1996_エリア山口25号

AREA YAMAGUCHI
4
第 25
ロ育・
工 リア山口
1996年 1 月
【研究】
毛利家文庫「日本図」中の周防・長門図について
...・ H ・..…...・ H ・..… 川村博忠(
尾道の景観構成におけるー試論一尾道水道を事例として
1)
・ H ・ H ・ ..… 高田準一郎 (11)
下関市における住宅団地の形成……・…...・ H ・.....・ H ・.....・ H ・........・ H ・-市川
徹 (23)
【地理教育】
萩藩作成「一村限明細絵図J 宇部村の図を
利用した地域学習(ー)…・…… H ・ H ・. . .・ H ・...… H ・ H ・...・ H ・...・ H ・....・ H ・. . .藤井正彦 (37)
【地域調査】
離島の若者対策一下関市蓋井島を例として
・… ....・ H ・.....・ H ・-…...・ H ・ -地理学談話会 (4 1)
【資料】
宝暦巡見使に備えた萩藩の地理情報
一『御巡見一事』 より -
【学会記事】
...・ H ・..... .・ H ・.....・ H ・.....・ H ・.....・ H ・..…...・ H ・-川村博忠 (5 1)
...・ H ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・ パ ・・ ・・ ・・・ ・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・ ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・・・・ (
5
7
)
【平成 7 年度巡検記録】
...・ H ・ .... .. .・ H ・. .. .・ H ・-…...・ H ・....・ H ・. ..・ H ・-… ...・ H ・...・ H ・ H ・ H ・....・ H ・ ( 58)
【他学会等からの寄贈文献】
【地理学研究室だより】
【高校地理教育の現況】
…・・ ・・・・ ・・・・・ ・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (
6
0
)
... ・ H ・. .・ ・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(
61
)
…・…・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・ ・ ・ ・・ ・ ・・・・・・ ・ ・・・・・・・・・・・・ ・ ・・・・・ ・ ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・・・・・・ (
6
2
)
山口地理学会
THEYAMAGUCHIGEOGRAPHICALASSOCIATION
山
口
地理学
.A
.A
=コE
員Ij
(昭和57年 6 月改正)
1.名
称
本会は山口地理学会 (THE
YAMAGUCHIGEOGRAPHICALASSOSIA-
TION) と称する。
2.
目
的
本会は地理学の研究とその普及発達をはかることを目的とする。
3.
事
業
本会はその岳的を達成するために、次の事業を行う。
4.
会
員
(1)
研究会・講演会・巡検会の開催
(
2
)
会誌などの刊行
(
3
)
その他本会の呂的を達成するために必要な事業
(
1
)
会員は本会の主旨に賛同し、所定の会費をおさめるものをもってする。
入退会は役員会の承認を要する。
(2)
本会に対し、とくに功績のあったものを総会の議決をもって名誉会員
に推薦することができる。
5.
役
員
会員の互選によって会長 1 名、副会長 l 名、会計監査 2 名、常任委員若干
名をおく。
会長は本会を代表し、常任委員会は会務を処理する。役員の任期は 2 か年
とするも再任はさまたげない。
6.
会
5義
本会は毎年 l 回以上総会を聞いて重要事項を議決し、随時役員会を開いて
運営事項を審議処理する。
7.
年
度
8.
事務局
本会の年度は 6 月 1 日から翌年 5 月 31 日までとする。
本会の事務局は山口市大字吉田 1677 - 1 山口大学教育学部地理学研究室内
におく。
付
則
1
. 本会の会則の施行に必要な事項を細員IJ として別に定める。
2
. 本会は支部をおくことができる。
エリア山口第25号
1
9
9
6
毛利家文庫「日本図J 中の周防@長門図について
Jl I
村博忠
ている。毛利家文産と佐竹文庫図が簡略図である
1.はじめに
のに対して高葵文庫と永背文庫図は描写・彰色が
山口県文書館所蔵毛利家文庫中の「日本図 J
丁寧である o 4 文産圏の比較の甑要については先
26) は各屈を
述の損論を参照していただきたい。ここでは毛利
一枚ずつに仕立てた 68枚の全国…揃いの手書きに
家文庫「日本図J についてのみ、その様式・内容
よる略盟絵霞である O この盟絵留と同類の全国一
を少し詳しく紹介しておく。
(毛利家文産自録第三分間、五八
揃い盟絵菌が秋田県文書館の佐竹文庫にも現存し
毛利家文庫の「日本国J は蝦夷(松前)と琉球
ている O そのほか東京大学総合密書館の詣葵文庫
を含めず、睦奥田より大瞬国まで日本金器68 カ圏
と熊本大学の永膏文庫にも全国一揃いではないも
を i 枚ず、つに仕立てた全国一揃いの国絵図である。
のの、山陰・山陽・南海道を中心に 15 カ関前後の
68枚の各図はいずれも等しく縦横を 30X21 センチ
伺類恩給闘が存在している O このことについて、
メートルに折り畳み、一括して田合套形式の番棋
筆者はさきほど r竪史地理学JI 37巻 5 号にで紹介
に包み込まれている。
し、この略国絵歯 (1 日本六十余州、i 略国絵圏 j と
各畠ほぽ一議の描写・彩色で搭かれており、全
総称する)は、寛永 10年の幕開巡克箆の冨趨りに
部に格紙による裏張りが施されているが、これは
よって集められた諸国の国絵閣の縮写図ではない
後世の補強のための施しとみられる。菌幅は最大
だろうかとの見解を示した 1) 。
の睦奥国で縦158センチメートル、横235センチメー
寛永巡見箆盟絵閣とみなした根拠の一つに日本
トルであって、その他には一辺が 2 メートルを超
六十余列、i略国絵図のうち南葵文庫と永育文庫中の
すような大きい函幅のものはなく、国の大小によ
伯嘗国絵図に限って圏中に 5 名の領主名の記載が
る違いはあるものの多くは縦横およそ 1 メートル
あり、その在任期間よりこれら略国絵留の成立期
前後の大きさで忘る。防長再留の場合は、周肪国
を寛永 10年(1 633) 墳と推定したものである。と
が83Xl48 センチメートル、長門出が 92X 138 セン
ころが、その後に南葵文庫図を再調査したところ、
チメートルである 2 )。
先自の調査では見落としていた開文庫関中の周防・
長円高田絵留にも領主名の記載があることが判明
図中の間示内容にも国ごとによる大きな差異は
ない。各国とも函中のほぼ中央に題名を掲げてお
した。この克落としていた領主名の検討に加えて
り、その国名は二重線で器取った方形枠で閉まれ
日本六十余州略国絵留中の周防@長内の場合の留
ている。郡ごとに掲げる郡名は菌名の方形枠より
示内容を慶長国絵霞と比較して、今少し詳し調べ
も小さくて細い方形枠で題んでいる。村々は小判
てみたい。
型の村形で示し、村形内には村名のみを記載して
1I.毛利家文塵「日本図J の概要
毛利家文庫の「日本図J と同類の日本六十余州
村高は一切記載していない。道路は朱線を引いて
しているが、郡界隷も朱引きしているため道路
と郡界線の見分けができにくくなっている 3) 。
略国絵函は佐竹文庫、南葵文庫および永膏文庫に
山地は「へj の字形の山型模様で、欝略に表現し
も現存しているが、 68 カ冨全部を揃えているのは
ている。河川は擁して川幅を広く描くのが特徴的
毛利家文庫と佐竹文庫のものだけである。 4 文庫
である。居城は四角の中に丸輪を描き、その中に
の国絵留は国ごとに図轄の大きさはおおよそ開じ
域名を記載する関式で全関統一されている O ただ
で、図形や図示内容もほぼ共通していいるものの、
し、後述の罵妨・長門両国を除いて、ほかのすべ
山岳や樹林、社寺などの描写・彩色は趣を異にし
ての国絵留には領主名の記載は全くみられない。
仰ぎ叫内
門間判m
「M
U
計図」門δ
廿hm3
臨
-M
仰ぎ以内UN
桝m
「悶外醤」号δ温習困
"
図
図
古城は居城に較べて小さ自の四角形を用いて示し
の全冨いずれにもその模写時期を藍接語る年紀の
ている。圏直の方位は四辺の中央に「東 J í西 J
記載は見出せない。ただ、それを知る手掛かりは、
f期 J í北」の文字を向き合わせに記して示してい
全盟のうちわずかに周防・長門両国に隈って認め
る。隣国へ通ずる道筋が国境を越える箇所には、
られる領主名の記載である。ここに記載の領主名
その道筋が隣国のどこへ至るかの注記がなされて
はその墨色、字体からして国絵図を模写する際に
いる。
補記されたものとみなされる。
期防盟絵留に記載される領主名は、岩田古城に
図中の彩色は海河・湖沼などの水系を藍生で薄
く着色するほか、国境・郡境・道路を共に朱色で
「吉川底スム都濃郡の野上に「今徳山ト言、毛利
表現する以外には彩色がなされていなし、。藍色に
飛騨守居ス j とある。長門国絵歯には府中古城に
よる水系も一部の国によっては着色が省かれてい
「毛利甲斐守居j、清末に「毛利内膳居」とある。
る。道筋と郡界線を向じ朱色で筋引きしたり、山
野上は徳山の古い地名である O 元和 3 年(1 617)
地の表現を「へJ の字の山型で簡略に表現したり、
に萩藩主毛利廃就の弟就陸へ 3 万石の分知で始まっ
一部では水系の着色を省いたりしていることによ
た下松藩は慶安 3 年 (1650) に藩邸を近村の野上
り、毛利家文庫の「日本図j は簡略化した模写函
に移し、問所の地名を徳山と改称して徳山藩となっ
であることを印象づけている。
た。徳山藩主のうち「飛騨守J を称したのは 3 代
鹿.毛手11 家文塵「日本思J の接写時期
(
1
6
9
0
) ~正徳 6 年(1 716)
の毛利元次であり、その藩主在任期間は元禄 3 年
であった。長門の府
中(長府)の「毛利甲斐守」は長府藩主毛利網元
毛利家文庫「日本留j は全国のすべてにおいて
図示事項および表現様式がほぼ共通していること
のことであり、その該当期間は寛文 4 年(1 664)
からして、この全国一揃い闇絵圏はばらばらに模
~宝永 6 年(1 709) であるり。清末の f毛剥内膳j
写されたものではなく、ある時期に一斉に写し取
は清末 2 代藩主毛布i元平であって、その該当期間
られたものであろうと考えられる。しかし、 68枚
は天和 3 年(1 683) ~宝永 6 年(1 709) である 5 〉 O
図3
周防思(密 2 )の部分、紡飛付近
3
題4
長門歯(函 1 )の部分、長府付近
以上をまとめて考えると、周防@長門菌絵閣に
を指識した 6)O その 5 名の領主と在所は米子域
記載される 3 名の領主が揃う時期は、元禄 3 年
(荒尾内在)、倉吉町(荒尾志摩)、河村郡松崎
(
16
9
0
) ~宝永 6 年 (1709) の 19年間ということ
(和田武騨)、八矯郡八橋(津田内記入日野郡黒
になる。ところで、全国6散の割合図のうち周防@
坂(指田内膳)である O
長門の高田にのみ領主名の記載があり、しかも周
高葵文庫は和歌山藩主徳川家、永青文庫は熊本
防の都濃郡に野上を記して「今徳山ト言j の注記
藩主細川家にそれぞれ伝わる史料であって、国幡・
があることからして、この国絵関の原拠函は野上
伯蓄両E留を支配した鳥取藩主池田家のものではな
が掠山に改称された慶安 3 年 (1650) 以前に成立
いことからして、伯害国に記載される上記 5 名の
していたものであり、この毛利家「日本国」はそ
領主名は国絵圏模写の捺に補記されたものではな
の模写圏であって、その模写時期が元禄 3 年~宝
く、恐らく原拠関に記されていたものをそのまま
永 6 年の 19年間であったものと考えられる。萩藩
き写したものであろうと判断される。したがっ
がこの全国一捕いの国絵閣を写し取る擦に、自領
て、この 5 名の領主全員の揃う時期を検討した結
の防長時間に限って支藩の領主名を補記したので
果、その期間は寛永 9 年(1 632)
あろう。
(1634) の 3 年間に限定された。寛永 10年には江
~向日年
戸幕府が全国を 6 区に分けて 6 組の巡見能によっ
IV. 高葵文庫留中局防@長門の舘烹記載
て全国の国廻りを分担させている 7) 。各組の巡見
と原拠国絵図の成立時期
箆は国廻りを終えたあと巡見報告に合わせて分担
筆者は先の論文において、毛利家文庫「日本図J
諸国の国絵図を将箪に上納しているので、この日
をはじめとする日和汁余州略国絵図の原拠となっ
本六十余州、i略国絵図の原拠となった国絵圏こそ、
た国絵関が寛永巡毘使と関連のあることを推定し、
寛永 10年巡見使国絵閣であろうと推定したのであ
その論拠のーっとして、南葵・永青間文庫図のう
る。
ちの{自書国に記載される 5 名の領主名のあること
-4
ところで、日本六十余州略国絵図に関する先の
表1
甫葵文庫図の局肪・長門に記載の領主名
~f~
lヌIlfl のよ己紋
名
官民 1:の'Jf名と談 ~'jmJll\J
談 ~ímJII\J
元は毛利氏の防長両国安堵に伴い豊東・豊語・豊
田郡内に 3 万6.000石を与えられて長府を居城と
協耳・主 j罰
官)'U ,牢;
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i Ji~
了IJ II~美総
周
俗的
プi~l_j越 Ijíj 就,W] 寛永 2- ~日J
1
7(
16
25-1
6
4
0
)
以上の結果、 6 名の領主の揃う期間は、三丘の
防
下必
'ß手 IJ F
l
I
曻
i i沈降 JC干 [J8-波及;
3(
16
22-1650)
宍戸就尚の領主在任の寛永 2 年 (1625) "'"'-'同 17年
1
]
;
{
i [
毛利山城 ヌ乙m r:L永 2-íE保 2
(1625-1645)
(1640) の 15年間に限定される。この期間は、日
長
I
"
J
1主
長封:f
)!名
の毛利率斐守は長府藩初代の毛利秀元である。秀
I
K
i
E ゴ正和 4-)j治元( 1618-1658)
し、慶安 3 年 (1650) に死去している。
16
08-1651)
松平長I"N 3号就 慶長 13-/;)Q安 4 (
本六十余州略冨絵図の原拠図の成立を寛永 9"'"'-'11
(
16
00-1
6
5
0
)
年であるとした先の拙論の報告と矛蔵するもので
毛利 1 (1斐,j' 禿JC !!ll長 5-凌安 3
はなく、それを満たすものである。今回の検討は
拙論をまとめる際には克落としていたが、その後
その原拠留の成立を寛永巡毘使上納国絵図との関
の再調査により南葵文庫図の周坊と長門にも領主
連にて推定した先の結論に問題のないことを証明
名が記載されていることが判明した 8) 。その荷図
に記載される城所ないしは在所と各領主名は表 1
の通りである。ただし、圏中に記載の領主名は岩
盟の「古) 11 美濃j 以外はすべて暴筆によるが、吉
川美濃だけは朱書である。
し、先の結論を補強する結果ともなった。
V. 周防・長門両国の図形と図示内容
国形江戸幕府へ上呈された潤紡・長門商自の
国絵図は慶長、正保、苅黍各度ともその操顕が残っ
古川 i 美濃は岩菌 2 代領主の吉川広正である。広
ている 9) 。防長両国の菌絵図の図形は慶長田絵留
正は慶長 19年 (1614) に年少にして家督を相続し、
から正保田絵図に至って大きく変化し、正保から
元和 4 年 (1618) 美濃守叙任、万治元年 (1658)
元禄に至っては新田開発による海岸線の変化など
内蔵助へ改め、寛文 5 年 (1665) 致仕、同 6 年
を除けば関形の変化はほとんど認められない。日
(1666) に死去している O 宍戸氏は萩藩主毛手IJ 氏
本六十余介i 略国絵間中の馬防・長門両国の図形を
の一門で、熊毛郡三丘を本拠とする領主であり宍
それらの鴎絵閣と比較すると、その図形は明らか
戸越前は就肖である。就肖は寛永元年(1 624) に
に慶長田絵障の形態に艶似していて、正保・元禄
家督を継ぎ、最初佐波郡右田に住したが、寛永 2
菌絵留とは大きく異なっていることを先の拙論に
年(1 625) に領地替えにて三丘(松崎)へ移住し、
て指摘したところである。したがって、ここでは
向 17年 (1640) に死去している。
さらに毛利家文庫「日本鴎J の周防と長門に図示
毛利日向は下松の初代藩主毛利就躍である。就
陵は毛利輝元の次男で萩藩主毛利秀就の弟であり、
される河川水系について、慶長および正保国絵到
の場合と比較してみよう(図 5 参照)。
元手口 3 年萩本藩より都濃郡に高 3 万石を分与され、
水系図中の水系は慶長国絵図とほぼ同様に描
岩所を最初下松に定め下松藩を興したが、慶安 3
かれている。毛利家文庫「日本図」は日本六十余
年(1 650) に居所を下松西方の野上村に移して問
州、i略国絵臨の中でも河)11 の持揺を支流までも太く
所を徳山と改称した。就睦の臼向守叙任は元和 8
描いていて、圏中にて水系が燕手状に見えるのが
年(1 622) であり、延宝 7 年(1 679) に死去して
特徴である。周肪では主要な河JII としては搭野JII 、
いる。本図では毛利日向の居所か下松であるので、
佐波)1 1 、島田 )11 、錦)1 1 、それに安芸との国境河川
状況は野上(徳山)への移転前とみなされる。
右田の毛利山城は一円右田毛利家の 2 代毛利元
である小瀬川が搭かれるほか、小河川では夜市川、
富田 )11 、東) 11 、末武)11 、切戸)11 、杉P井)1 1 、由宇JII 、
倶である。寛永 2 年(1 625) 領地を熊毛郡三丘か
通津)1 1 などが描かれている。長門では瀬戸内側の
ら佐波郡右田に移され、正保 2 年(1 645) に死去
主要河川として木屋川、摩挟川、摩東)1 1 、北浦側
している O 萩の松平長門守は初代萩藩主の毛利秀
の主要伺川としては粟野)1 1 、何武川が支流を含め
就である。毛利輝元の長男秀就は慶長 5 年
て流路が長く描かれている。小冊川では有帆)1 1 、
(1600) の関ケ原の戦い後に紡長時間を安堵され
綾羅木) 11 、)1 1棚川、大坊)11 、深) 11 )1 1 、三構)1 1 、田
た。同 13年 (1608) に松平の称号を賜り、長門守
万)1 1 などの描写を見ることができる。ただし、図
に叙任、慶安 4 年(1 65 1)に死去している。長府
中に河)11 の名称についての記載は一切なく、この
5-
表2
慶長田絵図と「日本六十余州略国絵図J における周防・長門の郡村記載比較
重量
大昌利可'\
大島郡
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主義
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ことは慶長国絵図に同じである。
郡数周防の国絵闘では慶長以来、一貫して国
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内の郡分けは 6 郡であって、毛利家文庫の「臼本
図J でも 6 郡で区分されている。これに対して、
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長門の庖絵閣では正保までは 8 郡の区分であって、
元禄以捧の顕絵鴎では全て 6 郡に変更される。寛
文部知での郡数変更によるものである。つまり、
8 郡の場合の長門では厚東・車狭・美祢・豊東・
長門慶長関絵国
聾西・豊田・大津・阿武に分けられていたが、 6
郡の場合になると車狭・美祢・豊浦・大津・見島・
阿武郡である。つまり、摩東・車狭南郡を合わせ
て軍狭郡に、豊東・豊西・豊田の 3 郡を合わせて
豊浦郡に、従来大津郡に入れていた離患の見島を
見島郡に独立させ、これを加えて合わせて 6 郡と
したものである。毛利家文庫「日本函 J では崩防
は 6 郡、長門は 8 郡で仕立てられており、寛文 ED
知以前の郡分けの状態を見せている。
村名
毛利家文庫「日本図J 中の長門霞
図示内容の主題は郡村記載であって、郡
分けにより村々が小半日型の村形を用いて逐一示さ
れている。ただし、既述のごとく、図中の村々に
村高の記載はなく、村形の枠内には村名のみが記
されている。毛利家文庫「日本図」に村形をもっ
て図示される助長珂自の村々を慶長田絵閣の場合
と比較してみると、表 2 のごとく毛利家文庫「日
本図」の場合がより多くの村々を図示している。
例えば長門の阿武郡では慶長国絵図では小判型の
村形で示される村の数は 31 に過ぎないのに、毛利
家文庫「百本図」では 95であって 3 倍もの多さで
F吋今~
ある。
周防慶長留絵閤
慶長国絵閣が本村だけを図示しているのに対し
て、毛利家文庫「臼本歯」では枝村のほか小村ま
でも舎めて顕示しているためである O ただし、全
ての郡で小村まで漏らさず図示しているのではな
く、例えば吉敷郡では慶長田絵臨と毛利家文庫
「日本国J で村の図示数はほとんで同じである。
ついでに毛利家文庫「日本図」に記載の郡村を南
葵文庫国絵関の場合と比較してみると、前者では
村名に「村J の下字をつけないのに、後者では多
くの村で村名下字を記している点で相違している。
ただし図示する村数や村名は、転写の際の誤写や
毛利家文庫「日本国J 中の周防関
写し落としと判断されるものを除けば基本的には
関内容とみなされる。
国5
慶長国絵閣と毛利家文庫「日本留 j の防長両国
に図示される函形と水系の比較
口。
羽.おわりに
日本六十余ナトi略酉絵図のうち南葵文庫国の周紡・
長門に記載される 6 名の領主の該当期間について
描写・彩色の相違することとも合わせて、 4 者は
共に間ーの国絵図を原拠とはするものの、前 2 者
と後の 2 者は別系統の模写圏であることを思わせ
る。(山口大学)
検討したところ、それは寛永 2 -17 年
(1 632-1634) の 15年間であることが分かった。
これは筆者が先の論文で伯替の記載領主名に基づ
注
1)Jl I村博宏、
(1995)
寛永田絵図の縮写図とみ
いて検討した該当期間の寛永 9 -11 年
られる「日本六十余州略盟絵圏」、歴史地理
(1 632-1634) を満足させるものである。このこ
学37-5 、 pp.1-17.
