ジュマ・ネット通信

バングラデシュ・チッタゴン丘陵地帯の平和を求めて
ジュマ・ネット通信
2009. July
VOL. 18
H21.11.20
Jumma Net
発行 ; ジュマ ・ ネット 〒 110-0015 東京都台東区東上野 1-20-6 丸幸ビル 5F
TEL・FAX 03-3831-1072 Email [email protected] URL http://www.jummanet.org
チャクマ民族の機織り
昔は、織物ができないと嫁に行けないと言われたほど、女性のこなす家事の必須条件のひとつだったようです。
現代では必須条件ではなくなったとはいえ、今でも村に行くと見られる風景です。
何百本にも張り巡らされた縦糸と、丁寧に織り込んでいく横糸を見ると、
布は一本の糸でできているという当たり前のことに気が付かされます。
チッタゴン丘陵地帯、ランガマティにて
撮影:福澤郁文
聞き手:下澤嶽(ジュマ・ネット代表)
なぜチッタゴン丘陵問題にかかわるのか、
かかわるべきなのか
か わ る 人 た ち で、 作 家 で も あ り ま し た。 父 親
の父親と母親両方とも、社会問題に熱心にか
スルタナ・カマール(以下『スルタナ』
) 私
る生き方をされるようになったのですか。
ち の 一 人 で す。 ど う し て、 社 会 問 題 と か か わ
陵委員会のメンバーで、3名の共同代表のう
の 女 性 の 一 人 で す。 ま た、 今 は チ ッ タ ゴ ン 丘
わ り、 高 い 評 価 を 受 け て い る バ ン グ ラ デ シ ュ
下澤
ス ル タ ナ さ ん は、 社 会 問 題 に 深 く か か
けた女性のために、野戦病院を設立する活動
か か わ り ま し た。 独 立 後 は、 戦 争 で 被 害 を 受
ん。 独 立 戦 争 が 始 ま る と、 そ の 運 動 に も 深 く
て特定の政党に入っていたわけではありませ
活動に私は深くかかわっていました。かといっ
た。 以 前 か ら、 す で に 様 々 な 政 治 活 動、 社 会
同時に東パキスタンの独立戦争が始まりまし
カ 大 学 で 英 文 学 の 修 士 号 を 取 り ま し た。 と、
いう気持ちは深くなっていったのです。ダッ
は、「国のために何か役立つことをしたい」と
エンジニアになるにせよ、心の深いところで
その時私は21歳でした。
一 緒 に そ の 仕 事 を 手 伝 う こ と に し た の で す。
ターを作ろうと運動を始めました。私は母と
私の母は、そうした女性が滞在できるシェル
妊 娠 し て し ま っ た 女 性 が た く さ ん い ま し た。
戦 争 で、 拷 問 や レ イ プ の 被 害 に あ っ た 女 性、
な い が、 そ こ に も 差 別 が あ っ た の で す。 ま た
身も自立するために仕事を探さなければなら
ん発生していることを知ったのです。女性自
た、 妻の立場を無視したひどい事例がたくさ
ない」「再婚は親族内でしか許さない」といっ
チッタゴン丘陵委員会共同議長
スルタナ・カマール氏に聞く
は生活のこともあり、次第に収入の入る仕事
のため姉と一緒に駆け回りました。
私は女性の苦しい状況を目の当たりに見
に集中するようになり、母親に社会活動の機
生 ま れ て、 様 々 な 体 験 を 通 し て、 社 会 活 動 以
ども務めていました。こうした活動家の家に
パ キ ス タ ン 時 代 に 母 親 は、 女 性 協 会 の 議 長 な
ま し た。 夫 が 戦 死 し た 妻 は、 遺 族 か ら「 実 家
直 後、 女 性 は 非 常 に 難 し い 状 況 に お か れ て い
思っていました。しかしバングラデシュ独立
病 院 の 活 動 後、 再 び 英 文 学 を 勉 強 し よ う と
らないでしょ」「余計なことは言わないでくだ
か え る 課 題 の 交 渉 の 場 面 で「 あ な た は 法 律 知
強しようと思うようになりました。女性がか
苦しんでいるということです。私は法律を勉
法的な問題で、それゆえ解決できないゆえに
て、 わ か っ た こ と が あ り ま す。 一 番 の 課 題 は
外のことを考える環境にはなかったと言えま
に戻れ」「子どもは置いていけ」「遺産は渡さ
会を全面的に支援するようになりました。東
す。成長するにともない、医者になるにせよ、
2
Sultana Kamal( スルタナ・カマール)
は Kamal Uddin Ahmed、母は Sufia Kamal で両方とも有名な活動家、作家、詩人であった。Azimpur 女子高校で高
1950 年バングラデシュ生まれ。「Ain O Salish」の常務理事、また人権活動家であり、政治活動家でもある。父
校卒業、
Holy Cross カレッジで短大を卒業し、
その後ダッカ大学で修士号を取得。
彼女は最初音楽学校の教師になり、
その後タバコ会社を経て、1976 年にシレットのカディムナガールの国際ボランティアサービスに入る。またオラ
ンダでも、女性と開発のテーマで修士号を修めた。2008 年度の選挙管理内閣の大統領であった Iajuddin Ahmed の
主席アドバイザーでもあった。また 2008 年からは、チッタゴン丘陵委員会の共同代表も努めている。
社会活動家の家に
生まれて
深く学びました
歩 的 な 社 会 活 動 に か か わ っ た 人 は、 必 ず ベ グ
スルタナ・カマールさん
ある「 Ain O Salish
」(法と裁き)の専務理事
として活動を続けてきました。子ども、女性、
ン・ソフィア・カマールと一緒に活動しなかっ
す。また人々の課題に向かい合っていくうち
母は多くの社会活動家と深い交流がありまし
スルタナ
私 の 母 は 詩 人 で も あ り ま し た。
スルタナ
「 Ain O Salish
」は弱い立場の人々
の た め の 法 の 支 援 機 関 で、 1 9 8 6 年 に 設 立
下澤
「 Ain O Salish
」というNGOはどん
な活動をしているのですか?
