス語地帯とゲルマン語地帯が絶えざる交流を行っている中間地点であること
から生まれた独特の長所をもった国家である、と論述した。 西ヨーロッパの発生、つまり古代世界から中世初期の世界への移行について、「マホメ
ットなくしてシャルルマーニュなし」という文句で言い表されるいわゆるピレンヌ・テー
ゼを提出した。 つまり、地中海がイスラムの征服によって、商業地域として閉ざされてはじめて、西ヨ
ーロッパでは古代の経済生活が、それにともなってまた古代文化の最後の名残が消滅した
と述べている。このようにピレンヌは複雑な現象を体系に頼ることなく事実をもって語ら
せたところに、彼の歴史家としての優れた資質があらわれている。 《歴史の構造分析を重視するアナール学派》 20 世紀に登場したアナール学派は社会学や心理学などの他の社会科学からの方法論を援
用し、それまでの事件中心の歴史認識に対し、心性や感性の歴史、また歴史の深層構造の
理解などマクロ的な歴史把握を目指した。アナール学派は、20 世紀に登場した歴史研究の
潮流で、それまでの実証主義的な史料解釈中心の歴史学に対し、歴史の構造分析を重視す
る社会史を提唱した学派で、アナールはフランス語で「年報」を意味し、フランス、アル
ザス・ロレーヌのストラスブール大学教授で歴史家のリュシアン・フェーヴルとマルク・
ブロックが 1929 年に創刊した『社会経済史年報』に因む呼称である。 2358
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) また、アナール学派の台頭以降、個別の事件性や通史ではなく、農政史、出版史、物価
史、人口史、経済史、心性史などの社会学的なテーマ史や、社会学、文化人類学、経済学、
民俗学などの知見を取り入れる学際性を重視する傾向が見られる。 《ウォーラステインの世界システム論》 社会学者・歴史学者ウォーラステインによって提唱された世界システム論は、歴史は 1
つの国や社会で完結するものではなく、世界システムの過程からとらえるべきであるとし
ている。1974 年、資本主義経済を史的システムとする『近代世界システム』第 1 巻、1980
年には『近代世界システム』第 2 巻を刊行した(全4巻の構想)。 《ダイヤモンドの地理的・生物学的歴史論》 アメリカの地理学者・生物学者ジャレド・ダイアモンド(1937 年~)は『銃、病原菌、
鉄』
(1998 年)で地理的・生物学的要因が歴史を決定づけると主張、史学界に論争を起こし
た。この『銃、病原菌、鉄』は、ダイアモンドが、あるニューギニア人との対話から起こ
った「なぜヨーロッパ人がニューギニア人を征服し、ニューギニア人がヨーロッパ人を征
服することにならなかったのか?」という疑問に対する一つの答えとして書かれたといわれ
ている。 ダイアモンドは、これに対して「単なる地理的な要因」(例えば、ユーラシア大陸の文
明がアメリカ大陸の文明よりも高くなったのは大陸が東西に広がっていたためだから等)
という仮説を提示し、「ヨーロッパ人が優秀だったから」という根強い人種差別的な偏見
に対して反論を投げかけ、大きな反響を呼んだのである。ダイヤモンドの近著として、マ
ヤ文明など、文明が消滅した原因を考察し、未来への警鐘を鳴らした『文明崩壊』がある。 ○文明論 18 世紀までの歴史学・歴史観は伝統的にヨーロッパ中心史観であったが、ショーペンハウ
アー、シュペングラー、トインビーなどがあらわれてヨーロッパ外の人類の歴史もとりい
れた文明論があらわれた。 《ショーペンハウアーの古代インドの思想》 ドイツの哲学者ショーペンハウアー(1788~1860 年)は、カントやプラトンからの影響
に勝るとも劣らず、古代インドの思想とりわけヴェーダのウパニシャッド哲学などに影響
を受け、主著『意志と表象としての世界』でも広範囲にわたって参照されている。 《シュペングラーの『西洋の没落』》 シュペングラー(1880~1936 年)はドイツの歴史学者・文化哲学者であったが、世界の
諸文化を生命的に生成→発展→没落の歴史としてとらえ、アメリカ合衆国、ロシア(ソ連)
といった非ヨーロッパ勢力の台頭を受けて書かれた主著『西洋の没落』
(1918 年)は、西洋
2359
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) キリスト教文化の終末を説き、直線的な考え方である当時のヨーロッパ中心史観・文明観
を痛烈に批判した。 シュペングラーは、
「文明とは、文化の歴史的過程の終焉である。たとえ非常に知的な技
術的形態、あるいは政治的形態が存在しているとしても、すでに生命はつき、未来に向け
て新しい表現形態を生み出す可能性はまったくない。 文明の象徴は世界都市であり、それは自由な知性の容器である。それは母なる大地から
完全に離反し、あらゆる伝統的文化形態から解放されたもっとも人工的な場所であり、実
用と経済的目的だけのために数学的に設計された巨像である。 ここに流通する貨幣は、現実的なものにいっさい制約されることのない形式的・抽象的・
知的な力であり、どのような形であれ文明を支配する。 ここに群集する人間は、故郷をもたない頭脳的流浪民、すなわち文明人であり、高層の
賃貸長屋のなかでみじめに眠る。彼らは日常的労働の知的緊張をスポーツ、快楽、賭博と
いう別の緊張によって解消する。このように大地を離れ極度に強化された知的生活からは
不妊の現象が生じる。人口の減少が数百年にわたって続き、世界都市は廃墟となる。 知性は空洞化した民主主義とともに破壊され、無制限の戦争をともなって文明は崩壊す
る。経済が思想(宗教、政治)を支配した末、 西洋文明は 21 世紀で滅びるのである。」と
ちょうど 100 年前の第 1 次世界大戦中に書いていた。 これは「100 年前の西洋文明」ではなく、「今日の地球文明」にもそのまま当てはまる記
述である。このシュペングラーの『西洋の没落』は、第 1 次世界大戦後の世界に、哲学・
歴史学・文化学、芸術など多方面に影響を与えた。今やヨーロッパ文明は世界中に拡散し、
核や温暖化の危機に直面している地球世界という現実がある。我々人類は 100 年後に『地
球文明の没落』は読みたくないし、そもそも、それを書く人類がいるかどうかも疑問であ
る(そうならないように,今、最善を尽くさなければならない)。 《トインビーの『歴史の研究』》 アーノルド・J・トインビー(1889~1975 年)は、ロンドンに生まれ、1911 年、オック
スフォード大学を卒業した。彼の叔父は、経済学者アーノルド・トインビー(1852~1883
年。「産業革命」を学術用語として広めた歴史家)で区別するためミドルネームの「J」が
入れられた。 トインビーはアテナイの考古学院の研究生としてギリシャに行き、帰国後、母校のオッ
クスフォード大学で研究員としてギリシャ・ローマの古代史研究と授業にあたった。1914
年の第 1 次世界大戦の勃発により「われわれは歴史の中にいる」という実感に目覚めた。
このときトインビーはオックスフォード大学でトゥキディデスの『戦史』を講義していた
が、ペロポネソス戦争に直面した古代ギリシャと世界大戦に直面するヨーロッパ文明が類
2360
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 似しているという着想を得て、その視座を世界全体に拡大する『歴史の研究』の構想を準
備した。 その『歴史の研究』は歴史を文明の興亡の視点から論じたもので、12 巻から成り立って
おり、まず 1934 年に 3 巻までが、1939 年に 6 巻までが、1954 年に 10 巻までが出版された。
さらに考察しなおしたものが 1961 年に第 11 巻と第 12 巻として発表された。 トインビーは、まず、歴史を研究するさいに、自分たちが偶然そのなかに生きている国
家・文明・宗教を、中心的であり最高であるとする「幻想」をもった国家の観点をしりぞけ、
文明を単位にした。つまり、トインビーは国家を中心とする歴史観を否定し、文明社会を
中心とした歴史観を提示しようとした。 トインビーは西欧文明の優位を退けながら、第 1 代文明であるシュメール、エジプト、
ミノス、インダス、殷、マヤ、アンデス、第 2 代文明であるヘレニック(ギリシャ・ロー
マ)、シリア、ヒッタイト、バビロニア、インド、中国、メキシコ、ユカタン、そして第 3
代文明であるヨーロッパ、ギリシャ正教、ロシア、イラン、アラブ、ヒンドゥー、極東、
日本、朝鮮、以上の 21 の文明を世界史的な観点から記述することを試みた。トインビーは
この第 3 代までの諸文明は歴史的に概観すると親子関係にあり、文明は発生、成長、衰退、
解体を経て次の世代の文明へと移行すると考えていた。 トインビーがこのような歴史観に基づきながら文明は外部における自然・人間環境と創
造的な指導者の二つの条件によって発生し、気候変動や自然環境、戦争、民族移動、人口
の増大の挑戦に応戦しながら成長する。しかし文明は挑戦に応戦することに失敗すること
によって弱体化をはじめ、衰退に向かうようになる。そこで指導者は新しい事態への対応
能力を失い、社会は指導者に従わなくなり、統一性が損なわれる。最後には内部分裂が進
むことで指導者は保身のために権力を強化し、結果的に大衆はプロレタリアートによる反
抗を通じて文明は解体されるとトインビーは定式化した。 ここでトインビーは、二つの文明の接触は、ふつうその一方の(国家ではなく)文明の
解体過程に入るが、「攻撃的」文明は相手側に文化的・宗教的・人種的な劣等者の烙印を押
し、「防御的」文明は無理に相手側に同調しようとする。しかし、いずれの反応も賢明では
ない。敵対競争のうちに対決するのではなく、経験を分かちあう努力こそ至上命令である
という。 前述のようにトインビーはオックスフォード大学で、古代ギリシャの歴史家トウキュデ
ィデスについて教えていたと述べたが、強者が弱者を滅ぼすという図式は、第 1 次世界大
戦も 2300 年前のペロポネソス戦争の場合と少しも変らないではないかと、あらためて世界
史の見直しを企てたと述べている(確かに、紀元前 5 世紀に古代ギリシャを舞台に戦われ
たペロポネソス戦争と 20 世紀前半にヨーロッパを舞台にして戦われた第 1 次世界大戦は本
2361
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 書でも記したように規模と戦争技術は大きく変わっているが、やっている人間の行為はま
ったく変わっていない(進歩していない)ことがわかる)。 トインビーは、1956 年に日本を訪れたさいにも、彼は世界国家と世界政府を峻別して(当
時は米ソ二大勢力による世界二分の時代だった)、「前者(世界国家)は少数者による専制
的支配であり文明末期の徴候であるからこれをしりぞけ、各文明地域の独自性を尊重した
後者(世界政府)の樹立を図るべきだ」との考えを明らかにしている。 トインビー史学には、神学に偏りすぎているとか、人種・言語の起源や地理的環境の説明
が不十分であるとか、批判も多いが、再度にわたる世界戦争を体験してますます西欧中心
史観から離れ、異文明共存の立場を明確にしていったトインビー史学には、今こそ学ぶべ
きところも多い。 【④人類学と文化人類学】 ○人類学・文化人類学とは 人類学とは人類(霊長類ヒト科)に関しての総合的な学問である。生物学的特性につい
て研究対象とする学問分野を形質人類学もしくは自然人類学と呼び、言語や社会的慣習な
ど文化的側面について研究する学問分野を文化人類学もしくは社会人類学と呼ぶ。さらに
言語学や考古学、民俗学や民族学、芸能も包括する。 自然人類学は一般に生物学に属する動物学の下位分野として分類される一方、文化人類
学は社会科学に、言語学と考古学は人文科学に分類される。 人類学でも文化人類学でも、非常に新しい学問である。一般に文化人類学の学説史は、
ブロニスロウ・マリノフスキー(1884~1942 年)の『西太平洋の航海者』、ラドクリフ・ブ
ラウン(1881~1955 年)の『アンダマン島民』の両書が出版された 1922 年を境にして前史
(進化主義)と近代的人類学に分けられる。 文化人類学の前史(進化主義)としては、 ◇ジョハン・ジャコブ・バッハオーフェンの『母権論』 ◇エドワード・タイラーの『原始文化』 ◇ルイス・モーガンの『古代社会』 ◇ジェームズ・ジョージ・フレイザーの『金枝篇』 ◇ネオ進化論(新進化論) などが代表的なものであるが、ここでは省略する。 ただ、最後のネオ進化論は、チャールズ・ダーウィンの進化論を引き出して、そして、
以前の社会進化論の独断を捨てることによって、社会の発展を説明しようとする社会の理
2362
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 論であった。ネオ進化論は、1930 年代に出現し、第 2 次世界大戦の後の期間に広範囲に発
展し、そして 1960 年代に、社会学と同様、人類学に取り入れられた。 20 世紀初めに進化主義は非科学的であるとして捨て去られたが、進化の思考を持って戻
ってきた新進化的思索家が、現代の人類学にとって受け入れられるためにネオ進化論を開
発したのである。その理論は考古学、古生物学と史学史のようなフィールドからの経験的
な証拠に基づいている。 レズリー・ホワイト(1900~1975 年)は、彼の著書の出版が社会学者と人類学者の間で
進化主義に対しての興味を再燃させた。彼の理論で最も重要な因子は技術であった。社会
のシステムが技術的なシステムによって決定されるとしている。社会前進の分量として彼
は所定の社会(彼の理論は文化的な進化のエネルギー理論として知られている)の分量エ
ネルギー消費を提案した。 彼は人間の発達過程の 5 つの段階を区別した。 第 1 段階:人々が、自身の筋肉のエネルギーを使う。 第 2 段階:彼らは、飼い慣らされた動物のエネルギーを使う。 第 3 段階:(ホワイトがここで農業革命に言及する)彼らは植物のエネルギーを使用す
る。 第 4 段階:彼らは天然資源のエネルギー(石炭、オイル、ガス)を使うことを学ぶ。 第 5 段階:彼らは核エネルギーを利用する。 ホワイトは、公式P=E*Tを紹介した。Eは消費されるエネルギーの基準、Tはエネル
ギーを利用するテクニカル要因の効率の尺度である。 ○近代的文化人類学(構造機能主義) マリノフスキーが確立したフィールドワークの手法によってデータの体系的収集が可能
になり、さらにラドクリフ・ブラウンによってフランスの社会学者デュルケームの社会理
論に基づいた構造機能主義理論が確立され、社会科学としてのその基礎が築かれた。 《マリノフスキーとラドクリフ・ブラウン》 マリノフスキー(1884~1942 年)は、ポーランドのクラクフ(当時はオーストリア・ハ
ンガリー帝国領)に生まれであったが、1914 年にポーランドの作家とともにオーストラリ
アを旅行したときに第 1 次世界大戦が勃発し、マリノフスキーはイギリス領内で敵国人扱
いされ、出国が不可能となった。しかしパプアニューギニアに行くことは可能であったた
め、そこでフィールドワークに取りかかった。こうしてマリノフスキーは、長期にわたっ
て現地の人々と行動を共にし、その生活の詳細な観察を行うこととなり、人類学研究に初
めて参与観察(フィールドワーク)と呼ばれる研究手法を導入することになった。 トロブリアンド諸島での調査の成果は、彼の主著である『西太平洋の遠洋航海者』とし
て 1922 年に発表された。この本の中でマリノフスキーはクラと呼ばれる島と島の間で行わ
2363
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) れる財貨(腕輪や首飾り)の交易を分析し、クラが経済的な財の交換だけでなく、島と島
を結ぶ社会秩序の形成と持続の機能も果たす儀礼的な制度であることを明らかにした。 1924 年からはロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで人類学の講座を取得し、1927
年には主任教授に就任した。1934 年にマリノフスキーはラドクリフ・ブラウンら若い人類
学者たちとアフリカ総合研究プロジェクトを立ち上げ、アフリカの南部と東部にフィール
ドワークを兼ねた調査旅行を行なった。 マリノフスキーが文化を捉える態度は、これまでの進化主義的な人類学と区別して機能
主義人類学と呼ばれる。それは現存する文化を、相互に関係して働いている諸要素の集合
体として捉え、それら諸要素が文化形成に及ぼす機能を分析する手法のことを指している。 ラドクリフ・ブラウン(1881~1955 年)は、イギリスの文化人類学者でフィールドワー
クの手法を導入したマリノフスキーとともに文化人類学の確立に貢献した。ラドクリフ・
ブラウンはデュルケームの社会理論をもとにした構造機能主義理論を提唱した。1952 年、
『未開社会における構造と機能』を著わし、分析概念としての社会関係と社会構造の概念
を明確化した。 《フランツ・ボアズと文化相対主義》 特にアメリカに於いては、フランツ・ボアズ(1858~1942 年)を中心とした独特の学派
が受け継がれてきた。この学派では社会関係と社会構造に注目する社会人類学よりもより
包含的なアプローチを取り、人間の慣習や社会制度、心理的傾向性、言語、物質文化とい
った多様な要素からなる広義の文化に焦点を当てた。この学派は、この幅広い文化の概念
を用いて各民族(具体的には北米原住民)の固有文化を記述することに専念し、社会人類
学のような理論化に対しては批判的であった。 この学派の姿勢は乏しい資料を基に自民族中心主義的な理論化を行った進化主義への反
発から来ていると言われ、ボアズらはこのような進化主義的立場に抗してそれぞれの文化
はそれぞれの価値において記述・評価されるべしであると言う文化相対主義を主張した。 たとえば、先住民は同じ単語に毎回違った発音をする、不合理だから遅れている、とい
う主旨の論文に対して、ボズアは音素の変異の概念(同じ音を違うように聞き取っている
に過ぎない)をもって反論した。このようにボズアは当時の研究者の風潮(関係ない事例
を取り上げて先住民は遅れているとする)に反対して文化相対主義を唱えた。 文化相対主義とは、全ての文化は優劣で比べるものではなく対等であるとし、ある社会
の文化の洗練さはその外部の社会の尺度によって測ることはできないという倫理的な態度
と、自文化の枠組みを相対化した上で、異文化の枠組みをその文化的事象が執り行われる
相手側の価値観を理解し、その文化、社会のありのままの姿をよりよく理解しようとする
方法論的態度からなる。 2364
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) このように理論を排除する立場をとったため、アメリカ文化人類学派はイギリス社会人
類学に対して理論的な発展では後れを取ったが、現在では文化相対主義の立場は、世界の
文化人類学者にとって広く自明のものとして認知されている。 また、一方で社会関係にこだわらない包括的な立場を取り、言語や心理過程、地理的範
疇や生態系にも焦点を当てたために、後に心理人類学(文化とパーソナリティ論)、生態人
類学(新進化主義)、といった数多くの下位分野を生み出すことになった。 《日本の文化人類学》 日本に於いては、岡茂雄が戦前に、民族学・民俗学及び考古学専門の書店「岡書院」を
開き、歴史的名著を輩出した。イギリスに留学して社会人類学を修めた中根千枝を招いた
東京大学や東京都立大学(現・首都大学東京)においてイギリス流の社会人類学が受容さ
れた。 一方、関西では生態学者今西錦司(1902~1992 年)は、第 2 次大戦後は、京都大学理学
部と人文科学研究所でニホンザル、チンパンジーなどの研究を進め、日本の霊長類社会学
の礎を築いた。今西錦司の弟子である梅棹忠夫(1920 年~2010 年)を中心とした京都大学
人文科学研究所がアジア・アフリカ各地に探検隊を派遣して多くの研究を行った。 その成果は日本万国博覧会(大阪万博)におけるメイン館の展示となり、その後同跡地
には国立民族学博物館が設立されて日本における文化人類学の研究拠点となった。生態学
者今西錦司の影響下に発展した京都の人類学は霊長類学との協力が盛んで自然科学出身の
人材も多く、環境利用や生業、技術、進化など人類社会の生態学的側面に焦点を当てた優
れた研究も進められた。 《梅棹忠夫の『文明の生態史観』》 また、梅棹忠夫が 1950 年代に著した『文明の生態史観』は人類学だけでなく、壮大な文
明論、歴史観を示したものであり、当時の日本の論壇とくに唯物史観が支配的な当時の社
会科学全般に大きな影響を与えた。 この著書は梅棹が 1955 年に行ったアフガニスタン、インド、パキスタンへの旅行の際に
感じたことを体系的にまとめ、文明に対する新しい見方を示したものである。前半部分に
はその旅行の内容をつづりながら、そこで感じた文化性、または日本との差異、そしてそ
れぞれの文化における価値観が述べられている。 後半部分ではそれに基づき、現代でもみられる、
「西洋と東洋」という枠組みによって世
界を区分することを否定し、第 1 地域と第 2 地域という区分で文明を説明した。それによ
ると、西ヨーロッパと日本は第 1 地域に属し、その間をなす、広大な大陸部分を第 2 地域
とした。第 2 地域においては早い時間で巨大な帝国が成立するが、それらは制度などに問
題を抱え、没落していくという。逆にその周縁に位置する第 1 地域においては気候が温暖
2365
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) で、外部からの攻撃を受けにくいなど、環境が安定しているため、第 2 地域よりは発展が
遅いものの第 2 地域から文化を輸入することによって発展し、安定的で高度な社会を形成
できるとした。 第 1 地域は、第 2 地域の古代文明や帝国にとって辺境の存在であった。第 1 地域は第 2
地域の文化を吸収し、国家を作りはじめる。第 1 地域ではその後、封建制が成立していっ
た。また、第 1 地域は辺境の地域に位置していたため、第 2 地域が砂漠の民に脅かされる
ような危険がない。これらの好条件がオートジェニック・サクセッション(文明内部から
の変革)を起こさせるのである。つまり第 1 地域がブルジョアを育てた封建制度を発展さ
せ、資本主義体制へと移行したことはそれの現れである。それはたとえば宗教改革のよう
な現象であるとか、中世における庶民宗教の成立、市民の出現、ギルドの形勢、自由都市
の発展、海外貿易、農民戦争などである。近代化の後も類似点は多数ある。日本とドイツ
のファシズム政府、植民地争奪への遅れた参入、また戦後には急速な発展などである。ま
た、日独に限らず、第 1 地域はみんな資本主義国家であり、過去に植民地争奪戦を行った
国家である。 第 2 地域では古代文明が発達したり、巨大で力をもった帝国が成立したりする。それら
は何度も成立と崩壊を繰り返してきた。中国の数々の帝国やイスラム帝国がそれである。
そこでの専制帝国にも類似点は多い。壮大な宮廷や、非常に大きな領土、複雑な民族関係、
辺境の存在、衛星国をもつことなどである。 また第 2 地域の中には乾燥地帯があり、高い武力をもった遊牧民が出現する。そしてそ
れが文明や帝国を襲うのである。それらによって常に政治を脅かされるため、高度な政治
体制を築けない。第 2 地域においては外部に大きな力が常にあるため、アロジェニック・
サクセッション(外部からの影響による発展)が起こる。 そのため第 2 地域では専制政治のためブルジョアが発達せず、資本主義社会を作る基盤
ができていなかったといえる。そのため大戦中は大きな軍事力を備えることが出来ず、植
民地となってしまった。第 2 地域においては戦後に独立、革命、内戦などが頻発している。
逆に第 1 地域において一つもそれらが起こっていないことと対照的である。 第 1 地域と第 2 地域にはそれぞれ共通点があり、それらはその共通点をもとに似たよう
な発展過程を経ている。よって西洋と東洋という見方は現在の世界を見る時に有効性は限
られており、第 1 地域、第 2 地域というように見るのがよりよい見方であるというもので
ある。 《ポストコロニアリズムと『オリエンタリズム』》 さらに、ポストモダンの相対主義的潮流のなかでポストコロニアル理論を打ち立てたエ
ドワード・サイード(1935~2003 年)の『オリエンタリズム』や解釈人類学者クリフォー
2366
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ド・ギアツ(1926~2006 年)の『文化の読み方・書き方』のような批判に関連して、文化
人類学者が異文化を「書く」とはどういうことなのか、という学問の根幹に関わる問題も
提起された。 20 世紀後半、第 2 次世界大戦後、世界が脱植民地化時代に突入すると、それまで植民地
だった地域は次々に独立を果たしたが、こうした旧植民地に残る様々な課題を把握するた
めに始まった文化研究がポストコロニアリズムである。ポストコロニアリズムの旗手エド
ワード・サイードが著した『オリエンタリズム』
(1978 年)の視点がポストコロニアル理論
を確立した。 この『オリエンタリズム』においては、従来は美術における東洋趣味などを指す語だっ
た「オリエンタリズム」を、西洋の東洋に対する思考様式として定義し、人種主義的、帝
国主義的であるとして批判的に検討した。その検討を通じて、人間は異文化をいかにして
表象するのか、また異文化とは何なのかという問題提起も行なった。そのための素材とし
て、学術文献だけでなく文芸作品も含めて論じている。 たとえば、1870 年代のヨーロッパの植民地拡大期から、1970 年代のアメリカ主導による
オリエンタリズムまで、差別的な学説がオリエンタリズムと結びついて植民地支配を正当
化したとして、その例にゴビノー、キュヴィエ、ロバート・ノックスらの人種差別思想、
ハックスレーらの亜流ダーウィニズム、ランケやシュペングラーのイスラム観、植民地に
おける白人の歩む道を書いたキプリング、アラブの反乱に自己イメージを投影したロレン
ス、20 世紀にオリエンタリズムを包括する著作を生み出したハミルトン・ギブとルイ・マ
シニョンなどをあげている。 同様に人類学的行為の政治性や方法論・理念(文化相対主義、社会構築主義など)につ
いての議論も盛んに行なわれている。 《クロード・レヴィ=ストロースと構造主義》 さらに構造主義を普及させたクロード・レヴィ=ストロース(1908~2009 年)は、従来
の欧米の人文科学における人間の文化・生活に対するとらえ方に疑問を投げかけ、哲学部
門を中心とした人文科学全体の学問の在り方に関する議論が活発になっている。 クロード・レヴィ=ストロースが普及させた構造主義とは、狭義には 1960 年代に登場し
て発展していった 20 世紀の現代思想のひとつであり、広義には、現代思想から拡張されて、
あらゆる現象に対して、その現象に潜在する構造を抽出し、その構造によって現象を理解
し、場合によっては制御するための方法論を指す言葉である。 レヴィ=ストロースは未開社会の婚姻規則の体系、無文字社会を贈与の問題や、記号学
的立場から分析した。オーストラリア先住民(アボリジニ)と東南アジア・古代中国・イ
ンド・北東アジアの婚姻規則の体系を構造言語学のインスピレーションをもとにして統一
2367
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 的観点から分析し(1949 年『親族の基本構造』)、 文化人類学において婚姻体系の「構造」
を数学の群論で説明したのが嚆矢である。群論は代数学(抽象代数学)の一分野で、クロ
ード・レヴィ=ストロースによるムルンギン族の婚姻体系の研究を聞いたアンドレ・ヴェ
イユが群論を活用して体系を解明した。 またピアジェも発達心理学に抽象代数学を持ち込んだ構造主義者の一人である。このよ
うにレヴィ=ストロースは専門分野である人類学、神話学における評価もさることながら、
一般的な意味における構造主義の祖とされ、彼の影響を受けた人類学以外の一連の研究者
たち、ジャック・ラカン、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、ルイ・アルチュセール
らとともに、1960 年代から 1980 年代にかけて、現代思想としての構造主義を担った中心人
物のひとりとされている。 ○多様に発展する文化人類学 文化人類学に返る。その後、文化人類学は様々な国でその国独自の事情を反映して多様
に発展してきた。イギリスにおいては社会人類学、アメリカにおいては総合的な文化人類
学、日本では生態人類学がそれぞれ各国の個性を代表していると言えよう。しかし、近年
は交流の活発化に伴ってかつてのような国ごとの個性はそれぞれのフィールドごとに再編
されつつあり、国による違いは徐々になくなりつつある。 また 1970 年代以降、文化人類学がおもな対象としてきた発展途上国社会で急激に開発が
進み、新たな社会問題が発生するようになるに伴って学問の性格も徐々に変化してきた。
特に 1980 年代以降は、開発、医療、エイズ、環境問題、教育、観光などの社会問題を扱う
応用人類学の分野が急成長し、急激に多様化が進みつつある。 【⑤心理学】 心理学が 1 つの独立した科学分野として創成されたのは、19 世紀後半にドイツのヴィル
ヘルム・ヴント(1832~1920 年)がライプツィヒ大学にて心理学専門の研究室を構えた時
であると説明されることが多い(1879 年とされる)。 代表的な心理学の学説としては、フロイトの精神分析、ユングの分析心理学、フロイト
とユングのリビドー論、行動主義心理学(イワン・パブロフ、ジョン・ワトソン)、マズロ
ーの人間性心理学と欲求段階説、生理学からの発展などがあるが、ここではフロイトとユ
ングとマズローについて述べる。 ○フロイトの精神分析 ジークムント・フロイト(1856~1939 年)は、オーストリアに生まれ、1885 年(29 歳)、
パリへ留学し、ヒステリーの研究で有名だった神経学者ジャン=マルタン・シャルコーの
もとで催眠によるヒステリー症状の治療法を学んだ。1886 年(30 歳)、ウィーンへ帰り、
2368
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) シャルコーから学んだ催眠によるヒステリーの治療法を一般開業医として実践に移した。
治療経験を重ねるうちに、治療技法にさまざまな改良を加え、最終的にたどりついたのが
自由連想法であった。これを毎日施すことによって患者はすべてを思い出すことができる
とフロイトは考え、この治療法を精神分析と名づけた。 1895 年(39 歳)、フロイトは、ヒステリーの原因は幼少期に受けた性的虐待の結果であ
るという病因論ならびに精神病理を発表した。今日で言う心的外傷や PTSD(心的外傷後ス
トレス障害。心に加えられた衝撃的な傷が元となり、後になって様々なストレス障害を引
き起こす疾患)の概念に通じるものであった。 これに基づいて彼は、ヒステリー患者が無意識に封印した内容を、身体症状として表出
するのではなく、回想し言語化して表出することができれば、症状は消失する(除反応)
という治療法にたどりついた。 『夢判断』
(1900 年)は、夢に関する精神分析学の研究であるが、このなかで、夢の素材
は記憶から引き出されており、その選択方法は意識的なものではなく、無意識的なもので
あった。意識による夢の検閲を回避するために無意識に願望を間接的に表現するのである。
なぜなら、通常では意識的に抑制されるべきと見なされている性欲が夢の中では願望とし
て発動されるためである。フロイトは文明社会の成立により人間の本能が制限されている
ものの、それは消滅したわけではなく、その性欲を夢は暗喩的な表現によって満足させる
ものととらえることができると論じた。 フロイトは患者の生育環境や日常生活を調べ、患者の多くが、意に反して欲求を抑圧し
てきたことをつきとめた。そして、患者のもつさまざまな症状は、この抑圧を無意識の自
己がくつがえそうとするものであると考えた。とりわけ、彼が注目したのは、幼児期以来
の性的欲求の抑圧であり、ここに症状の隠れた原因を求めた。 フロイトの理論は、性的欲求に過度に固執した理論だとして、多くの人々の反発を受け
た。しかし、フロイトの理論は、精神疾患を病む人の治療だけでなく、広く一般の人の心
理分析にも適用できるものである。それだけでなく、無意識という深く隠された精神のは
たらきが、強い力でその持ち主である人間の意識や行動を動かしているとする理論は、精
神医学や心理学はもちろん、文化人類学や社会学、さらには、文学・芸術などにも、大きな
影響をおよぼした。 ○ユングの分析心理学 カール・グスタフ・ユング(1875~1961 年)は、バーゼル大学・チューリッヒ大学で医
学を学んだ。生理学的な知識欲を満たしてくれる医学や、歴史学的な知識欲を満たしてく
れる考古学に興味を抱き、友人と活発に議論を交わし、やがて人間の心理と科学の接点と
しての心理学に道を定めた。 2369
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 精神疾患の人々の治療にあたるとともに疾患の研究もすすめ、特に当時不治の病とされ
た分裂病(統合失調症)の解明と治療に一定の光明をもたらした。このころ、フロイトの著
作『夢判断』は、はじめ読者が限られていたものの、ユングはこれに目を通し、フロイト
の主張を支持し、フロイトと親しく意見を交わした。 しかし、両者はしだいに距離を置くようになり(フロイト 56 歳、ユング 37 歳)、独自の
道を歩むようになった。ユングも、フロイトと同様、人間の意識や行動が心の無意識的な
世界に影響され、動かされていることを主張した。ただ、ユングは、フロイトがその理論
において性的欲求の役割を重んじたことに批判的であった一人であり、やがてフロイトと
決別し、独自の理論を展開した。フロイトが、人間の心を根底から動かすものとして性的エ
ネルギー(リビドー)を重んじたのに対し、ユングは、それを、性的エネルギーをも内に
含めた、広い意味での生命エネルギーが外に向かうものを外向性の性格、それが内に向か
うものを内向型の性格とした。 さらに、ユングの理論においては、人間の無意識には、個人がばらばらに所有している
個人的無意識のほかに、人類の間で普遍的に共有されている普遍的無意識というものがあ
ることを説いている。普遍的無意識とは、太古の昔から人類の祖先が何回となくくりかえ
してきた体験が、いつのまにか遺伝子に組み込まれ、無意識的な心のはたらきとして沈殿
したもの、と理解できるとした。 たとえば、我々が「母」と聞くときにうける、なんとなく温かいやさしいイメージ、あ
るいは、太陽が昇る光景からひきおこされる神的な感動などは、異なる国、異なる文化の
もとで育った者にも普遍的に共有されている。ユングによれば、これらも、太古の昔以来、
人類の祖先が数えきれないほどにくりかえしてきた体験が、人類の歴史を通して我々人類
の無意識のなかに沈み込み、堆積して、人類にそういう性質をもたせたものだというので
ある。 ユングは、人間精神の無意識の奥に隠されたものを、抑圧せず、それをあらわにし、そ
れと自己を調和させて生きることにより、現代人が陥っている精神的病理現象を克服でき
るとした。このことは、現代文明の科学主義や合理主義に疑問を投げかけ、その修正をも
とめる態度とみなすこともできる。 ○フロイトとユングのリビドー論 リビドーとは、日常的には性的欲望または性衝動と同義に用いられる。これはフロイト
が「性的衝動を発動させる力」とする解釈を当時心理学で使用されていた用語 Libido にあ
てたことを継承したものである。一方で、ユングは、すべての本能のエネルギーのことを
リビドーとした。 2370
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 精神分析学ではリビドーを、様々の欲求に変換可能な心的エネルギーであると定義して
いる。リビドーはイド(簡単に言えば無意識)を源泉とする。性にまつわる物だけでなく、
より正確には人間の性を非常にバラエティに富んだ物へと向ける本質的な力と考えられて
いる。 リビドーが自我によって防衛・中和化されることで、例えば男根期の露出癖が名誉欲に
変わるなど、社会適応性を獲得する。また支配欲動が自己に向かい厳格な超自我を形成し
て強い倫理観を獲得することもあるとしている(フロイトは 3 歳から 6 歳頃までを男根期
と名づけ、子供は自分の器官の性器(ペニス・クリトリス)としての役割を知り(精通が
ある、自慰をする、など)男女の性的違いに気づいていくとしている)。 リビドーは非常に性的な性質を持つとして見られる一方で、全ての人間活動はこれの変
形としてフロイトは理解している。特に文化的活動や人間の道徳的防衛はリビドーの変形
したもの、もしくはそのリビドーから身を守るために自我が無意識的に防衛したものとし
て理解されている。芸術や科学の活動もリビドーが自我によって防衛され変形したもので
あるとする。 世間一般的には、リビドーという言葉は男女における押さえきれない性的欲求のような
ものを指すとして使われる。特に男性の荒々しい露骨な性的欲求を表現する言葉としてし
ばしば使われ、また時には男性の性的欲望を軽蔑する意味合いの言葉としても使われる。 ユングは歴史や宗教にも関心を向けるようになり、やがてフロイトが「リビドー」を全
て「性」に還元することに異議を唱え、はるかに広大な意味をもつものとして「リビドー」
を再定義し、ついに決別することとなった。ユングは後に、フロイトの言う「無意識」は個
人の意識に抑圧された内容の「ごみ捨て場」のようなものであるが、自分の言う無意識と
は「人類の歴史が眠る宝庫」のようなものである、と例えている。 ユングの患者であった精神疾患者らの語るイメージに不思議と共通点があること、また、
それらは、世界各地の神話・伝承とも一致する点が多いことを見出したユングは、人間の
無意識の奧底には人類共通の素地(集合的無意識)が存在すると考え、この共通するイメ
ージを想起させる力動を「元型」と名づけた。 ユングは 1948 年に共同研究者や後継者たちとともに、スイス・チューリッヒにユング研
究所を設立し、ユング派臨床心理学の基礎と伝統を確立した。深層心理について研究し、
分析心理学(ユング心理学)の理論を創始した。 ユング心理学(分析心理学)は個人の意識、無意識の分析をする点ではフロイトの精神
分析学と共通しているが、個人的な無意識にとどまらず、個人を超える集合的無意識(普
遍的無意識)の分析も含まれ、また能動的想像法も取り入れられた。能動的想像法とは、
無意識からのイメージが意識に表れるのを待つ心理療法的手法である。 2371
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ○マズローの人間性心理学と欲求段階説 人間性心理学の提唱者アブラハム・マズロー(1908~1970 年)は、1962 年、「ヒューマ
ニスティック心理学会」を設立し、1967 年~1968 年、アメリカ心理学会会長となった。精
神分析を第 1 勢力、行動主義を第 2 勢力、人間性心理学を第 3 勢力と位置づけた。人間性
心理学(Humanistic Psychology)とは、それまでに支配的であった精神分析や行動主義と
は対照的に、主体性・創造性・自己実現といった人間の肯定的側面を強調した心理学の一
群の潮流のことを指して言うものである。ヒューマニスティック心理学ともいう。 これは精神病理の理解を目的とする精神分析と、人間と動物を区別しない行動主義心理
学の間の、いわゆる「第 3 の勢力」として、心の健康についての心理学を目指すもので、
人間の自己実現を研究するものである。自己実現、創造性、価値、美、至高経験、倫理な
ど、従来の心理学が避けてきた、より人間的なものの研究に道を開いた。マズローの人格
理論は、通称「自己実現理論(欲求段階説)」と呼ばれ、人間の欲求の階層(マズローの
欲求のピラミッド)を主張したことでよく知られている。 自己実現理論とは、マズローが「人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きもので
ある」と仮定し、人間の欲求を 5 段階の階層で理論化したものである。また、これは、「マ
ズローの欲求段階説」とも称される。 マズローの人間の欲求の階層(マズローの欲求のピラミッド)の図は、すでに図 10-37
に示したが、人間の基本的欲求を低次から、①生理的欲求、②安全の欲求、③所属と愛の
欲求、④承認の欲求、⑤自己実現の欲求 の 5 段階に分類した。「生理的欲求」から「承認
の欲求」までの 4 階層に動機づけられた欲求を「欠乏欲求」とする。生理的欲求を除き、
これらの欲求が満たされないとき、人は不安や緊張を感じる。「自己実現の欲求」に動機
づけられた欲求を「成長欲求」としている。 これら 5 段階の欲求の内容については、【10-7-1】貧富の差と支配者階級の発生
に記したので省略する。 人間は満たされない欲求があると、それを充足しようと行動(欲求満足化行動)すると
した。その上で、欲求には優先度があり、低次の欲求が充足されると、より高次の欲求へ
と段階的に移行するものとした。例えば、ある人が高次の欲求の段階にいたとしても、例
えば病気になるなどして低次の欲求が満たされなくなると、一時的に段階を降りてその欲
求の回復に向かい、その欲求が満たされると、再び元に居た欲求の段階に戻る。このよう
に、段階は一方通行ではなく、双方向に行き来するものである。また、最高次の自己実現
欲求のみ、一度充足したとしてもより強く充足させようと志向し、行動するとした。 2372
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 自己実現を果たした人は少なく、さらに自己超越に達する人は極めて少ない。数多くの
人が階段を踏み外し、これまでその人にとって当たり前だと思っていたことが当たり前で
なくなるような状況に陥ってしまうとも述べている。 また、欠乏欲求を十分に満たした経験のある者は、欠乏欲求に対してある程度耐性を持
つようになる。そして、成長欲求実現のため、欠乏欲求が満たされずとも活動できるよう
になるという。 マズローは 晩年には、「自己実現の欲求」のさらに高次に「自己超越の欲求」(6 段階
目)があるとした。 この「マズローの欲求段階説」は、人間性心理学や動機づけの理論を進展させたと評価
されているが、個人的見解あるいはごく限られた事例に基づいた人生哲学に過ぎず、普遍
的な科学的根拠や実証性を欠いているのではないかという疑問も呈されている。例えば、
欠乏欲求が満たされていても、成長欲求の満足を求めず生活の安定を求める労働者の例が
ある。しかしこれは、欠乏欲求が十分に満たされていない(十分に自尊心が育まれていな
いなど)ために、自己実現の欲求が現れていないとも考えられる。 マズローは人間についての学問に新しい方向付けを与えようとしたが、彼の著作はそれ
以上に内容豊かなものになっていて、アカデミックな心理学のみならず、経営学、教育、
看護学など他の分野でも言及された。 【⑥地理学】 ○20 世紀前半の地理学 まずドイツでは、リヒトホーフェン(1833~1905 年)は近代的な地形学の分野を創設し
た。地形学とは、地球の表面上を構成するあらゆる地形の成因・由来・歴史を研究するも
ので、研究・関心内容は多岐にわたる。フィールドワーク的な手法を多くとることに特徴
があった。1868 年から 1872 年にかけて中国の調査を行い、それを『シナ』という著書にま
とめ、シルクロードの発見に業績があり、「絹の道」という言葉を初めて用いた。 同じくドイツのアルフレート・ヘットナー(1859~1941 年)は、その鋭い視点と卓越し
た文章で地理学の方法論や制度論を論じ 19 世紀後期から 20 世紀前半の世界的な地理学理
論のリーダーとなった。彼の著『地理学-歴史・本質・方法』には、地理学は地表面におこ
る現象地域分布だけではなく、その奥にある本質的な部分にまで考察の対象にすべきだと
述べており、この著作は後の地理学方法論にも影響を与えた。 ドイツ人のフリードリッヒ・ラッツェル(1844~1904 年)は、当時旺盛であった社会的
ダーウィニズムの影響の強い思想を特徴としており、地理学を人類と大地の関係を説く学
問と見て、環境が人間のあり方を規定するという環境決定論をといた。政治地理学の創始
2373
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 者でもある。政治地理学は人文地理学の一分野であり、かつての政治地理学は国家の盛衰
を地理学的・環境論視点から論じたものであり、地政学と深い関係にあった。 フランスのポール・ヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュ(1845~1918 年)は、フランスに
おける近代地理学の父であり、フランス地理学派の創設者であった。地理学的現象におけ
る歴史性を重視する立場を唱えて、人間と環境との関係を重視し、地誌研究を重視するフ
ランス地理学の伝統の礎を築いた。ブラーシュは環境可能論の立場から人文地理学を説き、
環境は人間の活動を規定するのではなく、単に可能性を与えるに過ぎないという考えを表
明した。この考えは、現代地理学の主流となっていった。 同じフランスの地理学者マルトンヌは、気候学を中心とした自然地理学が専門で、特に
彼の乾燥指数はよく知られている。乾燥指数にもいろいろあるが、マルトンヌが 1926 年に
考案した乾燥指数は、年降水量を Pmm,年平均気温を T℃とすれば乾燥指数 I は I=P/(T
+10)で表され,10 以下を乾燥帯とした。また、
『地理学の歴史』を著し鋭い観点から地理
学を考察し、自然地理学の体系化に大きな功績を残した。 デービスの最も大きい科学的業績は、いかにして河川が地形を形成するかを示すモデル
である地形輪廻(侵食輪廻)を提唱したことであり、1884 年に初めて発表した。この地形
輪廻は(大きな)河川は主に 3 つの部分、すなわち上流・中流・下流を持ち、それぞれが
固有の地形や地形に関する特性を有することを示唆している。 ○20 世紀後半の地理学 アメリカを原点に 1950 年代から普及し始めたコンピュータと整備された統計データを背
景に、計量データから地理学的な空間分析を行う手法が試みられるようになった。この動
きはワシントン大学の研究グループらによって始まり、やがて全米中に知られるようにな
った。この動きは、こうした計量地理学への批判や受け入れづらい部分も含めて、地理学
の方法論上で一大センセーションを巻き起こし、アメリカから世界中へ「革命的」に普及
した。こうした動きは、計量革命と呼ばれている。 現在では、地理学は環境問題や GIS(地理情報システム)の検討など時代のニーズにあわ
せて多様化している。また経済学や社会学、気象学など近接学問分野なども、従来のディ
シプリン的な研究を超えた新しい領域の開拓なども試みられており、地理学もこうした諸
分野との提携も欠かすことができなくなってきた。しかし、こうした動きは地理学独自の
見方や領域というものの意義について考える必要が大きくなってきたことも意味している。
現在はそのような他の学問との連携や兼ね合いの部分で地理学はどのような主張ができる
のか検討されている時期といえる。 【⑦社会学】 2374
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 20 世紀初頭まではヨーロッパにおいて社会学の主潮が形成されていたが、第 1 次世界大
戦後にはアメリカ合衆国において顕著な展開を見せるようになり、やがてプラグマティッ
クな社会学研究の中心として発展を遂げていくことになった。 ○アメリカ・シカゴ学派の誕生 アメリカ社会学が社会学研究の中心的地位を築き上げていく背景には、19 世紀末から 20
世紀初頭にかけての急激な経済・社会の変化があった。南北戦争から第 1 次世界大戦へ至
る半世紀の間にアメリカ産業は急ピッチな発展を遂げ、それに伴って都市化が進行し、民
衆の生活様式も大きく変わっていった。このような大きく変貌を遂げるアメリカ社会の実
態を捉えることが、社会学の課題として要請されるようになっていったのである。 当初、アメリカの社会学は、1893 年に創設されたシカゴ大学を中心に、人種・移民をめ
ぐる問題、犯罪、非行、労働問題、地域的コミュニティの変貌などの現象的な側面を実証
的に解明する社会心理学や都市社会学が興隆していった。 ヨーロッパの社会学は観念的・方法論的側面を重視する傾向が強かったが、アメリカ社
会学は現実の問題を解決する方向性を示すという実践的側面が強くみられる。この点は、
実際的な有用性を重視するプラグマティズムの精神的な伝統によるところが大きく、また、
前述のような社会的要請もあって、地域社会や家族などの具体的な対象を研究する個別科
学としての傾向を持つようになった。 アルビオン・スモール、ウィリアム・トマス、ジョージ・ハーバード・ミード、ロバー
ト・E・パーク、アーネスト・バージェス、ルイス・ワースら、有能な研究者たちの活躍に
よって、1920~30 年代にシカゴ大学は、アメリカの学会において強い影響力を及ぼすよう
になり、シカゴ学派と呼ばれる有力な研究者グループを形成するまでになった。 ○機能主義社会学の台頭 さらに、第 2 次世界大戦後のアメリカでは、タルコット・パーソンズ(1902~1979 年)
やロバート・キング・マートン(1910~2003 年)らによる機能主義が提唱され、社会学全
体に大きな影響を及ぼした。とくにパーソンズの構造機能主義社会学は、社会学における
統一理論を築き上げる意図を持って提起され、多くの社会学者に影響を与え、20 世紀半ば
における「主流を成す見解」と目されるに至った。これは分野の統一、体系化が実現する
かに見えた社会学の稀有な時期であるとされる。 構造機能主義の理論的萌芽はハーバート・スペンサーの社会的進化論などにみてとるこ
とができる。パーソンズに代表される構造機能主義社会学のベースの一つをなすのが、ラ
ドクリフ・ブラウンの構造機能主義人類学である。デュルケーム社会学の影響を強く受け
たラドクリフ・ブラウンは、それまでの人類学において奇異の目で見られていた「未開」
社会の親族関係について、当該社会の制度構造との関連のなかで、いかに機能しているか
2375
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) という観点から合理的な説明を与えたのである。そして、パーソンズは、一般システム理
論の社会システム論への導入のなかで、このラドクリフ・ブラウンの議論をなぞり、機能
主義から構造機能主義への流れを作り出すことになった(ただしラドクリフ=ブラウンは社
会構造の単位を人間個人としているのに対して、パーソンズの場合は地位-役割をその単位
とした)。 構造機能主義の「構造」とは、社会を構成する諸要素のうち、比較的変化しにくい部分
(種々の社会関係がパターン化され統合されたもの)、と説明することができる。「社会の
骨組み」ともいえる。これに対して「機能」とは、そうした構造が互いに他の構造に対して、
また社会全体に対して果たしている貢献ないしは作用、と定義することが出来る。 これらから、構造機能主義社会学は、各種の構造が如何にして社会全体を維持している
のか、これを解明しようとする社会学理論であると言える。社会学の根本問題は「個人と
社会との関係」をどう捉えるか、という問題である。構造機能主義社会学は、こうした問
題に対して、個人というものが、その個人が所属する社会によって社会化される側面をと
りわけ強調する社会学の流派であるといえる。 いずれにせよ、パーソンズの社会システム論は、結局、統一理論構築にまではいたらず、
主にミクロレベルの視点に立った理論がさまざまな立場から提唱されるようになった。 ○社会学の多様化 近年の社会学は多様化が進み、研究対象となる領域も、たとえばジェンダーの社会学と
いった具合にさまざまに分化し拡大した。さらに政策科学への流れとともに、20 世紀末に
なると、グローバル化、情報化などを背景としつつ、社会構築主義の影響力が高まるなか
で、構造化論、機能構造主義社会学も含め、
「情報」や「メディア」、
「移動」などを「社会」
に代わるキー概念とした新たな理論構築も見られるようになっている。 なお、現在の社会学は、現実世界の変容のなかで、以下のような理論と方法論が主に展
開されてきている。総合社会学 、形式社会学(シカゴ学派)、理解社会学(現象学的社会
学)、知識社会学 、デュルケーム学派、比較社会学、数理社会学(合理的選択理論)、構
造機能主義(社会システム理論)、紛争理論(闘争理論)、構造主義的マルクス主義、フ
ランクフルト学派、フェミニズムなど。 このように現代の社会学は、社会現象の実態や、現象の起こる原因に関するメカニズム
(因果関係)を解明するための学問である。その研究対象は、行為、行動、相互作用とい
ったミクロレベルのものから、家族、コミュニティなどの集団、組織、さらには、社会構
造やその変動(社会変動)などマクロレベルに及ぶものまでさまざまである。思想史的に
言えば、「同時代(史)を把握する認識・概念(コンセプト)」を作り出そうとする学問で
あるといえよう。 2376
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 【15-1-3】哲学・思想 《不安の時代―進歩主義の崩壊》 第 1 次世界大戦終結後間もなく、「諸君、嵐は終わった。にもかかわらず、われわれは、
あたかも嵐が起ころうとしている矢先のように、不安である。」と、詩人ポール・ヴァレリ
ーはテュービンゲン大学における講演で言った。 第 1 次世界大戦の敗者であるドイツや戦勝国であっても大きな痛手を受けたフランスな
どとは異なり、勝利者である英米にとって、第 1 次世界大戦の惨事は進歩主義への信仰を
決定的に揺るがすことはなかった。しかし、スペイン内戦に参加するなどヨーロッパの情
勢に積極的にコミットしたアーネスト・ヘミングウェイを代表とする一群のアメリカ知識
人もまた、自らを失われた世代と見なした。日本では当時、文学者として国際的な評価も
受けていた芥川龍之介が第 1 次大戦後に「ぼんやりとした不安」という言葉を残して自殺
している。 ダーウィンの『種の起源』以降、ヨーロッパは古代以来の聖書的世界から輝かしい科学
と進歩の時代へと向かった。しかし、国民国家という新しい世界体制は第 1 次世界大戦の
国家総力戦による大量破壊へ繋がり、19 世紀以来続いた西欧の進歩主義への信仰は大きく
揺らぐこととなった。とりわけ国土が直接、戦場となった独仏、わけても敗戦国としての
重い負債を背負わされたドイツにとって、進歩主義への信頼の崩壊は強い衝撃を与えた。
大陸ヨーロッパの知識人はキリスト教の精神的伝統を進歩主義によって破棄した後の、進
歩主義の無残な残骸を前に途方にくれることとなった。 【①実存主義の哲学】 このようなドイツにおいて、まず、一時代前の人物であるが、実存主義哲学の先駆であ
るキルケゴール(1813~1855 年)などが注目を浴びるようになった。また、神の死を宣言
し、能動的なニヒリズム (運命愛) の思想を展開したニーチェ(1844~1900 年)を、神を
否定する実存主義の系譜の先駆者として、1930 年代、ドイツのマルティン・ハイデッガー
やカール・ヤスパースらによって「実存」の導入がはかられ、こうした考え方は第 2 次世
界大戦後、世界的に広がりをみせることになった。 ○ハイデッガー マルティン・ハイデッガー(1889~1976 年)は、西南ドイツの山村メスキルヒに生まれ、
フラニブルク大学で哲学と神学を学び、キルケゴールの思想に深い感銘をおぼえた。 ハイデッガーは人間を「現にここにある存在=現存在」という言葉で表す。人間は世界
から切り離された単なる自我ではなく、自分に関心をもち、自分のまわりの世界・環境とか
かわりながら生きている存在、つまりつねに世界の中にいる存在である。 2377
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) しかし、こうした人間は通常、日常生活のうちでは周囲の意見や事情に自分を合わせて、
自己の主体性を喪失した状態で、つまり非本来的なあり方で生活している、こうした人間
は、世間一般的な、平均的な「ひと(ダス・マン)」へと解消され頽落(たいらく)して
しまっている人間である。「ひと」とは、だれにもあてはまる既製品の人間へと転落した
現存在のことである。 人間存在は本質的に死へと投げ出されている存在である。しかし「ひと」へと頽落して
いる現存在は、自分の死から目をそらし、なんとか「自分は死ななければならない」とい
う避けられぬ運命の不安から逃れようとする。「ひと」はこの不安からの逃避や気晴らし
のため、日常生活に埋没し、おしゃべりにふけり、好奇心のとりこになり、こうしてあい
まいさのうちに転落し安住しているのである。 死にかかわる存在は、つねに不安である。日常生活に安住する「ひと」は、「人はいつ
かは必ず死ぬ」という事実を、あいまいさのなかでごまかしているのである。しかし、「死
への存在」としての現存在は、確実な死という事実を進んで認め、不安を引き受け、その
とき本来的な自己のよび声=良心に従って決断し(ハイデッガーはこのことを「死への先
駆的決意性」という)、本来的自己へと脱出して生きることによって、充実した真の生=
実存を可能とするのである。ここに真の人間の生きるべき道があるとハイデッガーは考え
るのである。 要するに、真に主体的な自己を回復するためには「死への存在」としての自己を自覚し、
良心の声に従って決断し、真の自己へと生きぬくことが必要である。このようにハイデッ
ガーは独自の実存哲学を展開した。 第 2 次世界大戦後のハイデガーはナチス協力を問われてしばらく教職を追われたが、1951
年にヤスパースなどの協力により復帰した。実存主義者サルトルによってハイデッガーの
哲学は実存主義であるとされたが、ハイデッガー自身はこれを否定した。 第 2 次大戦後、フランスに輸入され、サルトルらによって広まった実存主義は、サルト
ルのアンガジュマン(参加、拘束)の思想に見られるように社会参加色が強く、1960 年代
の学生運動の思想的バックボーンとなった。 ○サルトル ジャン=ポール・サルトル(1905~1980 年)は、パリで生まれ、幼い頃父を失い、母方の
家で育てられ、18 歳のときパリの高等師範学校で哲学を学んだ。このとき、メルロ・ポン
ティ(のちに哲学者)、ポール・ニザン(のちに小説家・批評家)、レイモン・アロン(のち
に哲学者)、シモーヌ・ド・ボーヴォワール(のちに作家・哲学者・サルトルの妻)らのす
ぐれた学友と知り合い相互に影響を及ぼしあった。 1943 年、主著『存在と無』を出版し、独自の実存思想を築き上げた。 2378
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) もし、すべてが無であり、その無から一切の万物を創造した神が存在するならば、神は
神自身が創造するものが何であるかを、あらかじめわきまえている筈である。ならば、あ
らゆるものは現実に存在する前に、神によって先だって本質を決定されているということ
になる。この場合は、創造主である神が存在することが前提になっているので、
「本質が存
在に先だつ」ことになる。 しかし、サルトルはそのような一切を創造する神がいないのだとしたらどうなるのか、
と問う。創造の神が存在しないというならば、あらゆるものはその本質を(神に)決定さ
れることがないまま、現実に存在してしまうことになる。この場合は、
「実存が本質に先だ
つ」ことになり、これが人間の置かれている根本的な状況なのだとサルトルは主張するの
である。 《人間は実存であり、本質的に自由である》 サルトルの思想の根本は、「人間は実存する」のだということである。人間のあり方は、
単なる物と違って「存在」でなく「実存」である。人間は、机やペンや時計のようにあら
かじめその本性・本質が与えられていて、それにしたがってつくりだされたり成長したりす
るものではない。人間はまず、自己自身の生を生きて、つまりまず先に実存して、その後
でこの人はこれこれであると定義されるものなのである。 人間は自己の責任で自分の未来を選び、決断し、行為し、後になってはじめて人間とな
るのである。このように人間はいつでも自ら選びつくるところのものであるということは、
人間は本質的に自由だということである。「人間は自由であるべく呪われており、自由の
刑に処せられている」ともサルトルはいっている。 自分の未来を自分の責任で自由に選び、つくりあげてゆくという実存の自由は、つねに
新たにはじまる自由である。しかもこの自由は、自分だけが担わなくてはならない。こう
して自分が自由でしかないということ、この自覚は人間に苦痛と不安をもたらす。この不
安から逃れることは、自己の自由を放棄することであり、自己欺瞞に陥ること、非本来的
な生き方に陥ることである。我々は自己の自由を自覚し、不安をのりこえ、自己の責任で
実存を生き抜かなければならないのである。 《人間は社会にアンガジュマン(参加、拘束)していく》 実存する人間は、自由に自分の未来をつくるという意味で、自己に対して責任を負って
いる。しかし実存の自由は、自己に対する責任と同時に社会に対しても責任をもっている。
というのは、人間はつねに一定の社会的状況に拘束されており、実存を通してこの社会的
状況へアンガジュマン(参加)していくからである。たとえば、いま自分が結婚すると仮
定すると、自分はこの結婚によって積極的であれ消極的であれ一夫一婦制を承認し、他の
2379
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 結婚制度を否定したことになる。これは将来の人々に一夫一婦制を制度として投げかけ、