とにより、日本六十余州略国絵図の原拠闘の成立
2)前掲 1 )参照。
が寛永 10年の巡見使冨廻りによって収納された国
3)敷き写しによる模写のため筋色の区別を見失っ
絵図であるという結論の信悪性は一層強まった。
たものと推測される。
江戸幕府は寛永 10年(1 633) に幕府開設以来は
4)毛利織元の長府藩主在任は承応 2 年(1 653)
じめての試みとして、全国を 6 区に分けて巡見使
~宝永 6 年 (1709) であるが、甲斐守叙任は
の国廻りを実施し、各組の巡毘使は巡察のあとそ
寛文 4 年 (1664) であった。
の報告に合わせて分担諸国の国絵図を将軍へ提出
5)毛利元平の清末藩主在任は天和
3 年 (1683)
~享保 3 年 (1718) であるが、宝永 6 年
している。日本六十余州、|略国絵図はこの寛永巡見
使国絵図を顕拠とする、その縮小図が大名関で写
(1709) には讃蚊守に叙任しているので「内
し伝えられたものではないかと推測される。毛利
膳J と記すのはそれ以前ということになる。
家文庫「日本臨」はその一つであって、これが写
6) 前掲 1 )。永脊文庫の伯嘗国絵躍は、『細川家
された時期は元禄 3 年~宝永 6 年であったと考え
!日記・古文書分類自録』正編 8 、
られる。
「北陸道・山陽道・酒海道・山陰道・甫海道」
4 丙 36 番
毛利家文庫「日本図j の周防・長門間盟の輪郭
41枚中に含まれている。南葵文庫の位嘗国絵
は慶長田絵鴎に酷似しているものの、図中の地名
圏は『甫葵文庫蔵書自録』地理及び歴史図表
記載は小村までも記していて慶長田絵図よりはる
かに豊富である O また、その地名記載を高葵文庫
の項、 J81-8認 rf白書国留J。
7)山崎真一郎(1 957)
江戸幕府の巡見使につ
国の場合と比較すると、基本的には内容の一致が
いて、滝川博士選麿記念論文集(二)、
認められるものの、南葵文庫鴎では村名の多くに
p
p
.
8
7
3
8
9
0o
村名下字を伴うものがあって異なっている O
8) r南葵文庫蔵書目録J 地理及び歴史国表の項、
「崩紡国函 J (J81-1137) と「長内国間」
日本六十余州、i 略国絵関のうち毛利家文庫 rB 本
図」の地名記載は佐竹文庫圏に一致しており、高
葵文庫図は永青文庫図に一致している。このこと
(J81-1128) 。
9)慶長田絵図は字部市立図書館、正保・元様国
は毛利家・佐竹間文庫図と南葵・永背両文庫図は
絵図は山口県文書館に所蔵。
9-
10-
エリア山口第25号
1
9
9
6
尾道の景観構成における一試論
一尾道水道を事併として一
高間準一部
し、「尾道に住む人々にその魅力があった」とい
1
. 問題の所在
うまとめであった。
1)観光都市としての尾道
WB 本地誌j
尾道 1) は、多くの観光客を引きつける魅力ある
(1978 ,
p.389) は、尾道を次のよ
うに記述する。
街である。映簡のロケ地になった影響も見逃せな
「尾道はまた観光でも有名である。この地域は
い。とくに、大林宣彦監督作品でいえば、「転校
瀬戸内海閤立公圏に含まれ、千光寺山や鳴滝山な
生J 01時をかける少女J
01 さびしんぼう j
の三部
と、からみる瀬戸内の眺望は実にすばらしい。また
作、それに加えて「ふたりム最新作の「あした j
市岳地は港町として古い陵史をもち、数少ない非
(1 995年公開)などがある。いずれも、屠道を舞
戦災都市でもあり、ミ手続の多い古い町並みは独特
台にした物語となった。また 1995年だけでも、 3
の鼠情をもっている。寺院には文化財・史跡が豊
本のテレビ CM がこの地で撮影された。
富で文学にもゆかりが深い。千光寺のサクラや菊
「柏村武昭のテレビ宣言J のテレビ番組では、
「ふるさと尾道は元気ですj のテーマで小特集を
人形、 f文学の小路J は多くの観光客を魅了して
いる」。
組んだ 2 )。尾道のいったいどこに魅力があるのか。
「千光寺山や鳴滝山なと、からみる瀬戸内の眺望
この番組では、「人々のくらしぶりのかしこさ J3)
は実にすばらしい j とある。本稿では、尾道の街
や「人々のふれあい、親切さ j などり人情に言及
がもっ視覚的な景観構成にその魅力を探ってみた
い。そのためには、
どのように「実に
すばらしいのか」
を具体的に分析し
なければならない。
つまり、尾道の街
がもっ景観的価値
に着自するという
景観論的方法によ
る分析である。
2) 分析の手JlI~
戦後、景観論に
ついては、土木工
学・建築学・都市
計画学といった専
門分野が担ってき
た感があった。し
第 1 霞:銭光パンフレット (A) に掲載された写真。千光寺公園から尾道水道そ望んだ構図
である。なお、(
)内のアルファベットは、注の 5) に整理した観光パンフフレッ
トの記号に対応する。以下の第 4 図、第 5 図でも同様。
1
1
かし現在では、自
燃特・社会科学・
人文科学などの学
際的な協力のもとで、より良好な都市や地域の創
レット=印刷メディアに掲載された尾道水道の写
造、保全が試みられている。
真を素材にして、景観構成の分析を試みた。つま
とくに、工学系の樋口(1 975
;198 1)、芦原
(
1
9
7
9;1983) 、紙野(1 980) 、落合(1 987)
り、この写真を一つの景観区として、まとまりの
など
あるものとしてとらえ、分析の対象とした。この
の景観分析や中村 (1982) のワ…ズワースに言及
分析によって、景観構成における尾道水道のもつ
する景観論は、示唆に富む。人文系では、古川ほ
意味を検討する。
か(1 992) が、環境問題に関連させながら環境イ
この検討は同時に、より良好な都市や地域の創
メージ論として風景論を展開し、農村景観につい
造、保全などに関わる地域開発、および観光パン
ては、勝原(1 979) 、時橋 (1993) 、横山(1 993) 、
フレットニヱ叩制メディアがとらえた尾道のイメー
進士ほか (1994) の論考などがある。また、記号
ジ分析の問題に帰着するはずである。
論的な意味での分析としては、 F 身体と場所の記
号論JI (1993) のほか、佐々木(1 990) の「畿内
の四至」を対象にした景観の記号化、成瀬
(1993) の「代官山 j を素材にした文化的情報メ
ディアへの論及などがあげられる。
II. 景観構成の分析(
1)
1)千光寺公園からの眺望景観
素材としての尾道水道の写真は、千光寺公閣か
らみた眺望景観である。千光寺公圏は、高度 120
しかし、印刷メディアなどに関連した景観論的
-140m ほどの中国隆起準平原のもっとも低い平
な分析は、郵便切手の図案を素材にした斉藤
坦地に位置している。春には、「桜名所 100選J に
(1 992) の「日本の新しい風景美としてのサンゴ
も選ばれた 1 万本ほどの桜が咲き、大勢の花見客
礁」の論考、佐藤(1 994) が社会学的な視点から
でにぎわう。初夏になると、つつじゃふじの季節
「風景論」を展開した試みなどがあるにすぎない。
となる。公盟内には、尾道市立美術館や千光寺グ
そこで本稿では、分析の対象として、観光パンフ
リーンランドなどの施設がある。また、散歩道
第 2 図:尾道水道周辺、 5 万分の l 地形図「尾道 J (平成 3 年修正)。千光寺公爵(視点)ェム、
被線の方向 =Q で示した。
-12-
さらに樋口は、これまで分類を参考にし、①可
視・不可授、②距離、③境線入射角、④不可視深
度、⑤街角、⑥伺角、⑦奥行、⑧日照による陰陽
度の 8 つの指標を設定した。
ここでは、近景一中景一遠景という概念、と距離
との概念、を援用し、第 1 閣に示した景観を分析す
C
る指標とする。
まず、第 1 図の写真をもとに景観を分館化し、
第 3 図のように区分した。.....を施した部分が
海面で、尾道水道と松永湾にあたる。跳翠景観と
して、近景一中景一遠景が分節化されている。
...ι ー
風景写真に限らず、写真が視覚に訴える表現で
海関(尾道水道、松永湾)、 A 口尾道の市館場、
ある以上、プレーミングと画面構成は重要である。
B= 向島、 c= 植生、 D コエ若碑(林英美子の
どの空間を切り取るか。千光寺からの挑望景観で
第 3 図:第 l 図の写真における景観底分留。
文学碑)、 E
ロープウェイ。
は、第 1 図と罰嫌のプレーミングと画面構成の写
真を掲載したパンフレットが多い 4 )。第 4 留には、
「文学のこみち J が整錆され、道に沿って、尾道
それらの写真を示した。近景に石碑と槙生、中景
にゆかりのある志賀直哉や林英美子など、作家の
に市街地と尾道水道、対岸の向島、両岸を結ぶ建
文学碑や歌碑をみることができる。
道大橋、そして遠景に松永祷と沼隈半島および沖
観光パンフレットに掲載された写真は、第 1 図
合の島々などである。このように分節化された景
に示した。視点は、千光寺公留にある。第 2 図の
観の重なりが、眺望景観に変化や奥行きを与えて
地形図に視点とその方向を示した。景観を構成す
いる。第 5 図には、ロープウェイが尾道水道の海
る要素としては、中景の尾道水道を軸として、尾
岸線を切っていない構国の写真とその景観区分図
道の市街地と対岸の向島、時岸を結ぶ尾道大橋、
を示した。なお、分析の素材とした主魁\'l f ンフレッ
遠景の松永湾、 Æ臨半島および沖合の島々などか
トの一覧は、注の 5 )に示した。
らなる。さらに、添景のロープウェイや近景の植
生、林芙美子の文学碑がはいった構匿となってい
車.農観構成の分析(
2)
1)投影効果と轡蕗景
る。
第 3 圏で分節化された景観のなかで、とくに重
要なのは、海部である。躍進水道である。
2) 眺望景裁の分節化
眺望景観を分析する指壊としては、すでにいく
地誌Jl
r 日本
(1978, p
.388) では、「長さ約 5 也、幅
つかの楳念が提出されている。槌口(1 975 ,
200~1000m の東西に伸びる縮長い瀬戸で、水深
p.10) は、次のように整理している。
は一般に浅く、
5~13m である j と説明する O 中
「たとえば、仰観景、艇撒景、水平景などは、
山 (1984, p.76) は、「幅の狭い水道は、一見大
対象景に対する視点の位置のとり方により、眺望
きな川のようで、行き通う汽船、諺理のために停
タイプを分類しようとしたものである。近景、中
泊する汽組、向島との簡を行き来するフェリーな
景、遠景という概念、はいうまでもなく規点から対
と、大小さまざまな揺がみえ、活気のある景観となっ
象景までの距離により眺望のタイプを分類しよう
ている」と描写している。
としたもので、主景、添景などという擁念ととも
に、眺望透担形態についての構成・構図的概念、で
もある。どス夕、パノラマなどは、視界のひろが
りの度合いにより眺望のタイプを分類しようとし
たもので、そのほか、酪景、透景、借景などとい
う跳望のタイプを示す様念もある J。
水面は、景観構成において重要な意味をもっ。
一つは、投影効果(リフレクション)であり、も
う一つは、汀線(水捺の線)である。
投影効果は、水面だけがもっ大きな景観的効果
である。
第 3 図の景観構成で重要なのは、汀線である。
-13-
汀線の形態は、眺望景観に変化や奥行きを与える。
芦原 (1983, p
p
.56-57.) は、ゲシュタルト
理論を適用した「轡曲景j の考え方を紹介してい
第 4 図:第 1 函と罰様の構図の写真。右の写真は観光パンフレット (F) 、左の写真は観光パンフレット (H)
である。
第 5181: ロープウェイが尾道水道の海岸線を切っていない構留の写真と景観区分圏。.:.:.:.:.:=海面。凡例は、
第 3 図と同様。左の写真は観光パンフレット (A) 、右の写真は観光パンフレット (G) である。
-14
2)パスとエッジ
るo
f都市部における水辺の美しさには、自然と人
工との織りなす景観が重要であって、ただ単に自
リンチ(1 968) は、都市のパブリックイメージ
を、 5 つのエレメントに分類している。
5 つのエ
然が美しいだけではなく、自然と人工との調和が
レメントとは、パス
大切である。諸外国に行くと、海岸沿いのフ。ロム
(edge、縁)、ディストリクト (district 、地域)、
(path 、道路)、エッジ
ナードの構成が景観としてなんとも素晴らしいも
ノード (node、接合点、集中点)、そしてランド
のがある」と指摘し、外部j に響曲したものと内部j
マーク(landmark、目印)である。
に轡曲したものを対比的に説明する。「外側に響
曲したものは、進行方向に対し視線の切線が常に
この S つのエレメントを援用し、景観構成にお
けるイメージ分析の指標とする。
水面だけに及び、自然と人工との混じりぐあいが
尾道水道は、運河としての役割を担っている。
少ない(第 6 圏)。それに対し、内側に轡曲した
この意味では、パスとしてのイメージをもってい
ものは、視線の切線が水面と水際線とを問時にと
ると推定できる O パスには、運河のほか、街路や
りこみ、自然と人工の織りなす美しい景観ぞっく
散歩道、運送路、鉄道などがある。「多くの人々
りだす場合が多い(第 7 関 )J 。
にとっては、これらがイメージの支配的なエレメ
眺望景観における尾道水道の場合は、市街地担Ij
が内慨に轡曲し、対岸の向島が外側に響曲してい
また、睦地と水面との境界に着医すれば、尾道
水道の禅岸線は、エッジとして強く作用している
る。
また、この「轡出景」は、夜景においても重要
である 6)
ントになっている J (リンチ, 1964, p.56) 。
0
と推定される。エッジは、「海岸、鉄道線路の切
I特に夜景においては、外側に督曲し
り通し、開発地の縁、壁など、 2 つの局面にある
たものでは、街路灯などが等調隔に水商にうつり
境界であり、連続状態を中顕する線状のもののこ
空間の深さが演出されたり、次々とくりひろげら
とである J (リンチ,
れる景観を全体的に把握できる場合が多いのであ
のようなエッジというエレメントはおそらく、ノf
る J (芦原, 1983, p
.57) と指摘している。
スほど支配的なものではないが、それでも多くの
尾道水道もまた、「毘道夜景j が写真でパンフ
1964, p.56) 。さらに、「こ
人々にとって組立てのための重要な要素であり、
レットに紹介されている o I尾道夜景J では、海
とくに、水面や壁が都市の輪郭を形づ‘くっている
面が鏡のように機能し、光が海面に投影されてい
場合のように、漫然とした地域ひとつにまとめる
る。ゆらぎをもっ海面の投影効果は、空間の深さ
役割を果たす点で重要である J (リンチ,
が演出され、景観の質を高めている。
p.56) と指摘する。水面や壁の場合におけるエッ
1964 ,
ジのもつ役割の重要性を強調している。
第 6 図. .外観目撃警曲奈の構図(芦原,
1983,
p.56) 。
第 7 殴:内側響曲景の構図(青際,
-15-
19.田,
p.56) 。
密に結びつけてくれる。(中略)東京や大阪のよ
うな日本の大都会には、残念ながら街全体を術撤
。戸会問
するそれがなし、。横浜や神戸のような港町には、
いわいる「港の見える丘J が存在し、訪ねる人々
を思い出にふけらせたり感傷的にすることができ
る J 。尾道も罰様である。横浜や神戸における
「港の見える丘」にあたるものが、千光寺公園な
どである。
ただし、景観構成的には、麗門に近い。第 8 図
鼓,良燦
度内市内
第 8 図:慶門における景観概念函(片山,
1989,
に麗門の景観概念、留を示した。尾道の市街地が慶
門市内側、向島が鼓捜l塊側とすれば、尾道も向様
p.24)。
の景観援念国となる。第 9 圏に千光寺公園および
尾道水道付近を地形図で示した。
IV. 景観構成における尾道水道
片山 (1989, p.23) は、慶門の魅力を次のよう
1)鮪撒景としての尾道水道
に説明している o I麗門の魅力の第一は、それ自
分析の素材とした尾道水道の景観構成は、跳望
体が島でありながら、子供のような鳥鼓浪l壊を沖
景観であった。傭顕景である。芦原(1 979 ,
合にもつことにある O 渡し舟で 10分程度の距離に
p.125) は、僻撤景における見下ろすことの意味
あり、相互に“見る"。“見られる"視界がある」。
を次のように整理している。
続いて、魅力の第 2 を次のように説明している O
「都市景鰻における魅力の一つに見下ろすとい
「魅力の第二は、海に向かつて市街地を貫く中心
うことがある。見下ろすことにより、視線が迅速
軸一階山路にある。路はちょうど金物のヒートン
かっ的確に領域を把握し、見る人と街並みとを緊
のような平田形をしており、平地の蓋線部分と斜
第 9 図:千光寺公鼠および尾道水道局辺、 2 万 5 子分の 1 地形菌「尾道J (昭和 63年修正 X 1. 22) 。
-16
面部の曲線部分を持つ。したがって、坂の上部に
パスとしてイメージのほか、海岸隷がエッジとし
向かえば視界の閉じる度合いが増し、坂を下れば
て強く作用する印象効果など、景観的価値の指摘
徐々に開いて樽を見渡すという空間的な特徴に恵
ができょう。
都市においては、高題化などの再開発も重要な
まれている」。尾道では「文学のこみち」など、
石畳みの坂道や籍地がその魅力を拐っている。
テーマだ。しかし、経済的錨憶のみに還元できな
2)景観保全 iこ向けて
的価値との関係での高づくりも重要なテーマのー
い景観的価値の検討も大切である。これらの景観
第 10関は、プリンツ(1 984, p.22) による「自
っとなる。また、災害に対する危機管理からみた
然環境の中の建築」の項に示されているイラスト
市海地の整備などの検討も急務である。このよう
である。右側を北とすれば皇道の市街地艇に、左
な検討を標準化し、さらに深めるためにも、景観
側を南側とすれば向島側になる O 中央部分が罵道
生態学的な手法などによる楽しく、わかりやすい
水道である。現在の罵道水道の両岸地域は、「比
ガイドラインを早急に図る必要があるといえよう。
較的好ましい」関にあてはまるといえよう。
尾道市は、 2 年に 1 度、全国公募展として f絵
第 11 函も向様の項に示されているイラストであ
る(プリンツ,
のまち尾道四季麗J を関鑑している。現在までの
p.24) 。示唆に富む図であ
グランプリ(大賞)入賞作品 5 点のなかで 3 点が、
る。近年、沼市高地においても高層マンションの
いずれも尾道水還を描いたものである。その中の
建設など再開発の動きは活発である O 問題の一つ
2 点は、震道水道の投影効果をみごとに描いてい
1984 ,
は、建物の高層化にある。
る。
千光寺公園を規点とした眺望景観でいえば、尾
1 点は、尾道大橋からとらえた夕鶴の光線の
投影効果であり、もう l 点は、夜景における尾道
道水道を軸とした近景…中景一遠景の海面を配し
大橋や道路沿いの街灯の光が海面にゆらぐ投影効
た重なり、尾道水道における海面の投影効果、変
果である O 残りの 1 点は第 1 回農作品で、構間的
化のある轡曲農の形態、とくに喪景の譲出に大き
には、本稿で検討した眺望景観と変わりはない。
な効果を果たす響曲景の形態は重要である。また、
第四図にその作品を示した。ただし、近景の植生
景観構成におけるイメージとして、尾道水道は、
が針葉樹の松ではなく、広葉樹の桜である。色彩
建設以前の土地状況。
一大規筏に主連 jこ・切ニi をずれ\敷
地をーすらにして手Ijm 。自然策総
への lR 大な 'Fi表。
~f 常に好まし〈ない
一地勢と自然界、主立をできる限')変
えないようにするため,一 u患の
起伏にあわせ敷地を際段状にす
る。
比較的好ましい
第 10図.計磁の出発点としての地勢(プワンツ,
-17
1984,
p.22) 。
-ill~立以前の :1:. 地状況
引間1奴践の u出の起伏
-"'"幅制錨閣ぬ飽・勘』
..,.
』〆~寸n廿h丙午で .
.
.
.
.
臨罵'-_恒吋馳蝿開制間国騨師陣師岡 V
一樹車に高層捻築物を主主てること
により .
!州に好ましくない蹴
:1:.1也の;@{えと J1U日は|百i
ーレベルになる。
一向 I自に向精建築物を王立てること
により,二lニ jむの起伏はより強烈
例外的な場合 l 二 ~R ')可能な建設
され flþlJ 的 J (こなり,然、総に S!lt
い軍主幹を及ばす。
一一郎似こ面支な舟J きの迷築を上
|可能な献を
jf
ぴ
/
I也の走塁伏に合わせて~Ji ~:k し,
/
かえめに景絞にアクセン i をつ
/
/
ける。
一夜 J也に主主てた場合一一そびえる
戸一一 111 の起伏に対し.
