21 世紀に聖書を読む~「テモテへの手紙第1」シリーズ 34~ それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたり します。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。神が造られた物はみな 良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。 (2~5節) 聞こえのよい偽教師の教え~汚れた者から離れよ!?~ 異邦人が、福音によって神の民にされること、これは恵みの時代の祝福でしたが、旧約聖書に親しみの少ない人たちは、どうして も自分が育ってきた宗教的土台にキリスト信仰を乗せるしかなく、そこから様々な歪みが生じるのでした。もっともユダヤ人であれ ばキリスト信仰を健全に保てるということでもなく、何人であっても罪人ですから、道を外れやすいことをわきまえ、常に聖書に戻 る、聖書にとどまることをしていないとおかしくなるのです。問題なのは、そのような謙虚さを捨てて、自分こそ真理を知ってい る、真理を得たのだと自認することです。これが「うそつきどもの偽善」と言われることです。 パウロは、そのような偽教師たちは「良心が麻痺している」と言います。ここのギリシャ語の表現を文字通り訳すと、良心に焼き が入っている、となります。皮膚に焼き鏝を当てると、痛みを感じることができなくなる。すなわち、もう外部からの働きかけに応 答できない状態を指しているわけです。 さて、パウロはここで偽教師の行っている 2 つの教えを取り上げています。1つは「結婚することを禁じる」もう 1 つは「食物を 断つことを命じる」というものです。食物を断つというのは、いわゆる断食のことではありません。ある種の食べ物を汚れているも のとして食べない、そういう行いのことです。結婚を禁じるのも、肉体関係が汚れていると考えることに基づいています。 「汚れたものから離れよ!」これが偽教師の教えのキャッチフレーズであったと言っていいでしょう。これはとても聞こえがいい ではありませんか。とても敬虔で、信仰深い響きがあります。けれども、問題は「汚れたもの」とは何かです。偽教師たちは、結婚 とある種の食物を「汚れたもの」としました。それなりの聖書的根拠も持ち出していたはずです。律法のなかでレビ記を用いたので しょう。けれども、かれらの聖書の用い方は正しくありませんでした。かれらが持ち込んでいたのは、聖書ではなく自分たちの文化 にあった霊肉二元論です。目に見えない霊的なことはきよく、肉に属するものは汚れているという発想です。パウロはこの思想が異 邦人の信仰にとって難しい部分だとわきまえていました。それでテモテへの手紙の鍵になる 2 つの部分で、この二元論に反論する足 場を作っていました。1 つは 1 章 15 節「この世に来られた」というくだりで、キリストが来たのは霊的世界ではなく、まさしくこの 世であったことを言います。そして、3 章 16 節で「肉において現れ」と言う。これが真理なのです。 福音の力~聖書全体の焦点をおさえて~ けれども、肉体関係と汚れ、ある種の食物と汚れという思想は実際聖書に書かれています。これはどう理解すべきでしょうか。そ こでパウロは 2 つのことを言います。 第一に、すべての被造物は、本来良い物であるということ。結婚も被造物の一つです。霊肉二元論では、肉に属する目に見える世 界は本来的に悪です。けれども聖書の真理は、本来的にこれらは善なのです。しかし、人間の罪の結果として、汚れを受けている状 態なのです。ここでいう「汚れ」とは、神の栄光のために役立たない状態を言います。人間そのものが、神の栄光に役立たない、汚 れた存在になってしまったので、世界に汚れが入ってきたのです。 そして第二に、福音によって汚れは取り除かれ、すべて聖なるものになる、ということです。福音が入ってくるまでの間、確かに 汚れたものから離れることは命じられていました。しかし、これは一時的な定めであり、福音が汚れた人間を神の栄光に役立つ存在 へと変えた結果、すべてのものがもう一度、神の栄光に間に合うもの、感謝して受け取れるもの、聖なるものへと変えられていくの です。 この聖書全体の焦点を見誤ってはいけません。現世から来世に脱け出そうという発想は霊肉二元論の名残です。真理は、この世を きよめて神のものとしていく、創造本来の秩序に回復していくことにあります。「逃げるのではなく、感謝できるものに変える/変 わる」これが真のキリスト教信仰のキャッチフレーズなのです。 C ○ Masayuki Hara 2015
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