不可避的に彼らの状況を拘束することになるのである。 かくして人間は、「自らを選ぶことにより同時に他のすべての人間を選んでいる」ので
ある。社会的状況に拘束され、そこで実存する人間は、好むと好まざるとにかかわらず社
会へと参加し、社会的状況を逆に拘束して行くのである。自由な選択は、状況のなかで、
自己の責任においてなされるが、自己は常に他者との関係にあるから、自己に対する責任
は、同時に社会や人類に対しての責任となるのである。 アンガジュマン(仏語)はサルトルの思想によくでてくる言葉で、二重の意味を持って
使われている。一つは「拘束」という意味、他の一つは「参加」の意味である。人間の実
存は社会の状況に拘束されるが、逆に人間は実存によって社会に参加し、これを拘束する
からである。 サルトルは自らのアンガジュマン(社会参加)の実践を通して、しだいに社会的歴史的
状況に対する認識を深め、マルクス主義、アルジェリア戦争の民族解放戦線(FLN)、キュ
ーバ革命後のキューバの革命政権、ソ連の立場などを概ね支持しながらも、共産党には加
入せず、ソ連による 1956 年のハンガリー侵攻(ハンガリー動乱)、1968 年のチェコスロバ
キア侵攻(プラハの春)に対する軍事介入には批判の声をあげた。やがてソ連への擁護姿
勢を改め、反スターリン主義の毛沢東主義者主導の学生運動を支持するなど独自の政治路
線を展開していった。しかし、左派陣営内であったことはかわりがなかった。 1964 年にはノーベル文学賞に選ばれたが、
「いかなる人間でも生きながら神格化されるに
は値しない」と言って、これを辞退した。 サルトルより 3 歳下の女流文学者ボーヴォワール(1908~1986 年)は、『第二の性』『老
い』などで知られている。サルトルとは高等師範学校いらいのつきあいで、サルトルの理
解者・批判者・秘書・協働者であり、妻だった。 【②プラグマティズム】 アメリカは独立から約 1 世紀間は、新しい国家・社会の建設をめざす行動の時代であっ
た。しかし 19 世紀後半になると、自らの経験や行動をふりかえり、そこから新しい思想を
築こうとする人々があらわれた。その一人が、観念は行動(プラグマ)を通して明らかに
なり確かめられると主張したパースである。 ○パースのプラグマティズムの格言 チャールズ・サンダース・パース(1839~1914 年)は、1863 年にハーバード大学を卒業
し、1859 年に米国沿岸測量局に就職したのを皮切りに、1891 年まで断続的に測量の仕事を
2380
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 続けた。1869 年から 1875 年まで、ハーバード大学天文台の助手として測光に従事し、光の
波長を測量の規準単位として用いるやり方は、パースが始めたものである。 1870 年代のはじめ、ハーバード大学の所在地ケンブリッジで、2 週間おきに開かれる「形
而上学クラブ」という小さな会合があったが、このグループの中心人物であったパースは、
ハーバード大学出身の科学者であると同時に、すぐれた哲学者・論理学者でもあった。彼
は後年、このグループに集まった人々がもっていた共通の考え方を表明するのに「プラグ
マティズム」という名称を用い、その思想内容を『信念の固め方』
『概念を明晰にする方法』
の二つの論文に発表した。この後者の論文のなかで有名な「プラグマティズムの格言」が
述べられている。 パースによれば、日常生活のなかで疑念(疑問)が生じるとき人間の思考の働きがはじ
まり、新しい信念がえられると思考は休止する。信念は行動のための規則であって、その
本質は新しい行動の習慣を確立することである。したがって信念が異なれば、そこから生
じる行動も異なるのである。ところで、信念の意味内容は概念である。それゆえ、概念を
明らかにするためには、その概念の対象がひきおこす行動の結果を考慮すればよいのであ
る。こうして、パースは次のような定式を提案した。 「ある概念の対象を明晰にとらえようとするならば、その対象がいかなる実際上の結果
をもたらすか、をよく考察してみればよい。そうすれば、それらの結果の集合がその対象
についての概念の意味内容である」これが有名な「プラグマティズムの格言」である。そ
の要点は、ある対象についての概念の意味内容はその対象のもたらす実際上の結果と考え
られるものに帰着する、ということである。 たとえば、「これは硬い」という命題の「硬い」という概念の意味内容を考えてみると、
この命題を「もしも誰かがこれを傷つけようとしてもできないだろう」という条件文にな
おすことによって、その意味内容を明らかにできるのである。パースはこのような意味の
経験的基準を提案することによって、科学的・論理的プラグマティズムを主張した。しかし、
当時のアメリカの思想では、カントやヘーゲルの流れに属する新理想主義的形而上学が支
配的で、パースは正しく評価されなかった。 ○ジェームズの「真理の有用性」 ウィリアム・ジェームズ(1842~1910 年)は、 ハーバード大学で医学を学び解剖の技術
を身につけ、1872 年に学位を取得し、ハーバード大学で生理学・解剖学や心理学を講じた。
1875 年には、アメリカでは初めて心理学の実験所を設立し、アメリカ史上初の心理学の教
授となった。やがて、スペンサーの哲学(社会進化論)に興味を抱き、生理学だけでは、
人間の精神状態を解くのに十分でないと疑問を抱きはじめ、哲学の道を歩むことになり、
2381
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 心理学の研究と並行して、1880 年には、ハーバード大学で哲学の助教授、1885 年に同教授
になった。 ジェームズは、1870 年代には前述のパースの「形而上学クラブ」の主要メンバーであっ
た。1898 年カリフォルニア大学での講演で、パースの見解を紹介してプラグマティズムの
運動を提唱した。これを機会にして、プラグマティズムという言葉は世界的となった。 1904 年には『純粋経験の世界』、1907 年には、『プラグマティズム』を刊行し、当時の
アメリカを代表する哲学者になった。 ジェームズにおいても、パースの概念(信念)の意味と同じように、概念はそれが行動
の結果、有効であるという実際的効果をもたらすかぎりにおいて真理である、とされる。
だが、彼はこの実際的結果ということを広く解釈した。 ジェームズのいう実際的結果とは、概念そのものの対象がもたらす実際的結果だけでな
く、その概念を我々が信じることから生まれる実際的結果を含むのである。ジェームズに
よれば、概念はそれによって経験がうまく導かれるとき、つまりその概念が有用性をもつ
ときに真である。それゆえ、知識や理論が正しいかどうかは、それを実際の行動に適用し
てみて、その結果が有用であるか否かによって決定されるのである。たとえば、
「神が存在
する」という命題は、それを信じたほうが信じない場合よりも人間に精神的やすらぎを与
える点で有用である。それゆえ、そのかぎりにおいて、それは真であり善である。 ジェームズはまた功利主義的立場から宗教の意義を認め、宗教的信念を道徳の源泉とみ
なした。彼によれば、人間の生活においては知的に検証できないことがらがある。たとえ
ば、「人生は生きがいがあるか」というような問題である。この問題は、問うている人の態
度によって決まる。もしもその人が悲観的人生観に屈しないで、進んで人生の苦難にたち
むかうならば、その人にとって人生は生きがいのあるものになる。したがって、ジェーム
ズは「人生は生きがいがあると信じなさい。そうすれば、その信念が生きがいをもたらす
助けになるだろう」と説くのである。 ジェームズは、1910 年に、心臓病で死去したが、その後、遺作といえる『根本的経験主
義』(1912 年)、『哲学の諸問題』(1911 年)が刊行された。日本の哲学者、西田幾多郎
の「純粋経験論」に示唆を与えるなど、日本の近代哲学の発展にも少なからぬ影響を及ぼ
した。夏目漱石も、影響を受けていることが知られている。 ○デューイのプラグマティズム プラグマティズムをさらに発展させたのは、ジョン・デューイ(1859~1952 年)であっ
た。デューイは、1859 年、アメリカ・バーモント州バーリントンの食料品店主の三男とし
て生まれた。裕福とはいえず、少年時代のデューイは、新聞配達や農場の手伝いなどをし
て小遣いを稼いでいた。 2382
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 15 歳のとき、バーモント大学に入学、卒業後はペンシルベニアで高校教師を 2 年間勤め
たが、1882 年、ジョンズ・ホプキンズ大学に再入学し、心理学者スタンレー・ホールのも
とで学んだ後、同大学心理学研究所で働きながら、博士号を取得し、助教授に、1889 年 30
歳で教授になった。 同大学の講師になったジョージ・ハーバート・ミードと交友関係をむすび、1894 年 34 歳
のとき、新設されたシカゴ大学に哲学科主任教授として招かれ、ミードとともに移った。
ミードはウィリアム・ジェームズの教え子であり、デューイはジェームズにも影響を受け
るようになった。 1896 年年 1 月、実験学校(のちシカゴ大学付属実験学校)をつくり、1898 年秋には実験
室や食堂などを敷設した校舎に移った。生徒は 82 人になっていた。翌 1899 年 4 月、関係
者や生徒の親たちを前に、3 年間の実験の報告を 3 度行った。この講演の速記をもとに出版
されたのが後に教育理論の名著として知られることになる『学校と社会』
(1899 年)である。 《デューイの道具主義》 デューイは、はじめヘーゲル哲学の影響を受け、ついでダーウィンの進化論をはじめと
する生物学の影響を受けつつ、プラグマティズムを理論的に完成し、さらにその立場から
民主主義教育を提唱して教育界にも多大な貢献をした。 デューイによれば、人間は日常生活において困難や障害に直面したとき、それを自分の
力で解決し克服しようとして思考をはじめる。この思考は、自分のおかれている状況と具
体的事実についての観察によって、たえず訂正されながら進められなければならない。こ
の観察は直面している状況を明らかにし障害の原因を知らせるだけでなく、将来について
の推測や予想をともなう。こうして人間は直面している状況を理解し、これを改良するた
めにいかに行動すべきかを考慮し、計画し準備することができるようになる。 しかし思考は、それが実際の結果によって確かめられるまでは不確実なものである。し
たがって知識・概念・理論は、ことがらを処理するための手段としての「仮説」であり、
それらは使用を通じてたえず変化・発展していくものである。つまり、知識・概念・理論は、
我々が日常生活のなかでぶつかるさまざまな困難や障害などをとりのぞくための「道具」
なのである。 知識や理論などの価値は、道具というものがそうであるように、それら自体のなかにあ
るのではなく、それらが実際において使用された結果の有効性にあるのである。ある理論
を用いて仕事に成功するならば、その理論は妥当するし、真である。仕事に失敗したり、
混乱が増したりするならば、それは偽である。このように、真とか偽とかいうのは、知識
や理論が特定の状況において我々の行動をどのように導くかということから決まってくる。
この考え方を「道具主義」という。 2383
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) こうしてデューイは、知識や理論を行動からきりはなして抽象的にとらえることに反対
し、哲学的真理を知ることが人生における最高の意義であると考える主知主義の伝統から
きっぱりわかれた。そして、真理は人間が行動を通して創造するものであるとして、人間
の創造的自由の重要性を強調したのである。 《デューイの教育論》 デューイの倫理学の特徴は、それが民主主義的である、という点にある。彼によれば、
民主主義の原理とは、社会の全員が成長するために、各人が互いに自由に交流し、意見を
交換し、互いに協力して科学的に問題を解決することである。そこでは自由と平等の原理
だけでなく、寛容と同情の原理が重んじられる。デューイは民主主義の原理をこのように
とらえ、民主主義社会を実現することに教育の課題と方向を見出した。 彼によれば、教育とは人間の改造を意図する社会機能であり、その目的は民主主義社会
の実現にある。しかも教育は、自ら民主社会に向かうものであって、教育以外のいかなる
外的権力にも属するものではない。そして教育とは、なんらかの手段として存するもので
はなく、教育過程そのものが目標であり、教育過程とは絶えざる改正・改築・改組織である。
また学校とは、生徒が暗記と試験によって受動的に学習する場ではなくて、生徒が自発的
な活動をいとなむ小社会である。 生徒の生活や興味から出てくる問題を、教師の指導によって、整理し系統づけ、それを
解決する方法を探求させて、その過程で知識と道徳を体得させる問題解決学習を提唱した。
生徒はこのような教育を通じて、自主的態度と責任感をもつようになり、将来社会の民主
化に貢献する人間になることができるのである。 デューイの学習論から出てくる問題解決学習は、コロンビア大学でかれの引退と入れ替
わりに、世界で初の大学の看護学部が誕生するとき、その教育方法の根底をなすものとし
て影響を与えた。彼の教育論は、人間の自発性を重視するものである。彼は人間の自発的
な成長を促すための環境を整えるのが教育の役割だとした。 こうしてデューイは、教育こそ、平和・民主主義・経済的安定という目的を確保すること
を可能にするものだとし、それはつねに民主主義の信念に貫かれていなければならないこ
とを強調した。 民主主義の擁護にあたって、デューイは学校と市民社会の二つを根本要素とみなし、実
験的な知性と多元性の再構築が求められるとした。デューイは完全な民主主義は、選挙権
の拡大によってのみ実現されるのではなく、市民、専門家、政治家らによる緊密なコミュ
ニケーションによって形成される「十全な形」での世論(Public opinion)も不可欠であ
るとした。 2384
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) デューイは、1904 年からニューヨークのコロンビア大学に招かれ哲学教授となり、晩年
まで勤めた。1905 年にはアメリカ哲学会会長就任した。 デューイは、第 1 次世界大戦後、各国を歴訪して教育視察や助言を行った。1919 年に日
本を訪れ、東京大学で連続講演を行い、この講演をもとに『哲学の改造』を出版した。こ
れはプラグマティズムの立場やギリシャ以来の哲学の考え方を平易に示している。 ○アメリカで育ったプラグマティズム プラグマティズムは独立戦争、西部開拓、南北戦争、産業革命などを推進させてきたア
メリカ人の行動の論理を理論化したものであり、その成立はアメリカ思想史上の「独立宣
言」といわれるように、アメリカのヨーロッパからの文化的独立の思想的表現であったと
言える。 19 世紀から 20 世紀にかけて人間性の喪失ないしは人間疎外の状況をマルクス主義は社会
主義社会を打ち立てることによって、実存主義は人間の個性ないしは主体性を重視するこ
とによって、それぞれ克服しようと試みた。 それに対しプラグマティズムは、旧来の非科学的思考を乗り越え、新しい思考の方法と
態度によって、現代の諸問題を解決しようとした。この立場はイギリスの経験論の立場を
受け継いでいるが、さらに進化論の影響を受けて、経験を環境に対する適応と考える点で、
従来の経験論のもつ感覚中心の傾向を脱却している。そして理性や知識を道具として利用
し、実際の行動を通して人間の可能性を実現しようとするものであった。 プラグマティズムは、近代科学を絶対的に信頼し、その実験的方法を生活全般に適用し
ようと試みた。この点では、実存主義と対照的であった。さらに科学と宗教とを矛盾する
ものとしてではなく、相互に助け合うものとして把握する点で、宗教を否定するマルクス
主義とも異なっていた。 プラグマティズムは観念的・抽象的な形而上の無意味さを批判し、思想を日常生活と緊
密に関連させ、科学的・実証的に裏づけられた思想体系を樹立した。ただ、19 世紀から 20 世
紀にかけての、明るい未来への無限の可能性をひめていたアメリカ社会に生まれた思想で
ある。それゆえ、その立場は楽天的であり、さまざまな深刻な問題を抱えた現実、制約の
多い社会に対処するには難点があるという批判もなされている。 【15-2】新産業の発展(第 2 次産業革命の続き) 19 世紀の歴史において、【14-3】第2次産業革命において、19 世紀後半に主とし
てドイツを中心に起こった第 2 次産業革命について、すでに以下のような項目については
述べた。 ◎第 2 次産業革命とは 2385
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ◎鉄鋼業 ◎化学工業 ◎電気・電機産業 ◎電力生産の事業化 ◎内燃機関と自動車の発明 ◎石油産業の勃興 ここでは、その続きとして 20 世紀前半に主としてアメリカを中心に起こった第 2 次産業
革命(続き)について、自動車産業(続き)、航空機産業、合成化学産業について述べる。 【15-2-1】自動車産業 【①アメリカの自動車産業】 ○その後のフォード社 1908 年から T 型フォードの大量生産を開始したフォード社は成功をおさめ、T 型乗用自
動車の生産は、1912 年の 17 万台から 1914 年には 30 万台、さらに 1 年後には 50 万台を超
え、1923 年および 1924 年にはそれぞれ年産 200 万台の大台に達した。そして、そのころま
でに、世界全体の自動車のうちの半分は T 型フォードとなった。1908 年の発売当時、富裕
層相手の手作りの自動車が 3,000 ドルから 4,000 ドル、同クラスの他メーカーの自動車で
も 1000 ドル近い価格であったのに対し、T 型フォードはのちには 300 ドル前後を実現した
のである。 一方、1914 年には 1 日当たりの給料を 2 倍の 5 ドル(2006 年の価値では 103 ドルに相当
する)へと引き上げ、勤務シフトを 1 日 9 時間から 1 日 8 時間・週 5 日労働へと短縮する
宣言を発し、その結果、応募者が退職者を上回り続けることになった。アメリカ政府が最
低賃金や週 40 時間労働の基準を決める以前にこれを達成していた。 その後も、フォード社は T 型フォードだけを製造し続け、1927 年まで 20 年近くを 1 モデ
ルの改良と生産工程の改良、販売サービス網の充実に費やした。当時金持ちのおもちゃと
いわれた自動車を大量生産によって大幅に値下げし、車は大衆的な輸送手段となった。こ
の成功によって 150 社程もあったアメリカ自動車会社の中からフォード社はアメリカ市場
の 5 割を占める大会社となった。 この隙をついて後述するゼネラルモーターズ(GM)とクライスラーがシェアを伸ばし、T
型より新鮮なデザインと優れた性能の自動車で顧客の需要を奪った。もともと多様な自動
車会社が合併して生まれた GM は、大衆車から超高級車までのあらゆる価格帯の自動車を販
売しており、さらに矢継ぎ早のモデルチェンジで常に最新型を供給して以前のモデルを時
代遅れのものとし、T 型しか買えない層よりも裕福な層をつかんだ。 2386
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) また GM ほか競合企業はオートローンによる信用販売により、所得の低い層でも分割払い
で高い自動車を買える仕組みを築いた。しかし、ヘンリー・フォードは、オートローンに
ついても、顧客が借金を抱える販売手法は長い目で見て消費者と国家経済を疲弊・荒廃さ
せるとして強く反対した。 しかし T 型の性能・デザイン面での陳腐化は明らかだった。1927 年 12 月にはついに、1500
万台を販売した T 型の生産を中止し、心機一転、モデル名を振り出しに戻し再び A 型と名
乗る車を導入した。一方、1922 年にはリンカーンを買収し、フォードは高級車市場へ参入
した。また 1938 年には大衆車フォードと高級車リンカーンの中間にあたるマーキュリー・
ブランドを立ち上げ、ようやく中級車市場へも参入した。 その後のフォード社については省略するが、2006 年時点で年間 660 万台の自動車を生産
し、アメリカ・ビッグスリーの一角を維持している。フォーチュン誌が選ぶ世界 500 大企
業(粗収益ベース)の 2007 年版では、全世界での収益が 1601 億ドルで、アメリカ企業の 7
位にランクされ、世界 100 ヶ所の施設・工場で 28 万人を雇用している。 ○アメリカ最大の自動車メーカーとなったゼネラルモーターズ(GM) ボストン生まれのウィリアム・デュラント(1861~1947 年)は、馬車製造のメッカ、ミ
シガン州のフリントで育った。そこで馬車のパテントをとり、大きく馬車製造業を営んで
いた。 そ こ へ 自 動 車 製 造 ブ ー ム が 起 り 、 1904 年 、 経 営 難 の ビ ュ イ ッ ク 自 動 車 会 社 を
買 収 し 、 正 式 に 自 動 車 産 業 に 参 入 し た 。 デュラントは優れた経営手腕を持っており、
販売網とサービスを強化したためビュイックは数年のうちにたちまち全米でも有名な自動
車メーカーとなった。 1908 年 9 月に、デュラントはミシガン州フリントで持株会社を組織したが、それがゼネ
ラルモーターズ(GM)であった。ゼネラルモーターズ創設後、デュラントは、1908 年末に
オールズモビルを買収し、翌年にはキャデラック、エルモア、オークランド(後のポンテ
ィアック)などを買収して GM の一部とした。その後も GM はミシガン州周辺のトラックメ
ーカーを次々買収したが、買収費用がかさんだことにより 100 万ドルの負債を抱えるはめ
になった。1910 年、デュラントは GM の支配権を失い、バンカーズ・トラストが会社の支配
権を握った。 デュラントはその後シボレーの創立(1911 年)に関わり、GM の株を買い戻して 1916 年
には社長に返り咲き、シボレーを翌年 GM の一部とした。彼の復活の背後には、1914 年に最
初の投資を行って以降、1950 年代まで GM に関与し続けたデュポン社の社長ピエール・デュ
ポンがいた。彼は 1920 年にデュラントを追い出して GM の実権を奪い、アルフレッド・ス
ローン(1875~1966 年)に経営をまかせた。 2387
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 《アルフレッド・スローンと『GM とともに』》 スローンはコネチカット州ニューヘイブンで生まれ、電気工学を学びマサチューセッツ
工科大学(MIT)を 1892 年に卒業した。彼は 1899 年にニードルベアリング、ボールベアリ
ングを製造するハイアット・ローラー・ベアリング社の社長となった。1916 年、ハイアッ
ト社はユナイテッド・モーターズ社と合併し、さらに最終的に GM の一部となった。スロー
ンは GM の副社長になり、1923 年には社長になった。 スローンは草創期のアメリカ自動車産業に多くの新しい経営手法を導入した。スローン
は、大量生産方式の洗練、利益率を上げる会計手法の導入、モデルチェンジなどのマーケ
ティング手法の導入などにより GM を拡大させ、他社の経営にも大きな影響を与えた。スロ
ーン当時の GM は、投資収益率などの財政指標を用いて多様な部門を経営したことで知られ
た。こうした会計手法は利益率向上に大きく貢献し、アメリカ企業経営にも大きく影響し
た。 スローンは、既存車種を毎年モデルチェンジするマーケティング手法を確立した人物で
もあった。モデルチェンジによって消費者の手許にある車は直ぐ時代遅れになり、買い替
え需要を催促し新車が売れ続ける仕組みを作った(計画的陳腐化といわれた)。GM では、低
価格帯から高価格帯に向かってシボレー、ポンティアック、オールズモビル、ビュイック、
キャデラックといったブランドの階層が設けられ、商品指向も微妙に変えられており、消
費者のあらゆる希望を満たすフルラインナップ体制が整えられた。また GM 大衆車のオーナ
ーがより豪華な車種に乗り換えようと思った時も、他の高級車メーカーへ顧客を逃すこと
なく再度 GM のブランドから選んでもらうことができた。 1920 年代の初め、ライバルで全米一の自動車会社だったフォードはこうした GM 流の手法
を拒み、モデル T の単一車種量産と低廉化に固執したため、多様で毎年モデルチェンジす
る車種を売る GM がフォードを突き放して 1930 年代には自動車業界の頂点に立ち、以後長
年全米一のメーカーとして君臨した。スローンの時期、GM は世界一大規模で世界有数の利
益を誇る製造業企業であった。 スローンは、1937 年には取締役会会長となった。1952 年にはスローン財団は「理想的な
経営者」を教育するため、MIT の新たな大学院「MIT スクール・オブ・インダストリアル・
マネジメント」の開設を支援したが、これは後に「MIT スローン・スクール・オブ・マネジ
メント」と改名され、アメリカ屈指のビジネススクールになっている。彼の著書『GM とと
もに』(1963 年)は、GM の成立から巨大化までを記録しており、優れた経営哲学書として
も知られている。 《「マネジメント」を発明した男・スローンとドラッカー》 「現代経営学」あるいは「マネジメント」の発明者と呼ばれる経営学者ピーター・ドラ
2388
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ッカー(1909~2005 年)は、その仕事を GM の研究からはじめていた。彼はウィーンで裕福
なドイツ系ユダヤ人の家庭に生まれ、1931 年、フランクフルト大学にて法学博士を取得し
た。このころ、ヒトラーやゲッベルスからたびたびインタビューが許可された。しかし、
ユダヤ系だったドラッカーは、ナチスの勃興に直面し、危険と悟ってイギリスを経て、ア
メリカに家族とともに逃れた。 そこで彼が目にしたのは 20 世紀の新しい社会原理として登場した組織、巨大企業だった。
彼はその社会的使命を解明すべく、GM を題材にした著作に取り掛かかった。 『産業人の未来』(1942 年)をきっかけにゼネラルモーターズ(GM)から会社組織の変
革と再建を依頼され、ドラッカーは GM の中へはいって研究し、それが『企業とは何か(会
社という概念)』(1946 年)に結実し、「事業部制」など企業の組織戦略について分権化
の概念を提唱し、組織運営のノウハウすなわちマネジメントの重要性をはじめて世に知ら
しめた。確かに著者はドラッカーであったが、この時点での「マネジメント」の発明者はス
ローンであり、スローンがドラッカーの師であった。 余談であるが、ドラッカーは 2005 年に 96 歳でなくなるまで、時代時代に適切な著作を
著わし、世界の知識人に多大な影響を与えた。彼の著作には大きく分けて組織のマネジメン
トを取り上げたものと、社会や政治などを取り上げたものがある。本人によれば彼のもっ
とも基本的な関心は「人を幸福にすること」にあった。そのためには個人としての人間と
社会(組織)の中の人間のどちらかにアプローチをする必要があるが、ドラッカー自身が
選択したのは後者だった。生物環境を研究する自然生態学者とは異なり、トラッカーは自
身を人間によってつくられた人間環境に関心を持つ「社会生態学者」と規定していた(『す
でに起こった未来』)。 また、ドラッカーの思想は、組織や企業経営の分野にとどまらず、個人のプロフェッシ
ョナル成長の分野にも及んでいた。いわゆるナレッジワーカーが 21 世紀のビジネス環境で
生き残り、成功するためには、「自己の長所(強み)」や「自分がいつ変化すべきか」を知
ること、そして、「自分が成長できない環境から迅速に抜け出すこと」を勧めていた。新し
い挑戦こそが、プロフェッショナルの成功に貢献すると主張していた。ヒトラーの時代か
ら、長い目で世界を傍観してきたドラッカーの叡智がにじみでる著作ばかりである。その
ドラッカーの才能もスローンとの出会いによって呼び起こされたのである。 GM に返る。1955 年 12 月末には、GM はアメリカで最初に年 10 億ドル以上を稼ぐ企業とな
り、アメリカ最大の会社となった。その後の GM はアメリカの自動車産業のトップ(もちろ
ん、世界でもトップ)を維持し続けた。 《日本メーカーに追い上げられた GM》 1970 年代以降、オイルショックによって小型車の需要が高まると、それまでアメリカ国
2389
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 内で開発して来た小型車をオペル、いすゞ等の開発協力を得たモデルに代替するなどの販
売戦略の転換が進められたが、品質と生産性の悪化が顕著となり、さまざまな取り組みが
進められた。1984 年にはトヨタ自動車との合弁会社「NUMMI」を設立し、品質管理(QC)に
関するノウハウの吸収に努めたほか、生産性を向上する取り組みにも着手した。 日本車やドイツ車のコンセプトを模倣したサターンや高度にロボット化された工場の失
敗などはあったものの、1990 年代初頭には一定の成果を見せるようになった。また、1990
年代を通じたアメリカの好景気は、再びフルサイズ SUV、ピックアップトラックなどの需要
を生み出し、アメリカ国内のシェア低下には歯止めが掛からなかったものの、高い利益率
は好業績を維持することに貢献した。 2000 年頃からは環境保護問題の高まりなどの外部環境の変化を受け、消費者の嗜好は再
び燃費の良いサブコンパクトカーやハイブリッドカーにシフトしたが、GM は時代の流れに
逆行し高い利益率のフルサイズ SUV、ピックアップトラックに集中し続け、むしろ小型車部
門のジオは整理・縮小させる方向にあった。 2007 年の自動車販売台数は、トヨタ自動車グループと僅差で世界一(937 万台)であっ
たが、ガソリン価格の高騰、サブプライムローン問題に端を発する世界金融危機の影響で、
北米での売上が大きく落ち込んだ。その結果、2007 年度決算で 3 兆円という途方もない額
の赤字を生むこととなった。また、2008 年上半期には約 77 年間も守り続けた販売台数世界
一の座もトヨタに明け渡した。 ついに 2009 年 6 月 1 日、GM は連邦倒産法第 11 章(日本の民事再生手続きに相当する制
度)の適用を申請した。負債総額 1,728 億ドル(約 16 兆 4100 億円)は、製造業としては
世界最大であった。ニューヨーク証券取引所は、ゼネラルモーターズの連邦倒産法第 11 章
の申請を受け、2009 年 6 月から、同社株を売買停止としたが、2009 年 7 月 10 日、破産法
管理下から脱却し「新生 GM」が正式に発足し、再建をはたした。 ○ビッグスリー第 3 位のクライスラー 1925 年、クライスラー社は、ウォルター・クライスラー(1875~1940 年)によって、6
気筒エンジン自動車クライスラー・シックスを製造販売する会社として、当時のマックス
ウェル、チャーマーズ両社を統合の上に設立された。その後、1928 年に「プリムス」と上
級車種を擁する「デソート」ブランドを設立、翌 1929 年にはダッジ・ブラザーズ社を買収
してラインナップを充実させ、GM とフォードに次ぐアメリカのビッグ 3 のひとつに成長し
た。 またこの頃よりヨーロッパや日本への輸出を積極的に行い、その販路を拡大した。設立
後よりフレデリック・ジーダーらの有能な技術者を擁し、当時、クライスラーは技術面で
GM やフォードに先んじた姿勢を取っていた。大衆車では例がなかった 4 輪油圧ブレーキシ
2390
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ステム、
「フローティングパワー」と呼ばれる新方式のエンジンマウント、木骨を使わない
全鋼製ボディの採用、エンジン位置を前進配置させて直進性を高める重量配分、油圧式パ
ワーステアリングなど、1920 年代後期から 1950 年代までにクライスラーが市場に先駆けて
導入・実現した重要な新技術は非常に多かった。 1930 年代には戦車やウエポンキャリアなどの軍用車の製造にも進出した。以後軍用車部
門は同社の収益の多くをあげる重要部門に成長し、アメリカも 1941 年 12 月より参戦した
第 2 次世界大戦中は、戦争特需で同社の経営の安定に大いに貢献した。 1955 年以降は自社デザインチーフのバージル・エクスナーの主導による流麗なデザイン
が積極採用されるようになり、従前アメリカ自動車業界のデザイントレンドを主導してき
た GM にも影響を与えるほどに、スタイリッシュなモデルを続々と投入した。 またこの頃は、アメリカ経済が絶頂期にあり年々販売台数が伸びていたことや、輸入車
との販売競争もほとんど存在しなかったこともあり、テールフィンがつき、高馬力エンジ
ンを積んだ利幅の大きい大型車(フルサイズ)が人気を博し、高性能な大型車が得意なク
ライスラーにとっての絶頂期でもあった。 しかし、石油危機と、その後の石油価格の上昇を受けたアメリカ国内における日本車の
急激なシェア拡大、それに反比例した利幅の大きい大型車の販売不振が追い討ちをかけた
結果、1970 年代後半には深刻な経営危機となり、運営資金が枯渇する状況に陥った。 経営危機の真っ只中の 1978 年に、フォード・モーターの社長をつとめていたものの、同
社会長のフォード 2 世との対立から同年に解雇の憂き目にあっていたリー・アイアコッカ
がクライスラーの社長に就任した。 アイアコッカの就任直後に運営資金が底をついたことから、第 2 次世界大戦以前より同
社の収益の大きな柱であった軍事産業部門の売却を余儀なくされた他、大規模な人員削減
を行うなど、苦難の時を迎えることとなった。しかし、アイアコッカの就任後より開発を
進め、1980 年に早くも発売を開始した前輪駆動の小型車「K カー」シリーズの導入と、全
ラインナップの小型化、前輪駆動化の推進や、1984 年に販売されたミニバンの導入、肥大
化した組織の見直し、海外拠点や子会社を含む不採算部門の売却や閉鎖などの大々的な改
革を行い、1980 年代半ばには、数年前までは倒産寸前だった同社を完全に立て直すことに
成功した。なお、1987 年には黒字化を達成した。 その後もビッグスリーの一角ではあり続けたものの、1998 年にドイツのダイムラー・ベ
ンツに事実上吸収合併され、ダイムラー・クライスラーが誕生したが、2007 年に合併は解
消され、クライスラー部門はサーベラス・キャピタル・マネジメントに売却され、2009 年
4 月、クライスラーは連邦倒産法第 11 章の適用を申請した。 破産法手続により、大株主サーベラスが保有する株式は事実上失効し、新たな持ち株比
2391
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 率は、全米自動車労働組合(UWA)が 55%、フィアットが 20%、アメリカ政府が 8%、カナダ
政府が 2%となった。2009 年 6 月 10 日には新会社への資産売却が完了し再建手続きが終了
し、新生クライスラーはフィアット傘下で再出発した。 ○20 世紀の大量生産方式の波及・伝播 アメリカ人にも、他の世界の大部分の人々にとっても、大量生産方式の象徴は, 20 世紀
のはじめフォードがはじめた自動車であろう。フォード自身は「大量生産は、中心的には,
正確性、経済性、組織性、継続性、スピード、反復性の原理による製造計画である。その
正常な帰結は、標準的な材料、できばえ、デザインを持つ有益な商品を、最低の原価でと
ぎれなく供給する生産機構である。大量生産の必要な先行条件は,大量消費、すなわち大き
な生産を吸収できる潜在的または開発された消費容力である。この二つ、すなわち、大量
生産および大量消費は切っても切れない結びつきにある」と記している。 経済史のどこにも 20 世紀前半の自動車産業で起こった、これほど迅速な、しかも広くゆ
きわたった技術革新を見いだすことはできない。大量生産方式は、それまでの歴史におい
て常にそうであったように一部の王侯貴族・富裕階級(支配者階級)にしか手に入らない
高価なものを一般庶民にも手に入るようにさせた技術革命であった。 1910 年には、アメリカでは、265 人につき 1 台の乗用車があったが、1928 年には、6 人
に 1 台、1962 年には、2.5 人に 1 台になった。広範な自動車所有は、我々の物質文明を変
形させ、都市そして地方の性格を変え、現代生活のほとんどすべての局面に浸透している。
また、階級区分、社会階層を廃止したこの革命的役割も特筆されよう。有史以来、歩く人
と、カゴに乗る人、馬に乗る人または馬車に乗る人とを区別してきた社会的距離を、25 年
内で自動車は永久になくしてしまった。1928 年のアメリカでは、全乗用車販売の、29%は、
労働者、消防夫、職人、電車の運転手であることがわかった。農村では、T 型車が 1920 年
までに広く普及した(アメリカの農村は広大であったから、自動車の普及は早かった)。 大量生産が可能であるとともに利益を生み出すものであるというフォードの成功物語は,
当然、競争企業に採用され、その他の分野にも及ぶこととなった。まず、フォード自動車
会社に育てられたウィリアム・ヌードセンが、GM のシボレー部門の責任者になってそれを
やった。 1920 年代には、自動車部品を供給する業界に大きな変化がもたらされた。たとえば、ガ
ラス製造業は 1880 年代から急速な機械化を経験してきたが、それはとくにビンならびにラ
ンプ用の球の製造に関したものであった。そして、1920 年まで自動車に用いる種類の板ガ
ラスの製造は、なお骨の折れるバッチ・システム(個別容器の単位ごとに製品をつくって
いく方法)による製造方式がとられていた。しかし、これでは供給が需要に追いつかす価
格が急上昇してしまう。 2392
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) フォード社はガラスに注目し、移動テーブルの上に溶解したガラスを連続した細長い板
として流し、ガラスの展延、研削、ならびに研磨工程を首尾よくなしとげる方式を生み出
した。この方式は数年ならずして板ガラス製造のアメリカ式の標準的技術になった。この
ようにして板ガラスの分野で大量生産方式が普及すると板ガラスの価格が格段に安くなり、
高層ビルや庶民の家にも大量に使用できるようになり、単に自動車部品業だけではなく他
の機械・建築分野にも広く波及していった。 鉄鋼に関しても同じことが起った。1920 年代になって自動車の全鋼鉄製ボデーの採用が
一般化し、鋼板の需要を生み出し、その結果鉄鋼業界では連続した細長い鋼板の型で圧延
する連続式ストリップ・ミルの採用が採算的に実用化されるようになった。このようにし
て大量の鋼板が安く手にはいるようになると、冷蔵庫、洗濯機、裁縫用ミシンなどの耐久
消費財、すなわち、自動車と同様に機械的にある程度複雑な性質を持ち精密かつ正確な組
立を必要とする商品にも急速に採用されていった。 最初に成功をおさめた電気冷蔵庫の「フリジデア」(その名は電気冷蔵庫の一般名称とさ
えなった)は、GM 社によって製造されたことは、この大量生産方式の伝播の過程をよく示
している。他の自動車部品も推して知るべしで、安くなった機械部品は他の分野にも利用
されていくようになった。 ○「生産の合理化」の波及・伝播 生産の合理化が製造業、とくに組立が中心的な工程をなすような製造業において顕著だ
ったとはいえ、それが同業界に限られていたわけではけっしてなかった。合理化の考え方、
つまり、材料の流れのシステマティックな統制および人手に代わる機械の利用という考え
方はその材料が何であろうといずれの産業にも適用されることであった。組立産業におけ
る大量生産が一般的に採用されるようになると、その考え方は他の分野にも及んでいった。 流体と気体を扱う石油産業がその生産設備において大規模に、連続的な工程と完全な自
動制御を採用した最初の産業となった。 鉱石の採掘も、組立ラインのようには広くは知られていないものの、それと同じような
特徴を持つ合理化された機械技術の成長のあった例である。1920 年代初期に全回転式シャ
ベルを搭載したキャタピラ・トラックが出現すると金属鉱石と石炭の採掘工程は、秩序立
った機械化された順序に従うこととなった。従来の熟練した採鉱夫の仕事から、機械の運
転工の仕事となり、その後の製品の加工もまた高度に機械化されたものとなった。 大量生産の特徴はすでに、精密性、標準化、互換性、時間の同期性(シンクロナイゼー
ション)および継続性として列挙したが、ここでもう二つ追加すれば、その一つは完全な
機械化、すなわち、全手作業の除去である。機械は人間の手わざでは達成されないような
2393
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 正確さを獲得し、その結果、自動制御やオートメーションが達成できる。しかし、これは
取り扱う対象物によって、容易に達成される場合と容易でない場合がある。 流体を扱う石油産業ではオートメーションは早く実現できた。自動車産業のように大量
の機械部品を組み付ける組立産業での全機械化は容易ではなかった。このため、ベルトコ
ンベアのまわりで、部品組み付けをする労働者は単純作業の連続で、非人間的労働と長く
非難されてきた。しかし、最近の最新鋭の自動車工場では各工程で各種の専用ロボットが
開発され、かなり完全自動化に近づいてきている。このように絶えず、より良い方向にシ
ステムを改善するのが人間である。 大量生産のもうひとつの特徴はフィードバックシステムである。これはそもそもシステ
ムの本質をなすものである(フィードバックシステムをもたないものは(オープンシステ
ムとはいうが)システムではない)。大量生産は、工程の全段階において同じ厳密な標準が
適用されている時にのみ、本来あるべき姿で機能する。それゆえに入念な検査ならびに試
験のメカニズムを持つことが必要なのである。 フォード社は、ヨハンソン・ブロック・ゲージ(19 世紀末にスウェーデンの機械工によ
り開発された非常に微小な公差で仕上げられた鋼板ブロック)による計測と試験を行った
最初の大規模工業組織の一つであった。その後も大量生産技術は進化していったが、この
検査・試験を含めて品質管理の技術とシステムは、大量生産が備えるべき必須の機能であ
ることに変りはない。 このアメリカが発明した大量生産方式は、アメリカ社会だけでなく、創造と模倣・伝播
の原理によって、第 2 次世界大戦後にはヨーロッパならびに日本の産業社会にも普及して
いって、驚くべき経済復興に大きく貢献をした。それから半世紀たった人類は、大量生産
のもう一つの側面である大量消費から生み出される大量廃棄と大量資源・エネルギー消費
の問題に直面している。 しかし、後述するように人類は大量生産・大量消費・大量廃棄を含めた大きな社会シス
テムを考え、この問題を解決することができるであろう。新しい問題に直面して叡智を出
してブレークスルーするそれが人類の叡智である。 いずれにしても、アメリカで 20 世紀の初めに生み出された自動車産業は単に自動車の生
産というだけでなく大量生産方式の導入あるいは現代の機械工業、材料を含めると工業そ
のものの導入を意味することであったので、各国にとっても自動車産業の育成強化は必須
の課題であった。 以下、アメリカの自動車産業についで、各国に自動車産業が次々と勃興していった。日
本以下の自動車産業の発展は第 2 次世界大戦後のことになる。自動車産業は総合機械産業
であり、各国の機械工業のレベルを現わしているともいえる。 2394
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 【②ドイツの自動車産業】 《フォルクスワーゲン》 現在、ドイツ最大手の自動車メーカーであるフォルクスワーゲンは、第 2 次世界大戦前
にナチス政権の国策企業として設立された。アドルフ・ヒトラーが 1934 年のベルリンモー
ターショウで提唱した国民車(フォルクスワーゲン)計画に従い、著名な自動車設計者で
あるフェルディナント・ポルシェによって、進歩的なメカニズムを備えた流線型のリアエ
ンジン小型車が開発された。後のフォルクスワーゲン・タイプ 1 となる車であった。1936
年に最初の試作車を完成、1938 年に発表された。 しかし 1939 年 9 月に第 2 次世界大戦が始まるとフォルクスワーゲン製造会社は軍需生産
に移行し、フォルクスワーゲン車をベースにしたキューベルワーゲン等の軍用車両を生産
し、民需のフォルクスワーゲンを生産することはなかった。 戦時中のフォルクスワーゲン製造会社の生産ラインにはポーランド、ウクライナ、ロシ
ア、ベラルーシ、イスラエル、オランダ、フランス、オーストリアなど、近隣諸国からの
約 2 万人の強制労働者や戦争捕虜、のちにはアウシュヴィッツ収容所の収容者が送り込ま
れ、過酷な労働を強いられ死に至る者もいた。 第 2 次世界大戦が終わると、フォルクスワーゲンはイギリス軍の管理下におかれ、イギ
リス軍少佐のアイヴァン・ハーストがフォルクスワーゲンの工場管理者となった。ハース
トはフォルクスワーゲン車の将来性と、ドイツ人労働者の高い資質を見抜き、リーダーシ
ップを取って、戦禍によって廃墟同然となった工場を復興させ、生産を再開したのである。
さらにハーストは占領軍の管理者という立場でありながら、品質管理や販売網・サービス
網整備にまで意を払い、フォルクスワーゲンの礎を築いた。1947 年からはオランダを皮切
りに輸出も開始した。 主力モデルである「タイプ 1」は、その耐久性と経済性、そして優れたアフターサービス
体制で世界の市場から圧倒的な支持を得ることに成功した。
「ビートル」の愛称で広く親し
まれたこの古風な流線型車は、アメリカをはじめ全世界に大量輸出され、貴重な外貨を獲
得して西ドイツの戦後復興に貢献した。2003 年のメキシコ工場における生産終了時点まで
に生産された台数は 2,152 万台以上に上り、モデルチェンジなしでの 1 車種としては未曾
有の量産記録となった。おそらく四輪自動車で、今後もこれを破る記録は現れないであろ
う。 だがビートルの余りに大きすぎた成功は、後継モデル開発の妨げともなった。
「フォルク
スワーゲンすなわちビートル」というイメージの強さ、空冷リアエンジン方式というレイ
アウトが 1960 年代に陳腐化したにも関わらず、根本的変更が遅れたことなどが災いし、新
型車を世に問うても決定打を欠くという低迷期が、1960 年代後半以降長く続いた。 2395
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 1974 年に至り、スペース効率に優れた前輪駆動のハッチバック(跳ね上げ式後部ドア)
車ゴルフを開発し、その機能性が市場に受け容れられてベストセラーとなった。ようやく
ビートルを代替できるモデルを得たのである。以来、その延長線上に各種の機能的な小型
車を多数送り出し、ヨーロッパを代表する大衆車メーカーとしての地位を確立した。 現在、フォルクスワーゲンは、8 つの自動車ブランド、19 ヶ国に 44 工場を所有する多国
籍企業である。 世界でのグループの販売台数は、2008 年現在ではトヨタ自動車、ゼネラル・
モーターズに次ぐ第 3 位であり、ヨーロッパでは最大の規模を持つ自動車メーカーである
(2006 年度の販売台数は 570 万台で全世界の乗用車マーケットシェアは 9.7%)。 《ダイムラー社》 ドイツで現在、第 2 位の自動車メーカーは、ダイムラー社である。その起源はダイムラ
ー・ベンツ社にあり、1926 年にベンツとダイムラーが合併しダイムラー・ベンツとなった
ことは前述したとおりである。同社は「メルセデス・ベンツ」ブランドの自動車や、戦車・
船舶・航空機エンジンなどのメーカーとして発展をとげた。 1998 年、ドイツのダイムラーベンツとアメリカのクライスラーの事業結合契約に基づき
ダイムラー・クライスラー社が誕生した。しかし、2007 年 8 月 3 日、ダイムラー・クライ
スラー社は、クライスラー部門の資産管理を行う持株会社「クライスラー」を設立し、そ
の株式の 80.1%を 55 億ユーロでサーベラスに売却、かつては「世紀の合併」といわれたダ
イムラーとクライスラーの協業体制は約 9 年で解消された。 クライスラー部門を分離後のダイムラー・クライスラー社、はかつての社名である「ダイ
ムラー・ベンツ」ではなく「ダイムラー」と改名された。ダイムラー社の 2006 年の生産台数
は 204 万台で世界 13 位であった。トラックの販売では世界最大手であり、三菱ふそうトラ
ック・バスを傘下に持っている。 【③フランスの自動車産業】 《ルノー・グループ》 1898 年にフランス人技術者のルイ・ルノー(1877~1944 年)とその兄弟によって設立さ
れた。1900 年代以降は、小型車を中心とする量産政策によって生産規模が拡大したことか
ら、先に創業されたプジョーなどを追い抜きフランスで最大の自動車製造会社となった。 第 1 次世界大戦前後にはルノー FT-17 軽戦車等の戦車や装甲車、トラックなどの軍用車
両や、飛行機および航空用エンジン、さらには小型船の開発・生産を行うなど、その事業
範囲を拡大した。また、この頃から日本やオーストリア・ハンガリー帝国、アメリカ合衆
国などへ販売代理店を通じて本格的な輸出を開始した。 第 2 次世界大戦のドイツ軍占領下で、ルイ・ルノーは工場と従業員を守るために、やむ
2396
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) なくドイツの占領軍とその傀儡政権・ヴィシー政権に協力することになった。しかしその
結果、ルイ・ルノーは 1944 年の連合国軍によるフランス解放後に対独協力者として逮捕さ
れ失意のうちに獄中で病死した。第 2 次世界大戦中に創業者の死と生産設備の破壊という
苦難に陥ったルノーは、大戦終結後の 1945 年にシャルル・ド・ゴール将軍の行政命令によ
り国営化され、「ルノー公団」となった。 第 2 次世界大戦後の復興期における「4CV」の大ヒット以後、ルノーは特に小型車の分野
において実績を上げた。1972 年に発売された FF 駆動方式のハッチバック小型車である「5」
とその後継の「シュペール 5」(1985 年発売)は、その先進的なデザインと高い実用性、経
済性が広く受け入れられて、ヨーロッパだけでなく世界中で大ベストセラーとなった。 フランス政府は 1990 年から株式を売却し続け、1996 年には完全民営化を果たした。2007
年現在、フランス政府の持ち株比率は約 15%である。 1999 年 に、当時深刻な経営危機下にあった日本第 2 位の自動車会社・日産自動車と相互
に資本提携し、同社を傘下におさめた。現在、カルロス・ゴーン(1954 年~)が、ルノー
の取締役会長兼 CEO (PDG) で、日産自動車の社長兼最高経営責任者(CEO)も務めている。 今日では、PSA・プジョーシトロエンと並び、フランスの 2 大自動車企業の一角を占め、
先進的なデザインと優れた安全性能、高品質が高い評価を受け、1998 年以降 2004 年まで連
続でヨーロッパ第 1 位の販売台数を維持した。 2007 年現在日本の日産自動車、韓国のルノーサムスン自動車(ルノー三星)、ルーマニア
のダチアの株式を保有し、これらの会社を傘下におさめている。これらの傘下におさめた
グループ企業を含めると、アメリカの GM グループとフォードグループ、日本のトヨタグル
ープに次いで世界第 4 位の乗用車生産台数になる(2006 年度実績)。 《プジョー社》 プジョー社は、アルマン・プジョーが創設し、甥のロベールの経営によって発展した。
世界で最初(1886 年)にガソリン自動車を発明したのはベンツ(現在のダイムラー)であ
るが、世界で最初(1891 年)にオーダーメイドではなく、定型車種として自動車を 4 台「量
産」したのはプジョーであるといわれている。 1974 年に経営不振だったシトロエンを吸収合併、持株会社「PSA・プジョーシトロエン」
(PSA)を設立し、さらに 1979 年にはクライスラー UK などを傘下に収め、フランス最大の
自動車メーカーとなった。自動車だけではなくスクーターなどを中心に自動二輪車も別会
社プジョー・モトシクルで生産している。PSA グループの自動車生産台数は本田技研工業と
ほぼ同規模である。 【④イギリスの自動車産業】 2397
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) イギリスには、かつてはレイランドなど多数の中小メーカーが存在したが、1970 年代以
降は技術的な停滞に加え、慢性的なストライキによる生産効率の悪さがたたり、GM やフォ
ルクスワーゲンなど海外企業による買収が進み、全ての国内メーカーは買収もしくは倒産
し、現在では特に知名度の高いベントレーやアストンマーチンなどブランド名のみが残っ
ている。またロータスやランドローバー、ジャガーなどは、タタ・モーターズ(インド)
やプロトン(マレーシア)など、かつて植民地だった国の新興メーカーが傘下に収めてい
る。 またロイヤルエンフィールドなどのオートバイ産業も、自動車と同じくブランドが売却
されたか廃業したメーカーが多い。 なお、かつてのロールス・ロイスは、ドイツの BMW の手に渡り、2003 年、同社は新会社
「ロールス・ロイス・モーター・カーズ」をイギリス南部のウェスト・サセックス州グッ
ドウッドに設立し、「ロールス・ロイス」ブランドの乗用車を生産・販売している。 【⑤イタリアの自動車産業】 現在のイタリアの自動車産業のほとんどはフィアット社といってよい。フィアットは、
1899 年にトリノで創業された。社名のフィアットとは、「トリノのイタリア自動車製造所」
の意味である。 かつてはフォーミュラーレースにも参戦してアルファ・ロメオやブガッティなどと覇を
競い、1950 年代には「8V」という高性能な高級 GT カーも製造、数々の先進的な設計を次々
と実用化・量産化した。 第 2 次世界大戦後に創業者のジョヴァンニ・アニェッリの孫のジャンニ・アニェッリが
経営を引き継いでからは、ランチア、フェラーリ、アルファ・ロメオ、マセラティ、アウ
トビアンキ、アバルトなど、イタリア国内の自動車メーカーなどを次々と傘下に収め、イ
タリアの自動車業界を事実上独占することになった。また、商用車部門としてイヴェコ、
電装部品部門としてマニエッティ・マレリなども傘下に収めている。現在のフィアット本
体は主に比較的小型の大衆向け乗用車を生産し、高級車などは傘下のメーカーが生産して
いる。 2009 年 1 月には、サーベラス・キャピタル・マネジメント傘下で経営再建を目指してい
るクライスラーに資本参加し、35%の株式を取得する資本提携合意を発表した。フィアット
は、クライスラーが北アメリカ市場で燃費性能の高いコンパクトカーを生産するための技
術などを提供すると同時に、北アメリカ市場以外におけるクライスラー車の販売でも協力
することを表明した。また、2009 年 5 月にゼネラルモーターズのヨーロッパ部門を買収し、
事業を統合する新会社を設立する方針を明らかにした。 2398
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) かつてフィアットは航空機メーカーとしても名を馳せていた。特に軍用機の発注が数多
くあった。「フィアット、陸に、海に、空に」のスローガンの元、自動車のみならず、鉄道
車両や船舶、航空機の製造などの産業分野全般を掌握し、出版、金融等にも進出している。
【⑥日本の自動車産業】 日本の自動車産業は明治時代は輸入のみで、日本で自動車は生産できなかった。その後、
企業では宮田製作所(現在の宮田工業)が 1909 年に四輪自動車の試作車を完成した。以後、
徐々にライセンス生産や国産車開発も始まっていたが、輸入車が主に使用されていた。 《軍事統制下の自動車産業》 第 1 次世界大戦でトラックの実用性を認めた日本陸軍は、国産自動車奨励策の実現を求
めることにし、1918 年に軍用自動車補助法が成立した。日本の自動車産業が軍主導で発展
する端緒となった。 軍用自動車補助法では、軍が直ちに購入するのではなく、平時においては民間車として
使用し、有事の際に徴用する方式が採られた。そして、民間での普及を促進するための補
助金が、製造者及び所有者に対して製造・購入・維持の各段階で交付されることになった。
本法の施行の結果、日本のトラック製造能力は 1932 年ころには瓦斯電・石川嶋・ダットの
3 社で年間 2700 台、実製造数が年産 500 台程度にしかならなかった。 小型乗用車を製造していた宮田製作所は、軍用自動車補助法の適用が受けられず、自動
車製造を断念してオートバイ事業に転じた。 当時の日本の自動車産業では、アメリカ資本の影響が強かった。1925 年に日本フォード
が設立され、1927 年には日本ゼネラル・モータース(日本 GM)も操業開始、大量生産方式
によるノックダウン生産で急激に日本市場を席巻した。性能的にもフォードトラックや日
本 GM のシボレートラックは優秀で、軍用自動車としても中国での熱河作戦(1933 年)など
で活躍していた。 満州事変での戦訓などから、軍用自動車の重要性は日本陸軍でも強く認識されるように
なっていった。商工省は、当初は外国系企業との提携による技術導入を支持して陸軍と対
立したが、1935 年 4 月に工務局長へ岸信介が就任すると態度を一変させた。岸は総合産業
である自動車製造をてこに、産業全体の振興をはかる意図だった。岸は、ナチス・ドイツ
流の統制経済による産業合理化が有効だと考えていた。 1935 年(昭和 10 年)8 月、岡田啓介内閣は「自動車工業法要綱」を閣議決定し、事業許
可制の導入や日本フォードの工場拡張阻止といった方針を明確にした。これに対してアメ
リカ政府は日米通商航海条約 1 条違反だと抗議を行ったが、日本側は単なる産業保護政策
ではなく国防目的であると反論した。1936 年 1 月には、鮎川義介個人への圧力など陸軍の
2399
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 強い干渉により、日産自動車と日本 GM の合併計画が破棄に追い込まれた。 1936 年(昭和 11 年)5 月に自動車製造事業法案が公布された。この法律は、自動車製造
事業を許可制とし、許可対象を日本の株式会社に限定した。これによって外国企業の新規
参入はできなくなった。また、既存の外国企業の既得権は認められたものの、工場の拡張
は許されなかった。日本フォードは法案成立を見越して事前に工場拡張を進めていたが、
結局、フォードの計画はとん挫することになった。 本法により許可会社とされたのは、日産自動車と豊田自動織機自動車部(後のトヨタ自
動車工業)の 2 社で、後に東京自動車工業(後のいすゞ自動車)が加わった。本法の施行
と、日中戦争勃発による円為替相場下落・輸入部品高騰の結果、1939 年にフォード、GM、
クライスラーの 3 社は日本から撤退した。 しかし、この事業法による軍用車であっても、国産車の信頼性向上や大量生産化は容易
には達成できなかった。純国産化することになったが、技術水準の低さから故障が多く、
稼働率の低い自動車ばかりとなった。戦場の日本兵には、たとえ中古車であってもフォー
ドやシボレーが歓迎された。 このようなことで、日本の自動車産業の真の発展のはじまりは、国家(軍事国家)から
自由になった戦後からはじまったと言っても過言ではない。それから約 60 年、2008 年に戦
後日本自動車産業発展の象徴的なことが起こった。トヨタ自動車の 2008 年の自動車生産台
数は 897 万 2000 台でアメリカのゼネラルモーターズの 835 万 5947 台を上まわり、前年に
引き続いて世界一となった。トヨタ自動車の創業は 1937 年であるので、創業 70 年にして
の偉業であった。 《トヨタ自動車》 トヨタといえば、日本の発明王、豊田 佐吉から述べなければ、その会社というものがわ
からない。豊田 佐吉(1867~1930 年)は、江戸時代最後の年である慶応 3 年(1867 年)、
遠江国敷知郡山口村(現・静岡県湖西市)の貧しい農家兼大工の家に生まれた。佐吉は小
学校を卒業した後、父伊吉のあとを継いで大工の修業を始めた。 1885 年(明治 18 年)に「専売特許条例」が公布され、日本にも特許制度できた。特許法
は、発明をした者に特別の権利(特許権)を与える代わりに、発明を公開させることによ
り産業の発展を促進させるものであるが、農業国家であった当時の日本において、その意
義がわかるものはそんなにいなかったと思われる。ましてや田舎においてはそうだっただ
ろう。ところが、利発であった佐吉青年(18 歳ごろ)は、この噂を聞いて「教育も金もな
い自分は、発明で社会に役立とう」と決心し、手近な機織(はたおり)機の改良を始めた。
これは 100~150 年前のイギリス産業革命の繊維産業の発明家を突き動かした動機、発明に
よって金持ちになりたい、世のためになり後世に名を残したというハングリー精神が佐吉
2400
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 青年を突き動かしたものと思われる。 農業と大工をやりながら、納屋にとじこもってもっぱら織機の改良に集中した。そのこ
ろの佐吉の発明生活はきわめてけわしいもので「朝から晩まで毎日毎日こつこつと何か拵
(こしら)えて見ては壊す、造っては、また造り直す。それを後から考えて見ると、随分