世代に手渡していきました。
は生前16の団体を立ち上げ、それらを次の
性活動家候補に選びました。その紙面では「進
1978年に法律の勉強を始め、弁護士にな
拘 禁 な ど、 人 権 侵 害 に か か わ る あ ら ゆ る 問 題
た 人 は い な い 」 と コ メ ン ト し た も の で す。 母
さ い 」 と 言 わ れ る こ と が よ く あ っ た の で す。
りました。
を取り扱って活動しています。
1980年には、オランダの
て き た ん で す ね。 ま た ご 両 親 の 影 響 が 非 常 に
下澤
実 に 多 様 な 活 動 を、 長 期 に 渡 っ て さ れ
で学ぶ機会を得て、「女性と開
Social Study
発」のテーマで学士号を修めました。帰国し
強いこともわかりました。
Institute of
てからは、
私の仕事の領域は「女性」
「法」「開
に、『 人 権 』 と い う 概 念 と 向 か い 合 う こ と に
た。 デ イ リ ー ス タ ー 紙 が 彼 女 を 年 間 最 優 秀 女
発」の3つのキィワードになっていったので
な り ま し た。 2 0 0 1 年 よ り 現 在 の N G O で
3
代 で し た。 そ の 頃 は、 人 権 の 大 切 さ が 十 分 認
しました。当時バングラデシュは軍事政権時
でしょうか。
期 目 に な り ま す。 今 回 の 委 員 会 の 特 徴 は な ん
るように振舞ってきました。軍はベンガル人
た 政 府 軍 の 利 害 関 係 に は、 ま っ た く 目 を つ ぶ
的に法的な支援をすることに組織の目的があ
気づきを多くの人に知ってもらうこと、具体
た。 こ れ は、 独 立 を 望 む の で は な く、 バ ン グ
おける先住民族の認知を長い間求めてきまし
スルタナ
チッタゴン丘陵の人々は憲法上に
ご 存 知 よ う に、 今 後 の 交 渉 は 時 間 が ま だ ま
会に強くなってきています。
れるべきだとという主張がバングラデシュ社
を奪ってきたのです。これらの問題は解決さ
入植者と一体となって先住民族の土地や資源
り ま し た。 私 た ち は「 法 の 範 囲 」 で 活 動 す る
ラデシュとともにいたいという意思表示でも
識 さ れ て い な い 時 代 で し た。 ま ず 人 権 意 識 の
こ と だ け で な く、「 人 権 」 を 考 え る と い っ た
だかかりますし、状況は振り子のように変わ
に対応する必要があります。先住民族とベン
あ り ま す。 最 近 で は、 そ う い っ た 姿 勢 が、 多
紛 争 時 代、 バ ン グ ラ デ シ ュ 政 府 軍 は 先 住 民
ガ ル 人 の 割 合 は ほ ぼ 同 じ に な り ま し た。 地 区
哲学がありました。どの人間にも尊厳があり、
族 の 抵 抗 勢 力 と 対 峙 す る 役 割 が あ り ま し た。
によっては、ベンガル人の方が多い地域もあ
る可能性があります。今は政治的に活動しや
しかし、和平協定以後は「彼らとはうまくやっ
り ま す。 民 主 的 に 選 挙 を 実 施 し た 場 合、 ベ ン
くのベンガル人にも理解されるようになって
て い る。 我 々 は 彼 ら の 安 全 の た め に こ こ に い
ガル人の方が投票数が多い可能性があります。
権利があり、 それを犯すものがあるなら自分
下澤
た し か、 私 は 7 年 前 に ス ル タ ナ さ ん に
る」と言っています。しかし、バングラデシュ
さらに彼らの背後には軍がついていますから、
すい時期ですが、長期的な視点にたって慎重
会ってチッタゴン丘陵の課題についてお話を
政 府 軍 は 長 い 間 に こ の 場 所 に 慣 れ、 こ の 地 域
潜在的能力としてはベンガル人の方が有利な
きました。
聞いたことがあります。その頃、私はジュマ・
から利益を得るために留まろうとしています。
の で す。 こ う し た デ リ ケ ー ト な 問 題 を 扱 う に
で そ れ を 守 る だ け で な く、 社 会、 国 家 も そ れ
ネットを始める前で、このテーマでバングラ
た と え ば 森 林、 広 大 な 土 地 を 利 用 し た 不 正 な
は、政策決定レベルにいる人々と信頼感のあ
を保護する必要がある、そうした哲学をもち
デシュのパートナー団体やリーダーを探して
利 益 誘 導 で す。 前 の B N P 政 権 は、 こ う い っ
ながら活動することに意味がありました。
お り ま し た。 そ の と き あ な た は、
「非常に重
要な仕事だ、同時に非常に難しい仕事でもあ
る。よいタイミングを見る必要がある」とおっ
し ゃ っ て い ま し た。 今 こ の 時 期、 ス ル タ ナ さ
んがこの仕事に集中する理由はなんですか?
たく異なっていました。今の仕事を続ける中
スルタナ
7 年 前 の 政 治 状 況 は、 今 と は ま っ
軍の課題と
どう向き合えるのか
で、 C H T の リ ー ダ ー に 私 の 存 在 が 徐 々 に 受
け 入 れ ら れ る よ う に な り、 私 自 身 も C H T の
微 妙 な 部 分 が わ か る よ う に な っ て き ま し た。
もう黙っているときではないと思ったのです。
下澤
今 回 の チ ッ タ ゴ ン 丘 陵 委 員 会 は、 第 2
4
の 間 に、 政 治 的 対 立 が あ る の は ご 存 知 か と 思
ジュマの2大政党のPCJSSとUPDF
い る の か、 も っ と 知 る 必 要 が あ り ま す。 そ う
くらいの人が本当にここに住みたいと思って
き 延 び て い ま す。 彼 ら と の 対 話 を 通 し て 何 割
バングラデシュ政府の配給物資でなんとか生
トが非常に大切です。もちろん日本政府だけ
た メ ッ セ ー ジ を 伝 え て い く、 モ ラ ル・ サ ポ ー
日本政府も「私たちも一緒にいますよ」といっ
が問題解決のための実践をしようとするとき、
る話し合いを持つことが必要です。
い ま す。 ま た P C J S S は さ ら に 分 裂 し て お
下澤
ど う も あ り が と う ご ざ い ま し た。 深 く
でなく、日本の市民の方々も同じです。
インドに難民となって逃れていた先住民族
チッタゴン丘陵の現状を理解されていること
い っ た 人 が 多 い の で あ れ ば、 彼 ら の 再 定 住 の
は 軍 の 存 在 で す。 彼 ら を チ ッ タ ゴ ン 丘 陵 の 利
た ち が、 和 平 協 定 以 後 戻 っ て き た も の の、 十
に改めて驚きました。ぜひこれからの活躍に
り、 ジ ュ マ 間 の 意 見 調 整 は 以 前 よ り も 難 し い
害から引き離すための政治力をどう持つかで
分な再定住プログラムが実施されていません。
期待しています。
ために支援する必要があります。
す。 妙 案 は な い の で す が、 そ れ を チ ッ タ ゴ ン
多くの難民は元の自分の土地を取り戻せてい
状 況 に な っ て い ま す。 し か し、 一 番 大 き い の
丘陵委員会も一緒に考えていく必要がありま
首相の政治的意図を賛同する」といった応援
