鳩と気球 ― パリ籠城期( パリ籠城期(1870~ 1870~71年) 71年)における郵政事情 年)における郵政事情 ― 横浜市立大学名誉教授 松井道昭 Ⅰ 抗戦継続 「12月10日土曜。希望をもって新聞記事のでたらめ、虚言、反語を愚かにも一瞬信じはじ め、やがてすぐまた疑惑に陥り、どんなことであろうとも、信用しなくなるこの状態ほど苛々 させるものはない。地方の軍隊がコルベイユにいるのか、それともボルドーにいるのか分から ず、それになおこれらの軍隊が果たして存在するのか、それとも存在しないのかということさ えも分からない、この状態よりも辛いものはない。暗闇の中で我が身に迫る悲劇に対する無知 のなかで生活するよりも辛いものはない。実際、フォン・ビスマルク氏はパリの中の人間をみ んな懲治監の独房にこっそり拘禁してしまったように思われる。」 これは作家ゴンクールが籠城下のパリでしたためていた日誌の一節である。ゴンクールは普仏戦 争、パリ籠城期、パリ・コミューン期の「恐怖の 1 年」をパリに踏みとどまり、町の風情を克明に 記した数少ない作家の一人である。彼は政争には直接係わりのない人物であり、それだけに当時の パリ市民がどのような精神状態におかれたかをみる上で、貴重な記録をわれわれに遺した。 12月10日といえば、パリが未曾有の「懲治監」に閉じこめられてやがて3ヵ月を迎えようと し、プロイセン軍の戦術がしだいに効力を示しはじめていた頃である。ほんの2ヵ月程前のこの同 じゴンクールの日誌では、対照的に緊迫感に乏しい雰囲気のなかで首都の秋の美がことさら流麗な 筆致で描かれていたことを考え合わせると、彼の心境変化、疑心暗鬼、嘆きは明白、状況はこの2 ヵ月の間に一変したのである。籠城生活がパリ市民にとってしだいに堪えがたいものとなったこと は容易に察しがつく。 ところで、 なぜにこのような籠城戦が始まったのだろうか。 これは進んで採られた戦法だろうか、 それとも強いられたものであろうか。これを知るためには、事件の観察を今しばらく後戻りさせる 必要がある。 1870年7月に火蓋を切る普仏戦争はフランスにとって、 ドイツから仕掛けられた罠であった。 準備不足のフランスは開戦直後からジリジリ後退を余儀なくされた。諸戦の勝利で独軍は怒濤のご とくアルザス、ロレーヌに雪崩こんできた。9月初め、皇帝ナポレオン三世はスダンで包囲され、 ここで捕虜となった。これで戦いの帰趨はおおかた決した。しかし、事態はこのあたりから予期せ ざる方向に展開していく。スダンで降伏を宣言したにもかかわらず、フランスは武器を置かなかっ た。従前の「王朝戦争」の流儀でいえば、普仏戦争は国家元首自身が降伏文書に調印した「スダン」 で終結すべきものであった。しかし、普仏戦争ではそうはならなかった。その意味でも、普仏戦争 は国家総力戦の色合いを帯びて近代戦争の幕開けを告げるものであった。 ナポレオンの裏切りを知って、フランスは激怒した。いたるところで抵抗が組織された。九月四 日のパリはこれらの抗戦の中心であった。首都はこの日、革命をもって降伏に抗議した。フランス 革命以後、パリがもうひとつのフランス、国の進歩の先導者であることはだれの目にも明らかだっ た。パリはこれまで帝政の打倒、共和制の樹立を全国に指令してきた。外敵の侵入と革命、舞台装 1 置は80年前のフランス革命時に酷似していた。昔と同じく、そのパリが終戦を望まなかったこと ははっきりしている。 ところで、ドイツではどうか。ドイツはさほど悠長ではなかった。ドイツにとってはできるだけ 早くこの勝利を決定的なものにし、その果実を摘み採ることが必要であった。それには、何よりも パリを陥落させることが先決。パリの扼殺はドイツにとって戦争の終結と同義であった。かくて独 軍はパリをめざす。終戦を望む者と望まぬ者の対峙によって戦争はまたもだらだら続くことになっ た。 仏軍主力が降伏し、 バゼーヌ将軍指揮下のもう一つの主力がメッスで籠城戦の展開中となると、 パリは無防備のままに取り残された。 Ⅱ ビスマルクとモルトケ 古い軍事的格率にいう「包囲された全ての都市は救援がなければ陥落を避けえず」はこのパリに 適用しえただろうか? 独軍はこれを是認し、仏軍はこれを否定した。前者はきわめて楽観的な見方において落城は半月 ~1カ月で必至と見ており、後者はこれまた楽観的な見地から、包囲の貫徹が不可能と見ていた。 要するに、彼我ともに甘い見通しに基づき攻囲は長期に及ばぬものと見なしている点で、まったく 共通していた。 ビスマルクは9月17日の英国大使マレットとの会見で次のように言った。 「パリについてドイツ軍はこれを数多くの軍団で包囲し、7万の騎兵隊がこれを外界との連絡 から孤立せしめている。もし、パリ市民がなおまだ抗戦を継続するなら、われわれはパリを砲 撃するし、必要とあればこれを焼き討ちにするであろう。」 ビスマルクのパリ落城早期必至論の根拠は、諸戦での勝利、とりわけ仏軍の主力をスダンでくだ したという自負、もうひとつの主力をメッスで釘づけにすることに成功したという事実に依拠して おり、さらに彼は、首都に駐留する仏軍の残余勢力すなわち正規兵、遊動隊、国民衛兵を侮ってい た。 実を言えば、ビスマルクはプロイセン軍を完全に掌握していたわけではなかった。プロイセン陣 営の中には、ビスマルク、モルトケに代表される隠然たる確執があり、最初からパリ攻撃に対して 軍首脳の意思統一がなされていたのではない。ビスマルクは政治家であって、彼の関心は国内問題 や外交問題に絞られていた。「スダン」以来、防御から侵略へと性格を転じたこの戦争は、列強と りわけイギリスから執拗な猜疑の視線を浴びており、同国の介入によって全ての努力が水泡に帰す 危険さえあった。そこでビスマルクは戦争の早期終結を唱え、持久戦=兵糧攻めよりも、即刻パリ 進撃に取りかかることを主張した。しかし、モルトケは準備の整わない攻撃は武器弾薬と食糧の不 足を来す恐れありとして、これに反対した。 それだけではない。独軍が急いで首都攻略に取りかからなかったのは、仏軍側の敵情査察を的確 に行いその弱点や長所について通じていたからである。パリ周辺の軍事施設や地形についてきわめ て正確な情報を独軍は掴んでいた。包囲完了後、パリ南部要塞シャティヨンを攻撃してきた。この 角面堡はパリ防衛において重要な要衝でありながら、仏軍側の手落ちで他の要塞との通信線で連絡 2 されていないために、攻撃されても支援態勢を組めなかった。また、パリ西南端に接するモントル トゥー高地も防御が手薄なのを察知されていた。 9月18日に完成するパリ封鎖後の最初の2ヵ月間に独軍側が行った積極的攻勢はいえば、わず かこれだけであった。それは、彼らがパリの防御態勢に通じていたことのほかに、厳しく包囲され た町はほどなく降伏するであろうという見通しをもっていたからにほかならない。事実、独軍の進 出したシャンパーニュや北仏の諸都市はわずかばかりの抵抗の後、全て敵の軍門にくだった。アミ アンやボーヴェで示されたように、仏軍軍部と町当局および市民との間の軋轢がしばしば開城を速 めた。独軍はパリ攻撃に際しても、8月7日、9月4日、10月31日の民衆蜂起に代表される市 内の不穏な空気に対して過大な期待を抱き、首都への入城がさしたる障害もなしになされるであろ うと考えていた。こうした「無秩序状態」の把握はその後の抗戦継続の激しさからいっても、必ず しも正しい評価とは言えなかった。それはともかく、彼らが当面の戦略において、首都をフランス 全土から完全に孤立させ、疲弊と厭戦気分を蔓延させ内部的分解を速めることに重点をおいていた ことだけは間違いない事実である。 パリを包囲する独軍は18万を並べて、150~170キロメートルの大輪を描いた。計算上で はほぼ1メートルおきに1人の兵士を配置した勘定になる。この密度では攻囲軍の包囲はとても万 全であるとはいえない。攻囲軍は前に述べたような楽観論もあって防御陣地をもたなかったから、 なおさらそうである。攻囲軍は幾つかの地点に二、三の足場を築いたのみであった。モルトケ元帥 は作戦上の自由を留保したかったようである。彼は装備、訓練の行き届いた精鋭を前線の後ろに配 置し、野戦でパリ軍を迎撃しようという意図であった。いわゆる戦術論でいう「弾力的防御」の作 戦がこれである。ビスマルクの意に反して、彼は正面攻撃する意図をもたなかった。彼が何よりも 当面の作戦の中心においたのは、首都のあらゆる通信線を遮断して外界から孤立させ、消耗のうち にこれを自壊させることであった。 Ⅲ 籠城戦術 大砲の威力が未発達であるような時代においては、戦争では要塞が全てであった。要塞は作戦行 動を展開する軍隊を有機的に配置する支点を構成していた。ルイ十四世の戦争はとりわけ攻城戦の 性格を帯びていた。ナポレオンがこの戦法を変えた。彼は要塞攻略よりも野戦を得意とした。そし て、19世紀半ば以降となると、ナポレオンの好んだ塹壕を巡らした野営陣地はしだいにその重要 性を減ずるようになった。火砲の威力が増すにつれ、この野営陣地戦法はむしろ相手の仕掛けた罠 であることが多かった。このことは、メッスやスダンの攻防戦において、仏軍が敵によって故意に 籠城するように仕向けられ、新式クルップ砲の餌食となった例に最もよくあらわれている。籠城戦 にこだわるという点でも、フランスは遅れていた。 1870年、首都パリとライン国境との間には有事に備えてあらゆる都市が要塞化されていた。 プロイセン軍の圧力の度合いに応じてそれぞれの都市の運命は様々の奇跡を描く。 トゥール[注:Toul、ロレーヌ州の町、後出、政府派遣部のおかれた町、トゥールTour sとは異なることに注意]は8月16日の最初の攻撃を受けて以来、40日の攻防の末、9月23 日に降伏。ヴェルダンは9月8日の包囲の開始以後2ヵ月間抵抗をした末、11月8日に開城。同 市守備隊のテレマン将軍は徹底抗戦の意志を示すが、住民はこれに反対して将軍を逮捕する挙にで 3 た。