プラトン『法律』第 10 巻 903a-905d の、 神による

荻原理
プ ラ ト ン 『 法 律 』 第 10 巻 903a-905d の 、
神による魂の再配置の話について
荻原 理
プ ラ ト ン 『 法 律 』 第 10 巻 903a1-905d3 で 、 本 篇 の 主 要 対 話 人 物 で あ る ア テ
ナイからの客人は、
“ 神 は 、よ り 善 く な り つ つ あ る 魂 を よ り 善 き 場 所 に 、よ り 悪
しくなりつつある魂をより悪しき場所に移す”という趣旨の話を語る。話が置
か れ た 文 脈 に 注 意 し 、ま た『 ゴ ル ギ ア ス 』、
『 パ イ ド ン 』、
『 国 家 』、
『 パ イ ド ロ ス 』、
『ティマイオス』の死後のミュートスと比較することでこの話の特徴を明らか
にすることが本稿の課題である。
1
先ず、話が置かれた文脈を確認しよう。
『法律』の描く対話でアテナイからの客人は、クレテ人クレイニアスとスパ
ルタ人メギッロスを相手に、建設予定のクレテ新植民市(マグネシアと呼ばれ
る ) の 法 律 を 提 案 す る 。 第 10 巻 で “ 立 て ら れ る ” 法 は 不 敬 神 に 関 わ る 。 ア テ
ナイからの客人、クレイニアス、メギッロスの三老人が合意する、マグネシア
法の案によれば、住民は「神は存在する。神は人間のことを配慮している(す
な わ ち 、善 き 人 を 厚 遇 し 、悪 し き 人 を 罰 す る )。神 は 買 収 さ れ え な い( す な わ ち 、
悪事を犯した人間が犠牲や祈願で神に取り入って、罰を下さないよう見逃して
も ら う こ と は で き な い )」と 信 じ な け れ ば な ら な い 。こ の 言 わ ば 国 教 信 条 に 反 す
る 言 動 を 見 せ た 者 は 、他 の 住 民 に よ る 通 報 と 、通 報 を 受 け た 役 人 の 告 訴 に よ り 、
法廷に引き出される(住民には通報の義務が、通報を受けた役人には告訴の義
務 が あ る )。裁 か れ る 者 に 不 敬 神 以 外 の 道 徳 的 堕 落( 例 え ば 、神 へ の 取 り 成 し を
請け負うと称する私的神官として金を稼ぐなど)が認められるかいなかで、対
応 が 異 な る 。【 A】 不 敬 神 以 外 の 道 徳 的 堕 落 が 認 め ら れ な い 場 合 、 5 年 以 上 の 一
定 期 間 、sōphronistērion ( 矯 正 所 〔 加 来 訳 〕、“ 精 神 健 全 化 院 ”) と 呼 ば れ る 獄
舎に監禁され、その間、訪問しに来る「夜明け前の会議」の構成員から国教信
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『ギリシャ哲学セミナー論集』IX 2012
条の説諭を受ける
1。 そ れ 以 外 の 自 由 人 と の 接 触 は 許 さ れ な い 。 そ の 一 定 期 間
の 後 審 理 さ れ 、【 A1】「 精 神 が 健 全 に な っ た ( sōphronein)」 と 認 め ら れ れ ば 出
獄 し 、【 A2】 そ う 認 め ら れ な け れ ば 死 刑 と な る 。 他 方 、【 B】 不 敬 神 な 言 動 に よ
り法廷に引き出された者が、他の点でも道徳的に堕落していると判断された場
合 、timōriā( 懲 罰 )と い う 名 の 、人 気 の な い 場 所 に 建 て ら れ た 牢 獄 に 終 身 監 禁
され、奴隷の看守以外との接触は許されず、死後、死体の埋葬はなされない
( 907d10-909c5)。
アテナイからの客人ら三老人が構想するマグネシアの法体系・政治体制にお
いて、住民が「神は存在し、人間のことを気に懸け、買収され得ない」と信じ
るべきであることに、例外も変更の余地もないと思われる。その信条に反する
見解を抱くことを認めるよう国家に願い出たり、国教信条を変更するよう提案
したりするいかなる機会をも住民は持たないと考えられる。確かに宗教教育の
場面で、神についての誤った見解が取り上げられ、検討されることはあろう。
だが授業の話の落とし所はあくまで国教信条の再確認と決まっていよう(あま
り に 「 リ ベ ラ ル 」 な 者 は 教 師 失 格 で あ る )。 ま た 確 か に 、「 夜 明 け 前 の 会 議 」 の
構 成 員 は 高 度 の 神 学 的 研 究 を 義 務 付 け ら れ 、そ の 研 究 に は 、国 教 信 条 の 論 証( 第
10 巻 で ア テ ナ イ か ら の 客 人 が 与 え る よ う な )を 理 解 し よ う と 努 め る こ と が 含 ま
れ る( 第 12 巻 966c-968a)。だ が 国 教 信 条 が 正 し い こ と は あ く ま で 前 提 さ れ て
おり、それが正しいかどうかを改めて検討することなどは問題にならないだろ
う 。さ ら に ま た 確 か に 、先 に 見 た よ う に 、
「 矯 正 所 」に 収 容 さ れ た 宗 教 的 離 反 者
と、これを訪れる「夜明け前の会議」の構成員の間で、神の存在や本性につい
て言葉が交わされる。後者は前者が国教信条を受け容れるよう訓戒
( nouthetēsei, 909a4) を 与 え る の だ 。 だ が こ れ は 対 等 な 者 同 士 の 議 論 で は な
く 、生 殺 与 奪 の 権 を 握 っ た 側 か ら の「 救 済 」
( a5)と し て な さ れ る
1
2 。つ ま り マ
邦 訳 の 訳 注 で 加 来 は こ の「 犯 人 の 精 神 的 更 生 を 目 的 と す る 牢 獄 の 設 置 」に つ い て
こ う 述 べ る 。「 し か し 無 神 論 的 な 思 想 を た ん に 心 に 持 っ て い る だ け で 裁 か れ る の で
は な く 、そ れ を 言 動 に よ っ て 表 明 し て 他 人 に 害 を 与 え た 場 合 に の み 、裁 判 の 対 象 に
な る の で あ ろ う 」( 加 来 p. 499)。 確 か に 通 報 と 告 訴 は 無 神 論 的 言 動 に 対 し て ( よ
り 正 確 に は 、そ れ を 機 と し て )な さ れ る 。ま た 、無 神 論 的 言 動 は 一 般 に 、周 囲 の 人
間に大なり小なり有害な影響をもたらすとアテナイからの客人は認識している
( 908c4-6)。し か し も し 加 来 が 、特 定 の 無 神 論 的 言 動 が 審 理( な い し 有 罪 判 決 )の
対象となるかいなかはその言動が他人にしかるべき種類の害を与えたかいなかに
懸 か っ て い る と 解 し て い る の だ と す る と 、そ れ は 正 し く な い 。言 動 が 無 神 論 的 で あ
ること自体が通報と告訴の(そして有罪判決の)十分な理由を構成する
( 907d10-e3)。 無 神 論 的 言 動 は 無 神 論 的 思 想 の 顕 わ れ で あ り 、 無 神 論 的 思 想 は 魂
の 「 病 」( 908c5) に 他 な ら ず 、 こ れ を 取 り 除 く こ と が 本 人 の 「 救 済 」( 909a5) だ
と 考 え ら れ て い る 。何 よ り こ の 救 済 が sōphronistērion の 設 置 に よ っ て 目 指 さ れ て
いると思われる。
2 Stalley 1983, pp. 177-8 の 適 確 な 言 を 参 照 ( 上 の 注 1 で 見 た 加 来 の 注 は こ の よ
