Title Author(s) Citation Issue Date 『セウル・プレス』(The Seoul Press)と朝鮮植民地統治 政策の一考察( fulltext ) 李, 修京; 朴, 仁植 東京学芸大学紀要. 人文社会科学系. I, 59: 121-130 2008-01-00 URL http://hdl.handle.net/2309/87637 Publisher 東京学芸大学紀要出版委員会 Rights 東京学芸大学紀要人文社会科学系Ⅰ 59 pp. 121∼130,2008 『セウル・プレス』(The Seoul Press)と朝鮮植民地統治政策の一考察 李 修京**・朴 * 仁植*** 外国語・外国文化研究講座**** (2 0 0 7年8月3 1日受理) 王妃を含む多くの宮内の人を野蛮的に殺害するほど切 はじめに 迫していた。混乱する社会状況の中で,日清戦争での 莫大な利潤を獲得した日本の対朝鮮政策の展開は,日 アジアの中ではいち早く帝国主義に目覚めた日本 露戦争や朝鮮との合併へと突き進むのである。 は,欧米列強の角逐が激化する19世紀後半から列強に 1905年に第2次日韓協約で大韓帝国は保護国とさ 先立って大陸経営と植民地確保に乗り出そうとする思 れ,統監府がおかれることで実質的に日本の支配に入 惑で,日本の対外宣伝を通しての広報活動の必要性を るようになり,行政権や軍事・警察権,司法権などの 強く感じていた。 国家主権を奪われるようになった。その過程で統監府 広大かつ複合的で複数の民族(植民地支配を含む) から本格的に機関紙が発行され,植民地支配に有利な を内包した巨大な政治団体を作り,保持する行為なり 世論形成と親日的な言論の育成,御用新聞としての広 1 姿勢である帝国主義 の展開を目指そうとする日本に 報・宣伝の手段となった。それはやがて日本語新聞は おいて国内の統制はもとより,朝鮮の植民地化とそれ もちろん,対外広報戦略として英字新聞の活用にまで に伴う国内外世論に対する支配の正当性,宣伝活動な 拡大した。 どが必要となっていた。そのために多様な文化的手段 本稿では日本の帝国主義経営に絶対的手段として社 が用いられるが,中でも新聞や広報雑誌,映画宣伝な 会的影響を与えてきた御用新聞,特に国際社会を意識 どに力を注ぐのである。特に19世紀後半からは大陸進 した広報宣伝紙としての英字新聞の役割やその反響な 出に強い動きを見せつつ,植民地拡張に伴うあらゆる どの動きについて注目し,植民地統治と新聞について 宣伝の手段として,早くから新聞の役割を重視してき 再考する。当時の英語新聞としては朝鮮に居住する宣 た。 教師や外国人のために発行された『セウル・プレス 1875年9月に江華島事件を引き起こすことに成功 (The Seoul Press)』があった。『セウル・プレス』は し,鎖国主義を取っていた朝鮮と江華島条約を締結す 最初,民間紙として発行されたが,後に日本の御用新 ることで朝鮮開港への道を強いられるようになった。 聞として転じ,廃刊まで日本の植民地支配策を弘報す このように朝鮮を通して大陸進出を計ろうとしていた ることに目的がおかれた。その変容の経緯についても 日本は,早くから国際環境を有利にすべきだと認識し 考察し,『セウル・プレス』と対外世論形成について ていた。そのため,外務省は機密費を用いつつ新聞発 考えてみる。 行を行っていた。欧米列強による領土確保の動きに焦 ところで, 『セウル・プレス』に関する先行研究は りを覚えていた日本は,排日的立場を示していた王妃 韓国の言論史研究者の鄭晋錫を除けば日韓両方での研 2 の閔妃(明成皇后)除去のために朝鮮王宮を襲撃し, * ** *** **** 究は皆無に等しい。1966年に大韓民国国会図書館司書 English newspaper ”The Seoul Press” first publication and the colonial administration of Chosen / YI Sookyung, PARK Insik 東京学芸大学教育学部(人文社会科学系外国語・外国文化研究講座)所属 中国東北師範大学(人文学院)所属 東京学芸大学(1 8 4―8 5 0 1 小金井市貫井北町4―1―1) ― 121 ― 東 京 学 芸 大 学 紀 要 人文社会科学系Ⅰ 第59集(2008) 局から編集された『韓国英字新聞記事索引(AN INDEX TO ENGLISH LANGUAGE NEWSPAPERS PUBLISHED IN KOREA 1896~1937)』が発行され,『セウル・プレ ス』の創刊に関する内容や新聞の索引などが紹介され ており,1896年∼1937年当時の英字新聞の動きを包括 的に見ることができる。しかし,研究的アプローチと しては現在, 『セウル・プレス』の一部の復刻版に解 題を載せるなど,イギリスに滞在しつつ創刊号の原紙 確認3から追究している鄭晋錫による研究が目立つ。 1986年に発表した「The Seoul Press と日本の対韓侵略 弘 報」4は1986∼1989年 に 刊 行 さ れ た The Seoul Press の解題5として挿入される一方,『言論朝鮮総督府』6や 『韓国英語新聞史』7では韓末・日帝下の新聞と雑誌 として紹介されるなど, 『セウル・プレス』は鄭晋錫 の顕著な研究業績がある。鄭晋錫が発表する前に姜東 鎭が『日帝の韓国侵略政策史』8の中で『セウル・プ レス』について触れているが, 「社長兼主筆は最初か ら山縣五十雄だった」9と明記しており,誤認だと指 摘せざるを得ない。後述するが,最初の社長は伊藤博 『セウル・プレス』の前身の The Seoul Press Weekly (写真 朴仁植提供) 文の広報秘書であった頭本元貞であり,1909年にはア Press Express)という題号の通信版として発行したも メ リ カ に 渡 っ て ニ ュ ー ヨ ー ク で Oriental Information のを発展させた新聞であった13。しかし,駐朝日本公 Bureau を発行する頭本の後を受け継いだのが山縣五 使館の書記官であった萩原守一が1 905年9月21日に 十雄であった。1923年からは三好重彦が社長になるの ハージとの交渉の末,日本政府からの補助金をハージ だが,初代社長の頭本元貞から山縣五十雄へと受け継 に毎月350円を支給するかわりに,ハージはタブロイ がれる流れの過程から生じた姜東鎭の誤認の可能性が ド版の週8頁であった新聞紙面を12頁に拡張して発行 ある。 