敵に降伏を迫られて住民は1発の銃弾を放つことさえなく降伏した。ソワソンでも10月16 日、同じように軍司令官に反対して蜂起した住民は戦わずして降伏勧告に応じた。 これとは対照的に、ストラスブールやベルフォールは果敢に抵抗した。前者は1カ月半にもわた る壮絶な戦いを繰りひろげた。 兵力、 火力で圧倒的な優位に立ったプロイセン軍は早期決戦を挑み、 20万発に及ぶ砲弾をこのアルザスの州都に撃ちこみ、ようやくのことで勝利をおさめた。 後者すなわち、独軍をして「死者をつくる工場」と言わしめたベルフォールの戦いは歴史上あま りにも有名である。僅か正規兵3千しかもたないこの小都にプロイセン軍は3万以上を投入した。 守備隊を指揮した勇将ダンフェール=ロシュローは独軍によるたびたびの降伏勧告を撥ねつけた。 食 糧難、医薬品不足による天然痘やチフス病の蔓延など数多くの犠牲を出しながら、満身創痍のこの 小都は決して怯むことなく軍民一体となって厳冬の中を戦い抜いた。同市は独仏休戦協定の締結さ れた後なおも15日間を戦い抜き、ようやく1871年2月13日、フランス政府自身の勧告で武 器を置いたのである。周知のように、フランクフルト講和条約では、この英雄的な戦いのゆえにこ の都市のみがアルザス州から切り離され、フランス領に留まることを許されたのである。このほか ファールスブールやビッチュの町など英雄的抵抗の余話は枚挙にいとまない。 籠城戦がすでに古臭い戦術となっていたのに、保守主義の支配した仏軍部はこの旧套にしがみつ いていた。パリ防衛についても然り。首脳部は200万の人口を擁する大都市の完全・長期の包囲 などのっけから不可能ときめつけ、何らの積極的な防御を企てなかった。 先ず軍隊と作戦の問題。当時パリには、スダンで主力が壊滅したのち、辛くもこの鉄鎖をくぐり 抜けて帰還したデュクロ将軍麾下の精鋭3万がいた。この正規兵を中心に、遊動隊、国民衛兵合わ せて約40万の軍隊が再組織されていた。20万対40万、単純に数の上だけからするならば、パ リ軍は攻囲軍に対して優位に立っていたといえる。この外見上の優位が、パリ民衆の国防政府の弱 腰に対する攻撃の拠り所となったのは言うまでもない。彼らは直ちに独軍に出撃戦を挑むべきであ ると考えた。 政府首班とパリ軍総司令を兼務するトロシュ将軍はそうは考えなかった。彼はモルトケが否定し た作戦、つまり、独軍が正面攻撃を仕掛けてきたときにのみ、外部要塞の火力とパリ軍の共同の上 に勝利の道が開けると見て、籠城作戦を採ったのである。パリ軍の勝機がここにしかないと見なし た点では、トロシュはまちがっていなかった。しかし、モルトケはこの戦法に乗らない。籠城戦は 一方では時間と糧食の空費を招くゆえ、同じ待機作戦でも時間が経てば、自然と攻囲軍に有利にな るべき性質のものであった。 しかも、仏軍の数の上でのこうした優位は実のところ何でもなかった。40万の軍隊のうち、真 の意味での軍隊は7万~7万5千がせいぜいの数字であった。ヴィノワ将軍の軍団やラ・ロンシエ ール提督の海軍を別とすれば、残余は国民衛兵つまり予備兵であった。サンシール士官学校のデュ シユー教授の言を借用すれば、「これ[国民衛兵]は、真剣でかつ情け容赦ないという意味での実 戦には向いていない。……その兵卒の大部分は居酒屋で飲んだり、賭事に耽ったりする以外の能力 をもたない」状態であった。また、クレマン・トマ将軍は12月17日、国民衛兵を閲兵したのち、 次のような報告書を書いている。「大隊長は酒飲み、兵卒の半分は酒飲み、彼らで軍務を確保する ことはできない。 前哨を交代させることが絶対的に必要。 これらすべての要素は非常に危険である。 」 前に引用したゴンクールは12月12日の日誌に、「わが軍兵士は彼らが防衛し保護することを託 されている人家のものを盗みだすために探り道具をもっている」と記している。これらの証言には 4 もちろん誇張や偏見が含まれているだろう。だが訓練や装備の点で欠陥をもっていたのは否定でき ない。 パリ防衛の頼みとする兵力がこのようであるとすれば、一方の防御施設はどうか?前にもふれた ように、周辺の防御工事は開戦とともに取りあげられていたが、拠点の防御工事は大幅に遅れた。 当初の予定では、首都からかなり離れた距離に防御拠点を幾つか構築するはずであったが、それに はあまりに多くの時日と労力を必要とすることから、計画は縮小され、防備固めはパリ隣接地域に 限定された。外部要塞の補強工事、兵舎と火薬庫の装甲、敵の攻撃を利する民家や橋梁の破壊、要 塞間を連絡する塹壕の掘さく等々がこれである。 また9月10日の法令は、プロイセン軍に避難所を与え、その移動を覆い隠すところの林や森は 伐採すべきことを定めた。このようにして、パリ郊外のモンモランシー、ビュリーの森、隣接する ブーローニュやヴァンセンヌの森の一部も上のような運命に遭った。ところが、このような限定さ れた防備工事ですら、敵の移動があまりに速かったので、中途で放棄せざるをえなかった。 Ⅳ 通信の途絶 スダンの降伏の翌日すなわち9月3日、プロイセン軍近衛兵第3師団とザクセン侯麾下第4軍団 はパリ進撃の命令を受けた。これらの軍隊は直ちに移動を開始した。もはやその進撃を妨害するも のは何もなかった。しかしながら、慌てて突進するようなことはなかった。独軍はあらゆる奇襲に 対する警戒をとりつつ自信をもって前進し、スダンからパリまでの道程240キロメートルを14 日間も費やした。 9月15日、首都の周辺に最初の偵察兵が現れた。この槍騎兵はその迅速な行動で当時のフラン ス人を驚かせたものである。 恐怖に襲われた郊外の人々は要塞化されたパリ市中に避難しはじめた。 数日前からありとあらゆる種の車に家財道具を山と積んで市中に向かう行列が見られた。 9月17日夕刻、列車の発着が停止した。 9月18日早朝、 これまで規則的に営業を続けていた郵便馬車が大急ぎで首都に引き返してきた。 この日、パリがすっかり抜きがたい、鉄と火のサークルの中に閉じこめられていることが明らかに なった。この日からパリは陸の孤島となった。これが4ヵ月余も続くとは、だれも予想しなかった。 しかし、この時点で市民生活にまだ何らの支障は起きていなかった。食糧や燃料の枯渇問題はまだ 生じていなかったし、パリ包囲はある程度予測された事態であったから、市民にさほどパニックは 生じなかった。したがって、通信の突然の途絶のみが軍首脳や市民にとって、自らの孤立を印象づ ける出来事であった。 これより少し前、九月四日革命で、トロシュ将軍を首班として共和主義と 祖国防衛を旗印とする国防政府が樹立された。この組閣とともに、旧帝政の主だった政治家や官僚 が失脚した。郵政局や電信局にも人事の刷新がおこなわれた。オート・マルヌ県出身の代議士ステ ーナケルスは電信局長官に就任した。新長官の最初の仕事はパリ郊外の要塞や砲台を地下ケーブル で相互に連結することであった。この連絡網が完成すればこそ、軍司令部はパリの内と外の出来事 を恒常的に把握し、状況に見合った命令を下せるというもの。各区消防署は下水道に敷設されたケ ーブルによって連結された。 九月四日革命の直後には、パリ包囲はまだ完成していなかった。が、その可能性はあったので、 電信局は英国から特製のケーブルを取りよせ、密かにセーヌの川床にそれを敷設した。これでもっ 5 てパリとルーアンを結び、包囲が完成した場合に地方との連絡に使用するつもりでいた。当てにさ れたこのケーブルは9月24日、プロイセン軍による浚渫で発見され、切断されてしまった。 一 方、政府は9月13日、地方の電信業務の円滑運営を確保する目的でステーナケルスを政府派遣部 のあるトゥールに派遣した。政府の要人クレミュー、グレ=ビゾワン、そしてフリション提督らも彼 に随行した。ステーナケルスはパリ市内の電信業務の指揮を配下のメルカディエに委託した。 軍・官用電信線の確保もさることながら、民間用の通信、郵便業務の継続も重要な問題であった。 九月四日革命の後を受けて郵政長官に就任したランポン=レシャン(ヨンヌ県選出の代議士)の仕事 は困難を極めた。市内で配達すべき郵便の数は平時よりずっと少なかったので(外部から郵便物は もはやパリに届かなかった)、この点では何ら問題なかった。しかし、市内の郵便物およびパリ宛 て郵便物は減ったとしても、外へ向けての郵便はそうともいえなかった。なぜなら、前線の兵士と 銃後の家族との通信については郵税免除の特典が与えられたこともあって、郵便物はかえって著し く増大していたからである。 パリから地方へ向けての連絡はどうか。前述のように、当てにされていたセーヌ川を走るケーブ ルが切断され、パリ~ルーアン間の通信は結局、望み薄となった。そこで、これに代わる方法で首 都パリとトゥールの連絡を確保し、そして、可能ならばこれを民間の郵便業務にも使用させること が求められた。依拠すべき手段については選択の余地がなかった。電信線、鉄道、郵便馬車はもは や用をなさなかった。1人の勇敢な男がプロイセンの前線を突破するというのはまったく不可能と いえないまでも、 ことのほか危険な技であり、 かつ恒常的な大量通信は期待できない相談であった。 陸路がダメ、水路もダメとなると、残された経路はもはや空以外になかった。この経路は無限の 広がりをもち、当時のいかなる国の軍隊といえども、遮る術を持ち合わせなかった。ゆえに、熱い 視線を浴びたのはこの大空であった。 Ⅴ 熱気球 ここで話を76年前に戻そう。1794年、フランスが外国の侵入軍に対して防衛を余儀なくさ れたのはこの年であった。国民公会が執行権を集中させるために設置した公安委員会はありとあら ゆる科学的発明、工夫の才を祖国防衛のために役立てる目的でひとつの委員会を発足させた。この 委員会の委員ギトン・ド・モルヴォーは敵情査察のために繋留気球の利用を提案した。この提案は 受理され、パリ隣接のムードンにクテルおよびコントの指揮下に航空学校が設立された。クテルは アントルプルナン[大胆]号に搭乗してジュールダン軍に従い、フルーリュスの戦闘などで大きな 戦功を立てた。