う な 言 へ の 応 答 で あ ろ う )。
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荻原理
グネシアの住人に、神学上の“自由な”議論の場は与えられていないのだ。
違 う 解 釈 も あ る 。 こ の 違 う 解 釈 が 根 拠 と す る の は 、 第 10 巻 で ア テ ナ イ か ら
の 客 人( ら 三 老 人 )が 、離 反 的 見 解 を 奉 じ る 若 者 を 相 手 に 、
「 神 は 存 在 し 、人 間
のことを気に懸け、買収され得ない」と信じるよう説得する問答(神による魂
の再配置の話はその一部)を行なっているという事実である。若者が老人たち
に、神の存在を初めとするそれら国教信条の論証を要求し、老人たちは(神は
存在しないとみなす不敬神への怒りを抑えつつ)これに応えるというのだ
3。
問題の解釈では、この若者はマグネシアの若者である、ないしマグネシアの若
者を含む、と解される
4。 そ う 解 さ れ る 場 合 確 か に 、 マ グ ネ シ ア の 若 者 に 、 国
教信条に反する立場から神学的議論に臨む自由が認められていることになろう。
(そして、マグネシアの若者が役人の議論に有効に反論したり、離反的見解を
支持する有効な議論を示したりした場合には国教信条を奉じない自由が認めら
れているとも考えられるかもしれない。というのは、アテナイからの客人は、
神の存在を信じない者を相手にしての議論の結びに、これまでの議論は「間違
っているといってわたしたちを教えてくれるか、それとも、わたしたちよりも
立派なことが言えないなら、わたしたちの言葉に従って、残りの人生を神々を
信 じ な が ら 生 き る か 、 そ の ど ち ら か を す る よ う に 」 5と の 通 告 を 発 す る か ら で
あ る 〔 899c6-d1〕。)
だがこの解釈は成り立たないと思われる。アテナイの客人がクレイニアスと
メ ギ ッ ロ ス を 引 き 入 れ つ つ 、離 反 的 見 解 を 持 つ 想 像 上 の 若 者 と 問 答 す る 場 面 と 、
マグネシアの住民が宗教上の話題について語る諸場面(矯正所で夜明け前の会
議の役人が無神論の囚人と問答する場面を含む)は異なる。客人たちと若者の
想 定 問 答 は 書 き 下 さ れ て 、不 敬 神 に つ い て の マ グ ネ シ ア 法 の「 序 文 」と な り
6、
これを含むマグネシア法の全体は、第一世代の移民が到着する時にはすでに完
成しており、権威あるものとして彼らに与えられる。国教信条に関して住民に
許されるのは、対話形式のその書き物を(望むなら何度でも繰り返し
こと、それについて教師らから解説を受けること
7) 読 む
8、 そ う し て ( い ず れ に せ よ
従わなければならない)法律の命令に従おうとする自発性を高める
9こ と で あ
る。客人たちと問答する想像上の若者の方は、神は存在しないとか、人間のこ
とを気に懸けないとか、贈り物などで取りなせるなどと考える旨をあからさま
に標榜しつつ客人たちに対して神学上の議論を仕掛けた(客人たちは若者がそ
3
4
5
6
7
8
9
885c2-888a8.
Mayhew, p. 154. May hew 自 身 、 自 分 の 解 釈 の 様 々 な 問 題 点 に 気 付 い て い る 。
加来訳。
『 法 律 』第 10 巻 か ら の 以 下 の 引 用 も 加 来 訳 に よ る が 、適 宜 変 更 を 加 え る 。
891a1, 811c6-812a1.
891a3-4.
811c6-812a1.
890b3-d9. Cf. 718d, 719e-723d, esp. 722d-e, 723a-b.
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『ギリシャ哲学セミナー論集』IX 2012
うすることを許した)わけだが、マグネシアにおいて若者(であれ誰であれ)
が誰か(役人など)に対してそうする自由はないと考えられる。その社会で宗
教的離反者は犯罪者以外の何者でもないのだ。
( 前 段 落 最 後 の 、丸 括 弧 内 の 論 点
について言えば、客人から、神を信じない若者に向けられた最後の通告は、こ
れ に 続 く 客 人 と ク レ イ ニ ア ス の や り と り 〔 899d1-3〕 が 示 す よ う に 、 若 者 か ら
何の返答もない〔あるはずがない!〕と想定しての捨て台詞、事実上の勝利宣
言 だ と 思 わ れ る 。)
マグネシアの宗教統制はこのように、対話形式で書かれた議論による説得の
試みも併用しつつ
10 、あ る 意 味 で 最 終 的 に は 、死 刑 や 監 禁 に よ る 脅 し 、そ し て
死刑や監禁による異端分子の排除という強制手段に支えられている。だがマグ
ネシアでは、宗教についても、全種類の行動様式・価値観についてと同様、住
民のうちにそもそも離反者が生じず
11 、む し ろ 、望 ま れ る 観 念 ・ 感 覚 が あ ま ね
く 、そ し て 根 深 く 共 有 さ れ る よ う 、乳 幼 児 期
12 に 始 ま り 生 涯 続 く 教 育 が な さ れ
る。序文を含む法律を若者に教える授業に限らない。おとぎ話、祈り、歌、踊
り、演劇、工芸品など、住民の宗教観や宗教的感覚に対して何であれ影響力を
持つと考えられるものは、適切なものであるよう、注意深い指示・監督がなさ
れる。
宗教統制の徹底性と、不敬神に対する処罰の峻厳さは、マグネシアの
統治において宗教が荷う役割の重要性を反映するものだろう。プラトン
の 政 治 哲 学 に つ い て の 書 物 中 、「 イ デ オ ロ ギ ー 」 と 題 さ れ た 章 の 結 論 部 冒
頭 で Schofield は 適 切 に も 言 う ( Schofield 2006, p. 325)。
プ ラ ト ン が『 法 律 』の 政 治 的 言 説 を 宗 教 的 枠 組 み の 内 で 組 み 立 て
よ う と し た 決 断 は 推 測 に 難 く な い 。『 法 律 』 は 彼 が 試 み た 最 も 持 続
的 で 最 も 複 雑 な イ デ オ ロ ギ ー 演 習 だ っ た わ け だ が 、そ こ で 対 話 形 式
で 展 開 し た レ ト リ ッ ク か ら 彼 は 、筆 者 の 理 解 す る と こ ろ で は と り わ
け 以 下 の 三 つ の も の を 欲 し た の だ 。第 一 に そ の レ ト リ ッ ク は 、政 治
的社会的存在のためのある超越的な道徳的枠組みの感覚を反映し
具 体 化 し な け れ ば な ら な い 。第 二 に そ の レ ト リ ッ ク は 、知 的 エ リ ー
ト だ け で な く 広 く 住 民 に と っ て 説 得 的 で な け れ ば ― ― と り わ け 、概
し て 理 解 可 能 で な け れ ば ― ― な ら な い 、た だ し 住 民 が 、理 性 に 聞 き
従うよう教育と文化獲得によって準備されていることが条件だが。
10
確かに、法律に従うよう住民の説得を試みるべきだとされる点は『法律』の政
治 哲 学 に お い て 重 要 で あ り 、政 治 哲 学 史 的 に も 注 目 に 値 す る 。だ が 説 得 の 試 み が な
さ れ る か ら と い っ て 、マ グ ネ シ ア の 政 治 体 制 が そ の 根 本 的 性 格 に お い て「 全 体 主 義
的」でなくなるわけではない。
1 1 880e.
1 2 あ る い は 胎 児 期 。 788e f.