府を批判するだけでなく、「シェイク・ハシナ
の署名キャンペーンを検討中ですが、単に政
下澤
ジ ュ マ・ ネ ッ ト は 和 平 協 定 実 施 の た め
と い け な い よ う な 状 況 で す。 先 住 民 族 も 陳 情
ま せ ん が、 数 イ ン チ 進 む ご と に 受 け 取 ら な い
ン の 訪 問 で 受 け ま す。 信 じ ら れ な い か も し れ
土地の返還に関する陳情書を毎回のミッショ
まだ促せますが、法的には難しさが残ります。
を前面に出して闘う必要があります。
実 施 さ せ る に は、 た と え 難 し く て も 軍 の 問 題
問 い か け を す る 必 要 が あ り ま す。 和 平 協 定 を
ることがあったら教えてください」といった
グ ラ デ シ ュ も サ イ ン し た の で す か ら、 こ れ を
ま た 国 連 の 先 住 民 族 人 権 宣 言 に 日 本 も、 バ ン
声 を 出 し て そ の 問 題 を 訴 え て い く 時 代 で す。
ど の 場 所 で 誰 が 人 権 侵 害 に あ っ て も、 誰 も が
スルタナ
グローバリゼーションが進む時代、
プ
南の自立と北の役割」(
コモンズ)。
2007
窓会優秀奨励賞受賞。著書「開発NGOとパートナーシッ
ト 代 表、 法 政 大 学 非 常 勤 講 師。 2 0 0 7 年 度 愛 知 大 学 同
界的支援ネットワーク形成づくりに努める。ジュマ・ネッ
た。 ま た 2 0 0 6 年 に は ヨ ー ロ ッ パ の N G O を 訪 問、 世
日本政府やバングラデシュ政府へ政策提言を行なってき
害 家 族 お よ び レ イ プ 被 害 者 へ の 支 援 を 行 な う か た わ ら、
ゴン丘陵と関係者を訪問し、襲撃事件被害者の支援、被
より平和構築NGOジュマ・ネットを結成。毎年チッタ
ン丘陵の民族対立の緩和の活動に乗り出し、2002年
年目にあたる。以前から問題意識を強めていたチッタゴ
全般を得意とするが、バングラデシュとの関わりは20
ジェクト評価・調査、各種政府諮問委員歴任。南アジア
国 際 協 力 N G O セ ン タ ー 事 務 局 長。 開 発 途 上 国 の プ ロ
ナ ー シ ッ プ 方 式 に 切 り 替 え た。 2 0 0 7 年 か ら( 特 活 )
に よ る 直 接 プ ロ ジ ェ ク ト 運 営 か ら、 現 地 N G O パ ー ト
開拓、都市部児童支援事業を新たに展開。また、日本人
後、 1 9 9 8 年 に 同 会 事 務 局 長 に 就 任。 ネ パ ー ル 事 業 の
自立のための組織づくりのプロジェクトに関わる。帰国
1988年には 特
(活 シ
) ャプラニール=市民による海
外協力の会の駐在としてバングラデシュで農村貧困層の
の1年間ボランティアに参加。帰国後、日
Volunteers)
本 青 年 奉 仕 協 会、 世 田 谷 ボ ラ ン テ ィ ア 協 会 を 経 て、
大 学 卒 業 後、 英 国 の C S V
下澤嶽(しもさわ
たかし)
ま せ ん。 先 住 民 族 は 伝 統 的 に 土 地 所 有 概 念 が
型 の も の も あ り え ま す ね。 そ の 方 が、 バ ン グ
書 を 出 し ま し た が、 ベ ン ガ ル 人 も 出 し て い ま
下澤
あ り が と う ご ざ い ま す。 最 後 に 日 本 の
も う ひ と つ の 大 き な 問 題 は、 1 9 7 0 年 代 後
守 る 必 要 が あ り ま す。 そ う し な い 選 択 肢 は も
(Community Service
す。
ラデシュ政府がやる気になる可能性もありま
す。 私 た ち は こ れ ら を ま と め て、 報 告 書 の 形
十 分 な か っ た た め、 政 治 的、 文 化 的 な 理 解 は
すね。
相は選挙のマニュフェストにチッタゴン丘陵
市 民、 政 府 に 対 し て 何 か メ ッ セ ー ジ は あ り ま
で近いうちに出版するつもりです。
の和平協定実施をうたっています。私たちチッ
すか。
スルタナ
そ う で す ね。 シ ェ イ ク・ ハ シ ナ 首
タゴン丘陵委員会は「あなたはどうやって実
半 に つ れ て こ ら れ た ベ ン ガ ル 人 入 植 者 で す。
う 未 来 に は な い の で す。 バ ン グ ラ デ シ ュ 政 府
現 し た い の で す が、 そ の 上 で 私 た ち が 手 伝 え
彼らの多くは、厳しい状況で生活を強いられ、
5
丘陵地帯の豊かな森が消えた
生活・文化・歴史
写真/文・福澤郁文
山の稜線が淡い朝の光の中に浮かび上がる。
小鳥のさえずりのひと声が合図であったかの
よ う に、 い ろ い ろ な 鳥 た ち が 鳴 き は じ め た。
森のすべてが朝のラーガに包まれていく。
こ の 三 月、 僕 は チ ッ タ ゴ ン 丘 陵 地 帯 を 歩 い
た。季節は乾期である。遥かな山裾には焼き
畑 の 煙 が、 茜 色 を 帯 び て 淀 ん で い る。 鮮 や か
な 緑 は な い。 山 肌 は 焼 き 払 わ れ て、 ま る で 黒
い布で覆われたかのようだ。
四 駆 に 乗 っ て 山 の 奥 の 村 を 訪 ね た。 砂 塵 を
ま き あ げ な が ら 曲 が り く ね っ た 山 道 を 登 る。
そ の 小 さ な 集 落 は 車 道 か ら 歩 い て、 ひ と 山、
登った所にあった。
村人の暮らしは簡素で、水も出ないようだ。
高床式の竹で編んだ床。屋根はバナナの葉で
葺いてある。庭先の篭の中には唐辛子や煙草
の葉を乾燥してある。織物の途中なのか、戸
口の脇に縦糸を絡めたまま道具が放り投げて
あった。子どもたちは怯えたような視線を向
け て い る し、 女 た ち の 表 情 が 乏 し い の が 気 に
なる。この集落になにがあったのだろうか。
今 か ら 四 十 年 も 前 の 話。 僕 は チ ッ タ ゴ ン
の 街 か ら 程 近 い ハ タ ザ リ と い う 村 に い た。
一九七一年のバングラデシュ独立戦争の直
後、ボランティアとしてこの村で活動してい
た。村の生活にも慣れてきたある日、乗合バ
スに乗り込み、チャクマ族の暮らす丘陵地帯
ランガマティに向かった。そこは外国人立入
り禁止の区域だった。オンボロバスは黒い排
気ガスを吐き出しながら、山道を登っていく。
周辺の山や谷は熱帯性の植物やシダがうっ
6
そ う と 茂 り、 ツ タ の 絡 み つ く 樹 林 の 深 さ は、
ジャングルそのものだった。
「ここにはニシキ
ヘビがいる」と村人が話してくれた。
登 り き る と、 水 力 発 電 の た め に せ き 止 め ら
れた人造湖キャプタイ湖が見えてくる。湖面
はきれいな水を貯たえて、キラキラと輝いて
い た。 し か し、 こ の 水 面 下 に は 長 い 歴 史 を 持
つチャクマの人びとの生活があったと知らさ
れ た。 高 地 に あ る チ ャ ク マ の 部 落 は、 き れ い
に掃き清められ、女性が座り機で布を織って
い た。 は に か む 少 年 た ち。 犬 ま で が の ん び り
と庭を横切っていく。