!.民tJtしよ
うと 4 る車1) きを示す。
傾斜地における建物の配穏
A 土地の起伏はやわら If られる
が,
その代わり?見界とf1 ll\1が
きえき'ら il る。
日
土地の起伏はさらに強烈され
るが,筏界と日 H立をト分 1 ft る
ことができる。
第 11 図:土地の起伏と敷地の選択(プリンツ,
-18-
1984, p.24) 。
の初見は九三九(天慶二)年藤原純友の叛苦しに
従ったもののなかに、尾道六部の名がある(後
太平記)。古くから備後沿海に巣食う豪族の根
拠地であるとともに、内梅水路の要衝に位置を
占めた J (日本歴史大辞典嬬集委員会,
1968 , p
421) 。
2) 12 月 21 日(1 995) 放映。時間帯(1 7 :
0
0
1
9
:
0
0
)
0 RCC (中国放送)番組。
3)大林宣彦がインタビューで答えた言葉。なお、
観光パンフレットの「映画の中の尾道」には、
次の言葉が掲載されている。「罵道、坂道、さ
第 12 図
I絵のまち尾道四季展j 、第 1 回展グランプリ
びしんぼう。ふりむけば、どこでも海がきらめ
き、のどかな猫の鳴き声が追いかけてくる町、
(大賞)前原専二子春うららjJ 20F の作品。
誰もがいつか違ったひとのように想える町。£
の雰囲気は、パステル謂だ。
の中の町。古盟の町。この町を歩けば、自分の
本稿では、千光寺公園からみた視覚的な眺望景
足音が間こえる。自分の影が進む様が見える。
観の分析にとどまっている。観光パンフレットを
あ、ここに私がいる/とふと思う。要するに自
素材にした分析は、尾道のイメージ分析など、さ
分自身と出会うことのできる町だ。ならば思いっ
らに違った視点からの展開もできょう。また清水
きり迷子になるまで歩くのが良い。そうすれば
(1992) は、生命論など、新しい関係科学の次元
そこで、いつか失した筈の自分自身の心に、ふ
での場所のもつ「意味j を論考している O このよ
ともう一度出会えるかも知れないからだ J (尾
うな次元における景観的な視点からみた場所のも
つ「意味j の検討など、今後の課題も少なくない。
なお、波頭(1 993,
pp.256-259) による『経
道市産業部商工観光課ほか,
1995 ,
p.2 1)。
4)ガイドブックでは、撮影ポイントおよびべス
トショットを次のようにアドバイスしている。
済透視鏡J の「あとがきにかえて j は、景観を改
「尾道という街を知るために、ロープウェイ
めて考えるにあたって、示唆の富む内容が記され
で千光寺頂上へ登ってみよう。山頂の展望台に
ている。テーマは、「蛍ススキ
立っと、細長い尾道水道の向こうに向島や、大
たき火 J であ
小さまざまな島が点在する美しい屈最に出会う。
る。
天気のいい日には、遠く問国連山までの桃望が
付記
楽しめる。林芙美子の碑の前に立ち、うしろを
本稿は、広島史学研究会研究大会(1 992) 、お
ロープウェイが通ったときがシャツタ…チャン
よび環境地理教育部会 (1995) で報告した内容を
ス/
整理したものである o (æ愚大学F付属中高等学校)
ターズ,
坂道なので足元に気をつけてネ J (エテーイ
1995 ,
p.88) 。
5)分析の素材にした観光パンフレットは、以下
注
の通りである。いずれも入手時は、 1995年であ
1) f広島県の南西部に位置する市。東は福山市、
北は御調郡、西は三原市に接し、南は瀬戸内海
る。冊子になっていないパンフレットは、見出
しを示した。
に面している。背後に連山を控え、前面は尾道
水道を揺てて、儀後灘に通じている。!日市街地
A. 尾道市産業部商工観光課ほか:
nLOVE
は山陽本線・国道二号線に縦断された帯状都市
尾道何かを思いだすために何かと出会うた
である。新しく編入された町村は、階部は海に
めにJl
面し、北部は山間農村で、特異な都市形態をとっ
ている J (国史大辞典編集委員会,
1980 ,
p.896)。
「広島県東南部、瀬戸内海に面した商港。文献
3
0
p
. (B5 判).
B. 尾道市産業部商工観光課ほか:好きだからゆっ
くり気ままに尾道
尾道観光案内地図.
B3 半IJ.
C. 尾道市産業部高工観光課ほか:春夏秋冬鮮や
-19-
かおのみち
産道市文学記念室・文学公菌.A
華街も夜には活気に満ちた顔を表す。昼と夜の
4 判.
この二つの顔によって、都市の蚊力はつくられ
D. 尾道市産業部商工観光諜ほか:おのみちロケ
地案内閣.
る。
B 3 判.
従来、私たちは日中の状況を披定してデザイ
E. 尾道市産業部商工観光課ほか・ロケ地案内図
ふたり.
ンを行うことが多い。しかし、昼の景観といえ
B4 判.
ども、気接や風土を加味した形と色の関係、さ
F. 尾道地方広域観光連絡協議会:蒼い海と織の
島々
瀬戸内海ブルーライン
が走る.ブルーライン
らには夜の景観での効果が考慮されることは少
島から島へ感動
なくない。まして、夜の景観を取り入れたデザ
コミュニケーション 0・
インまでは未だ到っていな L 、。
B3 判.
「明かり j を槙出として扱う場面は増えてき
たが、日常の夜の景観での「明かり j が果たす
G. 出陽踏杭レクリエーション溺各協議会ほか:
『ハッピー&イージ…
山陽路の旅j]
1
6
p
. (A
役割を実践しているとは思えない。時間の流れ
S 半1]).
で途切れることのない景観をいかに連続的に取
H. 備後地方観光連絡協議会:潮風にもうひとり
の私がゆれる旅瀬戸内中央
なたで始まる物語。つづく.
ニ乙トせとラ
り込むかが、環境デザインで都市をとらえ
あ
要な切り口であるふ
A 2 判.
I.向島観光協会ほか:花咲く島です、向島.
参考文献およびレジュメ
B
青野喜郎@尾留} 11正平編(1 978) :nヨ本地誌第 17
4 やJ.
巻関山県 .rt 島県@山口県』二宮書店,
J. 向島町教育委員会社会教育課:ぶらり ing 文
6
2
5
p
.
化財潮の香りにつつまれて. .. 向島案内
図.
B 3 判.
常原義信 (1979)
:W 街並みの美学 J 岩波書活,
2
6
2
p
.
6)景観と時寵の流れとの関採は、重要なテーマ
芦原義信 (1983)
:W続@街並みの美学J 岩波書店,
2
6
5
p
.
である。にもかかわらず、これまで、あまり論
及されてこなかった。森田@亀谷 (1992 ,
荒山正彦(1 994) :嵐景研究
p.79) は、景観の昼と夜とを次のように分析
第 6 自社会地理学
とその周辺.地理, vo 1. 39 , n
o
.1,古今書院,
p
p
.
1
0
2 1
0
6
.
する。
f景観は昼と夜とで違った顔を見せる。
石井一郎@元自良孝(1 990) :W景観工学J 龍島出
昼の景観は、街並みの形態とその素材や色彩
版会,
と太額の光と影が印象をつくる。
2
2
8
p
.
石見利勝@田中美子 (1992)
:W地域イメージとま
ちづくり』技法堂, 1
8
2
p
.
夜の景観は、人工の光がっくり出す明かりと、
:W嵐景とは何か構想力として
の都市』朝日新聞社, 2
3
2
p
.
楽久滝憲需監修 (1992) :W都市とデザイン デザ
映し出される素材や色彩によって印象づけられ
内田芳明(1 992)
る。
昼の景観は、景観を形づくる建物や道路や橋、
さまざまな装置などの公共空間の諸要素の素材
インが都市を創る、都市がデザ、インを育む』
と、その色彩が互いに関係して織りなす都市の
通,
姿である。これに対して、夜の景観は、建物か
ヱクボ.
3
3
1
p
.
G (久保貞ほか訳) (
1
9
7
2
):r景観論 J
寵島出版会, 3
6
9
p
.
らもれる光やネオン、道路照明などの「明かり J
:W マップ。 lレガイド 35
と、「明かり J によって、浮かび上がる公共空間
エディターズほか(1 995)
の諸要素の不連続な集合として再構成される都
1
4
3
p
.
エディターズほか (1995) :r マップ。ル県伊j情報誌
広島@尾道』昭文社,
市のもう一つの姿である。
同じ場所、同じ都市でも、展と夜とではまる
で異なった姿を見せる。患は快適な公閣が、夜
は不気味な場所となり、昼はごみごみとした繁
3
4 広島県J 昭文社, 1
6
0
p
.
大井道夫 (1978) :r嵐景への挽歌一私の自然保護
論-j]アンヴィエル, 3
2
1
p
.
2
0
:r風景の構成と演出
美しく見えるか』彰国社, 9
7
p
.
落合太郎 (1987)
尾道市産業部臨工観光課ほか (1995)
なぜ街は
nLOVE
:
尾道J 3
0
p
.
12月例会発表レジュメ.
高田準一郎(1 987) :ネパールの景観.山口地理
学会研究大会,昭和62年度研究発表レジュメ.
片山和俊@新明健嬢(1 989) :r空間作法のフィー
ルドノート
現象形態について.広島大学文学部合同研究会,
都市嵐景が教えるもの J 彰国社,
高田準一郎 (1990) :景観スケッチ論ーランドマー
クを探せ一.広島大学アフリカ研究会,第72@]
2
3
5
p
.
発表レジュメ.
紙野詮人(1 980) :r見る環境のデザイン
歴史的
集落と街路景観』学芸出版社, 2
3
2
p
.
グレーベ
中富@地域づくり交流会=歴史を生かした地域
R (中村静夫訳) (
19
8
4
):r都市計麗
ガイドブック
高田準一部(1 99 1)・バルトの黄昏一景観論一.
みんなでまちを造ったJ 集文社,
1
4
3
p
.
づくり研究会,第 8@]研究会発表レジュメ.
高間準一郎 (1992) :地理教育における環壌デザ
イン的視点の検討.広島史学研究会研究大会,
建設省太田川工事事務所(1 977) :r景観から毘た
1
6
3
p
.
建設省東北地方建設局ほか (1982) :r釜房溺罵辺
景観調査報告書J 9
4
p
.
思史大辞典鰭集委員会 (1980) :
r国史大辞典第
太田Jl I市内派Jl I の調査耕究J
古川弘文舘, 1014p.
ンゴ礁.
r熱い心の島
p
p
.
2
5
2
2
6
6
.
高司準一部 (1993a) :蕗島における南北の空間
軸一空部構造の「意味J を読解する耕枕誠金一.
研究紀要, vo1. 39,広島大学時罵中学校, p
p
.
1
8
.
高田準一郎(l 993b) :離島における「見立て」
斉藤毅 (1992) :日本の新しい嵐景美としてのサ
今書罷,
社会科教育部会研究発表レジュメ.
サンゴ礁の風土誌J 古
の構造.地理教育懇話会(地理科学学会),第3
1 回例会発表レジュメ.
高田準一部 (1994) :岬状地形における「先鳥j
佐々木高弘(1 990) :景鵠の記号化からみた「畿
内の四至 j の選定要因.人文地理,
n
o
.4 ,人文地理学会, p
p
.
2
9
9
3
1
6
.
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下関市における住宅団地の形成
市
トはじめに
111
徹
流識に沖積低地が広がる。市域は半島部東海岸の
山陽側、北部の内陸部、西海岸の山陰側に大別さ
戦後、日本経済は高度経済成長を達成し、それ
れる。市域の地呂 17 .4 29ha のうち、山林40% 、田
に伴い、都市部では人口の急増による住宅不足が
畑22% 、宅地 16% 、原野その他22% となっている。
深刻な問題となった。このような都市への激しい
交通は、 JR 出額本隷と山揚新幹線が走り、新
人口集中により、、活発に住宅化が行われていった。
下関駅で接続する。また、関門鉄道トンネルを経
こうして、都市の市街地局辺では宅地化が進行し、
て門司(福岡県北九州市)に至る。矯生駅を起終
地艇の高騰やスプロール化などの新しい問題を抱
点に JRÙJ絵本線が響灘沿岸を走る。小郡・美祢
え込むようになったのである。宅地化の促進は、
方面から中国自動車道が通じ小月インターチェン
その地域において生活環境を変貌させる。そして、
ジを経て、下関インターチェンジに至り、同イン
その発展状況は都市形成上における過程をみるこ
ターチェンジからは関門自動車道が廷び、門司へ
とができる。そこで、住宅団地の規模、開発状況
通じる。本土と彦島の間には彦島有料道路が走る。
をみていくことは、土地環境における都市現象を
山陽本線と並行して国道 2 号と国道 9 号が重複し
正しく把握することにつながると考えられるので
て走り、長府印内町で分かれて国道 2 号は門司へ
ある。
向かい、国道 9 号は海岸沿いを走って市街地に至
したがって本研究においては、下関市における
る。国道 191号は山絵本線と並行して走る。その
住宅団地を研究対象とし、①下関市における住宅
ほか中央部を主要地方選下関豊田油谷線、東部を
団地の分布状況を把握し、その形成過程を明らか
主要地方道下関萩線・関下関長門線などが高北に
にする、②対象地域における住宅居地が、空間的
走る。海上交通網は、国際航路として下関と韓国
に形成されるなかで、いかなる条件が介在し、ど
の釜山を結ぶ関釜定期航路がある。九州への航路
のように作用しているのか、といった立地条件の
としては、皆戸~門司港開に関門汽船、彦鳥荒田
特徴を明らかにする、のが自的である。
~小倉日明間に関九フェリーが運行している。市
II. 対象地域の概観
下関市は県の南西端に位置し、南東は周防灘、
南は関門海i峡、西は響離に関まれ、北は豊浦郡豊
浦町・菊川町、北東は美祢市・厚狭郡山陽町の 1
内の定期航路としては、吉見~蓑井島問の蓋井航
路、竹騎~六連島閣の六連航路、竹崎~彦島海士
郷間の震島渡訟などがある。
大陸文化を受容して早くから開けた地域である
が、古代以来政治・文化の中心地として発展して
市 3 町に接している。市域は南に向かつて突き出
きた長府地区と、海陸交通の要衝の港町として栄
た半島で、東西3 1. 3km、高北24.0km (いず、れも最
えてきた赤間関(下関)地区が合併して、歴史と
長部)で題閤 177kmのうち海岸線が122kmにも及ぶ。
商業の町としての現在の市壊を形成した。近代に
市域南端の震島は彦島大橋と関彦橋で本土と結ば
至って、鉄道の開通により九州との連絡港となる
れている。そのほか蓋井島・加茂島・六連島・船
一方、釜山との関に額際航路も関かれにぎわった。
島(巌流島)・万珠島などの島を含めている。
また水産・造船業の町としても発展し、県下最大
標高は北部境界の鬼ケ城が619.6m で最も高く、
の都市となった。現在は水産・造船業のほか、化
300m前後の低山性の出が市域を取り臨み、全体
学金属および食品加工関連産業都市として、フク
としては平地に乏しい。賭防灘に注ぐ東部の吉田
(フグ)とウニの名産を生かしながら努力し、一
)
11 ・神田川流域と、響灘に注ぐ綾羅木)11.友田 )11
方では歴史と観光の国際都市を毘指している。
23-
下関市の人口は、平成 5 年 10 月 1 日現在で
亜.住宅団地の形成過程
259, 898入、世帯数は 96 , 149世帯で、世帯数に関
(
1
)
しでは年々増加傾向にあるが、人口の推移をみて
住宅団地の定義
「毘地」という用語は、
みると、昭和52年までは増加額向(昭和45年を捺
都市計部や建築の分野においては大正時代から使
く)にあったが、そこからほぼ横ばい状態が続き、
われている。戦後の著しい団地造成とともに、住
昭和61年からは減少傾向になり、昭和四年に 27万
宅国地に関しての研究は、その内容を豊富にして
人近くあった人口も平成 5 年には 26万人を割って
いるものの、その定義については必ずしも暁確に
しまっ fこ。
はされていない。
地区加に人口の推移をみると、!日市内と彦島地
「住宅団地」という言葉を耳にするようになっ
震の人口の減少が著しく、逆にJl I 中地匿、勝山地
たのは、昭和 30年に日本住宅公団が発足し、住宅
区における増加が著しい。長府地区@安問地区に
不足の著しい地域である大都市において、耐火講
おいてはゆるやかではあるが増加額向にある。そ
造の住宅を大規模に建設しはじめて以後であり、
の地の地毘に関しではほぼ横ばい状態である(第
こうして「住宅関地」と聞けば、ある程度法い一
l 図)。地産別世帯の推移をみると、!日市内と彦
回の土地に数階建ての鉄筋コンクリ…トからなる
島地区に関しでは、昭和50年堺に増加していた世
中高層の賃貸アパートを思い浮かべる人が多い。
帯数も減少している。ここでは長時地思 .JII 中地
事実、「団地族」と呼ばれる住民は、郊外の住宅
e 勝山地区における世帯数の増加が著しい。
問地居住者ではなく、中高層アパートの居住者を
指す。
本来、器地とは工業開地や流通団地のように単
一機能が集議する土地を指すと考えられる。従っ
て、住宅団地を定義する場合、中高層集合住宅の
(Ii1.t,まち人)
みでなく、これに一戸建ての建て売り住宅、ある
いは一戸建て住宅用の土地分譲の集合したものを
含めて住宅団地とするべきである。
では、どの程度の規模以上で住宅問地とみなす
ことができるだろうか。ここでは、建築学でいう
住宅団地、また従来からの研究者である、藤田隆
氏、小林博氏、鈴木富志郎足が定義された住宅団
地についてみていくことにする。
まず、建築学における住宅団地についてである
が、これによると「住宅団地とは、集合住宅地計
画によって開発される一回のまとまりある住宅地
または住宅群をいう。十数戸でも住宅団地といわ
ないこともないが、普通は 50戸以上の規模のもの
をいう」となっている O 集団住宅地計画とは、個々
の住宅を建てる場合と違って、住宅と付属屋、庭
圏、外構およひか諸施設についての住宅の敷地のほ
か、道路や公盤、 rt場などの広範な共同施設用地
についての総合的な計画をいい、このような計画
をたてるためには、集団住宅の戸数が少なくとも
50戸以上でなければ難しいとされているわけであ
る。つまり、建築学でいう住宅団地とは、快適で
硬利な住生活が営めるような、盛れた住環境を備
第 1 醤地jg別人口の推移
えた 50戸以上の集国的な住宅地、ということがで
-24
8% 、住宅管理協会の 6.6% 、震用促進団体の 2.6
きょう。
次に、小林薄氏は「住害問地とは、通常窟住機
%という!績になっている O 地IZlJ IJ にみると、!日市
能である住宅が、数百ないし数千戸集在してまと
内地区に 3 1. 6% の 24件が集中しており、次いで長
まった地底を形成しているものを指すj としてお
府の 15.8% 、 III 中の 14.5% 、彦島の 1 1. 8% 、勝山
り、鈴木富志郎民は「ごく普通に毘地と称せられ
の 10.5% 、安岡の 7.9% 、王可の 3.9% 、清末の 2.
るものが、ある程震以上の戸数をもっ集団的役宅
6% 、小丹の1. 3% の II援になっており、!日市内を中
地を指すとするならば、公団住宅はもとより、都
心に、そこに接している地匿に住宅団地が集中し
道府黒営のように限られた敷地内に関ーの摸式を
ていることが分かる。
もって建設された住宅群はもとより、会社の社宅
群などの賃築住宅や、電鉄会社などの民間業体に
よって…括して建設された建て売り住宅群もこの
H
l
j お末 小汚 }
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j
l 勝 ill 安関
I EJrむi今 l'E lゐ t芝府 :
範轄に入れられるべきである j とし、その規模に
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{
%
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ついては「地方公共団体が住宅建設にあたって、
Ttî営
国家から融資をうけられる最抵限度は20戸であり、
と住者団地件数
地区@
,
tJ:i:包-
一応この謹度の規模が田地と認められる最小単泣
恕協会
である J としている。
波JJl促
このように住宅団地の定義は、行政における法
進肉体
文上の規定を欠くため、研究者によりその定義は
民間
少しずつ相違する。このため本研究では、前述の
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2I32
1
1 1
8
6 I76
定義に加え、新簡などの日常用語、市役所などに
使用される用語も考慮した上で次のように定義す
る。すなわち「住宅毘地とは、住宅建設を目的と
!日市内地区では市営住宅が54.2% (1 3件)で、
他の公営住宅と合わせると実に 75% (18件〉を占
して開発された、 50戸以上の規模与をもった土地で
め、!日市内地IZ における公営住宅の占める割合が
ある」とし、その中には、一戸建て住宅群と関ー
高いことがわかる。逆に、草島@長府 e 勝山地区
敷地内に建設された市営住宅、県営住宅、給与住
では、畏簡による分譲性三さの高める割合がそれぞ
宅などの中高麗住宅も含めるものとする。
れ、 55.6% (5 件)、 58.3% (7 件)、 75% (6 件)
なおここで、住宅団地の規模を建築学でいう 50
戸以上にしたのは、鈴木氏のいう 20戸建度の規模
と高い割合を占め、この地区では民間による分譲
団地の開発が盛んに行われている。
では、景観的に一般の住宅と何ら変わるところが
次に、形態lJ IJ に住宅部地の分布についてみてい
ないばかりか、計画的に開発されでも、最小限必
きたい。公営住宅の立地は、政壌や予算が絡むこ
要と思われる共同施設を効果的に科揺し管理する
とから住宅地としての環境がよく、土地髄絡の最
には小規模すぎると思われたし、また、小林氏の
も手頃な場所が選択される。そうしたことから、
いわれる数百ないし数千戸といった競模は、人口
公営住宅問地の立地は、その土地での住宅地とし
26万程度の本対象地域には撞めて大きすぎ、その
ての先駆けとなるものであり、住宅地としての鑑
数が、わずかに娘られてしまうためである O この
績も向上する傾向にある。このように、比較的条
定義は、藤由隆氏の定義された「計彊約に開発、
件のそろう土地に立地する公営住宅の分布をみて
建設された住宅地のうち、面積 1 ha 、戸数出、
いくことは、住宅地の拡がり方を予想することが
人口 150 を基準として、このいずれかを越えるも
できる。また、公営住宅団地は住宅地における核
ともなりうると思われる。そこで公営住宅団地の
のとする」に近いと思われる O
分布をみていくことにより、 l 戸建て分譲団地か
下関市
らなる住宅団地の分布との関連をみていく。公営
における住宅団地の地区加分布件数を示したのが
住宅は、住宅問題の解決のため主に低所得者を対
第 1 表である。これによると、民間業者によるも
象にした賃貸住宅であり、他の住宅団地とは目的
のが42. 1% 占め、次いで市営の 32.9%、県営の 15.