へまな事もやった。まるで狂人じみたやり方さ。傍人が眺めて狂人扱いにし、変り者扱い
にしたのも、尤(もっと)も至極の事さ。・・・田舎の小百姓と言いながら、田畑の少しは
あったものを、ぼつぼつと売り減らして、あてどもない発明に皆つぎこむのだから、とて
も周囲の人達が良く言うてくれそうな筈がない」と『豊田佐吉翁に聴く』で語っている。 しかし、豊田佐吉の努力は実っていった。1890 年、「豊田式木製人力織機」を発明し、
始めて発明特許を得た。両手を使うバッタン織機に改良を加え、筬框(おさかまち)を片
手で前後に動かすことによって、杼を飛ばすことと緯糸を打ちこむことが同時に可能とな
った。この織機によって織布の生産性が 4、5 割上昇したといわれている。 以後、1897 年「豊田式木製動力織機」を発明、1906 年豊田式織機会社を創立、1910 年 5
月 紡織業視察のため欧米へ、1918 年豊田紡織株式会社を創立、1924 年「G 型無停止杼替式
豊田自動織機」発明・完成、1926 年株式会社豊田自動織機製作所を創立した(現在、豊田
佐吉が発明した織機はすべて名古屋市にある産業技術記念館に所蔵されている)。 豊田佐吉は、1910 年 5 月 、紡織業視察のため欧米旅行をしたが(1908 年、フォード社
が T 型車を出したばかりだった)、このとき彼の脳裏に自動車時代がやってくることが閃
いた。 豊田自動織機の発明はすばらしかった。まさに佐吉青年がめざしていたものだった。こ
れは産業革命をなしたイギリス繊維産業界も求めているものだった。豊田自動織機はイギ
リスの特許を取得したが、これは日本の外国特許第 1 号という記念すべきものであった。
さっそく、イギリスのプラット・ブラザーズ社と、自動織機の特許権譲渡契約を締結し、
多額の特許料を得ることができた。 豊田佐吉はこの資金で自動車産業に進出する決心をし、長男喜一郎(きいちろう。1894
~1952 年)にそれを託した。バトンは親から息子に渡された。豊田佐吉は産業を興すこと
はいかに厳しいものか、1 代 1 事業が自分の体験からよくわかっていた。 1933 年、豊田自動織機製作所(現在の豊田自動織機)に、自動車部が開設された。この
設立の中心になったのは豊田喜一郎であった。彼は東京大学機械工学科を卒業後、地元の
名古屋に戻ると、荒地だった挙母(ころも)町(現・豊田市)の土地を取得し自動車工場
を建設した。織機製作における鋳造・機械加工技術等のノウハウを活かし、1934 年に乗用
車用 A 型エンジンを完成した。1935 年 、大衆乗用車 A1 型の試作車完成を経て、1937 年に
独立した新会社「トヨタ自動車工業株式会社」が設立された。 2401
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 前述のように 1936 年(昭和 11 年)5 月に自動車製造事業法案が公布され、豊田自動織機
自動車部(後のトヨタ自動車工業)は、日産自動車と、後に東京自動車工業(後のいすゞ
自動車)とともに事業法の許可会社となり、太平洋戦争時は陸軍用のトラックを生産した
が、物資不足のため簡素なものだった。戦時中、愛知の工場もアメリカ軍による爆撃が予
定されていたが、その前に終戦となった。 戦後の 1950 年、ドッジ・ラインに伴う緊縮政策による大不況でトヨタは経営危機に陥り
豊田喜一郎は社長を辞任し、1952 年病気で無念の死をとげた。このとき、喜一郎の長男・
章一郎(1925 年~)は、父・豊田喜一郎の命で、建設業や食品業を経験した後 1952 年にト
ヨタ自動車工業株式会社に取締役として入社した。 帝国銀行(後の三井銀行、現・三井住友銀行)を中心とする銀行団の緊急融資の条件と
して、販売強化のためにトヨタ自動車販売株式会社が設立された。朝鮮戦争の勃発で軍用
トラック特需があり倒産を回避し、同時に車両開発主査(後にチーフエンジニアに名称変
更)
・中村健也(1913~1998 年)のもとに初代トヨペットクラウン及び初代トヨペットコロ
ナとなる国産自家用車の開発が開始された。 喜一郎の後を継いだ石田退三社長の時代にはクラウン(1955 年)、コロナ(1957 年)、
パブリカ(1961 年)などロングセラーカーを開発し、1956 年クラウンがロンドン~東京間
を走破、国産自動車メーカー各社の自信となった。その後の公害問題や排ガス規制にも対
処し、第 1 次石油ショック(1973 年)、第 2 次石油ショック(1979 年)も乗り切って、ト
ヨタは着実に伸びていった。 1982 年にトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売は合併、現在のトヨタ自動車株式会社と
なった。新会社の社長には喜一郎の長男・豊田章一郎が就任し、佐吉の甥である英二は会
長に退いた。 1992 年に章一郎は社長を退き、弟の豊田達郎が社長となった。しかし、バブル経済の崩
壊は自動車業界を直撃し、トヨタもその影響を受けた。バブル崩壊後の不況の中、1995 年
に達郎は高血圧で倒れ、副社長の奥田碩が社長職を継いだ。奥田は業績が下り坂になりつ
つあったトヨタを再生させた。2003 年 3 月末集計における従業員数は 6 万 5551 人、トヨタ
グループの連結子会社の合計は 26 万人で日本最大、世界では第 3 位の自動車企業となった。 2007 年には自動車生産台数が世界一となった。しかし 2008 年に起こった一連の世界金融
危機が直撃し、2009 年 3 月期の営業利益が 58 年ぶりの赤字に転落し、トヨタショックとま
でいわれた。その一方で世界販売台数は 897 万 2,000 台となり、前年の生産台数に続いて
世界一の座を奪い取った。それまで生産台数世界一を 77 年間維持していたのはアメリカの
GM だった。 《日産自動車》 2402
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 一方、1936 年の自動車製造事業法でトヨタ自動車とともに許可会社となった日産自動車
の起源は持ち株会社である日本産業株式会社であった。第 1 次世界大戦後の不況により経
営危機になった久原財閥を引き継いだ鮎川義介は、1928 年、日本産業株式会社を設立し、
中核企業である日本鉱業、日立製作所のほか、鮎川が最初に設立していた国産工業(後の日
立金属)やそこから派生した日産自動車などの企業群を持株会社である日本産業の下にぶ
ら下げる構造にした。 そして、子会社も積極的な株式公開戦略を行い、その資金をもとにさらなる事業拡大と
いう戦略を進めた。自動車については、技術者橋本増治郎が 1911 年に設立した日本初の国
産自動車メーカー・快進社が開発・生産していたダットサンの製造権と図面と技術者を譲
り受け、鮎川義介は 1934 年(昭和 9 年)に「日産自動車株式会社」と改称したのである(「日
産」という名称は、日本産業が由来となっている)。 1938 年政府の要請により満州に移転し、満州重工業開発株式会社に改組した。第 2 次世
界大戦後の財閥解体により満州重工業は解散した。 戦後、日産自動車は、創業期より先進技術の吸収に積極的で、フォード、GM なみの大型
乗用車を製造するため、米国グラハムページ自動車会社から設計図や設備などを購入し、
また戦時中の技術的空白を埋めるため 1952 年オースチン(イギリスの自動車メーカー)と
技術提携した。 1958 年には、当時は世界で最も過酷な豪州ラリーに自社開発のダットサン 210 型が出場
して見事にクラス優勝を飾り、1960 年には業界初のデミング賞(総合品質管理の進歩に功
績のあった民間の団体および個人に授与されている賞)を受賞するなど、創業時より技術
力の高さから「技術の日産」として親しまれた。 1966 年 8 月 1 日には、経営難に陥ったプリンス自動車工業株式会社を吸収合併し、スカ
イライン、グロリアと中島飛行機・立川飛行機の流れを汲む優秀な人材を戦列に加えた。 しかし、「技術の日産」「販売のトヨタ」と言われていたほど、技術面では得意だった日
産はもともと販売戦略を苦手としていて、トヨタ自動車に 1990 年代以降販売面で差を広げ
られた。 バブル景気がはじけた 1990 年代に入ると、もともと販売戦略が不得手な上にヒット車種
が出せないまま販売不振に陥ってしまい、2 兆円あまりの有利子債務を抱え倒産寸前の経営
状態となった日産は、1999 年 3 月に、フランスの自動車メーカーのルノーとの資本提携を
結び、更生をはかることとなった。ルノー社副社長のカルロス・ゴーンが新たな最高経営
責任者に就任し、「日産リバイバルプラン」のもと改革を強力に進めた。 ルノーからの資金や人員が注入されると同時に、リストラの断行、子会社の統廃合や取
引先の統合、原材料の仕入の見直しなどによるコスト削減、更に、車種ラインアップの整
2403
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 理と同時にデザインなどを刷新し、積極的な新車投入を行った結果、販売台数は増加し、
国内シェアでは第 2 位の座を奪回し、2003 年 6 月には負債を完済して危機を乗り切った。 2006 年 5 月現在、ルノーは日産株の 44 パーセントを所有しており、日産はルノー傘下に
入っている。ルノーの車を日産ブランドで販売、日産車をルノーのブランドで販売するな
どの相互の OEM 供給が行われている。また、同じルノー傘下である韓国のルノーサムスン
においてもこのアライアンスを生かし、自社はもちろん、ルノーや日産ブランドでの製造・
輸出を行っている。 《本田技研工業》 本田技研工業は、本田 宗一郎(1906~1991 年)によって創業された。彼は、静岡県磐田
郡光明村(現:浜松市天竜区)で鍛冶屋の長男として生まれ、8 歳の時、はじめて 自動車
を見、11 歳の時、浜松町和地山練兵場で曲芸飛行を見学して感動した。 高等小学校卒業後、東京の自動車修理工場「アート商会」に丁稚奉公に出された。 1928
年 、アート商会に 6 年勤務後、のれん分けの形で浜松市で独立し、自動車修理工場事業を
順調に拡大し、1937 年「東海精機重工業株式会社」(現・東海精機株式会社)の社長に就
任した。しかし学問的な壁に突き当たり、浜松高等工業学校(現:静岡大学工学部)機械
科の聴講生となり、3 年間金属工学(鋳物)の勉強をした。 1946 年、静岡県浜松市(現・浜松市中区)山下町(後の山下工場)に本田技術研究所を
開設し、内燃機関および各種工作機械の製造、ならびに研究を開始し、1947 年には A 型自
転車用補助動力エンジンを開発した。 1948 年に本田技研工業株式会社を浜松に設立し、従業員 20 人でスタートし、二輪車の研
究を始めた。 1949 年に藤沢武夫を経営全権として迎え、以降、技術の本田宗一郎と経営の
藤沢武夫による二人三脚の経営が始まった。 1963 年にはホンダ・T360(日本初の DOHC(2 バブル)エンジン搭載)というピックアッ
プトラックで四輪自動車業界に参入した。 同年には、欧州ベルギーに 2 輪車製造拠点を設立し、日本の自動車産業界において初と
なる欧州圏での製品(スーパーカブ・C100)の現地生産も行った。 1970 年代になると自動車の排気ガス規制が厳しくなった。アメリカでは当時世界一厳し
く、パスすることは不可能とまで言われたマスキー法という排気ガス規制法(1970 年 12 月
発効)が成立した。1972 年、本田技研は CVCC(複合渦流調整燃焼方式)の低公害エンジン
を開発して、マスキー法の規制値を最初にクリアした。翌年から翌々年にかけてトヨタ、
フォード、クライスラー、いすゞに技術供与された。この技術は、「日本の排出ガス低減
技術を世界のトップに引上げた歴史的な機械」といわれている。その後、触媒技術の進歩
によりエンジン本体での対応がなくても、排気ガス浄化が可能になったが、低公害エンジ
2404
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ン技術のホンダの名を高めた。 1981 年に世界初の自動車用ナビゲーション・システムを完成させた。1982 年には、日本
の自動車メーカー初となるアメリカでの 4 輪車(アコード)の現地生産を開始し、昨今の
日本の企業のグローバル化の手本とも言える大規模な日本国外への展開を、時代に先駆け
て行った。 近年は、環境負担の少ない水素燃料生産供給インフラ「太陽電池式水電解型水素ステー
ション」、既存の都市ガスなどの天然ガス供給インフラから水素を製造しつつ、燃料電池コ
ージェネレーション機能によって家庭用の熱(給湯や暖房など)および電力の供給を行う
「ホーム・エネルギー・ステーション」の開発及び実験稼動も行っている。本田技研工業
は自動車と環境・エネルギーの抜本的な解決をめざした小さな(もう小さいとはいえない
が)世界企業である。 《日米自動車摩擦》 1970 年代以降日本車のアメリカ輸出超過によってアメリカの自動車産業に影響を与えた
として政治問題となった。これが「日米自動車摩擦」である。アメリカ側は、日本に対し
て牛肉やオレンジなどの農産物の輸入拡大を求めたほか、内需拡大や市場開放をも迫った。
また、一部のアメリカの労働者は抗議活動の一環として日本車を破壊するパフォーマンス
を行い、全米で繰り返し放映された。 1980 年代には、プラザ合意による円高などにより、日本の自動車産業は輸出販売を削減
させ海外現地生産に主力を置くようになった。この時期に多くの日本自動車企業が貿易摩
擦解消のために欧米など海外に工場を建設したため、日本国内産業の空洞化が懸念される
ようになった。 2000 年代後半、自動車産業は国内販売台数が減少 、海外販売台数が増加といった状況は
続いている。海外を中心に全体としては業績を伸ばしているが、海外では徐々に新興国メ
ーカーにシェアを奪われつつあり、競争力強化のため更なる海外移転の動きがある。 2007 年の金融危機の影響で主要市場であったアメリカだけでなくサブプライム不況の影
響を大きく受けたヨーロッパの消費も大きく落ち込み、自動車の売れ行きが大幅に落ちた。
欧米に替わる主要な輸出先として BRICs などの新興国市場が旺盛な需要を背景に存在感を
増している。 【⑦韓国の自動車産業】 1997 年のアジア通貨危機以前、韓国には 5 グループ・9 社の自動車メーカーがあったが、
その後 2000 年に三星自動車がフランスのルノーに、2002 年には大宇自動車がアメリカの
GM にそれぞれ買収されるなどし、韓国資本の四輪車メーカーは現在、現代自動車と同社傘
2405
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 下の起亜自動車の 1 グループ・2 社のみである。 《現代自動車》 現代自動車株式会社(ヒュンダイじどうしゃ)は韓国で最大手の自動車メーカーで、傘
下に起亜自動車があり、現代-起亜自動車グループを構成している。現代自動車は 1967 年
に創立され、翌年、米国のフォードと提携し「フォード・コルチナ」のノックダウン生産
を開始した。これは、日本のホンダが最初の 4 輪自動車を生産した(1963 年)5 年後にあ
たる。 1973 年には三菱自動車からの技術協力を得て、1975 年に韓国初の国産車「ポニー」を発
売した。ポニーの発売以降、三菱自動車との協力関係を一気に強化し、やがて提携し、数
多くの三菱車ベースの車種や、三菱車のプラットフォームを流用した独自の車種を生産し
た。 アメリカ合衆国へは 1986 年に進出し、小型乗用車エクセル 1 車種の販売から開始された。 当初は安価で粗悪という評価だったものの、現在では現代自動車は世界 194 の国と地域で
販売される多国籍企業となった。2007 年の累計販売台数は 500 万台を突破するまでになり、
過去最高の売上となる 30 兆 4890 億ウォン(約 3 兆 4000 億円)を記録し、現代-起亜自動
車グループ全体の販売台数は、世界第 5 位、アジアの自動車メーカーではトヨタグループ
に次ぐ第 2 位の規模になった(ただし、売上高・利益ではホンダ、日産の 3 分の 1 程度で
あり、トップ 10 に入らない)。 韓国車はヨーロッパや北アメリカを始めとした、世界各国で販売されている。中国、イ
ンドなどの巨大新興市場での現代自動車の販売台数はトヨタを上回っている。 【⑧中国の自動車産業】 中国では、経済成長に伴い自動車の需要が増加、市場は世界一の販売台数になるまで拡
大している。中国国内の自動車関連企業は膨大な数に上り、外国企業も主に合弁で参入し
ている。 中国企業の中にはプラグインハイブリッドカーを開発し世界で初めて発売するなど技術
力に差があるものの先進国の自動車メーカーとほぼ対等に競争できるほどに技術力が高ま
っている企業がある一方で、海外の安全性能試験で 0 点を付けられるような未だ低品質の
製品も見られる。 《中国第一汽車集団》 中国第一汽車集団公司は、1953 年に設立された中国最初の自動車メーカーであり、上海
汽車、東風汽車と並ぶ中華人民共和国の国有の 3 大自動車製造企業グループの一つである。 吉林省長春市に本拠地を置く。 2406
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 第一汽車は 1953 年にロシアの自動車メーカージルの支援により設立された(1956 年にジ
ルによる支援が終了した)。設立後 30 年間の主な生産車種は、1956 年から生産が開始され
たソ連のトラックをベースとした中国人民解放軍の中型トラック、軍用トラックであった。
乗用車は、1958 年から自社ブランドの紅旗を立ち上げ、これは新中国国産のはじめての乗
用車で、中国要人の専用車としても広く使われた。 1991 年にはフォルクスワーゲンと提携し、世界の最新技術を使った乗用車フォルクスワ
ーゲン・ジェッタの生産を子会社で開始した。さらにその後、トヨタやマツダなどの大手
自動車メーカーとの提携も開始した。2004 年には販売台数 100 万台を突破した。 《上海汽車工業》 上海汽車工業(集団)総公司は、1962 年にはすでに当時のメルセデス・ベンツ乗用車等
の影響を受けたと思われる中型セダン「SH760」を発表、長期間にわたって生産されたが、
後に始まった中国共産党政府の「改革開放」政策で中国自動車企業として初めて外国資本
との合弁に着手し、ドイツのフォルクスワーゲン社との合弁会社「上海大衆」社を設立し
て VW サンタナおよびサンタナ 2000/3000 を生産した。このサンタナ 2000/3000 は現在でも
生産され、上海市内のタクシーの車種別シェアのほとんどを占めている。 その一方で 1990 年代にはアメリカ、GM と合弁会社「上海通用」も設立、ビュイックやシ
ボレーのモデルを生産している。2005 年に経営破綻したイギリスの MG ローバー(以下 MGR)
社の高級モデルローバー・75 の生産設備を買い取り、「栄威 750」の名称で製造・販売し
ている。 現在中国国内では民族系メーカーと呼ばれる民間及び地方政府経営の自動車メーカーを
中心に、自社ブランド・自主開発の車種が増えつつあり、一部は欧州や東南アジアに輸出
もされているが、上海汽車は自主ブランドブームに最も慎重といわれ、現在でも業務の中
心を外資との合弁に専念している。上海汽車は中国で最も多く部品子会社を抱えている。 《東風汽車》 東風汽車公司(とうふうきしゃこうし)は、1968 年に毛沢東の号令により、1969 年に内
陸部の湖北省十堰市(じゅうえんし)にて設立され、当時は中国東北部で 1953 年に設立さ
れた「第一汽車製造廠」に対して「第二汽車製造廠」と呼ばれていて、1992 年に製造して
いるトラックのブランド名から東風汽車公司へ改名した。工場は現在湖北省の十堰市・襄
陽市・武漢市および広東省に多く立地しており、各地でバス、トラック、乗用車を生産し
ている。本社はもともと十堰市にあったが、現在は武漢に移している。 《重慶長安汽車》 重慶長安汽車股份(株式)有限公司は、1862 年に上海市で李鴻章によって設立された。
本拠地は重慶市である。1957 年にはジープの製造を開始し、自動車分野への参入を開始し
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第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) た。その後、1984 年にスズキと提携を開始し、1993 年にはスズキと合同で、長安鈴木汽車
を設立した。その後、2001 年にはフォードと合弁で長安福特汽車を設立した。 《奇瑞汽車》 奇瑞汽車(きすいきしゃ)は、安徽省および同省蕪湖市(ぶこし)政府の出資によって
1997 年に設立された。中国自動車工業協会の統計では、2005 年度の自動車販売量は 18.4
万台で、中国国内で第 7 位であった。自主ブランドメーカーとしては中国国内で最多の販
売実績を持っている。 2006 年 3 月生産 50 万台目に当たる車両が完成した。 2007 年には
シェアを中国国内第 5 位にまで上げ、前年のシェア 3 位の現代-起亜自動車グループを上回
った。また自主ブランドメーカーとして、最も早く製品の海外輸出を始めている。 2007 年 7 月アメリカのクライスラーと米国向け小型車の供給で提携を結んだ。 2007 年 8
月イタリアのフィアットと合弁事業に関する覚書に調印した。 両社の合意によると、安徽
の奇瑞工場で、2009 年からアルファロメオとフィアットなどを年間 17 万 5000 台生産する
予定である。 【⑨インドの自動車産業】 インドでは、経済成長に伴い自動車需要が増加しているが、全体の 3/4 程度が二輪車で
ある。二輪車はホンダ系、インドのバジャージ・オート・TVS モーターのシェアが大きい。
自動車は日系のマルチ・スズキ、インドのタタ・モーターズ、韓国のヒュンダイの 3 社が
主要メーカーである。 インドでは今までの販売対象より低所得の層をターゲットにした機能を減らし価格を抑
えた自動車が出現している。日本円で 30 万円以下のタタ・ナノのように既存の価格を打ち
破る製品が発売されており、こうした市場に進出しようとする自動車メーカーも少なくな
い。 《マルチ・スズキ》 マルチ・スズキは、1970 年代、大型で陳腐化した自動車生産が行われていたインド国内
で、政府が率先して実用的な小型車を生産する国民車構想を立ち上げ、スズキが合弁相手
として応えたことから実現した自動車会社である。日本の軽自動車の規格に近いマルチ・
800 を低価格で生産したことから爆発的人気を博し、1980 年代のインド国内で小型車市場
を寡占状態にした。 1992 年スズキが出資比率を 26%から 50%へ拡大し、2002 年には 54%に引き上げ子会社化し
た。さらに 2006 年 12 月、インド政府が全保有株式を売却し、完全民営化された。 2000 年代に入ると、インド国民の平均所得が向上するとともに生産台数も急増し、アル
トの欧州輸出も開始されている。2007 年度には、スズキのインドでの新車販売台数は 71 万
2408
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 1818 台、日本でのそれは約 66 万 7000 台であり、インドでの新車販売台数が日本を初めて
逆転した。インドを含む南アジアで最大の自動車会社となっている。 《タタ・モーターズ》 タタ・モーターズは、1945 年にムンバイに設立された自動車会社でタタ・グループを構
成する主要企業のひとつであり、インド国内のほか、タイ、アルゼンチン、南アフリカに
生産拠点がある。インド最大の自動車会社であり、商用車(バス・トラック)部門は世界 5
位である。インド国内では商用車のシェアの 60%を持っている。 1990 年代に乗用車生産を強化し、1998 年 、インド初の独自開発乗用車であるインディ
カを発売した。乗用車分野への進出は後発ながらインド国内第 2 位(1 位はマルチ・スズキ・
インディア)のシェアがある。「ジャガーランドローバー」(英国車、ジャガーとランドロ
ーバー)、韓国のタタ大宇(商用車部門のみ。乗用車部門の GM 大宇は GM 傘下)などを傘下
に持つ。 2006 年 、イタリアのフィアットと提携しジョイントベンチャーを設立した。 2008 年 1 月、タタ・ナノの開発を発表した。これは、624cc リアエンジン、5 人乗りで
価格は 10 万ルピー(約 28 万円)を予定しており、販売されれば量産自動車としては世界
で最安値となる。2008 年 3 月 、フォードからジャガーとランドローバーを約 23 億ドルで
買収と発表した。 【15-2-2】航空機産業 20 世紀の初頭にアメリカが生み出したもう一つの産業があった。それが航空機産業であ
るが、これは空を飛ぶことから、その安全性一つとっても自動車とは異なり、自動車より
も部品点数がはるかに多く複雑で、その製品である航空機は自動車よりはるかに高価であ
る(もっとも、20 世紀の初期の飛行機は自動車の部品を使っていたようにそんなに大きな
違いはなかった)。自動車産業が大量生産(年間数万~数十万のオーダー)を特徴としてい
るとしたら、航空機産業は中量ないし少量生産(年間数十~数百のオーダー)ということ
になり、自動車とはまったく異なる産業形態をとることになった。これらは 20 世紀後半に
現れる原子力産業、宇宙産業の先駆をなす産業形態で、開発費が膨大であること、安全性
が不可欠、世界の市場が限られているというような性格からアメリカといえども国際共同
開発という方向に向かわざるをえなくなったことが、この航空機産業の歴史からわかる。 【①ライト兄弟の初飛行と草創期の航空機産業】 ○暗中模索の飛行機開発 19 世紀末、既に陸には車が走り、海や川では蒸気船が幅を利かせ、そして最初の有人飛
行をしたモンゴルフィエ兄弟に始まる熱気球から派生した飛行船が既に実用化されていた
2409
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) が、空を飛ぶ飛行機は、まだなかった。唯一の手掛かりとしてジョージ・ケイリーのグラ
イダーを基にオットー・リリエンタール(1848~1896 年)によって研究が進められていた。 しかし、当時はまだハイラム・マキシム(1840~1916 年)等、多くの研究家は飛行のた
めの理論を確立するに至らず依然として暗中模索が続いていた時代だった。マキシムは、
世界初の全自動式機関銃を発明していたが(マキシム機関銃は第 1 次世界大戦において両
陣営で実用・運用された)、航空にも興味を持ち、1894 年に蒸気エンジンによる飛行機械を
製作し飛行実験をしたが失敗した。 リリエンタールはハンググライダーを作り、小高い丘から飛行する実験を 7 年間もやっ
ていたが、1896 年 8 月、試験飛行中に風にあおられ墜落 48 歳の若さで死去した。彼の最期
の言葉は「犠牲は払われなければならない」だった。 サミュエル・ラングレー(1834~1906 年)は、天文学者、発明家で航空のパイオニアの
一人であり、スミソニアン博物館の館長でもあった。軍から 5 万ドルの予算を得て有人飛
行機エアロドロームの製作を試み、1903 年 10 月 7 日と 12 月 8 日に有人飛行実験をポトマ
ック川の水上で行ったが、2 回とも失敗した。2 回目は後述するライト兄弟の初飛行の 9 日
前だった(このラングレーの失敗がライト兄弟に災いをもたらすことになる)。 ○科学的に取り組んだライト兄弟 1896 年のリリエンタールの死後、これを皮切りにライト兄弟は飛行機を完成させること
を考えはじめた。ライト兄弟は、牧師の息子として生まれ、兄がウィルバー・ライト(1867
~1912 年)で、弟がオーヴィル・ライト(1871~1948 年)であった。一家には他に 3 人の
兄妹(長兄ルクラン、次兄ローリン、妹・キャサリン)がいたが、母は結核により早世し
ていた。 兄弟は生涯の大部分をオハイオ州・デイトンで過ごした。兄弟は自転車店を経営するこ
とで研究に必要な資金を工面した。自転車の技術を活用することも可能であった。それま
で多くの研究者の飛行への挑戦がことごとく失敗を重ねて来たのに対し、ライト兄弟は当
時としては極めて高度な科学的視点から飛行のメカニズムを解明した。当時としてはほと
んどなかった自作の風洞を使って、多くの翼型を試験して最適な翼型を採用した。何機か
のグライダー試作機を作成し一歩一歩堅実に飛行機の製作と実験を重ねていった。 ピストン・エンジンは充分な動力を持っており、人の乗る大きさのグライダーを飛行させ
うるものだった。そして次に「操縦できる」飛行の問題に向かった。1896 年から 1903 年まで
の間に、多くの分析、紙の上の仕事、技術文献の調査、模型を使った初歩的な実験等がな
された後、複葉機が設計された。 彼らは飛行姿勢の制御を徹底的につきとめようとした。右と左の主翼を逆方向にねじる
ことにより左右の揚力バランスを変え機体を傾ける(バンクさせる)機構を備えつけた。
2410
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 現在では、飛行中に方向転換する際バンクするのが当然であるが、当時そのことを理解し
実際の機体に応用したのはライト兄弟のみだった(この「翼ねじり」は後にエルロン(補
助翼)に取って代わられた)。操縦できるようにしたこれらの修正動作や、安定上、付け
加えられた方向舵の修正によって、ライトの動力グライダーは、兄弟の思い通りに空中で
位置を変えることができるはずだった(つまり、ライト兄弟は飛行機に必要な最低限の機
能をすでに把握していたのである)。 グライダーによる実験の回数もリリエンタールらに比べてはるかに上回り、多くの実験
データを収集すると共に飛行技術を徹底的に身につけていた。グライダーを基礎にまず操
縦を研究して、自らそのパイロットになってから動力を追加するのが彼らの戦略であった
(動力機体の製作しか眼中になかった他の飛行機屋とは異なっていた)。兄弟は実験回数を
増やすために「常に強風が吹いている場所」を気象台に問い合わせ、故郷から遠く離れた
ノースカロライナ州のキティホークをその場所に選んだ。 ○ライト兄弟の初飛行 ライト兄弟は、1903 年 12 月 17 日にキティホーク(町)の南 6.4 キロメートルにあるキ
ルデビルヒルズにて 12 馬力のエンジンを搭載した「フライヤー号」をもちこんで有人飛行
実験を行った。その日、合計 4 回の飛行が試みられ、飛行に成功した(1 回目: 12 秒、120
フィート 、2 回目: 12 秒、175 フィート 、3 回目: 15 秒、200 フィート 、4 回目: 59 秒、
852 フィート(259 メートル))。4 回目のウィルバーによる最長の飛行すらも 59 秒間に 852
フィート(約 259 メートル)を飛んだにすぎなかったが、彼らは空気を征服したことを確
信した。人類初の有人動力飛行だった。この時これを見ていた観客はわずか 5 人しかいな
かった。 現在、このフライヤー号は、ワシントンのスミソニアン博物館に「最初の動力付きで、
パイロットが搭乗して継続的に飛行し、機体を操縦することに成功した、空気より重い空
飛ぶ機械」として展示されている。主翼は複葉で、ライト兄弟自製の馬力 / 重量比率の高
いガソリンエンジン 1 基(既に機械式燃料噴射装置を備えていた)を動力に、直径 2.6 メ
ートルのプロペラ 2 つを推進式に配置し、駆動したエンジンの回転のままでは速過ぎるの
で、プロペラが効率良く推力を発揮できる回転数までローラーチェーンによって減速され
た(しかし減速機構にローラーチェーンを使ったのは不適切であり、その後に採用された
減速機は歯車式が主体であった)。プロペラ相互のトルクを打ち消すために、2 つのプロペ
ラはそれぞれ逆回転で駆動された。 フライヤー号は単純に浮揚するだけでなく、製作当時から、操縦系を既に備えていたこ
とでも画期的な飛行機だった。機体前方に昇降舵、機体後部に方向舵を備え、ワイヤーに
より、動翼を制御できた。エルロンとして(補助翼として)主翼をたわませていた。パイ
2411
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ロットは機体に対して腹ばいに搭乗して、左右の手を使う操縦システムであり、当時とし
ては技術的にきわめてすぐれたものであった。右の操縦桿でバンク(ロール。横転運動)
と旋回を、左手の操縦桿で機首の上げ下げを行った。操縦桿の動きは金属製の操縦索によ
って各翼面や舵面に伝えられた。 ライト兄弟は実験に成功したが、人々は当初はこれを信用しないばかりか、こぞって反
発した。サイエンティフィック・アメリカン、ニューヨークチューンズ、ニューヨーク・
ヘラルド、アメリカ合衆国陸軍、ジョン・ホプキンス大学の数学と天文学の教授サイモン・
ニューカムなど各大学の教授、その他アメリカの科学者は新聞等でライト兄弟の試みに(た
った 9 日前にその時代の権威が試みて失敗したものをいなかの無名の兄弟に)
「機械が飛ぶ
ことは科学的に不可能」という旨の記事やコメントを発表していた。 一般の人は、1905 年 10 月 5 日にデイトン(オハイオ州)の郊外でウィルバーによってな
された飛行により強い印象を受けたであろう。その時、彼は 38 分間に 24 マイル(約 38 キ
ロメートル)を飛んだ。横傾斜、回転、上昇、降下を思うままに行い、2 年間で長足の進歩
を示していた。 ○各種飛行機の開発 この時代の航空機の発明は民間人によってなされ軍人ではなかった(軍も開発しようと
していたが)。2 人の輝かしい技術者ライト兄弟は大学の訓練を受けておらず(しかし、前
述したように兄弟はきわめて科学的に飛行実験を続けた)、また政府や私的な援助を受けず
に彼らの仕事を続け、困難を突破した。一度成功すると追随するものには容易になる。い
わばコロンブスの卵だった。飛行機の世界も、創造と模倣・伝播の原理が通用した。 1906 年 10 月 22 日、サントス・デュモン(1873~1932 年)がヨーロッパでは初となる動
力機の飛行に成功した(しかし高さ 3 メートル、距離約 60 メートルの飛行にすぎなかった。
11 月 12 日の飛行も高さ 6 メートル、距離 220 メートルだった)。サントス・デュモンはブ
ラジルの飛行船の造船主であり、飛行機の製作にも成功し、このため暫くの間、デュモン
が世界初と思われていた時代があった。 1908 年 7 月 4 日にはグレン・カーチス(1878~1930 年)が製作した飛行機「ジューン・
バグ」がニューヨークのハモンズポートで飛行に成功した。こうしてカーチスは動力つき
航空機で空を飛んだ 2 人目のアメリカ人となった。しかし、ライトの飛行よりも注意を引
き付けた(カーチスはすでにオートバイの世界で有名人であった)。 しかし 8 月のフランスにおけるウィルバーの飛行は、兄弟が空気より重い航空機の並ぶ
者なきすぐれた製作者であり、また、パイロットであることをフランスの大群衆に確信さ
せた。9 月にオービルが陸軍の見学者の前で公開飛行を行ったことをきっかけに、アメリカ
政府はその後航空機に興味を持つようになった。 2412
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) この時以来、人々は自由な飛行の実現を熱狂的に歓迎するようになった。1909 年 7 月 25
日、フランスのブレリオ XI 機(製作者はルイ・ブレリオ)が世界で初めて英仏海峡を横断
飛行した。最大速度 75 km/時だった。単葉でフランスらしい優雅な外形を持っていた。操
縦桿を前後に倒して機首の上げ下げを、左右に傾ければバンク(ロール)操作を、また足
元の棒を踏んで旋回を行うという、現代と同じ操縦方法を確立した。 1909 年、アンリ・ファルマン III(アンリ・ファルマンが設計・製作)が初飛行した(最
大速度 60 km/時)。世界で初めて 2 人の乗客を乗せて飛んだフランスの複葉機であった。 これは 1910 年 12 月 19 日、徳川好敏大尉が日本で初めての動力飛行を行った際に使用した
機体でもあった。この 1910 年型のファルマン III は合計 130 機が生産され、うち 75 機は
フランス国外に販売された。そして 1911 年 10 月 23 日、イタリア・トルコ戦争(伊土戦争。
後述)中のリビアでは、ファルマン III が空中写真による前線偵察を行う写真偵察機とし
て使用された。これは歴史上初めて飛行機が戦争で使用された例として知られている。 アメリカに返って、グレン・カーチスのゴールデンフライヤーは少し小型の複葉機であ
ったが、運動性が良く 1910 年、停泊中のアメリカ巡洋艦バーミンガムの艦首特設甲板から
世界最初の離発艦を行い、翌年装甲巡洋艦ペンシルベニアの後甲板に仮設された飛行甲板
に世界で初めての着艦を行った。この後海軍は軍艦からの航空機の運用に注力し航空母艦
へと発展していくことになった。 1911 年に、リンカーン・ビーチェイは 1 万 1642 フィート(約 3548 メートル)の高度記
録をつくった。同じ年、カルブレイス・ロジャーズはニューヨークからカリフォルニアの
ロングビーチまでアメリカ大陸を横断飛行した。 1912 年、フランスのドペルデュサン・レーサーが初飛行し、最大速度 209 km/時を出し
た。速度記録を作るために製作された世界最初の機体で、木造モノコック(一体構造)の
滑らかな胴体と単葉主翼を組み合わせた速度重視の飛行機だった。 1913 年、ベノイスト XIV(トーマス・ベノイストが製作)が初飛行した(最大速度 103 km/
時)。世界初の飛行艇であり、1914 年 1 月 1 日から、アメリカ・フロリダ州セントピータ
ーズバーグとタンパの間の約 35 キロメートルを 20 分でタンパ湾を横断する日 2 便の定期
航空路となった。 航空機の歴史の中で「ロマンチックな時代」だった。それはナイヤガラの滝の橋の下を飛
ぶような向こうみずの難事業や北極の上を飛ぶような英雄的な離れわざを遂行した、はで
な冒険家たちによってリードされていた。 ○グレン・カーチスとの特許問題 初飛行したライト兄弟については、当初世間はこれを理解しないどころかむしろ冷淡で
あり、国内では様々な事情から特許権関係の訴訟事件になってしまった。
「空気よりも重い
2413
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 機械を用いた飛行の実用技術の開発者」と裁判所にも認められたライト兄弟を待ち構えて
いたものは、必ずしも栄光ではなかった。腕のよい飛行家だったグレン・カーチス(1878
~1930 年)は、航空会社を設立し、何かとライト兄弟と特許に関して係争した。 グレン・カーチスは自転車ショップ経営をしていたが、内燃機関が容易に調達できるよう
になるとオートバイに興味を持ち、自身の手によるバイクで 1903 年には 103km/h の当時の
スピード世界記録を樹立し、1906 年には自身の設計による 40 馬力の V8 エンジンを搭載し
たバイクでこれを 219.31km/h まで更新した。この時点で、カーチスはアメリカ No.1 のエ
ンジン製作者の地位にあった(戦後の日本の本田宗一郎のような人だったか)。 カーチスは、1906 年 8 月、飛行船旅行でオハイオ州デイトン市を訪れた際、ライト兄弟
を訪問して航空エンジンとプロペラについての意見を交換し合った。さっそく、カーチス
はアメリカで最も洗練された小型軽量エンジンを製作し、1908 年 7 月にはカーチス製作に
よる飛行機コガネムシ号が初飛行に成功した。 こうしてカーチスは動力つき航空機で空を飛んだ 2 人目のアメリカ人となったのだが、
当時ライト兄弟の初フライトや飛行テストは非公式扱いであったため(それだけライト兄
弟は当初公平な扱い受けなかった)、カーチスとコガネムシ号が公認されたアメリカ初飛行
となった。彼はアメリカ飛行機クラブからパイロットのライセンスを受けた第 1 号ともな
った(ライト兄弟は 4~5 番目となってしまった)。 カーチスの飛行テストに先立つ 1908 年 6 月、ライト兄弟はカーチスに対し「ジューン・
バグ」が兄弟所有のたわみ翼の特許を侵害している旨の警告書を送っていた。しかし事実
上これを無視し、1909 年 3 月 20 日にカーチスは自身の航空会社ヘリング・カーチス社を設
立して飛行機の製作を開始した。8 月にライト兄弟は提訴、1910 年 1 月の裁判でカーチス
は敗訴し会社は倒産の憂き目を見た。しかし 1910 年 6 月の控訴審で判決は覆り、会社は再
興された。 この特許抗争はその後も続くのであるが、このカーチスのバックには、ライト兄弟の偉
業を認めようとしないスミソニアン博物館の会長チャールズ・ウォルコットがからんでい
た(ウォルコットは、カナダのブリティッシュコロンビア州のバージェス頁岩の化石群の
発見者として有名。スミソニアン博物館はアメリカの科学界では権威であった)。人間の怨
念はおそろしいもので、ラングレーの後任となったウォルコットは、当時の航空学界の権
威で軍の開発資金を受けていたラングレーが、ライト兄弟の飛行成功の 9 日前にポトマッ
ク川で大失敗したことで、学界も軍もめんつまるとぶれとなり、それ以来、ライト兄弟に
はまったく冷淡であった。 さらに、カーチスは、ウォルコットと手を組み、1903 年に失敗したラングレー製作の飛
行機「エアロドローム」を水上機に改造し、1914 年 6 月 2 日に飛行試験を成功させた。こ
2414
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) れはカーチスにとっては特許紛争を有利に運ぼうと(とにかく、ライト兄弟の初飛行を否
定したかった)、ウォルコットにとってはラングレーの名誉を回復するために画策されたも
のだった。しかしながらカーチスによるこの「改造」は、ほとんど原形をとどめない程に
徹底したものであり、これをもって「ラングレーはライト兄弟よりも先に飛行可能な機体
を開発していた」と主張することは不当であると後に認められている。 この飛行試験を受け、ウォルコットはスミソニアン協会年次報告に「初めて飛べる飛行
機を作ったのはラングレー」との声明を発表し、ラングレー設計の 1903 年当時の形状に戻
したエアロドロームを、人間を乗せて飛行可能な世界初の飛行機と表示してスミソニアン
博物館に展示した(これでは、まるで捏造である。中に浮いてしまったフライヤー号はロ
ンドン科学博物館の要請でイギリスに渡った)。既に兄を亡くしていた弟オーヴィルは抗議
したが協会は一切無視した(公的な機関でもこのようなことをやることがある)。このため
一般にも世界初飛行に成功したのはラングレーだと思い込む者が増えた。 その後もカーチスとライト兄弟の争いは続いたが、1917 年の第 1 次世界大戦への参戦を
契機に、アメリカ政府の主導により航空機製造業協会が設立され、同協会による航空機関
連特許の集中管理が実施されたことで終止符が打たれた。その背景には軍事用として航空
機が注目されていたことがあった。 1929 年、カーチス設立の航空会社(当時の社名は、カーチス・エアロプレーン&モーター
社)とライト兄弟設立の会社(同、ライト・マーチン社)は合併し、カーチス・ライト・コー
ポレーションが設立された。このカーチス・ライト社は、第 2 次世界大戦直後まで航空機
を製造し第 2 次世界大戦中には全米製造業者中、第 2 位を誇ったが、現在は企業買収を進
めながら事業の多角化を図り、アクチュエーター、コントロール・バルブ、金属表面加工
などでの小規模だが超先端技術を駆使したコンポーネント・メーカーとして航空機分野、
軍用分野を含む多分野多方面で活動している。 スミソニアン博物館長のウォルコットの死後、オーヴィルの「歴史を正しく修正」すべし
という要請にこたえて、スミソニアン協会は声明を発表し、ライト兄弟の偉業を認め、1914
年の実験を否定し、最後の部分では兄弟に陳謝した。 展示されていたエアロドロームを引き下ろしてフライヤー号を展示したいというスミソ
ニアンの申し入れを受け入れ、オーヴィルはフライヤー号をロンドンの科学博物館からア
メリカに戻すことに合意し、フライヤー号がアメリカに戻ってワシントンのスミソニアン
国立博物館に展示されたのは 1948 年 12 月 17 日、初飛行成功から 45 年後の同日だった。 これは公的に上位に立つ人間でも個人的な怨念、ねたみがすさまじいと、科学の歴史で
もねじ曲げようとすることがあるという例を示している。この日、盛大な展示除幕式が行
2415
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) われたが、そこにオーヴィルの姿は無かった。同年 1 月 30 日に彼もこの世を去っていた(ウ
ィルバーは 1912 年に亡くなっている)。 【②長足の進歩をみせた第 1 次世界大戦期】 ○第 1 次世界大戦(1914~1918 年)…… 軍用機の実用化 戦争は航空機の進化を驚異的に進めた。第 1 次世界大戦では、航空機は最初偵察機とし
て使用された。当初敵の偵察機と遭遇しても「同じパイロット仲間同志」としてハンカチ
を振り合ったという逸話があるが、すぐにピストルを撃ち合うようになり、武器自体も機
関銃へと進化して戦闘機が生まれた。また敵地上空まで飛んでいって爆弾を落とす爆撃機
も誕生した。イギリスは世界最初の雷撃機(航空魚雷による対水上艦攻撃)を製造した。
一部の機体では骨組みや外板に金属が用いられるようになった。 オランダ人技術者アントニー・フォッカー(1890~1939 年)が設計した第 1 次世界大戦
時のドイツの単座単葉戦闘機フォッカー E.III は 1915 年に初飛行(最大速度 140 km/時)
した。ドイツが初めて戦闘機として設計した単葉機で前方にある自機のプロペラに銃弾が
当たらないようにする同調式機銃発射装置を世界で初めて装備していた(プロペラが回っ
ているその間から銃弾が飛び出す)。 この同調式機銃発射装置を装備した戦闘機は、1915 年に西部戦線に登場して、連合軍戦
闘機を圧倒し、連合軍側がニューポール 11 などの新鋭機を投入する 1916 年まで「フォッ
カーの懲罰」という言葉を生むほど、連合国軍戦闘機がこれの餌食になって落とされた。
この機体の胴体の構造はこの後フォッカー社の特徴になる鋼管溶接構造が採用されていた。 イギリスのソッピース・アビエーションで開発されたソッピース キャメル複葉戦闘機は、
1916 年に初飛行し(最大速度 185 km/時)、同調式機銃発射装置を備え、大馬力エンジン
を装備し、運動性の良い(舵の効きが良い)戦闘機で、主力機として 5,400 機生産された。 ニューポール 17 はニューポール社によって製作されたフランスの複葉戦闘機で 1916 年
に初飛行し(最大速度 177 km/時)、一葉半の主翼を持っていた。複葉式の下翼が小さいの
で下方の視界が良好で、イギリス戦闘機よりも優れていたため、イギリスの陸軍航空隊や
海軍航空隊からも発注を受けた。多くの撃墜王たちがニューポールを使用した。 ゴータ G.IV は、ドイツのゴータ社によって製造された双発の重爆撃機で 1916 年に初飛
行し、ツェッペリン飛行船に代わり 1917 年にロンドンを初めて爆撃して以来ロンドン空襲
に参加し、ロンドン市民を恐怖に陥れた。ここにはじめて前線のはるか後方にある一般市
民が多数殺傷される戦争が出現することになった。最初は昼間に爆撃を行ったが、その後
戦闘機の反撃を受けて損害を出し、以後夜間爆撃に変更された。爆弾搭載量 400 キログラ
ムであった。 2416
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) イリヤー・ムーロメツは、ロシアで量産された世界初の 4 発爆撃機で 1914 年に初飛行し
(最大速度 105 km/時)した。当初は旅客機として設計されたが、ロシアの第 1 次世界大戦
への参戦後、爆撃機として生産が継続された。開発者はロシア帝国のキエフ(現ウクライ
ナ)生まれの航空機のパイオニア、イーゴリ・イヴァーノヴィチ・シコールスキイ(1889
~1972 年)であった。シコールスキイは、1917 年のロシア革命を受けてアメリカ合衆国へ
亡命し、以後ロシアへ帰ることはなかった。アメリカにおいて彼は近代的なヘリコプター
の開発をおこない、
「シコールスキイ」はベルと並んで同国のヘリコプターの代名詞となっ
た。 ○大戦の合間 (1919~1939 年)……レシプロ機の成熟 飛行機は第 1 次世界大戦で大きく発展し、信頼性も向上した。そこで戦後は飛行機によ
る本格的な民間輸送が開始された。最初は上流階級による旅行のための旅客機や郵便運送
に利用されたが、機体が大型化するにつれて一般の金持ち階級も利用できるようになって
いった。 大洋を渡る路線や長距離を飛ぶ大型機としては、離着陸や万が一の際に広大な海面が利
用できる飛行艇が充当された。骨組や外板全てをアルミニウム合金(ジュラルミンなど)
で製作した全金属製の機体が開発されたが、鋼管骨組に羽布張り等の構造を持つ機体も残
っていた。また 1930 年代には高揚力装置(フラップ)が実用化され離着陸特性が改善され
た。 この大戦の合間 (1919~1939 年)にも、航空機の進歩は著しかった。民間輸送機のボー
イング 247 がダグラス DC-3 に敗れた後、1938 年、ボーイング 307B ストラトライナーを初
飛行させ、巡行速度 357 km/時、乗客 33 人で巻き返した。ボーイング社の軍から受注した
4 発重爆撃機 B-17 の主翼と尾翼を流用して(これによって開発費が低減でき)新たに太い
胴体を設定した機体で、客室を与圧(室内全体を加圧して酸素濃度を通常状態に保つ)し
て快適な高空の旅を提供できた最初の機体であった。 ボーイング社はこの与圧室を装備したボーイング 307 等意欲的な新型旅客機を数々生産
したが、1950 年代まで商業的には大きな成功は得られない状況が続いた。民間需要はまだ
限られていて、とても膨大な開発費をかけて採算を合わせることは難しかったのである。
ボーイングのように開発費が保証されている軍用機をこなして、その技術を民間機に応用
してやっとやっていけるというのが民間航空機分野であった。 ボーイングの軍用機分野では 1936 年に自社開発した 4 発大型爆撃機であるモデル 299 B-17 が陸軍航空隊に採用された。この機は爆撃機としての性能は素晴らしかったが、あま
りに大型かつ高価であったため当初の発注数は少数にとどまった。しかし、その状況は第 2
次世界大戦がはじまって一変した。 2417
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ○航空エンジン 航空機産業は多くの部品を組み立てる総合組立産業となったが、その中でももっとも重
要で航空機の性能を左右するのがエンジンである。ヨーロッパのエンジンは、すでに自動
車産業がヨーロッパで先行していたこともあって、最初の 20 年間はアメリカのエンジンよ
りも、質量ともにすぐれていた。第 1 次世界大戦に巻き込まれたアメリカは、軍事上の必要
性からイギリスとフランスのエンジン設計を導入して、それを模倣するようにとアメリカ
の製造業者に強制した(航空エンジンも、創造と模倣・伝播の原理が働いていた)。水冷式、
空冷式のエンジンの両方ともにヨーロッパがリードしていた結果、これと匹敵できるアメ
リカの試作品は 1920 年代の初めまでには出現しなかった。 20 年代の終わりから 40 年代の中頃まで、優位を占めたエンジンの型は星型の空冷エンジ
ンであった。第 2 次世界大戦中、水冷直列エンジンが流線形への変化を可能としたために
注目され出現した。しかし、やがてガス・タービン(ジェット)・エンジンが高性能エンジ
ンとして両方のエンジンにとって代わった(ジェット・エンジンの開発もヨーロッパが先
だった)。 ◇ジェットエンジンの開発 1930 年にイギリスにおいてフランク・ホイットルが、1935 年にドイツにおいてハンス・
フォン・オハインとがそれぞれ独立にターボジェットの設計についての仕事をしていた。
そして 1939 年 8 月にはじめて(9 月 1 日にドイツ軍がポーランドを侵略して第 2 次世界大
戦が勃発した)、ドイツのハインケルHe-178 によって最初のターボジェット機が飛んだ。
戦争の終わりまでに、ドイツはターボジェット機ユンカース 004 を生産に移し、またメッ
サーシュミットMe-262 ジェット戦闘機をつくったが、もはや戦局を変える時期ではなか
った。 最初のイギリスのジェット機の飛行は 1941 年 5 月に行われた。戦争の終わりまでにイギ
リスもまた、生産型のグロスター「ミーチャー」Ⅰ型に装備されたロールス・ロイスの「ウェ
ルランド」を保有するに至った。 いずれにしても第 2 次世界大戦の航空機はすでに成熟期に入っていた従来のエンジンで
あるレシプロ・エンジンで戦われ、ジェット・エンジンの競争の時代は戦後になった。 【③戦争の主役となった第 2 次世界大戦期】 ○第 2 次世界大戦期 第 2 次世界大戦で航空機が戦闘の主役となった。陸上・海上を問わず制空権を握った側
が戦いに勝利した。 2418
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 大戦初期にドイツがポーランドやフランスに侵攻した作戦は、のちに第 2 次世界大戦の
歴史で述べるが、その進軍の速さから電撃戦と呼ばれた。ドイツ空軍戦闘機による制空権
のもとでの多数の爆撃機による攻撃が侵攻の速さを支えた。 ユンカース Ju 87 (ドイツ、初飛行 1935 年)は、第 2 次世界大戦初期のドイツ軍によ
る電撃戦を支えた急降下爆撃機でポーランドやフランスへの侵攻では自国の制空権のもと
で活躍したが、バトル・オブ・ブリテンでは敗退した。 西ヨーロッパを制したヒトラーは(ソ連攻撃をする前に背後の敵イギリスを下しておく
必要があり)イギリス侵攻を目指したが、航空戦バトル・オブ・ブリテンでは、ドイツ戦
闘機はもともとドイツ本国上空周辺での戦闘しか想定しておらず、爆撃機に対し充分な援
護ができなかった(ドイツ戦闘機の航続距離が足りなかった。ヒトラーがいくら、わめい
てもどうしようもなかった。この点からみてもヒトラーはもともとイギリスが参戦すると
は思っていなかったかもしれない)。その結果ドイツ爆撃隊はイギリス防空戦闘機によっ
て重大な損害を受け、イギリスへの侵攻は結局、断念された。このように第 2 次世界大戦
では航空機が大戦略を決めることにもなった。 地中海では、イギリスは有力な航空母艦勢力を利用してジブラルタルからイタリアの鼻
先にあるマルタ島を経由しアレキサンドリアに達する地中海のシーレーンを維持した。イ
ギリス空母イラストリアスに搭載された攻撃機は、1940 年 11 月 11 日の夜、イタリアのタ
ラント軍港を雷爆撃し、停泊注のイタリア海軍の戦艦 2 隻を大破着底させ他の艦にも損傷
を与える大戦果を上げた。結局、大戦中、ほとんどイギリスが地中海の制空権を握ってい
たので、イタリアもドイツも地中海ではほとんど活動できなかった。 大西洋では戦争初期に大いに暴れまわったドイツの潜水艦(U ボート)であったが、1943
年以後アメリカで大量生産された護衛空母に搭載された航空機による対潜作戦が始まると
形勢は全く逆転した。戦争末期ドイツ本土は昼間はアメリカの B-17、夜間はイギリスのラ
ンカスターという 4 発重爆撃機コンビの攻撃を受けて荒廃していった。 これらの攻撃に対しドイツは高速のジェット戦闘機やレーダーを装備した夜間戦闘機を
開発して対抗したが、米英の物量の前に敗北した。なお世界初のジェット機はドイツのエ
ルンスト・ハインケルが完成させ 1939 年 8 月に初飛行した He 178 だが、この機体は前述
のようにほとんど実戦には間に合わなかった(高速で撃墜率は高かったが、数が少なかっ
た)。 第 2 次世界大戦中、以下のように各国は戦闘機、戦闘爆撃機の開発にしのぎを削った。 ◎イギリス…スピットファイア(2 万 5000 機以上生産) ◎ドイツ…メッサーシュミット Bf 109(3 万機以上。戦闘機として史上最多)。 ◎アメリカ…ノースアメリカン P-51 2419
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ◎イギリス…デ・ハビランド モスキート(木製) ◎ドイツ…メッサーシュミット Me 262(世界最初の実用ジェット戦闘機) ◎アメリカ…ボーイング B-17「空の要塞」(4 発重爆撃機。1 万 2000 機生産) ◎日本…九六式陸上攻撃機(長距離攻撃機) ◎日本海軍…九七式艦上攻撃機、零式艦上戦闘機 ◎アメリカ…ボーイング B-29 「超空の要塞」 ○戦後の大型輸送機時代をつくった重爆撃機 ボーイング B-29(アメリカ、初飛行 1942 年、最高速度 576 km/時)は、与圧室の採用、
機銃の遠隔操作等の技術を盛り込んで製作されたアメリカ重爆撃機で強力なエンジン
(2200 馬力の星型エンジン 4 発)と排気タービンの組み合わせにより優れた高空侵攻能力
を有した。高空を飛んだので零式戦闘機で追撃できなかった。日本の各都市を戦略爆撃し
て焦土と化し、日本に戦争継続を諦めさせた航空機であった。 ロッキード社のロッキード・コンステレーション(アメリカ、初飛行 1943 年、巡行速度
526 km/時、乗客 81 人(最大))は、与圧された客室を持ち、アメリカ大陸を無着陸で横
断できる機体として製作されたレシプロエンジン 4 発旅客機であった。戦争中に開発され
たため当初は軍用輸送機として使用された。この旅客機は当時の零式艦上戦闘機では追い
つけなかった。 ロッキード社は第 2 次世界大戦中にコンステレーションで伸びて、第 2 次世界大戦後は
L-749 コンステレーションや L-1049 スーパー・コンステレーションで(与圧構造装備の 4
発の大型プロペラ旅客機でレシプロエンジン旅客機の歴史の最後を飾る存在)でダグラス
社と旅客機の分野で覇を競った。 ボーイング社は第 2 次世界大戦中に、B-17 で大型爆撃機メーカーとして名を馳せた。B-17
がヨーロッパ戦線における米軍の主力爆撃機として大量に生産・運用され、戦略爆撃機の
確固たる地位を築いた。続いて当時の「超」大型爆撃機である B-29 スーパーフォートレ
スは、他企業の工場まで稼動させるほどの大量生産を行い、長距離侵攻能力を生かして日
本本土への戦略爆撃に使用された。また、エノラ・ゲイとボックスカーの 2 機により世界
で唯一、実戦で広島・長崎へ原子爆弾を投下した機種となった。 この第 2 次世界大戦中、航空機の性能アップは驚異的で、陸上輸送機による長距離・高
速輸送が定着し、飛行艇はその存在意義を低下させていった。この時代に作られた機体は
殆どが全金属製であったが、イギリスやソ連では木製機も登場した。機体の高速化に伴い
離着陸性能改善のための高揚力装置(フラップ)は不可欠となった。また高空を飛ぶ大型
機には与圧室が採用されるようになった。 2420
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 【④ジェット機時代となった戦後期】 ○第 2 次世界大戦後の軍用機のジェット化 第 2 次世界大戦は終わったが、直ちに米ソ冷戦がはじまり、今度は米ソの激しい軍用航
空機開発競争がはじまった。 大戦末期に実用化されたジェット・エンジンは直ちに軍用機に採用され、戦闘機や爆撃
機はジェット化されていった。前述したようにジェット機の開発はドイツとイギリスが圧
倒的にリードしていたが、第 2 次世界大戦後、ドイツの他の先進技術とともに Me262 もソ
ヴィエト連邦によって接収された。戦争は直接的な創造と模倣・伝播の原理の場となる。
機体は十分に研究され、ソ連における初期のジェット戦闘機の開発に反映された。アメリ
カも同じだった。後退翼や三角翼に関する技術もドイツ敗戦直後にソ連とアメリカに流出
し、戦闘機や爆撃機の高速化に貢献した。レシプロエンジン爆撃機や直線翼ジェット戦闘
機は朝鮮戦争でその使命を終了した。 またそれまで超えることができないと考えられていた音の壁はアメリカのロケット実験
機 X-1 により 1947 年 10 月 14 日に突破された。ベル X-1 は、最高速度マッハ 1.45、ロ
ケットエンジン推進の実験機であり、飛行実験は通常大型爆撃機に吊り下げられて高空に
達し、そこからロケットエンジンで加速したが、通常の離陸も可能であった。その後は超
音速飛行が可能な戦闘機が続々と製作された。 《ミコヤン MiG-15》 ミコヤン MiG-15(初飛行 1947 年、最高速度 1,100 km/時)は、1950 年にはじまった朝
鮮戦争において西側各国を戦慄させたソ連製後退翼ジェット戦闘機で当時のアメリカやイ
ギリスの直線翼ジェット戦闘機では歯が立たず、日本が手を焼いた B-29 も容易に撃墜し
た。本機の優位はアメリカの F-86F が戦線に参加するまで続いた。 《ノースアメリカン F-86F セイバー》 ノースアメリカン F-86F セイバー(初飛行 1947 年、最高速度 1,118 km/時)は、アメリ
カ製後退翼ジェット戦闘機で朝鮮戦争で MiG-15 に対抗する切り札として戦線に投入され、
制空権を回復した。 《ボーイング B-47》 ボーイング B-47(初飛行 1947 年、最高速度 1,060 km/時)は、アメリカ最初の後退翼ジ
ェット爆撃機で、冷戦当時は核爆弾を搭載しいつでも飛び立てるように 24 時間待機してい
た。 ○第 2 次世界大戦後のレシプロ機による民間航空事業の再開 第 2 次世界大戦後、直ちに米ソ冷戦がはじまり、軍用機の分野では、戦闘機や爆撃機は
ジェット化されていったことは述べたが、民間機の分野では、まず、レシプロ機による民
