高エネルギー物理学事始め 長島順清 大阪大学名誉教授 〒 560-0042 豊中市待兼山町 1-1 e-mail: [email protected] 日本での本格的な高エネルギー物理学研究がどのように始まったかを記述する。予算規模や研究体制が、そ れまでの大学での研究形態に当てはまらないことから、最初の高エネルギー加速器 PS の建設は、高エネル ギー物理学界のみならず学界全体を巻き込み、非常に複雑な過程を経て実現した。前半はその研究所創設の 過程を追う。PS は世界の大勢に 15 年遅れてスタートしたため、当初の予想とは異なる展開を見せたものの、 期待以上の成果を上げ、設立の目的を果たした。後半は、30 年に亘る長い生涯の最初の 10 年の成果を概観 し、第 2 期第 3 期へ発展して行く迄の経過を記述する。 1 はじめに 2 KEK 創立:産みの苦しみ 第2次世界大戦敗北と同時に、我が国のサイクロトロン は占領軍により破壊され、建設も禁止されたが、それまで は日本の加速器科学は米国以外では最も先端的であった。 高エネルギー物理学研究所 (現高エネルギー加速器研究 奇妙なことに、ヴァンデグラフやコックロフトワルトン加 機構素粒子原子核研究所、略称 KEK) の 12GeV 陽子シンク 速器は破壊されず、使用も禁止されなかったので、低エネ ロトロン(以下 KEK/PS もしくは単に PS と略称する)が ルギー原子核研究や宇宙線研究はある程度のレベルを維持 閉鎖され、その使命を大強度陽子加速器計画 JPARC に引 できた。それ故に、1951 年の平和条約締結の後、学術会 く継ぐことになった。KEK/PS が時代を先導して、加速器 議はただちに、サイクロトロンの再建を勧告し、1953 年 としては非常に長いと言える 30 年の生涯を全うするとは、 には京大理論物理学研究所 (現基礎物理学研究所) と共に 当初誰もが予想し得なかったことであった。本邦では初の 東大乗鞍宇宙線観測所 (現宇宙線研究所)、1955 年には東 本格的高エネルギー実験用加速器として出発した KEK/PS 大原子核研究所 (核研) を発足させた。 であったが、世界の大勢にすでに 15 年遅れ、下手すると高 核研では初代所長菊池正士の意向で、最初は 60 インチ 価な教育用機器に終わる危険性もなくはなかったのである。 可変エネルギー型サイクロトロンを建設し、次いで 1956 KEK/PS の活躍期は大きく分けて3つの時代に分類できる。 第 1 期は運転開始 (1976) からトリスタン稼働 (1984) までの 「高エネルギー物理学の曙」時代、第 2 期 (1984-2000) は、 年からは熊谷寛夫を中心とするグループが、電子シンクロ トロン (ES) の建設も始めた。ES は 1961 年にエネルギー 700MeV に、1966 年には 1.3GeV に達した。これは本格的 な高エネルギー加速器建設に向けた練習器という位置づけ 原子核物理が参入して新たな使命を見出し、高エネルギー 物理学と並んで活躍した時代、そして第 3 期 (2000-2005) であったが、日本人自らの手で高エネルギー実験物理学研 が「ニュートリノ振動実験」により世界の注目を浴びつつ 究者の養成を始めたという意義は大きい。 華麗なる幕引きを演じた時代である。この小文の後半で、 次に KEK 設立までの経過を追う。記述はなるべく正確 その第一期を振り返って、現代の視点から KEK で行われ を期したつもりであるが、短い期間の調査では完璧とは言 た高エネルギー物理学実験の学問的歴史的意義を論じる。 い難い。誤りがあれば全て私の責任である。また背景説明 第 2 第 3 期および原子核実験については、中井、中村両氏 には私自身の推測が入っており、必ずしも客観的記述とは の記事を参照されたい。 限らないことをあらかじめ断っておく。 前半では KEK 設立の過程を改めて顧みる。高エネルギー (1)1958-1964: ES の次期計画が初めて話題に上った 物理学の曙は巨大科学の曙でもあり、KEK 設立過程は、我 のは、学術会議の下部機構である原子核特別委員会 (核特 が国の学問研究体制のあり方を模索する過程でもあった。 委:坂田委員長) において、1958 年 5 月 13 日菊池が次期 単なる一分野の設備建設以上の意義を持っていたが故に、 計画を議題として提案した時にさかのぼる。核特委は将来 1) KEK/PS の誕生は非常な難産であった 。 計画提案時私 計画小委員会を作り、1960 年 3 月には原子核分野(理論、 は学生であり、また創設時点では米国に居て当事者ではな 原子核、宇宙線、高エネルギー)全体の将来計画を作り上 かった上、限られた紙数では表面的な流れにしか触れられ げると同時に、研究体制小委員会をも組織して研究体制の ない。しかし、半世紀近くを経て忘れられつつある今、そ 検討を始めた。