も性震も違う。県営及び市営住宅は、昭和26年の
(2)
下関市における住宅団地の分布
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V (}田〉
第2図
公営住宅分布図
公営住宅法によって、住宅に圏っていることが明
公営住宅は垢田や川中地毘のような現在住宅地
らかで、法で定める収入基準に該当している者に
として確実に発麗してきた地域に分布をみること
低廉な家賃で賃貸し、国の補助によって運営され
ができる。また、市営・県営住宅の建設状況をみ
ている。
てみると、昭和40年代に入って盛んに建設されは
住宅管理協会は居住者の家震で運営されている
じめ、昭和47年にピークをむかえ、昭和55年まで
ため、県営及び市営住宅に比べ家賃も高く、所得
続いた。昭和60年代に入ると、最盛期に比べて、
も多い人を対象にしている O 麗用促進自体は、炭
戸数は減っているものの、毎年安定した数の住宅
鉱離職者対策として昭和36年に設立され、労働力
を供給している。
流動化の一環として実施される住宅の建設運営が
第 3 図は畏間によると分譲団地の分布状況を示
広域職業紹介業務展開の重要な支柱の 1 っとして
したものである。これによると、川中地区と勝山・
続けられている。また、移転用宿舎としての役割
長府地区と彦島地区において分譲関地が集中して
をもっており、家賃支払い能力が保証されないと
立地している。これは、ある分譲盟地が開発され、
入屠できない。県住宅生活共同組合は、昭和33年
その賭辺に次々に新しい分譲団地が開発されて現
に設立され、日本勤労者住宅・生協の委託団体と
在のような大規模住宅地を形成しているのである。
して、労働金庫の貸付と結びつき、労働組合を主
では、下関市における分譲団地の拡がり方をみる
体とした組織的な住宅運動を展開している。
と、響灘ラインと勝谷・長府ラインと J lI中・熊野
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ラインと彦島ラインがあげられる。
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宅とともに大規模住宅地識を形成している。また、
響議ラインは武久・垢 æ. 梶栗というように海
西山・熊野線や槙乃・垢田隷の 2 つの道路が開通
岸沿いに拡がっていった O 現在、この響灘海岸沿
し、新下関駅に近くなり、今後ますますこの地区
いに筋川 I .武久線と汐入・安閑線の 2 つの道路が
の開発が行われるものと思われる。
建設中であり、また梶栗町の国道 191 号線沿いに
彦島ラインは彦島地底海部の丘稜地に開発され
ハイパーモール・メルクスが平成 6 年にでき、敷
ていった住宅地蛾である。このま出或は南端に向かつ
地内にはデイスカウントシヨツフ
て開発され、地形的にみてこれJ2,L上はあまり誌がっ
品ス一パ…があり、今後ますますこの地毘は発麗
ていかないと思われるが、彦島と北九州小倉を結
していくものとみられる。
ぶ第 2 関門橋建設の構想があり、これにより彦島
勝谷・長府ラインは山陽新幹線新下関駅起工に
伴い、勝谷地区の山を切り開いて開発された、典
型的な郊外分譲団地である。昭和40年代にまず勝
地区が見直される可能性もあり、今後市の政策と
ともに注目していきたいと思う。
(3)
住宅団地の形成過程下関市における住宅
谷地藍に開発され、昭和50年代に入ると、地亙を
団地の発罷過程をみるのに、団地の開発時期を第
越えて開発が長府地区に及んで、現在の住宅地域
I 期(""-'昭和39年)、第 E 期(昭和40""-'49年)、第
m 期(昭和50""-'59年)、第W期(昭和 60年以持)
を形成している。
川中・熊野ラインは市街地に近く、大型公営住
の 4 つに毘分して、各時期の開発経過を追ってみ
-27-
第 3 議事業主体別各時期での住宅問地数
る。
〔第 I 期〕終戦後、一応の戦災復興事業が完了し、
~;~t1
{主宅行J.lll協会
下関市がはじめて実施した大規模な住宅開発事業
1 J
U
l
は、昭和32年 9 月に起工された山の田土地震画整
nl
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1
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1
0
w JUJ
7
3
1
2
2
5
理事業であった。この地域は、下関市の都心から
語北に約 3kmの地点、 JR 出鶴本線@山陰本線の
分岐点播生駅から約500rnlこ位置する丘駿地で、
)tlllll 促illì;丹体
民1m
;
j
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5
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1
7
3
2
7
6
国道 191号線、県道下関港垢田隷にも接し、関門
トンネルの関適時(昭和33年 3 月)には、北九州
民間による分譲岳地の開発が48.6% (1 7件)を占
方面のベッド e タウンとしても至授な位謹にある
めてトップにたち、次いで市の 28.6% (10件入
ことから、郊外型住宅部地建設講想のもとに、新
県の 1 1. 4% は件)、注宅管溜易会の8.6% (3 件)、
機軸の爵発事業として実施された。この時期に住
雇用促進自体の 2.8%
宅。都市整備公自により、補強コンクリート造 2
(1 件)となっている。
また、地区別では田市内地区で 28.6% (10{,牛)
を占め、次いで長府の 22.9% (8 件)、!日中の
階建の住宅公団山の田が224戸建設された。
17.1% (6 件)、彦島の 1 1. 4%
この時期の特徴としては、!日市内地区のみに建
設され、事業主体についても市が80% (4 件)を
は件)、王司、勝
山、安問の 5.7% (2 件)、請求の 2.9% (1 件)
占め、残りの 1 件も先にあげた公臨住宅山の回で
となっており、この時期の特徴としては、!日市内
ある。
地区における公営住宅の建設も第 E 期に引き続き
〔第豆類〕昭和44年秋に JR 山陽新幹線のルート
みられ、また彦島@長時の両地毘においても民間
が正式に発表されたのと機そーにして、 }II 中@勝
による分譲団地の開発など、郊外の開発がさらに
山両地区では、新しく誕生する山陽新幹隷「新下
進んできたといえる。また、垢田. Jl I 中豊町のよ
関駅J を核とする副都心づ、くりが始動しはじめた。
うな大競模住宅は、都心と離れて飛地的分布を示
このような背景をもとに、事業主体別にみると市
すものであるため、敷地内には学校や蕗j苫などの
と長関による開発が42.1% (8 件)で同率でトッ
諸施設を設置し、機能的に独立したー集落として
プにたち、次いで県、住主主管理協会、濯用{足進団
成立できる性質をもっているといえる。
%(7件)で悶芸名であり、次いで市の 17.6%
地誌別では、新下関駅周辺土地区画整理事業に伴
い勝山地区で 3 1.
6% (6 件)、次いで田市内地区
2
(3
〔第 IV期〕事業主体制にみると、県と民揺が4 1.
体が5.6% (1 件)で並び、つづいている。また
件)となっている。これまでは市営住宅の建設の
の 26.3% (5 件)、長府の 10.5% (2 件)、彦島、
ほうが盛んに行われていたが、この時期では県営
王司、清末、小丹、Jl I 中、安関の 5.3% (1 件)
住宅の建設が盛んに行われていることが屈につく。
となっており、この時期の特徴としては、!日市内
また、開発された住宅団地数も、第頂期の 35件か
地区の開発とともに、特に周辺地区における 1
ら 17件と半減し、一時期の民間による分譲田地の
建て分譲団地の開発がみられる。
開発もおさまりをみせ、競模も 200戸までの小@
〔第廻期〕この時期には全体の 46% を占める 35件
中規模団地が既蒋の住宅団地の底辺に開発されて
の住宅団地が開発され、最も接んに住宅部地の開
いるのがこの時期の特徴である。
発が行われた時期といえる。事業主体加にみると、
また地 IZ別にみてみると、これまでの時期と比
べて安岡地区の割合が高いのが自につく。これは
住宅団地の開発が郊外に広がってきていることを
第 2 表時期別に毘た各地区での住宅団地数
1I1市内 ~お 長距f E 司
1 J切
5
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示している。
安部j
以上、時期Ijに住宅白地の形廊過程を事業主体@
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地区と関連させてみてきたが、要約すると次のよ
4
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うになる。
4
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1
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311
7
下関市では戦災復興完了後、都心部の再開発を
617
6
行い、それに伴い昭和30年代に!日市内地区に市営
2
8
住宅が建設されていった。昭和4昨代に入っても、
られる。中心地からの距離を誌大させるためには、
引き続き公営性宅建設が行われていたが、山 j蕩新
交通条件や立地場所の諸条件が開題となってくる
幹線「新下関駅J 起工により、勝山地区に次々と
が、近年、土木技術の向上や機械の開発により、
大規摸分譲団地の開発が行われた。詔和50年代に
住宅団地は山麓斜面や丘陵地に開発されてきてい
は、彦島. Jl I 中。長府地区においても分譲居地が
る。
住宅団地の立地要因には、自然的条件が非常に
盛んに開発され、最盛期を迎える。昭和60年代に
入ると、分譲団地開発の勢いもおさまりをみせ、
大きく関わっている。前述したように、近年、土
住宅問地開発も安定期に入ったものとみられる。
木技術の向上や機械の開発によって、緩斜面での
宅地開発も行いやすくなり、小記伏山地における
VI. 住宅関地の立地と土地議件
宅地造成が盛んになってきた。そこで、住宅団地
地形条件との関保住宅は一般に平坦地に
が山地や丘接地の中でも、どの程度の地形起伏の
建設される。しかし、大規模住宅団地の開発にな
土地を利用しているのかを知るために、住宅~地
ると、その原員IJ は必ずしも通用するとは限らない。
と地形起伏蚤との関係をみていくことにする。
(1)
一殻的にみて、大規諜性宅団地の開発が行われる
地形起伏量は S 万分の l 地形図に 1 c
m (実長
のは、中心地から距離を拡大するか、あるいは山
500rn) の方眼をかけ、その方眼中に含まれる 20
麓の斜面に向かつて高度を増すかの 2 傾向があげ
m等高線の本数から地形起伏霊を求めた。これに
、宇品開本駐
日 8 判J
6-7:1二
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J 2-3 本
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{主主ト~!地
、、
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3 気合
一一
一一
第 4 図地形起伏量と住宅居地の分布
Qυ
よると起伏量 0-1 を示すのが全起伏量の 45.2%
(同〉
で、起伏量 2-3 を示すのが全起伏量の46.6% で
あり、これら 2 つをまとめて、起伏量 3 以下にす
ると、全体の 90%以上に達する。起伏量と住宅団
地の割合を団地の種競別にみたものが、第 4 図で
ある。これによると、公営(中高層住宅)居地は
起伏量 3 以下に全体の約98% が立地しており、分
譲団地は起伏量 2-3 を示す割合が他に比べて大
きく、さらに起伏量 4-5 を示すのが16% もあり、
小起伏山地において宅地造成が行われていること
を示している。また、時期別にみた起伏量と住宅
団地の分布をみると I 期は住宅居地の立地数が少
ないため、あまり参考にはならないが、起伏量 4
-5 のところには住宅団地は立地されておらず、
w
'
平坦地に立地している。 n 期は、起伏鷺 0-1 が
47.4% で 1 番多いが、ここでは起伏量 4-5 の割
合が 15.8% と自立っており、この時期から小起伏
5
5
山地に大規模住宅留地の開発が行われてきたこと
6
u 6
1 6
2 6
3 I
!l 2 3 ,1
)
:
第 5 国下関市における農地転用件数と面積
がわかる。盛期においては、起伏量 4-5 の割合
が少し減少したが、ほぼ豆期と同じ傾向にあると
いえる o N期は、起伏量 3 以下の割合が全期間中
年と 58年に落ち込みをみせているものの、平成に
で 1 番大きく、市街地における中高層住宅の建設
入ってまた再び増加傾向にあり、戸数も絶頂期に
が再び盛んに行われてきたためと思われる。ちな
届く勢いである。これに対して、農地転用件数は
みに、等高線 5 本の場所は額斜が約 11 0 19- に担
昭和60年から年々減少してきており、住宅地転用
当する。自然災害防止の意味を含め、住宅建設の
における農地からの転用割合が低くなってきてい
適正範屈内はだいたい 15
ることを示している O これは、近年、市街地での
0
未満とされているが、
49-
マンション建設が盛んになり、既存住宅からの住
に相当する鎮斜地においても住宅団地が開発され
宅地転用が考えられる。また、農地転用件数及び
ている。
臨積が減少しはじめたのは昭和田年頃からで、こ
広島では等高線 10本を含む平均傾斜が約 21
0
の時期には小起伏山地での住宅団地開発が自立っ
(2)
土地利用との関係住宅団地を建設するに
あたって、どのような土地に建設されているかを
てきており、ここで考えられるのが、山林からの
住宅地転用である。
みていくわけだが、開発用地としては既存の住宅
農地利用と山林利用の違いをみてみると、まず
の建て直しゃ田・焔などの農地、山林、荒地など
農地と山林の地価の違いがあげられる。一般に農
があげられる。そこで、本域における地目別民有
地と山林を比較した場合、農地は市街地近郊では
地面積の推移をみると、宅地面稽は年々増加して
ほぼ住宅地に近い価格で取引される。そのため地
おり、田畑面積は年々減少している。これに対し
価に関してみると、まとまった規模の土地は入手
て山林面積はわずかな減少傾向にあったが、昭和
困難となってきており、また山林の数倍の価格に
55年ごろから増加額向にある。下関市における住
なってしまう。そこで造成費がかかってでも山林
宅団地の開発は、農地の転用によるものが大部分
を開発し、宅地造成後に分譲するという形をとっ
であると思われる。
ているのは、造成費を差し引いてもまだ、農地利
下関市における農地転用件数及び面積を表した
用の場合よりも有利であるためである。よって、
のが第 5 図であるが、これと新設住宅戸数の推移
大規模な宅地造成が技術的に可能になってくると、
をてらし合わせてみると、新設住宅戸数は昭和50
まだ利用可能な平坦地が残存していても、開発地
n
u
は山林に移行するのである。また、農地転用は山
林転用に比べて、その手続きが複雑である。用地
(単位名)
6
0
の規模が大きくなると、所有権の分散の大きい農
第4条
地は、個人的には解決されない場合が多いのに対
口第 5 条
し、山林の場合は、主に技術面の宅地造成の規制
5
5
5
0
に関する問題であり、所有権も農地ほど分散して
いないので、解決は比較的機械的で容易であると
考えられるためである。
4
0
また、農地転用を農地法 4 条と 5 条について述
帥
静
m
但
輸
"
脚
鮒
3
0
"
自弓の農地を農地以外の目的に利用するために転
ω門
引
べておくと、 4 条は、農地の所有権はそのままで、
用するもので、 5 条は、農地の持ち主から他人に
2
5
自己用外の転用目的で土地の所有権が委譲される
場合に関係する。住宅団地が形成されていくには、
2
0
--"18" ーー
主に 5 条との関係が深くなる。では用途別にみて
みると、全体での一般住宅用地の割合が 4 条では
約42% 、 5 条では約67% を占めており、農地転用
1
0
による住宅化がうかがえる。また、地区別にみた
のが第 6 図であり、これをみると、大規模住宅団
吉田見
安岡
川中
内臼
勝山
吉田
小月
王喜
議末
形成されていくことになる。そこで、このような
王司
が建ち並び、都市機能が混乱し無秩序な市街地が
長府図
人口や産業が都市に集中するようになると道銘
や下水道も整嬬されていない都市馬辺部にまで家
旧市内
。
安岡地区で全体の 6 割を占めている。
彦由一同制
地開発が盛んに行われている長時・勝山・ 111 中@
地区別農地法第 4 、 5 条処理件数
区域は 1 万6, 615ha となっている。
無秩序な市街化を訪止し、計画的な市街化を進め
さらに市街化区識には、形態や用途を同じくす
るため、都市計画区域を市街化区域と市街化調整
る建物が集まるように用途地域が決められた。用
震域に区分(いわゆる線引き)するもので、下関
途地域は地域の種別に応じて建築物の用途、建ベ
市では昭和46年に市街化区域と市街化調整毘域に
い率、容積率、高さなどを規制することによって、
決定、昭和61年に一部変更を行った。
適正な機能と良妻子な環境を有する健全な市街地の
市街化区域とは、すでに市街地を形成している
区域およびおおむね 10年以内に、優先的かっ計画
的に市街化を進める罷域で、本市では 18市内・彦
形成を意図するもので、各用途地域の面積割合は
第 4 表のとおりである。
都市計画による用途地域と住宅団地の分布につ
島地区の既成市街地を中心に、瀬戸内臨海部一帯
いてみてみると、 1 戸建て分譲住宅団地はすべて
の長府・玉南・小見地匿、宅地開発の進行してい
第1,
る勝山・ JII 中・安開地区、既存集落を中心に繁栄
は用途別地域の中でも特に良好な住宅環境を保全
する吉見・吉田・王喜の各地区を決定している。
し、新興住宅地としての役割をもっているためと
2 種住居専用地域に開発されており、これ
市街化調整毘域とは、市高化を抑制すべき毘域で、
いえる。また、第 2 種住居専用地竣においての特
市街化産域以外の土地である。この芭域において
色は、分譲住宅のほかに市・県営住宅などの公営
は、農林漁業等特殊な例を除き、開発行為は原則
住宅の開発が進められてきたことがわかる。これ
として禁止され、市密化を促進する施設の整備は
は中高麗建築物は第 I 種住居専用地域には建設で
行わず、農林漁業等の振興を進める区識とされて
きないためであり、当然の結果といえる。 18市内
いる。昭和61年の都市計画震域は、
2 万 2 , 167ha
地区においては、商業地域や工業地域にも住宅団
で、このうち市街化区域は 5, 552ha 、市街化課整
地の開発がみられ、このことは環境条件より利便
-31-
第ヰ表用途地域面積表(昭和62年 12月)
第 1 覆住居
専培地域
第 2 譲住居
専用地域
住居地域
隣
近
商業地場
商
地域
準工業地域
工業地域
工業専用地域
合計
l
構成比
建ペイ*
容積率
の中心地付近での地価が 1 m'当たり約 9 万円で、
(
h
a
)
(%)
(%)
(%)
!日市内地毘でみると約 6"'-'8 万円となっている。
7
9
9
1
4
.
3
4
0
8
0
1,687
3
0
.
3
6
0
2
0
0
1,575
5
3
2
5
2
9
8
5
9
3
6
6
3
4
6
3
6
3
5,571
2
8
.
3
1
.0
0.
4
5
.
3
6
0
2
0
0
2
0
0
3
0
0
4
0
0
6
0
0
2
0
0
2
0
0
2
0
0
面積
覆類
高い{産を示している。地区別にみてみると、下関
1
.
1
6
.
6
6
.
2
6
.
5
1
0
0
8
0
8
0
6
0
6
0
6
0
彦島地区の地価は約 5"'-'6 万円、} *1コ地区の地価
は約 6"'-'8 万円、小丹地区の地値比約 5 万円となっ
ている O 中心地区を離れた吉見、主墓地区での地
価は約 2"'-'3 万円で、中心地から離れるにつれて
地錨は低くなっている。また、郊外分譲団地の地
価は 1 m'当たり約 5 万円翠度となっている。
山口県の主な都市の地錨の推移をみてみると、
ほぼどの都市も地舗の上昇傾向は似ており 55"'-'57
年の地錨変動率が大きく、対前年平均地錨変動率
は約 10% である。このような急激な地価高騰によ
り、下関市においても 55"'-'60年にかけて宅地化さ
れた部積、及び新設住宅戸数は少なくなっている O
V.
性や安全性を重視した宅地開発が行われてきたと
現在、マンション建設に関する研究は少なく、
いえる。
(4)
マンションの立地
地価との関係今日、バブル崩壊に伴い、
マンションということばはよく使うが、それがい
一時期の地錨の高騰はおさまり、現産安定してき
かなるものかという明確な定義づけはされていな
ているが、地価と住宅化の関係はますます密接に
い。そこで下関市という地域を考癒した上で、本
なっている。…般に都心付近の高地借地域での住
研究におけるマンションとは、まず鉄筋コンク 1) _・
宅地は、部穣は大きくなく高層化に向かい、中心
トの中高窟建物であり、大衆向けのものであるこ
部市から離れた郊外地区のあまり地価の高くない
と。そして、規模としては 30戸以上として、本研
ところでは、住宅地の面積は大きくなり 1 戸当た
究のマンションとする。
りの区盟面積も大きくなる。前者の例としては、
(
1
) マンションの分布状況近年、都市部では
近年建設の著しいマンション@公営住宅や給与住
マンションの建設が進み、パフツレ崩壊の中、マン
宅といった賃貸間地があげられ、後者の{7IJ として
ションブームは引き続き好調である。このマンショ
は、分譲団地があげられる。
ンブームの藤田ないし背景となっているものを一
市街地の地価上昇の原因には住宅需要者である
般的にあげてみると、まず第 1 に、住宅建設が政
市民も、土地所有者である農民のいずれもが、土
府の景気刺激策の柱になったことである。公定歩
地を利用すべきものとしてよりも、資産として保
合が下がり、ローンの金利もぐんと下がったうえ、
有することを指向しているからである。そして、
申し込めば、大体借りられるという超金融緩和の
結果的には宅地市場における供給不足と需要のア
状態が続き、質貸より住宅をもっ傾向が強まって
ンバランスによる地価高騰をもたらし、住宅、宅
きた。
地の確保を国難なものとしている。
が届かない、そこでマンションを、ということに
l 戸建てを買いたいけど地錨高騰により手
本域の地錨分布を国土利用計画法による平成 5
なるわけである。建てる方も金利が安いし、資材
年山口県地錨調査の結果から示したのが第 7 閣で
ま高くないから、建てやすい。そこで供給が増え
ある。これによると、最高地価は下関駅周辺の開
ることになる。
業地域で 1 m'当たり 145万円で、商業地域の高地
第 2 は国民の大部分が洋風の生活に'損れてきて、
価が自立つ。住宅地としては、勝山地区の新下関
マンション住まいに抵抗がなくなってきたことで
駅付近の地価が 1 番高く、
1 m'当たり約 13万円と
ある。若い人や中年はもちろん、子供が独立した
なっている。また、長府地産の古い武家屋敷の建
あと老夫婦が一戸建ての家を売り、生活の便利な
ち並ぶ古江小路町、侍町が 1 m'当たり約 10万円と
マンションへ引っ越す例も多い。冷暖傍をはじめ、
3
2
十、
J
l
、
、'.
、-
、一
~
、
生、
.
..
