美しさは、私たちの祖母をだまします

イザヤ書61章1-3節 「灰から飾りへ」
1A 刷新の時
1B ヨベルの年
2B イエス様の宣言
2A 良き知らせ 1
1B 心打ち砕かれた者
2B 囚われている者
3A 悲しみから喜びへ 2
1B 灰から飾りへ
2B 悲しみから喜びへ
3B 憂いから賛美へ
本文
今朝お読みしたい箇所は、61 章 1‐3 節です。私たちの聖書通読の学びは 60 章まで来ました
が、午後礼拝で 61‐63 章を一節ずつ読みます。今朝はこの箇所に焦点を当てたいと思います。
「1 神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝
え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放
を告げ、2 主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、3 シオ
ンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わ
りに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれ
よう。」
1A 刷新の時
これは、神の国がこの地上に到来する時に、油注がれた方、キリストが来られて全てをやり直し
てくださる恵みの年の預言です。この世界には、初めに神に造られた人、アダムが罪を犯したこと
によって、罪の呪いが入っています。それで苦しまなければいけなくなりました。しかし、イエス様
は、「御国が来ますように」と祈りなさいと言われました。それは、神がこの世界をキリストによって
元通りにしてくださることです。それが、神の国が来るということです。そしてイエス様を信じる者は、
神の国に入ることができます。そうでない者、信じない者は御国に入れず、外に出され、暗闇の中
にいなければいけません。
1B ヨベルの年
そして、この回復がキリストの働きによって始まることを書いているのが、今、読んだ箇所です。
「わたし」とあるのは、キリストご自身です。「油を注ぎ」とありますが、これがヘブル語でメシヤ、キ
リストのことであります。この方が良い知らせ、福音を告げます。そして、貧しい者、心傷ついた者
1
が癒され、捕われ人は解放され、神の恵みがやってきます。そして、人々が変えられます。灰の中
に座っている者が頭に飾りをして、悲しんでいる者が喜び、憂えている者が賛美をします。キリスト
に望みをかけている者には、この一つ一つが起こることを約束しています。
「主の恵みの年」という 2 節の言葉ですが、これは、律法の中にあるに「ヨベルの年」と関わりが
ある言葉です。イスラエルの民は、神からカナンの地を与えられました。今のイスラエルのある土
地ですが、そこをイスラエルの十二部族が、割り当て地が与えられました。しかし、その中である
人は貧しくなってしまいます。それで土地を売って手放さないといけなくなり、もっと貧しくなれば身
売りをして奴隷にならないといけません。またある人は大きな負債をしなければいけないでしょう。
借金をした人は、この苦しみが分かるでしょう。人に借りがあることは、自分に重くのしかかってき
ます。
しかし、イスラエルの民は、神がエジプトから連れ出した民です。エジプトで奴隷であったところを
解放して、ご自分のものにした人々です。彼らは自由でなければいけません。そして彼らに下さっ
た土地を失わせてはいけません。それで主は、ヨベルの年というものを設けられました。七年を七
倍したら 49 年ですが、その翌年、つまり 50 年目に、一切のものを帳消しにすることをお決めにな
りました。50 年目には、あらゆる借金が棒引きになりました。奴隷であった者は解放されて、自分
の家に戻れました。そして土地を売ってしまって、失った者には、その土地が戻ってきます。とてつ
もない恵みの大解放が訪れます。これが、「主の恵みの年」です。神は、ヨベルの年に基づいて、
この世界を恵みによって大解放することを決められました。万物を刷新することを計画しておられ
ます。これまで罪によって、負の遺産がたくさん溜まっているこの世界を、その負債を一切、帳消し
にして、新たにやり直すようにしてくださるのです。
しばしば、私たちは次のような質問を受けますね。「人生をやり直せたら、どうしたいですか?」な
んでそんな質問をするかというと、やはり、誰もが「こうやっておけばよかった」という後悔を持って
いるからです。どこかで、ボタンをかけ間違えるような過ちを犯して、その結果を残りの人生で刈り
取っていることを知っているからですね。そして、その負い目を何とかしようとして、さらに物事が複
雑になってしまった、ということもあるでしょう。これはまさに、借金をして、その借金を返済しようと
してサラ金に手を出して、その借金をさらに他のサラ金から借りて返済するというような、負の連
鎖なのです。その負い目をすべて肩代わりにし、帳消しにすると宣言してくださる方が、私たちのと
ころに来てくださったのです。その方がイエス・キリストです。
2B イエス様の宣言
イエス様は、ご自身の村ナザレで、安息日にユダヤ人の会堂に入りました。ユダヤ教では、全て
のシナゴーグ、会堂において、読むべき聖書朗読箇所が決められていますが、その安息日はたま
たま、イザヤ書でした。「すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書い
てある所を見つけられた。『わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝える
2
ようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人