その結果として大強度 12GeV/PS 案 (予算 の過程を改めて追って見ることは科学史的、社会学的な意 200 億円) が、1962 年 5 月 24 日の学術会議勧告「原子核 義があるばかりでなく、将来計画のすすめ方にも参考とな の研究将来計画の実現について」として出された。文部省 ろう。 では国立大学付置研究所協議会が対応し、1964 年度には 1 基礎研究費を核研に付けた。こうして素粒子研究所 (素研) 28GeV/PS が 1960 年には BNL(米国国立ブルックヘブン 準備調査委員会 (SJC) および実行部隊の準備室が発足し、 研究所) の 33GeV/AGS が稼働開始しており、さらに、ソ 委員長かつ所長予定者朝永振一郎、加速器部門責任者熊谷 連では 100GeV、ヨーロッパでは 300GeV、アメリカでは 寛夫、測定器部門責任者三浦功という体制が整えられた。 んだのは、戦前に加速器研究の伝統があり、学術会議にお 200GeV の PS が計画されていた。機種選定の当初案で、エ ネルギーでは叶わないからビーム強度でユニークさを狙っ たのはごく自然な成り行きである。当時、共鳴発見ラッシュ ける核特委の力が強かったからであろう。湯川博士の論説 はまだ始まっていなかったことに留意しよう。当初案検討 2) の最終段階では、北垣敏男等の推す 12GeV・速い繰り返 背景説明: 高エネルギー加速器建設計画が当初順調に進 もプラスに働いた。核特委の由来について触れておこう。 占領下の日本では、原子核分野は研究の進捗状態を毎年2 しの大強度 (0.1 マイクロアンペア以上) PS と熊谷/西川哲 回占領軍に報告することを義務づけられていた。多分、サ 治等の推す 2GeV 陽子リニアックの2案が残り、1960 年 イクロトロンが破壊されたと同じ理由であろう。仁科芳雄 10 月 18 日の九州学会で投票により 12GeV/PS 案が採用さ は原子核研究連絡委員会を組織して事務手続きの簡略化を れた。この時の議論として、PS をブースターとして将来 はかり、1949 年の学術会議発足後はその下部機構の核特 的には高エネルギー (300GeV) につなげるという伏線があ 委として、原子核物理学分野を組織化したのである。仁科 り、後の 1/4 縮小案のヒントとなった可能性がある。 の没後 (1951) は朝永振一郎が、次いで坂田昌一が委員長を この直後から共鳴発見ラッシュが始まり、エネルギーの 引き継いだ。朝永は、1963-1969 の間学術会議議長をも勤 高い加速器が高い生産性を持つことが認識され始めた。ま めている。核特委は形式的には学術会議第 4 部会物理学研 た、始動した素研準備室の作業により、インフレを考えれ 究連絡委員会の単なる下部機構であったが、総会への提案 ば当初予算を大きく逸脱しない範囲で 20-40GeV/PS の建 権を持つなど他の分野にはない特別な存在であった。メン 設が可能なことも明らかになってきた。熊谷が速い繰り返 バーは原子核分野のみならず、原子力、核融合事業推進に しの実現性に疑問を持っていたこともあり、素研準備室は も積極的に関与するなど、他分野から物理帝国主義と言わ 1964 年 10 月に 40GeV 通常強度 PS 案を提起した。そこで 高エネルギー研究者が改めて議論の末 れるほど活動的であった。1952-1955 年にかけて基研や核 研が実現したことでも判るように、初期の学術会議の勧告 (1) 12GeV の高強度 PS はほとんどそのまま政府に受け入れられていた。しかし、 (2) 60GeV のカスケード PS注 1) 政府政策にたいする厳しい批判姿勢のため、政府は次第に (3) 20-40GeV、通常強度の PS 学術会議と距離を置くようになった。このことは、1959 年 の三機種に絞り、シンポジウムなどにおいてまず案 (3) が には科学技術庁に科学技術会議を、1967 年には文部省に 排除された注 2) 。理由はすでに CERN/PS、BNL/AGS が 学術審議会を創設して、学術会議勧告を事実上骨抜きにし 稼働しているということであった。1965 年春の同好会総 てしまったことに伺える。 会では、世論としては (1)(2) 案が拮抗していたが、準備室 (2)1965-1966: 文部省は 1965 年、新たに学術奨励審 が技術的理由で (2) 案に難色を示したので、採決の末、元 議会 (茅議長) を設立し、その下部機構として学術研究体制 の案 (1) に戻った。しかし、この後海外日本人研究者の陳 分科会 (茅委員会) を設け、第2部会 (素粒子研究将来計画 情注 3) 部会)(通称小谷委員会) で素研建設を検討することにした。 決断し、核特委も了承したのであった。この高エネルギー を受けて、SJC 委員長が 40GeV に変更することを その第1回答申 (7 月 30 日) が出される直前に計画機種を コミュニティのどたばた劇が、内部あつれきと外部の不信 40GeV/PS (予算 300 億円) に変更するという事件が起きた。 感を助長したことは想像に難くない。 