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第 三 に 、し た が っ て そ の レ ト リ ッ ク は 、法 律 へ の 敬 意 と 徳 へ の 愛 着
を 促 進 す る 効 果 を 持 た な け れ ば な ら な い 。〔 ・ ・ ・ 〕 こ れ ら 三 要 件
を最もよく満たし得るのは、
( 必 要 に 応 じ て 改 良・方 向 転 換 さ れ た )
宗教的言説であった。
マグネシアの徹底的かつ峻厳な宗教統制は、現代で言えば、例えばイ
スラム原理主義が実現を目指すイスラム国家の宗教統制と共通するもの
がある(また〔必ずしも〕宗教ではないが、現代にまで至る現実のさま
ざ ま な 独 裁 的 国 家 の 権 力 者 崇 拝 と も 通 じ る と こ ろ が あ る )。そ し て そ れ は
戦後日本を含む諸国で、憲法の保障する「信教の自由」が享受されてい
るのと対照的である。日本人の多くはマグネシア式の宗教統制をおぞま
しく思うだろう。私見を陳べれば、おぞましいとのその感覚をわれわれ
は 持 ち 続 け る べ き だ 。“ わ れ わ れ の 社 会 の 成 員 は 信 教 の 自 由 、 思 想 ・ 良 心
の自由を含む諸人権を有する”という立場へのコミットメントを持ち続
けるべきだと筆者は考えるからである。
だが同時に、われわれの社会とは著しく異なるマグネシアの姿は、わ
れわれ自身がコミットする政治上の根本的な立場の(有難い点のみなら
ず)問題点をも映し出す鏡のように働く。マグネシアにあって現代日本
などにはない、ある意味で望ましいものがある。それは社会の高度の統
一と秩序、そして成員の社会への強い帰属感だ。マグネシア人たちは単
に行動の上で衝突を避ける術を弁えているだけでなく、価値観やひいて
はものの感じ方のレヴェルでも一体となっていることだろう。争乱より
平安が、敵対より友愛が、相互の無理解より理解が望ましい限りにおい
て 、社 会 の 成 員 間 の 根 深 い 一 体 化 は 、望 ま し い も の と 見 な し 得 る 。ま た 、
社 会 へ の 強 い 帰 属 感 は 、( 必 ず し も 馬 鹿 に で き な い )一 種 の 充 足 感 を も た
らす。だが問題は、統一性や帰属感は社会において追求されるべき唯一
排他的な価値ではないとわれわれは考えるということだ。たとえば自由
という価値も重要である。そして統一性や帰属感の追求と自由の追求は
往々にして緊張関係にある。マグネシアは社会の一体性や社会への帰属
感のために自由を甚だしく犠牲にしているのに対し、われわれの社会は
逆に、後者のために前者を相当程度犠牲にしていると言えよう。マグネ
シアの姿はこのように、われわれの社会が何を切り捨てているかを、思
考実験にのみ可能な大胆かつ鮮烈な仕方でわれわれに示す。こうした極
端な選択肢を突き付けられた衝撃のうちにわれわれは、われわれが自由
のために払っている犠牲が危険なまでに大きいと気付くかもしれない
13 。
『 法 律 』 の こ の よ う な 読 み 方 と し て 、 Stalley 1983, pp. 182-4, Schofield 2003,
p. 13 を 参 照 。
13
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『ギリシャ哲学セミナー論集』IX 2012
そして、目下享受している自由に自ら制限を付すべきではないかと考え
るかもしれない
14 。
2
国 教 信 条 を 信 じ て 生 き る よ う に と の 勧 告 ( 885b1-9, 907d5-8) と 、 前 節 で 見
た 、不 敬 神 に 対 す る 処 罰 の 規 定 と は 、不 敬 神 に つ い て の 法 の「 本 文 」を 成 す が 、
これに先立つ「序文」は、やはりすでに触れたように、アテナイからの客人ら
が、離反した見解を持つ若者たちに、国教信条が正しいことを説得する想定問
答 の 形 を 取 る 。第 一 に 神 が 存 在 す る こ と を( 888a5-899d4)、第 二 に 神 は 人 間 の
こ と を 配 慮 す る こ と を( 899d5-905d4)、第 三 に 神 は 贈 り 物 な ど で 買 収 で き な い
こ と を ( 905d4-907b4) 示 す の で あ る 。 本 発 表 の 主 題 で あ る 、 神 に よ る 魂 の 再
配置の話は第二の議論の一部を成す。
第一の議論を検討する余裕がないのは残念だが、ここで、われわれの主題で
あ る 第 二 の 議 論 と も 関 連 す る 次 の 2 点 を 確 認 し て お く 。1. 第 一 の 議 論 で 神 と し
て語られるものの一つは、宇宙全体を導き配慮する魂であり、この魂はあらゆ
る 徳 を 具 え て い る と さ れ る( 896d10-898c9)。 2. 魂 は ( 人 間 の そ れ も 含 め て )、
「 自 己 自 身 を 動 か し 得 る 動 」( tēn dunamenēn autēn hautēn kīnein kīnēsin,
896a1-2) と 規 定 さ れ る 。
第二の議論は“神は存在するが、人間のことを気に懸けない”と考える若者
を主な相手として語られる。相手の若者たちは第一の議論を聞き、これを受け
容れているものとされる。
アテナイからの客人は先ず相手の若者に、神に関する彼(ら)の態度を診断
し て 聞 か せ る( 899d6-900b3)。一 方 で 、若 者 が 正 し く も 神 の 存 在 を 信 じ て い る
のは、彼と神とのある同族性によってだ(同族性とは理性の所有を言うものだ
ろう
15 )
。他 方 で 、神 は 人 間 の こ と を 配 慮 し な い と 誤 っ て 考 え て い る の は 、
〈不
敬神であるのに、あるいは不敬神な振舞いのおかげで幸福になったと思われる
人 間 〉 を 目 の 当 た り に し て ( あ る い は そ う い う 人 間 の 話 を 聞 い て )、〔 甲 〕 正 し
く 理 を 見 極 め る こ と が で き な い ( alogiās, 900a8) が 、 か と い っ て 、〔 乙 〕 再 び
神 と の 同 族 性 の た め 、神 を 咎 め る こ と も で き な い か ら だ と さ れ る 。
〔 甲 〕若 者 が
正しく理を見極められないというのはどういうことか。不敬神で幸福になった
と 思 わ れ る 人 間 は 実 は 本 当 に 幸 福 に な っ た わ け で は な い ( 899e1-2) こ と が わ
からないということもあろうし、そのような人間は死後に罰を受けることがわ
14
15
自 由 へ の そ う し た 制 限 の 提 案 と し て 、 Dillon 第 3 節 を 参 照 。
Mayhew, p. 158.