予ぞも..'.,
omlJl(550-59)
en'l
J
l (560- )
j~位 (+p l)
第7図
第8 思
関土利用計画法に基づく地価分布
マンションの分布状況
(平成 5 年度)
住宅機器が良くなり、マンション生活が暮らしよ
回数30.-...60台で76.9% (30件)も占めており、全
くなった点も見過ごせなし、。第 3 は長期不況で企
マンションの平均戸数は約58戸である。中には、
業の減量経営が徹底し、仕事の内容と勤務評定が
戸数 100戸を越えるマンションもあり、これは立
厳しくなったため、職住接近を票む人が多くなっ
地場所の条件によるものと思われる。このように
たわけである。こうした事情の中、本対象地域で
下関市においてもマンションブームをむかえ、建
ある下関市におけるマンション事情をこれからみ
設ラッシュが行われているが、なぜ今ブームなの
ていきたいと,思う。
だろうか。ひと口で言えば非常に買いやすい状況
下関市におけるマンションの分布状況を訴した
になっているからである。郊外に建てられた l 戸
のが、第 8 図である。これによると、昭和田年に
建て住宅の場合でも、 3000万丹はみておかなけれ
マンション建設がみられるが、これは新下関駅付
ばならないのに対して、マンションだと 2000万円
近に建設された藤マンションといって、
で買える状況である。
l 、 2階
はビジネスホテルで、 3.-...7 措がマンションになっ
また一方で、住宅金融公庫の融資わく拡大、融
ているという接合マンションである。そして、大
資限度額引き上げ、銀行ローンの整備など、こう
手不動産業者による分譲マンションの建設がはじ
いった買いやすさが 1 番の理由である。また、交
まったのは、昭和54年からであり、 58年までに 8
通が便利な点もあげられる。車社会の現在におい
件ほど建設されている。分布状況をみてみると、
て道路事情のよい主要道路沿いに建設されている
同じ地域にマンションが建ち並ぶというよりも、
のは当たり前のことである。しかし、庭や公開な
飛地的に建設されていることがわかる。これらの
どの遊び場がなく、駐車場も狭いなどといったマ
ことからこの期間のマンション建設は、実験的な
ンションの問題点も存在するわけだが、このよう
傾向があったものと思われる。そして、マンショ
な開題点は確かにあるが、それよりも何より安価
ンの売れゆきがあまりにもよかったため、昭和61
な分譲価格による買いやすさや利便性の方に魅力
年から本格的に建設されていったといえる。分布
を感じるというのが事実である。
状抗も同地域に隣接して建設されるようになり、
特に新下関駅付近での建設が目立っている。
(2)
l 番多く建設されており、
これま
でマンションブームについてみてきたわけだが、
マンションを規模別にみると、戸数 40芦台が
2
8
.
2
%(11件)をおめ、
再開発事業によるマンション立地
ここでは下関市の都市計画に基づくマンション建
設をみていきたいと患う。
3
3
市の都市計画が思擦としている市街地再開発の
分布している o II 、班期にさかんに建設され、 IV
l つに f唐戸地区再開発事業j がある。唐戸地区
期に入っても戸数は減っているが、毎年安定した
は、下関市が成立した当時から市役所などの公共
数の住宅を供給している O 全公営住宅の 41% が旧
機関が集中し、生鮮市場にはたくさんの人々が買
市内地区に立地している。
い物に来る「行政・高業・交通の要密J という重
分譲住宅はある分譲団地が開発され、その周辺
要な地区として発展してきた。しかし近年になっ
に次々と新しい分譲団地が開発され、大規模住宅
て、時代の流れの中で次第に衝としての活力が衰
地を形成していった。第 E 期に開発が始まり、頂
え、「駐主義場・公益施設の不足」や「商業機能の
期に入って盛んに開発された。彦島、長閥、Jl I中、
零細化・老朽化」また「核施設の不在j など、さ
勝山地区に集中しており、拡がり方から響灘、勝
まざまな問題が現れてきた。
谷・長府、Jl I 中・熊野、彦島ラインと区別した。
このような唐戸地区の現状を打開しようと、昭
マンションは主要道路沿いに建設されており、
和50年初頭に、市が中心となって『麿戸地区再開
また同地区内に隣接して立地している。第直期に
発事業』がスタートしたわけである。その構想は
建設が始まり、 VI期に入って盛んに建設されてい
「都市軸の東端での地域生活拠点として、また揚
る。全マンションの 56% が!日市内地区に、 28% が
陸交通の結節点で人々が集まりやすいという地区
勝山地区に建設されている。
の特性を生かして、楽しく住み楽しく憩える街と
住宅団地の発展を時期別にみた結果は次のよう
して整備する」というものであった。そして昭和
になる O 第 I 期には!日市内地区に市営住宅 4 件、
59年に唐持再開発ビルが完成し、本格的に再開発
公団住宅 1 件が建設された。第 E 期には公営住宅
が始まったのである。そうしたなか、昭和61年に
の建設ラッシュとともに、民間による郊外地匿の
「カラトピア J がオープンして以来、街は次第に
分譲関地の開発が始まった。第 m 期には公営住宅
活気を取り戻しつつある。カラトピアは 1-3 階
の建設ラッシュが継続して行われ、分譲囲地の開
が店舗となっており、専門店・量販店(スーパー
発が盛んに行われた。また、この時期からマンショ
マルショク)・外向店舘からなり、 4 ・ 5 階には
ンの実験的建設が始まった。第W期には分譲団地
公益施設として、大ホール・会議室・事務室があ
にかわって、マンション建設が盛んに行われ、マ
り、
ンションブームをむかえる。
6-13階が56戸の住宅となっている。また、
なおー撞今日的な雰由気を備え、かっ機能の充実
1 戸建て分譲団地のほとんどが、地形起伏の大
した商店街へと脱皮するのを目的として平成 4 年
きい山陵地を造成して開発された。また、開発以
に「カラトコア」が建設された。カラトコアもカ
前の土地利用は、平坦地の農地転用が多数占める
ラトピアと同様に、
1 ・ 2 階を店舗として専門店
が入り、 3~皆の駐車場を挟んで、 4-14階が66戸
が、第盛期に入ると山林からの転用による大規模
住宅団地が多くなった。
の住宅となっている。このように唐戸地区では、
1 戸建て分譲団地は、最も住宅環境が良い第 1 、
建物用途を商業及び住居とした複合マンションの
2 種住居専用地域に開発されている。また、環境
建設により、地甚への居住者呼び戻しを留った。
条件よりも利便性や安全性を重視して!日市内地区
この額向は、!日市内地区の全地域においていえ
の商業地域や工業地域にも立地がみられる。地価
ることであり、 1 戸建て集合分譲団地の建設が難
の比較的高い!日市内地包ではマンションが建設さ
しい!日市内地区では、マンション建設により、郊
れ、地価の安い郊外では分譲団地が開発されてい
外に向いていた居住者の呼び演しを図ったのであ
る。
る。このようにマンション建設が地域発展に大き
融的措置などの有利さから、現在マンションブー
く影響を及ぼすようになったのである。
ムとなっている。果してこのままブームは続くの
か、今後の動向に注目したい。
VI. 要約
(平成 6 年度提出卒業論文要旨)
下関市における住宅団地を形態別にみていった
結果、次のようなことが分かった。
l 戸建て分譲住宅に比べて価格、手IJ便性、金
公営住宅に
ついては、現在住宅地として発展してきた地域に
参考文献及び資料
1.藤田
-34-
隆(1 972)
:広島広域都市閣における
集団住宅地の立地、地理科学第 17号.
2. 同上 (1973)
福岡都市圏における集団住宅
地の形成、地理科学第 20号.
3.
出井義通(1 984)
広島市のおける住宅団地
の形成とその居住地域構造、人文地理36-
7
. ~市営住宅一覧表J 、下関市建設部住宅課
8
. ~県営住宅一覧表ム山口県土木建築部住宅課
9
. ~下関市史J
1
0
. ~下関市の農業と農業委員会の概要』、下関市
2
.
農業委員会
5. 山鹿誠次『都市地理学J 、大明堂
1
1
. ~統計しものせき』、下関市総務部総務課
1
2
. ~山口県統計年鑑』、山口県企画部統計課
1
3
. ~ゼンリンの住宅地図』
1
4
. ~下関都市計画総括図』、山口県
6. 朝日新聞社『新マンション事情J
1
5
. ~山口県地価調査J 、山口県
4. 井関弘太郎・加藤英生・御船哲(1 967)
大
規模住宅開発の適地建定に関する地理学的研究一
名古屋都市習を事例として一、人文地理 19-
5
-35
-36
エリア山口第25号
1
9
9
6
萩簿作成「一村限明細絵国 J 宇部村の図を
利用した地域学習(一)
藤井正彦
1.はじめに
中学校社会科の地理的分野で身近な地域を学習
する項自がある九その中で、地墳がどのように
変化してきたかを調べるのに、現在の地形図と暁
治、大正、昭和に作成された i日版の地形闘を比較
として地下図と靖国が作成された。最初、萩藩の
指示によって村役人は地下関と地下上申を作成し、
それを萩藩に提出した。萩藩はそれをもとにして、
清図を作成した 4)。
授業で活用する地下図は「厚狭顎端木宰半府部・
川上・小串村地下図j、清国は「字部村清図 J で
する方法が用いられている。また、さらに時代を
ある。現存する地下図、清図は、その大部分が一
遡って江戸時代からの変化を調べようとすれば、
村単位の地図であるが、宇部村の場合、地下閣は
城下絵図や村絵図などの資料を付け加えることが
単独ではなく、川上村、小串村と合わせて 1 枚の
ある。
図に描かれている。この地下図が萩藩に提出され
山口県には萩藷が作成した村ごとの絵留「一村
限明細絵図J (別称、「地下上申絵園 J) が現存し
た年月日は、貼り紙によると次のようになってい
る。
ている 2)。この絵図は 3 , 600分の 1 の大縮尺の図
川上村享保 19年寅 4fl23 日
で、当時の道、家、問、畑などが詳細に描写され
宇部村事保 19年寅 4月 27 日
ており、江戸時代の景観を把握するには有効な資
料と考えられる。
小串村享保 19年寅 4月 27 日
1 枚の絵顕であるのに、 23 日、 27 日と異なる日付
しかし、この絵図はこれまでに市町村史などで
が記されている。地下図といっしょに提出された
は取りよげられているものの、学校現場ではどの
村明細書 5 )では、提出日はどのようになっている
ように教材化すればよいかについては、その具体
のであろうか。
例がほとんど報告されていない九
本研究では、「一村限暁縮絵図 J 宇部村の図を
事例として、 f一村臨明細絵図」の教材北の方法
を明らかにしてみたい。
川上村事保 19年実 4丹 23 日
字部村享保 19年寅 4克 27 臼
小串村享保 19年寅 4月 26 日
村明縮書 5)の提出年月 B は地下図のものとほぼ一
方法としては、まず「一村限明縮絵留J 宇部村
致しているようであるが、小串村が27 日、 26 日と
の図における「地下図」と「清図j について、詳
異なる。これらに関して疑問の残るところである
縮な分析奇行い、記載されている事物について整
が、今後の課題としておきたい。
理を行ってみたい。そして、次に、「一村限明細
絵鴎」と地形図を比較して、対象地域がどのよう
に変化しているかについて明らかにしてみたい。
3. 宇部村 f地下図J の記載内容
宇部村が含まれる「厚狭割璃併帯地月毛トJl I上・
本稿では、そのうちの前者について報告すること
小串村地下図 J (第 1 図)について、どのような
とし、後者の「一村隈明縮絵図」と地形図の比較
事物が描写されているのかについて分析を進める
については、別の機会に紹介することとする。
ことにする。
2. 宇部村 f地下図 J r清国J の概要
山地出地は薄墨色で着色されている。麓は淡く
山頂に近づくほど濃くなっている。斜面の立体感
「一村隈明細絵図J は、事保 5 年 (1720) から
を出すために、尾根筋を濃くするなど彩色の濃淡
宝暦 5 年 (1755) にかけて、題妨・長門の両国
に配惑がみられる。山頭には山名が記されている。
550余カ村を対象に作成された。この絵図は原則
森林山地に近いところは少し濃い襲で塗り、さ
37-
朱色で着色している。
方位園面の端に、墨で「東・西・南・北j の文
字が記されている O
小村名
朱色の楕円形の枠の中に、墨で小村名が
記されている。
地名(村名)
朱色の短冊型の枠の中に、墨で村
名を記している。
構墨で披橋が描写され、その名称が記されてい
る。
小名
朱色の円を描き、その中に墨で小名を記し
ている。
議己印を記し、その中に「蔵j の文字を書いて
いる。
4. 宇部村「清図J の記載内容
宇部村「清図 J (第 2 臨)について、どのよう
な事物が記載されているか、「地下臨 J と同様に
整理してみたい。
山地山地は薄墨色で着色され、斜面の立体感を
出すために尾娘筋は白筋で示されている。山頂は
ムを印して山名を記している O
第1 図
「厚狭郡船木宰判宇部・ JIIJニ・小串村地下図」
(部分)山口県文警舘蔵
らにその上に墨の点を描写している。
河川・湖沼(池、堤)
河川は薄い青、湖沼(油、
堤)は濃い青で着色されている。元禄 10 年
(
1
6
9
7
) 4 月に完成のときわ堤 6)
(現在、常盤湖)
が大きく描かれ、その中に名称、が記されている。
関
田は薄茶で着色され、所々に「田」の文字が
言己されている。
姻畑は灰色(薄墨色)で着色され、田と同じよ
うに所々に「畠」の文字が記されている O
家屋
OEP で家震を描写している。集落の回りは
線で囲み、自抜きにしている。
寺院寺院はム印を記し、それを朱色で着色して
表現している。寺院名は地閣に直接記載されてい
るものと付議に書かれているものがある。
神社神社はム印の内側 lこ口を書き、その臼を朱
色で着色している。そしてさらにその口の中に名
称を記している。
道道は茶色の筋で示されている。筋の太さは太
いものと車問いものがある。
一豊塚墨で一里塚の形を描写し、その上半分を
-38-
第2関
「字部村清毘 J (部分)山口県文書館蔵
森林樹木を描写して、森や林を表現している。
られな L 、。
河Jl I .湖沼c;-也、堤)
小名
Jl I 、湖沼ともに同じ薄青
楕円形(小判型)の枠(暴)内を白で着色
色で塗り、池の中には名称が記されている O
し、その上に墨で小名を記している。
海洋海洋は地下関では文字で「うみj と書かれ
小村名
短冊型の枠を書き、その中を告色で着色
ていただけであったが、清関では濃い青色で塗ら
し、筆で小村名を記している。
れ砂浜も絵画的に描写されている。
地名(村名)
国
を搭き、その中を白色で着色し、筆で地名(村名)
黄色く殺った上から、筆で田の畦道らしきも
中心集落に記されている。短冊型
のを細く多く書き込んでいる。
を記している。
畑鴬色で着色し、墨で小さな点を落としている。
昌録中心集落に貼り紙をし、その上に村の東西
家屋家形の判を捺して、集落を描写している。
南北の里数、隣村への道程を書いている。
屋敷の周間には樹木を描いて屋敷林を表現してい
橋橋は板を数枚繋ぎ黄土色で着色されている。
る。
その場所に「板橋J の文字や、橋の名称、川幅も
王寺院家濯の家形より少し大きい家を撞いている。
記されている。
外枠は墨で内側は朱色で着色している O
議議は実物に模して描かれている。外枠を譲、
神社社殿を描写している。外枠は塁、内側は朱
壁は白色、屋根は灰色で着色されている。
色で着急されている。
特境村の形に切られた図詣の周辺には、村墳の
道朱色の筋で描かれている。細いものと太いも
注記がみられる。
のがある。
5.
一望塚墨でー里壕を描写し、茶色で着色してい
おわむに
宇部村「一村健明細絵図」の地下図と靖国を、
る。
方位地下留にみられた方位の文字はここでは晃
地域学習の資料として活用するために、記載内容
第 1 表字部村「一村限暁細絵図」の記号
色彩@形状
記号の種類
-注記など
清圏
下図
1.山地
薄墨、白筋、ム印、名称
2. 森林
墨、樹木
3. 河川,湖招(地,堤)
三金三
薄墨、 JII 嘱、名称
4. 海洋
文字「うみj
濃青、砂浜
5.
F寺
宙
薄茶、文字 iEEJ
墨、黄、畦道
6. 道
薄茶、文字「畠 j
緑、点
7. 家屋
OfP
茶、判(家形)、崖敷林
8. 寺院
ム却、朱色、名称、付筆
朱、判(本堂)
9. 神社
ム印の中に己印、朱色、名称
朱、特(社殿)
茶筋
朱筋、
10. 道
1 1.一里塚
12. 方位
13. 小村名
墨、茶
墨、文字「東、西、南、北J
朱、楕円形
由、黒、短冊型、名称
14. 地名(村名)
塁、朱、短冊型、名称
白、黒、短冊盟、名称
15. 橋
墨、名称
墨、黄土、名称、Jl I 橋
16. 小名
墨、朱、円、名称
店、遺言、短冊型、名称
17.
目録
貼り紙、注記
18. 蔵
司印、文字「蔵」
白、墨
19. 村境
村境の注記
村境の注記
-39
を詳縮に分析し、整理した(第 1 表)。両国の記
載内容を辻較すると、ほぼ一致がみられるが、構
図には方位の文字が記載されてなく、また、地下
図には目録の結り紙がみられないことが分かつた。
清図は清書の図であり、地下図に比べると丁寧
に仕上げられている。多彩な色彩により、見た目
参考文献
1) 文部省 (1989) :中学校社会指導書。
2) 山口県文書館 (1985) :~山自県文書館収蔵
文書仮自録j 3 ,黒庁伝来|臼藩記録等仮自録、
地下上申絵図。
lこも美しく絵画的な雰囲気を漂わせている。地下
3) 河村克典 (1995) :萩藩作成「一村限明細絵
図は色彩に隠しては清図に劣るものの、下図であ
圏j にみる近世の村落景観一一平郡島「地下図J
ることから情報量は多い。
を事例として一一,エリア山口,
宇部村の「地下関」と f清図」から明らかになっ
2
4
0
4) 川村博忠 (1984) :1藩政基本資料としての
たように、「一村隈明細絵図」には多くの情報が
地方絵図一一萩藩の村図・郡図・小村図一一一,
記載されており、地域学習には有効な資料だと考
歴史地理学紀要,
えられる。(字部市川上中学校)
3
00
山田稔 (1 985) :地下上申絵函の地下図につ
いて一一ー 11 日記細目」による若干の検討…一山
口県文書館研究紀要,
本研究を進めるにあたって、終始鶴指導をいた
1
2
0
5) 1宇部村石高境白書 J 1 川上村石高境邑
だいた出口大学川村博忠先生、絵図の閲覧でお世
「小串村石高境自書J, (山口県地坊史学会編集・
話になった山口県文書館の職員の方々に深く感謝
刊行『妨長地下上申』第三巻,マツノ審薦。
の意を表します。なお、本稿は平成 4 年度山口地
1979年)に収載。
理学会研究大会で発表した内容の一部を加筆、修
正したものである。
6)宇部市史編纂委員会 (199 1) :r:宇部市史年表j,
23p 。
-40
エリア出口第25号
1
9
9
6
離畠の若者対策
一下関市蓑井島を.fJtl として一
山口大学教育学部地理学談話会
今回、私たちは蓋井島住民へのアンケート諒査
はじめに
や現地調査を実施し、蓋井義の若者対策の成功か
山口県は海岸線が長く、全国有数の多くの島を
持っているが、その多くは著しい人口の減少、若
者の流出に伴う高齢化、農業@水産業など基幹産
業の衰退といった問題に頭を悩ませている。この
状況は地の都道時県においても関じである。
ら、離島の活性化について考察することにした。
1.叢井畠の機観
1)自然環境
下関市の北西端の岬である箆沙ノ轟の沖、吉母
このような中で、近年注目を集めているのが下
港から西へ約 7kmの本州最西端に位寵しており、
関市沖の響灘に浮かぶ蓋井島である。この島は以
面積2.ι4knîで、響灘諸島の中では最大である。
前は地の島と同様の問題を抱えていたが、若者対
最高点の大山(おおやま)は標高 252m で、南
策の成功によって、若者の定住が進み、子どもの
西部は大部分が標高 100m 前後の丘接地で農地の
数も増えている O これは、他の離島と比較すると
ほとんどがここに分布する。農地の震直は小さく
かなり特競な状況であり、近瞬の下関市六連患で
段々状になっている。島の賭囲の海岸線は出入り
は、こうした状況は生まれていない。
に富んでおり、急、額斜の海食崖を巡らしているた
め、王手地はほとんどなく、島を一層する道路もな
表1
山口県の離島の撹況
島名
端島
市町村
岩田市
柱島
1
1
島
ノノ
情島
東和町
浮畠
橘
町
前島
久賀町
笠佐島
大島町
平郡島
榔井市
馬島
田布施町
佐合鳥
平生町
祝島
上関町
八島
/ノ
牛島
光
市
大津島
徳山市
野島
防府市
角島
豊北町
蓋井島
下関市
六連島
1
1
見島
大島
萩
市
1
1
面積 (knD
0
.
6
7
3
.
0
9
0
.
5
4
1
.
11
2
.
3
1
1
.0
2
0
.
9
4
1
6
.
7
4
0
.
7
0
1
.4
8
7
.
5
6
4
.
5
5
1
.9
9
4
.
7
6
0
.
7
3
4
.
1
1
2
.
5
2
0
.
6
9
7
.
8
5
3
.