部 落 を 歩 く と、 食 器 か ら 椅 子 な ど の 家 具、
家屋のすべてが木と竹で丁寧に作られている。
少女たちが身にまとう衣服は、あでやかな民
族 衣 装 だ。 彼 ら は 日 本 人 の 僕 を、 緑 茶 で 迎 え
て く れ た。 そ の 暮 ら し の あ ち ら こ ち ら に、 芸
術的なものがあった。
あ れ か ら 四 十 年。 チ ッ タ ゴ ン 丘 陵 地 帯 は 驚
くほど変貌してしまった。豊かな森林は全て
が伐採されて丸裸になった。動物の棲む気配
も な い。 そ の か わ り に 丘 の 頂 に は、 軍 隊 の 見
張り小屋が建てられ、銃を持つ兵士たちの姿
がある。
バングラデシュの人びとの多くが貧困の中
に あ る。 そ の 現 実 を 知 ら な い わ け で は な い。
し か し、 開 発 の 名 の 下 に 行 わ れ た、 政 府 の 入
植者移住政策と、先住民の人たちへの迫害は、
あまりにも悲しい歴史を刻んでいる。
人 の 考 え の 何 が こ う さ せ て い る の か。 私 た
ちもまた、村人と共に考えるべきことなのだ。
福澤郁文(ふくさわ
いくふみ)
長 野 県 南 信 州 に 生 ま れ る。 チ ッ タ ゴ ン 丘 陵 地 帯 に
よく似た環 境で育つ。二十四歳の時、独立直後のバ
ングラデシュに渡り、帰国後、ヘルプ・バ ングラデ
シュ・コミティ設立に関わり、それ以後シャプラニー
ル、 ジ ュ マ ネ ッ ト と N G O の 活 動 に 関 わ り な が ら、
写 真 を 撮 り 続 け て い る。 昨 年 よ り こ の 会 の 運 営 委 員
となった。
7
※ 2008 年度決算書は、年次報告書に
招聘事業
掲載されていますのでご参照くださ
い。なお、同報告書がお手元にない
方でご希望の方は事務所までご連絡
ください。
エスニックピースツアー
(2) 勉強会とシンポジウム
昨年度から続いてきた「先住民族と和平協定」をテーマと
して、紛争や問題を抱える他地域(グアテマラ、ナガランド)
(1) エスニック・ピース・ツアー(スタディツアー)の実施
との共同学習会や、シンポジウムを行なった。また、スタディ
このツアーは、日本人がバングラデシュ、モドゥプール郡
ツアーの事前学習会を兼ねた「モドゥプールのガロ民族」の
のガロ民族の村でのホームステイを通して、先住民族が直面
学習会はチッタゴン丘陵以外の先住民族をテーマにした初め
している多くの問題を生活の場から学ぶツアーである。第 1
ての試みでもあった。
回は参加者 2 名とアテンド 1 名の計 3 名での実施となったが、
・2008 年 4 月 19 日 「 バングラデシュ・チッタゴン丘陵の和
8 月 9 日の「国際先住民族の日」に行なわれる式典に参加し、
平協定 10 年から和平協定に必要な条件とか 3 つの事例の
ガロ民族を訪ねることが出来た。第 2 回は 2009 年 2 月に企画
まとめから 」(連続学習会の第 3 回目)
し、一般参加者 4 名の参加が決まっていたが、出国 3 日前に
(会場:東京麻生台セミナーハウス)参加者 24 名
首都ダッカで国境警備隊の反乱事件が起こり、ツアー実施を
・2008 年 6 月 15 日 「 アイヌ、ジュマ、ビルマの先住民族・
断念せざるを得なかった。参加者が思うように集まらなかっ
マイノリティとともに~首都圏のアイヌ、滞日外国人の中
たことやリスク管理の課題から、今後のツアー実施に関して
の先住民族との出会い 2008」(シンポジウム)
も再度討議することとなった。
(会場:明治学院大学白金キャンパス)参加者 84 名
販売収益事業
・2008 年 7 月 21 日 「 バングラデシュ・モドゥプールの森林
地帯のガロ民族~開発と環境の狭間で直面する土地紛争 」
(会場:東京麻生台セミナーハウス)参加者 14 名
(1)「お買い物でジュマ・ネット支援プロジェクト」事業の
立ち上げ
自己財源確保のために、ジュマ・ネットが活動の中で出会っ
(3) 国際協力フェスティバル等への出展
ジュマ・ネット活動紹介や C H T の現状について広く多くの
た方々の独創的で安心なグッズを紹介販売し、その販売利益
人に知らせた。また、自主財源の獲得のために物品販売も行っ
を平和促進活動に生かす事業を立ち上げた。メロンとカボチャ
た。
は北海道で農業を営む古くからの会員さん、米は新庄トラス
・2008 年 5 月 24、25 日 築 地 本 願 寺 350 周 年 記 念 祭( 築 地
本願寺)
トとネットワーク農縁の協力を得て実現し、メロン 62 セット、
カボチャ 54 セット、米 145 キロを販売した。他にも、タイの
・2008 年 9 月 14 日 NGO 祭り(丸幸ビル)
フェアトレードのバンブーコットン製品を 72 枚販売した。こ
・2008 年 10 月 4、5 日 グローバルフェスタ(日比谷公園)
れらの収益事業全体で約 30 万円の純益を出した。
・2008 年 19 日 土と平和の祭典(代々木公園)
グローバルフェスタでは毎年定番になったジュマ風ピタサ
ンドを販売。400 食完売した。
(4)先住民族サミットへの参加
日本および世界の先住民族の声を G8 首脳に届けることを目
的に開催された『先住民族サミット 「 アイヌモシリ 」2008』
(北
海道)に 2007 年法務省より日本で初めてジュマ民族として難
民認定を受けた、ディプティ・チャクマ氏を派遣し、ジュマ
民族の現状を伝えるスピーチを行った。
グローバルフェスタ
8
2008
年度
2 0 0 8 年 4 月 〜 2 0 0 9 年 3 月
の主な活動
平和促進活動
問題は人権 N G O に対して認可のための調査が厳しく、さ
らに全国ネットワーク組織であるため、調査に膨大な時間を
(1)チッタゴン丘陵委員会(以下 CHT 委員会)との
連携による平和促進活動
C H T 委員会は、1991 年にヨーロッパの人権活動家によって
要することである。ドゥルバル関係者が努力したため調査完
了間近と思われたが、2008 年 12 月の総選挙で政権が交代し
たため申請が白紙に戻ってしまった。そのため、元ドゥルバ
結成された国際委員会で、紛争期のチッタゴン丘陵問題の国
ルの母体組織であったナリポッコのプロジェクトとして急遽、
際世論の形成に大きな役割を果たした。しかし 1997 年の和平
再申請を行なった。2009 年度は許可が下り次第すぐに活動を
協定締結後、活動は実質的に停止状態になり、チッタゴン丘
スタートする予定である。
陵に関する国際活動も停滞した状況が発生していた。2006 年
3 月に代表の下澤がヨーロッパ N G O を 9 団体訪問した際、い
(2) 紛争被害児童・生徒への奨学金支援事業
くつかの N G O がこの問題へ関心を見せた。その後、2008 年 5
2007 年度から奨学金支援を継続している、マハルチャリ襲
月にコペンハーゲンで会合が持たれ、正式に第 2 期 C H T 委員
撃事件の被害生徒 2 名と過去の虐殺事件で父親を殺害された
会が発足した。この会議に日本から副代表のトムがオブザー
生徒の合計 3 名のほか、2008 年度に新たに支援を決定した 8
バーとして出席し、先住民族運動に長年関わってきた上村英
名を加えて、合計 11 名へ奨学金支援を行なった。
明氏が C H T 委員会の正式メンバーとなった。2008 年 11 月に