小谷委員会は変更を容認はしたものの、研究者の意思を確 (3)1967-1968: ともあれ、1967 年度から核研に準備 認する必要があるとして、基礎研究期間を1年延ばして様 研究費と部門が付き、1967 年末には研究所敷地も筑波地 子を見ることにし、翌 1966 年 8 月 16 日の学術奨励審議会 区と決められたので、69 年度には素研が発足すると大方 答申で素研設立のための準備研究費を認めた。なお機種変 が期待していた。しかしこの後、文部省が学術奨励審議会 更に伴う混乱の責任をとって、委員長と所長予定者を分離 を改組して新たに発足させた学術審議会 (茅議長) が 9 月 して加速器責任者は更迭することになり、委員長として早 から活動を開始し、素研の (残された体制) 問題は学術研究 川幸男、加速器責任者として諏訪繁樹が選出された。 体制特別委員会 (小谷委の後身) で扱う事になった。茅議長 背景説明: 1958 年には CERN(欧州原子核機構) の は、12 月総会で小谷委の体制案報告を了承して文部省に 注 1) 発案者は北垣である。北垣は一貫して、大強度マシンをブースターとして高いエネルギーに行く可能性を目指した。 当時院生であった私は何度か傍聴した記憶がある。連日集まっては、昨日の決断を今日は覆す激しい議論であった。熊谷先生は物作りに徹した学 究肌の研究者で大衆討論は得意ではなく、勢いに流されたと思われる。 注 3) BNL を中心とする米国東部グループ (藤井忠男、尾崎敏、中西襄、西川哲治、山田隆治、山内泰二、山本祐靖等) は 4 月 23 日付け、ANL を中心 とする中西部グループ (崎田文治、横沢昭彦、諏訪繁樹、南部陽一郎、福井崇時、JJ 桜井、原康夫等) は 5 月 6 日付けの陳情書を出している 3) 。ただ し、海外派のチャンピオンとも言うべき存在は山口嘉夫である。当時 CERN から帰国したばかりであった。 注 2) 2 答申する方針をとったが、素研の高額予算に対する批判が 素研組み替え委員会で出した結論「素研から宇宙線部門を 噴出したので、議論を翌年に持ち越すことにして、小谷案 切り離し、高エネルギー物理学研究所と改称し、8GeV/PS は中間報告扱いとなった。学術審議会は、しばらく科研費 を建設する」を 4 月 29 日に承認した。かくして、諏訪所 問題に時間を費やした後、1968 年 8 月に素研の議論を再 長、西川加速器研究系主幹、安見真次郎物理研究系主幹、 開した。11 月 30 日の審議会で研究体制の小谷案は認めた 三浦共通研究系主幹を抱く KEK がようやく 1971 年度か ものの、素研の巨額予算を批判する声が大勢を占め、危機 らスタートしたのである。菊池提案からは 13 年、基礎研 感を抱いた伏見康治が予算を 1/4 にカットすることを急遽 究費が付いた時点からも 7 年が経過していた。 提案し、その場をしのいだのである注 4) 。 背景説明: 1/4 縮小案は伏見を通じて直ちに研究者側に 背景説明: 素研計画がつぶれたポイントはいくつかある 知らされ、70 年度の素研発足を実現するためには、次の審 6) 議会総会(12 月 25 日)迄に結論を出すように促された。 。 第 1 はいうまでもなく金額の大きさである。科研費予 算額が年間 50 億円の時代に、毎年同額以上の予算を費や 高エネルギーグループが、ただちに (1968 年 12 月 21 日) し、それでも世界最先端とは言えない計画が、零細企業か 大型設備運営に伴う研究体制である。事業遂行のため指揮 1/4 縮小案受け入れを決定したにもかかわらず、核特委の 姿勢が定まらずさらに 1 年遅れた背景には、原子核物理分 野内(理論、原子核、宇宙線、高エネルギー)でのあつれ 系統を明らかにしたい文部省と、研究者の主張する民主的 きがある。1962 年の学術会議勧告は、高エネルギー物理学 で自由な研究方式の折り合いが難しく、最終的には所長に とともに低エネルギー原子核、宇宙線分野を総合的に推進 権限を集中させることで合意したが、時間を掛けすぎたこ する(いわゆる三位一体)勧告であり、その中心には「物 とが、好機を逸する大きな要因となった。この他、加速器 理学総合研究機構」構想があった。しかし 64 年度に認め 建設能力に対する疑義があったこと、内部闘争で精力を使 られた基礎研究費は、高エネルギー加速器関連のみであっ い切ってしまい零細企業への配慮や対策をなおざりにした た。原子核分野はこの結果を一応受け入れたが、その背景 こと、ノーベル賞受賞分野をバックにした一部若手研究者 には核研の可変エネルギーサイクロトロンで一級の研究が の独善的議論が識者のひんしゅくを買ったことも指摘され 可能であった事実がある。宇宙線グループについては、SJC 注 5) らは怪物扱いされたのは不幸なことであった ている 6) 7) 。第 2 は 。それでも一度は認めた計画をご破算にするこ 内に高エネルギー加速器に直接関連する作業を行う第1部 とは異例であり、茅議長自身大いに驚いたということであ の他に、長期的総合的に素粒子物理を推進する第 2 部を設 4) る 。 