しつつ,論調を日本側の要求に合わせて制作すること なお, 『セウル・プレス』の研究状況は乏しい現状 で合意したのである14。ハージは時代的状況に応じる であるため,鄭晋錫の研究内容などを踏まえながら ある種の事業家的本質を有する人物であり,社会的概 『セウル・プレス』を再考し,当時の朝鮮における外 念によるジャーナリズムの理念を通そうとする意識高 国人及び宣教師だけではなく,対外広報戦略の一環と い人物ではなかったため,魅力的な条件に迷うことは しての『セウル・プレス』について論じてみたい。 なかった。 因みに,日本公使館が『セウル・プレス・ウイーク 1.『セウル・プレス』の発行 リー』に秘密資金まで支援しようとした背景には,日 本の朝鮮植民地化への暴圧に抵抗論調を表していたイ 伊藤博文が早くから外国人向けの宣伝を意図として ギ リ ス 人 ベ セ ル(裴 説;Ernest Thomas Bethell)15が 統監府の機関紙として発行した英語新聞『セウル・プ 1904年7月18日に創刊した『大韓毎日申報』と1905年 レス』は,イギリス人のハージ(John Weekly Hodge)10 8月11日に発行し始めた『コリア・デイリー・ニュー が 発 行 し た『セ ウ ル・プ レ ス・ウ イ ー ク リ ー(The ス(The Korea Daily News)』に対抗させようとする思 Seoul Press Weekly)』を前身にしていた。この新聞は 惑があった。本来日露戦争を取材するために朝鮮に来 11 1905年1月3日に週刊紙として創刊され ,駐朝日本 ていたベセルだが,激化する日本の朝鮮への侵略的動 公使館の補助金を受けて発行したものである。その きに対して梁起鐸16や民族主義有志らの援助を受けて 後,日本の植民地政策のために統監府は, 『セウル・ 『大韓毎日申報』を創刊させた。イギリス人が発行人 プレス・ウイークリー』の発行版権を買収し, 『セウ であったため,日本の官憲からの検閲などを受ける必 12 ル・プレス』として発行するようになった 。すなわ 要がなかった『大韓毎日申報』は朝鮮を擁護する論陣 ち,『セウル・プレス・ウイークリー』は1904年2月 を張るため,民衆からも支持され,社会的に大きな影 8日に『セウル・プレス・エクスプレス』(The Seoul 響力を持つようになった。そのため,統監府は「あま ― 122 ― 李・朴:『セウル・プレス』(The Seoul Press)と朝鮮植民地統治政策の一考察 りにも強硬な反日主義の論調で統監府に対抗したた その発行の担い手として,1897年に『ジャパン・タ め,ベセルの一時国外追放と梁起鐸の逮捕などの弾圧 イムズ』 (The Japan Times)が創刊された時,初代社 17 を加えた。」 のであった。そして,日本の朝鮮支配に 長であった頭本元貞が『セウル・プレス』の初代社長 障害となっていた『大韓毎日申報』と『コリア・デイ へと任命された。鳥取県が郷土の誇る人物の一人とし リー・ニュース(The Korea Daily News)』を弱体化さ て選ぶ英語新聞界の大物言論人であった頭本元貞21は せる対抗馬として『セウル・プレス・ウイークリー』 札幌農大を経て英字新聞社の『ジャパン・メール』の が選ばれたのであった。 記者,伊藤博文の秘書,『ジャパン・タイムズ』の主 なお,1905年9月2日(土)付『セウル・プレス・ 筆・社長,『オリエンタル・レビュー』創刊,代議士 ウイークリー』の1面構成を検討すれば,新聞のタイ などを務めた言論人であり政治家であった22。『大韓帝 トルの左側の上には「明治三十八年六月三日第三種郵 国の悲劇』の著者で知られるマッケンジーは頭本につ 便物認可」と書かれており,右側の上には毎週土曜日 いて有能な言論人として評価しつつ,伊藤博文統監が 1回発行となっている。また,下の方には先払いとし 公的参謀として抜擢した頭本について,彼ほどソウル て月予約購読料が130円(Monthly Subscription Yen 1.30 で起こる問題解決を上手く処理する人はいなく,寛大 payable in advance)と書かれているところから,当時 で博識な知識を有する彼を知る人はみんな彼を認めて 既に購読料の前払いという制度が使われていたことが いたとその魅力を述べている23。 判る。新聞名の右側下には新聞として I.J.P.O に登録 伊藤博文は英字新聞を熟知し,人望もある頭本を起 されている記載されている。この新聞の全体的な体裁 用して,その能力で既存の反日論陣で民衆の人気を得 は,西洋の英字新聞の編集形態と類似していることか ていた『コリア・デイリー・ニュース』を潰そうと考 ら,当時の外国新聞を模倣し,西洋諸国の趣向に合わ えるものの,根深い日本への反感は払拭できなかった せた新聞作りを試みていたことと考えられる。 ため,『セウル・プレス』を日刊に変えて,統監府の 頭本が引き継いだのである。しかし,ハージが発行し 2.対外宣伝紙としての『セウル・プレス』 た週刊紙の号数は引き継がず,新たに創刊する形で付 け直し始めた24。日刊紙として創刊して1ヶ月も経た ある国家的な政策決定や社会的な制度の廃棄と誕生 18 ないうちに,12月末まで21号を発行後,紙面拡張のた などに最も大きな影響を与えるのは世論である 。そ めの準備期間を設けるために休刊に入った25。19 07年 の世論の政治的機能は結局,社会的現象を導く重要な 1月から2ヶ月間の休刊後,同年3月5日から続刊と 因子であり,もし異なる政策や状況を自分らが実行し なった。22号の続刊号は週刊から日刊へ転換・発行と ようとする有利な方向へ持って行かせるためには説得 な り,1面 に は 明 治40年2月23日 認 可26と な っ て お 力を有する多様な宣伝活動19を行うのであり,その際 にもっとも効力を持つのは文化・言論媒体である。人 類史上もっとも世論形成に文化を利用した人がヒット ラーだということは周知の通りだが,いち早く欧米社 会を視察し,メディアの影響力を察知していた初代統 監の伊藤博文は,既に西欧の世論や評価の重要性を強 く意識していた。そのため,大陸経営のために日本国 内だけではなく,日本を列強として認め,帝国主義政 策に基づいた植民地統治に理解を示す国際世論形成が 必要だと感じていたのである。