トヨタ財団からの助成が決まり C H T 委員会の活動資金を支え
ながら事務局の一端を担うこととなった。
(3) サジェク襲撃事件の緊急救援
2008 年 4 月 20 日夜、インド国境に近いランガマティ県バ
2008 年 8 月、C H T 委員会の第 1 回バングラデシュ訪問にト
ガイチョリ郡サジェクユニオンの 8 つの村に 100 人以上の集
ムがリソースパーソンとして参加、2009 年 2 月の第 2 回訪問
団が襲い掛かり、大規模な略奪・放火事件が発生した。ジュ
には日本人委員の上村氏と共に、事務局スタッフの松田が参
マ住民の家屋が少なくとも 77 軒、教会と 2 つの学校も焼け、
加した。これらの訪問団は、数々のステークホルダーと会談
ベンガル人入植者が建てた小屋も数十戸焼失し、合わせて 150
を持ち、バングラデシュ政府への積極的なロビーイングを行
〜 200 世帯が何らかの被害影響を受けた。このニュースを受
なった。
けて、ジュマ・ネットではサジェク緊急救援のための寄付を
募り、約 76 万円が集まった。ジュマ・ネットの緊急救援基金
(2)ランライ・ムロー氏への
不当逮捕・拷問に反対する署名活動
2007 年 2 月に武器不法所持の冤罪で逮捕され、激しい拷問
からも支出し、合わせて 100 万円を現地へ送金し、被災者の
ための食料や焼かれた家を建て直すためのトタンを購入し配
布した。
を受けた先住民族リーダー、ランライ・ムロー氏の人道的配
ンペーンを 2008 年 12 月から 2009 年 1 月まで実施。国内外
知らせ・交流する活動
から 353 筆の署名と 5 団体の賛同を頂き、
バングラデシュ首相、
(1) 招聘事業(キャラバン)の実施
慮と、不当逮捕・拷問の真相が究明されるよう求める署名キャ
外務・内務・法務・C H T 省各大臣、駐日大使に郵送・ファッ
チッタゴン丘陵地帯の女性に対する暴力と差別に対して活
クスをした。その後ランライ氏は 2009 年 1 月 26 日にようや
動する、全国ネットワーク組織「ドゥルバル」からトリプラ
く解放された。
民族のベッキー・トリプラ氏と、ベンガル人のアノワラ・ベ
グン氏を招聘した。東京、千葉、神奈川、大阪、京都の 18 箇
被害者支援活動
所で講演会や勉強会を行い、約 470 名の参加があった。
2 人はチッタゴン丘陵の現状を訴えるだけでなく、日本の介
(1)ドゥルバル・ネットワークを通した女性支援
9
護問題、人権問題(部落差別の歴史、アイヌ民族の歴史)も
2008 年度は、先住民族女性のレイプ被害者の支援活動の 1
学ぶことが出来た。暴力被害女性のためのシェルターを訪問
年目を実施する予定であった。そのため、ドゥルバルのメン
し、宿泊するなど、バングラデシュには無いサービスについ
バー 2 名を日本に招聘し、活動の意義と必要性をアピールした。
ても学び、今後のドゥルバルの活動の中で被害者のための試
2008 年 6 月の段階ですでに準備が完了し、バングラデシュ政
験的なシェルター設置に向けて活動を始めようとしている。
府の許可を待つだけとなったが、とうとう年度中に間に合わ
女性団体や N G O とも交流し、互いに意見交換を行なうなど女
ず、送金が行なえずに活動を開始することが出来なかった。
性の人権活動を行う人々のネットワークを作ることが出来た。
●最近の
活動報告
アースデイ
し た。
「初めてチッタゴン丘陵のことを知りまし
間で143枚もの署名を集めることが出来きま
い、多くの人がブースを訪れてくれました。2日
族の人々が作っているマヤ珈琲の販売などを行
ら 取 り 寄 せ た ニ ー ム 石 鹸 や、 グ ア テ マ ラ の 先 住 民
タトゥ)体験、手工芸品販売やバングラデシュか
ラデシュの女性のオシャレ「メヘンディ」
(ヘナ・
めと、チッタゴン丘陵地帯の写真の展示、バング
の 活 動 紹 介 や、 エ ク パ タ・ キ ャ ン ペ ー ン の 署 名 集
い し て く れ ま し た。 ブ ー ス で は、 ジ ュ マ・ ネ ッ ト
ほ か、 1 0 名 ほ ど の ボ ラ ン テ ィ ア さ ん 達 が お 手 伝
場 し ま し た。 ジ ュ マ ネ
・ ッ ト は 初 め て「 N P O ビ
レ ッ ジ 」 に 出 展 し、 事 務 局 ス タ ッ フ と 運 営 委 員 の
スデイ東京2009」が開催され、14万人が来
4月18、19日(土、日)代々木公園で「アー
本に住むジュマの方々が自分達で主催して行うこ
て来ましたが、今年2009年のボイサビは、日
2008年4月まで7年間毎年ボイサビを行なっ
8 0 名 以 上 も の 参 加 者 が あ り ま し た。 そ れ か ら
い う も の で し た。 初 め て の 試 み に も 関 わ ら ず 約
むジュマの人達が一緒にボイサビを実施すると
ジュマ ネ
・ ッ ト 設 立 当 時 の 最 初 の 活 動 は、
2002年4月に日本で初めて日本人と日本に住
を振舞います。
ふんだんに使った縁起の良いご馳走やお米の焼酎
サ ビ の お 祝 い の 日 は、
「パゾン」という山の幸を
イ・サ・ビ」と呼ぶようになったそうです。ボイ
クマ語でビジュと呼ばれ、それらをまとめて「ボ
ラ語でボイシューク、マルマ語でサングライ、チャ
月の1日(4月15日頃)に行ないます。トリプ
たちのお正月祝いです。ベンガル暦ボイシャーク
ボ イ サ ビ と は、 チ ッ タ ゴ ン 丘 陵 地 帯 の 先 住 民 族
田などが外務省と
したスタッフの松
ジュマ ネ
・ ッ ト 代 表 の 下 澤、 事 務 局 と し て C H T
委員会に部分参加
名の参加者がありました。
市民による平和構築の可能性に関心を持つ約30
ル人入植者とジュマ民族の双方からの聞き取りの
との意見交換や、事件のあったサジェクのベンガ
ハシナ首相との面談を始め、各ステークホルダー
泉女学園大学教授の上村英明さんが、シェイク・
ミッションに参加した市民外交センター代表、恵
員 会 の 報 告 会 を 行 な い ま し た。 委 員 と し て こ の
の2月にバングラデシュ訪問を果たしたCHT委
シップオフィスにて、新政権発足後間もない今年
4月10日(金)東京、
表参道の環境パートナー
また、これとは別日程で、CHT委員の上村氏、
様 子 な ど を お 話 し ま し た。 当 日 は C H T 問 題 や、
た!」という人も多く、ジュマ・ネットの活動に
し、担当者とCH
JICAを訪問
それを受けて、ジュマ・ネットが主催するボイ
成果について説明
T委員会の活動や
すると共に、入植
サビは、その役割を終了することとし、本来ボイ
者の自発的な再定
サビを祝う主役であるべきジュマの方々が自分達
のボイサビを実施できるように影から応援するこ
住についてなど意
間 を 過 ご す こ と が 出 来 ま し た。 お 手 伝 い し て く れ
とを決めました。毎年ボイサビを楽しみにして下
した。
見交換を行ないま
さった皆さま、ありがとうございました。
た皆様ありがとうございました。
体も多く、様々な情報交換をしながら、楽しい時
興味を持って長く足を止めてくださる方もいまし
CHT委員会
第9回
バングラデシュ
訪問の報告会
と外務省、
JICA訪問
とになりました。
今年の
ボイザビ
た。 ま た 他 の 出 展 者 も 個 性 的 な 活 動 を し て い る 団