2421
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 間航空事業が再開され、戦争によって得た全ての知識と熟練が新しい民間輸送機の中につ
ぎ込まれていた。この状況については省略する。 ○民間航空機のジェット化、コメット機の失敗 1950 年代にはじめてジェット推進の民間輸送機が舞台に登場した。これも当時先端を走
っていたイギリスだった。新しい道を切り開くものにはリスクはつきものである。二番手
をやるものは、はるかに容易であることは創造と模倣・伝播の原則でさいさん述べている
ことであるが、新規産業の開拓についてもいえることであった。 民間航空のジェット化はイギリスがコメットで先鞭をつけたが、これは大きな事故に見
舞われた。デ・ハビランド コメット (初飛行 1949 年、巡行速度 740 km/時、乗客 36 人)
はイギリスのデ・ハビランド社が開発した世界初のジェット旅客機であった。4 基のジェッ
ト・エンジンを主翼基部に埋め込み軽度に後退した主翼を持っていた。ピストン・エンジ
ン特有の震動が無く、与圧された客室によって空気の乱れの少ない高空を飛ぶ本機は空の
旅の快適性を大きく向上させた。 1952 年 5 月、満を持した初の商用運航が BOAC のコメット Mk.I によってロンドン・ヒー
スロー ~ヨハネスブルグ(南アフリカ)間で行われ、所要時間を一気に半減させてみせた。
しかし、1954 年 1 月にイタリア近海を飛行中のコメット機が墜落し、乗客乗員 35 人が全員
死亡し、運航再開後の 4 月にも、コメット機が墜落し、乗客乗員 21 人が全員死亡した。た
て続けの大事故であり、徹底的な調査研究が行われた。 結局、与圧された胴体が金属疲労で破壊された可能性が指摘された。金属疲労の現象の
指摘は初めてのことだった。そこで巨大な水槽を建造して中に胴体を沈め、水圧を掛けて
地上で人工的に与圧状態を作り出す、極めて大がかりな再現実験が行われた。航空機が離
陸・着陸のたびに、機体が常圧・高圧を繰り返すことになるが(地上では機体内は常圧、
高空になると機体内は高圧にされる)、それを模擬して水中の機体で常圧・高圧を繰り返し
て、何万フライト分(何万回)で機体が破壊されるかを試験した。 解析の結果、数万フライト分と計算されていた構造寿命が、実際には一桁低かったこと
が判明した(普通、機械類は設計上より何倍かの加重をかけて破壊実験をするが、その加
重よりはるかに少ない加重でも何千、何万回繰り返しかかると、金属が疲労し弱くなり破
壊が起きることがわかった)。 このことは人類にとってはじめての知見であり、事前の試験でもやっていなかったこと
であった(機械設計では必ず事前に破壊試験までやって確かめることになっている)。まっ
たく新しい分野の開拓ではこのようなリスクがともなうものである(すべてを事前に見通
すほど人類は利口ではない。事故のたびに(人命の犠牲によって)、人類は一つ、また、一
つ利口になるのである。鉄道の鉄橋もそうだったではないか)。 2422
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 1955 年 2 月には、離着陸サイクルで加減圧と熱収縮(高空は低温。温度の影響が加わる
と金属はもっとはやく弱くなる)の反復にさらされたことで発生した金属疲労が原因だと
する、最終報告がまとめられた。金属疲労の問題は学問的にはわかっていたが、このよう
な形で実際に起きるとは知られていなかった。したがって、航空機の強度設計に考慮され
ていなかったのである。窓枠の角、或いは航法装置取付部に亀裂が発生し、これが成長し
て機体が破裂的な空中分解に至ったのである。原因が明らかになったことで、その後のジ
ェット旅客機は窓などの開口部の角が丸められ、また万一亀裂が生じてもその成長を食い
止めるフェイルセーフ構造(障害が生じた場合も安全サイドになるような設計手法)が採
り入れられた。結局、コメット旅客機はこの事故や後述するボーイング 707 との競争に敗
れ、退役することになった。この事故はデ・ハビランド社の命取りとなり、ホーカー・シ
ドレーに吸収合併されて姿を消した。 1950 年代後半から航空機の契約数減少に伴うイギリス政府の決定で、ホーカー・シドレ
ーは 1960 年にデ・ハビランドとブラックバーン・エアクラフトを吸収合併した。しかし、
ホーカー・シドレー・グループも、1977 年にイギリス政府によって国営化され、ブリティ
ッシュエアロスペースとなり、1993 年にジェット機の製造ラインをアメリカ合衆国のレイ
セオン社に売却した。一国で民間航空機(製造)会社を維持することは、もはや困難とな
ってきており、一つの失敗は企業の命取りとなる時代がきたのである。 【⑤ジェット旅客機で先頭に立ったボーイング】 ボーイング社は、第 2 次世界大戦後にも、軍用機部門では、大型爆撃機メーカーとして
最初にジェット爆撃機 B-47(初飛行 1947 年)を、つぎに後継機ジェット重爆撃機 B-52 ス
トラトフォートレス(初飛行 1952 年)をつくるという軍事上の開発製造契約の結果として、
技術的な有利性を得ることができた(両者とも後退翼で全ジェットの設計だった)。 ボーイング社は 1954 年にアメリカ初のジェット輸送機の試作機 B367-80 を初飛行させ
た。もともとは米空軍向け大型ジェット輸送機として計画されたが、実際には飛行中の B-47
と B-57 に燃料を補給するためのジェット給油機 KC-135 として採用されたのである。しか
もこれがジェット旅客機ボーイング 707 の原型にもなったのである。同じ形状の平時用輸
送機と軍用給油機をうまく取りかかることができ、民間輸送機の分野で有利に立つことが
できた。 ボーイング 707(初飛行 1954 年、巡行速度 973 km/時)は、乗客 202 人(最大)の大型
4 発ジェット旅客機で、従来のレシプロ旅客機の 2 倍の乗客を乗せ 2 倍の速度で飛んだため、
エアラインにとって 4 倍の効率が上がる機体となった。同一の輸送機 C-135 や空中給油機 2423
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) KC-135、707 をもとにした早期警戒管制機 E-3 などの派生型も多かった。B707 によってボ
ーイングはジェット旅客機メーカーの第一人者となることができた。 このボーイング 707 に対抗して航空機各社も本格的にジェット旅客機の開発に着手した。
ロッキード社はターボプロップのロッキード L-188 エレクトラを、ダグラス社は全ジェッ
トの DC-8 を、コンベヤ社は全ジェットのコンベア 880 を開発して民間輸送機市場に入って
いった。 ロッキード社は、ジェット旅客機は時期尚早とコンステレーションの後継機としてター
ボプロップ(ガスタービンエンジンの 1 形態であるが、そのエネルギーの大部分をプロペ
ラを回転させる力として取り出すもので主に小型、あるいは低亜音速機用のとき効率がよ
い。日本が戦後、開発した YS -11 はターボプロップだった)のロッキード L-188 エレクト
ラを開発した。1954 年から開発に着手し、1957 年 12 月に初飛行、1959 年早々に就航開始
したが、やはりターボプロップではなくジェット機の時代に入っていたため、同クラスに
登場した中距離用ジェット機には全く太刀打ちできず、コンステレーションで一世を風靡
した名門ロッキードの看板をもってしても、144 機の受注(総生産機数は 167 機)に留まっ
た。この失敗はロッキードに大きなダメージを与えた。 ダグラスは前述した DC-3 で大ヒットを上げ、1930 年代以降、DC-4、DC-6 など数々のレ
シプロ旅客機を開発・製造し、1950 年代当時、アメリカを始めとする世界の旅客機市場で
最大のシェアを誇っていた。しかし、ダグラス社が、DC-7C の後継機種として、初のジェッ
ト旅客機 DC -8 に着手したのが 1952 年であった。先に開発をはじめたボーイング 707 に対
する遅れを取り戻すために、試作機の製作を省くという当時としては画期的な開発手法を
取り、大幅に開発期間を短縮し、ライバルのボーイング 707 の初就航から約 1 年遅れの 1959
年 9 月に定期路線に初就航した。 DC-8 の多くが太平洋や大西洋横断路線、アメリカ大陸横断路線などの長距離かつ需要の
大きい路線にボーイング 707 とともに投入され、その結果、1950 年代に至るまでクイーン・
メリーやユナイテッド・ステーツなどの豪華客船が大きなシェアを占めていた大西洋横断
航路や、同じく客船が大きなシェアを占めていた太平洋横断航路は終止符を打たれること
になった。 ダグラス社は、その後、次々と DC-8 のスーパー60 シリーズなどのストレッチ型(胴体延
長型。機体に余裕があり、胴体だけを長くして乗客数を増やす)を出したこともあり(主
脚の長さが短いボーイング 707 は胴体延長が困難であった)、順調に発注数を伸ばし、後継
機とされたワイドボディ機の DC-10 の生産が始まった直後の 1972 年に、DC-10 の販売に影
響が出ないように生産中止するまでに計 556 機が製造され、大成功をおさめた。 2424
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) コンベア社は 1943 年に 2 つの航空機会社が合併して設立され、第 2 次世界大戦中から数
多くの軍用機を製造し、戦後の 1947 年にプロペラ旅客機コンベア 240 を開発・販売した。
1953 年に、ジェネラル・ダイナミクスに買収され、その一部門になった。
「コンベア」はジ
ェネラル・ダイナミクスの航空機事業部門として残り、1950 年代後半から 1960 年代前半に
かけては、第 1 世代の大型ジェット旅客機であるコンベア 880 やコンベア 990 を開発した。 コンベア社でも、先行する競合機ボーイング 707、ダグラス DC-8 との開発ギャップを埋
めるため、試作機の製作を省いて 1959 年に最大運用限界マッハ数 0.89 を標榜する「世界
最速」をセールスポイントにして CV880 の開発が進められたが、ライバル機より一回り小
型で積載能力が小さく高燃費で就航後エアラインの間で不評が定着してしまった。1959 年
から 1962 年までの CV880 の累計生産はわずか 67 機に留まった。 これらの問題点を改良した CV990 の開発が並行して行われ、1961 年 1 月に初飛行し、
「巡
航速度マッハ 0.91」をキャッチフレーズに用いたものの、またしても諸性能が保証値を下
回る結果となってしまった。1962 年 1 月には第 1 号機をアメリカン航空に引き渡したが、
CV880 以来の不評を覆すには至らず、発注キャンセルを受け、在庫を抱えたコンベア部門
が深刻な経営危機に陥ったこともあって、1962 年夏には受注を締め切り、わずか 39 機をも
って製造ラインが閉じられた。ジェネラル・ダイナミクスは、コンベアを 1965 年に終了さ
せ、1976 年にカナダ政府に売却した。これでコンベア社は姿を消した(ジェネラル・ダイ
ナミクスの他の航空機事業は存続している)。このように開発費が大きくなったジェット旅
客機の分野では、開発の失敗は即会社の命取りとなっていった。 【⑥ジェット旅客機の大型化―第 2 の旅客機競争時代】 結局、民間航空旅行が着実に増加するにつれて、航空会社の利益は需要の成長とジェッ
ト機の運航の経済性のために高くなった(高速がより多くの飛行を可能とし、保守費はジ
ェット・エンジンが比較的故障が少なかったためにピストン・エンジンの航空機よりも安
かった)。このため航空会社はより大きいジェット機を要求した。この時期は大きい航空機
は成功したが、小さめのものは失敗作になっていく傾向があった(航空需要はたえず予測
を上まわった)。 1966 年には 200 から 400 の座席を持ち亜音速で飛ぶ「ジャンボジェット機」の計画が発
表された。これは新しい技術革新を必要とするものではなく、単純な既存の設計の拡大で
あった。こうしてより大きい乗客容量は運行経費をより低くし、より大きい市場の利用を
可能とした。まさに「大きいことはいいことだ」の時代だった。 このような民間航空機需要にもっともうまく対応したのは、やはりボーイング社だった。
ボーイング 707 は高速を生かして長距離国際線用に使用され、一般人の海外旅行をより容
2425
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 易にすることに役立った。ボーイング社の戦略は B-707 の乗客数 202 人(最大)からシリ
ーズものの開発で翼を広げていくことであった。まず、1963 年に中距離用のジェット旅客
機ボーイング 727 を開発した。この機体は三重隙間フラップ等の強力な高揚力装置を装備
して離着陸性能を改善し、中規模空港でも運用が出来るようにした。この結果、それまで
バイカウント等のターボプロップ機が運航していた中距離路線にもジェット機が進出する
ようになった。さらに、より小型の短距離機ボーイング 737 も開発して、航空輸送のジェ
ット化をさらに推し進めた。 一方、大のほうのボーイング 747(ジャンボジェット 4 発、350~550 人乗り)は、当初
1963 年のアメリカ空軍の CX-HLS 次期主力輸送機計画のために開発された大型輸送機だった。
この軍用輸送機計画でロッキード社との競争に敗北した結果、将来の国際線(長距離飛行)
主力機としてのパンアメリカン航空(パンナム)の開発要請にこれを転用し、旅客機とし
ては 1969 年に初飛行した。一部 2 階建てになっているのは、1 階全てを荷物空間とし、機
首のハッチを上げることで戦車を直接乗せ得るようにした空軍輸送機の設計時の名残であ
る。 ジャンボの功績は、広い客室に完備した映像設備や音楽サービスなど快適性の向上と共
に、大きな収容力を満たすための廉価なパック旅行を生んで庶民が海外旅行に行けるよう
になった点である。騒音の小さい大バイパス比ターボファンエンジンを 4 基装備し、騒音
の点では前世代のボーイング 707 より良好である。慣性誘導装置を民間機で最初に採用し
た。 当時としては巨大だったため、完成後は航空評論家から「空席だらけの機体」と酷評さ
れた。しかし、パンナムが 747 を正式採用すると、日本航空などの他の大手国際線航空会
社も経済性に注目して導入した。航空会社は空席を少しでも減らすため、思い切った料金
値下げに踏み切り、一般人が気軽に飛行機に乗れる、バスのような飛行機、エアバス時代
が訪れた。747 は短距離型、経済型、荷物専用機、大型化など次々に改修改良され、現在も
同社の有力機となっている。 【⑦ジェット旅客機の高速化-コンコルドの開発】 大型化があれば高速化もあるはず、航空機技術の流れは当然、高速化に向かうはず―し
かし、これはうまくいかなかった。たちはだかったのは、地球(環境)だった。人類の技
術開発の流れは、はじめて地球(環境)によって阻止されたことを述べよう。 1960 年代は民間航空需要が着実に伸びていくことが見込まれていたので、航空機の大型
化と同時に、より高い速度に対する要求もますます増大していた。そして、過去の航空史
と同様、軍事的開発が民間を先導した。軍用機は音速(マッハ 1)をはるかに越えていた。
2426
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) そこで 1960 年代に超音速で飛ぶ民間航空機の計画を航空技術者たちが作り始めた。このよ
うな航空機の開発資金は莫大であり、私企業のみで行うことは不可能で、政府のみが研究
と開発とを保証する資金を持っていた。 1950 年代、イギリスの航空機業界はコメット旅客機の失敗ののち、アメリカ製のボーイ
ング 707 や DC-8 が登場して、技術的、商業的に凋落傾向となっていた。このような状態で
はあったが、イギリスの航空機業界は、試験機を製作し、高速飛行に関する研究を行って
いた。1956 年頃には、これらの研究は政府の関心をひき、超音速輸送機委員会は、1959 年
3 月、イギリス政府に 2 種類の超音速輸送機を開発するように勧告した。また、1960 年 1
月 1 日、イギリスの航空機メーカーの多くは、BAC (British Aircraft Corporation) に統
合された。 一方、フランスの SNCASE(南東航空機製造公社)はイギリス機のライセンス生産から脱
却するために 1951 年にジェット旅客機カラベルの設計を開始した。カラベルはイギリスの
エンジンを使用し、機種と尾翼はデ・ハビランド コメットの設計を流用したが、その他は
新設計であった。当時としてはユニークであったのは、胴体後部にエンジンを設置したこ
とで、それにより客室の騒音が減少した。1958 年に生産を開始した。その時点で SNCASE は、
別の国営企業 SNCASO(南西航空機製造公社)と合併して、シュド・アビアシオンになって
いた。1960 年よりシュド・アビアシオンは超音速旅客機のシュド・シュペル・カラベルの
設計を始めたが、開発コストが巨大になるため、イギリスの BAC と 1962 年の 11 月コンソ
ーシアムをつくり、超音速旅客機「コンコルド」開発を開始した。つまり、英仏はアメリ
カのジェット旅客機の大型化に出遅れてしまい、共同してジェット旅客機の高速化に起死
回生をはかろうとしたのである。 なお同時にアメリカでもボーイング社でより高速、大型の超音速旅客機ボーイング 2707
の開発が進められたが、ソニックブームに代表される環境への悪影響の懸念が激しい抗議
を呼び起こし、原型試作機が完成するよりも前の 1971 年に計画は中止された。 イギリスの BAC とフランスのシュド・アビアシオンの共同開発したコンコルドは、1969
年 3 月に初飛行した。コンコルドは巡行速度マッハ 2.05、乗客 100 人の超音速旅客機(SST)
であったが、三角翼を基本としたオージー翼と呼ばれる微妙な曲線を持つ主翼の下にアフ
ターバーナー付のターボジェットエンジンを 4 基装備し、高迎え角となる離着陸時に下方
視界確保のために機首が折れ曲がるなどの特徴を持ち、コンコルドの勇姿は未来を感じさ
せるものであった。 しかし、衝撃波の問題から陸地上空での超音速飛行が禁止されたり、騒音の大きなエン
ジンのため着陸できる空港が制限されたりしていた。燃費効率も悪く乗客数が少なく全席
ファーストクラス扱いの経済性の悪い航空機となってしまった。 2427
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 高度 5 万 5,000~6 万フィートという、通常の旅客機の飛行高度の 2 倍もの高度を、マッ
ハ 2.05 で飛行するということで開発当時は、世界中から発注があったものの、ソニックブ
ームなどの環境問題、開発の遅滞やそれに伴う価格の高騰、またジェット旅客機の大量輸
送と低コスト化の流れを受けて(1973 年の石油ショック後はとくに経済性が重要になった)
その多くがキャンセルとなり、最終的には共同開発した英仏のブリティッシュ・エアウェ
イズとエールフランスの 2 社のみの就航に止まった。そのため原型機 4 機を含め、20 機が
製造されて中止となった。 2000 年 7 月 25 日に発生した墜落事故、2001 年 9 月 11 日に発生したアメリカ同時多発テ
ロによって、低迷していた航空需要下での収益性改善が望めなくなったことで、2003 年 5
月にエールフランス、同年 10 月 24 日にブリティッシュ・エアウェイズが営業飛行を終了、
全機が退役した。 【⑧国際協力体制の時代】 747 開発成功以来、ボーイングが旅客機市場を席巻する中で、欧米のライバル社もジェッ
ト旅客機開発に取り組んだものの、技術は日々高度化し、開発費は高騰するばかりであっ
た。やがて開発費の重みに耐え切れないメーカーは、次々に独自の旅客機計画を断念し、
国際的な協力体制を敷き始めた。これが、ヨーロッパ(英仏独西)の多国籍企業エアバス
設立の要因であった。 英仏の共同開発のコンコルドの評判がかんばしくなくなると、ヨーロッパの航空機業界
の見通しはきわめて悪くなった。フランスのシュド・アビアシオンはノール・アビアシオ
ン(北方航空事業)と 1970 年に合併し、アエロスパシアルになったが、単独で次の開発プ
ロジェクトを進める力はなかった。 ジェット旅客機時代になり開発費の高騰などから、ヨーロッパの既存の各社が単独では、
アメリカ合衆国の航空機メーカーであるボーイングやマクドネル・ダグラス、ロッキード
への対抗が難しくなったことから、フランスのアエロスパシアルと西ドイツ DASA(ダイム
ラー・クライスラー・アエロスペース)が共同出資し、エアバス社を 1970 年 12 月に設立
し、中型機の製作に取り掛かった。なおエアバスとは、広胴型機の隆盛の初期「バスのよ
うに気軽に利用できる飛行機の時代をいう」航空用語を、そのまま社名にしたものであっ
た。これは後にエアバス A300 となる機体で、イギリスの BAe とスペインの CASA も参加し
て 4 ヶ国体制となった。 A300(乗客数は 300 人)は、1972 年 10 月に原型機が初飛行を行ったが、当初は 10 数機
しか発注が無く、苦戦が続いた。当時はアメリカのマクドネル・ダグラス DC-10 やロッキ
ード L-1011 トライスター、ボーイング 747 が熾烈な販売競争を展開していたが、新興の
2428
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) エアバスはそれらより販売開始が遅い上、初期導入の A 300B2 は航続距離が短く大西洋横
断無着陸飛行が出来ないことなどから、ヨーロッパの航空会社でもエアバスを採用しよう
というところはほとんど無かった。しかし、エアバスは粘り強く売り込みを続けたので、
大手航空会社も相次いで導入し、最終的に 200 機以上を売り上げることに成功した。 しかし、最初に完成した A300 は、ノウハウ不足、信頼性不足などから初期に売上に苦戦
したのでエアバスは膨大な赤字を抱えたが、フランスと西ドイツ政府の全面的な援助によ
って乗り切った。 その後のエアバスは当初こそ評判は芳しくなかったが、最新の高度技術を次々に導入し、
徐々に市場を拡大した。それに伴い、アメリカのマクドネル・ダグラスやロッキードの旅
客機事業も苦しくなった。 ボーイングもオイルショックによる航空不況や多発する航空事故を経て、大型化・高性
能化と同時に、安全性や低燃費性を同時に求められた。727 の後継機として開発されたボー
イング 757 はエアバスへの対抗上、最新技術を盛り込み、アメリカ国内線や欧州内路線で
多数採用された。しかし、開発費全額を自己負担することを避ける世界的な流れの中で、
ボーイングも国際的な分業・協力体制(リスクシェアリング)を敷くようになった。 ワイドボディ・双発・中型のボーイング 767 は高度技術を結集すると共に、日本やイタ
リアの協力によって開発された。続いて 767 と 747 の間を埋めるワイドボディ・双発・大
型のボーイング 777 を完成させたが、こちらも日本企業など多数が参加する国際共同開発
によるものであった。737 の改良である 737NG シリーズ(737-600/700/800/900)では、韓
国や中華人民共和国、中華民国などのメーカーが参加した。 【⑨アメリカ航空機業界の統合】 ヨーロッパの航空機業界は国際共同開発を進めながら、結局、エアバス 1 社の体制に統
合されていった。 アメリカも民間大型航空機メーカーとしては、今やボーイング社とダグラス社とロッキ
ード社だけとなっていた。 ダグラス社が開発した最初の大型ジェット旅客機 DC-8 は好調であった。ダグラス社では
長距離路線だけでなく、当時アメリカ国内線などで多数運航されていたレシプロエンジン
旅客機の代替として、1963 年から短距離用のジェット旅客機の開発を始め、双発でT尾翼
を持つ 70 から 90 席の小型旅客機 DC-9 を計画した。これはボーイング 727 、737 への対抗
上、DC-8 で得られた既知技術を極力流用するのみならず、デ・ハビランド・カナダ(DHC)
以下、生産分担予定のパートナーに開発費用まで含む設計を委託し、驚異的とも言える短
2429
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 期間で分散共同開発が進められた結果、試作機は 1965 年 2 月に初飛行し、その年の 12 月
にデルタ航空で就航した。 抜群の経済性と高信頼性が評価されて商業的には大成功をおさめ、度重なる改良によっ
て次第に大型化しながらダグラス時代だけで 976 機が生産されたが、売れさえすればよい
というものではなかった。1967 年にダグラスは大型旅客機の DC-8 と、その後ベストセラー
となった DC-9、A-4 スカイホーク攻撃機の需要に間に合わせるための増産に苦労した。ベ
トナム戦争のための資材不足により品質とキャッシュ・フローの問題が起きていた。当時
DC-8 と DC-9 の大量注文を受けていために 9 ヶ月から 18 ヶ月の納期の遅れが生じていて、
ダグラスは航空会社に莫大な違約金を支払っていたこともあり、1 年以内に破産すると見ら
れていたのである。 このようなことで 1967 年、マクドネル・エアクラフト社との合併に同意してマクドネル・
ダグラス社となった。マクドネル社は 1938 年ジェームス・マクドネルによって、ミズーリ
州セントルイスに設立され、第 2 次世界大戦によって発展し、新興メーカーのためジェッ
ト戦闘機に対する取り組みが早かったので戦後 F-4 ファントム II などで有力な戦闘機メー
カーになっていた。 さて、新しく発足したマクドネル・ダグラスは大量の受注残をかかえていたが、アメリ
カン航空やユナイテッド航空などからの大型ジェット旅客機の要求に対応するために、
1960 年代中盤にマクドネル・ダグラスにとって初のワイドボディ旅客機である DC-10 の開
発を開始した。DC-10 は 1968 年に製造が始まり、1971 年に最初の引渡しがなされ、設計不
良による事故やオイルショックの影響を受けながらも、その販売は順調に推移した。1977
年には DC-9 を長胴化したスーパー80 シリーズ(後に MD-80 シリーズの型番が与えられた)
が発売されて、世界各国の航空会社からの発注を受けて大成功した。 一方、ロッキード社は、前述したようにジェット旅客機時代の前に、ターボプロップの
時代があるとふんで、ターボプロップのロッキード L-188 エレクトラを開発し 1959 年に就
航させたが 167 機の生産にとどまった。その後、ロッキード社は、1970 年代にようやくジ
ェット旅客機 L1011 トライスター(エルテンイレブン・トライスター)を開発・就航させ
た。 トライスターは先進的な装備を持つ優れた旅客機だったが、同時期に登場した同クラス
のマクドネル・ダグラス DC-10 と販売競争を行った挙句に経営が悪化した。この時期は、
ボーイングが一連のシリーズもので先行しているという事情もあった。このボーイング、
ダグラス、ロッキードの三つどもえの販売競争に無理をして、1976 年、この機の売り込み
に関するロッキード事件が明るみに出た(ロッキード事件も熾烈な民間航空機売り込み競
2430
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 争の一環で起きたことであった)。もはや 1 事件は致命傷となる時代だった。ロッキードは
1981 年に民間機事業から撤退した。 その後のロッキード社は 1993 年にジェネラル・ダイナミクスの航空宇宙事業部を買収し
て戦闘機部門を強化し、1995 年にはマーチン・マリエッタ社とも合併して社名を「ロッキ
ード・マーチン」と改名し、宇宙開発やミサイル、電子システムの分野にも進出して現在
に至っている。 あとはボーイングとマクドネルダグラスだけとなった。 DC-10 や DC-8 のスーパー80 シリーズ(後に MD-80 シリーズ)で好調だったマクドネル・
ダグラス社は、軍用機と民間機の双方で成功を手にしたが、MD-80 シリーズの次に市場に投
入したのは MD-11 で、これは DC-10 を改良し電子機器を近代化した機種であった。しかし、
設計時に発表された性能を実現できなかったことで大手顧客を逃したことや、より効率の
高い 2 発エンジンのボーイング 777 やエアバス A330 などのライバルに顧客を奪われたため
に、当初から販売的に苦戦が続いた。 MD-11 は 1986 年の発売以降 200 機が販売されたが、当初計画を大幅に下回ったために経
営を圧迫するようになっていった。また、それに合わせるように MD-90 シリーズの販売数
も、同じくボーイング 737 やエアバス A320 シリーズとの競争に押され、1990 年代に入り下
降線を辿るようになっていった。また、1990 年代に入って東西冷戦が終結したことにより、
湾岸戦争などの一時的な特需があったものの、民間機と並ぶ企業の屋台骨であった軍需の
発注が減り続けた。そして F-15 の後継機開発計画である先進戦術戦闘機計画において、落
選してしまった。 ボーイングは 1996 年にロックウェル・インターナショナル傘下のノースアメリカンを買
収し、翌年には 130 億ドルの株式交換でマクドネル・ダグラスを買収して ザ・ボーイング・
カンパニーが発足した。マクドネル・ダグラス社名での航空機販売は 1998 年で終了し、以
降はボーイングが販売するようになった。なお、MD-11 はボーイングと合併後 2001 年にボ
ーイング 777 との競合を避けるために製造が終了し、MD-90 シリーズも MD-95 が「ボーイン
グ 717」と改名されたのちに生産が終了した。ここに民間航空機メーカーとしての名門ダグ
ラスの名は消えて、ボーイングだけとなった。ついにアメリカ民間航空機産業はライト兄
弟から 100 年にして 1 社となってしまった。 【⑩2 社体制となった世界の大型ジェット旅客機業界】 エアバス社は A300 をきっかけに技術力を大幅に高めた A320 が 1987 年 2 月に初飛行した。
エアバス A320 は、近・中距離向け商業旅客機で、民間機として初めてデジタル式フライバ
イワイヤ制御システム(全電子式の操縦・飛行制御システム)を採用したハイテク旅客機
2431
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) であり、座席数は 150 席程度であった。バリエーション(A320 ファミリー)として、短胴
型のエアバス A318、エアバス A319、長胴型のエアバス A321 があった。 さらに 1980 年代に入り、派生形の A310 のライバルとしてボーイングからセミワイドボ
ディ双発機のボーイング 767 が発売されたことや、より大型のボーイング 777 の開発が開
始されたことなどを受け、1990 年代初頭に、A300 の胴体を延長し、最新のテクノロジーを
投入した A330 が開発された。 以後、エアバスは、急速に売上を伸ばしマクドネル・ダグラスを追い抜きボーイングに
迫るまでになった。当時、新型機の開発が迷走していたボーイングはエアバスの躍進に脅
威を感じると大規模な非難キャンペーンを開始した。特にエアバスがフランスとドイツの
政府に手厚く保護されていると指弾した。それに対してエアバスはボーイングもアメリカ
合衆国政府と一体となっていることなどからあからさまな政治的売り込みを批判し、双方
が裁判に持ち込むなど泥仕合となった。 ヨーロッパの航空機業界はさらに国際的なコンソーシアム体制を固め、最終的には 2000
年 7 月にドイツの DASA とスペインの CASA と合併して共同会社 EADS(欧州航空宇宙防衛会
社)となり、EADS がエアバスの親会社となった。EADS は、ボーイングに次ぐ世界第 2 の航
空宇宙企業となり、民間・軍用航空機に加え、ミサイル・宇宙ロケット・関連システムの
開発・販売を行っている。 米欧の非難合戦は、ボーイングはアメリカ合衆国政府と、EADS は欧州連合と密接に結び
ついているため、両者の争いは極めて政治的な色合いの強いものだった。2001 年にエアバ
スが完全に株式会社化され、組織体制の非難合戦は収束した。 アメリカの大型ジェット旅客機製造メーカーも合併、統廃合の結果、前述したようにボ
ーイング 1 社のみとなったため、現在、旧西側諸国で大型旅客機を製造しているのはボー
イング、エアバスの 2 大メーカーだけとなり、抜きつ抜かれつの熾烈な競争を繰り広げて
いる。 1997 年のマクドネル・ダグラスのボーイングへの吸収により、旧マクドネル・ダグラス
機材ユーザーの多くがエアバスに鞍替えしたことなどから、エアバスは 1999 年には販売受
注数で初めてボーイングに勝利し、ボーイングが新型機開発の迷走を尻目に着実に販売数
を伸ばしている。 しかし 2005 年に体勢を立て直したボーイングが 787 と 747-8 の開発を発表、さらにエア
バスの方では超大型機である A380 の生産の遅れが発表されると形勢はほぼ五分五分となっ
ている。2008 年のエアバスの納入機数は 483 機、ボーイングが 375 機、2009 年の納入機数
はエアバスの 498 機、ボーイングの 481 機であった。 2432
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ボーイング社は長年にわたって旅客機業界で大きなシェアを占めてきたが、エアバスの
追い上げもあり、経営の多角化で乗り切ろうとして、人工衛星などの宇宙分野や航空会社
に資金を貸し付ける「ボーイング・キャピタル」など、急速に手を広げた。また、航空機
業界再編により、前述のように 1997 年に長年のライバルであるマクドネル・ダグラス社を
吸収し、同社の主力である軍需産業に主体を移している。本社も 2001 年 9 月に西海岸のシ
アトルから、首都ワシントン D.C.(国防総省)により近いシカゴに移転した。 2005 年、起死回生のための 10 年ぶりの新型機ボーイング 787(旧称:ボーイング 7E7)
「ドリームライナー」の開発を開始した。続いて 747 の新型機(747-400 の後継機)の計画
ボーイング 747-8 を発表し、急成長を遂げている中国での市場拡大を狙っている。 一方、エアバスはボーイング社の大型機ボーイング 747 に対抗できる輸送力を持つ機体
として、1989 年から UHCA(ウルトラ・ハイ・キャパシティ・エアクラフト)構想の実現に
向けての作業を開始し、1994 年 6 月、UHCA を A3XX(530 席~570 席の 100 型と 630 席~680
席の 200 型の構想)として計画に着手した。A380 の 1 号機は 2005 年 4 月にフランスのトゥ
ールーズで初飛行した。世界初の総 2 階建てジェット旅客機であることを特徴に、ボーイ
ング 747 を抜いて、史上最大・世界最大の旅客機となった。A380 の座席数は航空会社によ
って異なるが、例としてフランス領レユニオン島を本拠地とするエール・オーストラルの
モノクラス仕様で計 840 座席とする予定で、エミレーツ航空では中距離仕様で計 600 座席
を予定している。 2007 年 10 月、最初の納入先であるシンガポール航空に初めて機体が引き渡されたが、結
果として最初の納入まで当初予定から 1 年半遅れることとなり、これが A-380 の採算を悪
化させることが懸念されている。2007 年 11 月末での受注数は 193 機である。 【⑪現代の航空機】 航空機はこれまで「より速く・より高く・より遠くへ」と発展してきたが、1960 年代に
は、飛行速度・高度・航続距離とも実際上頭打ちとなった。ジェット戦闘機の速度は、熱
の壁などの問題からほぼマッハ 2 が相場となり、旅客機の飛行高度も 1 万メートル付近が
効率的に運用できる最良な高度である。長距離飛行する機体は、地球の裏側へ到達可能な
航続性能を有するようになった。 旅客機分野では、長距離旅客機は更に大型化しワイド・ボディー機が登場した。また、
比較的短距離の移動にも飛行機がよく使われるようになり、コミューター機と呼ばれるジ
ャンルの機体が多数生産されるようになった。各エアライン間の競争は一層厳しくなり、
かつて名門と呼ばれた会社の倒産(パン・アメリカン航空等)や合併が盛んに行われた。
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第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) この動きは 2000 年代現在でも継続中である。航空機に要求される仕様も、性能に加えて運
航コストの削減や整備性の良さが重大なポイントとなってきた。 軍事関係では、冷戦が終結し、大国間の全面戦争のおそれがなくなったので、各国が装
備する軍用機の数は減少した。特に敵国上空まで飛んで爆弾やミサイルを投下する大型爆
撃機はその使命を終了し、新たに開発されることもなくなった。軍事分野での新たな進展
は敵に見つからないことを目指すステルス性の実用化などになっている。 1981 年に初飛行したロッキード F-117 は、最高速度 1,040 km/時のアメリカ製の世界最
初の本格的実用ステルス攻撃機である。最大 1,800 キログラムの爆弾を胴体内のウェポン
ベイに収め、レーダーに探知されること無く夜間に敵地上空へと侵入し攻撃することがで
きる。電波を発するレーダーはステルスに反するので装備していない。ステルス性能を優
先して設計されたため、海のエイに似たその外観は一般の飛行機と著しく異なっている。 航空機の構造材料は、従来はアルミニウム合金が主流であったが、炭素繊維強化プラス
チックなどの複合材料が使われるようになった。出現当初はあまり強度を要求されないな
ど、さほど重要でない部分の軽量化に使われていたが、信頼性が確保されるにつれて胴体
や主翼などの重要な構造部材にも適用され始め、大幅な軽量化の実現に成功しつつある。 複合材料は金属よりもレーダー波を反射しにくく、その点からもステルス機に多用される。
2006 年には炭素繊維の世界最大手の東レがボーイングと炭素繊維を機体の大部分に利用 する世界初の旅客機(ボーイング 787)開発のため、炭素繊維を 2021 年までの 16 年にわた って供給する長期大型契約を締結し、注目を集めた。 操縦システムでは、従来の「操縦桿 …ケーブル… 油圧アクチュエータ…動翼」という
流れの操縦システムに替わり、「操縦桿 …コンピュータと電線 …油圧アクチュエータ… 動翼」というフライ・バイ・ワイヤ (FBW) 方式が確立された。この結果、機内を縦横に走
っていたケーブルや高圧作動油配管の一部がシンプルな電線へと置き換えられ、重量・整
備性・生存性などが改善された。同時に、コンピュータによる操縦制御が可能となったこ
とで、従来は考えられなかったような安全性の高い飛行が可能となるなど、航空機制御の
将来が大きく開けた。 今後の航空機業界は、需要としては経済成長の著しい中国やインドなどのいわゆる BRICs
の動向、技術的には環境問題、エネルギーの問題などによって、さらに進歩発展していく
ものと思われる。 【15-2-3】合成化学産業
○染料から切り開かれた合成化学産業 19 世紀の科学で述べたように、1856 年にウィリアム・パーキンはアニリンを二クロム酸
2434
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) カリウムで酸化し、その紫色の生成物が羊毛や絹を染色できることを発見した。このモー
ヴと名づけられた物質が世界初の合成染料であった。 その後、1869 年にカール・グレーベとカール・リーバーマンによってアカネ色素アリザ
リン、1880 年にアドルフ・フォン・バイヤーによってアイの青色色素インジゴの合成が達
成され、それらが工業化されると天然色素はその値段の高さから駆逐されていった。現在
利用されている染料のほとんどは合成染料である。 一度、自然の産物の模倣が成功すると、そのモディフィケーション(改造・修正)がは
じまった。たとえば、インジゴの場合は、インジゴの NH-基が硫黄に置き換えられると、美
しいチオ・インジゴ赤が得られた。メチル化および塩化によって他の赤およびオレンジの
染料が得られた。ルネ・ボーンは 1901 年、アントラセンからインジゴであると信じた美し
い染料を得たが、その構造はまったくインジゴとは異なったものだった。しかし、これは
これでとりわけ美しく丈夫な新しい系列の染料が得られるようになった。 このように天然の染料の化学的構造が知られた時、理論と類推は明確にされ、その結果
計画された分子の新しい合成法や構造が生み出された。このように化学工業は自然の積み
木をふたたび組み立てることを可能とするようになった。化学工業のこのような合成法は
創造と模倣・伝播の原理で他の分野にも波及していった。 20 世紀になると、徐々に化学合成物質が増え始め 1910 年以後には合成(人工)化学物質
の発達は指数的な比率で進んでいった。合成化学物質においてはドイツがまさっており合
成染料の 80%以上がドイツで製造されていた。 ○化学工業における電気および触媒 化学工業における電気の利用、および触媒の開発は、20 世紀になるとますますその重要
性を増してきた。 電気は新しい軽金属製造に欠くべからざるものであった。アメリカ人の化学者チャール
ズ・ホール(1863~1910 年)により 1886 年に開発されたプロセス、あるいは、フランス人
の化学者ポール・エルーにより設計された窯を使用することによってボーキサイト(酸化
アルミニウムを含んだ粘土鉱物)は電気還元されアルミニウムとなった。1900 年には 3000
トンの軽金属が生産された。このおよそ半分が、安い電力を用いることのできるナイヤガ
ラ瀑布の付近で生産された。 その他の戦略用軽金属であるマグネシウムもまた電気的に高温下で生産された。1915 年
にはアメリカで 44 トン生産されたにすぎないが、1943 年には 17 万 267 トンにのぼった。 イギリスとドイツでは腐食に強く、また硬度を増すためにニッケルとクロムを含んだ鉄
の合金が開発された。1914 年のクルップによるステンレス・スチール、すなわち 8%のニ
ッケルと 18%のクロムを含んだ鉄合金は、とくにすばらしい成功であった。ほとんどの稀
2435
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 金属は特殊合金の中に使われるようになった。たとえば銅に 2.5%のベリリウムを加え 350
度で 1 時間再加熱すれば、2 倍の強度を持った合金が得られることがわかった。 電気炉によって、1050~1100 度の温度で、カルシウムとカーボンの化合物をつくること
が可能となった。その化合物は炭化カルシウムと呼ばれ、無機化学から有機化学への変換
の道を開いた。炭化カルシウムと窒素を高温で反応させると、窒化カルシウムが得られ、
これは最初、窒素肥料として用いられ、のちに合成樹脂の基礎材料としてメラミンのため
に用いられた(メラミン樹脂)。メラミン樹脂は耐熱、耐水、機械強度などの点で優れ、工
業的に大量に製造されるようになった。 いろいろな意味で電気的エネルギーは化学工業において重要になった。水溶液の電気分
解、とくに塩化ナトリウム水溶液の電気分解により苛性ソーダと塩素が得られた。 窒素と水素からアンモニアを合成する方法は、触媒としてオスミウムを用いることによ
って、ドイツ人のエルンストおよびハーバーにより発明された。1916 年 6 月には新しい方
法により、1 日 200 トンのアンモニアが生産できるようになった。合成アンモニアの大部分
は、プラチナ触媒のもとで酸化され硝酸になり、この硝酸から爆薬がつくられた。 このようにドイツは、チリの硝酸塩をストップされても、1914 年にはじまった第 1 次世
界大戦を継続するために必要な爆薬を製造することができた。もちろん、アンモニア、硝
酸塩の合成は爆薬だけでなく、農業の肥料にも役立ち、また、爆薬ですら鉱山や道路の建
設には必要不可欠なものとなっている。化学技術に戦争も平和もない、それはそれを使う
人間しだいである。 ○有機合成
新しい触媒のために研究された技術やアイデアは、すぐに他のプロセスに応用された。
このように、一酸化炭素と水素の触媒反応は、反応が起こる条件によりメタノールあるい
は炭化水素をもたらした。さらに触媒存在下にメタノールを空気酸化するとホルムアルデ
ヒドが得られる(さらに酸化が進むとギ酸となる)。
ベルギー生まれでアメリカに移住した発明家レオ・ベークランド(1863~1944 年)は、
1907 年にフェノールとホルムアルデヒドの反応時の圧力と温度を制御することで、完全な
人工合成樹脂「ベークライト」の合成に成功し、その特許を取得した。 これはプラスチックス史上における大成功のはじまりであり、フリッツ・ポラックによ
るポロバーゼ(尿素樹脂)は 1914 年より製造が開始されたが、多彩な着色を施した家庭用
品を製造する成型材料、電気製品や玩具、建材分野、1934 年には大型圧縮成型機を使用し
て大きなテーブル上板が製造されるなど、合成樹脂の可能性を大きく広げた。 なお、ベークランドは 1916 年にジェネラル・ベークライト社を立ち上げ、ベークライト
を販売することで億万長者のひとりとなった。プラスチック時代を切り開いたベークラン
2436
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ドは「プラスチックの父」とよばれている。 これらの合成樹脂は非常に多量の需要があるために大量の尿素が必要となった。この尿
素の需要に合わせるため、アンモニア合成と関連した新しい合成法が工夫された。この方
法のために、純粋の水素が必要となり水蒸気が一酸化炭素により還元された。この反応で
大量の二酸化炭素ができ、そしてそれはアンモニアと濃縮され尿素となる。 もし中間体を考えなければ、合成の尿素―ホルムアルデヒド樹脂は、水と空気と石炭か
らできているといえる。この合成樹脂の工業的な開発は、1918 年以降から盛んになった。 ○医薬品 染料の他にも医薬品の合成ができるようになった。自然の乾燥した草が医術に用いられ
る最大の原料であった時代を思い出して薬種と呼ばれた。薬種もまた 19 世紀後半に、化学
合成によりつくられるようになった。アンチフェブリン(アニリンのアセチル誘導体)は
新しい薬品アセトフェネチジン(解熱鎮痛剤)に変えられた。同様にサリチル酸はアセチ
ル化によりアセチルサリチル酸となり、これがアスピリンで、その鎮痛効果はいまなお広
く使用されている。 アドレナリンは副腎髄質より分泌されるホルモンであるが、1901 年に高峰譲吉らによっ
て、アドレナリンの化学組成が決定され、1904 年にヘキスト染料会社がその完全な合成を
発表した。これと同じ時期にドイツの化学者・細菌学者エールリッヒ(1854~1915 年。1908
年に免疫の研究でノーベル生理・医学賞授賞)は、化学薬品と有機分子の特別な原子集団の
間にはある親和力が働くというアイデアから、それが病原菌にくっつき、ホストを殺すこ
となく有毒なヒ素によりそれらを征服することを発見した。これにより梅毒治療剤サルバ
ルサンを発見した(日本の医学者・秦佐八郎が実験した)。この発見は後のサルファ剤・ペ
ニシリンなどの抗生物質の発見をうながしたという点で功績が大きい。 この頃、化学肥料の開発のために、化学会社は農業研究所をつくり、動物から血清やホ
ルモンの製造を始めた。生物学者および獣医たちが化学者、技術者、そして物理学者と協
力して化学実験室や工場で働いた。1927 年にはセント・ジェルジがウシの副腎から強い還
元力のある物質を単離し、
「ヘキスロ酸」として発表したが、1932 年にこれがビタミン C で
あることが判明した。1933 年にハースによってビタミン C の構造式が決定されてアスコル
ビン酸と命名され、1933 年にはライヒシュタインが有機合成によるビタミン C の合成に成
功した。 また、ドイツのゲッティンゲン大学のアドルフ・ヴィンダウス(1876~1959 年)は、1928
年にステロイドとビタミンの研究の業績に対し、ノーベル化学賞を受賞した。彼は胆汁酸
とステロイドの研究に加えて、ビタミン B 群とビタミン D の構造を解明してその化学合成
を可能にした。この成果は製薬会社(バイエルとメルク)によって製品化されることで結
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第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 実した。 《ペニシリンの発見と大量生産》 1928 年、イギリスの細菌学者アレキサンダー・フレミング(1881~1955 年)の実験室は
いつものように雑然としていた。彼が実験室に散乱していた片手間の実験結果を整理して
いた時のことであった。廃棄する前に培地を観察した彼は、黄色ブドウ球菌が一面に生え
た培地にカビのコロニーがあるのに気付いた。ペトリ皿上の細菌のコロニーがカビの周囲
だけが透明で、細菌の生育が阻止されていることを見つけ出した。このことにヒントを得
て、彼はアオカビを液体培地に培養し、その培養液をろ過したろ液に、この抗菌物質が含
まれていることを見出し、アオカビの属名でであるペニシリウムにちなんで、"ペニシリン
"と名付けた。 引き続いてフレミングは、ペニシリンを実用化するための基礎研究に取りかかった。彼
はペニシリンを実用化するためには二つの課題があることを直感的に悟っていた。一つは
十分な量を確保できるようにすること、もう一つは彼が発見したペニシリンは効き目が現
れるのに時間がかかったため、より効果的なものに改良することである。 これらの課題を克服するには、アオカビの培養液から活性本体だけを取り出す、すなわ
ちペニシリンを精製する必要があった。しかし、それは細菌学者であった彼よりもむしろ
化学者が得意とする分野の仕事であったため、思うようにははかどらなかった。その上、
彼のペニシリンの最初の報告文が当時の医学関係者に受け入れられなかったことも、研究
の進展を妨げた。 結局フレミング自身はペニシリンの精製には成功しなかった。しかし、ペニシリンが発
見されてから既に 10 年が経った 1940 年、彼の報告文を読んだ 2 人の科学者、ハワード・
フローリーとエルンスト・ボリス・チェーンがペニシリンを精製し効果的な製剤にする方
法の開発に成功した。彼らの研究により、第 2 次世界大戦中には、ペニシリンは薬剤とし
て大量生産できるようになり、ペニシリン発見の真の価値が改めて再認識されることにな
った。 この「再発見」がきっかけとなって、フレミングは 1944 年にペニシリン発見の業績によ
りナイトに叙せられた。また、1945 年にはフレミング、フローリーおよびチェーンはノー
ベル医学生理学賞を共同受賞することになった。 これらの開発の結果、1960 年にアメリカで 1100 万ポンドのビタミンと 300 万ポンドの抗
生物質が製造され、その金額は 4 億ドルとなった。 ○プラスチックスの時代 1930 年以後の時代はプラスチックスの時代と呼ばれた。これはいわゆる石器時代、青銅
器時代、鉄器時代と同じ種類のものである。この新時代は、自然の材料から合成される材
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第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 料への変化を見たが、また植物や動物によってつくられた高度の複雑な物質を化学的につ
り出すという特徴を持った時代でもあった。 このような合成樹脂はその融点や機械的強度において優れた性質を持っていた。強度、
熱安定性、電気抵抗、透明性、フィルム化・繊維化、そして、塑造性がプラスチックスの
価値ある特徴である。 プラスチックスにおける技術進歩の一面は、生産と原料コストの低下と、品質と性能の
向上がはかれることである。ポリエチレン・プラスチックスの製造は、1941 年にイギリス
ではじまり、アメリカで 2 年後に始まった。もっとも驚くべきことは、生産の増加である。
1958 年にはアメリカの生産高は約 40 万トンであったが、1960 年には 50%増加した。エチ
レン誘導体のスチレン(ベンゼンに 1 個のビニル基の結合したもの)が、1940 年に実験室
を離れた時は、1000 トンが高分子に変えられていた。4 年後のポリスチレンは 146 倍とな
り、1960 年には 47 万 8000 トンにも達した。そのうえ、54 万 1000 トンのビニル重合物お
よ共重合体が生産された。 やがて、まったく新しいプラスチックスの一族が出現した。エチレン分子のいろいろな
変形の一つのフッ素と化合したものが新しい樹脂のグループをつくった。もっとも反応的
な元素の一つであるフッ素との結合は、もっとも不活性な重合物となった。この新しい樹
脂は特別な性質を有するため、いままでの樹脂で満たすことの出来なかった新しい市場を
開拓した。 さらに第 2 次世界大戦中およびその直後に 3 つの新しいプラスチックスのグループが開
発された。すなわち、アミノ基が炭素原子の長い鎖に結合したナイロンと、その連結のき
ずなが珪素であるシリコンと、イソシアン酸塩からできるウレタンとであった。ウレタン
樹脂は部分的にガスを内部発生させ分解させることができ、それによりソフトな、あるい
はハードな泡を樹脂の中につくることができた。 合成樹脂はそれぞれの特性に応じて利用されようになったが、強化プラスチックのよう
にガラス繊維と複合的に用いられるとか、含浸剤および接着剤として木材の利用を助ける
ような使い方もされるようになった。 この新しい化学工業の分野と関連して、新しい技術の開発も行われた。1915 年にはアー
サー・D・リトルが同じ機能を有する工程をひとまとめにしてユニット・オペレーション
(単位操作)の概念を提出した。たとえば、熱移動、蒸留、溶解、混合、結晶化等である。
この概念は教育や計画に大変役立った。なぜならば驚くべきさまざまな工業工程がいまや
少数のフロー・シート(基本工業工程一覧表)に変形され、代替工程を示すものとして単
純化されたからである。 このように人類は天然物質・生物などを参考にして、化学操作によって新しい材料や化
2439
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 学製品を安価に大量に合成することができるようになった。 【15-3】帝国主義下の列強 図 15-6 のように,産業革命と軍事革命を終えたヨーロッパの列強は 19 世紀後半から 20
世紀初めにかけて、世界に進出してアジア・アフリカの大部分を植民地化する帝国主義時
代に入った。ここでは以下のように、1890 年頃から第 1 次世界大戦が勃発する 1914 年まで
の列強の状況を述べる。大部分はヨーロッパ諸国であるが(イギリス、ドイツ、フランス、
ロシア、イタリア、オーストリア・ハンガリー、オランダ)、アメリカと日本が帝国主義
列強として加わっているので、ここに記す。 【15-3-1】覇権の交代期 ○帝国主義とは何か 19 世紀の歴史で述べたように、19 世紀後半に入ると、欧米列強は図 13-10 のように、
アジア・アフリカ・オセアニア諸国を植民地化していったが(図 13-10 の黄色の部分が植
民地化された国。アフリカの状況は図 14-55 参照。太平洋の状況は図 15-16 参照)、1890
年代以降、植民地獲得競争は熾烈化し帝国主義時代に突入したといわれている。 帝国という言葉は、メソポタミアで多くの古代国家が形成されると、やがて(紀元前 8
~7 世紀)アッシリアが強力な武力によって他国家を征服し、図 11-8 のように、アッシリ
ア帝国の支配下に置いたのがはじめてであると述べたが、このように、帝国主義(英語: imperialism)とは、一つの国家が、新たな領土や天然資源などを獲得するために、軍事力
を背景に他の民族や国家を積極的に侵略し、さらにそれを推し進めようとする思想や政策
であると考えられている。 《資本主義の高度に発達した段階》 この 19 世紀末から 20 世紀に出現した帝国主義は、一般に資本主義の高度に発達した状
態、すなわち、以下のような独占資本主義段階の国家による世界的な勢力拡張の動きをい
う。 ◇カルテル(企業連合)……ドイツで発達した。独立したいくつかの企業が協定を結び、
競争をひかえて共存をはかろうとするものである。そのうち、共同販売機関をもつものを、
とくにシンジケートという。 ◇トラスト(企業合同)……アメリカで発達した。同種または関連の深い企業が一つの企
業に統合されるものである。 2440
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ◇コンツェルン(資本統制)……多数の企業が同一系統の巨大な資本によって支配される
もので、独占のもっとも高度な段階である。戦前における日本の財閥はコンツェルンの一
種であった。 図 15-6 植民地主義・帝国主義時代の欧米列強 第 1 次産業革命達成後、欧米先進国では自由競争のもとで 19 世紀後半から重化学工業を
中心とする第 2 次産業革命がおこり、資本主義経済がいちじるしく発達した。その結果、
2441
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 独占資本主義が形成され、生産と資本を集中・独占した大企業が小経営者や民衆の犠牲の
うえに繁栄した。 これらの独占資本主義は、銀行資本と産業資本とが融合した少数の金融資本によって、
一国の経済・政治・外交を支配するようになり、やがて金融資本は国内市場で満足せず、
より高い利潤を求めて、国外、とくに労働力や原料の安い地域に投資され、商品の輸出と
は別に、資本の輸出を大規模に行なうようになった。 具体的な帝国主義的政策を押し進めるにあたって、①植民地の獲得、②開発の遅れた国
の保護国化、③鉄道・鉱山などの利権の獲得、④租借地や勢力範囲の拡大、⑤探検による
領土の拡大、などの手段がとられた。植民地の獲得や再分割要求には武力が使われ戦争の
危機が増大した。そして列強の国民に対しては、民族主義にもとづき愛国心が鼓舞され、
国家中心の軍事体制を強化して戦争にそなえる傾向があった。 投下した資本を保護するには、資本の投下先を領土化するのがもっとも安全であった。
そこで金融資本は国家権力を利用して植民地の争奪を行い、アジア、アフリカ、太平洋諸
島の大半は、いずれかの国の勢力圏に組み入れられてしまった。これらの地域は近代化が
遅れ、まだ強固な国家権力が存在しなかったため、領土化しやすかったのである。欧米列
強は、まさに弱肉強食の政策を先を争ってとったのである。 それが植民地獲得の時代であったが、やがて世界分割が一通り終わると、列強同士の再
分割(共食い)の段階に入り、歴史上、帝国主義時代とは、その再分割をめぐって国際対
立が激化した 19 世紀末期以降の時代をさす。 この帝国主義国の国内では、独占資本の搾取に反対して労働運動や社会主義運動が高ま
り、また、植民地・従属国となった国でも民族意識が高まり抵抗の動きが現れたが、それ
らは列強の国家権力によって押さえ込まれた。 ○ホブソンの帝国主義論 帝国主義を最初に研究したのはイギリス人のジョン・アトキンソン・ホブソン(1858~
1940 年)であった。 ボーア戦争の始まる前に、マンチェスター・ガーディアン紙の通信員として南アフリカ
へ渡り、セシル・ローズの財界支配や原住民の問題をつぶさに観察し、後に『帝国主義論』
(1902 年)を著わした。彼はボーア戦争に反対し、第 1 次世界大戦の時はイギリスの中立
を主張した。 ホブソンはこの『帝国主義論』で、19 世紀中葉以降の植民地獲得、とくに移民先として
不適切なため、余剰人口のはけ口とは成り得ない熱帯地域での拡張を、
「植民」から離れた
資本投下と市場開拓のための帝国主義であると批判した。ホブスンは帝国主義を「文明の
堕落」と考えていたが、資本主義と「文明」の本質的な善性を信じており、現在でいう国
2442
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 際連合のような国際機関の信託の下で「野蛮」を「文明化」することは究極的には良いこ
とであると考えていた。 帝国主義の経済的動因を、過剰生産による資本の蓄積とその投資先を植民地に求めるこ
ととしたホブソンの分析は、ヒルファーディングの『金融資本論』(1910)、ローザ・ルク
センブルク『資本蓄積論』(1913)、レーニン『資本主義の最高の段階としての帝国主義』
(1917 年、略して『帝国主義論』と呼ばれる)などの著作に影響を与えた。 ○レーニンの帝国主義論 帝国主義とは、一つの国家が、新たな領土や天然資源などを獲得するために、軍事力を
背景に他の民族や国家を積極的に侵略し、さらにそれを推し進めようとする思想や政策で
あったが、レーニンは、植民地再分割を巡る列強の衝突から、これを利用して共産主義革
命につなげようとする意図を持ち、『帝国主義論』の中で 20 世紀初頭以降を帝国主義とし
て論じている。 レーニンのこの著作は、①生産の集積と独占体 、②銀行とその新しい役割 、③金融資
本と金融寡頭制 、④資本の輸出 、⑤資本家のあいだでの世界の分割 、⑥列強のあいだで
の世界の分割 、⑦資本主義の特殊な段階としての帝国主義 、⑧資本主義の寄生性と腐朽、
⑨帝国主義の批判 、⑩帝国主義の歴史的地位、という構成であった。 その内容は、自由競争段階にあった資本主義において生産の集積がおこり、独占体が生