には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告
げ知らせるために。』イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエ
スに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。『きょう、聖書のこのみことばが、あな
たがたが聞いたとおり実現しました。』(ルカ 4:17-21)」今日、あなたがたが聞いた通り実現したと
言われたのです。つまり、「わたしが、油注がれたキリストである。」と宣言されたのです。
ところで、ここでイエス様は「主の恵みの年を告げ知らせるために」と言われたところで、読むの
をやめられました。私たちはイザヤ書 61 章 2 節には続けて、「われわれの神の復讐の日を告げ」
とあるのを知っています。神の復讐の日は、キリストが再来される時に来ます。キリストが戻って
来られる時に、神はご自分の逆らう者たち、これまで人間が犯してきた罪、あらゆる不義と不法に
対して報いを与える時を定めておられます。それからキリストが来られて、神の国を地上に立てら
れます。けれども、イエス様が初めに来られた時はその使命は帯びておられませんでした。再び
来られる時、再臨の時に行われます。
しかしイエス様は、恵みの年については、「あなたがたが聞いたとおり実現しました。」と言われ
たのです。つまり、イエス様にあってこのヨベルを現実のものとして、自分のものとすることができ
るということなのです。
2A 良き知らせ 1
1B 心打ち砕かれた者
1 節には、「貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされ
た。」とあります。「貧しい者」というのは、物質的な貧しさのことを話していません。全般的な貧しさ
のことを話しています。自分が失敗してしまった、人生失格だという絶望感も含まれます。あるい
は、人には言えない負い目をもって生きている。人からのけ者にされてもおかしくないような状況
にある、ということもできます。さらに、自分は人々からは普通の人として見られているかもしれな
いけれども、自分の内にとてつもない欠けを感じているかもしれません。そういった意味で、「自分
は何もない」という絶望感です。
イエス様は、数多くの病を直されました。そして、人々から除け者にされている人々にも近づか
れました。不道徳の女もイエス様に近づき、罪が赦されました。取税人で、人からお金をかすめ取
っていたザアカイの家にイエス様が入り、彼のところに救いが来たと言われました。悔い改めたか
らです。そういった者たちに良い知らせを持ってくると言われます。神の慰め、神の愛がその心に
注がれます。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(マタイ 5:3)」と言
われました。神の国について話しましたが、そこに入るかどうかについて話しましたが、入れる者
は、自分には何もないという心の貧しさがある人であります。
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そして、「心の傷ついた者をいやす」とありますが、これは感情的な心の傷のことを話していませ
ん。もっともっと深いものです。交読した詩篇の箇所には、こうありました。「141:3 主は心の打ち
砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。」心が打ち砕かれた、ということです。そしてその開いてしま
った傷を閉じて、包むことによって治癒が進むという意味を表しています。私たちは、自分の内に
これまで自分の力や知恵で人生をやってきたという自負を持っています。それを聖書の定義で「高
ぶり」となります。赤ん坊が完全に親により頼んでいるのと同じように、神ご自身に自分の命がか
かっているのに、それでも自分で生きてきたという自負があるのです。その高ぶりが砕かれる時に、
このようになります。そして、心が砕かれるというのは、自分の深いところが壊れることであり、傷
を受けるのですが、主はその傷口をきちんと縫合してくださり、癒しを行ってくださるということです。
私たちが幸いな時というのは、実は、人間的に見たら不幸な時です。私たちはこうした高ぶりを
普段は持っており、そして目の前にある事柄に心が奪われている状態です。仕事であったり、趣
味であったり、子育ての仕方であったり、いろいろでしょう。けれども、私たちが例えば病になること
によって、初めて、自分の存在について、その根本的なところを探られます。自分が生きているこ
との意味、神のこと、死ぬということ、死んでからどうなるのかということなどを直視することが容易
になります。何が本当は大事なのかを教えられます。そして神の前に来て、自分のプライドを捨て
る、すなわち心が打ち砕いていただくことができる時、私たちは真実な幸いを得ることができます。
2B 囚われている者
そして、「捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ」とありますね。イエス様は、地上におられ
る時に、数多く悪霊を人々から追い出されました。またこれは、罪の力のことを話しています。自分
が罪や欲望に束縛されていて、どうにもできない状態であることを教えています。
イエス様はユダヤ人たちに、「ヨハネ 8:31-32 もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、
あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがた
を自由にします。」と言われました。そこでユダヤ人たちの答えが驚くべきものでした。「「8:33 私た
ちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、
『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」自分たちはずっと自由であったというのです。
歴史的に彼らはエジプトで、そしてバビロンで奴隷になっていたことがあるのに、そういったことは
忘れているのです。これが人間というもので、自分は自由だと思いこんでいるのですが、実は自由
にされていないという状態があります。イエス様は、「8:34 まことに、まことに、あなたがたに告げ
ます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」と言われました。
皆さんが見る悪夢の中で、こんなことはないでしょうか?せっかく解放されていると思っていたの
に、いつの間にか全く同じ束縛状態になっていた、振り出しに戻っている、元の木阿弥だったとい
うことものです。自分の問題から逃げようとしているのに、その逃げた先が同じ所だった、実は一
歩も前に進んでいなかったというような、非常に嫌な感覚です。私の場合、誰かに追われていて、
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せっかく空を飛んで助かっているのに、どんどん飛行の力がなくなって、ちょうど追っかけている人
のところに近づいて、それで目を覚まします。つまり自分がこの状態から解かれたい、解放された
いと思っているのですが、やはり同じ状態の自分を発見するということです。何をやっても、がんじ
がらめの状態です。それが罪について言えます。けれども、イエス様は言われました。「ヨハネ
8:36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」
その縄目を、イエス様は本当に解いてくださいます。
3A 悲しみから喜びへ 2
このように、主は私たちの打たれた傷をいやし、また、縄目を解いてくださいます。そして、主の
恵みの年と復讐の日があり、その後に神の国が来ます。3 節をまた読みましょう、「シオンの悲し
む者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美
の外套を着けさせるためである。」灰は、何かとてつもなく悲しいことが起こった時に頭にかぶるも
のです。またこれは、エルサレムが廃墟になってしまった、灰だけになってしまったという意味もあ
るでしょう。その灰があって、それから悲しみがあって、そして憂いがあります。しかし主はこれらを
それぞれ、頭の飾りに、喜びの油に、そして賛美の外套にします。
1B 灰から飾りへ
私たちは罪に何もかもなくなってしまった、これまで苦労して溜めてきたお金、業績、尊厳がなく
なってしまい、灰を頭にかぶって嘆きたいというようなことがあるかもしれません。しかし、神はそ
の灰を頭の飾りに変える能力を持っておられるのです。ここの「頭の飾り」という訳は、「麗しいもの」
と訳すこともできます。灰が何か美しいもの、麗しいものに変わり得るのです。それをなすことがで
きるのは、神の恵みの業です。
五年前、私たちの教会は忙しく東北地方に行っていました。2011 年 3 月の東日本大震災の救
援活動を行なっていました。初めに行ったのが 4 月第一週目でした。津波のよる瓦礫もあちらこち
らに散乱していた時です。東松島市の中にある、ある公民館の避難所の人々と知り合うようになり
ました。そこの公民館から 50 メートルぐらい離れたところに、津波で流されたごみが集められてい
たところがあったのですが、なんとそこにピアノがありました。そのピアノを公民館の駐車場にトラ
ックで移動させました。そして、他のカルバリーチャペルの教会の人々も合流しました。そしてバー
ベキューの用意もして、そして救援のために服なども配りました。そしてそのピアノを、カルバリー
チャペル所沢の牧師、トラビスさんが弾いたのです。誰かが津波によって汚くなっている部分を拭
き取ろうとしましたが、やめてほしいと言いました。それが確かに、津波によって廃物になったこと
を知ってほしかったからです。しかし、そこから美しい音が奏でられました。廃物になっているもの
から、美しさが出てくるのです。
事実、一人の男性とそのお母様は、津波の被害を受けたことで、他の神社や仏教の言っている
神さまや仏さまではなく、「イエスのグループ」と私たちを呼びました。そしてついに、ご自身たちも
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イエス様を自分の救い主として信じて、受け入れたのです。私たちがたとえ、全てのものがなくな
った、灰のようになってしまったとしても、主はそこから美しいもの、頭の飾りを作ってくださいます。
2B 悲しみから喜びへ
そして、「悲しみの代わりに喜びの油」とあります。当時は、油は自分の体に潤いをもたらす役目
を果たしていましたが、それを付けます。悲しみを表している時は着けませんが、つまり喜びに満
たされるということです。主のご臨在を知ることができ、そこには喜びがあります。クリスチャンと言
ったら何が特徴なのか?と言いますと、喜びです。ダビデが言いました。「詩篇 16:11 あなたは私
に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみ
がとこしえにあります。」この喜びはとこしえです。私たちの地上の命が絶えたとしても、まだ残りま