そして,海外広報によ る効果的で積極的な活用方策として,補助金を支給し ながら外国人の手で親日志向の新聞を作るよりも,そ の新聞を日本人に引き継がせ,日本人の政策を効率よ く広報するために日本人自ら新聞発行を行おうと考え るのである。そのため,伊藤博文は1906年12月5日か ら『週刊 セウル・プレス』をハージから引き継ぎ, 日刊として拡張させて統監府の機関紙にしたのであ る20。 1 9 0 7年3月5日のThe Seoul Press(復刻版,東京学芸大学図書館所蔵) ― 123 ― 東 京 学 芸 大 学 紀 要 人文社会科学系Ⅰ 第59集(2008) り,この時からハージの代わりに頭本元貞が発行兼編 条及び12条を違反したので発売頒布禁止して,これを 集人となるのである。しかし,同紙の1面右下には 差し押さえる」33と命じた。これに対して『セウル・ 「HODGE & Company, PRINTERS and STATIONERS. プレス』は,「社告」34で「本紙は今日の問題としてい Chong Dong,Seoul」という広告が載っており,ハージ くつかの記事が公共の治安秩序の妨害と見なされたの は新聞の引き渡し後,ソウルジョン洞で印刷業務をす で当局の命令によって停止されたのを残念に思いつ るが,その宣伝もしていた。 つ,読者にこれを知らせる」35。それから6日後の8 同紙の月購読料は2円50銭であり,6ヶ月には13 月11日付の1, 050号が続刊となった36。当時,機関紙で 円,年間購読料は2 5円で,毎月曜日と祝日は休刊と も時々差押えを被ることがあった。その場合,事前に なった。5段組み版で第1面は第一銀行やホテル,企 報道禁止の記事という通知を受けることができなくて 業,『京城日報』『ジャパン・タイムズ』などの広告と 掲載したことが多く,取り締まり機関である警務局が Foreign Intelligence 欄が設けられ,2∼3面は論説及 明確な基準もないまま,状況によって取り締まったた び記事,特に日本国内の政府関連や国際情勢のニュー めであった。 スや Latest Intelligence 欄を設けており,第4面は主に 27 広告の紙面となった 。 なお,19世紀末から日本が狙っていた朝鮮は19 09年 の伊藤博文暗殺も刺激となり,1910年8月22日の「日 1907年3月14日には同年1月31日現在の在朝日本人 韓併合に関する条約」と同年8月29日の「日韓併合に 数が載っているが,合計81, 657名の日本人が在住して 関する宣言」によって植民地となった。1897年に宣言 いることから早くから日本人移住が進んでいることが した大韓帝国は日本の手中に入り,日本による呼称 28 確認できる 。そして,1910年7月になると,143, 045 「朝鮮」を統治する機関として朝鮮総督府がおかれ, 世帯(households)となり,日韓併合への動きととも 寺内正毅が初代総督に就いた。日韓併合に関する記事 29 に 日 本 人 移 住 者 が 増 加 し て い る の が わ か る 。ま が大きく載るのは1910年8月30日であった。同紙の2 た,1910年には朝鮮で日本語を教える学校及び小・ ∼3面には 中・高生数が1 29校の1 6, 542人だという記事も載って おり,朝鮮における日本語教育の実状も見ることがで 30 「What has been expected for some days past took place yesterday. Korea has been annexed by Japan and changing きる 。 なお,1907年5月3日付からは4頁に京釜線,龍山 などの「Railway time table」が載るようになった。同 the name Tai Han into Chosen has become part of the territory of the Empire of Japan.」 年5月5日の記事にはコリアから来たハーバード大学 の学生 P.K.Yoon について述べつつ,ハワイに朝鮮か 31 と,大韓帝国が日本に併合されたことを如何に待ち ら6, 000人が移住している内容にも触れている 。この わ び て い た か が 述 べ ら れ た「The Annexation」及 び ように『ソウルプレス』は,日本の政策的側面だけで 「The treaty of Annexation(日韓併合に関する宣言)」 はなく,朝鮮と日本の関連性のある国際的話題などを が掲載された37。その後は併合・植民地統治に関わる 取り上げていた。また,日本の支配下の朝鮮社会の発 政策宣伝や関連人物,例えば寺内正毅総督や日韓併合 展的様子を広報する内容を強調する記事も掲載し続け 条約の韓国側の代表であった李完用などの紹介・抱負 ており, 『ジャパン・タイムズ』との緊密な関係を維 などが紙面に登場するのである38。そして,日本の統 持しながら相互の記事を転載していた。 治の正当化記事が増えるとともに,社会的には言論圧 迫が強められつつあった。その弾圧的武断統治に対す 3.日韓併合後の動き る抵抗は1919年3月1日に独立万歳運動として全国的 に拡大し,日本国内外の世論を意識した原敬内閣はそ 『セウル・プレス』を一定の軌道で維持させていた れまでの植民地政策の見直しを考え,老練な政治家で 初代社長の頭本元貞は1909年4月に辞任し,山縣五十 軍人出身の斎藤実を第3代総督として派遣するのであ 雄(1869∼1959)に後を継がせるのである。同年4月 る。伊藤博文も斎藤実も国際社会を意識した言論活用 8日付の同紙には,発行人兼編集人として,山縣五十 と宣伝価値を認識していた戦略家でもあったが,斎藤 雄が経営を委ねられるようになった記事が載ってい 実は3・1独立万歳運動と斎藤の赴任の際に受けた爆 32 る 。山縣が就任後,統監府の明石警務総長は1 910年 弾攻撃によって,朝鮮民衆の不満の捌け口を兼ねた民 8月6日付の1, 050号新聞を「治安妨害する行為と認 衆の動向を把握する意図で一方的な宣伝用ではなく, 定されて,「統監府令」第1 2号と「新聞紙規則」第10 朝鮮人による民間紙の一部許諾を行った。そのため, ― 124 ― 李・朴:『セウル・プレス』(The Seoul Press)と朝鮮植民地統治政策の一考察 表面的には少し緩和されたかのように感じ取られ,文 澤,15年の 化政治として位置づけられる傾向が多々あるが,内実 金今用などが表彰されており,勤続受賞者の中には多 は巧みな宥和策を内在した政策であり,現実的には武 くの朝鮮人社員が含まれていた45。 