4
4
い。海岸には砂地が少なく岩場が多い。南岸の小
1990
年産
国勢調査人口
8
3
3
5
9
3
7
1
8
9
3
1
7
4
8
2
8
8
5
0
5
2
4
8
9
0
9
1
1
7
1
9
0
7
9
6
2
9
6
1,112
1
5
0
2
2
6
1,663
1,155
湾頭にはわずかな低地や砂地があり集落が立地し
ている。水量の少ない谷川があるのみだが、生活
水は豊富に得られる。対馬海流に近いこともあり、
気候はおおむね溢暖で、夏涼しく冬壌かく、平均
気温は 15 C くらいである。
0
畠の大部分は常緑広葉樹でおおわれており、暖
地性植物も多く見られる。集落の山手には信仰の
森としてーの山、ニの山、三の山、自の山がある。
住民には「やま j あるいは「もり J と呼ばれてお
り、神殿のない杜(もり)信仰である。これらの
森には神霊がやどると信じられ、平素は立ち入る
こともかたく禁じられており、中心にクロマツの
大木がそびえている。住畏は、それぞれいずれか
の森にわかれ、 7 年ごとに神事がある。
2) 歴史
長門国豊浦郡に属し、近世には長時藩領であっ
た。村高は、慶長 5 年検地憶に 18石余、同 15年検
地蟻に 27石余、「地下上申 J (こ40石余(田 32石余、
畑 7 石余)、「天保郷鰻」に 35石余、「村浦明細書」
に 39石余(出 32::&余、畑 7 石余)、íI日高旧領J に
38石余となっている。
-41-
¥
県"み
百ノ日
図 1
1871年(暁治 4) に豊浦県を経て山口県に所属
蓋井島略図
35分で結び、
1 日 2 往復している。これが島民は
し、 1889年(明治22) に豊西村の大字蓋井島となっ
本土との間で利用できる唯一の公共の交通手段で
た。 1854年(唱和 29) からは下関市に属し、現在
ある。島県以外にも釣り客などの観光客が利用す
に至っている。
1883年(明治 16) に、現在の葦井島小学校の前
る。島内での交通は集落の範囲が狭いためパスな
どの公共交通機関は必要ない。教育関係では下関
身である蓋井島簡易小学校が開校した。 1898年
市立蓋井小学校とそれに付属した幼稚園がある。
(明治31) に蓋井島対地方六ヶ浦漁場紛争のため、
中学校は現在は島内にはなく、対岸の吉見の中学
地方から訴訟を起こされている o 1947年(昭和22)
校に通学することになる。
に豊西中学校蓋井島文教場が開校した。これは
鳥外への通勤・通学者については、通勤者はわ
1954年(昭和29) に吉見中学校蓋財子校となるが、
ずか 1 人しかいない。これは、島民のほとんどは
1968年(昭和43) に廃止された。 1951年(昭和26)
漁業に従事するか、島内の漁協に勤務して生計を
に全国初の風力発電所が設置された。 1959年(昭
立てているためである。中学生以上の通学者につ
和34) に山の神神事が留の記録作成などの措寵を
いては、ほとんどが対岸の吉見の寄宿舎に入って、
構ずべき無形の民俗文化黙として選択され、 1960
日常はここから中学や高校に通学し、週末に連絡
年(昭和35) に山の神が国の重要有形民俗文化財
船で葦井島へ帰る。
に指定された。 1967年白書和42) に古母と葦井島
問に海底ケーブルが付設され送電が開始され、
連絡船の利用目的は、通勤・通学の利用が少な
いため、病院への通院のためが最も多く、質物の
1968年(昭和 43) に鰭易水道工事が完成した。
ためなどを上回っている。葦井島には常在の監輔
1977年(昭和52) に蓋井渡船が下関市に移管され、
がおらず、急病の場合、海が荒れて船を利用して
1981年(昭手口56) に葦井丸が就航した。
本土に行くことができなければ、医療を受けるこ
2. 生活と産業
1)生活
とができない。現在、医療関係の施設としては下
関市立保健福祉館があり、島外から医師が来て定
期的な健康診断や、丹に一度の歯科検診が行われ
下関市営連絡船蓋井丸 (49.55 トン、定員 75 名)
ている。しかし、島民の多くは、医師の常在、ま
が対岸の下関市吉見港との間の海上距離 14km を約
たは、緊急時に利用できるヘリポートの設置を希
42-
望している O 今後、人口の高齢化がさらに進行す
業である。アワビの種苗は、外海水産試験場から
ることを考えれば、こうした医嬢体制の整備は重
13rnm くらいのものを購入し、 3 crn ほどになるまで
中間育成し、蓋井島の回りに放流する。蓋井島周
要な問題である。
買物動向については、食料品や日用品は主に魚
協の購質部を利用し、足りないものを島外に求め
辺の漁場利用権は、葦井島・室津・安問・吉見・
吉母の 5 つの漁協にある。
ているようだ。また、酎久消費財や曙好品につい
漁業の種類としては、漁協で行う定置網漁業、
ては、ほとんどが島外で購入している。購入する
屈人が行う素潜り漁業、一本釣り漁業、建網漁業
場所については、下関駅・下関市役所周辺にはダ
などである。魚種別漁獲金額をみると、かつて蓋
イエーや大丸を核とする大型ショッピングセンター
井島の最大の収入源であったアワどの漁獲金額は
のシーモールが位置しており、こうした下関市中
かなり減少してきている。この理由は、アワビが
心部や北九州市の小倉などが多いのではないかと
飼料とするアラメ・カジメなどの海藻が蓋井島周
予想していたが、実欝にはかなり異なっていた。
辺であまり生青しないための漁獲量の減少のため
下関市中心部の利用は比較的多いが、それ以上に、
であるが、その原因は十分には分かっていない。
それ以外の下関市内という答が最も多かった。こ
このような問題について謂査・研究を行う専門家
れは、下関市内では播生駅近くや綾羅木駅近くに、
の存在は不可欠であり、藁井島で、は下関市の水産
近年立地してきた、広大な註車場を持つ郊外型の
大学校と提携し、試験場を提供し、調査を依頼し
大型ディスカウントストアなどの利用が多いため
ている。
と考えられる。議井島の島民は吉見港に自家用車
漁獲物の販売については、漁獲物は毎朝、高速
を震いている場合が多く、郊外型の大型店は利用
の運撮船によって北九州市の魚市場に出荷される。
しやすいのだろう。また、通信販売を利用する人
もちろん下関市にも魚市場はあるが、北九州市ま
も多いようだ。
で運ぶ理由は、漁獲物の髄格の違いと市場の規模
休日に過ごす場所は、島内が最も多く、次いで
の遠いのためである。漁獲物の加工については、
下関市内となっている。島内で過ごすものの中に
は、漁協青年部の主催で、休日に島ぐるみで実施
される、交歓会@交流会、ソフトボール大会や運
漁獲量 (kg)
r;
動会などスポーッ大会、各種行事といったイベン
5
5
.
0
0
0
トも含まれている。現地調査のときも魚釣り大会
5
0
.
0
0
0
が行われていた。このような方法で島内の結び付
きを強めて一体惑を高めようとしている。一方で
若い世代の一部にはこれを鎮わしいと感じている
40 ,000
人もいるようだ。
また、金融関係の手続きは漁協で行っている。
島内には銀行はなく、必要な場合は対岸の吉見ま
30 ,000
で行かなければならなし、。郵便局もないが、郵痩
ポストは設置されており、郵便配達は日われてい
る。
2)漁業
今 B の日本の漁業では、乱獲による水産資源の
枯渇や漁師の高齢化・後継者不足などが問題点と
なっているが、蓋弁患でも例外ではない。
漁獲高は年々減少額向にあり、取る漁業から育
てる漁業への転換を余儀なくされている。育てる
10 ,000
5 ,000
。
4
5
漁業として蓋井島で取り組まれていることは、ア
ワビやウニを中間育成し放流するという栽培型漁
-43
図2
5
0
5
5
1 経営あたりの漁獲量の推移
6
0 (年)
(単位:万円)
(単位:万円)
30 ,000
25 ,000
一
「一一一
ャーーーー一白
一
20 ,000
トー司
15 ,000
一
トー
トー
一
トー
一
一
トー
トー
10 ,000
5,000
一
。
図ヰ
葦井島の主な魚種別金額
島内に大規模な加工工場はない。ウニについては、
アワビの漁獲量の激減であり、アワどの供給の安
漁獲された後、いったん漁協の組合員に平等に分
定@増加が求められるところである。アワビの成
配され、その後に再び漁協に買い戻され、瓶詰に
長には 5-9 年の歳月を嬰し、今後、放流の効果
されて、島内の売!吉で販売される。しかし、この
が出てくることが期待されている。
ウニの加工 e 販売は、ほんの御土産程度のものに
過ぎない。漁協では漁獲物の畜養施設を設立し、
3)農業
蓋井島では、稲@野菜@果樹など様々な作物を
調整出荷を行うことで収入の増大を圏りたいと考
栽培している。7]<. 83 は甫西部に集中しており、作
えている。
付面積は 2.34haで、収穫量は約 6 トンである。畑
また、漁師の休みは天候 lこ左右され不規則なも
のであるが、蓋井島では漁協の取り組みとして、
は道路沿いに散在しており、耕地語穣は 0.8haで\
トマト・キュウリ・ジャガイモ@スイカ・ピーマ
1979年(昭和54) より月 2 国の定休日制を導入し
ン・ナス・キャベツ・レタスなどが栽培されてい
た。これは、若年漁業者層の生活意識に適合した
る。果樹園では温暖な気候を生かし、斜面を利用
だけでなく、結果的に漁獲物の価格対策や乱獲の
じてミカンを栽増している。ミカン栽培はかつて
歯止めともなっている。
は現在よりも盛んに行われていたが、収穫状況が
蓋井島の漁業の試みは、資源収奪型漁業から資
悪いこと、市場での価格の低下などのため衰退し
源管理型漁業への転換であると言えるだろう。こ
ている。これらの農産物はすべて自家消費や島内
うした試みが、漁獲高・所得の増大・安定や漁業
での消費にとどまっており、島外への出荷はして
後継者の確保につながると考えられる。しかし、
いない。唯一、島外へ出荷している農産物はツワ
現実には漁獲金額は年々減少している。この一番
ブキである。ツワブキは約 7 トン収穫され、 200
の原菌は、かつては漁獲金額の中心となっていた
万円程度の利益を得ている。
-44-
、、,ノ
一戸
位
協寸ハ υQυno
々tpopusqqJ
/tνヮ“ 11111i111i1i
ワU4inUGυn6niρhUF344
をititi--
1
…...・ H ・..稲
2
・ H ・ H ・..…トマト
3
・ H ・ H ・..…きゅうり
4
・ H ・ H ・..…ピーマン・ナス
5
…...・ H ・..じゃがいも
6
…...・ H ・..キャベツ e レタス
7
・ H ・ H ・..…スイカ
8 ・・ H ・ H ・-…花類
9
・・ H ・ H ・-…果樹
10 ・ H ・ H ・..…回答なし
司 un441nu
11 …...・ H ・..その地
2
3
4
5
6
7
8
9 1
0 1
1
図5
農家栽培蓮田
4)その地
戸で推移し、 1739年(元文 4 )の人口は 121 人
その他の産業としては民宿がある。民宿は島内
(男 61 人、女60人)であった。
に 5 軒あり、特に観光客に多く利用されるのは、
夏休みや週末である。夏休みには家族連れも多く、
人口が大きく増加し始めたのは近代になってか
らで、 1881年(明治 14) には戸数は 29戸、人口は
週末には新鮮な魚介類を求めて観光客が訪れる。
167人(男84入、女83人)となり、 1891 年(明治
葦井島は賭囲が岩場に題まれているため、釣り場
24) には戸数は45戸、人口は 186 人〈男 97入、女
に恵まれており避末には釣り客が多く、下関市内
89人)となっている。 1933年 (ff苦手口 8) には回数
からの常連客もいる。しかし、シーズンオフには
は 39問、人口は 248人(男 102入、女 146人)と
民宿はほとんど利用されなし、。観光客は九州悦〉ら
増大し、最盛期の 1956年(昭和31年)には、戸数
が最も多いが、宇部や下関市内からも多い。
は48戸、人口は 237人(男 118入、女 119 人)で
この位、島内には菌h5が 1 軒、食堂が 1 軒ある。
商店には食料品から漁具まであらゆるものを扱っ
あった。
しかし、その後は戸数@人口は減少のー迭をた
ており、島外からの観光客梧手ではなく、島内の
どり、過疎化が進むことになる。 1975年(日E和50)
住民にとって重要な役割を果たしている。商店へ
には、戸数は43戸、人告は 149人(男 72入、女77
の入荷は主に下関市と北九州市小倉からされてい
人)となり、 1985年(昭和60) には、戸数は41戸、
る。食堂は港の近くにあり、釣り客に利用される
人口は 139人(男 70入、女69人)となった。
ことが多い。
3.
人口と若者対策
1)人口の推移
1994年 3 月現荘で蓋井島の戸数は41戸、人口は
165人(男 77入、女88人)である。総人むは 1987
年から 1993年までの 6 年間あまり変化しておらず、
過諒化には歯止めがかかったと見ることもできる O
蓋井島の近世以降の戸数・人口の変化を見てみ
しかし、年齢階麗加に晃ると、 65歳以上の占める
ると、まず、 1610年(慶長 15) の戸数は 15戸あっ
割合、すなわち高齢者率は、 1987年の 16.6% から
たとされている。近世には戸数は 18戸ないしは 19
1993年の 20.3%へと年を追うごとに少しずつ高く
45-
平成 6 年 3 月 31 日現在
性
性
J
7
J
I
'性
女
年齢階層
9691-95
86-90
81-85
76-80
71-75
66-70
61-65
56-60
51-55
46-50
41-45
36-40
31-35
26-30
21-25
16-20
11-15
6-10
露屋雪量警
塁審璽襲撃露璽震調
鐘襲撃欝璽塁率
欝襲警警護璽
璽
璽璽露関欝
関璽璽欝璽
欝震警璽欝奪還霞塁審璽
欝趨震警鐘襲撃霊童襲撃
襲撃襲警璽襲警
援護襲警
欝璽璽襲撃襲撃欝璽
璽欝護審璽欝欝
0-5
璽翠欝欝璽閤欝塁審
欝襲警璽翠塁審
璽璽欝襲警
蕗警護襲警審議襲警
襲警露盤
襲撃警護欝襲撃襲警鐘警護
男女別合計
総合計
欝関襲襲撃璽欝襲警襲撃欝璽盤関露
77人
88人
165人
国6
蓋井島の年齢階層別人口
なっており、 6 年間で約 3.7%上昇している。
ところが、高齢者率の上昇を山口県内の他の離
機会をつくる花嫁対策を始めた、若者夫婦が暮ら
しやすい生活基盤の整備を進めた、などである O
島と比較してみると、光市牛島では 1987年に 32.6
この中でも、若者の定住が進んだ、最大の要因は、
%であったのが 1994年の 50.3% へと大幅に上昇し
蓋井島の基幹産業である漁業での定休日制を導入
ている O これ以外の離島の最近の高齢者率を見る
である。かつては蓋井島で、も漁師の休臼は、天候
と、徳山市大津島が35.5% 、萩市見患が 17.3% 、
が悪く漁ができない日か休漁期のみで、定期的な
柳井市平郡島が46.6% 、岩国市柱島が 43.3% と、
休日はなかった。このため、ほとんどが漁業に従
萩市見島を除けば高齢者率は極めて高い。葦弁島
の高齢者率が上昇しているとはいえ、 20%程度に
とどまっているのは、山口県内の離島では珍しい
と言ってよいだろう。
1992年
未満の子どもの占める割合も高くなっていること
1991年
が次々と結婚して、出生数が増加したためである。
蓋井患の高齢化対策は、若者の定住化を促進して
成功しているのである。
2)若者対策の麗開
1
1988年
0
図7
8
3
コ
コ
一
t:-一一
1987年
46-
s
s
寸:
1989年
蓋井島の若者対策の主な内容としては、漁業従
2
l:
s
1990年
事者に定期的な休漁 B を設けた、女性との交流の
E
ココ:
1993年
そして、注目すべき蓋井島の特異な点は、 14歳
である O これは、この期間に島内の青年男性たち
主一一
1994年
1
1
0
s
e
2
0
3
0
蓋井島の高齢化の推移(高齢者率%)
事している蓋井島の若者は、休暇が計語的に取れ
人の世帯と 6-7 人の世帯が多い。 2 人の世帯は、
ず、本土の友人、とりわけ女性との交流の機会が
老人夫婦のみで構成されているものがほとんどで
極端に少なく、嫁不足や若者流出につながってい
ある。一方、 6-7 人の世帯は、老人夫婦とその
た。 1979年(昭和54) に、このような問題を解治
患子夫嬬、孫によって構成されているものが多い。
するため、漁協青年部が定期的な休漁臼を求めた。
このように、三世代が同居している世帯では、
年配者からは、収入減を心配しての強い反対や、
母屋に老人夫婦が住み、「離れ」に息子夫婦と孫
効果を疑問視する意見も強かったようだが、この
が住んでいる場合が多い。こうして、親夫婦と患
とき、毎月第 1 ・第 3 土曜尽の丹 2 自の「漁止め」
子夫婦が向践しでも、椙互のプライパシーは保た
を決定した o r漁止め j とは、趣味としての個人
れ、若者夫婦には好評である。
的な釣りは認めるが、業務としての出漁は認めな
1985年(昭和60) ごろには、年間 2-3 組ぐら
いという休漁日のことである。祭の臼や運動会の
いのペースで、さらに島外の女性との結婚が進ん
臼も休漁日であるので、年間の休日もかなり増加
だ。蓋井島の若者の結婚状祝は出自県平均に比べ
することとなった。現在の休漁 B は、学校五日制
ても未婚者の割合が低く、順調である。これに伴
の導入に伴って、毎月第 2 .第 4 土曜日の月 2 回
い出生数も増加し、近年のベビーブームにつながっ
となっている。
てきたのである。
このような休日を利用して、女性との交流も定
蓋井島で若者夫婦の定住が増加したことによっ
期的に行われるようになった。漁協青年部も、葦
て、今後考えなくてはならない諜題も生じてきた。
井鳥で行う運動会、キャンプ、遊泳、下関市内で
それは、子育てを終えた女性が増加してきたとき
行うボーリング大会、オリエンテーリング、ドラ
に雇用の場を確保することである。現在のところ
イブなどを主催して、下関市近辺の女性に参加を
は、漁協購買部でパートタイマー、ウニやヒジキ
呼び掛けた。当初は自分たちの姉や妹の友人に協
の加工、夏期の海女などが考えられている。まだ
力してもらい、なんとか活動できる状況であった
深刻な開題とはなっていないが、女性がどのよう
が、次第に参加者も増加した。これらの活動は、
に自分の能力を生かし生きがいを見つけるか、と
決して花嫁獲得のための集問見合いとして実施さ
いう点で重要な問題である。
れたわけではない。葦井島に若い女性が少なく、
また、子供の幼児期の教育については、島外出
葦井島の若い男性が若い女性とうまく会話ができ
身で嫁いできた女性の中の、保母の経験のある方
ない傾向があったため、女性と接する機会をつく
が、漁村センターの二階で遇 3 回、 4-6 歳児を
るために始められたものである。しかし、こうし
対象に幼稚菌が開かれている。
た交流の輪が広がることによって、漁協青年部の
努力が実り、 1982年(唱和57) から 1983年(昭和
おわりに
58) にかけて、葦井島の若者と島外の女性との間
若者が定住し、子供の数も増え、元気で明るい
の結婚が増えてきた。また、こうした活動によっ
声が響きわたり活気が出てきた。こうした状況を
て花嫁を葦井島全体で混かく迎える雰盟気も作り
見ると、蓋井島 lま過藤化・高齢化への対策が成功
している例であると言えるだろう。蓋井島の伊j が
出されていった。
島内でも花嫁を迎えるための生活基盤の整備が
どこでも同じように適用する保証はないが、過諜
行われた。住宅に若者夫婦のための「離れj を建
化・高童会化に悩まされる他の離島にとっては、参
築、簡易水洗も含めた水洗トイレの設置、電気温
考にすべき伊j ではないかと考えられる。
水機の普及などである。さらに生活環境を整錆す
ところで、視点を変えれば、近年の出生数の増
るために、現在で、は完全下水道化に向けて努力中
加は、年齢期人口構成で20歳代後半から 40議ぐら
いまでの住民の人口が多いために生じた、一時的
である O
蓋弁島では家族の構成員の中に、蓋弁島以外の
なベビーブームであるととらえることもでき、蓋
出身者がいる世帯は、ほぼ半数ある。これは、島
井島は 20--30年局期で世代安代を操り返している
外の出身者との結婚によるもので、島外から蓋井
と考えることもできる。
過跨化・高齢化に歯止めをかけ、今後も現在の
島へ嫁いだ女性である。世帯ごとの家族構成は 2
4
7
ような状況を継続させていくためには、現在の子
1 時間~1 時間30分… 1 人
どもたちが成年に達したときの定住対策をどのよ
9 、 10 は市営連絡船についておたずねします。
うに進めていくかが大切になってくるだろう。そ
9 どのような目的で利用しますか。(通勤@通
れには、これまでに取られた若者対策を続けるだ
学を除く、捜数回答可)
けでなく、漁獲高@所得の増大@安定をはかり基
病院… 17 、旅行…目、買物… 13
幹産業である漁業を振興すること、子育てを終え
市役所などの行政機関… 11
た女性や若い女性の濯用の場を確保すること、医
島外の友人宅… 11 、郵便局@鋭子… 10
師の常在など医諜体制を整錆すること、などが必
食事… 3 、その他(実家、出張)… 4
1
0
要となるであろう。
(平成 7 年度地域調査)
主にどこに行くのに利用しますか。
下関市内… 19、北九州市内… 1 、県外… 1
11 、 12 は覧物についておたずねします。
参考資料
1
1 金料品@日用品の購入はどこでしますか。
漁協購巽部(島内)… 10
葦井島住民アンケート集計結果
このアンケートは島内の全世薄の約90% にあた
下関駅@下関市役所周辺… 5
る 37世帯に用紙を配布した。自答が寄せられたの
吉見地区… 4 、長府地 IR...