まれる。同時に資金の融通や両替など「ひかえめな仲介者」(レーニン)であった銀行は、
銀行自体も独占体となり、資金融通などや簿記を通じて産業を支配するようになる。 銀行独占体と産業独占体が融合・癒着した金融資本が成立する。金融資本は経済だけで
なく政治や社会のすみずみを支配する金融寡頭制をしく。巨大な生産力を獲得した独占体
に対し、国内大衆は貧困な状態におかれたままになり「過剰な資本」は国外へ輸出される。 この資本輸出先をめぐり資本主義国家の間での世界の分割がおこなわれる。やがてこれ
は世界のすみずみを列強が分割しつくすことになり、世界に無主地はなくなる(1913 年の
第 1 次世界大戦前には、まさにそうなった)。資本主義の発展は各国ごとに不均等であり、
新興の独占資本主義国が旧来の独占資本主義国の利権をうちやぶるために再分割の闘争を
おこなう。いくつもの国家が帝国主義に従って領土(植民地)を拡大するなら、世界は有
限であるから、いつかは他の帝国主義国家から領土(植民地)を奪取せねばならず、世界
大戦はその当然の帰結である、という結論になっている(第 1 次世界大戦は現に起こった)。 レーニンの『帝国主義論』は、世界の資本主義体制の破局につながり、列強間で不可避
的に生じる衝突を予見し、そのときこそ社会主義革命の契機と捉えていた。資本主義は自
滅し、次の社会主義にとってかわられざるをえないというのがレーニンの主張であった。 2443
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) レーニンのこの『帝国主義論』は、ロシア革命の直前の 1917 年出版されたので、その後
の帝国主義の行方は記されていない。 ○第 2 次世界大戦まで続いた帝国主義時代 このように帝国主義とは、資本主義の独占段階であり、世紀転換期から第 1 次世界大戦
までを指す時代区分でもあり、列強諸国が植民地経営や権益争いを行い世界の再分割を行
っていた時代を指している。 しかし、この時期のみを帝国主義と呼ぶのか、その後も帝国主義の時代に含めるのかに
ついては論争があるが、欧米列強の実体は何ら変わることなく(第 1 次世界大戦の戦勝国
が植民地主義、帝国主義を放棄することもなく、敗戦国の植民地を戦勝国が再分割し)、図
15-6 のように、第 1 次世界大戦後、20 年の戦間期をおいて、帝国主義的資本主義は再び
第 2 次世界大戦を起こしたので、少なくとも第 2 次世界大戦後までは帝国主義の時代とい
ってよいだろう。 このときの帝国主義には、第 2 次世界大戦のファシズムも含まれる。 帝国主義国といわ
れた国は、アメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、日本、フランス、トルコ、イタリア、ロ
シア及び旧ソ連(レーニンがつくったソ連も、その後帝国主義に参画した)、オランダ、ス
ペインなどがある(第 2 次世界大戦後、敗戦国の独日伊だけが帝国主義国であったような
論調もあるが、そんなことはなく、少なくともここに列挙した国々はこの期間、あきらか
に帝国主義的政策をとっていたことでは同じであった)。 《社会進化論から帝国主義へ》 帝国主義は他者を支配することを積極的に肯定する思想によって正当化された。たまた
ま 19 世紀後半にダーウィンによって『種の起源』(1859 年)が著わされ、それは人類社会
に大きな影響を与えたが、その後、その科学的成果の一部をいかにも、もっともらしく科
学的根拠があるように見せかけた社会ダーウィニズム(社会進化論)が風靡した。 この社会ダーウィニズム(社会進化論)は、ダーウィンの進化論にヒントを得て(曲解
して)生じた社会理論の一種で、イギリスの哲学者ハーバート・スペンサーが論じ始めた
(スペンサーについては、19 世紀の思想で詳述した)。スペンサーは進化を自然(宇宙、生
物)のみならず、人間の社会、文化、宗教をも貫く第 1 原理であると考えた(ここには全
く科学的根拠はない)。 これらの社会観は、いずれも自然が一定の仕方で変化するように社会はある理想的な状
態へと進化していくものであり、現在の社会はその途上にある、としている。この社会ダ
ーウィニズムや科学的レイシズム(人種差別主義)などは、生物学上の概念であった適者
生存を、人間社会にまで誤って拡大した、単なる疑似科学であることは現在でははっきり
2444
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) している(生物上、数百万年、数千万年というオーダーの進化を数十年、数百年の社会の
進歩に適用することは基本的に誤っている)。 しかし、このような社会進化論が 19 世紀末から 20 世紀の帝国主義時代に横行し、つい
には、ヒトラーの通俗的科学論(『我が闘争』)からナチスの政策論に取り入れられ、ナチ
ズムによって優生学的政策、人種差別の他、ドイツの「生存圏」を拡げ維持する理論とし
て展開されるようになった。 ○ヨーロッパの覇権交代 古代から歴史をみると、力のバランスの変化はつねに動揺をもたらし、ときには戦争を
引き起こしてきたことがわかる。トウキュディデスは「戦争を不可避にしたのは、アテネの
力の増大と、これがスパルタに引き起こした恐怖である」と『ペロポネソス戦争』の中で述
べている。 産業革命以来、工業力においては断然トップを走ってきていたイギリスがアメリカ、ド
イツに追い込まれ、図 15-7 のように、アメリカにはすでに 1890 年代に追い越されていた
が、これは巨大な隔絶したアメリカ大陸の経済圏でのことであったのであまり目立たない
存在であった。これに対し英独の覇権争いが激しく、第 1 次世界大戦の直前には、まさに
英独が逆転する歴史的なところであった。 図 15-7 相対的にみた大国の工業力(1880~1938 年)(1900 年のイギリスを100とする)
イギリスの産業革命にはじまる工業化は世界の国際関係に影響を与えるようになった。
とくに 19 世紀の最後の 25 年に大国の力関係に影響をおよぼした変化は、広範で速度が速
2445
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) かった。貿易と輸送通信網(電信、蒸気船、鉄道、近代的な印刷機械)が全世界に広がっ
たことは、科学技術面での新発見や工業生産の進歩が何年もしないうちに一つの大陸から
別の大陸に伝わり、広がっていくということを意味していた(技術の性格から、その拡散
速度は時代と共に速まっている)。 たとえば、1879 年にトーマスがリンを含む安い鉱石を利用するトーマス製鋼法を発明す
ると、それから 5 年もたたないうちに、西ヨーロッパと中部ヨーロッパで 84 の転炉が操業
し、大西洋の反対側(アメリカ)でも技術の導入がはじまっていた。その結果、鉄鋼生産
の国際的なシェアが変化しただけではなかった。軍事的な潜在力にも重要な変化が生じた
のである。 いままでは軍事力は必ずしも経済力とイコールではなかった。経済大国は、政治文化や地
理的な安全保障などさまざまな理由で、軍事的には小国であることを選択できるし、その反
面、大きな経済資源をもたない国が、強力な軍事大国となるべく社会を組織する場合もあっ
た。しかし、19 世紀半ば過ぎに起こったクリミア戦争やアメリカの南北戦争の例でもわか
るように、工業力にものをいわせる近代の戦争では、経済と戦略のつながりはいっそう緊
密になったことがわかる。 表 15-2 に大国の人口を示すが、当時はロシアとアメリカ(移民によって急増しつつあ
った)が別格であったが、それ以下はドイツとオーストリア・ハンガリーと日本が多少ヨ
ーロッパ諸国より抜きんでていることがわかる。 表 15-2 大国の総人口(1890~1938 年)(100万人) 図 15-8 に鉄鋼生産高を示すが、鉄鋼生産高は工業化の指標であるとともに、この時代
の潜在的軍事力の指標としてもしばしば取り上げられるものである。アメリカはすでにト
ップになっていたが、1890 年と 1900 年の間でイギリスはドイツに追い越され、以後その差
は拡大する一方だったことがわかる。 2446
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 図 15-8 大国の鉄鋼生産(1890~1938 年) また、各国の工業化をはかる最良の尺度は、近代的なエネルギー(石炭、石油、天然ガス、
水力発電)の消費量である。これは、各国が石炭などの無生物エネルギー源を利用するのに
どれほどの技術力を持っているかを示すと同時に、経済的な活力を示すからである。それを
図 15-9 に示す。ここでもドイツがイギリスを激しく追い上げている様子がわかる。 図 15-9 大国のエネルギー消費(1890~1938 年) 2447
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) このように、1914 年まではドイツが、1930 年代にはロシア(ソ連)と日本が急激な変化
をとげたことを明らかにしている。イギリスとフランスとイタリアの成長率が比較的ゆる
やかであった。 【15-3-2】イギリス ○比類なきイギリス植民地帝国から追われるイギリスへ 世界各地に植民地を着実に獲得していったイギリスは産業革命後の圧倒的な工業力によ
って、さらに世界中にその勢力を伸していったことは,19 世紀の歴史でのべた。1900 年に
は、世界でかつて例のなかったほど大きな帝国を所有し、1200 万平方マイルの陸地と地球の
人口のほぼ 4 分の 1 を支配していたのである。これに先立つ 30 年だけで、425 万平方マイル
の領土と 6600 万の人々が大英帝国に加えられていた。文句なく(かつてのスペインについ
で歴史上第 2 の)「太陽の沈まぬ世界帝国」であった。 イギリスの力を示す指標にはいろいろあるが、増強されたイギリス海軍は、世界第 2 位
と第 3 位の海軍を合わせた戦力に匹敵した。海軍基地と電信中継所の網の目は全世界には
りめぐらされた(図 15-10 参照。かつてのスペイン帝国とは異なり最新技術による通信網
を備えていた)。世界最大の商船団が世界最大の貿易国の物資を運び、ロンドンのシティ
の金融サービスを通じて、イギリスは世界最大の投資家、銀行家、保険業者、商品取引ディ
ーラーとして世界経済に君臨していた。 図 15-10 大英帝国の主要な植民地、海軍基地、海底ケーブル(1900 年ごろ) ポール・ケネディ『大国の興亡』 2448
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) しかし、19 世紀末になると、イギリスは追われる立場になった。1870 年以降、世界の勢
力のバランスはイギリスの力を浸食する方向に動いていたのである。イギリスは自ら興し
た工業化の広がりで、イギリスの力が相対的に下がるということが起こっていた。 《まず、競争力を失った製造業》 イギリスの工業は、この国が世界で最初の産業革命を達成したために、鉄と石炭をベー
スとする技術体系や設備やそれに合った教育体系、労働編成の社会体制などが定着してし
まった結果、ガスと電気を主体とした重化学工業の時代(「第 2 次産業革命」)には、対
応しきれなかった。たとえば、安価に、良質の鋼鉄を大量に生産できるようになったベッ
セマー法や化学肥料、化学薬品、化学染料、プラスチックなどは、いずれもイギリスで発
明されたのに、産業としてそれを発展させたのは、主にドイツやアメリカであった。 また、蒸気機関車の鉄道網を完成させたイギリスは、既存施設を捨てることの経済的で
のデメリットのほか、技術教育の点でも、労働者の人員削減、配置替えなどという社会的
コストの点でも、これを電車に切り替えるのは容易ではなかったが、同じことが工業のあ
らゆる側面についてみられたのである。 逆に、第 1 次産業革命に遅れをとった諸国は、自由に新技術を展開することが可能であ
った。ドイツなどの後発国は、イギリス製品から国内市場を守るために保護関税政策をと
ったが、かねて自由貿易主義をとなえてきたイギリスは、イギリス帝国を守る保護関税を
求めたジョゼフ・チェンバレンらのキャンペーンがあったとはいえ、容易に保護政策はと
れなかった。 しかし、また、ある意味では、イギリス以外の国の工業化は、(国内にめぼしい投資先
がなくなった)イギリス・シティの金融資本にとっては、融資活動の場の広がりを意味し
た。シティにとっては、他の諸国の工業化の進行は、むしろビジネス・チャンスだったの
である。シティが、イギリス製造工業が衰えたのちも(イギリス国内のニーズが満ちたの
で製造業は衰えた)、生き残ったのは当然であった。シティで活躍したロスチャイルドや
ベアリングなど、マーチャント・バンカーと呼ばれる金融機関は、イギリス帝国内という
よりは、近代世界システムのあらゆる地域に投資した(国内よりも成長率の高い国外がよ
かった。それは本国のライバルを育てることになり、本国を衰退させることになっても。
現在の日本のようなもの)。 第 1 次世界大戦の直前でいえば、アメリカの海外投資は 5 億ポンドあまり、ドイツのそ
れも 12 億ポンド程度であったが、イギリスは 40 億ポンドを海外に投資して、それと海運
などの収益で貿易収支の赤字を補う「ランチェ(金貸し)国家」となっていったのである。 つまり、イギリスの物づくりはめっきり弱くなり、図 15-11 のように、商品貿易収支は
大幅な赤字となり、それを諸サービスおよび利子で収支を合わせる金融国家になったので
2449
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ある。これではいずれにしても物づくりが弱く、軍事力がすべてを決める帝国主義時代に
は致命的な弱点となっていったのである。 図 15-11 イギリスの国際収支と資本輸出 山川出版「イギリス史」 このようなことはイギリスに限ったことではない。ある意味では資本主義の当然の流れ
である(資本は最大の利潤に向かう)。産業革命を最初になしとげたイギリスで最初にあら
われた工業から金融資本への転換はその後の工業国にもいえる一般的な傾向である。国内
の工業化とインフラ整備が一段落すると国内需要が鈍化し、蓄積した資本は海外市場に向
かうことになり、それが海外の工業化を促進することになる。 海外の工業化が進むと、安価な工業製品が輸入という形がかえってくることになり、ま
すます、自国の工業を弱めることになるのである(これによって地球上、(資本・技術が自
由化されていれば)資本の循環がおこっているともいえる。地球上、まんべんなく開発さ
れるのである)。それはずっと後のことであるが、アメリカにも日本にもいえることであっ
た(ドイツにもいえたが、ドイツの場合は EU 圏が拡大して、そこでの貿易・投資が拡大し
ている)。その現象がイギリスにまず、はじめに現れたのである。 2450
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) イギリスの工業および商業の優位が崩れかけていた。この経済力は、イギリスの海軍と陸
軍、そして帝国としての国力などすべてのものの最後のよりどころであった。石炭、繊維、
鉄製品などイギリスが主導権を握っていた産業では、この数十年間、生産高の絶対量は増
加していたが、世界の総生産高にしめる割合はじりじりと減少していた。 そして、重要性が増す一方である新しい産業の鉄鋼、化学製品、工作機械、電気製品な
どの分野では、イギリスは初めのうちこそ他国をリードしていたものの、たちまち追いつ
かれてしまった。 工業生産は 1820 年から 40 年までは年率 4%、1840 年から 70 年までは 3%で確実に成長
していたのに、だんだんと成長率が鈍ってきた。1875 年から 94 年までをとると年率 1.5%
をわずかに上回るだけで、主な競争相手に大きく引き離されていた。この工業力の衰えは、
まもなく熾烈な競争の場ではっきりしたかたちをとってあらわれた。 まず、イギリスの輸出製品が工業化の進んだヨーロッパや北アメリカなど、高い関税に
よって保護されることの多い市場で価格競争力を失い始めた。さらに、植民地の一部でも
同じことが起こった。他の宗主国が新しく併合した植民地に関税障壁をめぐらしたのであ
る。最後に、開かれていたイギリスの市場に外国からの輸入品の波が押し寄せ、イギリス国
内の工業に打撃を与えた。 《世界中で挑戦されるイギリス》 19 世紀後半になるとドイツの産業革命が急激に進展し、工業力でイギリスに追いつく勢
いを見せた。国内産業の発達したドイツは海外に新しい植民地を欲し、すでにイギリス、
フランスによって色分けが成されていた植民地の再分割を主張するようになった。 このためドイツとの対立が激化した。イギリスは対ドイツの安全保障策として、図 15-
12 のように、フランスと英仏協商を、ロシアと英露協商を結んで三国協商とし、ドイツ、
オーストリア、イタリアとの 3 国同盟に対抗しようと試みた。 イギリスはフランスやオーストリア・ハンガリーほど直接的に、強力なドイツの出現に
影響されたわけではなかったが、1904~5 年以降になってロンドンは真剣にドイツの問題を
考えるようになった。 世界的に見ると、アメリカの勃興によって、イギリスの利権(カナダ、カリブ海の海軍
基地、ラテンアメリカ貿易および投資)はヨーロッパのどの国よりも大きな影響を受ける
ことになった。 さらに、ロシアが国境を越えて拡大し、トルキスタンに戦略的な鉄道を敷いたので、こ
れの影響も受けることになった。このロシアの南下政策は近東やペルシア湾におけるイギ
リスの影響力を脅かすことになるのは明らかであり、いずれはインド亜大陸の支配にも影
響がおよびかねないものであった。 2451
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 図 15-12 ドイツ外交政策の変化 文英堂『理解しやすい世界史 B』 中国が分割されたり、この地域に新しい勢力が台頭してくれば、商業権益に最大の被害
を受けるのもイギリスだった。同じく、アフリカや太平洋地域では 1880 年以降の植民地分
割闘争で最大の影響を受けた国でもあった。 このように世界中に植民地や支配地域をもつ「太陽の沈むことなき世界帝国」イギリスに
とって、世界各国がそれぞれ相対的に勢力を増大し、それぞれがイギリスの領域に挑戦し
てくると、世界のあらゆるところで緊張感を高めざるをえない「気の休まることのない世界
帝国」イギリスになった。イギリスの政治家は全世界的な規模で外交と戦略面で駆け引きの
妙を発揮する必要にせまられていた。 【15-3-3】ドイツ ○目覚ましい発展をみせたドイツ工業 第 1 次世界大戦前のドイツの経済成長と軍国主義的発展は目をみはるものがあった。人
口は表 15-2 のように、1890 年の 4920 万人から 1913 年には 6690 万人に増えた。これはヨ
ーロッパではロシアに次ぐ 2 番目であり、世界的にも 3 位であった。だが、当時はドイツ
のほうが教育水準、社会基盤、1 人当り所得のどれをとってもロシアより高かった。 イタリアでは 1000 人の新規補充兵のうち 330 人、オーストリアでは 220 人、フランスで
は 168 人が文盲であったが、ドイツでは 1 人でしかなかった。この高い教育水準の恩恵を
受けたのはドイツの陸軍だけではなく、熟練労働者を必要とした工場も、訓練のいきとど
いた技術者を必要とした企業も、化学者を求める研究所も、マネジャーやセールスマンを
ほしがる企業も、すべて教育水準の高い人材はありがたがった。ドイツにおいては、19 世
紀のドイツの歴史で記したように、ドイツの学校教育が、そして技術工芸学校と大学が大量
の人材を育成していたからであった。 2452
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) とくにドイツの工業の成長はめざましかった。1890 年の石炭の生産高は 8900 万トンであ
ったが、1914 年には 2 億 7700 万トンに伸びた。このとき、イギリスは 2 億 9200 万トンでド
イツよりわずか多かったが、オーストリア・ハンガリーは 4700 万トン、フランスは 4000
万トン、ロシア 3600 万トンとはるかに少なかった。1914 年のドイツの鉄鋼生産高は図 15
-8 のように、1760 万トンで、イギリス、フランス、ロシアを合わせたよりも多かった。 さらに 20 世紀の新しい産業である(第 2 次産業革命による新規産業の)電気、光学、化
学の分野ではドイツが突出しており、ジーメンスや AEG(ドイツの電機メーカー)のような
巨大企業が 14 万 2000 人の労働者を雇用し、ヨーロッパの電気産業に君臨していた。化学
企業も BASF、バイエル、ヘキストなどが世界の工業用染料の 90%を生産していた。 輸出は 1890 年から 1913 年までの間に 3 倍になり、ドイツはイギリスにせまる世界の輸
出国となった。商船の数も増え、イギリスに次いで世界第 2 位になっていた。そのころ、
世界の工業総生産に占める割合はドイツが 14.8%でイギリス 13.6%よりも大きく、フラン
ス 6.1%の 2 倍半に増えていた。 この工業の成果を農業に応用して、ドイツの農民は化学肥料を使い、大規模な近代化農業
をはじめて作物の生産を増やした。ドイツの 1 ヘクタール当りの農業生産高は他のヨーロ
ッパ諸国のそれよりも高かった。地主貴族(ユンカー)や農民連合の圧力で、ドイツでは輸
入農産物にはかなりの関税がかけられ、農業はアメリカやロシアからの安い食糧の輸入か
ら守られていた。だが、相対的には効率がよかったので、農業部門が 1 人当り国民所得や
生産高の足を引っぱることにはならず、ヨーロッパ大陸の他の大国とくらべて農業はそれ
ほど足かせにならなかった。 このようなドイツの急速な工業の発展は全ドイツ連盟やドイツ艦隊協会などのような拡
張主義者の圧力団体がヨーロッパや海外におけるドイツの影響力の拡張を主張した。1895
年以降のドイツの支配層も大規模な領土拡張を実現する機が熟しつつあると信じていた。
ドイツの皇帝ヴィルヘルム 2 世自身、ドイツは「旧ヨーロッパの狭い世界の外に、なすべき
大きな任務をもっている」と宣言していた。 こうした風潮は、ビスマルクが、ドイツは「満ち足りた」大国であると主張し、ヨーロッパ
の現状維持に努めて(実際には 1884~85 年から植民地獲得競争に加わっていたが)海外の
領土拡張に熱意を示さなかったころとはまったく様変わりの情勢だった。しかし、このこ
ろには、フランス、ロシア、イギリス、日本、アメリカ、イタリアの政治家たちもまた、
海外領土の拡張を主張していたので、ドイツが特別であるわけではなかった。 ○ドイツ・ヴィルヘルム 2 世の帝国主義的膨張政策 1890 年に親政を始めたドイツのヴィルヘルム 2 世はそれまでの(ビスマルクの)平和外
交をやめて、「新航路」といわれる積極的な対外膨張政策(世界政策)に転換し、ビスマルク
2453
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) がつくりあげた独露再保障条約をロシアの更新要求にもかかわらず、満期終了と同時に破
棄した。 独露再保障条約の更新を拒否されたロシアが、孤立をおそれてフランスに接近し、軍事
同盟を 1894 年に締結した。イギリスも工業力の低下、帝国主義競争の激化、米・独の台頭
によるイギリスの相対的地位の低下などにより、単独でその国際的地位を維持することが
困難となり、前述したように、1902 年には日英同盟、1904 年に英仏協商、日露戦争後には
ロシアとの対立を解き、1907 年に英露協商を結び、ドイツを主要敵国とした。 この英露協商の成立によって、イギリス、フランス・ロシア(+日本)3 国間の提携・協
商関係が成立した。3 国の植民地支配体制を維持するための協定であるとともに、三国同盟
に対抗し、ドイツを包囲する外交関係となった。ヴィルヘルム 2 世時代になって、ビスマ
ルク体制は完全に崩壊し、図 15-12 のように、対仏包囲網もいつの間にか対独包囲網に変
わっていった。 ドイツのヴィルヘルム 2 世は、「ドイツの将来は海上にあり」といって、1898 年以降、大艦
隊の建造にのりだした。これに対してイギリスも新型戦艦を建造し、海軍力の伝統的優位の
維持につとめた。しかし、銑鉄の生産量は、1900 年にイギリス 910 万トン、ドイツ 850 万
トンが、1914 年にはそれぞれ、1042 万トン、1931 万トンと逆転、また鉄鋼生産も 1913 年
にはイギリス 770 万トン、ドイツ 1760 万トンとなり、ドイツがイギリスを凌駕したことは
明らかであった。 ドイツはオスマン帝国を保護国化し、1903 年バグダード鉄道敷設権を得て、図 15-13 の
ように、いわゆる 3 B 政策(ベルリン~ビザンティウム(イスタンブル)~バグダードを
結ぶ政策)をすすめ、イギリスの 3C 政策(カイロ~ケープタウン~カルカッタを結ぶ政策)
と対立することになった。ドイツは同盟国のオーストリアを経てバルカン半島に至り、オ
スマン帝国領の小アジア・メソポタミアを通過してペルシア湾に出て、インド洋に進出しよ
うとするもので、スエズ運河を側面から脅かし、イギリスのインドへの通商路を断つもの
であったから、イギリスはこれに脅威を感じた。 これらのドイツの進出はバルカン半島から中近東にむけられたものであったが、英仏協
商でフランスの優位が認められたモロッコに対しても、1905 年に第 1 次モロッコ事件、1911
年に第 2 次モロッコ事件を起し、国際緊張を高めることになった。イギリスはフランス側
に立ってドイツに抗議したため、ドイツは孤立を深めた。 このように、早くから世界の植民地化を進め資源確保・貿易などで有利になっていたイ
ギリスを中心とする 3 国協商側を急速な工業化・軍事化によって追いつき、追い越そうと
したドイツなどの 3 国同盟側にはたえず激しい競争と緊張感がただようようになっていた。
2454
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) あとは何かのはずみで火がつけば、いつでも爆発するおそれがあった。その火薬庫の火元
はバルカン半島だった。 図 15-13 第 1 次世界大戦直前のバルカン半島 文英堂『理解しやすい世界史 B』 【15-3-4】フランス ○イギリスに次ぐ植民地帝国 フランスは長い間、イギリスと海外植民地をめぐって争ってきたが、結局、アメリカ、
インドなどでほとんどの戦いに敗れ、植民地はゼロに近くなった。その後、19 世紀後半に
なって、再びフランスは植民地征服を意欲的に進め、主にアフリカとインドシナで植民地
獲得に成功し、世界第 2 位の植民地帝国となった。 アフリカでは、図 14-55 のように、チュニジアを事実上保護国化し、セネガルやコンゴ
にも進出したほか、マダガスカル島の港湾都市を確保した。セネガルからジブチまでアフ
リカを横断するように拠点を広げていたフランスは、エジプトからケープ植民地を結ぶこ
とを意図していたイギリスと不可避的に対立を深めることになった。 両者の対立は、1898 年にスーダンで両国軍が対峙したファショダ事件で頂点に達したが、
当時の新外相テオフィル・デルカッセが、イギリスとの対立よりドイツへの警戒を優先さ
せ、イギリスに対して妥協的姿勢をみせた。これにより両国関係は好転し、徐々に対ドイ
ツ政策などで協調をみせるようになった。 2455
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) インドシナへの侵略は、図 14-53 のように、既にナポレオン 3 世の時代から始まってい
たが、1883 年~1884 年には阮朝越南国にユエ条約を認めさせ、ベトナムの保護国化をはか
った。これに対し宗主権を訴えた清を清仏戦争で撃破し、1885 年の天津条約で清のベトナ
ムに対する宗主権を否定させた。その後、1887 年にカンボジアとあわせてフランス領イン
ドシナ連邦を成立させ、1893 年にはラオスもあわせその領域を拡大させた。 また、19 世紀末には中国分割が本格化する中で広州湾付近に勢力を伸張させた。アヘン
戦争(1842 年)以来、まず、イギリスが中国に進出したが、アロー号事件(1856 年)では、
フランスやロシア、アメリカ合衆国など、欧米列強も介入しはじめ、その後、図 14-51 の
ように、中国分割についても参画していった。 《第 5 位に落ちたフランス》 イギリスについで産業革命に着手して工業化を進めていたが、19 世紀後半に急速に伸び
てきたドイツに追い越されて、工業力世界第 4 位が定着した(アメリカが実質、トップに
なっていた)。 フランスでも、19 世紀末から 20 世紀初めにかけて、銀行と金融機関が飛躍的な発展をと
げ、産業投資や海外向け融資に大きな役割をはたすようになった。ロレーヌの鉱業地帯を
中心に近代的な鉄鋼業が確立され、新しい大工場が建設された。北部フランスの炭鉱地帯
では、薄汚れた工業社会が形成された。技術工学の面でも、新しい産業でも重要な進展が
あった。 フランスにはシュネデル、プジョー、ミシュラン、ルノーといった著名な企業家や技術
革新の推進者がいて、鉄鋼、技術工学、自動車、航空機産業などで指導的な地位を獲得し
たのである。ヘンリー・フォードが 1908 年に大量生産方式を開発するまでは、フランスの
自動車産業はまちがいなく世界をリードしていた。さらに、1880 年代には鉄道建設が爆発
的に進み、電信、郵便制度、内国水路の発達などとあいまって、広い国内市場を形成する
ようになった。 しかし、経済的なデータをドイツと比較するとフランスの成長は目覚ましいものではな
くなってくる。ヨーロッパ製品の輸出に占めるドイツの割合はすでに 1880 年代からフラン
スを追い越しており、1911 年には 2 倍に達していた。フランス経済は数十年前にはイギリ
スとの激しい競争に苦しみ、今度はドイツという工業の巨人の興隆によるとばっちりを受
けるようになった。 戦争直前には、フランスの潜在工業力はドイツの 40%にすぎず、鉄鋼生産は 6 分の 1、
石炭産出高は 7 分の 1 にすぎなかった。化学産業もドイツからの輸入への依存度が高くな
っていた。ドイツと比較すると、小さな工場、時代遅れな方法、そして手厚く保護された
国内市場というのがフランス工業の特徴となっていた。 2456
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 1914 年にはロシアがフランスを追い越して世界第 4 位の工業国になったので、フランス
は第 5 位に転落した(図 15-7 参照。アメリカ、ドイツ、イギリス、ロシアに次ぐ)。 《停滞したフランス国内》 1910 年になってフランスの農業従事者は生産活動人口の 40%を占めており、小規模土地
所有が圧倒的で、それがフランスの生産性向上と総体的な富の増大の妨げとなっていたこ
とはまちがいなかった。フランスの 1913 年の国民総生産はドイツの 55%であった。1914
年のフランスの国民所得は 60 億ドル、これに対しドイツの国民所得は 120 億ドルであった。
単独でドイツと戦うと、1870~71 年の普仏戦争の二の舞になることは確かだった。 フランスはナポレオン戦争後、人口が増えなくなったことも国民所得でドイツに大きく
差がつけられるようになった原因であった。ドイツの人口は 1890 年から 1914 年までの間
に 1800 万人近く増えているのに(軍国主義は人口を増やす典型例)、フランスの人口は 100
万人あまりしか増えていない(表 15-2 参照)。 そこでフランスは無理をして、兵役年齢の青年の 80%を徴兵して、途方もない規模の陸軍
をつくりあげていた。人口 5200 万人のオートリア・ハンガリーが 48 個師団しかもたなか
ったことを思うと、4000 万人のフランスが 80 個師団は無理があるとしかいえなかった。し
かし、それがドイツ帝国となると 100 個以上の師団を動員できたばかりか、はるかに豊富
な人的資源に頼ることができた(人口 6700 万人)。 ドイツの青年男子人口 1000 万人、これに対してフランスは 500 万人であった。さらに軍
隊拡充のかなめである訓練された下士官の数は、ドイツでは 11 万 2000 人、フランスでは 4
万 8000 人であった。さらに第 1 次世界大戦直前には、ドイツ軍の物質的な優位を列挙した
秘密のメモの数字は、たとえば、機関銃フランス 2500 挺、ドイツ 4500 挺、フランス 75 ミ
リ砲 3800 門、ドイツ 77 ミリ砲 6000 門などのように重砲の格差は比較にならないものであ
った。それでも 1914 年にはフランスは戦争に突入したことは後述する。 【15-3-5】ロシア ○ロシアの帝国主義的拡大 ヨーロッパから発展したロシア帝国は、早くからバルカン方面への南下政策や中央アジ
ア、南アジア、シベリア、東アジア方面へ積極的な征服政策を進めていったことは 19 世紀
の歴史で述べた。陸続きであったので、征服した土地は植民地という目立った形ではなか
ったが、征服された住民は実質、植民地(侵略領地)と同じ取り扱いであった。19 世紀末
から 20 世紀のはじめにかけては、極東アジア地域における南下政策が押し進められること
になった。 2457
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) アレクサンドル 3 世(在位:1881~1894 年)の治世では、ヴィッテ財務大臣によるフラ
ンス外資の導入による、重工業化がはかられた。また、1891 年にフランスと同盟を結ぶと、
フランス資本を活用してシベリア鉄道を起工し、極東への進出を企てた。 アレクサンドル 3 世が 1894 年 11 月に死去し、ニコライ 2 世(在位:1894~1917 年)が
後を継いだ。1895 年 4 月の日清戦争後の三国干渉ではドイツ、フランスをさそって「清国
の秩序維持」を名目に、下関条約によって日本が得た遼東半島を賠償金 3,000 万両と引き
替えに清に返還させ、その見返りとして清国の李鴻章より満州北部の鉄道敷設権を得るこ
とに成功していた(露清密約)。 そのため 1897 年、ロシアは、鉄道建設が困難なアムール川沿いの路線ではなく、短絡線
としてチタから満州北部を横断しウラジオストクに至る東清鉄道の建設をはじめた。さら
に 1898 年 3 月、旅順大連租借条約が結ばれると、ハルピンから大連、旅順に至る南満州支
線の敷設権も獲得し、満州支配を進めた。 ニコライ 2 世は、ヨーロッパにおいては友好政策をとり、1891 年にフランスと結んだ協
力関係を 1894 年露仏同盟として発展させるとともに、オーストリア・ハンガリー帝国のフ
ランツ・ヨーゼフ 1 世や従兄のドイツ皇帝ヴィルヘルム 2 世とも友好関係を保ち、万国平
和会議の開催をみずから提唱して 1899 年の会議ではハーグ陸戦条約の締結に成功した。 《万国平和会議》 万国平和会議は、1899 年、ロシア帝国皇帝ニコライ 2 世の提唱で 26 ヵ国が参加して開催
された。1899 年と 1907 年にオランダのハーグで開かれ、ハーグ平和会議ともいう。第 1 回
会議は、ヨーロッパ以外からも日本や清などが参加している。会議ではハーグ陸戦条約が
採択された。これは戦闘外におかれた者の保護を目的としたもので、ダムダム弾の使用禁
止などを規定している。この条約が後にいわゆるハーグ法と呼ばれるものの一つとなった。
他にも国際紛争が起きた際にその処理を武力に頼らず平和的に解決することを目的とした
国際紛争平和的処理条約が締結され、国際仲裁裁判を行う常設の機関である常設仲裁裁判
所の設置などが規定された。 第 2 回会議はアメリカ合衆国国務長官ジョン・ヘイが提唱して 1907 年に開かれた。ハー
グ陸戦協定が改定され、中立法規なども決められた。このとき、日本に外交権を接収され
ていた大韓帝国が第 2 回万国平和会議に密使を送り、自国の外交権回復を訴えようとした
が列強から会議への参加を拒絶され、目的を達成することができなかった(ハーグ密使事
件)。第 2 回会議で第 3 回会議を 8 年以内に開くことが勧告された。1915 年に開催の予定
だったが第 1 次世界大戦勃発により実現しなかった。 《ハーグ陸戦条約》 2458
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ハーグ陸戦条約は、第 1 回万国平和会議において採択された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル
条約」並びに同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」のことで、1907 年第 2 回万国平和
会議で改定され今日に至っている。ハーグ陸戦協定、ハーグ陸戦法規、陸戦条規とも言わ
れる。 交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用して
はならない戦術、降服・休戦などが規定されている。現在では各分野においてより細かな
別の条約にその役割を譲っているものも多いが、最も根源的な戦時国際法として、基本ル
ールに則って正々堂々と戦争を行うよう規定している。云わば「戦争のルール」で、この
条約締結のすぐ後に起きた日露戦争などのごく限られた戦争ではルールに沿って整然と行
われていた。 しかし、スペイン内戦から第 2 次世界大戦、ゲリラ戦術や途上国の戦闘などで凄惨な戦
争が生じ、その精神は破られてしまった。また朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン
戦争、イラク戦争他に見られるように、一向に遵守される様子はない。 イスラム教圏のゲ
リラや民兵組織ではハーグ陸戦条約よりもイスラム戦争法が優先される場合がある。そも
そもこれらの途上国・ゲリラのほとんどは、
「ルールに沿って整然と」戦っていたのではと
うてい先進国に勝ち目がなく、これらの国々のルールに沿わなくとも勝ちたいという発想
が、ハーグ条約が遵守されない背景にある(しかも、これら違反行為に対する制裁は民族
自決・独立に反するとしてまず行われない)。 日本においては、1911 年 11 月 6 日批准、1912 年 1 月 13 日に陸戰ノ法規慣例ニ關スル條
約として公布された。他の国際条約同様、この条約が直接批准国の軍の行動を規制するの
ではなく、条約批准国が制定した法律に基づいて規制される。 ○虚構に過ぎなかった軍事大国ロシア 万国平和会議からハーグ陸戦条約まで余談になったが、ロシア帝国の極東進出の話に返
る。1898 年には旅順・大連を租借し、旅順にいたる鉄道敷設権も獲得して旅順艦隊(第 1
太平洋艦隊)を配置、さらに 1900 年の北清事変にも派兵して、事変の混乱収拾を名目に満
州を占領、日英米の抗議による撤兵を約束したにかかわらず履行期限を過ぎても撤退せず
に駐留軍の増強をはかり、さらに権益を拡大するなど極東への進出を強力に推し進めてい
た。このため同じころ朝鮮半島を勢力下に置こうとした日本帝国主義と利害が対立するよ
うになった。 1904 年 2 月にはじまった日露戦争から 1905 年 6 月のポーツマスで講和会議までの状況は
19 世紀の歴史に記したので、ここでは述べない。当初ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか
小さな戦闘において敗れただけであり、ロシアは負けてはいない。まだまだ継戦も辞さな
い」という主張を行っていたため、交渉は暗礁に乗り上げていたが、これ以上の戦争の継
2459
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 続は不可能である日本が譲歩し、この調停を成功させたいアメリカがロシアを説得すると
いう形で事態を収拾し、戦争賠償金には一切応じないという最低条件で交渉は妥結した。
日本は困難な外交的取引を通じて辛うじて勝利を勝ち取った。 このポーツマス条約において、日本は、北緯 50 度以南の樺太(南樺太)、関東州(旅順・
大連を含む遼東半島南端部)の租借権、旅順~長春間の南満洲支線と付属地の炭鉱の租借
権、大韓帝国に対する排他的指導権、沿海州沿岸の漁業権などを獲得した。この日露戦争
の敗北により、ロシアの極東での「南下政策」は事実上、失敗した。 ロシアは過去 4 世紀にわたってユーラシア大陸を西と南に征服を続け、フィンランドか
らウラジオストクにいたる広大な領土と表 15-2 のように列強のなかでは最大の人口を保
っていた。ドイツの 3 倍、イギリスの 4 倍に近い人口がなおも急増していた。 ロシアの常備軍は 19 世紀を通じてヨーロッパ最大の規模だったし、第 1 次世界大戦が近
づいていたころでさえ、どこの国よりずっと大きかった。第 1 線部隊が 130 万人、そのほか
に 500 万人の予備役兵がいると言われていた。ロシアの軍事費もまた莫大で、ドイツの軍
事費に匹敵したと考えられていた。鉄道の敷設も 1914 年まで激しい勢いで進められて、短
期間にドイツの計画(後述するシュリーフェン作戦。鉄道で移動して速攻する計画)の裏
をかくほどになり、ドイツをあわてさせていた。さらに日露戦争後、艦隊建造にも大量の
資金が投入された。 また、ロシアの工業力はクリミア戦争のころにくらべてはるかに大きくなっていた。1860
年から 1913 年まで、ロシアの工業生産高は年率 5%という高率で伸びており、1890 年代に
は 8%近くになっていた。第 1 次世界大戦直前の鉄鋼生産高はフランスやオーストリア・ハ
ンガリーを追い越し、イタリアや日本よりはるかに大きかった。古くからさかんな繊維産
業も成長し、化学産業や電気産業もおくればせながら発展していた。兵器産業の成長もい
うまでもなかった。 何千人もの労働者を雇う工場がペテルブルクやモスクワなど大都市の周辺にぞくぞくと
建設された。ロシアの事業の将来性が買われ、大量の資金が流れ込んで経済の近代化に重
要な役割をはたしていた(とくに同盟を結んでいたフランスからの資金が多かった)。こ
うして 1914 年にはロシアは世界第 4 位の工業国になっていたのである。しかし、国内事情
はとても戦争ができるような状態ではなった。 ○第 1 次ロシア革命と革命前夜のロシア国内 アレクサンドル 2 世がテロリストの手で暗殺されたのち、アレクサンドル 3 世(在位:
1881~94 年)、ニコライ 2 世(在位:1894~1917 年)が即位したが、弾圧政治は一層強化
された。ツァーリの専制的資本主義の矛盾に対して、工場労働者を中心にしたマルクス主
義運動や政府批判が高まった。1898 年、レーニンやプレハーノフを指導者とするロシア社
2460
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 会民主労働党が結成された。また、ナロードニキの流れをくむ社会革命党(略称エスエル。
農民とくに富農層を基盤)が 1901 年、有産階級の自由主義者が中心の立憲民主党(略称カ
デット)が 1905 年に成立した。 ○ボルシェヴィキとメンシェヴィキの成立 レーニンやプレハーノフは、政府の弾圧で国外に亡命したため、社会民主労働党の第 2 回
党大会は 1903 年ブリュッセル及びロンドンで開かれた。この大会でレーニンとマルトフと
が対立し、レーニン派のボルシェヴィキ(ロシア語で多数派の意)とマルトフ派のメンシ
ェヴィキ(少数派の意)とに分裂した。ボルシェヴィキが、労働者を革命の主体として農
民との同盟を重視し、少数精鋭の革命組織を主張したのに対して、メンシェヴィキは、ブ
ルジョワジーを主体として、労働者はこれを援助するものとし、広く大衆に基礎をおいて
党を組織しようとした。 前述した日露戦争中の 1905 年 1 月の血の日曜日事件を契機に第 1 次ロシア革命が勃発し
た。首都ペテルブルクの労働者がゼネストに突入し、革命の気運が全国に波及した。皇帝
ニコライ 2 世は譲歩して 10 月宣言を発し、ドウーマ(国会)開設と憲法制定を発表し、ブ
ルジョワジーを基盤とする立憲民主党(カデット)の支持を得て革命運動の一応の鎮静化
に成功した。 1905 年 12 月にモスクワで武装蜂起があり、皇帝は労働者の武装蜂起を鎮圧すると再び反
動化し、国会も無視された。首相ストレイピンは革命抑圧とともに、農業改革を行い、ミ
ール(農村共同体)を解体して土地の私有化をはかり、富農層を育成しようとした。しか
し、農民は困窮、社会不安は増大し、作物の不作と物価高が重なり、高い家賃や厳しい労
働条件に対する不満がいっそうつのって、農民の反乱が相次いだ。 例えば、1901 年の反乱では、ポルトウイラとタムボフ地方では土地の大半が荒廃した。
荘園は焼き払われ、家畜は切り刻まれた。軍隊は 155 回出動した。1903 年には 322 回出動、
295 の騎兵大隊と 300 の歩兵大隊が動員され、大砲も持ち出された。その後、ますます拡大
し、1913 年には、国家に対する反逆行為で逮捕された者 10 万人という事態になった。その
他にも、軍隊には、不満を抱く少数民族(ポーランド人、フィン人、グルジア人、ラトビ
ア人、エストニア人、アルメニア人など)を鎮圧するという仕事もあった。詳細な記録は
ないが、たびたび大きな暴動が起きていたことは確かであった。 都市においても同じであった。1912 年から 14 年までの 3 年間にはストが続発し、大衆抗
議行動が起こって、警官による逮捕や殺害といった事件が相次ぎ、社会不安は高まる一方と
なった。とても軍隊も新たな戦争をはじめるような状況にはなかった。 要するに、1917 年のボリシェヴィキ革命を待たなくても、1914 年以前のロシアが社会的、
政治的に一触即発の事態にあったことは確かで、凶作に見舞われるか、工場労働者の生活
2461
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 水準がさらに引き下げられるか、または新たな戦争が勃発すれば、たちまち火の手があが
る可能性はきわめて高かった。 このような状態でロシアが、オーストリア・ハンガリーと戦って、ましてや強力な軍事
力と工業力を兼ね備えたドイツ帝国と戦って、クリミア戦争や日露戦争より、よい結果を
得ることができるとは考えられなかった。 当時のロシアの工業生産高は増加こそしていたものの、ドイツと比較した場合、1900 年
から 13 年までをとると、ロシアの鉄鋼生産高は、図 15-8 のように 220 万トンから 480 万
トンに増えているが、ドイツのほうは 630 万トンから 1760 万トンへと飛躍的に増大してい
た。同じく、ロシアのエネルギー消費量と潜在工業力は、絶対額でも相対的にも、ドイツ
にはとてもおよばなかった(図 15-9 参照)。とても単独では(ロシア対ドイツ)、長期
戦に耐えられるような状態ではなかった。しかし、当時(1914 年当時、軍事力が測られて
いた尺度、たとえば師団数、砲兵隊の数などによって)、ロシアは世界一の陸軍国である
とみなされていた。戦争というものは、戦前の予想と、蓋を開けてみるとでは大きく異な
るものであるということをロシアも示すことになった。 【15-3-6】オーストリア・ハンガリー(ハプスブルク)帝国 ○まさに二重政体だったオーストリア・ハンガリー二重帝国 オーストリア帝国は、1866 年にプロイセン王国の挑発に乗って普墺戦争を起こし、大敗
を喫した。その結果、オーストリアを盟主とするドイツ連邦は消滅して、その面目を失い、
確実に国際的地位を低下させた。ハプスブルク帝国は、1867 年のアウスグライヒ(妥協)
によって、図 15-14 のように、オーストリア・ハンガリー二重帝国となった。これによっ
て、オーストリア帝国とハンガリー王国は異なる統治の実体をもつという奇妙な政体にな
った。 西半部のオーストリア側は正式名称を「帝国議会に代表を送る諸王国と諸領邦」といい、
17 の「歴史的・政治的単位」から構成された。ハプスブルク家の 8 つの世襲領、ボヘミア、
モラヴィア、シレジアなど、いずれもハプスブルク家の家領の拡大にともなって歴史的に
形成された単位であった。これら諸領は王国、大公国、公国、辺境伯領などの名称をもっ
ており、身分制議会(貴族議会)の伝統を有していた。 東半部のハンガリー王国は、「聖イシュトヴァーン王冠(ハンガリー王冠)の諸領邦」と
呼ばれ、行政の基本的単位としては県が採用され、1876 年には 71 にも達した。帝国の両半
部は、一般には、ドナウ支流のライタ川の名を使って、「ライタ以西」「ライタ以東」と称さ
れた。 この両者が、共通業務と呼ばれる外交・軍事・財政の 3 部門を共有し、皇帝にして国王
であるフランツ・ヨーゼフが共通外相、共通陸将、共通蔵相の 3 相を任命した。共通業務
2462
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) については、オーストリア側とハンガリー側の首相や共通 3 相らからなる共通閣議が意思
決定を行った。それぞれに設置された独自の議会と内閣が立法と行政を担当することにな
った。共通業務についてはさらに、両議会から 60 人ずつ選出される二つの代表会議があっ
た。これが「オーストリア・ハンガリー帝国」であった。 図 15-14 バルカンの民族分布 ○種々雑多の多民族国家:「ヨーロッパの火薬庫」 しかし、図 15-14 のように、種々雑多の多民族国家であることには、変わりがなかった。
(いわゆる)オーストリアとハンガリーに分割しても、オーストリアではドイツ人 35.6%、
ハンガリーではマジャール(ハンガリー)人 48.1%という具合に、ドイツ人とマジャール人
はそれぞれの国内で過半数を占めていなかった。そこでハンガリー政府はクロアチア人と
妥協して協力を得ることで過半数に達した。そのような中でハンガリーは国内の「マジャ
2463
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ール化」を推し進めた。一方オーストリアでは、新憲法で「民族平等」を謳ったが、ポー
ランド人と妥協することで支配的地位を保とうとした。 その後も民族の自治獲得の動きは鎮静化せず、むしろいっそう激化し始めた。工業を握
るボヘミア人(チェコ人)の発言力が増し、資本家が多いユダヤ人もまた発言力を増した。
地位を保持しようとするドイツ人と、権利を得ようとする他民族との対立が目立ち始める
こととなった。ハンガリーでも、マジャール化に反して民族の自治・権利を獲得しようと
する動きが高揚してきていた。 しかしこの時点では、どの民族も「帝国からの独立」を望んではいなかった。それは、
ドイツとロシアという大国に挟まれたこの地域で、小国が生き残れないことを自覚してい
たためである。
「独立」ではなくオーストリア・ハンガリー帝国という大きい枠のなかで「自
治」を得る、つまり諸民族の連邦国家を望んでいたのである。 このようなことで、19 世紀末から 20 世紀初めの帝国主義時代には、外に打って出るどこ
ろか、帝国内部の諸民族、ロシアをはじめとする周辺諸国から身を守ることに精一杯で、
オスマン帝国と同じく「ヨーロッパの病人」といわれていた。 そのようなオーストリアが、1908 年、オスマン帝国で青年トルコ人革命が起きると、そ
の混乱に乗じて、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ両州を併合した(図 15-14 参照)。ボスニ
ア・ヘルツェゴヴィナ自身が多民族のるつぼであった。 ここにはセルビア人が多く、南のセルビア王国への帰属を望む人々が多かった。またム
スリムも多く、彼らはオスマン帝国への帰属を望み、一方カトリック信者はオーストリア
への帰属を望んでいた。そうした民族だけでなく宗教的にも複雑な地域を無理やり併合し
てしまったオーストリアへの反感があがるのも当然のことだった。 その後、2 度のバルカン戦争を経て、バルカン半島は「汎ゲルマン主義」と「大セルビア
主義」、それに加えて「汎スラヴ主義」が角逐し、個々の民族間でも対立が激化して「ヨー
ロッパの火薬庫」の様相を深めていった。まさにオーストリア・ハンガリー帝国はその火
薬を抱え込んでしまい、1914 年 6 月、サラエヴォで爆発してしまった(サラエヴォ事件。
後述)。これで導火線に火がつき、1 ヶ月後には第 1 次世界大戦が起こってしまった。 【15-3-7】オスマン帝国とバルカン諸国 ○青年トルコ人革命 オスマン帝国では、アブデュルハミト 2 世の専制政治に対して、憲政を復活させようと
いう動きそのものは 1878 年の憲法の停止直後から存在しており、タンジマート期に西洋式
の教育を受け、かつて立憲制の樹立に奔走した「新オスマン人」と呼ばれた人たちが憲政
復活の運動を担っていた。しかし、アブデュルハミト 2 世によるスパイ網を用いた厳しい
2464
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 取り締まりもあってその動きは低調であり、また国内での活動が難しい以上、パリなどに
逃れた亡命者による国外での活動が主とならざるを得ない状況であった。 旧秩序を打破して新体制をつくろうとする急進分子を「ヤング・タークス」といったが
(これを日本ではかつて「青年トルコ党」と訳した)、本場のオスマン帝国では青年トル
コ党という 1 個の団体が存在したわけではなかったので、「青年トルコ人」と訳したほう
が適切である。 国外に逃亡した活動家の一部は、1894 年にパリでアフメト・ルザを中心に糾合して「統
一と進歩委員会」を名乗り、イスタンブルのグループとは別に海外活動を行うようになっ
た。この他にも、活動家のイスタンブルから地方への追放や逃亡などを契機に、帝国内外
の各地に組織が設けられ、運動は拡張を続けていった。 1908 年 7 月、「統一と進歩委員会」のサロニカ本部に属する軍人のニヤーズィやエンヴ
ェルが率いる部隊がサロニカ(現在のギリシャ・マケドニア地方のテッサロニキ)などの
バルカン半島諸都市で武装蜂起した。アブデュルハミト 2 世は即座に鎮圧を命じ、アナト
リアから鎮圧部隊を向かわせたが、鎮圧部隊が反乱部隊側に寝返るという事態が発生した。 これによってアブデュルハミト 2 世は武力による鎮圧を諦め、騒乱の沈静化のために一
転して反乱部隊の要求をのみ、憲法の復活を宣言した。下院選挙の結果、1908 年 12 月には
下院も再開されて武装蜂起の目的であった憲政の復活が果たされた。この、武装蜂起から
憲政の復活までの一連の流れを「青年トルコ人革命」と呼び、これ以降のオスマン帝国の
政治体制を第 2 次立憲制とよんでいる。 ところが、1909 年に「3 月 31 日事件」と呼ばれる反革命クーデターが起きた。一時はイ
スタンブルから追い出された格好となった「統一と進歩委員会」は、第 3 軍団の軍団長マ
フムート・シェヴケト・パシャを頼った。シェヴケト・パシャはサロニカからイスタンブ
ルへと進軍し、ムスタファ・ケマルとエンヴェルを参謀に据えた鎮圧部隊は反革命クーデ
ターを鎮圧した。 1909 年 4 月、事件への関与を理由にアブデュルハミト 2 世は退位させられることになっ
た。議会でスルタンの廃位決議が可決されると、後継のスルタンにはアブデュルハミト 2
世の弟であるメフメト・レシャトがメフメト 5 世として即位した。 「3 月 31 日事件」を鎮圧した「統一と進歩委員会」ではあったが、政治の混乱が続いた。
そこで統一派の中核指導者タラート・パシャ、エンヴェル・パシャらは、1913 年 1 月には
自らクーデターを起こし、統一派政権を確立した。統一派政権は次第にトルコ民族主義に
傾斜していき、政権を獲得するとトルコ民族資本を保護する政策を取り、カピチュレーシ
ョン(列強との不平等な関税制度)の一方的な廃止を宣言した。この間にも、サロニカを
含むマケドニアとアルバニア、リビアが帝国から失われた。 2465
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ○ボスニア・ヘルツェゴビナ危機(併合危機) 青年トルコ人革命後の憲法改正で、地方の州に大幅な自治が認められることになった。
オーストリア・ハンガリー帝国は、ベルリン会議以来ボスニア・ヘルツェゴビナ(図 15-
14 参照)を管理下においていたが、自治が認められれば二重帝国の支配に批判的なセルビ
ア人がボスニアの州議会を掌握し、自国の権限が脅かされると危惧した。そこでオースト
リアは、1908 年、前述したように、ボスニア・ヘルツェゴビナの保護が同地域に経済的な
安定をもたらすとの主張に基づいて、同地域を併合した。この 2 州にはスラブ人が多く、
同地の併合をねらっていたセルビアは、オーストリア・ハンガリー帝国に激しい敵意をい
だいた。 この併合は「ボスニア危機(併合危機)」と呼ばれる外交紛争を招いたが、最終的にオ
ーストリア・ハンガリー帝国がオスマン側に補償金を支払うことを約束し、ボスニア・ヘ
ルツェゴビナはオーストリアに併合された。 併合がオスマン帝国に認められた後も、セルビアはオーストリア・ハンガリー帝国に頑
強に反対した。セルビアはロシアに支援を求めたが、ロシアは日露戦争で敗北を重ねて疲
弊していたので、これに応ずることができなかった。ドイツはこの情勢を見てオーストリ
ア・ハンガリー帝国を支持し、イギリスとフランスは無関心であった。 孤立したセルビアは、やむをえずボスニア・ヘルツェゴビナの併合反対を取り下げた。
しかし、このボスニア危機の際にセルビア側に不満が残り、これが後のテロリズム(サラ
エヴォ事件)となって第 1 次世界大戦の引き金を引くことになった。 ○伊土戦争 前述したようにイタリアは、1908 年から始まった青年トルコ人革命によりオスマン帝国
内が混乱していたので、ここにつけいって、リビアを植民地化しようと、オスマン帝国と
1911 年 9 月、伊土戦争を開始した。オスマン軍は脆弱なリビア駐屯軍を補強するために、
勇猛で知られた現地のベドウィン兵を組織化し、リビア内陸部でゲリラ戦を展開した。戦
費がかさむことを嫌ったイタリアは、海軍を動かしてイスタンブルを砲撃して圧力を加え
た。それまで静観していた列強各国が、戦火が拡がりバルカン半島情勢に悪影響を与える
ことを危惧して戦争の調停に乗り出したが、イタリア側に有利な形で調停は進められてい
った。 オスマン政府はこれを不服とし戦争を継続する意思を見せたが、今度はオスマン帝国が
イタリアの進出に忙殺されている状況を好機と捉えたバルカン同盟(後述)がオスマン帝
国領内に侵攻を開始した。イタリアとの戦争に戦力の殆どを投入していたオスマン帝国は
バルカン方面に十分な兵力を送れず、首都陥落、ひいては国家存亡の危機に立たされた。 2466
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) イタリアとの継戦が不可能と判断したオスマン政府は 1912 年 10 月 18 日にローザンヌ条
約を締結し、広大なアフリカのトリポリタニア、キレナイカの領有権をイタリアに割譲し
た。こうして戦争に勝利したイタリアはイタリアの何倍もある併合地をリビアと改め、自
国の新たな植民地とした。イタリアはトルコの窮状につけいることによって、さほどの労
なくして、はじめて念願の植民地獲得に成功した(イタリアはエチオピアを植民地化しよ
うとしたが失敗した)。まさにこの時代は露骨な侵略戦争・割譲がまかり通る時代だった。 ○第 1 次バルカン戦争 オスマン帝国では、1908 年、青年トルコ人革命が成功し、以来、オスマン帝国は、「汎
トルコ主義」に基づき「トルコ化」を推進し始めた。この政策はバルカン半島の諸民族か
ら激しい反発を生む一方、すでに独立を達成しているギリシャ、セルビア、モンテネグロ、
ブルガリアの各国はこの地域で少しでも領土の拡大を虎視眈々と狙っていた。 また「汎スラブ主義」の大義のもと、従来から「南下政策」を展開するロシア帝国もこ
れらスラブ系各国への支援に積極的であった。結局、ロシアはセルビア、ブルガリア、ギ
リシャ、モンテネグロの 4 国間にバルカン同盟を結成させ、自己の影響下においた。 1912 年 10 月、バルカン同盟 4 国は、伊土戦争に乗じて、オスマン帝国に相次いで宣戦を
布告した。これが第 1 次バルカン戦争(1912 年 10 月~13 年 5 月)であった(図 15-15 参
照)。 図 15-15 1913 年のバルカン 2467
帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 前述したように、当時、オスマン帝国はイタリアとの戦争(伊土戦争)にわずらわされ
ていただけでなく、民族覚醒の遅れていたアルバニアやマケドニアでの民族運動にも悩ま
されていた。バルカン同盟側の兵力は約 70 万人、一方、オスマン帝国の軍隊は約 32 万人
であり、オスマン帝国の劣勢は明らかであった。 ブルガリアはバルカン半島中東部のトラキア地方でオスマン帝国軍の主力部隊と戦い、
セルビアとギリシャはアルバニアやマケドニア地方に進出した。モンテネグロも隣接する
アルバニアに軍隊を進めた。 1913 年春までにオスマン帝国の敗北がはっきりすると、ヨーロッ列強が介入して、同年 5
月にロンドン条約が締結され、休戦が成立した。この結果、列強はアルバニアの独立を承
認したため、セルビア、モンテネグロ、ギリシャの各国は占領したアルバニアの領域から
撤退しなければならなかった。また、オスマン帝国はエーゲ海のエノスから黒海のミディ
アを結ぶ線以西のバルカン半島とクレタ島の領有を放棄した。つまり、オスマン帝国はヨ
ーロッパ側にはイスタンブル周辺しか残らなくなった。 ○第 2 次バルカン戦争 しかし、オスマン帝国から奪ったヨーロッパ側の領土をめぐって、今度はバルカン同盟