41
荻原理
か ら な い と い う こ と も あ ろ う ( こ れ ら 二 つ の こ と の 関 係 は 後 に 問 題 に な る )。
〔乙〕若者が神を咎められないというのは、もし神が、不敬神で幸福になった
人間を意図的に生ぜしめているとか、神が怠惰ないし無抑制だからそうした者
が生じてしまうと考えるのなら、そんな神を咎めることになっただろうが、若
者はそうは考えられないということだろう。不敬神で幸福になった人間が存在
するが、神がそうした人間を意図的に生ぜしめているわけでも、神の怠惰や無
抑制のせいでそうした人間が生じてしまうのでもないなら、神はそもそも人間
のことに関心がないに違いない、と若者は考えてしまったのだ。これが、アテ
ナイからの客人が若者に聞かせる診断である。
客人は、若者がこれ以上不敬神にならないように、神は人間のことを気に懸
け る こ と の 説 得 に 着 手 す る ( 900b3-8)。
第 二 の 議 論 の こ の 序 論 的 部 分 ( 899d5-900c6 ) に 次 ぐ 本 論 的 部 分 は 、 前 半
( 900c7-903a9 ) と 後 半 ( 903b4-905d4 ) に 分 か れ る と 見 な し て よ か ろ う 。 神
による魂の再配置の話は、後半の大部分を成す。
まず前半で、
“ 人 間 は 宇 宙 全 体 の 中 で 小 さ な も の に 過 ぎ な い が 、宇 宙 を 配 慮 す
る神は、大小を問わず宇宙のあらゆる部分を配慮する”ことが次のように証明
さ れ る 。も し 神 が 小 さ な も の は 配 慮 し な い と し た ら 、ど う い う 可 能 性 が あ る か 。
(神には小さなものを配慮する能力がないということは考えられないので
〔 901d2-10〕、)〔 ア 〕 小 さ な も の は 配 慮 し な く て も 、 宇 宙 全 体 に 影 響 が な い か
ら 、小 さ な も の は 配 慮 し な く て よ い と 神 が 考 え て い る か 、
〔 イ 〕小 さ な も の も 配
慮しなければならないと考えているが、無頓着や安逸のせいで、小さなものの
配 慮 を 怠 っ て い る か 、 の ど ち ら か し か な か ろ う ( 901b4-c7)。
だが〔イ〕ではありえない。神はあらゆる徳を持つ(第一の議論でそう同意
さ れ て い た )。だ が 無 頓 着 や 安 逸 は 徳 で な く む し ろ 悪 徳 に 属 す る 。だ か ら 神 は 無
頓 着 で も 安 逸 で も あ り え な い ( 900c9-901a10)。
また〔ア〕でもありえない。宇宙を配慮する者はその小さな部分をも配慮し
な け れ ば な ら ず( こ の 点 に つ い て の 論 拠 は 直 接 に は 挙 げ ら れ て い な い )、神 が そ
れ を 知 ら な い と い う こ と は あ り 得 な い ( 901d2-7)。 特 に 人 間 に つ い て 言 え ば 、
人間は神を最も敬う動物であり、神の所有物(牧畜)なのだから、神は人間を
配 慮 す る の が ふ さ わ し い ( 902b5-10)。 ま た 、 死 す べ き 職 人 で さ え 、 世 話 す る
対象の全体を善い状態にするためにその小さな部分に配慮する。神はなおさら
そ う す る と 考 え な け れ ば な ら な い ( 902d2-903a6)。
〔ア〕でも〔イ〕でもないのだから、神が小さなものに配慮しない可能性は
ないことになる。ゆえに神は大小を問わず、あらゆるものに配慮する。ゆえに
人間にも配慮する。これが、第二の議論の本論的部分の前半で与えられる証明
のあらましである。
42
『ギリシャ哲学セミナー論集』IX 2012
前 半 か ら 後 半 へ の 移 行 部 ( 903a10-b3) で ア テ ナ イ か ら の 客 人 は 、 こ れ ま で
の議論は、神は人間のことを気に懸けていることを理詰めで説き伏せるものだ
ったが、若者を十分に説得するには、これに加えてある「魅惑する(呪文の働
き を す る ) 話 ( epō[i]dōn ... mūthōn)」 が 必 要 だ と 言 う 。 な ぜ 前 半 の 議 論 だ け
で は 不 十 分 で 、 後 半 の 話 が 必 要 に な る の か に つ い て 、 Stalley は 適 切 に も 次 の
よ う に 説 明 す る 。す な わ ち 、
「神は人間のことを気遣うということの証明にたと
え説得力があるように思われるとしても、その結論は経験的事実と矛盾するよ
うに見える。われわれの知る世界では悪しき人々が栄え、善き人々が不遇であ
る よ う に 見 え る の だ ( 899d-900b)」、 そ こ で 死 後 の 賞 罰 の ミ ュ ー ト ス を 持 ち 出
す 必 要 が 生 じ る 、 と 説 明 す る ( 2009, p. 202)。 次 節 で 筆 者 は 、 後 半 の 話 が も つ
「 魅 惑 ( 呪 文 )」 の 力 が 何 に 存 す る か に つ い て 、 こ の Stalley の 指 摘 を 補 足 す
る論点を述べる。
3
第二の議論の本論的部分の後半を見よう。先ずアテナイからの客人は言う。
万物は、その全体が保全されてよき状態にあるようにと、宇宙全体を
配慮している者によって秩序づけられており、そしてそれらの部分もま
た、可能なかぎり、それぞれがそのものにふさわしい能動や受動の働き
をしているのである。しかも、これらの部分のそれぞれにはつねに、そ
れの能動や受動の働きのきわめて小さなことまで監督支配する者たち
( archontes)が 定 め ら れ て い て 、そ の 部 分 の 末 端 に い た る ま で こ れ を 完
全なものに仕上げているのである。
さて、強情な若者よ、君という小部分もまた、それらの一つであり、
きわめて微々たるものではあるにせよ、つねに宇宙全体へ目を向けなが
ら 、 そ れ に 寄 与 し よ う と し て い る も の な の だ ( morion eis to pān
sunteinei blepomen āei)。と こ ろ が 君 に は 、ま さ に そ の こ と が 、つ ま り 、
すべての生成は、宇宙全体の生に幸福がもたらされるようにという、そ
ういう目的のために行なわれているのだということが、分っていないの
である。君のために生成が行なわれているのではなく、宇宙全体のため
に君はつくられているのだ、ということがね。
〔中略〕
ところが君は、そのことに不満をいだいている。しかしそれは、君に
次のことがよく分っていないからなのだ。つまり、君に関することは、
宇 宙 全 体 に と っ て 最 善 な も の と な り 、 ま た 君 に と っ て も 、〈 君 と 宇 宙 と の
43
荻原理
共通の生まれが持つ力〉の限り、最善なものとなるのだ、ということが
ね ( hopē[i] to peri se ariston tō[i] panti sumbainei kai soi kata
dunamin tēn tēs koinēs geneseōs)
16 。
( 903b4-d3)
神による宇宙の配慮はその細部にまで亘ること、配慮の代行者たる「監督支
配する者たち」
( ダ イ モ ー ン な ど の こ と で あ ろ う )が お の お の の 存 在 者 に 配 さ れ
ていることを述べた後、アテナイからの客人は宇宙の小さな一部分である若者
に、若者自身と宇宙との関係をどう理解すべきかを告げる。すなわち、若者は
(自覚しているといないとに拘わらず)自分自身に相応しいことをしたりされ
たりしており、それにより、宇宙全体の善きあり方の保全に貢献しようとして
いるのだ、彼の存在理由は宇宙の幸福の実現に対する彼の寄与に存するが、彼
に関する物事は、宇宙全体にとって最善のものとなるし、また彼自身にとって
も、彼が宇宙と生まれを共通にしている程度(理性的に支配されている全宇宙
の一部であり、かつ、それ自身理性を分け持つ存在である、その程度、という
意 味 で あ ろ う か )、最 善 の も の と な る 、と 。こ の よ う に 、若 者 に 対 し て 、宇 宙 に
おける彼自身の位置、彼自身の存在意義についての積極的なヴィジョンを示し
ていることは、第二の議論の本論的部分のこの後半の話が、前半の議論にない
「 魅 惑( 呪 文 )」の 力 を 有 す る と さ れ る 所 以 の 一 つ だ と 思 わ れ る 。
(序に言えば、
そのメッセージを伝える際、アテナイからの客人は叱責ないしそれに類する口
調を用いる
17 。 こ の よ う に 語 気 を 強 め て 若 者 に 迫 っ て い る こ と も 、