アースデイ東京
2009に出展
10
ジュマ・ネットでは、厳しい環境に陥り、
学業を続けるのが難しくなった子ども達に対して、
学業を続けられるように支援を行っています。
このコーナーでは、
ジュマ・ネットが支援している子ども達を
ディプ君のお母さんとご兄弟
●今月の子ども
佐藤美希
----------------
ディプ・チャクマ君
デ ィ プ・ チ ャ ク マ 君 は チ ャ ク マ 民 族 の 1 0
歳 の 男 の 子 で す。 お 母 さ ん と お 兄 ち ゃ ん、 弟
文
な 家 を 建 て 直 し て 生 活 を し 続 け ま し た。 逃 げ
照れ屋の男の子です。お母さんの話によると、
す。 私 が じ
「 ゃ あ、 英 語 で 話 し て み て と
」言
う と 照 れ て 下 を 向 い て し ま い ま し た。 と て も
なかったことで、周りのベンガル人に恨みを
お 兄 ち ゃ ん は、 家 の 近 く に は 良 い 学 校 が な
を訪れたチッタゴン丘陵委員会の国際調査団
学 校 の 勉 強 は、 算 数 や 英 語 が 好 き だ そ う で
あるチャクマ民族が集まって住んでいます。
い の で、 家 か ら 離 れ た 寮 に 住 み、 そ こ か ら 学
お 父 さ ん も 物 静 か な 人 だ っ た よ う で す。 私 の
にサジェク襲撃事件に対して情報を提供した
ページ参照)
母 さ ん の お 手 伝 い を よ く し ま す。 料 理 な ど の
た り す る の?」 と 聞 く と、 笑 い な が ら「 そ ん
て、「家ではいたずらをしてお母さんを困らせ
で も、 話 を 聞 く う ち に 少 し ず つ 言 葉 も 出 て き
分達の暮らしがどれほど苦しいかを訴えまし
に入植ベンガル人にとられてしまったか、自
事件の詳細を話し、自分達の土地がどのよう
調 査 団 に 対 し て、 お 父 さ ん は サ ジ ェ ク 襲 撃
号、
も う 一 つ の 理 由 は、 8 月 に 彼 ら の 住 む 地 域
してくれました。
買ってしまったのかもしれないとお母さん話
校に通っています。
質 問 に 対 し て も、 照 れ て な か な か 答 え て く れ
ことです。 (※ジュマ・ネット通信
の4人家族です。
弟 は ま だ 6 歳 な の で、 今 は デ ィ プ 君 が 家 で
な い の で、 こ ち ら も は じ め は 戸 惑 い ま し た。
家 事 仕 事 は で き な い け れ ど、 弟 と 一 緒 に 畑 仕
なことしてないよ」と答えてくれました。
彼 の 家 に お 父 さ ん は い な い の で す が、 実 は
とが殺された原因でした。
に対して、自分達が不利になる発言をしたこ
み続けていた事で恨みを買い、そして調査団
た。家を焼き払っても逃げずにその土地に住
家 に は 電 気 は 通 っ て な く、 竹 で 編 ん だ 小 さ
お 父 さ ん は 去 年 の 8 月、 入 植 ベ ン ガ ル 人 に 殺
号参照)
事 件 の 後、 も と も と そ の 地 に 住 ん で い た 先 住
民 族 達 は、 ま た 襲 撃 さ れ る の を 恐 れ て、 そ の
地 を 離 れ て 避 難 生 活 を 続 け て い た の で す が、
佐藤未希(さとうみき
ジュマ・ネット事務局)
暑いところで自然に身を任せてだらだら汗をかく
の が 大 好 き で す。 5 月 下 旬 に 出 張 で バ ン グ ラ デ シ ュ
に 行 っ た の で、 そ の 時 に い っ ぱ い デ ト ッ ク ス し て、
すっきりしてきました。
く、そしてたくましく暮らしています。
今 は、 お 母 さ ん と 3 人 の 男 の 子 で つ つ ま し
さ れ て し ま っ た の で す。 殺 さ れ て し ま っ た 理
を収穫し、それらを売ってお金にしています。
事を手伝います。マンゴやジャックフルーツ、
8
パイナップルも育てていて、木に登って果物
16
な 家 に 住 ん で い ま す。 近 所 に は、 同 じ 民 族 で
由は2つ考えられます。
、
去年の4月にディプ君の住む村が襲撃され
15
軒、 二 つ の 学 校、 ベ ン ガ ル
ま し た。 (※サジェク襲撃事件:ジュマ・ネット通信
先住民族の家が
14
人 入 植 者 の 小 屋 が 数 十 軒 全 焼 し ま し た。 こ の
80
デ ィ プ 君 家 族 は 逃 げ ず に そ の 地 に 残 り、 簡 単
11
は唯一の働き手です。 放課後や休みの日はお
ディプ・チャクマ君
『未来を担う子ども達』
つつましく、そしてたくましく
シリーズで紹介していきます。
●CHTニ ュ ー ス ・ ク リ ッ プ
裁判所が評議会
選挙未実施の理由を
政府に問う
5月5日にダッカ高裁は、CHT丘陵評議会と3県評
議会の選挙をなぜ行わないのか回答するよう政府に命じ
た。法律では、5年間の任期が満了する前に選挙が義務
付 け ら れ て い る が、 9 8 年 に 選 挙 な く P C J S S 委 員 を
中 心 に 作 ら れ た 暫 定 地 域 評 議 会 が 今 も 続 い て い る。 県 評
議会も、89年に1回選挙が行われただけで、各政権が
5名ずつの委 員 を 任 命 し て き た 。
●和平協定に従ったCHT永住者だけからなる有権者名
簿の作成を政府が拒み、選挙が行われてこなかった。こ
のままだと評議会の正当性は疑われ権限委譲も進まない
だろうが、内紛で弱体化しているPCJSSにとって不
都合な判決と も い え る 。
和平協定実施の
枠組みが整い始める
区 で、 今 年 5 月 6 日 に 茶 屋 か ら 入 植 者 2 名 が 誘 拐 さ れ、
昨年4月に大規模な襲撃事件が起こったサジェク地
大臣は、土地委員会を再結成すると約束し、入植者にリー
ダ・チョウドゥリー議員が委員長に任命された。CHT
T和平協定実施委員会が新設され、国会副議長のサイェ
ラ議員というジュマ国会議員が任命された。また、CH
タスクフォース議長にはジョティンドロラール・トリプ
T開発局長にはビール・バハドゥール議員、国内避難民
担当省大臣にディポンコール・タルクダール議員、CH
CHT和平協定実施の体制が整いはじめている。CHT
寺院の土地を収奪する策略も続いている。入植者が虚偽
同県ディギナラ郡バブチョラのサードナ・ティラ仏教
る手紙を県知事宛に提出した。
が、カグラチョリ町でデモ行進し、土地収奪停止を求め
イ・アウンギョ・マルマ村長をはじめジュマ住民数百人
マ住民に暴力を振るっている。6月17日にモン・チャ
小屋を勝手に建てて土地を収奪しており、抗議するジュ
め か ら 入 植 者 が ジ ュ マ 住 民 の 土 地、 約 3 0 0 エ ー カ ー に
カグラチョリ県ラムゴル郡ボロイトリで今年6月はじ
各地で土地収奪の試み
5 月 9 日 に 付 近 か ら そ の 遺 体 が 発 見 さ れ た。 そ の 事 件
スされたが使われなかった土地を元の持ち主に返還する
の訴訟でジュマ住民を訴え、今年2月18日に裁判所が
bdnews.com 2009 年 5 月 6 日
に 関 わ っ た 疑 い で 陸 軍 は 5 月 1 0、2 6 日 に か け て 付 近
