市民 講 座 生と死のフォーラム 第 131 回 ● 生 死 と 人 間 2012 年 7 月 5 日(木)群馬ロイヤルホテル(前橋) きて 生 良く死 ぬ 善く ●生と死をどう理解するか。それに対する私たちの態度について考えてみよ うと思います。生と死、これは私達人間であれば、誰でも考え、消化させな くてはならない基本的な問題です。生と死について思いをめぐらすこと、理 解することの過程なくしては、成熟した人生はありませんし、人生を観察す る事もできません。また、望ましい自分の人生を具現する事もできなくなる でしょう。そうなのです。生と死について考えることは、真の幸せに近づく ために通らなくてはいけない作業だからです。 講 師 :カトリック太田教会 神父 金 大烈 生と死 西 山 大 師 ( ソ サ ン デ サ 1520~ 1604) と い う 有 名 な 僧 侶 が い ま し た 。 民に尊敬された“悟られたお坊さん”と言われた方です。 彼が残した美しい詩を紹介させて頂きます。 訳 金 大烈神父 生きている事は何だろう。 息を一回吸い込んで、その息をまた吐く事。 手に握ったり、放したり、持ったり、捨てたりする事。 それがまさに生きている印ではないのか。 そして、ある瞬間、吸った息を吐けなかったら、 それが、まさに死ぬ事になるんだろう。 誰も その代金を払うように求めない空気の一口も 吐けなかったら それが、死に至る道であるのを良く知っていながら、 如何して、 あれも自分の物、これも自分の物、 全部自分の物のように 握ろうとするのか。 よ み じ 沢山持っていても、 黄泉路 には ちり一つも持って逝けない。 使うだけ使って残りは捨てなさい。 あなたが握っているのがある位になったら あなたよりもっと欲しがる人と分かち合いなさい。 人々の心の畑にあなたの慈しみの種を蒔いて、 人と人との心の間に香ばしい花が咲くと それが天国、それが極楽である。 生というのは一切れの浮き雲が浮び上がる事、 死というのは一切れの浮き雲が消え失せる事である。 浮き雪自体が本来実体が無いように 生まれて死ぬ事、 来て去ってしまう事も同じである。 千の考えと万の思いが ひ ば ち 燃えている 火鉢 の上の一点の雪 田を耕す牛が歩くと 1 大地と天が分かれるのだ。 生きる事は一切れの雪が浮び上がるのであり、 死ぬことは一切れの雪が消え失せる事である。 死ぬ事、生きる事、来ること、行く事、 全てがそれと同じである。 幸せになる道 1. 心 -一 心は治めるものではなく、耕すものです。 もし、治められると言っても、それは隠す事に過ぎないことです。 あなたの心で起こっているあらゆる反応は 過ぎた全ての時間を含めた心の状態を現しています。 花畑のように、あなたの心を耕してください。 土地をひき、種をまき、雑草を取り、肥やしを与える事のように。 2. 心 -二 ( 山 登 り ) 我らの心は美しさに出会う時、幸せになり、清められ優しくなります。 出来る限り、美しさを見られる目を持つべきです。 あなた自体が感動の可能性であることを忘れないで下さい。 3. 心 -三 花が美しいのは花を見ようとする心があるからです。 4. 赦 し あ い 同 じ こ と で も 、容 易 に 赦 す 人 が い て 、そ う で は な い 人 が い ま す 。そ の 原 因 は 心 の 傷 で あ る の を 我 ら は 皆 分 か っ て い ま す 。確 か な こ と は 赦 せ る 者 は 幸 せ な 人 で 、 赦 せ な い 者 は 不 幸 な 人 だ と い う 事 実 で す 。憎 し み か ら 出 る 怒 り を 持 っ て 一 生 を 生きる人が幸せだと言えないからです。これをよく知っているにも関わらず、 愚かな生き方から抜け出し難いのが我らの弱い姿かもしれません。 個 人 的 に 持 っ て い る 傷 の 大 き さ 、頻 度 、克 服 の 成 否 と は 関 係 せ ず 、赦 せ な い 心 、 い い え 、よ り 正 確 に 言 え ば 、赦 し た く な い 心 を ど の 様 に 癒 す こ と が 出 来 る の で しょうか。 簡 単 に 申 し 上 げ た い の で す 。そ れ は 、自 分 も 一 生 を 誰 か に 赦 さ れ な が ら 生 き て 来 た の を 自 覚 す る 事 で 、感 謝 の 情 を 感 じ る 体 験 だ と 思 い ま す 。こ れ に つ い て は 例外はありません。我ら皆は、常に誰かに赦されながら生きています。 