「魅惑」の
力 の 源 泉 の 一 つ だ と 言 え る か も し れ な い 。)
上の引用箇所でアテナイからの客人が直接言っているのは、宇宙の一部分た
る若者は、自らにふさわしいことをなし・なされなければならない、宇宙全体
に貢献しようとしなければならないということではなく、現に自らにふさわし
い こ と を な し ・ な さ れ て い る ( paschei kai poiei〔 直 説 法 現 在 〕)、 宇 宙 全 体 に
貢 献 し よ う と し て い る ( eis to pān sunteinei blepomen) と い う こ と だ 。 だ が
もちろん、若者が自己の存在理由を正しく弁えた上で生きるか否か(またこれ
と 関 連 し て 、正 し く 敬 虔 に 生 き る か 否 か )で 、具 体 的 に 何 を な し・な さ れ る か 、
宇宙に対してどう貢献するかは大いに変わるとアテナイからの客人は考えてい
16
加来訳では、
「 君 の 場 合 に も 、宇 宙 全 体 の た め に 最 善 と な る よ う な あ り 方 を す る
こ と が 、君 と 宇 宙 と は 生 ま れ を 共 通 に す る も の で あ る が ゆ え に 、君 自 身 の た め に も
最 善 と な る の だ 、 と い う こ と が ね 」。 こ の 箇 所 の 読 み 方 に つ い て は 本 節 の 後 に 論 じ
る。
1 7 「 強 情 な 若 者 よ 」 903c1、
「 と こ ろ が 君 に は 、・ ・ ・ と い う こ と が 、 分 っ て い な い
の で あ る 」 c2-3、「 と こ ろ が 君 は 、・ ・ ・ に 不 満 を い だ い て い る 。 し か し そ れ は 、 君
に 次 の こ と が よ く 分 っ て い な い か ら な の だ 」d1、
「 少 年 よ 、い や 若 者 よ 、君 は・・・
よ う に 思 っ て い る け れ ど も 、・ ・ ・ 」 904e4、「 そ れ は 君 が 、・ ・ ・ を 知 ら な い か ら
で あ る 」 905b6、「 し か し 君 は 、 世 に も 大 胆 な 者 よ 、 そ の こ と を 知 る べ き で あ る と
ど う し て 思 わ な い の か ね 」 905c1-2。
44
『ギリシャ哲学セミナー論集』IX 2012
よう。
続 く 箇 所 で ア テ ナ イ か ら の 客 人 は 、神 に よ る 魂 の 再 配 置 に つ い て 語 り 始 め る 。
ところで魂は、いまはこの肉体、次はあの肉体というように、たえず
肉 体 と 結 び つ き な が ら 、自 分 自 身 に よ っ て か 、あ る い は 他 の 魂 の 影 響 で 、
多種多様に変化するのであるから、かの将棋指し〔にもなぞらえられる
宇宙の主宰者――加来の補〕にとっては、次のこと以外には何の仕事も
残っていないわけである。つまり、より善い性格のものとなりつつある
魂をよりよい場所に、より悪しきものとなりつつある魂
18 を よ り 悪 い 場
所に、それらのそれぞれをふさわしい仕かたで移し変えながら、かくし
て、それぞれの魂が自分にふさわしい運命を引き当てるようにする、と
い う こ と で あ る 。( 903d-e)
このようにアテナイからの客人は、魂の再配置の話の語り出しで、魂が輪廻
転 生 す る こ と に 触 れ る 。こ れ は 、あ る 人 間 の 生 を 生 き た 魂 の 神 に よ る 再 配 置 は 、
この次何に生まれ変わるかの差配としてなされることを示唆すると思われよう。
実際、これに続く話も、大まかにはほぼそのような枠組みに則ってなされると
見ることができる。
さて、もしある人間として生きている間の性格の道徳的向上・堕落の故に魂
が再配置されるのが専らその人間の死後であって、生きている間はそうした再
配置がなされないのだとしたら、アテナイからの客人のメッセージはある意味
で 単 純 だ っ た だ ろ う 。そ の 場 合 の メ ッ セ ー ジ と は す な わ ち 、
“不敬神でありなが
ら、あるいは不敬神な行為のおかげでこの上なく幸福になった(と少なくとも
思われる)人間がいるが、彼らは死後に相応の罰を受ける定めなのだから、羨
むに値しないし、また彼らの存在は、神が人間のことを気に懸けないとする証
拠にもならない”というものだ。実際、これが再配置の話の主なメッセージだ
と思われる。ただし、語りが進むなかで事情は少し複雑になる。
続 く 悪 名 高 く 難 解 な 903e6-904a4 の 解 釈 に こ こ で は 立 ち 入 ら な い 。 い ず れ
にせよ、世界が特定の存在論的秩序・構造を持っているおかげで、魂を含む諸
事物の神による秩序付けの作業は無際限に複雑なものにはならないことが言わ
れているものと考えられる
19 。
アテナイからの客人は続ける。
さて、そういうわけで、魂をもつかぎりのものはすべて、自分自身の
18 加 来 訳 で は 「 よ り 善 い 性 格 の も の と な っ て い る 」
、「 よ り 悪 し き も の と な っ て い
る 」。
「 な っ て い る 」だ と“ な り お お せ た 。そ し て そ の な り お お せ た 状 態 が 続 い て い
る ”と い う 完 了 の 意 味 に 取 ら れ る 恐 れ も あ る の で 、進 行 相 で あ る こ と を は っ き り さ
せるために「なりつつある」とした。
1 9 e7 の 語 は 写 本 通 り ‘empsūchon’ と 読 ん で お く 。 Saunders が ヘ ラ ク レ イ ト ス
への言及を見るのは正しいと思われる。
45
荻原理
なかに変化の原因をもっているのだから、変化するし、そして変化すれ
ば 、〔 至 高 の 神 に よ っ て あ た え ら れ た 〕 運 命 の 定 め と 掟 に 従 っ て 運 ば れ て
行くわけです。つまり、性格の変化がより小さくてより僅かなものであ
る場合は、大地の表面にそって移動するだけであるが、その変化がより
大きくて、より不正なものとなった場合は、いわゆる地下の世界へと深
く 落 ち て 行 く の で す 。 そ こ は 、「 ハ デ ス 」( 冥 界 ) と か そ の 他 こ れ に 類 す
る名前で呼ばれているところであり、人々は生きている間も肉体を離れ
てからも、夢にまで見たりしてたいへん恐れているところなのです。
そして魂が、自分自身の意志によってなり、他の者との交わりの強い
影響によって、悪徳でも徳でも、さらにいっそう多い程度にこれを得た
場合には、つまり、もしそれが神的な徳との交わりによって、きわ立っ
て神的な性質のものになったのであれば、その場合は確実に、どこか別
のもっとよい場所へ運ばれて、まったく神聖な特別の場所に移ることに
なるし、他方、それとは反対の性質のものになった場合は、反対の場所
へと自分の生活を移すことになるのです
20 。
( 904c-e)
ここで(少なくとも主に)語られている魂の再配置は、人間として生きてい
る 間 、格 別 善 き も の と な っ た 魂 は 、死 後 、
(輪廻を脱して?
21 )特 別 善 き 場 所 へ 、
格別悪しきものとなった魂は(輪廻を脱して?)特別悪しき場所へ移り住み、
そのどちらでもなかった魂は、
( 間 を 置 か ず ? )人 間( な り 他 の 動 物 な り )と し
て再び地上に生まれて来る、というものであろう。魂の善し悪しに応じた賞罰
である。
『 法 律 』の こ の 話 は 、
『 ゴ ル ギ ア ス 』、
『 パ イ ド ン 』、
『 国 家 』、
『 パ イ ド ロ ス 』の
死後のミュートスといくつかの点で異なる。いかにも神話的と言えるような細
部の描写を欠いているし、賞罰に先立つ裁きの段階がない(ただしそうした点
で の 『 パ イ ド ロ ス 』 と 『 法 律 』 の 対 比 は 比 較 的 は っ き り し な い )。
魂 の こ の 再 配 置 は し ば し ば「 自 動 的 」と 特 徴 づ け ら れ る 。軽 い 物 は 水 に 浮 き 、
重い物は沈むように、善い魂は自ずと上昇し、悪い魂は下降する、というわけ
だ 。 そ う 考 え て Saunders 1973 は こ の 『 法 律 』 の 話 を 「 科 学 的 」 と 形 容 し て
いる。神が魂を裁くという神話的表象を脱している(神話から科学へ)という
意味合いがある。
こ れ に 対 し て Stalley 2009 は 、 神 は 魂 の 再 配 置 の シ ス テ ム だ け 構 築 し て 、