と も 言 っ て い る。 し か し、 協 定 実 施 は、 こ こ 1、2 年 の
両者に「現状維持」の指止命令を出した。このため、軍は、
ア ワ ミ 連 盟 政 権 が 誕 生 し て 半 年 経 ち、 選 挙 で 公 約 し た
の 村 々 か ら 少 な く と も 6 人 の ジ ュ マ の 村 人 を 逮 捕 し た。
勝負と考えられ、具体的な実施スケジュールが強く求め
サジェクで
ジュマ村人6名逮捕
ジ ュ マ 住 民 は 毎 日 の よ う に 続 く 逮 捕 に 怯 え、 事 件 は 襲 撃
られている。
同地域に建設資材を搬入することを禁止し、雨季を前に
の口実を作っ て 土 地 を 奪 う た め の 陰 謀 だ と 訴 え て い る 。
chtnews.com 2009 年 5 月 27 日
寺や住居の補修をできなくしている。
chtnews.com 2009 年 6 月 17 日、4 月 28 日、3 月 20 日
12
レイプ殺人事件の犯人を庇ったラマ
警察署長の退陣を求めて抗議行動を
する丘陵学生評議会のメンバー。
PCJSS内部でも
分裂が激化
2009年2月25日にPCJSS元書記長のチョ
ン ド ロ・ シ ェ コ ル・ チ ャ ク マ さ ん が ラ ン ガ マ テ ィ 町 で 銃
撃 を 受 け た。 同 氏 は、 こ の 殺 人 未 遂 事 件 を 指 揮 し た と し
てショントゥ・ラルマPCJSS代表はじめ14名を告
発 し た。 3 月 1 7 日 に ダ ッ カ 高 裁 は、 こ の 件 で ラ ル マ 氏
。2009年4月26日、ランガマティ町で、P
17日)
に2ヶ月の保釈命令を出した (PCJSS
2009年3月
CJSS「改革派」メンバーのプロゴティ・チャクマさ
んが銃撃されて頭部に銃弾を受けた。同氏は1998年
に P C J S S に 加 盟 し た が、 U P D F と の 抗 争 の 扱 い
などをめぐってラルマ氏との対立していた ( chtnews.com
2009年4月26日)
。6月17日には地域評議会委員ル
パ ヤ ン・ デ ワ ン 氏 率 い る P C J S S「 改 革 派 」 が ラ ン ガ
マティで、ラルマ派による暴力に抗議するデモ集会を行
い、ラルマ派グループがそれを妨害した。
chtnews.com 2009 年 6 月 18 日
レイプ ・殺人事件が相次ぐ
2 0 0 9 年 3 月 8 日 午 後 1 時 ご ろ、 カ グ ラ チ ョ リ 県
ディギナラ郡シャンティ・ロッキプール村で、Eチャク
マさん(4歳)がマイニ川で沐浴をしているところをモ
スタファ・ミアンという入植者にレイプされた。
2 0 0 9 年 5 月、 バ ン ド ル バ ン 県 ラ マ 郡 レ モ ン・ メ
ンバー村在住でタバコ農園に勤務するMPマルマさん
ロ ロ フ ォ ル ム 漬 け の 布 で 気 絶 さ せ ら れ、 レ イ プ さ れ 後、
( 1 8 歳 ) が、 同 農 園 の 従 業 員 モ ハ メ ド・ ジ ュ エ ル に ク
殺害された。丘陵学生評議会(PCP)は5月12日に
ダッカでこの事件に抗議するデモを行い、犯人を庇った
とされるラマ警察署長の退陣も求めた。
chtnews.com 2009 年 3 月 9 日
トム・エスキルセン
日 本 で ア メ リ カ 人 宣 教 師 の 家 庭 で 生 ま れ 育 つ。 大 卒 後、
インド・バングラデシュを放浪し、シャプラニール、サ
ラ ワ ク・ キ ャ ン ペ ー ン 委 員 会 な ど に 関 わ る。 1 9 9 3 年
の「 チ ッ タ ゴ ン 丘 陵 問 題 対 策 会 議 」 の 設 立 か ら ジ ュ マ 民
族とのご縁が続いている。本職は通訳。趣味は登山、語学、
カラオケ。
13
CHT
NEWS
昨年から「お買い物でジュマ・ネット支援プロ
ジェクト」という、ジュマ・ネットが活動上で出
会った、安心で独創的な商品を紹介販売し、その
利益をチッタゴン丘陵地帯の平和促進活動に生か
す新しい事業がスタートしました。生産プロセス
や原料など良心的なものを厳選し、商品を買って
頂くだけで、どなたでも平和促進活動への支援が
出来る新しい提案です。この事業の第 1 弾の商品
が、奥田さんのニーム育ちのメロンでした。
●ジュマでつながる人々
Q
奥田さんのメロンの特徴は、ニームという薬用植物のエキスを使い、
と出していた、というのが有名な話です。私は生協の新聞編集委員をし
ものやつ」というと、おばさんがどんぶり2杯と豆腐と納豆2皿ずつさっ
ジュマ・ネット会員、奥田さんが育てる無農薬メロン
食を通じてバングラデシュと日本をつなぐ
無農薬で栽培しているということですが、ニームを使うようになったきっ
ていたのですが、
「怪しい人が食堂を利用している」という投書があった
Q
農業をされていて最近どのようなことを感じますか?
で、必ずしもトムさんのことではないと思いますが・・・
ように記憶しています。他のスタッフも皆かなり怪しい人たちだったの
かけは何でしょうか?
奥田
1993年から2年間、有機農業を普及しているタイの農業開発
訓練センターで、アドバイザーとして働きました。農場は無農薬野菜の
栽 培 を 地 域 の 農 民 に 普 及 さ せ る こ と を 目 指 し て 作 ら れ た も の で す。 化 学
農 薬 を 一 切 使 用 せ ず、 堆 肥 に よ る 土 作 り と ニ ー ム な ど の 天 然 資 材 の 活 用
薬を多く使わなければならないのには理由があります。その一つは外観
奥田
消費者の多くは、農薬をできるだけ使わないで欲しい、安全な食
途上国の貧しい自給自足的な農家は、収穫した穀物を貯蔵している間
を 重 視 す る 国 内 市 場 の 規 格 が 非 常 に 厳 し い と い う こ と で す。 そ の た め、
を勧めていて、そこで私自身も初めてニームを使い、その効果を確認し
に害虫に食われて、かなりの量を失ってしまうようです。しかし、ニー
十分食べられるのに、規格に合わないために国内で廃棄されている農産
品が欲しいと考えており、それは当然だと思います。しかし、農家が農
ムの葉を混ぜておくだけで数ヶ月に渡って害虫の被害を防ぐことができ
物は莫大な量になると考えられます。
たのです。
ます。ニームの樹を1本植えるだけで、高価な貯蔵施設を作ったり、危
ま た、 ニ ー ム は 強 健 で 成 長 が 早 く、 痩 せ 地、 乾 燥 に も 強 い こ と か ら ア
生じているところもあります。CHTでADBの支援を受けた商業林開
輸出する食糧を増産するために森林が破壊され、土壌の劣化や水不足が
それにもかかわらず海外からの食糧の輸入は増大しています。日本に
フリカのサヘル地域など砂漠化が進行している地域で植林樹種としても
発の計画が持ち上がっているという記事がジュマ・ネットの会報にあり
険な化学薬品を使わなくて済むのです。
活躍しています。
Q
シャプラニールを通してジュマ ネ・ットの副代表トムさんと知り合っ
しょうか。
将来的な木材や紙資源の供給確保のために準備されていると言えないで
ま し た が、 そ う い っ た 計 画 が あ る の は、 森 林 破 壊 の 進 行 が 非 常 に 早 く、
たと言うことですが、何かおもしろいエピソードとかありますか?