2 5. 傷 -一 被害の意識から解放されなくてはいけません。 事実に、我らは被害者と加害者を分けようとする世に生きています。 し か し 、我 ら は 被 害 者 で あ り な が ら 同 時 に 加 害 者 で あ る 可 能 性 を 持 っ て い る の を意識すべきです。 これが和解の正しい始まりです。 6. 傷 -二 傷だらけの世の中です。傷が傷としてそのまま凍るのであれば何の意味もあ り ま せ ん 。お そ ら く 傷 の 最 も 大 き い 肯 定 的 な 意 味 は 、又 違 う 傷 を つ け な い 事 に あるかもしれません。 皆、美しく生きようとする心になって欲しいです。 7. 健 康 の 意 味 ( 病 に 対 す る 理 解 ) 肉体的な癒しの意味、いわゆる完治の意味はただ時間が延ばされた事であり、 その時間は一つの機会として与えられます。 そして、その機会は愛せる時間、償える時間、より正しく生きられる時間に ならなくてはいけません。 8. 苦 痛 あ る 人 が 生 を 仕 上 げ な が ら 、“ 私 は 幸 せ だ っ た ” と い う 告 白 を す る 時 、 そ の 人 の 生 涯 に 苦 痛 が 無 か っ た こ と を 意 味 す る の で は あ り ま せ ん 。我 ら も 憶 え 切 れ な い程の沢山の苦痛という山と川を乗り越え、渡って来ました。 逆 説 的 に 言 い ま す と 、あ る 誰 か が 人 格 者 だ と 言 わ れ た ら 、そ の 人 は 自 分 に 与 え られた苦痛を憶えながら、その中で意味を探して来た人だと言えます。 避 け ら れ な い 様 々 な 痛 み 、そ の 痛 み を 結 局 、存 在 論 的 に 解 釈 が 出 来 る か ど う か によって人生の最後の告白が美しくなるのかどうかが決定されるかもしれま せん。 も し か す る と 、我 ら の 生 と 常 に 伴 わ な く て は い け な い 苦 痛 、こ の 苦 痛 に 感 謝 し なくてはならないかもしれません。 9. 時 間 “果たして、我らに愛せる時間はどの位残っているのか” これが今自ら自分達に優先的に、そして深刻に問わなくてはならない質問で あるのは確かであります。 3 10. 老 い る こ と の 意 味 老いる事も一つの大きい恵みです。 老いる事は生と死をより良く親解させてくれます。 わきま 弱さと強さの意味が分かる事になり、意味と無意味を 弁 えさせてくれます。 何よりも生と死を一つの線上で全体的に見られる目を許してくれます。 やはり、結論は美しく生きなければならない事です。 11. 知 恵 我らが求めるべきは知織ではなく知恵であります。 知恵が欠けた知識はとても危ないからです。 ここで言う知恵とは正しく見れる力、行動が出来るカ、愛せるカ、赦せる力、 抱き締められる力、耳を傾けて理解する事が出来る力を言います。 分かっているという思いによって、大事な事を失いながら生きる事になれば、 それは知恵を得るのではなくて「愚かさ」を選ぶことになるのでしょう。 12. 知 恵 -沈 黙 沈 黙 は 聞 え な く て 見 え な い も の が 聞 え 、見 え て く る よ う に す る 祈 り で あ り ま す 。 我らは沢山の大事な事を忘れて生きているのではありませんか。 13. 人 生 の 秋 秋は本当に怪しい。 僧 侶 法 頂 ( 1932~ 2010) 訳:金 大烈神父 秋は本当に怪しい。 少し落ち着いた心で歩んで来た道を振り返ってみる時 生きる事って何だろうとひょいと独り請で呟いている時 私はいきなり優しい気持ちになる。 落葉の様に我らの心も薄い憂愁に染まって行く。 秋ってそんな季節のようだ。 今はどの空の下で何をしているのか。 遠く去っている人の安否が気になる。 深い夜、明かりの下で住所録を開いて 友の日もとを、その声を思い浮かばせてみる。 秋ってそんな季節のようだ。 4 真昼にはどんなに鷹揚で硬い人でも 太陽が傾くと枯れ葉が転がる一つの音にも 心を開く軟弱な存在であるのをすぐ気がつく。 昼間は海の上の島のように別々に離れていた我らが 帰巣の時刻には、同じ大地に根下ろしている肢体であるのを 初めて気がつく。 分かるようで分からない問いである。 我らが分かる事が出来るのは 生まれた者はいつか一回は死ななくてはいけない事だ。 生者必滅、会者定離 その様な事であるのをよく知りながら 常にもの足りなくてなごり惜しく聞こえる言葉である。 