後は自動的過程に任せたとは言い切れない節があることを指摘する。すでに構
20
加来訳でアテナイからの客人の言葉は、若者に向けられたものと、クレイニア
ス ・ メ ギ ッ ロ ス に 向 け ら れ た も の と に 振 り 分 け ら れ る 。こ こ で「 で す 」・「 ま す 」体
になっているのは、この箇所の言葉が老人たちに向けられていると解されたため。
21 か ど う か 、 実 は 決 め 難 い 。 諸 家 も 指 摘 し て い る こ と だ が 、
『 法 律 』の 魂 再 配 置 の
話はこのように、曖昧な点が多い。
46
『ギリシャ哲学セミナー論集』IX 2012
築 し た シ ス テ ム を 前 提 と し つ つ も 、神 は「 将 棋 指 し 」と し て(「 監 督 支 配 す る 者
たち」を介して)宇宙を配慮し続けているとも言われているのだ、と。
Saunders 1973 は よ り 初 期 の 諸 対 話 篇 に お け る 死 後 の ミ ュ ー ト ス か ら『 テ ィ
マ イ オ ス 』・『 法 律 』 の 話 へ の 変 化 を 、 応 報 的 ・ 過 去 志 向 的 刑 罰 観 か ら 治 癒 的 ・
未 来 志 向 的 刑 罰 観 へ の 変 化 に 応 ず る も の と 説 明 し た( Saunders 1991 で は 、原
始的な神話を語って知識人に笑われないよう、
『 テ ィ マ イ オ ス 』の 科 学 的 説 明 体
系 を 利 用 し た と 説 明 し た )。悪 事 に 報 い る 怒 れ る 神 は 後 期 対 話 篇 の 話 に は い な く
なり、魂の受ける罰は魂自身の末来のためのものとなったというわけだ。これ
に 対 し て Stalley は 、応 報 で な く 治 癒 と の 刑 罰 観 は『 ゴ ル ギ ア ス 』・『 プ ロ タ ゴ
ラ ス 』に ま で 遡 る も の で 、
『 法 律 』で 初 め て 出 て き た も の で は な い と 適 切 に 指 摘
する。
この点に関連して筆者の気に掛かるのが、
『 法 律 』の 魂 再 配 置 の 話 で 、悪 い 魂
が悪しき場所に行くというその罰によって自らの悪を癒されるのかどうか、全
く 明 ら か で な い と い う こ と だ 。 確 か に 、 903d1-3 の 文 言 を 、“「 君 」( あ る い は
よ り 一 般 に 、魂 )に 起 こ る こ と は す べ て「 君 」自 身 に と っ て 最 善 な も の と な る ”
という意味に解するなら、アテナイからの客人によれば、悪い魂が受ける罰は
そ の 魂 に と っ て 益 で あ る こ と に な ろ う 。 だ が そ の 文 言 は 、“ 君 に 起 こ る こ と は 、
君 と 宇 宙 と の 生 ま れ が 共 通 で あ る 程 度 だ け 、君 自 身 に と っ て 最 善 な も の と な る ”
(君と宇宙との生まれの共通性は限られたものであり、場合により、君に起こ
ることが君によって必ずしも最善とは言えないこともあり得る)という意味に
解することができる
22 。ま た 、罰 が 益 を も た ら す こ と に つ い て ア テ ナ イ か ら の
客人は明確には何も言っておらず、また、今見た箇所がそのほのめかしである
可 能 性 を 度 外 視 す れ ば 、ほ の め か し さ え な い ― ― こ の 事 実 は 、
『 法 律 』の こ の 話
において、死後に何が起こるかについての特定の見解に対するコミットメント
が な る べ く 避 け ら れ て い る と い う Stalley な ど も 指 摘 す る 一 般 的 傾 向
23 の 事
例と見なすことができよう――。のみならず、悪しき場所に行き、そこに留ま
るという罰が魂にとってどう益になり得るのか、推測しようにも見当が付かな
いのだ。確かに、裁く神(や罰する刑吏)が悪しき魂に対して、これからお前
が受ける苦しみは罰なのだ(あるいは治癒のためなのだ)と言ってきかせるの
であれば、その苦しみが治癒の効果を持ち得るというのは理解できる。だが、
ただ苦しむだけで、魂の悪が取り除かれたり弱められたりするというのは理解
Cf. Mayhew pp. 170-1.
Stalley 2009. よ り 前 の 諸 対 話 篇 に お け る 死 後 の ミ ュ ー ト ス と 較 べ て の こ の 特
徴 の 所 以 を Stalley は 、 よ り 前 の ミ ュ ー ト ス で は 哲 学 者 に な る 重 要 性 が 打 ち 出 さ
れ て い た が 『 法 律 』 で は そ う で は な い こ と 、『 法 律 』 の 対 話 相 手 の 若 者 は 伝 統 的 神
話 を 軽 蔑 し て い る こ と に 求 め て い る 。Saunders は『 法 律 』の 死 後 の 話 が そ れ ま で
と違う理由を、関連する問題についてプラトンの見解が変わったことに求めるが、
こ れ に 対 し て Stalley は 文 脈 の 相 違 に よ っ て 説 明 す る 。
22
23
47
荻原理
し が た い( そ れ さ え も「 自 動 的 」過 程 だ と い う の か ? )。そ こ で 筆 者 は 、ア テ ナ
イ か ら の 客 人 は 、悪 し き 魂 が 受 け る 害 に 、
( 少 な く と も 直 接 に は )魂 を 治 癒・改
善する効果を認めてはいない
24 と い う 可 能 性 を 示 唆 し た い 。も し そ う だ と す る
と 、 こ れ は 『 法 律 』 の 死 後 の 話 が 『 ゴ ル ギ ア ス 』、『 パ イ ド ン 』、『 国 家 』 の そ れ
と相違する点の一つに数えられることになろう。
『 法 律 』の 話 で は 、悪 く な っ た
人間の魂が改善される機会は、この世に生きている間しかないとされているこ
とになる。
最 後 に 引 用 し た 箇 所 の 前 で 、魂 の 再 配 置 は「 徳 の 勝 利 と 悪 徳 の 敗 北( nīkōsān
aretēn, hēttōmenēn de kakiān)」( 904b) の た め に な さ れ る と 言 わ れ る 。 徳 の
勝 利 、悪 徳 の 敗 北 と は 何 を 言 う も の か 。
“ そ れ ま で 徳 と 悪 徳 が 戦 っ て い た が 、と
うとう前者が後者を打ち負かした”という宇宙史・人類史上の特定の段階を言
うものでないことは明らかだ。むしろ、より善くなりつつある魂がより善い場
所へ、より悪しくなりつつある魂がより悪しき場所へ移されてゆくという態勢
を「徳が勝利しており、悪徳が打ち負かされていること」と(現在分詞で)表
現したものであろう。人間界の悪徳を根絶することはできない。神がなしてい
るのは、自らを原因として悪しくなりゆく魂(そして善くなりゆく魂)が、そ
れにふさわしい定めを受けるように配慮することである。この論点は、筆者が
前段落の最後で示唆した点と整合的である。そして「宇宙全体の保全と善きあ
り 方 」( 903b5-6) と は 、 人 間 の 魂 た ち と い う 宇 宙 の 小 さ な 部 分 に 関 し て は こ の
ような再配置の態勢を意味するところの、諸天体を含む全宇宙規模での善き秩
序の実現状態を指すのであろう。
4
魂の再配置についてアテナイからの客人は次いで以下のように言う。
つまり、ひとはより悪い人間になれば、より悪い魂たちのところへ行
くし、より善い人間になれば、より善い魂たちのところへ行って、この
世に生きている間も、死んでいる間のどの時期においても、似たものが
似たものに対してなすのがふさわしいことを、相手からなされたり、相
手 に な し た り す る よ う に な る の だ 。( 904e)
前に、より善くなりつつある魂が運ばれる先であるより善い場所、そしてよ
904d4-6 で 、 魂 は 悪 し き と 強 く 交 わ る こ と で ( dia ... homiliān genomeneēn
ischuran)よ り 悪 し く な る こ と が 含 意 さ れ て い る の な ら 、か の 悪 し き 場 所 で 魂 は 悪
し き 魂 た ち と 交 わ る の だ か ら ( 904e)、 い っ そ う 悪 く な る と い う こ と に さ え な る か
もしれない。
24
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『ギリシャ哲学セミナー論集』IX 2012
り悪しくなりつつある魂が運ばれる先であるより悪しき場所と言われたものは、