の 4 ヶ国が内部で自分らの分け前をめぐって争いを起こした。つまり、1913 年にブルガリ
アとバルカン同盟の他の 3 国が対立し、戦争になった。これに、さっきまでいじめられて
いたオスマン帝国も、またルーマニアも 3 国側に加わって、ブルガリア 1 国と戦い、ブル
ガリアは敗れて、領土の多くを失ったというのが、第 2 次バルカン戦争の概略である。 1913 年 6 月、ブルガリアがセルビア、ギリシャ両国を攻撃することによって、戦争は始
まった(図 15-15 参照)。それぞれの利害関係から、モンテネグロ、ルーマニア、オスマ
ン帝国がセルビアとギリシャの側に立って参戦した。つまり、戦端をひらいたブルガリア
が周囲のすべての国を敵にまわすことになった。ひと月もたたないうちに、ブルガリアの
敗北が明白となり、同年 8 月にはブカレスト条約が結ばれて、この地域の再分割が行われた。 ブカレスト条約によってブルガリアはマケドニアの大半を喪失し、さらに南ドブルジャ
をルーマニアへ割譲、エディルネをオスマン帝国に返還しマケドニア北東部と、エーゲ海
への出口となる西トラキアを辛うじて確保するにとどまった。一方で、セルビアは北・中
マケドニアおよびノヴィ・パザル地方を獲得した。モンテネグロはセルビアと共にコソボ
地方を分割した。ギリシャは南マケドニアとテッサリアなどエーゲ海沿岸を獲得した。第 1
次戦争の段階で自治権を獲得していたアルバニアが正式に新独立国として発足した。 この結果、最大の犠牲を払ったブルガリアはそれに見合う報酬、特にマケドニアに対す
る要求の殆どがかなわず大きな不満を残した(これがドイツ・オーストリアに接近するよ
うになった理由である)。またオスマン帝国は、ヨーロッパ側領土を一気に失い、国際政
2468
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 局での立場も大きく後退し危機感を募らせた。ブルガリアとオスマン帝国の両国は接近を
見せ、これが続く第 1 次世界大戦の一つの要因となった。 2 回のバルカン戦争を通じて、バルカン諸国はそれぞれに領土的不満を残すことになり、
対立関係をいっそう強めた。この不満が充満していたときに、後述するように人口 5100 万
のオーストリア・ハンガリー帝国と 430 万の小国セルビアとの間で戦争が開始されると、
またたくまに引火して「世界戦争」に発展してしまったのである。このときバルカン諸国
は十分に戦況を見きわめ、それぞれの領土的野心を満たすべく、優勢とみなした側に立って
それぞれ参戦したのである。 【15-3-8】イタリア ○最終的なイタリア統一 1861 年にサルデーニャ王国によるイタリア統一がなされイタリア王国が成立したあと、
1866 年の普墺戦争(第 3 回イタリア独立戦争)ではプロイセン側として参戦し、オースト
リア領土のうちトレンティーノとトリエステを残してヴェネト(ヴェネツィア)を併合し
た。1870 年に起こった普仏戦争によりローマ教皇領を守護していたフランス軍が撤退する
とこれを占領し、翌年ローマへ遷都した。
このようにしてイタリア統一がなると、イタリアは他の欧米列強と同じように植民地獲
得を模索し、帝国主義政策を展開しはじめた。 ○第 1 次エチオピア戦争 国内統一が遅れて、列強のなかで植民地獲得競争に遅れをとったイタリアは、アフリカ
の中で、まだ、どこも手を出していなかったエチオピアに目をつけた。 エチオピア帝国は 13 世紀以来、ソロモン朝が続いていてアフリカで唯一独立を保ってい
るといわれたが、実際はソロモン朝の勢力は 16 世紀以降衰え、諸侯が抗争する群雄割拠の
時代となっていた。戦国時代さながらのエチオピアを再統一したのがテオドロス 2 世(在
位:1855~1868 年)であり、ソロモン朝中興の主とされたが、1868 年、イギリスの派遣し
た大規模な遠征隊と戦争(マグダラの戦い)になり惨敗し、この結果にショックを受け自
殺した。 このとき、エチオピア帝国内の自治王国ショアの王メネリク 2 世は、自国内に干渉を強
めるイギリスへの対抗から、イタリアの支援を受けてエチオピア北部のティグレ地方・ア
ムハラ地方を征服し、1889 年 3 月エチオピア皇帝への即位を宣言した(皇帝在位:1889~
1913 年)。同年 5 月、メネリク 2 世はイタリアとの友好条約(ウッチャリ条約)を締結した。
その内容は、イタリアにエチオピアにとって紅海沿岸への玄関口となるエリトリアの支配
2469
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) を認めるかわりに、メネリク 2 世がエチオピアを独立国家として統治することをイタリア
に認めさせるというものであった。 しかし、実際は条約のイタリア語の内容とエチオピアのアムハラ語の内容が異なってお
り(おそらくエチオピアの植民地化をうかがっていたイタリアが記したものであろうが)、
イタリア語では、エチオピア全土をイタリアの保護領とする、という内容になっていた。
1893 年、メネリク 2 世はウッチャリ条約を破棄したが、イタリアはエチオピアへの圧力を
強め、1895 年エリトリアに接するティグレ地方に侵攻を開始し、
(第1次)エチオピア戦争
を開始した。 これを迎え撃つメネリク 2 世は、皇帝への即位以来、多額の資金を投じて、フランスの
支援でフランス式の大砲や機関銃で武装した陸軍を育成していた。1896 年 3 月、アドワの
戦い(図 14-55 参照)でエチオピア軍 15 万人とイタリア軍 1 万人が激突、エチオピア軍 1
万人、イタリア軍 8000 人の兵士を失って、イタリア軍の決定的敗北に終わった。1896 年
10 月アディスアベバ条約が締結され、イタリア領のエリトリアとの国境線が厳密に確定さ
れ、またイタリアがエチオピアの独立を承認することが確認された。
○伊土戦争 第 1 次エチオピア戦争の敗北でアフリカ進出に失敗したイタリアは、オスマン帝国の歴
史で述べたように、1908 年から始まった青年トルコ人革命によりオスマン帝国内が混乱す
ると、これをチャンスと見て、イタリアはオスマン帝国下のアフリカ・リビアに目をつけ
た。 1911 年 9 月、オスマン帝国下のリビア領内のイタリア人に対するトルコ官憲の圧迫があ
ったことを理由に小さな衝突事件が発生した。ドイツがオスマン帝国支援を明確に表明し
たが、イタリア首相のジョリッティは世論に押される格好で衝突事件を理由にオスマン帝
国にリビアを割譲するよう最後通牒を提示した。期限の 24 時間を過ぎても帝国からの回答
がなかったため、翌日にイタリアはオスマン帝国に正式に宣戦布告し、伊土戦争(1911 年
9 月~1912 年 10 月)が勃発した(このようにこの時代には露骨な侵略戦争がまかり通った)。 まずイタリア海軍がオスマン海軍を破って 10 月には地中海の制海権を獲得してアナトリ
アからの増援を遮断した。イタリア海軍は月末までに約 2 万人の陸軍部隊をトリポリ、ベ
ンガジなどの主要都市に上陸させた。オスマン軍を内陸の砂漠地帯に追いやり主要都市を
占領した。 一方、増援が困難となったオスマン軍は脆弱なリビア駐屯軍を補強するために、勇猛で
知られた現地のベドウィン兵を組織化することに着手した。このためイタリア陸軍は、オ
スマン軍のゲリラ戦に苦しめられた。早々に決着をつける必要があると判断したイタリア
2470
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 陸軍は本国から増援を得て戦力を 8 万人としたが、オスマン軍は勝ち目の薄いイタリア陸
軍との正面決戦を避け、ゲリラ戦に徹した。 イタリアは、海軍を積極的に動かして外交的圧力をかける戦略へ切り替え、1912 年 2 月
にはベイルート、夏にはイスタンブルを砲撃して圧力を加えた。この攻撃はオスマン海軍
によって退けられたが、それまで静観していた列強各国は戦火が拡がりバルカン半島情勢
に悪影響を与えることを危惧して戦争の調停に乗り出した。列強国は自らが多くの植民地
を保有していることからイタリアの植民地政策に理解を示す立場にあり、イタリア側に有
利な形で調停は進められていった。 オスマン政府はこれを不服とし戦争を継続する意思を見せたが、オスマン帝国がイタリ
アの進出に忙殺されている状況をチャンスととらえたバルカン同盟が、前述したように、
オスマン帝国領内に侵攻を開始した(第 1 次バルカン戦争)。イタリアとの戦争に戦力の殆
どを投入していたオスマン帝国はバルカン方面に十分な兵力を送れず、首都陥落、ひいて
は国家存亡の危機に立たされた。 かくしてイタリアとの継戦が不可能と判断したオスマン政府は 1912 年 10 月にローザン
ヌ条約を締結し、図 14-55 のトリポリタニア(現在のリビアの首都トリポリを含む地域)、
キレナイカ(リビアの 1 地域)の領有権をイタリアに割譲した。このようにして、イタリ
アははじめて念願の植民地を獲得した。 戦争に勝利したイタリアは併合地をリビアと改め、自国の新たな植民地とした。両国間
の講和が成立した後も、イタリアというキリスト教徒による統治に対してリビア人の抵抗
は続いた。特にキレナイカの内陸部では現地を本拠とするスーフィー教団である、サヌー
スィー教団を軸とした強力な抵抗運動が起こり、イタリア陸軍の駐屯軍はこの鎮圧に大き
な労力を割くことになった。 【15-3-9】オランダ・その他 その他、アジアでは、オランダがオランダ領インド(現在のインドネシア地域)を植民
地にしていた。オランダ領東インドに導入されたのが「強制栽培制度」であり、現地住民
にコーヒー、サトウキビ、藍(インディゴ)、茶、タバコなどの指定の農作物を強制的に栽
培させ、植民地政府が独占的に買い上げ、莫大な利益を得ていたが、この強制栽培制度に
対する批判がが高まり、1860 年代以降、同制度は国際競争力のなくなった品目から順に、
廃止されていった。 農作物に代わる新たな産物として、産業革命による石油資源の国際市場における重要度
の高まりを受け、ロイヤル・ダッチ・シェルの前身である会社などが 19 世紀末から油田の
開発をはじめた。 2471
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ○南北アメリカの植民地的経営 南北アメリカにおいても、形式的にはすでにほとんどの国が独立国の形態をとっていた
が、その内実は植民地的経営と貿易が行われていた。たとえば、ブラジルやカリブ海域に
おける砂糖プランテーションでは、サトウキビそのものが地味を枯渇させるうえに、ほと
んど地域全体がプランテーション化されたため、もっともはなはだしい環境破壊となった。 砂糖は、その精製過程で大量の燃料を必要としたから、プランテーションでは、燃料問
題がとくに深刻であった。そこに住む住民の食糧も犠牲にされ、列強の原料や嗜好品の生
産のために、奴隷や契約労働者の形態の、自由とはいえない膨大な数の労働者が動員され
た。遠く離れたイギリスで、貴婦人たちが晩餐会のあと、砂糖入り紅茶でゴシップに花を
咲かせたとき、それは熱帯雨林の一部の破壊と多くの住民の汗と涙の結晶であった。 ○世界をおおった帝国主義 このようにして、第 1 次世界大戦が始まる 1914 年には、冒頭で述べたように、ヨーロッ
パ系の白人が支配する地球上の土地は、84%になった(このあと述べるアメリカ人と日本
人を含む)。西ヨーロッパとアメリカ合衆国(+日本)の 10 ヶ国ばかりを「中核」とした
帝国主義的資本主義システムが、ほぼ地球全体を覆ったということである。 このように地球上の 8 割以上の地域を支配下においた欧米列強は、この帝国時代に大発
展をとげることになった。欧米諸国全体の工業生産は、劇的な発展をとげ、世界全体の蒸
気機関数は、1870 年から 1913 年までのあいだに、3.5 倍になった。ヨーロッパ大陸の人口
は、1 億 9000 万人から 4 億 2300 万人に 2.2 倍に激増したが、そのほか 4000 万人がアメリ
カなどに移住した。 【13-2-10】アメリカ ○別格のアメリカ 19 世紀末から 20 世紀初めにかけて、アメリカは世界のトップの座に着き、その後の展開
に最も決定的な役割をはたすようになったが、第 1 次世界大戦に参戦するまでは世界(ヨ
ーロッパ)の情勢から離れていたので別格の扱いだった。 アメリカは豊かな農地、豊富な天然資源、そして非常にタイミングのよい近代技術の発
展(鉄道、蒸気機関、鉱山設備、農業機械)によってこの資源をフルに活用できるように
なったこと、社会的、地理的な緊張がなかったこと、外敵による重大な危険がなかったこ
と、外国から資本が流入し、国内の投資資本も増大したことなどが重なって、南北戦争の後、
驚くべき速さで発展していった。 たとえば、1865 年に南北戦争が終わってから 1898 年に米西戦争が始まるまでの間に、ア
メリカの小麦の生産量が 256%、トウモロコシが 222%、精糖 460%、石炭 800%、鉄材 523%
2472
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) の率で増え、鉄道の敷設距離は 567%以上も伸びた。原油の産出高は 1865 年の 300 万バー
レルから 1898 年のには 5500 万バーレルになり、鋼塊、鋳鋼品は 2 万トンから 900 万トンに
まで増えた。 たしかに国土は広大だったが、1914 年には 25 万マイルにおよんでいた鉄道によって大幅
に距離が縮められた(このときロシアはその 2 倍半の国土であったが鉄道はまだ 4 万 6000
マイルだった)。エーカー当りの収穫量はつねにロシアを上回っており、西ヨーロッパの
集約農業地域のそれにはかなわなかったとしても、農地の広さと能率のよい機械耕作、(鉄
道と蒸気船の利用によって)輸送費の低下のおかげで、アメリカの小麦、トウモロコシ、
豚肉、牛肉などの農産物は、ヨーロッパのどの国よりも安かった。 技術的な面からみれば、インターナショナル・ハーヴェスター、シンガー、デュポン、
ベル、コルト、スタンダード・オイルといった企業は世界のどの国の企業にもひけをとら
ず、その上に巨大な発展する国内市場と規模の大きい経済に支えられているので、ドイツ、
イギリスなどの競争相手よりもはるかに恵まれていた。 「巨大性」はロシアの場合には工業の効率の指標にはならなかったが、アメリカではほと
んどの場合、工業力の大きさを意味していた。たとえば、イギリス移民であり、一代で鉄
鋼王となったアンドルー・カーネギーが,その鉄鋼会社を 1901 年にJ・P・モルガンに売
却したとき、その US スチール社は、イギリスの鉄鋼業全体よりも大量の鉄鋼を生産してい
た。とにかく従来のヨーロッパの尺度でみると、アメリカは別格であった。工業でも農業
でも運輸通信の分野でも、規模と効率の双方に恵まれていたのである。したがって、表 15
-3 のように、1914 年のアメリカの国民所得が絶対額でも 1 人当りの額でも群を抜いてい
たのは不思議ではなかった。 表 15-3 1914 年における大国の国民所得、人口、1 人当たり所得 1914 年時点の石炭、石油、銅、銑鉄、鉄鋼などほとんどすべての統計をみても、アメリ
カの産出高も消費量も別格であるので省略するが、たとえば、自動車は生産量でも保有量で
2473
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) も、残りの世界のすべてを合わせたよりも多かった(1908 年に T 型フォードの量産がはじ
まっていた)。 第 1 次世界大戦直前のロシアとアメリカの間には同じ大国であっても大きな違いがあっ
た。ロシアはアメリカの 10 倍の第 1 線部隊を保有していた。だが、アメリカの鉄鋼生産は
ロシアの 6 倍、エネルギー消費量は 10 倍、工業総生産高は 4 倍(1 人当りの生産性は 6 倍)
に達していた。しかし、当時のヨーロッパ諸国の参謀本部の将校たちは、次の戦争は大量の
現有部隊を投入しての短期決戦を予想していたから、ロシアのほうが強力な国家だと考え
ていたようである。 アメリカは経済的には確実に世界の大国の仲間入りをしていた。しかし、まだ政治的に
は大国システムのなかには組み込まれていなかった。アメリカは大洋によって他の大国か
ら何千マイルも隔てられ、ほとんど取るに足りない陸軍しかなく、西半球に確立した支配
権に満足していると見なされていた。ヨーロッパの大国は 1906 年以降、関心をアジアやア
フリカからバルカン半島と北海の新情勢に向けるようになっていたが、アメリカを国際的
な力関係の重要な要素とみなしてはいなかった。アメリカは、1913 年当時にはまだ大国シ
ステムの周縁にいた。しかし、1914 年からの大戦によって、それが誤りであることが証明
されることになるのである。 ○アメリカの帝国主義的海外進出 アメリカは、南北戦争後、鉄鋼・石油業を中心に資本主義がめざましく発展した。19 世
紀末には、工業生産力はイギリスをぬいて世界一となっていた。経済発展にともない企業
の集中・独占が急速に進展した。ロックフェラーやモルガンなどの大財閥が形成され、政
権と結びついてさまざまな弊害を生んだ。財界と結んだ共和党の金権政治が横行した。 この独占の弊害を防ぐために、上院議員シャーマンの報告にもとづき、1890 年にシャー
マン・反トラスト法が成立したが、持株会社の設立をまねくなど不満な点が多く、実効力
は小さかった。共和党のセオドル・ルーズベルト(在位:1901~09 年)は、革新主義の政治
をはじめ、独占の弊害をなくすために、反トラスト法の強化や労働者の保護につとめた。
この政策は、民主党のウィルソン大統領(在位:1913~21 年)にうけつがれた。 アメリカは、国内に、帝国・植民地構造に似た構造を温存し、西部にフロンティアをも
っていて、外交的には、西半球以外には、不干渉の政策(モンロー主義)を標榜していた
が、1890 年代にはいって、西部開拓時代の終焉によって、アメリカ人は更なるフロンティ
アを海外へ求め、
「外に目を向けなければならない」という意識が起こってきた。1889 年に
汎アメリカ会議が開催され、この力がアメリカのラテンアメリカ進出を促すようになった。 2474
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) さらに、ヨーロッパ列強の帝国主義にあおられて、1899 年には、国務長官ジョン・ヘイ
が門戸開放宣言を発して、中国市場での(列強の)機会均等などをとなえて、海外、とく
に太平洋、アジア方面に介入をはじめた。 ○ハワイの併合 1898 年にハワイ王国をなし崩し的に併合、領土を太平洋にまで拡大し、こぞって太平洋
上の島々へ移住していった(図 15-16 参照)。 図 15-16 太平洋の分割 ハワイはそれぞれの地方ごとに有力者が統治していたが、カメハメハ 1 世(1758~1819
年)は白人から入手した武器を利用して領土を広げ、1795 年にハワイ王国の建国を宣言し、
1810 年に全ハワイ諸島を統一した。以後、初代国王カメハメハ 1 世とその息子であるカメ
ハメハ 2 世とカメハメハ 3 世の 3 代によって統治された。 カメハメハ 3 世の治世の 1840 年に憲法が制定され、近代国家としての体裁が整うと各国
が相次いでハワイ王国を承認し、名実ともに独立国家として認められるようになった。憲
法制定に当たっては、特にイギリスを手本にしたとされている。 2475
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) カメハメハ 5 世は王女パウアヒを呼び出して王冠を託したが、彼女にはすでに家庭があ
り、即位を拒否した。1872 年、カメハメハ 5 世は代わりの後継者を指名する前に死去した。 カメハメハ 5 世の死後、ハワイ王国の司法府は国王選挙の実施を宣言し、議会での選挙で
ルナリロが国王に選ばれた。 ルナリロもまたカメハメハ 5 世と同じように後継者を指名せず、即位から 1 年余りで不
慮の死去を遂げたため、ハワイ王国の司法府は再び国王選挙の実施を宣言した。この選挙
は激しい中傷合戦となり、ハワイにおいてもっとも汚らしい選挙といわれた。 選挙の結果、カラカウアが国王に選ばれた。カラカウアは王位継承に関する混乱を防ぐ
ため、あらかじめリリウオカラニを後継者に指名した。 アメリカ合衆国からの入植者が増え、サトウキビ栽培や輸出などによって経済的にも力
をつけはじめると、より親米的な政治を求める声が特に経済界から強くなった。1887 年に
クーデターが起こり、カラカウアは修正憲法(銃剣憲法)の成立を承認せざるを得なくな
ったが、この修正憲法によって国王の権限は制限され、ハワイ王国は対米従属を余儀なく
された。 1891 年、カラカウアが渡米先のサンフランシスコで客死すると、リリウオカラニは女王
として即位、共和制派との対決姿勢を強めた。 1893 年 1 月 16 日、アメリカ合衆国と関連の深いサトウキビを扱う業者らがさらに親米的
な政権を打ち立てるため、政権の転覆を計画した。アメリカ海軍艦 USS ボストンは、首謀
者サンフォード・ドールとロリン・A・サーストンを保護する名目でホノルルに到着し、リ
リウオカラニは幽閉状態となった。 1 月 17 日、ドールはハワイ臨時政府を打ち立て、王政の廃止を宣言した。翌 1894 年 7 月
4 日、ドールはハワイ共和国の成立を宣言し、同国の最初で最後の大統領となった。1895
年 1 月に王党派による最後の大規模な武力蜂起が起きたが鎮圧され、1 月 16 日にはリリウ
オカラニも私邸から大量の武器が発見されたという理由で逮捕され、廃位された。 ドールはハワイをアメリカ合衆国に併合する条約を作り、この条約が成立したときハワ
イ準州の初代知事に任命された。1898 年 8 月 12 日、時のアメリカ合衆国大統領ウィリアム・
マッキンリーはハワイのアメリカ合衆国領への編入を宣言し、同日、イオラニ宮殿に掲げ
られていたハワイ王国国旗が降ろされて星条旗が揚げられた。この時、古来のハワイ住民
らは悲しみの声をあげたという。これによりハワイはアメリカ合衆国の準州として編入さ
れ、王国の約 100 年間の歴史は完全に幕を閉じた。 1959 年 8 月 21 日には完全なアメリカ合衆国領としてハワイ州が成立し、今ではアメリカ
合衆国 50 番目の州として認知されている。1993 年 11 月、アメリカ合衆国議会はハワイ併
合に至る過程が違法だったと認め、公式に謝罪する両院合同決議をした。 2476
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ハワイ王国併合の話を終え、アメリカの太平洋進出の話に返る。 ○米西戦争、米比戦争 アメリカは、ハワイを併合した 1898 年、スペイン領キューバの独立戦争に便乗し、軍船
「メイン号」爆発事件を契機として(この爆発の原因は不明であることは記した)、スペイ
ンとの間で米西戦争を起こした。米西戦争とそれに続く米比戦争に勝利すると、中米の多
くの国からスペイン勢力を駆逐して経済植民地(バナナ共和国)とし、キューバを保護国
にし、プエルトリコを植民地にした((図 15-17 参照)。さらに図 15-16 のようにスペイ
ンよりフィリピン、グアム島を獲得して植民地とした。 フィリピンは、フィリピンの歴史で述べたように、最初、スペインの植民地であった。
1898 年 4 月、米西戦争が起こるとフィリピンのアギナルド(1869~1964 年)はアメリカ軍
の援助で帰国し、独立を宣言して大統領となった(1898 年 6 月)。 アギナルドはアメリカ
軍に協力することによって独立の承認を得ることを期待していたがアメリカに裏切られた。
アメリカはスペインから直接フィリピンの統治権を譲り受け(2000 万ドルで買収)、フィ
リピンの独立を認めなかった。 図 15-17 西インド諸島の分割 そのためアギナルドは 1899 年 1 月憲法を発布してフィリピン共和国の大統領となり、独
立を目ざして反米武力闘争にふみきったが、1901 年にアメリカ軍に捕らえられ、釈放後は
政治的活動から引退した。 フィリピンの独立運動はその後も続いたが、1902 年 4 月までに
は鎮圧され、フィリピンはアメリカの植民地となった。 2477
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) こうしてアメリカ合衆国は、いまや東アジアにおいて無視できない有力な帝国主義国家
として登場してきた。 ○中国への進出 中国においては、ヨーロッパ列強と日本によって中国分割が進もうとしていたので、1899
年に国務長官ジョン・ヘイは清の門戸開放・機会平等・領土保全の 3 原則を提唱し、中国
市場への進出を狙った。このような外交活動と歩調を合わせて、アメリカの軍事費も増大し
たが、防衛費にまわされる額は国民総生産の 1%に満たなかった(現在の日本と同じ)。 1900 年の義和団事件に際し、重ねて中国の第 2 次門戸開放通牒を各国に送った。義和団事
件に対する連合国としての出兵行動とあわせて、アメリカはこの 2 度の門戸開放通牒を通
して、存在感を強め、現実に図 14-51 のように、遅ればせながら清国から広三鉄道などの
利権を獲得した。 もとより、アメリカのそうした東アジア地域への関心は、その後ロシア、さらに日本と衝
突した。また中国との関係も、決して親密でも、また安定したものであったわけでもない。
しかし、重要なことは 19 世紀末から 20 世紀初頭の時期にアメリカ合衆国は、東アジアの国
際関係においてもはや無視できない国家のひとつになったという事実である。 ○アメリカのラテンアメリカ支配 中南米のラテンアメリカは、19 世紀後半になっても、①遅れた農業国で、大土地所有制
が残り、貧富の差が大きかった、②独裁政治の傾向が強く、政変が多く国際紛争にまきこ
まれることが多いため、政情は不安定だった、③ヨーロッパからの移民も多く、民族構成
が複雑だった、④メキシコ・中米にはアメリカ、南米はイギリスが進出して影響力を強め
ていた、という特色があった。 1826 年にボリバルの主唱によって開かれた中南米会議を引き継ぐかたちで、汎米会議が
開かれるようなった。もとスペイン領のラテンアメリカ諸国が団結と共同防衛のために開
いた会議であった。1889 年、はじめてアメリカ合衆国が会議を主催したが、これ以後、汎
米会議(パン・アメリカ会議)はアメリカ合衆国の影響力が強まっていった。事実上、ア
メリカの中南米政策展開の場となった(1948 年に米州機構(OAS)に改編された)。 また、前述したように 1898 年、キューバのスペインからの独立反乱にアメリカ合衆国が
介入し、米西戦争(アメリカ・スペイン戦争)を起こし、この戦争に勝利した合衆国は、
キューバの憲法に自国の干渉を規定したプラット条項を入れさせ、保護国とし、また、ス
ペインからフィリピン、プエリトリコ、グアムを獲得したことは述べた。 この米西戦争のころより、アメリカのモンロー主義はしだいに拡大解釈され、パン・ア
メリカ主義のもとに、ラテンアメリカ進出を正当化するものとなった。19 世紀末より、カ
リブ海をアメリカ合衆国の内海(うちうみ)にしようとするカリブ海政策が進められた。 2478
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) セオドル・ルーズベルト大統領(在位:1901~1909 年)は、ビッグ・スティック・ディ
プロマシー(棍棒外交)といわれる強硬外交を進め、自国の権益をまもるためにたびたび
海兵隊を派遣した。セオドル・ルーズベルトが主張したことは、アメリカは西半球に、欧
州諸国が介入するのを妨げる権利のみならず、砲艦外交をちらつかせる権利を持つといっ
た。 この外交方針により、アメリカ合衆国海軍が拡張され、現実にセオドル・ルーズベルト
は、これらの地域で反乱などが起こるたびに棍棒をふるって武力干渉した。たとえば、20
世紀はじめ、アメリカは、1903 年から 1905 年にかけて、ドミニカ共和国の債務超過により
フランスが干渉する恐れがあったとき、ドミニカ共和国を救済した。 1906 年からキューバ
を 28 ヶ月間、アメリカの占領下に置いた。 また、1903 年にパナマをコロンビアから独立させ、パナマ運河の工事権と租借権を獲得
し(図 15-17 参照)、国内東西物流の安定を目的としたシーレーンを確保するため、パナ
マ運河の建設に着工した。2 万人以上の死者と 10 年の工事を経て、果ては工兵まで投入し
て 1914 年に完成させ、パナマから運河地帯の永久租借権を獲得した。 このセオドル・ルーズベルトの棍棒外交は、彼の後継であるウィリアム・タフト大統領
(在位:1909~1913 年)に引き継がれ、経済を重視したドル外交でラテンアメリカへの進出
をはかった。 【15-3-11】日本 ○日本の朝鮮・中国への帝国主義的進出 1854 年に鎖国を止めたばかりの日本であったが、アジア諸国が列強の植民地や支配下に
置かれる中にあって、開国後、急激な富国強兵策をとった結果、列強の最後尾につくこと
ができるようになった。 台湾出兵(1874 年)、朝鮮に対する不平等条約(江華島条約)の強制、さらには日清戦
争(1894~95 年)など、日本は、「帝国主義」を実践する列強の一角に加わった。日清戦
争に勝利し、その下関条約(1895 年)によって、領土として、図 14-29 のように、遼東半
島、台湾、澎湖諸島の割譲、賠償金 2 億両(3 億 1 千万円)の獲得、重慶・長沙・蘇州・杭
州の 4 港開港を清に認めさせた。しかし、ロシア、ドイツ、フランスが介入(「三国干渉」)
して、遼東半島は返還させられた(代償として 3000 万両を獲得)結果、日本は一歩後退し
た。 日清戦争終了後、ロシア帝国は清に圧力をかけ、遼東半島の旅順、大連を租借した。ま
た、シベリア鉄道及びその支線である東清鉄道を建設し南下政策を進めていった。とりわ
2479
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) け、1900 年の義和団事件以降、ロシアは満州に軍隊を駐留させ、利権を確保していった。
日本はロシアの動きを牽制すべく、1902 年には、日英同盟を締結した。 その後、1904 年、満州、朝鮮半島の利害が対立したロシア帝国相手に日露戦争が勃発し
た。陸軍は遼東半島上陸後、旅順攻囲戦、奉天会戦と圧倒的物量で上回るロシア陸軍を辛
うじて後退させることに成功した。一方、海軍は最終的には日本海海戦でロシアのバルチ
ック艦隊を撃滅した。ロシアは、なお陸軍は維持していたが、海軍力の大半を失い、国内
でも革命運動が進行していたため講和に傾いた。日本も長期戦には耐えうる経済力を持っ
ていなかったので、外相小村寿太郎は米大統領セオドル・ルーズベルトに仲介を頼み、講
和に持ち込んだ。 1906 年、日本は、日露戦争を終結させたポーツマス条約により、ロシアは日本の韓国に
おいての政治・軍事・経済の優先権を認めること、図 14-29 のように、清領内の旅順、大
連の租借権及び、長春以南の鉄道とその付属の権利を日本に譲渡すること、北緯 50 度以南
の樺太(すなわち南樺太)とその付属の諸島を譲渡すること、 オホーツク海、ベーリング
海の漁業権を日本に認めることなどを勝ち得た。そして日本はポーツマス条約で獲得した
遼東半島南部(関東州)に関東都督府を設置した。また、長春以南の東清鉄道を南満州鉄
道とし、南満州鉄道株式会社(満鉄)を設置した。 その後、1909 年 7 月、第 2 次桂内閣が韓国併合を閣議決定した。1909 年 10 月 26 日、伊
藤博文はロシアとの会談を行うため渡満し、ハルピンに到着した際、大韓帝国の独立運動
家・安重根に暗殺された。日本は 1910 年には日韓併合条約を結び、大韓帝国を併合し、図
14-29 のように、ここに諸列強と並び、日本周辺に多くの植民地をもつ帝国主義国家にの
し上がった。 ○日本を含む列強による中国の半植民地化 「眠れる獅子」と畏れられた清が、新興国日本に敗北する様子を見た欧州列強は、図 14
-51、表 14-4 のように鉄道と租借地を中心に自国の勢力圏を設定した。すなわち、東三
省(盛京・吉林・黒龍江の三省)・旅順と大連の租借地・モンゴル・トルキスタンに対する
ロシア、山東省・青島(膠州湾租借地)に対するドイツ、香港の九龍半島と威海衛と長江
流域に対するイギリス、台湾の対岸である福建省に対する日本、ベトナムに隣接する広西
省・広州湾に対するフランス、武漢と広州を結ぶ粤漢線(えつかんせん)の敷設権を獲得
したアメリカという具合に勢力圏を設定していった。その上で、列強は自国の勢力圏内で
は他国に権益を譲渡しないことを清朝に承認させた。 このように,日本を含む欧米列強は中国の半植民地化、中国権益の分割を積極的に進め
て行った。 2480
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 【15-4】第 1 次世界大戦 (1914~1918 年) 【15-4-1】第 1 次世界大戦の勃発 【①サライェヴォ事件と大戦の勃発】 ○ボスニアのサライェヴォ そもそもボスニア(図 15-14,図 15-15 参照)では、12 世紀から 15 世紀にかけてボス
ニア王国が建国され、隣接するセルビア王国やクロアチア王国とは異なり、地域を基盤と
する「ボスニア人」意識がつくられた。 その後、15 世紀後半から 400 年に及ぶオスマン帝国のボスニア統治が継続し、キリスト
教からイスラムへの大量改宗がみられた。ムスリム地主とキリスト教徒農民という社会構
造が定着したが、「ボスニア人」意識が消滅したわけではなかった。 1878 年、露土戦争後のベルリン条約で、ボスニアの行政権はカトリックの国であるハプス
ブルク帝国(オーストリア・ハンガリー帝国)に移行した。ハプスブルク帝国はボスニア
を軍事占領下におき、旧来の社会構造を変えることなく、一定の近代化を進めた。 オスマン帝国は近代になると全く時代にあわなくなり、ヨーロッパ列強ばかりでなく、
セルビアなどの周辺諸国からも「瀕死の病人」と見られ、よってたかって食い散らされそ
うになっていたことは述べてきたところであるが、オーストリア・ハンガリー帝国も一皮
むけば、そのような傾向をもっていた。中世や近世の強勢さは外見ばかりとなっていたと
いえよう。 プロイセンによって神聖ローマ帝国は解体され、
(残りを集めて)1867 年、オーストリア・
ハンガリー帝国が誕生したが、ハプスブルク家の家長はオーストリア皇帝とハンガリー王
を兼任し、ハンガリーは軍事・外交・財政を除く広範な自治権を得た。しかしこの大規模
な改革によってすら、帝国内の複雑な民族問題が解決されるには至らなかった。図 15-14
のように、当時の帝国内には 9 言語を話す 16 の主要な民族グループ、および 5 つの主な宗
教が複雑に入り組んでいた。末期のオスマン帝国あるいは、後のユーゴスラビアのように
あやうい多民族の集合体にすぎなかった。 オーストリア・ハンガリー帝国の最大の関心は東方問題にあった。帝国各地で台頭する
スラブ人の民族主義運動は、帝国政府を主導するドイツ人(オーストリアの主民族はドイ
ツ人)とマジャール人(ハンガリー人)にとって悩みの種だった。1912 年から 1913 年にか
けて行われたバルカン戦争の結果、隣国のスラブ人国家であるセルビアの領土が約 2 倍に
拡張され、帝国は国内のスラブ民族運動をさらに警戒する必要に迫られた。 一方でセルビア人民族主義者は、オーストリア・ハンガリー帝国の南部(つまり、ボス
ニア地域)は将来の南スラブ連合国家に吸収されるべきだと考えていた。この冒険的で危
険な南スラブ民族主義に対して、自らスラブ人の守護者を任ずるロシアは一定の支持を与
2481
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) えていた。オーストリア・ハンガリー帝国政府は、スラブ人民族主義運動が他の民族グル
ープへと伝播し、さらにロシアが介入する事態を危惧していた。 このようにしてできたボスニアは民族の混住地として知られており、なかでも首都サラ
イェヴォはその典型的な都市であった(サライェヴォは、戦後の旧ユーゴスラヴィアのボ
スニア・ヘルチェゴヴィナ共和国の首都であった)。この時期に、隣接する近代セルビア
王国やハプスブルク帝国内のクロアチアから、ボスニアの正教徒やカトリック教徒に対す
る民族的な働きかけが活発になった。正教徒はセルビア人、カトリックはクロアチア人と
いった民族意識が強く浸透しはじめた。ムスリムも宗教を基盤として、民族意識を強めた。 ムスリム、セルビア人、クロアチア人の 3 者は言語を同じくし、外見から区別すること
はできない。あえてちがいを上げるとすれば、イスラムか正教かカトリックかといった宗
教の相違しかなかった(当時の民族構成はわからないが、旧ユーゴスラヴィア崩壊直前の
1991 年の国勢調査によると、人口 53 万人のサライェヴォの民族構成は、ムスリムが 49%、
セルビア人が 30%、クロアチア人が 17%、ユーゴスラヴィア人(戦後の社会主義体制下で
形成された統合的な民族概念)が 11%であった)。 ○汎スラブ主義と汎ゲルマン主義のぶつかる町サライェヴォ ちょうど、今から約 100 年前のボスニアである。ボスニアの青年たちのあいだには、こ
うした相違を超えてボスニアの一体性を保持しつつ(オーストリア・ハンガリー帝国から
の)解放を成し遂げ、共和制にもとづく南スラブの統一をめざす運動が展開された。 当時、バルカンではロシア帝国を後ろ盾とする汎スラブ主義とオーストリア帝国・ドイ
ツ帝国の支援を受ける汎ゲルマン主義が対立し、ゲルマン民族であるオーストリアの占領
下にありながら人口の大半がスラブ系であるボスニアでは、すでにオスマン帝国から独立
していた同じスラブ系のセルビア王国への併合を求める大セルビア主義が台頭していた。 「青年ボスニア」と称されるこの運動は強力な指導者のもとに形成されたものではなく、
学生や生徒が中心となり、サライェヴォをはじめとするボスニアの諸都市で文学・政治サ
ークルとして活動を行っていた。彼らはハプスブルク帝国(オーストリア・ハンガリー二
重帝国)の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻がボスニアに駐留するハプス
ブルク帝国軍の演習を観閲するため、サライェヴォを訪問することが決定されると、大公
の暗殺計画を立てた。 オーストリア当局はセルビアにとり重要な祝日である聖ウィトゥスの日の 6 月 28 日をフ
ェルディナント大公のサラエヴォ訪問の当日に設定した。この日はまた、1389 年にセルビ
アがオスマン帝国に敗北を喫したコソボの戦い(1389 年、セルビア王国はオスマン帝国の
ムラト 1 世に大敗し、以後、その支配に服した。ムラト 1 世は謁見時にセルビア貴族に刺
2482
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 殺された)の記念日でもあったため、皇太子夫妻の訪問はセルビア人の神経を逆撫でする
結果ともなった。 フランツ・フェルディナントは帝国再建の夢を抱いていたが、それは国籍の異なった諸
民族が「奴隷」として一本化されるのではなく、連邦を形成するという形態を理想としてい
た。しかしながら、ボスニア内部のスラブ人にとって彼は抑圧のシンボルでしかなく、更
に彼の暗殺を企んだ民族主義者たちにとって、より巨大な「ユーゴ・スラブ帝国」を建設
しようとする彼らの目論見を潰す恐れもあり、憎悪されるべき存在であった。 ○サライェヴォ事件 1914 年 6 月 28 日、大公夫妻歓迎の群衆に紛れてサライェヴォの市街に武器を携えて待ち
かまえていたのは、プリンツィプのほかに 6 人であった。これら7人の若い刺客はセルビ
ア人だけでなく、ムスリムもクロアチア人もいた。暗殺を実行したとされる犯人グループ
はセルビア軍の陸軍将校を中心とした秘密組織である黒手組から拳銃と爆弾を受け取って
いた。黒手組がどの程度暗殺事件に関与していたのかについては議論の余地があるが(セ
ルビア政府が暗殺に関与したことを示す証拠は見つかっていない)、黒手組が実行犯たち
に武器と自決用の青酸化合物を手渡したことには疑問の余地はないといわれている。 大公夫妻の車がやってきた。最初の犯人グループが爆弾を大公の乗る車に投げつけた。
しかし、狙いが逸(そ)れて爆発し、後続の車が被害を受けた。フルスピードで市庁舎に
到着したフェルディナント大公は予定を変更し、爆発で怪我をした者を見舞いに病院へ向
かった。 犯人グループの 1 人プリンツィプは食事をとろうとある店に立ち寄っていたとき、何と
病院へと向かう大公の車がそこにいるではないか。ちょうどその店の前の交差点で道を誤
り、方向転換をしている車に大公が乗っていることに気づいたプリンツィプは、思わずピ
ストルを取り出し、車に駆け寄って 1 発目を妃ゾフィーの腹部に、2 発目を大公の首に撃ち
込んだ。大公夫妻はボスニア総督官邸に送られたが、2 人とも死亡した。警備はまったくズ
サンであった。このサライェヴォ事件は偶然に偶然が重なって起きてしまった。 サライェヴォでのフランツ・フェルディナント夫妻の暗殺は、オーストリアを憤慨させた。
だがそれは皇位継承者の不慮の死を悼(いた)むというより、暗殺の背後にいると思われ
たセルビアに対する敵意からであった。スラブ系民族の自立運動に動揺していたオースト
リア支配層は、これを機会にセルビアとの戦争に勝利し、多民族帝国のたがを引き締め、
列強としての体面を守ろうとする強硬論が優位に立った。 とはいっても、セルビアの守護者を自任するロシアの存在を考えれば、オーストリア単
独では戦争はできない。同盟国ドイツの支持の保証が必要であった。7月初め、ドイツの
2483
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 意向を確認する使者がベルリンに派遣された。ヴィルヘルム 2 世とベートマン・ホルヴェ
ーク宰相は、オーストリアを無条件で支持するというという重大な確約を与えた。 ドイツは、戦争がオーストリア・セルビア間に局地化されれば、オーストリアの勝利は
確実であり、当てになる唯一の同盟国オーストリアは安定し、三国協商側は打撃を受ける
だろうし、ロシアが参戦しても、ドイツはロシア、フランスとの戦争のリスクは引き受けら
れると考えていた(この判断が大問題であった)。ドイツは両面作戦のシュリーフェン計
画を密かに持っていた。しかし、ドイツが考えた最悪の場合もそこまでであった(イギリ
スが参戦することまでは考えていなかった)。 むしろ列強介入前に既成事実をつくるため、ドイツはオーストリアに行動を急ぐように
圧力をかけた。つまり、ドイツはこの事件を口実にして,この際、懸案事項の決着をつけ
ることがよいとも考えたようである。それには戦争に勝てるという自信があったからに相
違ない。その自信の根拠がシュリーフェン計画であった。 ○シュリーフェン計画 1894 年の露仏同盟(図 15-12 参照。三国同盟から一方の当事国が攻撃を受けた場合、他
方の国が軍事的支援を行うことが定められていた)の成立によって国土の両端を敵に挟ま
れたドイツは、対フランス・対ロシアの 2 正面作戦に直面する可能性が出てきた。そこで、
ドイツ参謀総長アルフレート・フォン・シュリーフェン(在職:1891~1905 年)は、2 正
面作戦に勝利するための手段としてシュリーフェン計画を立案した。 この戦争計画は、広大なロシアが総動員完結までに要する時間差を利用するもので(シ
ュリーフェンは一昔前のロシアを前提にしていたので、総動員にはかなり時間がかかると
見ていたが、ロシアもすでに鉄道時代に入っていたことを考慮していなかった)、ロシアが
総動員を発令したならば、図 15-18 のように、直ちに中立国ベルギーを侵略してフランス
軍の背後に回りこみ、対仏戦争に早期に勝利し(計画では 1 ヶ月半で)、その後、反転して
ロシアを叩く計画だった。 ドイツ参謀本部は大モルトケの普墺戦争、普仏戦争以来、電撃作戦を得意としており,
シュリーフェン作戦もそれに則って作成されたが、1890 年代に入るとロシアでも産業革命
が進展し、鉄道敷設距離は長大となっていた。この計画は 1906 年に小モルトケによって手
直しはされていたが、当初のシュリーフェン計画作成から第 1 次世界大戦がはじまる時点
までには 20 年経っていた(栄光の普仏戦争勝利からは 44 年経っていた。日本軍が栄光の
日露戦争勝利の突撃・大艦巨砲主義を 35 年後の太平洋戦争にもちこんだと同じ状況が起き
たのではないか。このように戦略家はかならず前の戦争の状況をもとに自軍に好都合な戦
略を立てるので、技術進歩の激しい時代には、いつでも予想を見誤るものである)。 2484
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 図 15-18 シェリーフェン計画 しかもシュリーフェン計画は、純軍事技術的側面を優先させて外交による戦争回避の努
力を無視し、また中立国ベルギーを侵犯することによる国際的汚名やイギリスの参戦を招
く危険性がありながら押し通すというものだった。多分、両面作戦に勝利するには、この
ような計画でしか、ありえないとシュリーフェンは考えただろうが、その計画をいつのま
にか「不敗のドイツ」神話が必勝計画に変えてしまったのだろう(ちょうど山本五十六が
対米戦争には反対であったが、どうしてもやるなら真珠湾攻撃計画しかないと立てた計画
と同じようであったのだろう。為政者(政治家)は、中身はよくわからず(吟味せず)、我
が専門家が大丈夫と言っているから(責任転嫁にすぎない)大丈夫だといいきるものであ
る。これは現在の官僚機構においても同じである。政治家はわが国の専門家が原発は安全
だと言っているから安全だと責任転嫁をする。本当に安全かどうかを確かめよういう努力
もしない)。 シュリーフェン・プランがもつ本質的な弱点を知らない皇帝・官僚(外交官・軍人)が
過大に評価し、
(強力とみられた軍事力は強硬な外交を生み出す)強気の外交を進め、ドイ
2485
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ツを世界規模の大戦争へと突き落とす可能性の高い、きわめて危険な戦争計画でもあった
ことが今ではわかっている(ドイツはこの計画に従って、8 月 1 日にロシアに対して宣戦布
告し、さらに 3 日にはフランスに対して宣戦布告した。露仏同盟はあったが、フランスが
どう出るかわからないうちにドイツの方から宣戦布告したのは、シュリーフェン計画によ
り、早期にフランスを叩く必要があったからである。これでは本末転倒もはなはだしく、
外交もなにもあったものでなく、作戦マニュアルにしたがって、ことを進めるために対仏
宣戦を布告したのである)。 ○第 1 次世界大戦の勃発 ドイツ参戦の確約をもらうと、オーストリアのレオポルト・フォン・ベルヒトルト外相
は懲罰的な対セルビア戦を目論み、7 月 23 日セルビア政府に 10 ヶ条のいわゆるオーストリ
ア最後通牒を送付して 48 時間以内の無条件受け入れを要求した。セルビア政府はオースト
リア官憲を事件の容疑者の司法手続きに参加させることを除き(これは国権に関わる問題
である)、要求に同意したが、オーストリアはセルビアの条件付き承諾に対し納得せず(む
しろセルビアが絶対のめない条件をこいに入れて)、7 月 25 日に国交断絶に踏み切った。そ
して躊躇するイシュトヴァーン・ティサ首相と皇帝の反対を押し切る形で、7 月 28 日にセ
ルビアに対する宣戦布告が行われた。 7月 23 日のオーストリアの最後通牒が公表されると、ヨーロッパ諸国ははじめて戦争の
危険を認識した。第 2 インターナショナルが各国社会主義政党、労働運動組織に反戦行動
を呼びかけ、それにこたえてドイツ、フランスなどで反戦デモが組織されたのはこの後か
らであった。現実分析にすぐれていたレーニン(スイスに亡命していた)ですら戦争を予
想できず、夏期休暇をオーストリア領で過ごしていたところで、開戦後、敵国人として抑
留される始末であったから、戦争が起きるとは誰も思っていなかったのは確かだった。 前述したように、セルビア政府は大部分の条件を受けいれたが、主権抵触条項は拒否した。
1914 年 7 月 28 日オーストリアは無条件での受諾を求める事前の通告通りセルビアに対して
宣戦を布告し、これをきっかけとして戦争が勃発した(しかし、このときは世界大戦にな
るとは誰も思っていなかった)。 直ちにロシアは対オーストリア戦を決断し、オーストリア戦線のみへの部分的動員令を
下そうとしたが、ロシア帝国軍は皇帝ニコライ 2 世に対して部分的動員は不可能であると
の意見を具申し、7 月 31 日には総動員が下令された。 これでロシアがセルビア支援を明確にすると、ドイツは戦争を覚悟し、ロシアが総動員
令を布告した翌日、8 月 1 日、ヴィルヘルム 2 世はロシアに対して宣戦布告し、さらに 3 日
にはフランスに対して宣戦布告した。 2486
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ドイツによる突然の挑戦に直面したフランスは、総動員を下令し、対ドイツ戦を想定し
たプラン 17 と称される戦争計画を発動した。フランスは 1871 年の敗戦でアルザス・ロレ
ーヌを奪われたので、その奪還をめざす対独戦計画はあった。1911 年につくったプラン 17
はアルザス・ロレーヌへの急襲をもくろんだものだった。8 月 4 日、フランス首相ヴィヴィ
アンは、議会に戦争遂行のための「神聖同盟」の結成を呼びかけた。この議案は全会一致
で可決され、議会は全権委任の挙国一致体制を承認した。 ○イギリスの参戦 ドイツは計画通り、ベルギー侵攻を開始した。ドーヴァー海峡を挟んでベルギーと向か
いあうイギリスは、参戦をめぐって賛否が分れ、必ずしも最初から参戦が決定していたわ
けではなかったが、ドイツが中立国ベルギーを侵攻したことで、8 月 4 日にドイツに対し宣
戦布告を行った。こうしてドイツはイギリスの中立化に失敗した(戦争の帰趨をきめるか
もしれないイギリスの参戦を阻止するための外交努力は行われなかった)。このようにし
てヨーロッパにおける 5 列強がすべて戦争に突入したのであるから、大戦が勃発したとい
えよう。 各国の参謀たちは、スピードがすべてを決すると考えていた。衝突のきざしがあれば、
ただちに敵の機先を制して兵力を動員し、国境地帯にさし向けて相手側に乗り込ませるこ
とが肝要だと考えていた。とくにドイツ軍は西部戦線で速く勝利を得て、東部戦線へ向かう
必要があったから、なおさらスピードが重要だった。そこには外交官が出る幕はなかった。
戦略策定者が幅をきかせることとなったのである。 イギリスとベルギーは因縁浅からぬ仲だった。イギリスは自国の安全保障の観点から、
伝統的にグレートブリテン島対岸の低地諸国(ネーデルラント)を中立化させる政策を実
行してきた。1839 年のロンドン条約において、イギリスはベルギーを独立させ(イギリス
はオランダと覇権を争ったので、オランダからベルギーを独立させた)、それ以来、その中
立を保証してきた。 1839 年の古証文ではあるが、ベルギーの中立自体はイギリス・フランス・プロイセン・
オーストリア・ロシアにより保証されていた。イギリスは、フランスとドイツの間で戦争
が発生した場合に、もしベルギーの中立が侵犯されれば、先に侵犯した側の相手側に立っ
て参戦すると常々表明していた(軍事専門家がつくったシュリーフェン計画には、このイ
ギリス参戦のおそれが組み入れられていない。この計画を承認した為政者(政治家)がこ
れを無視したことは全く奢りとしかいいようがない)。 シュリーフェン計画立案後の国際環境は大きく変わっていた。ドイツの国力の伸張によ
り、次第にイギリスとドイツとの対立関係が深まっていった。イギリスとドイツは海上に
おける覇権を競って激しい建艦競争を繰り広げた。イギリスは覇権維持のため、1904 年に
2487
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) フランスとの長年の対立関係(百年戦争、植民地戦争、ナポレオン戦争など数百年にわた
る対立)を解消して英仏協商を締結し、他にも 1902 年に日英同盟を、1907 年に英露協商を
締結した。 こうしてヨーロッパ列強は、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と、イギリス・
フランス・ロシアの三国協商との対立を軸とし、さらに多数の地域的な対立を抱えるとい
う複雑な国際関係を形成していた。イギリスが協商側にたって参戦することは十分可能性
のあることだった。 その点でもシュリーフェン計画一本に頼ったドイツの開戦はきわめて安易な決定だった
といえよう。当初のドイツ参謀本部は、クラウゼヴィッツの「戦争とは、他の手段をもっ
てする政治の延長である」であるという言葉のごとく、まず、政治ありき、外交ありき、
であり、その「政治の延長で」戦争となれば、戦争の専門家として参謀本部が出て行くとい
うものであったが、30~40 年たった参謀本部はまさに官僚化し、まず、シュリーフェン計
画あり、戦争ありきで、戦争に支障がないように、政治・外交を切り捨ててしまった。ク
ラウゼヴィッツの言葉も逆に解釈されて、「戦争も政治である」となってしまった。 戦争への態度決定をめぐる混乱は、ドイツ、オーストリアの同盟国イタリアでも起こっ
た。三国同盟の規定では、イタリアはドイツがフランスと戦争した場合、ドイツ支援の三軍
団をライン地域に派遣することになっていた。これに従って、イタリアの参謀総長カドルノ
は軍団派遣を準備し、国王がそれを了承したが、8 月 2 日に政府は中立を発表した(後述)。 ○想定外の長期戦になった理由 1914 年 8 月、図 15-19 のように色分けされた。ドイツ、オーストリア・ハンガリー側(緑
色)とロシア、フランス、イギリス、セルビア側(橙色)の参戦諸国では、兵士たちが「落
ち葉の散るころ」「クリスマスまで」の帰還を信じ、続々と前線に向かった。彼らの頭の
なかには、砲声が響くなか、騎兵がサーベルをきらめかせ、兵士が銃剣で突撃する、何度
か激突はあるだろうが、何度か繰り返せばいずれ決着は見えてくる、古典的な戦場像しか
なかった(100 年前のナポレオン戦争が想定されていた。100 年前といえば、現時点で考え
れば、日露戦争をイメージすることと同じだった)。 なぜ、みんなが、このように短期戦と考えていたのに、実際には長期戦になったのか。
まず、複数の国が双方について戦う連合戦では、戦闘が長引く可能性もそれだけ高くなっ
ていた。一方の戦争当事国が攻撃によって決定的な打撃を受けても、その国の同盟国から
の支援を受けて立ち直ることがあるからだ。しかし、戦闘がはじまってすぐわかったこと
であるが、今度の戦争は武器が格段に高度になり、速射砲と機関銃によって機動戦が不可
能になり、多くの軍隊が塹壕に閉じ込められてほとんど動きがとれなくなることが予測で
きていなかった。 2488
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 図 15-19 第一次世界大戦中のヨーロッパ 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 それに双方とも産業革命後であり格段に向上した工業力により、砲弾・武器などが、そ
れも鉄道や自動車などで補給されるようになったこと、つまり、国民を総動員した総力戦
になってしまうことは想定されていなかった。 これと全く同じように、ヨーロッパの各国の海軍本部もきたるべき戦争を読みちがえて
おり、艦隊による決定的な衝突に備えていたものの、北海や地中海の地勢や、機雷や魚雷や
潜水艦などの新しい武器が伝統的な海上作戦を一変させることを正しく予測していなかっ
た。したがって、陸と海との両方において、戦争技術の進歩によって戦争が即決する可能
性はなくなったのである。 【②現実の戦場】 大戦は、ドイツ側の攻勢で進んだ。シュリーフェン計画に従って、ドイツ軍主力は図 15
-20 のように、西部国境に集結した。2 週間に 22 万両を超える鉄道輸送によって、160 万
人の兵員がケルンのライン川鉄橋を渡り、防備の少ない中立国ベルギーに侵入した。そこ
からフランスに進撃し、ドイツ・フランス国境地域に展開したフランス軍を背後から包囲、
降伏させようというのであった。開戦後 1 ヶ月は、ほぼ計画通りにいった。 2489
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 図 15-20 西部戦線 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 フランス政府は 9 月はじめ、危機の迫ったパリからボルドーに疎開した。フランス軍の
ジョッフル総司令官は、緒戦に敗北した軍団・師団司令官 140 人を罷免し、厳しい指揮で
防衛陣を立て直し、パリ防衛に全力をあげた。9 月のマルヌの戦いで「不敗のドイツ軍」は
ついに後退した。開戦 1 ヶ月半で、「電撃戦」のシュリーフェン計画は破綻した。現在で
は、シュリーフェン計画の失敗は、戦術や技術的な原因より、作戦計画そのものに無理があ
ったとみなされている。 まず、シュリーフェン計画では、ドイツ軍は 160 万人の軍が図 15-18 のように、いわば
半円を描くように、ベルギーからドイツ・フランス国境に(背後から)進撃することになっ
ていた。そのために円のもっとも外側の部隊は、酷暑のなか、武器弾薬・重い背嚢を背負
い、戦闘を交えながら、休むことなく 1 日 30~40 キロ以上を歩き通さなければならなかっ
た(この点については 1906 年に小モルトケがいくぶん修正していた)。しかも、これらの
兵士たちは、すばやくフランス軍に勝利したのち、すぐに東部戦線に転進して、(のろの
ろと動員された)ロシア軍と戦うことになっていた。しかし、もう計画でいう 1 ヶ月半は
過ぎてしまった。 この計画は少しでも狂うと、あとは打つ手がなかった。マルヌの戦いで前進がはばまれ
た。神経の細い小モルトケ参謀総長はショックから立ち直れず、ファルケンハインに後を
譲った。 弾薬消費量も予想をはるかに超えた。ドイツ軍は開戦 2 ヶ月で備蓄砲弾量を使い果たし、
砲弾不足の危機に立った。砲弾の節約命令が出され、砲の支援なしで、人間で立ち向かわ
なければならなくなった。ドイツの砲弾生産は 1914 年 8 月で月産約 15 万発、1915 年はじ
めにはほぼ 50 万発、1915 年なかばには 100 万発を超えたが、それでも足りなかった。 2490
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 事情はフランス側も同様で、フランス軍自慢の 75 ミリ野砲 3500 門に対し、国内の砲弾は
日産 1 万発(月産 30 万発)、つまり 1 日 1 門 3 発しかなかった。これでは戦争にならない。
このときには前線では 1 門で数百発以上を撃つ事態になっていたのにである。フランス側
も備蓄はたちまち消えてしまった。イギリスの砲弾生産は 1915 年なかばになっても、発注
量の 8%しか補充できなかった。つまり、このたびの戦争は、いずれの国も膨大な物量を必
要とすることを予想もしていなかったということである。 短期決戦とは、機動戦を基本に攻撃優先の戦術をとることであった。フランス軍が軽快
に移動できる 75 ミリ野砲を中心においたのも、この考えによっていた。砲の援護のもとに、
密集した兵士が突撃して敵を圧倒し、敵陣を占領する、これを繰り返すのであると考えて
いた。現実はどうであったろうか。ドイツの機関銃手は、夜になって突撃してくるフラン
ス兵を 100 メートルまで引き寄せて、機関銃で応射したら、まるで草が刈り取られるよう
になぎたおされた、夜が明けてみると機関銃の 100 メートル先に、200 人から 300 人の敵の
死傷者が横たわっていた、われわれは初めて機関銃の威力を目にしたと記している。 機関銃の前に突撃したのは、ドイツ兵も同じだった。こうした戦闘が続いた結果、1914 年
末で、ドイツ軍、フランス軍はすでにそれぞれ 68 万人、85 万人の死傷者を出した。開戦時
の軍の中核は 3 ヶ月で壊滅してしまった。将軍たちが思い描いていた戦争は、主戦場の西
部戦線では幻想でしかなかったことが明らかになってきた。もうシュリーフェンもなにも
あったものではなかった。塹壕を掘るしかなかった。塹壕を掘って攻防を繰り返す長期戦
になることが現実となってきた。 ○東ヨーロッパでの戦争 ドイツ、オーストリア側からみて東部戦線にあたるロシアとの戦争も、はじめから予測
がはずれた。ロシア軍の動員と進撃は予想以上に早かった。開戦後 2 週間もたたないうち
に、ロシア軍は防備の薄いドイツの東端部に侵入してきた。ロシアもこの時点では長大な
鉄道網を敷設していることをドイツ参謀本部はどう考えていたのだろうか。とてもフラン
ス戦線のドイツ軍を東部戦線にまわすシュリーフェン計画が実現できるはずはなかった。 それにドイツ、オーストリアとも長い同盟関係にあったにもかかわらず、戦前に具体的
な作戦の協議はなかった。戦争になってはじめて、おたがいに相手側がロシア軍を阻止し
てくれものと期待していたことがわかった。 小モルトケは、急遽、予備役にあった老将軍ヒンデンブルクを起用し、ベルギー戦で功績
をあげた参謀ルーデンドルフを派遣して、対応にあたらせた。動員の早かった分だけ、ロシ
ア軍の準備は不十分であった。8 月末から 9 月上旬のタンネンベルク、マズール湖沼周辺の
戦いで(図 15-19 参照)、ロシア軍は捕虜 12 万人を含む 25 万人を失って壊滅し、本国に
追い返された。この戦いでヒンデンブルクは、国民のあいだで一躍救国の英雄になった。 2491