はその 54% にあたる 20世帯からであった。
上記以外の下関市内・・・ 10
1 ご家族は何人ですか。
下関市以外の山口県内… 1
2 人… 5 、 3 人… 3 、 4 人… 1 、 5 人… 2
小倉地毘(北九州市)… 1
1
2
6 人… 3 、 7 人… 5 、 8 人… 1
2
1
ご家族の年齢構成を教えてください。
耐久消費財@晴好品の購入はどこでしますか。
下関駅@下関市役所局辺… 5 、吉見地区… 3
全体の総計を示すと、
上記以外の下関市内・・・ 12
10議未満… 13入、 10代… 7 入、 20代… 10人
下関市以外の出口県内… I
30代… 14入、 40代… 9 入、 50代… 11人
小倉地区(北九州市)… 1 、通信販売… 3
1
3
60代… 16入、 70代… 9 入、 80議以上… 6 人
3
ご家族に葦井島以外の出身者はいますか。い
ご家庭での燃料は電気以外に伺を使っていま
すか。
るならば、何人いますか。
プロパンガス… 20 、石油ボイラー… 10
ソーラーシステム… 4 、薪。炭… l
14
4 は 3 で「いる j と
くださ L 、。
4
休日はどこで過ごすことが多いですか。
島内… 17 、下関市内… 11
下関市以外の山口県内… l 、北九州市内… 1
1
5
どこの出身ですか。
島に若い人や子どもが増えていますが、この
下関市内… 6 入、下関市以外の出自黒内… 3 人
ことをどのように思いますか。
不明… 2 人
活気が出てよしい・ 19 、人口が増えてよい… 2
5~8
何とも思わない… 0
、るご
静かさがなくなり迷惑だ… 0
家庭のみにおたずねします。
1
6
5 通勤・通学されている方は何人いますか。
全体の総討を示すと、通勤… 1 入、通学… 7 人
いますか。
6 通勤の主な手段は何ですか。(複数回答可)
轟かな人情に引かれた・・・ 10
生活基盤が整っている… 7
通勤の 1 人は市営連絡船・自家用車@鉄道など
を利用
島民の努力の成果… 5
7 通学の主な手段は伺ですか。(謹数回答可)
豊かな自然に引かれた… 0 、大都市に近い… 0
1
7 蓋井島の長所を PR をしてください
寄宿舎@寮… 5 入、鉄道… 2 人
8
なぜ、島内に若い人が住むようになったと思
通勤・通学にかかる時間はどのくらいですか。
自然がいっぱい… 12、子どもが多い… 11
30分未満… 4 入、 30分~1 時間… 2 人
豊富な海の幸… 11 、あふれる人情… 11
4
8
海がきれい… 10 、山の神神事… S
部会が近し、… 2 、上記すべて… 9
漁法で一本釣りと答えたもの… 2
2
4 漁獲したものは主にどのように利用しますか。
18,......, 21 は蓋井島以外の出身者の方のみお答えくだ
小倉の市場へ出荷… 14、島内で消費… 2
さし、。
自宅で消費… 2 、下関の市場へ出荷… 0
1
8
蓮井島の第一印象はどのようなものでしたか。
下関市内と変わりなく島にしてはひらけている
とても静かで人矯があふれでいる
2
5
何を栽培していますか。
人情の暖かさが変わらない
7I<.f.語・・・ 11
島全体が家族的で入構があふれでいる
野菜などでは、トマト… 14 、キュウリ… 14
明るい島、人情が豊か、自然との共存
ジャガイモ… 13 、スイカ… 13、ピーマン… 12
自然がきれいで豊か、住みやすく人矯が軍い
ナス… 12、キャベツ… 11 、レタス… 11
1
9 第一印象は島内に住むことによって変わりま
この地、タマネギ、ネギ、ニンジン
したか。変わった場合、具体的にどのように変
サツマイモ、サンショウ、立類、ツワブキなど
わりましたか。
花類… 3
変化した… l 入、ほとんど変化しない… 7 人
果樹… 10 (ミカン、キウイ、どワ、メロン)
「変化した j の呉体的内容は、入構がわずらわ
2
6
収穫したものは主にどのように科用しますか。
自宅で消費…弘、島内で消費… 3
しく,智、えるようになった
20
(チューリップ)
若い夫婦にとって、子育てに関して葦井島の
小禽の市場へ出荷… l 、おみやげに科用… 1
環境はよいで、すか。
下関の市場へ出荷… 0
たいへん良い… 5 人、良い… 3 入
27 は農業 e 漁業に従事されているご家寵のみお答
普通… 0 入、惑い… 0 入、たいへん惑い… 0 人
えください。
2
1
蓋井島にあればよいと思うものはありますか。
2
7 今後に対して大きな不安や要望がありますか。
あれば、それは何ですか。
ある場合、それは何ですか。
「ある」の具体的な内容は、
常在の陸部… 10、水産物の加工場… 3
市役所の支所… 2 、郵便崩… 2
漁獲高の減少… 6 、収入の不安定さ… l
銀日… 1 、交番… I 、リゾート施設… 1
討翻出荷や栽培漁業のため漁業施設の整備… 1
「特にない」… 4
28-31 は蓋井島の将来についてお答えください。
ください。
2
2
2
8
漁場は主にどこで、すか。
将来の大きな開題になりうることは何ですか。
高齢化の進行… 9 、底援体制の不備… 8
蓋井島賭辺の響灘・・ .14
産業の停滞… 8
玄海諜… 1 、出捨沖… 1
災害時の避難体制などの不備… 4
2
3
季節ごとに、主に伺を漁獲しますか。
自然破壊の進行… 2
近諒での韓器漁給の不法操業… 1
アジ… 7 、イカ… 7 、サザエ… 2
わからない… 1
サパ… 2 、ウニ… l 、タコ… 1
アナゴ… l 、ガゼ… l
2
9
将来の大きな問題の克服は可能ですか。
サザエ… 8 、アワビ… 8 、ウニ… 6
完全に可能… 1 、ある翠度可能… 9
アジ… 4 、ガゼ… 1 、サパ… I 、イカ… 1
ほとんど不可能… 4 、完全に不可能… 0
秋イカ… 7 、アジ… 6 、サワラ… 2
サパ… 2 、ハマチ… 1 、タコ… 1
不明… 1
3
0 将来を明るくためには持が最も必要ですか。
産業基盤の安定化… 9 、若者定住策の推進… 7
アナゴ… 1
冬サザエ… 6 、ナマコ… 5 、アワビ… 4
子どもたちの増加… 5 、観光開発の推進… 4
タコ… 2 、アナゴ… 1 、サワラ… 1
交通アクセスの充実… 3
ウニ… 1
他の離島や自治体との交流の促進… 1
4
9
下中邦彦編(1 980)
外部への PR 活動の拡大… l
若い女性の働く場の確保… l
平山信夫:~資源管理型漁業』成山堂
自己分析して次の手を打つ… 1
3
1
:~日本摩史地名大系第三六巻
山口県の地名』平凡社
現在の葦井島での生活に満足していますか。
とても満足… 2 、まあ満足… 7 、普通… 5
松沢喜一:~蓋井島村落の陸史的社会的構造』
山口県教育会編(1 982)
やや不満… 2 、とても不満… 1
:~山口県百科事典』大和
書房
担当者
参考文献
加藤和俊:~沿岸漁業の担い手と後継者』成山霊
室長:岡野将明( 3 年)
加藤庸二(1 988) :~山渓とっておきの旅 5
担当責任者:福住和将( 3 年)
島の
岡野昇、久木山正明、中村公俊、野辺孝大、乗
旅i 山と渓谷社
角Jl I 日本地名大辞典編纂委員会編 (1988)
日本地名大辞典35
:~角川
山口県』角川書店
榊敏之 (1994) :私達の花嫁対策とその成果.
漁港、 vol.
峯樹子、福原英宏、(以上 3 年)、大田英樹、加藤
和美、工藤美由紀、佐古ゆき葉、錦織美香、原田
健一、安中裕美子(以上 2 年)
17, n
o
. 1, pp.34,.._.37.
50-
エリア山口第25号
1
9
9
6
宝麿巡見使に備えた萩藩の地理情報
一『御巡見一事 J
よりー
Jl I
村博忠
示されている。それによると、このときの中国筋
1.はじめに
巡見使は播磨境の英作からスタートして因播・伯
山口県文書館所蔵の『御巡見一事J ー~五(毛
嘗・出雲・石見を通って長門へ入り、周防を由っ
利家文庫目録一、二一32) は、宝密 11年(1 76 1)
て安芸の久芳へ抜け、備後を通って備前で終わる
の幕府巡見使理由に関する一件記録である。この
)I[i!i路である。つまり、山陰側から始めて山陽翻へ
とき中国筋へ派遣された巡見上使は杉原七十郎@
由るルートをとっている。
弓気多源七郎@阿部内記の 3 名であり、間年 6 月
石見の津和野を経て長門へ入盟した巡見使はは
に防長時国を巡視した。萩藩ではこの巡見使廻国
じめに徳佐で休憩し、生雲が最初の宿泊地である。
に備えて、前回の延享 3 年(1 746) 、さらにその
以下、次のような 111買路で長門と潤坊の両盟を巡白
前の宝永 7 年 (1710) の巡毘使来由の際の経験に
している。カッコを付したところが宥泊地であり、
基づいて、巡見使に質問されるであろう諸般の事
それのないところは休憩地である。
項を、部答できるよう事前に調べて返答を用意し
〔長門〕纏佐一(生雲)一福井一(萩)一三晃一
(三踊)一深Jl I 一(接山〉一(西市)
ていた。
『御巡見一事』の中に含まれる「御巡見使錦尋
貴飯一
(内日)一秋根一(赤盟関)一長府一(小月)
之廉兼而御用意之覚j は、萩藩が巡見使の質問に
厚狭一(舟木) -ÙJ中一〔馬防 J (づ頃日)一台道一
備えて事前に用意した書付である。この書付けの
(防府)一富海一(福JI I)一徳山一(花悶)一呼
うちには、防長の歴史地理学的な研究に参考にな
坂一(高森)…柱野一(関戸)一〔安芸〕
るような統計的な記載もあるので、その一部を抜
粋して紹介する。
つまり、巡見使の防長両国における)1漬路は石見
の津和野から石州街道を通って徳佐に入ったあと、
地福で山代街道に折れ、生雲・福井を経て萩へ出
る。萩からは北浦道筋を通って深Jl I へ出、深Jl I か
らは赤間関街道北道筋で譲山を経て開市へ韮り、
沼市からは田部から小月へ出る赤間関街道北道筋
を遥らずに、西方の貴飯へ向かい、内 8 ・秋根を
還って赤関関へ迂毘している。赤関関から安芸境
の関戸までは一路山陽道(閤菌街道)を通ってい
る。安芸では久芳で宿泊のあと厳島へ渡っている
のが興味を引く。防長再調では)1摸路の 15 カ所に宿
泊することになっている。
図1
ill. 巡見{吏の質問に犠えた事項内容
~御巡晃一事j],山口県文書館蔵
①内検高肪長雨留の内検高を尋ねられたとき、
先年は80万石余と答えてきたが廷享 3 年(1 746)
II. 巡晃ルート
の巡見使来冨の諜には、先代藩主の考えで65万石
『御巡見一事J の中には「巡見使御宿休J と題
余と答えるよう用意していたが、今回は内検高を
した絵図面にて巡見使の巡廼コースが国示されて
延享以前の通り 80万石余と口答にて有福在左衛門
おり、途中の宿泊地と休憩地が色分けで産別して
が答えるように命じられた。ただし、書付をもっ
-51
一、域下より京@大阪への道誼
で差出すようにと要求されたら、次のような文部
一、京へ海陸百四拾五里程
きだすように指示している。
一.松平大膳大夫領分内検今高之儀、八拾万石
一、大阪へ同首三拾弐里程
一、江戸へ之飛脚遅速道中日数
余之惣高ニ荷御座設得共、年数相隅候内追々
荒所出来、就中延草弐丑年田中大水之節、永
速は十二三日
荒当荒凡拾百万石余有之、追々堀庚シをも申
遅は十四五日
一、長輔へ八拾里謹
付侯得共、其後も年々国中損亡有之、其節御
右之内域下より赤間関迄拾九里
届申上候、右之通ニ而只今八拾万五余行届不
@湊
申程之犠ニ御産鏡、日上
一、譲数三拾式ケ所
月日
周防
松平大繕大夫内
有福庄左衛門
玖珂郡今津
大嶋郡三蒲
北東嵐ニよし
森
北東嵐ニよし
一、三ノ曲輪武士屋敷冨拾七ケ所
由宇
南風ノ外よし
一、萩域外諸土屋敷九百六ケ所
小泊
舟繋よし
③鱗堕壌、京都。大阪までの距離
地ノ家憲北西風ニよし
一、域下より隣邑境へ之道翠
沖ノ家室東嵐ノ外よし
②武士屋敷
一、芸州境小瀬川迄ニ拾九盟
震代
一、同国境亀尾} 11迄二拾四里二拾五町
上ノ関北嵐之外よし
一、石州境野坂迄捨盟拾九町
熊毛郡室津
北風之外よし
北嵐ニよし
舟繋よし
一、同国境仏坂迄捨壱里弐捨八開
圏
2
宝腎巡見使の巡廻
Fhu
つゐ
都濃郡笠戸
東南風ニよし
⑤家数・人数・牛馬数
下松
西北嵐によし
一、家数九万四百拾八軒
福}II
北嵐ニよし
内五万三千六拾弐軒
四郎谷舟繋よし
佐波郡富海
東風ニよし
コ田尻北西嵐ニよし
吉敷郡秋穂
岐波
北西風ニよし
但、両国在々之分
内男弐拾自万七千百八捨人
女弐拾三万五千九捨八人
内
阿武郡江崎
今浦
舟繋よし
北風之外よし
弐拾九万三千式百六拾九人潤防
内男拾四万九千五百四捨人
女拾四万三千七百弐拾九人
須佐
西風之外よし
小畑
北嵐之外よし
鶴江
舟繋よし
内男九万七千六吉田拾人
舟繋よし
女九万千三百六拾九人
大津郡通
議戸時南語感よし
向津異舟繋よし
豊浦郡
三万七千三百五拾六軒長門
一、人数回拾八万弐千弐百七拾八人
~嵐ニよし
長門
題防
拾八万九千九人
一、牛罵数回万六千六百七拾弐疋
内牛三万七千百六拾四疋
馬九千五百八疋
m~中特牛
海老崖西嵐ニよし
伊崎
舟繋よし
赤間関舟繋よし
厚狭郡下津JII尻
コース、
長門
F 御巡見一事』より
内
弐万千四百九拾八疋
題防
内牛一万六千九百六拾弐疋
馬四千五百三拾六疋
弐万五千百七拾四疋
長門
佐波郡西ケ所
馬四千九百七拾弐疋
吉敷郡三ケ所
佐波河内紡府浮野富海
内牛弐万弐吉弐疋
一、城下町名
山口小郡黒J 1
長門開武郡拾七ケ所
町之名
呉服町壱丁目向弐丁目瓦町東田町
篠田渡J1 1
地福纏佐生雲
西田町唐樋町橋本町平安古町一丁目
江崎須佐惣郷宇多木与
陪式丁目椿町北片河町南片河町春
奈古大井補井佐々並明木
若町細工町間弐丁目鍛冶麗町塩屋
三見小川
町北米屋町南米屋町津守町小道具
大津郡三ケ所
三隅深川俵山
町上五間町下五関町銭屋町どんぶ
り町吉田町古萩町熊谷町今魚店町
豊浦郡五ケ所
伺沖ノ町問中ノ町油麗町古魚屋町
小月長府赤間関西市田部
樽屋町今道町大首町伝馬町夷町
厚狭郡四ケ所
開弐丁目椛屋町八百屋町梅許町悶
山中船木摩狭吉田
式丁目高田町豊屋町堺町袋町浜
美祢郡四ケ所
締本町問屋町浜崎後町間ノ町鉄砲
赤秋吉河原大嶺
場町境町船大工町猟人町新丁上ノ
陀問中ノ町悶下ノ町
崩防長門合六拾壱駅
一、小瀬川より赤間関迄本道筋馬継
一、城下家数四千百式拾軒
関戸御臣柱野玖珂本榔高森今市
寵数回千六百式拾七竃
呼披窪市花開久米遠石野上富田
人数壱万三千百拾四人惣町中
内七千百六拾壱人
福川富海浮野防府小郡山中船木
厚狭市吉田小月長府赤間関
男
一、萩より安芸境亀尾J1 1 へ之馬継
五千九百五拾三人女
右之内三人
王拾三人
男女天台宗
福井生霊地福佐波河内賀野金峯
男女真言宗
須万広瀬府谷山代本郷秋懸
千三百三拾壱人男女禅宗
但、秋懸より亀尾川へ出ル
四千三百八拾七人男女浄土宗
六百七拾三人
一、萩より石毘境仏坂へ之馬継
男女日蓮宗
大井奈古木与宇多惣郷須佐江崎
小J 1
六千六百八拾七人男女一向宗
一、温泉田ケ所
一、萩より石見境野坂へ之馬継
崩妨吉敷郡湯田
福井生雲地福徳佐
長門大津郡深川
関郡
俵山
豊鴻郡
J
11棚
担、徳佐より野坂へ出ル
一、石邦、!津和野より野坂口通局妨国直前之海道
小郡へ之道筋馬継
一、馬継
徳佐地福渡川篠自山口黒J1 1
賭防玖珂郡九ケ所
三見三隅深川抜山西市田部小月
関戸御庄柱野玖珂本郷高森
広瀬山代本郷府谷秋懸
一、萩より赤間関へ中之道筋馬継
熊毛郡弐ケ所
明木絵堂秋吉河原大嶺吉田
今市呼坂
但、是より前ニ有之小月へ出候事
都濃郡拾ケ所
一、萩より三田尻へ之馬継
窪市花岡久米連石野上
富田福J1 1
小郡
今一、萩より赤間関へ北之道筋馬継
明木佐々並山口防府
以上、六拾壱ケ所
金峯須万鹿野
-54-
在之通ニ而上方筋より下へ之道筋、萩より他
家数九拾弐軒
国へ之出口不残馬鮭所桔記、六拾者訳ニ市通用
一、馬鳴
仕候、其外脇々之馬継、国中用事ニ付市通用仕
家数式拾七軒
候馬継ニ市御鹿候事
…、竹鳴
一、浦数之事
一、すくも鳴石高拾五石余
自松浦岐波浦阿知須浦秋穂浦
家数式拾五軒
大海諸下津令浦
一、笠戸嶋
田嶋j高富海浦
大嶋郡
都濃郡五ケ所
一、立鳴
石高六石余
家数五軒
富田浦福 111 浦野上諸櫛ケ浜浦
下松浦
一、沖家室嶋石高百拾石余
蕪毛郡三ケ所
家数八拾三軒
室積浦室津諾伊保庄浦
一、うか嶋
大嶋郡拾ケ所
一、前嶋
久賀浦椋野浦三浦浦安下圧浦
石高二拾六石余
家数弐拾四軒
小泊浦曲字浦
一、構嶋
玖珂郡弐ケ所
石高三石
家数八軒
由宇浦通津浦
一、笠佐嶋
長門阿武郡拾ケ所
石高八拾吾石余
家数拾七軒
江崎浦須佐浦宇多鴻木与浦
一、平郡嶋
奈古浦大井浦小地鴻狛江j甫
石高九百石
家数式百九拾九軒
玉江浦三見浦
一、岩見鴫
大津郡七ケ所
石高弐百拾式石余
家数百三拾五軒
白潟浦瀬戸時浦通浦黄波戸浦
一、牛鳴
}II尻浦津黄浦向津具浦
石高六拾石余
家数五拾七軒
豊浦郡九ケ所
一、佐郷鵠
河川 Il甫鳴戸浦肥中浦濡滞
矢玉浦湯玉浦
石高百石余
家数三拾六軒
遠崎浦屋代浦森浦西方諾
石高九拾九石余
家数回拾七軒
}II棚浦吉見浦
一、馬嶋
伊崎浦
石高六拾石余
家数三拾式軒
厚狭郡六ケ所
一、上ノ関嶋石高八百七拾石余
埴生浦城戸浦メIJ屋浦妻時浦
家数五百弐拾壱軒
藤曲浦宇部浦
一、矢嶋
両菌合六拾ケ所
省高百五拾九石余
家数五拾七軒
一、崩防・長門之内人家有之嶋々
玖珂郡
周院佐波郡
一、柱嶋
石高二百七拾四石余
石高九拾弐石余
家数百弐拾軒
家数式古式拾四軒
長門阿武郡
石高八拾石余
一、大嶋
家数五拾軒
石高罰百七拾石余
家数百拾四軒
都濃郡
一、大津嶋
石高吉五拾壱石余
家数五拾八軒
佐渡郡弐ケ所
一、野鳴
石高式石余
家数式軒
局防吉敷郡六ケ所
一、向嶋
石高拾九石余
一、屋嶋
石高百九捨石余
石高拾四石余
家数拾軒
5
5
一、羽嶋
一、角嶋
石高六拾九石余
一、橿鳴
一、六連嶋
石高五拾石余
一、葦弁嶋
石高百五拾式石余
家数五拾弐軒
一、小通鴫
石高八百六拾四石余
石高九石余
家数拾六軒
家数回百五拾弐軒
一、大嶋
石高三拾九石余
家数拾九軒
大津郡
一、音海嶋
石高弐拾九石余
家数五捨八軒
家数拾七軒
一、松嶋
石高六百九拾五石余
家数百四拾壱軒
家数式捨六軒
一、引嶋
石高三石余
石高千五百弐捨石余
家数百八捨五軒
家数三軒
5
6
-一=ロ
曾平成 6 年度 2 .Fl伊j会平成 7 王手 2 月 18 日(土)
コい
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品ふ.t,
f
事
平成 6 年度決算および平成 7 年度予算は次の通り。
1
3:3
0
"
"
"
"
'
1
6:0
0
〔研究発表〕①地理学談話会:地域調査一山口
市の中心性について一、②前杢英明(山口大) :
海成段丘と古地盤、③高器準一朗(広島大附属
中高校 ):ARGUS における地理の教材開発
母役員会平成 7 年 4 月 22 臼(土)
1
4
:
0
0
"
"
"
'
"
〔協議題〕①平成 7 年度総会およひ研究大会開
催の件。②平成 7 年産巡検会実施の件。③その
平成 6 年度決算
〔収入〕
前年度繰越金
~
費
手IJ
患
基金より
特別会計より
他。①については、平成 7 年 8 月 5 日(土)に
〔平成 6 年度予算〕
4, 807円(
4, 807)
(285, 000)
( 1, 1
9
3
)
。
(10, 000)
7
5
4 (89, 000)
411, 187 (390, 000)
399, 880
5, 746
巡検会と合わせて見島で行うことを決めた。会
場は宿治予定の赤碕旅館を予定して、取り急ぎ
〔支出〕
胃旅館へ打診することとした。研究発表は 4 人
印麟費
謹度を予定。②については、総会および研究大
通信費
会の翌日、 8 月 6 臼(日)見島で実施する。巡
事務費
検コースなど詳細については総務委員で、検討す
会合費
ることとした。③については、会費納入の合理
巡検準備費
化を図るため会費の自動引き落し制を導入した
予錆
らどうであろうか、また会誌送料の負担が大き
292 , 314
78 , 960
6, 964
2, 959
20, 000
4, 495
405, 692
(270 , 000)
(85 , 000)
( 6, 000)
(6 , 000)
(2仏 000)
(3, 000)
(390, 000)
いので、それを軽減するため第四種郵便扱いの
認可が得られないか、の 2 点を協議した。いず
れも可能であればその方向で進むこととし、呉
体的に方法も打診することとした。
平成 7 年度予算
〔校入〕
前年度操越金
争平成 5 年度総会@研究大会平成 7 年 8 月 5 日
会
費
(土)・ 6 日(日)、山口県萩市見鳥において実
手IJ
患
施。
5, 495 丹
392, 000
2, 505
400, 000
〔総会 J 8 月 5 日、 19:00""""'19:30、於赤w奇旅掠
①平成 6 年度事業報告、決算報告を承認、②平
成 7 年度事業計画、予算案を承認。事業計画の
〔支出〕
印刷
主な内容は、(ア)研究大会、(イ)見島巡検会、
通信
(ウ)
事務費
2 月例会ーの実施、および(エ)会誌
『エリア山口 j 25号の発刊など。
〔研究発表 J 8 月 5 日、 17
1
. )1 1 村博忠(山口大学)
:0
0
.