これが気球が実戦に用いられた最初である。 しかし、気球そのものの歴史はもう少し前に溯る。空気よりも軽い期待を詰めて空中を浮游する 物体の可能性については、すでに13世紀のベーコンによって確かめられていた。アルデシュ県ア ノネーの紙細工人エティエンヌ・モンゴルフィエおよびジョゼフ・モンゴルフィエの兄弟は英国人 化学者プリーストリーの書物から着想を得てゴム製風船に、湿らせた羊毛屑と藁を燃やして発生さ せたガスを充満させて、このガスの浮力により気球の地上浮游に成功した。ときに、1782年の ことである。この最初の成功の後を受けて、熱気球をすっかり有名にしたのが、その翌年8月にシ ャルル(1746~1823年)教授によってシャン・ド・マルス大広場に30万の大観衆を集め て挙行された実験である。人を乗せた気球の実験はブーローニュの森で行なわれた。シャルルの作 6 ったこの同じ気球に3人の勇敢な男が搭乗した。 ベンジャミン・フランクリンはこの実験を目撃し、 「気球は何の役に立つであろうか?」と独り言をつぶやいたと言われる。シャルルは気球をさらに 改良し、ある程度の操縦性をもたせることに成功した。すなわち、栓弁、吊籠、綱索、底荷、ゴム 製ドープの塗布、晴雨計の装填など、気球の走行に必要な基本的装備のほとんどは、この有人気球 の発明者自身の手で考案された。 この新奇な物体について最初に目をつけたのは軍人であった。シャルルの3度目の実験飛行が大 成功をおさめてから2日後の1783年12月3日、ムーニエ将軍はパリの科学アカデミーに対し て早くも気球の実戦での活用を提案したのである。 フルーリュスの戦闘で嚇々たる戦功を挙げた気球には華々しい未来が約束されたかに見えた。事 実はその逆で、気球はフランス革命後は軍用はもとより民間用にも用いられることなく、長い不遇 の日を重ねることになった。ムードン国立気球学校の創設になみなみならぬ熱意を示したモロー将 軍が退役すると、その後任にオッシュが就いたが、彼は空・陸の連携というこの新しい発想そのも のに敵意を示した。公正・廉直なる騎士道の精神は革命後の軍人の中に立派に生き残っていたので ある。エジプト侵攻中のボナパルト将軍も、遠征隊によって本国からもたらされた気球を実戦に投 入しようとはしなかった。理由は定かではないが、おそらくは彼の猜疑心の強い性格からしてこの 新しい補助手段、この大胆な発想の利用が彼の栄光の一部を台無しにしてしまうことを恐れたもの と思われる。ボナパルトはエジプトから帰還するや、ムードンの学校を閉鎖し、その機材の一切を 処分してしまった。 70余年後、普仏戦争が始まったとき、ムードンの制度はその痕跡さえとどめず、軍用気球は遠 い昔の思い出話としてのみ人々の記憶の中に生きていた。 Ⅵ 気球郵便 パリ包囲網が完成すると、著名な写真家ナダール(1820~1910年)は政府に対し、繋留 気球による敵情査察を提案。トロシュ将軍はこれを受理し、海軍の一部を割いてナダール計画の実 施に当てた。モンマルトルの丘、イタリー大通り、ヴォージラール大通りに気球の繋留基地が設け られた。 これらの偵察行動はあまりに巨大な包囲網のためにさしたる成果を挙げえなかったが、発想の上 で後の気球による「航空郵便」への道を開くことになる。パリにおいて気球で郵便物を運ぼうとす る計画が真剣に論じられているとき、メッスに籠城中のバゼーヌは外部との連絡に、至急報と伝書 鳩を積載した小さな無人気球を飛ばそうとしていた。風向きが敵のいない方向に変わった9月16 日、最初の気球が打ち上げられた。けれども、この気球はプロイセン軍の真直中に落ちた。翌17 日にも約500通の手紙を吊籠に詰めた気球が打ち上げられた。今度は敵前線を飛び越え、ヴォー ジュ山脈の西山麓の町ヌフシャトー近郊に落下した。この気球は、バゼーヌ軍の物量が万全であり 士気がきわめて良好なことを証拠づける情報を積んでいた。この朗報は翌18日、ただちに政府に 打電され、首都にしばしの希望の灯を点した。これが気球による情報伝達の最初の実例である。 パリでも熱心に研究が進められていた。ウィフリド・ド・フォンヴィエルは無人気球による通信 文の自動配達装置なるものを考案した。これによると、先ず気球の吊籠に固定された中心軸に通信 文を入れた袋を留める。飛行中、風向きおよび速度に基づいて予め計算された時間が経過すると、 7 この軸が自動的に回転して袋を切り離す。そこで落下点に駆けつけた郵便局員がこれを回収する、 というもの。しかし、この計画は一度も実行に移されなかった。また、パリでもメッスの例と同じ ように、宣言文と新聞を収納した小さな気球が打ち上げられたが、これはプロイセン軍の手におち た。万事風まかせ、幸運のみに期待をかけるようなこの計画は信用されなかった。 そこで、現実案として有人気球の方式が浮上してきた。パリには当時、私有の軽気球が7個存在 した。それらは整備不十分で、即座の実用に適さなかった。そのため、政府はその補修を命ずると ともに、これらの個人との間に契約を結んだ。この約定書はパリ籠城期には公表されることなく、 開城後の1871年3月2日なってようやく 『官報』に掲載された。 その契約書は気球納入の期日、遅延の際の処置、気球の材質・容積・積載重量、運行1回当たり の賃貸料等の細目を定めている。気球は所定の日までに納入しなければならない。遅延料1日当た り50フランを政府に弁償する。 それは最上質の綿繻子を使い、 それを亜麻油引きした気嚢をもつ。 そして、その気嚢は最低でも2,000立方メートルの容積を有し、500キログラムの最大積載 量に堪えなければならない。吊籠は四人乗りとし、操船や着陸に必要な一切の装置を備えていなけ ればならない、等々。 水素ガスの充填には10時間も要し、この間に気嚢のガス洩れの有無の検査が入念に行われた。 細心の注意が払われたにもかかわらず、気嚢の完全な密閉には大きな困難を伴った。郵便局の借上 料は1回当たり4,000フラン(後に3,000フランに減額)とされ、このほかに操縦士への 俸給は200フラン、ガス代300フラン、付属装置引当金300~600フランが支給されるは ずであった。これらの経費は、出発後、気球が視界から消え去った時をもって任務完了と見なされ、 事業主へ支払われことになっていた。 気球の製造・艤装とならんで重要なもう一つの問題は、操縦士の訓練のそれであった。操船とい っても装置は晴雨計のほかにバラスト、錨索があるくらいのものである。プロペラや方向舵はむろ んなく、逆風に逆らっての操船はむろん不可能であった。それだけに上昇、下降、離着陸の技術に は高度の熟練を要した。気球郵便が問題になった当時、熟練操縦士は数人いたが、それだけではま ったく不足した。なぜなら、パリへの帰還飛行が望み薄であり、絶えざる補充を必要としたからで ある。そこで政府は海軍の剰員をこれに充当することを決定。実際、攻囲期間中にパリを出発した 全65隻の気球のうち、約半数に当る30隻が水兵によって操縦された。勇気と技量の点ではこの 水兵が他を圧倒していた。不幸にして海中に没したジャカール号の搭乗者プランスを除いて全員が その任務を果した。 俄かづくりではあったが、ランポン氏が有人気球による航空郵便制度を思いたって僅か2週間に して、それは実現へ向けて第一歩を踏みだした。1870年9月29日の『官報』は次のような2 つの政令を発表した。パリが封鎖されてから12日目のことである。 [政令一] 第1条 郵政庁は有人飛行船の方法によってフランス、アルジェリアおよび外国へ向けての普通 郵便を送達する権限を有する。 第2条 飛行船によって送達される書簡の重量は四グラムを超えることができない。これら書簡 の輸送について徴収される料金はこれまで通り20サンチームに据え置かれる。切手の貼 りつけを義務とする。 第3条 大蔵大臣は本令の執行を担当する。 8 [政令二] 第1条 郵政庁は繋留・無人飛行船の方法によって、表面に宛名を、裏面に通信文を記載した葉 書を輸送する権限を有する。 第2条 葉書は最大3グラムの重量をもち、 縦11センチ、 横7センチ規格の犢皮紙を使用する。 第3条 葉書の切手の貼りつけはこれを義務とする。徴収されるべき料金についてはフランスお よびアルジェリア向けのものは10 サンチームとする。外国向けの葉書には普通書簡の料 金が適用される。 第4条 政府は敵に利用される性質の情報を記載した全ての葉書を拘留する権限を有する。 第5条 大蔵大臣は本令の執行を担当する。 パリ 1870年9月26日 ランポン 本令が述べているように、われわれは、無人気球が実際に用いられているのをみる。これは有人 気球に先立って密かに研究されていた。ゴム引きの特殊紙でつくられたこの無人気球は最大で50 キログラムの郵便物を積載できるはずであった。9月20日の実験では、4キログラムの通信文を 積んだ最初の小気球が打ち上げられたが、それはプロイセンの前線を越えることができず、敵の間 直中に落下してしまった。結局、試みはこれが全てであって、実用化されることはなかった。 風向きの偶然に任せる無人気球より、ある程度操縦性があり、とくに着陸点を選べる有人気球の ほうが確実性があった。実際、パリから地方および外国向けの郵便物はもっぱらこの手段によって 運ばれた。籠城という不測の事態が強いた、全くの急場凌ぎの方策であったが、気球による「航空 郵便」は十分に所期の成果を挙げた。財政的見地からみても、十分採算に見合うものであった。す なわち、1便当たりの総費用は5千フランを凌駕しなかったが、仮にこれに4百キログラムの郵便 物つまり、概算で10万通の書簡を積載したとすれば、1通当たり20サンチームとして、収入は 2万フランになり、他の経費を見越しても、採算上十分に引き合うはずであった。 Ⅶ 飛行日誌 包囲下のパリを出発した最初の気球はネプテューヌ号である。これは、前掲の政令が公告される 前に飛び立った、いわば実験気球であり、その後に就航を予定されたものよりひとまわり小型であ った。