それぞれ、他のより善い魂たちのいる場所、他のより悪しき魂たちのいる場所
のことであったとここで判明する。この箇所で判明することがもう一つある。
それは、魂の再配置は人間の死後だけでなく、人間として生きている間にもな
されるということだ。
先ず、死後の再配置について見よう。格別善くなった魂が、人間としての死
の後に向かう先には、やはり格別善くなった魂たちがいる。善き魂たちは互い
に益し合う
25 ( こ れ が 具 体 的 に ど の よ う な 事 態 な の か は 言 わ れ な い )
。このよ
うに自分の同類から益されることが、人間として生きていた間格別の徳を身に
付けたことの“褒賞”である。格別悪しきものとなった魂が死後向かう先(ハ
デスのような)には、やはり格別悪しきものとなった魂たちがいる。悪しき魂
た ち は 互 い に 害 し 合 う ( こ れ が 具 体 的 に ど の よ う な 事 態 な の か は 言 わ れ な い )。
このように自分の同類から害されることが、生きていた間格別の悪徳を身に付
けたことの“報い”である。
だがそのような“賞罰”が、死後のみならず、人間として生きている間にも
起 こ る と い う の だ 。こ れ に つ い て は 第 5 巻 728b-cを 参 照 す べ き で あ る 。そ こ で 、
悪行をなす人は悪しき人々と似てき、これと交わるようになるし、また、交際
相手である悪しき人々から悪しきことをされるが、これらのことが悪行に対す
る最大の報いであると言われる。
『 国 家 』第 9 巻 に お け る 、魂 に お い て 僭 主 的 で
あり、しかも実際に僭主になった者は、望ましくない悪しき人間たちに取り囲
まれる定めにあるという論点も同趣旨のものと思われる
26( た だ し 、僭 主 的 人
間が自らの満たされぬ欲望ゆえに苦しむという視点は『法律』のその話にはな
い )。前 節 の 最 後 か ら 二 つ 目 の 段 落 で な し た 示 唆 と の 関 連 で 言 え ば 、生 き て い る
間のこのような移住、すなわち、悪しき者たちに囲まれて害されることのうち
に、アテナイからの客人が、魂を改善する力を見ているとは考えられない。こ
れは治癒的効果と関わりのない罰であろう。
生きている間に、より悪しくなった者がより悪しき魂たちの所に行くという
の を Mayhew は 、上 の「 序 」で 見 た 、
『 法 律 』第 10 巻 の 結 び( 不 敬 神 法 の 本 文 )
で言及される、不敬神な者が牢獄で他の囚人たちと暮らす定めを先取りして指
すと解する。だがこの解釈は採れない。なぜなら第一に、目下の想定問答でア
テナイからの客人は若者に、神が人間を配慮していることを証明しているのだ
から、この議論で、より悪しくなった者がより悪しき魂たちの所に赴くことが
語られるとき、その移動は神の差配によるものであるはずだ。だがマグネシア
25
善 き 者 は 益 し 、悪 し き 者 は 害 す る と い う 原 理 は『 弁 明 』25c-e の ソ ク ラ テ ス が 語
るものでもあった。
2 6 Cleary, p. 136.
49
荻原理
において不敬神な者が牢獄に赴くのは、神の差配によるというよりは、他の住
民の通報と、通報を受けた役人の告訴と、裁判官の判決と、担当役人の護送・
収 監 と い う 一 連 の 人 間 的 営 為 に よ る と 言 う べ き だ 。確 か に マ グ ネ シ ア に お け る 、
法律・国制に則った営為は、神の宇宙支配を代行する営為だとアテナイからの
客人は考えているだろう。だが、神がわれわれを配慮していることを疑う者を
説 得 し よ う と し て い る と き 、こ の 事 例 を 引 き 合 い に 出 し て も 説 得 力 が な か ろ う 。
第二に、アテナイからの客人が若者に、神による人間の配慮など、マグネシア
の国教信条が正しいことを説得しているのは、ある意味で、マグネシアにおい
て国教信条を信じるよう命じ、これに従わないものを処罰すること(処罰のた
めの設備を整えることも含む)が正当であると示すためである。その文脈で、
不敬神な者を処罰するために作られたマグネシアの施設で起こることを引き合
い に 出 し た の で は 、一 種 の 論 件 先 取 で あ ろ う 。さ ら に 言 え ば 、Mayhew の 解 釈
では、囚人たちが共に暮らしつつ互いに害を与えあうとされていることになる
が、不敬神な者を収容する牢獄が、多くの個室でなく共同部屋から成ると解す
べき格別の根拠はない。
さて、魂の再配置が、人間の死後のみならず生きている間にもなされるとさ
れ る こ と で 、再 配 置 の こ の 話 の メ ッ セ ー ジ は 複 雑 に な る 。先 に も 述 べ た よ う に 、
不敬神で幸福な人間(と少なくとも思われる者)は確かに存在するが、彼らは
死後に罰を受けるのだ、というだけならメッセージはある意味で単純だっただ
ろ う 。 だ が そ こ へ 、〈 不 敬 神 で あ り 、 幸 福 と 思 わ れ て い る 人 間 〉 が 存 在 す る が 、
彼らは実は幸福ではなく、生きている間にもすでに罰を受けているのだ、とい
うメッセージが言わば滑り込んでくる。それにより、話がややごたごたする。
神が人間を配慮する旨を若者に説得するのに、死後の再配置と、生きている間
の再配置のいずれか一方だけ示せば十分だというのに、両方について語られて
いるからだ。ただし両論点は別に緊張関係にあるわけではない。不敬神な者は
先ず生きている間に他の悪しき者たちによって害され、死後にも、他の悪しき
魂たちによって害される、と言われていて別にまずいことはないからだ(両方
の罰があるのは、一方だけでは不十分だからなのか、というような問いが生じ
る か も し れ な い が )。
このようにもう一つのメッセージが滑り込んできたことの背景にあったかも
しれない事情を筆者は次のように推測する。悪しき者が生きている間に受ける
罰というのはわかりにくい(アテナイからの客人が語り掛けている若者にとっ
ても、両者の問答が書き留められたものを不敬神法の「序文」として読むマグ
ネ シ ア の 住 民 に と っ て も わ か り に く い だ ろ う )。〈 不 敬 神 で あ り 、 こ の 上 な く 幸
福だと思われる者たち〉は実は、悪しき者たちに囲まれて、害されることで罰
を受けているのだと言われても、そう言われる人は、彼らの富、名誉、家族の
50
『ギリシャ哲学セミナー論集』IX 2012
繁栄などの言わば“輝き”に目が眩まされて、彼らが惨状にあることとはなか
なか認められないかもしれない。これに対して、ハデス送りなどは(それが実
際 に 起 こ る と 信 じ て も ら う こ と が 条 件 だ が )、そ れ が 悪 し き 経 験 で あ り 、罰 と し
て機能することを認めてくれるだろう。そこで、神が人間を配慮するというこ
とをよりよく理解してもらうために、客人の話の焦点は、死後の魂の再配置の
方に合わせた。だが、生きている間の再配置も、できれば(できるだけ)わか
っ て ほ し い 事 柄 だ 。 だ か ら 、 第 二 の 議 論 の 前 半 の 初 め の ほ う で ( 899e)、 不 敬
神 な“ 成 功 者 ”は 実 は 幸 福 で は な い と 断 言 し て お い た し 、後 半 の 今 見 た 箇 所 で 、
その論点を目立たない形で滑り込ませもした、と。話の二層のオーディエンス
の一方であるマグネシアの住民について言えば、生きている間の再配置につい
てそれなりによく理解してくれる住民は比較的少数だろう。できるだけ多くの
住 民 に わ か っ て も ら う た め に 、 死 後 の 再 配 置 を ク ロ ー ズ ・ ア ッ プ し 、「 ハ デ ス 」
のような通俗的概念に訴えもした。だが、生きている間の再配置についても、
わ か っ て く れ る 住 民 が 少 し は い る だ ろ う し 、 す ぐ に わ か ら な い 住 民 も 、「 序 文 」
を繰り返し読むなかでわかってくることが期待されるので、目立たない形では
あるが忍び込ませておいた、ということになろうか。もしそうならここに、異
なった種類の人々に同時に語り掛けること、そして書き物を通じて人々に語り
掛けることにまつわる配慮が顔を覗かせていることになる。このように、様々
の人に同時に語り掛けること、書き物を通じて人に語り掛けることは、困難で
あると同時に、ポリスの統治の場面で不可欠である。その必要性と困難につい
ての鋭い意識をプラトンは有していたと思われる。
【後記】
セミナーの場やその後に有益な質問やコメントを下さった諸氏ならびに司会
の納富信留氏に感謝申し上げる。質疑応答の一部を以下に記す。