永根・文相鎬・朴泰奉,10年の金景鎭・ 断統治の側面を引き継ぐものであった。 「一視同仁」 1933年当時,役職員をみると,支配人には兒島吉 から「習慣及び文化の尊重」までの13項目にわたる新 治,理事は金尚會,整理部長は小宮山陸三郎,取材部 施政を発表し,1 920年に創刊された『東亜日報』 『朝 長は金用權,新聞社の設備では平盤2台があった。紙 鮮日報』『時事新聞』の民間3紙の許可や中枢院によ 面体裁は1面6段で活字9p を使った組み版で あっ る朝鮮固有の文化,慣習の調査・研究などが行われ た。総紙面は4面で朝刊紙として発行され,1ヶ月の 39 る が,これらの一時的な宥和策さえも1 925年の治安 購読料は1円であった46。そして,1 934年1月11日は 維持法や1930年代から激化する思想弾圧と戦争遂行な 朝鮮人の金用柱が主筆へと任命された47。同年に資本 どで全てが否定されるようになるのである。 金50万円の合資会社となり,社長には時實秋穗が就い 話は戻るが,1922年5月31日に京城市内のある高等 た48。 普通学校の教員であった李一が「朝鮮内の日本」とい 『セウル・プレス』は『京城日報』と『毎日申報』 う題目で独立に関する内容が含まれている英文原稿を のような姉妹紙の形で発行されたわけではなく,独立 『セウル・プレス』に寄稿した。ところが,『セウル・ 会社として運営されてきた。その読者の多くが西洋の プレス』がこの原稿を掲載したため,大騒ぎとなり, 宣教師であり,新聞内容も朝鮮のあらゆる発展が日本 筆者は翌日に『セウル・プレス』で訂正報道の申請を 人によって行われたと宣伝するが,朝鮮人の読者は少 40 行い,彼の弁解記事が掲載された 。この事件は時間 なく,経営は常に赤字であった。経済的側面に起因す とともに沈静化したが,1922年12月に入社した朝鮮人 る廃刊だと言えるが,やがて勃発する日中戦争の暗雲 記者の金用柱が独立運動に関する評論を『セウル・プ に気づいたか,結局, 『セウル・プレス』は1 937年5 レス』に掲載する度に当局とのトラブルが生じた。彼 月30日付の第1, 098号を自主廃刊の形式でその歴史を の場合,1928年に新聞の支配人にまで昇進をしたが, 終えた。廃刊の理由は終刊号の「公告」で次のように 報道内容は常に緊張を伴う戦いだった。 述べている。 『セウル・プレス』は1923年か ら,三 好 重 彦が社 長,富永品吉が主筆兼理事,岡與一が支配人に就任 「朝鮮で発行される唯一の英字新聞の『セウル・プ し,三 好と 富 永 の2人 の 共 同 経 営 と い う 形 を 取 っ レス』は,朝鮮に居住している外国人の利益を代弁す た41。当時,他機関紙と 同 様, 『セ ウ ル・プ レ ス』も るために発行されてきた。しかし,遅ればせながら外 1925年12月に羅錫疇が鐘路警察署に爆弾を投げたこと 国人に朝鮮語と日本語が広まっていて,外国人は日本 について,報道禁止命令が出されていたことを知らず 語新聞と朝鮮語新聞を幅広く購読しているので英字新 に報道に踏み切ったため,2週間の停刊処分を受け 聞の存在はこれ以上必要がなくなった。このような観 た。換言すると,総督府の御用新聞にも拘わらず,『セ 点から, 『セウル・プレス』は1 937年6月1日付で永 ウル・プレス』は連絡を受けることもなく,報道禁止 遠に廃刊されることになった。これと共に,過去数年 事件だということを知らないまま記事として載せたの の間,好意で支持して下さった読者と広告主に深い謝 42 である 。既述したように,このように御用新聞が総 意を表する。同時に,以前『セウル・プレス』を歓待 督府により行政処分を受けて押収されたことは,批判 したように『京城日報』と『毎日申報』を声援するよ 記事の掲載問題よりも新聞製作上の問題が多かったこ うに願ってやまない。」49 とを指摘することができる。 なお, 『セウル・プレス』はその後,宮館貞一が社 43 上記の引用文からわかるように,朝鮮に居住する外 長,主筆に小宮山陸三郎が就任した 。そして,1930 国人の利益を代弁するために発行された新聞であった 年2月に『セウル・プレス』と『京城日報』は合併し, が,外国人にも日本語と朝鮮語が広く普及していたた やがて京城日報社は日本語・朝鮮語・英語の三ヶ国語 め,これ以上の発刊の理由を見いだせなくなったと表 44 で発行する統合新聞社となった 。そして,1 9 32年2 明している。その背景にはプロパガンダの東京への一 月21日,「25週年創刊紀念式」を開催し,1 0年以上の 元化が進んで行ったことも無視することができない。 勤 続 社 員 の 表 彰 式 も 行 っ た。受 賞 者の 名 簿 を 見 れ 満州事変以来,大陸経営に強い挙国政治が求められ, ば,24年勤続の編集部の朴潤榮,10年の金用柱・小宮 植民地への宣伝広報は東京に集中する傾向があったと 山 陸 三 郎,25年 の 工 場 社 員 の 新 常 重,19年 の 鄭 興 考えられる。 ― 125 ― 東 京 学 芸 大 学 紀 要 人文社会科学系Ⅰ 第59集(2008) なお,廃刊当時の役員及び社員としては,社長の高 とを注目することができる。換言すると,趣旨はどう 田知一郎,支配人兼営業局長の兒島吉治,編集長の金 であれ,海外にいる朝鮮同胞の記事などを通してある 用柱(1937年4月6日死亡−筆者注) ,庶務部長の絹 種の刺激として働いたことはあったと推察することが 田節一,校正部長の A.B.フラントン,写真部長の河 できる。 野佐市,経理部長の上野淺吉,販売部長の永井忠藏, なお,伊藤博文と斎藤実の言論意識について補足す 広 告 部 長 の 松 原勇 記,工 場 長 の 小 川三 之 介 で あ っ ると,伊藤と斎藤の言論に対する意識は類似している た50。そして,『セウル・プレス』の廃刊をもって朝鮮 が,伊藤博文の場合,大陸経営の宣伝手段と帝国主義 には英字新聞が一種類もなくなるのである。 政策の正当化・国際社会の親日世論形成の必要性によ 既述したように, 『セウル・プレス』はイギリス人 る道具として『セウル・プレス』に着目しているが, のハージを主幹に創刊された後,統監府が対外宣伝手 世論に一方的に接近する言論の機能に頼ろうとする懐 段として買収し,日刊紙として発行された。