これにはその所有者ジュール・ドリュオが搭乗した。9月23日午前8時、125キログラ ムの至急便とともにモンマルトルの丘を飛び立った同号は3時間後にパリから104キロ離れたエ ヴルー近郊のクラコンヴィルに着陸した。 実験は大成功をおさめた。ネプテューヌ号成功の後を受けて航空便事業は本格化した。前掲の政 令の公告と並行して続々と気球の建造が急がれた。アルマン・アルベス号、ジョルジュ・サンド号、 ルイ=ブラン号と、次々と新造の気球が姿を現した。この命名は最初ナダールが行ったが、それらは 全て彼の友人の名であった。ネプテューヌ号が残さなかった飛行日誌は、第4便セレスト [天使] 号に搭乗したガストン・ティサンディエが記した。彼はトゥールに飛んだのち、新聞『コンスティ ショネル』紙に寄稿。これが搭乗者自身の手で書かれた旅行記の最初のものとなった。当時の気球 飛行がどのようなものであったかを知るうえで、興味深い。以下、これを引用する。 9 「昨9月30日金曜日、800平方メートルの容積をもつ気球セレスト号はいんいんたる砲声 の轟くなか、パリ、ヴォージラールの工場でガスの充填を受けおわった午前9時30分、微風 を浴びて飛び跳ねていた。出発準備完了。郵政局長官が私に百キログラムの特別郵便を引き渡 した。これらの郵便物は、それが私と一緒にプロイセンの前線に落下しないかぎり、フランス の2万5千人を幸せにするはずの2万5千通の手紙であった。私は伝書鳩の鳥籠を中心に固定 した。臨時政府の閣僚の一人から最後の勧告を聴いた。それは、トゥールに対する特命を私に 託すというもの。私は中程度のスピードで1,000メートルの高度に上昇した。数秒後、私 はパリ要塞の上空を滑空しつつ、近くにプロイセン軍がいないかを探った。驚いたことに、こ こでは私はプロイセン軍を発見しなかった。わが首都の周辺は一面遺棄された砂漠と化してい た。路上には人気がまったくなく、セーヌ川は一隻の船も浮かべず、まるで住民に見捨てられ た古代の城塞のようだ。しかし、私は遠くに幾筋かたち上ぼる煙を認め、また耳元まで上って くる凄まじい砲声を聞く。 かくて、 パリ周辺で何らかの軍事行動が始まっていると理解できる。 やがて、足下に展開するのはヴェルサイユ、まさしく敵によって汚されたフランスの宝石た るヴェルサイユである。私は庭園のなかに徘徊する哨戒隊をこっちを見詰める前哨を、そして 緑の絨毯の上でまどろんでいる槍騎兵を認める。この光景を見て私は悲しみに襲われた。そこ で私は視線をヴェルサイユの東方に移した。そこには、プロイセン軍の小さな兵営があった。 私は兵士の真直中に、ドイツ語で印刷された宣言文を撒いた。これらの兵士は銃撃の返礼を送 ったが、銃弾は私が滑空している所までは届かなかった。太陽は焼けつくようだった。私の気 球はなおも空中に吊されていた。目に見えない波の上を静かに滑っていくと、眼下にこの世の 物とは思えない素晴らしい光景が開けた。地平線上には、遠くに広がる大平原を縁取る巨大な 円形の霞みがかかっている。 風は私を西方に導き、 ほどなくランブイエの森の北端を通過する。 そこに私はなおまだ幾人かのプロイセン兵を見たが、ウーダンを越えると、それらは見えな くなった。森の上空500メートルを通過したために、セレスト号の亜麻布を膨らませている ガスが冷え、この時から私はその舷側から多量のバラストを投棄せざるをえなくなった。やが て私は地平線上にドルーを認めた。私は地上50メートルまで降り、そして駆けつけてきた農 民を見て、声の限りを尽くし『君達の所にプロイセン兵はいるのか?』と叫んだ。『いや、い ない』という返事が返ってきた。そこは静かで信頼をおけそうだったので、私はバルブを開く 気になった。が、吹き下ろしてくる風が不意に私をとらえ、驚くべき力で私を地面に叩きつけ た。碇を下ろす間もない瞬時の出来事であった。私はひどい衝撃を受けた。吊籠はひっくり返 り、私はすんでのところでそこから外に飛び出すところであった。私はもう一つだけ残ったバ ラスト袋を棄てたが、破裂の生じた気球はもはや上昇しなかった。幸いなことに、かなり激し く風に引き摺られている間にも私はナイフを掴み、ついに碇を投棄する機会を得た。ドルーの 勇敢な住民たちは大急ぎでそれを掴まえた。 風はかなり強かった。私の気球は揺らぎを止めたときには、文字通り端から端まで引き裂け ていた。私は不運な官吏に何とひどい仕事をもたらしたことか。私はフランス全土および外国 に宛ての2万5千通の書簡を彼らに区分けさせることになった。郡長アルフレド・シルヴァン 氏は私を大歓迎し、親切にも私のためにトゥール行きの特別列車を仕立ててくれた。」 トゥールでティサンディエ氏を待ち受けていたものは質問攻めであった。人々はパリの勇敢な決 意を聞いて狂喜した。そしてティサンディエはこの旅行記を次のような言葉で締めくくる。 10 「今日、われわれがもたらしたニュースは頻繁に更新されるであろう。なぜなら、気球郵便の 業務が大規模に組織されたからである。著名なモンゴルフィエの祖国において気球が果たす偉 業を誇らしく眺めるのは、それ相応の理由があるからだ。」 Ⅷ クルップ気球砲 ティサンディエが予言したように、気球が以後ほぼ2~3日の間隔をおいてパリを飛び立った。 むろんその最大の使命は地方向け郵便物の搬送であった。それらは多くの場合、地方からパリへの 返信のために使う伝書鳩を積んでいた。 郵便物はその最大重量のもので460キログラムに達した。 各郵便物にはこれまで通り消印が捺されたが、消印(円形)は外周に「フランス共和国」、内側 に操縦士の名が刻まれていた。消印を捺された郵便物は袋に入れられ、セーヌ県郵便局長シャシナ あるいは副局長ベシェの立ち会いのもとで気球に積みこまれた。 技師エール=マンゴンは全ての気球 の出発に際し、その技術指導に当った。彼は操縦士に風向きと風速を伝え、敵の前線の外に着陸す るための滑空すべきおおよその時間を指示した。セレスト号の例で示されるように、無事着陸した 飛行士はただちに最寄りの市町村役場に出頭し、その助力を得て馬車または貨車で荷物とともにト ゥールに行く手筈になっていた。通信文の類はここで区分けされ、地方または外国へ配送された。 飛行が操縦士の勘と肉眼に依拠するところから、出発は明け方の時刻が選ばれた。とりわけ大切 なのは、風向きと速度から割り出される飛行時間であった。短かすぎれば敵前線を越えることがで きず、また長すぎれば見当違いの場所に運ばれる危険性があった。実際、この判断の誤りから、全 65隻の気球のうちプロイセン軍に捕獲されたのは5隻、海中に没して行方不明になったのが2隻 を数え、なかには悪天候のためにノルウェーまで流された気球もあった。 気球は敵前線上空で撒くビラを携行した。このビラはフランス語とドイツ語で書かれていた。む ろん、ドイツ兵の士気沮喪を狙ってのものである。これが効果を挙げたかどうかは分からない、し かし、前に引用したティサンディエの旅行記にもあったように、独軍を徴発する結果を招いたこと は確かなようだ。ビスマルクは最初の気球が前線上空を通過するのを目撃したとき、「卑怯なり」 と叫んだと言われる。それは当然のことであった。パリと地方の情報交換が可能になれば、パリ封 鎖の効果は半減するからである。プロイセン軍は全力を挙げてそれを阻止しようとした。ビスマル クは、この気球によって移動を試みた旅行者でプロイセン軍の手中に落ちた全ての者は、即刻軍法 会議かけられ処刑されるであろうと宣言した。彼は気球を「騙り」と見なし、これをスパイ行為と 同列に置いたのである。 「ビスマルクは大地を征服するだけで満足せず、同時に大気と大空をも没収せんとしている。 包囲は地上に始まり、ついには星辰にまで及ぶのだ」。 当時のパリ市民はこのように憤慨している。さらに彼は続ける。 「何ということだ。このガルガンチュアの何という野心。だが、万事言うは易し、行うは難し。 これらの気高い宣言はプロイセン参謀の気遣いがどこにあるかを包み隠すためのものであると 11 私は信ずる。彼は困難な状況を悟り、そして大空と大地を一刀両断にすると自認することによ って、ただ単に恐れをごまかそうとしているにすぎない。 ビスマルク氏がヨーロッパを欺こうとしていることは、パリの状態に関してまったくでたら めな噂を振り撒くという気遣いである。すなわち、パリ市民は餓死を避けるために植物園や馴 化園の動物を食べざるをえなくなっているとか、われわれがあと数日分のパンと葡萄酒しかも っていないとかいうのだ。まったく笑止千万の噂である。しかし、もしわれわれがビスマルク の眼に悪く映ったその気球をもっていなかったならば、ここで生じていることを知らないヨー ロッパは、われわれが土壇場に追いつめられ、地方が攻略されていると信ずることであろう。」 ビスマルクは気球を狙い撃ちにしてこれの捕獲を命じた。しかし、通常の銃や大砲では射程があ まりに短く、気球に届かなかった。そこで司令部はクルップ兵器厰に新式砲の製造を命じた。全方 位駆動の新装置をつけたこのブロンズ砲は「気球砲」と銘うたれて、四輪車台に固定された。これ は2頭の馬で引くことができた。パリの内側から気球が舞い上がると、独軍斥候は即刻その旨を気 球砲隊に打電し、 追跡を開始する。 気球砲は大急ぎで指示された場所に配置され迎撃態勢を敷いた。 熟達した砲兵が気球に狙いをつけ発砲する。高度800メートルで砲弾の炸裂音を聞いた気球操 縦士は滑空高度を1,000メートル以上に上げ、この大砲の射程外に離脱した。フランス側では、 すでにトゥールで砲弾の射程距離を調べるために繋留気球を用いて実験を行っていた。その結果、 銃による攻撃では400メートル、大砲ではおよそ800メートルが最大射程であることが突きと められていた。 にもかかわらず、降下の途中で被弾することは避けられなかった。かなり多くの気球が上昇と降 下の過程でプロイセン軍の銃砲撃を受けた。