解説 文 化 財 展 示 コ ー ナ ー 平成 26 年2・3月の展示会場 五十公野コミュニティーセンター1 階ホール 平成 26 年4・5 月の展示会場 市民文化会館1階ホール 平成 26 年6・7月の展示会場 猿橋コミュニティーセンター1 階エレベーター前 № 181 〒957-0021 新発田市五十公野 4930-1 〒957-0053 新発田市中央町 1-11-7 26-8139 0254-26-1576 〒957-0053 新発田市住吉町 1-7-17 26-7060 <鎌倉時代の山野開発> ■ 北沢遺跡の調査と新発田市周辺の焼物・鉄生産 新発田市南部、本田山丘陵の西麓で発見された北沢遺跡は、平成2年にゴルフ場開発に伴 い、豊浦町教育委員会によって発掘調査が実施されました。西に開口した谷地形の南向き斜 面で中世陶器窯 5 基、木炭窯4基、白炭窯2基、製鉄炉 3 基が発見され、製鉄炉下側の斜面 はいさい ば そま ば から谷底に廃滓場、樹木の伐り出しを行った杣場遺構が発見されました。これらはいずれも 鎌倉時代の前半頃に営まれたと考えられています。 加治川地区の貝屋・下小中山、菅谷地区蔵光の丸山、豊浦地区の真木山・本田山丘陵には 須恵器窯や製鉄遺跡が数多く分布しています。須恵器窯は奈良時代から平安時代の初め頃に 営まれ、発掘調査でも正確な年代を決めにくい製鉄遺跡も、多くは須恵器窯と同じ時代と考 えられています。新発田市周辺の須恵器窯は平安時代の前半で途絶え、鎌倉時代に入ると須 恵器系中世陶器窯として再び始まります。ただし、その規模は奈良・平安時代よりも小さく、 鎌倉時代に営まれたと分かっているのは、北沢遺跡を含めごくわずかです。 ■ 北沢遺跡にみる山野の開発 北沢遺跡での生産活動は粘土や薪・木材、砂鉄もしくは鉄鉱石など、いずれも山野で得ら れた原料をもとに製品が作られています。製鉄のために木炭窯が作られ、その一部を作り変 えて陶器窯が築かれました。製鉄炉の周囲に掘られた排水溝の底面からは窯で焼き損じた陶 片が出土しました。また、杣場遺構は製鉄の際に捨てられた不純物(廃滓)の下に埋もれて おり、ここから伐り倒された樹木、倒す時に使うクサビ(矢)やそれを打ち込むためのカケ ヤのほか、窯から灰を掻き出すのに用いたエブリ、窯の中のものを取り出すのに使うコスキ などの道具も出土しました。 新潟県内における奈良・平安時代の生産遺跡は須恵器の窯跡、製鉄遺跡が尾根や谷を隔て て隣り合わせになることはあっても、同じ場所で須恵器や鉄作りなど、異なった職種にかか わる作業が交互に営まれた痕跡は見つかっていません。ところが、鎌倉時代の北沢遺跡では それぞれの生産活動の場所がとても近接しています。窯の作り変えや、製鉄炉・杣場でほか の職種の道具や製品が混じって出土したため、営まれた年代も近かったようです。北沢遺跡 そま く の発掘調査成果により、山の資源に頼る生活を基盤とする陶工・製鉄・杣工といった異なっ た職種の人々が、ひとつの谷に集まり、あるいは同じ場所で入れ替わって作業をしていた様 (解説:鶴巻康志) 子をうかがい知ることができます。 参考文献 豊浦町教育委員会 1992『北沢遺跡』 鶴巻康志 2006「北沢遺跡」 『鎌倉時代の考古学』高志書院 <担当>〒959-2323 新発田市大字乙次 281 番地-2 新発田市教育委員会生涯学習課 TEL 0254-22-9534 FAX 26-2352
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