瞬間瞬間をでたらめに、ぞんざいに生きたくないんだ。 出会う全ての人々に暖かい視線を送るべきだ。 一人ひとりの顔を覚えておくべきだ。 又違うある世の中の何処かで偶然に会える時、 その名前を呼びながら手を握って嬉しさを交わせる為に 今、ここで覚えておかなくてはいけないのだ。 人の間に横目でにらむ余力がどう出来るのか。 気が合わないと言って 獣のように歯向かう事のような愚かさはないんだろう。 我らは憎みながら争う為に出くわした敵では無くて 互いに支えあい、愛しようと遠い遠い昔から求め会った隣人である。 この秋には全ての隣人を愛したい。 一人でも寂しくさせてはいけない事だ。 秋は本当に怪しい季飾である。 14. 善 と 悪 そ し て 自 分 と の 戦 い た ま に こ の 様 に 質 問 さ れ る 場 合 が あ り ま す 。何 故 、こ の 世 の 中 に は 苦 痛 と い う ものがあるのでしょうか? 何故、神様は悪をなくせず、このまま人々が痛むのを許されるのでしょうか?」と。 も し 、こ の 世 の 中 に 悪 と い う も の が 存 在 し な か っ た ら そ れ は 世 で は な く 天 国 と か極楽だと言ってもいいのでしょう。 5 仕 方 な く 、こ の 世 が 終 わ ら な い 限 り に は 、善 と 悪 が 共 存 す る の を 見 な が ら 生 き る方法しか無いのです。 そして、悪を訴えているその人の心の中にも悪が存在すのです。 先ず、ありのまま認めるのが大事なことであります。 人 生 の 真 の 意 味 は 、悪 と 戦 い な が ら 、色 ん な 難 し さ を 乗 り 越 え よ う と す る 心 に あ り ま す 。そ し て 、出 来 る だ け 善 の 美 し さ を 作 り 出 し 、述 べ 伝 え よ う と す る 心 の中にあります。結局、自分との戦いです。 で す か ら 、人 生 っ て 、そ れ は 宿 題 の 様 な も の で す 。与 え ら れ た 数 多 く の 宿 題 を 全力を尽くして果たそうとする旅であります。 次 に 紹 介 す る 文 章 は 、韓 国 で 結 構 有 名 な 詩 人 と し て 知 ら れ て い る シ ス タ ー の 詩 です。 1945 年 生 ま れ だ か ら 、 そ ろ そ ろ 70 歳 に な ら れ る 方 で す 。 彼 女 は 何 十 年 も 美 し い 信 仰 な 詩 を 作 っ て き ま し た 。こ の 詩 は 最 近 の も の で す 。で す の で 、こ の 詩 の 中 には彼女の纏められた人生が解け染みています。 人生は愛を探し自分の物にする宿題である。 他人のせいだと思いました シスター 李 海仁 訳:金 大烈神父 私の心が渇いている時には 私はいつも他人をみました。 他人が自分を乾かせると思ったからです。 しかし、今になって見ると、私が渇いて冷たくなったのは 他人のせいではなく、 自分の中に愛がなかったからでした。 私の心が不安に陥る時には、 私はいつも他人をみました。 他人が私を不安にさせると思ったからです。 しかし、今になって見ると、私が不安で苦しいのは、 他人のせいではなく、 自分の中に愛がなかったからでした。 私の心が寂しくなる時には、 私はいつも他人をみました。 6 他人が自分を見捨てたと患ったからです。 しかし、今になって見ると、私が寂しくて物足りない心になったのは、 他人のせいではなく、 自分の中に愛がなかったからでした。 私の心が不満で満ちた時には 私はいつも他人をみました。 他人が自分を満足させないと思ったからです。 しかし、今になって見ると、自分にたまる不平や不満は、 他人のせいではなく、 自分の中に愛がなかったからでした。 私の心に喜びがない時には 私はいつも他人をみました。 他人が私の喜びを奪っていると思ったからです。 しかし、今になって見ると、私に喜びと平和がないのは、 他人のせいではなく、 自分の中に愛がなかったからでした。 私の心から希望が消えてしまう時には 私はいつも他人をみました。 他人が私を落ち込ませると思ったからです。 しかし、今になって見ると、私が落胆し、挫折するのは 他人のせいではなく、 自分の中に愛がなかったからでした 私に起こるすべての否定的な事は 自分の心に愛がなかったからであるのを 気づいた今日、 私は 自分の心の畑に、 愛という名の種を一粒、蒔いて見ます。 15. 愛 と 関 係 私達は互いに完璧に理解するのが出来ない存在かもしれません。 