実際に被弾し、それが原因で墜落したのは、11月1 2日に出発した第26便ダゲール号の場合のみである。このため同号の飛行士はパリ近郊のフェリ エールに着陸せざるをえず、そこで追跡していた敵兵によって気球もろとも捕虜になった。 プロイセン軍による狙撃がさほど実効を挙げなかったにしても、追跡の方は飛行にとって大いに 脅威となった。ダゲール号と同じ11月12日に出発したニエプス号は安全圏と思われるマルヌ県 ヴィトリ=ル=フランソアに着陸した。知らないうちにプロイセン兵の追跡を受けていたため、着陸 と同時に捕獲された。乗員は辛くも難を免れてトゥールに辿り着いた。しかし、同号が積載してい た通信用に使う予定のカメラや薬品はことごとく没収された。 郵政局はこの経験に鑑みて、以後、気球の出発を深夜にした。しかし、カンと肉眼に頼らざるを えない気球の操縦には一段と困難が増した。昼間でさえ誤認の危険性があるのに、夜の飛行とはも はや盲飛行以外の何ものでもなかった。 見当違いの場所への着陸または行方不明などの事故は全て、 夜間飛行中の出来事である。 Ⅸ 記事つき便箋 全65便に及ぶ飛行のそれぞれについて細微にわたる記述は避けたい。それぞれが大なり小なり 生死を堵けた冒険行であった。そして、その幾つかは任半ばにして事故に遭遇するか、敵の捕虜と なるかした。とはいえ、全体としてみるならば、気球による航空郵便の制度は所期の成果を十分に 12 挙げえた。1870年9月23日から翌年1月28日までにあいだに郵政局が借り上げた気球は5 4隻であり、これらは総重量20トン、250万通の郵便物を輸送した。 おかげでフランス全土は籠城中のパリの様子はほぼ手にとるように細かく知ることができた。と りわけ、トゥール派遣部にとって、パリと地方との共同作戦行動をとるにあたり首都との情報交換 は欠かせなかった。 しかし、僅か4グラムの書簡で委細を尽くした通信が可能であるだろうか。9月26日の郵政局 の政令は封書の規格を縦11センチ横7センチと定めていた。それは三つ折りにされた状態で、1 枚の紙におしひろげると縦20.5センチ、横37.5センチになった。9月26日の政令に引き つづき郵政局は航空便用の便箋の印刷を命令した。この公式規格は20.5×37.5センチであ る。表面は内側へ折り込んで封書の形にするため、そこに本文はまったく書けない。したがって、 便箋の裏側のみが通信欄であった。どんなに小さな文字で書くにしても、通信量は自ずと知れてい た。パリの実情を細大漏らさず地方の友人に知らせるにはこのスペースでは足りなかった。 サン=トノレ街の印刷屋ジュアジュは10月の末ごろ、「記事つき書簡、不在者新聞」という便箋 を発行した。これは通常規格の形式を保ち、そのなかに籠城下の諸事実、諸会戦の模様、その他の 雑記事を刷りこんでいた。もう一つの面は「気球便」と印刷されて、そこに通信文と宛名書きスペ ースが割かれている。最初の2ページはその週における諸事件の抜粋を含み、3ページ目が通信欄 であった。この「記事つき便箋」は淡黄色の薄紙の上に時事ニュースがきわめて克明に書かれてい た。これは1870年10月22日から2月22日までの4ヵ月間、毎週水曜日と土曜日に発行さ れ、合計で40号を数えた。なかでも12月8日号からは、挿絵が入れられて記事に迫真性が加わ った。第34号(2月1日)以後、それは紙質のよりすぐれた白色の用紙を使い4ページ立てとな った。1月28日の休戦協定のおかげで、通常手段での郵便業務が再開され、もはや編集者は四グ ラムの重量制限にとらわれる必要がなくなったのである。これは通信欄を欠いているので、もはや 便箋とは言えず、正真正銘の新聞であった。2月末には政治の舞台の中心はボルドーに移っていた ので、この「記事つき便箋」は廃刊となった。編集者ジュアジュはこの後なおもⅠ~Ⅷの補遺を発 行しており、つごう、「記事つき新聞」の完全なシリーズは48号ということになる。 「記事つき便箋」は大成功をおさめた。これに倣って次々と類似物が世に出て21種を数えた。 ために、ジュアジュはこれに抗議するほどであった。 Ⅹ パリ帰還飛行 パリを発つ気球は、包囲された首都の出来事をつぶさに地方に伝えることができた。風が東方に 向かっているとき、あるいは荒天の場合を除き、ほぼ恒常的にニュースを送ることができた。しか し、パリを発つのは比較的容易であるにしても、同じ手段でパリに戻るとなると話は別。そこで、 操縦性をもつ気球の建造が思いつかれた。政府の許には各方面からいろいろな名案が寄せられてい た。なかには外国からさえ新案が届いた。政府はこれらが実行可能であるかどうかを検討するため に、臨時輸送特別委員会を組織。委員会の構成は以下の通り。 セレ 学士院会員 ド・タスト トゥール国立中・高等学校物理学教授 13 イザンベール ポアティエ国立中・高等学校物理学教授 ギトー ポアティエ国立中・高等学校物理学助手 フロン パリ天文台の物理学者 ティサンディエ 飛行士 リオラン 弁護士 デュリュオ= ケルヴラ 飛行士 ド・ラ・グピエール 工科大学院検査官 マリー=ダヴィ パリ天文台の気象学者 ジルベルマン フランス気象協会副会長 著名な研究者および技官から成るこの委員会はパリ帰還飛行の技術的可能性を真剣に模索した。 10万個の熱気球でパリに物資を供給する、1万羽の鳩を繋いで気球をパリに導き入れる、帆、舵、 プロペラ付き気球、鳥気球などの空想が次々と委員会に届いていた。委員会はいずれについても、 その実用性を否定した。 操縦性をもつ気球が建造できないにしても、パリ脱出に用いられた通常の気球を使って、パリに 舞いもどるという案は全く不可能というわけでもなさそうだった。実際、パリ脱出に用いられた気 球はトゥールに溜まる一方であった。これは場所塞ぎになるばかりでなく、再使用に堪えるように するために、ときおり膨らませて布地の接着を防がねばならないなど、保管維持に甚だ厄介な代物 であった。トゥールの劇場において場所塞ぎになるこれが再使用されるとなれば、一石二鳥の効果 が望めた。 9月30日に気球でパリを発ったガストン・ティサンディエはトゥールでパリ帰還飛行の指導に 当った。パリに近い幾つかの町、たとえばオルレアン、シャルトル、エヴルー、ドルー、ルーアン、 アミアンなどにそれぞれ気球基地が設けられた。 風がパリに吹くと、 ただちに出発態勢が組まれた。 首都はかなりの面積をもっており、それに外部要塞を入れると広大なスペースとなった。気球がパ リ上空に到達すれば降下を開始する。 もし着陸がうまく行かない場合には、 積荷のみを落下させる、 これが計画であった。 最初の試みはシャルトルで10月18日に行われた。気球のガス充填が始まったが、途中でガス 欠をきたし充填は不十分であった。操縦士レヴィヨーが重さ10キロの郵便物とともに乗船し出発 命令に備えた。ところが、はからずもこの出発に関して上層部から相反する指示が出された。レヴ ィヨーが命令の確認のために下船している間に、気球は突風に煽られ立木に激突、孔があいてガス が全て抜け出てしまった。こうして第一回目の実験は失敗した。その日のうちにシャルトル占領の 危険が生じたので、レヴィヨーは破裂した気球を夜汽車に積んで、30キロ北に離れたドルーへ向 かった。ここでもあらゆる努力をしたが、結局、ガス不足のために目的を果せなかった。彼は一旦 トゥールに戻り、今度は鉄道で迂回してルーアンとアミアンに行き、そこで出発に備えた。またし ても順風に恵まれず、結局のところパリ帰還飛行は実現できなかった。 トゥール派遣部はなおも諦めなかった。ティサンディエ兄弟、ガストンとアルベールはディジョ ンまで赴いて気球ジャン=バール号を取りよせ、これをルーアンに運び出発の準備に備えた。充填は うまく行き、ほどなくしてパリに向けて順風が吹きはじめた。出発は10月16日午前11時、2 人の飛行士を乗せた気球はほどなく高度1,200メートルに達し、風はパリの方向へそれを運び つつあった。やがて、厚い霧が立ちこめて地上からは見えなくなった。3時間ほどして現在地点を 14 確かめるため降下した。地上にはプロイセン軍はいなかったが、彼等が降りたったのは、パリへは まだ程遠いポーズであった。彼らが霧に巻かれているうちに風向きがすっかり変わっていたのであ る。翌朝、ロミリー=シュル=アンデルで再び艤装をすませた気球は2人を乗せて飛びたった。が、 またしても途中で風向きが変わり、今度はルーアンを飛び越してセーヌ河口付近のウルトーヴィル に落下した。そこで順風を待ったが、結局、風向きが変わらず、計画そのものを断念せざるをえな かった。 XI 他の試み このようにして、気球によるパリ帰還は実現困難であることが判明。トゥール派遣部や航空特別 委員会はなおも空想的提案に耳を傾けたが、幾つかが採用されたにしても、実行段階で様々の障害 に遭遇して立ち消えになった。これらをつぶさにみて行く余裕はわれわれにはない。案のみを列挙 するにとどめたい。 パリ~フォンテーヌブロー間の鉄道架線を利用して電信線に代替させる案、パリ上空に打ち上げ られた2つの繋留気球を支点として電線の一方の端を別の気球で包囲前線外に運び、安全地帯でこ れを固定し、トゥールまで伸ばすという案などがそれ。 なかでも有望視されたのがセーヌ川利用案である。川底に電信線を敷設する案については我々は すでにみてきた。気球第44便シャンジー将軍号(12月22日出発)は、セーヌ川を渡河するた めの潜水用具一式を積載していた。結局、この計画は、この気球そのものが捕獲されたために実現 しなかった。また、通信文を詰めた潜水球体をセーヌ上流で投下し、それがパリを通過したときに 回収するという案も熱心に研究されたが、いろいろな理由で失敗に帰した。さらに、セーヌの川床 を這う潜水艦の建造計画も練られた。これは休戦協定の締結で日の目を見なかった。 番犬の利用まで試みられた。1月13日に出発した気球フェデルブ号はパリへの通信文を送るた めに5匹の番犬を積んでいた。