同紙は日 柔策中心の傾向が現れている。それは,韓日近代言論 本保護統治に対する国際世論の醸成と評価を意識して 研究者の朴仁植が指摘するように, 「朝鮮植民地統治 発刊された新聞であり,主な読者は朝鮮在住の外国 技術の一環として,日本が言論活動に着目した契機 人,特に宣教師が多かった。そのため, 『セウル・プ は,伊藤博文が1905年の保護条約締結後,親日米国人 レス』は一般新聞の普及とは性質を異にするが,1937 スチーブンスを外交顧問に任命し,宣教師の懐柔と海 年5月の廃刊までに国際社会に広く布教活動を行って 外各地での講演会等を通して日本の保護条約の正当性 いた宣教師や欧米諸国の外国人らには植民地統治の正 を宣伝することに精力を注いだ時点」51だと言えよ 当化と弁明,合理化を認識させるとともに,親日友好 う。そのため,「伊藤は英字新聞の『セウル・プレス』 勢力を育成・宣伝するのに多大な役割を果たしたので を発刊して,在朝外国人に日本の朝鮮侵略企画を隠蔽 ある。 させると同時に,朝鮮の保護国化の正当化・宣伝策に また,歴史のアイロニカルな側面から考える際,併 伴う国際世論の醸成に尽力させた」52のだが, 『セウ 合以後の朝鮮に英字新聞が一紙もない中で発行された ル・プレス』の引き受け過程から廃刊までの動きには 『セウル・プレス』は,日本の植民地政策広報の役割 言論元来の読者に「伝えて考えさせる役割」が排除さ だけではなく,英字新聞の購読を通して西洋文化への れ,宣伝チラシの域を出ない部分もあったと言っても 関心を喚起させることにも繋がった。そのため,朝鮮 過言ではない。そこに伊藤博文の『セウル・プレス』 人の購読者は少なかったものの, 『セウル・プレス』 に対する限界があったと考えられよう。一方,斎藤実 は,民衆に国際社会における朝鮮を意識させた新聞と の場合,既存の武力的側面を掲げた軍隊式の植民地統 いう評価も排除することはできない。 治のイメージを払拭し,柔軟かつ宥和策で民衆を抱え ようとする巧みな政策で朝鮮民族が置かれた共通の感 むすびに 情を吐露できる新聞,雑誌の一部発行を許可すると同 時に,諸外国に大日本帝国の優秀さを宣伝する外交手 以上,総督府の御用新聞として朝鮮併合の前から日 段として宣教師を含む諸外国人の懐柔を試み, 『セウ 中全面戦争直前までの11年間,植民地統治支配の宣伝 ル・プレス』もそういった宣伝道具にしたのである。 道具として発行を続けてきた『セウル・プレス』につ そのため,斎藤実は朝鮮赴任の直前に,「朝鮮統治に いて考察してみた。 関係のある諸官庁(枢密院,内閣,拓殖局,法制局, 本稿を通して次のいくつかを考察することができ 大蔵,内務,陸海軍)の官吏,朝鮮に関する学者,宗 た。即ち,一,『セウル・プレス』は欧米社会を視察 教家,新聞人などを招いて懇談した。」53のであり,宗 し,言論の重要性を強く認識していた伊藤博文によっ 教活動を通して中立を保持しようとする宣教師を政策 て買収され,ただの政策宣伝・懐柔意図の機関紙だけ 理解者へと懐柔することに日本の植民地政策の国際的 では民衆の宥和には限界があると考え,朝鮮民衆の捌 評価に繋がることをも認識するのである。斎藤実は朝 け口及び民心の動向把握を意図とした朝鮮人による民 鮮に赴任し,総督府に宗教課をおいたり,教会や説 間紙の一部を許可した斎藤実によって宣教師懐柔策と 教・講義の場所を許可制から申告制に布教規則を改定 して積極的に用いられたこと,二,対外宣伝広報及び するほか,日本の有職者との懇談会を設定したり,在 内外の宣教師を含む外国人懐柔を目論んだ政策宣伝の 鮮宣教師らとお茶会を頻繁に開く54など,日本の文化 英字新聞ではあったが,朝鮮の民衆は少しでも国際社 に接近させて列強とのパイプ役を担う宣教師の懐柔策 会における朝鮮の位置づけを意識する契機となったこ に力を入れた。斎藤実のそういった戦略は彼が信頼す ― 126 ― 李・朴:『セウル・プレス』(The Seoul Press)と朝鮮植民地統治政策の一考察 ることができる。 る政務総監の水野錬太郎や,水野の信任が厚かった警 務局長の赤池濃らによってより徹底した宣教師懐柔策 3 発行部数が少なく,創刊号の1904年2月8日付の へと展開するのである。その影響もあって総督府の機 原紙は現在,イギリスの公共記録保管所が所蔵して 関誌の『朝鮮』や『セウル・プレス』も一斉に宣教師 おり,現存する唯一紙である。鄭晋錫『書き直した に対する美辞麗句の讃辞を惜しまなかった。特に社長 言 論 遺 史』ソ ウ ル,コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン ブ ッ ク ス,2004年,117頁参照。 の山縣五十雄自ら宣教師の献身的活動に加えての博愛 精神が如何に素晴らしいか,その犠牲的立場を絶賛す 55 鄭晋錫「The Seoul Press と日本の対韓侵略弘報」 4 るに至ったこと から,世論確保による政策遂行の構 『月刊 図を確認することができる。 号。 本稿では『セウル・プレス』を通して行われる宣伝 5 新聞と放送』韓国新聞研究所,1986年4月 同上の論文が解題として所収され,英訳も紹介さ 政策と植民地統治の説得・理解の実態について考察し れ て い る。鄭 晋 錫「THE SEOUL PRESS AND THE た。帝国支配政策に抵抗する勢力の弱体化のために用 PROMOTION OF THE JAPANESE INVASION OF いられるプロパガンダの一環として『セウル・プレ KOREA」韓國學文献研究所編『The Seoul Press』亞 ス』を取りあげたが,その背景には外交手段とされる 細亞文化社,1986∼1989年。 外国人宣教師の存在があり,彼らを懐柔する道具であ 6 鄭晋錫『言論朝鮮総督府』ソウル,コミュニケー ションブックス,2005年。 る英字新聞の御用化,時代の状況とともに変化する言 論の特殊性が「特定の集団によって組織され主張され 7 洪淳一,鄭晋錫,朴昌錫『韓国英語新聞史』ソウ ル,コミュニケーションブックス,2003年。 る こ と で,特 定の 見 解 や 立 場 は 社 会的 に 顕 在 化 す 56 る」 ことを如実に物語ることが確認できたといえ 8 姜東鎭『日帝の韓国侵略政策史』ソウル,ハンギ ル社,1980年。 る。