す。そして神の国にいる時には、地上の呪いが取り除かれているので喜びに満ちます。新しい天、
新しい地においても喜びに満ちています。「黙示 21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださ
る。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったから
である。」
3B 憂いから賛美へ
そして、悲しみを通り越すとそれは深い落ち込みとなりますね。それが「憂い」です。しかし主は、
それを「賛美の外套」としてくださいます。憂いというと思い出すのは、私の両親のことです。私の
母の母、すなわち祖母がなくなってから、私の母は落ち込むことが多くなったそうです。その時に、
実家に戻るのが正直、嫌でした。とても暗い雰囲気でした。家のトイレには、男女二人が悲し涙を
流して向き合っている絵があったのですが、それが父と母の姿に重なりました。しかし、二人はイ
エス様を信じました。その絵はもちろん、なくなっています。二人の顔には、喜びが満ちています。
賛美というものは、私たちの憂いをローラーのように押しつぶします。主のすばらしさと恵みを見
る時に、私たちは神を賛美しています。「ローマ 5:2 またキリストによって、いま私たちの立ってい
るこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」
神に一方的に恵みが与えられた。罪が無代価で支払われた。主が、受けるに値しない者にとてつ
もない恵みと愛を注いでくださった。ゆえに、自分は神の栄光を望んで大いに喜んでいるのです。
これから現れる神の栄光、それを望んで私たちは大いに喜んでいます。将来の栄光を見て、讃美
しています。
これが、恵みの大解放です。恵みは、悲しみをなくそうとするのではなく、そのまま悲しんでいる
ところを、喜びに変革してくれます。憂えているところを、そのまま賛美にかえてくれます。なぜな
ら、主ご自身が心貧しきところに御国を望ませてくださるからです。心砕かれている所に、癒しを与
えてくださるからです。
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「主の恵みの年」ヨベルの年
解放、回復の年
万物が刷新される、全く新しいやり直し
イエス様の会堂での朗読
貧しい者へ良い知らせを与えられた。
病の人々。らい病、百人隊長の僕、盲人、不道徳の女、ザアカイ、悪霊につかわれている者、
社会的に疎外されている人たち
貧しい者 必要に事欠く者 = 罪の結果
心の傷ついた者 心が砕けてしまっているもの、人々から拒まれ、失敗を自覚している者
心の貧しい者は幸い → 人が生きていることの根本的な目的に出会う。
世間体、自分の空しい誇り、そうものが削がれる。
捕われ人、囚人 = 罪の力
サタンに虜にされている、情欲、
復讐の日があって、それから主が到来する
灰、罪によって全てを失ってしまったその嘆き → 津波からピアノの音
頭の飾り、祭司のターバン、主の前に聖なる者
悲しみ 罪によって数々の悲しみをもたらす
喜びの油 祭司が油注がれる 終わりの日、悲しみ、涙が拭いさられる。
憂い 罪によってもたらされる重み → 両親
賛美の外套
D. His future ministry in kingdom age.
1. "To comfort all that mourn."
a. "And God shall wipe away all tears."
b. "Blessed are they that mourn..."
c. In this life we experience many sorrows.
1. This is a sorry place to live.
d. In His kingdom, no suffering, no pain.
2. "To give them beauty for ashes."
a. Ashes speak of destruction, the wasted product.
b. There is a hopelessness to ashes, you cannot rebuild with them.
c. Our dreams, ambitions, hopes, many times are turned to ashes.
d. He can turn those ashes into beauty.
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e. Could this in the most literal sense refer to our new heavenly bodies?
3. "The oil of joy for mourning."
a. "In His presence is fullness of Joy and at His right hand pleasures forevermore."
b. "Thou annointest my head with oil, my cup..."
4. "The garment of praise, for the spirit of heaviness."
a. Praise is a good cure for heaviness.
b. As they praised the Lord put ambushments against their enemies.
2Ch 20:22
詩篇交読:147 篇 1‐11 節
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