表向きは、研究体制についてのもつれが原因とされ け、超高エネルギーシャワーなどの委託研究を行うことに ているが、文部省の動きと照らし合わせてみれば、土壇場 した 9) 。宇宙線を使う素粒子現象は素研の守備範囲という で巨額予算に及び腰になった文部省自身が、議論を誘導し 論理であるが、さらに宇宙線グループは加速器実験とは別 4) たと見て良いだろう 。 個の独自性をも主張し、独立な部門設立を望んだことも確 執を大きくした。 (4)1969-1971: 学術審議会は伏見を委員長とする専門 委員会を作り 1969 年 3 月には、予算 80 億円、8GeV、く また、核特委は単なる審議機関ではなく執行機関的性格 り返し 0.5 秒、強度 5 × 10 / 秒の案をまとめたが、学術 をも併せ持っていて、投票による決議が核特委内の全分野 会議 (核特委) の合意を得られなかったので中間報告とし、 を拘束した事実がある。高エネルギー同好会(現高エネル 正式答申は 1969 年 8 月 26 日付けで出されている。一方、 ギー物理学研究者会議)は 1962 年に結成されて歴史が浅 1/4 縮小案の出た直後の核特委 (1968 年 12 月 6 日他) は結 論を出せず、検討小委員会 (高木委員長) を作って議論を く、核特委の中での発言権は弱かった。高エネルギー委員 重ねた。核特委は 1969 年 3 月 21 日に、1/4 縮小案そのも からである。早期建設を望む高エネルギーグループの現実 のは認めないが、これをベースとして将来計画につなげる 的な主張は、三位一体や民主的制度 (研究者の選挙による 12 注 6) という案 会を作って組織的な行動を始めたのは、1968 年になって を、研究者全コミュニティの信任投票に掛け 委員会が全権を持つ執行体制) に固執する他のグループに ることにした。高エネルギー、原子核、理論グループの信 よりしばしば覆され、研究体制議論を長引かせる大きな要 任は得られたが、宇宙線グループの信任は可決に 1 票足ら 因となった。時期的には、大学紛争の影響を受けて核特委 ず、核特委は総辞職した。この時点で SJC 委員長早川も辞 の若手メンバーが増加し、議論が先鋭化しイデオロギー色 職した。69 年 9 月 28 日に発足した暫定核特委も核特委の も出た時期と重なる。ただし、若手に限らず政府に対する あり方の議論に終始し結論を出せなかった。1970 年 2 月 批判姿勢は全般的に強かった。総辞職後の新核特委は、高 9 日に発足した新核特委は、高エネルギーと宇宙線合同の エネルギーグループの主張により、執行機関的性格を失い 注 4) 伏見は、研究所協議会時代から文部省側の委員を務め、審議会や文部省の動向を熟知していた。1/4 縮小案はその場での単なる思いつきではなく、 事前に東大宮本研と相談し、将来へつなげる一つの可能性として考えていたと述べている 4) 5) 。 注 5) 象小屋が造られたら蟻はどうすればよいのだ?という化学者の発言等が伝えられている 3) 。 注 6) 原文 8) は非常にわかり難い。全面降伏の体裁を避けるため修飾が多かったのであろう。 3 弱体化したが、これは強くなりすぎた”種”が消えてゆく進 東芝で開発された2重偏向型ブラウン管を採用した KAMA 化過程に似ていなくもない。三位一体の精神は、KEK 発 と呼ばれる新式の自動解析装置は、後に米国の Industrial 足と同時 (1971) の阪大核物理センター設立、1972 年の宇 Research 展に出展され”IR-100”賞を得たほど進んでいて、 宙線拡充計画と 1976 年の東大宇宙線研究所発足によって 実験開始後素早く成果を出す原動力となった。 ある程度活かされたと言える。 ビームチャネル: KEK がスタートした時点での建設予算 には、外部ビーム取り出しは含まれていなかった。予算が 認められたのは 1975 年である。従って取り出しビームが 3 PS 建設期 (1971-76) 完成する迄は、PS 実験は内部標的によるパイメソンビー ム(π2,T1)を使う実験が主であったが、ビームチャネル 3.1 PS 物理の方針 建設グループは、高圧電源組み込み型 DC 分離器を早くか ら整備して、良質な K メソンや反陽子ビームを作る準備 1960 年代はバークレイの 6GeV ベヴァトロン、CERN の 28GeV/PS、BNL の 33GeV/AGS が大活躍をして、泡箱 検出器によりハドロン共鳴群が続々と発見され、SU(3) 対 をしていた (図 1 参照)。これは後に時宜に叶った実験を考 案する際の強力な武器となった。 カウンター測定器: 一方カウンター実験測定器関係では、 称性による分類学が盛んな時代であった。クォークモデル 目玉商品の水平型 He3-He4 希釈冷凍式冷却装置を使うス が 1964 年に提唱され、1969 年には深非弾電子散乱による ピン凍結型偏極水素/重水素標的の他に、実験スペクトロ パートン構造が見え始めたが、両者を結びつけるにはいた メーターに使用する汎用電磁石として、大型強磁場の「弁 らず、場の理論に対する信頼性はまだ復活していなかった。 