換言すると,そこには,列強とのパイプ役も兼ね ていた宣教師を含む外国人たちへの宥和策が極めて効 9 率の良い,朝鮮内外の親日世論を形成すると見込んだ 10 ハージは駐韓英国聖公会が所有する印刷所を経 言論利用が内包されていることを看過してはいけな 営。彼はイギリスの南部地方の軍港であったプリ い。本稿を通して自らの政策展開のために統監府・総 モース(Plymouth)近くのデヴォンポート(Devon- 督府が言論を用いた対外宣伝活動に着目し,試験的に port)で1870年3月1日に生まれた。ハージは1 891 御用新聞としての英字新聞を経営するが,戦争が長引 年に英国の聖公会で印刷技術を身につけ,1892年5 くと結局,東京に情報宣伝作業は一元化されたことを 月にイギリスから日本の長崎を経て,翌月の6月に 確認することができた。 朝鮮に到着し,印刷事業を務める。鄭晋錫『大韓毎 ところで, 『セウル・プレス』は現実的に一部の人 しか講読しなかった限界性があり,その広報活動の影 響力,即ち,どれほどの人が日本側に傾斜したかにつ 同上,42頁。 日申報と裴説 韓国問題についての英日外交』ソウ ル,ナナム出版社,1987年,244頁参照。 11 J. McRee Elrod, AN INDEX TO ENGLISH LAN- いては明確に把握することができない。当時の朝鮮国 GUAGE NEWSPAPERS PUBLISHED IN KORE 1896 ~ 内外の社会状況をより緻密に究明し, 『セウル・プレ 1937,大韓民国国会図書館発行,非売品, 1966年,6 ス』を含む当時の言論の影響力を追究することは近代 頁。 言論史における言論と世論の関係を明らかにする作業 12 鄭晋錫「日帝下の新聞と雑誌」『韓国英語新聞 になるはずだ。今後,そういった視点からの研究が活 社』ソウル,コミュニケーション・ブックス,2003 性化されることを期待してやまない。 年,90頁参照。 13 『韓末言論資料展−大韓毎日申報と裴説』ソウ 注 ル,韓国プレスセンター,1987年,34頁。 14 前掲,鄭晋錫ほか『韓国英語新聞社』,98頁参照。 1 スティーヴン・ハウ『帝国』見市雅俊訳,岩波書 15 Ibid., J. McRee Elrod, AN INDEX TO ENGLISH LAN- 店,2004年,44頁参照。 2 前掲,鄭晋錫『言論朝鮮総督府』,50頁参照。 高 宗 大 王 の 妃。1895年 に 日 本 の 策 略 で 殺 害 さ れ,1897年に呼称を明成皇后とする。詳細は拙著の GUAGE NEWSPAPERS PUBLISHED IN KOREA 1896~ 1937, pp. 4∼6。 16 ヤンキタク。1 871∼1938。平壌出身の言論人。 「朝鮮王妃殺害事件の再考」 『東京学芸大学紀要 人文社会科学系』,2007年1月,93∼105頁で確認す ― 127 ― 1904年にベセルと『大韓毎日申報』を創刊するが, 東 京 学 芸 大 学 紀 要 人文社会科学系Ⅰ 第59集(2008) 08年に同紙の反日論調に弾圧しようとする日本官憲 reader that the publication of the Seoul Press was sus- による補償金横領容疑で逮捕されるが無罪となっ pended by order of the authorities on the ground that to- た。1911年には105人事件で逮捕されるが,1920年 day’s issue of the paper contained some article consid- 1月14日の『東亜日報』創刊総会の際は編集監督と ered to be injurious to public peace and order. The Seoul して名を連ねている。その後,中国満州周辺で独立 Press, Aug 6th, 1910. 運動などを展開し,江蘇省で客死する。糟谷憲一 35 Ibid., 6 Aug, 1910. 「梁起鐸」『朝鮮を知る事典』平凡社,1986年,451 36 Ibid., 11 Aug, 1910. 頁参照。鄭晋錫『歴史と言論人』ソウル,コミュニ 37 Ibid., Aug 30th, 1910. ケーションブックス,2001年,231頁参照。 38 Ibid., Sep 2nd, 1910. 39 前掲,李修京『近代韓国の知識人と国際平和運 17 李修京『近代韓国の知識人と国際平和運動』明石 動』,152∼153頁参照。 書店,2003年,159頁。 40 『東亜日報』1922年6月3日付。 18 元佑鉉『与論宣伝論』ソウル,法文社,1986年,41 41 『新聞總覽』日本電報通信社,1 924年,520頁参 頁参照。 照。 19 同上。 20 前掲『韓末言論資料展−大韓毎日申報と裴説』 , 42 前掲『日帝時代民族紙押收記事集 I』,19頁。 43 『新聞總覽』日本電報通信社,1 928年,536頁参 34頁。 照。 21 ず(かしら)もともとさだ。1862∼1943。鳥取県 日野郡出身。なお,鄭晋錫は前掲の「The Seoul Press 44 『京城日報』1930年2月11日付参照。 と日本の対韓侵略弘報」などで頭本が「1864年生ま 45 『毎日申報』1932年2月21日付参照。 れ」だと引用しているが, 「1862年」の誤認だと考 46 『新聞總覽』日本電報通信社,1933年,481頁。 えられる。前掲,鄭晋錫「The Seoul Press と日本の 47 『朝鮮日報』1934年1月12日付。『東亜日報』1934 年1月12日付。 対韓侵略弘報」 ,79頁参照。鄭晋錫『大韓毎日申報 と裴説 韓国問題についての英日外交』ソウル,ナ 48 『新聞總覽』日本電報通信社,1 934年,492頁参 照。 ナム出版社,1987年,253頁参照。 49 原文は,「ANNOUNCEMENT」 The Seoul Press as 22 鳥取県公式ウェブ参照。 http://db.pref.tottori.jp/HomePerson.nsf/DataPersonView the only English newspaper in Chosen has to date been /BC1 A58377A52F68E49257000 00120D44? Open- published for the benefit of foreign residents in this coun- Document try. Of late, however, use of the Japanese and Korean 23 マッケンジー『大韓帝国の悲劇』 ,申福龍訳,ソ languages has spread to foreigners and as the Japanese ウ ル,集 文 堂,200頁 参 照。