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) この戦争では、鉄道は防御側を優位に立たせる効果を持った。攻撃側の歩兵部隊が徒歩
でしか前進できないのに対し、濃密な鉄道網を持っていたドイツやフランスは、防御側に
立ったときには圧倒的に速い速度で予備兵力を集結させることができたのである。タンネ
ンベルクの戦いでは、東プロイセンに進攻してきたロシア軍に対し、ドイツ軍は鉄道輸送
を効果的に活用することで各個撃破に成功したのである。 《弱体だったオーストリア軍》 一方、そもそもこの戦争の仕掛け人オーストリア軍は、最初からつまずいた。小国セル
ビアへの侵攻は失敗し、8 月末にはセルビア全土から追われ、ロシアとの戦いでは 1 ヶ月で死
傷者 30 万人、捕虜 10 万人を出して、ガリツィア東部(現在のポーランド南部)を占領さ
れた(図 15-19 参照)。オーストリア軍は、人員・構成・兵器・士気とも列強のなかで最
も弱体・劣悪で、多民族構成の軍内では 11 もの言語を使用しなければならず、近代戦を戦
う能力がなかったのである。国民 1 人当りの軍事支出は、イギリスの 3 分の 1、フランスの
5 分の 2 であり、フランスが兵役該当者の 8 割を、ドイツが 4 割を実際に兵役に召集してい
たのに、オーストリアは 2 割から 3 割しかし召集しなかった。1914 年末までに 100 万人近
い損害を出したオーストリア軍は、1915 年には民兵と予備軍からなる軍並の戦力に落ち、
ドイツの支援をあおぐことになった。はやくもドイツは実質、1 国で英仏露を相手にしなけ
ればならなくなった。 1914 年 11 月にはオスマン帝国も同盟側に加わって参戦し、戦域はバルカン半島から中近
東へと広がった。1915 年末、同盟軍は強力なドイツ軍の支援で、ようやくセルビアを占領
した。これで開戦以来はじめて、ベルリン発の列車がイスタンブルまで達した(図 15-19
参照)。 1916 年 6 月、ロシア軍はブルシーロフ将軍の指揮下に、オーストリア軍に攻勢をかけた。
ドイツ軍の反撃がこの攻勢をくい止めるまでに、オーストリア軍は捕虜 38 万人を含む 75
万人を失った。損失のかなりの部分がチェコ人など非ドイツ系兵士の投降によることが、
オーストリア多民族軍の崩壊状況を示していた。もはやオーストリア軍は攻撃戦力として
は存在しなくなった。 だが、第 1 次世界大戦をもっとも特徴づけたのは、東部戦線やバルカン・イタリア戦線
での伝統的な機動戦や山岳戦より、西部戦線での悲惨な塹壕戦であった。そこには物量戦、
新兵器の投入による工業化された現代戦の様相が、さらに機械化された兵士の姿が、もっ
とも明瞭にあらわれたからである。 ○凄惨な西部戦線 ドイツ軍はパリの 70 キロメートルの地点にまで到達したが、9 月 6 日から 12 日までの第
1 次マルヌの戦いにおいて進撃が停止した(図 15-20 参照)。フランス陸軍パリ防衛司令官
2492
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) のジョゼフ・ガリエニはタクシーを使った史上空前のピストン輸送を実施し、防衛線を構
築してドイツ軍の侵攻を阻止した。 莫大な損害を顧みず反撃に転じたフランス軍によって、ドイツ軍はエーヌ川のラインに
まで後退し、その位置で持久をはかるために塹壕を構築し始めた。緒戦でフランス軍を殲
滅するはずだったドイツ軍は、この第 1 次マルヌの戦いに敗れ、後退を余儀なくされ、シ
ュリーフェン・プランは早くも頓挫した。 フランス軍も緒戦において攻撃側の不利を悟り、これを見ると進撃を停止し、塹壕を掘
り始めた。このようにして、その後 3 年間継続される西部戦線が構築されることになった。
敵の後背を突こうとして両軍は北へ北へと延翼運動を始め、その結果「海への競争」によ
ってスイスからイギリス海峡に至るまでの両軍並行の塹壕線が形成された(図 15-20 参照)。
この戦線は第 1 次世界大戦のほとんどの期間を通じて大きく変化することはなかった。つ
まり、結論的にいうと、この塹壕線から数キロ、あるいは数十キロ前後の土地を取り合っ
て数百万人の人間が死傷したのである。 イギリス軍が計算していた 1 ヶ月 25 万袋の塹壕用土嚢の要求は、1915 年なかばには 600
万袋に跳ね上がった。ドイツ軍が縦深防御システムを整えた 1916 年以降、幅 5~6 キロか
ら 10 キロの前線地域に三重の塹壕線が形成され、塹壕の深さも時には 20 メートル以上にも
達した。塹壕戦とは一種の要塞戦であり、前線生活の大部分は半地下生活になった。 だが、連合側・同盟側双方の軍指導者は、それまでの作戦や戦術を変えなかった。司令
官が交代しても、後任は同じ軍事思想を身につけた軍人であり、ただ兵員と兵器の量をい
っそう増やし、攻撃場所を変えることがちがうだけであった。迫撃砲・火炎放射器・毒ガス・
戦車、さらに航空機と新兵器の開発があったが、それらの新兵器に対する防御策も次々と
生み出され、それらは決定的な手段にはならず、戦争は密度の濃い長期消耗戦になった。
消耗するのは膨大な物資と人間(人命)だった。 ○新兵器の実験場―モルモットは人間という動物だった 《毒ガス》 1915 年になっても西部戦線の膠着状況は変わらなかった。5 月になると、ドイツ軍は、
ベルギーのイーペル付近で、2 日間の砲撃の後にドイツ軍陣地から風下に位置するイギリス
軍陣地に向かって塩素ガスを散布した。黄緑色のガスにより酸欠に陥った兵士たちは、パ
ニックに陥って 4 マイルにわたる前線が崩壊した。ただちにカナダ軍が前線に到着するこ
とでことの前線は回復された。
(第 2 次)イーペルの戦いは世界初の大規模毒ガス戦として
記録されており、170 トンの化学物質が使用され、5000 人の兵士が数分のうちに死亡した
と推定されている。 2493
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 毒ガスの使用は 1899 年に制定されたハーグ陸戦条約違反であった。しかし殺す殺される
凄惨な戦争では、条約が破られてしまうことは多かった。このときは 2 日後にも毒ガス使
用が繰り返され、3 マイルの英仏側前線が後退した。この後英仏軍はガスマスクなどの防護
手段を導入したため、毒ガスの成果はあがらなくなった。 《シーソーゲームの戦闘機の技術進歩》 1915 年の秋には、発射された弾丸がプロペラに当たらない「プロペラ同調装置」を備えた
機銃が機首部分に取り付けられたフォッカーE.I 戦闘機という戦闘機が現れた。これによっ
て、
「フォッカーの懲罰」と称されるドイツ空軍の攻勢が開始され、同調装置がなく扱いに
くい場所に機銃を取り付けた従来の連合国側の戦闘機や全ての偵察機が前線付近から駆逐
された。これに遭遇すれば、たちまち打ち落とされた。ドイツ陸軍航空部隊の戦闘機に制
空権を握られ、連合国は偵察飛行も困難となり、イギリスでは大きな問題となった。 このフォッカー E.I は、従来の複葉機とは異なり、ドイツ陸軍航空隊のために開発され
た最初の単葉の戦闘機でもあった。しかし、創造と模倣・伝播の原理により、相手側も同
じ技術を開発するのが戦争の世界であることは、技術の内容は変わっても、古来、変わる
ことはない。連合国側も、たちまち、F.E.2 や 推進式のエアコー DH.2、小型のニューポ
ール 11 のような、フォッカーに対抗できる新型機を開発して実戦に投入した。 すると、ドイツでは 1916 年 8 月、アルバトロス D.II、そして 1916 年 12 月にはアルバ
トロス D.III を登場させ、再び制空権を握った。これによって 1917 年 4 月にはイギリス陸
軍航空隊は膨大な損失を出した 「血の 4 月」を経験した。人間は新型兵器のモルモットにす
ぎなかった。 しかし、これに対しても連合国側は新型機を投入して対抗していった。2 年後、ドイツ空
軍は小さな戦線の限定的な支配力しか維持できなくなるほど弱体化し、連合国側の航空戦
力は質・量ともにドイツを圧倒していった。 しかし、ドイツ軍は新型機開発の計画を急ピッチで進め、生まれたのが有名なフォッカ
ー D.VII であり、短い期間「フォッカーの災厄」となった。フォッカー D.VII は非常に優秀
な機体であり、ヴェルサイユ条約の条件として戦勝国側はドイに全てのフォッカー D.VII
の引渡しを要求したほどであった。 《火炎放射器の登場、ウェルダンの戦い》 1915 年から 1917 年にかけて、西部戦線においては、ウェルダンやソンムの戦線が典型的
なもので大規模な攻勢が繰り返し行なわれた(図 15-20 参照)。 ドイツ軍は、1916 年 2 月 21 日、1200 門の大砲で 8 時間にわたって 100 万発の砲弾を撃
ちこんだ後、火炎放射器部隊を先頭にウェルダン要塞群に向かって突進した。この火炎放
射器も第 1 次世界大戦がデビュー戦であった。火炎放射器は「炎」というよりむしろ「燃
2494
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) える液体のジェット噴流」を作り出すため、塹壕やトーチカの内部のような見通しの利か
ない空間の壁や天井で「跳ねる」ように撒き散らすことができ、できるだけ多くの人を焼
き殺すのに効果があるようにつくられていた。 ドイツ軍は 12 の専門部隊をつくり、このヴェルダンの戦いでフランス軍に対し一気に勝
負をつけたい時に、敵陣地に 12 メートルまで迫って使った。この火炎放射器などを用いた
攻勢にフランス軍は激しく抵抗したが、ドォーモン堡塁が占領された。しかし、フランス
軍はウェルダンから後退せず、ペタン司令官のもとに死守した。 以後 9 ヶ月間、幅 30 キロ、奥行き 6,7 キロの狭い地域で、両軍の凄惨な戦闘が間断なく
続いた。この時点では普通の兵器になってしまった毒ガスには、より強力なフォスゲン(毒
性の強い毒ガス)が登場して大量に使われ、飛行機も大規模に参加した。ドイツの撃墜王リ
ヒトホーフェンが活躍したのも、この戦場であった(第 1 次世界大戦における空中戦で前
人未踏の 80 機を撃墜したが、1918 年 4 月 21 日、ソンム川付近での空中戦にて戦死した)。 両軍で作戦中に 2000 万発以上、136 万トンの砲弾が打ち込まれ、戦場はクレーターに覆わ
れた月面さながらの世界になった。ドイツ軍は、底なし沼のような戦場に次々と新手の軍
をつぎ込まざるをえなくなり、引くに引けない戦場になっていた。フランス側も兵員の損
失の多さから、前線部隊を短期間で交代させる方針を採り、結果的にフランス軍兵士の 8 割
がこの地獄の戦場を経験した。 このヴェルダンの裏方でフランス自動車隊が大活躍した。本来ヴェルダンの背後連絡線
としては道路のほか、鉄道が 1 つだけであったが、その鉄道はドイツ軍の砲撃によって使
用困難になっていたため、貨物自動車を使用して増援部隊を送ったのである。3 月から 5 月
の間に 40 万人もの兵士がヴェルダンに送り込まれた。このことにより自動車の価値は初め
て世上に認められるようになったのである。 この戦いの最中にイギリス軍によるソンム攻勢が始まり、ドイツ軍はそちらの方に戦力
を回さなければならなくなった。そのため、ウェルダン戦は、ドイツ軍が最初の出発点に
戻った年末に打ち切られた。 フランス軍の死傷者 36 万 2000 人に対し、ドイツ軍の死傷者も 33 万 7000 人に達した。合
計 70 万人という未曾有の死傷者を出したウェルダンの西部戦線は 1 年前と全く同じ振り出
しにもどった状態で両軍は睨みあっていた。まさに「西部戦線に異状」はなかった(1929 年
のレマッルク『西部戦線異状なし』は、この西部戦線に投入されたドイツ軍志願兵パウル
が戦争の恐怖、苦悩、虚しさを味わい、戦死するまでの物語であるが、パウルが戦死した
1918 年 10 月のある日の司令部報告は「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」だった。何
十万、何百万の人間が虫けらのように殺され、焼け死んでいる戦場では,人間の死は異常
2495
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) でも何でもなかったのだ。それが現代の戦争なのだ。現代の戦争や未来の戦争は何も感ず
る間もないかもしれないが)。 《戦車の登場―ソンムの戦い》 ヴェルダン戦が続いていた 1916 年 7 月 1 日、200 キロほど離れた平坦な北フランスのソ
ンム川域でイギリス軍を主体にした連合軍の攻勢が開始された(図 15-20 参照)。ヴェル
ダンのフランス軍を助けるために、イギリス軍による攻撃だったことは明らかであった。 6 月末から 7 日間にもおよぶ砲撃が行われたので、7 月 1 日、イギリス軍は朝7時半、朝
霧のはれた快晴のなかを塹壕から飛び出して、無人地帯を前進した。ソンムの戦いが開始さ
れた。イギリス軍総司令官ヘイグは、歩兵は砲撃で破壊された敵陣地を歩いて占領するだ
けだと楽観していた。 ところが、地下深く、よく整備されていたドイツ軍陣地の塹壕はほとんど破壊されず、
待避壕に待機していたドイツ軍兵士の損失も極めて少なかった。ドイツ軍は砲撃がやんだ
ら敵の攻撃を予想し、深い塹壕から待ちかまえていた。イギリス兵は肩をならべ、横一列で
ゆっくりと前進してきた。もっとも、砲弾で穴だらけになった戦場で、30 キロ近い背嚢を
背負うイギリス兵に、身をかがめて前進しろとか、走れといっても無理だっただろう。 最前線のドイツ兵は、この光景を信じられないという風に見ていた。やがてドイツ軍の
銃がいっせいに火を噴いた。結果はいうまでもなかった。イギリス軍はこの日 1 日で死傷
者 6 万人を出し、参加した兵士の半数、将校の 4 分の 3 を失った。これはイギリス軍が 1
日にこうむった損害の最悪の記録となったが、これは戦闘 1 日の被害としては今次大戦中
でもっとも大きいものだった。 砲弾で掘り起こされ、死臭が立ちこめる戦場は秋の長雨でたちまち泥沼になった。塹壕
も膝まで泥水がたまり、ネズミが死体をあさって横行し、シラミが泥まみれの兵士を苦しめ
た。毒ガス攻撃も塹壕内のネズミを退治してくれるので歓迎されるほどだった。誰しも、
これが人間がやることかと疑った。来る日も来る日も戦いが続いた。しかし逃げ道はなく
戦うしかなかった(逃げれば味方に銃殺された)。1916 年 7 月下旬から 9 月中旬にわたる間、
英仏軍は攻撃を続行した。 イギリス軍は 9 月 15 日の攻撃で Mk.I 戦車を初めて使用した。秘密兵器の初披露であっ
た衝撃もあり、ドイツ軍の戦線攻略に効果があったが、投入できる数は少なく、運用面で
も不備があり機動性は発揮できなかった。しかし、やがて戦場の主力となってよみがえっ
てくる。 イギリス軍ではソンムの戦いが契機となって新たな歩兵戦術が考案された。7 月 1 日に発
生した手ひどい損害にも関わらず、ある師団では目標地点への到達に成功していたことに
注目したイギリス軍司令部では、数十人の兵から構成される小隊が戦闘単位として有用で
2496
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) あると結論づけた。ソンムの戦いにおけるイギリス軍の最小戦闘単位は 120 人で構成され
る中隊であった。1 年後には 10 人程度の兵士が単位として運用されることになった。この
ように戦場は試行錯誤の連続であった。モルモットは人間という動物だった。 人間は(軍隊は)、次々と(より効率的に人間を殺す)新しい戦術、戦法、新兵器を作り
出し戦場で実験していった。しかし、間髪を入れず、敵もそれを模倣・真似て(ときには
より強力なものを創造し)戦場に現れた。それはそのはずである。敵も人間であり、考え
ることは皆同じで、強力な武器をつくるだけの能力・科学技術・工業力をもっているので
ある。戦場は人間のマイナス叡智(狡智という言葉が適切か)の発現の場であり、マイナ
ス叡智の競争の場であった(叡智の反対「愚かなこと」を表わす言葉を知らないのでマイ
ナス叡智とした)。 両軍とも、7 月以来 3 ヶ月にわたる攻撃で消耗が激しく、またドイツ軍も他方面の作戦に
忙殺され、11 月上旬には再び両軍対峙の形となった。 この 4 ヶ月間で、連合軍は 250 万人の兵員を、ドイツ軍は 150 万人を投じた。連合軍は、
新兵器の戦車まで繰り出した膨大な消耗戦のはてに、イギリス軍 49 万 8000 人、フランス
軍 19 万 5000 人、合計約 70 万人の犠牲と引き替えに、幅わずか 10 キロの荒廃した土地を
手にしたにすぎなかった。一方、ドイツ軍も 42 万人という膨大な犠牲を出したが、いずれ
の側にも決定的な成果がなく、振り出しにもどっただけだった。ここでも西部戦線に異状
なかった。 【③植民地での戦争】 第 1 次世界大戦は、ヨーロッパ大陸内での戦闘だけでなく、図 15-21 のように、世界中
のそれぞれの植民地でも、戦争が行われ、現地の住民が兵士として駆り立てられ相互に戦
った。まさに世界大戦だった。 図 15-21 第 1 次世界大戦中の世界 ○アフリカ戦線 2497
帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 第 1 次世界大戦におけるアフリカ戦線では、アフリカ大陸に点在するドイツ帝国植民地
とその周辺において、ドイツ軍と連合国軍との間で戦闘が発生した。アフリカのドイツ植
民地には、ドイツ領カメルーン、トーゴランド、ドイツ領南西アフリカ、およびドイツ領
東アフリカがあった。 ほぼ世界中の制海権を握るイギリス帝国は、第 1 次世界大戦勃発時にドイツの植民地を
征服するだけの戦力と物資を持っていた。結局、第 1 次世界大戦中にドイツの植民地はす
べて、イギリスとフランスに奪われたが、英仏は戦後、植民地を解放することなく、英仏
の植民地としてドイツ植民地を分配してしまった。どの国も帝国主義国であることには変
わりはなかった。 ○植民地での戦争―南太平洋・中国 《ニューギニア島北東部とビスマルク諸島》 ドイツは 1884 年から 1914 年までの間、ニューギニア島北東部とビスマルク諸島を含む
周囲の島々をドイツ領ニューギニアとして支配していたが(図 15-21 参照)、第 1 次世界
大戦が勃発すると、1914 年 9 月、オーストラリア陸海軍遠征部隊が上陸し、ドイツ領ニュ
ーギニアを占領した。1919 年のヴェルサイユ条約以降はオーストラリアによる国際連盟委
任統治領となった。 太平洋では、その他、1914 年 8 月 30 日にニュージーランドが太平洋のドイツ領サモア(現
在のサモア)を占領した。 《日本の参戦―中国膠州湾・青島の戦い》 1897 年、ドイツは青島を含む膠州湾一帯を当時の中国政府から租借し、東アジアの拠点
として、湾口の青島に要塞を建設し、ドイツ東洋艦隊を配備していた。 日本は 1902 年に締結された日英同盟によりイギリスと同盟関係にあり、日本はこれを名
目に連合国側として、1914 年 8 月 23 日に対ドイツ宣戦を布告し、青島の攻略に乗り出した。 ドイツ東洋艦隊は開戦後すぐに港内封鎖を恐れ、ドイツ本国へ向かったがフォークラン
ド沖海戦でイギリス海軍によって壊滅させられた。 1914 年 10 月、日本軍の第 18 師団 2 万 9000 人と第 2 艦隊は青島攻撃を開始した。ドイツ
軍兵力は約 4300 人であったが、11 月 7 日、降伏し青島要塞は陥落した(ドイツ軍の損害:
戦死 183 人、負傷 150 人、捕虜 4715 人)。 なお、日本は第 1 次世界大戦中、青島の戦いのほか、海軍は南洋諸島の攻略、1917 年に
はインド洋と地中海で連合国側商船の護衛と救助活動を行なった。 これらの実績により、日本も連合国の 5 大国の 1 国としてパリ講和会議に参加し、パラ
オやマーシャル諸島などの、それまでドイツが支配下に置いていた赤道以北の太平洋上の
2498
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 南洋群島(図 15-21 参照)を国際連盟の信託統治領として譲り受けるとともに、国際連盟
の常任理事国となった。 【④オスマン帝国の参戦】 ドイツの巡洋戦艦ゲーベンと軽巡洋艦ブレスラウは開戦時に地中海にあったが、イギリ
ス地中海艦隊の追跡を逃れてイスタンブルに逃げ込んだ(ゲーベン追跡戦)。2 隻の譲渡を
受けたオスマン帝国はこれで黒海の制海権を確保できると考え、1914 年 10 月 29 日クリミ
ア半島を砲撃してロシアとの国交を断絶した。ロシアが 10 月 31 日にオスマン帝国へ宣戦
したことを契機に、オスマン帝国は同盟国側に立って参戦した。 ロシア帝国は、コーカサス方面から同盟国側のオスマン帝国に進軍したがオスマン軍の
猛烈な反撃に直面し、連合国に支援を求めてきた。 《ガリポリ上陸作戦》 そこで、イギリスは海軍大臣ウィンストン・チャーチルの主唱でダーダネルス海峡西側
のガリポリ半島を占領し、オスマン帝国の首都イスタンブルに進撃する計画が立案された。 ガリポリは、ダーダネルス海峡の西側、エーゲ海からマルマラ海への入り口にあたる半島
である(図 15-19 参照)。 連合軍のガリポリ上陸作戦は 1915 年 4 月 25 日に開始された。ところが上陸作戦が開始
される頃には、オスマン軍は上陸予想地点に兵力を増強し、堅固な陣地を構築して待ち構
えていた。5 月から 7 月にかけて連合軍、オスマン軍ともに何度も攻勢を展開して戦局を打
開しようとしたが、どちらも敵側に阻まれ戦線が大きく動くことはなかった。8 月に入ると、
ここでも橋頭堡を確保する以上の進展は見られず、塹壕戦となった。5 月には上陸部隊を支
援していたイギリス戦艦 3 隻が魚雷攻撃によって相次いで撃沈されたため、海軍は戦線を
離脱した。 10 月にはギリシャ領サロニカにイギリス軍が上陸して地中海方面で第 2 戦線が形成され
たこともあり、ガリポリ上陸作戦は中止され、1916 年 1 月初旬までにガリポリ半島上の連
合軍は全面撤退した。 この戦いによる各国軍の戦死・戦傷は、オスマン軍は戦死 8 万 6000 人、戦傷 16 万 4000
人 、イギリス軍は戦死 2 万 1000 人、戦傷 5 万 2000 人 、フランス軍は戦死 1 万人、戦傷
約1万 7000 人 、オーストラリア軍は戦死 9000 人、戦傷 1 万 9000 人 、ニュージーランド
軍は戦死 3000 人、戦傷 5000 人、インド軍は戦死 1300 人、戦傷 3400 人、これ以外に、長
い塹壕戦のため約 14 万人の連合軍兵士が腸チフスや赤痢で病死したと推定されている(こ
の戦いでイギリスの物理学者でモーズリーの法則を発見したヘンリー・モーズリーも戦死
した)。 2499
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) この作戦の失敗はイギリス連合国指導部の無能や計画のズサンさによる弾薬不足や装備
の悪さが敗北の原因となったと批判を浴び、ハーバート・アスキス首相が辞任して、ロイ
ド・ジョージが新首相に就任した。海軍大臣ウィンストン・チャーチルはこの作戦の立案
者であったために失脚し雌伏を余儀なくされた。 この作戦できわだっていたのは、オスマン軍のムスタファ・ケマル大佐であった。彼は、
数々の戦闘の要所で上陸軍を撃退し、その功績により准将に昇進してパシャの称号を贈ら
れ、一躍救国の英雄として新聞などで広く紹介されたことが、後の活躍の素地となった。 ケマルはその後大戦終結まで、東部戦線やシリア戦線に転戦して、その軍事的才能を発
揮し続けた。彼が、大戦後に、祖国解放戦争の指導者となり、国土を占拠したギリシャ軍
を撃退し、連合国側の干渉をも撥ね退け、更に帝政を廃止してトルコ共和国を建国したこ
とは後述する。 ガリポリの戦いは近代戦史上で初の大規模な上陸戦として、各国の軍事研究に大きな影
響を与えた。専用の上陸用舟艇の開発などが進められるきっかけともなった。 《カフカス戦線とアルメニア人虐殺問題》 オスマン帝国が参戦すると、ロシア軍は、図 15-19 のように、1914 年 11 月、約 2 個師
団をもってカフカス戦線で進撃を開始した。これに対してオスマン帝国軍は当時エルゼル
ム付近に駐屯していた約 3 個師団をもって反撃し、戦線はこの付近で膠着状態になった。 12 月上旬、兵力集中を完了したオスマン帝国第 3 軍(兵約 12 万人、火砲 300 門)は大規模
攻勢をとった。しかしながら寒さと飢餓によって軍はほとんど活動力を失い、ロシア軍に
押し戻された。この作戦によってトルコ軍は兵約 7 万 5000 人と火砲の大部分を失い、ロシ
ア軍は死者 1 万 6000 人と負傷者及び戦病者(主に凍傷)1 万 2000 人を出した。 以後、露土両軍は一進一退を繰り返していたが、このような状況下でオスマン帝国政府
はアナトリア東部のアルメニア人住民の蜂起を恐れ、のちに大問題となる「アルメニア人
虐殺問題」を引き起こした。 このアルメニア人虐殺問題は、第 1 次世界大戦中の 1915 年に、オスマン帝国の少数派・
辺境住民であったアルメニア人(アルメニア人はキリスト教・アルメニア正教会派である)
に対して、オスマン帝国の多数派のムスリム住民たちが行ったとされる迫害事件を巡る問
題である。大規模な迫害は第 1 次世界大戦中のアルメニア人の強制移住と、それに伴って
多数のアルメニア人が命を落とした事件であるとされている。 前述したカフカス戦線でロシア軍がオスマン帝国の東部国境を越えとき、オスマン帝国
側のアルメニア人の中から、ロシア軍に参加し、オスマン帝国に対するゲリラ活動に入る
者が数千人単位で現れ、アルメニア人ゲリラによってオスマン帝国のムスリムの村落が襲
撃され、ムスリムが殺害される事件も起こったことは確かであった。 2500
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) このときオスマン帝国首脳は、劇的な政策を取らねばオスマン帝国の東部戦線が崩壊す
るとの危機感に襲われていた。1915 年春頃に、オスマン帝国統一派の領袖のひとりで、こ
のころ汎トルコ主義への傾斜を強めていた陸軍大臣エンヴェル・パシャが、アルメニア人
の「反乱」を根絶するためにアルメニア人を放逐する必要を主張していたことは明らかに
されている。 そして 1915 年 4 月から 5 月頃、戦闘地域での反国家・利敵行為を予防するとの目的で、
ロシアとの戦闘地域であるアナトリア東部のアルメニア人をシリアの砂漠地帯へと強制移
住させる政策が開始された。ユーフラテス川沿いのシリア砂漠の町デリゾールへと向かう
厳しい移動の中で少なからぬアルメニア人が命を落としたことはおそらく間違いない事実
であり、現在のトルコ共和国もそれは否定していない。また無防備なところを現地のトル
コ人・クルド人部族の民兵による「報復」にさらされたりしたこともあったと見られる。 アルメニア人虐殺を巡っては、トルコ革命の結果 1923 年にオスマン帝国にかわって成立
したトルコ共和国は、
「あくまで戦時下の強制移住によって結果的に大量のアルメニア人が
死亡してしまった」という見解を示しており、大戦中にオスマン帝国全体で犠牲になった
人々のうちの一部であるとみなしている。 この一連の迫害において死亡したアルメニア人の人数は、もっとも少なく見積もるトル
コ人の推計で 20 万人から、もっとも多く見積もるアルメニア人の算出で 200 万人とされる。
ただし、19 世紀末にオスマン帝国領のアナトリア東部に住むアルメニア人人口はおよそ 150
万人という統計があり、その 20 年後に第一次世界大戦が始まったときの人口も、自然増と
流出による減少によりほぼ同数であろうと考えられる。いろいろなことを考慮すると、 その人数はおよそ 80 万人から 100 万人ほどとする推定もあり、欧米や日本の研究者の幾人
かは、60 万人から 80 万人という犠牲者数の推定が妥当ではないかという見解を述べている。 事件は以上のとおりであるが、アルメニアはこれらを「組織的虐殺」としているが、ト
ルコ政府はこれを認めていない。現在にいたるまで、この問題はトルコの「歴史問題」と
して国際的にも論争が続いている。 ○アラブでの戦いとアラブ反乱―中東問題の遠因 現在のイスラエル、パレスチナ問題の遠因は、この第 1 次世界大戦中のイギリス外交に
遠因があるという点でこのアラブの戦いも重要である。 当時、オスマン帝国によりヒジャーズ地方(アラビア半島中央部)を支配するアミール
(シャリーフ)に任じられメッカにいたフサイン・イブン・アリーはアラブ民族主義者で
あったが、オスマン帝国の抑圧に対し不満を持っていた。フサインはオスマン政府が戦後
に彼を廃位しようとしているという証拠をつかんだため、1915 年頃からイギリスの外交官
で駐エジプト高等弁務官のヘンリー・マクマホンとの書簡を交わしていた。この書簡は後
2501
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) にフサイン・マクマホン協定と呼ばれるが、この書簡でフサインは、三国協商の側につい
て協力することにより、エジプトからペルシアまでの全域(ただしクウェート、アデン、
シリア海岸にあるイギリス帝国の権益を除く)を包含するアラブ帝国建国という報奨を受
けることができると確信した。 フサインはオスマン帝国との戦いのため 1916 年 6 月 8 日頃に(正確な日時は不詳)連合
国側のイギリスおよびフランスとの同盟を結んだ。 《ヒジャーズ王国の独立宣言―アラブの反乱》 こうして、1916 年 6 月 10 日、ヒジャーズ地方は太守フサイン・イブン・アリーを王とす
るヒジャーズ王国としてオスマン帝国から独立を宣言した。フサインは 5 万人の軍勢を組
織していたが、当時ライフルを持っていたのはそのうちの 1 万人にも満たなかった。 この日、ジッダ港を守るオスマン兵に対して 3500 人のアラブ兵が突入し、イギリス海軍
の艦船や飛行艇も海上から支援した。激戦の後、6 月 16 日にはジッダのオスマン兵は降伏
した。アラブ反乱軍は 1916 年 9 月末までにヤンブー、キンフィダなどメディナより海側の
紅海海岸沿いの諸都市を占領し 6000 人のオスマン兵を捕虜とした。しかしなお 1 万 5000
人以上の武装の整ったオスマン軍部隊がヒジャーズにはいた。 エジプトにあったイギリス軍はアラブ諸部族に協力するために 1916 年 10 月に若い士官
を派遣した。彼が俗に「アラビアのロレンス」として知られるトーマス・エドワード・ロ
レンス(1888~1935 年)であった。 《アラビアのロレンスの活動》 ロレンスはイギリスのウェールズに生まれ、オックスフォード在学中から考古学の研究
で中近東を訪れていた。1914 年 10 月に召集されイギリス陸軍省作戦部地図課に勤務してい
た。 ロレンスのアラブ反乱に対する貢献のうち最もイギリスにとって重要だったのは、アラ
ブの指導者ら(フサインの三男ファイサル・イブン・フサイン、および次男アブドゥッラ
ー・イブン・フサインら)を説得し、彼らの戦闘をイギリスの対オスマン帝国戦略の支援
になるよう調整したことにあった。 ロレンスはアラブ指導者らに対しヒジャーズ鉄道を各地でゲリラ的に破壊するように説
得した。ヒジャーズ鉄道全線の護衛と修理にはメディナ防衛以上に多くのオスマン軍部隊
が必要であり、鉄道に対する絶えざる攻撃と破壊で、オスマン軍の戦力はアラブ方面への
増援を強いられるはずであった。これがイギリスの狙いだった。 補給や補強の結果、アラブ軍は 1 万 7000 人の兵員に 2 万 8000 丁のライフルが行き渡る
など武装が充実した。フサイン・イブン・アリーの率いる部隊はメディナを脅かし、アブ
ドゥッラー・イブン・フサインの部隊はワジ・アイスを拠点にオスマン軍の通信や補給を
2502
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 妨害した。ファイサル・イブン・フサインはワジュに拠点を置きヒジャーズ鉄道を襲った。
これらのアラブ人のラクダ騎兵らで組織する急襲部隊は半径 1000 マイルもの広い範囲を、
必要な食料を積み、約 100 マイル離れて点在する井戸で水を補給しながら自在かつ神出鬼
没に行動した。 1917 年 7 月、ロレンスはアラブ人の非正規軍と、ベドウィンのホウェイタット族の部隊
(それまではオスマン帝国の下で戦っていた)との共同作戦で、アカバ湾奥の港町アカバ
を陥落させた。その年の後半、アラブ反乱軍の戦士はイギリス・エジプト遠征軍に協力し
てオスマン帝国軍に対する攻撃を行った。 《メソポタミアでのイギリスとオスマン帝国の戦い》 一方、オスマン帝国は、第 1 次大戦に参戦すると、メソポタミア方面では、具体的には
南部のアラブ地域においてイギリスと敵対した。同地域はインドの植民地支配にとっての
生命線と考えたイギリスは、オスマン帝国の参戦直後の 11 月、イラクにインド兵からなる
軍隊を送り、南部のバスラを一時占領した。これに対して 1915 年 2 月にシリアのオスマン
軍は、シナイ半島をこえてスエズ運河地帯に攻撃をしかけた。この攻撃は、イギリスにエジ
プトがもつ世界戦略上の意義を再認識させた。 その後もオスマン軍とイギリス軍の戦闘は一進一退となったが、最終的にイギリス軍が
1917 年 3 月にバグダードを占領した。シナイ及びパレスチナでも一進一退の攻防を続けて
いたが、1917~18 年のイギリス軍の攻勢によってオスマン帝国軍戦線は崩壊した。 イギリス・エジプト遠征軍は 1917 年 12 月にエルサレムを占領した。エジプト遠征軍の
最後の攻勢であるメギドの戦い(1918 年 9 月 19 日~ 9 月 21 日)は大勝利に終わった。オ
スマン帝国軍は壊走し、オーストラリア軽騎兵部隊は 9 月 30 日にダマスカスへ入城した。
ロレンス大佐とアラブ反乱軍は翌 10 月 1 日、降伏文書を受け取るためダマスカスに入った。
このようにロレンスとヒジャーズのアラブの反乱は中東におけるイギリスの勝利に一定の
役割を果たした。 1918 年 10 月 30 日にオスマン帝国は連合国との休戦条約に調印した。終戦の時点でエジ
プト遠征軍はパレスチナ、トランスヨルダン、レバノン、シリア南部とアラビア半島の大
半を占領していた。 《アラブ反乱の報酬(3 重約束の問題)》 問題はこれからだった。アラブ反乱の報酬は厳しいものだった。アラブ反乱が第 1 次世
界大戦に果たした役割は、スエズ運河などの攻撃に加わるはずだったオスマン帝国軍の兵
士数万人をヒジャーズ鉄道沿線にはりつけ、エジプトからシリアに向けて進撃するイギリ
ス軍に対する反撃の危険を少なくすることにあった。 2503
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) しかし、アラブ反乱の見返りは大変、複雑なことになった。もはやロレンスが出る幕で
はなかった。イギリスは第 1 次世界大戦に勝つために、中東でいろいろな約束をしていた。
時系列的に述べると、 まず、第 1 に、前述のイギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンが、アラ
ブ人の領袖であるメッカ太守フサイン・イブン・アリーと結んだフサイン・マクマホン協
定(マクマホン宣言。1915 年 10 月)であった。この協定でイギリス政府は、オスマン帝国
との戦争(第 1 次世界大戦)に協力することを条件に、オスマン帝国の配下にあったアラ
ブ人の独立を承認すると表明していた。フサインは、このイギリス政府の支援約束を受け
て、ヒジャーズ王国を建国し、ヒジャーズ鉄道を攻撃しオスマン帝国軍をはりつけていた。 第 2 に、イギリス、フランス、ロシアは 1916 年 5 月のサイクス・ピコ協定でアラブ人の
土地も含むオスマン帝国領を 3 分割するという密約を交わしていた。イギリスの中東専門
家マーク・サイクスとフランスの外交官フランソワ・ジョルジュ=ピコによって原案が作
成され、この名がついた。具体的には、図 15-22 のように、①シリア、アナトリア南部、
イラクのモスル地区をフランスの勢力範囲とする、②シリア南部と南メソポタミア(現在
のイラクの大半)をイギリスの勢力範囲とする、③黒海東南沿岸、ボスポラス海峡、ダー
ダネルス海峡両岸地域をロシア帝国の勢力範囲とする、というものであった。 図 15-22 サイクス・ピコ協定による東アラブの分割案 山川出版社『西アジア史 Ⅰ アラブ』 これは、1917 年 11 月の十月革命でボルシェヴィキがロシア臨時政府を打倒すると、革命
政府は旧ロシア政府が結んだサイクス・ピコ協定を暴露したため、わかったことである。
反乱中のアラブは、この秘密外交の存在に反発を強めた。 2504
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) さらに、第 3 に、1917 年 11 月にはイギリスの外務大臣バルフォアが、イギリスのユダヤ
人コミュニティのリーダーであるライオネル・ウォルター・ロスチャイルドに対して、ユ
ダヤ人の戦争への協力を得るために「イギリス政府は、ユダヤ人がパレスチナの地に国民的
郷土を樹立することにつき好意をもって見ることとし、その目的の達成のために最大限の
努力を払うものとする」という書簡を送っていた(これがバルフォア宣言である)。ライオ
ネル・ウォルター・ロスチャイルド卿は、イギリス・ロスチャイルド家の第 3 代当主で熱
心なシオニストであった。 このように 3 つの約束に対して、戦後にイギリスとフランスが行った中東分割はこれら 3
つの秘密協定が相互に矛盾しないようにしたつもりであろうが、この秘密外交を知らなか
った人々にとっては不可解なものであり非難を浴びることになった。 《3 つの約束の問題点》 さっそく、問題が起きた。フサインの子ファイサル率いるアラブ軍は、1918 年 9 月にシ
リアのダマスカス入城を果たしたが、この地を自国の勢力範囲と考えるフランスの反対を
受け、1920 年 7 月にダマスカスから追放された。フサイン・マクマホン協定で純然たるア
ラブ人の地ではないと書かれたアレッポ・ダマスカス以西にはレバノンやシリアなどのフ
ランス委任統治領が作られのである。 ファイサルはその後、イギリスから(サイクス・ピコ協定でイギリスの統治領となった)
イラク王にすえられた。また、反仏運動の指導者であったファイサルの兄アブドゥッラー
王子(アブドゥッラー・ビン=フサイン)はイギリスからトランス・ヨルダンの首長にす
えられ、これは現在のヨルダン王国となっている。つまるところ、シリア近辺を除いて、
フサイン・マクマホン書簡の約束は概ね守られたことになっている。 イギリスはこれまでヨーロッパのほかの列強をたがいに牽制させ、アジア支配の要所を
確保するためにオスマン帝国の温存をはかってきたが、大戦後、一転してアラブ地域をフ
ランスとともに直接支配に組み入れる方針に転換したようである。そのときアラブに対し
て行った約束を無視し(その一部を名目的に生かして)、列強間の秘密協定を優先させる
かたちで戦後の線引きを行ったようである。 イギリス、フランスは第 1 次世界大戦後、旧オスマン帝国領の東アラブに、図 15-23 の
ように、イギリスの委任統治領としてイラク、パレスチナ、トランス・ヨルダンを、そし
てフランスの委任統治領としてシリア、レバノンを成立させた。委任統治領というのは、
国際連盟の委任によって各連合国が統治することになった、ドイツおよびオスマン帝国の
旧植民地・旧属領のことで、戦勝国が敗戦国から植民地を奪ったことに変わりはなかった。 2505
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 図 15-23 第 1 次世界大戦後のイギリス、フランスの委任統治 山川出版社『西アジア史 Ⅰ アラブ』 前述の 3 つの約束事と実際に実行されたことの間には、よく読めば実際のところはシリ
アのダマスカス付近の線引きが曖昧なこと以外、特に矛盾していないとイギリスは言って
いる。バルフォアは議会の追及に対して、以下のように内容に矛盾が無いことを説明した。 ◇メソポタミアはイギリスの自由裁量→保護国としてのアラブ人主権国家イラク誕生。 ◇レバノンはフランスの植民地→レバノンはフサイン・マクマホン書簡で規定されたアラ
ブ人国家の範囲外である。 ◇シリアはフランスの保護下でアラブ人主権国家となる→これまたフサイン・マクマホン
書簡の内容とはそれほど矛盾しない。 ◇バルフォア宣言の原文では「ユダヤ国家」ではなく「ユダヤ人居住地」として解釈の余
地を残す「national home」と表現されており、パレスチナ先住民における権利を確保する
ことが明記されている(ユダヤ人だけのユダヤ国家の建設を約束したのではないという意
味)。 パレスチナに関しては、上記のとおり「居住地」としての解釈もあり、またフサイン・
マクマホン書簡のアラブ人国家の範囲外である。居住地である以上、国際管理を規定する
サイクス・ピコ協定とは矛盾しない。従って、少なくともバルフォア宣言と他の二つの協
定の間には、文面上はなんの矛盾も無いという説明(いいわけ)をしている。 2506
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) とくに第 3 の点については、必ずしも「ユダヤ国家」ではなかったといってもシオニス
トにその期待値を高めたことは確かで(現にイスラエルという国家ができてしまった)、そ
こからイスラエル・パレスチナ問題が発生したことは確かである。 フサインが打ち立てたヒジャーズ王国は、その後、フサインがカリフを称したことで、
イスラム教指導者層の反発も招き、ナジュドのイブン=サウードによって 1925 年にヒジャ
ーズ王国は倒された。イブン=サウードは後にサウジアラビアを創始し、初代国王となっ
た。 以上、今日のイスラエル、パレスチナ問題は第 1 次世界大戦に播かれたタネから生まれ
てきたことを先取りして述べたが、ここで第 1 次世界大戦の時期に返る。 【⑤イタリアの参戦とイタリア戦線】 ○ドイツ、オーストリアに宣戦したイタリア イタリアは名目上、1882 年からドイツおよびオーストリアと図 15-12 のように、三国同
盟を締結していたが、同盟は防衛的なものであって、オーストリア・ハンガリー帝国の攻
勢にイタリアが参加する義務はないとして、1914 年 8 月に参戦せず中立を宣言した。 しかし、イタリアは、かねてから領有権を主張していた南チロル地方、トレンティーノ
地方、トリエステ、イストリア地方、ダルマチア地方(いわゆる未回収のイタリア)をオ
ーストリア・ハンガリー帝国から獲得することを望んでいた。そこで 1915 年 4 月 26 日に
は、イタリアが三国同盟を放棄して協商国側に加わるロンドン条約が結ばれるにいたった。
そして翌 5 月 23 日、イタリアはオーストリア・ハンガリー帝国に宣戦を布告した。 イタリアは迅速な奇襲攻撃でオーストリア領の都市を占領するつもりであったが、戦況
はすぐに西部戦線と同じような塹壕戦の泥沼にはまり込んでいった。アルプス戦線(ある
いはイタリア戦線とも言われた)は、イタリアとオーストリアの国境線に沿って掘られた
塹壕をめぐる戦線で、同盟国南端と協商国北端をめぐる戦線ではあったが、1915 年から 1917
年まで、第 1 次イゾンツォの戦い、アジアーゴの戦い、イゾンツォの後半戦、ドイツ軍の
来援、ピアーヴェ川をめぐる戦いなどがあったが、基本的に停滞した戦線となった(図 15
-19 参照)。 1918 年 10 月、オーストリア首脳部からイタリアに対して休戦が求められたものの、イタ
リア軍は進撃を継続し、ウーディネ・トレントを占領、また海上からの進撃によりトリエ
ステも占領した。ヴィットリオ・ヴェネト(イタリア北部地域)の戦いでオーストリア・
ハンガリー軍は戦死者 3 万 5000 人、戦傷者 10 万人、捕虜 43 万人を出した。イタリア軍は
戦死者 5800 人、戦傷者 2 万 6000 人だった。 2507
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 11 月 3 日、オーストリア・ハンガリー帝国はイタリア軍司令官に向け白旗を掲げた使者
を送り、再び休戦を求めた。休戦協定は同日にパドヴァに近いヴィラ・ジュスティで調印
された。ここにイタリア戦線は終了した。 【⑥海の戦い】 第 1 次世界大戦がはじまると、連合国海軍はドイツ本国を海上封鎖した。貿易の途絶は
ドイツの士気と生産力に重大な影響を及ぼした。戦前、ドイツはイギリスとの建艦競争の
中で大洋艦隊を築き上げていたが、イギリス本国艦隊に勝利できる見込みは薄く出撃を避
け続けたため、制海権は常に連合国が保持した。 1916 年の時点でドイツ大洋艦隊には 18 隻の戦艦があったのに対し、イギリス海軍本国艦
隊は 33 隻を有しており、この差は戦争が進むにつれさらに広がっていった。正面からの決
戦では勝ち目が薄いため、ドイツの方針は各個撃滅にあった。北海に侵入してイギリス沿
岸を砲撃し、イギリスの小艦隊を誘き出して、これを優勢な戦力や潜水艦で撃破するとい
うものであった。 そのような中で、デンマークのユトランド半島沖で生起したユトランド沖海戦(図 15-
19 参照)が第 1 次世界大戦最大の海戦であり、同大戦中唯一の主力艦隊同士による決戦で
あった。双方とも勝利を主張したが、イギリスの損失は、3 隻の巡洋戦艦を含む、合計 14
隻、排水量にして 11 万 5000 トンと兵員 6094 人を失った。ドイツは合計 11 隻、6 万 2000
トン、2551 人を失った。戦闘終了後、イギリスには即時戦闘可能な弩級戦艦と巡洋戦艦が
合わせて 24 隻残っていたのに対して、ドイツは 10 隻だけとなった。 このユトランド半島沖海戦は、イギリス側にとって、戦術的には敗北であった。より多
くの艦艇を失った上、ドイツ艦隊を撃破するという意図も達成できなかったが、しかし、
それ以後、ドイツ艦隊はこの数字では作戦は不可能になり港に後退し、イギリス艦隊は制
海権を維持し続けることになった。 ○無制限潜水艦作戦
1917 年 2 月、ドイツ参謀本部は、イギリスへの海上補給を絶つことを目標に、ホルヴェ
ーク首相を説き伏せて、U ボートによる無制限潜水艦作戦を宣言させた。この潜水艦も第 1
次世界大戦にはじめて実戦に使用されるようになったものである。その進歩は大変なもの
であった。潜水艦による本格的な艦船攻撃は、多くの場合、戦争に関係する軍艦を目標と
するものであった。 それに対し、攻撃範囲をひろめ、民需用や中立国船籍も含めた商船などについても攻撃
目標とする、文字通り攻撃目標を無制限にするのがこの作戦であった。同時に、乗船者避
2508
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 難の猶予を与える事前警告も省略するものであり、海上封鎖の手段として用いられた。潜
水艦にとっては目標艦船への攻撃可否の判断が容易になり、効率的な攻撃が可能になる。 戦時国際法上では、軍事目標主義の原則から、沿岸の小航海に用いる船舶や漁業船舶な
どへの攻撃も許されない建前とされていた。また、中立国船舶への攻撃も原則として禁じ
られ、戦時禁制品を運ぶ等の中立違反行為が確認された場合に拿捕などが許されるだけで
あった。そのため、無制限潜水艦作戦は戦時国際法違反の戦争犯罪であると見なされてい
た。 しかしながら、従来の戦時国際法は、水上艦艇による戦闘を想定したもので、新兵器で
ある潜水艦の運用にはそぐわない面があったとも言える。例えば潜水艦に敵前で浮上して
の臨検を要求することは、実際上、著しい困難があった(浮上すれば潜水艦はきわめて不
利になる)。さらに、当時攻撃の対象からはずすべきであった赤十字を背負った船舶に、軍
事関連の物資を運ばせるといった工作などもなされており、戦時において公海を航行する
船舶を、軍事用か民間用かという区別をすることは厳密には不可能であったと考えるべき
であるともいえる。 このようにいろいろ議論があるが、ドイツは、1914 年の開戦当初は、中立国船舶への攻
撃を禁止し、攻撃前の事前警告を潜水艦に義務付けていた。ドイツ海軍が無制限潜水艦作
戦を最初に実施したのは 1915 年 2 月で、イギリス海軍の北海機雷封鎖による事実上の無制
限攻撃への不満や、数量制限ある潜水艦の運用難などから、イギリスの海上封鎖とその周
辺海域での無警告攻撃を宣言したが、ルシタニア号事件(後述)などの発生から、わずか
半年で中止していた。 その後、戦争が長期化するとみたドイツは、再び無制限潜水艦戦を決意した。1917 年 2
月、ドイツは、イギリスとフランスの周辺及び地中海全域を対象にした全船舶標的・無警
告攻撃の完全な無制限潜水艦作戦の実施を宣言した。この無制限潜水艦作戦の効果により、
同年前半にはドイツ潜水艦部隊の戦果は最高潮に達した。この攻撃で沈めた船舶・物資の
量は、1917 年 2 月から 7 月まで 1 ヶ月当たり 50 万トンまで達し、4 月に 86 万トンでピー
クを迎えた。 イギリスは多大な被害を受けたが、1917 年 7 月以降に導入した護送船団方式が効果を発
揮し、補給途絶の危機を脱した。また、アメリカの参戦の一因となってしまった(後述)。 【15-4-2】アメリカの参戦 アメリカが当初、第 1 次世界大戦に参戦しなかったのは、当時モンロー主義を掲げ、交
戦国のいずれとも同盟関係になく、戦争に参加する根拠がなかったからである。また、貿
2509
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 易関係がただちに断たれるわけではなく、戦争は直接の国益にかかわるものではなかった。
むしろ、中立を保つことで、貿易などの経済的利益を保持できるはずだった。 さらに、アメリカが直ちに参戦しなかった背景には、当時、アメリカが中米諸国におい
て軍事行動を展開していたことがあった。大戦直前の 1914 年 4 月、アメリカはメキシコに
軍事介入していた。メキシコはその 3 年半前から、中国とともに 20 世紀で最初の革命の渦
中にあり、いくつかの勢力が権力を争い、混乱していたのである(中国では 1911 年に辛亥
革命が起き、混乱していたが、世界の目が第 1 次世界大戦に注がれているすきに、日本も
中国に対華 21 ヵ条の要求という無理難題を出していた)。 この時期、メキシコ革命では、アメリカの大統領ウィルソンはカランサ派を支持し、軍
事介入し、1916 年 3 月からは 1 万 8000 人以上のアメリカ軍をメキシコ領内に派遣していた。、
しかし、アメリカとドイツの関係が緊迫してきたので、1917 年 1 月末、軍をメキシコから
撤退させることにした。 それとは別にアメリカは、ニカラグアに 1912 年 8 月から海兵隊を派遣し、事実上の占領
下においていた。大戦が始まって 1 年後の 1915 年 7 月には、ハイチにも海兵隊を送りこみ、
保護国化したのである。また翌 1916 年には、その隣のドミニカにも海兵隊を派遣し、アメ
リカの軍政下においた。いずれも、いろいろな理由はあったが、アメリカがこれらの地域
を自己の勢力圏とみなし、帝国主義的にふるまっていたことは明らかである。そのような
ことで、あえてヨーロッパの大戦に参加しなくても、アメリカはアメリカ大陸における帝
国主義的軍事行動でけっこう忙しかったのである。 ○アメリカは大戦初期は中立だった ヨーロッパ全体が 1914 年 8 月に戦争状態に入ったとき、アメリカは中立を宣言したが、
アメリカ人の 9 割近くがヨーロッパからの移民やその子孫であったため、大戦への関心は
強かった。戦争に関する情報は、電信によって比較的短時間で伝えられていた。 また、当時のアメリカの人口は 1 億人程度であったが、その過半数はイギリス系で、ド
イツ系は 1 割に満たない程度だった。しかも、イギリス系以外も含め大多数のアメリカ人が
英語を話し、イギリスに基礎をおいた法や慣習のもとで生活していた。つまり、中立といい
ながらも、アメリカ人の多くは心情的にイギリスに傾いていたのである。 さらに経済的にも、戦争が始まってからイギリスなど連合国との関係が急速に深まり、
それに反比例して、ドイツとの関係が弱まっていった。その主な理由は、
「海の戦い」のと
ころで述べたように、ユトランド沖海戦以外、ドイツ海軍は港湾に閉じ込められていて、
大戦中を通して制海権はイギリスが握っていたのである。だから、ドイツは海底ケーブル
を切断されても修理もできなかった。それだけでなく、イギリスは 1914 年 11 月、ドイツ
に接する北海を交戦海域と宣言し、機雷を敷設した。さらに、イギリス海軍が停船させ、臨
2510
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 検できるように、中立国の船にドーバー海峡を通るように指令し、敵国向けの軍需物資は
没収したのである。 ドイツは、このようなイギリス側の海上封鎖に対抗して、1915 年 2 月、イギリス周辺を
交戦海域と宣言し、侵犯船を潜水艦で攻撃すると警告した。3 ヶ月後、ニューヨークからイ
ギリスのリヴァプールに向かったイギリス客船、ルシタニア号が無警告で魚雷によって撃
沈され、乗客の 6 割以上、1198 人が死亡したが、そのなかには 128 人のアメリカ人がいた。 これをイギリスは、アメリカをドイツに対して宣戦を布告させる絶好の機会であると考え
積極的に働きかけ、また、元大統領のセオドア・ルーズヴェルトなど多数のアメリカ人が
開戦を主張した。 しかし、大統領のウッドロウ・ウィルソン(在位:1913~1921 年)はヨーロッパでの問
題に自国を関わらせたくなかった。なぜならば、アメリカ国民のかなり、とりわけドイツ
語で生活していたドイツ系の移民は、戦争に巻き込まれることを望んでいなかったし、そ
もそも、アメリカ国民がどれだけ怒ったとしても、当時の合衆国には戦争準備は出来てい
なかったのである。ウィルソンはドイツに宣戦布告は行わず、代わりに正式な抗議文をド
イツ政府に送った。これらの非難を受けてドイツは、1915 年 9 月 18 日に無制限潜水艦作戦
を一旦中止した。 当時のアメリカは、国防に関して,現在のアメリカとは大きく異なっていた。まず伝統
的に、強大な常備軍反対の雰囲気があった。平時にはなるべく常備軍を小さくし,非常時
にだけ軍を拡大するのが、アメリカの伝統だったのである。それは,大西洋・太平洋とい
う二つの海に囲まれ、周囲に強力な敵性国家をもたないという恵まれた条件から、現実的
にも可能だった。 そのようなことで、現実的に戦争をはじめるとなると、当時はかなり準備が必要になっ
たのである(現在のように世界中にアメリカ軍が展開して、有事に即応できる体制をとる
ようになったのは、第 2 次世界大戦後である)。 しかし、1915 年 7 月、ウィルソン大統領は,陸海両省に戦争準備計画の作成を命じた。
さらに彼は年末の年次教書で、議会に国防のための法律を制定するように求めた。こうし
て 1916 年 6 月に国家防衛法が成立し、正規陸軍を倍増して 17 万 5000 人に、さらに国防軍
(平時は州兵軍だが、非常時には正規軍に編入される予備軍)も 44 万人にすることが定め
られた。8 月には軍艦建造法も制定され,海軍力も増強されることになった。 ○ドイツの無制限潜水艦攻撃に対し国交断絶 1916 年の選挙で再選されたウィルソン大統領は、1916 年末、交戦国双方に平和を呼びか
けた。翌 1917 年 1 月には、どちらも決着をつけずに「勝利なく平和」を達成すべきことを
訴える声明を発表した。しかし、ドイツはその 9 日後、無制限の潜水艦攻撃(再開)の方
2511
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 針を発表した。このためウィルソンは 2 月 3 日の両院合同会議において、アメリカがドイ
ツと国交を断絶するにいたったことを言明した。 その声明のなかで彼は、ドイツが無制限の攻撃を現実に行えば、アメリカの海員および
市民を守るために必要な措置をとると断言した。そのころ、アメリカ商船がドイツの無差
別攻撃を恐れ、出港を見合わせるため貿易が停滞し,経済的に大きな打撃をこうむりかね
ない事態になっていた。そこで 1917 年 2 月末、ウィルソン大統領は議会に商船武装法の制
定を要請した。 その直前にイギリスから,ドイツ外相ツィンメルマンがメキシコ駐在独大使にあてた極
秘電報を傍受したとの連絡があった。それは、もしアメリカが参戦したら、メキシコも対
米開戦するよう、ドイツとメキシコの軍事同盟を工作することを指示したものだった(ツ
ィンメルマン電報事件)。さらにそれは,70 年前にメキシコがアメリカとの戦争(米墨戦争)
に敗れて割譲させられた地域、アリゾナやカリフォルニアなど(図 14-19 の土地)を奪還
することを提案していたのである。 この電報は,商船武装法が審議され始めた 2 日後に公表され,1917 年 3 月 1 日の新聞に
いっせいに報道された。かつて領土のほとんど半分を奪われたメキシコがそれを取り戻し
たいと考えることは,十分ありううることであるが、しかし、それはもはや現実にはあり
えないことであった。しかし、そのようなことをいってドイツがメキシコを焚きつけよう
としたことにアメリカの世論は沸騰し,多数のアメリカ人は怒り狂った。同じ日に下院議
会は、40 対 13 という圧倒的な差で商船武装法を可決した。 3 日後、ウィルソン大統領は第 2 期就任演説において、アメリカが武装中立の状態に入っ
たことを声明した。2 週間後、アメリカ商船は武装したとはいえ潜水艦攻撃には十分に対抗
できず、5 隻が撃沈された。 他方、その数日前にロシアで 1917 年 2 月(新暦では 3 月)革命が起こり、ツァーリズム
の専制主義は打倒された。いまや、連合国はすべて民主主義を守るために戦っているとい
える状態になった(同盟国の主要国であるドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、
オスマン帝国はいずれも帝政であった。連合国側でロシアが唯一帝政だったが、脱落した)。
アメリカが参戦する条件が整ったのである。 ○対独宣戦布告 こうして 1917 年 3 月 20 日、ウィルソン政府は閣議で参戦の方針を固めた。宣戦布告の
権限は議会にあるため、ウィルソン大統領は 4 月 2 日、議会に宣戦布告を求める教書を提
出した。自国の権利を守るためだけではなく、平和と正義のため、世界の人民を守るため、
世界の民主主義のために戦うという格調高い文面を読み上げた。4 日、上院は 82 対 6 とい
う大差で宣戦布告を決議した。その 2 日後、下院も 373 対 50 という圧倒的な差で可決した。 2512
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 参戦から 1 ヶ月後、選抜徴兵法が成立し,21 歳から 30 歳(のちに 18 歳から 45 歳)まで
の男子は軍務に服するため、登録することになった。終戦までに,2400 万人もの男性が登
録した。それは、赤ん坊から年寄りまでのすべての男性の半数近いものだった。21 歳とい
う年齢は,当時、投票権を与えられる年齢だった。 このなかから、7 月にまず 70 万人弱が徴兵され,その後、大戦終了までに 280 万人が徴
兵された。さらに志願兵を加えると、のべ 470 万人が戦争にかかわった。少なくとも 200
万人がヨーロッパに行き、140 万人が直接の戦闘に参加したのである。 1917 年 6 月末、最初のアメリカ派遣軍の本隊、1 万 4500 人がパーシング将軍の指導のも
とに、ヨーロッパへ向かった。アメリカ軍とドイツ軍が衝突したのは 1917 年 11 月に入っ
てからだった。パリの東にあるマルヌ川とライン川を結ぶ運河の近くで、両軍がぶつかり、
3 人の米兵死者が出た。 本格的にアメリカ軍が第 1 次世界大戦の戦闘に加わったのは、翌 1918 年になってからだ
った。5 月にシャトー・ティエリで約 7 万のアメリカ軍がフランス軍とともに戦い,ドイツ
軍を撃退した。7 月の第 2 回マルヌ会戦では、ランスの町をはさんで,アメリカ軍が主力と
なってドイツ軍と激しい戦闘を展開した。 9 月には,ランスの南東 100 キロほどのサン・ミエルにおいて、50 万人以上のアメリカ
軍がほぼ単独で攻撃を展開し,ドイツ軍を後退させた。さらに同月末、今度はランスから
北東のベルギー国境に近いスダンにおいて、全面的な攻撃を行った。これは第 1 次大戦で,
アメリカ軍がもっとも大きな被害を出した戦闘だった。2 万 6000 人の戦死、9 万人以上の
負傷という犠牲を払ったのである。 11 月はじめアメリカ軍はスダン攻略に成功し,ドイツ軍は全面的に撤退しはじめた。そ
の後まもない同月 11 日、戦争は終わった。アメリカ軍の直接の戦死者は 5 万人余りだった
が、さらに 6 万人以上の兵士がインフルエンザ(スペイン風邪)などのために病死した。
負傷したのは 20 万人ほどだった。このように第 1 次世界大戦でのアメリカ軍の戦闘は限定
的だった。 ○変化した両陣営の戦力バランス(アメリカの参戦、ロシアの脱落) 第 2 次世界大戦は、表 15-4 のように、かりにロシアとフランスが、両国だけで同盟側を
向こうにまわして長期の総力戦に突入したとすれば勝利をおさめていたとは考えにくかっ
た。その点、イギリスが勢力のバランスという伝統的な理由から参戦したのか(イギリス
は過去数百年にわたって、ヨーロッパ大陸の戦争に参戦するときには必ず勢力のバランス
をとるように参戦していた)、参戦した大義名分のように小国ベルギーを守るためだったか、
本音はわからないが、イギリスの参戦によって、協商側は有利になったが、2 年から 3 年も
戦闘をつづけても勝つことができなかった。 2513