しかし、パリにもっとも近い非占領地域で放たれた番犬は1匹もパ リに戻らなかった。プロイセン軍の銃弾の餌食になるか、雪中で道に迷ってしまったのである。 砲声による通信方法も検討された。砲声を合図に使うやり方は古くから海戦の指揮によく使われ た。また、ワーテルローの戦いの結果はこの方法で、その日のうちにパリに届いたといわれる。パ リ籠城戦でも11月初旬のオルレアン争奪戦のときの砲声がパリまで轟いた。けれども、一発の砲 声はせいぜい数十キロまでしか到達しなかったことと、他の砲声との混同が容易に起こりえたこと とのために実用化には無理があった。 さらに、光信号も少しばかりの希望を与えた。だが、予備的研究の不足と指導部の不熱意とで実 現にまで漕ぎつけなかった。普仏戦争以後の軍事的行動では、これは体系化されて大いに活用され た。 その他、パリの地下を走る地下墓地を利用して郊外に脱出するという案、流木を利用するという 案もあった。いずれも名案には違いなかったが、前者は秘密の通路はプロイセン前線の外にまでは 伸びていず、後者はプロイセン側がそうした方法を嗅ぎつけていたので、ともに失敗に終わった。 15 XII 伝書鳩 人智は思いのほか無力であった。これらの手段は全て失敗を宿命づけられていた。よって、古来 よく知られた伝書鳩による通信のみが残った。平和を象徴するこの幸せの鳥は時の運命の悪戯によ り戦争の使者となった。 パリを発つほとんど全ての気球が伝書鳩を積んでいた。 フランス全土の人々 がパリからの通信文に対する返答を託したのはこの伝書鳩にであった。この小さな愛すべき鳥のお かげで、陸の孤島と化したパリは食糧こそ欠乏したにせよ、ニュースの枯渇は生じなかった。 鳩によって通信文を運ぶという方法は太古の昔から知られていた。大洪水の末期、ノアは地上の 状態を知るために鳩を放った。エジプトの古代の記念碑はすでにファラオの時代に、キプロスおよ びカンディア島(クレタの別名)から戻ってきた海軍士官が自らのエジプト帰還を告知するために 伝書鳩を使ったという古事を伝えている。 中世においては、イスラム教徒が伝書鳩を使ったとい う記録のみが残っている。伝書鳩はアラブからヨーロッパに伝わり、16世紀にオランダの水兵が 最初にこれを導入。それはバグダードに因んで Baga dittes と呼ばれた。オランダ独立戦争時のハ ールレムの包囲(1572~73年)、レイデンの包囲(1574年)において籠城軍が外部との 連絡にこれを使った。 この後200年の間は伝書鳩はさしたる功績を挙げていない。記録の物語るところでは、ワーテ ルローの戦いの結果を伝書鳩によっていち早く知ったロチルドが巨富を獲得したという伝説が残っ ている。これを真似て、投機家や銀行家の間で証券相場の変動の情報交換のために鳩を使うことが しばらく流行した。 1860年の秋、パリが包囲の脅威に晒されたとき、同市には鳩舎は少なく、また、伝書鳩はほ んの僅かしか残っていなかった。これらは全て前線に駆りだされていたためである。ノール県から 800羽の伝書鳩が包囲の完成直前に大急ぎでパリに持ちこまれた。しかし、政府は未だ、伝書鳩 通信の検討に本腰を入れていなかった。気球に鳩を積んでパリの外に運び出し、地方からの返信を これにより空輸するという案を、だれが最初に政府に提言したのかははっきりしない。アンベール 将軍の記述では、ベルギー人ヴァン・ローズベックとなっている。 いずれにしても、郵政局長官ステーナケルスはかなり早い時期から(おそらく9月初旬から)伝 書鳩通信の可能性を察知していたようだ。彼自身、気球でパリを脱出する際に一羽の鳩を携え任地 トゥールに飛んでいる。当時、パリには鳩協会「レスペランス[希望]」があったが、この協会は 政府の管轄下におかれた。会長カシエと副会長ローズ・ベックらは政府から特命を与えられ、トゥ ールに飛んで、そこで伝書鳩通信の責を負うことになった。同協会の秘書ドゥルアールはパリに残 留し、伝書鳩の収集と世話に当ることになった。ステーナケルスはアンドル=エ=ロアール県知事デ ュリュエルから提供された一室を鳩小舎とした。 鳩が運んだ文書はもっぱらトゥール派遣部の公文書であった。1羽の鳩が運ぶことのできる重量 はわずか2グラムであり、小さな紙切れへの筆写では伝達できる情報量に自ずと限度があった。派 遣部は機密保持と簡略化のために暗号による電文方式を採用。 また、 伝達の確実性を高めるために、 同一の通信文を複数の鳩に託した。こういうわけで、当初は伝書鳩通信の一般公衆への利用はまっ たく考えられていなかった。 10月半ば、著名な化学者でトゥール在住のバルズイユが写真技術を使って通常の通信文を縮写 し、たった一羽の鳩でも比較的多くの情報を運ぶ方法を考案した。政府はこれを承認し、ただちに 16 アンドル=エ=ロアール県の電信検査官ド・ラフォリにその体系化を命じた。彼はアマチュア写真家 として名を知られていた。彼はのちにその任務についてメモを残している。 先ず通信文が紙の上に大きな文字で手書きされる。次いでそれは、100×65センチの板に固 定された厚紙の上に糊づけされた。このパネルが写真撮影され、4×6センチのアルビュミン紙に 陽画として焼きつけられた。これで300分の1に縮写されたわけである。レンズで撮影状況の点 検を受け、合格すれば細いロール状に巻きあげられ。絹糸で鳩の尻尾の中心に固定された。この写 真版も、パリへの到着を確実にするために数羽の鳩に託された。 従来、郵便と電報業務は別々の機関で取り扱っていたが、政府は包囲という特種事情を勘案し、 10月12日の政令でこの2つの業務の一本化を命じた。理由は単純、パリに踏みとどまった電信 局長官ランポンは地方での電信局の仕事を指揮できなくなったからである。偶発事は永続すること になった。以来今日に至るまで、フランスでは郵政局は郵便と電信の両方の業務を行うことになっ たのである。 通信文を写真撮影して小さなフィルムとし目的地に運ぶという妙案は、地方の一般公衆に対して もパリとの交信の道を開くことになった。11月4日の法令によって派遣部はこの旨を公告。これ によると、料金は1語毎に50サンチーム、最大語数は20語と定められた。用語はフランス語の みを使用し楷書書きすることが義務づけられた。比喩語や数字を使うことは軍事機密漏洩を防ぐ観 点から禁止された。不着の場合でも政府に対する賠償義務は生じなかった。地方からパリ向けの全 ての通信物は郵便局と電報局で受けつけられ、次いで、それらはトゥールに集中され、先程示した 方法で写真化されてパリに送られることになった。 11月4日の公告が新聞上で発表されると、地方の公衆は大喜びで大挙して郵便局の窓口に殺到 した。「マーム父子」印刷所がタイプ印刷を担当。しかし、その量はあらゆる予測を超えていた。 マームは政府に対し、軍隊に徴用された印刷工の呼び戻しを要請し、かつ他の印刷業者にも協力を 呼びかけた。伝書鳩通信の監督官ド・ラフォリによれば、11月10日から派遣部がトゥールから ボルドーに移転した12月11日までの1カ月間に、マームおよびジュリオ印刷所でタイプ化され 写真化された書簡は約9800通であったという。 X III マイクロフィルム しかし、この数でも需要を満足できなかった。前にみたように、パリで「記事つき書簡」が大成 功をおさめたのは、首都のニュースを地方に伝達するのに印刷業者がそれを代行し、便箋の小さな 欄に大量の情報を詰めこむことができたからである。パリで試された経験がよりすぐれた処理法を 生みだした。 パリ在住の発明家フェルニク、写真家ダグロンとその女婿ポアゾーらはさらにすぐれた写真縮写 法を考案し、これを国防科学委員会に報告。これを用いると、1ページの大版『官報』は透明フィ ルムのなかでは、僅か一ミリ四方のスペースしかとらなかった。つまり、史上初のマイクロ・フィ ルムがここに誕生したのである。11月11日、ランポンは発明家たちと契約書を交わし、この発 明の即時実用化を目指した。 ランポンの指示に基づいて、中部フランスのクレルモン=フェランでマイクロ・フィルム製版の 仕事に着手すべく、ダグロンらは翌11月12日、気球ニエプス号に機材を積んでパリを発った。 17 第八節でみたように、この気球は不幸にしてプロイセン軍の銃撃を受けて大破し、捕獲された。フ ェルニクとダグロンは逃げる途中で互いに離れ離れになりながらも、姿をくらまし辛くも逮捕を免 れたが、残念なことに機材を放棄しなければならなかった。フェルニクはトゥールのステーナケル スの許に出頭し、パリの電信局長ランポンとの間に締結した契約書を呈示し、自分たちに与えられ た特命を報告した。ところが、ステーナケルスはこれを承認しなかった。彼は、パリ政府が認めた この約定と任務をトゥール派遣部に対する権限侵犯と判断した。その契約書が事業の利益配分の点 で発明家を厚遇していることも長官は気に入らないのだ。遅れてトゥールに到着したダグロンも同 じような冷淡な態度に出会した。 写真機材の喪失、派遣部からの冷遇という二重の困難にもかかわらず、その技術の卓越を確信し ていた彼らは、派遣部の翻意を促すべくその後何度も交渉した。実際、これまでの方法では一羽の 鳩で約2000通の通信文しか運べないのに対し、彼らの方法ではその30倍、実に6万通以上を 一度に運ぶことができた。とはいえ機材を失ったので、この画期的方法を派遣部に実演してみせる こともできなかった。これは彼らにとって不幸であったばかりでなく、フランスにとっても損失で あった。戦後の議会査問委員会でも取りあげられているように、もしこのときすんなりと採用され ていれば、そして、もし機材が失われず、時間の空費がなかったとしたら、パリ政府とトゥール派 遣部の意志疎通、首都の市民と地方の同胞の連絡はもっとスムーズに運び、戦争の展開はまた異な ったものになったはずである。 11月29日、ド・ラフォリは決断を下す。派遣部は、ランポンとこれら発明家との間で締結さ れた契約を一部修正し、利益配分について発明家の取り分を幾分縮小した。 