Frederick A. McKenzie, and Korean newspapers now are widely subscribed to by The Tragedy of Korea, E. P. Dutton&Co., New York, pp. them existence of an English newspaper has become no 213∼214. longer necessary. From this standpoint the Seoul Press will permanently cease publication on 1 June, 1937. we 24 前掲,鄭晋錫「The Seoul Press と日本の対韓侵略 herewith express our profound thanks to all our readers 弘報」,86頁参照。 and advertisers for goodwill and support accorded us 25 前掲『大韓毎日申報と裴説−韓国問題について英 日外交と民族言論の抗日』,297頁。 during the past many years. At the same time, we hope 26 Ibid., The Seoul Press, March 5th, 1907. that you will hereafter favour the Keijo Nippo and Mai−il 27 Ibid., March 5th, 1907, pp.1∼4. Shinbo with your patronage as you have previously done 28 Ibid., March 14th, 1907. the Seoul Press. The Seoul Press, May 30th, 1937. 29 Ibid., July 24th, 1910. 50 『新聞總覧』日本電報通信社,1 937年,476頁参 30 Ibid., July 24th, 1910. 照。 31 Ibid., May 5th, 1907. 51 朴仁植『日本の朝鮮支配における政治・言論研 32 Ibid., Aug 8th, 1910. 究』山 口 大 学 東 ア ジ ア 研 究 科 博 士 学 位 請 求 論 33 統 監 府「統監 府 警 務 總 監 部 告 示 第 二 十 號」 『公 文,2007年,175頁。 52 同上。 報』(第166号)1910年8月6日付。 34 原文は, 「NOTICE」 We regret to announce to our 53 有竹修二『斎藤実』時事通信社,1970年,63∼64 ― 128 ― 李・朴:『セウル・プレス』(The Seoul Press)と朝鮮植民地統治政策の一考察 『韓末言論資料展−大韓毎日申報と裴説』ソウル,韓 頁。 54 前掲,姜東鎭『日帝の韓国侵略政策史』 ,87∼89 国プレスセンター,1987年。 姜東鎭『日帝の韓国侵略政策史』ソウル,ハンギル 頁参照。 55 上掲,姜東鎭『日帝の韓国侵略政策史』 ,89頁参 社,1980年。 洪淳一,鄭晋錫,朴昌錫『韓国英語新聞史』ソウル, 照。 56 浦島郁夫・竹下俊郎・芹川洋一『メディアと政 コミュニケーションブックス,2003年。 ス テ ィ ー ヴ ン・ハ ウ『帝 国』見 市 雅 俊 訳,岩 波 書 治』有斐閣,117頁。 店,2004年。 【参考文献・資料】 鄭晋錫「The Seoul Press と日本の対韓侵略弘報」『月 The Seoul Press, March 5th, 1907. 刊 The Seoul Press, March 14th, 1907. 鄭晋錫「THE SEOUL PRESS AND THE PROMOTION The Seoul Press, May 5th, 1907. OF THE JAPANESE INVASION OF KOREA」韓國學文 The Seoul Press, July 24th, 1910. 献研究所編『The Seoul Press』亞細亞文化社, 1 986 The Seoul Press, Aug 6th, 1910. ∼1989年。 The Seoul Press, Aug 8th, 1910. 鄭晋錫『大韓毎日申報と裴説−韓国問題について英日 新聞と放送』韓国新聞研究所,1986年4月号。 The Seoul Press , Aug 11th, 1910. 外交』ソウル,ナナム出版社,1987年。 The Seoul Press, Aug 30th, 1910. 鄭晋錫編『日帝時代民族紙押收記事集 I』LG サンナ The Seoul Press, Sep 2nd, 1910. ム言論財団,1998年。 The Seoul Press, May 30th, 1937. 鄭晋錫『歴史と言論人』ソウル,コミュニケーション 『新聞總覽』日本電報通信社,1933年。 ブックス,2001年。 『新聞總覽』日本電報通信社,1934年。 鄭晋錫『書き直した言論遺史』ソウル,コミュニケー 『新聞總覧』日本電報通信社,1937年。 ションブックス,2004年。 『新聞總覽』日本電報通信社,1924年。 鄭晋錫『言論朝鮮総督府』ソウル,コミュニケーショ 『新聞總覽』日本電報通信社,1928年。 ンブックス,2005年。 『京城日報』1930年2月11日付。 『朝鮮を知る事典』平凡社,1986年。 『毎日申報』1932年2月21日付。 J.McRee Elrod,AN INDEX TO ENGLISH LANGUAGE 『朝鮮日報』1934年1月12日付。 NEWSPAPERS PUBLISHED IN KOREA 1896~1937,大 韓 『東亜日報』1922年6月3日付 民国国会図書館発行,非売品,1966年,6頁。 『東亜日報』1934年1月12日付。 マッケンジー『大韓帝国の悲劇』,申福龍訳,ソウル, 統監府「統監府警務總監部告示第二十號」『公報』(第 集文堂。 166号)1910年8月6日付。 