奥田
当時のシャプラニールのスタッフは貧しく、早稲田の生協食堂を
はないかと考えます。
ちの社会の不合理な浪費が、間接的部分的にせよ、つながっているので
グローバリゼーションによる経済開発の進展とそれを必要とする私た
よく使っていたらしいのですが、トムさんが食堂のカウンターで「いつ
14
森の中での奥田さん(右から 2 人目)
南
「 北経済格差問
今年の 4 月から 2009 年度に入りました。昨年度は新しい
れまで分断されて来た世界中のジュマ関係者がつながり、
スタッフと新役員の加入もあり、ジュマ・ネットに新しい力
国際社会とバングラデシュ政府にアピールすることを目指
が加わった年でした。年度末には 2009 年度スタートに向
けて活動の 3 カ年計画の策定と、組織の強化に向けて随分
します。
悩みながら、試行錯誤しながらですが何とか成果が出せ
話し合いがされました。また、C H T 委員会の再結成、新政
るよう今年度も役員、事務局ともども頑張って行きたいと
権スタートとバングラデシュの C H T 情勢にも大きな変化の
思います。2009 年度も皆様どうかよろしくお付き合い下
可能性が生まれました。
さいますようお願い致します。(松田みどり)
からスタートします。C H T の平和促進活動をより進めるた
h t t p : / / w w w . j u m m a n e t . o r g /
めにも、ジュマ・ネットの自己資金の強化が課題となってい
新しいホームページがオープンしました。関係者による
それから農家は毎日、自然の中で働いていますから最近気候が荒れて
き て い る こ と を よ く 口 に し ま す。 温 暖 化 と 単 純 に 言 い 切 れ る の か は 別 と
して、環境破壊がかなり深刻な状況になりつつあるのは確かなようです。
私自身、車やトラクタに乗ってますし、ビニールを使わないとメロンは
で き ま せ ん か ら 偉 そ う な こ と は 言 え ま せ ん が、 小 手 先 で は な く 根 本 的 に
は
」 ほとんど
私たちの意識や文明を転換しなければならない時が来ているのかも知れ
ません。
私が援助に関わっていた頃、 南
「 北問題
題 と
」 して語られていました。NGO
も 含 め て、 貧 し い 途 上 国 の 生 活 を ど
う改善し引き上げるかということが
主 な テ ー マ と な っ て い ま し た。 し か
し、 こ の 地 球 の 中 で 環 境 を 破 壊 せ ず
に永続的に暮らしていくという視点
に 立 て ば、 先 住 民 族 の 人 た ち の 生 活
も行ないます。また過去におこなったエクパタ・キャンペー
の 方 が、 よ り 適 切 で あ る こ と は 明 ら
げている北海道のメロンや、山形県新庄のお米の販売など
ブログも日々更新中です!
ます。国内での支援の輪を広げるために、各地で運動を広
●ジュマ・ネットの新ウェブサイト!
2009 年度のスタートは P ちゃんサポーター制度の導入
ンを国際的な署名キャンペーンとして展開することで、こ
2008 年 度(2008 年 4 月 〜 2009 年 3 月 ) が 終 わ り、
か で す。 ニ ー ム な ど の 有 用 植 物 は 自
然 の 贈 り 物 で あ る と 同 時 に、 そ の よ
うに自然と調和して暮らしてきた人
た ち の 知 恵 の 産 物 で も あ り ま す。 そ
れを活かしていくという活動によっ
て、 少 し で も そ う い う 問 題 を 考 え る
きっかけが作れたらと思います。
奥田潤二
1 9 6 2 年 生 ま れ、 埼 玉 県 出 身。 千 葉
風
「 の学校 ほ
」 か、 い く つ か の 農 場
で 有 機 農 業 を 学 ぶ。 タ イ で 農 業 協 力 を し
県の
ていた時 平
「 成の米騒動 が
」 起 こ り、 そ
れをきっかけに日本で農業経営を始め
15
る。 2 0 0 1 年 か ら 北 海 道 中 富 良 野 町 に
移住。ジュマ ネ・ット会員歴6年。
事務局便り 2009 年 6 月 30 日 ジュマ・ネットでは今年度から
新しい試みとして、
月に1回定額を銀行やゆうちょ、
クレジットカードから自動引き落としの、
生まれたのは、バングラデシュ、チッタゴン丘陵地帯の森の中。
ピースコレクターで、
Piece of Peace(平和のかけら)をたくさん集めて、
経 真珠美
PちゃんのPは PEACE(平和)のPだよ。
by
マンスリー募金『Pちゃんサポーター』を
始めました。
イラスト
はじめまして、ぼくPちゃんです。
ずっと続く強いピース(平和)をつくることが使命なんだ。
耳の羽で空を飛んでバングラデシュを自由に旅行するのが大好き!
いつも空から見ていて、色んなところから色んな情報を取ってくるよ。
PちゃんのPは、『
Piece of Peace 平
( 和の
かけら 』)のPちゃんです。
P ち ゃ ん の 優 し い ほ ん わ か し た 雰 囲 気 で、
難しくなりがちなチッタゴン丘陵地帯の問題
をわかりやすく、みんなに説明します。
Pちゃんはチッタゴン丘陵地帯の森で生ま
れ、昔から現在までの変化をずっと見てきて
います。
耳の羽で空を飛びバングラデシュを旅する
のが大好き。好奇心旺盛で、色んなところに
出かけていっては、様々な情報を集め、みん
な に シ ェ ア し て く れ ま す。 だ か ら、 P ち ゃ ん
はとても物知りです。
P e a cコ
e レクターで、 P e a cの
e かけらを集
め、 ず っ と 続 く 強 い P e a cを
e つくることが
生 ま れ て き た 使 命。 逆 に P e a cが
e なくなっ
て し ま う と、 弱 っ て し ま い、 ひ ど い 場 合 は、
死んでしまいます。
大昔に比べると、今はチッタゴン丘陵地帯
に P e a cが
e 少なくなってきちゃってつらい
のです。みんなが笑って安心して暮らせるよ
うに、Pちゃんは奮闘します。ちょっとおと
ぼけのPちゃんだけど、ふんばる時は、ちゃ
んとふんばります。正義感は人一倍強いので
す。
でも、Pちゃん1人だけで頑張っていても、
す ぐ へ こ た れ て し ま う の で、 大 勢 の 方 の 協 力
が必要です。
みんな、新しいキャラクターPちゃんを応
援して下さいね。