しかし、互いに完璧に愛する事が出来るのを忘れてはいけないのです。 7 16. 良 心 と い う 計 り あまり周りの評価を気にしないで下さい。 むしろ、良心という鏡を選んでください。 その鏡の中で私達は痛むかも知れません。 しかし、その鏡を通して、最も正しくて正確な評価が与えられます。 そして、私達は真の成熟と自由の意味を悟ることになります。 17. 幸 福 -感 謝 幸せの論理は極めて単純であります。 感謝すべきです。 感謝できる者が幸せになれます。 18. 幸 福 -希 望 と 愛 幸せになる事は真の希望に留まる事です。 そして、真の希望は真の愛の内だけで可能になります。 19. 人 生 -一 つ の 機 会 人 生 自 体 を 一 つ の 機 会 で あ る と 思 え ば 、二 つ の 可 能 性 が 与 え ら れ ま す 。そ の 一 つ は 正 し い 選 択 で 、も う 一 つ は 正 し く な い 選 択 で す 。そ れ な ら 正 し い 選 択 の 基 準 は 何 で し ょ う か 。と て も 簡 単 で す 。そ れ は 美 し さ で す 。苦 痛 の 有 無 と は 関 係 せず、正しい選択は美しいです。 も う 一 つ 憶 え る べ き 事 が あ り ま す 。人 生 は 一 つ の 機 会 だ と い う 言 葉 は 、生 ま れ て か ら こ の 世 を 去 る 時 ま で 、常 に 毎 瞬 間 が 機 会 で あ る こ と を 意 味 し ま す 。で す の で 、失 敗 し た と し て も あ ま り 悲 し ま な い で 下 さ い 。改 め て 正 し い 選 択 の 為 に 最 善 を 尽 く せ ば 良 い か ら で す 。勿 論 、こ の 機 会 は 生 を 仕 上 げ る 時 ま で だ け 有 効 です。 20. 人 生 -そ の 真 実 手ぶらで来て手ぶらで帰るのが人生だと言います。 欲張らずに清い心で生きて帰れ!という話であります。 しかし、この命題を違う角度からも考えられます。 これは、人生に対するより積極的な理解と解釈になるかもしれません。 つ ま り 、私 た ち は 皆 、手 ぶ ら で 来 た の で は な く 、絶 対 者 か ら 与 え ら れ た 目 的 と 使命を持ってこの世に来て、手ぶらで帰るのではなく、生きて来たすべての 時間を持ち、絶対者のみ前に立たなくてはいけないという事であり、そして、 その時は絶対者だけが知っておられるという事です。 8 21. 社 会 の 正 義 “ 人 は 愛 さ れ る 為 に 創 ら れ て 、物 は 使 わ れ る 為 に 作 ら れ ま し た 。混 沌 の 世 の 中 だと言われる理由は、物が愛され、人が使われるからであります。 22. 幸 福 幸 せ の 質 、或 い は そ の 基 準 は 時 間 の 長 さ で は な く 、そ の 生 き 方 の 中 身 に な ら な くてはいけません。 こ の 様 な 考 え 方 が 、我 ら に こ の 瞬 間 を 善 く 生 き な く て は い け な い と い う 結 論 を 導き、正しい希望と勇気を持たせるからであります。 23. 愛 ( 慈 し み ) 愛は一つです 金 大烈神父 愛は一つです。 様々な色の愛があると言いますが それは 各自の限りの中で各自の色で出会った 完成されていない愛であるだけです。 良い愛、そしてそうではない愛があるのではなく 良い愛をする心とそうではない心があるだけです。 何の欲望でも それが愛という名で 誰かの胸に巣を作ろうとする時 それは傷です。 愛はただ与える事です。 誰かの為 最も大切なものを与えようとする 美しい馬鹿になる心です。 愛は一つです。 その一つの愛の為 招かれた 我らの生です。 9 24. 生 き 方 今日、自分の道で 雀 玟順神父 訳:金 大烈神父 今日の私の道で 険しい山が移られるように祈りはしません。 ただ、私にその険しい峠を 乗り越えられる力をお与えください。 今日も私が行くこの道で ぶつかる石が自ら転がって去るのを望みません。 その跪かせる石を、 むしろ踏み石にする力をお与えください。 今日も私が行くこの道で 広くて平らな道を望んでいません。 ただ、狭くて険しい道でも 正しさと一緒に行けるように 信念の心をお与えください。 10
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