慶」と中間磁場大立体角の「常磐」が製作された。オンラ むしろレッジェポールや S 行列の解析性等に基づく素粒子 インコンピュータとしては、技術進展を考慮して当初計画 民主主義理論が優勢な時代であった。猪木・松田の有限和 の中型計算機を廃止し、実験グループ毎に PDP11 を中心 則 (1968) により高エネルギーと低エネルギーでの振る舞 とした RISP と呼ばれるシステムを整備し、さらに共通研 いが関連づけられ、π N 散乱データの精密な部分波解析 究系計算機グループと協力し、オンラインで大型計算機に などが行われて、精密データが脚光を浴びた時代でもあっ つなげる KEKNET を開発した。各実験グループが共通に た。弱い相互作用では 1964 年の CP の破れの発見により 使用する NIM-CAMAC 規格のエレクトロニクス整備は、 対称性の破れは大きなテーマの一つであった。 KEK で目指すべき物理としては、木村嘉孝 1) が有限和 則を引き合いに出して、低エネルギー精密データの重要性 を強調し、高エネルギー実験は国際協力でと説いた。川口 回路室と共同で開発した。その他、ビーム同定用チェレン 正昭 1) は、偏極標的を目玉にした完全実験、泡箱による であった。 コフカウンターや多線比例箱の試作整備もあったが、これ らは共通的整備というよりは、経験を積むことが主な目的 共鳴探求、原子核実験を挙げている。「在外研究者から高 エネルギー物理学研究所に望む」という題で、私が山田・ 実験開始:最初の 10 年間注 7) 4 山内氏と共同で寄稿した小文 1) では、KEK で特色を発揮 できる物理として精密現象論、スペクトロメトリー、精密 当初は加速器のエネルギー 8GeV/c であったが、12GeV/c 泡箱実験、K 崩壊の物理、重水素加速、原子核物理を挙げ での定常運転は 78 年 10 月より始められた。実験公募およ た。共通項は、偏極標的を使った精密実験、K ビーム、泡 び採択は 1975 年から行われた。実験開始の 1977 年 5 月 箱実験であり、KEK/PS 実験の建設準備は、正にこの 3 本 の時点では 49 件の実験提案があり、内 8 件が採用されて 柱を軸に進められた。 いた。 3.2 実験準備期 4.1 ここでは、物理研究系関係の建設作業に付いてのみ記述 内部標的実験 (1976-77) 加速器ビームが使用可能になり実験が始まった 1977 年 する。加速器に関しては木原氏の解説を参照されたい。 の時点では、加速器の周回軌道に標的を置いてビームを取 泡箱建設: 素研準備室時代から 75cm 泡箱の製作をして経 り出す内部ビームチャネル π2,T1 のみが使用可能であり、 験を積み、準備万端を整えて 1m 泡箱を建設したものの、 泡箱用 2 次ビームもまた静電分離器が使えないという状況 世界の大勢は大型化・強磁場化に移行しており、競争に耐 で、パイオンビームによる実験が主体であった。建設期間 えるには、複雑な反応を大量に処理できる解析能力の強化 中に製作した泡箱測定器系、ビームチャネル、測定器、計 が急務であった。泡箱解析グループがデザインし、理研と 算機系など個々にはテストが行われていたものの、特定の 注 7) 1980 年迄については、泡箱、ビームチャネルの整備状況をも含めた詳しい解説 10) がある。 4 実験のため長期にわたって安定に動作し、実験の推移によ 葉、”First Data from KEK were presented . Congratulations り十分な機動性を発揮できるか、すなわち日本人研究者に、 本格的高エネルギー実験の遂行能力があるかをまず全世界 and welcome to the club” が忘れられない。日本の高エネル ギー物理学が世界に認知されたことを、私が実感した瞬間 に知らしめる必要があった。その意味で、内部標的実験は、 であった。 実験を無事に終えて結果を出すという、実験自体が目的で 泡箱閉鎖: ここで、KEK 発足当初は大きな比重を占めて あったと言えよう。もとより、実験当事者としては質の良 いた泡箱実験について触れておこう。素研準備室時代から い成果を求めて工夫を凝らしことはいうまでもない。 準備して経験を積み、自動解析装置も準備を整えて、1976 最初の実験は、πN 散乱実験による部分波解析という標 年の PS と同時に稼働体制に入った泡箱実験は、写真撮影 準的なテーマであった。世界的には既にかなりの実験デー と解析が素早く進んで、PS 初期の実験成果の大きな一翼を タが集積し、1∼2GeV 付近以下では詳細な部分波解析も行 担ったことは上に述べたとおりである。泡箱実験の利点は われていたが、2GeV 以上のエネルギー領域ではデータが 全トポロジーの完全再現能力にあり、ハドロン共鳴探索に 不足していたので、その辺が狙い目であった。しかし、あ は最適の道具である。