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 表 15-4 1914 年における同盟各国の工業および工業技術の比較 ポール・ケネディ『大国の興亡』 協商側が数のうえでも工業力の面でも優位にあったにもかかわらずなかなか勝てなかっ
たのは、やはり今度の戦争の戦闘自体のあり方にみることができるのだろう。双方の数百
万の軍隊が、領土に何百マイルにもわたって布陣していれば、決定的な勝利をおさめるこ
とは困難であったということになる。前述したように巨大になった工業力が武器弾薬、食
料を供給する持久戦になり、国力、戦力、兵員が尽きるまで勝敗が決しないものになって
きていたともいえる。もっと長期にもっと大きな優位がなければこの戦争は終わらないの
ではないかと考えられた。 そのようなときにアメリカの参戦があった。しかし、アメリカの参戦は、少なくとも 1917
年 4 月以降の 12 ヶ月から 15 ヶ月のあいだは、軍事面ではまったく力にならなかったが、
長期戦化した第 1 次世界大戦で物資の補給という面では決定的な意味をもっていた。 アメリカ軍が即戦力にならなかったのは、アメリカ軍は、1914 年当時のヨーロッパのどの
軍隊よりも、近代的な軍事行動に対する準備ができていなかったからである。しかし、ア
メリカの生産力は、協商国からの何十億ドルもの軍需品の注文を受けて拡大し、他の追随
を許さず、総生産力と世界の生産におけるシェアは、いまや過重負担の状態にあるドイツ
経済のその 2.5 倍となっていた。 またアメリカは、何百隻という単位で商船を送りだし、U ボートが毎月 50 万トンあまり
のイギリスや協商国の船舶を海に沈めているときにも、必需品を運ぶことができた。世界の
食糧品輸出の半分はアメリカが占め、アメリカの食糧はいまや以前から取引のあるイギリ
ス市場はもとより、フランスやイタリアにも送出されていたのである。 したがって、アメリカの参戦は、経済力の点からみて、表 15-5 のように、勢力のバラ
ンスを一変させ、同時に起こったロシアの崩壊を埋め合わせてあまりあるものだったので
ある。協商側の生産力はいまや同盟国側を大きく上まわっていた。この経済力が軍事力に
2514
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 転化するまでには時間の遅れがあったが、その巨大な力が効果を発揮するのは時間の問題
であった。 表 15-5 戦費と総動員数(1914~1919 年) 【15-4-3】東部戦線とロシア革命 ロシアでは、第 1 次世界大戦中の 1917 年にロシア革命が勃発して、ロシアは戦線から離
脱することになるが、ロシア革命に至る経緯とその内容は戦後のソ連の歴史で改めて述べ
ることにして、ここでは第 1 次世界大戦の中でのロシアについてのみ述べることにする。 1914 年 7 月、オーストリア・ハンガリー帝国とセルビアとの戦争が開始されると、セル
ビアの保護者を任じるニコライ 2 世は、みずからの決断で総動員令を発した。8 月 1 日、ド
イツがロシアに宣戦布告したのに対して、翌日、ロシアもドイツに宣戦布告した。こうし
て、ロシアは世界大戦に突入した。 軍の動員は順調に進み、緒戦はロシア軍が優勢であり、オーストリア・ハンガリー帝国
内のポーランド人居住地域であるガリツィア地方に進出し、この地方を占領した。しかし、
1915 年春、ドイツ軍とオーストリア軍が態勢を整え反撃に出ると、ロシア軍は退却を余儀
なくされ、この年の7月までにガリツィアから完全に撤退した。一方、ドイツ軍はさらに
ロシア帝国内のポーランド人地域に進撃していった。ロシア軍は大敗北を喫したのである。 開戦時に 530 万人だった兵員数は、1916 年末には 1400 万人を超えていた。これほどの動
員は経済に多大な影響をおよぼすことは明らかであった。しかも、「総力戦」の名のもとに
動員された人的損失は膨大であり、1916 年末までに戦死者 53 万人、負傷者 230 万人、捕虜
および行方不明者 251 万人にも達していた。 1916 年 6 月、動員拡大のため、それまで兵役を免除されていた中央アジアやシベリアの
諸民族などに徴用の勅令が出されると,中央アジアではこれに反対する住民の大規模な反
乱が生じた。また、長期にわたる塹壕戦により、前線の兵士たちは厭戦気分を募らせてお
2515
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) り、戦線を離脱する者もあらわれた。捕虜および行方不明者 251 万人という数字はそのよ
うなことを物語っている。兵士たちの動揺は隠しようもなく拡大していた。 このような状況で皇帝ニコライ 2 世の権威も動揺していった。第 1 次世界大戦が勃発し
てニコライ 2 世が首都を離れて前線に出ることが多くなると、内政を託されたアレクサン
ドラ皇后は何事もラスプーチンに相談して政治を動かし人事を配置した。前線から届く芳
しくない戦況から、敵国ドイツ出身であった皇后とドイツの密約説が流れたりして、ラス
プーチンは廷臣や国民の憎しみを一身に背負うことになり、1916 年 12 月、暗殺された。皇
后が余りにもラスプーチンを重用し過ぎたために、彼がスケープゴートにされたと考えら
れている。 ○二月革命(三月革命) 第 1 次世界大戦に突入して、ロシアでは戦況の悪化につれて、食料欠乏・経済混乱・軍
需品不足などから民衆の不満がつのり、兵士のあいだにも反戦意識が生まれていた。さら
に政界の腐敗などにより、社会不安が深刻化し、ロシアでは「総力戦」体制に耐えられない
状況が生じていた。とくに 1916 年から 17 年にかけての冬は記録的な豪雪にみまわれた。
食糧の輸送が滞り,都市部では深刻な食糧難が生じた。厳冬の 1 月、首都ペテログラード
ではパンを求める長い行列ができ、略奪行為も頻発した。 1917 年 2 月 23 日(新暦 3 月 8 日)、ペトログラードで国際婦人デーにあわせて女性労働
者がパンと平和を要求するデモを行った。これに男性労働者も加わると、ついに市の中心
にあるネフスキー大通りをめざしてデモ行進が始まった。労働者の不満が一気に噴出し,
翌日になると,ストライキは全市に拡大した。食糧不足の抗議に発したストライキは戦争
と専制政治に反対する政治デモに転化していった。 連日のデモの末、2 月 26 日、都市機能が麻痺した首都で,デモ隊は鎮圧にあたろうとす
る軍隊に発砲され,170 人の死者が出た。夜になると、デモ隊への銃撃に抗議して,軍隊の
一部が反乱を起こしたが、この時点ではすぐに鎮圧された。皇帝は国会を休会にし、戒厳
令を発した。しかし、翌 27 日には下士官に率いられた連隊の反乱が続き,鎮圧に向かった
部隊は立ち往生する始末であった。ロシアの兵士は「軍服を着た農民」であった。長期化し
た戦争に嫌気がさして、デモ隊鎮圧の命令を拒否してしまったのである。 27 日の夕方までにさらに他の連隊が反乱に加わり、反乱兵の規模は数万人に達していた。
反乱兵と労働者は内務省・軍司令部・警備隊司令部・警察・兵器庫などを襲撃し、武器を
手に入れていた。27 日にはモスクワで、3 月初めには他の都市でも革命が始まり、軍の部
隊もそれに同調しつつあった。 ○臨時政府とソヴィエトの成立 2516
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) この頃、メンシェヴィキに所属する議員や労働者代表などにより、1905 年と同様なソヴ
ィエト(評議会)の結成が呼びかけられていた。27 日夜の会議でメンシェヴィキのニコラ
イ・チヘイゼが議長に、当時革命派議員の有力者と目されていた社会革命党の国会議員ケ
レンスキーを副議長にしてペテルブルクのソヴィエトが結成された。同時に選出された執
行委員 15 人の内、急進的な革命を唱えるボリシェヴィキは 2 人のみであった。 これに対して、国会では社会主義者が中心だったのではなく、「進歩ブロック」の立憲民
主党と社会革命党が主導権を握っていた。両党はペテログラード・ソヴィエト執行委員会
と連絡をとるなかで、帝政を見限る決断を下した。ロシアの将来を憲法制定会議にゆだね
ることとし、それまでの暫定的統治機関として、3 月 2 日に立憲民主党の自由主義貴族リヴ
ォフ公を首班とする臨時政府を成立させた。 3 月 1 日、ペトログラード・ソヴィエトはペトログラード守備軍に対して「命令第 1 号」
を出した。
「国会軍事委員会の命令は、それが労兵ソヴィエトの命令と決定に反しないかぎ
りで遂行すべきである」などとし、国家権力を臨時政府と分かちあう姿勢を示した。 これによって生まれた状況は二重権力と呼ばれた。ペトログラード・ソヴィエトを指導
するメンシェヴィキは、ロシアが当面する革命はブルジョワ革命であり、権力はブルジョ
ワジーが握るべきであるという認識から、臨時政府をブルジョワ政府と見なして支持する
方針を示した。この両権力が連携して政権運営がなされるようになった。 軍の司令部も軍と王朝の保身をはかり皇帝退位に同意し、皇帝ニコライ 2 世に譲位を進
言した。皇帝は血友病の皇太子へではなく、弟ミハイル公への譲位の意向を示した。しか
し、ミハイル公は譲位を受けることを拒絶した。この結果、300 年間続いたロマノフ朝の支
配は,静かにその幕を閉じた。これを三月革命という(このころロシアでは、まだユリウ
ス暦が使われており、西欧のグレゴリウス暦にくらべて 13 日遅れる。したがってロシア暦
では 2 月にあたり、ロシア暦二月革命ともいう)。 3 月 3 日に発表された臨時政府の活動方針には,政治犯の大赦、言論・出版・集会・結社
の自由、身分・宗教・民族による差別の撤廃、普通選挙による憲法制定会議の招集などが
掲げられた。これによってロシアに民主主義が導入され、自由が認められたため、首都ペ
テログラードやモスクワではさまざまな社会団体が結成され、さまざまな運動が展開され
た。同様の傾向はロシア全土に拡大し、各都市に労働者ソヴィエトや兵士委員会が作られ
た。 臨時政府は 3 月 6 日、同盟国との協定を維持して戦争を継続する姿勢を示した声明を発
表した。 ○レーニンの帰国 2517
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 1917 年 4 月初め、こうした状況の首都ペテログラードに、ドイツはロシア革命に混乱を
起こし、うまくいけばロシアを戦争から脱落させるために、スイスに亡命していたレーニ
ンをドイツ軍が用意した「封印列車」に乗せて,送り返してきた。 4 月 3 日に亡命地から帰国したレーニンは、『現在の革命におけるプロレタリアートの任
務について』と題したテーゼ(四月テーゼ)を発表して政策転換を訴えた。レーニンはい
まやロシアでも社会主義が可能になったとの認識を強め(マルクスは、かねてから革命は
資本主義が高度に発展したドイツなどの先進国で起きるといっていた)、戦争の停止、臨時
政府をブルジョワ政府と見なし、いっさい支持しないこと、労働者・農民の政府をつくる
必要があること、「一切の権力をソヴィエトに」をスローガンに臨時政府打倒を呼びかけた。 レーニンは「平和とパンの要求」(四月テーゼ)を掲げて、戦争継続の姿勢をとる臨時政
府を激しく批判した(このためレーニンとドイツの密約説もあった)。もっとも、ボルシェ
ヴィキは社会革命党やメンシェヴィキと比べると,この時点でもまだソヴィエト内の少数
派にすぎなかった。この四月テーゼは 4 月 24 日から 29 日にかけて開かれたボリシェヴィ
キの党全国協議会で受け入れられ、党の公式見解となった。 一方、臨時政府の第 1 次連立政権は 6 月中旬、ドイツ軍に対する「夏攻勢」を開始したが、
これは兵士たちの厭戦気分が大きく影響して,完全な失敗に終わった。このため 7 月には、
首都で労働者と兵士による 40 万人を超える大規模なデモが展開された(7 月事件)。この 7
月事件に対して、臨時政府はデモを武力で鎮圧し、ボリシェヴィキを国家転覆罪で逮捕す
る強硬策に出た。再びレーニンはフィンランドへ脱出せざるをえなかった。だが、この過
程で、ソヴィエト内では「平和、土地、パン」を明確に唱えるボリシェヴィキが支持を得て、
少数派から多数派へと変化していった。 ○ケレンスキー内閣 臨時政府は 7 月中旬、ペテログラード軍管区司令官であったコルニーロフを最高司令官
に任命し,下旬には社会革命党のケレンスキーを首相とする第 2 次連立政権を発足させた。
コルニーロフは保守派の支持をもとにして、積極的に戦争を継続し,ソヴィエトを押さえ
込み,臨時政府に権力を一元化しようとした。 8 月末、コルニーロフは軍隊に首都進撃を命じ、ケレンスキーに退任を要求した。このコ
ルニーロフの軍事クーデターを立憲民主党の大臣たちは支持した。ケレンスキーが依存で
きたのはソヴィエト、その中心となっていたボリシェヴィキだけであった。結局、ソヴィ
エトの兵士(赤衛隊)の活躍により、コルニーロフ軍は命令を遂行できずに進撃を中止し
た。クーデターは失敗に終わった(コルニーロフ事件)。 クーデターの失敗は軍部の権威を弱めただけでなく、このクーデターを支持した立憲民
主党の権威をも大きく低下させた。逆に,自由主義者の入らないソヴィエト中心の臨時政
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第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 府樹立を求める気運が強まった。こうした状況において、ソヴィエト内の主導権を握った
ボリシェヴィキは、自らが主導する政権の確立を主張した。 ケレンスキーは 9 月下旬、自由主義者とともに第 3 次連立政権を発足させた。しかし、
長期化する戦争により経済状況はますます悪化し、首都では犯罪が増加するなど社会的混
乱が拡大していった。戦争を停止しない以上、臨時政府が実権を確保することは望めなか
ったのである。 第 3 次連立政権の成立と同じく、9 月下旬に開催されたペテログラード・ソヴィエト総会
で、ボリシェヴィキは完全に多数を占め、トロツキーが委員長になった。すでに 9 月中旬、
レーニンは脱出先のフィンランドから、ボリシェヴィキが武装蜂起を起こし、臨時政府を
打倒して権力を一元化することを提案していた。 ○十月革命(十一月革命) 8 月末から 9 月にかけ、ペトログラードとモスクワのソヴィエトでは、ボリシェヴィキ中
心の執行部が選出されていた。レーニンは、時期が熟したとみて、武装蜂起による権力奪
取をボリシェヴィキの中央委員会に提起した。10 月 10 日、中央委員会は武装蜂起の方針を
決定し、10 月 16 日の拡大中央委員会会議でも再確認した。 10 月 24 日(新暦 11 月 6 日)、臨時政府は最後の反撃を試み、忠実な部隊によってボリシ
ェヴィキの新聞『ラボーチー・プーチ』『ソルダート』の印刷所を占拠したが、軍事革命委
員会はこれを引き金として武力行動を開始した。レーニンが武装蜂起を直接指揮した。臨
時政府は軍事革命委員会に反撃を試みたが、ソヴィエト派の労働者と兵士からなる「赤衛
軍」(赤軍ともいう。トロッキー指揮下に労働者を中心に組織された)が首都を制圧した。 10 月 25 日、ネヴァ川沿いにあるスモーリヌイ女学校の建物に拠点を築いた軍事革命委員
会は、ケレンスキー首相が執務に使っていた冬宮と「予備議会」が開かれていたマリア宮殿
周辺を除く、すべての拠点を制圧した。 軍事革命委員会は午前 10 時、「臨時政府は打倒された。国家権力は、ペトログラード労
兵ソヴィエトの機関であり、ペトログラードのプロレタリアートと守備軍の先頭に立って
いる軍事革命委員会に移った」と宣言した。午後 1 時、ついにマリア宮殿が包囲され,「予
備議会」は解散させられた。臨時政府の閣僚は冬宮にこもっていたが、26 日未明にはここも
襲撃され,大臣たちは逮捕された。ケレンスキーは 25 日のうちに、女装して市外に逃亡し
た。 一方、25 日夜には、スモーリヌイで第 2 回全ロシア労働者・兵士ソヴィエト大会が開催
された。革命に反対するメンシェヴィキと社会革命党右派は大会から退場した。ボリシェ
ヴィキが圧倒的多数を占め、このほかに、都市の知識人層を中心とした社会革命党左派や
ウクライナ社会民主党などが残った。この大会は 26 日朝まで続けられ,冬宮占領を待ち、
2519
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ソヴィエト権力の樹立を宣言したあと、この日の夜に再開された。ここで採択されたのが、
人々の強い願望であり、全交戦国に無併合・無賠償・民族自決の原則にもとづく即時講和
を訴えた「平和に関する布告」と地主からの土地の没収を宣言する「土地に関する布告」であ
った。 このあと、政府の構成に関して,社会革命党左派は入閣を拒否したため、ボリシェヴィ
キの単独政権が作られた。憲法制定会議が招集されるまでの暫定政府である人民委員会議
が成立した。大臣職は人民委員と称された。議長にはレーニンが,外務人民委員にはトロ
ツキーが、民族問題人民委員にはスターリンが就任した。ボリシェヴィキ以外の勢力はす
べての社会主義党派からなる政府を主張したが、ボリシェヴィキは数でこれを押し切って
しまった。 このように,十月革命には、二月革命時に街頭にあふれた数十万にもおよぶ労働者や兵
士の熱狂した姿はみられなかった。十月革命は、反議会主義・反自由主義の立場をとるボ
リシェヴィキが設置した軍事革命委員会による武装蜂起であり、事実上の軍事クーデター
であった。 ○二つのブレスト・リトフスク条約 このソヴィエト政権が、まず、最初に着手したのは平和の問題、つまり休戦協定の締結
であった。 連立政権となった人民委員会議は連合国側の抗議をはねつけて,ドイツに休戦交渉を申
し出た。1917 年 11 月 22 日、ドイツとロシアとの休戦協定が調印され、さらに 12 月 15 日
にはオーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリアの同盟 4 ヶ国とも休戦協
定が締結された。ようやく、平和が訪れたのである。 ところがやっかいなことが起こった。レーニンらのボリシェヴィキ政府は 10 月革命によ
って政権を奪取したが、このとき旧ロシア帝国領であったウクライナのキエフでは、11 月
10 日にボリシェヴィキ派と臨時政府派が軍事衝突を起こした。当時ウクライナで最大の勢
力を持っていたウクライナ中央ラーダ政府は、11 月 20 日にウクライナ人民共和国の樹立を
宣言し、これが事実上のウクライナの独立宣言となった。 そして、12 月 17 日、ウクライナ・ソヴィエト戦争が起きてしまった。つまり、ロシア全
体は、まだ、第 2 次世界大戦の最中で、対戦相手のドイツなど同盟国側ととりあえず、3 日
前に休戦しただけであったが、講和の交渉はこれからのことであった。そのときロシアか
らウクライナ共和国が独立し、ロシアと独立戦争をはじめた。ドイツなど同盟国側からす
れば、ロシアという強敵が戦線から離脱しただけでなく、仲間割れまで起こしてくれた。 ここにドイツなど同盟国側がつけいらない手はなかった。 2520
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 独立したウクライナは単独でドイツなどの同盟国側と和平交渉を始めた。ボリシェヴィ
キ政府のトロツキーらは、ウクライナと同盟国との交渉の妨害をはかったが、ドイツ軍の
武力を必要とするウクライナとウクライナの穀物を必要とする同盟国の利害はまったく一
致しており、ロシアの介入する余地はなかった。 1918 年 2 月 9 日、ウクライナ共和国の代表団はドイツなどの同盟国との講和条約となる
「ブレスト・リトフスク条約」(図 15-24 参照。現在のベラルーシのブレスト)を結び、
独墺軍がウクライナ共和国軍とともに反ボリシェヴィキ戦線を張ることで一致をみた。こ
れは第 1 次世界大戦で結ばれた最初の講和条約となり、またウクライナにとっては初めて
自国の独立が国際的に認められたことになった。ウクライナは、同盟国の軍事協力の見返
りに、100 万トンの穀物の提供を約束した。 ウクライナ共和国と同盟国との講和に驚いたレーニンは慌ててウクライナへの懐柔策を
採ったが、時すでに遅かった。同盟国側は、2 月 18 日にロシアとの休戦を破棄し、ウクラ
イナ軍と合同して赤軍占領地へ攻め上った。つまり、図 15-24 の斜線部に相当する部分で
あるが、ドイツ・ウクライナ合同軍は続く 2 週間のあいだにウクライナを奪還、さらにバ
ルト海沿岸も占領した。ドイツ艦隊はフィンランド湾を目指し、ペトログラートに迫りつ
つあった。戦術が稚拙で装備にも劣る赤軍は、独墺軍の敵ではなく、総崩れだった。ドイ
ツやオーストリア・ハンガリーの労働者たちへの期待も潰(つい)え、ボリシェヴィキ政
権はさらに悪い条件での合意を余儀なくされた。 ドイツはブレスト・リトフスクでの講和交渉には応じたが、もはや「平和の布告」にもり
こまれた無併合・無賠償の原則どころではなかった。ドイツは、レーニンの足もとを見て、
12 月末の講和提案より厳しいウクライナとバルト地方の独立や巨額の賠償金支払いを内容
とする新たな講和提案を打ち出してきた。 このドイツ案を受け入れるか否かをめぐり、ボリシェヴィキ指導部の対立は再燃したが、
この期に及んでどうしようもないレーニンは党中央委員会で強くこの厳しいドイツ案の受
諾を迫り,結局、受け入れが決められた。いくらなんでもこれはひどいと抗議して、ブハ
ーリンらは党や政府の職を辞任し、左派社会革命党の人民委員は政府から離脱した。 1918 年 3 月 3 日、ロシアと同盟国との講和条約となるブレスト・リトフスク条約は、ボ
リシェヴィキ政府と、ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、ブルガリア王国、オ
スマン帝国との間で調印された。 この条約によって、とにかくロシアは第 1 次世界大戦から正式に離脱することはできた。
しかし、昨年の 12 月からみると、たった 3 ヶ月間で、図 15-24 のように、フィンランド、
エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、ウクライナ及び、トルコとの国境付
2521
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 近のアルダハン、カルス、バトゥミに対するすべての権利を放棄する最悪の条約になって
しまった(図 15-19 では 1918 年春の線まで後退)。 図 15-24 ブレスト・リトフスク条約 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 トルコとの国境地域を除くそれらの地域の大部分は、事実上ドイツ帝国に割譲された。
ドイツ軍の影響下に入った地域では、次々と独立国家が誕生し、ドイツが国家独立の保障
となった。 また、1918 年 6 月 12 日、ロシアはウクライナに対しウクライナ・ソヴィエト戦争の休戦
協定を結ばざるを得なくなった。6 月にはロシアとウクライナ国(中央ラーダ政府の後身)
は休戦条約を締結し、第 1 次ウクライナ・ソヴィエト戦争は終結した。 ロシアは、広大な地域の割譲に加えて、ブレスト・リトフスク条約の調印の後、8 月 27
日にベルリンで調印された追加条約によって、ドイツに対する多額の賠償金の支払いが課
せられた。 ここで、その後のことについて述べると、1918 年 11 月 13 日には、ドイツなど同盟側の
降伏と第 1 次世界大戦の終結を受けて、ボリシェヴィキ政府が条約を破棄したことで、結
局、ブレスト・リトフスク条約は 8 ヶ月しか効力を持たなかった。 2522
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 1919 年に調印されたヴェルサイユ条約でドイツはブレスト・リトフスク条約の失効を受
け入れ、1922 年の(孤立したもの同士の)ラパッロ条約では、ソ連・ドイツ双方が、ブレ
スト・リトフスク条約のすべての地域に対する権利と賠償を相互に放棄することが合意さ
れた。 いずれにしてもブレスト・リトフスク講和条約問題は発足したばかりのボリシェヴィキ
政府に大きな打撃を与えることになった。ブレスト・リトフスク条約により旧ロシア帝国
領が大きく割譲されたため、条約を受け入れたボリシェヴィキ政府には左右の立場を問わ
ず国内のあらゆる層から非難が向けられ、ボリシェヴィキも分裂の危機にさらされた。 この争いに乗じて協商国側が干渉し、後述するように 2 年におよぶ白軍との内乱が続い
た(ロシア内戦)。また、ポーランドの干渉によりポーランド・ソヴィエト戦争も行われた。
1920 年には西ウクライナを除くウクライナの大部分は赤軍の働きとスパイの工作活動によ
ってボリシェヴィキ側に奪回されたが、バルト海沿岸部やポーランドに帰属された広い領
域は、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランドの領土となり、第 2 次世界大戦
までソ連の手を離れることになった(第 2 次世界大戦が勃発するとソ連は直ちに占領して
しまった)。 【15-4-4】第 1 次世界大戦の現実 ○総力戦の現実 近代的兵器が登場するまでの戦争においては、結果を大きく左右するものは、高度に訓
練された兵士の能力という「質」と、軍隊の規模や兵の数という「量」を基にした軍事力
であった。そこでは軍隊は主として傭兵によって構成され、産業や民衆(国民)は戦争か
ら距離を置くことができた。しかし、産業革命後の大量生産の時代と技術革新は、戦争の
質を大きく様変わりさせた。 19 世紀後半以降、歩兵は射程距離の長いライフル銃を装備するようになった。これによ
り弾幕射撃の威力と精度が増し、ナポレオン戦争の時代まで勝敗を決する地位を占めてき
た騎兵突撃が無力化された。一方で、第 1 次世界大戦において初めて本格的に投入された
飛行機、戦車などの攻撃的兵器は、性能や数量がいまだ不十分であり、戦場において決定
的な役割を果たすまでには至らなかった。第 1 次世界大戦における戦場の主役は、攻撃に
おいても防御においても歩兵だった。 このような防御側優位の状況のなかで、西部戦線では長期の塹壕戦が中心となった。ス
イス国境からイギリス海峡まで延びた塹壕線に沿って数百万の若者が動員され、ライフル
銃や機関銃による弾幕射撃の前に生身の体をさらした。 2523
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 第 1 次世界大戦において,機関銃は大いに威力を発揮するようになり、突撃する歩兵が
鉄条網で足止めされたところを守備側が機関銃によって撃ち倒し、攻撃側は多数の犠牲者
を出した。これによって防御側優位の状況となった。そのため、双方とも塹壕にこもり陣
地を構築して戦線が膠着し、これが戦車を誕生させる要因になった(しかし、前述のよう
に第 1 次世界大戦での戦車の性能では前線を突破できなかった。20 年後の第 2 次世界大戦
では陸上では戦車が主力となった)。 また、機関銃は航空機の武装としても取り入れられ、当初は地上用の改良型だったが、
高い発射速度とともにより軽量で加速度のかかった状態でも確実に作動するものが求めら
れ、プロペラ同調装置(プロペラ戦闘機の先端で機関銃の射撃で自らの高速回転している
プロペラを撃ち抜かないようにするための装置)が発明されるなど航空機専用の機関銃が
開発された。航空機の性能は急速に進歩し、戦争後半には爆撃もさかんに行われるように
なった(しかし、まだ、塹壕陣地を全て破壊する威力はなかった。20 年後の第 2 次世界大
戦では空爆によって都市は破壊し尽くされるようになった)。 こうして、それまでに行われた国家間の戦争に比べ、死傷者の数が飛躍的に増加した。
また、塹壕戦を制する目的で、第 1 次世界大戦では初めて化学兵器(毒ガス)が使われた。
開戦時にイギリス海軍大臣だったウィンストン・チャーチルは、
「第 1 次世界大戦以降、戦
場から騎士道精神が失われ、戦場は単なる大量殺戮の場と化した」と評している。 防御側が圧倒的に優位な状況になり、必然的に持久戦へと発展した。そうした戦局打開
のため、戦場以外において、大量に必要となった兵器・弾薬の生産や補給にかかわる産業
施設、人員や物資の輸送にかかわる鉄道やトンネル、一般船舶などが次第に攻撃対象とな
っていった。 このように、防御側優位の戦況、弾幕射撃と塹壕戦という新しい戦術、主戦場以外での
攻撃の結果、第 1 次世界大戦においては、弾薬・燃料の消費量の増大 、兵器の破壊・消耗
の増大 、戦闘員の死傷者の増大 、民間施設・非戦闘員への被害の増大 、これらの増大と
戦争の長期化に伴う戦争費用の著しい増加 、という、戦争はそれまで予想されていなかっ
た様相を呈することになった。 とくに戦費の増大は、敗戦することの意味に大きな変化をもたらした。実際、第 1 次世
界大戦に敗れた国々は、参戦国すべての戦争費用・損害の責任を負わされる形で、後述す
るように、敗戦国だけではとても処理できないほどに膨れ上がった賠償責任を負うことに
なる。 ○ドイツの総力戦と統制経済 2524
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ドイツは 1914 年 11 月に始まったイギリスの経済封鎖によって,海外との通商を制限さ
れた。原料・労働力不足から、統制の網の目は軍需工業から工業全般へ、さらに農業や国
民生活全般に広げられた。 戦時統制経済においては、政府・軍は必要な生産量を指示し,関係企業が業種別に分れ、
200 以上の戦時統制会社にまとまって,発注量、原料を配分する仕組みであった。大量生産
の必要は、当然ながら大企業への発注を優先させた。ドイツの中小企業の 3 分に 1 は、原
料・労働力不足で閉鎖の憂き目をみた。 そのうえ、「必要なものが手に入るかどうかが重要で、価格は問題ではない。戦争に勝っ
たら,敵に払わせればよい」というのが政府や軍の基本姿勢であったから、価格設定は企業
に有利になった。クルップをはじめ、ドイツの主要軍事企業の戦時利益は莫大なものにな
り、鉄鋼業の利益は平時の 8 倍に達した。膨大な戦費は、すべて国債、つまり国家の借金
でまかなったのも、「勝ったら,敵から取る」式の考えからであった。こうした戦費調達方
式は戦争を長引かせる原因の一つとなったし、大戦中に始まり、戦後に連なるインフレー
ションの原因ともなった。ドイツの通貨流通量は大戦中 5 倍ちかく増大した。 《労働力動員》 開戦時、従業員 4 万 5000 人のフランスの兵器産業が,大戦末期には 200 万人に膨張し
た。武器弾薬や軍需品の大増産が開始されると、各国とも労働力不足に直面した。兵役に
ついていた熟練労働者が急いで工場に送り返され,フランスではその数は 1915 年末で 50 万
以上になった。ドイツでも戦争末期にはその数は 250 万人、オーストリアでも 100 万人以
上になった。オーストリアでは種まき期と収穫期に 9 万人の兵士を援農要員として農村に
送り込んだし,両国とも多数のロシア兵捕虜を農作業に従事させた。 イギリス、フランスはここでも、海外植民地や自治領をもつ強みを発揮した。フランス
はアルジェリアなど植民地の労働者を使い、兵士も 50 万人以上を動員した。ドイツは占領
地のベルギーやポーランドからも労働力を強制的に集めたが、あまり効果がなかった。 ドイツでは大戦前期は、まず労働時間の延長、繊維・建設工業・家事奉公人など民需・
消費部門・農村からの移動、青少年・女性の動員でなんとかしのいだ。大戦中、繊維・食
品工業の労働力は 4 割、建設・製紙業で 2 割減少した。 しかし、やがてそれではすまなくなった。ヒンデンブルクは最高軍司令官の就任宣言で
「われわれは今後、兵員の数ではますます敵に劣ることを覚悟しなければならない。それだ
けに、工業でこの溝を埋める必要がある。人間や馬を機械で置き換えるのだ」と、弾薬・砲
生産の倍増、機関銃生産の 3 倍増を要求した。そのために、1915 年末に「愛国的労働奉仕
法」が帝国議会で採択され、17 歳から 60 歳の全男性に必要な労働を命じる権限が国家に与
2525
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) えられ,労働者の職場移動も原則的に禁止された。ドイツでは、この法律によって全国民
と社会全体を動員する総力戦の段階に入った。 《ルーデンドルフの『国家総力戦』》 このように、総力戦は国家が国力のすべて、すなわち軍事力のみならず経済力や技術力
を平時の体制とは異なる戦時の体制で運用して争う戦争の形態である。その勝敗が国家の
存亡そのものと直結するために、途中で終結させることが難しく、またその影響は市民生
活にまで及ぶという特徴がある。まさにこの総力戦を世界ではじめて実質、中心となって
指導したルーデンドルフ(ドイツ参謀本部次長)が,戦後の 1935 年に著わした『国家総力
戦』で論じたために、この総力戦が用語として定着したが、戦略思想としてはクラウゼヴ
ィッツの唱えた絶対戦争理論にその起源が見られる。歴史的に総力戦はアメリカの南北戦
争にその萌芽が見られたことは述べた。 著作でルーデンドルフは戦争と政治の関係が変化した結果として政治そのものが変化し
たとして、総力政治の概念を導入して総力戦の必然性と軍部独裁体制を論じている。1935
年には既にヒトラーが権力を握っていた時代で、ヒトラーもこの著作を参考にしたが、ル
ーデンドルフの結論とは正反対に傑出した政治家(ヒトラーは自分をそう思っていた)が
軍部を使いこなす体制を考えていた。両人とも総力戦になるような戦争を避けるための方
法については、全く考えていなかった(彼らはいずれ再び総力戦ありきであった)。 つまり、第 1 次世界大戦後の戦間期には第 1 次世界大戦の総力戦については、よく研究
され,その成果があって(皮肉である)、第 2 次世界大戦は第 1 次とは桁違いに,すべての
方面で徹底的に効果のある(皮肉である)大規模な総力戦が行われることになった。 話をもとに返す。大戦下、女性は赤十字の看護婦や兵士慰問活動、社会事業での奉仕活
動以外にも、それまで男性の職場であった軍需工場などで働くようになった。ドイツの 2600
の金属企業で働く女性は,戦前は 6 万 3000 人、それが 1916 年には 26 万 6000 人を超えた。 イギリスでも大戦中に軍需産業の女性は、21 万人から 95 万人へと 5 倍近い増加とになっ
た。市街電車・鉄道など交通・運輸部門、郵便局員などの公共部門でも、出征男子のあと
は女性が埋めた。イギリスが 1918 年 2 月の選挙法改正で、30 歳以上とはいえ女性に選挙権
を認めたのは、戦時中の女性の貢献という背景なしには考えられないといわれている。 《食糧生産の減少》 統制経済はそれまで行政機構からもっとも離れていた農民の世界にも及んだ。国家統制
は農民から「自分の土地では自分が主人」という自負心を奪い,指定作物の作付け強制、販
売規制、自家消費制限、供出義務が厳しく課せられた。対策は軍需生産以上にその場しの
ぎであった。 2526
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 1915 年春、政府はドイツの基本食肉である豚の飼料に、穀物やジャガイモの使用を禁止
した。飼料輸入もできなかったので、代替飼料がなかった農民は、やむなく飼育数の 3 分
の 1 に当る 900 万頭もの豚を処分し,市場には一時的に豚肉が豊富に出回った。その後、
豚肉、ソーセージは姿を消し,政府をあわてさせたが、後の祭りであった。大戦後半の食
肉配給量は、平時の 5 分の 1 から 10 分の 1 に切り下げられた(図 15-25 参照)。 図 15-25 物資の減少 農業が優位であったオーストリアでも、穀倉地帯であるガリツィア(現在のポーランド
地域),ハンガリーが戦場となり、労働力不足・輸送危機・天候不良が重なって,開戦 3 ヶ
月で大都市の食糧不足があらわれた。ハンガリーは 1915 年はじめ域外への食糧搬出を禁止
して、オーストリアから抗議を受けたが、この対立はその後も継続した。1916 年には配給
小麦粉は週 1 人当り 120 グラム、ジャガイモは戦前の 5 分の 1 になった。 《食糧配給制》 食糧生産量の減少は食糧配給制につながった。ドイツの食糧生産は大戦後半には半減し
た。それは前述のような原因の他に、戦前のドイツは家畜の飼料をはじめ、化学肥料の 3
分の 1 を輸入に頼っていた。また、召集によって農村の労働力は急速に不足し、そのうえ
農業用の馬も軍馬として供出させられたようなこともあった。 早くも 1915 年はじめ、主食のパン、ジャガイモは配給制になり、しかもパンは小麦粉以
外の非穀物(ジャガイモなど)の混入を義務づけられた戦時パンになった。混入率はその
後ますます高くなり、ジャガイモどころかトウモロコシ、カブなどが混ぜられて、水気の
多い異様なパンになった。統制対象は、やがて果物を含めてほとんどの食品におよび、衣
料・靴・石鹸などの生活物資も同じ運命をたどった。統制経済とは,一般の国民には厳し
い供給・消費制限であった。図 15-25 のように、食糧不足は同盟側がはるかに厳しくなっ
ていた。 大戦下のドイツの日常生活をみると、配給を待つ店頭での長い行列から始まって,売り
惜しみ、買いだめ、ヤミ市場、農村への買い出し、1914 年末から導入された肉無し日、代
2527
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 用食の隆盛、節約スローガンの横行、公園や森での薪拾い、教会の鐘も含まれる金属回収
にいたるまで、第 2 次世界大戦中の日本と同じ光景がそれより 30 年前のドイツで繰り広げ
られたのである(ドイツでは 30 年後の第 2 次世界大戦で、もう一度、もっと厳しい経験を
することになったが)。 「食べられる野草一覧」パンフレットの配布、1 万品目を超える代用食(カブのマーマレー
ド、人造蜂蜜、トウモロコシ製の代用卵など)や味覚・香料・色素など化学添加物の開発
は、科学の国ドイツならではのことであったが、焼け石に水であった。 1916 年から 17 年にかけての冬は食糧事情が最悪になり、ドイツでは数週間もかぶらが主
食になったため、「かぶらの冬」と呼ばれた。大戦末期には、配給量では通常必要とされる
カロリーの 4 割以下しか摂取できず、ベルリン市民は生きているだけのぎりぎりの状態に
なっていたと考えられる。 燃料・エネルギー供給も,イギリスをのぞくすべての参戦国で危機に陥った。輸送危機
の最大の原因は、石炭不足にあった。ウィーンでは各家庭の暖房は 1 部屋に制限され,学
校・教会・役所の暖房は停止された。イタリアもイギリスから石炭の供給を受けなければ
ならず、イギリスはイタリア、フランス向けの石炭を運ぶためだけでも、常時 250 隻の船
を使っていたといわれる。 《統制経済とヤミ市場》 食糧配給制に明瞭にあらわれたように、国家は今や国民 1 人 1 人の生命と健康の維持手
段を直接にぎる存在になった。もちろん、小さな地域、邦の時代にはそのようなこともあ
ったであろうが、人口が数百万、数千万の国家を形成するようになってからは、はじめて
のことだった。 配給量は原則として平等であった。実際、配給の遅れや内容、量には苦情はあっても、
制度そのものへの反対はほとんどなかったし、ドイツでは戦後も数年間,続けざるを得な
かった。 だが、統制経済は一方で巨大なヤミ市場を生み出した。ドイツでは食糧の 3 分の 1 がヤ
ミに流れたという推測もある。統制経済とヤミ市場は表裏一体であることも、このとき明
瞭にわかった。こと食糧となると日々の生活、はては自分、家族の命にかかわるだけに、
誰 1 人、これを無視して過ごすことはできなかった。 金だけがものをいうヤミ市場は、人類が長い間につちかってきた人倫道徳もなにもない
世界を、当時世界最高の文明をほこるといわれた西欧という世界に現出させた。この金と
役得がはばをきかせる弱肉強食のヤミ市場を利用できるのは,収入の多い階層と戦時利得
で潤った大企業と国家の中枢を握る官僚・軍人などであった。一つの国家のなかに、公平
な制度と不公平なヤミの併存は、「飢えた階層」と「食べていける階層」を目で区別できる状
2528
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 況をつくりだした。何も手段をもたない大多数の「庶民」は、「飢えた階層」となり、「飢える」
しかなかった。 ヤミ経済は「戦時利得者」を生み出した。ドイツの暴利業者裁判は 1 ヶ月 4000 件にもおよ
んだが、大戦中ウィーンだけで 400 人のあらたな百万長者が誕生していた。義務や負担だ
けは平等だが、権利と利益は不平等な社会、それを改革できない政治と国家への不満、反
感が国民のあいだに生まれてきた。国家はだれのものか、そして政府や議会はだれに開か
れているのかが、問われた。総力戦は逆説的に民主化効果をもったといわれるのは、人々
の政治への関心がこのときほど切実になったことはなかったからである。 このような場合、国家の形態(民主形態か、どうかなど)は、大きく影響してきた。ド
イツなどとは対照的に,イギリスでは戦時中に国民の所得格差はむしろ縮小し、平準化の
方向がみられた。ドイツでは皇帝(帝政)を隠れ蓑にした軍部独裁体制がますます強化さ
れ、そのうらで格差は拡大し、庶民(国民)は「飢え」させられ、玉砕一歩手前までに至っ
た。戦争はいつでも、どこでも同じ状態をつくりだす(20 年後の第 2 次世界大戦はさらに
規模を拡大させていた)。 《他国民への偏見・憎悪を増長させる戦争》 双方の総力戦の指導部は、「軽い気持ち」で「相手に痛恨の一打」を与えて、「一挙に問題解
決」をして、「(1914 年の)年末のクリスマスまで」には、帰ってくると、戦争をはじめた(無)
責任は棚上げにして、最初は,「武器弾薬が足りない」「国民の協力が足りない」「戦争に反対
する非国民がいる」などと言って、国民 1 人 1 人の生命と健康の維持手段まで直接握る総力
戦の体制を整えたが、つぎに残っていた国民の頭の中まで洗脳することを考えだした。 このように我々を苦しめるのは、すべて憎き敵国○○であると責任転嫁をしはじめた。
19 世紀末から 20 世紀はじめのヨーロッパにおいては、現在のように情報化が進んでいなか
ったし、初等教育制度もあまり整っていなかったので、国民が外国について、あまり知識
をもっていなかったし、また、関心もなかった。ましてや外国に憎しみを抱かなければな
らない理由もなかった。第 1 次世界大戦が起きると、すべて戦争指導部からのにわか仕立
ての誤った敵国情報で教育(洗脳。とくに柔軟な頭の若いものに対する洗脳教育)したこ
とが、その後の各国民の世界観に大きな影響を与えることになり、その一度、作られた他
国に対するイメージは現在にまで尾を引いている。 まず、「敵」の恐怖をかき立て、負のイメージを振りまいて,国民の戦意維持に努めた。
ドイツではロシアの「アジア的無知」やコサック兵士の野蛮が強調され,ゲルマンとスラヴ
の歴史的抗争と結びつけられて、自らをヨーロッパ文化の守り手と称した。その後、ドイ
ツの最大の敵は、大陸の戦争に介入した「不実の国イギリス」となり、「新興ドイツへ嫉妬す
2529
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) るイギリス」「アジア・アフリカ人の抑圧者」(ドイツもアジア・アフリカに植民地をもって
いたが)として非難した。 連合国側では、「軍国主義ドイツ」が前面に押し出され,ベルギーでの文化財破壊や婦女
子への暴行がドイツの「野蛮性」を証明するものとして宣伝された。 こうした戦意高揚宣伝に活躍したのはジャーナリズムだけではなく、教会や大学教授な
ども先頭に立った。彼らは少なくともその方面の専門家と認められていたので,その言動
は一般に正しいと思われていたから、効果は大きかったが、害も大きかった。オックスフ
ォード大学歴史学教授団がドイツの開戦責任を非難すると,ドイツの教授陣はそれに反論
する声明を出した。経済史家ゾンバルトは『商人と英雄』を発表して、イギリスを経済利
益だけで動く商人に見立て、逆にドイツ人を名誉を重んじる英雄であると自賛した。映画
も宣伝や啓蒙活動に利用され,大衆プロパガンダの原型がつくられた。 このように、他国民に白紙であった国民大衆に、他国民への偏見を強め、また、自国民
に対する定型化した自己理解(優越感、選民思想)を普及させて国民の同質的イメージを
強めていった。しかし、大戦後期にになると、勝利の見通しが得られないいらだちから、
手のおよばない外部の敵ではなく、内部の弱いものに内部の敵を求めはじめた(いじめの
論理と同じ)。ドイツでは,ユダヤ人が兵役を逃れて、銃後で儲けているという悪意ある噂
が流され、軍当局はわざわざ軍のユダヤ人の比率を調査して、その噂の流布に手を貸した。 【15-4-5】オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊と諸民族の独立 ○総力戦に弱かった多民族帝国 ロシア帝国が第 1 次世界大戦下の「総力戦」体制に耐えられず,革命によって崩壊したの
に対して、ハプスブルク帝国(オーストリア・ハンガリー二重帝国)は戦争に敗北するな
かで、帝国内諸民族が独立を掲げて運動を展開した結果、崩壊していった。 ハプスブルク帝国はそもそも、ハプスブルク王家の世襲領と戦争や婚姻関係によって拡
大した諸領邦との集合体であり、その結びつきは必ずしも強いものではなかった。ロシア
帝国が征服によって領土を拡大し、強力なロシア化政策をとったのとは異なっていた。 図 15-14 のように、広大な帝国には 12 の民族がおり、ドイツ人は約 4 分の 1 にすぎず,
ハンガリー人が 2 割、このほかチェコ人、ポーランド人、スロバキア人、クロアチア人、
スロヴェニア人、セルビア人、ルーマニア人などがいた。ハプスブルク帝国の行政語はド
イツ語であったが、それぞれの地方に住む農民たちは母語を用いて生活していた。 このハプスブルク帝国は,第 1 次世界大戦に際して,軍事力の弱さを露呈した。帝国軍
は多民族国家の性格をそのまま反映する軍隊であった。指揮語はドイツ語とされたが、ド
イツ語を解さない諸民族の兵士にとって、死を賭(と)してまで戦わなければならない目
2530
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 的は希薄だった。そのため、東部戦線では緒戦からロシア側に投降するスラブ系の兵士が
かなりの数におよんだ。 そもそも,ハプスブルク帝国が掲げた戦争目的は,バルカンへの進出にとって「危険な勢
力」であるセルビア王国の打倒であった。この目的は 1915 年のセルビアの敗北によって達
成された。にもかかわらず、経済的にも軍事的にも従属せざるをえなくなっていたドイツ
との関係から、戦争を継続していたのである。ハプスブルク帝国でも「総動員」体制のもと
で、人々の犠牲が大きくなっていた。 68 年も君臨してきた皇帝フランツ・ヨーゼフ(1830~1916 年、在位:1848~1916 年)が
1916 年、崩御し、国内に動揺が走った。1916 年 11 月、そのあとを継いで即位したカール 1
世は 1917 年には,連合諸国と講和条約締結の模索をしたり、1914 年から停止していた帝国
議会を再開して事態の収拾にあたろうとした。しかし、チェコ人や南スラブの民族運動は
こうした試みを越えて拡大していた。ハプスブルク帝国では,ロシアのような革命運動は
見られなかったが、多民族国家としての独立問題から帝国解体へと進んでいった。 1918 年に入ると,食糧難から小麦の供給量が減らされ、首都ウィーンでは工場労働者の
不満が表面化して一連のストライキが行われたが,結局、当局によって鎮圧された。この
年の春から夏にかけての戦闘で,中東やイタリア戦線でハプスブルク帝国軍は大敗北を喫
し敗戦が明らかとなった。敗戦が帝国解体の直接的な原因であった。 ドイツとハプスブルク帝国の軍事的敗北が濃厚になると、ハプスブルク帝国内でポーラ
ンドの再生独立運動、チェコスロバキアの独立運動、ユーゴの独立運動が起こったが、そ
れについては、それぞれの国の歴史で述べる(【15-5-10】北欧・東欧の独立諸国に
記している)。 ○オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊 当初、連合国はオーストリア・ハンガリー帝国の解体を戦争目的としていなかった。そ
れが、チェコスロバキア独立が端緒となり、帝国内の諸民族は次々と独立を宣言した。盟
邦ハンガリーも完全分離独立を宣言した。 皇帝カール 1 世はこれをつなぎとめようとしたが果たせず、1918 年秋に退位して国外へ
亡命した。ここに 650 年間、中欧に君臨したハプスブルク家の帝国、オーストリア・ハン
ガリー帝国はもろくも崩壊した。 【15-4-6】第 1 次世界大戦の終結 ○東部戦線のその後と終結 《ルーマニアの参戦と敗北》 2531
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ルーマニアは連合国側に立って戦っていたが、弱体なルーマニア軍の攻勢は独墺軍によ
って短期間のうちに撃破され、ブルガリア軍の反攻で主要拠点を喪失する大敗を喫した。
初めはルーマニア軍を懸命に支援していたロシア軍も最終的にはモルダビアの防衛に徹し、
1916 年 12 月 6 日にブカレストが同盟軍によって攻め落とされた。 《ブルガリアの参戦とセルビアの敗北》 セルビアは 1914 年 8 月から 12 月における 3 回のオーストリア軍の侵攻を防いでいた。
1915 年 9 月、ブルガリアが同盟国側に立った参戦を確約したことで、同盟国はセルビアへ
の攻勢を計画した。10 月、ドイツ軍がドナウ川を渡河しベオグラードに突入、ブルガリア
軍が南部国境を突破した。セルビア軍と国王はアルバニアとギリシャへの逃亡を余儀なく
された。 セルビア軍の敗北の末、英仏軍はテッサロニキへ上陸してセルビア軍を支援するととも
に、ギリシャ政府に対して連合国側に立って参戦するよう圧力を掛けた。特にフランス軍
はギリシャの中立を無視し、ギリシャのコールフ島を占拠して、新たに戦線を開げた。こ
れはテッサロニキ戦線と呼ばれていた。1915 年から 1918 年にかけて、イギリス、フランス
およびロシアとセルビアの残軍はこのところでブルガリアと対峙していた。 《ギリシャの参戦とブルガリアの敗戦》 1917 年 4 月~6 月、イギリス軍はブルガリアに対する攻撃に失敗したものの、ギリシャ
が連合国側に立って参戦し、連合国側が有利となった。 既に戦争遂行能力に問題のあったブルガリアでは国内で反乱が起き、民衆の間で戦争を
やめる掛け声が高まりつつあった。停戦が宣言されるまで反乱は止まらなかった。敗戦後
の混乱で、当時ブルガリア王であったフェルディナンド 1 世は英仏の圧力を受け、退位し
なければならなかった。 《同盟国とロシアとの講和》 同盟諸国とロシアのボルシェヴィキ政権の間で,とりあえず 1917 年 12 月で休戦協定が
結ばれ,その後ブレスト・リトフスク講和交渉が始まった。既に述べたように、その後、
ウクライナの独立などがあり、一度、戦闘が再開され、1918 年 3 月に調印されたブレスト・
リトフスク条約で最終的にロシアとの戦闘は終わった。これで東部戦線は終結した。 ○西部戦線の終結 1917 年に入っても、西部戦線の英仏軍とドイツ軍は一進一退の塹壕戦を繰り返していた。
そこでは、何とか相手を出し抜いて戦線を突破しようと、相変わらず、新兵器・新戦術が
登場したが、相手側もそれを学んでそれを相手側にお返しするので、たちまち、もとの戦
線で膠着状態になった。 2532
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) ドイツ参謀本部次長ルーデンドルフは 1918 年 10 月 1 日、ベルギーのスパにおける会談
でヒンデンブルクに、全滅か休戦しかなく、彼は休戦を進言した。 ドイツの敗北が決定的となったことで、ルーデンドルフは、敗戦処理に当たらせること
とロシア革命の二の舞を防ぐことを目的として、当時ドイツ最大の労働者政党であった社
会民主党(SPD)を中心とする政府の樹立を主導した。首相には自由主義者の南ドイツ・バー
デン大公国マックス・フォン・バーデン公が就任し、社会民主党を含む議会多数派の支え
る新内閣があわただしく成立した。 1918 年 10 月に始まった休戦交渉は、連合国の提示した無条件降伏、カイザーの退位とい
う厳しい条件に対して、軍部は少しでも有利な条件を引き出そうと、一部は戦争の継続さ
え主張したため、遅々として進まなかった。 ○ドイツ革命の勃発 10 月末、海軍指導部は「海軍と将校団の名誉」のために,最後の大決戦を計画した。我々
が全滅しても,イギリスに一泡吹かせるというのが、その真意であった。これが「提督たち
の反乱」といわれる作戦であった。10 月 29 日、ヴィルヘルムスハーフェン港にいたドイツ
大洋艦隊の水兵たちは、ドイツ海軍司令部が出したイギリス海軍への自殺的な特攻作戦の
出撃命令を拒絶し、反乱を起こした。 11 月 3 日、この出撃命令に抗議してキール軍港(図 15-19 参照)の水兵・兵士によるデ
モが行われた。これを鎮圧しようと官憲が発砲したことで一挙に蜂起へと拡大し、11 月 4
日には労働者・兵士レーテ(評議会)が結成され、4 万人の水兵・兵士・労働者が市と港湾
を制圧した。これがドイツ革命の始まりとなった。 第 1 次世界大戦末期のキール軍港の水兵の反乱に端を発した大衆的蜂起とその帰結とし
てカイザーの退位、帝政の打倒と議会制民主主義を旨とするワイマール共和国の誕生まで
の一連の出来事をドイツ革命といっている。 11 月 7 日から始まったバイエルン革命(ミュンヘン革命ともいう)ではバイエルン王ル
ートヴィヒ 3 世が退位し、君主制廃止の先例となった。 このような大衆的蜂起と労兵レーテの結成は、11 月 8 日までにドイツ北部へ、11 月 10
日までにはほとんどすべての主要都市に波及した。この労兵レーテは、ロシア革命時のソ
ヴィエト(評議会)を模して組織されたが、ボリシェヴィキのような前衛党派が革命を指
導したわけではなく、多くの労兵レーテの実権は社会民主党が掌握した。 11 月 9 日、首都ベルリンの街区は、平和と自由とパンを求める労働者・市民のデモで埋
め尽くされた。この時、カール・リープクネヒトが「社会主義共和国」の宣言をしようと
していることが伝えられると、エーベルトとともにいた社会民主党員のフィリップ・シャ
2533
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) イデマンは、帝国議事堂の最上階のバルコニーから身を乗り出して独断で共和政の樹立を
宣言してしまった。 首相のフォン・バーデンは立憲君主制か帝政の完全な廃止かの間で迷っていたが、この
シャイデマンの共和政樹立宣言で、フォン・バーデンは、皇帝自身が心を決める前に、皇
帝が退位する予定だと発表した。彼も革命の急進化を防ごうと独断でカイザーの退位を宣
言し、自分も首相を辞任し、エーベルトを自分の後任のドイツ帝国臨時首相に指名した。
この日、革命が首都ベルリンを制し、ヴェルヘルム 2 世はオランダへ亡命し、後日退位を
表明した。 ○エーベルト新政府 11 月 10 日、社会民主党、独立社会民主党(USPD)、民主党からなるエーベルトの新政府
が樹立される一方、ベルリンの労兵レーテ大会では労兵レーテを唯一の執権機関とするこ
と、社会主義共和国を目標とすることが宣言され、二重権力状態(エーベルト政府と労兵
レーテ)が浮き彫りとなった。 同夜、共産主義革命への進展を防ぎ、革命の早期終息をはかるエーベルトのもとに、参
謀本部の(ルーデンドルフの後任である)ヴィルヘルム・グレーナー将軍から電話があり
秘密会談がもたれた。その結果として、エーベルトらは革命の急進化を阻止し、議会の下
ですみやかに秩序を回復すること、そしてこれらの目的達成のための実働部隊を軍部が提
供することを約束した協定が結ばれた(エーベルト・グレーナー協定)。革命の過激化を
防ぐため軍部はエーベルト政府側につくことを約束したのである。 これより軍部は、国軍の多くの部隊が革命派になるか、雲散霧消してしまったため、ユ
ンカーや重工業資本家などの支援を受けて、フライコール(義勇軍)と呼ばれる右翼・国
家主義者から成る反革命義勇軍の創設に着手した。 《休戦条約の調印》 このようなドイツ革命のなさかに、11 月 11 日、ドイツ代表団のマティアス・エルツベル
ガーらが、パリ近郊のコンピエーニュの森で連合国との休戦条約に調印し、第 1 次世界大
戦は公式に終結した。 それに先立ち、同盟国側で最初に休戦協定に署名したのはブルガリアで 1918 年 9 月 29
日だった。トルコは 10 月 30 日に降伏した。オーストリアとの休戦は 11 月 4 日午後 3 時に
発効した。オーストリアとハンガリーは、ハプスブルグ体制の崩壊の時点で既に、別々の
休戦協定に署名していた。 なお、連合軍とドイツとの間の和平は、公式には、1919 年のパリ講和会議と同年のヴェ
ルサイユ条約によって確定した。 ○第 1 次世界大戦―未曾有の人災 2534
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) 古い思想の戦争のまま始められた第 1 次世界大戦は、開戦当時には予想もしなかった結
果をもって終了した。長期にわたった戦争は表 15-5 のように、莫大な戦費と多くの兵員
を動員し、膨大な犠牲者を生み出した。 戦闘員の戦死者は 900 万人、非戦闘員の死者は 1000 万人、負傷者は 2200 万人と推定さ
れている。国別の戦死者はドイツ 177 万人、オーストリア 120 万人、イギリス 91 万人、フ
ランス 136 万人、ロシア 170 万人、イタリア 65 万人、アメリカ 13 万人に及んだ。またこ
の戦争によって、当時流行していたスペイン風邪が船舶を伝い伝染して世界的に猛威をふ
るい、戦没者を上回る数の病没者を出した。 これまでの戦争では、戦勝国は戦費や戦争による損失の全部または一部を敗戦国からの
賠償金によって取り戻すことが普通だったが、第 1 次世界大戦による損害はもはや敗戦国
に負わせられるようなものではなかった。しかしながら、莫大な資源・国富の消耗、そし
て膨大な死者を生み出した戦争を人々は憎み、戦勝国は敗戦国に報復的で過酷な条件を突
きつけることとなる。 ○第 1 次世界大戦の原因 最後にもう一度、第 1 次世界大戦の原因について考えてみよう。 《繁栄のなかでの富国どうしの戦争》 帝国主義的資本主義体制を支えた大きな要因は、世紀末から大戦直前まで約 20 年間持続
した各国の経済発展にあった(世界中の植民地や支配地を競争で搾取していたのであるか
ら、本国が経済的繁栄を謳歌するのは当然であった)。フランスでは 1900 年代(1900 年~
1910 年)の後半は、年 6%の高い成長率を記録し、「ベル・エポック(良き時代)」と呼
ばれた。 ドイツとアメリカの台頭で、「世界の工場」の地位を失ったといわれたイギリスは、世界
の貿易・金融センターへ変身することで、なお繁栄を謳歌していた。ドイツは、1890 年代前
半まで、200 万人を超える移民をアメリカに送り出していた国であったが、工業の急成長で、
移民の数を急激に減らしたばかりか、都市へ移動した農村労働力を、ロシア領ポーランド
など東欧地域から招いた 100 万人の季節労働者でまかなう労働力輸入国へと変貌した。 主要国の経済のパイが大きくなって、雇用の拡大、労働条件や生活の改善をうながし、
労働運動を穏健化させ、自由主義体制を継続させたのである。大戦前のエリート層は、恒常
的な経済発展が当然と思われ、楽観的な直線的進歩観が支配していた時代に生きていた。 経済発展と列強体制は、国内の政治参加・経済利益配分要求、中欧・バルカン地域の民
族運動の台頭、帝国主義的対立や軍拡競争をもたらしたが、その一つ一つをとれば、戦争
という手段で解決しなければならないほど切迫したものではなかった。 2535
第 15 章 20 世紀前半の世界(1900~1945 年) たとえば、大戦前のイギリス・ドイツの対立の象徴ともいえる 3B 政策と 3C 政策を見て
みよう。その中心は、トルコ、近東方面に進出してイギリスのインドへのルートを脅かすド
イツのバグダード鉄道建設にあると言われてきた。しかし、この問題は 1913 年 5 月、ほぼ
合意に達していた。バグダード鉄道の終点が(現在のイラクの)バスラであるなら、イギ
リスの権益にとって何ら脅威ではなく、イギリスはバグダード鉄道計画に反対しないとい
っていた。イギリスの歴史家ジェイムズ・ジョルは、戦争に直結するような深刻な特定の
政治的・経済的な原因はなかったと指摘している。でも世界大戦は起きた。なぜか。 《深刻な原因はなかった第 1 次世界大戦》 第 1 次世界大戦のきっかけとなったのがサラエヴォ事件であることは疑う余地がないが、
この事件から(第 1 次)世界大戦といわれるような大戦争が起きるには、それなりに大き
な原因があるはずだと研究されてきたが、なかなか、それが見つからないというのが結論
である。 国家間の外交、文化、経済、複雑な同盟関係、19 世紀に急成長したドイツを巡る国家力
バランスなどについて、1815 年のナポレオン戦争終結後のヨーロッパに注目した研究が盛
んに行われてきた。 一般的に第 1 次世界大戦の原因には複合要因が存在するとされているが、それらのうち
の幾つかを上げると、普仏戦争以来、数十年間大規模な戦争はおきていなかったことによ
る戦争記憶の風化、ナショナリズムの台頭 、未解決の領土問題 、複雑な同盟関係(三国
同盟