一方、ダグロンとフェルニクは、気球の捕獲で失った機材の最重要部分に代わるものを工夫して 拵えあげ、一つ一つ障害を取り除いた。失ったのと同じ機種のカメラがボルドーのアマチュア写真 家から届けられた。パリにしかない化学物資は気球便でまもなく到着。発明家たちがパリを発って から約1ヵ月が空費されたが、ようやく12月15日からこのマイクロ写真法による郵便業務が始 まった。この事業はまもなく順調に軌道に乗り、それは休戦協定の成立時まで続いた。郵便物の滞 貨はたちまちのうちに片づけられた。 印刷はマーム印刷所が受けもち、撮影はトゥールの写真家ブレーズが担当。通信文は印刷活字九 ポを使って、87×23センチの紙の上に3縦列に印刷された。この用紙は一枚当たり約200通 の通信文をおさめるが、印刷の鮮明度に応じて九枚または16枚毎に、縦横三枚あるいは四枚ずつ 並べられてパネルに固定し写真撮影された。したがって、38×60センチのフィルム1枚に収録 しうる通信文は1800通または3200通ということになり、1羽の鳩が1回で運ぶことのでき る量は概算2万~6万通にもなった。 細心の気遣いにもかかわらず、陽画は全て成功したというわけではなかった。トウゴマのコロジ オンの被膜で作られたフィルムはその材質の悪さのせいで、乾燥すると形が変わって皺が寄り、こ のためにかなり多くが失敗に帰した。 原版は顕微鏡による点検をパスすると、 鳩係に引き渡された。 11月10日の国防政府の法令は、料金1フランでの「返信葉書」方式の採用を認可した。これ は、予め名宛人になされた4つの質問に対し、「はい」、「いいえ」の答えだけで返答する葉書で ある。たとえば、パリ在住のジャンがマルセイユのルイ・ポール(Louis Paul)に安否を尋ねよう とするとき、次のような方法に従う。 18 先ずジャンはパリの郵便局でこの葉書を買う。これには予め8つの欄が印刷されている。①葉書 番号(郵便局で記入)、②名宛人の所在地、③名宛人の氏名のイニシアル、④差出人の住所、⑤~ ⑧前記4つの質問に対する回答欄。 ジャンは先ず最初に、②欄に「マルセイユ」、③欄に「PL」(ルイ・ポールのイニシアル)、 ④欄に poste restante[局留郵便]と記入する。 次いで、彼は別の便箋に四つの質問を書く。1、元気か。2、金が必要か。3、私の弟が捕虜に なっていたら「はい」と、もし負傷していたら「いいえ」と返事せよ。4、彼が元気だったら「は い」と、不幸にして戦死していたら「いいえ」と返事せよ。 この質問状と葉書が一緒に気球によって、名宛人のマルセイユのポールの許に運ばれる。 この手紙を受けとったポールは四つの質問について、葉書の⑤~⑧欄を「はい」「いいえ」「い いえ」「いいえ」の答えで埋める。ポールはこの葉書をマルセイユの郵便局にもっていき、そこで 一フランの切手を貼って投函する。 この葉書はマルセイユからボルドーに転送される。 ボルドーでは別の紙に郵便局員が 「局留郵便」 、 ONNN(O=Oui、N=Non)とタイプで打つ。 返信葉書1枚につき僅か1行からなるこの文は3~4万行つまり3~4万通毎に纏められて、1 枚のボードの上に貼られる。そして、われわれが前にみた方法でマイクロ写真化され、伝書鳩でパ リに送られる。 伝書鳩郵便が始まった頃は、通信文は単に丸めるだけで鳩の尻尾に括りつけられたが、郵便局と 電信局が統合されてからは、鳩放出係ジョルジュ・ブレイがそれを改善した。彼は、通信文を尻尾 に固定する絹糸がフィルムを痛めることに気づいた。彼は、がちょうまたは大烏の羽根の端を切断 して使ったチューブにフィルムを入れることを考案した。このようにすれば、フィルムを痛めるこ ともなければ、これを雨に晒す心配もなくなった。さらに、後に開発されたフィルムは薄紙に比べ て軟らかさ、軽さ、耐久性の点ですぐれていることが分かった。それを細心の注意をもって丸めれ ば、簡単に針の太さほどに細くすることができ、その上に別のフィルムを重ね巻きにすることさえ できた。 チューブが尾翼に固定されると、ただちに放出が始まった。放出係は鳩を機関車で、パリに最も 近い地点まで、時にはプロイセンの前哨の傍まで運んでこっそり放出した。最初、オルレアンが出 発拠点となったが、 この町が敵の攻撃に晒される危険性が出てきたので、 ポアティエに移設された。 オルレアンからパリまでは直線距離で約120キロメートルにすぎないが、ポアティエからとなる と、300キロにもなり、その分だけ鳩の飛行距離が延びた。不利は明白であった。実際、この年 の冬はことのほか厳しく、厳冬期にはセーヌ川が凍結するほどであったから、この寒さは鳩の飛行 にとって大きな障害であった。寒さは鳩の呼吸を圧迫し、疲労を早めた。短い日照、大地を覆う雲、 靄のかかった空気はこの哀れな使者をしばしば迷い子にした。鳩はしばしば出発を拒絶し、そうで ない場合でも、すぐさま舞い降りてきた。 鳩の敵は長い道程と寒さばかりではなかった。砲声と銃声がこれらを怯えさせ、その道から逸れ させた。また、その幾つかが猛禽の爪の犠牲となった。伝書鳩通信を予知したプロイセン軍は、調 教した鷹を途中で待ち伏せさせた。 包囲末期の1月7日、厳冬のピーク時には放出された62羽の鳩のうち、わずか3羽のみがパリ に戻ってきた。至急報は番号で処理されていたから、パリでは不着の鳩の数は把握されていた。同 一の通信文を積んだ鳩が複数であったとしても、ただ1羽のみがパリに到着すればよかった。パリ 19 籠城期の全体を通じて、パリを気球で発った363羽の鳩のうち、実際に302羽が放出された。 そのうち、郵政局と電信局の統合の行われた10月16日以前に54羽が使われていた。伝書鳩郵 便が本格化するのは、 それ以降のことであり、 それからは鳩の到着はほとんど毎日のこととなった。 すなわち、47便の出発に248羽の鳩が使われた。よって、同じ郵便物が平均五羽の鳩に託され た勘定になる。放出された302羽の鳩のうち無事パリに到着したのは59羽のみである。したが って、パリに届かなかった通信物もたくさんあることになる。 生け捕りにされた鳩もあった。11月12日、気球ダゲール号が積んでいた鳩はプロイセン軍の 手に落ち、ルーアンから敵によって託された至急報を携えて12月9日にパリに戻ってきた。この 至急報はルーアン、オルレアン両市の陥落とロアール軍の大敗、ブールジュ、トゥール市の包囲の 可能性を仄めかした。この至急報の署名者にアリバイがあったのとチューブの結び方の違いで、こ の情報がプロイセン起源であることが看破された。それはもちろん、パリ市民の間に落胆と士気沮 喪を撒き散らすための謀略であった。 XIV 不幸を運ぶ使者 帰還率2割という少なさで、多数の痛ましい犠牲がつきまとっていたが、無事帰投した鳩のなか にはブロア=パリ間の180キロをわずか2時間で飛行したものもあった。11月9日、ロワール 軍の総帥ドーレル・ド・パラディーヌ将軍はクールミエでプロイセン軍を撃破した。この戦勝はパ リ籠城期全体を通じてフランス側のほとんど唯一といってよい勝利であり、パリとフランスに束の 間の鎮痛剤となった。この戦勝の報知は翌10日10時にシャルトルの西方ラ・ループから鳩に託 された。 これは2時間後にパリの鳩舎に到着し、 すぐさま夕刊上の活字となって首都を沸騰させた。 パリで鳩の徴発と鳩舎管理を担当していたのはドゥルアールである。鳩舎は首都内の幾つかの場 所、すなわちグルネル通り、ヴィレット通り、フォブール・サン=ドニ街、モンパルナス大通り、バ ティニョル大通り、シモン・ル・フラン通りなどに散在した。鳩舎は外から見ると何の変哲もない 建物である。しかし、中に入ると特別のしつらえがしてあった。部屋の窓辺には格子戸を嵌めこみ、 壁には止り木が設けられていた。そして部屋の中央には亜鉛製の盥が置かれていた。係員はそこに ぬるま湯を湛え、 鳩がいつ到着してもよいよう準備していた。 帰ってきた鳩はサロンに入るや否や、 真っ先に長旅の疲れを休めるべくこの盥の中で沐浴した。水から上がると清めの啄みが始まった。 この身繕いが終わると初めて食餌を啄んだ。そこで係りが羽根菅を抜きとり、これをジャン=ジャ ック・ルソー街の郵政局本庁に届けるのである。 本庁では、係官が細心の注意をもってナイフで縦割りにし通信文のみを取りだした。至急報が私 信であれば、それは電信局に送られ読み取り作業に移った。 初期の手書きの至急報は、どんなに細かな文字で書かれたものでも肉眼で読めた。しかし、写真 が用いられるようになると、虫眼鏡が必要となった。そして最後に、マイクロ・フィルムが使用さ れるようになると、もはや虫眼鏡でも読み取りは不可能となった。 1871年1月21日号の新聞『リリュストラシオン[挿絵]』紙はこのマイクロ・フィルムの 読み取り作業の模様を大きな図絵で示している。広い暗室の中央に平らな台が置かれ、その上に大 きな幻燈機が乗っている。フィルムを通過した光の束が、壁に固定されたスクリーンに映像を落と す。この映像は肉眼で読むのに十分な大きさと鮮明度をもっている。スクリーンの前に据えられた 20 テーブルの上で、数人の男たちがせっせとペンを走らす。筆写された至急報は通常電報の場合と同 じように、電報配達人の手で直ちに名宛人に配達された。 ニュースに飢えた家族がどんな感情でこの配達人を迎え入れたであろうか。彼らが期待と不安の 入り交じった感情をもって通信文を手にしたことは容易に想像できる。朗報の場合には、名宛人は 電報を受け取るや、 しばしば配達人に金品を与えて労をねぎらった。 長期の籠城生活による精神的、 物質的な疲弊はパリ市民を迷信深い人間に仕立てた。とりわけニュースの欠乏が彼等の苛立ちを増 幅した。すべての者が朗報を待って鳩舎の周囲に陣取り、翼をもった使者の到着を待ち受けた。ゴ ンクールはこの光景を次のように描写している。 「私はオペラ・コミック座の真ん前の大通りで、車道を遮断して乗合馬車の道を塞いでいる群 衆に巻きこまれた。