しかし、SU(3) 対称性およびクォー りきたりの手段では質の良いデータは出せない。三宅等 クモデル確立に必要な共鳴は 1960 年代にほぼ出尽くして (E19) は、終状態が中性粒子で測定が困難な荷電交換反応 π− p → π0 n を、ワイヤーチェンバー・鉛ガラスを組み合わせ たカウンターホドスコープを使い測定した。梶川等 (E21) おり、興味はすでにエキゾティック共鳴探査に移行してい は、バックグラウンドの多い πN 大角散乱データを、電磁 きない上、統計精度をあげることが難しいので稀な現象研 石を使った本格的なスペクトロメーターの建設により測定 究には向かない。(E57, 山本他:低エネルギー陽子-陽子反 する手法を採用し、さらにお家芸の偏極標的を使用して微 応)、(E62、吉村他反陽子・陽子反応によるエキゾティック 分断面積の他に偏極パラメターをも測定して独自性を発揮 共鳴探索)、(E80, 佐井:DP 反応) 等、特定のチャネルにお しようとした。 ける断面積や運動量分布など興味ある話題において成果を た。この意味で泡箱実験は KEK 設立遅滞の余波をまとも に受けたと言えよう。泡箱は写真撮影時には事象選別がで この時期の泡箱実験は、菅原他 (E06) の 6GeV/c π− p 反 挙げ、また Be, Cu, Ta などの原子核標的を挿入するなど工 応による種々の共鳴生成断面積のエネルギー依存性の測定 夫をこらしたものの (E79, 北垣他)、泡箱の活躍できる時 と、同じ写真を回折解離過程という切り口で解析した広瀬 代はすでに終了していた。基礎的なデータ集積には貢献し 等 (E12) の仕事である。 たものの、画期的な成果を期待できる状況ではなかった。 これら初期の成果は、折しも 1978 年の 8 月、東京で開催 1982 年には潔くシャットダウンして、より生産的なカウン された高エネルギー物理学国際会議 (ICHEP78) で発表され ター実験に力を集中する事にしたのである。 た。ハドロン反応総合講演者ツァーレフ (V.A.Tsarev) の言 表 1: KEK 陽子シンクロトロンのビームチャネルと実験スケジュール: IT: 内部標的、π2 : ∼3GeV/c π ビーム、T1: テストビーム、EP: 外部取り出しビーム、K2: ∼ 2GeV/c 分離 (K, p̄) ビーム、 K3: ∼ 1GeV/c 分離 (K, p̄) ビーム、πµ : 低エネルギー π ビーム、π1 : ∼ 8GeV/c π ビーム、K1: 泡箱用分離ビーム 5 4.2 外部標的実験 (1978-1984) ●釜江・中村・藤井等 (E33,E74,E131) は、一連のバリオニ ウム探索実験で、反陽子を陽子標的に当てて全断面積や 2 世界の潮流に遅れて出発した KEK/PS の独自性を出すた 体終状態における共鳴の山を探した。一方、小林等 (E68) めの目玉は、完全実験を目指すための偏極標的と一次陽子 は、p̄p → γ + X 反応で、単色のガンマ線を観測することに ビームを加速器リング外に取り出し、粒子分離器を使って よりバリオニウム探索を行った。どちらの実験も、CERN 性能の良い K メソンや反陽子を使う実験であったことは や BNL で観測された S(1935) 共鳴などの存在を明瞭に否 すでに述べた。1978-1980 年はこの目的に添う実験を目指 定して、この問題に決着を付けた。 し、かつ所内研究者にも実験機会を与えるよう配慮がなさ ● πI グループ (都留・稲垣他) は、大型強磁場電磁石を超 れた時期でもあった。所内研究者としては、遅れて予算の 伝導化したスーパー弁慶を使用、高エネルギー ビームと 付いた外部ビームチャネルを至急建設する作業が優先した 多線式比例箱と鉛ガラスカウンターのスペクトロメーター のである。 1980 年以降は、実験審査委員会にも余裕がで を使って精力的に π− p 荷電交換反応実験 (E64,121,135,179) きて、時宜にかなったトピック性のある実験を、物理内容、 を行い、多くの共鳴やその軌道励起状態の研究を行った。 実験遂行能力を判断基準として厳密な選別ができるように なかでも ηππ システムにおいて、E(1420) の否定、イオタ なった。 (現在の η(1440)) の同定を行い E/ι 問題に決着を付けた。ま 84 年までの第1期実験を現代の視点で総括した場合、大 た、ηπ システムで 1−+ 状態の研究も行った。確定はされ きな流れとして以下のような分類ができよう 11) 。 ていないがグルーボールの候補である。 弱い相互作用実験: 標準理論は、理論的には 60 年代末 期に提案されたものの実験的に認知されたのは 1978 年の ● H 粒子 (ダイハイペロン) 探索は E127(三宅他) と E176(今 東京国際会議であったと言って良い。電弱相互作用現象は 井他) において試みられた。