Frederick A.McKenzie, The Tragedy of Korea,E.P.Dutton 朴仁植『日本の朝鮮支配における政治・言論研究』山 &Co.,New York. 口大学東アジア研究科博士学位請求論文,2007年。 鳥取県公式ウェブ参照。 有竹修二『斎藤実』時事通信社,1970年,63∼64頁。 http://db.pref.tottori.jp/HomePerson.nsf/DataPersonView/ 李修京・朴仁植「朝鮮王妃殺害事件の再考」 『東京学 BC1A58377A52F68E4925700000120D44?OpenDocument 芸大学紀要 人文社会科学系』,2007年1月。 李修京『近代韓国の知識人と国際平和運動』明石書 附記:本稿の資料収集のために東京学芸大学の図書館 店,2003年。 相互利用係・学術資料係の皆様にお世話になった。紙 浦島郁夫・竹下俊郎・芹川洋一『メディアと政治』有 面を通して謝意を記してお く。尚,『セウル・プレ 斐閣,2007年。 ス』の内容分析及び日本語訳などは李修京の文責であ 元佑鉉『与論宣伝論』ソウル,法文社,1 986年。 ることをことわっておく。 ― 129 ― Bulletin of Tokyo Gakugei University, Humanities and Social Sciences I, Vol. 59 (2008) English newspaper“The Seoul Press”first publication and the colonial administration of Chosen YI Sookyung,PARK Insik Department of Humanities & Social Science Abstract Since Japan which tried to advance to Chosen in advance of Europe and America of the Great Powers succeeded in causing the Kanghwa− Do incident in September, 1875 and it tied to conclusion of Treaty of Kanghwa, Chosen came to have forced the way to opening of a port. As the justification of continent advance, and a means of all advertisement accompanying colony extension, the newspaper role has been thought as important from early. The Japanese government began newspaper issue in Chosen using the secret fund of the Ministry of Foreign Affairs. The role of a tool of public relations and advertisement is borne a bulletin being completely published by Hirobumi Ito of the first Resident−General in 1906, and promoting public opinion advantageous to colony management with training of pro−Japanese sentiment−speech. There is a ”The Seoul Press” published in it for the missionaries and foreigners who resides in Chosen as an English newspaper. After John Weekly Hodge, an Englishman was started by the chief editor, Residency−General purchased the “The Seoul Press” and it was published as a daily. This paper was published being conscious of the brew and evaluation of international public opinion to Japanese protection government. Hirobumi Ito who was already conscious of Western public opinion or the importance of evaluation utilized by being effective by bribery of a foreign missionary and overseas public relations of in Chosen through the “The Seoul Press.” The “The Seoul Press” published while one paper did not have an English paper in Chosen after annexation, either makes the concern about Western culture evoked through subscription of not only the role of colonial policy public relations of Japan but an English paper. While making them wipe away misunderstanding of colonial administration until it was discontinued in May, 1937, the active role was played although pro−Japanese friendship influence is raised. ― 130 ―
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