暴動の再発か、と私は思った。が、そうではなかった。空を仰ぎ見ている これらの頭は、何かを指差しているこれらの腕は、婦人たちの揺れ動いている日傘は、不安で もありまた希望をもつ者は、劇場の煙突の上に身を休めている1羽の鳥――多分、伝書鳩であ ろう――に注がれていた。」 鳩が地平線上に姿を現わすと、多くの、食い入るような眼差しがこの小さな鳥の飛翔を追った。 その一挙一動がパリと祖国の命運を象徴するように思えた。鳩舎に近づいた鳩は舞い降りる前に近 くの塔屋や記念碑の尖塔で羽根を休める習性があった。最後の休息場所が凱旋門であったり、カル ーゼル門のオッシュ将軍の立像であったりしたときは、群衆は大勝利のニュースを予感して大拍手 の喧騒を呼び起こしたけれども、人々の期待に反して良きニュースは希であって、鳩はしばしば不 幸を運ぶ使者となった。にもかかわらず、パリ市民はこの無垢の使者に感謝を捧げ続けた。詩人ウ ジェーヌ・マニュエルは『共和国の鳩』と題する、次のような詩を献じている。 愛の使者たるやさしい鳩たちよ かくも多くの慰められた魂が 過ぎ去る時を数えながら かつて汝らの帰還を祝福してきたことか 汝らはその翼の下に運べり 白い羽毛のなかに隠しもつ 一巻きを、人々は震えつつ開く 貞淑な恋人の秘密を 汝らはおまえの女主人の耳元には 好ましい事は何も語らず さもなくんば恋人の愛撫と 長い接吻の下にうち震えてきた 汝は少し前は人々に微笑みを与えた! われわれのうちだれがかつて予言したであろうか、平和の鳥たる汝が 21 大戦のために徴集されるなどと! 二百万の拘留者たちは待ち受ける 1羽の森鳩が答え そして 世界の女王たるシテが 「おまえたちが戻ってきたのか…」と問うのを 語り給え、フランスは動いているのか その心臓は我が心臓に結ばれているのか 汝、恵みの小枝で祝別されるか ノアの箱舟の鳩のように 汝、わが捕虜たちに約束するか 人々が用意する解放を 野蛮人たちをおし流す波は 我々の周りで引きつつあるか 語り給え!森で原野で 丘の上で、畑に沿って 共和国の軍隊の歌が歌われるのを 汝、聞いたかどうかを 汝、見たか、かれらの自信に満ちた歩みが 長い行列となって大地を踏み鳴らすのを 村から町から人々は押し寄せるか 北から南から人々は押し寄せるか 語り給え!ぴくぴく動く汝の翼は 鳩小舎でより嬉しそうにはばたかせ 祝福せよ、このはかない紙切れを 勇ましき待機の希望を 汝の飛翔は公けのもの それが告げるのは救いであるか フランスは返答を書きとめ そして汝は我々に空からそれをもたらす 22 あとがき 「ネズミ1匹くぐれまい」と豪語するプロイセン軍を嘲け笑うかのように、パリ攻囲のほとんど 全期間を通じて、首都と地方の通信はほぼ恒常的に維持されていた。火と鉄の狭い環をくぐり抜け るために用いられた手段の大胆さと新奇さとは当時の常識を超えるものであったに違いない。大空 は当時にあってはまったくの盲点であったのである。 普仏戦争が独仏首脳の当初の思惑を裏切って長引いた主たる理由は、われわれがこれまでみてき たような通信の確保にあった。プロイセン軍の執拗な監視、妨害活動が続いたにもかかわらず、気 球と鳩による通信でパリが外界と繋がっていたという事実はこの点からみてまことに意義深いと言 わねばならない。籠城期間中、パリは地方や外国の情勢を概ね正確に把握していた。一方、地方と ヨーロッパ諸国の同情と注視を浴びていたこの首都は気球郵便のおかげで、己れの状態をこれらに 知らせることができた。郵便物はおろか新聞類までもヨーロッパ中に配布することができたから、 パリの状況は各国ではよく理解されていた。ロアール軍の勢威が最も強かったときには、パリ軍と の間に共同の軍事作戦が企図されるほどであった[実行はされなかったが]から、この情報面では パリはさして不自由しなかった。 もし、パリがこの手段をもたなかったとしたら、プロイセン軍の仕掛けた情報戦の餌食となって 疑心暗鬼のうちに内部崩壊を早め、 もっと早い時期に開城していたことは間違いないところである。 メッス、ル・アーヴル、トゥールなどの都市がこの例である。また、パリの国防政府の首脳部その ものに、最初からさほどの抗戦継続の意欲が見られなかっただけに、なおさらそうである。12月 末、堰を切ったように独軍による猛烈なパリ砲撃が始まる。しかし、この砲撃で実際に犠牲となっ た者はそれほど多くない。また、饑餓地獄については、さすがに1871年1月下旬になると深刻 化するものの、少なくとも70年末まではさほど極端なものではなかった。パリが長くもち堪えた のは、今までみてきたような情報連絡の維持があったからである。季節の影響で鳩が飛びたたず伝 書鳩通信が間遠になり、食糧が底を尽き、あらゆる脱出戦がことごとく失敗し、また地方軍が次々 に敗北したのを知って、ようやくパリは武器を置いた。 とはいえ、パリと地方の連繋を過大評価することもまた戒めねばならないだろう。トゥール政府 派遣部の閣僚ガストン・クレミューは戦後の議会査問委員会の陳述でこう述べている。 「トゥール政府とパリ政府との間に完全な一致は決してなかった。なぜというに、統一が我々 に欠けていたからであり、われわれは非常に困難な形でしか通信することができなかったから である」と。 問題なのは確実な通信手段に、とりわけ地方からパリに向けての通信方法に限界があったことで ある。通信は全体としてみるならば、一方通行であった。そのために、軍事共同作戦を実行に移せ なかった。11月初旬のロワール軍によるクールミエの戦勝の好機を活かしきれなかった。 第二に、クレミューも述べているように、パリ政府とトゥール派遣部との間に確執があり、両者 の関係はパリ攻囲期全体を通じてしっくりいっていなかった。この徴候は随所に見られる。たとえ ば、パリ総督トロシュはパリ西方への出撃の秘密作戦を胸に抱いていたが、これをついにトゥール 政府に伝えることができなかった。またパリ開城後の国民議会選挙実施をめぐっての足並みの乱れ もここより発する。また通信問題に戻るが、本稿でみたように、マイクロ写真技術の実行の使命を 23 帯びたダグロンとフェルニクがトゥールで経験した冷遇も、元をただせばこの確執に真の原因があ る。 パリと地方の通信の維持は戦局の決定的転換には至らなかった。それは否定できない。しかし、 繰り返し述べるように、それは少なくとも戦争の継続をもたらした。独仏両国に災厄と人的損失を 増やし、戦勝国プロイセンの要求をエスカレートさせた。それは二重の負担をフランスにもたらし たわけである。 犠牲はとりわけパリで大きかった。 4ヵ月余の耐乏生活を味わったパリその意味で、 地方とは異なった運命を強いられたのであり、そこから発する政治的結果も、また地方とは異なっ たものになる。 われわれがパリ籠城期に対して寄せる関心も、 実はそうした問題意識に発している。 ギリギリの極限状況まで堪えることによって、パリ内部の社会的矛盾はますます増幅された。こ の矛盾が外戦を内戦(パリ・コミューン)に転化する酵母の役割を果した。この閉ざされた4ヵ月 余の間に、アンリ・ルフェーブルのいう「パリにおける社会機構の解体」が進んだ。九月四日革命 は不徹底であり、ひとつの妥協に終わった。戦争の継続という課題が旧体制の分解を中途半端なも のにした。この革命では、社会の上層部のみが打撃を受けたに過ぎない。旧体制の軍人、警察官、 行政官の多くは臨時政府の諸機関の中に滑りこんでいく。 しかし、パリの長期の籠城生活が次第にこの曖昧さを暴き、これを告発し、政府をますます窮地 に陥れていく。国防政府は保守派と革命派の攻撃に晒されて無為無策を繰り返す。この間にパリの 内部にあっては交換・商品・貨幣流通すら麻痺し、経済生活は解体し、失業が猛威を奮う。経済の 解体は政治的緊張をますます深刻化する。社会生活それ自身が崩壊しはじめる。既存の社会が上か ら下へと崩れて行くのに対して、下から上へと向かう新たな再構成が根を拡げていく。籠城期にこ のような過程が進行したとすれば、開城後のパリの政治生活も周知のように、地方とはまったく異 なった軌跡を描く。これが1871年3月のコミューン革命に連なるものである。 したがって、パリがフランスの他の都市と同様にもっと早期に降伏していたら、そして、もし飢 え、寒さ、疫病、砲撃の恐怖があれほどに猛威をふるわなかったとしたら、前述の「社会解体」は 不徹底なものに終わり、その運命はまた別物になっていたことは容易に想像できよう。戦火を被っ た町、それを免れた町いずれも勝機のない戦争からの離脱を願っていた。戦闘におけるパリの特殊 状況がこの町の戦争離脱を遅らせ、結果として政治的意味あいにおける、首都の(フランスからの) 孤立をもたらした。したがって、首都がこのような孤立を味わうことなく、もっと早く地方といっ しょになって敗戦処理の課題に没頭していたら、内に向かっては地方とともに戦後復興に没頭し、 そして外に向かっては、地方といっしょになってドイツに対する復讐に思いを馳せていたであろう し、民衆がこれほど“内部の敵”政権担当者にたてつくことはなかったであろう。 このことは他の都市と比較してみるといっそうはっきりする。パリの九月四日革命に引きつづき リヨンやマルセイユにおいても騒擾が発生した。しかし、これは長く続かなかった。そして、これ らの都市は71年3月のパリ蜂起に際しても首都の後を追ったが、数日で崩壊した。それは、これ らの都市に蓄積された社会的矛盾のエネルギーが、長期の孤立と耐乏生活を強いられたパリのそれ と比べて格段に小さかったからではないだろうか。……この意味で首都はフランスによって包囲さ れていた。パリが城門を開いたのは1871年1月28日。そして、それが再び武装し孤立の籠城 生活に戻るのに50日すら要しなかったのである。 (c)Michiaki Matsui 2014 24
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