どちらも否定的な結果に終わっ 理論との比較が判りやすく、弱い相互作用における対称性 たが、エマルジョンを使用した E176 はいろいろな意味で や稀崩壊反応での標準理論の検証が 80 年代の最もトピカ 話題を提供した実験であった。詳しくは中井氏の解説を参 ルな話題の一つとなった。K 崩壊現象研究においては、陽 照されたい。この他やはり否定的に終わった試みとしては、 子ビームエネルギーの低いことは障碍にならない。以下、 Igo (E81)、鷲見 (E83) 等の πD や KD においてダイバリオ 話題となった実験を列挙してみよう。 ンを探す試みがあった。 ●長島他 (E10) の K + → π+ νν̄ 稀崩壊探索により新物理を 完全実験に関して: KEK 発足当時に重要性の強調された 探る試みは、当時の分岐比上限値をほぼ一桁改良した。同 完全実験とは、複素散乱振幅をあらゆるエネルギー角度で 時に得た K + → π+ a(アクシオン) の分岐比上限値は、標準 精密測定することである。部分波解析により、種々の共鳴 アクシオンの存在を否定し、”Invisible Axion”を大いに浮 の存在や双対性を通じて背後のダイナミックス解明に力を 揚させる貢献をした。また、稲垣等 (E137) のストレンジ 発揮すると考えられた。πN の場合、二つの複素振幅の、共 ネスの変わる中性カレント反応 (K → µe) 実験も、BNL 通位相を除いた三つの独立量を決めるためには 3 種類の観 実験と競争しより良い上限値を与えるなど大いに話題を集 測量を必要とする。微分断面積測定と偏極標的データの他 めた成果である。 に、偏極ビーム/偏極標的を使う実験も必要であるが、とり ●山崎等 (E89,E104) の K → µν 崩壊実験は、当時話題に あえずは偏極標的データを得て独自性を発揮するねらいで なった重いニュートリノの新探索法提案に素早く対応し、 あった。外部標的チャネルでの最初の試みは、高崎等 (E34) 質量上限値と混合値の上限値を与えた。さらに µsR 手法を の K ビームと偏極重水素標的を組み合わせた実験である。 使ったミューオン偏極の測定 (E99、早野他) は、標準理論 の V− A 相互作用を良い精度で決めると共に、右巻きカ TELAS という入射ビーム用の穴を持つ C 型電磁石を使い、 ヨークを除く3方向の開口部に検出器を配置することによ レント寄与に厳しい制限を付けた。 り大立体角を実現した。そして、K + n ↑→ K + n, K 0 p の実験 ●三宅等 (E92) の Σ → pγ における非対称の測定は、モデ を行い部分波解析によりエキゾティック共鳴を探索した。 ル不定性があり多少インパクトには欠けるものの質の高い 平行して pn ↑ 散乱実験 (E75、小川他) をも行いダイバリ 実験であった。 オンの存否を探ったが、明確な結果は得られなかった。一 エキゾティック共鳴探索: 強い相互作用の理論 QCD の 方、堀川等 (E119,E159) は、pn 系において偏極パラメター 検証が行える力学現象は、本質的にジェット現象であるた を測るという完全実験の趣旨に沿った実験を行い、基本的 め、KEK/PS は米国フェルミ研究所のテヴァトロン (1.8TeV) なデータを提供した。しかし、QCD というクォークダイ や CERN/S p̄pS (540GeV) 等に比較して圧倒的に不利であ ナミックスが判ってしまった後では、完全実験の意義はほ る。しかし、エキゾティック共鳴を探求して、いまや標準 とんど失われたと言って良い。QCD の確立は漸近自由が モデルに組み込まれたクォークモデルの検証を行うことは 発見された 1973 年といって良いから、PS 稼働時点では研 KEK/PS でも行えるので、腕の見せ所であった。 究視点が大きく変わってしまっていたのである。これもま 0 6 た、KEK 建設が遅れた余波の被害と言える。 れず、今後の発展に向けてますます努力を心がけるよう祈 その他のトピック: る。それでは、第 2 期、第 3 期の華麗なる活躍へと飛躍す ●美甘等 (E45) は、外部ビーム最初の実験で、12GeV/c 陽 る様子については、中井、中村両氏にバトンタッチして、 子・陽子衝突によるダイレプトン生成を測定し、ρ メソン以 この小文を終える。 下の低い質量領域で生成量が大きくなることが見出した。 最後に、資料を提供していただいた KEK 史料室の高岩 クォーク・グルーオンプラズマを示唆する徴候として重イ 義信氏に感謝の意を表します。 オン物理の興味を引いた。 ●滝川等 (E49) の 12GeV における陽子・核反応での Λ 粒 参考文献 子偏極の PT 依存性測定と、八木等 (E132,E187) の炭素原 子核標的を使った 4GeV・πA 反応で後方に生成された Λ 粒 [1] 「物理」特集-高エネルギー物理学研究所発足に当たっ て:27 (1972), #4 子偏極などの測定は、いずれもトーマス precession を考慮 したクォーク再結合モデルを確認した成果である。 [2] 湯川秀樹: 「物理」27 (1972), p249 ● PS 運転初期で重要な役割を演じた素粒子以外の実験が いくつかある。原子核関連に関しては中井氏の解説を参照 [3] L.Hoddeson: Social Studies of Science (SAGE, London, されたいが、放射科学的実験や ビームの医学利用研究は、 Beverly Hills and New Delhi), Vol. 13 (1983), 1-48 高エネルギービームの特徴を利用して我が国の他所では得 [4] 伏見康治: 「十年の歩み」高エネルギー物理学研究所創 設 10 周年記念 (1981)、p34 られない研究を行う試みである。高エネルギー実験とは違 い高いビーム性能を要しないので、パラサイトもしくはほ とんどフリーで行える小実験であるが、学問的には価値あ [5] 菊池健: 「KEK 12GeV 陽子シンクロトロン-その 35 年 の軌跡-」、p3 る副産物と言えよう。 放射化学的研究 (E26, 音在) (E97, E108, E126, 岩田) (E146, 岩崎) (E163, H.Kaji) (E202, 篠原) 等の一連の実験 では、パイ原子 (π と原子核がクーロン力で束縛される状 態) を、状態遷移に伴うX線を使って同定する。低エネル [6] 伏見康治: 「物理」27 (1972)、p260 ギーパイオンを種々の核種・分子合成物が吸収し連動して [8] 原子核特別委員会将来計画小委員会報告、1969 年 3 月 21 日 [7] 渋谷敬三: 「十年の歩み」(1981)、p37 放射されるX線を観測することにより、ホウ酸化物等の混 合比による化学結合の違いを詳しく測定し、理論値と比較 [9] 「物理」特集-素粒子研究所:22 (1967), #10 した。 [10] 諏訪・久寿米木・政池・中村・高橋・中井: 「物理」35 (1980), p394 5 終わりに [11] K. Nakai and T.Ohshima ed.: KEK-PS 1980’s, June 1990 日本における初の本格的高エネルギー加速器である 12GeV 陽子シンクロトロンは、大変な難産の末に生まれ たが、初期の実験は順調に進み、首尾良く世界の高エネル The Dawn of High Energy Physics in Japan Yorikiyo Nagashima abstract: An early history of the KEK/PS (12 GeV Proton Synchrotron of the National Laboratory for High Energy ギークラブへのデビューを果たすことができた。KEK/PS は、世界の潮流に 15 年遅れてスタートしたので、標準理 論の形成過程において重要な寄与をすることは叶わなかっ Physics) is described. The first half of the article is devoted to a hard labor which KEK, as the first national scientific re- たが、検証過程では、外部取り出しビームによる良好な K メソンや反陽子ビームを十分活用して、時には CERN/PS、 search laboratory in Japan, had to suffer. Cut down to 1/4 in budget, reduced from 40 to 12 GeV in energy, and fifteen years behind the world fronts like CERN/PS and BNL/AGS, BNL/AGS に競り勝つなど、数々の成果を挙げることがで きた。資金提供サイドから見れば、KEK/PS は最初の 10 年 で当初目的を十分果たし、第 2 期の原子核研究、第 3 期の KEK/PS had a dubious start. Happily, it turned out to be very productive as exemplified by the success of a neutrino oscilla- ニュートリノ振動の成果は予想外のボーナスとも言える展 開になったと言える。第一期の成果により、高エネルギー tion experiment. The latter half of this article describes the PS physics output of the first ten years of its 30 year’s life which ended in 2005. 物理学研究者は大きな自信を付け、トリスタンを呼び込む 素地を作った。1/4 縮小案を受けたときの、12GeV/PS を第 一期計画と見なし将来へつなげるという決意を、見事に成 就したと言えよう。高エネルギー物理学界はこの初心を忘 7
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