荻 野 弘 之 氏 は 903b1 の ‘epō[i]dōn ... mūthōn’ に 関 し 、 こ の 語 句 が 複 数 形 で
あ る こ と の 意 味 、 そ の 話 が epō[i]doi な 説 得 力 を 持 つ と さ れ る 所 以 を 訊 か れ た 。
なお考えたい。
神 崎 繁 氏 は 、 903b4-7 で ( 人 間 も 含 め ) 万 事 に 神 的 配 慮 が 貫 徹 し て い る と 言
わ れ て い る ( ‘paschei kai poiei’ は 直 説 法 ) の な ら 、「 な ぜ 悪 が 生 じ る の か 」 の
弁神論的問題が生じるのではと指摘された。セミナーの場で述べなかった点も
混ぜてお応えすれば、そこで言われる神的配慮とは、万事を無条件に最善たら
し め る も の で は な く( そ れ な ら た し か に 、な ぜ 悪 が 生 じ る の か わ か ら な く な る )、
それぞれのものを「可能な限り」善くあらしめる配慮だ。悪しき物事の存在・
51
荻原理
発生は言わば初めから認められている。特に言えば、ある魂が(その自己運動
により)悪を欲し悪をなすことはもとより認められている。だが、そうした条
件下でできるだけ善が優勢、悪が劣勢となるような配慮がなされているという
のだ。
渡辺邦夫氏は、マグネシアが恐ろしい社会なら、なぜプラトンはそんなもの
を構想したのか訊かれた。統一性、帰属感を社会の唯一の価値とみなす(われ
われには受け容れられない)前提があったからだ(ただしその前提の下ではマ
グネシアはよく構想されている)とお応えした。また氏は、悪しき者は死後に
罰を受けるだけでなくこの世でも、悪しき者たちと共にあらねばならないとい
う 考 え に つ い て 『 テ ア イ テ ト ス 』 176e-177a を 参 照 さ れ た ( 氏 の 『 ア リ ス ト テ
レ ス 哲 学 に お け る 人 間 理 解 の 研 究 』〔 東 海 大 学 出 版 会 、 2012 年 〕、 pp. 108f. 参
照 )。
岩田靖夫氏は『法律』でプラトンが無神論と悪を結びつけたり、信仰を社会
の丑帯として要請したり、魂再配置で話を落としたりしていることを哲学的に
ど う 正 当 化 で き る か を 問 わ れ た 。こ れ に 対 し 一 つ に は 、
『 法 律 』で 無 神 論 的 思 想
と道徳的堕落の結びつきは実はやや複雑であること、一つには、筆者自身は無
神論者であり、客人の有神論的議論を受け入れないことを述べた。
栗原裕次氏は『ゴルギアス』などでの、癒し得る悪しき魂と癒し得ない悪し
き魂の区別と『法律』との関係を訊かれた。また、矯正所での無神論者との対
話は、単なる装いでなく本当に考えを変えることを目指す、ソクラテスのエレ
ンコスとも通じる知的営為ではと言われた。筆者は、既定の信条を受け入れな
ければ殺される「対話」はソクラテスによるエレンコスと似ても似つかぬもの
だとお応えした。
田 中 享 英 氏 は 魂 の 、生 時 の 再 配 分( ど ん な 人 た ち と 共 に 時 を 過 ご す か の 問 題 )
は高級な話であることを指摘され、そのオーディエンスはやはりマグネシアの
住民全般というより、優秀なる無神論の若者たちでは、と訊かれた。筆者は、
老人たちはマグネシアの住民に魂の生時の再配分などの難しい話もなるべくわ
か っ て ほ し い と 願 っ て い る 旨 ご 指 摘 し た ( cf. 890e-891a)。
中畑正志氏は『法律』のディスコースの構造の扱いにくさを『国家』と対比
し つ つ 問 題 化 さ れ た (『 国 家 』 で は ソ ク ラ テ ス と 哲 学 熱 心 な 若 者 、『 法 律 』 で は
客 人 ら 、諭 す よ う に 語 る 老 人 た ち 。
『 法 律 』の 対 話 が マ グ ネ シ ア で 学 ば れ る べ き
だ と 『 法 律 』 自 身 に よ っ て 位 置 づ け ら れ て い る こ と )。『 法 律 』 を 、 馴 染 み の プ
ラトン対話篇と同じように読めるのか。筆者はさしあたり、クレイニアス、メ
ギッロス(や多くのマグネシア住民)に哲学的素養がないために客人の議論が
モノロジカルになり、内容も彼らに理解できるものに制限されはするが、想定
問答の導入などにより議論が多層的になる箇所もある点をご指摘した。
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『ギリシャ哲学セミナー論集』IX 2012
丸橋裕氏は客人らと若者の対話を「訓戒」というよりむしろエレンコスと解
し 、899c の 最 後 通 告 の 言 葉 に 、相 手 が 囚 人 で あ る に も か か わ ら ず 対 等 な 関 係 を
可能な限り確保しようとする意図を看、したがって『法律』で自由は蔑ろにさ
れ て い な い と 述 べ ら れ た 。 上 の 第 1 節 第 4-5 段 落 参 照 。
山本巍氏は、
『 法 律 』の ミ ュ ー ト ス は 、正 し い 人 が 正 し い 生 き 方 に ま す ま す 巻
き込まれていくとする点で『国家』のエルの神話の第二版ではないかと指摘さ
れた。筆者は、エルの神話中に「正しい人は生の選択により、正しい生き方に
ますます巻き込まれていく」という考えを見出せない旨を述べた。氏はまた、
社会の法のコンテクストでの<不正>と、永遠の前に立たされ、宇宙的意義を
になう人間の<罪>との、区別と繋がりを問題にされた。プラトンにそのよう
な<罪>の概念などないと断ずる者は、氏と対話などできまい。
納富氏は、
『 法 律 』で 宗 教 は「 イ デ オ ロ ギ ー 」と し て 機 能 し て い る と す る ス コ
フ ィ ー ル ド に 反 対 (「 宗 教 」 と い う 語 の 使 用 の 不 適 切 性 も 指 摘 )。 プ ラ ト ン 政 治
哲学において神〔への信〕は、統治の便宜のために採用される原理的に代替可
能な一方策などではなく、より根本的なものだと述べられた。
引用文献
プ ラ ト ン 著 、 加 来 彰 俊 他 訳 『 法 律 』( 上 ・ 下 ) 岩 波 文 庫 1993 年 。
Cleary, J. J., ‘The Role of Theology in Plato’s Laws ’ in F. L. Lisi (ed.), Plato’s
Laws and its Historical Significance , Academia Verlag, 2001.
Dillon, J., ‘Platonism and the World Crisis’, Dublin Centre for the Study of
the Platonic Tradition, 2007 (reprinted in 2010; available also on internet).
邦 訳 「 プ ラ ト ン 主 義 と 、 世 界 の 危 機 」『 思 想 』 2006 年 第 11 号 。
Mayhew, Plato: Laws 10, Oxford U.P., 2008.
Saunders, ‘Penology and Eschatology in Plato’s Timaeus and Laws ’,
Classical Quarterly, 23, 1973.
― , Plato’s Penal Code, Clarendon, 1991.
Schofield, M., ‘Religion and philosophy in the Laws ’ in S. Scolnicov and Luc
Brisson (eds.), Plato’s Laws: From Theory into Practice , Academia Verlag,
2003.
― , Plato , Oxford U.P., 2006.
Stalley, R. F., An Introduction to Plato’s Laws, Blackwell, 1983.
― , ‘Myth and eschatology in the Laws ’ in Partenie (ed.), Plato’s Myths,
Cambridge U.P., 2009.
[ 本 稿 は 2010・ 2011・ 2012 年 度 科 学 研 究 費 補 助 金 基 盤 研 究 ( C) 「 プ ラ ト ン に お け る 「 死
後 の 神 話 」 の 哲 学 的 意 義 の 国 際 的 研 究 」 ( 課 題 番 号 22520004) に よ る 研 究 成 果 報 告 の 一
部である。]
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