.
.
.
.
.
.
.
.
1
9:0
0
会合費
巡検準橋費
:近世赤関関街道の
交通環壌
280, 000
85, 000
7, 000
5, 000
20, 000
3, 000
400, 000
2. 藤田隆義(山口大学) :毘島の地理
3. 小杉健三(山口大学) :瀬戸大橋開通に伴
う地域変貌
4. 前杢英明(山口大学) :1995年兵庫県南部
地震時に生じた野島断層
争見議巡検金平成 7 年 8 月 5
B
(土)
.6 臼
(日)、本村および宇津の集落形態、ジーコンボ、
観音崎の海峯捜食地形、島内の土地手IJ用など。
(巡検記録を別に掲載する)
57-
命編集委員会平成 7 年 12月 9 日(土)
1
3
:00-
秋芳町散策一秋芳澗前一秋吉会一景清洞前一
1
8
:00、会誌『エリア山口 JI 25号の発行につい
美祢市(採石場)一美祢駅
話題
て協議する。
@役員会平成 8 年 1 月 13 日(土)
14:00-
高間準一期(広島大学的属中高校)
1
7:00 平成 7 年度 2 月例会の開催について、
・メテa ィア空間としての尾道一「港の嵐景j
ユι
並びに案内状の発送
ô!IB…
.EM環境教育の可能性一環境問題へのアフ。
@環境地理教育部会
第 3 由準備会
1995年 8 月 18日(金 )-19 日(土)
ローチー
・インターネットと地理教育一資料の紹介一
巡検:美祢地域
河村克典(秋芳南中学校)
-テーマ
秋吉台の高原風景/地場産業と地形改変(3)
・明治期に作成された朝鮮図の概要
参加者: 3 名
-コース
平成 7 年度巡検記録
平成 7
(1995) 年 8 月 5 臼(土)・ 6 日(日)
8 月 5 B (土)
萩商港 (9
彦、内田信正、有近三千子、高田準一朗、河村克
典、藤田陵義、辻美彦、藤井正彦
巡検コース
平成 7 年度の山口地理学会の巡検は、 8 月 5 日
:00)
→見島 (11 :50本村港着)→赤
錆旅館(昼食)→島内巡検(1 3: 00-本村集落→
古城(補戸域)跡→見島灯台→萩市営見島火葬場
(土) -8 月 6
B (日)の 2 日間、萩市の見島で
実施された。平郡島、祝島、に続き、好評の島シ
リーズ第 3 弾である。
→(一般県道宇津払子本村線)→航空自禽隊レー
8 月 5 日(土)の朝 9 :00、予定より阜く、数
:20-14:30) →宇津地区と本
人が、第一陣として萩商港より、萩海運・見島航
村地区の境、道路の交差点付近(地蔵群)→大池
路の貨客船「はぎJ に乗船し、一蕗見島に向かっ
ダー基地入口(1 4
(亀の生息池)→笠石(発霞所そば)→本村港→
た。日本海に浮かぶ孤島への渡海船としてもっと
宮時(金万羅宮・古住神社)→高札場跡→(浦と
大きな船を予想していた、船に~~I,、私にとっては、
在郷との集落の境)→地主屋敷(長谷川家)→赤
不安な船出であった。しかし、好天に恵まれ、 2
椅旅館(総会・研究会。宿治)
時間弱で無事に見島本村港に入港し、ほっとした。
8 月 6 日(日)
それにしても、離島振興法などの補助で、もっと
赤錆旅館 (8 :30出発)→本村集落内を巡る[地
大型の高速船が就航し、萩と、せめて 1 時間位で
主屋敷@長谷川家→捕方と在郷の集落境→宮崎:
結んでくれないものだろうかと思ったのは、私だ
金万羅宮@住吉神社→埋立地替→駐在所横笠石→
けであろうか。萩件見島航路は、
本村港]→現代の纂→八町八反→ジーコンボ古壌
の二使、萩と見島の本村港、宇津港を結んでいる。
歩見島牛飼育農家→発電所横笠石→イシ亀(天然
本村港に入港すると、すでに昨日渡海されてい
記念、物)生息池→赤崎旅館(1 0 :25着)
赤崎旅館(1 1
休息
:00 出発)→車で宇津地邑へ→字津
港→砂見出海水浴場→観音崎(字津観音堂:弁当
1 日午前と午後
た、 }II村先生と小杉先生が、お出迎えに来ておら
れた。一旦、港から宿舎の赤崎撤吉に入り、昼食・
休憩をすることになった。
1
3
:00、赤崎旅館を出発して、巡検開始。本村
40-12:30) →古牧台公園→砂見田海水洛場
→宇津港(1 3 :00到着) 1
4
:00 出発→萩商港
1
6
:00着
集落を通って、中世の古城。福戸城跡から見島灯
参加者
であった。言うまでもないことだが、晃島灯台か
}II村博忠、小杉健三、前杢英明、伊藤武夫妻、新
ら克える景色はとてもすばらしい。次に、この見
宅暢久、藤川邦治、浅原純一、浜中武志、林祥
島灯台から見える航空自衛隊第17警戒群のレーダー
日:
台へと向かった。無人の自動化された灯台のよう
58-
サイトに向かった。山道を歩いて、在郷の集落に
路を下っていき、本村と宇津との境の四つ角に出
出て晃島神社に参拝した。見島神社と吉祥寺の間
た。そこにはお地蔵さんがたくさん並べられた場
を通っている、コンクリート製の、滑り止めの工
所があった。地図上には記念碑の記号がある。
夫の施された坂道を登っていった。普通車が楽々
1
5:00 、四つ角から本村の方へ障りて行った。天
すり違える、島の中では幅の広い道路である。イ
然記念物のイシ亀のいる大地に 1母子で地り着いた。
クラゲ山のレーダーサイトを自指して登るものの、
発電所の横を通って本村港へと歩いた。港からさ
結構きつい登り道であった。しばらく登って行く
らに宮簡と呼ばれる、金万比羅宮や吉住神社のあ
と、右手に石垣で圏いのある墓地があり、その中
る地区に向かい、時神社を参拝した。さらに、本
に元文年間(江戸時代中期)の墓があったことに
村浦の中を進み、高卒L場跡地や浦と在郷の境界周
島の歴史の一端を感じた。
辺の家々を見て宿舎の赤椅旅館に帰った。
8月 6
汗を拭き々、このー殻農道字樹ム子本村線を登っ
ていくと、萩市営見島火葬場の入口があった。さ
B (日)
5 日午後の便で渡海された参加者も加わって、
らに登っていくと、小さな牛小麗があり、見島牛
多少昨日のコースと重複するが、 8 :30 、赤碕旅
の子牛がいた。また、付近にはビニールハウスが
館を出発し本日の巡検を開始した O 萩市役所見島
あり、きゅうりが栽培されていた。高度が高くな
支所の前を通り、明治時代から地主であった、長
るにつれて、農地は畑が中心となるが、たばこ@
谷川家の白壁の塀を眺めながら、浦方と在郷の境
さつまいも e だいずなどの作物が毘られた。島の
の道を進んだ。宮崎(漁港地区)に出て、住吉神
農業の特色であるが、ため池カまいたるところで見
社・金万比羅宮を経て、新しい港(渡海組の斡着
られる。また、かなり高い所でも井戸からポンプ
場)に出た。
駐在所横の「笠石J (ナパ石:郷土信仰・原始
アップして護漉している。島の水の苦労の大変さ
宗教の遺物)を見て、発篭所の横から海岸通りを
を感じさせられる。
1
4
:20、やっとの思いでレーダー基地の入口に
歩いて、現代の墓を見た。次に、ラグーンが陵地
たどり着いた。やはり、高い見晴らしのいい場所
化しでできた、見島随一の水田地帯である八町八
である。 10分くらい小休止の後、下り始めた。途
反に行った。実際には八町八反もないが、島の中
中からアスフアルト製矯 4m位の受りとは違う道
では「広 L リという意味で使われているらしい。
-59
さらに、「ジ…コンボj と呼ばれる 7 世紀後半か
見田(さみだ)海水浴場を通り、少し山道を登っ
ら 10世紀初頭に造られたと言われる群集古墳に向
たすばらしい景色が開けてきた。全国で 3 か所し
かった。たくさんの古墳が、荒れ放題のままに放
かないと言われる、「正観苦J 祭られている、宇
寵されているので、貴重な文化財がこのままでい
津観音堂で弁当を食べた。 (12
:00-12:3
0
)
いのだろうかと思った。砂州上の古墳から梅岸に
付近一帯は熔岩が荒波に削られた、奇岩や洞穴が
降りた。韓国製のペットボトルが流れ着いていた。
独特の嵐最を生み出している O 自生ノ、マユウの北
韓国から流れついたのか、付近を航行する韓国船
限地でもある観音i母一帯は、古牧公開として、広々
から捨てられたのか分からないが、朝鮮半島に近
としたキャンプ場や駐車場@トイレなどが整備さ
いのだと凱で感じたような気がした。見島牛を 10
れ、美しい雄大な自然とうまく調和している。宇
頭餌っている農家があり、ちょうどその農家の方
津鰻音堂や古牧公開で記念写真を撮り、再び砂見
がおられて話を聞くことができた。再び港の方に
田(さみだ)海水浴場のそばを通り、字体港に戻っ
帰って発電所横の笠石を見て、天然記念物イシ亀
た。 14: 00発の渡海船「はぎj に乗船し、一路萩
の生息地である大池に着いた。残念ながら、たく
蕗港に向かった。 2 日自も好天に恵まれ、順調に
さんの亀に会うということはできなかった。
巡検を終えることができたことは大変幸せであっ
10 ・ 25赤錆旅館に帰り、本村地底の巡検を終了し
た。見患牛を試食しなかったのが心残りであった
た。
が、見患を後にしながら、やはり夏は島がいいな
休憩の後、 11 :
00 に 2 台のワゴン主主に分乗して
あとしみじみ思った。遠くなる見島や近づく梅島、
赤崎旅館を宇津の集落に向かつて出発した。 10分
大島などを挑めながら快適な船旅の後、 16: 00無
くらいで宇津の港に着き、下車した。
事に萩蕗港に到着し、巡検終了@解散となった。
萩の渡海船の待合室に荷物を置いて、弁当とカ
(藤井正彦記)
メラ・水簡を持って観音簡に歩いて向かった。砂、
他学会等からの寄贈文献(平成 7 年 1 月 ~12 月)
0東京学芸大学紀要第 3 部門社会科学
第 46集
0東京学芸大学紀要第45集(1 994) 総索引東
(
19
9
5
)
京学芸大学
OJapaneseP
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g
y (1994) 法政
O金沢大学地理学報告第 7 号 (1993)
0えりあぐんま
第 1 号(1 994) 群馬地理学会
大学気候研究会
O法政大学文学部紀要第40号(1 994)
0秋大地理
O駒薄地理
4
2 (1995) 秋田大学教膏学部地理学
O地域学研究第 8 号 (1995) 駒海大学応用地理
研究室
。法政大学大学院地理研究
2 号 (1995) 法政大
学大学院地理専攻
V (1 995)
奈良
No.
19 (1 995)
奈良
O奈良女子大学地理学研究報告
研究所
OHumanE
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yi
n Rural Malaysia , (
19
9
5
)
KomazawaU
n
i
v
.
0人文科学科紀要第 101 輯 (1995) 東京大学教
女子大学文学部地理学教室
0奈良大学地理学研究報告
大学文学部
O奈良大地理
31号 (1995) 駒津大学文学部地理学
教室
匂養学部人文科学科紀要
0 筑波大学水理実験センター報告
O東北大学理科報告第 7 輯
43巻 2 号(1 993) 東
O地理誌叢第 36巻 2 号(1 995) 日本大学地理学
北大学理学部
O東北大学理科報告第 7 輯
第 19 号
(
1
9
9
4
)
NO.1 (1995) 奈長大学地理学会
ム
コミ
44巻 1 号 (1994) 東
北大学理学部
O秋田地理第 15号 (1995) 秋田地理学会
0学芸地理
49号(1 995) 東京学芸大学地理学会
OScienceReporto
fTohokuU
n
i
v
. 44-2
(
19
9
4
)
-60
0地誌研年報第 4 号(1 995) 広島大学総合地誌
0環境情報研究第 3 号(1 995) 千葉敬愛短期大
研究資料センター
学環境情報研究所
O地誌研叢書第24号 (1995)
0えりあぐんま
災時よ』
--rココζ
第 2 号(1 995) 群馬地理学会
O立命館地理学
0待兼山論叢日本学篇第28号(1 994) 大阪大学
7 (1 995) 立命館地理学会
0新地理第43巻第 2 号(1 995) 日本地理教育学
A
文学部
コ:;;
O地理学研究第44号(1 995) 香川 i大学教育学部
0新地理第43巻第 3 号 (1995) 日本地理教警学
ム
地理学教輩
コミ
。地理誌、叢第37巻第 I 号(1 995) 日本大学地理
地理学訴究室だより
〔平成 7 年度卒業予定者就職内定先〕
〔平成 6 年度修士論文〕
井Jl I みか:
なし
〔平成 6 年度学部卒業論文〕
1.市Jl I
岩下真世:
徹:下関市における住宅団地の形成
河村知子:詩仙堂グループ岩国
2. 井上由美:鹿見島市北部の都市北による農業
鮫島信治:
佐々木孝:広島県d母校教員
の変容
3. 向野理子:吉搭高原地域における農業按興一
高倉梧・(株)中央出版穂山支店
永井良知・(株〉サンデーサン
小田郡美町を事例として
4. 斎藤晋:中国山地西武における山村開題一
児玉慶太:
〔研究室行事〕
山口県南武郡川上村を例として
5. 真i崎議照:北九州市の合併後における都市内
曾集中講義(人文地理学1I) 1995年 7 月 5 日(水)
- 9B (土)
部構造の変容について
6. 本吉洋子:大Jl I市及びその周辺地域における
平成 7 年度後期間講科自「初等科社会 1
家具製造業の発達に関する地理学的考察
小学校)校長に強当していただいた。
大田英樹(小学校)山口県立下松高校
争集中講義(地理学特講 1) 1995年12月 24 臼(日)
加藤手口実(罰上)島根県立大東高校
-27 日(水)
佐古ゆき葉(向上)広島県立安古市高校
番地理学巡検
錦織美香(向上)島根集由良育英高校
原田健一(関上)長崎県立大村高校
母ほたる狩り
1995年 6 月
争第 16回国擦地歯学史会議(於ウィーン)
校
富土井友樹(同上)徳島県立城之内高校
〔平成 6 年度卒業生就職先〕
撤:平成 8 年度山口県小学校教員採用
井上白菜:
河野理子:ミサワホーム
斎藤
Jl I 碕茂教授(金沢大学文学部)
1995年 9 月 3 日(臼) -5 日(火)、
対馬にて課題別分担調査を実施
工藤美由紀(国際関掠分野)大分県佐伯鶴域高
安t:þ洛美子(関上)長崎県立長崎商高校
菅:山口県立水産高校
J
(地理的分野)のうち 4 コマを石原宜尚(大歳
〔新入研究室員〕平成 7 年度教養部より進学
市III
森川洋教援(広島大学文学部)
争講義分担(初等科社会I)
JII 村
博史、教授は 1995年 9 月 9 日 -27 日間、上記会議
に出席のため海外渡航した。会議で「江戸時代
の立体地図“紡長土民"について」を報告し
た。そのあとポストコングレスに参加して、ハ
ンガ 1) ー毘立国書館、チェコ圏立臨書館などの
地図室を見学した。
争高種調査縁参加前杢英暁助教授は第37次高極
真崎義煎:山口県菊川町立菊Jl I 小学校
地域観測隊に参加のため 1995年 11月 13 日に出発
本吉詳子:
し、 1996年 3 丹 28 日に帰菌の予定である。
-61-
高校地理教育の現況
全日制普通科の新教育課程
県立山 E 高等学校
平成 6 年度入学以降
山口高等学校は全・定・通の 3 つの課程を持っ
l 年 I 2 年
3
1
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共逮 i 文理|文系 i 理系
ているが、ここで、は全日制について報告したい。
一つ,“-
…ム一
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ヨ寸γー土 ιll
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地理は l 年で地理 A が日本史 A と選択、 2 年で
8ny
の新教育課程は普通科の理系と同じである。
一ム…
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に示したのは普通科の新教育課程である。理数科
-i 十十十|γJ
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2
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本年度は教育課程の移行期に当たり、 3 年生は
旧課程、 1 ・ 2 年生は新課程である。教育課程表
一
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地|官界主p; -r
-つ十ι 十十|十」
世界史 AI
1.教育課程
2
地理 B が世界史 B ・日本史 B と選択で、 3 年で継
2
続履修となっている。 3 年関で地理 A と地理 B を
]教科書内選択履修科目
2
ム継続履修
両方履修する生徒も多い。
する傾向がある。 18課程で受験用に地理を選択し
2. 教科警@副教材
た生徒数と、新課程で地理 B を選択した生徒数を
平成 7 年度の箆用教科書を新諜程のみ紹介する
と、
1 王手の地理 A が「環境と人間J (東京書籍)、
年宣ごとに挙げると、学年全体の生徒数約 440 名
中、平成 7 年卒業生は 60数名、現 3 年は約90名、
2 年の地理 B が「新詳地理 BJ (帝盟書院)であ
現 2 年は約 110名、現 1 年は約 170名で、最近では
る。地図帳は 1 年から「新詳高等地国 J (帝国書
他の科目を上回るようになってきた。
院)を使用している。その他、富!摩文字オとして、 2 ・
国公立大学を受験する場合は全く問題はないが、
3 年で「地理資料J (東京法令出版)、「山口県地
私立大学文系の一部に入学試験で地理が選択でき
理資料J (高教研地理部会)、 1 年で「最新地理図
ないところがある。こうした不合理な制約がなけ
れば地理選択はもっと増えると思われる。文系に
表J (第一学習社)を使っている。
比べ理系に進む生徒には地理選択がやや多い。
3. 授業担当者
5. 授業の特色
全日制には地理の授業を担当している教員が 3
名いる。平成 7 年度は新宅暢久が 2 年、平岡賢悟
大学入試を意識した授業が中心であるが、地図
が 3 年、藤田睦義が 1 年を担当している。一部の
作業なども積極的に取り入れるようにしている。
授業には定時制の藤田満明の応援も得ている O
今年度の 1 年生では、国土地理院の 2 万5000分の
l 地形菌「海津J (滋賀県琵琶湖沿岸)を全員に
4. 増加する地理選択生徒
購入させ、等高線や土地利用、扇状地地形などの
以前は地理選択生徒は、日本史。世界史よりも
作業学習を行った。(藤田隆義)
少なかったが、近年は地理を選択する生徒が増加
W .I.リア山口』原稿@研究発表の募集
山口地理学会会誌『エリア山口 J
(毎年 1 回発行)への投稿と研究会での発表を歓迎いたします。原稿の受
付は投稿規定にあるように、学会事務局で常時受け付けています。ただし、各号の締切期聞は 12 月末日です。
また、研究大会(原則として 6 月頃実施)および 2 月例会( 2 月実施)での研究発表は研究会開催の 2 カ月
程前までに学会事務局へご一報下さい。会誌への投稿、研究発表の機会を奮ってご利用ください。
-62
投
稿
規
定
1
. 投稿資格特別の場合を除き、投稿は本会の会員に眼る。投稿は本学会において口頭発
表した内容のものであることが望ましい。
2
. 原稿の種類と制限枚数論説・研究の場合は400字原稿用紙(横書き) 30枚以内とする。
それを超える場合は超過分実費を執筆者の負担とする。資料その他は捺員IJ として向上15枚以
内とする。
3
. 図表・写真図表・写真は必要で最小限であること、図表・写真はいずれも別紙とし、
本文原稿調外に挿入箇所を朱書きにて指示する。図表には題、写真には説明文を付し、番号
をつけること。製版は原則として 1 段幅 (68mm) から 2 段幅(1 40皿)になるのでスケール
を考慮のこと。
4
.
英文題目
題自を英訳し、震稿の末尾に付すこと。
5
. 参考引用文献次の要領で記載する。
2
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2
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.
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n Retrospect , Geogr
. Rev. ,
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) Mayer ,M. (
Vo1. 67 、 No. 1 、 pp. 2
1-25.
. W. (
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. New York , 5
9
p
.
4
) Boggs , S
1) 山口太郎(1 980)
:防府平野の開発.エリア山口、第 8 号、 pp.
2) 吉田学(1 98 1)新田開発の研究.平川出版、 pp.
6.
抜
刷執筆者に 50部を進呈する。 50部以上必要な場合は事務局宛連絡のこと。
7
. 原稿募集学会事務局にて常時受付ける。ただし、各号の受付期限は毎年 12月末日とする。
山口地理学会役員
会
(1994~95 年度)
長: Jl I村博忠(山口大学)
副
会
長:浜中武志(山口中央高校)
常任委員・総務:小杉鍵三(山口大学)・前杢英明(山口大学)
向
・会計:辻美彦(三谷小学校)・光永辰男(柚野中学校)
向
・編集:新宅暢久(山口高校)・河村克典(秋芳南中学校)
藤田隆義(山口高校)
監
査:中野澄男(柚野中学校)・石原宣尚(平川小学校)
エリア山口第25号
編集発行
山口地理学会
1 山口大学教育学部地理学研究室内
電話 (0839) 2
2-6111 (内線633 、634) FAX (
0
8
3
9
)23-8612
振替 0
1510-8-5620
桜プリント企業組合〒 753 山口市旭通り 1 - 1 6
電話 (0839) 2
2-1712
千 753
印刷所
1996年 1 月 31 日発行
山 5 市大字吉田 1677-
AREA YAMAGUCHI
N
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.25 January , 1996
CONTENTS
ARTICLES
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